これをもって、私の初恋とします
楠原夏緒
私の初恋の人は、社会の資料集からネアンデルタール人の写真を切り抜き、クラス中の生徒からもらって集めている人だった。中学一年生、春のことである。
これは自称「ほかの奴等とはひと味違う私」な私の独白なので、あれが恋であったか客観的には定かではない。ただ私は自分の資料集から写真を切り抜くとき、確かに指が微かに震えたのを自覚したし、彼に手渡す機会を伺いそれを制服のポケットに忍ばせていた一週間は、彼とすれ違う度に脇汗をにじませていた。
漫画やドラマの中の恋とは違い、現実の私の恋はキラキラもワクワクもドロドロもしていなかった。ガクガクでじわじわコソコソしてて、それでも確かに、私はあれを恋と信じた。
今ならわかる。恋を美しくするのは自分自身の美しさであると。あんなお揃いの制服を着させられ、制限の多い中で髪型や靴下やバッグを選ばなければならなかった三年間、私は完璧なる「可愛い子たちの引き立て役」だった。全員で同じ格好をしたら、可愛い子やスタイルのいい子が目立つに決まっている。
幼いながらもそれを理解していた私は、どうすればこの紺色の海(制服も靴下も鞄もすべて)の中から彼に見つけてもらおうかと、つまりこの思いをどんな恋にしようかと考えた。
間違ってもここで「ダイエットして部活も勉強もカンバって、お風呂で自分磨きをするんだ」などという凡百の女たちが考えるようなことをしてはならない。そんなことでは、ネアンデルタール人の写真に興味を持つ彼の心に残ることは到底できないだろう。
ほかの人とは違うネアンデルタール人の写真を選んで渡し、ネアンデルディスカバラーとして彼の心に残りたかった私は、彼に朝や帰りの挨拶をしたり偶然を装って同じ係になったりする代わりに、社会の資料集を隅々まで読んだ。もしかしたら載ってるかもと思って理科の資料集も読んだ。そういう恋の仕方をする中学生だった。
いじめの対象にすらならない、キモささえ目立たない平和な中学校生活。そんな私の初恋は実るわけもなく、制服のポケットに入れっぱなしの切り抜き(ほかの人と同じ、資料集の序盤に出てくるアウストラロピテクスとホモサピエンスの間にいる奴)には徐々にしわが刻まれて、ある日、洗った手を拭こうとハンカチを出した拍子に、トイレの床に落下した。
一応拾ったが、流石にこれを渡すわけにはいくまいと、私はそのままそれを汚物入れに入れた。使用済み生理用品とともに女子トイレの一角に収まった私の恋の象徴は、ますますもって気持ち悪かった。初恋は実らない。今はそれで良かったと思っている。
写真を捨ててから数日後、うちのクラスの女子たちの中である噂が広まった。トイレ掃除担当だった女子生徒が汚物入れの中身を捨てたとき、偶然にもその中にネアンデルタール人の切り抜きが入っているのを目撃したのだ。薄暗いトイレの個室の中でネアンデルタール人と目が合った彼女の恐怖はいかばかりだったろう。そのことを思うと少しだけ胸が痛む。
そして、ひとしきり驚いた後には「なぜこんなところにネアンデルタール人が入っているのか」という至極当然の疑問が生まれる。その疑問に対し、発見者の女子生徒と彼女の友人たちが立てた仮説は以下の三つである。
一つ。ネアンデル(切り抜きを集めていた彼のあだ名)のことを好きな女子が、彼に告白して玉砕し、自分のネアンデルタール人の切り抜きを渡せずにこっそりトイレに捨てた。トイレにはきっと泣きに来ていた。もしくは切り抜きを渡して告白しようと目論んでいたが、勇気が出なくて結局渡せず、トイレに捨てた。トイレにはやはり泣きに来ていた。
二つ。ネアンデルは実はいじめられていて、いじめっ子に切り抜きを奪われ、学校のあちこちに捨てられている。探して取り返そうにも取り返しづらい場所を選んで捨てており、その候補に女子トイレが選ばれた。この説が正しい場合、彼の切り抜きは減っているはずである。
三つ。ネアンデルが何らかの理由で女子トイレに侵入した。そこでうっかり写真を一枚落としたが、流石に拾って持ち帰るのも庇かられ、こっそり個室のごみ箱に捨てた。
奇しくも彼女らは「説その一」でほぼ真実に辿り着いており、私はその「彼のことを好きな女子」が自分であることがいつバレるかとひやひやしながら精一杯のポーカーフェイスで過ごしていたのだが、多くの者の支持を得たのは「説その三」であった。
女子の噂は百里を駆ける。その翌週には全学年に「説その三」が広まり、「あのトイレを使っているのは一、二組の女子生徒であるから、その中に彼の想い人でもいるのではないか」、「一、二組の女子の中で最もネアンデルタール人に近い風貌の奴は誰だ、きっとそいつが彼のターゲットだ」などという二次被害めいた見当違いな推理まで広まり、しまいには「奴が女子トイレに近づかないよう、休み時間に交代制で見張りを立てよう」という趣旨で謎の自警団まで結成された。私はその自警団に入った。
今にして思えば滑稽極まりないのだが、当時の私は切実に、みんなに「説その一」が広まること、万が一広まってその説の当事者が自分であることを知られるのが怖かった。だから全力で「説その三」に乗っかったのである。推理小説で下手な芝居を打つ犯人と同じ心理だ。私は好きな男を売り、自分を守る女だった。
しかし、その自警団にはメリットもあった。自警団員の任務は主に、休み時間ごと交代で彼の席の近くへ行き、世間話をしている風を装ってちらちらと彼を見張ることである。つまり私は、自然かつ合法的に、片想いの彼の顔を見てぽわんとした気持ちを味わうことができたのだ。
そんな扱いを受けながら、彼は驚くほどのポーカーフェイスで日常生活を送っていた。「説その三」の噂も、女子たちが道端の吐瀉物をつつくカラスを見るような目で自分を見ていることも、自分が「ネアンデル」と呼ばれていることも知っているはずなのに、まるでどこ吹く風、彼の日常は何も変わらなかった。
その気高さと、彼の人物評価を著しく下げる噂の出所が自分であることが相まって、私の胸はじくじくと痛んだ。まるで、私の所業を庇うがために、彼がこの風評被害に耐えてくれているような、私のことを守ってくれているような錯覚にすら陥っていた。
幸い男子たちはこの噂にあまり興味がないようで、どっちかというといじめたときのリアクションが大きいポム鉄(どういういきさつかは不明だが、いじめられっ子はそう呼ばれていた)にちょっかいを出したりするのに忙しいようだった。ネアンデルはシンプルに孤立し、その様子は正義の御旗を掲げ日々邁進(見張りなど)している女子たちを幾許か安心させた。
誰もがこのまま、彼が「女子にあらぬ疑いをかけられて孤立したまま中学を卒業していく陰キャ」になると確信していたある日、ネアンデルは転校した。父親の転勤であった。
学活の時間にささやかなお別れ会が開かれた。男子たちは降って湧いたイレギュラータイムに浮かれ、女子たちはまるで正義が勝利したかのように、そして捕虜となった敗者の鎖を優しく撫でるがごとく、ネアンデルに別れの言葉をかけていた。ネアンデルはその一言ずつに「ありがとう」と返し、ほほ笑んでいた。死刑が決まった人間の穏やかさだった。死ぬまでの間、残りの感情をすべて憎しみと恨みに使えばいいと開き直った後、逆にそれらの感情から解放されたような、清々しい無表情だった。美術の資料集で見た弥勒菩薩半伽思椎像のような、宇宙のような無表情だった。
「では最後に、○○君、一言いいかな?」
優しい女の担任は、ネアンデルに締めの一言を促した。
「えーと、三組のみなさん、今までありがとうございました」
泣けよ――!男子からのヤジが飛ぶ。彼は泣かない。
「僕はこれから東京に行ってしまうけど、みなさんのことはずっと忘れません。でも僕は音楽が好きだから、このメンバーで合唱祭やりたかったな、ってちょっと思います。僕は参加できないけど、僕も向こうの学校で頑張るので、みなさんも頑張ってください。以上です」
盛大な拍手が鳴り響き、さっきまでへらへらしていた男子も、裁きを与える天使のような顔をしていた女子も、しんとした顔になった。そうだ、彼が女子トイレに侵入して自分の大事な切り抜きを落とすなんて、そんなバカな話があるもんか。クラス中から呪いが解けたような、魔法にかけられたような、不思議な時間だった。
そのあと、元自警団所属の女子たちは遺憾なくそのイベント主導性を発揮し、彼が転校するまでの短い期間でクラス中から彼宛ての寄せ書きを集め、色紙を可愛くデコって完成させた。諸々の提出物が期日までに出揃うことなどまずなかった三組であったので、これには担任も驚いていた。その内容のほとんどは、次の合唱祭で学年最優秀賞を獲ることへの意欲に燃えたコメントだった。ネアンデルとの個人的な思い出を書いたら、ほぼ全員「ネアンデルタール人の切り抜きを渡した」もしくは「自警団として彼を監視していた」の二択になってしまう。その結果、みんながチョイスした話題は合唱祭のこと一択になり、もうそれがクラスの次なる目標になっていた。
その色紙を渡す前夜、つまり彼がこの町にいる最後の夜、私は「合唱祭、絶対絶対優勝するからね!」の十六文字には収まりきらなかった思いの丈を詰め込んで、手紙を書いた。
誰もが読み飛ばすネアンデルタール人のページに注目する独創性、それをクラスの人に頼んで集めるという行動力、噂話など意にも介さず自分を持ち続ける気高さ、そしてそんな冷たい態度をとってきたクラスメイトに対する、最後の学活でのあの優しいコメント。担任の前で恨み節の一つもかましてやっても良かったところなのに、あえてそれをせず、団結力もやる気もない私たち三組を合唱祭に向けて結託させてしまうという統率力。まるで魔法使いみたいに輝いていた。その輝きを、私はとっくに気づいていた。君のすごさを私は知っていたよ。
朝の三時までかかった手紙を制服のポケットに入れて、私は家を出た。学校につくと、三組のメンバーは既に集まっていたが、部活や用事で参加できない人が結構いて、十人ちょっとのメンバーで彼の家の前まで行った。そのメンバーは色紙づくり団のボス的な立場にいた女子や、彼と比較的仲の良かった男子ばかりで、一歩進むにつれて自分がいかに場違いな存在であるかという自意識が私の頭に重くのしかかってきた。
もういっそ腹が痛いとでも言って今からでも帰ろうか。そう思った瞬間、彼の家が見えてきた。
「…あれ」
色紙をその背に隠し持っていたボス的女子が、最初に首を傾げた。どうも様子がおかしい。
「これ、もういなくね?」
彼と仲良しの男子は、表札や家の周りの様子などを確認したうえで、そう言った。
彼は、もうこの町にはいなかった。家の壁は薄汚れているがなぜか綺麗で、何も植えられていない花壇は土がむき出しで、それもなぜか綺麗だった。死に顔を描いた肖像画のような美しい家。ポケットの中で、行き場を失った手紙がクシャ、と音を立てた。はっと手をみる。制服越しに思わず手紙を握ってしまっていた。彼がこの町から去った。
私は幼く、ここから先の長い人生をうまく想像することができず、きっとどこかで偶然また会うだろうと、例えば同窓会なんかをボス的女子が開いてくれたりして、少し大人になったころにまた会えるだろうと、そう考えていた。
ネアンデルがいなくなってから約二か月。夏休み中に彼の机と椅子は学年倉庫にしまわれ、ロッカーの名札は剥がされ、彼の名前の記された最後の名簿は数学のワークの提出状況チェック用に今日、消費された。彼のいた気配は、壁に貼られた一枚の集合写真のみになった時、私はもう彼には会えないんじゃないかと思い始めた。合唱祭の取り組みが始まった。秋になろうとしていた。
取り組み中、誰かが何かを言い出すのではないかと期待していた。「優勝してさ、担任に頼んでネアンデルに結果送ってもらおうよ」とか、「ネアンデルに合唱の動画、送ってもらおうよ」とか。
でもそんなことは誰一人言い出さず、彼の存在は失われたまま合唱祭は滞りなく過ぎた。結果として、合唱祭は惨敗だった。ネアンデルの魔法はとっくに解けて、三組のモチベーションは他クラス以上には上がらなかった。教室の集合写真は間もなく、合唱祭の写真に挿げ替えられるだろう。もうすぐこの教室から、彼の気配は消える。私の好きな男の子が、私の唯一無二の恋が、私の生活から消える。
一呼吸ごとに肺に入ってくる虚無。修了式の日、このクラスが解散する前にもう一度歌いたいと例のボス女が言い出した。担任が嬉しそうだったので、誰も反論しなかった。
私は、何のために歌っているのだろう。私は何のために、「この思いが君に届いてほしい」と歌っているのだろう。「君」って誰だ。みんな、「君」がいるのか。この詩を書いた人は誰を想定しているのだろう。大切な人がいたのだろうか。その人には届いたのだろうか。どうやって、こんな匿名性の高い歌が、大勢で歌うことを想定された歌が、誰か一人から誰か一人へ伝わるなんて、そんなことあるわけないんじゃないか。
気づいたら私は、鼻の奥が痛くなっていた。眼球の奥に涙が溜まるときの痛み。でもそこで終わりだった。溜まった涙は流れ出ず、私の体内に落ちていった。ここで本当に泣くことができたならせめて、ちゃんとした初恋の思い出になりそうだったのにな。
「だから私、この歌きらい。」
「いや、ふいに口ずさんだ俺の鼻歌ワンフレーズ聞いて、この長話の果てに伝えたいことってそれ?」
すっかりペアが固定化された飲み会で、友達の友達枠で呼ばれた私は、代打で急遽呼ばれた彼と、二人で
「別にタイプなわけではないけど、この人を逃したら解散までの時間誰とも話せずお手拭きでアヒル等を作っているモブキャラ」
になることを恐れ、互いを手放さないためにできるだけ長話を提供しあっていたのだった。
ちなみに前のターンで彼が提供したのは、
「自分ちの犬が子犬の時に眉毛(のような柄)があったので「マロ」という名前にしたのだが、成長するにしたがって柄が変わり眉毛とは言えなくなってきたため、名前を「マロン」に変えようと少しずつ「ン」の音を忍ばせながら呼んで徐々に犬をだまし名前を再記憶させようとした軌跡」
の物語であった。
この世の無駄を凝縮したような二人の時間は、代々木の居酒屋のやたらと広い座敷の隅で、静かな小宇宙のように広がっていった。
低いテーブルの上には誰にも望まれてないのにとりあえずで並べられたポテトやサラダの残骸、追加で注文したけど一皿目より捌けの悪かった唐揚げやだし巻きなどが、食べるためというより会話が途切れたときの口の活用法の一つとして咀嚼されるために点々と乗っている。
「でもね、私、この初恋の事、結構好きなんだよ」
「ふーん、なんで?」
「なんていうか、これ以降の恋はみんな、普通の恋だったから」
「普通の恋、楽しくなかった?」
「そこそこ楽しかったよ」
「じゃあ、なんで叶わなかった初恋をこんなに思い出しているの?ネアンデル、よっぽどイケメンだったとか?」
「いや…その後付き合った人たちの方が顔は良かったな」
「じゃあ君の恋愛で大切なことは、顔じゃないんだね」
「うーん、そんなこともないと思う、けど」
ここで顔が大事だとはっきり言えるほど、私は自分の顔面に自信を持っていない。答えに窮した私の心情を、彼は理解したようだ。
「ごめん、恋愛で大切なことなんて、ちょっと重いね。こんな場面でする話題じゃなかったな」
周りのペアたちは初対面でよくぞそんなにと思うくらいに話し、笑い、楽しんでいるように見える。私たちもきっとはたから見たらみんなと同じなんだろう。でも私たちはきっちり初対面から二時間目で、なんなら互いにまだ少々の人見知りすら発揮していた。
「ううん、いいの。そう言う話題に振ったのは私だし」
「でも『恋愛で大切なこと』って『相手への理想』ってことにも繋がってくるじゃん?難しいよね。僕も、僕の理想通りの恋人なんているとは思っていないよ。だって相手は人間だし、僕の理想は妄想だし。でも、『普通じゃない感じの恋』って、確かに憧れるかも」
そう言って笑った彼の目の下にはホクロが在って、目じりのしわに埋もれそうになりながら必死にしがみついているようなのが可愛かった。
幹事の「そろそろお開きでーす、料金お願いしまーす」という声が聞こえてきた。
彼の言う、普通じゃない恋ってどんなのだろう。居酒屋を出て、いったん解散となる。二次会に行くメンバーとはここでお別れだ。彼は行かないらしく、男性幹事に手を振って見送っている。
「きっと、私も特別な恋がしたかったんだよ。他の誰の元カレにも似てない人と、小説や漫画の中だけの恋みたいなやつがしたかったんだ。それに近いのが、きっとネアンデルだった」
私は手を振る彼の横顔に向かってそう言ってみた。
「…そっかあ、とりあえずどうする?帰るなら送るけど」
二次会組の喧騒が遠ざかっていく。みんな二次会に行くのかもしれない。私は誘われなかった。誘われたのかもしれないけど、行くわけないからそんなに覚えていなかった。だって午後九時に飲み会を解散したあと二次会に行くなんて、そんなの普通過ぎる。
「おおくぼさん」
私は覚えはしたものの一度も読んでいなかった彼の名を呼んだ。
「はい」
「彼女いますか」
「いたら来ないでしょ、合コンとか」
「じゃあ、私と一緒に来ませんか」
「どこに?」
「うち」
「え、それってどうなの、それは君の理想の恋の始まり方で合ってるの?」
「正確には、まだ始まっていません」
私は彼の手を取った。手を繋ぐのではない。彼の右手を私の右手で握った。正面から大久保さんを見る。
「作戦会議をしましょう。私たち、お互いの理想の恋を作れるかもしれません」
これは、自称変わり者である私たち二人が、しゃらくさいくらいに自分たちの理想とする恋を作り上げようとした、闘いの日々の記録である。
「散らかっているけど、どうぞ入ってください」
靴は玄関い出しっぱなし。でもいい。私たちはまだ出会っていないことになっているのだから。
「…お邪魔します」
大久保さんはおずおずと、背中を丸めながら入室した。私はとりあえず冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。
「あ、ありがとう」
「今エアコンつけたから、そのうち涼しくなると思う」
「どうも」
一人暮らし用に用意したこたつ兼テーブルは狭い。二人で向かい合ったら、本当に近い。
「…で、理想の恋を作る、というのは」
彼の目は興味半分、怪しい幸福論を唱える宗教家を見る目半分といった目で私に訊ねた。
「うん。大久保さんの憧れる『普通じゃない恋愛』ってやつを、私に教えて。できる限り、私はそれに近づく努力をする。相手の化粧とか服装みたいな表面の情報だけじゃなくて、出会い方とか、趣味とか、大学を変えるのは無理だけど、バイト先くらいまでなら検討するから」
「まってまって、そこまで相手に合わせるのって、君の理想の恋愛なの?それに、その、僕らはつい三時間前に会ったばかりで、正直付き合うというか、互いのことあんまり知らないし…」
「だからこそ、この話し合いの場です」
私は自分の麦茶を一口飲み、グラスを勢いよく机に置いた。
「大久保さんの言う通り、自分の理想の相手なんてこの世にいないよ。理想の出会い方も、自分が神様でもない限り無理。でも逆に言えば、『理想は妄想』ということを理解しあってさえいれば、私たちは理想の恋を『創る』ことができる」
「つまり、小説や漫画のプロットみたいに、僕らが主人公の恋愛物語を二人で考える、と」
「そういうこと」
暑くなってきた。でもエアコンの温度は下げたくない。私は麦茶をさらに飲み、話を続ける。
「こんな恋、始まる前から相手の同意がなければまずできないよ。しかも私たちは、今日の合コンでも絶妙に売れ残るくらいだから、運命なんてものに任せてたらきっと理想の恋愛ができる確率は悲しいかなゼロに近い。少なくとも社会人になったら、こんなバカみたいなことに割く時間はないだろうし」
「バカみたいなことという自覚はあるんだね」
「もちろん。だから、誰にでも持ち掛けられる話じゃないよ」
犬の名を途中で『マロン』にするためにあれだけの労力と根気を使える人。それを初対面の女に語ろうとする自意識。この人を逃したら、こんなこと二度とできないかもしれない。
「相手のことを知るとか、今の互いが互いのタイプであるとかどうとか、今はそんなことどうでもいいよ。生きてて、異性で、今は恋人がいない。この恋において私たちが相手に求める条件はこれだけ」
「最高にハードルが低いな」
「そう。最低限のハードルで、最高の恋をするの。どう、この話、乗らない?」
大久保さんは麦茶を飲み干す。その喉仏は、居酒屋でビールを飲んでいた時より勢いよく動いた。
「この話、乗った」
こうして私達は再び固い握手を交わしたのだった。
そして、私がこの提案をできたのも彼がそれにすぐ乗ってきたのも、酔いという大いなる力が作用していることは明白であったので、我々は二人が正気に戻る前に速やかに作戦会議に移った。
「じゃあ、まず大久保さんの理想の相手を教えて。外見はどんな感じ?」
「ショートカットでシンプルな化粧、でも目に力がある感じの顔で、身長は問わないができれば細身。服装はサブカル系でもいいけど、あまりコテコテに古着などに寄りすぎずモード系も取り入れて欲しい」
「いや、めっちゃ出るじゃん」
流石、『理想は妄想』と言い切っただけはある。かなり具体的なイメージがありそうだ。普通に出会おうと思ったら理想が固まっていればいるほど相手を見つけるのは難しいが、今の私には好都合である。
「じゃあ、趣味とか、それに伴う行動とか、何か理想はある?」
「スタバとかはあんまりいかず、インスタ映えもあまり狙わない。邦ロックをよく聞いていて、でも洋楽にはそこまで詳しくない。日本の単館系の映画を好み、でも海外の物には詳しくない。大学のサークルはスポーツ系など明るく元気な物ではなく、文科系に入っていて欲しいがオタク臭くはならないで欲しい。バイトは居酒屋とかでもいいし、中古のCD屋とか古本屋、古着屋なども良い」
「あ、私演劇サークルで脚本かいたりしてるんだけど、それでいい?」
「全然良い」
大久保さんの言葉を、脚本づくり用ノートにメモしながら、私は自分の中で一つの人物像を練り上げていく。
「…この子、もしかして読書とか好きなんじゃないかな」
「文豪系でお願いします」
「承知」
どのあたりまでの作家が文豪にあたるのだろう。最後の文豪と聞いてよく名前が挙がるのが三島由紀夫だとこの前の授業で習った。だが教授個人としては、村上春樹も入れていいのではないかとの見解だ。
「料理、意外とできる感じの子かな」
「うーん、凝ったものはあんまり。名前のはっきりした料理じゃなくて、食べるのに必要な工程として材料に火を通して味付けしました、みたいな料理をよくする。どう?」
「いいね」
楽しくなってきた。ノートの半分は情報で埋まり、もう半分は絵を描いてみた。
「あ、字、良いね。好きな形だ。イラストも良い」
「そう?じゃ、この字と絵の書き方は変えなくてOKだね」
書きながらちょいちょい出てくる「だが海外の物には詳しくない」という一文が、彼の柔らかな薄皮を被った自尊心の小さな屹立を感じて愛おしい。そんなこととても言えないが、でもこの言い回しも彼の好みなんじゃないだろうか、とも思う。
私も負けじと自分の理想を語り、二人でその人物を練り上げていく。彼は自分がその人物になると言うことで、『自分の今のバイト先は深夜のコンビニなのだが、自分の解釈としてはこの人物像に一致するけれどどうか』『趣味が楽器ということは、バンドを組んでて欲しいのか一人の演奏家でいいのか』等積極的に設定を深めていった。
気づけは、あの飲み会に費やした時間よりも長い時間が経過していた。
あの居酒屋の無駄話小宇宙より更にディープな空間であった。脚本用ノートに書き始めたメモも、ゆうに八ページは越えている。
「じゃあ僕らの共通点として、『邦ロック好きカップル』って感じだね。出会いはライブハウスにしようか」
「いいね。私、一人でライブハウスとか言ったことないんだけど、そういうことできるようになりたかったんだ」
「じゃあこれは僕の理想であると同時に君の理想でもあるわけだ」
「なにそれ、めっちゃイイね」
麦茶はいつの間にか缶ビールに変わり、私達の酔いは継続したまま正気に戻らなかった。
大久保さんが調べたところ、来週の木曜日に一駅先のライブハウスでライブがあるらしい。私達はその日を始まりのⅩデーに定めた。
「僕、クリープハイプみたいな恋がしたいな」
すっかり酔っぱらって目じりの赤くなった大久保さんが、ビールの缶を潰しながら明らかに正気ではないことを言い出した。その言い方があまりに情けなくて笑った。
「いいね、安っぽいダサいカレンダー貼って、鍵はポストに入れて管理しよう」
「そうそう。ダサいTシャツ着て、寝癖でね」
「私は、きのこ帝国みたいな恋が良いな。深夜、コンビニにビール買いに行って、飲みながら散歩しよう」
「そのまま真夜中の校庭に忍び込んで、星を見るんだね」
「そうそう」
素の共通点として、私達は音楽が好きだった。口ずさんだあの歌詞の登場人物に自分がなるのだという興奮に、何という名前を付けようかと考える。もうすぐ終電だ。大久保さんとⅩデーの確認をもう一度して、今日は解散となった。
大学二年生、夏の夜のことである。私たちは世界や運命、神様に隠れて、恋と音楽のもとに契約を結んだ。
来るⅩデー。私はライブハウスの入り口で、若干びびって震えながら当日販売のチケットを買った。一人でこの真っ暗な階段を下っていく緊張感、そもそも初めての一人ライブ、しかもこのアーティストを全く知らない、そして今日から始まる、おそらく私の人生最初で最後の理想の恋。
あの夜に感じたエモーショナルな雰囲気の魔法はすっかり溶けて、場違いなところに突っ立っている自分が浮いているような気がする。一応、服装はサブカル系を意識してきたし、頑張ってダイエットもしてきた。それでも、取ってつけたような急ごしらえ感を、ほかならぬ私が感じている。
出演者と見紛う緊張感で凝り固まった表情筋の中途半端なサブカル女こと私に、カウンターのお姉さんは笑顔でビールを渡してくれた。緊張をほぐすために一口飲む。うすら温いその液体は私の喉に絡みついて、思わず咳をした。
フロアには人がほとんどおらず、なるほどこれなら男女の出会いも成立するなと納得する。
かつて一度だけ友達と言ったことのある、某有名バンドのワンマンライブは、もう『絶対にこれ以上人を入れてはいけない気がする。これ以上入れたら押しつぶされ体の形が変わる。形状を維持できない。なのになぜさらに人が入ってくるのか』という恐怖のおしくらまんじゅう状態で、そんなんだったら特定の誰かと出会うことなどできないなと若干心配していた。
名前すら憶えていない今日の出演者が売れてないことに救われつつ、私は壁際を探した。
いた。前日にインスタのDMで送られてきた情報そのまんまの人が、壁にもたれかかっている。ちなみにそのインスタは互いに削除した。今日彼に出会ったらラインを交換するし、インスタは「恋用」に新しくアカウントを育てなければならない。
私は自然な感じで彼の横に立つ。大久保さんの服装は、体型に合った黒のパーカーに黒スキニー、頭にはキャップを被っている。前髪は急には伸びなかったが、アイロンか何かで伸ばしてくれたのだろう。限界まで真っすぐ垂直に降りてギリギリ目にかかっている。
吐息のようなさわさわとした空気が、フロアの証明が落ちたことで一瞬どよめく。その後、拍手とともに明るくなったステージの上には、今日の出演者が立っていた。
「こんばんは、People october machineです。あ、一人なんですけどね、なんかバンド名に憧れてて。僕は、テツっていいます。今日は来てくれてありがとうございます」
ぼそぼそ話す彼のバンド名は、今聞いたばかりなのにもう忘れた。
「今日は、ありがとうございます。一曲目の歌です。聞いてください。日曜日の行き止まり」
ステージ上の証明が絞られ、海の中のような薄青さがフロアを満たす。ギターをつま弾く彼の指は長い。
『日曜日のつづき それがきっと一番の誉め言葉 あとはどんな言葉で覆っても、かなしい日 日が沈んだから月が出ている 僕はくしゃみをした 終わらないように夜を追いかけて 僕はずっと西に向かって 歩くよ』
彼の声は、男性にしては細く高いようだった。ミュージシャンには珍しい声。でもどこかで聞いたことあるような声。最初は棒立ちだったフロアの観客たちも、次第に体を横に揺らし始める。
『太陽から逃げて、ずっと歩いて、僕は永遠の日曜日の中 僕の孕んだかなしさと希死念慮 それが僕だけの音楽になるまで ずっと歩く夜の中 席をしてもくしゃみをしても、一人で歩く夜の中』
私はちらりと横を見る。青い光の中で、大久保さんは水底に沈むように揺れている。前髪の隙間から見える目に光が反射して、彼自身も海みたいだ。
「…ありがとうございました、日曜日の行き止まり、という曲でした。いやあ、実は僕、中学時代にいじめられまして、だから月曜日ってマジで最悪すぎて…」
ミュージシャンの身の上話が始まった。ステージ近くにいる観客は、ちょっと興味深そうに聞いている。大久保さんは私の横から動かない。
「…でね、だからその言葉に僕本当に救われて。いつか僕みたいな奴に、同じこと言ってあげたいなあって思って、作ったのが次の曲です。『僕んちテレビないから』」
『私の家さ、テレビないから 人を殺したらうちにおいでよ その一言が僕の聖書 僕の経典 僕の福音 僕の祝詞』
そう言えば大久保さんから、
「僕ってテレビとか置いてなさそうな家に住んでない?」
という、事情を知らない人が読んだらとんだ怪文書な質問が来た。もちろん同意した。その後彼がテレビをどうしたかは知らない。
気が付くと最後の曲だった。ちらちらと横を確認すること八回、そろそろもう良いだろう。私は曲の一番盛り上がるところで、右手を振りあげた拍子にビールをこぼした。こぼしてから、まだ一口しか飲んでいないことに気づいた。
「あ…」
結構な量が大久保さんの足にかかってしまった。シナリオではほんのちょっとかかればよかったのに、緊張のせいで手元が狂ったのだ。でも、もう後には引けない。
「す、すみません!」
若干、大久保さんが漏らしたんじゃないかと疑われるくらいの量のビールが床に溜まって、私は芝居ではなく、本気で謝った。
「あ、や、別に。どうせ捨てる靴だし」
私の慌て方に一瞬引いたかに見えた大久保さんは、努めて冷静に『捨てる靴』というキーワードを出してきた。
「や、でも、あの、すごい零れちゃったし」
「まあ、ライブハウスの床なんて汚いから」
「いや、そう言う問題じゃなくて、その」
「てか、聞こえにくいんで出ます?もう最後の曲だし」
彼はスマートに私を外へ連れ出した。暗い階段を抜けて、外に出る。さっきまで音楽が満ちた海みたいな地下にいたのが嘘みたいに、地上は明るく乾いていた。でも、夜だった。
細かい台詞を決めてこなかった私は、我ながら間抜けなことしか言えない。
「…あの、クリーニング代払うので…」
「や、いっす。もうぼろくて、このライブ終わったら捨てる予定の靴だったし」
彼は律儀に、打ち合わせ通り『捨てる靴』というキーワードを繰り出す。
「でも」
「ちょっと歩いたら乾くから、そうしたら帰りますよ」
「あ、じゃあ歩きがてら、ちょっとお詫びに、何かごちそうさせてください。良かったら私のお気に入りのお店があるので」
事前に決めてあった流れのはずなのに、なんだか自分が相手を必死にナンパしているような気持になってきた。世の中のナンパ師は、みんなこの羞恥に耐えながら涼しい顔して女に声をかけまくっているのか。その苦労は一切社会に貢献されていないが、勇気と思い切りの心は相当なものだ。これからは少し尊敬のまなざしで彼らを見よう。少し世界に優しくなれそうな自分がいる。
心が折れそうになりながら、私は事前に調べて下見もしてきたカフェバーに彼を案内した。といっても、行ったことがあるのは昼間に営業しているカフェだ。お洒落にし過ぎない店内は、無駄な飾りがない代わりに、広くて白い壁をスクリーン代わりにして外国のバンドのミュージックビデオを流している。
「カジュアルで良いお店ですね」
大久保さんはカウンターに座って、店内を見回した。
「まあ、学生なんで、贅沢はできないですし」
「あ、学生さんなんですね。僕もです」
「そうなんですね、サークルとか何か入ってます?」
「僕は映画研究会と軽音部です」
「私は演劇部で、でも演者じゃなくてシナリオ書いてるんです」
運ばれてきたビールをちびちび飲みながら、私達は自己紹介という名の、相手の好みに合わせてきた自分の設定を語り合った。
彼はこの駅の近くに住んでいる大学生で、映画が好きでギターを弾いている。邦ロックをコピーしているバンドを組んでいて、いつかオリジナル曲でライブをするべく、作詞作曲にも励んでいるということだ。
彼が元々軽音部に所属していたのか、この設定のために入ったのかはわからない。私はもともと物語が好きで、小説や脚本を書く仕事に憧れていたから、その設定はそのまま生かした。
設定だけの舞台が進んでいく。話せば話すほど、相手が自分の好ましく感じる人間であることがわかって、わかっているのに安心する。
「僕、今日のライブのアーティスト、結構気になってたんですよ。生で聞いたら意外に良かったですよね」
「私もそう思いました、声が独特で、初めて聞くような、どこかで聞いたことあるような」
「そう!わかる」
「あ、見て、何か始まる」
さっきまでミュージックビデオを映していた壁が、青い操作画面に変わっている。腰をひねってその画面を見ている大久保さんに私は調べておいた情報を伝えた。
「ここ、時々こうやって、店主が映画を流すんですよ」
「へえ、映画。何やるんだろ、良いね」
始まったのは、日本の少し古いミニシアター系の映画だった。この監督は、この映画の次の作品で大きな注目を浴び、海外の映画祭で賞を得て一躍有名監督の仲間入りを果たした。その映画は、私も見たことがある。
「僕、これ見たことある」
「え、この次のドライブの映画じゃなくて?」
「うん。その有名な方を見て興味持ってね。この映画はサブスクでも無料では見られなかったけど、課金した」
「すご。てかサブスクで課金とかしたことないや。バイト何やってるの?」
「フツーにコンビニ。あと半分趣味でレコード屋」
「いいな、レコード。私は居酒屋だけなんだけど、もうちょっと増やそうかなーって」
「無理して働くことないけど、まあこんな趣味だと金はなくなるよね」
「わかる」
始まった映画を眺めながら、それぞれ二杯目のハイボールとファジーネーブルを啜る。
体をひねって画面を見ていた彼が
「…音、聞き取りにくいね」
とひそやかに言った。
「うん。正直全然聞こえない」
「無声映画じゃないんだからさ、せめて字幕を出すとかしてほしいね」
「うん、マジでそれ」
彼曰く、この映画は短編三部構成なのだという。偶然性を主題にした作品で、たまたま起こった出来事から思わぬ方向へ物語が展開していく。大きな事件が起こるわけではないが、台詞回しや画面の展開が心地よくて気づいたら見入ってしまったという。そして最後の話がとても良いらしい。
「えー、そんなに良いなら、こんな耳を澄ませながら見るんじゃなくてもっとちゃんと見たいな」
三杯目の酒の中身もなくなり、私の集中力もなくなってきた。
「じゃあ、うち来て見る?」
彼は私の顔を見ないで、さらっと言った。
「え、うちって、大久保さんち?」
「ほかにどのうちに行くの」
笑った顔にはやはり目じりにしわができたが、以前ほどホクロが沈みそうになっていない。彼も緊張しているのだと、このぎこちない笑顔を見て分かった。
そのまま会計を済ませ、ここから歩いて二十分くらいだと言う彼の家に向かう。ライブハウスを出て一時間近く経とうとしていた。
彼の家は古いアパートの二階で、でも中に入るとびっくりした。
「うわ、すごい本。でか、これギター?」
明らかに防音でも何でもなさそうなボロアパートなのに、彼の部屋にはアコースティックギターが置いてあった。そして壁の防音性を少しでも上げるようにか、一つの壁が本棚になって埋まっていた。
「そう。エレアコ。アンプにつなげばバンドでも使えるよ」
「えー、ガチじゃん」
思わず本音が漏れたが、このセリフはセーフだったようだ。彼は何事もなくパソコンの準備をし、映画を再生しようとしている。
「あーちょっと時間かかるかも。その辺で本でも眺めてていいよ」
「マジで!やった」
私は本好きの設定ではあるが、私自身も本は好きだ。この地震が来たら一発で潰れそうな本棚を見て、ワクワクしないわけにはいかない。まあ地震が来たらきっとこのアパートごと潰れるだろうから、その時は一思いにベランダから外に飛び出せばいいのだ。そんな気概すら感じる、彼の本緒コレクションだった。
「これ、全部買ったの?」
「いや、実家から送ってもらったりとか、古本屋で買ったやつもあるけど」
「ねえ、ズッコケ三人組とか懐かしすぎない?」
「あ、や、それは実家が間違えて送って来て」
「ねえ、中学校の教科書まである!」
「それは、大学の、そう大学の授業で使うかもって…」
苦しい言い訳を連発する彼を見て、思わず笑ってしまった。
「いや、本棚埋めるための要員じゃん!」
「良いじゃん別に…とりあえず埋まってりゃ…」
「うん、ごめんごめん。良いよね壁一面の本棚。憧れる」
この本棚を埋めるために、彼が実家からあらゆる本を送ってもらったのだろうか。小さい大久保さんがズッコケ三人組を読んでたり、『新しい数学』を勉強していたりする姿が目に浮かぶ。
「あ」
眺めていると、社会の資料集が目に入った私が使っていたものと同じ出版社の資料集だった。思えば、ネアンデルが私たちを引き合わせてくれたも同然だよな。そう思って手に取る。
「あれ?」
「何?」
後ろから声をかけられて、私は反射的に資料集を閉じた。
「いや、別に。映画の準備できた?」
「うん。買ってきた飲み物出して。一緒に見よう」
「うん」
もう一度最初から見た映画は、さっき映像だけ目にしてしまったから新鮮味が薄れてしまった。それでも面白かった。
「うわー、記憶を消して最初から見たかったわ」
「だよね、でもこの最後の話の奴は、店では見てなかったから、楽しめると思うよ」
「本当?やった」
その話の主人公は女性で、たまたま帰ってきた地元の駅で偶然再会したかつての好きな人と、話をする場面から始まった。
「こんな偶然、在りうるかな?」
私が茶化すと、大久保さんは真剣に言う。
「いや、映画だから。でも、女の人は結婚したら名字も変わるし、なんか名字変わると、雰囲気も変わるって言うか、偶然の再会って難しくなる気がするよね」
名字が変わる。そう言えばネアンデルはなぜ転校したのだろう、あんな中途半端な時期に、本当に親の仕事の関係だったのだろうか。
「ほら、この最後のシーン、僕すごく好きでさ、エスカレーターで、もう一度出会うシーン」
大久保さんの舌の名前って何だっけ。聞いてたっけ。
映画が終わり、画面が青くなる。その光を反射し、アパートの部屋全部が海みたいに染まる。
「どうする?もう帰る?終電があるなら送っていくけど」
そのセリフも、事前に二人で決めたもの。でも私は、ここからシナリオにないセリフを言う。
「ね、大久保さんって、中学校の時転校した?」
「え、何急に。したけど、なんでわかるの?」
「中学一年生の教科書とか、二種類ずつあったから」
本棚を指さす。さっきまで読んでいた社会の資料集が少し飛び出している。
「ああ、そっか。うん。親の都合でね」
「ネアンデルタール人。好き?」
「え?」
「あなたの資料集、ネアンデルタール人の写真がなかった。切り抜かれてた」
何度も、何度もみたページ。中学生の時、そのページを中心にほかのページも読み込んで、ネアンデルディスカバーを目指したのだ。指が、最初にそのページを開くように覚えてしまっていた。
「ああ、そこ見たの。あれはちょっとした…」
「大久保って名前、私の同級生にはいなかった。でも一人だけ、名前が変わっている可能性のある同級生がいる。親の都合だって言ってたけど、その時はてっきり父親の転勤と過だと思ってたけど、今思えば転勤にしては中途半端な時期だった」
子どもが転校する理由は親の転勤が多いのだろうが、もう一つ、親の都合で可能性があるのが、離婚だ。
「母親について行けば、名字が変わるし、母親の実家のある街に引っ越すことが多いよね。私、大久保さんの下の名前、聞いてない。あの資料集に書いてあったのはイニシャルで、少なくとも名字はOじゃなかった」
大久保さんのしゃらくささを思えば、中学時代にイニシャルで名前を書くことくらいしそうだ。私は大久保さんの下の名前を聞いていない。
「ね、あなたの名前、壮介じゃない?」
私の詰め寄る勢いに押されて、彼はバランスを崩し後ろに手をついた。
「まって、そんなセリフないよね」
「今セリフとかシナリオとかどうでもいいよ!」
しまった。大きな声を出しすぎた。隣人から苦情が来るかもしれない。でもそれでもいい。そうしたら二人で、もう少し広い部屋を探そう。安っぽいダサいカレンダーを飾って、寝癖の頭で、時々夜中にビールを買いがてら散歩して。
後ろ手をつく彼の上に、私はゆっくり乗る。
「あの、切り抜きは、正直ちょっと君が喜ぶかなって、それで…今日は泊るけど何もしないで、明日の朝コンビニで朝ご飯を一緒に買いに行く予定じゃ」
「壮介君」
彼の耳元で言い聞かせるように囁く。
「あなたの独創性も、行動力も、気高さも、私知ってた。ずっとずっと気づいていたよ」
だから大久保さん。私のネアンデルになって。これをもって、私の初恋としますので。
〈了〉