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越相同盟の成立と破綻ー破綻後、景虎の相証人(人質)は誰だったのかー

5、越相同盟の成立と破綻
 
 永禄8年(1565)、武田信玄は織田信長の娘を諏訪勝頼(後の武田勝頼)の嫁とし、同盟を結びます。 次に、永禄10年(1567)、嫡男の義信を謀反の罪で自害させ、その室を甲州にとどめておきながら、今川側からの強硬な要求を受けて、実家の今川家に送り返すという有名な事件が起きます。

 これがきっかけで相甲駿三国同盟が破綻、永禄11年(1566)、信玄は駿河の今川氏を攻め、北条は、小田原を出陣、今川を支援します。結局、信玄に領国を追われた今川氏真は、後北条を頼ることになるのですが、以後、北条氏と武田氏は敵対関係を深めることになります。

 更に、信玄は北関東の北条支配地をうかがうのです。当時、北条氏康がもっとも警戒したのは、信玄が謙信と軍事同盟を結ぶことで、これを回避する方策が、氏康自身が謙信と軍事同盟を結ぶことでした。
(田代 脩 「武蔵武士と戦乱の時代」 さきたま出版会)



 長年にわたって対立してきた越相両者の和睦は容易なものではありませんでした。しかし、両者の長年の対立は、解決の見通しの立たぬものだっただけに、氏康にしても謙信にしても、心底、同盟を希望していたのだと思われます。



 

謙信の行動規範の「義」は、よく知られていますが、関東管領として、室町幕府体制の秩序乱さないことに、主眼があったようです。一方、北条氏も「義」を掲げています。こちらは、謙信の旧時代の「義」に対し、次時代の「義」と云えるでしょう。



 



氏康の父、氏綱はその書置(遺言)に「義を違いては、たとえ一国、二国切り取りたると言えども後代の恥辱」「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別にて候」と言う言葉を残しています。       (伊藤潤、乃至政彦「関東戦国史と御館の乱」洋泉社) 



 



北条氏の「義」は、非常に合理的で、家臣と民衆に納得できるものであったようです。例えば、盛んに検地をおこない、家臣の負担すべき義務、領民の負担額を定めて、恣意的な徴収というものを排除しています。家臣については、貫高に応じ、用意すべき馬、兵、武具を明確化するとともに、領民の納付額については、貫高に従って一定額とし、計量升も一定なものとして、この升は江戸時代にも受け継がれたと言われます。又、通貨を永楽銭に統一するとともに、永楽銭での納入、米の納入、麦での納入などの換算比率も確定し、凶作時には、納入免除も行われています。更に、目安箱なども設けて、善政を心がけています。こういう施策は、同じく「義」を標榜し、室町幕府体制の中で、自身が関東管領として関東の安定を図ろうとした謙信としては、最終的に、めざすところが同じだったのではないかと、筆者は、勝手に想像しています。



 



しかし、この同盟
交渉は難航しました。
 特に、北武蔵の鉢形、深谷、忍、羽生、岩付(岩槻)、松山(別名、武州松山城)の帰属が問題でした。これらの地域は、山内、扇谷両上杉家のもともとの支配領域であったのに対し、鉢形、岩付、松山は、この時期、北条氏が完全に掌握していたからです。

 永禄12年(1569)6月、越相同盟が成立すると、信玄は、同年7月、秩父地方、鉢形城、滝山城(八王子)を攻め、更に小田原城を攻囲するという事態が生じ、結局、北条氏康は、利根川より北、西上州、藤田領、秩父、成田(忍)領、岩付(岩槻)、松山、深谷、羽生、梁田、房州の領有を謙信に認め、元亀元年(1570)3月、北条氏康の四男三郎と、柿崎和泉守次男の柿崎晴家をお互いの証人(人質)として交換する、越相同盟が発効することとなります。

(上杉家文書 国宝 北条氏康、氏政連署覚書写 

               鉢形城歴史館会館10周年記念特別展資料 「関東三国志」より)
 

 翌年、氏康は死去するのですが、年齢は、すでに数え52歳。よくよく、これからの関東経営を考えての事だったと思われます。 

 

 

 事情は、積雪期の困難な越山を繰り返していた謙信とて同じだったでしょう。謙信の年齢は41歳。すでに、数え40歳を超えるころから「愚老」という署名を始めていました。

 同盟交渉開始の前年、永禄9年(1566)には、安房の里見氏を救援するため、はるばる越山して下総の千葉氏を臼井城に攻めていますが、城攻めに失敗して、関東各地の豪族の離反を招き、上野の由良氏、下野の小山氏、宇都宮の皆川氏、下総の結城氏などがこぞって北条方となった上、厩城(前橋)を守っていた上杉の重臣北条(きたじょう)までが北条につくと言った有様で、謙信の関東経営は、上野の沼田城まで後退することとなり、行きづまっていました。
(鉢形城歴史館記念特別展資料「関東三国志」)

 


 ちなみに、「謙信」の法号を用い始めるのは、元亀元年(1570)、越相同盟が成立し、証人(人質)とした北条三郎を養子として、上杉景虎の名を与えてからのことです。それ以前は、将軍足利義輝から「輝」を許されて輝虎でした。更に、それ以前は、上杉憲政と養子縁組をし、「政」を許されて、上杉政虎でした。そして、それ以前が長尾景虎です。

 

 

 子供のいない謙信に代わって、後には嫡男となる次男晴家を、相証人(人質)として差し出すこととした柿崎和泉守景家は、この時、数え58歳。もはや、当時としては最晩年です。北条側からの指名であるとはいえ、謙信の思いを十分に理解していたからこそ、後に嫡男となる左衛門尉晴家を証人(人質)とすることに同意したのに違いないと、筆者は思います。


 

敬白起請文
(前略)御養子之事承候自最前如申候柿崎方不然由彼息左衛門尉方可被指越至干其儀者御養子於西上州渡可申候事 
(上杉家文書、国宝 永禄13年2月18日付氏康、氏政起請文)

                        
(鉢形城歴史館10周年記念特別展資料)


 


 この間、北条三郎の証人(人質)派遣が遅れる事情があって、北条氏邦自身と晴家が証人(人質)として交換、同盟は成立します。北条氏邦は、この時期、鉢形城主です。

 


 氏邦は、父氏康の意向を受けて、同盟成立に尽力していました。同盟交渉は、氏照ルートと、氏邦ルートと2本立てであったようですが、謙信は一貫して氏邦ルート(由良成繁ルート)を活用しています。




 

 氏邦を信頼した理由とは何だったのか、資料では明らかでありません。しかし、一時的とはいえ、氏邦自身が相人質となることを承知してまで、越相同盟を成し遂げようとしたという事は、父、氏康の意図を氏邦が理解し、納得していたからだと推察できます。いわば柿崎和泉守景家が、謙信の心をよく理解していたように。その点では、晴家も同じ心だったでしょう。
氏邦が、幼少時、早雲寺と箱根権現で、僧としての修行をし、やがて、出奔したという経歴も、同じような経歴の謙信に好感されたのかもしれません
 


 筆者がここで注目するのは、下記上杉家文書4460に、晴家は鉢形城に送るとあることです。        
           

 

 覺
三郎殿御支度之内、氏邦可被越由候哉、就之柿崎父子一人語所望候(中略)、
所詮氏邦在陣之内、鉢形迄可差越候事

氏邦、柿崎子被取替〈中略〉柿崎子者、末代小田原可被留候(以下略)
                           輝虎
北条左京太夫(氏政)殿、北条相模(氏康)殿  
                             

                              (上杉文書 戦北 4460) 

 

 又、同文書には、晴家は、末代迄小田原側に留まる前提であることも述べられていて注目されます。

 


 筆者は、何度か鉢形城址を訪ねています。鉢形城址は、荒川の名勝、玉淀を遠くに望む懸崖にあります。鉢形城歴史館もあって、「越相同盟と北条氏邦 関東三国志」という開館10周年の記念特別展を開催中でした。館長の石塚三夫氏にもお会いし、懇切な意見も頂戴できました。田山花袋 「秩父の山裾」や、井伏鱒二 「武州鉢形城」を引き合いに出すまでもなく、立派な風光明媚な城跡が広がっていて、都心から近く、これほどの旧跡があることに驚きを禁じ得ませんでした。



 柿崎晴家は、おそらく、名勝、玉淀の渓流をはるかに臨む、笹曲輪あたりで証人(人質)生活を送っていたのだろうと思いました。相証人の景虎が春日山城の二の丸にいたとされていたのですから、晴家の待遇もそれに見合うものであったろうと思います。二の丸であったかもしれません。おそらくは、小田原での歓迎の後、氏邦との強い信頼関係から、居住地は、鉢形城に移していたのではないかと、上記の2古文書から、推察しています。

 


 北条三郎は、謙信の姪(謙信の姉と上杉政景との娘、上杉景勝の妹)を室に、謙信の養子を約束されて(同上 上杉文書)同盟は成立するのですが、相証人となった晴家についても、当時の証人交換の多数事例から考えて、双方同等の条件が付いていた筈です。残念ながら、この点は、現存する資料からは、見出すことが出来ません。

 

 

 三郎の前室は、北条家の長老であり、箱根権現の別当でもあった北条宗哲(幻庵)の娘です。三郎は、結婚後、北条軍最強と言われた小机城の城主となったばかりでした。そのような北条家名門の前室を離縁し、城主の地位を捨てて、謙信の姪(長尾政景と謙信姉の子、景勝の妹)を後室に迎えました。 

 同じく、晴家は、前の室を離縁して、北条方のしかるべき女性を室とした筈です。条件は、すべて双方、同条件の筈です。

 

 

 黒田基樹氏によれば、氏康には男子8人、女子10人が確認されるとあります。

                   (前掲 黒田基樹 北条氏康の子供たち 宮帯出版社)

 

 

 同書によれば、「北条記 巻3」 は、氏政の妹として、高林院殿、まい田殿、北条氏繁室、今川氏眞室、武田勝頼室、某女の6人があげられているとのことです。氏は、「某女」は、高野山高室院「北条家過去名簿」に氏政御妹と注記のある円妙院殿を想定していますが、わざわざ「某女」としているところに、筆者は注目しています。正史上、秘匿したい理由があったと思うからです。

 


 越相同盟を念願していた氏康が死ぬと、後を継いだ氏政は、元亀2年(1571)12月、越相同盟を一方的に破棄し、相甲同盟が復活します。氏政の正室は、武田信玄の娘です。

 謙信が、この同盟の破棄を、いかに悔しがったかを伝える書簡が残っています。

 鉢形城特別展資料による、その古文書の訳には「昨日まで氏邦がきっと説明にやってくるか、氏政があわてて弁解しに来るかと思っていたが、それもなく、どうしようもない馬鹿者には言う事はない」 とあります。


 
(前略)猶々昨日迄者氏郡定而可被越歟又氏政倀ニ一途可被申越由存処
左様ニ者無之何も之馬鹿你無申事候(後略)
(元亀2年11月10日厩橋城主北条高広宛謙信書状新潟県立文書館文書1068)
    

                     (鉢形城歴史館記念特別展資料「関東三国志」より)

 


 では、この時の越相同盟の破たんで、上杉景虎(北条三郎)は、何故、越後に留まって、相証人の晴家は帰任を許されているのでしょうか。代わりの相証人がないとすると、北条は上杉謙信以上に「お人よし」という事になります。このことについては、いろいろ説明がなされているものの、当時の常識からは考えられないことです。


 
6、北条氏邦について

 

 北条氏邦は、北条氏康の四男です。しかし、当初、北条氏一族内序列の低さから考えて、正室の子ではなく、庶子であったろうと考えられています。序列は、彼の実績に従って、上昇します。

               (黒田基樹、朝倉直美編 「北条氏康の子供たち」 宮帯出版社)

  

 

 永禄元年(1558)、史上名高い川越夜戦の後、北条氏は戦いの勝利者として、敗者、関東管領上杉家の元家老でもあった秩父天神山城主で、花園城主、藤田泰邦の娘大福御前の婿養子となります。氏邦は天文13年(1544)の生まれとされていますから、この時、数え15歳です。

 

 やがて、鉢形城を小田原城形式に修築して、氏邦は鉢形城主となり、北条の北関東および沼田方面にいたる上野地域支配の要となる重要な役割を負うことになります。

 

 

 義父、藤田泰邦(藤田名跡を譲って、用土城を築き、用土氏を名乗ります)は、若くして死にますので、北条に暗殺されたのだろうというのが通説です。このあと、藤田家の嫡男であった用土重連も沼田城代の時、北条氏によって暗殺されていますので、氏邦の正室となった娘の大福御前は、つらい日々を過ごしたのであろうと推察できます。



 一方で、氏邦の鉢形城主としての経営と武功は、見事なものであったようです。
氏邦は、「禄寿應隠」という印判を使用しています。これは、人民の禄(財産)と寿(生命)は穏やかなるべしという、北条家伝来の印判で、領民を守ると宣言するものでした。 



 当然、藤田氏以来の家臣の信頼も厚かったようで、鉢形城のあった現在の埼玉県寄居町は、養蚕と林業振興に尽くした彼の業績をたたえる祭を欠かしません。

 

 氏邦は、小田原が落城する以前、降伏を主張して入れられず、最後、鉢形城に戻って、攻め手の前田利家に降伏、開城するのですが、この時、力を貸したのが、藤田家菩提寺の昌龍寺(後に正龍寺と改名)の天叟長得和尚と、大福御前並びにその弟、藤田信吉でした。前田利家が禅僧香英に命じて、天叟長得和尚に依頼したという説もあるとのことです。                                         
 

 藤田信吉は、皮肉にも、上杉景勝に仕えて鉢形城攻めの先鋒の隊長でした。
関ケ原の役では、上杉景勝が西軍につくことに反対したが入れられず、徳川家に仕えることになります。関ケ原の戦いの後、下野国の西方で一万五千石の大名となりますが、大阪の役後改易、病没したとも、自害したとも伝えられています。
                    ( 鉢形城歴史館編 「正龍寺」)                                        

 

 氏邦は、鉢形城開城後、前田利家預かりとなって、越前の地に、千石の処遇を受けることになります。亡くなると、彼を慕った家臣たちの手で、菩提寺である寄居町藤田の昌龍寺(現正龍寺)に、正室、大福御前と並んで葬られました。


 
寄居町にある「藤田」という地名は、義父、藤田泰邦の所領地の名称に由来しています。北条氏が川越夜戦で勝ちを収め、その結果、入り婿した上、義父を暗殺して乗っ取った所領地の名称です。藤田信吉は、嫡男であった用土重連と氏邦正室の大福御前の弟で、藤田姓を名乗り続けたと言われます。


 
当初は、氏邦も藤田を名乗っていました。藤田信吉にとっては、父と兄の仇ではあるが、姉の夫、しかも、善政を施していて、以前からの家臣も慕っている男となると、一度は、氏邦による暗殺を恐れ、故郷を離れた藤田信吉も、まして正室の大福御前も、複雑な心境であったと思います。

大福御前は、天正18年(1590)、鉢形城が降伏開城し、氏邦が前田家おあずけとなり、多くの家臣が近隣や秩父地方に帰農したのを見届けた後、菩提寺の昌龍寺の仏殿で自害します。        
          

                 (黒田基樹 朝倉直美 「北条氏邦と武蔵藤田氏」 岩田書院)

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