自室への階段を、音を立てないように登っていく。もし騒々しく足音を立てるようなことがあれば、まず淑女にあるまじき所作だと注意されるのが目に見える。不思議だ。起こされたことよりも何よりも、スリザリンに相応しい振る舞いを、と求められるのは。窓の外、水の底で見る朧月に、ライラはついつい立ち止まってしまう。イザベルが何をしているのだと睨むから、名残惜しくもその場を離れた。
ドアを開けると、イザベルが一気に気を抜いた。
スリザリン寮は基本静かだ。湖水の底に位置するという神秘性がそうさせるのか、寮生の気質がそうさせるのか、談話室以外で騒がしい場所はほぼ無い。
入学したての頃はライラも気を張っていたが慣れてしまった。一方イザベルは未だに圧倒されているようで、息を止めているのかと思うほどの様子で談話室から部屋までの道のりを歩く。
「はぁっ、ようやく寝れるわ」
「今日も疲れたね。イザベル、アイリーン先輩は……」
「約束を取り付け済みよ! ああ、私ったらその日のうちにこなしてしまうなんて、なんて仕事が早いのかしら!」
「うん。イザベルの行動力には助けられてるよ」
「やぁね、今のは軽く流すところよ」
二人は寝支度をしながら軽口を叩き合う。他愛無いと言えど、その日一日を整理するこの時間は、健やかな明日のために必要なことだ。
ライラはふと、引っかかっていたことをイザベルに質問した。
「ねぇ、クインシーが言ってたの。『妖精に不用意に名前は教えるな』って……。それってどうしてなの? そう言われても、私はとっくに名乗ってしまった後だったから……」
ライラの問いにイザベルは的確な答えを返す。というのも、マグル育ちの彼女がする質問の答えは魔法界の常識であることが多いからだ。
「昔の風習よ。今はそこまで厳しくないわ。別に名乗ってもいいし、名乗らなくてもいいし。あのハウスエルフは頑固なのね。言葉遣いも……昔厳しく躾けられたのかしら」
「でも、召使いがご主人様の名前を知らないなんてことはないでしょう?」
「当たり前でしょう。昔、妖精に名前を教えるということは、ちゃんとした契約を結ぶということだったの。名前が、今よりずっと力を持っていた時代の話よ」
話が長くなると踏んだイザベルは、着替えてしまうとベッドの縁に腰掛けた。ライラも向き合って彼女の講義を聞く。
「私は家のハウスエルフにちゃんと名乗っているわ。ちゃんと契約した妖精だもの。でもここのハウスエルフが契約しているのはホグワーツ……その代表の校長先生になるわ。だから名乗る必要がそんなにないの」
「名乗っても良いのは、名前の持つ力が薄れてしまったからってこと?」
「そう。名前を知られるのは、その昔の魔法使いにとって杖を奪われるのと等しい行為だったと伝わっているわ。流石に大袈裟だと思うけど」
「そんなに?」
ライラはフリットウィックの授業を思い出した。兎にも角にも杖を離さないように、折らないように、粗末に扱わないようにと教えられる。杖は魔法使いにとってパートナーであり生命線であるのだと、他の教授も言っていた。
確かに名前は大切なものだが、杖のように、命に関わるものだったとは思っても見なかったのだ。
「どうして薄れてしまったの?」
「えぇと……まず、名前の存在意義は個人の特定だということはわかる?」
「うん。何となくは」
「例えば呪いとか闇の魔術とか……そういうものを、特定の誰かにかけるには名前が必要だったの。だから名前を知られるのは命に関わったのよ。特に妖精は悪戯好きだしね」
「呪い……でも今それは……」
「機能しないわ。というより、誰も使わないの。だって名前を知らなくったって、杖一本向ければ呪いをかけれる時代よ? それもこれもルーン魔術の流入が________やだ、喋りすぎたわ」
「イザベルってやっぱりすごい。魔法についてとても熱心なんだね」
「違うわよ。熱心とか……そんなこと考えもしなかった。今のはお母様達に仕込まれたの。これくらい覚えなさいって。意味も理解してない暗記よ」
「いいお母様なのね」
「そう……かしら」
まだ魔法史でも習わない、旧き魔法。その片鱗にライラは胸を躍らせた。また図書館に行って役立ちそうな本を見つけなければならない。
そして一つ、また新たに湧いた疑問があった。
「イザベル。私の名前って、孤児院の人に貰ったものなの。本名ではないと思うんだけど……それでも呪いって効くのかしら?」
ライラは軽い気持ちで質問をしたが、イザベルは悲痛な面持ちをしている。その顔を見て、ライラはしまったと思ったが、聞いてしまったものは仕方がなかった。
「そ、そうだったわね。でも……うん。それでも効くと思うわ。名前って突き詰めれば記号よ。今のあなたを表す記号。あだ名ならともかく、今のあなたはライラなんでしょう? だったら……きっと」
「そうなのね。教えてくれてありがとう。ずっと気になってたの!」
講義はそこで終わった。ライラにとっては知らないことばかりで非常に為になるものだったが、イザベルは複雑そうな顔をしている。
寝る前、彼女はこう付け加えた。
「……孤児院の人に貰ったのなら______由来を聞いてみたら? 込められた意味があるかもしれないし、そうでなくとも……自分の名前がどう付けられたかって知るのは……何か、意味がある気がするの。ごめんなさい、お節介だったわね」
「ううん。考えたこともなかった! 帰ったら聞いてみる。そんな仰々しい理由はないと思うけど……。確かに気になるしね」
「……ええ。覚えてたら、聞いてみて」
イザベルは決して晴れやかな顔ではなかったが、それに反してライラは笑顔だった。少しだけ、孤児院に帰るのが嫌ではなくなったからだ。自分の名前_______ライラ・オルコットという名前。一体何を思って、一体何を願って名付けられたのか________。
ベッドに沈み、目を閉じればトムの顔が浮かんでくる。自身の名前を平凡として嫌うトム。それでいて、同じ名の父親を
父親の様に、立派に育ってほしいと願われたのではないか。そう想像することは容易だろう。でも、もう誰も答え合わせができないのだ。トムでさえ________そう思うと、ライラはひどく胸を痛めた。そうしてまた一つ理解する。イザベルも、同じような気持ちだったのだと。
アイリーン・プリンスは、魔法薬学以外で目立つことのない少女だ。他に何か挙げるとするならば、ゴブストーンくらいだろうか。大人しく、慎ましく、黙することが何よりも得意な少女。だからか、他寮生からは陰気で根暗な少女だと思われることが多い。
しかし、彼女が根暗なんかでは無いことは、彼女と距離が近い者なら知って余りある事実だろう。
リスクを顧みず魔法薬学の実験に果敢に挑む姿に端を発し、ついにはグリフィンドール生を一人呪いで撃退するという冒険譚の随所にその証拠は揃っている。
入学当時は純粋な行動力であったが________他寮生の
そんな彼女に、性質が真反対な少女______イザベルが魔法薬学の教室の入り口から声をかけた。
「アイリーン様! お手伝いに来ました!」
「イ、イザベル。ありがとう。でももう少しその……声量を抑えてくれると……手元が狂うから」
「あっ、すみません」
いくら根暗という評が間違いだとはいえ、彼女が無口で大人しいのは事実である。アイリーンがイザベルに圧しきられ、それを情けなく思っていること、しかし自身から話をする必要が無いことに安堵している様子が、一緒に来たライラには手に取るようにわかった。言葉のいらない共感に、ライラは胸元をキュッと押さえる。
イザベルは、アイリーンから話を聞くために彼女が魔法薬学の雑用を引き受けたところを狙ったのだ。何故なら彼女がかしこまったお茶会などが嫌う性格なのは周知の事実であったし、特に親しい人としか食事をしないことをイザベルは知っていた。そこで、彼女が魔法薬学に才能を発揮するあまり、スラグホーンに雑用を頼まれやすいことを利用したのだった。
「ライラも来てくれたの?」
「はい。二人の方が便利かと思ったので……」
アイリーンは手元のカノコソウの根を弄びながら、ライラに柔らかい視線を向けた。何を言うでもなく、次の瞬間にはカノコソウの根を刻んでいたため、ライラは自分の勘違いかと思った。
「じゃあ、乾燥したアスフォデルがそこにあるの。根を切り分けて粉にするの。茎や花は置いといて。それも使うから」
二人は言われた通りに、萎びた植物を手に取った。シワシワで黄ばんだ花に、濃い緑の葉っぱ。カサカサとした手触りに、恐る恐るライラはナイフを構えた。土のついた根を切り取る。短い牛蒡のような根を少しずつ集めていく。なかなか骨の折れる作業だ。
イザベルは慣れたとみるや、作業をしながらアイリーンと話し始めた。
「アイリーン様、これって何に使うんですか?」
「当然ながら魔法薬の材料よ。これは……前習ったから覚えてる。『生ける屍の水薬』の材料ね。スラグホーンから直接は聞いてないけれど」
その言葉にライラは顔を上げたが、アイリーンは作業に没頭していて気づかない。イザベルは手を止めたが、動揺を出すことはしなかった。
「それってどんな薬ですか? すみません不勉強で」
「強力な眠り薬よ。もはや毒と言っていいくらいにね。高品質であれば、二度と目覚めないと言われてるわ。アスフォデルは冥界の花だと言われているの。水薬に欠かせない主材料よ。だからお願いね」
作業の手が止まってはいけない、とライラは辛うじてまた一つ根を落としたが、どうしても意識が二人の方に向いてしまう。アイリーンは集中するあまり、今なら何でもしゃべってくれそうな様子だった。
イザベルはそれを知ってか知らずか本題に切り込む。
「アイリーン様、とても難しい薬だと察するのですけれど、件のコリー・テイルズはこれを作れますか?」
「……コリーが? 無理に決まってる! そもそもアイツは
「いいえ、違うんです。ただ、所持している可能性が高くて……」
「嘘_______じゃあ、これって」
アイリーンは手元のカノコソウの根を見つめる。アスフォデルの根の粉末、カノコソウの根を刻んだもの、ニガヨモギ、催眠豆。雑用を任された素材の全てが、水薬に結びつくことをアイリーンは気づいていた。ただ『何故生ける屍の水薬が必要なのか』を考えたことはなかったのだ。
「……そうよ、習ったはずなの。とっくに。だから……授業で使うんじゃないんだわ。これ」
「コリーがお気に入りの生徒ってことはないでしょうから、おそらく盗んだんでしょう。スラグホーンは見栄を張って隠してる。でも補充はしなくちゃいけないから……」
「アイリーン先輩に尻拭いの下準備させてるってこと? ひどいわ。授業で使うならまだしも、これは自分の責任のはずでしょう?」
アイリーンは身勝手な作業の押し付けをされたことを、特段ショックには思っていなかった。元々好きな分野の範囲であるため、そこまで苦では無いし、もしそうならスラグホーンは多めに点数をくれるだろうと思ったからだ。
ただ、不安なのはコリーのような輩に薬が渡ったかもしれないということだった。ただでさえ問題児なのに、最近は輪にかけて生徒の噂の的だ。ああいう手合いは、時に誰も予想がつかない事を思いつく。
「いえ、それは別にいい。でも、もし本当にコリーが盗んでたら……簡単に人を殺せるわ。危険よ」
「それが……アイリーン様、これをネズミ取りに使ってるんですって」
「ネズミ?」
彼女は思わず裏返った声を出した。そんな馬鹿な話があるはずがない。馬鹿だ馬鹿だと心の底から思ってはいたが、予想を飛び越えて馬鹿だったらしいとアイリーンは内心で毒づく。
「ハウスエルフに聞いたんです。最近、ネズミ取りを手伝ったグリフィンドール生がいると知って、そのことを聞くために。そしたら、罠にその薬を使っていたと」
「なに、それ? コリーかもしれないけれど、そこまで馬鹿だとかえって疑うわ。コリー・テイルズってそこまで馬鹿だったのかしら? 仮にも六年生よ?」
馬鹿馬鹿とコリーを貶してやまないアイリーンだが、その様子に二人は、コリーが薬を作れるわけがないと確信する。まさか考えもつかないところでアイリーンにしわ寄せが行っていると思いもやらなかったが、イザベルはもう一つの質問を切り出した。
「コリーはネズミを集めてるようなんです。何の目的があってかは分かりませんが……アイリーン先輩、ネズミを使った魔法薬などはご存知ありませんか?」
「そうね……ネムリネズミの毛とかは材料になるけれど……。ただのネズミが材料になることなんて滅多にないわ。実習で使ったこともない。魔法薬の材料なんて基本は薬草で、たまに牙だったり脳だったり……生薬みたいなものを使うのが大抵よ」
「そう……ですか。ありがとうございます。教えてくださって。作業に戻ります」
「いいえ。大した答えがなくてごめんなさい。私も調べてみるわ。それで……イザベル、ライラ。ローブのポケットにあるレポートには気づいているの。教えてあげるから、早く作業を終わらせて」
「……ありがとうございます……」
アイリーンの慈しむような微笑みがますます二人の羞恥を煽っていたが、当の本人は気づいていない。二人は顔を真っ赤にしながら、黙々と作業に取り掛かった。