女による女のためのR-18文学賞

新潮社

姉妹じまい

砂川緑

 姉が急逝した。
 歩道を横断中、トラックに撥ねられて。小雨の水曜日、午後七時十分、仕事帰りで駅から自宅へ向かう最中だったという。
 その仄暗い夕暮れの、姉のすがたかたち――急襲した衝撃に舞い上がり路面に投げ出され、方々が歪んだに違いない四肢の損傷そのものでなく――髪型、服、アクセサリー、メイク、バッグといった、彼女をかたどる物ものを、私は知らなかった。想像もできなかった。納棺された彼女に施された死化粧には無論本人の嗜好は反映されていないし、梳かされた髪も、額を出してまっすぐ下ろしているだけだった。
 奇跡的に頭部に目立つ外傷を残さなかった、プレーンな死に顔を喪服で見下ろしたのが、十年ぶりの再会だった。病院の遺体安置所へ両親が赴いた夜、旅行中だった私はすぐに駆け付けられなかったので。贈答品のように、箱の中で柔らかな花に包まれる、硬い姉。筋肉の静止に伴い表情の消失した、白い顔。新たな躍動を生み出すことない、重力に従順で、清潔な肉塊。整頓済みの廃墟を思わせる。でも厳かに閉ざされた目元と口元を注視していると、厚い瞼を頑なに上げずこちらを見まいとする意地と、とり澄ました唇の奧で渦巻く拒絶の念がじわりじわり、炙り出しのように立ちのぼる錯覚をした。
羽海(うみ)ちゃん、羽海ちゃん、無理せんでええんよ。うちらが()るからねぇ」
 母が、少女の両肩に手を掛けて屈み、顔を覗き込む。真新しいブレザーの制服に身を包んだ少女は無言で唇を噛みしめ、ふたつの拳を垂れ下げている。葬儀に参列した姉の上司や同僚、友人のひとりひとりに律儀に頭を下げようとする少女を、隙を見計らっては斎場の隅に連れやる母。「無理せず休んで、な、我慢せんと……」と訴える小さな背にも、悲壮と疲労が滲んでいる。
 姉の一人娘である羽海は、中学入学を控えているはずだ。母娘で専門店へ赴きあつらえたに違いない制服のリボンの深紅がこの場で一番鮮やかだと、私は他人事のように思っていただけだった。その制服の中学に姪が通えなくなる可能性を度外視していた。
 私は、ときどき姉の家を訪れていた両親と違って、最後に会ったとき二才だった姪の成長を、年賀状の写真でのみ辿っていた。だから、背丈が自分とそう変わらない少女が本当にあの姪かと言われると、いまひとつ確証が持てない。たしかに写真と同じ顔はしているが、あんな、さりげなく整えられた眉をのせて、棒みたいな脚をスカートからにょきりと突き出した生き物が、丸っこかった幼児と同じ人間だなんて。それに、顔つきが姉にも、私や母にも似ていない。切れ上がった目尻と細く高い鼻梁は、父親に似たのだ。
 父親の後藤氏は、沈痛な面持ちで訪れた。しかし長居することなく、姉との離婚後に築いた家庭へ帰って行った。娘の今後について、改めて相談したいとうちの父に告げてから。私が彼に会うのは披露宴以来だったけれど、毛量がやや減ったほかは、端正な顔立ちも、ボーリングのピンみたいな頭の小ささも変わらなかった。
 
 翌日の葬儀後、火葬場の控え室。啜り泣く母の、抑えた嗚咽が漏れ聞こえる。白い綿のハンカチが、ファンデーションで色付いている。汚れに染むたび、母の喪失が嵩ます気がする。父と伯父夫婦が、本人等も目縁に涙を湛えながら、母と、黙りこくった羽海の肩を抱いたり、言葉を掛けたりしている。
 葬場に戻り、骨上げをする。長い竹の箸で摘ままれた欠片が、壺に収まっていく。羽海は、不可思議なものと相対するかのように慎重な目つき手つきで、灰の付着した骨に箸を伸ばした。
 何もかもを受け入れるように、ぺしゃんこに砕けて拓かれたかたち。邪気も無邪気もない乳色の骨には、方々に焼き色がついている。私と姉は、性格はまったくといっていいほど異なっていたけれど、体型と目鼻立ちは似ていた。私も骨になったら、こんな形をしているのか。姉が先にそうなるだなんて、あの頃は思ってもみなかった――。
 彼女の放った幾つかの言葉は未だ私の脳味噌の襞に引っ掛かっているのに、彼女ひとりぶんの質量が世界から消えたらしいことが、呑み込みきれない。形ないもののほうが、実体に勝る鮮度を以て保たれていることが。
 
 羽海が倒れたとき、誰もすぐには気づかなかった。あまりに静かに、植物のように、くずおれたから。
 精進落としの席だった。仕出しの懐石弁当のおかずは、手付かずだった。母は動転して孫娘の名を叫び、父と私は羽海の上半身を抱き起こし呼びかけたが、ううん、と唸るだけだった。発熱していた。額に汗の玉が光る。ワイシャツの首元が窮屈そうで、ボタンを二つ外した。父と協力して抱きかかえ自家用車の後部座席に載せ、両親は残して私が羽海を連れ帰った。姉名義のマンションでなく、両親と私の住む家へ。
 脱力した新中学一年生の体は重く、車から玄関へ移動させるのに苦心した。自室の収納ボックスからパジャマを引っ張り出し、朦朧としている羽海を着替えさせる。トイレに行かせ、水を飲ませ、一階の両親の寝室に寝かせた。父に電話し、自分は家で羽海の様子をみると伝えてから、喪服とストッキングを脱ぎ捨て、上下スウェット姿になった。喪服と制服をハンガーに掛ける。台所で炭酸水をあおってひと息吐いたら、おぶさるように疲労が落ちてきた。
 寝室を覗くと、寝息が聞こえた。静かに近づき、おでこに触れる。微熱程度ではあるから、このまま様子見するので問題なさそうだ。
 小さく上下する布団から覗く寝顔は、驚くくらい幼い。すべてのパーツが子どもの余韻を残し持って、皮膚の内に未使用の時間が凝縮され詰まった、とくべつな生物に見える。外からは、自転車や、春休み中の児童たちが行き交う気配。室内は暗い。すぐそばの寝息が、睡魔を寄越す。もう一組の布団を敷き、潜り込んで瞼を閉じた。途端に体が重石と化す。羽海は、もっと疲れたのだろう。
 気付くと二つの瞳が、縦並びに私を捉えていた。
「羽海ちゃん、」
 細い腕を、ゆっくりと伸ばしてくる。思わず手を取ると、蒸し立てみたいだ。戸惑うように、羽海の目線が揺れている。瞳が赤く潤んでいる。
「大変やったねぇ」
 なるたけ労りを込めて言うが、昨夜の通夜で一言二言挨拶しただけの私がよく分からないのじゃないかと、懸念が過ぎる。お年玉だけは両親経由で贈っていたものの、じかに顔を合わせていないのだ。
「ここで、ゆっくり休もね」
 羽海は驚いたように、目を見開いた。
「へいき」と、首を振る。
「やすんだら、おかあさん、仕事、行けへんくなる、へいき」
 ぎゅうと、握力が左手の甲に食い込む。驚いて羽海の顔を見るが、寝惚けているのか焦点が曖昧だ。もしかすると姉として映っているのだろうか、わたしのことが。
「羽海ちゃん、あのな、わたしはな」
「え?」
 羽海が、心細げに片眉を下げる。言葉が継げなかった。
「――ええんよ。よう寝て治そね」
「ん」
 こくりと頷いた羽海が再び瞼を閉じる。五本の指は開放されなかった。脆く熱い、鎖のようだった。私の意識も、とろとろと輪郭を崩していく。目覚めたときには陽が沈み、両親も帰宅していた。ダイニングで母の用意してくれた柴漬け茶漬けを流しこんでいると、羽海が起きてきた。スポーツドリンクを飲んで、羽海もお茶漬けを一口一口、緩慢な箸運びで食べる。母はそれを眺め、はらはらと泣いた。
 桃色の頬でぼうっとした羽海が掠れ声を発した。
「夢、見た。子どものときの」
 そして、いまいち夢うつつの曖昧な眼で「ゆめ、」と呟いた。翌日から丸々二日間、羽海は両親の布団の真ん中に敷いた来客用布団で過ごした。

 父は定年後に再雇用された勤務先へ、母と羽海は姉のマンションへ荷物を取りに行って、家には私ひとりの昼下がり。
 フリーランスで翻訳をしている。仕事量や報酬は人によるが、私は少ない方に分類されると思う。それでも姉のことがあって手付かずの仕事と格闘し、徹夜明けだった。伸びをしてPCから離れ、カーテンと窓を開ける。途端、皮膚がむず痒くなるほどの暖気が入り込んでくる。庭に一本植えられた桜が、枝先に大小の蕾をくっつけているのが見下ろせた。開きかけの、ピンクを覗かせたのが点在していて、もどかしい。じきに三月が終わる。
 四月から羽海は、私と姉の母校の公立中学に入学することになった。早くも両親が、引き取ることを決めたのだ。ホテルのラウンジで設けられた話し合いの場で、後藤氏は逡巡する間もなく賛同したらしい。そして姉の生前から引き続き、羽海が成人するまでの資金的援助を約束したという。随分とあっさりしているところを見ると、有り難い申し出だったのだろう。後藤氏は新たな家庭に子どもを設けている。そういう点から羽海も、我が家を選んだのかもしれない。
「もともと、楓が離婚したときに言うてたんやから、羽海と帰ってこうへんか、て。そもそもやで、結婚話がでた頃から薄々心配してたんや。なんや頼りなさげな人や思たら、案の定。あの子が独りで苦労することもなかったら、あんな目に――――」
 白っぽい唇を歪ませ、苦々しげに母は言う。どこかで姉の死を後藤氏の所為にしている。なすりつける対象無しには立っていられないのだ。
 急遽決まった姪との生活に、私が意見を差し挟む隙はなかった。異論があるなら、こちらが家を出るべきなのだ。それに、元々とくに不都合はない。姉が家を出るまで使っていた部屋を宛がえばスペースは事足りるし、羽海は手の掛かる年齢を越えている。生活様式だって大人とそう変わらないはずだ。ただひとつ、気に掛かることは――。
 風が吹き、桜の枝たちが音も無くそよぐ。飛来した花粉にあてられ、くしゃみした拍子に目を閉じる。瞼をこすって開けたら、枝は淡雪のような花々で埋もれていた。その根元に、少女らが立っている。小さいほうの少女は丸襟の白シャツに黒のギャザースカートで、よそ行き風。背の高い方の少女はセーラー服に身を包んでいる。向かいには、ツイードスーツの女性。彼女は少女らの母親で、中腰に屈み、胸の前に構えたカメラのレンズを覗き込みながら声高に指示をとばす。
「楓、ちゃんと詰めてな、もっと、さくらの隣に」
「いやや! ここで撮りたないって」
「なに言うてんの、ハレの日いうたら、桜やんか。ほら背ぇ、ぴんとして。もうちょい右寄ってぇよ」
「もう、こんなん私、写りたないっ」
「おかあさん。あんな、咳、でそう」
 小さい方の少女の訴えで母親が慌てるうちに、桜の前での記念写真は流れ、セーラー服の少女は父親と先に入学式へ向かう。小さな少女は母親に手を引かれ家に入り、口まわりに吸入器をあてがわれ、ふー、ふーと息を整える。窓の外、風が薄ピンクの雨を降らすのを、濡れた瞳に映しながら。
 もう一度瞬きしたら、眼下の花や家族らは消え、もとの細い枝が広がるばかりだった。
 あの日、庭での写真は結局、撮れず終いだった。あの人は、桜が嫌いだった。たかが木が色付いただけで浮かれ騒がずにいられないヒトの性を「あほくさい」と、疎んじていた。毎春近くの河川敷で催される桜祭りの賑わいを、煩がっていた。先に嫌うようになったのは軽薄な花か、脆弱な妹か。
 あと数日で羽海は、当時の姉に追いつく。
 いたずらに陽を浴びて目が醒めた。向かいの家の屋根に白い布団が載せられていたのが頭をよぎり、階段を下りる。
 羽海の汗を吸い、重みを増した敷き布団を物干し竿に乗せかけ、ついでに野晒しの折りたたみ椅子に掛けて裏庭を眺めた。ユキヤナギの落花が、粉砂糖のように地面を覆っている。この時季には強い陽光に、ぶ厚い生地がぐんぐん熱を吸収するのが見てとれる。奧に籠もった湿気も、そう経たぬ間に蒸発しそうだ。汗のほか、涙はどれだけ含まれているのだろうと考える。羽海は、私たちの前で泣かない。それは初七日の席でさえもだった。

「明後日の入学式な、さくらにも、来て欲しい言うんよ。あの子が」
 母が、こちらを窺うように、そっと緑茶を啜る。
「仕事あるから、無理かな……ごめんやけど」
「そうかぁ」
 母の声は、すかすかしている。声帯が、ひび割れたマカロニになってしまったみたいに。夜のニュースに気を取られるふりをした。急な申し出に、労働後のプリンの味がしない。中学の入学式に、叔母が同行するものだろうか。祖父母だけじゃ駄目なのか。仕事で行けないというのは嘘だ。納期に間に合わせさえすれば、ある程度の融通は利く。けれど――。
「なんでやねん」
 湯に身を沈めつつ、おもむろに声が出た。風呂を上がってすぐ階段を上がると、自室のドアの前に寝間着姿の羽海がいた。「どうしたん」と言おうとした瞬間、紙袋が差し出される。
「あのっ、これ」
 羽海は俯きながら、百貨店の名が印字された紙袋の取っ手を握りしめている。
「うちのマンションから、とってきました。お母さんのです。さくらさんは、明後日、お仕事で来られへんて、聞きました。でも、でも、お願いします。これ着て、写真、撮ってほしいです。写真だけ」
 切羽詰まった顔をしている、私はただ直立不動で驚いていた。こんなにも長く、姪の声を聞いたことがなかったから。
「おねがいします」
 がば、と頭を下げた勢いで、長い髪の束が肩から滑り落ちた。
「おやすみなさいっ」
 紙袋を押し付けて、即座に私の部屋の隣――かつての姉の部屋に引っ込んだ。
 ベッドに座って袋の中を覗き込む。一つずつ取り出して確かめた。畳まれた紺色のスーツに、ベロア調のケースに収められたホワイトパールのネックレス、そしてファンデーションやリップ、マニキュアといったコスメ数点。
「なんなん……」
 淡く甘い香りが鼻腔をくすぐるのを感知したのと同時に、袋を放り投げていた。ブランドもののコスメが壁に当たり、カシャンと鳴って床にばらまかれる。姉の匂いだ。つい先日まで身に纏っていた――、これが、そうだったに違いなかった。全身が粟立つ。
 布団に身を潜めて視界を闇に落としても、瞼の裏でぼやけた光が寄り集まって、おのずと像をかたどっていく。セレモニースーツに身を包んだ姉の姿を。唇も爪も品の良いベージュに染めて、洗練された佇まい。美容を怠らない人だった。いつだって自らのポテンシャルを最大限に伸ばす術を模索し、実践していた。美容のみならず進学、就職、結婚においても。年を経るごとに、私との差は開いていった。
 葬儀で見た無機質で白い姉が、一気に色づく。怖かった。すぐそこ姉が居て、責めるようにこちらを睨んでいる気配がした。「お前なんかが」と。不意に、ひゅっと喉が狭まる。見えない手に気管が捻り上げられ、肺が絶望という水で満たされ、地上で溺れる――よく知る感覚が過った。胸に掌を押し当てて、落ち着かせる。大丈夫だ。違う。もう違う、喘息は、とうの昔に治った。もう、あの頃の子供じゃない。要らない妹じゃない――。いくら自分に言い聞かせようが、耳の奥の声が止まなかった。「いなくなれ」と、怒鳴るように木霊していた。
 どんな恐ろしい夜も押しのけて朝は来る。雀の囀りが耳に響くし、朝陽がカーテンの隙間から流れ込んでくる。けれど最も覚醒を促したのは布団越しに揺すってくる手だった。
「さくらさんっ、さくらさん、どうしよお」
「うわあっ、どしたん」
 震える声の元に目をやって、思わず叫ぶ。羽海が、眉間から血を滴らせている。慌てて作業机の上に置いてあるティッシュを引き抜いてあてがうと、サッと赤が染み渡った。
「眉毛、いつもお母さんに、やってもらっててぇ。初めてやったら、切れた…」
 動転のせいか、丁寧語じゃなくなっている。どうも、剃刀で眉を整えようとして手が滑ったらしい。
 蛇口の上の鏡に向き合うよう、風呂椅子に座らせる。伸ばして左右に分けていた前髪を前面に垂らし、よく梳かして、慎重に鋏を入れていく。じゃき、じょき、という音だけが、静かな朝の浴室内に動きをもたらす。まだ生気を宿した髪が、首元を覆うタオルに降る。羽海は、面接にでも挑むような神妙さで鏡と対峙していた。
「これで、目立たんくなったかな? どう、変な感じせえへん? 嫌じゃない?」
「……はい、大丈夫です」
「うん、でええよ」
「……うん」
 あまり納得していないと思う。でも前髪を揃えたことで、眉間の傷の存在感が薄れたのは確かだ。「こんなんで入学式行かれへん」と激しく狼狽える羽海のための苦肉の策だった。
「分かるよ。私も、ほっといたら産毛のせいで眉毛と眉毛、繋がったみたいなるわ」
 初めて姪との類似点を見つけた気がした。
「えっ。お母さんもそうって言うてた……。でも昨日、眉毛きれいにしたいっておばあちゃんに言うたら、そんなん気にせんでええ、って」
「ああ、ばあちゃん、そういうとこあるからなぁ。それに、この眉、じいちゃん譲りやからさ。苦労知らんのよ」
 ふーん、と口を尖らせて俯き、次に鏡の中の私と目を合わせ、羽海は呟いた。
「ありがとう」

 式当日はあいにくの薄曇り。時折、冷気を孕んだ風が首筋を撫でてゆく。
 三脚に一眼レフカメラをセットした父が、母の横まで小走りして背筋を伸ばす。その左には、濃紺ブレザーに茶のチェックスカートを着た羽海。私の通った時代とデザインの異なる制服は用意が間に合わず、ご近所の在校生がいる家から今日だけ借りている。そしてさらにその左には、セレモニースーツの着用感に落ち着かない私。断りたかったけれど、できる限り身なりを整えて門出に臨もうという羽海の必死さを、無下にできなかった。きっと、心細くて、少しでも縁のある人間にはそばで見守られたいのだろう。でも、さすがにコスメには手が伸びなかった。
 桜の樹の下。四十九日も明けぬうちの記念撮影は一同無口で、盛りを終えつつある花だけが白々と明るい。どこか皮肉だ。亡き母親は拒否した撮影を、娘は叔母に頭を下げるほどに望んで。
 式にも同行することにした。中学への道すがら、羽海はしきりに眉間の絆創膏を気にした。目立ちにくくなったものの、前髪の隙間からちらちら覗く傷が痛々しいので、円型の最小サイズで肌色タイプのを貼ったのだ。歩きつつ、常に指で眉にかかる髪を弄っている。少年少女とその保護者らが、続々と正門に吸い込まれていくのが見えた。久方ぶりに間近にする四階建て校舎は、ぱっと見で分かるほど老朽化が顕著だ。
「カエやん!?」
 体育館に入ろうとすると、人波をかき分けて近づいてくる女性がいた。
「うそーめっさ久しぶりやん! カエやんも地元(こっち)やったん? もう、教えてやあ。うち、こないだ戻ってきてん。子供、同い年なんやー」
 楓ではなく代理で来た妹だと答えると、女性は高速で瞬きした。そして「妹さん?」と面食らった様子で「藪内、いいますー。楓さんによろしく言うといてください」と言い残して去った。
「今の人、羽海のお母さんの、友達やった人。たぶん中学(ここ)の同級生」
 羽海に説明したけれど、黙ってさっきの女性を目で追っていた。夫と娘らしき二人のもとへ戻って何やら喋っている彼女を、私は覚えている。
 式の間、校長や来賓の話に厳かな姿勢で傾聴する両親の隣で、私は上の空だった。前方でパイプ椅子に座る生徒らのつやつやした後頭部を眺めながら、薮内さんが「みっちー」だった頃の苦笑いを思い出していた。
 姉が中二の頃、みっちーは時々我が家を訪れた。彼女らの会話の断片は、隣室の私の耳にも届いた。みっちーの声量が規格外だったから。「まじ天才やなんあ、カエやんは」としょっちゅう聞こえたから、姉が勉強を教えることも多かったのだろう。体育祭のクラス旗デザイン案を取りまとめる役で結ばれたらしい縁は、少なくとも受験勉強が本格化する三年の半ばまで続いていたはずだ。
 小学校で委員会活動があって帰宅時間がずれたある日、玄関で二人と遭遇した。「へー、カエやんと似てるやーん」と笑いかけてきたみっちーの口を、姉は即座に掌で塞いだ。「取り消してっ」と叫び、靴棚の上にあった木彫りの熊を私の足元に投げた。「この時間に帰るな」と吐き捨てて階段を昇る姉の剣幕に一瞬固まったみっちーは、はっとして「なんやろ、ごめんやで?」と微妙な笑顔を作ってみせた。そして慌てて姉の後を追った。私が直接みっちーを見たのは、その一回きりだ。優等生で典型的な委員長タイプの姉を「カエやん」呼びしたのは、みっちーだけなんじゃないかと思う。
 姉の死を、さっきの場で告げるべきだったか。タイミングを逸した。人付き合いが乏しいものだから、咄嗟の判断が働かない。ふと、横並びの生徒らの頭の中に羽海を探したけれど、分からなかった。式が終わり、配布された教科書の入った袋を抱えて門を出た羽海は、くるりと振り返って校舎を仰いだ。そして、私の右手をきゅっと握った。
「この学校、行ってたんやんね。お母さん」

 特段、心配していなかった。どちらかといえば、おとなしく聞き分けのいい子どもだ。
 それに、母が卓袱台に広げていた六年の通知表には、「よくできる」の欄に〇が並んでいた。慣れない土地でのスタートを考慮に入れても、羽海なら大きな問題もなく中学生活を送ることだろう。そう高を括っていたから、話が入ってこなかった。
「あの、それは、うちの……窪田羽海のことで、間違いないんでしょうか」
「ええ、はい。驚かれるのも無理ないですが。そうですね、窪田さんの場合は環境の変化もありますし、心が昂りやすい状態だったのかもしれませんから。ご家庭で、よく様子をみてあげてください」
「――ご迷惑をおかけしました」
 私とそう変わらぬ歳であろう担任の、落ち着いた声音をやけに遠く感じた。母が買い物中でよかった。こんなのは心臓に毒だ。二、三分後、玄関で音がした。
「ただいま」
 学校指定のジャージを腕まくりさせた羽海が、居間の床に通学バッグを放る。発注した制服ができあがる今月半ばまで、ジャージ登校することになったのだ。
「はー、疲れたぁ。あ、クッキーある。さくらさんが言うてた、おやつ?」
 卓上に菓子盆を見つけ、嬉しげに私の顔を覗く。帰宅したら一緒にお茶でもしようと、朝に話していた。登校初日で緊張するであろう羽海から、仕事の休憩がてら話でも聞けたらと考えていた。入学式に同行した日の余韻のようなものが、心のどこかに残っていた。
「さっき学校から電話があってな。クラスの子と喧嘩したて、聞いたんやけど」
 ゆっくりと切り出す。羽海はするっと笑みを引っ込めた。「ああ、」とため息交じりに言い、額の絆創膏を指す。
「これ、大仏って言いよってん。大仏てさ、なんか眉毛のあいだにホクロみたいなんあるやん? 女子に向かって大仏やで大仏、ありえへん。ほんで、あたしが体操服なんもイジってきて、制服買えへんくらい貧乏なんか、言うから」
「言うから?」
「そいつのペンケースとかノートとか、机に出てたもん全部、ほかしたった。教室の窓から校庭にな、バラバラーって。人のこと笑うくらい金あるんやったら、こんぐらい無くなってもええやろって」
 担任からは、男子生徒の髪を引っ張って取っ組み合いもしたと聞いた。こんな子、だったろうか。同居してひと月近い姪の輪郭が、にわかにぼやける。
「あかんなぁ、ガキやんな。お母さんに教えてもろたのに、作用反作用の法則」
「なんなん、それ」
「さくらさん知らんの、中学で習うんちゃうん? まぁええわ、なんやっけ……物体Aが物体Bに作用を及ぼすときにー、それと同じだけの力で逆向きの作用が働く、ゆうやつ」
 ぽかんとする私に、羽海は苛立ちを募らせる。
「せやからさー、たとえば嫌いとか、むかつく、とかな、心のエネルギーを人にぶつけたら、相手も同じだけ嫌な気分なって、やりかえしてくるかもしれへんやん? 攻撃とかしたら、回り回って同じぶんだけこっちもダメージ受けるかもって話やん」
「え、それって、なんていうん、精神的なことにも適応されるもんなん?」
「だって言うてたもん、お母さんが。心の動きかて、エネルギーやし。なんか、そういう研究してる学者もいてるて。山井…今話したアホの男子な、そいつが先にうざいエネルギーぶつけてきたから、私も頭きて、返してもうてん。まんまと反作用してもうた。山井なんか、無視したら良かってん。せっかく法則知ってんねんから、マイナス感情に振り回されんと乗り越えれたら、それが人間の知恵やって、お母さんが、いつも、仕事で腹立つこともあるけど、嫌な気持ちそのまま返すんはスマートちゃうからねって、お母さん……晩ご飯のとき、会社の話することあって、そんで、おかあさん、」
 しゃっくりみたいに、声と肩を震わせる。
「なんで、おかあさん。なんで。なんで、来ぃひんかったん。入学式、楽しみ、言うてた、楽しみってっ。写真もいっぱい撮ろって、何回も、しつこかった。私より、もっとっ」
 おでこから首までを真っ赤にして、涙と鼻水にまみれた羽海。私の胸に、頭の天辺をぐっと押し当ててくる。それは高密度な天体のごとき重力を秘めた球だった。哀と怒の質量ぶん、小さな頭が私の体へ沈み込んでくる。
 体を一本通る芯が、ぐにゃりと折れてしまいそうだ。この感覚を知っている。今この瞬間、背後に姉が立っている。そうに違いなかった。そしてベージュのリップを塗った唇の端を、満足げに引き上げている。
「言うたやろ、あんたには無理」
 事あるごとに投げかけられた言葉。なんだ、やっぱりそうだ。私にできることなんか無かった。あの薄曇りの日、ほんの数時間「代わり」を務めることさえ。どこかで、溜飲を下げていたかもしれない。急に始まった姪との暮らしに、煩わしさを覚えなかったと言えば嘘になる。それでも世話を焼こうとしてみたのは、あの人が――楓ができなかったことだから。
「おかあさん、おかあさん、おかあさあん」
 そういう類の鳴き声かのように、姪は泣く。叔母の名など忘れて。
 小刻みに揺れる背中に、手を伸ばさず突っ立っていた。

 四十九日法要を終えて日が経ち、徐々に夏の気配が漂いだした。
 私は、姪との暮らしを淡々とやり過ごそうと決めた。こちらから歩み寄りを試みないし、拒絶もしない。いち親族として、必要最低限のサポートに徹しようと努めた。眉の手入れを頼まれれば手を貸したけれど、仕上がりに問題ないか確認するくらいで、会話も手早く切り上げた。
 男子生徒との一件依頼、羽海はそこそこに平穏な学校生活を送っているようだった。母が毎朝六時起きして作る弁当を鞄に詰め、七時四十分には家を出て、十六時頃に帰ってくる。四人で囲む食卓で、羽海は学校での出来事を報告した。視線を父、母、私へ均等に投げながら、ぽんぽんと、よく喋った。ハルカとミナと昼休みにバレーボールで遊んだとか、ジュリはおしゃれで体育のダンスもクラス一上手いだとか。もともと口数の多い子だと、私だけが知らなかったのだ。登場する名が増えてゆくのを、両親は嬉しげに、しみじみと聞いた。老いで垂れた柔い瞼の下、熟れた瞳は微かな光を湛えていた。時にそこに、濡れた薄膜が張るのさえも見た。
 以前は夕食時を賑やかしたテレビも、鳴りを潜めた。不意に、不思議な感覚に包まれた。あまりに場の調和がとれていて、まるで一枚の絵の中に紛れ込みでもしたような、同時にそれを額縁の外から俯瞰しているかのような。やがて気づいた。誰も、この中の誰かを嫌ったり、疎んだりしていない。そこに何らかの強い感情が生じることはなく、穏やかだった。いつでも空気は凪いでいた。「子ども」の居る家でこんなことがあるのかと、私は静かに驚いた。
 車を出すとき、羽海の同乗が増えた。私がキーケースを手に取ると目ざとく「どっか行くん?」と寄ってくる。父を隣の市の整体院へ送る土曜の午後。窪田家の恒例で、普段使わない高級スーパーへパック寿司を買い求めに行く月末。運転席の後ろ、母の隣で、窓から街並みを流し見て国道添いの派手な看板を読み上げ、有線から流れる曲を小さく口ずさみ、控えめに頭を揺らしてリズムをとる。たまに「楓もさくらもな、あっこの道入った奥の幼稚園に通ってたんよ」といった母のひと言に食いつき、鼻先をガラスにくっつけ外を覗いた。
 庭の桜や紅葉が秋色に染まり始めた頃。
 その日、夕食当番だった私がシンクで味噌汁に入れる水菜を洗っていると、背中をつつかれた。羽海が、初めて手伝いを申し出た。「ええよ、ええよ。宿題、多いんやろ? そっち頑張り」と断ったけれど引き下がってくるので、大根の皮むきと面取りを頼んでみた。「めんとり?」と首をかしげる姿に、「教われへんかった? 羽海のお母さんに」という言葉が喉元までのぼり、咄嗟に口を噤んだ。聞けば、包丁は学校の調理実習でしか持たなかったという。じっさい、ドス、と刃をまな板に叩きつける力任せな切り方をした。一時間半後、皮を分厚く剥かれ、いつもより二回り小さな風呂吹き大根ができ上った。
「料理は羽海の仕事にせんでええから、やりたい時が来たらやりって、いつも、お母さんが」
 ばつが悪そうに目線をそらして言い訳する羽海に、手伝いの礼を告げつつ、内心で鼻白んだ。
 あんたの大好きなお母さんは、小学生の頃から家事をようやってたで。じいちゃんが会社に持っていくハンカチにアイロンかけて、一人でシチューも作った。あんたは中学生やのに、できひんねんな――醜い言葉を、口中で転がした。姉は、しょっちゅう体調を崩して碌に手伝いできない私を、ひどく軽蔑していた。親の目の届かぬ場で、何度「役立たず」と罵られたか知れない。「あんたなんか、ハズレの子どもや。私もこんな妹やったら、居らんほうがマシや」とも。なのに、肝心の娘が全然じゃないか。考えると胃がむかむかした。
 しかし意外にも、羽海の手伝いは気まぐれではなかった。あれから連日、羽海は帰宅して学校の課題を終えるやいなや台所に顔を出した。母や私に「私も何か、仕事ほしい」とせがみ、米研ぎ、茄子のあく抜き、ピーラーを使った皮むきに、いちいち新鮮な反応で取り組んだ。毎回必ず調理台のあちこちに大量の水滴、マットの上には人参や蓮根の欠片を落として。そんなことが一週間続き、母は商店街の手芸店で孫娘用のエプロンを買ってきた。
 ある日曜の昼食は、初めて羽海が全工程を担った焼うどんだった。具は豚肉、キャベツ、しめじ。大小まばらなキャベツの芯の固さ、火の通り過すぎでくたっとしたしめじの水っぽさをスルーして「うまいなぁ、うまい。大したもんや」と頬張る父、頷きながら微笑む母の様子をじっと伺い、「おじいちゃん、おばあちゃんっ」と羽海は叫んだ。そして、手を膝につき、深々と頭を下げ、宣言した。
「お願いがあります。もっと成績、上げたいです。塾、行かせてください」
 その夜、羽海の部屋で眉間の産毛を剃ってやっていると、急に眉の角度をぐわっと上げられて慌てた。
「数学だけ、どうしても山井に勝たれへん。ありえへん、絶対抜いたるねん」
 すとんと腑に落ちた。目的達成のための手順に組み込まれていたのだ、料理は。通塾の希望を伝える土台づくりだったのだ。
「子どもは気ぃ使わんと、やりたいこと何でも言うたらええねん。勉強関係以外もな」
「でも、そんなん」と口ごもり、羽海は困った顔をした。
 
 一段と冷えが増した朝。吐息は、綿あめのように膨らんでは消失する。
 私は駅へ向かっていた。列車の到着はまだ先なのに早足になるのを、イヤリングの揺れで自覚する。つり革に伸びるスーツの腕の群れから垣間見た空は、際限なく澄んでいた。
 改札外のコンビニのそばに、長瀬くんは立っていた。私を見つけると、ひょいと会釈しながら片手を上げた。どっちか一つの動作で済むのに、と少しおかしくなる。
「窪田さん、久しぶり」
「ほんまに久しぶり」
 いくら時間を隔ててもすっと入ってくる、懐かしい声だ。
 歩きやすそうな天気やな、などと呑気に話しながら巨大な公園に踏み込む。噴水の遠く向こうに、小さく大阪城天守閣が望めた。
 長瀬くんは愛用のカメラを手にしゃがんだり後ずさりしながら、最高潮に色づいた樹々や植物、野鳥を撮影した。長瀬くんが口にする植物と鳥の名の大方に、馴染みがなかった。家の庭に生えているのは昔、母から教わったけれど、外のものに注視することはない。視界を占めるもの全部に名があると意識すれば、知らずに生きるのが心もとない。だから追求しない。拡張しないことで得る安らぎもある。
 一時間半も園内を巡ると体が温まり、喉が渇いたので噴水に面したカフェに入った。カフェオレを飲み一息吐いていると、急に長瀬くんが重々しく切り出した。
「改めて、お姉さんのこと、お悔やみ申し上げます」
「気遣ってもらって、ありがとう。けど長瀬くんはそんな、思い詰めんといてな」
 姉が死んだとき、長瀬くんと旅行中だった。
 電話が鳴ったのは、旅館の食堂で遅めの夕食をゆっくり摂り、それぞれの部屋に別れて少ししてからだ。事故の件を告げると、一緒にチェックアウトして途中の駅まで付き添ってくれた。後で電話すると通夜への参列を申し出てくれたけれど、遠慮した。二日後、自宅に線香が届いたので礼を伝えた。それ以降、メールのみで直接会ってはいなかった。きっと、こちらの境遇への配慮もあったのだろう。
 それにしても、長瀬くんの話の間合いは独特だ。今言うのか、と意表を突かれることが少なくない。
 姉妹の思い出でも語って心を軽くしてほしい、というようにこちらを伺う彼の期待に沿えそうになく、私は一昨日観た古い映画のタイトルを舌に乗せる。
 怖いほど深い空堀を超えて、天守閣に入る。エレベーターは使わず、ヒイヒイ言って階段を昇った。展望台で風に頬を叩かれ、すぐに引っ込んで展示コーナーに移動する。長瀬くんは特別展の甲冑に見入り、外へ出てから色んな角度で天守を撮った。仕事で日本の出版物を英訳するうち、自分も身近な日本の風景を発信したくなったのだという。彼が写真をあげる SNSを、私もフォローしていた。
 中之島へ移動して、土佐堀川添いの洋食店で昼食にありつく。空の胃は温かな料理で満たされ、外気で乾燥した唇はとめどなく溢れる言葉で潤う。ガラスの向こうで揺れる青鈍のちりめん和紙の水面を、永遠に眺めてもいいと思う。
 切っ掛けは、ゼミ仲間の披露宴の二次会だった。在学中は付き合いもなかったのに、同じ職種だと知り話が弾んで、二人で会う約束をした。どちらも、数少ない友人の結婚や転勤で遊び相手に事欠いていたタイミングだった。気になる景勝地や史跡、博物館、建築物などを挙げ、意見が合った場所を訪ねるようになり四年経つ。なるたけ歩いて運動不足を軽減するのも共通の目的だった。およそ二か月に一回の頻度で出掛け、たまに遠方へも足を伸ばす。泊りの旅は、あの日が初めてだった。
 美術館を梯子し終えると、すっかり陽は落ち、ビル群がオブジェのように輝いている。
 「晩ご飯どうしよか」と聞こうとしたら、「あのさ、」と長瀬くんが遮った。
「おれ今、付き合ってる人が居る」と発声良く言い、少しだけ逡巡してから「結婚も考えとる」と加えた。
「知り合って半年やねんけどな、年末、実家に挨拶行こう思てるんや。窪田さんには、同志としてちゃんと言うときたくて」
 そんな迷いない眼差しを向けないでくれ、と思う。驚きで一瞬固まった脳を、何とか再稼働する。
「えー、そうなん。すごいやん。なんてゆうか、おめでとう、ほんまに。ほんまにさ、ええ人できて良かったなあ。嬉しいわ、同志として」
 おめでとう、と頑張ってな、を繰り返し、大げさに手を振って別れた。
 途端に、首筋が夜気の冷たさを捉える。ストールがあれば良かった。そうだ、イヤリングが霞まないよう首を出していたのだった。鳥の羽を模したデザインのそれに、長瀬くんから言及は無かった。
 何処に行けばいいか分からず、足の向くままにふらふら進むと、中央公会堂が見えた。中之島公園の川に面したベンチに掛け、じっと背を丸める。どれくらいか分からぬほど経ち、感覚は見事に冷えに侵されていた。重い足取りで駅へ向かいながら、話のタイミングやっぱりおかしいやろ、と思い返す。長瀬くんのことだから、また変な間隔を空けて「今まで本当にありがとう。これからは二人で会うのを控えさせてもらいます」てなメールを寄越すのだろう。地下鉄の窓に浮かぶ疲れた女が直視に耐えず、靴先に視線を落としてやりすごした。乗り換えのとき、酔っぱらいの会社員にぶつかられてよろけたら、盛大な舌打ちが鼓膜をはたいた。
 
 翌日昼過ぎに熱が出た。
 全身がぬるい湯たんぽになった心地がして、意識の浮つきと体の脱力感がないまぜだ。瞼を閉じれば浮かぶのは長瀬くんの表情や仕草の断片で、心の持っていき場がない。
 仕事もマイペースな性格も似ていて、お互いを「ゆるい同志」と認識していた。ほどよい距離感で励まし合い、人生のちょっとした楽しみを共有する気の置けない仲間。その関係がずっと続くことを望んでいたのに。……いや、嘘だ。
 作用反作用の法則。何ケ月も前に聞いた言葉が、不意によみがえる。もしも、気持ちをぶつけていたら。何らかの反作用は起こっていたのだろうか。
 釘を飲んだみたいに喉が痛む。試したけれど声が出ない。誰とも繋がれない。無力でしょうがない。自分がこの世で最も不要な人間に思えて仕方ない。「何もできない要らない子ども」と幼き私を睨んだ姉の顔をふと思い出す。賢かった姉には、やはり先見の明があったのか。でも――「あんたなんか」とこちらを指さす少女が、いつも苦しそうだったのはなぜだろう。
 そのとき私は、心の中であっと叫んだ。もつれていた思考の糸が、ぴんと張るのを感じた。あの顔を、大人になってからも見た。羽海に似ている。造作は違うのに、当時の姉と羽海はそっくりだ。「おかあさん、おかあさん」と、全身で母親を求めた羽海の、苦しげな顔に。
 今、思えば。姉が発表会でピアノを弾いた日、放送係を務めた運動会の日、風邪で遠足に参加できずにいた日、母は発作に喘ぐ私に付き添っていた。日頃から母の視線の大半は、いつ体調を崩すか知れない私へ注がれていた。それが却って苦しかったほどに。母に誇らしげに成績を報告するとき、洗濯や料理を進んでこなすとき、小遣いで買ったカーネーションを贈るとき、姉の、本当の心の内はどうだったのか。知る由もないけれど、そもそも知ろうとしたことがなかった。その事実に自分で驚いていた。ただただ怖く理不尽だった姉は、もしかすると泣けずに苦しむただの子どもだったのではないか。
 次第に眠気が訪れてきた頃、おぼろげな意識の隅でドアの開く気配を感じた。
「さくらさん」
 静かに呼ぶ声がする。薄く瞼を開けると、両手で盆を持った羽海がベッドの隣に座っていた。
「ごめん、起こしてもうた? 風邪やって、おばあちゃんに教えてもろたから」
 部屋の電気を点けないまま盆をカーペットの上に置いて、グラスに入ったミネラルウォーターを手渡してくれる。喉が潤い、つかの間痛みがやわらいだが発声が難しく「ありがとう」も言えない。
「はい、あーん」
 反射的に口を開けると、スプーンが突っ込まれた。優しい甘みが柔らかく広がり、腫れた喉をそっと滑り落ちる。擦り林檎だ。スプーンが四回皿と口を往復してから、唇を閉じた。こんな看病を受けたのは何十年ぶりだろう。懐かしさでくらくらする。ぼうっと呆ける私を案じるように、けれどにこやかに羽海は囁いた。
「さくらさんはな、良うなるから。大丈夫やで」
 額に冷却シートを貼ってくれながら、繰り返した。
「ぜったい、だいじょうぶ」
 これは、私への反作用ではないと分かる。在りし日の姉が、羽海をそう世話した結果なのだろう。寝込む娘の不安を和らげるよう微笑み、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と魔法の呪文のごとく囁きかける横顔が、ありありと描けた。
 心を施してもらう権利が、私にはない。羽海はずっと、喪失による波立ちをいなしながら、必死に笑顔を作って暮らしてきた違いない。声を殺し一人で泣く夜が幾度あったのだろう。本当は分かっていたのに手を伸ばして心に触れようとせず、表面のみをなぞってきた。私が愛娘に近づくのを姉は望まない、私にできることは無いと決めつけ、自分ばかりを守っていた。
 羽海の目に訴えつつ、唇の動きでどうにか伝えようとした。「うつったらあかんし、私にこんなことしてくれんでもええんよ」。「へっ?」とか「なんて?」とか顔をしかめて苦労しながら解読し、羽海は言った。
「だってさあ、お葬式で私が熱出たとき、さくらさん手ぇ繋いでくれたやろ?」
 あまりにまっすぐな笑みから、容易に察せる。姉は、娘の前で実妹を悪く言わなかったのだと。

 スーパーへ向かう車中は、西から注ぐ黄金色の光で満ちている。
 ついさっきまで鼻歌を口ずさんでいた羽海が、手を挙げて宣言した。
「春休み、友達とUSJ行きたいねん」 
「ユーエスジェー? 今の子は中学生だけでそないな場所、行くんかい。凄いなぁ」
「子どもだけで、危ないんとちゃうか」
 助手席の父と後部座席の母が、孫の初めての申し出に驚いて尋ねる。
「ううん、ミチカのお母さんが一緒に来てくれる、言うてはる。子どもはミチカとミナとハルカと私の四人―」
 ミチカというのは、「みっちー」こと薮内さんの娘さんだ。二学期に文化祭実行委員の活動を通して親しくなったらしい。娘さんを通して姉のことを知ってすぐ、薮内さんは我が家に線香を上げに来てくれた。仏壇に手を合わせて涙ぐみ、やっぱりそこそこのボリュームで遺影の「カエやん」に語りかけていた。
「ほんで、もう一個な、おじいちゃんとおばあちゃんとさくらさんと、桜祭り、行きたい。お母さん、春になったらいつも言うねん。子どもんとき、近所でやってた桜祭り、川のとこの並木に提灯がズラーって飾られてめっちゃ綺麗やったって。私も見たいわ」
 矢継ぎ早に望みを語る羽海の髪が、蜂蜜色に輝いている。
 駐車場に停め、先に降りた皆がスーパーの建物へ向かう後ろを歩く。一周忌が近づいていた。私は、ますます姉という人間を分からない。ただ少なくとも、姪の記憶に息づく母親、旧友の語った少女のことを、嫌いではなかった。もう、終わりにしてもいいのかもしれない。姉と妹の関係を取り払い、ただの一人の女として見ていいのかもしれない。
 強かに射す光線に、視界が霞んだ。日没がめっきり遅くなった空は眩いばかりで、雲の上に美しい国があると言われれば信じてしまいそうだ。もしも、いつの日か再会し、話す機会があるとしたら。そうだな、掴みに、この間の失恋についてでも語ろうか。彼女からは離婚の愚痴あたりを聞いて、共感し合えたりして。そこまで考えて、足が止まる。
 頬から一筋の水が落ち、言葉が零れた。
「おねえちゃん」

〈了〉