伊藤ミオの探しモノ
ムカつく一日の始まり
もう本当にやめよう。酒も、男も……。
伊藤美緒(イトウ・ミオ)は、名古屋市瑞穂区、地下鉄の桜山駅構内で、電車を待っていたところだった。
朝7時半のホームは、6月10日にも関わらず、既に36℃の予想最高気温を感じさせるほどに、学生や社会人でごった返していた。
昨日飲み過ぎた酒がまだ残っていたみたいで、頭痛をこらえながら美緒は舌打ちをした。
(こんな休みの日は、内海でサーフィンをしたかった。本当にムカついてしょうがない)
伊藤美緒は、30歳の女性で、小麦色に日焼けした肌と、物憂げな目つきが特徴的で、人目を引く顔立ちと言われることもある。
今日は白いシャツにデニムのベイカースカートという格好だ。
疲れた様子で電車を待っていると、美緒の足元に何か別の人の靴が触れたような感じだ。振り向くが、遠ざかっていく男の姿が見えるだけで、おかしな様子はない。(私も疲れているんだろうな……)と考えてまた電車を待つ。
「兄さん、今盗撮したろ?」
美緒の背後から、通る声が聞こえ、思わず振り向く。
周囲はざわついており、半袖のYシャツとスラックスを履いた、いかにも会社員と分かる男が、同じ様な服装の男に左腕を掴まれていた。
年齢は同じくらいの30代に見える。
掴んでいる方の男の方が、180cm位の身長があり腕周りの筋肉や、胸、太ももの筋肉の厚みが大きい。
そのため、腕を掴まれている男の方が、標準的な体格なのに、相対的に小柄のように見える。
「何?盗撮?」
「盗撮とか言ってるけど」
「これから会社なのに、電車が遅れると困るんだよな」
「うそ!気持ち悪い!」
「何?私人逮捕系?」
周囲はザワザワとしだす。
出勤を急ぐ乗客は、関わらない様に素通りしていく者も多い。
見ている者も積極的に何かをする訳では無く、スマホで面白半分に撮影している者もいる。
小柄な男が反論する。
「な、何を言っているんですか。名誉棄損ですよ。さっさと手を離して下さいよ。これ以上付きまとうなら訴えます」
「へえ。警察を呼ぶんじゃなくて、訴えるねえ。あんたさっき、靴に仕込んでいるカメラで、あそこのデニムのスカートの女性の下着を撮影してたよな?」
小柄な男の顔がこわばる。
「足の動きがあまりに不自然だったからねえ。まあ、俺の見間違いというのもあるからね。写真撮ったばかりなら、データに入っているでしょ?靴を見せてくださいよ。何も無ければ謝りますよ」
ここまで聞いて、伊藤美緒は自分が盗撮された可能性に気が付き、怖気と寒気を感じた。周りにデニムのスカートを履いている女性は自分しかいないからだ。
小柄な男は、黙り込む。
大柄な男は、話を続ける。
「革靴にしちゃ変だな。光るメカみたいなものが埋め込んである。さて、どう...」
小柄な男は、大柄な男が下に視線をやった隙に、右肘を後ろに引いて、顔面に右腕で殴りかかった。
しかし、大柄な男は、その拳を額で受け止める。反対に殴った方の小柄な男が苦痛でうめき声を上げた。
「素人だねえ。ほらよ」
大柄な男は、そのまま関節を極めて足払いで転ばす。小柄な男の身体は回転し、地面に叩きつけられる。
「うぐお……」
そのまま地面にうつぶせとなり、うめき声をあげている男の首を足で踏みつけたまま固定し、左手の小指を拘束し、身体を固定する。
「さて」
大柄な男はゾッとする様な低い声で言った。
「逃げようとすれば、まず小指を折る」
低く静かだが、有無を言わせない暴力的なその言葉は、周囲の気温を下げ、周囲のざわめく乗客を静かにさせるには十分だった。
「ぐううううっ……」
小柄な男は、首を踏まれているため、呼吸も困難なのと、痛みと恐怖で何も言えずに観念しているようだ。
大柄な男、彼はにっこりと笑うと、愛想よく周囲の乗客に声をかけた。
「すいませーん。駅員さん呼んできてください」
ホームにいる乗客の中にも、まともな人もいたのだろう。
遠くから駅員が走って近づいてくる。
美緒の胸は動悸で激しく打ち、寒気が全身を震わせる。彼の行動にありがたいとは思ったが、事情聴取などあると時間も食ってしまうし、自分をじろじろと観ている乗客の目線も嫌だった。
そのまま来た電車に走って飛び乗る。
電車のドアがしまり、電車が出発した時に、彼と目が合う。彼は特に表情も変えずに目をそらした。
美緒はそのまま、彼や、先ほどのホームにいてじろじろ見ていた乗客から離れたくなり、2つほど先の車両まで移動した。
ようやく安心し、ため息をつく。
(朝から盗撮だのなんだの、今日一日が思いやられるわ)
(あの大柄の彼……最近話題の私人逮捕系のyoutuberかな。目的は金か。そうでもしないとあんなことをする男はいないでしょ……まさか私の顔とか撮影されてないよね?))
また動悸がしてくる。
自分の人生を振り返ってみても、男が味方になってくれたことなど、ほとんど無かったからだ。
それも酒を飲んでいる時に、決まってろくでもない男との出会いやトラブルがあった。分っているのに。後悔しているのに……。
でも過去を忘れようとするのに、どうしても酒の力がいる。カウンセラーに言われているように減らさないと、また同じ間違いを繰り返すと分かっているのに。
(アホらし。今日中に3社、不動産屋を回らなきゃならないんだから、そっちに集中しよう。さっさと引越し先を決めて、馬鹿DV男と別居しなくちゃ)
目的の駅に着くと、またむっとする暑さがある。
同じ暑さでも、サーフィンで味わう気持ちの良い暑さと全く違う不快感だ。
美緒は水筒の水に口を付けると、気を取り直して颯爽と歩き始めた。
不愉快不動産
サービスって何だっけ?
伊藤美緒は深いため息をついた。
1件目の不動産屋は、名古屋市内のチェーン店だった。担当者の男は、美緒の事が女性のせいか、女性だから給料が少ないと思っているのか、こちらの要望も大して聞かずに物件紹介をして来た。本人は気に入っているのかもしれないが安物の香水の臭いが鼻についた。
タバコのヤニ臭さを消しているつもりだろうが、かえって混ざって不快な臭いを感じる。
「一人暮らしなので、セキュリティ的に安全な物件を希望したいんです」と要望を伝え、予算を伝えたのだが、「はい承知しました」と言われて案内されたアパートは確かに鉄骨造りではあった。
しかし、TVドアホンもなく、何よりゴミ置き場に捨てられているゴミが、きちんと仕分けしておらずに散乱しているのが分かった。
カラスが漁ったと思われるビニール袋と、納豆が入っていたと思われるパックが足元まで風に飛ばされて飛んできた。パックの中には良く分からない虫がいるのが目についた。
(ここの住民も相当なもんよね)
汚さにゲンナリしたのと、担当者の男の視線が、美緒の顔や胸元をじろじろと見ていることも気になった。
苛立ちをどうにか抑えて、その不動産屋には早々に「検討します」と言って後にした。
続く、2件目の不動産屋もまたチェーン店だった。担当者は女性だったので、さっきの男性営業よりはまともかと思い、同じような条件を伝えたが、こちらの条件に合うものが無い。
美緒はサーフィンもしているので、冬場はポリタンクにお湯を入れて海に行くこともあるので、エレベーターの無い3階だと少し面倒なのだ。その事も伝えたのだが、「でも皆さんそうしてますよ。この物件はサーファーの方も住まれていますし。慣れると思います」とその女性担当者はにこやかかに笑った。
(お姉さん、目が笑ってないよ)
おそらく、会社の方針でこの物件を勧めろと言われているんだろう。
他にも条件を出してみたが、どうしてもその物件をゴリ押ししたいらしい。
お客の希望よりも会社の方針を優先するやり方に呆れて、そこも美緒は後にした。
(不動産屋なんてこんなものか)
水筒の水を飲みながら、美緒はため息をつく。
水筒には炭を入れてあるので、炭で浄化された冷たい水が、唯一の心のオアシスだった。
仕方ない、次も同じようなところなのだろうが、とにかくダメならダメで、もう少し不動産を探す範囲を広げればいいだけの事だ。
仕事で身に付いた合理的な考え方の方に切り替えて、三件目の不動産屋の前に立つ。
財善エステート。ガラス張りで清潔そうな感じのビルだった。
ここはチェーン店ではなく、名古屋市内では老舗で、確か女性が社長らしい。
女性が社長でも、営業がさっきのような人だと何にもならないだろうと思いつつ、アポ通りに来たことを伝える。
店内は植物が手入れされているのと、スタッフの比率を見ても、女性の方が多い様に感じた。
仕事柄、女性の方が多いことに、安心してしまう。
椅子に座って待っていると、担当者と思われる男性が現れた。
「弊社にようこそ。財前エステート第二営業部 課長の神谷と申します」
「どうも、伊藤です。よろしくお願いします。あれっ……」
爽やかな笑顔で、挨拶をし、名刺を渡して来た男性。
彼は朝の地下鉄で、盗撮犯を締め上げた大柄な男性その人だった。
再会。そして
美緒の発言で、さすがに神谷と名乗った担当者も気付いたらしい。
「ああ、確か今朝、駅でお会いしましたね。ちょっとお騒がせしてしまったみたいで申し訳なかったです」
神谷という男性は、少し恥ずかしそうな感じで答えた。
ただ悪びれたような感じは無い。
「なぜあんなことをしたんです?私人逮捕系のyoutuberなんですか? 」
美緒としては同然の疑問だった。自分の顔まで撮影されていて、世界に発信されてはたまらないからだ。
「いえ、自分はyoutuberではないんです。その……盗撮や痴漢行為を発見すると、自然にそれを止める様に行動してしまうのが、癖になっていて」
神谷は率直な感じで答えた。目の挙動などを見ると、嘘を言っているようには見えない。
「でもどうしてなんですか? 普通の男性なら目の前であんなことがあっても何もしないじゃないですか? 」
「どうしてですか……」
神谷は聞かれたことに対して、思い出すように少し考えた後で、答えた。
「理由は3つあります」
「1つ、盗撮行為は女性に対する性加害であること」
「2つ、自分にはそれを止める実力があること」
「3つ、盗撮犯自体が気に入らないこと。こんな感じですが、どうでしょうか? 」
美緒はそれを聞いて、ひどく驚いた。今まで美緒が出会ってきた男性の中には全くいないタイプの男性だったからだ。
店内の店のスタッフの様子をうかがう。この不動産屋は女性のスタッフが多いが、神谷の話を聞いていても、特に動じている様子はない。
つまり神谷の行動は、この不動産屋の店舗のスタッフは知っていて、許容されているのだろうと、美緒は推測した。
「そうなんですか。じゃあ私の顔とかを撮影してたわけでもないんですね? 」
「当り前じゃないですか」
「盗撮犯はあの後、どうなったんですか? 」
「駅員に引き渡しましたよ。やはり靴に盗撮用のカメラらしいものが仕込んでありました」
美緒に鳥肌が立つ。あのまま気が付かなかったら、あの盗撮犯のコレクションになっていただろうし、そういうコミュニティで商品として画像が販売されていたのかも知れない。
「そうだったんですか。ごめんなさい。疑ってしまって。あの、本当にありがとうございました」
「どういたしまして。それでは改めて、当店にお越しいただいてありがとうございます。伊藤さん」
神谷は屈託のない笑顔を見せる。
緊張が解けたからだろうか。美緒は神谷の笑顔を「ちょっと可愛い」と感じた。
「はい。よろしくお願いします。神谷さん。一人暮らしをするので、セキュリティがちゃんとしている物件を紹介してくれますか? 」
「伊藤さん、セキュリティの件は確かメールでも書いてありましたね。ありがとうございます。ただ」
「答えにくいことだったら、無理に答える必要はないんですが、そもそもなんで不動産の賃貸物件を探しているんですか?理由を教えてくれた方が、より的確な物件紹介が出来ますので」
そもそもか......そういえばこんなことを聞かれたこともなかったなと、1、2件目の不動産屋のことを思い出しながら、美緒は考える。全てを話すのも気が引けるので、言葉を選んでから口にする。
「今、2人で住んでいるマンションがあるんですけど、事情があって私1人で引っ越さないといけなくて。それでセキュリティが充実している物件を探しているんですよ」
「......なるほど。それは大変なことですね。セキュリティ重視ももっともなことだと思います。あと他にこういう物件が良いというイメージはありますか? 」
「出来れば女性専用の賃貸物件が良いですね」
「......なるほど。それもそうですね。他には?」
「他にはですか……。あ、私、趣味がサーフィンなので、エレベーター付きの物件があると、とても助かるんです。ポリタンクやボードを運ぶのが楽なので。でもそういうの有りますか? 」
好条件すぎるかなと、美緒も思ってしまう。
「サーフィンは良いですよね。自分もやるんですが、女性は確かにポリタンクは重いですよね。そうですね……。伊藤さん、あるんですよ。そういう物件が」
「え? あるんですか? 」
「貸主が女性だからセキュリティにこだわって造った女性専用の物件。オートロック付きで、廊下や入り口にも監視カメラ付き。鍵もピッキング防止用の鍵になっています。エレベーターもついていて、だから女性のサーファーにも人気がある物件です。1DKタイプだから、サーファーといっても皆で集まって騒ぐこともない。ご興味ありますか? 」
美緒は驚いた。探していた物件そのものだったからだ。
神谷は資料を見せてくれたが、家賃も駐車料を入れても6万円でおさまるのが嬉しい。
急に新生活の展望がわいて現実的になってきたことに、胸がワクワクして来た。
「案内してもらいたいです」
「もちろんです」
神谷の運転する車で、物件に到着し、案内をしてもらう。
案内と言っても、神谷は聞かれたことに答えるのと、美緒がどう感じているかを中心に質問をするぐらいだった。
1件目の不動産屋の営業マンは、美緒が聞いてもいないこともをベラベラとしゃべって、非常に鬱陶しかったことを思い出した。
神谷から最初に概要を聞いていたこともあり、イメージ通りだったこともあり、美緒は気に入ってしまった。
外見もきれいで、住民もきれいに使っていることが分かる。サーフボードを洗える外水道が付いているのが嬉しい。
「この物件、良いですね」
思わず口から出ていた。
「どこが良いと思ったんです?」
どこが……そんなことを聞かれたのも初めてだった。
「そうですね。セキュリティは説明通りでしたし、この物件は壁も鉄骨で静かそうだし、南向きで明るいし、住んでいる人たちは女性ばかりというのも安心ですよね。それに女性オーナーが造ったから、クローゼットも使いやすいし、サーフボードも収納しやすいし、洗面台が広くて使いやすそうです」
「だから……気に入りました」
「ありがとうございます。それでは……この物件でお話を前に進めてもよいですか? 」
神谷はわざと言っているのか、すこし小さめの声で聞いた。
それが却って美緒の決心を前に進めることとなった。
「はい。これにします」
物件を出て、神谷の車に乗る前、ゴミ置き場も確認したが、きれいに整頓されていた。
安心して、美緒は車に乗る。
帰りの中、神谷が話しかける。
「伊藤さんは、これから事務所でお申込書にご記入いただくのですが、お仕事はどんな事をされてらっしゃるんですか? 」
美緒は後で分かることなのに、なぜ聞くのだろうかと思ったが、先に言っておいてもよいだろうとも感じた。
「訪問看護センターで、看護師をしているんです」
「なるほど! それはとても責任の重い、大変なお仕事ですね。良かったですよ。さっきの物件は壁が厚いから、ゆっくり休める時には安心して休めると思います」
何だろう。神谷の言う誉め言葉は、作為的なものがないのだ。ホストがやるようにわざとらしくないのだ。
「何年位、看護師の仕事をされているんですか? 」
「まだ1年と10カ月くらいです。学ぶことばかりです」
「なるほど……特に医療現場だと、生死にかかわるから、大変ですよね。なんで看護師になろうと思ったんですか? 」
「...…すごくお世話になった、尊敬している友人に勧められたからです。あとは..…私も自分を変えたかったからです」
「と言うと?」
「バイトとかが多かったから、ちゃんとした仕事に就きたいと思ったんです」
嘘は言っていない。全てのことではないが。
「素晴らしいと思いますよ。ご友人にも恵まれているみたいですし、自分を変えたいって決断するのは、勇気もいることだと思います」
「そうですかね……でもありがとうございます」
普段、あまり褒められ慣れていないので、気恥ずかしさがある。でもそれが嬉しい。
「もう少し話を聞かせてもらっても良いですか?」
「はい」
「伊藤さんが訪問看護の看護師の仕事をしていく中で、一番印象に残ったことって何ですか?」
「……」
印象に残ったことか……。確かにあのことは印象に残ったことだけど。
「実は私……。訪問先のお宅で、患者さんの苦痛をそのままにして見殺しにしてしまったことがあるんです」
一番大事にしていること
「なるほど。それは確かに印象的なことですね……」
神谷も美緒の話が衝撃的だったようで、次の句が出ない様だ。
「私の仕事は、訪問看護だから、その家の人間関係の深いところに入っていく仕事なんです。神谷さんの仕事とも少し似ているかも知れません」
「確かに、それはそうですね」
「私が一番印象に残っている事は、ある老夫婦の家に、看護の仕事で通っていた事でした」
神谷は黙って聞いている。
「入ってからすぐに分かったんです。DVの家だって。普通ならあり得ない壁の高さに、何かをぶつけた跡が残っていて、それがすごく多いんです。」
「おおかた、夫が奥様の頭をつかんで壁に殴りつけたか、棒で殴りつけたか、皿でも投げつけたか。その場にいなくても、酷いDVの状態が分かるようでした。」
神谷は唾をのむ。
「私の仕事は、その寝たきりになっている夫の、点滴や健康状態の確認でした。もう長くはない患者でした。口も利くことが出来ない状態で、いつも苦しそうな状態です。でも私、気づいてしまったんです」
「その夫の最大の苦しみ。それはもちろん病気の苦しみもあるけれど、神谷さん、剣山って知っています?」
「確か華道で使う道具ですよね?」
「そう。それが夫の背中の下に置かれていて、文字通りに針のむしろの上に、その夫は寝かされているんですね」
「なかなかにえぐいですね……」
「そう。驚きました。なんて酷い事を奥さんはしているのかと考えたんですよ。それで外そうとしたんです。最初は」
「最初は?」
「そう、最初は。神谷さん、なんで奥さんはこんな針のむしろを作って夫を傷めつけていると思います?」
「……ひょっとして、恨みでしょうか」
「そう。恨みだと思いました。長年夫から味わった復讐だと思ったんです。でもそのことを奥様に話してしまえば、私は看護師として剣山のことを注意して、職場に報告しなくてはならなくなります」
「……」
「だから私は、このことを、奥様にも話さず、職場にも報告はしませんでした」
「……」
「……しばらくしてね。その夫は亡くなりました。その四十九日が終わったあと、奥様が職場に来て下さったんです。そして私に向かって、『貴方が担当で、本当にありがとうございました』と涙を流して御礼を言って下さったんです。『貴方のおかげで、夫は安らかに亡くなった』って」
「……」
「私がやった事は看護師として、おかしいのかも知れません。でも私は」
「長年苦しんで来た、奥様の味方をしたかったんです」
「……」
「苦しんで当然の人間っていますから」
「……」
美緒はそこまで話すと、当時の事を思い出して、ハンカチで目をぬぐった。
「神谷さん、ごめんなさいね。きっとドン引きしてますよね?」
「……いえ」
神谷の声は少し鼻声で、目を指で拭った。
「奥様のために行動した伊藤さんは、素晴らしいと思います」
「怖い女だと思わないんですか?」
「そこまで追い詰めた男の方が悪いでしょう。立派だと思いますよ」
「……」
「伊藤さんにとって、そんな体験や決断をして、一番大事にしている事ってなんですか?」
「大事……ですか?」
「私は……まだ仕事について日は浅いけど、仕事を通じて、傷ついた人や、弱い人に寄り添いたいと思ってます。漠然としてますよね……」
「いえ、立派だと思います。良いお話を本当にありがとうございます」
神谷はまた鼻声になっていた。
この人は、涙まで流して共感してくれたんだ。
大学から男の汚さばかりを見てきた美緒にとって、この出来事は晴天の霹靂だった。
今まで私の事について共感してくれた男も、泣いてくれた男も、一人もいなかった。男と言えば私の身体を貪るだけだった。
そもそも朝の盗撮だって、助けてくれたのはこの人だった。
素敵な物件を紹介してくれたのも、この人だ。
今泣いてくれているのも、この人だ。
美緒は急にはげしい動悸がして、体が熱くなってきた。
美緒にとって、その日のその後の記憶はあまりない。
申し込みをして、そしてその後の段取りについて決めたと思う。
入居審査は無事に通り、後日、契約も普通に出来た。
変わっていたことは、美緒はずっと神谷諒の顔を、指を見ていた事だった。
顔は前よりも、とても可愛く感じた。
指はゴツゴツとしていて、鍛えている感じがした。でもそれがとてもセクシーに感じた。この指で身体に触れられたら、どんな感じがするのだろうか。
そんな事を考えながら契約をしていたので、神谷諒が話す説明も、あまり頭に入っておらず、ボーっと聞いている内に契約は終わった。
「伊藤さんありがとうございました。入居されてから何か不具合や困ったことがあったら、何でも気軽に連絡下さい」
「はい。神谷さん。本当に……本当に素敵な物件をありがとうございました」
お礼をして店を出る。
歩きながら、美緒は、ため息をついた。
(魅かれちゃってるなあ……それもすごく)
美緒は歩きながらスマホを取り出し、親友の水無月葵にLINEをする。
(相談したい。これは私の悪い癖なのか、本当の恋なのか。聞いて欲しい)
引越しの終わりと何かの始まり
美緒の引っ越し作業は、思いの外上手くいった。
DVの元彼氏である木村春樹には黙って準備し、必要最低限の通帳やクレジットカード、保険証、免許証などは元々自分で持っているから簡単に移動が出来た。木村春樹と一緒に住んでいたアパートは、幸いに木村春樹名義で賃貸借契約をしてあったので、解約手続きをせずに済んだのは幸運だった。
実家が疎遠になってしまっているので、住民票の転居先を、親友の水無月葵の住所にとりあえず変更をさせてもらう。
木村春樹の面倒くさい追跡を撒くためなので、葵は快く協力してくれた。家具は諦めて、気に入っている服やバッグや大事なもの、サーフィン道具、自動車を木村春樹のいない隙に、新居に引越しを行った。
電話・LINEもブロック、SNSもブロックし、必要なら削除。
引越しが終わり、それから2週間。木村春樹からは何もない。
今、美緒がいるのは、新居であるルミエールⅡ303号室である。
日曜日の午後1時。明るい日差しが差し込んでくる部屋だ。
美緒はスーパーで買ってきたお寿司を水無月葵と食べて、緑茶を飲んでいる。部屋には美緒の好きなBTSの音楽が掛かっている。
美緒の服装は、サーフブランドのビラボンのTシャツと、ショートパンツである。髪が少し濡れているのは午前中に2人でサーフィンをしてきたからだ。
葵も同様の恰好をしており、緑茶を飲みながら話を聞いている。
水無月葵は31歳であり、訪問介護センターの同僚でもあり、美緒の親友である。そして葵の人生を変えるきっかけをつくってくれた、他ならない恩人でもある。
水無月葵もサーファーなので、小麦色の肌をしている。
くっきりとした目鼻立ち、ショートボブの髪型をし、美人と言える顔立ちだ。何より特長的なのは、まとっている雰囲気で、年齢不相応にとても落ち着いたものであり、美緒はついつい人生の先輩の様に感じている。
「そう、それで葵、この間送ったLINEのことなんだけど」
美緒は少し恥ずかしそうに、会話を始めた。
「すごく素敵な男性が現れたってことね」
緑茶を飲みながら、そのまま葵は答える。
「そう!何というか……今まで人生で会ったことがない様な男性なのよ。あの後詳しくどんな人かLINEで送ったでしょ? 」
「うーん、そうね。確かに男性としてはかなり珍しいんじゃないかな。私利私欲もなくてああいう行動が出来るんなら、良い人だとは思う」
「私利私欲……。そう、それで春樹には騙されて来たから、だから葵には相談に乗って欲しいの。私の悪い癖を知っているでしょ? 」
「そうね。美緒は過去の性被害が原因で、フラッシュバックから、酒を飲んでしまい、自傷行為のような性行為を繰り返して来た。今はカウンセリングを受けて効果は出てきているのだけど、それが完全に治ったかどうかは分からないところよね」
「そう……。だから今回のこの思いが、ただの頼りになる男への性欲なのか、依存したい欲求なのか、それとも本当の恋なのか。自分でも分らない。あとは、春樹の様な偽善者に騙されたくない。だから相談したかったの」
木村春樹には葵も苦々しい思いを持っている。
美緒から全てを聞いたからだ。
木村春樹は、SNSで「女性の人権を守るべきだ」「男性は自分のケアを女性にさせず自分で行うべきだ」「男性こそ自立すべきだ」「男性は全て性犯罪者予備軍だ」と主張する論客である。
35歳の爽やかな感じの良い外見、大学の講師であるという社会的な地位、明瞭な弁舌は、一部の男性からは反感を買うものの、圧倒的多数の女性からは歓迎される事になった。
SNSで人気を得た木村春樹は、リアルでも講演を重ねて、「男性こそが意識改革が必要だ」と主張した。
美緒は最初に、SNSで木村春樹を発見し、「こんな男性がいたのか……」と心底驚いた。そして春樹の言う言葉が嬉しく、気が付いたらファンになっていた。ファンから信者になるまで多くの時間はかからなかった。
リアルで行われた木村春樹の講演にも、美緒は何度も参加した。美緒を踏みにじって来た男性達を、代わって罰してくれるような春樹の言葉や、こんな男性がいるのだという喜び、それが美緒にとっての希望だったのだ。
ある講演が終わった後、懇親会があり、美緒は春樹と話をする機会があった。懇親会の席だったことや、春樹が進めてくれた酒だったため、警戒心が緩くなっていたのだと思う。
酒を飲んだあとの記憶はない。目が覚めたらホテルのベッドだった。
一夜を春樹と明かしたことだけが分かった。
どうすれば良いのか分からない美緒に、春樹は正式にお付き合いをして欲しいとにこやかに言い、春樹を信じている美緒は、それに応じた。
美緒にとっては、この時が春樹との付き合いの中で一番幸せな時だった。
「男性は自分のケアを女性にさせず自分で行うべきだ」という主張とは裏腹に、春樹のアパートの部屋は汚く、掃除や料理や洗濯は全て美緒が行う事になった。春樹は帰りが遅かったり、理由も述べずに部屋を空ける事も多かった。
美緒に金を貸して欲しいということも多かった。貸した金は帰ってこず、いつ返すのか聞いても逆に怒られた。
理由を聞いても「踏みにじられている女性の人権を守るための会議がある」「性加害の勉強会がある」「男性同士で女性をどう守るかの飲み会がある」と言って、「だから美緒には女性のために協力して欲しい」というのが、いつもの春樹の言う事だった。
美緒は最初、とても誇らしかった。自分も女性の人権のために協力出来ているのだということが。
性被害を受ける女性の減る事が嬉しかった。
しかし、その希望は砕かれることになった。
春樹は複数の携帯を持ち歩いていたが、春樹にとっては、「女性の味方」というのは仮面であり、美緒の様によってくる女性、信者となる女性を食うための手段に過ぎなかったのだった。
春樹が寝ている内にかかって来た電話に、見慣れぬ女性の名前が載っているのを美緒が発見し、それに出たことから、春樹の行動がばれる事になった。
春樹に対してそのことを追及しても、「それは仲間のフェミニストの女性だ。信じて欲しい」と懇願して来た。そんなことが何回も続いた。
それでも、それでも美緒は春樹を信じたかった。
世の中にまもとな男が、一人ぐらい居て欲しかった。
そして、春樹との性行為をする時は、酒を飲んで応じた。
自分でも分からなかった。酒を飲まないと出来なかったのだ。
そんなある日、美緒は具合が悪く仕事を休んで寝ていた。春樹はアパートにいたりいなかったりするので、そのことをいちいち春樹には伝えていなかった。
春樹は無造作に玄関を開けて、帰ってくると、美緒がいないことに気付かず、スマホで話し始めた。
「同棲している女なんだけどよ。性被害を受けた事を聞いて、涙ながしてやったらころっと信じてきてよ。本当に簡単で笑っちまうよ。男とやった数が多いらしいからセックスが上手いし、家事もやるし、金も貸してくれるから、便利なんだよ。まあ返さねーけど。ああこれ経済的DVってやつ? 」
「酷い? お前も同じようなことしてるだろ? だいたい女なんぞに人権なんか無いんだからよ。俺らのようなことが商売として成立するんだろうが」
「つまらないミスを逃さず詰めれば自尊心を削れるし、何か言い返してくれば、『君は女性の人権を分かっていない』と言えば黙らせる事も出来るしな。正論に勝るものはねえよ。精神的DVってやつよ。本当に馬鹿で笑えるよな……」
美緒は、寝ながらその言葉の一時一句を聞いていた。
聞きながら、聞いている事がばれないように、冷静に、スマホを録音モードにした。震えと動悸が止まらない、怒りも止まらない、涙も止まらない。唇を固く噛み、なんとかこらえていると、春樹はまたアパートを出ていった。
時間は夜9時だった。
春樹のいつものパターンだと、どこかの女のところに行ったのだろう。今日は帰ってこないはずだ。
美緒は涙も枯れ、無言で、無表情でウォッカを取り出し、グレープフルーツを注いで飲み始めた。
続いてワインを飲み始めた。
酔いながら……美緒の心だけははっきりしていた。
明日、不動産屋に行き、ここを出る。木村春樹とのくだらない腐れ縁を終わらせると。馬鹿な私の行動に終止符を打つと。
これが財前エステートに行く前の前日の美緒だった。
水無月葵は、美緒から春樹の話を聞き、美緒の引っ越しに全面的に協力した。職場に春樹が来た場合の対応マニュアル作成を作成し、職員に伝えた。不審な電話が何回か来たが、マニュアルでの対応により、それ以上、かかってくることは現段階では無い。
葵は、緑茶を飲み、一息つくと話し始めた。
「美緒、本当に大変だったね。そこで美緒が気になっている神谷諒さんという人なんだけど」
「うん」
「まずはその人が、結婚しているか、付き合っているどうかを確認したほうが良いと思う。幸いなことなんだけど、私は、神谷諒さんとは、知人の知人だからね。それは確認出来ると思う」
「本当!?葵、本当にありがとう!」
「どういたしまして。ちょっと待ってね。まあ日曜日だから、電話には出るでしょ」
そう言って、葵はスマホで電話をかける。
「ああ詩織。こんにちは。先日はありがとうね。今日はそっち系の話じゃないからかしこまらなくて良いのよ。今日は教えて欲しい事があるの。貴方の叔父さんの神谷諒さんについて」
日曜日の提案
あ、モロに入ったか。
橘詩織は、名古屋市の女子高校に通う三年生である。
今日は、市民会館の一室を借りて、弟の蒼空と空手の練習をしていたところだった。
この部屋は、壁の一面が鏡になるので、フォームや型演武の確認などをするのに、非常に便利なのだ。
橘詩織は、髪形は肩まで伸ばしてシャギーにして、練習中はゴムで縛っている。
身長158cmで、空手着を着て黒帯を締めている姿やたたずまいからは、凛とした雰囲気や、18歳の年齢にそぐわない落ち着きがある。
休憩時間なのだろう。
練習相手である弟の橘蒼空(タチバナ・ソラ)は、水筒に入った水を飲んでいる。
彼もまた黒帯を締めている。身長165㎝の中学三年生の15歳。髪は短髪にしており、穏やかにしていれば、韓国の若手俳優のように見える顔だ。目つきは鋭いが。
今日は珍しく、やや表情が硬い。
今回は、詩織のみが禁じ手を使う事を許可したルールで、組手を行った。
本来ならば空手の公式試合で禁止されている喉への突きや、金的に対する反動を利用した下段蹴りなどをしたため、まだ痛みが残っているからだろう。
とは言え蒼空にとっては、金的用のサポーターを付けていたので、痛みはあっても深刻なダメージは防げたようだ。
実際に急所に攻撃をされた場合の痛みや苦しみを自分で知っておくことで、自分が使う時の練度を上げたいという蒼空の希望だった。
喉を貫手で突かれると、呼吸困難になり、窒息する。戦闘不能になる苦しみも、自分の身をもって分かったので、これも収穫だった。
「……蒼空、話せる? 」
「……まあ……ね。喉への突きは貫手が効くね。呼吸を封じられると何もできなくなる」
「それから反動下段蹴り。こちらが脚を締めていても、そこにねじこんでくるから、先手を打たれると負けるね」
「痛みはどう? きつい? 」
「あと30分くらいすれば回復すると思う」
「無理しないでしばらく座ってなさい」
「ありがとう。それじゃ座らせて頂きます」
蒼空は一旦正座して座ると、そのまま一礼して足を崩した。
「蒼空。ちょっと参考に聞きたいんだけど、あの子達にも、空手を教えた方が良いと思うんだけど、どうだろう? 」
「空手ねえ。詩織姉ちゃんのその目的は何? 」
「身体的な体のコントロール方法、呼吸のコントロール方法を学ぶこと。それから実際にあの子達がトラブルに巻き込まれて、応戦した時に、空手をやっていることで正体がばれにくくなること。手加減や有効な攻撃方法を学ぶこと。そんなことを漠然と考えてたんだけど」
「……良いとは思う。各人、多分運動経験とかはなさそうだ。身体能力的にも、もてあましてしまっているところもあると思うしね。空手が基本的なベースになれば、役立つとは思う。まあ本人たちのやる気にもよるから、格闘能力の向上とかは、その次の段階で考えれば良いか。向き不向きもあるだろうし」
「現実的な意見をありがと。これは私の考えに過ぎないから、水無月さんとかにも聞いてみないと……あれ? 」
「姉ちゃん、その水無月さんから電話来てるぜ」
蒼空が手渡してくれたスマホを取ると、水無月葵の声が聞こえた。
緊張して出ると、きさくな感じで水無月は話しかける。
「ああ詩織。こんにちは。先日はありがとうね。今日はそっち系の話じゃないからかしこまらなくて良いのよ。今日は教えて欲しい事があるの」
「教えて欲しいことですか? 」
「そうなのよ。貴方の叔父さんの神谷諒さんについて」
「叔父さんですか? 何でしょう? 」
「単刀直入に聞くんだけど、神谷さんって、結婚予定とか、付き合っている人はいるのかしら? 」
「ええ? その話ですか……?うーん、ちょっと私は知らないですね……」
「あらそう。知ってそうな人はいるかしら」
「そういえばここに蒼空がいるので、スピーカーモードにして聞いてみましょうか? 」
詩織はスピーカーモードにした。
「……なるほど。叔父さんに女性がいるか……。まず100%いないですね」
「それはどうして分かるの? 」
葵、詩織は、蒼空が断言したのかが不思議だった。
「いや、この前叔父さんと稽古したあとで、俺の恋愛の相談をしたんですよ。そうしたら真剣に聞いてくれて。で、逆に叔父さん自身はどうか質問してみたら」
「なるほど質問してみたら」
「5年前に失踪した恋人のことがまだ忘れられずに、寂しい日々を送っているということでしたね」
「なるほどねえ。新しい恋人を作りたいとかそういう考えとかはなさそう? 」
「どうなんですかね……なんかそういう風な話にはならなくて。他の話になったかな。それはそれで勉強になりましたけど」
5年前か……そういえばあれからもう5年も経つのか。水無月葵は、過去の事を思い出し、思わずため息をつきそうになったが、美緒のいる手前、それは避けた。
「そう。ありがとうね蒼空。詩織もありがとう。また頼ることがあると思うからよろしく」
そういって、水無月葵は電話を切る。
隣には、結果を聞きたくてたまらない美緒がいる。
どこまで話して、何を話せば良いものか。葵はしばらく考えた後で口を開いた。
「提案があるんだけど。美緒」
本格的に名古屋も夏の7月が始まり、財前エステートに出勤している神谷諒は、郵便物を事務員のスタッフから受け取る。
主に契約関係の郵便物ばかりなのはいつものことだが、中に少し変わった桜色の封筒があった。
差出人は、伊藤美緒。
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