Get lucky

ぶちこわれて放射性物質がどばどばと流出している福島第一原子力発電所の近くで、笑顔の家族の団欒をすごしているひとびとがいる。
あるいは見るからにあぶなそーな食品を選択して食べて「食べて応援」と勝ち鬨をあげているひとびとがいる。
放射性物質取扱資格が定める上限よりちょっと高いくらいの放射線レベルがなんぼのもんじゃい、そんなの全然ヘーキヘーキ、ヘーキx2、ということにした豪毅な日本国民と違って、相変わらず放射脳で非科学的な恐怖心しかもたない西洋人どもは、サムソン50インチ液晶スクリーンのなかで、汚染水にくびまで浸かって、あるいはひどければ水中に潜りまでして、海水浴を楽しむ日本のひとびとを、自分達には理解不能な国民として眺めている。

日本に初めて滞在した夏、読んでいた本をテーブルの上に置いて、天井の一角を眺めるくらいの地震があった午後、モニがまっさおな顔で部屋にやってきて、「どうして日本人は地面が揺れるようなバカな土地に住んでいるのか?」と聞いたことがある。
そんな失礼な、と怒ってはいけません。
モニさんは、そこまでの一生の大半、というよりも全部をパリとニューヨークという「地面が揺れるなんて、そんなアホな」の町に住んで過ごしたので、腰で楕円を描かなくてもフラフープが出来そうなくらい派手に地面が揺れる地震が当たり前な、日本みたいな国は想像を絶していたのです。

次の日、高徳院の大仏まで歩いて、ほーら、ここに柱が載っていた柱石があるでしょう?
この柱石に載っていた大仏殿は地震でぶち壊れて津波で流されてしまったのね。
それからそれから、このおもおおおおーい大仏が、地震と津波で4メートルくらい後ろに流されちゃったんだってええええ、地震て、すごいよね、と夫として教養を披瀝してみせたら、そのあと半日、口を利いてもらえなかった。

人間の一生の九割は運だ、自分の努力で出来ることは少ししかないというひとは正しくない。
人間の一生は十割が運だからで、自分の努力で変えられる部分などゼロであると思う。

きみの母親のお腹のなかでやがてはきみになる卵が受精して父親由来のDNAと母親由来のDNAに由来する情報が発現して形質をかたちづくるところを想像せよ。
あの、なんだか考え込んでいるような人間の形に近付いたきみの胚が表れる頃には、もうそこできみという人間の一生の半分は運でつくられてしまっている。

英語人の世界では「彼女はsillyだっただけさ」とよく言う。
大学生の一年生で、上級生たちに誘われてコカインを吸引してバカ騒ぎをしたあげく父親がわからない子供ができてしまったというような場合、わけのわからんジジイとかが、「こんな売春婦のような女が大学生を名乗っているなんて」と述べたりすると、まわりで聞いていたオトナたちが、ジジイの無知を窘めて、そう述べる。
英語人は「人間は自分でも後で考えてびっくりするようなバカなことをよくやるのだ」ということを常識として知っている。
英語人という生き物は、その魂が拠って立つ「英語」という言語を見れば判るとおり、ぜんぜん論理性がないが、言語集団全体の経験則の集積による「常識」だけは言語自体が分厚い判断の堆積として豊富に持っている。

だから、どんな人間も必ず失敗するものであって、その失敗から蘇るには「運」が必要なのだということも知っている。
そうして、もし自分の側に運がなければ、いまもこのときでも自分があるいは刑務所にいるかもしれず、あるいはアルコール依存症のリハビリ施設でミーティングの輪に加わっているかもしれない、とよく知っている。

「努力」という言葉という言葉ほど嫌なものはない。
なんだか本来はやりたくないことを自分に強いているような響きがあるところが好きになれない。
夜明け前に起きて、机に向かって、ああでもないこうでもないと推論をすすめて、全体像を頭につくろうと企画して、家の誰かに話しかけられでもすればオオマジメに怖い顔をつくって唇に人差し指を立てて相手を遮り、冷蔵庫のドアを開けてスプレッドとシャンパーニュハムでサンドイッチをつくっているときも頭のなかは定型を求めて奇妙な形にねじれてゆく曲線群でいっぱいで、気が付いてみれば夜中の一時になっていたりするのは、努力しているのではなくて夢中になっているだけのことである。

努力する人間は努力に対して吝嗇というか、なんだか自分が払った膨大な努力の見返りを手にしなくては自分の人生は成功とは言えないといいたがっているようなところがあるが、それも、自分の頭のなかではなんだか崇高なものだということになっている「努力」が本質的に功利的な理由に基づいているからだろう。
努力型の人間におおくみられる、あの粘り着くような卑しい感じは、要するに神が自分の費やした時間と労力を正当に認めてくれないという利己的な憤懣によっている。

人間の一生が全て運に依存しているのだと思わないひとは、たいていの場合、いろいろなことをやってみないひとであるように見える。
言葉を変えて言うと人間の一生がいかに運に依存しているかを認識できるようになるためには部屋のなかで考えているより町へ出て、あるいは町をすら出でて、国を出て、遠くを旅して、たくさんのひとと話し、皿洗いやウエイトレスから、ホテルの受付、通訳、折々で糊口を凌ぎながら、人間の世界がどんな形をしていて、人間の一生がどんな仕組みで、人間の心や思考のレンジがどこからどこまでなのかを実地に理解する必要がある。

見知らぬ町にでかければ危ない目に遭う事もあるが、自分の部屋にひきこもって思考をめぐらすことしかしない人間は、その部屋に運ばれてゆく先の、確実な精神の破滅しか待っていないことを考えれば、文字通り「運を天にまかせて」ほっつき歩く人間のほうが遙かに安全保障上もすぐれた選択をしているのだと思われる。

もうひとつ、声を潜めて、人間の一生にまつわる重大な秘密をこっそり打ち明ければ、危険を怖れない人間ほど運に恵まれる。
誰にも説明できない不可解な理由によって、自分の一生の安寧をのみ願う人間をこそ悪運は狙撃する。

もしかしたら「幸運の女神」は、岐れ道にたって、「安全方面→」「こっちは危険→」と書いてあるふたつの標識を顔をあげて眺めて、危険なほうがオモロイに違いないとわざわざ危ない道を行く愚かな人間だけを愛しているのかもしれません。
人間の一生というものにたくさん詰まっている、理屈が説明出来ない神秘のひとつであると思います。

Get Lucky

ぶちこわれて放射性物質がどばどばと流出している福島第一原子力発電所の近くで、笑顔の家族の団欒をすごしているひとびとがいる。
あるいは見るからにあぶなそーな食品を選択して食べて「食べて応援」と勝ち鬨をあげているひとびとがいる。
放射性物質取扱資格が定める上限よりちょっと高いくらいの放射線レベルがなんぼのもんじゃい、そんなの全然ヘーキヘーキ、ヘーキx2、ということにした豪毅な日本国民と違って、相変わらず放射脳で非科学的な恐怖心しかもたない西洋人どもは、サムソン50インチ液晶スクリーンのなかで、汚染水にくびまで浸かって、あるいはひどければ水中に潜りまでして、海水浴を楽しむ日本のひとびとを、自分達には理解不能な国民として眺めている。

日本に初めて滞在した夏、読んでいた本をテーブルの上に置いて、天井の一角を眺めるくらいの地震があった午後、モニがまっさおな顔で部屋にやってきて、「どうして日本人は地面が揺れるようなバカな土地に住んでいるのか?」と聞いたことがある。
そんな失礼な、と怒ってはいけません。
モニさんは、そこまでの一生の大半、というよりも全部をパリとニューヨークという「地面が揺れるなんて、そんなアホな」の町に住んで過ごしたので、腰で楕円を描かなくてもフラフープが出来そうなくらい派手に地面が揺れる地震が当たり前な、日本みたいな国は想像を絶していたのです。

次の日、高徳院の大仏まで歩いて、ほーら、ここに柱が載っていた柱石があるでしょう?
この柱石に載っていた大仏殿は地震でぶち壊れて津波で流されてしまったのね。
それからそれから、このおもおおおおーい大仏が、地震と津波で4メートルくらい後ろに流されちゃったんだってええええ、地震て、すごいよね、と夫として教養を披瀝してみせたら、そのあと半日、口を利いてもらえなかった。

人間の一生の九割は運だ、自分の努力で出来ることは少ししかないというひとは正しくない。
人間の一生は十割が運だからで、自分の努力で変えられる部分などゼロであると思う。

きみの母親のお腹のなかでやがてはきみになる卵が受精して父親由来のDNAと母親由来のDNAに由来する情報が発現して形質をかたちづくるところを想像せよ。
あの、なんだか考え込んでいるような人間の形に近付いたきみの胚が表れる頃には、もうそこできみという人間の一生の半分は運でつくられてしまっている。

英語人の世界では「彼女はsillyだっただけさ」とよく言う。
大学生の一年生で、上級生たちに誘われてコカインを吸引してバカ騒ぎをしたあげく父親がわからない子供ができてしまったというような場合、わけのわからんジジイとかが、「こんな売春婦のような女が大学生を名乗っているなんて」と述べたりすると、まわりで聞いていたオトナたちが、ジジイの無知を窘めて、そう述べる。
英語人は「人間は自分でも後で考えてびっくりするようなバカなことをよくやるのだ」ということを常識として知っている。
英語人という生き物は、その魂が拠って立つ「英語」という言語を見れば判るとおり、ぜんぜん論理性がないが、言語集団全体の経験則の集積による「常識」だけは言語自体が分厚い判断の堆積として豊富に持っている。

だから、どんな人間も必ず失敗するものであって、その失敗から蘇るには「運」が必要なのだということも知っている。
そうして、もし自分の側に運がなければ、いまもこのときでも自分があるいは刑務所にいるかもしれず、あるいはアルコール依存症のリハビリ施設でミーティングの輪に加わっているかもしれない、とよく知っている。

「努力」という言葉という言葉ほど嫌なものはない。
なんだか本来はやりたくないことを自分に強いているような響きがあるところが好きになれない。
夜明け前に起きて、机に向かって、ああでもないこうでもないと推論をすすめて、全体像を頭につくろうと企画して、家の誰かに話しかけられでもすればオオマジメに怖い顔をつくって唇に人差し指を立てて相手を遮り、冷蔵庫のドアを開けてスプレッドとシャンパーニュハムでサンドイッチをつくっているときも頭のなかは定型を求めて奇妙な形にねじれてゆく曲線群でいっぱいで、気が付いてみれば夜中の一時になっていたりするのは、努力しているのではなくて夢中になっているだけのことである。

努力する人間は努力に対して吝嗇というか、なんだか自分が払った膨大な努力の見返りを手にしなくては自分の人生は成功とは言えないといいたがっているようなところがあるが、それも、自分の頭のなかではなんだか崇高なものだということになっている「努力」が本質的に功利的な理由に基づいているからだろう。
努力型の人間におおくみられる、あの粘り着くような卑しい感じは、要するに神が自分の費やした時間と労力を正当に認めてくれないという利己的な憤懣によっている。

人間の一生が全て運に依存しているのだと思わないひとは、たいていの場合、いろいろなことをやってみないひとであるように見える。
言葉を変えて言うと人間の一生がいかに運に依存しているかを認識できるようになるためには部屋のなかで考えているより町へ出て、あるいは町をすら出でて、国を出て、遠くを旅して、たくさんのひとと話し、皿洗いやウエイトレスから、ホテルの受付、通訳、折々で糊口を凌ぎながら、人間の世界がどんな形をしていて、人間の一生がどんな仕組みで、人間の心や思考のレンジがどこからどこまでなのかを実地に理解する必要がある。

見知らぬ町にでかければ危ない目に遭う事もあるが、自分の部屋にひきこもって思考をめぐらすことしかしない人間は、その部屋に運ばれてゆく先の、確実な精神の破滅しか待っていないことを考えれば、文字通り「運を天にまかせて」ほっつき歩く人間のほうが遙かに安全保障上もすぐれた選択をしているのだと思われる。

もうひとつ、声を潜めて、人間の一生にまつわる重大な秘密をこっそり打ち明ければ、危険を怖れない人間ほど運に恵まれる。
誰にも説明できない不可解な理由によって、自分の一生の安寧をのみ願う人間をこそ悪運は狙撃する。

もしかしたら「幸運の女神」は、岐れ道にたって、「安全方面→」「こっちは危険→」と書いてあるふたつの標識を顔をあげて眺めて、危険なほうがオモロイに違いないとわざわざ危ない道を行く愚かな人間だけを愛しているのかもしれません。
人間の一生というものにたくさん詰まっている、理屈が説明出来ない神秘のひとつであると思います。

(この記事は2023年5月7日に「ガメ・オベールの日本語練習帳」ver.5に掲載された記事の再掲載です)



Categories: 記事

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