女による女のためのR-18文学賞

新潮社

君の無様はとるにたらない

神敦子

 十歳のときにパパが不倫した。
 すぐにばれてママは離婚を即決した。
 パパは離婚ではなく離婚条件についてごね、女とも一瞬別れたらしい。でも離婚後すぐによりを戻してあっさり再婚した。その後男だか女だかの子どもがうまれて、家も買って、幸せな家族を築き、そのうえ偉そうな肩書きひっつけて、本社に栄転になって、いつ罰があたるのか、ずっとそれを待っているのに、パパは昔も今もお金はそこそこあるらしく、養育費も滞っていないし、本体が自分の前に現れることもないし、それだけでママは問題なしとしているようだった。
 会いたくなかったら、会わなくていいのよ、とママは言うのだった。
 けれどもパパとママが離婚するときに、そういう取り決めがあったから、これは子としての勤めなのだろうと、誰に言われるわけでもなく真面目に思って、月に一度、パパに会う。会うときは、パパの好きな清楚系のストライプとか、刺繍入りの紺色とか、その方が波風たたなくていいかとパパを慮って、そんなワンピースで指定された豪華ホテルのロビーに赴くのだった。酸っぱいオレンジジュースのひとつを飲み、飲み終わった頃に、さ、行こうかと促されて、エレベーターで移動して、ホテル内の豪華レストランにて寿司とかてんぷらとか、鉄板焼きとか、まれにフレンチとか、そんなものを食べる。
 最初の頃は、なにがしか、話すこともあった。話すことに労を注いでいた。ような気がする、もう全然覚えていないけれども。今では話すのさえ億劫で、娘の勤めとして黙々と目の前に運ばれたそれを口に運ぶのだった。
 何も楽しくなかった。パパも、何も楽しくないように思った。話題に困っているようだった。屈託なく新しい家族のことを話せばいいのに。男だか女だかの子どもについて、わたしにあれこれ言ってみればいいのに。
 わたしが水を向けても、パパは頑なに新しい家族について語ろうとしなくて、気まずそうに口ごもるばかりで、愛人みたいじゃん、わたしが。なぜここにいるのだろう、ふたりして。パパも、パパの勤めを全うしているだけで、本当はこんなこと、したいわけではないのだろうと不憫に思った。もしかすると一ミリぐらいは、会ってもいいかと思ってくれているのかもしれない。けれどもそれは一ミリぐらいの情熱でしかなくて、本当に、心から、全力で会いたいというものでないのだから、何も毎月規則正しくそれを実行することはないのに。せっかくの休日、男だか女だかの子どもと、じゃらじゃらと遊んであげればいいのに。でもそれを、わたしから「もういいよ、会わなくて」というのは、パパを傷つけることになるようにも思った。パパを、というよりも、パパのしょぼくて頑なな誇りを。離婚しても、実父として、よき父であろうとするイケてる自分を、否定されたような気になって、パパをがっかりさせる、もしくは怒らせるであろうという確信があって、それを恐れた。
 不機嫌なパパは、恐怖だった。怒鳴ったり暴力をふるったりするわけではなくて、だから恐怖だというのは、大げさだとパパが不機嫌に言うであろうことはわかっていた。
 パパは「パパの不機嫌は、瑠璃もしくはママの愚かさを理路整然と冷静に、瑠璃もしくはママを正しい方向に導こうとしている結果にすぎないのだ」と思っているらしかった。わたしとママが懸命に「わたしとママが思うこと」を説明しようとすると、「もういい」といまいましそうにこちらを睨み、黙ってその場から出ていってしまう。あとには、爆発した不機嫌の残骸として、尋常じゃない苦々しさが残った。
 もういいよ、会わなくて。パパがそう言ってくれたらいいのに。優しく穏やかに、すこし困ったみたいに、でももういいよね、というようなある種の諦めと軽やかさを伴って、そんなふうにあっさりと言いだしてくれたらいいのに。
 寿司を、あるいは天ぷらを、あるいは鉄板焼きの小さく切り分けられたやわらかい肉を、もそもそと咀嚼しながら、気づまりな沈黙の中、いつも思うのだった。でもパパは言わない。本当に、心から、全力で、わたしと会いたいわけじゃなくとも。それを認める自分を、よしとしない。
 帰りに、パパは「大事に使いなさい」とおこづかいをくれる。
 封筒には、五万円が入っている。もう七年もずっと続いている。これ、もう要らないんだけど、それもパパには言えずにいる。

 問題なのは、五万円が大金であって、それが一年で六十万になり、六十万が七年、四百万を越えて、最初は封筒で保管していたけれども、入りきらなくなって、封筒が小さなポーチに、それが今では小さな鞄になって、時効を待つ銀行強盗の戦利品のようなひそやかさでもって、クローゼットの中に潜むのではなく増え続けるということだけではないのだった。
 五万という数字が、わたしにもやもやとさせるのだった。
「あの女にね、毎月五万、やってたそうなのよ」
 ママではなく、おばあちゃんが言った。
 離婚して、二年もたった夏の候だった。わたしはちょうど中学一年で、パパと会うことに飽きはじめていた。受験をして、合格して、そのぐらいのことは報告したけれども、そう報告したら、パパが誇らしげに「ほお」と笑顔になったことは覚えているけれども、それ以上に話すこともなく、すでにパパと会う意味も見いだせないでいた。
 夏休みで部活もなく、電車で数十分の距離にあるおばあちゃんの家で、夏の課題をしているときだった。「瑠璃は、まだパパに会ってるの」とおばあちゃんに聞かれたから、「うん、先週」と返事をしたら、おばあちゃんがふとそれを漏らした。窓辺で風鈴がりんと鳴った。
 不倫発覚後は、憤死するレベルに怒り狂っていたママも、離婚が成立する頃には、パパのことも女のことも、心底どうでもいいと思っているらしかった。けれどもおばあちゃんだけは、パパのことをずっと許してはいなかった。そのはけぐちとして、小五のわたしは幼すぎたし、ママに愚痴っても、ママは「もう終わったことでしょ、いいのよ」とおばあちゃんを流して、だからおばあちゃんのいつまでもおさまらない憤りを、受け止めてくれたり、同意したり、共感したり、よく言うところの、心に寄り添ってくれるところが、どこにもなかったせいもあったのだろう、たまりにたまった鬱憤のかけらを、その日、うっかりおばあちゃんはもらしたのだった。
 おばあちゃんの中ではわたしはまだ小学校のままで、もしかするともっと幼いままで、男女の機微も、もっと単純なひととひととの交わりも、理解できない幼子のままであったかもしれなくて、だから言ったあとでも、その言葉がわたしにどんな効果をもたらすのか、おばあちゃんは気にしていなかったのかもしれない。わたしがそれを理解しているとも、思っていないようだった。言ったことそのものについても、「そんなこと言ってませんよ」と明日には言いかねないぐらいの軽さで、それを口にした。
 心の赴くままにパパと女の悪口を独り言のようにふたことみこと付け足して、「そういえばゼリーのもらいものがあるのよ、るりちゃん、食べるでしょ」と台所に立った。
 あの女に。毎月五万。やっていた。
 しばらくその言葉を反芻して暮らした。あの女。毎月五万。やっていた。たぶん、省かれた主語は、「パパが」なのだろう。あの女、というのは「パパと不倫していた女」を指すのだろう。やっていた、は、「渡していた」と変換するのが正しいのだろう。毎月五万、というのが謎なのだった。なぜ、と思った。「パパは」なぜ「パパと不倫していた女」に、「毎月五万」「渡していた」のだろう。
 全然わからなかった。うすっぺらな妄想だけが、ぐるぐると行きつ戻りつ、結局中学を卒業するまで考えても、そこから先は全然わからないままであった。
 高校に入って、えいやっとママに聞いた。
「パパって、あのひとに毎月お金あげてたの」と思い切って尋ねると、ママは一瞬怯んだようだった。どこからそんな話を聞いたの、と何をいまさらと怒るわけでもなく少し呆れたように言うので、「おばあちゃんが。ずっと前に。おばあちゃんは、言ったこと、たぶんもう覚えていないと思うけど。うっかりって感じだったし」と、できるだけおばあちゃんに火の粉がかからないように、細心の注意を払って答えると、ママは「ああ」とすぐに納得したらしかった。おばあちゃんが無邪気な無神経の持ち主であることは、ママもよく知っているのだった。
「お金、あげてたみたいよ」
 あっさりと言うのだった。
「ずっと」
「ずっと」
「なんで。なんの五万」
「さあ、生活費じゃないの」
「生活って。だって、パパの家はこっちだったじゃん」
「だから、あっちにも生活があったのよ。パパの」
 どちらかというと愉快そうに言うのだった。わたしと面白いことを共有しているといった具合の、笑いさえ含んでいた。その笑いに、わたしは入ることができなかった。ただ謎が深まるばかりだった。
 パパと会った帰りに、おこづかいをもらったことを、一番最初にママに言った。ママは「へえ」と案の定どうでもよさそうにそれを聞いた。「これ、どうしよ」と封筒を示して言うと、「もらっておいたらいいよ。パパが、そうしたくてそうしてるんだから、瑠璃が欲しいものに使ったらいいんじゃないの」と言うのだった。
「でも五万だよ。大金だよ」
「五万ね」
 あのとき、ママは、ハ、とすこし鼻で笑ったようだった。今思うとママは、「パパが女の人に毎月五万渡していた」ことを、思い出したのだろう。それでもママは、ゆっくりと息を吐いて、「お金に罪はないんだから、いざという時に備えておきなさい」とにこりと笑った。
 
 パパは、あっちにも生活。高校に入って、その言葉を反芻して暮らした。
 パパはつまり、わたしとママと暮らしていたように、別の女のひとと暮らしていて、そこで女の人が用意した料理を食べて、買ってあった部屋着に着替えて、お風呂に入ってその家のシャンプーとかせっけんとかで身ぎれいにくつろいで、その家のベッドで眠ったりしていたというのだろう。食事と灯りと部屋着とお風呂と、その他もろもろの生活費が、五万として渡っていたというのだろう。ていうか、ホテルに行けばいいじゃん。女のひとが日常を営んでいる部屋で、ことを賄おうなんて、その発想が気持ち悪い。けちなの、パパ、金持ってるでしょ。ホテルに行ったほうが高いのか、だから女にホテル代の替わりとして五万渡したのか、そういうことなのだろうか。
 その方が女のひとが喜んだからだろうか。ホテルではなく自室を拠点にすることによって、つまりパパとの生活がちょっとずつ自分の生活に侵食してきて、その比率が増えることが単純に嬉しかったのだろうか。生活が混ざり合っていくことに、染まっていくことに。
 愛人でいさせてごめんね、の慰謝料だろうか。
 わたしって愛人なのかなって考えなくていいように、思考停止させるための五万だろうか。
 わたしの、五万はなんなのだろうか。
 パパと娘ごっこを本格化させるための五万だろうか。
 一緒に暮らせなくてごめんね代込みの五万だろうか。
 パパはなんで不倫なんて、とか考えちゃだめだよ思考回路停止の五万だろうか。
 ただのおこづかいじゃないか、ぼくときみは、パパと娘なんだから、おこづかいのひとつぐらい、屈託なくやりとりされるべきだろう、とパパは思っているだろうか。パパぐらい経済力があれば、五万なんてたいした金額ではないんだよ、と誇らしく思っていたりするだろうか。
 ああ、またパパに会う、会ったらお金もらうのか、と思うことが、会うのはパパなのか金なのか、わからなくなってくるようで、それがいやだった。パパ自身も、パパは金だと思っているのかもしれなかった。誇りをもって、そう言いたいのかもしれなかった。どうだ、パパは金なんだぞ、はっはっはと思っているのかもしれなかった。
 気持ち悪。
 何かわたしの意に沿わない取引に、巻き込まれ続けているような後ろ暗さがあった。クローゼットの中に積み重なっていく札が、そこでひっそり淀んでいた。

 お金、たくさんあるんだけど。何かいい使い道あったら教えて。
 唯織に相談したら、ものすごく怪訝な顔をされた。
「なに。パパ活でもしたの」と本気で心配するのだった。
 まあ似たようなものだと返事をしたら、今度は気の毒そうな顔をされた。それから真面目な顔になって、何か悩みでもあるのか、と真剣に問うのだった。
 唯織とは、中学二年で同じクラスになった。
 中高一貫の私立女子校で、自営業だったり医者だったり弁護士だったり、わかりやすく裕福な家の子ばかりがある中で、わたしも唯織も片親だというところが同じだった。違うのは、うちは離婚で、唯織はもっとずっと昔から父親はそばにいなかったことだ。会ったこともなく、写真もなく、戸籍にも記載されていない。
 きっかけは死にかけ人形だった。
 唯織が三つぐらい鞄につけていたゴム製の人形を、沙菜もみほりんもちょっとひきぎみに気持ち悪いと言って、でもわたしはそれをすごくかわいいと思った。かわいいかわいいと連発したら、ひとつくれた。
 いいの、と聞いたら、いいの、これもらいもの、とこともなげに言うのだった。
 死にかけ人形っていう平成のレガシー玩具で、今は高値で取引されているんだけど美津子さんにはただであげるよ、って母親の知り合いという男が母親にくれたものを、やあだーって高い声で受け取ったくせに、男が帰ってから、こんな気持ち悪いもの要らないわよ、と母がくれたと唯織は言った。
 人形はがりがりであばらが浮き、「ヒー」という吹き出しが似合いそうな、恐怖の顔をはりつけたまま、唯織の鞄とわたしの鞄でゆらゆらとゆれた。おっさん、なんでこんな顔。何があった。誰にやられた。ゴム製のそれひとつで、わたしと唯織は二時間ぐらい盛り上がった。
 家が近いこともあって、それ以来、唯織とときどき学校帰りにたこやきを食べたり、休みの日に駅ビルをひやかしたりした。一度家に呼んだらママがおやつを出しにきて、唯織は相当驚いたようだった。「瑠璃のママは何してるの、働いてないの」と問うので、動画だかブログだかがバズって、不倫についての悩みが送られてくるから、それに返事してる、今度本も出る、と答えたら、「インフルエンサーじゃん」と手をたたいてウケた。
 唯織の母親はホステスをしていて、といっても安いキャバクラとかじゃないよ、会員制の高級クラブのホステスで、ママの店があって、女の子たちを束ねてる側のひと、と唯織はわたしには教えてくれたけれども、唯織のところのママ、ホステスなんだって、という噂だけあっちこっちに渡っていくのをたぶん唯織も知っていた。表だっては誰も何も言わないけれども、唯織のところのママはホステスと、唯織と仲よくなる前からわたしも知っていた。綿野さんのところのママはホステス。
 唯織のママに、一度あったことがあった。中学から高校にあがるときの卒業式で、同じメンバーがそのままあがって、そのまま同じ高校にあがるので、涙も別れもなく、さして感慨もない式であったけれども、参加する保護者もたくさんいて、そこかしこで、どうもどうもと挨拶がかわされていた。
 唯織のママは、堂々としていて華々しくて、スポットライトが当たるように目立っていた。はじめましてと挨拶をすると、「あああ、瑠璃ちゃんね、お話聞いているのよ、いつも唯織と仲よくしてくれて本当にありがとう」と感極まった様子で両手をにぎられた時びっくりするぐらいいい匂いが漂ってきて、「芸能人みたいにきれいなお母さんだね」とぽうっとなりながら唯織に言ったら、「化粧と皮膚科で、女の見た目はなんとでもなるんだよ」と塩辛く返事がきた。その日、唯織と唯織母は、わたしが見る限り、一度も目を合わさなかった。

 唯織は、勉強ができた。
 中学から高校にあがるときには首席として学年代表の挨拶までした。卒業式に現れた唯織母は先生たちを前に得意げだったけれども、唯織は挨拶なんておまけみたいなものだからと、淡々とそれをこなした。唯織が勉強をしているのをみると、勉強が好きというひとが本当にいるのだなと感心するのだった。
 唯織なら、賢い使い方を教えてくれると思い、父親から毎月もらうお金について、その時初めて打ち明けた。唯織はふんふんと聞きながら、「男ってそういうことするよね。お金でしかアイデンティティー保てないってやつよ」とうちのママが言いそうなことをきっぱり言い切った。
 愛人にあげていたのと同額の金が、こちらにまわってきて、何がいやというはっきりしたことは自分でも言えないのだけれども、とにかくそれがいやなのだと打ち明けたら、「たしかにそれはちょっと微妙な気持ちだ」と同意してくれたけれども、「でも、ただのお金じゃん」と呆れもした。
「なんか、汚れた金って感じがする」
 汚れた金って政治家じゃあるまいし、と唯織は低い声でくつくつ笑ったけれど、つもりつもった総額を言ったら急にたじろぎ、「こっわ、なにそれ、どこの企業からの収賄金ですか」とおののいた。
「それさ、今あえて使わなくてもいいんじゃない。そのまま貯金してたらいいじゃん」
「貯金してない。おいてある。クローゼットに」
「あぶな」
「ちゃんと鞄にいれてるよ。家庭科でつくったやつ。あのリスの柄のやつ」
「セキュリティー緩すぎ」
 お金の使い道を考えるという議題に、唯織は全く積極的ではなかった。
「ユニセフに寄付すればいいじゃん。徹子に託せば問題ない」の一点張りだ。
「アフリカの飢えた子どもたちとか、船で国境を越えてきた難民の保護とか」
 ちがう。わたしはもっとこう、パパが「そんなものに使うなんて」と驚くようなことに使いたいのだ。パパがくれたヨゴレの金で、人助けがしたいわけではなくて、暴力団から政治家に流れる的な、帳簿をちょっとずつごまかして別口座に移し続けた隠し預金的な、公にはできない金と同じ類のものとして、こちらも法律の抜け道を利用して、やられたーとパパがうなるような鮮やかな使い方で、お金をぱあっと気持ちよく使い切りたいのだ。
 という思想は、唯織には全然理解されなかった。なんだそれ、ドラマの見すぎだと一蹴された。
 瑠璃にとっては気持ち悪い金だけど、お金に罪はないよ、必要なひとが必要なものに使えば、ヨゴレの金も浄化されるんじゃないのと慰めるように言うのだった。
「まあ、それでも、そんなものでヨゴレが落ちると思えないのが、ヨゴレなんだろうけどなあ」
 何かしんみりしたように唯織が言う。
 パパの葬式代としてシュールにためておくか、歩道橋からぱあっと札を巻いてその動画をあげるか、さんざんふたりで悩んだ結果、ヨゴレの金はヨゴレで使おうということになり、手始めにオールでゲーセンというしょぼい企画をたてたのだけれども、思ったほど楽しくなくて、オールどころか二時間ぐらいで耳と喉が痛くなってやめた。カラオケにも行った。ボーリングと動物園と水族館にも行った。ディズニーランドは楽しかったが、ヨゴレの金で楽しんでしまったと罪悪感が残った。ヨゴレではなくて、これじゃただのレジャーじゃないか。
「いっそラブホに行ってみるのはどうだ」と唯織が言った。
「ラブホって、ラブホ」
「そ。ラブホテル」
「わたしと唯織で」
「女同士でもいいじゃん」
「高校生、行っていいの」
「だめ」
「じゃ、だめじゃん」
「だからいいんじゃん」
 なんか、ヨゴレって感じの使い方でしょ、と唯織が得意げに言うのだった。
 生活費として、パパが女に渡していた五万。ホテル代を浮かして生み出された五万。それがめぐりめぐってホテルに還る。たしかに。ヨゴレなのに、なんと美しい使い方だろうかとその時は思った。
 
 ラブホテルというところを、漠然としか知らなくて、そこで何が行われているかについては、さらに遠いできごとであって、わたしの周りに性行為のなんたるかを知るひとはいない。いないと思っているだけで、いるのかもしれない。わたしとはあまり仲がよくなくて、用事があったらまあ喋るぐらいの、テニス部の岸さんとかバレー部の橋本さんなんかは彼氏がどうとか今度旅行がとかお弁当の時間に騒いでいるので、そういうことはあるのかもしれない。けれども、沙菜もみほりんも彼氏ほしーとは口では言うものの、前のめりに他校男子との交流を持つことに力を注ぐとかもなく、わたしとわたしの周りの日常は部活と勉強と平和な推し活で満たされている。
 保健体育の性教育の時間だけは盛り上がった。けれども配布されたパンフレットの、ヨシコと山田くんの恋愛漫画は肝心なシーンは花がちらされているだけで、全然わからない。いやわかっている。ネットにはエロ漫画が氾濫しすぎている。何か調べるたびに、定食の漬物のようにエロが入りこむ。でもそこに現実味はない。
 唯織に、彼氏はいるのだろうか。ふと疑問に思って尋ねたら、いないよとあっさりと返事をくれた。それなのに、この躊躇のなさは一体どういうことなのか。
「ラブホで女子会っての、あるらしいよね、女子だけのプラン、お泊り会するにはいいよね、ラブホ、騒いでも怒られないし。せっかくならお城みたいなとこがいいなあ、ふたりだからねー、ベッドはそこまで広くなくてもいいよね、おお、ここ可愛いじゃん、ライトがプロジェクションマッピングみたいになってんじゃん。フロントは無人がいいとは思うけど、化粧はしといたほうがいいかな、まあどうせ高校生っぽいなって思っても通報はされないと思うけどさ、よっぽどじゃなければ」などと、何か文化祭の出し物でも決めるかのようにびしばしと段取りをつけてくる。
 そんなふうにして唯織が決めたラブホテルは、ホテルマーメードという名前の、いかにもラブホテルというキラキラした外観がディズニーシー風で、やはりちょっとしたレジャーであった。
 部屋にはいっても、唯織はさして気負うことなく、ふーんとか、へえとか言いながら鞄を低いガラステーブルの上に置き、社会勉強といった具合にひととおり設備と備品を見学し、がっこんと鍵がかかる自動音に怯むわたしとは対照的に、ごく自然に部屋でくつろいだ。
 天蓋がつるされた巨大なベッドは貝が模されていた。わたしが青いグラデーションと魚が描かれた壁紙をなでたり、冷蔵庫の中をおどおど調べたりしている間にも、唯織はそのベッドに寝転がって枕元にあるスイッチをつけたり消したりしながら、このスイッチはこの照明のパターンだわと、無邪気に楽しんでいるようだった。
 壁にうつされたプロジェクションマッピングは、思いのほかちゃちかった。壁一枚に行ったり来たりするうそものの魚の群れが映し出されただけだった。それでも、他の照明を落としてそれをみると、海の底のようにゆらゆらとうつくしくて、しばらくぼんやりそれを眺めた。
 隣からの物音も聞こえなかった。
 そういう声ももれてはこなかった。ああ、静かだなと思って、そういう声もないなと気付いて、そういえば、ここはそういうホテルだったと思いだした。何か唐突に気まずいような気がして、無邪気にベッドに寝転ぶことをためらわれた。ここは性行為をするためだけの場所であって、そんな場所でくつろぐことはできないように今さら思った。
「瑠璃、緊張してるの」
「ちょっと」
「大丈夫だよ」
 唯織がわたしを向いた。励ますような優しい言い方だった。
「ただの部屋じゃん。ちょっと大きいベッドがあってカラオケがあって、電気のスイッチがたくさんあって、それだけじゃん」
「でもさ、そういうとこじゃん」
「うん、だからさ、そういうとこってことだけじゃん。わたしの家でも瑠璃の家でもなく、どれだけ騒いでも、誰かに怒られることもなく、なんだかかわいい内装ってだけの部屋で、しゃべったりご飯食べたりしよ。浜センきもちわるーとか、岸さん彼氏の目撃情報ーとか、ふつうの話しよ」
「それ、ヨゴレの使い方じゃないよね」
「われわれにとっては最大限ヨゴレの使い方だと思うよ。それでいいじゃん。いつかそういうことするために、誰かと来るかもしれないから、とりあえず予行演習ってことで」
 予行演習という言葉にふたりで笑った。彼氏、というものが具現化される予感が全くなくて、それなのにこの演習はいつ実践されるのか、それがおかしかった。
 沙菜と一緒になって、彼氏ほしいとは言ってみるものの、それがどんな形で表れて、どんなふうにやりとりがなされ、どんな発展をとげるのか、自分ごととしてピンとこなかった。それでも彼氏というものを得るために、近い未来努力を強いられるであろう、わたしはそれを欲しいか欲しくないか、何を得ようとしているのかわからないまま、走らなければならないだろう、うっすらとではあるけれども強迫概念のようなものがあるのだった。
「彼氏なあ。いてもいいし、いなくてもいいな」
 唯織がまた枕元のスイッチを変えた。
「彼氏じゃなくてもいいな。一緒にいたいなと思えるひとが一緒にいてほしい。そんで、そういうこともしてもいいし、しなくてもいい。したかったらするし、したくなかったらしない。そういうのがいい」
 枕元にあるたくさんのスイッチから有線を流した。
 場違いに明るいふるいアニメソングが流れて、「これ、小学校のときの体育会で踊った歌だ」と呟いたら、唯織がふふと笑った。わたしも、笑った。

 わたしがしょっぱい担当で、唯織が甘い担当で、それぞれに食べるものをもちよっていた。ローストビーフのサラダとか、きのこのキッシュとか、デパ地下でそれなりに豪勢に買ってきたつもりだったけれども、唯織はホールのケーキを用意していて、ふたりなのに、どうすんのこんなに、と大騒ぎしながら、包丁で切り分けることなくふたりしてフォークでつついた。
 カラオケをして、花びらが浮かんだジャグジーに入って、岩盤浴をして、コスプレして写真をとったら、夜の一時になっていた。普段ならもう眠る時間であった。窓はなくて、空調は一定で、外からの音もなくて、時間から遮断された空間であるように思った。
 眠たいわけではなかったけれども、ベッドに寝転んだら、少しうとうととしてきた。照明が薄暗いせいかもしれなかったし、ケーキを食べすぎてお腹が重たいせいかもしれなかった。
 天井が、鏡になっていた。鏡にわたしがうつっていた。ホテルに用意してあったコスプレ用のひらひらのドレスというか、下着というか、パパが嫌いそうな短い丈のドールワンピースを着たわたしが、ぼんやりとわたしを見おろしていた。巨大なベッドに寝転んでいた。
 パパが、女の人と。こういうところじゃないけれども、こういうところでするべきことを、何回も。
 すこし考えてみたけれども、やはりよくわからなかった。わからなくていいような気がした。それはわたしの問題ではないと思った。キラキラと明るく閉じた空間はディズニーほどつくりこまれていなくて、その安っぽさがすべて嘘みたいで心地よかった。
「帰りたくないなあ」
 隣で唯織が同じようにひらひらした下着ドレスを身に着けたまま、仰向けに寝転んで言う。
「明日も来る?」
 心から言ったのに、唯織はちょっと笑っただけだった。そういう意味で言ったのではないのだとその時わかった。帰りたくないのだと、唯織は言いたいのだと思った。
「唯織、なんで帰りたくないの」
「あのひとがいるから」
「あのひとって誰さ」
「母親だよ」
「お母さん、嫌いなの」
 ずっと聞いてみたいことだった。けれども、軽々しく聞いてはいけないような気がしていた。「そうなんだよ、すっごく腹がたつんだよ。親なんて大嫌いだよ」と自分の親のことを言う友達はたくさんいるけれども、唯織のそれは違うような気がしていた。何か、甘いものがつけいる隙が一ミリもないような重たさで、唯織は自分の母親を嫌いというよりも、憎んでいるような気がしていた。
 それを聞くことは憚られた。今なら聞いてもいいような気がした。たとえ唯織が何を言っても、わたしが何と答えても、それらはすべてキラキラした照明の中に吸い込まれていくように思った。それが許される虚構のような空間だった。
 唯織は、しばらく考えていたようだったけれども、ゆっくりと、でもさして悲観的ではない口調で「わたし、売られそうになったことあるんだよ、あのひとに」と告げた。
 物品とおこづかいの範疇を超えたやりとりが、あったのだろうかと単純に思った。が、そういうのではなかった。唯織自身が、母親に売られそうになったのだった。その話を唯織は、さしてたいしたことではないようにわたしが捉えられるように、懸命につとめているのだったが、ときどき声が震えて、でも泣いたり叫んだりするわけではなくて、言葉が勝手にこぼれおちてくるようで、たぶんずっと唯織の中にあったのに、今までどこにもいかなくて、唯織はそれをとどめることができなかったように思った。話す唯織を見てはいけないように思った。唯織を見ないように、天井の鏡越しでも唯織を見ないように、目をつぶってそれを聞いた。かすかな相槌だけを返した。
「あのひとの店のお客さんでね、わたしのこと気に入ってくれてるおじさんがいてね」
「うん」
「おじさんって感じじゃないなあ、おじいさんって感じかなあ、背が低くて、白くて、腕にしわがあった。すっごい金持ちなんだよ。中国とインドと、あとシンガポールにも自分の工場があって、工場っていったかな、会社だったかな、別荘だったかな、もう覚えていないんだけど、なんか聞いたことない会社の社長さん。金持ち相手にしか商売しないから、あまり世間では知られてないんだって言ってた」
「うん」
「あのひとも含めて、三人で食事をしてね。時々あるの、あのひとに呼ばれて、あのひとのお客さんと食事っての。ほら、子どもが一緒だと、へんに恋愛関係にならないでしょ、だから相手に気をもたせないようにするために、必要な手段なんだって。わたしも、あのひとが恋愛ごとでごたごたするの面倒だから、まあいいかと思って、食事ぐらいは行くこともあってね。なんだっけ、しゃぶしゃぶとか。あと、焼肉とか。肉ばっかだな、あとは、あれだよ、天ぷらとか」
 唯織と唯織母とお客。唯織が言うには、三人でする食事には、二パターンあるのだった。ひとつは、完全にビジネスモードで、唯織母は客をおだてたりすかしたりしながら、大人の会話を楽しむような食事で、唯織はお飾りとして存在するというもの。もうひとつは、唯織母が唯織に恋人を紹介するというていのもの。紹介というよりも、ふたりの仲を見せつけるといった感じが正しいような気がすると唯織は言うのだったが、どちらにしても唯織はただ黙って、出された食事を食べるだけの役割だった。
 その客との食事は、何かが違っていた。客は、唯織母ではなくて、唯織と喋りたがった。唯織母も「ね、唯織」とたびたび促して、まるで客と唯織の仲を取り持っているように唯織には思った。それで仕方なく会話に参加した。それが唯織母のビジネスなのだろうと察した。帰り際、客が乗るタクシーに唯織は押しこまれて、それで初めて驚いた。
「あなたはタクシーに一緒にお乗りなさい」
 え、どうしてと唯織は言ったが、母親はそれには答えなかった。
「このまま、ご一緒なさい。ね、そうなさい。明日は学校はお休みなさい」そう強く言って、タクシーの扉を閉めた。どういうこと、という思いと、そういうことか、という思いがないまぜになったままタクシーに揺られた。信号待ちのたびに扉を開けようと試みたが、無論開かなかった。隣にいる客と目を合わせることもしなかった。ふたりとも黙っていた。客が何を思っていたのか知らない。けれどもそういうことを考えているのかもしれないと思うとただ恐怖だった。だって、でも、わたし、中学生であって、このひと、おじいさんだし、まさか、仮にも、母親が、でも事実逃げられないタクシーの中にその客とどこかへ向かっているのだった。
 タクシーは、ホテルについた。路地裏のさびれたホテルで、インドと中国とシンガポールに工場だか会社だか別荘だかがあるわりに、こんな安っぽいところに連れ込むのかとあとになって思ったが、ようやく扉があいて、それはちょうど自分が座っていたほうの扉で、今しかないと必死で逃げた。客はタクシーの清算をしながら、何か叫んだようだったが、無視して走った。死ぬほど走った。裏道から出て、どこか人がたくさんいるところにと思いながら走り続けた。
 どこかの駅についた。たぶん地下鉄の。来た電車に乗り、適当に降りて、また適当に乗り換えて、そんなことしながら一時間ぐらいずっと電車乗り続けた。途中のどがからからであることに気づいて、ホームの自販機で水を買って飲んだ。トイレに行った。鏡に映った自分の顔が白くて青くて、夏であったけれども、自分はずっと寒かったのだとわかった。何か温かいものが欲しかった。けれども自販機は冷たい飲み物ばかりで、だからといってどこか店に入るというのは、中学生の発想にはなくて、それでようやく家に帰ろうと思った。歯と指ががちがちと震えていた。
 母親は、もう家に帰っていた。
 風呂上りで、ほこほこして、化粧も落として、髪の毛も洗ったばかりで、いい匂いをさせていた。玄関に佇む唯織を見て、あら、という顔をした。あら、帰ってきたの、残念ねという顔だと唯織は思った。服と顔をじろじろ見て、その感じじゃ何もなかったのね、そんな顔であった。
 風呂に入って寝て、起きたときにはもう、母親は家にいなかった。
 テーブルの上に封筒があって、二万円が入っていた。手紙の類は何もなかった。けれど唯織宛てに違いなかった。母親は時々そういうことをするのだった。食費だったり、書籍代だったり、たいていは封筒に何か書いてあるのだったけれども、その封筒にはなにも書かれていなかった。なんのお金であったのか。ホテルに行かせようとしてごめんねのお金か。もしホテルに連れ込まれていたら、いくら渡すつもりだったのか。その封筒をしばらく唯織は眺めた。その日学校をずる休みした。母親は何も言わなかった。
「その話を、わたしもあのひともしないままもう三年経つんだけどね、なんかもうなかったことみたいになってるけど。あったんだよ、わたしとあのひとの間に、そういうことは、たしかにあったの。
 別に母親がホステスでもいいんだよ。母親が働いてくれてるから、わたし、ごはん食べてるし。学校に行けてるし。瑠璃と遊んだりできてるし。ありがたいって思ってるんだよ。育ててもらってるって感謝もしてる。でもだからって、わたしはあのひとのものじゃないんだよ。あのひとが、好きにしていいものではないんだよ。一回だって許されていいことじゃないんだよ。結局何もなかったじゃないって、そういうことじゃないんだよ。これは、わたしがあのひとに、ひとりのひととして扱われなかったっていう、そういうことなんだよ」
 そこまで言ってから、こぼれるものが何もなくなったかのようにふいに黙った。
 唯織の長い長い話に、衝撃が走るというのはなかった。想像していた話ではなかったけれども、だからこそなんと声をかけてよいのかすぐにはわからなかったけれど、何も言わなくてもいいような気がした。何か腑に落ちるようなものがあった。そうか、と思って、「そうか」とだけ言ったら、「そうなのよ」と唯織があっさりと言った、遠い国の物語を終えたように、ふと気が抜けたように。
「封筒の二万、どうした」
「徹子に託した」
 それから唯織は少し笑ったようだった。
「あれも、ヨゴレの金なのかな」
「ヨゴレじゃないよ」
「タクシーから逃げてきたときまでは、わたし被害者じゃんって思ってたのに、あの封筒のお金見た瞬間、なんかこう、別のものになったような気がした、自分が」
「ヨゴレじゃないよ、唯織は」
 唯織とふたりで船に乗って、どこか遠くへ行きたかった。帰りのことなど気にしないで、ただ遠くに、ここではないどこか遠くに行けたらいいのにと思った。ヨゴレの金をヨゴレとして。でも唯織はヨゴレじゃないし、わたしもヨゴレじゃない、強く思った。
 朝になって、マーメードを出るとき、入ってくるカップルとぶつかりそうになった。すごい、今から、朝なのに、唯織とふたりでちょっと盛り上がった。
 ここへ来るとき完璧に作りこんだ化粧は、すっかり落ちていて、わたしも唯織も、どこからどうみても未成年の風貌のまま、マーメードをチェックアウトしたが、誰にも何も言われなかった。
  
 ロビーは、いつもよりすこし混んでいるように思った。
 ちょうどお日柄がいいのか、晴れ姿で待合せるひとたちが、吹き抜けの大きな空間のあちこちにあった。外は秋晴れで清々しく、結婚式があるんだなあ、おめでたいなあとぼんやり思ったが、パパの姿が見えると一気に緊張した。鞄をぎゅっと持ち直した。
 なんだこれは、と早口でパパは言った。パパからもらったおこづかいです、と答えた。本当はもっとあったんだけど、ちょっと使っちゃったから、これはその残りです。四百七万四千十七円あります。そう言いながら、リスの鞄ごとパパの前に置いた。
 月一の面会に唯織を連れてきたことを、パパは戸惑っていたけれど、リスの鞄から札束を出したときには、さらに驚いたようだった。唯織がいてくれて、心強いと思った。
 ついていこうか、と唯織は昨日言った。
「唯織には関係ないし、高校生にもなって言いたいことをひとりで親に言えないなんて、ちょっとかっこわるい」と断ったけれど、「弱いものは、群れなくちゃ戦えないよ、スイミーで習ったでしょ。関係ないなら余計にいたほうがいいじゃん、なんていうの、中立の人じゃん」と当然のように力強く唯織は言った。
 優等生然とした完璧なあいさつをパパにしたあと、パパが勝手に注文した酸っぱいオレンジジュースに手をつけることなく、膝に手をおいたまま、しずかに隣に座ってくれていた。
 パパは、すぐに不機嫌になった。なるであろうことはわかっていた。
 おこづかいなのだから、瑠璃が好きに使えばいいだろう。離婚してもパパは瑠璃のパパなんだから、瑠璃はパパの娘として、おこづかいぐらい取っておきなさい。養育費は別に十分な額を払ってある。誰に遠慮することはない。今、使うあてがないのであれば、将来のために貯金しておきなさい。お金はいくらあっても困るものではないんだ。瑠璃はお金に困ったことがないから浅はかさなんだ。若いから。ものを知らないから、そういう時分にありがちな青いプライドで受け取れないと依怙地になっているのかもしれないけれども、今後何かのときに、やっぱりお金が必要だということが絶対にあるのだから。これは、このまま持って帰りなさい。パパも見なかったことにする。いいね。
 ということを、パパが言うであろうこともわかっていた。だからそれらを言われる前に、言うべきことを言わなくてはいけなかった。パパが口を開く前に、わたしがそれを言わなくてはいけなかった。
「パパ、今までたくさんすぎるほどのお金をありがとうございました。本当にたくさんのおこづかいを、いただきました。でもわたしには必要ないの。パパから毎月五万円ももらいたくないの。なんだかわからない感じのお金をパパと、パパじゃなくて誰とも、わたしはやりとりしたくないの。お金をもらって、もやもやしたくないの。もやもやして、これなんのお金だろって見るたびにいやな気持になるお金は、わたし欲しくないの。だからこれはお返しします。このお金は、わたしではなく、パパが今一緒に住んでいる家族のために使ってください。わたしではなくて、そのひとたちを大切にしてください。そのひとたちを裏切ることなく、幸せに過ごしください。パパを大事にしてくれている今のパパの家族とゆっくり時間をすごしてください。わたしと会う時間があったら、パパはパパの家族と過ごしてください。パパが、本当に、心からわたしに会いたくなったら、連絡してください。本当に、心から、わたしという人間に会って何か伝えたいとか、聞いておきたいとか、一緒にしたいとか思うことがあれば。あのね、近所にできたおいしいパン屋がね、クリームパンが絶品で、ちょっとカスタードがオレンジ風味で、ママが言うにはコアントローが効いてるっていうことらしいんだけど、それ、買ってくるから一緒に食べよう。安いけどね、ひとつ二百三十円だけどね、ママがくれるおこづかいでも全然買えるぐらいだから、でもおいしいから、パパにも食べてもらいたいなって思って、パパ、クリームパン好きだったでしょ、そういう話をね、忘れそうになるんだよね、五万円がいったりきたりしていると。わたしが好きだったパン、パパ思い出せないでしょ、知らないでしょ、お金渡しておけば、それでもういいかってなんかやるべきことはやったような気になるでしょ、ならないか、パパはならないのかな、でもわたしはなるんだよ、やるべきことをやられただけだって思うんだよ、パパがわたしに対して何かもやもやしたものがあって、そのもやもやを五万というお金でごまかしているのかな、そういう五万なのかなって思っちゃうんだよ、五万分のもやもやが積もり積もっていくの、パパはそういうひとなんだってもやもやがどうしたって消えないの、だからもうパパと会いたくないんです、ごめんね。わたしがパパに会いたくないの。でもパパだから。もしかしたらパパに会いたいなって思う時が来るかもしれない。わたしが、本当に、心から、パパに会いたくなったら、その時また連絡します。でもたぶん、当分ない。それでいいよね、パパもそんなにわたしに会いたいと思ってないよね。ちょっと困ってたよね、わたしとの時間。でも言いだせなかったよね、娘との時間が手持無沙汰とか、かっこわるいもんね、でもかっこいいとかかっこわるいとか、たいした意味はないんだよ。パパのかっこよさ、パパが思っているより、誰も興味ないと思うよ。だから肩肘はらずに生きたらいいと思う。偉そうな肩書きがなくても、パパはわたしのパパだから、パパはパパしかいないから、死ぬまでわたしのパパだから、パパというひとを思い出すときは、パパのことを思うよ。今まで一緒にいてくれてありがとう。元気でね」
「帰ろ」と唯織の腕をつかむと、唯織もゆっくりと立ち上がって、パパに深くも浅くもない、ちょうどいい一礼をした。パパと連呼しすぎたせいか、どこからか「パパ活?」とひそひそ声が聞こえて恥ずかしくなった。パパはもっといたたまれないだろうと思った。けれど、それ以上パパと喋ることもなくて、パパからの言葉も欲しくなくて、ふたりしてホテルを出た。晴れ着のひとがたくさんいるから、ぶつかって何かをこぼして、汚したりしてはいけないと思って、ゆっくり歩いた。
 パパは「ちょっと待ちなさい」とか「何を言って」とか弱弱しい声をかけていたようだったけれども、結局ホテルを出ても追いかけてこなかった。

 好き放題言ったね、と帰りの電車で唯織がほがらかに言った。
 昼間の電車は空いていて、大きな窓から日がさしこんだ。背中が熱く、それが心地よかった。何かがゆるんでいくようだった。
「予定ではあんなに喋るつもりじゃなかったんだけど」
「言いたいこと、いっぱいあったってことじゃん」
「そうかもね。七年分喋った」
 七年分ね。と唯織は小さい声で繰り返した。そりゃいっぱいあるね。
「唯織もさ、三年分、喋ってみる?」
「まだいいよ。まだ無理」
 その時は付き添ってあげるよ、と言ったら、かっこわる、と唯織が笑った。
 電車はゆるく走っていた。
 途中下車して、アイスでも食べようよと提案したら、それよりもクリームパンが食べたい、コアントロー味の、と唯織が言うので、わたしの最寄駅でふたりして降りた。
 クリームパンは焼き立てだった。やわらかくて、トングではつかめなくて、へらのようなもので店員さんがそっとビニールにいれてくれた。店の外で、立ったまま唯織と食べた。ビニールに蒸気がついた。
 カスタードのクリームは甘くてあたたかくて、やはりオレンジの香りがした。

〈了〉