空き教室は埃まみれで決して綺麗ではない。長いこと使われていないためか建て付けが悪く、隙間風が差し込んでくる。
その中で暖炉だけが唯一の明かりで温もりだった。
表面からだんだんと暖かさが広がっていくのを感じながら、ライラはグリフィンドールのローブに身を埋めた。レイチェルの身が心配だったが、ライラには好意の断り方がまだ分からなかった。
「夏休み……母や父は、そのPと書かれたバッチを見てよく分からない顔をしてた。説明すると、褒めてくれたし喜んでくれたわ。私も不安だったけれど、これまでの頑張りが目に見える成果で出たのは嬉しかった」
レイチェルは胸のあたりにある監督生バッチを指先で弄んでいた。
「そうね……問題は、ホグワーツ特急に乗り込んだ時からかしら」
影が濃くなる。暖炉の火は調子付いてきている。
「監督生には専用のコンパートメントを与えられているの。それだけじゃないわ。専用のお風呂場もあったり……。大変な仕事だけど、その分特権だって与えられる。
大抵はそのコンパートメントで、その代の監督生の顔ぶれを知ることになるの。ドミニクをそこで見た時はびっくりしたわ。でも、意外ではなかった……」
ライラも少ししかドミニクとは交流してないが、レイチェルがそこでドミニクを見て驚いたことも、それでも意外ではないことも納得できる気がした。
彼はレイチェルのように思慮深くないが、親しみやすさがあるのだ。
「人望があるもの。私はよくとっつきにくいって言われるから、それを補うためだと思ってた……」
「そうじゃ……なかったんですか?」
「ええ。スリザリンの監督生を見ればすぐに分かった」
「ケイリス先輩とノエル先輩ですよね」
「そうよ。ケイリス・ブラック……。ブラック家の子女、過激な純血主義者」
その言葉に、ライラは頭を殴られたようだった。
ライラが見る限り、ケイリスは純血主義者の片鱗を見せながらも、それは過激とはかけ離れたものだった。それに自分やトムにも良くしてくれるし、何よりお茶会で二人は仲良く会話をしていたのだ。
「ブラック家は学外では権力を持っている。学内でも生徒間で駆け引きが見られるわ。そのために、ブラック家は優先的に監督生にされる。もちろん優秀であることが前提だけど……。ブラック家は純血家が多いスリザリン寮を率いるのにちょうどいいらしいわ」
全て監督生になってから知ったことよ、とレイチェルは付け加えた。
ドミニクは純血家であるプルウェット家の男児だ。アルファードとイザベルが、プルウェット家とは微妙な関係を保っていたいと言っていたのを、ライラは思い出した。
「じゃあプルウェット先輩が選ばれたのは……」
「それもお友達から聞いてるみたいね。ブラック家を牽制するためよ。まぁ、本当に人望が厚いっていうのも一因だと思うけれどね」
監督生を選ぶのは教師達だったはずだ。
一体先生達は生徒のどこまでを知って、なにを考えているのだろう。まるで政治のようだ。
「私はそれを察したわ。初めて会った時、私はノエルとケイリスとは挨拶したきりだった。ドミニクも分かってくれたみたいで、私の代わりに話してくれていた。
ケイリスは私がいることが本当に嫌だったみたい。すぐにコンパートメントを出て行ったの。ノエルは朗らかに接してくれたけど、私の方から拒絶してしまった」
監督生に選ばれるほど優秀で賢い彼女だからこそ、受け止めてしまっていることも多いようだった。
「ケイリスに、穢れた血って、真っ向から言われることもあったの」
レイチェルはなんでもないようにその言葉を口にした。
火に当たっているにもかかわらず、ライラは背筋がサッと凍えていくのを感じた。アルファードからとても差別的だと聞いた言葉だ。ライラは幸運にもこの言葉を聞くことはなかったが、それでもその言葉は怖かった。
「あなた、怒らないのね」
「え?」
「先輩はそんなこと言わないって、怒らないのね」
「……私は何も知りませんから」
「へぇ、お人好しだと思ってたけど、違うのね」
レイチェルはライラを見ていた。しかし、すぐに目を逸らし、暖炉の火を見つめる。
「五年生になって、少しした時、ドミニクが言ったの。『ケイリスはずっとこうして育ってきたんだ。もう治らないんだ。洗脳みたいなもので……レイチェル、ごめん。俺が出来るだけ、遠ざけるようにするし、関わらなくていいようにするから……』って」
「……でも、今は……」
「その時ね、私『諦めたくない』って言ったの。自分でもびっくりしたわ。普通だったら、それまでの私だったら距離を取ることが最善だと思ったのに……」
「それからどうしたんですか?」
「ノエルに色々相談したの。グリーングラス家はブラック家よりも過激ではないと聞いたから。それは本当だったみたい。ノエルは私にもそれなりに接してくれた。ケイリスと私の仲を取り持つとも言ってくれたの」
ノエルは変わらない、ライラはふと思った。穏やかに、自分が利を得るなら惜しみなく手を差し伸べる……昔からそうだったようだ。
ライラはレイチェルが話し始めるのを待ったが、沈黙は長い間続いた。
レイチェルは震え、膝を抱えて俯いている。
「……ケイリスは_______私は……」
彼女が小さく、言いたくない、とこぼしたのをライラは聞き逃さなかった。手を伸ばし、そっと背中を撫でようとした、その時。
「先輩。あの……いいんです。無理やり聞こうとしたわけじゃないんです。先輩、ごめんなさい。本当に……言いたくないなら_________」
「_______でも、言わなければ!」
ライラが伸ばしたその手を、レイチェルが掴み取る。その目は涙に濡れることなく、爛々と輝いていた。
「私はきっとあなたを待っていたの。あなたがグリフィンドールとスリザリンの確執を解消したいと言ってくれた時、本当は喜びたかった! 本当よ。信じられなかったのも本当だけど……。
私はあなたに、その先にどれだけの苦難が待っているかを伝えなければならない。先輩としてね。だから、言わなきゃならないわ」
レイチェルはライラの手を握りながら、一つ一つ、簡潔に話していった。
ケイリスやその他の純血主義者に危害を加えられたこと。
仲間であるはずのグリフィンドール生ですら、彼女を避けたこと。
レイブンクローの監督生には愚かだと蔑まれ、ハッフルパフの監督生には関わらないでくれと言われたこと。
ドミニクが代わりに矢面に立ったことにより、少しずつ憔悴していったこと。
……ケイリスすら、少しずつ気を病んでいったこと。
「ケイリスは冷徹で心のない人間じゃないわ。付き纏われたら誰だって気を病むわよね。私は必死だった。意地になってたの。……ただ普通に会話したかっただけなのにね……。
何度も何度も彼女に会いにいった。その度にケイリスはものすごく……そうね、虫を見るような目だったわ。
私の話は聞いてくれなかった。でも、春に差し掛かったころ、足を止めてくれるようになったの」
「……なんだか、馴れ初めを聞いてるみたいです」
「やだ_____私もそう思うわ。ふふふ、今では笑い話ね」
レイチェルは晴れやかに笑う。
暖炉の火に照らされ、柔らかな影が落ちる。いつもの厳しい印象とはうって変わって、あどけない顔をしていた。
「足を止めてくれたケイリスに、周りの取り巻き____って言ったら失礼ね。ケイリスの友人たちも驚いていたわ。何故か彼女は友人を散らして、私と二人きりにしたの。そしたら彼女、泣きはじめちゃって」
「えっ?」
「……その時の私は分からなかったけれど、悩んでるのは私だけじゃなかったわ。私が彼女に話しかけるたびに、普通に会話がしたいって言い続けるたびに、彼女も苦しんだ。生まれた時からの常識を否定され続けるようなことだもの。辛いに決まってるわよね。
『もう分からない』って泣きながら言っていたのを覚えてる。
恥ずかしいけれど、その時やっと、私は間違っていたことに気が付いたわ。相手にエゴを押し付けてただけだったの」
ケイリス・ブラックは女王然とした態度を取り、スリザリンを支配しているんじゃないかと思えるほどのオーラの持ち主だと、ライラは思っていた。その女性が泣く姿なんて考えられなかった。
「必死に謝ったわ。『謝られてもどうしたらいいか分からない』って言われたけどね。
それでやっと私たち、同じ席に着くことができたの。話し合うこともできたわ。
もう、話をするとかそういうことじゃなかった。私は当事者でありながらマグル生まれへの差別を本当の意味でわかっていなかったし、その根深さも、ケイリスのようにそれが当たり前だった人のことも考えられていなかった。
そのあと私たちの代の監督生全員で集まって、そして決めたの。私たちは何よりもまず、ホグワーツの監督生であるということ、それを踏まえてお互いに接することを約束したわ」
「……想像しているのとは全く違いました」
「そう? 言ったでしょ。私は人より許せないことが多かっただけ……。正しいことをしたわけじゃないわ。結果今こうなっているだけ。間違って、間違って、間違った先に今があるの」
それでも、後悔はしていない。レイチェルは態度でそれを語っていた。
「途中、取り乱してごめんなさい。当時のことをまだ夢に見ることがあるの。あの時、私だけが間違っていたわけじゃなかったわ。暴力はダメよ……絶対にね。
でも、私は恨まないわ。その先に、あなたがいたもの」
「私……ですか?」
「ええ。勝手だけど、私はあなたに期待してる。もう私は卒業してしまうけれどあなたはまだ一年生だわ。きっと、ここを変えていける」
ライラはその時、知らぬはずの母をレイチェルと重ねていた。慈しむような目。幸せを祈り、疑わない目。
暖炉で少し明るく見えるアンバーの瞳は光を讃えている。全てを託された。そんな気がした。
「あら……。ライラ、見てみて」
レイチェルがそう言って指さした先、窓の外には、緑の光が漂っていた。ライトグリーンの淡い魔法の光だ。まるでティンカーベルのようなその光は、やがて壁をすり抜け、ライラたちのもとにやってきた。
そして瞬く間に、ライラの鼻先でパチリと弾ける。一瞬、周りが緑の明かりに一斉に照らされ、しゅわしゅわとその光は解けていった。
その途端、教室のドアが開く。
「こんなところにいた……。はぁ。レイチェル、ライラ、話は終わったかい?」
「ええ。ちょうど今ね。ライラ、お迎えよ」
「あ、あの今のは……」
「ハウスエルフの道標さ。案内してくれたんだ。妖精の魔法の一つ。あいつらは手を引いて道案内なんてことはしない」
三人は人気が無いのを確認してから廊下に出た。変な噂が立っては困るのだ。
「ライラ、君、グリフィンドール生だったのかい?」
「あっ、忘れてました。ローブ……ありがとうございました。暖かかったです」
「いいのよ。さ、早く行って。またね。二人とも」
「えぇ、お話できてうれしかったです」
ライラはレイチェルとはそこで分かれた。
ノエルと共に、地下階へと階段を降りていく。
「アルファードやトムは案外心配性なんだね。用心深いのは美徳だけれど」
「二人はアストリー先輩とは付き合いが薄いですから」
ノエルにも、もちろん聞きたいことがある。しかしライラは言い出せずにいた。一線を越えてしまうような、勘としか言えないがそんな感覚があるからだ。
もう外は暗くなり、夕食の時間も近づいている。
「一旦寮に帰る? それとも大広間に入るかい?」
「トム達は寮にいますよね。……寮に一旦帰ります」
冷えた空気が足を這いまわっている気がした。春も近いというのに、未だに地下は冷えている。
結局、ライラはスリザリン寮への入り口にたどり着いたその時に、決心した。
「あの……先輩。聞きたいことがあります」
ノエルは笑っていた。ライラが次に何を言うかわかっているのだ。
「君たち……本当に兄妹みたいだね。よく似ている」
「何の話かわかりませんが……」
「こっちの話さ。それで、質問は?」
ライラは喉に力を入れ直した。
暖炉の火が未だ、胸に灯っている気がした。
「先輩が隠していること、教えてください」