「……朝比奈霞、ね。うん、覚えた」
僕はそう呟いて、少女の名前をしっかりと頭に刻んだ。
まして、いきなりぶつかって怪我をさせたかもしれない、っていう少女。
こっちの不注意でぶつかっちゃった以上、万が一にも名前を忘れるわけにはいかないだろう。
「ちなみに霞ちゃんは何組だったの?」
「……はぁ」
隣を歩く朝比奈霞にそう問う僕へ、優人が呆れたような目を向けていた。
気になってそちらを見ると、優人はため息交じりに口を開く。
「……お前には一通り『この国の常識』を教えたつもりだったが……人間関係はあまり教えていなかったな、と思って」
「えっ、下の名前で呼んじゃまずい法律あったっけ……」
「法律じゃない。ただの常識だ」
常識かぁ……。
優人がそういうのなら、そうなんだろうな。
やっぱり僕は常識? そういう知識が不足している。
どこかでしっかり学ぶべきか……。
そうこう考えていると、霞ちゃんが口を開く。
「え、っと、その、C組、です」
「僕らと同じか。……おそらく出席番号も僕とお前じゃ近いだろうな」
天守優人と、朝比奈霞。
確かに二人とも『あ』から始まる名前だ。
優人の言う通り出席番号は近いと思うし、下手したら隣の席とかもあるかもしれない。
ちなみに僕は『志善』の名字で学校に来ている。
さすがに天守を名乗るとややこしいと、優人が譲らなかった結果だ。
「よ、よろしく、お、おお、おねが――」
「……ああ、よろしく頼む。まずは普通に話せるようになれ」
二人の会話を聞いて僕は少し安心した。
本人には言ってないけれど、優人は色々と……その、口が悪いから、もしかして友達出来ないんじゃないかと少し不安だったんだ。でも、そんな心配なんて無用だったみたいだ。
僕の様子を見て顔をしかめる優人。
何か言われる前に僕は歩を早めると、前方に見えてきた1年C組の教室へと入った。
「おはようございます!」
そして、開口一番に挨拶をした。
挨拶が大事。
天守家に拾われて学んだことだ。
恋いわく『あいさつとはすべてのきほん! はらから声をだすのです兄上よ! ぶっきらぼうな相手とて、あいさつされ続ければそのうち返してくれるでしょう!』とのこと。
僕も父上にはいつも挨拶を無視されてきたが、恋の言葉通り折れずに挨拶し続けた結果、最近は嫌な顔をしながら挨拶を返してくれるようになった。
「ふ、ふわぁ……」
「声が大きい。……恋も懐くのはいいが、変なことを教えたな」
後ろから霞ちゃんと優人の声がする。
それらを無視して黒板へと向かう。
そこには教室の座席表が張ってある。
出席番号順の座席で、女子、男子、女子……と、窓側から並んでいる。
僕の座席は……男子一列目の最後尾かぁ。
優人を見れば、一列目の最前列。
その隣には、霞ちゃんの席があった。
「見てよ、二人とも隣同士だって」
「そうみたいだな。よろしく頼む、朝比奈」
「は、ははっ、は、はいぃ……」
堂々とする優人と、正反対の霞ちゃん。
二人は窓際前の席へと歩いていき、僕は教室の後ろの方へと歩き出した。
その際、周囲のクラスメイト達へと視線を向ける。
……恋いわく、大声で挨拶すれば友達ができるはず、とのことだったが、思いのほか僕の方を見ている同級生は少なかった。というのも、同級生の大半は教室の前の方へと視線を向けており、その視線を追えば……そこには優人の姿があった。
「……ねぇ、なんで優人ってあんなに目立ってるのかな」
「えっ? あ、あの……」
「あ、ごめんね。はじめまして。志善悠人です」
席に着き、隣の少女へと問いかけてみる。
ただ、自己紹介がまだだったので、おそばせながら自己紹介。
少女は困惑気味に僕を見ていたが、やがて『優人が目立つ理由』を教えてくれた。
「あ、あの男の子、あまもり、っていうんですよね? 黒い髪色に、青い目だって。おかあさんから、仲良くしなさい、っていわれてて」
「ああ、ボストンバッグが目立ってるわけじゃないんだ……」
そう言いながらも、校舎に入る前の光景を思い出す。
天守というだけで、多くの大人から注目を浴びていた優人。
それはこの教室でも同じ、っていうことなんだろう。
「……あなたも、
「ああ、僕じゃないよ。ただ、優人とは友達だからね。優人とおしゃべりしたかったらいつでも言ってよ。ひっぱってくるからさ」
「う、うん……ありがと」
そういうと、少女は机の中から文庫本を取り出した。
本、好きなのかな。
僕も『元の家』では本ばかり読んでいたから、話が合うかもしれない。
全体的に色白、といった雰囲気の、隣の席の女の子。
そういえば名前を聞き忘れたな……なんて思っていると、教室の前の入り口から担任らしい教師が入ってくる。
腰まで伸びる黒髪の、青いジャージ姿の女の先生。
その頬には満面の笑みが浮かび、きらっきらと瞳を輝かせている。
「さーて、全員そろっているかなー?」
教室内には、既に生徒が全員そろっているようだった。
教師は全員いるのを確認してから、自己紹介に入る。
「初めまして! 今日から君たちの担任になる、
聞いていた集合時間には、まだ十分ほど時間があるが、どうやらもう自己紹介を始めるらしい。
自己紹介……自己紹介かぁ。
紹介できるような自己なんて何もないんだけど。
拾われた、とか。
元の家のこととか。
そういうことは言わない方がいいんだろうって、なんとなくわかるし。
さて、どうしようかと悩んでいると、榊先生は説明を続ける。
「そうだなぁ……じゃあ、名前と、特技! あと好きなことと嫌いなこと。それくらい言ってみようか!」
その言葉に、僕は頬を引き攣らせる。
特技……特技?
えっ、特技って何? 痛みに耐える事とか?
でも、小学校でそんな血なまぐさいこと言えないしな……。
ちなみに好きなことと嫌いなことは決まってる。
好きなのは天守家。
嫌いなのは橘月姫。
考えるまでもなく、不動である。
そうこう考えていると、さっそく自己紹介を始める時間だ。
「そうだなぁ……それじゃ、最初は出席番号順で、朝比奈霞ちゃん! 自己紹介できるかなぁ?」
最初に指名されたのは――なんと、あの霞ちゃんだった。
それもそうだ。窓際最前列が彼女の席だ。流れ的には一番最初に当てられるだろう。
少女は名前を言われた瞬間、びくりと震える。
焦って立ち上がろうとしたところ、間違って机に膝をぶつけてしまい、机が倒れて大きな音が鳴る。
霞ちゃんは膝を痛がっている様子だったが、彼女からはそれ以上に動揺とか、焦りとか、そう言った空気を強く感じた。
「ぷふっ」
どこからか、笑うような気配があった。
見れば、廊下側に座ってる男子たち数名が笑っている。
……嫌な空気だな。
まあ、霞ちゃん本人は聞こえて無さそうだったし、今は見逃す。
けど、顔は覚えた。あとで注意しに行こう。
そう考えて霞ちゃんへと視線を戻す。
霞ちゃんは机を起こす。
そして大きく深呼吸。肩を震わせながら、緊張気味に口を開いた。
「わ、私は、あ、あさ、朝比奈、霞……です! その……特技とかは……その、な、無い、です」
言葉尻に従って、彼女の声が小さくなっていく。
再び、くすくすと笑い声。
今度はクラスのあちこちから聞こえてきた。
……性格の悪い奴が多いんだなぁ、このクラス。
同年代の優人、弥人が大人びているから勘違いしそうになるが、僕らはあくまで小学一年生。
下らないことで笑うし、悪意なんて理解もしてない。
小さなことにこだわって、そんなつもりなくても人を傷つける。
言ってしまえば、子供なのだ。
ま、ほんとに子供なんだけどさ、僕たち。
そう考えている間も、笑い声は続いている。
「好きなこと、嫌い、なこととか、よく分からない、です、が……その、みんなと、仲良くできたら……嬉しい、です」
さすがに霞ちゃんも気づいた様子。
ぽつりぽつりと、自信なさげに言葉を紡ぐ。
その背中はとても小さく見えて、今にも消えてしまいそう。
僕は周囲へと視線を巡らせる。
だから今笑ってるやつら全員、顔を覚える。
相手は小学生。子供のしてることだし聞き流せ、って言われたらそれまでだけど、僕だって子供だし? 僕みたいな子供のすることくらい流してほしいよね。
ぱちりと、小さく指を鳴らす。
それは、せいぜい空気を操って音を消す程度の、子供らしい悪戯。
暴力はよくない。なら、そもそも声が音にならなければそれでいい。
それくらいなら、今の僕だってできるだろう。
いざ、天能を行使しようと思った。
――その、次の瞬間。
視界の端で。
優人が動いたのが見えて、すんでのところで天能を止めた。
「――随分と性格が悪いんだな、このクラスは」
天守優人は立ち上がり、告げる。
突然のことに生徒全員が固まり、彼を見つめている。
圧倒的な名声を誇る【天守】として。
それぞれの父や母から絶対に逆らうなと言われてきた【有名人】として。
彼の言葉には、思わず背筋が伸びるような威厳が含まれていた。
「説教を垂れるつもりはない。が、僕は今笑ったものすべてを軽蔑する。誠実さは美徳であって蔑まれるようなものじゃない。……ま、
その姿を、朝比奈霞は見上げている。
その目に映るのは、彼女にとっての【正義の味方】。
周囲の意見なんて、気にも留めず。
多くの視線をさらっと無視して。
平然と、己の思うがままに。
弱者を救い、悪を裁くような、輝かしい憧れ。
「改めて、1年C組、天守優人」
彼はクラス中を見渡して、にやりと笑う。
「
その言葉に、思わず笑った。
今のは、霞ちゃんと全く同じ自己紹介だったから。
……なるほど、さすが優人。
そんな自己紹介されちゃ、もう、誰一人笑えない。
彼はクラスメイト全員と、霞ちゃん一人を秤にかけて。
何のためらいもなく、一人の少女の手を取ったんだ。
「――さて、何か文句があるなら僕が聞こうか」
当然、彼に対して文句なんて出てこなかった。
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