2月10日、93歳であったオランダのドリス・ファン・アフト元首相は同い年のユージェニー夫人と共に生涯を閉じた。どちらも病気を患っていたファン・アウト夫妻が選択したのは、自宅で二人一緒に安楽死することだった。
オランダをはじめとして、カナダやスイス、アメリカの一部の州に最近ではエクアドルなど、諸外国では「安楽死」「支援自死」が合法化(一定の条件を満たしていた場合、犯罪とされない)されている。「日本でも他の国にならって安楽死を合法化しよう」という論調も、近年ではますます盛んだ。
その一方で、合法化された国では安楽死の対象がどんどん拡大してしまい、本心では死を望んでいない人や子どもにまで安楽死が行われる事態が発生している、と報道されることもある。
最初は特定の条件(適格条件)を満たした場合の安楽死のみを認めていたが、合法化されたことを契機に徐々に条件が緩和されていき、障がい者や要介護者などの社会的弱者に対して安楽死を受けるように迫る事態が発生する、という懸念を抱いている人も多い。このような懸念は、“いちど足を踏み出したら、最悪の事態へとどんどん滑り落ちていく”「滑り坂」と表現される。
「滑り坂」に対する懸念の背景には、二十世紀前半にナチス・ドイツが身体障がい者や精神障がい者15万人~20万人を「安楽死」と称して強制的に殺害する「T4作戦」が行われた、という歴史的経緯も存在する。
一方で、2002年にオランダで安楽死が合法化されてから20年が経過した現在でも、オランダ国民の約88%は安楽死政策に賛成している(調査委員会第三次報告書)。
オランダでは「滑り坂」は本当に発生しているのだろうか。また、なぜオランダは世界で初めて安楽死を合法化した国になったのだろうか。
オランダの安楽死制度についても研究しており、『終末期医療を考えるために―検証 オランダの安楽死から』(丸善出版、2016年)や『安楽死を考えるために―思いやりモデルとリベラルモデルの各国比較』(丸善出版、2023年)などの著書がある、盛永審一郎教授(小松大学大学院特任教授、富山大学名誉教授)に話を伺った。
盛永教授:「オランダやカナダでは滑り坂が起こっている」と主張する人は多々います。しかし、それらの国の法律が実際にどういう内容になっているか、実際に起きた事件の背景などについて、きちんと調べたうえでの批判でないことが多いように思われます。
外国の法制度を批判するなら、まず事実やエビデンスを調べて、それを明示して主張すべきです。エビデンスもないのに「安楽死が合法化された国ではこんなことが起きている」と主張されても、他の人々は「それは本当なのか」と確かめることができません。
また、マスコミ各社が、自分たちで事実を確認する手続きを経ていないのに「オランダやカナダでは滑り坂が起こっている」と“真実”であるかのように報道していることも大きな問題です。
そもそもオランダでは安楽死が行われる際に、主治医一人で判断するのではなく、主治医とは面識のない第3者の医師の確認が必要で、さらに、安楽死が行われた後には担当医は詳細を法律で設置された「安楽死審査委員会」に報告します。そして、審査の過程や結果はオンラインで誰もが読めるように公表されています。
「コーヒー事件」と言われる出来事は、私の著書『認知症安楽死裁判』でも取り上げています。その際にも審査結果や裁判記録などを確認しましたが、指摘されているような、本人が望まないのに、無理やり安楽死をさせたというような事実は確認できませんでした。
ヨーロッパにも安楽死に反対する人はいます。日本における「コーヒー事件」の報道は、雑誌や新聞などに反対派が掲載した、誇張された記事をソースにしている可能性が高いでしょう。それよりも、審査結果など公式のエビデンスを確認してほしいです。
盛永教授:オランダには「専門医」のほかに、地域に密着しながら各家庭を長年にわたって見守り続ける「家庭医」がいます。安楽死についても、基本的には家庭医が判断・実行します。家庭医は患者の病歴や人生の経緯をすべて把握しているから、安楽死についても適切な判断ができるのです。
また、オランダで安楽死を実施するためにはいくつもの要件があります。審査委員会への報告のほかにも、「本人からの自発的な要請であることを確認すること」や「担当医とは別に、独立した立場の医師が審査すること」などです。
つまり、オランダでは「滑り坂」を防止するための制度が整備されているのです。これらの制度については、私の著書『安楽死を考えるために』で詳しく解説しています。
またオランダやベルギーの調査委員の先生方に日本に来ていただいて何度か講演をしていただきましたが、その際にも「滑り坂は起こっていない」という報告でした。
現在のオランダにも安楽死に反対する人は20%ほどいますが、その多くはカトリックです(※1)。現地の反対派の意見ばかりを取り上げて「滑り坂が起こっている」と報道されることもありますが、それは客観的な報道ではありません。
※1 カトリックは生命を尊重して安楽死に反対する傾向が強い(ローマ教皇庁は安楽死を「決して正当化できない殺人行為」として非難している)。
盛永教授:生活保護と並べると、個人が政府に申請して安楽死を行っているかのような印象を抱いてしまう人も多いでしょうが、これは誤解です。安楽死を承認・実行するのは医師や臨床看護師です。ただ、安楽死の適格条件の一つに、「カナダ政府によって資金提供された医療サービスの資格があるか、または、適用される最低居住期間または待機期間についての資格がある」、とあります。多分この条件を満たすための申請が簡単だった、ということだと思います。
カナダの安楽死法にも、安楽死を行う医師等に対して「緩和ケアという方法もあることを説明する」などの要件や義務が書かれています。ただし、オランダと異なりカナダには審査委員会がなく、カナダ保健相に届けるとなっています。報告書も5年に一度となっています。
オランダと同じくカナダでも安楽死に反対する人々はいるので、彼らの主張に基づいた意見が報道されているのでしょう。しかし、賛成派の主張や、実際の法制度がどうなっているかも調べてほしい。
盛永教授:オランダは自律や独立、個人主義を非常に大切にする国です。子どもも、早い段階から自立を促されます。
オランダで安楽死が合法化された背景にも、自分の意思に基づいて、自分らしく生きることを重視する「個性尊重主義」という哲学が存在します。
「自律」が大切にされているため、「治療方法がなく、痛みや苦しみに満ちた人生をこれ以上過ごしたくない」「自分で自分の身体や精神をコントロールできなくなったら、自分らしい生き方が続けられなくなる」といった本人の判断が尊重されるのです。
盛永教授:自己決定権や自律を尊重することは、ヨーロッパ諸国やアメリカなどに存在する「自由主義」の基本となる考え方です。
19世紀イギリスの哲学者であるJ・S・ミルは、毒薬販売や買春、賭博の開設の制限に反対しました。売る人の自由ではなく、買う人の自由を認めるためです。
「~を買わない、という決定を自分で行える」という自律の自由があることが、自ら決定する市民から成り立つ近代市民社会の理想像である、とミルは論じました。
また、現代のアメリカの哲学者ロナルド・ドウォーキンは「成人市民は、自分の人生に関わる重要な決定を自分自身で判断する権利を有している」という「自律原則」に基づいて、安楽死を肯定しています。
盛永教授:日本には、オランダやアメリカにあるような、患者の自己決定権や主体性を守るための「患者の権利法」がまだ存在しません。
日本の医療は、いまだに、治療の方針や継続について患者ではなく医師に判断が委ねられる「パターナリズム」(※2)に基づいているといえます。そのため、オランダのように患者の自己決定が尊重される段階にありません。
※2 パターナリズム:父親が(判断能力のある)子供に対して、「本人の利益になる」という理由から、本人に代わって判断や意思決定を行うこと。
また、日本には「恥の文化」が存在します。「他人の世話になるのは恥だから死んでしまおう」という風に、自分自身の人生よりも他人・社会の目線を意識してしまう、ということは私も危惧しています。確かにオランダ人も他人の世話になるのは嫌だといいますが、これは人の目線にかかわりなく、自立して生きたいからなのです。
安楽死合法化よりも以前に、まずは「患者の権利法」を制定することが必要です。
盛永教授:誤解されることもありますが、オランダのように安楽死を合法化している国の背景にあるのは功利主義ではなく、「私生活の尊重」という考え方、「個性尊重主義」です。社会全体の幸福や生産性ではなく、「個人が自分らしく生きること」を尊重するために安楽死を認めているのです。
優生思想については、ナチス・ドイツによる障がい者の大量殺人という歴史もあり、危惧は理解します。しかし、本人の意思に基づく安楽死と、他者が本人の意思に反して殺害する優生思想の問題を混同すべきではありません。
むしろ、現代の社会で優生思想が実践されているのは、安楽死ではなく、出生前診断や着床前診断に基づく障がい者の中絶(産み分け)・受精卵の選別です。胎児理由の中絶・受精卵の選別廃棄は胎児の意思や人格をまったく尊重しない行為であり、私は強く危惧しています。
盛永教授:筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの難病に見舞われて身体を動かせなくなり、もう人生に絶望してしまう人は、実際にいます。オランダでは「温室に飾られた鉢植え植物のようには生きたくない」と言って後期認知症になる前に安楽死を希望した女性がいました。
また、100歳を超える高齢で、転んだら自分で立ち上がることもできなくなるほどに身体が弱ったことから、安楽死を希望した人もいました。「自分の誇りが傷つけられる」「自分の理想とする自分らしさや生き方が保てなくなる」と考えて安楽死を望むのは、理解できることです(ただし、手を貸してよいかどうかはまた別問題です)。
もちろん、どのような状況になっても「生き続けたい」と希望する人もいます。その人の意思は大いに尊重すべきことです。しかし、すべての人がそうだとは限りません。
安楽死反対派は「自分たちは多様性を尊重している」と主張することがあります。しかし、現代のように、医療が高度化し平均余命の延長の時代にあっては、老齢や、自分の人生観やアイデンティティと矛盾する身体的または精神的衰退の状態に長くとどめ置かれるべきでないと懸念している人が増えているのも事実です。「安楽死を希望しない人もいるが、希望する人もいる」という事実を無視して多様性の社会を実現することはできないでしょう。
盛永審一郎
小松大学大学院特任教授、富山大学名誉教授。研究テーマは実存倫理学、応用倫理学。著書に『安楽死を考えるために―思いやりモデルとリベラルモデルの各国比較』(丸善出版、2023年)、『終末期医療を考えるために―検証 オランダの安楽死から』(丸善出版、2016年)、『安楽死法:ベネルクス3国の比較と資料』(東信堂、2016年)、『人受精胚と人間の尊厳―診断と研究利用ー』(リベルタス学術叢書、2017年)等がある。