褪せる
鳥飼みその
よっちゃんはしようもない男だった。
よっちゃんは働いていたし、酒も煙草もやらなかった。よっちゃんは背が小さくて、染めたことのない黒い髪の毛を真ん中でわけていた。よっちゃんは極度のアレルギー体質で、杉、ひのき、ぶたくさ、ハンノキ、猫、ほこり、ハウスダストとねんがらねんぢゅう鼻水とくしゃみでぐじゅぐじゅいわせていた。金属でかぶれるという肌にしょっちゅう掻きむしったあとが残っていて、ふちの赤い目はいつだって涙にぬかるんでいた。よっちゃんはまったくもって男前ではなかったから(赤ら顔であばたのように皮膚の表面がでこぼこだった)それらすべて汚ならしくいやしい印象にしかならなかった。
よっちゃんはだいたいスーツを着ている。スーツじゃない日は無地のTシャツにジャージを着ている。足元はいつも靴下にサンダル。当然おしゃれなブランド品なんかじゃない、つっかけって呼んだほうがしっくりくるようなやつ。それをスーツの日もジャージの日もはいている。
カバンは持ってない日がほとんどで、少しだけ手荷物がある日はコンビニのビニル袋か西武デパートの紙袋を使っていた。バスタオルとか、着替えとか、なぜかシャネルのエゴイストとか、そういう普通なら家に置いておくようなものを時々持ち歩いていた。
よっちゃんはだいたいはにこにこ笑っていた。私はよっちゃんが笑っていると嬉しかったし安心できたから、できるだけよっちゃんがいつでも笑っていられるように努めている。
「とわちゃん、とわちゃん」
蒸し暑い夜の繁華街で、一歩前を歩くよっちゃんが振り返って私を呼んだ。もうすぐ時計の針がてっぺんを越えていくような時間なのに、三歩歩けば酔っぱらいと肩がぶつかった。よっちゃんは人波のあいだを器用にぬって、客引きをいなしてゲロを軽々と飛び越える。
「なに?」
よっちゃんの短い腕に私のむきだしの腕を絡めて、ぎゅっと体をおしつけた。二の腕に、ちょうどおっぱいがあたった。
よっちゃんはそんなこと気にするふうでなく、でも振り払ったりもせずに、
「なんか腹減らない?」
なんて真面目にいう。それで仕事の前にコンビニの菓子パンを食べたきりの私は、ようやくお腹がすいてることを思い出す。
「へってるぅ。なにか食べにいく?」
気だるく聞こえるように、わざと語尾をのばしてしゃべる。その方が軽薄で男好きの女らしい感じがする。
歩調を緩めて振り返ったよっちゃんの指が、私の髪を巻き取った。まだすこし毛先のほうが濡れていて、フレッシュハーブのにおいがするだろう。それはホテルの安いボディソープのにおいで、よっちゃんだって嫌というほど知っている人工香料のにおいだ。
今夜一晩で、私はフレッシュハーブを十回使っていた。
よっちゃんの肘が、今さらになって私の胸のやわらかい部分をわざとらしくつついた。
「ホテルで食えばいっか。とわちゃん、我慢できないでしょ」
面積の広い白目をぐにゃりとゆがめたよっちゃんが笑う。下卑た、なんて形容詞がこれほどぴったりな笑顔もない。
よっちゃんの笑い顔は魅力がないどころか軽蔑したくなるようなものだった。この顔を見せられるたび、私はなんでこんな男と一緒にいるのだろうと思ったし、同じだけ下腹部にある内臓がぎゅっと締め付けられもした。
よっちゃんのいいところを私はぜんぜん見つけられない。それでいて私はよっちゃんに言われたことを守りたかったし、よっちゃんの彼女と呼ばれることを望んだし、よっちゃんとセックスすることが好きだった。
よっちゃんはスタイルも顔も悪いうえに品のない、まさに底辺と呼ばれるべく人間なのに、おちんちんだけはとても綺麗だった。ヘルスで働いてる私は、何十何百とたくさんのおちんちんを見てきたけれど、よっちゃんほどきれいなおちんちんを他に一度も見たことがない。
生まれたての赤ちゃんみたいな色で、ビロード、もしくはシルバニアファミリーのうさぎを撫でたときのような触り心地をしている。小さくなく、それでいて大きすぎもせず、無味無臭で余分なものはひとつもない。
反応は早く、けれど持続力をきちんと備えた完璧なおちんちんだった。
こんなにきれいで素晴らしいのに、持ち主がよっちゃんみたいな男だなんて可哀想なおちんちん。だけどこれがあったから、私はよっちゃんの下品なセックスを許すことができた。
よっちゃんは私の働くヘルスの店長だった。三番目のお店の面接ではじめて会った。前の二つのお店のスタッフより、圧倒的に笑顔が胡散臭かった。
こんにちはもこんばんはもさようならも全部「お疲れ様です」で挨拶を済ませるくせに、よっちゃんが言うそれは「おっかっさーす」にしか聞こえない。
私は頭のなかでよっちゃんの言葉を文字に起こす。
「おっかっさーす、とわさん。口開け本指九十分予約入ってますので準備お願いしゃす!」
「おっかっさーす、とわさん。今日これでラストなんで帰る支度できたら精算お願いっさす!」
よっちゃんの言葉はとてもおかしかった。口語であることを差し引いても、変なアニメのキャラクタみたいだなといつも思っていた。
よっちゃんのところで働くようになって四週間ほど経った出勤日、店のトイレで仕込みローションのウエトラを使おうとしたところで生理がきていることに気づいた。仕事用のラベンダーカラーのショーツは安物だったけど、チョコレートみたいな汚れにはうんざりだ。本当は紺や黒の下着のほうが都合がいいのに、なぜか多くの客はパステルカラーにレースやリボンで装飾された下着を好む。
海綿を詰めてまで働く必要のない私は、すぐ受付に生理になったことを伝えて帰り支度をする。といっても、脱いだカーディガンを羽織直すくらいだったが。
言われた通り退店前に事務所に寄ると、よっちゃんが待っていた。
「おっかっさーす、とわさん。わざわざ来てもらったのに申し訳ないです」
生理になったのは私なのに、変なことを言う。
「こちらこそ、すみません。まだ大丈夫かと思ったんですけど」
「あはは。いや、だいぶ持ってくれましたよねぇ。生理休暇、五日くらいで良かったですか? 次は来週の水曜とか……」
「はい。それでお願いします」
「了解っすぅ。で、これは今日の交通費」
「えー、いいんですか?」
「勿論勿論!」
テーブルの上に裸で置かれていた五千円を差し出され、私は素直に受け取った。お礼を言って店を出て、最寄駅に着いてから牛丼屋でカルビ丼をテイクアウトして家に帰る。
五千円。ラッキーだったな。
そう思いながら味が濃いペラペラの牛肉をつついていると、スマホにメッセージが届いた。送り主はよっちゃんで、具合大丈夫ですかみたいな短い一文だった。
平気です。今日は本当にご迷惑おかけしました。
箸を置いて返すと、また一分も経たないで返信が届く。
迷惑なんかじゃないですぅ‼体冷やさないようにゆっくり休んでください。。。(-_-)zzz
やたらと絵文字の多い文章に、思わず吹き出してしまった。
よっちゃんは文語も口語も関係なくおかしい。
ありがとうございます。店長、親切ですね。
返さなくても良かったのに、気まぐれに中指でフリック入力して送信をタップ。返事はやっぱり数秒でくる。
そんなことないっすぅ~~(^o^)とわさんだからですよぉ(〃▽〃)
よっちゃんの書いた文章は絶妙に気持ち悪かった。うすら寒くてゾワゾワするけど、その感覚は変な癖になる。かさぶたを剥く快感、もしくはピーマンの種の集合体をまじまじと見て鳥肌をたてる感覚が近いのかも。
私はそのゾワゾワをもっと感じたくなって、適当に話題をふる。
今日って予約ありました?とか、次の出勤時間って17:00で良かったですか?とか。よっちゃんはそのどれもに期待通りのテンションで即レスしてくれた。やりとりは主に私がペースを落としながらも続いて、そのうち大人になってから初めて食べたものの話から最近食べておいしかったものの話題につながり、だらだら三日間続いたところで次回の仕事終わりにごはんに行くことが決まっていた。
翌週渋谷で火鍋を食べた私とよっちゃんは、その次の週に恵比寿でもつ鍋を食べた。そのさらに二日後、店の近くのラーメン屋で鶏白湯麺をすすった。よっちゃんは慣れたラーメン屋以外ではどこかおどおどした様子で、やっぱり食べ方はきれいではなく、口にものを入れたまましゃべったり途中でスマホをいじったり落ち着かなかった。
ラーメン屋の前で別れて私は家に、よっちゃんは事務所に帰る。三十五分の道中、ラインのやりとりは続いている。対面で食事をしているときより、文字になったよっちゃんはずっと多弁で陽気だった。
お風呂からあがってベッドに寝転んで、明後日の出勤時間をよっちゃんに確認する。いつも遅番の私は、次も十七時からで間違いないんだけど。
17時了解っす‼今日はゆっくり休んでねo(^o^)o
よっちゃんはセンスのない絵文字だらけのメッセージで、あろうことかやりとりを終わらせようとした。よっちゃんのくせに。
よっちゃんなんて私が飽きるまでの暇つぶしのくせに。
店長まだ仕事?私もしばらく起きてるよ
まだまだ仕事ですぅ(T^T)忙しいからあんま返信できないかも(>ω<)とわちん早く寝なよ~‼
そんな言い方されるとさみしいんだけど
えっ⁉⁉ごめんちゃい…(T^T)とわちんのこと傷つけたかったわけじゃないから‼それだけは信じてね…( 〃▽〃)
よっちゃんからのメッセージを読むたび、ぷつぷつと二の腕の内側に鳥肌がたった。だけど生理的な嫌悪感は快楽ととても近い場所にあるのかもしれない。私は自分の肩を一度強く抱いてから、よっちゃんに会いたいと送った。
さみしい。店長に会いたい
あんなに素早く返事ができるのに、とたんにスマホはうんともすんとも言わなくなった。まるまる五分待っても既読だけがついたまま。よっちゃんのバカ。クソ、死ねよって思ったところで急に短く響いたヴァイブレーション。
行くよ
よっちゃんからのメッセージは、珍しくたったの三文字だけで構成されていた。
そうしてセックスをした日から半年以上が経った。
私とよっちゃんはそれ以降、仕事のあとにごはん食べに行ったりホテルに行ったり、なんとなく付き合ってる認識をお互い持つようになった。もちろん店にバレてはまずいから、内緒でってことになるけど。
結局よっちゃんはホテルに着いてすぐヒレカツ御膳を注文して、何か食べる?って聞かれた私も明太カルボナーラスパゲティを頼むことにする。二人で大きなテレビで深夜バラエティを見ながら、たいして美味しくもないラブホのごはんをもそもそ食べた。
「そういえば、よっちゃんまたホスラブ書かれてたよ」
「はあ? 今度は何?」
「愛さんとできてるって」
愛はうちの店の表向きナンバーワン嬢だ。
よっちゃんは箸を置いてスマホを取り出す。育ちが悪いから食事中であることなど一切気にすることなくラインを返すし電話に出るしソシャゲもやる。
最初のうち私のことを下にみてるから平気でそういうことをやるんだと思っていたけど、事務所で本部のマネージャーと一緒に出前のタンメンを食べてたときも普通に麺をすすりながら左親指で画面を連打してたから、なんかもうそういう人間なんだと悟った。以来は腹も立たない。
犬や猫が餌を食べてる途中で排泄したってうんこしちゃったなーって思うだけと同じ。よっちゃんの食事マナーが終わってたって、終わってんなーって思うだけ。
そのうちスマホを放って最後のヒレカツを無理やり口に押し入れた。
「こんなの嘘ばっかなんだから。とわちゃん見ないほうがいいって」
咀嚼しながらよっちゃんが言う。
「でも自分のこと書かれてないか気になるんだもん」
「気にしたってしゃあないでしょ」
「だけど」
うまく言い返せなかった私を、よっちゃんは嫌らしい目付きで一瞥した。
「とわちゃん、そういうの考えすぎるから手首切ったり薬飲んだりするんじゃん。俺、そういうのホントに無理だから。メンヘラとかマジで勘弁してよ」
それはよっちゃんのせいだし、と言いかけて無理やり飲み込む。
よっちゃんはしょうのない人間でろくな考えをしてないからこそ、私の精神的な脆さや情緒不安を毛嫌いしていた。心の機微なんてよっちゃんには存在しないから、だからこの人に私の何かを理解してもらおうだなんてはなから期待していない。
よっちゃんにできることなんて、私よりも下品で救いようのない人間が存在することを目の前で証明し続けるること。それから完璧なおちんちんをもって、私が気持ちよくなれるセックスをすること。せいぜいその程度。
それだけできれば充分で、それだけしかできないからこそ、私はいまだよっちゃんからうまく離れられないのだと思う。
灰田さんはお客さんのひとりだった。
たぶんまだ二十代で若そうなのに月に一、二回、定期的に遊びにきてくれる。声がかっこよくて顔はお笑い芸人のかまいたち濱家にちょっと似ている。脂の少ない雰囲気で感じがよく、お洒落だし最近まで彼女もいた。
灰田さんが時々買ってきてくれるお土産はピエール・エルメのマカロンとかエシレのサブレグラッセとか、奇をてらうことなくきちんと美味しいものばかりだった。
詳しくないから無難なものしかわからなくて。
そう言って申し訳なさそうに眉を下げる灰田さんの顔は、とても好感が持てる。
灰田さんとよっちゃんは、何もかもがぜんぜん違った。
人間であること、男であること、目が二つに鼻と口がひとつずつ。
同じところなんてそれくらいしかないんじゃないかってくらい、あんまりにも違いすぎて私は灰田さんに会えるのが嬉しい反面惨めでもあった。
世の中には灰田さんのような男のひとに愛されてセックスできる女がいるのに、私はよっちゃん程度の男としか付き合えない。よっちゃんのことを心底軽蔑して馬鹿にもしてるくせに、あんなおちんちんしか取り柄のないような男なのに、抱かれることを望んで喜びを覚えてしまう、しようのない人間であることをまざまざ突きつけられる。
そして、そんな無様な自分をどこか誇らしく感じる第三者視線の自分の存在にも気づいている。
「とわさん、いま彼氏いる?」
ベッドに座ってシャツのボタンを閉めながら、灰田さんが言った。
「いたらこんなとこでこんなことしてないよぅ」
無防備な背中に抱きつくと、灰田さんがふふふと笑った。
「じゃあ、アプローチしてもいいですか?」
「えー? 本気で言ってる?」
「本気本気」
「ねえ知ってる? 言葉は二回繰り返すと嘘っぽく聞こえるの」
「本気だってば」
灰田さんは私の腕をほどいて立ち上がる。
「また来るけど、ちょっと考えてもらえると嬉しい」
はにかむ灰田さんは嘘を言ってるように見えなかったけど、風俗嬢を口説こうとするなんてろくな男じゃないだろうなとも思う。こういうことをよくしてるのかもしれないし、ただの女好きよりもたちが悪い人間なのかもしれない。例えば、お金目当てとか。
だいたいこんな甘い言葉をいちいち真に受けてたら仕事にならない。
「そういうこと、よく言うの?」
「言うわけないじゃん。だって面倒な客だと思うでしょ?」
否定も肯定もしないでいると、灰田さんはまた声に出して笑った。
「とわさんって正直だよね。そういうとこ、なんかいいなって」
こういうことがあったって、普段なら私はすぐよっちゃんに報告するのに、なんとなく灰田さんのことは言えないでいた。言えないでいるってことは、私が灰田さんのことを少なからず本気にしかけている証拠に思えた。
それでいて、手放しにも喜べない。どこか灰田さんは嘘をついていると頑なに疑ってもいる。
灰田さんが私のような女に好意を抱くなど、到底現実味がないのだからしかたない。
よっちゃんは最近池袋の系列店も任されるようになって、ずいぶんと忙しそうだ。先週池袋のラブホで会ったきり、一緒にごはんを食べる機会もなく、以前は無尽蔵にやりとりしていたラインもここのところ数時間経たないと返信はない。それどころか放っておくと音沙汰すらなくなってしまい、しかたなく記憶が褪めていくより先に私からメッセージを送る。
よっちゃん、何してる?
仕事
明日仕事終わってから会いに行ってもいい?
いいけど、朝までかかるかも(><)
じゃあ意味ないじゃん
そんな言い方しないでよ~俺だって好きで忙しくしてるわけじゃないんだし(T_T)
スマホをベッドの上に投げ捨てると、勢い余って壁に当たってごつりと嫌な音がした。死にたくなる。
一人で過ごす夜はどうしたって鬱々とした気持ちがふくらむにいいだけふくらみつづけて、朝日を浴びるまでしぼんだりはしない。Spotifyのお気に入りプレイリストを再生して、適当な眠剤をごちゃごちゃに飲んで横になる。うまく眠らないと、意識が朦朧としたまま起きていると、今度は自傷や過食に欲求がシフトしてかえって状況は悪化する。
気が済むまで手首を切っていた以前と違って、よっちゃんに会ってからは極力そうならないよう努めていた。よっちゃんは気を使った優しい言葉なんてくれなくて、直球で手首を切るなと言ってくれる。傷口を見ると気分が悪いからやめてと言う。
その言い方は「あなたのためを思って」とか「あなたが心配なの」と言われるよりずっと、私には理解できた。自分のために何かをするより、誰かのために何かをするほうがずっと簡単だ。そんな単純なことすら知らない人が、世の中には存外多い。
そうやって幾日かの夜を乗り越えた。ひとり寝は好きじゃない。一晩中隣に男のひとがいてくれるなら、別にセックスだって悪いものじゃないと思う。
だけど私はよっちゃん以外とセックスをするわけにいかないから、しかたなく睡眠薬に頼るほかない。私の身体はもう一年近く、よっちゃんのおちんちんしか受け入れていなかった。
いつかヘルスのお客さんから、女の人の身体は男の形を記憶するから、一度でも他のおちんちんをいれるとなかの形が変わってしまうんだよと言われたことがある。
それが本当でも嘘だったとしても、私にとっては重要なことに思えた。私が他の男のひとと寝なければ、私の身体はずっとよっちゃんの形を覚えていられる。形状記憶みたいに、よっちゃんのあの綺麗なおちんちんを身体のなかに残しておくことができる。
そう信じることはおまじないと一緒で、不安な気持ちをちょっとだけ小さくすることができた。
それから数日が経つも、よっちゃんとは依然擦れ違ってばかりだった。ある日出勤すると、受付に見たことのない男がいる。
「おはようございます」
夕方でも夜でも朝の挨拶をするのは夜の街の慣例だ。芸能界みたいで狂気じみている。
「お疲れさまです」
よほど私が不審な顔をしていたのか、気弱そうな男が頭をさげた。
「新しく店長やらせてもらうことになりました」
男が名乗った名前は、耳に入ってすぐ反対側へ通り抜けていった。あいまいに会釈を返してから待機室へ向かう。
新しい店長?
じゃあ、よっちゃんはどうなっちゃったの?
口開けから予約があると言われたにも関わらず、私はすぐによっちゃんに電話をかける。コール音が鳴る。五回、六回、七回。二十まで数えて切った。留守電にもならない。
しかたなくラインを送った。
出勤したら新しい店長?とかいう人いるんだけど
よっちゃんこっち辞めたの?
できるだけゆっくり準備をしたのに、既読すらつかない。やきもきしつつも一本目のホテルへ向かう。プレイの途中も隙をみてスマホを確認したのに、よっちゃんからの折り返しもラインもなかった。
その夜はずっとその調子で、気もそぞろなうちに退店時間になっている。精算を終えて店を出る頃には日付が変わっていたが、やはり通知はひとつもこない。
もう一度電話をかける。いくら待ってもよっちゃんが出ることはない。家に帰ってからも何度か連絡を試みるうち、結局何十件という着信履歴をよっちゃんのスマホに残したことになるだろうに、次の日もまた音信不通のままだった。
ラインも相変わらず未読ということは、今よっちゃんはスマホ自体を持っていないということなのだろうか。失くしたり壊したりした?
事故にあったことも考えたけど、スマホさえ誰かに確認してもらえればいい加減連絡のひとつもらえておかしくないように思う。なんだかんだまめにやり取りをしていた履歴が残っている。
考えたくはないが、よっちゃんの意志で私を切り捨てたということだろうか。ケジメをつけることなく自然消滅を狙うのは、小狡いよっちゃんらしい。そんなせこい真似をするつもりなら、池袋の店まで押しかけてやる。
そうだ、とりあえず池袋に行ってみよう。むこうを辞めたわけじゃないなら、待っていればそのうち会える。
しかしとっくに終電の終わっている時間、今からとなればタクシーを使わなくてはならない。どうせ店は十二時が最終受付だし、行き違いになる可能性を考えて明日に改めた方が良さそうだ。
昨日からまともな睡眠をとれていないにも関わらず、頭の中が興奮してぜんぜん眠くなかった。それでも一度横になっておくかと布団に入る。薬でかすむ意識のなか、私とよっちゃんとの間に決定的な何かが起ころうとしている予感をひたひたと感じていた。
結論から言うと、私は翌日池袋には行かなかった。
目が覚めて間もなく、電話がかかってきたのだ。知らない番号だった。普段なら無視するが、よっちゃんに関わることかもしれないと恐る恐る受けた。
「はい」
「私S警察署のタグチと申しますが、クロスハルタカをご存知ですか」
「はい?」
「あの、三原エマさんのお電話ですよね?」
「はい。三原です」
「三原さん、クロスハルタカ、知ってますよね?」
クロスハルタカ。
聞き間違いかと思い、近い音の名前を記憶から探るも思い当たる人物名が見つからない。
「えっと、その……ご用件は?」
「クロス、ハルタカ。わかりません?」
タグチの声は電波状況が悪いのか、やけにくぐもって聞こえる。
「ああ、そうか。木戸、木戸陽平と言えばわかります?」
「あ、はい。わかります。木戸ですよね?」
「あはは。そうです、木戸。木戸ね、本名クロスっていうんですよ」
「え?」
木戸陽平は、よっちゃんの名前だ。本名というのは、一体どういうことなのだろう。
「木戸ね、恐喝未遂で勾留中なんです。あなた連絡取れないで心配してるだろうからって」
「あの、それで」
「三原さんも驚いたでしょ? 詳しい話をお伝えしますから、一度署の方へご足労いただけませんか?」
頭がまったく働かない状態で、タグチという刑事に言われるがまま午後から警察署を訪ねることが決まる。状況は飲み込めないが、とりあえず行けば詳しいことがわかるだろうし、よっちゃんにも会えるらしい。
よっちゃんは確かに下品で矮小でしょうもない男だったけれど、だからって警察に逮捕されるほど悪い人間なのだろうか。本当に罪を犯したのだろうか。だって酒も煙草もやらないし、風俗店の店長とはいえ仕事だってしていたのに。
警察署では私も通り一遍の調書を取られた。よっちゃんとまめに連絡したり会ったりしていたのだから当然だろう。聞いたことのない事実やよっちゃんが私に隠してやっていたことを語られるたび、私は人前であること構わずみっともないほど泣きじゃくった。
何が事件に関わっていて、何が関わっていないのかもわからない。素直に聞かれたことに答える私に対し、刑事達も早い段階で警戒は解いたようだった。最後に交通費と称して五千円までくれた。あの日と同じ金額だったのに、今度はぜんぜんラッキーなんて思えない。
帰る前に面会できると言われ、留置所に寄る。現われたよっちゃんはこんなことになっちゃった、と、笑った。
「なんか刑事さん達、誤解してるんだよ。俺、捕まるようなこと何もしてないから、とわちゃん信じてくれるよね」
そんなわけないじゃんってわかってるけど、私は泣きながらよっちゃんの話にうんうん頷く。始終言い訳を続けて無罪を主張したよっちゃんのせいで、聞きたいことのひとつ聞けず面会時間は終わりを迎える。
立ち上がろうとしたよっちゃんに「よっちゃん」と呼びかけた。
私を見下ろした目は、充血して真っ赤に染まっていた。いつもの目薬を使えていないのかもしれない。アレルギーのせいでぐちょりと濡れた小さな瞳が、温度のない視線で私をじっと見ている。
「名前……」
それしか言えなかった。よっちゃんはクハッと笑って何も答えず扉の向こうへ消えていった。
クロスハルタカは黒須晴孝だった。
黒須晴孝。
ぜんぜん知らない人の名前だ。
とても仕事なんてしている気分じゃなかったけど、働かなくてはお金がもらえない。私は無意味とわかっていながら泣き通して一日の大半を過ごし、なんとか涙を止めては店に顔を出した。写真指名の知らない男とか本指名のちょっと知ってる男とかの下で乾いた喘ぎ声をあげながら、私はずっとよっちゃんのことを考え続けていた。
よっちゃんは店にきた客を脅して堕胎費用をせびろうとした。
本番嬢だった愛と組んで、愛が妊娠したから慰謝料を寄こせと何人かの客と個人的に連絡を取った。一人に対して五万からせいぜい二十万しか要求しなかったせいで何件かはすんなり成功してしまい、味をしめたのだろう。金払いのよかった客をピックアップして更に二度三度と恐喝したことで、ついにそのうちの一人が音を上げて警察に相談した。
よっちゃんが程度の低いクズみたいな真似をしたことはどうでもよかった。その内容は、ある種私のなかで納得のいくものだった。よっちゃんならそういうことをするだろうなと、呆れはしたが不思議に思うほどでもなかった。
そうではなくて、よっちゃんがそんなくだらない犯罪に手を出そうというときに、どうして私ではなく愛を選んだのか。どうして私には何も言ってはくれなかったのに愛に打ち明けたのか。ただその一点だけが許せなかった。
私にはよっちゃんしかいなかった。
よっちゃんのことを心底軽蔑していたし馬鹿にしていたし、憐れんでもいた。よっちゃんに対して尊敬できることなんてひとつもなく、そんな男に抱かれる自分に酔っていたことは否めない。だけど例えそうだったとして、私にとってよっちゃんが唯一無二であることもまた、決して間違いではなかったのだ。
一緒に逮捕されてたら、こんな惨めな気持ちにならずにすんだ。蚊帳の外に置かれて、刑事に微塵も疑われることなく家に帰されて、こんなに憐れな状況が他にあるだろうか。
もしよっちゃんのせいで私まで罪を犯すことになっていたら、私はよっちゃんを言葉の限りで罵って恨んで、何なら平手打ちくらいできたかもしれない。よっちゃんはどうせ逆ギレするだろうから、それで殴られて痛い目にあって、私はぎゃんぎゃん大声で泣き喚く。その声がうるさいとよっちゃんはさらにキレる。地獄みたいな修羅場になる。
そんな結末のほうがずっと健全に思えた。
例えば暴行の末によっちゃんが私を殺してしまったとして、少なくともよっちゃんのことを好きなままでいられたはずで、こんなふうに傷ひとつ負うことなくよっちゃんを失った不健全でやるせない今よりずっとマシに思えた。よっちゃんの形だけを残したやり場のない身体を持て余した今より、ずっとずっとそのほうがマシ。
三本目の接客のためホテルの扉を開けると、灰田さんがいた。
「お疲れ」
灰田さんの手にはパティスリーアサコイワヤナギの紙袋がある。前に好きだと言ったのを、覚えていてくれたのかもしれない。
動作の鈍い私に何を勘違いしたのか、灰田さんはこの間言ったこと、そんなに気にしないでと言う。
「冗談とかじゃないけど、だからって今すぐどうこうするつもりもないし。今まで通りにしてもらえたほうが助かるから」
そんな優しさぶったものを見せつけるくせに、店にはくるんだなと思った私に、
「なんて言っても、ここ来てるようじゃ信憑性ないよね」
と笑った。
灰田さんとキスをすると、いつも辛いくらいのミント味で口の中がすーすーする。マニュアル通りの手順をこなして、ローションをつけた灰田さんのおちんちんを太腿ではさんだ。
「灰田さん」
「はい」
「これ、いれたい」
うまい言葉が見つからなくて、小さな声になってしまった。
だけど灰田さんの耳にちゃんと届いていたみたいで、灰田さんは驚いた顔で動きを止める。
「いれたい。だめ?」
店で本番行為をするのははじめてだったから、うまいやり方がちっともわからない。とりあえず閉ざしていた脚を開いて灰田さんを見つめてみる。灰田さんの顔とか、裸の腹やヘソとか、灰田さんのおちんちんとか。
あ、そういえば灰田さんコンドームしてない。
そう思ったけど、なんだか今さらどうでもいいようにも思えた。例え灰田さんがこのまま生でおちんちんを挿入してきても、構わない。私は灰田さんを脅すつもりも慰謝料をもらうつもりもないから、安心してセックスすればいい。
「ゴム、持ってる?」
なのに灰田さんは困ったふうにそんなことを聞く。
しかたなく一度開いた脚を閉じ、ローションや洗浄液と一緒に持ってきているコンドームをひとつ手渡した。灰田さんは器用でも不器用でもなく、ごく普通の手つきで性器にゴムを被せた。見届けたところで私はまた仰向けに寝転がり、脚を自分で開いた。
セックスが滑稽だと感じるのは、こういう瞬間だなと考えているうち、灰田さんの身体がぐっと近づいてきて、今度はあまり迷ってる様子もなくおちんちんを私のなかにいれてくれた。
灰田さんとのセックスは可も不可もなかった。お互いに形や線引きを探るような一瞬だった。私も灰田さんも、灰田さんが射精することを目的に、それだけを目指して身体を動かしたり声を出したりといった努力を重ねた。
ことは数分で終わり、よっちゃんの形から灰田さんの形へと変わった身体でそうっと灰田さんの裸に寄り添った。あれほど光り輝いて見えた灰田さんだったが、こうなると急激に褪せて結局は私と同じ一人の人間であるのだなあと実感がわく。
ということは、よっちゃんともたいして違わないのかもしれない。だって私とよっちゃんも、結局のところ似たもの同士だったのだろうから。
「ねえ、灰田さん」
「ん?」
よく見ると、灰田さんの左耳にはピアスの穴があいていた。
「灰田って、本当の名前?」
「名前?」
「あ、本名知りたいとかじゃなくて。こういうとこで使う偽名なのか本名なのか、それだけ教えて欲しいんだけど」
灰田さんは無言で身体を起こす。近くのテーブルに置いてあったカバンを探って、私の目の前に免許証と社員証を突きつけた。
「灰田、さとし?」
「うん。灰田聡」
灰田さんは唇を持ち上げて笑う。灰田さんから手渡された免許証も社員証も、たぶん本物だろう。灰田さんの免許証はまだグリーンだった。
「私は三原エマっていうの。本当の名前」
「どうしたの、急に。変なひとだなぁ」
灰田さんは私の名前にたいして興味なさそうだったけど、その言い方はちっとも意地悪に響かなかった。
「うん。ちょっと、知っておきたくて」
ふうんと鼻を鳴らした灰田さんに、免許証と社員証を返す。今度私も証明するねと言うと、灰田さんは困惑したように頷いた。灰田さんがいつもどんなピアスを付けているのか、いつか見せてもらおうと思った。
〈了〉