日本人の集団行動が揶揄された遠い昔

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昭和の頃は「日本人は海外に行くと集団で群れる」と揶揄されたわけである。宅間守による不審者ブームあたりから、われわれは同じ日本人を疑うようになり、見知らぬ人は危険、知り合いでも危険、だから知り合わないし、近所に誰が住んでいるのか知らない、という具合になった。かつては近所全員が顔見知りで、専業主婦があちこち聴き込みをして密度の高い地域社会を作っていたのだが、宅間守以降は、ただひたすら他人を敬遠しているのである。だから、クルド人とかブラジル人とかインド人とか、海外からやってくる輩のほうが、まるで昔日の日本人を思い起こさせるかのような集団行動をしている。多くの日本人はあまりにもひとりぼっちな世界を生きている。嘆くことではなく、たぶんわれわれ日本人が望んだ都会の生活なのだろうが、日本にやってくる外国人の団結力に面食らってしまうところはある。彼らは日本人が忌避した田舎の人間関係をやっているわけだが、こう考えると、民族性という括りもあやしい。半世紀前までは日本人も、近所全員顔見知りの世界で、群れて大騒ぎしていたわけで、そして、内心ではそれを面倒だと思っていたのだし、心から楽しんでいたわけではない。このあたりは複数の側面が有り、人間は歴史を修正する生き物である。「飲み会が苦痛だった」というのは、実際にそうだったとしても、馬鹿騒ぎが楽しい側面もあったに違いない。そもそも100%楽しいなんてことはこの世にあまりないだろうから、「実は嫌だった」というのは簡単に言えてしまう。昔はインターネットがなかったので、直接的に他人とワイワイやるしかないし、必要だったのだろう。現在のネット中毒者も「ネットをやるのが嫌だった」と後から言うかもしれない。ネットで暴れるのが100%楽しいわけがないし、ただのストレス発散だから、まあそういうことである。人間は複数の感情を持ちながら生きているので、後からそれを語ると、「実は」といろんな歴史修正をするのである。当時は楽しくても今から思い返すと吐き気がするとか、あるいは、その逆もあって、過去を美化することもある。
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