女による女のためのR-18文学賞

新潮社

息子の自立

広瀬苹果

 二時間二万九千八百円。
 高いのか安いのか判断がつかず、曜子はため息をついて画面をとじた。おちついて考えねばならない。というのも、本人が望んでいるかどうかわからないからだ。とはいえいまの状態では泰隆の世話をやくどころではなく、誰かの手を借りねばならないことは明白だった。
 美咲に電話すると、いまは特別養護老人ホームで非常勤の看護師としてはたらく彼女は、「しかたないんじゃないの」と、持病の腰痛からのぎっくり腰からの椎間板ヘルニアと診断を受け、最低でもあと一週間はじっとしていなければならない曜子にお見舞いと同情のことばをくれたのち、きわめて現実的な見解を述べた。
「それで病院行くわけにはいかないしね。ショートステイにお願いするったって、けっきょくそっちの処理はどうにもできないわけだし」
「だよね。どっちみちわたしがやるしかないって思ったからいままでやってきたんだから。なのにいまわたしの都合で七日もケアしてもらっていないんじゃ、本人もぼちぼち、疑問もちんこも爆発しそうだろうしさ」
「やっちゃんにはきいてみた?」
「もちろん。やすくん女の子好きですか、って」
「で?」
「わかりませんなあ、って云ってた」
「うーん」
 まあいっぺん試してみたら、という答は、事前に曜子がだした結論と同じだった。どっちみち美咲にも当事者意識はもてまいし、もてというのも無茶な話だ。だが、同じ看護師としての経験がそう云わせたのであれば、曜子としても心強い。ふたたびウェブサイトを開き、こちらの事情を細かく書き込んだうえで、ずらりと並んだ顔写真から第一希望の女の子を選んだ。目元は隠されているけれども、健康的な肌つやの、優しそうな雰囲気をまとった彼女は弱冠二十一歳。おそらくかなりかわいらしい容姿であり、ひょっとしたら彼氏もいるのかもしれないが、どのような事情もしくは興味があって、障碍者専用風俗嬢という職についたのか、学費か生活費のためなのだろうかという疑問はわいたにせよ、とにかくいまの曜子にとっては救いの女神だった。
 うめきながら薬を飲み、コルセットをつけ、息子が帰宅する前に夕食だけは作っておかねばと、やっとのことで台所に立つ。母子家庭の気楽さで、カレーライスとサラダ、と、いちばん簡単に炭水化物と脂質と野菜を接種できるメニューに決めた。長年の腰痛が風雲急を告げ、いまやじぶんの体が薬ではなく毒にもなりうる事実をつきつけられても、このうえ夫までいなくてよかった、と、曜子はしみじみ思った。じぶんではけして作らないくせに、二種か三種の副菜がなければ機嫌を損ね、息子きどりで世話を焼かれたがる男と暮らしていたころを思えば、実の息子とのふたりぐらしは格段に気楽だった。曜子が体を壊しても、元夫はたいして家事や介護を肩代わりもしてくれなかっただろう。ひとりですべてを背負う暮らしはときどき辛く感じるものの、半人前と暮らすストレスから解放されたのは、このうえない幸福だった。
 スパイスのよい匂いが、リビングとつづきになったキッチンに流れはじめる。夕食はぶじにできたし、あとは掃除をしておかねば。運よく日程が空いていたので、明日の昼には泰隆も解放されるはずだったが、自宅に来てもらうことにしたので、玄関と廊下に掃除機くらいかけておきたい。
 ふたたび――いまになって思うのは、持ち家でよかった、ということだった。そして、男性と同じだけ稼げる看護師という職をかつて選んだこと。これには二重の意味があった。息子の性処理を母親がやっているというと、たいていの人間は嫌悪か困惑の表情を浮かべるか凍りついてしまうものだが、看護師の同僚や友だちや医師は顔色ひとつ変えない。彼らにとって、曜子が息子の世話をやくことは純粋な介護にすぎず、息子の障碍を疑い、診断確定した瞬間から、じぶんがこれから携わるのは育児ではなく介護であると、彼女のほうもきっぱりわりきって過ごしてきたので、それはすでに常識であり日常だった。特別支援学校の、泰隆の同級生の保護者である母親たちも、息子や娘が十代を越してなおいっしょにトイレやお風呂に入り、子どもの髪や体を洗いもすれば汚物の処理もし、精通あるいは初経後は、自慰の仕方をみずから教えたり生理用品をあててやることを当たり前にしてきていた。いまも大半はそのはずだ。曜子の元夫は「おれは絶対にそんな気持ち悪いことはしない」と、なぜか自慢げに云ったのだったが、そう断言してしまえる夫を、ずいぶんおめでたいやつであることよなあ、と思ったとき、曜子は息子とふたりで生きる決意をした気がする。
 一般企業の障碍者枠で工場に就職し、きっちり八時間働いて帰ってきた泰隆は、「ただいまかえりました」と、玄関でいつもどおり叫んでから、手洗い、うがいをしてリビングに入ってきた。「今日の夕食はカレーライスですね」と食卓の好物に気づくと、母親のことをまったく視野にいれないままでにっこり笑う。明日はお休みです、うれしいです、と云いながら、カトラリーの箱からスプーンとフォークを持ち出して食べるあいだ、曜子もなんとか食事をし、ひとりごとで喋りまくる息子に、「やすくん、明日はお姉さんが来ますよ」と丁寧に切り出した。予定をきちんと伝えておかねば、泰隆は戸惑ってしまう。あんのじょうふしぎそうに云った。
「お姉さん、おねえさーん。お姉さんは誰ですかあ」
「やすくんのお世話をしてくれるお姉さんです。最近お母さん、やすくんの白いおしっこを出すお手伝いをしてないでしょう」
「そうです。お母さんの、してないです。お母さんのお風呂に入れません。腰がいたいからです」
「お母さんは、ですよ。そう、だからね……そのお姉さんが、明日うちに来て、お母さんのかわりにやすくんが白いおしっこを出すお手伝いをしてくれますよ」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。だから明日はおでかけしませんよ。家にいます」
「わかりました、家にいます」
 とにかく伝えることは伝えたので、曜子は立ち上がり、食器をすすいで食洗器に入れた。一見理解したようにはみえず、いまもデザートのりんごをかじりながら、今日は仕事のあいだサイレンが鳴りました、と一方的に報告する泰隆だったが、すでにお姉さんの訪問を予定に組み入れているはずだった。
 けっきょく掃除機はかけなかった。
 翌朝、泰隆はいつもどおり七時に起き、「今日はお休みです」「お姉さんが来ます」と、そのふたつで頭がいっぱいなのか、パンと目玉焼きとバナナの朝食後、自分の部屋から外を眺めては、愛用のタブレットでエレベーターの動画を繰り返し視ていた。あいまに曜子が横になっている和室にやってきては、股の部分を指さして「早く白いおしっこをしないと具合が悪いです」とアピールした。
「困っています。ぼくのおちんちんさんはとても困っています」
「そうだねえ。ごめんね、もうちょっと待ってね」
「おちんちんさん大変です」
 接頭語をつけたうえでさらに敬称もつけている。ほほえましく思っていると、
「ちんちんかい~かい~」
 股間を両手でかく真似をする。冗談をいう余裕があるのならだいじょうぶ、とは思うものの、そんなことを繰り返すうち、約束の時間が迫ってきた。泰隆は時計をみては、ときおり甲高く息を吸う音をたてる。「遅刻するかもしれません」と心配そうなのは、じぶんが仕事に行く状況と重ね合わせているのだろう。曜子は立ち上がり、玄関から外に出た。5LDKの庭付き一戸建ては、このあたりの家屋としては小さいほうだが、田舎なので一軒一軒の土地の間隔が広いし、ちゃんと表札も出ている。ゆっくり走ってくれば迷うことはない。だが、県庁のある隣の市から来てくれるから最低限ですむとしても、へたに遠回りされると、交通費が別料金なので高くつく。だいいち、お金の問題をぬきにしても遅刻は困るのだった。電車の遅延、天候不順による閉店など、納得できる理由で予定を変更される場合はその限りではないのだが、泰隆は約束を破られるのを極端に嫌う。それが現実になるとしばらくのあいだ大騒ぎする。その旨もきちんとメールフォームに書いたのだったが――
 門のむこうに銀色のワゴンが停まった。全面スモークに覆われた車など近所には一台もない。後部座席から、白地にとりどりの花がプリントされたワンピース姿の女性が降りてきて、「橋本さんですか」と手をあげた。曜子は大きくうなずきかけた。
「車、中に入れちゃってください。もう一台入れるので」
「ありがとうございます。わたし、アンジュから参りました『エミリ』と申します」
 運転手が指示通り駐車場に車を動かすあいだ、玄関ポーチの暗がりに降りたエミリは曜子に名刺をくれた。マスカラもチークもリップもたっぷり、かなりメイクが濃い以外は、どこにでもいるふつうのお嬢さんだ。このひとに息子のちんこを託すのかあ、と思うと珍妙な気分だったが、『障碍者専用派遣風俗店 は~とけあアンジュ』は、ウェブサイトで、当店の女性は全員介護研修を受けています、と標榜していたし、精液以外の排泄面に関しては泰隆は自立している。初対面の相手にはいい子でいることが多いので、とにかく泰隆が彼女を気に入ってくれさえすればうまくいくだろう。曜子がそう考えるあいだにエミリが利用にあたっての確認事項を述べていた。基本的には手と口を使ってのサービスであること。本番はなし。それだと一時間足らずで終わってしまうかもしれないが、基本プランが二時間からとなるので二時間ぶんの料金となってしまうこと。ざっと説明を終えると、手と口! 本番! ああほんとうに風俗だわ! と内心びびりつつ曜子はエミリを泰隆の自室に案内した。家に入ったところからカウント開始となるため、この時点で残り時間は一時間四十五分ほどだった。
 事前に予告していたおかげか、泰隆はエミリを見ても動揺しなかった。「お手伝いのお姉さんですか?」と嬉しそうだ。エミリが「そうだよ。よろしくね」とにこにこと答えると、「ではお風呂でお願いします」と、いきなりエミリの手を取り、ずんずん浴室に引っ張っていった。メールに書いていたとしても多少は説明が必要であろうと、曜子も慌ててついていった。「いつもお風呂場でしてやっているもので、たぶん、そういうものだと思ってるんです」――曜子が看護師であることもすでに伝えてある。それにしても泰隆は力が強い。引っ張られた腕が痛いだろう。「ごめんなさい」と謝ると、エミリは動揺する様子もなく「力の加減が難しいかたはけっこういらっしゃいますから、だいじょうぶですよ。そうですか、じゃあ、いつもどおりの環境がいいかもしれませんね」と、泰隆に手をひかれるまま脱衣所に入った。おちついた態度に、曜子はようやく彼女を信用する気になった。
「ごいっしょに入られます?」
 エミリがにこにこと振り返り、入り口で心配のあまり見守っていた曜子のほうが、かえって恐縮した。
「あ――そうですよね」
 息子が風俗を利用するのに、ふつう母親はついてゆかないものだ。「お母さんは腰が痛いです」と泰隆がタイミングよく云い、「二時間、お休みになっていてくださってだいじょうぶですよ」とエミリはかるく会釈してドアを閉めた。合板の扉ごしに、「じぶんで脱げる?」「じゃ、お姉さんも脱ぐね」と声がきこえて、曜子はリビングへ引き返した。
 休むといっても、一つ屋根の下で息子が風俗嬢にちんこをにぎられ、射精の手伝いをしてもらっていると思うと、それはそれで落ち着かない。腰への衝撃を和らげるため座布団を重ねたソファに腰かけ、お茶をすするあいだ、全神経は廊下を出て右側にの浴室に向いていた。こんなに悶々とするならじぶんがやったほうが、と考え、いまのじぶんでは無理だ、と諦め、これからは体調を崩すことがもっと増えるはずだし、そのためにもデイケアだけでなくこうしたサービスの利用に慣れなくては、と云いきかせる。だが、障碍者の性的なケアは福祉サービスにカウントされない。自力での処理が難しく、必要不可欠であっても、障碍者手帳も受給者証も適用されず、おそらく今後もなんの補助もない。二時間一律二万九千八百円、時間割はきかない、しかも交通費別途、はかなりのネックだった。月にいちどが限度だし、将来は泰隆の給料のみで賄うとしたら三か月にいちどがやっとだろう。
 途中から、泰隆がきちんと射精させてもらえるだろうかということと、利用にあたってのこまごまとしたルールが気になって、頭がぼんやりしてきた。浴室のドアがひらく音で我に返る。三十分ほど経っていた。泰隆の「やはりお風呂はいいですなあ」と、のんきな声が廊下から聞こえ、Tシャツとジーンズに着替えた泰隆と、元どおりワンピース姿のエミリがリビングに現れた。
「どうでしたか?」
「とても協力的でした。スムーズにいったと思います」
 じぶんも移動した曜子がダイニングテーブルに招くと、席についたエミリはにこやかに応えた。
「お風呂場で、というのも、衛生上すごく助かりました。あまり清潔に関心がないお客さんもいて、その場合はサービス前に清拭させてもらうことがあるんですけど、泰隆さんは必要ありませんでした。とてもきれいにされてますね」
「お風呂は嫌がらないもので、それは助かってるんです」
 ほっとした。泰隆はASD、いわゆる自閉スペクトラム症で、なかには水に濡れることを嫌う子もいるが、泰隆はたとえ短時間でも毎日きちんとお風呂に入る。ただ、ここ数日は曜子が直接洗ってやることができず、いっしょに浴室に入っても、不器用に髪と体を洗うさまを見守るだけだった。「お母さんは腰が痛いです」と納得しつつも、抜いてもらえない泰隆はかなり不満げだった。お風呂を厭うことはないが清潔には頓着しないから、短時間で浴室から出てきてしまうことも多かった。だが、エミリの口ぶりでは、ここ一週間烏の行水だったとしても、職場でも、臭いとか汚いとかは思われていないだろう。曜子は安堵し、エミリは続けた。
「いちど出したあと、本人もいやがらなかったので、二回出してもらっておきました。まだかちかちだったので」
「じゃあ、合計三回?」
「はい」
 驚いた。ぎっくりをやる前はいちおう二日おきにしてやっていたが、一週間も溜まっていると、やはりいちどでは足りないものなのだろう。麦茶をグラスに注いでぐびぐび飲み干す泰隆も、心なしかすっきりした顔だ。「おかげさまでおしっこがだせました、ありがとうございます」と、曜子のとなりで、エミリにぺこりと頭を下げる。「どういたしまして」とエミリはうなずいた。まるっきりメイクの落ちたすっぴんの顔は、記載の年齢より若く見える。まだあと一時間以上あるが、とにかく目的は果たしたことだし帰ってもらうか、それともきっちり二時間ぶん過ごさなければならないきまりなのか。同行の運転手は、家に上がるよう勧めてもかたくなに車に残ると云い張ったっけ、と曜子はつかのま考えた。
 それにしても、一般の風俗店を利用したこともないし、それが障碍者専用となるとなおさらいまこの状況が普通であるのかどうかわからないのだった。どうせなら気になっていることを聞こうと曜子は決めた。
「あのう。サービスを受ける人と、こうやって、仕事のあとにお茶することってあるものなんですか」
「そうですねえ」
 エミリはちょっと考え込んだあと、うなずいた。
「ありますよ。お客さんのほうが楽しみにしててくれて、抜きが終わったあとケーキとかお菓子を出してくれて、しばらくおしゃべりしたり、うちはほかにデートプランっていうのもあって、ショッピングモールでいっしょにお買い物するついでにご飯食べたりとかもするんですよ。お母さんもまじえてお茶、っていうのはあまりないですけど」
「そうですか……。じゃああの、アンジュには、本人じゃなく親が依頼してくるケースって、ほかにもあるんでしょうか」
「わたしが受けてるなかでは、全体の三割ほどが親きょうだいからの依頼です。本人から委託されて、施設の人が連絡してくるパターンも多いかな。出したいとか抜きたいとか、ご本人がうまく言葉で伝えられればいいですけど、そういうかたばっかりじゃないですから。グループホームの男性スタッフが、本人の身振り手振りや絵カードで伝えられて、かわりにうちに電話なりメールなりするっていう。会話が可能なら、本人が直接依頼してきますけど」
「へえっ」
 じゃあ、将来泰隆がホームに入ったときにも、その旨を頼んでおけばいいわけだ。練習すれば本人が電話することもできるかもしれない。そう考えて、ならば息子の性処理に関する悩みがひとつ解消される、と曜子ははっとした。支援学校の卒業生の母親どうしで集まって、ときどき情報交換をしているが、障碍のある子をもつ親にとって、彼らの性のケアは悩みの種だった。悩んでいるひとが多いわりに役所で解決策は提示されないし、デイケアの職員からも聞いたことがない。曜子も必死に検索してアンジュにたどりついた。いっそ市役所にパンフレットか風俗嬢の名刺でも置いておいてくれればよいのだが、見込み薄だろう。
「残り時間、どうしましょうか。泰隆くんがよければ、もういちどしてもいいんですけど」
「回数で料金が変動したりはしないんですか?」
「おうちでケアするぶんには変わりませんよ。あの、でも」
 ちょっと考え込んだあと、エミリは云った。
「お母さん。ひょっとしたら泰隆くん、練習すれば自力で出せるようになるんじゃないでしょうか。今回はお母さんが補助できないからご依頼くださったんですよね。本人の特性で指先の力の加減ができなくて、性器に触れての処理が難しいとしても、そこをクリアして射精だけってことなら、いまは自慰用グッズがいろいろと市販されてるし、そちらを利用されたほうが簡単ですよ。お考えになったりは?」
「いちおう買ってみたんです、ネットで。でも本人が怖がって」
 よくわからないものに包まれたくないらしい。「ははあ」とエミリは感心したようにうなずいた。
「そうでしたか。すみません、お客さん増えるからうちは助かりますけどねえ」
 曜子は苦笑いを浮かべてうなずいた。
「装着を手伝うところまではやってみたんですよ。でも、初めてなもんで、わたしもうまく扱いきれなくて。こう、上下に動かす動作がどうにも、腰に響いて。手動じゃなくて電動にしておけばよかったのかも」
「なるほど」
 エミリはいたましそうに、慎重にゼスチュアする曜子のウエストに視線をおとした。いまもコルセットでがっちりと固定されている。よもやま話に興じてお茶をのむあいだに時間が経ち、曜子は玄関までエミリを送った。泰隆も「またお会いしましょう」とにこやかに手を振った。
「おじゃましました」
 すでに玄関前にアンジュの送迎ワゴンが移動してきていた。ところが、門から見覚えのある赤い乗用車が入ってきた。美咲だった。食料品の買い出しを頼んでいたから、それらを持ってきてくれたのだろう。門から玄関までは車回しになっており、雨の日は玄関前に横づけできるようになっている。ただし二台並んで停めることはできない。場所をゆずろうとワゴンが少しだけ前に出るあいだ、ポーチであれこれ話しかける泰隆にエミリは答えてくれていたが、美咲が運転席から顔を出した瞬間、送迎車が停まるのを待たずドアに飛びついた。「あっ」と、思わず曜子は声をあげた。泰隆の体が、つられて車にまえのめった。
「泰隆」
 とびついて息子の肩をつかみ、引き戻す。そこへ、「ちょっと」と、戸惑っているのか怒っているのかわからない声をあげて、美咲がものすごい勢いで車から降りてきた。
「あんたここでなにしてるの!?」
 エミリは硬い表情で、美咲を無視してワゴンのドアを開けて乗り込んだ。「美咲さん」と泰隆が、母の友人に気づいて嬉しそうに「こんにちは」と頭を下げ、つぎに、ドアをばしゃんと閉めてスモークのむこうに消えたエミリにむかい、「さようなら、りりかさん」と手を振った。
「りりかさん?」
「待ちなさい、莉里香!」
 曜子はびっくりした。莉里香とは美咲の娘の名前だった。中学校に入学したとき、この家にもいちど来たことがある。あのころは黒髪をショートカットにした、バスケ部に入るのだと嬉しそうに教えてくれた溌溂とした女の子だったが、八年経つとずいぶん変わるものだ――いや、たしかあれは六年前のことだ。エミリが鯖を読んでいる、と曜子は気づいた。泰隆とお風呂に入っておらず濃いメイクのままだったら、あと五分美咲の来るのが遅ければ。なぜ最初に会ったとき思い出せなかったのかと天を仰いだが、すぐにそれどころではなくなった。かるくのけぞった拍子に腰に痛みが走り、騒ぐ美咲の声も、りりかさんにはたいへんお世話になりました、としみじみ呟く泰隆の声も、きいん、という耳鳴りの向こうへ遠のいていった。

「母は、わたしがずっと看護学校に通ってると思ってたんです」
 曜子のぶんのコーヒーもいれると、莉里香はソファの隣に座った。「でも看護師むいてなかったんですよね、わたし。去年やめちゃったんだけど母には云えなくて。朝に学校に行くふりして家を出たあと、夜まで働けたらなって、昼間に稼働率の高いこの仕事始めたんです」
「よくばれなかったね。まだ実家ぐらしでしょ?」
「はい」 
 莉里香はこくりとうなずいた。
「時間の問題だろうなあとは思ったんですけどね。友だちがまだ学校にいるから話をきいて、そのまんま母に流してごまかしたりして。でも、実習だの国試だのになったら通用しないから……。ただ、やすくんには速攻でばれたんですよ。りりかちゃんですよね、ってお風呂場で。いまはエミリちゃんだから内緒にしといてねって口止めしたの、やすくんは守ってくれたんだけど、お母さんが来て名前云っちゃったから、もういいんだなって思ったのかな。何年も会ってなかったのにすごいですよね」
「あの子そういうのは気づくのよ。というか」
 いくら昼間の依頼が多いからとはいえ、どうして障碍者専用風俗店に、と訊ねると、「きまってるじゃないですか」と、莉里香は親指と人差し指をくっつけてにやっと笑った。
「そんなにすごいの?」
「ふつうにバイトするよりは。きついことはきついですけどね。やすくんみたいにいい子のお客さんばかりじゃないし。ただ、暴力ふるわれたり、レイプされそうになったりってのはぜんぜんないです。肢体不自由だったり、事故の後遺症で障碍が残っちゃってるひとも多いから。そのぶん介助が必要なんで力は要りますけど、お客さんみんな優しいです」
「なるほどねえ」
 なにがなるほどなのかいまいちわからなかったが、曜子はうなずいた。莉里香が転がり込んできたのは、泰隆が仕事に出た朝九時すぎのことだった。ゆうべ帰宅したあと美咲と大揉めに揉め、母子ふたりぐらしの実家を飛び出してきたという。美咲と曜子はそもそも、ともに離婚して子どもひとりを育てている母親、という点で話が合って仲良くなったのだった。一晩ネットカフェで過ごした莉里香は、日が高くなってから橋本家を訪ねてきた。そのあたりの配慮はさすが美咲の娘、と感心したものの、正直曜子は、莉里香をうけいれるべきかかなり迷った。だが、すでに美咲からも「そっちに行ったかもしんないから、そのときはしばらく頼む」とメッセージが来ていた。莉里香の仕事がばれたのも親と鉢合わせしたのも、じぶんと泰隆が原因だと思うと無碍にもできない。泰隆の風俗利用については、最初から美咲に相談していたうえ日時まで教えていたのだったし、美咲も詳細を知りたがっていたので、食料を調達がてら終了時刻に合わせて来ることは、予想されてしかるべきだった。
 それにしても、橋本家にやってきた莉里香は、曜子が溜めてしまった洗い物も洗濯もし、かけそびれていた掃除機もさっさとかけるなど、よく働いた。気のつくいい子だからこそ、なぜこの子が、と曜子はなんども考えた。美咲もその点が腑に落ちず叱ったのだろう。曜子だって、彼女に息子のケアを任せ、それで恩恵をこうむってはいたものの、この子がじぶんの娘だったらと思うと、やはり気が重かった。
 だが、おずおずとそう云った曜子に、莉里香はあっさり「看護師の仕事とさほど変わらない、とわたしは思ってるんですけど」と答えた。
「お母さんは、風俗嬢なんてなにかあったらたいへんでしょ、危ないでしょ、って云うけど、看護師だって、悪くすれば大暴れする患者さんの担当になるし、男のちんこをしごく仕事って非難されたけど、尿道にカテーテルつきさして、自力で排泄できない場合は摘便だってしますよね。おしっこやうんこのほうがよっぽど大腸菌とかいて危険じゃないですかね」
 たしかにそうだ。もっとも、性器にだって菌はいる。「それがなんで、医療行為かそうじゃないか、おしっこか精液かの違いで問題になるのか、そっちのほうがわかんないんですよね」美咲はなおも首をひねっていた。「欲望や快楽が伴うから? でも、アッペや痔瘻の手術で剃毛するとき勃っちゃったりするひともいるんだし、単なる刺激で、って一面もありますよね。だからわたしは割り切ってます。とはいえ、健常男性を相手にする風俗は危険かもって意識があったから、障碍者専用にいったところもあるんですよね。相手が傷病者なら危険性は低い、って意識は、ひょっとしたら差別かもしれないな。この辺の考えはわたしもまだまとまってないし、けっこうグレイにしてるとこありますけど」
 莉里香が風俗嬢を選んだのは、母親から看護師業務について聞いてよく知っていたがゆえ、という一面もあるようだった。じぶんもそう思わないこともなかったから、けっきょく曜子にも答は出せなかった。
 帰宅した泰隆はというと、莉里香がいることを単純に喜んだ。この日は仕事がなく、一日かけて橋本家の家事をこなした莉里香は「お世話になってるお礼に無料でやりますよ」と親指をたてて、泰隆とともに浴室に消えた。前日に三度も射精していたのでその日は抜くことはしなかったそうだが、すっかり仲良くなって、ソファに並んでのんびり風呂上がりのアイスなどぱくつくさまは、なんだかほんとうの姉弟のようだった。
 翌日、莉里香は朝から仕事だった。県内では都会といわれる隣市の中央駅で、昨日と同じ運転手に拾ってもらい、県の隅っこの小さな町のグループホームにゆくという。今日はデートコースのため、「いっしょに映画みてお買い物してきまあす」と、Aラインのワンピースにダイヤのネックレス、メイクは濃いめにしつつも「車椅子のかたなんで」と、踵のフラットなパンプスで出ていった。帰宅は深夜だった。お客さんに見立てて買ってもらったという新しいワンピース姿に変わった莉里香は、自前の服より明らかに桁がひとつ下だと思われる服の裾を、それでも「かわいいでしょ」と、泰隆の前でひるがえして愉しそうに回った。
 当座の自室である二階の六畳間に莉里香が消えたあと、その日ひとりでお風呂に入った泰隆は、昨日、じぶんで白いおしっこを出せるようになろうよ、と莉里香に云われたこと、じっさいに練習してみたことをあかし、「りりかちゃんとお母さんがいなくては、ぼくもがんばりました」「もっとも、今日は腕がいたくてだめでしたけどね」と、出すことはできなかったが努力はしたのだと訴え、「明日もがんばってみます」と宣言した。曜子は感激した。自力での射精を身に着けてもらえればありがたいとつねづね思っていたのだ。これまでにも、なだめたりすかしたり。おだてたりして頑張らせようとしたのだが、母親の云うことだし、と真剣に受け取っていないきらいがあった。それが、莉里香に云われてようやく重い腰をあげた。ひょっとしたら、莉里香の存在は泰隆にとっていい刺激なのかもしれない。まだ痛む腰をおさえて曜子はおおげさにほめ、泰隆は照れくさそうに笑った。
「知らない駅で降りるのは勇気のいることです」
 その譬えは、小学校から中学校、中学から高校、高校から会社へとすすむとき泰隆が口にしたもので、彼がじぶんの気持ちを落ち着かせるための定番フレーズだった。
「そうだねえ。偉いよやすくん。勇気があるよ」
 ついに自立してくれるのかと、曜子は泣きそうだった。ところが次の瞬間、ばったり床に伏せそうになった。
「お母さん。ぼくはりりかちゃんのことが好きみたいです。だからじぶんで白いおしっこを出せるようになって褒めてもらいたいと思います。そしてぜひりりかちゃんとセックスをしてみたいです。セックスは好きなひととしかしないんだよって、りりかちゃんが云っていたからです」
 駅前の和菓子屋の麩饅頭食べたいです、くらいのノリで云う。小さいころから息子の大好物である、弾力のある白い生地で滑らかなこしあんをくるんだお菓子を思い浮かべ、それはちょっと莉里香に似ている、と曜子は思った。
 
 運送トラックとタクシーの運転手を経て風俗店の送迎の仕事に就いたというアンジュの運転手の野田は、エミリの帰宅が遅くなるときは橋本家まで送ってくれる。そのため、三日もたつころには曜子とも親しくなっていた。五十代半ばのがっちりした体格で、釣りとサウナと筋トレが趣味だという彼は、曜子が看護師だと知ると健康面の相談をもちかけてきた。健診ででてきた数値の意味するところや、腰に負担のかからない筋トレの方法を教えたり教わったりするうち、お互いにバツイチであること、泰隆の病名、曜子の勤めさき、野田がふたりの子持ちで、彼らがすでに社会人ですっかり疎遠になっていることなどを互いに知った。
「うちなんぞ、悪い仲間とつるんだりバイクで事故を起こしたりでずいぶん心配しましたけど、こうなっちゃうと寂しいもんですわ。そこへくるとお宅はいいですね。障碍は心配でしょうけど、目立つ悪さはしないでしょ、やすくん」
「むしろおとなしいほうですね。だからわたしが年くってホームに行くまでは、一緒に暮らせるのかな、と。あの子もいずれはグループホームに入ることになるでしょうけど」
 エミリを送ってきたあと、いつもかるく立ち話をして帰っていく野田は、泰隆にも優しかった。エミリが物理的に介助できない客を手助けすることもあるらしく、障碍者の相手もらくらくこなし、ふるまいも対応も自然だった。莉里香も「野田さんはパパだから」と云い、曜子はあやうく誤解しかけたが、単純にことばどおりの意味にすぎなかった。その日曜子は野田に、「アンジュのお客さんのなかに、風俗嬢を本当に好きになっちゃうひとっていますか」と訊ねた。野田は「エミリちゃん売れっ子だし、リピーターも多いから、そのなかにはひょっとしているかもしれない」と頭をかいて、
「だけどけっきょく、金銭ありきの関係だからねえ。惚れられてもエミリちゃんには迷惑なだけだしさ。なに……やすくん、本気でエミリちゃん好きになっちゃったの?」
 エミリのプチ引っ越しは「アンジュ」でも多少問題になり、曜子はあのあと、アンジュの社長からじきじきの電話を受けて経緯を説明していた。「そんなことあるんですねえ」と、曜子とエミリの母が友人どうしで、エミリとも古い顔見知りなのだと伝えると、社長は唸りながら納得し、ほかの利用者からクレームが入ると困るからこのことは他言無用、ただしそこさえ守ってくだされば結構です、と承知してくれた。ついでに痔について相談をうけたため、曜子は市内の肛門科を紹介しておいた。お尻の病気は滑稽に思われがちだが、重症化すると命に関わる。社長は電話口で青ざめたようだった。
 それにしても曜子には、泰隆の恋がほんとうに恋とよばれるものなのか判別しかねた。それは健常者が抱く感情と同じものなのだろうか。仕事の一環として、身体および心疾患について勉強を重ね、母親として自閉スペクトラム症についても調べたが、なにしろ症例が多岐にわたるため、曜子には、じぶんの息子の感情を、喜怒哀楽といったおおざっぱな区別でしかはかることがいまだにできないでいた。
 そもそもスペクトラムということばじたいがきわめて曖昧なのだ。連続体、という意味だが、虹の七色の境目が、はっきりとどことは云えないように、自閉スペクトラム症患者の症状も、これという症状をつよく挙げることができない。あるものは達者に喋るが、あるものは一言も発することはなく、あるものは重度の知的障碍を有するが、あるものは高い知能をもつ。聴覚過敏、味覚過敏である場合もあれば逆に鈍麻もある。複数を併発することもあればしないこともある。なにが飛び出すかわからないブラックボックスであり、彼らがなぜそのような特性をもつのかいまだに謎が多い。
 スペクトラム――spectrumと同じ語幹をもつものとして、スペクター、pectorなることばがある。語源も同じだというそのことばの意味を知ったとき、曜子は考え込んだ。幽霊。この世のものではないひと。なのにこの世にいて、ほかのだれかをびっくりさせたり、得体のしれない思いをさせたり、例はすくないもののちょっとした幸運をもたらすこともある。たがその印象は概して暗い。泰隆は幽霊なのだろうか? わたしの息子は幽霊なの? 地上に生きているのに別の世界に生きている、と云われれば、たしかにそうかもしれない。社会的幽霊。彼はけして健常者と同じものの捉えかたや考えかたをしない。彼がどんなふうに世界を見ているか、曜子には想像もつかない。
 ひょっとしたら曜子にも、恋というものがなんなのかわかっていないのかもしれないが、だからこそ泰隆の恋がほんとうに恋なのかわからなかった。泰隆がじぶんの感情を詳しく語ることのできない以上、息子の内心を推量するほか、曜子には手だてがない。セックスが、肉体的接触をともなったものである、と理解しているのかも、彼の性欲が他者の性欲と同じであるかどうかも。とにかく泰隆には、エミリに面とむかってセックスしたいですなどと云わないこと、それは一般的には失礼であることなどを教え、性器を挿入しないふれあいもセックスと呼んで差し支えなく、したがって泰隆はすでにエミリとセックスをしているのだと云って納得させた。これは多分にごまかしの要素が大きかったかもしれなかったが。
 莉里香にも、ひそかに打ち明けた。
「そうなんですか?」
「そうなのよ」
 莉里香が泰隆に余計なことを教えた、という腹立たしさもあれば、莉里香がいなければ泰隆は初恋すら知らなかったのだという感謝もあった。両者もまた、困惑、よろこび、哀しみ、恐怖、といった感情がないまぜになって、曜子のなかでスペクトラムを為していた。莉里香はこの前日、橋本家で曜子同席のもと美咲と話し合いを行っていた。「云いたいことはわかった。でもとにかく曜子の家は出なさい、迷惑だから」と美咲、「学校には戻らないし仕事も辞めない。ただ、長く続けられる仕事じゃないってのはわかってる」と莉里香。一進一退の攻防のすえ、「いったん家に帰ること」との美咲の要請が受理され、今週中にも莉里香は出ていくことになった。泰隆とは客と風俗嬢の関係に戻る。通院と投薬と点滴のおかげで曜子の復帰も近い。ポータブルトイレを探して病棟じゅう駆け回り、IC遅れの医師にかわって患者に云い訳する、とりとめなくせわしない日々に、曜子ももうじき戻る予定、なのだったが、
「あきらめさせてほしいの」
 懸念といえばそれだけだったから、とにかく曜子は莉里香にそう頼んだ。莉里香は考え込んでいたが、やがてこくりとうなずいた。泰隆を、たんなる顧客であり古い知り合いの男の子、としか莉里香がみていないのははっきりしていた。泰隆の初恋は叶わない。ならば、今後もアンジュを利用するとしても、エミリを指名することはできない。泰隆もぼんやりと察知していたのか、莉里香が出てゆく日をカレンダーで確認すると、「お別れのまえに、りりかちゃんとデートしたいです」と云いだした。
「デートプランに申し込みしてください。いっしょにおでかけしたいです」
「高いよ」
 デートプランは五時間五万八千円から、泰隆の手取りの半分以上だ。障碍者との移動や介助が大きな負担になるため高額にならざるをえないというが、だとしても高すぎる。莉里香がうちにいるあいだいっぱい遊べば、と曜子は翻意させようとしたが、泰隆はひかなかった。
「ぼくはわかっています。ぼくは障碍があるのでりりかちゃんとおつきあいも結婚もできません。でもりりかちゃんが好きなのでいっしょにいたいです。一回だけならだいじょうぶ、ぼくの貯金から払います。一回だけでいいです」
「――そうだね。一回だけならだいじょうぶかもしれないね」
 けっきょく曜子は折れた。泰隆の要望どおり、莉里香の引っ越し前日にデートプランを申し込み、野田と莉里香と三人で予定を練った。ふたりで公園を散歩して、近くのショッピングモールで買い物したあと、目先を変えて近くのラブホテルにチェックインする。そこで抜いてもらい、帰宅して終わり。その後莉里香は橋本家を出ていく。
 朝、泰隆とエミリは野田の運転する送迎車ででかけていった。この八日間で、泰隆の癖や行動パターンを莉里香は把握していたから、とくに心配しなかったのだが、帰宅時間になっても、三人ともなかなか帰ってこなかった。不安をおぼえたところで泰隆のスマホから着信が入った。「すみません、こっちに来てもらえますか。フロントには話をしておくので」――困ったような莉里香の声。引き返してきた野田といっしょに、ふたりが利用しているラブホテルに曜子は駆け付けた。ホテルのそばで待機していた野田も詳細は知らないらしく、慣れない場所で泰隆がパニックを起こしたのか、それで延長したのだろうか、と、心配しながら野田とともにうすく消毒液のにおいのする廊下を通り、ドアを開けると、入ってすぐのベッドで、ふたりは困ったように並んで座っていた。
「ぼくはりりかちゃんが好きです」
 泰隆は泣いていた。莉里香の説明では、泰隆はホテルの浴室で、はじめてじぶんの手でペニスを射精にみちびくことに成功したという。莉里香も泰隆もそのことを喜んだ。そして泰隆は、お客としてではなく恋人として、エミリではなく莉里香とセックスがしたいとたどたどしく訴えた。エミリはもちろん拒否した。が、最初にさだめた五時間の時間制限が切れたところで、彼女は「いいよ」と告げたのだった。
「やすくんならいいよ、って云いました。こここからはただの莉里香ちゃんだからね、って。でも、したい気持ちがあるのに、やすくん、どうしてもわたしが上に乗ろうとすると体がびくってなっちゃうんです。かといってやすくん主導でするのは難しくて」
「泰隆」
 茫然とする曜子に、泰隆は小さく、莉里香ちゃんとセックスがしたいです、とぽつんとつぶやいた。光沢のある派手な赤いシーツの上で、泰隆は股間に小さなタオルをかけただけの姿で、莉里香はブラジャーとショーツしかまとっていなかった。曜子は眩暈をおぼえた。息子が誰かと介護ぬきのセックスすることなど、想像したこともなかった。
「曜子さん。泰隆くんを介助できますか」
 莉里香が決然と云った。
「……えっ?」
「ここまできたんですから、させてあげたいんです」
「でも」
 本番を、ってことだよね。曜子の視線に、莉里香は首を縦に振った。どうしたらよいのかわからず固まる曜子を尻目に「しょうがねえなあ」と動いたのは野田だった。
「こういうの本当はまずいけど、橋本さんには世話になったし、おっちゃんひと肌脱いでやるよ。手伝ってやる。社長には内緒だぞ、エミリちゃん」
「もちろんです」
 莉里香は堂々としており、むしろ曜子のほうがうろたえた。泰隆の肩に手をかけた野田を「やめてください」と思わず止めたが、莉里香は「どうしてですか」とふしぎそうだった。
「好きな人としたいと思うのはあたりまえのことです。セックスってべつに恥ずかしいことでもなんでもないし、いまのやすくんにはとてもだいじで、必要なことです。わたしはやすくんに好きになってもらえてすごくうれしいから、やすくんの望みをかなえてあげたい」
「でも、セックスして、そのあとは?」
 そのとき曜子のなかに湧いたのは、じぶんでも困惑することに、激しい怒りだった。
「りりちゃんはこのあといなくなるでしょう。でもりりちゃんを諦めきれずに悲しむ泰隆といっしょにいるのはわたしなんだよ。泰隆はいずれひとりで生きていかなくちゃならないんだよ。それなのに」
 セックスの甘く楽しい思い出だけ残して去ってゆくなんて、そんな無慈悲なことがあるだろうか。だが泰隆がふいに「一回だけならだいじょうぶです」とつぶやいた。「一回だけならだいじょうぶです」。繰り返されることばの意味を曜子は正確に悟っていた。一回だけでいい。どうあれ泰隆は素直な子どもで、それが彼の特性でもあった。一年後、泰隆は莉里香を思い出して「楽しかったですね」と云うだろう。二年後も三年後も、何十年たっても、楽しかったという想い出だけで、莉里香と無縁の生活を、なにごともなかったかのように暮らしてゆくだろう。母親で、彼をよく知る曜子にはそれがはっきりとわかった。
「やすくん」
 彼を幽霊にしていたのはじぶんかもしれない。そんなつもりがなくても。
 ため息をついて、曜子はベッドへ近づいた。
 
 目の前で、泰隆と莉里香が絡み合っている。やりかたは、野田と曜子とで教えた。腰の悪い曜子をふたりの横に寝かせた野田は、じっさいに曜子の脚を開かせてあいだに胴体をいれると、腰を密着させ、動かしかたを泰隆に伝授した。そのうちわずらわしくなって服を脱ぎ棄て、下着だけになってさまざまな体勢をとった。「こうしてこうしてこうしてこう」、ぱたぱたと折り紙のように体を折って、しかし四人にとってそれは単なるレッスンでしかなく、ASDに多い視覚優位者である泰隆は、母親と野田を視たことで精神的にも安定したのだろう、その後、ふたりの動きを正確にトレースし、莉里香の導きもあってぶじに挿入を果たした。莉里香の上で順調に腰を振る泰隆の肌は白く、体毛の薄いつるつるのお尻が動くたびに莉里香は「やすくん、じょうずだよ」と褒め、「きもちいいです」と泰隆はひたすら幸せそうだった。じっさいに、「ぼくはいまとっても幸せです」と云いさえした。あくまでも優しく泰隆を受けとめる莉里香と、汗だくで初めての行為に没頭する息子が、次々と凝った折り紙になるさまを眺めて、曜子はふしぎな充足感にみたされていた。
 背もたれがハート型の真っ赤なソファに腰かけて、「えらいもんですね」と、素直に曜子がつぶやくと、「そうだねえ」と、野田も感心したように隣でうなずいた。ふたりのあいだにも、多少の余韻がのこっていた。顔には相応にしわもしみもある野田の体が、年のわりに引き締まっていることを曜子は知ったし、曜子がみためより豊満な肉体のもちぬしであることも野田は知っただろう。幼いころ父親と生き別れた莉里香は野田を父親のように慕っているが、その父親にみられることを、莉里香はなんとも思っておらず、むしろ誇らしげだった。野田のほうも、眉ひとつ動かすではなかった。これはきわめて原始的な物々交換でもあるのかもしれない、と、曜子はしずかに思った。莉里香はじぶんのなかの優しさと引き換えにお金をもらい、いまはその優しさを泰隆の初恋と交換している。
 よろこびの声をあげる息子に、曜子も目を細めた。
 そのうち、今日の夕食について曜子は考えはじめた。莉里香のお別れ会もかねていつもより豪華にしようと、食材の下ごしらえだけは終えてきた。美咲も来る予定だ。野田にも参加してもらおう。みんなでおいしく食べられたら、それでいい。

〈了〉