川が流れる峡谷で彼女は生まれ育った。
とても美しく、とても賢く、とても優しい女の子。
彼女の名前はロウェナ・レイブンクロー。
第九十七話『救世を望む少女』
齢三つにして、彼女は言葉をマスターした。
齢五つにして、彼女は成熟した大人以上の知識を身に着けた。
齢七つにして、彼女は決意を抱いた。
「困っている人を助けなきゃ」
当時、英国は時代の節目にあった。
七つの王国と
英国全土は血に塗れ、病も蔓延していた。
救いを求める人に救いの手を差し伸べる為に年端も行かぬ身でありながら、彼女は旅に出た。
「この薬を飲みなさい」
病が蔓延している村を回り、彼女は薬を渡した。
調合法を伝授して、その時代には一般的でなかった上下水道の敷設を提案した。
すると、人々は彼女を魔女と呼んだ。
人は理解の及ばない存在を厭う。
多くの者が彼女の薬を拒絶した。調合法を教えても、覚えられる者など一握りな上に、その者達は吊るされた。上下水道は少し掘り進めた翌日に埋め立てられた。
糞尿を隔離する事さえ、理解を示されなかった。
「……可哀想に」
けれど、彼女は揺るがなかった。罵倒を浴びても、石を投げられても、吊るされかけても、彼女は彼らを慈しみ、哀れんだ。
彼女は助けてあげたかった。助けられる筈だった。助ける為の手段があり、時間もあった。
それでも、彼らは死んでいく。差し伸べられた手を振り払い、病に苦しめられながら死んでいく。
差し伸べた手を掴んだ者も異端者と言われ、魔女の眷属と言われ、首に縄を掛けられて死んでいく。
「……助けてあげなきゃ」
一人でも多くの人を助けたい。それが彼女の行動理念であり、望みだった。
「それはとても難しい事よ、お嬢さん」
吊るされかけた彼女を救い出した女性は言った。
不思議な人だった。あたたかくて、おだやかで、気づけば聞かれてもいない身の上話を延々と語ってしまっていた。
「あなたの願いはとても尊いものよ。だけど、人を救う為には、救われる方にも求められるものがある」
「わたしは見返りなど求めていません」
「ええ、そうね。見返りとか、そういう話ではないのよ。極端な例え話になるけれど、赤ん坊に風邪を引くといけないから服を着せようとすると、はじめは嫌がるものなのよ」
「……つまり、彼らは赤ん坊だと?」
彼女は肩を竦めてみせた。
「人は誰しも今の状態を維持したいと思っているの。一歩を踏み出すだけで幸福になれるとしても、その一歩を踏み出す事が苦痛なのよ」
「……赤ん坊も、いずれは服を着ます」
「ええ、そうね。お母さんは大変だけど」
「それでも、赤ん坊が風邪を引くよりはずっといい」
ロウェナは言った。
「恨まれても、憎まれても、嫌われても構いません。わたしは人を助けます」
「……それでは、あなたが死んでしまうわ」
立ち去ろうとするロウェナを彼女は引き止めた。
「あなたが倒れたら、赤ん坊の未来も閉ざされてしまう。それはいけない事よ、お嬢さん」
そう言うと、彼女はロウェナの前で掌に炎を宿した。
「あなたには才能がある。知性もある。だから、教えてあげる。生きる為の、あなたの望みを叶える為の術を」
「あなたは一体……」
「わたしの名前はヘルガ。ヘルガ・ハッフルパフ。人はわたしを《北の谷の魔女》と呼ぶわ」
それから、ヘルガはロウェナに魔法を伝授した。
ロウェナは一を教えられれば十を学ぶ。
他の者ならば十年は掛かる事を一年で学び終えた。
「お嬢さん。あなたにとって、一番大切な事は何かしら?」
別れの時、ヘルガはロウェナにそう問い掛けた。
「決まっています」
ロウェナは言った。
「多くの人が笑顔でいられる事です」
その時点で、彼女は世界を変革する程の力を持っていた。悪しき事を企めば、それを阻める者など一人もいない。
けれど、彼女は私欲を持たず、人を救う為に歩み続けた。
激化の一途を辿る戦争を止める為に七人の王と対話を試みた。すると、多くの王は彼女の能力を求めた。そして、その力を得る為に彼女を捕らえようとした。
けれど、彼女よりも賢い者はいなかった。彼女よりも強い者はいなかった。
城に存在するすべての人の行動を停止させながら、彼女は尚も対話を試みた。すると、王は狂乱してしまった。自死してしまった者もいた。
その事が新たな騒乱の種になった時、彼女は人々から己の存在の記憶を消去した。
「……困ったわ」
救える筈の命が失われていく。
病は蔓延し続け、戦乱は拡大の一途を辿っている。
彼女には分からなかった。
どうして、苦しみを選ぶのだろう?
どうして、傷つこうとするのだろう?
どうして……。
それからも彼女は人を救い続けた。そして、救った人々から記憶を消し続けた。
それが最も効率の良い救い方だった。
病が消え去り、死にゆく筈の者が元気になる。それを彼らは神の奇跡だとありがたがる。
「ああ、良かった……」
称賛される事もなく、感謝される事もない。
それでも、彼女は心から喜んだ。
人々の笑顔が彼女の心を満たしていく。
けれど、一人で出来る事には限界がある。
他の村を救っている間に、救った筈の村が略奪や他の病によって全滅する事など茶飯事だった。
せめて、身を護る術を学んでくれれば、薬の調合法を学んでくれれば、予防法を学んでくれれば……。
「どうして……」
齢二十を数えた日、彼女は結論を下した。
人には優劣がある。薬の調合法を学ぼうとした人々ばかりなら、世界はとっくに救われている。
けれど、大半の人間は愚かなのだ。愚かだからこそ、救いの手を差し伸べられても拒絶する。間違った選択を取り続ける。
彼らに必要なものは救いの手ではない。
「……正しい方向に導く者が必要ですね」
◆
ハリーはその光景をジッと見つめていた。
サラザールの肖像画が語り始めると共に、ハリーの視界はぼやけ始め、気がつけばロウェナの人生を追体験していた。
「……意外だ」
『意外とは?』
ハリーがつぶやくと、サラザールの声が響いた。
「エグレからは分霊箱を考案した卑劣な魔法使いだと聞いていた。それに、サラザールが《偉大なる人でなし》と呼んでいたとも聞いた」
『……それは、この先を見ていけば分かる事だ』
「否定しないのか……」
視界が再びぼやけ始める。
◇
後に《ゴドリックの谷》と呼ばれるようになる地へロウェナは足を運んだ。
ヘルガに会うためだ。
彼女は結界を張り巡らせ、人の世からはみ出た者、弾き出された者を受け入れていた。
食事を与え、住処を与え、知識を与え、望むすべてを与える。
そこに住む人々はこの地を楽園と呼ぶ。
「……お久しぶりね、お嬢さん」
「もう、お嬢さんという歳でもありませんよ」
ヘルガとロウェナが再会を喜び合う中で、近くを元気いっぱいな少年少女が駆け抜けた。
この場所には笑顔が溢れている。
「やはり、あなたが答えなのですね」
ロウェナは己の理想を彼女に語った。
より多くの人を救う為に、人々を正しい方向に導ける者を育てたい。
その為にはヘルガの力が必要だ。
「共に学び舎を作りましょう。わたしは救う術を伝授します。あなたは正しく生きる術を伝授して下さい」
「聞いてもいいかしら?」
「なんですか?」
「あなたにとって、正しく生きるとは?」
ロウェナは微笑んだ。
「笑顔で在り続ける事を諦めない事です」
「とても良い答えですね、ロウェナ」
ヘルガはロウェナに協力する事を誓った。
そして、彼女の理想を実現する為にロウェナを南の湿原に導いた。
「正しく生きる為には勇気が必要よ。彼は誰よりも勇敢なの」
辿り着いた湿原では、一人の青年が《蛇の王》と呼ばれる悪魔と戦っていた。