無謀な試みのための前書き

 

愚かさだけが人間を救う力を持っているという事実は人間の最大の皮肉であるとおもう。
知性の極北で世界に対して絶望した若者を救うのは、どんな時代でも美しく若い肉体をもった人への恋だったし、人間の魂を地上の凡庸から引きはがして、中空へ天上へと押し上げるのは、ただ肉体に心地よい盲目の情熱だけが出来る離れ業だった。

人間は不思議な生き物で、おなじ人間として理解できなくはないが、人間が持っている能力のなかで最もたいしたことがない「知力」という能力において自己を誇りたがるが、言うまでもない、5千年のあいだ思考を費やしても暴力による殺しあいひとつ止めることができない「知性」など、あってもなくてもおなじで、強いて存在を認めることにしても本能や反射とは誤差の範囲で、なにも文字のような大仰なものを編み出して記録するほどのものではなかった。

ゴッドレーヘッドへ行く細道から横へそれて、よく海辺を歩いた。
考えてみれば母親の演出による偶然で、違う言い方をすれば、これを「思うツボ」ともいうが、子供のときに、国というよりは南極に近い島の圧倒的な自然の総称と考えた方がよさそうなニュージーランドと出会えたことは、一生の幸福のはじまりだった。

そのうちに訊いてみようとおもうが、多分、母親と父親とは、どうやら根っからの都会っ子に育ってしまいそうな息子の行く末を心配したものであるに違いない。
このカップルは、都会というものをまったく信用していないカップルで、頼りのない床の間の自然しかない「都会」という場所を軽蔑していた。

ふたりとも都会で生まれて育って、もちろん郊外に家を持っていて週末をそこで過ごしてはいたが、都会の利便のなかで一生を組み立ててきたひとたちであるのに、
都会とゴミ箱を区別していないところがいつもあった。

ジョニーという父親の友達は、特にぼくと気があって、さまざまな話をしてくれたが、この法廷弁護士の言葉で描写される父親は、多感な、絶望した都会の知性に富んだ青年であって、自分が知っている父親とはまるで異なる人のようだった。

それは普段の父親とはまったく異なるが、よく見知った感じのする青年、….そう、ほとんどぼく自身だった。

その発見をしたときの気持を正直に述べれば、きみは、腹を抱えてげらげら笑い出すに決まってるが、ぼくは、すっかり感動してしまったんだよ。
あのちょっと申し訳なさそうに「わたしですか?わたしは、いま典型的なイングランド人を演じている最中で、忙しくて、申し訳ないが、ちょっと自分の真の姿をあなたにご披露するひまがないのです」とでも言うような、よく訓練された、没個性の、絵に描いたような連合王国のエリートで、それでもだんだん判ってくると端倪すべからざる知性を持った、まるで存在自体がunderstatementだとでも形容したくなるおっちゃんが、自分とそっくりの人間であるなんて!

むかしはね、快活で機知に富んだ母親、華やかな才気のかたまり然とした人が、なぜこんな退屈なおっさんと一緒にいられるのだろう、と考えた。
よく同情していた。

長じて、自分の母親と父親が周囲の反対を押し切っての大恋愛の末に結婚したのだとしって、心からぶっくらこいてしまった。

母親は父親がなにを演じていたのか、よく知っていたのだとおもいます。

子供のころ、いちど「おかあさまは、おとうさまを退屈な人間だと考えたことがありますか?」と思い切って訊いてみたら、母親は愛車のジャガーのEタイプの下から仰向けに作業用の台車ごと滑り出てきて、スパナを持ったまま、オイルで煤けた顔でじっとぼくの顔を見ていたが、次の瞬間、それはそれは可笑しそうに、世の中にこれほど愉快なことには生まれて初めて出会ったとでもいうような楽しそうな笑い声で、大笑いした。

それから、「息子よ。聴きなさい。
これからあなたの背がどんどん伸びて、もっと遠くが見えるようになれば、近くのことも判るようになるでしょう」
と述べた。

そして、それは、その通りでした。
ぼくは、自分が父親を嫌いにならずにすんだ幸運な息子のひとりに数えることになっていきます。

多分、父親と母親が地球を半周したふたつの国を往復して暮らすという大胆な計画をもったのは、あのときの自分のひとことがきっかけだったのではないかと思っている。

両親は、ぼくの、考えや記憶を内心で何度も反芻する危険な癖を見破っていたのだとおもう。

自然が人間の知性に授ける叡知は、読書や学問、都会の喧噪が人間に与える知恵とはまるで異なっている。
言語や人工の森林のなかでは人間は万物の霊長だが、自然のなかでは、荒々しく、個々の人間の生命への配慮などいっさいない、まるで神の暴力そのもののような自然の力に抗して、知恵をはたいて、必死に生き延びる存在でしかない。

冬の山をスキーで滑り降りたり、フィヨルドを何日もカヤックで旅行したり、そういうイメージ通りの自然のなかでの生活よりも、もっと単純に、例えば満月の夜に農場のパドックに出ると、濃い青色の、と言うと表現だとおもうかもしれないが、実際に月の光はコバルトブルーと形容したくなるほど濃い青色になることがある、月の光のなかで、自分がなんともいえない狂気のなかに引き込まれていくのが実感としてわかる。
世界中の言語に月と狂気を結びつける言葉はいくらもあるけれども、あれは、ただの写実にすぎないのね。
瞳孔がおおきくひらいてきて、総身の体毛がふわっと逆立つような気持になる。
肉体はどうなのかわからないが、魂は獣に姿を変えて、歩くというよりは彷徨するようになります。

あるいは、密度が高い白色の雲は高度によって積雲と定義されるわけだけど、あれとおなじ、いわばもこもことした雲が、背伸びして手をのばせば届きそうなところに降りてきたことがある。
家の軒よりも低いところに雲海が出来ている。

また別のときには、夕暮れ時、やはり地上すれすれ、どころか膝よりも下におりてきた雲が、茜色に輝きだして、やがて薔薇色になって、そのときはオープンロードを運転していたひとがひとり残らずクルマを止めて、その「美しい」というような言葉では到底形容しきれない、この世のものではない何かに、ただ息を呑むことになった。

ニュージーランドの南島というところは、そういうことがいくらでもある土地柄で、ぼくは一年の数ヶ月をその神秘的な土地ですごして、どんな本にも書かれていない世界観を持つことになった。

それはどんな世界観かというと神を前提とした無神論とでもいうべき世界観で、人間が信仰してきた、人間側のリアリテの感覚を満足させようとするようなちゃちな神ではなくて、現実に自分が眼に見なければ、誰がどんなに上手に説明して描写しても嘘にしか聞こえない世界こそが自分たちの現実の世界なのだという現実に立脚している。

死者がよみがえり、空が眼の下におりてきて、星が煌めきながら空いっぱいに回転してみせる世界は、人間の現実の感覚を嘲笑っているのだとおもいます。

今日から、少しずつ、ぼくは自分の話をしていこうと思っているんだよ。
いまはたくさんいると言ってもいい日本語の友達たちにあてて、自分がいったいどこから来て、どんな姿をしていて、なにを考えているのか、説明しようと考えています。

もっと日本語がうまくなってからとおもっていたんだけど、最近の日本語への情熱のなさから考えて、もうそろそろ見切りをつけなければ。

ぼくはね。
むかしからの付き合いのひとたちはすでに知っていることだし、最近の付き合いのひとはさぞかしびっくりするだろうけど、日本という文明と、そこに住んでいる人間が好きなんです。
それがなぜかは、これから、おいおいあきらかになっていくだろう。

言語というものは、嘘がつけない正直なものでもあれば、その言語を使って現に生きている民族の背丈よりも遙かに高い、いまではすっかり忘れられた、その民族にいちどは属して死んだひとびとの叡知と感情がいっぱいに詰まったものでもある。
もっと正確にいえば、いま生きて毎日を生活している現代日本人は、その歴史のなかに堆積した日本語と語彙の地上に映る影にしかすぎない。

自分達では言語を使っているつもりでも、現実は言語がいま生きている人間のほうを乗り物にしているので、その逆ではありえない。
その逆がなりたつのは言語が未発達で、せいぜい伝達の便宜を満たすのが関の山だというような場合だけでしょう。

ちょうどシェイクスピアの劇中の人間たちが彼らの内なる英語につき動かされて、企み、試み、喜び、哀しみにくれるように、どんな国のどんな社会でも、人間は言語という傀儡師が操る一場の劇でしかない。

あのほとんど世界のどんな観察者にも観察されないできた東のはての島で、どれほどの神への挑戦や人間の限界への挑戦がおこなわれてきたか、これから、一緒に出かけて訪問しようとおもっています。

きみがこの風変わりなこころみに最後まで付き合ってくれる忍耐心をもっていてくれればいいんだけど。

 

(これは2019年2月の記事の再掲載です)



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1 reply

  1. 近所の1300年ほど前から実在していたという神社の境内で樟の巨木越しに夜空を眺めると、自分は何処から来て何処へゆくのかというような漠然とした疑問が木陰の闇と夜の木漏れ日の迫間にかき消された幼少の日をふと思い出しました。

    こころの奥にそっと触れてくる、素敵な文にまた会える事を心から願っております。

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