西瓜 婆 (
斉藤時々
ヘソから芽が出た。
首を折りたたむように顔を近づけてみると、双葉だった。指先で摘んで引っこ抜こうとして、一瞬躊躇する。抜くのは惜しいような気がするので、とりあえずやめておく。
パンツと靴下だけを身につけた絶妙にみっともない格好のまま、全身鏡の前に移動する。やはり芽だ。緑色をしている。貝割れ大根の先っぽに酷似している気がするが、ほとんどの芽はそんなものかもしれないとも思う。
鏡に映る裸を観察する。
なんの芽だろうか。言い訳のように脳内で一度律儀に思い浮かべ、はたして答えは最初からわかっている。そんなの西瓜に決まっている。
西瓜を
やる気のないおばちゃん店員は、店の奥まった場所に置いたパイプ椅子から立ちあがろうともせず、もはや勝敗の決まった野球の試合を惰性で見届ける観客のような目つきで往来を眺めていた。パイプ椅子とおばちゃんの尻の間からは、おばちゃんの座り心地を幾分か改善するために設置されたと思われる、色褪せた座布団の端っこがのぞいていた。それは、長年おばちゃんの尻に敷かれてきたことを物語るように、もはや「ぺたんこ」と評されるまで幾分の猶予もないように思われた。
わたしは、配送用のダンボールをそのまま生かした形で陳列されている数玉の西瓜を見つめた。その横には氷を敷いた発泡スチロールに、4分の1や6分の1サイズにカットされた西瓜や、食べやすいサイズに四角くカットされ透明なパックに詰められた西瓜もあるにはあった。が、わたしは見向きもしなかった。丸い西瓜以外の選択肢は存在しなかった。
いかんせん丸ごとの西瓜はそれなりに高価である。だが、わたしが決めかねていたのは値段のせいではなかった。一度買うと決めたからには多少の出費を惜しむつもりは毛頭なく、ただ、なんというか、ピンとくる西瓜がなかった。それに尽きる。
「欲しいのない?」
自分に向けられた言葉だと瞬時には気づかなかった。しかし冷静に考えて客はわたし一人である。
「ピンとこなくて」
答えたあとすぐに、これではまるで店の品揃えにケチをつけているようではないかと危惧し「みんな美味しそうではあるんですけど」と申し訳なさを装いつつ付け足した。
おばちゃんは気を悪くした様子もなく、半分だけしか開いていない目でわたしの方をじっと見た。じっと見られているのに目が合わない。おばちゃんはわたしの腹のあたりを凝視している。内臓まで透けて見えているようなその視線に、体内でうごめく臓器たちがピシッとかしこまる様を想像した。
おばちゃんは無言で立ち上がると、一度店の裏に入って姿を消し、大きな西瓜を抱えて再度登場した。
「それをください」
ピンと来た。そうとしか言いようがない。
求めていた完璧な西瓜がおばちゃんの腕の中からこっちを見つめていた。
半球体にした西瓜を左腕で抱え、右手に持ったカレースプーンを赤い断面に突き立てる。赤い果肉を抉っては食べ、抉っては食べ。はたから見ると取り憑かれた人のように見えたことだろう。
しかしこうしてみると、西瓜というものは結構グロテスクな見た目をしているのではなかろうか。まず中身が真っ赤という時点でちょっとキモい。果肉はウレタンに血を染み込ませたような質感をしている。しかも、その赤い果肉にまみれて黒い種が大量に埋まっているのだ。
けど美味しいから全然オッケィ。キモくても食べられる。
顔中が西瓜の汁まみれになり、白いTシャツが赤い絵の具を塗った筆を洗った水の色に染まった頃、ようやくわたしは右手の反復動作を止めた。
しばらくすると尿意に襲われ、トイレで水分を大量に排出した。
「西瓜、カリウム、ムツゴロウ、うそつき、キツツキ、キリマンジャロ、ロレックス、素顔、おしっこ」
ちょうど「おしっこ」の「こ」のときにおしっこが止まるように微妙な調整を図る。わたしはわたしの体のコントロールの良さに満足する。
わたしと西瓜がそうであるように、大体の生き物は水分でできている。
自宅の狭いトイレでそう感じたのが四日前のこと。
あの時、わたしは確実に西瓜の種を一つとは言わず飲み込んだ。その結果がこの芽なのだろう。
とりあえず今は平日の朝である。仕事に行かねばらない。芽の処遇については帰ってきてからゆっくり考えよう。
そう悠長に構えていたのがまずかった。芽はものすごい速度で成長していた。残業を終えて帰ったわたしがキャミソールとブラウスをひとまとめにたくし上げると、ひょろりとした茎が腹の周りを2周して、ちょうど3周目に差し掛かろうとしていた。
おいおいまじかよ。
早すぎる展開にわたしは戸惑い、これはさすがに病院に行かねばなるまい、とようやく思った。
思ったはいいが問題は何科に行くべきかである。
病院というのは困ったもので、何科にかかるか決断するために、一番最初の診断は自分で下さなければならないという矛盾を孕んでいる。明らかに不調な部分がわかっている人はいいけれど、わたしみたいなやつはどうすればよいのだ。
求む。何科かわからん科。
とは言えわたしは産婦人科に行った。なぜなら、定期的にかかっている、いわゆるかかりつけ医的な存在がそこしかなかったからだ。
「ご懐妊されてますねー」
生まれてこの方、化粧などという無駄なものは一度もしたことがありません、というようなさっぱりとした風貌の医者が言う。
わたしは医者の履いているナイキのハイテクスニーカーをじっと見つめる。
「心当たりありますかー?」
おめでとう、でも、あちゃー、でもないフラットなトーンで聞かれた。
わたしは心当たりを思い浮かべる。
馬鹿にされるのではと思うと自然と声が小さくなる。
「いや、西瓜を食べたくらいしか」
「あー、多分それですねー」
医者は笑わず、手元のキーボードをパチパチした。
――西瓜を食べて妊娠
パソコンのモニターに浮かんだ文字がわたしの位置からもはっきりと見えた。
「あの、こういうことってよくあるんでしょうか」
「いやー、珍しいですねー。症例は数件報告されていますけど、わたしも実際に見たのは37さんが初めて」
とりあえず、人類初ではないことにわたしは安堵する。
「それで、どうされますか? 産む気ありますー?」
医者は横目でチラッとわたしを見た。情緒ゼロのその聞き方が、わたしには妙に好ましかった。そもそもわたしはこの先生がとても好きだった。産婦人科医総選挙なるものがあれば絶対に先生に投票するというくらいに、激しく推していた。
先生にたどり着くまでに、わたしは五人の産婦人科医を経由した。
「生理痛って知ってる? 生理のときにお腹が痛いのは女性なら当たり前で、君だけじゃないんだよ」と言ったあの爺のことは死ぬまで許さない。
他にも、触診がキレそうなくらい痛い医者。「ピル出してあげるけど、避妊用に出すわけじゃないから勘違いしないでね」と聞いてもいないのにツンデレ風味で謎の忠告をしてきた医者、等々。
わたしは産婦人科の医者たちと内心で大いなる戦いを繰り広げてきた。産婦人科にかかる際には、嫌なことを言われるのを覚悟して、心に分厚いダウンジャケットを着せていかなくてはならない。じゃないとブチ切れるか泣く。
わたしの産婦人科医に対する偏見は日に日に積もって行った。
産婦人科医というものは、ピルと痛み止めを処方する代わりに患者を侮辱することが法律で認められている生き物かと思い始めていた。
それでも病院に通わざるを得なかった。毎月襲いくるのたうち回るような痛みと、胃の表裏を無理やりひっくり返されたような吐き気を少しでも抑えるために。今にもゲロを吐きそうな体を引きずって、毎日会社に通うために。クソ喰らえ。
そろそろネットで医者の悪口を書き始めるべきかというところまで追い詰められていた頃に、ようやく先生と出会った。書かずに済んでよかった。一生の汚点になるところだった。
「いきなり妊娠なんて驚きましたよねー。今日答えを出す必要はないですから、落ち着いてゆっくり考えてみますか?」
先生がわたしの沈黙を
「産みます」
「あ、そうですか」
「ずっと子ども欲しかったんで」
「あ、なるほどー。じゃあ、おめでとうございますー」
先生があっけらかんと言う。
わたしは小さくうなずいた。
何を隠そう、わたしは子どもの頃から子どもが欲しかった。物心ついた頃にはすでに、寝る前に子どもにつける名前を考えるのが習慣になっているような、そんな子どもだった。
どういうわけか、出産したいという欲望を幼い頃から抱えて生きている。
けれども、年齢的にも経済的にも出産できる時期まで成長すると、とたんに全てのことが面倒になった。欲望は相変わらずあるのだが、圧倒的に面倒の方に
実際に出産するためには、その前になんかいろいろあるのだった。出産という出来事だけが唯一明確な事実であるわたしにとって、その前にクリアしなくてはならない「なんかいろいろ」は空虚な茶番のように感じられて仕方がなかった。
茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、茶番、出産、みたいな。
一体全体、茶をたてずに出産する方法はどこかに無いものか。もしかして、茶番という膨大な数のクエストを忍耐力を持ってこなしたものにのみ与えられる褒美が出産なのだろうか。だとしたらそれを与えるのは一体どこのどいつだ。わたしの体には元から子宮と卵巣がちゃんと備わっているのに?
「じゃあ会社に提出できるように診断書出しておきますねー」
いつもと同じ、低容量ピル出しておきますねーのテンションで先生が言う。
翌日、早速上司に診断書を提出した。わたしの場合、普通の妊娠に比べ妊娠期間は短いが、早めに産休に入る必要があるらしかった。
わたしの突然の報告に上司は一瞬驚いた表情を見せたが、けっこうあっさり受け入れた。
「正直、今37に抜けられたら困るっちゃ困るけど。まあ、この少子化の時代に子ども産んでくれるなんてありがたいことだからね」
おめでとうと言いながら笑顔でわたしの肩をたたく彼女には、確か大学生の娘がいたはずである。
部下の事情を快く受け入れる懐の深さには素直にありがたいと思いつつ、わたしは少子化を解消せんがために出産したいのだろうかとふと我に返って考えてみる。
わからない。そもそもなぜ出産したいのかわからないのだから、そうでないとは言い切れない。
わたしは黙々と引き継ぎ書を作成する。水をたくさん飲むように先生から言われているので、会社のウォーターサーバーを空にする勢いでぐびぐびと飲む。
西瓜の茎と葉は順調に腹の周囲に生い茂り、わたしはだぼっとした洋服ばかりを着るようになった。やがて黄色い花が咲き、その真下にビー玉くらいの果実を認めた。ビー玉はあっという間にピンポン玉の大きさになり、野球ボールの大きさになった時点で、わたしは産休に入った。
西瓜の実が大きくなるにつれ家の中でも動きを制限されるようになったわたしは、ドラえもんみたいなポケットがついたパーカーを裏返しに着て、そのポケットの中に実を収納するという画期的な方法を、海外の動物ドキュメンタリー番組を見ている最中に思いつき、即座に実行した。カンガルーってまじで天才。
やがて外出もままならなくなったわたしのために、先生が週に一度往診をしてくれた。感激のあまり繰り返し礼を言うと、「37さんのケースで論文書こうかなって思ってるんでお構いなくー」と言い、最新のアイフォンでわたしの腹から伸びる茎とその先端に実った西瓜の写真を撮った。
出産の日は思いの
その日、先生は一人のおばちゃんを連れてきた。聞けば助産師兼農家の
「37さんの場合、出産のタイミングがわたしでは判断しかねるので、その道のプロに来てもらいましたー」
土肥さんはバスケットボ―ル大になったわたしの西瓜をまじまじと見つめ、指の腹で軽く叩いた。ボンッという低い音がして、わたしの腹まで振動がビリビリきた。
「もういけるよ」
土肥さんの低い声が厳かに響く。
「え、もう?」
わたしは焦った。まだ名前を考えていなかった。子どもの頃からあんなに毎晩考えていたくせに、いざ妊娠した途端わたしの脳は考えることを忘れてしまったようだった。
「
土肥さんはわたしと先生に言い聞かせるように言う。
「あ、じゃあお願いしましょっか。37さん、いいですかー?」
ダメですと言う勇気も無いので、わたしは「はあ、お願いします」と情けない声を出す。
土肥さんは薄桃色のエプロンの前ポケットから果物ナイフを取り出すと、新聞紙で作ってある手製の鞘を外し、右手にしっかりと握った。
「大体2センチくらいの深さでぐるっと一周すれば充分よ。あとは勝手に産まれてくる」
「桃太郎みたいにぱっかーんて割らないんですかー?」
先生が興味深そうに聞く。ちょうどわたしも同じことを思っていた。
絵本だとおばあさんが包丁で桃を真っ二つにしているではないか。
「そんなことしたら頭かち割っちゃうでしょうが」
土肥さんは呆れている。
桃太郎がなぜ無傷で産まれてこられたのか、謎は深まるばかりである。
土肥さんは果物ナイフの刃を三分の一だけ西瓜に沈めた。そのまま一定のスピードで刃を手前に引きながら西瓜を器用に回転させる。ぐるっと一周、綺麗に切れ込みが入った。
「出―ておーいでー」
歌うように言いながら土肥さんは手のひらで西瓜をポンポポンッと三度叩いた。
謎の儀式を見て呆気に取られているわたしに構わず、土肥さんは持参したウェットティッシュで刃を拭うと、新聞紙製の鞘にもどしてポケットにしまった。
先生はさっきからアイフォンを構えたまま動かない。と思ったら、動画を撮っているようだった。
そのまま三分くらいの間みんなで固唾を飲んで見守っていると、西瓜が微かに震え出した。震えは次第に大きくなり、やがてメリメリッという小さな音が聞こえた。西瓜特有の、ちょっと草っぽいけど爽やかな香りが感じられる。
「ほら、産まれるよ!」
土肥さんの声にわたしは一気に緊張する。
切れ込みを利用して、西瓜が左右にさくっと割れた。そしてその中心には、両膝を抱えた老婆のような生き物がいた。
シミだらけの皮膚は垂れ下がり、真っ白の頭髪はところどころ円形に禿げている。手足は骨と皮ばかりなのに、腹と尻には脂肪がしっかりとついている。産まれたての赤ちゃんはシワシワの猿のようだとよく聞くけれど、猿というよりまるで老人のように見える。
「あ、お婆さんですねー」
先生が言う。
「ありゃ珍しい」
土肥さんが卵を割ったら黄身が二つだったときくらいの驚き方で言った。
「え、わたしの赤ちゃんは?」
真に混乱しているのはわたし一人である。
「赤ちゃんじゃなくてお婆さんでしたねー」
先生の言葉に、産まれてきたのが本当に老人であることをわたしは知る。
老婆が背中を震わせ、痰のからんだ咳をした。土肥さんが自然な動きで老婆の背中をさする。
「え、うそでしょ。なんで?」
わたしは困惑する。だってわたしが欲しいのは赤ちゃんなのに。
「うーん、なんででしょうねー」
先生は苦笑いを浮かべた。
「時々老人を産む人がおるからねー」
土肥さんは言いながらうんうんとうなずき、わたしをじっと見た。
そのとき、老婆が垂れ下がった瞼を持ち上げた。濁った瞳でわたしを見上げると、こう言った。
「37ちゃん、お水ちょうだい」
わたしは口をあんぐりと開けた。
土肥さんはそんなわたしに一切構わず、わたしが来ているパーカーを無遠慮にめくると、いつの間にか手に持っていたハサミで、ヘソギリギリで茎をちょきんと切った。
仕方なく、わたしは老婆と暮らし始めた。
老婆は
「37ちゃーん、ばあちゃん握り寿司が食べたい。
老婆は寿司が好きである。わたしは毎日のようにスーパーに買いに行かされる。しかし、こうも連日だとさすがに食費がかさみすぎる。
「昨日も食べたじゃん。今日はこれで我慢してよ」
わたしはテーブルにチンしただけの鳥の唐揚げとご飯を並べる。
「ばあちゃん鳥の唐揚げは
老婆が嫌そうに顔を顰める。老婆は自分のことをばあちゃんと言う。わたしもつられてそう呼んでいる。結局名前はつけていない。今のところ、ばあちゃんで事足りている。
老婆は全長100センチ程度しかなかった。おまけにほとんど歯もなかった。その代わりなのか、歯茎が異常に発達していた。肉でも魚でも野菜でも、なんでも食べられる魔法のような歯茎を持っていた。
「ねえ、早う寿司買うてきてよ。お願い37ちゃん、お願い。ばあちゃんの金
老婆ほどしつこい人間にわたしは会ったことがない。はっきり言って、どう対処していいかわからない。そもそも産まれたばかりの老婆が金など持っているはずがない。老婆は平気で嘘をつく。
結局わたしは寿司を買いに行った。帰ってくると、老婆がテレビの前に横になって韓国ドラマを見ていた。机の上に並べていた鳥の唐揚げは綺麗さっぱり無くなっていた。
「唐揚げ食べたの?」
「そりゃ食べたよ。37ちゃんがあんまり遅いからばあちゃんお腹すいたもん」
老婆は韓国ドラマから視線を逸らさない。
老婆はわたしが買ってきたスーパーの握り寿司から、いくらとヒラメと海老だけを食べ、あとは37ちゃんにあげると放り出した。わたしが食べたかったのも、いくらとヒラメと海老だったんですけど。
わたしはマグロが苦手だ。なんか血の味がする。そのことを老婆に伝えると、「あんたそりゃあ、ばあちゃんと一緒よ。よう似とるね」と気味悪そうにしていた。
それ以外にもわたしと老婆の間には微妙に血のつながりを窺わせるような点がいくつか見受けられた。
まず爪の形がほぼ同じだった。老婆のそれはちょっと黄ばんでいるけれど、ひしゃげたおはぎみたいな形はそっくりである。
脂肪のつき方も似ている。老婆もわたしと同じ、餓鬼的な体型をしていた。手足がガリガリな分、老婆の方がより
一応わたしが産んだのだから(正確にはわたしの
老婆が先で、わたしが後。これってちょっとあれに近いかもしれない。卵が先か鶏が先か、的なやつ。
哲学的な思考を巡らせているわたしを嘲笑うように、老婆のげっぷの音が部屋にこだまする。
老婆は基本的に何もしない。わたしが無印で買った「人をダメにするソファ」を占拠して、1日中だらだらとテレビを見ている。物忘れがひどい。多分ちょっと痴呆が入っている。なのにネットフリックスの見方だけは一度で覚えた。以来、リモコンを握って離さない。
産休を終了し、育休に突入したわたしも老婆と一緒にネットフリックスを見る。
ときどき会社のことを考える。赤ちゃんじゃなくて老婆が産まれましたと報告するべきか一瞬悩んで、結局しなかった。「この少子化の時代に」と言った上司の顔が浮かんだ。罪悪感は微塵もなかった。むしろこの高齢化の時代にさらに老人を増やしてやったぜ、という奇妙な爽快感のようなものを感じた。
老婆が寝返りを打つ。老婆の下敷きになっていたラグの上に黒いものが落ちている。種だった。西瓜の種に似ている。
老婆が産まれてから、部屋に西瓜の種のようなものが落ちているのを見かけるようになった。
最初に見かけたときにはぎょっとした。はっきり言って、ちょっと気持ち悪いなと思った。けれどもわたしはそれを拾って、なんとなく捨てずに取っておいている。ごはんですよの空き瓶に入れ、蓋をキュッとしめる。
ベージュのラグにはところどころ茶色く変色した部分がある。老婆が醤油をこぼした痕である。最初の一回は死ぬ気で染み抜きしたけれど、毎日のようにこぼすので、今ではもう諦めている。
老婆は家事を手伝わない。食べるか、寝るか、ネトフリを見るか。大体そんな感じで一日が終わる。
しつこく言い聞かせ、洗濯物だけはたたませるようにした。と言ってもわたしは三日に一度しか洗濯をしないので、そんなに大した手間ではない。前は週に一度だったけれど、老婆が産まれてからは頻度が上がった。
「産まれたばかりの年寄りをようコキ使えるね、あんたは」
老婆は愚痴愚痴と文句を垂れながら、タオルを素早くたたんでいく。文句を言う割にはたたみ方が綺麗なのがちょっとおかしい。
「洗濯物くらいたたんでくれたっていいじゃん」
言いながら、わたしはラグにコロコロをかける。
「あ、またあった」
「なにが」
「種。こればあちゃんの?」
「さあ。ばあちゃんようわからん」
「多分ばあちゃんのだよ。これどうしたらいいの?」
「知らん。好きにしぃ」
わたしはごはんですよの瓶を探す。
「それより37ちゃん、あんたこれ乳バンド?」
老婆が手に持っているのはたしかにわたしのブラジャーだった。
わたしはブラが嫌いだ。大嫌いだ。体を無理やり拘束されている感じがする。家にいる時は絶対しないが、一応出かける時だけは嫌々ながらつけるようにしている。ノンワイヤーで、締め付けが限りなく少ないやつ。それでも窮屈でしょうがないけれど。
「まだこんなものしとるか」
ブラを見る老婆の目には憎しみに近い何かが宿っている。
「ばあちゃん乳バンドは大嫌い」
「わたしも」
「なら捨てぇ」
「だってさすがにノーブラで外出たらやばいじゃん」
「乳バンドせんかったら犯罪か。警察に捕まるんか」
「捕まらんけどさあ」
捕まらんとは思うが、なんとなく人目が気になる。要は乳首の存在が、洋服越しに確認できてしまうかどうかという問題なのだ。
しかし考えてみると、ただちょこんと洋服が盛り上がるだけのことが、なぜそこまでタブーなのだろうか。女性の乳首というのは一体いつから、かたくなに存在を悟られてはいけない器官になっただのだろう。
そもそもわたしはこんなにもブラジャーが嫌いなくせに、なぜこの問題についてもっと真剣に考えてこなかったのだろう。女性の乳首は卑猥で恥ずかしいもので、ブラジャーで覆い隠すのが当たり前だという誰が考えたのかもわからない認識を、なんの疑いもなく享受することができていたのだろう。
「そんな嫌なもん、毎日身につけようと思う気がしれん」
老婆はそう吐き捨てた。
「まあ、確かにそうかも。でもいきなり無しにするのは無理だから、ブラが本当に必要かどうか、もうちょっと考えることにする」
煮え切らないわたしの返答を老婆は鼻で笑って、自分のパンツをたたみはじめた。
「そうやって愚図愚図考えとる間にばあちゃんみたいに
「ばあちゃんは産まれたときから婆だったじゃん」
わたしの指摘にカチンときたのか、老婆はわたしのブラを手に持って振りかぶった。片方のホックの部分(ブラを広げると一番端っこにくるところ)を握り、ブラ全体を鞭のようにしならせて、座っているわたしの膝を打った。
「ちょっと何すんの。やめてよ」
わたしの抗議を無視して、老婆は二度三度とブラを打ちつけてきた。
たいして痛くはないのだが、自分のブラで叩かれているという滑稽な状況に段々と腹が立ってきたわたしは、ブラの反対側の端っこを掴んで思いっきり引っ張った。老婆も負けじと力を入れる。老婆と私の間を繋ぐように、くたびれたユニクロのワイヤレスブラがピンと張り詰めた。
「ばあちゃん手離して」
わたしが言うと、老婆はムキになって余計に腕力を発揮した。この小さな体のどこにこんなパワーが? そう思うほどの剛腕だった。
しばしの膠着を挟んで、びりっという嫌な音が響いた。わたしはわたしのブラが破損したことを知った。
「もう最悪! 破れたじゃん!」
「こんな窮屈な乳バンドに拘束されたままずるずる生きていくより良かろうが」
老婆は怖いくらいに真剣だった。
「そんなのわたしの勝手でしょ。ていうか、ばあちゃんに関係ないじゃん!」
「馬鹿たれ。そんなみっともない生き方はもうやめぇ」
貶された、と思った。わたしの日々のふるまいや言動の一つ一つにいたるまでの全てを否定された。そう受け止めたわたしは瞬間的にキレていた。
「この
「おお怖い。自分で産んだくせになんてこと言うかね」
「産むんじゃなかった。あんたみたいな
わたしは言った。ついに言ってしまった。虐待のニュースを見るたびに、果たしてこんなことを言う人間が本当に存在するのかと常々疑っていた禁忌の言葉を。
驚いた。わたしはこういうことを言ってしまう人間だったのか。え、普通に最低じゃん。産むんじゃなかった? 勝手に産んどいてなんじゃそりゃ。
わたしは卑怯この上ないことに、自分の口から出ていった取り返しのつかない言葉に自分でショックを受けて固まってしまった。
老婆はしかし、わたしの暴言に一切動じることなく、鋭い視線でこう言い切った。
「嘘をつくもんじゃない。あんたが望んだからばあちゃんが産まれたの」
「なにそれ。わたしは本当は赤ちゃんが欲しかったはずなのに」
老婆の迫力にほとんど飲まれながら、わたしは力無く言い返した。
「37ちゃんが望んだからばあちゃんが産まれたの」
老婆は繰り返し言った。
望んでませんけどという言葉はさすがに発することができず、わたしは黙り込んだ。
わたしが望んだから老婆が産まれたなんて、そんなわけあるかと思いつつ、本当にそんなわけだったらどうしよう。
自信満々な老婆の顔を見ていると、そもそも自分が一体何を望んでいたのかわからなくなってきた。
「乳バンドに頼らんでも37ちゃんは生きていける。自信持ちぃ」
老婆がわたしを励ましてくれる。そういえばブラの話をしてたんだった。もはやそれどころではないのだが。
けれども、確かにブラをするかしないかという問題は、わたしの自尊心や生き方と深く結びついているような気がしてきた。
はたしてわたしにできるだろうか。ブラ無しで堂々と生きていくことが。
いっそのこと、ばあちゃんがわたしの持っているブラを全部切り刻んでくれたらいいのに。そしたらわたしは仕方なく、強制的にノーブラ生活に突入できるのに。
とりあえず、わたしは破れたブラを雑巾がわりにして窓を拭いた。ピカピカになったことに満足して、汚れたブラを丸めて捨てた。
老婆がわたしに隠れて酒を飲んだ。冷蔵庫の調味料の瓶の後ろに、もう何年も居座っていた缶ビールと酎ハイだった。
怒るべきだろうか。わたしは顔を真っ赤にしてげっぷをする老婆を前に途方にくれていた。
老婆は生後数ヶ月である。けれども老婆は老婆である。
迷ったわたしは老婆に水を飲ませることにした。
水の入ったグラスを片手に、老婆がわたしをじろじろと見る。
「37ちゃん、あんたどうするん?」
老婆の目は完全に据わっている。
「力の使い途、いつ決めるつもりなん」
また妙なことを言い出した。酔っているのだろう。わたしは面倒くささを全面に出した表情で老婆を見返す。
「ばあちゃんの娘が娘を産んで、その娘がまた娘を産んで、そのまた娘がまたまた娘を産んだ。娘の娘の娘の娘のくりかえし。あんたにたどり着くまでの全員の女が、そうやって産むことそのものに力を使ってきた。中には嫌々産んだ女もおったし、何も考えずにただ産んだ女もおった。昔はそれ以外の力の使い方は許されんような気がしとったし、そういうもんかと思って、みんなわざと考えんようにしとった」
老婆は
最初は酔っ払いの戯言と思い話半分で聞いていたのだが、老婆が何を言いたいのか、途中から薄々分かってきてしまった。
わたしがずっと行使せずに生きてきた、産み出す能力についての話をしているのだ。
「わたしもちゃんと子ども産んだ方がいいってこと?」
「産まんでええ。産んでもええ。何をしてもええけど、そろそろ好きに使って見せえ」
老婆はリモコンを手に取ると、テレビをつけてごろんと横になった。そのまま二十秒もテレビを見ることなく、いびきをかいて眠りはじめた。
冬が近づくと老婆の体が急に弱りはじめた。食が細くなり、あんなに好きだった握り寿司も食べなくなった。ネトフリを見る気すらおきないらしい。
それはまぎれもなく老いだった。元から老いていたものがさらに老いていく様子を、わたしは間近でじっくりと見た。
体からは蓄えていた脂肪が綺麗さっぱりなくなった。元々乾き気味の体から水気がどんどん失われていく。それはみずみずしい花束が吊るされてカラカラのドライフラワーになっていくのに似ていた。
「ばあちゃん、水飲める?」
もはや水しか受けつけなくなった老婆にわたしはせっせと水を含ませた。けれども、どんなに水を遣っても端からどんどん蒸発していくように感じられた。
老婆の体は明らかに終わりに向かっていた。
老婆が自らを終わらせていくそのスピードは、わたしが想像するよりうんと早かった。みるみる乾いていって、みるみる体積が減っていった。口数が極端に減り、まともに言葉も話せなくなった。
日中、ふと老婆に目をやると、あまりにモノみたいに寝転がっているのに愕然として、布団から出ている手や足を慌てて触ってみる。まだ辛うじて弾力と温度のある肌が、体内で最低限の水分が循環していることを教えてくれて、その度にわたしはほっとした。
その状態から数日経つと、老婆はついに水も飲まなくなった。
そろそろだ。わたしは覚悟をした。
しかしそこからが長かった。
まともに水も飲めなくなって三日が経ち、四日が経っても、老婆はまだ生きていた。おまけにまた喋り出した。
老婆があ~とか、う~とか言い出したので、口元に耳を寄せると、意外にもはっきりした声を出したのでわたしは驚いた。
「金、皆やる」
「金?」
「37ちゃんに、皆やる」
お金をみんなくれるそうだが、どこにそんな金があるのかは不明である。
首をかしげるわたしに、老婆はなおも必死に金のことを伝えようとしている。自分に山ほど遺産があると思い込んでいるのだろう。実際には一円も持っていないと思うけれど。
「ありがとう。みーんなわたしがもらうね」
わたしが言うと、老婆は安心したように小さくうなずき、目を閉じて眠りはじめた。
その晩、老婆は久しぶりに食事をした。崩れるほどに柔らかく似たうどんを少しだけ食べた。わたしは老婆の生命力に驚嘆した。
この人、このまま永遠に死なないかもしれないな。
わたしがそう思いはじめた翌日の夜、老婆は完全に枯れた。戻す前のかんぴょうのようなその体は、よく見ると枯れた西瓜の苗だった。
老婆を亡くしてからというもの、わたしはぼんやりと時間を過ごすようになった。
ある時、ふと思い立ってネトフリの視聴履歴を確認してみた。金持ちから急に遺産が転がり込む系の韓国ドラマを、老婆が好んで観ていたことを知った。
老婆は金は残さなかったが、種は残していった。
わたしは、ごはんですよの瓶を手に持って、瓶の半分くらいの高さまで溜まった黒い種をじっと見た。
みんなわたしがもらうねと老婆に伝えたのだから、これはわたしがもらっていいのだと思う。
力を好きに使ってみせろと老婆に言われたことを考える。ひいばあちゃんだか、ひいひいばあちゃんだか知らないが、結局それを伝えるためにわざわざ還ってきてくれたような、そんな気がしている。
ちゃんと子どもを産んでみようかと一瞬思って、無いな、とすぐに結論が出た。子どもの頃から抱えていた、子どもを産みたいという欲望はすっかり消えていた。
結局わたしは、なんとなく勿体無いなと思っていたのだ。わたしには産み出す力があるのに、それを使わないのはちょっと勿体無いような気がしていた。
――いいですか? このまま産まなかったら、その力をずっと持て余したまま生きていくことになりますけど、それで本当にいいですか?
誰にそう言われたわけでもないのに、他でもない自分自身で自らをずっと脅迫し続けていただけのことだった。
手の中の瓶に視線を落とす。上下に軽く振ってみると、パラっという乾いた音を立てて黒い種が瓶の中を舞った。
熊蜂の羽ばたきにも似た小気味良いエンジン音が青空の下に響き渡る。ホンダの耕うん機「ラッキーマルチFU700」は固い土でもパワフルに耕せるところが魅力だ。おかげで耕作放棄地だったこの土地もそこそこ楽に掘りおこすことができた。退職金で奮発して買って良かった。買い物上手なわたしにわたしは満足する。
老婆の残した種から育った西瓜は、日光に照らされて輝いている。来年はもっと畑を拡大するつもりなので、こうしてせっせと土を耕している。
ジーンズの尻ポケットから振動を感じ、軍手を外した。スマホを取り出すと、商店街の果物屋のおばちゃんからだった。また一人、女性が西瓜を欲しているという。メッセージに書かれた女性の住所を見る。ここからそう遠くない。
わたしがこの仕事をはじめるとき、真っ先に出向いたのは
老婆の残した種から西瓜を育てたい。そう言うと「それならその西瓜を必要としている女たちに売ってやれ」と助言をくれた。妙に目利きのおばちゃんは、いつかのわたしのように、西瓜を欲している女がわかるのだと言う。以来、おばちゃんを通じて、そういうお客さんを紹介してもらっている。
わたしはラッキーマルチFU700のエンジンを切る。軽く汗をふき、木陰で水をぐびっと飲む。この時期は熱中症に気をつけなくてはいけない。
一息つくと、わたしは丸々と育った西瓜を一つ収穫した。表面をタオルで軽く拭くと、軽トラの助手席にそっと載せる。
運転席に軽快に乗り込んでキーを回す。ステレオから大好きなバンドの曲が流れ出す。
――グロリアス軽トラックでいこうぜ。田舎道スイカを盗みにいこうぜ*
わたしはボーカルに負けないくらい大きな声で歌いはじめる。
左足で踏んだクラッチを半分上げ、右足でぐっとアクセルを踏む。
あんたの住む街まで、西瓜を届けに行くのだ。
出典:*andymori『グロリアス軽トラ』歌詞より
〈了〉