【壱】狐と共に

第3話 穢れに堕つる魍と魎

【壱章扉絵】https://kakuyomu.jp/users/FoxHunter/news/16818093073014762292


 世の中にはあまりにも多くの穢れが満ちている。

 人妖、あるいは亜人から吐き出されるそれらの負の感情は、瑞穂国では魍魎もうりょうとして、たとえばエルトゥーラの土地では穢れとして、胡蝶国フーティエにおいては尸として現れる。

 それらは元来、神や精霊となる素質を備えた精神エネルギーが魔に堕ちた姿とされ、卑しめられた結果である。

 いかに低級といえど、それらは、本来神の御霊とも呼べるものであることを、忘れてはならない。


×


 旅客車——恵国風にいえばバスと呼ばれるそれに乗って数時間。夜行バスというものが出ていて、父の手配でそれに乗って北西の山間部へ向かった。

 朝方になってカラスが鳴き交わしながら野山を渡る頃、バスは山麓のバス停に停まり、燈真はそこで降りて運賃を支払うと、荷物を持って降りた。

 長距離の旅行といっても、今の時代、旅行代理店に行き先を告げれば旅行鞄一つ二つで事足りる。前人未到の未開の土地を切り開くわけでもなければ、整備された道路を鉄道や車で移動するだけでいい。海を渡るような大冒険も、機巧船の台頭で安定した航路を気づくことができていた。


 懐中時計を見ると、時刻は午前六時。この時計は母の形見だ。結婚祝いにと、どうも稲尾家の人々から贈られたもので、恵国職人が作った由緒あるものだという。機巧式の時計であり、所有者から妖力が注がれる限り狂いなく時を刻むという。

 稲尾の妖怪にとっては、ある意味ではこの懐中時計こそが、一番の証明だろう。ひょっとしたら葬儀の時に顔を合わせているかもしれないが、燈真は覚えていない。


「…………」


 いや、あれは……夢だ。

 かぶりをふって、燈真はあたりを見渡した。

 澄んだ青い匂い。夏の木々の瑞々しい香り、命を育む土と草花の輝きと、蝉やらの虫たちと——詳しい種類は知らないが、多くの鳥たちの鳴き声。生命が脈動する、夏という季節のそれが直に感じられる。


 魅雲連山みくもれんざんという法泉県ほうせんけんから北の蛾王県がおうけんに跨る広大な山岳地帯、その山間に稲尾の屋敷——がある村——はある。

 そこは魅雲村みくもむらと呼ばれ、少なくとも千五百年以上前——冥暦三九七年頃には魅雲村の原型がこの地にあったらしい。勝手に入った父の書斎を漁り、調べたので確かだ。漢文を和訳したものが何冊かあり、そこにはっきり『魅雲の地、裡辺洲にありけり』と記されていた。

 家に帰ってこないし、世間体だったか知らないがイカれた性格のクソ女と再婚したことは業腹だが、それでも父は父として敬っているので、その蔵書についても疑ってはいない。

 まだ涼しい山道を下っていく。七月も終わりだ。気温は、日に日に高くなっているのを感じる。


 旅行鞄は分厚い革製のものだった。水鹿という幻獣から採れる皮を加工した、防水・撥水性の高いものである。水や湿度に強く、中のものを一定の環境に保てる——らしい。別に燈真は精密機器を運ぶ商人ではないので、そんな機能はいらないが、家にあった鞄がこれくらいだったのだ。

 相変わらず義母は燈真のすることなすことに文句をつけて、勝手に感情的になって甲高く喚いていたが、無視した。こっそり人目を忍んで、十歳になる義弟に小遣いを渡して「しばらく会えないけど、困ったら親父に言え」とだけ言い、出てきた。義弟は「僕だけじゃ参っちゃうよ」と困り笑いを浮かべていた。

 医者になれ、と過剰な期待を義母に向けられる義弟を思うと、ひょっとしたら無理にでも連れ出すべきだったんじゃないかと思った。だが、燈真のエゴで人の人生を左右するわけにもいかず、結局は以上の結論に落ち着いた。

 それはそれとして、割り切れない思いはある。まるで、義母の都合で自分が体よく追い出されたんじゃないかとか、そう考えもした。

 勉強ができない自分に見切りをつけた父は、上手いこと言って燈真を追い出し、義弟に己の知識を授ける環境を作ろうとしたんじゃないか——と。

 だが結局、出ていくという決断は自分でした。


 通っていた高等学校で起きた事件——思えば自分は、女運が悪いのかもしれないが、そこでもやはり女が絡んでいた。

 物置で起きた、女子学生への集団暴行。その主犯として逮捕された自分。無罪で釈放されたものの、逮捕歴はついたし、真の犯人は祖父の権力を盾に知らん顔だ。

 その権力というのが、祓葬師ばっそうしであるということ。真犯人の通草清十郎あけびせいじゅうろうの祖父、通草十郎太あけびじゅうろうたは祓葬院という国家機関において役員の座につく男なのだ。政財界とも太いパイプを持っている。


 そこにやってきた、稲尾の屋敷で祓葬師にならないかという誘いは、渡りに船だと思えた。

 正直どれだけ時間がかかるかはわからない。だが自分も、発言力が得られるくらいの祓葬師になれば、くだらない濡れ衣を払拭し、真犯人に正当な復讐ができる。


 ——聖人君子じゃないんだ。やられるだけやられて狸寝入りなんて、俺はごめんだ。殴られたら殴り返す。


 燈真はそう思っていた。頬を一度打たれたら、泣くまでやり返す。それが自分だ。単細胞で短気だが、それゆえに筋を通さねば許せない。

 それに、母が世話になった家だ。純粋な興味もあった。欲を言えば、祓葬師として身を立てれば自立して暮らせるのではないか、という前向きな動機もある。

 人を助け続ければ——いつか自分にだって、仲間、と呼べる存在ができる。そんな期待もあった。


 山道を一旦降りると、下町についた。

 魅雲村は人口三〇〇〇人。その大半が妖怪である。因循固陋いんじゅんころうな考えを持つ——ということが妖怪たちにないのは、妖怪の粋さが成す技か。

 彼らは新しいものを取り入れることに余念がない。村には機巧が色々とあり、なんとなれば人間の移住者も待ち望んでいるとかなんとか。

 何はともあれ全部父からの受け売りだが、居心地はいいらしい。ただ、妖怪だらけと聞くからみんな怖がるだけであって、妖怪が人を取って食うということは今の時代、ほとんどない。妖怪だって、悪さをすれば裁かれる時代なのだから。


 町並みは、古びているが、汚らしさは感じなかった。

 木造の家屋が多く、時折石造りのものも見られる。道路は踏み固めた土であるが、相当重たい妖怪が歩き回っているのがわかる。まるで初めからそのようにして削り出された石のようになっていた。


「削り氷、削り氷はいかがかね。氷柱女の氷を削った削り氷だよ」


 屋台を引いて歩く犬妖怪に、子供が群がる。削り氷は、千年以上も前から食べられていたものだ。時の文筆家の日記にも、削った氷に蜜をかけたものが雅な食べ物である、と書かれているほどだ。

 燈真は削り氷屋を尻目に、降りてきた山とは反対側に行った。そちらの、小ぶりな山の麓に稲尾家が居を構えている。


 鬼岳おにだけ、という山だ。昔、人喰いの鬼が仲間と住んでいた山を稲尾家が買ったらしい。本当に人喰いの鬼だったかどうかは、ついぞ不明であるが。


 桜や楓、イチョウなどが林立する広葉樹林。それが、鬼岳の特徴である。とはいえ中にはカラマツなどの針葉樹も見られ、その植生は多岐にわたっていると言えた。割合としては、桜と楓、そしてイチョウなどが圧倒的に多い。冬になると、きっと葉を落として寒い思いをするんだろうなと思った。

 山道を登っていると、ふと燈真は辺りからペタペタと足音がするのを察した。


 何かが——決して、人や妖ではないものだ——が追ってきている。妙な気配だ。人里では滅多に感じることがない。けれど燈真はこれを知っている。

 一度、籠に乗って移動していた頃、遠巻きに感じた異質な気配。


 燈真は咄嗟に鞄を放り捨て、その場に伏せた。頭上を凄まじい勢いで何かが擦過する。

 顔を上げると、そこにいたのは目算で二十四貫——九十キロはありそうな狼。皮膚は醜く爛れ、腐敗臭とも死臭とも言えない異臭を放っている。

 立ち上る青紫色の瘴気に、黒く濁った白目と金色の瞳。狼と断言するにはあまりにも奇妙なモノ。それは、


魍魎もうりょう……!」


 穢れに落ちた魍魎ミヅハ。本来ならば、神の序列に並んだ精霊。


 燈真は鼓動が早鐘を打つのを感じた。

 丸腰で勝てる相手ではない。魍魎を殺すには妖力しかないのだ。それか、龍気による浄化である。そのどちらも燈真にはない今、できることといえば——、


「くそっ」


 逃げる。ただそれだけだ。

 道を下るわけにはいかない。妖里ひとざとにあんなものを連れて行くわけにはいかないのだ。無論、妖怪の里であるからちょいちょいと妖術を使える者は多いだろう。だが、同時に戦えない子供が多いことをさっき知った。巻き込むわけにはいかない。

 燈真は、祓葬師を育てられるほどの力を持つ稲尾家に急いだ。稲尾家に行けば、あの程度一撃で屠れる術師だっているだろう。

 殴り書きのメモで地図は頭に叩き込んでいる。このまま道を登っていけば、それで屋敷に着くはずだ。


「ガウッ!」


 背後から狼が執拗な歩調で迫り、威圧するように吠える。こちらが疲れ切るのを待っているのだ。送り狼と呼ばれる状態である。

 燈真の持久力が尽きてしまうか、意地で稲尾家に辿り着くか。そこが勝敗の分かれ目だ。

 できれば一発殴ってやりたいところだが、ろくに傷も負わせられないのだ。であれば、黙って確実に勝てる手段として逃げた方がいい。

 体力自慢を豪語する燈真も、坂道を延々走るというのは楽ではなかった。ペース配分を無視した疾走は、あっという間に体力を奪っていく。


「はぁっ、はぁ——くそっ」


 肺が痛い。息を吸い込むたびに膨らむそれが、ひりつくような痛みを発している。空気に滲む瘴気が、余計な勢いで体力を奪っているのがわかる。

 助けを求めろ、と理性が微かに囁いた。だが——燈真はそれを、無視した。

 けれども天運とは非常に底意地が悪い。一人奮闘する燈真に、呆気なく嗤笑を手向け、いたずらをする。


「あぐっ」


 出っ張っていた石に気づかず、蹴躓いた。なんとか受け身を取るが、狼はこれ幸いと、押し潰さんとせんばかりに飛びかかった。

 燈真は咄嗟に仰向けになって腕で狼を押し退け、噛み付かれるのを回避する。


「この——野郎っ」


 必死に抵抗し、狼の顎を押し除ける。前足を押し付けてくるのを左腕でガードし、下顎と喉の付け根を右腕で押し上げ、両足で下腹部を押し付け、上へ蹴り上げた。

 巴投げ——その要領で拘束を逃れ、燈真はすぐさま立ち上がる。


 逃げられないならやるしかない。

 瘴気に有効なのは妖力による攻撃と、龍気による浄化。燈真にはそのどちらもない。だが無抵抗で喰われる気はなかった。

 燈真は左拳を前に緩く出し、右を足ごと引く。左半身を前方に半身になった、左リードの構えだ。相手に対し体面積を削った立ち位置を取ることで、的を減らし被弾率を下げる。


 魍魎が吠え、飛びかかってきた。

 燈真は時計回りにステップ、すかさず右足を跳ね上げて蹴りを顎に見舞う。足の甲が、狼の下顎を打ちのめした。単純な運動エネルギーの収支でのけぞるが、ダメージはやはりない。

 札の一枚でも持ち歩いておけば——後悔先に立たず。そして後に絶たず。己の準備不足に呆れる。


 しかし、燈真も勝てない戦いを続けるほど馬鹿ではない。攻撃を加えつつ引き下がり、稲尾の屋敷に向かっている。

 狼魍魎は低く唸り、周りの石を浮遊させた。妖力を使った念力だ。


「!」

「ガァウッ」


 石が、指向性を持って燈真を襲った。

 速い——瞬時に背を丸め、防御姿勢をとる。とにかく頭と胸を守り、燈真は都合七つの石礫に耐えた。


「ッぐ——」


 激痛——というか、鈍痛。込み上げてくる苦鳴を押し殺し、しかし痛みが意思を勝った。足がもつれ、膝をついてしまう。石が直撃した右の中指が折れ、ひどい内出血を起こしていた。痛いというより、痺れる。

 燈真はズキズキ痛む体に、ケダモノのような呻き声をあげて怒りをぶつけた。こんなところで止まるな、と呻く。地鳴りのような、山鳴りの様な呻き声。

 けれど魍魎にとっては、どうでも良いことだった。それどころか、こういった負の感情は餌である。

 狼魍魎空気を腐らせ、踏み固められた地面にわずかに生えていた雑草を萎れさせ、一歩ずつ迫る。


 そこへ、ひょうっと風が吹いた。


 軽やかな足捌きで、何者かが降り立つ。風に乗って香ったのは、稲藁のような、炊き立ての白飯のような、そんな優しい匂い。

 燈真は顔を上げた。

 そこには白髪の妖狐が一匹。先端が紫紺に染まった耳と、五本の尻尾。左手の鞘を腰に差し、右手で抜き身の太刀を握る。上背は|五尺五寸(一六五センチ)ばかりか。身長の割に握っている瑞穂刀は長く、そして肉厚だ。いわゆる戦太刀と呼ばれる、魍魎の肉を断ち切ることに特化したものだろう。


 妙な静けさ。

 少女が、太刀を上段霞に構えた。ほぼ同時に膝を抜き、滑るような、地面そのものが縮んでいくような運足で移動——縮地だ。あらゆる武道家が無双する、歩法の極致である。


「シッ!」


 雷の如き勢いで、空気を裂くような呼気を漏らして切り下ろし。

 狼は咄嗟に身を引いたが、鼻先を二つに断ち切られる。


 少女は振り下ろした太刀に合わせてムカデのように這い回るような姿勢で迫る。かつて数多の剣客を沈めた下段脛切りを連続して放ち、たまらず魍魎が宙に跳ね上がるとここぞとばかりにバネのように体を持ち上げ、逆風に太刀を振り上げた。


「しゃぁっ!」


 真下から脳天までを斬割ざんかつされた魍魎は、そのまま地面に落下。肉塊と化したそれは、少女が左手に取り付けた籠手から発せられる紫色の粒子に包まれ、浄化されて消えた。


 あっという間の出来事。呼気以外終始無言で魍魎を祓葬ばっそうした少女は、鞘に太刀を納めるとこちらに振り向いた。


「手荒い歓迎だったわね」

「…………死にかけた挙句、皮肉をぶつけられるとは思わなかったよ」


 少女はふっと微笑んだ。目が、狐のように細くなる。


「稲尾椿姫。稲尾家三十四代目当主よ。まあ……次期、だけどね」

「漆宮燈真。今日から修行させてもらうために来た。よろしく頼む」

「卑下しない態度、阿ったりしない口ぶり……礼儀知らずといえばそれまでだけど、芯がしっかりしてるのね。来なさい、みんな待ってるから」


 椿姫はそう言って、一人で歩き出した。自信満々の足取りである。自分が強いことを自覚しているからこそ、変に大きく見せようとしないのだろう。

 燈真は放り出してきた荷物を慌てて取りに行き、走って戻ってくるのだった。

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