第5話 走り込み、朝食、一週間後の実戦練習

 稲尾家に来て初めての夜が明けた。昨晩はあれから居間に行き、その後風呂に入って食事と相なった。

 山囃子伊予やまばやしいよという化け狸の女性と、忍者であるという猫又女の霧島万里恵きりしままりえを加えて賑やかな夕飯をとったのだ。燈真の歓迎会は、後日行う段取りだという。そこまでしてもらわなくともと思う反面、それ以上に嬉しく思い、燈真は気恥ずかしさを感じながら夜を過ごしていた。


 さて、夜が明けて払暁まもない五時。私室で寝巻きから動きやすい襠高袴に着替えていると、ドタドタと元気な足音が聞こえた。十中八九あの子だ。


「とうまっ」予想通り、菘が襖の前で声をかけてきた。「あけていい?」

「ああ。どうぞ」


 菘は襖をすーっとあけ、中に入ってきた。元気な彼女のことだからスパーンと気持ちよく開けると思ったが、違った。

 彼女も桜の模様が入った着物に着替え、忙しく尻尾を振っている。運動していたのだろうか。


「はしりこみするから、よんでこいって!」

「走り込み……いきなり修行か。わかった、すぐ行く」


 早起きが習慣になっていてよかった、と燈真は思った。そして、修行に関しては妥協を許さない環境であることを察した。本音はもう少しゆっくりして慣れさせてほしいと言ったところだったが、まあ、これくらい厳しくないと弟子をいっぱしの祓葬師に鍛えることはできないだろう。

 燈真は部屋を出て、菘と別れて玄関で足袋と武者草鞋を履く。紐を結んで草鞋を固定すると、外に出た。

 涼しげな朝の爽気が吹き抜け、目一杯にそれを吸い込む。すでに待っていた椿姫、そして光希はそれぞれ「おはよ」と口にした。


「おはよう。走り込みって聞いた」

「うん。山の方までぐるーっとね。軽く流す感じだから大丈夫」

「行こうぜ、朝飯までには戻らねーと」


 光希はすでにその場で膝を上げ、駆け足の姿勢だ。椿姫も軽く跳んで、首を回す。燈真も筋肉を痛めないように準備運動をしてから、誰ともなく走り出した。

 決して、ハイペースではない。一定の速度を落とさないことが走り込みでは重要だから、すぐに疲れて歩くことがないように、比較的ゆっくりした速度で走る。

 それでも、人間基準の走り込みで考えると、その速度は速いと言えた。

 燈真は最初のうちこそ平気だったが、広場のような中庭を超えて山に入っていくと、その悪路も相まって体力を一気に奪われていくのを感じた。


 走っている最中に喋ると舌を噛むし、脇腹を痛める。走った後横隔膜が痛くなるのは、だいたいそのせいだと、燈真は思っていた。実際は、ガスが溜まっていたり、腹に血が回らず酸素不足になるからだとか。喋って上手く空気を取り込めないということと酸素不足が繋がる——燈真は、そうこじつけている節があった。それを認めつつ、燈真はこの考えをいまだに胸に持っている。

 ともあれ、誰も余計なことは喋らなかった。黙々と走り込み、基礎的な体力をつけていく。

 こういうのはひたすら反復練習するしかない、と燈真は思っていた。

 理屈で効率化は図れるし、それもしっかり取り入れて実行するが、結局は習慣化と継続である、と思っていた。

 燈真は山に立っていた石碑の前で椿姫が折り返すのを見て、今度は下り道だ——と気を引き締めた。走りつつ制動を利かせなければ、転がり落ちて大怪我するのは目に見えていた。

 体力自慢を自称する燈真も、体感で二十分も走っていると徐々に息が上がってくる。しかし椿姫も光希も平気そうな顔だった。体のバランスを取るために尻尾を揺らし、平気そうに山を下る。


「うおっ」


 燈真は、張り出していた木の根に足を取られた。つんのめって、そのまま目の前の地面に顔面を叩きつけそうになる。

 危うく顔が潰れる——その寸前、咄嗟に椿姫が抱き止め、隣の光希が体を支えてくれた。


「悪い……助かった」

「大丈夫。少しペース落とす?」

「いや——」

「無理して怪我したらそれまでだぜ」


 光希が肩をポンポン叩きながらそう言った。

 燈真は「ああ、少しゆっくり走ってもらえると助かる」と、言葉に甘えた。

 確かに、無理して怪我して長いこと動けなくなったら、そちらの方がずっと問題だ。一日サボるだけで、ひとの体は容易くなまる。

 速度を落とし、斜面に気を使って山を下る。やがて、中庭の広場が見えた。下草が刈り込まれた、土剥き出しの運動場のような感じだ。

 そこをぐるっと二周して、ようやく庭に戻った。

 いきなり止まると体にとんでもない負担がかかる。しばらく池の周りを歩き、体の、心臓の鼓動を落ち着けた。


「軽くストレッチしよっか。筋肉痛で、動けなくなる」


 椿姫がそう言って、簡単な運動をし始めた。

 恵国エルトゥーラの言語がこういった田舎にも浸透しているのは意外だった。ある意味ではそれは、刺激に飢えた妖怪が言語さえ娯楽と捉えているからなのかもしれないが。

 燈真も柔軟運動をした。光希は、まるで体操選手のようにぐねぐね動く。


「光希、関節砕けてないか?」

「そんなことねーよ。でも、肩外せるだけでだいぶ変わるぜ」


 そういって光希は肩を外してみせ、グルンと腕を回した。

 燈真もやろうと思えばできるが、好んでやったりはしない。というか好んですることではないだろう、これは。


「みんなー、ごはーん!」


 縁側に出てきた菘が、大きな声でそう言った。嬉しそうに尻尾と手を振っている。


「行こうぜ、腹減った」

「そうね。ご飯、なんだろ」


 光希と椿姫は、疲労などない様子で歩き出した。足は、池から庭に戻っている。そちらに井戸があるのだ。

 燈真はそこに悔しさと、そしてこれから己が目指すべき領域がはっきりしたことに、闘争心を燃やすのだった。


×


 庭にある井戸で汗を流す。椿姫は男二人が金玉丸出しにしても平気な顔だった。まあ、昔から男弟子の出入りだとか、田舎という文化的に平気かもだが、燈真としては何か——面白くない。

 かといって椿姫まで堂々と全裸になることはなかった。光希が「さっさとしねーと椿姫に蹴られるぜ」と言い、竜胆と菘が持ってきた着物に着替え直し、家に入る。

 覗いたら冗談抜きで膾のように刻まれる——椿姫は、そんな剣気さえ滲ませる目つきで燈真達を見て、追い払っていた。誰があんな凶暴女狐の裸なんか、と思いながら居間に入った。


 歳の割に(実年齢は知らないが、外見的には三〇〇は超えていそうである)一尾である化け狸・伊予と、二〇〇年弱で四尾にまで成り上がった万里恵が、朝食を並べていた。

 菘と竜胆も小鉢などを並べるのを手伝っている。

 上座の柊は、肘置きに肘を置いて、新聞を眺めていた。村の新聞社が電報や妖術——式神による伝書など——を駆使して情報を集め、刷っているものだろう。


「燈真、一週間鍛えたら実戦するぞ」


 唐突な言葉に、燈真は柊を見た。彼女は安っぽい品質の紙を折りたたみ、脇に置く。


「妾の信条は実戦練習、でな。屋敷にこもって訓練していても埒が明かんだろ。具体的な内容は後日考えておく」

「……わかった」


 燈真はこく、と頷いた。実戦練習——確かに、目標がはっきりしていた方がやる気もでる。燈真はこの一週間の修行が肝要になる、と気を引き締めた。

 隣では光希はつまみ食いをしようと伸ばした手を、菘にはたき落とされていた。


 一週間後——八月三日の土曜日だ。燈真は椿姫が戻ってきたことにも気づかないくらい、その日を強く意識していた。


「じゃあ、いただきまーす」


 はっとした。菘が、いただきますの合掌をしている。燈真もあわてて手を合わせ、「いただきます」と言った。

 箸を手に取って、燈真は味噌汁の椀を左手で持つ。キャベツとじゃがいもと油揚げと豆腐の、具沢山な赤だしの味噌汁。燈真は湯気を立てるそれを啜って、熱くて優しい大豆の味に、ほう——と息をついた。

 だし巻き卵を一つ口に入れる。ほんのり甘く、鰹っぽい風味の出汁がしっかり味を整えている。ふわっとした焼き加減のそれをおかずに、粒が立つような釜で炊いた白飯を頬張った。


「ゆっくり食べたら? ご飯は逃げないよ、燈真」


 隣の竜胆がそう言って、鮭を一口口に運んだ。対面では椿姫と万里恵が、ゆっくりと上品に、それでも大きな一口で食事をしていた。竜胆と光希は一口が小さい。柊は椿姫と同じタイプで、伊予は小口、ゆっくり、上品とお手本にしたくなる食べ方だ。

 菘は食べ盛りそのもの、わんぱくに食べている。

 燈真は一口が大きく、食べるのも速い。実家にいた頃、義弟の食べ残しを片付けられる前に素早く食べる生活をしていたので、早食いが身についたのだ。大喰らいなのは、多分元からである。

 光希は大皿に盛り付けられている果物に手を伸ばしていた。カットされたりんごを爪楊枝で刺し、さくさく食べている。普通の食事自体は量が少なく、——その辺は、種族に合わせているのだろう。


「伊予さん、おかわり」

「ふふ……たくさん食べてくれるから作り甲斐があるわね」


 伊予が燈真の茶碗を受け取り、大盛り一杯、白飯を盛り付ける。燈真はそれを受け取って、きゅうりの浅漬けをおかずにまた食べ始める。

 しょっぱい浅漬けや鮭は、おかずとして最高だった。優しい味の卵焼きは、口を休めるのにちょうどよく、味噌汁はなくてはならない大切な脇役だ——無論、燈真にとっての食事の主役は、米である。


 しばらくの間もくもくと食事を続け、燈真は体を動かすのでおかわりは一回でやめておいた。

 腹七分目——燈真は綺麗に食べ切り、箸を置いて手を合わせた。


「ごちそうさま」

「お粗末さまです」


 こんなにしっかりと血の通った食事をしたのはいつぶりだろう——燈真は、そんなことを思った。

 そしてこんなに美味い飯を食えるだけで、修行を頑張れると思っている単細胞っぷりに、笑いそうになった。もちろん、いい意味で。

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