【2024/2/29非公開】さようなら竜生、こんにちは人生(完結) (永島ひろあき)
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第一話 短文差し替え~~
月の美しい夜だ、と私は空を見上げながら思った。思い返せばこのように落ち着いた心持ちで空を見上げる事も久しい。
空を仰ぎ見る視線を下げれば、不躾に私の住まいに足を踏み入れた七つの人影が映る。
怪物を討つには千人の兵士よりも一人の英雄の方が相応しいが、この七人はいずれも突出した力と英知を兼ね備えた英雄達だ。
私は人間達の先頭に立つ青年を見つめ、口を開いた。あるいはまだ少年といっても通用する顔立ちの彼は、深い悔恨と罪悪感を色濃く浮かべていた。
同時に血の味が口の中に広がり、溢れた血が私の口から滴り落ちて水晶が形作る地面に赤い血だまりをいくつも作る。
ほう、血の味など久しぶりに味わう。その事が、奇妙に嬉しかった。なにかを感じるという事それ自体が私にとっては久しぶりのことなのだ。
「私の記憶に在る限り、討伐されるような真似をしたことはなく、むしろ人間の味方をした事もあったと思うのだが、これはいかなる理由あっての所業か?」
私の心臓を貫いたばかりの剣を握る青年――世界でもっとも名の知られた勇者は、英雄譚で語り継がれるのに相応しい美貌に、更に苦悩の色を浮かべる。
私を討つ事は彼の本意ではないとそれだけでわかる。
ならば勇者に命令する事の出来る立場の人間からの逆らえぬ命令か。繁栄の極みに在る人間達にとっては、私の存在は目の上のたんこぶと言う奴には違いあるまい。
「わざわざ討伐などせずとも出て行けと言えば出て行くものを。勇者よ、そなたの手に在る剣を作る為に一体どれだけの財と時を用いたのだ。
それを作る手間や資源で、いったいどれだけの人間を救えたかとは考えないのか?」
勇者達とは面識はあり、かつて共闘した縁もあって勇者とその仲間達が善良な心根の主である事を、私は知っている。
そのような人間なら、こういった物言いの方が堪えよう。私の命を奪うのだから、この程度の言いようは許されよう。
ふむ、ずいぶんと瞼が重くなってきた。
戦闘開始当初に勇者の仲間の魔法使いが展開した生命力を吸収する魔法の影響と、心臓を貫いた勇者の竜殺しの剣の一撃によるものか。私がそれを受け入れた事も輪をかけているが……
やれやれ、私のような古臭い生き物を一匹殺す為だけに、よくもこれだけ手の込んだ事をするものだ、と私は正直呆れていた。
「心せよ、勇者よ、その仲間たちよ。人間の心は尊く美しい。人間の心は卑しく醜い。いやさ、やはりそなたらはいまだ人と獣の間、人間よな。
役に立たぬとなれば私のようにそなたらも排斥されよう。一度は肩を並べたそなたらの事、私と同じ結末を迎えるとあっては心苦しい。
死に行く老竜の最後の忠告。しかと聞き入れよ、小さき友たちよ」
芝居がかった物言いはあまり得意ではないが、それなりに小さき友たちにとって耳と心に痛みを感じる内容ではあったようで、後悔と罪悪の念を大小の差はあれ浮かべている。
まあ、これくらいでいじめるのは許してしんぜよう。
こんなに美しい月の下で死ぬのなら、それも悪くはあるまい。心穏やかに逝けるのは間違いないのだから。
「ふむ」
私は最後にひとつそう零して、瞼を閉じた。
神代から生きた竜の最期にしてはいささか呆気ないものだろうが、世界に一体くらいはそんな竜が居ても良いと私は思う。
永遠の眠りには安らぎと充足の予感があった。
これなら、ま、よかろう。我ながら風変わりな竜だと思うが、少なくともこの時私は私の生の終わりに不満はなかったのである。
ああ、死神どもよ、恙無く私の魂を安息の内に冥府の底へと運び、永遠の眠りに就かせるが良い。さもなければ我が吐息で冥府を灰燼に帰してしまうぞ。
「ふむん」
と私は呟いた。いや実際に口に出して呟いたわけではない。動かそうにも舌も唇も満足に動いてはくれず、言葉を紡ぐ事が上手くできない。
私の心には戸惑いが大きくその領土を広げていた。私の最後の認識では、私の肉体はその生命の火を消し、死の運命を受け入れたはず。
ならば、なぜ私はこうして生きているのだ?
私はひどく重く感じられる瞼を無理矢理に開き、ぼんやりと焦点の合わぬ瞳で周囲の様子を観察する。
開かれた視界に映ったものに、私は新たな戸惑いを覚えるのを禁じ得なかった。うっすらと開かれた私の瞳は、穏やかに微笑む人間の男女の姿を映したのである。
視界いっぱいに映しだされる男女の姿から察するに、竜である私をさらに上回る巨躯の巨人種なのかもしれないが、そこまでの巨躯を誇る巨人種はいないはずだ。
それに私の感覚は男女が巨人種ではなく、正真正銘、普通の人間だと告げている。
私がいまだ戸惑いから冷めやらぬ内に、女性の方が心からの喜びを感じている笑顔のまま口を動かす。
「まあ、この子ったらもう目が開いているわ。ふふ、こんにちは、私の赤ちゃん」
女性に続き、男性の方も小さく口元に笑みを浮かべながら短い言葉を紡ぐ。私を見る二人の眼には、共通して無償の優しさが宿っている。
「あまり泣かんな。赤子ならもう少し泣くものだろうに」
ふむ? 待て、この二人は今なんと言った。私の赤ちゃん、赤子だと? それらの言葉は間違いなく私へと向けて発せられたもの。
ならば私は今、竜ではなく人間の赤子だということなのか? 私の魂は冥府へ落ち、そのまま眠り続けるはずだったというのに、なぜ、私の魂が人間の赤子に宿っている?
その疑問に答えを見出す前に、女性がそっと指を伸ばして私の頬を突いてきた。
どうやら今の私は、自分では何もできない赤子となって女性に抱えられているらしかった。
「貴方の名前はドランよ。私がお母さんで、こっちがお父さん。これからよろしくね」
ぷにぷにと優しく私の頬を突く女性が、私の人間としての母親であり、男性が父親というわけか。
私に血の繋がった親がいるという事実に、私はかつて感じた事の無い不思議な感覚を覚えた。
最古の竜である私には父親も母親もいない。兄や姉と呼べる存在はいたが、親と呼べる誰かが存在していた事は一度もなかった。
だからだろうか。赤子となった私に対して、見返りを求めぬ優しさとぬくもりを与えてくれる男性と女性に、私はこれまで感じた事の無い安らぎを覚えつつあった。
余りにも長すぎた生に飽き、わざと人間の勇者達に殺される道を選んだ私は、冥府の底で永劫に目覚める事の無い眠りという安らぎを選んだが、今、こうして与えられるぬくもりに心安らぎ、とても穏やかな気持ちになっていた。
ふむ、このぬくもりを与えてもらえるのならば、人間として今一度生きてみるのも悪くは無いのかもしれない。
「あら、ふふ、あなた、ドランが笑ったわ」
「本当か? おれ達が親だと分かっているのかもしれんな」
ああ、私は今笑っているのか。笑うなど一体何時以来の事だろう。
それだけでも人間に生まれ変わった価値はあったのかもしれない、と私は人間として生きる事に意味を見出しつつあった。
御目汚し失礼いたします。
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第二話
私が竜として死し、人間として生まれ変わってから時が経ち、私は世界のどこでも見られるような草原の一角に立っていた。
冬の冷たさがわずかに残っているものの、春の到来を予感させる温みを帯びた風が、私の膝まで伸びた草原を揺らし、私はさながら緑の海の中に立ちつくしているかのようであった。
風の中にはほのかだが花の香りも混じっている。
「ドランさん、そろそろ帰りましょうよ」
「ふむ、そうだな。そろそろ日も暮れる頃合いか」
振り返った私の瞳には、赤いくせ毛を背の中ほどまで伸ばした少女の姿が映る。
少女の名前はアイリという。アイリのほかに四人の子供たちが草原のそこかしこに散っている。
私もアイリも大陸の辺境にある小さなベルン村の村人である。ただの子供ではない。人間の子供である。そう人間だ。
確証のない推測にすぎないが、私は人間への転生が行われた理由について、まだ赤子であった内に大体の察しは付いていた。
竜としての私が死んだ最後の戦いの時、私を強制的に転生させる魔法が使用されていたのであろう。
私は数歩先を行くアイリやほかの子供たちの後に続いて、人間としての故郷であるベルン村への帰り道を歩いた。
ベルン村は辺境の僻村である。人口は三百人ほどで、村の周りに堀を巡らして分厚い石壁で村をぐるりと囲んでいる。
魔物や野盗、蛮族の出現が頻発する辺境ではまあ一般的な防護策といえよう。
村への入口は北と南に両開きの木製の門が二つ。常に槍や剣、弓で武装した門番が二名ずつ門を守っている。
道すがら他愛ないおしゃべりに興じ、はしゃぎまわり、子供達は帰り道の間ずっと動きっぱなしだった。人間の子供はまさに元気の塊である。
村の中央広場で子供達と別れた私は、草を混ぜた泥と木と藁で作った粗末な家へと足を向ける。
ベルン村の属する王国では十五歳で成人とみなされ、農村部では長男以外の男子はその年になったら家を出て、村か実家から分け与えられた土地に家を建てて自立自活する習わしがある。
今年十六になった私は去年家を出ており、目下は一人暮らしを満喫している。
今日は思ったよりも収穫が多かったので、実家に立ち寄っていくらか分けてゆくことにした。
母に薬草やパン苔を渡し、用件を済ませた私はそのまま取って返して我が家へと足を向けた。
その日の夕食は私が取ってきたパン苔と畑で採れた野菜を使った質素なスープと、帰り際に母が渡してくれた歯応えのある黒パンですませた。
いつも通りの夕食であるが、人間として生まれ落ちてから十六年経った今でも、竜とは異なる人間の味覚や、その他の諸感覚は私にとって色褪せない新鮮な刺激を与えてくれる。
なにしろ月を見上げても月の穴を見ることもできないし、耳も鼻も捉える情報が竜とは全く違う。本当に人間と竜は同じ世界に生きているのかと、つい疑ってしまうほどだ。
見るもの聞くもの味わうもの嗅ぐもの全てが、竜だった時とまるで違う事は私にとっていまだ慣れる事の無い掛け替えの無い体験なのだった。
五感の変化はまさしく新世界を私に体感させていたのである。
その日一日、魔物の襲撃もなく無事に食事にありつけた事に感謝する祈りをささげ、私は手頃な木の枝を削って木製の槍や矢を作る作業に没頭してから床に入った。
ある日、私はかつてリザード族が集落を構えていた、村の北西にある沼に向かう事にした。
ベルン村の人々と友好的な関係を築いていたリザード族だが、私が生まれ変わる前に沼に異変が生じた為に生活に適さなくなり、今では村の中を流れる川の上流にある湖のほとりに居を移している。
私はその沼の異変とやらを調べに行こうと思い至り、数日かけて準備を整えていた。
沼へと向かう日の朝、準備を終えた私は我が家の前で弟のマルコと話をしていた。私の二つ下のマルコは、母によく似ており女性と見間違えるような繊細な顔立ちをしている。
それでも過酷な環境の辺境の男の子であるから、短剣の一つも持たせればゴブリンの一匹や二匹を屠る働きはする。
私は、兄と私のお下がりである継ぎの目立つシャツを着たマルコに、沼に向かう間留守となる我が家と畑の世話を頼んでいた。
「一泊して明日の夕方頃戻る予定だ。短い間だが、よろしく頼むぞ、マルコ」
「うん、いいよ。ドラン兄ちゃんの畑はよく手入れされているから、あまりする事もないしね。ドラン兄ちゃんこそ、沼まで結構あるんだから気をつけてね」
マルコと出立の挨拶を終えた私は、二日分の食料と水を入れた革の鞄を背負い、護身用に短剣と長剣を一振りずつ持って、村を出立した。
沼までの道は、かつては踏み固められていたがこの十数年で歩む者がぱたりと絶えた為に荒れ放題で、野の道を行くのとまるで変わりは無かった。
マルコが心配していたような襲撃を受ける事もなく沼への道を進んだ私は、太陽が中天をいくらか過ぎた頃には目的の沼へと到着する事が出来た。
私は目の前に広がる広大な沼地に目を落とした。ほとりには背の高い草や木が無数に生い茂り、足元の地面はたっぷりと水を含んでぬかるんでいる。
沼から異臭がするような事は無いが、付近に生命の気配はあまり感じられない。見渡せばリザード達がかつて住んでいた集落の跡地があった。
「ふむ」
私は腕を組んでしばしの間思案に耽っていたが、背後でずるりずるり、とぬかるんだ地面の上を巨大な蛇が這いずるような音を耳にして思案を中断する。
リザード族の飼っていた大蛇でも残っていたのか、と私は振り返った。
背後を振り返った私の視線の先に居たのは、陽光を浴びて燦然と輝く金の髪を長く伸ばした美少女だったのである。
目鼻口の配置はまさしく造形の天才の手になるものに間違いはなく、青い瞳はサファイアの如くまばゆく輝いている。
簡素な造りの薄水色のワンピースを纏い、肩から斜めに鞄を掛けていた。
十代後半のまだあどけなさを残す少女の顔には戸惑いの色が浮かび、赤い唇からは先端が二股に割れた長い舌がチロチロと出入りを繰り返している。
お互いを見つめあう私達であったが、少女の顔は私のはるか上にあり、ワンピースの裾からは緑色の鱗がびっしりと生えた巨大な蛇の胴体が伸びていた。
うねりくねりする蛇体が少女の下半身なのである。
ラミアか、と私は内心で呟く。人面蛇体の女性しか存在しない魔物だ。
始祖は既に失われた王国の王女が呪いを掛けられて姿を変えた魔物だと言うが、よもや我が故郷の近くに住んでいたとは知らなかった。
ラミアは私の姿を見て笑みをそのままに赤い唇を長い舌でぺろりと舐めた。新たな唾液の口紅が塗られて、一層ラミアの唇の艶やかさが増す。
「こ、こんな所に一人で来るなんて、う、迂闊な人間ね。他には誰もいないのかしら?」
なんとも甘い声であった。しかしなんという棒読みか。緊張に凝り固まって舌の根が上手に動いていない様子だ。
「私一人だけだ。他には誰もいない」
「そ、そうですか、良かった」
私の目の前でラミアは豊かな乳房に手を置いて、ほっと安堵の息を吐く。
「ふむ」
とはいえラミアが人間にとって危険な魔物である事には変わりない。私は右手を腰の長剣に伸ばし、柄をそっと握り込む。
「ま、待って下さい。私は人間を――」
ラミアの少女が言い終わるのを待たず、私は一息に腰の長剣を抜き、ぬかるむ地面の上で風を巻く勢いで旋回し、背後から襲いかかってきた泥の腕を切り裂いた。
私の背後の地面から伸びていた泥の腕は綺麗に二つに分かれ、そのどちらともがただの泥に戻って、地面に濡れた音を立てて落ちる。
「――襲ったりしません……え?」
「昔、ここにはリザード族が住んでいたが、ある日沼が濁り始めて別の場所へ移住した。
彼らが移住する事になった原因だよ。狂った大地の精霊だ。時の流れの中で力を増したのかもしれん。これまで村の皆が沼に近寄らなかったのは、正解だったな」
足元の地面が底なしの泥沼に変わるのを感じ、体が沈みこむ寸前にまだかろうじて固さの残っていた地面を蹴って、私はラミアの左傍らにまで跳んだ。
「え、あ、あの!?」
「ラミアは魔法が扱えると聞くが、どうだ?」
「使えます。でも、あの、ラミアは大地に属する生き物ですし、私の種族は水に近しいから、大地の精霊が相手だとあまり……」
「そういえばラミア種のほとんどは地属か。大地の精霊の方も水の力を帯びているから、君の魔法で痛打を浴びせるのは難しい事になるな、ふむ」
「あ、あの、でもですね。ラミア固有の魔法ならありますから、それなら大地の精霊にも効くと思います!」
「そうか、それは助かる。提案があるのだが、この場は私と君で共に精霊を相手に戦わないか?
一人一人で戦うよりその方が効率は良いだろう。私が前に出るから背中を君に預けたいのだが、どうかな?」
「はい、ふ、不束者ですがよろしくお願いします!」
「それは嫁入りする時の言葉だろう」
「え、あ、あぅ、すみません」
面白い娘だな、と心の中でだけ呟いて、私は長剣片手に泥の腕達へと向けて駆け出す。
泥の腕は指一本を取っても私の腕ほどもある大きさで、これに殴りつけられでもしたら簡単に骨の一本や二本は折れてしまいそうだ。
この泥の腕そのものは大地の精霊ではない。狂った大地の精霊が操っているだけの駒に過ぎず、倒したところで大地の精霊の力をいくらか消費させる程度の効果しかない。
私は獲物にとびかかる蛇のように襲いかかって来る泥の腕を、竜種の魔力を宿した長剣の一振りで纏めて薙ぎ払う。
泥の腕を動かしていた大地の精霊の力を長剣の魔力が瞬時に打ち消して、泥の腕はただの泥へと還る。
私が泥の腕を斬るのと泥の腕が復活する速度がほぼ変わらない為、拮抗状態が延々と続く中、魔性の力を帯びたラミアの少女の詠唱が周囲の大気を震わせはじめた。
「我が身に流れる呪わしき魔の蛇よ いまこそ出で生じてその呪いを我が敵に与えよ ジャラーム!」
かつて神に与えられた体を蛇に変えられる呪いがラミアの少女の詠唱により実体化され、敵とみなした泥の腕達の間に透き通った大蛇の幻影が現れて、急速に幻影が実体を帯びてはっきりと威嚇の声を上げる。
「ふむ」
感嘆の意味を込めた“ふむ”である。
種固有の魔法というのは癖があり、使い勝手が難しい分その威力は強大と相場が決まっているが、ジャラームという魔法の威力は私が思っていた以上に高い。
呪いの大蛇がその姿を消すまでの間に、私達に襲い掛かってきていた泥の腕はすべて倒されて土へと還っていた。
泥の腕が新たに出現する様子がない事に、ラミアの少女が肩から力を抜き、気を抜くのが視界の端に映り、私はまだ安堵するのが早い事を告げなければならなかった。
「まだ気を抜いてはいけない。大地の精霊がようやく姿を現す気になったようだからね」
「は、はい」
素直な娘だ、と私が感心したところで、沼の中央の辺りで大地の精霊力が急速に高まり、黒く濁った水面が山のように盛り上がって、沼の主となっていた大地の精霊が私達の前に姿を現す。
泥山の頂きに人間の上半身とかろうじて見える突起があり、頭部には眼と鼻だろうと判別できるだけの窪みと盛り上がりがあった。
「私に当てないよう適当に魔法で精霊の気を逸らしてくれ」
「あ、危ないですよ!」
狂える大地の精霊は沼の中央からほとりに着いたところで接近を一旦停止し、泥の身体から二本の腕を私達へと向けて伸ばし、その先端から私を目がけて泥の砲弾を飛ばしてきた。
大地の精霊の力が込められた泥弾は二発、三発、四発と連続して発射される。
精霊の仮初の肉体を構成する泥や水はこの沼にいくらでもあるのだから、ちまちまと削っていっても終わりは見えまい。
となれば精霊の中核を一撃で破壊するのが最も手っ取り早い方法であろう。
「我が血に宿る蛇よ 汝の毒牙を我が敵に突き立てよ ジャドゥーク!」
私の背後でラミアの少女の力ある言葉が響き、大地の精霊の巨体に再び現れた蛇の幻影が絡みつき、大きく開かれた顎から覗く牙が、勢いよく大地の精霊の巨体に突き立てられる。
半透明の大蛇の牙からは紫色の液体が滴っているのが見え、その液体が呪いの圧縮された呪毒である事は一目瞭然であった。
膨大な精霊力の塊と化した狂える大地の精霊に対しても、その呪毒はある程度の効果を与えたようで、私の目の前で大地の精霊の巨体がぶるぶると震えはじめる。
狂える大地の精霊の窪みとしか見えない目が、確かに私の顔を見たのが分かった。
狂気に染まった精霊の思考がどのようなものかは分からぬ事だが、少しでも早く仮初の肉体から解放し、あるべき精霊の世界へと帰してやる事がこの精霊の為だ。
大地の精霊が人型を模した部位の付け根から、泥の槍の先端が無数に覗き私を串刺しにしようとするよりも早く、私は一層魔力を込めて白く発光し始めた長剣の一閃で、人型部位の頭頂から付け根までを両断した。
「やった!」
とラミアの少女の喝采の声が聞こえて、私は大地の精霊への憐みと共に少しばかり自慢げに口癖を零していた。
「ふむ」
これで沼を濁らせていた原因を排除する事は出来たから、後は自然と精霊力の調和が取られて時間の流れが解決してくれるだろう。
私がそう安堵した瞬間を狙っていたかのように、真っ二つになった大地の精霊の巨体は元の泥の塊へと戻って、雪崩か泥の津波と変わって私と私の後方に居たラミアの少女を飲みこんだ。
視界を埋め尽くす茶色の波に飲まれる寸前に魔力で体表を覆い、服や肌が泥に濡れないように処理し、七つほど数えた頃に泥の波は収まった。
泥水がくるぶしを濡らすほど溢れかえる中、私はラミアの少女は無事かと背後を振り返ると、
「うう、口の中に泥が入っちゃった。うええ、服も髪もぐしょぐしょ……」
私とは違って頭から泥を被り、せっかくの綺麗な金の髪も服もずぶ濡れになり泥で汚したラミアの少女の姿があった。
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第三話
全身を濡らす泥水の不快な感触に泣きたいのを堪えて、手渡された革袋の水を口に含んでくちゅくちゅとお口の中を濯いでいると、ドランさんが私の事を少し困った顔で見ているのに気付きました。
「早く泥を落とさないといけないな。濡らしたままでは風邪をひいてしまう。着替えは大丈夫か?」
「はい。リザードさんのお家の中に置いてあるから、着替えはちゃんとあります」
えっへん、と私が少しだけ胸を張って言うと、ドランさんはまた笑いました。
そんなに変な事を言ったつもりは無いのに、どうして笑うんでしょうか? 意地悪な人間さんなのかしら?
「セリナが私の知っているラミアとはずいぶん違うものだから、つい面白くてね。
それにセリナは最初に私と目が合った時は戸惑っていたようだが、もう随分と警戒の意識が薄れている。もう少し人間を警戒した方が良いとつい思ってしまうほどだよ」
ドランさんに言われて、私はあっと思いました。そうです。ドランさんは人間さんなのです。そして私は魔物のラミア。なら当然のように人間さんはラミアの事を怖がって、刃を向けてきてもおかしくは無いのです。
「あ、えっと、ご、ごめんなさい」
何を言えば良いのか分からなくって、私は自分でも何を言っているの、と思いながらなぜかドランさんに謝っていました。
するとドランさんは小さく肩を竦めます。とてもよく似合っている仕草でした。ドランさんは、優しい光を青い瞳に輝かせていました。
まるでよく晴れた日の空のような、とても心の落ち着く色です。ドランさんの目を見ていると、不思議と心が落ち着きます。
どうしてでしょう? ドランさんが私を傷つける事は無いと、なぜか私は思っていたのです。
「謝る必要は無いよ。私も君をどうこうしようというつもりはない。さ、それよりも早く着替えを済ませた方が良い」
このリザードさん達の集落はもう誰も住んでいなくて、ほとんどのお家は床が抜けたり、壁が壊れていたりしていて、とても住めたものではありません。
それでも見て回った中で、一番綺麗な形を残していたお家の中に私は荷物を隠していました。多分、集落の長だった方のお家なのでしょう。
お家の中で濡れた服を着替え、髪を濡らす泥水を拭う間、ドランさんはお家の外で待っていてくれました。
「そろそろ野営の準備をした方が良い。服を乾かしがてら食事の準備もしよう。私はここで一夜を明かすつもりだったのだが、セリナの予定はどうなっているのかな?」
「私も今日はここで夜を明かすつもりでした。私の一族は水との親和性が高いですから、大地と水の力が共に強く存在しているこの沼地は、居心地が良いから」
服が濡れやすいのはちょっと困りますけど、と私が言うとドランさんは納得したようで一度首を縦に振り、辺りを見回します。
私達は沼地から離れ、乾いた地面の上に大小様々な岩石の転がっている辺りで野営の用意を整えました。
野営と言っても地面に毛布を敷き、その上に横になってもう一枚毛布を被って眠るという程度の事です。
まだ夜は冷え込みますから、火を絶やすわけには行きませんが、今日は私とドランさんの二人なので交代で火の番をする事にしました。
全身を毛布にくるまり、目の前の焚火でぽかぽかと体の温まった私は、久しぶりに誰かとお話が出来る事の喜びもあって、自分でも驚くくらいにお喋りになり、気付けばどうして私が旅をしているのかを話し始めていました。
私が生まれ育ったのは、あの沼からもっと北のモレス山脈の中にあるラミアの隠れ里です。
そこにはたくさんのラミアとその夫である他種族の男性、そして両者の間に産まれた子供達が暮らしています。
その隠れ里には、十七歳になったラミアは隠れ里の外に出て自分の旦那様を見つける旅に出なければならないという掟があります。
私もまたその掟に従って旦那様を見つける旅に出ているのです。
私の話が一段落する頃には食事も終わり、お鍋の中は空っぽです。
なんでもお兄さんと弟さんが居て、家ではよく話を聞く役をしていたそうです。他にも村では年下の子供たちの面倒をよく見ていたから、他の人の話を聞くのは得意なのだとか。
でもそれって私が子供っぽいと言う事でしょうか。それはちょっと失礼だと思います。だってドランさんは今年で十六歳。十七歳の私の方が一つ年上なのです。お姉さんなんですよ?
私がそんな風に不満を胸に抱いていると、空っぽになったお鍋を火から外して食器のお片付けをしていたドランさんが、こう言いました。
「そうやって頬を膨らませているところが、子供っぽいな」
「あ、口に出ていましたか?」
いけないと思って慌てて口を押さえると、そんな私の様子がよっぽど可笑しかったのか、ドランさんはくすりと笑います。もう!
「いや、すまない。セリナを馬鹿にするつもりはない。ただとても可愛らしいものだから、ついな」
「そんな風におだてたって誤魔化されませんよ!」
「そう言わず許してくれ。セリナに機嫌を損ねられては、心苦しい」
「ふんだ」
「これは困ったな。セリナの臍を曲げてしまった。……そういえばラミアには曲げる臍があったかな?」
そう簡単に許してあげるわけには行きません。私がぷいっと顔を横に向けると、ドランさんは駄々っ子を見るような目をしてから、肩を竦めます。
ううん……仕方ありません。ここは大人しく白旗を揚げた方が、自分で墓穴を掘らずに済むのでしょう。私は背けた顔を戻して、ドランさんの顔を正面から見つめます。
「私の降参です。私は子供っぽいですよーだ。あと、ラミアにもお臍はありますよ。私達の身体はここぐらいから蛇に変わりますから」
私は毛布に包まれている身体の一部に手をやります。人間の女性なら膝から少し上くらいでしょうか。そこから下が蛇の胴体に変わっているのです。
それからママとパパの好きな食べ物だとか、誕生日に貰ったプレゼントの話をしていると、ドランさんも自分の家族の事を話してくれました。
ドランさんはお父さんとお母さん、お兄さんと弟さんの五人家族だそうですが、もうお家を出て一人で暮らしているそうです。
私達と違って旅に出る必要は無いのですが、同じ村の中とはいえもうお家を出ないといけないのは大変で寂しいな、と私は思いました。
「ドランさんは寂しいと思う事は無いんですか?」
「無いと言ったら嘘になるが、歩いてすぐの所に実家もあるし、この年で寂しいと堂々とは言えないさ。私としてはセリナの方が立派だと思うよ。家を出ただけでなく一人で旅に出ているのだ。心細くて堪らないだろうに」
「ふふ、小さい頃から言われていた事ですから、覚悟は出来ていましたよ。それに自分の旦那様を見つける旅ですから、きちんと自分の目で確かめないといけません!」
「そうか。セリナは強い子だな」
そう言って優しく笑うドランさんの穏やかな顔は、ちょっと素敵でした。
*
翌朝、太陽がようやく地平線の彼方を赤く染め上げた頃、私はまだ眠っているセリナをそのままに、野営地点を離れることにした。
幸い、私が尻尾をいじり続けても、セリナが起きることはなかった。自分でも驚くほど熱中してしまい、結局私は昨夜一睡もしていないありさまである。
ラミア種は半分蛇である為に朝が弱く、身体が温まるまでは身体の動きも鈍くなる。
よってセリナが起きるまで火が消えないよう、多めに薪をくべておいた。
沼の異変の原因の解明と解決も済み、戦利品も手に入れる事は出来たから、これ以上私が沼に留まる理由もない。
マルコにも今日中に村に帰ると告げてあるし、そろそろ沼を出立しなければならないころだろうか。
「セリナ、私はそろそろ村に帰るよ。君はこれからどうするつもりなのだね?」
「あ、えっと、南の方に人間さんの街があるって聞かされていますから、上手く見つからないように南下して、旦那様を探す旅を続けようと思います」
「ふむ、分かっているとは思うがラミアを相手に私のような対応をする者は稀だ。不用意に近づいてはいけないよ。危険だからな」
「はい。パパとママにも何度も注意されました。皆さん、ドランさんみたいに優しい方だと良いんですけれど」
「セリナがとても優しい女の子だというのは、少し一緒に居れば誰でもわかるが、その少し一緒に居るというのが難しいからな。
ラミアの寿命は人間と比べて長い。まずは焦らずゆっくりと人間や他の種族を知る事から始めるといい」
はい、そうします、と私の言葉に頷くセリナに、私は右手を差し出した。
セリナは少し驚いた顔で差し出された私の右手を見ていたが、すぐにふわりと柔らかに笑むと、少し躊躇いを見せてから恥ずかしげに私の右手を握る。
花の蕾も思わず花開く事を選ぶような、とても暖かで優しいセリナの笑みであった。
私はもう一つセリナのお土産をあげようと思い立ち、柔らかなセリナの手を通じて、私の精気をたっぷりと受け渡す。
「きゃっ!?」
人間のよりも竜種の精気の方が精がつくだろう、と受け渡したのだが、少々セリナを驚かせてしまった。
考えてみれば隠れ里に居た頃に人間の精気を食べた事はあったかもしれないが、流石に竜種の精気を食べた事は無かっただろう。
これは私が迂闊だったか。驚きのあまりに尻尾をピンと伸ばし、目を白黒させているセリナに笑いかける。
「すまない。驚かせてしまったな。私はもう行くが、君の行く道に幸多からん事を祈っているよ」
「え、あ、はい。ドランさんもお元気で」
「ありがとう。君なら必ず素敵な男性を見つける事が出来るだろう。そう信じている」
握っていたお互いの手を離し、私はベルン村のある方角へと踵を返して歩を進める。
沼が小さくなるくらいまで歩き、背後を振り返るとセリナはまだそこに留まっていて、私が振りかえった事に気付くと、全力で手を振るい始めた。
私も笑ってセリナに手を振り返す。セリナは私の姿が見えなくなるまで、沼のほとりで私を見送り続けていた。
まったく、可愛いラミアが居たものだ。
沼を後にしてベルン村への帰り道を歩いた私は、道中で前方に向けてねじくれた角を生やした大槍角鹿を二頭屠り、手ごろな長さと太さの棒に吊るして村の北門に到着した。
顔馴染みの門番達に、肩に担いだ大槍角鹿を見せて軽く笑い合って軽口を飛ばす私達であったが、私はある心配が胸の内に巣くって消えなかった。
沼でセリナと別れて、村に戻るまでの道中、私の頭の中では悪い人間に騙されたセリナが牢獄の中で枷に繋がれ、見せ物にされている姿が克明に浮かび上がって仕方がなかったのである。
セリナのラミアとしての異能と魔法使いとしての力量を考えれば、そこらの野盗や冒険者崩れなど物の数ではないだろうが、いかんせん、セリナは性格が善良に過ぎる。
大丈夫かな、大丈夫か? 大丈夫だよな、と私は頭の中で煩悶し続けていた。
セリナに随分と懐かれたと思っていたが、なんのことはない。
私の方もセリナにすっかり情が移っていたのである。
今後セリナと私の運命が交差する事があるかは分からぬが、再び出会う事があったなら優しくしてあげよう、私はそう誓って家に帰った。
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第四話
私は人間に転生したのなら人間らしく生きてみよう、と父母の腕に抱かれている間に決めていたので、これまで周囲の人間と同じように振る舞う事に尽力してきた。
魔力を使わず純粋に肉体の能力のみで生活する事には今でこそ慣れたものの、子供の時分には気を抜いた拍子に魔力を使用してしまい、人間の子供では不可能な結果を残して、誤魔化すのと隠蔽するのとで苦労したものだ。
その一例に、私は幼い頃に村に住んでいる魔法医師のマグル婆さんの真似ごとをして、魔法薬を調合しようとした事件がある。
私や村の子供が近くの草原から集めてくる薬草から作れる傷薬よりも強い効能を持つマグル婆さんの魔法薬は、村では大変重宝されており、村を訪れる行商人にまとまった数を卸してそれなりのお金に変わっている。
少しでも家族の暮らしを、できれば村の皆の暮らしも楽なものにしてあげたいと考えている私は、まず家計の足しになれば幸いとマグル婆さんのように魔法薬を調合する事にしたのだ。
人間に生まれ変わってからというもの私の心は好奇心と冒険心に満ち溢れており、魂の質こそ劣化してしまったものの、竜として老齢の極みにあった私の魂は、いわば若返っているようなものなのだ。
あれもこれもそれもどれも、と思いついた事は試さずにはいられないのである。今思うに若さとは失敗を恐れずに何事にも挑戦する事なのではないか。
そうやって若い頃に積み重ねた経験が年を経た時に血肉となって生きてくるのだ。
まあ、長生きも度が過ぎれば私のように生きることそれ自体が退屈になってしまうので、何事も度を過ぎぬ事が肝要である。
どうすればきちんとした効能のある魔法薬を調合できるか、と頭を捻っていた幼い私が調達した材料に解析の魔法を使いそうになったところを、父に見つかり子供がマグル婆さんの真似ごとをするな、とこっぴどく叱られた。
だがこの失敗には思わぬ副産物があった。
私が父にこっぴどく叱られているところをたまたま通りかかったマグル婆さんが見つけ、私が中央の窪んでいる石や木の棒を調合道具の代わりにして作っていた調合途中の魔法薬を検分するや、私に調合を教えてくれる事になったのである。
夕方の農作業が終わった後のわずかな時間ではあるが、マグル婆さんの都合の良い日に、私はマグル婆さんの家を訪れて魔法薬の調合を教わる事になったのだ。
人間、何事にも挑戦するものだ。
ある日、マグル婆さんの家で授業と昼食を済ませた私は、一旦家に戻った後で大きめの魚籠と釣竿、護身用の長剣と短剣を身につけ、外出する事にした。
向かう先は、ベルン村の北東から南西に流れるベレヌ川の上流である。
昼食を済ませたばかりではあったが、今日の夕食に魚を食べようと思い至り、釣りに出かけた次第である。
村の中を流れる川でも魚は釣れるし、溜池を作ってささやかな養殖めいた事はしているが、上流の方が大きく身の肥えた魚が釣れるのだ。
覆い被さるようにして枝を伸ばす木々の天蓋によって、川面は緑に染まって見える。
その流れの中に時折姿の見える魚の影や、魚が潜んでいると思しい岩陰に疑似餌を投じようと釣竿を振り上げたところで、私は風に乗ってきた木の燃える臭いに気付いた。
木々の燃える匂いというのは独特なものだが、この森には火を扱う種族は住んではいないはずだ。
ゴブリンかオークがたまたま立ち寄って休憩でもしているのか? だとするなら少々危険だ。
臭いは川からそう遠くない場所から漂っており、私は足元の枯れ枝や落ち葉で足音を立てないよう注意を払いながら、木々の間を縫うように近づいてゆく。
鞘に納めたままの長剣に手を伸ばし、いつでも抜き放てるように指先の神経に意識を張り巡らせる。
木々の合間を縫って降り注ぐ木漏れ日の中、私はさして時間を要さずに火を扱っている者の所へと辿り着いた。
と、同時に肩や長剣に伸ばした手から力を抜かざるを得なかった。森の中にある小さな泉の傍で火を焚いていたのは、私の顔見知りだったからである。
泉の傍には深い緑色の鱗に包まれた大蛇の下半身と、絵画の中にしか存在しえないような美しい女性の上半身を持った生き物がいた。
それはつい先日出会ったばかりのラミアの美少女――
「セリナか?」
「え?」
私が思わず零した呟きに、私に背を向けていたラミアが振り返り、私の推測が間違いでないことを証明するように、きょとんとしたセリナの美貌が私の目の前に現れた。
どうやらセリナが火を焚いていたのは、体を清める湯を沸かすためだったようで、セリナの傍らには、火から外された鍋と白い湯気を噴く木の桶とが置かれている。
さてここまで言えば誰だって分かると思うのだが、今、火で暖まりながらお湯と手拭いを使って体を清めているセリナは、当然服を着てはいない。
産まれたままの姿、全裸である。かなり寒いだろうが、火と湯で濡らした手拭いのお陰で震えてはいないようだ。
「ドランさ……あっ!?」
私がここに居る事はセリナにとって思いがけない事だったようで、セリナは驚いた様子で私の名前を呼ぼうとしていたが、自分が布の一枚も纏っていないことに気付くと、小さな悲鳴を上げる。
私は我知らず感嘆の吐息を零していた。真の芸術あるいは真の美というものを前にした感動が、私の心を満たしていた。
「ふむ、美しいな」
口から出てきたのは、至極ありふれた言葉でしかなかった。自分の語彙の乏しさを恥ずべきであろう。
「ほ、褒めて下さるのは嬉しいですけど、何を堂々と見ているんですか! あっち向いていてください!」
セリナの言う通りにしないと魔法を使われそうな勢いだったので、私は言われた通りにセリナに背を向けた。
ほどなくしてセリナが着替え終えたところで、改めて向かい合い話を聞く事にする。
「それでセリナはどうしてこんな所に? 人間なり亜人なりとの接触を求めるなら、もっと南の方に行っているかと思ったが」
機嫌を損ねた様子のセリナではあるが、私の質問に答えないほど不機嫌というわけではなく、むすっとした顔のままで答えようとするが、なぜか言い淀む。
「私もそうしようと思ったんですけど……」
「どうした?」
「やっぱり人間さんと会うのはちょっと怖いと言うか、尻込みしてしまったと言うか……」
「いざとなったら躊躇したというわけか。覚悟は決まっていると聞いた気がするな」
「確かにそう言いました。その点に関して私は何も言えません。
それで色々迷っているうちにドランさんの事を思い出して、もう一度会えないかなと思ってここの辺りをずっとうろうろしていたんです。ドランさんなら相談に乗ってもらえそうでしたから」
「私を探していたのか? セリナとはまたいつか会いたいとは思っていたから、こうして会えて私は嬉しいよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。そうか、私を探して、か。なら、セリナ」
「なんですか?」
私の横顔にセリナが視線を向けるのを感じ、私はセリナの方を向いてこう提案した。一つくらいはなにか提案しないと、セリナもわざわざ私を探した甲斐がないだろう。
「人間に慣れる為に私の村に来ないか? 村で暮らせるように私の方で出来る限り取り計らおう。気に入らないようだったらすぐに出ていけばよい。
ラミアという事で最初は警戒されるかもしれないが、使えるものは病床の親でも使え、というのが辺境の村の流儀だ。
セリナの温厚な性格とラミアとしての能力があれば、すぐに重宝されて受け入れられるさ」
「ドランさんの村に、私が住むんですか?」
私の提案はセリナにとって思いもかけないものであったか、目をぱちくりとさせて元からあどけなかった顔立ちを一層あどけない印象を強くするセリナに、私は笑いかける。
「そうだよ。私達と一緒に暮さないか? セリナと一緒なら私は楽しく暮らしていけそうだ」
「私も、ドランさんと一緒なら楽しいと思います。そうできたら、とっても素敵。それに……」
「それに? 遠慮しないで言ってごらん」
「実は、この間ドランさんに貰った精気がとっても美味しかったものですから。あんなに美味しくって身体が元気になる精気は、初めてでした。
ドランさんを探していたのは、また精気を食べさせてもらえないかなって、少し期待していたんです」
どうやらセリナは、自分が食いしん坊のようで告白するのが恥ずかしかったらしい。
「気に入って貰えたのなら何よりだ。一緒に暮らせるようになったら、いつでもセリナに精気をあげられるようになる。こんな風にね」
私は釣竿から離した左手をセリナに向けて差し出し、私の左手をまじまじと見つめてから、セリナは恥ずかしげに左手を握り返してきた。
それを待ってから、私は再び竜種のものへと変えた精気を手を通じてセリナに吸わせてあげた。
竜種の精気が流れ込んでくると、セリナはふにゃっと頬を緩めて春霞みに包まれているように、恍惚とした表情を浮かべた。ふむ、あれだ。効果抜群にもほどがある。これはちょいと濃度を薄めなければ、非常にまずいな。
*
セリナのベルン村受け入れ計画を考える傍ら、私は村で定期的に開かれる訓練に参加していた。
訓練は村の子供達が駐在の兵隊や大人達に引率されて、村の外に棲息する野生動物や弱い魔物を相手に実際に戦うのと、村の中で武器の扱いを習ったりする事を指し、今日は前者だ。
魔物の跋扈する辺境ともなれば、たとえ齢十歳の子供であろうと武器の扱いは当たり前に習うものだ。
村が魔物の集団に襲われた時、家の奥で怯えて震える子供よりも、弓に矢をつがい、槍を突きだす事の出来る子供の方が重宝される。
村の北門へと到着した私は幸いにして集合時刻に遅れることは避けられ、先に到着していた兄に合流した。そういえば今日は兄も参加する日だったな。
兄は私の姿に気づくと、手を組んだ姿勢でやれやれと溜息をついた。
私の二つ上の兄ディランは引き締まった肉体の持ち主で、短く刈った黒髪の下に父によく似た骨太の目鼻顔立ちをもっている。
兄が父によく似た分、私とマルコは母に似たのかもしれないと、私は益体もない事を常々考えている。
「遅いぞ、ドラン。遅刻ではないが皆を待たせる事はするな」
兄の注意に心の中で完全に同意しながら私は短い答えを返した。
「すまない」
軽く頭を下げる私に、兄はそれだけで何か言う事はなかった。
他の子供とは違う私のような奇妙な弟を、この兄はどう思っているのか時折兄の心を覗き見たい衝動にかられるが、不躾に他者の精神を覗く事は最も下劣な行いの一つであると私には感じられるから、その衝動はこれまで押し殺してきている。
「よし、全員集まったな」
最後の一人であった私が姿を見せたことを確認し、引率役の王国の兵士が声を張り上げる。
外での訓練はおおよそ六、七人ほどの村の子供を二、三の大人が引率するのが通例である。
今回の引率役は私とディラン兄、私の幼馴染、村に駐在している兵士の隊長であるバランさんと、マイラール教の女神官であり、我がベルン村に派遣された神官戦士のレティシャさんの二人だ。
バランさんは元々この村の出身で、着こんでいる鉄製の胸当てを、はちきれんばかりに押し上げる筋肉の鎧を纏った屈強の戦士である。
殴った方の拳が悲鳴を上げそうながっしりとした顎には、綺麗に顎髭が整えられている。
鋭い眼差しは猛禽類を思わせるが、平時に村の子供らを見る時には驚くほど優しい光を宿す。
さてもう一人のレティシャさんであるが、こちらは確か二十歳になるまだお若い女性の方で、華やかさはないが一緒に居てとても落ち着く雰囲気の持ち主だ。
きさくで気立てもよく、博識な事から村の皆からよく慕われている。
もともと村には神官や僧侶の類はおらず以前から神殿や王国に一人でも良いから、人を送ってはいただけないかと嘆願書を送っていたのだが、それが功を奏して二年前から村に新設された小さな教会に派遣されたのがレティシャさんだ。
藍色の髪の毛先を綺麗に切り揃えて首の後ろで一括りにし、腰に垂らしたレティシャさんの風貌は柔和で、とても戦う事など出来そうにもない。
だが簡素な白いマイラール教の聖職者のみが着用を許される祝福を受けた神官衣と、教団の紋章をあしらった首飾りの上から着込んだ皮の鎧や左手の円盾、腰のベルトに留められている鉄杖はよく使いこまれたものだ。
既にベルン村で暮らし始めて二年の間に、レティシャさんもまた魔物などとの戦いをそれなりにこなしているのだった。
「今日はいつも通り貫兎や大足鼠を相手にするが、慣れた相手だからと言って決して油断するな。相手の動きをよく見ながらどうすればよいかを考えて動け」
訓練を始める前に必ずバランさんが言う忠告に六人の村の子供達ははい、と素直に返事をした。
武器を手に取りそれを使うのは子供にとって単純にそれだけでも面白いものだし、訓練で仕留めた獲物はその子供が家に持って帰って良いというのも、村の子供が訓練を楽しみにしている理由だ。
私としても魔法による強化を行わない素の人間としての身体能力を高め、戦闘経験を積む良い機会なので非常にありがたかった憶えがある。
村を離れて薬草の採取などでよく訪れる草原の、子供たちだけでは足を踏み入れない奥の方に到着した私達は、貫兎や大足鼠、地走鳥の姿を求めて三人一組になって分かれる。
私達引率組はいざという時にすぐ助けに入れるよう、子供達全員を視界に入れられる位置に移動している。
私は幼馴染――それを言ったら村の子供全員がそうなのだが――の中でもとりわけ仲の良いアルバートと連れ立って、子供たちの様子を見守る作業に没頭した。
それから私達はバランさんの呼ぶ声に従って訓練を切りあげて、それぞれの訓練兼狩りの成果を持ち寄った。
幸い怪我人が出るような事はなく、レティシャさんの出番はなかったがその事を一番喜んでいるのはそのレティシャさんだろう。
私自身もまた見知った顔に怪我人が出なかった事に安堵する一方で、セリナを受け入れさせる方策は、地味だがこれしかないかな、と思案してもいた。
*
村での日常の合間にセリナと会う生活が続く中、ベルン村では奇妙な事が起き始めていた。
夜が明けると必ず村に駐在している兵士二人一組と村の有志らが村の周囲を見回るのだが、見回りの時にある日から必ず死んだ動物が置かれるようになっていたのである。
まるで供物か貢物のように置かれるそれらの周囲には、巨大な蛇が這いずりまわったような跡が残されており、それほど巨大な蛇は村の近辺には棲息していない為、これは一体どうした事かと村の大人たちの間で疑問と推論が交わされている。
これは言うまでもないが私の入れ知恵によるセリナの行動だ。
結局、妙案の思いつかなかった私は、地道に点数稼ぎを行うくらいしか思いつかなかったのである。
まずはそれとなく村の人々が喜ぶようなものを持ってきて、なにかが居るという事を匂わせて徐々にセリナの存在を意識づけることから始めている。
正体不明の誰かが持ってきた獲物を不気味がる人々は居たが、大牙鰐や鉄槌猪の類はそうそう目にかかれぬ珍しいものだ。
これらに手を着けぬ余裕は村にはないから、肉は村人たちの胃袋に収まり革や骨は村で武具や道具に加工され、一部は南方の都市ガロアに売られて、金銭に換えられた。
こういう時頼られるのは村長とマグル婆さんとバランさんである。
辺境の長い暮らしに耐えて村の人々を導いてきた村長と、魔法の知識を蓄えたマグル婆さん、王国の兵士として訓練を受けている際に考えうる限りの魔物の事を学んだバランさんなら、セリナの這いずった跡からラミアが村の近くに居ることに勘づくだろう。
村の重鎮達の間で合議が重ねられる中も、セリナが夜中に私と共同で仕留めた獲物を、村にこっそりと置いてゆく日々は変わらず続いた。
当然、村の方でもラミアを警戒して夜中の見回りを増やし、村を囲う防壁の内側に見張り台を作り、篝火を焚いて周囲の警戒を密にしている。
私にも見張りの役が何度か回ってきた。
何度か獲物をせっせと運ぶセリナの姿が見つかる事もあった。
だが幸いバランさんや村長にまだ手出しを禁じられていたのか、矢などが射かけられる事はなく、セリナは特に攻撃を受けることもなくその場から逃げる事が出来たのである。
姿を見つかってからもセリナの村への贈り物は続き、村長やバランさんをはじめラミアの存在を聞かされていた村の大人たちの間でも、ひょっとしてひょっとするのではないか、という空気が漂い始める。
ここ数日村人たちの食卓にはセリナの持ってきた珍しいご馳走がのぼっていたことも大きな理由となっただろう。やはり交渉には胃袋から攻めるに限るようだ。
私は、愚痴の一つも零さず村で暮らす為にせっせと毎日獲物を取って運ぶセリナを励まし、時間を作っては一緒に川の上流や森の中へと足を踏み入れて、獲物を取り続けた。
そうしてさらに数日後、村の空気の変化を察した私は、いよいよセリナと村人の直接接触を実行に移す事にした。
機会は村の外に出る訓練の時だ。ラミアを警戒して外に訓練に出る回数は減り、引率に就くのもバランさんの隊五名全員になっていた。
ラミアの存在が確定してからは訓練自体が控えられていたが、ラミアの行動から危険性は低いと考えられ、子供たちの懇願もあって再開となったのである。
しかし万が一を考えて訓練に連れてゆく子供の数は三人までに減らされている。
引率役に私が選ばれる日を選び、セリナには草原の片隅に隠れてもらっている。
ラミアが夜にしか姿を見せない事もあって、昼間に遭遇する可能性は低いと見積もられてはいるが、バランさんたちの顔には緊張の色が濃い。
この頃になると村の子供たちの間でもラミアの話が密かに囁かれるようになっていて、これまで遭遇した事の無い魔物の出現に興奮と不安の念を抱いているのか、普段よりも口数が多かった。
いつもの草原にすでにセリナが身を隠しており、訓練中にへまをやらかした私をセリナが助け、そのまま村の実力者であるバランさんと話し合いを行って、村への居住の交渉を始めるのが今回の目的である。
草原についてからいつもの長剣を腰に佩いた私は、やや早足で歩いて子供達と距離を取り、諸感覚に強化を施してセリナの位置を把握し、そして異物の存在に気付いた。
いつもなら居る筈の動物達が姿を消し、その代わり私の前方で下り坂になっている死角に普段ならお目に掛るような事の無い魔物が潜んでいる事に気付いたのである。
そいつの立ち上がれば私の背丈の二倍半に届こうかという巨体は黒い毛皮で覆われて、短く太い四肢には茶褐色の甲殻で覆われている。
私達の存在に気付いたそいつは、四肢を突いていた体勢から二本足で立ち上がり、私の前方の草むらから姿を露わにする。
ベルン村の東に広がる森林の奥に棲息する鎧熊だ。
並みの熊を大きく超える巨体の各所に鉄並みの硬度を持った甲殻を備え、太い爪を持った足の一撃は木の幹を容易くへし折る。
ゴブリンの十匹や二十匹などものともせず、頭から噛み殺す強力な魔物である。
人間が不意に出会えば死は免れぬが、森の奥に潜んで人里には滅多に姿を見せぬこいつが、どうしてここに?
私の後ろで逃げろと叫ぶバランさん達の声が聞こえた。
私の本性を知らぬなら、当然の反応である。
バランさん達なら十分対処は可能だろうし、竜の力を使って倒さずとも済むか?
腰の長剣を鞘鳴りの音を立てながら抜いて、こちらを威嚇する鎧熊を睨み返しながら、私は長剣の切っ先を目の前の猛獣へと突きつける。
後ろ足を撓めた鎧熊が私に勢いよく飛びかかろうとしたその瞬間、焼付くようなまばゆい光が視界を遮った。
光の正体は、純粋な魔力を矢の形状に形成して放つエナジーボルト。初歩的な攻撃魔法だ。
鎧熊の右脇腹に直撃したエナジーボルトは、緑色の光の飛沫に変わり、鎧熊の毛皮を貫いて肉をいくらか削りながら鎧熊を吹き飛ばす。
私は魔法の放たれた方角へ視線を送り、同時にバランさん達もエナジーボルトの放たれた方向に視線を送る。
そして、草原の中に姿を見せたセリナを見つけた。呪いを受けて半身をおぞましき大蛇へと変えられた王女を祖に持つ、美しくも妖しい魔物であるラミアの少女を。
一旦はエナジーボルトの直撃を受けて吹き飛ばされた鎧熊だが、分厚い脂肪と毛皮と備えている魔力によって致命傷は免れ、すぐに起き上がると決然とした態度のセリナへ向けて野太い咆哮を上げる。
セリナは威嚇の咆哮にも臆せず、滑るように草原を動くと私を庇って、走りだそうとする鎧熊に立ちはだかり、新たな攻撃魔法の詠唱に入っている。
セリナの後ろに隠れる形になった私は、バランさん達には見えないようにセリナの蛇の下半身の一部に触れて、魔力の一部を譲渡する。
鎧熊がセリナまであとわずか距離にまで近づいた時、セリナの詠唱が終わった。
「大地の理 我が声を聞け 我が道を阻む敵を貫く槍とならん アースランス!」
四足で大地を駆ける鎧熊を囲むように、地面に三角形の黄金の魔法陣が展開し、それぞれの頂点に更に円形の魔法陣が描かれて、そこから鋭い先端を備えた大地の槍が伸びる。
私から譲渡された魔力による強化が加わったセリナのアースランスは、鎧熊の前足の付け根を左右から串刺しにし、腹部を斜めに貫いて血で赤く濡れながら、鎧熊の背中で三本の槍の先端が交差して止まる。
それでもまだ即死していない鎧熊へと、止めとなるセリナの魔法が行使された。
「水の理 我が声を聞け 我が前に立つ敵を切り裂く刃とならん ウォーターエッジ!」
天に向けて伸ばされたセリナの左腕がまっすぐ振り下ろされると、その軌跡をなぞって大気中の水分を凝縮した魔法の水の刃が、陽光を反射してきらきらと輝きながら放たれる。
三本の大地の槍に串刺しにされた鎧熊は、哀れな事に更にその頭部を水の刃で縦に切り裂かれ、ようやく絶命した。
鎧熊の絶命を確かめて、セリナが長い溜息をつくと同時に先ほどまでの凛々しさが消えて、自分の蛇の下半身の後ろに居る私を振り返り、視線を合わせてくる。
「ドランさん、怪我はしていませんか? すみません、もっと早くにあの熊が居たことに気づけばよかったんですけど」
バランさん達に万が一にも聞かれぬように声を抑えて、私は短くセリナに礼の言葉を告げた。
「傷一つない。君に落ち度はないよ。それに、誰かに助けられるというのもたまには良いものだ」
それよりも鎧熊の事は少々予定外ではあったが、本番はこれからである。
鎧熊の死体の脇を駆け抜けたバランさんを筆頭に、ベルン村駐在部隊の人達が私とセリナを中心に包囲し、それぞれの武器を抜いていつでも斬りかかれるようにしている。
「その子から離れろ、ラミアよ」
セリナが何かを言う前に、私はセリナの後ろから姿を見せて、セリナの前に庇う位置に立つ。
「バランさん、私を助けてくれたのだ。危害を加えないで欲しい」
バランさんは、背後のレティシャさんを一瞥した。私が魔眼に掛けられているか否か、判別を求めたのだ。レティシャさんはすぐに首を横に振るう。
「どくんだ、ドラン。確かにお前を助けたように思えるかもしれないが、ラミアは強力な魔物だ。そう簡単に信用するわけには行かん」
「恩を仇で返せとは育てられてはいない。相手が魔物であれ人間であれ、助けられたことには変わりがない。だから、私はどかない」
状況を動かしたのは私の背後に居るセリナであった、私の肩にそっと手を置くと穏やかな声で語りかけてくる。
ただし瞼は閉じている。ラミアの強力な武器である魔眼を自ら封じて、害意がない事を行動で示しているのだ。
「庇ってくれてありがとうございます。でもその人の言う通りだから」
「しかし」
「良いから」
そう言ってセリナは私の背を押し、私は背後を振り返りながらもバランさんの方へと歩み寄り、レティシャさんに肩を掴まれた。
素早く体を点検され体に傷がない事の確認が終わると、緊張に満ちた空気の中、バランさんが一歩前に踏み出て鉄槌を構えたまま、セリナに問いかけた。
「ラミアよ。最近村に獲物を届けていたのはお前に間違いないか?」
「はい、間違いありません。貴方がたの村に贈り物をしていたのは私でしゅ……痛っ、か、噛んじゃった……」
緊張のあまり舌を噛んだらしい。閉じられたセリナの瞼の端に涙の粒が溢れている。頑張れ、セリナ、と私は心の中で精一杯の声援を送った。
一瞬和らいだ緊張の糸を、バランさんはわざとらしい咳で無理矢理誤魔化した。
「うぉっほん。……あー、どうしてそのような事をした。村の子供を助けたのはなぜだ?」
「えっと、私を村に住まわせて欲しいからです。私は両親と一緒に暮らしていたのですが、一族の掟に従い家を出て旅をしていました。
けれど一人旅は寂しくって、ずっととは言いません。しばらくで良いので一緒に暮させて欲しいんです。
それとこの人を助けたのは殺されてしまったら可哀想だと思ったからです。私のパパは人間で、ママとも仲が良かったし私に人間を傷つけるつもりはないんです」
母親から手ほどきを受けた口調はそもそもろくに言えていないし、似合わない上に高圧的であるから止めた方が良い、と助言したのは正解だったようだ。
最初に噛んだのはともかく以降は噛まずにすらすらと言えている。
セリナが口にしているのは全て真実だ。鎧熊に襲われたのが私でなくても、セリナは勇敢に立ち上がって子供を守ろうとしただろう。
セリナの熱弁が続く中、不意に私達子供三人を庇う位置に立っていたレティシャさんがびくりと体を震わせると、突然膝を折って指を組みマイラールに対する祈りを捧げ始める。
突然の行動にバランさんが視線こそセリナに向け続けていたが、レティシャさんの異常に気付いて声をかける。
「レティシャさん、どうかし……」
「バ、バランさん! た、大変です、偉大なるマイラールからの神託です」
「なんですって!?」
「……ああ、なんということでしょう。偉大なるマイラールは私にこう告げられました。
私達の目の前に居るラミアは邪悪な魔物ではない、この大地に生きる同じ命である、共に生きなさい、と」
「な、マイラールが、ですか」
「はい。まさしくこれは審判の奇跡。神託に違いありません!」
私は悪戯っぽく微笑むマイラールの姿が見えた気がした。貸し一つ、といったところだろうか。私は思わず微苦笑を浮かべていた。
実際に遭遇したラミアの性格と発言、事前にマグル婆さんから言われていた事に加え、さらに大神からの神託。
生涯に一度あるかないかという途方もない奇跡が起きた以上、これはもうラミアを村に住まわせる事が運命であると、バランさん他村の人達も納得せざるを得ない。
その後村に戻ったバランさんは村長やマグル婆さんのみならず村の大人達を集めて、セリナの扱いに関して議論を始めた。
数日に渡って議論が重ねられる間も、セリナはせっせと献身的に獲物を村に持ってきていた。
変化があったとすれば、夜中にこっそりと行っていた作業を昼間に堂々と行うようになったこと。
そしてあれが噂のラミアかと見物にくる村の人達に、セリナがにこやかに手を振り、去り際には頭を下げて一礼するなど礼儀正しく友好的な態度を見せるようになったことだろう。
そうしてセリナの処遇を決める議論の果てに、結論が出されたのは五日後の事である。
結論としてセリナは危険な魔物ではないとし、しばらくは監視するが、村で誰も使っていない物置に住まわせる事が決定した。
その事をセリナに伝え、マグル婆さんや村長をはじめベルン村の人達が見守る中、セリナはひどく緊張した面持ちで北門から先へと足を進めた。
おっかなびっくり、怖いもの見たさで村の人達が遠巻きに見守る中、私はずいっと人の列から前に進み、父やバランさんの制止の声にも足を止めず私はセリナの前に立って、周囲の人々が固唾を呑んで見守る中、笑みを浮かべてセリナに言った。
「ようこそ、ベルン村へ。歓迎するよ」
「私の事はセリナで良いです、ドランさん。あの時、私の事を庇ってくれて、ありがとうございました」
私に応じるセリナもまた笑顔を浮かべ、陽光と青い空が私達を祝福していた。
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第五話
生と死と善と悪が入り混じる混沌とした地上世界とは隔離された、神々の住まう最も尊く清らかな理想郷――天界、あるいは神界とも呼ばれる世界にいま私はいる。
私の意識は肉体から抜け出して本来の古神竜の魂としての姿を解放し、こうして幾柱もの神が住まう神界へと辿りついていた。
私は万物を大地に縛り付ける重力という見えない鎖から解放され、背中から生えた六枚の翼を広げて、白い雲の流れる青い空を飛んでいたが、目的地が見えてきた為それも終わりだ。
空飛ぶ島の一つに降り立つ私を、予め来ると予想していた一柱の女神が、微笑を浮かべて待ち構えている。
見知った顔の変わらぬ美しさと暖かな万物の母のごとき雰囲気に、私はなぜだか喜びを感じている自分に気付き、知らず女神と同じように笑みを浮かべていた。
大地に触れる寸前まで伸ばされた漆黒の髪、黒瑪瑙を思わせる輝きを秘めた黒瞳、布と紐しかなかった時代を思わせる、絹様の白い布地をゆったりと纏ったその姿は、紛れもなく最高位の大地母神マイラールに他ならない。
「お久しぶりですね。古き竜の友よ」
「まさしく。幾歳月ぶりであるか、母なる大地の化身よ。息災である事を心より嬉しく思う」
マイラールはかすかに目を細めて微笑を深めたようだった。なにかおかしなことを言ったつもりはないが……?
「ふむ、やはり転生の影響を受けて随分と魂が劣化してしまったからな。貴女の前に晒すにはみすぼらしい姿になってしまったかな?」
「そうではありませんよ。最後に見た時の貴方と比べてとても活き活きとしていらっしゃるから、それが私には嬉しいのです。
貴方は随分と生に倦んでいる様子でしたから、人間達に討ち取られたと聞いた時、ああ、やはりと思ってしまったものです」
「否定はできぬ。あの時の私に生も死もさしたる違いはなかった。勇者の剣が私の心臓を貫いた時、私は死への絶望はなく、これで終わりかと感じただけだった。
ただ事実を受け止めるだけであったよ。勇者には要らぬ手間をかけさせてしまったと今では思っている」
「そうだったのですね。けれど、今の貴方は生きる喜びに満ちている事がわかります。
私の目の前に立つ貴方が、何も隠すもののない魂の真実を晒した姿であるからこそ、貴方の魂と心が生きる喜びに満ち溢れている事が感じられて、私は我が事のように嬉しいのですよ」
「マイラール、その様に感じられる貴女だからこそ私は貴女と友である事を誇ろう。
ふふ、よもや人間に生まれ変わるなどと思ってはいなかったが、実際に生まれ変わってみれば私の魂の倦怠を吹き飛ばす新鮮な刺激に満ち溢れているよ。
生きるという事はかくも楽しいものかと思うほどに」
それから私は私が人間として産まれてから人間の乳飲み子の目で見た、竜の眼とは違う世界の見え方に対する驚きや、あまりに脆弱な自分の体と魔力を使わぬ人間の生活に対する不慣れ、弟が生まれた時や兄ちゃんと呼ばれた時の感動と喜び、辺境での辛く苦しいが生を実感できる暮らしについて、飽きることなくマイラールに語り続けた。
この世界で最も尊いとされる偉大なる神の一柱であるマイラールは、我が子の自慢話に耳を傾ける慈母のように私の話に良く耳を傾けてくれ、時折相槌や質問を挟んでは私の舌を更に饒舌なものに変えた。
母なる大地の化身は、とても聞き上手だったな、と私が思いだした頃になってようやく、私はここへ来た本当の目的をまだ果たしていなかった事に気付き、マイラールに軽く頭を下げる。
「私の話ばかりをして済まぬ。
私が貴女のもとへこのみすぼらしい姿を晒す恥を忍び、厚かましくもこうして参ったのは、先日のセリナの件に関してぜひとも礼を述べたく思ったからだ。
まことに感謝する。あの時に神託が下ったお陰でセリナを村に迎え入れる事が出来た」
「よいのですよ。
最近になって私に捧げられる地上の方々の祈りの中に、とても懐かしい気配が感じられましたから、もしかしてと思い地上の様子を見ておりましたら、ちょうど貴方があのラミアの少女の事で村の方となにやら話をしている様子。
それで私もお話を聞かせていただいて、老婆心から一助となればと神託を下したのです」
「それでも私にとっては感謝してもしきれぬことに変わりはない」
「あまり気にしないでください。貴方に貸しを作りたくてした事ではないのです。私はただ貴方がこれからもよき友であって下さればそれで満足ですよ」
「そうか。それは私もなにより望むこと。他の神も貴方のようであれば地上の者達にとってどれだけ幸福な事か」
「人それぞれに多様な生き方があるように、私達神にもまた多様な在り方があるのです。私達神もまた絶対ではなく完璧ではありません。
だからこそ今の世界が成り立っているのです。貴方はいまの不完全な世界はお嫌いですか?」
「友よ、貴女も意地の悪い所があるのだな。人間としての生に充足を覚えている私の答えがどんなものか、分かっているだろうに」
ずるい、と私が暗に告げるとマイラールは小さく笑ってみせて、そのあどけなさを残した笑みを見ると、まあよいかという気分になる。
万物の母であるかのような包容力と慈愛を見せたかと思えば、年端も行かぬ少女のような稚気と悪戯っぽさを見せるマイラールの事が、私は昔から好きだったなと改めて思う。
無論のこと、この“好き”は恋慕の情ではなく友人に対する親愛の情である。
マイラールという旧友と久しぶりに話をするのは非常に楽しかったが、既に肉体を滅ぼされて人間に転生した私が神々の世界に長居しても悪い、と思い至りそろそろ今の人間の肉体に帰ることにした。
人間の王国の辺境の小さな村こそが今の私にとって帰るべき場所であり、生きる場所に他ならない。そして私はその村の事が大好きなのであった。
「思いがけず長話をしてしまった。貴方はとても聞き上手な女神だな。本来既に人間として転生した私が天界に出入りしては、なにかと騒がしくもなろう。
要らぬ騒動を引き起こす前に、失礼させて頂く事にしよう」
「戦神のアルデスは貴方と力比べをするのが大好きでしたから、貴方の事に気づいたら湯浴の最中でも武器だけを手に持って駆け付ける事でしょう。
今の貴方はかつてより力こそ弱くなったかもしれませんが、それでもなお貴方の魂は眩いまでの力強い輝きを放っていますから、いずれ他の神も気付きましょう」
「ならなおさら早くこの場を辞さねばならぬ。明日も早くから畑に出て芋の世話をしなければならぬからな」
「お芋ですか?」
マイラールは右頬に手を当てて小首を傾げる。
私と芋、か。確かにあまり縁のある品とは言えないから不思議そうなのも無理はない。
無垢な幼子のように愛らしいマイラールの仕草に、和やかな気持ちになりながら私は至って真面目な口調と声で答えた。
「芋だ」
「貴方がお芋を……」
私がうむ、と力強く頷いてみせてマイラールの瞳を正面から見つめていると、やがてマイラールはくすくすと笑い始めて両手で口元を隠してしまう。
そんなに可笑しな事を口にしただろうか?
楽しいのだがなあ、芋づくり。
*
さて村で眠っている肉体に戻った私は、マイラールに告げた通りに、産まれた時から食卓の主菜となっている芋の世話をするのだが、村に住む事を許されたセリナはどうか。
やはりまだ完全に信じきられているわけではなかったから、村に駐在している兵士の内三人が常に監視についている状況だ。
セリナ曰く生家に居た頃から父親の食料を確保する為に畑仕事はしていたらしく、他にも繕い物や料理、掃除、洗濯と家事は一通り母親に仕込まれていたそうである。
大抵の事はセリナに任せてもそつなくこなすだろう。
とはいえ、ラミアに対する警戒心は誰もが持っており、父母と兄からそれとなく注意は受けている。
まあ五日もすればセリナの本性があの性格そのままだと村の人達にも理解してもらえるだろう。
村に入れて貰えたのだから、あとは焦らずじっくりと信頼の土壌を育んでゆくだけである。こちらに関して私はあまり心配していなかった。
セリナに住居として与えられた物置小屋であるが、以前にその小屋を使っていたご家族が息子さんの縁談の関係で、南方にある別の農村に移って以来特に誰が使うでもなく、時々手入れだけして放置されていた小屋である。
私の家でしばらく預かろうか? とも提案したのだが、これはあえなく一蹴された。
仮にも魔物と同居させるわけには、と危険視する声と若い男女を一緒にするのは、という少数の声があったためである。
さて物置小屋だが、これは五年ほど放置されていたが、もとの作りが頑丈だったお陰で特に雨漏りがする事はなかったし、隙間風が吹きこむ事もない。
鼠が巣食っていたのはどうしようもないが、そこはラミアであるセリナの登場で解決する。
鼠の天敵の一種である蛇の特徴を持つセリナが小屋に近づいただけで、鼠は脱兎の勢いで逃げ出したのだ。
物置小屋の中には精々が空の棚や古い薪束くらいしか残っていなかったが、一応セリナは新しい村の住人という事でなにもしないのも不義理。
寝台代わりに大量の藁を清潔なシーツで包んだ簡単なクッションがいくつか用意されて、小屋の奥の方に敷かれている。
セリナの下半身は大蛇のそれであるから、人間用の寝台よりはこちらの方が良かろうと言うマグル婆さんの提案による。
実際、セリナも生家では床にクッションを敷いて横になっていたそうなので、マグル婆さん様さまである。
村の面々の中ではマグル婆さんははっきりとセリナに対して、歓迎の意思を見せている。
やはり自分達の占いの結果を信じているからなのだろう。
荷物を運び込み終えて、今日一日は休んでおくようにと村長がセリナに告げると、藁のクッションの感触を堪能していたセリナは、姿勢を正し緩く波打つ綺麗な金髪に藁屑をつけたまま、向日葵のように明るい笑みで、ありがとうございます、と返事をした。
その笑顔を見て一体誰がセリナの事を危険な魔物であると断じる事が出来ようか。
心からの感謝の笑みを浮かべるセリナは、純真で愛らしい少女にしか見えなかった。
この様な具合でセリナのベルン村移住一日目は新居への案内で終わり、翌日からは監視付きで村の猟師さん達と一緒に、元気よく狩りに出かけていた。
年若いセリナはまだラミアとしては未成熟な方であるが、ベルン村近辺の魔物相手なら危険はあるまい。セリナが一緒なら村の人達の身も安全であると、私は安心していた。
*
とある日、私はバランさん達監修の下、村の子供達が受けている戦闘訓練に参加していた。
今は兵士達が宿としている二階建ての駐屯所兼宿舎にある中庭で、見本となる模擬戦を見学している所である。
地面の上に訓練用の木剣や木の槍を持ったまま座り込み、私とアルバート、アイリに他の村の子供らの目の前で、二人の戦士が対峙して先ほどから互いの技量を競い合っている。
一人はバランさんの部下で右腕でもある副官マリーダさん。
毛先を切り揃えた茶色い髪と意思の強さをはっきりと示す勝気な鳶色の瞳を持ち、色素の淡い唇と目鼻の筋はくっきりと通っている。
中々の美人だがバランさんの片腕を務めるだけあり剣を操る技量は並みではなく、外見で侮った愚か者はマリーダさんの刃の露と消えるだろう。
今は鎧の下に着込む薄い布製の服の上に、なめした皮の胸当てを着こんで左右の手に細剣を握っている。細身の刀身は刃引きし、先端を丸めた模擬戦用のものだ。
女性としては背の高いマリーダさんだが、それでも女性ゆえに鍛えたとしても単純な膂力や持久力では男性に劣る為、軽快かつ俊敏な動作によって、素早く細かい攻撃で相手の急所を狙う剣術を身につけている。
実際私達の眼の前で風に遊ぶかのように大地を蹴り、緩急の差を着けて二本の細剣を振るうマリーダさんの姿は、まるで軽妙な音楽に乗って舞い踊っているかのような錯覚を覚えるほど流麗だ。
王国にとってほとんど価値もないに等しい辺境の僻村には、あまりにも勿体ない技量の主である事は間違いない。
しかし、マリーダさんの技量が並みでない事が確かであるほどに、いま、マリーダさんが対峙する相手が、より一層並みはずれた使い手である事を皮肉にも証明している。
マリーダさんが対峙しているのは、先日から村に唯一の宿屋に泊っているうら若い女剣士である。
いつの間にか宿を取っていたかと思えばふらりと外出して森に足を踏み入れていく姿を見た者もいれば、川の上流へと向かい大牙鰐の首だけを持って帰ってきた事もあるという。
いや、勿体ないから大牙鰐の首から下も持ってきてよ、と内心で抗議したのは私だけではあるまい。
かと思えばレティシャさんの教会に顔を出し、日長マイラールに祈りを捧げて過ごす、と行動に一貫性のない不可思議な女性だ。
珍しい外からの来客という事もあってベルン村の人々は、私を含めて女剣士に関心を寄せるのは極自然な成り行きであった。
だがそれ以上に人々の興味を惹いたのは女剣士が、その裕福な身なりと隠しきれぬ気品ある所作や言葉遣いから、どうやら貴族階級の出自らしいという事と、その一目見れば夢の中にも出てきそうな見惚れる他ない美貌の為であった。
背の中ほどまで届く銀の髪は、これは本物の純銀でないのかと思わず錯覚してしまうほど眩いきらめきを纏う美しさで、女剣士はこれを首の後ろの辺りで金糸の飾り刺繍が施された青いリボンで束ねていた。
驚くほど長い睫毛が細やかな配置で守る切れ長の瞳は鮮烈な赤。
硬く横一文字に引き締められたこれ以上ないほどに形の整った唇は、瞳と同じ色に濡れている。
意識して振る舞えば一国を傾けることも可能であると断言できるほどの美貌を持ったこの女剣士は、クリスティーナと名乗って宿を取った後に村長の家を訪ねると、そのまま数日間の滞在の許可を取りつけた。
そうして村の人々の意識と興味を集めてやまぬクリスティーナさんは、動きやすい革のズボンとレースが所々にあしらわれた絹のシャツのという軽装で、マリーダさんと刃を交している。
村の子供達が駐在している兵士達に武芸を習う、というのは外から来た人間からすればよほど珍しい事であったらしく、ふらりと顔を覗かせたクリスティーナさんは、赤い瞳に興味の色を浮かべて参加の意思を示したのである。
広場の真ん中に用意された標的用の藁人形に向けて、私達が木の槍を突き、木の剣を打ちこんでいるところに姿を見せたクリスティーナさんは、しげしげとその光景を見まわしたかと思うと、私達からの好奇の視線はどこ吹く風とばかりに、マリーダさんにこう申し出た。
「迷惑でなかったなら、私も訓練に参加したいのだが、構わないだろうか? ゴブリンやここらの猛獣相手では腕が鈍ってしまいそうなのだ」
マリーダさんは一緒に監督役をしていたクレスさんに監督役を任せると、広場に出しておいた木箱の中に無造作に突っ込まれていた刃引きした鉄剣を手に取ると、それをクリスティーナさんに差し出した。
「構いませんが貴女ほどの腕では、子供達の相手をするのも苦痛でしょうし却って子供達にとっても為になりません。
代わりに私が精一杯お相手を務めます。それでよろしいかしら?」
「いや、私の方が余計な事を頼む立場なのだから、断る理由はないし礼を言うべきだろう。ひとつよろしく頼む。ただ私は貴女の前で腕を振るった事はないと思うが」
「後ろ足に体重を残しつつ前後左右どちらにでも跳躍できるよう自然と構える佇まい、異様に安定した重心。
他にもいろいろありますが、貴女ほどの使い手はガロアにもそうは、いえ、ほとんどいないのではないでしょうか」
「非才の身には過ぎた褒め言葉だ。だが、今日は久しぶりに腕の振るい甲斐がありそうで良かったよ」
私達がクリスティーナさんの剣の腕に無言の興味を示した事もあり、本日の訓練の監督役だったマリーダさんは、苦笑交じりに許可を出してくれた。
端的に言えばクリスティーナさんの技量は私達の、そしてマリーダさんの想像を超えるものであった。
マリーダさんが一流であるならば、クリスティーナさんはまさに超一流。よもやこれほどの使い手が実在していたとは、と我が目を疑う技量であった。
始まりはこうだった。
唐突にクリスティーナさんが、横一文字に引き締めた口元を綻ばせて小さな笑みを浮かべる。
「私の方が頼み込む立場なのだから、先に動くべきなのだろうな。参る」
私達の視界の先の、マリーダさんの顔の近くで無数の火花が散った。
風を切る音も鋭い一閃は、たとえ模擬剣といえども人間の首を骨ごとまとめて断つには十分すぎる威力を備えているに違いない。
おそらくあれでも手加減はしているのだろうが、模擬戦で振るっていい剣技かと言えば、少々疑問である。あるいはマリーダさんなら対処できると判断したうえでの事か。
ぎん、と広場に響き割った音はその音だけでどれほどの重量が両者の腕に加えられているのか、はっきりと分かるほどに重々しい。
クリスティーナさんは、美しすぎるあまりに神秘的なまでの美貌の印象を裏切る途方もない膂力の主のようであった。
この場では私しか気付いていなかったが、クリスティーナさんの体は、確かに人間のものではあったが、私の眼と感覚からすると常人とは明らかに違う点がいくつもあった。
ふむ、これは珍しい。人間離れした美貌と身体能力の高さも“あの体”で産まれて来た為の副産物か。剣の鍛錬も欠かしてはいないようであるし、大したものなのだろう。さすがにかつての勇者や英雄たちには及ばぬが。
村の皆からすれば勝敗の読めぬ戦いだが、マリーダさんが心のどこかで認めていたように、勝利の二文字を得たのはクリスティーナさんであった。
瞬きも許されぬ攻防の果て、首筋に触れる冷たい感触に体を強張らせるマリーダさんが、自分の負けを認めて吸いこんでいた息を大きく吐き、ゆっくりと体勢を戻して細剣を鞘に納めると、ようやく雰囲気に飲まれて緊張していた私の周りの皆が揃って溜息を吐く。
息をする事さえ忘れてしまうような緊張感が、ようやく緩和されて皆が口々に先ほどの攻防の凄まじさに、浮かれたように口を動かし始める。
鞘に納めた模擬剣をマリーダさんに手渡しながら、クリスティーナさんがうっすらと笑みを浮かべて二言三言言葉を交している。互いの健闘を讃えあっているといったところか。
「こう言っては悪く思われるかもしれないが、マリーダ殿は武芸だけでも軍で出世を望める技量ではないか? 」
「いえ、そのような大したものではありませんよ。それに私は今の仕事に誇りを持っています。実際に自分の力で人々を守っているという実感も得られますしね」
「そうか。羨ましいものだな。私にはどうにもそういった生きる張り合いというものが欠けているようでね」
聞こえてくる会話の内容と口調に混じるクリスティーナさんの暗い感情の響きは、どうにも私の想像が当たりだと嫌な保証を与えてくる。
ふむ、安易に私が踏み込んで良い話題ではないだろうが、さて話をする機会でもあったら世間話くらいはしてみるか。
私はクリスティーナさんがこの村を訪ねた理由をなんとはなしに考えていた。とりあえず悪い人間ではなさそうだけれど。
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第六話
ある日の事、東の森の奥深くに住むはずの刃虎が、ベルン村の近くにまで出現するという異常事態が生じた。
幸いにして刃虎はその場に居合わせた私がセリナの協力によって討ち取り、村の皆に被害が出る前に対処する事が出来た。
刃虎の死体をベルン村に持ち帰り、森で遭遇した時の状況とどうして刃虎達が居たか、という推測などを村長とバランさんを交えて村長の家で話す事となった。
「村長、このまま事態の変遷をただ傍観しているだけでは、いつか取り返しのつかない事にまでなってしまうかもしれない。
そうなる前に私に森を調べに行く許可を出して欲しい。刃虎まで村の近くに来ている事を考えれば、これは明らかに異常だ。その事は村長の方が分かっているだろう」
「確かにお前の言う通りこのまま座していては、なにか起きた時に後手にしか回れまい。だが、わざわざお主一人を行かせるわけには行くまいよ。バラン、お前の所からも人を出せんかね?」
「ああ、二、三人行かせよう。場合によってはガロアに援軍か調査の要請をする必要が出るかもしれないな」
重々しく頷くバランさんの発言はまっとうなものではあったが、私からすれば余人が居ない方が色々と無茶が出来るので、ありがたい半面面倒でもあった。
「いや、バランさん達にはある程度状況が把握できてから動いて欲しい。いたずらに動いて何かあっては良くないだろう。
バランさん達は私達と違って戦闘の専門家だ。万全の状態でいざという時に備えていてもらう必要がある」
こうして話をしている時間も惜しいのだが、私がそう考えた時、はい! と元気良くセリナが挙手した。
「はい! それなら私がドランさんと一緒に森を調べに行きます。私なら魔眼があるし魔法も使えます。今日も刃虎の動きを止めました。
私とドランさんで行けば大概の事には対処できると思います」
「お嬢ちゃんがドランと調査に行くか。エンテの森にラミアが居るとは聞いた事が無いが、お嬢ちゃんが居れば蛇の類は気にしなくて済むな。
それに魔法使いが二人なら、確かに大概の事は何とかなるか……」
村長が納得するまで一押しといったところだろうか。さらに私が言い募ろうとした時、私も村長も想定していなかった人物の立候補があった。
これまで黙って椅子に腰かけていたクリスティーナさんが、決意を秘めた瞳で村長の顔をまっすぐに見つめ、自分も私達に同行して森に向かうと口にしたのである。
「ならば村長、私もドランとセリナに同行しよう。私も魔法を嗜んでいるし、人並み以上に剣を振るう事も出来る。私が森の調査に向かうのを許して欲しいが、どうだろうか?」
私とセリナが森の調査に向かう事に対し、肯定の意見に傾きつつあった村長だが、クリスティーナさんが森に向かうと言うや、私達に対するのとは別の反応を見せた。
「それはなりません! 貴女の身に万が一の事があっては、あの方に顔向けができませぬ。お申し出はありがたい事ではありますが、今回の事は我がベルン村の問題なのです。
貴女はどうか気になさらず村にお留まりください。決してエンテの森に向かおうなどと考えてはなりませんぞ」
「村長、クリスティーナさんの同行は許さないにしても、私とセリナが森の調査に向かう事の許可は許して貰えるのかな。何も見つからないとしても三、四日は森に赴くつもりだが、どうだろうか」
「うぅむ、よかろう。お前さんとお嬢ちゃんに森の調査を任せるとしよう。くれぐれも自分の命を大切にせい。無事に生きて帰ってくる事が、調査を許す条件じゃ」
「分かった。必ずセリナともども怪我一つ負わずに帰ってくる。森の異変も原因を解き明かしてこよう」
私は村長が安心するようにと自信を込めた力強い声を出して、頷きながら答えた。
*
村長からの許可をバランさん立ち会いの下で手に入れた私とセリナは、それぞれの家に戻って準備をし、翌日、陽の昇る前に村を出発して東のエンテの森の調査を行う事を決めた。
薄闇のカーテンがまだ空に広がり、ほの白い月の姿が見えたが、地平の彼方は太陽によって黄金に染められつつあり、昼になるかどうかといった頃には森に到着するだろうか。
時折見かける村の顔馴染み達と挨拶を交わしながら道を歩き、北門に到着して見ると初めて会った時と同じ肩掛け鞄姿のセリナが既に到着していて、私を待っていた。
軽く手を上げて声を掛けようとした私だったが、セリナが少しばかり困った顔をしているのとその理由に同時に気付き、あげかけた手を下げざるを得なかった。
まだ冷気の微粒子を含む朝の澄んだ空気の中、天上世界の麗しき戦乙女かと見紛う美女の姿が、セリナのすぐ傍にあったからである。
「おはよう、ドラン。出かけるには良い天気だな。そうは思わないか?」
黒い金属製の脛当てと籠手、胸当てと私と同じ構成の防具に身を固めたクリスティーナさんその人だ。
「おはよう。良い天気であるとは思うが、クリスティーナさんは東の森に行く事を、昨日村長から固く戒められてはいなかったかな」
「ああ、確かに村長殿からは固く戒められたが、たまたま数日を掛けて散歩に出かけるだけだよ。
今までは村の周囲や川の上流に足を向けていたが、たまには東の方に行くのもいいと思いついたんだ。君達とは偶然同じ所を目指すだけで、あくまで散歩さ。
ただまあ、なんだ、ここら辺の地理に明るくない私は道を間違えて森に迷い込んでしまうかもしれないけれどね」
「貴女の言い分を村長が認めるかは分からない。それに結局のところ、私達が小言を貰う事になりそうだ。第一、なぜ調査に同行しようなどと考えたのかな?
村長達の態度から貴女がベルン村となにかしらの縁があるという事は察するが、わざわざ危険を冒してまで何かするほどの理由があるとは思えない」
「それを言われると私も弱い。
私が直接この村に縁があるわけではないが、私の血縁者がベルン村と縁が深いんだ。
私がベルン村に訪れたのはその方に以前からこの村の事を聞かされていて、いつかは訪ねるつもりだったからだよ。
そしてこの村の人達がなにやら困っている様子。幸いにして私で力になれるような問題であったから、これも何かの縁と助力を申し出ただけに過ぎないよ。
確かに危険もあるだろう。だが私は未熟ではあるがそれなりに剣に自信はあるし、森で見た君達の実力もあれば、そうそう危険な目に遭う事は無いだろう」
「ここまで言われると好きにさせてあげようという気になってくるが、セリナはどう思う?」
私に対して、セリナはん~~と人差し指を唇にあててしばし考え込む。
傾げられた首と一緒に尻尾の先端がにょろにょろと動いていて、そんなセリナの姿に私は和やかな気持ちになって目元が緩むのを感じた。
「別にいいんじゃないでしょうか。私達の手に負えないとわかったらすぐに森から出ていけば良いと思いますし、ドランさんと私とクリスティーナさんなら大丈夫ですよ、きっと」
笑顔と共に告げるセリナに、私はそれもそうだなと背中を押された気分になって首肯した。
「分かりました。ではたまたま向かった先が同じだったというだけで、クリスティーナさんがどこに行こうとも文句は言わないし、止めもしない。それで良いですね?」
「ああ、君達が話の通じる相手で助かったよ」
こうして私達は、二人だけでエンテの森に向かう予定を三人に変えてベルン村を出発する事になった。
*
ベルン村からエンテの森の最寄りの最外縁部までは、これまでに辺境の人々によって二台の馬車がすれ違える横幅の簡単な道が出来ている。
といっても雑草を取り払い踏み固めただけの簡単な道だから、土砂降りの雨が降るなりするとあっという間に荒れて、崩れてしまう程度だが。
エンテの森は北部辺境の北東から東に掛けてその緑の領土を広げ、国境をまたいで隣国にまで根を伸ばすほどの人跡未踏の大森林地帯である。
まっすぐエンテの森に向かって足を踏み入れた私達の足元は、びっしりと生える緑やら黄色やら赤やらと、色様々な草に覆われ尽くしていて茶色い地面は猫の額ほどしか見当たらない。
伸びた太い木の根が互いに絡み合って絨毯のようになっている場所もあれば、私よりも大きな瘤を形作っている所もあり、歩くのも一苦労という様相を呈している。
私の皮靴の足跡やセリナの這いずった跡が、くっきりと残るくらいに厚く折り重なった草や様々な色の苔で埋め尽くされた地面の上を延々と私達は進む。
赤や青、黄色などを時折交えた濃緑であった森の色彩が、私達の足が進むにつれて毒々しい印象の強い紫や黒、紺色が増え始める。
変化は色彩ばかりでなく木々の姿にまで及び始めていた。天に向かって伸びるはずの木々が異様な方向に捻れ、腐乱しているかのような樹皮が目立ち始める。
生と死とが入り混じり年月と転生を重ねた豊饒なる土から精気が抜け、生命を育む事の出来ないものへと変わっている。
進み続ける中、私は饐えた血と腐った肉の臭いが猛烈に吹きつけてくるのを感じ、鞘の長剣に手を伸ばした。
ついでソレの存在に気付いたのはクリスティーナさんで、ラミアとしての知覚能力を持つセリナは最後であった。ううむ、セリナさんや、もう少し気を張ろうな?
「どうやら下手人と早速会えそうだな。クリスティーナさん、セリナ、用意は良いか」
「いつでも構わんが、どうやら私達を狙っての動きではなさそうだな」
「誰か、追われていますね」
全力で疾走していくと牢獄の如く聳える木々の隙間に、ふわりふわりと光り輝く何かが見え、そしてそれを覆うましらを思わせる複数の影がいた。
大きく湾曲した猫背は目鼻の無い蜥蜴を思わせる顔から足の先まで、灰色一色の硬質の肌に覆われ、骨しかないような細い腕の先には鋭い五本の爪が伸びている。
「なんだ、あいつらは?」
「下級の魔兵だ。確か名前はゼルト。見た目通りの矮躯とそれに見合う俊敏性、見合わぬ膂力の持ち主のはず。
特にあの小さな体が厄介だ。この間マリーダさんがクリスティーナさん相手にやったのと同じ邪道の剣法を、常に使ってくるものと思って戦った方が良い」
魔兵とは魔界に住む邪神や悪魔が作り出した命を持たぬ魔法生物の事を指す。
自我は無いが生命に対する冷酷無比獰猛凶悪な攻撃性を植え付けられ、残虐な真似を行うのが常だ。
急速に眼前に迫りつつあった下級魔兵ゼルト達が私達に気付き、悪意の矛先を転じてこちらへ迫りつつあったのだ。
「セリナはその位置から魔法と魔眼を!」
初めて見る魔兵に戸惑いを抱いていたセリナは、私の言葉にびくりと身体を震わせると、地を這っていた大蛇の下半身に急制動を掛け、慌てた口調で私に了承の返事をする。
「は、はい!」
ゼルト達はそれぞれが私達の足を第一目標に地を蹴る。まず敵の足を斬り、血に塗れた敵が地面を這いつくばったところを千、万の肉片へと解体するのがこいつらのやり口なのだ。
ゼルト達は広げた五指の刃で木々の幹を斬り、地面を削り、つるりとした顔にある糸のように細い目で、私とクリスティーナさんを睨む。
黒く濁ったゼルト達の目を睨み返しながら、クリスティーナさんは身体強化の魔法を用い、爆発的に加速する。
銀の髪を翻すその背中を見ながら、私は私達を無視して後方のセリナに向かおうとする三体のゼルトを狙い澄まして魔法を発動させる。
「力の理よ 我が声を聞け 矢となりて 我が敵を射よ エナジーボルト!」
セリナが鎧熊に放ったのと同じ純魔力の矢を生成する攻撃魔法だ。
世界に満ちる魔力と自身の魔力を混合させ魔法の矢を産み出す魔法で、一度に生成できる魔法の矢の数は術者の力量と魔力量によって多少のばらつきがある。
走りながら詠唱を終えた私の周囲に六本の緑色の魔力の矢が生み出され、枝を蹴って私の頭上を通過しようとしていたゼルト達へ一体につき二本ずつ鋭く尖った先端を向ける。
蜥蜴めいた顔面とひどく湾曲した腹部とに魔法の矢の直撃を受けたゼルト達は、それぞれに拳大の穴を開けて即座に偽りの生命に終わりを告げ、空中から地面に落ちるまでの間に灰色の塵となって消えた。
残り五体。その内三体はすでにクリスティーナさんと斬り結んでいた。
自らの腰にも届かぬ矮躯の敵を相手に、クリスティーナさんはマリーダさんと戦った経験から剣を振るうよりも突く方が効率的と判断し、斬撃ではなく刺突を主軸に置いた戦いを演じていた。
残りの二体は、縦に並んで私に対して真っ直ぐに迫ってきており、合計二十本の爪が殺意に満ちて、飛翔する鳥の如く左右に広げられている。
私もまたゼルト達へと向けて走り、長剣は右手一本で握り切っ先は右下段後方へと流している。
どう来る? 私の思考にこの言葉がよぎった瞬間、先を走っていたゼルトの速度がわずかに緩み、くん、とより前傾する。
その傾いだゼルトの背中を後ろの二体目のゼルトが踏み、勢いよく蹴りだして私を目がけて加速する。
なるほど、前後に並んでいた者達が突然上下に変わり襲う事で虚を突く戦法か。小賢しい真似をしてくれる。
「小賢しい」
一言だけ零し、私の腰の左右へと爪を振るうゼルトに右手の長剣を無造作に突き出した。
恋人同士がする抱擁のように熱烈に、しかし与えるものは死と苦痛のゼルトの爪は、私の長剣に頭蓋を貫かれた瞬間痙攣して力を失い、だらりと力無く垂れる。
そして私の頭上を飛ぶゼルト。同胞が討たれた事に動揺する心も持たぬ魔兵の頭部を、私は何も持たぬ左手の五指を広げて掴み止め握りつぶした。
二体のゼルトが一握の塵と変わるのを確かめてから、私はクリスティーナさんへと視線を向け、後方のセリナの詠唱を耳にした。
「ジャラーム!」
既に一体のゼルトを頭頂から股間まで両断して屠り、脇を掛け抜けたゼルトの首を刎ねたクリスティーナさんの背中から襲いかからんとしていたゼルトを、セリナの魔法によって出現した魔蛇の幻影がその大顎に捕らえる。
魔蛇の大牙が深くゼルトの首筋に突きたてられ、魔兵は幻影の魔蛇に頸椎を完全に噛み砕かれて、ほどなく存在を維持する魔力を失って塵と変わる。
ゼルトの掃討を確認し終え、愛剣を鞘に納めたクリスティーナさんが、私の背後に居るセリナを振り返った。
「すまない。助けられたな」
「いえ、当たり前の事をしたまでですし、クリスティーナさんなら私が助けなくても対処できたでしょう?」
セリナの言う事は事実だ。
クリスティーナさんはゼルトに背後を取られながらも腰の鞘に手を掛けており、セリナの助けがなくとも、そのまま鞘を突きだしてゼルトの咽喉か鼻先を砕いていたのは間違いない。
「取り敢えず面倒なのを片付けた事だし、どうして君が追われていたのか私達に教えては貰えないか、小さなお嬢さん?」
私が大樹の影に向けて視線と声を掛けると、クリスティーナさんとセリナもそれに倣い、影から先ほどまでゼルト達に追われていた小さな光の球体がおそるおそる姿を見せる。
ふわりと宙に浮かぶ球体は、よく見れば私が小さなお嬢さんと呼んだように、その中に人間の十分の一ほどの背丈の少女がいた。
少女が光を放っているが為に光の球体のように見えていたのである。
少女は翡翠を思わせる長い髪を両側頭部で黄色いリボンで纏め、背中からは薄く光を透過する透明な蝶の羽が伸びていた。
「妖精か。これは、絵本の中から飛び出してきたように可愛らしいな。ふふ」
「わあ、私初めて妖精さんを見ました。ちっちゃくて可愛いです!」
今はこの森の異変の手掛かりを知るだろう、妖精の少女に話を聞かねばなるまい。
花弁を縫い合わせたような意匠のドレスを纏った妖精の少女は、森に居ない筈の人間達の姿を前に警戒の念を抱いているようだった。
ある程度まで私達に近づいた所で止まり、ふわふわと浮遊したまま怯えた声で私達に問いかけてくる。
「あの、助けてくれてありがとうございます。に、人間さんですか? それにラミアさん?」
「そうだ。私はドラン。あちらの銀髪に赤い目の女性がクリスティーナさんで、ラミアの女の子がセリナだ。
私達は近くのベルン村から来た。村の近くに刃虎や鎧熊が出て来たものだから、森に何かあったと思ってね。君は?」
「マ、マールです。さっきからあのまへーに追いかけ回されていて、あの、助かりました。ありがとうございます。でも、そうですか人間さんの村の近くに、森の皆が……」
「ああ。それで、私達で森の異変を調べに来たのだが、あの魔兵が異変の原因か。マール、何時頃からあの魔兵が姿を見せたのか、君の知っている事を私達に教えてはくれないか?
私達で力になれる事なら、力になろう。森に異変があると困るのは、私達も同じだからね。そうだろう、ドラン?」
「ふむ、確かにクリスティーナさんの言う通りだ。私達で役に立つ事ならば力になろう。マール、どうかな?」
「えっとええと、それはその皆がとっても困っていますから、お手伝いしてくれるのならマール、とっても嬉しいですけど、でも皆が人間さんを巻き込んじゃったら、ご迷惑を掛けてしまいますぅ」
結局は私達自身の為でもあるから、気にする必要は無い、と私が口を開きかけた時、私とクリスティーナさんは周囲を囲みつつある気配に気づき、顔を上げて周囲を見回す。
セリナは私達に二拍遅れて気付いたようだった。
私達の一挙手一投足に周囲からの視線が矢のように刺さる中、がさりと枝葉の揺れる音が続き、私達を囲む者達が一人二人、と姿を見せ始める。
「ウッドエルフの一族だな」
「だね」
クリスティーナさんの呟きに私は短く応じた。私達を囲い込んでいたのは、森で取れる植物の茎や葉、動物の毛などを用いた衣服を纏う、金髪緑目の眉目秀麗な男女たちであった。
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第七話
ウッドエルフの一人が私達の真正面へと進み出て、十歩の距離を置いて足を止める。
濃緑のバンダナで淡い金の髪をまとめ、猛禽類を思わせる眦の鋭い青年だ。
森に枝葉を伸ばす巨木の葉の葉脈を紡いだと思しい緑の服に身を包み、細長い指には取り回しの良い短弓が握られている。
「マール、彼らから離れてこっちに来るんだ」
「ギオ、でも、この人間さん達はマールを助けてくれたですよ」
「分かっている。彼らが手を出してこない限りおれ達から危害は加えない。だから、こっちに、早く」
マールはギオと呼んだウッドエルフに促され、私達を振り返って一度大きく頭を下げると、何度も私達を振り返りながらウッドエルフ達の方へと飛んでいった。
ギオの傍らを通り過ぎたマールに、ギオの後ろで控えていたウッドエルフの少女が明るい笑みを浮かべて声を掛ける。
心の底から心配していたと見える様子から、普段からマールとは親しい間柄なのだろう。
「マール、あれだけ一人で外に出ちゃいけないって言ったじゃない。今の森はとっても危険なのよ」
「ごめんなさいです、フィオ。でも、どうしても外の様子が気になって。森の皆が今、どうしているのか、知りたかったんです」
「マールの気持ちは私も痛いほどわかるわ。でも、もう一人で外に行ったりしちゃだめよ。マールに何かあったらって、とても心配したんだからね」
ギオとどことなく似た顔立ちの少女が、大粒の瞳の端に涙を浮かべながら訴えると、マールは大事な友達を心配させてしまった事に、何度もごめんなさいと謝っていた。
そんな二人の様子を見ていると、マールを助けられて本当に良かったと心から思えてくる。
「人間とラミアよ。まずは我らの友であるマールを救ってくれた事に礼を言おう。ありがとう。
だがこの森は我らウッドエルフを含め、森に生きる者の領域。人間達が森を侵さぬ限り我らも人間の領域を侵しはしない。
かつてこの近くを治める人間達ともそのように約定を交わしている。何故その約定を破り、森に足を踏み入れた?」
まずマールの事での礼を告げる律儀さに、私はギオに好感を覚えた。いきなり弓を射かけられるような事もなかったし、きちんと事情を説明すれば荒事は避けられるだろう。
私はエンテの森に生息するはずの獣が村の近くに出没するようになり、森に異変が起きていると推測して、その調査に来た、とマールにしたのと同じ説明をした。
私達の説明を聞いたギオはやはりか、と言わんばかりに眉間に深い皺を寄せる。
私達がこうして森の中に足を踏み入れた理由をギオなりに予想していたのだろうが、それが見事に的中したわけだ。
周囲に身を潜めるウッドエルフ達からも、精神の水面を乱す動揺がうっすらと伝わってくる。
「そういう理由であるのなら、君達が森に足を踏み入れた事を責めはすまい。そしてまた魔兵と戦ったというのなら、何も教えずに追い返すわけにも行くまい。
今、このエンテの森では魔界の者達との争いが起きている。君達の村の近くに姿を見せたのは、その争いに巻き込まれて森を追われた者達だろう」
「魔界の軍勢だと!?」
ギオから告げられた事実にクリスティーナさんは絶句していた。
ほとんどすべての人間がその生涯を終えるまでの間、一切関わる事が無いだろう異界の存在との接触は、クリスティーナさんにしても驚きを禁じ得なかったようだ。
私としては予想していた二つの可能性の内、厄介な方が的中したかと心中で苦虫を噛み潰していた。
かつて善き神々の住まう天界と悪しき神々の住まう魔界から人間界へは、自在に行き来する事が出来た。
だが私がまだ竜として生きていた頃に勃発した神々同士の壮絶な戦いの末、人間界と天界、魔界との間に、神魔でさえ容易には通り抜けられない複数の次元・時空に及ぶ断層のようなものが出来上がっている。
この世界間の断層の構築には我が同胞である竜種も関わっているのだが、この場では取り敢えず置いておこう。
仮にゼルトのような下級の魔兵にしても、百単位の集団で地上に出現するとなればこれは尋常ならざる事態だ。
恒常的に魔界と接続された『門』がエンテの森の中に開かれてしまったという事か?
門を長時間放置し続けたらこちら側の万物が魔界の気に侵食され、魔界化が進行してより多くの、そしてより高位の悪魔や魔族が地上に出現してしまう。
「それで、その魔界の者達の出現はいつから? この事態を王国には伝えているのか? 貴方達はどのように対応しているのだ?」
「く、クリスティーナさん、そんなに慌てないで、ほら、ギオさんも困っていますから」
「セリナ、だがこれは尋常な話では……いや、そうだな。申し訳ない。少々取り乱してしまった」
「いや、君達が慌てるのも分かる。だが、これは我らの問題だ。森を侵す者は森に生きる我らが必ずや打ち倒す。君達が関わるべき事ではない。君達はこのまま外へと帰るがいい。
遠からず森の異変は収まり、君達の領土に森の者達が姿を見せる事も無くなるだろう。エンテの森のウッドエルフ、ギオが一族の誇りに掛けて約束しよう」
ギオの目には口にした言葉に偽るところは一欠片もない、覚悟の光が宿っていたが、これは私達も見過ごせぬ話だ。
「ギオ、貴方の言葉を疑うわけではないが今回ばかりは素直に貴方の言葉に従うわけにもゆくまい。
地上に生きる全ての命の敵と言える魔界の者達が来たとならば、私達もこのまますごすごと村に帰る事は出来ない。
少なくとも、この目で森に出現したという魔界の者達の戦力や動向を確認するくらいの事はしておきたい。
もちろん、私達で助けになれる事は力の及ぶ限りしよう。私はそう考えているが、クリスティーナさんとセリナはどうだ?」
「否の返事をするつもりは無い。どのような状況になっているのか、この目で確かめたいと私も思っていたところだよ」
「私はドランさんとクリスティーナさんが戻られないのなら、戻りません。それにさっきのゼルトっていう魔兵を見た時、とっても嫌な感じがしました。
あれは、この世界に居てはいけない存在です。ギオさん達だけでも追い払えるのなら、それに越した事はありませんが、私達も少しはそのお手伝いが出来ると思います。
いえ、むしろ私達の方がギオさん達のお手伝いをする必要があるのではないでしょうか?」
私達三人共に森から出る事を拒否されたギオは、大きく溜息を吐くと力無く首を左右に振るう。
「君達からの助力の申し出には感謝しよう。だが、森を穢した者は我ら森に住まう者が倒さねばならぬ。それが森の掟だ。これは今もこれからも変わらぬし、変えてはならぬ事だ」
「だが、私達がこうして話をしている間にも森と、森に住まう者達が魔界の者達に脅かされているのだろう? ならば一時掟を曲げるとしても私達と共に戦って欲しい。
掟は命を生かす為にこそあれ、掟を守る為に命を犠牲にしては本末転倒なのではないか?
魔界の者達との戦いが一段落するか、十分に情報を得られたなら貴方の言う通り森から出ていこう。考えては貰えないだろうか」
「……申し出は、ありがたい。だが……」
さてなんと説得したものか、私だけでなくクリスティーナさんやセリナも同じように考えた時、フィオの肩に立って羽を休めていたマールがおずおずと口を開く。
「ギオ、ドランさん、二人が言っている事はどっちもマールは間違ってはいないと思うです。でも、そろそろお日さまが沈んでしまいます。このまま話していたら、夜になってしまうですよ?」
マールの言う通り既に太陽は傾き始めて、西の彼方に沈みつつあった。エンテの森に到着した時点で既に昼の時刻。
マールの指摘に、ギオはまた違った意味で端正な顔を険しく変えて、私達を見る瞳に迷いを浮かべる。
「兄さん、このまま話をしていても埒が明かないわ。
この人達にこのまま森の外に出ていっても、途中で夜になったら危険だし、一度村にまで来て貰ってそこで私達の知っている事を教えてあげましょう。
そうすればこの人達もある程度納得して、考えを変えるかもしれないわ。それに私達も夜が来る前に村まで戻らないと……」
「フィオ……確かに、お前やマールの言う通りか。止むを得ん。君達、今夜だけ私達の村で過ごすんだ。このまま夜を迎えるには今のこの森は余りにも危険すぎる。
本来なら無闇に外の者達を村に入れてはいけないのだが、今の状況を考えれば仕方が無い」
ギオは自分で言った事が一転した事に
「分かった。ご厚情に感謝を。剣は貴方達に預けた方がいいかな?」
「いや、拾ってくれ。すまないが自分の身は自分でも守って貰う事になるぞ。おれ達もあまり余裕はなくてな」
「私達三人共、自分の面倒くらいは見られるつもりだよ」
彼らの故郷へと向かう最中、マールを連れたフィオが私達の近くに歩み寄ってきた。
長寿のウッドエルフであるから実年齢は分からないが、見た目だけなら私とそう変わらないフィオは、翡翠色の瞳に好奇心を輝かせている。
実年齢は別として精神の年齢に関しては、このウッドエルフの少女は見た目通りなのかもしれない。
「ごめんね、わざわざ森の中にまで来たのにこんな事に巻きこんで」
「ごめんなさいですぅ」
フィオの右肩の上でしょんぼりとするマールの姿に、微笑ましいものを覚えながら私は気にしないで欲しいと答えた。
周囲のウッドエルフ達は私達のお喋りを気に留めた様子は無く、ギオも妹を窘める事はせずに、周囲の気配と変化に気を配っている。
いつどこから魔兵達の襲撃があるとも分からない以上は、ギオ達の行動は正しい。
森の木々のざわめきをかき消す話し声を聞きながら、一層深くなる緑の中の道なき道を進み続け、いよいよ太陽が完全に地平線の彼方に沈んだ頃、私の鋭敏化させていた感覚が異変を捉えた。
風の流れが変わったわけではないにも拘らず、木々のざわめきが異様なまでに大きくなり、風の流れの中に風の精霊の悲鳴が、そして踏みしめた地面からは大地の精霊のどよめきが伝わってくる。
森が伝えてきた声に耳を傾けていたギオが、思わずといった様子で足を止め、驚愕の声をあげた。
「なに!? あいつらの動きの方が速かったかっ」
「兄さん、急いで戻らないと村の皆が!」
「あああ、森が、風が、皆が殺されちゃう!?」
「君達、済まないが村に連れていくわけには……」
「戻るつもりはないよ。ここまで来て帰るわけには行かんだろう。人情的にも、現実的にも」
「ドランに同意だ。私達も及ばずながら助けになる。既に何度も言っているつもりだけれどな」
「私もドランさんとクリスティーナさんと同じ考えです!」
「命の危険がある。それに戦えると分かったなら村の皆が君らに期待する。そしておそらく、おれも頼ってしまうだろう。森の外から君達を森の中の争いに巻き込んでしまうにも拘らずだ」
「君は優しいな、ギオ。私達はそれで構わないと言っているのさ」
私達の言葉を聞き届けたギオはこれ以上無いというほど苦い苦渋を飲んだ顔を作り、小さく頭を下げた。
「すまない。恩に着る」
頭を下げるギオに私はこう答えた。
「恩などと思ってはいない。さあ、行こう」
私達は、月光によって地に落ちる影も置いてけぼりにする速さで一心不乱に、一歩も足を休めることなく駆ける。
木々の合間を掛け、時に飛び越え、風に髪をたなびかせながら駆け抜けた私達の目に飛び込んできたのは、巨木と茨や蔦とが絡み合った防壁を取り巻く異形の軍勢の姿であった。
ギオ達ウッドエルフの集落を守る防壁を、今まさに魔界の者達が打ち破らんと苛烈な攻撃を加えているのだ。
見れば魔兵達の足元からは、防壁を構築するのと同じ茨が地面から無数に林立して隊伍を組む魔兵を足元から絡み付いて絞殺し、杭のように尖った木の根が伸びて胴体や太ももを串刺しにしている。
これらの地下から無数に伸びる茨と木の根に邪魔されて、魔兵達は思うように防壁に近づくことができずにいる。
私の予想を超えてウッドエルフ達は魔兵に対し善戦していると言える。
だがそんな感想を抱けたのも後方から土煙を上げて、巨大な騎馬が駆けてくるまでの短い間だけだった。
森の全方位を魔兵達は囲んでいて、私達は村の南西側から駆けつけた位置にある。
その私達の視線の先、村の北側に魔兵達とは異なる巨大な力が四つ感じられ、その内の一つが凄まじい速度で村の防壁へと迫りつつあった。
一蹴り毎に大量の土砂を巻き上げる巨大な影は、ガナフと同じく下半身が四足の獣のもので、腕そのものが巨大な騎槍と円盾の形を成していた。
ただし上半身と下半身の境目には牙をがちがちと打ち鳴らす眼のない獣の頭があり、上半身は隙間なく重厚な鎧で覆われている。
血の色をした鎧や同色の槍、盾もすべて自身の肉体を必要に応じて変形させたものだ。
「どけどけい! このゲオルードの前に立つ者は尽く微塵と砕かれるものと思え!!」
自らをゲオルードと高らかに名乗った者の周囲には、全身から発せられる赤い魔力によって力場が形成され、前方に一本角の如く大きく突き出された騎槍に集束してこの突撃の破壊力を劇的に高めている。
何体ものゼルトやザルツを踏み潰し、原型を留めぬ襤褸へと変え、遂にゲオルードの騎槍は村を守る木々の防壁へとその尖端を突き立てる。
激突の瞬間、騎槍の纏う赤い力場と樹木の防壁に通っていた精霊達の魔力とが激しく鬩ぎ合い、衝撃波となって四方の空間へ伝播し、付近に居た魔兵達を砂塵のように吹き払い、防壁に立っていたウッドエルフ達が平衡を失って膝を突く。
ゲオルードの騎槍によって分厚い木々の防壁は突き破られ、それと同時に防壁を構成する木々の悲鳴が私達の全身と魂を打ったのだ。
私達の視線の先で、根元まで防壁を貫いた騎槍を引き抜き、ゲオルードは再び突撃を行う為に四つの獣足を動かして下がろうとしているところであった。
「はん、魔兵共の攻撃には耐えられても我が槍の一撃には耐えられぬか。先ほどの悲鳴のなんと心地よい事よ。どれ、今一度我が槍をくれてやろう程に」
これまで魔兵の猛攻に晒されても無傷を誇った木々の防壁には、いまや無惨なまでに大きな穴が開いている。
いかん、と私が大きめの一撃をゲオルードに叩きこもうと、竜種の魂から魔力を捻出しようとしたまさにその瞬間、ゲオルードが一歩刻むごとにひび割れる地面から一斉に大量の茨が伸び、ゲオルードの巨躯に絡みつく。
「猪口才な、この程度の戒めでこのゲオルードを縛れるとぬうう!?」
降り注ぐ陽光も、冷たい月光も、尽く吸い取って決して輝きを持つ事はない、深く暗い暗黒を思わせる黒の薔薇であった。
「ぐおおお、おのれええ、我が血と魔力を吸って咲くか。忌まわしい黒薔薇め!!」
ふと、ゲオルードの真正面の位置の防壁の上に、新たな人影が立っているのが見えた。
遠目にもたおやかと見える人影の正体を、さめざめとした月光が夜闇の衣をはぎ取って罪深く暴きたてる。
女であった。ただし傾城の、あるいは極上の、と形容しなければなるまい。そして妖しい、とも。
黒薔薇を纏う茨に捕らわれたゲオルードを見つめる黒玉の如き瞳は、焦点を焼き切るかのように苛烈な光を輝かせているが、それは極北の大地に吹きすさぶ吹雪の如く冷たい光だ。
しゃなりと防壁の上に立つその肢体は女体の理想形の一つと言ってよいほどに均整が取れ、豊かに突き出た乳房やまろやかな線を描く尻、それらを大きくくびれながら繋ぐ蜂腰はクリスティーナさんに勝るとも劣らない。
黒髪に混じり、ゲオルードを拘束しているものよりも細い茨が見え、黒髪の滝の所々に暗黒の花弁を持った黒薔薇が咲いていた。
黒髪からわずかに覗く両耳の上の辺りにひと際大きな黒薔薇を咲かせたこの美女の正体を、私は即座に看破した。
「薔薇、いや黒薔薇の精か」
私の呟きに恐怖と苦しみに襲われていた筈のマールが、弾んだ声で答える。マールにこんな声を出させるほど、あの黒薔薇の精は信頼されているという事だ。
「はいです。エンテの森の薔薇の精でも、いっちばん力が強いディアドラですよ!」
「ディアドラか」
獣の下半身をしとどに自らの黒血で濡らす魔界の者を冷酷に見下ろし、夜天の女王として君臨する月を背にしたディアドラの威厳たるやまさに王者の風格。
氷雪の眼差しでゲオルードを見下ろすディアドラの姿に、私はセリナを前にした時と同じ心の動きを感じていた。
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第八話
ドラン達が防壁に辿り着いた頃、夜の闇と月の光を背に北の防壁の上に立つ黒薔薇の女王は、黒薔薇の拘束に捕らえたゲオルードを傲然と見下ろし、そこだけは身に纏う黒ではなく鮮烈な赤に濡れた唇を数度動かす。
薔薇の花弁をくりぬいたように艶やかな唇は、眼差しと等しい極寒の冷たさを孕んだ言葉を紡いだ。
「草花を踏み躙った事、木々を傷つけた事、虫達を潰した事、獣達を殺した事、森の民の命を奪った事、森を穢した事……お前達の罪は数えればきりがない」
「ふははは、罪? お前達にとってはそれが罪か。おれから言わせれば弱い事が罪よ。殺されたくなくば、その前に敵を殺せばよい。
殺せる力の無い弱い者だからおれ達に殺されたのだ。弱い事が罪以外の何者だというのだ? 地上の者はそのような事も知らぬか、これはとんだ笑い種よ。ふはははははははは!!」
「魔界の者達は皆お前のような者たちばかりか。私からもお前の罪を一つ教えてあげましょう。私に滅ぼされるほど“弱い”事よ」
弱い事は罪であると言い放ったゲオルードへの意趣返しの言葉を口にし、ディアドラはそれ自体が芸術品の如き右腕をすうっと上空に掲げる。
天上の月を指差すかのような腕の動きに合わせ、ディアドラの背後――防壁の内側からむくりと鎌首を持ち上げる巨大な影があった。
それはディアドラを一呑みにしてしまう巨大な蛇の影かと見えたが、月の光の下に露わとなったのはさながら大蛇か龍の如く絡みあった無数の茨であった。
「お前達のような存在が居るだけで不快よ。この世界に出てきた事もお前の罪だったわね」
頭上の月へと振りあげられていたディアドラの繊手が、斬首刑の執行を命ずる執行者の如く容赦なく振り下ろされ、黒薔薇の槍が大気を貫いて走る。
いかに強靭なる魔界の住人といえどもこの一撃を受けて無事には済むまい。ゲオルードを守る鎧の胸部には巨大な穴が開けられ、大輪の黒血の花を咲かせることだろう。
「あはっ」
風に舞い散る花弁のように軽やかに夜空に人影が舞う。小柄な、それこそ十代半ばの花開く前の蕾のごとき少女の影。
黒影のシルエットが黒薔薇の槍の風切るその先端に着地し、赤い手袋に包まれた白魚の指先で触れるやディアドラの魔力が朝陽に散る霧のように消える。
黒薔薇の大槍は先端から急激に力を失うばかりか瑞々しささえも失われ、しおしおと枯れ果てるや空中で何千年もの歳月を経たかのように崩れ去る。
渾身の力を込めた一撃が波に浚われた砂の城のごとく崩れ去るのを見て、それまでディアドラの美貌を覆っていた冷徹の仮面に罅が走る。
「油断し過ぎよぉ、ゲオ?」
小さな人影は崩れ去る黒薔薇の大槍を蹴って再び宙を舞うと、いまだに拘束されたままのゲオルートの左肩に飛び移る。
ゲオルートの血の色の肩当ての上で、人影の素顔が露わになる。
柔らかな曲線を描く輪郭、小さな花弁を思わせる唇、つぶらな瞳などの目鼻の配置は愛らしく纏められていて、一見すれば人々の思い描く最も可憐な少女像が現実のものとなったかのよう。
だが乾いた血のように赤黒いドレスとそれに包まれた華奢な体躯から立ち昇る魔力と、見る者の背筋に氷水を流されたような悪寒を抱かせる雰囲気はどうだ。
「ふん! ラフラシアよ、お前の助けが無くとも自力でどうにかしていたわ」
ラフラシア、それがこの魔性の少女の名であるらしかった。
太腿に届くほど長い紅色の髪をうなじで四つに分けて、黒いリボンで結わえたラフラシアは、ゲオルートの言葉に小首を傾げる。
小首が傾げられるに合わせて、髪と同じ色のヘッドドレスが共に揺れるその仕草だけは愛らしいが、口元に浮かべる嘲笑は同胞に対しても変わらない。
「あらあ、強がっちゃって。でも先陣を切って痛い目に遭うのが貴方の役目なのだから、馬鹿にするだけにしてあげる。この通り役目は果たしているものね」
ラフラシアの指先がゲオルードの全身を拘束している黒薔薇に触れると、先ほどとまったく同じ現象が発生して、ゲオルードの巨躯には塵と化した黒薔薇のなれの果てばかりが纏わりつく。
拘束から解放されたゲオルードは、空中から地上へと着地する間に軽く身震いして、体に纏わりつく黒薔薇の残骸を掃った。
果たしてラフラシアの助けがなかったらどのようにして黒薔薇の拘束から逃れるつもりだったのか、ゲオルートにしか分からぬ事であるがゲオルードの凶光を宿す瞳は自身に恥辱を与えたディアドラをねめつけていた。
魔力に対する防御術の心得の無い者ならば、その場で卒倒するか悪くすれば狂気に陥る魔性の視線である。
「おれの役目は誰よりも早く敵を血祭りに挙げ、その血と命を以て戦の始まりを布告する事よ。勝手に決めるものではないわ!」
「そう思っているのは貴方だけよ? ゲレンもゲオルグも皆そう思っているわぁ。
ふふ、さっきから怖い目で黒い薔薇のお姉様が私達を見ているわよ。言いたい事があるのかしら?」
ディアドラの瞳はゲオルートからラフラシアへと焦点を移しており、この黒薔薇の美姫が誰を最大の強敵と認めたかは、一目瞭然であった。
もはやゲオルートは眼中にないのか、ディアドラはその瞳をラフラシアの浮かべる嘲笑に据えたまま、冷たくなり続ける声を出す。
「お前か。命を奪うだけで飽き足らず、際限の無い苦痛を与えながら啜っていた悪鬼は……」
「何の事かしらぁ? 思い当たる節があり過ぎて、どれの事だか私には分からないわあ。
悲鳴を上げながら萎れていった睡蓮の精のことぉ? それとも助けてと呟きながら腐り果てた竜胆の精のことぉ? それともそれともゼルトに切り刻ませて果てた白百合の精のことぉ?」
ラフラシアが一つずつ自分の所業を口にするたびに、ディアドラの全身から噴きだす憎悪の炎は一層激しく燃え盛り、黒き魔力はより暗く深い色合いに変化してゆく。
あ、とラフラシアは呟き、小さな手を胸の前で打ち合わせる。輝かんばかりの笑顔には正解に思い至ったと書いてあるかのようだ。
「分かったわぁ、ディアドラ、助けてディアドラって泣いていたのを、ゆっくりと吸い殺してあげた赤薔薇の精の事でしょう?
同じ薔薇の精みたいだし、貴女がディアドラかしらぁ?」
「ええ、そうよ。私がディアドラよ。そしてお前が殺していった者達は皆が私の友であり、家族だった。それを、よくも、よくも!!」
「あっははっ。あ~あ~馬鹿みたいなことで怒っているのね。花の精同士とはいえ互いに繁栄を凌ぎあう相手でしょう?
敵が減った事を喜べばいいのにぃ。む~し~ろ~私に対して感謝の言葉の一つもあっていいんじゃなくってぇ?」
「お前だけは、絶対に許さない!!!」
ざわ、と風に煽られたわけでもないのにディアドラの黒髪が逆立ち、黒い海のようにうねるその中からびっしりと棘を生やした茨が無数に飛び出る。
ディアドラの殺意が棘の一つ一つ、末端にいたるまで満ちた茨は漆黒の魔力に覆われて、鋼の鞭のごとき威力を備えていた。
だがラフラシアの笑みが歪むように深まり、その細い左手がダンスのパートナーの手を握るように差し出された時、その手から青い光の霧のようなものが滲み出す。
瞬く間に量を増す霧がラフラシアへと迫る茨の鞭に触れた瞬間、茨の鞭から魔力や水分、あるいは活力といったものが吸い取られ、砂塵のごとく崩れてしまう。
「学習するという事を知らないのかしら。私もね、花の精なのよ。ただし貴女のように地上の楽園のような場所で咲く花の精ではないわぁ。
私は血か命を吸ってでしか咲かない魔界の花、ラフラオーラの精。命はすべて私が美しく咲く為の糧、贄に過ぎないの。こんな風にね?」
「これはっ!?」
ラフラシアの左手から溢れだす霧が大地に触れ、風に触れると見た目には変わらぬというのに、はっきりと大地が、風が魔力や命を吸われてゆく。
ディアドラは自らの足元にまで霧が迫った時、軽やかに防壁を蹴って空中へとその身を投じた。
スリットの深く入れられたドレスの裾と黒い髪が風に靡き、ディアドラ自身が空中に花開いた黒薔薇かのように映る。
ディアドラは空中跳躍中に再び黒髪の中から茨の鞭をしならせ、外見だけは可憐なラフラシアへと四方から茨が襲いかからせる。
「学習という言葉を知らないのかしら? いくらやったところで同じ事の繰り返しよぉ」
ラフラシアの小さな唇から、ふうっと細い息が零れ落ちる。
憂いているかのようなこの溜息には、追い詰められたディアドラが遮二無二に攻撃を繰り返してきた事への侮蔑ばかりが込められていた。
今度はラフラシアの左手のみならず全身から青い光が滲み出し、あとわずかと迫っていたディアドラの茨を尽く枯死させる。
「あははは、美味しいご飯をありがとう」
ラフラシアは無為な行為を繰り返し続けるディアドラへの嘲笑を深めるばかり。
ディアドラが消耗し続けるのに対し、ラフラシアはディアドラの茨の魔力を吸っている為、一切力を消費してはいないのだ。
「そうねえ、このまま貴女の力が尽きるのを待つのが一番楽そうだけど、ただ待っているのもつまらないから、直接貴女の命を吸ってあげるわ。
その綺麗な黒髪も、白い肌も、赤い唇も、すべてからからに干乾びて砕け散るのよ。恐ろしいでしょう?」
そう言ってラフラシアはディアドラを目指して一歩を踏み出す。
可憐な容姿に、己以外の命になんら価値は無いと断じる冷酷非情の心を宿す魔花の姫君は、一切の慈悲なく黒薔薇の女王の命を吸い殺すだろう。
ディアドラの最後の抵抗か、ゲオルードに向けられた茨の大槍ほどではないにしろ束ねられた茨が、ラフラシアの顔面を串刺しにせんと飛燕を落とす勢いで放たれた。
「もお、つまらない事をっ!?」
これまで同様にラフラシアの力によって茨が枯死する、何度となく繰り返された事が起きる筈がこの茨の槍ばかりは違った。
ラフラシアに近づくにつれて枯死して行く中、束ねられていたその中心にあった一本の茨だけは枯死する寸前にラフラシアへと到達し、白磁器のように白い頬を掠めて鮮やかな朱線を一筋刻んだのである。
一瞬の、些細な肉体的な痛みがラフラシアを襲ったが、それ以上の精神的衝撃がラフラシアの心を打ちのめし、ラフラシアの震える指が自分の頬に滲み始めた赤い血を掬う。
「血、私の、血。私に傷を……」
血の着いた指を目の前に持ってきて、瘧に罹ったように全身を震わせてそれを見るラフラシアの様子に、ディアドラはしてやったりと笑みを浮かべる。
「綺麗な薔薇には棘がある、昔から言うでしょう? よおく憶えておきなさい。憶えていられるのは短い間だけでしょうけれど」
本命の一本をラフラシアに届かせる為、枯死することを前提とした他の茨で包み込んだ一撃は、ディアドラの目論見通りにラフラシアにわずかではあるが傷をつける事に成功したのだ。
「許せない、許さない! たかが地上の黒薔薇の精ごときが私に傷をつけるなんて、貴女は許されない事をしたわ。貴女は苦しみを感じる間もなく吸い殺してあげる!!」
「あらそう。でもお前のその怒りなんてどうでも良い事だわ。お前達を一匹残らず殺しつくすともう決めているのよ。
好きなだけ吼えていなさい。すぐに何も言えない骸になるのだから」
白々とした月光の降り注ぐ中、青と黒の力が周囲の全てを飲み尽くさんばかりに狂乱し、地上と魔界の花の精達は美しさの中に闘争の気配を濃密にしていった。
一触即発とはこのことか。この両者の戦いの切っ掛けとなる事を恐れてか、雲は月を遮る事は無く、風は流れる事を恐れた。
切っ掛けとなったのは、二人の戦いをこれまで傍観に徹していた第三者ゲオルードであった。
「ええい、まだるっこしいぞ、ラフラシア!! おれの槍で突き殺してくれるわ」
「ちょっとゲオ、私の獲物よぉ?」
痺れを切らしたゲオルードが四つの足に蓄えた力を爆発させ、巨大な赤い死風と化してラフラシアの傍らを駆け抜けてディアドラへと迫る。
自身の宣言の通りに肘から先が槍と化している右腕を前方に突き出し、ディアドラの胸部の中心を狙い澄ましている。
「まとめて片付けてあげるわ」
ゲオルードの乱入を迎えてもディアドラの戦意が揺らぐ事も衰える事もなかったが、如何に黒い感情で無尽蔵に活力を得ているとはいえ、この二体を相手に勝利を得る事は至難の業である。
ラフラシアはゲオルードにディアドラを屠られてはならじと真っ赤な靴を履いた足で地を蹴る。華奢な少女の外見ながらその脚力は全力疾走の馬を追い抜く速さを発揮していた。
「死ねいっ!」
「殺すのは私よぉ」
ざわ、と再びディアドラの黒髪が嵐の海のようにうねり、茨の鞭が数多の蛇のごとく鎌首をもたげる。
だが、そのディアドラの頭上を圧縮された空気の砲弾が音速で飛翔し、凄まじい衝撃波を発しながらゲオルードの槍とラフラシアを容赦なく打った。
「ぬお!?」
「ちょっと、また邪……きゃあっ!!」
ゲオルードは空気の砲弾に槍を大きく弾かれて突進を阻まれ、勢いを止められたゲオルードの後ろ脚二本が大きく跳ね上がり、かろうじて前転するのを避ける。
一方でラフラシアは吸収の青霧が空気の砲弾を防いだ為、傷を負う事は無かったが空気の砲弾のすぐ後ろを追従していたエナジーボルトの直撃を受けた。
ディアドラが何重にも包みこんだ茨の槍でラフラシアの防御を貫いたように、空気の砲弾の第一撃で青い霧が大きく減衰した瞬間を狙い澄ましたエナジーボルトを、ラフラシアは防げなかったのである。
ウッドエルフ達の扱う精霊魔法ではない事に気付き、ディアドラはゲオルード達への警戒は緩めず、はっと背後を振り返る。
振り返ったディアドラの瞳は、深い闇の中に左手をかざすドランの姿を映していた。
南西の防御壁から急ぎ駆けつけたドランが、ディアドラの窮地を察し連続して二つの魔法を行使したのである。
束の間、ディアドラとドランの瞳とが交錯した。
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第九話
苦境に追いやられていたディアドラを無事に助ける事が出来て、私は小さく安堵の息を吐く。
エナジーボルトの直撃を受けた魔花の精は、地面の上に伏して動く様子を見せない。致命傷を与えるまでには至っていない筈だが、それなりの痛打を浴びせる事は出来たか。
ラフラシアの小さな体がぐったりと地に伏す一方で、私が放った魔法に続いてさらにディアドラの頭上を走る人影があった。
クリスティーナさんである。
「起きろ、エルスパーダ!」
クリスティーナさんは硬く握りしめた愛剣エルスパーダの名を呼ぶ。それはエルスパーダに埋め込まれた魔晶石と刻印された術式を発動させる為の文言だ。
ブゥン、と低い音がエルスパーダの刃から発せられ、切っ先から柄尻までを青白い光が包みこむ。
常態的に発動している軽量化と硬化の付与魔法に加え、斬撃強化、身体強化、魔力付与などの効果が発動したのである。
「ぬう、小癪な!」
ディアドラを狙っていたゲオルードの槍は、既に私の魔法によって弾かれて先端を地面に埋もれさせている。
ならば、とゲオルードは円盾の形状に変形している左腕を振るい、クリスティーナさんを叩き潰さんと図る。
「ふっ!」
鋭く細い息を吐き、クリスティーナさんは見ているこちらがぞっとするほど至近の距離でゲオルードの左腕を回避する。
クリスティーナさんは自分の右半身を叩き潰しに来た一撃に対し、前方下方――つまりゲオルードの首へとめがけ、自らを流星と変える速さで風を足場に踏み込んだのだ。
クリスティーナさんを阻むものはなく、体ごとぶつかってゆく突撃は見事にゲオルードの首元へと直撃し、エルスパーダの刃は根元まで深々とゲオルードの体内に潜り込む。
さしものゲオルードもこの一撃はこたえたようで、聞き間違えようのない苦悶の声が兜の奥から盛大に零れ始める。
「ぐおおお、おのれ、人間風情がこのおれにここまでの傷を与えるとは!?」
堪りかねたゲオルードが上半身をよじりながら後退するのに合わせて、クリスティーナさんはゲオルードの首に足をかけると一息にエルスパーダを抜き、噴きだす黒血に濡れるより早く飛び退く。
空中でとんぼを切って優雅に着地するクリスティーナさんの目の前で、首の傷を左手で押さえたゲオルートが憎悪の視線を浴びかける。
「万の肉片に引き裂いてくれるぞぉおお!!」
「我が魂を縛る魔蛇よ 我の憎悪を食み 我の嘆きを啜り 七つの頭持つ禍の蛇となれ ジャラーム・デュアラム!!」
セリナの詠唱によって出現した大蛇の幻影は、これまで私が目にしてきたものと違い、詠唱のとおりに七つの頭を持った多頭蛇――ヒュドラの姿を持っていた。
一つの体から枝分かれして伸びる七つの頭が、ゲオルートの両腕、四本の足、獣の首に巻きつき、鋼の拘束力で絞めつける。
「ええい、またしても邪魔立てするか!?」
セリナは勢いよく防壁の上から飛び下りて素早くディアドラを背に庇う位置に動き、ゲオルートから向けられる視線にも臆することはなく、防壁の上で足を止めていた私を呼ぶ。
「ドランさん、お願いします!」
「ふむ」
すでに詠唱を終えて放つ機会を待っていた魔法の照準をゲオルートに定め、私は魔法を解放する文言を舌の上に乗せる。
舌の上の文言を口にする。その工程だけで私の魔法は発動する。だが、その瞬間を狙い定めていたかのように、遠方から私を目掛けて巨大な物体が高速で投擲された。
断続的な風切音を立てて、巨大な斧が激しく回転しながら私へと急速に迫りつつあった。
面倒な時に投げてくれたものだ。敵への愚痴と称賛の念を同時に抱きながら、私は迫りくる斧へと魔法の照準を急遽変更する。
「仲間をやらせるつもりはないということか。イグニートピラム!」
かざした私の左手の先に流星群のように無数の小さな赤い光点が集束し、それは鋼鉄をも融解させる熱量を持った槍へと形を変える。
本当はこれでクリスティーナさんが付けたゲオルートの傷を貫くつもりだったのだが、いたしかたない。
私の左手の先にある炎の投げ槍は、炎の尾を引きながら迫りくる斧へと放たれる。
黄色みがかった赤に燃える炎の投げ槍は、私の背丈も上回りそうな巨大な斧と真正面から激突。
イグニートピラムと斧が激突した瞬間、ぐおっとイグニートピラムを構築していた炎が堤を破った洪水のように四方へと溢れ、熱風が私の頬と髪を嬲る。
「ぬあああああ!」
「きゃあっ!?」
あまりの気迫と力強さに、ゲオルードの巨体が一回りも二周りも巨大化したように見えた一瞬で大蛇の首達はことごとくが引き千切られて、恨めし気にゲオルードを睨み付けながら大気に溶けて消えゆく。
「ゲオルードよ、その様ではラフラシアの言葉を否定はできぬわな?」
ゲオルードに対して弄うように言ったのは、いまだ黒煙を噴く斧を手に取った巨大な全身甲冑姿の騎士であった。
ゲオルードが頭のてっぺんから鮮血を被ったように赤い姿をしているのに対し、こちらは常に影を纏っているかのように黒一色に染まっている。
「百年に一度はこのような事もあろう。さて、おれはゲレンという。見ればわかるだろうが、まあ、このゲオルードとラフラシアの同胞よ。さて強者には敬意を払わねばな。もう一人、紹介しておこうか」
ゲレンの奥から、最後の四人目がゆったりと大股に歩み、姿を見せた。
ゲオルードやゲレン同様に私の三倍から四倍はあろう巨体は変わらぬが、その全身から吹きつけてくる凄絶な闘気は物質と化してもおかしくない密度を有している。
四人目は全身を鋭利な線の目立つ白い甲冑で包みこんでおり、兜の両側頭部から前方へと湾曲した角が伸び、額から頭頂にかけて後方へと伸びる鰓のような角が伸びている。
丸太というよりも巨大な岩を繋いだような腕は、四本ありそれぞれがやや窮屈そうに腕組みをしていた。
左腰には巨体相応の大きさの長剣が下げられ、下の左腕には円卓かと見間違えそうな盾が括りつけられている。
背中には二本の剣の柄が交差するように覗いている。三本の剣と一つの盾を用いて戦うのが、この白騎士の戦法なのだろうか。
「やるなぁ、人間。そこの黒薔薇の精もな。我が名はゲオルグ。覚えておいて貰おうか」
ゲオルグは金色に輝く瞳で私達を見回して心底から嬉しそうに言う。
「私達が“やる”事が嬉しそうだな。魔界の者よ」
「ふっ、歯ごたえの無い相手に武威を振るう事ほど虚しい事は無いと思うが故よ。我らを前に臆せぬばかりか手傷まで負わすとは、真、見事なものよ。地上でかような強者と出会うのは、実に久しぶりの事だわ」
「ならばとくと味わってゆけ、魔界の田舎者」
「はっはっはっは! 邪神蠢き悪魔住まう魔界を田舎扱いか、これは口も達者な人間よ!!」
前世に於いて魔界の邪神には一柱だけ友と呼んだ大女神もいたが、基本的に魔界に居る連中は私にとって敵でしかない。
「ならばどうする、と言っても戦う以外に選択肢はないようだが……」
「慌てるな。わしとしてもそれを望むところだがそうも行かぬ。何事も順序というものがあるのだ。聞けい、森の民達よ!
このまま我らに命尽きるまで抗い続けるか、我らの軍門に下って命脈を保つか、二つに一つの道を選ぶが良い。
我らはこれより三日後、再び軍勢を率いてこの集落に参る。それまでに存分に話し合い、己らの未来を決めよ。
この人間達の力を借りて抗う道を選ぶも良し、大人しく我らに従って力を捧げる道を選ぶも良しだ」
遠雷の轟きにも等しいゲオルグの宣告は、防壁の中に居るウッドエルフらにも届いた事だろう。
「ふむ、抗う道を選べと願っている顔をしているな。お前達が律儀に三日を待つかどうかは知らんが、私達は三日という時を待つとは限らんぞ」
私の言葉にゲオルグは兜の奥の口を笑みの形に変えたに違いなかった。
「ふふふ、それだけの気骨がある相手ならばさぞや噛み応えがあるだろう。生きるとは常に戦う事と等しい。なれば己の生命の振り方を決める事は同時に戦い方を決める事よ。
戦い方を選ぶ事は、生命に許された数少ない自由なのだからな。好きにするが良い。ゲオルード、ゲレン、ラフラシア、今宵はここまでだ。退くぞ!」
言うが早いかゲオルグは私に背を向けて北の方角へと足を進める。私が背中から襲いかからないと信じているのか、あるいは背後を襲われたからと言って何の不都合があるのかと考えているのか。
この剛毅な魔界の者ならば両方といったところか。
私達に背を向けて悠然と歩み去るゲオルグ達の背中を残っていた魔兵達が続き、私達からの追撃を警戒しながら去ってゆく。
向かう先は北。その先に彼らが魔界からエンテの森へと出現した門があるのだろう。究極的に私達が目指すべき場所は、そこだ。
「ふむ、一旦はここで仕切り直しか。セリナ、クリスティーナさん、それにディアドラで良かったかな? 怪我はしていないか?」
振り返って問いかける私に、セリナとクリスティーナさんは頷き返し、ディアドラは自分を助けてくれた相手ではあるが、私を訝しげに見ていた。
「君達の味方をする為に来た。私はドランという」
「……もう私の名前を知っているようだけれど、一応名乗るわ。ディアドラよ」
人間の参戦という事態は、まだディアドラの中で納得されてはいないようで、あまり釈然とはしていないようだった。
彼女に納得して貰うのは、フィオやマールの手を借りる方が早いだろう。
私は整然と去ってゆく魔兵達の姿が視界から消えてから、ふむんと口癖を一つ零した。
「さて、思っていた以上に手錬の敵のようだが、どう戦うつもりだ、森の民よ」
ゲオルグの宣告が守られるとするならば、三日の猶予がある。攻めるか、守るか、それとも軍門に膝を屈するか。最後の一つ以外ならば助力を惜しむつもりは無いが、どうする?
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第十話
ほどなくしてギオとフィオに先導されて、私達は一旦静寂を取り戻したウッドエルフの村へと案内された。
エンテの森で最も西にあるウッドエルフの村は、サイウェストというらしい。
「あんまり歓迎されている様子はないですね」
「時期が悪い事を考えれば仕方がない。行動で認めて貰う他ないだろう。ギオ、私達をどこへ案内するつもりなのか、教えて貰えるか?」
「族長の所だ。そこに他の種族の戦士達も集まっている。君達を紹介するのと現状を確認するのにもその方が手っ取り早い」
「ふむ、合理的だな」
ディアドラはギオと話をする私達に時折視線を向けるが、特に話しかける事はせず黙々と歩くきりだった。
森の中とさほど変わらない村の中を歩いていると、ひと際大きく太い巨木が見えてきた。
大の大人が三十人は手を伸ばさなければならないほど太く、濃い緑の葉を生い茂らせている木は雄大な存在感を発している。
その木の下に今まで見た中では一番大きな家があり、ウッドエルフの氏族ごとに持つ紋章が縫いこまれた旗が玄関に立てられている。
他の家には見られなかったものであり、この旗が族長の証なのだろうか。
ギオは勝手知ったる様子で族長の家の中へ進み、時折すれ違うウッドエルフ達と挨拶を交わして、家の一番奥にある大きな部屋へと私達を導いた。
有事の際に使う広間か何かなのだろう。天を貫く巨木とそこに集まる森の様々な生き物達の刺繍が施された一枚布をくぐると、巨木の幹から切り出したと思しい大円卓を囲む人々が居た。
端正な顔立ちに皺と共にこれまで生きてきた時間を刻んだウッドエルフと、私より三回りは大きな体を白い毛皮ともこもこと覆った狼人、赤い甲殻と細やかな体毛を生やした蜘蛛の下半身の上に妙齢の美女の上半身を乗せたアラクネ。
この三者がウッドエルフを中心に腰掛けていて、ウッドエルフがギオの言っていた族長で他の二者もそれぞれの種の長達と見て間違いはなさそうだ。
三者三様の視線が私達に突き刺さる中、ギオとフィオがすっと前に出て小さく頭を下げる。
「デオ族長、ヴライク殿、アルジェンヌ殿、ただいま戻りました」
デオがウッドエルフの族長、ヴライクが狼人、アルジェンヌがアラクネの名前か。狼人の視線は疑惑の成分が濃く、アルジェンヌの視線には値踏みするかのような観察の成分が濃い。
デオ族長は両者とは異なる瞳で私達の顔を見回していく。そしてまたギオへと視線を戻して口を開き、重い声で話し始める。
「よく戻った。マールは無事見つかったそうだな。なによりだ。北の防壁での戦いも知らせは受け取っている。ディアドラ、よく戦ってくれた。敵は魔界の花の精だったそうだな」
これまで口を閉ざしていたディアドラがおもむろに口を開く。ディアドラをしても黙ったままでいられる立場の相手ではないのだろう。
「ええ。皆の命を啜った外道とようやく顔を合わせる事が出来たわ。倒す事は出来なかったけれど、次こそは必ずあいつの息の根を止めてみせる」
「あまり血気に逸るな。お前は普段は冷静なくせに一度頭に血が上ると視野が狭くなる」
「頭の片隅に憶えておくわ。思い出すかどうかは分からないけれど」
「やれやれ……。ところでギオ、そちらの方々の事を紹介してくれるか? ヴライクやアルジェンヌも気になって仕方がない様子だ」
「おれはそこまで気にしちゃおらん」
「私は気になります。魔兵達との戦いに余計な諍いを招きたくはありませんから」
「魔兵達に追われていたマールを助けてくれた者達です。族長達もご存知と思いますが、ベルン村からやってきた者達で、彼らの村の近くにこの森の者達が姿を見せた事を不審に思い、調べに来たと言っています。
北の防壁での戦いでは彼らにとても助けられました。彼らがいなければ多くの者達が犠牲になっていた事でしょう」
「ベルン村か、懐かしい名前だな。確かにあの村の位置ならば魔兵に追われた者達が姿を見せてもおかしくはないか。魔兵達との戦いに助力してくれた事に、族長として礼を述べる」
「ふむ、私達も私達の事情があってした事。あまり気にしないで頂けると助かります。名乗るのが遅れましたが、私はベルン村のドラン」
「セリナです。ベルン村でお世話になっています」
「クリスティーナ。私はベルン村の者ではありませんが、ドラン達と故あって行動を共にしています」
「とんだ災難に巻きこんでしまったな。まずは座ると良い」
デオ族長に着席を促され、素直に従って円卓に着く私達に奥の部屋から木製の盆に人数分の木のコップを乗せたエルフの給仕が姿を見せた。
コップの中の液体はかすかに緑がかっていて、果汁を搾ったものらしい。一口含むと口の中から鼻孔の奥にまで、爽やかな香りが満ち溢れて気分を爽快なものにしてくれる。
「わざわざこのサイウェストまで来たのだ。何も伝えずに追い返すわけにも行くまい。ギオからはどこまで話を聞いているのかな?」
「このサイウェストの北に魔兵達の門が出現し、貴方達をはじめ森の者達を殺戮して回っている事、それと近隣の種族が力を合わせて魔兵達に反攻を計画している事までは」
「うむ。そこまで聞いているとなると改めて伝える事はほとんどないな。だが問題が無いわけではない。魔界の門が出現した影響でこの近隣の空間が歪んでしまい、我らウッドエルフの応援の到着が遅れているのだ」
「妖精の道が使えないと?」
ああ、とデオは重々しく頷く。妖精の道というのはこの物質界とは別の世界である妖精界を介する事で、遠く離れた地へ距離を無視して移動できる特殊な道だ。
高位の妖精種をはじめ森との親和性が高い一部のエルフなどが開く事が出来るのだが、それが使えず応援が来ないとなると手持ちの戦力で魔兵達の駆逐を行わなければならなくなる。
「ゲオルグと名乗った者が三日と期限を設けたそうだが、我らはこれに応じる気は無い」
「三日では応援も間に合うまい。その為、我らは残った戦える者達を結集し、魔界の門を破壊して奴らをこの森と地上から追い払う」
サイウェストのウッドエルフ達のみならず近隣の他種族の命運もかけて行われる戦いとあり、デオの表情が険しさを増し、表情を変えずにたたずんでいたアルジェンヌが口添えした。
「魔界の者達が地上に顕現していられるのは、門から存在を維持する為の力の供給を受けているからです。
門を破壊すれば瘴気の漏洩も防げましょう。そうすれば後は森の自浄作用で、時を置けば元の姿を取り戻す筈」
「貴方達の事情は分かりました。ギオとも話をしたのですが、私達はこのまま貴方達と共に戦うつもりです。
こう申しては何ですが、魔界の者達との戦いとならば、場合によっては私の故郷や王国にまで累が及ぶ可能性もあります。それを看過するわけにはまいりません」
既に私とクリスティーナさん、セリナの間では決定していた事だ。再び確認する事もなく断言する私に、クリスティーナさんとセリナから不平不満の声が上がる事は無かった。
デオは森に住まう者達同士が協力して戦う事に迷いは無くても、森の外者達からの助力を受ける事には、ギオ同様に迷いがあるようで小さく唸って即答を控える。
沈黙の帳が場に落ちるかと私が思った時、意外な事に狼人のヴライクは私達と共に戦う事を容認する意見を口にした。
「おれ達の力を侮るか、と言いてえところだが、お前さん達の防壁での戦いを聞く限り、そういう口を利くだけの実力はあるみてえだな。
デオよ、向こうから力を貸したいと言っているんだ。情けない話だがこれまでの戦いで、おれ達の戦士は随分と減っちまった。使えるモンはなんでも使わないと不味い状況だぜ」
ヴライクの言葉にデオが思案する色を顔に乗せたところで、アルジェンヌが畳みかけるように口を開く。怜悧な光を宿した八つの眼は、すべてデオの顔を映していた。
「私もヴライクの意見に賛同します。ドラン、クリスティーナ、セリナ、貴方達の申し出は私達にとっては望外の幸運。
無論只で助力を請うなどと図々しい真似は致しません。デオ、ヴライク、如何でしょう? 彼らの助力を請う代わりに戦いが終わった暁には、ベルン村の方々と交流を持つというのは?
これまでは精々が木材を得る為に木を切り倒す事を黙認した程度でしたが、これからは我らアラクネの糸や狼人族が狩猟で得た獲物、ウッドエルフ達の育てている薬草や花で交易を行っては?
規模こそ小さな範囲に留まりましょうが、今挙げた品々は人間の方々の間ではそれなりに希少価値のある品でございましょう。命を賭けた戦いをして頂くからには、それぐらいの対価は必要であると考えます」
アルジェンヌの提案は私達の闘志を煽る以外にも、迷う素振りを見せるデオの背中を押す為でもあり、デオの顔からは迷いの色が消えていた。
「そうだな。それぐらいの対価を払うだけの事を求めているのは確かだ。では君達にはこのまま我らと共に戦ってもらう事としよう。よろしく頼む」
「微力を尽くしてご期待に応えましょう。ところで今回の事態は人間の王国側に伝える手筈は整っているのですか?
人間から組織的な助力を得る事の危険性を憂慮されているとは思いますが、最悪の場合を想定すると王国の助勢も視野に入れるべきと考えますが……」
確認しないわけには行かぬ私の質問への回答は、部屋の奥から姿を見せた女性が口にした。
「王国側へは私の方から連絡の手筈を整えてあります。御懸念なく魔界の者達との戦いに集中してください」
新たに姿を見せたウッドエルフに、私達はごく自然と視線を集中させる。
私はギオかデオにこの女性が誰かと問おうとしたが、隣に腰かけていたクリスティーナさんが驚きの響きに満たされた声を上げた。この方がこうも感情を露わにした声を出す事は珍しい。
「学院長!?」
「クリスティーナ、そのように声を荒げてはいけません。淑女のする事ではありませんよ。それとこの場において私は学院長ではなく、ただ一人のウッドエルフ。呼ぶのならオリヴィエとお呼びなさい」
「クリスティーナさん、こちらの方は?」
「私の通っているガロア魔法学院のオリヴィエ学院長だよ。ウッドエルフである事は知っていたが、ひょっとして学院長のご出身はこちらなのですか?」
「学院長ではなくオリヴィエです。質問に関してはその通りですよ。このサイウェストが私の故郷。
随分前に村と森を出て外の世界で暮らしていたのですが、この様な事態となった事を知り駆けつけたのです。
魔法学院学院長としての職分はきちんと果たした上での事ですから、そちらの心配は無用ですよ」
「は、はあ。そうでしたか……」
セリナが顔を寄せてひそひそと小声で話しかけてきた。
「ドランさん、クリスティーナさんの言っているガロア魔法学院ってなんですか?」
「ふむ? 私達のベルン村の南方にある都市がガロアで、そこに魔法を教える王立の学院がある。都市から名前を取ったそこがガロア魔法学院というのだよ。
ガロアは王国の北部でも主要な街道が交錯する地理で、北部各地の特産物や情報、お金が集まる北部随一の大都市だ。
だから人間が多く集まるし、そうした者達の中から魔法を扱う素養のある者を勧誘し、王国に仕える魔法使いとして教育しているのだったかな」
「へえ~、じゃあドランさんも魔法学院の生徒に勧誘されるかもしれませんね。私が暮らしていたラミアの里にも魔法の得意な人達は居ましたけど、ドランさんはその人達と比べても凄いですもの」
「ふふ、ありがとう。そうだな、魔法学院に入学できて好成績を収めれば宮廷魔術師団への道も開けるからね。生活の向上という意味ではそれを望むべきなのかもしれないな。さて、オリヴィエさん、それでは王国側への連絡はオリヴィエさんにお任せすればよいのですね?」
「ええ、私に任せておいてください。私以外にも以前に森を出た者達に可能な限り声をかけておきました。
私を含め、皆が故郷の為に戦うつもりです。ドランさん達にばかり負担を強いる事はしませんよ」
「そうですか、でしたらなんとも心強い事です」
それから私達はゲオルグ達の出現した魔界の門破壊の為に、明日の昼、太陽が中天に昇った時刻に残る戦力で出陣する事を伝えられ、デオ族長の家の空いている部屋に泊めてもらう事となった。
私達は一つの大部屋に案内された。家族や恋人でも無い成人した男女が、同じ部屋で一夜を明かすのは倫理的に許されたものではないが、今回のような場合は別だ。
「セリナ、クリスティーナさん、少し外に出てくる。すぐに戻るから」
防具を外し、長剣も置いて外に出る私に、セリナのはーい、という元気の良い声が返ってきた。
大樹の合間を縫って進む私の足は、ほどなくして無数の花々で覆われた一角に辿り着いた。
ウッドエルフ達が日常生活で採取する花や草を栽培している場所らしいが、私はこの場所ではなくここに佇む人影に用があった。
赤、白、紫、青、黄、緑、黒と色彩豊かな薔薇の咲く花畑の真ん中に、美しいと喩えるも愚かな黒薔薇の精――ディアドラの姿があり、私は薔薇を踏んでしまわぬように気をつけながら彼女に近づく。
「こんな夜更けに何の用かしら、ドラン?」
「名前は憶えてくれたのだな。君を探していた」
「私を? なにかしら、私は今機嫌があまり良くないの。くだらない話をするようだったらお断りよ。さっさと戻って明日に備えなさい。私と違って人間の貴方には眠りが必要でしょう」
「お気遣い痛み入る。ところで、機嫌が良くないのは君の仲間達を殺した仇を見つけたからか?」
「ええ、そうよ。あの魔界の花の精の事を考えるだけ、おかしくなってしまいそうなくらい怒りが湧き上がってきているのよ、今の私は。
だから、不用意に近づかないでくれるかしら、何をするか分からないわ。せっかく増えた味方を傷つけたくはないの」
「ふむ、なるほど」
そう呟いた時には私は既にディアドラの傍らに居た。私の接近にまるで気付かなかったディアドラからすれば、唐突に私が隣に出現したかのように感じられたようで、驚きと共に私を振り返る。
「いつの間に? いいえ、それよりも私が不用意に近づくなと言ったのは聞こえていなかったの?」
眦を険しくするディアドラに私は彼女の瞳を見つめ返しながらこう答えた。ディアドラからすればすっとぼけた言い方に聞こえたかもしれない。
「だから十分に用意して近づいたとも。それなら良いだろう?」
「…………はあ、貴方、変わっているのね」
「よく言われる。すっかり言われ慣れてしまったよ」
「そう。貴方の周りの人間の苦労が思いやられるわ」
そこまで言わなくて良いと思うのだが、ふむん。それきりディアドラは口を開くのを止めて、しばし私達は沈黙のままに時が流れるのに任せた。
「ラフラシアに殺された皆は良い子達だったわ。少し意地っ張りだったり、悪戯が好きだったり、ちょっとのんびりし過ぎている所のある子供達だったけれど、だからといってあんな死に方をして良い子は一人もいなかった。
いなかったわ。だから許せない。生き残った私があの子達の恨みを晴らさなければならないのよ。例えこの身を引き換えにしてでも、必ずあの女は殺す」
ざわり、ざわり、と再び薔薇が悲鳴をあげた。風はディアドラの憎しみに怯えて吹く事を忘れ、月は雲に隠れてディアドラの凶貌を見る事を恐れた。
黒薔薇の精は人間ならぬ美貌を誇るが故に、負の感情に心を飲まれた時には鬼気迫る威圧感を周囲へ放っていた。
「そうか。ならその手伝いもしないとな」
「あっさりとしているのね。顔を合わせた事も無かった私達にここまで力を貸してくれるのは、アルジェンヌの言った報酬が目当てだからかしら? それともここが落ちれば自分達の村にも累が及ぶから?」
「ふむ、ここは素直に言うとしよう。ディアドラの言う通り報奨は嬉しいし、村に累が及ばないようにと思っているのも事実。
だがそれ以前に私は父母から困っている者がいたら、自分の出来る範囲で助けてあげなさい、と教わっている。
エンテの森の民とは村の方でも付き合いのあった相手だし、私にできる事があったら力になりたいと思っている。
たとえ報奨が無くても、たまたま旅をしていた時にこの事態に遭遇したのだとしても、私は君達の力となる事を選んだよ。信じるかどうかはディアドラに任せるがね」
「そう。貴方は、そうね……信じられそう、という事にしておくわ」
ふむん。
「ドラン、貴方は変というか、不思議な人ね。貴方の眼を見ているとどうしてだか落ち着くのよ。まるで魂の底まで見通されているみたいな気分になって、でもそれが不快ではない。貴方、本当に人間?」
「ははは、この身体は父母から賜った正真正銘の人間の身体だよ」
「ふうん、少し気になる笑い方をするわね」
「気の所為だよ。それより話をしていてつい忘れそうになったが、ディアドラを探していたのは話をする為だけではなかったのだよ。ディアドラ、ラフラシアに傷を負わされているだろう?」
「……何のことかしら?」
「ディアドラ」
語彙を強めたのでも無く、むしろ優しく言った私にじいっと見つめられて、ディアドラは小さく首を横に振るって自分の負けを認めた。
しなやかなディアドラの右手の指が自分の首の付け根から臍までをゆるやかに撫でると、しゅるりしゅるりとドレスの生地が無数の小さな蛇のように蠢いて左右に退いていく。
このドレスもまたディアドラの肉体の一部が変容したものなのだろう。
そうして月光の下に露わになったのは、そこにだけ月光が集中しているかのように白く輝く豊かな乳房とつつましやかな臍の窪みがある腹部。
そして乳房の真ん中から臍の真上までが干乾びて黒く変色した肌だった。一度触れればその感触を生涯忘れる事の無いだろう美肌は、今や見るも無残な醜悪な様相を呈している。
「本当になんでもお見通しなのね。心配しないで。戦いには影響は無いわ」
「そうも行かん。少し触っても?」
「ええ。こんな身体で良いのなら」
ディアドラは小さく肩を竦めて、茶目っ気のある仕草でそう言った。黒薔薇の精という出自の為なのか、異性に肌を晒す事への羞恥心がさほどないらしい。
私は繊細な硝子細工に触れるかのようにゆっくりと優しく、ディアドラの変色した肌に触れた。
「触っても楽しいものではないのではなくって?」
「そんな事は無い。ディアドラが魅力的過ぎて、今すぐにでも押し倒したい衝動を堪えるのに必死なくらいだ。私も健全な男性だからな」
「あらそう? 私は艶事とは縁遠いからそういう風に扱われた事はあまりないのよね。一応、魅力的と褒めてもらえたと解釈すればよいのかしら?」
「そう解釈してくれて構わないよ。しかしもう少し異性に対して警戒心を抱いた方がいいな」
そんな感想を抱きながら、私はディアドラの身体に竜種のそれへと変えた生命力を流し込む。ディアドラの身体は乾いた地面が水を吸い込むように私の生命力を吸っていく。
するとディアドラの変色した肌の上に仄かな虹色の光が浮かび、見る間に黒に変わっていた肌が元の白へと戻っていく。
「! これは、ますます貴方が人間かどうか疑わしくなってきたわね」
「少し不思議な人間と思ってくれると嬉しい」
私は名残惜しさを感じながらディアドラの肌から指を離し、小さく笑う。ディアドラはいたずらに詮索する事をよしとはせず、それ以上私の事について問い質しては来なかった。
「少し不思議な人間ね。そういう事にしておいてあげる。それとありがとう。傷を治してくれて感謝するわ。
この戦いが終わったらドリアードに倣ったお礼をしてあげましょうか? 男の人ってそういうのが好きなのでしょう」
「たとえからかう為でもそんな事を口にするのは良くない。私の理性が保つとは限らないのだからね。それでは、私は宿に戻るよ」
「そう、貴方と話せて楽しかったわ。自分でも意外な事にね。良い夢が見られる事を祈っているわ」
「ありがとう。君も眠りが必要無いにしても、身体と心を休めた方がいい」
それだけを告げて私とディアドラは今宵の逢瀬を終えた。夜は明日の死闘を目撃しなくて済むと安堵して深くなっていた。
私達と魔界の者達の戦いを見なければならぬ明日の朝は、今日の夜を恨む事だろう。
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第十一話
翌朝、ギオやフィオと合流し、朝食を済ませた私達は入念に魔晶石や各種の精霊石、武具の準備を行い、地上世界の闘争など知らぬ素振りで太陽が中天にかかる少し前に、サイウェストの村の広場に集まっていた。
見上げるほどの大樹が無数に乱立するサイウェストの村であるが、その木々の中でもひときわ巨大で天に枝葉を広げる巨木が広場にその雄大な姿を誇示している。
このサイウェスト近辺の木々の中で最も古く大きな木で、ギオ達が長老と呼んでいる木だと言う。
その長老の木が聳える広場に、老いた者、幼い者、怪我を負った者、彼らを守る為に残る戦士達を除き、ゲオルグらと魔界門を討つ為の戦士達が総出で列を成している。
ウッドエルフの族長デオ、狼人の族長ヴライク、アラクネの族長アルジェンヌらが戦士達の視線を惹きつけている。
これまでの戦いと森の木々と花々、風からの情報によって魔界門は主たる門が最北にあり、それ以外の補助としての役割を果たす門が三つ、主門の南にある事が分かっている。
私達を含む一団はまず補助の役割を果たしている三つの門の攻略を行う為に北上し、在る程度進んだ後に戦力を三分して三つの門を同時攻略する。
三つの門を攻略後に再び戦力を合流させて、最大の戦力で防衛しているのは間違いない主門を攻略という手筈になっている。
魔界化した森に近づけば近づくほど、正常な森の恩恵を受ける事は出来なくなる為、補助門を攻略し、森に漂う魔界の瘴気をある程度薄める事が重要視された為に、このような計画となった次第である。
森の木々らが語りかけてくる声に注意を払いながら進む一団の中で、私達は先頭を行く狼人族の集団の中にあった。
ギオはウッドエルフの戦士隊の一つの指揮を任され別行動中だが、その代わりと言うわけなのかフィオが同道している。
三つに分けた戦力の内訳は、オリヴィエら外から戻って来た戦い慣れた者達、最も強い力を持った花精であるディアドラ、そして望外の増援となった私達に、同じ構成の戦士達百八十前後がそれぞれに割り振られている。
私達の進む先で木々が自ら左右に退いて道を開いていき、戦いやすいよう場所が整えられて更に木々の警告によって待ち伏せなども全て無為に終わる。
敵が魔兵だけであるのなら数がこちらの二倍いようが三倍いようが、まず勝てると私は踏んでいる。といってもこれは尋常な森の範囲に居る間の話に限るが。
問題はゲオルグ、ゲレン、ゲオルード、ラフラシアの四体だ。あれらはまさしく一騎当千の強者。
こちらも相応の実力者でもって当たらなければ、無闇に犠牲者を出す事となってしまう。
竜化させた私の知覚能力は私達の進軍を知った魔界の者達が早速動きを見せて、四つの門に一体ずつゲオルグらが布陣しているのを捕捉していた。
私、ディアドラ、クリスティーナさんが一対一で戦って勝ちの目がある戦士で、オリヴィエや外から戻ってきた者達などは未知数の所があるが、その他の戦士達では多数で掛らねば勝てまい。
先に進めば進むほど魔界の瘴気の濃度が増し、それまで近づいてきた春の息吹に揺れる濃緑の森の風景が、赤や黒、紫に青、黄と尋常ではあり得ぬ混沌とした色彩へと変化してゆく。
青々とした葉が生い茂っていた枝には、かさかさに枯れ果てた葉や、ぐじゅぐじゅと泡を噴く腐肉のような葉が付き、木々の幹には断末魔の表情の如き紋様が浮かび上がり、どろりと粘っこい腐汁が滴りだす。
これらは全てほんの一例にすぎず、森の木々や大地、風との親和性が高いウッドエルフらにとってこの環境は苛酷そのもので、私達の隣を進むフィオは見る見るうちに顔を青ざめていく。
「フィオちゃん、大丈夫? 無理をしないで少し休む?」
背を丸めて瘧に罹ったように震えるフィオを、セリナがひどく心配そうに見るが、フィオは返事をせずに震える手で腰の袋から乾燥した薄紅色の葉を取り出すと、それを口に含んで咀嚼し始めた。
振り返って見れば他のウッドエルフ達も似たような薬草や葉を口に含むか、精霊に呼び掛けて瘴気を浄化して対応している。
気付け薬か強壮剤としての効能のある葉なのだろう。
ほどなくしてフィオの顔色は元の色づきを取り戻し、身体の震えも収まりだした。
「……うん、大丈夫。はあ、正直こんなに辛いとは思わなかったけど、放置していたらもっとひどい事になって、森の全てとその外にも広がってしまうのでしょう?
だったらここで多少の無理無茶をしてでも、魔界の汚らわしい連中を倒しておかないといけないわ。これまで死んだ者達の為にもこれからこの森で生きて行く者達の為にも」
フィオだけでなくこの場に居る全ての戦士達も同じ思いの下に集い、恐るべき魔界の者達との戦いに身を投じているのだろう。
私達も彼らの想いに応えるだけの戦いをして見せねばなるまい。フィオの覚悟のほどを目の当たりにして、セリナは小さく息を飲んだ。
あどけなさを残すフィオの顔は、この時ばかりは鬼気迫る凄まじい顔をしていた。
男も女も若いも老いも関係ない。
今ここに居るのは、故郷と同胞を守る事に己の全存在を懸ける覚悟をした一個の戦士なのだ。
「フィオちゃん……」
セリナはフィオの見せた覚悟と気迫にそれ以上何も言えず、そして言う事も許されなかった。
私達の進む先から無数の瘴気を纏う魔兵が近づいてきたのだ。数は二百ほど。まだまとまって行動している私達の方が倍以上多く、数の上ではなんの不利もない。
おそらくこちらの戦力を試す為と動きを計る為の派兵だろう。
私達の先を行く狼人族の戦士達の毛が一斉に逆立ち、彼らの全身から獣気が立ち昇って戦闘態勢がにわかに整えられていく。
私達の後方のアラクネやウッドエルフ達もそれぞれの武具を構え、精神を集中させて魔法行使に必要な精神状態を整える。
既に魔界化した森の中に足を踏み入れており、従来の森からの援護を受ける事は出来ない所にまで来ていた。
私達の構成だと魔法行使には困らぬ面々が揃っており、初撃に放たれるのはアラクネとウッドエルフらの攻撃魔法だ。
その後第二次攻撃として、弓矢による攻撃がなされてそれからようやく狼人族をはじめとした白兵戦に移行する事となる。
馬車が八台ほどすれ違える幅の道の向こうから姿を見せたのは、人馬が一体となったかのような姿の魔兵ガナフ。
後塵の向こうには剛腕の魔兵ザルツや刃の爪を持った魔兵ゼルトの姿が見える。
まるで一つの生き物のように統一された動きを見せるガナフの突撃でこちらの戦列を崩し、ザルツとゼルトで乱戦状態に持ち込む意図が見えた。
だが集団魔法に対する備えが成されているとは言い難い動きだ。
魔兵が備える対魔法防御能力を集団とする事で高めているとはいえ、こちらのように弓矢や魔法を扱える兵種が居ない。
こちらの魔力を消耗させる為の布陣かもしれないが、こちらのやる事に変わりはないか。
私、クリスティーナさん、セリナ、フィオもほぼ同時に魔法行使の為の呪文詠唱を始める。
私が脳裏に思い描くのは天空より十数本の光の槍が降り注ぎ、魔界の尖兵どもを無慈悲に貫いていく様であった。
魔界化した森の中故、神々に語りかける神聖魔法や精霊魔法の類は行使しにくい状況にある。行使するのならば自らの魔力を用いる理魔法が適切だろう。
「光の理よ 我が声に従え 世界を遍く照らしだす光よ 森羅万象貫く槍となり 我が前に立つ敵の全てを屠れ セレスティアルジャベリン!!」
一瞬、私達の頭上の光が薄れて暗闇が広がり、私が先ほど思い描いた通りに巨大な光の槍が二十本以上形作られる。
世界を照らす光を思い描いた通りに集束し、さらに自らの魔力を混ぜ込む事で光の持つ熱量を莫大に増幅させ、敵対者を物理的にも霊的にも焼き滅ぼす光の槍を作り出す。
あらゆる生物にとって死角となりうる頭上より降り注いだセレスティアルジャベリンが、他の魔法よりも数瞬早く全力疾走するガナフの先頭集団を直撃する。
ゲオルグやゲオルードも串刺しに出来る巨大な光の槍は、串刺しにするのと同時にガナフらに一切の抵抗を許さず焼き滅ぼし、眩い輝きの中に消滅するガナフの影が狂い踊る。
後続のガナフらも疾走を止めるのが間に合わずに、自ら死出の旅に出るかの如く次々と大地に突き刺さった光の槍に激突してゆく。
セレスティアルジャベリンが消滅した時にはガナフの七割近くを屠る事に成功し、残ったガナフや他の魔兵達は完全に足を止めた状態になっている。
そしてクリスティーナさんを始めとした他の魔法が、動きを止めて格好の的となった魔兵達に降り注いだ。
それは研ぎ澄まされた風の刃であり、巨大な大地の槌であり、天から降り注ぐ雷の矢であった。
これほど無数の魔法が一斉に唱えられた事は、この森の歴史を振り返ってみても久方ぶりの事だったろう。
瞬く間に魔兵達は存在を維持できぬほどの深手を負って、すぐに禍々しいその姿を跡形もなく消していく。
第一撃となる魔法の最後の一つがようやく終わった時、あろうことか私達に襲いかかってきた魔兵は一体残らず姿を消していた。
私が事前に思っていた以上に魔法を扱える者が多く、そして行使された魔法が強力であった為なのだが、これではこの後に続く魔兵やゲオルグらとの戦いに残すべき魔力まで使ってしまうのではないか、という不安が私の胸に巣くった。
怨敵を前に過剰なまでに攻撃性を発揮して、必要以上の力を使ってしまっている、か。
初めての実戦を迎えた初心者はいまいが、状況を考えれば無理もないのだが、それでは彼らの身が危うくなる。
「思ったより大したことないわね」
とフィオは強がるように言ったが、それは武器を構えていつでも敵の戦列に突撃する用意を整えていた狼人族の戦士達も、同じような事を口にしていた。
魔兵達を呆気ないほどに葬れた事への安堵もあるのだろうが、これからの戦いに備えて自身の戦意を鼓舞する為でもあろう。
私達の力を結集すれば、たとえ魔界の悪鬼共が相手であっても決して負けはしない。この戦いに勝てる、と彼らは自身に言い聞かせているのだ。
*
その後も散発的に襲い来る魔兵達を退けたサイウェストの戦士達は、予てからの取り決め通りに戦力を三分し、それぞれが補助の魔界門破壊の為に更に奥へ奥へと、魔界化した森の中を進んだ。
サイウェスト側が戦力を三分化させた事を察してからは、こちらへの襲撃は鳴りを潜めてそれぞれの魔界門の防衛に戦力を集中させ、万全の布陣で待ち構えつつあった。
その中の一つにドリアードをはじめとした樹木や草花の精霊を交えた一隊があり、そこには黒薔薇の精ディアドラの姿も当然あった。
ドランから精気を提供されてラフラシアに負わされた傷も完全に癒えたディアドラは、いよいよもって仇敵が近付きつつある事を感じ取り、自然と魔力を昂らせて魔界の瘴気さえものともせずに先頭に立って進んでいた。
全身からは漆黒の魔力が粘土の高い液体の如く溢れだし、ディアドラの後に続く他の精や戦士達さえ、近づく事を避けるほどの鬼気が発せられている。
森の魔界化はいよいよ進み、なんらかの防御措置を施さなければたちまちのうちに瘴気に当てられ、心身が衰弱してその場から一歩も動けなくなり死んでしまうだろう。
だがそれは同時に破壊しなければならない魔界門が近づいている事の証左でもあった。
森の木々や森中を吹き抜ける風の声は絶え、もはや森からの援護は完全に望めない状況。
魔界の環境に近づいている事で、魔兵やゲオルグらの力は北の防壁での戦いよりも確実に増している。
これだけの悪条件が揃っているが、それに臆する事も二の足を踏む事もディアドラ達には許されてはいなかった。
なにより、ディアドラの胸に燃える報仇の思念は冥界で罪人を燃やす浄罪の炎の如く、仇を討つまではいっかな薄らぐ気配さえ無い。
ふとディアドラは昨夜のドランとのやり取りを思い出した。自分が憎きラフラシアに負わされた傷を癒し、ディアドラの復讐を肯定し、そして生きろと言った人間(?)の男。
仇を討つ事ばかりを考えてその後の事はまるで考えはしなかったが、どうしてだがいよいよというこの状況で、ディアドラはドランに言われた事が鮮烈に胸の中で蘇る。
「そうね、貴方の言う通り生きる事を考えてみるのも良いでしょう。でもそれにはなにより、あの女に報いを与えた後でなければ、私の時は止まったまま進む事をしない」
異形の様相を呈する森の中を一時も足を休めずに進んだディアドラの足が止まる。
魔界化した森の中の開けた場所に辿り着いたディアドラ達の目の前に、数百のもの言わぬ魔兵を従えたラフラシアが居た。
丸一夜をドランとディアドラへの憎悪と報復の念を研ぎ澄まして過ごしたラフラシアの全身からは、ディアドラに勝るとも劣らぬ凶の気配が空間を圧するかのごとく四方へと放たれている。
ラフラシアの口元が、不意に三日月に歪んだ。笑み、である。あどけない、無垢な、しかしどうしようもなく邪悪な感情を秘めた矛盾した笑み。
「一夜ぶりね、黒薔薇の精。あの人間の男はこちらには来なかったようね。残念だわ。貴女ともども私が精一杯御持て成しをしてあげたかったのだけれど」
「ドランは今頃お前のお仲間を血祭りに上げている事でしょう。せっかくの御持て成しだけれど、私一人でお相手するわ。
あら、頬の傷を治さなかったのね。素敵よ、貴女にとぉってもよく似合っているわ。だから、昨夜言ったようにもっと沢山傷を着けてあげる」
ざわっと両者の間を凍えた風が吹いた。
それはいよいよもってディアドラとラフラシアの放つ鬼気と凶気とが最大限に高まり、餓えた獣が互いに相手を食らい尽くさんと争うように鬩ぎ合うが為に吹いた風であった。
「やぁってごらんなさいよおおおお!!」
漆黒の薔薇と吸命の魔花とが、もはや憎悪を抑えぬままに激突した。
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第十二話
「せっかくの貴女との殺し合いですもの。余計な邪魔が入ってはつまらないわ」
ラフラシアが余裕たっぷりの態度で左手をまっすぐ横に伸ばし、地面に向けていた掌を上に向けると、それに合わせてラフラシアとディアドラを中心に、無数の魔界の花と木の根とが絡みあった壁が地面の下から現れて、二人を囲い込んだ。
ちょうどサイウェストの村を守る木々の城壁と同じように円形で、さながら花々が形作るコロッセオといったところだろうか。
「これで心おきなくこの戦いに集中できるでしょう? 我ながら私って気遣いの出来る女よねぇ」
「そうね。貴女の無様な死に様を他の皆に見せられないのは残念だけれどね」
「あはははは、言うわねえ、貴女」
「ふふふ」
鬩ぎ合うディアドラとラフラシアの殺気の均衡は、ラフラシアがあはっと愉快気に笑い、両手をディアドラへ突き出した瞬間に崩れた。
「私の霧はね、命を吸うばかりじゃないのよ。こういう使い方も出来るわ」
掌を上に向けたラフラシアの右手に、青い霧が渦巻いて集中し始めると見る間に霧は青から赤へと色を変えて、莫大な力がそこで胎動し始めた事をディアドラは鋭敏に知覚していた。
「貴様、それは皆から吸い取った命か?」
ディアドラの唇を突いて出た言葉に対して、ラフラシアは小さく手を叩いて拍手をした。
「正~解~。私はこれまで吸い取った命をこうやって壊す力に変えて、外に放出する事も出来るのよ?
命は魂と並ぶこの世でも特に大きな力を持つモノ。それを壊す力に変えれば、こうなるわ」
ラフラシアの右掌が天からディアドラへと向きを変え、掌の上に球結んだ赤い命の結晶体は、光にも等しい速さでディアドラへと放たれる。
周囲へ莫大な力を発する命の光球を、ディアドラは黒髪の中から伸ばした黒薔薇の茨を岩の一つに絡ませ、自分の身体を高速で引っ張る事で回避に成功した。
ディアドラが一瞬前まで立っていた大地に着弾した命の光球は、雷を百ほど束ねて落としたような轟音を立てて、大地に巨大な穴を穿っていた。
「どう? なかなか凄いでしょう。今のには貴女のお友達の命も混じっているかもね。お友達が大事なら、皆の命の力は受け止めてあげるべきではなくって? ほうら、次いくわよ!」
「っ!」
ラフラシアが凹凸の乏しい胸の前で小さな手を合わせ、それを左右に開くと手の間にいくつもの赤く輝く命の光が生じる。
一つ一つが高位の破壊魔法に匹敵する破壊力を秘め、ディアドラにとっては一発たりとも当たるわけには行かない脅威だ。
「諦めて大人しく死んだらってそれじゃあ面白くないし、そうね、まずはその長い両足を半分くらいにしてしまいましょう。そうね、それがいいわ!」
「貴女の玩具なんて頼まれたって御免被るわ。安心しなさい。私は貴女を玩具扱いしないで、すぐに滅ぼしてあげるから」
ディアドラの目前にまで命の光球が迫った時、不意にディアドラの身体を濃密な闇が覆い隠した。
たとえ目と鼻の先で手を振られてもまるで気付けない濃密な闇であった。いや、闇と言うよりも黒、黒い光と形容した方が正確であるかもしれない。
粘土の高い霧のようにディアドラの周囲にたゆたう黒は、触れた端から命の光球を飲みこみ、ラフラシアに吸われた命の赤がディアドラの黒によって塗り潰される。
命の光球の消え方と周囲の瘴気や魔力が次々とディアドラの黒い光に吸い寄せられるように、ラフラシアはディアドラの所業を理解して嘲笑を拭い去って眦を険しくした。
「ほんっとおおに貴女って私の癇に障るわぁ。なあに、貴女、地上の花精の分際で私と同じ事をしているってわけぇ?」
「黒は全てを飲みこむ色。黒は全てを混ぜ合わせた先に在る色。黒の花弁を持つ薔薇は、自分以外の全ての色持つ者を貪る魔性の花。
この森で生きる以上は使う事の無い力と封印していたけれど、お前のような悪鬼を相手にする以上、出し惜しみをする必要はないでしょう。
お前が吸った皆の命ごと、お前の汚らわしい命も仕方がないから吸ってあげるから、感謝しなさい」
ディアドラもまたラフラシア同様に全てを飲みこむ黒い光を豊かな肢体から放出し、お互いに相手の命を吸い尽くすべく霧と光とを放った。
それぞれが自分以外の命を見境なく貪り尽くす餓鬼の如く、青い霧と黒い光とが衝突して霧がその青の中に黒い光を吸いこんで同化すれば、黒い光もまた青い霧を塗り潰して黒に染めていく。
しかし過酷な魔界で育まれた者と豊かな地上世界で命育まれた者との差か、徐々に青い霧が黒い光を飲みこむ速度が速まり、世界を照らす二色の色はにわかに青が増し始める。
一旦均衡が崩れれば、それを切っ掛けに勝敗の天秤が傾くのは呆気ないほどあっという間だった。
「なぁんだ。口ほどにも無いわねえ。最後の悪足掻きももうおしまいね。
貴女が連れてきた雑魚は魔兵ちゃん達の相手で手いっぱい。貴女を助ける余裕はなさそうだし、そうだ!
貴女の両手足を壊したらあの子達を貴女の目の前で一人ずつ壊していってあげる。うふふ、そうしたら貴女はとっても良い顔をするでしょうねえ。ふふ、ふふふふ、素敵だわあ」
「ずいぶんと私の命を吸ったわね。体中に満ち溢れているのではないかしら?」
「ふふ、そうねえ。この森で吸った花の精達の命の中で、貴女の命が一番深みがあって強い憎悪があるわ。
とても美味しいわよ。死なないように手加減して貴女を私の食事にするのもいいかもしれないわ、ふふふふ」
「そう、口にあったようで何よりだわ。この世で最後に味わうものなのだから、残りわずかだけれど精々愉しみなさい」
「あら、頭でもおかしくなった? この状況でどうやって貴女が私に勝てるというのかしら。
まさか誰か助けが来るとでも思っているの? 昨日の戦いの時に邪魔をしてきたあの人間の男でも期待しているのかしらね。
後であの男も貴女と一緒にたっぷり可愛がってあげるから、その時を楽しみに待っていなさい」
ふっと小さくディアドラが笑い、自分の右の頬を指差した。昨夜、ラフラシアの頬に着けた傷の箇所である。
「ドランは貴方がどうにか出来るような簡単な男ではなくってよ。ところで、頬になにか違和感があるのではなくって?」
ディアドラの指摘が、まさしくその通りである事にラフラシアははっと傷痕の消えた右頬に右手を伸ばした。
「なに、なんなの? き、きゃあああ、なによ、なによこの痛みは!?」
痒みと疼きとは収まる事を知らず、思わずラフラシアが両手で右頬を押さえた瞬間、めりっと小さな音を立てて、ラフラシアの右頬を中心に無数の小さな刺を生やした茨が皮膚を突き破って顔面に広がり始める。
「ああああああああああああああ!!!!」
果ての無い奈落に繋がっているかのように、黒薔薇はラフラシアの身体から血のみならず水分という水分、そして命とを啜り続け、ラフラシアは見る間に衰弱していった。
右目の眼球の奥から茨が伸び、咽喉や鼻孔、耳の穴の奥からも細い根が飛び出て、ラフラシアの上半身が黒薔薇に埋め尽くされた。
「なん、で、私の……身体の中から、薔薇が、咲く……のよお!?」
「昨日の戦いの時、私が貴女の頬に傷を付けたでしょう? その時に小さな、本当に小さな黒薔薇の種子を埋め込んでおいたのよ。外から駄目なら、中からってね」
「そんな、そん、なの、私気付か……」
「正直に言えば貴女に通じるかどうか、自信は無かったわ。けど貴女が私の魔力と命を吸ってくれたお陰で上手くいったようね。
私の種子なのだから最良の栄養源は私自身の魔力と命。ほら、もう貴女の心臓にまで茨が絡みついているでしょう。
じきに貴女の命を吸い尽くして黒の薔薇が咲くわ。せめて黒薔薇の糧となってその命を散らし、この森と皆から奪った命を還すがいい」
「ああ、いや、いや……よ。私は、すべての命を吸って、咲く花のお姫……さ、まな……よ…………あ、ああ、あああ、私の命、命ががあああああああああ…………あ………あ…………」
最後の命を搾り尽くすかのようにラフラシアの咽喉から放たれた断末魔の悲鳴は、頂点に達した後ぞっとするほどの落差を持って力を失い、最後には掠れたか細い声が零れ、ほどなくしてそれも絶えて、遂にラフラシアの命の全ては黒薔薇に吸い尽くされたのだった。
ラフラシアの全身は大輪の花を無数に咲かせた黒薔薇に埋め尽くされ、かろうじて人型と見える黒薔薇の彫像がそこにあるかのよう。
ようやく怨敵の命を完全に吸い尽くしたのを確認し、ディアドラはその場に膝から崩れ落ちた。
「こんなに、消耗する羽目になるなんてね。今なら苗木のウッドマンにも負けてしまいそうだわ」
それでもなんとか軽口を叩ける程度には回復したディアドラが、ふらつきながら膝を起こし立ち上がった時、不意に全身を強烈な殺気が打つ。
天を仰ぎ見たディアドラの黒瑪瑙を思わせる瞳に、太陽を背に周囲の壁を飛び越えてこちらへと落下してくる獣の下半身を持った巨影が映し出される。
目の無い獣の下半身を持ち、全身に返り血を浴びたかの如き赤い鎧姿の上半身の人は、ゲオルードに間違いない。
「ぬええええい!」
「くっ」
大重量の落下の勢いをそのままにゲオルードは右腕の巨槍の狙いをディアドラに定め、流星の如く落ちてくる。
ディアドラは力の入らぬ両足に活を入れ、その場から何度も転がりかろうじて串刺しの刑から逃れた。
「く、どうして、お前がここに? お前達は魔界の門を守っているはず」
新たに口の中から血を吐きながら問うディアドラに、ゲオルードは憎悪を隠さぬ声で答えた。
「ふん、確かにそのようにはしていたわ。だがお前がラフラシアと戦う気配が伝わり、ラフラシアに先に殺されてはならじと駆けつけたのよ。
あのドランとかいう小僧は、おれの所に来ていなかったしな。まずは貴様から血祭りにあげんとしたのだが、よもやラフラシアがお前に敗れるとは思わなんだわ」
「そういう事。残念……はあ、はあ、だったわね。お前の大切なお仲間、は、私に倒されてしまったわよ」
「大切なお仲間、か。面白い言い方をする。だが確かに少しばかりの情はなきにしも非ずよ。ぬん!」
ゲオルードは不意に右腕の槍を振りあげ、それを風の速さで振り下ろす。だが振り下ろされた先は目を見開いたディアドラではなく、黒薔薇に埋もれたラフラシアであった。
「ち、気分の良いものではないな」
「ふ、ふふ、魔界の者とはいえ仲間の死体に鞭打つような真似は、堪えるようね」
「はん。むざむざと敵に討たれた上に骸を地上に残したままとあっては、それこそ魔界に生を受けた者にとってはこれ以上ない恥よ。
ならばせめて骸が残らぬように潰してやるのが、同じく魔界の者としての情けと言うもの。笑いたくば好きに笑うがいい。直に笑えなくなるのだからな」
再びゲオルードが槍を地面から引き抜き、同胞の血に濡れた槍を大きく振りあげた。
未だ回復していないディアドラには、ゲオルードの一撃を防ぐ術も回避する術もなく、かすかに四肢を震わせるのが関の山であった。
「ぐ、くう、こんな所で……」
なんとか身体を起こしゲオルードに一矢なりとも報わんと、ディアドラは言う事を聞かない全身に力を込めるが、黒髪に混じる茨もぴくりとは動かず、まるで見えない杭で地面に串刺しにされているかのよう。
「我が槍の一撃をもって死ねい、黒薔薇の精よ!」
自らの生命の終焉のこれ以上ない予感と死を前に、思わず目を瞑りそうになったディアドラの視界を、唐突に横から割り込んできた背中から六枚の翼を広げた人影が遮った。
そしてその翼を持った人影は、こう呟いてゲオルードの全身全霊の一撃を苦も無く受け止めたのであった。
「ふむ」
「ぬう、貴様は!!」
ゲオルードは驚愕と困惑と歓喜の入り混じった叫びをあげ
「ドラン!?」
ディアドラはこの場にいない筈の男の姿に、思わず男の名前を口にしていた。
ドランは右手の長剣で易々とゲオルードの槍を受け止めたまま、背後に庇ったディアドラを振り返り、小さな笑みを浮かべるとこう言った。
「随分と弱っているな、ディアドラ。とはいえ間に合って良かった。しかしこれでディアドラを助けるのは二回目か。妙な縁があるものだ」
「どうして、ここに居るの? 貴方はクリスティーナやセリナ達と一緒に行ったのでしょう」
「私の向かう先にあったゲオルードの気配が遠のいたのを感じてね。あちらはクリスティーナさん達に任せて、こちらに来た。
いざという時の備えは向こうに残してきたし、この状況を見ればこちらに来て幸いだったようだな」
ドランはそこまで言ってから、竜種の魔力を通して強化していた右腕に一層力を込めて一息に長剣を跳ね上げた。
重量では数十倍をはるかに超えた差のあるゲオルードの槍は軽々と弾き飛ばされ、ゲオルードは思わず棹立ちになってしまいそうになるのを堪え、地響きのような音を立てながら後退する。
「ぬうう、その翼、この力、やはり貴様は普通の人間ではないな!」
「なに、肉体は間違いなく人間だとも。ただ、魂まではそうとは行かぬだけだ。魔界の者よ」
「面白い。ただの人間のそっ首を刎ねるよりよほど楽しめると言うものよ!」
戦意を滾らせて新たな闘気と魔力を全身から放出し、周囲の瘴気や大気を圧するゲオルードを前に、ドランは軽く切っ先で地面を突くと切っ先の触れた地点を中心に虹色の光を発する魔法陣が描かれる。
「守りと治癒の陣だ。ゲオルードを葬るまでディアドラはここから動くな」
「待って、この陣なら私もすぐに回復するわ。私も貴方に加勢する」
「傷ついた君に無理はさせられん。大人しくしていなさい。それにあれの相手なら私一人で十分だ」
「ドラン!」
ディアドラの叫びを背に受けて、ドランは六枚の翼を大きく広げながら、ゆっくりとゲオルードへと向かっていった。
*
背後で私の名を呼ぶディアドラを振り返る事はせず、私は一歩また一歩とゲオルードへと近づいて行く。
クリスティーナさん達と魔界門の一つへ向かう途中、無理を言ってディアドラの下に辿り着く為、私は魂から翼の情報を抽出し、それを背から伸ばしてここまで一息に飛んできた。
今の私は生前と同じ六枚の翼を人間の大きさで再現し、加えて全身の肉体も竜種の魔力による強化も併用している。
「おおドランよ。そこな黒薔薇の精共々貴様を我が槍にて屠る時を夢見て待っておったわ。二人ともまとめて姿を見せるとはこれは好都合。
これも魔界の邪悪なる神の導きによるものか。この場でまとめて殺し、霊魂は食らって我が力の一つに変えてやろう。ぐはははははは!!」
「邪神の導きか。だが――」
その邪神を私がこれまで何柱、滅ぼしたと思っている? むしろ私と戦う事を知ったら、邪神共の方が泣いて震えて怯えるというものだ。
「ぬうぇえええいいやああああ!!!」
「ふっ!」
私は物質化寸前の濃密な魔力で白く輝く長剣で、突きこまれた槍を真っ向から弾き返した。
ゲオルードは全身に走る痺れを気合いでねじ伏せて、四脚の複雑かつ巧みな足運びで衝撃を殺し、上に弾かれた槍を即座に振り下ろしてきた。
私は槍が振り下ろされるよりも早く大きく踏み込み、ぎりっと音を立てるほどに固く握った左拳をゲオルードの獣の頭部に叩きつける。
疑似竜鱗に包まれた私の握り拳は、獣の頭部に深くめり込んで私の腕よりも太い牙を何本もへし折り、どす黒い血反吐を吐かせた。
「ぐうう、我が槍をもって二度目の貴様の生に幕を引いてやろう!!」
「悪いがそれは寿命でと決めているのでな。貴様ごときに幕を引かれるつもりは無いのだ、魔界の者よ!」
全魔力、全闘気が込められたゲオルードの槍は紅蓮の炎に包まれているかの如く燃えさかり、まさしくゲオルードの全身全霊、渾身の一撃である事がはっきりと感じられた。
それに応じる為に私もまた長剣に更に竜種の魔力を注ぎ込み、長剣は注ぎ込まれた莫大な魔力の刀身を形成する。
かつて竜種の最高位にあった我が魔力で形成された刀身は、大神の魂魄であろうとも斬り裂くだろう。
私の竜種の魔力剣はゲオルードの槍を切っ先からそのまま食いこみ、なんら抵抗を受けることなく水を斬るように斬撃の勢いをそのままにゲオルードの右腕を縦半分にした。
更に振り下ろした長剣の切っ先を翻して弧を描き、私はゲオルードの獣の右頸部から上半身の左頸部までを一気に斬り上げる。
「ご、ごおおおお!? 馬鹿、な、地上とはいえ、このおれがこうも簡単に」
「竜爪剣とでも名付けるか。ゲオルードよ、本来の力を発揮できぬ地上とはいえお前は決して弱くは無かったが、相手が悪かったのだ」
「お、おのれええ。ぐうう、たとえ竜種の転生者とはいえ人間などに敗れるなど、なんたる恥辱か!」
「相手が悪かった、そう言ったぞ。いと小さき魔界の者よ」
不意にゲオルードの全身から絶え間なく放出されていた凶気と、瞳に宿っていた憎悪と呪詛とが急速に退いていった。
ゲオルードは時の流れから孤立したかのように動く事を止めた。激痛から来る震えが収まり、黒い血の滝さえも流れる事を止めた。
その代わりにゲオルードに与えられたのは、言語に絶する恐怖と絶望と後悔と、言葉では言い表せぬそれらとは比較にならぬ負の感情。ゲオルードは見たのだ。七色に煌めく竜眼へと変えた私の眼を。
「馬鹿な、あり得ぬ、在ってはならぬ事だ、在ってはならぬ! お前は、お前はドラ……!!」
「疾く去ね、ゲオルード。この地上にお前達の居場所は無い」
私は最後の慈悲をもってゲオルードの首を刎ね、さらに空中で十字に斬り裂いた。
ゲオルードの心魂を縛る絶対の恐怖からの解放には、その生命に死を齎す事こそが最も手早い手段であったから。
首を刎ねられた上に四つに断たれてようやくゲオルードの魔の生命は失われ、残る肉体も空中で刎ねられた首が灰と変わるのに合わせて崩れ去り、ほどなくしてその灰さえも消えた。
「さらばだ、魔界の騎士よ。呪うなら己の不運を呪え。嘆くならば私と出会った運命を嘆け。罵るならば私を敵とした己を罵るがいい」
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第十三話
ゲオルードの肉体と霊魂の完全な消滅を確認し、私は治癒と守護の陣内に居るディアドラを振り返った。
私の竜種としての魔力と生命力に満たされた陣に居る事で、ディアドラは急速に失った魔力と生命力を回復し、ほぼ全快の状態であった。
「昨日の夜に貴方を変わった人間だって言ったけれど、ここまで変わっているとは思わなかったわ」
「これの事かい?」
私は折り畳んでいた背中の翼を軽く動かしてみせた。ばさばさと音を立てる翼に、ディアドラは興味深そうな視線を隠さない。
「そうね。それもあるけれど竜族の魂に人間の肉体なんて、まるで考えもしなかったもの。本物の竜を見た事もないのに、それより先に人間に生まれ変わった竜の転生者に出会うなんて、そちらの方が余計珍しいというものでしょう」
「否定はせんが、案外、君も前世までの記憶を浄化されているだけで、前世かその前の生が竜であった可能性もないわけではないぞ。輪廻転生とはそういうものだ」
「そう。貴方が言うのならばそうなのでしょう。さっきの戦いを見る限り、ドランならどんな敵が相手でも負ける事はなさそうだから、違う心配をさせてもらうわ。あまり力を使いすぎて森を壊さないでね?」
ディアドラの冗談に私は自分でもはっきりと分かるくらいに破顔した。我ながら珍しい事だった。
「十分に気を付けよう。助けを申し出ておいて自分が破壊者になってしまっては、本末転倒だからな。ではそろそろ行く」
「ええ、武運を祈っているわ、ドラン」
「ありがとう」
感謝の言葉だけを残し、私は翼を広げた。まずは周囲を囲む壁を崩して、ここにある補助の魔界門を壊し、それからゲオルグとゲオルグが守る魔界門を破壊するのだ。
*
ドランが安否を気遣ったクリスティーナ達は、ドランが離脱した後も順調に進軍を続け、出くわす魔兵の群れを危なげなく倒していった。
だがドランが危惧したように魔界からの侵略者は、魔兵だけではなかった。順調な足並みで進んでいた彼らは、いよいよ魔界門を目前に収めた地点で、目下最大の敵に道を阻まれたのである。
「どうしたどうした。エンテの森の民よ、貴様らの攻撃はこの程度か、ええ!? ふはははは、このような生温い攻撃では何日続けたところでこのゲレンに傷は付けられんぞ!!」
闇そのものが形を成したかのような黒の巨人ゲレンは、自身の巨体を目指して殺到する矢と魔法を右手の巨大な斧の一振りで呆気ないほど簡単に打ち落とし、薙ぎ払ってみせる。
エンテの森の戦士達が歯噛みする中で、完全とゲレンの前に立ち、揺るがぬ闘志の炎を燃やしたのは、クリスティーナであった。その背後に必死に勇気を振り絞って、魔界の悪鬼の前にセリナも姿を見せる。
魔界の斧騎士は斧を両手で握り、水平に構えてクリスティーナとセリナに喜びを隠さぬ声で話しかける。強敵は親愛なる友にも等しい。そんな男だった。
「おう、クリスティーナとやらよ。十分に食い、十分に眠り、十分に英気を養ったか?
おれはお前との戦いを楽しみにしていた。こちらも魔兵共に手出しはさせぬ。存分に命の削り合いと行こうではないか、超人種の女よ」
「楽しみに待って貰っていたのは光栄ではあるが、超人種などと聞いた事もない言葉を押し付けられても困るな。
だが、今回ばかりは決着を着けずに終わらせるわけには行かないだろう。私も持てる力の全てでお前を倒す」
「はっはっはあ、そうよ、そうでなくてはつまらん。おれさえ倒せばここの魔界門を破壊する事は容易かろう。だがおれを倒す事こそが最難関の問題よ。
そうら、一刻も早くおれを倒さねばこの森はますます魔界と化していくぞ。時が経てば経つほどこの森の者達の故郷は失われてゆくのだ。それを心して掛ってこい」
「お前を倒せば済む話さ!」
純銀の長髪を翻し、燦然と輝く陽光は銀の髪に砕けて無数の真珠と変わり纏わりついた。
そのクリスティーナの頭上を、幻影の大蛇がシャッ、と鋭い吐息と共にゲレンへと襲い掛かった。
クリスティーナの背後に陣取っていたセリナが、無言の呼吸でクリスティーナが駆けだすのに合わせ、ラミア種の固有魔法を発動させたのである。
「ジャラーム!!」
「ぬはははは、もちろんラミアの娘、セリナと言ったか。お前の事も覚えておったわ。
こちらはもとよりお主ら二人と昨夜の続きをするのが目的。一騎打ちなどとは一言も口にはしておらん。望むところよ!」
人間ならまとめて三人も四人も丸飲みに出来る大蛇を、魔力と呪いで形作られた幻影とはいえ、ゲレンは巨大な岩を荒々しく削ったような左拳をまっすぐに突き出し、大蛇の頭部を殴り飛ばす事で応じた。
幻影の大蛇の頭部はまるで頭部の内側で爆発が生じたかのように吹き飛び、見る間に大気に溶けるように消えていく。
飛び散る大蛇の血肉が溶け消える中を、クリスティーナは走った。体躯の差からゲレンの腰から上に刃を届かせるのは極めて難しい。
恐れを知らぬ様子で正面から迫りくるクリスティーナに対し、ゲレンは斧をこちらも馬鹿正直に正面から叩きつけた。
斧との刹那の交錯を終えたクリスティーナは、疾走の勢いをそのままに駆け抜けざまゲレンの左足の脛を思いきり斬りつけた。
人間の胴体ならばたとえ鎧を着こんでいても水を斬るように両断する、クリスティーナの人外の斬撃である。
だが流石にゲレンはクリスティーナの一撃を、右足を軸に左半身を引く事で回避し、刃が過ぎ去った後にはその軌跡をなぞるように左の回し蹴りを放つ。
ごお、と風の唸る声を伴い放たれたゲレンの左回し蹴りは、クリスティーナが一瞬前まで居た空間を薙ぎ払い、原型を留めぬ肉塊に変える事は無かった。
かろうじてゲレンの左回し蹴りよりもクリスティーナが駆け抜ける方が早かったのだ。
「そう易々とはなあ!!」
エルスパーダを振る一瞬前、クリスティーナはゲレンが斧を振りかぶる動作に気付き、動き始めていた肉体に攻撃から回避へ転じるよう全力で命令を出す。
ゲレンは斧の先端で地面を擦るような上弦の月を描く軌跡で斧を振るう。
「させません! タイタンフィスト!」
セリナの怒声が戦場に響き渡った瞬間、ゲレンの正面の地面が見る間に隆起するやゲレンの巨体に匹敵するほど巨大な拳が形作られて、斧を振るう最中のゲレンを真っ正面から殴り飛ばす。
「むうう、面妖な。魔蛇の魔力に竜族の魔力が微量だが混じっておるわ。ふふ、思った以上に面白い敵と巡り合えたか!」
セリナの魔法行使に、クリスティーナもまたゲレンとは違った驚きを覚えていた。
「大したものだな。昨日の時点でも十分凄かったが、今日はまるで別人じゃないか、セリナ」
「なんだか自分でも分かりませんけど、今日はものすごく調子がいいんです。ドランさんから貰った魔晶石と地精石のお陰もありますけどね!」
そう言ってセリナは好調の種明かしに、両手に握っていた魔晶石と地精石をクリスティーナに見せた。
魔晶石はドランが自身の魂から抽出した竜種の魔力の結晶体であり、さしずめ竜魔晶石とでも呼ぶべき特殊な品であった。
「まだまだ行きますよ! 我が血に流れる魔蛇の毒血よ 我が魂を縛る魔蛇の呪いよ おお 我は忌まわしき汝らに請いたもう 呪いの咆哮を挙げよ 毒を撒き散らせ 生命を憎め」
セリナの身体から噴き出す赤紫色の魔力の強大さに、クリスティーナとゲレンとがそろってはっと目を向けた。
今この瞬間も竜魔晶石からセリナへは膨大な魔力が提供されていて、セリナはほとんどラミアの皮を被った竜にも等しかった。
赤紫色の魔力は一つの身体に八つの首を生やした多頭蛇を形作る。
昨夜の戦闘でゲレンを相手に使った七つ首の多頭蛇の、さらに上位に位置するラミア種固有魔法。
現状、セリナの扱える固有魔法の中でも最強の呪文の一つであった。
「エウン・ジャラーム!!」
実際のヒュドラさながらの巨躯を誇るエウン・ジャラームは、多頭蛇でありながら竜種の魔力を漲らせ、魔界化した風と大地を魔蛇の呪いで侵食しながらゲレンへと迫る。
魔法の標的にされていないクリスティーナでさえ、思わずぞっとしたものが背筋に走る迫力と呪いの塊であるエウン・ジャラームを前に、ゲレンはそれこそ人型の山脈の如く不退転の気迫をもって斧を構えて迎えうつ。
赤黒い鱗からやはり赤黒い魔力を残火の如く放出しながら、エウン・ジャラームは八つの首から呪毒の液を滴らせてゲレンへと襲いかかった。
「ぬうん!!」
これまでの幻影の大蛇がゲレンの斧や拳によって呆気なく砕かれたのに対し、エウン・ジャラームは竜種の魔力が混合している事に加え、もはや幻影とは思えぬ密度を持っている事で、一撃二撃を受けても砕ける事は無かった。
ゲレンは、呪毒の息を吐きながら噛みつかんと迫る首を斧で払い、四肢を拘束しようと絡みついてくるいくつもの首を手で打ち、足で蹴り飛ばして牽制する。
呪毒液が触れる端からゲレンの甲冑状の肉体は真っ黒い煙を噴き、瞬く間に
頭と首に牙を突き立てようとしてきた三つの首を纏めて左脇で抱え込み、大蛇の赤黒い魔力で皮膚を焼かれながらも、ゲレンは一息に力を込める。
ぼこっとゲレンの左腕が明らかに一回り巨大化し、赤黒い鱗と骨とが纏めて砕ける音が連続し、それだけに留まらず三つの首はゲレンに抱え込まれた所から断たれた。
腕を占めて無理矢理に断たれた三つの首は、魔力に分解される事なくそのまま地面に落下し、ぐちゃぐちゃに崩れている断面から真っ赤な血を溢れさせる。
びくびくと大きく痙攣する三つの首を解放したゲレンが、残る五つの首も落とさんと殺気にぎらつく瞳を向けた時、エウン・ジャラームの背中を駆け登るクリスティーナの姿が飛び込んできた。
ゲレンにとっては猛毒として機能したエウン・ジャラームの魔力は、セリナの精密な操作によってクリスティーナにはなんら害を及ぼしてはいない。
クリスティーナごとまとめてエウン・ジャラームを叩き割ろうと、ゲレンは斧を振りあげようとしたが、その動作をセリナは見逃さず、残る大蛇の首の内二つがゲレンの右腕に絡みつき、内一つがゲレンの二の腕に呪毒の牙を深々と突き立てる。
「おおお!!」
力強くエウン・ジャラームを蹴ったクリスティーナは、弦から放たれた矢のごとく宙を飛び、すれ違いざまにゲレンの右頸部を斬った。
あまりの激痛を堪え切れずゲレンはたたらを踏み、戦場にあるまじき致命的な隙を作ってしまう。そして、それを見逃すほどクリスティーナは甘くは無かった。
「はああ!!」
「ええい、ぬかったか!?」
こちらに背を見せるゲレンに、クリスティーナは大地を蹴り、風を纏って一時的に飛翔力を得て斬りかかる。
狙いはゲレンの頭部。縦に二つに割るか、首を刎ねるか。そうでもしなければこの魔界の巨騎士の命運を断つ事は叶うまい。
ゲレンは重心を崩しつつも背後に迫るクリスティーナへと風を巻いて回転し、斧を叩きつけた。
当たれば肉体が千と散り、万と砕ける威力で斧を振り切ったゲレンは、空を切った手応えとわずかに斧の重量が増した事に違和感を覚え、すぐさまその正体を悟った。
クリスティーナは空中で斧を回避するでもエルスパーダで受けるでもなく、斧の刃に着地し、斧に施されている精緻な装飾のわずかな凹凸に指を引っ掛けてしがみつくという芸当をしてのけたのである。
ゲレンが斧に漲らせた闘気と魔力に凹凸を掴む左手を焼かれながら、クリスティーナは焼かれる苦痛を噛み殺して、一気に駆けだした。
昨夜はゲレンの左腕を駆け登ったが、今度は斧から伝って右腕の上をクリスティーナは駆ける。
絶好の機を逃さず、ゲレンが身動きできぬ間を無為にせず、一歩を踏みしめる毎にゲレンの闘気に肉を焼かれながら。
「覚悟!」
「ぬええええいいい!!」
身じろぎも出来ぬゲレンは、しかし額の内側からどんな軍馬に乗っても扱えぬ騎上槍を思わせる角を出現させた。
額を突き破った角は黒い血を滴らせながら、迫りくるクリスティーナの顔面を貫くべく伸びる。
お互いに向けて迫る両者に背筋の凍る交錯の瞬間が訪れた。
ゲレンの黒血を纏う角をクリスティーナは半身になって回避し、青いリボンで束ねた銀髪が数本、角に貫かれて宙を舞う。
間一髪でゲレンの最後の抵抗を回避したクリスティーナは、一切の躊躇なくエルスパーダを振るう。
分厚い鉄、弾力のある肉、そして骨をまとめて断つ手応えが刃を通じて伝わり、クリスティーナの視界に刎ね飛ばされたゲレンの首が映る。
ゆっくりと落下しつつあるゲレンの首とクリスティーナの視線とが交差し、クリスティーナはゲレンの首が笑んだ気配を感じ取った。
「見事、見事なり!」
実に心底から満足した声を挙げてゲレンの首は地面に落ち、本来在るべきではない世界で死を迎えた為に見る間に形を失って崩れ始め、同様に崩れ始めたゲレンの身体からクリスティーナが飛び下りた時には、一握の砂さえ残ってはいなかった。
クリスティーナはゲレンの最期を見届けてから、ゆるゆると糸のように細く息を吐く。
まだ魔兵が残っているとはいえ、目下最大の敵を倒した事からクリスティーナはわずかに精神を弛緩させる事を自身に許した。
もちろん周囲を警戒する意識は残した上での話である。
*
翼の一打ちごとに瘴気を掃って緩やかに降下してくる私を、ゲオルグは黙って見上げていた。
昨夜とは纏う闘気の質と気迫とが違う。ある種の覚悟を決めた者特有の雰囲気を、私はひしひしと感じた。
「お前の仲間達とその他の魔界門は全てこの世界から排除されたぞ、ゲオルグ」
「いずれも死力を尽くした戦いの果てに待っていた結果なれば、それを嘆く必要はありますまい。我ら等しく闘争に輝く生と死の交錯と輝きに魅入られた悪鬼なのですから」
「その潔さをもっと別の形で活かせる事が出来たなら、お前達と敵対する事も無かっただろう」
「そのように言って下さるか。しかしながら自ら望み選んだ選択の結果でしてな。同情も憐憫も無用とお心得頂きたい」
「ならば、そうする事としよう。お前は私が討つべき敵。それ以上でも以下でも無い」
「そう来なくては。この両の眼にはかつて目にした貴方様の戦いぶりが焼き付き、今日に至るまで色褪せる事も薄れる事もありませなんだ」
「私の魂が誰であるか知ってなお戦いを挑むとは、戦闘狂という人種か。度し難いな。
おのれの無力を噛み締めて滅ぶのみぞ。かつて多くの悪しき神や魔の者達がそうであったように」
「ふふ、だからこそ戦う価値があるという事がお分かりになりませぬかな。全力を尽くしてなお敵わぬ相手だからこそ、己の生命と魂を燃やす事が出来るのです。
かつてお仕えした戦神アルデス様と貴方様の戦いを見た時より、貴方様といつか刃を交える時をと願っておったのですよ」
「どこかで見た覚えがあったが、アルデスの元眷属か。曲がりなりにも善なる神の眷属が、今や魔界に堕ちた戦闘狂とは。アルデスは眷属の手綱を握るのが上手くはないようだ」
「戦の最中に血に酔いしれる事、そして命の削り合いをする事に無上の喜びを覚えました故、神界より追われる事となりました。
さて、思わぬ所、思わぬ時に夢にまで見た貴方様との戦いの機を得た以上は、不十分な力しか振るえぬような場での戦いは望むところではありませぬ。
よって貴方様にとっては甚だ不本意でしょうが、共に魔界へと堕ちて頂きますぞ」
ゲオルグの声と同時に魔界門を中心とした四方に一瞬一瞬で色を変える光の柱が天へと伸び、頭上の雲に達すると四本の光の柱が互いを結びあい、私は光の立方体の中に閉じ込められた。
だがゲオルグの狙いはこの光の立方体の中に私を閉じ込める事ではない。
それまで閉じていた魔界門がゆっくりと左右に開き、その奥に魔界へと繋がる空間の通路が覗き見えた。
魔界の瘴気を孕んだ風が吹きつけ、光の立方体の内部の空間が徐々に通常の空間と隔て始めているのが感じられた。
「さあ、我が魔界の領地へとお越しいただきましょうか、古の神なる竜よ!」
「応じてもいないのに無理に招くとは、礼儀がなっておらんな」
空間を越える時に伴う軽い酩酊感と浮遊感の直後、立方体を取り囲む世界の雰囲気が明らかに変わっていた。
頭上を見上げれば見渡す限り様々な色彩に変化する空間が広がり、無数の光とも闇ともつかぬ何かが瞬いている。
それは数多の小魔界であり、あるいはこの大魔界に存在する太陽や銀河なのだ。
地上へと視線を移せば、そこにあるのは荒涼無辺とした荒野であった。
「領地と言ったがなんとも寂しい場所に招かれたものだ。城の一つも無しとは」
白い埃があるか無きかの風に運ばれ、さらさらと私達の足元を流れていく。ほどなくして光の立方体が解かれ、私は完全に魔界に来た事を実感した。
随分と久しぶりに来たが、よもや人間に生まれ変わってからも来る事になるとは、まったく未来とは何が起きるか分からぬものだ。
「元々我らは流れの傭兵のようなものでしてな。王侯貴族のような暮らしとは無縁でありますれば。
それにここは我らが私闘に用いる場なのですよ。趣の無い光景はどうぞお許しを。
では我がもてなしをどうぞお受け下さい。始祖竜の心臓、始原の七竜が一柱、神魔殺し、七彩の災厄、虹の滅び、悪しき神々より最も恐れられし竜よ!!」
魔界の瘴気と魔力とがゲオルグの全身に充溢し、その全身に亀裂が走って溶岩のように赤熱した体内が覗く。
無数の裂傷から血が溢れずに傷口が留まっているようにも見えるが、ゲオルグの変貌はさらに進み、巨体が一回りさらに大きくなり、全身に走った亀裂からは体内に収まりきらぬ闘気が目に見える濃度で噴出する。
両肩や頭部、肘からさらに捻くれた角が伸び、ゲオルグの本来の姿と力とがここに露わとなった。
「その意気やよし。お前の望みを叶えてやろう。ただし対価はお前の全存在の消滅だ」
「貴方様と刃を交えられるのならば、その程度の対価、支払うに迷い無し。されど、ただ負けるばかりと思いたもうな。その傲慢を我が剣を以て断ってくれようぞ!!」
瞬く間に私との距離を詰めたゲオルグが大上段より振り下ろす三本の大剣。刃に纏う力はたとえミスリルの塊であろうと砂のように砕く。
「ふんんっっ!!!」
「はぁ!」
私の長剣――竜爪剣がまとめて三振りの大剣を弾き返す。
と同時に私とゲオルグの力と力とが衝突しあい、それは衝撃波となって周囲へと広がって魔界門の聳える荒野の大地は砕け、私達を中心に辺り一帯が大きく陥没する。
ゲオルグは上の両腕に握る大剣を天へと突き上げる。すると切っ先に黒雲が生じるやそれは見る間に広がって、荒野の空を全て埋め尽くした。
「天よ鳴け、天鳴殺!」
ゲオルグに命じられるがままに黒雲に占められた空は鳴き叫び、闇色の雷が黒雲の中に煌めく。
更に下の右腕の大剣が地面へと突き立てられる。その大剣からも莫大な力が足元の地面を流しこまれ、瞬く間に大地もまたゲオルグの支配下へと変わる。
「地よ轟け、地轟殺!」
ゲオルグの大剣が突き立てられた場所を震源とし、荒れ果てた大地が立っている事もままならぬ地震が起きる。
六枚の翼をもって空を飛ぶ私に地震は意味を成さぬが、このまま終わるわけもなかろう。
私がゲオルグまで百歩の距離に詰めた時、いよいよもって黒雲の雷は数を増し、大地の震えは際限なく強まっていく。
そしてゲオルグは天を指していた大剣と大地に突き立てていた大剣を引き抜き、それぞれの切っ先を私へと向ける。
裂傷の走る兜の奥で光るゲオルグの瞳には、既に私に対する畏敬の念は無く、全力を以て屠るべき敵への闘志のみが輝いていた。
「受けい、天地双殺!!」
ゲオルグの叫び声と共に天からは雨の如く無数の黒雷が私を目がけて降り注ぎ、大地は無数に砕け散って巨大な大地の砲弾と化して私を目がけて撃ち出される。
ゲオルグの意思によって放たれた黒雷は通常の自然法則から逸脱したもので、私が回避した後も弧を描いて、私を追い雷の牙で食らいつかんと迫って来る。
大地の砲弾もまた同じで、重力の作用を無視した砲弾は私の頭上へと放たれた後、黒雷同様に私を追ってくる。
「まとめて斬り裂く!」
百万の雷を束ねたかの如く伸びる我が竜種の魔力の剣は、一気に天から地へと振り下ろされて、私を追っていた黒雷も大地の砲弾も、さらには頭上の黒雲に足元の砕けた大地さえもまとめて斬り裂く――というよりは飲み込んだ。
鼓膜を貫いて脳髄も震わす轟音の果てに、頭上の黒雲も足元の大地も私の竜爪剣によって真っ二つになり、そればかりか溢れる魔力によってそのまま大地は果てに至るまで崩壊して、無限に広がる万色の空間へと落下していく。
「流石に容易くは行かんか。それでこそ、それでこそ待ち望んだ甲斐がある。我が三剣の閃光、見切れるか、三千大閃殺。けええええああああ!!!」
私へと向けて突き出されたままだった三振りの大剣が眩く光を発したその瞬間、大剣は一振りにつき一千の閃光の刺突と変わり、私の正面に閃光と化した切っ先が壁となって迫りくる。
物理的にも霊的にも万物を貫く閃光の切っ先を、私は長剣を左肩を跨ぐように構え、同じく左腕も五指を開いて右肩の上を跨ぐように構えて両腕を交差させる。
左腕に施している竜種への変異をさらに推し進め、私の左腕は肘から指先に至るまでが見る間に竜種の腕へと変わる。
皮膚は白い鱗へと変わり、指先には太く鋭い鉤爪が伸びた。
交差させた両腕を閃光よりも早く振り下ろし、×の字を描いて、私は眼前にまで迫っていた三千の閃光の刺突をまとめて粉微塵に砕く。
必殺の奥義を破られても、ゲオルグは動じることなく、素早く両上腕の剣を前方に振るうや、歪曲した空間に×字の裂け目が生じる。
ゲオルグはゆっくりと広がる裂け目に躊躇なく自分の身体を躍らせる。そして間をおかずに私の頭上に時空の揺れが生じる。
「こちらに跳んできたか」
七色の輝きを宿した私の眼は、頭上の空間が×字に斬り裂かれ、その奥よりゲオルグの巨体が落下してくるのを捕捉した。
「御首級、頂戴仕る!」
「お前にくれてやるほど安い首ではない」
びょう、と大気を斬り裂いてゲオルグの大剣が私へと三筋の軌跡を描いて迫る。どの刃も、戦神の眷属神であった悪鬼が振るうに相応しい迅さと破壊力と鋭さがあった。
竜化させたままの私の咽喉からは、戦に昂る竜の唸り声が零れ出る。
「ぐるあああ!!」
竜爪剣の一閃。私の右半身を叩き潰しに来たゲオルグの左上腕の大剣を、刃の半ばから木っ端微塵に砕く。
「ぬうう、まだまだあ!」
続いて隕石の如く落ち来るゲオルグの右上腕の大剣を、私は完全に竜と化した左腕で打ち払う。
こちらは本物の竜の爪は、五筋の軌跡を描いてゲオルグの大剣を六つに斬断。更に左腕を翻して五指を揃え、私は剣の如く並べた竜の爪でゲオルグの右上腕を肘から断つ。
そして三振り目。ゲオルグの右上腕の大剣は後方へと引き絞った体勢から、紫電よりも速く、そしてその紫電をも散らす勢いで突き出してくる。
それを私はさらに速い一閃を以てゲオルグの大剣を握る手首ごと斬り飛ばす。
私に斬り飛ばされたゲオルグの右手が、大剣を握ったまま虚空をくるくると回転しながら飛んで行く。
断たれた右肘、右手首から血が噴き出すよりも早く、ゲオルグは苦痛もものともせずに左下腕の盾で殴りかかってくる。
私の視界を埋め尽くすゲオルグの盾に、私は両手で握り直した竜爪剣を真っ向から振り下ろした。
「我が全霊……」
私の振り下ろした竜爪剣の軌跡に沿い、ゲオルグの盾が、盾を握る手が、そして軌跡の先に在ったゲオルグの巨体の頭頂から股間までが、盾一文字に走った線に沿って上下にずれ始める。
それに遅れてゆっくりと、水が滲むようにして黒い血が溢れだす。
「ついぞ及ばず!」
溢れだす黒血がばしゃばしゃと滝のように落ちて大地を濡らし、私の一閃によって真っ二つになったゲオルグの身体が左右に分かれながら仰向けに倒れた。
私は緩やかに息を吐く。
ゲオルグが私を魔界へと引きずり込んだ術式は、魔界門とこれまで吸いあげたエンテの森の生命と、ゲオルグ自身の魂を糧に発動していたものだ。
ゲオルグ倒れた今、あくまで一時的に魔界へと引きずり込んでいたにすぎないから、術式は破綻し、多少の時間の経過と共に魔界門の辺り一帯はエンテの森へと戻されるだろう。
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第十四話
ゲオルグが倒れた事で魔界門の機能は徐々に停止していき、私と魔界門を中心とした一角はほどなくして地上へと戻された。
あくまで一時的に魔界へと堕とす術式であったから、ゲオルグが倒れれば自動で地上に戻るわけだ。
再び空間や次元を跳躍する際に伴う酩酊感や浮遊感を味わった後、瞼を開けばすっかり荒れ果ててはいるものの、魔界とは明らかに空気の異なる地上へと戻っていた。
私は背後に聳える魔界門を振り返り、糸のように細くした吐息と共に竜爪剣を一閃。
瘴気を孕んだ大気ごと断たれた魔界門は、私から見て右下から左上へと走る軌跡に沿って徐々にずれ始め、地響きのような音を立てて大地の上に上半分が落下する。
私は上半分の魔界門の落下と同時に立ち昇った土煙を手で払いながら、魔界門の機能が完全に停止して、次元を超越する通路が完全に閉ざされた事を念入りに確認した。
「魔界との繋がりを断ったからといって、即座に瘴気が晴れるわけではないのが悔やまれるな」
魔界門の物理的な破壊と次元通路の断絶により、このエンテの森へ魔界の瘴気と魔力が新たに流入する事は無い。だが既に流入してしまった分に関しては別だ。
後は異形化したこの付近が、自浄作用と森の民によって一刻も早く元の豊かで美しい姿を取り戻すしかないのだが、瘴気に侵された木々や大地を元の姿に戻すのは簡単な話ではあるまい。
負傷者を抱えていた事もあり、私達は一旦魔界門の周囲に結界魔法を施してから、サイウェストの村に凱旋する事となった。
サイウェストの村に戻った私達は、帰りを待っていた皆に歓声をもって迎え入れられた。
魔兵達との戦いで命を落とした者達の家族は、悲しみの涙を流し、嘆きの声を挙げ、周囲の者達に励まされ、慰められていて、その姿を目にすると勝利の余韻に浸る事はまるで出来なかった。
私達はデオ、ヴライク、アルジェンヌら三族長に手伝いを申し出て、恐縮する彼らから許可を得て、怪我人の手伝いや異形化した森の調査、荒らされた森の整理などに尽力する事となった。
妖精の道を通って一千を超すウッドエルフの増援が来たのは、私達が魔界門を全て破壊してから二日後の昼の事であった。
ウッドエルフの増援達が到着し、その後の片付けもある程度目途がついた頃に、私達はオリヴィエ、ディアドラ、ギオ、フィオ、マールらに見送られる形でサイウェストの村を出立した。
元々持ってきた荷物に加え、今回の戦いでの助成へのお礼という事で、様々な物を持たされて荷物はベルン村を出立した時の倍くらいになっていた。
特に別れを惜しまれたのはサイウェストに滞在していた短期間で、複数の信奉者を獲得していたクリスティーナさんであった。
「お姉様、これ受けとってください。これ、私の糸で編んだシャツです」
「クリスティーナ様、これもどうぞ。お帰りになる途中で食べて。あたしが焼いたフルーツタルト!」
とまあこんな調子で先ほどから何人もの女性に周囲を囲まれ、クリスティーナさんは怯んだ様子であたふたとしている。
ふーむ。羨ましいような大変そうだから遠慮したいような、複雑な感じだな。一方で昨日さんざん私に絡んできたセリナはと言うと、まだ酒が抜け切っておらず、酔い覚ましの薬を飲んだがそれでもまだ頭痛がしているようで、大人しくしている。
「セリナー、大丈夫です? マールは昨日途中で寝ちゃったから知らないですけど、あんまりお酒を飲み過ぎるのはよくないですよー」
「そうそう、セリナったらドランに二重の意味で絡んで大変だったのよ」
フィオめ、自分がさんざん煽っておいてどの口が言いよるか。一ヶ月くらい精霊が口をきいてくれなくなるようにしてやろうか、と一瞬恨み節が私の心の中に吐きだされたのは誰だって許してくれると思う。
「うん……本当に、反省しました。ドランさんも、体中に鱗の跡を付けてしまってすいません……うう、頭、がんがんする~」
「私は気にしていない。ただ今後は気を付けて欲しいところだけれどね。さあ、そろそろ出発しよう。あまり遅くなってしまっては約束の期限を過ぎかねない。村の皆に余計な心配はさせたくない」
私が声をかけるとセリナは実に力の無い弱々しい声ではい、と返事をし、クリスティーナさんは女の子たちからの贈り物をなんとか荷袋に詰め込んで、ほっと安堵の息を吐いた。
クリスティーナさんにとっては魔兵との戦いの方が、女の子の扱いよりも気楽かもしれないな。
いよいよ私達が出立するという段になって、オリヴィエやディアドラ達がそれぞれに別れの言葉を告げてきた。
「クリスティーナ、ドランとの出会いは貴女にとって良い縁のようですね。貴女を知る者として嬉しく思います。
セリナ、貴女もクリスティーナにとっては良い友達のようです。ありがとう。ただ、お酒には気を付けましょうね。
それとドラン。貴方はデンゼル師が推薦する以上に優れた魔法使いであり、そして戦士でもあります。ガロアに来る事があったなら、一度魔法学院を訪ねてきて下さい。歓迎しますよ」
「魔法学院ですか。過分な評価に恐縮の限りですよ、オリヴィエさん。クリスティーナさんとすぐ会えるというのは魅力的な提案ではありますけれどね」
「考えておいてください。改めて貴方達の尽力に心からの感謝を、ありがとう」
そう言ってオリヴィエが実に品良く、優雅に頭を下げた後、手に小さな袋を持ったディアドラが進み出てきて、照れ隠しなのかややぶっきらぼうな調子で口を開く。
「貴方達には、特にドランには何度も助けて貰ったから、私なりのお礼よ。受け取って」
そう言って差し出してきた小袋を受け取り、何が入っているのかと中を覗いてみるとそこには薔薇の種がいくつも入っていた。
「これは、なるほど、黒薔薇の種か」
「ええ。私の種子よ。黒薔薇は滅多に咲く事の無い薔薇だし、魔法薬の材料にも適していると聞いたわ。特別に咲きやすいようにしておいたから、貴方の故郷で育てればたくさん咲く筈よ。それを売ってもいいし、魔法薬の材料にしてもいいわ」
「ふむん、これは思いがけないものを貰ったな。お礼が欲しくて君を助けたわけではないが、ありがとう、ディアドラ。君の心遣い、確かに受け取った。
たまにはベルン村に遊びに来てくれ。これといって何か特別なものがある場所ではないが、私なりに精一杯歓迎する事を約束しよう。単純にディアドラと会えるのは嬉しいしな」
「そ、そう? そうね、私もドランと会えるのは楽しみだわ。それと、これは貴方個人へのお礼よ」
不意にディアドラが更に一歩前に進み出て、黒薔薇の香りが鼻を擽ったと思った時には、ディアドラの唇がおそるおそる私の唇に重なっていた。
柔らかで濡れた唇の感触が黒薔薇の香りと共に訪れて、私は思わぬディアドラの行動に目を見開いた。
ディアドラの唇はすぐには離れず、他の皆が驚く中でしばし私の唇と重なり合い続けた。
私とディアドラの口づけを目の前で見せつけられたクリスティーナさんはと言えば、こちらも頭のてっぺんまで茹でられた蛸のように赤くし、口をぱくぱくと酸欠の魚みたいに開閉していた。
どうやらクリスティーナさんには私とディアドラの長い口づけは刺激が強すぎたらしい。
大人びた外見と物腰にどこか厭世的な雰囲気から、老成しているようにさえ見える事があるのだが、どうやらかなり初心なようだ。これもまた意外だ。
ようやく私の唇からディアドラの唇が離れたのは、二日酔いの頭痛にも構わずセリナが素っ頓狂な叫び声をあげた時だった。
「な、ななな、なーーーーーーーーーー! でぃ、ディアドラさん、な、なにをしているんですか!? 私だってまだドランさんとしてないのに!!!」
「な、何ってただのお礼よ。ドランには命を救われたし、こ、これぐらいは当然でしょ」
わなわなと震えながら叫ぶセリナに、ふいっと顔を背けてディアドラは答えたのだが、首筋から耳の先まで真っ赤にしているのが見えて、私には妖艶という言葉の化身のようなこの黒薔薇の精が、可愛くてしかたなく見えた。
やいのやいのと騒ぐセリナと自分の行いに恥じらいを覚えて、顔を背けるディアドラのやり取りを見ていると、私はゲオルグとの戦い以来胸中に抱いていた一抹の不安を忘れる事が出来た。
あの時、一時的にとはいえ魔界でかつての竜種としての力を振るった事で、前世において因縁のある邪神達に私の転生を察知されたのではないか、そしてそやつらが今後人間に生まれ変わった私に牙を剥くのではないかという不安を。
―――――見つけた。見つけた見つけた見つけた。あはははは、うふふふ、あははははは!! 滅んでいるわけがないと思っていたけれど、まさかそんな姿になっているなんて! あはははは、また君と遊べるなんてこんなに嬉しい事は無いよ、待っていてね、ドラちゃん!!
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第十五話
『地上に生きる全ての竜種はその起源をたどれば、ある一体の竜に辿り着く。
始祖竜、始原竜と呼ばれる竜である。
始祖竜とは世界がまだ出来上がったばかりの、天と地と海と空と時が溶けあっていた時代から生き続けていた、始まりの竜。竜種の源となる竜。哀れな一人ぼっちの竜。
世界とも言えぬ形の世界と等しく長い時を生きた始祖竜は終わりの見えないまどろみの中、ふと気付くと周りに自分と混沌以外の何かが生まれ始めている事に気付いた。
それは混沌の渦が吐き出す、浮かんでは弾けて消え、消えてはまた浮かぶ泡玉から産まれた人の神、獣の神、森の神、夜の神、昼の神、精霊の神、光の神、闇の神をはじめとした最も古く最も純粋で最も偉大な第一の神々である。
始祖竜は初めて自分以外の存在に気付き、驚きのあまりにまどろみから覚醒した眼で次々と混沌から産まれる神々を見続けた。
第一の神々もまた始祖竜には気付いていた。
だが混沌から産まれた自分達と違い、最初から混沌と共に存在していた始祖竜にどう接して良いのか分からず、始祖竜が自分達を見る様に神々もまた始祖竜を見るだけであった。
始祖竜が神々を見続ける間、神々は混沌からだけでなく神々自身からもまた産まれるようになり、次々とその数を増やしていった。
例えば精霊の神は火、水、土、風、時、空、氷、雷、光、闇などの精霊とそれらの王を産み、精霊達の住まう世界を作った。
神々の数が増えるにつれて時に神と神がいがみあう事もあったが、この頃はまだ神同士で滅ぼし合うようなことのない平和な時代であった。
やがて神自身が新たに神を産み、さらにその神が自分達の下僕となる新たな生命や、天と地と海と時間と空間、生と死と運命などを作り始め、混沌は姿を変えて徐々に秩序ある姿形へと落ち着いて行く。
その様にしていまある世界と神と地上に生きる種族が作り始められたころ、始祖竜の心は徐々に変化が表れ始めていた。
多くの仲間や同類に囲まれる神々を見続けている間に、果てしない羨望と孤塁の存在である自分に寂しさを覚えたのである。
始祖竜は神々のように自分自身から新たな竜を産む事が出来ず、始まりの時から変わらず唯一無二の不変なる存在として、まだ混沌としていた世界の源に漂い続けていた。
どうして自分には彼らや彼女のような自分以外の同胞が居ないのか? どうして自分はただ自分のみの存在であるのか?
始祖竜は考え、思い、悩み、苦しみ、そしてある時思いついた。
新たに竜を産み出す事が出来ないのなら、自分自身を細かく裂いて無数の竜と変えよう。
そしてこの混沌と混ぜ合わせる事によって、それぞれがそれぞれに魂と心を持った違う竜にしよう。
そんな事をすればいまある始祖竜の心が消えてなくなるかもしれなかったが、自分しかいない孤独にすっかり疲れ果てていた始祖竜は周囲の神々に対す羨望の想いの方が勝った。
始祖竜はすぐさま自分の翼を千切り、尾を断ち、牙を折り、首を切り、目を抉りだし、自分自身を数え切れないほど小さく裂いていった。
神々は始祖竜の突然の行いに大いに驚いたが、それまで始祖竜の事を遠巻きに見守るだけで始祖竜の心を知る事は無かった為、どうすればよいのか分からなかったのである。
やがて始祖竜がこれ以上自分を小さく出来なくなるまで、始祖竜が自分自身を裂くのを見続けるだけであった。
始祖竜の身体が数え切れぬほどの小さなものとなり、肉や骨や血潮が周囲の混沌と混ざり合い始めると、神々の見ている前でそれらは始祖竜が望んだ通りに、数え切れぬほどの小さな竜と変わって世界に産声を上げ始めた。
鱗の色も翼の数も首の長さも大きさも違う無数の竜達が産まれる光景は、それを見守っていた神々を驚かせ、世界を創造する腕を神々が止めた為に大地が落ちて、海の水が溢れ、空が蓋となることで世界はいまある形に固まったという。
無数に千切られた小さな血肉から産まれた竜達は、始祖竜とは比べ物にならないほどか弱い存在であったが、それでも第一の神から産まれた第二の神と同じほどに強く、それらは神なる竜――神竜、あるいは龍の神――龍神と呼ばれた。
始祖竜の小さな肉や骨の欠片、砕けた鱗、零れた血潮からは神竜と龍神が産まれたが、より大きな塊からは第一の神々さえも上回る強大な力を持った四柱の古神竜と三柱の古龍神が産まれた。
尻尾からは四翼一頭一尾零眼紫鱗の古龍神“全てを圧し壊す”ヒュペリオン。
翼からは十二翼一頭八尾翠眼緑鱗の古神竜“何よりも速き”ヴリトラ。
瞳からは七翼六頭十尾黒眼灰鱗の古龍神“涯と頂きを見通す”ヨルムンガンド。
牙からは十翼一頭二尾金眼銀鱗の古神竜“貫けぬものなき”アレキサンダー。
四肢からは零翼一頭一尾蒼眼青鱗の古龍神“朽ちることなき”リヴァイアサン。
頭からは二翼一頭一尾銀眼黒鱗の古神竜“縛られることなき”バハムート。
そして自らを裂いてもなお脈打つ事を止めなかった始祖竜の心臓と魂からは、すべての竜と龍の頂点に君臨する、最も強大な力と始祖竜の想いを受け継いだ竜が産まれた。
すなわち六翼一頭一尾虹眼白鱗の古神竜“全にして一なる”――――――である』
つまりは前世の私である、と心の中でだけ呟いて私は締めくくり、村の北東から南西へと流れる川辺に集まった子供達に、物語の終わりを告げた。
時折私はこうして村の子供達を集めて、古の、それこそ第一の神と呼ばれる古き最高位の神でもなければ知り得ない、世界創成期の頃や神々の大戦の物語を私の創作として聞かせている。
物語の大筋は実際に私が体験し記憶している事実なのだが、言っても信じて貰えるわけもないので私の作り話である、と前置きをしてから聞かせている。
子供の娯楽の少ない農村であるから、私が訥々と前世を振り返りながら語る物語は、純朴な村の子らにとって吟遊詩人が竪琴の調べと共に語る英雄譚のごとく聞こえたのだろう。
当初物語を聞きに来るのは十歳かそれ以下の年の子供だったのだが、いつのまにやら私より年上の連中も話を聞きに来るようになっていた。
そして今日はいつもとは違う顔ぶれも観客達の中には見受けられた。
エンテの森に住むウッドエルフの少女フィオとその友達である妖精マール、そして黒薔薇の精であるディアドラの三名である。
「私としては精霊神様か始まりのユグドラシル様の事を、ドランがどう語るのか興味があるかな」
「マールは何でもいいですよ。クリスティーナのお歌もとっても素敵でしたけれど、ドランのお話も楽しいです」
無邪意に喜んでくれるマールの姿は、いつ見ても、そして誰が見ても微笑みを誘われるものがある。
「ウッドエルフにとっては確かに精霊神やユグドラシルの事が気になって当然だろうな。また次の時までに考えておくよ。ところでサイウェストや森の方はどうだい?」
「うん、それは大丈夫よ。他の部族から人も物もたくさん送られてきているし、森の浄化も順調に進んでいるもの。それにベルン村の方に興味のある子も多くって、いつも誰がここに来るかで揉めているくらいよ」
「ふむ、辺鄙な所ではあるがそれでもエンテの森の中とは、随分と違う世界だろうからな。特に若い者達にとっては興味を惹かれるのも無理は無い。
幸い村の方も戸惑いがあったのは最初だけで、すぐに歓迎の雰囲気に変わったしね。後は村に来る隊商の人達との交渉がうまく行けばいいがな」
「ガロアの方でオリヴィエ様が伝手を頼って情報収集とかしてくれるって仰っていたから、ある程度は大丈夫じゃないの? 外に出て行った人達も出来る限りは協力してくれるそうよ」
「そうか、これではますますオリヴィエさんに頭が上がらなくなる」
「魔法学院に入学しなさいって誘われたら断れなくなっちゃうかもしれませんね~」
日向ぼっこをして身体が温まり、心なしか機嫌の好いセリナの言葉を否定しきれず、私はふむんと唸らざるを得なかった。
「セリナの言う通りかもしれないな。魔法学院で得られる知識と肩書は、正直に言えばかなり魅力的ではあるが、今はまだ離れる気にはなれんよ。
そうなったら長期間村を離れなければならなくなるし、それにセリナと離ればなれになってしまう」
太陽の暖かさに眠気を誘われたのか、うとうととしていたセリナだったが、私の言葉を聞くとピンと尻尾を立たせて目を醒ましたようだった。はて、なにかセリナの気を惹くような事を口にしたかな?
「ええ! ドランさんと離れなくっちゃいけなくなるんですか!?」
セリナは掴みかかってくるような勢いで私に這いより、困惑をまざまざと愛らしい顔立ちに浮かべ、私の顔を覗きこんでくる。
「おそらくだけれどね。魔法学院に招かれるのは私だけだろうし、セリナを連れては行けないよ。
こう言ってはセリナに申し訳ないが、ラミアが堂々と街中を歩くのはひどく難しい。
人間に害を成す事があり、強力な魔物として知られている以上、ガロアのような都市にセリナを連れて行ってはセリナの身が危ない」
「でも、でもぉ、ベルン村に連れてきてもらったのも、村の人達とも仲良くなれたのも、全部ドランさんのおかげです。
人間さんの事があんまり怖くなくなったのだってドランさんのおかげで、私はまだ少しも恩返しが出来ていないのに離ればなれになっちゃうのは、凄く寂しいし、嫌です」
しゅんと力無く倒れる尻尾と、悲しげに顔を俯かせるセリナの姿はひどく私の胸を苛んだ。
「セリナ、もし私が魔法学院に入学したらという仮定の話だよ。まだそうと決まったわけでもないのだから、いささか話が飛躍し過ぎだ。セリナにそう言ってもらえるのは、とても嬉しいけれどね」
「あ、そ、そうでした。オリヴィエさんに誘われたわけでもないんでしたっけ。ごめんなさい、私ったら勝手な思い込みで騒いでしまって」
「いいさ。ちょっとした勘違いや思い込みは誰にだってあるものだとも。
ただ将来の夫君を探さなければならないセリナにとっては、他種族の男性が多く居るガロアにはいつか行ってみたいだろう? 私も魔法学院云々は別としていつかは、という興味は持っている」
「えっと、確かにガロアみたいな大きな所には行ってみたいですけど、旦那様探しはもういいかなーなんて、考えていたりいなかったりしていてですね……」
これまでの悲しげだった様子から一転、セリナは恥じらうようにもじもじとし始め、ちらちらと私の顔を見ては視線を外し、視線を外してはまた見つめるという事を繰り返す。
口にした言葉も最後の部分はほとんど聞こえないような小声であったが……ふむん。
*
セリナ達と別れた後、実家に寄り父母と兄夫婦、弟と夕食を共にしてから家に帰った私は、今日も平穏無事に過ごせた事に充実感と満足感を覚えて、安らかな気持ちで眠りの床に就いた。
だが、また明日を精一杯生きる英気を養う為に、安から名眠りの闇に落ちる筈の私の意識は、明瞭さを保ったまま現実世界とは異なる世界へと移っていた。
「私の夢に介入するとは。夢か眠りを司る神、にしてもこうも簡単にできるほどの力は無い筈だが……」
私は白一色の空間が広がる場所で本来の六枚の翼と白い鱗、それに虹色の瞳を持った古神竜の姿で佇んでいる。
「こういう時は鬼が出るか蛇がでるか、とか言うのだったか」
「君がそんな諺を知っていたとはね。いやあ、ひっさしぶりドラちゃ……」
私の目の前に滲むようにして姿を見せた女の影に、私は一拍の間も置かずに全属性の魔力を混合させたブレスを放った。
いかんな、咄嗟にいささか強めのブレスを放ってしまったが……いや、まあ、いいか、あいつだし。あの女の影の正体は――
「ひっどいなあ。出会い頭にいきなり虹のブレスはないんじゃない? あれ、現実世界で吐いていたらえらい事になってるよ」
「あらゆる世界をまとめて消し飛ばしてもそなたは滅びるまい。すまんな、そなたと最後に出会った時は戦っていただろう? ずいぶんと手古摺らされた記憶からついな」
「つい、で世界を崩壊させるような攻撃をしないでよ。ぼくじゃなかったら危ないところさ、ドラちゃん」
「重ねて詫びる。すまぬ。そして久しいな、我が友にして最悪の敵たるカラヴィスよ」
私の眠りに介入しこの虚実の境目が曖昧な世界に引きずり込んだのは、悪神の中で最高位に位置する第一の神の一柱、破壊と忘却を司る大女神アル・ラ・カラヴィスであった。
波打つ豊かな黒髪と肌の下の血管が青く透けて見える白い肌、血を塗りたくったように紅い唇は常にだれかをあざ笑うかのように歪み、金色に輝く瞳は相対した者の心の全てを暴き立てようと隙を窺っているかのようだ。
「ぼくの名前を親しみを込めて呼んでくれるのは君くらいのものだね、ドラちゃん。君が生まれ変わるのを首を長くして待っていたよ。
にしても生まれ変わる前でも後でもドラちゃんって呼べる名前になるなんて、不思議なものだね。ふふふ、神である筈のぼくでさえ分からない事が世界にまだまだあるもんだ」
と言うとカラヴィスは本当に自分の首を伸ばして、私に息が掛るくらいの所まで顔を近づけてくる。
「言われてみればそれもそうだが、よく私を見つけたな。といっても私が人間に生まれ変わってから十六年と幾月か経ってはおるがな」
「ドラちゃんが生まれ変わるまでも結構経っているけどね。ほら、こないだドラちゃんがちょっとだけ魔界に降りてきて暴れたでしょ?
そのお陰でドラちゃんの生まれ変わりに気付けたってわけ。そこから先はぼくのドラちゃんへの愛と執念で見つけたってわけさ」
「ふむ、そういうそなたは相も変わらず壮健であるな。地上ではマイラールの方が勢力で勝っておるが、あまり関係はなさそうだな。しかし、また姿を変えたのか?」
「ふふ、それはそうさ。ぼくが司るのは破壊と忘却」
伸ばした首を戻してその場でくるりと回転したカラヴィスは、今度は逆立った赤い髪が本物の炎を噴き出し、青銅の肌を持った女怪に姿を変える。
「ぼくはぼく自身さえも忘却する。自分の姿を忘れるなんてしょっちゅうさ。過去の自分の企みを忘れて未来の自分の手で壊してしまうようなおっちょこちょい」
さらにもう一回転。炎の髪は毛先に人間の顔を持った奇怪な髪の毛と変わる。そのくせどの毛先にも一つとして同じ顔は存在しないのだ。
そして青銅の肌は毒々しい濃い紫色に染まり、大小様々な瞳がその紫色の肌に無数に開いていく。
「そんなぼくだからうっかり世界を忘れて世界を壊してしまうかも。皆気を付けなきゃ知らない内に世界が無くなってしまうよ?」
三度目、カラヴィスは最初に私に姿を見せた時の黒髪と金瞳を持った美女神へと姿を戻す。やれやれ、相も変わらず落ち着きのない女神よ。
「狂言回しもそこまでにしておくがよい。カラヴィスよ、古き我が友よ、人間に生まれ変わりし我を呼び寄せたのはいかなる理由があっての事か? 旧交を温める為というのならば、喜んで応じよう」
旧友が元気のあり余っている事が分かり穏やかな気持ちで問う私に対し、カラヴィスは私の鼻先の上に乗ってきてうつ伏せになった寛いだ体勢で口を開く。
他人の鼻の上で何を寛いでおるかね、この大女神は。
「なあに、答えは一つさ、ぼくの愛しいドラちゃん。憎いドラちゃん」
カラヴィスはうつ伏せの体勢から立ち上がり、そのまま私の正面へと瞬間移動し、笑みを深いものへと変える。
「ああ、ドラちゃん、ドラちゃん!
悪しき神にあまねく恐怖と絶望を与える神をも超越した竜! 幾歳、無限、永劫、悠久の時の流れの中、ぼくを無限回殺した怨敵、ぼくを無限回楽しませてくれる愛しき友!!
ぼくは君の滅びを願ってやまない。瞼を閉じればいつとても君が死の淵に落ちた果ての骸が像を結ぶ!! ぼくは君の生あることを願ってやまない。
君がいなければぼくの心には冷たい風が吹く、ああ、寂しかった、悲しかったよ、ドラちゃん。
君が生まれ変わりまたこうして会う事が出来て、この胸は溢れんばかりの喜びに満ちている! 歓喜に弾んでいる!! ぼくの心は憎しみに疼いている! 殺意に突き動かされている!!」
ああ、カラヴィスよ、我が友よ、我が怨敵よ。これがお前の望みか。これが私に与えんと願っていたものか。
「ドラちゃん、今度こそこのぼくの手で君に完全なる滅びを! 冥府での眠りに就く事もない完全なる滅びをあげる。君を殺して良いのはぼくだけさ、君を滅ぼして良いのはぼくだけなのさ!!
君が生きている事が憎らしいよ、ドラちゃん。君が生きている事が嬉しいよ、ドラちゃん。ああ、愛しているよ、ドラちゃん!! 破壊と忘却を司る女神の愛を、君に!」
絶頂の頂きさえ越えた歓喜と憎悪に突き動かされ、邪悪なる女神としての本性を露わにしたカラヴィスが、ついにあらゆる方向から私へと襲いかかってきた。
世界そのものが私を目がけて襲いかかってくるのに対し、私はただいつも通りにこう呟いた。
「ふむ」
そして――
*
「なんだよ、ドラちゃん強いじゃん! 転生したんだから弱くなっているんじゃなかったの!? ぼく、本気出したのに何もできなかったんですけどっ!!」
「そんな事を言われてもなあ。そなたほどの大女神が相手となれば私とて本気で応じなければなるまい」
「そーれーがおかしいよ! そりゃドラちゃんは強いよ!? 死ぬ前のドラちゃん相手にしていた時、ぼくはまるで歯が立たなかったからね。
でもさでもさ、わざと人間に討たれるような心理になった上に、人間に生まれ変わって腑抜けていたドラちゃん相手なら、これはイケるって思うでしょ、そりゃあ誰だって思うよ!
なのになにこの強さ! ドラちゃんさあ、もっと空気読んで弱くなっておこうよ!!」
と、私に一方的に蹂躙されたカラヴィスが、ばんばんと私の鼻を両手で叩いた。
「まー今日はドラちゃんがまだ正攻法じゃどうしようもないくらい力を残しているって確認できたし、ついでに旧交を温める事も出来たし、痛い目には遭ったけど得る物の方が多かったけどさあ」
「私は安眠を妨害されて堪ったものではないがな」
「ごめんごめん、ドラちゃん。ほら、お詫びに女神様のキスだよ」
言うや否やカラヴィスは私の鼻にぶちゅぶちゅと音を立てて熱い口付けをしはじめる。
額面通りに受け取るのなら謝意からの行動ではあるが、笑顔の裏で何を考えているのか時に自分自身でさえ分からぬ厄介者だからな、こやつの場合。
「分かったからそう音を立てるな。ちと下品であるぞ」
私は鼻の上のカラヴィスを摘みあげて、目の前に持ってきて正面から見つめて窘める。
「まったく、もう少し神らしく振る舞う事を憶えよ」
「そんなのぼくじゃないやい。ふふ、でも今日は久しぶりにドラちゃんと会えて嬉しかったのは本当だよ? マイラールと雌雄を決する時には是非とも立ち合って欲しいね。
じゃあドラちゃん、今日はそろそろお別れしようか。寂しいからって泣いちゃ駄目だぞ?」
「そなたがようやく去る事への喜びの涙なら流すかもしれんな」
「あっははははは、相変わらずドラちゃんってぼくに容赦ないなあ、辛辣~~。まあいいや、また近いうちに会おうね。じゃ、バ~イ」
カラヴィスはそう言って私に向けて投げキスをして、摘み上げていた私の爪の間から姿を消していた。
マイラール以来久方ぶりに再会した神々の知り合いであったが、今回だけでなく色々と面倒事を持ち込まれそうで、平穏という言葉は今の私からははるか彼方に存在しているのだろうなと嘆息せずにはいられなかった。
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第十六話
いま、私は成竜の姿となって地上世界の空を気ままに飛んでいる。
破棄された廃村を除けば王国北部辺境区最北に位置するベルン村の更に北方には、東西に渡って巨大な山脈――モレス山脈が広がっている。
雲を貫いて屹立するその山脈を眼下に見下ろし、私は翼に受けた大気の流れと風の精霊力を利用し、一気に上昇する。
人間はおろか家々や数千以上の人々が住まう町は芥子粒のように小さくなり、広大な筈の湖でさえも小さな水溜まり程度にしか見えない。
より正確を期するのならば竜の姿をしているのは、人間に生まれ変わった私ではなく、私の魂が生産する魔力と大気中の元素などを材料にして作った分身体である。
この竜の分身体を作り始めたのは、実はごく最近になっての事だ。
ここ最近、旧友であるマイラールに挨拶に行った時とカラヴィスが私の夢の中に侵入してきた時に本来の竜の魂で対応した事で感じた解放感と、ゲオルグらとの戦いで久しく忘れていた翼を使って空を飛ぶ感覚を味わった事が、私が分身体を作った理由だ。
白い雲の海を抜けて中天に差しかかる強烈な太陽の光を満身に浴び、分身体ではあるが、私は久方ぶりになにものにも縛られることなく空を飛ぶ自由を再度満喫していた。
ところがそうして暫くしているうちに、何も考える事もなくただ大気と風の精霊力の流れに任せて心地よい気持ちで空を飛んでいる私の諸感覚が、急速に接近してくる異物の存在を感知して小さく警告を発する。
危険度は極めて低い。だが私は異物の正体に気付いた。私を目がけて近づいてくるのは、紛れもなく竜の系譜に連なる存在なのである。
久方ぶりに感じる同族の気配に私は思わず目元を緩めた。遠い遠い私の子孫と顔を突き合わすのは、そう悪い気分ではない。
ほどなく雲海を下から突き破って姿を見せたのは、鮮やかな深紅の鱗を持った若い雌の火竜であった。
いや、鱗の色彩から考えて火竜の中でも強力な深紅竜であろう。
私の白い鱗と同様に陽光を跳ね返す鮮やかな深紅色の鱗、若々しい生命の躍動に満ちながら老竜ほどには成熟しきらぬ発達途中の四肢から、私はまだ子竜から脱皮して二十年と経過していない成竜であると判断した。
鱗と同じ深紅色の瞳の瞳孔は縦に窄まって険しい警戒と闘争の光を宿して私を見つめる。
人間に換算すれば十代後半、多めに見積もってもかろうじて二十歳に届くかどうかといったところか。
力強く羽ばたく翼、強靭な筋組織と神経、骨格を堅牢な鱗で覆った姿は、久方ぶりに同族を見るという事もあって、竜としては最高齢の私には若々しい生命力に満ちたとても眩いものに見えた。
若いという事はそれだけ未来と可能性に満ち溢れているという事だ。それだけでも素晴らしい事であると私には感じられた。
「貴様、私の縄張りと知った上でこの地に足を踏み入れたのか?」
「いいや、そなたが縄張りとしているとは知らなかった。気に障るようならばすぐに離れよう」
少しは会話を楽しみたかったのだが、どうにも深紅竜は私に対する警戒の念が強い様子で話をするのも難しそうだ。
火竜は総じて気性が荒いものだが、ここまで露骨に警戒しなくても良かろうに。
己の縄張りを侵されたにせよいささか同族を相手に、気炎を吐きすぎのように私には感じられたが、巣立ってからまださほど時間が経っておらず、色々と気を張っているのやもしれぬ。
若者の心を汲む事にして、多少残念な気持ちを抱きながら私はこの場から去ることを提案し、実際にそうしようとした。
だが私が背を向けようと動いた時、深紅竜の口腔に紅蓮の炎が噴き出すのを知覚する。
「二度と私の前に姿を現さぬように痛みを以て知らしめてくれよう!」
「己の縄張りを守る事も大切だが、要らぬ戦いを起こす事は感心できんな」
開かれた深紅竜の口から直径が二階建ての家屋にも達する巨大な火球が放たれる。
竜種の吐く炎は意識する事もなく強大な魔力を帯び、単なる物理的な炎とは一線を画す。それは霊体、魂さえも焼く炎なのである。
「あまり血気に逸ると寿命を縮めるぞ。お嬢さん」
「貴様も私と年はそう変わるまいが、その口を利けぬようにしてやる。私はモレス山脈の深紅竜ヴァジェ! この名を死ぬまで覚えておくがいい」
「ふむ、“炎の偉大なるもの”有翼の蛇ヴァジェトにあやかった名前か。かの女神は慈悲深き善神であるが、血の気の余っておるお嬢さんにはちと似合わぬ。良い名前ではあるがな」
ヴァジェと名乗った深紅竜の返答は、再びの火炎弾であった。
私の顔面を捉える火炎弾を、こちらも白く燃える火炎弾を吐いてぶつけることで相殺し、私は更に上空へ向けて翼を打つ。
火炎弾を相殺するのと同時にすでに動く用意を整えていた私にやや遅れて、ヴァジェもまた私の後を追って深紅色の鱗と皮膜の翼を広げる。
既に雲海の上に出ている以上私とヴァジェの間に遮蔽物は存在せず、眩い陽光の光を浴びて、白と深紅の鱗は眩い輝きを纏う。
「どうした、ただ逃げまどうだけか白いの! 名すら名乗らぬ臆病者めが」
「なに、まだ若いお嬢さんの練習相手になろうと思っておるだけよ。私の名は、ふむ、私に傷をつけられたら名乗ってやろう」
「小癪な」
私は翼をたたみこみ、風の精霊力と大気に対する干渉を止めて急激に失速。
たとえ遮蔽物がないにせよ、高速で飛翔していた私が急激に速度を落として下方に落下するように動いたことで、ヴァジェは私の姿を一瞬見失ったようである。
ヴァジェが私の姿をようやく見つけ出した時、私はヴァジェの腹部を見上げる位置に居た。
そこからヴァジェに合わせて周囲の大気流に干渉して加速し、雲海を背に翼を広げて、ヴァジェのお株を奪う火炎弾を私の前に晒している薄紅色の鱗で覆われた腹部に連射する。
加減した火炎弾は傷を与えるまでには及ばないが、高速で飛行中に下方から大きな衝撃を受けたことで、ヴァジェは一時翼の制御を失い、激しく錐揉みしながら眼下に広がる白い雲海の中へと落下してゆく。
私はそれを追う為に雲海に背を向けた体勢から一回転して、空を仰いで地を見下ろす体勢になってから翼を畳んで急下降に移る。
畳んだ翼を広げて風を受け止めながら、私は雲海のどこに、あるいは既に雲海の下か上にヴァジェが出ているのかを確認しようとして、正面から五連射された火炎弾の回避を余儀なくされた。
やや弾速は遅いが私の回避を予測した予測射撃による火炎弾は、先ほどまでのものより私の体の際どい所をかすめてゆき、焦げた大気の匂いが私の鼻の粘膜を刺激する。
火炎弾の射出方向に目を向ければ、ヴァジェが悔しげな瞳で私を見ていた。
私はヴァジェが次の行動に移る前に先手を打った。周囲に散らばったヴァジェの火炎に混じっていた魔力を自身へと取り込む。
大気中に満ちる魔力に溶けて消えそうになっていたヴァジェの魔力を選別し、自身の魔力と同調させて吸収する私の姿に、ヴァジェは追撃を加える事を忘れて驚いている様子であった。
魔法使用後に周囲に残留する魔力の残滓を吸収する技術は、修得しておけば長時間の戦闘でも自身の魔力の消費を抑え、敵の魔力を利用する効率的な戦闘方法の学習に繋がる。
驚きの様子を見るにヴァジェはおそらく、まだ他者の魔力を同調させ取り込むような事は出来ないのだろう。そういった技術の学習の必要を迫られた事がないのかもしれないが、となると自分より格下の魔物か亜人としか戦った事がない可能性が高い。
「魔力の同調は出来ぬようだな。憶えておくと同格以上の相手と戦う時に役に立つ。修得の努力を欠かさぬようにせよ」
言い終わるのと同時に私は開いた口の先に圧縮していたヴァジェの魔力と、私の魔力を融合させたブレスを私の上空にいるヴァジェめがけて解き放った。
ヴァジェが私に放った集束ブレスと同形態の光線状のブレスは、私の白い火炎を軸にその周囲をヴァジェの深紅の火炎が縁取り、巨大な光柱となってヴァジェへと襲い掛かる。
「私の鱗を焦がす!? 馬鹿な、私は深紅竜だぞ!!」
「そなたの体が耐えられる限界を超えていただけの事。火竜といえどもあらゆる火炎に対し無敵というわけではない。
それと相手から意識と視線をはずす真似は、あまり感心できんな。だからお嬢さんなのだよ」
ヴァジェの意識が逸れた数瞬の間に私は、その懐にまで飛び込み愕然とするヴァジェの首筋に喰らいつく。
そのまま深紅色の鱗を貫く事も出来たが、まだ年若い同族にそこまでするつもりはなく、私の拘束から逃れられない程度に込める力を留める。
私の声と気配に自分が取り返しのつかない失態を演じつつある事に気付いたヴァジェは、私に完全に拘束される前に私を振り払おうと足掻くが、すぐに私が伸ばした腕と尻尾が体 に巻きついて、翼を羽ばたかせることすらできなくなり、落下を始める。
私は地面がぐんぐんと迫ってくる中、翼を広げて風を受けて減速し、竜語魔法による干渉で慣性を操作して体に掛る負荷を全て消し去り、拘束していたヴァジェの体を解放してモレス山脈の山肌に叩きつけた。
私の戒めから解放されたとはいえ、高速で放り投げられたヴァジェは体勢を立て直す暇もなく、勢いをそのままに山肌に叩きつけられて大きく山肌を揺るがす。
ヴァジェの激突と同時に一斉に山肌に蜘蛛の巣状の罅が広がって、ヴァジェの巨体は崩れた土と岩に半ば埋もれる。
それでも私が急速に減速をかけた事もあって、ヴァジェは激突の衝撃にも耐えており骨が折れた様子もない。脳を揺らされてやや意識を朦朧とさせているといったところだろうか。
私は、頭を振って意識と気を持ち直そうとしているヴァジェを見下ろす。
「あまり同族や自分より強いものとの戦いには慣れておるまい? ほとんど必要になる事は少ないとはいえ、戦い方に工夫を凝らすことを常に意識しておくべきだ」
「……ぐぅうう、貴様ぁ、どこまでも私を下に見て!」
「意識を保っているだけでも大したものよ。口惜しく思うのならばいつか私を倒す事だ。
まずは私に傷の一つも与えて、名乗らせる事からだな。近いうちまたそなたに会いに来よう」
私は羽ばたきを打って飛びあがり、ヴァジェの姿が見えなくなる所まで来てから、一旦その場に滞空してふむ、と一つ漏らす。
今回の事で北のモレス山脈に深紅竜の成竜がいる事がわかったのは大きな収穫だ。
将来的にはベルン村以北の荒野や森林地帯、山岳部の開拓も出来たらよいと考えていた私だが、竜の分身体を北に飛ばしていなかったら、何も知らぬままにヴァジェと遭遇し戦う事になっていただろう。
今の内にその存在を知る事が出来たのだから、これから対策を講じる余裕もある。
まあ、現状ではベルン村以北の開拓など絵に描いた夢物語に過ぎない事が最大の問題であるだろうか。
私はこのまますぐ分身体を構成する魔力を本体に戻すのも勿体無いかと、モレス山脈を離れて暫く空中散歩を楽しむ事にした。
さてもうしばしどのようにして時間を使おうかと私が考えごとをしていると、南西の方角から珍しい気配があるのを感じた。
ヴァジェと同程度の力を持った同族の気配。
巣や集落があるわけでもないのに、こうも連続して同族と出会う事は稀である。ただ感じ取れる気配から竜ではなく龍であると判断出来た。
始祖竜が自ら細分化した肉体から産まれた原初の竜達は、位階の他に竜と龍とに分類される。
私を含む最高位の七柱の竜の内、四柱が古神竜であり、残り三柱が古龍神と称されるように、竜と龍とでははっきりと外見に違いが出る。
竜は蝙蝠に似た皮膜を持った翼と長く伸びた尻尾に、人に似た四肢と長く伸びた首を持つが、龍は蛇のように細長い胴に短い手足、鹿のような角が伸びる頭部からは細長い髭が伸び、後頭部からは長い髪がたなびいているのが特徴だ。
私が見つけた龍は、山脈の中にある一つの山頂に出来た湖のほとりで休んでいるようだった。
見る間に龍の姿が私の瞳に映り、龍の方も私の白い姿を認めていることだろう。
背の高い針葉樹に囲まれた鏡のように澄んだ湖の傍らに、その龍はいた。
細長い体はどこまで吸いこまれそうな海の青を思わせる鱗に覆われ、段々になっている腹など体の内側は鱗よりも淡い水色。
細長い口には髭はなく、後頭部から長く真っ直ぐに伸ばされた烏の濡れ羽色の髪が風にそよいでいる。
絹糸に星と月の灯りを取りはらった夜の色を写し取る事が出来たなら、この龍のような美しい黒髪が出来上がるだろう。
底まで見通せそうな透き通った海の青に似た細長い胴体は、龍という生物の王者的な存在の強靭さよりも、柔らかさとしなやかさの印象の方が強い。
これまたヴァジェとそう変わらぬ年頃のお嬢さんである。
私が龍として生きていた時代にはもう少し年を取ってから親元を巣立っていたと思うのだが、最近では親元を巣立つ若者の低年齢化が進んでいるのだろうか。
私は翼の羽ばたきを止めて、私の姿をまじまじと見つめるお嬢さんと挨拶を交す為にゆるりと湖のほとりに舞い降りた。
おずおずと遠慮がちに私に視線を向け、観察している様子の龍のお嬢さんからは、ヴァジェのような気性の荒さは感じられない。
竜種そのものが比較的穏和な性格をしている事もあるが、それ以上にこのお嬢さん自身の個性として穏やかな気性なのだろう。
「こんにちは、龍のお嬢さん。随分と遠き地より参られたようだが、如何したのかね? ここいらではあまり見ぬ顔だが」
気軽な調子で話しかける私に対して、私のような竜と会うのは初めてなのか、ひどく緊張した様子でお嬢さんは精一杯胸を張って私に挨拶を返してきた。
「初めまして。わたくしは三大龍皇であらせられます水龍皇龍吉様にお仕えする、龍巫女の
軽く頭を下げて主の名前と合わせて自己紹介をする瑠禹の所作や、川のせせらぎを耳にしているように涼やかな澄んだ声音は、全てを燃やし尽くさんと猛る業火を思わせるヴァジェとはどこまでも対照的である。
「水龍皇の龍吉公主となるとリヴァイアサンを遠き祖とする系譜に連なる龍であるか。今地上に残る古竜の中でも屈指の力の主と記憶している。
その巫女を務めているとならば、瑠禹もずいぶん高位の龍ということになるな。若いのに大したものだ。ああところで瑠禹と呼んでも構わぬかな?」
「わたくしの事はどうぞお好きなようにお呼びくださいませ。
それとたまたま公主様にお仕えする一族に生まれ付いただけのことですから、お褒めに与るようなことではありません。
あの、ところでこの辺り一帯は貴方様の治める地だったのでしょうか。そうでしたのなら、不用意に足を踏み入ってしまった事をお詫びいたします」
「いやいや、ここら一帯を縄張りにしているのは私ではなく、瑠禹と同い年くらいの深紅竜だ。私は最近この辺りに来たばかりの旅の者だよ。
深紅竜だがずいぶんと気性の荒い竜であるから、どうしてもこれより先に北上せねばならぬ用事がないのであれば、迂回して行った方が良い」
「そうですか。でしたら急ぎの用向きがあるわけではございませんし、北に向かう理由も特にはございませんから。貴方様の仰る通りに致しましょう。
あの、ところで龍吉様とはどのような御縁がおありなのでしょうか? リヴァイアサン様の事もなにやら深く御存じの御様子ですが」
ふむ、ちと口を滑らせたか。
「いや、昔少しな。公主については、そうだな……。そなたが一度公主のもとへ戻る事があったなら、その時にこう訪ねてみると良い。
ひょっとしたら私の事を憶えておるかもしれん。幼少のみぎり、ある古神竜を招いた宴で公主は左の頬に小さな火傷を負った事がある筈だ。
それはもうすでに治り痕は残っておらんが、“もう痛いのは飛んでいったか?”とな」
私が勇者達に討たれる前、龍吉の一族とまだ地上に残っていた龍神の海底にある城に招かれたおりに開かれた宴の席で、まだ幼かった公主が私の言った通りに頬に火傷を負う事故が起きた事がある。
その時に私が公主の所まで行って火傷を治してやり、人間か亜人の子供に教えて貰った“痛いの痛いの飛んでいけ”というおまじないをしてやり、公主はそれまで一番恐ろしかったのであろう私が、優しく接したことで緊張の糸がほぐれ、にっこりと笑みを返してくれたのだ。
「なに、私の言が信じられぬなら公主に訪ねずとも構わぬ。公主は理知的で温厚な名君と聞くが、戯言を耳にしては表に出さずとも不愉快な思いをするやもしれぬ。
仕える主にそのような思いをさせたとあっては、巫女であるそなたに私も申し訳ない」
私は微苦笑と共にそう瑠禹に告げて、それからしばし瑠禹の住む海の中の竜宮城での同胞の龍達、人魚や魚人達との暮らしなどを聞かせて貰い、代わりに私はここから北に行けばヴァジェが縄張りとする一帯にさしかかり、北西に行けばおそらく魔物たちの大規模な集落がある事などを伝えた。
「差し障り無ければ瑠禹がどうしてこのような所に居るのか教えて貰っても良いかね?」
「公主様にお仕えする巫女や武官はある程度年を経ましたら、一度竜宮城を出て外の世界を回り、見聞を広めるのが習わしなのです。
わたくしも直に竜宮城を出る頃合いですので、一足早く外の世界を知っておこうかと思いまして、こちらまで参ったのです」
「ふむ、散策がてら、というわけか」
というのが瑠禹と私の出くわした理由らしい。
私と出くわすまで巨大なロック鳥や飛行性の魔物などは目にしたようだが、竜と出会ったのは私が初めてだったようで、瑠禹もずいぶんと緊張したのだと言う。
「最後に瑠禹よ、そなたは南から飛んできたが龍の棲む東方からではないのか?」
「あ、いえ、東の海を出ましてこの土地の南の海から北上してまいったのです」
瑠禹は少し慌てた様子で隠し事をするように、言葉を濁す。どうやら余り深く追及して欲しい話題ではないようだ。
「ふむ、そうか。時間を取らせてしまってすまぬ。帰り道は気をつけておゆき」
「ご心配いただき、ありがとうございます。時に、貴方様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「おや、これは失礼、名乗らぬままであったか。私は……ドランだ」
人として貰った名を告げるべきか、それとも竜としての名を告げるべきか逡巡したが私は人の父母から貰った名前を気に入っているし、竜としての名を告げても信じて貰えるか分かったものではなかったから、人としての名を口にした。
「ドラン様ですね。今日は本当に楽しいお話をありがとうございました。またお会いする事がございましたら、なにとぞよしなに」
「ああ。また巡り合う運命である事を祈っておる」
身を翻し、青い鱗に覆われた細長い胴体をくねらせながら南へと向かって飛んでゆく瑠禹の姿を見送りながら、私は瑠禹の体から薫っていた香りを思い出し、野太い首を傾げた。
「あれは潮の香り。しかし南の海から飛んでくる間に取れていてもおかしくはない。さて、どんなからくりで潮の香りを纏っておるのやら」
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第十七話
ヴァジェとの遭遇からも分かる通りに、モレス山脈には私が知らなかっただけで何体もの我が同胞が棲息している。
深く暗い洞穴の奥には岩石を思わせる鱗を纏った地竜が寝息を立て、複雑な地形の山脈を吹き抜ける風を翼に受けた風竜が空を飛び、澄み切った湖では翼の退化した鰭を動かして水竜が泳いでいる。
おそらくヴァジェも山脈のどこかにある洞穴に住まいを設けて暮らしているのだろう。
ヴァジェや瑠禹との遭遇以来、私は時折暇を見つけては村での農作業や狩りと並行して分身体を山脈などに飛ばし、空中散歩をするのが日課となっていた。
その日課のお陰で私はモレス山脈に住むヴェジェ以外の竜らと知己を得る事となった。
麗らかな日差しの降り注ぐある日、私はモレス山脈に大小無数に点在する湖の一つに降り立って、その湖に住むある水竜と話しこんでいた。
幸いにして既に老竜になっていたその水竜は、ヴァジェとは違って温厚かつ知的な性格をしており、唐突に姿を見せた私を相手にしても敵意を見せるような事は無かった。
この新しい知己となった水竜は名をウェドロと言い、蛇のように細長い胴体は陽光を青く染めて煌めく青い鱗で覆い、四肢と翼はそれぞれが退化して大きさの異なる六枚の鰭が生えている。
淡い肌の色に近い皮膜を持った鰭は空を飛ぶ力を失っているが、その代わりに水中では音よりも早く泳ぐ事を可能とし、また竜語魔法を用いれば翼が無くとも空を飛ぶ事も出来る。
ウェドロは今では数が少なくなってしまった知性ある竜で、竜言語はもちろん私が人間として使用している大陸公用語も流暢に操る事が出来た。
標高の高い場所にあるこの湖でどうして公用語を学ぶ機会があったのか問うたところ、湖底と繋がっている地下水脈を通じて山脈の外に出た事があり、そこで人間や妖精族などと交流を持って学んだのだそうな。
モレス山脈には何体もの竜種が棲んではいるが、わざわざ話をする為だけに尋ねてくるような者は少ないらしく、縄張りを奪う為でもなく単純に話をする為だけに尋ねてくる私を、ウェドロは快く迎えてくれている。
また鏡のように澄みきった湖には水竜以外にも人魚が棲んでおり、ウェドロはこの湖の主として、またその人魚らの守護者として共に暮らしている。
この湖に住む人魚らは上半身は人間に近しい姿ではあるが、耳は鰭のような形をしており、首には水中で呼吸する為の鰓があり、指と指の間には水掻きが生えている。
腰から下は魚のソレであり、湖の水と近しい色合いの鱗に包まれている。人魚の大部分は海を生息地としている為、彼女らのように山脈の湖に居を構えている者達は珍しい。
おそらくまだこの山脈が海の中に在った頃に付近に棲息しており、その後の地殻変動や天変地異などでこの山脈に取り残された者達の子孫なのだろう。
湖で獲れる魚や藻類、珊瑚などを採取して暮している人魚達は、自分達を“ウアラの民”と呼んでおり、今は湖の畔に降り立った私と水面から顔を覗かせている水竜の様子を遠巻きに見ていた。
人間の視力では向こう岸が見えないほどに広いこの湖だから、数百人に上る人魚達と水竜が共に暮らす事が出来たのだろう。
ウェドロと私の会話は次第にこの山脈に新たに居を構えた新参者――深紅竜のお嬢さん、つまりヴァジェへと変わった。
ウェドロの声は私の母と同じ年ごろの女性のようで、穏やかな気性と相まって耳にするとどこか落ち着く響きがある。
「そういえばドラン、貴殿はあの深紅竜と顔見知りだとか」
「ヴァジェの事か? 顔見知りと言っても売られた喧嘩を買った程度の付き合いに過ぎんが、ウェドロもなにやら因縁を着けられた事があるのか?」
「そういうわけではないが、ずいぶんと張りつめた様子で空を飛んでいる姿を湖の中より見かけたものでのう。
あれがここに来たのは最近の話であるが、まだ親元を離れたばかりで心細いのであろう。それを誤魔化す為に虚勢を張っているように見受ける」
「ふむ、私もウェドロと同じ意見だな。あれは元々気性が激しいようではあるが、いささか無理をしている風にも見えた。
ウェドロとは棲む場所が違うから顔を合わせる事は無いのだろうが、あの調子ならば風竜や地竜達には食ってかかっておるかもしれんな。力を計り間違えて怪我などしなければよいのだがな」
「その言い方はまるで娘を案ずる父親のようだの、ドランや」
「ウェドロこそ種の違う竜の娘を相手に、随分と案じているように見えるぞ」
「なに、年を取ると若い者に要らぬお節介を焼いてやろうと考えてしまうもの。
もっとも貴殿もヴァジェとそう年が変わらぬように見受けるのに、はて、なぜだがお節介を焼こうとは思わぬ。むしろ私と同じか年上の相手と話をしているかのようであるぞよ」
ふむ、鋭いな。実際私が若いのは肉体年齢だけの話であって、精神の年齢はこの地上の全ての竜種よりも年上だ。
ましてや十六歳の若々しい人間の肉体から離れた今の私は、あるがままの魂の状態が晒されているに等しいから一層老成した雰囲気になってしまう。
「その方が気楽で良かろう。それに噂をすれば何とやらと人間達の言葉にあるが、そら、話題の主が空を飛んでおるわ」
私が視線を頭上へ向けるとウェドロもそれに倣った鎌首を持ちあげて頭上を見上げ、私に気付いて射殺すような視線を向けてくるヴァジェに気付く。
遠目に見えてもヴァジェの全身から闘争の気配に満たされた魔力が炎となって噴き出し、天空に竜の形をした小さな太陽が生じたかのよう。
「ドランや、一体どれほどあの娘御を辱めたのかえ。この距離からでも私の鱗を打つほどの熱が届いておるわいな」
「別に辱めてなどおらんよ。初心な娘に恥辱を与えるような趣味は無いのだからな」
「ならば良いが、なにぶんと男と女の事じゃ。どう転んで奇異な目が出ぬとも限らぬ。あまりひどい目に遭わすでないぞよ?」
「分かっておるよ。そろそろヴァジェが痺れを切らしそうだ。今日の話はここまでとしておこう。ではな、ウェドロよ」
「うむ。貴殿もつまらぬ怪我などせぬようにな」
軽く翼を打ち、ウェドロが首を出している水面を揺らして私はその場を飛び立った。
流石にヴァジェも見知らぬ水竜と話をしているところに挑みかかってくるほど短慮ではなかったが、私がウェドロとの話を切り上げて自分に向かってきているのを知ると、全身から放出していた炎の量と熱を更に増して闘志を高め出す。
この前の敗戦がよほどヴァジェの自尊心を傷つけたようだが、にしても私と遭遇したら即座に戦闘態勢を整えるほど意識される事になるとは、自分の行いがどんな形で返ってくるのか分からぬものだ。
「この間ぶりだな、ヴァジェ。ずいぶんと怖い顔を……」
「お前と話す事など、私には無い! 過日に受けた屈辱、万倍にして返してくれるわ!!」
私の言葉を遮ったヴァジェは、自らの言葉を現実のものとすべく開いた口腔の奥に紅蓮の炎を滾らせる。
ふむっふん。親元から離れて神経を尖らせているにしても、これはいささか過敏に反応し過ぎだろう。
いっそ背を向けて関わりを持たぬようにしようか、とも考えたが、せっかく出会った相手だ。縁をこれっきりで終わらせては勿体ない。
私はヴァジェの気が済むまで相手をすることを決めて、この分身体を構築する魔力を励起させ、戦闘態勢を整える。
「灰も残さんぞ!」
「私でなければそうなったかもしれんな」
ごう、と目一杯開かれたヴァジェの口の奥から、火竜の上位種である深紅竜ならではの高温の火炎が私を目がけて吐きだされた。
人間の操る耐火魔法など十人がかりで施したとしても、気休めにすらならない熱量だ。
私は視界を埋める火炎を紙一重の距離で回避し、そのまま火炎を吐き続けるヴァジェへと迫る。
当然、ヴァジェは私を火炎で燃やさんと火炎を吐き続けながら、私の後を追って首を動かす。
青い空にヴァジェの吐く火炎が私の後を追ってあちらへこちらへと伸び、周囲の大気にヴァジェの火の属性を帯びた魔力が散逸して行く。
一向に火炎が当たらず、私との距離が急激に詰まっている事から、ヴァジェは火炎の放射を中止し、周囲に散逸した自分の魔力といまだ燃えている火の粉への干渉を行い始める。
ふむ、この前の戦いで私にやられた事をきちんと学習しているらしい。善き哉善き哉。
「これなら避けようがあるまいっ!」
勝利の予感に浮かれるヴァジェの咆哮と共に、私の周囲の空間が一斉に突如として生じた紅蓮の炎に飲み込まれる。
ヴァジェが周囲に散逸していた魔力と火の粉を触媒にして、わずかな時間の誤差も無く鋼鉄を蒸発させるほどの熱を持った炎を生じさせた。
ヴァジェが生じさせた炎は瞬く間に私の全身を包みこみ、私の周囲に炎に包まれていない空間はなかった。
痛みと共に教えた事ではあるが、この短期間でここまで扱えるようになった事は称賛に値する。
だが私はヴァジェに称賛の言葉ではなく、落胆させる言葉を口にしなければならなかった。
「避けようはないが、防ぎようならあるぞ、お嬢さん」
私は全身の鱗にヴァジェの放った火炎を上回る高熱の火炎を生じさせ、ヴァジェの火炎を一切寄せつける事は無かった。
単純に魔力の障壁で防ぐなり、空間に穴を空けて火炎を何処ともしれぬ異世界に放逐するなりすれば、ヴァジェの放った広域を一斉に燃やす火炎を凌ぐ事は出来る。
私が火炎を以てヴァジェの火炎を防ぐ選択肢を取ったのは、今のヴァジェにとって自分と同系統の、かつ格上の竜との戦いが最良の経験となるだろう、と考えたからである。
「ええい、白竜の分際で私を相手に火を使うか!」
「種族の特性はもちろん重要であるが、外見を裏切る手合いが世に居る事を知らねば思わぬ所で痛い目を見るぞ、お嬢さん」
「そのように上から見下した物言いばかりをして、だから貴様は気に入らんのだ!」
再びヴァジェは全身に炎を纏う。ただし今度は紅蓮の色ではなく鱗と同じ深紅の色をした炎であった。
おそらくヴァジェの出し得る最大熱量の炎であろう。ヴァジェの深紅竜の魔力が練りこまれた炎は、物質界、星幽界の垣根を越えて万物を燃やす真の竜種の炎。
私の振る舞いがヴァジェの逆鱗をこれでもかというくらいに刺激してしまったようだ。さて、では目障りな年長者らしく、血気盛んな若者の相手をしてみせようではないか。
私はヴァジェから仕掛けてくるのを待ち、その都度ヴァジェの攻撃を防ぎ、避け、時に反撃を織り交ぜて戦い続けた。
私達の間には無数の火炎が時に弾丸、時に集束された線、時に放射状に放たれて、青く抜けた空の一角を深紅と白の二色の炎が染め上げる。
おそらくヴァジェにとって自分より火の扱いに長けた竜種は父母や兄弟などの親族だけだったろうが、白竜でありながら自分以上に火炎を扱ってみせる私に対し、驚きを隠せないでいた。
それでも火炎を使って私に攻撃を仕掛け続けるのは、ヴァジェの深紅竜としての矜持の故か。
だが全霊を以て放つ炎が私の鱗にすら届かず、時には逆に私の炎に自分の炎が焼き消される事が続けば、気位の高いヴァジェも流石に火炎を持って挑み続ける事の愚を悟る。
ヴァジェはこのまま勝ちの目の見えない火炎の応酬を続けるか、あるいはそれ以外の――例えば肉弾戦に持ち込んで私と戦うか、逡巡の迷いを見せた。
ふむ、火の扱いに関してはもう十分にやったところ、次は取っ組みあっての戦いにするか。
私はヴァジェの迷いを見逃さず、周囲への大気への干渉を行い、翼の一打ちで急加速。風の砲弾と化した私は、ヴァジェに手を伸ばせば届く距離まで、ヴァジェに反応を許さずに接近する。
近しい体格の相手との戦いに慣れていないヴァジェは、全力を込めて腕や尻尾を振るい、私の喉笛に牙を突き立てんと首を伸ばしてきたが、間合いを詰められた事への動揺から余分な力が込められている為に回避する事は容易かった。
巨人種でも一撃で首をへし折られる腕の一振りを掻い潜った私は、伸びきったヴァジェの左腕に組みつき、その勢いと体重を活かしてヴァジェを空中で仰向けに倒した。
組みついた体勢のまま、翼を動かし、重力への干渉も並行して行い、無理な体勢のまま私とヴァジェの双方を空中に浮かべ続ける。
ヴァジェが首を伸ばして私に火炎弾を叩き込もうとするのを、私は組みついたヴァジェの左腕に足を絡め、曲がらぬ方向に体重をかけて苦痛を与えることで制した。
そのままぎりぎりとヴァジェの左腕を締め上げてヴァジェが降参するのを待っていたのだが、しばらくヴァジェは耐え続けたものの、流石にヴァジェも左腕を壊されては堪らぬと、尻尾を使って私に降参の意を示してきた。
ぺちぺちとヴァジェの尻尾が弱々しく私の足を叩く。
「ぐ、ぐぬぅぅううう……」
「む、すまぬ、少し力を入れ過ぎたか」
私は短く謝罪の言葉を吐いてから締め上げていたヴァジェの左腕を解放し、軽く翼を動かしてふわりと体を離す。
ヴァジェはまだ痛みが骨の髄まで残っているのか、仰向けに倒れていた体を起こして左腕をしきりに擦っている。噛み締めた牙の間からは苦痛を堪える唸り声が零れている。
私の前という事で痛みを必死に堪えるヴァジェの傍らに近寄って、私は苦痛を堪える為か前屈みになっているヴァジェの顔を覗きこんだ。
「骨が折れてはおらん筈だが、腱を痛め……」
「ぐるうぉああ!!」
「ふむ」
首を伸ばして覗きこむ私に、隙を見出したヴァジェが私の首根っこに牙を突きたてようと身を翻そうとするのを、私はヴァジェの脳天に手刀を叩き込んで押さえ込む。
演技が下手過ぎて見え見えである。ヴァジェに腹芸は無理だと確信させるに十分すぎる大根役者ぶりであった。
「がっ!?」
「殺気を抑えるくらいの芸当はせんと、そんな演技では騙される者はおらぬぞ。ヴァジェよ、そなたはいささか直情的に過ぎるな。
老竜の年頃になれば落ち着きは得られるであろうが、今の内から頭に血が昇らぬように自制せぬと冗談ではなく寿命を縮めかねんぞ」
「つぅ、私の命は、私だけのものだ。お前にとやかく言われるものではない。第一、私とさして変わらぬ外見の貴様が、分別臭い年寄りめいた事を口にしても、説得力などないわ」
最古の竜であった私の言動に、まだ若いヴァジェが年寄り臭さを感じるのは仕方のない事だが、なまじ分身体の外見がヴァジェとそう年齢の変わらぬ成竜であることも、ヴァジェの反発を買う理由の一つになってしまっている。
最初に出会った時に少々こてんぱんにし過ぎたのか、ヴァジェは私の顔を見るとすぐさま頭に血が上ってしまい、自制する前に挑みかかってしまうようだ。
ただまあ以前私が口にした戦い方の工夫は頭の片隅で考える程度の事はしているようで、前回と同じように私が翼を畳んで急制動をかけて背後を取ろうとする動きには反応していた事から、私の口にしている事を完全に無視しているわけではないらしい。
若者の成長は早い。私の言う事を学んで手強さを増すヴァジェの姿に、私は若者の特権だなと感慨深さを覚える。
「しかしヴァジェよ、お前のその気性では番いとなる雄が見つからぬぞ。母御と父御に孫の顔を見せてやろうと殊勝な事は考えておらんのか?」
それこそヴァジェの父母の様な気持ちで問う私に、ヴァジェは何を言っているんだこいつはと盛大に深紅色の鱗で覆われた顔に浮かべた。
人間に換算すればリシャより一つ二つ上といったところのヴァジェにとって、まだ自分が母親になるという事に対する実感はまるでないのだろう。
「夢にも考えた事はないわ。第一お前に心配されるような事でもない!」
「だからその短気を直せと言うに。取り敢えず元気は有り余っておるようだが、もう一戦構える気にはならぬし、今日はこれぐらいで切りあげるとしよう。ではヴァジェよ、またな」
「次こそ貴様の全身を紅蓮の炎で包んでくれる」
「それは楽しみだな、お嬢さん」
私のお嬢さん発言に、ヴァジェが口内に紅蓮の炎を溜め込むのが見えて、私はやれやれと言う代わりに翼を大きく広げてその場から飛び上がり、瞬く間に背後のヴァジェは小さな深紅色の点に変わった。
見る間に小さくなってヴァジェが、私の姿が見えなくなってもなお虚空に私の姿を思い描いて睨み続けるのが容易に想像できた。
ふむ、なんとも元気なお嬢さんである。これはもうしばらく付き合って、鍛えてみるとしよう。
*
村での日々とはまた別に私は定期的に成体の白竜を模した分身体で、ベルン村周囲の空の散歩とヴァジェへの戦闘方法の教授――ヴァジェからすれば捉え方は随分と違うだろうが――を、継続的に行っている。
ベルン村での日々の充実もあって空を羽ばたく竜体の私も気分は意気揚々と弾んでおり、ヴァジェが見たら呆れた顔をしたかもしれない。
空中で思わず輪を描いて見せようかと私が翼を羽ばたかせた時、ヴァジェよりも早く南西の方角から憶えのある気配と姿が近づいてきたのを感じた私は、翼の羽ばたきを止めてそちらへと進行方向を転じた。
私が白竜の分身体を通じて知り合った二体の同胞の片割れ、龍巫女の瑠禹である。
方向を転じてからお互いを目指して進んでいた事もあり、そう時間をかけずに私は空で瑠禹と出会った。
「瑠禹か、壮健なようでなによりだ。どうしたね、ああ、龍吉殿に例の話でもしたのかな?」
青く晴れ渡った空の下、白い雲海の上で私は青い鱗の美しい竜の巫女に問い、清楚とした美しい巫女はこれまで私に見せた事のないどこか緊張を帯びた顔つきで答えた。
「はい。ドラン様より伺いましたお話を公主様にお伝えしたところ、公主様は大変懐かしがられて、ぜひともドラン様とお会いしたいと。
どうか私と共にわたくしどもの城へ来てはいただけませんでしょうか?」
ふむ、よもや龍吉公主が憶えていてくれたとは。
まあ、ドランである私が至高の地位にあった竜と同じ個体であるとまでは考えは及んでおるまい。おそらくだがあの場に居た古竜や真竜の系譜のものと考えているのだろう。
地上に残る知恵ある龍の中でも特に名高い龍吉公主との縁、結んで置いて損はあるまいと、私は緊張した面持ちで私の返答を待つ瑠禹に、承諾の意を伝えた。
「構わぬとも。名高き龍吉公主に直に拝謁出来る栄誉は、滅多にあるものではなかろう。この身に余る光栄なことだ」
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第十八話
ベルン村よりやや北方、いつも私がヴァジェと顔を合わせる空域よりも南の空の上で、私は鮮やかな青い鱗に覆われた体に、かすかな潮の香りを漂わせる水龍の瑠禹と対面している。
足元には大地と空とを遮る広大な白い雲が海の如く広がり、私は太陽の光を満身に受けながら、瑠禹の主である水龍皇の龍吉からの招きに応じる答えを瑠禹に告げた。
「時に瑠禹や、龍宮城だったか? そこに連れて行きたい者がおるのだが、その程度の融通は利くかね?」
「ドラン様以外の方をでございますか。ええ、そう数が多くないのでしたら特に問題はないかと思います。
ただ、あくまで公主様の私的なお客様という事ですので、城の者達総出での歓迎というのは少々難しく、その点はなにとぞご了承くださいませ」
「なに、どこの馬の骨ともしれぬ竜に過ぎぬ身なれば、それでもなお身に余る光栄。分は弁えておるつもりだ。
さてもう少し北上すれば向こうから勝手に私達の方にやってくるだろう」
瑠禹は私の言葉から私の招きたい者が誰なのか察しがついたようで、あ、と一言漏らして私におずおずと問うてくる。
「ひょっとしてドラン様が招きたいというのは、以前お伺いした山脈に棲む深紅竜の方でございますでしょうか」
「うむ。ヴァジェという女竜なのだがどうにも跳ねっ返りが過ぎる性格をしておってな。世界の広さというものを教えれば少しは大人しゅうなるだろう。
龍吉殿のせっかくのご招待を利用するような形で申し訳ないが、これも私なりの親心のようなもの。どうかお許し願いたい」
「公主様は御心の広い方ですから、よほど無作法な方でなければ大丈夫でございますよ。
ですが深紅竜の方にとって、海中にある龍宮城は決して居心地の良い空間とは言えません。体調を崩される心配がありますが……」
「なに長居するわけでもない。その程度で体調を崩すほど可愛らしい女竜ではないさ、アレはな」
「ドラン様がそう言われるのでしたなら、わたくしが申し上げる事は御座いません。ところでそのヴァジェ様は、龍宮城の件は既に御承知の上なのでしょうか?」
「いや、これから言って聞かせる。典型的な火竜だから最終的には力で解決する傾向にある。逆に言えば自分より強い相手には従うのでな。言う事を利かせるのは簡単だ」
声をかけただけでも烈火のごとく私に悪罵の文言を叩きつけてくるヴァジェの姿が想像できて、私は胸中でこっそりと笑みを零した。
ヴァジェは本当に分かりやすい娘で、どうにも本当に父親か祖父のような気持ちに私はなってしまうのである。
瑠禹を伴い白雲の上を飛んだ私達が目的である深紅色の鱗を持った女竜と遭遇するのには、いつもと変わらぬ手順で済んだ。
方法は至って簡単でヴァジェの縄張りの中を適当に飛ぶだけだ。
私が知る限り最も簡単な狩りの方法とたいして変わらない。ヴァジェが成竜である事を除けば、これほど簡単に獲物をおびき寄せられる狩りもあるまい。
私と瑠禹がしばし北上してからその場に留まり、待ち受けているとすっかり慣れ親しんだ深紅竜の魔力と気配、匂いが私の知覚に触れる。瑠禹も、私に遅れて気付いたようである。
これまでとは違い私の傍らに瑠禹が居る為にか、接近中のヴァジェが先制のブレスを吐いてくる事もなく、ヴァジェは下方から白い雲海を突き破り、千々に千切れて霧のように変わった雲を纏いながら、私と距離を置いて翼を羽ばたかせて滞空する。
ヴァジェの鱗と同じ色の瞳は、私の左方に居る瑠禹へと向けられて、属性の相反する水龍の一種である水龍の存在に不愉快そうな色を一瞬浮かべた。
瑠禹の方からもヴァジェが姿を見せたことで纏う雰囲気に、緊張感が増している事がひしひしと感じられる。
「白いの、その青い龍を連れて如何なる用向きか?」
「ヴァジェよ、私とお前が初めて出会ってから幾度となくお前に色々な事を教えてきたつもりだ。
その中でお前も私が教えた事を忠実に学ぶ姿勢を表には出さぬが、暗に示して私もお前に会いに来る甲斐というものを覚えている。
しかしながらお前のその態度は相も変らぬ。それはそれでお前の個性かもしれんが、お前の将来が少なからず心配だ。
なのでその鼻っ柱を折るなり凹ませるなりする為にも、お前に世界の広さというものを見せた方が良いと考えた」
「要らぬ世話を焼いてくるものだな。私が貴様の思い通りになるとでも思ったか? 世界の広さとは言うがそこな水龍一匹を連れてきてなんになる?
お前と纏めて私の炎で焼いてくれるぞ。はん、親の膝下から離れた事もなさそうな小娘なぞ連れてきおって」
「なんて口の悪い方。ドラン様、わたくし、この方のことをあまり好きになれそうにありません」
流石に瑠禹も侮蔑を隠さぬヴァジェの言葉には怒りを示した。
一方でヴァジェは瑠禹が私の名前を呼んだ事を聞き咎めたようで、瞼をピクリと震わせるや、全身から視覚化できるほどの深紅色の魔力が陽炎のように立ち上った。
ヴァジェには私に傷を着ける事が出来たら名乗ると言っていたが、瑠禹には普通に教えていたからな。
そこで互いの認識に食い違いがあるというか、とにかくヴァジェは私が瑠禹に名前を教えている事が気に食わないらしい。
「ほう、貴様はドランと言うのか。そうかそうか、ふん、ということはその水龍はお前に傷の一つも負わせたと言う事か。……面白い。どれほどのものか、私が確かめてやる」
「なにやら一方的に嫌われているようですが、わたくしがなにかあの方の気に障る事をしましたでしょうか?」
「いや、実はヴァジェには私に傷をつけられた名前を教えてやると条件をつけていてね。ヴァジェはまだ私の名を知らぬのだ。
であるのに瑠禹が私の名前を知っている事を、瑠禹が私に傷を着けられるほどに強いと解釈したのだろうが、すまぬ。余計な面倒に巻き込んだ」
「なるほど、そのような御事情がありましたか。ですが、わたくしも公主様にお仕えするものとして、侮られたままにしては公主様の沽券に関わります」
私は魔力を高めてお互いを睨みあう二体の間に体を割り込ませて、制止の言葉をかけた。
「止めぬか。ここでお前達が諍いを起こしても何も良い事はない。ヴァジェよ、私は今日瑠禹の主である龍吉より龍宮城へと招かれた。
これはお前の見聞を広める良い機会と、お前を共に行かぬかと誘いに来たのだ。お前とて地上に残った数少ない古龍である龍吉の名は知っておろう。より高位の龍というものを一度見ておくと良い」
流石にヴァジェも龍吉の名は知っているようで、私の口から出てきたその名前にわずかな驚きを覗かせて、口中の紅蓮の炎を鎮める。
ヴァジェが再び口を開くまでの間には幾許かの間があり、どう応えて良いものかこの苛烈な性格の深紅竜にしても悩んだようであった。
「……私が行く理由はあるまい。第一、水の中は好かぬ」
「そう言うな。はっきりと格が上の存在を知ればお前も少しは考え方を変える事もあろう。
龍宮城は海の底ゆえ、お前にとっては慣れぬ環境であろうが竜語魔法を使えば良い。ふむ、ヴァジェよ、環境に適応するか、自分に環境を適応させる竜語魔法は使えるか?」
「……」
「ならば私がお前の分も使えば問題あるまい。お前とて地上に残った龍族の中でも最強の一角に数えられる龍吉を見てみたいとは思わぬか?
せっかくの機会ぞ、これを逃せば龍皇に拝謁できる機会など千年か二千年は待たねば次は来ないだろう」
ヴァジェは、うむ、と口ごもって随分と悩んでいるようだった。この深紅色の鱗をした女竜には珍しい様子を私はしげしげと観察した。
「さて、如何する、ヴァジェよ」
「……よかろう。水龍皇龍吉様のご高名は私も耳にしている。直接拝謁する栄はなくとも、龍宮城とやらを一度見るだけでも良い経験にはなる」
「ふむ、よろしい。そういうわけでな、瑠禹よ、私とヴァジェの二体、龍吉のお招きに与ろう。これから向かうとしてどれほど時間が掛るのだ?」
どことなく機嫌が悪くなって見える瑠禹は、なぜだか淡々とした口調で私の質問に答えた。リシャを前にしている時のセリナに近い反応である。
「ドラン様の翼でしたなら、ここより南西の方角へ半日も飛べば龍宮城の上空へと到着いたします。
そこからさらに海を潜り、龍宮城につくのに四半刻ほどかかりましょう」
抑揚に乏しい声音で告げるや、瑠禹とヴァジェは互いに深紅と青の視線を交差させたかと思えば、つんと互いの顔を背け合った。
なんともはや、一目顔を突き合わせて少しばかり言葉を交しただけで、互いの相性が悪いと心底から思いあっているらしい。
女心は、人間であれ魔物であれ龍であれ、難しいものよ、と私は心中で嘆息せざるを得なかった。
それから私達は渋々と言った様子を隠さぬヴァジェを交え、翼を並べてワイバーンや他の飛行魔獣の翼が届かぬ高空を飛んでいく事にした。
飛翔を続けて王国の港町から出ている帆船や、逆に寄港しようとしている船などを見物などしながら、青い海の上を私達は飛び続けた。
私が一人前世と今とで見た海の違いなどを思い感慨に耽っていると、先を行っていた瑠禹が進む事を止めて空中でその長い胴体をくねらせて、私とヴァジェを振り返る。
どうやら、龍宮城の上空にまで到達したらしい。私の翼で半日の道行きであったから日は暮れ始めているものの、世界はまだ夕陽の色よりも青色が主だ。
ここから更に海を潜って海底にある龍宮城を目指すわけだ。周囲に人間やその他の亜人種族の用いる船の影はない。
「これより海に潜ります。わたくしは問題ありませぬが、お二方は竜語魔法による肉体の保護をお忘れなく」
私はこのままでも海底はおろか大気の層を突きぬけて太陽に突っ込んでも問題ないが、ヴァジェはそうも行かない。
足元が島影一つ見えない海原に変わってからヴァジェはどうも落ち着かない様子を見せており、やはり深紅竜として視界を埋め尽くすほどの海が足元にあると気になってしまうようだ。
これで海中に入ったらどうなることやら。
私は気がそぞろになっているヴァジェに首を向け、喉の奥で小さく唸ってヴァジェの周囲の環境が深紅竜にとって最適なものに変わるよう干渉した。
ヴァジェの体の方を操作するのでは後で要らぬ怒りを買うのは、火を見るよりも明らかであるからこのようにしたのである。
「ほれ、これで不愉快さは消えただろう。今のお前なら海の底だろうが嵐の中であろうが、火山の火口のように居心地の良い場所と感じられるはずであろう」
ヴァジェは少し驚いた顔をしたが口を噤んでそっぽを向くきり。礼の言葉の一つくらい口にしても罰は当たるまいに。ケチだな。
「深紅竜を相手に竜語魔法を一方的に掛ける。やはりドラン様は公主様がお気になさるだけの事はある方でございますね」
「瑠禹の主殿には及ばん。これで私達の準備は整った。そろそろ龍宮城とやらを拝みに行こうではないか」
「はい。それと申し訳ございません。お伝えしていなかったのですが、龍宮城より公主様の迎えが参ります。
迎えの者に乗って龍宮城まで御案内致します。ですから直接海の中を泳ぐ必要はございません。あ、話をすればなんとやら、迎えが参りました」
なんだ、泳がずとも良いのか、と私が拍子抜けした矢先に瑠禹が眼下の海面を示し、つられた私とヴァジェが瞳を動かせば海の下から巨大な黒い影が急速に浮上し、海面を突き破って私達の目の前に姿を見せたではないか。
まるで小さな山を目の前にしているかのように、成竜である私でも思わず圧力を感じるほど巨大な亀だ。
その巨体も眼を惹くがなにより甲羅の中央に海中から現れたにもかかわらず、まるで濡れた様子のない一軒の家屋が建っているのが特徴的である。
「大きな亀だな。あの家屋の中で待てばよいのか? 巨人族でも入れそうだが私達では無理だな」
「龍の姿のままでは無理でしょう。
ですが龍宮城に棲む龍達は普段はほとんどが龍人の姿になっておりますから、わたくし達も龍宮城に向かうに当たっては龍人か人間の姿を取らねばなりません」
龍人あるいは竜人、ドラゴニアンと呼ばれる種族は読んで字のごとく龍の特徴を兼ね備えた亜人である。
牛人であるミルのように、体の一部が竜ないしは龍のものに変わっている人間の姿をしており、亜人の中でも最高峰の魔力、体力、知力、霊格を備える。
中には一時的に成竜などの姿に変わる能力を持つ者もいるという。
「ではわたくしから」
瑠禹は空中で龍から龍人へと姿を変えながら大亀の上へと着地していった。
瑠禹の体は尻尾や四肢の先など体の末端から光の粒へと変わり、大亀へと降下している間に全身が光の粒に変わって形を変え、大亀の甲羅に立っている家屋の向かい合う龍の透かし彫りが施された翡翠の扉の前に降り立った時には、見目麗しい龍人の姿へと変わっていた。
瑠禹は十代後半ごろの少女へと姿を変えていた。
漆のように艶やかで深い色合いの黒髪は真っ直ぐに伸ばされて、瑠禹の小ぶりな尻にまで届くほど長い。その黒髪は柳眉の上で綺麗に切り揃え、左右の側頭部をまっすぐに流れる横の黒髪は腰のあたりまで伸びた所で毛先が切り揃えられていた。
肌の下の血管が青く透けて見えるかの様に白い肌はきめ細やかで、それ自体が絹のように美しい光沢を纏っている。
星が封じられているかのようにきらきらと輝く青い大粒の瞳に、桜の花びらをくりぬいたような淡い色彩の唇、目と鼻と唇の小ぶりなそれらの配置は妙を極めたもので、人間であれば男女を問わず目を惹かれる美貌がそこにある。
私を見上げる黒髪の美しい異国の装束を纏った少女の本来の姿が龍である事を証明するのは、黒髪の脇から先端を覗かせている鹿に似た龍の耳と頭頂部の両脇から斜め後方へと突き出ている節くれだった角、それに背中側の赤い帯の下部から伸びている青い鱗に覆われた尻尾だ。
また時折わずかに覗く首筋や目元の辺りに、光の辺り具合かあるいは瑠禹の精神状態によって、青い鱗のような文様が浮かび上がっている。私に向けてかすかに振られる手も指先に至るまでが、染み一つ、傷一つない繊細な人間の手に変化している。
私達を見上げて小さく微笑む瑠禹に、私は見事な変化だと賛辞を贈りたい気分であったが、ヴァジェはそうでもなかったようだ。
「ちっ、わざわざ人間などに姿を変えねばならぬとは七面倒な事を考える」
私の少し後ろに居たヴァジェは瑠禹に続いて空中で小さく咽喉を鳴らし、自分の巨体を炎で包み込みながら大亀へと降下する。
一瞬、私の顔と海面をヴァジェが生んだ炎が赤々と照らし、私が炎の輝きにかすかに目を細める先でヴァジェの姿が変わる。
重厚さを感じさせる鱗に包まれたヴァジェの巨躯を包んでいた炎が消えた時、瑠禹からやや離れた位置に素足を降ろしたのは、長身美駆の褐色の肌に血の色にも似た深い紅色の髪を持つ妙齢の美女へと姿を変えたヴァジェであった。
瑠禹とはまるで正反対の魅惑的な体つきと肌の下から溢れんばかりの生命力を辺りに撒き散らす、妖艶でそれ以上に苛烈な性分をなによりも外見で主張する美女であった。
さて、最後に私だな。瑠禹とヴァジェを真似て空中で私の体は無数の光の粒へと変換され、甲羅の上で改めて集束し新たな形に変わる。
同年代の男性らよりはやや背が高く、黒い髪に青い目とよく日焼けした肌を持った農民の少年に。あまり実感は無いが、母やアイリなどから言わせれば私の顔立ちはまあそこそこ良いらしい。
人間の姿に変わったことを確認した私がふむ、といつもの癖を零して左右のヴァジェと瑠禹に視線を巡らせると、おおむね予想した通りの表情を浮かべて私の姿を頭のてっぺんからつま先までじろじろと見ている。
「入らんのか? 亀殿が潜れずに困ってしまうぞ」
私の声に正気を取り戻した二人は慌てて私に続いて家屋の中へと足を踏み入れる。
中は見慣れぬ東洋の様式らしく、墨だけで描いた掛け軸や奇妙に見える形状の花瓶などが置かれ、中央には六人ほどが席に着ける大きさの、巨大な珊瑚を加工したらしい円卓がある。
黄金の香炉からは白い煙が立ち上り、家屋の中に潮の香りではなくかすかに甘みの混じる匂いが立ち込めている。
円卓の傍らには茶器が置かれた台車が置かれていた。茶は客人の咽喉を潤す為の品であろう。
「ふむ、空間を操作して広くしてあるな。実質広さは無限にも等しいか。なかなか高度な竜語魔法を施してあるようではないか」
「あ、はい。まだ地上に真龍様達が残っていらっしゃった時代に竜語魔法を用いて建てられたものです。どうぞお掛けください。すぐにお茶の用意をいたします」
まだ私の変化した姿に対する困惑は残っているようだが、瑠禹は台車に近づいて三つの白磁の茶碗に、同じく白磁に珊瑚の絵が描かれた急須から琥珀色の液体を注いでいった。
新たに立ち込めた香りの良さに、茶の味に期待を寄せながら私が円卓の椅子に腰かけると、対面に座ったヴァジェがまじまじと私の顔を見つめながら口を開く。
なお椅子は龍人の着席を前提としているようで、腰掛ける部分と背もたれの間に広く空間が取られ、尻尾はそこから垂らすようであった。
それから大亀に乗せられることしばし、速度が緩やかになった事で目的に近づいてきた事が察せられた。
席を立ち四角い窓に顔を寄せて明るさを増した外を見ると、王国や近隣の諸国とはまるで様式の異なる巨大な城郭が大亀の向かう先に建てられている。
地上のいかなる人間国家にも再現不可能と思えるほど、膨大な貴金属と資材とそして悠久の時を用いて建立された、途方もなく巨大で荘厳な海に住まう者達の城、それが龍宮城であった。
空になった茶器を戻して瑠禹の案内に付いていく形で、私達は大亀の甲羅に建てられた家屋から外に出る。
家屋の中に籠っていた甘い香りに変わって、家屋の外にはかすかに潮の香りを含んだ爽快な空気が満ちていた。
見上げるほど巨大な建物の中に海水が引き込まれ、そこを通じて大亀は龍宮城の内外を出入りしているのだろう。家屋の外に出た私は大亀の周囲が真っ白い石畳みと白い壁、見上げるほど巨大な珊瑚が柱の代わりになっている船着き場のような場所であった。
絨毯の脇には瑠禹と同じ東方風の着物と、周囲の灯りが透けて見えるほど薄い羽衣を纏った龍人や人魚達が列を作って腰を曲げ、頭を下げて私達を迎えている。
龍人達は瑠禹と同じように角や耳、尻尾が龍である者達で、人魚は下半身が皆一様に魚であったが、中には二股に分かれている者、耳が人間と同じ形をしている者、魚の鰭状になっている者と大なり小なり外見に差異があった。
「公主様のお客様をお連れいたしました。ドラン様とヴァジェ様です。皆、失礼の無きように」
「はい、巫女様」
巫女ともなれば龍宮城の中でも地位は高いらしく、女官達が瑠禹に応じる声には紛れもない敬意が強く聞きとれる。
私に見せる子供らしさを払拭し、女官達からの敬意を受けるのに相応しい巫女らしい態度を取る瑠禹の姿に、私は孫娘の成長した姿に感心する祖父の気分であった。
どれほど龍宮城の中を歩いたものか、やがて瑠禹は巨大な板状の黒曜石に黄金の龍の細工が板金された扉の前で足を止めた。
扉の奥にこの龍宮城の主たる龍吉が居るのだろう。扉の向こうから感じられる魔力に当てられてか、ヴァジェが酷く緊張した様子で生唾を飲み込む音がいやに大きく聞こえた。
ふむ、確かにヴァジェや瑠禹よりは強力だが、それほど気を強張らせる事もあるまいに。
流石に古龍とはいえ仮にも古神竜であった私からすれば、驚くほど力を退化させた子孫に過ぎないから、ヴァジェのように龍吉の力を感じてもこんなものかとつい感じてしまう。
「公主様。巫女の瑠禹でございます。ドラン様とお連れの方をお連れいたしました」
護衛らしい武官の影もない扉の向こうに瑠禹が恭しく頭を垂れて口上を述べると、そう間をおかずに扉の向こうから、音楽神の眷族が爪弾く調べのように美しい声が返ってきた。
「御苦労さまです、瑠禹。お客様をこちらへご案内なさい」
「はい」
瑠禹は顔を伏せたまま扉を押し開き、室内に一歩を踏み入れる。
特に礼儀に関しては詳しい事は聞いておらず、あくまで私的な客であるから多少の無作法は許してくれるそうだが、さてどこまで気を張ればよいのやら。
ここに至るまで私達の左右に列を成していた女官たちは部屋の外で足を止め、顔を伏せたまま進む瑠禹の数歩後ろを私とヴァジェは歩いて室内に足を進める。
黄色や桃色、青色にうっすらと染色された薄絹の紗幕が天井から下げられ、赤水晶が敷き詰められた床を歩く音を立てながら進んだ私達は、部屋の奥で朱塗りの象牙から彫琢した円卓と、珊瑚を加工した椅子に腰かけた龍人の美女の前に辿りついた。
金細工の施された漆塗りの長櫃、箪笥、薄紫色の煙を芳香と共に立ち昇らせる黄金の香炉と、三十畳はゆうにある部屋の中の調度品は、そのどれもが王都の大貴族もおそらく眼を剥く値段もつけられない貴重品ばかりであろう。
そして部屋の主たる龍人の姿を取った美女、三大龍皇の一柱、水龍皇たる龍吉は壮麗かつ華美な部屋の主に相応しい美貌と気品の主であった。
膝まで届く豊かな黒髪は壁際で赤い火を灯す燭台の明りを煌々と照らしだし、青い水晶細工の簪を用いて後頭部で結われてから、龍吉の肩や背に沿って黒い流れとなって伸びている。
人間の成人女性とさして変わらぬ体躯は縞絹の単衣の上に、白、青とそれぞれ染色され金糸と銀糸をふんだんに用いた鳳凰や龍、亀といった霊獣の刺繍が施され、繊維状に紡がれた宝石類が惜しげもなく使われた衣を重ねている。
美女を例えるに絵に描いたような、というものがあるが龍吉は絵にも描けず絵師が自身の非才に筆を折る他ない美女である。
「皆さま、突然の招きに快く応じてくださり、お礼申し上げます。私が当龍宮城の主、龍吉と申す者。長い道行きにお疲れの事でしょう。どうぞおかけになって」
席から立ち上がり、着席を進める公主に従い私達は円卓の席に着いた。
ヴァジェは実際に目の当たりにした古龍屈指の実力者の、柔らかな態度にどう反応すればよいかさっぱりと分からずに困惑していたが、私がさっさと椅子に座ったのを見て慌てて自分も席に着いた。
龍吉を前にいつもと変わらぬ私の態度に、ヴァジェと瑠禹ははたしてどんな感想を抱くことだろうか。
「私はドラン。この度は高名なる龍吉御自らのお招きに与り光栄の至り。田舎者ゆえ無作法もある事と思いますが、寛大なお心を以てお許し願いたい。
それでこちらはモレス山脈に住まう深紅竜のヴァジェ。龍宮城や公主への拝謁の栄に与れれば、私の一存で同道させた次第。なにとぞお目零しを」
「この龍宮城に深紅竜の方に限らず火属の同胞が足を踏み入れること珍しい事。歓迎こそすれ眉根を寄せる必要はないでしょう。
瑠禹、貴女もおかけなさい。今お茶を淹れましょう」
龍吉手ずから淹れた黄色みがかった茶を一口含めばたちまち体中に爽快な気が満ち溢れて、体内の毒素が浄化される――といっても分身体の私には毒素など元からないが。紛れもなく神代の品であろう。
「ドラン殿、瑠禹からはよく話を伺っておりますよ。大変良くして頂いているとか。ですが貴方の魂はあくまでも竜のものですね?」
「ふむ、流石に察しの良い方だ。瑠禹らには伝えてあるが私は人間に転生した竜。現在は人間として生を得ています」
ヴァジェは龍吉を前にしているとは思えぬ態度を取る私に、目を白黒させていたが少しは私を見直してくれるといいがな。
にこやかな龍吉と私を中心に話をしていると、外で待機していた女官達が鈴を鳴らすのが聞こえてきた。
「あら、どうやら用意が整ったようですね。別室でささやかではありますが歓迎の宴を用意させて頂いております。
どうぞそちらへ。女官達がご案内いたします。瑠禹、お願いしますよ」
「はい、公主様」
「ヴァジェさん、どうぞお楽しみくださいな。ところでドラン殿、貴方には少々お話がありますので、残って頂けますか」
「承知した。ヴァジェ、私がおらんでは心細かろうが、先に行っていなさい」
「う、うむ。先に行っている」
瑠禹とヴァジェが姿を消す否や、私の視線の先で公主は椅子を降り、床に膝と指を突いて頭を垂れる。
まさか水龍皇が自ら頭を垂れ、床に膝を突くなどと、この龍宮の城に住まう誰もが見た事が無く、また想像もした事が無かっただろう。
「無礼の数々、なにとぞご容赦くださいませ。最も貴き竜たる御方」
「ふむ。その物言いでは私の素性の細かい所まで察しがついているか。無礼などは気にせずに良いから顔を上げなさい。
そなたこそがこの城の正統なる主であり、私はあくまでも招かれた氏素性の知れぬ野良の転生竜に過ぎぬ」
龍吉の手を取り立ちあがらせて椅子に座らせ、私は苦笑を刻みながら言った。
龍吉はそれまでの穏やかな雰囲気を取り払い、龍吉を前にしたヴァジェ以上に緊張と畏怖に身を強張らせている。
「いつ私が“私”であると気付いたのだ。瑠禹には前世での名を告げてはいないし、姿も変えているのだが」
「私も貴方様を前にするまでは気付きませんでした。
瑠禹より伝え聞いた幼き日の話から、あの場におられた方々のどなたかではと思ってはおりましたが、直接お目に掛りその魂の輝きと眼差し、力の胎動にあの日の事を鮮明に思い出し、よもやと思い至ったのでございます。
我ら龍と竜の頂きに座する貴方様の事を」
「そうか。だがいまの私は人間よ。
たまたま竜の分身体を作り瑠禹とヴァジェとの間に縁を結ぶ事にはなったが、再び古神竜として世に姿を現すつもりは毛頭ないのでな。
そこの所の事情は考慮してもらえるとありがたい」
「貴方様のご意向に背く事は致しませぬ」
「では二人きりの時はともかく余人の眼がある時は先ほどのように、そなたを目上のものとして対するが構わんな? 私のこともドランと呼ぶようにな」
龍吉は随分と戸惑ったらしく、口籠って見せた。
「それは、ですが…………いえ、貴方様のお望みとあればそのように致します」
「素直でよろしい。さてせっかく二人きりなのだし、少し話をしてから行くのもよかろう。龍吉よ、あの瑠禹はお主の娘であろう」
「……よくお分かりになられましたね」
「目元と雰囲気が似ている。瑠禹はそなたに仕える家系に産まれたと言っていたが、外の世界を巡るにあたって公主の血縁と分かれば、要らぬ諍いを招きもしよう。それを未然に防ぐためか?」
龍吉は私を相手に隠しだてはできそうにないと諦めたのか、困ったような笑みを浮かべる。
それはとても魅力的な笑みで、人間の肉体から解き放たれて色恋や肉欲とは縁遠い今の私でも、おもわず眼を惹かれる笑みだった。
「左様でございます。愚かな女の浅知恵とお笑いください。瑠禹は私と今は亡き良人との間に産まれた一人娘でございます。
一通りの手仕事と武芸は仕込んでおりますが、どうしても母として良人の忘れ形見でもあるあの娘を甘やかして育ててしまいました。
たとえ私の娘といえども、掟に従い外の世界に出さなければなりません。外の世界に出た時私の娘であると知られれば、余計な色眼鏡で見られる事もありましょう。
悪意というものを全く知らずに育ったあの娘では、力を悪用される危険性も小さくはありません。せめてそれを避ける為に私が瑠禹に言い聞かせました」
「ふむ、母心か」
「はい。ドラン様、もしよろしければ瑠禹に外の世界の事を教えてやってはいただけませんでしょうか。
本来であれば私などが拝謁する事も許されぬ高貴なる御方に、頭を垂れても口にできるようなことではないのは百も承知しております。
ですがどうかこの母の心を汲んではいただけませんでしょうか」
椅子から立ち上がり再びその場に膝を折ろうとする龍吉の手を取って止めさせ、私は黒瑪瑙を思わせる龍吉の瞳をまっすぐに見つめる。
「私などで良ければ瑠禹の面倒は喜んで引き受けよう。ただ私もそう世間に詳しくはないぞ。
人間に生まれ変わって十六年余りを過ごしたが、産まれた村の外へあまり出た事がないのだ。それでもよければ、だが」
「ありがとうございます。貴方様の庇護を受けられるのなら、娘を安心して外の世界に送り出す事が出来ます」
そう言って龍吉はそこに光が灯ったかのような明るく美しい笑みを浮かべた。
龍吉から娘である瑠禹の事を任されて話を一区切りさせた私と龍吉は、そろそろ瑠禹とヴァジェの待つ別室へ向かう為に、龍吉の私室から回廊へと出た。
「近頃では他の龍王たちともあまり話をする機会もなく、ドラン様のように昔語りをする事の出来る相手も減ってしまい、寂しくなってしまいました」
「ふむ、私が竜であった頃でもそうだったからな。いまでは更に数を減らしていよう。
亜竜や瑠禹、ヴァジェの様な若い竜はいるかもしれんがすっかり古代の竜の力は衰えてしまったのか。なにやら寂しいものだな。
瑠禹は純血の古竜のようであるが、父親は?」
「はい。私の亡き良人は古龍の一種、蒼波龍でした。かつて起きた高位の海魔との戦いで命を落とし、私のお腹の中に瑠禹の卵を残してこの世を去ってしまいました」
「そうか、辛い事を聞いてしまったな。だがなるほど、瑠禹が私によく懐いてくれる理由が一つ分かった気がする。
瑠禹は私に兄か父を見ておるのだろうな。それでは私がこのような子供の姿を取っては驚くのも無理はない」
「あの子がドラン様に父の姿を。そうかもしれませんね。私の周りには人魚や龍の女官ばかり。
殿方にしてもあくまで臣下の態度を取る武官や文官ばかりですから、ドラン様があの子にお取りになられた態度は、瑠禹にとって新鮮なものと映ったのでしょう」
産まれる前に父親を亡くし、周りにも父親代わりになる男もいなかった事で私という存在がひどく新鮮に感じられたというわけか。
なるほど、な。ならこれからは出来るだけそのように振る舞う方が、瑠禹は喜ぶだろう。
龍吉の案内に任せて回廊を進むと、私達を迎えに来た女官達が左右の壁際にずらりと並んで待っている一角に到着し、海底に根を張る水棲の世界樹の幹から削りだした扉がひとりでに開いてその奥に私達を招く。
あくまで親しい私的な客人をもてなす為の部屋だそうで、中はそう広くはなく一度に四、五人ほどが料理を囲むのに適した大きさの円卓が、豪奢な調度品に囲まれた部屋の中央に置かれ、先に向かっていた瑠禹とヴァジェが席に着いていた。
ヴァジェは私の顔を見てほっと安堵し、瑠禹もまた母であり主でもある龍吉と私の姿に、引き締めていた口元をほころばせる。
「さて、お待たせしてしまいましたね。さあ、ヴァジェさん、ドラン殿、海の妙味珍味をご用意いたしました。龍宮城以外では滅多に出回らぬものです。ご存分に堪能くださいませ」
その後も私と龍吉を会話の中心としつつ食事はそのまま進み、最後に食後のお茶を頂いてから私達は龍宮城を後にする運びとなった。
一泊二泊はしてもよかったかもしれんが、あまり居心地が良すぎてそのままずるずると長居してしまいそうなので、私は来た時と同じように船着き場の大亀の所へとヴァジェと共に向かった。
土産として山ほどの金銀財宝が詰め込まれた小箱を渡され、見送りには瑠禹と龍吉が来てくれた。
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第十九話
あくる日、朝からやけに村が騒がしいのを、私は黒薔薇に水をやりながら肌で感じ取っていた。
普段なら皆がそれぞれの家の畑や、ささやかな果樹園、あるいは川で漁に勤しんでいる筈なのだが、それをしている者の数が少ない。
更に私に奇妙だ、と感じさせたのは村に広がる慌ただしい雰囲気の中に、不安と困惑の感情が混じっている事か。明らかに悪い方向に向かっている雰囲気だ。
私の嫌な予感が的中している事を証明するように、道の向こうからバランさんの部下の一人であるクレスさんが、険しい顔立ちで我が家に向かっているのが見えた。
普段は陽気なお調子者で、村の皆からの信頼も厚い青年なのだが、ころころとよく変わる表情を浮かる顔には、これまで見た事の無い険が浮かんでいる。
そしてクレスさんの黒い瞳は黒薔薇に水をやる手を休めた私を確かに見つめていた。
私に何か用があるということか。
クレスさんは、私を前にして少し口を開くのを躊躇する素振りを見せたが、やるせないように首を左右に振ると、私の顔をまっすぐに見つめてこう言った。
それは普段の気さくな態度を押し込めた兵士然とした口調であった。
「ベルン村のゴラオンの息子ドラン。村長の家まですぐに来い。北部辺境区ベルウィル地方第四等管理官ゴーダ・シャトル様がお呼びだ」
ベルウィル地方というのはザノン村やボルエラ村、ベルン村を含む北部辺境区の最北部一帯を指す。
管理官というのは王家の直轄領の管理の為に、それぞれの地方の領主の代わりに王政府から直接派遣された役人の役職名だ。
最上級職は総督で以降第一等、第二等、第三等、と数字が大きくなるにつれて管理を任される地区が狭くなる。
第四等管理官となると精々村落をひとつかふたつ管理する程度だったろうか。言ってしまえば木っ端役人である。
苦渋の色を浮かべるクレスさんの言葉に従い、私はクレスさんと二人で村長の家を目指した。
短い道中、クレスさんは終始無言で、どうやらこれは碌な事にならないようだと、私は胸中で溜息を吐かざるを得なかった。
特に未来視や運命を詠むといった行為を行ったわけではなかったのだが、私の嫌な予感は的中したらしい、と村長の家がある中央広場に来た時点ではっきりと分かった。
広場に目をやれば村長、村長の娘であるシェンナさん、バランさんとその部下の皆さん、マグル婆さんといった村の重要人物達とセリナの姿がある。
ここまでは私にとっても見知った人達であったから、一様にしてその顔が浮かないものである事以外は、何も問題はない。
問題があるとすれば広場のど真ん中に停められた黒塗りの箱馬車と、その近くに設置された椅子に腰かけた見知らぬ人物、更にその周囲の完全武装した兵士達である。
兵士達は総勢十名。全員が全身鎧と長槍で武装し腰帯には長剣を佩いている。
私にとって看過しえないのは、あろうことかセリナをぐるりと囲んでいつでも長槍の切っ先を突きこめる体勢にある事だ。
私は心の片隅に憤怒が激しく燃え盛るのを感じ、それが表出せぬよう強く意識しなければならなかった。
私の理性を振り切った感情の爆発は、魔界の大魔王や邪神が完全なる力を持って地上へ顕現するのと同等か、それを上回る規模の災厄が発生するのと意味を等しくする。
私は木材を組み合わせて布を張り、絹様の布で綿を包んだ椅子に深々と腰かける壮年の男性が、第四等管理官のゴーダ某であろうと目星を付けた。
おそらくは官服と思しい灰色の衣服はどこもかしこも布を余らせてだぼだぼとしていて、どうにも不格好だ。
頭部を飾る白髪はたっぷりと油を使って纏められていて、気味が悪いくらいに輝いていた。
頬や首元の肉は削いだように痩せこけていて、顔色はお世辞にも血色が良いとは言えない。申し訳程度の肉が着いた唇は薄く開かれて、こればかりは綺麗な白い歯並びが見えた。
私にとって人間に生まれ変わってからこのゴーダ管理官のように痩せこけた、それこそ針金のようなとしか表現しようのない人間を目の当たりにするのは初めての事であった。
おりしもクリスティーナさんが言ったように、我がベルン村では少なくとも私が生まれてからは、日々の糧に困るような状況に陥った事は無く、餓死者を出した事は無かったのだから。
なにより私はゴーダの瞳の濁り具合が気になった。
確かに濁ってはいるがそれは生来の人品の卑しさや醜悪な欲望による濁りというよりも、自暴自棄から来る他者への無関心や自己嫌悪が醸造した濁りと見受けられたからだ。
ゴーダから視線を外すと、私はゴーダの周囲には彼に次ぐ地位か立場にあると思しい二つの人影を注視した。
一人は下半身が栗色の毛並みを持ったしなやかな肉付きの馬で、腰から上には妙齢の美女の上半身が繋がっている半人半馬のケンタウロス種の女性である。
燃えるような赤い髪を後頭部で結わえて、背中に流しそよ風に毛先が揺れている。
馬体から人間の上半身に至るまで鈍く輝く鋼鉄の鎧で固めており、右の馬体には長大な円錐状の騎槍が留められ、両腰には使いこまれた跡のある短剣が一振りずつ。
ケンタウロス種は主に広大な草原や平原に棲息しており、人馬一体の肉体構造を有している為、疾走しながらの弓の扱いやその爆発的な脚力と瞬発力を活かして騎槍や短槍を構えての突撃を得意とする。
一糸乱れぬ連携で素早く戦場をかけながら矢を射かけ、集団でまとまってランスを構えて突撃するケンタウロスの戦闘能力は極めて高く、敵に恐怖を味方には畏怖を与えるとしてよく知られている。
また種全体の傾向として、自己に厳格で戦士たる事を誇りとする傾向にあり、傭兵ないしは騎士として人間主体の国家や社会に身を寄せる者も多い。
ケンタウロスだけで構成された騎士団なども国によっては存在することが表すように、ケンタウロス種と人間との付き合いは深く長いものだ。
明らかに一段も二段も装備の質が違うことから、このケンタウロスの女性が兵士達の上役に当たる人物なのであろう。
やや眦の鋭い琥珀色の瞳はわずかに咎める色を浮かべてゴーダを時折見つめている。どうやらあまり気の合う仲ではないようだ。
先ほどから腰に下げた愛用の鉄槌の長柄を苛立たしげに指で叩くバランさんが、女ケンタウロスに視線を送っている。
この場の兵士達のまとめ役であると同時に、おそらくはガロアにおけるバランさんの直属の上司なのだろう。
女ケンタウロスはバランさんの視線に気づく度に、やや申し訳なさげに眉根を下げていた。
厳つい上に不機嫌になっているバランさんと妙齢の美女の対比であるから、おそらく理はバランさんにあるにしても見ているこちらの胸が痛む光景である。
残りの一人はレティシャさんと同じマイラール教の白い質素な貫頭衣を纏い、レティシャさんの首飾りよりやや複雑な意匠が凝らされた教団の首飾りを下げた、五十代近いと思しい女性である。
流石に皺は目立つがそれも柔和な雰囲気の一つとして機能していて、泣きじゃくる赤子も頭を撫でられるだけで泣き止んで、とびっきりの笑顔を浮かべる。
そんな印象を受ける女性だ。
ちらほらと白いものが混じる黒髪を首の後ろで束ねて、女ケンタウロスとは違いはっきりとゴーダに非難と色合いを含んだまなざしを向けている。
その隣でレティシャさんが不安げに佇んでおり、おそらくこの初老の女性神官はレティシャさんがガロアに居た頃に大変お世話になったと言う先生に違いあるまい。
先生の話をする時のレティシャさんはとても優しい顔をされていて、いつか会ってみたいと考えていた方だ。
「お前がドランか。こちらに来い」
逆らう意味はない。村長達から心配する視線を向けられる中、私はどんな理不尽が口を開いて待っているのやらと少々重い気持ちでゴーダの前まで進んで足を止める。
私が足を止めるのを待ってから、ゴーダは傍に控えさせていた従士らしい色白の少年から錫の杯を受け取って、中の液体を一息に喉の奥に流し込んだ。
「ふん、気に入らない顔をしているな。お前だな? この村に魔物を招き入れ、不遜にも国王陛下からお預かりしておる神聖な土地へ汚らわしい魔物に足を踏ませたのは」
ふむ? 死後も永遠に救われぬ最も罪深いものが落とされる地獄に行きたいのか、この男。
私がかろうじて感情を抑え込んだ時、レティシャさんの傍らに居た女性神官が非難をゴーダに浴びせた。
「ゴーダ管理官! すでに証明した筈です。神託を受けたレティシャのみならずマイラール教の司祭である私もまた、母なるマイラールの審判によって彼女が邪悪な魔物ではないと!」
セリナがバランさん達と相対した時にレティシャさんが受けた神託とは異なり、審判は己の信仰する神に疑問に対する答えなどを直接問う高位の奇跡である。
それが出来るという事は、初老の女性神官は司祭と言ってもその徳の高さは位階以上のものがありそうだ。
「パラミス司祭、わしはなにも偉大なるマイラールのご判断を疑っておるわけではありませぬ。ただ国王陛下よりこの地区を管理する聖なる権利を委ねられた卑小の身としては、いかなる危険の芽も摘んでおかなければなりませぬからな」
「ですが、貴方のその物言いは」
「もう結構ですぞ。魔物共の善悪を確かめたいという貴女のたっての願いは既に聞き届けた筈。これ以上貴女の出番はありませんな」
ゴーダはつまらなさそうにセリナを見つめた。
「まあそこまで言われるのでしたなら、これ以上問い質しはしますまい。だがその魔物の分も税は納めて貰うぞ、村長?」
「はい。それは間違いなくお納めいたします。ゴーダ様」
「さて、魔物は偉大なるマイラールの思し召しもある故、王国の法に反さぬ限りにおいてはわしが目溢しをしてやるとしよう。
慈悲深き陛下ならば国民の権利である税さえ納めるなら、魔物とて受け入れてくださろうからな。
だが捨て置けぬ話はまだある。近頃エンテの森に住む亜人やエルフ達がこの村に顔を見せていると聞く。
そしてエンテの森の品々がこの村を経由してガロアに入り込んでいるともな。王国は民が富を蓄える権利を保障しておる。
だが開拓期にも積極的な交流の無かったエンテの森の民達との接触を、正式にガロア総督府の認可を待たず図った事は看過しがたい越権行為だ」
「お言葉ですが管理官様、その件に関しましてはガロア魔法学院学院長オリヴィエ殿より、総督府に報告があった筈です」
ゴーダはぴくりと眉を動かして、気に入らぬ様子で私の顔をまじまじと見つめる。
「確かにな。オリヴィエ殿はエンテの森の出自ゆえかの方から報告があった。だがベルン村からもまた仔細に報告があって然るべきであろう。
少なくともわしがわざわざ足を運ばねばならなくなる前にな。さて、ドラン、わしの耳にしたところ、お前がエンテの森の民達と交流を持つきっかけとなったそうだな」
「はい。その通りです」
「いかなる意図を持って森の民達と接触を図った? 総督府の目を謀り王国へ納めるべき税を秘匿し、他の民達が額に汗を流す横で己らの私腹を肥やす為か?」
「決してそのような意図あっての事ではありません。
オリヴィエ殿からの報告を確かめていただければ全て分かる事ですが、エンテの森に起きた火急の事態に微力ながら助力し、その事に恩義を感じてくれたエンテの森の方々と互いの為に交流を持っただけの事です。
管理官様が言われるような恐ろしい事を考えてなどおりません。無論、彼らとの交流の中で得る事の出来た富に関しても、王国の定めた厳正なる法に則り、納めるべき税をお納めいたします」
「農民の分際で随分と賢し気な物言いをする。かつてこの地はアルマディア侯御自ら陣頭に立ち、切り開いた土地故王家からも格別のご配慮があった。
だがその特権に胡坐をかき、畏れ多くも王国を謀るような動きがあるのならばそれを見逃す事は出来ぬ。
果たしてお前が口にした通り、この村の者達に後ろ暗い考えがないなどとどうやって証明するのだ?
ラミアなどという恐ろしい魔物を引き入れ、これまで縁の無かったエンテの森の民らと結託し、辺境の地である事を隠れ蓑に悪しき考えを抱いていないなどと」
ゴーダの言葉に、槍に囲まれたセリナが悔しげに顔を俯かせ、きゅっと拳を握りしめるのが見えた。
ぎちぎちと理性の蓋が軋む音を立て、押し込めている怒りの感情が爆発しそうになる。感情が表に出ぬよう必死に抑え込みながら、私はゴーダに反論した。
「あまりにお言葉が過ぎます、管理官様。彼女は確かにラミアではありますが、この村に来てから誠心誠意村の皆と共によく働いてくれています。
ましてやパラミス司祭様が行ってくださった奇跡により、偉大なるマイラールの審判においても善なる者と保証されたのではありませんか。
また加えてこの村の者達に国の父たる王家に逆らおうなどと、口にするにも恐ろしい事を考える者は居りません。ただ一日一日を懸命に生きているだけなのです。
どうかそのようなお言葉を口になさらないでください」
「なんだ、結局証明など出来ぬと言う告白か。いくら言葉を重ねたところで一体どれだけの信頼をお前の言葉などに置く事が出来るというのだ。
つまらぬ言葉を重ねるぐらいならば、いっそその通りだと己らの非を詫びたほうが潔いわ!」
私の言動は余計にゴーダの怒りを買うだけに終わり、酒精が頭の隅々にまで行き渡り赤ら顔になったゴーダは、空の杯を私の顔面目がけて思いきり投げつけてきた。
周囲の人々がゴーダの行いにあっという顔を作る中、私は避けようと思えば避けられる杯を敢えてそのまま受けることにした。
これで少しでもゴーダの留飲が下がればよし、避けるか受け止めるかしても余計にゴーダの苛立ちを募らせるだけなのだから。
だが私の額のあたりに当たる筈だった杯は、私の左から伸びてきた繊手に掴み止められて当たる事は無かった。
「クリスティーナさん」
先ほどまで姿の見えなかったクリスティーナさんが、咄嗟に杯を掴み止めてくれたのだ。
愛剣エルスパーダを腰に佩いた私服姿のクリスティーナさんは、杯を掴み止めた右手をゆっくりと降ろしながら、私を振り返った。
「あえて避けるつもりは無かったようだが、友人が傷つくところを見過ごす事は出来なかった。君からしたら余計な真似かもしれないが、許してくれ」
「いや、私の為にしてくれた事ならば、私から言う事はお礼の言葉だけだよ。ありがとう」
「ん、そうか」
ほんの少し嬉しそうに笑むと、クリスティーナさんは表情を引き締めてゴーダを睨むように見た。
「ゴーダ管理官殿、私はガロア魔法学院に籍を置くクリスティーナと申します」
「クリスティーナ? 魔法学院の生徒、それにその銀髪赤眼……となれば、よもや噂の? どうしてここに、いや、そうかその血筋ならばこの村を訪れる事もおありか」
「いま着いたばかりですから詳しい経緯までは存じ上げませんが、なにやら管理官殿はドランに、ひいてはこのベルン村に疑惑を抱いておられる様子」
「う、うむ。オリヴィエ学院長殿より報せがあったとはいえ、エンテの森の民達と交流を持つなどこれまで無かった事。その仔細なる所を確認する必要がありますのでな」
「仰る事はごもっとも。しかしながら私の見たところ、厳正なる調査を成されるよりも前に管理官殿の私見のみで疑いを掛けておられる様子。
私は所詮学生の身分でしかありませんが、民を治める身分にある者のはしくれとして、管理官殿の御振る舞いはいささか見過ごせぬものがございます」
「クリスティーナ殿、如何に貴女といえどもわしは国王陛下より職務を預かりそれを遂行する責任を持つ身。
御自分の言われたとおり、学生に過ぎぬ貴女が要らぬ口を差し挟まぬ事こそが賢明ですぞ。
気の進まぬ事ではありますが、御父君にこの場で起きた事をご報告差し上げねばならなくなります。それは貴女の立場を考えれば好もしくはありますまい」
一瞬、クリスティーナさんが息を飲んだ。家族と折り合いが悪いのか? それが出会った当初のクリスティーナさんの心を陰鬱の霧に飲み込んでいた理由か?
クリスティーナさんは少しだけ長く呼吸をし、それで迷いを振り払ったようだった。
「お好きなように。管理官殿、ドランとこの村の方々の潔白は私が保証します。この村に滞在している間、私がこの目で見てきたここの人々は、管理官殿が言われるような事を考えた事もないような方々ばかりです。
セリナ……ラミアの少女がこの村に住む事も、エンテの森の民達と交流を持つ事もこの村ばかりでなく、大きな視野を持って見ればガロアにとっても有益な事の筈。貴方とてそれはお分かりなのではないですか」
「魔法学院の学生にしか過ぎぬ貴女がどう言葉を重ねたところで……と言いたいところですが、他ならぬ貴女であるが故に、その言葉を無視する事は致しかねますな。
貴女は本当に分かっておいでなのか? 貴女ご自身の立場と責務と影響を。今ならまだ貴女が口にした言葉を聞かなかった事にも、御父君にお知らせせずに済ます事も出来ますぞ」
「二言はありません」
「ご立派な御覚悟ですな。ですがそのような生き方を続けては、直に貴女は破滅を迎えるでしょう。貴女のお立場に対し貴女のご気性は余りに清廉潔白に過ぎる。
個人として好もしく感じられはしても、それが通用する世界に貴女は身を置いてはいないのだから」
「私は天に召された母に恥じる事の無いよう生きているだけです」
「死者は喜びもしなければ励ましてもくれませぬ、ましてや慰めなど。ただ置いていった者の胸に空虚な穴を穿つばかり」
ふむ? ふと零されたゴーダの言葉には、皮肉や虚言とは言い切れぬ実感が伴っていた。
生きることさえ鬱屈に感じられるほどの虚しさ、寂しさのような感情。クリスティーナさんばかりでなく、この男にもなにかしらの事情があるのだろうか。
「それでも、私は私の心の中に生きる母から顔を背けるような事は出来ないのですよ」
迷わぬクリスティーナさんの言葉に、今度こそゴーダの心が折れる音が聞こえた気がした。
「そうですか。そこまで言われるのならば、よろしい。貴女に免じてこれ以上追及する事は致しますまい。しかしゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。
この村がガロアや王国にとって不利益となる事を起こしたなら、その時は貴女がその責任を問われる事となるのです。いつの日か、貴女は今日の出来事を後悔するかもしれませぬ」
「自分の意思ですべきと思った事をしたまでです」
「その強さが羨ましく感じられますな。さて今日のところは引き返すといたしましょう。おい、急ぎ帰る支度をせよ。もうこの村に用は無い」
ひどく疲れ切ったゴーダの言葉に、従士の少年やケンタウロスの女騎士、それに兵士達は少し驚いた顔を浮かべてから、行動に移った。
クリスティーナさんとの問答でゴーダの気が変わった事はありがたいが、共にやって来た彼らからすれば気紛れとも思えるゴーダの気の変わりように付いていくのは、それなりに苦労があるのだろう。
ゴーダはさっさと馬車に乗り込み、兵士達は女騎士の指示に従って隊列を組んでいく。
その様を眺めていると従士の少年がこちらにやってきて、クリスティーナさんが手に持っていたままだった杯を受け取るや、突然私に対して小さく頭を下げた。
「ゴーダ様が本当に申し訳ない事を。主人に代わって謝罪します」
マルコとそう年の変わらぬように見える少年は、心からと分かる声音と態度で謝罪の言葉を口にする。
身分と立場を考えれば到底あり得る事ではなく、私はいささか面食らったまま少年からの謝罪を受け入れた。
「いえ、管理官様の言われる事には一理ありました。お疑いになるのも無理はありません」
「そうだとしてもあの御振る舞いは度が過ぎたものでした。君と村の方々には申し訳ない事を。それにクリスティーナ様、貴女様にもとんだ御無礼を。どうかお許しください」
「いや、私もドラン同様気にはしていないよ。学生に過ぎない私が身の程を弁えぬ事を口にしたのは事実だ」
「申し訳ございません。御父君の耳に今回の事が届かぬよう、私がなんとしても主人に働きかけますのでどうかご安心を」
「ん、そうして頂けると正直助かるかな。自分のした事を後悔はしていないが、先の事を思うと少しばかり気が滅入っていたものでね」
はい、と少年は返事をして出立の用意を整えつつある馬車へと戻っていた。馬車に乗り込む寸前、再びこちらを振り向いて深く頭を下げていった。
嵐の如くやって来た管理官一行が去ると、兵士に囲まれて動けずにいたセリナが真っ先に這い寄ってきて、私を力強く抱きしめてくる。
「おっと、こらこら、セリナ。抱きつくのは良いが不意を突くのは止めなさい」
「だって、私の所為でドランさんや村の皆さんにご迷惑をかけて。それにドランさんが矢面に立たされて、杯だって投げられたじゃないですか。
クリスティーナさんが受け止めてくれたから良かったですけれど、当たっていたら血が出てもおかしくありませんでした」
ぐすぐすとセリナの啜り泣く声と離れたくないとばかりに抱き締めてくるぬくもりに、私はささくれだった心が癒されて、幼子をあやすようにセリナの背中に手を回し頭を撫でた。
「よしよし。私はもちろん村の皆がセリナが良い子である事を知っているよ。今回のような事があっても嫌いになどなりはしないさ。だからもう怯えなくていい。槍を突きつけられて怖かっただろう」
セリナは私の首筋に顔を埋めた小さく左右に顔を振った。
「確かに怖かったですけれど、それ以上にドランさんが傷つく方がずっとずっと怖かったです。本当に、本当に無事でよかった」
「そうか、私の心配をしてくれたのか。ありがとう、セリナ。それにクリスティーナさんも。お陰でずいぶん助かりました。ですが良かったのですか? どうやらかなり不味い事になりそうな気がしますが」
セリナの頭と髪を撫でる手は休めず、私がクリスティーナさんに水を向けると、クリスティーナさんは茶目っぽく両肩を竦めてみせた。
この方にしてはずいぶんと砕けた仕草だが、それもまた人間とは思えぬ美貌に不思議と似合っている。
「なあに、なんとかなるさ。これまで何度か人生に行き詰まった事はあったけれど、何時だってなんとかなったし、なんとかしてきたからね。今回のことだって大丈夫だよ」
どうやら私達が余計な気を回さないように意図的に明るく振る舞ってくれているらしい。ならばその事に気づかないふりをするのが、クリスティーナさんの善意に報いる方法だろう。
「そうですか。そうならば良いのですが、なにしろ私達が原因の事ですからね。なにか力になれる事があったら何でも言って下さい。今回の事でクリスティーナさんは私の恩人になったのですから」
「恩人か。むしろ私の方が君やこの村の人達には恩を感じているくらいだけれどな」
小さく呟かれたクリスティーナさんの言葉の真意を測りかねていると、杖を突きながら村長が私達の方へ歩み寄ってきて、クリスティーナさんへ深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、クリスティーナ様。我が村の事で貴女様のお手を煩わせる事となってしまいました。貴女のお爺様に何とお詫びすればよいやら」
「顔を上げてください。私の意思でした事です。祖父も笑って許してくれるでしょう。それよりも村長殿、ドランとセリナの事ですが」
「おお、その事でしたらご心配めさるな。二人とも私にとっては孫と孫娘同然。村の者は皆家族でしてな。悪い事をしたわけでもない家族を叱る理不尽は致しませぬ」
「そうですか、それが聞けて安心しました。私の大事な友人に咎めがあっては夜も眠れません」
「ほっほ、ドランとセリナとは随分と馬があったようですな。しかし、ゴーダ様も以前はあのような方ではなかったのですが」
「村長は昔の管理官様の事を?」
セリナをあやし続けている私が村長に問うと、村長はやるせなさそうに首を縦に振る。
以前からあの管理官がこの村の担当ならば村長と面識があるのは当たり前の話だが、村長の口ぶりからは、あの管理官がまるで別人のようになってしまったというような響きがあるように聞こえた。
「お前さんが産まれるより前は、この村に随分と心を砕いて下さった方でのう。
まだ北部の開拓が行われていた頃から随分と助けて下さったのだが、幼い御子息を流行り病で亡くし、相次いで奥方様を亡くされてからはすっかり塞ぎこまれ、あのように酒に溺れるようになってしまったのじゃよ。
おまけに御子息が亡くなられた時、あの方はこの村に来ていて死に目に会う事が出来なかったのじゃ。
その事を大変お悔やみになられ、奥方様が亡くなられてからはこの村にとんと関心を見せぬように振る舞われるようになったのじゃ。
今日のように村に来る事も数年に一度あるかどうかじゃからな。おそらくこの村に来ると御子息が亡くなられた時の事を思い出してしまうのじゃろう」
なるほど、な。北部の開拓に心を砕き熱を入れていた間に子の死に目に会えず、奥方までも相次いで失ったとは。
あの瞳の濁りは立て続けに襲ってきた悲劇に心が耐えきれなかったが故に、募り積もった濁りだったという事か。
思いがけぬゴーダの事情を知らされて、クリスティーナさんも私もセリナも口にする言葉は無かった。
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第二十話
その日の夜の事。私は竜の分身体を作る要領で意識を肉体から離脱させ、ガロアに居を構えるゴーダのもとへと飛ばす事にした。
昼間の出来ごとで憶えたゴーダの魂の気配を目印に、意識をそのすぐ傍に飛ばせば掛る時間は皆無に等しい。
寝台の上に横たわる意識の無い肉体を見下ろしていた私の意識は、ゴーダの魂の気配を認識した次の瞬間にはその頭上へと跳び、彼の居室へと侵入していた。
酒瓶が転がっている他は特に荒れ果てた様子もない居室であったが、開かれたカーテンから差し込む月光が、私とゴーダ以外の人影を照らし出していた。
それは月光を透いて浮かび上がる二十代半ばほどの婦人の霊であった。
私は村長から聞かされていた話から、この婦人の霊がゴーダの亡くなった奥方に違いあるまいと察した。
「貴女がゴーダ管理官の細君か?」
これ以上怯えさせてはなるまいと、私は努めて穏やかな声音で婦人の霊に問いかけた。
「あ、貴方は主人となにか関わりのある方なのですか?」
生きている間も死んでからも遭遇するとは夢にも思わなかったであろう竜を相手に、婦人は主人の名が出た事から勇敢にも言葉を交わす決断をした。
「ベルン村の事でいささか」
「ずっと主人が管理を任されていた村の事ですね。なぜ竜である貴方がかの村と関わりがあるのか不思議ではありますが、ですがベルン村と縁のある方ならば主人をお恨みの事でしょう」
「恨みとまでは言わぬが、憤慨が半分ほどは。どうしてくれようかと迷い、本人の顔を見れば決意が定まるかと思ってきたが、よもや亡くなった細君がいまだこの世に留まり続けているとは思いもしなかった」
「ここは最後に私と主人が別れを告げた場所なのです。私は子を亡くし、私自身もまた死に運命を委ねる事で一人になる主人の身を案じ続け、その結果こうしてこの場所に留まり続けているのです」
「地縛霊か。ならばこれまでゴーダ管理官の姿を?」
「見守ることしかできなかったのです。子供と私を失った主人は生きる希望を失い、酒毒に溺れて只日々を生きるだけの無気力な人間になってしまいました。
これまで仕事に情熱を燃やし一人でも多くの民により良い暮らしをと切に願っていた主人が、今のような姿に堕ちてゆくのを見守ることしか……」
この場に縛られた霊であるが故に、聖職者に見つかる事もなく魂が天冥に召される事もなかったのだろう。
「全ては私が悪いのです。子が死した時、主人を必要以上に責め苛んでしまった。その事で主人は己を責め続け、さらには私までが先に死んでしまった。
その事で今度はベルン村の方々にまで累が及んだのでしょう? この部屋に戻ってきてから、主人は今日の己の振る舞いを悔み、嫌悪し、酒に逃げて自らを苛むばかり。
おお、私が、私があの時、主人を責める事をしなかったら! 私が主人を一人残してしまわなかったら、こんな事には!!」
病に侵されてやせ細ったままの手で顔を覆い、咽び泣く婦人の姿を見ているうちに私の心に著しい変化が訪れていた。
参ったな、このような姿を見せられてはゴーダに怒りの感情をぶつけることなどできそうにない。ゴーダの顔を見て決めようなどと、思わぬ方が良かったのか思って良かったのか。
これから私のしようとする事を知ったら、またカラヴィスや竜界の兄弟達に甘い奴めと笑われる事だろう。特にカラヴィスとアレキサンダーには。
「ご婦人、私は正直に言えばゴーダ管理官に鉄槌を下さんという考えがあった」
「それは、それはどうか、どうかお許しを。主人の無礼は私がいかようにもお詫びします。すでに死せるこの身ではありますが、お怒りをお鎮めくださるのなら千に引き裂いて下さっても構いません」
「はやとちりなさるな。私はどうにも情に絆されやすい性格をしていて、一度死んだにも拘らず、いやむしろ一層絆され易くなったようだ。
ご婦人、私の力で一度だけゴーダ管理官と話が出来るようにして差し上げる。その時に貴女の想いを全てご主人に伝えると良い」
「そ、それは願ってもない事でございます。しかしなぜそのようなご温情を私と主人に賜ってくださるのですか?
竜である貴方がベルン村と関わりがあると言うのも私には理解できぬ事ですが、貴方のお怒りを買う振る舞いをしたらしい主人を憐れみ下さる事も、私には分かりません」
「さて、な。一人残されたご主人や残してしまった貴女の気持ちが分かると言うわけでもない。強いて言えば――」
父母が悲しみに嘆く姿を知った子供の気持ちが分かるから、だろうか。それは私が人間に生まれ変わった事で、初めて親を得たからこそ理解の及ぶ事だった。
どちらにせよ私自身どうしてここまで肩入れをするのか、正確には分かりかねると言うのが一番正直なところだった。
私は上手く言葉に出来ないもどかしさを噛み締めながら、婦人の霊に左手を向ける。
「今からご婦人をゴーダ管理官の夢の中へと送り届ける。何を話すのか、伝えるのかは御自分でお決めなさい。お互いに心行くまで話せたなら、自然とご婦人は在るべき場所へと導かれる事だろう」
白い光に包まれて徐々に婦人の霊は姿を消していく。現世に縛られる繋がりを断つ代わりに、婦人の霊の繋がりをゴーダ管理官の夢の世界へと接続し直しているのだ。
「ああ、これまでただ主人の姿を見ることしかできなかったというのに、このような僥倖に与れるとは。竜様、貴方にはどれだけ感謝してもしきれません」
「礼の言葉は不要。早くご主人の所へ行かれるがよろしい」
「はい、はい! このご恩は百たび生まれ変わろうとも決して忘れません」
なにを大仰な、と私が思っている間に婦人の霊はその姿を消し、夢の世界でゴーダと再会したのが分かった。これから先はあの夫婦の問題だ。私が口出しすべき事ではない。
まったくゴーダに怒りをぶつけるか抑え切るか決める為に来た筈が、とんだ事態に流転したものだ。
もう私の中にゴーダに対する怒りは無く、私は疲れた、しかしどこか満足げな溜息を吐いて、意識を寝台の上に横たわる肉体に戻してそのままさっさと寝ることにした。
それからゴーダ管理官が職を辞し、隠居して妻子の冥福を祈る日々を過ごす事になったという報せが届いたのは、二日後の事だった。
*
ゴーダ管理官の突然の来訪の翌朝、まだ地平線の彼方に太陽がようやく顔を覗かせ始めた時刻に、私は村の南門へと足を運んでいた。
これまで魔法学院の長期休暇を利用してベルン村に滞在していたクリスティーナさんが、ガロアへと帰る為、その見送りに来たのである。
クリスティーナさんは、村長と私の方を振り返って口を開いた。
「私などの為にわざわざご足労いただきかたじけない」
「なんのなんの。むしろクリスティーナ様のお見送りにこの老骨とドランだけで、むしろこちらの方が申し訳ないですじゃ」
「いえ、出立を知らせてはおりませんし昨晩の片付けで皆さんお忙しいでしょう。お二人に見送りに来て頂いただけでも、私には十分すぎるほどです。ドラン、君もこんな朝早くに起きなくてもよかったのに。というより私の出立の日をよく知っていたな」
「クリスティーナさんにさようならの挨拶もしない内に別れるのは嫌だったからね。それにこれくらいの時間にはいつも起きているから、辛くは無いよ」
「そうか。この村で過ごした時間は決して長くはなかったが、何年、いや十年分くらいの密度の、そしてとても有意義な時間だったよ。特にドラン、君はとても面白い男の子だった。
もしガロアに来る事があったら魔法学院に私を訪ねに来てくれ。ぜひともガロアの街並みを案内させて欲しい」
「ふむ。機会があったら必ず訪ねよう」
「ああ、ぜひそうしてくれ。本当にこの村に来て良かったよ。少しは私も生きる張りのようなものができた。それに昨日のゴーダ管理官の件で、私もいささか考えを改めさせられた。
さて、とあまり見送りを長引かせては忙しい二人に申し訳ないから、私は行くよ。本当にベルン村の方々にはお世話になりました」
風に運ばれた羽根のように軽やかに馬上の鞍へとまたがり、私達へと頭を下げるクリスティーナさんに私と村長は頷き返した。
クリスティーナさんは颯爽と馬首を巡らせると、軽く鐙を蹴って馬を歩かせる。
ぽっくりぽっくりと馬蹄の音が重なって、クリスティーナさんがガロアへと続く南の道を進んでゆく。
さて、私の行く道が再びあの方のそれと重なる時は、何時訪れる事だろうか。
*
時間にすれば一月にも満たない筈なのに、何年も一緒に時を過ごしたような親しみを感じるクリスティーナさんが我がベルン村を出立し、さらにゴーダが管理官の職を辞した報せが村に届いた後、私は実家の方へと顔を出していた。
ゴーダが村を来訪してから日夜考え続けていた事に結論が出て、それを父母と兄弟に伝える為だ。
家族への連絡が済んだあと、私は早速マグル婆さんのもとを訪れて、ガロアに居るマグル婆さんの息子で、魔法学院の教師をしているデンゼルさんに連絡を取って貰い、ガロア魔法学院に入学する為に必要な手続きを依頼した。
幸いだったのは元からデンゼルさんの推薦があった私は、入学試験を受験する為に必要な受験料を支払う必要がない事だった。
村長の方へは父と母が報告をしてくれる手筈となっている。魔法学院に入学できて、村を離れる事となるとして、さしあたっての懸案事項は二つあった。
入学に関する雑事や慣れない魔法学院での生活、人間関係に気を取られ、瑠禹や龍吉、ヴァジェ達とこれまでのように頻繁に接触する機会が少なくなるだろう事。
そしてもう一つ。それこそが目下、私の頭を最も悩ませる懸念であった。
私は意を決し、目の前の扉を叩いた。
「セリナ、私だ」
「あ、はーい。今開けますよ」
ずるずると大蛇の這う音がした直後、閂を外す音がして開かれた扉の間から、絵にするのも難しいほどに美しいセリナの顔が覗く。
私を認めたセリナは、朗らかな笑みを浮かべて私を家の中へと招き入れてくれた。
「どうぞ、中に入って下さい」
「ああ、お邪魔するよ」
セリナの家の中は日を追うごとに少しずつものが増えていて、窓際にはフィオやマールから譲り受けた花々の鉢が置かれ、余った布と綿で作った小さなぬいぐるみが何体か棚や机の上に置かれていた。
私は、対面にとぐろを巻いた下半身の上に腰を落ち着けるセリナの顔をまっすぐに見つめた。
「セリナ、忙しい所に突然お邪魔してすまない」
「いいえ、ドランさんならいつでも歓迎しますよ。事前に連絡してくれた方が助かるのは確かですけれどね、その、お片付けとかおめかしとかしないといけないですから」
「ふむ、今日、こうしてセリナを訪ねたのは大事な話があるからだ」
「はい。どんなお話ですか?」
鉄の芯が通っているかのように背筋を伸ばし、居住まいを正して私の顔を見つめ返すセリナに、私は覚悟を決めて魔法学院の件を口にした。
「実はガロア魔法学院の入学試験を受ける事にした」
「えっとクリスティーナさんの通っている所ですよね。じゃあ試験に合格したら、ドランさんはクリスティーナさんと同じ学院に通う事になるんですね」
この反応からすると私がガロア魔法学院に入学したら村を出る事などについて、あまり理解が及んでいない様子だが、そもそもラミアの里で育ったセリナであるし無理もないか。
「ふぅ、む。そうだな。またクリスティーナさんと一緒に時を過ごせるかと思うと、今からでも楽しみだよ。それで私が入学が出来たら向こうの寮で暮らす事になるから、この村を出ていく事になる」
「そう、ですよね。聞いた話ですけれど、ベルン村からガロアまでは通える距離じゃ……あ。ドランさん、ここを出ていっちゃうんですか?」
私が魔法学院に入学するとどうなるか、という事を理解した途端、セリナの顔から笑みは消えて、先ほどまでひょこひょこと左右に揺れていた尻尾の先端は力なく項垂れ、青い満月の如き瞳には寂寥の色が浮かび上がり始める。
涙腺が脆く感情豊かなこの蛇娘に正直に伝えれば、このような反応をされるのは予め想像できた事であったが、実際に目の当たりにするとこちらの胸を締め付けられるような罪悪感がどっと押し寄せてくる。
「そうだ。別にこの村での暮らしが嫌になったとか、セリナや村の皆が嫌いになったと言うわけではないよ。ただ村を離れてでもしたい事が見つかった。
つまるところ、村での暮らしはゴーダ管理官のような階級の人々の差配一つで大きく揺らいでしまう脆いところがある。ならば私がその地位にまで登り詰めてみせようと考えたのだ。その為の足がかり、私は魔法学院に入学する」
「でも、でも、ドランさんが村を出ていってしまうなんて、私はこれまで考えた事も無かったから、そんな突然言われても……」
既にセリナの瞳にはうっすらと涙の膜が浮かび上がり始めていて、このままではセリナが大粒の涙を零し始めるのは時間の問題であった。
「すまない。正直に言うと急に決めた事なのだ。だからセリナに相談する暇も無かった。
セリナを村に誘っておきながら村を出るなどと、自分勝手な話をしてしまって本当にすまない」
「あの、ドランさん。もし、もしも私がドランさんと一緒にガロアに行きたいって言ったら、行けるでしょうか?」
今にも零れ落ちんばかりに目尻に溜まっていた涙の粒を拭ったセリナの口から、思いもかけない提案が飛び出てきた事に、私は少なからず驚かざるを得なかった。
「私とセリナが一緒にガロアへか。そう、だな。普通に考えればラミアがガロアのような都市に入る事は出来ないが、セリナはマイラールのお墨付きだし、バランさんや村長、レティシャさん達に紹介状をしたためて貰えば、あるいは……」
「わ、私はドランさんと一緒がいいんです! だから、ドランさんがガロアに行くのなら絶対に一緒に行きます!!」
顔を真っ赤にしてそう宣言するセリナに、私は思わず頬が緩むのを感じながら素直な気持ちを告げた。
「ありがとう。セリナと離ればなれになるのは私も寂しかったから、そう言って貰えるのはとても嬉しいよ」
私がそう言うと、セリナは自分がなにを言ったのか、そして何を言われたのかを理解したようで、耳の先まで真っ赤にして顔を俯かせた。まったく、セリナは可愛いなあ。
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第二十一話
ガロア魔法学院への入学の意思を固めた以上、私のやる事はもう決まっていた。
マグル婆さんが使い魔を使ってすぐに連絡を取ってくれた為、デンゼルさんは質素な作りの実用性一点ばりの茶色い箱馬車に乗って村にやって来た。
デンゼルさんは私の父と同年代の壮年の男性である。
デンゼルさんが村に到着したその日、マグル婆さんの使い魔の一体黒猫のキティを介して呼び出しを受けた私は、ディアドラの黒薔薇を手入れする手を休めてすぐにマグル婆さんの家へと足を向けた。
マグル婆さんの調合棟の屋根から伸びる煙突からは、薄紫色の甘い香りのする煙が立ち上っていて、息子の帰省にもかかわらずマグル婆さんが今日も自分の仕事に精を出しているのが見て取れた。
私は勝手知ったる庭内を進み、調合棟の扉の横に置かれている丸椅子の禿頭席の上で丸くなっているキティに、にゃあ、と挨拶をしてから調合棟の扉を開いて足を踏み入れた。
「マグル婆さん、ドランです」
マグル婆さんは入ってすぐの大部屋の中央に置かれたテーブルの横で、椅子に深く腰掛けたまま、皺に埋もれた眼差しを私に向ける。
風土病、魔物、自然災害、異民族と日々生命の危機があらゆる形で襲い来るこの辺境で、村の人々の命脈を保ち続けてきた魔法医師の瞳には、老齢から来る衰えは微塵もなく深い知性とこちらの胸の内を見透かすような輝きが宿っていた。
「呼び出して悪かったね、ドラン。不出来な息子がようやく到着したんで、早速呼び出させてもらったよ」
デンゼルさんは学院での長期休暇や父親の命日などには村に帰ってくるし、また私がマグル婆さんの弟子である事もあり、年に数日は顔を合わせている。
テーブルを挟んでマグル婆さんの向かいに立っているデンゼルさんは、最後に見た新年の時と変わらず壮健な様子であった。
デンゼルさんの顎先や鼻と唇の間を飾る髭はよく手入れが行き届き、針金でも通しているかのようなぴしりとした背筋と佇まい、そして金糸の刺繍で縁取られたケープや右手に握られた黄金の鷲の頭飾りがついた杖といった服装と相まって、紳士然とした風格と気品がある。
獲物を見定める猛禽類の如く鋭いデンゼルさんの瞳が、私の顔を映すと少し柔らかになった。
「久しぶりだな、ドラン。ようやくお前が私の誘いに応じてくれる気になってくれて、嬉しいぞ」
「色々と思う所がありまして、少し身の丈に合わない野心を抱いてみました」
「まあ、立ち話もなんだ。ドラン、ここにお座りな。今、お茶を淹れてあげるからね」
マグル婆さんの手招きに応じ、私とマグル婆さんとデンゼルさんとで三角形を描く位置に置かれた丸椅子に、私は腰掛けた。
私が着席するのに合わせてデンゼルさんも椅子に腰かけ、ほどなくしてマグル婆さんが白い湯気を吹く青い水面のお茶を三人分用意してくれた。
すっと鼻梁の奥まで瞬時に爽やかな香りが吹き抜けて、どんな睡魔に襲われていようとも一瞬で目が醒めるような清涼感が私の嗅覚を満たした。
「今日の主役はドランだ。婆は口だしせんで話だけ聞かせて貰おうかね」
マグル婆さんはそれだけ言うと手ずから淹れたお茶に口を付けはじめ、これ以上私とデンゼルさんの話に参加する意思がない事を表明した。
私はマグル婆さんの弟子ではあるが、既に成人した大人であるし、また魔法に関しても免許皆伝のお墨付きを貰っている。
である以上、私が決めた事に師としても村の年長者としても口を挟むつもりはないらしい。
「では早速だがお前の我がガロア魔法学院への入学の件だが」
マグル婆さんの淹れた青いお茶を一口飲んでから、デンゼルさんは余計な話を挟まずにずばりと本題を切り出してきた。
背筋を正して真摯な姿勢で話を聞く態度を取る私に、デンゼルさんはゆっくりと話し始める。
「既に学院では入学式と進級式を終えている。だが素質のある者が見つかり、その者が希望するのならば魔法学院はこれを歓迎するのが創設以来のしきたりだ。
もちろんただ素質があるだけで入学できるほど、規律の緩い場所でも無い。一度学院に足を運んで筆記と実技の試験、それに面接を受けて貰ってお前の能力を学院に証明してもらう事になるだろう。
とはいえかねてから私が推薦していたし、またエンテの森での一件で学院長ご自身がお前に目を掛けている事もあり、不合格になる事はまずあるまい。
もともと学院の教師などからの推薦であれば、よほどの事が無ければ不合格にはならんしな」
魔法の素養がある人間は全体的に少なく見つければ積極的に勧誘している、と以前耳にした事があったが、実際デンゼルさんの言う通り勧誘を受けたり推薦を受けたりした者ならば、まず入学は出来るのだろう。
現役の教師であるデンゼルさんとオリヴィエ学院長の推薦がある以上、私の魔法学院入学はほぼ決定と考えてもよさそうだ。
仮に推薦が無かったとしても、筆記と実技なら問題はなかった自信はある。もっとも面接だけはどう転んでいたか、まったく想像もつかないけれど。
「デンゼルさん、私は今村に住んでいるラミアの少女と親しくしているのですが……」
「うん?」
「実はベルン村を離れる話をしたら、彼女も私と一緒にガロアに行きたいという話になりまして、無理お願いをしていると自覚はあるのですが、ラミアの彼女を共に魔法学院に通わせる事は可能でしょうか?」
私の無理な話にデンゼルさんはしばし瞑目する。私への解答を頭の中で纏める為には、幾許かの時間が必要なようだった。
私はベルン村を離れる話をした時に見たセリナの悲しみ、寂しさ、そして共に行こうと決めた時に見た、輝かんばかりに美しい笑顔を思い出しながら、デンゼルさんの答えを待った。
「お前の口利きでこの村にラミアが暮らし始めた事は知っていたが、よもや魔法学院に同行させたいと望むほどの仲になっているとは、流石に想像もしなかったぞ、ドラン」
「彼女、セリナと言うのですがセリナを村に受け入れた責任もありますし、正直に言えば魔法学院に一人で行くよりは二人の方が何かと心強くありますね」
「お前がそんな繊細な神経をしているわけがあるまい。そのセリナというラミアが危険でない事は、村の皆の態度と話から十分に分かる。
だがラミアは人間を始め亜人種を襲う事がままある魔物だ。魔法学院はおろかガロアに入る事さえ容易では無い。
ただし彼女達が人間の従属下にあるというのなら話は別だ。使い魔の事は当然知っているな? セリナをお前の使い魔とするのならば連れていく事は、まあ、出来るだろう」
むう、使い魔か。マグル婆さんの所の黒猫のキティやジャイアントクロウのネロ、ジャイアントモールのベティが思い当たるがセリナを使い魔にするというのは、ふぅむ。
マグル婆さんの授業によれば、この時代の魔法使い達にとって使い魔は小動物や猛獣、魔物のみならず自身が制作した魔法生物やホムンクルスなどでも構わないらしい。
ただ倫理面から人間や亜人を使い魔とする事は強く禁じられている。
ラミアは魔物であるからこの定義に外れるので、使い魔としても特に問題が生じるわけではないのだろう。
「もしお前がセリナをどうしても連れていきたいというのならば、彼女に使い魔になって貰う他に術は無い。それにしてもそんなに一緒に来て欲しい相手なのか?」
「先程口にしたのが理由のほとんどですよ。ただ、そうですねセリナはとても愛らしい外見をしていまして、そんな彼女が涙で瞳を潤ませながら一緒に行きたいと懇願してきたら、世の男性のほとんどは断れないでしょうね」
「お前はなんとなくそういう色仕掛けは一切通じないと思っていたが、案外人並みに色恋に興味はあるのか? それにしてもラミアを村に受け入れてそこまで懐かれているとは、ドラン、お前にはモンスターテイマーの素養があるのかもしれんな」
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第二十二話
ガロアに向かう為、デンゼルさんが用立ててくれたのは六頭立ての大きな箱馬車で、人間に生まれ変わってからは初めて見る大きさの馬車に、ふむ、と私は感心の口癖を一つ。
光沢のある茶色の車体には魔法と知性を司る神オルディンを象徴する世界樹の枝で作られた杖を中心に、太陽と月を擬人化した魔法学院の紋章が刻印されており、車体保護や重量軽減など各種の魔法が施されているのが感知できた。
ふむん、と私が椅子の座り心地の良さに、いつもの口癖を零すと向かいのデンゼルさんが口を開いた。
「ドラン、ガロアに着くまでの間勉強するつもりはないのか?」
「ええ、必要な事は全て記憶しましたので。試験に平常心で臨めば特に問題はありませんよ」
「ほう、そこまで自信満々に言える人間はそうはおらんが、いざ試験となった時にもっと勉強すればよかったと慌てても間に合わんぞ?」
「筆記試験が勉強した範囲の中に収まるなら、何も問題はありませんよ。実技試験も何とかなるでしょう。ただ面接試験ばかりは何とも言えません。そればかりは不安ですね」
一時期村を離れて都会で学んだと言うシェンナさんや、マイラール教団に入信した時の事などを引き合いに出したレティシャさん達が面接の練習相手をしてくれたが、それがどこまで魔法学院の入学試験に役に立つのかは未知数だ。
一歩先を行かれた他の魔法学院に対する対抗馬として、私を担ぎあげようというガロア魔法学院の意図が確かなら、多少面接でしくじっても落とされる事はあるまいが、さてどうなることやら。
ベルン村からガロアまでは途中にクラウゼ村まで馬車で一日かかり、まずはクラウゼ村で一泊。その後、二日をかけてガロアへ到着となる。
ガロアまで四日の馬車旅を、私はデンゼルさんからガロア魔法学院とそこに通う生徒達についての質問に費やして過ごした。
そうしてデンゼルさんと話す事もなくなってきた頃になって、私はガロアへと辿り着いたのだった。
ガロアとクラウゼ村との間には石畳の街道が続いており、私達以外にも雨風に打たれて摩耗した石畳の上を行く人々の数は、相当にあった。
以前クリスティーナさんに伺った話ではガロアは総督府が市街の中心部にあり、五層に及ぶ城壁がぐるりと囲いこんでいるのだったか。
馬車の窓から顔を出した私は温い風に煽られる前髪を手で押さえながら、視界の先に移る高く積み上げられた城壁と市街に目をやった。
煉瓦造りだという市街は城壁に遮られてみる事は叶わないが、総督府や一部の塔や高層建築物の上層部は見る事が出来た。
ガロアの市街は人間に生まれ変わってから目にした建築物では、水龍や人魚などが協力して建築した龍宮城を除けば最大規模のものになる。
馬車の向かう先の北門は馬車が横に六台並んで通れる広さがあり、商品を背負った商人や貧しい身なりの巡礼者、剣や槍を携えた傭兵か冒険者らしい人影など職業や種族も雑多な人々の姿が何人も見られた。
北部辺境区最大の都市というだけあり、視覚による霊的観測領域を高めれば、そこに住まう人々の感情や生命の波動が、陽炎のように都市全体から立ち昇っているのが見て取れた。
かつてはガロアなどまるで比較にならぬ巨大な国家や社会集団を目にした事のある私だが、やはり人間に転生して万事に対する感性が新鮮さを取り戻したお陰で、口からはふむ、と感心の吐息が零れる。
「さて、ドラン。せっかくのガロア、街の案内くらいはしてやりたいところだが今日はあくまで試験の為に来たのでな。さっそくで悪いが学院に向かわせてもらうぞ」
ふむ、残念な気持ちはあるが魔法学院に入学してガロアに住まうようになれば、街を見て回る機会くらいは恵まれよう。
私はデンゼルさんに了承の返事をして、人いきれに満ちる街並みを馬車の中から覗くだけに留めて、馬車が魔法学院に着くのを待った。
ガロア魔法学院はガロアの建築当初に創立された由緒ある学問の場で、上流階級の者や裕福な商人、総督府に勤める役人や上級兵士だけが住む事を許される第一層の城壁と第二層の間にある。
ガロア市街の西部に位置する魔法学院は広大な面積を誇り、私の背丈の五倍ほどの高さの石壁にぐるりと囲まれて、正門には魔法学院の校章が黄金の円盤に彫り込まれて太陽の光を跳ね返していた。
正門から続く白い石畳の向こうには七階建てに及ぶ学院の校舎が、連綿と続いた歴史を伺わせる重厚さで聳え立っていた。
これは学院とはいうが私は城という印象を受けた。
ガロアが北方の魔物や蛮族、亜人との戦いの中心拠点とする為に城塞都市として築かれた歴史を考えれば、魔法学院も有事には軍事拠点として機能するように作られているのかもしれない。
本校舎は五角形の形をしており、広大な敷地の中には使い魔などの厩舎、魔法薬や儀式魔法、錬金術の素材となる植物を栽培する植物園、鍛冶場、それに私の住まいとなるであろう男子寮や女子寮もある。
教員用の寮や研究用の校舎とは独立した塔の他、円形のなにがしかの施設らしき建物ちらほらと見られ、学院の敷地だけでもベルン村がいくつも収まってしまいそうなほどである。
石壁に付与された気流操作と空気洗浄、隔離の結界魔法の影響で学院の敷地外には漏れだしていないようだが、学院内部では濃密な魔素や魔法薬の調合時に発生する特有の匂いが渦を巻いているのを、私の竜眼化させた瞳は視覚情報に変換して捉えていた。
生徒の身分でどこまで実験などが許されるか正確な規則はまだ知らんが色々と実験もできそうだし、これはなかなか楽しめそうな場所だな。
入校の許可証確認の為、学院正門の前で一時止まっていた馬車がまた動きだし、いよいよ学院の敷地内へと入っていく。
正門に控える衛兵たち全員の装備は全て魔法が付与された武装で、壁際に整然と並び立って沈黙する石像群はリビングスタチュー――すなわち生きた石像であった。
ひとたび起動を命じる起動文言が唱えられれば、この石像達は仮初の生命を与えられて、侵入を試みる不届き者達を血祭りに上げることだろう。
警備の厳重さは学院に貯蔵されている宝物の類を狙う盗賊に対する為か、あるいは同じ魔法使いでも悪しき目的を持つ者達に狙われているからか。
まあいいか。学院の警備を掻い潜る者がいたとしても教師陣で対応するだろうし、いざとなれば私が独自に動いて叩き潰せばよいだけの事。
魔法学院の本校舎の中はしんとした静寂に満たされていて、今も数百名の人間が校舎内に居る筈なのだが、その喧噪ははるか遠いものであった。
それとも春の長期休暇でまだ実家に帰っている生徒が多いのかもしれない。そうならこの時期は私も実家に帰れるわけだ。
私はデンゼルさんの案内で、エントランスホール左にある扉の一つを通り、学院の廊下の中を進んで私が試験を受ける為の部屋へと案内された。
一段床より高い教壇と黒板と向かい合うようにして、二人掛けの机が五脚ずつ三列に並ぶ教室で、試験の間私が不正をしないか見張る為の教師がそこで待っていた。
「アリスター、この子が試験を受けるドランだ。ドラン、こちらがお前の試験を監督する教師だ。試験を受ける上で何か分からない事があったら、彼に尋ねるように」
教室の中で待っていたのは三十代半ば頃の、深緑色のローブを身にまとい神経質そうな狐目に、細顎と鷲鼻を持った男性の魔法教師だった。
薄い金色の髪を短く刈りあげて、腰のベルトには二の腕くらいの長さの細い指揮棒のような杖を挟みこんでいる。
教師としての序列はデンゼルさんの方が上なのか、アリスター教師は恭しげにデンゼルさんに頷き返した。
「はい。ドランです。よろしくお願いします」
「うむ。いい面構えだ。吾輩はアリスター・クォーネル。今回の君の筆記および実技試験の監督官を務めている。
ではデンゼル師、ご退出願えますかな? 早速この子の試験を始めなければなりません」
「分かっている。ではドランよ、悔いの残らぬよう全力を尽くせよ」
私に一つ気合いを入れるように肩を叩いてから、デンゼルさんは教室の扉を開いて去っていった。ふむ、ここからどのように私の未来が繋がってゆくかが、この場所で決まるのか。
そう考えるとそう広くはないこの教室にも、不思議と感慨めいたものを感じる。私の人生における分岐点の一つとなる場所なのだ。
私がしみじみとしているとアリスター教師が、私に席に着くよう指示を出した。教壇の上には私が行う筆記試験用の紙束と時間を計る為の砂時計が置かれている。
教室全体に使い魔やゴーレムなどとの精神接続を阻害する魔法が施されており、これで通常は不正対策としているのだろう。
私からすればあってなきにも等しい無力な阻害魔法だが、この試験は自分の実力だけで突破するつもりであるから、正真正銘、実力で筆記試験と実技試験を受けるのだ。
「では席に着きたまえ、ベルン村のドラン。これより君が魔法学院の生徒たるに相応しい資質と能力の持ち主か確かめる為の試験を行う。
筆記試験は中等部までに学んだ魔法の基礎知識および一般教養を問うものだ。この砂時計の砂が尽きるまでの間、解答に全力を注ぎたまえ。さ、筆記用具を出して試験の準備を整えるのだ」
アリスター教師の言葉に従い、私は席について鞄の中から筆記用具を取り出し、裏返しにされた問題用紙を受け取った。
マグル婆さんとデンゼルさんから受けた教育の内容なら、高等部の入学試験は問題なく解答できると聞かされていたが、実際にはどうなることか。
私の用意が整った事を見て取ったアリスター教師は砂時計を手に取る。
「準備は良いかね? 試験中の退席は認められない。落とし物をした時は吾輩が拾うので席を離れないように。言うまでもないが不正が行われている事が発覚した場合には即座に試験を中止し、君の入学の話は白紙になる。なにか質問は?」
「いいえ。いつでも始めてくださって結構です」
「よろしい。では、はじめ」
くるりとひっくり返された砂時計の青い砂が、さらりと零れ落ちた。
それから規定通りの筆記試験と実技試験、面接試験を終えた私は、アリスター教師につれられて、デンゼルさんの許へと戻ろうとしていた。各試験に関しては十分に手応えありだ。
不意に私の前を行くアリスター教師が前を向いたまま私に声をかけて来た。
アリスター教師の声は灰色の雲に覆われた荒野を渡る冷たい冬の風を思わせ、いささか人情味に乏しく感じられる。
「君は非常に興味深い生徒だ。筆記試験、実技試験を受けていた時の様子。それにこうして歩いている今も、足音と呼吸の拍子が学院に来た時から変わっておらん。そんな生徒を吾輩はこれまで見た事はなかった」
「足音と呼吸ですか? アリスター先生は耳がずいぶんとよろしいのですね」
「さて、その返答は君の本心か、猫を被っておるのか」
聴覚及び触覚強化を用いるか大気や床の振動を感知して、私の呼吸や足音の拍子に変化がない事に気付いたのだろう。
前者ならば基本的な技術である魔力による肉体活性の強化魔法、後者ならば風系統の魔法が得手と言ったところか。
「吾輩の指摘を受けても息一つ飲まん。君は見た目通りの生徒だと思ってはならぬようだ。デンゼル師も仰っていたが、実際に会ったことで吾輩も確信した。
言葉は悪いが君は異常と言える。この場合は良い意味でだがね。君は入学すれば必ずや他の学院への対抗馬としての重圧を感じることだろう。
あまり楽しい学院生活にはならぬかもしれんが、そこは君の努力次第でいくらでも変えられるだろう。勉学以外にも学ぶべき事は多い。魔法学院で君のやる事は多いぞ」
「これから入学しようという生徒にそういった事情を明かすのは、いかがなものかと思いますが」
とはいえアリスター教師は内部事情を少々晒し過ぎではないだろうか。
口にした通り私を外見通りの少年として扱わないからこそなのかもしれないが、夢と希望を持って魔法学院に入学しようという私を前に口にするのは、褒められた事ではないだろう。
私の言葉を受けてもアリスター教師はまるで意に介した風もなく、私に背を向けたまま言葉を続ける。
「安心したまえ。君が言って聞かせても大丈夫な生徒だと思うからこその言よ。その程度の分別ならば吾輩も持ち合わせているのでな」
アリスター教師はなかなか食えない御仁のようだが、そういう意味ではあのエルフの学院長も同様か。
だが個性が強すぎて食えない相手というのは、神々の中にも腐るほどいたものだ。
あのアクの強い連中と付き合ってきた経験のある私からすれば、むしろそういった相手こそ付き合いやすい面も確かにある。
やはりこのガロア魔法学院という場所で過ごす時間は、私から退屈という命と心をも蝕む最大の天敵を忘れさせてくれるに違いない。
私は確かな予感を噛み締めるように笑みを浮かべた。
エントランスホールに着くとやや落ち着かない様子のデンゼルさんの姿が見られた。
「うむ、その様子では特に失敗は無かったようだな。ご苦労だったな、ドラン」
「いえ、出来る限りの事をしました。後は運を天上の神々に委ねるのみです」
とは言うものの私の場合、大っぴらに神々に結果を委ねるわけには行かない。
顔が利きすぎてやり過ぎかねないから、というのがその理由なのだが地上世界広しといえど、そういう事情がある者など私を含めて片手の指ほどもあるまい。今の言葉がマイラールに届いていませんように、と祈るべきか。
私が至って平静とした態度を取っている事に、デンゼルさんは呆れの混じった表情を浮かべた。
「デンゼルさん、試験は終わったようですが、これ以上何かしなければならない事はありますか?」
「いや、お前が今日この魔法学院でせねばならん事はこれで全て終わりだ。お前はこれで帰って構わんよ。観光の一つもしたいところかもしれんがな。
帰りの馬車は私の方で手配しておいたから、正門の所にもう来ている。お前はそれに乗って帰るといい。私はこのままこちらに残る。ああ、馬車に土産は積んでおいたから、後でそれを皆に配っておいてくれ」
魔法学院の窓の向こうを見れば、来た時には青く濡れた空が広がっていたのに、いまでは橙の色に染まっている。
お土産を買って帰ろうにも生憎と持ち合わせの無い以上、デンゼルさんの気配りは大変にありがたい。私は正直にデンゼルさんのご厚意に甘える事にした。
「分かりました。お心遣い、ありがたく頂戴します」
私は二人の教師達に礼と別れの言葉を告げてから、エントランスホールを辞し、デンゼルさんの手配した帰りの馬車へと乗り、ベルン村への帰りの途についたのだった。
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第二十三話
私がガロア魔法学院に赴いてから三日後、ベルン村には珍しい大きめの封筒に入れられた手紙が届いていた。それはむろん魔法学院から私に対して宛てられたものであった。
手紙を配達業者のケンタウロスの男性から受け取った私は、ちょうどその時家の畑仕事の最中であった。
私は鍬を振るう手を休めて、土で汚れた手を野良着で拭ってから手紙の封を解いた。
畑の中にある切り株の上に腰掛け、手紙の文面に目を走らせる。
ふと私は手紙を握る自分の指に必要以上に力が込められている事に気付いた。どうやら緊張しているらしい。
やれやれ、かつては敵対する最高位の魔神と対峙しても緊張の微粒子一つ抱かなかった私が、学校の合否ひとつでこうも緊張してしまうとは。
竜も変われば変わるものだと、不思議な感慨が私の胸の内に湧きおこった。
結果は予め分かっていたにせよ、こうして実際に目をすると多少なりとも緊張とやらが全身に満ちていた。
私は無事にガロア魔法学院の入学試験に合格し、既に新年度を迎えた在校生達にやや遅れて入学する事が叶ったのである。
*
入学が確定となり、私がしばしベルン村を離れる事を友人知人に伝え終えれば、私がしなければならない事は、ガロア魔法学院にセリナを連れていくのに必要な使い魔化である。
ディアドラとフィオ、瑠禹、ヴァジェへの挨拶を終えた日の夕方に、使い魔の儀式は執り行われる事となった。
主と使い魔になる両者の合意がある以上、使い魔の契約を結ぶ儀式それ自体はそれほど難しいものではないはずだ。
私達が行ったのは第三者の仲介を経て、使い魔と主との間に精神的なつながりと、知識と五感と魔力の共有、主従関係を意識に刷り込む一般的なものである。
儀式はマグル婆さんとディナさんにお願いして行って貰う事となり、場所はマグル婆さんの調合棟である。
調合棟の床には真っ白い特殊な素材らしきが敷かれ、絨毯には蒼白く輝く塗料で魔法陣が描かれている。
私とセリナが絨毯に描かれた魔法陣の中心に立つと、マグル婆さんが契約魔法を取り扱う知識を綴った魔道書を片手に、契約を司る神ラ・ヴェルタの御名の下に私とセリナの名を述べはじめる。
私とセリナを包み込むように、足元に蒼白く光り輝く円と契約神の神聖文字で構成される契約陣が床から浮かびあがり、何層にも積み上がりながら私達の周囲で激しく回転して明滅する。
「契約の神ラ・ヴェルタの名の下に偽りなく違われることなき誓約をここに結ばん。小さき人間ドラン、魔蛇に呪われし娘セリナ、これら二つの魂に小さき人間を主とする主従の定めを与えたまえ」
「ふむ」
私の魂に干渉しようとしたラ・ヴェルタが、ひどく困惑している気配が感知できた。気付いたのは私だけ、か。
本来の古神竜の魂を人間の魂を模した殻で覆っていたが、流石に神の力によって魂に施される契約であれば、偽りの魂の殻くらいは気付くか。
私は礼儀として人間の魂の殻を脱ぎ捨て、古神竜の魂を剥き出しにしてラ・ヴェルタに語りかけた。
契約陣を通じての事であるから、実際に顔を突き合わせるわけではないので、思念だけのやり取りになる。
あまり面識のない相手であるが特に敵対した事もない。果たして融通をきかしてもらえるかどうか。相手の性格と交渉次第と言ったところか。
あまり難しいものにならぬと良いと思いながら、私は意識を人間相手のものから、竜として存在していた頃のものに切り替える。
“契約を司る神ラ・ヴェルタよ”
私の呼びかけに返ってきたのは、剥き出しになった私の魂の巨大さに戦慄くラ・ヴェルタの思念であった。
マイラールが言っていたが前世より弱体化したとはいえ、いまも私の魂は神の基準からみてもかなり強力であるそうだ。
ならば人間と魔物の間に結ばれる使い魔の契約の筈であったのに、そこにあったのが神々にも匹敵しよう強大な魂であったなら、ラ・ヴェルタに驚きの感情を与えるくらいはできるのだろう。
“汝は……七彩を纏う竜の魂、まさか”
私の脳裏に届いたラ・ヴェルタの声は夜の静寂を渡る風の様に静かであった。
これが人間や亜人、妖精種など地上に生きる者達であったなら、あまりに次元の違う
高位存在の声に触れて魂が慄き震えて気を失うくらいの反応があるところだろう。
ラ・ヴェルタは契約という行為とその管理を司る女神で、天界と地上世界の間に広がる次元の狭間に、自分自身の領域を作りだしてそこで自身の御名の下に結ばれた契約を管理している筈だ。
眷族たる下級神を持たず唯一無二、孤塁の神として存在する女神であり、善神と悪神の間で起きた太古の大戦にも積極的には関わらずにいた中庸の立場にある。
“そのまさかでな。奇縁の果てに人間として生きる次第になっているのだ”
“理解。されど汝らの契約には支障なし。汝、契約を望むか?”
私が存在を維持していた事に対する驚きはすでに消え、ラ・ヴェルタは自身の役割を淡々とこなすべく儀式を継続する。
“然り。されどそなたに願いがある。私とセリナの間に結ばれる契約の内、セリナの意識に与えられる影響を無効にして欲しい。願わくはそれが他者にも分からぬように隠蔽もな”
“我に求められし契約の内容に齟齬あり。汝の望みは叶え難し”
“ならば私の求めによる新たな契約として望む。契約の対価たる魔力は私が供しよう。我らを対象とする一度目の契約の後、私の求める契約に沿った内容に上書きしてもらいたい”
マグル婆さんを介して結ぶ使い魔の契約を、さらに私が望む内容に上書きする、という私の要望に対し、ラ・ヴェルタはしばしの間を置いてから答えた。
“契約の上書き……了承。対価たる力は人の身なれば莫大なるも汝ならば支障なし”
“助かる。ついでといっては何だができれば私が転生した事は他言無用に願う。余計な諍いが生まれるのは私の望むところではないのでな”
とはいえ既にマイラールとカラヴィスには私の転生が知られているし、またゲオルグとの戦いで一時とはいえ魔界に堕ちて竜としての力を振るっている。
悪しき神や善き神らに私の転生が知られるのも時間の問題ではあるが。
“承知。汝の存在は我の関わるところではないゆえ。もとより我は他者と交わる存在に非ず”
“誠に助かる。感謝を。しかしそなたももう少し他者と交わった方が生を楽しめようぞ。私でよければ暇な時に話し相手くらいにはなるのでな”
“余計なお世話なり”
感謝の意と言葉をラ・ヴェルタに告げて、私は意識を戻した。ふむ、話してみると割と融通が利く相手だったな。
幸いなことであるがこれでマグル婆さんが結んだ使い魔の契約を、私の求めた契約が上書きしてセリナの意識に影響が出るような事はないのだ。
「ふむ?」
私がラ・ヴェルタの交渉が実に順調に終わった事に気を良くしていると、マグル婆さんが訝しげな表情を作っている事に気付いた。
ふむ、どうやら契約が既に締結されるはずなのに、妙に遅い事を不思議がっているのだろう。
私とラ・ヴェルタが思念によって交渉を行っていたのは決して長い時間ではないが、順調に行く筈の契約締結に遅れが生じるのは仕方がないか。
その一方で契約陣が役割を果たして消滅し、蒼白い光も消えた事を確認したマグル婆さんが、私とセリナにそれぞれの心臓の辺りを確認するように言ってきた。
「二人共自分の胸の辺りを確認おし。使い魔の契約が結ばれた証拠がそこにあるはずだよ」
言われたとおりに私とセリナが、服の隙間から自分達それぞれの心臓がある所を見れば、そこには硬貨一枚ほどの小さなラ・ヴェルタを象徴する蒼白い紋章が、いつの間にか浮かびあがっていたのである。
「二人の胸に刻まれた紋章が魔法学院で認められている契約魔法の内、ラ・ヴェルタ神の名の下に結ばれる契約の証だよ。
ドランが学院の生徒になれば学院公認の使い魔である事を保証するメダルが渡されるはずだね。セリナはそのメダルを見える所に着けておくんだよ。そうしないと使い魔でないと分からないから、何をされるか分かったものじゃないからね」
「もし何かあったら、誰が相手でも報復するよ。セリナを傷つける者が居れば、私はそれを許さない」
「ドランさん。でも私の為に無茶はしないでくださいね。ドランさんにはこれからしなければいけない事がたくさんあるんでしょう?」
「ふむ。そうではあるが、だからといってセリナが傷つけられる事を容認するわけではないよ。まだ魔法学院の生徒達がセリナがラミアであるからと言って良からぬ事をするとは限らんがね」
照れ臭そうにセリナが顔を俯かせると、それを他所にディナさんが軽く指を振って私達の体に、ごく微弱な魔力が走るのを感じた。
対象を検査する類の魔法だ。諸感覚で大抵の事は把握できる私にとって必要性はないが、応用が利きそうだしおおっぴらに使える代物でもあるから魔法学院で習うとしよう。
「使い魔の契約は問題なく結べていますね。確かに使い魔の契約は結ばれているから、セリナちゃんをガロアに連れて行っても文句は出ないでしょう」
ふむ、これで問題ないらしい。一応、私はマグル婆さんに儀式の終わりを確認する。
「これで使い魔の契約を結ぶ儀式は終わりですか?」
「そうだね。妙に時間が掛ったように思えたけど特に問題はないねえ。もう合格もしているんだから、後はうちの馬鹿息子が寄越す迎えの馬車に乗って魔法学院に行くだけさね。
セリナ、あんたがラミアである以上は人間や亜人が住人の大部分を占めるガロアじゃあ、色々と不愉快な目に遭う事もあるだろうけれど、あんたの傍には何時だってドランが居る筈だし、なに、辛い事があったらここに戻っておいで。
セリナは私にとっちゃあ、優秀な生徒で四人目の孫娘みたいなものだからね。さてドラン、あんたはさっき自分が口にした事を嘘にするんじゃないよ。セリナを傷つける誰かが居たら、相手が何だろうと怯むんじゃないよ。師匠命令さ」
「ああ、言われるまでもない」
躊躇なくそう言い切る私の言葉を耳にして、セリナがまた照れ臭そうにもじもじと可愛らしい仕草をしていた。
マグル婆さんとディナさんに礼の言葉を重ねて調合棟を辞し、私とセリナは二人肩を並べてそれぞれの家への帰り路に着いた。
太陽が西の地平の彼方に傾き始め、私達の周囲を囲む風景は薄闇の帳が降りたように暗くなり始めている。
風に白い花弁を揺らす可憐な花畑も、豊饒の実りを迎えて頭を垂れている黄金の麦も、絶えず流れる清浄な水の流れも、石や煉瓦を積み重ねて藁束や木板を屋根にした家々も、全てが別世界に迷い込んだように薄暗い色に染まりつつあった。
太陽の輝く昼の世界と月を天に頂く夜の世界との狭間を行く中、時折白いブラウスの襟を引っ張り、自分の胸に刻まれた使い魔の印をちらちらと見ていたセリナが、私の顔を覗きこんできた。
白い蝋のようになよやかな肌にほんのりと朱の色が差しているのが、薄闇の帳越しにも見て取れた。
「これでドランさんと一緒にガロアに行けますね。私はとっても嬉しいです。村の皆さんと離ればなれになるのは寂しいですけど、ドランさんと離ればなれになる方が寂しいですから」
セリナは特別に意識して口にした事ではないのだろうが、この台詞は時と場合によっては口説き文句にも等しいのではないだろうか。
私の魂の年齢がもっと若々しかったら、今のセリナの言葉で恋にでも落ちたかもしれない。正直に言えば、かすかに頬を赤らめたセリナの笑顔と合わせて、大きく心が揺さぶられている。
本当にこの蛇娘は時々予想もしない言動をする。だからこそ一緒に居て楽しくもあるのだけれど。
「ふむ。セリナ、それはちょっとした――いや、大いに殺し文句だな。危うくセリナに惚れるところだったよ」
私の言葉にセリナはきょとん、という表現のこれ以上ない見本と言った表情を浮かべ、地を這う動きを止めて私の顔を見つめる。
「え?」
「やはり意識して口にしたわけではなかった。セリナはラミアにしては他種族を魅了するのが下手だと思っていたが、やはりラミアはラミアだな。息をするように私を誘惑してくる」
多少からかいを含めた私の言葉は、ゆっくりとセリナの心に沁み込んでいったらしい。
徐々に自分が言った事を理解したセリナは、服から覗く肌を徐々に赤くしていき、耳の先端に至るまで赤くしてしまった。
ふむん、これで少しはこれからの言動を控えてくれるとだろうか。年頃の娘さんが頻繁に異性を惑わすような事を口にするのは良くないからな。
セリナの場合、ラミアという種族の特性もあってあらぬ誤解を招いてしまう可能性もある事だし、ガロア魔法学院には十代の少年少女がひしめいているわけだから、他種族を誘惑するラミアは厳しい監視の目を向けられるかもしれない。
「あ、あ、ああの、ドランさん! 私、別にですね、そういう意味で言ったつもりはなくってですね、そんなドランさんを誘惑しようとかじゃ、あの、その」
「別に怒っているわけではないよ。私とセリナの仲だしね。ただ魔法学院では少し言動に気を付けて欲しい。セリナのような美少女に甘い言葉を囁かれたら、大概の人間はころっと参ってしまうからな」
「あうう、で、でもドランさんはころっと行かないじゃないですか……」
そう言われるとセリナは私にころっと行って欲しいように聞こえるが、ふむ、やはりと考えるべきなのだろう。これが私の思い違いならばとんだ自惚れ屋という事になるな。
「ふふ、私は少し枯れている所があるからな。淫魔の類に誘惑されてもなにも感じないかもしれない。一応、誤解の無いように言っておくが肉体的には健全だから、精神の方に問題があるのだろうね」
「ドランさんはまだ十六歳じゃないですか。私よりも年下なのにもうかれ……かれ、枯れているって……うぅ」
「恥ずかしがるくらいなら口にしない方がいいと思うぞ。それとセリナ、言おうと思っていた事がもう一つある」
羞恥の念に思わず両手で自分の顔を隠しているセリナが、さらに私がなにを言って畳みかけてくるのかと恐る恐る指を開いてその間から私を窺い見てくる。
「今度は何ですか?」
すっかり警戒している様子のセリナに対し、私は小さく笑いながら言おうと思っていた事を嘘偽りなく口にする。
「私と一緒にガロアに行きたいと言ってくれてありがとう。その為に使い魔にまでなってくれてありがとう。セリナが一緒に行くと言ってくれた時、私はとても嬉しかった。
やはり家族や気心の知れた皆と離れて一人でガロアに行く事が、思いの外私は寂しかったようだ。だからセリナには心から感謝している。セリナのお陰で私はガロアに行っても一人きりにはならずに済んだ」
「ドランさん……。お礼の言葉なんて。私は私がドランさんと一緒に居たいからお願いした事です。だからドランさんにそんな風に感謝して貰えるような立派な事をしたわけじゃありません」
「その立派でない事のお陰で、私はとても救われたのさ。だからありがとうと言ったんだよ」
「ふふ、そうですか。なら素直にお礼の言葉を受け取った方がいいですね。ドランさんのお役に立てたなら、私はそれだけで満足です」
「セリナが嬉しいのなら私も嬉しい」
「あの、ドランさん。一つだけお願いしていいですか?」
何か意を決した様子のセリナに、私は首を縦に振って応じた。セリナへの感謝の気持ちは本物だ。この少女の性格からしてそう大仰な事はお願いされないだろうが、それでも私の力の及ぶ限りセリナのお願いを叶えるつもりだった。
「その手を繋いでも良いですか?」
そう言ってセリナは自分の左手をおそるおそる私に向けて差し出してくる。傷や染み一つない綺麗な指と掌が、私の返事を待っている。
「手を繋ぐだけで良いのかい? 分かれ道までもうすぐそこだから、あまり長く手を繋いでもいられないよ」
「良いんです。今は手を繋いで貰えるだけで」
「そうか。セリナらしい随分と可愛らしいお願いだな」
私はセリナの手をしっかりと握り返し、喜びに微笑むセリナと手を繋いだままお互いの家への道を進んだ。地平に沈みかけている太陽が、手を繋いだ私とセリナの影を長く長く地に伸ばしていた。
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第二十四話
再び城塞都市の威容を誇るガロアの第一城壁と第二城壁の間にあるガロア魔法学院を、馬車に揺られながら訪れた私は、正門で小さな菱形の青い水晶が埋め込まれた金属製のカードを渡された。
魔法学院の生徒である事を証明する身分証である。埋め込まれている水晶に生徒の情報が記録されており、自動でカードの表面にその情報が文章として刻印される品である。
いまカードには私の名前、学年、学生番号、それに使い魔であるセリナの名前と顔も並んでいる。
当然のことながら魔法学院の中には生徒の姿が見られた。
白を基調として魔法学院の校章が縫いこまれ、折り返しの袖や襟が黒く金刺繍で縁取られた制服を着ている。
男子は同色のズボンで女子は長丈のスカートだ。ネクタイとリボンの色で学年の識別が着き、私の入学する高等部二学年の色は青。学生証の水晶と同じ色である。
魔法学院の敷地内で見受けられる生徒の中には犬や猫、鹿、鴉などの小動物を連れている者もいて、それらの小動物が使い魔である事は精神の繋がりがある事を確認するまでもなく容易に想像がつく。
私達の乗った箱馬車は正門ではなく男子寮の方へと向かって進み、四階建ての高等部男子寮の正面で馬の足は止まり、私達は揃ってそれぞれの荷物を手に馬車から下りた。
玄関の前には魔法学院に雇われている使用人か寮母らしい、白いものが髪の毛に混じるふくよかな女性が私達を待ってくれていた。
「あんたがドランだね。あたしは男子寮の寮母を任されているダナだよ。ようこそ魔法学院へ」
ダナさんは白髪交じりの茶髪を後頭部で団子状にまとめ、動きやすい紺色の制服の上にポケットがいくつもついたエプロンを着ていた。魔法学院の女性使用人達の指定の制服なのだろう。
「これからよろしくお願いします。ベルン村のドランです」
「ラミアのセリナです。これからお世話になります」
「うん、ちゃんと挨拶の出来る子だね。普通使い魔は専用の厩舎かあるいは寮で主と一緒の部屋に入ってもらうんだ。
まあ、ラミアと同居させるのは随分と問題視されたけど、使い魔として契約を結んでいるから大丈夫だろうって事に落ち着いたからね。
部屋の広さは十分ある筈だけど、実際に見てもらった方が早いやね。まずは部屋に荷物を置いてから寮や校舎の方を案内するよ」
ついといでと言うダナさんに続いて私達は男子寮の中へと入った。学院の校舎と同じ石造りの寮内は手入れの行き届いた内装だ。
無事に魔法学院を卒業した者の将来は約束されたようなもので、それなりに上流階級との付き合いも生じるから、それに備えて普段暮らす寮一つをとっても金を掛けているのだろうか。
男子寮は入ってすぐ右手側に入寮者の出入りを管理している人達の窓口があり、ダナさんとは別の男性の使用人達の姿がある。
「食事は一日三回。男子寮にも食堂はあるけど昼食と夕食は大体校舎の大食堂で食べる子が多いよ。寮の食堂はさっきの階段の左脇の部屋にあるからね」
私の場合はセリナと一緒に食事をとるのでやはり食事中も目立つ事は間違いないだろう。
セリナには部屋で待って貰って、私が食堂で人数分の食事を受け取って持ち帰るのでもいいだろうが、出来れば学院の生徒達との交流も深めたい私としてはなるべく食堂を使いたいところなので、これは悩みどころである。
ダナさんは二階には上がらず玄関入口から見て右側の廊下を突き進み、角を曲がってまっすぐ進んだ先にある倉庫らしい大きな扉に私達を案内した。
いかにも物置だったという寂れた雰囲気が漂い、扉の作りも他の男子生徒の部屋のものに比べて数段下だ。
私達二人が一緒に暮らす為の空間を確保できる部屋が、男子寮にはここだけだったということだろう。
「ここがあんた達の部屋だよ。もとは物置になっていた所だったんだけどあんた達がここに暮らすって言うんで余計な荷物は全部他所に移したし、掃除もきっちりとしたから綺麗にはなっている筈だよ」
そう告げるダナさんはどことなく申し訳なさそうで、流石に親元から預かる魔法学院の生徒を、物置だった場所に住まわせるのは多少なり気が咎める様子である。
石造りの床や壁の部屋で暮らすのは私にとっては慣れぬ事であるが、竜時代には何の手も入っていない洞窟の中で暮らしていたこともあるのでどうという事はない。
部屋の中に入ると元は物置だったという事もあって、大きめの木板の窓が壁際に一つあるきりで閉塞感を醸すのに一役買っているが、中は広く私達が暮らすのに窮屈さを感じる事はなさそうだ。
「荷物は置いたね。それじゃあ学院の中を案内するよ。途中で売店に寄ってあんた用の制服を受け取っときな。寸法に不都合があったらすぐにお言い。入学式に丈の合わない制服を着ていたんじゃ格好がつかないからね」
「はい」
「それで悪いんだけどあんた達の案内は私じゃなくて、知り合いだって娘が希望しているんだ。今頃玄関に着いていると思うから行ってごらん」
私達の知り合いで生徒と言えば思い浮かぶのは一人きり。銀髪赤眼の愁いを帯びた美貌の魔法剣士の寂しげな横顔と、宴の夜に見た晴れやかな笑顔が私の脳裏を占める。
私の想像が正しかった事は実際に玄関に行ったことで証明された。
ほんの数日前にエンテの森で魔界の者達との死闘を戦い抜いた麗しい美少女が、男子生徒の視線を釘付けにしながら玄関で私達を待っていたのである。
クリスティーナさんだ。ほんの数日顔を合わせなかっただけだが、たったその間に一層美貌に磨きのかかったクリスティーナさんは魔法学院指定の制服を身に纏い、村で見た時とはまた違った印象を受ける。
私達に気付いたクリスティーナさんが、腰まで届く長さの銀髪を左手で掻き上げる艶めかしい仕草と共に、大輪の薔薇がそこに咲いたように眼を惹く笑みを浮かべる。
「やあ、久しぶりだね。ドラン、セリナ。ドランは変わりなく元気な様子でなによりだ。セリナは相変わらずの美人だね」
親愛の情が込められたクリスティーナさんの言葉に、セリナが人好きのする可憐な笑みを浮かべる。
寮内を歩いている時に険しい視線を向けられていた分、顔見知りと出会えたことで緊張が和らいだのであろう。これだけでもクリスティーナさんに感謝する価値がある。
「クリスティーナさん、お久しぶりです。お元気そうで良かった。またお会いできて嬉しいです」
律儀にクリスティーナさんに向けてセリナが頭を下げるのに続き、私も軽く頭を下げてからクリスティーナさんに話しかけた。
「セリナの言うとおり元気そうでなによりだ。クリスティーナさんこそ魔法学院の制服がとても似合っている。でもせっかくだからスカートを着ている姿を見たかったな」
そう、クリスティーナさんは男子生徒と同じズボンを履いていたのである。しゃなりと伸びるクリスティーナさんの脚線美がズボンに隠されてしまい、見る事が出来ないのは私としては非常に残念という他ない。
スカートを履いている女子生徒は普通の靴下か、太ももの半ばまである長丈の靴下やブーツ、あるいは腰まであるタイツを履いていて、クリスティーナさんだったらどの場合でもその両脚の優美な線で周囲の眼を魅了できるだろう。
私の素直な事この上ない言葉にクリスティーナさんは照れくささを隠すように微笑を浮かべる。
そのクリスティーナさんの微笑に私達を遠巻きに見ていた男子寮の生徒達が、おお、と控えめだが驚きの声を挙げた。
ふむ、そういえばベルン村に来たばかりのクリスティーナさんは、陰鬱と退廃に塗れた随分と陰のある印象を受ける女性だったが、これまでは魔法学院でもそうだったに違いない。
そのクリスティーナさんがこうも朗らかな陽性の微笑を浮かべるのだから、驚くのもむべなるかな。
クリスティーナさんがこのような笑みを浮かべるようになったのも、ベルン村での出来事があったればこそだと思うと、私はなぜだか誇らしくなって優越感を覚えるのだった。
「君は本当に相変わらずだな。私は体を動かすのが好きだからスカートでは色々と不便なのさ。さていつまでも玄関で立ち話をしていても仕方がないから、そろそろ案内をさせてもらうとしようか。私に付いてきてくれ」
颯爽と歩きだすクリスティーナさんの銀の髪が風に靡き、通った後には砂状の銀が撒かれたような輝きが残る。
眩い銀の髪だけではなく、クリスティーナさんという絶世の美少女の姿形それ自体が放つ輝きである。
周囲の生徒たちの羨望と疑惑と嫉妬の混じる視線は、私の肌を痛いほどに刺してくるほど強い。
道中クリスティーナさんは実に楽しそうに私達を案内してくれたが、やはり使い魔のメダルを下げているとはいえ、ラミアのセリナとに向けられる視線は好意的とは言い難く、時折二人が居心地の悪い様子を見せる事に私は心を痛めた。
二人が話してみれば人間の女性とそう大差のない精神性の持ち主で、友誼を結べる相手だと分かるのだが、そもそも魔物を相手に話しかけようという度胸のある者がそうそういるものではないか、どうにもままならぬな。
もういっその事魔法学院の生徒全員の思想を操作してしまおうか、と邪悪な考えが浮かぶのを慌てて打ち消すと私の心中の葛藤を知らぬクリスティーナさんが私を呼んだ。
「学院の主要施設はおおむねこんなところだな。後は事務室くらいか。ここまでで何か聞きたい事はあるかな?」
腕を組み優美な線を描く顎先に指を添えて私を振りかえるクリスティーナさんに、ふむ、とひとつ間を置いてから私は問いかけてみた。
周囲との温度差をどう埋めるかは可能な限り私が考えて対処するとして、クリスティーナさんにはそれとは別の事で気に掛っていた事がある。
「通りすがる皆がクリスティーナさんの事を見ていたが、人気者なんだな。デンゼルさんが前にとても優秀な生徒だとクリスティーナさんの事を言っていたし、エンテの森での戦いでも剣も魔法も凄かった」
「褒めてくれるのは嬉しいが、私としてはあまり他人の眼を惹くのは好ましくはない。槍玉に挙げられるのは気分の良いものではないし、私はそれほど大した人間ではないと思っているからね。周囲が思い描く私と、実際の私は全くの別物なのだから」
そういうクリスティーナさんの顔がうっすらと陰鬱の薄衣を纏うのに、私は内心で嘆息した。
自分自身にたいしてさして生きる価値を見出していない者が浮かべる顔だ。クリスティーナさんに限らず二十歳にもならぬ少女が浮かべて良い顔では決してない。
「ふむ、勝手に期待し、勝手に思い描き、勝手に失望し、勝手に憎悪さえする。よくある人間の反応だな」
「そういう事になるのかな? それにしてもやはり君は見た目通りだと思ってはいけないな。時折見せる老成した雰囲気や諦観めいた言動は、慣れない内は随分と戸惑うだろう」
「ふむぅ、それはまあ、考え方や雰囲気はそう簡単には直せるものではない、と言い訳させてもらうよ。
ああでもクリスティーナさんもベルン村に来た時と去る時とでは、結構雰囲気が変わっていたじゃないか」
「そう、だな。後で学院に顔を出した時少し驚かれたよ。前よりも明るくなっているとね。そこまで暗い人間だったかと自問しなければならなかったが」
肩を竦めて言うクリスティーナさんに、私は苦笑を返した。
それから案内を終えて戻ってきた男子寮の玄関で、私は途中で寄った本校舎の売店で受け取った夏と冬の制服、それに下に着込むシャツと替えのネクタイが入った紙袋を片手に、クリスティーナさんに手を振り、昼食の時に再会する約束をして一時の別れを告げた。
ベルン村を発って家族とアイリ達と離れる事にはなったが、代わりにクリスティーナさんと顔を合わす機会が増えたことそれ自体は喜ぶべきことであり、私の心は喜びに小さく高鳴った。
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第二十五話
ガロア魔法学院に於いて授業の開始や三度の食事の時間は、本校舎の時計塔に吊るされた黄金の大鐘楼が鳴らされることで魔法学院関係者に伝えられる。
私達の場合隣に他の生徒達が住んでいるいない以前に、元が物置だった為に入寮の挨拶は特にしないで済んだが、さて人の集まる大食堂に向かったらどのような眼で見られるだろうか。これから魔法学院で私達に向けられる視線を占う事に繋がるだろう。
事前にセリナを食堂や教室などに同行する許可の確認はデンゼルさんを通じて取ってあるが、ダナさんの言うとおり本校舎の方へと向かうのには、私はともかくセリナには少なからず勇気が要る様子だった。
幸いなのはクリスティーナさんが夕食を共にする約束をしてくれたことだろう。
私が私服から購買で受け取った魔法学院の制服に着替えてから、かつて物置だった私達の新しい住居を後にした。
「よくお似合いですよ、ドランさん。皆揃って同じ服を着ているのは奇妙な印象を受けるけど、集団意識を養う為なんですかね? 人間さんは何でも型に嵌めたがる習性があるのでしょうか?」
「ふむ、セリナの意見には一理ある。この制服だが魔力を込めた生地を使って裁縫されているな。鋼緑草には及ばぬが見た目以上に硬い。これ一着でもそうとうに手間と金が掛っている」
周囲の男子生徒達のいくつもの感情が籠る視線を引きはがしながら玄関に辿りついた私達だったが、玄関は玄関で私達を待つクリスティーナさんが周囲の耳目をこれでもかと言う位に集めてしまい、行き交う男子生徒達の足が遅くなっている。
そんなクリスティーナさん自身はと言えば、自分に集中する視線に対し矜持が満たされている様子でも無く、優越感を抱くでもなく、忌々しげな顔をしている。
「待ちくたびれたぞ、ドラン。制服に着替えたのか。中々様になっているじゃないか。学院の制服には防御術式が編み込んであるから、そこらのナイフの一刺しくらいなら防いでくれるぞ。さあ早く行こう、ここは居心地が悪い」
「なんだか大食堂に行っても同じ気がするのは、私だけかな?」
クリスティーナさんは苦笑交じりの私と同じことを考えていたようで、そうだなと私やセリナと苦笑を共有した。
「そこは慣れだな。物珍しさに皆眼を向けているだけだ。すぐに飽きるだろうさ」
新年の始業式が終わって間もないという事もあり、実家に帰省していた生徒達もほぼ全員が魔法学院に戻ってきており、私達が到着した時には大テーブルにちらほらと生徒達が着席しはじめている。
小動物の使い魔を連れた生徒達もいて、これなら上半身だけとはいえ人型をしているセリナ達を大食堂に連れ込んでも大丈夫だなと、私は安堵に胸を一撫でした。
*
さて昼食と残った時間でのお喋りも終われば、いよいよ私が初めて魔法学院で授業を受ける時間がやって来る。
私の手には教本や筆記用具を収めた小さい革鞄。後ろには私同様に筆記用具と紙束を手にしたセリナの姿がある。
セリナの手にあるのは使い魔という形式ではあるが、セリナも授業を受けられるので、せっかくだからと用意した品である。
私はがらりと音を立てながら扉を開き、セリナを伴って教室に入室した。
教室の席順もやはり出席番号順となっており、教室に同伴した使い魔は小動物などであれば自分の席の近くに待機させ、より大型の動物などであれば教室の後部か外で待機させるように、と学院規則にはある。
席に着いたらセリナには教室の後ろの方へ移動してもらわねばなるまい。席を自由に選べるのなら隣に座って貰いたいところだ。
私が入室するのと同時に入学式と同じように生徒達の視線が私に集中する。
一年を共にする学友が姿を見せれば最初は必ずこうだろうが、普通なら一目見れば外されるところが、クラスメイト達の視線はそのまま私に集中し続け、あちこちで囁き声が交わされ始める。
男と女の比率は半々といったところ。クリスティーナさんに教えられて、掲示板で学友らを検索した時に見たのと同じ顔ぶれがずらりと並んでいる。
これから一年勉学を共にする学友達を前にして、私は人間に生まれ変わったればこその縁に感慨めいたものを覚えた。
竜として生き続けていたなら名前や顔を覚えることも、そもそも出会う事もなかっただろう者達なのだ。
「セリナ、あまり気にしてはいけないよ」
「はい。私は大丈夫です。あれくらい言われてもなんてことはありませんから」
セリナが他の使い魔達が待機している教室の後ろ側に行くのを見送ってから、私は自分の席に瞳を向けた。
教室の中には机が横に三列あり、一列につき五脚前後の机が並んでいる。一つの机には二人か三人の生徒が着席するようだ。
廊下側の列の最前列に座る私の机には、既に他のクラスメイトが着席していた。
まずは挨拶をきちんとせねばと私が口を開くよりも、クラスメイトが口を開く方が早かった。
「はじめましてだね~。ファティマ・クリステ・ディシディアだよ。よろしくぅ」
なんとなく日向でまどろむ子犬を連想させるのほほんとした声に、私は親しみやすそうな相手だと安堵して差し出された小さな手を握り返した。
にっこり、というよりもにこにこといった形容の方が似合う柔らかな笑みを浮かべているのは、私とそう変わらぬ年齢と考えれば随分と小柄な少女である。
私よりも頭一つ小さく、星がいくつも輝いていそうな薄紫の瞳は柔和に細められ、唇や鼻の造作は体格に見合った小ささと幼なさを感じさせる。
光の当たり具合で白みがかった薄桃色に見える髪の毛は、両耳の上の辺りで赤いリボンを使ってそれぞれ纏められていた。リボンをほどけば肩に掛るくらいの長さだろう。
高等部の二年生ならば十五、六歳前後である筈だが、小柄な体躯と小動物を思わせる雰囲気から十一、二歳くらいにしか見えない。
「ベルン村から来ました。ドランです。よろしくお願いします」
「そんなにかたくなんなくっていいよ。ほら座って座って」
ファティマの言葉に甘えて私は椅子に腰を降ろし、革鞄から必要そうな筆記用具の類を取り出していく。おや、なにやらファティマから視線を寄せられているが……
「なにか私の顔に付いていますか、ファティマ様」
「違うよ、なにも付いていないけど、ファティマ様なんて呼ばれたのは久しぶりだから驚いちゃった」
「ふむ、ファティマ様と呼ばれていた事はあるのですね。貴族の方でしょうから言葉遣いには気をつけねばと考えたのですが……」
「んとね、ドランはまだ魔法学院のルールに詳しくないから知らなくても仕方ないけど、この魔法学院で学んでいる間は身分とか種族はあんまり気にしなくっていいんだよ?
それに私もすっかりここの空気に慣れちゃったから、自分が貴族だってことを時々忘れちゃうんだあ」
えへへ、と恥ずかし気に頭を掻くファティマの仕草には小動物のような愛らしさがあって思わず、頭を撫でるか抱きしめたくなってしまった。人懐っこい子犬みたいな娘である。
「ふむ、その方が私としてもやりやすいから、ありがたいです」
「あははは、敬語も使わなくっていいよ。中等部の時も平民の子と一緒だったけど、ふつーにお友達だもん。私の事もファティマでいいからね。様もさんも要りません。ファティマちゃんならいいけどね」
お友達だもん、か。なんとも可愛らしい。
ふむ、ファティマは実年齢に比して幼い外見と言動が一致するから素直な可愛さがある。
「そう、ですか。ふむ、じゃあ普通に喋るね。貴族の人と喋るのはほとんど初めてだから、とても緊張したよ」
少々演技らしくなったかもしれないが、ふう、と私が大きく息を吐き出すと、ファティマはよほど面白かったのかころころと笑う。
「ふふ、西と南の天才の対抗馬って言うくらいだから凄い子を想像していたんだけど、ドランはそんな風に見えないねえ。ラミアさんを連れてきた時はびっくりしちゃったけどね~。
あ、先生が来たよ。お喋りしていると怒られちゃうから、黙っておこうね~」
私のすぐ目の前の扉を開いて入ってきたのは、面接試験の時に見たふくよかな四十代頃の優しげな顔立ちの女性教師である。
黄玉の瞳はやや垂れ目がちで、左目には小さな双子の泣き黒子があった。
クラスメイト達がぴたりと口を閉ざし、緊張を高めていくのが感じられた。
実のところ、私は前世も今世も合わせてはじめて受ける授業というものに密かな期待を抱いていた。
階段状になっている教室の一番下、そこに置かれた教壇に女性教師が立って人好きのする笑顔を浮かべて室内を見渡し、セリナと私の所で一拍ずつ間を置いて視線を送る。
色々と含みがあると考えるべきか単に期待をされていると喜ぶべきか。今後の態度次第で分かる所だから、あまり深く考えないでおこう。
「皆さん、今日の良き日に新たなお友達を迎えられた事を、善なる神々に感謝しましょう。
既に皆さんにはお話ししていましたが、今日から新たなお友達が加わります。さ、皆さんに自己紹介をお願いできますか?」
「初めまして。ベルン村から来ました、ドランと言います。苗字は持っていませんし、皆さんよりも年下ですから気軽にドランと呼んでください。
このような場所で学ぶのは初めての事なので、色々と勝手が分からず失礼な事をしてしまうかもしれません。私が何か間違いをした時はその都度教えていただけると嬉しいです。
それと私の使い魔を紹介します。ラミアのセリナです。
魔物として扱われるラミアですから、皆さんが驚くのも無理はありませんが、本当に優しい娘なのであまり怖がらずに接してください。故郷の村でも村人の一員として仲良く暮らしていましたから」
私と使い魔達の自己紹介を聞き終えたアルネイス教師は、またにこりと人好きのする笑みを浮かべる。
人に何かを教える教師という職業が天職なのだとそう思える笑みだった。
「はい、よくできました。皆さんご存じの通り、ドラン君は特例として高等部から本学院に入学となった子です。皆さんが色々と興味を持つのは個人の自由ですが、彼はまだ学院での生活に不慣れです。
皆さんはこの魔法学院で学ぶ先達として、彼に良くしてあげてください。使い魔となっているレディにも失礼があってはいけませんよ? 遅れましたが、ドラン君、私は高等部の授業の一つを受け持っているアルネイス・リュシーネです。今年一年、皆さんの基礎履修クラスの担任を精一杯務めさせてもらいます。よろしくお願いしますね」
ふむ、取り敢えずの印象はよろしい。隣のファティマもにこにこと笑みを浮かべてアルネイス教師の言葉を聞いている。あとは教師としても素晴らしい方である事を祈るが……
その後はファティマが言ったように魔法を扱う上での基礎技術の向上や、一般的な教養を積む授業が続いたが、最後の授業では戦闘に関する選択履修科目であったので、私はファティマと一旦別れる事になった。
魔法学院の敷地内には、何か所も戦闘魔法の行使や実験用の特別な施設や空き地が設けられており、私が選択した戦闘魔法に関する授業も専用の開けた場所で行われる。
魔法の流れ弾が周囲の施設や生徒を殺傷しないように、内外の魔法を遮断する結界を展開する特別な壁に四方を囲まれた空き地に、私とセリナ、それに他の生徒達と授業を担当する教師とが居た。
担当教師は誰あろうあのアリスター先生であった。人間の生皮を張りつけたゴーレムめいた顔は、変わらず無表情で私達生徒を見回す。
「ではこれより授業を始める」
声も表情に相応しくおよそ感情による揺れ幅の無いものだった。鉄などの無機物のゴーレムと人間の間に子供が産まれたら、このアリスター先生みたいになりそうだ。
「本日執り行うのは下位の攻撃魔法の実践である。諸君らが最初に学ぶ攻撃魔法は、純粋な魔力を矢に変えて放つエナジーボルトであるが、これは魔力の抽出、圧縮、成形、放出、操作といった基礎的な動作を学ぶ上で最適な魔法である。
よって本日は、このエナジーボルトないしは適性のある属性による魔法の矢の行使を再度学ぶ事とする。
既に中等部で学んだ魔法ではあるが、決して気を抜かず細心の注意を払って行うように」
一口に戦闘用の魔法と言っても、自身の代わりに魔法で造り出したゴーレムや使い魔を代わりに戦わせる者、クリスティーナさんのように自身の身体能力を魔法で強化して戦う者、異界の存在や精霊を召喚して戦わせる者と戦闘に用いる手段は多岐に渡る。
アリスター先生が担当しているのは、エナジーボルトの説明であったように自身の魔力を体外に放出し、攻撃魔法とする類の魔法だ。
エナジーボルトに代表される下位の魔法の矢は、どんな攻撃魔法の使い手であろうともまず習得している、まさに基本中の基本。
基本であるが故に軽視されがちだが、基本であるが故に一流の魔法使いはこの魔法の矢の行使を、川の流れのように淀みなく行う。
「では、色々と注目も集まっているようだし、皆の期待に応える為にもドラン、まずは君がやって見せたまえ」
「分かりました。拙い魔法ですのでお目汚しとなってしまうかもしれませんが、せっかくのご指名とあれば喜んで。セリナ、ちょっと行ってくる」
「ど、ドランさん、がん、がん、頑張ってくだひゃい!」
指名を受けたのは私なのに、まるで自分が前に出ろと言われたかのようにセリナは緊張してしまって、長い蛇舌を絡ませてしまっている。
「ふふ、なんならセリナがお手本を皆に見せるかね?」
「いいい、いーです! 私にはとても無理ですよう」
私のからかいの言葉に、セリナは今にも泣き出しそうな顔で首を横に振るう。
首と一緒に蛇の下半身もいやいやと左右に振られるのは面白かったが、セリナの気持ちを考えるとこれは少し可哀想だ。
「ではドラン、体内の魔力の流れを把握し、掌握し、その流れを杖を介して身体の外へと放出し、大気中の魔力と隔てながら魔法の矢の形を想像するのだ。
より鮮明に、克明に、精密に、矢を思い描きたまえ。自らが望み起こそうとする現象を、正確に想像する事はあらゆる魔法に通ずる必須技能なのだから」
アリスター先生は私ばかりでなく、この場に居る全ての生徒に語りかけながら、右手を上げて地面と水平になるように前方に伸ばすと、言葉に合わせて広げた掌の先に自分の魔力を放出し、一本の魔法の矢を作り出す。
緑色に輝く魔法の矢――エナジーボルトはアリスター先生の右腕と同じ太さ、長さを持ち、表面は一矢の乱れも無く、見事に魔力の圧縮と成形が成されている。
それを見ていた生徒達の口からほお、と感嘆の声がかすかに零れると、アリスター先生はエナジーボルトを消し去り、魔法の矢を構築していた魔力を自身の体内へと還元する。
「さあ、ドラン。君の番だ」
「ふむん、エナジーボルトないしは適正のある属性の魔法の矢の行使ですね」
ふっと軽く息を吸い、同じ要領で息を吐き、私を杖の先端を前方に立つ案山子に向ける。
案山子は横に十体、五列が並んでいる。距離は二十歩ほどが開いている。
私は緊張のきの字も無い、凪いだ海のように静かな心のまま、我が魂の産む魔力を操る。
私が紡いだ力ある言葉に、私の一挙手一投足に注目していたセリナや生徒達ばかりか、アリスター先生も鉄仮面をわずかに震わせて驚きを露わにする。
「森羅万象の理よ 我が声を聞け」
世界を構成する四大元素、火、水、土、風の力を同時に行使する理魔法においては、森羅万象の文言を用いる。
「世界を構成する元素よ 矢となりて我が敵を射よ レインボーボルト」
時と場合を考えると、未だ人間が知らぬ属性と講師が極めて困難とされる時、空あたりは控えた方が良さそうだ。
故に私が用いたのは四大元素の他に雷、氷、光を合わせた七属性。七つの属性を複合して放つこの魔法は、空中に七色の奇跡を描く為に虹の名を冠する。
私の掲げた杖の先端を中心に七色の光の玉が生じ、それらは瞬く間に私の片腕ほどの矢となり、数瞬その場で回転してから空中に美しい七色の奇跡を描いて標的である案山子の胸部を貫く。
案山子は対魔法呪紋処理を施した鉄の棒を十字型に組み、さらに抗魔力処理を施した胸甲や兜を被せた代物だ。これでも生徒が扱う程度の魔法なら直撃を受けても防ぎきれるだろう。
だが私の研ぎ澄ました魔力で構成された魔法の矢の直撃を受けた案山子は、胸部に巨大な穴を空ける。
信じられない、本当か、といった目の前で起きた事を受け入れられない声がいくつも重なって呟かれる中、ただ一人セリナだけが
「流石ドランさん! すごいです!!」
と喜色満面の笑顔で、両手で万歳しながら私を褒めてくれていた。本当に見ていて和むなあ、この蛇娘は。
その後、私の後の生徒達は何処となく気の抜けた調子ではあったが、アリスター先生の指示の下、成功と失敗はありつつも魔法の矢を行使してゆき、授業は山も谷も無く終わる事となった。
アリスター教師が授業の終わりを宣言すると、生徒達は名々に校舎の方へと引き上げていったが、その中で一人だけこの場に留まり、私を見つめる者が居た。
じっと私を見つめているのは私より頭半分くらい低い背丈の女生徒であった。ファティマやベルク、ゼノン同様、私のクラスメイトだ。
青い髪をうなじに掛る程度に伸ばし、膝丈の黒タイツを履きしなやかに伸びる足、豊かに突き出た上半身と下半身を繋ぐ腰の線の美しさから、素晴らしく均整のとれた肢体の持ち主であることがわかる。
ここではない遠いどこかを見ているような瞳は不純物が一切ない琥珀の色。すっきりと通った鼻筋や肉厚の唇の造作や配置の妙は、滅多に見られるものではない。
ぼうっとした様子で私を見下ろすその女生徒になにかと尋ねるよりも早く、校舎の方から駆け寄ってきた小さな影が声を掛けてくる方が早かった。
「ドラ~ン、授業、もう終わったあ~?」
ファティマである。小さなファティマの足が大地を踏みしめる度に気の抜けるような足音が聞こえてくるような気がして、私は緊張の糸を思いきり緩める。
「ネルちゃん。どうかしたの~? あ、ドラン、紹介するよ。この子がね、私のお友達のネルちゃん」
「ふむ」
「少し違う。ネルじゃなくてネルネシア・フューレン・アピエニア。ネルネシアだからネル」
自己紹介の時に名前と顔は憶えたので自己紹介をされるまでもなく分かったが、そこは礼儀なのでネルの自己紹介を遮る事はしない。
ネルから感じ取れる魔力量は私のクラスメイト達の中では頭一つ飛び抜けている。落ち着き払った態度を戦闘中でも維持できるのなら、この背の高い少女は将来大した魔法使いになるだろう。
「二度目になりますが、ドランです。今年一年、よろしくお願いします」
「ん」
ふむ、口数の少ない方らしい。口数までファティマとは対照的とはどこまでも凹凸に出来ている二人組だが、ここまでくると愉快にさえ思えてくる。
「ネルちゃんはねえ、すっごく優秀な生徒なんだよお。去年の学院対抗試合でも選手の一人に選ばれたんだから。私の自慢の友達なのだ~」
自分の事のようにえへんと全く凹凸のない胸を張るファティマの紹介を受けて、ネルはぼんやりとした表情を変えずに小さく呟く。
「屈辱。西のエクスに負けた」
エクス? 精霊魔法使いだという西の魔法学院の天才の名前といったところか。デンゼルさんはあまり詳しい事を教えてくれなかったから、名前を聞いたのはこれが初めてである。
「そのことで私に何か御用ですか、ネルさん。あ、ネルさんと呼んでもよろしいですか?」
「構わない。それに私に対してもファティマに対するのと同じ話し方で良い。私の興味は君がエクスと並び称されるくらいに本当に強いのか? ということ。それに先ほどの魔法は見事だった。すごい」
「ふむ、つまり腕試しをしたいということ? 生徒同士の模擬戦は認められているのか?」
「だ、ダメだよ、ネルちゃん。ドランもクラスメイトなんだから仲良くしなきゃ。第一生徒同士の模擬戦は滅多な事じゃ許されないんだよ?
ネルちゃんもエクスくんに負けたのが悔しいのは分かるけど、だからって同じくらいの力があるかもしれないというだけでドランに試合を申し込んじゃダメ」
「ファティマはドランが噂どおりの子かどうか、気にはならない? それにドランの力が分かるまでは手加減をする。怪我はさせない」
「そ、それは気にはなるけれど、だからっていきなりこんなのはないよ」
「きちんと学院の許可は取る。アルネイス先生に闘技場の使用許可を申し出て許可が出たら、戦う。出なかったら戦わない。君はそれでもいい?」
「ふむ、無理矢理と言うわけでもないようだし、広い世界を知る為にもここに来たからいいよ。ただ模擬戦とはいえどこまでしてもいいものなのかも、なにをしてはいけないのかもよく分からないのが、気掛かりだな」
「学院対抗試合のルールでやる。使い魔はなし、生徒だけで戦う。試合中にゴーレムを作ったり召喚獣を呼んだりするのは良いし、予め持っているのなら試合に参加させても構わない。
相手が降参、気絶、それに杖を失ったら勝利。もちろん相手を必要以上に傷つけたり殺したりする様な事は絶対に禁止。模擬戦の場合は治癒魔法の使える教師の立会と学院からの許可が必要不可欠」
「ふむ、分かった。許可申請が必要というのなら、今日今すぐにでもというわけには行かないようだし、日時や細かい規定などは後で教えて貰えると嬉しい」
「ん。分かった」
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第二十六話
私とネルとの模擬戦は、私の予想よりもはるかに早く行われる事となった。
私とセリナ、ネル、ファティマの四人でアルネイス先生に許可を取りに行ったら、悩む素振りも見せぬアルネイス先生に許諾されたからである。
私の力量を確かめる為、オリヴィエ学院長が予め教師陣に申し伝えていたのかもしれない。
かくして午後の授業が終わって間もなく、夕食の前に私とネルの模擬戦は行われる運びとなったのである。
魔法学院では戦闘用の魔法も講義する為、その際に使用する様々な形状の練習場がいくつも存在するが、今回私達が使用する練習場はひとつひとつが独立したドームになっている建物であった。
半球状のドームの中に石造りの舞台があり、その円形の舞台の上で私とネルが距離を置いて向きあう。
「どうして学院長がここに居るのですか?」
私の平凡極まりない質問にオリヴィエ学院長はエメラルドの視線だけ寄越して返事をした。無二の腕を持つ職人が加工した宝石を象眼したような瞳に、感情の色はわずかも浮かんでいない。
「模擬戦をするのが貴方とネルネシアだからです。ネルネシアはこと戦闘に関してはガロア魔法学院で五指に入ります。
そのネルネシアと特例として迎え入れた貴方が模擬戦をするとなれば、この老木とても興味を抱きもしましょう。それに貴方がクリスティーナと友誼を結んでいるというのも理由の一つですよ」
「ガロアの魔法学院には、四強と呼ばれる生徒がいる」
オリヴィエの言葉が終わった途端、唐突に口を開くネルネシアに私は耳を傾けた。こんな状況で意味のない事を口にはしないだろう。
「ふむ?」
「一人は私。そして“白銀の姫騎士”と呼ばれるクリスティーナ先輩。その二人と関わり合いのある君は、特例である事を除いても誰もが注目するのに値するということ」
「流石はクリスティーナさん。やはり並みではない」
今度の“ふむ”は納得の“ふむ”である。
しかし“白銀の姫騎士”とは、クリスティーナさんの美貌と高貴な雰囲気を考慮すれば似合いの二つ名といえよう。
よもや姫騎士だからといってクリスティーナさんが王国の王女とか、そういう裏事情はあるまい。クリスティーナさんのアルマディアという姓は王家のものではないしな。
「ネルにも何か二つ名が?」
「ん、恥ずかしいから私に勝ったら教える」
そう言ってネルは指揮棒のように細い杖を構える。魔法学院入学時に支給される生徒用の杖である。
こういった力量を競う際には装備の優劣の差を失くすために、支給された装備で事に挑むのが規則なのだ。
私もネルに応じて杖を構えると、双方準備万端と見て取った学院長が静かに口を開く。
「私、ガロア魔法学院長オリヴィエ立ち合いの下、ネルネシア・フューレン・アピエニアとベルン村のドランの模擬戦を許可します。
勝敗はどちらかが気を失うか、戦意を喪失し降参するか、杖を失った場合、そしてジャッジメントリングの水晶が三つ灯った時点で決します。また必要以上の攻撃行為および殺傷行為を固く禁じます。二人ともジャッジメントリングは着用していますね?」
私は左手首に嵌めた銀の腕輪を一瞥した。模擬戦を行うに当たり、万が一の事が起きないようにと支給される品で、極めて高い対魔法障壁を展開して生徒の安全を守るものだ。
盗難予防の為に、魔法学院の中でしか機能しない、着用したままでは魔法学院から出られない、などの機能も備わっている。
私とネルがジャッジメントリングを確かめ、オリヴィエ学院長に首を縦に振って問題がない事を伝える。
観客席から私を応援するセリナの声と、どちらを応援すればいいのか分からずどっちも頑張れと言うファティマの声が聞こえてくる。
私が心中で笑みを零すのを、学院長の鋭い声が一声の下に断った。
「では、双方杖に誓い恥じることなき戦いを。――はじめ!」
ふむ、早速ネルの体から吹きつける冷気が私の頬を打った。安直過ぎるかもしれないが氷属性魔法の使い手か?
初手を取ったのはネルである。私が初手を譲って様子を見ようとした為でもあるが、ネルの魔法行使の速度は目を見張るものがあった。
「フリーズランサー」
ネルの腕と同じくらいの長さの氷の槍が、十数本瞬く間にネルの周囲に生成される。
無数の氷の短槍を相手に発射する氷属性の基本的な攻撃魔法である。
「射て、エナジーレイン」
私が頻繁に使用する純魔力行使の攻撃魔法を、私もまたネルに遅れることわずか、同じく無詠唱で発動させる。
頼りない杖を一振りして襲い来るフリーズランサーと同数の純魔力の矢を生成し、私まであとわずかの距離に迫っていたフリーズランサーを残らず捕捉。
緑色の軌跡を空間に描く純魔力の矢と、白い冷気と無数の粉雪を零す氷の槍が正面から激しくぶつかり合い、硝子を砕くような音を立て氷の短槍が白い花と変わって空中に咲き誇る。
ネルの唇が朗々と、力ある言葉で構成された、世界に干渉する為の霊的な韻を含む詩を謳いあげはじめた。
この世に魔道の術法を顕現する為の神秘の文言が幽玄の響きを交える旋律と共にドームに木霊し、言葉に込められた力が空間に満ちる魔力に干渉して震わせる。
ふむ? ネルの魂が上位次元と回廊を繋げた、か?
「アーシス・ゼリ・レヴァーナン・ズィアック 氷原を渡る魔狼よ 我が呼び声に応え その遠吠えで我が敵を凍てつかせよ 氷狼凍咆波!」
精霊魔法ではない? 上位次元の存在との契約による高等魔法か! ネルの魂から感じ取れる高位次元の波動から察するに、氷狼王の異名を取ったフェンリルに違いあるまい。
私の推測が事実である事を証明するかのように、ネルの背後には白い毛並みの巨大な狼の幻像が浮かびあがっていた。
流石にフェンリル本体の召喚は無理なようだが、あれが本来の力を持ったまま顕現すれば星々の彼方に至るまでが氷の中に閉じ込められるところだ。
いかにネルとて、いやネルで無かろうとも本来の力を持ったままのフェンリルを召喚できる魔法使いは、人間にはおるまい。
契約と魔法を媒介に上位次元に満ちる力が冷気と変わり、小さき粒――分子の動きを完全に停止させながらネルから私へと一直線に襲いかかった。
私はジャッジメントリングの機能を確かめるのと、これを防いではやり過ぎか、という懸念からあえてこれを受けてジャッジメントリングに埋め込まれた水晶の一つに光が灯るのを許した。
ジャッジメントリングから私を中心として球形の極めて強固な魔法障壁が展開されて、私を包み込む筈だった氷狼王の咆哮にわずかな透過も許さず、厳として遮断する。
うっすらと緑色に輝く魔法障壁に沿って流れてゆく氷狼王の咆哮がようやく収まり始めた時、私のジャッジメントリングの水晶に明りが一つ灯った。
「へっくち!」
思わずくしゃみをすると、既に次の魔法の発動準備に移り始めていたネルが声をかけて来た。
戦闘中に会話とはなんと悠長な、と余人には呆れられそうだが、私もネルもそういう神経の持ち主なのだ。
私からすると、戦闘中に互いの思想や意見をぶつけ合うのが一番好きなのは、神々とその創造物たる人間だがね。
「寒いのは苦手?」
「冬になると互いの体温で温め合わないと死ぬような場所で生まれ育った。苦手云々の場所だよ」
「王国の一番寒い所だったね」
ベルン村は辺境の最北部であるから、つまりは王国で一番寒い土地になる。だからといってこのような氷属性の魔法に耐性が出来るわけもないのは、常識以前の話である。
「そうなるな。とはいえ流石にここまで寒くはないさ」
「もっと寒くしてあげる」
「ふむ」
相変わらず無表情だがどうやらこの感情表現に乏しい少女は、他者を虐めるのが好きな嗜好の主らしい。
その証拠に今やネルの白磁の頬はうっすらと紅潮し、呼吸がわずかに早いものになり、零れる吐息は熱を帯びている。
人間に産まれ変わってからの私の周りには、これまでいなかった性的嗜好の人間である。
氷狼王フェンリルの咆哮ともなればそれなりの精神集中と魔力消費を強いられように、ネルは白磁の肌をうっすらと嗜虐の悦びから朱に染め、既に次の魔法の発動準備を終えつつあった。
ふむ。フェンリルとの契約に依る氷属性魔法の強化、魔力消費量の低下、魔法行使の高速化、さらに生まれ持った魔力の冷気変換能力。
これらを同時併用して魔法行使後につきものの集中力の低下や魔力、精神力の消費を劇的に減らしているわけか。
「恐かったら泣いても良い」
ネルが優しい声音で私に語りかけてきたが、込められている感情はクラスメイトとしての思いやりや優しさなどではなく、泣きだすのを今か今かと待つ嗜虐者と捕食者の期待が入り混じったものだ。
これは人間としてどうなのか、ネルよ。
特権階級者には人には言えないような趣味嗜好の主が多いと風の噂で耳にはしていたが、まさかまだ二十歳にもならぬ我がクラスメイトが該当するとは。
「ふむ。男が泣くのは泣けない誰かの代わりに泣く時だけと教わったので、恐怖で泣くわけにはいかないな」
「そう、なら無理矢理にでも泣かせてあげる」
私の頬を嬲る冷気がぐんと冷たさを増す。これは……ヴァジェが居たらさぞや不機嫌になることこの上ない極寒地獄の様相を呈しつつある。
感情の揺れは心の動きの表れであり、同時に魂が生産する魔力量の増減に直結する。
だがそう何度もネルに先手を取らせるのは癪であったし、そろそろ私が本格的な反撃に移ってもよかろう。
私は杖に魔力を通し純魔力の刃を形成し、薄緑色の光の刃は長剣の長さで固定する。
対するネルは魔法の詠唱を即時に中断し、杖を中心に周囲の水分と冷気を凝縮させて、身の丈ほどの氷の槍を作りだしてみせた。
ふむ。魔法使い普遍の弱点とされる近接戦闘への備えは用意してあるか。では実際の動きはどうだ。
ネルの左頸部に叩きつけた私の魔力剣を、ネルは斜めに構えた氷の槍で受ける。
ネルはこれをかろうじて氷の槍の柄で受け止めたが、先ほどと違い風の補強を受けた私の一撃の重さと速さに耐えかねて踏みとどまる事が出来ずに、二歩、三歩と後ろへと下がる。
「つっ、意外と力持ち」
「毎日大地と格闘していればこんな風にもなる。さて、そろそろ決着をつけないと」
私はゆったりとした歩みを止めて一気にネルへと向けて駆け出した。
感情の揺れで魂から魔力を絞り出したネルは凍えるような視線で私を睨みつけ、左手で口元を隠しながら魔法の詠唱を始めている。
詠唱の文句によって発動する魔法の種類を見抜かれない為の、初歩的だが有効な技術である。
私は足の裏に風を渦巻かせて一挙に加速し、風を切りながら杖を何度も振るい、その動作に合わせてリング状の純魔力が生成され、唸りを挙げて高速回転しながらネルへと襲い掛かる。
エナジーアローが貫き穿つことに特化した魔法の矢ならば、いま私が行使したエナジーリングは、激しく回転させた純魔力の円刃で切り裂く事を主体とした魔法である。
鉄の鎧も切り裂く薄緑色に発光する円刃を、ネルは琥珀色の瞳にしっかと映して最小限の身の動きで回避してみせた。
縦に回転してネルの頭部を割にいった一枚目を、私から見て右方向に大きく跳躍して躱し、今度は弧を描いてネルの右胸部を切断しにいった二枚目を、右肩の制服の生地を切り裂かれながらも右半身を引いてかわす。
殺到するエナジーリングを軽快な体捌きで回避する間もネルは詠唱を継続し、私はその間にネルとの距離を順調に詰めていた。
三枚目、横に回転してネルの太腿から両断せんと襲い来たエナジーリングを、ネルは猫科の動物を思わせる見事な跳躍で避けてみせる。
ここまで軽妙に動けるとはなかなかのものだ。魔法使い以外にも軽業師にでもなれそうだな、と私は妙な方向に感心していた。
魔法学院に在籍中どの程度の力量で振る舞うべきかの目途が経った以上は、模擬戦をこれ以上長引かせる理由もない。
私は空中に跳躍した為に身動きの取れない状態になったネルへと目がけて無色の風の鉄槌を放つ。
エナジーリングを回避するためには仕方がなかったとはいえ、跳躍の選択肢は過ちであったよ、ネル。
「風の理 我が声を聞け 汝荒ぶりて鉄槌となり 我が敵を打ち砕け エアストライク」
ただでさえ色がなく視覚で捉えるのが困難な風系統の魔法を、身動きの取れない跳躍中に放たれたネルは、詠唱が完成していないこともあって防御魔法を構築する事ができずに、正面から風の鉄槌を受ける結果になった。
エナジーリングで跳躍するように誘導した甲斐があったというもの。再びネルのジャッジメントリングが光を発し、ネルを守り抜く絶対的な防御障壁が発生する。
「もう一つ抜かせてもらおうか、射よ、エナジーレイン!
「っ速い!」
魔法の行使速度が、という意味であろう。防御障壁が維持されている間に体勢を立て直し、動いていたネルを無数の魔法の矢が追撃し、ネルが冷気で幾本かを相殺するも、背後に回る軌道を描いていた魔法の矢が襲い掛かる。
回避と防御の間に合わなかった魔法の矢は、再びネルのジャッジメントリングが発生させた二つ目の防御障壁が防ぎ、ネルの頭に血が上るのが透けて見えた。
「氷の理 我が意に染まれ 氷よ天空の大いなる輝きの如く すべてを凍らせ爆ぜ砕け 我が前に立つものに氷結の裁きを下さん事を アイシクルフレア!」
ふむ? 氷属性魔法の中でも高位に位置する爆発する冷気か。事前詠唱の長さを考慮すれば妥当な魔法だがこれだけではあるまい。
私は、私を中心に舞台全てを飲み込む勢いで発生したこれまでの冷気をさらに上回る極低温の吹雪と私を貫かんと迫りくる氷塊に対し、ジャッジメントリングの二つ目の水晶が灯るのと引き換えに一気に正面から突っ込んだ。
これで互いにジャッジメントリングの水晶は残り一つ。だがアイシクルフレアの発動によって残りの魔力を使い尽くしたネルと違い、私はまだ一撃を加える程度の魔力ならある事にしている。
「火の理 我が声に従え 紅蓮に燃える汝 我が手に集いて剣とならん バーニングエッジ」
杖に残されたなけなしの魔力――という振りだが――を通して炎熱の魔力剣を生み出した私は、上段に振りあげた魔法剣を一気呵成に振り下ろして眼前の氷柱と吹雪を切り裂く。
左右に割れる吹雪の先に膝を着く寸前にまで疲労したネルの姿があった。
形の良い輪郭から汗の粒を垂らしながら、ネルはアイシクルフレアを突破してきた私を厳然と睨む。その気丈さもまた好もしい。
アイシクルフレアの突破と同時に私を守っていた保護障壁は消え去っている。だが意外と楽しめた模擬戦もこれで終わりである。私はネルへと紅蓮の炎を発する魔力剣を振りあげる。
琥珀色の瞳に轟々と燃える炎の剣を見つめながら、ネルの唇の両端が吊りあがる。それは勝利を確信したものが浮かべる笑みであった。
私の背後から、ネルがアイシクルフレアの前に既に発動させていたアイスアローが飛来し、バーニングエッジの媒体となっている杖を握る私の右手の甲を掠めた。
鋭く尖るアイスアローの先端によって、私の右手の甲に一筋の切り傷が刻まれて、すぐさま凍って血の赤が薄い氷の中に閉じ込められる。
事前に詠唱を終えていた魔法をいつでも発動できるように待機させ、ネルが切り札と見せかけたアイシクルフレアを私が突破した瞬間の隙を狙ったのである。
私が察知し予測した通りの展開に、私は内心で安堵しながら右手の杖を手離した。
私が杖を手離した事で魔力の供給が絶え、バーニングエッジは無数の火の粉と変わって消え去る。
勝敗を決する条件の一つである、杖を失うが私に適用されてこの模擬戦の勝敗の天秤がネルに傾いた瞬間だ。だが接戦の末の敗北は私の望むところではないのだ。
私は杖からバーニングエッジが消え去る寸前に五指を曲げた左手を、ネルの脇腹に優しく添える。
熱に浮かされる幼子の額に乗せるような優しい動きに、ネルは自分の右脇腹に私の左手が添えられた事に気付くのが一瞬遅れる。
「え?」
「ふむ、これは引き分けだな」
私が望んだ模擬戦の結果を口にし、私はネルの体へと純魔力の衝撃エナジーインパクトを叩き込んだ。
基本的に遠距離の敵を対象とする攻撃魔法には稀有な、敵対者との接触を前提とする魔法だ。密着した状態でのエナジーボルトの一撃にジャッジメントリングが反応する。
ネルの体を三度防御障壁が発動して肋骨と臓器をまとめて損傷させるだろうエナジーインパクトの衝撃を、防御障壁が完全に防ぎきる中で自分の逆転勝利を確信していたネルが、あ、と小さく呟いてポカンとした顔を浮かべる。
今まさに手に入れようとした勝利という名の美酒を、横から伸びてきた手に奪われたようなものだ。そんな表情を浮かべるのも無理はなかろう。
ネルのジャッジメントリングの水晶が三つ全て灯り、私の手からもまた杖は失われてお互いが敗北の条件を満たした状況がこれで作られたわけだ。
ふむぅ~、と私は大きく息を吐いて舞台の上に転がる杖を拾い上げた。
ネルはまだ引き分けに終わってしまった事に理解が追いつかないのか、自分のジャッジメントリングを見つめていた。
「そこまで。勝負ありましたね」
私とネル以外の魔力が放たれるのを感じた。舞台の外に避難していたオリヴィエ学院長が大気を操る魔法を行使し、舞台上に残留していた冷気を払う。
「ネルネリアはジャッジメントリングの水晶三つが点灯。ドランは杖を手離した事からこの模擬戦は引き分けとします」
ふむ、あの冷気と吹雪と氷に視界を阻まれた舞台上での戦いを、ほぼ正確に把握していたのか。透視の魔法か魔力の変動でおおよその事を察知していたのであろう。
このオリヴィエ学院長は今世において私が出会った魔法使いの中では最高峰の使い手になりそうだ。
オリヴィエ学院長の裁定にネルはようやく事態を飲み込んだようで、ぼうっとした表情に戻って小さく呟いた。
「引き分け……勝てなかった」
「だが負けたわけではないだろう。立つのが辛いのなら肩を貸すけれど?」
私は模擬戦の最中の緊張はどこへやら、と第三者が呆れるようなあっけらかんとした調子で話しかけ、緊張の糸が切れて崩れ落ちそうになっているネルの右肩の下に潜り込んで、その体を支えた。
許諾を得る前に勝手にした私の行為にネルは少し慌てる素振りを見せた。
「い、いい。一人で立てる。君も疲れているはず」
「ふむ? そうは見えないし、私も男の意地があるから、一度は貸した肩をそう易々と引っ込める事はできんよ」
「なら、舞台を降りるまでで良い」
ふむ、なぜにここまで頑なに、と思った私だが制服越しに感じられるネルの体温と嗅覚が嗅ぎ取ったネルの体臭からおおよその事態を把握した。
私を相手に嗜虐の笑みを浮かべていた時にか、それとも一転して私に追い込まれて被虐の色を浮かべている時にか、ネルは体を興奮させていたらしい。
すんすん、と私がわざと大きく鼻を鳴らすとネルは顔を真っ赤にして横を向いた。
「あ、汗臭いなら離れてもいい」
「別に気にはならない」
魔法の連続行使と極度の集中の反動によってネルの抱える疲労は相当に重いもので、気を抜けばいまにも舞台の上に倒れ伏してしまうところなのだろう。
オリヴィエ学院長が風を吹かせて舞台上の冷気や水蒸気を払ってくれたが、それでも舞台の床の上には所々まだ凍った個所や氷が溶けだした水溜りが広がっていて、慎重に歩かないと簡単に足を滑らせてしまう危険がある。
「ドラン、もう私一人で大丈夫。ちゃんと歩けるから、だから手を離して」
「足を滑らせたら大変だ。私も魔力はほとんど無くなっているけれど体力の方はまだある。それに女の子の前では男の事は意地を張る生き物だよ」
体を支えられている姿は傍から見たらいささか格好の悪いことかもしれないが、ネルの慌てぶりにはこれまでの無表情とは違った魅力があり見ていて楽しい。
息が掛るような距離でそんなネルの顔を見られる特等席という事もあって、私はネルが私の視線に気づいているのを承知でまじまじと見つめた。
頬を薄紅に染めているのは戦いの疲れか、それとも嗜虐の悦びの先に感じた被虐の悦びか。
その真偽の程も気になるがこれからネルを相手にするのが楽しみになったのは事実である。
私が無遠慮に視姦し続ける事にネルは拗ねてしまったか照れたか、私から顔を背けて小さく呟いた。
「……分かった。でも舞台の上を降りたら腕を離して」
「分かればよろしい。それまではしっかり私に掴まっているように」
「そういえばネルの二つ名は? 引き分けだったが、私が負けたわけでもないのだし教えてくれないかな。そんなに変な二つ名というわけでもないだろう」
「……ん、あんまり人に教えたくはないけれど私は……“氷花”ネルネシアと呼ばれている」
氷花、か。先ほどの戦いぶりと美貌を合わせて考えると似合いの詩的な二つ名のように感じられる。
「氷の花か。そんなに恥ずかしがるようなものには思えないな。クリスティーナさんも白銀の姫騎士なんて呼ばれているのだから、他の四強の人達も似たようなものだろうな」
「ん、まあ大体似たり寄ったりの二つ名が付けられている。ただ私の場合、氷をよく使う事と無口なことが氷の花と呼ばれている理由」
“氷”という部分に関してはなるほど分かりやすいことこの上ないが、残りの“花”という部分ははて、どういうわけか。ネルが無口である事がなぜ花と喩えられるのか?
今一つ分からず私が首を捻ると、ネルがとことん嫌だな、という雰囲気を滲ませながら種明かしをしてくれた。
表情の変化に乏しいネルがあからさまなまでに顔を顰めるものだから、ネルの抱いている不愉快さの強さが推し量れるというものだ。
「ほとんど口を利かずにいる私が、まるで植物みたいだと揶揄して花と呼んでいる。氷みたいに冷たくて誰とも話をしようとしない、花みたいに人間と話が出来ない女。
だから私は氷の花。氷花ネルネシア。あとは舞踏会とかでダンスをしないで一人で居る女性を壁の花というのだけれど、それにもかけている」
「あまり人付き合いが良くないからそういう二つ名になったのか。それではあまり愛着も持てないのも仕方ないな」
「そう。だからあまり好きな二つ名ではない」
「そうか、でも氷の花の彫刻のように美しいという解釈もできる。実際ネルは美人なのだから、花に喩えるのはなかなか良いと思う」
「ん、ありがとう。でも、あまりそういうことを無闇に口にするのは良くない」
「思っている事を正直に言っているだけだよ」
「だから、それが良くない」
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第二十七話
ネルやファティマ達よりも半球状の訓練場から一足先に退出した私は、夕食の前に着替える為に一旦自室に戻る道中、左に並んで地を這うセリナにお小言を貰っていた。
他の訓練場を利用していた生徒や他の場所へ向かう最中の生徒達が、魔法学院の中を魔物たるラミアが堂々と姿を現している事に、ぎょっとした視線を向ける中、幸いにしてセリナは私へのお小言に夢中で自分に向けられる視線に気付く様子は無い。
ふむ、これはこのままセリナの話を聞いて余計な事に気付かないよう気を引いておくのが、私がセリナの為に出来る事だろう。
繊細な所のあるこの蛇娘は、周囲から寄せられる好奇と恐怖と驚きが混合した視線に気付いたら、まちがいなく傷ついてしまうだろうか。
「もう! いきなり模擬戦を申し込んでくるネルネシアさんもネルネシアさんですけれど、それを受けるドランさんもドランさんですよ。私とファティマちゃんがどれだけ心配したと思っているんですか!」
セリナは高名な画家が入魂の一筆で引いたように美しい形の眉根を寄せ、おまけに頬を膨らませながら舌鋒鋭く言葉を重ねてくる。
その膨らんだ柔らかな頬を突いてみたい衝動に駆られるのは、私ばかりではあるまい。ふむ、突きたい。ああ、しかし我慢しなければ、でも突きたい。
私は内心の葛藤を押し殺しながら、いつもと同じ振る舞いを努めて意識し、セリナに答えた。
「心配をかけた事に関しては済まないと思っているとも。だがお陰でこの魔法学院の生徒の最高峰がどれほどの高さか、大体の目安が着いた。
学び舎に通う生徒であれほどの使い手がいるというのは、いささか意外だったよ。
四強の称号から察するにクリスティーナさんとネル以外にもあれだけの使い手が後二人も居るようだし、思っていた以上にこの魔法学院で学べる事は多いかもしれん」
先ほどのネルが口にしていたガロア四強と呼ばれる生徒の内、二人は白銀の姫騎士クリスティーナさんと氷花ネル。
残る二人は名前も顔も今の私は知らぬところではあったが、この時、私の脳裏には廊下で見かけた魔性の獣の如き威圧感と凶悪なる気配を放っていた、人間の皮を被った魔獣の如き少女の顔が脳裏に浮かびあがっていた。
残る二人の内一人はまず間違いなくあの少女だろう。まだ名前も知らない少女の姿を脳裏に思い描く私を相手に、セリナは私の内心を知らず言葉を続ける。
「ネルネシアさんが思っていたよりもずっと強かったのは私も同意見ですけど、それでもドランさんがやり過ぎるんじゃないかって、そっちの方が私は心配でしたよ。
ネルネシアさんは私よりも強いかもしれませんけど、ドランさんの方がもっと、も~っと強いって事を知っていましたから」
ふむん、どうやら私が負傷する心配よりも、私がやり過ぎてネルに傷を負わせてしまう事を心配していたらしい。流石セリナ、私の事をよく理解している。
「セリナの中で私は随分と過剰に評価されているようだな。私はそれほど大した男ではないさ」
「ドランさんが強くないんだったら、きっと世の中の人間さんのほとんどは強くない事になっちゃいますよ。それとあんまり謙遜しすぎるのは良くないです。謙遜は美徳ではありませんよ?」
「ふむむん、セリナに一つ教えられたか。今後は言葉に気を付けるとするよ」
「口にするのは簡単です。ちゃんと実践してくださいね」
どうもこういった事に関しては、私はセリナから信用されていないらしい。私は、思いがけずほろ苦くなった心中を代弁するように肩を竦めた。
*
一旦部屋に戻り肌着を清潔なものと変えてから、私は再びセリナと共に部屋を出て本校舎の大食堂へと向かう。なんというか授業が終わってから休む間の無い一日である。
クリスティーナさんと一緒に食事を摂った時と同じ場所に、今度はファティマとネルを伴って座った。
高等部にいきなり編入してきた私と違い、以前からこの魔法学院に在籍していた二人なら、私達以外にも食事を共にする相手はいるだろうが、まだ入学したばかりの私達を気遣ってくれているのだろう。
席の配置については端に座ったセリナと私の対面にファティマとネルが座っている。
大食堂の中は既に生徒達の息吹と潜められた囁きで満たされており、私とセリナが魔法学院に来て間もない事とクリスティーナさんと食事を共にした事から、まだ好奇の視線が向けられているのを感じる。
この様子から察するに、私とセリナが彼らから飽きられるのには、多少時間が掛りそうだ。
私達以外にも希少な魔物や動物を使い魔にした人物が新たに入学してくれば、飽きやすい人々の興味はそちらに向くのだろうが、そうそう都合よくはいかんわな。
ふむす、と私がこれからの学院生活における周囲からの視線について考えを巡らせていると、耳にしたら忘れられない金鈴の音色とはこれか、と感嘆するような声が私の耳を震わせた。
やにわにファティマとネルの顔に、濃淡の差はあれども同じ驚愕の色が浮かび上がる。
「もう友達が出来たのか。いい事だな。私も君を見習うべきかな、ドラン」
「クリスティーナさんならいくらでも友達になりたいと言う人はいるでしょうに」
「いや、どうも私はとっつき辛いらしくてね。恥ずかしながら、さ」
昼食の時と同じように、自分の属する三年生の大テーブルではなく私達の大テーブルに顔を見せたクリスティーナさんが、声の主であった。
私がクラスメイトと一緒にいる光景に安堵したものか、ほっとした顔で私の右隣の席に腰を落ち着ける。
流石に学院校舎の中とあって、愛用の魔剣エルスパーダは腰に帯びてはいなかった。まあ、この方ならエルスパーダが無くとも常人の百や二百は鼻歌を歌いながらでも相手にできよう。
「勝手に座らせてもらったが、そちらの二人は構わなかったかな?」
心持ち口元を緩め、ぎこちないにも拘らずひどく魅力的な微笑を浮かべたクリスティーナさんは、ネルネシアとファティマに同席の許可を問うた。
「はは、はい。クリスティーナ先輩と一緒のテーブルに着けるなんて光栄です!」
「同意。光栄な事」
その場で椅子から立ち上がりそうな勢いのファティマの態度に、クリスティーナさんは困ったように小さく笑う。
やはりと言うべきか、我がクラスメイト達にとってもクリスティーナさんは高嶺の花、あるいは天上人とでも言おうか、テーブルを共にするどころか言葉を交わす機会も滅多に無いような相手らしい。
クリスティーナさんはこういう扱いをされるのに慣れた様子だが、クリスティーナさんの美貌と実力を考えると憧れを抱く生徒の一人二人、いや百人くらいは居てもおかしくは無い。
もっとも、ファティマの方は憧憬混じりの驚きであるのに対し、ネルは訓練場の舞台の上で私に向けていたのと近しい視線をクリスティーナさんに向けている。
今、ネルの頭の中ではクリスティーナさんを敵とした場合の戦い方が、幾通りにも思い描かれているのかもしれない。
その仮想の戦いの中で、ネルはクリスティーナさんの雪さえも黒ずんで見えるような白い肌や、一切の不純物の無い銀色に輝く髪をクリスティーナさん自身の血で染める想像に耽っているのだろうか。
そう思い至った私がネルの顔を注意深く観察してみると、かすかにネルの青い眉が寄せられて眉間に溝が出来ており、どうやらネルの頭の中の戦いはかなり悪戦苦闘しているらしい。
ネルとクリスティーナさん双方の実力を知る私からしても、この二人であればクリスティーナさんに軍配が上がると言わざるをえない。どうやらネルは客観的に彼我の実力差を見る事が出来ているようだ。
ふむ、と私が納得の一声を零すとセリナが好奇心を隠さずにクリスティーナさんに話しかけていた。
「クリスティーナさん、さっきネルネシアさんからお聞きしたのですけれど、クリスティーナさんはガロア四強っていうすごく強い生徒さんなのですよね?
なら魔法学院対抗の試合っていうのに参加した事はあるのですか? そこのネルネシアさんは去年出場して、エクスっていう生徒さんに負けてしまったそうですけれど」
「ああ、毎年恒例のあの大会か。いや、私はあの手のお祭りは見ているだけだよ。参加はしていない。そうかどこかで見た顔だと思っていたが、去年の大会で一年生ながらに活躍して話題になったのは君だったか。
ところでどうしてそんな話が出るんだい? 今年の大会にドランが出場でもする話にでもなったのか?」
「多分それも含めて学院長さんやデンゼルさんはドランさんを招待したんだと思いますけれど、実は午後の授業の後にドランさんとネルネシアさんで模擬戦をしたんです。その時にガロア四強とか対抗試合のお話になって」
セリナの話を聞いたクリスティーナさんは眼をぱちくりさせた。
ふむ、なかなか可愛らしい。そのぱちくりと繰り返す動作が、普段大人びて見えるこの女性がまだ二十歳にもならぬ少女なのだと感じさせた。
「対抗試合の話は名物みたいなものだからともかくとして、どうしてまたドランと模擬戦をしたとかいう話になる?」
「ドランさんが他所の学院の天才だっていう生徒の対抗馬だからだそうです」
「ああ、そうか、去年の大会でネルネシアを負かしたのは西の子だったな。だから西と南に並ぶと目されるドランに目を付けたというわけか。私としては、そうしてしまう気持ちも分からないでもないが……」
いわゆる武人の気質が垣間見えるクリスティーナさんはネルへの理解を示すが、流石に魔法学院に入学したばかりの私を相手に模擬戦を申し込んだのは、話が唐突過ぎたのではないか、と批難の色を視線に混ぜている。
「もう済んだ話だよ。それに戦闘に関してこの魔法学院で最高峰に立つネルネシアを相手に模擬戦をしたのは、とても良い経験になった。この魔法学院は私が思っていた以上の場所のようだと身を以て経験できたよ」
「ふうん、まあ、ドランの実力を考えれば、武闘派の生徒達が相手でもそう易々とは不覚を取らないだろうな」
「四強のクリスティーナさんにそう言って貰えると自信が持てるよ。それにセリナの前だったから、多少は見栄を張らなければ無かったしね」
「おやおや、君のそういう所は相変わらずらしい。なにはともあれ、ガロア魔法学院の生徒としての一日目から、大変だったようだな。お疲れ様、そしてこれから同じ魔法学院の生徒としてよろしく頼むよ、ドラン、それにセリナ」
「こちらこそ、よろしくお願いする。クリスティーナ先輩」
私が先輩の二文字を強調して答えると、クリスティーナさんはどこかくすぐったそうに恥じらった笑みを浮かべるのだった。
その笑みを前にファティマはわわわ、と驚きの声を挙げ、ネルもまたなにやら奇跡を目の当たりにした敬虔な信者のような目でクリスティーナさんをまじまじと見つめる。
「わわわ、く、クリスティーナ先輩が笑っているところ、初めて見ちゃったよ、ネルちゃん。私、明日死んじゃうのかなあ?」
「流石にそれは無い……多分、きっと、おそらくは」
「全然信用できないよ、ネルちゃん」
ファティマとネルの口から出てきた言葉に、私はいやいやいや、と心の中で思わずには居られなかった。
クリスティーナさんの笑顔を見ただけで明日死ぬかもしれない、とはいくらなんでも言いすぎではないだろうか。
それほどまでにクリスティーナさんがこれまで魔法学院で笑顔を見せた事が無かったという事なのだろうが、私やセリナはそれなりにクリスティーナさんの笑顔を見ているから、この二人のやり取りに共感できないのだ。
「クリスティーナさん、笑顔を見せただけでまるで幻の珍獣を目にしたような反応をされているけれど、これまで魔法学院でどんな生活をしてきたのかな?」
「いや、私もこんな反応をされるとは思わなかったが、まあ、うん、確かにあまり他の生徒と話をする事は無かったし、こうして食事を共にする事も無かったかな、ははは」
私が横目にクリスティーナさんの顔を覗きこむと、クリスティーナさんはこれまでの自分の他者との没交流ぶりを思い返してか、なんとも気まずそうに笑って誤魔化そうとする。
もう少しこの方も前向きに明るい性格になれば、常に周りに誰かが集まって話の花が咲き誇るだろうに。
ぎこちない笑い声を零すクリスティーナさんの横顔を見ながら、セリナがいやにしみじみと口を開いた。
「クリスティーナさんはとってもお美しい方なんですから、それは勿体ないですね。ラミアの里でも綺麗な人はたくさんいましたけれど、クリスティーナさんほど美しいという言葉が似合う人を、私は他に知りません」
セリナはほうっと感嘆の吐息を言葉と共に零した。水中に生じた水泡の如く大食堂の空気に溶けて消えた吐息には、異種同性であるセリナであっても、恍惚と見惚れる他ないクリスティーナさんの人間離れした美貌への感動が含まれていた。
既にクリスティーナさんの美貌は何度となく目にしているにも拘らず、そして自分自身が類稀な美少女であり、異種族を魅了する力を持ったラミア種であるというのに、セリナの心を掴むクリスティーナさんの美貌のなんたる凄まじさ。
美の表現に凄まじいという言葉を用いらねばならぬ相手とは、クリスティーナさんくらいのものだろう。
「そ、そうかな。セリナみたいな美人に言われると照れ臭いな」
美貌への称賛の言葉などこれまで百も千も耳にしてきただろうに、クリスティーナさんは心を許したセリナからの言葉であった為か、本当に嬉しそうに、そして恥ずかしそうにもじもじと身を捩り、視線を大テーブルの上に彷徨わせた。
ふむん、どうもこの方は心の扉を厳重に閉めている分、一度扉を開いた相手に対しては、態度が極端に柔らかなものになる傾向があるようだ。
クリスティーナさんの笑みを私達だけで独占できている、と考えるととても気分が良いけれどね。
「ほら、もう私の事は良いからせっかくの食事が冷めてしまう前にいただこう」
これ以上褒められては羞恥の念に耐えられないとクリスティーナさんは感じたようで、強引に話の矛先をそれぞれの目の前に置かれた料理の皿へ向ける。
「ふむ、これ以上クリスティーナさんをいじめるのも可哀想だ。セリナ、これくらいにしておこうか」
「別にいじめているつもりなんて無かったのですけれど、ドランさんがそう言われるのならここまでにしておきます」
私とセリナのやり取りに、クリスティーナさんはあからさまにほっとした顔になる。そういう態度がからかい甲斐がある、と私に感じさせる大きな要因の一つなのだが、どうやらクリスティーナさんはその事に気付いてはいないようだった。
ファティアとネルの緊張と望外の幸運に恵まれた喜び、そして周囲の生徒達から惜しみなく注がれる嫉妬と羨望と、わずかな憎悪の視線に晒され続けたそれはそれは楽しい夕食が終わり、私とセリナは高等部男子寮の元物置である自室へと戻った。
既に夕食の終わりを告げる鐘の音が夜の帳に包まれた魔法学院の敷地内に響き渡り、光精石のランプの明かりと月光のみを灯りとする校舎を歩む者は、定期的に巡回する警備員と宿直の教師、警備用の魔法生物、それと禁を破って恋人の褥へと向かう者達だけだ。
取り柄と言ったら広さくらいの我が部屋で、私はベッドの上に腰かけ、セリナは石の床の上に何重にも重ねた絨毯とクッションの上に大蛇の下半身を落ち着かせている。
セリナは先ほど入浴を済ませてばかりで、身体はいささか熱いくらいに温まっていた。
「あの大浴場は贅沢極まりないと思ったが、なるほど確かに心身の疲れを取るには効果的だな。セリナ、すまないな、大浴場の使用許可を取れなくて」
セリナは本物の黄金から人間ならぬ者の指が紡ぎ出した糸のように美しい髪を、大きめの布で拭って纏わりつく湯の粒を拭っているところだった。
ほんのりと朱色に染まる肌、上気した頬、潤んだように見える青い瞳と、セリナの姿は常にも増して妖しいまでの色香に満ち、鉄の心を持つ者であってもその鉄が溶けてしまう事だろう。
私以外の男子生徒が今のセリナを目にしようものなら、魔物への恐怖も半人半蛇という異形への嫌悪も忘れ果て、色欲に憑かれて押し倒しにかかっただろう。
「いいえ、私なんかが使わせてもらうのは勿体ないですから。それにドランさんが私の為にお風呂を用意してくれましたから、平気です。だからそんなに気にしないでください。かえって私の方が恐縮しちゃいますよ」
生地の薄い寝間着を纏い、髪を拭いながらくすくすと笑うセリナに、私は返す言葉を見つけられなかった。
魔法学院の生徒や教師には夕食の後に大浴場が開放されており、これは広大な浴場を満たすほど大量のお湯を用い、何種類かの薬草や果実から調合した入浴剤が入れられている。
我が故郷ベルン村を始め一般的な村々で身体を清めると言ったら、泉や川で水浴びをするか、濡らした布で身体を擦る程度で済ますものだ。
湯を沸かす為の薪、必要となる清潔な水、惜しげも無く投じられる入浴剤などの費用を考えれば、これは途方も無い贅沢であると私には感じられた。
この入浴の習慣は、西方にあるロマル帝国で一般大衆にまで浸透している風呂文化が、百年ほど前に我が王国に伝わったのが起源とされている。
百年の間に王国の貴族や裕福な商人などの一部の上流階級に身だしなみとして浸透し、多くの貴族の子弟が通う魔法学院にも浴場施設が備え付けられる事となったのだと言う。
確かに一日の最後にその日の汗や疲労を落とし、身体を清めた上で暖かな湯に身体を浸すのは心身を癒すのに劇的な効果をあげるが、それにしてもまあ贅沢な事、と私は肩まで黄色い湯に浸かりながら思わずには居られなかった。
さてこの大浴場は無論女子寮にも備わっているだが、この施設を利用できるのは魔法学院の生徒と教職員であって、使用人や警備の為に学院で雇った人員は彼ら用の別の浴場施設を利用する。
使用人ら用の浴場施設は、金も手間も人員も多量に必要とする大浴場と違い、比較的安価に用いる事が出来る蒸し風呂となっている。
密閉された一室の中央に火で熱した石で満たした大鍋やら甕やらを固定し、その触れれば火傷するくらいに熱い石に水を掛けて、熱々の蒸気で室内を満たして汗を掻くという形態の風呂だ。
では魔法学院の生徒でも無く、使用人でも無い者――例えば使い魔はどうすればよいのか?
そう、魔物と恐れられるラミア種であるセリナは、大浴場も蒸し風呂も利用する許可が下りなかったのである。
そもそも異種の異性を虜にする魅惑の力を持つラミアを男子寮に住まわせる許可が下りただけでも前代未聞であるから、私としてもあまり強く魔法学院側に訴える事は出来なかった。
とはいえ、セリナは里を出てからの旦那様探しの旅の最中、多少寒くとも身体を清める事を選ぶくらいには清潔好きで、繊細な神経の持ち主である。
例えばお湯を部屋に持ち込み、入浴剤と布を使って身体を清めるにしても物足りないところはあるだろう。
セリナはそれでも我慢して不平不満の一つも口にしないような性格の娘であるが、その事を知っている私としては到底見過ごせるものではなかった。
私はダナさんと魔法学院の事務局の方に働きかけ、男子寮の裏の空き地の、私の部屋と隣接している部分に、セリナ用の個人浴場を設置する許可をもぎ取った。
かくて私は意気揚々と浴場を建設し終え、セリナは早速その浴場を利用して体を清めて、ほかほかと心地良い熱を帯びるに至ったわけである。
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第二十八話
霧が出ていた。深く、濃く、包まれた者がもう二度と霧の手の中から抜けだす事が出来なくなる予感に襲われてしまう――そんな霧であった。
まっすぐに腕を突き出せば白く揺れる霧に飲まれてしまい、二の腕の中程から先はもう見えなくなる。
刻一刻とより白くなってゆく霧の中を彷徨っていると、その内に目の前で手を振られても気付けなくなるのではないかと思えてくる。
そう、目の前でこちらの命を奪おうと刃を振りかざされても気付けなくなるのではないか、と。
恐ろしいその考えにシエラは、力加減を間違えて抱きしめてしまったら、繊細な硝子細工の砕ける音を立てそうなほど華奢な自分の体を震わせた。
シエラはまだ顔立ちにあどけないものを残した少女と呼べる年頃の娘だった。
小ぶりな唇や星が輝いているような大粒の黒瞳から、十代前半か半ばに見られる事も少なくない。
元は爵位を持っていた貴族の令嬢であったが、故国が隣国との戦に敗れて家が没落してしまい、貴族としての地位、名誉、十代余に渡って治めていた領地や蓄えた財産、忠実であった家臣や敬意の眼差しを欠かす事の無かった領民達を失ったのが三年前。
敗戦国の宿命として吹き荒れる処刑の嵐の中から、幸運にも逃げ出す事の出来たシエラとその家族だったが、それだけで残る人生の運は使い尽くしたと言えた。
よく晴れた日には空の青を映し、例えようもなく美しかったルアラン湖の傍らに建つ生まれ育った城からの脱出行の最中、父は敵国の兵の矢を受けて負傷し、母は傷を負った父の看護に日夜追われている。
持ち出す事の出来た家財はごくわずかで、戦が起きる前だったら取るに足らなかった装飾品や、先祖代々家宝として受け継がれてきた絵画や壺、剣や鎧の類を切り売りしながらなんとか日々の糧を得る日々。
そんな日々の中で貴族としての暮らしに肩までどっぷりと浸かっていた家族は、日を追うごとにやつれて、その面影には憔悴と疲労とどうしてこんな事に、という世界への憎悪が皮膚と一体化して層を厚くしていった。
寡黙の中に貴族たる者の在り方を示し、人型の巨岩を連想させる威厳を持った父は、癒えぬ傷が齎す苦痛と恥辱に、寝床の上で常に地獄の悪鬼を思わせる形相を浮かべ、父の傍らに常に影のように寄り添い慎ましく笑みを浮かべていた母は、死人の顔から型を取った死仮面の如く喜怒哀楽を失ってしまった。
そんな日々の中でわずかながら残っていた運は、シエラが魔法を操る事に関して天賦の才能を見せ、将来は宮廷魔術師団入りを嘱望されて、幼少の頃より優秀な家庭教師から魔法を学んでおり、その魔法の技量を生活の糧とする事が出来た事だろう。
時に世の人々から厄介者、野盗、墓荒らしと忌避され、時に理不尽な暴力に抗う術を持たぬ人々に救い主として求められる者達――すなわち冒険者と呼ばれる人種となる道を、シエラは選んだ。
元々魔法を扱えるほどの魔力を持った人間は希少な部類だ。
シエラにはその希少な才があり、さらにその中でも優秀と言えるだけの才覚と貴族の令嬢として培った教養、そして何よりも屈辱と諦念に塗れたまま敗北者として死んでたまるものか、という冷たく燃える執念の炎があった。
没落から一年余り、シエラは燃える城からなんとか持ち出す事の出来た杖を手に冒険者ギルドの戸を叩いた。
元は白かったが薄汚れて茶色くなったブラウスと、解れの方こそが主役となってしまったような襤褸のスカートを身に纏い、誕生日の贈り物として家庭教師から与えられた、トネリコの木から削りだし、大地と風の精霊の祝福を受けた杖だけを手に戸を叩いたシエラを、受付の人間もギルドの中にいた冒険者達も、その外見からおおよその事情を察し憐みと侮蔑の眼差しを送る事を憚りもしなかった。
中には銅貨一枚で抱いてやる、いや、むしろ金を払うんなら夜の相手をしてやっても良いぜ、と露骨に揶揄する声さえもあった。
シエラは容赦なく全身に突き刺さる視線の矢に、情けなさと悔しさと怒りとが入り混じった涙が零れ落ちそうになるのを懸命にこらえ、歯を食い縛りながら受付の担当者のもとへと向かい、その日、冒険者となったのだった。
それから二年が経った。初めて妖魔を相手にした時は盛大に失禁したシエラも、今や命のやり取りの経験は数十回を数え、灰風のシエラと言えば少しは知られた名前であった。
相変わらず一家の生活は下を向いて日々を過ごすようなものではあったが、シエラは貴族として生まれた者のせめてもの矜持から、どれだけ高額の報酬が約束されたとしても暗殺や誘拐などといった汚れ仕事にだけは手を出さなかった。
貴族としての矜持もそうだが、なによりもシエラにとっての生きる希望である三歳年下の妹の眩しい笑顔を、まっすぐに見る事さえ出来なくなってしまいそうだったからだ。
シエラには魔法の才能と妹という生きる希望の他に、三つ目のそして最後の幸運があった。それが今日も行動を共にしている冒険者の仲間達だ。
ワールウィンドと名乗る仲間達とは、ようやく冒険者らしくなり希少な魔法使いとして周囲からも認められ始めた頃のシエラが、悪評に塗れたある冒険者達に言葉巧みに騙され、危うく貞操を散らしそうになったところを救われたのが出会いだった。
その時の出会いから更に数度の切っ掛けを経て、シエラは家が没落し人生が奈落に飲み込まれたと思った日から、初めて家族以外に頼れる存在を得る事が出来た。
ワールウィンドの仲間達は、シエラにとってまさに天より与えられた希望だった。
後はただゆっくりと奈落の底へと堕ちていくだけの暗黒の人生に差し込んだ光明。
掌の上から全て零れ落ちてしまったと思っていた幸運の、わずかな一欠片。
そう、最後の幸運だったのだ。最後の幸運だったから、後はただシエラの身には理不尽と不幸と絶望と恐怖とが、大雪山の頂きから襲い来る雪崩の様に逃れられぬ運命となって待ち受けているきりだった。
はっはっと荒く吐き出す自分の息が、シエラにはひどく耳障りだった。もう随分と長い間走り続けていて、酷使されている心臓や肺、足がひっきりなしに悲鳴を挙げて、肉体の持ち主たるシエラに抗議し続けている。
周囲は前も後ろも右も左も上でさえも白い霧に覆い尽くされていて、シエラはまるで白い霧が天空も大地も構成している世界に、突如として自分が足を踏み入れたような気さえしていた。
いや、白以外の色彩が一つあった。頭上を仰ぎ見れば天の果てまでも続いているかのような霧の天蓋を透かして、朧に溶けた光が差し込んでいる。
光の源は夜の空に悠久の時の中、変わらず浮かび続ける満月であった。霧ばかりと思える世界にも変わらず存在している満月から降り注ぐ光が、霧の天蓋に淡く溶けてえも言われぬ幽冥な輝きを放っている。
だが、この霧の海に飲まれた様な世界の只中にあって、尋常な世界との繋がりを象徴するかのような満月の光こそが、より一層シエラの精神を正気から遠ざけて恐慌の大穴へ追い落とさんとする元凶の一つとなっていた。
霧の天蓋に溶けている満月の光は、あろうことか赤色をしていた。たった今切り裂かれた血管から溢れだしたばかりの、匂い立つような新鮮な血を思わせる赤色を。
さながら天上に輝く満月こそは天界魔界に住まう神々の瞳であり、そこから霧の水面に滴り落ちた血涙が滲む様を、水底(みなそこ)から見上げているかのような光景であった。
鬱蒼とした木々が連なる山の中の筈なのに、芳醇な緑の香りも果てしなく広がる大地の香りもしないのに、なぜかほのかな血の香りが鼻腔を擽るのを、シエラは努めて気のせいだと思いこもうとしていた。
いつもと変わらぬ日の筈だった。いつものように冒険者ギルドで、ある村落の近くに姿を見せたゴブリン達を退治する依頼を受け、いつものようにゴブリン達を退け、村人達から感謝の言葉と謝礼を受け取り、それで終わる筈だった。
冒険者の階段に一歩を踏み出したばかりのシエラならともかく、灰風の二つ名で知られ、ワールウィンドの仲間達と共に戦う以上、ゴブリンなどは二十、三十いようとも敵ではない。
だから今回の依頼は油断と不幸な事故さえ無ければ、誰かが軽傷を負うくらいの事はあるかもしれないが、無事に終える事が出来る筈だったのだ。
なのに、ああ、なのに!
「ジャック、エイリル、ギルベイン、ラージン!!」
筋肉の瘤を鎧の如く纏い、禿頭と口周りの白髪交じりの口髭が特徴的で、丸太のような両腕で鋼鉄の戦鎚を振るって立ちはだかる敵を砕くジャック。
二振りのダガーを己が手の如く巧みに操り、いざ戦いとなれば敵に血の花を咲かせる戦士であり、戦いを離れると屈託なく笑い実の姉のように接してくれたエイリル。
シエラの学ばなかった精霊魔法を操り、パーティーの危機を幾度となく救い、時に寂寥が心を襲う冷たい夜には琴の調べと共に巧みな詩で慰めてくれたギルベイン。
そしてどんな苦境でも心を覆う恐怖と絶望の暗雲を、あっという間に晴らす太陽の笑みを浮かべる、パーティーのリーダーであり優れた剣士にしてシエラの想い人ラージン。
この悪意ある生物の腹の中か確たる形を持たぬ迷宮の如き霧を行く中、はぐれぬようにと身体の一部を紐で結んでいたにも拘らず、仲間達と離ればなれになってしまい、時折霧を通して剣戟や獣の唸り声、何かの爆ぜる音が聞こえてきて、シエラをいくつもの修羅場を潜った歴戦の冒険者から、一人孤独に怯える少女へと戻してしまった。
親と逸れた幼子のように、あるいは燃える城の中、ただ生を求めて逃げ出したあの日のように、シエラは仲間達の姿を求めて霧の中を彷徨い続ける。
このまま霧の中から逃げ出す事も出来ず、いつか足が疲れ果て、肺は破れて、仲間を求める声も枯れて、飢えに襲われて死ぬかもしれない。
やがてシエラの華奢の肉体は可憐な面影を残さぬ骨と変わり、それでも魂は霧の中を仲間の影を求めてさまようのが定めなのかもしれない。
「皆、皆どこにいるの!? 私を一人にしないでぇえ!!」
ああ、そしてシエラがなによりも恐れているのは孤独ばかりではない。退治すべきゴブリンの姿を求めて霧の中を進む中、ついに見つけてしまったアレ。
どうして見つけてしまったのだ? どうしてこんな所にあんなモノがあったのか? いや、いや違う、どうして思い出した 思いだしてしまった? 考えてしまったのだ!?
忘れていたのに、忘れようとしていたのに。このまま命尽き果て魂が霧の世界に迷うとも、アレの事を思い出す恐怖に比べればまだ救いがあったものを。
取りとめなく心の中に吹き荒れる負の感情は、シエラから正常な思考を奪い去り、母を求めて泣き叫ぶ赤子よりも無力で、あまりにもちっぽけな存在へと変えていた。
「あっ」
とそれまでの絶叫に比べれば、無きに等しいか細い声がシエラの咽喉から零れ、靴の中で血が滲み始めていた足も動きを止める。
あまりにも唐突な停止に心臓と肺は今にも爆発してしまいそうで、シエラの肩は大いに乱れた呼吸と共に激しく上下した。
なのに、シエラの全身から流れる汗は火のような熱を帯びてはいない。
もしシエラの汗に触れる者が居たならば、まるで氷水のように冷たい事に驚いただろう。
そしてシエラの全身もまた、荒涼たる冬の野を歩んできたかのように凍えている事に気付いただろう。
シエラの瞳に映ったのは淡い想いを寄せる愛しきラージンの後姿。
優男と揶揄されるだけの端正な顔立ちに、鍛え抜いた逞しい肉体を併せ持った長身の若者は、大型爬虫類の鱗を用いた青い鱗鎧(スケイルメイル)を纏っていた。
右手は手入れを欠かした事の無い愛用の長剣。ラージンの生まれ故郷の鍛冶屋が一万回も鎚を振るい、村の司祭が丸七日間もかけて祝福してくれたという逸品だ。
この長剣を振るい、ラージンは何体ものレイスや狂った精霊といった霊的存在を斬り伏せてきた。
これまでの狂態を鑑みれば喚起に咽び泣き、顔面を乱暴に丸めた紙みたいにくしゃくしゃにしてシエラはラージンに駆け寄るところだった。
であるにも拘らず、シエラの足は太い杭で縫いつけられたようにその場から動く事を頑として拒絶していた。
まるで最初からシエラの足は大地と一つとなっていたかのように、前に進もうとはせずその代わりにはっきりと分かるほどに震えていた。
ほどなくしてクロガネカイコの糸で紡いだスカートの中から、シエラの白い足を伝って生温かい液体が滴り、足元に染みを作って湯気を立てた。
あ、あ、あ、とシエラの震える唇から言葉にならぬ呟きが零れ落ち、見開かれた瞳からは次々と涙が溢れだして青白く変わった頬を伝う。
ラージンの足は大地を踏みしめてはいなかった。なぜなら地面から浮かんでいたからだ。
ラージンの腕は愛用の長剣を振るう事をしなかった。なぜなら長剣を振るうだけの生命が、既にラージンには残されていなかったからだ。
ラージンの身体にはもはやぬくもりは残されていなかった。なぜならそれを伝えるべき熱き血潮が失われていたからだ。
では、なぜラージンの身体は地面から浮いている? なぜラージンの身体から生命が失われている? なぜラージンの身体から若さに満ちた熱き血潮が失われている?
三つの問いに対する答えはたった一つの解答で事足りた。
全ての答えはラージンの傾いた首筋に何者かが被り付いてその身体を吊り上げ、そこからじゅるじゅるとおぞましい音を立てながら生命と血潮とが吸われているのだ。
じゅるじゅるじゅるじゅる、じゅるじゅるじゅるじゅると。
ああ、ラージンの首筋に突き立てられた鋭い杭の如き牙よ。皮膚を突き破り、血の通う管に突き刺さり、そこから溢れる血潮を咽喉を鳴らして飲む者よ。
汝はいかなる魔性なりや?
いいや、この問いはあまりにも愚か。鮮血の中に沈めてもなお赤々と輝くだろう瞳。血の管を突き破る為の牙。
そしてこれこそ至上の美酒と言わんばかりに血を咽喉を鳴らして飲む存在など、答えは決まり切っている。
シエラの身体が髪の毛の一本から指先に至るまで時が凍りついたように動きを止めている間、不意にラージンの身体が操り人形の糸が切れるようにどさりと音を立てて地面に落ちた。
どこか朽ちた木の枝が地面に転がるような、異様に乾いた軽い音がした。断じて人間が大地に落ちた時に立てる音では無かった。
天上に輝く血の赤色をした満月が新たに二つ生じた。赤い満月はじいっとシエラを見ている。突如として生じた二つの赤い満月は、ラージンの血をごくりごくりと咽喉仏を上下させて堪能していたソレの眼であった。
白い霧を禍々しい赤に変えてシエラを見る瞳に、シエラの脳髄は氷の棒でかき回されているかのような冷たさと激痛に苛まれ、思考する事もままならない。
二つの赤い満月がずい、とシエラに一歩近づく。ふわり、と主人の歩みを阻んではならぬとでも言うように、白い霧が左右に割れた。
二つの瞳が噴く赤光に脳髄と思考を貫かれたシエラは、もはやいかなる思考も抱いてはいなかった。
赤い瞳の主の足元にラージンばかりかジャック、エイリル、ギルベインらの肉体が、まるでゴミのように倒れている事にも気付かない。
全員の首筋に指くらいの太さの二つのうじゃけた穴が口を覗かせ、そこから糸のように細い血の筋が溢れて地面を濡らしている事にも気付かない。
だが、自分もラージンと同じになるのだという事だけは分かった。
やがて永劫とも一瞬ともとれる時間の果てに、シエラの両肩に途方もなく巨大な山の質量を備えた手が優しく置かれた。
泣き崩れる我が子を慰める父のように優しい置き方だった。なのに肩に置かれた手を通じて、骨まで凍るような冷気が浸透してくるのは何故だ。
シエラが自分の首筋に小さな二つの痛みを感じた時、脳裏には家に残してきた父母と幼い妹の姿が瞬いてすぐに消えた。
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第二十九話
魔法学院の勝手にもそれなりに慣れた日の事。
魔法学院事務局から、生徒向けに斡旋されている仕事の一つを受けた私とセリナは、用意されていた馬車に乗り込み、フラウパ村を目指した。
村で魔法学院側が発注した魔法花フロージア二百束を受け取るのが仕事の内容だ。
このフロージアを特殊な薬液に三日間漬け込むと、薬液にフロージアの色素と魔力が滲み出し、その薬液を材料にする事で滋養強壮疲労回復に効果覿面の栄養剤を調合する事が出来る。
二頭立ての馬車の御者は私が務め、セリナは幌付きの空の荷台に潜り込んでいる。
季節は春から夏へ移ろう為の準備をほとんど終えつつあり、石畳の左右に広がる緑の海の中に見かける異なる色彩も、春の花から夏の花へと変わりつつあった。
頬を撫でる風は春のぬくもりから夏の灼熱を含み始め、天空の彼方から差し恵む陽光もまた、日を追うごとにより激しくまぶしいものに変わっている。
弾力性に富む跳ね綿のクッションのお陰で、御者台に座りっぱなしの私の尻が痛む事は無かったが、途中で小休止を三度挟んだだけだったから、なるべくフラウパ村へと着きたい気持ちが私の中にはあった。
通りには私達以外に石畳を踏む者の姿も足音も無く、人通りはぱたりと絶えてきた。これならセリナを御者台に移しても大丈夫だろうか。
そんな私の心の声が聞こえたわけではあるまいが、背後の荷台からひょっこり顔を覗かせたセリナが、私に声を掛けてきた。
「ドランさん、ファティマちゃん達とは会いませんでしたね」
フラウパ村には別の依頼でファティマとネルが赴いており、前日にフラウパ村が風光明媚な場所である事を聞かされていたセリナは、密かに二人と会うのを楽しみにしていた。
私がフラウパ村行きの仕事を受託したのも、そんなセリナの心中を慮ってのことだった。
「ふむ、確かにな。もうそろそろフラウパ村へと着く頃だが、ファティマの事だから向こうで村人と仲良くなって、一泊くらいはしているのかもしれないな。あの娘は誰とでも友人になれる素晴らしい才能を持っている」
「ふふ、そうですね。ファティマちゃんならどこにいっても賑やかでしょうね。一人ぼっちっていう言葉と一番縁の無い人だと思いますよ」
まったくだ、と私は心からの同意と共に返事をした。やがて灰色の道は何度か蛇行した後に、背の高い巨木がひしめき合うように聳える森の中へと続いていった。
森の中に入ると石畳は絶え、その代わりに地肌がむき出しの道へと変わる。地肌の茶色へと色彩を変えた道の左右は、地面が猫の額ほども見えないくらいに生い茂る草で埋もれており、噎せ返るような緑の匂いが私達を包みこむ。
森に住まう数え切れぬ生命達の息吹と必ず等しく訪れる死の循環とが、気の遠くなるような歳月の積み重ねで育んだ豊かな森であった。
フラウパ村は林業も盛んと聞いたが、森の豊かさを損なわぬようにと賢明なる判断の下、この森と村の人々は共存してきたのであろう。
だが私の知覚はこの森に生じた異常を明確に感じ取っていた。数億を超える生命の息吹がひしめき、彼らの身体から立ち昇る見えざる気に満ちている筈の森に、たった一つの、しかし絶対的なあるモノが満ちていた。
無数の生命の営みや存在を糊塗してしまうそれは、この地上に生きる全ての生命に等しく訪れ来るモノ――“死”。
死の匂い、死の色、死の音、死の気配。人間の鼻では嗅げない匂い、人間の眼では見えない色、人間の耳では聞き取れない音、人間では感じ取れない気配。だが、生命を持つ者ならば確かに感じられるソレらに、この森は満たされていた。
荷台のセリナが不安の色をその美しい顔に厚く刷いて覗かせる。
「ドランさん、何か変ですよ、ここ。生き物の気配は確かにしているのに、なのにそれ以上に何もかもが死んでいるみたいな変な感じがします」
「ふむ、その感じ方は正しい。セリナ、自分の五感と魂が感じるものを信じなさい。確かにここは死に彩られた世界に変わっている。ただし、死は死でもこれは生ける死者の世界、死にながらも生きる者の国だが」
「ドランさん、霧が……」
セリナが腕と指とを伸ばし、差し示した前方――馬車の進む先には突如として濃霧が生じていた。出現の前兆がまるで無い生じ方である。
真っ白い霧は灰色の道の先ばかりでなく木々に遮られた左右の果てまでも覆い尽くし、見る間に私達の左右を飲み込んで背後にまで回り込んでくる。
あっという間に私達の馬車とその周囲のわずかな空間を除いた全方向が霧に飲み込まれてしまう。
「霧魔? それにしてはこんなに大きなものが居るなんて、聞いた事が無いけれど」
霧魔とは読んで字の如く霧状の形態を取る生命体の事だが、セリナの言う通りこれほど巨大な霧魔は風の噂にも、魔法学院の図書館で目を通した書籍にも例が無い。
「白い衣の村っていうくらいですから、この地方特有の自然現象でしょうか? それとも魔法で発生させた霧なのかな?」
いつ周囲を囲う霧が牙を剥いて襲いかかってきても返り討ちにできるよう、セリナの全身からは魔力が立ち昇り瞬時に魔法の術式を組み上げられる臨戦状態が整えられている。
普段のセリナの様子からはちょっと想像にし難い、歴戦の勇士の趣があった。生まれ育ったラミアの里で、襲い来る別種の魔物相手の戦いに参加していた事と、エンテの森での魔界の者達との戦いが、このラミアの少女を戦士として練磨したというわけか。
馬達は既に足を止めており、手綱を通じてかすかな怯えが伝わってくる。私は手綱をセリナに預けて、愛用している長剣を鞘ごと左手に握り、御者台から降り立った。
「霧魔を素体にして改造した魔法生物といったところか。手間暇をかけたと見えるが、さて」
馬車の進みを再開させるとすぐさま霧が私達を包んできた。やはり自然現象によって発生した濃霧ではなく、こちらの五感と方向感覚に作用して延々と霧の中を彷徨わせる効果があったが、私の知覚能力を騙すには至らない。
私は白い霧に飲まれた森の中に続く道を正確に把握し、二頭の馬達に正しい道を歩ませ続けた。
御者台に移り、私の傍らに座り込んだセリナは、いつ来るとも知れぬ襲撃者に備え、目を合わせた者の動きを封じる麻痺の蛇眼を即座に発動させられる状態を維持していた。
捕獲者であったか殺戮者であったか、少女もどきと黒豹獣を殲滅してから私達に襲いかかってくる者の影は無く、私は霧中の道を進んだ果てにフラウパ村へと辿り着く事が出来た。
フラウパ村は名産品である魔法花フロージアを盗もうとする花泥棒対策に、無数の鳴子を吊るした紐を巡らした柵で村の周囲を囲んでいた。
ガロアの近隣という地理からか、これまであまり妖魔や盗賊の襲撃などを受けた事は無いようで、柵は集団での襲撃を想定した造りではないのが、竜眼と化した私の眼には映っていた。
大地に打ちこんだ丸太や石壁を積み上げて村を囲ってはいなかった。それでも魔法花の栽培と近くを流れる河を利用した河川貿易によって村は裕福で、人口も千人近くに上るという。
あまり村の自衛力に力を注いでいる様子ではなかったが、ガロアと繋がる主要な通りには流石に分厚い木製の門を備えた石積みの門が聳えていた。
霧の中を進んできた私達がその石積みの門の近くにまで来たところで、ひゅっと風を切る音と共に馬の足元に、門の上から一本の矢が降ってきた。
馬が嘶いて慌てる前に手綱を引き、馬を大人しくさせてから、私は御者台の上で立ち上がり、声を大にして張り上げた。
この距離なら霧の只中にあっても声くらいは伝わる。それにどうやら村の敷地に沿って結界が張り巡らされているようで、霧は村の内部への侵入をある一定の線から阻まれていたのだ。
「私はガロア魔法学院の生徒、ドランです。薬学部のアルプレイル教授からの御依頼で、フロージアの引き取りに参りました。開門を!」
「そこから動くな! どうやってこの霧の中をやって来た!? お前のような怪しい奴を村の中に入れられるものか!!」
たちまち門の上に弓矢を構えた若者を筆頭に、武装した村の男達が十人ほど姿を見せた。
どうやらこの霧を発生させた者の魔の手は、フラウパ村へと伸びて暗い影を落とした後だったようだ。
次々と弓の弦に矢が番えられ、鏃の鋭い先端が私と傍らのセリナへと集中する。私とセリナに向けられる村人達には、一人の例外も無く恐怖と焦燥の黒々とした色がべったりと貼り付き、よほどの恐怖体験をしたものと見える。気の毒に。私は心から同情した。
震える手で弓を構えた若者が、唾を飛ばしながら喚き立てる。
「これまで何度もガロアに助けを出した。だが、まだ助けは来やしねえ。それどころか助けを訴えに行った連中のほとんどが帰ってこない。
戻って来た連中も命からがら、化け物に襲われたと言う。そんな霧の中から、どうして無事に来られる!? ましてやお前のその傍らの蛇女は何だ! お前こそ人間のフリをして俺達を騙すつもりだろう」
どうせ中に入れば姿を見せなければならないのだから、とセリナを御者台に乗せたままにしていたのだ。
経験した事が無いどころか、想像した事さえ無い未知の恐怖に疑心暗鬼に陥るのも無理は無い。セリナに対する暴言は聞き逃せぬものがあるが、彼らが突如日常から突き落とされた非日常の恐怖を考えれば、仕方が無いと考えるべきなのだろう。
傍らのセリナが使い魔である事を証明するメダルを手に、下半身を伸ばして立ち上がり、自分達の潔白を訴え始めた。
「私はドランさんの使い魔です。きちんとこの通り魔法学院にも認められた正規の使い魔ですから、皆さんに危害を加える事は致しません」
「信じられるものか!」
ふむ、門の上の村人達の恐怖は今や敵意と変わって暴発する寸前へと変わりつつあった。
袋小路に追い詰められた状況から、時を追うごとに神経をすり減らして正常な判断が出来なくなっているようだ。
私とセリナをどうするべきかと村人達が話し合っていると、石の門の上に新たな人影が生じた。
その人影の顔が明らかになった時、私とセリナは一つ、安堵する事が出来た。門の上に新たに姿を見せたのは、私達が案じていた二人の内の片方、ネルであった。
「ネル」
「ネルネシアさん、良かった。無事なんですね!」
セリナの弾む声に、ネルはかすかに口元を綻ばせたが、それもすぐに引き締められた。
ネルの右手にはネルの身の丈ほどもある魔法の杖が握られている。魔法学院で支給されるのとは違う、ネルの私物であろう。
年経た霊樹の枝から削り出し、先端に握り拳程の高純度の魔晶石を埋め込み、魔法の威力を増強する術式を刻み込んだミスリルの環が被せられている。
クリスティーナさんの持つ魔剣エルスパーダ程ではないにせよ、これもかなりの逸品と見た。
「二人とも、よく無事にここまで来られた。でも少し確かめないといけない事がある。二人とも、首筋を見せて。左右両方」
このネルが確かめたい事を耳にして、私はこのフラウパ村を襲っている事態の黒幕が分かった。首筋を確かめねばならぬ脅威など、多種多様な亜人や魔物が棲息するこの地上世界においても限られている。
もし、そうであるのならば村人達の焦燥ぶりも無理は無い。私はネルに頷き返し、セリナにも目配せをして、私は魔法学院の制服の襟を、セリナは空の青に染めたブラウスの襟を緩めて、左右の首筋をネルと村人達へと示した。
「良かった。二人とも毒牙には掛っていない」
「アピエニア様、ですがあの二人は信用できるのですか?」
「大丈夫、ドラン、男の子の方は私と同じかそれ以上に強い魔法使いだし、傍らのラミアの女の子も優しい良い子」
「あ、アピエニア様と同じくらいに強いのですか……」
「そう、だから彼らが来てくれたのはとても助かる。本当に」
ネルは私達の姿を見た時よりもさらに大きな安堵の吐息を零し、すぐに周囲の村人達へ門を開いて私達を向かい入れるよう指示を飛ばす。
重々しい音と共に木製の門が左右に開き、そこで待ち構えていたネルに笑みを向けて、その傍らにまで馬車を進めてから止める。
「とんでも無い事になっているようだね、ネル」
からかう言葉の一つくらいは口にするところだが、流石にそれが許される状況ではない。
「うん。魔法学院を出た時には想像もしなかった事になっている。取り敢えず村長の所まで来て。そこでなにがどうなっているのか説明する」
「分かった。取り敢えずネルも馬車に乗って。その方が楽だろう?」
「合理的」
とネルは同意を示して、御者台を昇って私の左側に座り込む。セリナの下半身の大部分は荷台の中だから、三人でも座れるわけだ。
ネル以外の村人達はそのまま門に残り、私達はネルの案内で霧の侵略から免れているフラウパ村の中を進んでいく。
「こんな状況で無かったら、セリナとゆっくりと花畑の見物をするところなのだがな」
「仕方が無いですよ。でも機会はまだありますから、また今度です」
「ふむ、そうだな。また今度だ」
ほどなくして私達は村の中で最も広い敷地を持つ屋敷に到着した。敷地を水を張り巡らせた堀と石壁でぐるりと囲んだ屋敷は、言うまでも無くこのフラウパ村の村長の屋敷だ。
出迎えに来た使用人に馬車を預け、私達は屋敷の中に入る。類稀な美貌の少女の上半身と、思わず身の毛がよだつ巨大な蛇の下半身を持つセリナの姿に、馬車を預けた使用人を始め、出くわす者全員が驚きに体を硬直させて、小さな悲鳴を零す者までいた。
ネルが傍らに居るからこの程度で済んだが、そうでなかったら霧の異常事態に加えて魔物の襲撃かと血走って襲いかかってきたところだろう。
セリナは突き刺さる視線にもつんと顔を澄まし、胸元から下げている使い魔のメダルを誇らしげに双丘の合間で揺らしていた。
セリナの姿におっかなびっくりのメイドがぴかぴかに磨かれた樫の扉を開いて、私達を屋敷の主である村長の下へと案内した。
既に使用人達から連絡を受けていた村長は、それまで腰かけていた肘掛椅子から立ち上がり、私達を出迎える。
がっしりとした体躯に豊かな白髭で口元を覆った村長が、ネルへ信頼を満々と湛えた笑みを向ける。
「おお、ネルネシア様、よくぞ御無事でお戻りになられた」
「門に様子を見に行っただけ。何もしていないに等しい。村長、こっちの彼はドラン。私のクラスメイトで、私と同じくらいの実力者。あっちのラミアはセリナ。ドランの使い魔だから怖がる必要はないし、とても頼りになる」
私達の代わりにネルが実に簡潔に紹介を済ませ、村長は私達へと友好の色を浮かべた視線を向けて、握手を求めてくる。もっともセリナに握手を求める事はしなかったが、これでもまだましな反応なのだろう。
「これはこれは、思わぬお味方のご到着となりましたな。初めまして、フラウパ村の村長をしておりますボルダンと申します」
「ドランです。私に敬語は不要に願います。ネルと同じ学び舎に通ってはいますが、私自身は貴族ではありません。ベルン村の農民ですので」
「そうでしたか。なにそれでもネルネシア様と同じく魔法学院に通うとなれば、将来有望な若者のようですな。それにしてもベルン村とは、彼の地の噂話は私の耳にも届いておりますぞ」
「故郷の皆が聞けば喜ぶでしょう。本当はアルプレイル教授の依頼でフロージアを引き取りに来たのですが、どうやら尋常ならざる事態に陥っている様子。こうなった以上は微力を尽くして御助力いたします」
「精一杯がんばります!」
気合いが十二分に入ったセリナの言葉に、ボルダン村長は少し驚いたようだったが、そこに恐怖や不安は無かった。後を絶たぬ花泥棒や人面獣心の商人達を相手にしてきたこの老人は、セリナの言葉と表情から嘘が無い事を見抜いたのやも知れぬ。
「では今、この村が陥っている事態についてお話ししましょう。立ったままではなんですから、ひとまず腰を落ち着けましょう。飲み物もすぐに持って来させますので」
そう言って私達に来客用のソファを――セリナは座れないが――勧めるボルダン村長を、私は手で制した。
突然の私の行動に、ボルダン村長は訝しげに毛筆みたいな眉毛を寄せ、私が尋常ならざる者と知るセリナとネルだけが、私の行動に危険の匂いをかぎ取って臨戦態勢を瞬時に整える。
「フラウパ村の陥った状況をご説明願うつもりでしたが、どうやらそうした張本人の方からこちらへ出向いてきたようですね」
「! なん、ですと……!?」
私の瞳は私とセリナがやって来た通りとは正反対の、フラウパ村の西を見据えていた。
フラウパ村の四方ばかりか空さえも覆い尽くす白い濃霧の只中を、西から何者かが急速にこちらへと向かってきている。
私とネルとセリナの行動は素早かった。すぐさま踵を返し、屋敷を後にすべく足を動かしたのである。
私の言葉に受けた衝撃から身を強張らせる村長を正気に返したのは、扉を潜る際にネルが発した命令だった。
生家で指揮官としての教育を家で受けていたのか、ネルの声音には厳として異論を許さぬ響きがあった。これもネルに踏み躙られたいと願う男女が後を絶たぬ理由の一つだろうか。
「自衛団を西の門に集めて。ただし決して門の外には出ないように。私とドラン達で迎え撃つ」
「ネル、一つ聞く」
「うん」
ネルも私がなにを聞こうとしているのかを悟ったのだろう。ネルが短く答えた呟きには、いつも以上に硬く凍えるような冷たい響きがあった。
「ファティマはどうした? いや、なにがあった?」
ネルからの答えは沈黙であった。そして瞳の中で吹きすさぶ憤怒と憎悪の吹雪。たったこれだけの事でも、ファティマの身に歓迎せざる何かが起きた事は十分に推し量る事が出来る、出来てしまう。
「ネルネシアさん、ファティマちゃんに何かあったの?」
セリナの問いにもネルは無言。それ以上ファティマの安否を問う事は憚られ、セリナは私に対し不安と想像したくも無い想像に揺れる瞳を向けてくる。
私はセリナの瞳をまっすぐに見つめ返してこう言った。
「大丈夫だ。まだ間に合う」
私のまだ間に合うという言葉に救いと同時に新たな不安を抱いたか、私に頷き返すセリナの顔には変わらぬ心配の色がべったりと残っていた。
「……はい」
そのまま言葉を交わす事も無く走り続けていると、恐怖に身も心も縛られながら、それでも武器を携え、門の番をしている村人達と西側の門が見えてきた。
急いで地を這うセリナの姿に咄嗟に武器を構える村人達だったが、ネルの切迫した声が村人達にセリナへの攻撃を中断させた。
「彼女は味方。それよりも敵が来る。貴方達は下がって」
「あ、アピエニア様、ですが敵が来るのならおれ達も」
「いいから下がって。貴方達と巻き込むわけには行かない。それに、周りを気遣える相手ではない」
まるで目の前の村人達さえも敵だと言わんばかりの鬼気迫るネルの様子に、普段は魔法花を育てる平和な暮らししか知らぬ村人達は、まるで首筋に剣の切っ先を突きつけられたかのような威圧感に後じさり、門から遠ざかってゆく。
「いささか乱暴すぎるところはあるが、ネルの言う通り彼らが近くに居ない方がやりやすいか」
「ん。そういう事」
「それと、セリナを庇ってくれてありがとう」
「結果的にそうなっただけ」
ぷいっと顔を背けるネルに、私は素直じゃないな、と心の中で少しの呆れと感謝を込めて呟いた。
村人達は門を開き、私達が門の外に出た後で一旦その場から下がり、他の自衛団の到着を待つ事になった。フラウパ村の外、より正確に言うのならばフラウパ村を囲っている結界の外に出れば、そこは一面白一色に染まった白の世界へと変わる。
ほどなくして霧に黒々とした巨影が浮かび上がると、それは人間の背丈の倍はある馬六頭が引く馬車となってその全容を露わにした。
吐く息さえ白く変わる中、私達から二十歩の距離を置いた所で馬車はこれまでの疾走が嘘だったかのように急停車する。その反動を巨馬は難なく堪え、馬車にはわずかな揺れも無い。
馬車の車体そのものに掛る負荷や慣性を打ち消す処置が施しているのと、馬自身もまた主人に相応しい魔性の馬なのだ。
車体の横に設置された扉の黄金の取っ手が、がちゃりと音を立てて回る。その音さえも優美であった。
「ネル、アレがファティマとこの村に関係のある張本人だな?」
ゆっくりと開かれる扉の奥から、大雪山の頂上もかくやという冷風が私達へと吹きつけてくる。風には気配が込められていた。それを鬼気と呼ぶ者がいるだろう。それを死気と呼ぶ者もいるだろう。
「そう、あいつがファティマを」
ネルの全身から殺気が絶え間なく噴き出し、吹きつける鬼気と真っ向から食らいあう。霊的な視力を持つ者ならば、ネルの周囲で激しく荒れ狂う二種の気配を見る事が出来たであろう。
車体に備え付けられたステップを踏み、馬車の主が私達の前に姿を見せた。それと同時に上空を覆っていた霧が晴れ、煌々と照る満月がその姿を覗かせる。
本来ならばまだ夕刻前となるとあれは偽りの月か? いや、あれもまた正真正銘の月。となるとこの霧の中は……。
「ほう、知らぬ顔が二つある」
もしここが紳士淑女の集う社交場であったなら、誰しもがうっとりと聞き惚れる声がした。馬車から下りてきた主の声であった。
ただひたすらに典雅な顔立ちの中にあって、周囲を埋め尽くす霧のように白く透けた肌と異様に赤く映える唇が眼を引く若者だった。
馬車から下りるまでのその全ての挙措が優美で、これこそまさに貴族と世の諸人が称賛しかねない気品を全身に纏っている。
「ドランさん、あの人、とても怖いです。とても、とても危険な、ナニか……」
月光を全身に浴び、馬車と同じ深い海の色をしたマントに月光の粒を何万と輝かせながら、若者は朱唇を開いた。
「我らの糧となる他に存在する価値の無い下賤な者とはいえ、私の名を知らぬままでは不便か。その脆弱な命の尽きるわずかな時まで憶えておくが良い。私はブラン・グルーデン・グロースグリア。栄え有るグロースグリア王家の嫡子である」
自らをブランと名乗った若者の唇からは、鋭く尖った二本の牙が覗いていた。血の管を破り、そこから溢れる血潮を飲む為の牙が。
この若者こそは他者の血を吸い自らの生命を長らえる、夜のみに生きる事が出来る生ける死者、バンパイアなのだ。
「夜の国の人々か。グロースグリアとなれば始祖六家の一つ。大物が出てきたな」
古のバンパイアの別名を口にしながら、私は腰の長剣をゆっくりと鞘から抜く作業に移っていた。目の前の若者が誰であろうが、何であろうが、ファティマに危害を加えた以上は私が与えるべき運命はただ一つ。
それが生者ならば死を。生ける死者――不死者ならば滅びを。これのみであった。
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第三十話
「ほう、夜の国の人々と私を呼ぶか、人間よ」
「ああ、呼んだともさ、夜の国の人々よ。あるいは月と夜闇の子、夜天の君臨者、凍てつく冬の荒野を歩む者、お前達の呼び名は歴史の闇の中数多存在した」
ブランと名乗ったバンパイアの若者は、私へ然したる興味も無い視線を向ける。
先ほど口にした通り、このブランにとって人間とは――おそらくバンパイア以外すべての種族が、であろうが――自分達の不死の生命を支える糧でしかないのだろう。
私と手を繋いだままのセリナが、ブランの視線を直接向けられたわけではないにも拘らず小さく体を震わせた。
私へと向けられたブランの視線が含んでいる、力の余波とでも言うべきものを受けたが為の反応だ。
「いずれもかつて我らの世界を知った他種の詩人達が残した呼び名。今ではもう人間達に忘れ去られ、歴史の闇に埋もれた書物か口伝にしか残っていない筈だが、学生か。勉強熱心と見える。
かつて我らをそう呼んだ詩人達を当時の我らの同胞は讃え、彼らが望まぬ限りにおいて決して血は吸わぬと約定し、多くの財宝を与えたという」
ブランはそこで一旦言葉を切り、口元にかすかな微笑みを浮かべた。花の盛りを過ぎた女性も蕾ですらない少女も、年齢の別なく心の底まで魅了せずにはおかぬ文字通り魔性の笑みであった。
「だが私はそうは思わぬ。私は古の同胞とは考えを別にするのでな。我らの古(いにしえ)の呼び名を知る者よ、せめてその血潮を私に捧げよ。最も身になるのは若く逞しい男の血ゆえにな」
「自ら進んで首筋を差し出す趣味は私には無い。古の血脈に産まれた者よ、血を欲するのならば力を以て私を屈服させるが良い」
「ほう、私の眼差しを受け、私の気配を浴びてなお顔色一つ変えぬとは、これは思わぬ所で益荒男と出会ったものか」
ブランを彩る月光が徐々に色褪せていった。深い海の色合いのマントに包まれたブランの全身から滲む気配の変質に、月光は怯えたのかもしれない。
「その心臓に鉄の刃を突き立てる前に問おう。何故、このような霧を生み、領土とこの地を置き替えなどする? そして今一つ、我が友たるファティマに害を成したのは貴様か?」
私の言葉にブランの眉がかすかに動いた。白い霧に飲まれたフラウパ村周辺は、既にフラウパ村であってフラウパ村に非ず。
グロースグリア王国が支配する土地と空間的に重なり合い、私達の頭上に輝く月も、本来グロースグリアの領土を照らしている月が映し出されているのだ。
白い霧の外は夕刻前であっても、この霧に包まれた内部に限っては月の出る夜の時刻となり、空間のみならず時間もまた違うわけだ。
「我が領土とこの地を置き換えた事に気付くとは、これはますますお前の血を飲みたくなったぞ。答える義理は無いが、その慧眼に敬意を表し答えよう。
別にこの土地を選んだ事に理由は無い。強いて言えば我らの準備が整った時に最も近かった場所だから、という程度の事。二つ目の問いだが、そのファティマとやらの血を吸い、咽喉湿しとしたのは私ではない、我が父よ。
随分と美味だったようで、殊の外お喜びであった。暗黒の闇夜に冠たるグロースグリア王国第千三百代国王たる父の糧となった事を、望外の誉(ほまれ)とファティマなる女子を言祝(ことほ)ぐが良い」
「そうか、分かった。律儀に問いに応えてくれた事には素直に礼を言う。おかげでファティアを傷つけた者が誰か分かった。お前の父とやらの心臓を貫き、陽光に晒して灰にすれば良いわけだ」
眼の前の若者がファティマに害を成した当人ではない以上、これ以上かかずらっている暇はないと私は握る長剣に竜種の魔力を込めながら、若者の背後を埋め尽くす白霧へと竜眼を向ける。
七色に輝く竜眼に変わった私の両目は、非透過性の霧に視界を遮られながらも、はるか遠方に聳える巨大な城塞を捉えていた。
あそこに今回の事件の元凶がふんぞり返っていると言うのなら、既に眼の前の若者は用済みにも等しい。
勇みがちになっている私の様子に、ブランは苦笑を洩らした。
「勝手に他人の父親を滅ぼす算段を立てて貰っては困るな。正式に私が王位を継ぐまでは父には健在であって貰わねば困るのだ。それにこれから大仕事が待っているのでな。その為にも我ら親子と臣下共は精をつけねばならぬ」
「そうか、ならば……」
心の底から喜べ、従えと告げるブランに対し、私の返答は既に決まっていた。そして私だけでなく、親友を害された事に憤激していたこの少女もまた。
「さっさと死ね」
これまで黙って私とブランの会話に耳を傾けていたネルが、私の言葉を継ぐようにして実に明瞭簡潔な要求を口にする。
ネルが持つ杖の先端は一直線にブランへと向けられていて、ネルが死ねと言い終えるよりも早く、その周囲にネルの魔力と氷で出来た長槍が十本、瞬時に出来上がる。
アイスアローよりも上位の氷属性攻撃魔法アイスジャベリン。
降り注ぐ月光に氷の長槍は冷たい輝きを放ち、すぐさま風を貫いて十本すべてがブランの心臓を目がけて殺到する。
凄まじい怒りによって感情を爆発させたネルの魔力が込められたアイスジャベリンは、たとえ分厚い鋼鉄の大盾と鎧とで身を守っていたとしても、その両方を貫くだけの貫通力と速度を備えていた。
瞬き一つする間に、私達の目の前に十本の氷の長槍に全身を貫かれた若者の姿が出来上がる筈だった。
「怒りは心という名の炉にくべられる薪ゆえ、魔力に深みと激しさを与える。見事と褒めおくぞ、確か、ネルネシアとかいう小娘」
果たして本当に感心しているのか甚だ怪しいものではあったが、ブランは一応感心した口ぶりで言うが、その口ぶりには苦痛の欠片も無い。
ブランの全身を包む青色のマントにアイスジャベリンは先端を触れる事も叶わず、マントと先端の間に不可視の壁があるかのようにそこで止められていた。
「その若さにしてはやる。だが私に傷をつけるにはまだまだ未熟よ」
光の届かぬ深い海の底から浮上してきた海神の腕の如く、ブランはマントの内側から右腕を出して軽く虫でも掃うように右から左へと振るう。
金糸の刺繍に縁取られた青い袖口から覗く、白い手の指先に至るまでの線の何と美しいこと、そしてその虫を掃うような動作さえも優雅と例えたくなるとは。
「死ね、というのは正確ではないな、ネルネシアよ。我らは死なずの者――不死者、たとえ死を与えられようともそこから蘇る。よって我らにはこう言うべきだ――」
ブランが繋ごうとした言葉の穂を私が繋いだ。
「――滅べ、とな」
「!?」
と同時にブランに襲いかかったのは、私が突き出した長剣の切っ先から閃いた紅蓮の光線であった。
術者の力量次第では、鋼鉄を融解させる大熱量を発する火属性の攻撃魔法クリムゾン・レイ。
アイシクルフレアの白煙の中に未だ留まるブランを狙ったクリムゾン・レイは、その熱量を以て白煙を吹き飛ばし、露わとなったブランの右胸を射ぬいてそこに握り拳程の穴を開いた。
対魔法障壁をいとも容易く貫通した私の魔法に、ブランの瞳が偽りの無い驚きに見開かれる。
「おお、私の守りを貫くか!?」
ぐらっと揺れた体を立て直した時、王族級吸血鬼(ロイヤル・バンパイア)の再生能力によってブランの右胸に穿たれていた穴は塞がっていたが、ブランは二度咳き込むと口元を押さえた左手に少量の血を吐いた。
「ほう、傷は塞がったが、痛みが常とは違う。これは込められた魔力の質の違いか。くく、どうやら私の想像以上に面白い男のようだな」
自分の左手を濡らす自身の血を舌で舐め取り、ブランは元より赤い唇を更に赤くして、にいっと目撃した者を戦慄させる笑みを浮かべる。
社交場でダンスのパートナーの手を握るように淀みない動作で、ブランの右手はマントの中から一振りの長剣を抜いた。
親指の先くらいはあるルビーをいくつも埋め込んだ黄金の柄に、同じく黄金の刀身を持った長剣である。
「我が愛剣、その銘をグリーフマリア。我が下僕となるのを忌むのならば、この刃に血を吸わさずに見事鞘に納めさせてみよ」
だらりと下げられた黄金の切っ先は霧に飲まれた大地を指していたが、それがいつ動き出したとも知れぬ自然な動きで右下から左上へと、歪みのない直線を描く。
描かれる直線の先にはネルの姿があった。ブランとネルの間には黄金の刃が届く筈の無い距離が開いている。
だがその距離が自身を守らない、とネルは直感的に理解したらしく、刃が振り切られるよりも早く、私達の方へと飛び退っていた。
ネルの足が強く大地を踏み跳躍して刹那の後、ブランの描いた斬線の延長線上に存在していた大気や木々ばかりか、空間そのものに至るまでが裂けた。
「一太刀目をよくぞかわした。何をされたとも分からずに両断される者がほとんどなのだ」
右膝を地面に突いていた姿勢から立ち上がりざま、ネルはアイシクルフレアに続く攻撃魔法の詠唱に入った。ブランの長剣が振るわれるよりも早く、怒涛の攻めでもってブランを灰にする腹積もりらしい。
「鱗は氷柱 牙は銀筍 吐息は吹雪 汝は氷の雄蛇と雪の雌蛇の間に産まれし子 真白き双頭蛇よ! ブラン・サーペンタス」
ネルがブランへと差し向けた杖の先に急速に精霊界から氷精の力が流れ込み、詠唱に謳われる通りの氷柱の鱗を生やした真っ白い大蛇が姿を現す。
出現すると同時に周囲の気温を大幅に下げ続けている大蛇は、本来尻尾の先端であるべき部分にも頭を持ち、二つの頭部をブランへと向けて吹雪の吐息を吐きだしながら威嚇を始めた。
氷の精霊界に属する蛇精の召喚魔法か。理魔法だけでなく精霊系の召喚魔法までこうも見事に使うとは、と私はネルの事をまだ見くびっていた事を思い知らされた。
真白き双頭蛇は大の大人を三人も四人も纏めて飲みこめるほどの大きさで、ほぼ実体化するほどに濃密な精霊力と魔力に満ちている。
しゃあ、と双頭蛇は吹雪の吐息をブランに噴きつけながら、召喚者であるネルの意思に従って巨体を虚空にくねらせながらブランへと襲い掛かる。
吹雪の吐息はブランに当たる直前、ブランの纏う障壁に阻まれブランの身体の線に沿って後方へと流れていった。
放たれた矢よりも速い双頭蛇に、ブランはこれこそ氷の眼差しといった冷たい視線を向けながら、小さな苦笑を浮かべてグリーフマリアの刀身を右から左へと一閃。
氷筍の牙をびっしりと生やした顎を開いた双頭蛇は、黄金の刀身を避ける暇もなく呆気ないほど簡単に両断され、グリーフマリアの軌跡が斬り裂いた空間に、二つにされた氷の蛇体が飲み込まれて消える。
仮に巨人が鋼鉄の大剣を振るったとしても、氷柱の鱗を断てはしても巨体を真っ二つには出来まいが、このブランという類稀なる使い手とグリーフマリアという尋常ならざる魔剣ならば、可能であったろう。
渾身の力で召喚した真白き双頭蛇がいとも容易く二つにされた事実に、さしものネルも反応出来ず、信じられないものを見たという表情を浮かべる。
そのネルの表情に、ブランの口元に優越感を含んだ、それでいてどこまでも優雅な笑みが浮かび上がる。
「グリーフマリアはいささか切れ味が良すぎる。首を刎ねぬよう気を遣わねばなるまい。死ぬまでに血を吸えば良いのだが、刎ねた首から吸うのでは風情というものが無い」
ブランは、気を遣わねばならないと口にしたばかりの黄金の魔剣を振りあげる。
体の芯から肩へ、肩から肘へ、肘から手首へ、手首から剣へと連動する動きに一切の淀みは無く、最初から物の理にそう定められているかのごとく美しい。
黄金の切っ先は月光の鞘を斬り裂きながら天を向き、そこから大瀑布の迫力と闇夜の静けさと共に私へと振り下ろされる。
その軌跡は私の右腕と右足を断つものであった。音の四倍、いや五倍もの速さで空間が断たれながら私へと迫りくるのを、私は確かに竜の眼で捉えていた。
「ドランさん!」
「ドラン!」
私が真っ二つになる姿を想像したセリナとネルが悲鳴と共に私を呼んだのは、私が空間をも斬り裂く斬撃に対して、まったく同じ軌跡で長剣を振るった後であった。
練磨し尽くした技量の果ての境地にあるブランと異なり、私の剣技は約十三年の辺境剣術の下地の上に、竜種の魂による強化を施した力押しの荒技だ。
優美さというものは欠片も望めぬが、刀剣に込めた気迫と殺意ならばブラン如き吸血王子にはおさおさ引けは取らぬ自負がある。
金属を無理矢理引き裂くような、あるいは絹を裂くような何とも言えぬ音が周囲の大気を震わせる。斬り裂かれた空間が閉じる前に更に斬り裂かれた事で発する、いわば空間のあげる悲鳴であった。
私はブランと同じく天から地へと長剣を振り下ろした体勢から、長剣の切っ先を持ちあげて深い海色のマントの左胸へと向けて固定する。
その奥にある心臓を貫いてくれる、という分かりやすい意思表示のつもりであった。
「これは、驚いたぞ、ドランとやらよ。我が一撃から身を守るでも無く避けるでも無く、まったく同じ斬撃でもって凌いでみせるとは。
手にしているのが特別な刀剣では無いというのに、なんたる剣を振るうのか。我が身の剣才の無さを嘆くべきかもしれんな」
ブランの称賛を聞き流しながら、私は低い声で答えた。ネルがぎょっとした顔で私を見る。私の敵対者に対する冷徹な声とそこに込められた殺意を、ネルは初めて耳にしたのだ。
「称賛するのは勝手だが、だからといって容赦を期待されては困る。お前の灰はたっぷりと陽光に晒してから海に撒いてやろう」
「それはご丁寧に」
私の抹殺宣言にもブランはどこ吹く風と爽やかな笑みさえ浮かべて、左半身を前に出して黄金剣を体の影に隠した。斬撃の初動と太刀筋を見切らせぬ為の初歩的だが、実に有効な手段である。
「降り注げ、セレスティアル・ジャベリン」
私の声が大気に溶けるのと同時に、月光をはるかに上回る鮮烈な光が夜天を煌々と照らしだし、私達と私達よりも薄いブランの影を地に這わせる。
かつてエンテの森での魔界の軍勢との戦いで私が行使した、敵集団の頭上より降り注ぐ無数の魔力の槍。
詠唱を破棄し、左手の動作と魔法名のみで発動させた為に大幅に威力は落ちているが、それでも私の竜種の魔力が込められて白く輝く槍は、ブランの対魔法障壁を薄紙のように貫くだけの威力はある。
無尽蔵かつ根本的に質の異なる我が竜の魔力あればこその、強引な力技である。
頭上より降り注ぐセレスティアル・ジャベリンを、ブランは流石にバンパイアの超人的――ならぬまさしく超人そのものの反射神経で尽く迎え撃った。
空間を断つ魔剣は必ずしも空間を断つばかりでないようで、刃に内包したバンパイアの魔力とブランの百人力をはるかに上回るバンパイアの膂力で、打ち合ったセレスティアル・ジャベリンを粉微塵に砕いてゆく。
砕いた光の槍の数が二十本を超えた時、砕かれた魔力がさながら雪の如く降り注ぐその中心で、ブランが左手でマントの裾を掴んで頭からすっぽりと覆うように翻した。
「これはちと手間だ。処理は私の護衛に任すとしよう」
影さえも見えぬのに護衛とは? ブランが口にした護衛の正体はすぐさま知れた。
いまやブランの全身を覆い隠したマントの滑らかな光沢を放つ生地に、すうっと半ば透けた腕が浮かび上がる。
浮かび上がった腕は一本だけではなく二本、三本、四本、五本……と増え続けて遂には五十本を数え、その構成は人間のみならず黒い剛毛を生やした腕、青黒い鱗に覆われた腕、関節が逆になっている緑色の肌の腕と実に多彩だ。
「これぞ我が護衛達よ。いずれも私が牙を立てて血を吸った強く美しい女達。我が下僕と化した後、その生皮を剥いで繋ぎ合せ、更に魂を封じ込めて仕立てたのがこのマントだ。マントに宿る我が下僕達は、私の意思に応じてこのように姿を現すのだよ」
誇らしげなブランの言葉に鼓舞されたのか、腕の付け根から先のみが姿を現した四十本の腕は、主に降り注ぐ数十本のセレスティアル・ジャベリンを各々が手に持った武器で迎え撃つ。
高密度に圧縮された魔力の槍が音よりも速く飛来するのを、ブランの護衛達は一本の漏れも無く弾き返すか、砕くか、あるいは軌道を逸らすかして見事吸血王子に傷一つ付けずに凌ぎ切る。
セレスティアル・ジャベリンがこれ以上降り注ぐ事が無いと悟ってか、はたまたブランの意思によってか護衛の腕達は現れた時と同様にすうっと透けていき、すぐにその姿を消した。
「果たして私の牙を濡らした女の数が千か二千か、数えるのを止めて久しく私自身でも分からぬが、私と戦うのは数千のバンパイアを相手にする事と等しい」
ブランの周囲に現れた百を超える腕には長弓、短弓、投げ槍、短剣、投網、円刃と数々の飛び道具が握られ、いずれもノーブル・バンパイアの膂力と超感覚で放つ寸前であった。
ならばとこちらも広範囲を吹き飛ばす魔法を発動させる――その刹那の瞬間にフラウパ村の方角からやってきた新たな闖入者の声が、白い霧の中に朗々と響いた。
金鈴を転がすような声はこれか、と思わせる可憐な声であるというのに、その響きの中には他者への無関心と無情ばかり。
ブランとはまた違う、聞く者の背筋を寒からしめる人外の精神のみが出し得る声であった。
「楽しそうな事をしているな。私も混ぜろ」
声が私達の鼓膜を揺さぶるのとほぼ同時に、飛び道具を構える護衛の腕達に囲まれたブランの頭上から、淡い灰色の光を放つ巨大な獣の腕が叩きつけられた。
ブランの腕達は握る武器はそのままに頭上から叩き潰しに掛ってくる腕を真っ向から受け止めて、一本の巨大な腕と百を超える女の腕とがぶつかる衝撃が周囲に走る。
獣の腕の付け根へと視線を巡らした私は、閉ざされたフラウパ村の門の前に見覚えのある小柄な姿があるのを見つけた。
星の瞬く事の無い夜の空の色に染まった髪と瞳、非人間的なまでに白く透けた肌が目を引く可憐な容貌。
可憐と言ってよいほど小柄なのに、滲み出す威圧感と雰囲気は常人に直視する事さえ許さぬものがあった。
新たな乱入者の名前を、ネルがどこか苦々しく口にした。
「レニーア」
その名前に私は記憶の棚の一つを引いて中身を取り出した。
「ガロア四強の一人だったな。村に二種の結界が張ってあるが、一つはネル、一つは彼女のか」
「そう。私達とは別に、村の近くに出没した魔獣退治にレニーアはこの村に来ていた。最初に村が襲われた時も、彼女のお陰で村人の犠牲を抑えられた。ファティマは助けられなかったけれど……」
「これはまた愛らしい邪魔者が来たな。今日は私の邪魔をする者達に次々と巡り合う定めの日か」
嘆息しながら告げるブランに、レニーアは欲しくて堪らなかった玩具を眼の前にした子供のように嬉しそうで、そしてこれ以上なく凶悪な笑みを浮かべた。なまじ人形のように整った顔をしているだけに、浮かべた笑みの凄愴さはただならぬものがある。
「バンパイア共の王族か。この間村に来たやつの息子か何かか? 私が滅ぼす前に逃げられたからな、お前を滅ぼせば息子の仇打ちと息巻いて今度は逃げる真似はすまい」
「そなたの悪口は度が過ぎる。女人の戯言と聞き逃すわけにも行かぬし、いくつか訂正を必要とする。
一つ、父は逃げてなどおらぬ。幾夜にも渡り眠れる女の褥に立ち、血を飲むのは古からの我らの儀礼だ。父が先だってこの村より去ったのは、あくまでその伝統を尊んだからにすぎぬ。
さらに今一つ、私を滅ぼすとはこれこそ無理というもの。そなたの如き矮小なる力の持ち主では、この私を討つなど夢のまた夢」
「他人の血を吸わねば不死の生命を保てぬ汚らわしい寄生虫の分際で、お前こそ私に口が過ぎる。お前を滅ぼす事が夢かどうか、その身で確かめろ!」
「ネル、確かレニーアの得意とする魔法と二つ名は」
ブランと護衛達の注意がいつレニーアからこちらへと戻るか警戒しながら、私は背後のネルに問い質した。新たな状況に対しいつでも動けるよう体内の魔力を練り込んでいる最中のネルは、私の問いにすぐさま答えた。
「得意なのは思念魔法、二つ名は“破壊者”!」
思念魔法とはその通り思念でもって世の森羅万象、魔道の法則に干渉する魔法体系の事だ。
私が普段使う理魔法は、力ある言葉――詠唱や魔法文字、神秘象徴、自らの魔力を以て世の理に干渉するが、思念魔法の場合は心中で念じる事を基礎とする。
常人をはるかに凌駕する思念の強さで世界の法則を都合の良いように書き換える魔法で、後天的にこの魔法を習得する事は極めて難しく、生まれ持った才能と思いこみの強さがなによりも重要とされる為、使い手の数は限られている。
レニーアからブランへと向けて地面に目に見えない透明な大蛇が出現したように、地面が蛇行しながら砕けていく。念動か、しかしここまで強力とは。
進路上にある物体を微塵に砕きながら迫る破壊の思念を、ブランは出現させた護衛達に対処させた。
丸太を何本も束ねたように太い腕が二本浮かび上がる。それはまさしく巨人種の腕だ。
種によっては人間の百倍もの背丈を持つという巨人もまた、吸血王子の下僕の内の一人だったのだ。
巨人の腕は両手で固く握った戦鎚を迫りくる念動へと振り下ろす。ぐおん、と凄まじい音と衝撃が生じ、私達の髪をたなびかせる。
「この程度の大道芸で私を滅ぼすとは思い上がりも甚だしい」
「そうか、ならこれはどうだ!」
未だブランへの歩みを止めないレニーアの左右から、あの獣の腕が今度は左右に二本出現した。灰色の腕の表面には無数の鱗が生え揃い、所々に剛毛が生えて、五本の指には太く鋭い鉤爪が伸びている。
前世で見覚えがあるような無いような、ふむん。
念動を粉砕した巨人の腕をも上回る巨大な獣の腕、さしずめ念動獣とでも言おうか、その腕を今度は左右百本ずつ計二百の腕がそれぞれに盾を掲げてこれを真っ向から受け止める。
護衛達の種族、年代によって掲げられる盾の形状は様々だが、ずらりと並べられた盾は壁となって念動獣の禍々しい爪を見事に防いだ。
「護衛をぞろぞろと連れ回さねばならない臆病者めが」
「痛い所を突いてくるな」
とブランが苦笑したところを見るに、どうやらこの吸血王子にも言われたとおりの自覚はあるらしい。
念動獣と盾の壁とが一進一退の攻防を繰り広げる中、レニーアの魔力と気配の高まりが感じられた。私の眼はレニーアの眼前に三つの不可視の力の塊が生じるのを捉えた。
色も形も無い思念の塊であった。壊す、ただそれだけを一心に念じたレニーアの思念は、無色無音の破壊となってブランへと走る。
レニーアの攻撃は間断なく続き、それを防ぐブランの周囲は次々と抉られ、爆ぜ、レニーアの二つ名に相応しい惨状へと変わりつつあった。
だが、だがそれでもブランの黄金の魔剣と無数の護衛達の守りを突破する事は叶わず、いつかはレニーアの無尽蔵とも思える魔力が尽きるのが先と見えた。
私と同じ身の上とはいえレニーアがブランの相手を務めるのは、いささか無理があったか、と私は結論付けて長剣を握り直し、レニーアの破壊念が乱れ飛ぶ中へ駆けこんでいった。
「ふっ!」
む、と踏み込んでレニーアの破壊念を避けつつ、ブランの右方から斬りかかる。ブランはすぐさま私の存在に気付いた。レニーアからの攻撃を左の護衛達で受け流しつつ、右の護衛と黄金の魔剣、そして意識を私へと向ける。
流石にブランは私の一撃を黄金の魔剣で受けた。黄金の魔剣と私の魔力によって白く輝く竜爪剣の刃とが噛み合い、噛み合った場所を中心に私とブランの周囲に凄まじい力の衝突が伝播した。
だが二本の剣の衝突と拮抗は一瞬の事。ブランは、まさか百人力を超える自分の剣が跳ね上げられるとは思わなかっただろう。
グリーフマリアを跳ね上げられ、無防備に晒されるブランの首へと私は長剣を振るう。
長剣の刃は筋肉も骨も水のように断ち、ブランの首を容易く両断した。
すうっと吸血王子の首に一筋の朱線が走り、そこから噴水のように血が噴き上がるよりも早く、何という事かブランは空いている左手で自分の頭を天辺から押さえつけてぐいと押し込むと、首に描かれた朱線はまるで最初から無かったように消えた。
ほう、と思わず感心の声を零す私に、ブランはいささか濁った声を零した。まだ声帯が上手く繋がっていないのだろう。
「ごれほどどは、見誤ったな」
長剣に込めた魔力によって尋常ならざる苦痛を味わっているだろうに、ブランはそれをおくびにも出さずに私に笑いかけてみせた。
貴族という人種は下々に決して弱みを見せぬよう見栄を張ると言うが、どうもそれはバンパイアにおいても同じ事であったらしい。
ここまで見事に見栄を張り通せば見事と褒めたくなるが、それはブランを滅ぼしてからとしよう。
「二度目はないぞ」
私は振り切った長剣を右脇に引きつけて、今度はブランの心臓を貫くべく構え直す。断たれた首を傷口に押しつける荒業を披露したブランだが、心臓を貫かれてはたして不死の生命を維持できるか?
しかし私の問いに答えは与えられなかった。代わりに与えられたのは、ブランが停めた馬車から放たれた矢であった。
馬車は無人の筈だが、どうやら自動で主人の危機に反応して攻撃行動を取るように術を施されていたらしい。あるいは馬車そのものがゴーレムか魔法生物だったもの。
狡猾だったのは飛来する無数の矢が私ばかりでなく、セリナ達をも射程に含めていた事だ。彼女達を守る為に、見上げる空を埋め尽くす量の矢を撃ち落とす一瞬の間に、ブランは風の速さで馬車の中へと逃げ込んでいた。
餌と侮る人間に背を向ける事を恥と感じて、躊躇してくれていれば良かったのだが、逃げ足の速い奴め。
「ドランとやらよ、この首の借りはお前を下僕にではなく殺す時まで憶えておこう」
「なら私もお前の事を灰にするまでは憶えておいてやる。ふむん」
「面白い口癖だな。ドランよ、ネルネシアよ、浚われた村娘と、お前達の友であるファティマを救いたくば我らの居城へと参るが良い。お前達は我らが待っていた客人ではないが、我らなりに歓迎しよう。これを凌げたらな」
ブランが言うが早いか、馬車の車体の一部がぽっかりと開き、そこから私達へと何かが放り投げられた。ブランの趣味なのか金色の四角い金属製の物体だ。
掌に乗る程度の大きさのそれが、放り投げられた空中であちこちが開き、棒状の物体を伸ばす間に、彼方から白い霧がどっと噴きつけてきてブランの馬車を飲み込む。
白い霧はどうやら空間を超越する能力があるのか、霧に飲まれた瞬間、馬車と騎士達がはるか遠方の居城へと転移するのを私は感じた。
逃がすかと私も同じく空間を跳ぼうとしたが、それよりも私達の目の前に放り投げられた物がなんなのかを悟り、私は追撃を断念せざるを得なかった。
黄金の物体から私達とフラウパ村を包みこむ閉鎖結界が展開され、物体周囲の大気が互換性の無い外部との空間転移によって、物質と物質とが重複して反応していたのである。
たしかこの現象を古の人間達はこう呼んでいた筈だ。
核融合反応と。
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第三十一話
「ふむ」
いつもの口癖を一つ零し、私は核爆発を起こす寸前の黄金の核爆弾を両手で挟みこみ、村周囲に展開されていた閉鎖結界を解除しつつ、核爆弾を霧の彼方へと思いきり投げるふりをした。
私の手を離れて霧の中に入った瞬間に、私は核爆弾をはるか頭上に輝く星々の彼方へと転移させた。わざわざ投げる工程を経たのは、セリナやネルの眼を誤魔化す為である。
転移先の周辺の空間に生命体が居ない事は確認済みだ。たとえ光の速さでも千年はかかる彼方で起きた小さな爆発の光を確認してから、私はもう一つふむ、と零して小さく安堵した。
私はともかくあのまま爆発が起きていたら、セリナやネル、レニーアは灰すら残らず、フラウパ村に至るまでが焦土と化して、以後数十年は生物が棲む事の出来ない汚染に見舞われていたところである。
バンパイアの牙を受けたファティマや、攫われたフラウパ村の少女について詳しい話を聞こうと私がネル達を振り返った時、私を怨敵の如く睨むレニーアと目が合った。
古神竜から人間へと転生を果たした私のように、この非人間的なまでに冷たく、破壊を喜ぶ精神を持った少女も人間以外の種族――おそらくは魔獣の類だろう――から人間へと転生を果たした転生者であり、私の同類と言える。
もっとも、レニーアが私もまた転生者である事に気付いた様子は無い。レニーアの黒瞳には、ブランとの戦いに水を差した私への怒りと憎悪が黒々と燃えている。
闘争と破壊に喜びを見出す気質の持ち主か。これでは人間に生まれ変わってから、さぞや窮屈な思いをしながら生きてきたに違いない。
抑えるつもりの無い破壊衝動を紛らわせるために、人知れず殺戮と破壊を繰り返していなければ良いのだが、という私の内心など知らず、レニーアは私から視線を外すと私達に声を掛けもせず、ブラン達が消えた霧の向こうへと歩き始める。
「レニーア、何処へ行く」
答えは分かっていたが、一応、私は同じ学院の生徒でもあるので声を掛けておいた。レニーアは無視を通すと思ったが、意外にも返事はあった。
「どうして私の行く先をいちいちお前達に告げねばならん? お前は私の父親か何かか?」
「ふむん、精々同じ学院に通う生徒同士といったところか。その程度の関係でもバンパイアの蠢く場所に向かおうとしているのを見れば、心配の一つか二つはするものだ」
「この世で最も無用な心配だ。貴様はそこの蛇女と氷女の心配だけをしていればよいのだ。私に関わるな」
「無理と無茶はするな。何かあっては流石に後味が悪い」
レニーアの黒い後姿が霧の向こうへと消えてから、私はセリナとネルのもとへ足を向けた。
破壊の痕がむざむざと刻まれた大地の上で、二人は不死者の王の放つ殺気から解放されて緊張の糸が切れたようで、白い顔立ちにどっと汗を流して肩を激しく上下させている。
「ネル、息くらいは整えてからにした方が良い。そうしたら私も共に行こう。セリナは村に残って守りを固めてくれ」
私の言葉に、セリナは真摯な眼差しを向けて首を左右に振った。そこには断固たる拒絶の意思が込められていた。
「いいえ、それはできません。ドランさんが私の事を気遣ってフラウパ村に残れ、と言って下さっているのは分かります。
けれど、私はドランさんとどこまでも一緒に行くと、ベルン村に迎えて頂いた時から決めているのです。だからなんと言われようとも私はドランと一緒です」
「分かった。ならば地獄の底まで、とは言わんがファティマを助けに一緒に行こう」
「はい、絶対にファティマちゃんを助けましょう。あんな心の優しい女の子がこんな目に遭うなんて、絶対に間違っています」
セリナの言葉に、私は心から同意した。
ブランとその父たるグロースグリア国王の取る行動いかんによっては、今宵、私の手によって古き血と歴史を継ぐバンパイアの国が一つ、滅びるかもしれない。
「ドラン、もう息は整った。早く行こう」
私の忠告通り乱れた呼吸と心気の調整に徹していたネルが、多少疲労の影こそ残っているが、生気の戻った顔で声を掛けてきた。
「ところでドラン、あいつらの居城がどこにいるか知っているの?」
「さっき馬車に粘着性の思念を貼りつけておいた。それを追えばブランの所に着く」
「流石ドラン、抜け目ない」
ネルの称賛に軽く手を上げて答え、私は竜眼で霧の彼方の城を見た。より正確に言うのならば、城の中に幽閉されているファティマと村娘の姿を確認したのだ。
*
グロースグリア王国の居城は、巨大な灰色の石を隙間なく積み上げた圧倒的な質量を備えた城である。
城にいくつも聳える尖塔の一つの頂上の部屋に、バンパイアと比べれば暴風のような吐息を零す人間と、そよ風のような吐息を零す半ばバンパイアと化した人間とが閉じ込められていた。
ファティマと攫われたフラウパ村の少女の二人である。
ブランの父たるグロースグリア国王の牙を受けたファティマは、左の首筋に小指くらいの穴が二つぽっかりと開き、水死人のような顔色で天蓋付きの寝台に横たわっていた。
そのファティマの横たわる寝台のすぐ傍に、浚われた村娘が黄金と白金と象牙で出来た椅子を寄せて腰掛けていた。
黒髪を肩まで伸ばし、日に焼けて褐色に染まった肌と黒玉のような円らな瞳の少女であった。今年で十五歳になるリタだ。
「だいじょーぶ?」
「うう、あ、あたしはなんともありません。でも、でも、ファティマ様が、ファティマ様が、あまりにも不憫で」
「う~ん、流石に私も笑えないね~。バンパイアさんに血を吸われちゃうなんて、思いもよらなかったよ~。私はもう血を吸われちゃったし仕方無いけれど、リタちゃんは何とか無事に村に帰れるようにお話ししてみるよ~」
「そんな、私の事など構いませんから、ファティマ様こそ何としてもバンパイアになどならないように……」
「バンパイアになど、とはずいぶんな言い草ね。どこに耳があるのか分からないのだから、気を付けないといけないわ」
悲鳴にも近いリタの声を、音も無く扉を開いて入室した第三者の声が遮った。バンパイアらしく絨毯を踏む足は音を立てず、シャンデリアに灯された香料を含んだ蝋燭の灯りが、床に影を落とす事は無かった。
ファティマは血を吸われた影響か気だるげに、リタは怯えを含みながら入室者を見た。
鋼鉄の硬度を持った糸を吐くヨロイカイコの糸で編んだ灰色のローブを纏った、顔立ちにあどけなさを残した少女である。
さりげない挙措の一つ一つに品があり、生まれついての貴種とファティマとリタは初めて見た時から気付いていた。
「こんばんは、シエラさん」
にこり、と小さく笑んでファティマは入室者に歓迎の意を表した。自分の血を吸った忌むべきバンパイアの仲間が相手でも、こんな態度を取るあたりが実にファティマらしいと言える。
「こんばんは、ファティマ。加減はあまり良くないみたいね。私もそうだったからよく分かる。けれどその先に待っているのは人間だった時には想像する事も出来なかった法悦よ。
自分が文字通り生まれ変わった事を知る事が出来る。それは怖い事ではないの。とても素晴らしい事なの」
「う~ん、せっかくのお誘いだけれど、私はまだ人間でいたいかなあ。もうちょっと成長したいしね」
「そう、でもそれは陛下がお決めになられる事ね。既に牙を受けた貴女に拒絶する事は出来ない。陛下はお気に入りの侍女や女官にはお優しい方だから、バンパイアとなった暁には大事にしてくださるわ」
「だったら今の内から優しくして欲しいよ~」
「今はまだ人間だもの。それは無理な話よ」
「人間でもバンパイアでも女の子には優しくするのが紳士じゃないかなあ?」
本気で疑問を抱いている様子のファティマに、シエラはつい笑みが浮かび上がりそうになるのを堪えなければならなかった。
「バンパイア以外の種族への最大の優しさが、バンパイアへ成り上らせてあげる事なのよ」
「う~ん、それじゃあシエラさん、なんとかリタちゃんだけでもお家に帰してあげられないかなあ? 私はここで大人しくしておくから、リタちゃんは陽の当たる場所へ帰してあげてよ」
「ファティマ様!」
リタが悲痛な声を上げるのと同時に、シエラの眉間に小さな皺が刻まれたが、それはファティマとリタが認めるよりも早く消えた。
「それも無理な話。その子にはその子にやって貰う事があって連れてきたの。それとこれは伝えるべきか少し悩んだけれど、やはり伝える事にします。
つい先ほどブラン殿下がお一人でフラウパ村へと赴かれ、そして手傷を負ってお戻りになったわ。フラウパ村でネルネシアとドランという若者と戦ったようよ。ファティマ、貴女のお友達は貴女を救う事を諦めてはいないようね」
それから少し言うべきか悩む素振りを見せてから、シエラはこう言った。
「良いお友達を持ったわね」
ただ、命知らずではあるけれど、と心の中でつけ加えて。
「そっか、ネルちゃんとドランが。じゃあ、セリーも一緒かな。来てくれたんだ、ドラン。来ちゃうんだ、ネルちゃん……」
*
ドランとの戦いで手傷を負ったブランは、居城たるダークロアへと一目散に帰城していた。
城の中の私室へと戻り、人間の社会では再現不可能な贅を凝らされた城の中でも、王子の身分に相応しくより一層豪奢な私室に戻り、マントも腰帯のグリーフマリアもそのままにソファへと寝そべっている。
ぐい、と手にした黄金のグラスの中身を呷り、ブランは音を鳴らしてそれを一息に飲み干した。グラス同様黄金のピッチャーの中身が何であるかは、ブランの種族を考えれば言及するまでも無いだろう。
「断たれた首は繋げた。血管も骨も神経も肉も全て、元の通り繋がっている。しかしこの痛みはどうだ。まさに断たれた瞬間の痛みが今も続いている。
今一度言わねばなるまい。ドランよ、何と凄まじい剣を振るうのか。望んでも得られぬような強敵と王国最大最高の客人を迎える夜に出会うとは、これも創造主の手繰り寄せたる運命か」
「ブラン、偉大なるグロースグリア王国の王太子よ」
ブランは全身に計りしれぬ重圧が圧し掛かるのを感じた。厳密に言えば、それはブランの心理が肉体に影響を及ぼした為であり、実際にブランの全身に負荷が加えられたわけではない。
だがブランをしても心理の変化が肉体に及ぶ程の影響を与えるのが、声の主であった。
ブランは気配を探った。声は四方八方、全方向から掛けられたように聞こえ、相手の位置を把握するのにまるで役には立たなかった。
瞬き一つをする間に目的を果たし、ブランはソファから立ち上がると声の主の方へと進み出てから片膝を突いた。
「これは陛下、ご機嫌麗しゅう」
「麗しくは無いぞ、ブランよ。大事な跡取りを傷つけられたとあってはな」
白々しいな、とブランは心中で毒と言うには余りに薄い悪意を込めて零した。父が口にしたほどに自分を心配などしていない事は、物心が着いた頃から知っている。
「面を上げよ、ブラン。他の者がおらぬ時は、余とお前は主従では無く親子として振る舞おうぞ」
「お言葉、胸に沁みまする」
ブランは三千年の付き合いになる実の父親、グロースグリア第一千三百代当主ジオール・ゼガリオ・グロースグリアを見上げた。
ブラン自身も厚みと高さを備えた見事な体躯の主だが、父は更に頭一つ背が高い。腕はまるで太い木の根を何本も束ねたように逞しく、黒いケープを押し上げる胸板の厚みときたら、拳闘を生業にする者が思いきり殴りつけてもわずかも揺れそうにない。
後ろに撫でつけた髪こそすっかり白いものに支配されていたが、岩石でも噛み砕けそうながっしりとした輪郭の顎、猛禽の嘴を思わせる鼻、刃で斬りつけた傷痕のような目には、バジリスクの石化の魔眼も及ばぬような凶悪な光が渦を巻いている。
その全身から噴きつける鬼気の凄まじさは、血を分けた実子たるブランをして氷の体温がさらに下がるのを実感させられる。
我、未だ父に及ばず。顔を合わせる度にこれを思い知らされると、父を超えんとする意欲の炎も萎えそうになる。
「ブランよ。お前の首を一度は断った男、どう見る?」
「父上が気になされるような事ではございません。確かに人間が私の首を断つなど、千年に一度あるか無いかの事ではありましたが、いずれも私が勝利をおさめて参りました。これまでも、これからもでございます。
人間めに首を断たれた不名誉は自らの手で雪いでみせましょう。父上はどうぞ客人の歓待の事だけをお考えくださいませ。客人の事を考えれば、国王たる父上以上にもてなすに相応しい方はおりませぬ」
「それが妥当であろうな。曲がりなりにもあれを相手にできるのは余、そしてお前をおいて他におらぬ。我が王国の人材不足を嘆かねばならぬな。ブランよ、では小賢しい人間めらの処分は、お前に一任するぞ。よいな?」
言葉だけを聞けば確認こそしているが、実際には肯定以外の返事を許さぬ支配者の問いであった。ジオールの被支配者という意味では、ブランもただの一兵卒もジオールにとっては等しい存在なのであろう。
「は、お言葉のままに」
「では戦の礼に倣い、儀を執り行うとしよう。ブランよ」
この父の言葉にも、は、と短く肯定の言葉を返してから、ブランは思念でファティマ達のもとを訪れていたシエラを呼び寄せた。ほどなくして忠実なる元人間の臣下は、ジオールとブランらの前に姿を現した。
膝を突いて床に敷かれた絨毯に視線を落とす臣下に対し、ジオールは椅子に腰かけたままであったが、ブランはシエラの目の前に立ち、絶対の支配者としての威厳を纏いながら命令を下した。
「シエラよ、この度、陛下が御出陣あそばされるにあたり、伝統に倣って贄狩りの儀を執り行う」
「はっ」
「ついては村より連れて参ったリタなる娘を使う」
ブランへの返事は遅れなかったとシエラは思いたかった。かすかに体が強張ったようにも思えるが、目の前の主がそれを看破していない事を祈った――誰に? 神などもう信じてはいないというのに。
それを見抜いたように次に掛けられたブランの声は残酷な愉悦に笑っていた。
「シエラよ、お前も儀に参ぜよ。お前を高貴なる夜の国の住人へと変えた私が命じる」
「……は、お言葉の通りに」
くっと短くブランの咽喉の奥で、笑みが零れる。
「全霊を尽くしてお前がリタめの血を吸え。贄狩りの儀は、贄の血を吸う事によって終わりを迎えるのだから」
「は、必ずや私めが」
その返事を皮きりにブランから退去を許されて、シエラは礼を失さぬ程度に足早にブランの私室を辞した。
シエラの背中が扉の向こうへ消えるのを待ってから、非情極まりない命令を下したブランは背後を振り返った。その口から出た言葉は、つい先ほど冷酷な言葉を吐いたにしては似つかわしくないものであった。
「む、やれやれ我が父ながら神出鬼没な御方だ」
姿を求めた父はそこには居なかった。ブランになんの気配も感じさせずに、この部屋から外出していたらしい。
「しかも抜け目ない」
テーブルの上には聖女の処女血のワインを注いだピッチャーは、影も形も無かった。部屋を出るついでに持っていたらしかった。
切迫した状況を知って知らずか、どこか緊張感に欠ける吸血親子であった。
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第三十二話
尖塔の頂上の部屋に幽閉されていたリタは、突如シエラに連れられてファティマと引き離され、何が何やら分からぬまま城門にまで連れてこられたところで解放された。
リタの心中を不安の色で塗り潰したのは、半バンパイアと化したファティマを一人、吸血鬼達の巣窟に残していく事もそうだが、これまであたたかな態度を見せていたシエラが酷く思いつめた表情をしていた事。
そして城門で解放された時に、シエラ以外にも何人かの完全武装した高位の騎士と思しき者達の姿があり、彼らが何か自分を不愉快な視線で見ている事だった。
「あ、あのシエラさん」
突如自分だけが連れだされた事に、どうしようもなく嫌な予感を掻き立てられて、リタは内心穏やかではいられなかった。その様子が周囲のバンパイアの騎士達には面白く、そしてシエラにはどうしようもなく哀れに映っていた。
「このまま真っ直ぐ行けば貴女の村に帰れるわ。ファティマを帰すわけには行かないけれど、貴女を城の外に出せと命令が出たわ。お行きなさい」
「でも、でも、ファティマ様を一人置いていくなんて」
「こんな時にでもあの娘の心配をするのね。貴女もファティマも優しい娘だわ。ファティマのお友達がファティマを助けに来ていると言ったのを覚えているかしら?
彼らと合流して貴女がこの城で見聞きしたことを伝えれば、少しは彼らの助けとなるでしょう。
行くのなら早く。やはり貴女を解き放つのは無しだ、と命令が覆されるかもしれないのよ」
リタは切実な響きで諭すシエラの言葉にそれでもまだ逡巡する素振りを見せたが、自分がここに残っても出来る事はほとんど無いと理解するだけの聡明さと、何が潜んでいるとも分からぬ白い世界を行く勇気を併せ持っていた。
リタはシエラの瞳を正面から見つめ、力強く頷いた。決意に満ちたちっぽけな少女の、しかし何と崇高で凛々しく見える事か。
シエラはふとバンパイアと化した我が身と心が、目の前の少女と比べて一体何が秀でているのか、と疑問を抱いた。
思考の海に生じた疑問の泡はすぐさま消えたが、バンパイアと化した事へ疑問を抱いたのは、ブランに血を吸われてから初めての事だった。
「分かりました。あたしはあたしに出来る事をします。あの、こんな事を頼むのはおかしいって分かってますけど、ファティマ様をよろしくお願いします」
「……ええ、言われるまでも無く大事にしますとも。あの娘は国王陛下の牙を受けたのよ」
「出来れば、バンパイアにはしない方向で大事にしてくださると、とても嬉しいのですけれど……」
「そればかりは無理よ。陛下が御意志を変えない限りはね。そして陛下が御意志を変える事は無いでしょう。もう、行きなさい」
「はい、その、お世話になりました」
言うべきか少し迷ってから結局言う事にし、リタはシエラに頭を一つ下げてからくるりと踵を返し、白い霧ばかりがたゆたう未知の世界へと走り出した。
一刻も早くファティマを救おうとしている人達と出会う為に。少しでも早くあの優しいファティマを、バンパイアへと変えられるという理不尽な運命から救ってもらう為に。
背を向けた少女が白い世界に飲まれ、その後ろ姿が見えなくなっても、シエラはその場から動こうとはせずに、じっとリタの走り去っていった方向を見つめ続けた。
*
リタは体力と息の続く限り走り続けた。体中が悲鳴を上げ始めても、それを無視してただただ走り続けた。靴の中の脚の感覚はすぐに無くなった。皮が破れて血に濡れていてもおかしくは無い。
それでも走り続けるのは、ひとえに血を吸われてもなお自分の事を案じ続けてくれたファティマを救いたいという一念と、先の見えない闇にも等しい霧の向こうに救いの手が伸ばされているかもしれないという、希望というにはあまりに儚い希望の為であった。
四方がまるで見えぬ霧の中を走っていると、いつの間にか森の中に入り込んでいたようで、足元はリタの足を捕らえようという森の悪意の表れのように起伏し、太い木の根がうねくっている。
「はあ、は、はあ……ファティマ、様、あた……あたしが必ず、お助けします、から。あ!?」
悪路と言えばこれ以上ない悪路を行くリタの足元に、鏃から矢羽根に至るまでが紫色の金属で出来た一本の矢が突き立っていた。
風を切る音も無く飛来した矢はリタの足を貫く事は無かったが、リタの足を止めるのに十分すぎる役目を果たしていた。
はっとリタは背後を振り返った。矢の飛んできた方向が分かったわけではない。ただそこからなにか背筋を凍らせる気配が放たれたのである。
霧と木立の向こうに、馬から馬上の人影に至るまでが紫色の甲冑に包まれた騎士の姿があった。
あの城門の所に居た騎士の一人だ、とリタは悟り更にもう一つ理解した。
紫色の騎士とその他の騎士達は、自分をまるで兎か鹿のように残酷に、そして楽しみながら狩り立てようとしているのだと。
シエラが城門で別れる時にあれほど沈痛な顔と声をしていたのは、これを知っていたからか。これを知っていた上で自分を解放したのか。知った上で希望を抱くような言葉を口にしたのか。
裏切られた怒りと悲しみとが燎原の火の如く心の中で燃え広がる中、それでもリタは再び走り出す。
少しでも足を止めたらそれだけ自分の命に死が近づいてくるのだと、リタは理屈ではなく本能で理解した。
「ふっ、逃げろ逃げろ。逃げるお前を狩り立てるのが贄狩りの儀の醍醐味よ。逃げるお前の血を吸い、首と四肢をもいで心臓を切り開き、我らの神に捧げねばならぬ。そおれ、もう一撃くれてやろう、まだだ、まだ当たるなよ!!」
言うや否やブラスデンは鞍に括りつけた矢筒から矢を掴み取り、淀みない動作で弓弦に番えて、ぴたりとまるで糸で繋がっているかのように正確にリタの背中に鏃を向けた。
当たるなと言いつつもこの騎士の脳裏には、自分が放った矢で四肢を地面に縫い付けられ、血に塗れて泣き叫びながら命乞いをするリタの姿が鮮明に描かれて、弱者を理不尽に甚振る強者と狂人の愉悦とに溺れているのだった。
およそ騎士と名乗るのにこれ以上ないほど似つかわしくない、歪んだ人格の主であった。
「そおれ、まずは左足からだ!」
弓弦から放たれた紫色の魔性の矢は、再びひょう、と風を貫く音を立てて飛翔し、ブラスデンの宣告通り正確無比にリタの左足のふくらはぎを狙ったものだった。
足場の悪さから時折つまずきかけ、右に左にと揺れるリタをはたして如何なる魔技によるものか、ブラスデンの矢はそれ自体が飛翔生物の如く木々の合間を擦りぬけていく。
リタのか細いが少女特有の柔らかさを持った肉を貫くまで、後ほんのわずかとブラスデンが舌舐めずりをした時、あらぬ方向から吹き荒れた灰色の風が矢と衝突し、四散した風がリタの小さな体を吹き飛ばして、木立の脇にあった崖の下へと落としてしまった。
「むう、あれはシエラ、貴様の仕業か!?」
ブラスデンは灰色の風が吹き荒れてきた方向へと視線を転じた。最も遅れて城門を発ったにも拘らず、シエラは先頭をひた走っていたブラスデンに別方向から追いついていたのである。
白い霧の中にも濃い緑色の柱の如く浮かびあがる巨木の合間に、灰風のシエラの姿があった。ブラスデンから向けられる殺意にも髪の毛一筋ほども動揺した様子はない。それが余計にブラスデンの怒りに火を注いだ。
「シエラ、貴様、やはり情に絆されたか!」
細い木ならそのままへし折ってしまいそうな怒号であった。ブラスデンの殺意と怒りを含んだ怒号は、それを浴びた木の枝や葉を
「いいえ、先ほどの灰風はリタを狙っての事。折悪しくブラスデン卿の矢と相撃つ事となってしまいましたが、私にそれ以外の意図はございません。どうして殿下に至高の種族へとお導き頂いた身で、殿下のご命令に逆らえましょうか」
「ぬう、しかし、今の風は」
「どうぞ儀が終わりました暁には、卿の気がお済みになるまでお調べくださいませ。私は逃げも隠れも致しませぬ。それよりも早くリタの後を追われるのが先決かと。他の者達はそうしておりますれば」
これもまたシエラの言う通りであった。ブラスデンやシエラとはまた別の方向から、ゴルコースをはじめとした他の騎士達が愛馬に鞭を打ち、森の中を駆け抜けていくではないか。
ここでシエラと問答を繰り広げ、徒に時を浪費すれば贄狩りの儀で贄の血を一番に吸う名誉を得られなくなる。ブラスデンの葛藤が決着を付ける前に、シエラの方が一方的に話を切り上げた。
まるで二つの名の如く灰色の風へと全身を変え、白い霧の中に消えていったのである。
「では私はこれにて」
「ええい、待たんか! おのれ、殿下の眷属だからと調子に乗りおって」
憤激をぶつける先を見つけられず、ブラスデンは思いきり力を込めた握り拳を自分の右膝に叩きつけた。巨大な岩塊を戦鎚でぶっ叩いたような音が轟き、ブラスデンの馬が抗議するように低く嘶いた。
「おおう、これはすまんな。ここで手を拱けばそれこそ無駄足か」
どうやら愛馬には優しいらしい。
そしてこんな声が聞こえた。手綱を握り直し、シエラを追おうとした時、こんなつぶやきがブラスデンの耳に届いた。
「ふむ」
それがブラスデンが灰になる前に聞いた最後の声であった。
*
「う、痛たたた」
リタは全身に走る痛みに無理矢理意識を叩き起こされ、地面にうつ伏せで倒れ伏した体勢から随分苦労しながら体を起こした。
足や頬、首には小さな切り傷や青あざがいくつも出来上がり、服のあちこちも破れているし、土汚れや葉っぱが無数にひっついている。
頭上を見上げてみれば、驚くほどの高さと急勾配の崖から転がり落ちたらしかった。よくも骨が折れなかったと、自分でも驚くほどの崖だ。
体の下を見ても落下の衝撃を和らげてくれるようなものは何もない。たまたま枝にぶつかって衝撃が分散されたわけでも、なにか落ち場が積み重なっていたというわけでもないらしい。
リタは落下する直前に灰色の風が吹いて、落下の衝撃のほとんどを和らげてくれた事を知らない。
「行かなくちゃ、ファティマ様を助けなきゃ。だからこんな所で……」
リタは動くな、休めと訴える体の声を無視して痛む足を動かした。一歩進むごとにそのまま大の字になって寝ころびたくなるような痛みが全身に走り、リタの心と体を散々に痛めつける。
それでもファティマを救いたい一心と背後から迫りくる恐怖は、痛みよりもはるかに大きかったから、リタの足は牛の歩みではあったが動く事を止めなかった。
相変わらず四方は白い霧に包まれて碌に見えなかったが、背後から迫りくる蹄の音が聞こえてくるような気がして、リタの心は休む事が無かった。
「はあ、はあ、はあ」
という自分の声さえも煩わしい。心臓は今にも破裂しそうで、鼓膜もその鼓動で破けてしまいそうで、よくも死なないものだとリタは自分の頑丈さに感嘆さえしていた。
だがその感嘆も前方に立ちふさがる三つの騎馬の影を見た時に消え去った。白い霧よりもなお白い甲冑の騎士と、正反対に艶のある黒い甲冑の騎士、それに灰色の甲冑の騎士である。
先ほどの紫色の騎士と比べれば露骨な殺意などは無いが、それでも視界に入れただけでこちらの全身を強張らせる冷気を放っている。高位の不死者の放つ負の雰囲気と、霊的な格の違いによるものだ。
霊的耐性に乏しい者ならば、この雰囲気に当てられただけでも昏倒してしまう。
「や、やだ。いやだよぉ、私、まだしたい事もしていない事も、たくさん、たくさ、あるのに。死にたく、死にたくないよ、う、うううう……」
どんな幸運に恵まれたとしても自分が助かる道は無い。そう理解できてしまって、リタの中でこれまで精神の均衡を保っていた緊張の糸は呆気なく切れてしまった。
そうなればこれまでなんとか封じ込めていた恐怖が堰を破って溢れ、眼からは大粒の涙が絶え間なく零れはじめる。
いや、いや、とそれしか言葉を知らぬ子供のように繰り返しながら、リタは一歩も動く事が出来ずにその場に腰砕けになり、へなへなと崩れ落ちた。
奇妙なのは三人の騎士達がいっかな動きを見せずにいる事だった。リタの泣きじゃくる姿を見て悦に入っているのとは違うと、この時のリタには気付く事が出来なかった。
リタが何かおかしいと気付く事が出来たのは、あろうことか騎士達が全員颯爽と馬から降り、白い甲冑の騎士ゴルコースが限りない畏怖と畏敬を込めてこう口にしてからだった。
「ようこそ我がグロースグリア王国へ。最も尊ぶべき偉大なる血を受け継ぐ御方。我らが主も首を長くして御身のご入来をお待ち申し上げておりました」
リタは三人の視線と意識とが自分ではなく、自分の背後に余すことなく注がれている事にようやく気付いた。
それと同時に、どうして今まで気づかなかったのが不思議なほどの、まるで雲の上にまで届き、地平線の彼方まで伸びる山脈のような、あるいはどんなに手を伸ばして辿り着けない夜の空の彼方のような、途方も無い何かが自分の背後に居ることにも気付く。
どうして気付けなかったのか。それはあまりにも巨大すぎたからかもしれない。大海に降り注ぐ一滴の雨には、海の広さは理解できないだろう。舞い散る砂塵の一粒に、果ての見えない大地の広さは理解できないだろう。
世界の一部と錯覚するような巨大な気配の主が、ゴルコースへ答えた。それは金の弦が張られた琴を天上の、あるいは地獄の楽師がつま弾いたかの如く神韻茫々たる女の声音であった。
「見せかけばかりの礼節など不要。妾はそなたらによって国と民を滅ぼされてなお、一人滅びを免れて生き恥を晒す愚か者」
「されども貴女様が我らが主と同じく始祖六家のお一人である事は変わりありませぬ。ヴァルキュリオス王国第九百九十九代国王ドラミナ・ペイオリール・ヴァルキュリオス陛下」
「その国を滅ぼしたグロースグリアの騎士が口にすれば、嫌みにしかならぬ」
リタは抑え難い衝動に従い、腰砕けのまま背後を振り返った。振り返った途端、瞳が映し出したのはリタがこれまで見た事の無い、人ならぬ者のこの世の物と思えぬ超絶の美の具現。
数千数万の詩人が喩える言葉を紡ごうとし絶望に懊悩するしかない鼻梁、吸いつく事が出来たなら魂を捧げても良いと万人が焦がれる鮮やかな紅の唇、世界の始まりに燃えさかっていたという始原の炎は、この瞳と同じ赤色に燃えているのかもしれない。
星の無い夜空を思わせる黒い布地のドレスは、胸元と尻で大きく膨らみ腰では驚くほど細く締められている。
繊細な力加減で腰に手を回さなければ、呆気なく折れしまいそうな可憐さとそれでいて男の心を魅了してやまない妖艶さとが同時に存在している。
首に巻かれた赤いリボンには瞳ほどもある碧いダイヤモンドがあしらわれ、主の美貌に負けじと、しかしそれでも遠く及ばぬながらも眩い輝きを放っていた。
腰に届くほど長く伸ばされた髪は、うっすらと紫の色を帯びた銀。
リタの瞳に奇異に映ったのは、時さえも恍惚と見惚れて凍りついてしまいそうな美貌の左半顔が、ドレスと同じ黒い布地のヴェールで隠されている事だった。
ヴェールは黄金のリボンで結ばれていた。染色した絹糸ではなく、黄金そのものを繊維状に加工して編んだリボンである。
リタは知らぬ事であったが、この顔の半分を隠した人ならぬ美女こそは、グロースグリア王国が持てる力の全てを以て迎え撃たんとしている客人、かつてグロースグリアに滅ぼされた国の最後の吸血鬼女王であった。
不意にドラミナが腰をかがめ、リタの右手を左手で取って立ち上がらせた。リタへの気遣いが端々に窺える優しい動作だった。
触れられた相手がたとえ無機物であっても蕩けてしまいそうな繊手に、リタは触れる事は罪ではないかとさえ思った。
「罪の無い者を追いまわし、尊厳を奪い、命さえも奪う。相変わらず忌まわしく野蛮な儀式を続けているのか」
ドラミナの声には嘘偽りの無い義憤が込められていた。ゴルコースと他の二人の騎士に言葉は無かった。
彼らは目の前の自分達の崇める主と同列に語られる存在を前にして、同族であるからこそ分かる格の違いを全身が感じ取り、心身を縛られていたのである。
「少女よ、下がっていなさい。そして目を閉じ、耳も塞ぎなさい。これから先は、そなたのような女子が知るべきものではない故に」
それはこれから自らが引き起こす惨劇をリタに見せまいとする心遣いであったものか。
リタを自らの背後へと導き、ドラミナは手を離した。不死者の例に漏れず血の通わぬ死人のように冷たい手であった。けれど、それでも優しい手だとリタには思えた。
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第三十三話
リタはドラミナの言葉に素直に従った。
リタが硬く眼を閉じ、両手で耳を塞ぐのを見て、ドラミナは小さく微笑み、そのか細い四肢やよく陽に焼けた頬や額に小さな傷がいくつも出来ているのを見て、たちまちの内に処女雪の色と肌理細やかさ備えた肌に怒りの朱を差した。
「かような罪なき娘を、まがりなりにも騎士を名乗る者らが束になって追いまわし狩り立てるとは、なんたる恥知らず。
抗う術もなく手に武器を持つでもなく、ただ逃げることしか出来ぬ者を嬲って悦を得るなど、グロースグリアの騎士は騎士に非ず。騎士の名を騙る紛い者よ」
ドラミナは無手。黒い長手袋に覆われた指は、生物はおろか鉱石や水、風、月光でさえ恍惚と蕩けるような繊細な造形に違いない。
ずい、と三人の中から一歩出たのは、灰色の騎士であった。槍や剣の類を身に帯びてはいないし、弓矢や斧の類も持ち合わせてはいなかったが、その代わりに腰に何本もの太い鎖を巻いていた。
左右の腰から垂れている銀色の鎖の両端を掴み、一息に灰色の騎士が鎖を解いた。いかなる魔技が働いたものか、解けていく鎖は一切音を立てる事も無く、灰騎士の両拳からはそれぞれ三本ずつ銀色の大蛇のような鎖が長々と伸びる。
大船の錨に用いる様な太く重い鎖だ。一本持たされただけでも、屈強な男が重量に耐えきれず腰を落としてしまうような品である。
「偉大なる始祖の血を継ぐ御方に技を振るう栄誉と大罪を得られた事を、始祖と創造神に感謝せずにはおられません。まずは某、ガロックフォードがお相手仕りましょうぞ」
月下に咲き誇る花々を散らすのに似た罪悪感を抱きながら、ガロックフォードは旋風の如く両腕を振り回した。
途端にぼっと鎖が風を抉り抜く音が絶え間なく連続し、ガロックフォードを中心とした銀色の鎖の竜巻が生じる。
「夏に涼を得るには良い技であろうな」
ドラミナの口元に浮かんだ幽かな笑みのなんたる美しさ。ガロックフォードはこの唇に血を吸われたい、と心の底から願い、そして森羅万象が同意した事だろう。
ドラミナの御足が音も無く三歩進んだ。ガロックフォードの絶え間なく回されていた両腕が、ドラミナの身体が竜巻の中に踏み入った瞬間に止まった。
ガロックフォードの半分ほどの太さしかないドラミナの細腕が、音と比して十倍する速さで振り回されていた銀鎖を三本ずつまとめて掴み止めたのだ。
「おお!?」
たとえ、罪なき少女に振りかかった理不尽に怒る心を持っていても、たおやかなる艶姿の美女であろうとも、ドラミナが夜と月光の国の子――バンパイアの女王種である事は月の美しさのように揺るぎない事実。
ゆえに、銀鎖を掴み止めたドラミナの腕が左右に振られ、銀鎖の撓みを無視して左右に振られた銀鎖がそれを握るガロックフォードの両腕ごと引き千切られたとしても、それは当たり前の事なのであった。
甲冑もその下の鎖帷子も、それらに施された魔法の護りもまるで役目を果たさず、根元から引き千切られて、ガロックフォードは両腕の付け根から黒血をばしゃばしゃと噴き出した。
月夜に愛された女王は無慈悲であった。
ドラミナの細腕がそれぞれ引かれて空中で交差すると、銀鎖を未だ握っていたガロックフォードの腕が本来の持ち主の頭部へと叩きつけられたのである。
ガロックフォードをはるかに上回るドラミナの膂力によって振り回された腕は、銀鎖と共にガロックフォードの兜を頭部ごと腐った果実のように砕いたばかりか、そのまま灰色の騎士を縦に両断してしまう。
「次の者、参るがよい」
「しからばこのエルネッサが」
黒い甲冑の騎士である。ほう、とドラミナの眉根が動いた。
どうすれば同じ線をキャンバスに描けるものかと、世の絵師が懊悩し夜も眠れなくなるような美眉を動かしたのは、エルネッサの声がドラミナとさして年の変わらぬ女の声だったからだ。
ドラミナへと放たれる闘気の質も量も、他の騎士達と比して劣る所は無い。エルネッサの両手に光輝く刃が握られていた。二振りの両刃の長剣だ。
根元から切っ先に至るまでの鈍い銀の輝きは、いかな名工の鎧兜であろうと二つに断つ切れ味を示している。
「では、参りまする」
「良い。許す」
ドラミナの言葉が言い終えられるのにわずかに遅れて、エルネッサの足元が爆発した。
エルネッサの足が踏み込み、その圧によって地面が爆ぜたのである。それほどまでに凄まじい踏み込みとそれを可能とする強靭な筋力の仕業だ。
黒い甲冑は砲弾と化したドラミナに正面から斬りかかった。左右の長剣が獲物に襲い掛かる猛禽類の翼の如く広げられ、空中に銀色の軌跡を鮮やかに描く。
紫電を散らすが如き斬撃は、まったく同時にドラミナの細首と蜂腰を両断せんと迸る。
地面と平行に二筋描かれた長剣の軌跡が、狙い過たずドラミナの身体を三つに分断し、エルネッサは手応えの無さから、それはドラミナが背後に高速で移動した事によって、目が錯覚した残像だと理解した瞬間、長剣を振り切った体勢のまま後方に跳躍した。
実際には跳躍しようとしたと表現すべきであった。後ろに下がって長剣をやり過ごしたドラミナが、下がった時よりもさらに速い速度で前へと進み出るや、エルネッサの足が大地から離れるよりも早く、その心臓を甲冑ごと右手で貫いたのである。
二の腕の半ばから指先に至るまで黒い長手袋に包まれたドラミナの右手は、エルネッサの心臓を握り締め、心臓から伸びる血管はまるで最初からそうであったかのように滑らかな切断面を覗かせている。
胸を貫かれた瞬間も、そして今も、エルネッサは痛みを感じてはおらず、また胸の貫通孔から血が溢れる事も無かった。
肘まで埋めたエルネッサの胸から、ドラミナは一息に右手を引きぬいた。そんな動作でさえ、計算し尽くされた舞踊の中の一動作であるかのように優雅なのは、ドラミナであるからかそれともバンパイアクイーンという種の特性なのか。
手には変わらずエルネッサの心臓が握られていたが、脈を打たず血液を零す事も無い心臓という品を手にしてさえ、ドラミナの右手の美しさが損なわれる事は無かった。
かえって心臓という生々しく吐き気を催す品が手の中にある事で、美醜の黄金律の対比が成され、ドラミナの手の美しさを際立たせているようでさえある。
「薄皮一枚断てぬとは……無念」
そう呟いてからエルネッサは膝から崩れ、大地に膝を突くよりも早く灰になってがらんどうの甲冑と二振りの長剣とが地面に音を立てて落下する。
この時、ドラミナは崩れ落ちるエルネッサの顔を、兜の隙間から見る事が出来た。滅びの手に掴まれて灰へと変わりゆく女吸血鬼の口元に浮かんでいたのは、晴れやかとさえ見える笑みであった。
たとえ足元にさえ及ぶ事はなくとも、エルネッサは持てる全力を賭して戦いを挑んだのだ。
その結果が敗北による滅びであろうと、それに異議を唱える心をエルネッサはほんのわずかも持ってはいなかったのだ。
右手の中で灰と変わるエルネッサの心臓を目にしながら、ドラミナは嘆きを隠さずに口にした。
「この潔さをなぜこのような形でしか表す事が出来ぬ? 滅びを厭わず戦いに挑む潔さがあるのならば、たとえ滅びを与えられようとも主君の非道を止めようとは思わなんだか?」
「主君の非道を身命を賭して諌めるのが忠義ならば、主君にどこまでも従い、滅びを迎えた暁には、共に冥府の奥底にある地獄に落ちるのもまた忠義なのでございます、陛下」
「前者は理解するが後者は理解に苦しむ。その忠義は罪無き者の死を無限に許容する忠義ではないか。
武器を手に持った事さえ無いような幼子も、天寿を待つのみの老人も構わず楽しみの為に殺すジオールなどという主君を許すという事。
主君が罪を犯すのを許容し、手を血で濡らすのを許容し、無意味に命が散るのを許容する忠義など、妾は臣民に求めた事は一度も無かった。
妾が道を誤まり、その先に行かんとする時にはそれを指摘し、道を正す事、時には父のように、兄のように、師のように、そして友のように居てくれる事こそ妾は望んだ」
「陛下のご声望のいと高き事は、貴女様がまだ至尊の御座たるヴァルキュリオス王家の王位を継ぐ前、王女であらせられた頃より遠く我らの王国にも届いておりました。
貴女様が王位を継がれた暁には、ヴァルキュリオスはかつてない繁栄の時を迎え、はるかな古に存在したある国の如く、すべての大陸にヴァルキュリオスの紋章と旗とが掲げられ、すべての種族が貴女様の御威津によって額ずくだろうと。
しかしながら、貴女様は忠義を捧げられるお立場とお生れの方にございます。
だからこそ我らのような忠義を捧げる者の心を真に理解する事は、灰となってもなおありますまい。そしてそれでよいのです。
始祖の血を受け継ぐ御方が、始祖と創造神以外の何者に、たとえそれが善き神々であれ、悪しき神々であれ忠義を違うなどあってはならぬのですから」
「自らの種族を誇るのは良い。種の源流たる御始祖と創造神への畏敬の念を抱くのはもっと良い。
されどだからといって我ら以外の種族を、そして生命を我らより劣ると見下し侮蔑するのとは話が別。このような贄狩りの儀を執り行うなどもっての外であり、平然と行う事こそジオールめの性分が真に下劣なる証左。
よって妾は臣民を奪われた怨恨のみならず、お前達とお前達の主君を許す事は出来ぬ」
「おお、やはり風の噂は真にございました。代々のヴァルキュリオスの血はバンパイアでありながら温かい、まるで人間のようにと揶揄されていたのを御存知でありましょうや。
それはまだ良いのです。ヴァルキュリオス王家は始祖の六人の御子の中で最も心優しかったというヴァルキュリオス様の御血統なれば、同胞以外に慈愛を示される事もありましょう。
しかしながら当代国王ドラミナ陛下に至っては、人間という種族を愛してさえいるのではと実しやかに宮廷で囁かれておりました。どうやらそれは事実であったようですな。
陛下、その一点、我らにとっても最も美味なる血を持つ人間を慈しまれるその御心こそが、バンパイアの王族として陛下が致命的に相応しからぬ点でございますぞ」
ゴルコースは言葉を紡ぎ間に右手に腰の長剣を、そして左手には背に回していた盾を構えていた。まさに騎士の理想像とでも言うべき堂に入った構えを前にして、しかしドラミナの口から零れ落ちたのは闘争に相応しからぬ悲しみであった。
「だから我が国を滅ぼしたのか? 妾が人間を他の者達のように食料と見られなかったから? バンパイア以外の種族を慈しんだから、だから、お前達は我が民を殺し、我が国の大地を蹂躙し、空を黒煙で覆い、戦火で焼き尽くしたのか?」
「左様にございます。我らが主君は貴女様のその御心を脆弱とお思いになり、種族の恥晒し、恥晒しは生かしてはおけぬとご決断成されたのですから」
ふ、とゴルコースは手の中の盾と長剣が百倍も重くなったように感じられた。
自身の言葉を耳にしたドラミナが、不可視の悲しみのドレスに変わり、赫々たる怒りのドレスへと色直ししたのだと、一瞬の間を置いてから理解する。
ドラミナはそれでも怒りに我を忘れたわけでは無いようで、背後に庇ったリタとその周囲には一切怒気を撒き散らしてはいなかった。
「これ以上の問答は不要にございましょう。……グロースグリア王国、死彩騎士団が一、ゴルコース、御身を弑し奉らん」
「よかろう。これ以上はお前ではなくジオールめに問う。我が手に掛り灰に変わる寸前のあ奴にな」
ゴルコースのグリーブが地を蹴った。大地を疾駆するいかな四足の獣よりも速く駆け、長剣の間合いからわずかに外れている所でゴルコースは左手の盾で、前面をカバーした。
これでドラミナの視界からゴルコースの長剣は消え、切っ先の行方や突きのタイミングを視認する事は出来なくなる。
ゴルコースも自ら相手の姿を隠す事になるが、彼の携える盾には一対の眼が刻印されており、ゴルコースはこの盾の眼と視界を共有する秘術を体得していた。
相手の視界を塞いで切っ先を隠し、必殺の一撃を放つかあるいは盾による殴打を行う、ゴルコースが一騎討ちで最も得意とする戦法であった。
まさかそれが前方に掲げた盾を右手一本で掴み取られるとは、いかな歴戦の勇士にも想像できなかっただろう。
自分の十倍以上の背丈を誇る巨人族の渾身の一撃を受けて、傷一つ付かなかった魔法の盾が、ドラミナの柔らかな手に掴み取られるや途端に蜘蛛の巣のような罅が広がり、あっという間もなく砕けてしまったのである。
だがゴルコースは盾には拘泥しなかった。砕けた以上は拘っても仕方が無いというのもあったし、まだ右手には魔法銀製の長剣が残されていた。
構わずゴルコースは長剣を突きだした。狙いはドラミナの豊かなふくらみの奥にある心臓。全身はこれまでの修練に従って最速の速さで最短の軌跡を描いて長剣を動かす。
朋輩の騎士達の誰であっても受けられまいと
だからドラミナの五指を揃えて伸ばした左手の一閃で、ミスリルの長剣が半ばから断たれても、ゴルコースの心に驚きは無かった。
その代わり長剣の断面が磨き抜かれた鏡のように輝いている事に、ゴルコースはこれぞバンパイアクイーンの技と心の底から感嘆さえしていた。
ドラミナが返す刃ならぬ返す手刀で自分の首を刎ねた瞬間も、ゴルコースの感嘆の念が翳る事は無かった。
首無しの胴体はそのままどうっと仰向けに倒れ込み、やや遅れて宙を舞ったゴルコースの首もびちゃっという水音と共に地面に落ちて転がる。
首を断たれたくらいでは滅びぬバンパイアも、同族の、しかもはるか格上が相手とあってはその不死性も機能せず、見る間にゴルコースの肉体は灰へと崩れていく。
頬肉が灰になり、顎や頬骨が露わになりながら、ゴルコースは言葉を紡いだ。兜の中で耳が落ち、瞼が落ち、舌が付け根から灰になっても口は動き続けた。
「ドラミナ陛下、我らが王が、そして他の方々がヴァルキュリオス滅亡に賛同なされたのは……なにも……御身の慈しみの心ばかりが原因ではございません。それを理由とするのは、我らの……主だけで、ござい、ましょう。
ヴァルキュリオスを滅ぼさんと画策したる真の理由は……理由は、二つ、ございまし、た。ひとつ、は……あ、あなた、様があまりにも強すぎたからに……ございまする。
ほん、本来、同格たる始祖六家の方々の中にあって、貴女様だけは、始祖の再来と、御力を目にした誰もが思うほどにお強く、なに、よりも、お美しすぎた。
そして、そ、し、て、も、もう一つのりゆ、理由……は……し……」
三人の騎士が滅び、周囲の滅びの光景と合わせて五千以上の同胞の命を奪った虚しさが、ドラミナの心の内に乾いた風を吹かせたが、それもすぐになによりも熱く冷たく燃える復讐と怨恨の炎が忘れさせた。
ドラミナは小さく溜息を吐いた。耳にした誰もが耳を塞いで聞かなかった事にしようと、無駄な努力を重ねてしまうような、どこまでも重く疲れ切った溜息であった。
悲しみと復讐と疲れと、そして孤独と。はたしてこのバンパイアクイーンに救いの時が訪れる事があるのだろうか?
溜息を吐き、瞼を閉じてしばし、ドラミナはゴルコース達が姿を見せたのとは別の方角に目をやった。
ゴルコース達に対するのと比べると、はるかに穏やかな視線である。
「この森に放たれた死彩騎士団とやらの騎士達の数は、五十を数えた。この辺りにも三十を超す者達が馬を走らせていたが、その全てを滅ぼしたのはそなかたな?」
原型を留めていない装甲馬車の影からすっと水が滲むように姿を見せたのは、陽に焼けた黒髪と青い瞳を持った、まあまあな顔立ちの十代後半と思しい少年――かつては神々さえ恐れ戦いた力の持ち主にして、あらゆる世界、あらゆる次元に棲息する全竜族の頂点に君臨したさる竜の転生者ドランであった。
「ふむん、御明察。私はドランという。はじめまして」
と言って小さく頭を下げて挨拶をするのに、ドラミナはくすりと小さく笑う。
周囲の光景と先ほどまでのやり取りを目撃していただろうにもかかわらず、ごく普通の初対面の相手に対する挨拶をするドランが、奇妙に愉快だったのである。
ドラミナからは先ほどまでの闘争の気配は完全に心身から消え去り、その凄まじい美貌を別とすれば穏やかな雰囲気の貴婦人としか見えない。
「ほう、妾と名前が似ている。これも何かの縁かな? 妾はドラミナ・ペイオリール・ヴァルキュリオスと申す者。故あってグロースグリア王国とは敵対しているバンパイアよ」
「これは御丁寧に。ドランとドラミナ、半分は同じか、ふむふむ。ところで、貴女が背中に庇っておられる女の子は、リタという名前ではないかな? リタであるのなら、私はその娘を救う為にここまで来たので、一緒に連れていきたいのだけれど」
「おお、そういえば先ほどリタと呼ばれていたかな。そういう事であるのなら、そなたに預ける方が妾の手元に置くよりも良いでしょう。人間ならばバンパイアよりも同じ人間の傍にいる方が遥かに安心できるでしょうから」
いくらか自虐的に口にするドラミナに、ドランは何を思ったのかふむんと呟いた。セリナが傍に居たら、なにか考えている時のふむんだな、と短いが濃い付き合いの経験から理解しただろう。
「待たせましたね、リタ。そなたに眼を閉じて貰っている間に色々とあって、取り敢えず朗報が一つありますよ」
柔らかな声音で告げるドラミナの視線を追ったリタの眼に、軽く左手を上げているドランの姿が見えた。
バンパイア達とは明らかに異なる雰囲気に、リタは随分久しぶりに人間と出会えた事を理解した。もっとも、ドランの場合、人間なのは肉体だけだが。
「こんにちは、君がリタか? 私はドランという。ファティマやネルの友人で、君を助けに来た」
「ファティマ様の御友人の方、ああ、良かった。シエラさんの言う通り、ファティマ様を助けようという方々がいらしたのですね。良か……た……」
シエラの言った事は本当だったのだと、ファティマを救おうとしている者達が居た事を知ったリタの心は、つい先ほどまで揺るがし難い死の現実に面していた事と、ようやく本当の救いの光明が差し込んだ事への安堵から、緊張の糸を切ってしまった。
「あら」
という軽い一声と共にあの冷たくても柔らかく、優しい手が崩れ落ちる自分を支えてくれる感触を最後に、リタの意識は抗う意思を抱く間もなく暗黒の淵へと落ちていった。
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第三十四話
張りつめていた緊張の糸を切らしたリタがふっと倒れこみそうになるのを、ドラミナが影のようにさりげなく、優しく寄り添って細い体を抱き止める。
リタの衣服には土や埃、木の枝や葉っぱがいくつも着き、か細い四肢は茶色く薄汚れ、所どころでは血も滲んでいる。
「可哀想に。このような目に遭う理由などなに一つありはしないでしょうに」
ドラミナはそう言うとリタの汗に濡れた頬に掛った髪の毛を、長手袋に覆われた右手の指で払う。
バンパイアである以上、たとえクイーンであろうとも血に対する渇望は常に心の中に拭い難く存在しているのは間違いないが、それでもドラミナの顔に血への渇望はほんのわずかも浮かんではいなかった。
自分達にとって最大の糧となる異種族を相手に、かくも限りない慈愛の情を向ける事の出来る女性が、どうすれば魂を焦がさんばかりの復讐に全てを捧げる決意をするのか。
私はドラミナに襲いかかった不幸な運命を思うと、変える事の出来ない過去の出来事とはいえやるせない思いを抱かずには居られなかった。
リタの膝裏に右手を回し、ドラミナは哀れな村娘を抱きあげると背後を振り返る。
「今はこの子を休ませてあげましょう。取り敢えずは妾の馬車へ。そなたもおいでなさい、ドラン」
「ふむ、それではお言葉に甘えよう」
リタは気付かずにいたが、リタの後ろには一台の馬車が鎮座していた。
標準的な馬車をはるかに超える大きさを持ち、車体は磨き抜いた黒曜石のような輝きと途方もない重量感を持っている。
車体の四隅には、それぞれ真紅の満月を思わせる色彩のルビーの瞳を象嵌された黄金の蝙蝠が設えられていた。
バンパイアには必要はないのだろうが、一応夜間走る際にランタンを吊るす為の彫刻だ。
当然と言うべきか、バンパイア・クイーンが乗る馬車を牽く四頭の馬達も尋常な馬ではなく、六本の足で通常の馬の十倍以上の速度を叩きだすスレイプニル種の魔馬である。
「どうぞ、我が馬車へ。実に久しぶりの御客人であること」
「では御言葉に甘えて」
馬車の中へと消えるドラミナに続き、私もバンパイア・クイーンの馬車へと乗り込んだ。
国を失ったと言うドラミナの言葉から察するに、この馬車と寝所たる棺が彼女に残された最後の領地という事になる。
さてバンパイア・クイーンの領土はいかなものか、と私は大いに好奇心と探求心を疼かせていた。
室内には深紅に染め抜かれた地獄蚕の絹糸で編んだクッションを敷いた、白金の台座に支えられた二脚の長椅子と、黄金羊の羊毛で紡いだ絨毯。
とてつもなく巨大な黒瑪瑙を鏡のように研磨し天板に嵌めこんでいるのは、千年以上を生きた老竜の牙から削り出して一切の隙間もなく彫琢されたテーブルだ。
床に固定されたテーブルは長椅子の間に設えられている。棺は見当たらないがこの馬車のどこかに隠蔽してあるのだろう。
ドラミナは息を吹きかけただけで壊れる硝子細工を扱うように繊細に、そしてなによりも優しくリタの身体を長椅子に横たえた。
リタの顔を柔らかに撫でてから、ドラミナは小さく右手を振るった。それと同時に馬車の内部の空間に動きが生じるのを私は感じた。
この馬車そのものに空間の拡張と縮小、圧縮、歪曲などを任意に行う、人間からすれば極めて高位の空間操作系の一大魔法が掛けられている。
ドラミナに勧められるままに椅子に腰かけると、穏やかだった表情を引き締めたドラミナが改めて話を進め始める。
「久方ぶりの客人に対したもてなしもできず心苦しいのですが、状況を考えれば少しでも早く話を進めるべきでしょう。
妾の目的は我が国を滅ぼし、民を虐殺したグロースグリア国王ジオールの生命。これを滅ぼす為に妾は今宵、この地に参りました」
「ふむ、私達はフラウパ村から攫われた少女、つまりはそこのリタの救出。そしてもう一つはリタと同じく攫われ、そして血を吸われたファティマという私の学友の救出が目的だ。既にリタの救出は叶った以上、残るファティマの救出に全力を注ぐ予定だ」
「まだジオールめらに捕らわれた者が居るのか。ドラン、悪い事は言いません。そなたらは一旦村までお戻りなさい。
そなたはどうやら並々ならぬ力量の主のようであるが、ジオールは歴代のグロースグリア国王の中でも最強最悪を謳われる暴虐の王。
人間が相手をするには余りにも強大なる悪鬼なのです。そなたらの友であるというファティマは私の魂に賭けて救いだし、必ずやそなたらの下へと送り届けましょう。今は亡き国と民と、そして妾自身に誓って約束します」
ジオールというのがブランの父親たるグロースグリア国王の名前か。ふむん、と私は口にしてから一度瞼を閉じてから真摯な眼差しを向けるドラミナに答えた。
この美しすぎるほどに美しい女性は、自分が口にした言葉を己の存在を賭けて守り抜こうとするだろう。それを理解させるだけの気品と矜持とを、ドラミナはこの短時間で私に感じさせていた。
「申し出はありがたいが、そうも行かん。ファティマを助けに向かっているのは私だけではない以上、独断では決められないというのもある。
それに実際にファティマの無事な姿をこの目で確かめ、安全を確保できるまでは村に引き返す事は出来ない。ただ、リタは村人達と一緒に村に戻ってはもらうが」
「そなたの眼を見るにそれがそなたにとって譲れぬ一線と見ました。言葉を尽くしても、そなたの考えは変わらないのでしょう。おそらくはそなたの友という者達も」
私は脳裏にネルとセリナの思い描き、なるほど確かに私のみならずこの両者はドラミナの言う通り、自分達の手でファティマを救出するまでは、どのように言葉を尽くされ、理を説かれても退きそうにない。
特にファティマとお互いに一番の親友たるネルは、たとえ両足を斬り落とされて、残った腕で地を這ってファティマの所へ向かいかねない鬼気迫るものがある。
「こうなれば妾がドランらよりも早くファティマなる娘を救い、ジオールめを滅ぼす他ない、と考えている顔だな」
私の指摘に思案に意識を集中していたドラミナが、はっとした顔でこちらを振り返る。それから右手で自分の右の頬を撫でて苦く笑った。
「それほど分かりやすい顔をしているつもりはなかったのだが、どうやら久方ぶりに余人と言葉を交わして緊張の糸が緩んでしまったのでしょう。これではいけませんね」
「貴女の気遣いは大変にあり難いものだが、私達の事を気遣う余裕のあるほど楽な相手ではないだろう。私達の事は私達に任せ、貴女は貴女の目的を果たす事に注力なさればよい。ただファティマを巻き込まないようにだけ気を使ってくれれば、それで十分」
「そなたはちゃっかりしているというか強かというか」
自分達の事は気にするなと言いつつ、救出目標であるファティマの身の安全には気を遣って欲しいと言う私の要求にも、ドラミナは憤慨する素振りも無く息を呑むほど魅力的な笑みを浮かべる。
私はドラミナに同じく笑って返した。
それから私はドラミナと話を続け、短い馬車の旅はすぐに終わりを迎えた。
今回、私一人だけがドラミナやリタと合流したのは、リタが城門から解き放たれるのを察知し、私に付いてこられないネルやセリナ達を置いて先行したからである。
なので私とネル達との間にはそれなりの距離が開いていたが、流石はスレイプニル種の魔馬が牽く馬車の足は速く、ネル達との合流はあっという間だった。
ネル達は二台の馬車がすれ違える道幅の通りを歩いていたところで、霧の向こうから突如として姿を見せた馬車の巨影と、これまで遭遇したバンパイア達など比較にもならぬドラミナの気配に打たれて、指一本動かす事も出来ない様子だった。
こりゃいかん、と私はスレイプニル達がネル達まで人間の足で十歩の距離で止まった所で、急いで馬車から降りてネル達の緊張を解しに向かった。
ブランが乗ってきた馬車と比してもその豪奢さ、品格、乗り主の放つ妖気の凄まじさに骨まで緊縛されたネル達は、私が馬車から下りてきても声を掛けるまでぴくりとも動けなかった。
「ネル、セリナ、フラウパ村の皆さんも無事な様子でなにより」
呑気に声を掛けてくる私の態度に、ネルとセリナ達は体の緊張を解してはっと体を震わせた。
「ど、ドランさん、もう一人で先に行ってしまうから、凄く心配したんですよ。私達の方も魔獣とかバンパイアさんに襲われて、一人っきりのドランさんに何かあったらって心配だったんですから!」
「いやあ、すまんすまん。どうもバンパイア達の気配が急に増えたので、これは何かあったとつい調べに行ってしまった。私一人の方が身軽だから見つかっても逃げられる算段が高かった」
そんな私とセリナの緊張感を欠いたやり取りを、ネルの氷の声音が凍てつかせた。
「ドラン、その馬車は何? どう見てもまともな馬車じゃない。それにこの魔力は、あのブランよりも数段上。ひょっとしてあいつの親か何かの馬車?」
「ネルの疑いはもっともだが、無用な心配だ。幸いにして牙を受けてはいないよ。セリナも私との繋がりに変化はないだろう」
「あ、そうでした。私はドランさんの使い魔ですから、ドランさんがバンパイアになっていたら分かりますもんね。うん、ネルさん、ドランさんは前と変わっていないです。ちゃんと人間のままですよ」
セリナの証言と牙の穴の無い陽に焼けた肌を晒す私に、ネルはほんのわずかだけ警戒を緩めたが、何時でも戦端を開ける体勢である事に変わりはない。
たとえ牙を受けていなくても催眠術で操られている可能性もあるのだ。ネルはバンパイアを敵とする際の脅威をよく理解している。
「ならそっちの馬車は何?」
「こっちはバンパイアの馬車である事には変わらないが、味方だ。信じ難いだろうけれどね」
当然、私の言葉をセリナやネルが素直に信じられるわけも無い。どう説得したものかと私が口を開こうとした時、背後で一人の足が踏み板を踏み、大地に足を下ろす音が聞こえた。
私へと向けられていた全員の意識と視線とが、私の背後へと一斉に向けられるのを強く意識した。私も彼らに倣って背後を振り返り、二つの人影を見た。
足音が一人分だったのは当然だ。ドラミナは音無き種族バンパイアの最も力ある、そして最も美しい女王なのだから、無様にも足音を立てることなど滅びる時でさえあるまい。
時さえもドラミナの美貌に改めて見惚れたかのように硬直した場を動かしたのは、ドラミナと手を繋いでいたリタだった。
呆然と佇む村人の中に父親と兄の姿を見つけたリタは、瞳を大きく潤ませて二人の名を呼んだのだ。
「お父さん、兄さん!」
ドラミナに心奪われていた二人も、命を賭けて救いに来た家族の痛切な声を耳にすれば流石に正気に返り、ドラミナの手を離れて走り寄ってくるリタを両手を広げて迎える。
「おおリタ、リタか!?」
「本当にリタなのか」
「うん、うん、あたしだよ、リタだよ!」
感涙に咽びなく親子の姿に、周囲の村人や冒険者も我に返り、ネルやセリナも暖かな目でリタ達を見ている。
暖かなもので満たされた場を引き締めたのは、リタが家族と無事会えた姿に喜びの笑みを浮かべ、その心中にかすかな羨望を秘めたドラミナだった。
もうドラミナがどれだけ望んだとしても得られないものが目の前にあるのだった。
「グロースグリアの者共が攫ったそなたらの娘は、偶然ではあったが妾が庇護した。無事に返す事が出来て何より」
柔らかなドラミナの声音にこの場で最大の警戒を抱いていたネルの瞳が揺れた。美貌の衝撃はまだ深く強く残っていたが、それに加えてドラミナの声音には心からリタが家族と再会できた事を喜んでいると分かる響きがあったのだ。
「貴女は、バンパイア? 一体誰?」
「ふむ、あ」
一つ頷いてからドラミナは私を見た。私と同じ口癖を言った事に気付いたらしい。私はドラミナを見つめ返して、ふむふむと頷き返した。特に意味はない。なんとなくである。
「失敬。妾はドラミナ・ペイオリール・ヴァルキュリオス。そなたらが思っている通りのバンパイア。ただ妾はグロースグリア……そなたらに害を成しておる者達の事であるが、その者らと故あって敵対している者。
あ奴らの敵は妾にとっては味方にも等しい。あ奴らの思い通りにさせるのは業腹であるし、なにより力無き者を嬲るような真似は許せなかったので、リタを助けたのです。
無事にそなたらの下へと送り届ける事が出来て、肩の荷が下りました」
ネルとセリナ、そして村人達の視線は一斉に私とリタとを巡った。ドラミナの言う事が真実であるか、当事者の私達に聞きたいのだろう。
「彼女の言う通りだ。私が駆け付けるよりも早く彼女がリタを守っていた。それにここまで馬車で送って貰っている」
「あの、本当です。あたしがあの城の騎士達に追いかけ回されて、もう駄目だっていう時にこの方に助けて貰って、それに、その、膝枕もして貰って」
「ふむん、さて無事にリタはこうして取り返せたわけで、リタはフラウパ村の皆さんと一緒にこのまま村に戻るのが良いだろう。道中の魔獣達は駆逐してあるし、兵士達の方も私達やドラミナを迎え討つのに精一杯で、そこまで手は回らないだろう」
「ドランの申す通りになさい。妾はこれからジオールらの首を断ち、心臓を貫いて滅ぼしに参る。後の始末は妾に任せてそなたらは村に帰るのです。
もう一人の血を吸われて攫われたファティマという少女も、妾の手で救う事を約束しましょう」
私はこれに答えなかった。私の返答は既に馬車の中で済ませている。必要だったのは、私がドラミナに告げたファティマの救出に向かうであろう二人の返答だ。
「貴女の申し出はありがたい。リタと村の皆さんはこのまま村に戻って」
「私もそれがいいと思います。冒険者の皆さんには村の皆さんを護って貰って、私達でファティマちゃんを助けに行きます!」
これ以上ないほど気合を充溢させて告げるネルとセリナに、村人達は年端も行かない少女達に事態を任せる申し訳なさと、これ以上恐怖に晒されないで済むという安堵とが入り混じった表情を浮かべた。
揺れる感情の狭間で一人の村人がおずおずとネルに尋ねた。
「しかしネルネシア様、貴女様方だけでは……」
「大丈夫、ミス・ヴァルキュリオスもあいつらと戦うようだし、その隙を突いてファティマを救出するだけなら私達だけの方がやりやすい。だから貴女達は気にしないで村に帰って。その方が私達も後ろを気にしないで戦えるから」
「あの、ネルネシア様、ならせめて私がお城の中で見てきた事を聞いていって下さい」
父と兄とに固く抱き締められていたリタが、せめて自分にできる事をと思い至ったようで、決意を秘めた顔でおずおずと口を開く。
今後の行動が纏まった事を察したドラミナは、私以外の全員が気付かぬ内に再び馬車へと戻り、スレイプニル達に城へと向かう指示を出し終えていた。
馬首が巡る中、ドラミナのいかなる楽師の奏でる調べよりも美しい声が、私達の鼓膜を揺らす。
――では妾はこれにて失礼しましょう。そなたらが今宵、この場に居た事は妾にとって予想もしていなかった事ですが、そなたらが無事帰るべき場所に帰れる事を祈っています。
そしてその為にも、グロースグリアの者共には我が手で滅びを与える事をここに約しましょう。
リタ、今日の事は貴女にとって大変に不幸な事ではありましたが、貴女にはバンパイアの下へ取り返しに来る勇気を持った父と兄、そして村の仲間達が居ます。それがどんなに心強い事か、決して忘れてはなりません。
そしてドラン、そなたは実に愉快な男子(おのこ)でした。あの夜以来、今日ほど笑った事はありませんでした。ありがとう。そなたのお陰で最後の夜に実に良い気分を味わう事が出来ました。そなたらの武運を祈ります。それでは、今度こそ本当に―――
さようなら、ととても、とても寂しそうに囁いてドラミナは馬車を走らせた。
最後の夜、か。相討ちも辞さぬ覚悟と心で今宵の戦場に来たのか、ドラミナよ。
国を失い、民を失った彼女にとって、もはや復讐だけが残された生きる術なのか。復讐を終えた時、彼女は自らを裁き、冥界へと旅立つつもりなのかもしれない。
*
ドラン達と別れた後のドラミナの行動は迅速を極めた。
元より彼女の道行を阻める力を持つ者は、グロースグリア王国に於いて数えるほどもいない。
スレイプニル達に全力疾走を命じたドラミナは、復讐に燃える心に突き動かされるまま徐々に近づいて見えてくる仇敵の城へと、容赦なく広範囲に及ぶ攻撃魔法を放っていた。
ドランに撃退されたブランの父ジオールは、自分が血を吸ったファティマの下へ不定期に顔を出しては、彼女の心を折ろうとするかのような言動を重ねていた。
今もまた、ファティマとの問答を終えて幽閉した尖塔を出たジオールは眼前に広がる光景を目にして、ほほう、と感心の響きを隠さず口にした。
配下の騎士団が二十倍の戦力の敵兵を皆殺しにした時も、褒める言葉一つ口にしなかった男である。
そのジオールを感心させたのは、北部辺境の大都市ガロアを丸々収容してもまだ余裕のあるこの城が、文字通り半壊していた為だ。
その半壊している部分の破壊振りは徹底しており、成体の竜の群れによる襲撃も想定して造られた大城門や城壁の数々は、もはや影も形も無い。
「女王陛下はたいそうお怒りであるようだな。今は、あそこか」
ジオールは向かって右の建物に目をやった。百階建ての武器庫の一つである。その中に駆けつけたバンパイア兵五百とホムンクルス四千が、建物ごとまとめて吹き飛んだ。
一階の床の部分から百階の屋上をめがけて、月光を思わせる白々とした魔力の光が噴き上がったのである。
きっかり武器庫のみを吹き飛ばす凶悪なる魔力の本流は、左右には広がらず上空へと延びて、上空を遮る霧を貫き、夜空に輝く満月さえも貫かんばかりの勢いだ。
ドラミナがたった一度行使した攻撃魔法が、武器庫と都合四千五百の人外の兵士達に滅びを与えたのだ。
武器庫からジオールの居る尖塔まではまだ距離があり、そこまでにはいくつもの建物と何千もの兵や魔獣が待ち構えているが、ドラミナはさして苦にもしまい。
「それでこそ我が敵。そうでなくては見える価値も無し。ブランめはドランという人間に執心しておる様子。
とくればやはりヴァルキュリオスめの相手をするのは余を置いて他にはない。グロースグリアの国王とヴァルキュリオスの女王の戦いとなれば、相応の舞台で行わなくては興が乗らぬ」
言うが早いかジオールの足は動き出していた。ゆったりとした大股の歩みであったが、さながら倶風のごとき速さをもって城の中を進んでゆく。
歩き出してから程なく、再びドラミナの一撃によって消し飛ぶ建物と配下の生命の気配が感じられたが、もうジオールの目が向けられることはなかった。
隅から隅まで把握している城の回廊を進み、螺旋階段の一段目に足をかけたところで、ジオールは背後で吹き飛んだ城壁と爆発を振り返った。
慌てる素振り一つ見せず、むしろゆったりとした動作で背後を振り返るその姿は、その人品はともかくとして王たるに十二分に相応しい威厳を不可視の鎧として纏っている。
「ヴァルキュリオスにしては早いと思ったが、ふ、とんだ邪魔者が我が城へ土足で足を踏み入れよったか。ヴァルキュリオスめが攻めてくる隙を突くなど小賢しい」
忌々しげに呟くジオールに、土煙の中の小さな影が負けず劣らずの傲慢さを湛えた声で答えた。
耳にした誰もが可憐な、しかし感情の色を決して浮かべる事の無い人形のような少女を思い浮かべる声なのに、そこには目に見えないのが不思議なほどの悪意を孕んでいる。
「なんだ貴様。バンパイアなどという他者の血を吸わねば不死の生命を維持できぬダニが、私を相手に不遜だぞ。ふむ? 貴様、ブランの肉親か? 雰囲気が似ている。あの小僧はどこだ。私は奴を一刻も早く灰にせねばならん」
ようやく晴れた煙の向こうに姿を現したのは、単独でブランを追っていた転生者、レニーアであった。
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第三十五話
「我が城に向かってくる酔狂な人間ばらが居るとは、風が余に伝えていたがかくも城の奥深くにまで侵入を許すとは。警備の者共の首を刎ねて晒し者にせねばならんな」
「安心しろ、その手間は私が省いてやった。今頃は瓦礫の下で灰と変わっている。いや、配下の者共の首を刎ねられずに残念だったと言うべきか?」
「おお、よくもそのような残酷な事を口にできたものだ。少女の外見に騙されてはならんな。貴様の中身はなんと恐ろしい」
「王とやらを名乗るのなら、お前は配下の者共の先頭に立って我に続けと叫んで冥界に落ちろ。冥界の門番へは私が橋渡しをしてやろう」
「たわけが。貴様の如き矮小なるものの言葉で余の時を徒に浪費させるなど、許されぬ大罪よ。せめてその身に流れる赤き血で余の咽喉を潤してくれよう。
これから余の不死の生において最大にして最も愉快な戦いがある。その戦い前に精を付けるとしよう」
「は、太陽の陽射し一つまともに浴びる事も出来ぬ分際で。貴様らが如何に不老不死を謳おうと、太陽の下に出る事さえ出来ない。たったこれだけで貴様らが餌と見下す人間にも劣るのだ」
「ぬかせ」
初手はレニーア。ブランを相手に振るった思念が形作る巨大な腕が、ジオールへと正面から放たれた。
ブランとの戦いに比して回廊の中という狭い場所での戦いは、巨大な念動獣の腕を振るうレニーアにとって戦うのに適した場所とは言い難い。
だが念動獣の腕はレニーアの殺戮の思念の具現である。通常の肉持つ者の腕とは違い、出現も消失もレニーアの意思によってある程度出現する場所を選択できる。
この時、レニーアが出現させたのは念動獣の丸太ほども太さの爪一本。たったそれだけでも二階建ての家屋くらいなら一撃で倒壊させ得る破壊力と速度を備える。
「ほう、思念をここまで密にするとは珍しい。だが、それだけだな。非力、非力よ」
ブランは主に護衛達の腕でレニーアの念動獣に対応したが、ジオールはあくまで自身の肉体をもってこれに応じた。
ケープを割って出た腕が目に見えぬ爪の先端をぐわっと掴むと、一歩下がるどころか踏ん張った様子さえもなく簡単に受け止めて見せたのだ。
鉄柱を花の茎のように握り潰すジオールの握力と、千人力にも届くジオールのバンパイアとしても規格外の膂力、そして全身の不滅の細胞と凶悪無残なる魂が産み出す莫大な魔力がこれを成した。
「我が倅はドランなる人間には執念を燃やしたが、他に興味は示さなんだ。親に劣る子にすら注目されなかったが小娘が、余に挑むなど驕りが過ぎるわ!」
ジオールが空の右手の五指を握り込み、右拳をレニーアに向けて勢い良く突きだした。
魔力を流し込み淡い七色の色彩を帯びたレニーアの魔眼は、ジオールの掌に押し出された空気とそこに混入された莫大な魔力を捕捉していた。
「ちっ」
レニーアはこれを破壊の意思で造り上げた不可視の思念の砲弾、五発で相殺する。ジオールの拳圧とレニーアの思念弾はややレニーアに寄った地点で互いに破裂し、周囲の床や壁、天井に小さくない罅が走り細かな破片がぱらぱらと落ちる。
「ふふふ、なるほど人間にしてはやるが、元魔獣であるのならこの程度かという他あるまいな。どうやら人間に転生した事で知性を得たわけでも無い様子からして、元はそれなりの格の魔獣であろうに、憐れな事よな」
「寄生虫風情が、私を憐れむか!」
ジオールの余裕と憐みとそして侮蔑を隠さぬ言葉に、レニーアの感情という名の炉に新たな怒りの薪がくべられて、レニーアの小柄な体躯から噴き上がる魔力が一層轟々と激しさを増す。
火のような熱さえ帯びて吹きつけてくる風を満身に受けながら、ジオールの笑みは崩れない。
さらに激しさを増すレニーアの攻撃に耐えきれず、遂に二人の居た回廊が崩壊した時、二人は共に降り注ぐ瓦礫を弾き飛ばしながら外へと飛び出た。
(そうだ、もっと私を侮れ、辱めるがいい。私を怒らせろ、憎しみを募らせろ。それが私を解放させる鍵となる。そうでなければ、そうでなければならん!)
この時のレニーアは胸の内を破り出てきそうな魂の脈動と波動を感じていた。もう少し、もう少しだ。そうすれば、そうすれば、ようやくこの人間の肉体という牢獄から抜け出す事が出来る。
だがそんなレニーアの憎悪と入り混じった期待を、ジオールは意図せずこれ以上ない形で裏切った。
「メインの前の食前酒と洒落込むつもりであったが、いささか遊びが過ぎたか。このままではヴァルキュリオスに追いつかれ、つまらぬ場で戦う羽目になる。
それでは折角の遊びが台無しだ。貴様は元は魔獣。なればケダモノの相手はケダモノがするのが筋であろう」
飽きた、と言わんばかりの口調でジオールは告げるや、地面と平行に突き出した右腕をさっと振り下ろした。
レニーアは手刀によって生じる真空の刃に備え、念動獣の両腕を眼前で交差させたが、刃はついぞ襲い来る事はなく、その代わりに石畳を踏みしめていたレニーアの足元にぽっかりと穴が開いたのだ。
「貴様あああ!!」
「ふふ、月光も射さぬ暗い地の底でケダモノ共の胃の腑に収まれ、小娘が」
*
リタが無事にドラミナに保護され、更に救出に来た村の者達の腕の中へと戻ったのを確認し、シエラは誰にも気づかれぬよう心中で安堵の吐息を零した。
ブランの呼び出しに応じ、王太子の部屋へ許可を得てから入室したシエラは、右膝を床に突いて深々と頭を下げた。
部屋の中央に立つブランはシエラへ一瞥したきりで視線を外した。全身には並々ならぬ妖気が充溢し、シエラの肌を凍てつかせるような気配が室内に満ちている。
「ただいま戻りましてございます」
「皆滅びたか」
「手強き敵かと」
「言わずもがなな事よ。でなくば父上がああも恐れはせぬ」
「恐れ、でございますか?」
ジオールが恐れていると断じるブランの言葉に、シエラの心は疑問を抱いた。
「そうだ。私にしても直接父上を前にしてはとても口にはできんが、あの方が唯一この世で恐れるのが、ヴァルキュリオス最後の女王だ。
あれは始祖六家史上最も御始祖に近い傑物、あるいは天意を受けて誕生した奇跡のような御仁。他の六家とは格が違う異端児にして産まれついての上位者なのだ。
以前の戦いで女王を敗北の泥濘に叩き落とす事が出来たのは、他の六家の助力と己の民が滅ぼされる様に動揺した心の間隙を突けたからに過ぎん。
だが今は復讐の業火を胸に宿し、失う物も己の生命しかない。となればこれは以前とは別物と考えて戦わねばなるまい。用意万端整える前に攻められたのはまこと不運としか言いようが無い」
「……」
「だがこの城には父がおる。以前の父上であればドラミナ女王と単独で戦っては、これは万に一つの勝機に賭けねばならなかっただろう。だが、もはや父上は以前の父上ではない。
あの方はヴァルキュリオス滅亡の折に助力した者も、傍観していた者も全て滅ぼした。
いまやあの方こそが御始祖の再来と呼ぶべきバンパイアなのだ。ドラミナ女王は、父上にその至尊の血脈を献上しに来たのも同然よ」
「ブラン様がそのようにおっしゃられるのであれば、その通りかと」
「ふん、我が身の未熟であることを今日ほど思い知らされた事は無い。他の四家の当主どもにならば劣るとは思わぬ。だが我が父とドラミナ女王とで比べれば、私などは一段も二段も落ちる」
そう吐き捨てるブランの言葉に、何時かこの二人を超えてみせるという野心と、拭いきれぬ畏敬の念が感じられて、シエラは複雑な御心境のようだ、と皮肉気に思った。
なにより違和感を覚えたのはブランが常に纏っている青いマントを外している事だった。
マントは室内のどこにも見当たらない。ブランの牙に掛り、バンパイアへと変えられた多くの種族の女達の生皮と魂で出来たあのマントこそ、ブランの不死と戦闘能力を支える一大要因なのだ。
「己の分は弁えておる。ドラミナ女王の相手は父上に一任し、私は私に相応しい敵を討つ。
ドラン、人間にして恐るべきあの敵の首を断ち、抉りだした心臓から直に血を飲んでやろう。
彼奴はどうやら我が城に足を踏み入れた様子、私が直々に迎えてやらねばなるまい」
言うが早いかブランはシエラに興味の欠片も見せず、部屋の扉へと歩いてゆく。
ブランがシエラの傍らを過ぎて自ら扉のドアノブを握った時、ブランの巨体が小さく揺れた。シエラが風の速さで立ち上がるやブランの背中に体ごと体当たりしたのである。
ブランはゆっくりと背後を振り返り、こちらを見上げていたシエラと視線が空中で絡みある。
「ずっと、ずっと、貴方に血を吸われた時からこうしたいと願っておりました。ブラン様」
つっと横一文字に引き締められたブランの唇から、血が流れて胸元に赤い染みを作る。
シエラは両手でトネリコの杭を握りしめ、それで背後からブランの心臓を貫いていた。
「であろうな。お前の心など最初からお見通しよ」
ああ、心臓を貫かれた筈のブランが血に濡れた唇を吊り上げてにいっと笑むとは。その笑みのなんと凶悪なる事。
心臓を貫かれて灰になるどころかまったく堪えた様子の無いブランに、シエラは心身の両方を驚愕に凍てつかせた。
そのシエラの身体が凄まじい勢いで右に吹き飛ばされ、夜の湖を描いた肖像画に激突して壁に巨大な罅が広がる。あまりの衝撃によって部屋そのものが揺れて、ぱらぱらと天井から構造材の破片がシエラの身体に振り注ぐ。
「心臓を貫かれるのはやはり気分の良いものではないな」
「ど、どう……して、心臓……」
崩れた壁に背中を預ける体勢にあるシエラが、血を吐きながら呟いた言葉にブランはまた一つ戦慄的な笑みを浮かべ、ゆっくりと歩みながら反逆の眷属に答えた。
「確かに如何にロイヤル・バンパイアとて稀に産まれる例外を除けば、心臓を貫かれて滅びぬ者はおらぬ。それは私とて同じよ。おっと、心臓が右にあるなどとは言わぬ。
なぜ私がマントを纏っておらぬか分かるか? これまで私はマントを護衛として使っていたが、それではあの男を、ドランを討つ事が叶わぬと骨身に理解できた。
よってマントに宿る女共の力と生命を別の形で使う事にしたのよ。マントを纏っていない? 違うな、違うぞ、シエラよ。私はマントに宿る全てを吸ったのだ。
我が身にはいまや我が牙に掛った七千の女達の力と命とが宿っている。やわか心臓ひとつを貫かれただけでは滅びぬ。七千と一の生命をまとめて滅ぼし尽くす力を込めて心臓を貫かねば、な」
シエラを見下ろす位置でブランは足を止め、それまで握っていた杭をシエラの足元に放り捨てた。カランと乾いた音を立てて、血に濡れた杭が床に転がる。
「七千の護衛達にしても私が選び抜いた異種族の女を成り上らせた者達。並みの兵士とはわけが違う。
いまや私一人でバンパイアの十万の軍勢をも上回るだろう。だが私にこうまでさせるドランという人間こそ凄まじいと言わねばなるまい」
「かふっ……は、はは、あのドランという、に、にんげんにじゅ、十万で勝てます、か? ブラン様」
「ふふ、さて勝てると言い切れたらよいのだがな。シエラよ、私がお前を傍に置き続けたのはお前の血の味を気に入ったのもあるが、それ以上に私の子となりながらも心の奥底で私への復讐の炎を燃やし続けていたからだ」
気付かれていたのか。そして気付いていなお私を放置していたのか。これまでずっとブランの掌の上で踊らされていたのだと悟り、シエラの心に分厚く重い絶望の帳がゆっくりと落ち始めてきた。
「もっともここ最近ではその炎も勢いを衰えてつまらんと思っていたのだが、あのリタとファティマの姿を見た瞬間から、お前の中の復讐の炎は再び燃え上がり始めた。
ドランを始末する事が目下最大の楽しみであるが、お前が私にどう復讐しようとするのかも楽しみであったよ。
直接的な行動に出たのは正直意外だったが、これは私が油断し過ぎていたとも言える。
このような好機に恵まれたのは初めてあろう? ましてやお前が私を弑するのに使える時間は限られていた上に、事前に道具を用意したり計画を練るなりする時間も無かったのだからな。
それでもせめて私とドランが戦っている最中を狙う程度の小細工は講じるべきであったが、私の背中があまりに無防備で釣られてしまったというところか、愚か者め」
「…………」
ブランは優しい声で言葉も無い血塗れのシエラに呼び掛けた。むろん優しいのは声だけである。
しゃらん、と硬質の鞘鳴りの音を立てながらグリーフマリアが鞘から抜き放たれた。
空間をも断ち、使い手の技量次第では空間を歪める魔技も放つ魔剣は、木の杭に負けず劣らずバンパイアに致命傷を与えるだろう。
*
セリナ、ネルネシアを伴いグロースグリアの居城へと辿り着いた私達は、ほんの少し前までは見上げるほど巨大な城門と、地平の果てまで伸びていそうな城壁の見る影もない、凄まじい破壊が通り去った後の光景だった。
私達に先んじてこの城へと辿り着いたドラミナが、迎撃に現れたグロースグリア王国の兵士達と交戦した結果であるが、かくも見事に破壊し尽くしているとは。
まだ壊れていない城塞の裏手側がきっちり半分ほどは残っているが、私の五感と六感は千倍以上の数の兵士達を一方的に滅ぼすドラミナの闘争の様子を捉えていた。
ドラミナにこれ以上城塞を破壊するつもりはないようで、大規模な攻撃魔法は控えているようだ。
それでもジオールかブランが出てこない限りは、ドラミナの身を心配する必要はないだろう。
「えっとここが城であっているんですよね?」
基礎の部分と地下施設を除いた地上施設が跡形も無い光景にセリナは戸惑いを隠しきれず、ネルも警戒の色こそ薄めてはいないが戸惑いがあるのは間違いない。
ネルはドラミナの行った事だと察してはいるだろうが、あの月光の化身の如き美貌とこの虚しささえ感じる光景が頭の中で上手く繋がっていないのだろう。
ドラミナのバンパイア・クイーンとしての力を実際に目の辺りにしているのは私だけだから、ネルの困惑も無理からん事である。
「ドラン、これはやはりあの人がした事だと思う?」
「ドラミナ以外にはあり得んよ。この城に詰めていた数千のバンパイアと同数の魔獣、魔法生物を単独で滅ぼし尽くせる力の主が、現状でドラミナ以外に居るとは考えにくい。
破壊がここまでで終わっているのは、ドラミナが私達の到着を察したのとファティマを巻き込まないように気を遣ってくれているのだろうさ」
「そう、多分、ドランがそういうならそうなのだと思う。なら私達は早くファティマを見つけ出す」
「リタちゃんの言う通りなら、ファティマちゃんは一番高い尖塔のてっぺんの部屋に閉じ込められているんですよね。なら、ちょうど真ん中の辺りに建っているあれでしょうか」
そういってセリナが指差すのは、まさしくその通りに残っている尖塔の中で、最も高く夜天を貫くが如き威容を誇るものの一つだ。
私の諸感覚もファティマがそこに居る事を認めており、私達が目指すのはあそこで間違いない。
「無事な建物に近づくまでは敵が姿を見せる事は無いだろう。そんな余裕はドラミナが彼らに与えはしまい。先頭は私が行く。
ネルはいつでも魔法を発動できるように用意を、セリナは魔眼の用意を頼みたい。矢の千本万本降り注いでこようが全て防ぐが、横と背後は二人を頼りたい」
「はい。任せてください」
時折、遭遇する敵兵を残らず掃討した私達は、更地と無事な城塞の中をかなりの距離を走った後でようやくファティマが居ると思しい尖塔のもとへと到着した。
中庭の一つの中央に尖塔が建っていて付近に兵士達の姿は無い。城の奥まった場所に居た兵士達はほとんどがドラミナのもとへと向かっているからだ。
ジオールが血を吸ったファティマの護衛として、尖塔の中に数名のバンパイアの気配を感じるが、私達にとっては敵ではない。
尖塔の巨人用かと見紛うような分厚い合成金属の扉を前に、ネルが消費した魔力を魔晶石で補うのを待ってから、私が竜爪剣の一閃で扉の鍵を叩き斬り、一枚当たり私百人分の重量がある扉を押し開く。
「ファティマ、ようやくここまで来た。すぐに行く」
「ええ、あとちょっとでファティマちゃんの所です。かなり高さだから、登るのに結構時間がかかりそうですけれど、多分中にもかなりの数の敵の人達が居るでしょうから、油断は禁物ですね」
「ふむ、セリナの言う通りだ。決して油断せず、ファティマの所まで行ってきてくれ。私はここであれを片付けてから行く」
私が二人とは別行動を取る、と告げると二人は何を言っているのか、と私を振り返ろうとし、東にある建物の扉を開いて姿を現した人物から吹きつける風を浴びるや、色濃い恐怖を浮かべてそちらを向いた。
この短時間でどのような修業を積んだものか、フラウパ村で戦った時に比べて格段に妖気を増したブランが、私へと視線を固定してゆっくりと歩いてくる。
私は右手の長剣を握り直して具合を確かめながら、足の止まった二人に話しかけた。
「村での雪辱を晴らすつもりのようだ。狙いは私一人。私の命を奪うまでは二人の事は眼中にあるまい。行きなさい」
「で、でもこんなとてつもない気配を出す人を相手に、ドランさんだけを残していくなんて」
「セリナの言う通り。正直雪辱を晴らす事を一瞬忘れるくらいに、恐ろしい気配を出している。いくら君でも、そう思う」
「ふむ、存外に信用が無いな。少し力を増して調子に乗っているだけの阿呆なら、私一人で十分だ。それよりも早くファティマを迎えに行ってくれ。ネルとセリナの顔を見たら、ファティマはとても喜ぶだろう」
「……すぐにファティマを連れて戻る。だから、それまでなんとか生き残っていて」
「ドランさん、絶対に無理も無茶もしないでくださいね」
「なに、あいつを灰にしてその上にでも座って三人で塔を降りてくるのを悠々と待つさ。またすぐに会おう」
セリナとネルがようやく折れて尖塔の中に入り、正面にある螺旋階段を全速力で登り始めるのを見届けてから、私はブランを振り返った。
秀麗なる吸血王子は、律儀にも腰の魔剣すら抜かず私が戦いの態勢を整えるのを待っていた。妙なところで律儀というか、礼節を弁えているというか。
「別に好きな時に襲いかかって来ても良かったのだが、隙だらけだったろうに」
「嘘を申すな。そなたはあの娘共と話をしている間も常に戦いの態勢を整えていた。常在戦場、戦士ならばかくあらねばならぬ。そなたは若い身空でその域に達しているようだ。素晴らしい」
「お前以外の誰かにそう言って欲しかったな」
私が右手に握る長剣をだらりと自然体に下げ、ブランは黄金の魔剣の柄に手を掛けてゆるゆると鞘から抜き放つ。
そういえば、こいつ、あの護衛達のマントを身に着けておらんが、ふむ、これは凄まじい事をする。体内と魂に護衛達の血肉と魂が解け込んで重なり合っている。他者の魂を重ね取り込むのには色々と方法があるが、バンパイアならば吸ったというところか。
「なるほど量より質を取ったか」
「ほう、その事を一目で看破するか。魂まで視認する魔眼はそう簡単には体得できぬ筈だが、やはりそなたは尋常ならざる強敵。嬉しいぞ、ドランよ」
「私はお前などと巡り合えても嬉しくは無い。フラウパ村の人々やリタ、それにドラミナはともかくとして、グロースグリアの者達と出会ったのは無かった事にしたいほどだ」
「そう言いたもうな、ドランよ。私はそなたと再び剣を交える時をこれほど楽しみにしていたのだ。さあ、行くぞ、人間」
「ふむ、言葉を交わす必要も無いか。では、来い、バンパイア」
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第三十六話
四千人は収納できそうな広さの中庭で対峙する中、ふっとブランが柔らかに笑った。街中で思いがけず再会した旧い友を前にしたような、親しみに満ちて見える笑みである。
私とブランの初動は奇しくも完全に一致した。互いに石畳を粉に変える力で踏み出し、風を置き去りにした速さで駆け、両者の間に開いていた距離の中間地点で刃を交差させる。
竜爪剣の白き魔力とグリーフマリアの黄金の鬼気とが食らいあって、私達の周囲に無数の火花が散り、私達の顔を二色の光が照らし出す。
「素晴らしい、いや、凄まじいな、ドラン。今の私の一撃を真っ向から受けられるとは。今の私の膂力は、たとえ巨人族であろうとも受けきれずに五体を四散させる一撃だぞ」
「ふむん、そうかね? 脆弱な人間である私を気遣って、手を抜いた一撃を打ちこんできたかと思ったぞ」
私の皮肉が大いに琴線に触れたようで、ブランは愉快で仕方が無いと言わんばかりに笑い出した。
「ふふふ、ははははは! 堪らんな、我が渾身の一撃をそのように評すとは。そなたが人間の皮を被った悪魔でも天使でも構わぬ。この闘争の愉悦、これを味わわせてくれるのならば!」
そして虚空にいまだ噛み合う刃の残像が残っている間に、私とブランの腕は風を巻く速さで幾度も動く、動く、動く!
観戦者がこの場に居たならば、私とブランの腕が一瞬にして何十本も増えたように錯覚した事だろう。
切っ先を突っ外し、私達はこれまた鏡に移したように揃って後方に飛び退く。私達の間に開いた距離はざっと十三歩ほど。
竜爪剣の切っ先を地面に向け、小さく揺らしながら私はブランの評価をかなり上方に修正していた。
マントの護衛達を取り込んだとはいえ、それに耐え得る強靭などという言葉では物足りない肉体と精神が無ければ、七千の魂の重圧に自身の魂が押し潰されていただろう。
これでもう少し、いや大いに良識のある人格を有していたのなら、嘘偽りの無い敬意を抱くに値する強敵なのだが、それは望むべくも無いか。
ブランは左の頬に刻まれた一筋の朱線を左の人差し指で拭う。じっとりと自身の血で濡れた指先を見つめてから、ブランの瞳は私を映し出した。
剣戟を交わし始めてから初めての傷であるが、まず分子に分解された程度なら問題なく再生する不死の肉体が、いっかな再生しようとしない事にブランはまるで動揺していなかった。
「一度は断たれて繋げた首もそうだが、そなたに付けられた傷はなかなか治ってはくれぬ。不死を誇る我らの肉体に不死を許さぬその力、実に素晴らしい」
凄まじい、と慄くのならばまだ理解できる。
だが自分の不死の肉体を滅ぼし得る力を体感し、それを素晴らしいと感嘆するとは。
私の言えた義理ではないかもしれないが、この男の精神構造はやはり常人とはかけ離れている。
「どうも自分の肉体が不死である為か、護りの技を疎かにしてきたツケが今になって響いてきたようだな。加えて護衛達のマントに護りを委ね過ぎてもいた」
ブランは修練ではともかく、実戦の中で防御の技を振るう機会は少なかったようで、その事を今更になって痛感し、愚痴を零しているのだ。
よくもこの戦いの中でそんな呑気な事が、と呆れるなり罵るなりするのは易しい。
私との戦いの中でそんな事を口にする余裕がある事と、改善すべき余地を見つけられた事に心底喜んでいるブランの精神に、私は警戒の意識を幾分か上げた。
「さて、続きと行くぞ、ドラン。我が護衛共は戦士ばかりではない。呪術、妖術、魔術、邪術、呼び名は数多あれど魔性の力振るう異能の者共もいるぞ!」
一旦開いた距離を詰めるよりもその距離で放てる最大の攻撃をブランは選択した。
ブランの血肉と魂に融けた七千の魂が一斉に励起し、七千人分の魔力が次から次へと枯れる事を知らずブランの心身に満ち溢れていく。
「我が護衛たる女共の内、魔法使いは一千四百十二人。七千人と私の魔力を融け合わせ、共鳴させた事でその魔力はロイヤル・バンパイアの規格を超えた」
瞬間、ブランの巨躯に一千四百十二人の女達の姿が重なって見えた。ブランに血を吸われて眷属となり、いまや魂さえも吸われて存在を一つにした女達の姿だ。
種族も習得した魔法体系も異なる彼女達は、敬愛する主に害を成さんとする私への憎悪に牙を剥き、それぞれの美貌を怒れる悪鬼のそれへと変えていた。
そして私に対し一千四百十二の魔法が一斉に放たれた。
ある魂は万物を分解して食らい尽くす異世界の微生物の群れを召喚し、ある魂は罪人の魂を燃やして苛む地獄の炎を召喚し、ある者は爵位級の大悪魔との契約によって霊魂を斬り裂く赤い風の刃を放ち、またある者は大地の上位精霊を召喚して私に掛る重力を千倍にした。
たった一人の人間を害するには余りにも過剰に過ぎたが、対象が私となればその結果は言わずもがなである。
上下左右前後、周囲全てを埋め尽くす一千を超す魔法を、私は術式の形に編み込む前の生の魔力を全方位へ放出するだけで対処した。
私の魂を中心に四方へと発せられた古神竜の魔力は、この地上世界では虹色の光という視覚形態を持ち、私の肉と霊と魂とを貪らんとしていた周囲の魔法全てを触れるやいなや根本から破壊し尽くし、飲み込んで一切の痕跡を残さなかった。
一瞬、ただの一瞬で私の周囲を取り巻いていた一千四百余の魔法は、虹色の光に飲まれて消えてしまったのである。
「これは、流石に参ったな。山河を破壊し尽くして地平線の果てまで焦土に変える程度の威力はあった筈なのだが、まったくの無傷とは」
「確かに、お前がフラウパ村で放ってきた黄金の爆弾百個分くらいの威力はあった。あったが、所詮はその程度と言うだけの話だ」
「あれは一応我が国の魔道と錬金の粋を集めて造った兵器なのだが、その程度扱いか。ここまで来ると笑いも出ぬ。
だがそれも良い。やはり私は相手の骨肉を断つ手応えの感じられるこちらの方が性に合う」
ブランの身体が動いた。動き始める前の予備動作や前兆と言ったものがまったくない。
黄金の魔剣が虚空に閃く。描く刃の軌跡はあたかも天上人の振るう筆の如く美しく、そして命を奪わずには鞘に収まらぬ凄愴な気配を色濃く孕んでいる。
私の肩口へ、脇腹へ、頭頂へ、あるいは斬撃から刺突へと変わり、心臓、咽喉、腹腔へと黄金の刃はその動きを千変万化と変えながら襲い来る。
「ああ、素晴らしいな。こうか? いや、こう、こうだな」
「ふ、む!」
私の右頸部を断ちに来た魔剣が、ブランの骨格ではあり得ぬ軌道を描いて私の左腰へと迫っていた。私はそれを何なく弾き返したが、ブランはそれに落胆する事はなく
「おお、そうか、こうか!? では次はこうだ」
と純真無垢な子供のように笑いながら次の一撃、次の一撃を振るってくる。
ブランは私の新たな一撃を打ち込むごとに、まるで別人のように力量を上げ、斬撃の鋭さと厄介な事に深みを増している。
まだ蕾のままだった花が、清澄な水を吸い、降り注ぐ陽光を浴びて大輪の花を咲かせるかの如く、ブランの剣士としての技量は天井知らずに高みへと登り出している。
だが私はブランを剣士としての高みに登らせる為に刃を交えているのではない。私は一層力を込めた竜爪剣を振るった。竜爪剣の軌跡に沿い、ブランから長大な影が一つ離れて、床の上にぼとりと音を立てて落ちる。
影の正体は竜爪剣で付け根から斬り落とされたブランの左腕であった。
「ぬう!」
ブランは片腕を落とされる激痛を短い唸り声だけで噛み殺し、更に片腕を失った事で崩れた重心もすぐさま立て直す。
片腕の喪失に心が揺らぐ様子はなく、右手一本で握り直したグリーフマリアの切っ先で地面に孤月を描きながら、私の左の肺を下方から斬り上げてくる。
私との戦いの中で開花したブランの天賦の才は、七千の護衛達との魂での合一を果たした事も加え、稲妻よりも速く鋭く迸った。
だがそれよりも早く、私が頭上天高く夜天の月をも斬り裂かんと振りあげた竜爪剣が、ブランの頭頂から股間までを縦一文字に断つ方がはるかに速かった。
一筋の朱線がブランの身体を縦に両断するのと同時に、グリーフマリアを振るうブランの腕から力が失われ、私の左肺に迫っていた刃は勢いを失ってだらりと垂れ下がる。
ブランはグリーフマリアを握ったままの右腕で己の身体を巻き、徐々に太くなろうとする朱線の侵食を防ごうとした。
即座に灰となって肉体が崩壊しないのは、ブランが尋常ならざるバンパイアであるからか、それとも私との戦いを望む執念のゆえか。
「まだ、だ。もう……一手、もう一、振りだけで……も……」
竜爪剣の一撃と共に流し込まれた我が竜種の魔力によって肉体のみならず、霊魂も致命的な傷を受けて、肉と霊と魂の全てが言語を絶する苦痛を訴えているだろうに、ブランの瞳にはこの至福の時を今少し、今少しと望む光だけが輝いていた。
私はそんなブランに対し、長剣に流していた魔力を還元し、闘気を抑えて言外に私達の戦いの決着は着いたのだと伝えた。
ブランは私が戦闘態勢を解いた事を目の当たりにしてようやく、それでも子供がするようにかすかに左右に首を振り、全身から力と緊張を抜いて戦いの決着を認めたようだった。
「ああ、もう、終わり……か……」
「そうだ、終わりだよ。バンパイアの王子よ。お前の不死の生命は今、終焉を迎えたのだ。滅びの運命に従うが良い」
「そう、か。楽しかった。この上なく、楽し……かったぞ。ああ、ああ、しかし、悔しいなあ、悔……し……いな……」
ブランはこの残忍な男のどこにと思わせる、あどけない子供のように無垢で澄みきった笑みを浮かべ、私との戦いがこの上なく楽しいものであったと、そしてもう続けられない事と、私に敗れた事が悔しいと、それだけを口にして仰向けに倒れこむ。
そしてその巨躯が地面に触れるよりも早く、ブランの身体は灰となって地面には纏っていた煌びやかな装束とグリーフマリア、そして大量の灰だけが残された。
それから少しして、私は建物の内部に一旦足を踏み入れて、ある者を見つけた。血の道を引きながらここまでやってきて、ついに力尽きたシエラだった。
どうやらブランに心臓を一突きされたらしいシエラは、意識もうろうとしていて滅びる寸前であった。
このまま滅びの運命を迎えさせるべきか、それとも助けるべきか、それを私が思案した時に、塔から無事にファティマを救出して塔からセリナ達が降りてきた。
再び建物を出ると、指一つ動かすのも億劫な様子のファティマはセリナの背に負われていた。魔法を行使するのに杖が重要な要素であるネルと違い、セリナは両手が塞がっていてもそう支障はないし両者の体力の違いも考慮した上での事だろう。
つい先ほどまでブランだった灰と衣服、黄金の魔剣、そして無事な私の姿から、セリナ達は戦いの結末を悟り、一様に笑顔を浮かべて私のもとへと駆け寄ってきてくれた。
「ファティマ、無事とは言い切れないが取り敢えず無事でよかったと言っておくよ」
セリナの背中に背負われたファティマは、バンパイアに血を吸われた犠牲者特有の生気の欠けた、眼に見えそうなほど濃密な死の気配を漂わせた顔に、それでも変わらぬ春の陽射しを思わせるふにゃっと柔らかな笑みを浮かべる。
「えへへ、御迷惑をおかけしましたぁ~」
「ふむ、冗談が言える元気があるのなら大丈夫か。私は見損ねたがネルと涙を浮かべての抱擁くらいは交わしたか?」
「それはもう熱烈なのをこう、ぎゅ~~~ってしたよ~。私の身体が冷たいから、ネルちゃんを驚かせちゃったけど」
ファティマの言葉とは別に、セリナは地面に蟠る灰を見てから、私へと視線を移して頭のてっぺんから両手足の先までつぶさに見つめ始めた。私の身体に傷が無いかを確かめているのだろう。
「良かった。ドランさんにお怪我は無いみたいですね。それにしても、改めてドランさんは凄いと思います。あんなに怖いバンパイアを一人で倒してしまうなんて」
「日々の修練の成果と思っておいてくれ。それよりもセリナ、ファティマをこちらに」
「はい。ファティマちゃん、動くからしっかりと掴まっていてね」
「急いでくれ。あまり時間が無い」
そしてネルとセリナとファティマが扉を潜り、そこで壁に体を預けて、かろうじて滅びを免れているという様子のシエラに気付き、ネルとセリナが警戒を見せ、ファティマは驚きの表情を浮かべる。
「シエラさん!」
「はぁい、ファティマ。ようや……くあの……部屋から、出られたのね。お友……達と再会、出来て、良かった……わ」
「一応言っておくが、彼女の心臓を突いたのは私ではない。傷口に残っている気配からして、ブランだな?」
こくり、とかろうじて見て取れる小さな動きでシエラは首を縦に動かし、血の気の引いた唇を動かす。そこから零れる吐息は蝋燭の火を揺らす事さえできそうにない。
「ええ、私……ずっとあの方に仕えていたけれど……ふふ、いつも復讐してやり、たいと願ってい、いたの。
ごほっごほ、はあ、は……今、まで……機会が無かったけれど、ドラミナ女王陛下と、貴方達がここに来て、ふふ、ようやく機会が巡ってきたの。
ちょっと失敗したから、返り討ちにあって……しまったけれど、ね。でも、貴方が、あいつを灰にしてくれたから、良いかな。これで、ようやく皆の所に行ける」
「シエラさん、駄目だよぉ、そんな事を言っちゃ。まだ助かるかもしれないよ。ほら、シエラさんはバンパイアだから、私の血を飲めばすぐに傷も治るかもしれないよ~」
「許してもらおうなんて、思って、ない……の。ただ……私の罪に相応しい罰を……与えて……欲しかったの。だから、私は……滅びたい」
「だめだよ、そんなの。自分から滅びたいなんて、言っちゃだめだよぉ……」
恥も外聞もなく泣きじゃくり、シエラの滅びをと望む思いを必死にファティマは否定した。シエラは涙の流れ続ける瞳で、そんなファティマに慈愛に満ち溢れた視線を向けていた。
シエラ自身は滅びを、ファティマとリタはシエラの生を望む。相反する二つの願いを前に、私はいつもの口癖をいつもより重々しく口にした。
「ふむ。ファティマ」
「?」
「もしこの女性を助けたいとの本心から望むのなら――」
そして私はファティマに対して、極めて重大な決断を提案したのだった。
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第三十七話
レニーアがジオールによって落とされたのは、ダークロア城の地下三百メートルに存在する四方十キロメートルの広大な地下空間であった。
厩舎と呼ぶには憚られる場所である。
ここに閉じ込められているのはただの魔獣ではなく、全てが複数の魔獣を、魔法を用いた外科手術によって継ぎ接ぎにされた、キメラである事と、それらが牢に閉じ込められる事も無く放し飼いにされて、飢えを満たす為に常に殺し合いを続けているのだから。
ちょうど厩舎にして残酷なコロシアム、そして広大すぎる牢屋の中心にレニーアはいた。
「はあ、はあ、はあ、忌々しい。この私が、破壊を司る大女神に創造されし神造魔獣たる私が、こんな不出来で醜い造り物の魔獣共を相手に、こんな無様な!」
レニーアが唯一力を失わず、殺意が凝縮して形を成したかのような瞳で周囲のキメラを見回し、屈辱に綺麗な歯並びの白い歯を軋らせていると、不意にキメラ達の包囲の輪の一角が崩れる。
レニーアの正面に陣取っていたキメラ達が怯えるような様子を見せると左右に退き、月明かりのような淡い光だけでは払えぬ深い闇の奥から、地揺れのような足音を立ててひと際巨大なキメラが姿を露わにした。
太い四肢が歩む度に五本の指から伸びる鉤爪が金属製の床を抉り、小山のような巨体を覆う黒い鱗は一枚一枚が磨き抜かれた鋼の光沢を帯び、はたしてどのような機能があるのか巨体のそこかしこから無数の突起が伸びている。
竜を素体としたキメラだ。
「貴様、キメラごときが、私を食ってしまおうなどと、ましてや、ましてや、竜だと。私の目の前に竜の姿をした者が、私の前に立つだと!?」
怒りと共に立ち上がったレニーアに、無造作に振りあげられたキメラ竜の右前脚が無慈悲に振り降ろされた。
どうやらキメラ竜はレニーアの原型を残したまま食べる事に拘泥はしないようで、自分の前足で跡形もなくぐしゃぐしゃに潰れたレニーアの挽肉で構わないらしかった。
だが全身の筋繊維が鉄で出来たキメラも、体組織が岩石で出来た半無機物半有機物のキメラも、超重量と竜種の膂力、そして自然と纏う魔力によって一撃で粉砕してきた前脚から伝わる異様な感触に、キメラ竜の顔つきが変わった。
敵対する何者をも打ち殺してきた足から伝わるのは、レニーアの華奢な体躯ではあり得ぬ圧倒的な質量と巨躯を備えた生物を打った時の感触。
「不愉快だ、不愉快だ、不愉快だ。貴様らも、貴様らを作りだしたあのふざけた寄生虫も、人間なぞに殺され、挙句人間に生まれ変わった私自身も! 貴様ら全部、殺してやるうぁあああああ!!」
ボッと音を立ててキメラ竜の前脚が引き千切られて、はるか彼方へとくるくると回転しながら舞っていく。
驚愕に四つの瞳を見開くキメラ竜の頭部が、下方から掴まれるや堅固な鱗と筋繊維、頭蓋骨によって護られている筈の頭部が熟れ過ぎた果物が潰れるように、呆気なく握り潰されて、真っ赤な血に塗れた肉と鱗と骨の破片が辺り一帯に飛び散った。
キメラ竜の右前脚を引き千切ったのも、キメラ竜の頭部を握り潰したのも、レニーアの振るう念動獣の腕に酷似した別の何かの腕であった。
キメラ竜の巨躯にも引けを取らない巨大な生物の腕が、突如出現してキメラ竜を呆気なく葬って見せたのである。
形状こそ念動獣の腕と変わらぬままだったが、半透明の筈の念動獣の腕は今や骨格、神経、血管、筋肉とが虚無から生じて腕の内側を満たしている。
「があああああああああーーーーーーー!!!」
爆発的な魔力の奔流がレニーアを中心として四方に広がり、山と積まれていたキメラの死骸も、ボスが唐突に葬られた事に唖然としていたキメラ達も纏めて吹き飛ばされる。
轟々と嵐の如く荒れ狂う魔力の中心に、レニーアを中心として異形の影が徐々に実体を得ていった。
キメラ竜にも劣らぬ巨体は純白の雪を思わせる白い竜に酷似した姿だ。
肩の付け根と背中の中程から透き通った皮膜の四枚の翼が伸び、全身は鱗というよりも甲殻、甲殻というよりも装甲のような表皮によって覆われていて、胸の中央部や額、肩などに合計七つの七色の水晶のような球体が埋め込まれている。
これこそがレニーアの魂の姿。神造魔獣として産み出されたレニーアの本来の姿であった。
激昂する魂が遂に肉体の殻を破り、魂に記録されていた情報を設計図にして元素界から元素を抽出し、レニーア自身の魔力もまた材料として神性を備えた強大なる魔獣が復活を果たしたのである。
理性を失った様子のレニーアは、自身が夢にまで見た前世の姿を取り戻した事さえ気付かずに、目に付く端からまだ数多残っているキメラ達へと襲いかかった。
そこから始まったのは虐殺の只一言で事足りる。
キメラ達はそれぞれが複数の魔獣の異能と特性を併せ持った強力な魔獣だが、彼らの中で永らく頂点に君臨していたキメラ竜を一撃で葬ったレニーアに敵う個体はない。
七つの首の先に獅子、虎、狼、単眼の巨人、あどけない童女、蝙蝠、魚の頭を持ったヒドラの首を全てもぎ取り、巨大な胴体を真っ二つに引き裂いたところで、ようやくレニーアは理性を取り戻した。
「ッ!? ふふ、ははははは、あははははははははははははははははは!!! そうか、そうか、遂に取り戻した、取り戻したぞ! 私の身体、私の翼、私の腕、私の尻尾、私の力! そうだ、これだ、これが私だ。
最古の偉大なる邪神の眷属、悪しき神の剣にして盾たる私! 貴様ら、よくぞ私に力を取り戻させる助けとなった。褒美にこの力で殺してやる。踏み躙ってやろう、くはははははは!
そうだ、あの不遜な吸血鬼の王、寄生虫の親玉にも礼をしてやらねばならんなぁ。私の本来の力と姿とを取り戻した以上はあ奴に己がなにを敵にしたのかを思い知らせ、たっぷりと後悔させ、命乞いをさせてから灰にしてくれるわ」
ズン、と音を立てて金属の床がレニーアの足に踏まれてその形に窪む。
レニーアを遠巻きに囲んでいたキメラ達が、突如目の前に出現した圧倒的強者という恐怖と死の具現者に怯え、じりじりと後じさりを始める。
もちろんレニーアに彼らを一匹足りとて逃がすつもりはない。ようやく取り戻した念願の姿と力だ。
不意にその重々しく残酷な足音が絶えたのは、レニーアの足が十歩目を数えた時である。
レニーアは神造魔獣としての超霊的知覚が閉ざされ、溢れんばかりの力が巡る体が急速に萎んでいく感覚に襲われた。
ある最悪の考えが脳裏に閃いた時にはもう、レニーアは元の世に二人と居ない職人が拵えた人形のように整い過ぎた美貌を持つ、可憐な少女の姿へと戻っていた。
「な、ば、馬鹿な。ようやく、ようやく我が姿と力を取り戻したというのに、この器に戻るだと!? くそ、まさか一時的にしか肉体の殻を破れなかったのか?」
しかもわずかな時間とはいえ神造魔獣としての力を振るった反動によって、レニーアの人間の肉体はぴくりとも動かせぬほどに疲弊しきり、レニーアは膝から崩れ落ちると体を支える事も出来ずに、そのままうつ伏せに倒れ込んでしまった。
「おのれ、おのれ、おのれおのれおのれおのれ! ようやく力を取り戻したというのに、こんな場所で、このような奴らに食われて果てるだと!?」
だがこの時、彼らは両者共に気付いてはいなかった。レニーアの虐殺の流れ弾によって、決して壊れぬ筈の天井の一部が崩落して、月光が差し込んでいる事。そしてそこから、たった今、一つの人影が飛び下りてきた事を。
「先程の力からして放っておいても大丈夫と思ったが、なるほど、いまだ完全に解放されていないか。似たような身の上としては同情を禁じ得ん。レニーア、随分と苦労しているらしいな」
ドランである。救い主ではあるが、別に頼んで助けて貰ったわけではないと、レニーアがドランを見る目は敵に対するのと等しい。
「なに? 似たような身の上だと? 貴様、何を言っているのだ」
「あまり気にせんでくれ。大したことではないよ。しかしどうやら指一本動かすのも苦労している様子。ここは私が引き受ける。すぐに済ませるがそのまま少し休んでいなさい」
「助けてくれと頼んだ覚えはない。ましてやこのケダモノ共は、質はともかくこれだけの数が残っていては人間では相手にならん。人間なら人間らしく私の事は見捨てて、さっさと逃げ出すが良い」
「歯に衣着せぬ物言いだな。それでは友達も出来まい。一人ぼっちというのはかっこよく見えるかもしれんが、ふとした時にどうしようもなく寂しくなって、中々辛いものだぞ」
余計な御世話だ、と吐き捨てようとしたレニーアは眼前のドランから噴き出した人間ではない何者かの魔力に、息を飲んで見開いた。
こちらの魂にまで浸透してくるかのような魔力は、これは決してこの地上世界の存在では備え得ない高次元存在の力。
いや、待て、とレニーアの脳裏で自分の声が囁いた。ドランは言ったではないか、似たような身の上だと。ならば目の前のレニーアがどうしようもなく苦手だと感じている相手は、自分と同じ――
「転生者か!?」
「おそらく前世では味方では無かったと思うが、そういう事だ」
そしてドランは周囲を囲むキメラ達へと挑んでいき、戦いは確かにドランの言う通り、すぐに終わった。
キメラ達に対し数回竜爪剣を振るい、何度か攻撃魔法を唱えただけでレニーアの血肉を求めてキメラ達は、もの言わぬ骸と化してしまったのだった。
竜種の魔力を抑え、全てのキメラの駆逐を確認したドランは、床に手を突いて上半身を起こしたレニーアを振り返し、目の前で膝を突いてぼうっとしたレニーアの顔を覗きこんだ。
「ふむ、どうかしたか? 血の臭いに酔ったわけでもあるまい」
「あ、い、いや、なんでもない。それよりどうしてここが?」
「さっき降りてきた時に言っただろう。君の魂が爆ぜる様にして力を増したのが、地下から伝わってきたのと、ちょうど穴が開いたのでそこから様子を見に降りてきただけだよ。
君が途中で人間の姿に戻ったのを見て、これはまずいと少し急いでな。取り敢えず魔力の消耗と、一時的に魂を解放した反動で肉体が疲弊し切ってはいるが、それ以外に問題は無いな。立てるか?」
ドランの問いにレニーアは床を突いていた手を震わせ、何とか下半身を動かそうとするが、そうする体力も気力も無く、震えるばかりで立ち上がれる様子はない。
ふむん、とドランは呟くとレニーアの身体の下に素早く自分の身体を潜り込ませると、レニーアが抵抗する間もなく軽やかにレニーアの身体を背負って立ちあがった。いわゆるおんぶである。
「わ、こ、こら何をする」
「何をと言われてもおんぶだ。君とて人間に生まれ変わったのなら、赤ん坊の時に一度くらいはしてもらった覚えがあろう。上に着いたら降ろすから、暴れてくれるなよ」
「む、むう。……貴様、いや、お前、あの力は竜か? それも今の古竜などとは違う、本当の古き竜の力だ」
気味が悪いくらいに急にしおらしくなったレニーアが、ドランの背中でおずおずと質問をしてきた。前世が神造魔獣ならば、竜界に住まう高位竜族の力を知っていても、まあ、おかしくはない。
「そんなところだが、この事は魔法学院の皆やセリナ、故郷の家族にも内緒にしているのでな。決して口外はしないで欲しい」
天井に穿たれた穴を通り抜けると、そこはファティマが幽閉されていた尖塔がある中庭の片隅に繋がっていた。
ドランがファティマ達をシエラに会わせた直後に、地下へと繋がる穴が穿たれたのだった。
穴の縁には二頭の石材と土で出来たホースゴーレムと、それらの牽く馬車があり、馬車の傍らにはセリナとネルがドランの帰還を待っていた。
馬車の中ではジオールの口付けを受けたファティマがぐったりと身を横たえている。
「怪我はしていないが、衰弱が激しい。セリナ、ファティマと同じように寝かせておいてあげてくれ」
「はい。でも、本当にドランさんお一人だけで、行かれるのですか?」
「ああ。ブランは片付けたがまだファティマの血を吸ったジオールとかいうバンパイアが残っている。そいつを片付けない限り、ファティマが何時自分から赴くか分からんし、逆にどこに居ても場所が分かってしまう」
血を吸ったバンパイアと吸われたバンパイアとには魂の領域で一種の繋がりが出来、どれだけ離れていても血を吸った相手の言葉や意思は犠牲者の許に届いて、犠牲者の位置をバンパイアに知らせてしまう。
「でもいくらブランを倒した君でも、バンパイアの王を倒すのは……」
「ネル、なにも私自身が倒す必要はないよ。すでにバンパイア・クイーンであるドラミナが私達に先んじて城内に侵入している。
私は彼女にささやかな手助けをするか、あるいは故国の仇を討つのを見届けるだけで済むと思っているし、危険な真似はしない」
あくまで柔らかに、しかし厳として威厳を曲げる気配の無いドランに、セリナが諦めをないまぜにした溜息を吐いて、悲しげに唇を開く。他者を思いやる心の無いものでも、はっと胸を突かれて同情を寄せるような、悲しい声。
「ドランさんは、いつでもそうです。普段は誰でも受け入れるくらいに心を開いているのに、ふとした時に誰も踏み込めないような壁を感じます。
私達の身の安全を慮っての事と分かっていても、そんな風に言われるとどうしても寂しく思います。その事を、どうか分かってください」
「セリナ……」
「いいえ、ドランさんが私達の事を考えての事だとはよく理解していますから、謝らないでください。ただ絶対に生きて帰ってきてください。こんな風に言っておいて帰ってこなかったら、とってもかっこ悪いんですからね」
悲しげに、儚く、それでも笑みを浮かべるセリナを、ドランは美しいと思い、そして堪らない愛おしさを感じていた。
「ああ、約束する。必ずセリナの所に帰ってくる。まだまだセリナや、ネルやファティマ、クリスティーナさんと一緒に生きていないし、魔法学院で学びたい事も山ほどあるからな」
「はい。何時もみたいにけろっとした顔で、ふむって言いながらお帰りになるのを、皆さんと一緒に待っています」
ドランしか知覚してはいなかったが、いよいよドラミナの気配がジオールのそれと接近しつつあったのだ。二人が邂逅するのも時間の問題だ。
「ではそろそろ行く。ネル、道中、敵が出て来るとは思えんが、万が一に備えて頼むぞ」
「ん、任せて。全員、傷一つ着けずにフラウパ村に送り届けるから、ドランもセリナとの約束をきちんと護るように」
ああ、とドランが微笑と共に返事をするのを聞き届けてから、ネルは御者台に腰掛け、セリナはレニーアを抱えたまま馬車の中へ入る。
すぐにネルが手綱を打ち、ホースゴーレムに前進を命じた。ホースゴーレムは即席の品ではあったが、ネルの命令と意図を実によく読み取り、忠実に従った。即席にしては出来が良い。
徐々に去りゆく馬車の中で、硝子の嵌めこまれた窓に顔を寄せたレニーアが、同じ馬車の中に居るファティマやセリナにも聞こえない声で、小さく呟いた。
「お前、いえ、貴方は、貴方様はもしや……」
レニーアの呟きはドランにも届く事はなく、ドランは馬車が遠く離れて見えなくなるまで待ってから、再びブランが姿を見せた扉を目指して歩を進めた。
*
さして歩く事もなくドラミナは階段の前で一旦足を止めて、その先に感じられるジオールの凶悪無残な気配を浴び、いよいよかと口の中で零した。
国と民の仇まであとほんの少し。こうなった時、自分の心は何を感じるのかと考えた事が幾度かあった。
憎しみが一層強くなるのか、それとも悲しみが深まるのか、怒りが燃え滾るのか。
どれも違った。ドラミナの魂を襲ったのは疲れであった。復讐の根源となる力や熱意を生む、更なる憎悪も悲哀も怒りも無かったのは、意外でもあり、ああやはりと思う自分もいた。
「ジオールよ、妾は貴様が憎い。必ずや滅ぼしてくれる。そして民と国を守れなかった愚かな妾も、その暁には自らを裁こう」
ああ、やはりドランが考えた通りにドラミナはジオールへの復讐を果たした後には、もうこの世界に何の未練はなく自らの手で自分を滅ぼすつもりなのだった。
やがてドラミナは階段の頂きに辿り着いた。そこは開けた場所だった。四方に壁は無く天井も無い。
ドラミナは舞台の中心で腕組みをしてこちらを待っていた巨漢にのみ、視線を向けた。ジオールである。
レニーアとの戦いによる消耗は一切感じられず、分厚い唇は獰猛な笑みを浮かべている。どんなに凶暴な肉食獣も、この笑みを向けられれば食われるのは自分だと悟るだろう。
「久しいな、ドラミナ。相変わらずの美しさ。月が女に化ければお主のようになるであろうな。もっとも顔の半分だけだが」
階段を昇り切った所で足を止めたドラミナへと掛けられたジオールの言葉は、親しいものへ対する友愛と、その奥に隠した侮蔑とに塗れていた。
「貴様も変わらぬ。変わらぬ傲岸な物言い。貴様の声なぞ耳にするも不愉快。貴様はただ滅びる間際の断末魔の悲鳴だけを妾に聞かせよ」
「妾? ははははは、なんだ、ドラミナよ。お主、自分の事を妾などと言っているのか? 以前は余などと肩肘を張って女だてらに口にしておったではないか。
ああ、なるほどなるほど、国を守れず滅ぼされた事に責任でも感じて、己を貶めて戒める為に、妾などとへりくだった物言いをしておるのか。まったく面倒な心根の女だ」
「不愉快と言ったぞ、ジオール?」
ドラミナが一歩を踏み出した。ただそれだけでざわりと場の雰囲気が豹変した。
「ふん、せっかちな女め。男を急かす女は好かぬ。まあ、お主と旧交を温めるのが余の目的というわけでもなし。
では、お主の本懐を果たせぬと存分に思い知らせてくれよう。床に這い蹲るお主を嬲るのを、夢にまで見て楽しみにしておったぞ」
ドラミナとジオールは同時に動いた。それまで無手であった二人がほぼ同時にある名を叫ぶと、それぞれの手に武器が握られたのである。
「
ドラミナの両手には、昼に生きる者に安らぎを齎す夜の闇を形に変えたかのような柄と、三日月の怜悧さと美しさを兼ね備えた刃を持った大鎌が、月光を柔らかく跳ね返しながら虚空から出現し、対するジオールの右手には
「
ドラミナの大鎌と異なり、石突きから穂先に至るまで見る者に深淵に飲まれるような恐怖を与える漆黒に染まった、太い長槍が握られていた。
両者の携えたる武器こそが始祖六家の所以。国名の名となり始祖より六人の子らに下賜された国王の証にして、神代より伝わる神器。
各時代時代の王のみが前代の王より受け継いできた王の証であり、同時に始祖の血を引く最も高貴なるバンパイアの血統のなによりの証明でもあった。
ドラミナが動いた。ジオールも動いた。バンパイアの王族に相応しく、音も無く、影も無く、ただ静かに、月だけが見守る舞踏会の一幕の如く優雅に。
月は見た。三日月の刃が半月の軌跡を描くのを。漆黒の闇が月光を貫く一筋を描くのを。
全身の柔軟なバネと筋力の爆発を以て振るわれたヴァルキュリオスは、ドラミナの心のままに一切の容赦なくジオールの首を刎ね、同じくグロースグリアもまたドラミナの腹を穂先の根元まで水を突くように貫いて背から飛び出る。
どちらも致命の一撃。しかし二人は一瞬の停滞も無く動き続けた。ジオールの首に描かれた横一文字の朱線はすうっと消えて、ドラミナが後方に飛び退いて槍を引きぬいた直後には、バンパイア・クイーンの腹に開いた大穴は瞬時に埋まっていた。
ドラミナの身体は川面に跳ねて月光と水滴のドレスを纏う若鮎の如くしなやかに動き、ジオールは大山の迫力と獰猛なる肉食獣の瞬発力で合わせた。
三日月の刃がジオールの首を刎ね、腕を落とし、胴を薙ぎ、足を落とす。
闇の穂先がドラミナの胸を突き、腹を貫き、足に大穴を穿つ。
幾度も幾度も繰り返される死の応酬。
互いを滅ぼさんと振るわれる一撃は、しかし不死者が自らの不死なる事を月に誇る、不気味でおぞましく、それでいて目を離す事のできない妖しい舞踏であった。
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第三十八話
ドラミナは唇の端から鮮血の筋を零しながら、細剣から巨大な戦鎚へと形を変えたヴァルキュリオスをどれほど憎もうとも憎み足りない怨敵の頭へと全力で叩きつける。
闇色の大戦鎚が命中した瞬間、ジオールの頭部のみならずグロースグリアを握る両腕を含む四肢の末端に至るまでが、瞬時に砕け散って血の霧と化した。
ドラミナの振るった一撃の破壊力の余波が、ジオールの頭部を叩き潰すだけでは物足りずに、その全身を破壊し尽くしたのである。
ジオールは血の霧と化したまま、ドラミナの背後へと回り込んでいた。
即座に反応したドラミナは、今度は大戦斧へと変えたヴァルキュリオスをジオールの右頸部に叩き込んだが、首の半ばまで刃が食い込んだところで横殴りにグロースグリアを叩きつけられ、脊柱が粉々に砕けて内臓が一斉に破れる音を聞きながら、舞台の端ぎりぎりまで吹き飛ばされる。
「おかしい、そう顔に書いてあるな、ドラミナよ」
「ジオール、貴様、一体何をした? お前は明らかに妾の知る貴様ではない。いずれかの邪なる神々と下種な契約でも結んだか」
「くく、そのように邪推するものではないな、ドラミナよ。いいだろう、いいだろう。かつては他の三家と手を組まねば戦いを挑めなんだお前を、今や余只一人で追い詰められるこの状況は、実に心地が良い。故に戯れに話をしてくれる」
にいっと目撃した者を戦慄させる笑みと共にジオールが前へ出た。
ドラミナまでは五十メートルはあるにも拘らず、ジオールから伸びたグロースグリアの穂先は正確にドラミナの左肩を貫き、鮮血を夜の空に散らす。
「ドラミナよ、余はな、およそこの世で余の思い通りにならぬ事があるのが気に食わん。
咽喉が渇けばいくらでも女の咽喉に牙を突き立てて芳しい血を飲み、眠りたければ棺の中で飽きるまで眠り、殺したければ理性など放り捨てて殺し、犯したければ望むままに犯したい。
しかしこの世には我らロイヤル・バンパイアであっても、敵対すれば滅びを覚悟せねばならぬ様な強者が存在しておる。
例えば竜種を束ねる三竜帝三龍皇、神代から生き延びた古巨人、邪神達が遣わした太古の魔物共。余はそれが気に入らぬ、断じて許せぬ」
己の意に染まらぬ存在が居る。ただそれだけの事がどれほどの怒りと屈辱を覚えているものか、ジオールの形相は悪鬼羅刹のそれ、あるいはそれらが怯むほどに歪んでいた。
「我ら始祖六家は始祖から分かたれた六つの血族。元を辿れば同じ父、同じ母を持つ兄弟姉妹の間柄よ」
「くっ、それがどうかしたか!? バンパイアならば幼子であろうと知っている事に過ぎぬ」
ドラミナは崩れ落ちる体を蛇腹剣へと変えたヴァルキュリオスの切っ先を手元に引き戻すのではなく、切っ先に柄とそれを握るドラミナが引かれるように動かし、脳天を砕く為に振り下ろされたグロースグリアを回避する事に成功する。
「我らバンパイアの歴史において最も優れたるは始祖。余は地上全ての生命の上に立つ為に、まずはバンパイアとして最良最強を目指す事にしたのだよ。つまりは始祖と化す事、始祖と等しくなる事。
分かるか、ドラミナ。余が目論んだのは分かたれた六つの血の統合と、神器の回収。真っ先に狙ったのは後にも先にも最強の敵たるお前だ」
ジオールの考えを耳にした瞬間、ドラミナの無事な右目が驚愕に見開かれる。それほどまでにジオールの考えは、ドラミナの理解を超えたものだったからだ。
血の統合? 神器の回収? 始祖と化す!?
「貴様、新たな御始祖となる腹積もりだというのか!? なんと不遜な、畏れ多い考えを……」
「ふん、父祖に対する狂信的な崇敬なぞ糞くらえよ。今を生きるものは常に前を見て、未来に進まねばならんというのが余の持論だ。
もっともお前の血と神器を手に入れんとする余の目論見は、お前の家臣達に阻まれてしまったが、幸いにして他の四家の者共の血と神器は既に我が掌中よ。
やつらはお前と比べればはるかに弱く、隙を突いて血を飲み、心臓に杭を打ち込むのは実に容易かった。これが同じ始祖六家かと思わず嘆いたぞ。ふふ、最もやつらとお前とでは比べる相手が悪いな」
「狂っている……そう言えれば、まだ良かった。貴様は本気なのだな。本気でバンパイアの頂点に君臨し、御始祖に成り変わらんとしているとは」
「はは、他の六家の者共も余の真意を聞かされると似たような言葉を吐いたぞ。お前も存外、並みな所もあるようだな。だが余の狂気を狂気ではないと断じたのはお前が初めてだな。
余は本気だ。本気で狂っておるのだろうし、本気で目論んでおるし、本気で実現するつもりでおる。まずは始祖と同じ領域に辿り着き、ゆくゆくはこの地上に遍く生きる生命全ての頂点に君臨する不死者となろう」
「ジオール、我が怨敵よ。何故そのような妄執に固執出来るというのか。六家の血を吸う事で血の統合を果たし、御始祖の領域に上り詰めるなどと、一体どうすればそのような妄想を信じられると言うのだ?」
「お前がそう言うのも分からぬではない。貴様も知っていよう。我がグロースグリア家の祖たるヴェルダーシュ・ザ・グロースグリアは、始祖の六人の子らの中で最も野心に満ち溢れ、危険視されていた鬼子よ。
余は王位を継いだ際、代々の国王のみが閲覧できるヴェルダーシュの遺品に目を通し、彼が生前研究していたある実験の記録に目を止めた。それが分かたれた始祖の血の統合だ。
己の代では血の統合が叶わぬと悟ったヴェルダーシュは、子孫に自分の野望を託したのだよ。
最も余以前の腑抜けた国王達はあまりに畏れ多いと、自分達の胸の内にだけ留めて口外する事は無かった。まったく愚かしい話よ。
至高の血、最上最古の血脈などと言うが、なにもそれを六つに分かたれたままにする必要などない。一つに纏めようと考える事さえ、恐れるとは」
「だが時に六家の者同士で婚姻が結ばれ、血が交わる事もあったはず」
事実、六家の者で遠縁に当たる者やあるいは国王の兄弟姉妹などが、他の六家の下に嫁ぐなり婿として迎い入れられる事は、政治的な観点も含めて幾度かあった事だ。
「単に六家の血が交わるだけでは意味を成さぬのだ。神器は代々の国王の血に宿る。統合すべきはその神器を宿した国王の血。その血を灰となって滅びるまで吸い尽くさねばならぬ。
ドラミナよ、既に余にはヴァルキュリオスを除く五つの血と神器が宿っておる。だが五つの血を宿してなお余が扱えるのは、元より受け継いだグロースグリアのみ。
その他の神器は全ての血を統合し、始祖と同じ血を得てからなのだよ。後一つ、たった一つの血を得れば、余は第一の目標を達成する事が出来る。
余は欲しいぞ、お前の血が。お前の血に宿る神器が。お前の血を吸う事で得られる始祖と同じ力が。そして美しいお前そのものがな。
月に愛でられた御子と謳われたお前の美貌が、灰と崩れる様を夢にまで見たのだ」
ジオールがまた一歩を刻む。
うっとりと己の野望に酔いしれるように恍惚とした顔つきで、それでいてたとえ天から稲妻が落ちてきてもグロースグリアの一閃で迎え撃てるほどに、全身の神経を鋭敏に研ぎ澄ましている。
ドラミナはほんのわずかに息を深く吸った。脈打たぬ心臓が送り出す冷めた血が全身を巡り、新たな気力と力とが漲るのを感じた。
「今の貴様でさえあらゆる生命にとって、存在することそれ自体がもはや害悪。
それが妾の血を吸い、神器を手に入れ、目論見を実現したとなればこれは御始祖にも、そして我らの創造神にも顔向けできぬバンパイアという種族の汚点となろう。
ジオールよ、妾は今改めて貴様を滅ぼさねばならぬ理由が増えた。貴様の恐るべき、しかし愚かな妄執は、ここで妾が断つ」
「ふふん、威勢は良いがはたして断てるか? いまだ不完全ながらも五つの血を統合した余の力は、この通りお前を凌駕しておる。
始祖の再来と言われてもお前に身に流れる血はヴァルキュリオスただ一つ。それではもはや余には及ばぬと知れい!!」
ジオールは王者に相応しい悠然とした歩みから、怒号と共に一気に駆け出した。
その身に最強最古のバンパイアの血脈を五つ宿す吸血魔王に、闇が怯える。風が怯える。月光が怯える。
突き出されたグロースグリアの穂先が、ドラミナのヴェールを引き裂き、その下に隠されていた焼け爛れた顔が暴かれる。
かつて故国が滅ぼされた折りに、目の前のジオールにより焼かれ、腐った決して治らぬドラミナの左半顔である。
ドラミナが空中を吹き飛んでいる間に魔力で足場を作るよりも、ジオールの詠唱と魔力の高まりの方がわずかに、しかし確かに速かった。
魔法か!? とドラミナはヴァルキュリオスを盾に形状変化をさせて構え、魂と肉体の魔力を励起させて次の瞬間に襲い来る魔法の一撃に備える。
ジオールの口から零れたのは詠唱を省いた魔法名のみであったが、魔力そのものを術式として複雑に編み込む事で、まるで詩のように長く韻を踏んだ詠唱の代用として機能させる信じ難いほどに高度な技術である。
傲岸不遜にして野卑なる吸血魔王は極めて優れたる戦士であり、同時に等しく優れたる魔法使いだったのだ。
グロースグリアは、この地上に生きるあらゆる種族が人工的に製造できる魔法杖などまるで比較にならぬ魔力増幅機能と負荷軽減を発揮し、ジオールの魔法行使を大きく助けた。
「ジオ・グラビオン!」
盾にではなく全身に重圧が掛るのを感じ、魔法名と合わせてドラミナはジオールが行使したのが、時空間系の魔法と並び制御が難しく使い手の少ない重力魔法であると看破した。
いまだ後方に吹き飛んでいる途中であったがドラミナの身体が、見えない巨人の手に押しつけられているかのように継ぎ目の無いし白い舞台に叩きつけられる。
腹の底まで震わせる轟音と共にドラミナの身体が舞台にめり込み、瞬く間に舞台に罅が広がって、崩壊が進んでいく。
「ぐう、ディ、ディスペルを」
「いかにお前とてそう容易くは出来まいぞ、ドラミナ。そうれ千倍、二千倍、三千倍、五千倍だ。
お前の身体はいつまで保つかな? 潰れた蛙のようになったお前から血を吸うのもまた一興よ」
ドラミナの身体の下に黒い魔法文字といくつもの円環によって構成された魔法陣が描かれ、魔法陣内に捕らわれたドラミナの女としての理想の一つと言える美躯に、ジオールの言葉通りに五千倍にも達する重力が襲いかかる。
「くっくっく、意地でも余の前で膝は屈さぬか。実に気丈な事よ。もっと心が弱ければ楽な生き方と滅び方を出来たであろうに。自ら要らぬ苦労を背負う女子よな。
さあ、もっと重くするぞ。耐えてみせい、耐えてみせい、それから骨と血と肉のスープになれ。そこから元に戻るお前の首に口づけてやろうほどに。ほうれ、一万倍だ!」
「ぐうぅっ!?」
漏らした声も潰れ、唇から吐いた血はびしゃりと音を立てて魔法陣にぶちまけられ、一万倍の重力に潰れる。
「骨が砕けているな。砕けた骨が胃を貫いたか? 肺を切ったか? 口の中は血で溢れていよう。
口中の血を飲めば少しは痛みが紛れるかもしれんぞ? さあ、どうする、ドラミナ。これで終わる女ならば、実につまらんぞ」
刻一刻と潰れゆくドラミナの口元が動いた。口と言わず全身のありとあらゆる皮膚が破れ、しとどと血に濡れている。
ドラミナの唇の動きから、ジオールはこれを詠唱と看破した。この状況で魔法を放とうと、グロースグリアが増幅した魔力が極めて堅牢なる魔法障壁を展開し、ジオールの身を守る。
ましてやジオールは不死者だ。いまや最上位のロイヤル・バンパイアたるドラミナの一撃を受けても、まるで問題無く再生できる。一体どんな攻撃を恐れる必要があるだろう。
確信のある余裕をもって眺めていたジオールの顔つきが変わったのは、ドラミナの鮮血に濡れた唇の詠唱が、自分の行使した魔法と同じである事に気付いた時だ。
「貴様!?」
「おお月の光よ 真なる闇の中では汝さえ重さを持つ 月の涙よ 天より落ちてかの者を大地へ縛り付けん ジオ・グラビオン!」
ジオールの超重魔法に更にドラミナが行使した同じ魔法が重ねられ、ドラミナを襲う重力が倍以上に膨れ上がると、それを支える魔法陣が過剰な負荷に耐えきれずに幾億粒もの光の粒子へと変わる。
次いで魔法陣の受け止めていた重力は舞台へと襲い掛かり、加速度的に増して瞬時に崩壊させる。
いや、舞台の崩壊のみに留まらず急激な重力変化は、ドラミナを中心に光さえ飲み込む特異な球体の空間を形成して、周囲にある全てを貪欲に飲み込み始める。
「ええい、奈落穴か!?」
奈落穴、魔法の極意に精髄した一部の魔法使いや賢者が知る現象のひとつであり、あるいはブラックホールと呼ばれる超重力の牢獄である。
漆黒の表面を境目にして万物を削り取り、後には何も残さぬ球体が存在したのは刹那にも等しい短い時間だった。
だがその時間だけでも円形の部隊の八割ほどが飲み込まれ、ざっくりと円形に抉られており上空から俯瞰すれば三日月のように形が変わって見えるだろう。
その舞台の端に立つジオールは、ドラミナが倒れ伏していた筈の空間を睨みつけ、すぐにその下へと転じる。
奈落穴の影響によって眼下の大地も大きく陥没して、城の地下に広がる空間へと落ちたようだ。
あとわずかなところで長年追い求めた至上の獲物を取り逃した事に、ジオールはこめかみに太い血管を何本も浮き上がらせて、ドラミナを追わんと舞台の端から飛び降りようとしたが、不意に膝を折るとその場にがくりと片膝を突く。
ぬう、と短い声を零してジオールは苦く笑う。
「ええい、流石と言うべきか、ドラミナめ。やはりあれは恐るべき女だ。限りなく始祖に近づいた余の肉体をここまで痛めつけるとは……」
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第三十九話
一度は暗黒の底へと落ち、二度と浮上する事は無いかのように深い眠りに就いたドラミナの意識は、急速に鮮烈なまでに覚醒を果たした。
そして唇に温かな液体が少量ずつ流し込まれて、自分の咽喉がゆっくりとそれを飲み続けている事にも。
「ふむん、目を醒ましたか。私が分かるかね?」
ぱっと開いた瞼の先には、今夜知り合ったばかりの人間の男の顔があった。ドラミナの意識が覚醒した事が嬉しいのか、ほんの少しだけだが口元に笑みが浮かんでいる。
「ドラン?」
「その通り。もう少し早く来られれば良かったが……」
意識は鮮烈としているが状況が今一つ飲み込めずにぼんやりと呟いたドラミナは、つい先ほどまで自分が飲んでいたのが、ドランが斬り裂いた右の掌から溢れる血潮であった事を理解する。
ドランはドラミナの口元から右手を離し、その代わりに幼子をあやすようにして左手でドラミナの頭を愛おしげに撫でている。
「もう少し飲んでおいた方がいい。私が見つけた時には、かなり危険な状態だった」
「いや、妾は……んむ!?」
ドラミナなにか抗弁しようとするよりも早く、再びドランが右手をドラミナの口元に寄せて、斬り口から溢れる血潮を流し込む。
抗おうとしたドラミナであったが、芯まで痛めつけられた肉体と霊魂は、若々しい生命力に満ちた男の血を貪欲に求め、ドラミナは赤い頬のまま流しこまれる血を飲み続けた。
おずおずとドラミナの唇から舌が伸ばされて、ドランの右掌に刻まれた横一文字の傷をちろちろとくすぐるように舐め始める。
ドラミナがようやくドランの掌から口を離した時、ドラミナは自分が行っていた事に気付いて耳の端まで真っ赤に染める。
ふむ、可愛い所もあるな、とドランは思ったが口にはしなかった。恥じらうドラミナの姿を見ている方が楽しかったからである。
ドラミナはドランに支えられながらその場に立ちあがった。そうした時にはドランと初めて会った時と同じ、数千、数万年以上の歴史が磨き抜いた気品と風格を纏う女王へと戻っていた。
「そなたには恥ずかしいところを見せてしまった」
「恥ずかしがる事など無いよ。傷ついた女性を助けるのは男に産まれた者の役割だ。だが君があそこまで傷つけられたとなると、ジオールとやらは相当の強敵か」
「皆の仇を討つと息巻いて挑んでおいて、この様。愚かと笑われても妾は何も言えない」
「笑いなどはしないよ。ただ君の事が心配なだけだ」
心底からそう思っていると分かるドランの声に、不思議な人間だとドラミナは心を和ませ、そしてはっと気付いた。これまでドランには決して晒さなかった左半顔が、今は露わになっている。
咄嗟にドラミナが左手で顔を隠すと、ドランはドラミナが気にしている事を察した様子で、ふむ、と呟いた。
「そなたには、あまり見られたくは無かった。醜いでしょう? 妾がジオールを滅ぼさんとするのには、この顔の恨みもある」
この世ならぬ美とこの世ならぬ醜とが同時に存在するドラミナの顔を見ながら、ドランはいつものようになんでもないと言う口調で、自分の思った事を素直に口にする。
「ふむ、女性には地獄だろうな。辛いだろう、苦しいだろう。ドラミナ、これまでよく頑張った。それに半分はそうでも、ドラミナの魅力が失われるという事はあるまい。君はとても素敵な女性だよ」
「ふふ、そう言ってくれるか。ありがとう、ドラン。随分と救われた気持ちです。たとえ建て前であったとしても、嬉しく思う」
ドラミナの口元には、何時以来になるのか自分でも分からない朗らかな笑みが浮かんでいた。
だがそれが何時までも許されるわけも無い。ドランもドラミナも本心ではその事をよく理解していた。この穏やかなる空気を破壊する悪意が、ほら、もうそこに居るではないか。
ドランとドラミナは揃って地上へと繋がる階段へと視線を向けた。そこにはバンパイアの神器グロースグリアを携えたジオールが立っていたのである。
思う様バンパイアメイド達の血を飲んだジオールは、既にドラミナとの戦いで負った傷も疲労も癒えている。
「ほう、ドラミナよ。先ほどの戦いの手傷を既に癒したか。そこの男、確かブランの首を断ったドランとかいう男か」
「お初にお目に掛る、ジオール国王陛下。言われたとおり、私がドランだ。それと貴殿のご子息だが私の手で灰にした。仇討ちをお望みならばこの場で承ろう」
「ほう! ブランを滅ぼしたか。見事と褒めおくぞ、人間。所詮、ブランは余を殺して王位を受け継ぐ器では無かったという事よ。
見所はあると思うておったが、滅びたというのならば余の見る目が無かったというわけだ。良い良い。
不老不死たる余に継嗣は不要よ。六家の血の全てを手に入れれば、ますますもって不要。惜しい駒を失くした程度の事ゆえ、そこのドラミナを灰にした後でお前を殺してやろう」
「ドラン、下がっておいでなさい。貴方のお陰で妾にも力が戻りました。今度こそあの男を灰にして見せます。貴方はどうか巻き添えにならぬよう気を付けて」
ドランの前に進み出たドラミナは、自身の肩幅よりも広い幅と身の丈以上の長さの刃を持った大剣を手にしていた。普段はドラミナの肉体と魂に同化しているヴァルキュリオスである。
「手は貸さないし、出しもしない。だがドラミナ、これだけは覚えておいて欲しい」
「なにを?」
「私は君に滅んで欲しくは無い。生きていて欲しいと望んでいるという事をだ」
ドラミナが息を飲んだ。大剣型のヴァルキュリオスを構える細い肩が、小さく震える。
ドラミナは思わず零れ落ちそうになる涙を堪えなければならなかった。
まったく、こんな時になんて事を言うのだろう。本当に、おかしな人間。
ドラミナはかつてないほど晴れ晴れとした気持ちでヴァルキュリオスを構え直した。生きよう、素直にそう思う事が出来た。
生きよう、今を、明日を、未来を。そう心から思う事が出来る事の何と素晴らしい事。
明日を生きようと希望を持つ事が、これほどまでに心を軽やかに、そして力を与えてくれるなんて!
「分かりました。ドラン、約束しましょう。必ずやジオールを討ち、生き抜いてみせると」
「良い答えだ。なら、あのデカブツを灰にしてやれ!」
「はい!」
「ぬかせ、敗残者に餌風情が!」
ぐおうと巨獣の咆哮のごとくグロースグリアが唸り、頭上で大回転させた後にドラミナの頭へと振り下ろされる。
千人でも一万人でも纏めて打ち殺せる一撃を、全身のばねと腰の回転を活かした大剣の一撃でドラミナは弾き返した。
ドランの血を飲んだ事でドラミナの体調は完全に回復し、ドランとの短い会話で精神も持ち直して激しく闘志を燃やしているが、それでもジオールとドラミナとの間に埋め難き力の溝が厳然と広がっている事は変わらない。
打ち合う度にドラミナの身体は膂力で押し負けて大きく泳ぎ、それを技術で立て直すのも回数を重ねるごとに無理が出てくる。
「くっ」
徐々に再生しない傷を抱えていくドラミナに対し、ジオールは終始不死の肉体を誇り、傷は受けた端から嘘であったように消えていく。
「ふふん、傷は癒えたがそれだけのようだな。それでは先ほどの戦いを再現するだけよ。無駄に生命を長らえただけであったな、ドラミナよ。すぐにあそこの人間もあの世に送ってやろう。先に冥界で待っておるが良いぞ!」
「させぬ、もうそのような事は二度とさせぬ。妾は自らの愚かさと無力から国も民も失った。もう二度とあのような事は繰り返さぬ。ドランを殺させはせん。妾も貴様の手になど掛らぬ。もう誰も、失いなどするものか!」
「好きなように吠えるが良い。どうあがこうが、お前は余の牙に掛る運命よ」
ドラミナの戦意は、覚悟は、そして生きるという思いはかつてないほど、魂を高ぶらせている。だがそれでもジオールには及ばない。
二人の間に存在する無情なる力の差が、変わらずに開いているのだ。
グロースグリアがはたして何度目になるのか、ドラミナの胸の中央を貫いて引き抜かれた時、ドラミナの豊かな双乳の中心にはぽっかりと穴が穿たれて、いっかな塞がる気配が無い。
「今度こそ終わりだ、ドラミナよ。余が女にしてから冥界へ送ってくれる」
ぐいとしごいたグロースグリアを、腰を落として構え直したジオールの瞳に何とも言えない残酷無残な、そして好色さを隠そうともしない光が宿る。
ジオールの抱く野望と下種な欲望から、まずドラミナを無力化させる一撃が放たれるだろう。胸の穴が塞がらぬドラミナに、避ける術も防ぐ術も到底あるわけも無かった。
ようやく決着を迎えんとする至高のバンパイア達の戦いに勝敗を着けたのは、しかしドラミナでもジオールでも無く、ドランと言うべきだったかもしれない。
ドランはドラミナやジオールに聞かせるでも無く、こう呟きを洩らしていた。
「手は貸さぬ。手出しもせぬ。だがドラミナに血を飲ませた。この私の血を」
繰り出されるグロースグリア。それを間に合わない、と無念と共に見つめていたドラミナの全身が、ドランの呟きと同時に全細胞が太陽を内包したかのような熱と力に襲われた。
ただの人間の男の血としてドラミナの咽喉を伝ったドランの血は、この瞬間、神も魔も敵すれば抗う術の無い最強の古神竜の血へと変貌したのである。
これまで始祖を含めていかなるバンパイアも口にするのは疎か、匂いを嗅ぐ事もその色の深みを見る事も叶わなかった古神竜の血を、ドラミナはたっぷりと飲んだ状態に変わったのだ。
混沌の海より生じたこの世界の歴史上、初めて古神竜の血を飲んだバンパイアとなったドラミナが吼えた。力が溢れてくる、細胞に火が着いた、などという生易しいものでは無かった。
本来、三次元に属する地上世界よりもはるかに高次の存在である古神竜の血を飲んだドラミナの身体は、文字通り異次元の痛みとも快楽ともつかぬ感覚に襲われ、血肉と霊と魂とに溢れる力に翻弄されている。
「う、うあ……あああああああーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
「むおおお!?」
既にグロースグリアをドラミナのドレスの布地にまで突き立てていたジオールは、突如ドラミナの全身から発せられた虹色の輝きの圧力に、繰り出したグロースグリアごと吹き飛ばされて、武器庫の壁面に激突して大きく体をめり込ませる。
いまやドラミナの全身からは虹の色彩を帯びた魔力が溢れだし、この世界の物理法則にも霊的法則にも収まらない力が吹き荒れる。
心身を打ちのめす途方も無い痛みと衝撃に、ジオールは苦痛のうめき声を零し、グロースグリアを握る自分の右手を目撃するや大きく目を見張った。
五本の指は全てあらぬ方向へと折れ曲がり、再生の予兆すら見せないのだ。だらだらと赤黒い血が流れ出て、その代わりに激痛がジオールに齎されている。
「な、馬鹿な、これはなんだ? この力は何だと言うのだ、ドラミナアアァァァア!?」
「はあ、はあ、はあ…………。さあな、正直妾にも分からぬ。だがどうやら貴様を滅ぼせるようだぞ、ジオール」
ようやく馴染み始めた古神竜の血に、整わぬままの荒い息を吐きながら、ドラミナはジオールを敢然と睨む。
今もドラミナの身体からは陽炎のように虹色の光が揺らめいて、黒のドレスの上に虹の羽衣を纏っているかのように幻想的な美しさを醸している。
見れば神域の武具であるヴァルキュリオスさえ小刻みに震えて、古神竜たるドランの力に耐えかねているかのよう。
ヴァルキュリオスは、ドランの腰に下げられている長剣と同じ形状へ。
壁から体を引き抜いたジオールが、血走った眼でドラミナを睨む。一層輝きを増した狂気のままに、グロースグリアを構え直す。合わせてドラミナもまたヴァルキュリオスを右八双に構えた。
どちらも動いた。もはやジオールの脳裏にヴァルキュリオスの血統と神器の事は無く、それよりも今すぐに眼前の敵を討たねば自分に確実な滅びが齎されると、確信していたのである。
ドラミナの肉体と魂から放たれる力は、ジオールの理解を超えた超常の力だったのだ。
ジオールの一撃はドラミナの左胸の心臓を貫く最短距離を走る最速最強の一撃。
限りなく始祖に近いバンパイアと化したジオールの全魔力、全闘気、全技術を込めて放った人生最高の一撃だ。
だが、虹の閃光がジオールの頭頂から股間までを、それよりも早く縦一文字に一気に斬り下げた。
ただ一撃。しかしドラミナの全身に溢れる古神竜の力を込めた一撃は、ジオールの不死の肉体の再生能力を上回り、ジオールの身体に走る縦の線は塞がらずに徐々に左右に広がっていく。
ジオールはグロースグリアを取り落とし、逞しい両腕で二つに分かれようとする自分の身体を固く抱きしめた。
その間にも真っ二つにされた体の断面からは、ばしゃばしゃと音を立てて血の滝を流れている。
その眼前で、ドラミナはヴァルキュリオスを床に突き立ててそれを支えに立っていた。
ドラミナをしても壮絶な精神集中の果てに放った一撃であり、余りにも強大すぎる力であるが故に消耗も凄まじい。
「が、があが、何だ、このぢがらば……じぞの血も及ばぬううう……余が、よが滅び……るのか!?」
「潔く滅びを受け入れよ、ジオール。妾の力だけで貴様を滅ぼしたわけでは無かったが、それでもようやく皆の無念を晴らせた。消えよ、ジオール。妄執と野望にとり憑かれし悪鬼よ!」
床に突き立てたヴァルキュリオスを引き抜きざま、ドラミナは振りあげた刃を一閃させてジオールの首を刎ねた。
空中に刎ねられたジオールの首はさらに縦に二つとなって、凄まじい苦悶の形相を浮かべて、床に落ちるよりも早く灰となる。
灰になる寸前、ジオールの瞳が凝然とドラミナの顔を見た。
なぜならばジオールが召喚した呪いの炎によって焼かれ、二度と癒えぬ筈のドラミナの左半顔に火傷の痕跡一つ無くなっていたのである。
美と醜とが同時に存在していたドラミナの顔は、今や完全にして完璧なる美の一つたる造形を取り戻していたのだ。
ジオールであった灰が床にぶちまけられてから、ドラミナは大きく息を吐いた。これまでずっと肩に圧し掛かっていた重荷を、ようやく下ろす事が出来たのだ。
だが心に訪れたのは歓喜や達成感ではなく、終わったというわずかばかりの感慨と、重くて重くて仕方の無い疲労であった。
ヴァルキュリオスを再び血肉に同化させて、ドラミナはドランを振り返る。晴れ晴れとしてはいるが、何も無い空っぽの笑顔を浮かべていた。
「この力は『貴方』の血のお陰なのでしょうね」
「ふむん」
「また『ふむん』? 今度はどんな意味なのかしら」
「さて。ただ私の血がわずかなりとも君の役に立ったのなら、私としてはこれ以上喜ばしい事は無い。これは紛れも無い私の本音だよ。それと、顔」
「?」
ちょいちょいとドランが左の人差し指で自分の頬を指すと、ドラミナもそれにつられて自分の左半顔にそっと左手で触れた。
そこにあったのは触れるだけで更なる激痛を齎す、腐りかけの皮膚では無かった。無事な右の半顔と変わらぬ触り心地が、手袋越しに指に返ってくる。
ドラミナは大きく息を飲むと、恐る恐る手袋を外した素手の左手でぺたぺたと顔に触れる。額から首筋にかかる火傷のあった場所を触れて、その感触を確かめ続けてようやく本当に顔が元に戻った事を理解する。
「これは、ああ、これも貴方のお陰なのね、ドラン」
柔らかに笑み、新たな涙を両方の瞳から流すドラミナに、ドランは同じように柔らかな笑みを浮かべて肩を竦めるだけだった。
ドラミナは緊張の糸が切れたようで、笑みを浮かべたまま体をふらつかせる。既に全身に漲っていた虹の光は収束しているが、強大すぎる力の反動か指先一つ動かせないほど疲労している。
よろめくドラミナをいつの間にか距離を詰めていたドランが正面から支え、あっという間も無くドラミナの身体を抱え上げた。いわゆる御姫様だっこである。
「軽いな。血を飲めば良いとはいえ、これは心配になるくらいだぞ」
本気でドラミナが軽すぎると心配しているドランを、ドラミナはきょとんとした顔で見ていたが、すぐにドランの首筋に腕を回し胸板に甘えるように頬を寄せた。
はあ、と心から安堵した息を吐いてからドランの顔を見上げる。
全ての重荷を下ろし、心と体がこれ以上ないほど開放的になっている時に、偶然にではあろうがするりと忍び入ってきたドランに、すっかり心を許している様子。
ドランの横顔を見上げるドラミナの顔はまるで夢見る少女のように無垢で、何も飾らないドラミナの最も純粋な部分が窺えた。
「あ、ふふ、貴方には何を言っても無駄かもしれませんが、やはりこのような事は無暗にするべきではありませんね。とはいえ膝枕と言いここまで心地よいと、癖になってしまいそうで怖いくらい」
「ドラミナだからした事だ、と言えば満足してくれるかね? おや、ドラミナ、見てごらん」
ドランが崩落した武器庫の天井を見上げると何かに気付き、促されたドラミナも素直にドランの視線を追う。
二人の視線の先にはこの世で最も美しい円を描く満ちた月が輝いていた。ようやく地上で行われていた凄惨な戦いの終わりを知り、ほっと安堵したのか降り注ぐ光は先ほどまでもよりずっと優しいようにドラミナには感じられた。
「月が綺麗だ」
「ええ、本当に」
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第三十九.五話
ブラン、ジオールというこの城の主要な二名を討ち、騎士や兵士もほぼ滅びた以上は、私達がここに長く留まる理由はない。
血は戦いを終えるのに十分なほど流れ、滅びもまたただ一夜の出来ごとにしては多過ぎるほどに訪れている。
これ以上誰かの生命を奪う必要は感じられなかったし、私もこれ以上誰かの生命と魂を手に掛ける気にはなれなかった。
私は疲弊して倒れ込みそうになったドラミナを抱え上げた。
「ドラミナ」
私の声にびくっとドラミナの肩と耳が震える。耳を啄ばむように、そして擽るように囁き、鼓膜も脳も蕩かすように私は甘く囁いていた。
「は、はい」
しかし私が紡いだ言葉は、どこか期待を含んで震えるドラミナの予想を裏切るものだったことだろう。
私自身意識せず口説くように出していた声で、私は極めて現実的な事を口にしたのだから。
「ジオールの死でこの城が元の在るべき場所に戻ろうとしている。フラウパ村に重ねられていたグロースグリアの土地が、海の向こうの大陸に戻るぞ。このままここに居ては私達も巻き込まれる」
私の指摘に、ドラミナはようやく正気に返って私の胸に押しつけていた顔をぱっとあげる。
私の囁きは相当効いていたらしく、ドラミナの顔はもうこれ以上は無いというほど真っ赤になっている。
「確かに、このままではグロースグリアの国土へとまもなく転移するでしょう。ドラン、早くここから脱出を」
「ふむ、私はそうせねばならぬが君はどうする? 仇を討った事を故国の皆に報告するのならば、このままグロースグリアの国土に転移するのが近道だろう。
ジオールとブランが滅びた以上、君を害する事の出来るバンパイアはもはやこの地上には存在しないはずだ」
「妾の事は気にしないで。故郷の皆に報告に行くのを急ぎはしません。それよりも貴方の事の方が大事。早くここから離れましょう」
「そうか。なら、そうするとしよう。では折角近道があるのだから、使わぬ手は無いな」
私はそのまま目の前に見えない階段があるかのように、あるいは月の光に吸い寄せられるように、なにもない虚空に足を掛ける。
私の足はそのまま確かに虚空を踏みしめ、次の一歩もその次の一歩も続いていく。私はドラミナを抱えたまま月光の祝福の中を天井に開いた穴へと向かい、昇り続ける。
まるでバンパイアの様に私の足は音を立てず、そればかりか風の吹く音も無視の無く音も無く、私とドラミナは月光の階段を昇ると共に音の無い世界へと足を踏み入れたように静謐に包まれる。
そして私は武器庫の天井に開いた穴を抜けて、城の中庭に降り立った。
すると私の右手側でぶるる、と野太い嘶きがいくつも重なって聞こえてきた。
私と同じものを耳にしたドラミナが顔を上げて、熟した林檎の色の顔にかすかな笑みを迎える。
私達が武器庫から上がってくるのを待っていたのは、ドラミナが乗っていた馬車とそれをけん引するスレイプニル種の魔馬達であった。
魔馬達は自分達の主を抱きかかえている私に対し、訝しさと不埒な真似をしたら蹴り殺すぞ、という二種の感情を乗せた視線を送ってくる。
人間や亜人と変わらぬ知性を備えるこの魔馬達は、感情の面でも遜色が無い。
「賢い馬達だな」
「ええ。そう、そういえば、お前達はずっと妾と一緒に居てくれたわね。まだ国と民が焼かれ、滅ぼされる前からずっと」
先頭のスレイプニルが私の腕の中のドラミナに鼻面を寄せ、ドラミナが愛しげに撫でる。
国を滅ぼされてから今日に至るまで、自分の傍にはずっとこの魔馬達が居て決して孤独ではなかった事を、ドラミナは今噛み締めているのだろう。
相変わらずスレイプニル達は私に対しては、凄まじいとしか言いようの無い警戒の視線を寄せてくるが、ドラミナの邪魔をしたくは無いので私は何も言わずにおいた。
しばらくドラミナに撫でられていたスレイプニルであったが、直にヴェールを失ったドラミナの左半顔が在りし日の美貌を取り戻している事に気付くと、嬉しそうに嘶いて鼻面を擦り寄せる。
「ふふ、ありがとう。お前達も喜んでくれるのね。この顔が治ったのも、ジオールを滅ぼす事が出来たのも、このドランのお陰。だからあまり怖い目で見ないであげてね」
ドラミナはスレイプニル達が私に寄せる視線に気付いていたらしい。私がドラミナに瞳を向けると、ドラミナはごめんなさい、と小さく笑って肩を竦める。ふむん、可愛いので許すか。
「さて、そろそろ悠長にもしていられんか。君達、急いでくれるかね?」
私が呼びかけたのはスレイプニル達である。愛おしくさえ感じるドラミナとの月光の階段昇りと、スレイプニル達との挨拶で時間を使い、このダークロアと近隣の土地が本来のグロースグリア王国の領土へと戻る時間が刻々と迫っている。
いざとならば私がどうとでもするが、主が本懐を果たし、二度と治らぬと諦めていた顔が治った事に喜び勇み、張り切っている様子のスレイプニル達に任せようという気になっていた。
私の問いかけに、スレイプニル達は一斉に天を仰いで嘶き、任せておけと実に頼もしく返事をしてくれる。
ふむ、流石はドラミナと長い時を過ごしてきただけはある。何とも漢気に溢れた魔馬達であることよ。
私は独り手に開いた馬車右側面の扉から乗り込み、ここでようやくドラミナを長椅子の上に降ろした。
ドラミナは私の腕から降ろされるのを、言葉にこそしなかったがひどく残念がる態度をとり、長椅子に降ろされるまでの間、小さく口を尖らせ、悲しげに眉根を寄せて憂いを帯びた瞳で私を見つめ続けていた。
どれほど過酷な修行を積んだ聖人でも、ころっと落ちてしまいそうな可愛らしさである。
可愛らしさを例えるのに天使のような、という表現があるが実物を知る私からすると、このドラミナの方がよっぽど可愛らしく、意識して行った仕草では無いだけに余計質が悪い。
「あまり拗ねてくれるな。淑女の振る舞いではないよ」
「拗ねてなどおりません」
短く反論すると、すぐにドラミナは顔をプイッと私から顔を背ける。ふむふむ――『おやおや』という意味である。
拗ねているじゃないか、と言ったらますますドラミナの機嫌を損ねるので、私は何も言わずかすかな苦笑を浮かべてから、ドラミナの右隣に腰掛けた。
この間は対面に座ったが、今ならば隣に腰掛けても問題はないだろう。
私の腕から降ろされて子供かと言いたくなるくらい露骨に拗ねたドラミナだったが、私が隣に腰掛けると今度は華やいだ表情を浮かべ、先ほどまでの拗ねた表情の仮面をどこかへと放り捨ててしまう。
ドラミナの感情の浮き沈みがまあ激しい。あれか、セリナは酔うと物理的な絡み酒になるが、ドラミナの場合は情緒が不安定になると言うか極端になるのか、ふむん。
私とドラミナが長椅子に腰を落ち着けると扉が閉まり、御者も無しにスレイプニル達が自らの判断で走り始め、一足ごとに鉄蹄が石畳を抉りながら疾走する。
第一歩目から最高速度を叩きだす魔馬の脚力は、あっというまに馬車を風を追いぬいて走る速さにまで引き上げ、ドラミナが破壊し尽くした事で障害物の無い敷地の中を漆黒の風となって走り抜ける。
ダークロアを中心とした近隣の転移の範囲には、フラウパ村も含まれているがあそこは私、ネル、レニーアの三重の結界が敷かれており、特に私の結界は時空や因果の干渉も防ぐ特別製だから、あの村の中にさえ入れば転移に巻き込まれる事は無い。
窓に嵌めこまれた硝子の向こうに覗く風景はめまぐるしく変わり続け、常人の眼では城を主体に混ぜ合わせた絵具のように色彩の移り変わるものになる。
邪魔する者も障害物も無い道をこの速度で走り続けるのなら、転移が終わるまでにフラウパ村に到着するのには十分な余裕がある。
後はスレイプニル達に全てを任せれば、ひとまずは安心だと私は長椅子の背もたれに背を預けて、ふうっと溜息を一つ吐く。
本当にこれでバンパイアに関わる今回の事件の、災厄の芽を完全に摘む事が出来たと、安堵したが故に溜息であった。
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第四十話
スレイプニル種の魔馬達が牽く馬車は、フラウパ村近郊に重なっていたグロースグリア王国の領土が転移するよりも早く、フラウパ村に到着して無事に事無きを得た。
私とドラミナが戻ってほどなくしてフラウパ村を包んでいた白い魔霧は消え去り、いまだ夜の帳の降りた時刻ではあったが、見慣れた光景が戻った事に村の人々は歓喜の声を盛大に挙げることになった。
ドラミナと私達からの事情説明は、ドラミナの美貌による衝撃の所為もあって村人達はすぐには受け入れられず、何度も繰り返す事になったが、これは必要な事であるから私達は根気よく説明を行った。
流石にドラミナが自分達を襲った連中と同じバンパイアという事もあり、にわかには信じ難い様子であったが、ドラミナに直接救われたリタの証言とドラミナの人徳は大きな助けとなった。
フラウパ村を襲った今回の事態をガロアへ伝える為、ドラミナが貸し出したスレイプニルに跨った冒険者と村長の息子が向かう事になり、すぐに事態が上層部へ伝わるように国内の有力貴族の令嬢であるファティマとネルの署名入りの書簡を持たせてある。
スレイプニルはドラミナ以外の者を乗せて走る事を凄まじく嫌がったが、ドラミナが鼻面を撫でて宥める事でなんとか納得してくれた。
ガロア側が既に解決したとはいえバンパイアの関わる事変に対応できる戦力を用意し、フラウパ村周囲を封鎖して包囲を終えるまでに、ふうむ、何日かかるだろう。
村の外の事に疎い私がぱっと思いつくのはフラウパ村へと続く道の封鎖と包囲網を敷けるだけの人員を軍から抽出し、不死者相手だから各神殿からそれなりの経験を積んだ高位の司祭や神官を募り、こういった事態に備えて繋ぎをつけている信頼できる冒険者達を呼び寄せる。
それから情報統制の為に目端の利く商人の類に鼻薬を嗅がせるなり、警告を発して余計な混乱を避ける。
その上最悪の事態を想定して他の北部辺境の主要都市や王都へ、バンパイア出現の事態を知らせる急使を出す、とまあこんなところか。
魔法学院に通っている間に私が調べた限り、ガロアに駐留しているのは生粋の職業軍人と兵士達だ。
戦が起きた時に徴兵される農民とは異なり、戦時であろうがなかろうが兵士である者達だから、必要な戦力を編成する事自体はそう難しくはないだろう。
いや、必要な戦力を見積もるのには時間が掛るのかもしれないか。
取り敢えず私達はガロアの行動を待ってそれまでは大人しくフラウパ村で待機する事を決め、ドラミナも快く待つことを承諾してくれた。
村人達はバンパイアの乗る馬車が村の中に停まる事を嫌ったので、近くの森の中で待つ事となったのだが、それは仕方の無い事と言えよう。
リタは救出されたその日の内から動き回れる健康状態だった。
これは幽閉されていたとはいえ食事と住居環境に関しては、村でのものとは比較にならぬ贅を凝らした物が与えられていたからだ。
グロースグリアの財力の賜物と、リタ達の世話役だったシエラの配慮であろう。
半ばバンパイアと化してしまい、また幽閉されていた部屋のベッドから一歩も動けずにいたファティマは、筋肉の硬直や衰弱などの為暫く治癒魔法を施しつつ、村長宅の一室を借りて療養中である。
ネルとリタはファティマにつきっきりで、私とセリナは村人を少しでも安心させる為、周囲を見回って安全を確かめつつ、村の仕事を手伝って時間を過ごしていた。
そんな中で、私達は連れだってファティマのお見舞いに行く事にした。
夕闇が世界を覆いつつある時刻ならば、ドラミナも肌を隠さずとも行動できるので、ちょうど良かった。
ラミアであるセリナにはもう村人達は慣れたが、バンパイアであるドラミナが村の中を歩くと、ぎょっと身を竦めて足を止め、ドラミナの美貌が齎す美的衝撃に精神を打ちのめされてぼうっと呆ける。
騒がれるわけではないからまあいいとして、放っておくのが最善の手段だ。
村長の所で寝ているファティマを訪ねると、付きっきりで看病しているリタが顔を覗かせた。
看病とは言ってもファティマの弱った身体がきちんと動かせるように、ちょっとした運動の補助をしたり、身体を清潔に保ったり、食事の世話をしたりなどだ。
リタはちょうどファティマを着替えさせた後だったらしく、手には衣服をまとめて入れた籠を持っていて、私達に気付くとぱっと笑顔を浮かべる。
「やあ、リタ。ファティマの調子はどうだね」
私の問いに、リタは笑顔のまま答えてくれる。
「はい、どんどん良くなっていますよ。そろそろ普通に歩き回れるようになると思います。皆さんのお顔を見たら、もっと元気が出ると思います」
「それはなによりの吉報。とはいえそなたも一日中看病していては、身体によくは無い。あまり無理はしないように」
とリタに声を掛けたのは優しげな笑みを浮かべたドラミナである。直接救われた事もあってか、リタはドラミナに対して一切恐れを抱く様子は無く、実に朗らかに接している。
その事がドラミナにとっても嬉しく、両者の関係は実に良好と言える。
「はい。それではあたしは洗い物がありますから、これで失礼します」
ぺこっと頭を下げたリタが水場の方に向かうのを見送ってから、私達はノックをして返事を待ち、ファティマとネルの待つ室内へと足を踏み入れる。
半バンパイアと化したファティマの体調を慮り、窓はすべてカーテンと雨戸が閉められて、陽光が射し込まないようになっている。
仮に陽光が射しても届かない位置に動かされたベッドの上で、ファティマはランプの灯りを頼りに読書している途中だった。
バンパイアならば不要な灯りを必要としていることからも、ファティマの肉体が純粋な人間のモノへと戻っている事が分かる。
まあ、少しばかり五感と第六感が鋭敏になるくらいの後遺症はあるかもしれんが、その程度ならむしろ日常生活で役に立つだろう。
「ドラン、セリー、ドラミナ陛下」
「陛下はいりませんよ、ファティマ。ただのドラミナで構いません」
ファティマは私達の訪問にも既に慣れたもので、読んでいた本を開いたまま膝の上に置いて、にこっと実にファティマらしい見る者の心を和ませる笑みを浮かべる。
「いらっしゃい」
ネルはファティマのベッドの傍らに置いた椅子に腰かけて、アルポという赤い果実の皮を果物ナイフで剥いているところだった。
ネルは三度の食事も寝る時もファティマの傍から離れる事を拒んでいて、子供を守る母のようだが、そのくせ包容力や母性というものは小さなファティマの方があるのだから、不思議な印象を受ける。
私は室内に空いている椅子が二つあったので、どちらともセリナとドラミナに勧めた。
セリナはとぐろを巻くから椅子は良い、と遠慮したが蛇体でも椅子に座るのは問題ないし、その方が楽な筈なのでこれを固辞した。
女性を立たせておいて自分ひとり椅子に腰かけるのは男のする事ではない。敬愛する我が父の教えである。
「ファティマ、少し顔色が良くなってきたな。一日か二日もあればもう元通りだな」
「えへへ、ご心配をおかけしましたあ」
ファティマは恥ずかしげに笑う。確かにファティマが攫われるような事が無かったら、わざわざバンパイアの城へと突貫するような事にはならなかったから、その通りと言えばその通りではある。
もっとも私もセリナもネルも、誰もその事を気にしてはいないし、迷惑とも思っていない。
私達はフラウパ村の周囲を散策した時の話や、魔法学院からの依頼は残念ながら果たせなかった事などを話し、そして部屋の片隅に視線を向けた。
そこには、最初からそのように彫琢された彫像のように微動だにしないシエラがいた。
ブランにグリーフマリアで貫かれ、滅びの間際にまで追い詰められていたシエラであったが、私がそれをファティマと深い結びつきを持たせる事で存在を保たせた。
灰になりかける寸前だったシエラに、私の魔力と生命力を触媒に増幅させたファティマの魔力と生命力を、機能を停止した心臓の代わりに埋め込み、滅びを受け入れたシエラの意思を無視して存在を維持させたのだ。
シエラとファティマの間には使い魔とその主以上の深く強い主従関係が構築されているが、今のところシエラは完全な自由意思を持っている。
「シエラ、そなたは相も変わらず陰気な顔をしていますね。せっかくの美人が台無しです」
「随分と余裕のあるご様子で。本懐を果たされて心が晴れましたか?」
皮肉ともとれるシエラの言葉であったが、その声には揶揄も嘲笑も含まれてはいなかった。シエラの瞳はただぼうっと椅子に腰かけて閉ざされた扉の向こうを見続けている。
シエラは家族の旅立った冥界に行く事は出来なかった。仲間達がブランに殺された時も、そして復讐を果たし損ねた時も。一度は死に損ね、今一度滅び損ねたシエラの心中は荒廃と虚無とが支配しているのだ。
ドラミナもある意味同じであったシエラの姿に心を痛めている様子で、悲しげに眉根を寄せる。
「晴れましたが、その後に待っていたのは果てと終わりの見えぬ虚しさでした。今はドランのお陰で随分と紛れていますし、故郷の皆に報告しなければなりませんから、虚しさを一時忘れる事は出来ていますけれど」
「そうですか。この虚しさを一時でも忘れられるのなら、それは素晴らしい事ですね」
「そなたは……いえ、そなたの心に光を射すのには誰よりも適した者がいますね」
ドラミナはベッドの上のファティマを振り返り、ファティマはその視線の意味するところを正しく理解して頷き返した。
私はシエラの生命を繋いだ。ただ生命だけを。その生命に生きようという意思を与え、心を死の暗黒から生の光明へと向けるのは私の役目ではない。
それはあの時、シエラを生かしたいかと問うた私に、力強く生かしたいと答えたファティマの役目だった。
もうこれ以上私がシエラの生に関わるべき所は無かった。これから先、ファティマに助言なり具体的な助けを求められるなりすればともかく、私からこれ以上彼女達にするべき事はないのだ。
そしてなによりもドラミナに頷き返したファティマの瞳に輝く光が、私の助力などまるで必要の無いものだと信じさせてくれた。
*
シエラの事はファティマに任せればなにもかも上手く行く。確信と共にそう思う私であったが、どうにも意図が読めない事が一つあった。レニーアである。
ダークロア城の地下でキメラ達から助け出して以来、レニーアは私を避けているのか付き纏っているのか、なんとも判別し難い行動をとっている。
遠巻きに物影に隠れて私を見ているから、こちらから近づいて話しかけようとするとささっと逃げ出し、ある程度距離を置くとまた私を見る、という事を繰り返すのである。
敵意は無いから放置しているが、いつかこの行動の理由を問わねばなるまい。
ともかくレニーアの事は後回しである。
魔法学院に戻ればレニーアに問い質す余裕と時間とが作れるだろう。そうして日々を過ごすうちに、ファティマとネルの推測通りの日数でガロアから調査隊がやって来た。
道を塞いでいる部隊は別に居るのだろうが、フラウパ村を包囲して逃げ出す者が居ないか油断なく監視の網を巡らす調査隊は二百名に及んだ。
一糸乱れぬ統制からガロアでも選りすぐりの精兵か、あるいはただの兵士でもこれだけの動きが出来るほど訓練が厳しいものなのか。
ひと際見事な駿馬に跨った三十代後半の騎士隊長は、マイラール教をはじめとした善き神々の教団に仕える高位の司祭や、神官戦士達を引き連れていた。
バンパイア化の疑いを晴らすのは、陽光に身を晒すのが手っ取り早くかつ確実であるから、畑仕事を中断し、村長の家の前で整然と並んで迎えた村人達に、騎士隊長や兵士達が疑いの目を向ける事は無かった。
焦点となったのは大貴族の娘であるファティマとネルの身の安全と、吸血感染が阻止されているかどうか、そして亡国とはいえ一国の女王たるドラミナの処遇である。
とはいえ私は司祭達が居る時点であまり気にしていなかった。いざという時の切り札と言っては言い過ぎだが、セリナの時と同じ神々の審判の奇跡さえあればドラミナが敵する者ではないと実に簡単に、そして確実に証明できるからだ。
その後は拍子抜けするくらいに調査は順調に進んでいった。村人達は全員一人の例外も無く人間の身体のままであったし、ファティマも無事に健康な体を取り戻している。
ファティマが中途半端なバンパイアであるシエラを使い魔にしている事は大いに驚かれたが、シエラの身体には使い魔の証拠である刻印が刻まれているから、驚かれはしてもそれ以上事が荒立つ事は無かった。
ことバンパイアの関わった事例としては異例なほど被害が無い事と、迅速な解決は王国の歴史に残るかもしれない。
幸いドラミナも騎士隊長が最低限以上の礼節をもって接したので、不愉快な思いはしていない。
ま、調査隊の面々がドラミナの美貌にやられて暫く使いものにならなくなったのは御愛嬌である。
二回目以降、彼らはドラミナに会う前に精神を補強し、誘惑や混乱などに耐える補助魔法を掛けていたが、賢明と言うべきだろう。
ただドラミナは日が経つにつれてどこか物憂げな表情を見せるようになり、調査隊に話すべき事を全て話し終えた日、私とセリナが宿泊している宿屋の部屋を訪ねて、村を発つ事を伝えてきた。
そしてその日の夜に、私は村の裏門からこっそりと出立するドラミナを見送った。
リタやセリナ、ファティマ達も見送りを申し出たが、あまり大勢で連れ立っては調査隊の目に着く可能性もあったので、彼女らには渋々納得して貰っている。
調査隊の人々には黙っての出立だが、彼らも友好的なバンパイアかつ一国の女王というドラミナの扱いには胃を痛めている様子だったし、明日の朝にはドラミナの姿が無い事に失態半分安堵半分といったところだろう。
亜人種と共存している我が王国といえど、バンパイアの住人はまず居ない以上、扱いに窮するのも止む無しか。
バンパイア・クイーンが国内を闊歩しているかもしれないという事態は、国家存亡級の緊急事態だが、ドラミナには予め了承を得て残留性の思念を私や調査隊の魔法使い達が付着させている。
これで少なくともドラミナが王国の外へと出るのを確認出来るわけだ。
魔法や神性魔法などの中には、特定の条件を相手に課す制限や契約の奇跡もあるが、ドラミナにそれをするのは貴人に対する礼を失するにもほどがあるので、却下となった。
そして私は今、門の外に出た馬車の傍らでドラミナと別れの挨拶を交わしていた。わずかに欠けた月が天上に輝き、夜の風に流れた雲が所々星空の海に浮かぶ島のように点々としている。
「皆、君を見送りたいと残念がっていたよ、ドラミナ」
「妾には過ぎた事です。この国の方々には我らの因縁で災いを招いた事に関しては、どれだけ頭を下げても足りません。そう言いながら調査に来た方々の目を盗んで去るのですから、どの口がと思われても仕方ありませんね」
「ドラミナにはドラミナの都合があるさ。君が話せる事はもうすべて話してあるし、後は私やリタ、ファティマが神々に誓って真実を明かすさ。君は気兼ねなく故郷へと戻りなさい」
「ありがとう。そう言ってくれると気が楽になります」
「しかし、これからどうするつもりだ?」
「そう、ですね。最後の始祖六家だったジオールとその子息が滅びた以上、今、大陸では新たなバンパイアの国家の建国を巡る戦乱がいつ起きるとも分かりません。
妾の生存が知られれば担ぎ出そうとする者もいるかもしれませんが、妾にはもう国の上に立つ勇気はありません。臆病者と笑ってください。
妾は既に治めるべき国も民も失った敗残者なのです。後は只歴史の中に愚かな敗残者として名を刻むのみ。
あるいはグロースグリアの家臣達が、主君の仇打ちに妾の心臓を抉りに来るかもしれませんね」
「一人で大丈夫か?」
私は心底心配になって言ったのだが、よほど情けない顔でもしていたものか、ドラミナは子供の我儘を聞いた母親のような顔になっていた。
「ふふ、大丈夫ですよ。貴方の血を頂いてからは、すこぶる調子が良いのです。この力があれば、あの時、国を滅ぼされる事も無かったでしょう。
……いえ、いけませんね。失ったものはもう二度と戻らないのですから、言っても仕方の無い事を口にしても虚しいだけ。
故国の皆に仇を討った事を報告し、野晒しになっている皆のお墓を作り、卑しい盗掘者達が足を踏み入れられないように閉ざすつもりですが、それが終わったらもうする事がありません。その事だけは困ったものです」
「ふむ、なら一段落したら私の所にでも顔を出してくれるとありがたい。君がどうしているかファティマやリタも知りたがるだろう。
私はガロアにある魔法学院かその北にあるベルンという村のどちらかに居るだろうから、探すのは難しくはないはずだ。気が向いたら何時でも私の所に来てくれ」
「それは、でも、妾が顔を見せては貴方に迷惑が掛るかもしれません。なにしろバンパイアですから」
「どうとでもするし、どうとでもなるよ。まあ、お土産の一つも持ってきてくれると嬉しい」
「まあ、ふふ、ではなにか見繕っておきましょう」
「ああ。適当に頼むよ」
「ふふ、まさかこんな和やかな気持ちになるなど、この地に辿り着くまでは夢にも思わなかった事。ドラン、ありがとう。貴方のお陰です。そろそろ、妾は行きます」
「そうか。名残惜しいが今生の別れというわけでも無い。また会える日を夢に見て待つとしよう」
湿っぽいのは無しだ、と笑む私にドラミナが少し躊躇してからすっと体を寄せて、頬に手を添えるとドラミナの顔がぐっと近くなり、柔らかく濡れたものが触れてしばらく離れなかった。
「これは、お礼です」
唇を離してはにかむドラミナに、私はしばし見惚れた。ディアドラの時は唇だったが、今度は頬か。ふむん。
「素敵なものを頂いてしまったな」
「お礼ですから。気にしないでください。それではこれ以上貴方と話していると離れ難くなりますから、もう」
「ああ」
ドラミナはそう言って馬車に乗り込むと、スレイプニル達がそれぞれ嘶きを上げる。世話になったな、と彼らなりの別れの挨拶代りというわけだ。
ゆっくりとスレイプニル達が歩きだし、車輪がきしむ音を立てて進み始める。徐々に夜の闇に沈む道の彼方へと去ってゆく馬車を見送り、私は別れの言葉を口にした。
「達者でな。またいつか、会おう」
ふと空を見上げれば、欠けた月が変わらぬ美しさで世界の全てを照らしている。美しい者も、醜い者も、生ある者も、死せる者も分け隔てなくただ冷たく静かに。
「ああ、月が綺麗だなあ。でもやはり君の方が綺麗だよ、ドラミナ」
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第四十一話
フラウパ村で起きた悲劇から無事に魔法学院へ帰還した後、私とセリナは残念ながら魔法花輸送の依頼は時間切れで失敗となった。
その代わりと言うか、フラウパ村を襲ったバンパイアを撃退という常人には成し難き事を成した私達は、学院とガロアの総督府から密かにお褒めの言葉を頂く事となった。
ファティマは念には念を入れて、調査隊に同行した司祭達――神職者は大概医学も修めている――の治療を受ける事となり、私とセリナに遅れて三日後にガロアへ戻ってきた。
ガロアへ戻ってからフラウパ村の件で、魔法学院の上層部やガロア総督府との間ですったもんだがあったが、それでもなんとか日常生活を取り戻した頃の事である。
私とセリナは、クリスティーナさんを伴って魔法学院の男子寮に帰ったのだが、寮の玄関で寮母のダナさんが少し困った顔をして私達を待っていた。
「ああ、ドラン、セリナちゃん、お帰り。待ってたよ。おや、クリスティーナちゃんも一緒かい。仲が良いねえ、あんた達は」
「ただいま帰りました。ところで私達を待っていたご様子ですが、なにかありましたか?」
ダナさんは幅も厚みもある肩を竦める。どうしても今すぐに、というわけではなさそうだがさりとて後回しにするわけにも、といった具合の急ぎの事態と私は見た。
「それがねえ、ドラン、あんたが部屋の隣に作ったお風呂の事で事務局から横槍が入っちゃってねえ。あれ、せっかく作ったのに、どうやらどかさないといけなくなっちゃったんだよ」
「ええ!?」
ダナさんの明かした事情に真っ先に反応を示したのは、私の左隣に居たセリナだ。私の耳が痛くなるくらいの大きな声を出し、澄んだ青の瞳をぱちぱちとまたたかせて、そんなあ、と悲嘆に肩を落とす。
「そんなあ、ドランさんのお風呂はとっても気持ちが良いのに」
「セリナの言う通りだな。私もドランのお風呂にはずいぶんとお世話になっているし、ネルネシアやファティマも残念がる。ダナさん、事務局の方は通達だけをされたのですか?」
「取り敢えず、お風呂に関する通達文書を預かっているから、まずはそれに目をお通しよ。その後で事務局に行って細かい所をお話し。はい、これ」
ダナさんが差し出した魔法学院の校章の押印がされた手紙を受け取り、私は裏に書いてある事務局の署名を確認して、セリナを伴って自室に戻った。
「あ、クリスティーナちゃんはここまでだよ。ここが男子寮だってことを忘れちゃ困るね」
なおその時、クリスティーナさんがさも当然であるかのように私達に続いて、ダナさんに停められたのは、ま、御愛嬌であろう。
ダナさんに止められてすごすごと女子寮に帰るクリスティーナさんは、飼い主に叱られた犬を思わせる何とも言えない可愛らしさと情けなさとを纏っていた。
元倉庫だった自室に戻り、腰を落ち着けてから手紙の封を切る。セリナがしゅるりと私の背後に回り込み、近過ぎるほどに体を寄せてくる。
私の背中と首筋に柔らかく丸い物体が二つ押し付けられてくるが、これはわざとかそれともセリナなりに精一杯の主張なのか。可愛い事をするものである。
「ふむ、どうやら男子寮の敷地内に風呂を作った事までは、ダナさんの許可を取った事もあってまだ許容範囲だったようだが、女子生徒が積極的に利用している現状が大いに問題視されたようだな」
「クリスティーナさんにファティマちゃんにネルネシアさんですか。私は良かったんですか?」
「元々セリナ用ということで話を通したものだったし、セリナは学院の生徒では無く使い魔という立場であるから、お目溢しといったところだ。ただその後がまずかったわけだ」
「じゃあ、いまあるお風呂は取り壊しですか? ごめんなさい、私の為にとしてくださった事なのに」
「セリナが謝る事ではないよ。それに取り壊しはするけれど、また新たな場所に作る事をなんとしても認めさせるつもりだ。
クリスティーナさんとファティマ、ネルにも事情を話して味方につけておこう。なに、魔法学院の敷地は広いのだから、浴場の一つや二つくらい建てても問題にはなるまい」
「そうだと良いですね。ドランさんの早業ならぱぱっとお風呂を作れますしね。でもあれは凄いですよ。
私の故郷でも土魔法の応用で建物を建てたり、道路を整備したりはしますけれど、ドランさんの場合は精度と速さが出鱈目なくらいです。
それにお湯の温度の調節に関しても、火と水の魔法を建物そのものに組み込んでありましたよね。一度に三つの属性の魔法を行使しながら一人で建物を建てるなんて、かなり位階の高い魔法使いの人で無いと使えません」
「可愛いセリナの為だからね」
「もう、そういうのを突然言うのは反則ですよ!」
セリナはそう言ってぱっと私から離れた。少し怒っているような声音だったが、その顔は嬉しそうに笑っていたから、問題は無いという事にしておこう。
第一、可愛いものはなんと言われようとも可愛いのである。
その後、対事務局説得要員としてクリスティーナさん、ファティマ、ネルの三人を、女子寮に寄ってから集まって貰い、私は部屋で纏めたセリナ専用お風呂建造計画書を手に、事務局へと挑んだ。
「ドラン、頑張ってね~。あのお風呂が無くなるのは仕方ないけれど、また次のお風呂を作れるように、許可をもぎ取るのだ~」
とのんびりと私に発破をかけるのは、私の後ろを歩くファティマである。さらにその後ろには影のように寄り添うシエラの姿ある。
目深にフードを被り、表情を窺い知る事は出来ないが、纏う雰囲気からかつてのような陰鬱さや退廃さは幾分なりとも薄れているように感じる。
さっそくファティマの使い魔とした成果が表れてきているようでなによりだ。
「ファティマの言う通り。君のお風呂が無いと訓練をした後にすぐに体の汗を流せない。
女子寮の大浴場は規定の時間にならないと使えないし、使用人達に汗を流す為にお湯を用意して貰うのは悪いし、時間もかかるから」
「うむ、ファティマとネルの言う通りだ。私も出来得る限り協力しよう。いざとならば実家の父に頭を下げてでも……」
確かクリスティーナさんは実家とはあまり上手く行ってはいなかったはずだ。それが頭を下げるとまで口にするとは、いやはや。
「クリスティーナさん、そこまでする話ではないよ。取り敢えずは事務局に行って、話を詰めておかないと、それ次第で次に取るべき行動が変わるからね」
「そ~だねえ。それじゃあ、利用者として私達も付いていくよ。といっても何が出来るっていうわけでもないけど」
「なに、傍に居てくれるだけで勇気づけられるというものだよ」
そして緊急集会を切り上げた私の目の前に、は魔法学院本校舎にある事務局の扉が、デンと聳えていた。
通達文書に書いてあった通りの時刻だから、室内に入ればすでに私の風呂に関する案件を任された職員が待ち構えている事だろう。
私は、背中に四人の視線が集中しているのを感じながら、決意を固めてノックしてから名乗りを上げた。
*
結論から言うと、男子寮の敷地内に私が建てた風呂を取り壊す事は覆らなかったが、その代わりに男子寮近くの魔法学院の敷地の方に、改めてセリナ用――クリスティーナさん達も使うが――のお風呂の再建築を認めさせた。
木立と芝生のある一角で、時折授業の合間に木陰で昼寝や読書をしている生徒を見かける事のある場所だ。
お風呂を建てるのに必要な建築資材と建築に必要な労力の全てを私が用意し、排水や敷地面積、また景観を損ねないよう外観にも気を配るなど、細かな所まで詰めるのにそれから二日ほど要した。
距離で考えればセリナもクリスティーナさん達も、かつてのお風呂よりも遠くなってしまったが、こればっかりは学生の我儘が通る話でもない。
場所を変えるだけでまたお風呂小屋を建てる許しが貰えたのだから、むしろ寛大な処置を考えて前向きにゆくべきだ。
さて実際のお風呂小屋の再建だが、資材はこれまで使っていた浴場を解体して流用すればいいし、バンパイア事件で貰った口止め料を使えば、ある程度は市街でも揃える事が出来る。
建築は以前と同じように私が行えばいいのだが、今回は排水に関していささか事情が異なる。
前回は直接どこか別の空間に排水を流していたが、今回はガロアの地下を網のように巡る地下水道へと浄化措置を施した上で排水管を繋げなければならない。
お湯の加熱にしても今回は大人しく薪が少し贅沢に火精石を使って沸かすなり、温まりやすい様に浴槽などに術式を刻んでおいた方が良いだろう。
休日の朝陽の登る時刻に浴場の建設に着工してから、お昼の長い休憩を告げる鐘が鳴るまでの間に、建築資材を並べただけだった場所には、立派な平屋の浴場が出来上がった次第である。
わずか半日にも満たない時間で完成した浴場に、たまたま通りかかった生徒などは仰天していたが、誰に迷惑のかかる話でも無いのだから気にしないで欲しいものだ。
建築に際し造り出した五体の小型ゴーレムとセリナと共に、完成した浴場を前に芝生の上に敷布を敷いて腰を下ろした私達は、ダナさんが用意してくれていた昼食をのんびりと食べていた。
だが一連の浴場関係の出来事は同時に予期せぬ結果を招きもした。
魔法学院では一部の優秀な生徒には、その外見や使用する魔法などから生徒や教師がいつのまにか二つ名を付け、それが広まって定着している事が多い。
例えばクリスティーナさんの『白銀の姫騎士』、ネルの『氷花』、レニーアの『破壊者』、そして未だ出会っていないガロア四強最後の一人の『金炎の君』などだ。
編入当初からラミアを使い魔にし、四強の一人であるネルと互角の戦いをし、クリスティーナさんと仲の良い私は良くも悪くも他の生徒の注目の的であった。
その私が今回披露した浴場建設の腕の妙は、当然生徒達の間にも瞬く間に広がり、いつしか私はこのように呼ばれていたのである。
『お風呂のドラン』と。なんじゃそりゃ、ふむん。
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第四十二話
私はドラン。ベルン村のドラン。魔法学院生徒のドラン。そして――
「『お風呂屋さんの』ドラン」
「ふふっ、ドランさん、いきなりそれは卑怯ですよ」
隣のセリナが、私が唐突に呟いた台詞に思わず吹き出す。
セリナ用のお風呂場建設に続き、魔法学院に奉公している使用人用の浴場も合わせて建設した私は、なるほど確かに相応しいと言えば相応しい二つ名を頂戴する事となった。
他の二つ名を持つ生徒達に比べると私の二つ名は滑稽なものであったが、これは春先に突如編入してきたにも拘らず、魔法学院の有名所兼綺麗所と懇意の仲となり、また授業でも並外れた成果を見せる私への良からぬ感情によって付けられたものだからだ。
いわゆる二つ名というものは自分が吹聴して得るものではない。その者の行いや成した成果に鑑みて、周囲が付けるものである。
多分だが、最初にお風呂屋さんのドランと言いだした者に、私への悪意はなかったのではないかと思う。
ただ私を良く思わない一部の者達が、それを私の二つ名とするべく悪口を並べ立てて、気付いた時にはもう定着していたのだと思う。
「そんなに笑みを誘う二つ名かい?」
「だってクリスティーナさんやネルさん達のと比べると職業ですよ?
確かにドランさんはお風呂を建設しましたけど、ものすごい安直と言えば安直じゃないですか。ふふ、お似合いと言えばお似合いですけれどね」
「ならセリナは今後、お風呂屋さんのドランの使い魔と名乗らねばならないな」
「う~ん、ドランさんの使い魔を名乗るのは全然嫌じゃないですけれど、少し考えちゃいますね。でも私はドランさんのお風呂の大ファンですからそれでもいいですよ。
ドランさんはその二つ名を結構気に入っているんですか?」
「ふむん。あからさまに侮蔑なり揶揄を込めて言われればともかく、単に二つ名として見ればそれほど嫌というわけではないよ。
ロマル帝国の浴場文化の流入で王国でも大衆浴場があちこちに出来ているし、浴場造りで名を馳せれば、そっち関連の仕事に恵まれる機会もある。
ベルン村に大浴場を作って、湯治場として発展させる事だってできるかもしれない」
水源は豊富だから水には困らないし、岩石や土を錬金術で分子配列を変化させれば、いくらでも浴場そのものを作ることだってできる。
生憎火山帯が近くに無いから天然の温泉は期待できないが、火精石を大量に用意するかヴァジェをなんとか説得すれば火力の確保もできる。
大量に薪を使うにはエンテの森を利用するのが最善だが、エンテの森のエルフをはじめとした諸部族の心情と、彼らとの長期的な友好関係の構築を考えると控えた方が良いだろう。
「ドランさんはいつもベルン村の皆さんの事を考えていらっしゃいますね」
「生まれ故郷だからね。あそこには良い思い出ばかりがある。私にとってあの村に産まれ、父母に育てられた事は最大の幸運だったよ」
だからこそ、私はいまこうして新たな生を歩めているのだから。
「ふふ、家族と故郷を大切に思えるのは素敵な事ですよ。それじゃあ、今日も頑張りましょう」
「ふんむー」
と私は考え込む時の口癖を鼻息と共に盛大に吐いた。先程からセリナとやり取りをしているのは、魔法学院敷地内のドラン印のセリナ用浴場の休憩室である。
この浴場は、浴槽や更衣室に男が入れないのは当たり前だが、休憩室までなら入れるように作ってある。
休憩室には弾力性のある木を編んで作った通気性の良い長椅子や肘掛椅子が置かれ、丸テーブルの上にはよく冷えた水の壺や果物籠が置いてある。
それらに手を伸ばす気にもなれず、私は丸テーブルの上に広げた紙を前にどうしたものか、と頭を捻っていた。
ベルン村を湯治場として発展させる時の事を考えて、今現在私の技術と知識、資金力などで出来そうな浴場づくりを考えているのだ。
ふむん、故郷の為と考えればますます気合が入るな。問題なのは気合が入り過ぎて度を越えてしまうのが私であるという事だ。
「ぱっと思いつく所だとここのお風呂みたいに、女性用のお風呂には香料入りの蝋を設置するとか、入浴剤入りの浴槽を作るとかどうですか?
日ごとに入浴剤を変えるのはちょっとお金が掛りそうですから、週に一回あたりが現実的ですかね」
セリナの意見はごもっともである。入浴剤の方は私で用意するとして、一般の薬剤師でも調合出来る入浴剤にしておいたが方が良いだろう。
香料入りの蝋も、市場に出回っている品を用意するとなると料金が嵩む。これも私が作るとするか。
天然の温泉が存在しないガロア近郊では、浴場と言えば井戸や川から汲み上げた水を単に温めるだけで、そこに入浴剤をドバドバと毎日使う余裕というか、発想は余りあるまい。
それこそ大衆向けの浴場ではなく、富裕層向けの高級浴場くらいのモノだろう。
となるとセリナの意見は大衆浴場では効果的なのではあるまいか。
入浴剤の調合表と必要な薬剤を頭の中で列挙する私に、お風呂上りの身体を椅子に落ちつけていたファティマとネルが声を掛けてきた。
訓練や調合、工作で体が汚れているいないに関わらず、彼女らは自由にこの浴場を使っている。
今は風呂上りの身体を前合わせのゆったりとしたシルクのガウンに包み、火照った肢体を休ませている。
同じ年ごろの男子生徒を前に何とも大胆な姿だが、この二人は私を男性として見ていない節があるからだろう。
クリスティーナさんは近くに出現した猛獣退治に出かけているらしく、不在である。
あの人は猛獣退治や魔物を追い払うなどの、武力がモノを言うクエストを好んで引き受けている。
剣を振るっている間は、実父に拾われてからの生活で心身に刻まれた嫌な記憶を忘れられるからだと言う。
ファティマの影の如く侍るシエラの姿は休憩室に無かった。
バンパイアは流れ水を弱点とするが、流れる事の無いお湯ならば大して問題にならないはずだが、彼女は現在浴場の入り口で待機中だ。
「本当にドランはお風呂屋さんになっているんだね~」
「魔法工芸者にでもなるの? 君なら付与魔法使いか創造魔法使い、錬金術師あたりが本命だと思っていた」
「どれもこれも本命だよ。出来る事は全部やる。たまたまお風呂関係の事が続いただけだが、まあ、お風呂屋さんと二つ名を付けられたのも何かの縁と前向きに考えるよ」
私が軽く肩を竦めると、ファティマが右手に持っていたグラスを傾けて冷水で唇を湿らせて、申し訳なさそうに眉根を寄せて捨てられた子犬みたいな顔をする。
「ドラン、実はねぇ、そのドランのお風呂屋さんていう二つ名を最初に言い出したのは~私なの~」
「ふむ?」
おや? という意味のふむである。
「単純にお風呂を作るって言っても~、ドランの場合いくつもの属性の魔法をいくつも同時並行して発動させて、それでいてそれぞれの魔法が干渉しあって不都合を起こさないように~ものすごい精度と正確さで発動しているでしょ~。
その事を皆に知ってもらえればぁ、ドランの事を良く思っていない生徒達も見直してくれると思ったの。だからそう言い始めたんだけどぉ」
しょんぼりとするファティマの様子から察すれば、よもや今のように皮肉を込めて私にその二つ名が贈られるとは想像もしていなかったのだろうし、そもそも二つ名にまでなるとはファティマにとっては予想外も良いところだったのだろう。
そんなファティマをネルが気遣わしげに見やり、私が怒りだしやしないかと、普段は怜悧な光を湛える瞳に不安の影を揺らす。
そんな眼をしなくてもファティマを怒ったりはしないよ。
「ふむ、そういう事情があったか。ファティマ、なに、気にする事は無いよ。
確かに悪意を持って私にその二つ名を付けた者もいるようだが、私は存外この二つ名を気に入っているし、なんなら浴場造りで名を上げようかとも考えている昨今だ。
だからそう落ち込む事はないし、気に病まなくて良い。
それでもどうしても気になると言うのなら、一緒に考えてくれるだけでいいよ。考える頭は多い方がいい」
「ん~、分かったよぉ。でもやっぱりもう一回謝るね。ごめんなさい、ドラン。私のせいで貴方に不愉快な思いをさせて」
「ふむ、確かに謝罪は受け取った。これでチャラだ。ではなにかご意見は?」
と早速大貴族の令嬢らに意見を問うと、二人は揃って首を右に傾げる。
意識しての仕草では無かろうが、ファティマは外見に似合った仕草が実に愛らしく、一方でネルは大人びた顔立ちと冷気さえ感じられるような雰囲気とは正反対の仕草が、意外なほど可愛らしい。
ネルがまだ二十歳にもならぬ少女なのだと、改めて感じられた。
「んっと入浴剤とか香料入りの蝋はセリーに先に出されちゃったし、そうだね~、ここの浴場みたいに硝子を嵌めこんだ天窓を作ってぇ、昼はお日様が、夜になったらお星様とお月様が見られるようにしたらぁ?
開放的な気分になってきっとも~っとゆっくりできるよ」
「なるほど、それなら外観が大きく変わるわけでも無し。硝子は高級品だが、私が用意すればどうとでもなるか。ネルはなにかある?」
「昔からある大衆浴場なら、多分、家族で入りに来る事もあると思う。
だから小さな子供が飽きない工夫をした方が良い。子供がばたばたと遊び出したら、静かじゃなくなるし、滑って転んだら危ない」
私が魔法学院で作った浴場はどれもまず成人した男女が使う事を想定したものだった。
確かにネルの言う通り子供の利用も考えて飽きない工夫を凝らす必要もあるか。
「ありがとう。そこまではまだ考えが及んでいなかったよ」
「いい。それに具体的な方法は何も提示できてはいない」
ふぅむ、子供の飽きない工夫か。子供、子供、子供か。子供と聞いて真っ先に思いつくのはベルン村での子供時代。
村の同年代の子らと遊ぶ時、水に関する遊びは果たして何だったか?
暑い夏の陽射しが降り注ぐ日などは、村を縦断する川辺に集い、半裸になってよく水かけ遊びをしたものだが、まさか浴場で水掛け遊びをするわけにも行かん。
さてはてふむふむ、と私が心中で唸っていると、脳裏に描いた川で遊ぶ子供達の光景からピンと閃くものがあった。
「川か。少し狭いがまあなんとかなるか」
妙案を思いついたと見えたのか、ファティマとネルとセリナが一斉に私の顔を見る。ふむん、それぞれ異なる美少女達に見つめられるというのは悪くない。
悪くないが、中々に迫力というかこちらに息を呑ませる雰囲気があった。
女性慣れしていない男なら、大きく心臓を脈打たせてからしばし呼吸をする事さえ忘れてしまいそうだ。
「何か思いつかれましたか?」
と興味津津といった調子で問いかけてくるセリナに、私は微笑みと共に答えた。
「かなり強引な力技だけれどね。まあ、試験をやってみる価値はある。夏の長期休暇に入って、村に戻ったら早速試してみるさ」
私の思い浮かんだ試みを現実の物とする為に必要な資材などを改めて精査し、私はふむふふふ、と含みのある笑みを漏らすのだった。
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第四十三話
魔法学院の事務局へ向かい、掲示板に貼り出されている依頼の数々を確認して回った。
魔法学院や市井の人々から魔法具の作成や薬の調合依頼が来て回っているが、特別私達の食指を動かすような依頼は中々見つからなかったが、一つ、他とは異色の依頼があった。
それは魔法学院に勤務している古代史の教授からの依頼であった。
「ふむ、エドワルド・ブラムノック教授の手伝いか」
「あんまりお金はもらえませんね。それに七日間もお手伝いに専念しないといけないのは厳しいんじゃありませんか?」
「だが場所が面白い」
「場所? んと、あ、本当だ。天空都市スラニアって、時々お空を飛んでいるあのお城みたいなのの事ですよね」
「古代に存在した天人の遺跡都市のひとつだな。周辺諸国の上空を同じ航路に沿ってずっと飛んでいる空中都市だが、あそこにまで人間の足が届いていたとはな」
天人は読んで字の如く、天空にいくつもの都市を建造してそこに住まい、地に住む者達を睥睨していた古代人だ。
現在の文明より魔法と科学双方の技術において遥かに進み、今では到底考えられないような品々を造り出して地上に覇を唱えていた。
陽光の届かぬ深き海の底や圧倒的な質量に包まれた地中、夜天に座す月にまでその手は伸びていたのだという。
「よし、これにしよう。受注資格は満たしている筈だ」
「ドランさんがお決めになったのなら私は何も言いません。でもクリスティーナさんやファティマちゃん達に暫く魔法学院を空ける事は言っておいた方が良さそうですね」
「ふむ、確かにな。よしまずはこれを受けてくるとしようか。クリスティーナさん達へ話すのはその後だ」
さて私達が向かう先のスラニアであるが、ガロアの港で教授とその助手と合流し、ちょうど今の時期ガロアの近くを飛ぶスラニアへと赴くのだという。
私とセリナを含めてもたったの四名、それが七日間で何が調査できるのか甚だ怪しいところではあるが、何か見つかれば見っけものだと考える程度でよいだろう。
そして空中を浮遊するスラニアへは飛空船を使って向かう事となる。
空を飛ぶ船と呼ぶように飛空船は空を飛ぶ。
船体の中心部に浮遊石と呼ばれる特殊な鉱石と風精石を設置し、竜骨など主要な部分には内部に多量の大気を含んだ木材を使用し、船体には羽の代わりに帆を張った翼を持った船である。
私達が乗っていくのはある商会が保有する小型の飛行船で、スラニアへ人間を運ぶのは割にあわないと思うのだが、王国からの正式な調査支援の要請が継続されている為、安定した収入が得られるのと信用を得るために継続しているのだろう。
エドワルド教授と合流し、天空都市へ向かうまでの三日間、私はセリナと天空都市の情報とエドワルド教授個人に対する調査を進めるのと同時に、しばらく顔を出さずにいた彼女らのもとへと分身体を派遣する事にした。
まずはモレス山脈に棲んでいる今世の竜の友の所へ顔を出した。山脈にある湖で人魚達と共に暮らす水竜ウェドロとワイバーンの群れを統率している風竜オキシス達である。
オキシスはウェドロと知り合った後に顔を合わせた風竜で、人間で言うと三十代後半の成体の風竜である。
大きな翼とそれに対して小さな前肢と、うっすらと緑の色彩を帯びた鋼色の鱗を持っている。
ウェドロが棲みかとしている湖の中央にいくつか浮かんでいる小島の一つに降り立ち、そこにウェドロが水中から長い首を伸ばし、大きな翼を折り畳んだオキシスとが降り立って、私がお土産に持ってきた荷車三台分の肉を摘みながら話をする。
「天に浮かぶあの都市か。私が卵から孵った時にはもう空に浮かんでおったのう」
このウアラ湖で獲れる成人男性の背丈の五倍の大きさを誇る巨魚を食べながら、ウェドロがなにも浮かんでいない青い空を見上げてしみじみと呟く。
「おれも時折見かけるし、近くにある時などは降り立って羽を休めもするが、あそこに住む者達の人影を見た覚えはないな。
人間の姿を見はするが、それは地上からやって来た者達であるようだし、なにも見つからんのではないか?」
豚の腿肉を骨ごと噛み砕いているのは、オキシスである。錆びた男の声音は深い知性と熟した男の渋さとがある。
オキシスの翡翠色の瞳には、人間が竜族に抱く凶暴な印象を拭うだけの理性の光があった。
「見つからぬならそれで良いさ。天空に浮かぶ都市からの眺めを楽しめば良いし、どういった造りになっているのか、浮かんでいる理屈など人間には分からなくとも私なら分かる事もきっとあるだろう」
「自信満々だな。飛竜達がお前の乗った船を襲わぬよう命じておくが、お前がおればその人間やラミアに危害が及ぶ事はあるまいな」
「であるのう。人間に転生して弱くなったと貴殿は言うが、抑えておるだろうその力だけでも我らを上回っておる。前世は古竜かあるいは竜王であったと言われても納得するほかなさそうじゃ」
「それは内緒だ。なにか面白い物を見つけたらまたお土産か土産話を持ってくる」
「そうか、貴殿の話は面白い。ここでの暮らしは静かで落ち着いたものであるが、いささか平坦に過ぎるからのう。楽しみにしておくとしよう」
「ウェドロに同意するが、お前にはもう少し頻繁にここに顔を出して貰わねば、アレの機嫌が悪い。なんとかならんか?」
オキシスの言うアレを一斉に思い浮かべて、私とウェドロは苦笑を禁じ得なかった。しかしアレ呼ばわりで誰の事だか分かるとは、ふむむん。
「ふむ、アレのご機嫌取りをするのも私の役目か。ではこれを食ったら顔でも見て来るとするか」
「そうするのがよいの」
「そうしてくれんか」
ウェドロとオキシスに揃って頭まで下げられると、これは断れない。私は持ってきた肉を食べ終えてから、翼を広げて空高く飛びあがった。
さてアレこと深紅竜のお嬢さん、ヴァジェの気配はと言えば……居た。
そちらに視線を転じて竜眼で見てみれば、こんがりと焼いたグリフォンの丸焼を腹に収める作業の途中であった。
山肌がむき出しの山腹でグリフォンに舌鼓を打ち、ぺろりと口の周りを舐めているヴァジェの所へ、私は翼をはためかせて向かう。
ヴァジェはすぐに私に気付いたが、以前と違っていきなり火炎弾を叩きつけてくる事はしなかった。その代わり、私に対してそっぽを向いてふんと鼻を鳴らす。
ふむん、私がしばらく顔を見せていなかった所為か、どうやら拗ねておるわい。
「久しぶりだな、ヴァジェ。といっても竜族にとってはまたたきのような短い時間ではあるが、ふむ、成長期だからか少し大きくなったか」
「……」
「なんだ、いつもの悪口は無しか。元気そうで安心したと思ったが、いつもと違う調子では不安になるではないか」
「ふん」
ふむ、鼻を鳴らしただけだが無言を通されるよりは一歩前進か。
ふうむ、拗ねた子供の機嫌を直すとなると飴を与えるか、決して疎かに扱っているわけではないと納得させるか、褒めそやすあたりが効果的か。
私はそれからヴァジェと久しぶりに会えて嬉しいだとか、元気にしているとは思っていたがそれでも心配はしていた事(本当に少しはしていたのだ)、人間としての生活が一段落したので、これからは顔を見に来る頻度を増やすと話し掛け続けた。
「そうそう、ヴェジェは時折空に浮かんでいる都市を知っているか? あれはスラニアというのだがそうだが、今度、魔法学院の授業で二日後にあそこを訪れるのだ。
七日間ほど滞在して、なにかしら発見があるか調査するのだよ」
「あの愚かしい天人とやらの遺跡か」
ふむ? ようやくヴァジェが意味のある言葉を口にしたな。この口ぶりからすると、天人を直接知っているわけではなく、他の誰かから聞かされた風だな。
「そうだ。私は天人とやらを皆目知らぬが、ああいう空に住む者達が地に住む者達を嘲り、見下す傾向にある事は経験上よく知っている。
おそらく良からぬものが残っているだろうから、もし残っていたらそれを処分するつもりだ」
「はん、調子に乗って自分が賢いと思いこんだ人間がよく辿る道筋だな。ますますもって私には関係ない。大方、お前の同族共が余計な事をして眠っていた災いを起こすのが落ちだろう」
「確かに、それも私はよく経験しているよ。己の手に余る力を求めて、禁忌に触れてしまうのは人間種がよくやる過ちだな」
「誰とも知らぬ者共の尻拭いをするとは、相変わらず奇異な奴」
「私らしかろう。それに尻拭いをするとは限らん」
「ふん」
と私の方を向き直っていたヴァジェがまたそっぽを向いた。話はこれで終わりだ、というヴァジェの合図である。
反抗期に入った娘を持った父親の気分で、私は小さく笑ってから翼を打つ。実の父母の下ではかなり甘やかされていたらしいこのお嬢さんが、はたして一人前の竜になれるかどうか、私は温かく見守りたい気持ちになっていた。
「ではな、ヴァジェ。多分十日後くらいにはまた顔を見に来る」
ぴく、とヴァジェの耳と尻尾が動いた。
「……十日」
「ああ、そのくらいになるだろう。ではな。毒は心配せんが食べ過ぎてお腹を壊す事の無いようにな」
そして私はヴァジェに背を向けてこの場を後にした。
かなり遠くまで飛んでから、ヴァジェが鎌首をもたげて私を振り返った事に気付いたが、そのままにして私は分身体を一路南へと向けて飛ばす。
目指すは水龍皇龍吉が統治する龍宮城である。ヴァジェと会うのが久方ぶりであったように、瑠禹や龍吉と顔を合わせるのも魔法学院に入学してからは控えていたのだ。
水龍皇の職務をこなさなければならない龍吉は、自由な立場にあるヴァジェと違って予約をせずに会いに行っても、しばらくは会えないだろうから、伝言だけでも残そうと私は考えていた。
龍吉の娘である瑠禹も次期水龍皇として学ぶ事の多い日々を過ごしているから、顔を合わせる事も難しいだろう。
白竜の姿のままはるかな海の底で絢爛たる輝きを放つ龍宮城を訪れ、広大な城塞都市をぐるりと囲む珊瑚の城壁に近づいて、門番をしていた魚人と水龍、大型船をも沈める巨大な烏賊クラーケンに名前を告げ用向きを伝えた。
前に訪れた時に私の事を国の者達に伝えておくと龍吉が言っていたから、門前払いをされる事は無かった。
その代わり私の名前と外見的特徴から、私がドラン本人であると確認した門番達は、慌てふためいて城門にある控室に戻って、なにか大声で話をし始めた。
ふむん、せめて次に会いに来る日時くらいは伝えておきたいと考えていた私だったが、蓋を開けてみればこうなった。
私が視線を少しばかり右にずらすと
「ドラン殿、いかがなされました?」
そこにはにこやかに笑む佳人の姿があった。人魚と魚人と龍が住まう龍宮国を統べる三龍皇の一柱、水龍皇龍吉その人である。
ふむぅ、水龍皇としてそして龍宮国の女王としての執務があると思うのだが、そんな事を感じさせずに龍吉は私室へと通した私に対し、自ら茶器を手にお茶のお代わりはいかが、と問うてくる。
室内には人間の姿に変わった私と龍人の姿を取る龍吉以外に人影は無く、二人きりである。
曲がりなりにも一国の国主が素性の知れぬ私と二人きりになる事に、龍宮城の女官や将達は随分と慌て、龍吉に意見を具申したが龍吉はこれをやんわりと退けた。
この龍宮城で誰よりも強大で、誰よりも美しく、誰よりも威厳ある龍吉がこうと決めたら、それに異を唱えられる者は多くは無いらしい。
まあ、今回は瑠禹からの信頼も厚い私である事と、地上最強の一角である龍吉に誰が危害を加えられようか、という意識から彼らもそう強くは口出ししなかったのだろう。
「いや、突然の訪問であったからまさかこうして君と顔を合わせる事が出来るとは思っていなかったから、少々面食らっているのだ」
私は手元の青く透けた硝子の器に口付けて、薄い茶色の海藻茶を口に含んだ。
茶葉とは異なり旨みと言えば良いか、香り以上に味がある印象が強い。
またこの茶器そのものも実に味わいの深い青色をしており、海底で産出される特殊な土か鉱物を用いて焼かれた品であろう。
「あら、ドラン様がわざわざ足を運んで下ったのですから、何を置いてもお会いするのが礼儀というものでございます。
それにドラン様とお話しするのは私にとって、なによりの楽しみでございますから。さ、どうぞ」
「ん、ありがとう」
空になった私の杯に白磁に水中花が美しい急須を持ち上げて、二杯目を注いでくれた。
水龍皇が率先して侍女のような真似をして、私の世話をかいがいしく焼いていると知ったら、この国の人々は仰天して息をする事さえ忘れるかもしれない。
「このお茶は美味しい。特に龍吉のような美女が淹れてくれるお茶はなおさら美味しい」
「まあ、ドラン様はそのようなお世辞を知っている方でございましたか。とはいえたとえお世辞でも龍吉は嬉しゅうございます」
「思った事を思った通りに言ったまでだよ。しかし良かったのかね? 私を相手にこのように時間を過ごしてしまって。忙しい身であろう」
「どうかそのような寂しい事を仰らないでくださいまし。国主としての仕事はむこう一月分を済ませております。
私で無ければ裁量出来ない案件は別ですが、普段の仕事に関すれば問題はございませんよ。ですからドラン様との楽しい時間を心行くまで堪能する事が出来ます」
ふむん、流石に何百年か何千年か国の頂点に座しているからか、仕事に関して抜け目がないようだ。
生憎と瑠禹は巫女としての修行の関係で席を外しているようだが、戻ってくるまでそう時間はかからないらしい。
私はこのまま瑠禹が戻ってくるまで龍吉と和やかに話を続けて、時間を潰す事とした。
魔法学院に入学してからついこの間、南の大陸に住んでいたバンパイアの亡国の女王であるドラミナとの出会いについて話をしていたところで、部屋の外の廊下からパタパタと忙しなく走ってくる足音が聞こえた。
「瑠禹だな。しかし随分と急いでくれているようだ」
「ふふ、少々はしたのうございますが、娘の粗相をどうぞお目溢しくださいませ。瑠禹はドラン様の事を心の底からお慕い申し上げております」
「私のような者には過ぎた事だ。しばらく顔を見せに来なかったのが悔やまれるな」
「瑠禹だけでなく私もドラン様のお顔が見られず、お声を聞けず寂しゅうございました」
よよよ、と龍吉が袖で涙の流れていない目元を隠して泣き真似をするのに、私はずいぶんと子供っぽい所を見せてくれるな、と笑った。
龍吉にとって私だけが水龍皇としての仮面を被らずに接せられる唯一の存在だからか、見かけにそぐわぬ甘えるような態度をよく取る。そういえばドラミナもそうだったかな。
「これからは出来る限り龍吉に寂しい思いをさせぬよう努力をしよう」
と言うとそれまでの泣き真似はどこへやら、龍吉はにこりと大輪の花々が周囲に咲き誇ったように明るく美しい笑みを浮かべる。水龍皇であろうと女は全て役者、か。
「ドラン様からそのお言葉が聞けて龍吉は大変嬉しゅうございます。瑠禹の為にもぜひともそうなさってください」
ふむん、と私が了承の返事をしたところで静かに扉が開かれて、紅白二色の巫女の衣装を纏った瑠禹が多少息を荒くしつつ顔を覗かせた。
頬を赤くした瑠禹は私の姿を見ると、ぱあっと先ほどの龍吉によく似た明るい笑みを浮かべて、うきうきとした足取りで室内に歩を進めてくる。
「陛下、ただいま戻りましてございます。それに、ドラン様、お懐かしゅうございます。ご壮健そうで瑠禹は嬉しいです!」
主君であり母でもある龍吉への挨拶はそこそこに、瑠禹は満面の笑みを私に固定してにこにことしっ放しである。
顔を合わさずにいた時間がヴァジェの機嫌を凄まじく損ねたのに対して、瑠禹の場合は募った思いが私と再会した事で爆発したらしい。
「ふむ、瑠禹の方こそ立派に巫女としての役目を果たしているようだな。偉いぞ」
「はい!」
思わずこちらが驚くほど元気の良い返事であった。父親に褒めて欲しくて仕方の無い子供が褒められた、きっとこんな反応をするのだろう。
我ながらよくもここまで瑠禹に慕われたものだなあ、とついつい思わずには居られない。
そんな愛娘の様子に思う所があったのか、龍吉が悪戯を思いついた少女の顔をしてから、優しい母の顔で瑠禹をからかう言葉を口にした。
「まあ瑠禹ったら、ドラン殿に早くお会いしたいからと廊下を走ってくるなど。それにしても間の悪い事。もう少しでドラン殿と逢引の約束を交わせるところでしたのに」
「母様?」
瑠禹は実の母たる龍吉が口にした事を理解するのにしばらく時間を要し、細首を左に傾けて、さらりと肩を黒髪が滑るがままにして固まった。
「あ、あ、逢引!? かかか、母様、何を言われるのですか!!」
なので私もそれに乗っかった。当然である。疑問を挟む余地が無いほど当然である。
「いや逢引では無く密会だな」
「ふふ、そうでしたね。密会でございますね」
「ど、ドラン様!?」
その場で卒倒しそうな瑠禹の様子に、母たる龍吉も私もにこにこといやらしくなる寸前の笑みを浮かべる。それは自分達の仕掛けた悪戯がこの上なく成功を収めた時に浮かべる笑みであった。
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第四十四話
私とセリナは長い遠足みたいな気分で、なかなか寝付けない夜を過ごしながらその日が訪れるのを楽しみに過ごした。
事前に調べたところ、スラニアははるか上空を浮遊しているにも拘らず、その敷地に近づくにつれて氷の如く冷たい風が温みを帯び、スラニアの大地に足を降ろせばそこは常春で時を停めた場所だと知る事が出来るという。
植生に関してはスラニア固有の種が多いが、地上で見かける植物もちらほらと見かけられ、食用の果実も確認されている。
かつての住人達が残した罠や護衛用の合成生物の類も既に掃討されているというから、最低限の武装と春先の軽装で良いのだろう。
ガロアの南にある飛行専用の港はワーグレールといい、小さな湖の畔に設けられている。
飛行船が開発され、徐々に発達していったそれらが物資や人員の大量輸送や素早い情報伝達に役立つ事に着目した王国の重鎮たちは、国内の主要都市に飛行船用の港を建設する一大国家事業に着手した。
ワーグレールもその時に建設された港の一つだ。
頻繁に馬車や人の足が踏みしめる為に、すっかり轍の跡やらで凹凸が出来ている道を、私達は民間用飛行船の区画へと向かった。
民間船と軍艦とは何人もの兵士達が厳重に警備し、往来には必ず検問を通らねばならないなど、厳しい規制が掛っているようだ。
陽に焼けて褐色に染まった上半身をむき出しにして木箱を運んで居る船員や、彼らに指示を出している監督者などを横目に、私達は湖面に浮かぶ船を見物がてらゆっくりと見て回っていた。
港の入口に今日、どの時間帯にどこの所属の何と言う名前の船が停まっているのかを知らせる掲示板があり、既に私達の乗る船の位置と出港時刻は確認済みだ。
「大体の形は一緒ですけれど、帆の数とか船首の像とか飾りは色々ですね、ドランさん」
「民間用の商船とはいえ、飛行船を抱えられるのは裕福な商人だからね。持ち船そのものが一種の広告の役割を果たすから、普通の船以上に外見での差異を付けようとするそうだよ」
「私達が乗るのは足の速い小型の船なんでしたっけ」
「滞在できる期間が限られているし、向かう場所が常に移動している天空都市だから、あまり足の遅い船に乗ってしまっては滞在時間が少なくなる。
もし調査で大量の発掘物が見つかった時には、持ち帰れる物が少なくなるという短所はあるが、既に調べ尽くした場所だというし、エドワルド教授は船に積載するほどの発見物は無いとある種諦めているのかもしれない」
「天人さんの事はおとぎ話くらいでしか聞いた事がありません。ただ、たまに天人さんの残した薬のお陰で女の子の不治の病が治ったとか、日照りに悩まされていた村に雨が降って助かったとか、良いお話もありました」
「伝承を聞く限り、天人はあまり感心できない所業を繰り返していたようだが、道具は使う者の心がけ次第という教訓だな。
せっかく行くのだから何か面白いものでも見つかればいいとは思うがね」
「ん~~、なにか新しい発見があるんでしょうか?」
「先程言った事とは矛盾するが、ひょっとしたら教授はこれまでの調査隊が見つけられなかった何かがある、と考えているのかもしれないな。
それが根拠の無い勘か、確信を抱くに足る証拠があるのかは本人に会ってみないと分からないが」
事務局に提出されていた調査手伝いの内容や報酬から察するに、エドワルド教授への魔法学院や王国からの援助金は大した額ではないだろう。
考古学者などはパトロンの存在が活動に欠かせぬというが、そちらもどうにも怪しい。
おそらく彼らを納得させるだけの物証をエドワルド教授は持っていないのだろう。
これまでの調査の経験から、まだスラニアには何かが残っていると直感で判断しているのでは? と私は推測している。
水面に降りている時は船体中腹の両側面にある翼を、扇のように畳んでいる飛行船の姿をあらかた見終えた私達は、いよいよ私達が乗船する小型飛行船シルバースワロー号へと向かう。
スラニアへ私達を送り届けたらそのままワーグレールへ戻り、七日後に再びスラニアに来て私達を回収し、ワーグレールへ送り届ける契約になっている。
スラニアへの行きでは船に積み込むのは私達と滞在用の荷物くらいだから、随分と船の荷は軽く足は速い事だろう。
「あ、あの船ですね。他のと比べると失礼かもしれませんけれど、可愛らしい大きさですね」
「確か、最大で三十人乗りだったか? ふむ、教授らしい人影は無いから私達が一番乗りかな?」
荷物の運びこみなどが無いからか、船員の姿を見かけないシルバースワロー号に近づく私達だったが、残念ながら一番乗りではなかった事はすぐに分かった。
銀の燕という名前の由来は、折り畳まれた帆の軸が銀色の光沢を帯びているからだろう。その小さな船体の前に一人の女性が佇んでいたのである。
足元に荷物を詰め込んだ背嚢を置き、分厚いベルトは大ぶりの魔晶石を鍔に埋め込んだ、一目で業物の魔剣と分かる長剣を吊るした女性は誰あろう――
「あれ、クリスティーナさんがいますよ?」
「ふむ、クリスティーナさん以外の何者でもないな」
クリスティーナさんである。クリスティーナさんだ。なぜかクリスティーナさんが居た。まさか、またクリスティーナさんがあの過保護を再発させたのか?
私達総がかりで説得し、ようやく元に戻ったというのにそれは表面上だけで実はまったく効果が無かったというのだろうか? 私は空恐ろしくさえあった。
クリスティーナさんは私達に気付いた様子は無く、黒狼のマントの裾を風に靡かせながら興味深そうにシルバースワロー号を眺めている。
幼いころから母と二人で王国の各地を旅してきたというクリスティーナさんにしても、飛行船をこうも近くでまじまじと見る機会はあまりなかったのだろう。
声を掛けるのはいささか憚られるものがあったが、ここに居るという事はクリスティーナさんもエドワルド教授の依頼を受けていたのだろうから、放っておくわけにも行くまい。
「クリスティーナさん」
「その声は……ドランにセリナ? どうして君達がここに?」
私の声にこちらを振り返ったクリスティーナさんは、私達がここに居る事が不思議でしょうがないという表情を浮かべた。わざとらしさや演技の素振りはわずかもない。
という事は、本当にここに居るのは偶然という事になるのだろうか。
「私達はエドワルド教授の天空都市調査の手伝いだよ。あまり報酬は期待できないけれど、場所が場所だけに好奇心をそそられてね」
「ほう、なら私と一緒だな。調査の手伝いは若干名募集とあったからな。複数の生徒が依頼を受注していてもおかしくは無い。とはいえまさか君達と一緒になるとは思わなかった。
今回の調査の手伝いは私ひとりかもしれん、と思っていたところだったんだ」
「なるほど、となると私達以外にも今回の調査の手伝いを引き受けた生徒がいるかもしれないな。
にしてもクリスティーナさんの姿を見た時はまた過保護熱を再燃させたのかと、驚いたよ。
ファティマとネルにはスラニアに行く事を伝えたが、クリスティーナさんだけ姿が見えなかったのが不思議だったけれど、調査の準備に勤しんでいたから会わなかったのか」
「たぶんね。魔法学院に来てから天空都市へ行くのは今回が初めてだから、色々と要らぬものまで準備してしまって、ずいぶんと手間取ってしまったよ」
クリスティーナさんの足元にある背嚢は私のよりも小さく、随分と小さく纏めたらしい。
一旦頭に上った熱を冷まして、小さい頃の旅暮らしの経験を思い出して改めて荷づくりをした結果だろう。
幸いにしてクリスティーナさんが今回の調査で私達と一緒になったのは、偶然によるものであったらしい。
良かった、と胸を撫で下ろすのはいくらなんでもクリスティーナさんに失礼だろうか。
クリスティーナさんとセリナも話を始め、まだ見ぬ天空を目的なく彷徨う廃墟と化した都市に思いを馳せ、出港の時刻が徐々に近づいてきた頃、ようやく私達の待ち人であるエドワルド教授とその助手が姿を見せた。
エドワルド教授は三十歳になろうかという若手の考古学者であり、綺麗に毛先を整えた金髪と、うっすらと青い色の入った眼鏡を掛けた優男風の青年であった。
だが野外での活動に適した魔獣の毛皮を用いた上下の衣服の下の肉体は、針金を何本も束ねたように強靭なものである事が窺え、足音もまるでなく遺跡調査という名の死地を幾度も潜った猛者であると分かる。
「やあやあ、おはよう! 君達が今回の調査を手伝ってくれる学生達だね。おお、クリスティーナくん、君の事は無精者の私も耳にしているよ。
君がドラン君? そちらのラミアのお嬢さんが使い魔のセリナ君かい?
いやあ、これまでラミアには襲われた事はあっても、一緒に調査を手伝って貰った事は無いからね。貴重な経験が出来るよ、ありがとう、ありがとう」
朝も早いというのに実に元気よくはきはきと喋り、教授は順々に私達の手を握ってぶんぶんと勢い良く振っては、人懐っこい笑みを浮かべて声を掛けてくる。
ラミアであるセリナに対してもまったく躊躇する事無く近づき、手を握るのだから相当器が大きいのか、あるいは古代文明の調査以外にはまるで頓着しない性格をしているのかもしれない。
ただ、私はこういう性格をしている相手を好きになりやすい。実際、初対面の現段階で、私はこの若い教授の事を気に入っていた。
そして教授の後ろには二つの人影があった。一つは教授の助手であろう妙齢の女性である。
しかしながらとても天空都市に向かうとは思えぬ出で立ちで、なんと魔法学院の使用人が着ているような、黒地のドレスの上に白いエプロンを重ねたメイド服を着ていたのである。
豊かな金色の髪は簡素な造りのバレッタで纏めてあったが、太陽の光を思わせるセリナの金髪に比べると幾分なり冷めた印象を受ける金髪だ。
クリスティーナさんには劣るものの女性としては長身で、背骨の代わりに鉄の芯が入っていそうな隙の無い凛とした佇まいで、まるで表情の変わらぬ様子からこのメイド服の女性はゴーレムか自動人形(オートマタ)ではないのかとさえ思えてくる。
成人男性を二、三人詰め込めそうなくらいに膨れ上がった背嚢を背負ったまま、メイドさんは私達に対してスカートの裾を摘み上げ、お手本にしたいくらいに優雅に頭を下げて自己紹介をした。
「お初にお目に掛ります。エドワルド・ブラノック教授の助手兼世話役エリザと申します。以後、お見知りおきくださいませ」
エリザと名乗ったメイドも教授同様挙措に隙が無い。
貴種の相手をするのに相応しいだけの気品と優雅さが挙措の一つ一つに備わっているというのもあるが、決してそればかりでなく戦う為の無駄の無さもまた備わっている。
古代文明の遺跡調査の過程でこの男女が経験した戦いとは、はたしてどんなものであったか。
それは単に護衛の魔獣や人造生物のみならず、各種の罠や同業者との騙し合いや命を掛けた闘争も含まれているに違いない。
「よろしくお願いいたします、ミス・エリザ。クリスティーナとお呼びください」
「ドランさんの使い魔のセリナと申します。御覧の通りのラミアです」
「ドランです。今回は貴重な体験が出来ると心待ちにしておりました。ところでミス・エリザ、エドワルド教授、そちらの彼女は……」
私がミス・エリザや教授と若干距離を置いてそっぽを向いている二つ目の人影に視線を向けると、おお、と教授が言って紹介を始める。
「彼女が今回私の調査を手伝ってくれる最後の生徒さ。いやあ、四人も依頼を受けてくれる生徒がいるなんて初めての事だよ。
これほど嬉しい事は滅多に無いね。ほら、照れていないで挨拶をしたらどうだい、レニーア君」
「全員、知った顔だ。今更自己紹介をするまでも無い」
教授に促されたにも拘らず二つ目の人影――神造魔獣の転生者レニーアは、そっぽを向いたまま年長者への礼を知らぬ態度で応える。
クリスティーナさんが居た時にも思ったが、どうして君がここに居るのだ、レニーア?
私はどうも調査が面倒な方向に進みそうだ、と今度ばかりは堪え切れずに溜息を吐いた。
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第四十五話
湖面に着水していた飛行船が離水する手順は、まず船体中央部に設置された浮遊石に魔力を流し込み、浮遊石の発する浮力を上昇させ、刻んだ術式に沿って船体全体に浮力を帯びさせる。
この段階で船体は湖面からわずかに浮き上がり、これを待ってから帆を張ってそこに樽や筒に風精石を入れた風を起こす魔法具で、帆に風を当てて船を進める。
浮遊石で浮力を得て、人為的に起こした風で推進力を得てから、両舷の折り畳まれている翼を広げ、徐々に浮遊石と風精石の出力を上げて完全に湖面から離水して空を飛ぶに至る。
小型快速飛行船シルバースワローが離水し、眼下にワーグレールの光景を見下ろして空を行く中、私達は連れだって甲板に上がって青い空に浮かぶ白い雲の流れや、はるか高空から望む地上を楽しんでいた。
スラニアは南北に長い形をした島がそのまま空に浮かび、その大地の上に長い年月によって異常なほどに成長した木々に飲み込まれた城塞や、家々が無数に軒を連ねていた。
建築物の材質は一見すると石のようにも思えるが、石材や土瀝青や漆喰でもない。人工的に合成した素材を用いているようだ。
ふむふむ、少しばかり削って魔法学院で分析してみるとしよう。
これだけの長期間、あそこまで綺麗に原型を保っているとあれば、現代で使われている建材よりも優秀なのは間違いないだろう。
スラニアの面積は大雑把にではあるが、人間の足で南北に五日、東西に二日ほどの面積を誇り、ちょっとした領土が空を飛んでいるのにも等しい。
過去にいくつかの国が調査団を送り込んだ際の取り決めによって、それぞれの国の飛行船が停泊する場所は決められているという。
我が王国の飛行専用の港は、スラニアの南東にある川の畔に建設されており、小型船なら三隻、中型船なら二隻が停泊できる規模となっている。
これはそれぞれの国の軍事力や国力、スラニアの航路との位置関係、そして保有している飛行船の数にも依るのだが、既に学術的な価値を低く見られているスラニアに熱を入れている国はほとんど無く、港の整備をしていないどころか放棄している国さえもあるという。
空に浮かぶスラニアの底を眺める形で船は上昇して行き、やがてスラニアを見下ろせる高さにまで来たところで、中央部に都市と思しい巨大建築物が見え、その周囲に豊かとしか表現しようのない緑が繁茂している。
その緑の中を縫うようにして降り注ぐ陽光を反射する銀の流れがある。川だ。
いくつもの支流を生みながら、川が流れてスラニアの端まで来るとそのまま地上に降り注ぎ、風に吹き散らされて白い霧を生んでいる。
低空からスラニアの大地を見上げた時、大地の底や下部が白く染まっていたが、その正体がこの霧のようであった。
スラニアに近づくにつれて高空の冷気は消えて、常春の温みを帯びるという話は嘘ではなかったようで、それまで船室の中から出ないようにと言われていた私達も、船室の丸窓の外に見えるスラニアが大きくなると、甲板に出る許可が下りた。
本来、スラニアが浮かんでいる高度となると船の外に出るのには、毛皮の外套を重ね着するなど、真冬の身支度をしなければ体が凍えてしまう。
だが連れだって甲板に出た私達の頬を撫でる風は、冬の名残が完全に消えた春の暦にこそ相応しい暖かさ。
さてスラニアの下方から斜めに上昇していった船は、緑に呑まれたスラニアの大地に影を落としながら、ゆっくりとした速度で港を目指して進んでいく。
建築物同様に大地には灰色の石とも土瀝青ともつかぬ、合成建材が顔を覗かせているが多くは丈の短い草や蔦、苔などに覆われている。
やがてスラニアを流れる川に着水したシルバースワロー号は、川の流れに逆らって進み、目的が見えてきたところで舳先にたったエドワルド教授が私達を振り返ってこう言った。
「諸君、見たまえ。あそこが私達の使っている港だよ。ワーグレールに対してリトルワーグという名前が付いているんだ」
川の流れに逆らって進むシルバースワロー号の先には、綺麗に円形にくり抜かれた場所があり、シルバースワロー号と同じ大きさの船なら十隻は停泊できるだけの広さがあった。
船を停泊させる為の設備は八隻分あり、宿泊の為の簡易宿舎が二棟、資材などを保管する為と思しい倉庫や、すっかり荒れ放題になっているが菜園らしきものも確認できる。
エドワルド教授が船長と固い握手を交わしながら帰りの便の手配を頼み、チップとして金貨を何枚か手渡すのが見えた。
惜しげも無く金貨を渡すあたり、財布の紐を握っているミス・エリザが窘めるかと思ったが、これまで表情一つ変えなかったメイドの助手殿はまるで頓着していない。
セリナとクリスティーナさんは少しばかり二人の関係が気になっている風だが、私達がこのスラニアの調査を行うのが目的である事を忘れないで欲しいものだ。
過去に我が王国の調査団が建設したキャンプ地へ向かう道すがら、エドワルド教授の天人に対する授業が始まった。
「天人の歴史は分かっている限りではおよそ二千年前に途絶えている。
今、この大陸や他の大陸にある人間や獣人などの国家は、大半が天人に支配されていた地上種族の子孫なんだ。
高度に発達した魔法と科学文明を保持していた彼らが突如として滅び、その姿を消したのには諸説ある」
「教授の著書や他の方々の天人滅亡に関する論文を拝読いたしましたが、やはり三竜帝三龍皇や神獣、あるいは星人(ほしびと)と呼ばれる星空の彼方より飛来した者との戦いによる衰退が、主な原因として論じられていますね」
「ああ、そう、そうだとも。
人間や亜人の大多数を支配下に置いた天人達が、未だ支配下に置いていない地上最強種たる竜族や、この地上世界とは異なる次元に存在する妖精郷、古巨人が棲むという秘境に魔手を伸ばそうと考えたのはある意味では当然の流れだったろう。
この大陸だけでも地上に落下した天空都市はいくつか発見されていてね。その内のいくつかは激しい戦闘の痕跡を都市そのものや、周辺の地形に留めているんだ。
少なくとも天人達が全勢力規模での想像もつかないような凄まじい戦いを起こしたのは、まず間違いない。これは現在の先史文明を研究する者の共通の認識さ」
「しかし三竜帝や三龍皇を相手にするとは、いささか傲慢に過ぎると思いますが」
とは言うものの三竜帝三龍皇の力に関しては、ほとんど憶測や甚だ怪しい伝承などが各地に散在しており、彼らの正確な戦闘能力や霊験を知る者がこの地上にどれだけいる事か。
「天人は、エンシェント・ドラゴンさえもその魔法や発達した科学技術で支配下に置いたというからね。驕るのもある意味では当然だったのかもしれないね。
流石に地上で三竜帝や古巨人を相手にしつつ、星の海の彼方から飛来した星人達を同時期に相手にしていたとは考えにくいが、いずれにせよ彼らとの戦いが天人の勢力を著しく弱体化させ、衰滅の大きな原因となったのは間違いない」
それにしても、この教授に龍吉の事を紹介したら、相手が世界最強の一角たる水龍皇である事も気にせず、ただただ天人への学術的興味から襲いかからんばかりの勢いで質問攻めにしそうだ。
「だがね、ドラン君。どうやら天人達の衰亡と滅亡はそれらの上位存在や外界からの侵略者との戦いばかりが原因ではないようなんだ」
「ふむ? エドワルド教授の新説ですか? これまで大規模な種族間戦争による勢力衰退を推していらっしゃるとお見受けしていましたが……」
「うん、その説も確かな事実ではあると思うんだ。
けれどこれまでの天人の遺産や文献、遺跡を調査する中で、どうやら天人達はその文明の末期において戦争とは関係の無い所で、種族規模での限界を迎えていたようなんだよ。
生物とは己の種を増やし、世界を満たす事を本能とする。
より優れたる血統を残す為に、生存能力や何かしらの長けた能力を持つ者同士が番となり、子を成す事を意識せず行うように、基本的には出来ている。
けれども天人達は長い歴史によって種族そのものが老成し、成長の余地が無くなったからなのか、徐々に子供が産まれなくなり、また新たな文化や技術を産み出す創造力と想像力も欠乏していった。
それでも彼らにはこれまでに培ってきた信じられないような科学技術や、魔道の奥義があったから、様々な種族規模での延命手段が講じられた事が、多くの資料から確認できたのさ。
正直に言うと、口にする事も憚られるような、とてもではないが理解し難い事も含めてね」
「では教授がこのスラニアの調査を繰り返し行われているのは、天人達が種族の延命を図った事と何かしらの関係がある場所だと、お考えになっているからですか?」
「これまでの調査結果と私の勘によるものだがね。これで私が予知か知識神や真実神の神官であったら、説得力も増すのだが生憎どれでも無いから学会からも、魔法学院からも支持は得られなかったよ。
まあ仕方ない、何しろ物的な証拠を用意できていないのだから、今のところは私の頭の中にだけ存在する机上の空論さ」
そう言って晴れ晴れしく笑うエドワルド教授には、自説を認められない事への恨みや不平不満の色は無く、自らの導きだした答えを信じ、それに辿り着かんとする強い意思が感じられた。
「いやあ、ここまで熱心に私の話を聞いてくれる相手は滅多に居なくてね、ついつい長話をしてしまった。退屈はしなかったかね?」
「いえ、実に為になるお話を聞かせて頂きました。旧来の価値観や常識と異なる事を提案すれば、受け入れられないものです。
しかしながら、教授にはそういった苦労や拒絶に対する暗い感情というものが見受けられない。敬意を抱くに値するお人柄ですよ」
「ドラン君、いやあ、いやあ、いやあ、そこまで褒められる事なんてここ数年なかったから、嬉しいやら恥ずかしいやら、年甲斐もなく照れ臭いねえ、あっはっはっは。
ああそうだ、そろそろキャンプ地だよ。あそこに見える小高い丘があるだろう? あそこに調査用の道具やちゃんとした宿泊施設があるんだ。まずはあそこで腹ごしらえだね」
ひとしきり嬉し恥ずかしの表情で笑ってから、エドワルド教授は合成建材が敷き詰められた道の先に見える丘を指す。
もうしばらくで着く距離だな、と私がエドワルド教授の指差す先を見た時、私達のすぐ前にあった曲がり角の向こうから二種の魔力が噴き溢れて、私達の全身を打った。
それは到底人間には出し得ない、強大な魔力であった。私を除く全員がこれまでののんびりとした空気を打ち払い、すぐさま戦闘態勢を整えた。
「なんだ、この魔力!?」
超人種であるクリスティーナさんをして驚愕を禁じ得ぬ強大な魔力に、セリナは顔を青白く変え、百戦錬磨と言って良い経験を積んだであろうエドワルド教授とミス・エリザも緊張に身を固くしている。
唯一、レニーアだけはその口元に凶悪なる笑みを浮かべ、ほう? と実に楽しそうな一言を漏らしていた。退屈を紛らわすのにはちょうど良い、その程度の感想であろう。
「教授、この魔力はあまりにも危険です。今ならば緊急用の信号弾を打ち上げれば船も気付く距離です」
「そうだね、エリザ。生きてさえいればスラニアにはまた来る事が出来る。それにドラン君やクリスティーナ君達を無事に帰す事が、教師としての最低限の義務だ」
エドワルド教授とミス・エリザが深刻極まりない顔で、スラニアからの脱出を決めているところに、私は非常に申し訳ない気持ちになりながら待ったを掛けた。
「教授、ミス・エリザ、なんと言いますかこの魔力の主達に心当たりがありまして、まず間違いなく私達に危害を加える事は無いので、スラニアを出る必要はありません。はい」
「君の知りあいなのかい!? しかしこれだけの魔力量は、はたしてオリヴィエ学院長でも出せるかどうか。かなり高位の魔獣や精霊と比べても遜色がないよ?」
それはまあ、曲がりなりにも我が同胞の子孫ですから、と正直には言えず、私は曖昧に返事をして曲がり角の方へと歩いていった。
「ええまあ、その珍しい種族の者達でして。どうやら揉めているようなので、仲裁してまいります。おふた方はここでお待ちを。ふむふむ」
「あ、ドランさん、危ないですよ!?」
「一人で行くな、私も行く」
「……ッ」
エドワルド教授とミス・エリザをその場に残し、そそくさとこの場から逃げ出すように歩く私を、セリナ、クリスティーナさん、レニーアが追いかけてくる。
セリナとクリスティーナさんは分かるが、レニーアまで一緒か。私の事を心配して、という事はふうむ、万が一くらいにはあり得るのか?
むしろ曲がり角の向こうに居る“彼女達”とレニーアが衝突しないか、その方が私にとっては心配だった。
とにかく今はこの殺気立ち始めている魔力と闘争の気配を鎮めるのが先決、と曲がり角の向こうへと出た私の視界に飛び込んできたのは、以下のような光景であった。
鹿のような角と馬のような耳、そして小さな尻から蛇のような尻を伸ばしている龍人と、鋭角的な角と先端の尖った耳を髪の間から伸ばし、背中には蝙蝠を連想させる皮膜の翼を持つ竜人。
どちらも総じてドラゴニアンと呼ばれる亜人系最強種にして、個体数の少なさと他種族との交流が乏しい事から幻とまで呼ばれる種族のうら若い乙女が二人、共に天を戴く事の出来ぬ敵を前にしたように対峙していた。
私にとっては実に見覚えのある二人である。
「冷たい海の底に引き籠っておればよいものを、なぜ貴様が天人共の都市なんぞに足を運んでいる!」
「それは貴女の方こそ! あの硫黄の匂いが強い洞窟で朝も夜も無く眠り続けるか、妖魔や魔獣達を食べて寝るだけのだらしのない生活をしていればよいではないですか!? なぜこの都市に足を運んでいるのです!」
どちらの言い分も私の方が言いたい気分だった。
ああ、ヴァジェよ、瑠禹よ、どうしてそなたらがこのガロアに居るのだ?
「ぐるうううう」
唸り声を上げて牙の間から火を零すヴァジェ。
「…………」
百獣の王どころかより巨大で凶暴な魔獣も逃げ出す迫力で睨むヴァジェに対し、負けじと氷の浮かぶ海の如く冷たく睨み返す瑠禹。
共に天空都市に来る理由などないだろう二人が、あろうことかばったり出くわしていがみ合う姿を目撃することになるとは。
いや、二人に共通するものがここにはある。それは、つまり、私だ。ひょっとして二人は私に会いにこのスラニアに来たのだろうか?
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第四十六話
幻とさえいわれる種族と圧倒的な魔力を受けて驚愕に目を見張るセリナ、クリスティーナさん、そして不意を突く隙と私の顔色を窺うレニーアからの視線を浴びながら、ヴァジェと瑠禹はそれらの視線をまるで気に留めてはいないようだった。
二人ともが目の前の同族の事しか見えていないのだ。
確かに初対面の時から馬の合わないのがこれ以上ないほど分かる二人であったが、他者の事が目に入らぬほどひどいとは。
「どうせあやつが恋しくて龍宮城を飛びだしてきたのだろうが、この洟垂れ娘がっ。辰巫女としての職務にだけ励んで安穏と暮らしていればよいものを」
「あら、そういう貴女こそあの方の影を求めてこの天空都市に来たのではないですか?
食い散らかしたお肉と、集めた財貨の上でぐうたらと寝転がっているだけで幸せな生活だったでしょうに。
その生活を放ってまでここに足を運んでいるのです。ただの物見遊山だとは言わせませんよ」
「はっ! あやつの姿を求めただと? あの馬鹿で甘ったれが、人間共の中でどんな仕事をしてみじめな暮らしをしているものかと、笑いに来たのだ。
滑稽な勘違いなどするな。私を笑い殺すつもりか? だとしたら出来の悪い冗談だ。掌中の珠の如く扱われて育ったお前らしいわ」
「貴女こそ下手な挑発はおよしなさい。普段の貴女はあの方を邪険に扱っていますが、その無駄に肉の付いた胸の奥でどんな感情を抱いているのか、怪しいものと前から思っていたのです」
「貴様、少々調子に乗っているようだな。親からどのような教育と躾を受けて育ったかは知らぬが、いますぐその減らず口を噤むと言うのならば鱗を焦がすだけで許してやらん事もないぞ?」
「貴女がかねてよりあの方に対して過剰なまでの悪口を並べ立て、それでもあの方がそれを許されている事は、このわたくしも理解はしていたつもりです。
ですが、今の生を幸福と捉えていらっしゃるあの方を侮辱するかの如き言葉。もはや看過することはできません。
いますぐ撤回すると言うのならば、わたくしも貴女の鱗を砕く程度で許してあげない事もありませんよ?」
火竜の上位種である深紅竜と、水龍皇直系という最高血統の水龍という、相反する属性を持った竜種の対峙は、その脅威さえ忘れさせてセリナとクリスティーナさんの意識を引いて呼吸をする事さえ憚られる緊張を生み出す。
セリナはあまりに桁違いの力が激突する寸前の緊張を前にはっきりと恐怖の相を浮かべ、割と武闘派気質のクリスティーナさんも緊張の色を隠せずにいる。
「ど、ドランさん、あの二人、いまにも喧嘩をはじめそうですよ。すごく、まずいんじゃないでしょうか?」
「ふむん、そうさな。あの二人が疲れるまで暴れるとして、スラニアが半壊するのは間違いがない。悪くすればこの都市が地上に落下しかねんな」
漏れ聞こえるヴァジェの低い唸り声が齎す恐慌作用によって、かすかに舌の根を震わせるセリナが私の肩をくいと摘みながら聞いてくる。
強力な魔物であるラミアとはいえ竜族が相手では、このような態度になっても仕方がないか。私はセリナを安心させる為に、私の肩を摘むセリナの手に自分の手を重ねた。
ふむ、このスラニア周辺の気象魔法には、内部での強大な魔法の効力を抑制する作用のある結界も含まれているが、古竜のあの二人が本気になればどこまで抑え込めるものか怪しい。
「ヴァジェ、瑠禹、止めよ。二人ともこのような場所で何をしている」
二人がここに居る原因と目的が私であると分かってはいるが、一応、尋ねてはみた。
私の言葉は、口にした私自身が少々面食らうほどにヴァジェと瑠禹に対して効果覿面であった。
私の声が耳に届いた瞬間、二人が全身から立ち昇らせていた魔力は沈静化し、二人はまるで以心伝心の双子のように揃って私に顔を向けたのである。
いまにもこの天空都市を半壊させかねない大喧嘩を始めようとしていた割に、妙な所で気の合う二人だな。
「よもや本当に喧嘩を始めぬかと肝が冷えたぞ。そこまで二人に分別がないと思ってはいなかったが、ひやひやさせてくれるものだ」
「あ、お恥ずかしいところをお見せしました。ヴァジェさんとこの都市で出くわすとは思わなかったもので、つい心を乱してしまって。
ああ、ドラン様にこのようなところを見せてしまうなんて。もう、ヴァジェさんの所為ですからね」
「なんだと?」
「二人とも止めなさい。終わりの見えぬそのやり取りをするにしても時と場合を弁えぬか。わざわざ空のはるか高みを飛ぶこの都市に来たのは、お互いに喧嘩をする為ではあるまい」
「それはそうですけれど」
「ふん、そいつがいちいち突っかかって来なければ私とて愚にもつかぬ言い争いなどせぬ」
「まあ、なんですか、その言い草は」
ようやく止まったと思えばまたすぐに口論を再開しようとする二人に、これは拳骨の一つもくれてやらねばならんか、と握った拳に軽く力を入れた時、私のすぐ後ろに居たレニーアが、心底呆れた声を出した。
「これが今の竜族か。このような下らぬ言い争いをするとは、たかが知れているな」
「まだ若いからな。こうもなる。だがその言い草では自分が大昔の竜種を知っていると宣言しているようなものだ。あまり他者の耳のある所で口にすべきではないな」
「私の好きと勝手ではあるが、まあ、その、お前がそう言うのなら留意しておこう」
「取り敢えず瑠禹、ヴァジェ、私の目の届く所に居るうちはあまり暴れてくれるな。三度目は言葉だけでは済まさんぞ」
「あの、ドランさん、そろそろこのお二人を紹介して頂けると助かるのですけれど」
「ああ、セリナ、済まないな。まずはこの二人を落ち着かせないと進む話も進まないと思ったものでね。瑠禹、ヴァジェ、二人とも顔を合わせるのは初めてだろう。
こっちのラミアの少女がセリナ、今は私の使い魔をして貰っている。
それに魔法学院の先輩であるクリスティーナさんと同級生のレニーアだ。全員、この天空都市の学術調査の手伝いで来ている。
他にも二人、魔法学院の先生とその助手の方がおられる」
そして問題となったのはクリスティーナさんとレニーアの二人だった。
クリスティーナさんの人間とは思えぬ美貌への称賛の色を浮かべた、と思った次の瞬間には、ヴァジェは敵意の鑿で彫琢した闘争の仮面を被り、瑠禹もかすかに身を引いて警戒する体勢を取る。
「あー……私が何か?」
初対面の二人に露骨なまでに警戒態勢を取られた事に、クリスティーナさんは面食らった様子で戸惑った声を出す。
「どうした、二人とも。クリスティーナさんが何かしたというわけでもないだろう。どうしてそこまで構えるのか、理由を話してみなさい」
「理由だと? よもや貴様、まったく気付いていないとでも言うつもりか! そこの銀髪の女、竜殺しの因子持ちだぞ。
我らの同胞を殺した証左たる因子を持つ者を前に、涼しい顔などできるものか!」
「竜殺しの因子か。ならば否応なく二人が警戒するのも分かるが、クリスティーナさんに心当たりは?」
私が水を向けるとクリスティーナさんは、とんでもないとばかりに首を左右に振る。
クリスティーナさんの首が振られる度に、金糸で縁取りした青いリボンで括られた銀髪が揺られて、光を砕いて無数の粒に変えて纏う。
だが私はクリスティーナさんが首を振る一瞬前に、なにか思い当たる節があるとその美貌を曇らせるのを見逃さなかった。
どうやら竜殺しの因子を保有するのに心当たりがあるようだが、流石にそれはクリスティーナさん本人が原因では無かろう。
というよりも、あのエンテの森でのささやかな祝いの席で抱いた、まさかという推測が正しかった事を、私はほぼ確信していた。
「とんでもない! 生憎と竜殺しなど大それたことを成した事は生まれてこの方一度も無いし、たとえ劣竜であっても本物の生きた竜を目にした事だって無い」
「瑠禹、ヴァジェの言っている事は確かか?」
瑠禹はヴァジェほどにはクリスティーナさんを警戒しておらず、私の魂が竜である事を考えれば、竜殺しを傍らに置いているにも拘らず呑気な口調で尋ねるのに、少し困ったような表情を浮かべる。
「はい。わたくしでも分かるほどに強力というか、はっきりとした因子ですから、ヴァジェさんならばまず見間違える事は無いかと思います」
それこそドラン様ならお分かりになる筈では? と瑠禹は言外に私に尋ねてくるが、私は苦く笑い、その通りだ、と言葉にはしない無言の返答をした。
「ヴァジェ、取り敢えずその敵意を浴びせるのを止めなさい。クリスティーナさんも困っているだろう」
「何故私が同胞殺しを思いやらねばならぬ?」
「ヴァジェさん、ドラン様の言われる通りになさった方がよろしいですよ。
反発ばかりしてはドラン様から後でお小言を頂く事になるでしょうし、そちらのクリスティーナさんの竜殺しの因子は、ご本人ではなく父祖から受け継がれたものだとわたくしでも分かります。
クリスティーナさんご本人に咎の無い事で敵意を向けるのは、あまり感心いたしません」
「賢しげな事を口にして……ふん」
通常、竜殺しの因子を持つ者は竜を相手に、その鱗を常人よりも容易く斬り、砕き、貫く一方的優位性、そして吐きつけられる火炎など様々なブレスや、竜語魔法に対する尋常ならざる耐性を得る。
だがその代わりに竜族からは同族殺しと忌避されて、例えば身を守る以外には決して人間や亜人に牙を剥かぬ温厚な竜であっても、竜殺しの因子を持つ者に対してははっきりと敵意を露わにする。
それを考えれば私と瑠禹の制止があったとはいえ、ヴァジェがクリスティーナさんに襲いかからなかったのは、やはり竜殺しを成したのがクリスティーナさん本人ではない事が分かっていたからだろう。
あれでヴァジェは、表に出す機会が滅多にないだけで親の罪は子の罪と考えるような事をしないだけの分別と、思慮を持ち合わせてはいるのだ。
「それで本題に入るが、二人はどうしてここに居る事への解答が欲しいが、今は人を待たせている。
まずはそちらの方々へ事情を説明して、落ちつける場所に行ってから話すとしよう。それまで口喧嘩は控えるように。いいな?」
問い詰めたい事はまだまだあるが、いつまでもエドワルド教授とミス・エリザに待ちぼうけを食わせているわけにも行かんだろう。
私が拳骨を見舞うからな、と暗に込めて釘を指すと瑠禹は申し訳なさそうにはい、と呟き、ヴァジェはふん、といつも通りに鼻を鳴らすが、その『ふん』はどこか弱々しい。
「クリスティーナさんもいきなり初対面の相手に絡まれて不運だったな」
「いや、まあ、そうだな。だがますます君に対する興味は湧いたよ。一体どこでドラゴニアンと知り合いになったのか、私でなくても皆が知りたがるだろうさ」
「それも腰を落ち着けたら話すよ。上手く説明できるか自信は無いが、セリナもそれでいいかな?」
私とヴァジェと瑠禹とのやり取りを目の当たりにしたセリナは、本能的な恐怖も忘れて実に分かりやすく機嫌を損ねていた。
特に瑠禹は私の事を様づけまでして、どこまでも従順な態度を取っているものだから、色々とあらぬ事まで想像してしまったことだろう。
「べ、別に気になんかしていません。……ディアドラさんだけじゃなくって最近じゃクリスティーナさんも怪しい上に、この間のドラミナさんといい、私の知らない所でいろんな女性と知り合っているなんて……」
ふむ、まったく声を潜められておらん。クリスティーナさんには聞こえていないようだが、これはセリナの機嫌を大きく損ねたなあ。
いっそのこともう嫁にするとでも宣言してしまおうかな? と思わないでもないが、どうするのが一番良いか。
これまで私はこういう時には素直な心情を口にしてきたが、その積み重ねが現状を造り出したとも言えるし、さりとて妙案も無しとなると、結局これまで通りで行くか。
「一番可愛いのはセリナだよ」
「……そそそそそそんな事言われても信じられません!」
「そうか。信を置いて貰えぬような言動を繰り返してきたのであろうから、それも無理は無いか」
「ああ、いえ、ドランさんの事をまったく信じていないわけではなくって、あのその言葉の綾と言いますかなんと言いますか……」
長い蛇舌がこんがらがっているが、効果は覿面らしい。だがこれは事実だった。
一番付き合いが長く、よく私についてきてくれるセリナの事が、私は一番可愛かったし最近ではセリナが傍に居るのが当たり前になっていた。
それこそ父母のように長年連れ添った夫婦のように。
茹でダコになったセリナがにょろにょろとあらぬ方向に這っていきそうになるのを、声を掛けて修正しながら、私達は教授達のもとへと戻った。
「いやいやいやいや、魔力が荒れたり静まったり荒れたりと私達の心もその度に揺らいだが、どうやら無事におさまったみたいだねえ、ドラン君!」
「なんとか、といったところです。それにまだおさめている途中でして」
「それでそちらの、おやまあ! ドラゴニアン? 龍人と竜人なのかな? 凄いな、君の知り合いだというのは彼女達で合っているのかい?」
「はい。ガロアに来る以前に知り合った二人です。赤いのがヴァジェでもう片方が瑠禹です」
「うんうん、ヴァジェ君は赤竜、いや鱗の色具合からして深紅竜か緋竜の竜人かな?
瑠禹君が着用しているのは東方の民族衣装だね。それに翼が無いし耳や角の形状からして龍人の方か。
普通の竜人でも珍しいが龍人となるともっと珍しいな。彼らはずっと東の深山幽谷か南の海のとても深い所に住んでいる筈だからね」
「よく御存知でいらっしゃる。とりあえず落ち着かせはしましたが、先にキャンプ地に行きましょう。そこでどうしてあの二人が居るのか、その他諸々話をするという事で手を打ちましたので」
「ああ、分かったよ。それにしても四人も手伝いがいるだけでなく、幻の種族にも会えるなんて今日はなんて幸運に恵まれた日なのだろうか! 今、スラニアに居る轟国の調査団が私達の事を知ったら、嫉妬で歯軋りでもするんじゃないかな? あっはっは」
轟国は我が王国の東方に版図を持つ大国である。
数千年を閲する歴史を持ち、天人に対する地上の反攻勢力の中心地であった経歴を持っていて、自国に対する自尊心が極めて高い。
両国の間に人跡未踏の広大なエンテの森が広がっている事と、多様な亜人種族の集落や小国家軍、邪神や悪魔の残した遺跡などの障害が無数にある為、大規模な軍事的衝突は無いがいつ侵略戦争が勃発してもおかしくはないらしい。
だが問題はそこではなかった。
エドワルド教授の発言を耳にした瑠禹が細い首を右に傾げ、そしてスラニアキメラクラブの蟹味噌を殻ごとばりばり食べていたヴァジェが、ごくりと咽喉を鳴らして飲み込んでから言った事が問題であった。
「他の人間達がここに居るだと? 妙だな。私がここに来た時、人間達の気配は一人もなかったぞ。
私の六感を誤魔化せるほど高度な隠蔽の術が使える魔法使いなりがいるのなら、話は別だがそうおいそれといるものではないだろう」
私はヴァジェの発言からどうやらフラウパ村でもそうであったように、この天空都市でも誰かの悪意が蠢いて悪行を企てている事を覚悟した。
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第四十七話
ヴァジェの発言から、エドワルド教授とミス・エルザは轟国のこれまでの行動を考えると、現状、彼らがこの場にいない事はおかしいと結論付けた。
私達はいったん休憩を取った後、再び装備を整え直し、轟国のキャンプ地の調査を行う事を決めた。
一同を見回したエドワルド教授がいつも浮かべている穏やかな笑みを取り払い、引き締まった緊張感のある表情を浮かべて口を開く。
「さて取り敢えずの用意は整ったね。轟国の調査団の宿舎までここから歩き詰めで一日半といったところだ。
今から出発して到着するのが明日の夕陽が沈む頃といったところか。不測の事態があれば真夜中か更に翌日の朝かな。
道中、川が何本かあるしそこでも魚や貝は獲れるし、森に入れば果実や茸がいくらでも採れる。食料と水に困る事は無いよ」
エドワルド教授に続いて、その傍らに立つミス・エリザが薄く紅を引いた唇を動かす。
背には大荷物を無理矢理詰め込んだ背嚢の代わりに、ポールアクスやカイトシールド、バスタードソードなど重量のある武具が背負われている。
「轟国の調査班は通例で学者二十名前後、護衛の兵士百名前後です。
百名の兵士の中には道士、陰陽師、風水師など東方固有の魔法使いが十名から二十名含まれているのが過去の例です。
私共の人数、またかの国の調査団の過去の行いを考慮しますと、私達の存在を彼らに気付かれるのは好ましからざる事態を招くでしょう」
淡々と現在分かっている情報を述べるミス・エリザに、エルスパーダの柄に左手を添えて弄ぶクリスティーナさんが少し難しい表情を浮かべる。
眉一筋を取っても再現できぬ苦悩に筆を折る絵師が絶えぬクリスティーナさんの美貌は、浮かべる表情を問わずに美しい。
クリスティーナさんの浮かべる険しい表情に気付いてか、エドワルド教授が私達にやんわりと釘を刺す。
「案外この面子なら正面からぶつかったとしても勝ててしまう気もするけれど、彼の国と外交的な摩擦が生じるのは火を見るよりも明らかだからね。事を起こさないに越した事は無いよ」
「となると、居る筈なのに居ない彼らに気付かれないように接近し、この矛盾を確かめるというわけですか。調査よりも難しいのでは?」
最後の一言だけ冗談めいて口にするクリスティーナさんに、エドワルド教授はにやりとこれまでの印象を裏切る野性味のある笑みを浮かべる。
「常に砂嵐に覆われた砂漠の底に眠り、包帯に包まれた死者に守られた冥界神の神殿。刃のように鋭い風と、雷の雨に覆われた霊峰の頂きに建つ天空神の祭壇。
数万に届く人食い昆虫と人工精霊やゴーレム達に守られた地底都市。決して晴れない霧と共に世界中の海を彷徨う幽霊船。
私達がかつて足を踏み入れてきた場所に比べれば、簡単なお使い程度の事だよ、クリスティーナくん」
凄愴とさえ言える気配を纏いながら笑むエドワルド教授は、それでいて陽性の明るさを失わずにいる。
血反吐に塗れて泥濘の仲をのたうち回ったような体験であろうとも、エドワルド教授は笑って思い返す事の出来る実に強靭かつ柔軟な精神の持ち主なのだ。
ふむ、大したものだと私は偽りなく感心したが、生憎とエドワルド教授の凄みのある笑みと決め台詞に水を差さねばならない事に、若干の罪悪感を抱いた。
「少々言い出しにくいのですが、ヴァジェの言う通りスラニアに私達以外の人影はないようですよ」
私の言葉にんん? と零したエドワルド教授と筆頭に、この場に居た全員の視線が殺到した。
私は空中に木の枝のように差し出した左手に止まっている小鳥達のちゅんちゅんという囀りに耳を傾けながら、殺到する視線を一つずつゆっくりと見返す。
利き手の右手を空けているのは咄嗟の際に腰に佩いた長剣を掴む為で、ベルン村出身者なら物心ついた頃から叩き込まれる戦闘における心構えである。
「おや、ドラン君の手に止まっているのはコバルトナガオスズメだね。コバルトの羽毛を持ったスラニア固有のスズメだ。
警戒心が強いから根気よく餌付けしないと寄ってこないのだけれどな。それに魔力に対する抵抗力もあるから、動物寄せの魔法の効果も今一つなんだ」
話の本筋を無視して興味を抱いた事を真っ先に口にするのが、エドワルド教授の癖らしい。
論点はそこではないでしょう、とクリスティーナさんとセリナがエドワルド教授を見るが、当のエドワルド教授は私の手のコバルトナガオスズメに見入っている。
他人からの視線を気にしなくて良いというのは、本人にとって幸せな事だろう。私もよく言われるので、エドワルド教授の事は言えないかもしれないが。
「簡易式の使い魔の契約を結んだのですよ。彼らの仲間と情報を交換し合い、スラニアの現状を確認する事。対価は私から供給する魔力とパン屑です。
安価で広域の情報を得られました。あまり正確な情報ではありませんが、役には立つでしょう。
彼らが語るには轟国の調査団と思しい人間達は、三日前までは彼らも見かけていたそうです」
ヴァジェは、だから私の言ったとおりだろう、と拗ねたように愚痴を零している。
「彼らは夜には寝るのと周りが暗いとよく見えないとのことで、詳しい事は分かりませんが轟国調査団のキャンプ地で夜半に騒ぎが生じて、争う声や爆発の音、炎の手が上がり、周囲の動物達も相当慌てたそうです」
「ううむ、これは疑いようもなく何者かの襲撃を受けたとしか思えんね。襲撃者の姿は見ていないのかい?」
ちゅんちゅん、ちゅん、とコバルトナガオスズメ曰く
「ほとんど見えなかったようですね。ただ見えたけど分からないという者もいます」
「見えたけど分からない? まるで謎々だねえ」
エドワルド教授が首を捻る傍ら、両手で杖を握っていたセリナが何か閃いた顔をして挙手をする。
私は問題を解いた生徒を指差す教師のような気持ちで、セリナに閃いた答えを問いかけた。
「はい、セリナ。何を思いついたのかな?」
「スズメさん達は調査団の人達を襲った相手を見たけれど、分からないって言っているのですよね?
それならこのスラニアでスズメさん達が見た事の無い生き物か、あるいは形を持たない不定形生物とか気体生物などが犯人ではないでしょうか」
不定形生物は動く水溜りか粘液といった姿をしたスライムやゲル、ゼリーなどの魔法生物を指し、気体生物は低空を飛ぶ小さな雲であるフォッグやスモッグなどの魔法生物を指す。
先ほどエドワルド教授が言ったように、コバルトナガオスズメがスラニアの固有種であるのなら、スラニアの外から来た生物に関しては彼らの知識の外だ。
既に何十年も足を踏み入れている人間はともかく、セリナの指摘通りに彼らの知らぬ生物か、形を自在に変える不定形生物、そもそも大気に同化している場合の多い気体生物ならば、スズメ達の情報とも辻褄が合う。
セリナに続いておずおずと瑠禹も手を挙げて、自分の意見を述べようとしているのに気付き、私は視線を移して瑠禹に意見の開帳を促した。
「ふむ、次は瑠禹か。瑠禹はどう考えているのかな?」
「はい。セリナさんのお考えにはわたくしも同意見です。ただ加えて霊魂の類も考慮すべきかと」
「ゴースト、スペクター、ファントムの類か。教授、天人の遺跡で天人達の亡霊が発見された例はどの程度あるのですか?」
「そうだね、ほとんど無いと言って良いよ。私とエリザも一度だけ遭遇した事はあるけれど、ほとんど自我を失っていて地縛霊と化していた。
天人の亡霊が自分達の領土を荒らされた事に怒って姿を現したというのなら、最も騒がしかった調査の始まりの頃であるべきだし、もし亡霊の類ならばどうしてこの時期になって現れたのかを考えないといけなくなるねえ」
それとも轟国の調査団がこれまで未発見だった何かを発見して、封印されていたか眠っていた何かを目覚めさせたのかな? と呟いたのを皮切りに、自分の世界に埋没し始めるエドワルド教授の意識を、ミス・エリザの淡々とした声が引きとめた。
「スライムにせよフォッグにせよ亡霊にせよ、いずれが敵として現れても全てに対応できる備えをする必要があるでしょう」
「ん、ああ、そうだね。スライムとフォッグのどちらとも火に弱いというのが定番だね。幸いドラゴニアンのヴァジェ君が居るし、魔法使いが居れば対処は容易だろう。
亡霊に関してもそれぞれの武具にエンチャントを施す事で問題なく対処できるだろう。
一番良いのは聖職者の方々がここに居る事だけれど、今回はエリザの神聖魔法を頼るとしようか」
「エリザさんは神官資格をお持ちなんですか?」
発覚した新事実にセリナが感心した様子で聞くと、ミス・エリザは特に誇るでもなくやはり淡々と受け答えをする。
「はい。マイラール教団の侍祭資格を有しております。立場としては神官戦士ですが」
ふむ、マイラールか。ミス・エリザの荒事に慣れた物腰から、信仰しているのはアルデスかその眷属の戦闘神系統かと思ったが、豊饒を司る大地母神の信徒とはいささか意外。
マイラールの名前が出てくると、瑠禹とヴァジェのミス・エリザを見る目が少し柔らかなものになる。
「ふむ、マイラール神系統の神聖魔法は主に治癒と活力の補助などですから、攻撃魔法に偏っている私達とでちょうど良い具合になりますか。
セリナも地属と水属の中級魔法なら一通り心得がありますし。な?」
「はい。止血、解毒、痛み止めから治療までなんでもござれです。流石に四肢の欠損とか死者蘇生は無理ですけれど……」
恥じらいを含みながら少しだけセリナが自慢げに言うと、瑠禹がセリナを真似てか挙手をして、私に自分も自分もと主張してくる。
おや、いつも控えめな所のある瑠禹にしては珍しい。セリナに対抗意識を抱いたとでもいうのかね?
「ドラン様、ドラン様、わたくしも治癒と補助の術ならば心得がございます!」
「ああ、瑠禹も頼りにしているよ。水龍の符術や陰陽術、存分に見せて貰おう」
「はい!」
瑠禹の返事と表情は、えっへんと少年少女が父母に褒められて胸を張るように晴れ晴れとし、黒玉の瞳はちらりとヴァジェを見て、ふふん、と自慢げだ。
ヴァジェのただでさえ不平そうな顔立ちに、ビキビキという岩に罅が走るような音が聞こえるようにはっきりと険が増す。
「瑠禹、そこまでにしなさい。いつもの君らしくない事だ。要らぬ諍いを起こす事は感心できん」
「あ、も、申し訳ありません」
途端に雨に打たれている子猫みたいにしょんぼりと肩を落とす瑠禹を見て、ヴァジェがざまあみろと言わんばかりに口の端を吊り上げるので、私はこちらにも太めの言葉の釘を刺す。
「ヴァジェ、お前も分かりやすいその態度を少しでも良いから控えなさい。普段ならそれでも構わんが、今はお前達のじゃれ合いに割く時間も惜しいのだ。
それで教授、これからどう行動しますか? スズメ達の言い分を信じ轟国の調査団は壊滅したとして、スラニアからの脱出を図りますか?」
「このまま脱出を図る場合、七日後に迎えに来るシルバースワロー号を待つか、あるいは三日後の轟国の船に事情を説明して乗せて貰うかだね。
日数を考えれば後者を選びたいところだけれど私達が信用される筈がないし、乗せてもらうには相手方を納得させるだけの物的証拠が要るだろう。
やはり一度は轟国のキャンプ地を調べて、なにか手がかりを得たいところだね。それにこのままスラニアに起きている異変を放置しておくのは、良い結果を招かないだろう。
天人の遺跡に残された技術や品々は、往々にして悪用した場合、大きな災害を招く。
このスラニアも私達がまだ見つけていないだけで、どんな災厄が眠っているとも限らないのだからね。
君達の安全を第一に考えなければいけない立場としては、心苦しいものがあるけれどかといって敵の正体も掴めないまま、三日ないしは七日間逃げ切るのも難しい話だと私は考える」
「では一旦、轟国のキャンプ地を目指して情報収集という事ですね。スズメ達にも周囲の状況を探らせます。情報次第で行動はその都度変えるといったところですか」
私がこれからの行動を要約すると、エドワルド教授はそうだね、と短く首を縦に振った。
「さあ、準備よし、方針も決まった。周囲への警戒を厳にしつつ、轟国のキャンプ地を目指すぞ。
残念ながら現状でスラニアの調査活動を行うのは危険が大き過ぎるから、一旦中止だ。
ヴァジェ君、瑠禹君、本来関係の無い君達には申し訳ないが、お互いの安全の為にも一緒に行動してくれるかな?」
「わたくしは元より異存はございません。ドラン様のご意思に従います」
「まあ、良かろう。別にお前達と一緒に居なくても危険は無いが、行動を共にしない理由もないからな」
こうして私達は轟国の調査団キャンプ地へと向かう事となった。
元々スラニアの各地に敷かれた道路は、長い年月が経過した事で草花に埋もれたり、苔が繁茂していたりしているが、道路そのものが通れなくなったり歩行に耐えられなくなってはいない。
森の中を分け入るような道を選んでも、頭上を木々が伸ばした枝の天蓋に遮られる事はあれ、行く先を遮られる事はまずない。
道中で昆虫や小鳥などと次々と使い魔の簡易契約を結び周囲に監視網を形成しながら、私達はエドワルド教授とミス・エリザの先導で道を進む。
スラニアの地図は宿舎で見せて貰い、全員が頭の中に叩き込んであるが過去に何度もスラニアを訪れたエドワルド教授達の方が、景色に以前と比べて差異が生じていた場合にすぐ気付けるだろう、というエドワルド教授達の弁による。
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第四十八話
ヴァジェは私のあげた猪の干し肉を一つ一つ大事に齧りながら、黙々と足を動かして私達の最後尾を歩いている。
一口二口で袋の中の干し肉を食べきると私は思っていたのだが、ヴァジェは干し肉を一つ一つゆっくりとよく味わって、さも大切そうに食べていた。
味が気に入ったのか、まさか私から貰ったものだからというわけも……あるのだろうか?
やや距離を置いて後ろを歩くレニーアとヴァジェを振り返り、様子を観察していると隣のセリナが教授達のやり取りを見て、おかしそうに笑いを含んだ声をかけて来た。
教授とミス・エリザは先程から今回のこれまでの道程が、私達の存在で随分と楽だという話をしていた。私を除いても竜と龍であるヴァジェと瑠禹がいるのだ。物理的な脅威に関しては、ほぼ無敵の面子と言えるから、楽だと感じるのも当然かな。
「ドランさん、前から思っていましたけど教授とエリザさんは仲良しさんですね」
「長い付き合いらしいからな。私もセリナとはかくありたいものだ」
「私とドランさんですからね。もうとっくに仲良しさんです!」
「あ、セリナさん、ずるいです。ドラン様、わたくしも仲良しさんがいいです」
「ふむむん。そうだな、瑠禹とも仲良しさんだな。はっはっはっは」
私達がそんな呑気な会話を交わしていると、先頭を行くクリスティーナさんが心底呆れた調子でこう呟くのが私の耳に届いた。
「緊張し過ぎるのは良くないが気を抜き過ぎるのも良くないのだが……。それにしても成人した男女の会話とは思えんな。ドランらしいと言えばらしいけれども」
それは私も思う。特に瑠禹の振る舞いが他者や母の目のある龍宮城に居る時と比べて、子供っぽさがこれでもかというくらいに目立つ。
瑠禹は幼い頃から父親がおらず、母親の華奢な肩に国主として水龍皇としての責務と重圧とが圧し掛かるのを見て育ったせいか、我儘を言わず言う事を聞くよい娘として振る舞ってくれている、と龍吉は少し悲しげに私に吐露していた。
瑠禹はそのように育ったから誰かに甘える経験が少なく、いざ甘えようとすると子供めいた言動しかできないのだろう。
そう考えると私は龍吉に瑠禹の面倒を頼まれている事もあって、この古水龍の少女を好きなだけ甘えさせてあげたくなる。
私が相手をしてあげるだけで瑠禹の心の中にある寂寥や父性への渇望をわずかばかりでも満たしてあげられるのなら、それは素晴らしい事ではなかろうか。
まあ、若いお嬢さんと話をするのは老いた竜の魂を持つ私にとって、非常に新鮮であるというのもあるけれど。
私達の道行きは順調に進み、今度は襲撃も無く無事に食事とその片づけを終えた時――なんとヴァジェが自主的に手伝いを申し出て、私はあのヴァジェがと思わずホロリと涙が出そうになった――満腹になってすっかりご機嫌のヴァジェが私達を前に豊かな胸を張ってある提案をした。
たゆん、と揺れるヴァジェの双乳を見て、瑠禹が自分の胸をぺたぺたと触り、それから柳眉を潜める。格差というものを思い知らされた表情である。
そういえば実の母たる龍吉もかなりの物を持っていたが、瑠禹は、うん、まあ、うん。
瑠禹の顔に暗い影が浮かんだのに気付かぬヴァジェの提案は、このようなものであった。
「このままチマチマと進んでいても埒が明かん。時間の無駄だ。私がキャンプ地とやらに運んでいってやろう」
まだ日は沈んではいないが、雲の中を浮かぶこのスラニアにも夕暮れの兆しは訪れ始めていて、わずかにではあるが周囲に蟠る暗がりが濃密になり闇へと変わりつつある。
周囲に夜用の警戒網を敷き直し探知型と侵入阻害型の結界を展開して、夜襲に備えて床に就く準備をそろそろしようかというところでの提案である。
「ヴァジェの提案は検討するに値するかと思いますが、教授、いかがでしょうか」
「仮にすぐに向こうに着いたとしても一夜は明かさないといけなくなる。となると襲撃を受けた勝手の分からぬ所で一夜を明かすというのは、少々危険だねえ」
考え事をする時の癖で、顎先に指を添えるエドワルド教授の傍らに立つミス・エリザも、エドワルド教授に続いてヴァジェの提案に質問を重ねる。
「そもそもミス・ヴァジェはどのようにして私共を轟国のキャンプ地まで連れていかれるのですか?
失礼を承知で申し上げれば、いかにミス・ヴァジェでも私達全員を運ぶのは難しく思いますが……」
ふむん、さてヴァジェを止めるべきか否か……まあいいか。私は次に取るヴァジェの行動をほぼ正確に予測したが、止める事はしなかった。瑠禹の方も動きを見せてはいない。
瑠禹とヴァジェがドラゴニアンというのは、教授やクリスティーナさんの思い込みであってヴァジェは一言も自分達をドラゴニアンとは口にしていないしな。
唐突にぶおっという高熱によって空気の流れが大いに乱され、次いで火に触っているかのような熱が私の頬を焙る。ヴァジェが変化を解く前兆だ。
「私の本来の姿で運べばさっさと済む」
*
「あっはっはっは、いやあ、純血の古竜に乗せて貰うなんて貴重な経験だねえ。学院に乗り心地の報告でも上げようかな」
先ほどから機嫌よく笑っているのは、ヴァジェの掌の上に乗っているエドワルド教授である。
エドワルド教授はヴァジェからの提案を受け入れて、一気に空を飛んでキャンプ地へと向かう決断を下したのだった。
また本来の姿を露わにしたのはヴァジェだけではなく、瑠禹もまた龍としての姿を露わにしており、こちらは掌では無く首から背中に掛けて私達を乗せてくれていた。
というのもヴァジェが私達をいざ運ぶ段になって、クリスティーナさんに対してお前は絶対に嫌だ、と本気で拒否した為である。
予めクリスティーナさんは予想していたようだが、それでも少しばかり傷ついた風であった。
ヴァジェが運んでいるのはセリナ、エドワルド教授、ミス・エリザ。セリナはまだ納得のいっていない顔で私を睨んでくるが、そこは我慢して貰う他ない。
瑠禹の背中に乗せて貰っているのは私、クリスティーナさん、それにレニーア。
こちらにこの面子の中でもっとも問題のある面々が乗っていると言えなくもない。
瑠禹の背びれを背もたれ代わりにして寄りかかるクリスティーナさんが、申し訳なさそうに瑠禹に話しかけた。
「瑠禹、すまないな。私の為に面倒をかけて」
「あら、お気になさらないでください。我儘を言ってドラン様を困らせるヴァジェさんが悪いのです。クリスティーナさんご自身になんら罪はございません。
ヴァジェさんも頭ではその事を理解しているのでしょうけれど、あの方は自分の心に忠実な方ですから」
「よく知っているじゃないか。喧嘩するほど仲が良いというアレかい?」
「そのような事はございません。わたくしとあの方は火と水にございます。どこまで行っても相入れる事は無いでしょう」
ツンと機嫌を損ねたように断言する瑠禹に、クリスティーナさんが私を振り返り、視線で本当のところはどうなんだい、と尋ねてくるので私は肩を竦めて答えた。
クリスティーナさんと同じ意見だよ、という意味である。レニーアは私達のやり取りに興味は無く、背びれに体を預けて目を瞑って黙っている。
歩いていけば時間はかかるが、空を行けば轟国のキャンプ地まではあっという間だった。
私達は簡易契約を結んだ使い魔達と地図を頼りにキャンプ地の上空に辿り着き、眼下に臨む闘争の痕がむざむざと残るキャンプ地へと降り立つ。
轟国のキャンプ地は私達のキャンプ地同様に平らに均された丘の上に建てられていた。
ただこちらはより防衛の点に力を入れているようで、分厚い石壁がぐるりと周囲を囲み、高見櫓も四方への監視の為にいくつも建てられている。
「どうにかしてスラニアを操る術が分かれば、誰にも止められない空を飛ぶ要塞の出来上がり、か。轟国以外の国々が執念を燃やさない方がむしろおかしいのかもしれないな」
私の呟きに応える声は無く、ヴァジェと瑠禹は緩やかに降下して音も無く、着地の衝撃も無く静謐のままに防壁の内側へと降り立った。
瑠禹の背中から飛び下りた私は、ぐるりと周囲を見回す。
あちこちに黒く変色した血痕がこびりつき、鋭い爪の痕や火の燃えた跡、また打ち破られて地面に転がっている城門の扉などが目に着く。
「よし、取り敢えずこの砦というか一応宿舎の中を見て回り、生存者の確認と襲撃者の痕跡を調べて可能な限り情報を得るとしよう。
ただし日が暮れるまでだ。日が暮れたら一旦調査は止めて、結界を敷設後交代で見張りをしながら就寝する」
「だから生き残りはおらんと言っただろう」
不服そうなヴァジェに、エドワルド教授は苦笑いを浮かべる。ここでまた臍を曲げられては時間を浪費するだけだから、エドワルド教授は言葉を選んで答えた。
「一応確認はしないとね。何か情報が残っている可能性を考慮して調べないわけには行かないのさ」
「はん、まあ気の済むようにするがいい」
私達は七人で即席のパーティーを組み、轟国の砦の中を虱潰しに探していく。ここでも簡易使い魔達が大いに役立って、調査は極めて迅速に済んだ。
地下室や寝室、倉庫から厨房に至るまでが荒らされていて、無事な部屋は一つとして残ってはいなかったのだ。
あらかた砦の中を調査し終えた私達は、この砦の指揮官かあるいは調査団の団長の部屋と思しい一番広い部屋に集まり、そこで一夜を明かす事にした。
室内に何重にも結界を施して、分厚い赤い絨毯の上か椅子の上に腰を降ろして私達は車座になり、私達の中心にはこのスラニアの中心部にある建造物の地図が置かれている。
「あとスラニアで怪しい所となるとやはり未発見の謎の地下の空間かな」
エドワルド教授はそう言って地図の空白になっている部分を指差す。
ふむん、このスラニア。ただの居住の為の都市ではなさそうだ。
天人の不老不死への研究や、新種の混合生物の創造、他種族に対する支配体制を合わせて考えれば生物兵器の生産工場、実験場くらいは建設されていてもおかしくは無いかもしれん。
「うん、ドラン君の言う通りだろう。いずれにせよ出来る限り飛行船が来るまでの間に、可能性や推論ではない確たる証拠を揃えるのが急務だ。もちろん、自分達の身の安全を最優先にしてね」
エドワルド教授の意見が妥当な落とし所だろう。ただ『敵』がスラニアの都市機能の全てを解明し、掌握しているとしたならばこのまま無事には済むまい。
夕暮れを過ぎて夜の闇が訪れた頃、隣室にベッドもあったが誰が使うかで揉めるのも馬鹿らしかったので、絨毯の上に他の部屋からかき集めた毛布を敷いてその上に横になる事にした。
もちろん夜襲に備えて全員が手を伸ばせば自分の武器を掴めるよう、すぐ近くに置いてある。
夜間の見張りには私とレニーア、ミス・エリザとヴァジェ、セリナとクリスティーナさん、エドワルド教授と私という組み合わせで行う事にする。
組み合わせは問題を起こさない事を優先にした組み合わせである。
ヴァジェとクリスティーナさんはまずあり得ず、他者に徹底した無関心を見せるレニーアには、唯一無関心の例外である私を宛がうのが妥当だった。
ほう、ほうとスラニアに棲息する四枚の翼を持ったフクロウの鳴き声が聞こえる中、私達は眠りに就いた。
瑠禹とヴァジェは人間と違って一日二日眠らなくても問題は無いが、私達に合わせて瞼を閉じて静かにしている。瞼を閉じているだけでごく浅い眠りに就いているだけだろう。
しんと静寂の闇が室内を満たし、窓から差し込む月と星の光だけが横になった皆の姿を朧に浮かび上がらせる中、私は二度目の見張りにエドワルド教授と共に着いていた。
私は床に腰を降ろし、左手には鞘に納めた長剣を握りいつでも魔法を行使できるよう体内の魔力を練り上げている。
一方でエドワルド教授は右手に愛用の鞭を持ち、ほど良い緊張状態にあるようだった。
眠っている皆を起こさないようにと、見張りをしている間は無言であったがそれが辛くは無かった。
このまま今日は平穏に夜を明かす事になるか、ふむ? と私が心の水面に疑念の泡を浮かべた時、ごん、という砦全体に響き渡るような音と振動とが私達を襲い、床に寝そべっていた全員が跳ね起きた。
寝ぼけ眼を擦っているような者は一人とていない。ここが戦場である事を全員が肝に銘じているのだ。
「ドランさん、なにが起きているんでしょう?」
蛇眼を励起し、人外の視界を確保して周囲を見回すセリナの問いと同時に、私達に短い時間であるが足元が浮き上がるような浮遊感が襲い掛かってくる。
「なるほど、これは想定外の方法で来たな」
一人だけ事態を把握して呟く私に、周囲の皆が答えを求めて視線を殺到させる中、代表してエドワルド教授が問いを口にした。
「ドラン君、一人で納得していないで答えを皆に教えてくれるとありがたいのだが……」
「窓の外をご覧ください」
私は無言で魔法の灯りを天井に発生させ、昼と変わらぬ視界を室内に確保してから皆の瞳を窓の外へと向けさせる。
窓の外には天高く伸びた木々やなだらかな平原は消えて、代わりに下から上へと高速で風景が流れて行っている。
「この砦と宿舎近隣の土地そのものがスラニアの地下へと移動しているのですよ。人工的に建造されたこの都市ならではの構造ですな」
昇降機、たしかエレベーターと言ったか。ふむん。
「相手方は私達の所に出向くまでも無く、自分達の懐へと私達を招いてくれるようですよ。否が応でも向こうに有利な条件で戦わなければなりませんね」
このままスラニアの地下かあるいは中心部へと降下し続けた先で、十中八九待ち受けているであろう敵の大群に、室内の空気はやにわに緊張感と闘気に満たされた。
「さて悪魔が出るか邪神が出るか」
そして降下を始めた時と同じ浮遊感の後に土地の降下が停まり、周囲に唐突に強烈な光が満ちて辺り一帯が昼の最中のように明るくなる。
急激に明るくなった周囲の変化に目が慣れ始めた頃、私達は窓の外に一人の男が立っているのを認めた。
銀の蛇の握りが付いたステッキを突き、雪の色をしたローブを纏った青年である。
理想の男性像の見本としたくなるような黄金律の体躯を持ち、世界の真理の一端を解き明かした碩学を思わせる知的な雰囲気と、俗世との関わりを断った世捨て人めいた厭世的な雰囲気とが同居している。
赤い髪を後ろに流して露わになっているその顔立ちは、彫り深く切れ長の瞳を持ち、流れるような鼻梁の線は万人が羨望の眼差しを向けるほどに流麗だ。
目と鼻と眉と唇の配置とそれを収める輪郭線は、人間以外の神か悪魔の手で無ければ成せないと思うほどに整っている。
これをこそ完璧と評すのだと、世の美の探究者達は血を吐く思いで認めるかもしれない。
だが、その瞳に宿る光の何と冷たき事。蠢く闇の何と深き事。
「悪魔でも邪神でも無いが……超人種か」
かつて神々が造り出そうとした完璧にして完全なる存在、『人』。神々の目論見は外れて造り出された存在は、失敗作として人と獣の間、『人間』と呼ばれる事となった。
そしてその人間達の中に極々稀にだが、人に極めて近しい魂と肉体を持った存在が産まれる。
人間の規格を超越した知力、体力、精神力、魔力を兼ね備えて産まれる彼らを、超人種と呼ぶ。
そう、私達の前に姿を見せたのはクリスティーナさんと同じ、ある意味では私にとって天敵とも言える超人種の青年であった。
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第四十九話
「手荒な歓迎を受けそうな雰囲気ですね」
「わざわざ姿を見せたという事は、私達に対してなにかしら要求をしてくるだろうね。過去の経験から照らし合わせると、九割方はそうだ」
束ねた鞭を握り、いつでも振るえるよう具合を確かめているエドワルド教授の発言に、セリナがどこか嫌そうに尋ねた。
「あのぉ、残りの一割は?」
問い掛けはしたものの答えを聞くのが嫌そうなのは、おそらくエドワルド教授からの答えは想像がついていて、それが歓迎しかねるものだからだろう。
はたしてエドワルド教授は不敵に笑って答える。その笑みはセリナの嫌な予感が的中したな、と思わせるのに十分なものを含んでいた。
「もちろんこちらの命を狙って襲い掛かってくる一割さ」
「あ、そうですか。うう、やっぱり嫌な予感が当たっちゃった……」
「なあに心配する事は無いよ、セリナ君。ここに居る面子なら姿を隠している連中も含めて相手にしても、ま、死にはしないさ!」
「明るい声で言っても内容は不穏ですよ、エドワルド教授」
その時、外の赤毛の青年から微弱な魔力が発せられて、大気を振動させて遠方に声を届ける魔法が行使される。
『ようこそ、天空都市スラニアへ。諸君らとキメラ共の戦いは拝見させて頂いた。敬意を表し直接顔を合わせたく思う。
ついてはそこから出てきてはくれまいか? あまり手荒な真似はしたくない』
「したくはないというのは口だけで、躊躇いは無いという声だねえ、これは」
口にした言葉と腹の内が正反対だ、とエドワルド教授が苦々しく笑えば、顔色一つ変えぬままのミス・エリザが首肯する。
ある意味絶体絶命と言えなくもないこの状況も、二人からすればこれまで何度となく体験したものに過ぎないらしい。
「聞き馴染みのある台詞ですね、教授」
「あまり耳にしたい台詞ではないが、仕方ないね。最悪の場合この建物ごと私達を潰すことだってできそうだし、取り敢えず外に出てみようか」
砦の敷地は金属質の空間に四方を囲まれていて、上空を仰ぎ見れば四角く切り取られて夜の闇に塗り潰された空が見える。
壁や床、天井の構造材に等間隔で白い光が灯っており、どうやら照明器具が直接埋め込まれているようで、視界は昼の時刻のように明るい。
とはいえ私達は夜の闇の中にあっても問題なく行動できる面々ばかりではあるが。
「改めて挨拶をさせて頂こう。我が名はザッドバール。このスラニアを統べる者」
「私はエドワルド。ガロア魔法学院で考古学の教鞭を握っていてね。今回は助手と学院の生徒と善意の協力者の方々とスラニアの調査に赴いた次第だ。
ところで貴方はこのスラニアを統べると言ったが、スラニアに天人の生き残りが居たなどと初耳だ。
貴方は天人の生き残りとしてこのスラニアを統べる資格があるのかな? それともスラニアの都市機能を掌握したが故に統べる資格があると口にしているのかな?」
エドワルド教授の疑問は現状をすぐさま打破できるものではないが、確認をする価値のあるものだった。
未調査の地下空間に眠っていた天人が覚醒してスラニアの支配権を主張すると言うのなら、私達はその生き残りからすれば墓荒らしか盗人のようなものだ。
ザッドバールは眉一筋動かす事も無く、淡々と口を開く。さながら人形と対話しているかのように、感情の揺らぎを感じさせぬ青年だ。
「事実として私がスラニアの全てを掌握し、統治し、支配しているまでの事」
「あくまでスラニアの統治者であり所有者であると主張するわけだ。私も君が天人の生き残りであると言うのなら、ここは退くのも仕方がないと思っていたけれど」
ここで一旦言葉を切るエドワルド教授を見るザッドバールの目に、かすかに胡乱な色が瞬く。
どこか挑発的な笑みを浮かべるエドワルド教授を除いた全員が、戦端が開かれる予感に襲われている事だろう。
「失敗だったね、君は有名過ぎる。偽名を名乗るだけでなく顔も変えるべきだったよ、大魔導バストレルの高弟の一人、赤死のザグルス。
齢十歳にして導師資格を獲得し、翌年には一族全てを皆殺しにして世界の闇に消え、バストレルの弟子となって再び姿を見せた時には、千一人の人間を生贄にした邪法の儀式を執行して赤死の二つ名を名乗った大罪人。
各国の軍部や魔法ギルドに手配書が触れ回っている大罪人の顔と名前くらい、私でも知っているよ。
君達の師であるバストレル率いる魔導結社オーバージーンが、近年天人の技術や遺産収集に力を入れている事もね」
大魔導バストレルの名前は魔法学院の生徒のみならず魔法を学ぶ者ならば、まず間違いなく一度はその恐怖の伝説と共に耳にした事のある名である。
その存在を少なくとも二百年前から確認できる大魔法使いで、既知世界最強の魔法使いの一人に数えられるほど強大な力を持ち、禁制の麻薬や魔法薬、魔法具の密貿易から要人の誘拐、暗殺、洗脳、禁呪の実験に伴う大量虐殺を数限りなく行っている。
その一万人の魔法使いをも上回ると言われる力を己の欲望の為にのみ使い続けて、数え切れぬ人々に災厄を齎してきた悪人でもある。
その傘下に才ある魔法使い達を集めて造り上げた魔導結社も、大国にも匹敵する戦力と財力、影響力を有するとまで言われているほどだ。
バストレルと魔導結社オーバージーンは、各国の上層部や正道を歩む魔法使い達にとって戦慄と共に語られる忌まわしき存在なのだ。
エドワルド教授に正体を言い当てられたザッドバールことザグルスは、それまでの無表情が嘘のように鉄仮面を笑みの形に変えると、くくくと咽喉の奥から小さな笑いを零す。
まるで空間が歪むような殺意が周囲から立ち昇り始め、エドワルド教授の指摘によってぎりぎりまで張りつめられていた緊張の糸が破られ、いよいよ戦端の開かれる時が迫っていた。
「くく、そうか、いささか師と共に大暴れをしすぎたか。ではつまらん演技はここで終わりにしよう。改めてご挨拶させていただく。
私はザグルス、偉大なる魔導の真理の探究者バストレル様が弟子の一人……。我が師の命にてこのスラニアを掌握している」
「君達の結社がその正邪はともかくとして極めて優れた集団であるとは聞いていたけれど、まさかこのスラニアを掌握するほどだったとは、いやはや神々は才能を与えるべき相手を間違えておられる」
「全ては我が師のお導きあればの事。それにしてもこのスラニアを訪れる野鼠を駆除するだけのつまらぬ仕事と思っていたが、古竜と古龍、それに未だ目覚めていないとはいえ同胞と出会えるとは、望外の幸運に恵まれたもの」
喜悦の笑みを向けるザグルスに対し、ヴァジェはその態度をもって不愉快だと暗に語り、周囲に陽炎を立ち昇らせながら一歩、また一歩とザグルスへと近づいてゆく。
瑠禹もまたザグルスから向けられる汚らわしい悪意に反応し、無数の水粒を生じさせて何時でも鋼鉄も貫く横殴りの雨を降らせる用意を整えている。
「はっ、私を敵に回して幸運に恵まれたとは脳みそが腐っているらしいな」
「珍しく私もヴァジェさんに同意いたします。貴方からはとても嫌な気配を感じます。まるで怨敵たる海魔共を前にしているかのような」
「海魔風情と同じ扱いをされるとは、これは心外だな。だが君らは我らオーバージーンでも滅多に見られぬ希少な存在。
並みの竜や亜竜共を解剖するのはもう飽きていたところでね。君らは様々な意味で私と我が師の役に立つ事だろう。是が非でも手中に収めたい。
どうだね? 大人しく私に従うと言うのならばヴァジェと瑠禹だったか、君達とそこのクリスティーナという女性だけは助けてあげよう。同じ超人種のよしみとして我が結社に迎える為にな。
その他の者達も苦しまぬように死なせる事を約束する。ああ、それとも我が実験の材料として生かす道もある。私としては最大限の譲歩だが、検討の余地はあるかね?」
エドワルド教授が拒絶の言葉を口にするよりも早く、凶暴な笑みを浮かべたヴァジェが動く。まあ、そうなるわな。
「“人間風情”が身の丈に合わぬ事を口にするな。片腹に激痛が走るわ!」
こういう時にヴァジェが真っ先に爆発して戦端を開く事は私達の間ではすでに共通認識であり、前に出ていたエドワルド教授とミス・エリザは、ヴァジェが紅蓮の炎を纏いながら突き進むのに合わせて後退する。
ヴァジェの後方左右に私、クリスティーナさん、エドワルド教授、ミス・エリザが布陣し、更にその後方にセリナと瑠禹が控えて魔法と術による支援を行う態勢を整える。
さてレニーアはというとずんずんと大股で進むヴァジェの傍らに何時の間にやら居た。
一度だけ私を振り返り、ふふん、と鼻を鳴らすような仕草をしたのだが、ヴァジェに対抗意識を燃やしているのか?
ヴァジェとレニーアの接近に合わせてザグルスの周囲の空間が揺らぐや、無数の猛烈な殺意が揃って二人に襲い掛かる。
「低劣な姿隠しの魔法如きで私の眼から逃れられるか!」
ヴァジェの右腕の一振りに合わせ、鉄を融解させる熱量を持った炎が吹き荒れるや何もない空間を薙ぎ払い、そこにそれまで影も形も存在していなかったキメラもどきの姿を暴き立てるや、即座に消し炭に変える。
「並みの相手にしか通じん。浅薄な考えだ」
レニーアもまた姿を隠していたキメラもどき達の存在を正確に把握していたようで、殺意と破壊で凝り固めた思念を四方へと解き放つや、空中に無理矢理四肢を引き千切られたキメラもどきの死骸が撒き散らされる。
「これって最初から交渉の振りをした事実上の脅迫ですよね」
眦を吊り上げて体内の魔蛇の呪いを励起しているセリナが、怒りを露わに口にするのに私は背を向けたまま答えた。取り敢えず会話をするだけの余裕は十分にある。
「あからさまにこちらを見下していたし、交渉になどなるわけもないさ。穏便に事を運べば良かったと後悔させてやるとしよう」
「はい!」
地上で迎え撃ったキメラもどき同様、一体ごとに容姿が大きく異なるキメラもどき達を前に、セリナは蛇眼による麻痺と攻撃魔法を併用して鉄壁の防衛線を描く。
クリスティーナさんはザグルスに自分を特別扱いされた事に疑念を抱いたようだが、キメラもどきが迫る現状を前に戦闘に意識を埋没させている。この切り替えの早さは見事という他ない。
私もまた彼女らに遅れずに長剣に魔力を通し、疑似魔剣と変えて迫るキメラもどきを屠る作業に入る。
キメラもどき達は地上に存在する並みの魔物や魔獣よりも強力ではあるが、この場合私達が並みで無さ過ぎると言うべきだろう。
「古竜の力の凄まじさは予想の範疇だが、我が同胞はともかくとして魔法学院の生徒ごときがここまでやれるとは面白い」
ヴァジェ達が後十歩の距離まで近づいてきた時、ザグルスが初めて動きを見せた。
一目で魔法の品と分かるほど濃密な魔力を放つステッキで白い床を叩くや、ステッキが突いた箇所から伝播した振動がヴァジェとレニーアとを襲った。
ヴァジェは翼を広げて飛び立つ事でこの振動をかわそうとし、レニーアは思念をぶつけて相殺せんとしたようだが、どちらも悪手だな。
「ちいっ!?」
「ぐぅ」
ヴァジェは尻尾と爪先が間に合わずに振動に触れ、レニーアは破壊念が振動に逆に粉砕されて振動に捕らわれる結果となった。
両者ともに生まれ持った高い抗魔力で即死こそ免れたが、行動不能状態にまで陥る。ヴァジェが振動を回避しきれなかったのは、途中で振動の速度が速まった事と拡散した為だ。
レニーアの方は彼我の攻撃に込められた魔力量を測り間違えたというよりも、相手が超人種である事を失念したかしたのだろう。
これが超人種の厄介なところだ。神々が完璧な存在として産み出そうとした人に限りなく近い超人種は、格の高い霊魂を生まれ持っている。
そして霊魂の格の高さは万物への干渉能力も応じて高くなる。物理・霊的法則双方に対して強い絶対性を有し、霊魂の格が明らかに低い相手からの攻撃や、干渉を高い確率で防ぐか弱体化させる事が出来る。
レニーアの攻撃が打ち砕かれたのもこの超人種の特性に依るところが大きい。
本来大神並みの霊格を持つレニーアの攻撃ならばいかな超人種とて抗いようもないのだが、現在のレニーアは思念魔法に用いる魔力のほとんどを肉体と精神集中で産み出しており、神造魔獣としての霊格をまるで活かせていない状態にある。
ふむん、レニーアがあまり危険な娘でないと分かったら、私が後で魂と肉体の調律をする事も考えておこう。
「遥か昔、エヴェルザという魔法使いが考案した『震える大地』という魔法の応用だよ。
本来はこの超振動に捕らわれたものは血の一滴、肉の一片に至るまで目に見えないほど細かく分解されるまで脱出する事が出来なくなるが、こうして相手に行動を許さぬ牢獄とする事も出来る」
ザグルスは社交界で淑女を惑わす紳士が浮かべるのに相応しい優雅な笑みを浮かべ、ゆっくりと動きのとれなくなったヴァジェとレニーアへと近づいてゆく。
「竜封じの法も用意しておいたが、使うまでも無いか。思ったよりも与しやすかったな、深紅竜よ」
嘲笑を含むザグルスの言葉にヴァジェは怒り心頭となり、ちろちろと噛み締めた牙の間から炎の舌が覗くもそれが溢れる前に振動によって散り散りになって消える。
「残る難題はあちらの水の古龍。流石にこう簡単には行くまいが、アレを捕らえればバストレル様もお喜びになられよう」
二人の思いがけぬ窮地に気付いたセリナ、ミス・エリザ、エドワルド教授、クリスティーナさんが即座に反応して、ザグルスを目がけて攻撃魔法を放つがそれらは尽くザグルスの持つ魔法障壁と超人種としての特性から、ザグルスに届く寸前で霧散して消える。
再び嘲りの笑みを浮かべてクリスティーナさんやエドワルド教授を見ようとしたザグルスだったが、余裕に満ち溢れていた目を驚愕で見開く事となった。
答えは至って簡単。至近距離にまで私が迫り、ヴァジェとレニーアを捕らえる超振動の牢獄へと竜爪剣を突き立て、魔法を構成している術式を力ずくで崩壊させて二人を解放。
返す刃でザグルスの身体を股間から頭頂部に至るまで真っ二つに斬り裂いたからである。
レニーアと違い古神竜の魂が持つ魔力を纏わせた竜爪剣は、ザグルスの防御も魂の持つ特性も無視して骨も臓腑も脳も断つ。
「が、か……あが!?」
「ふむ、敵する者の戦力を正確に測る事が出来ないとこうなる。ヴァジェ、レニーア、よく心得ておきなさい」
手間のかかる娘か弟子に諭すつもりで二人に話しかけると、振動の牢獄から解放された二人は揃って気まずそうに渋い顔を拵える。
特に私によい所を見せようと気張っていたらしいレニーアは、傍目にも明らかにしょぼんとしている。ふぅむ、なぜレニーアはここまで私を気にかける?
私は足元で臓腑とどす黒い血をぶちまけているザグルスを見下ろし、白眼を剥いたその死に顔に問いかけた。
「まさかこれで終わりではあるまい。こんな偽物ではなく今度は本物が出てきたらどうだ?」
すると二つになったザグルスの死に顔がにいっと凄絶な笑みを浮かべると、ぐるんと瞳が回転して私に焦点を結ぶ。
「驚いたぞ。私に一太刀浴びせたばかりかダミーを一目で看破されたのは実に久しぶりの事だ。魔法学院は才ある者を見つけたようだな」
咽喉も舌も肺も二つにされているが、ザグルスの偽物は流暢に言葉を紡ぎ、周囲のキメラもどきが撤退した事で余裕のできたエドワルド教授達を驚かせる。
「お前達の魔導結社の目的は知らぬが、このスラニアの都市機能をまっとうな目的の為には使うまい。
お前が仕向けて来た不出来なキメラ達から察するに、新たな生物兵器の創造でも試行していたか?」
「さて、それを私がお前達に教える義理はあるまい」
「ふむん、それもそうだが大体は想像が付く。ではもう一つ」
「なにかな?」
遠隔地から操るダミーを介して私との会話を楽しむザグルスだったが、次に私が口にした言葉に笑みを強張らせて、敵意を深めた表情へと変える。
「エンテの森で魔界の悪鬼共を召喚したのはお前達の一派か? お前の使っている術式の核となる箇所があの森にあった召喚陣の基幹部分と酷似している。お前達の言う大魔導とやらの門派が扱う基幹部分といったところだろう」
「魔界四騎はエンテの森の戦士達に葬られたと報告を受けていたが、よもやお前が関わっていると言うつもりか?」
間抜けめ、自分からエンテの森に関わっていた事を認めてくれるとは。それとも冥土の土産とでも思っているのかもしれん。
「一柱と一体は私が葬った。後はエンテの森の妖精とクリスティーナさんの手による。
どうやら色々と手の込んだ事を計画しているようだが、エンテの森に続きスラニアでの企みも私が潰えさせてもらおう」
「くく、くふふふふ、そうか、エンテの森のハイエルフやユグドラシルが動けば彼の地の門はいずれ封じられるとは予測していたが、よもや人間と同胞に封じられていたとは。
どうやらクリスティーナ以外にお前の事も捕らえて調べる必要があるようだ。肉体も魂も存分に調べ尽くしてくれよう」
ここまでザグルスが言うやダミーの顔がどろりと溶けだし、ピンク色のどろどろとした液体に変わって崩壊する。
ふむ、取り敢えず宣戦布告はこれで良しとして、次はザグルス本人を始末する段か。
私は辺り一帯から敵の気配が消えた事を確認し――監視はされているが――長剣を鞘に納める。
「前哨戦はこんなところでしょう。怪我をした者は?」
私の問いかけに全員が首を横に振って怪我の無い事を伝えてくる。振動の牢獄に捕らわれたヴァジェとレニーアも、若干の疲労はともかく傷を負ってはいない。
ただクリスティーナさんだけはどこか暗い顔をしており、エンテの森での一件に続いてザグルスに特別視された事が気に掛っている様子だ。
「クリスティーナさん、ザグルスの言っていた事が気に掛るのかね?」
「ん、ああ、エンテの森でも魔界の者達に超人種と言われたから、どういう意味かとつい、ね」
超人種という言葉はあまり知られている言葉ではない。知識面では勤勉な学生に過ぎないクリスティーナさんが知らなくても、ま、無理からん事である。
その代わりに超人種という言葉に真っ先に反応したのはヴァジェとレニーアと瑠禹である。
ヴァジェはクリスティーナさんに険しい瞳を向け、レニーアは無関心の鉄仮面を被り、瑠禹はかすかに眉を潜める。
「ちっ、竜殺しの因子に加えて超人種か。どうやらまだ覚醒してはいないようだが、ますますお前の事が嫌いになったわ」
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第五十話
私達はザグルスと轟国の調査団の生き残りの姿を求めてスラニアの中枢部を進んだ。
中枢部を進むにあたって活躍が目覚ましかったのは、たとえ魔力の気配が無くとも鋭敏な感覚器官を有し、熱量や大気中の水分子の動きの変化によって襲撃を察知できるヴァジェと瑠禹。
そして前世において、高度に発達した魔法や科学技術を用いた兵器との戦いを経験したと思しいレニーアであった。
合成生物達との戦闘は砦前での攻防の再現に留まったが、壁や床の一部や液状に溶ける姿を見せた防衛機構――確か昔の人間達が言うところの荷電粒子砲や睡眠ガス、衝撃砲、電撃床などは、私やレニーアが真っ先に反応した。
放たれた荷電粒子流や不可視の衝撃の類を竜爪剣で斬り散らし、睡眠ガスは風の魔法で吹き散らしてから噴射口を潰す事を躊躇なく、淀みなく繰り返す。
しばらく進み、合成生物や防衛機構について一通り把握したヴァジェや瑠禹、レニーア、セリナ達は、先ほどの私が頼りにすると言った事を意識してか、我先にと前に出ては率先して合成生物や防衛機構の破壊に乗り出した。
ヴァジェが通路を埋め尽くす合成生物の群れを洪水のような火炎のブレスで灰燼に帰せば、負けじと瑠禹も生まれ持つ霊験によって無から水を造り出し、超高速で放たれる水の刃が荷電粒子砲や衝撃砲の砲台を真っ二つに切裂く。
「うん、あれだね。このスラニアに来てから何度目になるのか、やる事がないね!
いやあ、いつもは戦闘も調査もなにもかも自分とエリザとでしなければならないのだが、今日はまるで逆だ。そうだろ、エリザ」
「ええ、本当に珍しい事もあるものですね、教授」
私達の目の前で暴れ狂う四人を前に、どこか呆れた調子で笑うしかないと言わんばかりにエドワルド教授が晴れ晴れとした笑顔で言うのに、クリスティーナさんが困った顔で同意した。
「四人共やる気というか、殺る気に満ちていますからね。体力と魔力の配分を間違えなければ良いのですが」
それから、がらんとした部屋の一室で一旦休憩とし、持ち込んでいた干した果物や水で咽喉を潤していると、干し葡萄とくるみのクッキーや干した杏を口いっぱいに頬張るヴァジェが、面倒臭そうに呟いた。
「これでは何日かかるか分かったものではない。面倒だな。適当に真ん中あたりを狙って全部燃やして行ったらどうだ? 私の炎ならやってやれんことはないだろう」
「いやいやヴァジェ君、調査団の生き残りが何処に居るのかも分からない以上、そんな危険な考えは抑えてくれたまえよ」
「エドワルド教授の言う通りだよ、ヴァジェ。それに天人はかつて古竜さえ支配した実績がある。
これまでの区画はともかく本当に重要な場所に関しては、君の炎でも燃やせない処置が施してあると考えた方が良いぞ」
私がヴァジェの提案を吟味し始めた時、部屋の扉のすぐ傍から空間と魔力の揺らぐ気配が伝わり、それまで体を休めていた皆が立ちあがって武器を構える。
ザグルスの技量ならば空間転移の予兆も隠せるだろうに、それを隠さずにわざわざ知らしめるかのように転移魔法を行使するとは大した自信家だ。
「君達の健闘は拝見させてもらった。そろそろつまらぬ雑魚共との戦いも飽きてきた事だろう。歓迎の準備がようやく終わったところでね。君達を案内する為に私自ら来させて貰った」
そうは言うがザグルスがわずかでも執着を見せているのは、クリスティーナさんとヴァジェ、瑠禹、そして……なぜだか私。
いや、なぜと言うのはおかしいか。エンテの森での一件を告げた以上は、ザグルスが私を少しばかり特別視をするのも当然と言うべきだろう。
「わざわざのお招きをありがとう。しかしながら言葉通りに歓迎してくれる雰囲気ではなさそうだな、大魔導の弟子殿」
「それは下種の勘繰りと言うものだ、ドラン君。我ら大魔導バストレルの門下の名に恥じぬ歓待を期待してくれて構わんよ。それに君達もこれ以上徒労を重ねたくは無かろう。
いちいちこの中枢区画を調べて回っているようだが、このスラニアの全ては私の管理下にある。今更どこをどう調べたところで得られるものなどありはせんよ。時を遡らせでもしない限りはな。
それに君らは轟国とかいう下賤な墓荒らし共の事を気に掛けているようだが、彼らはもうこの世にはおらん。
我らの崇高なる実験の贄となり、その血肉の全てを捧げてくれたからな。これ以上の調査活動が無駄と分かったならば私の招きに応じてくれたまえ」
やはり、調査団の生き残りはいないか。私だけでなく全員がその予感に捕らわれていたが、彼らを殺害した張本人自らに明かされる事になるとは。
エドワルド教授やミス・エリザの顔に同業者の悲惨な最期に対する沈痛な色が浮かぶ一方、砦前での戦いで恥を掻いたと思っているヴァジェとレニーアは、調査団の悲報などまるで気にも留めておらず、目に見えそうなほどに戦意を高めている。
「耳障りな囀りだな、人間!」
「二度と口を利けなくしてやるぞ、人間」
深紅竜と元神造魔獣の少女から容赦なく叩きつけられる殺意にもザグルスは顔色一つ変えず、笑みを深めてステッキを小さく浮かせるとカン、と甲高い音を一つ立てて床を突く。
「二度も同じ手は通じまい。故に今度は別の手だ」
ステッキが床を突くのと同時に金属製の床が波打ち始め、床そのものが微細に変化を始めて紫色に光り輝く魔法陣へと形を変える。
床が形状を変化させて描いた魔法陣は合計三つ。竜眼で観察したところ、魔法陣は強制的に空間転移を行うもので、転移先はそれぞれが異なる。
私の知覚で把握しているスラニアの内部構造と魔法陣の転移先を照らし合わせると、一つは外に、残りの二つはそれぞれ異なる中枢部の部屋へ転移させるものだ。
部屋に転移した途端、酸の海だとか肉食性のスライムで満たされた部屋だとか、罠満載の部屋に飛ばされるという事はなさそうだ。
ザグルスの発言から察するに、狙いはヴァジェ達と私達でセリナ達は殺しに掛ってきているといったところか。
やはり手っ取り早くザグルスを始末して他の二組を助けに回らねばなるまい。
私達を包んだ紫色の光が消え去り、かすかな浮遊感が消えた後、私とクリスティーナさんは広大なドーム状の空間に立っていた。
継ぎ目一つない床や壁を見ていると最初からこの形で世界に存在していたかのようだ。
ドームの端に立っていた私達に対し、ザグルスは中心部に立っていた。今度こそ偽物ではなく本物のザグルスだ。
ご本人がわざわざ登場したとなれば、本命は私達、特にクリスティーナさんで間違いは無いだろう。
「そう怖い顔で睨んでくれるな、クリスティーナ。君と私はこの地上で数少ない同胞なのだ。友好的に行こうではないかね」
「私はお前達のような一派の軍門に下るつもりは無い。私はただの人間だ。人間に過ぎない。地上を支配しようだとか全ての種族の頂点に立つべきだとか、そんな大それた考えなど持つつもりはない」
「謙虚な事だが、過去にもそう言って我らの誘いを断り、しかし我らと同じ道を歩む事を選んだ者は数多い。多少、荒々しく躾をすれば君から仲間にしてくれと願うだろう。
それと助けは期待しない方がいい。君らのお仲間達は全て私の歓迎で手一杯なのだから。このようにね」
ザグルスが左手を振るうと、ドームの天井を埋めるようにしてヴァジェと瑠禹、セリナやレニーア達の姿が映し出され、それぞれが相対している敵の姿もまた映し出された。
ヴァジェと瑠禹は上空へと放り出されていて、それぞれが本来の姿へと戻ると自分達を囲む巨大な人影を相手に飛行戦を始めたばかりであった。
「なんだあれは、ゴーレムなのか!?」
驚きを露わにするクリスティーナさんに対し、ザグルスは自慢の玩具を披露する子供のように自慢げに説明し始めた。
「天人の文明を支えた魔法と錬金術と科学を融合発展させた魔導学の成果の一つだ。
かつて古の時代に天人達は魔導学によって造り出された巨大兵器を使い、古巨人や竜種を捕らえ、時には討伐したのだ。
加えてあの空域には竜封じの法を施してある。法が効果を及ぼすのは一定の空域に限られるが、あの飛行巨人エアンに囲まれていては脱出もままなるまいよ」
一方でセリナとレニーア達の方へと視線を移せば、こちらは四方をキメラもどきに囲まれてじりじりと包囲網を狭まれている。
ヴァジェや瑠禹に対して天人の遺産や法を用いたのに対し、セリナ達に対しては純粋な物量で始末を付けるという事か。
「不意を突けばともかく、構えられていては竜封じの法もさしたる効果はあるまいが、戦いの中で徐々に疲弊し、傷を負えば竜封じの法も徐々にその圧力を増していくだろう。
対竜用の兵器を相手にどこまで保つか、私はただ彼女達が疲弊して力尽きるのを待つだけで良い。
あのエドワルドとかいう学者風情とラミア達も同じように、我が実験体達の腹に収まるのを待つのみ。
ただし同じ超人種のよしみと我らの計画の一端を潰したというお前だけは、私直々に歓迎してあげよう」
もぞりとザグルスのローブの中で何かが蠢いた。ふむ、このスラニアの実験成果を自分にも応用しているといったところか。
ザグルスのローブの合わせ目からは十本を超す触手が零れ出てうぞうぞと蠢き、私達へ牙を剥き出しにしてだらだらと涎を垂らしている。
「残念だな、驚いてはくれないのかね」
ザグルスが心底残念そうに呟くやステッキを振りあげて私達を指し示し、触手達が一斉に私達へと風を貫きながら襲いかかってくる。
鋼鉄の弦を引き絞り放つクロスボウの矢よりも早く襲い来る触手を、クリスティーナさんはその動きに惑わされる事無くエルスパーダを振るい、触手を切り落とす。
私もまた竜爪剣を振るって襲い来る触手を切り落とすが、この感触、鋼鉄並みの硬さか。私はともかくクリスティーナさんも大概だな。
切り落とされた部分の触手はそれでも死なずに床の上でのたうち、私達の足へ噛みつこうとするほど生命力に満ち溢れ、また断面に肉が盛り上がったかと見えた次の瞬間には、元通りの形へと戻っている。
「再生能力!? それにしても早すぎる」
さしものクリスティーナさんも触手のあまりの再生速度に驚愕の叫びを上げ、背後からも襲い掛かってくる触手の群れに取り囲まれ足を止めていた。
私はそんなクリスティーナさんの背を庇う位置に動き、前後左右を埋め尽くして渦を巻く触手に視線を巡らす。
「まさかとは思うが、生まれつきこういう体だったのかね?」
触手の根元へと視線を移し、余裕そのものの態度でステッキを握るザグルスに問えば、ザグルスは優越感からか饒舌に喋り出す。自慢する相手がこれまでいなかったのかもしれない。
「なんとも呑気な問いだな。流石にこれは生まれつきではないよ。全てはスラニアの遺産の恩恵だ。君らも想像はついているだろう。
このスラニアが異なる生物を交配させ、新たな生物を創造する事を目的とした実験都市だった事に」
「天人の文明の黄昏時を考えれば、どの空中都市にも大なり小なり生物実験の施設が存在してもおかしくは無いからな」
「魔法学院の生徒でも天人達が種としての衰退を止める為に、様々な手段に手を伸ばした事は知っていよう。このスラニアもその一つだ。
天人の種そのものが衰退したと言うのなら、他のまだ種としての生命力に満ち溢れた他種族の生物的特性を取り込む事で、種としての寿命を伸ばそうと画策した。
ここはその為の都市だ。あの混合生物達はその実験の過程で産み出された副産物だよ。生物兵器としても転用されたようだがね」
「わざわざご丁寧に解説をありがとう。ではついでに一つ。お前達の結社の目的から察するに、スラニアの生物実験施設と過去の蓄積された記録から、自分達を人間から『人』へ進化、いや変革させる実験をしていたのか?」
ザグルスの浮かべる笑みが更に深まり、美貌から放たれる悪意がより禍々しいものへと変わる。常人ならばこの悪意に触れただけで生涯ベッドの上で過ごさなければなるまい。
「半分は正解だが、半分ははずれだ。変革と言う言い回しは悪くないが我らの、いや、我が師の目指す所は人程度ではない。更にその上だ」
「ふむん、ならばありがちなところで神の座か? この地上では神々の力が制限されるから勘違いしやすいが、本来神々は地上の生物の及ぶような領域の存在ではないぞ。
本来の力を発揮できるなら、末席に名を連ねる下位の神でさえこの地上世界に於いては全知全能。世界そのものの創造も破壊も自由自在なのだから」
「くふふふ、凡百の夢想家ならば己を神なる存在へせんと無謀な試みに興じるだろうが、我が師をそのような者達と同じにして貰っては困る。あの御方の見ている世界はお前達の考えるようなものではない」
「竜種、か。もしそうならとんだ連中に目標とされたものだが」
私の零した呟きはザグルスの耳には届かなかったようで、ザグルスは胸から腹部に掛けて無数に生やした触手で私達を囲いこみ、自身の優位が揺るぎないものだと確信している様子だった。
「安心したまえ、たとえ四肢を失ってもそれらをまた生やす事は我らにとって難しい事ではない。存分に苦痛と後悔を味わい、それから私の靴を舐めて我らの結社に加わると良い」
「まったく、どうして人間にはこういう度し難い連中が定期的に産まれるものなのか……。だからこその失敗作扱いなのだろうが、やるせないな」
「ドラン?」
「クリスティーナさん、少しだけ待っていてくれ。すぐにあの馬鹿に吠え面をかかせて産まれてきた事を後悔させてくる」
「ドラン、君は一体。どうしてだろう。君を前にすると体が震えてしまう。いや、魂だ。魂が慄いているんだ」
「私は私だよ。ベルン村生まれの農民で、ガロア魔法学院の生徒で、クリスティーナさんの友達さ」
私の竜爪剣によって再生機能のみならず存在の根源から滅せられた触手は、再生する素振りを全く見せず、ザグルスは怪訝な顔をしつつも触手を根元から切り離して、すぐにまた新たな触手を生やした。
「なるほど、これが魔界の者共を討ったという理由か。この力……面白い。あのヴァジェと瑠禹という古竜達が何故力を貸しているのかと思ったが、これで分かった。お前がその理由か」
竜爪剣から伝わった魔力を竜種のそれと瞬時に看破した洞察力は称賛に値する。だが、それで私の手が緩む事は無い。
「そういう事だ。故に、お前に勝ち目は無いぞ。身の丈に合わぬ妄想に囚われた愚者よ」
「くふふ、ますますもってバストレル師への献上したくなったぞ。このスラニアで得た生体融合技術の真髄、とくと味わえ!」
ローブが内側から風船の如く膨らんだかと見えた次の瞬間、更に無数の触手とぬらぬらと粘液でヌメ光る翼が広がり、ザグルスの手足が青黒い甲殻に覆われて禍々しい鉤爪が生え揃う。
左右の乳房の下に爛々と輝く赤い眼が開き、ザグルスの額に濁った金色の第三の瞳も開く。
「我が身に施した進化の法では人の域にも昇れなかったが、お前達を屠るには十分に過ぎる力ぞ!」
背の翼の付け根や両肩、脇腹からわらわらとボウフラのように生やした触手の先端を私達へと向け、それぞれの先端に異なる小型の魔法陣が描かれるや莫大な魔力が集中する。
ざっと二十本を越す触手そのものが魔法発動の媒体となり、ザグルスは数十単位の魔法を同時に行使し得る脅威の存在へと変貌していた。この地上の魔法使い達からすれば、脅威の存在に。
「そうか。私にはそうは思えんがね」
「な!?」
まるで時が止められていたかのように、知覚できぬ内に私が目前にまで迫っていた事にザグルスは驚愕のうめき声を発し、振りあげた竜爪剣の一閃で砦前での戦いを再現するように、頭頂から股間までを両断された。
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第五十一話
白い床にどす黒い血と臓物をぶちまけるザグルスを見下ろし、私は竜爪剣の切っ先を二つに斬り裂いた内の右半身に突き付ける。
銘の無い長剣からは変わらず白い魔力が陽炎のように立ち上り揺らめいているが、これではザグルスの命脈を断つのにいささか足りなかったようだ。
「一撃で終わらせるつもりだったが、少しばかり手加減が過ぎたな」
私の言葉を待っていたかのように両断されたザグルスがかっと眼を見開き、私を見上げて自慢げに笑う。
「くふ、ふふ、くはははは!」
力無く床に広がっていた翼が打って変わって力強く羽ばたき、血の滝を零したまま二つになったザグルスが空を舞う。空中で断面を癒着し身体を縦断する斬線が消える。
「驚いたぞ、これほどまでの力の持ち主とは」
空中で私達を睥睨するザグルスを見上げ、その異形の姿にクリスティーナさんが息を飲む気配が伝わってきた。
例えばエンテの森で戦ったゲオルグなどのように最初から異形の姿と素性を目の当たりにして戦うのとはまた違い、曲がりなりにも人間としての姿を持った相手がかくも人間離れした姿へと変わった事に少なからず驚いているようだ。
「私の力量を悟ったような口ぶりをしておいて、むざむざ一撃を受けるとはな。それともわざと一撃を受けて余裕を演じてみせたか?」
私が淡々と口にした挑発に、ザグルスはすっと眼を細めた。
細められた眼の白い部分が黒く染まり、瞳が魔眼と化して金色の色彩を帯びて、ザグルスの殺意の成分で構成された視線が私に降り注ぐ。
「甘く見られたものだ。求めた結果と異なるとはいえ、この進化の法によって私の肉体は超人種としてだけではなく、数多の魔獣や精霊さえ取り込んだものとなっている。お前の前世の同胞もその中には含まれているのだぞ、竜族の転生者よ!」
はっとクリスティーナさんが息を飲む。
余計な事を言ってくれたものだ、と私は思わずにはいられなかったが、ザグルスを仕留めきれなかった私自身にも責任はあるか。
「ドラン、君は?」
戸惑いと不安と、まさかという思いに揺れるクリスティーナさんの赤い瞳を見つめ返し、私は小さく笑って肩を竦める。内緒の話を知られてしまった幼い子供のように。
「まあ、そういう事だ。この身体は両親からの賜り物だけれど、魂だけは違うのさ」
ザグルスから唐突に明かされ更には私が肯定した事で、クリスティーナさんは私を前に魂が慄き震える理由を悟り、傍目にも明らかに動揺していた。
「ふむ、クリスティーナさんはさきほどから驚いてばかりだな」
「驚くなと言う方が無理だろう!? いや、君を責めているわけではないが、だが、だからヴァジェと瑠禹が君に懐く理由ということか。
しかし、それならば魂が竜であるという君とて、私の事は忌まわしく感じているのではないのか?」
縋りついてくるようにも見えるクリスティーナさんのどこか弱々しげな態度は、数少ない友人である私に嫌われたのか、もう友人とは呼べなくなるのか、という事への不安と恐怖がありありと見て取れた。
「私は気にしておらんよ。元より竜殺しの因子を持っている事も超人種として産まれついている事も承知の上で、クリスティーナさんとはこれまで付き合ってきたのだから。
だから私がクリスティーナさんを嫌うような事は無い。むしろ隠し事をしていた事で嫌われやしないかと私の方がひやひやしたくらいだ」
クリスティーナさんが改めてエルスパーダを握り直し、私と共に見上げた先に浮かぶザグルスはといえば、私達を睥睨しつつ体中から生やした触手の先端をこちらへと向けている。
「わざわざ私達が話し終わるのを待っていてくれたのか? 律儀だと言いたいところだが、そうでもあるまい」
私が問いかければ、ザグルスは悪意の結晶のような笑みをもって答えてくる。
私がクリスティーナさんをひとまず落ち着かせる為に話している間、ザグルスが何もしなかったわけが無い。
ザグルスの体内で魔法行使の補助を行うよう人為的に再配置された血管や神経系、臓器が励起し、魔法が発動寸前の状態にある事を私の竜眼と諸感覚は把握している。
触手達が放つのは、ザグルスがこのスラニアで取り込んだという精霊や魔獣達の魔力を圧縮したブレス。
光の束、紫色の霧、青い稲妻、黒い炎、黄色い水と、属性ごとに様々な形状の攻撃が頭上全てを埋め尽くして襲い来る。
並み以上の古竜でも受ければ致命傷を負ってもおかしくない攻撃だ。たとえ超人種とはいえ人間がここまでの力を発揮するとは、場合によっては素直に称賛したいところだが……。
私とクリスティーナさんを中心に次々と着弾して、スラニアの液体金属で構成された極めて堅牢かつ修復機能を持つ床が大きく抉れ、爆ぜ飛ぶ。
高位の攻撃魔法を十、二十と連続して放たれたにも等しい破壊の只中にあって、さしものクリスティーナさんも眼を瞑り襲い来る激痛と、それを感じる暇も無く訪れるかもしれない死に耐えようとしていた。
「クリスティーナさん、大丈夫だ」
私は降り注ぐ攻撃の数々を、背中から伸ばした雪のように白い翼で自分とクリスティーナさんを庇い、その翼を絶対不可侵の境界線としてザグルスの攻撃の全てを遮断していた。
「……ドラン、これは、君の防御魔法、いや、翼?」
「魂にある前世の肉体の情報をもとに再構築したものだ。半分は物体、半分は純粋な力そのものといったところかな」
「本当に竜だったんだな」
呆然と呟くクリスティーナさんに、私はゆっくりと頷いた。
「そうだよ。もっとも今世では人間として生きて人間として生の終わりを迎えるつもりだったのだけれど、なかなかそうも行かないらしくてね。ままならぬものだ」
「この状況でも余裕を失わない、か。正直、死を覚悟したのだけれど」
「ふむん、この程度で大切な友人を傷つけさせはしないさ。とはいえ、ああは言ったがあのザグルスは言うだけの能力と知識は確かにある。私が相手をする他ないだろう」
やがて絶え間なく続くかと思われた触手からの攻撃がようやく途絶えた時、色様々な霧のようにたゆたう魔力の残滓が晴れると、傷一つない姿の私達に対して表情を取り繕う事を忘れて驚愕するザグルスの姿があった。
私に斬られた左腕を右腕で押さえたまま空中に佇むその姿には、進化の法を施した自らを誇っていた余裕も無く、私達を自分より劣る存在だと見下す傲慢も無い。
「殺すつもりで来てもこの程度か、超人種?」
「貴様、ただの竜種の転生者ではないな! 地獄の鎖を切り裂き、あれだけの攻撃を全て防ぎ切るなど、少なくとも老古竜、あるいは竜公でもなければあり得ん」
「好きなように思うが良い。いずれにせよ己の持てる全力を尽くさずして死んでは悔いが残るだろう。全力で私に挑め。そして全力で敗れるが良い」
私は翼を羽ばたかせて残る魔力の残滓の全てを散らし、左手を今度はザグルスへと掲げて魂の産み出す魔力をもって我が前世の姿の一端を具現化する。
私を包みこむようにして竜の首と頭部の輪郭が形作られて、ザグルスへと向けて純粋な魔力を破壊のブレスへと変え、ザグルスへと放出。
開かれた竜の口から放たれた純白のブレスは、堰を破った洪水を思わせる勢いでザグルスへと迫り、ひと時世界の全てを白く塗り潰す。
「ぐおおお!?」
ザグルスは悲鳴とも驚愕の叫びとも聞こえる叫びを挙げながら、かろうじて私の放ったブレスを回避して直撃を免れた。
私のブレスはそのままこの部屋の天井を貫いてスラニアの地表や夜空に浮かぶ雲も貫き、無数の星が煌めく夜の空に一筋の光線を描いた。
ザグルスは隠しきれぬ焦燥の表情と共に私を睨み、新しい翼を背中から四枚生やすと飛行魔法も合わせて発動させて、天井の大穴を通過してスラニアの地表へと飛び出していく。
外の古代兵器達をもって私を迎え撃つつもりか? それだけで私を討てると考えるほど浅薄ではあるまいが……
私はザグルスを追う前に竜爪剣の切っ先をやや斜め右下へと向けると、切っ先に魔力を集中させて先ほど天井に大穴を穿ったのと同じブレスを放つ。
私の突然の行動にクリスティーナさんは目を白黒とさせ、言葉も無い様子だったがクリスティーナさんにはして貰わないと困る事がある。
「クリスティーナさん、この先にセリナやエドワルド教授、ミス・エリザ、レニーア達が居る。クリスティーナさんは彼女らの援護に向かってくれ」
「彼女達の位置を把握していたのか……。そうだな。悔しいが私ではザグルスに挑んだとしても足手まといにしかならないようだ。セリナ達を助けに行くのが私に出来る最良の事だろう。ところでヴァジェや瑠禹は?」
「二人は外に放り出されている。ザグルスを追っていけば彼女らと合流できるから、そちらは私に任せて欲しい」
「ああ、任せた。正直に言うと君の傍に居ると未だに調子が悪いままだが、ドランが信頼できる友人である事には変わりない。君の言葉に従うのが一番よさそうだ。
しかし、なんだな。君が何でもできる万能の存在のように思えてくるよ」
「それはないさ。私が本当に何でも出来て何でも思い通りにできる存在であるのなら、ザグルスを相手にこういう戦いをする事にはならなかっただろう」
口にはしなかったが、私が真に万能の存在であったならば、こうして人間に転生する事も無かったと、私は胸中で溜息と共に悔恨にも似た感情を吐きだしていた。
同時に万能の存在などではなくて良かったとも思う。それは今の人間としての生を幸福と捉えているからだろう。
「そうか。妙な話だが、それを聞いて少し安心した。……ドラン、武運を祈る。祈る必要もない気がするけれどね」
「ありがとう。クリスティーナさんもつまらない怪我などしないように気を付けて」
クリスティーナさんはエルスパーダを片手に、私が床に空けた大穴へと身を躍らせて全速力で駆けだして行く。
セリナには念話で道を開く事とクリスティーナさんが向かった事を伝えてあるから、両者の合流は滞りなく行われるだろう。
「さて、空の方を片付けるとするか」
私は翼を羽ばたかせてザグルスの後を追うべく天井の大穴へと飛び立つ。
見上げた私の視線の先で、ザグルスが感情の色を
「絶海に阻まれた刃の山で孤独に啼く鬼の――」
「闇の褥に横たわる王の嘆き 骨の寝台に侍る骸の群れ 時の流れに埋もれて忘却せよ 滅びた国を――」
「天魔の挙げる咆哮 打ち据える武神の一撃――」
「混沌の波紋 漆黒の紋章 灰燼と化す亡者 煉獄を統べる者に届けよ 我が呪いの声――」
ザグルス自身と今や百を超える触手達が輪唱の如くそれぞれが詠唱を行い、スラニアの空に禍々しいまでの魔力と力を秘めた言霊が朗々と響き渡る。
ザグルスと触手達の詠唱はまったく同時に完了し、上空から、あるいは私を中心に無数の魔法が襲いかかって来た。
「魂まで砕けよ、転生者!! 消えろ、消えろオオオーーーーーー!!!!」
進化の法によって増大した魔力を全て放ち尽くしたザグルスは、かろうじて空に浮かぶ事こそ出来ているが、明らかに消耗しそして余裕を失っている。
つい先ほどまでの自身が完全に優位に立っていたと思い込んでいた傲慢さは、見る影もない。少なからず痛快ではあった。
「ふむ、ようやく必死になったか。遅すぎるぞ、超人種。次はどうする。お前にそれ以上の攻撃を加える手段があるようにも見えん。終わりだよ、ザグルス」
何もせずにただ受けているだけでは攻撃魔法が長々と続きそうであったので、私は両方の翼を振るい、私に襲い掛かる攻撃魔法の全てを合わせたよりもはるかに上回る魔力の風を起こして吹き晴らす。
「馬鹿……な……!? 我が契約神セキオーマより授かった最強の攻撃魔法なのだぞ。
それだけでなく古代魔法に禁呪まで加えた連撃を受けて無傷など、貴様、よもや竜王、まさか竜帝の転生者!?」
「生憎と竜王でも竜帝でもない。私が傷を負わなかったのはお前と私の単純にして絶対の実力差による。お前では私の足元にも及ばぬという事だ」
「……バストレル様にお伝えせねば、こ奴は、こ奴だけは敵にしてはならないと!!」
いよいよもって絶望に表情を染めたザグルスが、それでもまだ師であるバストレルの為に行動しようとするが、それすらも私は否定した。
「無駄だ。既にこの空域は私が閉鎖した。たとえ魂で繋がっていようとも念話を伝えることもできん。お前がバストレルやらに助けを求めても、あるいは警告をしようともそれが届く事は無い」
眼を剥くザグルスへ私は竜爪剣の切っ先を向けて再び我が前世の肉体の再現を行い、スラニアの空に白い鱗と翼を持つ白竜の光り輝く姿が現れて、夜の闇をスラニアの空から遠ざける。
「あまり悲観するな。お前達の組織の行いを考えれば、いずれは私とお前の師であるバストレルがまみえることもあろう。
そうなればすぐにバストレルはお前と同じ所へと堕ちてくるだろう。師弟仲良く地獄の責め苦を受けて己が犯した罪の重きを知れ」
ザグルスは何か言おうとしたが、もうこれ以上私にザグルスと問答をするつもりは無かった。
私は構わずザグルスへと、あまりの威力に周囲の霊脈や魔力流、時間や空間に悪影響が及ばぬよう調整してから、魔力で形作られた白竜の口から天井を撃ち抜いた時を上回るブレスを放つ。
ザグルスは咄嗟に翼や触手も合わせて百層近い防御障壁を重ねて展開するが、核爆発の十や二十なら容易く防ぐ障壁も、私のブレスを相手にすればあって無きに等しい。
「おおおおおおおおーーーーーーーーーーーーー……………………!!!」
今度は白では無く虹色のブレスの奔流に呑まれたザグルスは、長く尾を引く叫びを挙げながら進化の法によって異形と化したその肉体を、一切の痕跡を残さずにこの世から消滅させた。
夜空のはるか彼方、星々の海の果てまで伸びていくブレスの放出を止め、私は痕跡一つないザグルスの最期に、いつもの口癖を一つ。
「ふむ」
と呟いた。
*
ザグルスを討った私達はすぐさま合流して、本来の姿のままのヴァジェと瑠禹に乗ってスラニアを脱出していた。
ヴァジェにはエドワルド教授、ミス・エリザ、私、瑠禹にはクリスティーナさん、レニーア、セリナがそれぞれ掌の上や背中に乗っている。
見る間に小さくなってゆくスラニアをエドワルド教授は名残惜しげに見ており、私はこうなった原因の一端が自分にもある事から、非常に申し訳ない気持ちになった。
それから瑠禹の方に乗っているクリスティーナさんやセリナ、エドワルド教授達と話をしつつ、私達はワーグレール近郊へと降り立った。
夜中の内にワーグレール近郊に降り立ったため、このまま一夜を明かしてからワーグレールへ入り、朝一番で事の顛末を駐留している軍司令部と魔法学院へ伝える事となり、私達は野営の準備をする事となった。
ミス・エリザが今度は遅めの夕食の用意をし、それをセリナや瑠禹、クリスティーナさんが手伝っている間、私はレニーアからの呼び出しを受けて、野営地点からやや離れた森の中へと赴いた。
「貴方に、いえ貴方様にお伺いしたい事があるのです」
いやに馬鹿丁寧なレニーアの言葉遣いに、私はふむん? と疑問符を頭の上に浮かべながら、続きを促した。さてはてふむふむ、レニーアは私に何を言おうとしているのやら。
「貴方様は始原の七竜が一柱、始祖竜の心臓より産まれし御方。古神竜、一にして全なるドラゴン様なのではありませんか?」
「ふむ、自分の名前ながら懐かしい名前が出てきたな」
ドラゴン、それが私の前世における名前である。
古き竜や知恵ある竜種が決して自分達をドラゴンと呼称しないのは、自分達の血の源流にして史上最強を謳われた古神竜たる私の名前がドラゴンだからである。
ではなぜ他の種族が竜種をドラゴンと呼称する事があるかと言えば、私以外の始原の七竜や真竜達が竜界に移り住んだ後も地上に残り続けた私の事が地上の者達に広く知れ渡り、やがて竜と言えば私という個体を指すようになり、更に月日が流れるとドラゴンという名前が竜という種族を指すという誤解が広がり定着したのである。
「では、ではやはり貴方様はドラゴン様の生まれ変わりなのですね」
「そうだが、レニーアよ、私はこれまで私に付き纏う君を訝しむ事こそすれその真意を問う事をしなかった。だが、そろそろ君の行いの所以を知りたく思う。
元来、神造魔獣たる君と古神竜たる私とでは相容れぬ敵である筈。レニーア、私と君との間にいかなる因果があると言うのだ?」
「わ、わた、わたしと、貴方様、ドラゴン様は……」
「レニーア、ゆっくりで良いから落ち着いて話しなさい。まだ時間はある」
レニーアは何度もしゃくりあげながら手の甲で零れ落ちる涙を拭い、春の訪れの予感に綻ぶ蕾の如く柔らかに笑む。
「私は、かつてドラゴン様を討つ為にドラゴン様のわずかな血と霊魂の情報と、大女神の血肉と魂の欠片を掛け合わせて産み出された偽竜たる神造魔獣なのです。
私にとってドラゴン様を討つ事こそ存在意義でした。しかしながら私は他の大神や神竜に匹敵こそすれ、ドラゴン様を討つほどの力を得るには至りませんでした。
故に私は生まれ持った力と神格のほとんど全てを封じられ、地上世界へと落とされました」
「ふむん、苦労しているな」
「はい、ドラゴン様にそう言って頂けると救われる思いです」
「しかしだ、それだけでは君がなぜそうまで私に対し、好意的であるかがまったく分からん。そのような産まれであるのならば、私に対し敵意を抱く事こそが自然では無いかな」
「確かに、言われる通りに地上に落とされたばかりの頃は私もそのような想いを抱いた事もありました。ですがある時、地上に顕現したアグ=ラゴナの一派と戦うドラゴン様のお姿を遠方より拝謁する幸運に恵まれました」
「後味の悪い戦いだったな、アレは」
「はっ、ですが私にとってあの時の戦いはドラゴン様が如何に偉大でそして絶対的な強者であるかを知る事が出来た戦いでした。
もちろん地上世界での事ですから、ドラゴン様とて本気では無かった事でしょう。それでも私にはわかりました。ドラゴン様の御力の一端を持つが故でしょうか、貴方様の本来の力が私に到底及ばぬものである事が分かったのです。
そして理解しました。私が曲がりなりにも大神級の力を得られた事は、まさしくドラゴン様の血を引くからであったと!」
「ふむ、まあ、そういうわけで君は私に好意を寄せているわけ……」
「そして私は悟りました。この偉大なる力を授けて下さったドラゴン様こそ私の、私の……お、お、お父様であると!」
「なるほど確かにレニーアが誕生した理由の要因を私が担い、またその霊魂と肉体に私のものが用いられていると言うのならば、君が私を父と呼ぶ事もまあ、ふむ、その、理解できなくは無い」
「はあ、ところでレニーア、君を産み出した大女神というのは一体どこの誰だね? 君ほど強力な神造魔獣を産み出し、なおかつ力を封印する事の出来る大女神など限られてはいるが」
「はい、お父様。私をお造りになられたのは原初の混沌より生じた最古の女神の一柱、破壊と忘却を司りし御方、カラヴィス様でございます」
やはりか。レニーアが完全に私の事をお父様呼ばわりしている事も合わせて私は深い溜息を一つ吐いてから、声を大にして叫んだ。
「カラヴィス!!」
答えはすぐにあった。私とレニーアと正三角形を描く位置に褐色の肌と闇と等しい色の長い髪、そして黄金に輝く三つの瞳を持つ女が何の前触れも無く出現する。
その場に居るだけで正気を失ってしまいそうなほどに妖艶な美女である事は変わらないが、これが今回のカラヴィスの姿であった。
「はいはいはいはいはいは~い! ドラちゃんに呼ばれて飛び出てカラヴィスだよ、ドラちゃん」
「ふむ」
私の呼び声一つで姿を見せた創造主であるカラヴィスが出現した事に、涙を流してさえいたレニーアはぽかんと大きく口を開いて、突然の事態に理解が追いついていない様子だ。
また明るい声と共に姿を見せたカラヴィスだが、私の視線に込められた冷たさを敏感に感じ取っていて、その仮初の美貌に留まらず全身にだらだらと冷や汗を流している。
「さて、カラヴィスよ。事情を聞かせて貰おうか?」
「あばばっばばばあ、はははは、はい、ドラちゃん様!」
レニーアへの態度や言動次第では本気で……と私が思っている事を察したカラヴィスは、噛み合わぬ歯を打ち鳴らして心底から恐怖し慄いているようだった。
こ奴め、一体どうしてくれようか?
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第五十二話
破壊と忘却を司る邪神たるカラヴィスは、原初の混沌より生じた古き神々の中でも屈指の神格と霊験を持つ強大にして凶大なる大女神である。
忘却を司るが故に他の邪神はおろか自分自身の企てや意思さえ忘却し、無軌道無計画の振る舞いを存在の発生と同時に繰り返してきた為、善なる神々は愚か悪しき神々からさえ忌み嫌われている。
あらゆる神々に忌避されるその性質と対抗できる神が数えるほどしか存在しない力を併せ持つカラヴィスであるが、今現在の彼女の心境を端的に表すならばこうなる。
ヤ バ イ
これを延々と繰り返し続ければ、カラヴィスの正確な心境を知る事が出来るだろう。
カラヴィスは自身が途方もない危機的状況に陥っている事を理解するのとほぼ同時に、自分とドラン以外にこの場に居る少女に注目した。
カラヴィスは、ぽかんとこちらを見る少女を観察している内に、んん? と胸中で小首を捻る。
初めて目にする人間の少女の魂が人間では無く偽竜型の神造魔獣である事に気付き、次いでその魂に厳重に封印が成されている事、そしてその封印がどうも自分が施したモノっぽい、と気付いたのだ。
「うん、あれかな、ドラちゃん」
カラヴィスは表面上こそにこやかな笑みを浮かべたままだが、内心では言葉を発する事も瞬きをする事さえも恐ろしく感じていた。
「その可愛い女の子の事でぼくを呼んだりしちゃったりしたのかな? かな? かな?」
かな? の数の多さがカラヴィスの不安と恐怖に揺れ動く心情をよく表している。
「そうだ。この娘は人間としての名前をレニーアと言う。かつてお前が私の血と霊魂の情報とお前の魂の欠片などを掛け合わせて産み出した神造魔獣なのだそうだ。
人間として転生し、たまたま私と出会ってたった今お互いの素性を伝えあったところなのだが、レニーアはかつてお前が私を討つ為に産み出したそうだ。
別にお前が私の事を討とうとした事に今更文句を言うつもりは無い。お前と私が互いに滅ぼし合った事は一度や二度ではないし、その事を言及するのはまさしく今更であるからな」
「まあ、ぼくはドラちゃんに衆寡敵せずってヤツだったしねえ」
にこやかな笑みを浮かべ続けるカラヴィスはようやくレニーアなる神造魔獣の事を、忘れてはいけない記憶の棚から引っ張り出す事に成功していた。
「ああ、そうだ、思い出した思い出した思い出した思い出したよ!
そうだよ、ドラちゃんとぼくの霊魂の欠片とか混ぜ合わせて作って、ぼく並みにはなったんだけどねえ~。
結局ドラちゃんとかバハやんとかリヴァっちには及ばなくってね。こりゃ戦わせても返り討ちにあうだけだわって落胆したんだよね」
この時、ドランのこめかみがぴくりと動いたのをカラヴィスは見逃していた。
これはカラヴィスを創造主として崇敬するレニーアの前で、落胆した、とカラヴィスが口にした事でレニーアが申し訳なさそうに顔を俯かせた事に対するカラヴィスの無神経さが癇に障ったのである
このような反応が出てくる時点で、ドランがレニーアを娘として認めているかどうかはともかく、少なくとも嫌っていない事は間違いない。
「この子はどうするべえか、と頭を悩ましたぼくはだね、ここでようやく気付いたのさ。アレ、これってドラちゃんにばれたらものすごく怒られるんじゃね? とね!」
「ふむ、何故そこで誇らしげな顔をするのかは分からぬが、それでどうしてレニーアの神格と力を封じ、地上世界に放逐したのだ?
お前並みの力を持っていたと言うのなら、例えば私以外の神々との戦いでは強大な戦力となるのは間違いないだろう」
「ええっとねえ、まあ馬鹿正直にドラちゃんにこの……レニーアちゃんだっけ?
レニーアちゃんをドラちゃんやら他の始原の七竜やらマイラールやらにぶつけても、情報が巡り巡ってドラちゃんに知られてどえらい目に遭わされるのは明白ってもんでしょ?
いやあ、ドラちゃんの事を真剣に倒そうと思っていたのに、本気で怒らせたくないとも思ってたから、使いどころに困っちゃってさ。
いざという時の切り札にするのもありだったろうけど、ぼく、そーいうのよく忘れてきた実績があるし。
神同士の戦いに出すわけにもいかないしかといって大事に取っておいて忘れるのもアレだし、それにドラちゃんてお人好しさんだから自分の血肉を分けたレニーアちゃんの事を知ったら、ちょろいってくらいに簡単に情を抱きそうだったしね。
それでドラちゃんがレニーアちゃん経由でぼくに懐柔されるってんなら儲けものだけど、逆にレニーアちゃんがドラちゃんに懐いちゃう可能性も馬鹿に出来なかったわけよん。
なにしろぼくとドラちゃんの血を引いているわけだからね。まあ、そんなわけで当時のぼくはレニーアちゃんをぼくん所に置いておくのは得策じゃないって判断したっぽいね。
そんでまあドラちゃんがその時住んでた地上とは別の次元軸にある世界に、レニーアちゃんの能力のほとんどを封印して落っことしたってわけ……たぶんね」
我がことながら確たる断定が出来ないのがカラヴィスの面倒なところだと、自他共に誰もが認めるところだ。
ドランもどうやらはっきりとは詳細を憶えていないらしいカラヴィスに、盛大に溜息を吐いて呆れた声を出す。
「そしてその後はレニーアの事は忘れたというところか」
ドランが気遣わしげにレニーアを見るが、レニーアは傍目には動じた様子は無い。自分の創造主の性質の事はよく理解しているという事だろうか。
あるいは先程までのカラヴィスの発言の数々で、この女神にはあまり期待しない方が良いと思い知らされたからかもしれない。
「ふむ、時にカラヴィスよ。レニーアの前世の名前は何と言う?」
「え、ええ…………ええっとねえ~~」
ドランの問いにカラヴィスの動揺は更に激しさを増して、どっとその美貌から赤やら白やら黒やら紫やらと、実に色彩豊かな冷や汗を流し始め、その様子を見たドランの瞳がすっと細まると、カラヴィスの咽喉からひっとか細い悲鳴が上がる。
ヤバイという心境が今なら超ヤバイくらいにはなっているだろう。
「お父様、私に名前はありません。人間として与えられたレニーアが初めての名前です」
この時、レニーアにはなんの悪気も無ければカラヴィスに対して含むところも無かった。ただ敬慕するドランに対し、正直に答えただけである。
しかしこの答えがドランにどう受け止められるかをよく理解しているカラヴィスは、文字通り泡を食ってレニーアの口を塞ぎに動くが、その前に感情を排した表情を浮かべたドランが立ちはだかる。
「ちょちょちょ、レニーアちゃん、たんま、タンマ~~~~!?」
「ほお? 名前すら与えなかったと……」
「ひっ。いやここここここれにはぼぼぼぼくのおっぱいの谷間よりも深い事情がありましてですね!」
「事情などありはすまい」
レニーアに名前を付ける価値を見出さなかったのだろう、とドランは口にする事をしなかった。好きこのんでレニーアを傷つける言葉を口にする趣味は、ドランには無かった。
「あっさり否定された!?」
「お待ちください、お父様。カラヴィス様をお責めになるのはどうかそこまでに。カラヴィス様は私の創造主たる御方。その御方がこのように苦しまれる姿を見たくはありません」
そこに待ったをかけたのは、大いに減じてはいたが創造主であるカラヴィスへの崇敬の念を持つレニーアであった。
咄嗟にカラヴィスとドランの間に華奢な体を割りこませ、両手を広げてカラヴィスを背に庇い、懇願の表情を浮かべてドランと対峙する。
「ふむ」
「れ、レニーアちゃん!!」
レニーアのカラヴィスが産み出したにしては献身的かつ自己犠牲の精神を発するレニーアに、ドランは少なからず驚いていた。
これまでにもカラヴィスが産み出した神造魔獣と戦った経験はあるが、知性はあるにせよかくの如き情動を示した存在は初めての事だった。
「ああもうレニーアちゃん、君はなんて親孝行の娘なんだ!! これからはぼくの事はお母様と呼びなさい。ドラちゃんがお父様ならぼくがお母様なのが当たり前、自然な事だよ!」
「は、はい……?」
カラヴィスはドランが元々好意を寄せてくる相手には甘くなりがちであった事、そして人間に生まれ変わった事で始原の七竜達とは異なる肉親を得て、家族と認めた相手に対して強い愛着を抱く事を既に知っていた。
この時のカラヴィスには、わずかながら本気でレニーアの事を娘と思う気持ちもあったが、そこはやはり邪神であるからレニーアという娘の存在によってドランとの関係を深める、ないしは再び敵対した時に利用できるという邪な考えが黒々と存在していた。
「ねえ、ドラちゃ……」
もしここでドランが本気でカラヴィスに子作りを迫れば、実のところ男を知らぬ生娘であるカラヴィスは、先程までの恐怖とは違った理由で慌てふためいた事だろう。
しかしそうはならず、レニーアによって救われた気分になっていたカラヴィスを地獄の底へと叩き落とす事態が待ち構えていた。
この時、カラヴィスが見誤った事が二つある。確かにドランは、人間に生まれ変わった事で血の繋がった家族というものへ愛着を強く抱いている。
だがその愛着の強さと深さゆえに、家族を害そうとする者や利用しようとする者への怒りは、カラヴィスの知る過去最大のものを上回る凄まじさである事が見誤ったことの一つ。
そして二つ目はドランが意識してはいないが、自分を父と敬い慕ってくるレニーアに対し、まだ娘と認めるのに抵抗はあるもののそれなりに気を許していた事である。
この時、レニーアを抱きかかえながらドランを見るカラヴィスに、ドランの虹色に輝く瞳が言葉よりも雄弁に告げていた。
それは覆す事の出来ない絶対の真理にも等しい宣告であった。
――カラヴィス、お前の考えは分かっている。考えるだけならばまだ許そう。しかし、もしその考えを実行しようと言うのなら
許 さ ん か ら な ?
「…………っ!!」
ドランの虹色の瞳に貫かれたカラヴィスの心情を正確に記す事は極めて難しい。
いくつか言える事は、カラヴィスが先程抱いた考えを即座に捨て去った事と、かつて経験した事の無い恐怖を味わったという事だった。
カラヴィスは震える事さえ出来ない体をレニーアから離して、訝しむレニーアを他所にドランへと向けて完全に感情の抜け切った顔を向ける。
今もカラヴィスを見つめるドランの瞳は虹色に煌めいている。
「ドラちゃん、レニーアちゃん、今日は色々と騒がしくしてごめんよ。特にレニーアちゃん、今までは君の事を蔑ろにしてきたけれど、これからはなるべく大切にするよ」
「い、いえ、私には勿体ないお言葉でございます、カラヴィス様」
「お母様で良いってば、じゃね、ドラちゃん、レニーアちゃん」
すっかり大人しくなったカラヴィスは、現れた時と同様に前触れも無くドランとレニーアの前から姿を消して地上世界から大魔界へと帰還する。
出現した時同様に次元を越えて移動する気配を感じられなかったレニーアは、流石は我が創造主と少しばかりカラヴィスへの崇敬の念を復活させたようだった。
ドランは暗澹たる思いを抱きながら、レニーアを連れて野営をしているセリナやエドワルド教授達のもとへと戻るのだった。
そしてドランとレニーアが夜の森を後にした頃、二人の前から姿を消したカラヴィスもまた大魔界の暗黒の空へと帰還し、大魔界に点在する居城の一つへと足を踏み入れると、この大女神には珍しい達観したような顔で空を見つめ、狂ったように笑い始める。
「ふ、ふふ、ふふふうふふっふふふふふふふふうふふふふうっふ、あはあはあはあははははははははは!! …………盛大に、お漏らししちゃったぜ」
どこか切なく呟いたカラヴィスの股ぐらを見ればなるほど、傍目にも明らかに濡れていると誰もが認める事だろう。
どうやらコレがそそくさとドランとレニーアの前から姿を消した理由らしかった。
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第五十三話
スラニアから帰還した私達は軍司令部や轟国の大使、ガロア総督府やらと次から次へと報告に赴く事となった。
希少な天人の文明の名残を調査する事の出来るスラニアが突如として失われた上に、加えて各国が最も危険視している集団の一つ、オーバージーンが関わっているとなれば何度も問いを重ねられても仕方が無い。
そして私にとって最も気掛かりな相手となったのは、オリヴィエ学院長である。
瑠禹とヴァジェを除くスラニアに赴いた面々で魔法学院の学院長室に呼び出された私達は、常の如く感情を表に出さぬ学院長を相手に、既に何度も繰り返した事の次第を説明する事と相成った。
これまではエドワルド教授の記録していたザグルスの発言などから私達に掛る嫌疑を薄める事は出来ていたが、相手が学院長となると別の意味で面倒だと私は思う。
重厚な造りの学院長の机の前で居並ぶ私達を前に、エドワルド教授や私達から事の仔細を聞き終えた学院長は、しばし瞑目して思考を整理してから手元の書類に目を通した。
私達から報告を受けたワーグレールの軍部や、轟国側から挙げられた資料を学院長の伝手で入手したものだろう。
「まずはスラニアでの数々の危難をよくぞ皆さん無事に乗り越えられました。誰ひとり掛ける事無く帰ってきた事を喜ばしく思います。
エドワルド教授、スラニアが失われた事は貴方にとって、そして多くの学徒たちにとっても不運な事ではありますが気を落とさないように……」
「いえ気を落としている暇などありはしません。
天人の遺産はスラニアだけではありませんし、かのオーバージーンが関わっているのならば、悪用されないようにより一層迅速かつ正確に調査を重ねる必要がありますからね。
スラニアがそうであったように既に調査が終わったとされている遺跡も、再度調査する必要がある事が分かりました。
今回の事で轟国も国内外の天人の遺産の再調査と確保に、より一層熱を入れる事は間違いありません。後れを取るわけにはいかなくなりました」
「あなたらしい事です。それにしてもかの大罪人である大魔導バストレルの高弟と一戦交えるとは、この世のほとんどすべての人間が巡り合う事の無い不運と巡り合ったものです。
しかしながら、その不運を乗り越えてきた強運と実力を貴方達が兼ね備えていた事は真に僥倖でした。
特にドラン、あなたの存在なしには私の目の前にこうして貴方達が並ぶ事は無かったでしょう。
そしてこう言っては何ですが、今回の件でエンテの森での一件以来、この胸につかえていたものが取れました。竜種の転生者殿」
珍しくほんのわずかではあるが笑みを含んで言う学院長に、私はやはり指摘されるか、と内心で思わず零していた。
エンテの森でゲオルグを倒した直後に遭遇し、私が尋常な人間ではないと見抜いていた学院長にとっては、数ヶ月越しにようやく解答を与えられた形になるか。
「そのような物言いはお止めください。こそばゆく感じられます。
確かに私は前世において竜であり、竜の魂を持ちながら人間に生まれ変わり、竜としての自我も記憶も継承していますが、それでも私は今の自分を人間として定義しています。
私はベルン村のドランであり、ガロア魔法学院の生徒であるドランなのです。とはいえただの人間として見て欲しい、というのが無理な注文である事は私も自覚しております」
「なるほど、物分かりの良い事と言うべきでしょうか。
竜としての力を保持していると言うあなたが、そのように謙虚な態度を取ってくれている事を私達アークレスト王国の民は感謝すべきですね。
万物の霊長たる竜種を敵とする事は最も愚かな事の一つ、というのは冒険者などの間では常套句なのですから。
あなたが竜種の転生者である事に関しては、私の権限と人脈とで可能な限り隠匿はしておきますが、伝えておいた方が良い相手も居ますね。皆さんもこの件は口外しない事を心に誓ってください。良いですね?」
そう最後に念を押す学院長の言葉と無表情の仮面には言い知れぬ迫力と威圧感があり、私とレニーアを除く面々は大なり小なりの差こそあれ息を飲み、無言のままに頷いている。
セリナなど尻尾の先端が少しばかり丸まっていて、こくこくと小さく何度も首を縦に動かしている。
そこまで気圧されなくても、とは思うがこの蛇娘は気の弱い所があるから仕方の無い事かもしれない。
「学院長、あまりセリナを怖がらせないでください。この子はいささか気が弱いのですから」
「これは失礼。この老木にしても今回のような事態は初めての事ですので、らしからぬ緊張に見舞われております故いささかならず声と態度が硬くなりました」
自らを老木と称する、エルフらしい言い回しをした学院長は、言うほどに緊張しているようには見えない。
「学院長ほどの方でもそうなりますか。これは存外に人並みでいらっしゃる。親近感が湧きますな」
「隠し事が無くなったせいか物言いに遠慮が無くなりましたね、ドラン。
私にも竜種の友は少ないなりにおりますが、なるほど、その泰然自若とした態度などは彼女らと通ずるものがあります。この世の生物の頂点に立つ種ならではでしょうか」
「誰も彼も竜種をいささか過剰に評価し過ぎに思えますが、それにしても自分がそのように取られる態度を取っていたとはいささか意外です。これからは改めなければなりませんな」
「あなたには相応しい態度のように思えますけれどね。とはいえあなたがこの魔法学院の生徒である事を望んでくれると言うのなら、当学院の長としては喜ばしい限りです。
あなたのお陰でクリスティーナもどうやら活力に満ちている様子ですし、今秋の魔法学院対抗試合は大いに期待しても良さそうですしね。
今後の学院生活があなたとあなたの学友達、そしてこの魔法学院にとって実り多きものとなる事を祈りましょう」
そういって学院長はこの話は終わりだ、と暗に告げて私達に退出するよう告げるのだった。そうして私達の退出した後で今回の事態に関わる大仕事に取り掛かるのだろう。
言われるがままに学院長室を退出した私達は、それぞれ男子寮、女子寮、教員室へと戻る為、一旦本校舎の大ホールにて別れる事となった。
大ホールまで来たところで、あっはっはっは、とエドワルド教授が気持ちの良い明るい声で笑い出して、何事かと周囲の生徒達の耳目を引く。
「いやあ、学院長があそこまで感情を滲ませるところを初めて見たよ。ドラン君と一緒に行動してから初めての体験が驚くほど続くねえ。実に愉快だ」
「教授、お声が少々」
おや、失礼、とエドワルド教授はミス・エリザの間を置かぬ指摘に声を潜める。私達はただでさえ人目を引く集団である。
まずガロア四強と呼称される最高の戦闘能力を備えた生徒であるクリスティーナさんとレニーア。
そしてクリスティーナさん達と同じ四強であるネルと互角に戦い、特例の編入生として入学した私とその使い魔であるラミアのセリナ。
これは目立つ。そりゃあ目立つというものである。周囲にも聞こえるような声で話していれば、なおさらだ。
「そうするつもりで行動しているわけではありませんが、楽しんで頂けたのならなによりという事にしておきましょう」
私が肩を竦めると、傍らのセリナが気遣わしげな表情でエドワルド教授にこれからの自分達の行く末について問いかけた。
天人の遺産の事にしか興味が無いように見えてその実、エドワルド教授が各国の情勢や政治、外交に明るい事は既に承知の上である。
「でもこれから一体どうなるのでしょう。外国の方々にも色々とお伝えしないといけないのですよね?
ひょっとしてひょっとしたら、ドランさんや私は魔法学院を追いだされたりもするのでしょうか……」
落ち込むセリナに私とクリスティーナさんが励ましの言葉を掛け、少し思案の間を置いてからエドワルド教授が答えた。
「少し深く考えすぎだよ、セリナ。エドワルド教授がザグルスの発言を記録しておいてくれたし、いざとなれば降霊術で冥界に行った轟国の方々を呼びだし、証言して貰えば良い」
「ドランが言うほどに降霊術は簡単ではないが、ドランなら出来てしまいそうだから恐ろしい。とりあえずセリナはドランの言う通り考え過ぎだ。
私達に落ち度は無いし轟国にとってオーバージーンとの諍いは日常茶飯事だそうだから、またあいつらかとすぐに納得してくれるさ」
実のところは私もクリスティーナさんも、周辺諸国に対する領土拡大の野望を抱いていると評判の轟国が外交の交渉材料として利用できるだろうスラニアでの出来事を、そうやすやすと見過ごすとは思っていない。
「そうだねえ、セリナ君が心配するのも分からないでは無い。
けれどもスラニアの学術的価値が喪失されていた事もあるし、うちの国の人達も一度轟国相手に交渉で引き下がったら骨の髄までしゃぶってこようとするのは経験上分かっているから、引き下がりはしないさ。
それに我がガロアの学院長殿は年の功やらなんやらでかなりのやり手だからね。自分の生徒を見捨てるような事はなさらないよ」
三人がかりで説得されれば流石にセリナも安心したようで、豊かな胸を撫で下ろして大きく安堵する。
そんなセリナに私が予期していなかったレニーアからも声が掛けられた。
「気の弱い蛇め。お父さ……ドランさんの使い魔だと言うのなら、有象無象共からの追及なぞに動じるような軟弱な態度を取るな。
そのような惰弱さでこの方の使い魔を名乗るなどおこがましい事だ。実に情けない。ドランさんに相応しい使い魔たらんと常日頃から心掛けねばならんのだ」
ふん、と鼻息を一つ大きく吐き捨てたレニーアは、冷厳と言う他ない視線でセリナを見る。
このようなレニーアの私に対する態度の急激な変化はスラニアを脱出した夜からで、ワーグレール近郊で野営した時から、セリナやクリスティーナさん達は私がレニーアに何をしたのかと上から下への大騒ぎになった。
「は、はあ。ドランさんの使い魔として相応しい毅然とした態度を取れるように努力します」
「私に言われるまでも無くそうするべき事だ。貴様はおと……ドランさんの使い魔でいられる事が、一体どれだけの幸運と奇跡とに恵まれたものであるかを理解しなければならん」
「は、はい」
これだけではレニーアの気は収まらずに、恐縮するセリナに対して次から次へと説教の言葉を吐き出し続ける。
レニーアがこれだけ饒舌なのは、あの森で互いの正体を打ち明け合った時を除けば初めてだな、と私が呑気に考えて傍観していると、クリスティーナさんが視線でセリナに助け船を出さなくて良いのかと訴えかけてくる。
ふむ、徐々にこちらを見る者達も増えてきているし、あわわと慌てふためいているセリナを助けるべきだな。
「レニーア、私に免じてそこまでにしておいてくれないか。セリナは私には勿体ない使い魔だと常々思っているし、実際とても良くやってくれている。私からすればセリナは立派な使い魔だよ」
「はい。お……こほん、ドランさんがそのように言われるのであれば、まだまだ言い足りないところではありますが、これまでにしておきましょう。ドランさんに救われたな、ラミア」
「助かりました……」
まだ百も千も言葉を重ね足りない様子のレニーアから解放されて、セリナは陽射しに溶ける雪だるまみたいにとろっと全身から力を抜き、その場にとぐろを巻いて腰を落とした。
少しくらいは言い返しても良いと思うのだが、セリナにそれを求めるのはいささか酷というものかね?
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第五十四話
「ドランさん!」
私が、セリナ、クリスティーナさん、ネル、ファティマ、シエラという顔ぶれで浴場に併設したテラスでお茶をしていると、そこにレニーアが朗らかな笑みと共にやってきた。
レニーアは、相変わらず私以外には眼中もくれず、興味も無いようだった。
いや、クリスティーナさんにだけはどうしても嫌悪の情を向ける傾向にあるから、まったく興味が無いわけではないか。
クリスティーナさんへとレニーアが向ける嫌悪の感情は、前世の自分と父と慕う私の仇が超人種だった事が理由なのだが、こればかりは言葉で注意しても早々簡単には治らない。
レニーアと私が人間に生まれ変わった原因であり、レニーアにとって人間として生きている以上は前世の仇の事を意識せずには居られないのだろう。
ただ本日は珍しい事にレニーアは一人の少女を伴っている。
人間を見下しきっているレニーアが魔法学院で友人の類を作っているとは思い難かったし、レニーアの口から友人の存在を聞かされた事は無かったからひどく意外であった。
少女は浴場のテラスでテーブルを囲む私達の姿を見て、魔法学院の有名どころが揃っている事におっかなびっくりという様子。
薄い緑色の髪を腰まで伸ばし、首の後ろで橙色のリボンで括った少女は、レニーアと同じくらいの背丈だが体の凹凸ばかりは対照的で気の弱そうな顔をしており、レニーアとは背丈を除けば見事に正反対という印象を受ける。
色々と正反対だからレニーアと馬があったのだろうか?
にこにこと笑むレニーアは伴っている少女の事を忘れたような素振りで空いている椅子を持ってきて、私の隣に腰を落ち着かせる。
レニーアに取り残された形になった少女は、おろおろと私達を見回していたが気を利かせたクリスティーナさんが空いていた椅子を見つけて、少女に着席を勧める。
魔法学院で一、二を競う有名人であり、お近づきになると嫉妬の矢の雨に晒される危険を伴うクリスティーナさんを前に、少女はひゃい、と奇妙な声を出すとその場で硬直する。
「おい、イリナ、そんな女の顔を見たくらいで情けない顔をするな。しゃきっとしろ。しゃきっとしろ」
「すすすす、すみません。私、イリナ・エベナ・クラナンです。れ、レニーアちゃんのくくくクラスメイトです。
それとレニーアちゃんがとんでもなく失礼な事を言って、き気にしないでください。この子、誰が相手でもこんな調子だから、私が代わりに謝りますから」
しきりに頭を下げるイリナに、クリスティーナさんはかえって困ったように笑い、落ちつかないイリナを宥める。
「君に謝って貰わなくても私は気にしてはいないよ。
レニーアとはスラニアに行った時からの付き合いだが、どうにも私は彼女に嫌われているようでね。邪険にされる事には慣れている」
「れ、レニーアちゃん、クリスティーナ先輩にそんな失礼な事をしていたの!?」
私に満面の笑みを向けていたレニーアが、笑顔をそのままにイリナへと向け直す。この少女も食欲に忠実な口らしく、口の中に残っていたお茶菓子をもりもりと放り込んでいた。
「ふん? ひょんな、んぐ、そんな女は敬うに値せん。天上天下、三界において私が心の底から敬意を抱くのはお二方のみ」
レニーアの言う三界とは善き神々の住まう天界、私達の住まう地上界、悪しき神々の住まう魔界の事だ。
冥界や精霊界、元素界などもあるがレニーアに関わりがあるとするなら、この三界くらいだろう。
「れ、レニーアちゃんが尊敬する人が、居るの?」
クリスティーナさんへの礼儀を失した態度以上に、レニーアが敬意を抱くが存在する事にイリナは心底驚いた顔になる。
私達よりもレニーアとの付き合いが長いだろうこの少女にとって、レニーアが他者に関心を向ける事はよほどの事と思えたのだろう。
「無論! こちらにおわすドランさんだ!!」
ああ、うん。そういう反応をするよな、私の事を知ったレニーアなら。
ガロア四強とは違った意味で有名な私に対し、イリナは私の顔に穴を空けるつもりなのではないかと疑うくらいに視線を寄せてくる。
「ふむ」
「えっと、レニーアちゃんがお世話になっています?」
別に君はレニーアの保護者では無かろうに、と私は内心で思わず呟いた。
おそらく人間関係の構築など欠片も考えず、軋轢を山のように築いてきたレニーアの緩衝材となり、常日頃色々な面で世話をしてきたのだろう。
私はこれまでのイリナの苦労を思うと、涙がこみ上げてきそうだった。
「いえ、うちのむす……レニーアの方こそ君に苦労を掛けてきただろう。何しろこんな性格だからね」
「え!? おと、ドランさん、私はそのような手間のかかる子供では……」
慌てて立ちあがるレニーアをはいはい、と軽くあしらっているとイリナは私達の不意を突いて泣きじゃくり始めてしまう。
「う、ふうぇえええ、そ、そんな風に言ってくれたのは、どら、どら、ドランさんが初めてですよ~~。
レニーアちゃん、全然私の言う事を聞いてくれなくって、いろんな人達に喧嘩売るし、揉め事起こすし、全然反省してくれなくって~~」
だろうな、と当のレニーアとイリナを除くこの場に居た全員が思った事だろう。
影のように控えているシエラでさえ、この短い付き合いでレニーアの性格を理解して同じ気持ちになっていたに違いない。
えぐえぐと泣くイリナに対して、レニーアは父と慕う私を前にこれまでの失態を暴かれたとでも思っているのか、あたふたと私とイリナの顔を交互に見ている。
「ほらほら、イリナちゃん、泣いちゃだめだよぉ。レニーアちゃんも、もうイリナちゃんを困らせるような事はしないよねえ~」
席から立ち上がったファティマがハンカチを取り出して、イリナの目元を濡らす涙を拭いながら、レニーアに水を向ける。
「な、なぜ私が……!」
「たぶんだけど同じ事を繰り返したら~、ドランに呆れられちゃうよぉ」
「しない!」
即答か。私もレニーアに懐かれたものだ。
ファティマに涙を拭われた事でイリナはようやく落ち着き、これまでの行動を反省すると私に誓うレニーアを半信半疑の瞳で見つめるのだった。
ふむ、レニーアのこれまでの行いが行いだろうから、まず完全に信じ切るのは無理だろうなあ。
今更レニーアの性格を強制するのは難しいだろうな、と私が考えた時、不意に女子寮の方へと続く道からよく響く女性の声が私の耳朶を打った。
「クリィイイスティーーーナさんっ!!」
ふむ、私ではなくクリスティーナさんが目当てらしい。人付き合いが全くなく、友達がいないのではないかとつい心配してしまうクリスティーナさん目当てとは、これは珍しい。
にしても声の大きい事。思わず耳を押さえそうになってしまったではないか。顔を顰めつつ後ろを振り返った私の目に、豪奢な金の輝きが飛び込んできた。
縦巻きの金髪が陽光を跳ね返して私の眼を焼かんばかりの勢いで輝きを発しており、私達の背後から近づいてくる女生徒を絢爛豪華に飾りたてている。
見る者を圧倒するなんとも一方的な押しの強さを感じさせる雰囲気を辺りに撒き散らしていて、これは傍に居るだけでも息が詰まりそうである。
「フェニア、そんなに大きな声を出さずとも聞こえているよ。そのような行動は君の言う高貴なる者に相応しくはないだろう」
「あら、クリスティーナさん。わたくしの言った事を覚えていて下さったのですね。
クリスティーナさんが、あの誰の誘いも受けないことで有名なクリスティーナさんが!
わたくしが何度誘っても梨の礫だったクリスティーナさんが!
授業を受けている間も休憩時間も一人で窓辺に腰掛けて物憂げにしているばかりのクリスティーナさんが!
あのクリスティーナさんがお茶会をしている姿にこのわたくしも流石に驚きを隠せず、つい淑女に相応しからぬ事を」
ふむ。やたらとクリスティーナさんの名前と独りぼっちぶりを強調しているが、ようするにこのフェニアという女生徒はクリスティーナさんに構って欲しいらしい。
どうやらフェニアからお茶会の誘いを受けたことがあるようだが、クリスティーナさんはすげなく断っていたらしい。
その事もあって、このお茶会に出席しているクリスティーナさんの姿に驚きを隠せない、というわけか。
「お楽しみのところを突然お邪魔してしまってごめんなさい。わたくしはフェニア・フェニキシアン・フェニックス。ガロア魔法学院高等部の三年生ですわ。
そこなクリスティーナさんとはクラスメイトの仲ですの。
さきほど言った通り、いつも独りのクリスティーナさんが誰かと一緒に居る姿に驚いてしまって、つい声を出してしまいましたわ」
やたら『フェニ』が入っているのが気になるが、記憶を辿ってみれば苗字の通りに最高位の幻獣の一種であるフェニックスに由来する貴族の筈だ。
王国北部でも一、二を争う大貴族の一族で、王国全土を見渡しても五指に入る名門である。
建国以来の古参貴族とはいかないが、一族の中にフェニックスを使い魔にした大傑物がいて、そのフェニックスと共にいくつもの武勲を立てて家名をフェニックスと改めて、一大貴族への道を歩んだ比較的新興の貴族でもある、と記憶している。
「ところでクリスティーナさん、貴女の“お友達”をご紹介してくださいませんこと?」
いかにも皮肉っぽくお友達、というところはクリスティーナさんの普段の他人との没交渉ぶりが窺える。
クリスティーナさんが魔法学院で普段どのような態度で暮らしてきたのだろう。もうちょっと人と触れ合う事を覚えたほうが人生は楽しいと思うがなあ。
「分かったよ。まずはファティマ・クリステ・ディシディア二年生とネルネシア・フューレン・アピエニア二年生。それとファティマの使い魔のシエラ」
「初めまして~、フェニア先輩。ディシディア家三女ファティマ・クリステ・ディシディアです」
「ルオーゾ・ゾラン・アピエニアが長女、ネルネシア・フューレン・アピエニア。去年の競魔祭ではどうも」
クリスティーナさんに紹介された二人は席から立ち上がってスカートを摘み、左足を一歩下げて優雅に頭を下げた。シエラも主であるファティマに倣って異国の礼を取る。
フェニアも同じく淀みない仕草で返礼をする。指の先から髪の毛の先まで徹底して洗練された淑女の礼は、本当に先ほど大声を出した女性と同一人物かと私に疑わせた。
「続いて、こちらからレニーアとイリナ・エベナ・クラナン二年生。レニーアもネル同様、去年の競魔祭で顔と名前くらい知っているだろう」
「ええ。もっともレニーアさんはクリスティーナさんと一緒で、推薦を受けたのにもかかわらず競魔祭には出場されませんでしたけれどね」
「ふん」
「いい、イリナ・エベナ・クラナンです。ここ高名なフェニア先輩とお会いできてこう、光栄です。」
「ごきげんよう。レニーアさん、イリナさん。お楽しみのところを失礼いたしますわ」
「では、最後にフェニアも噂くらいは耳にした事があるだろう。ベルン村のドランとその使い魔のセリナ。
春休みで世話になってそれ以来の縁で親しくさせてもらっている。平民の生まれだからと侮ってはならないよ。
歴戦の戦士と練達の魔法使いと竜を足したような使い手だ。私も見習うところが多い」
私はファティマやネル達に倣って席を立ち、フェニアに向けて頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です。ベルン村のドランと申します。フェニックス様」
「あなたの噂は私もかねがね耳にしておりましてよ。あなたのように有能な人材が見つかれば、王国の未来も明るくなる事でしょう。よく勉学に励んでくださいな」
「お言葉、この胸に刻んでおきます」
私は迂闊に口を滑らせないようにとそれきり口を噤んで席に腰を降ろすと、とたんにフェニアの興味は私達から失われてクリスティーナさんへと注がれる。
元からフェニアの興味はクリスティーナさんのみに向けられていたのだから当然か。
「さて、クリスティーナさん。いつも独りぼっちの貴女がこうしてお友達と一緒に居る姿には、正直に申しましてこのフェニアめも安心しましたわ。
こうしてお茶会の招きに応じられているようですし、今度からはわたくしのお茶会にもぜひ出席していただきたいものですわね」
「まあ、そうだな。以前から君の誘いを断ってばかりいたしそろそろ一度くらいはお招きに与るべきだろう。分かったよ、今度ばかりは君のお茶会に出席しよう。
できれば肩に余計な力を入れないで済む今みたいな場が好ましいのだが、そこは考慮してもらえるのかな?」
降参したと肩を竦めたクリスティーナさんがフェニアに答えると、途端にフェニアは顔を輝かせて大きく身を反らしながら高笑いを上げた。
「ふぅぉおおーーほっほっほっほっほ!!! クゥウリィイイイスティイイーーナさんがどうしてもと仰るのなら、御要望通りにわたくしの、このわたくしの、フェ! ニ! ア! フェニキシアンんんん! フェニックス!! のお茶会にお招きしてさしあげますわーー。
ああ、次のお茶会が楽しみですわね! では皆さま、ごめんあっさっせーーー」
着た時と同様に何ともはや賑やかな笑い声を上げながら去ってゆくフェニアを、私達は茫然と見送った。
まるで嵐だな、あれは。元気があり余っているのは良い事だが、それにしてもあれは過ぎた例だ。
「なかなか愉快な方だな、クリスティーナさん」
「ふふ、以前からあんな調子で私に声を掛けて来てくれる稀有な子さ。正直に言うと時々圧しの強さに息苦しさを覚えてしまうが、いまだに私を誘ってくれる相手でね。嫌う事はできない相手でもあるよ」
「ふむ、確かにあれはクリスティーナさんへの執着の凄まじさがよく窺えた」
「ちなみに彼女がガロア四強の最後の四人目だよ。炎の不死鳥フェニックスを家名と家紋に持つ“金炎の君”フェニア。生徒では学院最高の火炎魔法の使い手さ」
「ふむ、人間は見かけと口ぶりによらないか」
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第五十五話
来る秋の魔法学院対抗試合『競魔祭』に出場する選手は、各魔法学院の代表五名。
ガロア魔法学院では五名の内四名までが戦闘系授業の成績や討伐系クエスト、模擬戦などの総合成績上位者から選出される。
この四名がガロア魔法学院で言う四強である。
四強の面子は昨年から変わりなく、クリスティーナさん、ネル、レニーア、フェニア……一応フェニアさんと呼んでおくか、ふむ、フェニアさんだ。
昨年の競魔祭では人間の俗事と興味を示さなかったレニーアと、人前に出る事を嫌ったクリスティーナさんが出場を辞退したので、ネルとフェニアさん以外の三名が予選会で選ばれた。
今年はと言うと私の存在によってこの両者がやる気に満ちている為、四強全員が競魔祭に出場するので予選会で選ばれるのは只一人だけ。
私はこの五人目の枠に滑り込む為、予選会への出場手続きを事務局で済ませてきたところだった。
予選会出場者の一覧を見ても脅威と感じる相手はいない。
だがただ一人だけ私と戦える生徒がいた。ちょうどその生徒は私達と同じように掲示板を見に来ていたようで、すぐにその顔を見る事が出来た。
「ドランさん、おはようございます」
にこにこと満面の笑みを浮かべ、周囲の生徒達に驚愕の仮面を被せながら私だけに挨拶をしたのは、四強の一人である破壊者レニーア。
その傍らには、まず間違いなくレニーアにとってただ一人の友人であろうイリナ嬢の姿があった。にしてもこの二人はどういった経緯で付き合いが始まったのであろうか、ふむん?
ついこの間まで怒りや不快などを除けば、あらゆる感情を浮かべた事の無かったレニーアが満面の笑みを浮かべている事に、周囲の生徒達は酷いのになると天変地異の前触れかと畏れ慄いている。
「おはよう、レニーア、イリナ」
私が挨拶を返すとイリナは大仰なくらいに頭を下げる。ふぅむ、この気の弱さというか人見知りぶりでよくレニーアの傍に居られるな。
「予選会の出場者名簿が目当てかね?」
「はい。私は見る必要は無いと言ったのですが、イリナがしつこく言うものですから。それにおと……ドランさんも居られるだろうかと言われれば来ないわけには行きません」
「もう、レニーアちゃんは自分に自信を持ちすぎだよ。誰と当たるか分からないんだよ?」
「お前は自信が無さすぎだ。それに、ふん、この魔法学院の者共の中でドランさん以外にこの私に敵う者などおらぬ。誰が相手だろうと私が負けるものか」
この口ぶりから分かる事だとは思うが、そう、レニーアは競魔祭代表選手の選出から漏れていた。
レニーアの成績は上位四名の内に入っていたし、その戦闘能力にも磨きが掛り本来選出されて然るべきだ。
しかしレニーアは代表選手に選ばれる事は無かった。なぜならばレニーアは授業のいくつかを欠席し続けて、単位が不足していたのである。
レニーア自身はさして気にも留めていなかったが、学生の本分が学業である事を考えれば、本業を疎かにする者を魔法学院の代表として栄えある競魔祭に出場させるわけにはいかない、と学院側は判断したわけだ。
とはいえレニーアが出場する気になっている以上、その戦闘能力は出場を禁止させるにはあまりにも惜しい。
だからレニーアも他の生徒と同様に予選会に出場させられたのだと思う。推薦も選出もされないが、その代わりに他の学生と同様に予選会に出場して自ら代表選手の椅子を勝ち取った、という建前なら問題ないという魔法学院側の判断であろう。
そして不足している単位は追試を山ほど受ける事で補ったに違いない。
「自信を持つのは良い事だが、学業を疎かにしていてはあまり感心は出来ぬぞ、レニーアよ」
「そうなんですよ、ドランさん。レニーアちゃんたら受けなきゃいけない授業でも受けようとしなくって、受けさせるのがいつも大変なんです!」
思わぬ所で味方を得たと言わんばかりに声を大にするイリナを前に、レニーアは魂の父と慕う私の前で余計な事を、とあたふたとし始める。私の前では見栄を張りたいお年頃らしい。
「イリナ、余計な事をこの方の前で口にするな! どど、ドランさん、私には必要のない事と判断したからこそ授業を受けなかっただけで、必要とあらば無論受けておりました。決して怠けていたわけではないのです」
「ないのです、もなにも君とてまだ御両親のお金を頼りに暮らしている身であろう。ならばそれに応えるよう努力するのは当たり前の事だよ。
自分の子供が自己の判断で授業を放棄していたと知ったなら、私が親だったら落胆するだろう」
「んな、あ……」
ぐらっとレニーアの小柄な体が揺れたと見えた次の瞬間にはレニーアは膝を突き、私の言葉にかなりの衝撃を受けた事が見て取れる。
ふうむ、私を慕ってくれるのは良いのだがいささかレニーアは依存が過ぎるな。
私の言動でいちいちこうも浮き沈みしていては、いつか心身の健康を損ないそうだ。ちと対応を考える必要があるか……
ふむ、まあそれはそれとして現実に向き直った話もしなければなるまい。
「先程選手名簿のついでに試合表も見たが、私とレニーアが戦うとしたら二人とも決勝に進出した場合だけだな。
出場者は私達二人を含めて八人にまで絞られているが、代表に確定しているのはクリスティーナさん、フェニアさん、ネルだから決勝進出が決まれば代表入り確定だ」
「は、はい。幸いにしてドランさんも私も代表入りは確定しましたので、他の魔法学院の者共にも我らの力を思い知らせる好機を得られました」
途端に復活して意気揚々と語るレニーアをセリナは呆れた目で見つめて、私の耳に顔を寄せるとひそひそと声を潜めて話しかけてくる。
「ドランさん、レニーアさんは切り替えが早いですね。さっきまでこの世の終わりみたいな感じで落ち込んでいたのに、もう元気になっています。しかも空元気じゃありませんよ」
「数少ないレニーアの長所だと思ってあげなさい。私は他人の悪い所では無く良い所を見るようにと教わったよ」
「あ、私もパパとママにそう教わりましたよ。でもレニーアさんの場合は何と言いますか」
言葉を濁すセリナだが何を言いたいかは私にもよく分かる。
レニーアの場合、良い所は余りに少なくそれに反比例して悪い所は山とある。これではセリナが口籠るのも無理からん事である。
*
掲示板に貼り出された予選会に関する通知を確認してから二日後、予選会はガロア魔法学院敷地内にある大競技場で執り行われた。
授業はすべて休みとなり、真ん中がくり抜かれた円形の競技場の階段状になっている観客席には、今日が来るのを楽しみにしていた生徒や教職員が溢れんばかりに詰めかけている。
最も高い段上にはオリヴィエ学院長をはじめとした魔法学院の首脳部が腰掛け、生徒達の腕のほどを高みの見物と決め込んでいる。
既にセリナやクリスティーナさん、ファティマ、ネル、ヨシュア、ゼノン、ベルク、レニーア、イリナ達が観客席の最前列に陣取っている。
既に大競技場への入場を済ませた私は中央へと進んで、第一試合の相手選手と向かい合う。
外見だけで判断するなら野蛮、粗野といった類の言葉とは一生縁がなさそうな少年だった。
無駄な脂肪も筋肉も一切ついていないすらりとした長身、陽光を受けて輝く灰銀の巻き毛が目を引く秀麗な美貌で、涼しげな目元は年齢よりも大人びた知的な光を湛えている。
長身の佇まいは実に凛然としており貧弱さや愚鈍さは感じられない。
「君がベルン村のドランか。改めて名乗るがぼくはグラーフ・エーゼン・カルロッサ」
声は穏やか、表情も友好的、ただし胸の内は、という輩だな。私は素直に首肯した。
「こうしてお目に掛るのは初めての事ですね」
「ぼくはとても悲しいのだ。競魔祭と言えば、それぞれの学院において最も戦闘魔法に長けた選ばれた生徒達の出場する戦の祭り。
年に一度の栄えある戦いに参じる事を許された者達が織り成す魔法の戦闘舞踊は、見る者達の心を震わせ、我がアークレスト王国の将来を支える未来ある若人という可能性を、貴き方々に照覧奉る神聖なる儀式なのだよ」
「グラーフ様は、私は代表選手に相応しくないとお考えなのですね?」
「そう、その通りだ! なかなか察しが良いな。本当に選出されるべき人間が誰かを皆に知らしめるために、この場でぼくが君を倒す」
私の代わりにこのグラーフ君がクリスティーナさんやフェニアさん達と一緒に出場するのか。ふーむ。
対抗試合にはネルを打ち負かしたエクスという天才少年をはじめ、ガロア四強級の実力者がある程度まとまった数で出場すると考えるのなら、このグラーフでは全試合黒星しか望めないだろう。
「君ごときが我らガロア魔法学院の代表選手として出場するなどあってはならない。
そしてまた代表選手たりえないことをこのグラーフが、この場で君を打ち負かすことで証明しよう」
言うが早いかグラーフが両手指の指輪に魔力を通し、自身と指輪の魔力を同期させて臨戦態勢を整える。
「さあ、神聖なる競魔祭のガロア魔法学院五人目の出場者を決める正統な決闘の始まりだ。
皆、活目して見たまえ。カルロッサ侯爵家が次男グラーフの魔法の技の冴えを目にする栄に与れるぞ!」
グラーフの台詞が終わるのとほぼ同時に、審判席に腰を落ち着かせている先生方の一人が立ちあがり、腕を振り上げて試合開始の合図を告げる。
「第一試合、はじめ!」
たっぷりと自尊心という名の酒に酔いしれたグラーフが、貴公子然とした仮面だけはかろうじて維持しながら、私へと向けて指輪を嵌めた十本の指を動かす。
グラーフは朗々と詩を吟ずるように己が魔力の生み出したマジックミサイルの魔法名を唱える。
一発一発が人間の腹に握り拳程の大きさの穴を開ける威力を持ったマジックミサイルが、術者の破壊の意思を受けて禍々しく輝きを増す。
「穿て ラムド!!」
この魔法で決着が着くと満腔の自信を込めてグラーフが放ったラムドに、見物していた観客達から驚きの声が上がる。
私は空けている左腕を掲げて魔力を流し込むのと同時に術式を脳裏に思い描き、一振るいするのと同時に十本のエナジーアローを生成。
視界を埋めて迫りくるマジックミサイルを、一発残らず正確に捕捉して迎撃のために放つ。
私のエナジーアローとラムドの衝突によって鼓膜を震わせる破裂音と衝撃が連続し、発生した衝撃が私とグラーフの頬を打ち、髪を震わせた。
魔法として見た場合私のエナジーアローの方が下等だが、真っ向から全弾迎撃して見せた私に対し、グラーフは驚きを隠さずにほう、と口を動かしていた。
「ははは、なるほどミス・ネルネシア達が推薦するだけの実力はあると言うわけか。いささか君を侮っていたよ。
畑を耕すことしか知らぬ土臭い者が、まぐれでこの魔法学院に来るわけもないか。しかしだからこそ余計に目障りというもの。分を弁えたまえよ」
この言い分には凪いでいた私の心の水面が波を立てる。確かに畑を耕す事や作物を育てる事ばかりをしているが、だからと言ってそれを馬鹿にされる理由はない。
お前が日々口にしている食べ物のほとんどは私達のような身分の者が作っているのだし、農民をはじめ様々な平民がいなければ生活も成り立たんだろうが。
事実を指摘するだけならまだしもそこに侮蔑の感情を乗せるのは、正直言って癪に障るものがあった。
「代々宮廷にて洗練された魔道の技を振るったカルロッサ家の力をとくと見たまえ。さて同じ芸ばかりではせっかく集まってくれた皆を飽きさせてしまうな。
受けたまえよ! 火の理 我が声に屈せよ 業火をもって罪業の山を燃やし 魂魄を浄罪せよ」
容易く捻れると思った私が予想以上に手強かった事に苛立つのは分からんでも無いが、なんともはや行動が安直な少年である。
この視野の狭さでは仮に実力がネルやクリスティーナさん並みにあったとしても、精神的な未熟さから対抗試合の選手には選ばれまい。
私は仕方なしにグラーフの次の魔法を回避するのではなく、実力の違いをはっきりとさせ、グラーフに諦めを付けさせる為にも正面から受け止める事にした。
「ボルケイノボム!! 骨まで燃えて実力を思い知るがいい!」
ずわり、とグラーフの周囲の熱量が加速度的に上昇し、炎が生じたかと思えばそれらは蛇の群れの如くグラーフの両手の間に集中し、ぐつぐつと沸く溶岩のような塊を形作る。
ボルケイノボムがぐわっと一瞬大きく膨れ上がった後収縮し、朱色の霧が周囲に広がって私の周囲を丸ごと飲み込むや、撒き散らされた高熱が周囲を灼熱させる。
会心の魔法が直撃した事にグラーフは歓喜の笑みを浮かべ、まずは一つジャッジメントリングを消費させた、と安堵したようだった。
だが私が長剣を振るって起こした魔力の風によって灼熱の霧が晴れ、その中から白い炎を衣のように纏い無傷の私が姿を見せた瞬間に、グラーフの笑みは崩壊の時を迎えた。
「そんな、ぼくの最強の魔法だぞ!? ジャッジメントリングを使わずに自力で防いだのか? なんだ、その炎は!?」
私の左腕のジャッジメントリングに変化が無い事から、私が自力で溶岩の爆裂を凌いだ事を悟り、グラーフは唾を飛ばして狼狽する。
「炎羅灼衣。東方で信仰される炎の神の神通力を借りる火炎魔法ですよ。今、私が纏っているのは神性を帯びた炎です。
貴方が行使した理魔法に対し、こちらは神の威を帯びた火炎。どちらが質において上かは語るまでも無いでしょう」
「炎羅灼衣!? 高等神聖魔法の一つじゃないか」
「誤解のないように言っておきますがかの神の信者と言うわけではありませんよ。さて貴方の実力のほどは分かりました。
競魔祭に出場する他校の選手がどれほどのものかは知りませんが、少なくとも貴方ではネルやクリスティーナさんと肩を並べるには、あまりに未熟。
ここで敗れるのが貴方の為です。恨むのならどうぞご自由に――ボルケイノボム」
口を開いている間に練り上げた魔力で術式を編み込み、私は詠唱を破棄した状態でグラーフの使ったボルケイノボムを敢えて発動させ、戦闘の最中に驚きに見舞われて動きを止めたままのグラーフへと溶岩弾を爆裂させる。
グラーフが行使したものが人間の頭部程度の大きさだったのに対し、私が造り出した溶岩の塊は二階建ての家屋にも匹敵する大きさだ。
効果の及ぶ範囲ばかりでなく産み出す熱量もグラーフのそれとは比較にならない。
グラーフが慌てて迎撃の用意を整えようとした時には、既に溶岩弾はグラーフの眼前に迫っており、そこで私は溶岩弾を爆裂させる。
溶岩が灼熱した霧となって四方へと拡散してこの競技場の三分の一を埋め尽くすまで広がり、たちまちの内に大気や地面が熱せられてぐつぐつと煮立ち始める。
「あ、ああ、ひい」
煮立ち始めた地面と灼熱の霧の中心に居るグラーフは、周囲が全て自分の命を奪う高熱で覆われている事に平静を失い恐慌に至っているようだった。
弱い者虐めをする趣味は無いので見ていていささか気分の悪いものがあったが、下手に手心を加えるよりはとことん実力差を思い知らせ、敗北の恥辱を雪ごうなどと考えないようにしておくべきだろう。
権力や財力を持った馬鹿というのは面倒だと、前世で嫌というほど見聞きした事であるし。
「早めに降伏する事をお勧めします。私としてもカルロッサ家の御子息が競魔祭予選会の最中に不慮の事故で、というのは事態を招きたくはありませんので」
グラーフは周囲を朱に染める灼熱の霧やぐつぐつと泡を噴く地面を見て、結界によって熱が遮断されているにも拘らず、顔面にびっしりと脂汗をかき始めている。
彼の頭の中ではたかが農民と侮った相手に降伏する事への恥辱や、ジャッジメントリングの庇護が切れた瞬間に訪れる死への恐怖がせめぎ合っている事だろう。
「悠長に考えていられる時間はありませんよ」
ジャッジメントリングの最後の庇護が消えるまで、あとどれだけの時間が残されているのか。
まあ、本当に所有者の生命に危機が迫った時には、ジャッジメントリングは魔法学院からの魔力供給が切れるまで、自動で障壁を展開するので、命の心配はまず要らないのだが、さっさと降伏の宣言を引き出したい私のブラフである。
ぼたぼたと汗を垂らして恐怖で体を震わせるグラーフは、貴族然とした仮面を脱ぎ棄てて、なりふり構わずに叫んだ。
ふむ、思ったよりも粘ったか。私は少しだけグラーフの評価を上方修正した。
「う、ううう、ぼ、ぼくの負けだ。降参する! だから、早くこの魔法を消してくれええええーーーーーー!!!」
「そう大声を出さずとも聞こえておりますよ」
私は軽く左手を振るい、グラーフを取り囲んでいた灼熱の霧と足元の溶岩を急速に冷却させて、熱を完全に奪い去ると急激な気温の変化によって代わりに霜が降り始める。
赤から白へと急激な変化を迎えた只中で、グラーフはへなへなと腰が抜けた様子で尻を着いて呆然とした顔で私を見ている。
私はグラーフに背を向けて審判席に居る審判役の先生方に視線を向けた。
私の視線を受けた先生方は、私が連続で行使した高等魔法に対する驚きをようやく心中へと仕舞いこむと、高らかに私の勝利を宣言する。
「第一試合の勝者はドラン!!」
主審を務める先生の勝者宣言が競技場に響き渡り、一拍の間を置いてからどっと観客席の生徒や教師達から轟くような歓声が上がる。
おっと思った以上の歓声だな。私は観客席の最前列で腕がもげそうな勢いで腕を振るセリナやファティマに手を振り返す。
素直に私の勝利を喜んでくれる誰かがいるというのはまことにあり難い事である。
入場口をくぐり観客の目が届かなくなったのを確認してから、私は思わず本音をポロリと零した。
「ふむ……うん、やりすぎたな!」
グラーフの発言にカチンとしたからといって、いささかやりすぎてしまった。我ながら大人げの無い事をしてしまったな。
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第五十六話
私とレニーアは当然と言うべきか揃って予選会の第一回戦、第二回戦を勝ち抜き、順当に決勝戦へと駒を進める事となった。
レニーアの相手は見ていて可哀想だった。なにしろ普段のレニーアでは無い。私の前で良い所を見せたくて見せたくて、それはもう仕方の無いレニーアだったのである。
普段の五割増しくらいは強く容赦も無かった事だろう。セリナやファティマから言わせると私も似たようなものだったらしいけれど。
決勝に進出した時点で代表選手入りが確定している為、一部の観客の間で決勝戦を行う必要性や私達が適当に流すのではという意見も出ているようだった。
とはいえ代表選手入りを果たす以上、既に選出されている他の選手達やこの予選会で敗れた者、出場する事さえ出来なかった者達を納得させる為にも、相応の戦いを見せなければなるまい。
レニーアの魂とカラヴィスの封印に調節を施した事で、目下レニーアの戦闘能力は人間の枠を完全に越えたものとなっている。
肉体と魂の同調もここのところ上手く行っているようだし、最近の竜種くらいなら返り討ちにする事も出来よう。
控室に持ち込まれた昼食で腹を満たした私の気分は上々。ただどちらかという今のレニーアの全力を確かめてみたい、という気持ちであるから戦闘に適した気分とは言い難いか。
昼の休憩が終わり、再び大競技場へと到着した私は、生徒たちであふれ返る観客席の最上段に設けられた特別席にいるオリヴィエ学院長を一瞥した。
はたしてこの麗しき妖精の学院長殿は、レニーアの事を何処まで見抜いておられるのやら。
スラニアから帰還して以来、レニーアが異様に私に懐いている事と私の前世を結びつけて考えているのなら、確証はないにしてもレニーアを転生者かと訝しむくらいはしているだろう。
心を読めば簡単に分かる事ではあるが、他人の心の領域に土足で上がり込むのは私の最も嫌うところであるし、ふむ、取り敢えずは様子見か。
今は太陽が真上を過ぎて傾いているが、斜陽となるまでにはまだいささかの猶予がある。
綺麗に元の景観を取り戻している大競技場ではあるが、これから私とレニーアの間で行われる戦いによって、原型を留めぬほどに破壊し尽くされる事は目に見えていた。
私は決勝戦が終わった後にここを修繕する先生方の苦労を思い、そっと心中で謝罪した。後で私も手伝うとしよう。
さてレニーアと戦う上で気を付けなければならいことが一つある。
それはジャッジメントリングの保護結界と、大競技場と観客席とを隔てている結界を破壊してしまう事だ。
この双方はガロア魔法学院の敷地とその中に建てられた建設物や、天地に流れる魔力や気の流れを利用して展開される極めて強固な結界である。
非常時にはガロアの都市全体にまで結界が拡張され、ガロアの城壁とはまた別の強固な守りとしても機能する。
この結界の強度であるが対城塞・都市殲滅級の上位魔法を連続して受けても揺るがぬという、高位の大儀式防御魔法並みの代物だ。
しかしながらこの結界にも限界は存在する。例えばブランが使ったあの魔法と錬金術を用いた黄金の爆弾だったら一度に十個も使えばこの結界を破る事が出来るだろう。
私は当然この結界を吐息で砂を散らすように破る事が出来るが、問題はレニーアの方だ。
いかに調整を施したとはいえ、カラヴィスの封印が残っている状態のレニーアではこの結界を破るだけの力を捻出できない。
しかしレニーアの魂は本来大神に匹敵する高位次元存在のそれだ。
封印の為に力の『量』こそ少なく、力の『質』も劣化を余儀なくされてはいるが本来神々と比較しても遜色が無いのである。
この力の『質』は絶対的に『量』に勝るものであり、精神が絶頂に至っているレニーアであったなら、その質を以て結界を破る事があるかもしれない。
もしそうなったならば私の方で他の誰にも結界が破れたと知られる前に、結界を修復しなければなるまい。
私とは反対の通路から出てきたレニーアは、まっすぐに私を見つめながら歩を進めて大競技場のほぼ中央で私と対峙する。
同年代の少女と比べても小柄なレニーアは、見た者の目と記憶に生涯消えぬ記憶となって残る美貌に、喜色のみを浮かべ私と思う存分じゃれあえる事に浮き立っている様子。
「レニーア、ずいぶんと楽しそうだな」
「こうしてお父さ……ドランさんと大手を振るって戦う事が出来る喜びに、この胸は湧き立っております。
この場に集った者共にドランさんの御恩寵を賜った我が力と、貴方様の偉大さを知らしめる機会を得た事はまことに僥倖にございます」
どうもこのお嬢さんは自分と魂の父と慕う私の力を周囲に知らしめたい、という欲求を極めて強く大きく持っているようで、事あるごとにどうにかして他の生徒や教師達を平伏させる機会は無いかと窺っている。
端的に言えば父親自慢がしたいらしい。
今回のように全校生徒や教師達の耳目が自然と集まる行事は、レニーアにとってまさに絶好の機会なのだ。
「まあ、君の機嫌が良い分には何も言う事はあるまい」
「はい!」
ふんす、とレニーアは蝶よ花よと育てられた貴族の令嬢の風貌には似合わぬ鼻息を零す。その癖決して下品で無いのは、レニーアの今世の御両親の教育の賜物か。
そういえば人間の父母の事をどう思っているのか、レニーアに尋ねた事は無かったな。機会があったら尋ねてみるとしよう。
他の人間と比べて少しくらいは特別扱いをしていると思いたいが、どうだろう?
私の心中を他所に観客席を埋める人々の好奇心と熱気は高まっており、学業の関係で予選会に出場しているとはいえ現四強の一角であるレニーアと、生徒の中では最強の呼び声の高かったクリスティーナさんを相手に勝利を収めている私との戦いがどうなるのか、期待の眼差しを向けている。
生徒ばかりや教師陣にもそういった眼差しを向けている方は多く、これから行われる戦いを一切漏らさず記録しようと各種の解析魔法や記録魔法、あるいはそういった機能を持った魔法道具を使用している者も多い。
はたして解析できる戦いになるものかね?
三度コクラン先生が試合開始の合図を告げるのを待ち、私とレニーアは大競技場に集った人々の意識を集めながら、お互いにだけ注意を寄せていく。
他の人々にとってこの戦いがどう見えているかは知らぬが、当事者である私達にとっては私がレニーアに胸を貸す戦いとなる。
私としては張り切りすぎたレニーアが大競技場の結界を破ってしまった時に備えなければならないし、観客の人々の期待を裏切る戦いになるのではないかと個人的には思う。
レニーアの実力は把握しているつもりだが、はたして神造魔獣の魂を持つ少女は私の予想を裏切る事が出来るだろうか。
そして、私達の鼓膜を試合開始の合図が震わせた。
「競魔祭代表選手選出予選会決勝戦、ベルン村のドラン対レニーア・ルフル・ブラスターブラスト、始めぇえ!!」
心なしかこれまでよりも気合の入ったコクラン先生の試合開始の合図と同時に、レニーアの全身から準決勝決着後から今に至るまで練り上げられていた魔力がどっと溢れだす。
まるで堰を破った洪水のように溢れだした魔力は、私に由来する白の他にカラヴィスに由来する無数の色に分けられていた。
後に『ガロア魔法学院史上最強決定戦』、『怪獣大決戦』、『おとぎ話の中の戦い』、『非常識の権化』、『何アレ人間じゃない』と語り継がれる事になる戦いの始まりだ。
天高く青い空の果てまで伸びていきそうなレニーアの魔力の凄まじさに、ただそれだけで観客のみならず教師の方々や果てはクリスティーナさんにネルまで驚きの顔を浮かべている。
セリナだけは私との付き合いが長い事と使い魔の契約で繋がり、私の本来の力をおぼろげながらに感じている所為か、これぐらいでは驚かないようだった。
レニーアの魔力は魔法視力に乏しくとも視認できるほどに濃密で、レニーアの足元の地面を砂状に砕き始めていた。
「ドランさん、参ります」
「遠慮せずに来なさい」
「貴方様を相手に遠慮などと愚かな真似はいたしません。ただ今の私の持てる全力を尽くすのみにございます!」
言い終わるや否やレニーアの闘志が爆ぜた。人間に生まれ変わったレニーアの得意とするのは、破壊の思念を用いた念動(テレキネシス)。
それはこの場においても変わらない。ただし現在のレニーアの行使するソレは、以前とは比べ物にならない規模になっていた。
レニーアの全身から溢れる魔力と意思が、それぞれ前世のレニーアの肉体を模した形へと変わる。装甲のような表皮を持ち、四枚の翼を持った竜に酷似した魔獣だ。
これまでレニーアが思念を巨大な獣の腕の形状へ変えた事はあったが、その更に先の段階に彼女の思念魔法は到達したようだ。
魂を震わせる咆哮を上げた思念獣が音の壁を容易く越えて私に迫り、更にレニーアがか細い腕を振るうのに合わせ、目に見えない大蛇が荒れ狂うような軌跡を描いて、二つの念動が私へと襲い掛かってくる。
詠唱も契約も必要とせず思念のみを持って行使する思念魔法は、単純極まり無い為に行使者の思念の強さ、純粋さに全てが左右される。
この思念魔法の全てである一点に於いて、私を滅ぼす史上最強最悪の神造魔獣として創造されたレニーアは、破壊と滅びの意思を神も含めてもっとも純粋に、そして強大に抱く存在の一つ。
人間の肉体に封じ込められてしまったレニーアにとって思念魔法は、最良の武器と言えよう。
おそらくクリスティーナさんでも対処しきれぬ規模の念動を前に、私は竜爪剣の一振りを以て応じた。
白く燃える炎を纏うように輝く竜爪剣が大上段から振り下ろされ、私に迫っていた念動獣も念動もまとめて斬り裂かれ、千々に砕けて大気中に消え去る。
私は振り下ろした刃を返し、切っ先を大地から天へと振りあげる。斬撃の軌跡をなぞって私の魔力と剣圧の入り混じった衝撃がレニーアを襲う。
大競技場の地面に深い亀裂を刻みながら駆け抜ける衝撃を、レニーアは左右の掌を目の前で打ち合わせる動作に合わせて念動を発し、白刃取りの要領で受け止めてみせた。
そのまま左右から圧力をかけて衝撃を潰したレニーアは、にいいっと凶悪な笑みを可憐なかんばせに浮かべる。
私を父と慕うとはいえレニーアが私を滅ぼす為に産み出された存在である事は揺るぎない事実。
レニーアの魂に根付くその存在意義が、私と戦えるこの状況に高揚しているのだろうか。
可憐な美少女の浮かべる凶悪無比な笑顔に、観客席の人々が少なからず息を飲む中、レニーアは周囲の反応などどこ吹く風と気にも留めない。
「あははははは、楽しい! 楽しいですよ、ドランさん!」
良かったね。
「はあああああ!!!」
レニーアの雄たけびと共に再びはっきりと視認できるほどに密度を高められた念動獣が出現し、四枚の翼を広げて私にその牙をむき出しにして飛翔する。
純粋な破壊の思念で構築された念動獣は触れる物質を素粒子にまで分解し、物理防御がほとんど意味を成さない域に達している。
ふむ、しかし素粒子にまでしか分解できていないとなると、あくまで干渉が及ぶのは物理的な段階に留まるか。霊的な干渉力はそこまでに達してはいない。
レニーアもまだまだだな。魂の解放に目を向けるのも良いが、封印された状態でも力を磨く事を覚えないといつか伸び悩んでしまうぞ。
私は音の壁を越えた事に伴う衝撃と溢れ出る破壊の思念によって、地面を大きく抉りながら迫る念動獣を竜爪剣で再び斬って捨てようとしたが、今度は念動獣の顎が大きく開かれるとそこから竜種のブレスのように破壊の思念が放たれる。
家屋をまとめて百軒は余裕でぶち抜く威力の思念に、私はつい器用な真似をすると褒めてやりたくなった。
「ますます竜じみた真似をする」
私は空けている左手の五指を開いて勢いよく叩きつけるようにして、破壊のブレスに向ける。
念動には念動。私はレニーアが得意とする念動の魔法で応戦し、ブレスも念動獣も四方から無数の手で一斉にひねられたように引き千切り無効化する。
続けて私はエナジーレインを詠唱を破棄して発動し、私を中心にして空中に百を超える純魔力の矢が出現する。
それを見たレニーアは自身の周囲に一抱えほどの球体に圧縮した破壊念を十個造り出す。
私とレニーアとの中間で、私の造り出したエナジーレインとレニーアの破壊球が衝突し、耳を劈(つんざ)く破裂音と共に、砕かれたエナジーレインの残滓と相殺された破壊の思念が四方に飛び散って行く。
「らあああ!」
淑女にあるまじき叫びと共にレニーアが勢いよく足を地面に振り下ろすや、そこを基点に破壊念が地面に浸透していき、瞬き一つをする間に大競技場の地面全てが砂状に砕け散った。
私が地面から砂になった瞬間に足を取られた瞬間を狙い、レニーアが動く。
右の拳を思いきり後方に引くと、引き絞られた弦から矢が放たれるようにして私に向けて突き出して、そこからレニーアの拳状の思念が射出される。
ただし一瞬ごとに色の変わる思念の拳は、レニーアの本当の拳の五十倍ほどの大きさとなっていた。
レニーアはこの動作を連続して行い続け、私に向かって何十何百もの思念の拳が放たれる。
私は砂状になった地面に干渉して再度固め直し、確固たる足場を構築してその場を飛び退き、次の足場、次の足場と作って思念の拳を避け続ける。
そうして暫く回避する事に専念していると、このままでは埒が明かないと判断したレニーアが次の手を講じてくる。さてどこまで手札を持っているのかな、レニーア?
「ならば……!」
ふむん? レニーアは変わらず拳を繰り出し続けていたが、避けた筈の思念の拳が軌道を曲げて私を追尾し始めてくる。
ほう、避けられるのなら当てるまで追尾させればよいと考えたらしいな。さしずめ|念動追尾魔法弾《テレキネシス・ホーミング・マジック・ミサイル》と言ったところか。
私の心身に目印となるようなものが付着していない以上、感知しているのは私の魔力、熱、魂の波長、匂い当たりだろう。
ならば囮を作ってそちらに着弾させてこの場面を切り抜けるか。
「我の影 我の闇 我と汝は表裏一体 生ぜよ
魔法の完成と共に私の身体から、私と寸分違わぬ姿形を持って造り出された分身が生じ、追いかけてきている自動追尾の念動拳に向かって駆けだす。
私の目論見通りに追尾してきた念動拳はそちらの分身の方へと殺到し、防御と回避を織り交ぜて避ける分身を追い続ける。
分身を囮に稼いだ数瞬の時間を利用し、私は拳を振り上げる動作にあったレニーアへ反撃の一手を叩き込む。
「北に黒 東に青 南に赤 西に白 四方四色の調和と太極の秩序が世の理を司らん されど森羅万象の理を我が意が崩す 天よ崩れよ 地よ落ちよ 崩落世界」
私の行使した魔法の完成と共にレニーアを中心として、東西南北それぞれに対応した色の光の柱が天高く屹立し、それぞれが光の線を伸ばして繋がり合い一本の巨大な光の柱を形成。
巨大な光の柱が完成するのに合わせ、柱を四分割していた黒、青、赤、白の四色の境界がぐにゃりと絵具をかき混ぜるように歪み、混ざり合い始める。
これは光の柱の内部を一つの小世界に見立て、その調和を意図的に破壊する事で柱内部の存在を世界の崩壊に巻き込んで殺傷する魔法で、疑似的に世界そのものを破壊するという禁呪すれすれの高等魔法である。
仮にも世界の崩壊に巻き込まれるわけだから、これを防ぎきれるだけの防御魔法は目下極一部の大精霊級の力を借りる精霊魔法や高位の神聖魔法に限られる。
それなりの位階の悪魔や邪神の眷属を相手にしても有効な魔法だが、さてレニーアはジャッジメントリングに頼らずに受けきれるか?
私が行使したあまりにも強力すぎる魔法に観客席が悲鳴混じりの混乱を見せる中、レニーアを閉じ込めた光の柱が唐突にぶくりと膨れる。
「ふむ、やはり我が魂の欠片を持つもの。工夫を凝らすより力ずくで来るか」
似なくても良い所が似たな、と私は苦笑を禁じ得なかった。
レニーアは崩壊してゆく小世界の只中にあって、その純粋な破壊の意思を以て壊れつつある小世界そのものさえも破壊したのである。
灰色に染まった小世界の欠片が無数に散じて大競技場に落下する中、レニーアが光の柱の中央に立っていた。少しばかり髪が乱れて制服の一部も解れてはいるが白磁の肌に傷は無い。
ごきり、と外見に似合わぬ動作で首を鳴らしてレニーアは嬉々と笑う。レニーアの前世を考慮すればたかが疑似的な世界崩壊など、取るに足らぬ攻撃でしかなかっただろう。
まだ残っていた崩落世界の光の柱を軽く思念で吹き散らし、レニーアはゆっくりとした動作で私へと近づいてくる。
「ほど良く体が温まりました」
「そのようだな。ではそろそろ本番と行こうか」
「はい」
満面の笑みと共に更に新たな魔力を全身から噴き出すレニーアと私は再び激突する――した。
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第五十七話
その日、彼らが目撃し、身を置いた時間はこれまで培ってきた常識を逸脱した理解し難い光景であり時間であった。
ガロア魔法学院に所属する生徒や教師のほとんど全員が集うは魔法学院大競技場観客席。
魔法学院のみならず都市周辺の自然そのものの力を利用した結界に隔てられた観客席と大競技場は、いまや異なる世界同士が偶然にも接しているのではないかと思うほどに異なる様相を呈していた。
「あははははははは!!」
純度を高められた思念は、より高みに達した霊的要素を帯びる事によって、物理法則を超越した現象を引き起こす。
大神級の魂を持つレニーアの思念は、触れるもの全てを素粒子にまで破壊し尽くす領域にあり、破壊念の吹き荒れた大競技場は既に原型を留めておらず、まるで巨大な隕石が落ちた痕のような有り様だ。
今もレニーアは物理限界を超えた思念を漏斗で濾すようにして圧縮し、純度をさらに高めて、念動獣いや念動竜の大顎を開いて、本物の竜種さながらに思念のブレスを眼前の敵へと放つ。
もはや並みの竜種さえ凌駕する威力を誇る域に達したブレスが向かう先には、レニーアの対戦相手であるドランが立っていた。
ドランの魔力を纏う長剣に二つにされたブレスが観客席を守る結界に激突して、都市周辺の霊脈の力を借りる結界が激しく明滅し、軋む音を上げる光景に結界に守られる観客達の肝は氷水に浸けられたように冷えていった。
白い魔力と無数の色に変化する二種の魔力と思念を纏うレニーアに対し、ドランは淡く輝く白一色の魔力を纏っている。
ドランはぐっと膝を曲げて両足の筋肉を撓め、筋力の解放と共に魔法も併用して自分自身を加速する。
今度は足裏に風を起こすのではなく足場に磁気を帯びさせ、自分には正反対の磁気を発生させて、二つの磁気と反発力を活かして自らを弾丸と変えたのだ。
レニーアへと向けて真っ直ぐに引いた磁気の道に沿ってドランは加速を続け、観客達の目には第一歩以降のドランは白い光の流星としか見えなくなる。
一切の小細工抜きに正面から力を持って向かってくるドランの行動に、レニーアは笑みと共に浮かべている喜色を更に深める。
横槍も邪魔も入れる者が無いこの状況で、思う存分ドランと戦える――遊べる事が心の底から嬉しくて仕方がないのだ。
紛れもなくこの時間は、レニーアにとって人生で至福のものであるに違いない。
ドランと激突する寸前、レニーアは全方位に放っていた破壊の思念の放出をぴたりと収め、その代わりに自身の右手にありったけの思念を集中していた。
瞬時に掌からやや余る大きさになった破壊念の周囲ではゆらゆらとなにやら陽炎めいたものが立ちあがり、巻き上げられた砂塵が上に行ったり下に行ったりと不可思議な現象が起こる。
レニーアの手に宿るは時空さえ歪ませ破壊する、最強最悪の邪神が産み出した神造魔獣の思念。
ドランが長剣に宿したのは、あらゆる神々を凌駕し、全ての神を敵にしてさえ勝つとさえ言わしめた古神竜の魂が産み出す超越者の力。
光の流星と化して突っ込むドランの長剣の切っ先に、レニーアが真っ向から振りかぶった球体の破壊念を叩きつける。
切っ先が破壊念と激突した瞬間、両者の力は拮抗状態を生み出してドランの長剣が止まる。
と同時に切っ先に侵入を許した破壊念が糸玉から糸を紡ぐように、はらはらと解け出して、一条、また一条と糸の形に変わった破壊の思念が四方へと伸びていく。
ドランの長剣によって圧縮状態を断たれる事で、レニーアの破壊念は次々と糸の形に解れていく。
破壊念の糸は伸びる先に存在する空間と時間を破壊しながら次々と数を増やしていくが、それは同時にドランの長剣がじりじりと破壊念に食い込んでいる事の証左であった。
「ぐおおおおおお!!!!」
この至福の一時が終わってはならじとレニーアは更に思念を振り絞り、魂が猛るに任せてドランの長剣へ右手の破壊念を押しこみ続ける。
だがドランはそのレニーアの鬼気迫る、いや具現化した鬼気から彫りあげたかのような必死の形相と力を目の当たりにしても顔色一つ変えずに、一歩、また一歩と歩みを重ねる。
自分の力が及ばぬ非情なる現実を前に、レニーアの心にあったのは悔しさや怒りでは無かった。喜びであった。
レニーア以外の誰もが理解に苦しむ事であろうが、ドランの前世である古神竜ドラゴンを魂の父と慕うレニーアにとって、ドランが強大であれば強大であるほど崇敬の念は増し、繋がりを持つ存在として歓喜が心に湧き立つ。
故にレニーアにとってこの状況は、非情なる現実などではなく、父と慕う相手と無邪気に遊ぶ事の出来る心弾む時間だった。
レニーアはありったけの思念――想いを込めた思念を振り抜き、それがドランの長剣に突き破られるのを認めた瞬間、心の底から笑っていた。
これ以上楽しい事は無い、これ以上嬉しい事は無い、なんて素晴らしい時間を過ごしたのだろう! そう思ったからだった。
世界中の生命に誇らしげに語るかのような笑みであったと、ドランだけがそのレニーアの笑みを見ていた。
後に事実上のアークレスト王国最強の魔法生徒最強を決める戦い、などとまことしやかに噂されるこの予選会決勝戦は、ガロア魔法学院の教師達が情報の隠ぺいに努め、他校の教師や生徒達にはごく少数の例外を除いて漏えいする事が無かった。
これにはレニーアとの戦いの最中にも過剰に自分達の力が外部に漏れないよう、ドランが一種のフィルターとしての機能を持たせた結界を、独自に展開していた事も大きい。
この事によって他校の代表選手達は例年通りガロア四強を除く五人目の選手を、四強よりも格下と考えて油断と言ってはいささか厳しい油断をし、それを後悔する事になるのだがそれは競魔祭本戦が開催される三ヵ月後の事である。
*
さて決勝戦が終わって二日後の事である。
私とレニーアが無事代表選手に確定した事を祝い、ファティマ達が市街にある人気の喫茶店で私達の祝賀会を開いてくれる運びとなった。
城壁によって幾層にも分かたれたガロアの市街だが、その中でも魔法学院の近隣は魔法学院の生徒や教職員目当ての商店が数多く並んでいる。
その中にある『知恵の泉』という喫茶店が祝賀会の会場となり、店員に案内された部屋の扉を開けば、室内には既にファティマ、シエラ、ネル、クリスティーナさん、レニーア、イリナそしてなぜかフェニアさんが待っていた。
今回男性陣は抜きで、女性陣が催してくれた祝賀会である。
ガロア魔法学院が誇る可憐美麗な花々の中で男は私一人という夢のような状況であるが、私との接点が少ないフェニアさんがいる事はいささか意外だった。
「私が最後か。お待たせして申し訳ない」
私が軽く頭を下げて謝意を述べると、にこにこといつもの笑みを浮かべたファティマが気にしない、気にしない、と手を振る。
「時間に遅れたわけじゃないからねえ。気にしなくっていいよ。それじゃあ、これで主賓の二人が集まったから~、おめでとう会をはじめま~す」
おめでとう会とはいやはや、なんともファティマらしい気の抜けた名前だな。
セリナの大蛇の下半身が他の誰かの足に踏まれないよう気を付けながら誘導し、私達はクリスティーナさんからブランデーを数滴入れたらしい紅茶のカップを受け取った。
「ほら、生憎と酒ではないがこれが今日の祝杯だ」
「ありがとう。セリナにも」
「はい。ありがとうございます」
「皆、行き渡った~? では始まりの挨拶をフェニア先輩にお願いしたいと思いま~す」
ふむ、ここでフェニアさんが出てくるのか。
まあ目立ちたがりの性格をしていらっしゃるようだから、どこかで焦点の当たる場を用意しないと後で機嫌を損ねてしまうかもしれないし、ファティマの判断は悪くなかろう。
「ではファティマさんのお言葉に甘えて。こほん、まずはレニーアさん、ドランさん、代表選手入りおめでとうございます。
同じく競魔祭に出場する者として、お二人のようにお強い方達を迎えられた事を心より嬉しく思いますわ」
意外と普通の事を言うな、と私がセリナに目配せをするとこの蛇娘も同じ事を考えていたようで、フェニアさんに気付かれないように首を小さく縦に振るう。はい、意外です、というわけだ。
もっと自分本位な事を言うかなとも思ったが、どうやら時と場を弁える常識はあるらしい。
「本来、この場はドランさんと特に交流の深い皆さんの場。ファティマさんの御配慮で挨拶をさせていただきましたが、あまり長々と話すべきではないでしょう。
ですから乾杯の挨拶と先程の祝辞をもって私の挨拶は終わりとさせていただきたく思いますの。ではよろしいかしら? ドランさんとレニーアさんの勝利を祝して、乾杯」
全員がカップを降ろすのに合わせて、ネルやファティマが口々に私に祝福の言葉をかけてくれた。
「本当はも~っと豪華にって思ったんだけどぉ、まだ競魔祭の本番が残っているからね~。今はこれで許してね。その時は魔法学院がするお祝いよりもぱあ~っと派手にやろうね。
それと予選会優勝おめでとう、ドラン。レニーアちゃんも準優勝おめでとう。惜しかったねえ~」
「ドランと一緒に戦えて嬉しい。これで私達に黒星が着く可能性は無くなった。けれどまだ私との模擬戦で手加減をしていた事も分かった。今度はもっと本気を出して欲しい」
「ファティマ、その気持ちは大変にありがたい。次にこういう機会があったらお腹いっぱい食べられると嬉しい。
ネル、私も君と共に戦えるのなら心強いがあまり急かしてくれるなよ。君との模擬戦はいつでもできるが、今は祝いの場なのだからね」
「ん、失言」
「まあまあ、ネルネシアとしては去年の雪辱戦もあるだろうし、いささか気が急く事もあるだろうさ。
ただドランとレニーアが共に戦ってくれるのなら、今年は西のエクスや南のハルト相手でも黒星を刻まずに済みそうだ、というのには私も同意見だよ」
さてクリスティーナさんの話は置いておくとして、西のエクスとは去年の競魔祭でネルが敗北を喫した少年で、南のハルトというのは昨年の競魔祭優勝の立役者となった少年の名である。
エクスは元々早熟の天才として知られていたが、ハルトの方は去年の競魔祭でその名を知られるまで無名だった超新星だという。
「去年の記録映像は私も目を通した。二人ともガロア四強並みだが特にハルトという生徒は、他の生徒達に比べて異質だな。
他に気になったのは、ハルトはここら辺の国の出身ではないだろうね。異国の風を感じる顔立ちをしている。
純粋な剣技ならクリスティーナさんの方が上だとは思うけれど、実際に戦うとなればかなり良い勝負になりそうだ」
「私としても戦い方が噛み合っているし、戦うことになれば心躍るだろうとは思っているよ。ただ組み合わせばかりは正真正銘抽選で決めるからね。当日になるまでは分からない。
未来視を妨害する魔法を何重にも重ねて行うから、先読みの魔法の使い手がいてもまず組み合わせは分からない仕様なのさ」
「あ、あの、ドランさん、代表入りおめでとうございます。こここ、このような場に、私までお招きいただいて、そのその場違いで済みません」
競魔祭本戦でもこの面子ならまず負けないだろう、と考えている私に、普段にも増して落ちつかないイリナがお祝いの言葉をかけてくれた。
レニーアの唯一の友人であろうから、と私が招いたのだがガロア四強揃い踏みのこの状況は、イリナの小さな心臓にはいささか刺激が強すぎたらしい。
「ありがとう。場違いなどでは無いよ。レニーアの友達なら、ここに来て貰って構わないさ。それとあまり肩に力を入れなくて良い。ここは私的な場だからね」
「いい、いいえええ。ファティマさんもネルネシアさんもクリスティーナ先輩もフェニア先輩も、貴族としての家柄も人気も成績も私なんかとは比べ物にならない方達ですから、本当は私なんかが同じ空気を吸ってはいけないくらいです!」
いや、そこまで言うのはいくらなんでも卑屈過ぎると思うが……。
ちらっと周りを見渡せば、たったいまイリナに名前を挙げられた全員が、大なり小なり苦笑いをしており、彼女らが偏見などに凝り固まっていない貴族である事を差し引いて考えても、イリナの方が行き過ぎているのだろう。
「おい、イリナ。あまりドランさんを困らせるな」
「れ、レニーアちゃん、うう、うん。ごめんね?」
「ふ、そうびくつくな。ドランさんならばその広い御心でお許しくださる。それに私も今日は気分が良いからな。取り成しくらいはしてやろう」
フルーツタルトの食べかすを口元に着けたレニーアは、自分の言葉通りに私との決勝戦の次ぐらいに機嫌が良く、目も口もにやついている。
そのにやつき具合がいやらしく見えるのは、創造主たるカラヴィスの悪影響だろう。あれほど品性下劣な女神を、私は他に数えるほどしか知らない。
「レニーア、あまり友達を脅すのは感心しないよ。イリナも、今はこうして呼び捨てにしてはいるけれど、君は貴族で私は平民だ。
魔法学院を卒業すれば私は君に跪かなければならない身分だ。あまりにも畏まられるとその方が困ってしまう」
「ははははい。あの……レニーアちゃんが」
私が困ると言ってしまった所為か、レニーアがイリナの事を天敵を見る眼で睨みつけている。全く、この娘は。
「こら、レニーア」
私が少しだけ語意を強めて言えば、レニーアは飼い主に叱られた犬みたいにびくんと体を震わせて、顔を俯かせる。
見た目だけは美少女という言葉が人間になったようなレニーアであるから、なんとも悪い事をしている気分になる。その分、中身がアレだからなあ。
「ひゃ、ひゃい!」
「友達をそのような目で見てはいけないよ」
レニーアは私に軽くたしなめられただけでも意気消沈し、しょんぼりと肩を落とす。いちいち大げさな、と思わずにはいられないのだが、それだけ彼女の中で私という存在が大きいのだ。上手く、私の方で匙加減をせんといかんな。
フェニアさんがそんなレニーアを珍奇なモノを見る目で見てから、こほんと咳払いをして私達にある提案を持ちかけてきた。
「ネルネシアさん、クリスティーナさん、ドランさん、無粋を承知でこの場をお借りしてわたくしから提案がございます」
理由はともかくレニーアが大人しくなった頃合いを見計らって、フェニアさんがよく通る声で私達に話を切り出した。
「例年、競魔祭出場が決まった生徒は、通常の授業とは異なり来る競魔祭に向けて特別授業が執り行われるか、生徒達での自主学習が許されます。
わたくしの見立てでは今年度の面子は紛れも無くガロア魔法学院創設以来、最強最高空前絶後唯一無二万夫不当天下無敵一騎当千の戦闘能力の持ち主ばかり。
順当に行けばまず間違いなくわたくし達の優勝は揺るぎないでしょう……。しっかぁあし!!」
バサッと扇と目を大きく見開き、フェニアさんはついでに声も大きくして私達に気合の充溢した声で宣言する。
「わたくし達にレニーアさんとドランさんという予想していなかった、超! 戦! 力! が加わったように他の魔法学院でも同じ事が無いとは言い切れません。
よって、わたくしフェニアは競魔祭出場者五名による強化訓練を提案いたします! 毎日授業の後に大競技場や近郊にてわたくし達で研鑽を積むのです。
今年こそ、競魔祭の優勝旗を、そしてアークレスト王国魔法学院最優良学院の称号をガロアへ齎すのですわーーー!」
私はふと思いつく事があったので、挙手をしてフェニアさんに意見の具申を申し出た。
「フェニアさん、発言をよろしいでしょうか?」
「あらドランさん、挙手してからの発言とは礼儀正しいですわ。まるを差し上げます。それでどのようなご意見がおありなのかしら?」
「フェニアさんの御提案にはこの私も心から賛同いたします。団体戦である以上、それぞれの実力や性格をより把握する事も必要でしょうから。
私からの提案で恐縮ですが、私の知り合いに特訓にうってつけの友人が何名かおります。もしよろしければその友人達を特訓の相手として招きたいのです」
「なるほど、正直に申し上げて先生方でもわたくし達にこと戦闘に関して教えられる方は多くはありません。
わたくしとネルネシアさんに至っては、ほぼ属性が固定されている上に魔力変換体質ですから、そもそも教えられる魔法使い自体が少ないのです。
それを考慮すれば実戦を重ねる事で鍛錬するのが効率的でしょう。
先生方は普段の授業でお忙しく時間が無い以上、別の所から特訓や教導してくださる方を連れて来るのは良い提案です。
しかも決勝戦であれだけの戦いを見せて下さったドランさんのお知り合いというのなら、まず期待できますわね。
結構結構コケコッコーですわ。そのお知り合いの方々はすぐ来られますの?」
コケコッコー? と私は心中で首を捻ったが、黙っておいた。鶏に酷似した姿を持つフレイムコカトリスを使い魔にした影響なのだろうか。
「呼べばすぐに来てくれるかと」
フェニアさんは扇を閉じ、先端を口元にあてて考える仕草をしてから、いよし、と言わんばかりに再び目を見開く。
なんというか、動作がいちいち力が入っていて、生きているだけで疲れそうだ。
「でしたらすぐにご手配をお願いいたしますわ。
わたくしとしてもあれだけの戦い方を見せられた後とあっては、己を研鑽せねばとこの心が燃えて燃えて仕方無いのですわ! おほ、おほ、おほーほっほっほほほほ!!」
「やはり愉快な方だな、クリスティーナさん」
背骨が折れるのではないかというくらいに仰け反って、通りにまで響きそうな高笑いをするフェニアさんを前に、クリスティーナさんは困ったように私を見た。
この方に固執されているクリスティーナさんは、これまでもこれからも苦労するだろうなあ、という私の憐みに気付いたのかもしれない。
「ああ、うん、そ、そうだな?」
頑張れ、クリスティーナさん。生きていればきっと良い事があるさ。
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第五十八話
夏の足音が近づいた昨今、風は徐々に熱を帯びて草花の海に波を立たせている。
青い空に浮かぶ雲はまばらで豊かな太陽の光は惜しみなく大地に降り注ぎ、地上に生きる者達に新たな一日の始まりを教えている。
家の中に籠っているのが勿体なくなる好き日に、ガロア近郊の野原に立つ深紅竜のヴァジェと古水龍の瑠禹は、ぽかんと口を開いて私の傍らに立つ美龍人に目を向けていた。
いや、ヴァジェと瑠禹ばかりはでない。
来る競魔祭に向けた特訓の為に集まったフェニアさん、クリスティーナさん、ネルら出場選手陣と友人達であるファティマ、シエラ、イリナ、我が使い魔セリナも瑠禹達と同じ顔をしている。
予め約束していた時刻にガロアへと続く街道から外れた所まで来た私達であったが、予め私が呼び寄せていたヴァジェや瑠禹よりも先に人影があった。
その人影こそが今私達の注目を集めている美龍人リュー・キッツである。
この世に並ぶ者は無いと誰もが思うクリスティーナさんの美貌にも匹敵しよう、リュー・キッツの人間に似て人間ならざる美に、この場に集った多くの者達の意識は異次元へと小旅行中だ。
例外は、まずレニーア。リュー・キッツに対して、犬猫が自分の縄張りに入ってきた見知らぬ顔に向けるのと酷似した目付きと表情でじろじろと見ている。
その理由の半分くらいは、リュー・キッツがさりげなく私の隣を陣取ったからだろう。
次にヴァジェと瑠禹はリュー・キッツの素性を知るが故に、この場に居て良い筈の無い彼女の姿に、心底驚いた顔をしてせっかくの綺麗な顔を台無しにしている。
つい先ほど自己紹介を終えたリュー・キッツだが、ほとんど反応が無い事にわずかに眉を寄せて困った表情を浮かべると私を振りかえり、いかがいたしましょう? と黒玉(ジェット)が小汚い石になり下がってしまう瞳に問いを乗せてくる。
ふむ、私でさえ君がここに居る事には驚いたくらいだが、初めてリュー・キッツを目の当たりにすればその美貌、根本的に地上の全種族と隔絶した霊格から、初対面の相手が心身緊縛状態に陥るのは無理からん事である。
仕方無い、と私は声にわずかばかり魔力を乗せて、忘我の淵に陥っている皆の意識を引き戻しにかかった。
「ほら、皆、わざわざ遠い所から来てくれた相手に、いつまでも口を開いてぽかんとしていては礼を失しよう。
私達も彼女らも時間は有限なのだから、共に過ごす時間は少しでも長く有意義なものにするべきだろう」
私の魔力を乗せた声に鼓膜のみならず精神を揺さぶられた皆が、ようやく意識を取り戻すと脳味噌と心に纏わりつく恍惚の霧を払う為に頭を何度か振るう。
真っ先に口を開いたのはクリスティーナさんだった。毎朝鏡で自分の顔を見ているこの方が、リュー・キッツの美貌に対する耐性は一番高いだろう。
ただしクリスティーナさんの魂の深くに根差す竜殺しの因子が齎す負の作用が働き、心身双方が不調に陥っているようであった。
「こ、この度は私達の為に貴重なお時間を割いて頂き、まことにありがとうございます。ところで瑠禹の母君とおっしゃりましたが、という事は貴女も真性の龍族なのですか?」
おそらく瑠禹からクリスティーナさんの竜殺しの因子については聞かされているだろうし、当人を目の前にしてリュー・キッツ自身確認しているだろうが、幸いにしてリュー・キッツの顔に不快と敵意の色は無い。
「ええ。瑠禹とは正真正銘血の繋がった母と娘ですから、私もまた古水龍の末席ですよ」
にこり、と月光の下でだけ咲く花のように清らかで透き通るようなリュー・キッツの笑みに、また何人かの意識が危うげになったようだった。
しかし、それでもリュー・キッツの言葉の中に聞き逃せぬ単語があった事から、フェニアさんが淑女にあるまじき大声と共に問いを発する。
「ちょちょちょちょっとお待ちになってくださいまし! 真性の龍族っておっしゃいました?
ということはリュー・キッツさんだけでなくそちらの瑠禹さん? もマジモンの龍なんですの!?
というか古水龍って古龍じゃありませんの! 地上最強種の中の更に上位種ですわよ?
高名な魔法使いや賢者でも、一生に一度見る事が出来るかどうかという希少種ですわ。それなのに一度にお二人も目の前に居ると言うんですの?」
ふむ、そういえば瑠禹やヴァジェがドラゴニアンでは無く本物の龍・竜である事を知っているのは、スラニアに行った面子の他に話を聞かせたネルとファティマ、シエラだけだ。
だからイリナとフェニアさんは知らないのだったな。
ましてやそれが並みの龍どころかより希少な古龍となれば、このフェニアさんの驚きようも納得……いやあ、にしても反応が芝居がかっていると言うか、一人だけ違う世界の住人みたいだな。
「あ、ああ、そういえばフェニアは知らなかったな。そちらのヴァジェもドラゴニアンでは無く深紅竜だよ。
この間、エドワルド教授の手伝いでスラニアに赴いた時に知己を得たのだ。リュー・キッツ殿と顔を合わせるのは、今日が初めてだけれども」
そう、リュー・キッツとは初めてである。『リュー・キッツ』とはね……
クリスティーナさんは、耳元で不意を突いて発せられたフェニアさんの大声に驚きながら、事情を知らぬこの方に極めて簡略的に説明をしたのだが、その説明は更にフェニアさんを驚かせた。
「はいぃいいい? 深紅竜、深紅竜!? また古竜ですの! ドランさん、貴方、一体どうしたらこんな方々とお知り合いになれますの!
私の予想を超えたというか、予想も出来なかった方々が目の前に居らっしゃるのですけれど!」
くわっと表現する他ない力強さで目を開き、私を見てくるフェニアさんに私は言える範囲で説明した。
「辺境で暮らしていると竜種と遭遇する事が一度や二度はあるものです。実際私は十六年の人生でヴァジェと瑠禹、他にもモレス山脈に棲息している風竜や水竜と出くわしましたよ」
後ろめたい事も嘘もありませんという態度で答える私を、フェニアさんはしばし値踏みするように見つめていたが、ほどなくして私の言葉に嘘は無いと判断したようで、この方には珍しい疲れた息を吐きだす。
「辺境ってすごいんですのね……」
なにやら誤解を抱かせてしまったようである。
はぁっと深窓の令嬢に相応しい麗しくさえある溜息を吐いたフェニアさんだが、すぐに気を取り直したらしく腰のベルトからこの間とは違う扇子を取り出し、バサッと広げるや口元を隠して笑い始める。
開いた大口を隠す配慮があるのに、高らかな笑い声を隠す配慮が無いのは一体どういう事なのか。この方はどういう躾を受けてきたのだろう?
「とはいえ、よもや本物の竜が特訓相手など滅多にある事ではありませんわ。考えようによってはまさに僥倖僥倖大僥倖ですわ。
ドランさんが共に競魔祭に出場する仲間として頼もしいばかりでなく、かような縁の持ち主とはこのフェニア、度肝を抜かれましてよ。
かつて不死鳥を使い魔としたフェニックス家の者として、我が炎が何処まで通ずるかとっくりと試させていただきます!」
ふんふんと鼻息荒く宣言するフェニアさんの身体と魂からは、火の属性を帯びた魔力が次々と産み出され続け、フェニアさんを中心にじりじりと周囲の気温が上昇しつつある。
急激に上昇した気温によってフェニアさんの足元の草が焼けて、焦げ臭い匂いが徐々に漂い始める。
竜人の姿に変化しているとはいえ本物の古竜(こりゅう)を前に、まるで怯んだ様子の無いフェニアさんの度胸は大したものである。
ただヴァジェの性格を考えるとフェニアさんの発言に噛みつくかと思ったのだが、深紅竜のお嬢さんはこれといった反応を示さずに、リュー・キッツと瑠禹母娘にじっと視線を注いでいる。
ふむん、そういえばヴァジェにとっては聞き逃せない発言が、リュー・キッツの口から出ていたな。
ヴァジェは私の視線に気づいたらしく、錆びついたブリキの人形を思わせる動きで首を巡らし、私に鱗や髪と同じ色の瞳を向けてくる。
ヴァジェの瞳には困惑と驚きの光が揺らめいていた。ヴァジェの身になって考えてみれば、まあ、分からんでも無い。
「どどドラン、今、りゅうき……」
「ヴァジェ、リュー・キッツだ。リュー、キッツ」
私は口を滑らせそうになるヴァジェにゆっくりと言い聞かせる。ここに居るのはリュー・キッツ。
『リューキツ』でもないし『りゅーきつ』でもなければ、ましてや三龍皇が一柱水龍皇龍吉(りゅうきつ)であるはずがないのである。
「あ、ああ、リュー・キッツ様だったな、ああ、うん」
リュー・キッツというなんともはやあからさまな名前を名乗るくらいなのだから、顔見知りの私やヴァジェや瑠禹に対して、リュー・キッツは今回の事はそういう事――お忍び――ですよ、と暗に言っているのにも等しい。
愛娘であり仕える巫女でもある瑠禹にとっては、リュー・キッツの今回の行動は何とも頭の痛い事であるだろう。
「どどどうしてあの方がここに居られるのかも理解しかねるが、何と言われた? 瑠禹の母だと? あれかそういう設定か? よもや本当に瑠禹はあの方の娘なのか?」
これまで顔を合わせる度に罵詈雑言を浴びせあってきた瑠禹が、実は地上の竜・龍種の最高血統の受け継ぐ者という、とんでもない情報をさらりと告げられて混乱してしまったらしい。
瑠禹の素性を伝える適切な機会ではなかったか。まあ仕方がない。瑠禹との関係を続けていれば、いずれはヴァジェが知ったであろうことだ。
面倒な事は纏めて知った方が手間も省けるだろう。
「君の考えている通りであっているよ、ヴァジェ。瑠禹は正しくリュー・キッツ殿の愛娘に相違ない」
「………………なに!? こいつがかっ! この生意気でお前に甘えてばかりで乳臭いこいつが、公しゅ、ではなくてリュー・キッツ様の!?」
突き殺すつもりか、という勢いで瑠禹を指差してヴァジェは叫ぶ。意識しているわけではないのだろうが、本人を前になんともはや無礼千万な物言いだな。
普段から瑠禹に対してこのように思っていたという事なのだろう。
指差された瑠禹は、ヴァジェの言い分を流石に許容しきれぬようで、むすっと頬を膨らませて不機嫌になっている。
「そこまで言わなくてもよいではありませんか。私とヴァジェさんは、それは仲が良いとは言いませんけれど」
否定しない瑠禹に対して、ヴァジェはもう何も言う事が出来ない様子で、開いた口を閉じるのも忘れている。
これまで罵りあいと取っ組み合いの喧嘩未遂までした相手の素性が、よりにもよってと言いたくなるものだったのだから、仕方無いかね。
私は一つ気になる事があったので、瑠禹に問いかけた。
「瑠禹、君の身分が露見してしまったわけだが、これからヴァジェにはどう接して欲しいのだね?」
「それは、その……。畏まったヴァジェさんなどかえって気味が悪いです。ですから、今まで通りの関係が、私達にとってはお互い最も良いと思います」
瑠禹も言うものだが、私も畏まったヴァジェなど想像しただけでも違和感が凄まじく、正直気味が悪いと思う。
「ふむ、瑠禹はこのように言っているぞ、ヴァジェ。それでお前はどうするのだ? 態度を改めるか、それともこれまで通りか」
「んん、いや、それはだな。ええっと、ああ、うー」
ヴァジェはその場でどうすればよいかと頭を抱え出したが、基本的に単純に出来ているからすぐに答えを出すだろう。
取り敢えず瑠禹への態度に関してはヴァジェ自身が答えを出すとして、まだ問題はあった。瑠禹がきっと表情を改めるとあらあらと笑っている母にずいっと近づく。
「それよりも母様、どうして龍宮城に居られる筈の母様がここに居られるのです? 公務はいかがなさいました」
瑠禹には珍しい厳しい口調での詰問もリュー・キッツの笑みを崩す事は出来ず、柳に風と言ったところか。
「もちろん貴女と同じように今日の分は済ませてありますとも。また火急の事態が生じた時の為に写し身を置いてきましたし、いざとならば跳んで帰るつもりですよ」
この場合の『跳んで』とは空を飛んで、ではなく空間を跳躍して瞬時に海の底の龍宮城に帰るという意味であろう。リュー・キッツほどの力の主ならそれくらいはわけ無かろう。
とはいえそれでも龍宮城の主が城を空けると言うのはいかがなものかとこの私ですら思うのだが、リュー・キッツは悪戯が見つかった幼子のように少し顎を引いて唇を尖らせた。
あら可愛らしい。
「それにドラン殿にお誘い頂いたとあんまり瑠禹がはしゃぐのですから、この母とて年甲斐も無く羨みもします。
母様母様、ドラン様からお声掛けして頂きました、とはしゃぎまわっていたのを、母は生涯忘れませんよ」
その時の瑠禹の口調を真似て言うリュー・キッツに、瑠禹は白皙の美貌にたちまちの内に朱の色を昇らせて、かかかか、母様と悲鳴を上げるも、リュー・キッツはころころと笑って取り合う事をしない。
リュー・キッツにとって瑠禹の扱いなど掌の上で転がす球のようなものか。しばらくこの母と娘のじゃれあいを見ていたい気になったが、時間は有限。有意義に使わねば。
「まあまあ、瑠禹。君の言いたい事は私も分かるが、来てしまった以上は仕方が無かろう。このまま追い返すのも悪いし、今日のところはこのまま特訓の相手をしてもらいたい」
私の取りなしにも瑠禹は不服そうにしていたが、にこにこと笑っていて全く堪えた様子の無い母を見るに、自分が何を言っても無駄だと理解したようでその内にがっくりと肩を落とす。
「瑠禹、ドラン殿もこうおっしゃってくださっておりますから、見逃してくださいな。
それに母とて貴女と同様に、ドラン殿と共に過ごす時間をとても楽しみにしているのです。なんでしたらドラン殿を貴女の婿に、それともこの私の良人になどと考えるくらいにね」
ぽっと自分で擬音を口にして、リュー・キッツは仄かに赤らんだ自分の両頬を両手で包み、恥ずかしげに身をよじる。
瑠禹はこれまで目にした事が無く、そして想像もした事が無かった母の恥じらう姿を前に完全に思考が停止してしまい、声一つ出す事が出来ずに絶句している。
「リュー・キッツ殿、瑠禹をからかうにも限度というものがありますでしょう。母娘水入らずのじゃれあいを邪魔するのは心苦しい事ですが、どうかそこまでに」
「あら、ドラン殿に叱られてしまいましたか。では瑠禹をからかうのもここまでにしましょう。
でもドラン殿、先程の言葉は全てが嘘というわけではございませんよ? 心の片隅に憶えておいてくださいまし」
ふむむむ、悪戯っぽく言うリュー・キッツの目には、本気の光が確かに宿っていた。
どうやら私の知らない所で色々と進行しているらしかった。
ベルン村の発展の為にこの人間としての生涯を捧げるつもりだったのに、私は将来どうなってしまうのだろう?
さて私達の内緒話もいい加減長すぎたようで、セリナやネル達が訝しげにこちらを見始めたので、きりも良いから内緒の話はここで打ち切ることにした。
「ではそろそろ特訓を始めるといたしましょう。
安全の為に魔法学院から借り出した結界装置とジャッジメントリング、私の方で用意した結界展開用のバリアゴーレムを用意しました。
これで周囲への被害は最小限に抑えて戦う事が出来るので、気兼ねなく模擬戦をして欲しい」
テルマエゴーレム、ホースゴーレムに続く私製第三のゴーレムは、テルマエゴーレムと同じまん丸い胴体や顔の他に、背中に四角い箱を背負っていてこの内部に任意の場所に結界を展開する装置を内蔵している。
表向きはそれなりの性能の結界だが、造ったのが私である以上実際にはガロア魔法学院の学院結界に倍する強度まで結界を展開可能である。
ベルン村に戻ってから魔物や異民族からの襲撃があった際に、村を囲んでいる堀や塀ばかりでは守りに不安があるから、と試作したゴーレムだ。
一体あたりが展開できる結界はそう大きなものではないが、数を揃えて内蔵魔力を増幅させることで村一つまるまる覆い尽くせる結界を展開できる。
流石にリュー・キッツが全力を出せば破られてしまうが、邪神や悪魔王相手でも無い限りリュー・キッツが全力を出す事は無いだろう。
「準備万端でよろしいですわ、ドランさん。それでまずはどういう組み合わせでやりますの? ま、当然わたくしの相手はそちらのヴァジェさんでしょうけれど!!」
ふんふんと鼻息の荒いフェニアさんは、気合が充溢し過ぎている所為か全身から火の粉を発し始めている。感情の揺れに応じて熱を発する体質らしい。
さてフェニアさんから熱視線を向けられるヴァジェだが、元々悩むのには向いていない精神構造の主であるから、頭を抱えるのを止めてすっくと立ち上がり瑠禹の方を見る。
「よし決めた! お前の素性がなんであれお前があまっちょろくて小生意気な生娘である事に何ら変わりは無い。だから私は態度を改める事はしない! 良いな!」
「ま、口の悪い。いつの日にか、ヴァジェさんにお灸を据えて差し上げます」
瑠禹は怒った口調で抗議するものの、自分にこのような態度で接してくる貴重な相手を失わずに済んで嬉しそうだった。
ただヴァジェよ、勢いよく言ったのは良いが、ちらっとおそるおそるリュー・キッツの方を一瞥して、リュー・キッツがむしろ嬉しそうにしているのを見てほっと安堵の息を吐いている辺りは、少し情けないぞ。
一方でヴァジェに存在を無視された形にあるフェニアさんは当然面白くは無く、分かりやすいくらいに機嫌を損ねる。
「むきー! わたくしを無視しないで下さいますかしら!?」
「んん、ああ、お前の相手をすれば良いのか。ドランから不死鳥の因子持ちと聞いてはいたが、ふん、面白い。
炎の中から再生する不死鳥すら燃やす古竜の炎の味、たっぷりと味わわせてやろう」
元々力を振るう事を楽しむ気性のヴァジェにとって、真っ向から対抗意識を燃やしてくるフェニアさんのような方は好もしかろう。
フェニアさんの相手は元からヴァジェに任すつもりだったから良いとして、残る瑠禹とリュー・キッツだが瑠禹は水の使い手という事でネルの相手をお願いしていた。
となると予定外の出席者であるリュー・キッツだが帯剣している事だし、そのままクリスティーナさんの相手をお願いしようか。
「瑠禹はネルの相手をお願いできるか? 水と氷の違いはあるが格上の水使いとの戦いは、ネルにとって良い経験になるだろう」
「あ、は、はい。謹んでお受けいたします」
母親の衝撃発言に絶句していた瑠禹だったが、私が声をかけてようやく正気を取り戻して、格上と断言された事に負けず嫌いの虫を疼かせたネルと向きあう。
ここのところ、私やクリスティーナさんを相手に敗北の黒星を重ねていたネルは随分と気負っているように見えた。
流石に西のエクス君とやらが真性の龍である瑠禹に勝るとは思えんが、瑠禹との戦いはネルの力量を劇的に向上させる良い機会となろう。
「瑠禹とヴァジェの手が埋まったという事は、残る私とレニーア、ドランがリュー・キッツ殿に一手ご教授願えば良いのかな?」
竜殺しの因子の所為で不調に陥っているのだろうか、クリスティーナさんにはどこか覇気が欠けている。これでは常の全力を発揮できまい。
『竜』ではなく『龍』だからまだヴァジェを相手にするよりはマシだろう。ふむ、レニーアと私はどうしようかね?
正直、私がリュー・キッツとやり合うとなると他の皆とは違って、胸を借りるのではなく私がリュー・キッツに胸を貸す形になりかねない。
ついつい興が乗って私とリュー・キッツが手加減を忘れてしまい、結界が破れるような事になったら辺り一帯の地形が変わってしまうだろう。
リュー・キッツの方はどうかと視線を転じれば、意外な茶目っ気を発揮してこの場にやってきた美龍人は、既に鞘から両刃の刀を抜いていて、何時でもどうぞ、という態度を示している。やる気に満ちていらっしゃるわい。
私以外の面々にとっては、かの水龍皇龍吉にも匹敵する力を誇るリュー・キッツと訓練する希少な機会だが、レニーア辺りは最初からリュー・キッツに敵意を剥き出しにしていて、変に噛みついていきそうだしな……ふんむ。
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第五十九話
私を含め、競魔祭に出場する代表選手達の合同特訓は日々行われた。
基本的に暇なヴァジェは毎日顔を見せ、巫女と皇女としての公務がある瑠禹は三日に一度、そして水龍皇ではないが水龍皇と同じ位に忙しい筈のリュー・キッツも瑠禹と同じ頻度で訓練に参加してくれている。
特訓を始めた頃はヴァジェとフェニアさん、瑠禹とネル、リュー・キッツとクリスティーナさん、レニーアなどと組み合わせは決まっていたのだが、回数を重ねている内に変わり始め、今では始めた頃とは全く異なる組み合わせになっている。
魔法学院から借り出した結界を展開する為の水晶球を設置した台座四基と、私が製作したバリアゴーレム四体による二重の結界の外で、私はファティマ、イリナと共にピクニック気分で特訓の様子を見学していた。
私達三人はすっかり寛いでいて、特に私などは競魔祭にガロア魔法学院の代表として出場するにも関わらず、心の底からまったりとしている始末である。
草の上に広げた敷布に腰掛けて淹れたばかりの紅茶を口に含み、アップルパイに舌鼓を打つこの瞬間はまさに至福である。
我ながら心が弛緩しきっているなあ、と思っていると傍から見ていてもそれが分かるらしく、ファティマが人好きのする笑顔のままこう問いかけて来た。
「ねえねえ、ドラン~。ドランは特訓に参加しなくっていいのぉ~。みんな、すっご~い頑張っているよ~」
ファティマの意見はごもっともである。私以外の代表選手陣と特訓相手の三名は、今も結界の中でもう特訓とは呼べない様な激戦を繰り広げているのだから。
「ふむ、確かにこの状況を見れば私だけが怠けているかのようだが、私があそこに加わったら結界が破れかねん。
リュー・キッツが相手となれば、レニーアとの決勝戦以上に力を振るう必要があるからな。
それで結界が破綻でもしたら一瞬でガロアの辺りまで地形が変わるか、都市部にまで被害が出て城壁も市街もまとめて灰燼に帰するかもしれん」
「う~~ん、この間までなら信じられなかったけどぉ、今なら納得できるのが怖いなあ~」
流石のファティマも最近の私の暴れぶりから認識を改めていたようで、私の言葉を素直に信じたようだった。
レニーアとの予選会決勝戦でもそうだったが、どうも私は自分で思っているほど自制できないようだし、『あの場』に加わったら本当にやり過ぎそうだった。
さて私やファティマ、イリナ達以外の面々は結界内部で特訓に勤しんでいるのだが、その組み合わせは今やリュー・キッツ対その他全員というものになっていた。
フェニアさんやネルと言った代表選手陣のみならずヴァジェや瑠禹までもが加わって、何とかリュー・キッツに痛打を浴びせんと多対一かつ全力で挑みかかっている。
高名な水龍皇龍吉と全く互角の力を誇るリュー・キッツが相手となれば、私を除いた全員で挑んでもまだ届かないのは自明の理。
レニーアはもう少し魂に架せられた封印の箍が緩まないと、龍皇級の相手をするのは難しいだろう。私が調律した今の状態でも、今はこの場に居ないドラミナにも及ぶまい。
まだ別れてそれほど時は経っていないが、彼女の事が随分と懐かしく感じられる。ドラミナは無事に故郷へと辿り着いただろうか?
数の暴力で挑んでも余裕綽々で対応するリュー・キッツの姿に、負けん気の強いネルや元から彼女を敵視しているレニーアはもちろん、実の娘である瑠禹や普段は冷静なクリスティーナさんまでが闘志を燃やしている。
「リュー・キッツにとっても良い運動になっているようだな。もっともクリスティーナさん達が総がかりで挑んでも、『良い運動』で済むあたり流石は……と言わねばなるまい」
「う~ん、ネルちゃんやクリスティーナ先輩は強いって思っていたんだけどぉ、世の中は広いんだねえ。
クリスティーナ先輩とおんなじ位に美人で、も~っと強い人が居るなんて思わなかったよぉ。古龍だけど」
「わわ、私も同じ気持ちです。レニーアちゃんが、ドランさん以外にも全力を出して及ばない方が居るなんて……」
「ふむ、実に身になる特訓だな」
「リュー・キッツさん、ととと、とんでもなくお強いんですね。真性のどらご、じゃなくって龍族ってあんなに強いんだ。
ああ、あのドランさんなら、リュー・キッツさんに勝てるんですか? レニーアちゃんでも、あんな簡単にあしらわれちゃっていますけど」
「明言するのは避けさせてもらうよ。ただ、そうだね、レニーアとの決勝戦だが私はあの時に一度も本気を出してはいない」
「えええ!? レニーアちゃんがあんなに必死になって戦っていたのに、ですか?」
「本気ではないが、あの状況で許される範囲で全力ではあったよ。それを、手を抜いていた、全力で向かってくる相手に礼を失する事だ、と言われたら反論は出来ないがね」
イリナは言葉を失くして私と特訓中のリュー・キッツを交互に見続けた。彼女の頭の中で私がはたして人間なのかどうか、議論が交わされているのかもしれない。
もっしゃもっしゃとマドレーヌを頬張る私に、同じくマドレーヌを齧る口を止めたファティマが話しかけて来た。
「ねえねえドラン~」
「なんだね?」
ごっくん。ふむ、美味しゅうございました。
「ドランは~同じ質問になるけど、本当にとっくんしなくっていいのぉ~?」
私の顔をじろじろと見ていたイリナもファティマに同調した。元々心の片隅くらいで思っていた事なのだろう。
「あの、私達と一緒にお菓子を食べて見学しているだけのような?」
ふむ……そう言えば私だけ何もしていないと思われても仕方ないか。
基本的に私は外部からの結界の強化と維持、更に結界内部の特訓の内容が私達以外の者の目に触れない様、遠隔視や魔法視力などによる覗き見が出来ないように隠匿作業を並行して行っている。
当初予定していたレニーアやクリスティーナさんとの訓練をせず、訓練そのものはほとんどリュー・キッツにまかせっきりになっている状態だ。
しかし今になって見るとリュー・キッツにとっては良い刺激になっているようだし、クリスティーナさんやレニーア、ネル、フェニアさん達競魔祭出場陣もリュー・キッツにひと泡吹かせる事に躍起になっている。
今から私があそこに加わっても、彼女らの今の勢いや熱意に水を指す事にしかならないだろう。
「あそこにいる皆が私の事など忘れているよ。彼女らがやり過ぎてしまいそうになったら止めに入る位でいい」
「そ~お? ドランならそうかもしれないけど、ネルちゃん達が不満を言わないならいいかなあ」
そして今日も特訓は夕暮れ近くになるまで続くのだった。
*
放課後や休日に行われるようになったドラン達競魔祭代表選手の特訓が終わると、彼女らは魔法学院の敷地内に建てられたドラン印の浴場で汗を流すのが日課となっていた。
一度凝りだすと止まらない傾向のあるドランによって、浴場の間取りは使用の許可された敷地目一杯に広がっており、女子用の浴場に併設してドランが使う個室浴場も建てられている。
リュー・キッツや瑠禹、ヴァジェなど魔法学院外部の者達もいるが、学院の生徒であるドラン達の紹介があり、事務局に一時的な立ち入りの手続きを取れば魔法学院の中に入る事は出来る。
そうして魔法学院に無事に足を踏み入れる事の出来たリュー・キッツ達であるが、ガロアに足を踏み入れてから魔法学院までの行程は、後々にまで語り継がれるちょっとした逸話を作った。
元からクリスティーナただ一人でさえ、その美貌を認識した瞬間に意識を恍惚と蕩けさせて呆然とする者やその場で失神する者さえいる。
そこにクリスティーナと同等以上の美貌を持ち、生物として圧倒的に格上の存在であるリュー・キッツが共にいるのである。
これで何も問題が起こらない筈が無い。
ガロアへと繋がる街道に着いた時点で、ドランら一行の姿を認識した人々が次から次へと道端に倒れ込み、ガロアに入ったら入ったで左右に人々が退いて自然と道が出来て、クリスティーナとリュー・キッツに全ての人々の視線が吸い寄せられて恍惚の溜息が絶え間なく続くと言う有り様である。
特訓開始当初から続いたこの現象は、いくら回数を重ねても人々が超絶の美貌に慣れる事が無く、むしろ回数が増すごとに被害者の数も増す勢いだ。
噂が広まりこの世ならぬ美貌の主達を一目見ようとガロア中の人々が殺到し、魔法学院までの道に押し合いへしあいしながら集まって小競り合いなどが起き、実物を目撃した途端に大口を開けるか閉ざすかしてこの世ならぬどこかへ意識を飛ばして行った。
またリュー・キッツを抜きにしても瑠禹とヴァジェも十分に美しい女性達である。
滅多に見る事の無いドラゴニアン三人を連れていると言うだけでも、ドランへの注目度はさらに増して魔法学院内であれやこれやと更に噂が立てられる、という副産物も産まれる事となった。
魔法学院に入ってからも、敷地のあちらこちらに至福の笑みを浮かべたまま気絶している生徒や教職員が転がっている、というある種の阿鼻叫喚の図が出来上がっている。
原因の一端を担うドランは少しばかり責任を感じたから、気を失った者達を通行の邪魔にならないように道の脇に寄せるか、いくつも設置されている長椅子に寝かせる位の事はした。
さて今日も今日とて特訓を終えた面々はドランも含めて浴場に向かい、テルマエゴーレム達が毎日手入れを欠かしていない浴場に身を沈め、体に着いた汚れを落とし疲れを癒していた。
同性同士でも肌を晒す事に抵抗のある文化もあるが、幸いリュー・キッツやヴァジェは忌避感を示す事は無かった。
リュー・キッツと瑠禹にいたっては、ただの母と娘でいられる特訓からお風呂に入るまでの時間を楽しみにしている様であった。
特訓に参加していないイリナとファティマも一緒にお風呂に入っている中で、シエラは半吸血鬼である為に、お風呂のように流れていないお湯でも本能的に忌避感を抱くようで、浴場の隅の方で恐る恐る体を洗う程度にとどまっている。
それでもファティマが体や髪を洗おうとすると、滑りやすい浴場にも拘らず全速力で駆け寄ってきて、ファティマに何もさせずにシエラが全て行うあたりは使い魔として立派と言えるだろう。
ファティマは過保護過ぎると困った様に笑っているが。
クリスティーナ、フェニア、イリナに髪を洗って貰っているレニーア、ネルで横並びになり体を洗っていると、わしゃわしゃと音を立てて髪を洗っているフェニアがついぞリュー・キッツに痛打を浴びせられなかった事を悔やみ始める。
生粋の貴族の子女でありお嬢様然としたフェニアであるが、意外にも身の回りの事は一人でもきちんとできていた。
「それにしてもこれだけの人数で挑んで、リュー・キッツさんに傷一つ付ける事が出来なかったなんて、情けないったらありゃしませんわ」
フェニアの左隣で髪を洗い流していたクリスティーナが、まったく同じ心境の様で神妙な顔をしながら首を縦に動かす。
「確かにフェニアの言う通りだ。いくらなんでも競魔祭でリュー・キッツ殿のような方が出てくるとは思えんが、世の中は広いと言う事は嫌と言うほど思い知らされたな。
相手が真性の龍と考えれば歯が立たないのも無理は無いけれど」
「他の魔法学院でも龍を相手に特訓をしている所は無いと思う。とても貴重な経験になった。それでもまるで足元に及ばなかった事は悔しい」
他の三人に比べると髪が短く洗う手間が少なくて済むネルは、髪も体も洗い終えて湯船に向かうべく立ち上がったが、その顔には氷花の二つ名に相応しからぬ激情の色がかすかに浮かんでいる。
昨年、西の魔法学院の生徒エクスに敗れた時と同様かそれ以上に、リュー・キッツにまるで歯が立たなかった事が歯痒くて堪らないのであろう。
ネルに返事をしたつもりではないだろうが、イリナに洗髪をして貰っている最中のレニーアの口から恐ろしく物騒な言葉が出てきた。
なおレニーアはイリナに髪を洗って貰っている間、目を閉じている。
髪を洗って貰っているこの姿だけを見れば、愛らしいの一言で済むのだが、レニーアの場合は中身の方が外見の印象を見事に裏切っている。
「いつかこの私の手であやつの首根っこを引き抜いてくれる」
「れ、レニーアちゃん、そんな怖い事を言っちゃだめだよ。
それにリュー・キッツ様はドランさんのお知り合いの方なのだから、そんな事をしたらドランさんがどんな怒り方をするか分かったものじゃないよ?」
ドランの名前を出されると途端にレニーアは弱くなる。
むぐう、と不服しかないうめき声を上げて、なだらかな曲線を描く胸の前で腕を組み、むむむむと唸り始める。
どうすればドランの逆鱗に触れずにリュー・キッツを害する事が出来るのかと考えているのだろう。
「それにしてもレニーアさんはほんっとうにドランさんを慕っていらっしゃいますのね。
スラニアやその前のクエストでドランさんに危ない所を助けて頂いた縁と伺っておりますけれど、あれですの? ラァアブでもしちゃったんですの?」
年頃の少女らしくどこか期待するように問いかけるフェニアに、レニーアは目を瞑って腕を組んだまま顔を振り向けて鼻で笑い飛ばした。
家族愛である事は否定しないがフェニアが期待している類の愛情では無い、と神造魔獣の割にレニーアは自身の人間的感情を理解していたからである。
ただそれがいつ、どんな拍子で変わるか分からぬ愛である事に気付いてはいない。
「下種の勘繰りをするとは貴族の子女とやらには相応しくないぞ。
ふん、私のあの方への想いをそのような低俗なものに当て嵌めて考えられても困る。
私にとってあの方は真理、神、崇め奉り敬うべき御方。あの方の御傍にある事が私の至上の喜び!」
まるで迷う素振りも無く断言し、自慢げに無い胸を張るレニーアの言動に、既に湯船に向かったネルを除いた五人はそれぞれ顔を見合わせて、ドランは一体何をしたんだ? と犯罪めいた事をしたのかと強く疑っていた。
ドランがこの場に居たら濡れ衣だ、と声を大にした事だろう。
一方、湯船の方では先に熱い位の湯にセリナ、リュー・キッツ、瑠禹、ヴァジェが浸かっており、奇しくも尻尾と鱗の生えた女性陣が先に堪能していた形になる。
ヴァジェは血が昇っていたとはいえリュー・キッツに対し、闘志をむき出しにして挑みかかった事を反省し、口元までお湯に浸かってじっと目を瞑って誰も話しかけるな、と暗に訴えかけている。
加えてリュー・キッツの霊水により、地面の上で溺れかけた事による衰弱もあって今日はとにかく疲れていた。
対してセリナと瑠禹、リュー・キッツはまだまだ元気な様子で、山間部の隠れ里で暮らすラミアと海底に暮らす龍達との話や、双方のドランとの出会いなどで色々と盛り上がる所が多く、三者の仲は良好のよう。
特訓の日々も夏休みが目前に控えて来た事もあり、一旦、終了が決まっておりその事を惜しむ会話が浴場の天井に木霊していた。
ざぷっと水音と波紋を立てて、リュー・キッツが無数の湯の滴を身に纏いながら立ちあがり、くねくねと尻尾も動かして湯船から出た。
娘の目から見ても感嘆と羨望の吐息しか出ぬ母の艶姿に、瑠禹は思わず見惚れた。
瑠禹自身類稀な美貌に恵まれたがこの母は、類稀な、という表現でさえ陳腐になってしまう美の主である。
また龍としての力でも自分は本当にこの方の娘なのかと思うほど、差がある。この事は少なからず瑠禹の中で劣等感を育んでいた。
「母様、もうお上がりになるのですか?」
いつもならもっとゆっくりと湯船に身を預けているのだが、今日はいくぶんか早く上がった様に瑠禹には感じられた。
「ええ。ドラン殿は結界の維持と隠蔽でお疲れでしょうから、お背中を流して差し上げようかと」
ああ、なるほどと思い、瑠禹は一度は浮かせた腰を戻したが、すぐに自らの母がなにを口にしたのか理解して、今度は裸身が露わになるのにも構わず勢いよく立ちあがり叫んだ。
「か、母様ぁあ!?!」
なおリュー・キッツの男子浴場への突撃は、瑠禹の他にもセリナやクリスティーナらによって寸での所で阻止された。
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第六十話
今日も今日とて、娘と共にガロア近郊での特訓を終えた龍吉は、龍宮城の中でも十指に満たぬ者にしか入室を許されぬ特別な部屋に赴いていた。
代々龍宮国の国主を兼任する水龍皇が、他の三竜帝三龍皇とお互いの居城に座したまま会談を行う為だけに設けられた部屋である。
単純に遠隔地に居る相手と会話をするだけの魔法道具や文明の利器は多いが、竜帝と龍皇らが使用するものは、物理・魔法あらゆる面での盗聴や妨害を防ぐ極めて高度な霊的防護を施されたものだった。
円形の部屋の中央には始原の七竜が彫り込まれた石製の丸テーブルがあり、それを六脚の漆塗りの椅子が囲んでいる。
天井そのものが白く発光して光源となっており、部屋の中には丸テーブルと椅子以外にはなにも置かれてはおらず、また龍吉以外にも人影は無い。
ただ一つの入り口から入室した龍吉は、最も近い椅子に腰かけると小さく息を吸って吐く。気を落ち着かせる為に必要なささやかな行為だった。
ドランに隠し事をしている事は正直に言って心臓に悪い。
龍吉をしても実力の一端すら窺い知る事の出来ぬ始原の七竜の一柱たるドランは、人間にとってのマイラールやケイオスといった大神に相当する。
ドラン自身はあまりに龍吉が畏まるので、自分達はそれほど高尚な存在では無い、心の在り様は君達となにも変わらないと言っているのだが、龍吉はとてもではないがドランの要望を叶えられそうにない。
存在が発生した時点で絶対の君臨者であったドランと、その系譜に連なるに過ぎない龍吉との間には、いや龍吉だけでなくこの世の全ての竜・龍種の間にはどうしても埋めがたき溝が存在している事を、龍吉は良く理解していた。
そういった意味では、ドランの正体を知らずただ敬慕しているだけの瑠禹の方が、ドランにとっては龍吉よりも親しみやすく心を許した相手かもしれない。
「ふふ、娘に嫉妬とは思ったより私も若いものです。ごめんなさいね、あなた」
今は亡き夫への懺悔を口にし、顔を上げた時、龍吉は女でも母親でも無く水龍皇としての仮面を被り終えていた。
他の五つの椅子の上に、それぞれ色の異なる光の粒が生じ始めると、それらは瞬く間に数を増してドラゴニアンの姿を形作る。
龍吉の左の椅子には火龍皇・項鱗。壮年の男性の龍皇で、ぎょろっとした目付きと口元の細い髭から四角い鯰みたいな印象を受ける。
反対の右側には、珊瑚の簪でうっすらと翡翠のような化が気を放つ髪をまとめる少女が座していた。
三竜帝三龍皇の中でも最年少の、風龍皇・風歌である。
龍吉の正面には三竜帝三龍皇の長老であり、三竜帝筆頭格である白竜帝コンクエスターの姿がある。
ドランを除けばこの惑星で最強最古の古竜であり、今は真っ白い髭と髪を長く伸ばした威厳ある老人の姿を取っており、この場の六名の中でも龍吉と並び一、二を競う実力者だ。
コンクエスターを挟み、龍吉から見て左手側には黒竜帝エングルザード。
髪も瞳も鱗と同じ漆黒の色に染まり、衣服も同色で揃えているから、病人のように白い肌が異様に映える。
まだ二十代半ばの若者の姿を取っているが、先代が早くに亡くなった事もあり竜帝としての在位期間はそれなりに長く、また良く国をまとめている手腕は他の竜帝や龍皇からも評価されている。
最後の六体目は金竜帝ゴルベラム。コンクエスターに次ぐ老齢の竜帝で、近々息子に玉座を譲ると言われているご老体だ。
とはいえ竜人としての姿を取っても龍吉が見上げるほどの逞しい肉体や、圧倒的な気迫に黄金色に輝く後ろに流した髪を見るに、玉座を譲っても色々と口出しをするか裏で積極的に動き回りそうだ。
遠隔地からの映像と音声とはいえ三竜帝三龍皇が集結し、長老格であるコンクエスターが一同の顔を見回すと、会議の始まりを告げる。
今回の会議は龍吉と瑠禹がドランからの誘いを断った、ある事情を論議するものであった。
三竜帝三龍皇はそれぞれが世界の守り手などと名乗っているわけでもないし、自分達をそのような存在だと考えてもいない。
しかしながら地上最強種である事と、竜界に住まう祖先達が悪しき神々と敵対してきた経緯などもあり、地上に魔の手を伸ばす魔界の悪鬼や邪神の眷属と争う事が必然的に多い。
また強力で邪悪な魔界の者共と真っ向から戦う事の出来る者達の中で、最も強大な種族の頂点達と言う事もあり地上を狙う者達から優先的に狙われてもいる。
例えば風龍皇である風歌の住まう天空大陸では、空の青や夜の闇を汚そうとする空飛ぶ魔族達との戦いが続いている。
黒竜帝エングルザードの支配領域では、ある異世界の存在が影を媒介にしてこちらの世界を侵略しようとしているのを日夜防ぐ戦いが行われている。
竜帝や龍皇以外にも霊格の高い一部の人間種や亜人種、巨人族、霊獣などが悪意を持ってこの世界にやって来る魔性の者共や、汚らわしい欲望に突き動かされた愚者との戦いが日夜行われているのだ。
ただドランの転生を知ったカラヴィスが行動を自粛したことで、カラヴィスの信者達の行動は封じられ、かつてカラヴィスの作った神造魔獣は休眠し、少しばかり世界は平穏になった。
「龍吉よ、今回こそ数々の因縁に決着を着ける戦いとなりそうだな」
コンクエスターが厳かに口にした言葉に、龍吉はいつもの笑みを取り払って凛呼とした顔で答える。
ここに居るのは娘をからかうのを楽しむ母では無く、歴代水龍皇の中でも最強と言われる恐るべき戦士だった。
「ええ。長きに渡る因縁の一つをようやく断つ事が出来ましょう」
「龍吉様、このような事態に御助力する事が出来ず、なんとお詫びすれば良いか」
同じ女性と言う事もあり龍吉を実の姉のように慕う風歌は、空の魔物共との戦いで手が回らず龍吉の助けとなれぬ事を心底から申し訳なさそうにする。
風歌ばかりではなく、エングルザードや項鱗もそれぞれの敵との戦いに自国の戦力が割かれ、龍吉に助けの手を伸ばす事が出来なかった。
「風龍皇殿ばかりではない。我ら黒竜の一族も遺憾ながら御助力叶わず、龍吉殿と龍宮国の方々には顔向けが出来ぬ始末」
「いいえ、お二人が頭を下げる事はありませんよ、風歌、エングルザード。今回の事は我が国と私の問題。独力にて必ずや彼奴等を、海魔王共を討ち果たして見せましょう」
「エングルザード、風歌よ、お主らが歯痒い思いをする分は我ら黄金の鱗持つ者が晴らしてくれよう。項鱗よ、お主も気張れよ」
にいいっと獰猛に笑って龍吉に親しげな視線を送るのは、金竜帝ゴルベラム。
老いて尚ますます盛んと言えば良いか、ゴルベラムは他の海魔達の動きを牽制する為に軍勢を動かす役割を引き受けていた。
ゴルベラムに話の矛先を向けられた項鱗も、年長の竜帝と等しい笑みを浮かべる。
三竜帝の黒一点であるこの龍皇は、既に落ち着いても良い年齢であったが戦となれば血沸き立ち、前線で暴れる類の人格の主であった。
「ご老体に言われるまでも無し。あ奴らには友を奪われた借りがある。我が手で返せぬのが口惜しいが、その役割は龍吉に譲るわい」
そして海魔の手によって命を奪われた龍吉の夫の親友でもあった。
二体の言葉に頼もしい味方の存在に小さく笑み、頭を下げる。
今回の海魔との戦いは海の中に住まう者達にとっては、長く続く戦いの分岐点になる大規模な戦いであり、龍吉個人にとっては仇討ちとしての側面もあった。
この惑星の海に存在する魔物共は、七体の王によって統率されている。その海魔七王の一体が率いる海魔の軍勢と龍吉および龍宮国は近く決戦を行うのだった。
その事を龍吉はドランに知らせなかった。
なぜならはるかな太古から行われている彼らとの戦いは、この海に生きる数多の命達の歴史であり、積もり積もった怨恨とこの海に生きる者の矜持を賭けたものだ。
例えドランといえど簡単に割って入って良いものではない。だから龍吉は自分達の力だけで、海魔王との戦いに勝つと決めていた。
それにまだまだ危なっかしい所はあるが、龍吉の次の世代は育ちつつある。
瑠禹に戦いの苦しみを味あわせ無い為にも、龍吉は自身の命に変えても海魔王を滅ぼす覚悟を固めているのだった。
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第六十一話
さて夏休みである。かねてからの約束により、私とセリナ、クリスティーナさん、ネル、レニーア、イリナはファティマの家が所有している海辺の別荘へと出かける事となった。
二度目となる空の旅はセリナやクリスティーナさんばかりでなく、ファティマやイリナ達にも大好評で、きゃいきゃいと姦しく騒ぎっぱなしであった。
私達が降り立ったアークレスト王国南方ゴルネブは、入り組んだ海岸線の続く一帯にある風光明媚な土地である。
海岸線の複雑な形状の為にあまり大規模な漁港はないが、ファティマの家の様に貴族の別荘などが多くそれなりに開発が進められている。
頬を撫でる潮風を浴びて磯の匂いを嗅いでいると、自分達がガロアともベルン村とも違う遠い場所に来たのだと言う実感が湧く。
なんとはなしに感慨深いものを感じていると、私の横にどさりと荷物を置いた女性が潮風を心地よさそうに受けた。
「ふう、海に来るのは久しぶりだが、今回の旅行は楽しく過ごせそうだな」
鋼に金の細工を施した鞘に納めた長剣と着替えの入った旅行鞄を足元に置き、これから過ごす時間に対し、多いに期待を寄せて瞳を輝かせているのは、誰あろうクリスティーナさんである。
「良い思い出が出来るよ」
「そうだな。君達となら良い思い出が出来るだろう」
「ようこそおいでくさいました、ファティマお嬢様。
私共一同、お嬢様とそのご友人の皆さまに心安らかにお過ごしいただけるよう、誠心誠意を持ってお迎えいたします」
うやうやしくファティマに向かって頭を下げたのは、私達を迎えに来た使用人達の先頭に立つ老年の執事である。
明らかに使用人達の筆頭格と分かる一種の凄みにも似た雰囲気を纏っている。
ファティマにとっては見知った顔の様で緊張した風もなく、にこやかに応じた。
「うん、よろしくね~、セバスチャン。連絡した通り私のお友達も一緒だよぉ」
「はい。ご友人の皆さまを歓迎する準備もすべて恙無く」
セバスチャンという執事の背後に控える他の執事や使用人の男女らも、セバスチャンに倣い恭しく私達に向かって頭を垂れる。
ふぅむ、人間に生まれ変わってからこのような対応をされるのは初めてだから、いささかこそばゆい所がある。
港のある山間部から緩やかな下り坂の石で舗装された道の先に、海に向かって突き出た岬の上に建てられた瀟洒な三階建ての屋敷がディシディア家の別荘だった。
真っ白い壁に赤い瓦屋根の対比が美しい。きっと潮風の心地よい過ごしやすい造りになっているのだろう。1
ほどなくファティマの別荘の前で停車した馬車から下りた私達は、ずらりと並んで待っていた使用人の列に迎えられ、ファティマ達を先頭に別荘の中へと足を踏み入れる。
玄関に続く踏み段ひとつ踏むのも畏れ多い様子のセリナと比べ、龍宮城や前世で人間の作り上げたモノとは比較にならぬ豪華さや荘厳さを誇る神殿なり城なりを見て来た私は、さして緊張する事もなかった。
全員が別荘に入ったのを確認してから、ファティマがにこにことこれまで以上の笑みを浮かべて、ホールの階段を背にして私達に向かって歓迎の言葉を口にする。
「みんな~ようこそだよぉ。まずはお部屋に案内するから、荷物を置いたらお買い物に行こう~。それでご飯食べたら海で遊ぼうねぇ」
一旦ホールで別れた私は、眼鏡の執事殿に二階にある部屋に案内された。流石上級貴族の別荘。一人につき一部屋が宛がわれた。
魔法学院ではセリナと同じ部屋で寝ているから、今日は久しぶりに一人きりで過ごす事になるようだ。
荷物を置いた私は再びホールへと向かい、身軽になった全員でさてゴルネブの街に買い物に出かけようという運びになった。
「皆集まったねえ。じゃあそろそろ行こうって言いたいけど、ヴァジェさんがまだだね~。ドラン、何時頃来るの?」
さあ、案内するぞ、とやる気を燃やしているファティマだったが、事前に私が追加を申し込んでいた一人が姿を見せていない事に気付いて、私に話を向けて来た。
「ふむ。場所は伝えてあるし道に迷う様な事もないからもうすぐだとは……いや、今来たようだな」
私が発しているある種の波動に誘導されて、上空から高速でこの別荘地に向かい接近してくる存在を感知し、私は別荘の天井を見上げながらファティマに答える。
さらに私が天井から玄関へと視線を動かすと皆の視線がつられて玄関へと集中し、それを待っていたかのようにがんがん、と乱暴に玄関にあるドアノッカーが叩かれる。
「話をすればなんとかかなあ?」
「噂をすれば影、だな。ふむ。大雑把な所があるから、もっと遅れるか逆に速く来るかと思ったが、ちょうどいい時に来るものだな」
セバスチャンの視線に促されて、玄関の両脇に控えていた執事達が玄関を開けば、その先には腕を組んで傲岸不遜な顔でふんぞり返るヴァジェの姿があった。
「ヴァジェさん、ようこそ~」
ふにゃっと柔らかな笑みを浮かべるファティマに対し、ヴァジェはふん、といつもと変わらぬつんけんとした態度である。
深紅竜というこの地上における強者としての力を誇るヴァジェからすれば、人間種は時々厄介だが基本的にとるに足らない相手という認識である。
それを考えればこの態度も仕方がないか。
直接ここに飛んできたヴァジェは自分に集中する視線を鼻で笑うと、つかつかとファティマに歩み寄って左手に持っていた袋を手渡した。
人間の頭くらいの大きさに膨らんだそれは、ファティマの手の中で金属質の物体が触れ合う音を立てる。
ふむ? ヴァジェが何かを誰かにあげる所など初めて見たが、ひょっとして手土産かなにかのつもりだろうか。
「こうするのが礼儀だとあれがうるさいのでな」
あれ、とは私か。いやまあ、他人の家に招かれたら土産くらいは持ってくるものだと世間話で言った事はあったが、律義に覚えていたのか。
不思議そうにヴァジェから受け取った袋の口を開き、中身を見たファティマはあっと驚きの声を上げた。
ふむ? それほど驚くような中身だったのか、と興味を引かれた私達が袋の中を覗き込むと、そこには眩い光を放つ金銀宝石が目いっぱいに詰め込まれていた。
ヴァジェがねぐらに貯め込んでいた財宝の一部か。竜種の審美眼と財宝を求める本能から考えれば、偽物は一つとしてあるまい。
「別にいいよぉ。宝石とかお金が欲しくってした事じゃないもん」
「ふん、こういうのは気持ちとやらが大事だそうだが、これが私の気持ちだ。黙って受け取る器量を見せてみろ」
返そうと手の中の袋を突きだすファティマに対し、ヴァジェはつっけんどんな態度で突き離す。
傍から見ればヴァジェがファティマに好意を一片も抱いていないようなやりとりだが、これでもまだヴァジェの人間相手の態度としては穏便な方だろう。
ヴァジェと合流してさらに人数の増えた私達は、市街にある駐車場に馬車を預けて徒歩で観光をする事になった。
ゴルネブの街は海沿いに一般の平民の家々が並び、それを見下ろす高い位置に貴族達の屋敷や別荘が建てられた造りになっている。
ファティマはネルと腕を組んで楽しそうに通りに並ぶ店を指さしては、あそこの店の魚料理は絶品、あそこの店は態度は悪いが扱っている品は一流、あそこの店は母親の経営している店、と私達に紹介している。
女性陣はファティマの言動にいちいち感心して質問を返したりしているが、ヴァジェとクリスティーナさんと私は別だった。
「ここはねえ、真珠細工で有名なんだよぉ。養殖もしているから安いのもあるんだあ」
ガラスケースの中の値札を見て、一部の商品は幸い軍資金の許容範囲内である事を確認した私は、ほっと安堵の息を吐く。
ファティマはネルやクリスティーナさんを伴って、店長から一つ一つの品の説明を受けている。
ネルもクリスティーナさんもこういう身を飾るものにまったく縁のなさそうな人達だが、それなりに興味を示している辺り女性らしい所もあるようだ。
「セリナ、欲しいものはあったか? まだいくらか渡せるから必要だったら声を掛けなさい」
「ううん、なかなか目を引く品ばかりです。でも見ているだけでも楽しいですよ」
ラミアが堂々と店内に入って商品を見て回るのはセリナが初の例であったものか、流石に店員達も頬のあたりの筋肉を引き攣らせているが、かろうじて腰が引けるような事はない様子だ。
ふむ、なかなか教育の行き届いていることだ。
ラミアや魔物などを支配下に置いている魔法使いや貴族が来店するにせよ、魔物たちは店の外で待たせるのが慣例だろうからな。
ふむふむ、ではヴァジェはどうかと思ってみれば、ふむん? この竜娘は一心不乱にガラスケースの向こうの真珠を見つめていた。
そう言えばヴァジェは北の生まれであると聞いたが、そちらには広大な陸地が広がり海は遠いはずだ。となれば海のものを見る機会は少なかろう。
以前に龍吉から貰った財宝には真珠や珊瑚もかなりの量が含まれていたが、人間の手から成る細工物はここで見るのが初めてだろうから、興味を引かれているのか。
布面積の少ない腰布から伸びている尻尾がセリナと同じように上下にゆらゆらと揺れている。ふむ、意外に可愛い。
これは面白そうと観察していると、ヴァジェは一つ大きく頷いて腰布の脇に括りつけていた布袋に、一薙ぎで人間の首を斬り飛ばす爪と堅牢な鱗に覆われた手を突っ込んで、大きな掌一杯に金銀財宝を掴みだす。
人間の眼玉くらいあるダイヤモンドやサファイア、エメラルドにルビー、アメジスト、棒状のミスリルの塊なども混じっている。
人間の貨幣価値に関しては、あまり理解していないはずだから適当に取りだしただけだろう。
初めて見るであろうドラゴニアンの客に萎縮している様子の女性店員に対し、ヴァジェは取りだした金銀宝石をガラスケースの上にじゃらじゃらと音を立ててぶちまける。
「そこからここまであるやつを寄越せ」
かちん、と硬い音を立ててヴァジェの指の爪がガラスケースに当たり、ヴァジェの言う“そこからここまで”を指し示した。
「え、は、はい」
「なんだ、足りんのか?」
「いいえ、十分すぎる額です」
紙の様に蒼白い顔色で、店員は五指を広げた両手と首を勢い良く振るう。見ていて可哀想になる怯えっぷりである。
「ならさっさとしろ」
並みの人間では血の凍るような視線を送るヴァジェに、蛇に咥えられた蛙か鼠の様な心持だっただろう。なんと可哀想な。これは尻を叩くだけで済ますわけには行くまい。
「はは、はい! すぐにご用意いたします。少々お待ち下さい」
「ふん、客に待てと言うとはな。とんだみ……きゃっ」
一理あると思わないではないが、いささか言葉の過ぎるヴァジェの尻尾を引っ張り、私は制止した。
「こらヴァジェ、あまり店の人を困らせてはいけないぞ。すみません。これは人間慣れしていないもので」
「誰がこれだ、誰が!」
「まあまあ、そう怒るな。私相手ならともかくお店の人達をお前が睨みつけては相手の心臓に悪い。自分の力と存在と言うものをよく考えて振る舞いなさい」
「ちっ、説教臭い所は変わらんな、お前は」
このように私とヴァジェが会話をしている間に、ファティマ達が私達の近くに来ていてガラスケースの上に無造作に置かれた財宝に目を映すや、感嘆の吐息を零した。
「うわあ、これ全部ヴァジェさんのぉ? すごぉい、お金持ちなんだねえ~」
「全部本物? すごい」
ファティマとネルの称賛にヴァジェは機嫌良く、ふん、と鼻を一つ鳴らす。機嫌の良い時も悪い時もふん、と言うのがヴァジェの癖だ。
「ふん、竜の眷族であればこれ位は当たり前だ」
このヴァジェの竜の眷族であれば当たり前という発言を聞いて、私が竜の生まれ変わりであることを知るクリスティーナさんやセリナ達が私の背中に視線を寄せるのを感じた。
ふむん、一応釘を指しておこう。
「以前ならともかく今の私は何も持っておらんから、期待されても困る」
「そうなのかい?」
うっかり正直に口に出したのはクリスティーナさんである。
ふうむ、その気になれば大陸ほどの宝石や海を埋め尽くすほどの金を無から生み出す事も出来るが、経済を壊滅させてしまうしやるわけには行かんしなあ。
「甲斐性の無い男で済まんね」
機嫌を損ねた振りをして言うと、クリスティーナさんは困った顔をする。もちろん私が本気で機嫌を損ねていない事は分かっている。
気心の知れた友人同士の、ちょっとした遊びみたいなやり取りだ。
「なに、金銀財宝ばかりが男の価値ではないさ」
まったく持って同意ではあったが、ここで何もしないのも甲斐性が無いかな、と思った私は、この店から出る時にこっそり村でお世話になっている人達の分も含めて、真珠細工の装飾品を買っておいた。
ふむ、後で皆に贈る時が楽しみだな。
この後にも貴族向けの店を何店舗か回ったが、その最中で通りに開かれたカフェテリアで腰を落ち着けて休めている時に、不穏な噂を耳にした。
暇を持て余しているらしい下級貴族の婦人らしい四人組が、最近流行の透かし彫りをした扇で口元を隠しながら、まったく隠せていない小声でこんな事を話していたのである。
曰く、この数か月の間、夜な夜な民草が何者かに殺される残忍極まりない事件が多発している。
民草が殺された場所にはなぜか濡れた足跡がいくつも残されており、それらは人間の足跡ではなく水かきがついている。
犯人は人間ではなく海の精霊だ、いや近海に住まうマーフォークでないか? いやいや邪教集団が呼びだした海魔達だ、というものだ。
なんともおもしろげに語る様子からは、実際に何人もの死人が出ていると言うのに、まるで見世物か出し物の話をしているかのように危機感や憐憫の情と言う物が欠乏している。
所詮は他人事、それもいくらでも湧いて出る民草に過ぎない、と言ったところか。
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第六十二話
「うわあ~」
という浮き浮きとした心情を良く表した感嘆の声が、白砂の広がる浜辺に広がって溶けてゆく。
貴族向けの商業区での買い物を終えた私達は、ファティマとその使用人達の先導によって海へと到着し、海を見た事の無かったセリナが心からの驚きと喜びをそのままに大きな声を出したのだ。
クリスティーナさんやネルなどは何度も海を目にした事があるからか、セリナほどに
「えへへ、それだけ喜んでもらえると誘った甲斐があったよ~。ん~でもヴァジェさんはあんまり楽しそうじゃないねぇ~」
ファティマは唯一その事だけが残念そうに、私達から距離を置いているヴァジェの横顔を見る。
「ふむ、ヴァジェは火の属性を帯びているから、どうしても海には馴染めない所があるのだよ。だから傍目にはかなり不機嫌そうに見えてしまうのだ。
とはいえ火属の身で不満を言わずにこうして私達と一緒に居るのだから、そこまで機嫌の悪いわけではないさ。砂遊びか舟遊びくらいなら付き合ってくれるよ」
「そうかなぁ?」
「ああ、私が保証する」
多少渋っても、私が頼みこめば承諾してくれるのではないかと思う。このまま行けば、もっと心を許してくれるのもそう遠い日の事ではないかもしれない。
「ヴァジェ、まるで親の仇を見るような目で海を見るものではないよ。ほら、もっとこう頬の力を抜かんと。ふにゃっとした感じでな」
ぎろり、と海を睨む視線をそのままにヴァジェは私を見て、ふん、と吐き捨てる。
ヴァジェのこの“ふん”や“はん”は、私の“ふむ”と似たような癖に過ぎない。
鼻を鳴らしたからといって、必ずしもヴァジェの機嫌が悪いと言うわけではないようなのだ。
といってもヴァジェの荒々しい気性からすると大抵は機嫌が悪いので、そうでない時の方が珍しいのだけれど。
「ただでさえ締まりの無いお前の顔が緩んでいるぞ。みっともないと自覚しろ」
「ふむ、これは手厳しい答えが返ってきたな。なあ、ヴァジェよ、私は実の所お前の笑顔と言う物をほとんど見た覚えがない。
きっとお前が笑えばとても綺麗な笑顔だと思うのだが、たまにはむすっとした顔を止めてなんとか笑ってもらえないものだろうか?」
私のお願いに、ヴァジェはぷいっと顔を逸らして海の彼方へと視線を戻す。
左右に振られていた尻尾は上下の振りへと変わっていて、紅蓮色の跳ね髪から覗く先端の尖った耳が赤色になっていた。
こやつ、照れておるわい。まったく可愛いお嬢さんだこと。素直なヴァジェも見てみたいものだが、今のままでも魅力的だしな。
「う、うるさい。お前の言う事はいちいち真に受けんと決めたのだ」
「なんだ、寂しい事を言うようになったな。そんな事を言うのなら、もうお前の所に遊びに行かんぞ」
「ふ、ふん、おおお前の顔を見ないで済むと思うと、せ、清々する」
「私はヴァジェと会えなくなるのはとても寂しいぞ」
「ん、んむ、そ、そうか」
ふむん。ヴァジェは不安になっている時は尻尾の先っぽを少し巻く、と。
ヴァジェめ、自分の心情を体が素直に表現していると何時になったら気付くのやら。
私がそうしてヴァジェをからかっている間に、ファティマやセリナはきゃっきゃっとはしゃぎながら、靴を脱いで砂浜に打ちよせる波と遊んでいる。
「あはは、冷たくて気持ちいい~。ドランもはやくおいでよ~」
私も靴を脱いで素足になり、太陽で熱せられた砂に足裏を焼かれながら波打ち際へと向かう。しかし熱いものだな、これは。
私達が思い思いに海というものに反応を示していると、浜に建てられていた家屋に一旦引っ込んでいたファティマがドアから顔を覗かせて、大声で私達を呼んだ。
ふむん、教育係や使用人辺りから、はしたないと叱られないのだろうか? あまり躾の厳しくない、大らかな家柄なのかもしれないな。
「みんな~、こっちに来て来てえ~。水着が用意してあるんだぁ」
この時代この地方で海遊びと言うと、砂遊びや舟遊び、貝殻集めなどの他に、撥水性はっすいせいのある革や布などを使った面積の小さな肌着もどきを着用し、海で泳ぐ事を指す。
首から太腿までぴっちりと覆う物もあれば、乳房や股間部だけを覆ってお腹は露わになっている物、乳房からお腹と股間部までを覆う物、またさらにその上から一枚布を纏うなど、色々とあるらしい。
「ヴァジェ、来ないのか?」
「私に服は意味を成さん。それに海に入る気分ではない。お前はさっさと行くがいい」
確かに自分の皮膚や鱗を変化させて衣服を形作っているヴァジェにとって、自分の思う通りに衣服を作れる事を考えれば、水着などは無用の長物か。
ヴァジェ一人を残す事になるが、ヴァジェも良い大人なのだし勝手にどこかにいって迷子になる事もあるまい。ふむ、少し子供扱いをし過ぎかな?
男子の着用する水着は、基本的に腰と股間部だけを隠して、上半身には何も身につけないかシャツを着る位だと。
婦女子用に比べると使用する布が少ないので、少々お安いらしい。
逆三角形のきわどいものもあったが、少し気恥ずかしいのとそこまで挑戦する気にはなれなかったので、膝丈の半ズボン型の濃紺の水着を選んだ。
女性の着替えと言う物は時間がかかるから、私は暫く待つ事になるだろうと覚悟してヴァジェと話でもして暇を潰そうと、眼鏡執事殿に一言断ってからヴァジェの下へと向かった。
まだ海と睨めっこをしているのかな、と玄関の扉を開いてみれば、私の視界に映ったのは、ヴァジェの肉付きと形の良い尻とそこから伸びる深紅色の鱗に覆われた尻尾で変わりはなかった。
ヴァジェのお尻と尻尾に変化はないのだが、変化は別の所にあった。
後ろからだと少々分かり辛いものの、どうもヴァジェの服が変わっている様な気がしないでもない。
元々臍は出ているわ、胸元が開いて胸の深い谷間が見放題だわ、太腿が露わで足の付け根が見えそうなほどスカートの丈が短いわ、というヴァジェの格好だったがそこからさらに丈が短くなっていた。
「ふむん」
おや? という意味の口癖を零し、私は砂浜に足跡をつけながらヴァジェの横を回り込んで、気性の荒い気難しいお嬢さんの顔を正面から覗きこむ。
ヴァジェは腕組みをして海と睨めっこしているのは変わらなかったが、どうやら私の予想は当たっていた様で、私達が着替える前とは格好が変わっていた。
普段は薄桃色の薄布の着衣という扇情的な姿のヴァジェだが、いまはさらにその過激さを増しており、同じ薄桃色の小さな三角形の布地で押さえつけられている乳房の大部分は、ほとんど溢れんばかりである。
これは少し動いただけで全部零れてしまうぞ。なんとまあ大胆な水着姿を晒しているものだな。
ヴァジェはじろりと私を見る。組んだ腕に圧迫されて、余計に乳房が強調されていて、大変な絶景であった。
「あの女どもはまだ着替えが終わらんのか?」
「体の一部を変化させればいいお前とは勝手が違うのだ。あまり急かしてやるな」
「ふん、そういった教育位してはどうだ? 付き合いは浅くなかろう」
「こう言う時は女性には思う存分支度をしてもらって、それを待つのが男の甲斐性と心得ているよ」
「お前は本当に腑抜けだな。ふん、まあ、私には関わりの無い事だ」
「ふむ、相変わらず手厳しいが、そのように言ってくれる相手が私の周りでは少ないからな。
ヴァジェの意見は貴重なものと参考にさせてもらっているよ。時にヴァジェよ、その水着姿だが」
「ふん、この格好は人間どもがこういう場所ではこういう格好をするようだからそうしているまでのことだお前が口うるさく人間どもの居る場所では人間の慣習に従えと言うからわざわざ言う事を聞いてやっているのであって断じて……」
「良く似合っているよ」
私の一言に、ヴァジェは止まる様子の無かった口を閉ざし、尻尾はぴんと針金でも通された様に伸びて固まる。
ふむ、効果は抜群と言ったところか。最近、ヴァジェの扱い方が分かってきたな。
「断じて…………そ、そうか?」
「うむ。竜の姿の時もそうだったが、ドラゴニアンの姿を模している時は暴力的なほど魅力的な肢体がより顕著になるから、その格好は少々刺激が強すぎるとは思うがね」
「うう、うるさい。人間の慣習に従ってわざわざこのような格好をしているだけでも、私がどれだけ譲歩してやったと思っている!」
ヴァジェが俯いて何も言わなくなってしまうと、ようやくファティマ達の着替えが終わり、外に出て来た。
「ドラン、皆着替え終わったよ~」
「ふむ、思ったより待たずに済んだな」
私を呼ぶファティマの声に振りかえれば、思い思いに水着に着替え終えた女性陣がいた。
下半身が蛇のセリナの場合は水着の調達が難しかったようで、オレンジ色の腰布を巻いて、編み込みの入っている胸布をあてているくらいだったが、それでも海に遊びに来ているという状況も相まって、普段の倍くらい可愛らしく見えた。
もちろんそれは他の皆にしても同じである。
ファティマはオレンジ色のワンピース型で、胸元のあたりからスカートみたいに長い布が垂れている。ふむ、なんという水着か分からん。
人見知りで自分に自信の無いイリナはホルターネックの緑色の地に、格子模様の白い線が入ったワンピースで、この上に夏用のセーターを重ねている。
レニーアは、この少女が自分で水着を見たてるとは思えないから、ファティマとイリナが着させたものだろう。
腰周りや肩口にふんだんにフリルをあしらい、首や胸元、背中は大胆に露出した意匠の水着だ。
イリナだけは乳房がどどん、と飛び出ているが、ファティマやレニーアは、どうも可愛い妹か娘の姿を見ている様な気分になる。
少々意外な感はあったがクリスティーナさんも着替えており、胸部と股間部だけを覆う、露出が多いが動きやすい意匠の白い水着だった。
水に濡れていろいろと透けてしまいやしないかと要らぬ心配をしてしまったが、まあ、なにかしらの対策はしてあるだろう。
クリスティーナさんはあまり海に入るつもりがないのか、水着の上に薄手のカーディガンを羽織って、鍔の広い麦わら帽子を被っている。
ネルも動きやすさを意識したのか、四肢の付け根がはっきりと見える青地の水着に着替えていて、魔法学院の男共の目に晒された事の無い素肌が露わとなっている。
二人とも透けるように肌が白いから、日焼けして肌が痛みはしないだろうかと心配だが、良く見ると他の皆も肌がなにやら艶掛っているし、日焼けを防ぐ軟膏かなにかを塗ってあるのだろう。
「これはまた刺激的すぎるな。ゼノン達が私に嫉妬の火山を噴火させるのも当然か」
魔法学院のクラスメイト達がこの光景を前にしたら、その場で卒倒するか絶頂に達してしまうかもしれない。
「ん。日々鍛えたこの身体、当然の評価」
ふん、と自慢げに鼻息を零し、ネルは私に対して見せつけんばかりに腰に手を当てて胸を張る。
うっすらと筋肉の乗ったネルの肢体は、日々の鍛錬によって絞り抜かれている。
確かに褒めてはいるが、ネルらしいとは思うがその受け取り方はどうだろうか、ネルよ。
「ふふ、ありがとう。褒めてもらえて嬉しい。だが少し鼻の下を伸ばし過ぎだな、ドラン」
ネルが珍妙な反応を示す一方で、クリスティーナさんは恥ずかしげに笑いながら、私を軽く窘める。
「それは無理な相談だ。これだけの美女美少女を前にして何の反応も示さんのは、男としての機能が終わっているか、異性に興味がない人間位のものだろう。私も人並みの欲求はあるのだよ」
厳密に言えば肉体の欲求は、であって精神的にはあまり無いのだけれども。
「君はまだ若いのに枯れた印象があったが、さて安心するべきか、身の危険を感じるべきか悩みどころだね」
確かに同い年の男子生徒と比べると私は女性陣に対し、いやらしい眼をしていないともっぱらの評判だ。
あいつは女に興味が無いんじゃないか、という聞き捨てならない噂まで立てられている始末。もちろんそのような噂の発生源は即座に摘み取ってやった。
「ふ、ドランさんの御眼鏡にかなう女どもが魔法学院にいないだけの話だ」
どこか不機嫌そうに口を挟んできたのはレニーアである。
曲がりなりにも女神であるカラヴィスに造り出された身としては、父と慕う私が同性愛者扱いされるのは許容しかねるらしい。
「レニーアか。随分と可愛らしい水着だが、自分で選んだのかい?」
「いえ。私は身を飾る事に頓着せぬ性分ですので、ファティマとイリナに任せました」
なるほど、というよりはそれはそうだろうな、というのが私の正直な感想だった。
これまでの付き合いでレニーアが私と出会うまで、自己の魂を解放する事にしか興味を抱いていなかったのは周知の事実。
身を飾る事に興味など抱く筈も無いし、今でもそれは変わらない。イリナが必死に女性らしさを身に着けさせようと努力しているが、あまり実は結んでいないな。
「れ、レニーアちゃん、何でも良い、とかさっさと選べ、としか言わないから、苦労しました」
「レニーアらしいが、もう少し女の子らしい意識を持ちなさいというのは、君には酷だろうな」
「ど、ドランさんがそうしなさいと言われるのであれば、不肖このレニーア、イリナの手を借りてでも女らしさとやらを身に着けて御覧にいれます」
ふむ、欠片も自信が無さそうな顔をするな。レニーアなりに自分が女らしさという概念と縁遠い事を、理解しているようだ。
「いや、君は今のままでも……あー、もう少し他者へ関心を抱くようになれば良いとは思うが、無理に自分らしからぬ事をしようとしなくて良いと思うよ」
「はい」
ほっとした様子のレニーアに、私とイリナはそろってくすりと笑う。こんな弱気なレニーアを、イリナは初めて見た事だろう。
いつまでも皆の水着姿を堪能したい所であるが、滅多に来られない海に遊びに来ているのだから、こちらもまた堪能しなければ損という物である。
海遊びの経験がある貴族娘三人に、どう遊ぶのが良いか尋ねて私達はその日の午後一杯、思いっきり遊びつくした。
*
水平線の彼方にまん丸い夕日が沈むまで体力の続く限り遊びつくし、心地よい疲れが全身に広がってから、ようやく海で遊ぶのを止めて体の上に残っている塩や海水を洗いに家屋へと戻った。
私は真っ黒によく焼けたが、予め日焼け止めの軟膏を塗っていた女性陣はあまり日焼けをしていない。
小麦色に焼けていた方がより健康的だとも思うが、白いままと褐色ならどちらのほうが良いかと言われると選び難い選択肢だ。
体を綺麗にして着替えを終えた後は、夕食と湯浴、そして就寝の為に別荘へ戻る予定が立っているのだが、まったく、楽しい時間が過ぎるのはあっという間だな。
麦わら帽子が気に入ったのか、もとのシャツ姿に戻っても麦わら帽子を被ったままのクリスティーナさんが小さく鼻歌など歌っている姿に、私は小さく笑みを零していた。
だいぶ歩いて別荘がそろそろ見えて来た頃、夕日は水平線に半ばまで沈み込み、辺り一帯を、血を連想させる鮮烈な赤色に染めていた。
赤い赤い、禍々しささえ感じる赤色である。
まるで沈みゆく夕日が世界に穿たれた穴で、そこから血が滔々と流れだしているような。だからそれが“彼ら”を招いたのかもしれない。
それまでクリスティーナさんと談笑していた私だったが、海から岩壁をよじ登って近づいてくる気配に、この上なく良かった気分を台無しにされた。
別荘に置いて来た長剣を転送で取り寄せる私に続いて、レニーア、クリスティーナさん、ネルが反応してそれぞれの獲物を手に取る。
ぷんと潮の香りが強まった。ただし嗅いだ肺が爛れるような腐敗臭が混じっている。
嗅ぎ覚えのある悪臭に、私はふむ、とひとつ零して貴族の夫人らが話していた謎の殺人事件を思い出した。
ひょっとして、いやさひょっとしなくても下手人はこやつらか。
私は、私達に襲いかかろうとしている相手が海魔である事を周囲に警告する。
「海魔の眷族だ。水属の攻撃は厳禁です」
海辺に出没する魔物や妖魔となれば、当然水の属性は帯びているものだから武装に水の魔力を付与させてはいまい。余計な心配かもしれないが、それで済むなら幸いだ。
およそ戦う事に向いていないファティマが周囲の私達がにわかに殺気立つ事に慌てる頃になって、岩壁をよじ登ってきた異形が姿を表した。
岩壁の縁に水かきのついた緑色の鱗に覆われた手がかかり、そこを支点に人ならぬ異形達が飛び上がって、その姿を私達の目の前に露わにする。
身長が私の倍にも達しようかと言う二足歩行の魚人。
全身を覆う鱗は緑や青、赤と様々な色を散らしており、小さな貝や海藻が付着していて海水を滴らせている。
口や指先には研いだように鋭い牙や爪が伸びている。マーフォークやマーメイドとは異なり、善神が生み出した全存在と敵対する邪神側が生み出した海魔の最下級兵どもだ。
さて一手目を取るのは私達か海魔の雑兵のどちらか、と私が取り寄せた長剣を弄んでいるとやにわに私の頬を莫大な熱量が嬲る。危うく、頬の皮が焼ける所だ。
足元の石畳が融解してしまいそうな炎を全身から発して、ヴァジェがこれまた凄まじい形相で海魔兵達を睨みつけていたのだ。
これは、私が面白半分で振り向かせたヴァジェの頬を突いた時とは比べ物にならん怒りようである。
「下賤な海魔の眷族風情がのこのこと姿を見せて、せっかくの良い気分が台無しだ。
竜の炎は魂魄まで焼き尽くすと、貴様ら自身でたっぷりと味わうがいい!」
どうやらファティマ達と話をするのは、ヴァジェにとってとても楽しかったらしい。
そしてそれを意図せず邪魔した海魔の兵達は、ヴァジェの怒りを買う事になったわけだ。
既に愛剣を抜いていたクリスティーナさん、魔法の詠唱を終えて待機状態にしておいたネルやシエラ達は、ヴァジェの発する怒気に当てられて動きを止めている。
特に竜殺しの因子を持つクリスティーナさんにとっては、怒れる竜であるヴァジェを前にしてなにかしら体に負担が掛っていてもおかしくはなさそうだ。
ヴァジェの纏う紅蓮の炎と本気の怒りと殺意を真っ向から浴びて、私達に襲い掛かる一歩手前だった海魔達は尽く足を止めた。
私達、というかヴァジェがこれまで餌食にしてきた獲物とは格が違う事に、ようやく気付いたのである。
「腐った水の匂いがする貴様らの魂、欠片も残さず燃やしつくしてくれる」
胸の内では激情が燃え滾っているだろうに、牙を剥き出しにして火を噴くヴァジェの口からは重く静かな声音が出ていた。
これは、どうやら本気でヴァジェが怒っているらしい。
それまで人間の肌を纏っていたヴァジェの肘から肩までが竜鱗で覆い尽くされ、ヴァジェの五指がより太くより鋭いものにかわり、ドラゴニアンの姿がより戦いに特化した物へと変わる。
GYUUUU、と人間の耳にはひどく不愉快な叫びを上げて海魔達が動く。
海魔がびしゃりと音を立てて海水をまきちらしながら石畳を踏み、包囲網を狭めて襲い掛かってくる。
合わせてクリスティーナさんも愛剣を右手に動きだそうとしたが、それよりもヴァジェが放った炎が迫りくる海魔達を呑みこむ方が早かった。
水の属性を持つ海魔達を相手に火の属性は相性が悪いのだが、火竜の上位種たる深紅竜のヴァジェが放つ炎は、格下を相手にその程度の相性の悪さなどまるで問題にしない。
色とりどりの鱗に覆われていた海魔達の肉体はヴァジェの言葉通り、一握の灰へと変わり魂は欠片一つ残さず燃やしつくされる。
レニーアはヴァジェの炎を鬱陶しそうに見ながら、灰になった海魔達にこれ以上ないほど侮蔑の色を乗せた視線を向ける。
「お父さ……げふん、ドランさんの御傍に居るのだからこれ位は出来なければなるまい。私達に要らぬ手間を掛けさせなかった事は褒めてやるか」
「レニーアちゃん、あんまりそんな事を言うと、ヴァジェさんが怒っちゃうよぉ!」
ヴァジェの桁外れの戦闘能力を目の当たりにして、イリナが泣きそうな顔でレニーアを窘めるが、レニーアはまるで気にも留めない。
ああ、この二人は一生涯こんな関係なのだろうな。
「深紅竜の怒りなど恐れるに足りん。お前もいい加減それ位理解しろ」
「うう、でも危ないもん。レニーアちゃんが怪我したら、私、泣いちゃうよぉ!」
「むぅ」
ふむ? 既に涙ぐんでいるイリナの心からの叫びを受けて、レニーアは口をへの字に曲げて反論の言葉を飲み込む。
ふむふむふむ、レニーアめ、自分が意識していない所でイリナには大分甘いというか弱いらしいな。
ふふ、イリナとの付き合いを続けていけば、レニーアはより人間的になって行くだろう。
ヴァジェは海魔を灰にしてもまだ気は済んではいないようで、ぴりぴりとした雰囲気を纏っている。
今のヴァジェに触れれば、触れた指は炭と化して崩れ落ちるだろう。
「お前達は早くファティマを別荘に連れて行け。あそこも完全に無事とは言えんが、ここに留まるよりはマシだろう」
ヴァジェの口から出て来たのはファティマの身を気遣う言葉だった。どうやらファティマの事を特訓での日々に加えて、海に来てからの短時間で本気で気に入ったらしい。
眼鏡執事殿は両手に純銀のダガーを握ったまま、いぶかしげにヴァジェに問い返した。
「それはどういう意味です?」
「ふん、鈍い奴め。あのセバスチャンとやらならすぐに察するだろうがな。風に血の匂いが混じっている。薄汚い海魔どもが姿を見せたのはここばかりではないということだ」
見ればゴルネブの市街の海岸に近い所から煙が立ち上り、にわかに騒がしさが増している。
海魔どもめ、どうやらかなりの数でゴルネブを襲っているようだ。しかしなにを目的にわざわざこの街に攻め込んでいる?
「私はこのまま屑どもを灰にしてゆく。お前達はさっさと別荘に戻るんだな」
「ふむ、私もヴァジェに同道しよう。ファティマはシエラとネルとイリナと一緒に別荘に戻れ。
そして別荘の護衛の方々と一緒に、逃げ場を求めて来た人達を保護して欲しい。受け入れの方はファティマの判断に任せるが」
突然姿を見せた海魔に固まっていたファティマだったが、私に名前を呼ばれた事と自分にできる事を端的に告げられたことで、意識をはっきりと取り戻した。
「う、うん。分かったよ。街の守備兵の人達にも話を通して、逃げて来た人達を受け入れる準備をするよ!」
流石にファティマもこういう切羽詰まった時には、いつものようなのんびりとした話し方ではなくなるらしい。
ネルは私達と一緒に海魔の殲滅に動きだしたそうな顔をしたが、すぐに傍らの親友への心配で心を埋めた。
「ん、ならファティマと逃げて来た人達は私達でしっかりと守る。私の分まで海魔を血祭りに上げてきて」
「任せておきたまえ。根こそぎ駆逐してくる」
セリナは当然私と一緒に行く気満々で、既に私の傍らに居る。クリスティーナさんもエルスパーダを携帯していた事を幸いとばかりに、同道を申し出て来た。
「なら私はドランとヴァジェについて行こう。魚の化け物と戦うのは初めてだが、やってやれん事は無かろう」
「さっさとしろ。私は海魔共を灰にしたくて仕方がないのだ!」
苛立ちを露わにするようにヴァジェの周りで一瞬炎が燃え上がる。何時にもまして沸点が低いが、状況を考えればそれも仕方がないか。
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第六十三話
ヴァジェの翼を借りてゴルネブの居住区の一角に到着した私、クリスティーナさん、セリナは、乱暴に放り出されて石畳の敷かれた通りに降り立った。
相変わらずレニーアはヴァジェの尻尾を掴んでいたが、嫌がらせのつもりなのか思念竜の爪を具現化してヴァジェの鱗に軽く食い込ませている。
私が感知した海魔の気配が漂う場所は、広い敷地を持った四階建ての屋敷だった。
背の高い塀に囲まれた敷地には色とりどりの花が美しい庭園が広がり、瀟洒な東屋や人工の池に噴水が設けられていて贅を凝らした見事なものだったが、屋敷の中から出て来た海魔の群れが我が物顔で歩き回っていては台無しだ。
ヴァジェは口の端から炎を零しながら羽ばたき、私達を見下ろして告げる。
「私はこれから海の方の屑共を始末してくる! お前達もさっさとここの生臭い屑共を片付けろよっ!」
ヴァジェは一度だけ鬱陶しそうに尻尾を握るレニーアを見たが、レニーアの方は私を見ているばかりで自分を欠片も意識していないのを察し、苦々しく表情を歪めるに留める。
「分かっているよ。ヴァジェ、レニーア、君らならば心配は無いと思うが、海魔将や大型海魔獣が出てきたら十分に気を付けなさい」
「はん、高位の偽竜共が姿を見せればともかく、下等な海魔獣なぞ物の数ではない! それよりも偽りの海竜共の相手をしたい所だ」
レニーアが、ヴァジェの闘志に満ちた台詞に触発されてか、ふふんと高慢な笑みを浮かべて私に話しかけて来た。
「こやつは海魔共の腹に納まるかもしれませんが、私はドランさんに恥じる事の無い戦いをして見せましょう」
相変わらずのレニーアの台詞に、ヴァジェのこめかみに太い血管が浮かび上がり、周囲の気温が急激に上昇して行く。
今にも命懸けの死闘を始めそうになっている二人を見ると、この組み合わせで海に向かわせるのは間違いのような気がして仕方がない。
「いがみ合うのはそこまでにして、早く行きなさい」
仕方なく私が注意して、ようやくヴァジェは方向を転じて海の方へと向かって行く。
その尻尾に掴まっているレニーアは、最後まで私の方を振り返って手を振っていた。ふむん。
遠ざかる深紅竜のお嬢さんを見送ってから、私達は改めて周囲の状況へ視線を走らせる。
通りには先程私が始末した海魔共の死体が転がり、腐った魚と水の臭いが辺りに充満していて鼻の粘膜が悲鳴を上げている。
「街の人達はもう逃げ出しているみたいですね。辺りに、その、死体もありませんし」
取り出したハンカチで鼻と口を覆うセリナが、眉を顰ひそめながら言う。
私の放った自動追尾術式を組み込んだエナジーレインが、ゴルネブに出現した海魔の第一陣を全滅させているから今の所ゴルネブの市民に死傷者は出ていない。
だがこの屋敷の中や海から攻め寄せて来る海魔共を片付けなければ、いつかは怪我をする者が出てくるかもしれない。
無人の邸内を進んだ私達は、主人の部屋と思しいひと際大きな部屋に、嵐の海を繊細かつ大胆な筆使いで描いた絵画が壁に掛けられていて、その奥に地下へと繋がる隠し通路を発見した。
絵画を外し、壁と同化して一見しただけでは分からない様に擬装を施された隠し扉を、クリスティーナさんがエルスパーダを二度振るって無理矢理斬り開く。
地下への通路が開けた途端に私達の全身を生温かい潮風が包みこみ、その気色の悪い暖かさに、クリスティーナさんとセリナが揃って怖気に体を震わせる。
現在私が継続行使中の大気浄化魔法で悪臭は無いが、これから向かう先に碌でも無いものが待っていると、誰もが理解していた。
「気は進まないだろうが、行こう」
私が先頭に立ち、隠し扉の向こうに繋がっている下り階段を踏みしめると、壁の左右に埋め込まれた蝋燭に自動で火が灯り、先の見通せぬ階段の先までかすかな明かりの列が生じる。
階段はぬるぬるとしており、少し気を抜くと足を取られて転倒してしまいそうになる。
このぬめりこそが海魔の足にとっては快適な足場なのだろう。
地下に繋がっていた洞窟の先は開けた円形の広場となっており、半分ほどは海水によって埋め尽くされて半月状になっている。
残りの広場は元々岩場だったのを後から均ならしたようで、所々に立てられた燭台に照らし出された足元は、黒曜石を思わせる色合いと艶を放っている。
足を踏み入れる私達を、広場の中央に立つひと際体が大きく老齢の海魔が迎えた。
老海魔はこの屋敷の主人だったのか青いガウンを羽織っていて、首元や腕、足首にいくつもの宝石を埋め込んだネックレスや腕輪を何重にも巻くなど、分かりやすい成り金の格好をしている。
「よもやこのような女子供に我らの計画を阻まれるとは。この地で人間に紛れて根を張り二百年、一瞬にして二百年の労力を無にされるなど夢にも思わなんだ」。
「二百年か、無駄な努力だったと諦めるが良い。邪神に産み出された貴様らの魂は肉体が死すれば大抵は創造主へと還る。
だが私はお前達のような手合いと戦う時は、その魂も滅ぼさねばならぬと昔学んだのでな。神と一体になる栄誉を得られずに死ぬと心得よ」
じわり、と私の魂が産み出す魔力がより古神竜としての質を高めた事に伴い、雰囲気が変わった事に後ろのクリスティーナさんとセリナが困惑するのが感じられた。
特に私と極めて因縁の深い竜殺しの因子を保有するクリスティーナさんは、敏感に察知した事だろう。
「ふざけるな! 我らが王の大望を叶えんが為、我ら一族は産まれた時よりこの生命を捧げたのだ。貴様らのような小童共に阻まれてなるものか。
同胞よ、暗き海、腐った水、怨嗟と共に流れる潮の同胞よ。古き海魔アガナの声に答えよ!」
老海魔アガナの掲げた杖が青い光を四方へと発し、それに応じて背後の海面がにわかに泡立ち始めて、無数の影が飛び出してアガナと私達との間に着地する。
全身に纏った腐った海水の滴で足元を濡らし、五十以上の海魔達が私達の行く手を遮った。
アガナの持つ杖は遠方の同胞に呼び掛けるだけでなく、少数だが即座に持ち主の所に空間転移で呼び寄せる機能があるようだった。
「同胞よ、愚かなる侵入者達の骨まで食らい尽くすのだ。ここは我らの神の加護強き場、外で貴様らが戦った同胞とは一味違うぞ」
確かにここは海魔の気と魔力で満ち満ちており、海魔に莫大な恩恵を与えている。
生命力や魔力をはじめとした諸々の能力が、二割から三割は増している事だろう。
だがいちいち自慢げにそんな事を口にするよりは、さっさと新たな海魔共に私達を襲わせるべきだ。
長く人間の富裕層に紛れて暮らしていたせいか、アガナは戦闘に関する勘が鈍り切っている。
「我が血に宿る蛇よ 汝の毒牙を我が敵に突き立てよ ジャドゥーク!」
ほら、とっくに詠唱を終えていたセリナが具現化させた魔蛇が手近な海魔へと襲い掛かったぞ。
そんなだから、魚と人間と蛸がごちゃ混ぜになった顔に驚きの色を浮かべる羽目になるのだ、老いたる海魔よ。
魔蛇の牙がずぶりと何層もの鱗と肉を貫いて海魔に突き立てられ、薄紫色の毒液が体内へ大量に注ぎこまれる。
海魔は全身に廻った毒によって体中の穴と言う穴から血を噴き出して、断末魔の悲鳴を上げる暇も無く絶命する。
アガナはセリナの奇襲に虚を突かれて動揺するが、その他の海魔達は日夜水龍や魚人達と戦っている現役の戦士であるから、微塵も動揺することなくこちらへと襲い掛かってくる。
「数だけの敵だな。これなら君の出番無しに決着を着けられそうだぞ、ドラン」
「たぶん、普通の戦士や魔法使いだったら、四、五倍近い数を用意しなければならない局面の筈なのだろうが……」
「それはまあ、私達だからな。では行くか」
全身に身体強化魔法を施したクリスティーナさんが、エルスパーダに魔力の刀身を被せ、刃長さを大幅に延長して海魔の群れに突っ込んだ。
セリナの召喚した魔蛇が長大な蛇体をくねらせて海魔の行動を制限する中を、クリスティーナさんは風に愛された様な身のこなしで駆け抜けて、エルスパーダを触媒とした魔力の刃で次々と斬り裂いて行く。
「海魔の神の加護か。私達にとっては瑣末な差に過ぎんな」
頼もし過ぎる味方二人のお陰で、私はあまりする事はなさそうだ。
クリスティーナさんは相変わらず人間の規格外だが、セリナも私と出会ってからの戦闘の数々によって、すっかり武闘派の一流魔法使いと化している。
私の鱗を使ったペンダントによる加護も考えれば、ラミアクイーンの域にまで届いているかもしれない。
結局この戦闘で私がした事と言えば、精々、慌てて新たな仲間を呼び寄せようとしているアガナの頭と心臓を、エナジーアローの二射で吹き飛ばす位であった。
*
アガナの持っていた杖に封印を施し、姿を見せた海魔の掃討を終えた私達は、ヴァジェとの約束通りに海岸での戦いの様子を見るべくそちらへと急行した。
市街を守る警備兵への説明は、一旦海魔共を退けてファティマやネルと合流してからの方が面倒は少なくて済むだろう、という考えもあった。
アガナの所有していた屋敷以外にゴルネブの内部に入り込んだ海魔や進入路は無く、ファティマの別荘に襲い掛かる海魔も居ないから安心して市街を後にできる。
海岸沿いの通りに出た私達は、海魔の成れの果てと思しい灰や高熱によって融解してすり鉢状に抉れた断面が硝子状になった砂浜や、あるいは円形状に巨大な孔を穿たれた海底を目撃する事となった。
レニーアの念動によって五体をばらばらに引き裂かれた海魔の残骸もあったが、意外と数は少ない。
これは原型すら残らぬほど微細に砕かれたからに違いあるまい。
それにレニーアの破壊念なら、海魔の魂さえも打ち砕いて二度と転生も再生もできない状態に出来るだろう。
「これはなんというか、自然破壊で訴えられるのではないか?」
海岸の一部とはいえ、風光明媚な観光地として知られたゴルネブの地形を変えた事実を前に、クリスティーナさんが口元を引き攣らせながら言う。
賠償なぞされようものなら一体どれだけの金額になるのか、と考えていたのかもしれない。
金銭感覚は平民と変わらぬから、クリスティーナさんにとっては胃が痛くなる様な金額を想像しているのだろう。
「ええっと海魔の侵略から人命を守る為ですから、訴えられたりはしないのではないでしょうか?」
そういうセリナも何とも言えない表情を浮かべており、内心では意外と焦っているのかもしれない。
二人の危惧も分からぬではない。
つい先ほどまでファティマやネル、イリナと共に遊んでいた砂浜の光景は別の土地であったかのように、今、私達の目の前に広がっている光景はその様相を別にしているのだから。
「いざとなったらヴァジェが貯め込んでいる財宝で支払わせよう。あれで結構貯め込んでいるから、なんとか賄えるだろう」
「ヴァジェさんが暴れかねない事を平然と口にしますね、ドランさん。ええっとレニーアさんとヴァジェさんは、居た。あそこに居ますよ!」
砂浜に降りる階段を目指して足を進める中、セリナが指差した先を見れば、思念によって自分自身を浮遊させ、沖に出たレニーアが思念竜を纏いながら海の中に潜る所だった。
波打ち際から沖に至るまで赤黒い海魔の血によって海面は染まっており、海魔の肉や内臓の一部が波間に漂っている。
「レニーアは思った以上に張りきったらしいな。傷を負った様子も無いから、まずは一安心だが、ヴァジェは思ったより手こずっているか」
ヴァジェは赤黒い海面から飛び出した、細長い烏賊の足らしい物体三本に体を絡め取られていた。
形の良い臍が剥き出しだったお腹や、私の手から大きく零れる位大きな乳房の谷間、瑞々しい肉と女脂の乗った太腿に赤黒い海水で濡れた烏賊足が絡みつき、ヴァジェの顔には苦悶の色以上に不愉快さの色が濃い。
ドラゴニアンの姿に変化していても、本来成体の竜であるヴァジェは、見た目以上の質量と頑健さを備えている。まだ苦悶の色を浮かべるほどの圧力は無いのだろう。
濡れそぼった触手に絡みつかれたヴァジェの体は、海水に粘液でも混じっているのかてらてらとぬめり輝き、外に跳ねる癖のあるヴァジェの長い髪や脇の下に脇腹、頬や首筋は濡れて、豊かな肢体に押されてぱんぱんに張りつめている衣服が透けつつあった。
ヴァジェのお腹や胸、太腿、首に絡みつく烏賊かなにかの足は数を増しており、いまやヴァジェの姿はぬらぬらと輝く白い足の中に埋もれていて、顔や爪先、尻尾くらいしか見えない。
だが、よもやこの程度で降参するほど可愛くできてはいまい。なあ、ヴァジェよ?
私の心の中の声が聞こえたわけでもあるまいが、拘束の真っただ中にあるヴァジェの全身からこちらの肌を焼かんばかりの炎が噴き出したのは、私の心中の呟きとほぼ同時だった。
「跡形も残さんぞ!!」
ヴァジェの怒号と共に発せられた紅蓮の炎は四方へと広がり、周囲の薄闇を見る間に払拭する。
その眩さに私が目を細めたその先で、ヴァジェの体を拘束していた烏賊もどきの足達のみならず、海中に姿を隠している持ち主達も、見る間に消し炭に変わり、生温い上に生臭い潮風にさらわれてぼろぼろと崩れさる。
セリナとクリスティーナさんが軽く引いてヴァジェを見ていると、ヴァジェの方も私達に気付いて、こちらへと緩やかに翼を打ちながら降下してきた。
「ふん。図体がでかいことしか取り柄の無い連中だったな」
いつもと変わらぬ傲岸にさえ感じられる調子でヴァジェは呟くが、いつもよりも自慢げに、どうだ! とばかりに胸をそらしている。
「ご苦労さま。見事なものだったぞ、ヴァジェ。流石は深紅竜と感心した」
私は社交辞令のへたくそな性格であると自負している。
したがって相手を褒める時は本当に褒めている。
それが分かるのか、ヴァジェはふふんとさらに自慢気に鼻を鳴らして、尻尾をふりふり動かした。
心なしか頬と口元も緩んでいるように見受けられる。
ヴァジェは気難しい所はあるが、気を許した相手には実に分かりやすい態度をとる。
付き合い方を覚えるのは、そう難しい事ではないだろう。
「ふふん、当たり前だ。下劣で下等な海魔の眷族ごときに後れをとる私ではないからな!」
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第六十四話
海の奥底で海魔達が行っている儀式の間は、巨大な円柱状の空間だった。
地上世界と大魔界との次元の狭間に海魔の神によって作りだされた、亜空間である。
果ての無い曇天の空と底の無い青黒い海が延々と広がっているが、周囲をぐるりと壁が囲んでおり、無限の高さと深さを誇るが横の広がりには限度があるようだ。
次元の仕切りの役目をしている壁は、隙間一つなくありとあらゆる生物の頭蓋骨によって埋め尽くされ、空気は淀んで腐り、肺も皮膚も咽喉もすぐさま腐って病んでしまう。
空中に浮かぶドランの足元は青黒い水によって満たされ、所々に鋭く突き出た岩石が覗いているが、水底の深さは見通せない。
そして中央には石造りの簡素な祭壇と、それを乗せる魔法学院の本校舎よりも巨大な岩石が聳そびえている。
祭壇の頂上部では海魔獣の生皮製ローブを纏った老海魔が、透明な珊瑚の杖を掲げて絶えず呪言を唱えている。
大魔界に存在する海魔界に居る神と、交信する為の海魔族の神秘言語であろう。
常人が耳にすれば即座に脳が腫瘍に塗れ、精神は汚辱される汚らわしさと禍々しさを含んだ旋律と韻が踏まれている。
絶え間なく神秘言語を口にし続ける海魔王の周囲には、四体の巨大な海魔が龍としての姿を露わにした龍吉と激しい戦いを繰り広げていた。
龍吉の本来の姿は娘である瑠禹と良く似た黒髪と青い鱗を持ったものであったが、その全身から発せられる霊気や神秘的なまでの美しさに威風堂々たる雰囲気は、瑠禹よりもはるかに高貴でそして力強い。
龍吉と刃を交えている海魔もまた水龍皇と戦えるだけの力を持った強力な個体であり、まず間違いなく海魔の王子達だろう。
海魔王子達と龍吉との戦いは、四対一かつ海魔の力が増す戦場の不利を含めてなお龍吉の方が優勢であった。
下半身は鰭の多い魚、上半身は逞しくも美しい鱗に肌を覆われた人間の青年という姿をしている海魔王子達は、一体で人間の国の軍勢など蹴散らすほどに強いが、それでも龍吉には及ばない。
水に潜り、飛びだし、変幻自在な戦い方をする海魔王子達であるが、龍吉はその中心に捕らわれながらも一つの失策も無く、襲い来る海魔王子達に反撃を浴びせている。
よく観察すれば祭壇を囲む膨大な量の水の中には、海魔王子達の身体から流れた血も混じっている。
業を煮やした海魔王子達が龍吉の四方を囲いこみ、一斉に呪歌を歌いあげて世界を汚辱する海魔の呪いが発動する。
龍吉の周囲を赤く輝く水の奔流が輪を描いて流れ始め、流れるごとに周囲の瘴気と魔力と呼応して内包する破壊の力を見る見るうちに増加させている。
力が圧縮されているから大した大きさではないが、圧縮を解除すれば惑星の半分は吹き飛ぶだろうか。
対する龍吉は自身の周囲に七十二枚の呪符を展開して、呪われた水の奔流を迎え撃つ構えを見せる。
円環状に流れていた赤い水流が龍吉の背後で流れを変えて、その先端を龍吉へと向ける。
あたかも鎌首をもたげたか龍の如き水流に対し、龍吉が咽喉の奥で低く唸り声を立てる。
ほとんどの種族の耳にはただの唸り声にしか聞こえないだろうが、ただの響きの中に百万人の魔法使いが一斉に詠唱を唱えるよりもはるかに複雑で高等な、世界への干渉力を持った言語が紡がれている。
龍吉の唸り声は竜語魔法ドラゴン・ロアとなり、呪符に書かれた文言が一斉に光を発し、惑星全土を覆い尽くし丸一日降り注ぐだけの稲妻が、真っ向から呪いの水流へと放たれた。
稲妻と水は双方ともに物質化した海魔と龍の気と魔力といってもよく、物理法則を超越した破壊力を持って激突する。
内包された力は反作用を起こしてお互いを消滅させんと猛り、周囲の空間に莫大な力の余波を撒き散らし始める。
双方ともに渾身の力を込めた術の激突は、数瞬の拮抗の末に双方消滅と言う形をとって跡形もなく消え果てる。
龍吉はそう消耗した様子もないが、四体の海魔王子達はかなりの消耗が見て取れる。
流石は地上最強の一角と龍吉を褒め称えるべきだろう。
だが龍吉の美貌には若干の焦りがある。
先ほどから続いている老海魔の祝詞によって、徐々に海魔界との扉が開きつつあり、祭壇頭上の空間が渦を巻いて歪み始めている。
さしもの龍吉も召喚された海魔の神が相手では旗色が悪いのであろう。
「これ以上貴様らと遊んでいる時間は無い!」
海魔王子達が肩で荒く息を吐く中、龍吉の霊魂が更なる力を練り上げて放出し、瑠禹よりも二回りほど大きな龍体が、清廉な青い光を放って曇った空と黒い海面をひと時染め上げる。
海魔王子達の顔に明らかな焦燥の色が浮かび上がり、次の瞬間、龍吉の全身から水龍皇の霊力で満たされた膨大な水の流れが彼らへと放たれる。
迫りくる霊水の奔流に海魔王子達は兄弟全員が力を合わせてなんとか抗おうとしたが、彼らが足元の海水を屹立させて作り上げた黒い水の壁は、一瞬しか拮抗状態を作り出す事が出来なかった。
焦った龍吉が放った霊水の激流に海魔王子達は耐えきれず、激流の中で肉体を端から徐々に崩壊させてゆき、最後には原子にまで分解されてその生命を終える。
「次は貴様だ、ネルトナ!!」
龍吉は、これまで一度もドランや瑠禹に見せた事の無い憎しみと怒りに染まった表情でネルトナを睨みつけ、怒声を浴びせる。
この瞬間、龍吉は水龍皇ではなかった。かつて愛した夫を奪われた事への憎悪に突き動かされる一人の女性であった。
龍吉の怒声に海魔の王は祝詞をぴたりと止めると、ゆったりとした動作で龍吉を振り返り相対する。
「おお変わらず美しいな、龍の女皇よ。胎に子の居たお前に代わり我らに挑んだ夫を殺してやった時以来か?
その後もお前の胎に宿った子を殺そうと幾度となく刺客を差し向けたが、無駄に終わったのが今では笑って許せる。
こうして我らの神をお招き出来る時が来たのだから、お前がここに居ようと、お前の娘が生きていようと些細な事ゆえ」
生皮のローブを脱ぎ捨て、緑色に黒と青の斑点模様を散らした裸体を露わにしたネルトナが、軽く岩を蹴って海面に降り立つ。
わずかな波紋を起こして海面にすっくと立ったネルトナの黒一色に染まった瞳は、敵意をむき出しにする龍吉の姿を克明に映し出している。
この空間の主であるネルトナの心身が戦いを迎えて昂るのに呼応し、無限の海と空に満ちる海魔の神の力がネルトナへと急激に流入し――それを悠長に見ている筈も無い龍吉が、容赦の無い全力の攻撃を即座に放った。
先程四体の海魔王子達を葬ったのと同じ霊水を、大陸一つ沈めるほどの量を瞬時に無から造り出し、それらを細く圧縮させた上で更に螺旋の回転を加える。
この螺旋という概念、行為それ自体がある種の霊的な力を生み出す作用を備えており、龍吉の霊力は螺旋運動が加わる毎に高められて行く。
ネルトナに向けて放たれた一千本の霊水の槍は、一本一本が地盤やマントル層を貫き、星の裏側に達するほどの破壊力を秘めていた。
ネルトナを中心に赤と黒と紫に明滅する海魔神の力が渦を巻いていたが、秒間一千を越す霊水の槍が殺到して渦をかき乱し、海魔王の巨躯を覆い隠す密度で次から次へと放たれ続ける。
龍吉は一切手を緩めることなく霊水の槍を投じ続けたが、ネルトナの気配がわずかも揺らぐ事は無く、槍を投じ続けて十を数えた時、砕けた霊水の煙を巻き込みながら真っ黒い水の竜巻が生じた。
海の底、天の果てにまで達するかのような巨大な竜巻はネルトナが起こしたものだ。
霊力によって浮遊する龍吉の巨体を揺らがせるほどの強風を吹かせる竜巻の中心には巨大な影があり、内側から竜巻が爆ぜて露わとなったのは百倍の巨躯へと変貌したネルトナであった。
爆ぜた竜巻が豪雨となって龍吉に降り注ぎ、鱗の表面に常時展開されている霊力の結界に触れると、じゅうじゅうと音を立てながら蒸発して行く。
ただの一滴で一億もの人命を瞬時に奪える呪いに満ちた雨であったが、それを特別な術を用いるでもなく浄化し、無効と化す龍吉も尋常では無い。
「はあーはっはっはっはっは!! 我らの神に地上の龍種の皇たるお前の首と心臓と子宮とを捧げれば、殊の外お喜びになるに違いない。忌まわしき真なる龍の裔たる女よ!!」
海魔神の力を吸収し、内側からはち切れんばかりに膨れ上がったネルトナの肉体には、複雑にくねくねと曲がり、絡み合い、交叉する金色の文様が所狭しと浮かび上がっている。
海魔の神から与えられた加護による攻防を兼ね備えた印だ。
こめかみと額の肉を割いて新たな目玉が青い血と共に覗き、五つの瞳でネルトナは哄笑を上げながら龍吉を
龍吉はネルトナの視線に全身余すところなく凌辱されたかのような不快感を覚え、
海魔神の力を受けたネルトナの発する瘴気によって、この亜空間は更にその毒性を高めて龍吉の心身を衰弱させんと牙を剥いている。
歴代水龍皇の中でも最強を謳われる龍吉といえども、ただ居るだけでも著しい消耗を強いられるこの場所では、あまりにも不利。
「砕けて散れ、海魔王!」
「それは貴様だ、水龍皇よ。貴様を葬り、我らの神が御光臨あそばした暁には、他の竜帝龍皇も、地上の者共も全て我ら海に沈めて魂を貪ってくれようぞ!」
頂点に至った両者の戦意が爆発し、ついに水龍皇と海魔王の戦いの火ぶたが切られた。
龍吉とネルトナのどちらもが地上世界最強を名乗って不足の無い力の主である。
あまりにも脆い惑星を気遣い、地上世界では決して発揮してはならない全力の戦いは、曲がりなりにも神である海魔神が造ったこの亜空間だからこそ許される戦いであった。
ネルトナが果ての無い天を埋め尽くす雲から、この亜空間の海水に万倍する毒性を持った滝の様な豪雨を降らせば、龍吉は雨の源となっている雲そのものを吹き飛ばす浄化の嵐を巻き起こして対抗した。
ならば、とネルトナは底の無い海へと干渉し、元より荒れ狂っていた波が更に激しさを増して、津波ひとつひとつが刃と化して龍吉へと襲い掛かる。
ひとつの波の刃が、大陸を両断するだけの巨大さと鋭さ、速さを備えている。
龍吉は自身の頭上まで覆い尽くして迫りくる無数の波の刃を一睨みし、体内電流を触媒として、波の刃が鱗に触れる寸前に全身に激しい稲光を発しながら全方位へと雷を放ち、刃のことごとくを相殺する。
両者が繰り出す攻撃は惑星一つを容易く破壊し尽くせる威力を持ち、共に水龍皇と海魔王を名乗る者ならではの戦いであった。
もしこの亜空間で両者の戦いが行われていなかったら、ドランの住む惑星どころか星系そのものが破壊し尽くされていた事だろう。
霊力と魔力とを削り合い、お互いの守りを突破して鱗を砕き、肉を削り、血を流させる戦いが続き、肉体の再生と破壊とが瞬間毎に飽きることなく繰り返される。
再生と破壊の天秤が狂ったその時が、この戦いの趨勢が大きく傾く瞬間に間違いない。
圧倒的な地の利を持つネルトナの方がはるかに優位な戦いであり、海魔王子達との戦いもあって、消耗していた龍吉は徐々に守勢に回って再生しきらぬ傷が増え始めている。
「はははははは、どうした、傷が増えているぞ? 青い鱗を血で濡らすお前は真に美しいなあ、死の恐怖に歪むお前の顔はもっと美しいだろうなあ、ぐははははははははは!!!」
ネルトナの放った逆巻く海水の槍が龍吉の左前肢の付け根に突き刺さり、何枚もの鱗を砕き、肉を抉りながら一気に腹を掻っ捌く。
大きく腹部を横断する傷口から大量の血を噴きだした龍吉が、ぐらりと空中で揺らぐともはや空に浮かぶ力も無いのか、力なく頭から海へと叩きつけられる。
全身を呪いに満ち溢れた海水に汚されながら、龍吉の心にあったのは怒りだった。
愛する良人を奪われた怒り。
愛する者を守れなかった自分自身への怒り。
幼い瑠禹に、どうしてわたくしにはお父様がいないのですか? そう問われ、父は死んだのだと告げることしかできなかった事への怒り。
それを聞いて以来、瑠禹は滅多な事では我儘を言う事をしなくなった。皆の言う事を良く聞き、自分を出す事をしなくなってしまった。
愛する娘にそうさせてしまった自分への怒り。
水龍皇などと大層な称号で呼ばれようとも、自分は我が子の心が傷つくのを防ぐ事も出来なかった愚かな母親に過ぎない。
なんと無力、なんと愚かな女!
「だから、せめて仇を討たねば、私は瑠禹に顔向けが出来ない!!」
「まだ目に力があるな。死を受け入れよ。我らの神に捧げられる栄誉を甘受せよ、水龍皇」
勝利を確信するネルトナに対し、龍吉は何かを呟いた。ネルトナの耳はそれを聴き取れなかったが、龍吉はこう呟いたのだった。
馬鹿め、と。
ネルトナがそれに気付いたのは、龍吉が呟き終えるのと同時に、目の前の大馬鹿の足元を掬う算段を整えた事にほくそ笑んだ時だった。
龍吉の全身から流出した血が、ネルトナ中心に円を描いて渦を巻き、海水に満ちる呪いを瞬く間に浄化して、水龍皇の霊力で場を満たしていたのである。
「口は災いの元と己が身で知りなさい、ネルトナ!」
「むうう、小癪な真似、を……をおああああ!?」
ネルトナと龍吉を中心に青白い光が天と海へと広がり続け、見る間に海魔の為の世界が龍吉の清浄なる霊力で満たされてゆく。
龍吉が傷ついた肉体を癒す為の力は愚か、文字通り魂さえも削って霊力と変えて、この一撃に賭けているのだ。
龍吉の肉体の再生が止まり、それまで抑えられていた出血がどっと溢れだし、肉の一部が崩れ落ちる。
魂を削った事によって龍吉の人格はおろか存在そのものを構成する要素が次々と失わる為に、龍吉の自我は肉体的な激痛も相まってあやふやなものへと変わってゆく。
だが、それでも龍吉はネルトナを滅ぼそうとし続けた。
「ああああああああああああああああああ!!!!!」
もはや竜語魔法の体を成していない叫び声を上げて、龍吉は生涯最強最大の一撃を放つ。
自らの命と魂を削って放たれた一撃は、太陽さえ覆い尽くし打ち砕く霊水の渦となって海面から立ち昇り、ネルトナの巨躯を飲み込んで曇天の果てへと伸びて行く。
「ぐ、ぐぎゃ、GYUGAYAAああああAAGAAAAあっやあああごあああ、ぐえあお!!!」
自らの子らの運命を辿るように、水龍皇が全身全霊を込めて生じさせた渦に飲み込まれたネルトナは、体の端からその霊魂と共に崩壊して行き、耳にした者の魂を狂わせる断末魔の咆哮を上げながら砕け散る。
霊力の渦がネルトナを跡形も無く消し飛ばし、灰色の雲の彼方に消え去ってから、龍吉はようやく魂を削る事を止めて満身創痍の肉体の再生を再開する。
魂を削った影響で思考が上手くまとまらず、ぼんやりとしているが、なにより大切な娘の事が真っ先に思い浮かんだ。
これで瑠禹に顔向けできる、瑠禹にネルトナとの因縁を継がせずに済んだ、と龍吉は良人を失くしてからずっと胸の中に抱えていたしこりが消えるのを感じた。
後はある程度傷を癒してから、再びあの扉をくぐって海魔の神殿へと帰還し、龍宮国の皆に勝利を伝えなければならない。
海魔神の召喚が未達成に終わり、海魔王とその子らが尽く討ち果たされた以上、海魔達は他の六柱の海魔王のいずれかを頼って逃げ出す事だろう。
腹の傷が少しずつ塞がり、血管や筋肉、骨などが癒着し始めた頃、龍吉はほんのかすかに安堵の息を吐いた。
長年の、そう例える事も虚しい因縁の一つに決着を着けられた事への安堵であった。
しかし、龍吉は海魔王ネルトナを魂に至るまで葬ったにも関わらず、祭壇の頭上に生じた海魔界への回廊が閉じていない事に気付いてしまった。
いや、閉じられる所か徐々に開きつつある!?
「そんな、間に合わなかった!?」
悲嘆と絶望の入り混じる龍吉の悲鳴を他所に、祭壇の上空に生じた渦からは海魔界に吹く風が吹き込み始めている。
海魔神はこの亜空間を足掛かりにして地上世界へと進出し、惑星のみならずゆくゆくは宇宙全てを己の支配下に置くか、あるいは気まぐれに破壊してしまうだろう。
龍吉は今の自分が出来る事を良く理解していた。聡明な彼女は出来る事、しなければならない事、するべき事、わずかながら意味合いの異なるそれらの全てを理解している。
かろうじて浄化した海面に浮かんでいた頭を持ち上げ、次いでゆっくりと傷の癒え切らぬ体を浮かばせる。
今ならまだ海魔神の召喚を未然に防ぐ事が出来る。海魔界へと繋がる扉は完全に開かれてはおらず、何らかの手段を持って扉を塞ぐか破壊する事で、海魔神の出現を阻む事が出来る。
だが龍吉が万全の状態であったとしても、海魔神の力で半ば構築されている魔界への回廊を閉ざす事は出来ないだろう。
それこそ、命の全てを代償にでもしなければ。
ネルトナを葬った時とは異なり、今度こそは落命し、魂も砕かれて輪廻の輪に加わる事が出来なくなる。そこまでしなければあの回廊を壊す事は出来ない。
龍吉は躊躇せず、即座にそうする事を決断した。既に海魔の神殿に突入すると決めた時から命は捨てている。
瑠禹の成長した姿を見られないのは心残りだが、地上にはドランがいる。
あのどこか間が抜けているが、心優しい方ならば瑠禹を支えてくださるだろう、と龍吉は心配こそ止まぬが、それでも安心していた。
痛みさえ麻痺しつつあった体に鞭を打ち、龍吉はゆっくりと浮上して頭上の渦を見上げる。
「私の命と魂の最後の使い方として、悪くありませんね。瑠禹、親は子より早く逝く事こそが自然の摂理。
あまり悲しむ必要はありませんよ。時々、思い出してくれれば母は満足です。
ドラン様、どうか瑠禹を支えてやってくださいませ。本来、我らと関わる必要の無い貴方様にこのように願う無様な私を、お許しくださらなくとも構いません。
ですが、どうか瑠禹の事だけはお願いいたします。……ふふ、最後の時にドラン様のお声を聞きたいと思うとは、不義と誹られても否定できませんね」
奇しくも娘と同じく覚悟を決めなければならぬ時に、同じ男の事を思い出した母は、成すべき事を悟り、それを果たす事を誇る凛とした表情を浮かべていた。
そして――
「ふむ、私などの声でよければいくらでも聞かせるが?」
――瑠禹の時もそうだったように、いつの間にかドランは龍吉の右横に居た。
「…………!?!?!?!?」
さしもの龍吉が驚きのあまりに絶句し、言葉も出せずにいると、ドランは白竜のいかつい顔のまま龍吉を安心させる包容力に満ち溢れた笑みを浮かべる。
そして小さくドランが竜語魔法を詠唱すると、龍吉を中心に海面に白く発光する竜語文字で構築された魔法陣が描かれる。
水龍皇たる龍吉でさえ、かろうじて意味を読み取れる程度の、恐ろしく古く複雑な竜語文字だ。
かつてエンテの森で魔花ラフラシアとの戦いで傷付いたディアドラを癒した陣の、さらに上位の癒しと守りの竜語魔法陣である。
「瑠禹の事は安心しなさい。外の者共は私が片付けておいた。
本来、はるかな昔よりこの星に生を受けた君らの戦い故、私が口を出す事は無粋の極みではあるが、口出しせずにはいられなかった。済まない」
龍吉がようやく平静を取り戻し、竜語魔法陣の恩恵によって傷のほとんど全てを癒したのを見届けてから、ドランは再び口を開く。
「実を言うと、海魔王と戦い始めた時にはもうここに着いていた。だが夫君の仇敵であると教えて貰っていたから、あえて見守るに留めた。
龍吉、君が傷つく姿を見ているだけだったのは、とても、そう、とても辛く苦しい時間だった。
だが龍吉よ、私以上に苦しかったのは君だろう。そしてよくぞ仇を討ったな。見事だった。
瑠禹も君の事を誇るだろう。この古神竜ドラゴンが保証しよう。誰にも異は唱えさせん」
例え人間に転生した今となっても、竜・龍種の頂点である存在の心からの称賛と親愛に満ちた言葉に、龍吉は不意に目頭が熱くなり、自分でも抑えきれぬ涙を次から次へと流し続ける。
「いえ、いえ、そのような、勿体なきお言葉にございます。私などには……!」
「ふむん。さて、海魔王との戦いは見守るに留めたが、相手が海魔神となれば私も多少因縁がある。
この気配はオクトゥルか。我が姉、古龍神リヴァイアサンと戦った海魔の中でも極めて高位の邪神。リヴァイアサンがさせなかった止めを、私がさしてやろう」
ドランは龍吉を背後に庇い、海魔界への回廊の向こうに徐々に姿を見せつつある邪神へと、不敵な視線と笑みを向けるのだった。
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第六十五話
私と龍吉の目の前から大魔界に存在する海魔神達の領域へと繋がる回廊が消えて、平静を取り戻したかに見えた空間が腐った肉の様に崩れ落ちると、その向こうからおぼろげな影がゆっくりとした足取りでこちらへと向かってくる。
いよいよもって海魔界とこの亜空間の境目にまで辿り着いたオクトゥルが、黒いフジツボのような物体で埋め尽くされた触手を伸ばして、崩れた次元の境目にかける。
そこをとっかかりにして、蝙蝠の翼を思わせる紫色の鰭で構成された人型の身体をこちら側へと引きずり出し、二対四つの青い瞳が輝く海鼠のような顔が出て来た。
円形の口からは細い桃色の触手が無数にうねっており、全身を海魔界の水でぬらしている。
無数の桃色の触手がうねくる口を大きく開き、オクトゥルは地上世界へと繋がる亜空間に到達した事を喜ぶ咆哮を上げる。
オクトゥルはここが地上世界では無く、自身の力で作られた亜空間である為、神としての本来の力を発揮する事が出来る。
力と権限に制限のかかった地上への召喚状態でも、水龍皇を倒せるだけの力は持っているだろうから、今のオクトゥルならば何をかいわんや。
もぞもぞとひっきりなしに蠢いていたオクトゥルの口の触手が、これまでと異なる動きを示すと、この気色の悪い海魔神は自らの意思を伝えて来た。
「消えよ、卑小なる龍の末裔」
こちらの耳では無く魂に、オクトゥルの思念の声が響き渡る。
「私は無視か。まあ、構わんが、さて、オクトゥルよ」
オクトゥルは私の呼びかけを無視して、水の攻撃を放ってきた。あるいは水の球体、あるいは水の刃、あるいは水の矢、あるいは水の弾丸。
私の話を聞こうとせずに攻撃を延々と続けるオクトゥルに対し、私はやれやれと一つ溜息を吐いてから、オクトゥルの四つの瞳を虹色の竜眼に変えた瞳で射抜く。
すると途端に時が凍りついた様にオクトゥルが動きを止めた。
私の瞳にオクトゥルの記憶が刺激を受け、前世における私の姿が思い浮かび、そして目の前にいる今の私の正体を悟ったのだ。遅いわ、うつけが。
「オクトゥルよ、私は汝のことをさして知っているわけではないが、この瞳を持つ竜の事を汝は知っていよう」
「おおおお、オオオ!!!! 忌まわしきリヴァイアサンの弟龍か。人間共に討たれた脆弱者! 始原の七竜で唯一殺された恥晒し!
よもや転生を果たしていたとは、ちょうど良い。リヴァイアサンを血祭りに上げる前に貴様の霊魂を砕いて、奴への土産にしてくれようぞ!!」
「私をドラゴンと知ってあそこまで大言壮語する邪神は珍しい。ましてや私を血祭りに上げるなど、カラヴィスでさえ初めて戦った時にしか、本気で口にしなかった言葉だ。
一度口にしたからには、それに見合うだけの実力があるのだろうな? 海魔の神とやらよ。人間に転生し、魂の輝きが曇ったとはいえ貴様如きに後れを取る私と思ったか」
「大言壮語は貴様ノ方だ。竜よぉオオオおおおぉおおぉ!!」
オクトゥルの全身に生えたフジツボもどきがきゅっと窄すぼまり、そこから毒々しい赤紫色の水がまるで糸のように細く束ねられて、勢いよく放出される。
毒入りの水を細く束ねて光よりも早く放出し、刃と変えてこちらを切り刻む腹積もりのようだが、ネルトナと似たような攻撃をしてくるものだ。
水の刃の長さは無限長。毒性は地上世界のあらゆる毒よりも強く、また海魔神の
一本で宇宙一つ纏めて斬り裂き、毒で犯し尽くして腐乱させる刃か。
ま、神として崇められる存在なら、及第点と言った所だろう。
「その言葉、そっくりそのままお返ししよう」
私と背後の龍吉をまとめて斬り刻もうと迫りくる毒水の刃を、私は軽く翼をはばたかせて起こした風で散らした。
古神竜としての力を含んだ風は、虹の色を帯びて迫りくる毒水に触れると、無数の滴へと散らしてそのまま消滅させる。
オクトゥルは、私の顔色一つ変えない態度に屈辱を感じて怒りを燃やし、背中から伸ばした触手の口が更に深く裂けて十文字に開き、また新たな水の奔流が吐き出された。
しかし地上世界で放出されれば、多次元に渡る宇宙それ自体を押し流せるだろうオクトゥルの奔流は、厳密に言えば水ではなかった。
液状になるまで圧縮された数多の宇宙そのものだ。
この奔流に飲まれた場合、水に溺れるのではなく空間、あるいは宇宙に溺れると表現する事になるだろうか。
莫大な量の奔流は、オクトゥルが即席で創造した宇宙を原子の大きさにまで圧縮したもので構成されている。
攻撃の為だけに誕生させられた宇宙が滅びに至るまでに発生する力を、全て敵対者に叩きつける攻撃手段である。
圧縮された宇宙で満たされる奔流を前に、私はつまらぬ真似をすると吐き捨てて右腕を迫りくる奔流めがけて一閃。
奔流と見えた圧縮宇宙は私の振るった右腕の軌跡の延長線に沿い、左右に真っ二つに割れて尽く霧散して行く。
これ以上手間をかけるつもりは私には無かった。私はオクトゥルと戦うつもりは無かったのだ。なぜなら私は、オクトゥルを滅ぼす為にここに居るのだから。
オクトゥルが次の手を打つよりも早く、私はこちらの切り札を切って一気にオクトゥルの滅殺を実行に移す。
「人間に生まれ変わってから使うのは初めてだが、オクトゥルよ、我が全身全霊、とくと味わうがいい!!」
私は全身にあらん限りの力を漲らせ、六枚の翼が生える背の中心線から凄まじい発光と共に普段は見せない七枚目の翼が伸びる。
虹色の瞳、白い鱗、そして六枚の翼ではなく七枚の翼、これこそが私の全力の姿。
六翼一頭一尾虹眼白鱗の古神竜ではなく、
強大すぎる力に枷を掛ける為に普段は隠蔽している七枚目の翼の解放と共に、私の魂が生み出す力は一挙に膨れ上がり、魂の躍動がいっそう力強いものに変わる。
本来の力を解放した私の姿に、無限長の空間を創出して距離を置いていたオクトゥルの全身と魂が、瘧おこりにかかった様に恐怖に震え始める。
かつてカラヴィスに大きな心の傷を与えた私の切り札は、この姿になって初めて使う事が出来る。
渾身の一撃を呆気なく無効化され、さらに私が全力を出した事に気付いたオクトゥルは、彼我の比較するのも愚かしい実力差をようやく理解して聞くに堪えない悲鳴を上げるが、それが私に同情の念の類を呼び起こさせる事は無かった。
なによりすでにオクトゥルに対する私の――私達の包囲網は完成していた。
七枚目の翼を解放して全力になった私が新たに“六体”出現し、オクトゥルを中心として円を描く様に配置を終えている。
我が最強の一撃を発動させる為の前準備の一つだ。
まったく同じ力を持った合計七体の私の出現に、オクトゥルはもはや心を折られて絶望に染まり、どこかに逃げる場は無いかと周囲に霊的知覚を巡らせるが、例え大魔界に逃げようともそこもまた私の知覚範囲内。逃れられはせん。
最初にこの亜空間に侵入した“私”もまた分身体であるが、新たに出現した六体の分身体を含め七体の分身体の出現と同時に、それぞれの背中から伸びる翼の皮膜の色は異なる単色に染まっている。
七体の私達は共鳴し合う事でお互いの力を増幅させる事が可能で、そうしてお互いに増幅させた力を七体の間で循環させることで、量ばかりでなく質もまた向上させることが可能になる。
私達はそれぞれが太陽に変わったかのように全身から異なる色の光を発し始める。
すでに私達の間では共鳴による力の増幅と循環が行われていて、わずかでも力が零れれば容易に海魔界を破滅させるだけの力が発生している。
効果範囲を私達の包囲網内部に限定しているから良いが、この力を無制限に解放しようものならば、この亜空間のみならず大魔界や天界、地上世界にも影響が出て最悪の場合、崩壊の運命から免れまい。
オクトゥルの上げる叫び声に、龍吉は呆気にとられた顔を浮かべた。オクトゥルは明らかに私に対して怯え震えて、恐怖の叫びを上げているのだから。
地上最強の龍たる龍吉でさえ抗う事さえ出来ないオクトゥルが、私に対して神の威厳など欠片もない醜態を晒しているのだから驚きもしよう。
数百年、あるいは数千年の年月をかけて生贄を捧げられてようやくこの亜空間へと辿り着いた海魔の神は、私と言う存在のために滅び去ろうとしている。
私達は一歩踏み出した。オクトゥルにとっては自分の死刑執行者が近づいてくるような気分だろう。
「私が死んだと聞かされ汝らはさぞや安堵したことだろう。しかし私はこの様な形で生を繋いだ。私が地上を離れている間に汝がした事は目に余る。覚悟をせよ」
転生を果たした私の魂は、昔の知り合いには到底見せられないみすぼらしいものになってしまったが、それでもオクトゥル如き海魔の神ならば有象無象の雑魚に過ぎない。
両手を前に突き出して首と一緒に左右に振り、いやいやと許しを請うオクトゥルに私は満面の笑みを浮かべて答えた。我ながら良く出来たと言いたくなる笑みだった。
「許さん」
そして十分に力が高まるのを感じた私達は、それぞれが蓄えたありったけの力をオクトゥルめがけて放出した。
私達は閉じていた口を開き、生え並ぶ牙と咽喉の奥から体内で霧を思わせるブレスを放つ。
それぞれの個体の翼の皮膜と同じ色の光と変わった力は、逃れる術も防ぐ術も持ち合わせていないオクトゥルへと、何に遮られることもなく襲い掛かって私達の包囲網の内側は虹色の光に満たされる。
「滅っせい、我が逆鱗に触れし愚かなる海魔の神よ!!」
私達の咆哮と共に、最後に特大の力が合計七つの光の珠と変わって、もはや崩壊寸前の惨状へと変わっていたオクトゥルを直撃し、放たれていた力の全てを飲み込んで融合し、ひと際巨大な虹色の光球と変わる。
放たれた全ての力を吸収し、さらに止めとばかりに増幅させて内部に捕らえた存在をあらゆる次元の領域から消し去る私の最強最大の切り札、カラヴィスが言う所のドラゴンボールだ。
かつて不滅の神性として広く知られたカラヴィスでさえ滅びの寸前まで追い詰めた私の切り札は、自分で言うのもなんだがその絶対的な破壊力に比して終焉は呆気ない。
オクトゥルを飲み込んでいた虹色の光珠は徐々に小さく萎んで行き、遂には光の粒子一粒の残滓さえ残さずに消える。
「ふむん」
私は包囲網を敷いていた他の六体の分身体を分解・吸収し、解放していた七枚目の翼を仕舞いこむ。やれやれ、これをやると少し疲れるのが難点だな。
オクトゥルはあらゆる世界の領域から完全にその存在を滅したが、この亜空間の方も始末を着けなければならない。
数千年間の間に数百万か数千万単位で生贄にさせられた者達の怨念も、オクトゥルの出現と同時に溢れた海魔界の大気も、わずかな痕跡も残さず浄化しておく必要がある。
たとえわずかほどでもこの場に籠る瘴気が地上世界に零れ出ようものならば、自然には永劫に浄化されることの無い重度の汚染が広がってしまうからだ。
仮にこの海魔神の召喚場であるここの汚染の度合いなら、大神官級が神の魂を降臨させるか精霊王の召喚による浄化が必要となるだろう。
「海魔王までならともかく流石に海魔の神が召喚されてはこうもなるか。数千年分の労苦を無に帰したとはいえ再びこのような事があっては困るな、ふむ」
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第六十六話
海魔騒動に関する事情聴取を終えた私達は、そのままそれぞれの実家へと戻る者達と、ガロアへと一旦戻る者達とに別れた。
実家へ帰るのがファティマとその使い魔であるシエラ、ネル、イリナ、レニーア、ヴァジェ(ヴァジェの場合はモレス山脈の巣だ)。
ガロアへ一旦戻るのが私、セリナ、クリスティーナさん。
クリスティーナさんはガロアにそのまま残り、夏期休暇を利用して実家に戻りはしないのだという。
私とセリナは一旦学院に戻って荷物をまとめ直して、懐かしき我が故郷ベルン村へとようやく帰る事になる。
さて私達が別れの挨拶を交わした時に問題となったのは、レニーアが私と別れたくないとわんわん泣きだしかねない勢いで、駄々をこねた事だった。
ファティマの別荘から発着場に至るまで、レニーアは私の袖やズボンのベルト、荷物を掴んで放そうとせず、口を開けば別れたくない離れたくない、口を閉ざせば私から一瞬も視線を外そうとしなかった。
いやはや、こと私が関わるとレニーアは途端に精神年齢が幼くなって子供じみた振る舞いばかりをする。
今回、旅行に来た面々はレニーアのこの言動にも慣れて大仰に驚く事はなかったが、私と出会うまでは傲岸不遜という言葉の体現者であったレニーアが、私に対してだけはこの様な態度を取る事から私へあらぬ疑いを掛けているのが薄々感じられる。
イリナやファティマ達が考えている様な事は事実無根なのだが、かといって私とレニーアの関係を一切合財包み隠さずに話すと言うのも難しい。
この嫌疑に関しては、私がしばし甘んじて受ける他あるまい。
天高く青に染まった空の下、肌をひりひりと焼く熱を帯びた陽射しは絶え間なく降り注ぎ、磯の香りを含んだ風が頬を撫でるとひと時だけ夏の暑さを忘れる事が出来る。
そんな夏を感じる中、朝食を済ませて昼の便で帰ろうとしている時に、私は他の飛行船の客達や船員達の注目を集めながら、レニーアを説得に掛らなければならなかった。
私は飛行船に乗り込む為の階段の横で、下唇を突き出して俯くレニーアの華奢な両肩に手を置いて顔を覗きこむ。
レニーアはふいっと顔を逸らして視線を合わせてはくれなかったが、ふと村に居た頃に年少の子供らが喧嘩した時に仲裁した事を思い出す。
彼らを相手にしているのと同じ要領で、レニーアと接するのが正解なのかもしれない。
「レニーア、君が私の隣に居たいと言ってくれる事は嬉しい。君がそこまで私の事を慕ってくれている事に悪い気分はしない」
ことさらに柔らかい声を意識して話しかける私に対し、レニーアは懇願の色がありありと浮かぶ瞳で私を見返し、心の底からのお願いを口にし始める。
「そう言って下さるのでしたら、私がお伴する事をお許しください。
ようやく貴方様とお会いする事が出来ましたのに、こんなにも早く離れることになるなんて」
「離れるもなにも、学院の中でも授業や就寝の時は別々だろう」
「ですが会おうと思えば会う事のできる距離です。
人間の器に閉じ込められた今の私にとっては、その時間さえ苦痛に感じられる長きもの。
それが、それが、夏季休暇が終わるまでの間となれば、一体どれだけの苦しみとなって我が心を苛むか想像する事さえ出来ません」
ふぅむ、夏季休暇の間、顔を合わせる機会が無くなるだけの事なのだが、レニーアにとってはここまで重大な問題となっているのか。
やはり、この子は早めに私離れをさせないとかなりまずいな。
私へとこれでもかと言う位に向けられる好意は、喜んで全て受け止めて見せるが、実生活の方に差し障りが出るのはまた別問題であろう。
「私と出会わなかったと思って過ごしなさい、というのはいささか酷か。だがね、レニーア。
私と君がこのような形で出会う事が出来たのは、お互いに人間の両親が産んでくれたからこそだ。
察するに、君はこれまであまり親孝行をしてきてはいないだろう。今回の里帰りを契機に、少しは人間の両親へ親孝行をしてみなさい。
ご両親が居なければ私と出会う事も無かったのだから、感謝の念を忘れてはいけないよ。
私はこうして人間として産んでくれた両親への感謝を、片時も忘れた事は無い」
私の説得に対し、レニーアはむぐぐぐぐ、と唸り続けて内心の葛藤を分かりやすく表現している。
レニーアは創造主カラヴィスと同様に、他者への感謝や思いやりなど数えるほどしか抱いた事は無いか、ひょっとしたら一度も抱いた事は無いかもしれない。
その彼女にとって、私の言い分を本当の意味で理解し、納得する事は不可能な事だったろうか。
それでも私に言われた事とあって、レニーアは無理矢理自分を納得させようと懸命に努力してくれている。
「わ、わ、分かりました。お父様がそこまで言われるのでしたらば、このレニーア、従いましょう。
確かにこうしてお父様と出会えたのは人間の父母が居たからこそ。
お父様と再会できた今ならば、少しくらいは感謝してやるのが道理やもしれませぬ。ならば少しくらいはあれらを労ってやりましょう。
しかし、お父様。お父様と離ればなれになる事がこのレニーアにとって、最大の苦痛である事もまた事実。
家に戻り、人間の父母共を労いましたら、お父様に会いに行ってもかまいませぬか? 常にお傍にとは言いませんが、せめてそれだけはお許しください」
大粒の宝石を思わせる瞳を涙で濡らし、レニーアは切ない思いを胸に秘め、懇願の表情を浮かべて私を見上げる。
邪神の創造物とは信じがたい、邪気の欠片も無い哀切一色に染まったレニーアの顔は、何事かとこちらを伺っている周囲の人々の胸を打ち、中には何や勝手に脳内で脚色して涙を浮かべている者さえ居た。
今の私とレニーアは、傍から見ればひと時の別れを迎えた恋人達のよう見えるかもしれない。
無関係な野次馬達は、私とレニーアの関係をそのように演劇の登場人物風に仕立て上げて、勝手に楽しんでいるのだろう。
とはいえレニーアへの説得は、ここら辺で私も妥協するべきか。
レニーアにとって私は途方も無い年月の間、憧れ続けてくれた存在らしいし、あまり突き放すのも可哀想だ。
私がこうして所々甘い対応をするから、レニーアは一向に私離れを出来ないのかね?
「分かったよ。だが家に帰って一日で飛び出したりするのは駄目だ。
ご両親にきちんと産み育ててくれた事への感謝を伝えて、親孝行をしてからにしなさい。それが出来ると言うのなら約束しよう」
レニーアはうんうんと唸りだした。おそらく私が出した条件を、自分がはたしてきちんと守れるかどうか思案しているのだ。
レニーアの数少ない良い所は、自分で出来ないと思った事は決して口にしない事だ。
まあ、自分の力を過信して勝てない相手に戦いを挑んだ事はあったけれど。
「分かりました。頑張って親孝行をして参ります。ですから、ちゃんと親孝行をしたら、お父様の所に顔を出しても良いですか?」
「ああ。きちんと出来たらね」
少しくどいかな、と思いつつ私が釘を刺せば、レニーアは先程までの涙目の懇願の表情はどこへやら鼻息荒く元気良く返事をした。
「必ずや!」
本当に分かっているのか、大丈夫なのか? と私は一抹の不安を抱いたが、なにはともあれこうして私達はゴルネブの飛行船用の港で、ひとまずのお別れをしたのだった。
ファティマやネル、別荘に滞在中世話をしてくれた眼鏡執事殿やメイドさん達と別れ、お土産をたっぷりと持って私、セリナ、クリスティーナさんはガロアへと戻る飛行船に乗った。
クリスティーナさんともガロアで軽い挨拶を交わして別れた。
レニーアの時と比べると、今日の天気について話すみたいに気軽な調子で、これ以上疲れるような事にならなかったのは、まことに幸いである。
ゴルネブに滞在している間に、ホースゴーレムの一部とテルマエゴーレム、バリアゴーレム達は知り合いの行商人の方に預け、先にベルン村へと向かわせてある。
私とセリナはゴルネブのお土産と残しておいた白風をはじめとするホースゴーレム達に馬車を牽かせ、ベルン村を目指してガロアを発った。
かつてデンゼルさんと共に馬車に乗った際には、ガロアから中継地点であるクラウゼ村まで二日、クラウゼ村からベルン村までを一日かけた。
だが馬車を牽くホースゴーレムの速度と持久力、それに馬車に乗る私達の体力を考慮すれば半分ほどの日程でベルン村に到着できる目算だ。
道中で要らぬ騒動にならぬように、とセリナは幌つきの荷台の方に引っ込み、腰から先だけ覗かせている。
「なんだか、前より人通りが増えていますね」
セリナはきょろきょろと私達の前後や隣を進む人々を見て、不思議そうに口にする。私も同じ意見であったが、思い当たる節はあった。
「エンテの森との交易が少しずつ知れ渡っているからだろう。エンテの森に住むエルフや獣人、虫人達との積極的な交流があるのはベルン村位だ。
利に聡いものならば足繁く通うのも無理は無いさ。村長やマグル婆さんなら商人相手の立ち回りも慣れたものだから、心配する必要はあるまい」
「だといいですけれど、来る人が増えた事を考えると道が以前のままというのは、いつか問題になりそうですね」
未整備の土地はガタゴトと馬車を揺らし、徒歩で行く他の人々もずいぶんと歩きにくそうにしている。
これから人間も物も情報も流通が増すとなれば、いつまでも道をこのままにはしておけない。
「ベルン村はともかくとしてクラウゼ村の人々と、ガロア総督の許可を得た上で無いと道を整備するわけにも行かないが、村長もそろそろ手を打っていると見て良い。
魔法学院を卒業してベルン村に戻ったら、さぞやこき使われるだろうね」
「ふふ、でもそうできるのが嬉しいと言うお顔をしていらっしゃいますよ、ドランさん」
「顔に出ているかい? ふふ、私にとっては良い思い出しかない故郷だからね。その故郷の為に働けるのなら、この上ない喜びだよ」
私が魔法学院に通っている間に我が故郷は一体どのような変化を迎えている事やら、と私達は期待を胸に抱きながら馬車に乗って道を進む。
事前の想定よりも道を行く人々の数が多かった事から思うように速度を出す事は出来なかったが、喜ばしい想定外と考えるべきだろう。
結局、魔法学院に向かった時と同じ日数を掛けて、私達はベルン村へと到着した。
私は腰掛けた御者台から視界の先に懐かしいベルン村が見えて来た時、思わずおっと口にしていた。
半年も離れていなかったというのに、私の胸に絶える事を知らぬかのように溢れてくるのは望郷と郷愁の念、そして帰ってきたのだと言う実感。
たった十六年という、かつての私からすれば瞬きをするよりも短く感じられる人間として過ごした歳月は、私の心の多くを占めているのだとあらためて実感させられた。
父母に兄弟、そして同年代の友達や幼馴染達の顔が次々と脳裏に浮かびあがり、魔法学院に通っている間見る事の叶わなかった人達と会いたい、言葉を交わしたいという欲求が膨れ上がって来る。
「私は、故郷へ帰って来たのだ」
私の呟きを隣に座っていたセリナは額面通りに受け取って、普段の私が見せない子供っぽさと解釈したようで、微笑ましい者を見る目で私の横顔を見ていた。
ああ、しかし、それだけではないのだ。愛しき蛇娘よ。
私は竜として生きた時間の中で、真に帰るべき場所を持った事はなかった。帰りたいと思えるような場所が私には無かったのだ。
その私の心が、帰って来たのだと言う歓喜に安らぎに満たされているのだ。
ああ、今の私のこの思いを、感動を、真に理解してもらう事は出来ないかもしれない。
だが、それでも良い。そう思えるのはこうして私の周りに居続けてくれた皆のお陰でもあるのだから。
私の故郷はベルン村と言う場所とそこで過ごした時間と、そして出会った人々によって造られたのだ。
父、母、兄、弟は言うに及ばず、セリナもアイリもリシャもミルも、皆が私にとって故郷を構成する欠くべからざる要素なのだ。
私は竜としての生を終え、人間としての生を得ることで故郷を得られたのだ。故郷がある、帰れる場所があると言う事の、なんたる幸福。
これ以上嬉しい事はないのだと、この時の私は心底から感じていた。
村を囲う塀と掘りの南側に設けられた通行用の門で、番をしている二人の男性の顔もやはり私には馴染みのもので、それだけでまた私の心は懐かしい顔を見た喜びに弾む。
そんなに嬉しいのですか? と自分も笑っている癖にセリナにからかわれる始末である。
私達の姿に気付いた門番の片割れが、私達に手を振ってからすぐに門の内側へと走った。
ふむ、にしても変化があったのは道中ばかりでは無くベルン村の方もだ。
閑古鳥が鳴いているはずの門には、私達以外にも外から来た人々の姿がある。
どこかの農民や自由労働民らしい襤褸(ぼろ)を纏(まと)った人々や、大きな荷を背負った者や、馬車に乗った商人達の姿もある。
顔馴染みの門番が開いてくれた門を通り、馬車は村の中へと轍の跡を刻んで行き、村の中央にある広場まで進んでから止めた。
広場に進むまでの間にも私達の帰郷を知った村の皆が畑仕事や、家での作業を放りだして駆けつけていて、荷台の上の私達にひっきりなしに声をかけてきている。
広場で私達は荷台から降り、集まっていた皆の手を借りて山と積んだ各種のお土産を降ろす。
また、広場には外から来た商人達が木の棒や板を組み合わせて、安布を掛けただけの簡素極まりない露天を開いていて、小さながら変化を認める事が出来た。
「おお、ドラン、セリナ、お帰り!!」
「セリナちゃんも相変わらず元気そうね。ガロアでいじめられたりしなかった?」
「ねえねえ、お土産は? ガロアでどんなことあったの~」
やいのやいのと私達に群がる村人の群れは絶えず、私達は押し合いへしあいの中心で潰れそうになりながら、荷物を降ろし答えを返しにこにこと満面の笑みを浮かべていた。
皆の顔が、声が、この村の空気もなにもかもがすべて懐かしい。このすべてに私達が過ごした思い出があるのだ。
ベルン村よ、私は、帰って来たぞ! またすぐにガロアに戻らなければならないがな!!
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第六十七話
ドランが懐かしの故郷へと戻る為、港町ゴルネブを後にした頃、レニーア・ルフル・ブラスターブラストは悩んでいた。ただ悩んでいたのではなく、大いに悩んでいた。
かつて大邪神カラヴィスによって産み出された名も無き神造魔獣の魂を持つレニーアは、存在の発生から今に至るまで初めて経験する悩みにうんうんと唸っていた。
人間とは思い難いほど整った容姿を持つレニーアが、華奢な腕を組んで眉根を寄せてむむむ、と唸っている様は傍目には実に可愛らしいものであったが、その全身と魂から懊悩する神造魔獣の気配が昇り立っており、下手に近づく者が居たなら眩暈に襲われて膝を突いてしまう事だろう。
レニーアは今、落ち着きを取り戻したゴルネブの商店街を練り歩き、土産物を取り扱う店の軒先を見て回っては、むむむ、と唸り声を上げる事を繰り返している。
海魔の襲撃が一段落し、事態の収束宣言が出された事と、昼を過ぎた時刻である事もあって、通りを行く人々の数は非常に多い。
ゴルネブを震撼させた謎の連続殺人・誘拐事件の犯人が討たれた為、人々の顔には明るい笑顔が浮かび上がっている。
だが陽性の雰囲気を醸すゴルネブの人々も、思案顔のレニーアを前にすると稀有な美貌、神造魔獣の気配に圧倒されて自然と左右に退き、道が出来ている。
当のレニーアは周囲の人々のそんな様子などはまるで眼中に無く、土産物屋を見つけては進路を急変更して突撃する事を繰り返す。
そのレニーアから三歩下がった所を影のように付いて回っているのが、体形と性格がレニーアと正反対のイリナである。
イリナは初めて見るレニーアの姿に、母性を感じさせる微笑みを浮かべながら見守っている。自分から口を出す事はせず、レニーアから助言を求められるまでは口出しをしないつもりらしい。
ああでもないこうでもない、と初めて行う類の思考にめっきり疲れてしまったレニーアは、大通りの脇に設けられた公園のベンチに腰掛けて、一旦休憩する事にした。
イリナは露店で磨り潰したバナナと牛乳を混ぜ、砂糖をたっぷり入れたバナナミルクを二つ購入して、一つをレニーアに渡して自分はベンチに深く腰掛けて呑み始める。
木製のコップの中には小さな氷がいくつか浮かんでおり、よく冷えたバナナミルクの濃厚な甘さが口の中に広がる。
「レニーアちゃん、なかなか決まらないね。なんでもすぐに決めちゃうのがレニーアちゃんなのに、珍しい」
ふふ、と思い悩む妹を前にした姉のように笑うイリナに対し、レニーアはバナナミルクを一気に飲み干し、氷をガリガリと噛み砕いてから、唇を思いきりへの字に歪める。
実年齢と比較してあまりに幼い容姿である事もあり、どう見ても拗ねた少女にしか見えない。
「私はこういった経験が無いのだ。お父……ドランさんのお言いつけで無ければこのような事をしようなどと発想すらせん」
レニーアの悩みの理由は、ゴルネブでの別れ際にドランから言い渡された親孝行をしなさい、という言葉に対してだった。
親孝行さえすれば夏休みの間でもドランに会いに行って良いという条件がある以上、レニーアは全身全霊を以て人間の両親に親孝行をするつもりだが、なにをすれば親孝行なのかがさっぱり分からない。
そもそもレニーアが親を持ったのは人間に生まれ変わってからであったが、レニーアにとっての親とはドランとカラヴィスであったから人間の親に何かをしたという事が無い。
加えて創造主が邪神であるカラヴィスという事も相まって、レニーアは他者に対する思いやりや気遣いという観念が大いに欠如している。
ドランとの出会いによって、レニーアの感性が大きくカラヴィス側からドラン側に誘引されているとはいえ、誰かに感謝の思いを伝えるなどという事を速やかに行えるわけも無い。
このままでは親孝行が出来ずドランに会いに行けない、とレニーアは心中でこれ以上ないほど焦っていたが、イリナから見ると両親へのお土産に困っているようにしか見えず、微笑ましい気持ちしか抱けないのだった。
「ふふ、そんなに悩む事は無いと思うよ。
ドランさんはそこまで難しい事をレニーアちゃんに期待し……ええっと、求めていないだろうからちょっとしたお土産を買って、今まで育ててくれてありがとうって言えばそれで十分だよ」
このままだと日が暮れても答えが出そうにないから、イリナは少しだけレニーアに助け船を出す事にした。
「むう、そういうものなのか?」
「うん。私が家に帰ると、お父様とお母様は帰ってきてくれるだけで十分だって喜んでくれるよ」
とは言うものの、レニーアが実家でもあの態度を取り続けていた事は想像に難くない。
はたしてそんなレニーアの事を、レニーアの両親がどう思っているのかイリナは果てしなく不安であった。
ひょっとしたら自分は途方も無く無責任な事を口にしてしまったのかもしれない。
イリナの言葉をどのように受け止めたのか、レニーアは重く口を閉ざしてそれからしばらく言葉を発する事は無かった。
「………………」
その後、イリナは自分の実家に帰る為ゴルネブから出ている海路の方の船に乗り、レニーアと別れる事となった。
レニーアがイリナからの助言に素直に従い、無難な土産品を買った事はイリナの不安を少なからず和らげたが、淡い色合いの唇をへの字に固めたままであった事が、最後の最後までイリナの不安を消し去ってはくれなかった。
そして、レニーアはゴルネブの飛行船に乗ってガロアへと一旦戻り、そこから乗合馬車を乗り継ぎ、三日を掛けてガロアの東部にあるブラスターブラスト男爵家の屋敷へと帰還した。
着替えを始め最低限の荷物を詰めた皮鞄を右手に、両親への土産品を大事にしまった絹の一枚布の包みを左手に持ち、レニーアはまるで魔王の居城へ挑む勇者さながらの思い詰めた表情で生まれ育った屋敷を見上げていた。
これからレニーアが両親に対して行う行動いかんによって、この夏休みの間、ドランに会いに行けるかどうかが決まるのである。
レニーアにとってはこの宇宙の存亡などよりもはるかに重要な事だ。
故に、レニーアはこれから初めて行う親孝行を前に、誰も見た事が無いような緊張の色を幼い美貌に浮かべているのだった。
「行くか」
自らの死をも厭わず戦地に赴く歴戦の戦士の如き壮烈な表情を浮かべ、レニーアは行く。
出迎えの執事とメイド達が居並ぶ屋敷の正門へと。
親孝行をする為に!
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第六十八話
大邪神カラヴィスによって産み出された神造魔獣は、死後、レニーア・ルフル・ブラスターブラストとして、アークレスト王国北東部に領地を持つブラスターブラスト家に生を受けた。
父はブラスターブラスト家第六代当主ジュリウス・バルカ・ブラスターブラスト、母はラナ・ラナラ・ブラスターブラストで、兄弟はいない。
そしてレニーア本人は乗合馬車を乗り継いでブラスターブラスト領西部に到着すると、そこで待っていた護衛達と家の馬車に乗って生まれ育った屋敷に向かった。
初代当主の名を持つ領内最大の都市アバムの中心に、ブラスターブラスト家代々の屋敷は建っている。
整然と区分けされた市街は商店が所狭しと並び、商店の他にも店を持たぬ自由商人達がひしめく商業区、店に並ぶ商品の加工製造を行う工業区、都市の住人が住まう居住区、その居住区の中でも一般の市民と兵士や騎士が住む区画とに分けられている。
ブラスターブラスト家の旗を掲げる馬車が、二名の騎士と十名の兵士達に守られて都市に入って来た時、アバムの住人達はどうしてあの領主夫妻からと誰もが一度は思った少女の帰還を知った。
生まれ育った屋敷に戻ったレニーアは、これといって装飾の無い簡素なデザインの純白のドレスに袖を通し、黒髪は流れるままに任せて着替えを終えた。
それからゴルネブ土産の包みを手に取り、くるりと踵を返すとドアの左右で待機していたファウファウ達に声を掛ける。
言葉一つ掛けずに無視して行くのが常であったレニーアが、自分達に声を掛けて来る事に、ファウファウは再び心臓がドキリと跳ねるのを感じた。
「二人に会いに行く」
「はい、お嬢様」
ファウファウとエルルが声を揃えて返事をして開いた扉を、レニーアは肩で風を切って進む。
あどけない少女の容姿ではあるが、自分以外の全てを見下しているかのような傲岸不遜な雰囲気と、それが決して間違いではないと思わせる迫力だから、こんな態度を取っていても使用人達や屋敷勤めの騎士達の内心に反発はほとんどない。
陽が良く当たり市街を見下ろせるバルコニーは、ジュリウスとラナのお気に入りの場所であった。
レニーアがろくに動けない赤子の時分には、両親どちらかの腕に抱かれて良くバルコニーに連れて行かれたものだ。
ジュリウス達にとっては残念な事にレニーアにその記憶こそあれ、それを楽しい思い出だなどとは思っていなかった。
良く晴れ渡り気持ちの良い風の吹くバルコニーは、穏やかな時間を過ごすには最適の場所で、レニーアの父ジュリウスと母ラナはバルコニーに設置された椅子に腰かけて、愛娘の帰還の挨拶を待っていた。
ほどなくしてレニーアがファウファウ達を伴ってバルコニーに姿を見せた時、神造魔獣の父母となった二人は、およそ奇行しかしない娘に対して暖かな眼差しを持って迎える。
その眼差しはレニーアに対する親子愛が失われていない事を、なにより雄弁に語っている。対するレニーアは無関心とは異なる何かしらの感情を瞳に宿していた。
ファウファウはようやくレニーアの違和感の正体を悟った。
一体どうしてなのだが、神ならぬファウファウには分からなかったが――レニーアが大神級の魂を持つ以上、神々でもそう簡単には分からないのだが――問題児のお嬢様は、両親と会う事に緊張しているらしい。
祖父母や他の縁者に留まらず近隣の領主らと顔を合わせた時も、緊張のきの字も無かったお嬢様が今になってどうして緊張を? とファウファウは解明困難な疑問を心に抱く。
「お帰り、レニーア。相変わらず元気そうだね」
父ジュリウスは少しやつれただろうか。
相変わらず鉄仮面のようにぴくりとも顔を動かさぬ娘に、ジュリウスは何度目になるのか失望と落胆の色を顔に浮かばせる。
ジュリウスがまだ失望と落胆するだけの期待を、レニーアに寄せている事の証拠でもあった。
十六年以上レニーアを育てて来たというのに、まだ期待しているのだから大した人物ともあるいは間の抜けた人物とも言える。
「レニーア、こちらへおいでなさい。さあ、魔法学院のお話を聞かせてください。お友達は出来たのかしら?」
母ラナも夫と同じようにレニーアに対し、慈愛に満ちた眼差しを向けて過去幾度となく断られてきた申し出を口にする。
その声と瞳にはこれまで断られてきたからと言って、これからもそうとは限らないと言う希望と信念とがあった。強い母と言えるかもしれない。
レニーアは常なら顔だけ見せて、部屋に戻るか外出するとぶっきらぼうに告げてこの場を去るのだが、夏季休暇中にドランと出会う条件が父母への親孝行と言う事情がある為、この場に居る皆の予想を裏切る答えを返す。
むすっとした顔のまま両親の座す椅子の間に置かれている椅子を目指して歩きだし、そこに静かに腰かけたのである。
いや、そればかりか――
「土産だ……です」
そう言って左手に持っていた包みをテーブルの上に置いたではないか。
これには領主夫妻の傍らに控えていた位の高いメイド達や、レニーアの背後に立っていたファウファウ、そして領主夫妻自身が隠せぬ驚きに襲われる。
ラナなどは感激のあまりに琥珀色の瞳にうっすらと涙さえ浮かべている。
レニーアは、イリナに一緒に選んで貰った包みを自分の手で開き、母用の真珠のブローチと父用の海辺に棲息する霊鳥の羽を使った羽ペンセットをそれぞれの手元に置いた。
だが、父母がぽかんとした表情で自分達の手元に置かれた土産に視線を落としている様子を見て、失敗したかと内心で唸る。
目の前の父母に孝行をする事が、目下最大の懸念事項であり最重要課題なのだ。
余人からすれば親不孝者の放蕩娘がようやく親孝行をしようとしている、としか見えないがレニーアにしてみればそれどころでは無い重大事じゅうだいじなのだから、内心では両親が喜ぶかどうか焦燥と不安と期待の荒波に揉まれている。
レニーアの唇がへの字に動く寸前、ジュリウスとラナは自分達の娘が不安そう――彼らにはそう見えた――な顔をしている事に気付き、慌てて口を動かした。
「れ、レニーアがお土産を買って来てくれるなんて初めての事だね。つい驚いてしまったよ、なあ、ラナ」
「そう、そうね、あなた。レニーアがこんな素敵なものを買って来てくれるなんて思っても居なかったから、お母さん、驚いてしまったわ。とても綺麗な真珠ね」
どうやら好評のようだ、とレニーアは内心で安堵して、夏季休暇が終わってイリナと再会したら褒めてやろう、とどこまでも上から目線で考えていた。
ジュリウスは目頭が熱くなるのを感じながら、これまた珍しくレニーアが夏季休暇前に寄越してきた手紙の文面を思い出して、娘との会話を試みた。
レニーアとの親子の会話の平均記録はだいたい二言ほどだ。この瞬間が最長記録を更新する最良の機会だろう。
「そうだ、レニーア。今年は魔法学院の交流戦に出場するそうだね。昨年は見送ったのに、どういった風の吹き回しだい?
それにゴルネブへも学友達と一緒に行ったのだったね。新しい友達が出来たのかな」
ジュリウスは娘とまともに会話した時間が極めて短い為に、どう話しかければ良いものか困惑しながら、レニーアの表情と雰囲気の変化を見逃さぬように注意深く観察しながら言葉を選んで話しかける。
父が会話に苦労している様に娘であるレニーアもまたドランから刺された釘の為に、言葉一つ一つに苦労しながら返答しなければならなかった。
「今年はある方が出場するから私も出る事にした、しました。ゴルネブへはイリナと他に交流戦に出場する者共……ではなくて、学友達と、一緒に行った……行きました。
ベルン村のドランさんとイリナとアルマディアの妾ふ、あー、クリスティーナとアピエニア家のネルネシアとディシディア家のファティマ、それと小生意気な深紅りゅ……まあ、奴は別にいいか」
レニーアの口から出て来たのはアークレスト王国北部のみならず王国全土でも有数の家名であったが、ジュリウスらはその事に気付く余裕も無くここまで長く喋る娘を前に、感動の海に首まで浸かっている様子。
レニーアは慣れない言葉遣いに四苦八苦しながら何とか喋り、ジュリウスへの返答を終えた。
零れ落ちそうになった涙をハンケチーフで拭ったラナが、喜びで実年齢より随分と若い顔を輝かせながら、愛娘と信じるレニーアに話しかける。
「そう、レニーアにそんなにお友達が出来るなんてこんなに嬉しい事は無いわ。
魔法学院の代表に選ばれた事は大変名誉なことではあるけれど、あまり危険な事はしないでね。
貴女が怪我をする様な事があったらと思うと、私達は今にも胸が張り裂けてしまいそうな気持ちになってしまうの」
普段のレニーアならば、この世で私に傷を付けられるのはドラン様だけだ、くらいの事は口にするのだが、ドランから御両親に産み育てて貰った感謝を忘れてはいけないと釘を刺された為に、むぐぐ、と口の中で小さく唸るに留まる。
ただレニーアの態度の変化が、すべてドランに釘を刺されたからというわけでは無かった。
きっかけはやはりドランになるのだが、確かに言われた通りこのジュリウスとラナが結ばれて人間としてのレニーアが産まれていなければ、前世ではついぞ話しかける事も出来なかったドランと再会する事は出来なかっただろう。
恋焦がれるように崇敬していたドランと再会できたのは、人間の父母らのお陰である事は紛れもない事実だった。
そう考えれば考えるほど、レニーアは邪悪な神造魔獣なりにジュリウスらに本物の感謝を抱いていたのである。
「交流戦に出る以上、負けはせん。ではなく負けない……です。心配は要らん、です」
しょっちゅうつっかえながらも何とか苦労して喋るレニーアに、周りのメイドや執事達は何だこれは、と何が起きているのか理解が追いついていなかった。
おかしい。最後にこの屋敷を出ていった時には、このような別人と化したかのような態度を取る予兆はまるでなかったはず。
一体どうしたことか。なにか悪霊にとり憑かれたのか、それとも脳を別の誰かに取り換えられてしまったのか。
グルオフやファウファウ達がそんな決して口にできない様な事を考えてしまうほど、今のレニーアの態度はこれまでの彼女と比べてあまりに異常なのだった。
「ラナ、レニーアがこうして私達と話をしてくれるのが嬉しくて仕方が無いのは分かるが、この子は今日帰って来たばかりだ。そろそろ休ませてあげよう」
「あなた、そうね。少し浮かれていました。レニーア、お夕食の時にお話の続きを聞かせてくださいね」
母の懇願するような声に、レニーアは細い首を縦に振る。
「構わん……わないです」
それからレニーアは自分用にと淹れられたお茶を一息に飲み干すと、そそくさとその場を後にしようとし始めた。
普段の時分とはかけ離れた態度を取った事で、レニーアの精神的な疲労は極めて甚大なものとなっており、大きな溜息を吐きたいのを堪えて両親に一礼して背を向けた。
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第六十九話
「ふむ?」
私が唐突に漏らした口癖に、傍らのセリナがひょいと顔を出してこちらを覗きこんできた。青く透き通った瞳に黄金の煌めきを纏う豊かな髪と言い、何度見てもやはり可愛い。
私もセリナも汚れても構わない野良着に袖を通し、セリナは日よけに麦わら帽子を被っている。
「どうかしましたか、ドランさん」
「鼻の奥がむずむずとした。誰か噂をしているのかもしれないな」
私がそう言うと、セリナは左手を頬にあてて私の噂をしていそうな人物を思い浮かべ始める。
「う~ん、ドランさん打倒のために修行していそうなネルネシアさんか、ドランさん分が不足しているレニーアさん辺りですかね?」
「どちらでも光栄と言えば光栄だが、二人とも物騒な事に繋がりそうで遠慮したい所だな」
ネルは夏休みの間に父母の下で腕を磨き直して私と、宿敵であるエクス打倒を目指しているだろうし、レニーアはなんというか悪気無しに厄介事を持ちこんで来るだろう。
ただ龍吉の一件以来、範囲を広げ条件を緩めた私の知覚網は、不自然な大規模災害の発生や異世界との接続などは感知していないから、私が出張(でば)る必要はなさそうだ。
そして私達は宿を取れない旅人や商人達を迎え入れる為の、簡易宿舎の建設作業に従事している所だった。
普段、彼らに開放している空き地とは違う場所で、北東から南西にかけて村を横断する川や広場からはいささか遠い場所になる。
村長とシェンナさんに受け入れ態勢が整っていない件について相談を持ち込み、既に村長達も簡易宿舎の建設を予定していた為、私が宿舎を建てる場所の基礎の建設などを担うことにしたのだ。
魔除けの鈴亭のようなきちんとした宿屋では無く、雨風を避けられてベッドで眠れると言う程度の家を二十軒ほど建てる予定である。
好き放題に伸びていた草をセリナと一緒に風と水の刃の魔法を使ってばっさばっさと刈り取り、土魔法の応用で地面をぼこぼこと泡立つように掘り起こして草の根っこを取り除く作業をする。
草刈り用の鎌などを使ってすればどれだけかかるか分からない作業も、私とセリナの二人掛かりで魔法を使えば、陽の昇らぬ内から作業を始めて村の皆が畑に出る頃にはもう終わる。
刈り取った草の束を片隅に置き、掘り起こした土を固め直してからパンに焼いた兎肉や千切りにした玉菜(キャベツ)、輪切りにしたトマトを挟んだセリナ手製のハンバーガーもどきで朝食を済ませる。
味付けは塩と数種類の香草で、セリナの手腕の賜物で火の通り具合や玉菜とトマトの噛み応えや、肉とパンとの大きさの比率が素晴らしい。
噛み締めたトマトから溢れる酸味のある汁と、しゃきしゃきとしたキャベツの歯応え、ほど良く塩の利いた兎肉の香ばしさや肉汁、一口ごとに変わる香草の風味が食欲を刺激してくる。
肩と肩が触れ合う位近い所に腰を降ろしたセリナが、ちらちらと期待を込めた視線を私に向けている。何を求められているのか分からないほど、鈍いつもりは無かった。
「セリナは料理の腕が上がったな。美味しいよ」
「ふふ、そうですか? それなら作った甲斐がありました。まだまだありますから、お腹いっぱい食べてくださいね」
セリナはにこにこと嬉しそうに笑い、傍らに置いたバスケットの蓋を開いて、布に包んだハンバーガーを私に見せて来る。
魔法学院での食事は雇われた料理人の皆さんが用意してくれているから、料理する機会は少ないのだが、ベルン村に居る間はセリナの手料理を満喫できそうだ。
セリナが作ってくれた朝食を全て平らげた私は、再び簡易宿舎建設に取り掛かった。
かつて破棄する事になったセリナ用のお風呂同様に、土の分子構成に手を加えつつ地面を隆起させて、剃刀の刃も通らない位隙間なく石材を積み上げたように見える平屋の家が次々と完成して行く。
とはいえ内装に手を入れてはいないので、これから扉やテーブル、ベッドなどを運び込まなければ本当に完成とはならない。
あっという間に出来上がった二十軒の石材で出来た家屋を見て回る。間取りは、食堂兼居間兼台所と二段ベッド二脚を運びこむ予定の寝室だけというものだ。
これらの簡易宿舎の利用に費用は発生せず、無償で使用して良い事にしてある。ただし薪や水に関しては料金が発生するし、食事に関しては利用者自身で用意して貰うことになる。
「相変わらず、普通に家を建てるのが馬鹿らしくなる光景ですね」
セリナは既に何度か目にした光景とはいえ、あっという間に家が建ってしまう私の早業に、つくづくといった様子で感想を零す。多少、呆れてもいるようだ。
「こういう事を出来るようになる為に、ガロア魔法学院に入学したのだからこうでなくてはね」
そうしてセリナを伴い二十軒分の確認が終わり、村の皆が畑仕事や狩猟に出かけ始めた頃に、私が調達したホースゴーレムに荷を牽かせた一団が到着した。
家屋に嵌めこむ扉やベッドを運びこむ為の一団で、そこには我が弟マルコや蟻人の少女達の姿もあった。
「あれ!? もう家が建っている!」
昨日までやや起伏のある平地であった筈の土地が綺麗に均された上に、既に石材の家屋が二十軒建て終わっている事に、マルコを始め村の皆が驚きの声を上げる。
村長には私が魔法と錬金術を用いて家屋の側だけは作っておく、と伝えておいたのでマルコ達が牽いて来た荷車には扉やベッドの材料となる木材だけが積まれている。
「つい今しがた建てたばかりだ。内装の方は手つかずだから、そっちを頼む」
「う、うん。にしても早過ぎない、兄ちゃん? まだ陽が昇ってから大して時間経っていないよ」
「こう言う時の為に魔法を習ったのさ。家屋だけじゃない、水車小屋や風車に浴場も建てる予定だ。
さあ、手を休めないで仕事をしよう。この人数で今から始めれば昼までには終わる」
寝台を組み立てて藁をシーツで包んだ布団や枕を運びこみ、扉や窓を嵌めこみ開け閉めに不具合が無いかを順次確かめて行く。
それから隙間風や雨漏りが無いかを私とセリナがそれぞれ風を起こし、水を発生させて確認し、問題が無ければ晴れて完成である。
間取りは小さく簡単な家屋であるが、作業を始めてから四半日とかからずに二十軒の家が建ち並んだ光景は、滅多にお目にかかれまい。
私とセリナは完成した家屋を前に、我ながらいい仕事をしたと爽快な気分であったが、マルコ達は数日掛りで作業に取り掛かる思いであったらしく、あまりにも簡単に終わってしまった事に現実感が無い様子だ。
「初めて見た人はああなりますよ」
うんうん、とセリナはなにやら分かった様子で言うが、まあ、確かにそんなものだろう。
だがこの程度で驚いていて貰っては困る。これから私は浴場作りにも取り掛かるのだ。
あちらはここの簡易宿泊施設とは異なり、気合を入れて作る予定だ。
大衆浴場など我がベルン村の人々のほとんどは利用した事が無いだろう。
村の中央広場に隣接する土地が建設予定地で、水源は村を横断する川から持ってきて、お湯を沸かすのには火精石を用いる事で薪の節約を行う。
村の皆の利用を前提としてはいるが、実際には旅人や商人達の利用も考慮に入れており、利用に関しては少額ながら料金を取る予定である。
私がガロアで学んだ浴場建設に関わる知識、そして利用者を喜ばせる数々の工夫の全てを導入し、今現在における私の全技術をもって建てるのだ。
ガロアの浴場にも負けない、いや勝るほどの浴場を建設して浴場目当ての観光客を呼び込む狙いもある。
そうなったとしたら魔除けの鈴亭以外にも本格的な宿屋を建てなければならないが、現在のベルン村への交通の便や周辺の環境を考えるとすぐに湯治場とはなるまいが。
「これ位で驚かれていては浴場建設ではもっと驚かれてしまうな」
「二つ名に恥じないものを建てないといけませんね」
「ああ。なにしろ私は『お風呂屋さんのドラン』だからな」
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第七十話
クリスティーナの実父ドラムを当主に戴くアルマディア家は、アークレスト王国北方屈指の大家であり、始祖は建国王の冒険者時代からの仲間だったと言う人物だ。
その為、代々のアルマディア家の当主はアークレスト王家への忠義と親交は深く、国内外の貴族達からは王家の懐刀と見られている。
妾腹とはいえクリスティーナがガロア魔法学院で一目も二目も置かれていたのは、この世のものとは思えぬ美貌のみならず、生まれた家の格に依る所も比率で言えば小さいが確かにあった。
アルマディア領の主都であるイグリースは、北方最大湖であるイグラ湖に接しており、小さな漁船はもちろん河川交易の為の大型船、飛行船を収容する港町としての一面を有する。
湖底で産出される大量の水精石の加工・輸出と、魚の養殖を主幹産業とするイグリースは、王国各地から商人達がひっきりなしに訪れて少数の成功者と多くの失敗者とを産み出し続けている。
クリスティーナが飛行船用の港から迎えに寄越された馬車に乗り、対岸にあるイグリース城の跳ね橋を渡ったのは、夕刻の事であった。
地平線の彼方に沈みつつある夕陽を浴びて、広大な湖や湖岸に並ぶ家々が橙色に燃える光景は、イグリースを訪れる旅人達の心を魅了してやまない。
父の部下だと言う男に連れられて、汚れていた不潔な体を綺麗にしてもらい、高価な絹の衣服を着せられて、初めてイグリースを訪れた時もこんな時間だったな、とクリスティーナは馬車の窓から夕陽を見つめて感慨に耽っていた。
あの時、不安と自分に父親がいたという事がまるで他人事のようで、どう反応していいのか分からず落ち着かなかったのに、世界が夕陽の色に染まった光景を見たら、一瞬でそんな不安など忘れて見惚れていた。
「今は、そうも行かないか」
「なにが?」
知らず、口から出ていたらしく、対面で大人しくしていたニクスに問い返された。
「初めてあの夕陽を見た時、とても綺麗だと思った。こんな綺麗なものが見られる場所で暮らせるのかと、嬉しかったのを思い出したのさ」
「ああ、そうか、そうだね。夕陽はどこでも変わらない筈なのに、初めてここで見た夕陽はとても綺麗だったよ」
ニクスは、『今は、そうも行かないか』とクリスティーナが呟いたのには敢えて触れなかった。
夕陽を変わらず綺麗だと思えても、この街で暮らす事を嬉しいとは思えないという事なのだから。
イグリース城に到着したクリスティーナは、屋敷中の召使達が集まり頭を垂れる中、城内の居間へと通された。
広い室内に置かれた暖炉の傍にある椅子に実父ドラムが腰掛け、その傍らに義母であるリーサ、父母の向かいに異母兄のエルダルとその妻メオンサが居た。
ドラムは齢よわい五十を数える恰幅の良い男性で、手入れの行き届いた美髯と総髪にした銀髪が目を引く。
その妻リーサは赤い紅を引いた唇をきつく引き締めて、切れ長の瞳で火の絶えた暖炉を見つめているきり。
異母兄であるエルダルは父とよく似た顔立ちに、それ以上に横幅も厚みのある巨漢だった。
領主の座こそまだ譲られていないが、領土の運営に対する権限の多くを既に委譲されており、一角の貴族然とした風格を纏っている。
少なくとも両親に安泰だと思わせるだけの威厳と実績のある人物だ。
エルダルのクリスティーナを見る瞳は、自分よりもはるかに優れている者に対する嫉妬と羨望を抱いているが、憎悪にまでは至っていない。
エルダルにとってクリスティーナはあまりにも厳しい競争相手ではあるが、既に後継者として自分が選ばれている事と、曲りなりにも半分は同じ血を持つ事も相まって、憎むほど感情を募らせてはいないらしい。
善人と言うほど善良ではなく、かといって悪人と言うほどでもない。良くも悪くも普通の人間なのだろう。
一方でエルダルの傍らのメオンサは、うっとりとした視線を隠しもせずにクリスティーナに向けている。
長い事アルマディア家に仕え、代々騎士団長の任に何度も就いた上級騎士の家系に生まれたこの妻は、初めて目にした時からクリスティーナの美貌の虜になった者の一人だった。
この事もエルダルがクリスティーナに好感を抱けぬ理由の一つであり、また血の繋がった肉親でありながら、ともすれば魅了されてしまいそうになる自分への嫌悪も含まれていた。
ただその美貌のみをもって次期当主の座を射止められそうなほど、クリスティーナの美貌はずば抜けていた。
相手を魅了する事を意識して振る舞えば、交渉に訪れた他領の者達や商人達は正気を失い、クリスティーナの求めるどんなに理不尽な取引であっても、己が破産する事を顧みずに首を縦に振って応じるだろう。
クリスティーナが憂いと悲しみを伴って私の為に死んで欲しいと囁けば、どんな臆病者でも自分の命を捨てる兵士と化して、死ぬまで戦い続ける事だろう。
極めて高度な精神干渉系統の魔法にも匹敵するのが、クリスティーナという少女の持つ美であった。
しかも魔力や暗示、催眠を用いたのではなく単に顔や振る舞い、雰囲気だけでこれを成すのだから性質たちが悪い。
身支度を整え直し、部屋にエルスパーダとニクスを置いて来たクリスティーナは、家族に対するのではなく家臣が主人にするかのように恭しく部屋に足を踏み入れる。
春の長期休暇の時は、休暇期間が短いからこの家に呼び戻されずに済んだから、この面子と最後に顔を合わせたのは、半年以上前の事となる。
「父上、義母上、兄上、義姉上、ただいま戻りました。お久しゅうございます。皆さま、ご壮健なようで安堵いたしました」
これは本音である。彼らから情を抱かれているかどうかはともかく、クリスティーナは彼らに対して少なからず肉親としての情を抱いている。
メオンサなどは魔法学院の生徒たち同様クリスティーナシンパと化しているから、鼓膜を震わせた義妹の美声に気を失う寸前に陥っている。
「よく帰った。変わらぬ様子だな」
「はい」
ドラムは娘に視線を向ける事もせずに、心の籠らぬ声を掛けた。小さく、クリスティーナの肩が震えた。
父だと言う目の前の男に拾われてからもう何年にもなると言うのに、声を掛けられるだけで異様に緊張してしまうのはなぜなのだろうと、クリスティーナはいつも疑問に思い、その答えを得られずにいる。
エルダルは黙って父と義妹のやり取りを見ている。幸せな夢を見ている顔で気を失っている妻の事は、毎度の事と見て見ぬふりだ。
今頃はクリスティーナの美貌に魅せられた召使達や騎士達が、久方ぶりに目にしたクリスティーナに、何人かはメオンサ同様気を失っている事だろう。
実の所、エルダル自身、父と義妹との関係が今一つはっきりと分からない。
父のしている事と言ったら、クリスティーナを引き取らなくともどこかの屋敷に囲えばよいものをわざわざ手元に引き取っておいて、その癖さしたる関心を向ける事をせずに衣食住の面倒を見ている事だけだ。
祖父である先代アルマディア家当主はクリスティーナの事を気に入り、父の代わりに面倒を見て、学問を教え、剣術を教え、作法などを教えこそしたが、ドラムが特別に何をしたと言う事も無い。
貴族に限らず大地主や裕福な商人が愛人を囲い、子供を産ませる事など珍しくとも何ともない。これは男に限らず女当主の場合でも同じことだ。
本宅で共に暮らすとなると珍しいが、愛人と生まれた子供を別宅で生活させる事がほとんどだ。
クリスティーナにしてもそうした方が面倒は少ないし、余計ないざこざが起きる事も無かったろう。
エルダルとクリスティーナの父親であるドラムは、普段から口数が少なく何を考えているのか分かり難い人物で、アルマディア家当主としての役割を粛々と果たす事に終始しているようにしか子供達には見えない。
それでもエルダルや他の兄弟達は幼い時分に抱きかかえられたり、一緒に馬に乗って遠出をしたりした記憶があるから、それなりに愛情を注がれたと言う自覚はある。
しかるに、気まぐれに旅芸人の女に産ませた事と、ある程度育ってから引き取ったからなのか、クリスティーナに対してドラムの取る態度は、エルダルの目を通して見ても冷淡だ。
そんな扱いをする位なら、生活の援助をするだけに留めて目の届かぬ所に置いておけばよいものを。
あるいは本妻の子供達とは別の扱いをする事で、ある程度けじめを示しているつもりなのかもしれない。
(父上、手元に置かなかった方がクリスティーナにとって幸せだった事でしょう。
ほら、ただでさえ悪かった母上の機嫌がますます悪くなっている。クリスティーナはさぞや居心地が悪かろう。可哀想に)
母リーサは視線を向ける事すらしないが、豪奢な赤いドレスに包まれた全身と心が醸し出す険悪な雰囲気の全てがクリスティーナ只一人に向けられている事に関しては、エルダルは本気で同情していた。
伴侶の顔を立てて数歩下がった所を常に歩く典型的な貴族の奥方と見えて、この母が激情を胸に秘めている事をエルダルは良く知っていた。
あるいは、それがリーサがクリスティーナを嫌う原因か、とエルダルは睨んでいる。
「クリスティーナ、魔法学院でのお前の成績や素行については、いつもの通り知らせが届いている。学業に関して、わしから言う事は何もない」
「はい」
クリスティーナはじっと顔を俯かせ、父の言葉に耳を傾けている。お世辞にも父と娘の会話とは思えぬ雰囲気である。
「しかしこれまでと唯一異なる事がある。今年は競魔祭に出場するそうだな?」
まるで天使に罪を咎められた罪人のように、クリスティーナは身を縮こまらせる。
退廃の影が消え、穏やかな雰囲気を纏うようになった最近のクリスティーナを知る者からすれば、思わず目を丸くするような姿である。
「は……はい」
「今まで出場を辞退していたというのに、どういう風の吹き回しだ?」
椅子に腰かけたまま自分をじっと見つめる父の視線から、クリスティーナは目を逸らす事を許されなかった。
別に後ろ暗い事は無いし、隠し事があるわけでもないのに、なぜだか責められている様な気分だった。
「その、魔法学院の学友が出場する事になって、私も彼らと一緒に出場して少しでも役に立ちたいと思ったからです。本当に、それだけです。
幸い、私は競魔祭出場の推薦枠に入っていましたから、出場の意思を示せばすぐに出場選手に選出されました」
「学友?」
これまでクリスティーナの口からはついぞ出て来なかった単語に、ドラムのみならずリーサやエルダルも思わず反応する。
フェニックス家の令嬢に熱を上げられている事は知っていたが、学友といった関係では無かった筈だ。
「はい。元々はベルン村を訪ねた時に知り合った者なのですが、魔法の素養を認められてガロア魔法学院に入学し、そこで他の生徒達と共に親しくなったのです。
それで彼らが出場すると言うので、私もという次第なのです。父上」
「彼、か。ベルン村と言えば父が計画の責任者を務めた北方の辺境だな」
「はい」
それきり沈黙する父を前に、クリスティーナは咽喉がからからに乾き、自分がひどく緊張している事に気付いた。
父親に叱責される事が恐ろしいのか。失望させる事が恐ろしいのか。
どちらでもあるようで、どちらでもないようで、クリスティーナは自分の心の事なのにまるで分からなかった。
父が次の言葉を口にするまでの数瞬が、クリスティーナには何年にも何十年にも感じられた。
この時間を終わらせられるのならば、悪魔に魂を売っても良いのではないかと思うほど、クリスティーナにとっては苦痛だった。
「よろしい。部屋に戻りなさい。夕食の時にまた話を聞こう」
この瞬間、なによりも求める言葉が出て来た事に、クリスティーナは心の中で飛びまわりたくなるような、あるいはどっと疲れが押し寄せて来たような気持ちになった。
緊張の反動から押し寄せて来た巨大な気の緩みから、クリスティーナはリーサが向けて来た冷厳な視線に気づく事は無かった。
最後まで忠実な家臣の態度で部屋を出たクリスティーナが、用意された私室に戻り、天蓋付きのベッドにうつ伏せに倒れ込むと、蔦模様の細工が施された金属製の止まり木に止まっていたニクスは、いつものかと気にしなかった。
どうやらクリスティーナはアルマディアの家に戻る度に、このようにベッドに倒れ込み
「疲れたもう帰りたい疲れたもう嫌だあの空間なんだあれ肩が凝る息が詰まる胃が痛い咽喉がひりひりする頭がずきずきする」
とぐちぐちぐちと弱音を吐き続けるのが慣例となっているらしい。
ニクスがやれやれと溜息を吐く間も、羽毛を包んだ枕に押し付けられたクリスティーナの口からは、よく息が続くものだと感心したくなる位に弱音が出続けている。
「も~、クリスティーナ、いい加減にしなよ。ここに戻って来る度にそれを聞かされる身になって考えても見てよ。それにもっと前向きになれる事を考えたどうだい?
あの人らに顔を見せた後なら、後はガロアに戻るって言うかドラン君の所に顔を見せるのも、君次第でしょ?」
いい加減、クリスティーナの弱音に何度も付き合うのがばかばかしくなっていたニクスは、もっとも手っ取り早くかつ確実にクリスティーナの気分を変えられる言葉を口にした。
効果は覿面であった。それまでベッドにうつ伏せだったクリスティーナは、跳ねるように起き上ったかと思うと腕を組んで室内をうろうろと落ち着きなく歩き始める。
「そうだな。まったくもってそうだ。ふふふ、そうと決まればドランとセリナにお土産を買って行ってあげなければなるまい。
となると何が良いかな。何かあった時の為にと貯蓄しておいた甲斐があったというものだ。
ああ、何を買っていけば喜んで貰えるだろうか。なあ、ニクス?」
「なんでもいいんじゃないの。まあ、ベルン村では手に入りにくい物の方が、珍しくって喜んで貰えるんじゃない?」
ニクスのありきたりだがまっとうな返答に、クリスティーナはそうだな、うん、そうだな、と聞いているのかいないのか分からない返事をして、まだぐるぐると部屋の中を歩き回っている。
「だめだこりゃ」
ニクスは、しみじみと呟く。
大邪神カラヴィスに生み出された神造魔獣たるレニーアが、人間の両親に目一杯の愛情を注がれて育てられたのに対し、クリスティーナが実父や義母らと良好な関係を構築する事が出来ず、確かな愛情を感じられずにいる事は実に皮肉的であった。
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第七十一話
既に陽は中天を過ぎており、こちらの都合などお構いなしに降り注ぐ陽光に風も大地も焼かれていて、畑仕事に精を出す村の皆は小まめに日陰に入っては水分を取り、適度に休憩を取っている。
そんな中でも私は疲労などまるで縁の無いものと精力的に動き回っているが、セリナの体力がいささか心配だ。
セリナは日よけの為に大きめの麦わら帽子を被り、日焼け対策に薄地の長袖のワンピースに袖を通している。
セリナ自身が優れた水魔法の使い手であるから、自分の身体の水分や大気中の水分に干渉して体温を調節は出来るし、いつも豊かな胸元で揺れている私手製のお守りもあるから熱中症や、日射病に倒れる事が無いとはいえ心配なものは心配だ。
一応、セリナの体調にも気を配りつつ作業をする事を心掛けなければなるまい。
作業ばかりに熱中して、セリナへの注意が疎かになって体調を崩しでもしたら、私は自分を生涯許すまい。
さて作業前の心掛けは以上として、私とセリナは村の南門の所に集めていた岩石と、待機させていた馬車に繋いだホースゴーレム白風の所に到着した。
これから私とセリナは二、三日ばかり村の外でとある作業に従事する予定だった。
私は目の前に文字通り山積みとなった石やら岩やらの周囲を歩きまわって、ガロア魔法学院で購入した簡易錬金術道具一式を配置し、錬金術行使の準備を手っ取り早く済ませる。
遠巻きに私が錬金術を行使する様子を、好奇心に駆られた村の子供ばかりか大人までも腕を動かすのを止めて、こちらを見ていた。ふむん、これはささいな失態も許されんな。
「注目の的になっていますね。ふふ、緊張しますか?」
「とてもしていると言えば満足かい?」
「いえ。聞いてみただけです。ドランさんがそんな可愛らしい方でない事は、よく知っていますもの」
「セリナは、意地の悪い事を言うようになったな」
「ふふ、長くお付き合いをしていると、遠慮が無くなって来るものですから。お嫌でしたか?」
「こういう他愛の無い会話は好きだから、構わないよ。
ガロアに行ってからずいぶんと友人が増えたが、やはりセリナと話す時が一番気が楽だな。しっくりくる」
「そう言って下さるなら、私はとても嬉しいです」
そう言って華やぐ笑みを浮かべるセリナは、とても可愛らしかった。
このようにセリナと和やかに話をしている間も、私の思考の一部と手と魔力は動き続けていて、地面に発光する錬金陣が描かれると内部に微細な光の粒子が生じ始める。
粒子はすぐさま数を増やして、山積みとなっていた岩石を包みこんで分子構造に干渉し、私の意に従って配置を変化させてその形を変えてゆく。
おお、と見物していた顔見知り達の口から驚きと感嘆の声が零れ出るのは、中々気分が良い。
岩と石は錬金陣の中で成人男性の倍の巨体を持った人型になり、陣の中を埋め尽くすほどの数が揃う。
即席のストーンゴーレム達だ。長々と使う予定の無いものなので、造形はひどく簡素にしてある。
顔に凹凸などは無いし、岩や石の形をそのまま留めている箇所もある。
「よし、これで取り敢えず数は足りるだろう。では行こうか」
「はい」
私とセリナは灰色のストーンゴーレムを引き連れて、村の南門からお隣のクラウゼ村へと続く道へと向かう。
白風が牽く馬車の御者台に腰かけた私達と、それに続くストーンゴーレム達の列を、南門を守っている二人の村人と四体の戦闘用ゴーレムが私達を見送ってくれた。
門を出たすぐの所で一旦私達は足を止めて、最後尾を歩かせていたストーンゴーレム四体が道幅いっぱいに広がり、灰色の巨体に無数の線が走ると平たく変わって道に敷き詰められて行く。
厚みこそ均一だが石畳一枚一枚の形は異なる為隙間が出来るのだが、石畳の間をストーンゴーレムの体内に血液代わりに充填していた瀝青アスファルトが流れ出して埋めて行く。
石畳の下の地面の凹凸も瀝青が埋めて平らに均し、またセリナが魔法によって発生させた熱風によって乾くので、瞬く間に石材は道の上に固定されてゆく。
「ふむん、検証と実験はしておいたが上手くいったな。セリナ、この調子で続けて行くぞ。
陽射しはまだまだ強いから体力と、魔力の残量には気を付けるように」
「はい。でもベルン村をこれから訪れる人達は、この行列と道が舗装されているのを見たら、とっても驚くでしょうね」
「驚いてくれるだけの事をしているからね。そうでなくては甲斐というものがない」
私達はこの様にしてストーンゴーレムを材料にして地肌がむき出しになっている道を舗装しつつ、馬車で一日ほどの距離があるクラウゼ村へと続く石畳の道を敷いて行った。
これまで雨が降れば凹凸が出来て歩くのに支障が生じた道が、今日をもって整然と整備された石畳の道へと変わるのだ。
道幅は馬車四台がすれ違えるほどの広さで、排水の為に道の中央から端へと向けて下がる様に傾かせている。
また排水の為に道の両端には溝を掘り、落下防止用の為の柵もストーンゴーレムを材料にした物を作って被せておいた。
溝の両端はベルン村の中を横断する川へと繋ぎ、雨水はそちらへと流れ込む仕組みだ。
道中、ベルン村へと向かう人々とすれ違ったが、ホースゴーレムの牽く馬車に乗っているわ、御者台にラミアと一緒に腰かけているわ、背後にストーンゴーレムを引き連れているわとあって、とにかく私達は目立った。
クラウゼ村でもひと悶着起きかけたという問題はあったものの、折角目立つのならばそれを活かさないのは勿体ないと、馬車の荷台に被せた幌にはベルン村に建てた公衆浴場や、取り扱いを始めた新しい特産品の広告を縫いつけておいた。
あまり期待はしていないが少しでも人々の目に留まれば、儲けものと言う事にしておこう。
そうして私達は丸一日を掛けて順調に道の舗装と整備を終えて、ベルン村へと帰還した。
私達がベルン村へと帰還し、また別の作業に従事している間、クラウゼ村からベルン村へと敷かれた石畳の道の事は村を訪れる人々の口に乗り、新たに用意された簡易宿や広場の露店、宿の一階にある食堂でよく聞かれるようになった。
そして話題となったのは道ばかりでは無い。当然、一夜にしてベルン村に建設された公衆浴場についても話題となったのである。
私とセリナは浴場の評判や利用状況はさてどんなものかと、浴場の休憩室に赴き、果汁水をちびちびと飲み、焼き魚をむしゃむしゃと食べながら、利用客の様子を眺めていた。
「いやあ、まさかこんな所であんなでかい風呂に入れるとは思わなかったなあ」
「最近ガロアで流行りの浴場になんか似てないか? ほら、魔法学院の学生が改築したっていうさ」
「ああ、おれも浸かりにいった事があるが、似ている所はあるな。似ていようが似ていなかろうが、気持ちの良い風呂だってのは変わりねえやな。
それに料金は安いし、風呂の後の酒と食い物も美味い。まあ、小せえゴーレム達がうろちょろしているのには驚いたがよ」
「ありゃあガロアでもそうそう見られるもんじゃないぜ。こりゃあ、これからのベルン村は目を離せなくなりそうだ。
そこら中に金の成る木の種が転がっているかもしれないんだからな」
がっはっはと笑いながら泡立った麦酒を呷り、炒り豆や鶏肉の串焼きなどを口いっぱいに頬張っているのは、村を訪れた商人達で他にも利用客の中には村人の姿もあって、初めて利用する大型の風呂に戸惑ったのも最初だけで、今は安価な値段設定もあってよく利用する姿を見かけている。
これまでベルン村では、熱い夏には川で水浴びをする事が多かったのだが、熱い湯に浸かる事で疲れが取れると評判になっていた。
「ふ~む、順調な滑り出しだな」
正式にベルン浴場と名付けられた公衆浴場を出入りする人々を眺め、少し浮かれた声で呟く私に対し、隣でとぐろを巻いていたセリナがこう付けくわえた。
「シェンナさんが嬉しそうに笑っていましたよ。浴場の一回当たりの料金は安いですけれど、飲食物とか入浴剤、石鹸の販売とかでかなり利益が出ているみたいですからね」
「浴場の利用それ自体は日々の疲れを癒して貰うのが目的だからな。入浴料で儲けようとは考えていないさ。
これからベルン村を訪れる人達が増えたなら、もっと施設を拡張し浴場関係の品を量産できる体制も整えないといけないな」
開店したばかりであるがベルン浴場は幸先の良い経営状況で、今の所石畳で舗装した道も問題は起きていない。
後は今後、流入してくる人々と増えるかもしれない移住希望者への対応を考えなければなるまい。
労働用の牛や馬型、人型ゴーレムを量産しているから、畑を広げて行くのに欠かせない労働力は確保しているし、扱いについても村の皆に教授済みだ。
壊れても土や自然に存在する魔力さえあれば勝手に直る仕様だから、私が村を離れてもゴーレムの修繕や取り扱いに支障はないだろう。
果汁水と焼き魚を平らげた私とセリナはベルン浴場を出た。
燦々と降り注ぐ陽光に目を細めていると、生温かい風に芳しい薔薇の香りが乗って私達の鼻をくすぐった。
懐かしい香りに、私とセリナはすぐにこの香りの主を思い出して風を振り返る。
緩やかに蛇行する道の向こうから黒い薔薇で全身を飾った、理想の貴婦人像そのもののような女性とエルフの少女、それに小さな妖精の姿が見えた。
黒薔薇の精ディアドラ、エンテの森にあるサイウェスト村の住人フィオ、そしてフィオの友達である妖精マール。
私とセリナがガロア魔法学院に入学して以来の再会であった。
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第七十二話
周りを畑に囲まれた何処にでも見られるような農村の小道は、彼女達が姿を見せたことで別の世界の光景であるかのように変化した。
ありふれた光景をそうでなくしているのは、エンテの森に住まう黒薔薇の精の中で最も強く美しいディアドラに他ならない。
「久しぶりだな、ディアドラ、フィオ、マール」
「皆さん、お久しぶりです」
私に続いてセリナが嬉しそうに笑って声を掛ければ、フィオとマールは大輪の笑顔の花を咲かせ、ディアドラも二人に比べれば控えめではあるが親しみの込められた笑みを浮かべてくれる。
「もう、ドランもセリナもずっと帰って来ないんだから、寂しかったわよ!」
フィオはそういって私達に抗議してきたが、にこやかな笑みを浮かべながらではまるで説得力が無い。
寂しさを感じていたのは事実なのだろうが、それ以上に私達との数ヶ月ぶりの再会に対する喜びの方が大きいのだろう。
「寂しかったですよ~。村の皆さんは親切にしてくれたですけど、お友達が居ないのはやっぱり寂しいです」
マールの方もフィオと同意見のようだが、こちらはフィオよりもさらに幼い姿形をしているものだから、寂しげな表情をされるとこちらの胸を突く罪悪感が大きい。
「すまない。だが手紙は書いていただろう。毎月届いていた筈だが、それでは物足りなかったか?」
「そりゃそうよ。こうして目で見えて言葉を交わせるのと、文字だけを目で見て追うのとじゃ、全然違うわ」
「そうですそうです。それにマールは字が読めないから、フィオや村の人達に読んで貰わないといけないのです!」
「ふむ、これは参ったな。二人とも人間よりも寿命の長い種族なのだから、気が長いとばかり思っていたのだが、そうでもなかったか。これは誤算だったな」
「ふふ、次からはもっと村に帰って来られるようにしないといけないかもしれませんね、ドランさん」
「一つ考えてみるかね。次に帰って来られそうなのが冬季休暇頃だから、その時にまたこういう風に拗ねられてしまっては困る」
「私にお手伝いできることなら何でもしますから」
「助かるよ。今回の道の舗装でもセリナのお陰で作業が順調に進んだからね。また力を借りることになるだろう」
「二人とも無茶を言うのはよしなさい。ガロアへはドランとセリナが望んで行ったのだから、友達なら二人の選択を祝福してあげなさいな。
それでも寂しいっていうのは、私も同じ気持ちだけれどね。ふふ、とはいえ、二人ともまずは元気そうでなによりよ」
「ありがとう、ディアドラ。私も君達が変わらず元気そうで安心したよ。今日も商隊の方々に同道してきたのかい?」
「ええ。最近はベルン村に他所から多くの人間が来ているから、森の皆が面白がってこぞってここに来たがっているのよ。
私達はドランとの縁があるから優先的にここに来させてもらっているけれど、そのお陰で随分羨ましがられているわ」
困った様に肩を竦めるその仕草も艶やかなディアドラに、私はさてなんと答えれば良いのやらと、一瞬だけ思考を巡らせて口にするべき言葉を探し求めた。
「ならお土産くらいは奮発して、ご機嫌取り位はしないとだな。良いお土産探しの手伝いくらいはするよ」
「まあまあ、ドランさん。ディアドラさん達も数日はベルン村に居るんでしょう? だったら急がずにゆっくりと話し合って決めましょうよ。広場の露店とか巡りながらでどうですか?」
買い食いか。広場だけでなく簡易宿泊施設の方でも露店が並ぶようになっているし、五人で見て回るのも楽しいだろう。
幸いにして私の財布の中身は潤沢である。ここは一つ、費用は全額負担するのが男の甲斐性だ。
「それが良いだろう。積もった話もあるだろうし、それに私達が居ない間のベルン村がどうだったか、ディアドラやフィオの意見を聞きたい」
「私達の意見で良かったらいくらでも聞かせてあげるわ。それではエスコートをお願いするわね、ドラン」
「喜んでお引き受けしよう」
ディアドラ達三人を加えた私達は、ベルン浴場を離れて村の中にある露店巡りの為に足を動かし始めた。
まずは近い所にある村の中央広場へと向かう。
エンテの森から齎される希少な植物や茸、果物、またエンテの森にしか生息していない動物の毛皮や骨、牙などを求めて、ガロアから商人達が来はじめた頃、村人や森の住人相手に商売をする為に提供されたのがこの広場である。
村長宅と村で唯一の宿屋兼酒場兼食堂の魔除けの鈴亭に面しているこの広場には、比較的ベルン村との付き合いが長く、信頼されている商人が店を構えている。
ディアドラやフィオらの友人の為のお土産を買い集めてから、私達は魔除けの鈴亭へと足を向けた。
「ところでドラン、セリナ、いつもは私達がベルン村に来ているけれど、たまには二人が私達の所に来ない?」
魔除けの鈴亭でそれぞれに注文した飲み物で喉を潤していると、フィオがこのように切り出してきた。
「サイウェストにか?」
「それもあるけれど、実はね、今度森の中心部の辺りにある都に遊びに行く事になったのよ。それで貴方達も一緒にどうかと思ってね」
「ほう、ウッドエルフの都にか? しかしいくらなんでも私達が足を踏み入れて良いのかい?」
「オリヴィエ様のお墨付きがあれば大丈夫よ。あの方って、詳しくは言えないけれどエンテの森のウッドエルフ諸氏族の中でも結構な大物なの」
普段はガロアで魔法学院長の職に就いているのも、ひょっとしたらエンテの森の住人達とアークレスト王国との繋がりを取り持つ意味もあるのかもしれない。
サイウェスト村での学院長の扱われ方から、相当地位のある方だとは思っていたがやはりか。
「私としてはありがたい申し出だが、どれくらい日数がかかる? そこだけが気になるな」
「特別な『妖精の道』を通ってゆくから、サイウェストから一日と掛らずに着くわよ。
ちょうどユグドラシル様が活発になられる時期だから、都で祝祭があるし妖精の道も普段よりずっと長い距離を跳んで行けるようになるの」
「ほう、世界樹ユグドラシルか。この星だと確か五本くらい存在していた筈だな。さしずめ、エンテ・ユグドラシルという名前かね?」
「そ、ドランの言う通りよ。エンテの森はエンテ・ユグドラシル様を始まりとして広がっていった森だから、エンテの森と言うの。
でもちょっと不思議なのよね。
ユグドラシル様が星の地脈との同調で活性化するのは、もっと先の事の筈だったのだけれど、この十数年でここら辺を中心に異常な位に地脈が活性化したから、その時期がかなり早まったの。
そんなわけでサイウェストのエルフ達は、実は結構前からベルン村の辺りに何かあるんじゃないかって気にしていたのよ。
まあ、結局特に何もなかったから、地脈が異常活性した謎は解けていないの」
それ、原因は私だな。私が母のお腹の中にいた頃から始めた地脈干渉が、徐々に根を広げていって、エンテの森のユグドラシルにまで影響を及ぼすに至ったか。
ユグドラシルの活性化は、ユグドラシルが根を張る惑星全土に濃厚なマナを放出して、生命力と魔力をより豊潤にする効果がある。
であるからユグドラシルの活性化は、まっとうな生物にとっては多大な恩恵を受けられる事から諸手を上げて歓迎すべきものだ。
エンテ・ユグドラシルの活性化が早まったとなれば、その影響で他の四本のユグドラシル達も活性化の時期が早まるだろう。
ふむ、私のしたことがはたしてどのような影響を齎したか、この目で確かめる為にもフィオの招待を受けるべきだな。
「私としてはとてもありがたい申し出だ。エンテの森の中心部にまで足を踏み入れた者は、アークレスト王国にも居ないかもしれないな。色々と勉強になりそうだ」
「そう、なら良かったわ。あ、言っておくけれどオリヴィエ様も一時的に帰省されているから、顔を合わせる位はする事になると思うわ。
ちょっと気まずいかもしれないけれど、そこは我慢してね」
「気まずいと言うほどでもないよ。それでいつ行けばいいのかな?」
「明日、サイウェストに戻ってその翌日に都に行くわ。だから明後日のお昼頃にサイウェストに来て貰えると助かるわね。
向こうで二泊する予定よ。向こうで暮らしている親戚の家に御世話になるのだけれど、ドランとセリナの分もきちんと部屋を用意しておくから安心してね」
私達はそれからウッドエルフの都ディープグリーンでの予定について話を進め、そのまま夕食を共にして解散となった。
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第七十三話
エンテの森は我がアークレスト王国の北部から東部、南部に至るまで版図を持ち、さらに東方諸国にまで及ぶ。
東の隣国との国境はエンテの森と海とに挟まれたわずかな陸地で、この地理的条件から東の隣国はアークレスト王国へ陸路から攻め込むのが大変難しいものとなっている。
妖精の道の中に足を踏み入れるとあらゆる匂いが消えて、周囲の空間がぐにゃぐにゃと歪んで空間のトンネルの中を歩いているような光景になる。
一歩進むごとに、通常での移動方法とは比較にならぬ距離を踏破してゆく。
妖精の道を進む中、ユグドラシルに近づくにつれて、空間軸を固定する不可視の結界が無数に張り巡らされているのが感じられた。
空間跳躍を遮断する空間干渉系の結界だ。
私達が今歩いている様な通行を許可された妖精の道でもなければ、空間固定の結界に阻まれて地上の如何なるものもユグドラシルに近づく事は出来ないだろう。
龍吉やドラミナ級の実力者でも力づくでの突破は極めて厳しい結界だが、流石は世界樹ユグドラシルと褒めておくべきか。
百歩ほど歩いた頃に歪んだトンネルの向こう側に薄緑色に輝く光の出口が見えて、先頭を歩いていたフィオが私達を振り返る。
どうやら目的の場所に到着したらしい。
普通に向かおうとしたら何日、あるいは何ヶ月と森の中を彷徨わねばならぬ距離も、たったの百歩で済むのだから妖精の道のなんと便利な事だろう。
「さあ、ようやくディープグリーンへ到着よ。これまで人間が訪れた事が無いわけじゃないけど、ものすごく久しぶりの人間のお客さまね」
ふむ、まあ、魂は竜なのだけれどね。
薄緑色に輝く光の出口をくぐると、私達を包みこんだのはサイウェスト村よりもさらに濃厚で、豊潤な、それこそ一呼吸ごとに異なる花々の香りが肺と脳をくすぐる大気だった。
極彩色に色づいていないのが、不思議な位に濃厚な香りの微粒子に満ちた大気には、無数の人々の声と息遣いと熱気とが含まれていて、その振動と熱とが私の肌と鼓膜とに触れて行く。
私の左隣を這っていたセリナは、目に飛び込んできた光景を前に、青に染まった瞳を大きく見開いて嘘偽りの無い感嘆の声を上げた。
「うわあ、私、こんな光景を見た事ありません、すごい!」
私達が立っていたのは、すり鉢状に窪んだ大地の外縁部だった。
すり鉢状の底には普通の人間の視力では、見通せないほど深く穴が穿たれている。
目に魔力を流し込み魔眼化させた状態で眼下を見ると、ぞっとするほど深い穴の底には、透き通った水が貯まって湖となっている。
長い年月の間に降り注いだ雨水や雪解け水、それに地下水などが滲みだして、巨大な湖となったのだろう。
澄んだ水の中に信じられないほど巨大な木の根が浸っていて、湖底の更に地下へと伸びている。水中にも絢爛と咲き誇る花々と大小無数の魚達の影があった。
そしてなにより目と意識を奪うのは、穴の中心部から天へと伸びる途方もない巨木だった。幹の太さなどガロアがすっぽりと収まってしまいそうなほどだ。
目の前の巨木こそがこの惑星に五本のみ存在する世界樹の一本、エンテ・ユグドラシルだ。
私達の視界の左右を一杯に埋め尽くす巨大な幹の表面には、悠久の歳月の間に分厚い苔の絨毯が敷かれ、そこかしこに赤や青や黄色、紫などさまざまな果実の実が生り、この世のありとあらゆる色彩に染まった花々が咲き誇ってユグドラシルを飾り立てている。
仔細に観察すれば無数の枝を伸ばすユグドラシルのそこかしこに、無数の小動物や昆虫類、鳥類が巣を作っていて、ユグドラシルの中に一つの生態系を作り上げているのが窺い知れた。
見上げれば、青い空を埋め尽くす勢いで瑞々しい深緑の葉を生い茂らせた枝が四方へと伸びていて、まさしく緑の天蓋となって空を覆い尽くしている。
この深い穴の底に根を下ろしているから、首を直角にする程度でなんとか見上げる事が出来るが、穴の底では無く地面の上に根を下ろしていたならベルン村からでも見えていただろう。
すり鉢状になっている斜面には無数の木々が乱立していて、枝と枝との間に無数の家屋が見えた。あるいは木々そのものも家屋として利用しているようだ。
斜面からは建物や木々に何本もの綱が渡されていて、綱には籠が吊るされている。
どうやらこの綱と籠は移動手段の一つらしく、小さな籠には四人ほど、大きなものでは百人近くが乗りこんでいるのが見える。ロープウェイという奴だな。
またこの籠以外にも木々や家屋の間にはいくつもの吊り橋が渡されており、短い距離の移動には籠ではなくこちらの吊り橋を用いているようだ。
他には大型のトンボや蜂に跨って空を飛んでいる者や、大きな蜘蛛や蟻、羽の退化した鳥類を馬代わりに乗り回している者達の姿もあった。
「これほど賑やかな場所がエンテの森にあったとは、確かに驚きだ。
エンテの森が広大とはいえこれだけの諸種族が棲息していたとは、王国側の人間は誰も想像すらしていないだろう」
私達が立っているのは木々の根が複雑に絡み合って床の体を成した半円形の舞台だ。
穴の外縁部が妖精の道の出口となっているらしく、左右を見渡すと私達と同じように妖精の道を通って来た者達の姿がある。
いくつもの国々と国境を接するほど広大なエンテの森には、森の外の者達が想像もつかないほど多くの亜人種などが棲息しているようで、次々と姿を現す者達の姿は絶える様子が無い。
先頭にフィオ、マール、ディアドラと続いて、私とセリナの順で進む中、私はディアドラとマールに話しかけた。
「フィオは何度も足を運んだ事があるようだが、ディアドラやマールはここに来た事はあるのかい?」
「マールはいつもフィオ達と一緒に来ているですよ。他の妖精仲間達と会えるですし、賑やかで楽しいから祝祭は大好きです」
「私もマールと似たようなものよ。
私の場合、他の薔薇の精とはそこまで和気あいあいとは行かないけれど、ユグドラシル様の放出するマナを身に受ければ霊格と魔力を上げられるしね。
こういう機会に恵まれたら出来る限り足を運ぶように心がけているわ」
「ふむん。なら案内人に困る事はなさそうだな。
とはいえ集合場所さえ教えてくれていれば、私とセリナの事を放っておいて好きに出かけて貰っても問題は無いぞ」
「ドランたらつれない事を言うのね。新しいお友達の二人と一緒に見て回るのを楽しみにしているのよ。
嫌って行っても一緒に見て回って貰うわよ」
そう言ってフィオは明るい笑みを浮かべる。なるほど、これは余計な気遣いは不要と見える。
この祝祭を共に楽しむ為に頼りとさせて貰うのが、フィオ達にとっても私達にとっても一番だな。
再び足を動かし始め、お世話になるフィオの親類の家を目指す傍ら、周囲を観察すると斜面側に大きく穿たれた大穴や石や面を絡み合わせた扉があって、どうやら土の中にも住居や昆虫の飼育施設などが設けられているようだ。
再び目に魔力を通して魔眼化して見れば土中にもユグドラシルやその他の木々の枝が伸び、複雑に絡み合い居住に適した空間をいくつか意図的に作り上げていた。
おそらくユグドラシルを始まりとするエンテの森の植物達は、ウッドエルフなどの住人達にとって、生活しやすいようにある程度進化の方向性を定めて来たのだろう。
夏の暑さや冬の寒さを凌ぐ住居に適した進化、食糧となる果実や樹液を得やすい様にした進化など、共生を前提とした進化と変化をしてきたと見える。
どんどんと道を進み下降して行くにつれて道幅は広くなり、それに合わせて斜面から穴の中心に向けて伸びる木々の幹も太いものになり、その上に木材や蔦を用いた住居がいくつも見られるようになる。
銅や鉄などの金属製品はあまり見られないが、その代わり石材やレンガなど土を材料とする建材が多く見られる。
やはりと言うべきか、木々と共に暮らしている為にあまり火を使わない文化を形成しているようだ。
お世話になるフィオの親類の家は、斜面の半ばをやや過ぎた所に建てられていた。
流石にユグドラシルには及ばないものの、五階建ての家屋に匹敵する高さの巨木の中の空洞を利用した家で、幹の所々に窓が設けられてそこに硝子が嵌めこまれている。
フィオが巨木に嵌めこまれた両開きの扉を叩くよりも早く、内側から扉が開いて三十代半ばほどのウッドエルフの男女が姿を見せた。
事前に周囲の木々か妖精達が来訪を告げていたのだろう。
種族単位で容姿端麗である事で知られるウッドエルフの評判を裏切らず、フィオを出迎えた夫婦らしい男女も絵画の中から飛び出て来たように整った容貌を持っていた。
人間で言えば私と同じ位の年齢のフィオに比べれば、流石に白磁の肌に皺の一つ二つは刻まれていたが、ややくすんだ色合いの金色の髪や、翡翠を思わせる美しい瞳の色合いなどは見事という他ない輝きを纏っている。
エンテの森のウッドエルフ達は、男女を問わず動きやすい機能性と重視した衣服を身に纏っており、祝祭という事で多少装飾品や刺繍ししゅうの施された品を身に着けているが、それでも夫婦二人とも長袖のシャツとズボンという出で立ちだった。
衣服に用いられているのは、蚕の絹糸や麻、木綿などではなく植物の葉脈を原材料としたもののようだ。
衣服用に加工するのに適した植物があり、それを用いて衣服を誂あつらえる技術を持っているのだろう。
「おじさん、おばさん!」
「フィオ、待っていたぞ」
「二十年ぶりね。少しは大きくなったかしら?」
二十年とはまた長い事会っていなかったのだな、と思うがまあ長命なウッドエルフにとってはそう長い時間ではないのだろう。
フィオはおばさんと呼んだウッドエルフのご婦人に抱きつき、満面の笑顔を浮かべる。
近しい者達の仲が良好なのは良い事である、ふむふむと私が内心和んでいると、ウッドエルフの男性が穏やかな笑みを浮かべたまま翡翠色の瞳を私達へと向けて来た。
「ディアドラとマールも前の祝祭以来か。変わらず元気そうでなによりだ。それに君達がドラン君にセリナさんだね。ギオとフィオから話は聞いているよ。
私はフィオの伯父のアジラム、こっちが妻のマリアルだ。
魔界の悪鬼達を相手に、サイウェストの皆の為に戦ってくれたそうだね。遅くなってしまったが、お礼を言わせて貰いたい。ありがとう」
「ええ、そうでしたね。私からもお礼を言わせて。お陰で可愛い姪と甥を失わないですみました」
「いえ、この地上世界に生きるものとして当然の事をしたまでです。
それにディアドラやフィオを始めエンテの森に住む方々の力があったからこそ、魔界の者達を退ける事が出来たのです。
私達がした事は本当にささやかなものです。セリナもそう思うだろう?」
「ええ。あの時、魔界の強敵を相手に皆さんは怯むことなく戦いを挑んで、その姿は勇ましい限りでした。
でも私達がもっと早くお手伝いできていたなら、とは思いますけれど」
「いやいや、君達の助力のお陰で犠牲になる者の数が減ったことも間違いは無いだろう。さあ、我が家へどうぞ。遠き地より参られたお客人方」
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第七十四話
アジラムさんのお招きに応じ、私達は巨木を利用した家屋の中へと足を踏み入れた。
所々で歪む円形の空洞が出来た内部には、やはり木製の長机やクローゼット、椅子、ソファをはじめとした調度品が並べられていて、壁や天井には鮮やかな色彩に彩られた花を活けた小さな花瓶や花輪が飾られていた。
木製の調度品にはニスか何かが塗られているのか、美しい光沢を放っている。
家の中に入ると外とはまた違った木と花の香りがして、私達の鼻腔を一瞬たりとも退屈させない。
「人間のお客様をお迎えするのは初めてね。ふふ、貴方の目に私達の家はどう映っているのかしら」
マリアルさんはあどけない少女のように笑う。
女性に対して失礼ではあるが、おそらく実年齢は数百歳を数えるだろうに、少女のような仕草の似合うご婦人だ。
ひとまず私達は使わせていただく客室へと案内された。
一応、男女別という事で私とセリナに、それぞれ別の部屋を用意して下さっていた。
水仙の花を思わせる硝子のランプが壁やベッドの枕元に置かれ、壁にはユグドラシルを中心にエンテの森に住まう種族達の姿を描いたタペストリーなどが掛けられている。
壁際には弾力性のある竹のような植物を組んだベッドがあり、腰掛けてみるとほど良い反発が伝わって来て、これは寝心地が良さそうだ。
セリナは私と違う部屋である事に残念そうな素振りを隠さなかったが、折角の御好意に不満を漏らすような愚かな真似はしない。
セリナのこう言う所は非常に好ましく思える。
武器は預けて来たし、着替えなども魔法の袋に入れてあるから用意していただいた部屋に荷物を置いて行く必要は無かった。
部屋の案内をして頂いた後、お茶でもという話になったが限られた時間しかないと言う事でフィオが私達を急かしたので、慌ただしくアジラムさん達の家を後にする事となった。
夫妻とゆっくり話をするのは夕食の時になりそうだ。
家を出る直前、一階の居間でフィオが私とセリナに柔らかさと固さを併せ持った繊維で編んだ財布を渡してくれた。
ディープグリーンでの買い物用の資金で、中を見てみると小粒の精霊石や草花の種子が入っていた。
他にも細工物や各種族の特産品などが物々交換に用いられるのだと言う。なんともはや、お気遣いいただいたものである。山ほどの感謝の念を抱いてから、私達は既に賑わいに満ちているディープグリーンの街並みへと繰り出した。
木々と家屋に蜘蛛の巣のように渡された綱や吊り橋には、所々に蓑虫のように小さな屋台や小屋がぶら下がっている。
どうやら個人経営の商店らしく、通りかかった客や呼び声に応じて蓑虫小屋が上下している。
時々勢いを付け過ぎて、お客を通り過ぎて行ってしまうのは御愛嬌だろうか。
「ふむん、不定期に開催されるお祭りだからか、集まっている人々の活気も尋常ではないな。
食事はその人々の文化を端的に体感できる。まずは飲食を楽しみたい所だな」
竜から人間に生まれ変わった私が特に大きく変化した事の一つは、食事という行為を楽しむようになった事だ。
ガロアでも市街に出る用事を見つけてはセリナと一緒に、そこかしこで買い食いをしたものである。
セリナもにこにこと嬉しそうに笑いながら、私と一緒に色々と食べ歩いて健啖家ぶりを披露してくれたが、お腹に少しお肉が着いちゃいました、と嘆いていたのも今は懐かしい。
菜食主義と思われがちのウッドエルフだが、普通に森に棲息する動物の肉を食べるので、木々の道の上に並ぶ屋台や飲食店には肉料理が並んでいる。
ふむん、あまり火を使わないと判断したのは早計だったかな。
どうやら火精石から発せられる熱を利用して、炒める、焼く、煮る、蒸す、茹でる、揚げるなどの調理法を行っているようだ。
火そのものではなく火精石を用いれば、家屋や木々、草花に引火する心配は大いに減じられる。無論、利用方法は調理ばかりではあるまい。
「そうねえ、棒状に切った果物とか焼き茸とかが多いけれど、男の子ならお肉の方が良いかしら?」
「何でも構わないよ。フィオのお勧めならなんでも美味しいだろう。そう思うだろう、セリナ」
「ふふ、ウッドエルフの皆さんの食文化ですか、楽しみですねえ。お野菜ばっかりを食べている印象がありますけれど、どうなのかしら」
「二人に期待されちゃうんじゃあ、張り切っちゃうわ。別に野菜ばかりを食べているわけではないけれど、他の種族の人達と比べると随分と小食なのは確かね。
二人のお腹が一杯になるまで、たくさんお店を回らないと行けなさそうだわ」
そう言って、フィオは小さく握り拳を作って、気合の入った表情を浮かべるのだった。
友達である私達の為に奮起してくれているのだから、実に友達甲斐のある少女だ。
マールがサイウェストの村で、フィオと一番仲が良いのもそんな所に惹かれたからかもしれない。
やる気に漲ったフィオに連れられて、私達は広過ぎる位に広いディープグリーンの中を歩き回る。
乗用の大型昆虫や大脚鳥が時折立ち止まり、運転手達が私達に乗らないかと声を掛けて来たが、このまま歩いてゆこうという話になったので断った。
そうして歩いていると、森林浴をしている気分になって濃過ぎるほどの緑の匂いを堪能できた。
大型昆虫は外見からおおいに人を選ぶかもしれないが、大脚鳥は馬よりも持久力などで劣る分飼育しやすいし、卵は食用に活用できるし、ベルン村での飼育を視野に入れる価値はありそうだな。
所々に置かれているゴミ箱に空になった葡萄ジュースのコップを捨て、今度はフィオの勧めで購入した七色茸の串焼きを頬張り、ウッドエルフの詩人が奏でる枝と葉脈と葉で作った琴の音に耳を傾ける。
ウッドエルフばかりでなく羽音の合奏を披露する蜻蛉人や、透き通るように高い囀りの合唱を木霊させる鳥人、たった一枚の葉から七色の音を吹き分けるホビット達と、聞く者の心を豊かにしてくれる音が都市の中に満ち溢れていた。
「これでもまだ祝祭前か。当日になったらどれだけ賑やかになるやら。それとも、ユグドラシルと巫女姫の前とあって、かえって静かになったりするのかね?」
私がふとした調子でフィオに問いかけると、ウッドエルフの少女はそんな事は無いとにこやかに首を横に振る。
「そんな事は無いわよ。ユグドラシル様は賑やかなのがお嫌いではないし、巫女姫様も普段の修業の成果のお披露目の場でもあるから、大いに楽しむものよ。
明日からの本番はもっと賑やかになって、いろんな音と香りで満ち溢れるわ。ふふ、慣れていないドランとセリナじゃ酔ってしまうかもしれないわ」
「ふむん、濃厚な時間を過ごせそう、というか既に過ごしてはいるが充実した時間になるだろう。
しかしそこまで活気に満ちるとなると、ディアドラにはいささか似合わんな。
私の勝手な想像の押しつけだが、ディアドラは一人、夜の空の下で月を愛でるのがなにより似合うように思うよ」
「あら、こう見えて私も花の精の一種なのだから、太陽の光が無いと生きていけないのよ?
ただ、月の光と夜の闇に身を沈めている方が性に合うのは確かね。
そういう意味ではドランの見立ては正しいわ。流石に勘が鋭いと言えばいいのかしらね。女心が分かっているとはとても言えそうにないけれど」
「女心か。私にとっては世界最大の謎にも等しい。そういうものだと知識として知っているに過ぎないからな」
「そこまで固く考える事は無いと思うけれど、かといってセリナとの様子を見た限り鈍感というわけでもなさそうだし、あなたって面倒な男ね、ドラン」
「ふむん、それでも傍に居てくれているセリナには感謝してもしきれないよ。
セリナに見捨てられてしまったら、私は自分を根本から見直さないといけなくなるだろう」
これは嘘偽りの無い私の本心である。使い魔にまでなってくれたセリナに見捨てられようものなら、私は人格に問題があると烙印を押されたも同然なのだから。
「だったら見捨てられない様に努力なさい。その必要はなさそうにも見えるけれど……」
「ディアドラにそう保証して貰えるのなら、取り敢えず一安心と思っておくよ」
「ドラン、セリナ、あそこを見て。明日、あそこで巫女姫様が祝祭の始まりを告げられるのよ。
そうしてユグドラシル様が、地脈との調和で産み出した豊潤で綺麗なマナをこの世界に放出するの」
指差すフィオに従い、視線を向けてみればそこにはユグドラシルの幹に設けられた半円形の舞台があった。
「ユグドラシルの祝祭か。ベルン村にも良い影響が出ると嬉しいが、そうなる事を祈りたいね」
しばらく話をしている間に、向こう岸へと到着した籠から降りると、周囲には同じように籠から降りた様々な種族の者達が居た。
ふむん、見た限り露店などはあまり目立たずその代わりにきちんとした家屋を持った店が多いかね?
「フィオ、さっきまで私達が居た所が居住区で、こちらが商業区なのかな?」
「大体そんな感じよ。こっちはディープグリーン以外の集落からやってきた人達と、交渉する為の場所や品物を取り扱う店が集まっているのよ。
各集落の交渉役や代表者が足を踏み入れる場所だから、普段、ディープグリーンの普通の住人はあまり足を運ばない所ね。
ドランはより活発な交易がお望みみたいだから、こういう所を見ておくと勉強になるわよ」
どうやらフィオが気を利かせてくれたらしい。
だが私には一抹の不安もあった。ユグドラシルの産み出すマナは霊的な質、量共に地上世界では最高のものとなる。
地上に生きる者達ばかりでなく、精霊界の精霊や妖精界の妖精をはじめとした別世界の存在にとっても、非常に優れた食糧や資源となる。
「ふむ、しかし、ユグドラシルのマナか。
地上世界の者にとってまさしく恩恵であるが、えてして悪意ある者達から狙われるものだが、そこら辺の対処はあの空間遮断の結か……」
私が不安を口にしようとした時である。
ユグドラシルを中心に次元の壁を揺るがす振動が生じ、あらゆる霊脈にも伝播して大きく乱れさせて、精霊達が一気にざわつき始めた。
ユグドラシルもまた嵐の中に飲み込まれた様に一斉に枝を揺らして葉を鳴らし、まるで悲鳴を上げているかのよう。
「まさか、私が口にしたからとは思いたくないが」
私が険しい視線をユグドラシルへと向ける一方で、フィオやマール、ディアドラ、セリナ達は動揺を隠せずにユグドラシルを振り返り、世界の名を冠する樹木に発生した異変に息を飲む。
フィオ達ばかりではない。このディープグリーンにいる全ての者達がユグドラシルを見て、恐慌に陥る寸前になってしまっているのが、肌で感じられた。
「ドラン、貴方なら今何が起きているのか分かるのではなくて?」
「ディアドラ、それは過大評価と言いたい所だが、ふむ、分かる。
私が危惧していた異界からの侵略だよ。狙いはユグドラシルと生み出されるマナだな。
事前に異変の予兆が無いかと調べてはいたのだが、どうやらこの時が来るまでじっと待っていたらしいな。お陰で対策を講じる事が出来なかったよ」
私はユグドラシルの直上に新たに生まれた亀裂を見上げる。その奥にユグドラシルを狙う者の息遣いが感じられる。
「どうして勇者達と出会った時の事を思い出したのかと思っていたが、なるほど、彼らと出会ったきっかけは貴様だったか、ニーズヘッグ」
虹色に輝く竜眼へと変えた私の瞳へ、亀裂の奥で毒入りの吐息を吐く邪悪なる有翼の竜ニーズヘッグの姿が映る。
前世において七勇者たちは、とあるユグドラシルの一本を食らおうとしていたニーズヘッグを倒す為に私の元へ助力を乞いに来たのだった。
だが何の因果かは知らないが、この場に私が居た事が運の尽き。
かつてのように、今回も私が引導を渡してやろう。
「悪食の竜よ。この世界のユグドラシルを狙った事を、侮いるがいい」
ニーズヘッグの放つ気配と悪意を浴び、フィオやディアドラ達を含めたディープグリーン中の者達が心身に異常を来す中、私は全身に励起した古神竜の力を巡らし、祝いの日に水を差した愚か物の迅速な排除を固く心に誓うのだった。
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第七十五話
エンテ・ユグドラシルの真上に生じた次元の亀裂の向こうに、禍々しく燃える火の球が二つあった。
世界樹ユグドラシルを食らう悪食の魔物ニーズヘッグの食欲に満ちた両目が、おぞましく燃える火の球の正体だ。
縦に窄すぼまったニーズヘッグの瞳は、満たされる事を知らない食欲にらんらんと輝き、眼下に聳そびえる若きユグドラシルを視線で凌辱するかの如く見つめている。
次元の亀裂の向こうからわずかに姿を覗かせる神魔の領域に住まう存在を認識し、ディープグリーンに集った人々の精神は根底から打ちのめされ、瞬く間に衰弱しつつあった。
ディープグリーンの人々が、ニーズヘッグの姿を目の当たりにしてなお精神や魂を破壊されなかったのは、ひとえにユグドラシルの尽力あればこそだ。
ユグドラシルはニーズヘッグの出現と同時に持てるマナと霊力を解放して、ニーズヘッグの存在そのものが放つ邪悪な気配を相殺している最中なのである。
「ドラン、今、貴方はニーズヘッグって言ったの!? ユグドラシル様達を食べてしまうあの恐ろしい竜の名前!!」
私が口にしたニーズヘッグの名にいの一番に反応したのは、不安と恐怖で今にも泣きそうになっていたフィオだった。
ユグドラシルを敬愛し、共に生きるウッドエルフの裔すえである彼女にとって、そのユグドラシルを害する最たる存在であるニーズヘッグは、この世で最も忌まわしくおぞましい存在なのだろう。
いや、フィオばかりではない。
周囲のウッドエルフ達はニーズヘッグの名前を耳にした途端、その真偽を問う事もせずに恐怖と不安を怒りと憎悪へと変換し始めている。
彼らにとって最も無くてはならない存在を脅かす者を前に、住人達の胸に生じたのは燃え盛る義憤と、愛する者を奪おうとする敵への憎悪と怒りだった。
「そうだ。まだかなり若い個体ではあるが、地上世界に出現出来るとなるとそれなりに強力なのは間違いない。
それにエンテ・ユグドラシルもまだ若木の域を出ていない。
彼女単独でニーズヘッグに対抗するのは、気を悪くするかもしれないが厳しいと言わざるを得ん」
「そんな……それじゃあ、早く巫女姫様の所へ行きましょう!
巫女姫様の儀式を早めればユグドラシル様との同調で、大量のマナを作り出せる。
その力を使えばユグドラシル様がニーズヘッグを相手に、有利に戦えるかもしれないわ。そうでしょう、ドラン」
「ふむ、本来天地の霊脈を介して世界に放たれるマナを、ユグドラシル単独で利用すれば確かにあのニーズヘッグを打ち倒す事は出来るかもしれん。
だがユグドラシルのマナはニーズヘッグにとって、ユグドラシルそのものに次ぐご馳走だ。
下手をすれば生み出したマナをニーズヘッグに食われて、力を与えるだけに終わる事もあり得る」
「でも、このままじゃユグドラシル様が!」
「それに、出てくるのはニーズヘッグだけでは無いらしい」
更なる凶報を告げなければならないのは心苦しかったが、この瞬間にもニーズヘッグを中心に空中に夏の陽炎のような揺らぎが無数に生じている。
無数の揺らぐ光景の向こうから、ニーズヘッグにこそ劣るがおぞましい力を持つ存在達が、悪意と共にこちら側の世界へと姿を現しつつある。
「ドラン、あ、あれは、まさか魔兵達!? そんな、ゲオルグ達を退けたばかりじゃない」
「ふむ、魔兵だけではないな。下級から中級までの悪魔もちらほらと姿が見える。
古きニーズヘッグの血族は冥界の中のとある領域に棲むが、比較的新しい系譜は魔界にも巣を構えたと聞く。
あれらは魔界でニーズヘッグに従っている連中だろう。
となるとニーズヘッグに臣従する悪魔共も、今回は相手にしなければならんようだ」
数ヶ月前、新たな命が萌え出る春を前に、エンテの森西部に侵略の牙を突き立てたゲオルグら魔界四騎との戦いの記憶はまだ新しい。
フィオにとって、あの時以上の脅威が襲い掛かっているのだと思えて仕方が無い様子だが、それも無理はない。
あの時は他の諸種族からの援軍という希望があったが、今回はエンテの森に住む者達の心臓部であるディープグリーンが襲撃を受けている。
さらにはエンテの森全域の心臓にも等しく、要であるユグドラシルを食料とする捕食者までもが姿を見せている。
悪魔達は数を増して、この都の馥郁ふくいくたる緑の香りに満ちた清廉な大気を汚している。
悪魔達は見た所、そのほとんどがかつての神々の大戦が決着し、敗れた悪しき神々が魔界に堕ちてから誕生した新参共のようだ。
存在から放たれる気配に重ねた歴史の重みと凄味が乏しいのだ。
「妖精と精霊の都に押し入る無礼者を討つならば、やはり精霊の力が相応しかろう」
私の全身から溢れ出し始めた竜種の魔力と、周囲の空間の壁が揺らいで別世界へと繋がり始めた事に気付き、セリナやディアドラ、フィオ達が驚いた顔でこちらを見る。
ただしセリナだけは、あ、またか、という納得と言うべきか、安心した表情を浮かべていたけれど。
「近く遠き世界より我が声に応じて来たれ、そして愚者共を尽く葬れ、大いなる精霊達よ!
『四方よもより吹く奇跡の風』ヴンダーガスト!
『天地を浄する清水』トゥアクア!
『鳴動する果て無き大地』ヴァイアース!」
私達の頭上に広がる空間に緑、青、茶と三色の巨大な波紋が生じるのにわずかに遅れて、その向こう側から精霊界より召喚された三体の大精霊が地上世界へと出現する。
精霊神の産み出した精霊達の頂点に立つのが精霊王であり、精霊王に次ぐのが高い知性と霊格を有するのが大精霊だ。
神々などと同じく本来は地上世界の住人では無く、精霊界から地上世界へ出現した際にはその権能と力が大きく減じられるものの、それでも地上種族からすれば桁外れの力を有した超越存在である事に変わりは無い。
大精霊級の召喚ともなれば精霊魔法の高等奥義に相当するが、そこはそれ大精霊の三体同時召喚は私だから出来る荒技としか言いようが無い。
翡翠の色に染まった羽衣を纏った緑一色の髪の長い少女が、風の大精霊ヴンダーガスト。
常に流れる透明な水の衣を纏い裸身を晒しているにも等しい姿の美女が、水の大精霊トゥアクア。
そして濃い茶色の毛皮の上に緑の苔や果実の実った木々を生やしている巨大な熊が、地の大精霊ヴァイアース。
『ずいぶんらんぼうなよびかたをするなあって、よばれてきてみれば』
『あな懐かしや。大いなる竜の御方様のご尊顔を拝し奉る事となろうとは』
『ぬん、ニンゲンの器に収まっておられるか。前から変わった御方だとは思っていたが、これは予想外』
幼い言葉遣いがヴンダーガスト、古風な言葉遣いをしているのがトゥアクア、どこか私に似た口癖を零したのがヴァイアース。
いずれも前世で顔見知りの大精霊達である。
そういえば彼らを戦いの為に呼んだのは今日が初めてだな。
私にとって大精霊や精霊王、多くの神々は話し相手か遊び相手であって、実際の戦いとなれば彼らの力を借りずに、自分の力で戦うのが最も手っ取り早く確実だったからである。
「懐かしい顔が見られて私は嬉しい。こんな場面でなければもっと喜ばしかったがね」
『それはあたしたちもおんなじ。あなたがしんでしまってから、あそびにきてくれるあいてがへってしまったんだもの』
ヴンダーガストは何気なく私に話しかけてきているが、これは人間のように大気を震わせて声として意思を伝えているのではない。
直接私の精神に自身の意思を伝えているのである。
念話テレパシーと呼ばれる思念魔法がこれに近いが、大精霊の意思はあまりにも巨大すぎて、人間や亜人種ではそれを受け止める事はあまりにも難しい。
ユグドラシルの巫女姫のように、優れた素養を生まれ持った者が長い年月精神と魂を練磨し、ようやく受け止める事が出来るかどうかなのだ。
これが専門の修業を積んだ精霊使い達であっても、大精霊の召喚を行える者が極めて少ない理由の一つである。
「せっかく君達を呼んでおいて何だが、ゆっくりと話をする余裕のある状況ではなくてな。
見ての通り魔界の欲深い連中が、若いユグドラシルとここに住む住人達に悪意の牙を向けている。
身の程と言う物を魂の深奥にまで叩き込んでやってくれまいか」
『それは構いませぬが、我らが力を振るうまでも無く貴方様のお力ならば、あれらの如き有象無象は敵にすらならぬのでは?』
「トゥアクア、まさしく君の言う通りではあるのだが、私はあちらの方の馬鹿を始末する」
私が右手の人指し指で亀裂の向こうに居るニーズヘッグを指し示すと、トゥアクアら三体の大精霊が揃ってそちらに視線を向ける。
それだけで私の言う馬鹿の事を理解して、大精霊達は人間臭い仕草でああ、あれかと溜息を吐いた。
本当に人間臭いな。というか、ふむ、セリナとよく似た仕草をするものだなあ。
『あれはニーズヘッグの一族のようですなあ、ぬん。確か御身がニンゲンの勇者達と共に葬った悪竜もあれと同じ一族でしたのう』
『ゆぐどらしるちゃんをばりばりたべちゃうつもりみた~い。じゃあ、あたしたちはあのあくまたちをやっつければいいの?』
「そうして貰えると助かる。この都に集っている者達に、傷の一つでも着いたら我々の敗北と同義と心得て貰いたい」
かすり傷位は仕方ないかなとは思うが、死者だけは絶対に出すまいと私は固く心に誓っていた。
『貴方様にお呼び立て頂いた以上は、無様な姿は晒せませぬな。
我らの王になんと言われるか分かったものではありませぬゆえ』
トゥアクアがその周囲に無数の水の球体を作り出し、自身の仮初の肉体を構築する水もまた波立ち始める。
『あははは、そーだねー。あいつらがいるとかぜがよどんできぶんがわるいや。すぐにいなくなってもらいましょー!』
ヴンダーガストを中心に範囲こそ小さいが音よりも速く吹く風が生じ始め、たちまちの内に大気を汚していたニーズヘッグや悪魔達の瘴気を暴力的な勢いで浄化する。
『ユグドラシルの危機とあらば我らにも無関係とは行かぬわいな。
妖精達にも危機が訪れておる様であるし、お呼び立て頂いたのは幸いであったな、ぬん』
ヴァイアースはゆらりと巨大な肉体を宙に浮かし、何もなかった空中に巨大な岩石や槍穂のような形の岩を生み出し始める。
「では、この場を頼むぞ、トゥアクア、ヴンダーガスト、ヴァイアース」
私に対し、大精霊達は唱和して応じた。
『我らにお任せあれ!』
大精霊達からの返事がまだ私の脳裏に残響している間に、大精霊の産み出した高位の霊力を含んだ水と風と土とが、一斉に万にも届く魔界の軍勢達へと群がる。
私によって召喚された大精霊達は、通常の精霊魔法による召喚と比べて膨大な魔力の供給がされている事と、地上世界へ出現する為の目印である私が居る為に、本来に近い力が振るえる。
悪魔や魔兵達がその強靭な肉体や武器化させた腕や尻尾、強大な力で大精霊達へと殺到して行く。
彼らもまたこの場で最大の敵が大精霊達であると認識し、排除に乗り出したのである。
ハイ・エルフでも生きている間に目にする機会があるかどうかという大精霊達を、ディープグリーンの住人達は固唾を呑んで見つめている。
それはフィオやマール、ディアドラも同じ事であった。
ほどなくして風と水と地の三つの力が、瘴気に覆われた黒い空に弾け、衝撃となって眼下の私達に吹きつけて来る。
何かに掴まっていなければ吹き飛ばされてしまいそうな強風の中、頭上を見上げれば縦横無尽に動き回るヴンダーガストに細切れにされ、トゥアクアが起こした渦潮に飲まれて砕かれ、ヴァイアースの操る岩石に押し潰される悪魔達の姿が映る。
この場を召喚した大精霊達に任せ、私とセリナとディアドラは、フィオとマールの二人と一旦別れて、黄金に輝いて瘴気を中和しているユグドラシルを目指し、人並みを掻き分けて駆け出した。
私達がユグドラシルを目指し駆け出す間にも、頭上のニーズヘッグは大精霊達に目もくれずに、ゆっくりと次元の亀裂に前脚をかけて徐々にその巨体をこちら側へと乗り出してきている。
私はユグドラシルに向かいながら、魂の産み出すあり余る魔力によって白竜の姿を持った分身体を、ニーズヘッグの背後つまり魔界へと生じさせた。
食欲に突き動かされていたニーズヘッグだが、背後に自分とは似て非なる強大な力が突如として生じた事に気付き、長い体をくねらせて背後を振り返る。
「気付くのが遅いな」
私はこちらを振り返るニーズヘッグの首根っこを掴み、地上世界へと繋がる次元の亀裂から遠ざける為に、抵抗を許さず背後へと投げ飛ばした。
「ぎゅわおうっ!?」
私の膂力に抗う事が出来ず、ニーズヘッグはそのまま吹き飛んで魔界の虚無に漂う浮島をいくつか粉砕してようやく止まる事が出来たようだった。
ニーズヘッグと同等の体格を有する白竜の姿を構築した私は、背後に庇った次元の亀裂を新たに作り出した空間で補填し、これ以上魔界とニーズヘッグの瘴気が流出するのを防いでから、周囲を見回した。
「ふ、む。大魔界のやや外部よりの位置か。私の記憶と相違が無ければ、邪神では無く悪魔や魔族達が多く生息する領域だった筈だな」
周囲には魔族らの住居が建てられた浮島や大陸がいくつも浮かんでおり、その中でもひときわ大きな惑星ほどの大きさの陸地から、ニーズヘッグの臭いが特に濃く発せられている。
アレがニーズヘッグの巣だろう。ここら辺に住まう悪魔達を力で支配し、縄張りとしていたと見るべきか。
「ぎえ、ぎえ、ぎえ!!」
金切り声の鳴き声を上げながら、ニーズヘッグが体の大半を埋もれさせた浮島から離陸し、唐突に現れた私に敵意と殺意の視線を向けて来る。
長い胴体をくねらせ、翼を大きく開いて最大限の警戒と威嚇の姿勢を取るニーズヘッグを、私は悠々と見つめ返す。
あまり大魔界に長居しているとカラヴィスが勘付くかもしれんし、早めに決着を着けるのが良いか。
「何者だ? 豊穣の時を迎えた世界樹の幹を我が牙で噛み砕き、樹液を啜り、枝葉を咀嚼する至福の時を邪魔するとはなんと命知らずな者である事か」
やけにもって回った言い方をする奴だな。
私の知っているニーズヘッグ達はこのような喋り方をしてはいなかったと記憶しているが、ふむん、この個体特有の個性かね?
「世界樹を食らう蛇竜ニーズヘッグの末席に名を連ねる我ニーズヘルの怒りを買った事を、いまわの際にて後悔せよ」
ごふ、ごふ、とニーズヘッグもといニーズヘルの噛み合わせた牙の間から、濃い紫色の毒の息が零れ出し、彼の心中が至福の時を邪魔された事に対する怒りで満ちている事が察せられた。
「先に無粋な真似をしてきたのはそちらであろう。
エンテ・ユグドラシルが迎えた豊穣の時を祝おうとしている最中に、突如として顔を覗かせ、あまつさえエンテ・ユグドラシルを食べようとするなどと、謝った所で許されるものではないぞ」
こうして実際にニーズヘッグの一族と対峙していると、かつて七勇者と共に戦った太古のニーズヘッグを思い出すな。
あちらは源流に属する極めて位階の高いニーズヘッグで、地上世界へ出現した際には数多の次元に影響を及ぼした強大な個体だった。
「ぎゅあららららららら!!」
「やかましい!」
「げおうっはあがあ」
私の首元を目がけて伸びて来るニーズヘルの横っ面に、私は握り込んだ右の拳を思いきりたたき込んでやった。
ニーズヘルの口からは折れた牙とどす黒い血が零れ、ニーズヘルは再びはるか遠方へと吹き飛んでゆく。
「やはり、以前戦ったニーズヘッグと比べると未熟も良い所だな。
こちらの方が出現していたら、七勇者達は私に助力を求めては来なかっただろう」
肩慣らしにもならんと思いながら私は広げた翼を一打ちし、吹き飛ぶニーズヘルに追撃の一手を加えるべく後を追う。
その途中でニーズヘルは体勢を立て直し、ますます殺意の炎を滾らせる瞳で私を睨むや、ぶくりと肺と咽喉を膨らませて、私を目がけて深紫色の毒の息を吐きつけて来る。
「毒されろ!」
私の視界をさながら洪水のように埋め尽くして迫りくる毒の息に、構わずそのまま突っ込む。
毒の息の向こうで、ニーズヘルがまさか正面から突っ込んで来るとは思っていなかったのか、驚きに目を見張るのが見えた。
「この程度では私にとって毒にもならんぞ、若造」
「うおお!?」
ニーズヘルは咄嗟に毒の息の放出を止め、回避行動を取ろうとしたが、それよりも私が毒の息を突破してニーズへルと間を詰める方がはるかに速い。
咄嗟に顔を庇おうと体をくねらせるニーズヘルに対し、私は両手でその胴体を掴み取ると私自身を軸にしてその場でぐるぐると回転し、勢いそのままにニーズヘルを眼下に見えた浮島へと放り投げる。
抵抗する術も無くニーズヘルは浮島へと巨体を激突させて、あまりの衝撃によって乾いた大地だけが広がっていた浮島は粉砕し、さらにその向こうにあった浮島へ、さらにさらに、と次々と激突する大地を砕きながら吹き飛んでゆく。
わずかな時間の肉弾戦によってニーズヘルの鱗は万単位で砕け散り、鋭い牙も半分近くが折れて、だらだらと毒混じりの血を吐いている。
「ただの白竜ではないと言う事かっ!」
ここに至りニーズヘルは私が見た目通りの白竜では無い事を悟り、頭が冷えた様子が伺い知れた。
「しかし頭が冷えた程度でどうにかなる力の差でも無いぞ、ニーズヘッグの一族よ」
ニーズヘルが体勢を整え直し、大魔界に満ちる魔素を急激に吸収して自身の魔力と融和させて、爆発的に力を高めるのが感じられる。
確かニーズヘッグの一族は体外への魔力の放出を不得手としており、自身の肉体の強化と相手の血肉や霊魂に直接破壊の魔力を流し込むのを得意としている。
となれば再び挑んで来るのは肉弾戦であろう。
ならば真っ向から肉弾戦で戦いを受け、その上で圧倒して完全にこちらが格上だと思い知らせて心をへし折ってくれる。
私もまた大魔界の魔素とエーテルを、分身体を構築する魔力に取り込んでニーズヘルなど比較にならぬ力を産み出し続ける
「威勢が良い所だけは評価しておいてやろう、ニーズヘル!」
ニーズヘルは自身の力を増すよりも、私の力が増して行く事の方が脅威と判断したようで、力の増幅が限界に到達する前に私を目がけて飛翔。
大魔界の虚空に一文字の軌跡を描く深紫色の流星となったニーズヘルがなりふり構わず、それこそ相討ち覚悟と見える決意に満ちた顔で迫りくる。
「ぐうらるあらあああああああ!!!」
奇声を上げて迫りくるニーズヘルへ、私もまた両の腕に大魔界を崩壊させない程度の力を込めて真っ向から受けるべく飛翔する。
ニーズヘルは大顎を開き、残った牙にありったけの力と殺意を乗せて私の首を狙ってきた。
最初の一撃よりも早く、強い攻撃ではあったが、最高位の邪神や原初のニーズヘッグ達を相手にしてきた私にとっては、欠伸あくびが出るほどに鈍間のろまで、なんの恐怖も感じない。
むしろ、先程意図せずに轢いてしまった悪友の怒りの方が、はるかに厄介だ。脅威ではないのだが……。
「はああ!!」
「ぎ、ぎぐあああっ!!!!」
私は咆哮と共に右の拳をニーズヘルの鼻先に叩きつけ、そこから一気に長大な尻尾に至るまで振り抜いて、真っ二つに斬り裂く。
ニーズヘルは私と敵対した事を後悔する暇も無く瞬時に絶命し、霊魂の核も完全に消滅して二度と復活する事も出来なくなった。
神域に属する存在の末路としては実に呆気ないものだが、私と敵対した者はだいたいこういう末路を辿るのが常だった。
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第七十六話
分身体の私が大魔界の方でニーズヘッグの相手をしている頃、本体である私は使い魔であるラミアのセリナ、黒薔薇の精ディアドラと共にディープグリーンの市街を全力で駆けていた。
頭上では私の召喚した大精霊達が思う存分力を振るって、無数の悪魔達を駆逐している。
悪魔や魔兵達は住人達へ襲い掛かるどころでは無く、暴れまわる大精霊相手に必死の形相で戦いを挑んでいる。
悪魔達も魔界でならば本来の力を振るえようが、地上に出現する際には力が抑えられる上に、元々の地力の差と私から魔力を供給されている大精霊達とは埋めがたい力の差が生じている。
ふむん、これなら後になってゲオルグのような堕神おちがみや上級悪魔が姿を見せたとしても、安心して任せられるな。いや、流石にゲオルグ級の敵は厳しいかもしれんが。
「ドランさん、実際の所、ユグドラシルさんの中は一体どうなっているんですか?」
私の横を全速力で這い進むセリナからの問いに、私は同じく走りながら答える。
セリナは私がユグドラシル内部の状況を完全に把握している前提で、微塵も疑っている様子は無い。
実際そうなので何も言い返す事は無いのだが、これはセリナからの信頼と受け止めていいだろう。
「巫女姫を中心にエンテの森の諸種族の戦士達が、内部に出現した悪魔の先兵共と交戦しているな。
今の所、特に重傷者と死者は出ていないが、ユグドラシルの意識の核に相当する箇所にあまり良くない傾向が見られる。
おそらくそこに今回の黒幕が姿を見せるのだろう。それの首級しゅきゅうを上げれば、今回の事態をひとまず鎮静に向かわせる事が出来る」
「外ばっかりじゃなくて中の方でも大変な騒ぎになっているんですね」
セリナは一層険しく美貌を引き締めて、自分達がこれから向かう先に待ち受ける脅威に警戒の意識を最大に引き上げる。
私のお守りと使い魔としての繋がりを経由して補助すれば、セリナでも上級悪魔を相手に真っ向から戦えよう。
「ドラン、あまり猶予がある様には考えられないけれど、貴方の見立てではどうなの?」
セリナの次に問いを重ねて来たのはディアドラ。
サイウェストでの戦いで少なくない数の仲間を失った経験から今回の襲撃に対して、かなり過敏になっているようで、焦燥に駆られているのがひしひしと感じられる。
「流石にユグドラシル側の戦士達の質は高いが、ユグドラシルが敵の親玉の抑えに力を割かれて補助に手を回せていないのが厳しいな。
なにより敵が魔界の者達である事に加えて、数が違い過ぎる。
状況に変化が無いままならば、そう長くは持たないだろう。だから、私達がその状況を変える」
「貴方が居なかったら絶望の一つも感じるような厳しい状況ね。
ごめんなさいね、ドラン。森の外の住人である貴方とセリナに、また力を貸してもらう真似をしてしまって」
ゲオルグ達との戦いの時と似たような展開になってしまった事に、ディアドラは心底から済まなそうに長い睫毛を伏せるが、私もセリナも迷惑だとは思っていない。
「ユグドラシルの危機はひいては世界規模の災いへと繋がる。
だから森の外と内などと区切って考える必要は無いよ。
それにユグドラシルの危機を助けたとなれば、エンテの森の諸種族に好印象を与えられるだろう。
そういう打算もあるし、純粋に折角の祝いの席を無粋者共に邪魔された事へとの怒りもある。私達にとっても戦う理由は山ほどあるのだよ」
「ふふ、そう、貴方らしいわね。逞しいと言うか、抜け目が無いと言うか、ふてぶてしいとも言えるわね。
私が気にしないようにそういう言い方をしてくれる気遣いは、素直に受け取りましょう」
「転んでただで起きるのでは損と言うものだろう。しかし、ふむん、状況が少し動いたな」
ディアドラと話しながらユグドラシル内部の状況をつぶさに観察していたのだが、どうやらもっと急がねばならない事態になってしまったようだ。
それまでの全速力から緩やかに速度を落とし、遂には足を止めた私に対し、セリナとディアドラが不安の色濃い視線を向けて来る。
「ドランさん?」
「ドラン、なにかあったのね?」
「悠長に走ってはいられなくなった。直接ユグドラシルの中に跳ぶ」
私の言葉にセリナとディアドラはわずかな驚きを見せただけで、異議を唱えはしなかった。二人から全幅の信頼を寄せられているお陰だろうか。
*
当代ユグドラシルの巫女姫リュリュシーは、エンテの森に住むエルフの中で最も霊格が高く、ユグドラシルとの親和性もずば抜けて高い。
エルフの上位種ハイ・エルフであり、ここ数百年の間に産まれた片手の指にも満たない子供達の一人で、エンテの森に住むハイ・エルフの中では最も若い少女だ。
森の外の人間達が思い描くエルフの想像図通り……ではなくそれをはるかに上回る儚げな美貌を持ったリュリュシーは、流麗な線を描く華奢な肢体をユグドラシルの葉と幹を素材とする巫女衣装に包んでいる。
向こう側が透けて見えるほど薄い緑色の羽衣を何枚も重ねたドレスのようなデザインで、足元は蔦と樹の皮を何枚も重ねたミュールを履いている。
手にはユグドラシルの魔力を結晶化させた黄色い水晶球を嵌めた杖を持ち、腰まで届く長い緑の髪の頂には、ユグドラシルの枝を割いて加工した冠を戴いている。
リュリュシーはユグドラシルの幹の中で、ユグドラシルの意識があるとされる場所『託宣の間』に護衛の戦士達と共に立て籠り、襲い来る魔界の悪鬼共と戦っていた。
巨大なエンテ・ユグドラシルの内部だけあり、清廉な空気と霊気に満たされている託宣の間は、三百以上の魔兵や悪魔達が蠢いていてもまだまだ余裕がある。
リュリュシー達は入り口とは反対の壁際に背を預けて、前方と左右、そして上方から襲い来る悪魔達を相手によく健闘している。
巫女姫専任の護衛達は、エンテの森の諸種族から選抜された精鋭中の精鋭だ。
その中でも特に目立った活躍を見せている者が五人ほどいる。
四肢に生え揃った爪と牙を使って、魔兵や悪魔の肉を抉っているのは灰色の毛皮を持った狼人のウルガ、茶色い毛並みに稲妻のような黒い模様が走っている虎人テゲル。
深い森の住人故、動きやすさを重視した軽装のウッドエルフのラタンタ。
ラタンタ以外にもリュリュシーと酷似した巫女衣装に身を包んだウッドエルフの女性が二人いる。
一人はリュリュシーと同年齢と思しいウッドエルフの少女で、リュリュシーの世話係兼護衛の精霊使いだ。
名前をクエルと言い、その肉付きの薄い頬や首筋、手足に複雑な紋様が施されており、周囲には召喚された風と水の精霊達が浮かんでいる。
そして残る最後の一人が、この五人の護衛達の中でもっとも多くの敵を葬っていた。
風の精霊が起こす風に冷めたい印象を受ける金の髪をなびかせ、巨大な霊鳥の羽とユグドラシルの葉を重ねた貫頭衣かんとういに身を包むそのハイ・エルフが、手にしたねじれた枝のような杖を振るう度に、十単位で眼前の魔兵達が吹き飛んでゆく。
誰あろうガロア魔法学院学院長にしてエンテの森のウッドエルフ達の大重鎮、オリヴィエその人に他ならなかった。
アークレスト王国建国にも深く関わりがあると噂されるハイ・エルフの女傑は、冷厳な瞳に動揺も焦燥も無くこちらを囲いこむ侵略者達を見据えるのみ。
オリヴィエの怜悧な輝きが宿る瞳は、悪魔達が塞ぐ入口付近へと向けられていて、その付近の空間に波紋が生じたかと思えば、次の瞬間には巨大な異形の影がぬっと姿を現した。
これまで姿を見せていた悪魔達とは明らかに違う風格と魔力を発する巨大な影は、一目すると獅子人の様に見えた。
見事に盛り上がった鋼の筋肉を赤銅色の毛皮で覆い、全身からは灼熱色の炎が立ち昇っていて、こめかみのあたりから前方へと捻じれた角が突き出ている。
六本の指が伸びる左右の手には、それぞれ鋸のこぎりのように刃がぎざぎざになっている剣が握られていた。
それらの剣からも持ち主同様に炎が立ち昇っており、十中八九炎の扱いに長けた高位の悪魔である事は間違いが無い。
それまで感情の色を浮かべる事の無かったオリヴィエの瞳に、かすかな、しかし小さくは無い緊張の色が浮かび上がる。
「大悪魔アークデーモン……堕神おちがみでないとはいえ、侮れぬ敵の出現ですね」
それは長いオリヴィエの人生の中でも、数えるほどしか遭遇した事の無い恐るべき強敵であった。
悪魔公デーモンロードと呼ばれる爵位級悪魔に次ぐ階級に属する悪魔の事で、これまでオリヴィエ達が相手にしてきた下級から中級の悪魔とは根本的に格が違う。
この状況でさらにとてつもない強敵が出現した事に、オリヴィエ以外の精鋭四人を含め、護衛の戦士達に絶望の気配が広がる中、大悪魔の出現は一体では終わらなかった。
炎を纏う大悪魔の周囲に更に波紋が生じるや、連続して三体の大悪魔と思しい個体が出現したのである。
青白い肌にてらてらと輝く粘液を纏った恐ろしく巨大な蛙、薄水色の肌に五つの頭を持った蛇を絡みつかせた半裸の美女、ボロボロの黒いマントを纏い、五つの赤い目しかない顔で周囲を睥睨する巨大な骸骨。
ただ対面しているだけでも見る間に魂が削られてゆくような感覚に襲われる、格の違う悪魔達の出現。
だが事態は単純に強大な力を持つ悪魔達が戦闘に参加したと言うだけではない。
これまではリュリュシーの祈りと同調によって力を増したユグドラシルが、次元の壁に干渉して上級悪魔やニーズヘルの出現を抑え込んでいたのである。
しかしこれまで抑え込まれていたこれら上級悪魔が出現したと言う事は、同時にユグドラシルの力が弱まった事を意味している。
「リュリュシー!」
その事に気付いたラタンタが、焦りを隠せぬ顔色で幼馴染を振り返れば、膝を突いて一心にユグドラシルに祈りを捧げていたリュリュシーの顔に、無数の冷たい汗が浮かび上がっている。
この瞬間にもリュリュシーの精神には、凄まじい負担が掛っているのだ。
思わずラタンタがリュリュシーに駆け寄ろうとした瞬間、ずしん、と地響きにも似た足音を立てて獅子頭の大悪魔が一歩進み出た。
「っ!?」
下等な地上種族の言葉を操るつもりは無いのか、大悪魔は言葉を発する事は無かったが凶悪な獅子の顔には笑みが浮かび上がり、こちらを無視出来ると思っているのか? と暗に物語っている。
忌々しいとばかりにラタンタやテゲル、ウルガらは歯を軋らせて大悪魔達を睨み、オリヴィエは淡々と強大な敵に杖を構える。
ただしなぜかオリヴィエの口元には、仕掛けた悪戯が成功するのを確信した子供のような笑みが浮かんでいた。
一瞬、オリヴィエの顔は冷淡な戦士から分かりにくくはあるものの、確かな慈愛の心を持った女性のそれへと変わる。
クエルが口にしたように精霊達に走った動揺は、当然のことながらオリヴィエも察知しており、より正確に何が起きたのかを把握していた。
精霊達に走った動揺は彼らにとっても滅多に姿を見る事の無い様な、高位の大精霊が外側に出現したからに他ならなかった事を、オリヴィエは類稀なる精霊使いとしての資質から理解していたのである。
そして大精霊達が誰の手によって召喚されていたのかも。オリヴィエは大精霊を召喚した者の名前を呟く。
「ドラン」
陽炎のように生じていた波紋が収まるのと同時に、床からやや浮いた位置にドラン、ディアドラ、セリナが姿を現した。
*
「うわ、とんでも無い所に!? だけど、ここで怯むようならドランさんの使い魔はやっていられません!」
と慌てつつもセリナは背後を振り返って、こちらに攻撃の手を加えんとしていた大悪魔へと向けて、八つ頭がしらの魔蛇を顕現させて叩き込む。
跳躍する寸前に詠唱を終えて、いつでも発動できるように待機させておいたラミア種の固有魔法である。
「今度こそは、誰もっ!!」
そしてセリナと同様にありったけの黒薔薇の魔力と猛毒を貯め込んでいたディアドラも、背後を振り返りざまに黒薔薇の蔦を絡み合わせ、巨大な破城槌はじょうついのように形作って突き出す。
同時に周囲にディアドラの黒薔薇の花弁が致死性の猛毒と共に吹き荒れて、見る間に魔兵や下級悪魔達が全身を糜爛させて絶命してゆく。
「ふむ、二人とも不意を突いたとはいえ大悪魔を一撃か。ゲオルグ達と戦った頃とは力量が違うな」
セリナはこれまでに私との付き合いで様々な妖魔、魔獣と戦った事やリュー・キッツ相手に訓練を重ねた事、そして毎日私の精気を食べている影響だろう。
ディアドラはラフラシアの生命を吸い尽くし、完全に己の血肉へと変えた事で魔界の毒気に対する耐性の獲得と、能力の底上げに成功しているからか。
「これは私も遅れは取れんな」
そして私はと言えば、朋輩二体が葬られた直後こちらを目がけて跳躍し、火炎を纏う二振りの剣を振り下ろしてきた獅子頭の大悪魔を振り返った。
腰に愛用の長剣が無いのはやはり寂しいが、まあ、それならそれで戦い方を考えるだけだ。
私は獅子頭の顔を見上げ、獅子頭もまた私の『虹色に輝く竜眼』を見た――見てしまった。
獅子頭の大悪魔にとって不幸だったのは、彼が虹色に輝く竜眼の意味を知っているほどには古く、そしてそれを持つ者つまり私に抗えるほど力のある存在ではなかった事。
そして私と敵対した事である。
私は獅子頭の大悪魔の振り下ろした刃に軽く手を添えて、刃の纏う炎も獅子頭が纏う炎のどちらも無視して、我が古神竜の力を直接獅子頭へと流しこんだ。
上位次元に属する存在の気配や声を受けただけでも、下位次元の存在はその生命を失いかねない。
ましてや今回に限っては私には明白な敵意と殺意とがあった。
古神竜の力を仮初の肉体と霊魂に流しこまれた獅子頭は、こちら側に出現した分だけでなく繋がっていた魔界の本体も合わせて跡形も無くあらゆる世界から消滅した事だろう。
かくして私達がユグドラシルの内部に転移するのとほぼ同時に、三体の大悪魔は滅びたわけである。
何ともはや、呆気ないものだなと思いながら、私はオリヴィエ学院長に話しかけた。
「お久しぶりです、学院長。まことに勝手ながらご助力すべく馳せ参じました」
そう言う私を見えるオリヴィエ学院長以外の者達の顔は、ちょっとした見物だった。
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第七十七話
「セリナ、ディアドラ、残る大悪魔と魔兵達の相手を適当に頼む」
「はい、任せてください」
「巫女姫とオリヴィエ達の事は貴方に任せるわよ」
「ああ、任された」
私が気負う事も無くオリヴィエ学院長に向かって歩き出す一方で、セリナとディアドラは、大悪魔三体が滅ぼされてもなお怯む様子を見せない残りの悪魔や魔兵達に険しい視線を向ける。
セリナとディアドラが大悪魔を一撃で倒せるほど力を高めていた事は、嬉しい誤算だったが、これなら残りの悪魔達の相手を任せても大丈夫だろう。
「
そうして私達の見ているまで今回の事態を引き起こした黒幕らしき者達が、こちら側へと姿を遂に見せた。
まず姿を見せたのは薄紫色の肌と白い髪を持ち、山羊を思わせる角を側頭部から生やした若い青年だった。
執事風の黒い衣装を纏っていて、一部の隙も無く着こなした姿は良く似合っている。
続いて現れたのが額に三つ目の瞳を持つ赤銅色の肌の女で、年の頃は二十代半ばほどか。
顔以外に肌の露出が一切なく、色とりどりの布地を使った一枚布を何枚も体に巻きつていて、尻の辺りから蠍を思わせる甲殻に包まれ、先端に鋭い針を備えた尻尾が伸びている。
この両者どちらともが悪魔公、いわゆる爵位級悪魔と呼称される上級悪魔である。
どちらも出現すれば国の一つ二つを滅ぼせるだろう力を持った規格外の存在だが、同時にユグドラシルを支配できるほどの力の持ち主でないのもまた事実。
本命の前に出て来たという事は、おそらく従者か護衛の立場にある者たちなのだろう。
それぞれ金色の瞳を輝かせながら私達を睥睨しており、そこに感情の色を認める事は出来ない。
彼らからすれば私達は感情を抱くだけの価値も無いと言う事なのだ。
「もったいぶらずにさっさと出てくれば良いものを、時間のかかる事だ」
従者たちの出現を待ってから、ようやく本命が姿を現す気になったらしい。
より一層瘴気の濃度を増した魔界の風が吹き始めるのにわずかに遅れ、豪奢な金の髪を総髪にし、赤黒い角を四本生やした青年が姿を見せる。
黒い布地に金と赤の糸で刺しゅうを施したロングコートを纏い、背中からは黄金の皮膜を持った翼が二枚生えている。
血の気の抜けた青白い顔は驚くほど整っていて、人間とは思えぬ異形の容貌の主であっても数多の女性の心を奪えるだろう。
鋭い眼差しは紫の視線をユグドラシルにのみ注がれており、暗黒を纏うユグドラシルの姿を見て満足げに薄い笑みを浮かべる。
血の気の無い唇が笑みを浮かべると、鋭い牙がわずかに先端を覗かせた。
「ふむ、魔王かその子息かな?」
といっても魔界に魔王と呼ばれる存在はうじゃうじゃと居るので、その実力や霊格もピンキリだ。
私の記憶と戦闘経験と照らし合わせてみれば、目の前の青年から感じられる力は中々見所がある、と言った所だろう。
魔王かその子息、という私が口にした言葉にオリヴィエ学院長やセリナ達が悪魔公以上の存在が出現した事に、息を飲んでいた。
悪魔公の出現だけでも数百年に一度あるかどうかという緊急事態だが、さらにそれ以上の存在が出現したとなると、これはもう惑星規模の命運を占う事態の勃発といっても過言ではない。
「おお、エンテ・ユグドラシルよ、ようやく私の色に染まったか」
魔王級と思しい青年は心の底から嬉しそうにユグドラシルの頬に指を這わせ、ぴくりとも動かぬその様を愛しげに見ている。
エンテの森の象徴たるユグドラシルに、おぞましい敵の指が触れられている事にリュリュシーやラタンタ達から憤怒の気配が立ち昇る。
だが、私の敷いた竜語魔法陣から一歩出れば、即座に悪魔公や魔王級が存在するだけで放たれる重圧と瘴気により、精神と肉体双方に死が訪れかねない以上、どれだけ悔しくてもその場に居て貰う他ない。
主の出現に対し、大精霊達によって数えるほどにまで減らされた魔兵や悪魔達が一斉に頭を垂れて、臣下の礼を取っていた。
敵を前にそのような真似をして危険を犯す事よりも、主の前で無礼は働けないと考えているのだろうか。
「ガバン様、おめでとうございます。臣としてこの上なく喜ばしく」
「おめでとうございます。遂にユグドラシルを掌中に収められましたな」
追従する臣下達に応じる事もせず、ガバンとかいう若い悪魔はユグドラシルを見るばかり。
ガバンか、私の記憶と照らし合わせてみても照合する相手がおらんな。
前世の私が死んでから産まれたものか、あるいは記憶に留まらぬ程度の小物だったのだろう。
「麗しきエンテ・ユグドラシル。下劣なニーズヘッグの
「ふむ、下劣という点では同意するが、ニーズヘルとかいう思い上がりを唆し、ユグドラシルに入らぬ負担を与えたのは貴様らか」
唐突に口を挟んできた私に対し、まるで路傍の石が口を聞いたとでも言うようにガバンや悪魔公達が私を見る。
彼らが出現するだけでも空間そのものへの霊的汚染は凄まじく、ただの人間が相対していられるはずもない。
だから彼らにして見れば、私が正気を維持しているだけでも、ただの人間ではないと分かるだろう。
二体の悪魔公が羽虫を潰す様に私に力を振るおうとするのを、ガバンが目配せで制止した。よほど機嫌が良いのか、彼らからすれば低俗な人間と口を利く気になったらしい。
「その通りだ。人間では無い人間よ。
世界樹を食料とする愚かしきニーズヘッグの末裔ニーズヘルに、この地のユグドラシルを食すよう仕向け、次元の壁を突破する事に利用したのだ。
そのお陰で私は容易くユグドラシルの精神に干渉する事が出来た。ふふ、随分と意固地な少女だったが、結果は見ての通りだ」
「なるほど、ニーズヘルなどと協力関係にあった理由は分かったが、しかしユグドラシルを狙う理由は?
ユグドラシルの産み出すマナが目的ならば、その心を縛る必要はない筈。あるいは魔界の領土にでも植え変えるつもりか?
魔界には魔界の世界樹と呼ぶべき者が存在しているから、その必要性は無い様に思うが……」
「博識だな。なんの事は無い。私がただユグドラシルを愛でたいが為に事を起こしたに過ぎない。
この地上世界の生命を育み豊かにするユグドラシルの姿のなんと美しい事よ。魔界の樹木ではこうは行かぬ。そうは思わぬか?
我が城の一角には他のユグドラシルを含め、何本もの地上の樹木やその精達がその美しさを誇っている。
このエンテ・ユグドラシルも新たな我がコレクションとなって、悠久の時を我が傍らにて過ごす事だろう」
「つまり樹木の好事家あるいは蒐集家というわけか。それほどまでにユグドラシルが魅力的だとはな。
ましてやユグドラシルを得るためだけに、ユグドラシルと共に生きる者達を巻き添えにするか、魔界の者達の性根は年月を経ても変わらんな」
「我らの事をよく知る口ぶりだな。そう言えばこの地にはゲオルグらをかの者との契約に従って召喚させたはずだが、討ち滅ぼされたと言う。手を下したのはお前達であるかな?」
『かの者』か気になる単語だが、スラニアで出くわした阿呆の顔と言葉が私の脳裏を過ぎった。
「ああ、彼らなら私を含めエンテの森の人々共に討ち滅ぼしたとも。お前達も同じ轍を踏むがね」
「随分と強気な事だ。貴様、どうやら人間であるのは外側だけのようだな。
少々興味を惹かれるが、ユグドラシル以上に私の心を魅了するものは無い。ディアブラ、エレネス、片付けよ」
「はっ!」
ガバンの命令に異口同音に応えて、それまで控えていた悪魔公達が動く。男の方がディアブラ、女の方がエレネスというらしい。
主の許しが出た途端に二体の悪魔公からは、空間を軋ませるほどの攻撃的な気配が立ち昇る。
主に対して無礼な口を働いていた下等な人間をようやく始末できると、喜んでいるのだろう。
ディアブラは右手を私へ、エレネスは鏡映しのように左手を私へと向ける。
背後の大精霊達が動こうとする気配を見せたが、私が彼らを一瞥して手出しは無用と視線で伝える。
彼らばかりを働かせてはいささか申し訳ないからな。
「
ディアブラの右手から放たれた真っ黒い火炎は、巨竜の顎あぎとの如く巨大で太陽の中心部にも匹敵する高熱を放っている。
「
対してエレネスの左手から放たれたのは、物理法則を無視して光よりも早く走り、時間や空間すら切断する風の範疇を越えた風の刃だ。
ディアブラは火炎を操る悪魔で、エレネスは風を操る悪魔か。まあ、彼らからすれば小手調べ程度の攻撃でしかないから、実際の所は違うかもしれんが。
悪魔公に限らず高次の存在が放つ攻撃は、その全てに下位存在の霊魂を破壊するほどの力が込められている。
三次元であるこの主物質界の法則を無視した攻撃も、高次の存在ならばこそ可能な芸当である。
この場では大精霊と私以外に、あの攻撃を受けて霊魂を傷つけられずに済む者は居ない。
腰の長剣を抜こうとし、それを預けたままにしている事を思い出して、私は微苦笑を浮かべながら迫りくる炎と風に向けて右腕を振るった。
「剣なしだと、案外寂しいものだな」
私の右腕は魂が産み出した魔力によって半透明の白竜の腕に包まれて、二体の悪魔公の攻撃を、塵を払うように粉砕して跡形も無く消し去る。
悪魔公達にして見れば小手調べであっても、地上世界の存在にとってはどう足掻いても防ぎようの無い筈の攻撃をいとも簡単に私が払った事で、ようやく悪魔公達の目が私をまともに見始めた。
「竜種、それも竜王程度ではないな?」
「我らの一撃を防ぐか。竜帝か龍皇か、はたまた真竜か……」
「なんというかな、私がいつも抑えているからというのもあるが、お前達はどうしても私がこうして行動に移るまで侮って、それから驚くと言う事を繰り返す傾向にある。
流石に私も毎度毎度同じような反応をされては、いささか飽きを覚える」
更に私の左腕のみならず背中からは白竜の翼と尻尾が伸びて、私は半ば竜人と化したかのような姿となる。
魔界でゲオルグとの戦いの中で披露した形態であり、私としてはそれなりに古神竜としての力を発揮している状態となる。
「ニーズヘルも既に始末した。それ以上に厄介なのに絡まれているが、お前達もまた冥府に赴き、かの地でニーズヘル共々裁かれて来い」
私が言い終わるのを待たずに、ディアブラとエレネスが動いた。
翼をはためかせ、足を動かして、ではなく空間を跳躍する空間転移である。
時間差など一切存在せずに二体の悪魔公が、私の左右へと出現した。
両者とも今度は先程の小手先程度では無く本気で私を仕留めに掛って来ている。ディアブラとエレネスの手足に込められている力は、つい先ほどとは比較にならない。
「比較にならんが、そもそも私とお前達とでは根本的に比較にならんのだ」
「魂魄まで燃やしてくれよう、
「原子まで噛み砕いてあげましょう、
「本気を出すのは構わんが、出しても結果は変わらんよ」
この地上世界で出し得る全力の一撃を私に打ち込む二人に対し、若干の憐みと共に私は両腕を伸ばした。
物理限界を越えた熱量を持つディアブラの手刀と森羅万象を噛み砕く風の牙を纏うエレネスの左腕をそれぞれ握りしめ、一切の苦痛を感じぬままにそれらを握り潰す。
「なあっ!?」
「ぎ、ぐああ、これは、我らの霊魂にまで傷を!」
ディアブラ達は彼らがこの地上で構築した仮初の肉体に留まらず、存在の核と言える霊魂にまで深い傷が与えられた事に対して、嘘偽りの無い驚きの声を出す。
ふむん、なんというかすっかり聞き慣れた類の台詞だが、改めて考えてみるに私に何回原型を留めぬほどぐちゃぐちゃにされても、諦めずに挑んで来るカラヴィスは本当に根性があるものだ、と感心してしまう。
「折角魔界から出て来た所で悪いが、お前達にこの世界での居場所は無い」
私はそのまま幻影の白竜の腕に破滅の意思を込めた力を流し込み、捕らえた悪魔公の霊魂に至るまでを痕跡も残さずに消し去っておく。
ふむん、霊魂まで消したら冥府に行かないな。まあ、よいか。
言葉にならぬ悲鳴を上げて消滅する悪魔公の姿を前に、背後のオリヴィエ学院長やセリナに留まらず大精霊達が、感嘆と信じられないものを見たと言う吐息を零すのが聞こえた。
ガバンは瞬時に距離をつめて、正面から私の頭上へと振りあげた大剣を渾身の力で振り下ろしてきた。
かつて戦った吸血王子をも上回る速さの斬撃は、ただ一つでは無く同時に百以上発生して私へと迫りくる。
左手の甲で正面からの一撃を受け止めて、残りの斬撃はそのまま幻影の体で受け止める。
つまるところ、例え魔王級の斬撃であろうと、私にとってはわざわざ防ぐまでも無いと言う事だ。
「先程までの余裕が消えたな。たかが人間、たかが竜とは言えなくなったか?」
「まったくその通りだ。愛しきユグドラシルを掌中に収めたと喜んだ矢先に、忠臣を一度に失うとは」
「余計な欲を出すからこうなる。自分達の世界にあるもので満足する事を覚えておくべきだったな」
「貴様を殺せばそのような事を覚える必要もあるまい!」
ぎゃりっと刃と鱗の噛み合う音を立てて、ガバンの大剣が引かれるや黒と黄金の入り混じる魔力が横殴りに私に襲い掛かる。
大剣を突き離す動作に連動してガバンの放った回し蹴りだ。私はふむっと呟くと同時に、右手でいとも簡単にガバンの回し蹴りを受け止める。
「暗黒に閉ざされるがいい、
私を中心に四方に黒い線が走り四角形を描くと、そのまま真上に浮かび上がってまるで棺のように私を閉じ込める。
ガバンが行使したのは黒一色の檻の中に閉じ込めた対象を暗黒と同化させ、無へと帰するものだった。
「食らった所でどうという事も無いが、鬱陶しい、な!」
闇に満ちてゆく檻の中で、私は白竜の腕を振るって内側から薄い硝子を割るかのように暗黒の檻を打ち砕く。
ちょうど大魔界の方でカラヴィスとじゃれている所為か、ガバンの振るう攻撃の全てが陳腐に思えて仕方が無いな。
まがりなりにも最高位の邪神と成長途中の魔王の子息とでは、比較する方が間違っていると分かってはいるのだが……。
暗黒の檻を破った私の眼前に、こちらへと向けて大剣を突きだした姿のガバンが居た。
大剣は五重の魔法陣を貫いており、それらは凄まじい速さで回転していて、回転が増す度に破壊的な魔力が次々と産み出されている。
魔法の効果を増強し、制御を補助する為の魔法陣だな。人間の魔法使いでも上位の使い手が稀に用いると聞く。
「飲み込め、
ガバンの大剣の切っ先から放たれたのは、魔界から召喚された瘴気と魔力をガバン自身の魔力に練り込み、物体・非物体を問わず全てを渦潮と激流の中に飲み込んで破壊する砲撃だった。
あらゆる物理防御が意味を成さぬ強烈な砲撃であるが、こういう類の攻撃を手っ取り早く無効化するのは、同種で上回る威力を持った攻撃で押し切る事!
「ならばこちらも、と言った所か」
私が纏う白竜の幻影に頭が新たに加わり、眼前から視界を埋め尽くして迫りくる真っ黒い砲撃へ、対照的に白い光の霧のようなブレスが白竜の幻影が大きく開いた口から放たれる。
暗黒の過流と白い霧状ブレスの拮抗は、わずかに一瞬にも満たぬ時間の事で、所詮古神竜と魔王級との間に広がる絶対的な壁は崩せずに、ガバンはブレスの中へと飲み込まれてゆく。
「これほどの力とは!? 真竜といえどもこれだけの力は持たぬ筈!」
ブレスの直撃を受けて次々と肉体と霊魂が崩壊する激痛の最中、ガバンは残る生命の全てを賭して私の正体を知ろうとしているかのように足掻く。
コレも毎度の事だな、と私は淡々と作業を行う様な心持ちでガバンに私の正体を告げた。
私と幻影の白竜の瞳が虹色に煌めき、普段古神竜の魂を覆っている人間の魂を模した殻を破って見せる。
「これでもまだ分からぬなら、冥府の三貴神に問うが良い。裁きの場で閻魔に問うもよし、冥府の管理者たるハーデスに問うもよしだ。
貴様より先に逝った魔王や邪神達に問いかけてみるのもいいかもしれんが、彼らは恐怖のあまり発狂しているかもしれんから、あまり薦められん」
「まさか、まさかあ、お前は!!」
「その言葉も、私にとってはいささか聞き飽きたものに過ぎんよ。せめて末期まつごの言葉位は他の連中とは違うものになるよう努力してみてはどうだ?」
ふむ、とはいってもガバンにもうそのような時間は残されていなかった。
最後の最後に私の正体を知る事が出来た――あるいは出来てしまったガバンは、もはや抗う気力も根こそぎ奪われて、ブレスの中に完全に飲み込まれて先の悪魔公同様、跡形も無く消滅した。
ガバン達がこちらへと繋げていた次元間の回廊も閉じたようだし、こちらに残っていた魔兵や下級悪魔は大精霊達がついでとばかりに掃討してくれている。
となると汚染された空間や大気の浄化と、ユグドラシルの介護を行って負傷者の治療を終えれば今回の異変はひとまず終息したと言えるだろう。
私はセリナ達を保護していた竜語魔法陣をディープグリーン全域にまで拡張して展開し、魔界から流入してきた瘴気や毒素の浄化を行う。
本来はユグドラシルやその巫女姫達の役割なのだろうが、彼女らの疲労を考慮すれば私の方で済ませておいた方が良かろう。
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第七十八話
悪魔達を撃退した私とセリナとディアドラの三人は、オリヴィエ学院長の案内に従って、とある一室へと通された。
ユグドラシルの中にある無数の空洞の一つを利用した部屋らしく、十人ほどが詰めれば一杯になる広さだった。
ユグドラシルの床から直接生えたテーブルや椅子が置かれていて、赤いテーブル掛けの上には、青い陶器製のティーセットが置かれている。
ちょうど人数分が置かれている椅子の一つにオリヴィエ学院長が腰掛け、私達にも着席を促してきた。
「どうぞお座りになって。ちょうど族長達への説明も一段落着いた所でした。ユグドラシル様も、お元気になられましたよ。ほら、この通りに」
人数分のカップをテーブルの上に並べて、ティーポットから薄緑色の液体を手際よく淹れていたオリヴィエ学院長の右手側の椅子の上に、緑や白、黄色などの光の粒子が生じ始め、瞬く間に人間に近しい姿を取ったエンテ・ユグドラシルの化身が現れた。
ガバンから解放した直後と比べれば血色が良く、病人状態から見事に回復したと判断して良いだろう。
「先程は恥ずかしい姿をお見せしてしまいました。改めてお礼申しあげます。今はドランと名乗っておられるとか。
危うい所をお助け下さり、まことにありがとうございました。ドラン様、セリナ様、ディアドラ様」
自分自身の中に顕現してきたエンテ・ユグドラシルは、心からの感謝を込めた笑みで私達の顔を順番に見回して、礼の言葉を口にした。
セリナは様付けで呼ばれる事に気恥かしいらしく照れ臭そうに笑っているが、ディアドラは樹木の精の頂点と言える世界樹の精にディアドラ様と呼ばれる事に、ひどく恐縮している。
こんなディアドラの顔は滅多に見る事の出来ないものだ。
「ふむ、学院長のおっしゃる通り回復したようでなによりだ。リュリュシーと言う巫女姫殿は随分と有能なようだな」
「はい、リュリュシーは私との相性も良く、また心根の綺麗な良い娘です。もちろん、代々の巫女姫達は皆がそうです。そこのオリヴィエも含めてね」
「ディアドラからつい先ほど教えて貰ったばかりですが、学院長は巫女姫を務めていらしたとか、それにかつてはエルフの王家の姫君だったとも。
ガロアでああも学院長に対して様々な噂が囁かれているのか、ある程度得心が行きましたよ」
「そうですか。別に隠している事ではありませんが、聞かれる事もありませんから特に誰かに言った覚えはあまりありませんね」
「我関せずというわけですか。そのような態度をお取りになるから好き勝手な噂が後から後から立って、消える事も無く語り続けられているのでは?」
「私の知らぬ所で立てられる噂です。それに目くじらを立てるような内容でもありません。さあ、おかけなさい。冷ましたアオツキバナのお茶です」
オリヴィエ学院長に勧められるまま椅子に腰かけて、私達は青い水面が揺れるカップを手に取り、口に含んだ。
何とも言えない清涼感が口の中から鼻先、胃の腑までを駆け抜けて意識が冴えわたる様な感覚がする。
「これは美味ですね。エンテの森でだけ採取される花を使ったお茶ですな」
ミントティーに似た清涼感だが、一瞬で口の中に広がって溶けるように消えてゆく甘みなど違った味わいがある。
エンテの森の何処で採取できるかは知らんが、ベルン村に持ち帰って大量栽培に成功すれば特産品とする事が出来るだろう。
そんな考えが顔に出ていたらしく、オリヴィエ学院長に指摘されてしまった。
「商売人の顔をしていますよ」
「これは失礼。故郷の発展の為にはどうお金を稼ぐべきかと、日々頭を悩ましておりまして」
「貴方が学院に入学した大きな理由も故郷の為でしたね。貴方らしい事ですが、貴方の魂を考えるといささか……」
「あ、そう、それですよ、学院長さん、ドランさん。
ドランさんの魂が竜だってことはもう教えて貰っていましたけれど、そこから先のお話を聞かせてくれるのでしょう?」
このままずるずると世間話に移行しそうな気配を敏感に察し、セリナが少しばかり腰を浮かせて私達の話を遮る。
ふむん、自分の意見をしっかりと主張できる子になって、私は嬉しいぞ、セリナ。
とはいえ確かに話すべき事を話さずにおくのは良くないか。
「ふむ、そうだな。しかしなにから話したものか」
「えっとじゃあ、ユグドラシルさんはドランさんの事を知っている風でしたけれど、前世でのお知り合いだったのですか?」
この説明会を開くきっかけになったユグドラシルの私を見ての第一声について、セリナがユグドラシルに問いかけると、世界樹の化身ははにかむように笑って語りだす。
私からするとこのエンテ・ユグドラシルと面識は無いのだが、ユグドラシル同士の横のつながりで私の話でも聞かされていたのかね?
「はい、セリナ様。私とそちらのドラン様との間に、直接の面識があるわけではありません。
私と同じユグドラシル達から、前世のドラン様について教えて貰っていたのです。
そしてあの悪魔達の手に捕らわれていた時に見たドラン様のお姿と力から、あの御方に違いないと確信しました」
「なるほど。でも直接会った事が無くても分かる位、前世のドランさんは特徴のある方だったんですか?」
「はい。あらゆる世界において唯一無二の存在であり、天界に住まう善き神々も魔界で蠢く悪しき神々も、知らぬ者はいないほどの御方です」
おとぎ話の中で語られる存在を目の当たりにした童女のような眼差しで、エンテ・ユグドラシルは私をじっと見る。
それにつられてセリナもオリヴィエ学院長もディアドラも私を見る。
薄々私の素性を察している節のあるオリヴィエ学院長を除いた二人は、あまりにも突拍子もない話に目を丸くしていた。
「えっと、なんだが思っていた以上に凄いと言うか、話の規模がとんでもないように感じるのですけれど……」
「いいえ、ドラン様はそれほどの御方なのです。
今、私達がドラン様と呼ぶ御方の魂は、私が間違っていなければ、原初の混沌と共にあった始祖竜より生じた始原の七竜が一柱、『一にして全なる』ドラゴン様であらせられるはず」
「始原の七竜ってあの創世神話とか、大地母神マイラールとか
今一つエンテ・ユグドラシルの言う事に実感が抱けていないようで、セリナは取り敢えず知識の中にある前世の私について口にしたようだ。
セリナに言葉を返したのはエンテ・ユグドラシルではなく、セリナ同様今一つピンと来ていない顔のディアドラだった。
「そうね、セリナの言う通りよ。私達花の精達の間でもその名が知られている位だもの。
最高神に匹敵する全竜種の頂点に君臨しているのが、確か始原の七竜のはずよ。
でもいくらドランでもそんなとんでもない存在の生まれ変わりなんて、そんな話をいきなりされても、いくらなんでもとしか言いようが無いわよ」
さしものディアドラも事前に想定していた私の中身と現実の違いに、どう反応して良いか困っている。
下位の神とてこの地上世界の住人達にとっては、直接目にする機会も無い存在であると言うのに、最高神と同格以上だという竜の生まれ変わりこそが私だと言われても、はあ、そうですかとしか思えないのかもしれない。
第一、地上世界の住人にとっては神々がどれほどの存在かも正確には分かっていないのだから、ましてや地上世界への干渉がほとんどない古神竜など見当もつくまいよ。
「二人の反応が普通なのだろうな。セリナ、ディアドラ、ユグドラシルの言っている事に偽りはない。
確かに私の前世での名前はドラゴンであり、まあ、それなりに名前を知られてはいたよ。
転生した影響で随分と弱くはなったが、いくらか古神竜としての力は残っている。
時々、私が人間離れした力を発揮しているのは、その古神竜としての力のお陰だ。
ちなみにセリナに渡したペンダントに使っているのは、私の肉体を前世の竜と化して剥いだ鱗だよ。世界に一つしかない古神竜の鱗を使ったお守りだな」
セリナは服の内側に入れているペンダントを取り出し、右の掌の上に乗せるとしげしげと小さな白い鱗を見つめる。
光の当たり具合で虹色に輝くそれが、そんなとんでもない出自の品だと実感できていなさそうだ。
「あの、えっと良く分からないと言うか実感が湧かないと言うか、取り敢えずドランさんがその古神竜ドラゴンの生まれ変わりだと言うのは、まあ、分かったと言うか分からないと言うか、ええと分かりました」
それって本当に分かっていると言えるのだろうか? と私は疑問だったが口にするのは控えておいた。ここで話の腰を折っても仕方あるまい。
「無理に分かろうとしなくていいさ。私の前世の事を知ったからと言って、私の何かが変わるわけではない。
変わるのはそれを知った者達の認識だ。この場合はセリナとディアドラだね」
「うう~ん、確かに私達がドランさんの前世を知ったからといって、ドランさんが何か変わったわけではないですよね。
だってドランさんは元からそうだったわけですし」
「そうね……別にドランが神々しく見えるようになったとかいうわけでもないし、今更態度を改める気にもなれないわ」
「私だっていきなりよそよそしい態度を取られたりしたら寂しいし、なにより悲しい。今まで通りに接してくれるのが一番だよ。
それに私は一度死んだ身だ。こうして人間として二度目の生を得られた望外の幸運を甘受して生きて、そして死ぬつもりだよ。
人間として生きて、そしてこの命を終えるつもりだ。まあ、時々古神竜としての力を振るうのは、御愛嬌と笑って許して欲しい所だな」
古神竜としての力を徒いたずらに振るうつもりが無い事を改めて明言してから、私は気になっていた事をオリヴィエ学院長に問いかけた。
「ところで学院長、エンテ・ユグドラシルが私の事を知っているのは同胞に教えて貰っていたと考えれば不思議はありません。
古いユグドラシル達の中には顔見知りもいますからね。
しかし学院長がどうして私の正体を薄々と察していたのか、そこの所をお伺いしたい。
巫女姫であった時分にでも、エンテ・ユグドラシルからお聞きになっていたとか?」
私の問いに対して、オリヴィエ学院長はしばし手の中のカップに視線を落としてから、ゆっくりと唇を動かし始めた。
短い時間ではあったが、オリヴィエ学院長が心の中でなにがしかの整理をつける必要がある話題だったらしい。
「ドラン、私を含む一部のハイ・エルフ達には、かつての貴方の最後に関する伝承が残されているのです。
真竜や龍神、他の六柱の古神竜達が自分達で作りだした竜界に移り住む中、唯一地上世界に残った古神竜ドラゴンが、七人の勇者達によって討ち滅ぼされた伝承です」
前世で私の迎えた最後が話題とあり、これまで雲を掴むような話を聞かされていた様子のセリナとディアドラが、はっとした顔つきでオリヴィエ学院長の言葉を一字一句聞き逃すまいと耳を澄ます。
一方でエンテ・ユグドラシルは痛ましげな瞳でオリヴィエ学院長を見ており、こちらもハイ・エルフ達に伝わる伝承や事情について既に知っている様だった。
ちくり、とかつて人間の勇者に貫かれた心臓が痛んだような気がした。あれは痛かったなあ。
「かつてドラゴンと呼ばれていた頃の貴方を討ちに来た七人の勇者の中には、一人のハイ・エルフの女性が居ました。
当時、いえハイ・エルフの歴史を紐解いても、おそらく最強にして最高の霊格を持った精霊使いであった女性。
彼女こそが、このエンテの森に根を張ったハイ・エルフの遠い先祖なのです。もちろん私の系譜以外にも彼女の子孫は居ますけれどね」
それはそうだ。
前世の私が死んでから随分と時間が経過しているし、同じく七勇者の子孫であるクリスティーナさんにしても、単に血脈を継いだ子孫だと言うだけなら他にもごまんと居るだろう。
「そうですか、彼女の。確かに私の知る限りでも地上世界で彼女ほど優れ、精霊に愛された精霊使いは居ませんでした。
地、水、火、風の精霊王を同時召喚し擬似的に
前世の私の最後の戦いで彼女が行使したのは、世界を構成する四大元素を司る精霊王に働き掛けて、新たな宇宙を作り出すというもので名前はそのまま『天地開闢』という。
究極の精霊魔法の一つとされる『天地開闢』は、誕生と同時に崩壊する不完全な宇宙を作り出し、発生から極短時間で崩壊に至るまでに発生する力を対象に叩き込むものだ。
それ以外にも旧来の宇宙に属する霊的・物理法則に属する存在を、新たな宇宙の法則で上書きして消滅させる効果もあったな。まあ、私には効かなかったが。
「精霊王の同時召喚ですか。おそらく私達が行っている様な精霊王の召喚とは、また異なるものでしょう。
私達が精霊王を召喚しても精々大規模な地震の発生や、津波を起こすのが関の山ですから。
彼女からすれば、今の私達はなんて情けないと嘆かれてしまうかもしれませんね」
「彼女はそのような性格の女性ではありませんでしたよ。
ふむ、しかしせっかくこうして彼女の子孫と会えたわけですし、七勇者達が私の死後どうなったのか、知っている範囲で構いませんからお教え頂きたい。
彼女は私を討った後、どうなりました? 世界樹へと姿を変えたか、彼と結ばれたかのどちらかであるとふんでいますが」
エルフなど精霊との関わり合いが深い種族や、一部の妖精などは成長と共により高位の霊的存在へと姿を変える事がある。
ハイ・エルフならば世界樹との同調などにより、彼女らと同じ種族に変わる事もごく稀にだがある。
かつて私と戦った彼女なら、そう遠くないうちに世界樹へとその霊魂を昇華させる段階にあった筈だ。
「貴方と戦った我が先祖エルシリアは、貴方を討った後、勇者セムトと結ばれる道を選び、最後まで彼と共にあり続けました。
世界樹へと進化する事も出来たそうですが、その道は敢えて選ばなかったそうです」
「なるほど、セムトはなかなか奥手だったから周囲が随分とやきもきしていましたが、無事に結ばれましたか。安心しました」
となるとエルシリアとセムトの子はハーフ・ハイ・エルフという事になるか。
まあオリヴィエ学院長に流れている人間の血は、何千分の一か何億分の一か、あるいはそれ以下の比率であろう。
という事は同時に勇者セムト直系の子孫であるクリスティーナさんにも、オリヴィエ学院長より低い比率ではあるが、ハイ・エルフの血が流れているわけか。
「しかしながら、人間に生まれ変わってから十六年余り。
よもやかつて私を討った勇者達の子孫に二人も会うとは、運命の女神達の干渉は無い筈ですが、彼女らの暗躍をつい疑いたくなりますね」
「二人ですか。ドラン、やはり彼女も?」
「ふむん、学院長もお気づきでしたか。お察しの通りクリスティーナさんも七勇者の子孫ですよ。
それもまず間違いなく私に止めを刺したセムト直系の子孫です。
単に血統を継いでいると言うだけでなく、私を殺した事で発生した竜殺しの因子を唯一受け継いでいます。
クリスティーナさんも自身の一族が過去に何かをしたと言う事は知っている様ですが、まだ詳細については聞いていません。無理に聞くような事でもありませんからね。
そう言えばほとんど他人と言うべきかもしれませんが、一応、オリヴィエ学院長とクリスティーナさんは縁戚関係にあるわけですな」
竜殺しの因子を継いでいる、という私の発言にオリヴィエ学院長は痛ましげに顔を伏せた。
私を討った七勇者の中でも止めを刺したセムトだけが背負ってしまっただろう因子が、今も子孫に受け継がれている事への嘆きと業の深さを感じたのだろうか。
身近な人物が前世の私を殺した人物の子孫と知り、セリナは少なからず動揺して縋るように右手で私の左肘を掴んできた。
セリナの右手に私も右手を重ね、私自身は何も気にしていないとその動作で伝える。
「私を討った事でセムトの子孫に竜殺しの因子を背負わせることになったのは、私としても予想外でした。
なんとかあの因子を取り除いてあげたいと苦心している所ですが、なかなか上手い策が思いつかないのが現状です」
クリスティーナさんやセムトへの憐みを交えて口にする私に、ディアドラが少しばかり疑問を抱いた顔で問いかけて来た。
「ねえ、ドラン。少し気になったのだけれど貴方はオリヴィエやクリスティーナの先祖に殺された事に、遺恨はないの? 貴方自身の仇の子孫なのでしょう」
「ディアドラは聞きにくい事をずばりと聞くな。そこが君の良い所だけれどね。私に彼らや学院長、クリスティーナさんに対する恨みなどは何もない。
あの頃の私は生きる事に飽きていてしまったからな。だから彼らが私を殺したに来た時も、甘んじてそれを受け入れたよ。
むしろクリスティーナさんの事情などを知ってからは、彼らに悪い事をしてしまったと思っている」
「ふうん、今の貴方は生きる事が楽しくって仕方ないと言うように見えるけれど、昔の貴方は色々と大変だったみたいね」
「少々精神的に脆い所があったようでね。同胞達からも随分と心配されたと言うか嘆かれた事もあったよ。
そう言うわけですから、学院長、私に関してなにか気負う必要はありませんからお気になさらず。気を遣われては私の方が心苦しいですから」
「そう言って貰えるといくらか肩の荷が下りた気がします。クリスティーナについては、いつか話すつもりなのですか?」
「折りを見てとなりますでしょうか。私は貴方の御先祖に殺された竜の生まれ変わりです、と切り出すのは今回のような機会に恵まれなければ、大変難しいですよ」
それはそうだろうという顔をこの場に居る全員がした。
幸いクリスティーナさんが持つ竜殺しの因子は、直接竜種と対峙するような事が無ければ、実生活に害の及ぶものではないから解消に関して緊急性のあるものではない。
ただクリスティーナさん自身は、先祖が罪を犯したと言う罪悪感を抱いている様であったから、どうにか胸の内の暗雲を晴らしてあげたいと強く思う。
「ふむ、取り敢えず私の中身についてと、学院長がどうして私の事を察していたかは、以上で明らかになったと言えるでしょう。
ところでエンテ・ユグドラシル、体調はもう整ったように見受けるが、祝祭の方はどうする予定なのかね?」
これまで大人しく私とオリヴィエ学院長の話に耳を傾けていたエンテ・ユグドラシルは、はい、と生真面目な顔で頷き返す。
箱入り娘のような無垢さと天然な所のある若いユグドラシルだが、自分の元に集った者達への責任感はあると分かる表情だった。
「私が責任を持って予定通りに執り行います。今日の日を楽しみにして来てくれた皆の期待を、裏切るわけには参りません。
幸い、大精霊達とドラン様のご尽力により魔界の瘴気による汚染は、私の森からすべて取り除かれています。
私の今の状態ならば問題なく祝祭を取り行う事が出来ますから、どうぞご安心を。それとドラン様、私の事はどうぞエンテとお呼びください」
にこりと笑むエンテに対し、むっと小さな声をセリナとディアドラが出した。なにやら琴線に触れる所があったらしい。
エンテから好意を寄せられている事は感じるが、あくまで信頼や友愛の情だろうに過敏に反応し過ぎだ。
「分かった、では言葉に甘えてエンテと呼ばせて貰うよ。明日からの祝祭を楽しみにしている」
「はい、どうぞご期待ください。ドラン様」
エンテはそう言って本当に嬉しそうに笑みを深めた。
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第七十九話
昨日の内に予定通りに祝祭が開始される事を告げられていた人々は、夜が明けるかどうかという時刻から家を出て溢れかえっている。
ざわめきの止まぬ人々の期待と熱意は、まだ姿を見せぬ世界樹の化身と巫女姫へと注がれている。
エンテはともかくとして、リュリュシーなど歴代の巫女姫はさぞや重苦しい重圧に耐えて来た事だろう。
前日とは違って祝祭の当日は巫女姫による開始の宣言が行われるまで、物のやり取りなどは行わずただただ敬愛する世界樹と巫女姫の姿を求めている。
やがて世界樹の幹の中ほどに設けられたテラスに、護衛の戦士や各種族の族長達に囲まれたリュリュシーが姿を見せた。
時刻は、太陽がそのまったき姿を完全に空に浮かべてから少しと言った所か。
リュリュシーは昨日の衣装の上から、薄い緑色の羽衣を何枚も重ね着て、耳や指には高濃度の精霊石や魔晶石を彫琢した装飾品を身につけている。
巫女姫が姿を現した事にエンテの森の人々は歓声を上げるでも無く、しわぶき一つ立てぬ静寂を選んだ。
それだけではない。森の木々のざわめきも虫や鳥や獣たちの鳴き声も、息吹もすべてが静まり返って、エンテの森から音が消え去っている。
風さえも吹くのを止めてその場に佇み、世界樹とその巫女姫が執り行う儀式の始まりをじっと待っている。
唐突に訪れた静寂の世界にセリナが驚きを示して、きょろきょろと周囲を見回している。
咄嗟に口を手で塞いで驚きの声を出さなかったのは、賢明だろう。
驚くセリナの様子がおかしかったようで、フィオとマールが笑みを浮かべてセリナに目配せをする。
例え小声でも声を発しないのは、やはりこの一時の静寂がよほど大事だからだろう。フィオは唇だけを動かして、少しだけ静かにしていてね、と私とセリナに伝える。
完全なる静寂の世界は、そう長くは訪れなかった。ほどなくして専任の護衛であるラタンタに手を引かれたリュリュシーが進み出て、巫女姫が継承してきた杖を掲げる。
しかしこうして見るとリュリュシーとラタンタは恋人としか見えんが、別段それを隠している様子は無い。
エンテが巫女姫の恋愛を禁止しているわけではないからかね。神に仕える神官や巫女は、神に貞操を捧げて恋愛や婚姻は禁じられがちだが、ここではそうでもないらしい。
やがて愛おしげにラタンタの手を離したリュリュシーが、静かに優雅としか言いようのない動作で、自分を見上げる人々に頭を下げる。
宣言も祝福の言葉も祝祭の始まりには必要とされなかった。
リュリュシーが下げていた頭を上げて杖を両手で持ち直し、頭上に高く掲げるとそれに合わせて、世界樹から放出されるマナの量が増し、リュリュシーと向かい合う位置にエンテが姿を見せた。
音を立てぬまま人々が息を飲み、世界樹の意思の具現といってよいエンテの姿に畏敬と歓喜の念を抱くのが感じられる。
昨日会話を交わした私達からすると、畏敬の念よりも親しみの念の方が先に来るし、エンテ自身遠巻きに崇敬されるよりも、言葉を交わせる距離で笑い合う方が嬉しいだろう。
お互いを見つめ合うエンテとリュリュシーの霊魂の領域での同調が増して行き、エンテが天地に流れる気脈へとの結合を深め、膨大な量の気、生命、あるいはマナを吸い上げ自身の中で循環して還元しつつ世界へと広げて行く。
私達の目の前で地面深くに穿たれた大穴から天へと伸びる世界樹が、巨大な幹や無数に伸びる枝から緑や黄色、白などの光を纏う粒子を徐々に数を増やしながら周囲へと放出し始める。
吹く事を止めていた風が再び吹き始め、森の中で静寂に身を包んでいた虫も、鳥も、獣も何もかもが再び生命の息吹を立てて、世界樹から放出されるマナを浴び、自分の命へと変えてゆく。
この段になると口を閉ざしていた人々も興奮と歓喜を隠さず、諸手を上げて歓声を上げている。エンテの名を連呼する者もいれば、リュリュシーの名を高らかに呼ぶ者もいる。
フィオやマール、ディアドラなどエンテの森に住む三人もそれの例にもれず、フィオとマールは世界樹が齎す恩恵を満身に浴びて小躍りし、ディアドラもまた見間違いようの無い笑みを浮かべている。
エンテ・ユグドラシルが齎した膨大なマナは、この惑星の隅々まで行き渡り、既に存在している生命とこれから誕生する生命を祝福し、豊かに育む事だろう。
世界を満たしてゆく暖かなマナの光の中で、私は輝きを放ち続ける世界樹を静かに見続けた。
その後私達はエンテの齎す豊穣に湧くディープグリーンの市街を遊び歩き、許された時間を楽しく過ごす事となった。
祝祭の期間はリュリュシーとエンテは互いに同調している為、市街を歩きまわる事は出来ないらしい。
流石にテラスに出てひたすら同調し続けるという事では無く、ある程度休憩を挟みながら、ガバンの出現した例の間で行うのだと言う。
祝祭に参加できないのが巫女姫のお役目の残念な所、とオリヴィエ学院長が冗談めかして言っていたな。
アジラムさんのお宅に世話になりながら、日増しに賑わいを増すディープグリーンを歩き回る私達であったが、おそらく私達だけにちょっとした異常事態が起きていた。
私達に害があるというわけではないのだが、フィオやディアドラが少なからず緊張する羽目になってしまった。
なぜかと言えば念話を用いてエンテが積極的に話しかけて来たからであ る。
元々エンテからすれば祝祭はそこまで気を張らずとも行えるもので、伝え聞くドラゴンの生まれ変わりである私と話をしたくて堪らないといった様子だ。
あんまり無邪気にお願いしてくるものだから、祝祭に支障をきたさない範囲でと条件を付けて許可を出したら、はい! と弾むような声で答えた後にひっきりなしで話しかけ始めて来たのである。
私の素性暴露の件と言い、エンテは悪い子ではないのだが純真と天然さから、こちらの思いもよらぬ事をしてくる娘の様だった。
兎にも角にも私達はこの様にして残るディープグリーンでの滞在期間を過ごし、多くの収穫を得てベルン村へと帰還したのだった。
予想もしなかった事に私の素性が暴露された今回のディープグリーンへの訪問だったが、ドラゴンとして接せられた事で私も少し思う所が出来た。
大魔界でカラヴィスと一緒になって大暴れした事で、私が再びこの世に復活した事は知れ渡るだろう。
その所為で面倒くさい戦神にいよいよばれて、私の所に襲来する恐れがましたが、いずれ時が経てば知られたであろうこと。
今から心配しても仕方なの無い事だ。アレが、アルデスが私の元へとあの耳に残る高笑いと共にやって来るのは覚悟しておこう。
だが私が思いついたのはアルデスの事ばかりではない。人間としての私、すなわちドランは魔法学院の夏季休暇で実家に帰省している。
しかし古神竜としての私、すなわちドラゴンは実家には帰省していない。兄弟と言える他の始原の七竜や、竜界に住まう同胞達に転生してから顔も見せていないのだ。
転生してから十六年余。竜種からして見れば瞬き程度の時間なれど、いささか不義理に過ぎるのではないかと、私はディープグリーン訪問を切っ掛けにして、ようやく思い至ったのである。
そろそろ竜界に顔を出して見るとするか。大魔界での大暴れが既に伝わっている可能性もあるし、顔を出さぬままで済ますわけには行くまい。
バハムートやリヴァイアサンあたりは歓迎してくれそうだが、末妹アレキサンダーはしつっこく絡んで来るだろうな。
カラヴィスとはまた違った意味で面倒くさいのが、我らが末の妹アレキサンダーなのだ。
ふむん、こうして思い返してみるとこれから私は面倒くさいのを二柱相手にしないといけないのか。
しかしアルデスはともかくアレキサンダーの場合、こちらから顔を出さないでおくと問答無用でベルン村に殴りこんできかねない。
バハムートが止めてくれるとは思うが、あまり彼に苦労を重ねるのは心苦しい。
始原の七竜同士に上下関係は存在しなかったが、真竜や龍神達の取りまとめはバハムートとリヴァイアサンにまかせっきりになっていた。
死んでから転生してまで彼に多大な苦労を掛けるわけにはいかん。
ふむ、やはりベルン村に戻ったら、竜界に行って我が同胞達に一度顔を見せて来るとしよう。
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第八十話
ディープグリーンにやって来た時に会った蠍人の少女に、預けた長剣とセリナの杖を返却して貰い、私達は妖精の道を通って再びサイウェストへと戻る最中にあった。
蠍人の少女やウッドエルフの隊長など、ディープグリーンを訪れた時に見た人々は無事だったようで、悪魔共の襲撃で死者が出ていないと分かっていても、実際に姿を見ると安堵する。
アジラムさん達に宿をご提供頂いた事へのお礼の言葉を何度も重ね、村の皆へのお土産もたっぷりと買いこんで、収納空間としている影へと仕舞いこんだ私は、妖精の道へと足を踏み入れる直前に思わぬ見送りを受けていた。
まだ祝祭の最中とあってひっきりなしにエンテの森の住人達が、妖精の道を通って訪れる中、私達を見送りに来たのはオリヴィエ学院長とあろうことか世界樹であるエンテだった。
「ドラン様、またお好きな時にお越しくださいね。私は何時でも、どんな時でも、貴方様を歓迎いたします」
祝祭の最中しょっちゅう声を掛けて来ただけでは飽き足らず、エンテはディープグリーンを後にする私達の見送りにまで来て、フィオなどは目をぱちくりさせ、驚きのあまりにしばし思考を停止させてしまったようだ。
セリナやディアドラはもう慣れたらしく、エンテの森そのものであるエンテが目の前に姿を見せても、気にした素振りを見せない。
ふむん、彼女らもまあ肝が据わったものである。私と付き合っていると、そうならざるを得ない、とセリナなら主張するかね。
私達の他にも妖精の道を通って姿を見せる者達はいるが、オリヴィエ学院長が人払いと幻影の魔法をさりげなく展開しており、エンテやオリヴィエ学院長の姿は別人として映っているだろう。
私に対してにこやかに笑いかけて来るエンテを見ると、どうもこの子は自分の影響力を軽視しているかあまり考えていない節が見受けられる。
それか同胞達から聞かされていた、おとぎ話の中の存在にも等しい私と出会った事で少しばかり浮かれているのかもしれない。
どちらにせよエンテから私に向けられているのは、曇りの無い善意と好意であるから無下にはできない。
それに本当にまずい事をエンテがしようとしたら、隣のオリヴィエ学院長が制止しているだろう。
かつて巫女姫であったというこの方なら、エンテの気性もよく心得ている筈だしな。
「世界樹殿にそのように言って貰えるとは、光栄の至りだな。
エンテの森の人々とは良い関係を築きたいと常々思っているから、ありがたい事だ。
それより私達の見送りに来てしまって良かったのか?
まだリュリュシー殿との同調の最中だろう。祝祭はこの通り、終わってはいないが差支えは無いのか?」
「御懸念なく。ドラン様方をお見送りするのに支障はございません。それにリュリュシーも今は休憩中ですし、ラタンタと楽しくお喋りしていますもの」
そう言ってエンテは耳に心地よい笑い声を零す。
ふむん、エンテの森の象徴的な存在の一つである巫女姫が、恋人と共に健全な生活を送れていると言うのならなによりである。
エンテが何も持っていない両手を差し出すと、そこに世界樹が放出しているのと同じ光の粒子が集中して、握り拳くらいの大きさの白い球体から翡翠色の長い葉が伸びる苗らしい物体が現れた。
「どうぞこれをお持ち下さい。
サイウェストを襲った魔界の悪鬼達を退けて下さった事、そして今回、私達を襲った災厄からお救い下さった事へのお礼です。
そして今後もドラン様とその故郷の方々との信義と友愛に基づいた交流が持たれる事を願い、その証としてこれをお贈り致します」
エンテが差し出した物を受け取り、ふむ、と見つめているとソレが何かを悟ったディアドラとフィオとマールが息を飲んで驚き、セリナは正体を探るべく蛇眼に魔力を通して解析を行い始める。
「うう~ん、なんでしょう? びっくりするぐらい豊潤なマナが詰まった植物の苗みたいですけれど、エンテの森の固有種でしょうか?
並大抵の魔花でない事は分かりますけれど、私の里でも魔法学院の植物園でも見た事ありません」
ガロア魔法学院の大図書館のあらゆる植物関係の図鑑にも載っていない苗を前に、セリナはこれが最上級の魔法素材に相当するとは分かっても、その正体までは分からないようで尻尾の先端と小首を傾げて難しい顔を浮かべる。
ふむ、相変わらず可愛らしい仕草をしよるわい。
「これは世界樹の苗だ。この世界に五本しか存在しない世界樹のな。エンテの分身とも言えるだろう。
この地上世界において樹木関係の素材でこれ以上の品は、エンテよりも成長した世界樹の苗以外にはあるまい」
「ええ、エンテさんの苗ですか!? 世界樹の苗なんて聞いた事もありませんよ!」
「ふふ、私からのせめてもの贈りものです。
苗とはいえ世界樹ですから、この苗を植えればその土地は徐々に苗から放出されるマナの恩恵を受けて清められ、そして生命力に満たされて行く事でしょう。
作物や樹木の生育にも一役も二役も買いますよ。苗が成長し若木になれば、枝を削って魔法の杖や魔法具の材料にも出来ます。成長にはどうしても時間が要りますけれど……」
ふむ、世界樹の苗か。となれば通常の樹木の苗よりもはるかに生命力に恵まれ、神霊力も備えているだろうから、普通の樹木には強過ぎる栄養剤などを使っても大丈夫だろう。
後は問題となるのは植える場所と時期、扱いについてか。
目下ベルン村近隣は私が地脈を操作して、大地そのもの活力が増している。
既に私がなにをしなくとも大地の活力が衰えるような事は無い。
未だに村を少し離れれば荒れ地が広がっているが、そこに鍬を入れて開墾すればあっという間に滋味に満ちた田畑が出来上がる。
現在それをしないのは、単純に人手が足りないのと、既に食べて行く分には十分な田畑があるからだが、そこに更に世界樹の苗を植えるとなると今のままでは宝の持ち腐れになってしまう可能性が高い。
「ありがたく頂戴しよう。しかし世界樹から苗を直接贈られるとは、前代未聞だな」
「ふふ、ドラン様に喜んでいただけたなら、なによりです」
そう言ってエンテは無邪気に笑う。そこには一辺の曇りも無く、ただただ私達の役に立ちたいと願う善意ばかりがあった。
私の正面に立つエンテの頭の位置がちょうど良い所にあったので、私は笑顔につられるようにして花の咲いた頭を軽く撫でた。
「ああ、とても嬉しいよ」
私の手がエンテの髪に触れて何度も頭を撫でるごとに、エンテの笑みは喜びの輝きを増して行く。
ふぅむ、どうも私が古神竜と言う恐ろしく古い存在であるせいか、ドラミナや龍吉など他に甘える相手も居ない者達からは、貴重な年上かつ格上の存在と言う事から甘えられる傾向にある。
私が甘えて来る相手をとことん甘やかす性分である事も理由の一つだろうが、バンパイアクイーンに水龍皇と来て、今度は世界樹か。
まあ、今回は私の方から頭を撫でているわけだが、これまでの経験則からしてエンテと会う度に甘やかしてしまう未来が容易に想像できるな。
「えへへ、幹や枝を撫でられたりした事はありましたけれど、頭を撫でて貰ったのは初めてです。こんなに心地の良いものなのですね」
「私の手などで喜んでもらえてなによりだな。この苗は大切に育てるとするよ。最後の最後で驚くようなお土産をいただいてしまったな」
私がそうしてエンテの頭を撫でているのを見たディアドラが、傍らのセリナにこう問いかけるのが聞こえた。
「セリナ、昨日みたいにむむむ顔にならないの?」
「なんですか、むむむ顔って。そりゃまあ、心がざわつかないかと言えば嘘になりますけれど、あれはどちらかというと親子というか兄弟に見えますし」
「そうねえ、ユグドラシル様があそこまで無邪気な方とは思わなかったし、ドランと特に相性の良い性格の例じゃないかしらね」
私はエンテの頭から手を離し、苗を影の中から取り出した布袋に入れて左手で抱え直す。
他のお土産と一緒に影の中に仕舞うより、こうして直に手に持っている方がエンテの誠意に応える形になるだろう。
ただ、私の手が離れた事にエンテは未練をたっぷりと含んだ残念そうな視線を向けているけれども。
するとこれまで黙って私達のやり取りを見守っていたオリヴィエ学院長が一歩進み出て、小さく頭を下げて来た。
「ドラン、貴方のお陰でユグドラシル様とこの森に住む人々の多くが救われました。この森の住人として、心から感謝しています。ありがとう。
それにしても竜の転生者であると聞いた時に、貴方と競魔祭で競う事になる他校の生徒を哀れに思いましたが、よもや古神竜の転生者とあってはもはや言葉もありません。
学院長としては口にすべきではないのですが、こう言わざるを得ません。ドラン、出来る限り手加減はしてあげてくださいね」
「もちろん、日ごろから人間の範疇に留まる振る舞いを心がけておりますよ」
場合によっては古神竜の力を振るう事を躊躇しないのは、言わずもがなである。
「貴方の考える人間の範疇がどこまでなのか気になりますが、その言葉を信じさせて貰いましょう。
ただ貴方の素性が分かった事でレニーアとの関係が、より気になってしまいましたが……」
ある意味当然の疑問を、オリヴィエ学院長は悪戯っぽく口にした。
オリヴィエ学院長にしては珍しい物言いは、ある程度私に対して遠慮が無くなったと言う事だろうか。
この前の会談では言及されなかったが、レニーアが私をあれほどまでに慕う理由が前世にも関係があるものだと考えついてもおかしくは無い。
ただ前世において善き神々との交流が深く時折神話でも語られていた私と違って、レニーアの名前も無かった前世は、大邪神カラヴィスの産み出した神造魔獣というもの。
その素性が明らかになれば、問題無用で善き神々を信仰する人々が処断しようと動き出すだろうし、当然レニーアも黙ってやられはすまい。
流石にオリヴィエ学院長も、レニーアが悪しき神々の筆頭格と言えるカラヴィス由来の存在と知れば、擁護する事は出来ないだろう。
私としては人間のレニーアとして転生した後は、目立った悪事を働いているわけでもないし、前世の事などでレニーアが害されない事を切に願っている。
「必要があればレニーアの方から口を開くでしょう。それに知る必要が無い事は知らないままにしておいた方が、なにかと良い事も多いのです」
「なるほど、ほかならぬ貴方がそう言うのでしたら、不用意な質問を口にする事は控えましょう。
それにしても、今回の競魔祭はますますもって他校の生徒が可哀想な事になりそうで心が痛みます。
むろん、優勝を狙える逸材が揃っている事は、魔法学院の長として大変に喜ばしい事ではありますが」
「ご安心ください。精々、レニーアとの決勝戦程度に抑えます」
自信と共に告げる私の言葉を耳にして、オリヴィエ学院長は微妙としか表現しようの無い微妙な表情を浮かべるのだった。
ふむん? なにか不味い事を口に……ああ、そう言えばレニーアとの決勝戦は、怪獣大決戦だの、魔法学院史上最高決定戦だのと言われていたか。
カラヴィスの課した枷が緩くなってきたレニーアと、そのレニーアに完勝したあの時の私の戦闘能力は、人間の範疇に収まるかオリヴィエ学院長にしてみても微妙らしい。
相手次第で振るう力を微調整するしかなさそうだな、と私は競魔祭における注意事項を改めて肝に銘じた。
それから私達はぶんぶんと手を振るエンテとオリヴィエ学院長に見送られて、サイウェスト村を経由してベルン村へと帰還するのだった。
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第八十一話
狙ってやった事ではないのだが、アレキサンダーの機嫌が加速度的に悪くなる中で、私は頭に血の昇りやすい妹をこれ以上からかうのは得策ではないと判断し、話の矛先を変えることにした。
あまりからかい過ぎて、アレキサンダーが感情を爆発させるような事になれば、どう考えても面倒な事にしかならない。今も昔も面倒な妹である。
「まあ、アレキサンダーが変わっていないと言う事は、この短時間でよく分かった。
そろそろ他の兄弟達にも顔を見せたい所だが、今はどうしているのだね?」
実質的に竜界の管理者としての役目を担っているバハムートに問いかけると、バハムートは淀みない調子で望んだ答えを返してくれた。
「ヒュペリオンは相変わらず眠り続けているが、一千年ほど同じ場所に留まったままだから居場所は把握している。
ヴリトラもヨルムンガンドも皆何一つ変わってはおらぬ。ヴリトラは竜界だけでなく様々な世界を飛び回り続けているし、ヨルムンガンドは既に我らを“視ている”だろう。
ヴリトラは呼べば直に来るであろうし、ヨルムンガンドは呼ぶまでも無く来るであろう。となればヒュペリオンの所に足を伸ばせば自然と皆が集まるだろうよ」
「ふむ、私も同意見だ。では私の帰郷ついでに兄弟勢揃いと行こうではないか」
「ヒュペリオンの顔を見るのも久しい事。ヴリトラと言いヒュペリオンと言い、妾の兄弟には極端な性情の者が居る事よな。
もっとも、あえて人間に討たれる事を是としたお主ほどではないであろうがの。のう、ドラゴン?」
「リヴァイアサン、そう言ってくれるな。それに兄弟が揃って似たり寄ったりの性格をした者ばかりでは、味気ないだろう」
「否定はせぬが妾やバハムートに奔放なお主らのしわ寄せが寄って来るのは、勘弁して欲しいものよ。
特にお主が死んだ時など、そこのアレキサンダーが騒いで騒いで、それはもう姦(かしま)しかった。
のう、アレキサンダー、ドラゴンが死んだと知った時のお主は……」
龍吉が瑠禹をからかう時によく似た目をしたリヴァイアサンに対し、アレキサンダーは私に知られたくない事でもあったのか、ひどく慌てふためいた調子でリヴァイアサンの言葉を遮る。
「あわわわ、私の事はどうだっていい。そこの間抜けが死んだ時の事などわざわざ話さなくったっていいじゃないか!
そんな事よりここで無駄口を叩く暇があったら、早くねぼすけのヒュペリオンの所に行こう、なあ、そうしよう! よし、行くぞ、私は行くからね!」
私達が止める間もなく、アレキサンダーは銀に輝く翼を広げると竜界に満ちるエーテルや魔力を捉えて、光よりも早くヒュペリオンの寝床を目指して飛び始める。
見る間に小さくなってゆくアレキサンダーの後姿を追い掛けながら、私は八割くらい呆れの混じった言葉を口にしていた。
「なんだ、あれは? 突拍子もない事や浅慮はアレキサンダーの専売特許だが、突然どうしたと言うのだ?」
小さな笑いを噛み殺して、リヴァイアサンは要領を得ない答えを返してきた。
「ふふふ、なに、お主はまだ知らなくてもよい事だ。
上手くすればお主の人間としての寿命が尽きるまでに、アレキサンダーの態度の理由を知る事が出来よう」
ふむん、と私が要領を得ないな、と代弁する口癖を零すと、バハムートもアレキサンダーの態度の理由を知っているらしく、どこか疲れた溜息を吐く。
「我としてはさっさと知って貰いたい所だ。そうなればアレキサンダーも少しは落ち着いて、我に要らぬ苦労を山と押し付けてくる事も減るであろうよ」
竜界の揉め事や各竜達からの相談事を持ちこまれる立場にあるバハムートにとって、同格の存在であり同時に揉め事量産機でもあるアレキサンダーは、格別に労力を消費される問題児に違いない。
痛切ささえ聴き取れるバハムートの嘆きに、私は少なからず同情を禁じ得なかった。
バハムートよ、相変わらずそなたは苦労をしているのだな。
誰に命じられて相談役やまとめ役をしているわけでもないのに、まったくもって損な性分をしている。
前世で地上に降りてからあまり顔を出す事もしなかったが、これから分身体ででも顔を出して、バハムートの手伝い位はしてあげるべきかもしれん。
「さりとてこれはアレキサンダー自身が己に決着を着けねば意味の無い事よ。
ドラゴンよ、お主に我らから知らせても良い結果を齎すとは思えぬゆえ、アレキサンダーの態度が変わるかお主自身で気付くかする事が肝要ぞ」
「まるで謎解きだな。まあよい。急いで答えを求めねばならぬ事でもあるまい」
一旦この話題を切り上げた私達は、アレキサンダーの後を追ってここ一千年間ほど寝床を変えずに眠り続けていると言うヒュペリオンの元へと向かった。
竜界に無数に浮かぶ大陸や惑星などは特に誰の者と言う事も無く、各々がその時の気分次第で好きな場所を寝床とする傾向にある。
ヒュペリオンが寝床を変えずにいるのは、眠る事を好む性格もあるが相当寝心地が良い所を見つけたのだろう。
ヒュペリオンが気に入って眠り続けている寝床へ向かう道すがら、私は記憶の中にある竜界と変わっている所に気付いて、その変化を観察していた。
竜界は我ら竜・龍種が創り出した竜・龍種の為の世界である。だが実際には私達以外の生物も竜界には存在している。
天界や魔界と同じ高位次元に位置する竜界に、三次元や四次元などに属する地上の生物達や精霊、精神生命体の類がそれなりにまとまった数で居を構えているのだ。
彼らは当然元から竜界に居たわけではない。
神々の戦いの影響や何かしらの事情で故郷を失った者達や、絶滅の危機に瀕した生物や惑星などを憐れみ、竜界に引き入れて余っている土地を快適な環境に作り変えた上で保護した事が、私の知る限りでも何度か行われている。
ある程度時間が経過した後、元の世界に帰す事が多かったが、中には竜界にそのまま残って暮らして行く事を希望した者達もいた。
興味本位から現在の竜界を軽く探知してみたが、竜界の外から保護した亜人や妖精、人間種が築き上げた文明がいくつも確認できる。
私が暮らしている地上と同程度の文明もあれば、中には銀河間航行や人工の大地を作って暮らせる程度に発達した文明もちらほらと散見される。
「私が最後に居た頃に比べると随分と賑やかになったものだな。竜界の居心地が良過ぎたのかね?」
「やもしれぬ。故郷に帰る事を拒む者も少ないながらに居たからな」
こういった他世界から保護した者達の世話や仲介なども、大元締めはバハムートが担っている事もあって、バハムートはどこか誇らしげに見える。
普段彼が被っている苦労に対し、称賛や労いの声を掛けるものはほとんどいないだろうに、よくも不貞腐れずにいられるものだ、とついつい感心してしまう。
あるいはバハムートにとっては生き甲斐となっているのかもしれない。
先行するアレキサンダーが緑に覆われた惑星に降り立ち、私もそれに続いてその惑星に降り立った。
緑の正体は惑星表面を覆い尽くす苔で、他には木々はおろか茂みすら存在しない岩と砂だらけの大地に、澄んだ青に染まる湖などがあるきりで、生命の息吹はほとんど感じられない。
ヒュペリオンはこの風が砂を巻き上げる音以外には静寂が我が物顔をしている惑星で、かれこれ一千年の眠りに就いているのだと言う。
アレキサンダーは惑星に降下した後、惑星表面に走る無惨な斬痕(ざんこん)を思わせる亀裂の中へと進む。
私達も亀裂の端に触れぬよう、それぞれ体の大きさを調節しながら奥へと降下して行く。
私が人間として産まれた惑星だったら、溶岩層に突入する位の深度まで潜ると、内側に薄紫色の煌めきを閉じ込めた水晶に囲まれて眠る巨大な龍の姿が見えた。
かつて孤独に耐えきれずに己が身を引き裂いた始祖竜の尻尾から産まれし者。
四翼一頭一尾零眼紫鱗の古龍神“全てを圧し壊す”ヒュペリオン。
それがいま、私達の目の前で昏々と眠り続ける龍の名前であった。
しかしまあ、私の気配に気づいて眼を醒ましているかと思えば、こうして私達兄弟が来てもまだ眠り続けているとは、いやはやヒュペリオンの眠り好きは相変わらずだな。
先にヒュペリオンの元に到着していたアレキサンダーは、私達の来訪など知らぬ気に健やかな寝息を立てているヒュペリオンにカチンと来たらしく、少しばかり苛立ちを含んだ声を出す。
アレキサンダーは紫水晶で埋め尽くされた地面に降り立ち、ずしんずしんと重々しい響きを立ててヒュペリオンに近づく。
「ヒュペリオン、ヒュペリオン! 良い夢を見ているのか悪い夢を見ているのか知らんが、私達が来たのだから起きろ。
最近まで死んでいたドラゴンの奴が、殊勝にも顔を見せに来たぞ。起きてみすぼらしくなったドラゴンの面(つら)を拝んでやれ」
お前は本当に口が悪いな、アレキサンダーよ。ふうむ、本当に痛い目の一つ二つに遭わせて、躾を施してやろうかね。
アレキサンダーの乱暴な呼びかけを受けて、深い眠りに就いていたヒュペリオンの巨体が、かすかに身じろぎをして徐々に反応が顕著なものになって行く。
ほどなくして鎌首を持ち上げたヒュペリオンは大きく口を開き、はしたなく欠伸(あくび)を零してから、閉ざしたままの瞳を私達へと向ける。
高純度のオリハルコンを砂糖菓子のように容易く噛み砕く牙の奥から聞こえて来たのは、少年とも少女ともつかぬ澄んだ鈴の音のような声音だった。
「ふわぁああ、なんだい、アレキサンダー? 相変わらず君は騒々しいなあ。
言われなくっても起きるよ~。ふぁ、やあ、バハムート、リヴァイアサン、それにドラゴン。ドラゴンは随分と久しぶりになるかなあ」
「久しぶりだな、ヒュペリオン。二度目の生を得たので久しぶりに顔を見せに来たよ」
「うん、そうみたいだね。今の君は、へえ、人間に生まれ変わったのかい? 君が一番関わりの深かった生き物たちだね。これも因果と言うものかな?」
ヒュペリオンはバハムート同様に、私が人間に生まれ変わった事を一目で看破してきた。
無い瞳で何が見えているのか、ヒュペリオンは昔から視力の有無をまるで感じさせない言動を取る。
「かもしれんな。運命を司る三女神でもその因果の糸で我らを絡め取る事が出来ない以上、何者かの意思が働いたとは考えられんがね」
「そうだねえ。ふああ、まだ眠たいけれど折角君が来てくれたのなら、起きなきゃ失礼かな。よいしょ」
ヒュペリオンは身を横たえていた紫水晶の寝床から長い体を起こし、寝床からふわりと浮かび上がる。
「ヴリトラとヨルムンガンドと顔合わせはまだかい? いや、両方ともここを目指してきているみたいだね。じゃあ、上の方に行って兄弟達が来るのを待とうか……ぐぅ」
「こら、ヒュペリオン、起きた端から眠るな」
私の声に顔を俯かせて寝息を立て始めていたヒュペリオンが、はっと顔を上げてはにかんだ笑みを浮かべた。
「やあ、ごめんごめん。後一千万年位は眠っているつもりだったからね~、どうしてもまだ眠り足りないのさ」
このヒュペリオンの緩い感じは、どことなくファティマを連想させるものがある。
私がファティマに対して強い親近感を抱くのも、彼女自身の人徳に加えて肉親と言えるヒュペリオンと相通ずるものを感じていたからだろうか。
今度こそはっきりと眼を醒ましたヒュペリオンを伴い、私達は亀裂を出て地面に降り立ち、他の兄弟達が来るのを待つことにした。
バハムートもリヴァイアサンも、それにアレキサンダーとヒュペリオンも私の記憶の中の彼らと全く変わっておらず、この分では残りの兄弟達も変わらぬままであろう。
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第八十二話
さて私達兄弟の間では恒例となっているアレキサンダー弄りはほどほどにしておくとして、私は人間へと姿を変えた兄弟達へと話しかけた。
「さて与太話はこれ位にして本題に移るとしよう。といってもそう長くなる様な話でも無いが……」
乾いた風ばかりが吹く荒涼とした大地の上で立ったまま話をするのもどうかと思い、地面に私の魔力と意思とを通し、そのまま背もたれと肘かけの付いた椅子を人数分用意してから、大理石へと変化させる。
座り心地は随分と硬い事だろうが、この面子ではさして気にもなるまい。即席で出来上がった白い大理石の椅子に、全員が揃って腰かける。
「細やかな配慮が出来るようになったのう、ドラゴン」
しみじみと呟くリヴァイアサンに、私はいささか心外だと言わんばかりに答えた。
「これ位の事は前から出来ていたつもりだよ」
まだぶつくさ言っているアレキサンダーも、ここでまた自分だけ異論を唱えてもどうしようもないと学習し、声を大にする事は無かった。
「さて、私が死んだ後、アレキサンダーが報復行動に出ようとしたという所までは聞いたが、その後に地上世界で何か大きな動きはあったのか?
カラヴィスやマイラールとは既に再会しているのだが、そこら辺の事情はまだ聞かずに置いていた。君らから見てどうだった?」
口はばったい様だが前世での私の存在は、地上世界の蹂躙や魂の略奪などを目論む邪神や悪魔達にとって最大の壁であり、天界の善き神々以上に厄介なものであったのは間違いない。
その私が人間に殺されたとなれば、これを好機と見た魔界の悪鬼共が地上世界に毒牙を突き立てようとしただろう事は、容易に想像できる。
「我とリヴァイアサンがアレキサンダーを止めている間に、邪神連中が好き勝手をしようとして、それを防がんとするマイラールやケイオスらと激しく戦ったのは間違いない。
天界と魔界のみならず地上世界での代理戦争も極めて大規模なものが勃発して、かなりの死者が出ていたようだぞ。
同胞の中にはアレキサンダーに同調して報復行動に出ようとした者もいたが、逆に汝の意思を尊重して一時的に地上に降り、人間を始めとした者達を魔界の者らから守っていた者も居たから少しは防げていたようだが、冥界は随分と賑わった筈だ」
ふむ、同胞の一部が私の犯してしまった失態を補ってくれたわけか。まことにありがたい話である。
「ドラゴンドラゴン、ボクとヨルムンガンドも地上に行って頑張ったんだよ~」
「ヴリトラ、お前がか? それにヨルムンガンドも? 正直意外だな。所詮は神々と地上の事と放置するかと思ったが」
「あははは、まあ、そこはドラゴンが関わっていた事だしね。
それにドラゴンを殺した勇者君達は、君とそれなりに仲が良かったっていう話も聞いていたし、どうしているのかちょっと気になったからね! ね、ヨルムンガンド?」
「しかり。勇者達はドラゴンを殺せた事にひどく戸惑っていた。そしてそれが出来た理由を知っていて、後悔もしていたのが見えた」
「ふむ、そうか。一応、私なりに忠告はしたつもりだが、勇者達があの後上手く立ち回れていたか、今更ではあるが気になっていたところだ」
いかなる因果によるものか勇者達の子孫であるクリスティーナさんやオリヴィエ学院長と知りあえた事が、十六年も経ってから勇者達の行く末が気になった理由だろう、と私は自身の心境を分析している。
それまでは、いずれにせよ既に彼らの魂は冥界に召されて輪廻の輪に加わっているだろうから、勇者達の末路がどんなものであれ今から出来る事は無い、と考えていたからだ。
「彼らはドラゴンの死後に勃発した亜人種や人類同士の争いに巻き込まれた。望まぬ戦いを随分と強いられたと見る」
ヨルムンガンドは余計な事は言わずに事実をただ淡々と告げる。ふ、む、私が懸念した通りになったか。
強過ぎる力を持った彼らが争いに利用され、最後には使い捨てられるような事が無いようにと願っていたが……。
私の疑問を表情から読み取ったらしいヴリトラが、あっちをうろちょろこっちをうろちょろとしながら、話を続けてくれる。
「ヨルムンガンドの言う通りだけど、流石に彼らもドラゴンを殺せた位だからねぇ、ただ良い様に使われていただけじゃなかったよ。
ドラゴンを殺す様に命令した人達がどうも邪神に操られるか、中身を食べられるかしていたみたいでね。
その事を突き止めて、操られていた人達を倒して、背後関係を洗いざらい調べ尽くして人類同士の戦いの一部を止めることに成功したみたい」
ヴリトラは決して聞き逃す事の出来ない事を口にした。
勇者達に私を殺すよう命じた者達が、邪神共に操られるか魂を食われて入れ替わっていた、か。
ヴリトラの言葉から察するにその者達は、勇者達によって討たれたらしいがその邪神共はさてどうなった?
すぐに思いつくのはアレキサンダーあたりが勇者達の代わりに、その邪神共を滅ぼしたと言った所だろうか。
「あ、そう言えばドラゴン、今思い出したんだけどね」
まさしく、あっという顔をしてヴリトラが側転したり宙返りをしたりと、軽業師みたいな真似をしながら口を開いた。
少しは落ち着きなさい、と言っても無駄だからヴリトラは相変わらず元気だな、とでも思っておくしかない。
「なんだね?」
「なんかね、勇者君達が魔界の連中の企みを潰す前にね、地上世界で大暴れしはじめた神造魔獣が居たんだよ。
それこそアレキサンダーをほーふつとさせる暴れっぷりだったね。
勇者君達がそいつをやっつけたんだけどさ。その神造魔獣にちょっと気になる所あったんだよね。
なんかドラゴンに似た匂いとか気配があったんだ~。それにカラヴィスのっぽい気配もあったんだけど、ドラゴン、なんか知ってる?」
ただ神造魔獣が暴れたというだけならばいくらでも例はあったろうが、私とカラヴィスの気配が感じられる個体となれば、世に只一体のみ。
私と同じく勇者達に討たれ、同じく人間として転生し、創造主から名前さえ与えられなかった神造魔獣レニーアである。
レニーア自身も勇者達に挑んで返り討ちに遭ったと、それは悔しそうに口にしていたしまず間違いあるまい。
「ああ、人間に転生してから知った事なのだが、カラヴィスの奴が手に入れた私の僅かな魂の情報と魔力を、自身の血肉などと混ぜ合わせて作った神造魔獣の事だろう。
私を滅ぼす為に作ったそうだが、目標ほどの力を得なかったから枷を付けて地上世界に放り捨てた個体だ」
「へえ~、そういやカラヴィスはドラゴンの事が大好きな癖に、時々本気で滅ぼそうとしてたっけ。ドラゴンがカラヴィスの事を甘やかしてたからね!
転生してから知ったっていうけど、なあに、カラヴィスから聞いたの? というかまだ友達付き合いしているわけ?」
「カラヴィスと再会したのはほんの数ヶ月前だが、少々きつめに御灸を据えておいたからしばらくはつまらん考えは抱くまいよ。
その神造魔獣については当の本人と出くわしたのさ。私と同じように人間として転生して、今は同じ魔法の学び舎で学友として過ごしているよ」
「ふ~ん、面白い話だね。ドラゴンを殺した勇者君達に同じように殺されたその子が、ドラゴンと同じように人間に転生して出会うなんてさ。
でもドラゴンを滅ぼす為に作りだされた神造魔獣なんでしょ? いきなり襲われたりしなかったの?」
レニーアと初めて会った時は、私の正体をレニーアが知らなかった事もあり、穏便とも不穏とも言えぬ対応になったが、今となってはすっかり懐かれてしまっている。
お父様、お父様と無邪気に慕ってくるレニーアの顔を脳裏に思い浮かべながら、私はヴリトラや聞き耳を立てている他の兄弟達に告げた。
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第八十三話
アークレスト王国有数の大貴族アルマディア家の邸宅で、本物の銀も色褪せて見える様な白銀の髪と鮮烈な赤の瞳、そしてなによりこの世のものとは思えぬ、奇跡の中の奇跡としか言いようの無い美貌の主が旅支度を整えていた。
目的地までの日数分の着替えや道中の路銀、そして自身の荷物をはるかに上回る量のお土産を詰め込んだ大きな鞄の数々。
世に二人といない達人でも生涯に一度書く事が出来るかどうかという線を描く鼻梁、これ以上美しい形は存在しないと誰もが認める双眸、人間の精を吸う淫魔も触れる事を恥じらうような唇。
かつて古神竜ドラゴンを殺害した勇者の因果と血脈を受け継ぐ少女、クリスティーナである。
通っているガロア魔法学院が夏季休暇に入った為、一時的に父方の実家であるアルマディア侯爵家に帰省していたのだが、実父や義母に挨拶を終えてから数日滞在し、もうここに居なくてもよいだろう、と判断し家を出る準備をしている最中だった。
クリスティーナの向かう先は春の長期休暇の時と同様に、かつて父方の祖父が開拓の総責任者を務めた王国最北の辺境ベルン村。
ベルン村に帰省している学友であるドランの所へ顔を見せて、お土産を渡しがてら夏季休暇の残りの日数を過ごす予定なのである。
何を考えているのかよく分からない実父や、悪感情を隠しもせずに向けて来る義母と共に過ごすアルマディア邸での日々は、無邪気に慕ってくれている異母弟妹と接している時間を除けば、クリスティーナにとって気の休まらぬものだった。
「そこまで露骨に嬉しそうにするのって、ちょっとまずいんじゃないの?」
いつ鼻歌を歌い出してもおかしくない浮かれた調子のクリスティーナに対して、呆れを材料とした言葉の釘を刺したのは、貴金属と宝石類を惜しげもなくあしらった止まり木に止まっている使い魔のニクスだ。
クリスティーナが祭りの屋台で購入した卵から孵化した不死鳥であり、クリスティーナにとっては実母との記憶を共有している家族でもある。
「いいんだよ、ここにはお前と私しかいないんだから。それにようやくこの屋敷からおさらば出来るんだ。少しくらい浮かれたっていいじゃないか」
「それだって一時的でしょ? 魔法学院を卒業したらここに呼び戻されるわけでしょ。どこかにお嫁に出されるのかなあ」
「嫌な事を言うなよ、ニクス。第一、私を何処かの家の嫁にやる可能性は低いよ。私が妾腹である事を差し引いても侯爵家の娘だし、本来なら価値はあったろうさ。
でも私は当主の正妻に大いに嫌われているからね。
そんなのを嫁に迎えても、アルマディア家と良好な関係なんか築けるわけも無いし、私が嫁ぎ先でちょっとした勢力を作るのだって義母上は嫌だろうから、どこにもやらずにこの家で飼い殺しにするだろう」
「分かってはいるけどめげる話だねえ。そんな君の使い魔であるぼくも、同じように飼い殺しにされてしまうってわけか。
なんてこったい。卵料理にされる為に買われて始まったぼくの生は、つまらない人間関係のこじれで飼い殺しにされて終わるなんて」
よよよ、と器用に翼を手の代わりにして泣き真似などするニクスを、クリスティーナが今度はこちらが呆れた顔をして見た。
自分と共に過ごすうちにすっかりと人間臭くなった霊鳥に、その原因が自分にあると分かってはいても、呆れを隠せなかったらしい。
「お前が振ってきた話だぞ。これに懲りたら嘴を開く時は話題に気を付ける事だ」
「はいはい、使い魔なりに主人の未来を心配して、進言してみただけだよ。でも実際どうするの?
ちょっと前まではそれを受け入れる感じだったけどさ、今のクリスティーナはそんなの耐えられなくなってきているんじゃないかな?
流石にそれ位はぼくにだって分かるよ」
「使い魔だからか?」
「違うよ、家族だからさ」
それまでのからかう調子は無く、真摯な顔と声で告げるニクスに、クリスティーナも表情を改めて考える素振りを見せ始めた。
「そうか、そうだな。お前はそこまで私に付き合わなくて良いんだけれどな」
「それはつれなさの極みと言うものだよ。君とぼくの仲なんだからね。
ねえ、クリスティーナ、ぼくが幸せになる為にはね、どうしても君に幸せになって貰わないとなんだ。
そうでもなければ後味が悪いし、なにより君のお母さんとの約束を守れない。だから、自分の幸せをもっと真剣に考えるようにして欲しいな」
「分かったよ。まあ、確かにずっとこの家で飼い殺しというのは、耐えられないと思うようになって来ていたからな」
「ぼくが思いつくのは、縁を切って貰って家を出て冒険者かなんかになって身を立てるとか、誰か好きな男の子の所にでも転がりこむ事くらいかな」
「例え縁を切ったとしても、私の父親がアルマディア侯という事実は変わらないからな。余計なしがらみは付いて回るだろう。
父上には衣食住の面倒を見て貰った恩義は山ほどあるが、面倒な事になったと言ったら恩知らずと言われるかな?」
「そりゃ言われるでしょ。それにおじいさんは良くしてくれたじゃない。
まあ、面倒なしがらみを避けるんなら、それこそ隣国よりももっと遠い所へ行くくらいしないとだろうね。
君的にはドラン君の所に転がり込むのがいいんじゃないの? 今の所、ドラン君が君の有力な恋人候補でしょ」
まあ、恋に恋しているような感じだけどさ、とニクスは心の中でだけ呟いた。
ニクスの見立てではクリスティーナがドランに向ける感情は、まだ恋愛感情という程のものではない。
それでも母を失って以降の荒んだ生活から男性に対するある種の諦めを抱いているクリスティーナにとって、最も親しい異性の友人であるドランは今後のクリスティーナの男性観を根底から揺るがす存在であるから、些細な事で感情の呼び名が変わる可能性は大いにある。
「恋人候補か、ドランとそういう関係になる将来はまるで想像できないが、彼なら私とお前くらいふむんとか言いながら、匿ってはくれるだろうけどね。
将来の点数稼ぎの為にも、お土産は大量に買っておいたし」
「いよいよぼくも噂のドラン君と対面か。君が言うほど良い男かどうか見極めないとな」
「まるで小姑だな。それは構わないが、ドランに焼き鳥にされないように気を付けるんだぞ、ニクス」
霊鳥である不死鳥の最大の特性は、どのような傷を受けようとも魂さえ無事ならば炎と共に再生する事だ。
この為に、かつてクリスティーナはニクスを半永久的な焼き鳥製造機と見做(みな)していた時期がある。
ドランが同じ考えを抱く可能性は、極めて高いとクリスティーナは冷静に判断していた。
「ええ~、なにそれぇ? ドラン君とクリスティーナの馬が合う理由が一つ分かったよ。君ら二人とも食いしん坊にも程がある!
どこに不死鳥を焼き鳥製造機呼ばわりする罰あたりがいるんだい」
「私とドランで最低でもこの世に二人だな」
高熱を発しながら憤慨するニクスに対して、クリスティーナは極めて真面目な顔でうんうんと頷くのだった。なるほど、こういう所はドランと似ていなくもない。
ともあれこの様にクリスティーナはニクスと実に心温まるやり取りをした後、ドランとセリナへのお土産を山と携えてベルン村へと向けて出立した。
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第八十四話
――ドラン、初めて貴方と会った時はまだ年若いのに、ノーブルバンパイアさえ簡単に滅ぼすその実力に驚くばかりでした。
私もまたバンパイアでしたから、警戒されるか敵意を向けられると思っていたのに、恐れる素振りも見せずに屈託なく接してくる貴方に、私がどれだけ驚いていたかきっと知らないでしょうね。
馬車の中に招いてからも、貴方の態度や言動は私を驚かせるものばかりでした。
私の事をまるで恐れない貴方と話をしている間、私は久方ぶりに誰かと言葉を交わす喜びを噛み締めていたのですよ。
ですから何としても貴方や貴方のお友達が傷つく事が無いように、この命を賭けてジオールを討たねばならぬと誓いを新たにしました。
もっともジオールを討つのに、貴方の力と助けを借りることになってしまいましたから、今思い返してみますと少しばかり恥ずかしいですけれど。
ドラン、私の生涯癒える事が無いと思っていた顔の傷が癒えたのも、ジオールを討ち故国の皆と私の復讐を終える事が出来たのも、全て貴方のお陰でした。
ああ、そして貴方の腕に抱かれて降り注ぐ月光の中を歩んだあの時間。
私はヴァルキュリオスの女王でも、愚かな復讐者でもなく、ただのドラミナという女になる事が出来ました。
私の方がずっと年上なのに、貴方の腕に抱かれている間、私は故郷を失ってから初めての、いいえ、ひょっとしたら産まれて初めてと言ってよい位の安らぎを覚えていました。
私の身も心も受け止めて、包みこんでくれている確かな感触。あの時、このまま時間が止まれば良いのにと口にしたのは、偽りの無い私の本心でした。
ただ少し気を緩め過ぎて、その後で貴方にはしたない所を見せてしまったのは、今でも痛恨の極みと思っています。どうか忘れてくださいませね。
貴方と別れてから国の皆を弔い終え、バンパイアの次の時代の始まりを見届ける事も出来て、私はようやく貴方の下へ胸を張って行けると心を弾ませています。
はしたない女とどうぞお笑いになって。かつては一国を統治していた王であったものが、ただ一人の男性に執心するなどと。
ああ、ドラン、ドラン。
けれど私の胸の中に息づくこの想いは日を追うごとに増しているのです。 脈打たぬ筈の心臓が熱く鼓動し、その度に私は貴方を思わずにはいられません。
ドラン、私は貴方の事を愛して――
とここまで書いてドラミナは黒水晶のペンを動かす手を止めた。
心のままに綴った文章を何度も読み返し、それから白磁の陶器さえ黒ずんでいると見える頬に羞恥の朱の色が浮かび上がる。
ドラミナは
事前の連絡なしにドランの所へ赴いて驚かせるのも楽しいだろうな、とは思ったのだがやはり事前にきちんと挨拶をしておいた方が良いだろうと思い直し、こうして何時頃到着する予定です、という挨拶状をしたためていたのだが、読み返してみればあのような内容になってしまっている。
これではどこをどう見ても恋文にしか見えないし、どう読んでも恋文としか読めない。
ドラミナは、しゅうしゅうと頭から湯気が上っていそうな真っ赤な顔で、誰が見ているわけでもないのにわざとらしく咳をしてから文机の戸を開き、そこに仕舞いこんだ。
本音を言えばくしゃくしゃと丸めて屑かごにでも捨てたい所だったのだが、もし、今後ドランに恋文を出す事になった時に読み返して、参考にしようと思ったからである。
「もう、ドランの事となると途端にこれなのですから。アセイラム殿下やグレイラン公爵には、見せられませんね」
ドラミナは、バンパイアとしては異常な位に高くなった体温に火照った頬を両手で挟みこみ、自分の心の動きに翻弄されている事に困った困った、と口にする。
しかし困ったとは言うもののどこか楽しそうであり、そして嬉しそうでもある。それは体温が高くなった理由がドランであるからだろうか。
それからドラミナはしばらくドランの事を考えて、くねくねと体を動かしてから意を決してペンを持ち直し、ドラン宛の挨拶状をしたため直し始めた。
ただし親愛なるドランへ、と始まるこの挨拶状が恋文から脱却できるまでに、ドラミナは更に二十枚の便箋を無駄にするのだった。
*
さてドラミナがベルン村を目指している一方で、生まれ故郷であるブラスターブラスト領を後にしたレニーアも一目散にベルン村を目指し、ガロアからベルン村への中継地点であるクラウゼ村にて乗合馬車を利用していた。
ベルン・クラウゼ間を走るこの乗合馬車は、ベルン村で手に入るエンテの森の特産品を目当てにした商人達や、ドラン印の浴場目当ての湯治客が増えた事からベルン村の村長とその娘シェンナの依頼によってドランが作成した乗合馬車である。
細長い通路を挟んで左右二脚ずつ前を向いて十列の席が設けられ、頭上には荷物用の棚がある。一度に四十人が利用できる大型の箱馬車だ。
座席や車体には跳綿の他、走行時の衝撃を吸収するバネ仕掛けや緩和装置がいくつも用いられていて、王侯貴族の常用する最高級の馬車と同じかそれ以上の乗り心地がある。
乗客とその荷物を考えれば途方も無い重量となるこの馬車を引くのは、特に馬力に重点を置いて制作されたホースゴーレム四頭で、牽引役兼護衛役も兼ねている。
通常のホースゴーレムと違い、薄い箔状のミスリルとダマスカスの複合装甲を皮膚とし、一千馬力を絞りだす高出力機関とそれに耐える骨格を持ち、諸感覚器官も恐ろしく鋭敏だ。
最近ではめっきり出没する事は無くなったが、野盗や魔物などの襲撃を想定してドランが付加した戦闘能力は、並の戦士百人にも匹敵しよう。
クラウゼ村からベルン村へと続く街道は、一夜にして石畳で覆われた事以外にもその上を歩む人々を驚かせていた。
というのも街道の両脇に思わず足を止めて、時の流れる事を忘れて見惚れるような見事という他ない石像が並んでいた為である。
ベルン村への道が石畳で覆われてからそう時を置かずして設置された石像は、その全てが今にも動きだし、言葉を口にし、話しかけてきそうなほど精緻なものだった。
ベルン村観光名所化計画の一環として、ドランが街道に簡易宿泊所の建設後に設けた手製の石像群だ。
古今の彫刻家達が目撃すれば激しい嫉妬にかられるよりも、神の像とはかくあるべしと感嘆しそうな今にも動き出すかのような精緻さや迫力、自ら
どれほど不世出、神の手と謳われる彫刻家達であっても、ドランに決して及ばない点が少なくとも一つ存在している。
それはドランが彫刻の題材となる神々や古代の魔物、英雄達の大半を直に目にした事があると言う事であった。
伝聞によって大小の変化や後付けがなされた現代の彫刻や絵画などと比べると、造形に違いが出て来る箇所もあるが、出来上がった石像の放つ威厳や風格は、神々の真の姿を
街道の脇に等間隔で設置された石像を目撃した乗合馬車の利用客の中には、信仰する神への祈りを捧げ始める者や、中には感激の涙を流す者さえいる。
レニーアからすると石像の題材となった神々や魔物にはまるで興味は無いが、石像を目撃して感動している連中を見ると、流石はお父様と誇らしい気持ちになるので上機嫌な様子。
どこまでいっても、敬愛し崇拝するドラン至上主義のレニーアであった。
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第八十五話
我がベルン村の人々はアークレスト王国に数ある開拓村の中でも、あるいは王国全土の村々を見渡しても頭一つ抜けた武闘派である。
王国各地を見て回ったクリスティーナさんからも、ベルン村は決して普通の村ではないとのお墨付きを頂戴している。
端的にそれを示す事例としては、村の周囲に棲息する兎や鳥や猪らを狩りに出たその帰り道に、たまさか発生するとある出来事などが適切だろうか。
その日の狩猟の成果である
四方には視界を遮る様な遮蔽物は無く、馬の持ち主と一緒に狩りに出ていた村人達五人は、一斉に影の出所が頭上にあると判断して青く晴れ渡った空を見上げる。
彼らの瞳に映るのは、雄々しく風を打つ巨大な翼、鉄の全身鎧も穿つ猛禽の嘴に牛馬を軽々と持ち上げる筋力に、肉に食い込んで放さぬ鎌のように鋭い爪を持った一体の魔獣。
鷲の頭と上半身に獅子の下半身を持つ空飛ぶ魔獣グリフォンが、無事狩りを終えて後は村へ帰るばかりであった村人達へと襲い掛かったのだ。
素早く天空を飛翔し、地を這う人間達を自在に襲える優位性に、魔獣ならではの耐久力や持久力を持ち、また魔法に対しても高い耐性を持つ事から、正規の訓練を受けた騎士や魔法使いでも討伐には犠牲を伴う恐ろしい魔獣である。
ましてやただの村人達となれば、馬や狩りの獲物を放り出し、これらと引き換えに運良く自分達が犠牲にならないよう祈りながら逃げ回る事しか出来ない。
そうして自分達の命が何とか助かった後、どうして自分達にこんな不幸が襲いかかるのだと嘆き、嘆いて嘆いてそれにも疲れたらようやく立ち上がって、途方に暮れながら明日を迎えるのだ。
しかし、そんな行動をするのならば、我がベルン村の住人達が武闘派などとクリスティーナさんに言われるわけがない。
もちろんグリフォンは恐ろしい魔獣である。
だがこちらの命を脅かす魔獣は、同時にその毛皮も、羽毛も、嘴も、爪も、肉も、骨も、内臓も、およそ利用できぬ所の無い希少な資源だった。
ならばベルン村に生まれ育った者達の対応は決まっている。
グリフォンに対して、背を向けて逃げ出すのではない。
火中に飛び込む夏の虫の如くグリフォンへと挑みかかり、焼かれて落ちるだけの虫とは異なり、獲物を見事仕留めて生活の糧へと変える事である。
地上を這う獲物を狙う猛禽の甲高い鳴き声と共にグリフォンが降下を始める頃、村人側も天空から急速に近づいてくるグリフォンを迎撃する用意を整え始める。
魔法使いである私やマグル婆さん、ディナさん、リシャがいれば事は容易に済むが、いかんせん私達は魔法薬の調合や特殊な素材の世話などで忙しく、同道していないことの方が多い。
その為、基本的に魔法使い抜きでの戦い方を村人の多くが熟知している。
今回のグリフォンの場合、竜種のようにきらきらと輝く物に惹かれるという習性と、繁殖の為に雌の馬を必要とする特性から考えると、狙いは荷台に積まれた銀鱗大蜥蜴と荷台を牽く牝馬だ。
牝馬はいささかトウが立ってはいるが、まだまだ子を成す事は十分にできる年齢となればグリフォンは繁殖の好機と狙いを定めるのが道理というもの。
敵の狙いを把握した村人達の動きは素早く無駄が無い。
基本的に狩りに行くときには槍と弓矢と解体用の鉈や小剣、長剣、斧などを携えて行く。
ただこうして荷車を一緒に持って行ける場合には、グリフォンや大牙鰐など大型の猛獣との遭遇を想定し、大人の手首ほどの太さがある銛や鉤付き棒、背丈の三倍はあろうかと言う長槍を持って行く事が多い。
そしてそれらの武器と同じかそれ以上に役立つものがあり、五人の村人の内二人が荷台の底に括りつけていたソレを手に取る。
「来るぞ、慌てんなよ!」
「分かってらあ」
「つまんねえ怪我してマグル婆さんの手を煩わせんなよ」
いずれも辺境の過酷な暮らしに多くの皺を顔に刻み、自然と骨の上に分厚い筋肉の鎧を纏った男連中である。
グリフォンの鳴き声にも負けぬ腹の底まで響く声で、襲い来るグリフォンに最初の一手を叩き込む機を見計らう。
ただし人間達の準備は良くても、馬はそうと行かないのが当たり前だったろう。
馬とは賢く、そして臆病な生き物だ。
自分の命の危機をはっきりと感じさせる魔獣の接近を感知すれば、怯え始めると共に嘶き声を上げて、一目散に逃げ出そうとする。
しかし村人と同様に、この牝馬もまたベルン村での日々に順応した馬であった。
こういった場合、自分が大人しく囮の役目を果たす事が生存に繋がると、骨身に沁みて理解していた。
村人が村人なら馬も馬もだ。神経は図太く、肝は太く、心臓には毛が生えているに違いない。
「今だぁっ!!」
いよいよグリフォンの風に激しく靡く羽毛や、黒光りする爪の細部まで見える距離になって、掛け声とともに村人達の手から放り投げられたのは、荷台と太い縄で繋がれた網であった。
何度も何度も縄を
眼中にも無かったちっぽけな人間達からの思わぬ抵抗に、グリフォンが激昂の鳴き声と共に翼をはためかせ、爪を振るって網の拘束から脱出しようとする。
だが、もがけばもがくほどに網はグリフォンの四肢に絡みつき、翼に絡みつき、動く自由を着実に奪って行く。
網に用いられている繊維は鋼緑草の煮汁に浸したもので、見た目は単なる縄に見えても、実際には鋼鉄を縒り合わせたのに等しい強度を持つ。
如何にグリフォンの強靭な獅子や鋭い爪であろうと、到底切り裂けるものではない。
またグリフォン以上の重量を有する大牙鰐の他、いくつもの獲物を乗せた荷台と網が繋がれている為、飛び立ってこの場を逃れる事も叶わない。
そうしてグリフォンが飛んで逃げるのも網から脱するのも出来ぬ間に、村人達は大型の獲物用の武器を万全の態勢で構え終える。
グリフォンの場合、その雄々しい姿から紋章に用いる貴族がいるように、なるべく傷を付けずに剥製として売買するのが最も高値がつく。
一番高価格で取引されるのは、五体に傷が無く翼も無事な全身のものだが、流石のベルン村の人々もこちらから狩りに行くのではなく、襲って来たのを返り討ちにする場合では難しい。
次にグリフォンの剥製で重要視されるのは、鷲の上半身と獅子の下半身を確認できる姿である事だ。
この場合は、概ね腹から頭までを無事な姿で残し剥製にできれば、対価に金貨を得る事が出来る。
今回はこの腹から上を可能な限り傷を傷付けずに剥製にするのが、最大の成果を得る形になるだろう。
だから村人達は巨大な銛や長槍の矛先を、グリフォンの下半身に狙い定め、容赦なくそれらを投じ、突き込むのだった。
このような具合に、正規の訓練を受けた兵士や魔法使い達が討伐に赴くべき魔獣も、我がベルン村の人々にとっては、対処法の確立した獲物なのである。
ただ最近は新しい移住者達が村の中に増えてきた為、元居た場所ではまずあり得なかったような魔獣の襲撃に心身を驚愕と恐怖で凍りつかせてしまい、木偶の棒と化してしまう者が多い。
とはいえ彼らを責めるのはあまりにも酷と言うものだ。
環境に適応し、したたかに生きる術を学ばねば生存するのも困難な辺境だが、それゆえにまだ生きる術を知らぬ新しい仲間に対しては優しい一面がある。
まあ、それでも五回目か六回目くらいで慣れて貰わなければ、狩猟以外のもっと穏便な方法に切り替えなければならない余裕の無さも事実だ。
ただこちらも私の浴場建設やエンテの森との交流を切っ掛けとした商業の活性化に伴い、新しい仕事が増えた事もあって、新旧の村人達で職に事欠く者は今の所出ていない。
自分のした事が村にとって益となっているわけで、私としても我が事ながら胸を張りたい気分である。
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第八十六話
太陽は自分が天に座す事を
あんなにも美しい存在を苦しめる事しか出来ない。
どうして自分は海や、山や、森や、花や、地上に息づく命達を照らす様に彼女を照らす事が出来ないのか。
彼女を苦しめずにあるがままの姿を露わにする権利が、月にしか許されていないのか?
誰が聞いてもそれを妄想だとは否定できず、事実として太陽がそう嘆き、悲しみ、嫉妬しているのだと納得し、共感した事だろう。
なぜならそれほどまでに陽光の下に立つ彼女は美しい。
中古品しか扱っていないような武器屋の片隅に置かれているのが似合いの、どこにでもある長剣を手にする女の名はドラミナ。
月の女神と夜の神が産み出した始祖バンパイアの最も古く、最も純粋で、最も濃い血統を受け継ぎ、神が神の為に鍛造した六つの神器を所有する唯一無二にして至高のバンパイアである。
一説には月の女神があまりにも愛し過ぎた為に、バンパイア達は太陽にその姿を晒した時、血の気の無い白い肌は焼かれて癒えぬ火傷を負い、そして最後には灰になってしまうようになったという。
ドラミナが陽光下にあって肌に火傷はおろか苦痛を感じている様子さえ無いのは、陽光を屈折させて直接浴びない様にしているからだ。
それでも太陽が天にある時刻での活動はバンパイアのバイオリズムを狂わせ、持てる力を十全に発揮できずにいる。
しかしドラミナの美し過ぎる顔に焦燥の色は欠片も無い。
たった今、両断したマシン・マン達に一瞥をくれる事もせず、眼前に立つ青年達へ氷雪の視線を向けている。
「お~~やべえ、頭がクラクラしやがらあ。お師匠の顔を見慣れてなかったら、このままぼうっとしちまってたなあ、なあ、イーウ?」
人間の皮を被った獣めいた印象を受ける青年は、空いている左手で目元を揉みし抱きながら傍らの青年――イーウに声を掛けた。
ドラミナの美貌を直視し、精神の堤防が決壊しないだけでも大したものだが、どうやら彼らの師にあたる存在はドラミナに勝るとも劣らぬ美貌を誇っているらしい。
「それでもあまり長く見過ぎるなヨ。淫魔共の魅了とは違って、単純な美しさだけでこちらの魂を揺さぶってイル。
一度あの美貌に心を捕らわれでもしたら、どんな迷宮の奥深くから生還するよりも困難だろロウ」
「お前がそこまで言うかね。お偉い仙人様の割に人並みじゃねえの。おっと、
女王さんよ、お初にお目に掛る。おれは魔導の真理の探究者達が集うオーバージーンっつう結社の、第四席クレバってえつまらねえ剣士よ。んで、こっちが」
「同じくオーバージーン第三席イーウ。我らが師にして結社の総帥よりの命にて、貴殿の身柄を捕らえさせていただク」
「今更表面を取り繕った所で貴公らの卑しさを隠せるものではない。オーバージーンの名は、私がまだヴァルキュリオスの玉座に座していた時から耳にしていた。
主要な構成員の全てが超人種で構成され、魔導の探究以外にも天人の遺産に随分と強い関心を示しているとか。しかし、それが何故我が身を狙う」
一部の隙を見せずに問いの言葉を重ねるドラミナに、へらへらと軽薄と言える笑みを浮かべてクレバが近づいてゆく。
ふらふらとまるで酔漢のように重心の定まらぬ足取りでまるで脅威を感じさせないが、その実、あらゆる方向への重心移動を瞬時に可能とする歩法だった。
オーバージーンの構成員が、国に一人いるかどうかという高位の魔法使い達であると考えれば、クレバも相当の魔法使いだろう。
クリスティーナ同様、いやそれ以上の極めて高い水準にある魔法剣士であることは想像に難くない。もっとも、ドラミナは世界最強級の魔法剣士だが。
「まあ、同門の仇討ちやらアンタの持っている神器やら、その体に流れている始祖吸血鬼の血やらと理由はいくつかあるぜ。
ようするにアンタが魅力的過ぎるのが良くないって話さ」
同門の仇討ちという台詞に、ドラミナの脳裏にいつか戦った超人種のリッチの姿が過ぎった。
ドラミナの記憶を振り返って見ても、五指に入る魔法の使い手だったあのリッチが、目の前の青年達と同じ組織の一員であった可能性は決して低くはなさそうだ。
「そう、貴公らと平和的な関係を築く事は出来ない事がよく分かった。ならば私は実力を持って貴公らのつまらぬ願望を粉砕するとしよう」
「おいイーウ、つまらねえと言われちまったぞ」
「狙われる側からすればそんなものダ。だが我らは何としても目的を果たさねばナラヌ。それが我らの師の望みなのだカラ」
「だな。そういうわけでドラミナさんよ、おれらとしちゃなんとしてもあんたをとっ捕まえなきゃいけねえわけよ。あんまり褒められたもんじゃねえ真似もするぜ?」
ドラミナの口が動く事は無かった。何を今更という思いがあり、これ以上言葉を交わす気になれなかったであろう。
既に彼らは何の前触れも無くドラミナを襲撃し、複数でもって襲いかかってきている。これを卑怯と言わず何と言うのだろう。
それに何より、こいつらはドランの所へ行くのを邪魔している。こうして対峙している今も、ドランと再会するのが遅れてしまっている。
こうして一方的に言葉を掛けられている瞬間にも、ドラミナの心の中には怒りの塵が降り積もっており、徐々に分厚い層を成しつつあった。
「おい、なんか機嫌がどんどん悪くなっているみたいだが、なんか不味い事言ったか?
そりゃまあ、聞いていて気分のいい事は一言も言っちゃいねえけどよ」
「さあナ。だがどこかへ急いでいるようだったし、足止めを食らわされているこの状況が、彼女にとっては不本意なのだろうサ」
「なるほど、ならそいつは悪い事をしちまったな。
誰に会いに行く所だったんだか、何処へ行こうとしていたんだか知らないが、おれらの所へ来て貰う以上、もう自分の意志では誰にも会えなくなるし、どこへも行けなくなるぜ? クイーン」
へらへらと笑うクレバの姿が不意に霞んだ。
クレバは如何なる足捌きによるものか、一切の予備動作なしに瞬時に加速し、ドラミナとの間に開いていた距離をそれこそ瞬きよりも早く詰めていた。
鍛え抜かれたクレバの右手に握られた大剣が、右大上段からドラミナの左頸部へと叩き込まれる。
目を見張るようなクレバの一連の動作であったが、それでも音速の十倍で動くマシン・マンも容易く斬り伏せたドラミナにとっては、それこそ止まって見えた事だろう。
事実、ドラミナは表情をピクリとも動かさず、冷厳なる光を秘めた瞳でクレバの太刀筋を捕捉していた。
ヴァルキュリオスの鈍い銀色に輝く刃は、クレバの振るう大剣よりもはるかに早く超人種の剣士の首を跳ね、心臓を貫く筈であった。
そうしてドラミナの意思どおりにクレバの命脈が呆気なく断たれる筈が、クレバの首まであとわずかと言う所でヴァルキュリオスの刃は、まるで見えない壁に斬りつけたかのような抵抗を受けて刃から迅雷の速度が失われる。
クレバの首を断つよりも、大剣が我が身に届く方が早くなったと判断したドラミナはすぐさまヴァルキュリオスを引き戻し、大剣の刃圏から逃れる為に後方へと跳躍して距離をとる。
自らの重みに耐えかねて風に散る花びらのように軽やかで、空中をたゆたう煙のように掴み所のない典雅な跳躍だった。
ドラミナは音も無く着地して、手の中のヴァルキュリオスが思った通りに動く事を確かめる。
先程の異変は唐突に刃が重くなったわけでも、肉体が変調をきたしわけでも無かった。
ヴァルキュリオスとドラミナになにかしらの作用が働いたと言うわけではない。
いくつかの可能性と推測が雷鳴の如くドラミナの脳裏に煌めき、一つの推測が成り立った。
「時の流れを操ったか」
ドラミナの言葉を受けてクレバが嬉しそうに笑う。その笑みはドラミナの言葉が正しい事を認め、それを面白がっていると分かるものだった。
空を切った大剣を肩に担ぎ直して、クレバはひょうひょうと種明かしを始める。
彼にとって知られようが知られまいが、対処できなければどうという事は無いのだ。
「まあそういうこった。こんな見た目でこんな武器を持っているもんだから勘違いされやすいが、おれも一応は魔法使いよ。
ふわりと柔らかな動きで大剣が地面に埋めて横一文字に動かされると、剣風に煽られた深緑色の草が見る間に黄ばみ始め枯れてしまう。
それは本来訪れるべき時の流れが、堤を破った激流の如く押し寄せてしまった為に、唐突に天寿を迎えた姿だった。
「分かるかい? 剣が起こした風に時の流れを加速させる効果を乗せたってわけさ。雑草だけ時間の流れが早まったつうわけだな。
大概の生物ならこいつで寿命を迎えさせちまえば楽勝なんだが、バンパイアでおまけにクイーンのあんたにはほぼ意味はねえのが残念だ」
確かに、不老不死として知られるバンパイアであり、その最高位の存在であるドラミナが時の流れの果てに朽ちるとは考え難い。
また時の流れを操る事はあらゆる属性の魔法の中でも、一、二を争う難度で知られており、如何にもオーバージーンに所属する大魔法使いとておいそれと乱発は出来まい。
クレバがこれからの戦いでドラミナ自身の時を加速させる攻撃手段を選ぶ事は、まずないだろう。
ドラミナは沈黙を維持しているイーウにも注意を払いながら、クレバに斬りつけた時の事を鮮明に思い出し、脳内で幾度となくシミュレーションを重ねていた。
ヴァルキュリオスの時の流れを遅くされ始めた距離、時の流れの遅れはどれほどか、時の流れを操る敵に対し有効な攻撃方法は何か。
席次が上である以上、クレバよりもイーウの方が魔法使いとしての格は上なのだろうが、あちらも強力な魔力を帯びた蛇腹刀を見せびらかす様に持っている事から、クレバとはタイプの違う魔法剣士か何かと見るべきか。
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第八十七話
クロノメイズ:ふぁ!? あばばばばばばっばばばばばば。
並び立つ至高のバンパイア・クイーンと最強最古の竜の魂を持つ少年を前に、神々がかつて作りだそうとした理想の生命『
ドラミナが、始祖バンパイア以来史上初めて六つの神器を継承した最強にして最高のバンパイアである事は、事前に調べが付いていた事もあり覚悟していた事だ。
そのドラミナにしても、占星術や未来予知魔法の行使等によって得られた情報からの想定をはるかに上回る戦闘能力を発揮し、予想外の苦戦を強いられている。
それでもクレバとイーウの残している切り札を使えば、まだ捕獲できる可能性はあったし、最悪の場合は彼らより席次が上の魔法使いや師の助力を請えばより確実に捕縛を遂行できただろう。
しかし、切り札を切る機を見計らっているまさにその時に、目の前の少年が少々変わった気配のするラミアや、未覚醒ながらクレバらの同類である超人種の少女に、異様なまでに高い霊格を持った少女達を連れて来て、事態は更なる変化を迎えていた。
ドラミナは少年の接近を悟るやそれまでの戦闘で張り詰めた緊張の糸を緩め、少年が到着した途端に恍惚としか表現しようのない視線を向け、全身から蕩けるような親愛の情を猛烈に放ち始めている。
それが始祖に並ぶ領域に辿り着いた女王が、お気に入りの
そしてクレバ達にとってなによりも問題となったのは、少年の総身と魂から放たれる気配、威圧感、魔力、風格、そのなにもかもが覗きこめば魂まで吸い取られる奈落のように底知れず、満天の星々が輝く夜の空のように果てが読めない事だった。
彼らが魔導の業を極める過程で、精神的邂逅を果たした邪なる神々や魔界に蠢く悪鬼羅刹達でさえ到底及ばぬと、信じられない思いと共に痛感させられている。
あり得ない。あってはならない事だ。
天上世界の神々からすれば地上を這うちっぽけな存在が、上位次元から睥睨している筈の神々さえ凌駕するなにかである筈がない。
だが、それならば目の前のバンパイア・クイーンの傍らに立つ少年は一体何だと言うのだ?
「イーウよ、ありゃ使徒かなにかっつうオチか?」
考え得る可能性の一つとして、ドラミナの傍らに立つ少年が、バンパイアの創造神が愛し子であるドラミナを守る為に遣わした使徒なのではないか、とクレバは考えたわけだ。
だがイーウは小さく首を左右に振るって、クレバの推測を否定する。
クレバの方も否定される事は分かっていたし、自身で口にしていながらほとんど信じてはいなかった。
「遣わされる側の方が、主人よりも強大であるのは理屈に合わン。神々以外のより強大な存在の可能性も考慮してオケ」
うげえ、とクレバは舌を伸ばして今にも嘔吐しそうな表情を浮かべた。
神々以外の種族で上回る力を持つものなど、たった一つしか存在しない。
天界、魔界、地上界のいずれにも属さず自分達の世界を創造し、そこへ移住した古き真なる竜種達だ。
仮に目の前の少年が人間に変化した真の竜種か、あるいは転生者、あるいは契約や加護によって力を得た者だとしよう。
そうだとして基本的に地上世界に対し不干渉を貫いて来た彼らが、どのような理由で地上世界に関わる事になったのか、ましてやバンパイア・クイーンに助力しているのかなど、クレバやイーウにしてみれば皆目検討もつかない。
ただ一つ明白なのは、地上世界有数の魔法使いであるクレバやイーウから見て、まるで実力の限界が計り知れないとてつもない存在が、明確な敵意を持って目の前に立っていると言う事実だった。
クレバとイーウが全身の細胞はおろか魂が金切り声を上げて、全力での逃走を訴えかけるのを抑える中、少年――ドランが視線を二人に向けたまま背後のセリナ達に声を掛けた。
「セリナ、クリスティーナさん、レニーア、この二人は私とドラミナで片付ける。三人とも、そこから動かずに少し待っていてくれ」
魔法学院での一戦以来、万物を素粒子レベルにまで破壊し、時間さえも破壊出来る程度には力を取り戻したレニーアはまだしも、ラミアの域を超えつつあるセリナや、超一流の魔法剣士であるクリスティーナであっても、眼前の二人の相手は荷が重かった。
それにまだまだドラミナには戦いを続ける余裕があり、そして不可視の戦意もまた陽光に晒した美し過ぎる総身から陽炎の如く立ち昇っている。
セリナとクリスティーナは、クレバとイーウから感じ取れる力量の差から内心では
レニーアだけは口をへの字の形に歪める。
敬愛してやまぬ魂の父の傍らに立ち、愚かにも敵対する意思を見せた人モドキ共を蹂躙したかったが、ドランの言葉とあって渋々従う素振りを見せる。
「さて、オーバージーンか。会って早々で申し訳ないが、覚悟をして貰おう」
ドランは革製の鞘から抜いた愛用の長剣に魔力を通し、竜爪剣と変えながら一歩二歩とクレバ達へと近づいてゆく。
クレバ達にとってドランの一歩は、死そのものが彼らに歩み寄って来るのにも等しい。
そして彼らにとっての脅威はドランばかりでは無かった。
ドラミナはドランが傍らに居る現実に内心で歓喜を爆発させており、それに伴って魂が産み出す魔力の量が、先程までとは比較にならぬほど劇的に増している。
ただドランが来ただけでも、ドラミナの戦闘能力は時間を経る毎に激増している最中なのである。
「ドラン、貴方の事ですから既に把握しておられるでしょうけれど、大剣を持っている方は時間を操ります。
もう一人が地脈を操っていた仙人です。四神の力を使いますし、どうやら風水に明るい魔法使いです。
どちらを相手にするにせよ、貴方に心配は無用の事ではありますけれど」
ドランの手にある竜爪剣とお揃いの形にしているヴァルキュリオスと、仇敵の神器であったグロースグリアを手に、ドラミナは朗らかとさえ言える声でドランに語りかける。
とても戦場に身を置く者が口にしたとは信じられない、幸福の海に首まで浸かっているかのような、明るい陽性の響きに満たされたドラミナの声だった。
「ふむん、ならば先程張られていた結界を破った事だし、あちらの仙人殿の相手は私が引き受けよう。ドラミナの方こそ、大丈夫かい?」
ドランの心配は言葉だけで、実際にはクレバとイーウのどちらを相手にしても、ドラミナが不覚を取る心配はいらないと思っているのが分かる。
ドラミナは微笑んだ。
夢にまで見たドランが目の前に居り、こうして言葉を交わす事が出来る幸福を噛み締め、そして愛しい男の前で無様な姿を見せられないと言う意地の炎が、ドラミナの心の中で太陽の如く燃え盛っていた。
「ええ、もちろん。貴方の目の前で不覚を取るような私ではありません。
ドラン、貴方が傍に居て下さるだけで、私は世界の全てを敵にしても勝てると思えるのです」
愛しい男にしか見せぬただのドラミナと言う女の笑みに、ドランは等しい笑みを浮かべてドラミナを振り返った。
束の間、ドランとドラミナの視線が交錯し、百万の言葉を交わすよりもはるかに雄弁に両者の意思が交わされる。
共に過ごした時間は一日にも満たないのに、もうそこまで心の深い所で分かりあえる二人だった。
なるほど、ここまで奇妙な位に相性の良い二人となれば、セリナがあそこまで取り乱して慌てるのも無理は無い。
恋愛という観点から見て、ドラミナはあまりにも強大な競争相手なのである。
「私の存在などで君の心を勇気づけられるのなら、なによりだ」
「はい」
弾むような声で返事をし、ドラミナは名残惜しさを山ほど心の中に抱えながらクレバへと向き直る。
こちらの隙を終始窺っていたクレバだが、斬りかかる隙も無ければ魔法を行使する機会も見つけられず、全身に緊張を走らせながら大剣型の神器クロノニードを右手一本で握り、ドラミナから放たれる重圧に耐えた。
「まったくよう、戦いの最中に
「それは失礼。ドランとの再会を一日千秋の思いで待ち望んでいたので、つい。
その詫びとして、せめて苦しまずに冥府の扉をくぐらせてしんぜる」
ドラミナに先程までドランを相手にしていた時の蜂蜜のような甘ったるい雰囲気は既になく、不遜なる無礼者を手ずから討たんとする冷厳なる女王がクレバの前に居た。
その唇から零れる言葉の冷徹さに風は凍え、しかしその声音の響きにうっとりと聞き惚れて大地に落ちて砕けるだろう。
美しき女王、冷たく無慈悲なる断罪者、月夜の愛し子にして太陽の下にある事を許されぬ君臨者、それが今のドラミナであった。
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第八十八話
レニーアは、クリスティーナさんに後ろから羽交い絞めにされ、セリナの麻痺の魔眼を受けながらも、思念竜を半具現化させて烈火の如く嫉妬と怒りを撒き散らしている。
一刻も早く宥める為、私は左手で軽くドラミナの腰を叩いた。
私の身体を離してくれ、という合図である。これだけで十分にドラミナには伝わるだろう。
「ドラミナ」
私の胸に顔を埋めるドラミナの耳に唇を寄せて幼い弟妹を諭す様に囁くと、ドラミナは顔を上げてひどく名残惜しそうな表情で私を見返した。
否、名残惜しそうなのでは無く、私から離れる事が本当に名残惜しくて仕方ないのだと、悲しげに寄せられた眉や、悲哀の色を強く浮かべる瞳、きゅっと小さくかみしめられた唇が言葉よりもはるかに雄弁に物語っている。
ドラミナは私と離れなければならない事を拒否しようと、いやいやと小さく首を振る素振りを見せた。
だが背後から感じられるレニーアの気配が凶悪化の一途を辿っている事と、それを抑え込むセリナとクリスティーナさんの窮地を察知して、自分の我儘を抑え込んでくれた。
後ろ髪をひかれる思いで心を満たしているだろうドラミナは、顔から悲しみの色を抜きそっと微笑んで私の背中に回していた腕を離し、風にさらわれるように私から離れた。
それから自分が行っていた事を省みたのか、恥じらいの朱色に頬を染めて視線を私から逸らす。
「貴方に会えた喜びにいささか子供のような振る舞いをしてしまいました。お忘れになって、ドラン」
「まさか。ここまで可愛い君の姿を忘れられるものか。ましてや私に会えた喜びが理由なら、これほど男として誇らしい事は無い。
また、何時でも君の望む時に抱擁くらいしてあげるとも」
私の言葉に、ドラミナはそこにぽっと小さな太陽が出現したような明るい笑顔を浮かべる。
ふむん、私に対してはなんとも素直で無邪気な姿を見せてくれるドラミナのなんと可愛らしい事か。
思わず抱きしめたくなる衝動が心の内に生じたが、これ以上放置していてはレニーアがどうなるか分からないので、これを心の奥底に押し込める。
「本当ですか、ドラン。後でやっぱり嘘だったなどと言わないで下さいね。もしそうなったら、私は悲しみのあまりに泣いてしまいそうです」
「ああ、約束する」
「約束ですからね。信じていますよ」
私が約束を反故にしたら、ドラミナは本当に泣いてしまうかもしれない。我ながらよくもまあ、ここまでドラミナに慕われたものだな。
体を離したドラミナの頭を軽く撫でて、心地よさそうに「ん」、とドラミナが声を零すのを耳にしてから、クリスティーナさんが必死な顔で羽交い絞めにしているレニーアの方へと足を向けた。
「レニーア」
目を血走らせ、唇はめくり上がって歯を噛み砕かんばかりに噛み締め、怒りと嫉妬を全身から放出していたレニーアは、私の注目が自分に向けられた事を認識すると、少しばかり正気に戻る。
「どどどど、ドラン様! あ奴、あ奴がががががががが“#$%」&(‘*」
ふぅむ、怒りのあまり人間の咽喉が出せないような声を発し始めている。
これはいささかドラミナとの触れ合いに気を取られ過ぎてしまったか。
レニーアの損なわれた機嫌をすぐに直さないと、この場でドラミナとレニーアの決闘が起きかねん。
「クリスティーナさん、セリナ、レニーアを解放してあげてくれ」
「ぐぐ、し、しかし、良いのか? 今すぐにでもドラミナさんに襲い掛かりそうな勢いだが……」
クリスティーナさんは強化魔法全開で抑え込んでいるにも拘らず、いつ振り解かれるか分からないレニーアの馬鹿力と思念の凄まじさから、ドラミナの身を案じてくれているようだ。
「襲い掛かるどころか、それ以上の事をしでかしそうな勢いですよ?」
そしてそれは、瞳にありったけの魔力を注いで麻痺の魔眼によって、レニーアの動きを止めようとしているセリナも同様であった。
「レニーアがなにをしようとしたとしても、私がすぐに抑え込むから問題は無いよ。
それよりも二人ともそろそろ限界が近いだろう。早く解放を」
「確かに君ならレニーアが相手でも、やすやすと抑え込めるか……よし、セリナ!」
「は、はい。一、二の……三」
合図と同時にクリスティーナさんがレニーアの身体を解放し、セリナもまた麻痺の魔眼を解除する。
肉体の自由を取り戻したレニーアは、半具現化させていた思念竜を解除すると、踏み込んだ地面が爆発するほどの勢いで跳躍した。
跳躍先の相手は、レニーアにとって忌まわしいドラミナではなく、私であった。
セリナとクリスティーナさんはてっきりそのままドラミナの方へと思っていたらしく、レニーアの矛先が私である事とあまりの勢いにぎょっとした表情を浮かべていた。
餓えた猛獣が獲物の息の根を止めようと跳躍したかのようなレニーアの勢いであったが、私に向けて害意があるわけではない。
レニーアはそのまま私に飛び付いてきて、小柄とはいえ勢いが付いていた事もあって、それなりの衝撃が私の身体に襲い掛かる。
さてレニーアは私をどうしたいのだろうか? 私の疑問を他所にレニーアは細い手足を私の身体に固く絡ませて、鋼の拘束力でしがみついてくる。
「レニーア?」
ドラミナにそうしたようにレニーアの毛先が綺麗に切り揃えられた黒髪を撫で、落ち着かせようと呼びかけてみたが、レニーアは珍しく反応を見せずにそのまま私の胸板に痛くなるほど顔を押し付けてぐりぐりと左右に動かす。
それだけでなく私の背中や腰に回した両手足を器用に動かしながら、自分の身体を私に必死に擦りつけて来る。
見ようによっては少女が同年代の少年に対し、淫らな行為に耽っている様にも見えるだろうが、私が受けた印象は別だった。
あれだ。レニーアは、犬や猫などが自分の縄張りを主張する為に、尿をしたり自分の身体を擦りつけて匂い付けをしたりする行為をしているのではなかろうか?
「ううううううう~~~~~~~~~」
レニーアは年齢の割に小柄で華奢な事もあり、五体をぐりぐりと押し付けて来られてもさほど異性を意識する事は無いし、私を父と慕ってくる相手である事もあり、劣情を催す事は無い。
息継ぎをする事さえ忘れて、私の身体に着いているらしいドラミナの匂い――私の見解としては断じて臭くはない――を懸命に自分の匂いで消そうとするレニーアに、私は呆れれば良いのかどう反応するのが正しいのか分からない。
いや、この場合における正しい対応と言うものは存在していないのではないだろうか。
レニーアが盛大にやらかしている最中の奇行を目撃させられたセリナやクリスティーナさんは、ぽかんと口を開いていたが、セリナに関してはレニーアの行動にどうやら共感する所があるらしく、直に口を閉ざすとうんうんと頷く。
私から自分以外の女性の匂いがするのは嫌、という点に関しては同意見と言う事らしい。
「他の女の臭いなんていやだやだやだあ」
レニーアはまるで心を病んでしまったかのように、私の反応すら意識の外にある様子で自分の匂いを私に擦りつける作業に没頭し続ける。
さてこれはレニーアの気が済むまでか、あるいはそれ以上に何か彼女の意識を惹く事態が勃発しなければ、どうしようもあるまい。
それにしても私の匂いか。
普段はセリナと常に行動を共にしているから、セリナの匂いがしていてもおかしくはないが、レニーアにとってセリナは許せる相手と言う事なのだろうか?
少しでも早くレニーアを落ち着かせられればと、長い黒髪を撫でて赤ちゃんを落ち着かせる時の要領で、背中をぽんぽんと軽く叩く。
「そんなにはっきりするほど臭うでしょうか?」
一方であまりにもレニーアが必死なものだから、ドラミナは自分がそこまで臭うのかと気になって、左手の袖口や襟を鼻先に持ってきて匂いを嗅いで確かめていた。
確かに女性にとって臭うなどと言われれば気になって当然だろう。
もちろんドラミナが臭うなどと言う事は無いのだが、今ここでそれを口にするとレニーアが再び暴発しかねないから、口を噤む他ない。
そうして私がレニーアの頭を撫で、背中を軽く叩き、レニーアは私に体を擦りつけて匂いを上書きすると言う、余人が見たら分けの分からない状況がしばらく続いた。
レニーアによる匂いの上書きがようやく収まりを見せて、少しずつ動きが緩慢になってきた頃を見計らい、私はレニーアの頭を撫でていた右手を左頬へと移して顔を上げさせる。
「レニーア、そろそろ気は済んだか」
私の問いが今度は耳に届いたらしく、レニーアはふんふんと犬猫みたいに鼻を鳴らし始め、私の胸元や首筋の匂いを確認する。
「ふんふんふんふん……そろそろドラン様から嫌な臭いが取れて来ましたので、とりあえずは」
「そうか、君の気が済んだのなら良かったが、ならば私から離れても良いのではないかな?」
ようやくドラミナの匂いが取れたと言う事で、狂気を和らげたレニーアに離れるよう提案したが、口を挟む隙のない拒絶が返事だった。
「いえ、それは出来ません」
まともに言葉を話せるまでに正気を取り戻したレニーアは、相変わらず四肢を私に絡みつかせたままだ。
私から離れる事など天地が滅びようともあり得ないと、そう表情で語るレニーアに頭の痛い思いを少しばかりする。
「あのような他者の血を吸わねば生きていけぬ寄生生物なんぞの臭いが染み付いた上に、なにやらドラン様の気配さえ持っているような輩が抱きついていたのです。
なにが御身にあったか分かったものではありません。
私がなにも問題が無い事を完璧に確認するまでは、このレニーア、ドラン様から離れるつもりは毛頭ございません」
そんなきりっとした顔で言われても、傍から見たらなんとも間抜けな構図でしかないぞ、レニーア。
ドラミナの方は幸い寄生生物扱いにも気分を損ねた様子は無く、やはり臭いの件が気になるらしく、セリナの方に歩み寄って臭っていないか尋ねていた。
セリナはそんなドラミナの臭いを確認し、臭くなんかないと否定しつつ私にしがみつくレニーアの方をちらちらと羨ましそうに見る。
そう言えばクリスティーナさんやレニーア達が来てから、セリナは私に巻き付いて眠るのを自粛していたから、触れ合いに餓えているのだろう。
ふむん、あとで熱い抱擁の十や二十は交わしておかんといかんな、これは。
「レニーア、それは君がこうしていたいがための方便ではないと、私の目を見て心から言い切れるか?」
レニーアに目をそむける事を許さず、じっと大きな瞳を見つめて問いかけると、レニーアは如何にも負い目がありますといった表情を浮かべて、ううっと唸る。
やはり堂々と私に抱きつく為の方便混じりでの行為か。私への好意から来る行動とはいえ、やれやれ。
「うう、それはその……折角ドラン様の所に来たと言うのに、あの蛇娘や竜殺しが居る所為で、こうして堂々と触れる事さえ出来ませんから……」
セリナ達の目があれば私に抱きつくのを自粛する位には、レニーアにも羞恥の念や常識が備わっているようだ。
「時と場所さえ弁えればそれ位の願いはいくらでも叶えてあげるよ。それ位の器量は私にだってある。
ただ、今はセリナやドラミナ達の目があるし、それに要らぬお招きもあるようだ。だから、離れてはくれんか」
私が口にした『要らぬお招き』に含まれた不穏な響きに気付き、レニーアはゆるゆると蕩けていた目尻を刃のように鋭く引き締めて、私の肩越しにあらぬ方向へと目をやる。
青い空と白い雲ばかりが広がっているそこに何を見つけたのか、レニーアの全身から険呑な気配が立ち昇り、渋々と嫌々が手を組んだ表情を浮かべて、ようやく私から離れる。
「確かにドラン様の言われる通り、余計な者共の目がある様子。先程までの戦いも覗き見ていたのでしょう。鬱陶しい事をする」
レニーアの呟きはクリスティーナさんやセリナの耳には届かなかったようで、こちらへと歩み寄ってきたセリナはレニーアの浮かべる険しい表情に怪訝な顔をする。
「レニーアさん、どうしたんですか? ドランさんに思いっきり抱きついていた割には機嫌が悪そうですけど、なにかありましたか?」
「ふん、お前はドラン様のお傍に居ながらやはりまだまだだな。その
見ろ、不服ではあるがあっちの吸血鬼は既に気付いているぞ。
科学と魔法の両方で隠蔽をしているようだが、あの程度は見抜けるようになれ。もっとも、向こうの方から迎えを寄越してきたがな」
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第八十九話
古神竜として地上に降りていた私の心臓を貫いた、
私の知る限りにおいて最高の資質と錬度と霊格を持った勇者が用い、私に対して振るって竜としての生を終わらせた剣。
悠久の時の流れと私の死後に巻き起こったと言う天界と魔界、竜界をも巻き込んだ争いの中で遺失したかと思っていたが、人間に生まれ変わった私の目の前にこうして再び現れたか。
「言葉もありませんか? 気分の良いものではないでしょうね。かつて自分を殺した剣を目の当たりにすれば、無理もありません」
しかし、今ドラゴンスレイヤーを手にしているのは、あの気持ちの良い笑みを浮かべる勇者の青年では無かった。
男も女も老いも若いも問わず、惑わし魅了し尽くす淫魔が、逆に魂まで捧げようとするほどに妖しく美しい男とも女とも見える魔法使いが、聖剣を手にしている。
「バストレル……」
バストレルは相対した時から浮かべている笑みを深め、喜悦を隠そうともしない。
それは苦行の辛酸を舐めた聖者でも、呆気なく魅了されてしまいそうなほどに魅惑的な笑みである。
もっとも、私からすれば薄皮一枚剥いだ所にあるどす黒い欲望が見えて、嫌悪の念しか抱けない。
「ご要望とあれば、この真なるドラゴンスレイヤーが、遥かな時を越えて我が手に握られるまでの物語を語りましょうか。いかがです?
ふふ、とはいえそちらのお嬢さんはそんな事はどうでもよいと言いたげですね。
こちらが寒気を覚えるほどに邪悪な魂がその理由でしょうか。それにしてもこれほどまでの霊格の高みを持つとは、なんとも凄まじい。
いくら輪廻を重ねようとも、地上に生を受けた者がここまでの高みに達するとは考え難い……」
バストレルが心底からの驚嘆を交えた視線を向けたのは、レニーアだ。当のレニーアは己に向けられるバストレルの視線など、まるで意に介せずにドラゴンスレイヤーを見続けている。
彼女にとってドラゴンスレイヤーは、魂の父たる私を殺した忌むべき剣。
ならば過剰なほどに私に対し敬愛の念を向けて来るレニーアの心の中に、憎悪と怒りの嵐が吹き荒れているだろう事は、想像に難くない。
レニーアはつい先ほどまで半具現化させていた思念竜を解除し、風の無い夜のように静かな雰囲気を纏っていた。
黒い髪と白い肌が異様なほどに映える黒白の少女は、高名な人形師が生涯の傑作として作りだした人形のように整った顔に、何の表情も浮かべていなかった。
「その剣……」
艶やかと言うよりも可憐と評するのが似合う造作の唇が、ぽつりと呟いた。
レニーアの瞳はバストレルの手中にあるドラゴンスレイヤーに吸い寄せられ、離れようとしない。
呟きに合わせてレニーアが一歩を踏み出した。操り糸の切れた人形が、倒れ込む寸前に偶然踏み出したような一歩だった。
「この剣がなにか? 貴女にも因縁のある品なのでしょうか」
レニーアの魂が私の霊魂の情報を利用して作られた神造魔獣であると知ってか知らずか、バストレルはからかうように手の中のドラゴンスレイヤーを掲げて見せ、にこやかにレニーアに問いかける。
ソレがレニーアの中にある憤激と憎悪の琴線を爪弾いたのかもしれなかった。
そして爪弾かれた後に生じたのは、この世の全てに災いを齎すに違いないと、万物が恐れ慄く神造魔獣の負の感情の爆発。
それが、あまりにも強過ぎて純粋すぎる怒りと憎悪を材料とし、彫琢された無表情の仮面を被っていたレニーアの顔を歪めさせた。
まさに歪めたと表現する他ない表情を浮かべるのと同時に、レニーアを中心として思念竜の上半身がほぼ完全に具現化する。
思念竜の具現化と同時に制御されぬ魔力が衝撃となって周囲に迸り、周囲を色鮮やかに囲む花々を無惨に散らして行く。
この世の全ての色が集ったように様々な色に染まった花びらの舞い散る様は美しく、そして物悲しくさえあった。
感情の憤激によって思念竜を纏うレニーアの周囲は、夏の日の陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。
可視化されるまでに密度を高められた魔力の奔流などという生易しいものではない。
感情の激発に伴って純度を高めたレニーアの思念が時空間に影響を及ぼしその結果、空間そのものが揺らいでいるのだ。
今のレニーアは、触れるだけで悠久の時の流れも空間でさえも破壊を免れぬ恐るべき
「その、剣は……私と、お父様を殺した、あの忌々しい剣!!」
レニーアは、咽喉からほとばしった耳にした者の魂を破壊し尽くすかの如き魂からの叫びと共に石畳の床を踏みこんだ。
レニーアが頭を大きく下げた前傾姿勢から、
「私とお父様? ふ、ふふふふふ、あははははははは、そうか、そう言う事ですか! 今日は一体何と言う日なのか。
かつてドラゴンを殺した勇者と縁深き者、ドラゴンをお父様と慕う者、そしてなによりも、ドラゴンの魂を持つ者達と一同に介するとは!」
思念竜の右腕が大きく振りかぶられて、バストレルの掲げたドラゴンスレイヤーと正面から激突する。
レニーアの一撃は単なる念動による破壊ではない。
神造魔獣の高純度の破壊念が込められた超自然的な破壊、あるいは上位次元存在が下位次元に対して起こす奇跡そのものにも等しい。
対するにバストレルが手に持つドラゴンスレイヤーは、宇宙そのものにも匹敵する膨大な霊的質量と力を宿し、刀身を構成する粒子だけで恒星にも匹敵しよう。
黄金の鍔の中心には真円を描く真っ黒い水晶を思わせる物体が埋め込まれており、そこを覗きこめば形も色も異なる無数の星雲や星々を見る事が出来る。
鍔の中心に埋め込まれたソレは、今も増え続けている並行宇宙や異次元に繋がる窓であり門でもある。
ドラゴンスレイヤーはこの水晶を通じて、異なる次元に存在する世界からあらゆる力を汲みあげ、使い手にあらゆる面で恩恵を齎す。
異世界からの力の一方的な搾取は、ゆくゆくは異世界の滅亡に繋がりかねないが、ドラゴンスレイヤーの場合は汲み上げた力を、使い手の霊格に応じて際限なく倍増させ汲み上げた分の力を還元する機構を備えている。
使い手毎に引き出せる力の上限に差は出るものの、ドラゴンスレイヤーの使い手は無数の宇宙と繋がり、自身の力として振るう事が出来るようになる。
もっとも、数限りない並行宇宙や高次元世界を力の源とするこの機構は、ドラゴンスレイヤーにとっては所詮おまけでしかなく、本命はそれらを媒介に使用者の霊格を一時的に神殺しや竜殺しを可能とする領域に引き上げる事である。
そうして勇者はドラゴンスレイヤーの機能によって、元より人間としては最高格に達していた霊格を引き上げて、私の心臓を貫く事に成功したのだ。
もちろん、それでも本来なら私を殺す事は出来ず、あくまで私自身が殺せるように手を加えたからであるが。
それほどの武器で無ければ私と戦うなど夢のまた夢、とかつて人間達は考えたのだろう。
悠久の時の流れの中にもドラゴンスレイヤーの機能はわずかも損なわれておらず、加えて私殺しの因果によって更なる霊格の向上が見受けられる。
ドラゴンスレイヤーは時空間そのものの破壊にも耐えて、思念竜の一撃を受けても微動だにしない。
ドラゴンスレイヤーとバストレルの力が融合し、構築された半球形の防御障壁が破壊念を受け流す。
バストレルの背後に破壊の思念が迸り、眼下に臨んでいた湖が真っ二つに割れたばかりか、そのまま浮遊城の端まで至り、さらに破壊念の過ぎ去った後の空間が硝子のように割れる。
破壊された空間の向こうには、濃い紫色のねっとりとした光が瞬くこの世界とは異なる次元が広がっていた。
この次元に隣接する次元のいずれかが、ほんのわずかに顔を覗かせたのである。
レニーアの思念によって破壊された空間の向こうから覗くその世界は、すぐさま空間そのものが持つ修復作用によって塞がれる。
「ほう、容易く空間の壁を破壊するとは!
どうやら魂に枷が掛けられている様ですが、思念の純粋性は既に神域に準ずる境地に達している、いえ、戻っていると言うべきでしょうか。
流石はかの大邪神が産み落としたと言う、最悪の神造魔獣の一柱。
しかし、超先史文明期に突如としてこれまでにない狂乱ぶりを見せ、勇者達に討たれる事になった理由が今になって分かりました。
ふふ、よもや貴女が古神竜ドラゴンを父と慕い、その父が討たれた怒りに突き動かされたとは。
超先史文明期のどの学者達も正解を導き出せなかったのですが、よもや親娘の情が答えとは神造魔獣らしからぬ理由ですね」
流石の洞察力と言うべきだろうか。バストレルはレニーアの魂に課せられているカラヴィスの枷を、既に把握している様だった。
バストレルの口にする超先史文明期とは、私がドラゴンとして生きた最後の時代の事を指し、天人達が隆盛を誇った時代よりもさらに過去の事である。
しかしバストレルのこの口ぶりは、まるでバストレル自身が超先史文明期に生きていたかのように聞こえる。
如何に人類としては最高域に達した魔法使いとはいえ、超先史文明期に産まれたのなら、今日まで永らえる事は決して容易では無いだろう。
「その口を噤んで黙れ! 私にその剣を再び目にさせるとは許されざる大罪を犯したと知れ、
怒りと憎悪という表現では到底足りぬ感情に突き動かされるレニーアの連撃は、水の流れの様に絶える事無くバストレルへと襲い掛かるが、バストレルは希代の剣聖の如くドラゴンスレイヤーを操り、そのことごとくを受けきる。
もはや物理的防御は意味を成さず、霊的防御でも最高位の防御魔法でさえ
「ドラゴンスレイヤーなら、今のレニーアとも打ち合えるか」
私は一旦バストレルの相手をレニーアに任せ、うずくまって荒い息を吐いているクリスティーナさんと介護をしているセリナの元へと足を向けた。
ドラゴンスレイヤーを目の当たりにした瞬間から、肉体だけでなく魂も悲鳴を挙げているクリスティーナさんの顔からは生気が抜け、半死人のような顔色になっている。
「ドランさん、クリスティーナさんがさっきからずっとこの調子で、なんとかしてあげられませんか?」
セリナは、先程から回復魔法を行使し続けているのにもかかわらず、一向に快癒の方向へ向かう様子の見えないクリスティーナさんの容態に、目の端に涙を浮かべていた。
私は必死な様子で懇願してくるセリナを安心させてあげたくて、左手を伸ばしてその頭を撫でながら、地面に守護と治癒の効果を持つ竜語魔法陣を敷く。
オクトゥルとの戦いの際に、龍吉を守る為に敷いたのと同様の竜語魔法陣である。
クリスティーナさんとセリナの足元に竜語魔法陣が広がり、そこから月光を思わせる白い光が発せられると、それに合わせてクリスティーナさんの白蝋と化していた顔色にほんのりと朱の色が戻り始め、呼吸も穏やかなものへと戻ってゆく。
このまま陣の中でじっとしていれば、クリスティーナさんの容態はまず問題ないだろう。
「す、すまない。ここまで足手纏いになるとは、自分が嫌になるな、まったく……」
青褪めた顔に悔恨と自分自身への怒りを色濃く浮かべるクリスティーナさんに、私は生真面目な方だと我ながら場違いな感想を抱いていた。
「クリスティーナさんの抱えるどうしようもない事情の所為だろう。自分を責める必要はない。
セリナ、守護の陣は敷いておいたがこのままクリスティーナさんの様子を見ておいてくれ。この後どうなるか、いささか不安がある」
クリスティーナさんと同じく竜語魔法陣の中に居るセリナに、このまま回復魔法を行使し続ける事と、万が一の時にはクリスティーナさんを連れて動けるようにしておいて欲しいと頼んでおく。
「はい、お任せください。ドランさんはあの悪い魔法使いさんを?」
「ああ。レニーアとドラミナばかりに任せて、私だけ後ろで高みの見物はしておられんよ。軽く捻り潰してくるつもりだ」
「あの、ドランさんなら心配は無いと分かっていますけれど、なにかあの剣はとても良くないものの様な気がします。だから、どうかお気を付けて」
セリナを村に出迎えてから欠かさず希釈したとはいえ古神竜の精気を与えて来た影響で、セリナには竜としての属性がわずかながら備わりつつある。
その竜としての感覚が、古神竜殺しの剣に対し鋭敏に反応して、セリナの心中に言い知れぬ不安と畏怖の暗雲の領土を広げているのだろう。
「大丈夫だよ、セリナ。あの剣がどの程度危険なものなのか、かつて私自身が望んだ結果として知っている。
アレがいまだこの世に現存している事は意外ではあったが、ただそれだけの事。
誰の手にも渡らぬように壊してしまうのもいいが、記念に取っておくのも手かもね」
セリナを安心させようと、敢えて茶化す様に口にしたのだが、私が気を遣った事はすっかり見抜かれてしまったようで、セリナはもう、と小さく呟くとそれでも言い縋ってきた。
「でもあの剣は、その、ドランさんの……」
そうか、心の中の不安によって表情を歪めるセリナが案じている理由は、バストレルの手の中にあるのが前世の私を殺した剣である事に集約している。
私の前世を教えた事によって、その死因となった剣が目の前にある事でセリナの不安を煽ってしまうとは、やはり教えずにいた方が良かっただろうか。
「だからこそ、大丈夫だと自信を持って言える。あの剣を持っているのはかつての勇者では無い。
あの剣を向けられる私の心も、今とあの時とではまるで違う。
今の私にとってあの剣は、決して脅威とはなり得ない。他の聖剣や魔剣の類よりは、少し面倒という程度だよ。嘘では無く、本当にね」
いや、そもそも前世に於いてもあの剣は真の意味で私にとって脅威では無かった。
勇者達の私殺しは、私自身が生に背を向けて死へと続く道を歩む事を許容していたからこそ成し得られた行いなのだから。
もっともバストレルのあのにやけ顔を見るに、あちらの手札はそれだけではなさそうだが、その自信も根本から粉砕してくれると私の戦意は猛々しく燃えていた。
「ドラン」
セリナ達に背を向けてバストレルとレニーアの戦いに介入しようとした時、不意にクリスティーナさんが普段の様子からは信じられないほど弱々しい声音で、私に声を掛けてきた。
先程、バストレルが口にした余計な事が耳に届いていたのかもしれない。
いずれ伝えなければならぬ事とは言え、あのような輩の口を介して伝わってしまった事は、痛恨の極みであった。
「さっきバストレルが言った勇者と縁深い者とはこの私だ。そしてドラゴンをお父様と慕う者というのは、どうやらレニーアの事らしい。
そしてドラゴンの魂を持つ者とは、レニーアがお父様と慕う者とは……ドラン、君なのか?」
クリスティーナさんに、こんな声を出させたくは無かった。こんな顔をさせたくは無かった。こんな瞳で見られたくは無かった。
私は胸の中に去来する様々な感情を心の奥底へと沈め、クリスティーナさんに笑いかけた。貴女がそんな風に傷つく必要は無いのだ、貴女に罪は何もないのだと伝える為に。
そう、むしろ罪を犯したと責められるべきかつての私の愚かしさなのだから。
「クリスティーナさん、そうだな、そうなる。今生の人間としての名はドラン。
しかし我が魂の名はドラゴン。かつて己が身を裂いた始祖竜の心臓より産まれし古神竜。
古神竜の魂を持って人間として産まれた者、それが私と言う存在だ。
あのような外道の魔法使いにそれを指摘される羽目になるとは、まことに心外であったよ」
くしゃりとクリスティーナさんの顔が歪んだ。親とはぐれた子供が、自分が一人になってしまった事を悟って泣き出す寸前の、そんな顔だった。
ああ、泣かないでくれ、クリスティーナさん。貴女を泣かせたくは無いのだ。貴女には笑顔こそが良く似合うのに。
「そうか、君が、いや、貴方がドラゴンなのか。私の先祖が許されぬ罪を犯してしまったという……」
「クリスティーナさん、それはいささか杞憂というものだ。よもやあの勇者の子孫が今に至るまでかくも苦悩していようとは、私は考えもしなかった。
クリスティーナさんの祖先が私を討ったのは揺るぎない事実。
しかしそれは私もまた望んだ事でもあったのだ。あの時の私は生きる事に飽き、死す事によって永劫の安息を得んとしていたのだから」
私がドラゴンである事をクリスティーナさんは微塵も疑う事をしなかった。
バストレルの言葉を信じたと言うよりも、私が肯定したという一事をもって信じている。
だが、それゆえに私に対する言葉遣いが変わってしまった事は、どうしようもなく悲しく感じられた。
「その事に関しては口伝で伝わっております。貴方を討った遠き我が祖は竜がわざと自分に討たれたのだと、生涯信じ続けていたと。
罪なき貴方を討った事、そしてなにより貴方という存在が失われた太古の世界は、邪神と悪魔、
我が一族の行いが、一度は世界を滅びの道へといざないかけてしまった。 その罪はこの世界が続く限り永遠と我が一族が背負うべきもの。
しかし、いかなる神の差配によるものか、こうして貴方と出会う事が出来ました。いえ、正確には出会っていたと言うべきですが……。
どうぞ浅はかと、愚かとお笑いください。
ですがどうか我ら一族の罪を私の代にてお許しいただきたい。もし許していただけるのであれば、この魂も心も何もかもを捧げます。
先祖の犯した罪を償う為ならば、永遠の苦痛もいかなる罰も甘んじてお受けいたします」
今のクリスティーナさんはさしずめ自らが贄となる事を許容し、神が自分の命を摘む瞬間を待つ巫女のようであった。
そうされる事こそが私にとってなにより悲しい事だと、クリスティーナさんは気付かぬまま。これもまたかつての私の振る舞いが齎した結果か。
「その覚悟は見事。しかしいささか意気込み過ぎだ、クリスティーナさん。
何度でも言おう。クリスティーナさんにもクリスティーナさんの祖先たちにも罪は無かった。
許すも許さぬもない。私はあの勇者達を恨んでなどいない。
むしろ今もこうしてクリスティーナさんをかくも苦しめてしまったのかと、私の方こそが許しを請わねばならない思いでこの胸は一杯だ。
本当にすまない。かつての私の浅慮がクリスティーナさんと祖先たちを徒に苦しめてしまった。どうか許して欲しい」
そう言って頭を下げて誠心誠意の謝罪をする私を目の当たりにして、クリスティーナさんは言葉を失った。絶句である。
断頭台に首を置く死刑囚さながらの気持ちで相対したと言うのに、死刑を執行するはずの者が自分に懺悔をしてきたようなものだと考えれば、無理もないだろうか。
「私は、私はただ貴方に許して欲しくて。ただ、それ、だけでそんな私の方が許すだなんて考えた事も……」
「そうか、では私がクリスティーナさんとその先祖の方々も許す。
そしてクリスティーナさんが私を許す。それでおあいこというわけには行かないか?
クリスティーナさん達はもう自分を許しても良いだろう。
クリスティーナさんを苦しめているのは、正直に言わせて貰えるのならば誰よりも自分自身であると見受ける」
「そ、それで貴方がよいと言うのであれば私から申し上げる事は何も、ございません。でも、本当にそれでよいのですか?」
「それでいいのだよ。クリスティーナさんが彼の子孫だと気付いた時から、私はずっとそう思っていたし、恨みも憎しみも欠片も抱いた事は無かった。
クリスティーナさん、もう一族の罪を自分で背負う必要はない。
今一つ実感は湧かないだろうが、クリスティーナさんの代で私を討った事への罪は清算されたと思って欲しい。
一族に伝わる罪など忘れ、罰を受ける事など望まずに、これからは己の心が望むままに自由に生きなさい。それをこそ私は心から望む」
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第九十話
下半身と両腕、背中など肉体の大部分が古神竜ドラゴンつまり私のそれと酷似したものへと変容したバストレルは、自身の変容した肉体を見回して恍惚としていた。
バストレルは、神々の纏う堅固な鎧や盾でさえ薄紙の如く斬り裂くだろう手の爪を見て、心の底から嬉しそうに笑う。
バストレルは変容した肉体が自分の思い通りに動くか試す様に掌を開閉し、ふと悪戯を思いついた子供と同じ表情を浮かべる。
バストレルの右手の五指が開かれるや、その中央に何の前兆も無しに真っ白い光が生じたかと思えば、掌の上で暗黒が四方へと領土を広げ、直にその中に無数の輝きが生じ始める。
「ほう、宇宙とは、世界とはこのように創り出すのですか。こうも簡単に創り出す事が出来るとは、これまで重ねた修行が虚しく感じられますね」
バストレルがさしたる労力も払わずに掌の中に生じさせたのは、その言葉に偽りなく一つの宇宙であった。
光よりも早く無窮の闇が領土を広げ、その中に次々と新しい光が生じて行く。
太陽だ。数え切れぬほどの太陽とそれに続いて数多の惑星が形作られて行き、それらは星雲となり銀河となり、無数の銀河は宇宙を瞬時に満たして行く。
そうして単一の宇宙が発生し、さらに、さらにといくつもの宇宙が発生し続けて、バストレルの産み出した世界は無限に増え続けて多元宇宙の規模となり、多元宇宙を無数に内包したより広大な世界を形成してゆく。
生命こそまだ芽吹いていないが、そのまま時を置けばほどなくして生命が誕生し、そして生と死の概念が産まれるだろう。
「その高みに登れた事を、今は至上の喜びと共に迎え入れましょう」
バストレルは、神々の目標とした完全なる生命『人(ひと)』とは、精神面において天地をはるかに超えた乖離が見られるが、肉体面においては超人種の中でも最高峰の個体といえる。
あの男とも女とも取れる顔立ちや声音などはまさにその表れで、バストレルの身体は男性と女性両方の特徴を兼ね備えた両性具有なのだ。
バストレルには乳房も子宮も男根も精巣もすべて正常に機能する状態で、備わっているに違いない。
雌雄同体、両性具有、すなわち単体生殖が可能な上に性別による精神性の差異が存在せず、性別に起因する差別や思考の偏りがないのだ。
完全なる人は男女両方の機能を有し、その精神は男女どちらにも偏らぬものとして創造される筈だったのだ。
その観点から見て、バストレルは肉体面に限ればほぼ人と変わらないと言える。
ただし、バストレルは人為的に与えられた私とレニーアの因子によって、いまや古神竜としての肉体を手に入れた以上、人間でも古神竜でもない存在と化したと言うべきだ。
バストレルの周囲には瞬く間に無数の世界が生じていて、億万を超えるそれらはいまだ生命が芽吹かず、誕生してからほとんど時が経っていない状態のままだ。
私が古神竜としての力を行使する毎に、その力と霊格を高め続けるバストレルは、己の力が呼吸をするように宇宙を作り出せる境地に達した事を噛み締めるように、宇宙を作り続けている。
「ふふふ、申し訳ありません。いささか浮かれ過ぎてしまったようです。
貴方にとっては、いえ、貴方に足元も及ばぬ神でさえ出来る芸当も、ちっぽけな人間に過ぎなかった私にとって心躍るような体験なのですよ」
私の視線に気づいたバストレルは浮かれていた自分を恥じ入って、言い訳するように呟くと軽く掌を握り締める。
それと同時にバストレルの周囲にふわふわと浮いていた無数の世界が、波間のあぶく玉が弾けるように消えた。
「さて余計な猥雑物を作ってしまって、この閉ざされた世界を汚してしまった事をお詫び申し上げましょう。
それにしても、おお、天界とはかような世界でしたか。魔界とはこのような世界でしたか。
そして竜界とは、おお、おお、この身となってなお背筋に寒気を覚える力が渦巻いています。
私のこの胸の内の高鳴りを御理解いただけますか?
私のこの眼(まなこ)は今や精霊界で遊ぶ数多の精霊達の姿を鮮明に映し出し、この耳は妖精界の女王達が交わす言葉の響きを聴き取り、この翼で羽ばたけば天界の頂きに達し、この腕を振るえば魔界の邪神達の首を容易に刎ねられましょう。
全ては貴方とあのお嬢さんのお陰です。そして私を作り出そうと血道をあげた超先史文明の研究者達と、それを目論んだ支配者達に感謝しなければなりません」
「それもすぐに出来なくなる。今の内に満足行くまでしておく事だ」
「おや、つれない事を口になさる。新たな同胞と迎え入れては下さりませんか?」
「お前のその性質は、お前が望んで手に入れたものではない。故に、私とレニーアの力に呼応して力を高める性質をもってお前を忌避する理由とはせん。
しかし、その力を操るお前の性情が私には許容できぬ。初めてお前を見た時からその周囲にはお前を憎み、恨み、怒る死者の念がこびりついていた。
常人なら百万人を一度に呪い殺せる憎悪も、お前にとっては自身の霊格を高める為の材料に過ぎなかっただろう。
知っているか? 己の快楽の為に罪の無い者を、関係の無い者を、歓喜と共に犠牲と出来る者の事を邪悪と言うのだ」
私の言葉を受けて、バストレルは一瞬きょとんとした顔を作ったが、それはすぐに嘲笑に取って代わられた。
バストレルは私に対し、聞き分けのない子供を見る大人のような、あるいは物を知らぬ愚者を憐れ見る、自らを賢いと称する者の如く諭そうと話しかけて来る。
「ふふふ、これはこれは、意外と青臭い事を口にされるものですね。理想主義と言えばよろしいのでしょうか。
普通ならどこかで壁にぶつかり、石に躓いて掲げていた主義の看板を降ろすものですが、貴方ほどの力の持ち主ならばこれまでそれを貫き通す事が出来たのでしょう。
ドラゴン、いと強き方よ、大いなる方よ、罪なき者などこの世に居りましょうか。
産まれた事が罪、生きる事が罪、死する事が罪、強き事が罪、弱き事が罪、富める事が罪、貧しき事が罪、欲を持つ事が罪、願う事が罪、ありとあらゆる行いに留まらず生ある事も死する事も罪と、数多の神が説いております。
何をしても罪を負うのならば、己の欲求を満たす為の生を歩む方がよほど建設的ではありませんか。
とは申しましても、ふふ、私の論理も数多の凡愚が口にしてきた屁理屈でしょう」
「だな。過去、幾度となく我が前に立った者が口にし、私の耳を汚した言葉だ」
「ではこれ以上言葉を交わした所で、貴方様のご機嫌の損ねるのみにございます。そろそろ本題に入るといたしましょうか」
バストレルの四肢を覆う鱗や背中から伸びる翼、黒髪を割って生える角に至るまで、かつてない強大な力が充溢し始め、私の目の前に私をしても強大と言わざるを得ない力が生じ始める。
目の前のバストレルから感じられるのは、何よりも慣れ親しんだ私自身の力と、つい最近知る事となったレニーアの力。
「なんと素晴らしきかな、古神竜の力とは! その古神竜を討つ為に産み出された神造魔獣の力とは! 無限の感謝と愛をもって貴方様と戦いましょう!!」
「感謝も愛も要らぬ。この閉ざされた世界を餞(はなむけ)としてこの世から消えよ!!」
私とバストレルは全く同時に互いへと向けて飛翔した。
地上世界の速さの概念など、まるで意味の無い速さであった。
例え光の速さの倍、百倍、あるいは無限倍であろうとも私達の域に達すれば、それは速いと評する事は出来ない。
そのような尺度は嫌な言い方になるが、地上世界の生ある者達にのみ適用される、下位の概念なのだから。
バストレルが両の手を鳥類の如く左右に広げ、掌に集中させた膨大な竜の気と魔力に、明確なる殺意を乗せて私へ振り下ろす。
応える様に私は右手一本に貯め込んだ力を、迫りくるバストレルの力に叩き込み返した。
この戦いの為に創造した閉鎖空間で無ければ、激突した攻撃の余波によって数多の世界が滅び、またあるいは誕生した事だろう。
私達の中間地点で炸裂した力は、極彩色の光と灼熱、衝撃となって私達の全身を打ち据えるが、それに構わず私は前進し続ける。
バストレルもまた力の衝突の余波を受けて素肌に焼け焦げを作り、鱗の一部を破損していたが、それでも私を目指して迫って来ていた。
距離を詰める間にバストレルの負った傷は塞がり、私に応じて力を高め続けている。
やはり私が力を発揮すればするほど、バストレルもまた力と霊格を高め、私と同じ領域へと昇り詰めて来るか。
私とバストレルは互いの防御を貫く威力の力を貯め込んだ攻撃を、飽きることなく叩き込み続け始めた。
海魔の神オクトゥルが傷一つ付けられなかった私の鱗に、バストレルの振るう私とレニーアの力が浴びせられ、バストレルもまた私の振るう攻撃によって次々と傷を受ける。
バストレルの左腕が付け根からもぎ取れ、腹部を守る鱗が弾け飛び、背中の翼も所々で破れてゆく。
傷を受ける度に霊魂を傷つけられる言語に絶する苦痛がバストレルを襲っている筈だが、絶え間なく襲い来る苦痛の波に揉まれながらも、その顔に辛苦の色はわずかも浮かんでいない。
瞳から虹の光を発し、頭からは角を生やし、首筋に新たに黒白の濃淡の浮かぶ鱗を生やしつつあるバストレルの顔に浮かぶのは、ただただ喜悦の感情のみ。
嬉しいか、バストレル。心地良いか、バストレル。
お前が夢想してきただろう神をも超える古神竜の域に達した事が、それほどまでに喜ばしいか。
これまで自分が座してきた魔導の極みが、ちっぽけな飾りにしか過ぎなかったと知れた事が、それほどまでに心弾む事か。
バストレルの肉体は頭部から足の付け根に至るまではまだ人間の造作を保っていたが、クリスティーナさんやドラミナと同様にこの世ならぬ美貌に相応しい艶めかしい乳房の頂きは屹立し、股間から伸びる男性器も固く勃起していた。
性的快楽さえも感じながら、バストレルは自身の霊魂と血肉にこんこんとわき出し続ける力を振るう快楽に取り憑かれている。
「ああ、貴方と出会えてよかった。貴方から作りだされたこの身と魂を、今日ほど喜ばしく、そして誇らしく思った事は御座いません!
永劫に、そう、時の流れぬこの世界に於いてさえ永劫と感じられる時を過ごしましょう、ドラゴン。
我が愛しき方、我が父君! ああ、私は今間違いなく、貴方を愛しています!!」
「消えろと言うたぞ? バストレルよ」
私が大きく開いた口から放った虹色のブレスによって、左半身を吹き飛ばされながらも、バストレルはかざした右手の先から鏡映しの様に虹色の光の奔流を、私を目がけて放つ。
私の視界全てを埋め尽くして迫りくる攻撃性の光に対し、私は力を込めた左腕を振るい、流れ落ちる滝を横一文字に断つが如く奔流を斬り裂く。
「こうして貴方の力を振るうと嫌と言うほど痛感させられます。
時の流れの支配、空間の秘密の解明、生と死の関係性、因果の改変による事象操作、異世界との連結による無限の力の行使、世界創造の方法。
かつて求め、いくつかは手にした秘事が神々からすれば、これほどまでに造作も無く、呆気ないものであったとは。
地上に生きる者達の何と矮小な事か、そして神々の何と強大である事か。そしてその神々さえ超越する貴方のこの力! まさにこの世の頂点に相応しい」
私に吹き飛ばされた左半身の再生を終えたバストレルは、やや落ち着きを取り戻した調子で、それでいて熱く私に語りかけながら七色に煌めく光弾を放ってくる。
その一発一発が地上世界に影響を及ぼせば超銀河団や島宇宙を消し去る所か、三次元そのものを消滅させるだけの力がある。
だが、私でなくともカラヴィスやマイラール、アルデスはおろか下位の神々からしても鼻で笑う程度でしかない。
ふむ、これ位の力ならばバストレルは完全に制御出来ているか。どこまで私の力を使いこなせるかは分からんが、さて……。
「私は頂点の座などに興味は無いが、貴様はどうやら違うらしいな。見る限り貴様の精神性は、先程までと変わらず下劣なままで高尚さはまるで感じられぬ」
「ふふふ、力を得れば心もまた変わらざるを得ませんが、どれだけ力を得ようとも心までは引き摺られていないと、お褒め下さい」
「たわけ!」
私が新たに放った七色の光弾の直撃を受けたバストレルは、腹腔から下を吹き飛ばされて臓物と赤い血を撒き散らしながら壮絶に笑む。
――まだまだ遊び足りない、もっと遊びましょう、もっと傷つけあいましょう、もっと殺し合いましょう、そう永遠に!
バストレルの笑みは、そう物語っているかのようだった。
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第九十一話
深い深い地の底。
光の届かぬ不変の闇に満たされた奈落。
死者の怨念が渦巻く幽冥境。
生前に犯した罪に応じた罰を受ける断罪の地、生前に積んだ功徳に応じて喜びを授けられる祝福の空。
天国と地獄を内包し、神々の魂さえも管理して輪廻の輪を循環させる世界。
その名を冥界という。
天界とも魔界とも竜界とも地上界とも異なる次元に存在する、魂が還り、そして再び地上へと向けて出発する場所である。
死せる魂が死神達によって導かれ、冥界とその他の世界との境目を守る三つ首の魔犬ケルベロスや魔犬ガルム、牛頭人身の牛頭(ごず)と馬頭人身の馬頭(めず)などを始め、数多の眷属達が守護と監視を行う中を、死した魂達が列を成して冥界の奥へと向かっている。
そのまま冥界の中心部へと進んだ死者達は、生前の行いによって死者を裁く大神閻魔によって天国と地獄への行き先を告げられる。
冥界にもまた天界や魔界同様に数多の神々が存在しているが、冥界の三柱神と呼称される大神が広く名を知られている。
冥界の秩序を司り管理するハーデス、死者の魂を裁き行く末を決める閻魔、死者を冥界へと導くと同時に罪を償い終えた魂に生を与える無間(むけん)。
冥界の三柱神の一柱であるハーデスは、冥界の中にある自らの領域エリュシオンにある居城の玉座にあった。
地下に存在する為に豊富な鉱物資源を独占し、富める者としての伝承も伝えられているハーデスだが、その伝承を裏切らぬように清浄な空気と澄んだ青空、可憐で清楚な花々の中に建つ居城は地上世界のいかなる文明も模倣する事のできない絢爛豪華さを誇っている。
死者の領域である事から、冥界には禍々しさやおどろおどろしさ、忌まわしい印象ばかりが地上の生ある者達に抱かれているが、少なくともエリュシオンとハーデス城はここが伝説に謳われる理想郷かと訪れた者が思うほどに清廉で神聖な雰囲気に満ちている。
ハーデスに仕えるニンフと呼ばれる妖精とも神ともつかぬ見目麗しい種族と、ハーデスの側近である神族が住まいとしている。
地上世界で産出される貴金属のみならず天界や魔界でしか産出されない筈の貴金属も含め、ありとあらゆる世界の物質を用いて建てられた冥府の神の玉座で、ハーデスはつい先ほど冥界に送られてきた一つの魂を見ていた。
彫の深い顔立ちに理性の光が煌めく瞳、緩く波打つ黒髪を長く伸ばしたハーデスは、艶やかな光沢を持った黒一色のローブに身を包み、静かな瞳で掌の中の魂に気品のある紫色の瞳を向ける。
――ああ、この力、この気配。これが貴方なのですね。古神竜ドラゴン! 私を産み出す為に用いられた因子、私が産み出された理由たる御方。
貴方の強大なる力を利用する――その欲望に突き動かされた古の愚かな者達が私を産み出そうとしました。
私を産み出した愚か者達が滅びても、次の欲深き者達が私に地上での生を与えました。
天人の科学者や魔導師達が私に向ける瞳。実験動物を見るあの不快な眼差し!
権力闘争に利用する為に、他種族を隷属させる武力とする為に、星の海の彼方からやって来る侵略者達を討ち滅ぼす兵器とする為に、私は産み落とされて利用されたのです。
天人達が星人達との戦いで疲弊して滅び、ようやく自由を得てもこの世界の何とおぞましい事、醜き事。
天人の支配から脱した所で、地上の生命共が行うのは己の領域を増やし、同胞を増やす為に他種族を弾圧し、蹂躙し、侮蔑する事ばかり。
おお、その悪しき心根 あさましき本性たるや、なんとおぞましい。
人類の善き所、美しき所もまたこの目で確かに見ました。しかし、それでもなお悪しき所、醜き所の方がはるかに多いのです。
ああ、私はこれだけの力を与えられながらなぜこの様な汚濁に満たされた汚らわしき世界に居るのかと、そう思わぬ時はありませんでした。
故に私は求めた。より高き世界。より清浄なる世界を。天界でも魔界でも良い。より優れたる存在なる神の域に至れば、この穢れから解放されるのだとそう信じて。
永劫とも思える時の流れの中で、私はついに天機を得たのです。
我が弟子の一人が亡国の女王と戦っている時、私の中の古神竜の因子がわずかに反応を見せた。
それは私以外に古神竜の因子を持つ存在が、この穢れに満ちた地上世界に存在していたと言う事。
まさに、まさにこれぞ私がこの世界に別離を告げる為の千載一遇の好機。その事を知った時の私の胸の高鳴りのなんと甘美であった事か。
だから私はドラミナ女王陛下を狙ったのです。彼女の身体と霊魂を暴けば、その中に私と同じ古神竜の因子を見つけられると確信したからです。
そして陛下をこの手に収めんとした時、私は貴方と出会えた! ドラゴン、全にして一なる御方よ。
望外の幸運によって得られた好機により、私は望んだ以上の高みへと瞬く間に昇る事が出来ました。
この身と魂に溢れる力の凄まじさと質に、私がどれほどの快楽と高揚を覚えた事か。同時に理解したのです。私が真に求めていたものが何なのかを。
ああ、ああ! ドラゴン、いと高く偉大なる御方よ。私の産まれたる理由の御方よ。貴方こそが我が父君、我が存在の根源たる御方。
どうか、このまま永劫に戦いましょう、遊びましょう。どうか、このまま私を見続けてください。私はここにいます。これが私です。
貴方の僅かな因子と情報から創り出された忌み子の私を、どうか憎んでください。どうか侮蔑してください。どうか忌避してください。
貴方が思って下さるのなら、それが憎悪でも良い。怨嗟でも良い。侮蔑でも良い。
私を見て!
私を思って!
私はここに居るのです。
私は貴方が居なかったら産まれる事も出来なかった。
だから、どうか、お父さん!!
ドラゴンによって生命を断たれる最後の瞬間まで思い続けていたバストレルの思念を読み取り終えたハーデスは、わずかな憐憫を交えた声音で静かに言葉を紡いだ。
「これが汝の最後の願望か」
冥界の主たる偉大なる神は、掌の上に浮かべた青白く燃える火の球を思わせる魂を手離し、同胞たる閻魔の元へと送り届けた。
本来、冥界に招かれた死者はまず閻魔の元へと向かうのだが、旧知の仲であるドラゴンと縁を持つ死者だった事に興味を惹かれ、ハーデスが無理を言って先にバストレルの思念を読み取っていたのである。
清浄なる神の地エリュシオンから遠き地上の出来事をつぶさに見ていたハーデスは、閻魔の裁きによって地獄の深部に落とされ、比喩では無い地獄の責め苦を永く味わう事になるバストレルに、今となっては意味の無い言葉を口にした。
「カラヴィスが産み出せしかのレニーアなる神造魔獣の如く振る舞えていれば、あるいは産まれてすぐにドラゴンと出会っていたならば、違う結果となったであろう。
今となっては栓無き事ではあるが、産まれと育ちに恵まれなかったな。
だが、魂を滅さなかったのはドラゴンよ、汝が情に動かされたからか? それともこの者の魂が思いの他強靭であったからか? そなたらしくもあり、そなたらしくもない」
ドラゴンの古き友であるハーデスは、その答えを知りながら口にせずにはいられなかった。
その中にはほんの少しだけではあるが、生き返ったのなら一度は顔を見せに来ればよいのに、と拗ねた調子も含まれていた。
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第九十二話
ドランが将来の妻にとドラミナとセリナを望んでいた頃、戦神アルデスの領域ではちょっとした騒ぎが起きていた。
アルデスが領地と定めた世界は、古今東西ありとあらゆる戦場が集められたその中央に、かろうじて城と見える巨大な建築物が建てられている。
あらゆる時代とあらゆる文明の意匠が組み込まれた城は、ともすれば歪な継ぎ接ぎの城のようにも見えるが、これは招かれた
ヴァルハラという世界の名前をそのまま冠したヴァルハラ城の片隅に、聞いた者の背筋を反射的に正させる凛冽とした声が響き渡る。
「兄上、アルデス兄上はいずこにおわす!」
山のように大きな巨人も悠々と歩ける広大なヴァルハラの回廊を歩くのは、朝陽に似た色の髪をうなじに掛る程度に切った女神。
瑞々しい太腿や肩、脇を大胆に晒し、身に纏っているのは沁み一つない純白の極短い丈のスカートとシャツ、さらにその上に胸部から腹部を守る革鎧程度だ。
引き締められた肢体は女性よりも戦士としての機能に特化しているようだが、露わになっている肌の輝きや、二十歳になるかどうかの美貌、腰のくびれやまろやかな尻のラインを見れば極上の美少女である事は明らかである。
アルデスを兄と呼ぶこの女神は、正しくアルデスの妹である女神アミアスだ。
「まったく、一体どこに行かれたのか、あの兄上は……」
いくら呼んでもアルデスからの返事がない事に、アミアスは足を止めてやれやれと言わんばかりに溜息を吐く。
この様子から察するにアルデスの唐突な放浪癖は以前からのものらしい。
他者に迷惑を掛けることを考えない兄の悪癖に何度も困らされてきたアミアスが、今日もかと首を振っていると、アミアスの声に気付いた眷属神の一人が颯爽と姿を表し、アミアスの足元に跪く。
ぬらぬらと輝く粘液を滴らせる十二本の触手の下半身と、逞しい人間の上半身を持ったこの異形の存在は、三千年前に眷属神に昇格されたエインヘリアルだ。
名をベルゲムという。
「アミアス様」
「ん、ベルゲム、兄上がどちらに居られるか、知っているのか?」
「はい。本日アルデス様は湯浴をしておられたのですが、突如湯浴を打ち切られて槍を手に地上へと向かわれました」
ぴくり、とアミアスの眉が動き、足元に跪くベルゲムへと険しい視線を向ける。
神なるものなればこそ耐えられるが、地上の生物では例え竜種であっても昏倒しかねぬ力ある視線であった。
「なに、地上へと? しかしなぜ兄上が地上へ行かれるのだ。確かに地上へ行く事は出来るようになったが、地上の種族と同程度にまで力が抑制されるのは否めん。
そうまでして兄上が地上へ行く理由など……まさか! ベルゲム、よもや兄上の耳にドラゴン殿の事が伝わったか!?」
焦りを隠さぬアミアスの言葉に、ベルゲムは自らの失態であるかのように顔を俯かせ、声を絞り出して答える。
「はっ、アミアス様の御懸念の通り、アルデス様がドラゴン様転生をお知りになられたものと推察いたします。全ては我らの不徳の致す所、誠に申し訳ございません」
「いや、いくら隠そうともいずれは兄上の耳に届いた事。それが今だったと言うだけのことだ。
それに先日、ドラゴン殿がその御力を振るった戦いを、兄上が見逃すとも思えない。私も少しばかり気を緩めていたと言う事。
しかし兄上にドラゴン殿の事が伝わればこうなる事は分かっていたが、実際にそうなると堪えるな。まったく行動力があるというのも考えものだ」
始原の七竜で唯一討たれたドラゴンが人間に転生した事は、実の所すでに天界に広く伝わっている。
だがこの事をアルデス系統の神々や他の神性達は、これまでアルデスの耳に届かないように配慮してきた。
というのも生前のドラゴンに対しアルデスは暇を見つけては戦いを挑み、神としての務めが疎かになりがちになると言う問題が発生した実績があるからだ。
実際、ドラゴン転生の報を知ったアルデスは湯浴を途中で切り上げて地上に赴く始末。
強者との戦いを望むのはこのヴァルハラに居る全ての者が共感と理解する所ではあるが、それはあくまで課せられた義務と務めを果たした上でのことだ。
曲がりなりにもヴァルハラの最高位神格であるアルデスが自らの務めを放棄し、ドラゴンとの戦いの為に地上へ降臨するなど、他の者達に対し示しが着かない。
生前のドラゴンに挑んでいた頃から、アルデスに対してアミアスは口を酸っぱくして注意してきたのだが、これがちっとも効果がない。
であるから注意する労力が勿体ない為に、アルデスにドラゴン転生の情報が届かぬように隠蔽してきたのだが、遂にそれが終わりを迎える時が来てしまった。
「仕方ない。ベルゲム、私も兄上を追って地上に向かう。
ドラゴン殿に要らぬ迷惑をおかけする前に、なんとしても兄上をヴァルハラへと連れ帰らねばならぬ」
「は、しかしアミアス様までヴァルハラを後にされてよろしいのですか?」
「無論我ら兄妹がヴァルハラを空けることに問題がないとは言い切れない。出来る限り急ぐ故、それまで兄上と私が地上に向かった事はなるべく伏せておくのだ」
「分かりました。アミアス様のお言葉の通りに」
「よろしく頼む。まったく、兄上のあの性格は死ぬまで治らんな!」
憤慨を露わにするアミアスは歩む速度を速めて自室へと戻り、愛用の武具を手に取るやすぐさまアルデスが向かった先の特定と、地上降臨の準備を始めるのだった。
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第九十三話
「あの、もし、そこの御方。ドラゴン様」
弱々しく震える声は、人間としてのではなく我が魂の名前を口にした。
私の魂の名を知っている。それだけでも相手が神魔そのものかその眷族に位置する存在である、と警戒するには十分すぎる。
この場合の警戒は私に危害を加えられるという意味ではなく、私の人間としての生活に余計な揉め事を持ちこむ可能性がある、という事に対する意味になる。
振りむく私の視線の先には、善悪どちらの神にも属さぬ中立に位置する神ゼノビアの薄紫色の神官衣を纏った、うら若い少女の姿があった。
「ふむん」
ゼノビアに仕える天使で、自らをセレステルと名乗った少女は、私を魔除けの鈴亭に取った個室に誘い、話をと申し出て来た。
簡素だが良く磨かれて清潔な白布を被せられたテーブルには、注文したスオム茶が二つ湯気を噴いている。
存在の格で言えば本来私とセレステルは、言葉を交わす事もない様な隔絶された存在である。
その為に目の前のセレステルは見ているこちらが可哀想になる位、震えて萎縮している。
私に害意があるわけではないようだが、私を騙す為の演技か? にしてはあまりの怯え様である。
下手な事を口にすれば私に跡形もなく消し飛ばれる、とでも思っているのかもしれない。
いくらなんでもそのような無体な真似はそう安易にはしないのだが、ゼノビアとは別段親しくもなかったし、私の邪神に対する仕打ちを知っていたらこう怯えるのも無理はないのかもしれん。
「ふ~む、とりあえず茶でも飲んで落ち着け。取って食いはせんぞ」
「はははは、ひゃい!!」
セレステルは盛大にどもりながら目の前のカップに手を伸ばし、がたがたと震えるカップからスオム茶が零れてしまう。
流石にここまで怯えられると前世での行いを顧みる必要があるように感じられるな。
にしても私は一体どのようにゼノビアの一派には伝わっていると言うのか。
地味に私が傷ついていると一息でスオム茶を飲み干したセレステルは、腹を括ったか震えを止める。
ただしその代わりにつぶらな瞳が印象的な顔は、その色を青を通り越して白く変えている
右を向いた美女――ゼノビアの横顔を象った教団のペンダントを固く握り、セレステルは自らの主の名を数度呟いてから、口を開く。
「こ、この度はドラゴン様の貴重なお時間を賜り、ありがとうございます。 本日、こうしてドラゴン様にお声をかけましたのは、我が主ゼノビアよりの命にございます」
「そう固くならずと良い。
そなたがどのように私の評判を聞いていたかは知らぬが、そなたがむやみに人間を傷つける様な真似をしないのであれば、私から危害を加える様な事はせぬ。
で、ゼノビアの命とはいかなるものか?」
セレステルの表情はここを己が死地と定めた者のそれであった。
いや、ここは戦場でも何でもない食事処兼宿屋の一室なのだが……。
「我が主ゼノビアからの命はただひとつ」
「ふむ。よほど無茶なものでなければ、聞くだけなら構わんが、なにかな」
セレステルは私の目をまっすぐ見ていた姿勢から、ごん、と音を立ててテーブルに額を叩きつけながらこう言った。
「なにとぞ、我が主ゼノビアをご信仰くださいませ!!」
「……ふむ? ゼノビアを信仰せよとな」
「その通りでございます。御身が人間に転生されてより十六年あまり。大神マイラール様をご信仰されている事は百も承知。
そして貴方様の祈りを受けたマイラール様のお力は格段に増しており、願わくは我が主にもその一端なりをお分けいただければ幸いと、このようなお願いをいたしております」
腹を括ったセレステルは先ほどまでとは違い、口ごもる事も噛む事もなく私に対する用件を口にしたが、よもや信仰の話が出てくるとはこれは正直言って予想外であった。
セレステルは私がマイラールを信仰しているとは言うが、本気で信仰しているわけではない。
あくまで人間として生活する上で必要最低限の範囲で、マイラール教の教義に従っているだけである。そもそもマイラールは私にとって信仰する対象以前に、最良の友だ。
その友の助けとなるのなら、とここ最近は気合いを入れて祈っていたが、他の神からかようなことを言われるとはいやはや。
ちなみにマイラールがカラヴィスと違って、私にちょくちょく顔を見せたりしていないのは、地上への自由な出現がカラヴィスの特技である事もあるが、食前や何かの行事の際に祈りを捧げるときに、高い頻度でマイラールと世間話をしているからだ。
「そうは言うが私の祈りで得られる力は、マイラールからすればそう大したものではないぞ。
他の人間の信徒よりは格段に大きいとは思うが、さりとて大神からすれば微量であろう」
「しかし、しかしながらドラゴン様からの祈りより得られる力は、通常の人間の信徒数億人、いえ数兆人、いえ数京人、いえ数無量大数人分にも匹敵しましょう。
なによりドラゴン様の知己を得られるとあれば、これは如何な宝物、奇跡にも代えがたきもの。
我が主ゼノビアは善き神にも悪しき神にも属さぬ神なれば、信仰したとてどこに角が立ちましょうや、いいえ立ちません!
恐れながら地上における教団の規模こそマイラール教には劣りますが、かといって迫害も受けてはおりませぬ。
このアークレスト王国で表立って信仰をしたとても、異端審問にかけられるような事もないのですよ。
ドラゴン様が抱かれるあらゆる欲望を、それが真に望まれたものであるのならば、我らは肯定いたしまするぞ」
実在する神の数があんまりに多いものだから、敵対する陣営に属する神性でもなければ、基本的にこの世界での信仰はかなり寛容である。
欲望を司るゼノビアは、時としてその教義を都合の良い様に解釈した信徒が騒動を起こす為、煙たがられる事もある。
だが己の欲望と真摯に向き合い、真に己が望むものを見出す事、欲望にただ従うのではなく数多産まれる欲望の取捨選択や自制もまた教義の中で説いている。
神の教えというよりも、それを受ける信徒の人間性によって行いが大きく左右される、信徒側に比重の置かれたなかなか珍しい類の教団と言えよう。
「そうは言うが、まあマイラール教の神官位を授かっているわけでもないし、ゼノビアへの信仰を口にしても問題はほぼ無かろうが、かといって鞍替えをする理由もない」
「もちろん無償で鞍替えをというわけではございません。そのような厚かましいお願いはできません。
マイラール様へのご信仰はそのままで結構でございます。我が主への祈りを、こう、ちょいとしてくださればそれで十分でして、はい」
そう自分の主への信仰を安売りせんでも良いと思うが、しかしセレステルは必死である。
というか二神に信仰を捧げるのは良いのか? マイラールはそう気にはしないだろうと簡単に想像はつくけれども。
ふうむ、と私が口癖を一つ突けばセレステルはここが勝負どころと考えて来たようで、一挙に畳みかけてくる。
「なにもただ祈って下されというわけではございません。今ご信仰いただけるのであれば……」
机に手をついて私に向けてずずいっと身を乗り出したセレステルが、とどめの一言を口にしようとした所で、勢いよく扉が開かれて制止の声が私達の耳を震わせた。
「お待ちを!!」
「ドラゴン様、我らのお言葉にも耳を傾けて下さりませっ」
「ゼノビア殿の天使ばかりでなく、私共にも機会をお与えください!」
扉の蝶番がはじけ飛んでしまいそうな勢いで扉を開き、セレステルの言葉を遮ったのはさまざまな宗派の神官たちであった。
押し合いへしあい、互いの身体がぎゅうぎゅうに扉で詰まってしまって、部屋に入れなくなっている。
なんともはや間抜けな光景だが、この神官達は実の所人間は一人もいない。その全てが神界に住まう天使や下級神であった。
本来、地上に降臨すればいかな宗教の頂点に立つ大神官、大司教、法皇であろうと頭を伏し、最大の礼をもって接する天使や下級神達が人間に姿を変えて、私を訪ねて来たようである。
ふむふむん。鉱物を司る神、牧羊の知識を人間に伝えた神、気候の変化を司る神、信仰に応じて植物の種子を授ける神、と様々な神の眷族達だ。
「用件はセレステルと同じらしいな」
私は鉛を飲んだように重い息を吐いた。
我こそはと先んじて私に自分の所の主神を売りこもうとする彼らを宥め、取り敢えずくじを引かせて順番を決めて、一列に並ばせる。
それから一人ずつ順を追って話を聞くことにした。
この場合、大人気ではなく大神気でもいうのだろうか、と私はどうでもよいことを考えて、少し現実から目を逸らしていた。
「お初にお目に掛ります、ドラゴン様。私は知恵と知識を司る神オルディンにお仕えするマーメルにございます」
私の目の前でオルディンの知識の象徴である、擬人化した月と太陽の紋章を配した神官衣の女性が、恭しく頭を下げる。
セレステルとは違い、実に堂々とした振る舞いである。
下ろしたフードの裾から金色の髪の毛がさらりと零れ落ち、美しい青い瞳が私の顔を映している。
感じ取れる霊格から察するに最高位の天使、熾天使(セラフ)であろう。
「ふむ、そなたとは初めましてだな。オルディンか、人間に魔法の理を伝えた知識神達の主神の一角。魔法学院の生徒である私にとっては縁深き神であるな。
前世でも少々付き合いがあったぞ。オルディンは産まれた時から老爺であったが、相変わらず壮健であるかな?
オルディンは理を解き明かすことに血道を上げ過ぎて、視野が狭くなる悪癖があったが、それも変わらずか?」
私の正体を知る者が相手と言う事で口調を前世のそれに近づけた私が、付き合いのあったオルディンの使いを相手にわずかに好意を声に乗せた事に、順番に列に並んで私の勧誘待ちをしていた他の者達が眉間にしわを寄せた。
「はい、変わらず壮健にございます。我らが主はドラゴン様が魔道の理を解き明かす道をお選びになったことを、大変喜んでおります。
つきましてはマイラール様同様、我らにもお力添えをいただければと、参りましてございます」
「ふむん。魔法学院で授業を行っていると、オルディンの名前は良く耳にする。生徒達の中にはオルディンを信奉する者も少なくは無い。
信仰と引き換えに多くの知識を授けるオルディンであるならば、確かに信仰する価値はあろう。
しかしこのような打算的な形で信仰を得るのは、人間と神との間にあるべき信仰の形ではあるまい?」
私の指摘にマーメルはにこりと笑む。良く出来た生徒の回答を褒める教師のような笑みである。
ふむん、どうやら私の存在をこれっぽっちも恐れてはいないようだ。度胸のある女天使だな。
「ドラゴン様の言われる通りにございます。私だけでなくこの場に居る者達の申し出は、信仰というよりもさながら商い、あるいは取引と言うべきでございましょう。
断じて人間と神の間にあるべき信仰の形ではございません。しかしながら、貴方様は古神竜でございます。特別に、という事でご容赦ください」
ここでマーメルほどの美天使がにこりと微笑むのは卑怯と言うものだ。
「確かに、今回は人間と神との信仰とは言い難いな。となるとこんな形の取引もありかもしれんな」
人間式の魔法の使い方に関しては学んでいる途中の私にとって、人間に魔法を授けた実績のあるオルディンは、今後何かにつけて利便性の高い相手であることはまず間違いない。
心の中でオルディンへの信仰に対して高得点をつけ、私は腕を組んで考え込む素振りを見せておいた。
「ふむ。オルディンとは付き合いもあったし、信仰を考えるのも悪くは無いか」
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第九十四話
――その日、いくつもの世界と幾人もの人々に激震が走った。
大地母神マイラールを奉ずるマイラール教は、女性の教皇と大神官長、十一名の大神官、そしてマイラールとその系譜に属する神々からの神託によって運営・統治されている。
マイラールの地上代行者たる女教皇が座します大神殿は威容と称するに相応しい大きさだが、マイラール教の規模から考えれば驚くほど質素な造りである。
豊饒なる大地の恵みと共に生きることを教義にて説くマイラール教においては、世俗的な富や栄誉にさして価値を置かない為だ。
はるかな太古より、カラヴィス教団をはじめとする邪神教徒達と果ての見えない戦いの歴史を紡いできた為に、常に五千名を越す神官戦士達が大神殿の守りを固めている。
彼ら以外にも一年を通して巡礼に訪れる参拝者たちや近隣の農民達、参拝者目当ての商人たちなどが絶えず大神殿に続く大街道を歩む為、大神殿は常に人々の活気と足音に包まれている。
大神殿そのものは大陸有数の気脈の集合地点の真上に建てられている。
標高はそう高いものではないが、峻険な事で知られるガヴェン山脈の中腹を掘り抜き、山肌に露出している部分と山脈内部に建造された部分との二構造に別れる。
当代教皇カトレアと補佐役である大神官長と二名の大神官、その護衛の為に選抜された最精鋭の神官戦士や神殿騎士、世話役の神官達は山脈内部に住まい、一般の信徒達が彼女達の姿を見る機会はそう多くはない。
大陸各地の神殿に散った九名の大神官や、各地の情報を収集し伝える巡察士と呼ばれる特別な役目を持った者以外は、教団の者でもおいそれと足を踏み入れられる場所でもなかった。
カトレアが普段教皇としての日常業務を行っているのは、ガヴェン山脈頂上にして大神殿最上階でもある大地の階と呼ばれる階層である。
山脈の頭上より大地を見渡し、大地の上で生きる人々と大地そのものの姿と声を全身で感じ取り、マイラールとの精神交感の位階を高めるのに最適の場所だ。
カトレアは“その時”、大地の階にある祈りの間にいた。
足元は平らに均された山肌で、部屋そのものは窓のない半ドーム状になっている。天井にはマイラールを中心にその眷属神達をはじめとした者達の御姿が描かれている。
そしてマイラールのすぐ傍らには、白い鱗と六枚の翼、虹色の瞳を持った古神竜の姿もあった。
マイラール教に伝わる神話が、カトレアの頭上に見る者の心を捕らえて離さぬ圧倒的な精緻さと厳かさ、そしてなにより神秘さと共に広がっている。
祈りの間に一つしかない入口の脇には、神官戦士と神殿騎士が一人ずつ控え、さらに常にカトレアの傍に居る大神官長が物音一つ立てずにいた。
祈りの間の中央で膝を突き、両手を握って頭を垂れる――ほとんどすべての宗教に共通する祈りの姿勢にあるカトレアは、マイラール教を束ねる教皇という立場を考えると、多くの人々からは若すぎると見られるだろう。
当代女教皇カトレアは在位五年、今年で二十二歳になる。歴代の女教皇を振り返っても、年若い女教皇である事は確かだ。
カトレアは絹の光沢を持った波打つ黒髪を太腿に届くまで伸ばし、化粧っ気のない肌は健康的に色づいていて、ずば抜けた美人と言うわけではないが、傍に居るだけで安らぎを覚える包容力と慈愛に満ちた風貌の女性だ。
カトレアは教皇の正装として白い神官衣の上にフード付きのマントに袖を通し、さらに首からマイラール教の教義を金糸で刺繍した青地の長布を掛けている。
山肌がそのまま剥き出しになってはいるが、毎日何度も掃き清められている床は、床に垂れたカトレアの髪や衣服を汚す事は無い。
身じろぎひとつせず祈り続けるカトレアの姿と、呼吸の音すら立てない大神官達の姿から、この場を目撃した者は、ここは時が止まった部屋かと錯覚してしまうかもしれない。
時が流れる事を忘れたかのような静寂と沈黙は、カトレアが唐突に祈りの姿勢を崩して立ち上がった事によって破られた。
両手を組み、長い睫毛に縁取られた瞼を柔らかに閉じていたカトレアは、雷に打たれたかのように全身を震わせるや、勢いよくその場で立ち上がり、常からは考えられない当惑の表情を浮かべる。
カトレアの異常に気付いた大神官長や神官戦士達が何事かと駆け寄り、カトレアは母親代わりを務めていた大神官長に、三人の目を気にする余裕もなくひしと抱きついた。
まるで恐ろしい夢に怯えた子供が、母のぬくもりを求めるかのようなカトレアの行動に、大神官長は窘めるよりも己の胸の中に飛び込んできたカトレアの身体を優しく抱きしめる事を選んでいた。
お腹を痛めて産んだ子ではないが、大神殿の敷地の片隅に産み捨てられていたカトレアを我が子同然に育てたのが、当時既に大神官の地位にあったこの大神官長であった。
皺深い大神官長の手がカトレアの頭を労わるように優しく撫で始めると、カトレアの震えは止まって強張りが抜けて行く。
もう大丈夫だ、と大神官長は安堵を噛み締めながら、同時に不安を抱かざるを得ない。
カトレアは年こそ若いが歴代の女教皇と比較しても決して遜色ない。
徳高く智勇に優れ、五年の在位期間の間にも大神殿の者達はもちろん、大神殿を訪れる教徒たちからも絶大な信頼を寄せられている。
先代、先々代女教皇を知る大神官長が贔屓目なしに見ても、カトレアが女教皇の地位にある間は何も心配はいらない、そう太鼓判を押せる逸材なのだ。
そのカトレアがこうも幼子の様に震えてしまうとは、一体何が起きてしまったのか?
「猊下、一体何があったのです。私達にもお話し下さい。胸の中に留めず口に出されれば少しはお気が安んじられましょう」
「ああ、なんということか。マイラールが、マイラールが……」
「偉大なるマイラールが、どうなさったのです。猊下?」
「私がマイラールの声を聞いてより、初めてです。こんな事は。マイラールが、マイラールがお怒りになっています!」
そう、マイラールは怒っていた。
友であるドラゴンを誘惑する宿敵カラヴィスに。
そしてわざとではないが湯の滴を纏い、湯気を噴く裸尻を目の前に突きつけてくる戦神アルデスに! 男を知らぬマイラールにこれはいささかキツい。
*
マイラール教と対をなすカラヴィス教団は、それぞれの崇める神が対立する神性である為、創設当初から相争う宿命にあった。
しかしながらマイラール教が時を経るにつれて、人間ばかりでなく地上に住まう多くの種族に広く信仰されてきたのに対し、カラヴィス教団はその主神の気性も相まって、今一歩というか今十歩ほど宿敵には及ばないのが実情であった。
マイラール教がガヴェン山脈に本拠地を構えるのに対し、カラヴィス教団は大陸の何処ともしれぬ場所の地下深くに本拠地を築いている。
悪しき神が創造した妖魔や魔獣を支配下に置き、邪悪な奇跡の欲望に取りつかれた人間達を信者に持つこの教団は、現在大陸の信徒数は十万とも二十万とも言われている。
信徒らからの寄進や妖魔達に奉納させた財を持って作り上げられたカラヴィス教団の地下大神殿には、定まった姿を持たぬカラヴィスのありとあらゆる姿の神像が乱立している。
カラヴィスが過去に産み出した無数の怪物共の石像が多く安置され、乏しい灯りが落とす異形の影の中では、信徒達が各々の欲望に従った行為に耽っている。
カラヴィスが司るのは破壊と忘却。自称する所ではこれに愛が加わり、本人も知らぬ所ではお漏らしも加わる。
物理的な意味での破壊と忘却に留まらず、あらゆる道徳や論理、社会、観念の破壊と忘却をも意味しており、それを実践する者にはカラヴィスから加護と祝福が与えられる。
それは無制限無秩序な欲望の肯定を意味し、地下深くに築かれた大神殿は常におぞましい行為が延々と繰り広げられている。
かような忌まわしき教団の長である教父を務めるのは、ギルダーという男であった。
ひょろりと縦に長い痩身長躯の、四十を数えたばかりの男である。
先代教父よりその役職を継いだばかりのギルダーは、大神殿中央にある教父の為の部屋で、椅子に腰かけて頭を抱えていた。
ギルダーは教父の地位を継いだ当初、まさにこれからが邪悪な欲望を満たす為の策謀を巡らすべき時、と胸にどす黒い欲望の炎を焦熱地獄のごとく燃やしていた。
だがその野心は教父就任後まもなく潰える事となる。
この世界に人間として転生したドランことドラゴンとカラヴィスが接触し、カラヴィスが教徒全員に行動の自粛を強く戒めた為である。
だがカラヴィス教団創設より初めての事態に誰もが困惑する中、欲望に負けた何名かの教徒たちがその禁を破った。
その者達がカラヴィスからの制裁を受けて体の端から腐り果て、それでもなお死ぬことも狂う事も出来ずに苦しみ続ける姿に、ようやく他の教徒たちはカラヴィスからの戒めが真実であると知り、教団は初めてその活動を自粛している。
ギルダーを悩ませているのはようやく教父の地位に就いたというのに、その権力も力も発揮する事が出来ず、手をこまねいているほかない現状が一つ。
そしてもう一つは先代教父より受け継いだカラヴィス教団の至宝の一つ、カラヴィスが自ら筆を取ったと言う最古の教典にあった。
カラヴィス教団には過去、様々な生贄や祈りを捧げた事によって得られた祭器がいくつか存在するが、その中にあってこの始まりの教典はもっとも価値ある至宝として受け継がれてきた。
そしてこの教典こそが教父の証でもある。
教典の内容に関しては代々の教父のみが目を通す事が許され、読破する事によって霊的位階が劇的に上昇するとも、カラヴィスと直に顔を合わす事が出来るなどと教徒たちの間では噂されてきた。
初めてその教典を目の当たりにし、先代教父より手渡された時、ギルダーは己が教団の最高位に昇りつめた事を実感し、歓喜に打ち震えたほどである。
だが教父の為の部屋に入り、今も腰かけている椅子に座って教典の内容に目を通した瞬間から、ギルダーは激しい困惑と後悔に苛まれている。
どうりで、とギルダーは思わずにはいられない。どうりでこの教典を手渡す時に、先代教父が自分を憐れむような視線を向けていたわけだ。
こんな教典の内容など知らぬに越した事は無い。
いや、別にこれまで伝えられてきた教義に反しているわけではない。無いが、しかし、これはあんまりと言えばあんまりだ。
「こんなもの、どうあっても教徒たちに伝えられる筈もない。教父以外の者が知ってはならぬと禁じられたのは、この内容が理由か。
おお、カラヴィスよ、破壊と忘却を司る大女神よ、善と悪の境目に踊る道化の女神よ、これでは教父の胸の内に留めるしかないではないか」
いまも机の上に広げられている黒い背表紙の教典には、意訳すればこの様な事が書かれていた。
『からかう時は命懸けだけど、ぼくの一番の宿敵で一番の友達。大好きなドラちゃん』
『ドラちゃんが人間に転生したみたいなのでちょっかいを掛けに、ドラちゃんの夢の中に入って見る。さってと、ドラちゃんになんて声を掛けようかなあ』
『やっべ。転生したから随分弱っていたみたいだけど、それでもまだドラちゃん強いよ~。ちょっとハイになって突撃かましたら何にも出来ずにボコられちった☆
前よりましとはいえこれはしばらく様子見だネ!
でもなんて言うんですかねえ、ふふ、ドラちゃんが相変わらずどうしようもない位とんでもないのが、とっても嬉しいなあ、ぐへへっへ』
『ていうかさあ、ドラちゃんさあ、こーんな美女神が誘っているのにさあー、一向に梨の礫なんですけどぉ、ちいっとも反応しないのって失礼じゃねー?
そりゃぼくは子供作った事無いけどさー、ドラちゃんとの子供だったらちゃんと面倒見るもんね!
百でも二百でも産むもんね! 身も心も乙女だけどドラちゃんになら捧げてもいいもんね!! もんねもんねもんね!!!』
『あれだぜやばいぜドラちゃんに呼びつけられたから喜び勇んで行ってみたらすっかり忘れてた昔ぼくがドラちゃんの霊魂と因子からつくった子が転生してドラちゃんと接触してたよマジかよマジだよドラちゃんの逆鱗を引っぺがしかねない事をすっかり放置しちゃってたよやばいよやばいよや~ば~い~よ~』
『いやったぜええええええ。例の子の事でやっぱりドラちゃん怒っていたけど、その子を作った事にじゃなくって、その子を放置していた事にドラちゃんマジギレ一歩寸前。
やべかったすわあれ。でもねでもねその子がね、ぼくの事をね、庇ってくれたの。
あの、誰も彼もが恐れ震えおしっこチビって泣くしかないドラちゃんの前にね、立ってね、ぼくの事をね、庇ってくれたの~~。
なにあの子、超健気。超可愛い。もう、もう、もう! なんて愛しい子なんだろう。ドラちゃんも既に情に絆され気味?
いよっし決めた。ぼくはこの子を心の底から愛し子として見守って、愛して行くよお~~~』
『びえええええええ~~~んん!!! うわああああああああああんん!!! ど、どら、ドラぢゃん怒らせちゃっだけど、ごめんよお!
巻き込もうと思ったんじゃないよぉ、本当だよぉ!! ごういうどぎどらぢゃんは本当に悲しそうにするがら、だだ怒られるよりも心を抉るがら、うう、うわ、うわあんんん、ごめんなあさいいいい』
なんだこれ、とギルダーで無くとも言いたくなるだろう。これでは日記だ。しかもギルダーが初めて目にした時よりも記述が増えている。
どうやら今もカラヴィスの思考が、半ば自動で筆記されるようだ。
何千年と信仰が続けられてきた邪悪で偉大なる大女神の齎した至宝が、まさかこのような日記めいたものだったとは!?
かくてカラヴィス教団の教父たちは代々その座を受け着く度に頭を抱え、自分の信仰を問われるのであった。
なおカラヴィスはこの教典の存在をすっかり忘却していた。
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第九十五話
ドランが畑の世話から神々の営業活動に巻き込まれている間、セリナはドラミナの所有する馬車の中に入り、さらにその内部にある私室でドラミナと机を挟んで話し合いをしていた。
両者共にドランの婚約者としての立場を獲得した彼女達は、お互いがドランの一番となる事は譲れぬものの、それを抜きにすればお互いを尊重し合える人格の持ち主だったから、ベルン村とガロア魔法学院で今後どう過ごすべきか話し合っていた。
ドラミナは朝や昼でも行動できる稀有なバンパイアであったが、やはり太陽の昇っている時刻に行動する事は、心と体の深部に少しずつ疲労が澱の様に貯まって行き、思わぬ時にそれが表出する恐れがある。
であるからドラミナは大いに渋ったものの、ドランの説得により陽が出ている間は、ドラミナにとって最良の寝床である故郷の土と樹木や鉱物で造り、闇と気と魔力を封じ込めた棺桶で大人しくする事になっている。
ただセリナとの話し合いにおいては、棺桶の中にいたままでは礼を失する、そしてお互いの顔を見て話をしたいというドラミナの意向によって、棺桶の外に出ていた。
本当にわずかな私物や最低限の家具を除き、故郷の復興の足しにと置いて来たドラミナの私室は、以前セリナがドランと共に足を踏み入れた時とは別室の様にこざっぱりとしている。
それでもここは天上世界の宮殿かと思う高貴さが感じられるのは、代々のヴァルキュリオス王国国王達が愛用してきたこの馬車の歴史の重みと、当代の部屋の主によるものだろう。
セリナはドラミナが手ずから淹れたターコイズローズティーを飲みつつ、朝方から熱心にドラミナと話し合いを続けていて、ソファに長い下半身を投げ出し、時々熱がこもり過ぎて尻尾の先端でカーペットをピタピタしている。
ドラミナの出自に関する問題は、半ばオリヴィエ学院長に任せる事で一旦は解決として――いざとなればセリナの時同様文字通りの神頼みという手もある――日常生活の中でのドラミナの立ち位置について、が主な議題である。
馬車やスレイプニル達を魔法学院に入れるのは問題ないとして、ドラミナが魔法学院の中を普通に歩き回ろうものならば、クリスティーナに匹敵する騒動が巻き起こるだろう。
だからといって陽の出ている時刻にずっとドラミナが棺桶に引き籠っているのも、あまりにも不公平と言うのがセリナの見解であった。
恋敵に対して何とも甘い見解であるが、そういうセリナだからこそドランは愛情を抱いたのだし、ドラミナも友人として好ましく思っているのだから、短所と見るよりも長所と褒めてあげるべきだろう。
「う~ん、ドランさんがドラミナさんの棺桶……ベッド? を引き摺って歩き回るわけにはいきませんねぇ」
むむう、と可愛らしく口を尖らせるセリナに、ドラミナは幼い妹を見る姉のような表情を浮かべ、笑みを含めた声で答える。
「私としては二つ案があります。一つ目はヴェールや帽子で顔を隠して、ドランとセリナさんと一緒に行動するというもの。
二つ目は私が普段はドランの影の中に潜むというものです。
これなら陽光を浴びずに済みますし、使い魔としてあるいは伴侶として常にドランの傍に居られる上に、護衛もできます」
「なるほどなるほど~、特に二つ目の案が良いと思います。
普段、ドランさんは影を収納用の空間にしていますけれど、そこにドラミナさん用の部屋を造る位はドランさんなら『ふむ』の一言で済みそうですものね。
それなら三人一緒に行動できますし、二つの案を時々に使い分けても良いと思いますよ」
「ベルン村でも基本的には同じようにするつもりですが、将来はこちらで暮らす事になりそうですし、やはり村の皆様には私の顔をお見せして御挨拶をして回るのが礼儀というものでしょうね」
「ベルン村の皆さんはクリスティーナさんで耐性が出来ていますからね。
お義父さんとお義母さんやお義兄さん達はぽうっとしちゃいましたけれど、二回目以降からは慣れてくれると思います」
うんうんとセリナは力強く頷く。
ここまで実感に溢れているのは、春休みの時にクリスティーナがベルン村を訪れた時と、今回の夏休みで訪れた時とでのベルン村住人の反応の差を知ったからだろう。
一度目のクリスティーナ来訪の際には、数日は使い物にならなくなるか、生涯消えない心の後遺症を患ったベルン村住人も、二度目の来訪時にはその日の内に正気に戻る者が大半を占めていたからだ。
といっても表面上は、と前置きしなければならない事は、改めて言うまでも無いとセリナとドラミナの二人とも理解していた。
「でもドラミナさんは女王様であらせられたのですから、村での暮らしは大丈夫ですか?
こうお尋ねする事自体が失礼かもしれませんけれど、少し心配です」
「大丈夫ですよ。国を落ち延びてからはこの馬車とあの子達と野を駆け回る暮らしでした。
ですからドランやセリナさんが心配なさっているほど豪奢な暮らしに、首まで浸かっていたわけではありませんよ」
「ドラミナさんがそう仰るのでしたら、きっとそうなのでしょう。……ところでドラミナさん」
「なんでしょう、セリナさん」
セリナが急にこれまでのにこかやな態度から、真剣な表情を浮かべついで耳の先端まで赤くするのを、ドラミナは不思議に思いながら問い返す。
超常現象じみた勘の良さを誇るドラミナも、セリナの口から次にどのような事が飛び出てくるかは、察せられないようだった。
「私とドラミナさんとドランさんとで将来結婚すると思うんですけれど、その、ドラミナさんはどうお考えなのかなって参考までにお聞かせ願えればと言いますか……」
「要領を得ませんが……はっきりとは口にし難い事なのですか、セリナさん?」
セリナはどうやらドラミナに詳しく口にする前に察して欲しかったらしく、赤くなった顔を俯かせると、自分たち以外の耳が無いかを確認するように左右に視線を滑らせてから、もごもごと口を動かす。
「ええとそのお、まだ奥さんと旦那様というわけではないですけれど、ほら、私達ってドランさんと恋人じゃないですか……」
ドラミナは、まあ、という呟きを口の中にだけ留めた。
恋人と言う関係を口にするだけでこうも恥じらうセリナを微笑ましく思ったのと、改めて自分達とドランの関係が変わった事を改めて認識したからだ。
セリナさんはラミアという種族ですのに、初心でいらっしゃるのね、可愛い方とドラミナはくすくすと笑う。
ここは年長者として可愛らしい相談に乗ってあげないといけません、とドラミナは真摯な気持ちと抱くと共に口を開いた。
「そそそそそそうですね。私もセリナさんもドランと恋人でしゅね」
噛んだ、と指摘する余裕はセリナになく、ドラミナもまた自分が言葉を噛んだと気付く余裕はなかった。
ドラミナが心の平静を保てていたのは、実の所心の中でだけであり、自分で思うほど年長者らしい態度を取れてはおらず、セリナと何ら変わりはしなかったのである。
麗しの吸血女王の頭の中では、頭から湯気を噴くセリナを前に穏やかに微笑む自分が大人の対応をするという図が描かれていたのだが、現実は全く異なる様相となっていた。
セリナが顔を赤くすれば、優雅に笑んで応じる筈のドラミナもまた似たり寄ったりの顔色を浮かべている。
昨日の今日で恋人関係になったばかりだから、セリナもドラミナも自分達の関係を恋人と口にするのにはまだ羞恥があり、口にしたセリナばかりか聞かされた方のドラミナもすぐに顔を赤くする。
口さがないものからは死人の様、詩人からは月の光に染められた肌と例えられる白い肌が、茹でたての蛸よろしく真っ赤になる様はなかなかに見物と言える。
「はい。ですからですね、あのですね、そのですね。く、口づけとか」
セリナの尻尾の先端がいやいやと恥じらうように左右に振られる。
セリナは既にドランと何日も同衾しているものの、口づけとなるとやはり話は違うらしい。
もちろん、したいのか? と誰かがセリナに問えば、したいです、と首を何度も縦に振り、声を大にして答える事だろう。
「口づけ!?」
実はもう二回ドランとしています、とは言えないドラミナはやや大仰に驚いて、この場の流れに乗った。意外とずるい所のある女性である。
「抱擁とか、口づけよりもそのもっと恋人っぽい事とか……ぐ、具体的には」
「ぐぐぐぐぐ具体的には?」
もう二人とも何を言おうとしているのか分かってはいるが、なぜだか唇が動きを止める事はなかった。
ついでに二人の頭から立ち上る湯気も止まる様子はない。
唯一二人を止められるだろうドランはこの場に居らず、レニーアは口をへの字に曲げて不機嫌そうに踵を返しただろうし、クリスティーナだったら湯気を噴いているのが二人から三人に増えるだけである。
何よりの問題はセリナも鷹揚に相談を受けるつもりでいたドラミナも、すっかり頭と心が茹だってしまい、お互いがお互いを止める所か暴走を助長する言動しかしない事だった。
「こ、こここ」
セリナとドラミナも唇は、しばらくの間、『こ』の一語を連呼し続けた。
「ここここ?」
そして遂にセリナは決定的な言葉を口にした。
「子供が出来るような事をですね! やっぱりこれからはしちゃったりしたりするのかなって」
「どどどど、どうでしょう? ドランもた、魂は古神竜ですが、肉体は健全な人間の男性ですし、やややっぱり人並みにはそう言うよ、欲求もあるのでは?
もも、求められる事もあるのでは、な、な、ないでしょうか?」
「ドランさんに求められる、ですか?」
「……はい」
ごくり、と二人の咽喉が揃って生唾を飲み込む音を立てて、それからしばし二人の間に重たい沈黙が落ちて、まるでこの場面だけを切り抜いた絵画のような静寂が訪れる。
この時、恋の熱に茹だって、愛の海に溺れかけているセリナとドラミナが何を脳裏に思い描いていたかなど、容易に想像できた事だろう。
一糸を纏う事もせずに裸体を晒し合う自分達、そして絡み合う腕と腕、足と足、唇と唇が重なり合い、そうして心と体とが昂り合った二人は遂に……。
こういう妄想をする時に種族の差はないのか、セリナとドラミナはこれ以上どうやったら赤くなるのかと言う位に顔を赤くして、ぼしゅんと大きく湯気を噴いた。
「きゃーきゃーきゃー、ドランさ~~~ん!!」
セリナはドラミナの目を忘れて自分の世界に没入しきって、ソファの上で全身をくねくねと動かし回る。
対するドラミナは声と体で羞恥の念を紛らわせるのではなく、逆に絶句して妄想の世界に両足を踏み入れたまま帰ってくる様子が無い。
「ああっ、そんな、でもドランになら何をされても…………」
きゃーきゃー言うセリナと、あらぬ妄想をぶつぶつと垂れ流しにするドラミナという第三者からすると見るに堪えない惨状は、誰も止める事が居なかった為にしばしの冷却期間を必要とした。
ひとしきり排熱と妄想世界への旅行を堪能し終えた二人は、自分達の晒した痴態に言葉を失くして頭を抱えていたが、それでも話は続けた。
ある意味、二人とも良い根性をしていると言えた。精神も実に堅牢である。
「先程の事は、お互いに忘れましょう、セリナさん」
「はい、ドランさんに見られなくて良かったですね、ドラミナさん」
「本当にその通りです。それにしてもセリナさんがそこまでそう言ったお話に慣れが無いのは、少し意外でした。
ラミアやハーピー、アラクネなどの女性しかいない種族は、そう言う事に自然と慣れていると言いますか、本能として理解している種族であると思っていたものですから」
「あう、実は私はそういうですね、男性に対する誘惑の仕方がとにかく下手でして……ママや故郷のお友達にも才能が無いと言われていました」
ラミアでありながら異性に対する誘惑が致命的に下手であると言う事は、セリナの中で少なからず劣等感となっており、自覚はあってもやはり指摘されるとしょんぼりとしてしまうらしい。
「あ、でも、ドラミナさんも女王様でしたからそういう教育は受けていらっしゃるとばっかり思っていました。
だからこんなに慌てられるなんて、ちょっと意外です」
「子を成す事も王族の役目の内ですから、セリナさんのお考えの通り教育は受けております。ただそれを活かす機会には恵まれなかったのです。
今はその機会に恵まれなくて良かったと心から思っていますけれどね。でもセリナさんはドランと同衾しているではないですか。
その聞きにくいと言うか、聞きたくないと言うか、でも聞かずに済ますわけにはいかないと言うかドランとは何も?」
「うう、は、恥ずかしながらと言いましょうか、情けなくもと言いましょうか、ドランさんにぐるぐる絡みついて眠るだけです、ハイ」
ドランが一向に自分に手を出さない事に対して、セリナは以前から自分に女としての魅力が無いのかと思い悩んでいたか、というと実はそうでもない。
何時ドランに押し倒されても良い心構えはできているが、ドランに絡みついているとまず何よりも安らぎを覚えて、そう言う事が頭の中からすっぱりと消え去ってしまうのだ。
そうしている内に精神的に満たされて、速やかに眠りに陥って来たのである。
セリナは今まではそれで良かったのだが、事ここに至ってドラミナの出現と恋人兼婚約者と言う立場の確立によって、改めて意識させられたようで、ドラミナを前にしてうんうんと唸り始める。
悩むセリナを前にしているドラミナからすると、セリナとドランは使い魔の契約を抜きにしても、ツーと言えばカーで通じる位に心の通い合った関係だ。
普通なら何年、何十年と時間をかけて育まれる絆や関係を、ドランとセリナはもう持っている、とドラミナは確信している。
はたしてそこに自分が足を踏み入れられる場所はあるのだろうかと、不安にさえなるほどだ。
そう考えると、ドランが未だにセリナに手を出していないのは……。
「そう悩まれる事はないと思いますよ、セリナさん。
私達との結婚は職を得てからと言っていましたし、そ、そう言う事とか子供の事なども、安定した収入などを得られてからとドランは考えているのではないでしょうか」
「そうだと良いのですけれど、一度、ドランさんにはっきりとお伺いしたいです。ところでドラミナさん」
「はい、なんでしょう?」
「こ、こ、子供は何人くらい欲しいですか?」
「なんにんっ!?」
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第九十六話
徹底抗戦の構えを取るベルン村に神々が扮した冒険者達二十柱が合流して翌日の事。
ゴブリン軍五千がベルン村に到着するまで後四日ほどの地点で、ゴブリン達は休憩を取っていた。
他種族の保有する軍隊と比較して決して規律のある陣容とは言えなかったが、各々が暗黒の荒野の一角に散って、石を積み上げるか土を盛るかして作った簡単な竈に火を起こし、食事の準備を進めている。
太陽は中天に座して赤々と燃えている。
暗黒の荒野は砂塵が舞い大小の岩石が無数に存在する生命の息吹に乏しい地であったが、流石にドランが産まれてからの十六年以上、気脈が整えられていれば緑が芽吹き、木々が成長し、新たな生き物たちが顔を覗かせるようにもなる。
ドランが、ベルン村が飢えないようにと思ってした事の影響は、ゴブリン達の糧食にも表れていて、彼らの主食である肉が兵糧一杯に用意されていた。
基本的に雑食で何でも口にするゴブリン達であったが、糧食のほとんどは彼らの根拠地で狩られた動物や牧場で育てられた家畜の肉で、それだけの家畜を育てられる飼料が彼らの根拠地で栽培されていると言う事でもあった。
マグルの使い魔であるネロから得られた情報通りに、彼らは一般的に思われているゴブリン以上に統率が取れ、装備の質も良く統一されていた。
鉄製の胸当てに同じく鉄製の兜で固め、多くは長槍と小剣で武装しており、また普段から食べている物が良いのか、体格も一般的なゴブリンより一回りは大きい。
騎兵やメイジ達は彼らの中でも特に精鋭扱いを受けており、幕を張り巡らした陣の中で兵卒達よりも量が多く味の良い肉を貪っている。
周囲の警戒の為に二匹一組の斥候が周囲に放たれて、襲撃に対する警戒を怠っていないなど、一般的なゴブリンを知っている者からすれば瞠目に値する知恵の回り具合である。
暗黒の荒野を行軍している最中に運良く仕留められた長爪猿のぶつ切りを小剣に刺し、火で炙り肉の焼ける匂いに涎を垂らしていた兵卒のゴブリンが、いよいよ我慢が出来ずにそれに被りつこうとした時、不意に上下にその肉が揺れ始める。
いや、肉だけでは無い。肉を刺した小剣も、それを握るゴブリンの腕も、ゴブリンの視界までもが小さくではあるが震え始めている。
「何事だ!?」
斥候のゴブリン達からは合図の狼煙や笛による連絡は届いておらず、これが敵襲なのか自然現象による異常なのか、このゴブリンに限らず他のゴブリン達にも判別が出来なかった。
軍勢を率いているハイゴブリンの護衛に着いているメイジ達が騒いでいる様子が無いから、魔法によるものではなさそうだが。
「うおおおお!?」
ゴブリンの口から出たのは驚きの声だった。
なぜならそれまではわずかに緑を散らした赤茶けた荒野が広がっていたと言うのに、突如として激しい土煙と蹄の音を立てながら迫りくる騎馬の集団が出現したからだ。
先頭の途方も無い圧力を発する漆黒の巨馬には金髪の巨漢が跨り、身の丈の倍以上はある尋常ではない長槍を小枝のように頭上で振り回している。
「ぬはははははははは!! 一番槍は貰っておくぞ。ドラゴン、いや、ドランよ!!」
戦を司る神の頂点に立つアルデスが、地上降臨に伴って能力と権威に大幅な制限を設けられつつも、立ちはだかる百万の軍勢も恐れ戦く武威を示しながら駆けているのだった。
アルデスが跨っているのはドラミナのスレイプニルの一頭で、ドラミナ以外には滅多に心を許さぬスレイプニルも自身の始祖を愛馬とするアルデスが騎手とあり、ドランからすれば不気味な位に従順である。
アルデスの後ろには同じくスレイプニルに跨ったアミアスとドラミナが続き、その他にはドランが製作したホースゴーレムに跨ったドランやクリスティーナ、バランら総勢五十名が続いている。
この五十名のほとんどはベルン村で騎馬の扱いを知る者達で、ホースゴーレムばかりなのはベルン村の馬は農耕用の馬であり、戦場を駆ける馬では無い事に起因する。
「兄上、あまり勝手をなさいますな。目標を忘れておりませんでしょうな!」
騎馬隊の後方に位置し、いつでも弓で援護できる位置に陣取ったアミアスがアルデスに怒鳴りつけると、アルデスは振り返りもせずにぬはははと笑いながら答える。
アルデスら兄妹の声は全速力の騎馬の上で、びょうびょうと吹く風や蹄の音にも負けずすぐそばで話をしている様によく通る。
いくつもの音が不規則に発生する中で、良く声が通る事は優秀な指揮官の要素の一つに挙げられるが、流石は戦神。
この点は十二分以上に備えていた。例え万の雷が落ちる雷雨の中にあっても、アルデスの声は雷鳴を粉砕して兵士達の鼓膜を震わせ、腹の底まで響き渡る事だろう。
「分かっておるわ。狙いは敵の兵糧。こやつらに腹を空かせた状態で戦わせる事が目的であろう」
それ以外にも万が一にもゴブリン達が根拠地に引き返さないよう、飢えを避けるにはベルン村を襲撃して食糧を略奪するしかないよう仕向ける意図や、ベルン村に到着するまでの数日間満足な食事を摂らせず、内部の不和が起こるよう仕向ける意図もある。
アルデス、アミアス、ドラン、ドラミナ、クリスティーナが居る時点でこの五人だけで五千全てを殲滅する事もできるが、後に報奨金を得る際に死体を検分しなければならず、ここまで足を伸ばす手間を省く為にも、ベルン村の近くにまで来て貰わないと困るのだ。
自分達が勝つ事を前提とした意図であり、あまりにも慢心が過ぎると戦を知る者からは指摘される所だろうが、いかんせんドラン達は本来ゴブリン五千を相手に戦いにすらならない勝利を得られる実力を持つ。
今回はドラン達がいくら慢心し、油断したとしてもそれが過ぎると言う事はないのである。
一応この騎馬隊の指揮官はバランであるが、如何に辺境育ちの歴戦の猛者と言えど戦神の頂点に立つ存在を前にすると強く出る事も出来ず、二番手に着いてゴブリンの軍勢に険しい目を向けている。
三番手と四番手にはそれぞれドランとヴェールで顔を隠したドラミナが付いており、ぴったりと寄り添うように並走している。
今回、ゴブリン達がここまでドラン達の接近を許したのはドランとドラミナが行使した幻影の魔法と、大気と大地それぞれに干渉して一切の振動を相殺していた為である。
通常であればゴブリンメイジ達が魔法行使に気付き警戒の声を上げる所だが、今回はさらに魔法行使を探知する魔法を欺瞞する魔法を更に重ねて行使していた為、この距離に達するまでゴブリン側は誰も察知出来ずにいた。
「あの子が父や私以外にあそこまで従順になっているのを、初めて見ました」
ドラミナは顔を隠すヴェールの他に神器ジークライナスを纏って、右手には黒一色の長弓に形を変えたヴァルキュリオスを握りながら、左手側を駆けているドランに話しかけた。
今回は騎乗している事もあり、ドランも愛用の長剣は腰に下げて、今は錬金術で急遽鍛造したダマスカス製の長槍を手にしている。
「曲がりなりにも神馬を愛馬としている奴だ。スレイプニルの方が緊張くらいはしているかもしれないな」
二人が緊張のきの字も無く呑気な会話をしている間にも、アルデスは最も近くに居たゴブリンと衝突し、頭上で大旋回させていた愛槍を叩きつけて、遥か遠方へと吹き飛ばす。
それこそまるで夢か幻の様に姿を見せた、たった五十人の騎馬に食事の用意をしていたゴブリン達のほとんどはまるで反応できずにいた。
先頭をひた走り愛槍の届く範囲にいるゴブリンを片っ端から吹き飛ばすアルデスに続き、アミアスとドラミナもそれぞれが手にした弓に矢を番えて引き絞り始める。
陽光下とはいえロイヤル・バンパイアの膂力と超知覚、神器の組み合わせにより、ドラミナの放つ矢はゴブリンの着ている鉄の鎧を易々と貫き、場合によってはその背後に居た他のゴブリンや大岩なども貫いて行く。
対するに神としての権能のほぼ全てを持たない状態のアミアスは、五本の指の間に無限に出現する矢を挟みこみ、息を吐かせぬ連射で矢を放ち続ける。
アミアスの弓術の腕は恐ろしいまでの冴えを見せ、同時に放たれる四本の矢の全てが、四匹のゴブリンの咽喉や額を貫き、確実に一矢一殺を体現して見せる。
アルデス、アミアス、ドラミナの常軌を逸した出鱈目なまでの戦いざまに、バランやベルン村の人々は呆気にとられていた。
戦場ではあるまじき隙かもしれないが、いかんせんアルデス達が常識と縁遠い存在であるから、まあ仕方がない。
「ドラン、ドラミナさん、先に行くぞ」
ドラン達に声を掛けてから飛び出したのは、ドラン謹製ホースゴーレムに跨るクリスティーナである。
いまだドラゴンスレイヤーの新しい名前は決まっていなかったが、エルスパーダ共々クリスティーナの腰の左右で揺れている。
クリスティーナはその代わりに両手にはドラン同様ダマスカス製の長槍を握り、両足で強くホースゴーレムの胴を挟みこみ、全速力を命じる。
白銀の髪を翻して美を司る女神かと見まごう美貌を露わに、クリスティーナは恐れるものは何もないとアルデスのすぐ傍らへと進み出る。
ドランにはクリスティーナの両腰で揺れるドラゴンスレイヤーとエルスパーダが、少し寂しげに見えた。
「おう、クリスティーナと言ったか。はははは、勇敢だな! 先頭を駆けるのは相応の危険を伴うぞ」
アルデスは、慌てて地べたから立ち上がり齧りかけの肉を放り出したゴブリン四体をまとめて愛槍で吹き飛ばし、自分のすぐ傍にまで来ていたクリスティーナに心の底から楽しそうに笑いかける。
例え地上世界のゴブリン相手の戦であっても、アルデスは楽しくて堪らないと言う表情を浮かべている。
アルデスは戦いを愛していた。勝ち戦を好いているのではない。負け戦を好いているのではない。
この世のありとあらゆる戦いを楽しむ事が出来る。それが戦いを愛していると言う事なのだから。
それでも、正々堂々真正面からのぶつかり合いを好む程度の好き嫌いはあるが。
「名高きアルデス神と肩を並べる栄誉に、身も心も震えております。貴方様に恥ずかしくない戦いをしなければと、己を奮い立たせている所でして」
「そうかそうか、それは良い。大口を叩けるのは元気のある証拠よ。では行こうか。そろそろゴブリン達も備え始めて来るぞ」
「はい!」
「ま、後ろの連中が頼りになり過ぎる位だから、あまり仕事はないかもしれんがな」
ちらりと背後を振り返れば、尽きる事の無い矢弾と尋常ならざる弓術の腕を活かして、敵の弓兵や投石兵など遠距離からの攻撃手段を持つ者、敵騎獣兵を優先して葬るアミアスとドラミナの姿があり、これほど頼もしい援護射撃も滅多にない。
ドランもそろそろ構うまいと愛馬白風の上から周囲を見回し、必要となる魔法の選択をして詠唱に入る。
ゴブリン達の陣地の中央部にハイゴブリンの陣があり、兵糧はその北西方向に集められていた。
ドラン達は兵糧までの最短距離を求めつつゴブリンの陣を迂回し、わざわざ北から南へ縦に抜ける進路を選択している。
北西からゴブリンの陣に突入して兵糧を根こそぎ焼き払って後、即座に南西方向へと陣を抜けてベルン村へと脱出する。
兵糧はドラン達の広域破壊魔法を惜しみなく行使し、灰にする予定となっている。
五千に対しわずか五十で突撃する事の危険性を、村では随分と訴えられたが実際に相対する事になるゴブリンの数は多くて数百程度である事と、兵糧を焼いたら成果の成功失敗に関わらず脱出する事から今回の突撃は敢行された。
正面に立ち塞がるゴブリン達は尽くアルデスとクリスティーナが殲滅し、左右と後方から迫りくる騎兵には、最外縁部を走る村人達とドラミナ、アミアスの弓が迎え撃つ。
事前に敵陣容と兵糧の位置などを把握できたのは、全てマグルから偵察を引き継いだドランが製作した鳥や蜥蜴、蜘蛛、鼠などの姿を持った小型ゴーレム達の恩恵に依る。
実際、ドラン達ベルン村側はハイゴブリン達の会話の内容まで把握しており、ありとあらゆる情報が筒抜けになっているのだった。
ドラン達が突入した位置から狙いが兵糧であると勘づいたか、それとも単に食べ物を奪われてたまるかと本能に忠実に従ったのか、徐々にゴブリン達が集まりだす中をわずかも速度を減じる事無くベルン村騎馬隊は駆け続ける。
先頭にアルデスとクリスティーナを置いた尋常ならざる突破力と、無尽蔵の体力を持つ魔馬スレイプニルに疲れと恐怖を知らぬホースゴーレムによって騎馬が構成されている為に、通常の騎馬の突撃の常識から外れた突撃が可能となっていた。
「見えたか、ドラン、目標のものが兵糧だ。はは、山積みだな。メイジ達のディスペルもレジストもない。ただ置いてあるだけだな」
アルデスが積み上げられた麻袋や木箱を見つけ、事前に調べたとおりの位置にある事を確認してから、背後のドランに大声で伝えた。
五千匹分の兵糧とあって、道中で随分と消費しただろうにまだまだ山と積まれている。
ドラン達に都合のよい事に陣内各地に散らしてあるのではなく、この一か所に集積して在るから陣内をあちらへこちらへと駆けずり回る手間は省けた。
山積みの兵糧に油でもばら撒いて着火する所だが、今回はドランやクリスティーナにドラミナといった面々が居るから、その手間もまた省ける。
「ふむ、ゴブリン達の糧食とあっては我がベルン村住人でもいささか食するのに躊躇う所があるのでな。全て灰にさせて貰おう」
まずドランが兵糧の山に向けて開いている左手を掲げ、その先に大小五つの魔法陣が展開されて、行使される魔法の威力を向上させる効果が発動する。
「クリムゾン・レイ!」
ドランの腕ほどの太さに束ねられた超高熱の赤い熱線が放たれ、大きく左右に振り抜かれると触れる端から兵糧を灰に変えてゆき、その向こうへと抜けた熱線は当たるを幸いにゴブリンや騎獣達にも同じ運命を辿らせた。
続いてクリスティーナが、既に大部分が灰になった兵糧に、これ以上魔法を行使する意味が無いような気持ちに囚われつつ、取り敢えず魔法を放った。
「相変わらずだが、あれでも手を抜いているのだから恐ろしくなるが、素性を考えれば当たり前か。さて、私もやるか。燃やせ炎の舌、フレイムベーン!」
クリスティーナが部分的に詠唱を破棄したフレイムベーンは、残りの兵糧の地面に赤色の魔法陣を描き、そこから巨竜の舌の如く巨大な炎が天空へと向けて伸びてぺろりと平らげて行く。
着火と同時に生じた圧力が灰や炭に変わった兵糧を吹き飛ばし、兵糧を守ろうとしていた大盾持ちのゴブリンなどもあらぬ方向へと吹き飛ばす。
本当に青空に浮かぶ雲にまで届きそうな位に伸びて行く炎の舌と、集結しつつあったゴブリン達をまとめて飲み込んで焼き尽くすその熱量に、傍らを駆け抜けて行く騎馬隊の面々は多くは驚きを隠せずにいた。
この成果には、実の所誰よりも他ならぬクリスティーナが驚いていた。
クリスティーナの知る自分が行使したフレイムベーンでは、ここまでの威力を発揮しない筈だったからだ。
まだクリスティーナ自身が把握しきれていない、完全覚醒超人種としての力の極一端の表れと言える威力である。
あまりの熱量に兵糧が置かれていた地面の大部分が融解し、マグマと化している光景に三発目を担当しているドラミナがこれ以上は必要ないと判断し、魔法行使を中止する。
バランや他の村人などは、ドランはもちろんクリスティーナの見せた魔法の威力に、再び目を丸くしたがすぐに目標を達成したと判断し、離脱の命令を発する。
「よし、敵の兵糧は全部灰にした。このまま離脱するぞ! 後は村でまとめて相手をして一匹残らず叩き殺してやれ!!」
「おう、まだまだ槍働きが足りん所よ。まだまだ戦って戦って戦わねば満足できん所だ。なあ、アミア」
なお本名を名乗るわけには行かないから、アルデスはアルス、アミアスはアミアと安直な偽名を名乗っている。
これはマイラールやカラヴィスにしても同じ事で、マーメルやセレステルなどの天使組はその名前が知られていないので、そのままである。
「ええ、まあ、いささか物足りぬ敵ではありますが、その方がベルン村の皆様にはよろしいでしょう」
「ははは、なんとも頼もしい方々だな。これもドランの人徳のお陰か」
「彼らがこの時期に村に居た事は、本当に幸運でした。私の手柄では無いですよ、バランさん」
「ドランがそう言うのならそう言う事にしておくが、よしこのまま一気に抜けるぞ」
バランは余りにも頼もしいアルデスとアミアスの台詞に、こんな状況でも楽しげに笑う。
これこそまさに戦神の面目躍如といった所だろうか。
ドラン達以外のベルン村人は今回の襲撃に際し、戦力差から絶望的な悲観に囚われがちであったが、ここに来て希望の光が見えてきた気持ちになりつつあった。
エンテの森の住人達から来た援軍に加えて、ドランが見つけて来たという冒険者達の戦闘能力の出鱈目さ、そして村の住人であるドランと縁深いクリスティーナの頼もしさも確認出来たのだ。
ゴブリン達がろくな補給線を構築していない事は確認済みだ。
群れを率いるハイゴブリンは、まだ若く人間に対する敵愾心に燃えていて、今回の事に復讐心を燃やして何よりベルン村への襲撃を優先させるのは目に見えている。
根拠地の氏族に新たな兵糧の輸送を頼む事はすまい。
ゴブリンの社会でそのような真似をすれば、戦下手の愚か者扱いされるのは目に見えているし、なにより自身の屈辱を晴らす事が第一と考えよう。
こうしてベルン村騎馬隊は目標であったゴブリン達の兵糧を尽く灰にする事に成功し、そのついでとばかりに三百ほどのゴブリンを倒すことにも成功する。
なおこの無謀とも言える突撃行でのベルン村側の死傷者は存在しない。
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第九十七話
ゴブリン軍を率いているのは、人間で言えば二十代前半の若いハイゴブリンの雄だった。
暗黒の荒野北西部を版図とするゴブリン達の内、グーマ氏族のゴーゴ、ゴーゴ・グーマである。
昼の大休止の最中、組み立て式の天幕の中、虎型の魔獣の毛皮を絨毯の代わりにして腰を下ろし、不機嫌そのものの表情を浮かべていた。
ゴブリンの上位種であるハイゴブリンのゴーゴは、見上げるような巨躯を形作る鋼の筋肉を灰色の皮膚で覆い、頭部はつるりと禿げあがっている。
瞼や唇は分厚く、生え揃った牙も太く鋭い。
五本ある指のそれぞれには黄色く汚れたこれもまた太い爪が伸び、そこらの猛獣に負けず劣らずの凶悪さだ。
不毛の大地が広がる暗黒の荒野だが、ゴブリン達の版図の地下には豊富な鉱物資源が眠っており、ゴーゴが巨躯に纏っているのは影鉄(かげがね)と呼ばれる魔力を帯びた鉄で出来た鎧だ。
元から鈍らの刃など跳ね返すような分厚い胸板から腹部、両肩から手首まで影鉄の鎧が覆い尽くし、一般的なゴブリンの想像図を覆す異形の戦士の姿がそこにある。
ゴーゴは、炎のように波打つ文様を持った片刃の大剣を納めた革製の鞘を、先程から苛立たしげに右の人指し指で叩いている。
連日の小うるさい人間達の攻撃によって兵糧を失ったばかりか、連れて来た兵達に少なくない被害が出ている事が、生来気性の荒いゴーゴの神経を苛立たせている。
天幕の中にはゴーゴ以外にも魔法使い達を束ねるギム・ジー、騎兵達を束ねるジャダ・ザヌ、その他にも兵士達の隊長格が四名ほど集っていた。
今回のベルン村に派兵されたグーマ氏族軍の主だった者達が、ゴーゴの命令で集められたのは、ここ数日生意気にも攻撃を仕掛けて来る人間達への対処について議論する為である。
ギムはハイゴブリンの血を引くゴブリンで、体躯はゴーゴ程では無いにせよ逞しく、ドランより背が高い位だ。
灰色の皮膚と同じ色の髪を長く伸ばして後ろに流しており、やや鷲鼻である事と尖った耳、唇から覗く牙を除けば顔立ちはゴーゴよりも大分人間に近い。
精霊魔法や暗黒魔法を得意とする
ゴーゴと同世代の若いソーサラーで、将来ゴーゴの知恵袋兼右腕となるべく期待された俊英である。
今回の遠征に際しても短慮な所の目立つゴーゴの相談役兼抑え役として抜擢され、同行している。
もっとも配下の魔法使い達がベルン村騎馬隊の接近を察知できず、失点を重ねている事でゴーゴから向けられる視線は随分と冷たい。
「それで、お前達はどのようにあの人間達に対処するつもりなのだ」
苛立ちを隠そうともせずにゴーゴは居並ぶ配下共に問いただす。
ベルン村騎馬隊の接近に気付かなかった魔法使いと斥候兵数名を血祭りに上げた事で、これでもゴーゴの苛立ちは大分鎮まった方である。
怒りの爆発を抑え込んでいるゴーゴの声に、隊長格連中はびくりと肩を震わせて隠せぬ恐怖を露わにする。
ゴーゴに返答したのは騎馬兵を率いるジャダ。
自らが騎乗する大型狼の毛皮を頭から被り、全身には自身と騎獣に催眠作用を及ぼす刺青や紋様が幾重にも描かれている。
ゴーゴやギムらよりも一回り年上のジャダは、正真正銘グーマ氏族屈指の猛者であり、ゴーゴの怒りで肌を炙られていても、怯えた風は無い。
「若、遺憾ながら我らの騎獣の鼻も耳も、そして魔法も奴らの接近を感知できません。
これまで四度も奴らの跳梁を許した事を考えれば、これはもはや認めざるを得ますまい。
ですから奴らが仕掛けて来るのを待ち、これを迎え討ち、奴らが引いたならば追い回して討つ為に、我が
「人間共に先手を取られざるを得んわけか。腹立たしいが、ジャダよ、必ずや攻めて来た奴ばらを血祭りに上げろ」
「このジャダと我らの友に誓って」
ゴーゴは泣く子が引きつけを起こすか、白目を剥いて気絶しそうな視線をジャダに寄越し、ジャダはそれを受けて堂々と胸を張って自信ありげに頷いて見せる。
これまでは襲い掛かって来ては風の如く去ってゆくベルン村騎馬隊を取り逃がしていたが、予め追撃を前提として待ち構えていれば、決して逃がす事は無いと言う自信に満ちているのだ。
「それでギム、食糧の方はどうだ。兵どもが腹が空いた、腹が空いたと飽きもせず口にしている。ベルン村とやらを襲うまで、堪えられるか?」
ゴーゴがギムに話しかける声は、視線よりは幾分か温かみがあった。
幼い頃からの付き合いであり、ギムが自身の右腕として必要な存在であると言う認識は、ゴーゴも理解してはいる。
ギムはゴーゴからの信頼が今回の遠征で若干薄れている事は自覚していたが、それでもまだ十分に挽回は可能だと焦った様子は無い。
「残った食糧では満足に食わせる事は出来ないが、ベルン村で戦うのに問題は無いだろう。
ただし戦いが終わったら食い物に目が眩んで、おれ達の言う事を無視するかもしれん」
「戦うのに問題が無ければ構わん。いいか、おれ達がこうしている今も各氏族の者が我らゴブリンの王たらんと睨みを利かし、子を産ませ、鍛え、軍を作っている。
いずれ来る戦でグーマ氏族が勝ち、王となる為にも今回のベルン村を皮切りに人間共の兵を討ち、村々を焼き、食糧を奪い、我らゴブリンの勇名を馳せ、恐怖を叩き込むのだ。
その勝利をもって氏族の元へと凱旋し、このゴーゴが氏族の正統なる後継者にしてゴブリンの王となるべき存在であると知らしめるのだ!」
マグルの予想した通りに今回のグーマ氏族長の息子の一人、ゴーゴが率いるゴブリン軍はゴブリン種族内における王を決める争いに備えての箔付けのものであり、余裕を持って勝利できるよう五千もの軍勢が預けられた理由でもあった。
暗黒の荒野に根拠地を置くゴブリン達にとってベルン村は、アークレスト王国の北部辺境開拓計画時に激しく争った地のひとつであり特別視されている場所で、そこを陥落させたとなれば他の氏族の者達も一目置かざるを得ない。
もっとも、この天幕の中で行われている会話が、天幕の中に忍び込んでいる胡麻粒ほどの大きさの虫型ゴーレムにより、ドランに全て筒抜けである事をゴーゴ達は知らぬ。
ゴーゴ達は、まさか兵力も戦術も戦略も何もかもを敵に知られた状態で戦いを挑まなければならぬなどと、想像もしていない。
「若、敵襲です。人間共がやってきました!」
天幕の外から息せき切って入ってきた兵士からの報告に、こちらが仕掛けた罠に食いついたと思いこんだゴーゴやジャダが、にたりと凶悪な笑みを浮かべて立ち上がる。
「よし、さすればジャダよ、手はず通りにやれ。ベルン村までもう残りわずか。
おそらく奴らがちまちまと攻撃を仕掛けて来るのも、今回か次で最後になるだろう」
「はい、すべて我らにお任せを」
満腔の自信と共にジャダは返答し、それからギムに対して侮りを含んだ視線を向ける。
ジャダからの視線を受けたギムは、何ほどの事も無いとばかりに無反応で、ジャダもまた気に食わんとばかりに視線を外して天幕の外へ向かう。
たったこれだけの事でも次期族長候補の側近たる両者の間に、好ましからざる確執が存在している事が伺える一幕であった。
ギムもジャダもお互いの失敗を望み、お互いの成功を妬み、失脚させるかあわよくば殺してしまおうと内心で思い合う仲なのだ。
ゴーゴはこの二匹の確執を当然知っていたが、そんな事はゴブリン達にとっては日常茶飯事であったし、両者が競い合う事で成果を上げるのを狙っている事、そしてなによりどんな手段を用いようが敗れる方が悪いと考えて、どちらが失脚しようと構わぬと考えていたから、まるで止めようともしない。
種族全体でそのような思考形態を保有しているものだから、ゴブリンは有能な者が誕生しても、それ以上の地位や能力のある者に目を付けられて殺されてしまう事が多い。
ゴブリン種単独ではもう何百年、あるいは何千年と同じ所で足踏みをして、ろくに進歩も発展もしていないのだが、ゴブリン達のほとんどはその事に気付いてもいない。
例外は創造神やその眷属に直に仕えていた経験のある古(エンシェント)ゴブリンか、その血を色濃く受け継ぐ数世代くらいだろう。
二度目以降のベルン村騎馬隊の攻撃目標が、ゴブリンの魔法使いや騎馬兵、弓兵である事は既に述べたが、かといって敵陣奥深くにまで切り込む危険はほとんど犯していない。
敵陣の最外部に居る敵兵や斥候の兵を、薄く削ぐように襲って数を減らしている。
一撃離脱に専念し、味方に被害が及ぶ可能性は低いが、同時に敵に与える被害も少なくなる戦い方だ。
ただしドラン、クリスティーナ、ドラミナ、アルデス、アミアスの内一人でも騎馬隊に加わっている場合、ゴブリン達に与える被害が百を下回る事がなかったのは、流石と言うべきかやりすぎというべきなのか難しい所だ。
今回の突撃もドラミナの姿が騎馬隊に居る以上は、最低でも百匹のゴブリンが討ち取られる事は確約されたも同然である。
クレス、アルバート、ドラミナ達の騎馬隊も前例にならって、敵陣の外部をなぞるように馬を走らせて、一匹また一匹とゴブリンの数を少しずつだが確実に減らす戦い方をしていた。
騎馬隊の動きに変化が見られたのは、敵陣の中から残り少ない食料を優先して与えられて、英気を養っていたゴブリン騎兵達が猛然と迫って来た時である。
ドランからドラミナ経由でゴブリン達の動向を全て把握していたクレス達は、予定通りにゴブリン騎兵達が動き出したのを確認すると、くるりと鮮やかに馬首を巡らしてゴブリン陣から退避する。
馬並の体格を持つ巨大な乗用狼に跨ったゴブリン騎兵達は、ジャダの隊の中から選抜された百五十匹で、自分達に背を向けるベルン村騎馬隊にこれまでの屈辱を晴らす為に、復讐の炎を胸中で燃やして駆ける。
ものの見事にベルン村騎馬隊に釣られる形となったゴブリン騎兵達は、そのままベルン村方面へと退くベルン村騎馬隊を追いかけ、本陣から遠く離れて行く。
そうしてゴブリン騎兵達はドラミナ達によっていい様に誘導されて、暗黒の荒野の一角に伏せていたベルン村の村人達の弓矢とドラン、クリスティーナ、セリナ達からの魔法を叩き込まれる事となり、ただの一匹たりとも帰参する事は無かった。
貴重な騎兵をむざむざと失う事になったジャダは、ギム同様にゴーゴから信用の薄れた冷めた視線が向けられる事になり、さしもの猛者も大きな口を叩く事はしなくなった。
ゴブリン騎兵の全てを殲滅する事は叶わなかったが、その大部分を倒す事に成功した事から騎馬隊による突撃は十分に目的を果たし、後はベルン村に籠っての籠城戦を残すのみとなったのである。
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第九十八話
ベルン村とゴブリンのグーマ氏族軍との戦端が開かれる前、ベルン村から避難していた村人達の中に、ファブロという三十をいくらか越えた男がいた。
ベルン村から避難する女子供や幼子、老人を守りながらガロアへと引き連れて行く役目を任された男で、ドランがガロア魔法学院に通っている間にベルン村に移住してきた新参組の一人である。
今はガロア郊外に用意された空き地にベルン村の避難組が腰を落ち着けて、手際良く組み立て式の天幕を用意し、荷物の整理などをしてから各々が体を休めている。
ファブロは住み慣れた村を離れた割には暗い色の無いベルン村の人々の顔を見て回ってから、一応入口と定めた所にいる見張り番の下へ足を向けた。
「よう、見回りお疲れさん」
ファブロに声を掛けたのは、手頃な大きさの石に腰かけた六十がらみの男だった。
命からがらというほどではないが、住み慣れた村を離れて来た村人達の資産を万が一にも掠め取ろうと言う不埒者が来た時の為に、随分と使いこまれた様子の戦斧を右手に持っていて、右膝から下が木の棒になっている。
背は低いが全身が筋肉の瘤で出来ているかのような身体つきをしており、白い髭やもじゃもじゃの髪の奥に埋もれた眼光は鋭い。
ベルン村に来る以前は冒険者だったガイナンという男で、片足を失った事を切っ掛けに冒険者家業を引退してベルン村に腰を据えたのだが、今回のゴブリン襲撃に際し、冒険者時代の伝手と胆力、知識を見込まれて退避する村人の護衛兼引率役の一人に抜擢されていた。
「見回りなんてもんじゃない。でも、なんだな。皆それほど落ち込んでいる様子が無くって、意外だったよ」
ファブロの言葉に、ガイナンはんん? と筆先のようにふっさりとした眉を寄せてから、ファブロがつい最近ベルン村に移住してきた新参組である事を思い出し、咽喉の奥でくっくと笑う。
「そうか、お前さんはまだあそこに来て日が浅いからな。
なあに、アレ位の事は前のアルマディア侯爵様がご健在であった頃は、しょっちゅうあったもんさ。
今の若い連中はその時の事を知らんが、お前さんと同じかそれより上の連中にとっちゃ今回の事はちと顔を顰めはしても、村や今までとこれからの生活を諦めるほどの事でも無い。
村を離れなきゃならなくなっても、後でいくらでも取り返しがつく事に過ぎんよ。
村に籠って数日時間を稼げばガロアの軍勢は間に合うだろうし、ドランの坊主が色々と面白おかしい事をしとるし、森の連中も手助けしてくれていると来た。
わしは今頃、ゴブリン共が村の連中に返り討ちにされて、屍の山を築いていると見るがね」
「おれもあそこに腰を落ち着けてから随分とすげえ所だとは思ったが、そりゃいくらなんでも難しいんじゃないか。
五千なんて数、ありゃあもう戦争だよ。戦争がお始まっちゃっちゃあ、おれらみたいな土を耕す事しか知らない奴らに何が出来んだい」
「ふっふ、ベルン村の連中じゃなきゃそう思うのが当たり前だな。気にしなさんな。
お前さんの考えは間違っちゃおらんよ。
わしも含めてだがあそこの村の連中の方が常識とか普通とかいう言葉から、十歩くらい外れてんのさ。
わしにとっちゃ居心地の良い村だがね。昔の事を深く聞こうとはせんし、やる気がある奴は大歓迎っちゅう気風じゃからの。
なにしろラミアにバンパイアまで受け入れるときたもんだ。お前さんだって居心地が悪いとは言わんだろ?」
ファブロはガイナンの問いに、小さく頷いた。
元々ファブロはガロアよりもさらに南に生を受けた、農家の四男坊である。
十七の歳まで生まれ故郷で平凡に育ったが、周りと違う事があったとすれば、村長の娘と恋に落ちて将来を誓い合っていた事だろうか。
だが村長は娘とファブロの恋を歓迎せず、娘を領主に仕える騎士の妾として差し出そうとしていた。
それを知ったファブロと娘は二人で駆け落ちし、慌ただしく生まれ育った村を後にして、あちらこちらを渡り歩く間に一人娘を授かりもした。
だが幼い子供を抱え、後ろ盾も無く故郷を逃げた二人が生きて行くのは難しく、追われるように方々をさまよう中でようやく辿り着いたのがベルン村だったのだ。
村の外にはしょっちゅう魔獣や猛獣が姿を見せるし、空を見上げると妖鳥魔鳥ばかりでなくグリフォンやヒッポグリフ、極めつけは飛竜ばかりかさらに巨大な竜――大体ヴァジェである――の姿まで見る事がある。
娘と同じ位の子供が兵士や大人達から武器の扱いを学んでいるし、誰も彼もが逞し過ぎるほどに逞しくて、とんでもない所に来てしまったと心底思ったものだ。
だがここで生きて行く他なかったし、なにより妻と娘の為にと覚悟を固めて懸命に働くファブロに村人達はなにくれとなく親身になり、面倒を見てくれた。
移住してから一ヶ月が経つ頃には、ここで生きて行くのも悪くないと思えるようになっていたのだ。
そこに来て今回のゴブリン襲来という凶報が入った。
ようやく安住の地を見つける事が出来たか、と思った矢先の出来事にファブロは家族を連れて逃げ出す事が頭にちらつき、村に留まって戦う選択肢との間で随分と揺れ動いた。
常識的に考えれば即座に村を捨てて逃げなければ皆殺しにされてもおかしくない事態なのだが、ベルン村の人々はこれを迎え討つどころか返り討ちにしてくれる、という気概に満ち満ちているではないか。
その為にファブロは懊悩したが、兵士長のバランや村長、まとめ役のゴラオン達にはお見通しであったから、今回のガロアへの引率役を任されたのだろう。
ベルン村の戦えない者達の護衛をしつつ、当面は安全なガロアまで連れて行く人間は絶対に必要であったし、それは信頼できる者でなければならない。
その点、ガイナンは経歴やベルン村で暮らした期間を考えれば妥当な人選だが、ファブロは疑問の残る人選と言わざるを得ない。
それなのにこうしてガロアに居るのは、ファブロの内心をベルン村の人々が汲んでくれたからに他ならない事くらいは、ファブロにだって分かる。
またファブロ以外にも似たような悩みを抱えた新参組の姿が、いくつか見受けられる。
この人選はファブロを含めた彼らに、避難しているベルン村の人々を騙すだとか危害を加えるだけの度胸が無い事と、そこまで悪人になりきれない、あるいはまだ追い込まれてはいない事を考慮した上であるだろう。
それに村長達が万が一見誤ったとしても、ベルン村の生き残りか同道しているガイナン、あるいはマグル婆さんやバランの伝手の者達が、必ずや不届き者に制裁を加えるのは間違いない。
そこまでファブロは思い至っていなかったが、避難する者達を守ると言う役目を与える事でファブロの家族の安全を確保しつつ、ファブロ自身の罪悪感を軽減し、またグーマ氏族軍の襲来を退けた場合に、ベルン村に胸を張って戻れるよう配慮もしてくれている事は分かっていた。
まさかとは思うがあのベルン村の人々の事を考えると、本当に五千ものグーマ氏族軍を退ける事が出来そうで、もしそうなったならば今度こそベルン村の人々と共に生きて行こう、とファブロは他の誰にでも無く自分自身に誓っていた。
*
ベルン村の避難組がガロアに辿り着いてひとまずの安息を得ていた一方で、グーマ氏族軍の襲来を受けているベルン村に残った新参組の者もいた。
アークレスト王国のどこにも見られないような継ぎ目一つない鋼鉄の壁の上に立ち、ようやく手に馴染み始めた短弓を握っているヴェナもその一人だった。
女性にしては大柄で肉感的な身体つきをしており、陽に良く焼けた肌と頬に散らしたそばかす、ぼさぼさのまとまり切らない赤毛が特徴的な、今年で十九歳になる女性だ。
もとはある農場主の使用人として奉公に出て働いていたのだが、ある日、農場主の息子に押し倒されて抵抗した際に相手に重傷を負わせてしまい、そのまま逃げだしてベルン村に辿りついた経歴を持つ。
元々生まれ育った土地でもちょっとした猛獣や魔物を遠目に見る事はあったし、ベルン村に来てから才能があると弓矢の扱いを仕込まれて、猛獣や魔獣と対峙する機会も増えてずいぶんと肝が太くなったと自分でも思っていた。
だが、実際に四千という途方も無い数のゴブリンを直に目にすると、奴らの唸り声が風に乗って鉄壁の上に居るヴェナにまで届き、ヴェナの心に恐怖の念を植え付けて来る。
ヴェナはガチガチと自分の歯と歯が忙しなく打ち鳴らす音を、ひどく耳障りだと感じた。
目の前には減ったとはいえいまだ四千もの数を誇るゴブリン共が蠢き、門を破ってベルン村に入り込もうと凶悪な唸り声を発し、雄叫びを上げ、轟くような音と共に駆けて来ている。
(ほ、本当に、勝てるの? こんなにいっぱい数が居るのに!?)
歯ばかりでは無く心臓の鼓動も先ほどから忙しなく、ヴェナはしとどに汗を流しながら必死に新たな矢をつがえて眼下のゴブリン達に射続けている。
自分の放った矢がゴブリンを射抜いているかどうか確かめる余裕も無く、必死に恐怖を紛らわせるために矢を射る。射る。射る。
矢を射ている間は生きている。
赤錆の浮いた長槍を掲げていたゴブリンの眉間に、ヴェナの放った鋼鉄の矢が命中し、ゴブリンがぐるんと白目を剥いて倒れ込む。
矢を射ている間は少しだけだが恐怖がまぎれる。
右の太腿に深々と矢の刺さったゴブリンがもんどりうって倒れ込み、苦痛に叫ぶ間こそあれ、後方から猛然と掛けていた味方のゴブリンに踏みつけられ、見る間に襤褸雑巾のようになって絶命する。
ヴェナに自身の周囲を見回す余裕があったなら、左右に並んで矢を射ている古参のベルン村人が、冷静な眼差しでゴブリンを射続けている事に気付き、少しは落ち着きを持つ事が出来たかもしれない。
恐怖する事は悪ではない。
ただ恐怖に飲まれては震える事しか出来なくなる。それでは死に近づくだけだ。
だから、恐怖を感じていないかのように平静を保つ事が、生き残る確率を上げる術だと、ベルン村に生まれ育った人々は良く理解していた。
ヴェナは足元の矢筒から新しい矢を取ろうとし、既に放ち終えていた事に気付いて慌てた。
矢が無い! これだけが脳裏を占めて早く、早く次の矢を、と慌てるヴェナに新たな矢筒が差し出される。
ヴェナの傍らで、足元に山と積んでいた岩を放り投げていた牛人の少女ミルだ。
普段はぽわんとしたミルだが、今は緊急事態とあって子供の頭くらいある乳房を鉄板で補強した皮の胸当てに押し込め、鉄壁には長柄の鋼鉄の棍棒が立てかけられている。
「はい、ヴェナさん。慌てないで大丈夫ですよ~。まだまだ新しい矢はいっぱいあるから」
「え、ええ、そうね。ありがとう」
少しだけ頭の冷えたヴェナは、自分ばかりでなく矢の尽きた村人達の間を、補給担当の者が走り回って新しい矢や、弦の切れた弓の代わりを配って回っている姿に気付く。
驚くほど息が荒く、咽喉がひりひりと貼りつきそうなほど乾いている事にも気付いて、ヴェナはぺたんと座りこみ、腰に括りつけていた皮の水筒に口を付けた。
ゴブリンの側からも反撃の矢が放たれてはいるが、こちら側の魔法使い達の行使した風の防御鉄壁が一本残らず矢を弾き返していて、今の所ベルン村側で矢に射られた者は一人も出ていない。
またドランが連れてきた分と追加生産したバリアゴーレム達が、村人達の傍らに控えていて、風の防御鉄壁を突破された場合に備えている。
丸っこい愛嬌のある姿をしたバリアゴーレム達だが、背中に背負った四角い箱から展開されるバリアは高位魔法も凌ぐ絶対的な防御力を有している。
展開さえ間に合えばバリアに守られた人々が、怪我を負う様な事にはなるまい。
ミルがヴェナと同じように鉄壁を背に床に腰を下ろし、こちらも水筒に口を付けてヴェナが落ち着くのを見計らって声をかける。
「ヴェナさん、大丈夫? そんなに慌てなくていいよ。
まだまだ戦いは始まったばかりだし、あんまり急いでいると疲れちゃうから~」
「ミルは随分と落ち着いているのね。ミルだけじゃないわ。皆が、すごく落ち着き払って戦っている。ちょっと信じられない」
「う~ん、皆、怖くないってわけじゃないよぉ。でも、怖いのを抑えてしなくちゃいけない事があるって分かっているからね。
だからそっちに集中しているだけ。私だって皆だってヴェナさんと同じで、怖いって思っているの」
「そう? そうなのかしら。でも、そうね、怖くないわけはないわよね」
ヴェナは大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出し、呼吸が大分落ち着いて来た事を確認する。
もう一度水筒に口を付けて、口の中を湿らせてからよし、と気合を入れ直す。
「ありがと、ミルちゃん。少しは落ち着いたわ」
少し恥ずかしかったのか、ヴェナはミルの返事を待たずにそれだけ言うと淀みない動作で再び弓を構え、変わらず眼下を埋め尽くすようなゴブリンの軍勢へと矢を射かけ始める。
ヴェナの様子からもう自分が声をかける必要はない、と判断したミルは大きく息を吐いて、一抱えほどもある岩を持ち上げて投げ落とす作業を再開する。
ゴブリン側に残っている四百ほどの弓兵達と矢の応酬が重ねられていると、中天の陽射しをも退ける眩い白い魔力の光が、門の上から発せられた。
ヴェナばかりでなく歴戦の猛者と言える周囲の村人達までも、思わず矢を射る手を止めて光の発生源に目を向けると、門の真上に立っているドラン達の姿が目に映る。
ヴェナも自分より三つ年下のドランがベルン村きっての俊英であり、ガロアで魔法を学んでいると言う事は耳にしていたし、凄腕の魔法使いらしいと言う事も聞いていた。
そしてその風聞を証明するかのように、魔法と縁遠い生活をしていたヴェナでも異常だと感じるほどの魔力の高まりがドランを中心に渦巻き、ヴェナ達の肌を粟立たせている。
ほどなくしてドランだけでなくその傍らに立っていたラミアの少女セリナからも、目に見えるほど濃密な魔力が炎の様に発せられ始める。
ヴェナは思わずごくりと大きな音を立てながら生唾を飲み込み、矢を射る事さえ忘れてドラン達に見入る。
ヴェナは正直、この戦いで自分は死んでしまうだろうと心の片隅に怯えを抱えていたが、ドランとセリナ達の放つ魔力の輝きを見ている内に、なんて綺麗なのだろうと心の底から見惚れ、死への恐怖といったものが溶け消えてゆく。
そして、ドランが魔法適正の低い者でさえ視認できる高密度の魔力を放出し始めたのをきっかけに、鉄壁の上にそれぞれ散っていたマグルやディナ、リシャ、アイリ、またフィオを始めとしたウッドエルフ達も次々と魔力を昂らせる。
ゴブリン達が飢餓と生まれ持つ殺戮衝動から、恐怖など知らぬような突撃ぶりを見せていたが、流石に頭上に渦巻き始めた莫大な魔力には、生存本能がけたたましく警鐘を鳴らし、地面に縫いつけられた様に足を止めて絶望を宿した瞳で頭上を見上げている。
そのゴブリン達の様子に気付き、ヴェナは今度こそ心の底から安堵した。
自分が恐れたゴブリン達を、ここまで恐怖のどん底に落とす事が出来る者達が味方なのだ。ならば、何を恐れる事があるだろう。
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第九十九話
ゴブリン達の首魁ゴーゴ・グーマを目指し進むこの時、ドランに同道したのは共に殿を務めたアルデスの他に、鼻息荒く気合が充溢しているクロノメイズ、ささやかな呪いで無数の死傷者を出させたザナドゥの使徒ザンザン、欲望の女神ゼノビアの天使セレステル、そして思念竜を従えるレニーアの六名。
アミアスは門の前で足を止めて、ドラン達を援護する構えを取っている。
迫りくるゴーゴの部隊は周辺の壊滅していた部隊を吸収して、残るグーマ氏族軍の大部分が結集しておよそ七百余りの数となっていた。
後方の足止めに残した者達と合わせても、すでに残っているゴブリン達は一千と幾ばくかだけであった。
とはいえ七百の軍勢にたった六名で向かうドラン達の姿に、ドラン達の素性を知らぬゴラオン達は慌てて援護に向かうべく、隊列を組み直す。
既に頭上からはセリナやマーメルを筆頭とした魔法と、蛇のように鎌首をもたげた黒薔薇達がいつでも援護できる状態にある。
「ふふふふ、お父様の前に汚らしい素っ首を並べに来た心意気は褒めてやろう。褒美だ、せめて苦しまずに殺してやる。
もっとも、貴様らは死ねば創造主のおもちゃにされるわけだから、苦しみしか待っておらんが、くくく、貴様らには相応しい報いだ」
残虐そのものの笑みを浮かべるレニーアが上半身だけを具現化させた思念竜の腕を振るい、ゴーゴよりも前に出ていた大盾とハルバードを備えた重装の近衛兵の上半身を、砂の城でも散らすみたいに吹き飛ばす。
内臓や鎧の形状を留めない無数の破片が散らばる中、喜々と笑うアルデス、神剣を構えるクロノメイズ、ドランがゴーゴ達へと馬鹿正直に突っ込む。
ザンザン、セレステルはドラン達から距離を置いて、それぞれの権能と偽装の為の魔法による直接支援を行い始める。
怒声を挙げてドランやアルデスに大槌を叩きつけようとした屈強なゴブリン達は、ザンザンによって足を滑らせるか、大槌を振り上げた調子に肩の関節が外れて体勢を崩し、その隙を突いたアルデスの槍にそれぞれ心臓を一突きにされる。
「こうして恩恵に与ってみると、ザナドゥの権能は中々凶悪だな」
四方を近衛のゴブリン達に囲まれながら、まるで危機感の無いしみじみとした調子でアルデスが呟くのに、ドランが応じた。
「戦場で使えばこの通りというわけだな。
私は書き損じなどした事が無いから、今一つザナドゥの呪いについてはピンとこなかったが、こういう使い方もあるわけだな」
「槍を突きだそうと思ったら肩の関節が外れた、など笑い話にもならぬわな。ぬはははは」
ドランとアルデスがザンザンひいてはその主神であるザナドゥを褒めるのを耳にして、むっとした顔を作ったのはクロノメイズである。
彼女自身は既にドランが称賛するに値するだけの戦果を挙げているのだが、いかんせん自分で産み出した強迫観念に捕らわれてしまっているものだから、他の誰よりも活躍をしないといけないと思いこんでしまっている。
その強迫観念と村外の存在である自身が活躍し過ぎてはいけないという制約の狭間で、クロノメイズは精一杯彼女が出来る事を行っており、その事はドランだって認めている。
それでもこうまで思いこんでしまっているのは、ひとえにドラゴン時代のドランの邪神達に対する苛烈極まりない所業のせいだろう。
アルデスやドランと並ぶ前にまで出たクロノメイズは、視界に入った全てのゴブリンに干渉して、彼らの心臓の鼓動を千倍にまで時を加速させると、通常の時間軸にある他の肉体との不整合から、ゴブリン達は次々と倒れ伏していく。
傍から見れば呪いによりゴブリン達が死んだ、と多くの者が判断するような光景の出来上がりだ。
「やれやれ、クロノメイズは少々焦り過ぎだな。少し大げさなくらいに称賛した方がいいかね」
クロノメイズが造り出した死屍累々の光景に、思わずドランが呆れを主成分とした呟きを零すと、その背中を守る位置に居たレニーアが問いかけてきた。
「お父様に対し失点を刻んでしまったと思い込んでいるようですし、あれくらいは奮起するでしょう。
ところでお父様、大将首らしき者はいかがなされますか? お父様の御手を煩わせるまでも無いと存じますが」
レニーアの神造魔獣の眼は、宝剣影牙を掲げるゴーゴの姿を捕捉していた。レニーアからの提案に、ドランはいつもの口癖を一つ置いてから答える。
「ふむ、そうだな。私もセリナ達の前で少しは見栄を張りたくもある。我が故郷を脅かさんとした報いは、私の手で与えてくれよう」
「しからば周りの有象無象共は私が排除いたします」
「なんだ、ドラン。連中の大将首はお前が取るのか。この手で取ってしまおうかと考えていたのだがなあ。
まあ、この戦いは人間としてのお前達の戦いだ。譲るが礼儀よな」
つまらなさそうに言うアルデスに、ドランは少しだけ困った顔をした。
すっかりゴブリン達との戦いを楽しんでいたアルデスにしてみれば、取って置いた楽しみを取られたような気分なのだろう。
「悪いな。貸し一つとしておく故、それで許してくれ」
「構わん構わん。貸しなどと考えんでくれ。ではおれもお前の娘御に倣って、周りの連中の相手をしようぞ」
アルデスを経由してアミアスにもドランの意思が伝わったのか、アミアスが放っていた矢は敵大将であるゴーゴへの道を阻むゴブリン達へ狙いを変える。
ゴーゴの傍らに居たギムとその配下のゴブリンメイジ達が、明らかにこちらに狙いを定めて駆け出したドランへと向き直り、合計十一本の杖がドランへと向けられる。
「ゴーゴの首を狙うか、させるものかよ。我らが暗黒の神よ、
ギムを筆頭にその他の十体のゴブリンメイジ達も創造主たる暗黒の神に奇跡を願い、そして何も起きはしなかった。
彼らはもっとも殺傷能力の高い暗黒神の攻撃魔法を選んだのだが、まさか暗黒の神がドランとの敵対関係になる事を恐れて、ギム達への協力を全力で拒否したなどと分かる筈も無い。
この事を考えればギムらはせめて精霊魔法を選択すれば良かった――とも限らない。
まずドランは精霊達の最高存在である精霊神とも知己であり、最近では大精霊三体を召喚し、さらに精霊達と関係の深いユグドラシルを助けたばかりとあって、ほとんど自我の無い下位の精霊達でも敵にしてはいけないと分かる気配を纏っている。
であるから精霊魔法もまたドランに対しては、取り敢えず発動はするがその効力は極めて薄いのだ。
むしろ上位の精霊であればあるほど、ドランの魂を認識できる為に効力が薄れるという始末である。
本来暗黒神の産み出した破壊酵素を召喚し、敵対者の細胞を破壊し尽くすのが魍魎牙であったが、何も発動しなかった事にギム達が訝しむよりも早く、ドランが竜爪剣を一振るいするのに合わせて放たれたレインボーレインが、ギムを含む魔法使い達の頭を貫き、絶命させる。
ゴブリンメイジ達であった彼らは、グーマ氏族軍の中では高い魔法防御能力を有していたが、まあ、ドラン相手ではそれが何の意味もなさない事は改めて語るまでも無いだろう。
糸の切れた人形のようにギム達が倒れ伏す中、ゴーゴは生涯腹心となるべき配下を失った事を悟り、そして目の前のちっぽけな人間がここまで自分達を追い詰めた元凶なのだと思い込んだ。
それはゴーゴの怒りと喪失感が齎した思い込みであったが、概ねその通りであったのだから偶然とは恐ろしいものである。
「おのれ、人間めっ。おれはゴーゴ、グーマ氏族を束ねる『猛々しき腕』ギーマの子。いずれはゴブリンの王となりて、貴様らを支配する男だ!」
影牙の刃から真っ黒い影を思わせる魔力が溢れだし、それを感じたドランは相当強力な魔剣である事を認めた。
とはいえ地上世界最強の魔剣ドラゴンスレイヤーを知るドランからすれば、どんな魔剣妖刀も普通の剣とさして変わらない。
もっともドラゴンスレイヤーは剣というよりも、剣の形状をした兵器の類であるが。
「私はベルン村のドラン。お前らが要らぬ欲を出して襲おうとしたベルン村の住人だ。
こちらの命を狙う以上は自分の命を賭すくらいの覚悟はあろうな?」
「たわけた事をぬかすな。貴様ら人間如きに敗れるおれと思うてか」
「勝てると思わなければ軍は動かすまいが、ここまでくれば負けを認めてさっさと退くものだと思うがな」
仮にドランを討ったところでベルン村が陥落するわけではないのだが、ゴーゴはどうもドランを仕留めればこの戦いに勝利できるという思い込みを抱いているらしい。
どうやらゴーゴは追いつめられた現状に視野狭窄に陥っている上に、頭に血を上らせて冷静などという言葉をどこかへと放り捨ててしまったようだ。
「まずは貴様の首を刎ねて、ギム達への弔いにしてくれよう」
暗黒の魔力を纏う大剣を振り上げて、ゴーゴは大地を駆ける。一歩ごとに血を吸った大地が砕け、ゴーゴの脚力の凄まじさを物語る。
大上段から振り下ろされる影牙を、ドランの竜爪剣が横一文字に軽々と受け止める。
衝突の瞬間に生じた衝撃は、家屋の一つ二つ吹き飛ばしてあり余るものだったが、ドランは風を受ける柳のようにさらりと受け流す。
「ぬおおおおおおお!」
ゴーゴはオーガやトロールも斬り伏せてきた渾身の一撃が、小さな人間に片手で受け止められた事に驚愕を隠せなかったが、ならばとぐいぐいと影牙を押し込んでどうにかドランを両断せんと力を込め続ける。
ドランが若きハイゴブリンの一撃を簡単に受け止める光景に、後から続いてきたバランやその父ゴラオン、兄であるディランなどは信じられぬとばかりに目を見張る。
ドランは父親達ばかりでなく周囲のゴブリン達も、総大将の一騎討ちに注目し始めるのを確認してから、こちらを見下ろすゴーゴの激情に満たされた瞳を見上げた。
大望を抱きそれを求めて己が道を行く若者は、ドラゴンとして生きた時代に山ほど見てきた。
このゴーゴもそんな若者の一人である。
そんな若者達が大望を果たせるかどうかは才覚や出会いなどにもよるが、大きな要因として運が絡む。
ゴーゴにはその運が致命的に欠如していた。
種としての限界を迎えているゴブリンの生まれである事、ゴブリン同士の戦いの中で十分に成長しきる前に他種族に戦いを挑んだ事、その挑んだ相手の中にドランが居た事。
どれもこれも不運という他ないものばかりだ。
「ゴブリンの若者よ。お前のその野心に溢れる瞳は嫌いではないが、お前は運に恵まれなかった。
そしてゴブリンとして産まれた以上、転生によって次の機会に恵まれる事もない。せめて苦しみを感じる事無く逝け。私からの餞である」
ドランの瞳に虹色の輝きが灯ったのを見た瞬間、ゴーゴの視界は二つに割れた。
竜爪剣が軽々と影牙を押し返すと、そのまま切っ先が飛燕のように踊り、ゴーゴの股間部から頭頂へと剣閃が描かれたのだ。
ゴーゴが纏っていた影鉄の鎧も分厚い筋肉や脂肪、強靭な骨格もまるで意味を成さずに、鮮やかな断面を晒してゴーゴの肉体は両断されたのだった。
ゆっくりと左右に倒れていく中で、ゴーゴは虹色の瞳を持った人間を、ドランを睨み続けていた。
自分の野望を潰えさせた、憎んでも憎み切れぬ怨敵である。
百万回生まれ変わろうとも決して許せぬ輩だが、なぜそこまで憐みを浮かべた瞳で自分を見ているのかが分からない。
ゴーゴが最後に抱いたのはそんな疑問であった。
ドランが、ゴーゴが百万回はおろか一回も生まれ変わる事は出来ず、自分達を見捨てた創造主の下で何をされるか分からぬ事に、憐れみを抱いていたなどゴーゴに分かる筈も無かった。
かくてゴブリンの生き残り達が注目する中で、ドランの手によって野心に溢れたゴーゴ・グーマは討ち取られ、その腹心であったギムやジャダも討ち取られていた現状で、ゴブリン達の戦意と指揮が崩壊するのは当然の成り行きであった。
そうして我先にと逃げ出すゴブリン達に立ちはだかったのは、ドラミナとクリスティーナが率いるベルン村騎馬隊。
その背中に襲い掛かったのはドラン、アルデス、レニーア達を含むベルン村歩兵隊。この面々に前後を挟まれたゴブリン達の命運は、文字通りの全滅しかなかった。
正午ごろに始まったゴブリン達とベルン村との戦いは、なんと夕暮れを迎える前に決着となりグーマ氏族軍の生存者はゼロ、そしてベルン村側の死傷者もまたゼロであった。
ただし死傷者ゼロという数字は、避難や迎撃作業中に生じた擦り傷や切り傷、打ち身、突き指などを除く。
これらの怪我も即座に魔法薬や治癒の奇跡によって、すぐさま治療されたが。
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第百話
ゴーゴ・グーマの率いていたグーマ氏族軍を文字通り全滅させた翌日、少数の騎馬隊で編成されたガロアの先遣隊がベルン村に到着した。
デンゼルさん経由でガロアのお偉方にゴブリンらを全滅させた情報が伝わり、その確認の為に急ぎ先遣隊を向かわせたのであろう。
鈍い輝きを放つ銀色の鎧兜で身を固めた先遣隊の対応には、私、村長、レティシャさん、バランさん、それと冒険者達の中から“石斬り”の二つ名でそこそこ知られているらしいブーマという三十頃の男性が行った。
冒険者と素性を偽ったアルデスやマイラール達が先遣隊の対応をするわけには行かないから、このブーマという男性は本物の冒険者である。
私達が撃退したグーマ氏族軍の死体は、改めて戦場となった村の外にゴーレム達を総動員し、更に念動魔法を使って数えやすいように並べ直してある。
地面がぬかるむほどの膨大な血の臭いと、四千を越す死体の山を目当ての猛獣や魔獣が付近をうろちょろとしているが、凍結の効果がある魔法陣を死体の下に敷いてあるから、腐臭や腐敗は気にしなくて良い。
大急ぎで馬を走らせてきたガロア先遣隊は十名ほどで、率いていたのは二十歳になるかどうかという若い騎士であった。
短く刈り上げた赤髪と上昇志向の炎がギラギラと燃えるこげ茶色の瞳の青年で、名前をゼダという。
馬を村の厩舎に預けたゼダ卿は、私と同年代位の従士と私達を連れて、ズラリと並ぶゴブリンの死体の間を歩き回り、抉れた地面や巨大な穴が穿たれた光景を見て回り、その間中目をまん丸に見開いて、開いた口を閉ざす事が出来ずにいた。
数日間、ゴブリン達の足止めが出来れば御の字と思われたベルン村の戦いが、まさか夕暮れ前にベルン村側の圧倒的な勝利という結果が出るなどと誰が考えただろう。
最後にゼダ卿は私が左右に両断したゴーゴの死体を前に足を止めて、影鉄の鎧ごと綺麗に両断されたハイゴブリンの姿に、ごくりと生唾を飲み込んで見入る。
ゼダ卿もゴブリンかその他の下級の妖魔との戦闘経験位ならあるかもしれないが、上位種であるハイゴブリンを見たのは初めてかもしれない。
ゼダ卿に従っている線の細い従士などは、死体であるにもかかわらずゴーゴの姿に恐怖を覚えているようで、顔色を青くしている。
ゴーゴの左右には、グーマ氏族軍の中で彼の次に地位が高かったと思しいゴブリンメイジと、ゴブリン騎兵の隊長格の死体が並べてあるが、ゼダ卿達の視線はゴーゴの死体に釘づけであった。
「これがゴブリン達の首魁か、なんとも恐ろしい顔立ちをしている。しかしこれだけの巨体と鎧をまとめて両断したとは、そちらもまた凄まじいな」
例えハイゴブリンでは無く人間であっても、内臓や骨格ごとまとめて両断するのは、魔力や気を用いて膂力を強化するか、魔法の武具を用いないと極めて難しい芸当である。
それを質の悪い武具ばかりの辺境の農民がやってのけたのだから、ゼダ卿の戸惑いも分からなくはない。
「ゴーゴ・グーマと名乗ったこのハイゴブリンを斬ったのは、こちらのドランですじゃ。
ドランは今年の春からガロア魔法学院に通っておりましての。
なんでも競魔祭という他の魔法学院との交流試合の代表に選出されたとかで、村始まって以来の俊英なのです」
ゼダ卿の疑念を感じ取った村長が、私の方を振り返り簡単に紹介する。
ゼダ卿達の反応を見るに、影鉄の鎧ごとゴーゴを真っ二つにしたのはやり過ぎだったかもしれない。
影鉄の鎧に守られていない箇所を狙って、ゴーゴを討ち取れば良かっただろうか。
村長からの紹介を受けて、ゼダ卿に軽く会釈しながら、私は心の中ではそんな事を考えていた。
「あの魔法学院の? ならばなるほどというべきなのか。あそこの学生の中にはとんでもない使い手が居ると、ガロアでももっぱらの噂だ」
武闘派の生徒は冒険者ギルドや魔法学院の事務局からの依頼で、魔獣などの討伐をしているし、昨年や去年ではクリスティーナさんにネルなどもその中に加わっていただろうから、魔法学院の生徒の力量が広く知られる事に繋がったのだろう。
そのクリスティーナさんは、例によって美しいという言葉以上に美を現す言葉を想像しなければならない美貌が、ゼダ卿達の精神を崩壊させる危険がある為、同席していない。
「この村を囲い込む鉄の壁に、あのゴーレム達はどうしたのだ?」
ゼダ卿や従士達がベルン村を目指す道中でまず驚かされたのが、ベルン村をぐるりと囲い込む巨大な鉄の防壁だったという。
ゴーゴ達を撃退した後、塞いでいた南門を開放こそしたが防壁はそのままにしていたから、つい先日まではベルン村に存在していなかった鉄の防壁にゼダ卿達が驚いたのも無理はない。
ゴブリン襲来の報が齎されてから建てられたこの防壁は、通常ならどれだけの鉄とどれだけの人手とどれだけの時間を費やさなければならないのか、と途方に暮れるような物だろう。
それがいきなり出来上がっているのだから、ゼダ卿達はベルン村と間違えてどこかの領主の城に間違って来てしまったのか、と思ったかもしれない。
「それらもドランですじゃ。この鉄の壁は一夜で、ゴーレム達は前々からドランが折りを見ては魔法学院でこさえたのを送ってくれていたのですが、今回のゴブリン達の事から突貫で数を増やしましてのう」
「そうか、いやしかし、いくら魔法学院の優秀な生徒とはいえこれほど見事な防壁を一夜で作るなど、耳にした事が無い。
総督府付きの魔法使い達の誰が、一夜でこれだけ巨大で頑丈な防壁を建てられるものか……。
ドラン、お前が作ったと言うゴーレム達も話しか聞いてはいないが、随分と手の込んだ品であるらしいな。
魔法学院に戻ったら、あのバリスタと投石機を搭載したゴーレムなどの設計図を提出すると良い。聞いた通りの性能であるのならば、お前への評価に繋がるだろう」
ゼダ卿の言う通り砲台ゴーレムの設計図は提出するにしても、私だから作る事の出来た部分が多く、また材料も調達するのは難しいから、意図的に性能を落として材料も調達しやすいものに変えた劣化版にせざるをえまい。
それに私の作ったものが戦争なり人殺しなりに利用されると言うのは、あまり気分の良いものではないし、な。
「はい、御配慮ありがとうございます。ゼダ卿、こちらをお納め下さい。ゴーゴが振るっていた魔剣です。
かなり強力な魔剣ですが、使い手に害を及ぼすような呪いは掛っておりませんので、ご安心を」
私はゼダ卿に取り敢えず形だけ礼をしてから、左手に携えていた大剣をゼダ卿へと差し出す。
ゴーゴが振るっていた暗黒の宝剣
私から影牙を受け取ったゼダ卿は、布を取り払って従者に渡してから、影牙を鞘から抜く。
炎の様な紋様が走る影牙の刃に映る自分の顔を見て、ゼダ卿はごくりと生唾を飲んだ。
影牙の纏う暗黒の魔力に背筋に悪寒でも走ったのだろう。
見入られるように影牙を見ていたゼダ卿は、慌てて頭を振るって正気を取り戻したようだった。
「確かに魔法と縁のない私でも分かる位に強い魔力がある。これは後で魔法使いの者に処理を任せるとしよう。
それにしてもこれだけ強力な魔剣を持ったハイゴブリンを討つとは、途方も無い腕前だな。どうだ、ガロアの武官としての道を考えてみては?」
「私にはもったいないお話です」
「ふっ、その気になったらいつでも総督府を訪ねると良い。
もっとも魔法学院で優秀な成績を残しているのなら、武官よりも総督府付きの魔法使いか文官としての方が出世の目途も立つ。
村長、すまないがゴブリン達の武具のいくらかは私達の方で引き取らせてもらうぞ。
これらは全てお前達に所有権はあるが、五千ものゴブリンにこれだけの武装が行き渡っている事実は軽視できない。
これは私の私見になるが、暗黒の荒野に棲息するゴブリン達の鍛造技術や生産体系は、これまでの推定と大きく異なるものとなったのだろう。
今、ガロアに集めてある軍勢に北への警戒心を抱かせる為の材料として、ゴブリン達の武具は必要となる」
ゼダ卿の言う事には一理ある。
かつての辺境開拓時代にも無かった大軍による南下、そして彼らの装備の質がある程度均一である事を考えれば、ゴブリン達の中で歓迎せざる変化があった事は想像するに難くない。
最短で次の春頃にゴブリン達が報復の為に、再び軍を動かす可能性がある。
王国の東西は隣国の情勢がキナ臭く、領地を持つ諸侯の間では緊張感が漂っていると風の噂で耳にしたが、今回の一件によってアークレスト王国は北部にも外患の種を抱える事となったのだ。
ゴブリン達の死体から剥ぎ取った装備のいくらかは、後でガロアから派遣される軍勢に引き渡し、代金を頂戴する事になるだろう。
「総督府にはこのゼダが責任を持って、今回の事態をお伝えしよう。
まさか五千、いや四千の軍勢をエンテの森の援軍ありきとはいえ、一日で撃退してしまうとは、こう言っては申し訳ないがガロアの誰も予想していなかった事だ。
鋼鉄の防壁にあのゴーレム達と言い、まったくこの村はとてつもない所だと思うよ。ゴブリンの死体の片付けも、後で人手を用意するよう具申しておこう」
目下ベルン村最大の悩みとなるだろう死体の片付けに関して、ゼダ卿が嬉しい提案をしてくれた時、村の方から歩いて来たイーラことマイラールが声をかけてきた。
純白の神官衣や胸元を慎ましく飾る首飾りも穢れ一つなく、四千体の死体が広がるただ中を歩むとも、その気品や風格が損なわれる事はない。
「お話中の所、失礼いたします」
穏やかに紡がれたマイラールの声を耳にした途端、いや、気配を感じ取った瞬間に、ゼダ卿やその背後の従士達はごく自然と膝をついて頭を垂れようとしていた。
かつて人間を創造した主要な創造神達の内の一柱を前に、人間たるゼダ卿達は被造物として自然と最大の礼を取ろうとしたのである。
「ゼダ卿」
ゼダ卿達の動きを、困ったような淡い笑みを口元に浮かべたマイラールの一声が止めた。
ゼダ卿達が頭を垂れようとした原因がマイラールならば、それを止めたのもまたマイラールであった。
「あ、いや、これは失礼。マイラール教の神官殿ですか。この度はベルン村を守る戦いにご助力いただけたと聞いております。ガロアの騎士として深くお礼申しあげます」
「全ては神の御心のままにした事です。どうぞお気になさらず」
まあ、このイーラこそがそのマイラールそのものなのだから、言っている事は間違っておらんわな。
それにしてもマイラールにはどんな考えがあっての事だろう。
「私はイーラ。旅の神官です。憚りながら先程からの皆様のお話を伺っておりました。ゴブリン達の亡骸(なきがら)の扱いについて、お困りになっている様子。
差し出がましい事かもしれませんが、もしよろしければこの亡骸達を弔わせていただきたいのです。
ベルン村やガロアの皆様の御手を煩わせる事はいたしません。全て私が行います」
「それは、ゴブリンの死体は瘴気を発するばかりで利用法などありはしませんから、貴女の御申出は大変に助かるものですが、そうだな、村長?」
「はい。いくらわしら辺境の民とはいえ、ゴブリンやオークの肉を食べたり、骨を加工したりはいたしません。
骨や皮は使えない事はありませんが、手間暇が掛り過ぎて割に合いませんし、なにより悪しき神々の創造物であるゴブリンの骸を利用する事は憚れます。
イーラ様が申された通り、これらの死体を片付けて頂けるのなら、わしらとしては諸手を上げて歓迎いたしますぞ」
ゼダ卿も村長もゴブリンの死体の処理には頭を悩ませていただろうから、マイラールからの申し出は非常に都合のよいものだが、その実行方法については疑問を抱いているようだ。
「それでは今、皆様の目の前で亡骸を消してしまいましょう」
マイラールは一度だけ私を振り返り、悪戯っぽく微笑んでから胸の前で両手の指を組み合わせて祈る姿勢となる。
傍から見れば敬虔な神官が信仰する神に祈る姿であろうが、私からするとマイラールがマイラールに祈る姿となるわけで、奇妙と言えば奇妙である。
「暗黒の神に産み出された命よ。輪廻の輪に加わる事も出来ない汝らの亡骸を、せめてこの世界の糧として迎え入れましょう」
祈るマイラールの全身から翡翠に近い色合いの光が淡く広がり始め、その光がゴブリン達の亡骸を包みこみ始める。
ゼダ卿や村長達が息を飲んで、神聖な気配を纏う光の広がる様を見つめている。特にマイラール教徒のレティシャさんなどは、自分には到底起こす事のできない大地母神の奇跡を前に、瞳を潤ませるほどに感動している。
「おお、これはなんという、あれだけあった死体がすべて消えるとは」
「墓穴を掘る手間要らずじゃのう。流石は神の御業」
「偉大なるマイラールよ……」
順にゼダ卿、村長、レティシャさんである。私達が見守る中で、翡翠の光に包み込まれたゴブリン達の亡骸は、その全てが光の中に溶け消えて行き、大地を濡らしていた血や悪臭の類も全て光に消えてゆく。
あっという間にゴブリンの亡骸全てが消え去るのを待ってから、私は地面に敷いていた凍結の魔法陣を解除し、持ち主を失った武具が転がる光景を目にした。
「これで死体の始末をしないで済みましたね。偉大なるマイラールには、どれだけ感謝の言葉を捧げても足りない事でしょう」
私がそう言ってマイラールを見れば、組んでいた指を解いたマイラールは、小さく微笑み返してくる。
「求められたから応えただけの事。マイラールは感謝の言葉を求めているわけではありませんよ」
「それでも大いに助けられたのは事実です。ですからお礼の言葉は必要でしょう。母なるマイラールには心よりの感謝を。ありがとうございます」
まるで目の前の女神官こそマイラールであるかのような口ぶりの私に、ゼダ卿が少しだけ不思議そうな顔をしたが、まさにその通りなのである。
当のマイラールと言えば、私に面と向かって“母なる”と言われた事が面映ゆかったか意外だったのか、少しだけ恥ずかしげであった。
この後、ゼダ卿達はゴブリン達の武具の一部を持ってガロアへと帰還し、私達は残された武具の回収と手入れに時間を割かれる事になった。
幸い怪我人や死人が出ていなかったので、治療行為はせずに済み、村人総出でまだ使える損傷の小さなものと、鋳潰さなければならないような損傷のひどいものとを選別し、洗浄する作業に専念する事が出来た。
洗浄作業には再びと言うべきか私やセリナ達の魔法が役に立ち、私達は休む間もなく大忙しであった。
その間、冒険者と素性を偽った多くの神々や天使達は、私が友誼を結ぶ事を了承した、と色よい返事を携えてそれぞれの世界へと帰還している。
武具の補修や洗浄作業、それからガロアへ避難していた村の仲間達が戻ってくるまでの数日が過ぎた後でベルン村に残ったのは、アルデス、アミアス、カラヴィス、マイラール、それとクロノメイズで、他の者は既に去っている。
村長やシェンナさんは冒険者であるという彼ら用に報奨金を用意していたのだが、それを渡す暇も無く、彼らは天界ないしは魔界へと帰還していた。
ゴブリンの大軍の襲来という危機的状況を脱し、その後の後始末も一通り終わった後、ベルン村ではガロアから避難してきた人々を待ってから、戦勝を祝した宴が開かれた。
なにしろ今回の戦いでは死者が出なかったから、なんの負い目を感じる事も無く勝利と、多大な報奨金と武具を得られた事を喜び、浮かれる事が出来る。
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第百一話
グーマ氏族軍撃退の宴が終わった翌朝の事。
太陽は空に昇り始めたばかりだが、農民にとってはとっくに起き出してその日の仕事を始める時刻だから、村人総出で宴の片付けに従事している。
そんな中で私はセリナ、ディアドラ、ドラミナ、クリスティーナさん、レニーアといういつもの組み合わせで村の南門まで出向いていた。
片付けはバリアゴーレムやテルマエゴーレム、戦闘用ゴーレム達に手伝わせている。
疲れ知らずの彼らがいれば、片付けはそう時間をかけずに終わる事だろう。
さて私達がどうして南門にまで来ているかと言えば、ベルン村に残っていたアルデス、アミアス、マイラール、カラヴィスを見送る為である。
クロノメイズも居た筈だが、最高位神達と一緒に居るのは彼女の神経には耐えがたかったのか、私に許しと感謝の印を与えられた事で満足したのか、朝を迎える前に天界へと帰っていた。
昨日のあの様子なら、クロノメイズがもうこれ以上思い悩む事はないだろうから、ひとまず安心して良いだろう。
既に村の南門にはいつも通りの門番二名と戦闘用ゴーレムとが立っており、私達の方に時折視線を向けている。
神々では無い方の冒険者達は、今も村の中や魔除けの鈴亭などで、さんざん酒を飲んだ事によって深い眠りに就いたままである。
この中には、レニーアの生家であるブラスターブラスト家と繋がりのある冒険者も含まれている。
ブラスターブラスト家にとって、レニーアが満面の笑みを惜しみなく向けて来る私は、私兵を動かすほど注目の的であるらしい。
私がドラゴンであると知る前のレニーアの普段の振る舞いを考えれば、それも無理はないと理解は出来る。
さて私達に見送られる側のマイラール達だが、カラヴィス以外は実に晴れやかな顔をしており、彼らにとってもベルン村で過ごした数日間は実りあるものだったとその表情が語っている。
「実に気分の良い朝だな。それもこれも、昨日の手合わせが胸の奥が湧き立つ素晴らしいものであったからに他なるまい。
クリスティーナ、ドラミナよ。お主らは、いくら称賛の言葉を重ねても重ね足りぬ見事にして美事な技と根性の持ち主よ。是非とも我がヴァルハラに迎えたいものだ。
もっともお主らほど美しいとなると、我がエインヘリアル達でさえ心奪われて、まともに武技を振るう事も出来なくなるやもしれんがな。
うむ、良き戦士と出会えたわ。お主らに出会えただけでも、今回地上に降りてきた価値があったものよ」
言葉を飾らない実直なアルデスの最大級の賛辞に、クリスティーナもドラミナも心の底から嬉しげに微笑みを浮かべる。
武の腕を褒められる対象として、アルデス以上に誇らしい相手は存在しまい。ことこの点に於いては、私もアルデスに及ばない。
昨夜何時終わるとも知れず延々と繰り広げられた手合わせにおいて、身体能力という点に於いて最も劣っていたのが、誰あろうアルデスだ。
私は身体能力をいくらでも強化できるし、場合によっては肉体そのものを古神竜のそれへと変える事が出来る。
クリスティーナさんは覚醒した超人種として、人間の常識を凌駕した身体能力を持っているし、まだ扱いきれていないがドラゴンスレイヤーの恩恵を受ければ文字通りの超人と化す事もできる。
ドラミナに於いては何をかいわんや。バンパイア種の頂点にして古神竜の血を飲んだドラミナは、人類種としては最強と言っても過言ではない存在だ。
そんな四者の手合わせだったが、アルデスは一歩も引けを取らずに愛槍を振るい、クリスティーナさんやドラミナを圧倒する一幕を演じて見せさえした。
完全に人間の領域を越えているクリスティーナさんとドラミナを相手に、人間の域に留まる肉体でしかないアルデスが比肩し得たのは、ひとえに戦の神たるその技量と膨大な戦闘経験に依る。
霊格の高さから時にこの世の理を無視した現象を起こせるクリスティーナさんや、稲妻や閃光並の早さで動けるドラミナを相手に、彼女らよりもはるかに遅くれて反応し、はるかに遅くしか動けぬアルデスの方が結果としてより早く、より速く動くのだ。
この世界よりもはるかに古く存在し、闘争の最前線に立ち、休む事を知らず戦い続けてきた戦士は、人間の肉体というあまりにも狭い器に留まりながらも、その神技を十全に発揮してクリスティーナさん達を相手に一歩も退かぬ戦いぶりを見せた。
その技の鋭さ、凄まじさ、美しくさえ感じられるアルデスの槍捌きに、周囲の村人達は息をする事さえも忘れてただただ見惚れて、自分達がある種の奇跡の只中にいる事を魂で理解していた。
刃を交えるクリスティーナさんやドラミナでさえ、自分達がはるかに及ばぬ武の高みに立ち、今もなおさらなる高みへと昇り続けているアルデスに、憧憬と崇敬の念を抱いていたほどである。
アルデスの暑苦しさには閉口する私だが、彼の振るう技が見事である事ばかりはどうあっても否定できない。
アルデスとの一夜限りの手合わせは、クリスティーナさんとドラミナの技量を劇的に向上させ、そしてまたアルデスが二人を大いに気に入る結果を齎す事となった。
「ううむ、なあクリスティーナよ、ドラミナよ。お前達の死後を私に預けてはみんかね?
やはりお前達をみすみす冥界に行かせるか、あるいは他の神々に委ねるのはもったいない」
アルデスはよほどクリスティーナさんとドラミナに未練を抱いたようで、ううむううむと唸って、黄金の長髪を弄りながらたっぷりと熱意を込めて口説きに掛る。
確かに私の目から見てもクリスティーナさん達は卓越した武威の持ち主であり、同時に清廉な魂を持った稀有な戦士だ。
アルデスが口説きに掛るのも無理はないか。
「お言葉は身に余る光栄ではありますが、死後の事を考えるほどまだ老いてはおりません」
最初にアルデスに応えたのは、困った笑みを浮かべたクリスティーナさんであった。
アルデス教徒だったら歓喜のあまりにその場で卒倒するか、心臓が止まりそうなアルデスからの申し出も、まさに生を謳歌している最中にあるクリスティーナさんには、快諾しかねるもののようだった。
そしてそれはドラミナも同じだった。
「私もクリスティーナさんと同じ気持ちです。
ようやく未来を共に歩みたい相手を見つけたばかりですから、そのお話はいずれ訪れる未来にて考えさせていただければと思います」
ふむ、クリスティーナさんもドラミナも、アルデスからの申し出に応じなくて良かった、と正直な話、私は安堵していた。
「ううむ、ううむ、そうか。そうだな。まだお前達は二人とも十分に若い。ちと先走り過ぎたわ。しかし実に惜しい。お前もそうだろう、アミアス」
アミアスは唐突にクリスティーナさん達を勧誘し始めた兄に対し、若干呆れの色を見せてはいたが、クリスティーナさん達への評価はアルデスと同じであるらしく、兄の問いかけに細い頤(おとがい)を縦に動かす。
「兄上は先走り過ぎですが、この二人を勧誘したくなるお気持ちはよく分かります。ヴァルキリー達にはこの地上世界をよく見ておくように、通達しておきましょう。
貴女達ならばエインヘリアル達も、我が眷属達も歓喜をもって迎え入れましょう。もっとも、嫌がる相手を無理に連れ去る様な真似はしませんから、安心なさい」
戦神兄妹にここまでの評価をされる戦士は、地上世界広しと言えども滅多にはおるまい。
こうして話をしている間にも、アルデスとアミアスの眷属である戦乙女ヴァルキリー達が、無限の地上世界を飛び回ってヴァルハラに招くに相応しい勇者達を見定め、勧誘している事だろう。
もしクリスティーナさんとドラミナが天に召される時が来たならば、ヴァルキリー達がわんさかと押しかけてくる事になるかもしれない。
クリスティーナさんとドラミナが天に召される時、か。私はこのままであるのなら、多く見積もっても六十年かそこらで天寿を迎えよう。
そうなった時、まず間違いなくセリナとドラミナ、そしてディアドラ達をこちらに残したままになる。
彼女らの人生を変えた自覚のある私としては、そうするのはあまりに無責任過ぎると感じられる。
私が胸の中で何を考えているのか、マイラールだけが感じたのか、穏やかな笑みを浮かべたまま語りかけて来た。
「ふふ、アルデスの押しの強さは相変わらずですね。ドラン、貴方の事も含めていずれ訪れる未来でどのような選択がされるのか、見守りたく思います」
そう言えば、門番の二人の耳には会話が届かぬ距離だが、マイラールはすっかり私の事を魂の名であるドラゴンでは無く、人間としての名であるドランと呼んでくれるようになっていた。
私としてはドランの名前の方にこそ愛着があるから、ドランと呼んで貰える事に関しては嬉しい限りである。
「ふむ、やはり分かるかね。コレの事が」
私がとんとん、と心臓を右の人指し指で叩くと、マイラールは笑みを消し去り真剣な表情で頷く。
私が示したのは、前世で死した際に何者かによってかけられた転生の呪いの事だ。
我が古神竜の魂を灯台代わりに降臨出来る神々ならば、私の魂の最深部にまで食い込み同化している呪いに気付きもするだろう。
「否が応にも分かります。貴方御自身はまだ焦燥を感じていらっしゃらないようですが、なにか方策はあると思って良いのですね、ドラン」
「ヨルムンガンドに見て貰っている。念には念を入れて時間をかけているのだろうが、そう遠からず彼も私と同じ意見に落ち着くだろう」
「解決法が既に少なくとも一つは貴方の心の中にあるのですね」
「現実的でない案なら他にもいくつかあるが、目下、誰にも迷惑をかけずに呪いを何とかするとなると、この一つに限られる。
まあ、カラヴィスをはじめ邪神連中は、この方法を目の当たりにしない方が良いだろうな」
私の物言いから解呪方法に見当がついたのか、マイラールは得心のいった表情を浮かべる。
アレを見た者は私自身を含めて、これまで誰も存在していないが可能性としてだけなら考えた者は多くいた事だろう。
「そうでしたか。可能性はあると思っていましたが、実際に出来ると聞かされると驚きを禁じ得ません。
確かに貴方と敵対関係にある者達にとっては悪夢、いえ悪夢すら超越した事実でしょう。ところでソレをしても貴方達に問題はないのですか?」
「実行した事が無いから何とも言えんが、万が一問題があった場合の事を考えると、実行するのは本当にギリギリまで待ってからだろう。
結果として駄目だったなら、その時こそ君達の力と知恵を請う事になるだろう」
「ええ。友である貴方の頼みであるのなら、微力を尽くしましょう。
それに貴方の為になる事なら、あのカラヴィスでさえ喜んで力を貸すのは間違いありません。
ただ、あの姿を見ているととても頼りになるとは思えませんし、永年の敵としては少々複雑な気持ちにもなってしまいますが……」
マイラールが口にした言葉通りに実に複雑な感情の入り混じる視線を向けた先には、見送りに来たレニーアにべたべたとくっついて、別れを惜しむカラヴィスの姿があった。
ただ別れを惜しむ様子であれば、マイラールも天敵の意外な姿に目を丸くするくらいで済んだのだろうが、それで済まないのがカラヴィスである。
「れ゛に゛ーあ゛ぢゃん、じらないひとにづいて、いっちゃ、ひっく、うぐ、だ、だめだがらね。どら、ドラちゃんの、おとうざんの言うごどをよぐぎぐんだよ、うえええ」
ああ、異国の踊り子という表現がピタリと当て嵌まる仮初の姿を取っているカラヴィスは、滂沱(ぼうだ)の涙と鼻水を垂らしながら、愛娘に対して時折しゃくりあげ、えずきながら言葉を重ね続けている。
カラヴィスの足元には、その内水溜りになりそうな位に涙と鼻水が滴り落ちているが、レニーアは気にした風も無く真剣な顔で魂の母たるカラヴィスの言う事に耳を傾けている。
「はい、お言いつけに従います。決して忘れはしません」
かすかにレニーアの口元には笑みが浮かんでおり、雰囲気もどことなく嬉しげだった。
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第百二話
マイラールやアルデス達がそれぞれの領域に帰った後、私はベルン村を囲っていた鋼鉄の防壁を解除する作業を行った。
ゴブリン達の襲撃があればこそ緊急事態として行ったが、彼奴らの脅威を退けた以上、残しておいては物々し過ぎるし、ガロアの総督府に要らぬ勘ぐりをされかねない。
鋼鉄の防壁は周囲にいくらでもある土を錬金術によって、鋼鉄に変えながら建てたものである。
このまま適当な大きさに分割して後々利用するのも手ではあるが、下手に隠して後で見つかってもこれまた面倒。
元の木製の防壁に戻す事で村の防衛力は大きく下がる事になるが、ディアドラの置き土産である黒薔薇が残っている。
この黒薔薇は防壁にびっしりと絡み着いており、敵意ある者が近づいてくれば自動で絡み付いて動きを拘束し、たとえ鬼や巨人であっても絞殺せしめる力がある。
鋼鉄製の防壁を解体しても、村の防衛力は十分と考えて良かろう。となると鋼鉄は少量を残して、大部分は土に戻しておいた方が良さそうだ。
必要となればいつでも一夜と掛けずに構築できるし、またぞろ襲撃を受けるとしても春を迎えるまではあるまい。
幸いと言うべきか、グーマ氏族本隊との戦いでベルン村の北西あたりの地面はすっかり凹凸が出来上がっている。これを均すのに使えばちょうど良いわな。
まだ村に残っていた冒険者達も、ブラスターブラスト家が遣わした者を含めて二日も経てば全員がベルン村を後にした。
一方で商人や湯治客は、まだまだ戦いが起きる前のように村に足を運んでくれてはいない。
その代わりにベルン村の無事を伝えようと、ベルン村側からガロアへと向けて毛皮や木工細工、各精霊石、魔晶石を売りに行く頻度や、馬車の運行本数を増やしていた。
もちろん、私にこのような指示を出す権限はないので、発案は村長とシェンナさん達である。
私は防壁を還元して出来た大量の土を、ゴーレムや村の人達と共に北西の荒れ地に撒いて、耕す作業にも従事した。
防壁の解体、新たな畑の開墾、去った商人達への対応、手に入ったゴブリン達の武具やガロアから後々送られる報奨金の配分決めなど、する事は山ほどあったがどれも遣り甲斐のあるものであったから、苦労を感じる事はなかった。
夏季休暇一杯ベルン村の為に働いて過ごす予定を立てていた私達だったが、援軍に駆けつけてくれたエンテの森の人々達の見送りだけは欠かすわけにはいかない。
ギオとフィオ兄妹、クリスティーナさんを大変に慕っているアラクネやウッドエルフ、獣人の女性らは、ベルン村からお礼として贈られた穀物や酒類、衣料品などを荷車に積み、死者が出なかった事もあって実に晴れやかな笑顔でベルン村を後にする事となった。
この中には黒薔薇の精であり、セリナやドラミナに触発されて私への愛情を堂々と告白したディアドラも含まれている。
私やセリナ、ドラミナ、クリスティーナさん以外にも村長を始めとした村の重鎮や、個人的にエンテの森の民と親しくなった村人が顔を出していて、皆が笑顔を浮かべている。
レニーアはその性格を考えると見送りに来なくてもおかしくはなかったが、ディアドラが私への好意を明言している事もあってか、一応顔を出している。
ただベルン村の人々にしろエンテの森の民達にしろ共通していたのは、決して私の傍らに居るドラミナとクリスティーナさんを視界に入れないように意識している事だ。
ドラミナとクリスティーナさん。
およそこの世にあるのが何かの間違いとしか思えぬ美の化身達は、どれだけ気を張っていても容易く精神の防壁を貫き、魂までも魅了してくる。
一度(ひとたび)二人の美貌に捕らわれれば、そこから正気に戻るのには多大な労苦を要する。
また一旦は正気に返ったと見えても、魂にまでも刻み込まれた美の衝撃は、ふとした拍子に表に出てきて、人々に二度と忘れられぬ夢を朝と夜とを問わずに見させてしまう。
少しでも正気でいたいのならば、決してドラミナとクリスティーナさんの美貌を視界に入れない事。
これがこの世の理にも等しい大鉄則である事を、人々は学んでいたのである。
「夏季休暇が終わると、また暫く顔を合わせる機会が無くなるな。名残惜しいよ」
私が素直な心情を吐露すると、ディアドラは満足げに微笑む。
喜怒哀楽のどの感情を浮かべても妖美な雰囲気を纏うディアドラであったが、この時私に返した微笑みには恥じらいと喜びとがありありと滲んでいて、純真な子供のように無垢だった。
「そうね、こればかりは私がエンテの森に住んでいる以上は仕方ないわ。それに貴方がベルン村に戻ってくれば、すぐに会いに来られるもの。
でも名残惜しいって言ってくれるのは、素直に嬉しいわ。一日貴方に会えないだけでも、結構寂しいのよ。
貴方に会うまではこんな気持ちになるような事はなかったのだけれど、その責任は取ってくれるのかしら?」
ふむ、これはまたセリナが頬を膨らませるような発言をしてくれるものだ。
ちらりと振り返ってみればセリナがやはり頬を膨らませ――
「むむむ~」
「む、むむ?」
――ていたが、それがセリナだけでなくドラミナも小さくではあるが頬を膨らませていたものだから、私は思わず吹き出しそうになった。
クリスティーナさんなどは堪え切れずに笑い出しそうになるのを、口を押さえて必死に抑えていて、ディアドラはセリナ達の分かりやすい反応に暖かな眼差しを向けている。
セリナがぷくっと頬を膨らませて拗ねているのは何度か見た覚えのあるものだったが、ドラミナはというと子供っぽい仕草をする事に恥じらいがあるようで、横目でセリナの膨らんだ頬を見ながら、たどたどしく真似している。
ドラミナの頬の膨らませ方は、セリナに比べると随分と控えめで、セリナが越冬前のリスを思わせる頬の膨らませ方をしているのに対し、ドラミナは胡桃を一つ頬に入れたぐらいの膨らませ方だ。
「君の望む責任の取り方をするつもりだが、ただ御覧の通りにセリナとドラミナには不満と不安があるらしい」
「貴方がそれだけ二人に愛されているって事よ。私も二人に負けないくらい貴方の事が好きだし、愛しているわ。言葉にするととても簡単で、呆気ないけれど」
ディアドラの口からはっきりと私への恋慕の情を示す言葉が出てくると、流石に村長やギオ達も視界を外してばかりもいられないようで、ぎょっとした表情を浮かべて私を見てから、ドラミナとクリスティーナさんの存在を思い出して慌てて視線を逸らす。
視線を逸らすのが遅れてドラミナ達を見てしまった何人かは、その場でぼうっと口を開いて立ち尽くすか、腰を抜かして尻餅をつき始める。
「それでも言葉にする事は大事だ。どれだけ繰り返されてきた言葉でも、どれだけ陳腐に感じられようとも、自分の気持ちを伝える事を疎かにするべきではない」
愚かな私なりに前世と今世を振り返り、至った持論である。
持論と言うほど大した事ではないかもしれないが、言葉が足りなかったが為に起きたいくつものすれ違いや、誤解が引き起こした悲劇を目の当たりにしてきた私としては、自身の心を偽る事や本当の気持ちを伝える事を疎かにするのは、とても愚かしく悲しい事と感じられる。
「貴方ってあまり表情を変えない割には、言葉で気持ちを伝える事に躊躇が無いものね。
あんまり躊躇が無いものだから、こっちが恥ずかしくなる事も少なくないのよ? さあ、そろそろ行くわね。フィオ達に待ちぼうけをさせるわけにはいかないから」
村長達との話を終えたギオやサジンさん達は、呆けた仲間を荷車に乗せ終えていて、後はディアドラを待つばかりとなっていた。
ベルン村を後にして、再びしばしの別れを迎える事にディアドラは寂しげに目尻を下げる。
頬を膨らませていたセリナとドラミナも、いよいよもって戦友にして恋敵でもあるディアドラとの一時の別れには、名残惜しさと寂しさを感じさせる表情を浮かべる。
「それじゃあ、セリナ、ドラミナ、クリスティーナ、それとレニーア、また近い内に会いましょう。
私はドランにとっての何かっていう立場には興味ないけれど、ドランの傍には居るつもりよ。だから貴女達ともきっと長い付き合いになるわ。
私はドランに負けないくらいに貴女達の事も大好きよ。本当に自分でも驚く事にね。でも、油断しているとドランの一番は貰っていくわ。こんな風に」
ふわりと風に乗って黒薔薇の芳しい香りが私の鼻をくすぐり、ディアドラの温かな唇が私の唇に触れ合い、暫くの間離れようとはしなかった。
私達ばかりでなく村長やフィオ達も見守る中で、大胆と言えばあまりにも大胆なディアドラの行動に、しばし周囲には沈黙の帳が落ちた。
唇を重ねている間もディアドラはじっと私の瞳を見ていて、私もまた熱く濡れたディアドラの瞳を見つめ返す。
私の肩を掴むディアドラの手はかすかに震えていて、どんな時でも堂々としていて優雅なディアドラであったが、ディアドラなりに緊張しているのか。
風が草花を撫でる音、虫達の鳴き声、荷車を牽く動物達の呼吸……人々の声だけがしない中で、ん、と小さく声を零してディアドラがようやく唇を離す。
ディアドラは私の肩から手を離し、瞳を離し、あんぐりと口を開いて固まっているセリナ達の方へと視線を向ける。
「貴女達と違って私はドランの傍には居られないから、これぐらいの事はしておかないとね? セリナ、ドラミナ、油断しちゃだめよ。それとクリスティーナ」
セリナ達がいまだはしたなく口を開いて固まっている中、自分の名前が呼ばれると思っていなかったクリスティーナさんは、驚いた様子でディアドラを見返した。
「私か? 何かな、ディアドラ」
「そろそろ自分の気持ちに正直になりなさいな。あまり目を逸らし続けていると、後悔して生きる事になりそうよ。私は恋敵が増えても構わないしね」
ふむん、何とも意味深なディアドラの台詞だが額面通りに受け取るとなると、ふむむん。
クリスティーナさんが難しい顔を浮かべるのを見ていると、私の視線に気づいたクリスティーナさんは気まずい、いや、恥ずかしげに頬をほのかに赤らめて顔を逸らす。
おやま、この反応からするともしかしてもしかするのだろうか? おやおやまあまあふむふむ。
ディアドラの熱烈な行動に意識を持っていかれたセリナとドラミナの耳には、クリスティーナさんに対するディアドラの言葉は届いていなかったらしく、意外にも静かな様子。
二人が正気を取り戻したのは、ディアドラが私達に背を向けてひらひらと手を振りながら、こちらにきらきらと好奇心で瞳を輝かせているフィオ達の所へ足を向けてからだった。
「セリナさん、いけません。やはりディアドラさんは強敵です。これは、大変にまずいですよ!」
真っ先に口を開いたのはドラミナである。
私達の前では肩の力を抜いた穏やかな雰囲気のドラミナだが、今回ばかりは心穏やかには居られぬ様子で、言葉通りの焦燥を前面に押し出してセリナの肩を揺さぶって必死に喋る。
ドラミナに肩を揺さぶられて、セリナの精神が現実世界にようやく帰還する。
そしてセリナは、かつてクリスティーナさんやレニーアに対して、ドラミナが如何に恋愛において強敵であるかを語った時を思わせる動揺を見せた。
「ふ、ふふふ、ふふふふ、ななな、何を慌てでおいでいらっしゃるのです、ドラミナさん。
ディアドラさんが私やドラミナさんには無い魅力を持ってドランさんを誘惑する事なんて、とと、とっくの昔に予想できた事なのですのだ。
そ、それにディアドラさんが言っていた通り、ドランさんと一年中毎日一緒に居られるのは私達なのです。
だだ、だから、私達の有利は揺るがないのです! 多分、きっと、絶対、おそらく……だといいなぁ」
ふむ、セリナは精神的に動揺しているとどうにも口調がおかしくなる癖があるな。まあ、可愛いから矯正を強いる必要はないか。
一方のドラミナも敵対者の前で見せる冷厳なる女王の姿はどこへやら、セリナと負けず劣らずの動揺を維持し続けている。少しくらいは落ち着いても良さそうだがなあ。
「そ、そうですね。ディアドラさんには大変不公平な気もしますが、いえ、不公平である事は確かですが、既に私達は結婚の約束も済ませている以上、ゆゆ、有利は揺るがないのです」
あわあわとドラミナとセリナは落ち着かないままだったが、クリスティーナさんはと言えば私に視線を向けては逸らし、逸らしては向け直し、ぶつぶつと独り言を漏らしてうんうんと唸る事を繰り返している。
ディアドラはフィオやその他の女性陣に絡まれていて、余裕のある笑みで返している。
「ふむ、ディアドラにはいつもしてやられてばかりだな」
「ドランさんの魅力を理解できる女共が、ようやく出てきたという事でございましょう」
三人とは別にレニーアだけはディアドラの行動を前にしても、まるで動揺も嫉妬も焦燥も見せず、ふふんと実に自慢げな様子で私に話しかけて来る。
レニーアは普段の態度と言動は過激かつ傲慢であるが、セリナやドラミナ、ディアドラの能力と人柄に関しては一定の評価を下している。
クリスティーナさんばかりは私殺しと前世の自分を殺した勇者の子孫という事から、どうしても隔意を抱いているけれど。
「レニーアは私を過大評価するからな。あまり真に受けないように心掛けているよ」
「私がこの世の誰よりも、正確にドランさんの御力を理解しているだけの事でございます。
ドランさんが敢えて自らに枷を設けてさえいなければ、世の女という女は進んで存在の全てを捧げる事でしょう。
そういう意味ではディアドラやセリナ達は、ま、見る目があったと褒めてやって良いですね」
ふうむ、やはりレニーアの私に対する過剰な評価と妄信を多少なり矯正するのは、難しそうだ。
父さんや母さん、村長達もレニーアの私に対する盲目的な従順さには首を捻って、お前は何をしたのかと問いかけてくるので改善したいのだが、レニーアは産みの親であるカラヴィスとは異なる方向で手の付けようのない所があった。
「私はそうだな、ありがたい事にセリナやドラミナ、ディアドラが居てくれるが、レニーアに良い相手はいないのかね?」
私は意識していない所でレニーアに向けて、年頃の娘に対して世の父親が気にする典型的な事の一つを尋ねていた。
レニーアは私の問いがあまり理解できていない様子で、綺麗に整った眉根を寄せて不思議そうに尋ね返してきた。
「良い相手でございますか? そう、ですね。強いて言えばイリナが良い相手と言えば言えますが……。申し訳ございません、ドランさんの真意を今一つ理解できず……」
心の底から申し訳なさそうに謝るレニーアに、私は小さく笑って返した。
それにしてもやはりイリナの事は、他の魔法学院の生徒達とは違って、親しい相手として認識してはいるのだな。
私はその事実を確認出来て、少し安堵した。
「いや、いいさ。問いの意味が理解できていないと言うのなら、それそのものが答えでもある。
ただまあ、レニーア、君が女性として生まれ変わった事に意味を見つけるか、女性に生まれ変われてよかったと思えると良い、そう私が思っていると頭の片隅にでも置いておいてくれるとありがたい」
「はあ、ドランさんのお言葉とあれば頭の片隅などと言わず、中心に据え置いておきまするが」
私に対して妄信的に過ぎる態度を改めてほしいという考えからすれば、ここで否定の言葉を返すべきなのだが、この問題に関しては人間としてのレニーアの今後に関わる。
となるとあまり軽々しく取り扱われては困るし、それなりに重く受け止めてもらいたいところでもある。
分かってはいた事だが、やはりレニーアに人間的な恋愛感情はまるで芽生えていないし、自身が男性と恋愛するだとか結婚するだとか、人間として産まれてから一度たりとも想像した事すらあるまい。
レニーアの御両親は、我が子の将来の伴侶の事でさぞや悩んでおられる事だろう。
それこそレニーアと親しい異性として、私の事を調べる為に人員を動かすほどに、だ。
「なあに、いつかレニーアに私よりも優先する男性と巡り合う機会が訪れるかもしれないという事さ」
「あり得ませんな。神造魔獣であった頃も人間として生まれ変わった後も、私にとって何よりも優先されるべきはドランさんと我が魂の母にございます」
と、レニーアは私が思っていた通りの答えを返してくれた。ふぅむ、これはやはり矯正は無理か? 我が娘ながらなんともはや。
このようにディアドラの特大の置き土産によって、セリナとドラミナはその日一日あわあわとし続けて、クリスティーナさんは自分の世界に引き籠る結果となったのである。
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第百三話
■ファティマ・クリステ・ディシディア
ドランのクラスメイト。小動物を思わせる小柄な少女。ぽやんとしているが器は極めて大きい。ディシディア家の三女。
親しくなった相手を渾名で呼ぶ癖があり、またドランの最初の二つ名である“お風呂屋さんのドラン”を口にした人物でもある。
戦闘能力は皆無だが、天然の人誑しであり人脈を築く能力と人徳の高さには、ドランも一目も二目も置いている。
■ネルネシア・フューレン・アピエニア
ドランのクラスメイト。ファティマの親友であり、王国屈指の大魔法使い“砦落とし”の母と“百人斬り”の父ルオーゾ・ゾラン・アピエニアとの間に産まれる。長女。
ガロア魔法学院四強の一人で“氷華”の異名を持ち、氷狼王フェンリルと契約し、魔力を直接冷気や氷に変換できる特異体質。十年に一人の逸材。
戦闘狂としての一面を持ち、自分を負かしたドランや昨年の競魔祭で敗れた西の天才エクスに強い対抗心を燃やしている。普段は無口無表情で淡々としている。
■シエラ
もとはある国の没落貴族だった冒険者。バンパイアに噛まれたが、完全なバンパイア化は敢えて止められており、半人間半バンパイア状態で固定されている。
現在はバンパイアともダンピールとも異なる特異な状態。
紆余曲折を経てファティマの使い魔となっている。ファティマに対して従僕としての立場を崩していないが、ファティマは普通に接して欲しいと願っている。
■フェニア・フェニキシアン・フェニックス
魔法学院三年生。ネルネシア、レニーア、クリスティーナと並ぶガロア四強の一人。
金髪縦巻きロールに扇子、おーほっほっほという高笑いを備えた典型的なお嬢様。クリスティーナの事を気にかけており、以前から色々とアプローチしていた。
魔力を直接熱量や火炎に変換できる特異体質で、祖先がフェニックスを使い魔とした事から、肉体と霊魂にフェニックスの因子を持つ稀有な体質。
かなりやかましいが、種族や身分の違いを気にしないのではなく、明確に理解した上で公平な接し方のできる聡明さを持った善人であり、“金炎の君”の二つ名を持つ十年に一人の逸材。
■イリナ・エベナ・クラナン
レニーアの唯一の友達である女生徒。下級貴族出身。気弱で何時もおどおどしており、性格と体形はレニーアとまるで正反対だが、それが良かったのかレニーアとは仲が良い。
レニーアも産みの父母の次に大切な存在としてイリナを認識しており、イリナが傷付けられたなら、神造魔獣の怒りが地上に撒き散らされる事になる。
■ゼノン、ベルク
ドランのクラスメイトで体格の良い方がゼノン、細身に巻き毛がベルク。
クリスティーナと仲の良いドランに嫉妬していたが、クリスティーナとお近づきになりたいという下心でドランに近づいた。
その後、下級貴族の子弟である二人とドランの価値観などがそう違わなかった事もあり、なんだかんだんで普通に友達になる。
■ヨシュア
ドランのクラスメイト。身分の差などに囚われずドランに接する好人物。赤毛を丁寧に後ろに流し、見た目にも清潔感の漂う男子生徒。
お人よしだが若干空気を読めない欠点がある。
■マノス・ルルバ・コレクラン
ガリガリに痩せた色白の少年。競魔祭代表選手を選ぶ予選会でドランと一戦交えた。ゴーレム作成のエキスパートで、芸術肌の上に職人気質の持ち主。
非常に気骨があり、ゴーレム作成に情熱を燃やしていて、ドランからの評価も高い。
口が若干悪く他人との付き合い方もよく分からないと自分でも認めているが、根は善人である。ドランのテルマエゴーレムに刺激を受けて、自身のゴーレムの更なる発展に血道をあげている。
■デンゼル
ドランの魔法の師匠であるマグル婆さんの息子で、魔法学院で教鞭を振るっている。紳士然とした風貌と心構えを持った優秀な魔法使い。ドランが魔法学院に入学するにあたり、色々と便宜を図ってくれた恩人。
■アリスター
狐目と鷲鼻が特徴的な魔法学院の教師。戦闘に関する授業を担当している。一人称は吾輩。
■オリヴィエ
ガロア魔法学院学院長にしてエンテの森に存在した王国の最後の王女。
アークレスト王国建国王と関わり合いがあったとされるハイエルフで、王国内で五指に入る大魔法使い。
ドラゴンを殺害した七勇者の一人の子孫に当たる。ドランの正体を知っている数少ない人物であり、その為に色々と苦労を強いられている。
アークレスト王国とエンテの森の二勢力に籍を置く特殊な立場にあり、王国内でも重要視される大重鎮。ドランの行動によって胃がヤバい。
■アルネイス・リュシーネ
ドランやファティマ、ネルネシアの所属している基礎学習クラスの担任女教師。
■ダナ
高等部第二学年男子寮の寮母。働き者の手をしている、とドランから評価されている。
ガロア魔法学院に雇用されたディアドラとの衝撃的な再会を果たした後、私は学院長を立会人としてドラミナと、私を主人とする使い魔の契約を交わした。
セリナの前例に倣い契約神ラ・ヴェンタに頼んで、従の側であるドラミナに主である私への服従を強制する部分を削除した契約である。
滞りなくドラミナとの使い魔契約が終わった後、学院長が用意して下さっていた使い魔のメダルを受け取ったドラミナは、セリナがそうしている様に首からペンダントの様に下げて、主人である私と使い魔となった自分の名前が刻まれたメダルを嬉しそうに見ている。
主従という言葉で表現されるこの関係は、正直私の好む所では無いのだが、セリナもドラミナも契約を結んだ後は本当に嬉しそうな顔をする。
「ふぅむ、ドラミナ、少し聞きたいのだが、どうしてそこまで嬉しそうな顔をするのかね?
セリナもそうだが、使い魔と言う立場になる事は決して喜ぶべき事ではないだろう」
ガロアの中で堂々と私の傍らに居る理由を得たのだから、少し位は嬉しそうにしてくれてもおかしくはないが、それにしても喜び過ぎであるように私には見受けられる。
使い魔の契約を結ぶ儀式を眺めていたディアドラは、ふうんとひどく色っぽい声を零して良い事を思いついたとばかりに笑む。
艶を含みながらも悪戯っぽいその笑みに、セリナとドラミナがびくんと肩を揺らして警戒の色を露わにする。
君らの気持ちも分からなくはないのだが、いささか過敏に警戒し過ぎではないかね?
これまでのディアドラの言動で、すっかり苦手意識というか警戒の意識が刷り込まれているらしいな。
セリナはともかくドラミナなどは、かつての女王時代の彼女を知る者達が今の姿を見たら、言葉を無くすのではないか?
「何もそんなに警戒しなくたって良いじゃないの、もう。ただ貴女達の気持ちが、なんとなく分かるってだけよ。
そのメダルが使い魔である事の証明なのでしょ。ドランの使い魔だっていうね。つまり、自分はドランのものだっていう証明という事になるわね。違うかしら?」
ああ、そういう物の考え方も出来るわけか。私のもの、ね。
セリナとドラミナは私の婚約者であるし、私もセリナとドラミナのものだし、まあ間違いではない。二人を所有物扱いしているような言い方になるので、そこだけは嫌悪を覚えてしまうが。
しかしそれで喜んでいてくれたとなれば、これは男冥利に尽きると胸を張るべきかね?
「セリナ、ドラミナ、ディアドラの言う通りなのかな?」
私が水を向けてみれば、セリナとドラミナはそれぞれのメダルを手に取り、しばらくそれに視線を落としてから、えへへ、と恥ずかしげに、そして誤魔化す様に笑う。
ディアドラが口にした事はどうやら図星であったらしい。しかしまあ、本当に姉妹のように似通った言動が増えて来たな、この二人。
「いやまあ、ドランさんとの関係を端的に示すものですし、私はドランさんのものですよって、周りの人達に見せつけられると言うかぁ」
セリナが深い緑色の鱗に覆われた尻尾の先端を恥ずかしげにくねらせるのを見て、学院長が少し目を細めた。
先程から私達の惚気でお腹一杯だったのが、更に食道の辺りまで一杯になったのかもしれない。
なんだか申し訳ないが、惚気ている当人にとっては非常に楽しい時間であるのもまた事実。
私もまたその惚気ている当人の一人であり、愛する蛇娘と吸血女王に私への好意をこうして露わにして貰えるとなると、嬉しくて仕方がないのだ。
「セリナさんの言う通りですので少々恥ずかしくは思いますが、その通りなのです。
ドラン、貴方との関係を目に見える形で示すものがこうしてあるという事実は、私達の胸を高鳴らせるのに十分なのです。
ふふ、昔の私を知っている者に見られたなら、なんと嘆かれるか分かったものではありませんが、貴方のものであるという事実は、それ位に私達にとっては嬉しい事なのだと憶えておいてください」
「ふむん、決して忘れぬようこの胸の内に深く刻んでおくとも」
「愛されているわねえ、ドラン。私も二人には負けないつもりよ」
にこりと陽性の笑みを浮かべて臆面も無く好意を告げて来るディアドラに、私は正面から好意を受け止めて返事をする。
「私も君達に劣らぬだけの愛情を抱いているつもりだ。誰か一人と決める事もできない私には、本当に勿体ない位だと思っている」
私が力強くなずくその傍らで、クリスティーナさんは所在無さそうに落ち着かず、学院長はますます苦虫を噛み潰したような表情を深める。
惚気るのは楽しいが惚気過ぎて他者を不快にさせては仕方がない。
それにしてもドラミナと再会した時には、あれほど猛反発を示したレニーアが、今はお茶菓子を貪るだけで暴れる素振りを見せもしない。
レニーアはセリナとドラミナを婚約者とすると告げた時も、実に堂々とした態度で二人に接したものだが、これからもこういう態度でいてくれると助かるな。
この娘も私達との関わり合いの中で人間的な情緒を学び、大人になっていると言う事なのかもしれない。父と慕われる私としては、実に喜ばしい事である。
「さて学院長のお顔が先程から強張ったままだから、少し話の矛先を変えようか。
それでディアドラは植物園の方に就職すると言う事ですが、住まいなどはどうなっているのですか、学院長」
自主的に話を変えた私に対し、学院長は自分の分のお茶のお代わりをカップに注ぎながら答えてくれた。
これまでの私達の惚気話で、学院長が被った精神的苦痛は果たしていかばかりか。本当にすみません。
「他にも数名エンテの森から招いておりますが、ディアドラの場合は植物園の方に部屋を用意しておきました。
園内の黒薔薇の世話を一任する形ですので、すぐ傍に控えておいて貰わねばなりませんからね。
ディアドラ、仕事以外の時間の行動にとやかく口出しをするつもりはありませんが、ドランが授業中の時にはちょっかいを出してはいけませんよ。
それと男子寮にも許可なく入ってはいけません。
貴女がこういった社会的な取り決めに疎い事は重々承知していますが、その貴女自らが例えドランの隣に居る為の方便とはいえ、魔法学院での就労を望んだ以上は当学院の規則に従わなければなりませんよ」
元々人間的な倫理観や常識に疎い所があり、それを気にしない節のあるディアドラだが、流石に責任と言うものは理解しているから、学院長の言葉に肩を竦めながら答える。
「任せて貰えた仕事を放ってまで、ドランの顔を見に行くほど無責任なつもりはないわ。
確かに私はこういう所での暮らし方とか規則とかはよく知らないけれど、知らないで済まされないような真似は慎むわ。
その分、ドランに会いに行っても問題ない時は、手加減しないけれどね」
ディアドラはそう告げるや否や、私に向けて艶と言うものがたっぷりと籠められた視線を寄越し、私は思わずディアドラの唇の感触を思い出していた。
私とディアドラの様子を見て、つい先ほどまで上機嫌だったセリナとドラミナが嫉妬にぷくっと頬を膨らませたのは、改めて語るまでも無いことだったろう。
ドラミナもセリナみたいに頬を膨らませるのが上手くなってきたな。
それから私達は来(きた)る競魔祭の事や二学期の授業の事などを少し話してから、学院長室を後にした。
ディアドラはそのまま残ったのだが、胸やけを起こしたような表情になっていた学院長を慰めるつもりらしい。
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第百四話
ドラミナとクリスティーナさん達の美貌によって引き起こされた騒動から数日後、魔法学院は二学期に入り、実家に帰省していた生徒達もほとんど全員が魔法学院に戻ってきている。
始業式の後に一学期と同じ教室に入ると、実家での土産話に花を咲かせていた級友達は、私がセリナだけでなくドラミナを伴っている事に気付き、瞬く間に彼らの話題はドラミナへと変わる。
現在ドラミナの素顔はヴェールによって固く守られていて、彼女の美貌が我が級友達の意識を奪う事態を防いでいる。
ガロアの一件での事故を省みて、ヴェールがドラミナの素肌から一定以上離れない様に、距離を保つ魔法を施してある。
これでどれだけ強い悪戯な風が吹こうとも、ヴェールが捲られるような事はない。
ズルズルとセリナの尾が床を這う小さな音と共に自分の席に向かえば、既にその隣の席に座していたファティマとその使い魔シエラ、ネルの姿があり、私の傍らにいるドラミナの姿に気付くと、三人とも大小の違いはあるが驚きの表情を浮かべる。
特に半バンパイアと化した身であり、一時期は敵対していた関係でもあるシエラなどは、いつものフードの奥に隠した表情を驚きで凝固させているほどだ。
「ゴルネブ以来だな、皆、変わりはないかな?」
「やっほー、ドラン、セリー、元気そうで良かったよ~。ドラミナさんも一緒なんだ~。お久しぶりです」
「こうして無事にまた会えて何より」
にこにこといつもの笑みを浮かべているファティマと、こちらもまたいつも通りの氷華の二つ名に似合いの無表情のネル達が、好意がこれでもかと込められた挨拶を返してくれる。
ただシエラばかりはドラミナに視線を固定して、言葉一つ口にする事も出来ずにいる。
半ばバンパイアと化しているシエラにとって、バンパイアの頂点に君臨するドラミナを前にした時に、胸の内に湧き起こる畏敬の念は計り知れないものがあるだろう。
例えどんな大蛇に睨まれた蛙でも、ここまではならないだろうと言う状態のシエラに対し、助け船を出したのはドラミナだった。
ヴェールの奥で困った様に微笑む気配が伝わり、一歩前に進み出たドラミナがシエラへと柔らかに話しかける。
どんな重病人や怪我人であっても、この声を一度耳にすれば痛みも苦しみも忘れられる慈しみに満ちた声だ。
かつて不世出の女王として故国の頂点に座していた時、ドラミナはこのような声で守るべき民に語りかけていたのだろう。
「シエラ、貴女が壮健な様子で安心いたしました。ファティマさんの使い魔となっていると耳にしてはいましたが、こうして直に目にするとやはり安心の度合いが違うもの」
「は、ははっ。陛下、私などにそのようなお気遣いは」
「シエラ」
「はい!」
シエラの言葉を遮ったドラミナは、しっとヴェールの上から唇に右の人差し指を当てて、それ以上口にしてはいけないと暗に告げる。
ここに居るドラミナはバンパイアの女王ではなく、ただ一人の女性としてあるという事と、ドラミナの素性が知られては国家規模の大問題に繋がりかねない事態になるからだ。
「私はドラミナ。ただのドラミナです。ここでは貴女と同じ使い魔と言う身の上の女に過ぎませんよ。
対等な立場で接してください、というのはいささか酷かもしれませんけれど」
私の怒りを買ったカラヴィスとまでは行かぬが、それを思わせるほどに萎縮しているシエラの様子に、ドラミナは微苦笑を零したようだった。
「最大限努力致します」
それがシエラの精一杯の返事だった。
シエラはファティマの事をどこか妹の様に扱い、シエラ自身の陽性の性格もあって友好な関係を築いているが、いくらなんでもドラミナを相手に対等に接するのは、例え急な話でなくても無理があったかもしれない。
「そうしてくださるとありがたいですね」
ふっとドラミナが肩から力を抜くと、先程のドラミナの言葉の中に聞き逃せない単語があった事に気付いたファティマが、不思議そうに小首を傾げて口を開く。
ふうむ、一ヶ月ぶり位に見るファティマだが、相変わらず愛くるしい小動物めいた仕草をする娘だな。
「ねえねえドラン、どうしてドラミナさんがドランの使い魔になっているの~? ゴルネブに行った時は、そんな事全然話してくれ無かったよねぇ」
「ああ、あの後にドラミナから連絡が来てね。故郷でやるべき事は全てやり終えたから私の所に遊びに来ると言う話になり、まあその後色々とあって私の使い魔となってこうして傍にいると言うわけさ」
「ふうん。でもドラミナさんが使い魔ってひょっとしなくても~、すっごい事じゃないのかなぁ? 魔法学院にはちゃんと届けてあるの?」
「事前に学院長に伝えてあるよ。競魔祭に使い魔の出場が認められなくて良かったかもしれない、そう学院長は零していたな」
「ああ、そっかあ。ドラミナさんとセリーがドランと一緒に出場出来たら、誰も勝てる人なんていないもんね~」
まったくもってその通りである。
仮に私が出場せず、代理のような形でセリナとドラミナだけが競魔祭に出場したとしても、この二人に勝てる可能性があるのは、ドラゴンスレイヤーの性能を引き出したクリスティーナさんか、レニーア位の者だろう。
如何にアークレスト王国広しと言えども、セリナとドラミナの二人組に同数で挑んで勝ちの目がある強者はいまい。
アークレスト王国でなく惑星規模にまで話を広げれば、三竜帝三龍皇や霊獣の王級が含まれるからまた話は別ではあるが……
「ああ、そうなったらいくらなんでも他の魔法学院に対し、不公平過ぎるだろう。大人と子供の喧嘩どころの話ではないからね」
いくらなんでも今のセリナとドラミナを相手にできる使い魔を持っている生徒は、歴代を振り返っても居ないだろうし、そうなればもはや弱い者いじめ以外の何物でも無くなる。
ドラミナの素性を知るファティマ達も、全面的に同意らしく異を唱える様子はない。
ただセリナとドラミナはそもそも私が居る時点で、弱い者いじめだと言わんばかりの顔をしていた。
確かに否定はできんが、せめてレニーアとクリスティーナさんもその域ではないか、と反論を言わせて欲しかった。
ふむむう、と私が不平を若干込めた唸り声を出していると、ネルが少しだけ表情を変えて呟く。
「でも、ベルン村が無事にゴブリンを撃退できた理由の一つが分かった。ドラミナさんなら単独でも倒せただろうし」
ふむ、武闘派アピエニア家の長女だけあって耳が早い、と言いたい所だが、何しろ話題性の高い出来事だったから、今では王国北部はおろか概要位なら王国全土に知れ渡っていてもおかしくはなさそうだ。
なにしろゴブリン五千を辺境の僻村の戦力が撃退したのだ。王国の歴史が数百年を閲(けみ)しているとはいえ、前例の無い事に違いない。
「ああ、そうだよぉ、ドラン、大変だったね。私も詳しい事は知らないけれど、ドランの故郷が襲われたっていう話は聞いたよぉ。
やっぱりドランも戦ったの? 怪我した人とかは居なかったの? 大丈夫~?」
「ふむ、もう終わった事だから今焦る必要はないぞ、ファティマ。私も前に出て戦ったが、数が頼みの連中だったよ」
実際にはこれまでのゴブリンからは考えられない様な点もいくつかあったが、この愛らしい級友を徒(いたずら)に不安がらせる必要はあるまい。
ネルは、ゴブリン達のらしからぬ点に関する情報を既に耳にしているのか、一瞬だけ鋭い光を瞳に輝かせたが、私に言及する事はしなかった。
ファティマを不安がらせる必要はないという事を、私とネルは言葉を交わすまでも無く共通認識として抱いていたのである。
ベルン村がゴブリンの襲撃を受け、それを撃退したと言う話は他の生徒達にとっても決して他人事では無く、遠巻きに私達に注目の視線を向けていた級友達が話を聞きに寄ってき始める。
この魔法学院に通う生徒はまず王国北部に住んでいるから、北からやってくる異種族や異民族の侵攻は、久しく無かった事とはいえいずれ我が身に襲い来る脅威として身近なものなのだ。
いざ北の脅威との戦争となれば、最前線に駆り出される可能性のある下級貴族のゼノンやベルクを筆頭に、次々と話を聞きに来る級友達に、私はドラミナを紹介がてら話せる限りの事を話して上げる事にした。
ちょうどディアドラが魔法学院に就職するわけだから、ディアドラの実力と活躍についても触れて、彼女を皆が侮る事の無い様にもしておこう。
私達は、アルネイス先生が来るまで、級友達にゴーゴ・グーマが率いていたゴブリン達との戦いを一部誤魔化して話し続けた。
ゴブリン達との戦いとドラミナの紹介、そしてアルネイス教師の話と授業が終わった後で、私とネルはフェニアさんからの呼び出しを受けて、魔法学院のいくつかある中庭に設置されたテラスに集合していた。
フェニアさんに呼ばれていないファティマとシエラも同行しているが、フェニアさんが私達を呼んだ用件は分かっているし、目くじらを立てるような方でもあるまい。
私、セリナ、ドラミナ、ネル、ファティマ、シエラという組み合わせは、移動中も随分と目立ってすれ違う生徒達の耳目を集める事になった。
レニーアと戦った予選会の決勝戦以来、私への注目度もぐんと増している。
クリスティーナさんと親しい事や、周囲に常に美少女達を侍らせている事への嫉妬と羨望が男女両方から向けられているのは、まあ、役得の代償であろう。
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第百五話
ガロア魔法学院の敷地内に存在する植物園は、通常の植物と比較して強い魔力を有するか、扱いに慎重を要する危険な魔花(まか)や妖草(ようそう)の類が無数に栽培されている。
魔花らが相互に作用して危険な事態に陥らないように、別個に設けられた栽培室の一つに新しくエンテの森から送られてきた黒薔薇が、光の存在を許さぬような黒い花弁を広げて咲き誇っていた。
室内の花粉を外へ流出させない為に、風魔法によって大気の濾過が行われている栽培室は硬化硝子で建てられていて、秋への移ろいを思わせる陽光を十分に取り入れている。
足元は特殊な栄養剤を混ぜた土で、黒薔薇は栽培室の三方に設けられた花壇に植えられていて、エンテの森から移されるまでディアドラの手によって栽培されていた事から、瑞々しく咲き誇っている。
強い魔力を持ったバラ科の植物の取り扱いについての授業を受ける為、私と使い魔であるセリナ、ドラミナ、それにファティマも出席していた。
ガロア魔法学院に就職したディアドラの授業である。
私達の他三十名ほどの生徒達を前に、ディアドラはいつもの自身の肉体を変化させた黒いドレスの上に長袖の白衣を纏い、首からは招聘(しょうへい)された指導員である事を示す名札を下げている。
ディアドラは私の口からベルン村攻防戦で大活躍をした黒薔薇の精である事が知られている事と、目の当たりにした時に体感できる膨大な魔力、そして人間ならぬものならではの妖艶な色香をこれでもかと放出している事もあって、生徒達から侮りの視線を向けられる事は無かった。
不特定多数の人間相手に黒薔薇の取り扱いを教授するなど、ディアドラにとって初めての経験に戸惑っているのではないかと思っていたが、ディアドラはいつもと変わらず泰然自若(たいぜんじじゃく)としている。
陽光を無限に吸い込む暗黒を思わせる花弁を広げる黒薔薇の只中に佇むディアドラは、全ての色を飲み込む黒に染まった薔薇の化身に相応しい風格と妖美な雰囲気に満ち溢れている。
ガロア魔法学院で美しいモノと言えば、何を置いてもまずクリスティーナさんが挙げられるが、クリスティーナさんが持っていない魔性を、ディアドラは兼ね備えている。
本や話の中でしか知らなかった黒薔薇の精の姿に、そしてディアドラが意識せずに醸しだしている、接する者の心ばかりか魂までも蠱惑する妖美さに、私達以外の生徒達は誰もが感嘆の吐息を零した。
そんな彼らも、果たしてディアドラが一時間と掛けずにガロアの市街全てを黒薔薇で覆い尽くす事が出来るほど強大な黒薔薇の精であると知ったなら、果たしてどんな顔をする事だろう。
ディアドラは自分を見て言葉も無い生徒達の様子に、物珍しさから声も出ないのか、とでも考えたらしく、さしたる興味は見せなかった。
あくまで自分のする事は黒薔薇の栽培に関する授業である、と割り切っているのだと、冷厳さが伺える横顔から読み取れた。
生徒達には一人一鉢ずつディアドラが育てた黒薔薇の鉢植えが渡されて、今回は黒薔薇の大まかな特徴と、取り扱う上での注意事項を簡単に説明する程度に留まるようだ。
私の所にも一鉢だけ回されている。
使い魔であるセリナとドラミナの分は流石に用意して貰えなかったわけだが、私達が特別扱いされていない事の証左の一つであるし、セリナとドラミナは一つしか鉢がない事を理由に公然と私に寄り添っていて、私達に文句はなかった。
ディアドラは学院長の前で手抜きの仕事はしないと明言した通りに、私達の姿を見ても特に態度を変える事はせずに、生徒達の一人として扱ってくれた。
我が道を行く所のあるディアドラであるから、実際に授業ではどうだろうかといささか不安だったのだが、どうやら杞憂であったらしい。
「黒薔薇の棘で指を切らないように気をつけなさい。
ただの薔薇だったら血が出るだけで済むけれど、黒薔薇の棘で切ったら毒が体に入るし、魔力と精気も吸われるわよ」
あまりに物騒な黒薔薇の特徴に、多くの生徒達は軽く顔を引き攣らせて、おっかなびっくりといった様子で、自分の鉢の黒薔薇を見る。
万が一指を切って毒が入ったとしても、ディアドラがすぐに解毒してくれるだろうし、授業での取り扱いを考慮して毒性を薄めた黒薔薇が用いられていると聞いている。
そうおっかなびっくりする事も無いとは思うが、劇物の取り扱いをいきなりやらされればこんなものなのだろうか。
魔法具の作成や魔法薬の調合、錬金術でも取り扱いを間違えれば一命に関わる材料を、普段から取り扱っているのだし、やっぱり大仰の様な気がするな。
「多分、ディアドラさんが居るから緊張しているのもあると思いますよ」
おや、顔に出ていたのかセリナが声を潜めて私の疑問に対し答えてくれた。
「教師の前だからか? 授業なら当たり前の事だと思うが……」
「ディアドラさんみたいに綺麗で色っぽい人だとまた別って事です。
それに黒薔薇に触れた事のある方なんてほとんどいないでしょうし、初めての経験の時は緊張するものですよ」
「ふむん、なるほど。ディアドラにも黒薔薇にも慣れている私達の様には行かんのが当たり前か」
「そう言う事です」
どこかしたり顔で言うセリナの様子が背伸びしているようで微笑ましく、私は口元が緩むのを感じた。
私を挟んでセリナの対面にいるドラミナも、ヴェールの奥で私と同じ笑みを浮かべたようで、小さくドラミナのヴェールと肩が揺れていた。
しばらくは黒薔薇を取り扱う上での注意事項と基礎を叩き込み、それが十分に出来てから黒薔薇の加工方法についての授業が行われる予定となっている。
ディアドラが魔法学院に滞在する時間は一年も無いから、一回ごとの授業の内容はかなり詰め込まれた濃いものとなる。
初回の授業ならまだしも、今後の授業について行くのは大部分の生徒には辛いものになりそうで、少なくない数が脱落するかもしれない。
だが黒薔薇は取り扱いの難しい魔花だ。中途半端な知識と技術を身に着けるよりは、すっぱりと途中で諦めた方がその者の為にも、周囲にとっても幸いな事だろう。
ディアドラはベルン村攻防戦における活躍が広く伝えられていた事、そして実物の妖美と言う他ない容姿と雰囲気によって、瞬く間にガロア魔法学院の生徒達に一目置かれる存在となった。
生来の気性が姉御肌で意外と面倒見が良い事もあり、同じく魔法学院にやって来たエンテの森の同胞達や、生徒の相談にも乗っている様だった。
大食堂などでもたまに姿を見かける事もあり、ほとんど食事らしい食事を摂ってはいないが、学院長や森の同胞達と食卓を囲んで歓談しているようだった。
ふむん、まだ学院関係者と積極的な交流をしている様では無かったが、ディアドラならそう遠からずに交流の輪を広げるだろう。
ただ嫌いなものは嫌い、好きなものは好きとはっきりと言う性分だ。
その分、好かれる相手からは好かれるし、嫌われる相手からは嫌われるのがディアドラと言う女性である。
ディアドラの交流関係は心配だが、かといって生徒である私がしゃしゃり出るのもおかしな話であるし、そもそもディアドラは立派な成人女性だ。
助けを求められるまでは暖かく見守っているとしよう。
それにここには私以外にも学院長が居るし、他のエンテの森の同胞も居る。ディアドラが頼れる相手はいくらでもいるのだ。
少し寂しい気もするが、これは素直に喜ぶべき事だろう。ふむふむ。
ディアドラの魔法学院での生活は、まずまず大丈夫そうで取り敢えずは安心できそうだったが、となると気になるのはドラミナである。
ドラミナは生徒達が実家から戻ってくる前に魔法学院入りしたから、生徒達の戻って来た魔法学院で過ごすのはこれからの話なのだ。
ドラミナがバンパイアである事と私の使い魔である事、魔法学院が存在を公認している事、陽光下でも活動できる事は生徒達にも予め伝えられている。
かねてからラミアであるセリナを連れていた私は注目の的であったが、全身を黒い衣装で隠したドラミナが加わったことで、一度は鎮静化した注目の視線は再燃していた。
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第百六話
善なる神々の座す天上世界の一角に、時を司る神々の一柱が居を構えて眷属らと共に暮らしていた。
大小無数の、歪な、不揃いの、色様々な、ありとあらゆる形の歯車と、形と言えぬ形の時計盤が大地の代わりに存在し、カチリカチリと時の針の進む音と戻る音が重なり合っている。
時の神の影響力が及ぶ数多の世界の時の流れが、このような形で具現化されているのだ。
時の流れは主に歯車や時計盤、蝋燭などで具現化される事が多く、その数が多ければ多いほど時の神としての格が高いと言ってよい。
この時の神の所有する最大の時計盤は、さながら太陽の様に輝く黄金色をしており、何に支えられる事も無く領域の中心部に立っている。
ある日、神の権威と力とを象徴する黄金の時計盤の針の軸に、虹色に輝く宝玉が埋め込まれた。
その虹色の宝玉が齎されて以来、必ず日に一度は行われるようになった習慣が存在する。
周囲に乱立する時計の影から一人の女神が進み出て、黄金の時計盤の前で優雅な歩みを止める。
幅の広い紫色の布で銀の髪をまとめ、亜麻色のワンピースと時計盤を模した装飾品を身に着け、艶やかな褐色の肌をしている。
この領域の支配者である時の女神だ。時計盤の軸に埋め込まれた虹色の宝玉を見る目には、人間が神を見るかのような崇敬の念が宿っている。
この女神のみならず仕えている下位の神や天使などの眷属らも姿を現し、虹色の宝玉を前にして背筋を正しただ一柱の例外も無く畏敬の念を全身から漲らせ、両手をやや左右上方に広げながらこう唱和した。
「ドラゴン万歳!」
「ドラゴン万歳! ドラゴン万歳!」
「ドラゴンばんざ~~~~い!!」
彼女らの口にするドラゴンとは、神々を含めた全存在の頂点に君臨していると言っても過言ではない古神竜の名前であり、神でありながらドラゴンへの崇敬の念も露わに叫びを挙げたのは時の女神クロノメイズであった。
そのまましばしクロノメイズの領域クローデニアには、ドラゴンを称える神々の唱和の声が響き渡る。
クロノメイズはかつて神器を与えた人間がドラゴンと敵対した事から、一度はドラゴンに滅ぼされる事を覚悟した事があった。
しかし後にドラゴンに出会った際に簡単に許して貰った上、故郷の危機を救う手助けをしてくれたからと、今は時計盤の軸に埋め込んである虹色の宝玉を貰ってからは、すっかりドラゴンに心酔してしまっている。
クロノメイズに下賜された虹色の宝玉は、人間に転生したドラゴンからみて大したものではなかったが、クロノメイズからすれば到底扱いきれぬほど莫大な力の塊だ。
古神竜ドラゴンの力の結晶体を有しているという事実は、ドラゴンとの繋がりを示すものであり、ただその一事をもってクロノメイズは他の神々から一目も二目も置かれるようになった。
クロノメイズが賢明であったのは、ドラゴンの力と威光を己のものだと勘違いして増長しなかった事だろう。
もっともクロノメイズにして見れば、増長などする余裕はなかった。
かつて遠目にしか見た事のなかった実物のドラゴンと謁見し、その力の強大さと次元違いの霊格に魂の底から打ちのめされていたからだ。
主たる女神の変容ぶりに、クロノメイズの眷属達は当初こそ呆れ、警戒もしたが、主が持ってきた虹色の宝玉を目にしてからは態度を一変させ、クロノメイズ一派はまるごとドラゴンの崇拝者と化している。
それほどまでに天界で語り継がれている古神竜ドラゴンの伝説と、その威光に関する逸話が凄まじかったのだ。
実際、ドラゴンにとってはそれこそ爪や髪の毛の先程度の力でしかない虹色の宝玉ですら、クロノメイズと全眷属らの力の総量を軽々と越えた力を内包している。
ここまで圧倒的、いやもはや理解する事さえ出来ないほど力と格が違ってしまえば、これはもう頭を垂れて信奉したくもなるだろう。
ましてや相手はこちらに対して友好の意を表しているのだ。自尊心の折り合いさえ付けば、これほど頼りになる相手も滅多にない。
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第百七話
龍宮城の中に設けられた他の竜帝や龍皇らとの対談の為の部屋の内部には、耳が痛くなるほどの沈黙の帳が下りていた。
建材そのものが白く発光し、室内を明るく照らし出してその場に集った六名の姿を克明にしているが、彼らの顔に浮かぶ表情まで照らし出す必要はあったかどうか。
竜種の頂点に君臨する始原の七竜の彫刻が施されたテーブルに着いている六名は、彼らの素性を知る者がこの場に居たなら、言葉を発する事も出来ずに腰を抜かしかねぬ面々である。
この地上世界(=惑星)に存在する竜種を統べる当代三竜帝三龍皇が、竜・龍人へと変化した姿で一堂に介しているのだ。
闇のように深い黒に星の光をまぶしたような艶を持った髪と、この世の物とは思えぬ美貌を持った女性は、歴代の水龍皇の中でも最強を謳われる
碁盤みたいな四角い顔と身体つきにギョロっとした目付き、それに鯰を思わせる髭が特徴的な壮年の男性は火龍皇
珊瑚の簪で翡翠を思わせる髪をまとめ、あどけなさを残した十代半ばほどと見える少女は、風龍皇
髪も瞳も鱗も纏っている貴族風の瀟洒な衣服も黒で染め抜き、病人のように白い肌が映えて見えるのは、黒竜帝エングルザード。
骨太の骨格に分厚い筋肉の鎧を纏って活力に満ちた初老の男は、後ろに流した黄金の髪や鱗とそれ以上に全身から立ち昇る重厚な威圧感が意識を引く金竜帝ゴルベラム。
そして長く伸ばした髭や髪が雪の様な白に染まった六人目が、最高齢にして最強の竜であり、始原の七竜とも面識を持つ長老格である白竜帝コンクエスター。
一日あればこの星どころか星系を破壊し尽くす事も出来る六名が、一様にして沈黙を共有しているのは、緊急事態と告げて他の五名を招集した龍吉が口にした言葉を理由とする。
この場に集っている者の中で実体を持っているのは龍吉だけで、他の五名はそれぞれの居城に残ったまま姿と声だけをこの部屋に投影して参加している。
しかし龍吉を除いた五名の苦渋とも混乱とも取れる表情を浮かべる姿からは、彼らが仮初の幻であるとは信じ難いほどの精密さと生の迫力があった。
龍吉はやはりこうなりましたか、と事前に予測していた通りになった事に、豊かな起伏を描く胸の内でそっと嘆息する。
憂い気に視線を伏せる龍吉に対し、意を決したような表情でコンクエスターが髭に埋もれている唇を開く。
この地上に置いて最強の称号に相応しい実力と、最高の称号に相応しい霊格を備えた白竜帝をして、全身を緊張で満たさざるを得ない事を龍吉は口にしたのだ。
「龍吉よ、今ほどそなたが口にした言葉はこの世の竜なる者達にとって、決して聞き捨てならぬもの。
疑うわけではないが重ねて問い正さねばならぬ事を許されよ。かまえて間違いではないのだな?」
「はい、コンクエスター殿。我が祖リヴァイアサンに誓って偽りを申してはおりません。
おおよそ五十年から六十年以内に、始原の七竜の御方々が、住まう世界を遠く隔てた我らの様子を伺う為においでになられます」
「わしがこの地上に居を構えてより初めての事であるが、そうか、始原の七竜様方がご降臨あそばされるのか。
真竜様でさえ滅多な事では竜界を離れる事はないと言うのに、バハムート様やリヴァイアサン様が……」
あまりにも衝撃が強過ぎて心の整理が追いついていないのか、コンクエスターは背もたれに体を預けて思案するように顎髭をしごく。
口を閉ざすコンクエスターに代わって、龍吉に詰問し始めたのは噴飯やるかたない様子に見えるゴルベラムであった。
「確かにそれが事実であるのならばお主が緊急招集を掛けるのも理解できる。いや、これで招集を掛けなかったなら、とんだ愚か者、いや裏切り者と言っても良い事態ぞ。
しかし、しかしだな龍吉よ。いと気高き水龍皇よ、どうしてお主の元を転生なされたドラゴン様が訪れていた事を黙っていたのだ」
嘆く響きを含ませるゴルベラムは、この場に集った龍吉以外の者達の心情を代弁していた。
彼らにとっての絶対神に相当する始原の七竜の一角ドラゴンが、自分達の住む世界に自我と記憶をそのままに転生し、龍吉と接触を持っていたという事実が隠されていた事は、背信にも等しい印象をゴルベラムらに与えていた。
その事は龍吉も痛いほど感じていて、ゴルベラムだけでなく他の五名らに対して一度席を立ち、腰を深く曲げて頭を下げる。
龍宮城の臣下達が目の当たりにしたら、あまりの出来事に卒倒するか嘆きの余りに滂沱の涙を流すかもしれない。
「申し訳ございません。皆の怒り、悲しみはこの龍吉、痛いほどに感じております。
ドランと言う名前の人間に転生したドラゴン様のご意向に従い、皆には今日まで伝えずにおりました。
あの御方は人間に転生した以上は、人間として生を過ごすとお考えです。
七竜の方々が降臨されるのに五十年から六十年の期間を申しましたのも、それがドラン様の人間としての天寿であろうという、ドラン様自身の推測に依るものです」
なぜドラゴン様は人間としての天寿を全うするおつもりなのか、再び古神竜としては我らの頂点に君臨なされないのか、という疑問がゴルベラムや風歌らの胸中に吹き荒れる中、コンクエスターだけはしみじみと納得したように呟く。
「なるほどな。ドラゴン様のご気性を考えればそのようなお考えを抱くのも、無理はあるまい。あの方はそういった一風変わった所がおありだ」
龍吉以外に唯一生前のドラゴンを知るコンクエスターにとっては、転生の呪いの件を知らずともドラゴンが人間として生きる選択肢を選ぶ事は、納得の行く事であったらしい。
コンクエスターが龍吉の言葉に同意を示した事で、ゴルベラムらもどうやらそうらしいと渋々ではあるが納得の色を顔に浮かべる。
「それで龍吉よ、ドラゴン様、いや今はドラン様か。ドラン様は偉大なる七竜の方々のご降臨について、他に何か仰ったのか?」
「はい。まず七竜の方々がおいでになられる時にはドラン様に連絡が来るであろうから、事前の連絡をドラン様から私経由で皆に伝える事になるだろうと口にされておりました。
なんの前触れも無く唐突に七竜の方々が訪ねて来られる可能性は、あまり高くはないでしょう。
リヴァイアサン様とバハムート様のご降臨は確実との事でしたが、アレキサンダー様とヒュペリオン様はどうか分からないとの事です。
アレキサンダー様は気まぐれな風のようなご気性との事ですし、ヒュペリオン様は一度(ひとたび)眠りに就かれれば星が滅びを迎えても目覚めぬ事もあったと言う御方ですから、その通りなのでしょう。
ただ、ヴリトラ様に限ってはドラン様に何の連絡も無しに、私達の元を訪れる事があるかもしれないと仰っておりました。
そうであるのなら風歌が一番気を抜けませんね」
自分の名前が出てきた事に対して、風歌はひゃっと小さな悲鳴を挙げる。
風系統の竜種の頂点に立つのはヴリトラであるから、ヴリトラが訪れる可能性が最も高いのは風歌の所となるだろう。
居城に戻れば風龍皇に相応しい凛然とした態度を取る風歌も、周りが自分よりも目上の者ばかりとなると、緊張と共にどこか頼ろうとする心の働きがあり、思わず龍吉に縋るような視線を向けていた。
「りゅ、龍吉様、お恥ずかしながら私は古神竜様をお出迎えする作法に関して、心得がございません。大変恐縮ですがご教授願えませんでしょうか?」
「始原の七竜様方をお迎えする作法は、風歌だけでなく私もコンクエスター殿も何が正解かは知りませんよ。
これまで正式に始原の七竜様をお迎えした事は御座いませんでしたし、一応作法指南書などもありますが、内容はあって無きが如くですしね。
ドラン様は、竜界の方々は私達が考えるほど細かい事は気にしないと言ってくださっていますし、国賓を迎えるのと同程度の事をすれば礼を失する事にはならないと思いますよ。
既にドラン様は何度も龍宮城を訪れておいでですが、あまり大仰に歓待するとそこまでしなくて良いと口にされますし」
「そうなのでしょうか。それにしてもヴリトラ様とは一体どのような御方であるのか、種の頂点に立たれるお方と崇めながらその実像を知りませんから、少々不安でございます」
風歌が口にした事は、既にドランとの深い繋がりを持つ龍吉以外の者にとっては他人事では無かったろう。
始原の七竜ともなると地上世界のほとんどの竜種にとっては、雲の上の存在かおとぎ話の中の登場人物のようなもので、風聞や逸話は伝わっていてもその実像はほとんど霧の中である。
はっきりしているのは竜種の原点となる存在であり、地上世界に住む自分達とは比較にならぬほど絶大な力を持った超越者である事くらいだろうか。
その夢物語の中で語られるような存在が、ほんの五十年かそこらの内にやってくるのだというから、彼らの混乱は極みに達していた。
これは一度ドラン様にご足労を願うべき、と判断し、龍吉は近い内にドランをこの場に連れてくる事を決める。
まずは地上世界の同胞との接触経験の多いドランで、他の竜帝龍皇達に慣れさせておいた方が良いと判断したからである。
そして龍吉の視線は、先程から沈黙を守っているエングルザードへと向けられる。
黒を纏う若き竜帝は一見沈黙を守っている様に見えて、想像もしていなかった事態に半ば心神喪失状態に陥って、言葉を発する余裕が無かったのである。
これで始原の七竜の実物と相対したら、さてどうなってしまう事やらと龍吉が不安を抱くのも無理の無い事だった。
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第百八話
古龍神リヴァイアサン、古神竜アレキサンダーがこの惑星に降臨するという前代未聞の事態が人知れず発生している一方で、本来ならばその場面に立ち合う筈だった四人の少女達がある話題について語る為に集まっていた。
ドランやクリスティーナと同じく、ガロア魔法学院の
もしドランが競魔祭に向けて並ならぬ情熱を燃やすフェニアやネルが、こうして特訓を辞してまで話し合いをしていると知ったら、一体何事かと真剣な表情を浮かべて驚いた事だろう。
四人はドランが魔法学院の敷地内に建てた浴場に設置されたテラスに集い、他者の目や耳が及ばないように周囲への警戒を密にしている。
口火を切ったのは、この集いを主催したフェニアである。
フェニアは、煌めく黄金の巻き髪に劣らぬ好奇心の輝きを宿した瞳でネルとファティマ、シエラを見回し、にんまりと嫌味にならぬ程度に俗っぽい笑みを浮かべると、愛用の扇子で口元に浮かぶ笑みを隠しながら喋り始めた。
「ネルネシアさん、ファティマさん、ドランさん達に特訓に参加できない事情はお伝えになって?」
「ん。授業があると伝えておいた」
短く答えるネルは、お茶菓子の類が出されていない事に残念そうな素振りを見せる。
魔法行使に際する膨大な魔力と精神力消費を補う為、魔法使いはえてして大食いないしは高カロリーの菓子類や酒類を好んで摂取するが、それを抜きにしてもネルは大食いである。
フェニアは、既に自分達がドランに全面的に信頼されて疑われる事が滅多にないと言う事実を理解しているから、ネルの簡潔極まる説明にも納得して疑う素振りすら見せない。
「でしたら問題はありませんわね。さて競魔祭に向けての特訓を辞してまでこうして集まって頂いたのは、かねてからファティマさん達にだけ御相談していた事についてですわ」
フェニアの口ぶりから察するに、どうやら以前からドランやクリスティーナ、レニーアに隠れて四人で集まり、何かしらの相談をフェニアの方から持ちかけていたらしい。
ネルやファティマ達の方もこの面子で集まる事にすっかり慣れているようで、集められた事に対する戸惑いはなく、落ち着き払っている。
「クリスティーナ先輩の事ですねぇ。夏休みの前よりも明るくなったし、ベルン村に行っていたっていうお話だったから……」
普段のぽやんとした雰囲気はそのままに、ファティマは顎先に右の人差し指を添えて、少しだけ思案する素振りを見せる。
ネルは親友の言葉に追従した。
「ドランと夏季休暇の間、短く無い時間一緒だったのは間違いない」
二人の発言を受けたフェニアは開いていた扇子を閉じ、スカートのベルトに取りつけたホルダーに収納し、凛とした表情を浮かべ直す。
フェニアは利発で聡明な女性でありながら、それ以上にとことん陽気で騒がしいものだから、滅多に見られぬ真剣そのものの表情である。
容姿と精神から二重に放たれる輝きに隠れがちなフェニアという少女の素の美しさに、ネルとファティマは少なからず感嘆しながら、その唇から零れ落ちる言葉を待った。
しかしてフェニアの真剣な表情が維持されていたのは、ごく短い時間であった。
再びフェニアの表情ににんまりとした笑みが浮かび上がると、胸の高鳴りや好奇心を隠せない声でこう言った。
「ではではではやっぱりクリスティーナさんは? ドランさんの事を? 異性として見ていらっしゃったりしちゃったりしているのですかしら?」
つまりフェニアがドランに隠れてファティマとネル、シエラを呼び寄せて、こうした会合を持ったのは、友人として大好きなクリスティーナと頼もしい後輩であるドランの恋愛事情が気になって気になって、そりゃあもう仕方がないからである。
フェニアとて級友達の恋愛事情などで話の花を咲かせるのは、不謹慎であると思っている。
思っているが、なにしろ話題はあのクリスティーナである。
魔法学院史上最も多くの生徒や学院関係者を魅了し、もし素顔のままで社交界にでも顔を出したら、王国中の貴族が信奉者になると誰もが認める美の化身だ。
魔法学院入学以降、誰もが憧れて、恋焦がれていても、あまりに図抜けた美貌から慕情の類が女神に対する信仰心にまで昇華されて、誰ひとり声を掛ける事はなかった。
またクリスティーナ自身も恋愛ごとにまるで興味の無い素振りだから、これまで浮いた話が無かったのに、今年になった途端怪しい男子生徒つまりドランが出て来た。
フェニアばかりでなく魔法学院に通う生徒ならば誰もが注目する所であり、クリスティーナとドランが恋人関係にでもなろうものなら、一体何人の生徒が嫉妬と羨望と憎悪に狂うか分かったものではない。
かくいうフェニアもクリスティーナに対しては一方ならぬ思いを抱いているが、それとて魔法学院で一人寂しげに過ごしていたクリスティーナへの憐憫を切っ掛けとしたもので、今では健全な友情である。
もし、教室の窓辺に腰かけて一人寂しげに外を眺めていたクリスティーナに、ごく普通の恋愛の機会が巡って来たとしたなら、フェニアはそれを全力で歓迎する気持ちだし、とても喜ばしいとも思う。
であるから、こうしてフェニアは嫉妬も羨望もせずに、ただただ年頃の少女らしく恋愛話で騒いでいるのだ。
フェニアの頭の中では、瞬く間に二人の婚約者を持つドランとクリスティーナの不義にも等しい恋愛譚が作り上げられ、自動で頭の中に熱が籠り始めている惨状となっていた。
「ネルさん、ファティマさん、やっぱりクリスティーナさんはドランさんの事を慕っていらっしゃるのかしら?
でもドランさんは、セリナさんとドラミナさんを婚約者として遇していらっしゃるのですよね?
きゃー、これって大丈夫なんですの? 血の雨が降りますの!?」
きゃーきゃーと叫んで、こちらの事がまるで目に入っていないフェニアに、ファティマ達は毎度の事だなあ、と呆れつつ落ち着くのを待った。
話し合いを始めると、フェニアが話の途中で熱を発し出して大体いつもこうなるのである。
ふんふんと鼻息荒いフェニアに苦笑いを零し、落ち着かせる為に口を挟んだのはネルだった。
「アークレスト王国ではラミアとバンパイアは人間種として定義されていないから、本人達が夫婦を名乗っても法律上は夫婦として認められない。
だからドランが二人の他に人間と結婚しても、特に罪に問われるような事はない。
でもセリナとドラミナさんの心情は別だろうから、フェニア先輩の言う通りに最悪の場合は血の雨が降るかもしれない」
淡々とした調子で告げるネルに、その場面を精細に思い描いていしまったらしく、フェニアの顔色が青褪める。
良くも悪くも思い込みの激しい所のある少女だ。普段ならそんな自分の性格を理解し、自制するのだが今回ばかりはそうも行かない。
「まあまあまあ、それでは一体どういたしましょう。私、お友達が痴情の縺(もつ)れで怪我をするなんて恐ろしくって仕方ありませんわ!
それにドランさんとセリナさんとドラミナさんは、とっても仲良しさんでいらっしゃいます。
クリスティーナさんだってそうですわ。ですのにその四人がいがみ合う様な事にあったら、あわわわ、あわわわわ、あわわわわわわ……」
自分から話を振っておいて止める間もなくあわあわとし始めるフェニアに、シエラが笑いを堪えながら話しかけた。
「ネルネシア様、あまりフェニア様をからかわない方がよろしいですよ。
ドランさん達はきちんと話し合いで解決できる方々ですし、刃傷沙汰にはならないでしょう。
それに私の見た所、クリスティーナ様はどうも色恋沙汰に関しては奥手でいらっしゃるようですし、セリナ様とドラミナ様が居られる以上は遠慮もされるでしょう」
ファティマに対しては素の口調と態度で接するようになったシエラだが、ファティマ以外に関しては一使い魔としての態度を崩さないようだった。
「そそそそそうでしょうか? ああ、クリスティーナさんとドランさんとセリナさんとドラミナさん、皆さんが丸く収まると良いのですが、それはそれで都合が良すぎますし、どうなるか心配で堪らないったらありゃしませんわ。
私などが外からがやがや騒いでも、余計なお世話に小さな親切大きなお世話を掛け合わせたようなものですけれど!」
一応、余計なお世話という自覚はあるらしいフェニアに、ネルがしみじみと頷きながら呟いた。
「全く持ってその通り。ところで競魔祭も近いのにこうして話し合いをするのは、そろそろどうかと思う。
フェニア先輩とお茶をするのは吝かではないけれど、優先順位ははっきりとさせておくべき」
「それはもっちのろん分かっておりますわ! 競魔祭本戦は王国中の貴族や魔法師団、殿下方に私をはじめ、皆さんの力を知らしめる絶好の機会ですのよ。
派手に、いいえド派手に、暴れて、荒ぶって、目立ちまくるのですわ。今回、特訓を辞した分は次の特訓で倍の、いいえ三倍の密度でこなして補填するつもりで行きますわ!!」
フェニアはさっきまでクリスティーナとドランの不穏な未来を勝手に想像して青褪めていたのに、話題が競魔祭に変わった途端に息を吹き返し、頬を紅潮させるついでに高熱を全身から発して周囲の気温を上げる。
そんなフェニアの百面相ぶりに、ファティマは相変わらず切り替えが早いなあ、と心の中で思わず呟いていた。
この様に騒がしく話し合うフェニア達の様子を、授業が終わり自室に引き揚げる途中でたまたま通りがかったディアドラが見かけて、
「あの子達は本当に仲が良いわねえ。元気があり余っているわ」
と微笑ましい気持ちになりながら呟いていたが、フェニア達がその事に気付く事はなかった。
フェニアもネルもファティマもシエラも、そしてディアドラも、まさかこの時全世界の竜種の頂点に君臨する存在が二柱も降臨し、ドラン達と話をしていたなどとは想像のしようも無かったから、彼女らの心は実に平穏であった。
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第百九話
私が牙を剥き出しにしたアレキサンダーの怒声を相殺するのと同時に、頼もしき姉であるリヴァイアサンが素早く末の妹を後ろから羽交い絞めにして動きを封じる。
先程赤っ恥を掻いた時と同じように、アレキサンダーは自身の力を抑制するのを忘れてしまっており、今のアレキサンダーはこの地上世界に存在しているだけでも、数多の次元を破壊し、またその逆に発生させてしまうほどの力を発している。
アレキサンダーが全次元世界に及ぼす影響を、羽交い絞めにしているリヴァイアサンが相殺してくれなければ、私が対処しなければならない所だった。
セリナやドラミナ、龍吉達はアレキサンダーが単に慌てふためいて大声を上げた、としか見えなかっただろうが、実際にはまたも数多の世界の存亡が掛った事態が起きていたのである。
「りりりり、リヴァ姉、はな、はなしぇ、離してえ! おお、おに、おに、おにいーちゃんが、こん、こんやく、婚約って!」
アレキサンダーはガチガチと歯を打ち鳴らして、自分を拘束する姉に猛抗議するが、リヴァイアサンは私の婚約発言に驚きながらも、しっかりとアレキサンダーを拘束する腕を緩める事はしない。
「我らの末の妹よ、お主が慌てる気持ちは痛いほどに分かるが、さりとてそれは慌て過ぎじゃ。
また力の抑制を忘れておるぞ。いちいちお主を抑え込まなければならぬ妾とドラゴンの苦労を考えて欲しいのう。
ふうむ、さて弟が人間に転生したお陰か身を固めようとしている事を言祝(ことほ)ぐべきであろうが、妾もアレキサンダーには及ばぬとも驚いておる。
見た所、クリスティーナ嬢とレニーアは以前から知っておったようじゃが、龍吉と瑠禹らは知らなかったという顔をしておるの」
リヴァイアサンの青い視線は、私の婚約発言を受けて目を見開いて驚く龍吉と顔色を青褪めさせている瑠禹を映していた。
時折龍吉からは瑠禹と自分を貰って貰いたい、と言われた事があったが、この反応を見るにやはり本気だったか。
「ほんの一ヶ月ほど前に決めたばかりの事でな。ちょうど良い機会かと思って、この場で伝えようとしていた所で、君らが来て中断していた所だよ」
「なるほどのう、これは妾らが悪かったわけか。しかしまあ、お主が女子(おなご)と恋仲になるとは夢にも思わなかった事であるが、それも二人共とはのう。
妾はこの国の習慣や法律を知らぬが、それは問題ないのかえ? お主らの雰囲気を視る限り、お互いの気持ちは問題なさそうじゃが」
「ああ、確認したところ問題はない。ただその理由がラミアとバンパイアと人間との婚姻を想定した法制度を、この国が敷いていないからという理由だ。
ラミアとバンパイアが珍しく数が少ないし、国家に属すると言う発想と必要を求められる事態が建国から今に至るまで発せしなかったのだから、当然ともいえるがね。
ただラミアとバンパイアと言う事で要らぬ事を考える者が出るやもしれぬし、同時に二人がこの国の法の保護が受けられないと言う事でもあるから、いずれは手を打つ」
「ほう? 何も考えていないわけではないか。お主は確か人間として生きると言うておったな。となるとまっとうな人間としてのやり方でやるつもりか?
古神竜としての力か、あるいは神々との縁を使えばどうとでも出来そうなものじゃが、まあ自らに枷を課して苦労を背負うというのなら、好きに背負うが良い。
ただしそれでセリナさんとドラミナさんにまで苦労を強いると言うのなら、それはお主に男としての甲斐性が無かったと言う事じゃ。
断じてそうならぬよう肝に銘じておけ。そのような情けない弟を持った覚えはないが、そうなってしまったなら妾は申し訳なさと怒りでお主に何をするか分からぬ」
そういって私を見るリヴァイアサンの瞳は、どこまでも真剣で本気だった。
私がたった今口にした事を反故にしたなら、我が姉君は全力でもって情けない弟に制裁を加える事だろう。
想像するだけでもぞっとする事態だが、もしもそのような事態に陥ったなら、他の誰よりも私自身が自分を許すまい。
「ああ、そうしてくれ。怖い怖い姉の制裁があるとなれば、より一層奮起しようという気にもなる」
私がリヴァイアサンの本気を感じた様に、リヴァイアサンも私の本気を感じてくれたようで、取り敢えず及第点といった感じで頷いてくれる。
婚姻関係の話題は、竜界であまり耳にする機会のある類の話では無かったろうから、リヴァイアサンの反応はこの程度なのだろう。
問題はリヴァイアサンと違って、この程度どころではない反応を見せているアレキサンダーか。
今もなおリヴァイアサンの両腕の中でアレキサンダーは、狼狽の相を露わにしたまま私やセリナ達を涙ぐんだ瞳で見回している。
「うううううう、だ、か、ら! どうしてリヴァ姉はそんなに、簡単、に! お兄ちゃんが! 婚約したっていう事を! 納得できるの!?」
「そうか? お主以外の同胞達とて驚きはしても皆祝いの言葉を口にすると思うがのう。
お主が納得しない理由が分からないというわけではないぞ。
ようやく念願かなってドラゴンをお兄ちゃんと呼べるようになり、内心では小躍りしたいほどに喜んでいたと言うのに、ここにきての唐突な婚約発表じゃもの。
アレキサンダーや、まあ、なんじゃ。妾としてはお主の味方もドラゴンの味方もしたい所であるが、取り敢えず感情や力を抑制せずに撒き散らすのを止めよ。
何をするにしてもまずは落ち着かんとの」
リヴァイアサンはいい加減アレキサンダーを抑え込み続けるのに、精神的な疲れを感じて来たらしく、早くしてくれんかのう、と言いたげな顔でアレキサンダーの耳元で囁きかける。
我らが兄妹の中で最も短気なアレキサンダーだが、頭の上がらぬ姉にこんこんと諭されては頭に昇った血も下がるというもので、少しずつ鼻息を落ち着かせ始める。
「ふー!? ふー! ふー、ふしゅう~」
ううむ、アレキサンダー、我が妹よ。それではまるで、鼻息で会話しているかのように聞こえるぞ。
もうちょっと、こう、女らしくと言っては眉を潜める方も居るかもしれないが、品良く出来ないものかね。
いささか下品過ぎると言うか、知性の無い獣を落ち着かせている様な気分になってくる。
「はあ、まったく困った妹と弟を持ったものじゃ。死んだ弟がようやく生き返って、少しは妹が落ち着くかと思えばコレじゃもの。
済まんのう、セリナさん、ドラミナさん。貴女達の小姑はいささか血の気が多過ぎる上に、兄に対する感情が荒ぶりやすうて身内でも手を焼く始末じゃ。
いやはや将来の義妹との初対面で、とんだ身内の恥を晒す事になってしまった」
私はリヴァイアサンが言う所の困った弟だが、身内の恥を晒したと言う意見には同意である。
龍吉達にはあからさまな落胆や幻滅といった感情を見られないが、始原の七竜がこんな者達だったと知った以上は、これまでのような崇敬の念を向ける事は出来ないだろう。
気軽に接してくるようになるのならそれは歓迎すべきだが、彼女らの抱いている憧れに泥を塗るような真似をして落胆させたくないとも思うのだ。
だがこれがあるがままの私達だし、リヴァイアサンとバハムートとヨルムンガンド達なら、地上の同胞の期待を裏切らなかっただろうか。
ふうむん、と私が心の中で葛藤している間に、セリナとドラミナが申し訳なさそうにしていたリヴァイアサンと言葉を交わしていた。
セリナ達もついこの間、ベルン村で最高神達と邂逅した経験と普段、私と接している経験から、龍吉や瑠禹程緊張しておらず、ほどほどに肩の力も抜けている様子である。
「身内の恥だなんて仰らないで下さい。それに私達の事は呼び捨てで構いません。ね、ドラミナさん」
「ええ。本来、始原の七竜である貴女様方は、私達にとってその影を見る事さえ許されざる至高天の存在。その御方に気を使われてはこちらが困ってしまいます」
「そう言って貰えると妾もやりやすうて助かるのう。しかし、失礼を承知で言わせて貰えるのならば、貴女方は物好きじゃとつくづく思うぞ。
ドラゴンの使い魔であるばかりか、婚約まで交わすとは夢にも思わなんだわ。ドラゴンめは人間に生まれ変わって、随分と心の在り様が変わったようじゃのう」
「ドランさんには、いつもお世話になっていますから。あの、それでリヴァイアサンさん、私達とドランさんの事を認めて頂けるのでしょうか?」
セリナは、ごくり、とこちらの耳に届く位大きな音を立てて生唾を飲み込み、真剣な眼差しをリヴァイアサンへと向ける。
ドラミナも同じ眼差しをリヴァイアサンへと向けていて、彼女からの返答はこの時点で決まり切っていたが、やはり小姑相手となると過度に緊張してしまうようだ。
「なあに、認めるもなにもこちらの方が弟をよろしくお願いします、と頭を下げなければならぬ立場。
ドラゴンは少々抜けている所があるし、突飛な事をしでかす事もあるから、付き合って行くのはなかなか骨が折れる事もある。
それでも我慢出来る内は、我が愚かな弟に付き合ってやって貰えると、身内としてこれ以上ありがたい事はない」
リヴァイアサンは、兄弟達に向けるのとはまた別の温かな笑みをセリナとドラミナに向けて浮かべ、小さく頭を下げて私の事を頼んできた。
私は思っていた以上に好意的な――といってもセリナとドラミナに対してであるけれど――リヴァイアサンの反応に、良い意味で裏切られた気分であった。
それにしても私はリヴァイアサンに散々な言われ様だが、否定しきれない所が悲しい。
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第百十話
ヴァジェは固く閉ざしていた瞼を、地平線に朝陽が滲む様にゆっくりと開いた。
どうやら自分はあの草原で仰向けに寝かされていたらしい、と視界に飛び込んで来る周囲の情景や、匂い、音から判断できた。
頭の下には柔らかな触感があるが、気配からしてどうやら瑠禹か龍吉が集めた水の塊を枕代わりにしているようだった。
水龍皇とその娘ならば、相手を濡らさぬように水を扱う事くらい、何と言う事も無いだろう。
ヴァジェが燃やす対象を選んで火炎を発せられるように、水龍ならば水に沈めるなり濡らすなりする対象を選択する程度の事は簡単にできる。
開かれた若き深紅竜の視界には青い空と白い雲の他にも、自分の顔を覗き込む小癪な瑠禹と偉大なる水龍皇の美貌とがあった。
水龍皇の娘と知られた後も、顔を合わせればヴァジェと口喧嘩の絶えない瑠禹は、卒倒したヴァジェの事を心から案じた表情を浮かべており、無事に意識を取り戻した事にほっと小さく安堵の息を吐く。
喧嘩するほどに仲が良い、という言葉の見本のような二人なのである。
「ヴァジェさん、ようやく目を醒まされましたか。どうですか、気分が悪かったりはしませんか?」
瑠禹からの問いかけに、ヴァジェはゆっくりと上半身を起こし、まだ意識が定まっていないのかどこかぼんやりとした声音で答える。
「うう、いや、大丈夫だ。どこも気持ち悪い所は、無い」
ヴァジェは上半身に続き尻尾で体を支えながら、立ち上がる。
瑠禹はヴァジェが立ち上がるのに合わせて、枕代わりに作りだした水球を解除し、頭を振るって意識をはっきりさせようとするヴァジェを心配そうに見つめる。
ようやく意識の定まり始めたヴァジェは、瑠禹や龍吉以外にもレニーアや忌々しさがほとんど消え去ったクリスティーナ、セリナ、ドラミナの姿がある事に気付く。
「うう、どうして私は眠っていたのだ? …………………ふ、そうか、そうだったな。ふふふふふ」
不意に笑い出したヴァジェに、瑠禹はヴァジェさん、おかしくなってしまったのですか!? と思わず呼び掛けそうになるのを堪えて、その胸の内を問う言葉を薄い桜色の貝殻を思わせる可憐な唇から紡ぎ出した。
「ヴァジェさん、なにがおかしいのですか?」
瑠禹だけでなく心配性な所のあるセリナまでも気遣わしげにヴァジェの様子を伺う中、ヴァジェは清々しさを感じさせる笑みを浮かべて、瑠禹を振りかえる。
あまりに清々しい笑みを浮かべるものだから、普段の傲慢で勝ち気なヴァジェしか知らぬ瑠禹などは、やはりヴァジェさんはどこかおかしくなってしまった、と疑いを深める始末。
「ふふふ、いや、我ながらとんでもない夢を見たものだと思ってな。瑠禹、好きなように私を笑って構わないぞ。
なんとな、あの始原の七竜であらせられるリヴァイアサン様とアレキサンダー様が、私達の目の前に御降臨あそばしたばかりか、あのドランが一にして全なるドラゴン様の転生された人間だというのだ。
ふふ、白昼夢とはいえなんと畏れ多く荒唐無稽な夢を見てしまったものだ。
確かにドラゴン様の魂は、天上天下全世界のいずこにも所在を確認されていないと言うが、それがどうして人間に転生するなどという夢に繋がるのか。
まったく、私の想像力も大したものではないか。あははははははははは」
ああ、なんと虚ろで心の籠っていない空っぽな笑い声である事か。耳にする者の心に、曇天の荒野を想起させるように冷たい。
乾いた笑いを響かせるヴァジェの姿に、瑠禹とやや離れた所で耳を澄ませていたセリナは、思わずホロリと涙を零しそうになった。
確たる現実から目を逸らし、昼の最中に見た夢だったと思い込んでいるヴァジェが、この上なく憐れで仕方がなかったからである。
「あはははは、ほら、瑠禹、笑え。今回ばかりは私の事を笑っても怒らんぞ。我ながら呆れている所だからなあ。あはははは」
「ヴァジェさん、なんとおいたわしい。流石のわたくしも同情を禁じ得ません。ヴァジェさん、あちらを。どうか強く心をお持ちください」
瑠禹は死刑執行に許可を下すような気持ちになり、胸の内が張り裂けそうなほど痛んではいたが、それでも心を鬼にしてヴァジェを現実と向き合わせる事を選んだ。
こうしている間にも、敬愛する母すら取るに足らぬと断じざるを得ない存在達を待たせているのだ。
せめてもの救いは相手方が別段気にしておらず、まるで怒ったり苛立ったりもしていない事だろう。
もしそうでなかったなら、ヴァジェばかりか瑠禹や龍吉ですら自らに裁きを下す事を考えた事だろう。
そんな事をしても待たせている相手を困惑させるばかりで、瑠禹の行き過ぎた強迫観念の産物に過ぎない事を、瑠禹はまだ理解していなかった。
「ん? あちら? どちらだ? こちらか? そちらか? はは、ああ、こちら……か……こ……ち、ら……」
ヴァジェは、瑠禹が両目の端に憐憫の涙を浮かべながら示す方向を振りかえり、自己防衛本能から夢の中の出来事だと思い込んだ現実と向かい合わなければならなかった。
――ああ、ああ、これが夢だったらどんなに良かった事だろう!!
ヴァジェの心の中では、この言葉が延々と繰り返され続け始める。
あちらを見るな見るな見るな、現実を認めてはいけない! そうあらん限りの声で叫ぶ心の訴えは虚しく、ヴァジェは現実と向き合った。
にこにこと笑みを浮かべてドランの左腕に自分の右腕を絡ませているアレキサンダーと、その反対側で威風堂々と佇むリヴァイアサン、そしてその間にいつもの泰然自若とした態度で立つドランという現実と。
*
「ふむ、ようやく目を醒ましたか。ヴァジェよ、確かにお前にとっては色々と受け入れ難い事だったとは思うが、何も卒倒しなくても良かろうに」
私は聞かん気の強い娘を相手にする父親の様な口調で呟き、ヴァジェに対して穏やかな視線を向ける。
私に対して本音を伝えられたアレキサンダーは、ヴァジェにとっては幸運な事に憐れな深紅竜の事は眼中にないのか、にこにこと上機嫌に笑うきりで口を開く様子はない。
「ドラゴン、いやもうドランと呼ぶべきか。ではドランよ、そうは言うがずっと真実を伏せておったのだから、非はお主にも幾分かあろう。そう若者を責めるのは酷というものじゃ」
兄の事しか眼中にない妹と違い、リヴァイアサンはヴァジェを擁護する発言をして、私を軽く窘める。
軽く、なのはリヴァイアサン自身を含む竜界の者達が、地上の同胞達との関わり合いが薄かった為に、双方に意識の差が出来てしまった事への責任を覚えているからだろうか。
「責めているつもりはないのだが、そのように聞こえてしまったのなら、申し訳ないな。ヴァジェ、気にしないでくれ。君の事を責めているわけではない」
「え、あ……は…………あ、ぅ」
私はヴァジェを怖がらせないようにと務めて穏やかな声と雰囲気でヴァジェに話しかけるものの、話しかけられたヴァジェはと言えば、呼吸の仕方を忘れたように口を開いては閉じてを繰り返す。
おそらく私の雰囲気そのものはヴァジェにとって馴染みのあるものだろうが、私の左右に立つアレキサンダーとリヴァイアサンから伝わる、全竜種の頂点に立つ超越者の気配がヴァジェの心身を緊縛している様子だった。
加えてそのアレキサンダーとリヴァイアサンと、まるで身内であるかのように親しげに――実際肉親かあるいはそれ以上に近しい関係なのだが――接する私を見れば、どれだけ認めたくなくても認めざるを得なくなる。
格上の白竜の転生者と思っていた私が、実際には白竜どころか伝説の中で語られるのみの存在であった、始原の七竜の一柱ドラゴンである事を。
「あううぅ……」
「ヴァジェさん、落ち着いて、落ち着いてください。ドラン様は何も気にしてなどいらっしゃいませんから、どうぞ御心を落ち着けて」
深紅色の瞳に大粒の涙を浮かべて再び卒倒しそうになっているヴァジェを、こちらは平静を取り戻した瑠禹が咄嗟に支え、恐慌状態に陥った幼子を落ち着かせるように何度も言い聞かせる。
その内に瑠禹に続いて龍吉もヴァジェに近づいて、その肩を優しく抱きしめて慰め始める。
いくら種族の原点にして頂点に立つ始原の七竜を前にしているとはいえ、ヴァジェのあまりと言えばあまりの反応に、リヴァイアサンが私を振りかえる。
リヴァイアサン曰くどこか抜けていてぼけっとした所のある弟だが、前世と今世を含めて地上世界で最も長く過ごしたのが私である事は間違いない。
「のうドランや、地上の同胞らは我らを前にすればあのようになるのが普通なのかのう。
ヴァジェは涙ぐんでおる上に今にも気を失ってしまいそうじゃ。
我らの事を恐れていると言うわけではない様じゃが、ここまで緊張を強いてしまうとは想像を越えておったわ」
「私もあまり地上の同胞と積極的に交流していたわけではないし、地上の同胞にとって私達は人間で言う所の雲上人に相当するからな。
ヴァジェと同じような反応をほぼ皆がすると思って間違いなかろうよ。龍吉を前にした時もヴァジェは随分と緊張していたが、今回は更に上位の私達が相手だ。
不意打ち所の話ではなかったのだろう。それにしても卒倒するとは、私にしても思ってもみなかったが」
「ふむ、地上の同胞との交流を深めるにしても、段階を踏む事を考えねばならぬやもしれぬ。今回ばかりは今更じゃから、色々と不幸な事も起きたがのぅ。
ヴァジェや、そう緊張するな。龍吉や瑠禹などは既に妾らに慣れておるぞ。と言うても瑠禹はちと緊張が残っておるが」
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第百十一話
レニーアは大邪神カラヴィスによって創造された直後に、魂の最深部に真の力と霊格を発揮できぬよう枷を設けられた為、誕生し、転生して以降も本当の意味での全力を発揮した事はなかった。
それでも真性の神々が相手ならともかく地上世界に於いては、紛れも無く最強の座を争う圧倒的な力を持った存在であった。
そんなレニーアにとって最も苦しい戦いは、最大の屈辱を齎された戦いでもある、七勇者達と彼らを援護する諸国家軍との戦いである。
魂の父と慕うドラゴンの仇であった七勇者達を相手に、レニーアはカラヴィスの枷が外れかけるほどの怒りと憎悪を滾らせて挑み、死力を尽くした果てに討たれている。
そして今、レニーアは七勇者達との戦いよりもさらに強大な力を振るっている。
ドランの手によって一時的にカラヴィスの枷を緩めて貰い、限定的に生まれ持った本来の力を発揮できているのだ。
単純な霊格や力の総量で言えばマイラールやアルデスなどの大神にも匹敵するレニーアは、しかし、その絶大なる力を振るってなお一方的に打ちのめされ、見えざる敗北の海に腰まで浸かっている様な有り様であった。
レニーアとレニーアを一方的に打ちのめす相手とが居るのは、この戦いの為に頑健さに重きを置いて創生された、閉鎖された空間だった。
ドランが大魔導バストレルとの戦いの場とした閉鎖空間と同じ性質の場所であり、レニーアの足元は無限に広がる焦げ茶色の地面、頭上は同じ果ての存在しない青い空が延々と続いている。
ガロア魔法学院指定の白地に襟や袖が青い制服に身を包んだレニーアは、高名な人形師の生涯最高の傑作かと思わせる整った幼げな美貌に、屈辱に心を焦がす怒りではなくこの上ない歓喜の色を浮かべていた。
レニーアの周囲には大神級の霊格を解放した事によって、古神竜ドラゴンの面影を持つ神造魔獣としての肉体の上半身を模した思念が具現化しており、今なお戦闘の意思を保持している事が伺える。
地上世界の存在で、真の力を振るうレニーアを相手に優勢はおろかそもそも戦いの様相を呈する事が出来る者など、まず存在していない。
天上の輝ける世界に座する神々や、魔界に蠢く邪悪な神々でも、そのほとんどはレニーアよりも霊格に於いて劣る有り様なのだ。
ましてや神々の被造物である地上世界の住人達では、真のレニーアと戦うことすらできない。
であるにも関わらずレニーアは全力を振るっても、相手に傷一つ付ける事が出来ずにこうして地に足を付け、戦いの相手を見上げる事を強いられていた。
レニーアの見据える先に居るのはドランではなかった。
古神竜ドラゴンの転生者であり、転生によって魂を劣化させて尚、揺るがぬ世界最強の座に君臨するドランならば、如何にレニーアとて傷一つ着ける事もままならず叩きのめされても、何の不思議もない。
喜々と笑うレニーアの視線は、前方頭上へと向けられており、そこには空中に佇む一人の少女の姿があった。
嬉しくて仕方ないと言わんばかりの表情を浮かべているレニーアに対し、その少女はもうこれ以上不愉快な事はないと今にも声を大にして叫びそうな、対照的な表情である。
この世の銀という色が自らを恥じらってしまいそうなほどに眩い銀の髪を長く伸ばし、不愉快気に細められた瞳は凶悪な光を称える黄金。
起伏に乏しいが流麗な線を描くほっそりとした身体つきや、あどけない顔立ちはレニーアと変わらぬ年頃の少女のもの。
しかし鮮やかな赤いローファー、黒のストッキングに赤のジャンパースカートとフリル付きの白いブラウス、首元には淡いピンク色のスカーフと、レニーアやドランの暮らす惑星の文明や文化とは少なからずズレを感じさせる出で立ちの少女こそは、たった六柱しか存在しないドランと同格の古神竜アレキサンダーであった。
果たしてどのようなやり取りがあったのか、アレキサンダーはこの閉鎖空間の中でまだ認めてはいない姪と、殺意こそないが半殺しにしても構うまいという思いで模擬戦を行っているらしい。
アレキサンダーの不機嫌の理由は、至って簡単なものだった。彼女の事を知る者達ならば、すぐに想像がつく事だろう。
大好きなお兄ちゃんであるドラゴンことドランに、真実の想いを告げる事に成功したアレキサンダーは、その際に遊びに来いと言われた事を自分に都合よく解釈しており、毎日は自粛したものの二日か三日に一度の割合で地上世界に降臨していた。
このアレキサンダーの短期間での連続降臨は、幸いな事に降臨の目的が転生した兄に会う事であったから、地上世界の竜種達は偉大なる――しかしその実体は果てしなく残念な――古神竜を歓迎する準備に追われず、心労を溜め込まずに済んだ。
そうして何度も降臨している内に、アレキサンダーはこれまでの態度との違いとしょっちゅう顔を合わす事になった現状に苦笑いを浮かべたドランに、レニーアの訓練相手を頼まれたのである。
既にレニーアは魂と肉体の調和が成り、前世の最盛期とほとんど遜色ない力を取り戻すまでに至っている。
こうなると水龍皇である龍吉やバンパイアクイーンであるドラミナでさえ、レニーアにとって訓練の相手にさえならないのが現状だ。
必然的にレニーアの訓練相手はドランしかいなくなるのだが、そのドランが今日は所用から訓練の相手が出来ない為、体よくアレキサンダーがレニーアに宛がわれた形になっている。
レニーアはかつて遠目に前世のドラゴンを見て、その強大さにこれが我が存在の原点、父君なのかと感動にうち震えたが、その時と同様にアレキサンダーの自身が足元にも及ばない強大さに、一切偽りの無い感激の海に溺れている最中であった。
一方でアレキサンダーの心情はと言うと。
大好きなお兄ちゃんに会う為にわざわざ竜界に居候している地上世界の者達の所に突撃し、慌てふためく彼らに開口一番、可愛い服を教えて! と彼らの目を点にさせる様な事をのたまい、こうして服装を整えたのに、お兄ちゃんは用事があるからと顔を合わせてすぐにいなくなり、神造魔獣の相手を頼まれる始末。
これでアレキサンダーがレニーアの事を可愛がっていたなら、ここまでアレキサンダーの臍が大曲がりする事は無かっただろう。
しかしながら残念な事に、アレキサンダーはこのレニーアの事が大いに気に食わないのであった。
お兄ちゃんに慣れ慣れしい、あのクソ忌々しいカラヴィスが、よりにもよってカラヴィス自身とお兄ちゃんの因子などを使って産み出したのがレニーアなのだ。
どうしてアレキサンダーが好きになれる要素があるだろうか。
更にアレキサンダーにとって気に食わない事は、決して頭の上がらない姉リヴァイアサンが、レニーアの事を半ば放置にも近い形ではあるが存在を認めている事。
そしてアレキサンダーは嫌い抜いていると言うのに、レニーアの方は全くそんな素振りを見せない事だ。
レニーアの大ぶりの宝石を思わせる綺麗な瞳には、アレキサンダーに対する賞賛と敬意の光ばかりが煌めき、悪感情は一欠片も見当たらない。
これではまるで自分の方こそが物語の中に出て来るような、主人公に意地悪ばかりをするろくでも無い継母(ままはは)か姑(しゅうとめ)のようではないか。
そして何より瞳を輝かせるレニーアが、自分の事をあの様に呼んで来るのが、アレキサンダーにとっては何よりも不愉快であり、許容し難い事だった。
「ああ、やはりお父様の妹君。私などは足元にも及びません。さあ、もっとその偉大なる御力を私にお見せください。アレキサンダー叔母様!」
「誰が叔母様か! 私はそんな風に言われる年齢ではなーい!」
レニーアがアレキサンダーの事を叔母と呼ぶのは、当然父であるドランの妹であるからなのだが、その事をリヴァイアサンに指摘されてもなお、アレキサンダーは断固として叔母と呼ばれる事を拒否していた。
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第百十二話
私達はガロア魔法学院の用意した飛行船に乗り、王都にある魔法学院へと向かう日を迎えた。
第一回競魔祭から今年の競魔祭に至るまで、必ず王都の魔法学院を舞台にして行われるのがしきたりである。
ガロアは王国の北部で有数の都市であったが、流石に王国の中心部であり常に繁栄の象徴であった王都アレクラフティアは格が違った。
度重なる拡張で王都の外縁部に向かうにつれて雑多さが目立つようになるが、王都中心の小高い丘の上に建てられた王城グランドフォートから、放射状に延びる大通り沿いの市街部は、旧来の白い石造りや比較的新しい赤い煉瓦(れんが)造りの集合住宅や大邸宅が整然と並び壮観な眺めを作っている。
王国の東西南北にある首都から集められた財貨、特産物、食糧品、情報、人材が集まるだけはあるな。
まあ、流石に竜種が住みついていたりはしないようだ。
そう言う意味では、ドラゴニアンに変化しているとはいえ龍吉や瑠禹、ヴァジェが闊歩するガロアの方が、ある意味では珍しいのだろう。
おまけに最近では古神竜や古龍神までガロアの街中を歩いている位だから、ガロアは全世界で唯一の特徴を持った都市とも言える。
仮に邪神の類が持てる力の全てを振るえる状態で降臨しても、なんら被害を受けない都市は地上世界広しと言えどもベルン村とガロアくらいだろう。
さて話を王都へと戻そう。
王族や王国の重鎮が住まう王城が、王都のど真ん中にどんと聳え立っているのに対し、王都魔法学院はやや北寄りの郊外に建てられていて、ガロアの魔法学院の三倍か四倍位の敷地面積がある。
私達選抜選手とその使い魔達、引率の学院長をはじめとしたガロア教師陣は王都の魔法学院に用意された宿舎の方に宿をとり、競魔祭の間、世話になる。
東西南北の四校の魔法学院から試合参加選手や教師陣、応援に来た学院の生徒や試合以外にも研究成果の発表会参加者などが集っており、王都魔法学院の人口密度は随分と増している。
ガロアからだけでも百人か二百人そこらは来ているのだから、さもありなん。
試合開始まで他校の試合参加選手が顔を合わせない様に、と配慮がなされてそれぞれに宛がわれた宿舎の位置は離れており、行き来にも制限が課せられている。
使い魔達には専用の宿舎が用意されるが、私達の場合は私に宛がわれた個室に三人で詰め込まれることになった。
セリナやドラミナと別々の部屋で過ごす羽目に陥らず、私達は揃って安堵の息を吐いたものである。
私の人生ではほとんど来ることはあるまいと考えていた王都の観光をしたかったのだが、あくまで授業の延長線上、さらには王族の方々に照覧する一大行事ということもあり、残念ながら私達は競魔祭が終わるまでは外出は許されていない。
魔法学院の競魔祭は王国の魔法関係において将来を担う人材のお披露目の場であるが、それは同時に軍事機密にも類するものであり、研究成果の発表も含めて素性の明らかな限られた関係者のみが出席を許される。
競魔祭での活躍は王宮へと召し上げられる好機でもあるのだが、さて私が権謀渦巻く王宮でやっていけるかと言えばまず無理だろうな、と頭を捻っている間にも時は流れて、競魔祭は本番を迎える事になった。
オリヴィエ学院長は先に出立し、他の学院長達や競魔祭に関係のある王国の重鎮たちとの顔合わせに向かっている。
私達はデンゼルさんをはじめとした引率の教師達に連れられて、競魔祭の行われる屋外闘技場へと向かう事になった。
この闘技場だが、建国以前からこの地にあったと言う先史時代の遺物であり、観客席と試合の舞台上を隔てる結界装置などが備え付けられていたと言う。
物質や空間に込められた記憶を読み取れば詳しい事も分かるのだろうが、それは歴史学者がすればよい事だと私はさして興味を抱かなかった。
この手の建物が大抵生物兵器の実験場か、奴隷や猛獣同士を殺し合わせる闘技場である事が多かったと、前世の苦い記憶が想起された為でもある。
王都闘技場はほとんど首を直角に曲げなければならないほどの高さの観客席が、ぐるりと周囲を囲いこむ巨大なものだった。
壁面にはわずかな隙間も許さないと言う変質的な執念を感じさせる彫刻が彫りこまれ、天使や悪魔、幻獣や魔獣、人間と亜人が武器を手に向き合って戦いあう姿が延々と続いている。
完全武装の兵士達が関係者以外の闘技場への立ち入りを拒み、まるで戦争でも始まるのかと勘違いしてしまいそうな物々しさだ。
宿舎から用立てられた十頭立ての馬車に乗り込んで闘技場の中に乗りつけると、闘技場の静けさの中に人間の息吹と声を交わし合う残響がかすかに耳に届き、既に観客達がいまかいまかと待ち受けていることが暗に伝わってきた。
まず馬車から下りた後は闘技場の舞台の上で全魔法学院の選手達が居並び、観戦なさる王族方を待って開会式が執り行われ、しかる後に競魔祭本番が始まる流れだ。
前回優勝した学院が特別枠として決勝戦で待ち構え、他の四校の試合を勝ち抜いた一校と王国最強の魔法生徒達を選ぶ戦いを行う。
前回優勝校がずいぶんと有利な形式だが、元々五校しか出場しないのだしまあそんなものだろう。
馬車から車回しに降り立った私達ガロア魔法学院組の顔を順繰りに見回すと、流石の個性派ぞろいと言うか変人ぞろいと言おうか、誰ひとりとして緊張している様子は見られない。
私もその変人の中に含まれるが、今更だ。ふむん、頼もしき我が学友達よ。
馬車を下りたのは私、フェニアさん、クリスティーナさん、レニーア、ネルの五名。
セリナやドラミナ、ファティマやイリナ達は観客席に向かう為、ここで一旦の別れとなる。
他の学院の生徒達の姿もあり、出場選手の大部分が揃ったようだと私が周囲を見渡していると、二つの集団が私達の方へと歩み寄り声をかけて来た。
一つは銀髪に金銀妖眼の妖しい容貌を持った少年が率いていると思しい集団で、少年を含む男二人に女性三人と言う構成だ。
少年をはじめ私達に対して友好的な雰囲気を持っていて、さほどぴりぴりとしてはおらずほど良く緊張が解れている様だった。
「やあ、一年ぶりだな、ネルネシア、フェニア。そちらの三人とは初めまして、おれはハルト・アキカワ。ジエル魔法学院の選手だ」
去年の競魔祭やフェニアさんが持ってきた記録映像から、顔と声位は知っていたが、ふむ、こうして直に観察してみるに、この少年は若干魂を弄られた形跡があるな……。
ネルとフェニアさんは、それぞれハルトに対して悪い感情は抱いていないようで、ネルは無表情のままに、フェニアさんはばさっと扇子を広げてにんまりと笑んで挨拶を返す。
「元気そうでなにより」
「ふぉっほっほっほ! ごきげんよう、ハルトさん。
こちらは去年とは面子が大幅に変わりましたけれど、戦力と言う点では増し増し大増しの十二割ですわ。今年は私達が優勝させて頂きます」
ふんす、と貴族の子女にはあるまじき大きな鼻息を一つ零し、フェニアさんはゆっさゆさと胸を揺らしながら返した。
ハルトは割と初心なようで揺れるフェニアさんの胸を見て、うっすらと頬を赤くする。
するのはまあ健全な少年なのだし仕方無いとは思うのだが、そのハルトを見て他の三人の女生徒の機嫌が大なり小なり悪くなる。
ふむふむ、これは、察するになかなかハルトは罪深い男らしいな。とはいえ彼らの反応から見て、ハルトと彼女らは年相応の関係の様だけれども。
二つ目の集団は、ハルトとその恋人候補達からなるジエル魔法学院の代表選手としばし歓談した後に、声をかけて来た。
厳密に言えば集団から一人だけ離れた少年が声をかけて来たのである。
直接顔を合わせるのは初めてだが、この少年が去年ネルを打ち破った西の天才エクスだ。
エクスは私やクリスティーナさんなどには眼中にないようで、穏やかな表情を浮かべていたハルトにだけ視線を向けていた。
「お久しぶりです。ハルトさん。ご壮健なようでなによりです」
薄く浮かべた笑みも視線も冷たく、翡翠色の少年は困った顔を拵えたハルトだけを見ていた。
エクスの口ぶりからは、万全の状態でなければ貴方に勝つ意味がない、と含んでいるのがありありと聴き取れる。
ふむん、記録映像を見て抱いた印象の通り、小生意気な少年らしい。
「ああ、君は少し背が伸びたかな。今年も君と戦う事になるかと思うと、少し気が重いな」
ハルトはどうやら去年の競魔祭の時に、エクスの性格について嫌と言うほど理解させられたらしく、答える言葉は淀みない。
「はは、そうですね。去年、貴方に負けた時の屈辱は今も忘れていませんから、今年こそは必ず勝たせてもらいますよ」
「その意気込みは凄いけど、ネルネシアの方の意気込みも凄いぞ。
組合せは開会式の後に発表されるから、おれと戦う前にネルネシアと戦う事になったら余力を残す余裕はないだろうな」
そうエクスに応えるハルトのこめかみには、一筋の冷や汗が伝っていた。
エクスが声を掛けて来てから、ネルの全身から発せられる闘気に気付き、内心では結構焦っているらしい。
ハルトの学友達も、ネルの方をおっかなびっくりで見ている。
ちなみに私たちガロア組は、ネルが短気な事はとっくに知っているので、そうなるよね、と気にもしていない。
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第百十三話
ドランを含むアークレスト王国魔法学院の関係者達がひしめく闘技場を、そのはるか上空から眺めている者が二柱いた。
抜けるように青い空に佇むその者達は人間に似て、人間にあらず。
背中から純白の翼を広げ、纏うは黒曜石を思わせる輝きを放つ黒い鎧兜。
それぞれの腰には儀礼用の宝剣かと見まごう、瀟洒な飾り細工が施された長剣を下げ、手には肉厚の穂先を持った身の丈ほどの短槍を携えている。
天界にて戦神達に仕える
この場に居るのは、敵の返り血に染まったかのような赤い髪を三つ編みにして垂らしている二十二、三歳ほどの者と、十代半ばほどのあどけない顔つきをした黄色い髪を短く切りそろえた者達である。
彼女らは戦神達の頂点に立つアルデスに仕えており、星の数ほどいる戦乙女の中でも上位に名を連ねている。
三つ編みの方がサラコ、黄色い髪の方がサハと言い、ベルン村でのゴブリン撃退戦でアルデスとアミアスがクリスティーナを見染めたのを切っ掛けに、それ以来彼女らを含む何名かの戦乙女達は交代でクリスティーナを見守っている。
ただあまり注視していると、時々クリスティーナ自身が何かの視線を感じたような素振りを見せる事があり、加えてその傍らにドランが居るとドランに気付かれて軽く手を振られたり、目礼されたり、と彼女らの心臓に良くない事が起きる。
今週一杯クリスティーナの様子を見守る当番になったサラコとサハは、自分達の主神アルデスとその妹神アミアスの大のお気に入りとなったクリスティーナを、傍らのドランやレニーア達に気付かれないようにしながら見守る、という微妙な匙加減を今日も今日とて強要されていた。
生真面目なサラコは忠実に主からの命令を守っていたが、見た目通りに飽きっぽいサハはこちらからは何もできない事に若干の不満を溜めている。
「ねえねえサラコ、もうドラゴン様はあたし達の事に気付いているし、こうなったら直接地上に降りて挨拶しちゃった方がいいんじゃないの~。
そうしたらさ、こうして上の方から見守っているだけじゃなくって、地上に降りてクリスティーナの近くでうろうろしていられるようにもなるって~」
我儘を言う子供そのものの表情で訴えかけてくる相棒を、サラコは生真面目が骨格を成していると言われれば、誰もが納得するような表情で答えた。
「それは出来ぬ。我らの主はアルデス様。そのアルデス様からの御命令はクリスティーナを見守り、かの者が死を迎えし時にその魂を我らの勇者の園にいち早く勧誘する事。
地上に降りて言葉を交わす事を、アルデス様はお命じになられていない」
基本的に戦乙女は職務に忠実な者が多いが、サラコはその中でも特に頭が固く融通の利かない事で知られていた。
地上世界の多くの者達が思い描く戦乙女象に極めて近いから、サラコの地上の勇者達エインヘリアルの勧誘成功率は高いのだが、一緒に仕事をする同僚としては時に困りものだ。
「確かにアルデス様からは命じられていないけれど、いずれ勇者の園に誘う時に顔見知りになっていた方が良いじゃないの。
普通はしないけれど、今回は向こうもアルデス様と顔見知りだし、なにしろドラゴン様の恋人なんだよ?
いきなり死んだ所に勧誘しに行くよりも、先に挨拶をしておいた方が後々の為になるのは間違いないし、礼儀ってものじゃないかな」
何しろ今回の勧誘対象は、彼女らの主神アルデスすら及ばぬ古神竜ドラゴンの恋人の一人と目されているクリスティーナだ。
クリスティーナ自身も全地上世界を見回しても希少な覚醒済みの超人種であり、更に美を司る女神ですら羨望するだろう美貌、古神竜ドラゴンの祝福と加護を持つ逸材中の逸材である。
既にその魂の霊格は聖人の領域を越えて、亜神の領域にまで届かんばかり。
まだまだ未来は長くその中で魂を磨けば、更に霊格は上がりエインヘリアルに迎えるまでも無く神の域にまで達するかもしれないほどだ。
今の段階でエインヘリアルとなったとしても、サラコやサハを上回る霊格に昇華されるのは確実である。
「むう、確かにそうではあるが今はそれをすべきところではないだろう。だが確かにお前の言う通りではある。常ならばしない事であるが……」
お~これならもう一押しで行けるかな、とサハは内心で喜んだ。
それと同時に堅物のサラコでさえいつもとは違う選択肢を考慮するほど、クリスティーナは好条件の揃った相手であり、自分の将来の為にも頑張らなければならない、と気合を入れ直しもしていた。
取り敢えず今はかのドラゴンとその因子を持つ神造魔獣、そしてクリスティーナの人間としての戦いぶりを見物するとしよう。
今のところ、ドラゴン様は自分達の視線を煩わしいとは感じておられぬようだし、とサハが気楽な気持ちで眼下に視線を下ろそうとした時、サハとサラコの周囲に不意に強大な神気が発生する。
「え!?」
「この神気は、アルデス様!」
サラコ達にとって唯一無二の主の気配とその妹神アミアス、更にアルデスらに勝るとも劣らぬ神気が四つも生じ、サラコ達の周囲に偉大なる神々の映し身が形を成す。
袖なしの黒いシャツと黒い革製のズボンに脚絆、愛用の長槍を携えたアルデス。
その傍らに出現したアミアスは、ベルン村降臨時とは異なり長い丈の淡い緑色のワンピース姿である。
アルデスやアミアスだけでもサラコ達にとっては、口から心臓が飛び出てきそうな驚きだが、主達と共に降臨してきた四柱の神々もまた肝を潰しそうになる面々であった。
アルデスの右傍らにはぬばたまの黒髪を長く伸ばした大地母神マイラール、更にマイラールの向こう側には左眼をオリハルコンの眼帯で塞ぎ、深緑色のローブと三角帽子、両刃の槍を携えた老神、魔法と知識を司るオルディン。
そしてアルデス達の背後に出現したのは、シルエットこそ人間のそれだが男性を思わせる屈強な肉体の大部分は白く、所々に赤や金の線が走り、顔には鼻や目を思わせる凹凸しかなく、目は青一色のみで瞳孔などは見られないという異形だった。
人間なら耳のある部分は斜め後ろへと向けて角らしい突起が伸び、背後には燃え盛る太陽を思わせる赤い光輪と夜空に輝く満月を思わせる白い光輪の二つが、重なるように浮かんでいる。
この異形の人型こそは、正義を司る大神ジャレイドである。
そして六柱目は線の細い優男と見えるが、その実この場に降臨した全ての神々の中で最も神格と力の高い神。
混沌を司る大神にして、破壊と忘却を司る大邪神カラヴィスの双子の弟神でもあるケイオス。
いずれ劣らぬ神格を誇る天界の大神の降臨に、堅物のサラコはもちろん軽薄な所のあるサハでさえ、言葉も無くその場に凍りつく以外にできる事はない。
サラコ達は気付かなかったが、この場にドラン達の活躍を見物する為に降臨した神々が、いずれもがドラミナの王都入りの為に誓約を交わした大神達である。
「サラコ、サハ、よく務めを果たしているようだな。感心、感心」
アルデスからぬはははは、と笑いと共に褒められれば、流石に凍りついていたサラコ達の心身は解凍され、返す言葉も無く空中に跪いてみせる。
戦乙女として長くアルデスに仕える彼女らにしても、魔界の邪神達との戦以外では滅多に顔を合わす事の無い大神達が、勢揃いしている現状は彼女らを大いに困惑させていた。
「は、はは! アルデス様、アミアス様!」
顔を上げる事さえ畏れ多いと伏せるサラコに、舌をもつれさせながらサハが言葉を続ける。
「ど、どどうして、こちらへ。そればかりか、マイラール様、オルディン様、ジャレイド様、ケイオス様までおいでになるとは」
「なあに、ドラゴンの奴おっと今はドランか。あいつの晴れ舞台と言うからなるべく近い所で見物しようかと思ったまでよ。
お前達は知らぬ事だが、ドランがこの人間達の都に入るにあたって、我らにある誓約をしていてな。
ならば折角だからとその面子を誘ってこうして来たのだ。お前達は変わらず務めを果たすが良いぞ」
果たすが良いぞとは言うが、はい、そうですか、と素知らぬ顔で仕事に戻れるなら苦労はない。
アルデスは豪胆に過ぎる所があり、それが若干配慮の至らなさに繋がる事がしばしばある。
眷属の心中を知らず陽気な笑みを浮かべるアルデスを、隻眼の老神が窘めた。
「主たる汝と我らが居ては無理難題と言うもの。アルデスよ、眷属を労わる気持ちに偽りは無かろうが、言葉は選ぶべきである」
「うむ? そうだったか。どうにもおれの治らん悪癖よな。よし、ではサラコ、サハ、お前達は一度ヴァルハラへ戻って休んでおけ。
お前達の分はおれがとくとこの両目で見届けておく。これでどうかな?」
「は、はは。アルデス様、恐れながら申し上げます」
「うん? なんだな、サラコよ。お前は常日頃から仕事熱心だからな。その意見とあらば傾聴せんわけにはいくまいて」
やたらと気合の入っているサラコの様子に、サハはそういえばこの相棒が主神アルデスに熱を上げている事を思い出す。
傍らで膝を突いているサハは、膝を突いた姿勢から顔を上げたサラコの頬に、似合わない朱色が浮かんでいるのを見逃さなかった。
「恐れながら、恐れながら、私共のクリスティーナ・マキシウス・アルマディアの生を見守るという御役目を、このまま続けさせてはいただけませんでしょうか。
無論、アルデス様、アミアス様をはじめ、皆様方を煩わせる事無きよう、私とサハめは遠くにて控えます故」
ちょっと、あたしを巻き込まないでよ、とサハは無言で相棒に訴えたが、相棒の方は崇敬し、愛慕の情を捧ぐ主神の事しか眼中にない。
いつになく熱心なサラコの様子に、アルデスは考え込む仕草をしてから妹や朋輩達を見回し、自らの眷属達をこの場に留める許可を求める。
「なるほどな。アミアス、マイラール、オルディン老、ケイオス、ジャレイド、お主らが許してくれるのならば、我が眷属たるサラコとサハをこの場に留めたく思うが、如何であるか?」
無論、この場に集った大神達はその程度の事を許さぬほど狭量ではなかったから、拒否の言葉が出る事はなく、恋する戦乙女は主の傍に留まったまま、地上世界で今まさに行われようとしている古神竜の戦いを見守る事を許された。
そうして心の中が至福の想いで満たされたサラコは、相棒であるサハが天界の上位を占める最高神達の傍に居なければならない現実に、大いに胃を痛めている事に気付く事はなかった。
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第百十四話
眠れる北の雄と言われる、ガロア魔法学院の先鋒は美麗なる戦姫クリスティーナ。
最大の武闘派として知られる、タルダット魔法学院の先駆けを務めるは勇士アシャス。
舞台の中央を目指して進む両者の姿を目の当たりにして、闘技場に詰め掛けた人々の興奮と熱は高まり続けている。
いずれも貴族、名士である為、今は体面を慮って口を噤み、近くの者達と囁きを交わす程度だが、彼らの胸の内と瞳に込められた熱量は隠しきれるものではない。
「それではメルル女史、改めて競魔祭の試合規定について、会場の皆様と選手達に御説明をお願いできますでしょうか!」
「え、あ、はは、はい。えっと、試合は互いに五名の選手達による対戦です。
先に三勝を上げた学院側の勝利となります。また勝敗が決まったとしても、五名全員の試合を行います。
実際に魔法を行使する危険な試合形式ですので、安全面から選手達には大きな傷を負う程の攻撃を受けた際に、自動で防御結界を展開する腕輪型の魔法具ジャッジメントリングを支給しています。
これは各魔法学院でも使われている物ですが、競魔祭本戦で使用される物は更に機能を強化してあります。
試合の勝敗は、どちらかが敗北を認める、気絶する、ジャッジメントリングが一度発動する、審判を務めます私が勝負ありと判断する、以上四つの方法で決定します」
「ほうほう、となるとメルル女史に気に入られれば負けを押し付けられる可能性は少なくなる、という事ですね!
あ、それとも、気に食わないから延々と苦しむが良いわ、という考えで敢えて負けを認めないとか!」
「あのぉ、いくらなんでもそこまで言われると、傷つくのですけれども……。
当然、そんな私情を挟んだ審判なんてしません! アークウィッチの称号と王国に誓って、公明正大な審判をします!!」
「おお、流石は真面目すぎて面白みがない、酔い潰したいと思わない女子、と評判のメルル女史ですね」
「あのね、だからね、そのね、どうしてそう言う私の評判を落とすような事ばかり言うのか、大変興味があるのですが、ハーちゃん……」
「およよ、これはアークウィッチに呪いを掛けられてしまいそうな雰囲気い? あっはっはっはっは、道化師は引き際が肝心肝心。
最強の大魔女をからかっていじめちゃうのは、ここまでにしておきましょう。
ここまでからかっておいてなんですが、会場の皆様、メルル女史がちゃんとした審判を下す事は間違いなく保証致しますよ。
なにしろそれしか取り柄がありませんから!」
「ハーちゃん!!」
いい加減、堪忍袋の御が切れたか、メルルは王子と王女が忍び笑いを漏らしながら耳を傾けている事に気付かず、声を荒げる。
メルルから怒りを向けられているハーメルはと言えば、しれっとメルルの怒声を受け流し、途絶えた説明の続きを再開する。
実に滑らかに動く舌であるが、そうでなければ宮廷付きの道化師などは務まるまい。
「はいはい、道化師めは舌を切られるのが怖いですからね、ここまでにしておきましょう。
さて、安全面に配慮がされているのは、当然選手達だけではありません。観客席の皆様も、実況席の私達も、安全は配慮されておりますよん。
大地を流れる地脈、空を流れる空脈をはじめ天然自然に満ちる魔力や気の力を利用した、多重積層結界が観客席と舞台の間に展開され、舞台上で上級魔法が連発されても私達に危険が及ぶ事はございません。
また舞台に居る選手達の待機場所にも同様の結界が展開されているので、実際に試合をしている二名以外に身の危険はないものとお考えください。
さあさて皆様に愛される道化師めの弁舌はここまで。メルル・ザ・アークウィッチさん、タルダットのアシャス選手とガロアのクリスティーナ選手の戦い方や見所などを、さくっとお教えいただけますかぁ?」
「ええっと、勢いで誤魔化されたような感がありますが、アシャス選手は付与魔法を得手としている魔法使い、所謂(いわゆる)エンチャンターです。
昨年の競魔祭にも出場しており、その戦いの様子を見られていた観客の方も多いのではないでしょうか。
有名な所では、
空中を自在に舞い踊る剣や盾を操るアシャス選手は、単独で数十の戦士に匹敵する戦力となる魔法使いです。
数十単位の魔法武具を予め付与した術式に従わせるだけでなく、その場その場の状況に合わせて動きを操れるエンチャンターは稀有ですから、アシャス選手の非凡さが伺えます」
「ほうほう、となると魔法剣士であるという触れ込みのクリスティーナ選手にとっては、非常に相性の悪い相手なのではないでしょうか?
魔法剣士は一般に個としての能力を高める為に魔法を用いている場合と、純粋な剣士では対処できない事態に対処する為に魔法を習得している場合がほとんどですから、一対多では不安要素があるのでは?」
「はい。一般的な魔法剣士への認識は、ハーちゃんもといハーメルさんの言う通りです。
クリスティーナ選手は情報の少ない生徒ですが、身体強化と防御魔法に重きを置いた前者型の魔法剣士のようですね。
ただ双剣使いになったのは、夏季休暇中の事らしいですから、双剣使いとしての技量がどの程度か、またそうなった経緯が気になります。
また所有している魔剣エルスパーダは、かの高名なエンチャンターにして魔法鍛冶師であるオキュプロス師の遺作の中でも、傑作と名高い品です。
騎士団長のような要職に就いている方でも、滅多な事では手に入らない強力な魔剣ですが、それをクリスティーナ選手がどこまで扱いきれるのかも個人的には気になります。
また、昨年、一昨年と競魔祭には出場していなかったクリスティーナ選手ですが、ガロア魔法学院での実技試験では好成績を残しており、ガロア四強の中で最強の呼び声も高いとの事です。
そう考えると、昨年のフェニア選手やネルネシア選手を降すだけの実力を持っている事は、確定なのではないでしょうか?」
なお、出場選手が五名であるにも関わらず、四強と称されるのはかつて競魔祭の出場選手枠が四名だった頃の名残である。
「結構、辛辣な事を言いますね~。無自覚でそう言う事を口にするわ、実力が飛び抜けているわで、男性から敬遠されている事に気付いてないんだから」
「ええ、そうなの!? そんなに私、口悪かった?」
心の底から驚いている様子のメルルに、ハーメルはからかいの色を潜めて、道化師の化粧をしているから若干台無しになっているが、真剣な顔と声音で告げる。
「いや、フェニア選手とネルネシア選手を貶すと言うほどではないけれど、二人がクリスティーナ選手より下だって断言しているじゃないの」
ここまで言われて、ようやくメルルは自身の失言に気付いたらしく、あわわ、といささか年に相応しくないあどけない慌て方をする。
「まあ、風聞の通りの事を口にしただけですから、失言と言うほどではないかもしれませんね。
フェニア選手とネルネシア選手、そしてお二人の御家族には海のように広い心で、失言癖のある無自覚悪口アークウィッチを許していただきたいものです。
さあ、大雑把ではありますが二人の選手の戦い方などを、笑いと共に皆さまにお届け出来たかと思います。
では待ちに待った、というか私達が若干引き延ばしてしまった感のある、栄えある競魔祭第一試合を、そろそろ開始と参りましょう。
メルル・ザ・アークウィッチさん、お願いします!」
先程から良いようにハーメルに翻弄されているメルルも、流石に王国の歴史に刻まれる一大行事の始まりの挨拶を任せられるとなれば、無理矢理にでも落ち着きを取り戻す。
「では、改めまして……両選手、照覧席に礼!」
互いに十歩の距離を置いて足を止めたクリスティーナとアシャスが、居住まいを正したメルルの言葉に従い、照覧席にいるスペリオン王子とフラウ王女へ腰から頭を下げる。
この王国で最も尊い血筋に対する礼儀を示し終え、頭を上げた二人は互いに向き合い、戦いを前にした戦士の表情を浮かべる。
「両者、構え」
クリスティーナは鞘に納めたままの魔剣の柄を握り、アシャスは手を空けたままだ。
競魔祭では試合前に詠唱を終えた魔法を待機させる事や、詠唱を進めておく事は禁じられている。
詠唱も魔力の喚起も、審判の試合開始の合図が告げられてからしか許されてはいない。
「それでは競魔祭第一試合先鋒戦、始め!」
クリスティーナは、それだけで切れ味の凄まじさが伝わる鞘鳴りの音を奏でて、エルスパーダとドラッドノートを引き抜いた。
スペリオン王子や近衛騎士、警護の兵士、観客席の貴族や商人の護衛など一部の者達は、クリスティーナの抜剣が何時行われたのか見えなかった事に、声にならない驚きを覚える。
「起きろ、エルスパーダ。行くぞ、ドラッドノート」
クリスティーナの唇が、剣に付与された術式を起動させる為の文言を紡ぐのと同時に、エルスパーダの刃が青白い光を発し、ドラッドノートもまた刃に白い光を纏う。
クリスティーナが瞬時に戦闘態勢を整えた頃、アシャスもまた戦闘態勢を整え終えていた。
「影より出でて、軍勢となれ、
一瞬前まで素手でクリスティーナと対峙していたアシャスだったが、試合開始の合図とほぼ同時に彼の影の中から無数の武器が出現し、護衛のようにアシャスの周囲に浮かび上がる。
大剣、細剣、長剣、小剣、騎槍、短槍、長槍、手斧、両刃斧、長柄戦斧、戦槌、矢、大鎌、丸盾、大盾と武具防具の見本市の様な有り様だ。
「我が身を鎧(よろ)え、パーエンテス」
そしてアシャス自身はと言えば、濃い紫色に金色の炎を思わせる装飾を施した
ドランも好んで使用している、影を収納用の亜空間へと変える
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第百十五話
『うふふふふあははははははははうふっはっはっははあははっは~。今日~は~ぼくの、ぼ~くぅ~のぉ~ラララララ、愛しい~い~とぅお~~すぃいいい~れれれれ■#$%ちゃんのぅおうおうおうおうはれ、はれ、ハレ、刃烈BUタ異いiIひぃ卑~~~』
ここまで目を通してから、カラヴィス教団教父ギルダーは至高の教典を静かに閉じた。
場所は地下深くに存在するカラヴィス教団の本拠地ではなく、ギルダーが表向き暮らしている、とある都市の一角にある店舗の中である。
ギルダーは店舗の奥にある私室で、朝も早くから机の上に教典を広げて、記述が増えていないか確認している所だった。
かつて教団創成期に崇拝する大邪神カラヴィスより授けられた最古の教典は、なんとカラヴィス自身の思考をある程度自動で複写するものだった。
これによりちっぽけな地上な存在が、比べる事さえおこがましい魔界の大邪神の思考を知る事が出来るという、途方もない神宝である。
ただし教典に自動で記されるカラヴィスの思考が、どう読んでもどう解釈しても頭の中がお花畑でゆるゆるの、くだらないの一言で済んでしまうようなもので、どれだけ目を通した所で読む者の霊的位階が爪の先ほども上がる事はない。
ギルダーが初めてこの教典に目を通した時には、これでは代々の教父にしか閲覧が許されなかったわけだと、否が応にも納得させられ、危うく信仰の柱が折れそうになったものだ。
それから時折時間を置いて目を通しているのだが、相変わらずこの教典には愚にもつかない事が記載され続けるばかりで、ギルダーの信仰を試してくる。
ただギルダーは知らなかったが、先代までの教父にあった時に比べると記述が増える速度が段違いに速くなっていた。
それは当然、カラヴィスが転生した親友であり最愛のドランと再会した事と、一度は捨てて存在すら忘れていたレニーアと出会い、母性を抱いた事が理由である。
もっともそんな事を知らされた所で、ギルダーにとっては何の救いにもならなかっただろうし、むしろ伝承にあるカラヴィスとかけ離れた実像に、いよいよ信仰心に止めを刺されたかもしれない。
いくらカラヴィスの神宝とはいえ、神の思考を人間如きが完全に読み取る事は出来ないようで、ギルダーは記述の内容の全てを理解しているわけではない。
それでもどうやら現在カラヴィスはいたくご機嫌なようで、多くの世界と生命に災いと混乱と不幸を撒き散らす事だろう、という事は分かる。
「偉大なるカラヴィスは、愚かな異教徒共ではなく、真っ先に私に対して苦悩を齎しているがな、ふふ、ふふふふ、ふふ……」
ギルダーはもういっそ教父の座を次の者に任せて、表の顔である靴屋のおやじとして残りの生涯を過ごそうかと、心の底から悩むのだった。
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第百十六話
スペリオン王子やフラウ王女、国内の大貴族や各魔法学院長ばかりか、頭上では大いなる神々の映し身がおり、見学しているとは参加者のほとんどが露とも知らぬまま、競魔祭は進行している。
かねてより、その実力と美貌を知られていたガロア魔法学院のクリスティーナが見せた真の実力に、観客達の多くは興奮冷めやらぬ調子で言葉を交わしている。
妾腹とはいえ国内有数の大貴族アルマディア侯爵家の令嬢でなければ、競魔祭後すぐに宮廷魔術師団や貴族、大商人達から、勧誘の声がかけられる事になっただろう。
あるいはその美貌を求められ、無数の縁談が侯爵家に持ち込まれてもおかしくはない。
とはいえ、義母に疎んじられている、という話は社交界で知られているから、アルマディア侯爵家との関係が良からぬものとなる事を覚悟してまで、クリスティーナに縁談を持ち込む蛮勇の持ち主はそう多くはあるまい。
それにクリスティーナ自身が既に心に決めた相手がいるから、決して首を縦に振る事はないだろう。
クリスティーナとその対戦相手であるタルダット魔法学院のアシャスが、舞台脇の待機場に戻った後、次いで正面水晶板に次鋒(じほう)戦に参加する選手の名前が掲示される。
ガロア魔法学院からの出場選手はフェニア。
タルダット魔法学院からの出場選手はエルメル。
自分の名前が水晶板に表示された瞬間、フェニアはにんまりと実に嬉しそうな笑みを浮かべ、愛用の扇子をばさっと景気の良い音を立てながら広げる。
ネルネシアの出場順以外はくじで決めたとはいえ、いの一番に出られなかった事はフェニアにとって地団駄を踏みたくなる事だったから、出番が回って来た事がそれはもう嬉しそうったらありゃしない。
「おっほほほほほ、ようやく私の出番ですわねえ。皆さん主役とはいえ、このフェニア、自分の出番を待ち望んでおりましたわ!」
良く通る声で自分の心情を素直に曝け出すフェニアだが、そこに品の悪さなどは一切感じられない。
騒がしいのは間違いないが、その騒がしさを下品と感じさせない生来の気品が、フェニアにはあった。
「クリスティーナさんの白星に続いて、二つ目の白星をぱぱっと獲得して参りますわ。皆さん、少々お待ちでいらして」
慢心を感じさせるフェニアの台詞ではあったが、慢心を抱いたとしてもおかしくないだけの実力をフェニアが持ち合わせているのもまた事実。
他所の魔法学院に在籍していたとしても、全ての魔法学院で代表選手に選出されるのは間違いない実力者なのだ。
鼻息の荒い級友の姿に、クリスティーナは少しだけ心配の色を顔に浮かべてやんわりと釘を刺す。
「フェニアなら特に心配する必要はないと思っていたが、あまり気合を入れ過ぎて空回りをしないでくれよ。最大の敵は自分自身とは言うが、君の場合はその言葉を強く意識してしまう」
フェニアは極めて強力な火属性魔法の使い手であるが、火属性特化型である為、あらかじめ戦うと分かっていれば、対策を立てやすい相手でもあるのだ。
「分かっておりますわ。しかしこの晴れ舞台に於いてフェニックス家の者が緊張などしては、御先祖様に鼻で笑われてしまいます。
油断せず、見せ場を作りつつ、勝利の栄光をこの手に掴んでまいりますわ。おほほほほほほほほほ」
相変わらずこちらが口を挟む暇の無いフェニアに、クリスティーナはドランと顔を見合わせて微苦笑を共有する。
ネルネシアやレニーアは最初からフェニアに対して、何も言うつもりはないらしい。
ネルネシアはフェニアの事を信頼して心配していないからだが、レニーアは頭上に降臨しているケイオスを叔父と呼ぶべきか否かで、今も悩んでいるからだった。
実況の宮廷付き道化師ハーメルが、拡声の付与魔法が施された棒状の魔法具を介し、試合会場の隅々にまで届く声で、フェニアと対戦相手のエルメルの名前を呼び、舞台に上がるよう指示を出した。
審判兼解説のメルルは、事前に用意しておいたフェニアとエルメルの資料に目を通して、解説を失敗しないように必死である。
「さあ、ガロア魔法学院フェニア選手、タルダット魔法学院エルメル選手、舞台上へどうぞ足をお運びあれ。先鋒戦の熱気が冷めやらぬうちに、次鋒戦と参りましょう」
先鋒戦と同じ流れでフェニアとエルメルが照覧席へと一礼し、互いに向き合ったまま舞台上で距離を置く。
フェニアは愛用の扇子を左手に持ち、学生服姿である。
一方で対戦相手のエルメルもまた学生服姿だが、その上に魔力増幅や防御障壁を展開する術式が、黄金蚕(おうごんかいこ)の絹糸で刺繍された黒いローブを纏っている。
アシャスのように鎧兜の類を試合開始と共に呼び寄せるのかもしれないが、傍から見れば実際に魔法を行使する試合に挑むには、双方ともあまりにも危険な装いと見える。
「解説のメルル女史、では今回も両選手について簡単な解説をお願いできますでしょうか」
メルルは手元にまとめた資料に時折目を通しながら、職務を全うすべく生真面目な表情を浮かべる。
「はい。ではまずフェニア選手について、解説したいと思います。フェニア選手の生家であるフェニックス家については、王国内でも有名な家門ですから、多くの方々が知っておられる事と思います。
かつて不死鳥フェニックスを使い魔とした魔法使いを有したフェニックス家は、フェニックスの霊的因子などを血肉と魂に宿す特異体質を持つに至りました。
使い魔にしたからと言ってその霊獣や霊鳥の特性が遺伝するのは、極めて稀な例ですね。
その極めて稀な例であるフェニックス家の皆さんは、生まれつき火属性の魔法に対する適性と耐性が桁外れに高い一族となりました。
フェニア選手はそれに加えて、魔力を直接火炎に変化できる希少な特異能力を備えています。ちなみに誤解されがちですが、この体質はフェニックスの因子とは関係ありません。
火の魔法の扱いに関しては、王国内でも三指に入る凄腕魔法使いであり、今後経験を重ねていけば、王国を代表する魔法使いとなり得る逸材です」
「既に一昨年と昨年の競魔祭で、その華麗にして強力な火魔法を披露したフェニア選手ですが、今年が最後の競魔祭とあって気合の入り様が実況席からでも分かるほど違いますね。
ただ気になる点としては火魔法の使い手としてあまりに有名であるが故に、競魔祭ではその対策を必ず取られてしまう事でしょうか」
「はい。昨年の競魔祭でフェニア選手が苦戦を強いられた理由の一つは、フェニア選手の火魔法への対策を練られてしまったからですね。
ただフェニア選手も自身の火魔法対策に対する対抗措置を用意して来た筈です。それがいったいどういったものなのか、興味が尽きません」
自分の事が話題になっているのが嬉しいらしく、舞台上のフェニアの口元には深い笑みが浮かび上がっている。犬系統の獣人だったら、機嫌良さそうに尻尾を振っているだろうか。
一方、フェニアと対峙しているエルメルは、標準的な体格の少女で、艶やかな黒い髪を腰に届くまで伸ばし、赤色の縁の眼鏡を掛けた顔立ちは利発さと落ち着きを併せ持っている。
「対するタルダット魔法学院のエルメル選手ですが、魔法に関する記述がある
魔本使いの特徴は、魔法行使の手間を魔本で代用する事で大幅に省略出来て、素早い魔法行使が可能となる事です」
「なるほど、ではではその逆は一体なんでしょうか? どんな魔法であれ、長所と短所があるものと相場が決まっておりますが?」
「はい。フェニア選手が火属性特化故に水属性を苦手としているように、エルメル選手というより、魔本使いにも短所はあります」
うわ、またこんな堂々と言っちゃって、メルルちゃんこれで無自覚なんだもんなあ、とハーメルは心の中でそっと呟く。
虫も殺せないような顔をしている癖に、ごく自然と微量の毒を吐くのが、アークウィッチの悪い癖だった。
「魔本を触媒としている以上、行使可能な魔法を魔本の記述に制限される事と、多くの魔本は一度行使する度に該当する頁(ページ)を消耗しますので、連戦には向いていない事です。
また相手がこちらの所有している魔本の事を知っていた場合に、行使できる魔法を容易に特定されて対処されやすい事が、特に大きな問題ですね」
「なるほど、普及している魔本の場合、手の内を知られているようなものですし、かといって希少な魔本の入手は決して容易ではありませんし、痛し痒(かゆ)しですか」
「魔法とは万事そういったものです。さて、それでは次鋒戦を始めましょう」
にんまりと自分の晴れ舞台に笑みを浮かべるフェニアと、表情を変えずに眼鏡の奥の薄紫色の瞳に静かな光を宿すエルメルとは、正反対の印象を受ける組み合わせで、その戦いぶりに先鋒戦とはまた違った期待を、観客達は抱いていた。
その期待の熱に背中を押されているかのように、メルルはやや早口で次鋒戦開始の合図を口にする。
「それでは、競魔祭第一試合、次鋒戦、開始!」
メルルの合図と同時に、フェニアの全身から黄金と赤の混じる炎が膨大な熱量と共に発せられ、対するエルメルはといえば裾が足首まで届くローブの内側から、十冊を越える本や石板が飛び出して、エルメルを守る騎士の如く浮遊する。
エルメル自身は杖などを構える事はせず、両手はローブの内側に隠れている。
「エルメルさん、そちらの天才少年は機嫌を損ねたりはしておりませんの?」
不意に、フェニアが炎を纏いながらエルメルに問いかける。人間の骨すらも灰にする熱量を纏うフェニアは、金炎の君の二つ名に相応しい威厳と気品に満ちている。
炎の照り返しを受けるエルメルは、くいっと眼鏡の縁を指で持ち上げて、見た目を裏切らぬ落ち着き払った声で答える。
「少しばかり、機嫌が悪くなっただけです。その原因になったガロアの生徒に心配されるのは、変な話ですけれど」
「ふふ、それもそうですが、こちらとしましてもエクス君と戦えないと機嫌を損ねる方がいらっしゃいますの。お互い、手間の掛る子を抱えておりますわね」
「そう、ですね。少しだけ親しみが持てます」
「それは重畳。とはいえ試合に私情を挟むわけには参りませんわね」
「はい」
開始の合図の後、何を悠長にと観客の一部が思う程度に会話を交わしていた二人だったが、それまでの和やかでさえあった雰囲気は何処かへと捨てて、試合開始と同時に高めていた魔力を戦闘用に切り替える。
この競魔祭だが、単に各魔法学院の生徒達の力量をお披露目するばかりが目的ではなく、純粋に技量を競う場というわけではなかった。
魔法学院に通う生徒は、系譜に多くの魔法使いを持つ代々魔法使いの一族である事が多い。
そして百人に一人いるかどうかという魔法使いは、自身が高位の貴族であるか、あるいは貴族や大商人のお抱えである事が多く、社会的地位が相応に高い。
ガロア魔法学院の代表選手は分かりやすい例で、大貴族の子女であるネルネシアとフェニアなどがまさにそれである。
そういった社会的地位の高い者同士が競う場で、その親戚縁者ばかりか王族まで参列するとなると、単なる競技ではどうしても済まない一面が出てくる。
対戦相手に一切の見せ場無く倒してしまっては、相手の面子を潰してしまい相手の魔法学院のみならず、その一族に対する心証の悪化は免れない。
その為、例え相手を一蹴出来るほど力の差があったとしても、ある程度は相手に見せ場を作って戦う事が、暗黙の了解として求められている、という裏事情がこの競魔祭には存在している。
だがこれは、必ずしも守らなければならないというほど、強制力のあるものでもなかった。
この暗黙の了解に従うか、それとも従わないのか。対戦相手との家の格の違いや、魔法学院間の力関係、観客達への配慮などが出来るか、それとも敢えてそれを無視するのか?
暗黙の了解に気を取られ過ぎて本領を発揮できず、勝てる戦いを落とすのか?
そういった判断力や決断力を見る試金石として、ある程度は互いに見せ場を作る、という暗黙の了解は機能している面もあった。
競魔祭の出場選手の多くが貴族の子弟である事や、彼らが後に身を置く事になる世界の事を考えれば、他者との関係性に対する思考や能力を確認する事は必須なのだ。
フェニアとエルメルが開始の合図の後も少しの間お喋りに興じたのは、言外にどちらが初手を取るか、という探り合いを兼ねている。
そしてお喋りをしている間にフェニアが展開している炎と、エルメルが呼び出した魔本の格と数から、お互いにある程度の実力を判断し終えて、改めて仕切り直しとなったのである。
ドランやレニーア、クリスティーナに望むのは難しい、貴族的な感覚が必要とされる腹の探り合いであった。手を心の底から哀れんだ。
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第百十七話 ※簡易ランクなど
スペリオン王子とフラウ王女が座します照覧席の下に、何かしらの緊急時に王族の盾となれるように、という意味も含めて、優れた魔法使いである魔法学院長達の席は設けられている。
アシャス、エルメルに続いてヴェイルの敗北が決まった瞬間、魔法学院長達の席の空気がわずかに変わった。
タルダット魔法学院の学院長であるシュナイルは、手塩にかけて育てた生徒達の一回戦敗退が決まった現実を前に、数瞬だけ目を閉じてからゆっくりと息を吐く。
エクスをはじめ代表に選出した選手達は選び抜いた精鋭達であったが、ガロア魔法学院の生徒達がそれ以上の実力者だったと言う現実を認めるのに、必要な行為だった。
「まったく貴女の所の生徒達には度肝を抜かれるな。自慢の生徒達を送りだしたが、その上をいかれてはお手上げとしか言いようがない」
虚飾の無いシュナイルの評価に、オリヴィエは小さく目礼して返す。ネルネシアとフェニアは類稀なる人材であるが、クリスティーナ、レニーア、ドランの素性を知っているオリヴィエとしては、謝る必要はないのだがむしろこちらから謝りたい気分であった。
「いえ、ミス・メルルが解説しているようにタルダットの生徒達もまた見事な腕前です。
それにまだ副将戦と大将戦が残っています。その結果を待たずしてそのような言葉を口にしては、彼らに怒られてしまいますよ」
とはいうもののガロア魔法学院側の残る選手は、よりにもよってレニーアとドランである。彼らがくじを引いた結果とはいえ、これはもうオリヴィエとしては謝る理由はない筈なのだが、床に額を着けて謝罪したい気持ちにさせられている。
レニーアとドランがガロア魔法学院に入学した事に、オリヴィエはほとんど関与していないしこれは完全な偶然の産物である。
この事でオリヴィエが誰かに対して引け目を感じる必要はまるでないし、責められるいわれもありはしない。
ありはしないのだが、それでも他の魔法学院長の立場になり、レニーアとドランの素性を知る事となったら、反則だ、そんなのありか、と声を大にして叫ぶ所だと、オリヴィエは考えている。
レニーアは、大邪神カラヴィスと世界最強の古神竜ドラゴンの霊的因子から生みだされた、最強最悪の神造魔獣の転生者。
ドランはレニーアが生みだされる原因となった古神竜ドラゴンの転生者であり、転生により魂が劣化しているとはいえ、その力は今なお世界最強の称号を冠するに相応しい。
ガロア魔法学院長であるオリヴィエの立場からすると幸運にも、他の魔法学院長達からすればよりにもよって、この二人が同時期に転生してガロア魔法学院に所属しているのだ。
魔法学院の関係者はおろか地上世界の一体誰が、レニーアとドランを相手に勝利を得られるというのだろうか。
最高位の神々とも対等に接するドランは、ハイエルフであるオリヴィエにとっての神であるユグドラシルよりも、はるかな高位の次元に属する超越者だ。
本来であればドランは、オリヴィエが許しを得ずにその姿を見る事も、声を掛ける事も、言葉に耳を傾ける事も許されないような、どれほどの高みなのかさえ分からない天上の存在である。
その超越者である所のドラン自身が、オリヴィエに対して敬意を見せてあくまで生徒としての立場を貫く意思を表明しているから、オリヴィエも例え事情を知る者達だけがいる場であっても、学院長として接している。
オリヴィエは今の所何とか学院長としての仮面を被ってドランと接していられるが、正直に言ってドランと顔を突き合わせていると、大変心臓によろしくなく、心労が凄まじい勢いで積み重なっているのだった。
せめてドランの転生事情を知っている者達の前では、偉大なる古神竜に対するちっぽけなハイエルフとして接する事を許して欲しい、とオリヴィエは切に願っている。
オリヴィエからすれば、いくらドランの婚約者とはいえ、ドラゴンである事を知った上で以前と変わらぬ態度を取り続けられるセリナ、ドラミナ、ディアドラの事が、この上なく羨ましくもあり、なんという怖い物知らずと畏怖するのを禁じ得ない。
しかも最近ではドランの竜としての兄妹姉妹までもが、義理の姉ないしは妹になるセリナ達に挨拶をしようと、ガロア近郊に頻繁に降臨しているという。
おまけにただ降臨するだけでなくフェニアとネルネシアも交えて、競魔祭に向けた特訓に付き合ってくれていると言う報告を受けて、オリヴィエは常と変わらぬ無表情を保ったが、内心では暫くの間思考が停止するという苦い経験をしたばかりである。
相手の心を読む事をよしとしないドランは、オリヴィエの心情を雰囲気や表情、仕草から推し量るだけなので、古神竜としての正体を告げても大仰に驚かないのは、大した胆力だ、などと思っていたが実際はそうでも無いのだった。
ドラン達よりも付き合いが長く深いディアドラは、オリヴィエが無表情の仮面の下で凄まじい動揺を示している事を察していたが、オリヴィエの名誉の為に黙っていたりする。
超越者達との特訓によって、クリスティーナとフェニア、ネルネシアの能力が、百年の修業を積んだかの如く異常な伸びを示したのは、魔法学院長としては喜ばしい事だったが、さてレニーアの試合となると覚悟を固めたつもりでも、オリヴィエの胃と心は小さな痛みを訴え始める。
ドランは十六年間手加減をし続けて暮らしてきたし、元から温厚な性格の主であるから、試合内容に関する心配はさほどしなくて済むが、問題はレニーアである。
破壊者という物騒な二つ名と本人の気性を考えると、試合内容が荒れない筈がない。
レニーアが魂の父と心底から崇敬するドランが居る以上、レニーアが張り切り過ぎて適切な力加減を誤る事は、オリヴィエの中で確定事項となっている。
である以上、オリヴィエが鉛を飲んだような重たい気分に陥るのも当然の成り行きであった。
そんな中、昨年の競魔祭優勝校ジエル魔法学院長ハルバーナが、心なしか元気の無い様子のオリヴィエに気を遣い、意識して明るい声を出して話しかける。
ハルバーナの焦げ茶色の長い髪の間からは可愛らしい丸耳が飛び出ており、紺色のスカートのお尻からは、ふっくらとした茶と黒の縞模様の尻尾が飛び出ている。
ハルバーナは、おっとりとした印象を受ける丸っこい瞳と小柄な体躯から、外見は十代後半の少女のようにも見える狸人(たぬきびと)だった。
「それにしてもフェニアちゃんとネルネシアちゃんは、昨年も凄かったですけれど今年はもっと凄かったです。特に先鋒のクリスティーナちゃんは噂に違わぬ実力の持ち主でしたし、ガロア四強で一番強いってお話は本当でしたね」
既に三十路は越えている筈なのだが、どうみてもあどけない少女にしか見えないハルバーナは、他の魔法学院長達はもとよりアークレスト王国の魔法関係者達から殊の外可愛がられている。
オリヴィエとは曾祖母と曾孫の関係でもまだ足りない位に年が離れているが、その分、余計にオリヴィエにとってハルバーナは可愛く見えて仕方がない。
だがそんな心情とは別に、オリヴィエは質問をしたハルバーナはもちろん、シュナイルやクロイ、ログナルらを驚愕させる発言をした。
「いいえ、今年に入ってからクリスティーナが驚くほど腕を上げたのは確かですし、模擬戦での結果もフェニアやネルネシアに対して勝ち星を重ねていますが、それでも四強最強の座は彼女のものではありません」
クリスティーナが四強最強ではない、とオリヴィエは断言する。そしてクリスティーナがフェニアとネルネシアに勝る、とも。
ならば必然的にガロア魔法学院四強において最強の座に君臨するのは、残る一人となる。
魔法学院長達は、フェニアやネルネシアの魔法のような派手さこそないが、クリスティーナの底知れぬ戦闘能力をある程度は看破しており、故に彼女こそ四強最強だと判断していた。
「ええ!? じゃあ、ガロア四強で一番強いのは、これから出て来るレニーアちゃんという事ですか?」
ハルバーナが丸い眼を見開き、驚きと共に口にした言葉が、オリヴィエ以外の魔法学院長達の心情を代弁していた。
尋常ではない強度の防御障壁に、魔眼を用いてもほとんど視認できない身体能力、解呪の魔法を行使しているわけでもないのに自動で解呪を行う不可思議な現象、何重にも強化を施された大盾を粉砕する理不尽な攻撃力。
これらを兼ね備え、まだまだ余力を残しているクリスティーナよりも強い生徒が、ガロアにはいるというのか。
「そう言っているのです。我がガロア魔法学院四強の中で最強なのは、レニーア・ルフル・ブラスターブラストで相違ありません」
オリヴィエは決して嘘を口にしていない。
ガロア四強とはフェニア、ネルネシア、クリスティーナ、レニーアの四名を指し、この中ではレニーアこそが間違いなく最強である。
ただこれがガロア魔法学院の生徒で、あるいはガロアの代表選手の中で最強は誰か、という問いであったならドランと答えるのが正しい所ではあったが。
簡易ランク。
こんな感じ? という程度で今後話の流れ次第で変動はあります。
クリスティーナは魔法使いとしての技量はネルやフェニアに劣りますが、総合的な戦闘能力では大きく上回ります。
人間最高の魔法使い:バストレル(ドラゴンスレイヤー抜き)。
五位以内:メルル・ザ・アークウィッチ、ドラミナと戦ったスペリオルリッチのエンゴク。
二十位以内:ドラミナ・ドランと戦った仙人のイーウ、クロノメイズの神器を持っていたクレバ。
バストレル > メルル、エンゴク > クレバ、イーウ > ネル、フェニア、超一流の魔法使い > マグル婆さん、一流の魔法使い・宮廷魔法使い > ベテラン魔法使い > 魔法学院卒業生 ≧ 標準的な魔法使い > 初心者魔法使い > 見習い魔法使い
※宮廷魔法使いや魔法学院の生徒でも戦闘を専門としている者達を対象としています。
魔法学院の生徒は基礎履修科目に身を守れる程度の戦闘魔法の講義や理論が含まれていますが、ファティマのように戦闘以外の魔法の使い方を学びたい者は、戦闘系の講義は最低限だけ受けて他の科目の講義を選択して履修しています。ファティマなどは実質戦闘能力は皆無ですね。私達でたとえると中学校の授業などで柔道を習う程度のレベルの話です。
・亜竜、劣竜について
知性が衰え、竜語魔法の行使や他種族の言語を話せなくなるなどした、退化した竜種の事です。それでも強靭な肉体や堅牢な鱗、ブレス、生命力は残っているので強力な種と言えます。また知性と引き換えに繁殖能力が高くなっています。
中には棲息環境に適応した生態へと変化した者もおり、一概に退化したとは言い切れない面もあります。
もっとも種の原点であるドランなどからすると、いくら地上世界で生きてゆく為とはいえちょっと退化し過ぎ、もっと言えば馬鹿になり過ぎてやしないか? と悲しく思われています。
ワイバーンやワームなどがこれに当たりますが、作中ではまだ本格的な戦闘は行っていませんね。
竜、竜種という時は龍も含んでいます。また知性を有している竜種は、基本的に人類を敵対視はしていません。縄張りに入っても、警告を発して引き返すよう促す位に留めてくれますし、事情があれば大概は許してくれます。
よっぽどの事をしなければ怒らせたり取って食われたりする事はないでしょう。これは彼らにとっての絶対者であるドラゴンが人類に友好的であった事や、その他の始原の七竜や神竜、龍神などが人類や地上世界を創造した神々と、比較的友好な関係を築いていた事への配慮に依ります。
とはいえ大抵の竜種は人類の事を、こいつら争ってばかりで碌に進歩しやしないな、争う事を止め、手を取り合って協力すればもっと良い生き物になれるのに、と呆れているのであまり図々しい態度を取る事はお勧めできません。
・三竜帝三龍皇
ドランの転生した惑星に棲息する竜種の頂点に立つ者達です。竜帝・龍皇級になると惑星破壊レベルの攻撃を平気な顔で連発します。地上の生物では打倒できないとされる上位存在で、得意分野では挨拶でもするみたいに物理法則などを軽く無視します。
龍吉やコンクエスター、ゴルベラムなどはかつて外宇宙からやって来たエイリアンを相手に派手に暴れまわり、はるか彼方にあるエイリアンの母星や太陽系を吹き飛ばした事があります。
・竜王、竜公
上記の竜帝や龍皇達に認められて、ある程度の規模の竜種の群れを統率している高位の竜達で、竜王や竜公は役職名で種族としては古竜です。世襲制だったり選挙制だったり禅譲製だったりと次代への継承や、掟などは群れごとに異なります。
両手足の指に足らない位の数が認められていますが、単に王を名乗っていないだけで竜王相当の力を持つ個体が在野に居ます。特に力の強い物になると全力を振り絞れば、大陸を吹き飛ばせるくらいの力を持っています。
・古竜
成熟した個体ならどの種でも軽く音の二、三倍の速さで飛行するので、衝撃波を叩きつけるだけで攻撃になります。
ただし個体差が激しく、上位に位置しているヴァジェなどはただ高熱を発するだけで、周囲数十キロメートルを摂氏数十万度以上の火炎地獄に変えられるので、倒せるとしても下位の者に限られるでしょう。
人間が倒そうと思わない方が身のためです。怒らせたら大国でも一夜で滅びかねません。そこまで関係の無い者まで巻き込んで、怒りを発散させる個体はそうはいませんが。
・竜
世間一般で言う所の竜です。古竜よりも更に霊格や知性、体力、魔力が衰えた竜種です。それでもまだ異種族の言語をすぐに理解し、竜語魔法を操るなど、人間を上回る知性を残しています。
小国が竜の怒りを買ったら壊滅しかねません。倒すならば数千~万単位の軍勢と数百か千人以上の魔法使いを動員するか、優れた勇者や英雄を揃えて万全の態勢を整えた上で挑みましょう。人間でも打倒は可能です。
・亜竜、劣竜
もっとも個体数の多い竜種です。一口に亜竜と言っても様々な種がいます。作中未登場ですが。ワイバーン、ドレイク、ワームなどが相当します。
種毎に能力差が激しく、まるで山のような巨体を誇る者やはるか深海にのみ生息している者から、大型の魔獣位の大きさで歴戦の冒険者のパーティーでも十分に妥当可能なものまでと千差万別です。恐竜みたいな感じですね。
上位亜竜をどうしても相手にしなければならないのなら、有利な場所を選び情報をしっかりと収集した上で、一千人前後の兵力を用意しましょう。
中位以上の個体でも討伐するとなれば、十分な装備を持ち訓練された兵士を百は揃えたい所です。
弱い亜竜ならば複数名の冒険者でも倒す事が出来ます。知性が低く竜語魔法を使われる心配はありませんが、それでも並の魔獣など歯牙にもかけぬ存在である為、挑む以上は命を捨てて掛りましょう。
亜竜でも強力な存在であることに変わりなく、中堅どころ以上の個体を倒せば竜殺しの称号と名誉を得られると考えて良いでしょう。
なおフェニアやネルネシアは上位の亜竜でも単独で打倒可能な、人類の規格外となりつつあります。
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第百十八話
レニーアとルウデの副将戦が始まる少しばかり前、次元と次元の狭間に於いて古神竜アレキサンダーと破壊と忘却とお漏らしと自称愛を司る大邪神カラヴィスとの戦いは、今もなお決着を見ずにいた。
アレキサンダーは間違っても手心を加えておらず、本気でカラヴィスを滅ぼしに掛っているが、カラヴィスは過去に例の無い粘りを見せている。
「はうふあふあふあははうはっははははっははははは! ま、まだままだDA、このぼっきゅを滅ぼすには足りいひいい七あああいい胃いいいいい!」
カラヴィスは左手の小指の先以外全てを完全に消滅させられた状態から、万色に変化する霧のようなものを広げると即座に肉体を再構築し、アレキサンダーへと悪意に満ち満ちた笑みを向ける。
アレキサンダーは、既に一つの宇宙に棲息する全ての生命の数よりも多い回数、カラヴィスを殺傷せしめていたが、カラヴィスはまるで消耗した様子を見せない。
「ええい、無駄に粘って!」
アレキサンダー自身の持つ力の総量から考えれば、それほどの回数カラヴィスを殺害してもまるで問題はなかったが、彼女の知る過去のカラヴィスからは考えられない粘り強さには、正直に言って驚かされている。
とはいえ古神竜と大邪神との間には、越える事のできない壁あるいは格の違いというものが、厳然と聳(そび)えている。
このまま延々と戦い続けても、まずカラヴィスに勝ちの目はあるまいが、それでもカラヴィスに敗北を受け入れる気配はない。
自身の勝利を確信しているかのようなその姿に、アレキサンダーは苦々しい色をあどけない顔立ちに浮かべる。
まあ、実の所、カラヴィスに具体的な勝算があるわけではない。単にドラちゃんとレニーアちゃんとの愛を得たこのぼくに勝とうなどと、生意気な妹ちゃんめ! 位の事しか今は考えてはいない。
このまま宇宙が誕生して死ぬまでの時間よりも長く、永劫の戦いを繰り広げそうな両者の動きが喜劇のように共に停止したのは、この馬鹿げた喧嘩を見守っていたバハムートのこんな言葉だった。
「双方、レニーアとドランの試合を見逃しても良いのなら、好きなだけ喧嘩を続けるが良い。そろそろレニーアの試合が始まるぞ」
レニーアの試合に格別の興味があるのはカラヴィスであったが、バハムートやアレキサンダーからみて義理の姪にあたるから、まったく興味が無いと言うわけでも無かった。
バハムートの言葉に真っ先に反応を示したのは、どんなクソガキでも暖かく見守る慈母ですら、憎たらしいと思わずにはいられないような表情を浮かべていたカラヴィスである。
「えええ、本当本当、本当!? やっべやっべ、ぼくちゃんとドラちゃんの愛の結晶ちゃんの活躍の場を見逃すわけにはイカナイヨ~~。バハやん、良い所で声掛けてくれてありがとネン!」
「よもやお前に感謝される日が来るとは……」
これまでカラヴィスがふざけた調子で礼の言葉を口にする事はあったが、今回バハムートに告げたのは本気の感謝が込められた言葉であったから、さしものバハムートも奇妙な感慨めいたものを覚える。
カラヴィスはこれまで相対していたアレキサンダーの事などどうでもいい、と言わんばかりに背を向けてドランとレニーア達が居る地上世界の方向へと全知覚を向ける。
「って、おい、貴様、ここまでやっておいてそれか! どこまでも舐めくさって!!」
アレキサンダーからすれば堪ったものではない。かつてない粘りを見せて脅威を感じさせたカラヴィスが、レニーアとドランの試合が始まると告げられた途端にこの有り様である。
文句の一つも言いたくなるのが人情というものであろう。
こちらに無防備に背を向けている大邪神に、渾身の一撃をくれてやろうか、と力を溜め始めるアレキサンダーをバハムートが制した。
いい加減、二人の戦いの余波から全次元を守る作業は終わらせたい所であった。
「そこまでにせよ、アレキサンダー。時と場所を弁(わきま)えるのだ。ここで戦い続ければ関わりの無い数多の世界に悪影響が及ぶ上に、今のカラヴィスを倒せぬまでも無力化出来る頃には、ドランの試合が終わっていよう」
「む、むぐぐぐぐぐ、うううう、たかがカラヴィス如きにぃ~~~~」
アレキサンダーは格下と見下すカラヴィス相手に手を引かざるを得ない状況に、今にも地団駄を踏む勢いで癇癪を起こす。
とはいえアレキサンダーからしてみると、レニーアはどうしても好きになれない義理の姪ではあるが、同時に多少は訓練の相手をしてやった事で、ほんの少し位は試合の内容や結果が気になる程度の存在にはなっていた。
バハムートは、手の掛る末の妹がむぐむぐと唸りながら、カラヴィスと距離を置いて同じ方向に視線を向ける後ろ姿を見て、ようやくかと小さく溜息を零す。
別に疲れを感じはしないが、同じような事が何度も何度も繰り返されると、どうしてもまたか、位の事は思うのだった。
もっともバハムートは、今度はカラヴィスがレニーアの試合に一喜一憂する度に放つ影響から、あらゆる世界を守らなければならない羽目に陥ったけれど。
古神竜二柱と、セリナやドラミナからは本当に大邪神? と疑われているおそらく大邪神一柱が次元の狭間で戦ったり観戦したりしている間に、レニーアの試合が終わった頃、天界のとある一角では決戦に挑む直前であるかのような、張り詰めた緊張感に満たされていた。
時を司る神々の中では中堅かそのやや下ほどの位階にある、時の女神クロノメイズが支配する領域である。
虹色の宝玉を中心部に埋め込んだ時計盤がそそり立ち、その周囲もまた大小無数の時計盤で構築された領域には、主であるクロノメイズを筆頭として下位神や眷属である天使達が整然と並んでいる。
ただ一柱の例外もなく緊張の仮面を顔に張り付けて、眼前に立つ主神クロノメイズからの言葉を待っている。
「皆、準備は良いか。これより地上世界に転生なされた偉大なる古神竜ドラゴン様が、地上の衆目を前にその御力を振るわれる。
我らはそれに介入する事は許されぬが、ここよりあの御方の戦いぶりを拝見する事は許されよう。皆、活目(かつもく)して見よ、ドラゴン様を!」
クロノメイズの言葉と共に、それまで囁き声一つ発する事無く沈黙を守っていた眷属達が、熱に浮かされたように頬を紅潮させて一斉に歓声を上げる。
真性の神でありながら古神竜ドラゴンを崇拝する彼女達は、ドラゴンことドランの試合を見守るというただその為だけにこうして総出で居並び、試合の始まりを待っているのだった。
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第百十九話
競魔祭に参加するにあたり、私は事前にかつて懇意にしていた精霊達の創造神に久しぶりに会いに行き、事情を説明して精霊達に対して、もし私に対して力の行使を望まれたのなら遠慮なく協力して私に掛って来るように、と伝えて貰った。
正直に言って精霊魔法は私の脅威足り得ない。
そもそも私に効きやしないし、天界や魔界、精霊界に私の事がすっかり知れ渡った昨今では、精霊達が私に対して遠慮して力を振るわないから、精霊魔法そのものが発動しない事さえあるだろう。
相反する属性の精霊の力をぶつけて、発動した精霊魔法を相殺したり、詠唱や術式に割り込んで魔法の発動を破綻させたりする手法は古くから知られているが、精霊の方から自主的に協力を拒否するとなるとこれは滅多にある事ではない。
使い手よりも相手の方がより精霊に愛されている場合や、同属性でより上位の精霊の加護や祝福を受けている場合に起こり得るのだが、私の場合は精霊神を除くあらゆる精霊が対象となる。
それはいくらなんでも異常過ぎるし、競魔祭の暗黙の了解の事を考え、更に個人的にエクスの成長に興味を抱いた身としては精霊達に気を遣われるのは歓迎しかねる、というのが私の偽らざる本音である。
その為、精霊神に面倒を掛ける事になったが、精霊達は私を相手にしても普段通りにエクスに力を貸してくれる筈だ。
精霊神との旧交を温める事が出来たし、試合でも相手の見せ場を奪わずにすみ、私としては万全の態勢を整える事が出来たと思っている。
そんな裏の事情を知らぬエクスは、ガロア魔法学院最強と伝えられた私に対し、臆する様子はなく全力で叩き潰す、という気概を見せている。
ふむ、戦う男の顔をしているな。私とエクスが既定の位置で対峙し、第一試合の最後を飾る大将戦の始まりを前にして、周囲の観客達の熱が再燃し始める気配が伝わる。
私は視線だけを動かして、観客席の一角で私に向けて大きく手を振るセリナやファティマ、ディアドラ、ドラミナ、龍吉、瑠禹、相変わらず固まりっぱなしのヴァジェ達の姿を見て、少しは格好いい所を見せたいという欲求が新たに胸の内で鎌首をもたげるのを感じた。
「応援している皆さんは、貴方の勝利を疑っていないようですね」
私の視線を追ったらしいエクスが、馬鹿にするでもなく褒めるでもなく、単に事実を確認するように呟いた。
解説席ではアークウィッチが開始の合図を口にする機を見計らっている。大将戦を始める前に、二言三言交わすのもまた一興か。
「期待に応えるつもりです」
「でしょうね。ああ、それと、前は言いそびれましたがぼくと貴方は魔法学院の生徒という同じ立場です。
年齢は違いますが学年は同じですし、もっと砕けた話し方で構いませんよ。いちいちそんな事で目くじらを立てる状況ではありませんし、ぼくもそこまで狭量ではありません」
例えば私が単なる平民として、エクスが貴族の子息として対面している状況であったなら、私は身分の差を弁えた振る舞いをしなければならない。
だがここでは、お互いに身分の上下を問わずと不文律に掲げる魔法学院の生徒同士として立っている。
だから、エクスはお互いを等しい立場に立つ者として、言葉使いを改めるよう促してきたのだろう。
「なら、そうしよう。君の方も物静かだが熱い視線を送る応援者がいるな」
私はエクスの背後の観客席の一角へと視線を向ける。そこには二十人近い男女が周囲を囲む四十歳前後と思しい、美麗な女性の姿があった。
エクスと同じ翡翠色の髪やどことなく似ている顔立ち、エクスへと向けられる視線に込められている感情から、その素性を推測する事は誰にでも出来ただろう。
「母君かな?」
「加えて周りにいるのは父と兄弟姉妹、それと護衛です。血の繋がらない父親が七人に異父兄弟姉妹がわんさかといますが、これで我が家は仲良しでしてね」
「家族仲が良いのは素晴らしい事だ。血を分けた家族の骨肉の争いなど、この世で最も嘆くべき事の一つだと私は信じている」
「その口ぶりでは、御家族に随分と深い思い入れがあるみたいですね。見た所、貴方の御家族は応援に来ておられないようですが……」
「北部の辺境で暮らす農民に、王都に来る伝手も余裕もありはしないさ。しかし、試合前の時と比べると君の印象が随分と変わった気がするな」
私の率直な物言いに、エクスはなにか負い目でもあるのかかすかに眉根を寄せる。彼自身、あの時の言動は良くなかったと少なからず思っているのだろう。
エクスの顔には反省と後悔の色がありありと浮かんでおり、第一印象から受けたエクスの評価を上方に修正する必要がありそうだ。
「あれは、我ながらひどい対応だと思っています。不愉快な思いをさせてしまった事は、謹んでお詫びします。だからといって、この大将戦で一切手抜きはしませんが」
「それとこれとは話が別だからな。さあ、そろそろ大魔女殿が口を開きそうだ。楽しいおしゃべりはここまでにしようか」
「そうですね。思ったよりも楽しい会話になりました。そのお礼というわけではありませんが、ハルトさんと当たるまで取って置くつもりだった切り札を、必要とあれば使わせて貰います」
「そうこなくては私の方こそ困る。とりあえずこの競魔祭で生徒最強の称号くらいは手に入れるつもりなのでね」
「謙虚な方かと思っていましたが、意外と自信家ですね。ぼくの方も貴方への印象が随分と変わりましたよ」
お互い様という事だろうか。舞台上の空気はわずかに弛緩しはじめていたが、まるで私達の会話が一区切りするのを待っていたかのように、アークウィッチが試合開始の合図を発する事で瞬時に戦いの緊張に満たされる。
「それでは、競魔祭第一試合大将戦、始めてください!!」
昨年見たエクスの成長ぶりを楽しみにしているのか、それとも四強でないとはいえガロア魔法学院の生徒である私に期待してか、かすかにアークウィッチの声は弾んでいるように聞こえた。
さてエクスの気合の入りようと警戒の度合いからして、競魔祭の暗黙の了解に従って初手は控えめに、などという選択肢はあるまい。
私の予想通りにその場を動かぬまま、エクスは瞬き一つするよりも早く、地、水、火、風の四大属性と呼ばれる精霊達に働き掛け、その全てが私に牙を剥いてくる。
よしよし、精霊達はきちんとエクスからの求めに応じて、私に対して攻撃を仕掛けて来ているな。
エクスどころかほとんどの観客や、あのアークウィッチもよもや私がこのような事を考えているなど、夢にも思っていまい。
エクスの願いに応じて、四属性の精霊達の力が地上世界へと反映され、私の周囲を四つの脅威が取り囲む。
成人男性を丸ごと飲み込むほど大きな火の球、鉄も切り裂く鋭い風の刃、糸のように細く圧縮され高速で放出される水の槍、家屋の一つ二つ簡単に崩落させる岩石群。
密集した集団に放てば、数百人単位を殺傷せしめる容赦ない精霊の力の発現に、解説席のメルルや、観客達の間からどよめきに近い声が上がる。
だがそれも私が全く同じ精霊の力を行使して、エクスからの攻撃を相殺した事で更に大きな驚きの声へと取って代わられた。
相性を考慮するのならば、火には水を、水には土を、土には風を、風には火をぶつけるのが最善とされるが、私は大火球には炎の大槍で、風の刃には風の鉄槌で、水の槍には水の刃で、岩石の砲弾には岩盤の盾で応じた。
少なくとも単純な精霊の力の行使に於いて、この時点で私とエクスが同じ領域にある、と分かりやすく観客と誰よりもエクス自身に示したわけである。
「なるほど、味な真似をしますね」
「お互い、まだまだ様子見だろう?」
「ふ、余裕を見せつけてくれますね。いいでしょう、少し、派手に行きますよ、ドランさん」
エクスの顔には、私がそれなりにやる事を確信し、己の持てる力を余すことなくぶつけられる喜びがにわかに浮かび上がり、精神の高揚が魔力の質と量双方に良い影響を齎す。
私が天才精霊魔法使いの口元に好戦的な微笑が浮かび上がるのを認めた瞬間、私を中心として紅蓮の炎を巻き込んだ竜巻が発生し、高熱を孕んだ暴風が舞台上に吹き荒れる。
エクスが魔力の集中と思念による呼びかけだけで、火と風の精霊の力を同時に行使する複合魔法を発動させたのである。
鉄をも溶かす高熱と巨岩を真っ二つに断つ風の刃、家屋を基礎ごと吹き飛ばす暴風とが、一斉に私へと襲い掛かっている。
「ヒドラでもこれは危ういな」
複数の蛇の頭を持った強大な魔獣であるヒドラは、小山のような巨体と堅牢な鱗、強力な再生能力を有しているが、この火炎の竜巻に襲われれば鱗は容易に切り裂かれ、焼かれた肉は再生を阻害されるだろう。
たまに竜種扱いされるが、あちらは蛇である。強いて言えば、ラミアであるセリナの方が近いと私は思っている。ヴァジェも瑠禹も龍吉も意見を同じくする事だろう。
さて私にとって脅威ではないとはいえ、あまり考えごとに耽っていては何かあったのかと勘違いされて、試合を止められかねん。
私もまたエクス同様――こちらが居た堪れなくなる位に精霊達が委縮しているという違いはあるだろうが――複数の精霊達に助力を頼みこみ、エクスの炎の竜巻を内側から打ち破るべく動く。
「炎と風で来るのなら、こちらは水と土で行くべきか。セリナの得意分野だな」
氏族単位で水と土の魔力や気と親和性の高い愛しい蛇娘の事を思い浮かべながら、私は精霊の力を帯びた巨大な岩石をいくつも含んだ膨大な量の水を呼び出し、どんな巨大な船でも飲み込み、海の底に引きずり込む渦潮の如く渦巻かせる。
迫りくる炎の竜巻を私の作り出した土石流が破るのに、時間は要らなかった。大量の水蒸気と粉砕された岩石、そして数十万の火の粉に散った火炎が、舞台上に舞い散る。
天高く立ち昇っていた炎の竜巻が、会場全てを埋め尽くしそうな勢いで奔騰する土石流に打ち破られた瞬間、息を飲んで見守っていた観客達から一斉に歓声が沸き起こる。
エクスは割れんばかりの歓声と拍手も、複合精霊魔法を打ち破られた事にも揺らぐ事はなく、既に続く精霊魔法の行使の準備に入っている。
ふむ流石に肝が据わっておるわい。そして私達の戦いが加熱する一方で、解説席の方も実況と解説に熱が入り始めている。
「うおおお、派手、派手です! ドラン選手、エクス選手に一歩も譲りません。これは意外な伏兵か、それともこれがハイゴブリンを一騎討ちで討ち取ったという実力か!?」
「いえ、あれだけの精霊魔法を連続して行使できるのなら、ハイゴブリンの一体どころか十体でも問題になりませんよ。去年と比べてエクス選手の成長もさることながら、ドラン選手もまだまだ余裕があり、実力の底を見せておりません!
四強入りしていなかったのが、魔法学院への途中編入が理由だったとするならば、先の四選手に劣るとは限りませんよ」
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第百二十話
ドランがエクスを相手に精霊王を召喚し、絶対的な実力差を知らしめる形で勝利を得た頃、その様子を見守っていたアレキサンダーとカラヴィスは、次元の狭間で歓声を上げ、そして睨み合っていた。
ドランが勝った直後は良かった。バハムートもあれなら問題あるまい、と放置していた位である。
問題は、アレキサンダーとカラヴィスがドランを褒めそやし始めてしばらくした時に起きた。
アレキサンダーがドランだけを褒め称えるのに対し、カラヴィスは愛して止まないレニーアの事もドランと一緒に褒め称え、それに対してアレキサンダーがケチを付けた事が発端である。
アレキサンダーにとってレニーアは多少面倒を見てやったという認識はあれ、やはり忌々しいカラヴィスの娘であるからどうにも好きになりきれない所があるし、嬉しそうにレニーアを誇るカラヴィスを見ていると、我ながらどうかと思うもののつい難癖をつけてしまいたくなる。
レニーアちゃん、最高、素敵、流石、もうぼく濡れちゃう、などなどカラヴィスが本当に褒めているのか微妙に怪しい言葉を交えながらレニーアを称賛している所に、アレキサンダーはこう口を挟んだ。
「ふん、お兄ちゃんの実力の極一端の一端の一端程度とはいえ、地上の者共に知らしめる事が出来たのは痛快で爽快だったが、レニーアは貴様が言うほどの活躍を見せたとは思えんな。
私が少しは訓練の相手をしてやったのに、ほとんど棒立ちになって相手の攻撃を受けるだけだったじゃないか。最後に少しはマシな攻撃をしたが、まだまだだな!」
アレキサンダーと根源を同じくするバハムートは、アレキサンダーの言動の中に微妙にレニーアを思いやる気持ちが少しばかり含まれているのを、聞き逃さなかった。
だがレニーアの事を目に入れても、鼻の穴に入れても、お尻の穴に入れても、更には産道から子宮に入れ直しても痛くない――別に出産してレニーアを生み出したわけではないのだが――カラヴィスにとって、アレキサンダーの言葉は憤懣やるかたないものでしかない。
「にゃにゃにゃにゃにおう!? よりにもよってぼくの可愛いきゃわいいレニーアちゃんを、貶(けな)して貶(おとし)めて馬鹿にして虚仮(こけ)にするたあ、アレキサンダーちゃん、君はそれでもあの子の叔母さんなのかい!!」
旅の踊り子ラヴィの姿を取ったカラヴィスは、本当に頭から湯気を噴きながら歯を剥き出しにしてアレキサンダーへと食ってかかる。
邪神の筆頭格にして代名詞、数多の邪神達ですらその名前を聞いただけで際限のない嫌悪と忌避感を抱くあのカラヴィスが、自分以外の誰かを悪く言われて怒っているという現実に、アレキサンダーは面食らったがそれでも態度を変える事はしなかった。
「誰が叔母さんかっ! 例えどうなろうと私は貴様をお兄ちゃんの妻などと認めはしないし、レニーアにも叔母さんと呼ぶ事を許しはしない!!」
「うっせ、うっせ、うっせ、大人しく叔母さんと呼ばれときなよ。ばーかばーかば~か、聞き分けが悪いにも程があるぞい!」
「むきゃーーー!!」
「なぁにがむきゃーだ、むきゃー、むきゃー、むきゃー!」
間違いなくこの世界において最高位の存在である筈のアレキサンダーとカラヴィスの幼稚極まりないやり取りではあるが、反比例して強大な力を持っており、他者に多大な迷惑を掛けるのだから始末に負えない。
バハムートは本当に自分でも手に負えない状態に陥るのを防ぐ為に、声と雰囲気に本気を滲ませながら罵り合う二柱に割って入る。
「アレキサンダー、カラヴィス、観戦した感想を述べるのなら止めはせぬが、かくも醜く愚かに争い合うのならば我は力をもって汝らを止めねばならぬ。またそうとなれば汝らがいかに隠蔽しようとしてもドランは気付くだろう。
このまま感情に流されるがまま争い合い、ドランに軽蔑されこの後の試合の観戦を出来なくなる可能性を恐れるのなら、場所を変えてそこで好きにするがよい」
「おおふ、むむむむむ、レニーアちゃんに対する風評被害は断じて許せるものじゃねーけど、今回ばかりはバハやんの顔に免じて引いてあげようじゃないのさ。あばよ!」
思考の切り替えの早さに関してはドランも認める所のカラヴィスは、本気になったバハムートとそれに便乗してくるアレキサンダーの脅威、そしてドラゴンに呆れられて軽蔑される恐ろしさを瞬時に計算すると、バハムートとアレキサンダーにお尻を向けてそそくさと大魔界の方へと猛然と走り去って行く。
見る間に小さくなって行くカラヴィスに対して、アレキサンダーは二度とその顔を見せるな! と聞くに堪えない罵詈雑言を絶え間なくぶつけ続ける。
「アレキサンダー、そこまでにせよ。妹の口からかような言葉が次から次へと出て来るなど、気分の良いものではない」
「はぁい、バハ兄。それじゃあさ、早速お兄ちゃんの所に行こうよ。直接応援する事は出来なかったけれど、おめでとうを言いに行くくらいは出来るよね」
カラヴィスへと向けていた嫌悪と憎悪の感情はすっかりどこへやら、アレキサンダーは肉親への親愛の情に満たされていたが、対するバハムートの眼差しには冷厳な光が宿っていて、アレキサンダーの心中に不安の種を埋め込んですぐさま萌芽させた。
「あれ、バハ兄、なあに? 怖い顔をしているけれど」
「アレキサンダーよ、そなたは己の力の使い方と振る舞い方の双方を心得ているとは言い難い。これまで地上に降りた時はまだ良しと考えていたが、カラヴィスとの諍(いさか)いを見ては考えを改めねばならぬ」
怖い顔に加えて冷たい眼差しをして固い声音で告げるバハムートに、アレキサンダーは厳格な兄に頭の上がらぬ妹そのものの態度へと変わり、カラヴィスが聞いていたら腹が捩れるほど爆笑しそうな悲鳴を上げる。
「ふえええ!?」
「二度と地上に降りるなとまでは言わぬ。だがドラン達が参加している競魔祭が終わるまで、そなたはドランらと直接顔を合わすべきではない。
カラヴィスは隙を見ては降りようとするであろうし、また既にあそこにはマイラールやケイオス、アルデスらも居る。
マイラールらと諍いを起こす事はあるまいが、そなたを含めた三つ巴の状態となっては、どんな事態を引き起こすか考えるだけでも頭が痛い。
また人間として参加している行事に、我らがそうそう顔を出すものではあるまい。ドランの人間の友や縁のある者達の輪に、徒(いたずら)に加わる事は控えよ」
「でででででも、バハ兄もリヴァ姉もヒュペも特訓の相手はしたじゃない!」
「うむ、アレキサンダーばかりにドラン達との接触を禁じるつもりはない。我も競魔祭が終わるまでは、ドラン達に会わぬ。アレキサンダーよ、そなたが憎くて言っているのではないが、いかんせんそなたの性情ではこの場でいくら誓った所で信じきる事が出来ぬ。
地上に降りた先でカラヴィスと出くわし、諍いを起こさぬとどうして言い切れようか。観戦する事は止めぬし、競魔祭が終わった後に祝福の言葉を告げに行く事も止めぬ。競魔祭が開かれている間だけ我慢せよ」
少しばかりアレキサンダーへの仕置きの意味を含めて告げるバハムートに対し、アレキサンダーは大粒の涙を幾つも瞳に溜め、スカートの裾をぎゅっと握りしめて顔を俯かせる。
反論の一言を口に出来ないほどバハムートの指摘が正鵠を射ているのもあるが、カラヴィスとこんな所で出くわしていがみ合ったばかりにこのようになった事に、アレキサンダーの心は千々(ちぢ)に乱れていた。
アレキサンダーの落ち込む姿を前に、バハムートが少しばかり言い過ぎたかと考えた瞬間、アレキサンダーは俯かせていた顔をきっと上げるや否や、全速力で駆けだしてバハムートの傍らを通り過ぎようと謀った。
アレキサンダーの涙は本物であったが、それでもそれを利用してバハムートに隙を作り、長兄を騙して地上世界に降りようと図ったのである。
しかしそのような末の妹の浅慮などバハムートには透けて見えているようなもので、アレキサンダーの首根っこを、バハムートの左手が後ろからがっしりと掴み止めて、締めつけられたアレキサンダーの咽喉から小さな悲鳴が零れる。
「くきゅ!?」
「まったく、このような浅慮に走るなど、そなたの浅はかさを嘆くべきなのか、それほどまでにドランに入れ込んでいると解釈してやるべきなのか。今日はこのまま竜界へと戻るぞ、問答無用である」
「えええええ~~~、やだやだやだ、い~や~だ~! お兄ちゃんと話したい~~、褒め千切りたい、凄かったねって言ってあげたいの!」
「競魔祭とやらは地上の時間であとほんの数日で終わる。その後に顔を出せ」
アレキサンダーの口からは長い事抗議の言葉が零れ続けたが、直にびえええええ、という形振り構わない鳴き声が出るようになった。それでもバハムートの拘束が緩む事はなく、アレキサンダーは抗議も虚しく竜界へと連れ戻されるのだった。
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第百二十一話
「やだやだやだやだやだやだ、い~や~だ~、お兄ちゃんの所に行くの、行くったら行くの!! びえええええええええええ」
恥や外聞などこの世の果てに全力投球して泣き喚いているのは、バハムートによって強制的に竜界へと連行されたアレキサンダーである。
アレキサンダーは銀髪金眼の人間の少女姿のまま、竜界の中心部近くにある浮遊島の上に放り出され、満開の桜が一億本ほど群生した一角で桜の花びらの絨毯の上で仰向けに寝転び、抗議し続けている。
だが既にこの場にバハムートの姿はなかった。たまたま竜界へと繋がってしまった地上世界から、こちらへと足を踏み入れた人間達との交渉に出向いている為だ。
バハムートに代わってアレキサンダーの相手をしているのは、三柱の神竜達である。
黄色の鱗に五枚の翼、三本の尻尾と赤い二つの眼を持ったイエカ。
桜色の鱗に四枚の翼、一本の尻尾と青い三つの眼を持ったサクオ。
灰色の鱗に二枚の翼、一本の尻尾と緑色の四つの眼を持ったハイロ。
イエカとサクオは女竜、ハイロは男竜だ。いずれもドランやアレキサンダーには遠く及ばずとも、龍吉や瑠禹、ヴァジェ達が許しを得るまでは顔を上げる事も畏れ多いとおののく高次存在だ。
手足を振り回してわんわん泣き喚くアレキサンダーを中心に、三角形を描くように竜の姿で大地に降り立ったイエカ達は、自分達の頂点の一角のこのような態度に慣れているのか、特に慌てふためいた様子はない。
イエカ達は始祖竜が自らを裂いた時に生じた最も古く、最も強い部類の神竜達で、その分アレキサンダーとの付き合いも長く、力こそ絶大だが多感な時期を面倒臭い方向に特化してこじらせたようなアレキサンダーの性格をよく熟知している。
だからこそのこの落ち着きようであったし、アレキサンダーが一切手加減せずに周囲へと放つ激情を正面から受けても、ケロリとした顔をしていられるだけの実力を持っているのも大きな理由だ。
流石は古神竜に次ぐ位階の神竜達と言うべきであろう。竜界にはごまんといる神竜達だが、彼らはすべて大神級の存在なのである。
「どれだけ泣き喚いた所でバハムート様が心変わりする事はありませんよ~」
「イエカの申す通りですよ、アレキサンダー様。かの邪神とさえ出くわさなければ、今頃はドラゴン様とお会いする事が出来たでしょうから、そのように悔やまれるのも理解できなくはないのですが、無駄な事は無駄と御納得くださいな」
おっとりとアレキサンダーを宥めすかすイエカと比べると、サクオは随分と毒を含んだ台詞を吐く。
かつてサクオ達三柱は、ドラゴンが七勇者達に討たれた時、怒り狂ったアレキサンダーが地上世界へ殴り込みをかけようとしたのを必死で止めた側の神竜達で、サクオはその時の事を若干根に持っているのかもしれない。
「サクオ、そんな事を言ってはますますアレキサンダー様の臍が曲がってしまうだろう。お前は以前からアレキサンダー様に対して、容赦が無い。もう少し何とか敬おうという努力だけでもしてはどうだ?」
「うふ、すみません、ハイロ。アレキサンダー様があまりに可愛らしく、親しみやすい御方であらせられるから、つい」
つい、とサクオが口にするのと同時に、アレキサンダーの泣き声が更なる爆発を迎えた。
「びえええええ、うわあああああ~~~んん! バハ兄のばかぁ、びゃかああ、うええええんんん!!!」
「ほら、こうなるのは火を見るよりも明らかであろうに」
危惧したとおりの展開となった事に、ハイロは二十代半ばほどの男性の声音に、臨終の所の老人を思わせる疲労の響きを交えて愚痴を零す。
アレキサンダーはサクオの言葉を受けて更に大きく咽び泣き、ここが竜界でなかったら無限の並行世界も多次元世界もまとめて破壊し尽くされる事態が生じている所だ。
鼻も頬も耳も真っ赤に染めてわんわん泣くアレキサンダーを見て、サクオは竜の顔立ちながら誰が見ても見間違いようのない笑みを浮かべる。ほくそ笑む、という奴である。
「あらあら」
「サクオちゃん、そんなに楽しそうに口にしてはいけませんよ~」
「うふ、ごめんなさい。それにしてもアレキサンダー様はドラゴン様が関われると、本当に子供になってしまいますわね。普段は古神竜としての矜持からか、もっと毅然とした態度で振る舞われますのに」
「サクオちゃんはその態度を崩すのが好きなんだから~」
イエカとサクオはあまりアレキサンダーを宥めようという気はなく、どちらかというとアレキサンダーが癇癪を起して、バハムートの言いつけを破ってドランの下へと向かうのを監視する為にいるつもりのようだ。
ハイロは、一刻も早くバハムート様にお戻りいただくか、あるいはリヴァイアサン様かヨルムンガンド様に来ていただく他ないか、と半ば諦めの境地へと達している。
ヒュペリオンはすぴすぴと寝息を立てながらぐっすりと深い眠りに落ちているし、ヴリトラは今日も今日とて竜界やその他の世界へと無軌道に顔を出しては速さを追求して飛び回っているから、アレキサンダーを止める助けとしては期待できない。
リヴァイアサンは既に状況を把握してこちらに向かって来てくれているから、大いに心強く、ヨルムンガンドはドランの竜界来訪以来なにかと遠くを見ている事が多いが、アレキサンダーの痴態は流石に見苦し過ぎると感じてか、こちらを注視しているのがハイロには感じられる。
アレキサンダーが万が一の愚挙を犯した場合、ハイロ達三柱ではそう長くない時間の足止め程度の事しか出来ない。
ハイロ達神竜が大神級の実力者とはいえ、そもそも大神達が束になってもなお敵わないのが始原の七竜という超越者達なのだ。
その足止めしていられる間に他の七竜の兄妹達が止めに来ないと、最悪の場合アレキサンダーは地上世界へと降り立ち、しかる後バハムートの怒りと悲しみを招く事となる。
竜界の長たるバハムートの怒りを招くとなると、流石にアレキサンダーが可哀想であるし、後々その事を知ったドランも複雑な心境へと陥るだろう事は明白である。
この三柱達の中ではもっとも気真面目な所のあるハイロは、怒られる側も怒る側もその原因の一端となる側の事も考え、一番マシな結果となる為に、泣き喚くアレキサンダーが落ち着く事を切に願っていた。
幸いにしてハイロの危惧が現実の物となる事はなく、競魔祭決勝戦でドランの番が回って来るや否や、アレキサンダーが泣き喚くのを止めて竜界から地上世界をつぶさに見だす様子を目の当たりにして、ハイロは肩透かしを食らうだけで済むのだった。
イエカはよかったよかった~と呑気に言い放ち、サクオは少しばかり勿体なさそうな顔をしたが、竜界に住む竜種達は、地上世界の龍吉やヴァジェ達のように憧憬と期待と幻想を過剰に持たない分、古神竜の残念な姿を見てもそれほど幻滅する様な事は無いらしかった。
まあ、それも相手がアレキサンダーだから、と言うべきなのかもしれないけれど。
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第百二十二話
各魔法学院の学院長達は、その役職とは別にアークレスト王国の貴族位を持ち、要職に就く立場上、競魔祭の間に用意される個室は生徒達のものよりも上等なものだ。
より広く、より高級な調度品が揃えられ、より快適に過ごせるように繊細な配慮がなされた室内で、ガロア魔法学院長オリヴィエは磨き上げた黒晶石のテーブルに着いて、花の蜜を霊峰の清水で五十倍に希釈したものを飲んでいた。
時刻は翌朝に競魔祭決勝戦を控えた夜。光の精霊の力が結晶化した
人々の思い描くエルフの理想像の一つといえる容貌のオリヴィエだが、今はその怜悧(れいり)な美貌に、よほど付き合いが深いか観察力に長けた者でなければ気付けないような薄い疲労の影がある事を、オリヴィエの対面に座していたディアドラは見抜いていた。
「ふふ、随分とお疲れの様子ね、オリヴィエ」
ディアドラは、花の蜜の代わりに荒れ地の開拓に用いられる濃縮栄養剤を希釈した薄緑色の液体を飲みながら、古い友を労う為に部屋を訪れていた。
互いの手には美しいカットグラスが握られていて、普通の人間なら酒をたっぷりと満たした酒杯が握られている所だろう。
「ディアドラが相手ではそうそう隠しきれませんね」
オリヴィエはディアドラを相手に魔法学院学院長としての肩書きを忘れて、いくらか胸の内を吐露する事に決めたらしい。
かつてエンテの森に存在した王国の最後の王女でもあり、エンテ・ユグドラシルの姫巫女を務めた事もあるオリヴィエは、エンテの森の住人達から多大なる畏敬の念を向けられているから、こうした対等な立場で接せられる相手は少ない。
「オリヴィエとの付き合いは長いし、深さもそれなりだと思っているわ。それにしても王都に来る前から随分と悩ましげにしていたけれど、実際にここに来てからは顕著ねえ。貴女は結構神経は太いと思っていたけれど、効いているみたいじゃない」
「ふぅ、そうですね。初めてエンテ様と交感した時よりも緊張を強いられている……いえ、違いますね。罪悪感と申し訳なさと追及をかわす為に、口を動かす羽目に陥りましたので、少々疲れてしまいました」
そういってオリヴィエは手の中のグラスを呷り、黄金色の蜜水を飲み干すと水差しから二杯目を注ぐ。そんなオリヴィエの様子に、ディアドラは口には出さず、思ったよりもキテいるわ、と零した。
「ふぅん、まあ、何を追及されたかなんて簡単に察しが付くわね。私って外の者達の強さってあまり知らなかったけれど、ここ数日の試合を見てドラン達が異常な強さだって事が良く分かったわ。
ドランとレニーアはそもそも魂が違うし、クリスティーナも厳密には人間ではないから比較する事が間違いだって事は分かっていたけれど、フェニアとネルネシアも、他の生徒達と比べると別格の強さだったわね。
今の所、フェニア達と肩を並べられるのって、ドランに負けたエクスって言う子くらいじゃない」
「ええ、フェニアとネルネシアはここ最近で鍛えて貰った相手が相手ですから、元々あった伸び代が異常な伸びを示しました。同世代の中では、世界規模で考えても破格の強さでしょう。
そんなあの子達と互角に戦えるだろうエクスは、本物の天才です。リリィアに随分と好かれているようですし、将来的には精霊王の召喚が出来るようになるかもしれません」
「へえ、貴女がそこまで言うのなら本当なのでしょうね。私も同意見よ。あの霧の中でドランがちょっとエクスにおまけをしてあげたみたいだし、歴史に名を残す使い手になるのではないかしら? 潰れなければ、だけれどね。
それで貴女が追求されたのはフェニア達の成長ぶりもそうでしょうけれど、それ以上にそんなエクスを倒したドランの事でうるさく聞かれたんでしょう?
ドランは今年になっていきなり台頭してきた転入生? という生徒だし、それにレニーアやクリスティーナと違って貴族というわけでもないから、魔法学院を卒業したら色々と引き抜くのは比較的簡単なのでしょう。疎い私でもそれ位は簡単に想像が付くわ」
ディアドラからの指摘は正鵠を射ていたようで、オリヴィエは首肯して答えた。
「ええ、その通りです。どのような指導方法でフェニア達の実力を伸ばしたのか、そしてドランのあの実力は一体何事なのかと問いを重ねられました。私も彼らと同じ立場だったなら、全く同じ事をしましたがされる側としてはやはり疲れるものです。
第一説明のしようがないではないですか。あのドランという生徒は、実はマイラール神やケイオス神すら凌駕する伝説の古神竜ドラゴンの生まれ変わりであり、自我も記憶も力もほとんどそのまま残しています、だから強いのです、などと言えません」
「それはそうよね。ドランが人間として振る舞っているから実感しづらいけれど、本来ならユグドラシル様でも比較にならない位に高位の存在ですものね。
ドランが古神竜であるなんて知られたら、王国の上層部とか色んな神様の所の教団も動かざるを得ないでしょう。
それにドランの事が知られたら、自粛してくださっている天上の神々が口を出したくなるでしょうし、王国はかつてない混乱の坩堝(るつぼ)になるのではなくって?」
「ええ。神々に問えば事の真偽は容易く判明しますからね。ドランの方から神々に手を回せば話は別かもしれませんが、うっかり口を滑らしそうな御方も何柱かおられる事でしょう。
もしそうなった場合には、おそらく彼の取る行動は二つ。自分が古神竜の生まれ変わりである事を知った者達からその記憶を消すか、あるいは行方を眩ませるかのどちらかでしょうね。
ただ言わせてもらえるのならば、本当に人間として生きて行くつもりであるのなら、こう言った公的な場では今少し竜種としての力を揮う事を自重して欲しいのです。
あそこまでの力を出さなくても、エクスやキルエルシュには勝てたでしょうに、メルルなどは完全にドランに目を付けてしまっていますよ。彼女の場合は全力を出せる相手を見つけた事への喜びですから、宮廷の方々とは違った意味での執着ですが……」
オリヴィエが三杯目に手を伸ばすのを見守りながら、ディアドラも自分のカットグラスに唇を付けた。
随分とオリヴィエの胸の内に溜まっているものがあるようだから、少しは吐き出させて楽にさせてあげようかしら、と友情に基づいて杯を交わす事にしたのだが、予想を越えてオリヴィエは鬱憤を溜め込んでいたらしい。
「というかディアドラ、貴女はよくドランの事をドラゴンと知った上で、変わらぬ態度で接する事が出来ますね。貴女が敬意を払うエンテ様よりも、ドランの方がはるかに格上なのですよ。私などは余人の目が無ければ、跪かねばならないと常に思っていますのに」
「ふふ、なあに矛先を向けられてしまったのかしら。仮にも番(つがい)、いえ夫婦(めおと)になろうという相手だもの。私としては対等でありたいわ。それになによりドランがそれを望んでいるし、ドランに今更畏まった態度を取ったりしたらものすごく悲しむわよ、彼」
「まあ、確かにそう言う変わった所のある方ですが、それでも正体とその力の一端と霊格を知って尚、対等な相手としての振る舞いを実践できるのは普通ではありませんよ」
「オリヴィエも私みたいに開き直れたらうんと楽でしょうに、損な性分よね。無理をしない程度に頑張りなさいな。私に何かできる事があるならしてあげるわ。
貴女がこういう風に愚痴をこぼせる相手なんて、数えるほどしかいないでしょうしね」
「ふう、確かにそうです。貴女には感謝していますよ、ディアドラ。黒薔薇の精の友情に」
そう言ってオリヴィエがカットグラスを掲げるのに合わせ、ディアドラも同じくカットグラスを掲げる。
「じゃあ、私は……そうね、古き森の血脈の忍耐に」
オリヴィエは少しばかり微妙そうな顔をしたが、ディアドラがくすくすと笑っている様子に毒気を抜かれて小さく息を一つ吐くだけにした。そして二人の声が唱和する。
「乾杯」
*
多くの者達の様々な葛藤や絶望、興味、希望と共に訪れた競魔祭決勝戦当日、多くの観客達はガロア魔法学院とジエル魔法学院の実力伯仲の熾烈な戦いを期待し、少数の者達はガロア魔法学院の優勝を疑っていなかった。
ハルトの戦闘能力の高さは疑いようのないものであったが、それ以上にガロア魔法学院の代表選手全員が強過ぎるからだ。
学院単位ではガロア魔法学院に注目が寄せられる中、生徒一人一人で見ると昨年生徒最強と称されたハルトと、ガロア魔法学院最強と目されるドランの対戦が熱く期待されている。
両者には、生徒では最高の精霊魔法使いであるエクスに勝利したと言う実績があり、同じエクスに勝った者同士ではどちらの方がより強いのか、と観客達の想像を掻き立てている。
その他にもガロア四強に名を連ねながら、昨年は出場していなかったクリスティーナの圧倒的な実力と絶世の美貌、アークウィッチを上回る思念魔法の使い手であるレニーア、一年で劇的な成長を遂げたフェニアやネルネシアなど、今年はどうしてもガロア魔法学院が観客の話題を独占してしまっている。
レニーア、フェニア、ネルネシア、クリスティーナはいずれも貴族の令嬢、特にレニーアなどは唯一の子供であるから、引き抜きや婚姻話を持ち出すのが比較的難しい面々だが、辺境の農民であるドランなどは待遇次第でいくらでも引き抜ける相手にしか見えないから、魔法学院卒業後の進路に興味を示す貴族や商人達は少なくない。
その一番扱いが簡単そうに見えてしまうドランこそが、最も取扱いに慎重を要する、ある意味最悪の危険人物である事を知らないのは、さて彼らにとって幸であったか不幸であったか……
この競魔祭終了後のドランへと及ぶ勧誘の手に対する処置もまた、オリヴィエを悩ませている一因であった。
ドラン自身はベルン村から遠く離れる意思はなく、卒業後はガロアの総督府への就職を考えており、総督府付きの魔法使いになるか文官としての雇用を視野に入れている事はオリヴィエも知っている。
より長期的に見れば宮廷内に入り込む方が良い、とはドランも理解しているし、そちらからも声がかかるだろうとオリヴィエは踏んでいるが、ドランの中での優先度は地元の方が高い。
ドランは合理性や論理性を理解してもなお、感情を優先する場面が多々あるが、彼の存在の発祥を辿れば始祖竜が感情のままに自らを引き裂いた事で生まれたのだから、感情のままに生きる事は当然と言えば当然なのだ。
競魔祭でこれだけ圧倒的な力を見せ、かつ後ろ盾が無い人材となれば王国中から引く手数多だろう。
あるいは単純にその膨大な魔力と才覚を期待した魔法使いの家に、種馬として求められる可能性も十分にある。
だがドランにはこの地上世界に限った話としても、アークレスト王国が面する海を統治下に置く水龍皇龍吉と、大陸に大きく版図を広げるエンテの森そのものであるエンテ・ユグドラシルという、人類の諸国家が比較にならぬ巨大勢力が背後に着いている。
特にエンテ・ユグドラシルのドランへの無邪気な懐きようをよく知っているオリヴィエは、どこまでアークレスト王国側にドランへの対応について忠告すべきなのか、極めて繊細な匙加減を強要されている。
もしドランへの敵対行動をとり、龍吉の治める龍宮国を敵としたならばその国全土を覆い尽くす津波が例え内陸国であろうと襲い掛かり、全てを水没させるか永劫に止まぬ雨が降り続けて地形すら変わるかもしれぬ。
もしこれがエンテ・ユグドラシルの場合であったなら、地上世界の草木や花の頂点に立つユグドラシルの意に従って、その国ではありとあらゆる作物や樹木、草花が咲く事を拒絶するか、あるいは毒素を放出するようになり国を滅ぼすかもしれないし、またあるいは全ての民が飢え死にするまでありとあらゆる作物が育つ事を拒否するかもしれない。
これらの報復は無辜の民にまで多大な犠牲を強要するもので、あまりに残酷であまりに凶悪なものであるから、龍吉やエンテ自身も決して望まない手段だ。
実行される可能性はまず無いが、水龍皇やユグドラシルを敵にすれば、地上種族の国家など実際に戦うまでも無く滅びてしまうものに過ぎない。
ドランが在学中はオリヴィエの魔法学院学院長としての肩書きを盾にして、干渉をある程度は防げるが卒業後となるとそうはいかなくなる。
ともすればアークレスト王国のオリヴィエではなく、エンテの森のオリヴィエとして今後は王国と付き合って行かねばならなくもなるだろう。
ドランは例え人間に生まれ変わったにせよ、前世が古神竜であるというあまりにも巨大すぎる事実と、その前世の知己達が揃いも揃って神々や地上世界の頂点に名を連ねている事が、今生(こんじょう)においても大きな影響を齎している。
良くも悪くもドランが人並みに生きて行く事はどだい不可能なのだ、とオリヴィエは考えているし、ドラン自身も竜種としての力を都合よく使っている以上、それは無理だろうと認めている節がある。
いずれにせよオリヴィエの苦労が今しばらく続く事は間違いない。
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第百二十三話
「うわああああんん、んもぉーーーーぬわぁんんでぼくを召喚してくれないわけえ!?
君の為なら冷たいゴーレムの中でもぼかあ心をポッカポッカと温めて、濡れるを越えて蒸しものにだって、いや焼きものにも揚げものにだってなれるのにい! ドラちゃんのぶわぁかああん!
あれか、ぼくがラヴリーでセクシーでキュートでビューチホーでグレートでアメイジングでスーパーワンダホーな大邪神様だからかっ! だったらたった今この瞬間から、このカラヴィス、破壊と忘却と愛と肉欲を司るぬちゃグチャエロエロ大正義女神にだってなっちゃうよ!
だからぼくを召喚してよお、ド~ラ~~ちゃ~~~~ん!!」
かくも聞くに堪えない叫びを上げながら、極彩色の空で地団太を踏んでごねているのはカラヴィスである。
ベルン村に滞在していた時の旅の踊り子ラヴィとしての姿のまま、カラヴィスは両目、両耳、鼻の穴、口……と全身にある穴という穴から悲哀と憤怒の入り混じった体液を滝のようにバシャバシャと流している。
次元の狭間でアレキサンダーと遭遇しすったもんだの挙句バハムートに釘を刺された為、大魔界へと一時帰還したカラヴィスは、そのままドランとハルトの決勝戦をやんややんやと騒がしく応援していたのだが、ドランがアルデスとクロノメイズを召喚した瞬間を見た途端にこれである。
大邪神の精神の均衡は、かくもあっけなく崩壊してしまい、涙声なのか怒声なのか分けの分からない声を出している。
もしカラヴィスの声の一つ、汗やら涙やら鼻水やら涎やら何やらが一滴でも大魔界から外へと流出してしまったら、天界や竜界、精霊界、冥界などの極一部を除いたあらゆる世界が汚染され尽くしてしまう所だ。
そしてカラヴィスがこのような反応を示したと言う事は、ことドランに関しては同じ領域に並ぶ精神の持ち主アレキサンダーもまた荒ぶっていた。
「うわああああああ、ああんん、んなあああああああんん。びええええええ、びゃあああああああ、うぇえええええええんん!!!
お、おに、お兄ちゃん、なん、にゃんで、わ、わたし、呼ばないで、あるですの裸ヤローにクロノなんとかなんて木っ端女神、呼ぶ、よ、よびゅの!?
わらひだって役に立つもん、お兄ちゃんの役に立ちたいもん、しょんで、ほべでもらいだいんだもんんん、ぶわああああああんん、だからわたひをしょーかんしてよお、お兄~~ちゃ~~~~ん」
カラヴィス同様にドランとハルトの決勝戦を、竜界から息をする事さえも忘れて見ていたアレキサンダーであったが、やはりというべきかアルデスとクロノメイズがゴーレムを器に召喚されるや否やコレである。
最後の方に至ってはカラヴィスと似たような事まで口走って、人間の少女姿のままのアレキサンダーの両目からは、涙が優雅な弧を描いて怒涛の勢いで噴出している。
「あらあら~ドラゴン様ったらぁ、相変わらず無自覚のいけずさんだわあ」
アレキサンダーの監視を継続して行っていたイエカは、例えこの世の終わりが来てもぽわぽわとしていそうな声で正直な感想を零し、サクオはと言えば我が世の春を謳歌する者の笑みを浮かべていた。
ドランにつれなくされたと思い込み、わんわんと泣き叫ぶアレキサンダーの姿は、サクオの心をこれ以上ないほど喜びで満たしてくれる。
「うふ、うふ、やはりアレキサンダー様はドラゴン様に構って貰えない時が、一番愛らしいですね。うふ。ああ、ドラゴン様、流石でございます」
「サクオ、それはドラゴン様を褒めてはおらんだろう……」
「うふ、ハイロは疑い深いですね。心よりドラゴン様の事を御尊敬申し上げております。あの方ほどアレキサンダー様を愉快な事に出来る方は他におられませんもの」
「そうか……」
つくづく疲れたといった調子で、ハイロは果てしなく重たい溜息を零した。そのまま地上世界に落ちてしまったら、あまりの重量からブラックホールを形成して銀河の百万や二百万は飲み込んでしまいそうな溜息である。
ドランがハルト達と数を合わせる為にアルデスとクロノメイズを召喚した影では、大魔界と竜界でかくも馬鹿らしい影響が及んでいたのだった。
*
『ぬはははは、なんだなんだ、ドランよ。憎い事をするではないか! これで見物料代わりになるのなら、いくらでも召喚されようぞ』
目鼻と口らしい凹凸があるだけのゴーレムの顔では表情など分かりもしないが、ゴーレムに憑依したアルデスは底抜けに陽気で嬉しさを隠さぬ思念をドランに伝え、その肩をバシバシと叩く。
映し身を地上へと降臨させていたアルデスが、ドランのゴーレムに憑依する形で顕現した為、この瞬間を境にこの次元のアルデス教徒達に対して笑い声が聞こえて、度肝を抜かせているのだが、アルデスもドランも知らぬ事であった。
『うむ、流石にお前も加減をしているようだな。今のおれ達はこれならそうだな、お前の故郷がゴブリン共に襲われた時と同程度といった所か。それ位の方が地上の者達の相手をするにはちょうど良いかな? ぬははははははは!』
ドランがアルデスとクロノメイズをゴーレムに憑依させる形で召喚しているが、当然ながらアルデス達には枷を課している。
アルデス自身が口にしたように、アルデスとクロノメイズの身体能力と神として扱える権能はゴブリン軍との戦いと同程度だ。
単に身体能力と言う点で見れば、覚醒超人種であるクリスティーナの方が勝る位である。
「お前を何かしらの形で関与させないと、後で何か文句の一つも言われてしまいそうだからな。
それにクリスティーナさんやドラミナが、お前と刃を交わす事で腕前を上げたように、ハルトもお前との戦いで大きく成長するだろう。彼は成長が楽しみな青年だからな」
『おう、おれも同意見よ。別次元の世界から連れて来られたようだが、中々数奇な人生を送って来たようではないか。ここで骨を埋める覚悟を固めているように見えるが、ま、
脳どころか魂までもが筋肉で出来ている、とまことしやかに囁かれるアルデスだが、最高位の神としての洞察力は確かに備えており、加えて数多の英雄や戦士達を招いた経験から、ハルトの魂の最奥を見抜いていた。
「ああ、随分と昔に召喚されたらしいな。おもちゃにする為に召喚されたのか、実験材料として召喚されたのかは知らぬが、今は幸せのようだから私達が掘り返すような話ではないがね」
『まあな。男の過去を掘り返して楽しむ趣味はないわな! ぬっはっはっはっはっは!!
にしてもクロノメイズよ、お主、先程から随分と静かにしておるが、どうした。お主の心酔するドランに呼ばれたのだから、騒がしくするかと思ったぞ』
これはドランも意見を同じくする所で、先程から微動だにしないゴーレムの中のクロノメイズを、アルデスとドランは揃って見つめる。
ドランとアルデスという、後ろ暗いものを持つ邪神の類だったら、戦う前に諦めに心を満たされて自ら滅びる事を選ぶ面子の視線に、クロノメイズはようやく反応らしい反応を見せた。
『ドラゴン様、ああ、ドラゴン様!』
クロノメイズの返答もまたアルデス同様思念によるものだったが、それまでの無言から唐突に大声を出すものだから、ドランとアルデスはおや、と少しだけ驚いた。
『愚かしくもこのクロノメイズ、御身が火の精霊王を召喚あそばした時には何故我が身を呼んでは下さらぬのかと苦悶と嫉妬の炎で己を焼いておりました。
ああ、であるというのに、塵芥に等しい我が身の過ぎたる願いを汲んで下さったかの如く、かような場に我をお呼び下さるとは! ドラゴン様、我が唯一無二の主様!!』
世界の隅々にまで響き渡れと言わんばかりに怒涛の勢いで言い放ち、全身から歓喜の波動を放出しているクロノメイズの様子に、アルデスが馬鹿笑いを零した。
『ぬははははは、なんだなんだ、ドランよ! お主は随分と好かれたものだな。
神々がお主を畏怖畏敬する事は珍しくもなんともないが、この時の女神のように心底から惚れこみ、崇めるとなれば流石に珍事よ』
「私もこうなるとは思わなかったよ。たまたま彼女から神器を与えられた者と戦っただけなのにな」
『これも女心という奴か? いや違うか? まあいいか、ぬっはっはっは』
アルデスは無関心にも似た鷹揚で大笑いし、手の中の槍を軽くしごいてから頭上でぶんぶんと緩やかに振り回す。
器であるゴーレムの作りと動き、反応を確認する為で、ほんのわずかな動きだけでアルデスには十分把握できた。
アルデスの我慢が限界に近いと悟ったのはドランだけでなく、クロノメイズも同じであり、剣を握る手に力を込めて、全身から凄まじい闘志と気迫を漲らせている。
『さあドラゴン様、どうぞこの卑しき下僕にお命じください。御身の頭上に勝利の栄冠を輝かせよと! 哀れなる小さき人の子らに敗者の号を与えよと!』
ここまで私の事を崇敬しているのは、レニーアとクロノメイズ位だな、そうドランは胸の内で零してから竜爪剣を軽く握り直し、こちらと相対したまま微動だに出来ずにいたハルト達へと改めて視線を向け直す。
ドランの母親譲りの青い瞳を向けられたハルト達は、静かに、深く、息を吐いた。彼らは今に至るまで呼吸はおろか、心臓が脈打つ事さえ忘れていたのではないかと思うほどの緊張を強いられていたのである。
ドランがゴーレムを即興で作成し、それにアルデス達を憑依させて他者には分からぬお喋りに興じている間、ハルト達がその隙を突いて攻めかからなかった事を非難する者は、試合会場に只の一人もいなかった。
武人や戦士、魔法使いや商人、貴族の区別なく、誰もがアルデスを見た瞬間から理解していた。
格が違う、桁が違う、住む世界が違う……圧倒的強者に対し、弱者が悲嘆と共に口にする言葉は数あるが、その全てを並べ立てた所でまるで足りないほどに、アレは違うと思い知らされたのである。
ガロア魔法学院のドランはいったい何を召喚した? 彼は、いったい誰をゴーレムに憑依させた?
ただそこに立ち、召喚主であるドランと何かしらの意思疎通を図っている無防備極まりない姿にも、思い出したように長槍を振り回していた姿にも、何時でも何処でも隙はあった。
だがハルトもバルホースもキリシャナも一歩を踏み出す事さえ出来なかった。
平凡非凡の区別なく理解させるアルデスの規格外さが、次の瞬間にはあの長槍で突き殺される自分達の姿を無数に思い描かせて、肉体と魂の全てが戦慄していたのである。
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第百二十四話
クロノメイズは決して神格が高いとは言えないが、それでも正真正銘の時の女神である。
ドランが即興で作ったゴーレムの器に収まり、神としての権能に大幅な制限が課せられていようとも、地上世界の存在に早々後れをとるものではない。
修羅刃の二つ名で恐れられた凶手バルホースの揮う殺戮技巧の数々を、クロノメイズは加速した時間の中でそのひとつひとつをつぶさに見ている。
傍から見れば残像すら網膜に映せぬバルホースの斬撃の数々も、時間の経過速度を拡張したクロノメイズには、余裕を持って対処できる速さへと成り下がる。
この地上世界の物体に作用出来る最小の時間すら操作できるクロノメイズにとっては、文字通り速さなど意味を成さないのである。
加えてクロノメイズが見ていたのはバルホースの斬撃ばかりではなく、時の女神の瞳はバルホースがこれから取り得る未来の行動の数々も見通し、現在に加えて未来の行動までも把握している。
いかにバルホースが達人の中の達人とはいえ、異なる時間に属する上に未来の行動を完全に予測され、しかもそれらに対処できる身体能力を完全に使いこなすクロノメイズが相手では、どれだけの相手の虚を突く秘技の数々を繰り出そうとも通じるものではなかった。
殺気のみの虚ろの刃、闘気で作りだした半透明の刃、そして手にしている自分自身でもある魔剣で秒間百を越す虚実入り混じる刃を全方位から放つも、クロノメイズはその全てを剣と盾で受けきり、バルホースの放った斬撃が合計五百を越えてもなお、時の女神に傷が付く事はなかった。
そしてクロノメイズとて攻撃を受けるばかりではなく、当然ながら反撃を行っている。
つい先ほど二度もドランから制止された事もあり、クロノメイズは攻撃のみならず自分以外に対して時間操作の奇跡を行使する事を固く禁じている。
バルホースが時間間隔を狂わされる事はないが、その代わりにクロノメイズは自身の肉体の部分毎に異なる時間の流れを作り、バルホースを惑わせていた。
例えばクロノメイズの右腕と振るわれる剣の時間速度が異なれば、右腕の動きから読み取れる斬撃の到達速度と実際の斬撃の到達速度の間に齟齬が生じ、避けられた筈の斬撃をその身に受ける事となる。
早々にクロノメイズのズレを理解したバルホースの洞察力は、人並み外れて鋭敏なものであったが、クロノメイズを攻略する一手を繰り出すまでには至らない。
何しろ相手は真性の女神である。クリスティーナのように霊格の高さから神通力によって奇跡を起こすにしても、クロノメイズが相手ではいくらなんでも神通力を通す事は至難を極める。
むしろバルホースがクロノメイズの時の奇跡を行使しながらの攻撃を受けて、未だに致命傷の一つも受けていない事をこそ称賛すべきであろうか。
『参ったね、こりゃ。どうも催眠やら暗示やらじゃなしに、本当に時間がずれているじゃぁねえか。催眠なら自力で解きゃいいんだから、どうとでもなるが、こりゃどうしたもんか』
ちょうど六百回目の右袈裟の振り下ろしを弾かれて、バルホースはクロノメイズから七歩の距離を取る。
愚痴るバルホースに対し、クロノメイズは自然体のまま右の剣をだらりと下げて、悠然と佇む。
ドランを相手にすると忠犬の見本のような姿になるクロノメイズだが、ドランの前で無ければ女神に相応しい威厳と風格を纏うのだった。
『血塗れの刃よ、生きながらにして修羅道を行き、ついには魔性の剣となりし者よ。
そなたの口は諦めに似た言葉を吐く。しかしそなたの目は言葉が偽りであると告げる輝きを放っている。我が眼に映りしは諦めを踏破して我に挑むそなたの勇姿である』
もし生前に出会うきっかけがあり、自身の信徒となっていたなら惜しみなく神器を与えていた事だろう、とクロノメイズはバルホースには伝わらぬ称賛を胸に、偉大なる主の敵となった男へと一歩を踏出した。
それはバルホースがクロノメイズへと旋風と化して斬りかかる、千分の一秒前の踏み込みであり、それによってバルホースは見事に機先を制せられる形となる。
予備動作を見抜かれての先読みでも、これまでの戦闘からの推測でも無い。未来視による完全なる奇襲にして、大仰に言えば未来改変であった。
『ちっ、やりづれえ!』
自身の行動を完全に把握されている、と事ここに至れば認める他なく、バルホースの口からは取り繕う気など欠片も無い罵声が零れでる。
だが、ああ、バルホースよ。お前の口元には自らの刃が届かぬ敵と出会えた事への悔しさと、それ以上の喜びが形作る笑みが浮かんでいる。
さあ、残された時間は短いが存分に時の女神との刃による逢瀬を楽しむがいい、血と死に塗れた魔剣よ。
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第百二十五話
「そこまで! 競魔祭決勝戦先鋒戦、勝者はガロア魔法学院のドラン選手!」
ハルトのジャッジメントリングが起動した直後、メルルから試合終了が告げられて、私とハルトの試合は終わりを迎えた。
ハルトが顕現させたバルホースとキリシャナなる者達を降したアルデスとクロノメイズ達が、幾許かの名残惜しさを感じさせながら私に念話で話しかけて来た。
『このまま見学するだけで終わりかと思っていたが、最後に良い戦いが出来た。礼を言うぞ、ドランよ。ま、もう少しハルトと槍を交わしてみたかったというのが本音だがな、ぬっはっは!』
からからと気持ちよく笑うアルデスに、私は小さく笑い返した。自分を偽る事を知らぬこの戦神の言動は、時折迷惑ではあるが大体において気持ちの良いものが多い。
「お前が多少は節度を弁えてくれていて良かったとつくづく思うよ。もっと弁えてくれれば言う事はないが、それは高望みだろうな」
『おうよ、流石はドランよ。長い付き合いだけにおれの事をよく分かっておるわ』
アルデスは基本的に満足しているようで、後で不平不満が出てくる事はないだろう。その代わりと言うわけではあるまいが、クロノメイズはいささか、いや大いに私に対して申し訳なさそうに縮こまっている。
まず間違いなく戦闘を開始する前に、私に二度制止された事を気に病んでの事であろう。
ヴァジェほどではないにせよ、そこまで落ち込まなくて良いとつくづく思わずにはいられない。
「なにやら気に病んでいるようだが、君がとても張り切ってくれた事は理解しているし、私の為と思っての事であったとも承知している。多少やり過ぎだったが、未遂で終わった事だ。あまり自分を責めるものではないぞ」
実際には多少どころではなかったが、それを正直に口にしてはますますクロノメイズが自身を責め立てる燃料となってしまうから、私はある程度言葉を選んで、落ち込む時の女神へと話しかけた。
『寛大なるお言葉、この身に沁み入るようでございます。我が神器を与えし人間が御身に刃を向けた罪をお許しくださり、今また我自らが御手を煩わせてしまった事までをもお許しになると申される貴方様の慈悲に、矮小なる我が身はどのようにして報いれば良いのか……』
「そこまで大仰に物事を考えんでくれ。私に対して過剰に気を遣い過ぎているのと、卑屈な態度を取るのを少し和らげてくれるのが最も私の意に沿う事なのだが、その様子ではそれこそが最も困難な望みであるようだな」
『天に座すいかなる神よりも強大にして巨大なる貴方様に対し、無限の敬意を抱くは必定にござります。しかしながら御身がそうお望みであらせられるのでしたなら、卑しい下僕である我が身は出来る限りの事を致します』
ふむ、結局変わっていないような、と思っているとアルデスも同意らしく長槍を持ったまま器用に肩を竦めて、私と視線を交わした。
『長い目で見てやる事だな。ドランよ、お主は唯一無二の始祖竜の心臓にして、望む望まぬに関わらず、良くも悪くもこの世の頂きに立ってしまう者よ。
そのお主を見上げる者らがどのような態度を取っても、それを粛々と受け止めるのもまた頂点に立つ者の度量の見せ所ではないかな。
お主が君臨者にこれっぽっちも向いておらんのは、おれもケイオスもマイラールも、そしてお前の兄弟も認める所だろう。そういう意味ではお主は不運よな』
「どうにもそういった振る舞いは苦手な性格なのだが、仕方の無い事か。さて、アルデス、クロノメイズ、見物料代わりに手を借りたが、お陰で随分と助けられた。礼を言わせて貰いたい、ありがとう」
『よせよせ、先程も言ったがおれの方こそお主に礼を言いたい所よ。それにこういう事ならおれの方から頼みたいくらいだわ。ぬはははは』
『我が望みは貴方様の望み。何時如何なる時でもドラゴン様のお役に立つ事が我の至上の喜びにございます。感謝のお言葉は身に余る光栄にござります』
両者はそれだけ言うとゴーレムの中からそれぞれが元いた場所へと戻り、私は空になったゴーレムを元の素材へと還元して、試合会場へと戻す作業を行った。
私の一撃を受けて敗北の決まったハルトが、舞台の上に転がっていたバルホースとキリシャナを拾い上げて鞘に納めてから、つくづく敵わないといった調子で、どこか晴々と私に話しかけて来たのは、その直後である。
「参った、参った。もう少しまともに戦えるかと思っていたけれど、想像以上に君はとんでもなく強いな。バルとキリシャナ達も終始敵せずって感じだったし、数を増やして挑もうとしたのが裏目に出たよ」
私はハルトと同じように長剣を鞘に納め、全力を尽くしても敵わなかった事の悔しさと晴れ晴れしさが半々ずつと言ったハルトの顔を見返す。
短い間だが刃を交わして感じていたが、黄金と銀の瞳を持つ少年は、アルデスが気に入りそうな気持ちの良い心根のようだ。
「ゴーレムへの憑依召喚は、あまりおいそれと出来るものではありませんが、一種のお祭りですし多少の無茶はしました」
無論、魔力の消費などの事ではなく神々を召喚した事だが、事の詳細を話す必要はないし、アルデス達を召喚したのは数を揃える事やアルデスから後で文句が来るのを予防する為だったりハルトを鍛えさせる為だったりと、色々と思惑があった上での私なりの茶目っ気みたいなものだ。
改めて考えてみると茶目っ気で神を召喚するとは、我ながらやり過ぎたかなと少し思うけれども……
とはいえ今後戦いの場が巡って来たとしても、今回のようにアルデス達を召喚する事は滅多にはあるまい。
アルデスはハルトやその剣達を気に入ったみたいだから、この後でヴァルキリー達を派遣するか何かしらの形でちょっかいを掛けるようにはなるかもしれんが、ハルトにとって悪い様にはならんだろう。
「少し位は君に手の内を明かさせたと思っておく事にするよ。しかし、今年のガロアは君以外もとんでもないからなあ、他の魔法学院の関係者からしたらとんだ厄年だ」
苦い笑いを浮かべながら告げるハルトに、私はどんな答えを返せばよいのやら。取り敢えず黙秘したまま肩を並べ、照覧席の王子方に一礼してから口を開いた。
「来年はクリスティーナさん、フェニアさん、それに私が抜けますからマシになると思いますよ」
「君はまだ二年だろう? ああ、エクスみたいに飛び級で卒業するのか?」
「ええ。学生生活は一年限りです。今後は職探しに勤(いそ)しむ予定です」
「なら競魔祭でこれだけ暴れたんだから、あちこちから引っ張りだこになるな。就職先はいくらでも選べるぜ。なんならリンネスに来るか?」
「お誘いはありたいのですが、なるべく故郷からは離れたくないのです。そういうハルトさんはリンネス侯爵家に変わらずお仕えになるので? それとも婿入りですかね」
私の指摘を受けたハルトは、ほんのわずかな付き合いの時間で人間関係を見抜かれた事に驚いているのか、少し目を泳がせた。
リンネス侯爵家は長男のベルドが継ぐだろうし、妹君を嫁に貰うついでに爵位を得るか、妹君にハルトが婿入りするかだろう。
お互いの将来についてそれから少しばかり言葉を交わしてから、私とハルトは別れて、雰囲気が全く異なった物になっている待機場所へと戻っていった。
観客達は私とハルトの熱戦に浮かれて、拍手や喝采、声援を惜しまずにいてくれるが、ハルト達の方はと言えばこれから待つ私達との戦いに、どことなく沈んだ様子である。
私が言うな、と万人に指摘されてしまいそうだが、我がガロア魔法学院の今年の面子は揃いも揃って頭一つ二つも飛び抜けた傑物揃い。
競魔祭の歴史上、二番目を大きく離して最強の戦闘能力を有していると言っても、誰も異論を挟むまい。
そしてなんだかもう負けが決定したような雰囲気が蔓延しているジエル魔法学院の選手達と、我がガロア魔法学院の残る四選手達の試合が順々に進められていった。
ふむ、なんだろうな、ジエル魔法学院の皆にとっては可哀想な事になるような予感がするが、それ以上に彼らにとって劇的な成長の糧となってくれるのを祈ろう。そう言えば、私の場合、一体誰に祈れば良いのだろう?
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第百二十六話
生徒達の戦闘能力を計る競魔祭の決勝戦が終わった後には、出場選手達を慰労する為の祝宴が催される。
祝宴には魔法学院の生徒であれば対抗試合の出場者でなくとも出席できるのだが、残念ながら使い魔の出席は認められていない為、セリナとドラミナは用意された部屋に残ってもらう事になる。
使い魔の大部分がセリナやドラミナのような亜人や人型の魔物ではないから、残念ではあるものの仕方が無い。
二人を部屋に残して行く事に申し訳なさを感じるが、事前に知っていた事もあってか、セリナとドラミナは傍目にはそれほど気にしている様子は無い。
私が見る限りにおいても本当に気にしてはいないようだから、あまり私が恐縮してはかえってセリナ達に悪いだろう。
魔法学院の制服に袖を通し、社交界や儀礼的な場に出る際の規定に沿って、やや大仰な装飾が施された校章を勲章のように胸に着け、沁み一つない白手袋をはめる。左肩から右腰には、青地に金の縁取りのされた帯をかける。
制服の下に着込むシャツも、今回のような式典用の特別上質なものだ。替えを含めて二枚しかない。襟がいささかきつく感じられるが、せき込むほどではない。
セリナとドラミナは私の着替えを手伝ってくれていて、私がされるがままになっていると、とても楽しそうに私を着せかえている。
セリナ達は私の着てゆく服は予め用意されているものになるが、校章やネクタイピン、カフスボタンなど小物の留め方一つにもこだわりを見せ、そこまで気にしなくてもと私が思う位熱心にああでもない、こうでもない、と激論を交わしている。
学生服での出席は生徒達全員の義務なので、クリスティーナさんやレニーア達も学生服姿なのだが、彼女らもこのように限られた中で出来得る限りのお洒落をしているのだろうか?
「はい、これで大丈夫ですよ、ドランさん。うん、どこから見ても素敵な殿方です!」
私のネクタイを締めるのに長い時間を掛けていたセリナは、満面の笑みと共に惚れ惚れとした視線を私に向けてくれる。服装に細かい違いがあるだけで、ほとんど普段と変わらない筈なのだが、その細かい違いが大切なのだろう。
こういった経験が多く、審美眼にも優れているだろうドラミナも、セリナと同意見のようで、うんうんと頷いてくれているのだが、贔屓目に見られている感があるから少し心配だ。
「ええ、お伴できないのが本当に残念でなりませんが、他の使い魔の方々も主人の傍を離れて我慢しているのですから、私とセリナさんはニクスやフランちゃんと一緒に愛しい御主人様のお帰りを待っておりますから。ね、セリナさん」
フランちゃんというのは、フェニアさんの使い魔である雌のフレイムコカトリスの名前である。
本来コカトリスは嘴や爪に石化能力を持つが、フレイムコカトリスは石化能力の代わりに火を吐く力を持った亜種で、背中に五、六人を乗せて走り回れる巨鳥だ。
フェニアさんとの相性は抜群に良く、言葉を交わすまでも無く意思疎通が出来るほどで、フランと共に戦場に出ればお互いの力を高め合い、競魔祭の決勝戦を上回る火炎地獄をこの世に作り出す事だろう。
フラン自身の気質は温厚で、私達にも良く懐いてくれていて、使い魔化の恩恵で簡単な人語なら介する知能も持っている。
とはいえフランの事はこの場で長々と語るべき事でも無い。ドラミナの言い分に対して、セリナは異論は全く無いらしく
「はい、ドラミナさん。ドランさんに置いて行かれてとっても寂しいですけれど、置いてけぼりにされた者同士、肩を寄せ合って寂しさを紛らわせましょう」
そう言うやセリナはドラミナと言葉通りに肩を寄せ合い、よよよ、と顔を隠して泣く真似をする。
冗談だと分かってはいるのだが、どうにも二人に悲しむふりをされると、私は途端に弱ってしまう。ふうむ、どうも既に二人のお尻に敷かれてしまっているぞ、これは。ま、敷かれ甲斐のあるお尻だから構わんが。
「二人ともあまり私をいじめないでくれ。二人に拗ねられては、私に打つ手は無いな」
降参の意思を示す為に両手をあげる私に、セリナとドラミナはお互いの顔を見合わせてくすりと笑う。どうやら私をいじめるのはここまで、とお互いの意思を確認したらしい。
ほっと心の中で安堵の息を吐いたと知られたら、今のアレキサンダーでも何と情けないと怒り狂って噛みついてきそうだな。
「ふふ、流石のドランも女人の扱いには手を拱(こまね)くようですね。あなたはただ一言、申してくだされば良かったのです。ね、セリナさん」
「ええ、でも何でもかんでもドランさんがお見通しってわけでないのは、それはそれで少し安心できましたけれどね。
ドランさん、ただ私達の所に帰ってくると言ってくだされば良いのです。ドランさんの帰ってくる場所は私達の所だって」
そういうものか、と思ったがこれは口に出さぬが賢明か。私は、私なりのおまけも付けて素直に二人の答えに従う事にした。セリナ、ドラミナの二人を抱き寄せて正面から抱擁を交わして、求められていた言葉を告げる。
「少しだけ離れるが、用を済ませたらすぐに帰ってくるよ。だからそれまで待っていてくれ」
たっぷりと抱擁を交わした成果か、セリナとドラミナは顔を喜色に染めて頷き返してくれた。セリナとドラミナと離ればなれになる以上は、せっかくの祝宴だがあまり長引かない事を祈る他ないか。
祝宴が開かれるのは王都魔法学院本校舎にある大ホールだ。
各魔法学院関係者はもちろん、給仕役の使用人達や場に華を添える楽団の人間などもいる為、数百もの人間で溢れかえる事となる。
祝宴への出席はそう格式ばったものではなく、各々が開かれている間に足を向ければよい。
歴代の代表選手達の中でも特に仲が良いと評判の私達は、全員で一緒に大ホールへ向かう事を約束している。
妖精の像が捧げ持った光精石のランプで、小さな闇の蟠りも許さず照らされた廊下を歩いていると、大ホールに繋がる大扉の前に私以外の面々が顔を揃えているのが見えた。
「遅くなってしまったようで申し訳ない」
フェニアさんやクリスティーナさん、ネルに限らずファティマ、イリナも一緒に居て、全員が私同様に儀礼用の装飾を施した魔法学院制服姿である。
フェニアさんと談笑していたクリスティーナさんが、私の方を見て少し珍しげな表情を作ってこう言った。
「気にしなくて良いよ、私達もここに来たばかりだからね。にしても君が一人きりと言うのは珍しく感じるな。いつもセリナかドラミナさんが一緒にいるのを見慣れているからか」
「恥ずかしながら寂しがりな性分でね。いつも誰かが傍に居てくれないと落ち着かないのさ」
これは私の正直な告白である。前世の頃から私は孤独と言う奴がひと際苦手だ。紛れもなく孤独と寂寥こそが私の天敵であり、最悪の毒であろう。
そういう自覚はかねてよりある為、恥じることなく言う私の頭のてっぺんから足のつま先まで見て、フェニアさんがばさりと真紅に染まった紅蓮孔雀の羽根扇を広げながら言う。
「相変わらず正直な方ですわね。にしてもその儀礼装飾の制服、なかなか似合っておいでですわよ。どこの社交界に出しても恥ずかしくありませんわ」
「フェニアさんにそのように言ってもらえるのなら、何の心配も要らないな。正直、笑われはしないかと不安を少し覚えていたから」
「そのような心配をしなくて良いと、このフェニアが保証致しますわ。それに万が一にも私のお友達を笑うような無礼者がいたなら、家名を賭けて決闘を挑むのも吝かではありませんわ」
なんら恥じることなく堂々と宣言するフェニアさんだが、大貴族の令嬢がそのように軽々しく決闘などと口にされると、却ってこちらの心臓に悪い。
しかも私とドラミナがガロアの総督府に呼び出しを食らった時には、クリスティーナさんやネル相手にいざとなったら総督府に殴り込むのも辞さない、と宣言した事を聞かされているからなおさらだ。
無論、その意気込みとお友達と言ってもらえる事はとても嬉しい。だがそれはそれ、これはこれと言わねばなるまい。
かといってフェニアさんを窘められるのは、この場では妾腹とはいえ格上の貴族であるクリスティーナさんだが、フェニアさんに同意らしくうんうんと頷いている始末である。
この二人が全力を出したら、予め何日の何時に乗りこみますよと宣言して万全の態勢で待ち構えている総督府の軍勢全てを相手にしても蹴散らせるだろう。
友達想いなのは嬉しいのだが、クリスティーナさんには自身の立場を思い出してフェニアさんを窘めるなり諌めるなりして欲しかった。
多分、フェニアさんが決闘を挑んだら私達の為に怒りながら同じように決闘に挑むだろう。ネルもその性分からして嬉々として協力しそうである。
「大丈夫。私達なら他の四校全てを相手にしても勝てる」
思った通りの事をネルが言ったが、私の予想を越えて規模が大きくなっている。
生徒個人の決闘どころか学院規模での抗争をネルは想定しているらしい。少々血の気が多すぎやしないか、お嬢さん?
「ドランの心配は~そんなに気にしなくていいと思うよ~。学院長達だけじゃなくって~、宮廷魔法使いの高位の導師様達とか、偉い方々もいらっしゃるから~揉め事を起こそうなんて人はいないよぉ」
ふにゃっと柔らかに笑うファティマにそう言われると、これが人徳と言うものか、なるほどそんな気もしてくる。
魔法学院は通う者の間に貴賎を問わないという綱紀があるが、各学院の長の前でそれを破る真似をする者は、いくらなんでも滅多にはいないか。
するならよほどの馬鹿か、あるいは問題児扱いされてもまるで問題ない身分なり事情のある者だろう。前者はいるかもしれんが、まあ後者はおるまい。
改めてこの場にいる友人達を見てみると、私同様に校章と装飾付きの帯を身に着けていて、いつも魔法学院で見ている姿よりも華やかである。
ただ、長身と見事な肢体を誇るクリスティーナさんの男子学生服姿は、非常に絵になる姿だが、平時はともかくこういう場では女子生徒の服装をしてもいいと思う。
というか一度くらいは見てみたいものだ、というのが私の本音でもあった。
対抗試合の時に男子制服姿というのは、クリスティーナさんの戦い方を考えれば無理のないものだが、こういう場くらいでは、と考えるのは私ばかりではあるまい。とりあえず素直に聞いてみる事にした。これが私の持ち味である。
「クリスティーナさん、その男子生徒の制服姿も魅力的だが、こういう時に女子生徒の制服を着なくて問題にはならないのかい?」
「いや、恥ずかしながら女性らしい服装に私は慣れていなくてね。今の父に拾われるまではなにかと物騒だったから、男の振りをしていたんだよ。
その名残でどうにも女性らしい服装は肌に合わないし、それに規則には触れていないから叱責は受けないだろう。眉を顰められはするかもしれないが、その時はその時だ。それに競魔祭でも男子生徒の制服で出場していたしね」
私の指摘にクリスティーナさんはきょろきょろ視線を彷徨わせて、気不味そうな調子に変わる。話を聞くに小さい頃の習慣によっていまも女性らしい服装には抵抗があるらしいが、なんともはや勿体ない。
これだけの美人が着飾れば、精神が石木の境地に至った聖職者も忘我しように。というか本当に美を司る神の眷属神に招かれるか、逆に嫉妬を買ってしまいそうなほどの美貌なのだ。
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第百二十七話
アークウィッチの称号を持つメルルの口から飛び出て来た言葉は、本人の意図する所と違って、色々と不足している上に言葉の選択を誤ったものであった。
メルルの人格など知らないクリスティーナやイリナは、王国最強の魔法使いが学友に突如として発した告白の言葉に、目をぱちくりとさせる。
一方でまだ口の中で羊肉と鶏肉と魚肉をもぐもぐしていたレニーアは、見る目のある見上げた女がまた一人、と崇敬する父の魅力を見抜いた女が増えたと喜んでいた。
レニーアの見た所、メルルはより高い次元へと進化していない人間としては、ほぼ最高の霊格と魔力を有している。
クリスティーナと比較した場合、霊格ではクリスティーナが勝るが、魂の産み出す魔力量に限ればメルルの方が圧倒的に勝る。質は低いが量で勝ると言うわけだ。
ドランに近しい者達の中でメルルに勝てるとしたら、自分と龍吉、ドラミナ位だろう、とかなりの高評価を与えている。
レニーアやクリスティーナ達がこのような反応を示している一方、ドランの進路について興味津々であった周囲の貴族や大商人達はと言えば、メルルの発言に心中穏やかとは行かなかった。
競魔祭で示したドランの戦闘能力は非凡極まりないもので、派手さや見た目の分かりやすさではネルとフェニアに一歩譲るが、それでもまず魔法生徒達の中で最強である事、また宮廷魔法使い達と比較してもメルルに次ぐと考えている者がほとんどだ。
それほどの力を持ったドランを手元におけるとなれば、王家に反旗を翻すだとかそこまで大それた事を考える者はいまいが、有事において優位に働く可能性は大きい。
後ろ盾となっているオリヴィエ経由でエンテの森か、学友であるフェニアやネルネシアの家に引き抜かれる可能性を考慮し、迅速な声掛けを考えていた彼らにとって、メルルの行動は予想外のものであった。
ましてや、私と付き合って下さい、と交際を申し込む内容であったから、メルルの事をよく知らない者達ほど衝撃は大きく、思考の空白は長いものとなる。
彼らの脳裏に思い浮かんだ可能性は、まず宮廷魔法使いに属するメルルが宮廷に引き込む為に声を掛けた、というもの。
これが成功すればアークレスト王家は魔法戦力に於いて、元からメルルが属している事もあるが、その他の貴族を遥かに突き離す事に成功するだろう。
次に王国史上最高の魔法使いであるメルルが、次代の最有望株であるドランを有望な子種の持ち主として見込み、更に強大な力を持った魔法使いを生もうとしている、というもの。
単純にメルルがドランに惚れた、と考える者も極少数ながら居たが、メルルに特に親しいか彼女の性格を知悉している者達は更に二通りの答えを導き出した。
婚期を急ぐあまりに思わず自分に近しい力を持ち、魔法使いとして劣等感を抱き難く、離縁される見込みの少ないドランに一縷の望みを託して声を掛けた、というもの。
そしてもう一つは、自分と同じ領域の相手が長い事不在で、持てる力を全く振るえずにいたメルルが、それを発揮させられる相手としてドランに期待して声をかけたのだが、無残な対人交渉能力しか持たないメルルが口を滑らせた、という正解である。
その正解を知っているハーメルは、おおふ、やっちゃったよ、メルちゃ~~ん、とある意味期待を裏切らない親友に呆れながら、今自分が何を言ったか理解させる為にそっと耳打ちした。
ハーメルに耳打ちされてからのメルルの百面相は、実に見物であったと、興味深くメルルとドランのやり取りを見守っていたスペリオンは、後に周囲に漏らしていたと言う。
*
ふむ、大魔女殿の様子と口にした言葉から察すると、年の離れた少年に告白した成人女性という構図になるが、競魔祭で私に向けられていた視線から考えると、そのような事になるとは考え難い。
真に受けるのは控えた方が良かろう。周囲もかすかにざわめきを発してはいるが、どう対応すべきか分からず混乱している方が多い。しかし、王国最強の大魔女という割には、競魔祭での解説の時といい、どこか抜けた印象を受けるな。
事態を動かしたのはメルルの傍にくっついていたハーメルだった。道化師らしい化粧を落としたハーメルは、少しだけ慌てた様子で、しかし口元には堪え切れない笑みを浮かべてメルルに何かを耳打ちする。
やはり、メルルが焦りか緊張のせいで間違った事を口走ったのかな? ハーメルの耳打ちを聞いたメルルは、顔色を青くしたり白くしたり赤くしたりと忙しい事この上ない。
「あ、や、ああああ、あのちち、違うのドラン君! あのね、君に私と交際して欲しいとか、結婚して欲しいとか、そういうわけじゃないのよ、あのあのあのあの私はね、きき、君、君の実力が凄かったからいち、一度だけね、私と手合わせしよ? ね!?」
まあ、そんな所だろう。競魔祭で向けられていた視線の成分を考えれば、色恋沙汰などという要素が入り込む要素は皆無だ。
その事実にレニーアはなんだ、この身の程を知らぬ女はと先程とは正反対の顔になり、不機嫌そうに小鹿のローストを骨ごと噛み砕いて咀嚼し、嚥下する。大皿に盛られていた二十本ほどの骨付きローストはすぐに無くなってしまった。
クリスティーナさんも明らかにほっとした顔になって、左手の開いている皿に魚のムニエルを次から次へと盛り始める。ついでに片手で器用にワインやウィスキー、ブランデーの栓を開けて、空の瓶を大量に生産する用意を整えていた。ほどほどにね。
私とメルルが注目を集めているから良いが、イリナなどはこの二人の暴飲暴食ぶりに目を丸くしている。あそこまで食べて太りもしないのだから、あの二人の体質は世の女性から嫉妬されてしかるべきだろう。
メルルの私への用件が政治色は薄いが、ある意味では同じ位に問題のある内容であった事に、周囲の人々の注目はさらに増す。
王国最強の魔法使いが、第二のアークウィッチとなり得るかと期待された新人に、自ら声をかけて試合を申し込んでいるのだから、色めき立つのも当然だろう。
それに周辺諸国への武力的牽制となっているメルルがもし私に敗れたとなれば、アークレスト王国は第二の生きた戦略級兵器を手にする事となる。
ふうむ、下手にメルルに勝つのも問題か。とりあえずこの場では注目を集め過ぎる。せめて場所を変える努力くらいは試みよう。
「お申し出は確かに承りました。私は長く王都に滞在できませんが、場所や時間は既にある程度お決めになられているのですか? 憚りながら私は王都へ滅多に来られるものではありませんから、多少、時間を頂けると助かるのですが」
「あ、ああ、そうだよね、ごめんね! いきなり話しかけられてこんな事言われたら困るよね。
ええっとね、ええっとね、私は今すぐでも良いんだけれど、そうだね、ドラン君の都合があるもんね。私の我儘だからたくさんお礼はするけれど……」
ふむん、いきあたりばったりで、無計画なのか?
「失礼ながらメルル様程の方となりますと、試合をするのにも十分な安全対策を施された場所を確保する必要があるかと思いますが、そのような場所はおありですか?」
「あ、それは大丈夫だよ! こういう時用の特別な場所があるから、そこでなら私が全力を出しても大丈夫だから。それに私なら何時でも使って良いって、許可も前から取ってあるしね」
メルルは子供のように明るい笑顔を浮かべると、とても自慢げに告げて来る。酒が入っているわけではないだろうが、それにしても感情の浮き沈みが激しい。緊張で少し情緒不安定になっているのかな?
「なるほど何時でも使える場所があると言うのは、メルル様ならではというべきなのでしょうね。
場所の問題が解決しているのでしたら、私は早めに試合をさせていただければ幸いです。この後すぐでしたら、一番歓迎出来る時間ですね」
流石にこの後すぐは無いだろうな、とは思うが正直な所を口にすると、メルルが示した反応は私の予想と違うものだった。瞳の中に星が生まれたみたいにキラキラと輝かせて、ずいっと顔をこちらに近づけて来る。
「いいの!? じゃじゃじゃじゃ、じゃあすぐに行こう。私はドラン君と手合わせが出来るのなら、何時だって大歓迎だよ!」
あ、良いんだ。私としてもありがたい事だが誰かれ構わず見学されては、まず間違いなく困った事になるだろうし、ある程度は私の方から条件を付けさせてもらおう。
まずメルルは私と試合が出来るのなら、大概の条件を受け入れるだろう。それにメルルに世界の広さを教える意味では、私以外に彼女に勝てる面子を連れて行く選択肢もある。
「あ、でも競魔祭での疲れとかは大丈夫かな? ちゃんと疲労は抜けている? 魔力は、見た限り戻っているみたいだけれど」
「ご心配なく。万全の調子を維持しておりますよ。ただ着替えをする為と使い魔達に事情を説明したく思いますので、一度部屋に戻ってもよろしいでしょうか。
それに私とメルル様の手合わせとなれば、多くの方々が興味を抱かれる事でしょうが、メルル様もあまり晒したくない手の内もありましょうし、私としても衆目の目に晒されるのは競魔祭で十分堪能しました。
可能であれば見学を希望される方がいるとしても、出来る限り選んで頂きたいのです。
それこそ私とメルル様、双方の使い魔やお互いに選んだ相手だけ、などです。本来、私がこのようにメルル様に意見を述べる事など許されない事は重々承知しておりますが、どうか寛大な御心でお聞き届けくださいませ」
何しろ相手は王国開闢以来の大魔法使いである。いくら期待の新人であろうが、平民の私が生意気な口を利いて良い相手では決してない。実力でどれだけ勝ろうとも礼節をないがしろにして良い道理はあるまい。
私が頭を下げようとすると、メルルは大慌てで私の肩を押し留めて首をぶんぶんと左右に振る。あまり貴族としての振る舞いや習わしについて頓着しない方と聞いていたが、どうも本当らしい。
「あわわ、頭を下げないで! いいよいいよ、私の思慮が全然足りてなかったのが良く分かったから! ドラン君の言う事はもっともだもん。
じゃ、じゃあね、見学していいのは私とドラン君が良いと考えた相手だけにしよっか。それに、ドラン君」
それまでの慌てた様子を消し去り、メルルは欲しかったおもちゃを前にした子供のような稚気と、息をする事さえ出来なくなるような威圧感を併せた笑みを浮かべる。
「なんでしょうか?」
「ドラン君、私に手の内を晒させるつもりなんだね。そこまで出来る自信があるって、思っていいよね?」
「ええ。心行くまでご満足いただけるかと思います」
「うふふふ、本当? 嬉しいなあ、本気を出せるのなんて何時以来だろう」
こんな笑みを浮かべるか。やはりこの方が胸の内に溜めこんだ鬱憤と不満を、一度吐き出させてあげないとまずそうだな。お礼はすると言ってくれているし、我が国の将来の為にも一肌脱ごう、ふむ。
「じゃあ、じゃあね、時間と場所は……」
そうしてメルルに場所と時間を告げられて、私は頷き返す。面倒事は後回しにしないで早めに片付けるに限る。
「ええ、確かに承りました。では改めて確認させていただきますが、私とメルル様の手合わせは内容に関しては他言無用、見学を希望する方が居ても私達が許可した場合のみ、それも出来る限り数を絞る、という事でよろしいですか?」
他の魔法学院の代表選手達や、王国上層部に私とメルルの試合を見学させるのも一つの手ではあったろうが、いかんせんメルルが国防上最重要人物にも匹敵する立場だから、そうなると色々と気にして戦わなければならなくなる。
メルルの代わりをやらされる羽目になったら、色々としがらみが絡みついてくるだろうし、私の望みに沿わない展開になるだけか。
「うん! うん! ありがとうね、ドラン君。君にそう言ってもらえて本当に良かった。ごめんね、お友達と話している所に、急にこんな話を持ってきて。その分、埋め合わせはするからね。うう、今から楽しみだなあ、わっひょい!」
メルルは競魔祭の時に耳にした珍奇な歓喜の叫びを上げ、周囲から奇異と憐みの視線を一身に集め、弾むような足取りで私に背を向けて離れていった。
傍に居たハーメルが、普段とは逆にメルルに振り回される形でその後を追って行くのを、私は生暖かい視線で見送る。
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第百二十八話
私の目の前でメルルの掲げたディストールに急激な変化が生じた。
これが命懸けの戦いの最中であったら、変化の終わりを待たずに攻撃を仕掛ける所だが、私にとってはメルルに本気を出させ、死力を尽くしたと満足させる為の手合わせである。
だからこそ私は黙ってメルルの切り札が開陳されるのを待つ。とはいえメルルも魔装形態へ移行する際に攻撃を受ける事を想定した守りを敷いていて、彼女の周囲には白みがかった半透明の球体状防御結界が、百層あまり展開されている。
外部から加えられる物理的衝撃や魔力の干渉を反射する結界の他に、吸収・軽減する結界や精神干渉に対する防御もなされており、私やレニーア、全力のドラミナでなければ手出しできないほどの堅牢性だ。核爆発位ならどうってことはあるまい。
竜眼で仔細に観察して見れば、ディストールは無数の粒子へと分解されて、メルルのローブ越しに纏わり着いて全身にピタリと張り付く衣服へと形状を変えている。
大きく膨らんだ両肩や、膝と肘からそれぞれの指先までを黒い宝玉の埋め込まれた純白の装甲が覆って、首元から腹部と腰回りを蛇腹状の装甲が守っている。
メルルの額には兎の耳のような突起のある額飾りが輝き、真っ赤なロングマフラーと腰と背中の装甲から伸びる白いローブの裾が、風にはためく。
ふむ、ディストールを構成していた億単位の金属粒子の使い魔に命じ、メルルの全身を守り、強化する魔装鎧あるいは魔装服とでも呼ぶべき装備へと変化させたようだ。
金属粒子の配置が変化した事でメルル自身の魔力によって稼働し、魔力を生産する目に見えないほど小さな魔力炉と増幅装置が無数に組み立てられて、先程までよりも増した魔力が生じている。
ディストールが変化した魔装服が内包する魔力炉は、見た所、一度メルルの魔力を起爆剤として稼働すれば、魔力炉同士の連結によって半永久的に魔力を生みだし続ける半永久機関だ。
メルルは魂、肉体、精神の生産する魔力量が常人とは文字通り桁違いに莫大であったが、ディストールが完全魔装形態に移行する事で、更に無数の魔力を生み出す手段を得た事になる。
金属粒子それ自体に再生と学習機能が付加されているようで、ある程度同じ攻撃を受けると自動で学習して高い耐性を獲得し、次の攻撃からは著しく効果を減少させる特性付きか。
それに素粒子単位で付与魔法による強化も施されているか。単純な物理防御の面から見ても、この惑星の技術水準では傷一つ付けるのも至難だろう。
それに装着者であるメルルの身体機能の大幅強化に加え、ディストールとメルルを一つの世界として完成させる事で、外部からのあらゆる干渉を退ける機能を備えている上に、新陳代謝を完全に制御し、装着中は一切の食事、睡眠、排泄行為を不要としている。
メルルの精神的疲労を考慮しなければだが、ディストールを装着している間、老いる事も餓える事も眠る事も無く、永遠に戦い続けられるわけだ。
ふうむ、両肩の膨らんだ装甲に内蔵しているのは、縮退炉か? 重力魔法を得手とする者なら、まあ、造れなくはなかろうが現状の技術水準と工作精度でよくも建造出来たものだ。
銀河にまで進出していた天人が繁栄していた超古代文明期ならまだしも、現在の地上は恒星間航行や惑星間航行どころか、大陸間の航行がようやくだと言うのにメルルだけが数百年は先を行っていると言っても過言ではないぞ。
ディストールにはまだまだ仕掛けが施されていそうだが、よくぞこんな代物を作り上げたと称賛したい所だった。
ディストールの変形そのものは百分の一秒と掛らずに終わり、メルルは両手を甲殻類のように分厚く覆う白い手甲を打ち合わせて、私に対して至福と飢餓の入り混じった笑みを向けて来た。
戦えば戦うほど、どんどんと嬉しそうな笑みを浮かべてくるな。喜んでもらえているようで何よりだが、これは夜更けどころか夜明けまでかかるかもしれん。
「お待たせ、ドラン君。これが私の切り札だよ。私の技術の粋を尽くして作成したディストールの機能でね。私自身を守り、強化する服に変化するの。系統としては魔装鎧が近いけれど、こちらは服だから魔装服になるかな?
誰かに見せる機会は来ないんじゃないかって思っていたけれど、ドラン君のお陰で陽の目を見る事が出来たよ。あ、今は夜だけどね」
「陽の目を見ずに埋もれてしまうには惜しい品ですが、それが戦争になど使われなければ最善かと存じます」
悲しいかな、最初は誰かの役に立つ為として造り出された発明品が、巡り巡って他者をより効率よく殺傷する為の兵器へと形を変えた例は、古今あり余るほどにある。
もしメルルがディストールに使っている技術の極一端でも開示すれば、そこからさして時間を置かずに世の人々が多様な兵器や新しい技術を作り出して、屍の山を築くだろう事は想像に難くない。
その事を暗に突く私の言葉に、私との手合わせが始まってから明るい色しか浮かんでいなかったメルルの顔に、初めて暗い色が浮かぶ。
彼女自身、ディストールを作成している時に、その考えが幾度となく思い浮かんでそれなりに悩んだのだと、一目で分かる顔色であった。
「うん、そう、そうだね。これを使えばたくさんの人を凄く簡単に殺せちゃうから、とても怖いものなんだよ。本当はこんなものはない方が良いのかもしれないけれど。
でも私はディストールを作った。私の持っている技術や知識で、どこまで行けるのかどうしても試さずにはいられなかった。私を軽蔑していいから……」
「技術者、探究者と呼ばれる人種の如何(いかん)ともしがたい性(さが)ですか。ディストールとその技術の扱いに関しては、メルル様の良識に委ねる他ないようですね」
とはいえ実際にメルルが正気を失い、先程の惑星を撃ち抜く魔法を連発して穴だらけにしようとしても、剣のように振り回して惑星を輪切りにしようとしても、それを即座に感知した龍吉を含む三竜帝三龍皇や、霊獣魔獣の長、支配するべき世界を壊されては困る海魔や空魔などの悪しき者達までもが邪魔をして目的は果たせまい。
そういう意味ではメルルは見識が狭いと言える。
見識を世界にまで広める機会が無かったから、と言われればそれまでだが今回の手合わせで上には上がいると伝えるか。
「うん、そう、なっちゃうのかな。ああ、だからかな。だから私はドラン君に私を負かせて欲しいのかも。こんな力を持った私よりも強い人がいるって、私が何か間違えたら止められる人がいるって、そう安心したいんだ、私は。あはは、無責任だね」
ことここに至り、私に対する執着がただ全力を揮う事だけではなかったと悟ったメルルは、自らを嘲る乾いた笑みを浮かべ、意気消沈とした様子へと変わるが、ふうむ、メルルは自らの持つ力に対してあまりに良識的であり、あまりに普通の人間としての精神性を有していた事で、ここまでこじれたと見える。
単にメルルの全力を受け止めれば良いと思っていたが、思いの外メルルの心の深い所と直面する事になったな。ここはあまり深刻には捉えず、正面から受け止めてあげるべきか。
「そうご自分をお責めになられずとも良いと思いますよ。メルル様はこれまでご自分を止められる者と出会えなかったようですが、世界が広いと言う事をこれから嫌というほど教えて差し上げます。
貴女の全力でどうにかなるほど、この世界は狭くも無ければ脆くもありませんよ。さあ、全力で掛っておいでなさい。私には貴女がそうしなければならない程度の力がありますよ」
切っ掛けは私の言葉だったが、余計な事をうだうだと考えずに、全力を出して掛ってこい、要するにそう告げる私に、メルルは消沈した表情を一瞬、今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの顔に変え、それから心底嬉しそうな笑みを浮かべ直し、改めて闘志をむき出しにする。
意識を切り替えて自分の持てる力と技術を全て私にぶつける気になったか。憂さ晴らしの相手位になるのは、吝かではない。
「ふふ、そうだね。余計な事まで君に話して気まずくさせる必要はないものね。じゃあ、行くよ、ドラン君。私の本気、私の全力、私の全部!」
「出し惜しみなどする余裕はありません。全てを出し尽くされよ」
さあ、掛って来なさい。叩き潰してあげるから。
「おおおりゃあああ!!」
十分に気合の乗った咆哮と共にメルルが私を目がけて、虚空を駆け出す。メルルの細い足を覆う脚部から小さな雷光が生じ、磁場に影響を与えて凄まじい加速を見せる。
一瞬にして私とメルルの距離は詰められ、メルルが大きく振りかぶった右拳が容赦なく私へと振り下ろされる。
手甲には衝突した瞬間に質量を増大させる魔法の他、ありとあらゆる属性の魔力を直接対象の体内に叩き込み、内部から破壊し尽くす術式が刻まれている。
注目すべきはそれ以外に相手が反射系統の防御手段を持っていた場合を考慮し、跳ね返ってきた魔力を再吸収し、自身に還元させる術式さえも編み込まれている事か。
また反射でなく吸収であった場合には、相手の術式や魔力に接触した瞬間に、メルルの魔力が炸裂するようにも仕込まれている。対反射・吸収術式を処置済みの攻撃とは、何とも芸の細かい。
「凝り性な方だ」
称賛の思いを込めて呟き、私は振り下ろされた右拳に竜爪剣を合わせて弾き返す。周囲へと暴風の如き魔力が吹き荒れて、私の黒髪を大きくかき乱して頬を打つ。
メルルは更に左、右と両腕を休むことなく動かして、私へと体力切れの一切ない連続攻撃を繰り出してくる。
私は竜眼と竜種のそれへと変化させた肉体でなければ到底捌ききれない連撃を、竜爪剣一本で弾き返す作業を繰り返した。
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第百二十九話
メルルがよいしょ、と一声かけて立ち上がり、ディストールを元の杖の形態に戻すのを待ってから、私は静かに問いかけた。
「ご満足いただけましたか?」
「うん、とっても! ドラン君のお陰でまた明日から楽しく生きていけそうだよ。ドラミナさんもレニーアちゃんも、それにそちらのゴーレムさんもありがとうございました」
名前を呼んだ順番にぺこりと頭を下げて行くメルルに対し、レニーアはふん、と荒い鼻息を一つ零して胸を反らす。レニーアが私自慢をする時によくやる態度だ。
「王国の者共に真の最強が誰かを知らしめる事が出来ないのは残念だが、これでお前なんぞが最強などとおこがましいとよく分かっただろう」
「ものすごくよく分かったよ。ああ、世界には私なんかよりも強い人がまだまだいるんだろうな。そのことを実感できて本当に良かった、良かったなあ」
普通ならレニーアの横柄な物言いに腹の一つ位は立てても良い所なのだが、メルルはそれ以上に自身の念願が叶った事の喜びが勝り、まるで気にしていない。
他人の目がある所ではレニーアを窘めなければならないが、メルル本人が喜んでいるのならそれでいいかな。
メルルがにこにこと笑ってドラミナとレニーアにしきりに礼を言っている間、オルディンが私に礼を告げてきた。
『ドラゴンよ、今宵の事でメルルは迷いが晴れて更なる精進を積み重ね、知の探求と魔導の真髄を極めんとするであろう。それこそ我が望み、我が喜び、我が教えなれば、古き友よ。重ねて礼を言う』
「私の為にもなる事だったのだから、構わんさ。アルデスやクロノメイズ、それにマイラールの事ばかりを贔屓している実感もあるし、他の者達とも旧交を温めねばならんと思っていた所でもある。渡りに船という奴だったよ」
『ふっ、生まれ変わってもその性根はあまり変わっておらぬか。いや、良い所はそのままに、悪かった所が良い方向へと向きを変えたな。
おお、そう言えばドラゴンよ、贔屓というか汝の前世の古馴染みについてだが、冥界のハーデスの奴は汝が一向に訪ねて来ぬ事に拗ねておるらしいと、天使達が噂しておったぞ。ヒュプノスかタナトス辺りがその内、汝の所に顔を出すかもしれん。
無間や閻魔達はそう気にはしておらぬようだが、彼らの中では冥界の管理だけをすればよいハーデスはいささか暇を持て余してもいるだろうしな』
「ハーデスがか? 彼は出来た男だから拗ねるとは意外だが、だが確かに彼の所に顔を出すのも良いかもしれん。閻魔君やむっちゃんの顔を見て回るのも悪くないな」
むっちゃんとは冥界三貴神の一柱、魂の循環を司る無間の事である。
『ハーデスのような真面目な男ほど、らしからぬ事をした時は面倒な事になろう。ただでさえ末の妹とカラヴィスめの所為で、汝の周囲は騒がしい。面倒の上に面倒が重ならぬ内に手を打つ事を、勧めるぞ』
うへえ、という正直な気持ちが顔に出ていたのか、オルディンは少しばかり笑ったようだった。
アレキサンダーはバハムートやリヴァイアサンが止めてくれるが、カラヴィスばかりはどうしようもないからなあ。
まあ、あれで最近は随分と丸くなったし、昔に比べればかなり接しやすくはなったか。
「助言、痛み入る。そうだな、カラヴィスはともかくアレキサンダーの方は、竜界に分身でも常駐させておいた方が良いかもしれん」
『そうするのがよかろう。ではまたいずれ天上かこの地上でか、顔を会わせようぞ』
ああ、今度はもっと穏やかな状況でな、そう告げて私はゴーレムの中からオルディンが抜けだして、天界の彼の領域へと戻って行くのを見届けた。
抜け殻となったゴーレムを分解した頃には、メルルとレニーア達の話は終わっていたが、メルルはゴーレムの中身が居なくなった事をひどく残念がる。
「あれ~? ゴーレムの中の人はもう帰っちゃったの?」
「ええ、あまり長居してよい立場の御仁ではありませぬので、早々にお帰りになりましたよ」
「そっかあ、もっと指導して貰いたかっただけどな、でも仕方ないか。ねえ、ドラン君、ハルト君との決勝でやったのと同じで、多分高次存在に至った人かひょっとしたら神性の眷属をゴーレムに憑依させていたの?」
「そんな所です。これでも敬虔な方でして」
敬虔といっても神々への信心が篤いわけではなく、友という関係ではあるが、まあ、嘘ではなかろう。
「う~ん、やっぱりか。凄いなあ、神々の眷属を降臨させて憑依させるなんて、大神官様でもないと満足にできない事だよ。
ドラン君の場合は身体能力や魔力は人並みに抑えて憑依させているから、まだ難易度はそう高くは無いかもしれないけれど、あれだけの技量のある方々が普通の眷属とは考え難いし……ドラン君は宮廷だけじゃなくって、各教団からも目を付けられそうだね。
王都に来る前にオルディン様やジャレイド様達五柱の大神方に誓約をしたっていうし、色んな方面から注目されるね」
ドラミナを合法的にガロアへ連れて行く為には仕方の無い事であったが、やはりそうなるか。
私の神々との付き合いは、この地上の法王や教皇、聖人と呼ばれている者達よりもはるかに深く、そして気軽なものだ。どうしたって神頼みの事案となると、普通ではあり得ない事になってしまうのだ。
天上の神々ばかりでなく、今はこうして王国最強の大魔法使いとも縁を結ぶ事になったし、十六歳になってからの私の人生は凄まじい波乱万丈に見舞われているな、とついしみじみと考えてしまう。
「良い事ばかりではなさそうなのが考えものですが、それもまた人生における刺激と受け止めて善処いたしますよ」
「ほえ、優等生な答えだね。ちょっと面白みが無いかな? 男の子なら一国一城の主を目指すぐらいの事を言うかと思った」
「故郷の統治を任されるか、それに深く関われる立場になりたいとは思っていますから、一応一国一城の主を目指しているとは言えるかと思います」
「そっかそっか、ドラン君ばかりじゃなくってドラミナさんがいるなら、正直二人だけで王国どころか周辺諸国の全戦力を相手にしても勝てちゃうからなあ、ベルン村の扱いに関しては慎重にするように進言しないとかな。そうだ、ドラン君。一つだけどうか聞いて欲しいお願いがあるの」
両手を合わせて私を上目づかいで見上げるメルルは、私との手合わせを願い出て来た時と比べると、随分と遠慮が無くなったように感じられる。
人見知りをされる方だと思っていたが、あれだけ素の自分を晒せば下手に取り繕うなどという考えは消えて無くなるものなのかもしれない。
「おや、まだ戦い足りませんでしたかな?」
「ううん、そうじゃなくって、私を、私をドラン君の弟子にしてください!」
お願いします、と深く腰を折って頭を下げるメルルに、私はきっぱりと答えた。
「お断りします」
「ありがとう、これからよろし……え、だめ?」
「それは駄目でしょう。王国最強の魔法使いを、魔法学院に入学したばかりの生徒が弟子にするなど、前代未聞にも程がありましょう。それにもしそうしたなら、私としては歓迎すべからざる事態が津波のように押し寄せて来るのが、目に見えていますので」
「うう、それはそうだけれど、でも私が師事できそうなのが、周りにはさっきのゴーレムの中身の方か、ドラン君くらいしかいないし……」
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第百三十話
直に顔を合わせるのは実に久しぶりの事となるその神は、混沌を司る原初の大神ケイオス。
カラヴィスの双子の弟神にしてマイラールと並ぶ天敵でもある神だ。人間を始めとした地上の生物の創造に深く関わり、可能性を与えた大神として広く信仰されている。
私が虚空へと向けて声を掛けてから一拍の間を置き、部屋の外にケイオスが写し身を降ろす気配が生じる。
それから扉が開いて、王国で一般的に見られる白いシャツと紺のズボンというありふれた衣装に袖を通したケイオスが顔を覗かせた。
端正な顔立ちがはにかんでいるのは、アレキサンダーとカラヴィスの後で決まりが悪いからかもしれない。
「すまないな、ドラゴン。よもやカラヴィスと君の妹が揃って顔を合わせていたとは知らず、二の足を踏んでしまった」
実質的な天界の最高存在とは思い難い謙虚な姿勢は、相変わらずだ。場合によって敵対しなければならない存在に対し、レニーアは緊張を隠せずに険しい表情を浮かべていた。
自分とケイオスとの間に存在する埋め難い力の差を理解したか。ふむ、前世で最後にあった時より更に強くなっているな。カラヴィスが正面きっての戦いを避けるだけはある。
私は抱き寄せていたセリナとドラミナの身体を放してベッドから立ち上がり、ケイオスと向かいあう。
「セリナ、ドラミナ、君達の事はマイラールからもよく聞かされている。私はケイオス。ドラゴンの古い友だ」
見た目の雰囲気を裏切らず柔和な表情と声で話しかけるケイオスに、セリナとドラミナは落ち着いた様子で立ち上がり挨拶を返す。
ケイオスが気を遣って、神性としての存在感を完全に抑え込んでくれているのと、セリナ達の神々に対する慣れがここまでの落ち着きを与えたのだろう。
「偉大なる神々の中でも特に偉大とされるケイオス様にお会いできて、とても光栄です。改めて名乗らせていただきます、セリナと申します」
「御身の前にこの身を晒せる事を光栄に存じます。混沌の神よ、ドラミナにございます。また我が身の誓約をお聞き届けくださいました件につきましては、感謝の言葉もありません」
セリナは朴訥と、ドラミナは優雅に挨拶を返し、ケイオスは口元に涼やかな微笑みを浮かべる。たったそれだけの事で混沌の神には様々な事が分かったらしい。
「ああ、やはりマイラールの言っていた通り、よい女人方だ。あなた達が傍にいるのなら、ドラゴンが前世のような真似をする事はないだろう。まず安心した」
ケイオスには前世での私の死因がお見通しであったらしい。なに、人間に生まれ変わった今となっては、孤独や寂寥などは縁遠いものとなったさ。
「セリナ達を褒めてくれてありがとう。心配症も相変わらずか。今回はきちんと天寿を全うするよ。その為には万全を期すさ」
「ふふ、そうである事を願っているよ、ドラゴン。その為に必要な事があったら、いくらでも手を貸そう。事情は既にマイラールから聞いている。
オルディン老やジャレイド、ハーデスや、君と友誼を結んでいた他の者達もおおよその所は把握している」
ふむ、どうやら私が転生の呪いに縛られている事は、既に天界に居る神々をはじめとした旧知の者達には知れ渡っているらしい。
幸い、この場でケイオスは助力を約束してくれたが、さて実際に助力を請うのは何時の事になるのやら。
「さて挨拶の言葉が先になったが、競魔祭の優勝おめでとう。アルデスとクロノメイズを召喚したあたりは、流石に相手が可哀想になったが順当な結果になったと言えるだろう。
君達と戦った子らは途方も無く不運であったとも、あるいは滅多にない経験を積む幸運に恵まれたとも言えるが、彼らからすれば不運だと声を大にして言うかもしれないな」
「私もいささかやり過ぎたと反省しているよ。ハルトがアルデスに目を付けられる切っ掛けにもなっただろうし、ひょっとしたアシュナラスも一枚噛むかもしれんしな」
「あの剣に宿っていた巫女にとっては、信奉する神と出会えるかもしれないのだから、良い結果になる事だろう。
さて、私がこうして姿を見せた大きな理由は、古き友に寿(ことほ)ぎの言葉を送るのと、どうしても会っておかねばならぬ者がいたからだが、レニーア」
当然と言えば当然の流れで、ケイオスはレニーアをまっすぐに見つめる。レニーアはケイオスの事を敬愛すべき叔父と考えるか、母と敵対する忌まわしき敵と考えるべきかで悩んでいたが、今も結論は出ておらず固い態度を取っている。
場合によってはすぐさま戦闘に入れる状態だが、私が見るにケイオスに戦う意思は無い。
「我が姉にして天敵、破壊と忘却を司りし大邪神カラヴィスの愛娘たる君を、私はどう扱うべきかひどく迷った。君は神造魔獣の中でも格別の力を持つ恐るべき存在だが、同時に我が友たるドラゴンの系譜に連なるもの。
ゆえにドラゴンが転生し、その傍に君が居る事を知ってからは、その行動に注目していた。果たして君は討つべき邪悪か否か、それを見定める為に」
「なるほど、ですがそれは私も同じ事。果たして貴方は叔父様と呼ぶべき御方か、それとも我が母の敵なる者か、貴方を含む神々が天空から試合を見ていた時から、ずっと悩み続けておりました。
結局答えは出ませんでしたが、それはケイオス神、貴方が私をどう捉えるかによって決める事としました。
我が創造主たるカラヴィスの弟神にして最も偉大なる神の一柱、混沌神ケイオス、どうかお答えください。貴方にとって私は如何なる存在なりや?」
カラヴィスとアレキサンダーが居た時とはまるで違う重苦しい雰囲気が立ち込め始めた事に、セリナとドラミナが緊張の面持ちで口を閉ざし、ケイオスの答えを待つ。
私達にとって最悪の事態は、ケイオスがレニーアを討つべき邪悪と見定めて、排除しようと全力を費やす決断を下す事だが……
「うむ、あの姉の創造物とは思えぬ位に思慮があるな。すまないとは思ったが、君が生まれてから今日に至るまでの行いも、アースラーリアや時の神を通じて見させてもらった」
「アースラーリア、お母さんが信仰している女神か。私に隠す事はありません。見たいと望まれるのなら、好きなだけ見られればよろしい」
「潔いな。ますますカラヴィスが親とは思えん。やはりドラゴンの因子による影響が、君の人格形成に大きく関わっているようだ。結論から言えば、君の魂は確かに邪悪なる相を持ち合わせているが、同時に慈愛の心も確かに持ち合わせている。
特にドラゴンと再会して以降はそれが顕著だ。今生の父母に対しても表にはなかなか出て来ないが、深い愛情を抱いているね?」
ケイオスの質問に対し、レニーアは少し前だったら素直に認められなかったかもしれないが、父母への感情を語る事を躊躇わなかった。
「はい、愛しています。最初はあの二人が居た事で、私がこうしてお父様とお会いでき、お父様と呼ぶ事が出来た事の感謝の念を抱いているのだと思っていました。
しかし、時を重ね、お父様やセリナ達、そしてイリナと共に過ごしている内に、はっきりと分かりました。私は人間ならぬ魂を持った異物である私を愛し、慈しんでくれた二人をとっくに愛していたのです。
混沌神よ、私には父母が二組います。我が魂の母は大邪神カラヴィス、父は古神竜ドラゴン。そして我が人間の父はジュリウス、母はラナラ。誰に言われようとも私はこの方々を父と慕い、母として愛します」
世界の全てに誇るように告げるレニーアの言葉に、私は何の言葉も口に出来なかった。
思わず目頭が熱くなると、そっとセリナとドラミナが私の肩に手を置いて、私の気持ちが分かるとばかりに、うんうんと頷く。
この時の私の心情を正確に言葉にするのは難しい。惜しむらくはレニーアの人間の御両親に、レニーアの言葉を伝えられなかった事だ。
後でどうにかして伝える術を考えるべきか、いやいや、下手に私が関わろうとはせずにレニーアが自らの意思で父母への愛情を伝えるのを待つべきだろう。
私が感無量の思いで何も言えぬ中、ケイオスは姪の言葉を受けて心から嬉しそうに笑む。
レニーアは意図せずしてケイオスが最も望んでいた答えを口にしたのだ。
「そうか、その答えが聞けたのならば、私の裁定もまた決まった。マイラールと同じく私もまた君が悪しき行いを行わぬ限りにおいて、地上世界におけるその存在を認め祝福しよう。
この地上にはドラゴンもいる事だし、あまり心配はせずに済むと勝手に期待してもいるがね」
そういって頼んだぞ、という視線を送ってくるケイオスに、私は力強く頷き返す。色々と力加減に関しては不安な所ばかりではあるが、今のレニーアならば理由なき殺戮や大規模破壊などはしないだろう。
理由があれば躊躇なく実行するだろうが、こればかりはその時々で対応するしかないな、うん。あまりそういう事態にならない事を祈る……相手が居ないし、期待するだけにしておこう。
「ドラゴン、セリナ、ドラミナ、改めて急な来訪を詫びる。すまなかった。今度はもっと落ち着いた状況で会う事としよう。
そしてレニーア、我が姪よ。君の魂の父母は何もしなくとも勝手に逞しく生きるだろうから何も言わないが、人間としての御両親は大切にしなさい」
ケイオスの口からはっきりと姪と呼ばれた事で、レニーアの全身からこれまでの緊張が抜けて、固く結ばれていた口元に自然と笑みが浮かび上がる。この瞬間、彼女にとってケイオスは敬愛すべき叔父となったのである。
「はい、誓って父ジュリウスと母ラナラを愛し続けます。ケイオス叔父様」
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第百三十一話
レニーアが早朝から両親の下を訪ねていた頃、クリスティーナもまた父であるアルマディア侯爵が滞在している屋敷を訪れていた。
ニクスは今頃王都周辺の空を飛びまわり、様々な雌鳥を相手に恋の歌や踊りを披露しているだろう。不死鳥の癖に下世話な所があるのは、人間社会の垢に塗れたせいかもしれない。
大貴族であるアルマディア侯爵家は王都に広大な屋敷を構えており、本領にある城程ではないにせよ、ほとんどの貴族には夢見る事しか出来ない規模である。
試合の時から変わらずアグルルアの腕輪を装着したクリスティーナは、本来のクリスティーナの顔を知っている衛兵や使用人達を仰天させながら、呼び出しを受けた父の下へと足を進める。
帯剣していたエルスパーダとドラッドノートを預け、屋敷の中を進みながら、クリスティーナは気配を探ってみた。
義母や異母兄弟達も屋敷に居る筈だが、クリスティーナの感知能力では部屋の中は父ドラムの気配しかない。観光かお茶会にでも行っているのだろう。
父の直属の護衛騎士が立つ扉をくぐり、執務室に辿り着いたクリスティーナを、父はいつもと変わらぬ巌(いわお)のような顔立ちで迎える。
燦々と差し込む朝陽を背に受けて立つ父を前に、クリスティーナはかつてとは異なる心持ちで相対する。どこか父に対する遠慮や期待、不安がないまぜになっていた過去と違って今はただ心静かだった。
「父上、お呼びと聞き、まかりこしました」
「御苦労。楽にしてよいぞ」
「はい」
クリスティーナの心境の変化を察してか、かすかにドラムの眼差しが変わる。クリスティーナからしてみると、この父親の事を愛しているとはっきりとは言い難いが、別段嫌ってもいない。
母の死後に拾われて育てて貰った恩義が、最も大きいのが正直な所だ。ドラムから愛情を感じた事は無いし、さほど大切にされた覚えも無い。同時に蔑(ないがし)ろにされた覚えも無い。
かといって妾腹の娘を政略結婚の駒にするだとか、そういった考えがあるわけでもなさそうで、嫌う要素もないのである。かくしてクリスティーナは父との間に明言し難い関係を構築していた。
「それで父上、私をお呼びになられた御用件をお伺いしてもよろしいでしょうか。王都に来られた以上は、兄上と御一緒になされるお仕事があると記憶しておりますが……」
「お前をつれて会議や夜会に出るという話ではない。安心したか?」
どうやらクリスティーナがそういった場に出る事が苦手な事くらいは、把握しているらしい。
からかっているのか、あくまで真面目に言っているのか、クリスティーナには分からなかったが少しは親子らしい会話に思えて、自分がどうやら喜んでいるらしい事は分かった。
父性に餓えていたのかな? と自己分析をしながらクリスティーナは微笑して答える。
「はい。恐れながら人目の多い場は苦手としております」
「うむ。……見覚えの無い腕輪を着けているようだが、姿が変わっているのはそれの所為か?」
そう言えば試合会場で異母兄達が随分と驚いていたな、と今更ながらに思い出し、クリスティーナは腕輪を見せながら答えた。
「学院長からお借りした魔法の腕輪です。身に着けたものの容姿を変える効果があります。
学院長は、私の素顔を王都で晒すのは好ましくないとおっしゃられて、これをお貸し下さいました。私としてもありがたいお話でしたので、お受けした次第です」
「そうか。オリヴィエ殿の判断は正しい。お前の顔を見せてはどんな混乱が生じるか想像もつかん」
「義姉上達は随分と驚いておられたようですが?」
「何かの呪いかと随分騒いでおったがな。今は落ち着いている。それにしても今年はどういう風の吹き回しだ? 目立つ事を避け続けていたお前が、競魔祭に出場するとは、少し驚いた」
この人も驚く事があるのか、とクリスティーナ自身もまた驚きながら答えた。
いつもより父から感じる重圧がはるかに小さいように思える。心構えが違うだけで、相手から受ける印象が随分と違うが、相手に与える印象もまた違っているのだろう。
「見栄を張りたい後輩が出来ました。それにこれまでつれなくしていた相手に、少しは報いようかと思いまして。御迷惑でしたでしょうか?」
「いや、迷惑というわけではない。ただしお前にとっては面倒な事が舞い込んでくるかもしれん。あれだけの力を見せたお前の血を欲する者達からの縁談が持ちかけられるようになるまで、そう時間はかかるまい」
これまではクリスティーナの価値はアルマディア侯爵家の血筋である事だったが、今回の競魔祭での活躍によって、魔法使いとしての血に価値を認めた者達がいるという事だ。
魔法使いとしての素養だけを求めるのなら、クリスティーナが義母と不仲である事を気にせずに求めてくる者達はいるだろう。
父の指摘の正確さは、クリスティーナも認めざるを得ない。
来た縁談を受けるか断るかは父の胸先三寸次第だ。クリスティーナとしては意に沿わないというより、縁談は全て断るつもりなので、いざとなったら家を出奔するつもりでいる。
アルマディア侯爵家には迷惑を掛ける事になるだろうが、クリスティーナにとって自分の人生は自分のものであり、侯爵家の為にあるとは思っていない以上、これは譲れない一線なのだった。
「だがそれよりも、まずお前に渡しておかねばならんものがある」
そう言ってドラムは懐から上質紙に包まれた便箋を取り出して、それをクリスティーナに手渡した。赤い蝋に押された紋章を見て、クリスティーナの柳眉が跳ねる。
それはアークレスト王家の紋であった。となるとこれの差し出し人はアークレスト王家の関係者という事になる。
仕方なしにクリスティーナは書面に目を通した。その間、どうやら面倒臭いという思いが前面に出た顔をしていたらしく、ドラムに軽く窘められる。
「そう嫌そうな顔をするものではない。尊い方の前でそのような顔をしてはならんぞ」
「申し訳ありません。フラウ殿下からのお茶会の招待状ですか」
「例年の事だな。競魔祭に出場した女生徒の中から、数名が殿下主催のお茶会に招かれるわけだが、その内の一人に選ばれたようだな。
名誉な事なのだが、歓迎せざるという内心が透けて見えているぞ、クリスティーナ。それでは不敬も甚だしい」
少しだけ呆れた様子を見せる父に、クリスティーナはしれっとした様子で顔を引き締める。あれほど苦手意識を抱いていた父を前にしてこの態度なのだから、クリスティーナの心境の変化はレニーアに負けず劣らず著しい。
「殿下の前では細心の注意を払います、父上」
「うむ、それなら問題にはなるまい。別の意味で問題になる可能性の方が高いが……」
父の言う別の問題については、いやというほど自覚のあるクリスティーナは、右手で頬を撫でながら苦く笑った。今後一生付き合って行かねばならぬ自分の顔が、苦みを覚えた原因だった。
「殿下に見染められてしまうでしょうか? 専任騎士は既におられたと記憶しておりますが、揉めるような事が無きよう祈ります」
「そうしておきなさい。殿下は幸いな事に聡明であらせられるが、年相応の気まぐれや思い込みの強さもお持ちでいらっしゃる」
なんとも嬉しくない事を教えてくれる父に、クリスティーナは思わずやはり私の事はお嫌いでいらっしゃるのか、と反射的に考えたが事前に情報を教えて貰ったと解釈する事にした。
照覧席にいるフラウしか知らないが、兄の隣にいるフラウは年相応に明るい印象の少女でしかなかった。
王族の娘だからといってさてどう接すれば良いのやら、というのがクリスティーナの本音である。
王女どころから元女王、龍宮国の皇女や水龍皇兼龍宮国国皇、はては大神から古神竜とまで接してきたクリスティーナであるから、自国の王女と会う程度の事では今更緊張はしないが接し方には困る所がある。
「お前を呼んだ用件は以上だが、クリスティーナ」
「はい?」
「競魔祭の優勝、おめでとう」
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第百三十二話
「ディアドラさん、もういいんじゃないでしょうか!」
セリナには珍しい不機嫌な声が私の鼓膜を揺する。レニーアとケイオスの初対面の翌朝、私ことドランはセリナ、ドラミナ、ディアドラと連れだって王都観光に繰り出すべく、宿舎の正面玄関に集まっていた。
私達と同じように王都観光や家族達と会いに行く為に出て行く生徒達で溢れる中、私達はイロモノばかりの面子が揃っている事もあり、注目の的となっている。
「あら、いいじゃない。私は使い魔じゃないばっかりにドランとあまり一緒にいられないんですもの」
さてセリナが何故朝から不機嫌なのかと言えば、玄関で合流したディアドラが私の右腕に自分の左腕を絡みつかせて、ぴったりと密着しているからだった。
黒薔薇の精とはいえ、妖艶にして類稀なる美女の姿をしたディアドラと密着している私には、もげろ、爆ぜろ、不能になれ、などの思念が込められた嫉妬が集中していたりする。
確かに生徒達の見ている中で、このように異性と寄り添う態度を取っているのは好ましくないか。
「そうですけれどもう十分ドランさんとくっついたと思います。それだとドランさんが歩きにくいですし、離れてもいいと思います!」
「ふふ、羨ましいからって声を荒げるものではなくってよ? ドラミナは淑女然として優雅に構えているのだから、見習った方が良いわ」
「そう見えるのは見かけだけですよ、ディアドラさん。こう見えてなんて羨ましいと心の中では、嫉妬の火山が噴火しています」
「それを言ったら私なんて毎日よ。だって貴女達二人はドランと寝食を共にしているんですもの。羨ましくないわけがないでしょう? だからその分も今はこうしてドランとくっついているの」
そういって更に強く腕を絡ませてくるディアドラは満面の笑みを浮かべており、それに反比例してセリナの機嫌は悪くなっていった。
王都観光における私の最初の仕事は、ディアドラを一旦離れさせて、曲がったセリナの臍を治す事から始まるのだった。ふむむん。
ディアドラに腕を絡め取られ、それを見たセリナが臍を曲げ、王都観光へ赴くのに若干手間取った私達であったが、ディアドラが私との触れ合いに満足して腕を解放した事でようやく出発できた。
ベルン村の皆やエンテの森の知人達へのお土産の購入や思い出作り、そして後のベルン村発展に活かす為に王都の街並みを確かめようと王都観光を計画したわけだが、当面の問題をほっこりとした顔のディアドラが指摘してきた。
見事に緩んだ顔である。普段のディアドラの妖艶で落ち着き払った姿しか知らない魔法学院の生徒達が今のディアドラを見たら、あんぐりと口を開くだろう。
「それで私とドラミナは物珍しい位で済むでしょうけれど、セリナはどうするのよ? ガロアならともかくこの王都とやらで、ラミアが通りを出歩いて騒ぎにはならないの?」
王国中から様々な人々が集まる王都であるから、エルフやドワーフ、ランドランナーはもちろん、虫人や獣人、鳥人、蛇人などが無数に見られる。
また虫人や獣人と一口に言っても蟷螂(かまきり)や蜘蛛、甲虫(かぶとむし)に蜂、蜻蛉(とんぼ)、蠍(さそり)、百足、猫、犬、猪、狼、鷹、雀、燕などなど多岐に渡り、またそれらの中でも細かに分かれており、種族の坩堝(るつぼ)と化している。
しかし彼らは皆亜人と呼ばれる種族であって、決して魔物ではないのだ。セリナが魔物たるラミアである以上、堂々と日中に闊歩(かっぽ)するのは好ましくない事態を引き起こすだろう。
「ふっふっふ、ディアドラさん、このセリナ、ありのままの姿ではドランさんと一緒に居られない事態は前々から想定していました。そしてラミアにはそういった時の為の魔法もあるのです」
これ以上ないほど自慢げにセリナは胸を張って笑みを浮かべる。セリナは呑気というか抜けている所がある印象だから、きちんと備えをしていた事がディアドラには意外だったらしく、へえ、という顔をする。
セリナがこういった時の為に習得した魔法について、私とドラミナは協力した側なので、セリナが何をしようとしているかは既に知っていた。
「正直に言うと別にラミアだけが使える魔法ではないので、自慢できるものではないのですが行きます。命の理よ 我が声に従え 我が身を 我が声を 我が肉を 我が骨を 我の思い描く姿に変えよ シェイプシフト!」
セリナが詠唱を終えた瞬間、ワンピースの裾から伸びる大蛇の下半身が光に包まれて、見る間にその形を変えて行く。
偽りの姿を纏う幻影系統の魔法とは異なり、実際に肉体構造そのものを変形させる高等魔法だ。
ラミア達が異種族の集落に潜り込む際に用いて来たという魔法だが、セリナの言葉通りラミア固有の魔法というわけではない。
私と出会った頃のセリナはまだこの魔法を習得していなかったが、魔法学院に入学後の数々の激闘と授業を受けた事からメキメキ魔法使いとしての腕前を上げて、習得するに至った。
そして骨格から変える光が収まった頃には、人間と変わらないしなやかな二本の足を手に入れたセリナがおり、ディアドラはまじまじと滲み一つないセリナの素足を見つめる。
「どうですか、ディアドラさん。これなら問題にはならないでしょう?」
「ええ、見事なものね。これなら騒ぎにはならないでしょう。眼と舌はそのままだけれど、それ位なら平気でしょうし、後は……」
ディアドラの口ぶりからまだ何か問題があるらしい事を察し、セリナが不思議そうに首を傾げる。セリナにして見れば会心の変身であったろうから、まさか失敗があるとは思っていなかっただろう。
「え、どこか変ですか?」
「そうねえ、素足で出歩くのはお勧めできないわね。用意の良いドラミナなら準備してあるでしょうから、これから買いに行く手間はかけなくっていいでしょうけれど」
ある種の信頼を含んだディアドラの視線を受けて、ドラミナはヴェールの奥で小さく首を縦に動かして肯定の意を示す。
「ええ、ガロアで見繕って購入しておいたものがありますよ。さ、セリナさん、こちらをお履きになって」
ディアドラの前でついつい自慢してしまった為に、セリナは失念してしまったが、きちんと準備はしていたのである。ドラミナが虚数空間に仕舞い込んでいた靴と靴下を取り出して、セリナの前に置く。
夏の気配は遠ざかり秋が世界を染め上げている昨今、セリナは襟元や袖に何枚も白いフリルを重ねた淡い緑色のワンピースを着用していて、それに合わせた質の良い革を赤く染めた靴だった。
私は誰に言われるよりも先に屈みこみ、セリナの足を取って靴を履かせ始める。
セリナがシェイプシフトの練習を始めた頃から、セリナに靴を履かせてあげるのは私の役目だった。
しかし、これまでは男子寮の私の部屋で履かせてあげていたから、ドラミナの羨ましいなあ、いいなあ、私にもして欲しいなあ、という視線を浴びるだけで良かったが、正門玄関でするのは軽率であったろうか。
私に素足を取られたセリナは頬を赤く染めている。
周囲から忌避される大きな原因であった大蛇の下半身が人間の素足へと変わったセリナは、誰が見ても否定の言葉が出て来ない類稀なる人間の美少女である。
その美少女であるセリナの足元に屈みこんで素足を遠慮なく触り、靴下と靴を履かせる作業をしているのだから、若い盛りの男子達からは嫉妬されもしよう。
セリナは照れているから、そしてディアドラとドラミナはいいな、いいな、いいな、いいな、と無言で主張している所為で、周囲から私に注がれる視線と感情に気付いていなかったが、うむむむ、やはり部屋でセリナに姿を変えて貰った方が良かったか。
しかしここで怯んでは、喜んでくれているセリナを落胆させてしまう。であるならば、私は甘んじて嫉妬の視線の矢を受ける責務がある。それが男というものだ。
何度も練習した成果で、セリナに靴を履かせる作業は滞りなく終わった。作業には慣れたが、鱗が無く滑らかな肌に変わったセリナの素足にはまだ慣れない所がある。
ついつい必要以上に触れてしまい、ドラミナに何度窘められた事か。セリナは嫌がっていないどころか望んでくれていたが、恋人の前で別の恋人の足に触れている場面など見せるものではないわな。
セリナは支えにしていた私の肩から手を放し、靴の具合を確かめるようにその場で何度か足踏みを繰り返す。
何度もねだった靴を買い与えられた幼子のように喜ぶセリナを、ディアドラとドラミナは可愛い妹を見守る姉のような眼差しを向けている。
実年齢も精神年齢も立場も、まさしくその通りの三者である。ディアドラが奔放な長女で、ドラミナがしっかり者の次女、セリナがぽやっとした所のある三女かな?
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第百三十三話
「いやあ、おれは止めたんだよ? 折角年頃の男女が水入らずで食事しているんだからさ、お邪魔しちゃ悪いって。雰囲気と空気を読みましょうよって。でも若は聞いてくれなくってね。本当に悪いね」
こちらが口を挟む暇も無く喋るのは、リオンと一緒に居た青い髪の青年シャルル。
リオンもシャルルもシャツ、ズボン、スカーフ、ボタン、腰に帯びた剣といい、身に付けている何もかもが、一目でそうと知れる高級品だ。
一応、隠しているという体裁を整えている彼らの素性を考えれば、これでもまだ安い品でまとめた方なのだろう。
自らを騎士の三男坊などと口にしたリオンは、シャルルの弁明に困ったように頬を掻く。
恋人達の逢瀬を邪魔したのは紛れもない事実であり、無粋な真似をしたという自覚はリオンにもあるようだった。
後で呼び出せば私に断る選択肢は無いというのに、まったく、こんな時に声を掛けて来なくてもよいではないか。
「シャルルの言う通りだな。実は今年の競魔祭を観戦する事が出来て、その時に君の活躍を目にしたんだ。
まさか食事をしに来た矢先で出くわすとは何たる幸運かとつい舞い上がってしまい、君らの都合を考えずに声を掛けてしまった。すまなかった」
リオンの言う事を信じるのならば、別に私に監視を付けていたりしたわけではなく、全くの偶然によってここで出くわしたらしい。
嘘を吐いている様子は無いし、つまらぬ嘘を吐く方でもあるまい。ここはそう信じる事にしておこう。
「評価をして頂いた事は感謝しますが、確かに突然ですね。私の自己紹介は必要ないでしょうが、こちらの女性達の紹介は必要でしょう」
あからさまな偽名を名乗る二人にセリナ達の紹介をしようとすると、シャルルは揉み手をせんばかりに嬉しそうな顔になる。
ふむ、軽薄な印象を裏切らぬ態度だが、リオンの傍に付いているのだからそれだけの男ではあるまい。
「おお、それはありがたい。そちらの白いドレスのご婦人は顔が見えないが、他の方々と同じでとびっきりの輝きを持った宝石だってのは間違いないからね。是非、名前だけでも教えて欲しいってもんだ」
振り返ってみるとこういう男性は、私の周りにはこれまで居なかったな。そういう意味では新鮮な方である。
競魔祭の会場にいたセリナ達も、唐突に自分達に声を掛けて来た青年達の正体に気付き、大なり小なり驚きを見せていた。といっても驚いているのはセリナくらいのもので、ディアドラとドラミナはおや、程度の反応だ。
「ではこちらが私の使い魔のセリナ、ヴェールで顔を隠しているのが同じく使い魔のドラミナ。そしてそちらの黒薔薇に彩られているのが、ガロア魔法学院で教鞭を取っているディアドラです」
「使い魔? 確か君の使い魔は、いや、姿を変える魔法か」
リオン達は事前に私の魔法学院での成績などにも目を通していたろうから、私の使い魔がラミアである事を知っていてもおかしくない。
だからこそラミアである筈のセリナが人間としか見えない姿である事に驚いたのだ。もっとも、どうしてそう見えるのかという理由にすぐさま思い至り、説明をする手間は省けたが。
「そういう事です。王都で騒ぎを起こすつもりはありませんでしたから。ところで、リオンさんと行動を共にする事で、王都の騎士団に追いかけ回されるような事になったりはしませんかね?」
リオンがシャルル以外の誰にも言わずに城下を出歩いているとなると、そうなる危険性が極めて大きい。この様子ではお忍びをするのは今回が初めてではないだろうし、騎士団の方も慣れていそうだ。
リオンとシャルルの素性の深い所までは尋ねないが、余計な面倒には巻き込まないで欲しい、と暗に匂わせて釘を刺した私に、リオンは人懐っこい笑みと共に答える。
「それは大丈夫だ。家に戻らず夜を明かしたとなればいささか問題だが、王都を案内する程度の時間なら、騒ぎにはならないよ」
「随分と慣れているように聞こえますが、ひょっとして普段からこのように市井を出歩いておいでなのですか?」
私の指摘を受けて、リオンは誤魔化すように笑う。常習犯か。治める民の暮らしを直に見た事も無く、周囲から教えられた事だけで国政の舵取りをする頭でっかちよりはよいと感じるが……
「普段から甘やかしておられますか?」
「甘やかすほどじゃないが、大目に見る事はあるな」
私から矛を向けられたシャルルは、おどけた仕草で視線を逸らした。どこか後ろめたいものを感じさせるこの仕草……リオンのお忍びに付き合って、おこぼれを貰っているな?
真面目だが柔軟な所のある主と、軽薄だが目端の利く従者か。お互いの短所を補える組み合わせと取り敢えずは言っておこう。
「意外な事を知ってしまいましたが、私が口を挟める問題でもなさそうです。こうして出会ったのも何かしらの奇縁というものでしょう。
それでは御提案に甘えて、お二人に王都の案内をお願いさせていただきたく思います」
セリナ達と水入らずとは行かなくなった事の残念さは果てしないものがあるが、頭上に戴く方の人となりを知る希少な機会である事も事実。
こうなってしまってはその機会を存分に活かすしかあるまい。
「ああ、大船に乗ったつもりで任せて欲しい。それと私の好奇心の所為で君達の楽しみを邪魔してしまったお詫びに、ここの払いは私が持とう」
おや太っ腹。王国の予算と王家の予算は別に分けられていると言うし、リオンの財布に入っているお金はリオンの領地からの税収か、投資先の商会などからの配当金だろう。
おっと、リオンは王家とは何の縁もゆかりも無い騎士の三男坊だったな。
まあ、そういう事情であろうから、リオンの財布が軽くなったとしても国民の血税を浪費させた、というような罪悪感に襲われずに済む。
「そういう事でしたら食後の甘いものでも頼みますかね」
私が遠慮のえの字も無く、品書に目を落とすとセリナも遠慮を忘れる事にしたらしく、半ば八つ当たり気味に次から次へと注文して行く。
「それなら私はこれとこれとこれと……」
「セリナ、あまり食べ過ぎてお腹に余計な肉が付いても知らないわよ。砂糖とバターがたっぷりじゃない。それと折角のお申し出だけれど、私はもう十分よ。お気持ちだけ受け取っておくわ」
「私もディアドラさんと同じくです。ドランとセリナさんがその分頼まれるでしょうし、見ているだけでお腹一杯になれそうです」
ディアドラとドラミナは種としての特徴から追加の注文はしなかったが、私とセリナは遠慮する事無く品書に目を通して次々と注文を重ねて行く。
リオンの言葉に甘えた結果なのだが、まさかここまで遠慮なくかつ大量に注文するとは当のリオンは考えていなかったらしく、軽く目を見開いて苦笑を零す。
「ここまで遠慮がないとむしろ清々しい位だな」
「遠慮をし過ぎるのも非礼かと思いますので」
私達としては折角の逢瀬を邪魔された事を、これでお相子にしたという認識であった。
まあ、確かに王都の観光案内としては破格の相手を期せずして得られたわけなのだが、この縁は果たして良いものとなるか悪しきものとなるか。
それも私達の努力次第だと良いが、はてさて。目の前で財布の中身とにらめっこをしている爽やかな好青年を前に、私は少しだけ悩んだ。
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第百三十四話
周囲を包みこむ光が晴れた時、クリスティーナの体内時計は、瞬き一つにも満たない時間経過を告げていた。
太陽の光が惜しみなく降り注ぐ空中庭園から、継ぎ目一つない灰色の建材に四方を囲まれた空間へと転移させられている。
クリスティーナ達は、周囲の床よりも一段高く、複雑な魔法文字と神秘象徴が刻まれた台座の上に立っている。
空気は乾いていた。精霊達は居るには居るが、居心地は実に悪そうだ。広間の中は、ねっとりと骨まで沁み入って来るような不快な雰囲気に満ちている。
クリスティーナはすぐ傍に居たラディアと蹲っているフラウ、フラウに寄り添っている二人の侍女の姿を確認し、空中都市スラニアの時のようにバラバラに転移させられなかった事にひとまず安堵した。
目の届く範囲にフラウ達がいれば守りやすいし、何処かに囚われたフラウ達を救出する必要がない。
そしてクリスティーナはこの広間に十名ほどの敵がいる事もまた理解していた。クリスティーナが悠然と立ったまま闘志をむき出しにしている姿に、ラディアも自分達を囲む敵の姿に気付いて、眦(まなじり)を険しくする。
空中庭園に侵入してきた者達と同じ紺色の祭祀服を纏った、年齢も種族も性別もばらばらな敵意ある者達が周囲を囲み、揃いも揃って冷酷な瞳でこちらを見ている。
ラディアが突破口を開く為に最も立場が高いと見える者を人質にしようか、と考えた時にフラウと侍女を含む五人全員の体に見えざる負荷が襲い掛かる。
苦痛を伴うものではなかったが、全身から底の抜けた桶のように力が抜けて行き、鍛えに鍛え抜いたラディアですら立つ事さえ覚束(おぼつか)なくなる。
「事前のお伺いもなく、突然お招きいたしました非礼をお詫びいたします、フラウ王女殿下」
クリスティーナ達の身体に襲い掛かった異常事態など無視して、邪教徒達の中で最も複雑な刺繍の施された祭祀服を纏ったエルフが進み出てくる。
茶色い髪を長く伸ばし、首の後ろでまとめた二十代半ばほどの十分に美形と呼べる女だ。
邪竜を崇めて長いのか、あるいはよほど熱心な教徒なのか、その瞳は竜の如く縦に窄(すぼ)まり、わずかに覗き見える素肌には青黒い鱗のような紋様が輝いている。
「貴女達がこのような事をした慮外者なのですか」
何とか立ち上がったフラウは、侍女二人に守られながら、それでも凛とした眼差しでエルフの邪教徒を睨んで見せる。
クリスティーナとラディアは、お互い無言のまま邪教徒達とフラウの間に動いた。ラディアはかろうじて足を動かしている様子だったが、クリスティーナの動きには淀みがない。
「無論、一国の王女を招く以上は相応の目的あっての事。その目的の為には、このようにするのが最善の道でしたので」
そう言って笑うエルフに、フラウはますます険しさを増した視線を向ける。
クリスティーナやラディアもまたそれは同じであった。しかし全身を襲う異様な脱力感は、彼女達から常の鋭敏な動きを奪い去っている。
ラディアはこれでは何かあったとしても、満足に王女殿下の盾にもなれやしない、と悔しさと情けなさから歯を軋らせている。
その一方でフラウは鉄の芯が通っているように背筋を正し、怯む様子を見せずにエルフへ問いかけを重ねた。
「貴女達の目的は何ですか? 何を求めてこのような恐れを知らぬ真似をしたのか、答えなさい」
クリスティーナはこれがつい先ほどまで言葉を交わしていた少女か、とフラウの威厳さえ感じられる態度に感心していた。
これは仕える甲斐のある主君になる、そう認められるほどであった。
「それを殿下にお教えする必要はございませんが、私共の崇高なる目的の為にはどうしてもアークレスト王家が秘蔵しているさる品が必要なのです。殿下にはその為の交渉材料になっていただきたく、無礼を働きました」
建国王は大陸中を駆けまわった冒険者だったと伝わるアークレスト王家には、歴史ある品から由来の定かではない用途不明の品まで、無数の宝物が眠っている。
その中には単なる芸術品としか見えなくとも、その実、途方もない魔力を秘めた神器かあるいは天人や星人の遺産である超科学技術の産物が含まれていてもおかしくは無い。
もしこの自分達の為ならば他者の命を犠牲にする事を厭わぬ邪教徒共にそれらの品が渡れば、この世には理不尽な死と災いが溢れかえるに違いない
フラウには天人や星人に関する詳しい知識は無かったが、それでも直感的に目の前の者達の目的を叶えさせてはならないと理解していた。
「下郎、我が王家を見縊るか。我が父母を、娘の命可愛さに貴様らの悪しき企みを看過するような愚か者と侮ったか!」
小さな体のどこにここまでの気迫と威厳が秘められていたのかと、クリスティーナが心底感嘆する傍らで、エルフの耳がかすかに上下した。
クリスティーナはそれが苛立ちの仕草であると、覚醒超人種の感性から即座に看破する。
「ほほ、これは見事な王女がお育ちになっていた事。何時までそのような口を利けるものか、確かめて差し上げましょう」
苛立ちを押し隠すように小馬鹿にした笑い声を立てるエルフの鼓膜を、クリスティーナの鋭い舌鋒が貫いた。
「悪党どもは、どいつもこいつも似たような事ばかりを口にする」
エルフは、にやりと挑発的に笑むクリスティーナに視線を移し、改めて途方もない美貌の主がこの場に居る事を再確認して、竜によく似た瞳に淫猥な輝きを宿す。
その美貌故にあらぬ災いを招いてしまうのもまた、クリスティーナの厄介な特徴であった。エルフの脳裏の中では、早くもクリスティーナの絶世の美貌が苦痛と快楽に歪む画が出来上がっている。
「生意気な言葉を。貴女はアルマディア家のクリスティーナね? 競魔祭での戦いぶりは私達も拝見させていただいておりましたわ。
しかしその結界の中で貴女に何が出来て? 内部に足を踏み入れた者を弱体化させる『虚脱の環(かん)』。
今の貴女達は普段の百分の一以下の力しか出せないし、魔力や闘気を練り上げる事も不可能。それではどうあがいた所で脱出は不可能……」
「そうでもないさ。ふぅう……はあ!」
クリスティーナは深く息を吸い、虚脱の環によって精神集中の妨害を受けながらも魔力と闘気を強引に練り上げる。
虚脱の環によって精神や肉体に魔力などの流れを妨げる壁が築かれているのを、その壁を突き破るほどの魔力などを瞬時に練り上げて、むりやり押し流そうと試みているのだ。
虚脱の環の術式を解析して解除しようだとか、構成を書き換えて無力化させようといった考えが欠片も無い、ガロア魔法学院の生徒に相応しい力押しの手段であった。
人間よりも高次の存在への階段を昇りつつあるクリスティーナならば、解析や無効化は出来ない事ではなかったが、力づくでぶち破るのが一番手っ取り早いのである。
気合の一声を発するのとほぼ同時に、クリスティーナの全身から銀の炎を思わせる光が溢れ出して、辺り一帯を照らし出す。
それは特別な視力を持たない者でも視認できるまでに高められた、魔力と闘気の混合光だった。
メルルをも驚かせた尋常ならざる密度と質を誇る魔力と闘気に、エルフを含む邪教徒達の本能が一斉に警鐘を鳴らす。ただし、あまりにも遅い警鐘であった。
「ぜあ!」
クリスティーナの唇から剃刀の鋭さを持った吐息が漏れ、その体が虚脱の環から疾風のように飛び出す。
魔法無効化系統の魔法具を携帯するか、事前に対抗魔法を行使しなければ歩く事すらままならなくなる虚脱の環を強引に突破するクリスティーナに、エルフは完全に虚を突かれて目を見開く事しか出来なかった。
「来い、エルスパーダ、ドラッドノート!」
虚脱の環を力づくでぶち破ったクリスティーナが、エルフとの距離を詰める間に王城の衛兵に預けた二振りの愛剣を呼ぶ。
遠隔地にある物体を引き寄せるアポートではなく、超古代文明の対古神竜用決戦兵器であるドラッドノートに備えつけられた、所有者の下へと次元と空間を超越して出現する転移機能を使ったのだ。
クリスティーナの思念を感知したドラッドノートは、いわば先輩であるエルスパーダを伴い、空間の距離を無視して鞘ごと主の両手の中へと出現する。
クリスティーナは召喚した愛剣達の確かな感触と重さを感じ取り、疾走しながら抜剣して何の躊躇いも無くエルスパーダでエルフを斬り捨てた。
エルスパーダのミスリルの刃が触れる寸前、エルフの身を何層もの防御障壁が覆ったが、素手でさえ容易くそれらを貫通するクリスティーナの手に愛剣がある以上、もはや薄紙程度の防御さえ期待できない。
白目を剥いて泡を噴くエルフが冷たい床に倒れ伏すよりも早く、クリスティーナは次々とこの場に居たアビスドーンの邪教徒共へと襲い掛かって行く。
エルフが斬り捨てられた事で、この場に居る邪教徒の残りは九名。クリスティーナによってエルフが倒された事を、まだ認識できずにいる様子だった。
競魔祭の試合とは異なり一切の加減が必要ない事から、クリスティーナの身のこなしは風のように軽やかで稲妻のように速い。
虎人、人間、人間、蜥蜴人、ダークエルフ、ドワーフ、蛙人と七名を瞬く間に斬り伏せた所で、ようやく残る二人が迎撃の態勢を整える。
一人は膨大な筋肉と獣臭、赤茶色の毛皮を祭祀服の内側で膨れ上がらせ、応戦体勢を整える。クリスティーナより頭三つは大きい女の熊人だ。
そして残る一人は、大きな複眼と黒い斑模様の散った茶色い甲皮を持った飛蝗(ばった)人である。
迫り来るクリスティーナに、熊人は両手から伸びる太く鋭い爪を振り下ろし、飛蝗人は大きく膨れ上がり発達した脚部から鞭のようにしなる蹴りを放つ。
熊人の膂力は分厚い全身鎧を着用していようと意味は無く、飛蝗人の脚力に至っては巨岩すら容易く粉状にまで粉砕する。
ましてや彼らは邪竜を崇拝する邪教徒である。生まれ持った身体能力に竜の強靭な身体能力が上乗せされ、同族と真っ向から殴り合っても、無傷で相手を血塗れの肉塊に変えられる。
そして、たかがそんなものがクリスティーナに通じるわけもない。
竜を崇める事で生態を竜に近づける?
銀髪赤眼の超人種を討ち取りたければ竜そのものを、それも相当高位の個体を連れて来なければならないのに、そのお零れに預かる程度の者が一体どうすれば害する事が出来ると言うのか。
振り下ろされた熊人の爪も飛蝗人の蹴りも虚しく空を切り、その直後、銀の閃光としか見えない斬撃が彼らを襲い、脳裏を灼熱させる激痛が意識を闇の底へと沈めた。
他の八名と同じく泡を噴きながら仰向けに倒れる熊人と飛蝗人から視線を外し、クリスティーナは床に落とした鞘と剣帯を拾い上げて腰に巻く。
ドラッドノートとエルスパーダは鞘に納めず、両手に握ったままだ。弛緩しない程度に加減しつつ、警戒の意識は残している。
倒れた邪教徒共に動く気配がないのを確認して、クリスティーナは唖然としているフラウ達に声を掛けた。クリスティーナが虚脱の環を破ってから、十名の邪教徒を片付けるのに五秒と掛っていない。まさに閃光の早業であった。
「殿下、ラディア様、この場の賊共は取り敢えず片付けました。虚脱の環とやらは壊しましたが、お身体に異常はございませんか?」
気遣う響きこそあれ、十名もの邪教徒を瞬く間に斬り伏せたとは思えないあっけらかんとしたクリスティーナに、フラウ達が答えを返すのには数秒の間を必要とした。
「え、ええ、私はなんともありません。ラアシイ、ヘベル、ラディア、貴女達は大丈夫ですか?」
この中で最も肉体的に脆弱なのはフラウで、フラウ自身にもその自覚はあったが、他の者達を気遣う言葉はごく自然と零れ出た。
ラアシイは侍女の内、二十代前半に見える黒髪の肩に掛る程度で切り揃えた、釣り目のダークエルフの方で、ヘベルは十代後半と思しい鳶色のくりくりとした眼が愛らしく、茶色い髪を三つ編みにして垂らした狐人である。
「殿下こそお身体に障りはございませんか? ラアシイ、ヘベル、君達は?」
怜悧な印象を受けるダークエルフは、ラディアからの問いかけに小さく頷き、相棒へ視線と言葉を向ける。
「いえ、なにも問題はございません。ヘベル?」
「はい、私もこの通り元気です!」
ヘベルはアークレスト王国では珍しい、反った片刃の短剣――小太刀を片手にぴょんぴょんとその場で跳ね、次いでにふっくらとした尻尾を左右に振って自分がどれだけ元気であるかを主張する。
フラウは上下に元気良く動くヘベルの三つ編みや狐耳、尻尾を見ている内に、つい笑みを漏らした。
ヘベルが主を少しでも元気づけようとしてわざと道化めいた動きをして見せたのなら、見事目的は果たせた事になる。
「ラディア様、クリスティーナ様、これからどのように動かれますか?」
相方がぴょこぴょこと愛らしい動きで主の心を慰めている間に、ダークエルフの侍女は専任騎士と尋常ならざる力を見せた客人に、今後の方針を尋ねた。
尋ねはしたものの、ラアシイはこの状況で取れる選択肢が限られている事は、重々承知している。
自分達は厳重に守られている王城から、空間転移によって何処とも知れぬ場所に連れて来られたばかり。
最低限の武装はあるし捜索もすぐに行われるだろうが、食糧品や医薬品は無く地の利もまるでない上に、敵地の真っ只中だ。
クリスティーナが想像をはるかに越える戦闘能力の主であり、こうして転移直後の危機を乗り越えられたのは望外の幸運ではあるが、だからといってこの場を無事に脱出できるかどうか……
「とにもかくにも殿下の身柄を賊共が求めている事は、先程あのエルフが口にした通り間違いないでしょう。けれどだからといって殿下の身の安全が保障されたわけでもありません。
これまでには人質を殺害した後、死体を生きているように見せかけて何度も要求を通し続けた屑共の悪しき先例もありますから。ましてや邪教徒共となれば、殿下の命ならず魂さえも危うい。
どう動くにせよ情報が欲しいですね。転がっている連中からなんとか聞き出せればよいのですけれど……」
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第百三十五話
思わぬ形でドラン達に加えてスペリオン達と合流する事になったクリスティーナ達は、そのまま共に地上へと繋がる昇降機を目指して移動を再開していた。
その道すがら、ドランと先頭を歩くクリスティーナがお互いの事情について話し合い始める。
クリスティーナがラババから聞き出した話では、この施設は王都アレクラフティアから、北西方向に徒歩で七日ほどの位置にある廃坑の、更に地下に埋没していた天人の施設なのだと言う。
アビスドーンの連中が地下にこの施設がある事に気付き、鉱山に落盤事故や毒ガスを発生させて廃坑に追い込ませてから、施設を発掘して運用しているそうだ。
スペリオンとフラウ、そして彼らの専任騎士達は邪教徒の拠点に連れ去られた状況に対し、悲痛の色を浮かべているが、ドラン達はと言うとまるで散歩でもしているような悲壮感の無さである。
これまで彼らが経験してきた窮地を考えれば、顔色を変えるどころか冷や汗一つ浮かべないのは、むしろ当然だろう。
後ろのスペリオン達には聞こえないよう声量を抑え、ドランはクリスティーナとの会話を進める。
「クリスティーナさんとフラウ殿下達は、お茶会の最中に転移された、か。アークウィッチ殿が城に詰めていたなら、そんな事にはならなかったろうが、どこかに出かけているのか?」
人間の限界値にほぼ達しているメルルならば、王城の侵入者に即座に気付いて対処した、とドランは確信している。
それがこうしてクリスティーナ達が転移させられている以上は、何かしらの事情でメルルは王城に居なかったに違いない。なんとも間の悪い事だ。
「私達はそういう事情だが、ドラン達は神殿への挨拶回りを終えて食事を取っていたら、お忍びでいらしたスペリオン殿下達に声を掛けられたと」
「午後の予定について話している時に、観光の案内を買って出られてね。予想外の人物が出て来たものだよ」
恋人達の時間を邪魔するとは、我が国の王太子とはいえ無粋な真似をなさる、とクリスティーナは自分だったら愉快な気持ちにはならないな、と背後のスペリオンを一瞥する。
クリスティーナの少し後ろを這っているセリナが、恋人三人の心情を代弁するように口を開いた。
スペリオンの奢りでたっぷりと甘いものを食べたからか、今はそれほど拗ねた様子は無い。拗ねていられる状況ではない、と理解している事も大きかろう。
セリナは転移の直前まで下半身を人間に変化させていたが、転移直後に戦闘に突入した為、それ以降は戦闘に集中しようとシェイプシフトを解除している。
幸いにしてフラウやラディア達は、セリナの下半身に対して嫌悪感を見せず、セリナが傷付く事態は避けられた。
「その後は王都の観光案内をして頂いていたんです。
色んな市場とか人の出入りの様子ですとか、街並みとか、勉強になる事を教えていただいていたのですけれど、途中で六人の魔法使いに囲まれて……」
「それで後は私達と同じくこの施設に転移させられたわけか。お互い拘束されずに済んで何よりだな。
私達はこの先に地上に繋がる道があると賊から聞き出せたのだが、セリナ達はどうした? どうとでもなっただろうが、参考までに聞かせて貰いたいな」
一般的な精神や肉体に苦痛を与えて情報を引き出す拷問の他に、ドランなら人間の思考を読み取る位は朝飯前だし、セリナのラミア種の魅了の魔力やディアドラの毒を応用した自白剤、ドラミナの美貌に催眠眼、吸血とドラン達の場合は豊富な手段が揃っている。
情報を聞き出すのは、赤子の手を捻るように簡単な事だったろう。
「ドラミナさんが素顔を見せたら、聞いた事は何でも教えてくれましたよ。多分、クリスティーナさんも同じ方法をお使いになったのでは?」
分かっていますよ、と暗に告げるセリナに、クリスティーナは正解だよ、と素直に答えた。一番手っ取り早い方法をお互いに選択した事に、クリスティーナは微笑を零した。
クリスティーナはアグルルアの腕輪を、ドラミナはヴェールを外すだけで済み、体力や魔力を消費する事もないのだから、実に燃費が良いしお手軽な方法には違いない。
ドラミナは自らの美貌さえ道具にする事を躊躇しないが、クリスティーナは多少気に掛る所はある。
だが、今回は王女誘拐という非常事態であったから、羞恥などの感情を押し殺し、自らの顔を利用する事を決めたのだった。
「一番安上がりな方法だからね。折角持って生まれたものなのだから、それを嘆くより役立たせる方が建設的だと最近考えられるようになったのさ。
これのお陰で今まで苦労してきたのだから、これからは少しずつでも元を取らなければね」
そう言って自分の頬を撫でるクリスティーナに、セリナは同じ女として少し複雑な気持ちになりながら答えた。
「クリスティーナさんやドラミナさんのお顔立ちを羨まない人はいないと思いますよ。ううん、次元が違い過ぎて羨む気持ちも湧いてこないかもですけれど」
「贅沢を言ってしまったかい? 生まれた時から付き合っている顔だから、色々と思う所があるものなのさ。特に私の場合は悪い事に働く方が多かったしね。
話は変わるが、ドラン達と合流できたのは僥倖だな。守らなければならない御方は増えたが、それ以上に守る側の戦力増加が凄い事になっている。
今の私たちなら、ドランが居なくても邪教徒程度ならどうとでもなる顔ぶれだろう」
「ドラミナさんが居ますからね」
そのようにセリナは言うが、セリナ自身も既にラミアとは呼べないほど強大な力を持った個体だ。
クリスティーナと同じように周囲が桁違い過ぎるせいで、セリナもまた自分を過小評価しているだけなのである。
「アビスドーンの連中は、自分達が最悪の時に行動したなんて夢にも思ってもいないだろうね」
セリナは心の底からクリスティーナに同意した。
邪竜崇拝の悪党共にとって、ドランほど厄介極まりない存在は居ないだろうし、またそうでなくとも、竜殺しの中の竜殺しと呼ぶべきクリスティーナがいる。
セリナにしてみればどう考えても、アビスドーンは目的を達成できずに、破滅する未来しか考えられない。むしろこの状況で破滅しなかったら、それはそれで凄い事だと本気で思っている。
「それにしてもどうして今なのでしょう? 誰かさんが、ドランさんにアビスドーンの人達を始末させようとしたとか?」
セリナは天界か魔界の神々の誰かが、アビスドーンの始末をドランに自発的にさせようと仕組んだのではないか? という推測を口にする。
神々の考えの深奥は到底地上の生物の理解が及ぶものではないが、話が通じないわけでもないし、考えの浅い所位なら推測が当たる事もある。
特にアルデスやマイラールと直に接して、意思の疎通を図った経験のあるセリナ達にして見れば、神々とは思ったほどかけ離れた精神を持った存在ではない、と感じている事だろう。
「どうかな。ドランを利用しようなどと、神々はしそうにないように思えるよ。
マイラール様やアルデス様だったら、直接ドランに話を持ってくるだろうし、あの方々より位階の低い神々ではドランに萎縮して、利用しようと考える事にすら恐怖しそうだ」
この時、クリスティーナの脳裏には、失態があったにせよドランに対して終始卑屈と言ってよい位の態度を取っていたクロノメイズの姿がよぎっていた。
神々を相手に遠慮のない意見を口にするクリスティーナだったが、セリナも同意見だったが違う考えがないわけではなかった。
「ドランさんが転生するまでの間に新しく生まれた神様達は、ドランさんの事を伝聞でしか知らないから、そういう無茶をするかも?」
「そうか、そう言えば転生するまでかなり間があったとか、前にドランが言っていたな。
となると先達の忠告を無視して先走る方々がいらしてもおかしくはないのか。でもドランはまだ何も言わないのだろう? ならば神々の思惑などは気にしなくて良いと思うな」
「そうなると本当に偶然に、アビスドーンの人達は私達が殿下達と一緒に居る時に行動した事になりますね。なんというか、もの凄く間が悪い」
セリナの言う通り、逢瀬を邪魔されたのと最悪の敵を自ら呼び寄せた、という二重の意味で確かに何とも間が悪い。とはいえ同情の余地などは欠片も感じていない二人だった。
ドランと共に行動するようになってから、映し身とはいえ大神達と何度も対面し、始原の七竜とも面会している影響によって、セリナとクリスティーナの神々に対する認識はすっかり変わってしまっている。
実は神々の介入があったとしてもドランを相手に何が出来るとは思えないし、本当に偶然アビスドーンがこのような事をしたのなら叩き潰すのみである。
二人の決意には、折角の王都観光とお茶会を邪魔された事への八つ当たりの感情が少しも含まれていないとは言えなかった。
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第百三十六話
ドランと関わりの深いセリナやドラミナの肉体が反応し、クリスティーナもまたドラッドノートや古神竜殺しの因子が反応していた理由。
それは、邪竜教団アビスドーンの崇拝する、古に滅びた名もなき邪竜があろうことか彼女らの友人であるレニーアの前世であった為だった。
古神竜ドラゴンを片親として創造された前世のレニーアが、七勇者達に討たれた際に飛散した微小な細胞を培養した邪竜に、セリナ達は反応している。
魂も心もない肉の塊に過ぎない邪竜を背に、アビスドーン最高幹部の一人であり大導師の地位にあるガジュラは、竜化の進む顔にわずかに訝しげな色を浮かべた。
今はまだ肉塊に過ぎない邪竜とはいえ、その名を口にする事さえ恐ろしい大邪神が、あまりに強力すぎて制御できず手放したと言う――本当の事情は異なるが――史上最強最悪の神造魔獣なのである。
邪竜は天人達の遺跡の保存状態が悪かった為、アビスドーンが発見した時には凄まじく劣化しており、培養を再開した現状でも本来の力に遠く及ばない事はガジュラとて百も承知だ。
それでも地上の生物が邪竜を前にすれば、心底から戦慄し、悪くすれば精神的な死を迎える領域の存在である事は間違いない。
であるにも関わらず、ガジュラと邪竜の前に立つ女子供達は一人の例外もなく怯えた様子は無く、どこか呆れたような、疲れたような顔をしている。
よもや見間違いかと思って見直してみても、やはり彼女らの浮かべる表情に変化は無い。
邪竜を前にしてまるで恐れるほどの相手ではない、とそう感じているようにしか見えないのだ。
だが、ガジュラにそれをいちいち追及するつもりはなかった。あくまでもスペリオン王子とフラウ王女の身柄を確保する事が、わざわざ水槽から邪竜を出してまで出向いた目的なのだから。
「大人しくスペリオン王子とフラウ王女の身柄を渡す事だ。そうすれば王国と交渉している間、お前達の生命を保証できるかもしれん。あるいは交渉が終わった後に無事に帰す事も」
この手の邪教徒にしては珍しく、ガジュラは言葉だけではあったが大きく譲歩して見せた。
レニーアの劣化細胞をその身に受け入れ、竜化の進んでいるガジュラにとって、普通の人間達等は取るに足らぬ有象無象である。
そんな者達の命になどまるで価値を認めていない。だからこそ、有象無象達など死んでいようが生きていようがどうでもよいのだ。間違ってもガジュラの温情でもなければ、慈悲でもない。
王子と王女を人質に取って、アークレスト王家と交渉する邪魔にならないのなら、護衛の専任騎士や侍女、ドラン達等は殺す労力を割くほどの価値がない、という理屈だ。
数多くの同志達やそれなりの位階に達していたラババを失う事になったが、どうせ邪竜の餌にする為の者達だったのだから、ガジュラにとっては拘泥するような事ではない。
ガジュラの発した言葉を受けて、ようやくドラン達は呆れを交えた表情を改める。
レニーアの前世からの置き土産にすっかり気を取られてはいたが、ガジュラはバストレルやその高弟達と同じく国際指名手配されている大悪党である。
やはり禍根は断つに越した事は無い、とドラン達の内心は一致していた。
代表して言葉にしたのはクリスティーナであった。ある意味ではドランに劣らぬ因縁を持つクリスティーナの言葉には、怒りが滲み出ている。
「何度も言わせるな。殿下達をお前達等に渡せるわけがない。それにその邪竜を見せられては、お前達を放ってはおけん。その邪竜は、何が何でも滅ぼさせてもらおう」
クリスティーナのドラッドノートを握る手には、必要以上に力が込められて、彼女の心身に宿るドラゴン殺しの因子が、荒ぶる感情に呼応しはじめている。
特にドラッドノートはかつて討滅した前世のレニーアの情報を引き出し、所有者であるクリスティーナに伝えており、いつでも邪竜を滅ぼせる準備を整えている。
前世のレニーアが相手なら、ドラッドノートはかなりの出力を発揮しなければならないが、劣化という言葉では足りないほどみすぼらしい姿の邪竜が相手ならば、クリスティーナが制御できる範囲の低出力で間に合う。
先祖である勇者セムトの後始末というわけではないが、クリスティーナは俄然闘志を燃やし、自分の手で邪竜を滅ぼすという意思を強固なものにしていた。
「自ら寿命を縮めるとは、愚か以外の何物でもないぞ」
ガジュラの言葉に落胆の響きはない。結局の所、どう答えた所でこの男はドラン達を邪竜の餌か何かにでもした事だろう。
クリスティーナが一歩前に出て、全身から闘気と魔力を溢れ出しているのを見て、ドランとセリナ、ディアドラ、ドラミナは軽く目配せをして意思の疎通を図る。
ドランからすれば、ガジュラ達は我が娘と公言して憚らなくなったレニーアの遺骸を良いように弄ぶ信じ難いほどの変態にして屑であり、吐き気を催さずにはいられないほど嫌悪と怒りを募らせている。
それを表に出していないのは、ドラゴン殺しの因子とかつての因縁に取り憑かれたようなクリスティーナを目の当たりにしているからだ。
今のクリスティーナの全身に充溢している狂気と紙一重の感情を発散させるには、彼女自身の手で邪竜を討たせるのが最も確実だ。
ドランの怒りは極端な話、他のアビスドーンや邪教徒共が保管している同様の細胞などを消滅させて発散させればいい。
ここまでの考えをドランと恋人達は瞬時に共有し、自分達は援護に徹して、クリスティーナに対象の格が違い過ぎるが先祖と同じ邪竜殺しを任せた。
邪竜の内包している力とクリスティーナの力量を考えれば、この天人の遺跡の上にある鉱山が吹き飛ぶ程度で済めば、まあ、御の字であろうか。
ガジュラと背後の邪竜との間に結ばれている霊的な繋がりが活性化し、再び邪竜が閉ざしていた瞼と口を開き、そこからおどろおどろしい灰色の光が靄(もや)のように零れ出す。
あちらもこちらも戦闘態勢が整った所で、ドラン達の背後で激しい物音と共にスペリオン達が姿を見せる。
スペリオン達にわずかに遅れて竜化した者とそうでない者を含めた邪教徒達も、広間へと足を踏み入れてくる。
「悪い、後ろから回り込んできた奴らだ!」
べっとりと赤い血で濡れた長剣を片手に、シャルドが謝罪の言葉を発した時には、既にスペリオン達に近い位置に居たディアドラとセリナが動いていた。
ざわり、とセリナの豊かな金髪が波打って蛇が威嚇するように逆立ち、再び巨大な魔蛇の幻影がとぐろを巻き始める。もはやラミアにしてラミアに非ず。
今のセリナを故郷の両親が見れば、一年と経っていないのに愛娘に何があったのかと驚くに違いない。
「王子様、王女様、早く部屋の中心へ!」
「私達を相手に竜の力を使うって、割と致命的なのだけれど気付いていない辺り、笑えない位哀れよねえ」
「でも同情するような相手ではないですよ、ディアドラさん」
「そりゃあね。私も同情するつもりは無いわよ。こいつら、どいつもこいつも死者の恨みの念がべっとりと纏わりついているわ。生かしておいたら、どれだけ人死にを出すか知れたものではないもの」
邪教徒達に対して冷徹と例える他ない二人の会話の間にも、スペリオン達を追う邪教徒達は距離を詰めていて、竜化した者達の口から零れる炎の吐息が届いてしまいそうだ。
魔獣の牙や爪から生み出した魔法の兵士スパルトイや、ゴーレム達と共に駆ける邪教徒達に、ディアドラの髪の中から伸びた黒い茨と七つ首の巨大な魔蛇が襲い掛かり、彼らの足をいとも簡単に止めて見せる。
人造竜達が通路を通って広間へと向かっている、という位置関係と彼我の力量差を考えれば、セリナ達にとっては何ほどの事もない。
「ただの人間を捕らえる事も満足に出来ぬが、雛を籠に追いやる程度の事は出来たか。スペリオン王子、フラウ王女、アークレスト王国が所蔵する秘宝『虹の卵』を得る為に、役立っていただこうか」
配下達の役の立たなさにはもうすっかり呆れ果てたガジュラの声音には、失望の響きすらない。スペリオン達はドランとドラミナの数歩後ろで足を止める。
ガジュラが口にした虹の卵を知っていたらしく、ドラン達の背後で妹を庇いながら足を止めたスペリオンが訝しげに眉を寄せた。
「虹の卵? あれはその名の通り虹色の殻を持った卵状の物体。魔力も何もなく、傷を付ける事も出来ず、死蔵されているだけの品だ。
だが、お前のその背後の竜の出自を聞いた今、おおよその見当が着いたぞ。虹の卵にはその邪竜の血なり、肉の一部が封じ込まれているか、復活に役立つ品と見た」
「その程度には頭が回るようだな。そうだ。天人達が手に入れた、名も無き邪竜の細胞を封じた特殊な器具こそが、我らの言う虹の卵。
周囲の空間から断絶し内部の世界を完全に孤立させる、天人の科学と魔導の技が生みだしたあの卵の中には、今も生きた邪竜の細胞が眠っているのだ。
天人の知恵を解さぬお前達がアレを持っていても無用の長物。ただ埃を被るだけでしかない。しかし、アレが我が手元に来ればこの邪竜を更に本来の姿に近づける事が出来る」
「そうまでして人ならぬ者の力を求めるか。そのような力を手に入れた所で何になると言うのだ。この世界の支配でもしたいのか?」
「浅学なお前達は知らぬだろう。今、闇の世界では大きな流れが生じている。あの忌まわしき大魔導バストレルが死に、奴の率いていたオーバージーンもまた壊滅した。
更には破壊と忘却を司るかの大邪神を奉ずる教団も、なぜか活動を停止して今は存在しないようなものだ。今、この時こそ世界の色を塗り替えるまたとない好機。
天人よりもさらに古き時代、あらゆる次元の力持つ者達が結集し、ようやく討つ事が叶ったと言う邪竜の力があれば、私が世界の中心に座す事も難しくは無い!」
ガジュラの口から出て来た思わぬ名前に、クリスティーナとドランとセリナとドラミナがそれぞれぴくんと眉を動かすなどして、反応を示した。
あのアークウィッチすら凌駕する大魔法使いバストレルを討ったのは他ならぬドランであり、彼の持っていたドラゴン殺しの剣の新たな所有者となったのはクリスティーナなのだ。
ドランだったからこそバストレルを問題とせずに滅ぼす事が出来たが、確かにガジュラ達のような闇の世界の住人達でも、まだドラゴンスレイヤーという名前だった剣を携えたバストレルに対抗出来る者は居なかっただろう。
だがドラン達の手によってバストレルは討たれ、その高弟達も命を落としている。
バストレルの後釜を狙う者達での抗争や、これを好機と見た他勢力らとの争いが激化するのは、当然の成り行きであった。
ガジュラの大それた野望にスペリオン達が言葉もなく顔色を険しくする中、クリスティーナはゆっくりと歩を刻み、ガジュラと邪竜が形成する邪気と魔力の圏内へ悠々と足を進める。
ガジュラの悪意で満たされた場は、足を踏み入れただけでクリスティーナの細胞を破壊しようと襲い掛かってくるが、クリスティーナの纏う清廉な闘気と二振りの魔剣の加護が、まるで寄せ付けない。
「何を狙っての行いかと思えば、何と言う事は無い。大昔に死んだ筈の竜を無理矢理生かして、自分の欲望の為に使うだけの話ではないか。
しかも頭の上にあった重石が消えてから動き出すような卑屈な性根で、何かを成せるなどと思い上がりも甚だしい」
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第百三十七話
ドランは、クリスティーナがようやく先祖の犯したドラゴン殺しの罪悪感から解放されてきたというのに、ガジュラの行いの所為でそれが再燃した事へ激しい怒りを覚えたが、自分がするべき事の順位を間違えはしなかった。
先程までよりもさらに莫大で純度を増した闘気と魔力を発するクリスティーナの背中に、案ずる眼差しを送ってから、スペリオンとフラウ、専任騎士達を振り返る。
「追って来た邪竜とガジュラはクリスティーナさんと私にお任せください。殿下達は下山を。こちらにお乗りください」
瞬時に術式を構築されて、大気中の塵や浮遊分子、地面の土などを材料として見事な体躯を持ったホースゴーレムが五頭作りだされる。
手綱に鐙、鞍も完備しているあたり芸が細かい。
いずれも磨き抜いた鋼の色と光沢を帯びた即席のホースゴーレム達は、創造主からの命令を沈黙と共に待つ。
「ま、待ってください、ドラン。貴方達を置いて私達だけ逃げろと言うのですか」
怒りさえ滲ませた声でドランを詰問したのは、フラウであった。食ってかからんばかりの勢いを見せるフラウに、ドラン越しにクリスティーナが制止の声を掛ける。
自分達を思って怒るフラウに、クリスティーナは微笑みを浮かべて振り返り、王国の民としては当然の判断をしたドランを擁護する。
「どうかドランを責めないで上げてください、フラウ様。誰かがあの醜い化け物の足を止める必要があります。
そしてこの場でその役目を追うべきは私やドラン達なのです。それにこのように開けた場所でならば、地下の遺跡では使えなかった魔法が使えますし、思う存分戦う事が出来ます。
私もドランも競魔祭のような試合形式よりも、命懸けの実戦の方が本領を発揮する口ですから、わざわざ私達を追って来たガジュラには気の毒な事ですが、こちらにとって都合のよい所で戦えるのです。
ドランの頼もしさは競魔祭で十分にご覧になられた事と存じますが、セリナもドラミナさんもディアドラさんも、三人共凄まじい使い手です。
あのような邪竜の出来損ないに頼りきった愚か者など、容易く滅ぼして御覧にいれましょう」
もし聞いていたらレニーアが怒るかな、そう思うだけの余裕がクリスティーナにはあった。フラウに伝えた通り、クリスティーナはガジュラと出来損ないの邪竜に、まるで脅威を感じていない。
本物の名もなき邪竜であるレニーアの力を知っているから、というのもあるがドラッドノートから供給される無尽蔵の力と、魂に宿るドラゴン殺しの因子が先程から疼き続け、際限なく闘志が湧き起こっていて仕方が無い。
まるで先祖が犯した罪を償う機会だ、戦え、戦え、滅ぼして罪を償え、そうドラッドノートとドラゴン殺しの因子に囁かれているかのよう。
セムトに殺されたドラン自身がその罪を許しているというのに、今なおクリスティーナの血とドラッドノートは自分達を許していないのか。
「でもクリスティーナさん、あんなに大きな怪物を相手に貴女達を置いて行くなんて」
むろんの事、フラウは自分などがここに残っても足手まといにしかならないし、遠目にも狂気に塗れて見えるガジュラに、自分や兄を人質とするだけの理性が残っているとは思えない以上、本当に何の役にも立たない事を理解している。
それでも自分の身の安全よりも先に、クリスティーナ達の身を案ずる言葉が口を突いて出たのは、フラウという少女が生まれ持ち、育んできた善性の表れに他ならない。
「本当に私達の手に負えないようでしたら、ある程度足止めだけをして殿下達の後を追いかけますから、どうぞご安心を。そうだろう、ドラン?」
「本当ですか、ドラン?」
善良な少女に責めるような視線を向けられて、ドランは心底から困った表情を浮かべる。
悪人どころか魔王、邪神の類にならいくら憎悪や殺意の感情を向けられても何とも思わないドランだが、罪の無い少女が相手では途端に無力に近くなる。
「クリスティーナさんの言う通りです。フラウ殿下、スペリオン殿下、私達とて自分達の命が惜しくないわけではありません。
生きる為に全力を尽くします。フラウ殿下は私達の命を御案じくださっていますが、私達はガジュラとあの邪竜を倒して生き残るつもりです」
クリスティーナが単独で邪竜と戦い、これを滅ぼす事を望んでいるのをドラン達は理解していた。
フラウ達がホースゴーレムに乗って下山を始めたら、戦いはクリスティーナに任せて、極力手出しを控えるつもりでさえいる。
スペリオンは、決して強がりなどではなく、ドランやクリスティーナ、セリナ達に一欠片の悲壮感や自己犠牲の考えが無い事を見て取り、涙ぐむ妹の肩に手を掛ける。
「フラウ、これ以上彼らの時間を無駄にしてはいけない。ここで彼らの意を汲むのが私達兄妹の持って生まれた役割だ。それに彼らは負けるつもりなど露ほどもないのは、お前にも分かるな?」
「お兄様、はい。ドラン、クリスティーナさん、ごめんなさい。私の我儘で余計な時間を掛けてしまいました。ですが、どうか約束して下さい。ここに残る誰も欠ける事無く、生還すると」
答えたのはクリスティーナであった。フラウが最も心配している相手であり、同時に最も安心させられるのに、クリスティーナ以上の適任者はいなかった。
「必ず全員揃っての再会をお約束いたします」
「必ずですよ。約束は果たされる為にある事をどうか忘れないで下さい」
「さあ、フラウ」
スペリオンに促され、ラディアの手を借りてフラウがラアシイと一緒にホースゴーレムに騎乗し、残るスペリオン、シャルド、ラディア、ヘベルもホースゴーレムに跨る。
スペリオンは馬上から、これから小山ほどもある巨大な怪物を相手に戦いを挑もうとしているとは、到底見えない落ち着いた様子のドランに、真摯な眼差しを送っていた。
「本当に君達には何と礼を言うべきなのか」
「私個人としては不敬をお許しいただけるのでしたら、ありがとうの一言で十分なのですが、それで済まないのが政治というものでしょうし、殿下のお立場でしょう。それに実を言うとちょっとだけ報償に目が眩んでもいます」
あっけらかんと正直に告白するドランだが、スペリオンは笑ってこれを聞き入れた。
臣下が主君の為に生命を賭す、貴族であれば当然のように教えられるが、これを実践出来る者がそうはいないのが現実だ。
ドランは厳密に言えばまだ臣下とは言えないかもしれないが、それでもスペリオン達の為にこの場に残る事には変わらない。その事に、スペリオンは最大限の感謝の念を抱いていた。
「ふふ、君とはもっと落ち着いた時間を過ごしたかったと心から思うよ。これからその時間に恵まれる事を、心から願う。
ドラン、まだ言うには早いかもしれないが、ありがとう。我が妹の言う通り、必ず生きてまた会おう」
「ええ、お約束いたします」
その言葉を最後にスペリオンは馬首を巡らし、フラウやシャルド、ヘベル達もそれに続いて、ホースゴーレムを走らせた。
即席ではあるが市販しているホースゴーレムよりも高品質に仕上げたホースゴーレムは、乱立する木々や窪みなど地形の凹凸を問題とせず、馬の四倍近い速度で山の斜面を駆け降りて行く。
あっという間に見えなくなったスペリオン達を見送ってから、ふいにセリナが口を開いた。艶々と輝く唇から零れて来た言葉は、ひどく申し訳なさそうだった。
「なんというか、あそこまで心配されると騙しているみたいで、もの凄く申し訳なくなりますね。一応、騙しているわけではないと思うのですけれど……」
どうやら『申し訳なさそう』だったのではなく、本当に申し訳なかったらしい。
ドラミナもセリナと同意見のようで、ヴェールの奥の左頬に左手を添えながら、小さく憂いた吐息を零す。
根が善良で純朴な所のある二人は、誰かに嘘を吐いたり情報を隠したりすると言う事がひどく苦手だった。
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第百三十八話
晴れ晴れとした顔になったクリスティーナさんを横目に、私はとりあえずその場をまとめるように言った。
地下の天人の遺跡の方は邪教徒達こそ全滅しているが、遺跡そのものはまだ生きている。
邪竜の封印と培養を目的とした施設であるから、軍事利用などは難しいとは思うが、王国が調査の手を伸ばすよりも先にこっそりと壊しておこう。
しかしアビスドーンか。よりにもよってレニーアを己らの欲望の為に悪用するとは許し難い。必ずや鉄槌を下してくれる。
表には出さず私が腸を怒りで煮え滾らせていると、虫の知らせでもあったのか、王都で御両親と水入らずの時を過ごしている筈のレニーアから念話が入ってきた。
『お父様、お父様』
私を父と無邪気に慕うレニーアの声に束の間怒りが沈静化し、そしてこうも私を慕ってくれるレニーアを利用しようとしたのか、と却って怒りが増す。
レニーアには私の怒りが伝わらぬよう細心の注意を払いつつ、返事をする。話が終わった後も、レニーアがこんな無邪気な声だと良いのだが、それは無理な話だろうか。
『どうかしたのかい、レニーア』
『お忙しい所、申し訳ございません。実はつい先ほど何と申しましょうか、こう、血のざわつくような、体の疼くような感覚が致しまして。
放っておいても構うまいと一度は思ったのですが、どうにも放っておく事が出来ず、私などよりもはるかに鋭敏な感覚をお持ちでいらっしゃるお父様ならば、何か御存じではないかと。
放置しておいても私の力の及ばぬような害にはならぬと思うのですが、なにやら私めの勘が放置してはならぬと囁いておるのです。
お父様、恐れ入りますが、何か御存じではいらっしゃいませんか?』
ふーむ、レニーアはガジュラが一体化して活性化させた段階で邪竜に気付いたか、あるいはクリスティーナさんとドラッドノートを目にして、邪竜がガジュラの制御を離れた時に気付いたか。
どちらにせよ、ある意味当事者であるレニーアに対し、黙っているわけにもゆくまい。黙っていたい気持ちも強いのだが、こればかりはレニーア自身が知らぬ内に、事態の中核を担ってしまっているしなあ……
アビスドーン共め、私ばかりでなく己らが勝手に崇め、勝手な教義をでっちあげた邪竜そのものであるレニーアを激怒させた事を、死の淵で理解する事になるだろう。
『それに関してはクリスティーナさんがちょうど片付けた所だ。レニーア、私と君にとって極めて不愉快な話になるが、周囲に力を漏らさぬように心を落ち着けて聞きなさい。本当に不愉快な話だからな?』
おそらくだが、レニーアの近くには御両親やブラスターブラスト家の使用人などが居る可能性が高い。
そんな状況でレニーアが怒りの思念など撒き散らしたら、彼らの肉体が爆ぜてしまうか原型を留めぬ挽肉になってしまうだろう。
それから私がレニーアに対して今回の一件を伝えると、徐々にレニーアは押し黙り、思念越しにも凄まじい怒りが蓄積されて行くのが分かった。
何とかそれが暴発するのを防いでいるレニーアの忍耐力には、場違いだが彼女の成長が感じられる。
『以上がレニーアの感じた奇妙な感覚の正体だ。はるかな太古に採取された君の細胞を用いた兵器、それをアビスドーンの邪教徒共が再利用しようとしてしくじった結果だ。
既にクリスティーナさんとドラッドノートが始末をつけているから、君が動く必要はない』
『いいえ、いいえ、お父様。身の程を弁えぬ欲望に取りつかれた愚物中の愚物の如き人間が、以前の私の肉体を用いて、よりにもよってこの天上天下全ての世界において至高の座に戴くべきお父様と敵対させたなどと、なんと恐れを知らぬ愚かな真似をしくさりよったか!!』
『レニーア、落ち着けとは言わないが周囲に害を及ぼさない程度に、何とか抑えるのだ』
『うぐ、も、申し訳ありません。つい感情のままに怒りを振り撒く所でした』
『レニーア一人なら止めないが、御両親なり誰かしら傍にいるのだろう? ならば力の発露は無理をしてでも抑えんとな。
今回の事には私も正直に言って腹に据えかねている。この後、アビスドーンの連中の始末に動くつもりだ。それにカラヴィスが今回の騒動を見逃しているとも思えん。
君の事をあれほど可愛がっているカラヴィスなら、必ずや報復に動く。例え力を振るえぬ地上世界であれ、カラヴィスならなにかしらの裏技を使って、力を使うだろう。
アビスドーンの者達の命脈は、もはや絶えたと言える。レニーア、報復を行うのは止めんがほどほどに手加減する事を忘れないようにな』
『はい、この星に支障が出ぬ程度に抑えるよう心がけます』
レニーアに言い聞かせたように、私もまたアビスドーンの者達に報復する際、やり過ぎないように配慮しなければなるまい。
なによりカラヴィスの奴が怒り狂ってどこまでやるか、そちらにも気を使わなければなるまい。私とてアビスドーンの連中には鉄槌を下したいと言うのに……
私がレニーアと念話を切り上げた頃、ちょうど即席のホースゴーレムに跨った殿下達がこちらへと向かって、降りた道を戻って来るのが見えた。
若干気まずい気もするが、私達が誰ひとり我が身を犠牲にしなかった事が分かれば、殿下達も喜んでくださるだろうし、それで良しとしよう。
殿下達の先頭に居たのはフラウ殿下だった。私達が全員揃って無事でいるのを見ると、フラウ殿下はぼろぼろと大粒の涙を零し始める。
それを見て、私達は一斉にクリスティーナさんに視線を向けた。フラウ殿下は私達全員の事を心配してくれているが、もっとも気に掛けているのはクリスティーナさんである。
あの涙を止めるのは、貴女の役目でしょう、と全員で無言のまま訴えかけたわけだ。
「少し先に行ってくるよ」
クリスティーナさんは私達から向けられる視線にすぐさま降参して、小走りになってフラウ殿下へと近づいて行く。
ずいぶんとまあフラウ殿下に気に入られたものだ。ひょっとしたら、王女付きの近衛騎士か何かに取り立てられる話が出るかもしれん。
「クリスティーナさんはすっかり王女様のお気に入りですね」
ホースゴーレムから降りたフラウ殿下が、しきりにクリスティーナさんに話しかけ、怪我が無いか体を触れて確かめるのを見て、私の隣のセリナがしみじみと呟く。
「誰が見てもそうなるだろう。それがクリスティーナさんにとって都合のよい方に働けばいいが、クリスティーナさんはそこら辺の運が微妙そうだからな」
「難しい所ですね。でも王女様には気の毒ですけれど、多分、クリスティーナさんは王宮勤めを希望しないと思います。将来をまだ決めかねているようですけれど、それ位は分かります」
「私もセリナと同じ意見だ。多分、クリスティーナさんは申し訳なさそうにしながら、フラウ殿下に断りの言葉を告げる羽目になるだろう」
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第百三十九話
両殿下を含む私達一行は、アークウィッチ殿の転移魔法によって、早々に王都へと帰還する事が出来た。
帰還先は王城の中に設けられた転移魔法による移動の為の転移室で、私達はそこに詰めていた魔法使いや近衛の騎士達に驚かれながらも迎え入れられる事となった。
次期国王と王女が同時に誘拐されるという大事件に、王城は右往左往していたが傷一つない姿で戻ってきた私達の姿に、待ち構えていた人々は歓喜の声を上げて、口々にアークウィッチを称える言葉を口にする。
彼らにしてみれば王国最強最大の切り札であるアークウィッチが、無事に王女達を救出したと思えたのだろう。
そういう心の動きは分からないでもないから、私達は訂正の言葉を口にせず、誤解を受けてあわわ、と慌てふためくメルルを、ほっこりとした気持ちで見守っていた。
純粋な人間種としては最強の一角であるメルルだが、気の弱い性格はその実力とまったく異なるもので、見ていると中々楽しかったりする。
メルルの肩書きに似合わない慌てぶりに、微苦笑を浮かべたスペリオン殿下が助け船を出し、更に誘拐された先で起きた事についても語り、そこまでしてようやく場は落ち着きを取り戻した。
その後、私達が両殿下救出にあたり多大な功があった事を、当人達の口から語られて、具体的に何があったか詳細な記録を取る為にもしばし王城に留め置かれる事となった。
魔法学院の職員であり妖精の一種であるディアドラはまだしも、ラミアであるセリナとバンパイアであるドラミナを国家の中枢たる王城に留め置く事は、一部から大いに問題視されたが、そこはスペリオン殿下が擁護してくれたのと、私とドラミナが五柱の大神に目を掛けられているという事情から許された。
ふーむ、マイラールらの神殿に神像を奉納したばかりだが、また近い内に何か奉納して感謝の意を示しておいた方が良いかな。
神々への感謝はまた別の話として、報奨はそうすぐに決まるものではないだろうから、私達が王城でする事と言ったら、アビスドーンの連中とのあれこれについて報告するだけだろう。
王城に滞在するにあたって私と使い魔であるセリナとドラミナで一室、ディアドラとクリスティーナさんがそれぞれ個室を与えられた。
折角三つも部屋を用意して貰ったのだが、誘拐された先で起きた事を伝え終えた後は私の部屋に集まって、のんびりとメイドさんの淹れてくれたお茶などを飲んで時間を潰していた。
見た目で人間ではないと分かりやすいセリナは初見の相手には驚かれたが、メイドさん達は教育が行き渡っている事から、初見以降は驚く様子を見せずに部屋から退出して、私達からお呼びが掛るのを部屋の外で待っている。
「てっきりクリスティーナさんはフラウ殿下の所にお呼ばれされるかと思っていたのだけれど、私達の所に顔を出せるとは少し意外だな」
王城の菓子職人が腕を振るったフルーツケーキを三ホールほど片付けたクリスティーナさんに話を振ると、クリスティーナさんは唇についたクリームをペロリと艶やかに舐め取る。
貴族の令嬢としては行儀の悪い事だが、私達の仲なら遠慮するような事でも無い。
クリスティーナさんは砂糖やバターをたっぷり使った菓子を山ほど食べても、ちっとも余計な所に肉や脂肪が着く様子は無い。たおやかな体のどこにこれだけの栄養を蓄えているのやら。
「なにしろ誘拐されたばかりだからな。フラウ様は、しばらくは厳重に守られた部屋の中から出して貰えないだろう。無理の無い事だがすこし可哀想だな」
「フラウ殿下は王都に居る間にもう一度会いたいときっと思っている事だろうから、なんとかしてクリスティーナさんと会う口実を考えているだろうね」
フラウ殿下と行動を共にしていた時間は短いものだったが、どれだけクリスティーナさんに心奪われていたかは、私のみならずセリナやディアドラ、ドラミナも良く理解できている。
恋する乙女にも等しい情熱的な視線をクリスティーナさんに向けるフラウ殿下と、クリスティーナさんの今後が少なからず心配になるが、クリスティーナさんも立派な大人だし、フラウ殿下も周囲が何とか宥めてくれるだろう。
「ドラミナさんなら似たような経験が多かったと思うけれど、どうしていたのですか?」
クリスティーナさんが助け船を求めたのは、同じ美の領域に達し、かつ人生の先輩でもあるドラミナだった。
身内しかいない為、ヴェールを外して素顔を晒していたドラミナは、私の血を垂らした紅茶のカップから唇を離してクリスティーナさんに答える。
「クリスティーナさんのように熱い視線を向けられる事はありましたが、私の場合は私が女王でしたから、世継ぎの為の婚姻話ばかりでした。
なにくれとなく条件を付けて断ったり、女王としての強権で話を無かった事にしたりしていましたので、クリスティーナさんには参考にならないでしょう。
ですが私なりに助言させて貰えるのなら、フラウ王女の気持ちから目を背けずに向かいあう事が大事なのではないでしょうか。
どんなに気まずくても気持ちを受け止めて出した答えなら、フラウ王女も納得してくださるでしょう。例え後で涙を流す事になろうともです。
それと幸いな事にフラウ王女がクリスティーナさんに向けている感情は、まだ恋慕ではありませんよ。傷が浅く済む内に対処なさった方がお二人にとって良いでしょう」
「まだ、ですか。『まだ』……」
クリスティーナさんはかすかにげんなりとした顔になり、元凶であろう自分の顔を撫でる。
クリスティーナさんがフラウ殿下と接している間は、着用者を醜くするアグルルアの腕輪を身につけていたのだから、フラウ殿下の執心は顔ばかりが理由ではあるまい。
クリスティーナさんに本当の意味で共感出来てかつ同情できるのは、この場ではドラミナだけだった。
「ええ、『まだ』ですね。学院長殿からお借りした腕輪が無かったら、一目で戻って来られない所までフラウ王女の心を引きずりこんでしまったでしょう。
なんとか、フラウ王女からの心象を、おとぎ話の中に出てくる王子様程度に留める事を強くお勧めしますよ」
「残念ながら私に女性との恋愛経験はありませんので、具体的にどうすれば良いかすぐには思いつきません。お手上げと言いたい所ですが、考えるだけ考えてはおきましょう」
クリスティーナさんには珍しい自棄気味な発言に、ドラミナも私もそれはそうだと同情するばかりである。
この場にいる誰もが同性との恋愛経験など無いし、適切な助言などできるわけも無い。可哀想な事だがクリスティーナさんには、自力でフラウ殿下との関係を健全なものにしてもらうしかない。
クリスティーナさんにとっては、どうにかしてフラウ殿下の慕情を抑え込む事の方が、ガジュラと邪竜を滅ぼすのよりもはるかに難しい事かもしれない。
腕を組んで難しい顔をするクリスティーナさんに、セリナとディアドラは同情半分自慢半分の顔でこう告げた。
「ごめんなさい、クリスティーナさん。私はドランさんとしか恋愛をしないので、何も良い事を言えそうにありません」
「私もセリナと同じくね。ドラン以外の男に興味は無いから、まあ、頑張ってとしか言えないわ。後でドリアードの子でも紹介する? 大抵は男にしか興味ないけれど、中には女の子も良いって子がいるのよ」
セリナに続いてディアドラも口を開いたのだが、形だけは謝罪しているが実の所これは惚気が半分くらいかな。
クリスティーナさんは私達以外にはまず見せない苦み走った顔になり、セリナとディアドラに恨みがましい視線を向ける。おやま、これもまた珍しい。
「ここに私の味方はいないらしいな。まったく、私だってドランに告白したのに、未だに恋人扱いされないし……」
クリスティーナさんはそう言って今度は私に恨みがましい視線を向けて来た。
確かに、アレキサンダーが地上に降臨した時にほとんど成り行き任せではあるが、クリスティーナさんは私への好意を口にしている。
その時はアレキサンダーが些細な事で何度も地上世界を破滅させかけるのを防いだり、リヴァイアサンに事情を説明したり、卒倒するヴァジェを宥めたりと忙しく、その後もなんだかんだでクリスティーナさんとの関係は変わらぬままだった。
私の場合は人間としての身分とかもあるかもしれないが、それだって……とクリスティーナさんはぶつぶつと文句を言い始めたが、そこまで本気で私に不満をぶつけているわけではないらしい。
これまでのクリスティーナさんでは考えられない言動に、セリナがそっと私に耳打ちする。
「ガジュラを倒してからクリスティーナさんの雰囲気がまたちょっと変わりましたね。もっと気軽になったって言うか、私達に対して遠慮がもう無くなりました。
ふふ、ドランさんの事を狙っているという意味では強敵ですけれど、今のクリスティーナさんの方が私は好きです」
「ああ、素のクリスティーナさんだと思っていいだろう」
「そうだと思います。でも、クリスティーナさんへの返事はまだしていなかったのですか?」
「あの時はそのまま場が流れたし、その後も私とクリスティーナさんがお互い態度を変えなかったからな、今の今まで前と変わらぬままだったよ」
「クリスティーナさんは御先祖様が御先祖様ですから、本人は気にしていないつもりでも心のどこかで気にしていたのかもしれませんね。
ドランさんの正妻の座を譲るつもりはありませんけれど、クリスティーナさんは四人目の恋人になりそうですか?」
返答が難しいような簡単なような質問だな。クリスティーナさんと一番親しい異性だという自覚はあるし、是非とも幸せになって欲しい女性でもある。
そしてクリスティーナさんから私に向けられている感情は言わずもがな。
「ふむ、魔法学院の生徒に刺される覚悟をした方が良さそうだ」
遠回しな私の発言に、セリナはその答えが分かっていたと言わんばかりにくすりと笑む。
セリナには何もかも、とまでは言わないが九割位は私の考えを読み取られている気がする昨今だ。
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第百四十話
テラスの向こうで、私とヴァジェのやり取りを生暖かい笑みで見守っていた龍吉達は、にまにまとした笑顔をそのままに貴賓室に戻ってきて、口々にヴァジェを労う言葉を口にする。
周囲が炎上しかねない位、体を火照らせているヴァジェに対し、最初に言葉を掛けたのは龍吉であった。
さりげなくヴァジェの剥き出しの肩に触れて、過剰な熱を冷ますという気遣いも見せている。ヴァジェが原因で王城を燃やすわけにはいかんわな。
「よかったですね、ヴァジェさん。ドラン様と正面から向き合えば、おのずと答えは出たでしょう。
私もお手伝い致しますから、ゆっくりとドラン様に慣れて行きましょうね」
龍吉は溢れんばかりの母性と共にヴァジェに話しかけるが、実の娘である瑠禹はと言うと少しばかり母に呆れている風であった。おや、反抗期かな?
「母様ご自身もヴァジェさんを緊張させている原因でございましょうに。それに母様は、ずっとドランさんがドラゴン様であらせられる事を知りながら、私達に内緒にしておられましたのに」
「ふふ、二人だけの秘密というのは甘美な響きだとは思いませんか、瑠禹?」
そう言って悪戯っぽく笑う龍吉は、一児の母とは思えぬほどあどけなく、瑠禹はそれ以上何も口にできない様子で、もう、と小さく呟くきりだった。
前々から思っていたが、やはり瑠禹は龍吉に頭が上がらんな。それとも龍吉の方が何時だって一枚上手だと言うべきか。
「母様は少し自重を覚えてください。実の母親の惚気を娘に見せてどうするのです」
「ほほ、ドラン様がそれだけ魅力的な殿方という事です。何時も傍に居られるセリナさんやドラミナさんの事を羨ましいと、母は常々思っております。瑠禹もそうでしょう?」
「それはそうですけれども、ドラン様は古神竜様であらせられますのに、母様はまったく遠慮というか気後れはないのですね。
私としましては、セリナさん達と同じ位にその事の方が羨ましいようにも感じられます。ヴァジェさんはどう思われますか?」
瑠禹、そうは言うがね、君が水龍皇の娘だと知ってヴァジェがどれだけ驚いたのか忘れているだろう。
「あう、うう……それは羨ましいか羨ましくないかと言ったら羨ましいに決まっているし、羨ましいのと妬ましいのが山のように蓄積されているけれど、今の私がドラン様のお傍に居続けたら、緊張とあまりの畏れ多さに内臓と神経が全ておかしくなる」
ふんす、と大きな鼻息を吐いてヴァジェはなぜだか誇らしげに胸を張り、堂々と宣言する。とはいえこれまでのヴァジェの態度を見るに、確かにその通りになると私も思う。
元の対応と態度に戻って欲しいと思ってはいるが、だからといってヴァジェに血反吐を吐かせるわけには行かないよな。
竜種の三名がしみじみとしょうもないような、そうではないような、しかし私が原因の話をしているのを、セリナ達は心情において少し距離を置いた様子で聞いていた。
ヴァジェ達と違い竜種ではない彼女らにとって、私が古神竜ドラゴンである事はさほど問題ではなかったからかな?
「ヴァジェさんの大騒ぎを見ていると、自分がドランさんに気軽に接し過ぎかなあ、と思うのは私だけですかね?」
少し気まずそうに口を開いたのはセリナである。ヴァジェの、私の傍にいたら血反吐を吐く、という感覚が分からないようで首と尻尾を一緒に傾げている。ふむ、可愛い。
最も動じた様子を見せないのはディアドラだった。私に色仕掛けをしてきた時を除いて、この黒薔薇の精は何時だって超然とした態度を取っている印象を受ける。
「じゃあ今からドラン様、ドラゴン様、古神竜様って態度を変えてみる?
いきなりは無理でしょうけれど、ヴァジェみたいに少しずつ慣らして行こうかしら。どう、ドラン。貴方がそれを望むのなら、少なくとも私はこれからそうしてあげるわ」
ディアドラは時々こういう意地悪な事を言うなあ。そういう所も好きだが、私の答えなど分かりきっているだろうに。ふむん。
「それは止めてくれ。ヴァジェにこういう態度を取られただけでも、かなり堪えているのだ。それに加えてディアドラやセリナ達にまでそんな態度を取られたら、私は本当に泣くぞ」
泣く。泣くと言ったら泣く。本当にそうなると私は断言できる。まったく自慢できる事ではないし、堂々と言う事でも無いのだが、私は泣くね。
「やっぱり貴方ならそう言うわよね。
セリナ、というわけだからドランがどんな神様達より強い古神竜の生まれ変わりだとしても、今まで通りの態度で接しないと寂しくって泣いちゃうそうよ。
どうしてもドランの泣く顔が見たいってわけじゃないのなら、止めておいてあげなさい」
「まあ、それは分かっていましたけれど……。ドランさんもそんな凛とした表情で泣くなんて、堂々と言わないで下さい。もう」
そう言われても、セリナ達に他人行儀な態度を取られたら、私は口にした通りに周囲の目を気にせずに、どんなに情けない姿であろうともおいおいと泣き出すぞ。
「でも、そうですね、そう言う事でしたらドランさんに何か文句を言いたくなったり、抗議したくなったりしたら、他人行儀な態度を取って困らせて差し上げましょう」
「それが一番ドランには効きそうよね。すぐに根を上げるわよ。ドランの泣き顔なんて貴重だから、いつかは見てみたいけれどね。見たくなった時の切り札にとっておきましょうか」
ふむぅ、セリナとディアドラが悪い顔をして私を見ている。なまじ美少女と美女なものだから、悪企みをしている顔にはかなりの迫力がある。
とんだ弱点を握られてしまったものだ。せめてもの救いは、ドラミナがセリナ達の話に乗って来なかった事か。
あらあら、といった様子でセリナとディアドラの会話を耳にしていたドラミナに視線を向けると、にこりと魅力的な笑みを浮かべてくれる。
ただドラミナの口から出て来た事は、私が予想もしていなかったものだった。
「では私はセリナさんとディアドラさんにつれなくされて、弱ったドランの心を慰める役を頂戴いたしましょう。
男女の仲を深めたいのであれば、相手の心が弱った所に優しく寄り添うのが、いつの世も定石ですから」
あれ、慰めてくれるのは嬉しいしありがたいのだが、なんだか計算高いと言うか、微妙に女の人って怖いと思わせる答えが返ってきてしまったぞ。あれれ?
「ええー、そういのってずるいですよ、ドラミナさん!」
分かりやすく尻尾の先端を立てて抗議の意思を示すセリナに、ドラミナは優雅の概念を極めた笑みを浮かべる。
その笑み一つでセリナは、はう、と一声漏らして眩暈を起こしかけて、危うくふにゃふにゃと倒れ込みそうになるのを、傍らから手を伸ばしたディアドラに支えて貰った。
ドラミナに意識した表情を作られると、その美貌に慣れている筈のセリナでもイチコロなのだから手が付けられない。
ドラミナに笑みを向けられたわけではないディアドラや、瑠禹までも頬を朱色に染めてしまっている。
「ふふ、恋の経験の無い女が、それでもセリナさんよりも長く生きた事で学んだ教訓の一つです。
それに皆さん、お互いがドランの伴侶となる事は認めあっていても、一番になる事は諦めてはいないでしょう? でしたら稼げる時に少しでも点数は稼ぎませんと」
ああ、セリナも正妻の座は諦めていないと言っていたな。
私としては彼女らを骨の髄から髪の毛の一本、血の一滴に至るまで愛し尽くしてもう胸が一杯と言わせる位の事は常に心掛けているが、順番を付けるというのはどうにも……
私が心の内で誰が一番で二番と、どうしても順番を付けなければいけないのだろうか、と唸っている一方で、女性陣の会話の応酬は続く。
「それはそうですけれども、やはりドラミナさんは目端が利くと言うか油断が出来ませんね! ただでさえドランさんとやたらと波長が合っているのに……」
わなわなとセリナは慄いているようではあったが、ディアドラはさして動揺はしていないようだった。
ディアドラが私の視線に気付くと、黒い瞳をこちらに向けて、セリナに見えないように小さく笑って、蝋を塗ったように妖しい艶のある剥き出しの肩を竦めて見せる。
ディアドラの口元に浮かんでいるのは、精一杯背伸びをする妹を見る姉のような笑みだった。見かける事の増えて来た笑みである。
ディアドラが笑ったのは、ドラミナが本気で言っているわけではないのを分かっているからだ。
本気でドラミナがセリナとディアドラを出し抜く事を考えているのなら、わざわざ今口に出さずに、本当にそう言った事態に陥ってから二人に隠れてするのが一番良い。
なのにこうして二人が居るまで口にしたのは、セリナをからかってその反応を楽しむ為だ。ドラミナの愛する者の中には、私だけでなくセリナやディアドラの名前もあるのだから。
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第百四十一話
龍吉の招きに預かり、ヴァジェと改めて話をした私は、十分な手ごたえを得て部屋に戻って来たが、そこで旧友たる冥界の神ハーデスの眷属である、タナトスが待っていた。
タナトスは最後に会った時と変わらぬ男装の麗人姿で、彼女からすれば矮小な存在であるセリナやドラミナに対して私の将来の伴侶と言う事で恭しい態度を取ってくれた。
タナトス曰く、転生を果たした私が会いに来るのを、ハーデスが痺れを切らす二歩手前位の状態になって待っていると言う。
神々は地上の生物と比較すると総じて気長な傾向にあるから、私が天寿を迎えるまで待たせておいても大丈夫だと思っていたのだが……
「ハーデスが機嫌を損ねたのは、やはり先にマイラールやアルデスに会っておいて、彼の事を後回しにしたからかね?」
私の質問に対して、タナトスは小さく縦に頷く。
「それも含まれております。ドラゴン様は、ハーデス様が子供のような態度を取られる、数少ないお相手でいらっしゃいますから」
「立派な男性神に甘えられても困るが、それ位は許容するのが友というものか。閻魔やむっちゃんの方はどうなのかな、タナトス『ちゃん』」
「御二方はドラゴン様が転生なされ、御所在がはっきりとした事を喜ばれておりますよ。お会いになられない事を怒ってはおられませんのでご安心ください」
「ハーデスにもそれ位どっしりと構えていて欲しいものだ。下の者に気を遣わせるようでは、冥界の管理者たる威厳を保てまい」
「それだけ御身との友誼を重く受け止めているとお考え下さいませ。それにしてもタナトスちゃんですか、私をちゃん付けで呼ぶのはドラゴン様だけですね」
そういって困ったように笑うタナトスに、私はそうかな? と小首を傾げて問い返した。
「私だけだったか? この世に死が生まれ、それを司る君やヒュプノスくんが生まれる瞬間にも立ち会ったからな。
人間風に言うのなら、私からすると君は友人の子供か甥や姪みたいなものだ。
いささか子供扱いが過ぎるのはそのせいなのだが、もう君は立派な女神だ。ずいぶんと遅くなってしまったが、ちゃん付けは止めておくかね?」
「お会いする前はそう考えておりました。いざ呼ばれてみると懐かしい思いがこの胸の内に溢れて参ります故、少々悩みましたが……御控えいただけますれば幸甚です」
「君がそう望むのならば、私はそれに従おう。さて、セリナ、ドラミナ」
私がタナトスと再会の喜びを噛み締めて話をしている間、セリナとドラミナは固く唇を結んで、話に割って入る事をしなかった。
タナトス以上の大神達と顔を合わせ、言葉を交わした事もある二人だが、タナトスが死の女神である事からか、緊張というよりも恐怖に近い感情に心身を縛られているようだった。
「あ、は、はい。ごめんなさい、ドランさん、少しぼうっとしてしまいました」
セリナは凝り固まった自分の身体を抱きしめる。私が声を掛けた事で心身の緊縛が解けて、青ざめていた顔にも赤みが戻る。
ふうむ、タナトスに悪気は無いのだが、いかんせん死の女神だからなあ。死の訪れを恐怖する生命からすれば、どうしたって恐れを抱くものか。難しいものだ。
「ふう、マイラール神やカラヴィス神に会い、少しは神々に慣れたかと思っていましたが、とんだ思い上がりでした。やはり真なる神は、私達にとって大きすぎる方々のようです」
ドラミナはセリナに比べると、タナトスからの影響はそこまで強いものではなかった。
バンパイアには創造主の意向もあって、滅びはあれども死は知らぬ事。彼女自身の霊格の高さと、元々は神の為に神が鍛え上げた真性の神器の所有者である事が、二人に差が出た理由である。
ドラミナが軽く頭を振り、それにつられて紫銀の髪が煌めきを発するのを見て、タナトスがほおっと小さいが偽りのない感嘆の声を零すのを、私は聞き逃さなかった。
ふむ、女神にも通じる美貌か。我ながら大した恋人を持ったものである。えっへん。
「タナトスは死を司る神の中では最高位の女神だ。普通なら、こうして正気を取り戻せただけでも大したものだよ。
それでタナトスがこうして足を運んだ以上は、流石にハーデスの所に足を運ばずに済ますわけにはゆかん。私はこのままタナトスと一緒にハーデスの所に行く事にする。
この時間なら誰かが訪ねてくる事はないと思うが、分身体の方を残しておくから二人にはもしもの時の対応をお願いしたい」
そう二人に告げる目の前、私はすぐ傍らに分身体の私を作り出す。私が二人いるという状態に、セリナは目をぱちくりとさせたがすぐに頷き返してくれた。
「分かりました。お友達は大切にしないといけません。それは神様でもきっと同じ事だと思います」
ふむ、神が相手でも人間を相手にするように言うか。セリナも存外大したものではないか。
「というかドランさんの分身さんは本物と本当に区別がつかないですね」
セリナとドラミナはしみじみと私の傍らに立つ『私』を見る。意識を共有しているし、肉体的な差異は欠片も無い。
存在の核が私である事を除けば、セリナの言う通り区別をつけられない位同一の存在である。
「まあ、それ位のつもりで作った分身体だからね。それではセリナ、ドラミナ、留守を頼むよ」
「はい、お任せください。多分、する事はなさそうですけれど」
「セリナさんと一緒にドランのお帰りを待っていますよ。それもまた将来の妻の務めですから」
「ふむ、ありがたいな。では、タナトス、久しぶりに君の主らの顔を見に行こう。お土産はいるかな?」
「いえ、そのご心配は不要かと。ドラゴン様ご自身が何よりもお土産でございますから」
それは重畳。私はタナトスのお墨付きを得た事で少しばかり機嫌を良くして、彼女を伴い男子寮をこっそりと後にする。
人目に着かぬよう男子寮を離れた後、天界とも竜界とも異なる冥界へと赴くのだ。
移動方法それ自体は竜界などへ行くのと同じように、次元の壁を跳躍して向かう。
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第百四十二話
重々しい音と共に開いた扉の向こうには、青い炎を灯す無数の燭台に照らし出された白い空間が広がっており、床に敷かれた黄金の絨毯の先には、玉座に腰かけた冥界の主の姿があった。
玉座に深く腰掛けたハーデス以外に、他の神々やニンフ達の姿はない。
玉座の間に足を踏み入れたのは私とタナトス、ヒュプノスくんだけだ。人間としての私の姿を認めたハーデスは、愉快気に紫色の瞳を細める。
今の所、再会した旧友達は魂がみすぼらしくなった私を見ても笑わずにいてくれる。ありがたい事である。
「ようやく二度目の生を得た君に会えたな。ドラゴン、虹の眼を持つ友よ」
ハーデスの声音はあくまで柔和であり、聞く限りにおいては怒ったり拗ねたりしているとは思えない。
だが長い付き合いのお陰で、私と背後の兄妹神達は私が相手だからこその、ある意味甘えでもある怒りを感じ取っていた。
扉の外で感じ取った以上に拗ねているが、私でもハーデスの立場に立ったなら同じ対応になったかな。
「今日に至るまで遅れた事を心からお詫びしよう。冥界の管理者たる古き友よ」
「ふっ、タナトスが迎えに行かねば、私を訪ねに来るのが何時の日になった事か、怪しいものだがな」
ごもっともである。ハーデスの言う事に反論の余地はなく、私はぐうの音も出ない。
君は真性の神で寿命が無いにも等しいのだから、気が長いと思っていたのだ、などと言ったらますます頭に血を昇らせるだけだ。
人間になってから十六年待たせていただけならまだしも、マイラールやアルデスと会った後だったのがまずかったか。まずかったな。
「言い訳は何もせん。こうして君の所に来るのが遅れたのを、ただ詫びるのみだ」
それだけ言って頭を下げる私を見つめる事しばし、ハーデスは小さく息を吐く。仕方がない、そう言外に告げる吐息であった。
「人間としての生が楽し過ぎたか。古神竜として最後の時を迎えた君の心情を思えば、人間になってからはしゃいでしまった事については、理解しよう」
はしゃいでしまった、か。これもまた否定出来ん。ハーデスは拗ねてはいるが、実際に顔を突き合わせた事で多少は和らいだほうなのかな?
「君の所で永い眠りに就かせてもらうつもりだったのだが、気が付いたらこうなっていた次第だよ。死を是とした前世より生を望む今の方が、生命としては健全だろう」
「前世の君と比べて魂は見るも無残ではあるが、希望によって放たれる輝きは前世の比ではない。ならば私は友として今の君の輝きを
さて、このまま私だけ腰掛けて話を進めるのは本意ではない。場所を移すとしよう。タナトス、ヒュプノス、大義であった。下がってよい」
「は~い、ハーデス様、ドラゴン様がやっと来て下さって良かったですね」
あどけない外見に相応しく無邪気に笑うヒュプノスを、傍らに立つタナトスが軽く窘めてから、ハーデスに恭しく頭を垂れる。
臣下として、あるいは執事として完璧なタナトスの礼であった。
「兄上、そこまでになされませ。それではハーデス様、ドラゴン様、私どもはこれにて失礼をいたします。ドラゴン様、どうぞごゆるりと冥界にてお寛ぎください」
一部の隙もなく、指先から髪の毛先に至るまで芯の通った完璧なタナトスの礼にハーデスは鷹揚な仕草で頷き返した。彼ら主従にとってはいつも通りの事か。
タナトスはそのままきびきびとした所作で玉座の間を下がり、ヒュプノスは私に小さく手を振りながら去っていった。
ヒュプノスのあの無自覚な行いによって、ころっといってしまった神々は多い。罪深きかな、ヒュプノス。
「タナトスはよいが、ヒュプノスは主人を主人と思わぬ真似をする。注意をせぬ私にも非はあろうがな」
苦笑を浮かべるハーデスは、言葉ほどにヒュプノスの態度に気分を害してはいないようだった。君らも随分と長い付き合いだものな。
「私としては、君らが変わらぬ間柄で安心したよ。仲が悪くなっていたらどうしようかと不安だった」
タナトスとヒュプノス兄妹の姿が消えてから、ハーデスが玉座から立ち上がって右手を上げると、私達は花畑の中に敷かれた黒い石畳の道の上にいた。
冥界全体の管理者であり、直轄領であるエリュシオンの全てはハーデスの意思のままに従う。場所を移す事など呼吸をするよりも簡単だろう。
ふむ、道の上に転移したという事は、ハーデスは目的の場所まで歩きながら話をしたい気分なのだろう。
「心にもない事を口にする。だが、君と再びこうして軽口を交わせる時を得た事を嬉しく思う自分がいるのは、紛れもない事実だよ、ドラゴン」
生きている限り生ずる罪と穢れも、死せる者が纏う生前の罪と汚濁もないエリュシオンの清浄な風を満身に浴びながら、私とハーデスはゆったりと歩き出した。
エリュシオンは生きている者の世界でも、死せる者の世界でもない。冥界に存在しながら、生とも死とも遠く隔てられた理想郷。それがここエリュシオンだった。
「変わらぬ友情に感謝の言葉を尽くすべきかな?」
おどけて言う私に、ハーデスは小さく首を横に振るって否定する。ハーデスに対してここまで気安いのも、閻魔や無間以外には私を含めて数える位だろう。
「よせよせ、気持ちだけで十分だ。だが、一つ言わせてもらえば、ああ見えて君に関する場合において、タナトスはいささか見栄を張る。
時折、ヒュプノスの方が大人びているように感じられるほどにな。それとても君の転生が明らかになってから、久方ぶりに見られるようになった話だ。タナトスの為にも、今少し早く来て欲しかったぞ」
私からすると、今一つ共感し難いハーデスの言である。タナトスもヒュプノスも外見通りの性格と関係のように思えるが、そうでないところがあるというのだろうか。
「ヒュプノスはあの通りだが、タナトスは表には出さないが素振り以上に君に懐いているのだよ。
誕生から随分と時が経つというのに、あれは君に対してどこかしら甘えているところと、格好の良いところだけを見せようとしている節がある。今まで気付いていなかったか?」
「気付いていたら、もう少し“タナトスちゃん”をからかっていたよ」
ふうむ、となるとタナトスちゃんと呼ぶのは本当に嫌がっていたのか、それとも実は満更でもなかったのか、タナトスちゃんのみぞ知るか。
もう一、二回呼んで反応を確かめてみるのもありかね?
「君は鈍いところと聡いところが入り混じっているな。タナトスは誰の目もなかったなら、君との再会の喜びに小躍りくらいはしていてもおかしくないと、私は睨んでいる」
「そこまで慕われているのなら、喜ばしい事だ。君の事も含めてだが、転生した事をすぐに伝えるべきだったと、今更ながらに思うよ」
「それこそ後悔というものだ、友よ。しかし取り返しのつかぬ事ではないのが、救いだな」
「まこと、後悔である事は否定できぬよ。さりとてなかった事には出来んし、まあ、これからはもっとタナトスを気遣うべきか」
「ふ、そうなってはますますタナトスが君に懐いて、他の男に目もくれなくなるな」
「その話題に私が関わって来るのか……滑稽に思う者もいるかもしれないが、深刻といえば深刻な話ではないのか?」
「冥界の秩序維持には、そう影響のある話ではない。タナトスが存在する事自体が、原初の混沌と始祖竜から生じたこの世界に、死が真理として存在する証拠だ。
タナトスが誰を慕おうと、生涯誰かと結ばれる事がなかろうと、死の在り様が変わるわけではないのだから。
それにタナトスが君に向けているのは恋慕よりも思慕に寄った感情だ。
幼き頃より面倒を良く見てくれた親類へ向ける類のものだ。その点に於いては、ヒュプノスの方が大人ではある」
「ふむん。見た目は相変わらず小さいままだったのにな、ヒュプノスくん」
「大きくならぬ事を気にしてはいるようだぞ」
私とハーデスはこのような取り留めのない話をしながら歩き続けていった。
生物の姿も気配も一切なく、わずかな風ばかりが花畑を揺らして行く中、私達の向かう先には延々と花畑ばかりが続いていたが、ハーデスがそろそろ歩くのに満足したらしく、開けた一角が見えた。
二人分の椅子と丸い机が用意されたそこには、一度は下がった筈のタナトスとヒュプノスの姿があり、タナトスに至っては黄金のフラゴンを手にしていた。召使の真似ごとをするつもりなのか?
ハーデスにとって両者の姿がある事は意外だったらしく、ここにいる理由を尋ねる言葉を口にした。
「タナトス、ヒュプノス、お前達をここに呼んだ憶えはないが?」
主からの問いかけにタナトスは惚れ惚れするほど見事な礼を、ヒュプノスはのほほんと右手を上げて答える。
ヒュプノスはこのような子供っぽい真似をしているが、地上に住まうあらゆる夢見る者達の夢を支配する大神として知られている。
神々の実体が思いがけぬものである事に慣れたセリナやクリスティーナさんも、流石にヒュプノスの実体を知ったら驚きそうだな。
「ドラゴン様に何も御持て成しをせぬままでは冥界の沽券に関わります故、僭越ながら私の差配で用意を整えさせていただきました」
「ぼくはそのお手伝いで~す」
聞きようによっては、ハーデスを虚仮にしているかのような両者の返答に、ハーデスは仕方のない者達だ、と小さく呟くだけで許した。ふむ、これ位の度量の深さは見せてくれないと、友達甲斐がない。
大神二柱が召使の真似事をしてくれるなど滅多にある事ではないが、冥界の主従ならではのやり取りは、実に味わい深いものがある。
「まあよい。ドラン、まさか冥界のものは咽喉を通らぬとは言うまいな?」
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第百四十三話
今も地獄で責めを受けている七勇者の減刑を望む私に対し、閻魔が出した条件はかつて私の前に立ちはだかり、古神竜と神造魔獣の力をもって敵対した大魔導バストレルを説得し、転生を望むように仕向ける事。
七勇者の内、誰がどんな責めを受けているのか閻魔は地獄の機密だとして教えてはくれなかったが、今も友だと思う彼らが少しでも楽になるのなら私に否の返事は無かった。
とはいえバストレルの名前がここで出て来るとは、というのが私の正直な感想だった。
だが閻魔に言われてみれば、確かにバストレルはこれまでに例の無い死者だ。
人間の死者、霊獣の死者、悪魔の死者、神の死者の例などはこれまでいくらでもあったろうが、古神竜と最悪の神造魔獣の因子を持ち合わせた死者などバストレルが初めてであったろう。
古神竜の因子、とにかくこれが地獄で責めを与え続けるにせよ、転生をさせるにせよ、途方もない枷となり、それをどうにかできる可能性が私にしかないのなら、バストレルをこの世に誕生させた原因の一つとして、放っておけるものではない。
レニーアだったら、閻魔からの申し出を知った事かと無視しただろうが、私の性分では難しい話だ。
閻魔と共に部屋を離れて裁判所の廊下を進み、時折、数多の裁判神や罰則神、眷属である獄卒らとすれ違うと彼らは皆等しく私と閻魔に対して頭を下げて行く。
閻魔が席を外している事で全員忙しそうではあるが、バストレルの問題を解決せずに閻魔が働いても、結果として効率は悪くなるのだろうし、仕方のない事態と皆が割り切っているのかな。
朱と紫の廊下といくつかの建物、そして死者達の声を耳にしながら私達は休みなく進み続けて、獄卒達が厳重に守る地獄へと続く一角へと辿り着く。
緑の肌と見事な一本角を生やした男の鬼と、大柄だが美しいと評するのに何の躊躇もない黒髪と二本角を持った女の鬼、他にも真っ黒い犬の頭部を持った半獣半人の姿をしたアヌビス神の眷属らの姿がある。
アヌビスは閻魔にとって、ハーデスのところのタナトスやヒュプノスに相当する側近中の側近だ。
元が仏神である閻魔とは全く異なる神だが、その神格や権威は大神と呼ぶに相応しく形式上閻魔が上に立ってはいるが、実質はほぼ同格といってよい。
地獄に落ちた罪人達がそこから脱した例は私の知る限りなかった筈だが、地獄の門を守る者達に弛緩した雰囲気はない。職務に誠実であるのは良い事である。
門番達が一糸乱れる事なく私達に頭を下げる中、ただただ黒一色に染まった石材らしき地獄の門が、ゆっくりと向こう側へと開いて行く。
地獄の中にいるのは罪ありとされた死者と、彼らを責め立てる獄卒達ばかり。地獄は漏斗状の形を有しており、下に行けば行くほどより罪は重くなり、永劫に許されざる者もいる。
一番上の方だと地獄という割には意外と、という印象を受ける刑罰で済むが、バストレルとなれば最下層に近い所にまで落とされているだろう。
見通せぬ闇の中に等間隔に煌々と燃える灯りが見える。足元は剥き出しの土となっているが、門に近い所には獄卒達の住居があり、罪人が地獄からの脱出を目論んだ時にはそれを阻む砦でもある。
開いた地獄の門を前に、閻魔が傍らに立つ私に話しかけて来た。
「バストレルのところまで案内をつけるか?」
「ありがたい心遣いだが、ここからでもバストレルの位置は分かる。彼と私の関係上、お互いの場所は分かりやすく出来ているのでな」
「嬉しくはなさそうな顔をしておるな。地獄の中の獄卒達には話を通してある。お前に身の程を知らぬ真似をする者はおるまい。
とはいえバストレルに何かを言われたからと、無闇に力を使ってくれるなよ? 地獄が崩壊して罪人達が冥界に溢れかえっては、目も当てられぬ」
「最大限の努力はする。しかし、バストレルか。最後に残した言葉が、今でも耳に残ってはいるが、正直に言えば多少複雑な心境だ」
私の掌の上で踊っていただけだと悟り、絶望に捉われたバストレルが最後に力なく呟いたあの言葉。あの時はさして気にも留めなかったが、今こうして振り返ってみると多少思うところが出てくる。
出会い方が違えば、もっと早く出会っていたなら、あるいはバストレルの人格が異なっていたなら、いくつもの可能性が私の脳裏をよぎる。
今となってはその全てが詮無き事。考えるだけ無駄だと分かってはいる。いるが……
「ドラゴンよ、道中これに目を通しておけ。バストレルの心の内と生前の行いの全てが記録されておる」
そう告げて閻魔が私に手渡したのは、小さな手鏡だった。
死者を裁く時に閻魔が用いる
浄玻璃鏡が死者の善悪を見極める為の道具だが、その下位互換の品だな。
「さて知らなかった方がよかったと思うか否か、難しい判断を迫られそうだな」
手渡された銀縁の手鏡を見ながら、私は口元に苦い笑みが浮かび上がるのを抑えきれなかった。
「ハーデスは一度直にバストレルの魂から奴の思念を読み取ったようだが、レニーアなる娘のように振る舞えておればよかっただろう、とそれだけ言うておったわ」
「ふむ、事情としては確かにレニーアとバストレルは近いところはある。レニーアは色々と恵まれていたが、本人達の気質以外にも、バストレルはそうでなかったら違いが出たのかもしれん。
いや、やはり考えた所でそう意味のある事ではない。では私はそろそろ行く。あまり時間はかからぬとは思うが……」
「転生を望むように説得しろと言っておいてなんだが、あまり気にせずにお前が思った通りに話して構わん。どんな結果が出るにせよ、それが最善の結果なのだろう。
お前がバストレルと話をしたら、わしからの用事はしまいじゃ。後は無間のところに顔を出してやれ。あれも忙しいがお前と挨拶をする位の余裕は十分にある」
「そうするつもりだ。ハーデスも君も変わってはいなかった。ならば彼女もそうだろうな。では、な」
バストレルと顔を合わせる以上、見せる姿は人間のものよりも古神竜としての姿の方がよい、そう判断した私は人間の肉体の上に古神竜としての肉体を重ねる。
古神竜ドラゴンとしての姿を見た門番達から感嘆の声が上がる中、私は六枚の翼を広げて地獄の内側へと飛び立った。
獄卒達が錆びつき刃毀れだらけの刃で罪人達の身体を延々と切り刻み、もう切り刻む所が無くなれば、元通りの身体に治して再び切り刻む地獄。
罪人を焼けた鉄の地面に伏せさせ、同じく焼けた鉄の縄で四肢を拘束された上、鉄の鞭で打たれ、更にその後になぞって鉄の斧や鋸で切り刻まれる地獄。
生前と変わらぬ痛覚のまま、煮え滾る湯や油、溶けた鉄が満たされた鍋の中に落とされ、延々と茹でられ、揚げられ、焼かれる地獄。
他にもまだまだ無数の刑罰を与える地獄が存在し、特に深い場所の地獄で加えられる責めの多くは、地上世界の時間で数兆年から数百京年に渡る長大なものだ。
だがそれでもいつかは終わりの存在する責苦であり、それすら許されぬ最も罪深き罪人達は、転生も消滅も許されずにそれこそ冥界が消滅でもしない限り責めを受け続ける事となる。
剥き出しの地面と真っ暗闇だけが続く中にぽつぽつと各地獄の姿が浮かび上がる中を、私はただただバストレルの姿を求めて飛び続ける。
時折地獄の中の獄卒達が私に気付き、ぎょっとした顔をするのが見えたが、今はそれらに関わっている場合ではない。
獄卒達の驚きの顔以外にも、地獄全体を揺るがすかのような無数の悲鳴が新たに響き渡ったが……ふむ、私に滅ぼされはしなかったものの殺されて、魂が地獄に落ちた連中か。
自分達を殺した私の姿を見た事で、地獄の責苦すら忘れる恐怖と絶望を呼び起されて叫ばずにはいられなかったらしい。
少しくらい可愛がってやるのもやぶさかではないが、今はお前らに関わっている暇はないのでな。お前達の処遇は地獄の者達に任せよう。
バストレルが落とされたのは、最下層に近い、ではなく。最下層の地獄だった。あそこは、それより上にある地獄全てが甘い夢に思える地獄だというが、バストレルの所業を思えば当然ではあるな。
無限の闇の底の底の底、在ってなく、なくて在る、曖昧でありながら確実に存在する最下層の地獄の門が私の虹色の瞳に映る。
地獄全体の門が、造りそれ自体は簡潔であったのに対し、地面に埋め込まれている最下層の地獄の門は、二枚の門扉それぞれが四本の角を持った鬼の顔をしていた。
いや、正確には二枚の門扉それぞれが鬼なのである。生きた門というわけだ。
鬼達のぐわっと大きく開かれた口内は血で染めたように真っ赤で、黒ずみ一つない白い牙が剥き出しになっている。
真っ赤な顔には黒い隈取りが施され、大きく見開かれた青い目を持った門の鬼達は、私の姿を認めると無限の畏怖を込めた声音で話しかけてきた。思いの外理知的な印象を受ける声音であった。
「閻魔様より用件は承っております。古神竜ドラゴン様」
二つの口からまったく同じ声で、まったく言葉が紡がれるのに、私は詫びの言葉を返した。
「手間をかけるな。本来であれば罪人を落とすか、獄卒達が出入りする時にだけしか開くまいに」
「貴方様の御来訪はそれらを上回る重大事。ましてや閻魔様と無間様の御為になる事をしてくださるのであれば、どうして手間などと考えましょうか。さあ、ドラゴン様、どうぞお入りください」
二体あるいは二枚の門扉の鬼達の唱和する声に遅れて門が開き、その先に広がる、これまで見て来た地獄が比肩にならぬ苦痛の声と絶望の呻き声の中へ、私は勢いよく飛びこんだ。
【後書き】
無間とドランの会話はこのようなイメージです。
無間
“。・∀・)ノ゛”
ドラン
「ああ、久しいな、君の中を通り抜けて転生したわけではないから、私の魂の所在に関しては色々と探し回らせてしまったそうだね」
無間
“☆ミヾ(#`Д´)σ<*))!”
ドラン
「うん? 言い方がいやらしい? ふふ、そうか、女神を相手にいささか不適切な物の言い方をしてしまったな、配慮が足りずすまなかったな」
無間
“。゜+.(○ゝω・)b+.゜。?”
ドラン
「ああ、今は人間として幸せに、そう、いっそ不安になるほど幸せに生きているよ。ハーデスや閻魔は相変わらずだったが、君も変わらぬ忙しさだな」
無間
“(o´ω`o)ぅふふ!”
ドラン
「君達のお陰で地上には死者が溢れかえる事もなく、行き場を失った魂が彷徨う事もほとんどない。生と死の輪廻は上手く回っている。お陰で私が古神竜として力を振るう機会も少なくて済んでいる」
無間
“(●´ω`●)”
ドラン
私の称賛に照れる無間は、本当に記憶の中にあるままで、私としては嬉しいばかりだ。
転生の呪いを解呪しない限りは私が無間にお世話になる機会はあるまいし、解呪した後は後でそうそう死ぬとは思えんし、今のように友として会いに来る以外に会う事はあるまい。
無間
“♪(●´Д`人´Д`●)♪? (っ`・ω・´)っ!”
ドラン
「そうだな、私の恋人達がお世話になるかどうかはまだ分からんが、ハーデスにも生きている間でも死んだ後でも構わんとは言われたが、一度は紹介したいものだね」
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第百四十四話
冥界から地上へと帰還し、セリナとドラミナに精気と血をこれでもかと吸われた――それでも元気一杯だが――分身体を回収した翌朝の事、私はクリスティーナさんと連れだって青い波が押し寄せる波打ち際に立っていた。
空は見渡す限り青く晴れ渡り、太陽の光が燦々と照りつけて砂浜と私達を熱している。
私達は共にガロア魔法学院の制服姿で、クリスティーナさんの両手には鞘から抜いたエルスパーダとドラッドノートが握られている。
「今日はセリナとドラミナさんはどうしたのだい? いつもの仲良し三人組ならここにも一緒に来るだろうに」
心底不思議そうに尋ねてくるクリスティーナさんには、私はどこまで正直に明かしたものか思案しながら答えた。
「二人とも今日は調子を崩していてね。部屋で休んでいるよ。調子を崩したと言っても、なにかしらの病に罹ったというわけでもない。そうだな、食べ過ぎが近いかな?」
「食べ過ぎ? ラミアとバンパイアが? あの二人の食べ物は……ああ、君の精気と血か。
でもあの二人が自分達のお腹の具合を計り間違えるほど吸うとは思えないが、なにかあったのかな?」
「主な原因はディアドラだが、クリスティーナさんも少しくらいは原因かもしれないな」
比率としてはディアドラが九で、クリスティーナさんが一くらいだろうか。
あそこまで露骨に嫉妬を露わにするセリナとドラミナは珍しかったが、ああも嫉妬して貰えるとなると、嬉しく感じる所もある。
「私が? あ~、君に口説き文句を考えておくと率直に伝えた所為なのかな? それならまあ、私も大なり小なり原因の一つか」
「クリスティーナさんだけならまだあそこまではしなかったのだが、あの後にディアドラからも別れ際に少し大胆な事をされてね。それでセリナとドラミナに火が着いたみたいだったよ」
その結果として吸い過ぎで胃もたれのような症状を起こし、セリナはベッドの上で、ドラミナは棺桶の中でうんうんと唸る羽目になるのだから、間の抜けた話である。
クリスティーナさんはディアドラが何をしたのか、非常に気になるらしく、頬をほんのりと赤らめて尋ねて来た。
クリスティーナさんなりにディアドラがした事について、察しはついているらしい。そうでなくては頬を赤くはすまい。
まあ、クリスティーナさんの想像とディアドラが私にした事がどこまで一致しているかは、これから答え合わせをして判明するわけだ。
「ディアドラさんは何をしたのかな? 君に惚れた身としてはもの凄く気になるのだが」
私に惚れた身、というクリスティーナさんの言葉に、私は正直に言って不意を突かれたという他なかった。
クリスティーナさんは、自分に正直に生きると決めた事で、何気ない言動が大胆なものになっているらしい。
ガロアに戻ってもこのままだったら、いよいよ私は毒を盛られたり、ひと気のない所で後ろから刺されたりし始めるようになるかもしれない。
とはいえクリスティーナさんに好かれた代償と考えれば、破格の安さである。
他の生徒達から寄せられる嫉妬や羨望は、勲章みたいなものと考えた方が私の心にはよさそうだ。
「愛している、と言って口付けを」
そんなクリスティーナさんの反応を見たくて、私は正直にディアドラが何をしたのかを伝えた。クリスティーナさんだけ知らないのも不公平だろうか。
「…………」
クリスティーナさんのほんのり赤らんでいた頬は真っ赤に染まり、何も言葉が出て来ない様子だった。
一時期は娼館で小間使いみたいな事をして働いていた事もある、と聞いたが時々ひどく
私に告白したという点においてはクリスティーナさんも同じだが、愛しているとこれ以上ない簡潔かつ率直な殺し文句を口にしたのが、ディアドラとの大きな違いであろう。
加えて口付けまで、しかもセリナとドラミナの見ている前で堂々と鮮やかに、となればこれはもうクリスティーナさんにしてみれば、自分とは天と地ほども違うと感じられているかもしれぬ。
「そそそ、そうか。流石はディアドラさん。やる事が違う。大人だ、うん」
確かにディアドラは颯爽と、そして見事という他ない堂々たる態度で去っていったが、あれで結構可愛らしい面もあるからな。
エンテ・ユグドラシルのおひざ元にお邪魔した時には、私に夜這いしてきたりと大胆な事をするが、だからといって羞恥の念を感じていないわけではない。
昨日、私達と別れた後、自室に戻ってから悶えるか頭を抱えるかくらいの事はしていそうだけれど、それはクリスティーナさんには言わない方が良さそうかな?
「クリスティーナさん、ディアドラへの称賛はそれ位にして、ここに来た目的を果たしてはどうかな?」
このままクリスティーナさんを放っておくと、しばらくは茹でた蛸みたいに赤いままだろう。
ほんのわずかに困った響きを交えた私の声に、クリスティーナさんは大げさな位に肩を震わせて、正気に返ってくれた。
「ああ、いや、これは醜態を晒してしまったな。ううむ、やはり後発である分、後れを取ってしまうなとついそんな事を考えてしまったよ」
「まあ、その通りではあるね。ただお互い人生はまだ数十年はある。生き急がなくてもいいのでは?」
「だが過ぎ去った時は戻らない。してから後悔するのと、しないで後悔するのでは、私は前者の方が性に合う」
「ではクリスティーナさんが、私の心を射抜く素晴らしい殺し文句を思いつくのも、それほど先の事ではないのかな?」
私がそう言うと、クリスティーナさんはなんとも形容し難い妙な表情になった。
こう、顔をくしゃくしゃに丸めたと言おうか、情けないような苦々しいような恥ずかしがっているような、そんなごちゃまぜの表情である。
いかんな、結局話があっちからこっちへと次々に逸れてばかりいる。しかも私から逸らしてどうする。……にしても凄い表情だな、クリスティーナさん。
「すまなかった。意地悪をするつもりではなかったが、クリスティーナさんには少々厳しい、いや、難しい、かな? まだ早い質問だったな。さあ、話を本筋に戻そう。ドラッドノートを構えて」
私が表情を改めて告げれば、クリスティーナさんも一度大きく呼吸をする事で心身を落ち着けて、両腕の魔剣達の切っ先を小さく左右に広げる。
ふむ、意識の切り替えの早さは相変わらずか。クリスティーナさんが慣れ親しんだエルスパーダは何の問題もなくその力を発揮しているが、やはりドラッドノートだけは出力制御に難航の兆しが見受けられる。
いかんせん私を討つ目的で製造されたドラッドノートは、長剣の形状こそしているがその実態は高次元生命体滅殺用の超兵器。
その性能を完全に引き出せれば、三次元の生物が相手なら倒せぬものは存在しない。単一宇宙の破壊くらいは、いくらでも出来る品なのである。
クリスティーナさんはドラッドノートから正統な所有者として認められているが、これまでクリスティーナさんが経験した戦いや扱った事のある力との差が大き過ぎて、使いこなしているとはとても言えない。
ドラッドノートの力をより引き出すと言うよりも、間違って引き出しすぎて宇宙やら銀河やら惑星やらを壊してしまわないようにする為の練習をしている所だった。
ドラッドノートの扱いを練習するだけならエルスパーダを抜くのは不要にも思えるが、今後クリスティーナさんは二振りの魔剣を使って戦う関係上、エルスパーダは必須と考えているらしい。
ほんの数秒の精神集中の果てに、クリスティーナさんの意識は肉体の隅々から、二振りの魔剣の切っ先にまで行き渡る。
「よし、行くぞ、ドラッドノート!」
先程までの醜態など何処へやら、凛々しい表情へと変わり、クリスティーナさんが左手のドラッドノートを、眼前に延々と広がる青い海へと振りあげる。
クリスティーナさんの視線の先には、海の中にぽつんと浮かび上がる岩山があり、目下この岩山だけをドラッドノートの力を斬撃に乗せて飛ばして破壊する事が目標だ。
気合が充溢し、精神を研ぎ澄ましたクリスティーナさんの斬撃にドラッドノートは見事に応え、海面から先端を覗かせている岩山を直撃し、これを左右に割って見せる。
岩山の断面は鏡の如く研ぎ澄まされ、クリスティーナさんの斬撃に必要なだけの力が込められた事を証明している。
しかしこれは見事、と褒められたのはここまでであった。
岩山を断つまでは必要な分の力を制御出来ていたクリスティーナさんだが、手応えでそれを悟って気が緩んでしまったのか、一瞬だけドラッドノートの制御が緩むのを私は見逃さなかった。あちゃあ、と言わざるを得ない。
岩山が真っ二つになった直後、その向こうに広がっていた海のみならず、更にその先に広がっている悠久の空、そして空の先で無限に広がっている宇宙の星々が鮮烈な光に飲み込まれ、そして呆気ないほど静かに消え去っていた。
クリスティーナさんがドラッドノートの制御を緩めた瞬間、制御を離れた力の一部が宇宙の果ての果てまで到達し、惑星や恒星すらも、そして無数のそれらによって構成される銀河や銀河団などを原子にまで破壊し尽くしたのである。
この星自体は角度の関係から少しばかり抉れた球体になった程度で済んだが、宇宙の方の被害はまあひどい。
既に重力異常や大気に異常が生じて始めているが、私は言わずもがなドラッドノートに守られているクリスティーナさんも特に支障はない。
クリスティーナさんも自身が制御を誤った自覚はあったらしく、一瞬で様変わりした光景を前にあ~、と珍しい呻き声を発している。
「私としては途中まで上手くいったと思うのだが、やはり岩山を上手く斬った時の気の緩みかな?」
「それだな。あそこで針の先位の気の緩みを作ってしまったのが、失敗の原因だよ。それがなければ今回は最後まできっちりと上手くいった」
「そうか……やはり私にとってドラッドノートは強過ぎる力だな。
なんとか必要になりそうな分だけでも、完全に制御できるようになりたいが、これではこのまま並の魔剣程度の扱いしかしてやれないな。
流石にそれは忍びないと思って練習を始めたが、現実は厳しい。使いこなせるようになるまでの道は、まだまだ険しく長いようだ」
ドラッドノートを立てて、その刃に赤い視線を這わせながら、クリスティーナさんは申し訳なさを前面に押し出し、我が身の情けなさを吐露する。
「私と戦った時のセムトは、完全にドラッドノートの性能を引き出していた。バストレルはまあまあだったかな。
クリスティーナさんはなるべくドラッドノートに話しかけて、セムトがどうドラッドノートを使いこなしたか尋ねてみる事だ」
「我が先祖ながらよくもまあ、使いこなせたものだ。おっと、最近はどうもドラッドノートの練習をしていると、同じ事ばかり言っている気がするな」
「私とレニーアが地上に居る以上は、ドラッドノートの制御を誤ってもいくらでも取り返しはつくけれど、クリスティーナさんに心労が貯まるからな。
やはり扱いきれるようになった方がいい。それにその為の練習の場ならいくらでも提供する。さあ、もう一度だ。
今回の無間はこんなんです。
ハ:“まずは我らの友が息災であった事~”
閻:“生きようと言う意思に満ちている事以外は特に変わりはなかったな~”
無:“(--)”
無:“(●^o^●)、(?_?)?”
閻:“ドランの下へか?~~”
無:“・゜・(*/□\*)・゜・”
ハ:“言ってやるな、閻魔よ。ドランの所へはマイラール達が既に降り立ち、更には時の女神が半ばドランの眷属とさえなっているという話だ。ならば無間が我儘を言うのも無理なき事よ”
閻:“ドラゴンが人間としての死を迎えた時、自らをどう遇するかによってまた話は変わってこよう~~”
ハ:“今すぐ解呪しないのは~~”
無:“(o'д'o)!、*゜。+(n´v`n)+。゜* !”
閻:“これでは、余計に無間がドランのところへ行きたがる結果になってしまったか~~”
ハ:“閻魔の言う事はもっともか~~”
無:“(o'ェ'))? (*≧д≦)(≧д≦*)、(☆ω☆)!”
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第百四十五話
レニーアの御両親であるブラスターブラスト男爵夫妻とお会いし、お土産まで頂戴してから、私は宿舎へと戻った。
レニーアはそのまま御両親のところに留まっている。おそらく門限近くまで戻っては来ないだろう。
今頃は、御両親から私に対する印象などを、改めて根掘り葉掘り聞かれていると思う。
頂戴したお土産は王都で著名な菓子職人の焼き菓子だが、胸やけと胃もたれを同時に起こしたような容態のセリナとドラミナは、まだ食べる気にはならないだろう。まあ、日持ちのするものだし体調が治れば食べられるかな。
丁寧に包んで貰ったお土産の箱を片手に宿舎へ戻ると、何やら私の部屋の周りに生徒達の姿がちらほらと散見される。
その中には私と親しい大柄で赤毛のゼノンや細身で金の巻き毛のベルク、善良だが空気の読めないヨシュアの姿もあった。
私の競魔祭での暴れぶりに大なり小なり引いた感のあったゼノン達だったが、日を置いた事もあってか以前の通りの対応に戻っている。まことにありがたい事である。
彼ら以外の生徒達から畏怖のような感情をこれまで向けられていたが、今はなにやら好奇心の方が強い。
はて? という思いが顔に出ていたらしく、やや興奮したベルクが声を掛けて来た。
「おいおいドラン、何処に行っていたんだ?」
「レニーアと一緒に少し出掛けていたのさ。セリナやドラミナは調子を崩していたから、今日は休んで貰っているよ」
「おぉい、どこにいても女の子が傍にいるのな、お前!」
ベルクにしては乱暴な口調が、それだけ興奮している事の表れといえよう。しかし、私の周りに女性が多い事など、自分で言うのもなんだが今更ではなかろうか。
「普段の行いのお陰でね。それで、どうして私の部屋に人が集まっている? セリナとドラミナが何かしたのか、それとも何かされたか?」
後者であったなら看過できない事態だが、セリナ達から念話などで連絡は届いていないし、私自身胡乱な気配を感じていない。
調子を崩しているとはいえ、セリナとドラミナに何かできる実力者などそうはいないし、身に危険が及ぶような事が起きたという線は、まずなかろう。
私の質問に答えたのは、ゼノンやベルクと違いいつも通りの朗らかな態度のヨシュアだった。
「君の留守中に御客人が来たのさ。ほら、前から君達がガロアでたまに行動を共にしていた、竜人の女性達だよ。
今は君の所のレディが相手をしているけれど、全員揃ってとんでもない美人だし、競魔祭の会場で見かけたりもしたから、皆気になって仕方がないみたいだ」
「ふむ、竜人となるとヴァジェに瑠禹、それに……リュー・キッツか」
龍吉の場合、口にするなら一応本名ではなく、偽名のリュー・キッツにしておかねばな。
それにこうして皆が正気を保っている所を見るに、龍吉は自身に幻術を掛けて素顔を目撃されないようにしてくれたか。
私達はもう王都を離れる頃だが、その事で別れの挨拶でもしに来たのかな? 龍吉達は、まだこちらに滞在するのだろう。
「それならあまり待たせては申し訳がないな。すまないが、通して貰えるか? ほら、私も私の御客人も見せ物ではないのだから、皆、部屋に戻ってくれないか」
級友であるゼノンやヨシュア達ならばともかく、それほどの付き合いもない他の生徒達の見せ物になる趣味はない。少しばかり圧力を込めて野次馬達に声を掛けてから、私は自室の扉を開いた。
「ただいま。戻ったよ」
さてセリナとドラミナはどの程度まで回復したかな。
部屋の中に入ってみれば、椅子を寄せて丸テーブルを囲む龍吉達の姿があり、セリナとドラミナは起き上がって龍吉達の相手をしていた。
ふむ、セリナとドラミナのどちらも顔色はほぼ元通りか。吸い過ぎた分の消化がようやく済んだとみえる。
「こんにちは、ドラン様。お邪魔しております」
「お邪魔しております」
「ご、ごきげんよう」
椅子から立ち上がり、龍吉が親愛の情に満ち溢れた笑顔で挨拶をして来るのに続き、瑠禹とヴァジェも立ち上がって挨拶の言葉を述べる。
ヴァジェはこの前の話し合いが功を奏し、私を前にしても冷や汗をかいたりだとか体を震わせたりだとかしなくなっている。ふむ、早速成果が確認できてなによりである。
「セリナ、ドラミナ、もう起き上がっても大丈夫なのか? あとこれはレニーアの御両親に頂戴したお土産だ」
丸テーブルの上には白磁のカップに注がれた紅茶が人数分用意されていて、普段セリナとドラミナが手ずから作っているお茶菓子が更に盛られていた。
セリナが私の差し出した包みを受け取り、大分血色の戻ってきた顔に微笑を浮かべる。
本当に容態が悪いのなら、龍吉達は気を遣って留まりはしなかったであろうし、持ち直したと考えてよさそうだ。
「ドランさんにお恥ずかしい所をお見せしてしまいましたけれど、もう大丈夫ですよ」
「ふむ、ドラミナも大丈夫かね?」
私の問いかけに、ドラミナは気品という概念の結晶のような顔に恥じらいの赤色を浮かべた。ここまで赤くなるドラミナもなかなか珍しい。
いくらディアドラに触発されたからといって、そしてまた私が好きなだけ甘えさせてくれるからといって、節度を忘れて血を吸った事はドラミナにとって穴があったら入りたい位に恥ずかしい事なのだろう。
「はい、しばらくはドランの血を吸う気にならない位に吸ってしまいましたが、今はもう落ち着きました。レニーアさんの御両親はどのような方でいらっしゃいましたか?」
ドラミナと話している間にセリナが用意してくれた椅子に腰かける。席順は私の右からセリナ、ヴァジェ、龍吉、瑠禹、ドラミナとなり、丸テーブルについているので、ドラミナが私の左手側に来る。
セリナと連携したわけでもないのだろうが、見事な呼吸で龍吉が淹れてくれた紅茶が、私の前に差し出される。ありがとう、と告げれば龍吉はにっこりと笑みを深めて会釈を返す。ふむん、なんとも心地良い。
「とても素敵な方々だったよ。レニーアの持つ悪性が肥大化せずに育ったのも、納得がゆく。レニーアも叔父との対話で両親への愛情を自覚したようだし、これからは仲の良い親子としてやってゆくだろう」
魂の側の父親としては、
私はずいぶんと穏やかな顔をしているらしく、質問をしてきたドラミナばかりでなくセリナや瑠禹も釣られるように穏やかな表情になっていた。
「それで龍吉と瑠禹とヴァジェは、今日はどうしたのかね。王国との話し合いは一段落したのかな?」
私からするとすっかり親しみの持てる相手なのだが、我がアークレスト王国上層部からすると、歴史上に前例のない超大国との外交交渉の真っただ中。
しかも相手国の国家元首とその娘という、最高位格の相手がそろって王都に来ているわけだから、交渉はそうやすやすとは終わるまい。
とりあえず今回は双方の窓口の設置と、今後の交渉の予定を汲む辺りまで話が進めば御の字なのではなかろうか。まあ、私に政治の事などこれっぽっちも分からないのだが。
「もうしばし国王陛下や王太子殿下とはお話をして行く予定です。その為、ドラン様達がガロアに戻られる折にお見送りが出来そうにないものですから、先に御挨拶をと思い瑠禹とヴァジェさんを伴ってまかり越しました」
「そうか、それは気を遣って貰ったな。ありがとう。ふむ、龍吉と瑠禹が王都に残るのは分かるが、ヴァジェはどうする。
君は龍宮国の臣下ではない。いつモレス山脈に戻る予定なのかな?」
この間の話し合いで改善されてきたとはいえ、極力ヴァジェが萎縮しないように優しく話しかけると、ヴァジェは多少の緊張の色こそあれしっかりと私の顔を見て口を動かした。
ふむ、これならファティマに白い目で睨まれる事は無いだろう。ファティマに睨まれても、子猫ににゃあにゃあと鳴かれているようなものだが、精神的に大変に堪えるものがある。
「もう少し龍吉様達のお傍で、この国の人間を見て行こうかと思っています。ガロアでも人間達の事は見て来ましたが、ここではより多くの人間や他の種族の者達を見る事が出来ます。
それとファティマ達にはこの後で会いに行きます。ドラン様の事は睨まないように言っておきますから、御安心ください」
「そうしてくれると助かるよ。ただ、贅沢を言えばファティマの前ではドラン様ではなくドランさんで頼む。
今の接し方もヴァジェが大変に苦労している事は理解しているつもりだが、それでもこれまでの態度とは正反対もいいところだからな。どうだろうか、無理そうであるのならそのままで構わないよ」
少しヴァジェには酷な頼み事かもしれない事は私にも分かるから、強要するつもりはない。
ただ今後ゆっくりと慣らして行くのに、様と呼ぶのをさんに変えるのは段階を踏む手段のまず第一歩としては、そう悪くはないと思う。
ヴァジェは手首から先が深紅の鱗に覆われた腕を組み、険は強いが美しい顔立ちを悩みの形に変える。誰が見ても真剣と分かる表情であった。
「ううん、ドラン様ではなくドランさんですか。以前は畏れ多くもお前と呼んだり、呼び捨てにしたりしていましたから、その時に比べればまだ気苦労はありませんが……う~~~~ん、分かりました。このヴァジェ、微力を尽くして御心に沿いましょう」
その物言いでもファティマに不審な顔をされそうだが、つい数日前までのヴァジェの態度を考えればまず上出来だろう。
それにしても、もうかつてのようにヴァジェがつっかかってくる事がなくなるのかと思うと、それはそれで意外と寂しく感じられるものだ。
「すまないな、ヴァジェには要らぬ苦労を強いてしまっている。さて、龍吉、瑠禹、王国との外交も忙しいだろうが、他の竜帝や龍皇達との会見は目途がつきそうかね?
私の身体はいつでも空いているし、竜界の同胞達もまず時間はいくらでも取れるだろう。君達の都合を優先して貰って問題はないからね」
以前に龍吉以外の三竜帝三龍皇達と一度顔を合わせて、古神竜という存在に慣れる機会を設けるという話が出たが、さてそちらの進捗はどうなっているのだろう。
私である程度慣れが出来たら、竜界に居る私の兄妹姉妹や竜帝と龍皇らの祖に当たる者達や、近縁の者らを招き、竜界と地上の交流を始めるきっかけとする筈だったが……
「皆が皆、ドラン様とお会いする機会をお与えいただき、過剰なまでに緊張しておりますよ。例外はコンクエスター老くらいでしょうか。あの御方は若かりし時分に、ドラン様と直にお会いした事があるとの事でしたから」
「最長老格の白竜帝か。聡明さの伺える若者であったが、話を聞く限り今では立派に竜帝の役目を果たしておるようだな。会うのが楽しみだ」
「ふふ、皆にはそのように伝えておきましょう。一応、仲介として私と瑠禹も同席しようかと思います。
瑠禹は次代の水龍皇。現竜帝や龍皇と顔を合わす機会は多い方がよいでしょう。
他の龍皇よりも先に古神竜であるドラン様とお会いしてしまったのは、順序が逆になってしまいましたが、そのお陰で誰が相手でも緊張する事はありますまい。
怪我の功名、といってはドラン様に対し不敬でありましょうか?」
「別に良いのではないか? 龍吉の言う通りだろう。自分で言うのは面映ゆいが、王の前に神と会ってしまったら、王が相手ではさしたる緊張もしなくなるのは、まあ分かる話だ。
そういえば瑠禹は黒竜帝や風龍皇などに、顔見知りはおらんのかね?」
「直接お目見えする機会は滅多にはないのですが、風龍皇である
風歌様はまだお若く私とそう年が変わりませんし、外見だけをみれば私よりも幼いほどです。火龍皇
「ほう、当代の風龍皇は随分と若いらしい。ヴリトラと顔を合わせたら目を回してしまいそうだ。
リヴァイアサン、バハムート、ヨルムンガンドはまだ安心できるが、他の面子は地上の同胞を幻滅させそうで怖いな。
君達は竜界の祖らと会う事に緊張しているが、なに、私達の側でも多少は緊張しているさ。地上の同胞達とは久方ぶりの顔合わせだ。幻滅させやしないかとね」
多少おどけた調子ではあるが、本当の事を私が口にすると、瑠禹はとんでもないと言わんばかりに首を左右に振り、それに合わせて艶やかな黒髪が揺れる。
「そのような事はございません。幻滅するなどとんでもない話でございます。
こうしてドラン様とお話できているだけでも、とてつもない幸運に恵まれましたのに、その上竜界に住まわれている我らの祖である方々とお目見えする機会までお与えいただいたのです。どうして幻滅などしましょうか」
「そこまで言って貰えるのは光栄だが、私の兄妹達は君らが思うほど高尚ではないからなあ。この間、君らが目にしたアレキサンダーなどはその良い例だ。まあ、アレキサンダーほど残念な者は流石にそう多くはないけれどね。
ふむ、とりあえずガロアに戻ったら、地上の同胞達との会合と学業の再会、それに就職先を本格的に探す事になるか」
競魔祭でそれなりに活躍してみせた事だし、就職先に関しては選ぶ事が出来るようになるのではないか、と私はやや楽観的に考えていた。
私の求める条件に完全に一致する就職先がどれだけあるかは不明だが、多少の妥協をすれば魔法学院卒業後無職という事にはならんだろう。
古神竜の魂を持つ私が就職先などと、いかにも世俗的な事を口にしたのがおかしかったのか、龍吉の口元に浮かんでいた魅力的な笑みが意味ありげに深まる。おや?
「ドラン様ならお望みの所で働く事が出来るでしょう。それに良い事もきっとありますよ」
「君が色々と関わっていそうだね、その良い事とやらには」
「ふふ、どうでしょうか? ただドラン様はもう察しがついておられるのでは?」
「色々な方に言われたからな。龍宮国の方で働きかけてくれている事は、承知の上だ」
ゴルネブの件と龍宮国との外交の件で、勲章あたりでも貰えるのかな、と私は思っている。
それから更に龍吉達と一時の別れを惜しんで世間話をした後、三人は私の部屋を去り、ヴァジェはファティマの所へ、瑠禹と龍吉は王宮の方へと戻っていった。
そして翌日、セリナとドラミナの体調も回復し、私達ガロア魔法学院一行は飛行船に乗ってガロアへと帰還するのだった。
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第百四十六話
懐かしく感じられるガロア魔法学院に戻ってきて変わった事は、私が騎爵位を授与された事や生徒達からより一層の注目を集めるようになった事ばかりではない。
これまで溜めこんでいた依頼の他にも、どことなく私の力量を試そうという意図が透けて見える類の依頼が、私を名指しにして増えていた。
「これは露骨と言っても良いのではないかな?」
事務局に足を運び、そこで手渡された名指しの依頼の束を手に、私は左に立つセリナと右に立つドラミナに同意を求めた。
セリナは少しだけ困った顔になってから、私の手の中の紙束に青い瞳を向ける。
試すような真似をする事は褒められたものではないが、私が評価されているのは嬉しいというところかな?
「ドランさんの言う通りかなとも思いますけれど、でもドランさんが評価されているという事なのですから、必ずしも悪い事ではないですよ。
全部が全部ドランさんの将来を求めてではないと思いますけれど、これだけの方々に興味を持たれていると素直に胸を張って良いと思います」
「そうだな。そのように前向きに捉えてみよう。といっても全てを受けるのは二人に手伝って貰っても無理が、いや、分身すれば出来なくはないが、手札を晒すのもどうかといったところだな。ドラミナはどう思うかな?」
こういう大局的な視点で物事を考える時、統治者として辣腕を揮っていたドラミナは頼りになると思い意見を求めたのだが、ヴェールで素顔を隠しているドラミナはつんと顔を逸らして口を閉ざしている。
ふむ? ドラミナがここまで不機嫌な感情を露わにして、拒絶の意思表示をするのは珍しい。正直に言って、私は表には出さなかったが大いに驚いたほどである。
「ドラミナ?」
改めて名前を呼んでみても、我が麗しの女王はつーんといった様子で、私から顔を背けている。ふむむ、これはどうにも強固な意思表示だぞ、と私はセリナと顔を見合わせる。
どうしたのかね? どうされたのでしょうね? と私達は視線で言葉を交わし合う。
「ドラミナさん、どうかなさったのですか? おへそを曲げちゃいました?」
私だけでなくセリナにしても珍しいドラミナの反応であったから、私達はお互いに困った顔を浮かべ、ドラミナに問いを重ねる。
一応人目を忍ぶ程度の事には考えが及び、事務局の隅へとそそくさとまとまって移動しておく。
「私が太陽の昇っている間、眠りに誘われるのはバンパイアという種族である以上、仕方のない事ですし、本来であればそれが健全でもあります」
ようやく口を開いてくれたかと思えば、いかにも怒っていますよ、といった声の響きで自らの種族の生態について語りだした。
私達からすれば何を今更といった感が強いが、折角閉じていた扉が開いたのだ。
わざわざそれを閉ざすような真似をする必要はあるまい。私とセリナは黙って口を噤み、ドラミナが語るに任せた。
「二人が私の事を慮って、日中眠りに就く私をそのままにしてくださっている事は、私自身理解しています。でありながら二人に対して憤るのは、私の勝手であり我儘と分かっています。
しかし、それでも私はしかしと思ってしまうのです。言わざるをえないのです。二人とも、どうして爵位を授けられる時に私を起してくださらなかったのですか!?」
うん? おや、私の可愛いドラミナが機嫌を損ねてしまったのは、オリヴィエに爵位を授与されている時に、彼女を起さなかった事が原因らしい。
定期的にドラミナにはきっちりと日中に休息して貰う事が大切だと考えていたからなのだが、それとてドラミナは理解した上で拗ねている。
あまり下手な事を口にするとますます拗ねてしまうが、いつもは意識するまでもなく高貴と優雅という概念の体現者然としたドラミナが、私達を相手にする時は飾らない姿を晒してくれるのは嬉しく思える。
私とセリナは困りながら喜び、同時にどうドラミナの機嫌を直すかと頭を捻るという器用な事をしていた。
「爵位の授与とはいっても学院長と私達だけしかいない、簡素な形式だったよ。こう言ってはなんだが、晴れ舞台という程のものではなかったさ」
「そうですよ。騎爵位をいただけたのはとても素晴らしかったですけれど、ドラミナさんがお国でなさってきたような事とは、多分、かなり違うものだったと思います」
かつてはこの惑星のバンパイア達にとって、もっとも貴い血統の女王として大国を統べていたドラミナだ。
私が騎爵位を授けられた時とは違い、大々的に宣伝し衆目の目を集めた壮大な場で、多くの臣下達に貴族位や勲功を授けて来た事だろう。
「それとこれとは話が別なのです。面倒臭い女だという自覚はありますが……」
拗ねた時のファティマみたいになっていたドラミナだが、言葉尻は随分と弱々しい。自分で口にした通りに我儘を言っている、と分かってはいるのだ。
「まあ、甘えてくれるのも我儘を言ってくれるのも、そうしたい相手だからと思えば誇らしくさえある。ただ、ちょっと予想のしていなかった方面だったもので少し驚いているというのが、本音だよ」
私が、また甘やかして、と誰かに言われてしまいそうな態度を取ると、ドラミナはほっと安堵した様子でセリナに同意を求めてぐいっと顔をセリナに寄せる。
「セリナさんだって自分が居ない時に、私がドランの傍に居て今回のような事があったら、お臍を曲げますでしょう?」
「え、え~~っとぉ」
ここはドラミナと意見を異にして分別のある大人の意見を口にするのが、セリナとしては賢い選択だったかもしれないが、それが出来る少女であったらそもそも口ごもりはしない。
目を泳がせるセリナの態度そのものが、ドラミナと自分の立場が逆だったなら、同じように拗ねて私を困らせたと雄弁に物語っている。
「わ、私はぁ、ドランさんへ遠回しな甘え方をしなくても、もっといい甘え方があったんじゃないかなあと思います」
「えー」
おやま、ドラミナがこんな声を出すのも珍しい。
私達を困らせるというよりも、じゃれつくのがドラミナの目的であったろうし、こうして取り留めのない会話をしていればドラミナの機嫌は直るかな?
ふむ、もう少し待ってドラミナの気が済んだら、依頼の選別に関して意見を貰えるようになるだろうか。
その後、機嫌を直してくれたドラミナに――我儘を言った事に対して恥じらう姿は非常に可愛らしかった――意見を求めて、限られた時間と限られた情報の中でより有益であると判断できる依頼を選び、事務局に伝えた。
やはり宗教の力は強い。しかもその頂点である神々は私の知己ないしは私の存在を知っている、という事から神殿関係のものが多く、他にはガロアを中心に商業活動を行っている商人などの依頼が対象となった。
貴族からの依頼に関しては私自身が曲がりなりにも騎爵位を授かった事。
貴族の縁故ならば、オリヴィエを含めて生徒間でも十分なものが出来ている事。
下手に手を広げるのもしがらみが出来る可能性の方が大きいと言う事の以上三点から、今回は優先順位を低いものにさせてもらい、私は飛び級に必要な試験や授業の合間に、受諾した依頼を順調に片付けるのだった。
*
王都から帰還し、溜まっていた依頼や授業を順調に片付け、落ち着いた日々が戻ってきた頃。
ガロア近郊の草原に私、セリナ、ドラミナ、クリスティーナ、レニーアの五人が集まり、私達が見守る中でドラミナとクリスティーナさんが、絶え間ない剣戟の音を周囲へと鳴り響かせている。
全試合全勝利の上で競魔祭優勝の実績を引っ提げて戻ってきた私達に、魔法学院の生徒達は称賛の声を絶やさず、何処へ行くにも誰かしらの視線と注目があり、少なからず息苦しさを感じる有り様であった。
そんな中、授業の合間を縫って余人の目を離れた場所に人避けの結界まで張った上で、私達は息抜きがてら二人の模擬戦を見学している。
秋は深まり風には赤く熟した林檎の匂いが混じり、木々を彩るのは瑞々しい緑から朽ちゆく前の赤や黄色に染まった葉であった。
冬の到来がもうそこまで来ているのが分かる冷たい空気と、夏の苛烈さが鳴りを潜めた陽光の下で、共に赤い目をした紫銀と白銀の髪の女剣士達は、私達の存在すら意識から外して目の前の相手に集中している。
大きな一枚布を草の上に敷いて腰掛けた私達の周囲には、防御以外にも外部からの視線を遮断する隠蔽の結界を展開しているバリアゴーレム達が配置され、誰の目からも剣姫達の刃の煌めきを隠している。
ドラミナは私の愛用している長剣と同じ形の神器ヴァルキュリオスを振るい、クリスティーナさんは魔剣エルスパーダと古神竜殺しの剣ドラッドノートの二刀流と変わらぬ戦い方だ。
クリスティーナさんはドラッドノートの力を引き出す事に関してはまだ難があったが、逆に競魔祭での試合の時のようにまったく力を引き出さずに使用する分には問題がない。
力を引き出さないドラッドノートは、ひたすらに頑丈で切れ味の良い長剣程度だ。
これならクリスティーナさんも余計な事に気を遣わずに、持てる技量を全開にして模擬戦に臨める。
私が少しばかり時間軸に干渉し、バリアゴーレム内部の時間は、結界の外では太陽の光が降り注いでいるにも関わらず夜へと移行しており、ドラミナの心身への悪影響は排除されている。
ちなみに普段これをしないのは、ドラミナが私と同じ自然のままの時間を歩んでいたいから、というなんともこそばゆい理由による。
バンパイアとしての能力を全開にできるドラミナは、普段は陽光避けと魅了を防ぐ為に被っているヴェール付きの帽子を外し、楽しげにクリスティーナさんと刃を交え続けている。
一方のクリスティーナさんは、競魔祭以前より更に密度と熱を増した生徒達からの視線に辟易とした鬱憤を晴らすように、神経を研ぎ澄まして二振りの魔剣を用いて竜巻のような連撃を繰り出している。
亜人種最強の一角であるバンパイア。その最高位にして最強の存在であるドラミナ。
人間の上位種であり最高の生命である人に近い超人種。さらに古神竜殺しの因子を持つクリスティーナさん。
身体能力一つをとっても一踏みで軽く音の壁を越え、時には稲妻や光にすら反応してのける上に、霊格の高さによって持つ神通力により物理・魔法の両法則を無視する事すら出来る二人の戦いは、人型の生物としては非常識の極みに近い。
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第百四十七話 ※簡易年表
エステラル銀河を版図とするエステラルド銀河連邦は数千年の昔、異なる銀河で争っていた卑小な異星人達と戦い、今もなお拭えぬ連邦発足以上最大の屈辱とされる大敗北を喫した。
当時、連邦の保有する艦隊の内、五割強で構成される大規模宇宙艦隊を派遣し、誰も彼も別銀河が自分達の版図の一部に加わる事を信じて疑う事をしなかった。
しかしその銀河に到達した彼らを待っていたのは、版図こそ連邦に大きく劣るが卓越した技術力と修羅の如き無限の闘争心、際限のない欲望、おぞましいまでの蛮性を誇る複数の異星人達からの苛烈極まる反撃の砲火であった。
既にその銀河内で二千年以上に渡って覇者を決める争いをしていた彼らは、別銀河からの侵略者を前にしても手を取り合う事をせず、戦争を継続しながら新たな侵略者と戦う選択肢を揃いも揃って選ぶ。
しかもあろうことか、一度もまともな連携を取らずに撃退する事に成功してしまったのである。
遠征に参加した艦隊の九割九分以上損失という空前絶後の大損害に留まらず、エステラル銀河にまで追撃してきた者達の手により、連邦はその軍事力と影響力を著しく失い、発展の一途を辿っていた歴史は衰退の奈落へと突き落とされた。
連邦に再び別銀河に遠征するほどの力がない事を知った追撃者達は、早々に自分達の銀河へと帰還し、再び同じ銀河に生を受けた者同士で争いを再開する。
まるでお前達等はじめから眼中にないのだと言わんばかりに去ってゆく追撃者達を、当時の連邦の生き残り達は網膜に焼きつけたと言う。
それから生き残った連邦の住人達は、脳が沸騰するかのような屈辱の炎を片時も忘れる事はなく、ついに怨恨を糧に数千年を掛けてある程度の規模の艦隊を再建し、復讐を果たす為の計画を実行に移すに至った。
かつて自分達を迎撃し、追撃をしかけて来た異星人達の母星へ電撃的な奇襲を行い、破壊し尽くす。占領や支配する事など欠片も考慮していない、ただただ恨みを晴らす為だけの計画であった。
再建なった新生エステラルド銀河連邦から派遣された宇宙艦隊の一つが目指したのは、かつて自らを天に座す人――
天人達が入植した数多の植民惑星に既に天人達の姿はなく、人工天体のほとんどは破壊し尽くされるか機能を停止して久しく、艦隊を阻む者は宇宙の虚空に居はしなかった。
空間跳躍を用いた侵攻は順調に進み、天人達の母星が存在する星系の最外縁部にまで達した時、複数の種族で構成された艦隊の構成員の顔に復讐の快楽の予感がもたらす笑みが浮かび上がる。
既に天人と呼ばれた者達が滅びたのは彼らも周知の事であったが、怨敵が生まれた星というだけでその存在を抹消するに値すると、彼らの怨嗟の炎はまるで鎮まる事を知らない。
流体金属で構成された彼らの艦艇群は大小のエイのような形をしており、ようやくかつての技術力の一端を取り戻し、心血を注いで再建したものである。
各艦に天体破壊用の兵器が搭載されていて、天人達の母星を一千回でも一万回でも破壊する事が出来る。
艦隊の総司令官に任じられたエステラル銀河出身のハイエルフ、シュー・ラ・クリーエルは、プラチナを思わせる長髪をかきあげ、翡翠の瞳に望遠画像で映し出された天人の母星をじっと見つめていた。
永遠の寿命を持つとも言われるハイエルフのシューは、外見こそ三十歳になるかどうかというものであったが、天人達の手によって連邦に参加していた母星を破壊し尽くされた過去を持つ。
首から上以外をカバーし、体のラインをくっきりと浮かび上がらせる銀色のボディスーツは、着用者の体格を選ばぬ全環境対応型の防護服だ。宇宙空間に放り出されても、なんら支障なく生命活動を維持できる。
その防護服に包まれた左掌に右の拳を打ちつけて、シューは怨念だけが渦巻く瞳を望遠画像に向けたまま笑う。
星系の外からでも天人の母星を破壊する事は可能であったが、怨嗟に狂う彼らは望遠画像を用いずとも直に目に映せる距離で、母星を破壊する事を望み艦隊を進めている。
艦隊に所属する人員の多くは、シューとは異なり母星を破壊された瞬間など知らぬ後世の者達だが、父祖から凝(こご)るほどに密度を増した怨念を受け継いでおり、誰ひとりとして天人とはもはや関係のない者達が住む惑星を破壊する事に、なんの躊躇も感じていない。
「全艦、速度を維持したまま目標へ向けて前進。さあ、我らの恨みを、諸君らの父祖の憎しみを、銀河連邦に生き、死んだ全て者達の想念を思い知らせる時が来た。
おぞましき我らの仇敵の一つ、天人達を生み出した忌まわしき星を我らの手で撃砕し、粉砕し、消滅させ、我らエステラルド銀河連邦の栄光の名を全宇宙に知らしめる戦いの始まりを告げる狼煙とするのだ。
奮起せよ、かつて恥辱に塗れた我らの名誉を取り戻す戦いである。狂喜せよ、虚空の海に散った我らの栄光の輝きを再び放つ為の戦いである。邁進せよ、進め、進め、我らの行く道こそが我らの新たな栄光の歴史となるのだ!」
シューの演説は全艦に通達され、士気をこれ以上ないほどに高めている。彼ら全員の胸には怨嗟という共通の原動力があり、それらを燃やすのはいとも容易い事であった。
このまま進めば直に天人達がこの世界に誕生した母星を破壊し、その存在の痕跡を払拭できると、誰も彼もが喜んでいた。そんな彼らに水を刺すかのように、哨戒と偵察に展開していた小艦隊から連絡が入る。
黒い金属板が重なり合ったような姿を持つ金属生命体のオペレーターが、彼らの種族特有の思念を艦に標準装備されている翻訳機が連邦の標準言語に変換し、シューに明瞭に伝える。
『パークセナル艦隊より入電。方位4-7-8-5、距離一万八千テオラルに推定レベル六の生命体――竜を確認』
連邦の基準に於いて、宇宙戦艦に匹敵する戦闘能力を持つ生物ないしは兵器。それがレベル六だ。
「この距離まで接近されていたか、ステルスか? 天人共の母星、奴らが言うところのアーカディアンに棲む竜どもか。忌々しい種族め。
だがこれだけの艦隊にレベル六程度では脅威足りえんが、竜帝共の差し金だな。天人は滅びても貴様らが生き残っている事は調べがついている。
対象をデア1と仮称。全兵装の使用を許可する。全艦、主砲発射準備。目標デア1。
パークセナル艦隊にはそのまま竜の足止めをさせろ。このまま全艦の主砲斉射で原子まで破壊しつくしてくれる」
レベル六の生命体相手に過剰に過ぎる火力の集中とエネルギーの無駄にも、誰も反論を唱える事はしなかった。彼らの求める復讐の開幕を告げる鐘の代わり、精々がその程度の認識であろうか。
天人達と同等以上に憎悪の対象となっているアーカディアンの三竜帝三龍皇の眷属であるのならば、見逃す理由など何一つない。いや、アーカディアンに住まう生命なら、例えダニの一匹、花の一輪だろうと見逃す道理はないのだ。
シューの命令通りに全艦のエネルギーチャージが済むまで後わずかに迫った時、先程の金属板のオペレーターから悲鳴を思わせる思念が伝わる。
「対象デア1より高エネルギー反応、推定レベル変動、六、七、八、九……十、なお増大中!」
「レベル十以上、眷属ではない、三竜帝共自身か! 主砲斉射急げ、エネルギーチャージの完了を待つ必要はない。
次元切断弾頭並びに反物質弾頭を魚雷発射管に装填、デア1に対し自動追尾発射並びに跳躍発射を順次敢行。発射のタイミングは各艦に委任する!」
それまでの余裕と憎悪の笑顔を捨て去り、望遠画像を睨むシューの瞳に映ったのは、宇宙空間の只中にあって、黄金の鱗を輝かせながら何ら支障なくそこに佇む巨竜だ。
「憶えている、憶えているぞ、黄金の魔竜よ。
貴様にポーラウェラ惑星要塞を吹き飛ばされた時の事も、我が樹木戦艦十万を尽く灰燼に帰された時の事も、昨日の事のように憶えているぞ、金竜帝ゴルベラムめえええ!!」
金竜帝ゴルベラム。
長きに渡り金竜帝の玉座を預かる老齢に差し掛かった竜で、若かりし頃の龍吉やコンクエスター、他の先代竜帝や龍皇らと共に銀河間戦争に参加して、連邦に言語に絶する苦汁を舐めさせた怨敵の一体である。
一万八千テオラルの彼方から放たれた中性子ビームや陽電子砲、次元渦動砲の数々が全高千二百メートルに達するゴルベラムへと殺到し、そして次の瞬間には、黄金の巨体から四方へと放出された黄金の稲妻によって尽く『粉砕』されていた。
それでも艦隊からの砲撃は止む事はなく、ついで無数の魚雷と戦艦を小型化したようなデザインの艦載機もまた無数に飛び立って、マイクロブラックホールを発生させる光子魚雷やテラジュール単位の高出力ビームがゴルベラムの巨体を爆光で飾り立てる。
「ふん、胸糞悪い気配がするかと思って来てみれば、何時だったかやってきて天人や他の星の者共に追い散らされて、すごすごと帰って行った敗残者か!
諦めない根性は嫌いではないが、学習をせんのは己の命を縮めるのみよ。ましてや近々至高の御方に拝謁する予定があるのだ。あの御方の御心をみだりに乱さぬ為にも、貴様等にはそうそうに帰って貰おうかあ!!」
自身の周囲を覆い尽くす小うるさい艦載機や通じぬ攻撃を続ける艦隊に対し、ゴルベラムは苛立ちを隠さずに空間そのものを轟かせる咆哮をあげ、たったそれだけで周囲の艦載機の八割近くが機体を守るバリアごと粉砕されて、星の海を汚す藻屑となる。
ゴルベラムが鱗の上から纏う稲妻は、突破不可能な守りとなって艦隊からの攻撃を防ぎ続け、大きく胸を逸らして口を開いたゴルベラムの咽喉奥からさらに激しい稲妻が生じ始める。
「デア1――ゴルベラムからのエネルギー反応さらに増大! 推定レベル二十以上!!」
「プラネットバスター用意、急げ! 奴よりも先に撃たねばっ!」
主砲を上回る天体破壊用兵器の準備を命じるシューの内心は焦燥に溢れていた。
確かに連邦の技術はかつてに比べて見劣りする所はあるが、それでも三竜帝三龍皇を相手にして十分な勝機があると判断されたからこそ、銀河を越える遠大な遠征計画が承認されたのだ。だが、これは!
連邦の事前の予測を嘲笑うように、かつての大戦時よりもさらに強大になった力を抑制せずに揮わんとするゴルベラムの胸中は、既にこの戦いの後の事で埋め尽くされている。
なにしろ龍吉経由でそろそろドランこと古神竜ドラゴン様とお会いしませんか、と具体的な日時を決める知らせが届いたのだ。届いてしまったのだ。
これに緊張していないのは、実際には親しみやすく温厚な実像をきちんと把握しているコンクエスターと、既に面識を得ている龍吉だけで、その他の竜帝や龍皇達はこの上ない至福の栄誉と思いながらも、同時にかつてない緊張と不安に見舞われている。
遠く劣化した自分達など比較する事すらおこがましい、古の真に竜と呼ぶべき存在の中でもたったの七柱しか存在しない最上位君臨者。
始祖竜がそう望んだこととはいえ原初の混沌と混じり合い生まれた自分達とは異なり、純粋な始祖竜の継承者と呼べる御方と、人間に生まれ変わっているとはいえ直に面会するなど。
ましてやその後自分達の下へと竜界に棲む他の始原の七竜達や、神竜や龍神達が訪れるのだという。
この惑星に棲息する竜種にとって、前例のない空前絶後の一大行事である。それを前にしては、豪胆で知られるゴルベラムをしても肝が冷える事態であった。
「万が一にも貴様らの存在によってあの御方の御手を煩わせるような事があっては、この命を絶ったところでなんの償いにもなりはしない。
己らの星で生き続けておればよかったものを、あるいは手を取り合う為に来たのであったなら、こちらの対応もまた変わったであろうものをな!」
翼を広げ闘志を全方向へと噴き出すゴルベラムの意思に従って、黄金の稲妻は光よりも速く、残る艦載機群と艦隊へ意思を持つ生物であるかのように襲い掛かる。
連邦の兵器はいずれもエネルギーシールドをはじめとした各種のバリアを備えていたが、ゴルベラムの攻撃は金竜帝の霊格による強化を伴っており、物理法則ではあり得ない破壊力を獲得し、素粒子レベルで強化措置を施された戦艦の装甲も微塵に粉砕する。
「よりにもよってこの時期に攻め込んできた己らの不運を呪え。あるいはお前達を滅ぼしたい、いずこやの邪神の導きやもしれぬが、わしに遠慮はないぞ」
全身に帯電したゴルベラムの視線の先では、艦隊の九割五分を失った、もはや残骸とでも評すべき連邦の生き残りの艦隊の姿があった。
「故郷に戻ってこの星に攻め入る事の愚かしさを永遠に語り続けるがよい。貴様らはわしらへの怨嗟に骨髄まで染まっているようだが、わしらはそうではない。
はっきりいってどうでもよい。貴様らの方から関わって来なければ、滅びようが栄えようが己らの才覚で好きにすればよいのだ」
ゴルベラムの強者の傲慢とそれに不平を述べる事を許さぬ絶対的強者の風格。それを、シューは艦橋から忌々しさを隠さぬ顔で見ていた。
「おのれ、おのれおのれ、撃沈した艦は全て無人艦だと、死者は出ていないだと!? 金竜帝、金竜帝ぇええ、貴様貴様、情けを掛けたつもりか、見逃すつもりか、見下すのか、我らを!」
遠慮はないと言ったゴルベラムだが、彼なりの慈悲の表れであった。もっともそれが相手に伝わるかどうかまでは拘泥していないし、伝えるつもりもない。
ゴルベラムにとって慈悲を掛けた、という時点ですでに話は完結しており、相手がその慈悲に縋ろうが反発しようが、それはどうでもよいのである。
戦の場を離れれば細かい事を気にしない、豪放磊落な人物なのだが、こと戦に於いては己の価値観を貫きとおし、酷薄無情とも言える振る舞いをするのがゴルベラムという竜であった。
退けば追わぬ、その心積もりであったゴルベラムは、元は無数の戦艦や空母、艦載機であった爆煙と炎の向こうから、生き残りの艦隊や艦載機が体当たりも辞さぬ勢いで加速し、迫って来るのを認めた。
「はっ、命に代えてもという奴か。時と場合によってはわしもやるゆえ、悪し様には言えんが敢えて言うぞ、愚か者共めが!!」
心の底から愚かと断じながら、再び全身から猛烈な稲妻を発するゴルベラムをモニター越しに睨みながら、シューは叫んだ。血を吐くような叫びだった。魂が絞り出す、最も心の深いところから溢れた叫びだった。
「退けるか、退けられるものかよ。我らの憎しみは消えなかった、恨みは消えなかった。この瞼と魂に焼き付いた地獄の光景は片時も色あせる事はしなかった!
今更慈悲などいらぬわ、命などいらぬ。未来などいらぬ。この恨みつらみを吐き出せぬ未来など、貴様らも地獄を見ろ、生きる事の苦痛に塗れて絶望の呻き声を上げろ!!
そうでなければ、そうでもなければ、そうであるべ……」
艦橋の他の乗員達も他の艦の生き残り達も、誰もが否定の言葉を口にしないシューの叫びを、残る全ての艦諸共にゴルベラムの稲妻のブレスが飲み込んで、素粒子にまで破壊しつくして飲み込んだ。
そこまでしてようやく、シューは終わりの見えない憎悪と怨嗟から一時だけ解放される事が許された。
「ふん、命を粗末にするか。それとも敢えて粗末にしたのか? どうにも後者臭いが、死に場所でも探していたのか、生きるのが嫌だったのか。
付き合わされる側としては面倒だな! それとコンクエスター老、後詰を頼んでおいてすまんかった。結局御老体の出番はなかったわい」
振り返るゴルベラムの視線の先には、惑星アーカディアンを背に宇宙に佇む白竜帝コンクエスターの姿があった。
ゴルベラムに勝るとも劣らぬ巨躯を誇り、純白の鱗で全身を覆い顎下からは長い髭を伸ばした老竜は、一回り年下のゴルベラムに鷹揚に答える。
「構わぬとも、ゴルベラム。別の銀河からやってきた者達の子孫のようであったが、かくも復讐の念を滾らせておったか」
「一つ二つの世代ならともかく、何十何百と世代を越えて怨念を伝えるとは、いささかやり過ぎだわい。
あの調子ではよその星にもちょっかいを出していそうだが、良い結果は出ておるまいよ。さあ、帰るとしよう。ドラゴン様への拝謁を許される至福の時は、もうその足音が聞こえてくるような近さまで迫っておる」
「ゴルベラム、ドラゴン様はそのように扱われるのを好まれる方ではないぞ。お主はいささか尊敬の念を拗らせ過ぎているように見える。悪い事ではないがな」
古神竜をはじめ竜界に棲む竜種達への崇敬の念は、竜種である事を誇る性格の者ほど強い傾向にあり、ヴァジェやゴルベラムなどが分かりやすいその例と言えるだろう。
ドラゴンが眉を潜めない対応を出来そうなのが、自分以上に肝が太いと密かにコンクエスターが評価している龍吉や自分くらいで、風歌もエンクルザードもゴルベラムもやり過ぎてしまうな、とコンクエスターは確信していた。
さっさと背を翻すゴルベラムの背中から、母なる星へと視線を移して、コンクエスターはしみじみと呟いた。
「御自身がどれほど畏れ敬われる存在であるか、貴方様は御自覚が足りておりませぬからなあ……」
その瞳は、自分達がこうして星の海に飛び立ち、別の銀河からやってきた侵略者達を返り討ちにする光景を、星に居ながらにしてドランが見ていた事を確信していた。
「とはいえゴルベラムの言う通り貴方様のお手を煩わせる事なく済んだ事を、今はよしとしましょう」
コンクエスターはやれやれと愚痴めいた呟きを零し、星に残った風歌や項鱗、エンクルザード達が過剰に緊張していなければよいが、と長老らしい心配を胸の内に広げていた。
■簡易年表
超先史文明期
????年前 超次元規模の国家に所属する七勇者がドラゴンスレイヤーを用い古神竜ドラゴンを殺害。
????年前 突如として破壊活動を行い始めた名も無き神造魔獣(前世のレニーア)を討伐するため、複数の次元から戦力が結集するも神造魔獣の前に次々と敗退。最後の切り札として七勇者およびドラゴンスレイヤーが投入され、神造魔獣が滅びるも超次元国家の戦力の八割が損失。
????年前 ドラゴン死亡による影響であらゆる次元で勃発した神々同士の争いおよび代理戦争もろもろによって超次元国家他、既存の文明はほぼ壊滅。一部の神ならびに竜界の高位竜種によって地上世界と高次世界を隔てる大結界が展開される。
????年前 壊滅した超先史文明の生き残りなどが徐々に文明を復興し始める。その一部が惑星アーカディアンにて自らを天人と呼称し、一部を除いた他種族を支配下に置く。
????年前 天人と同銀河内の異星文明や異次元勢力が接触。即時戦争勃発。戦況は天人不利。
千年後 天人、異星勢力らとの戦況を五分に持ち直す。
さらに千年後 天人、異星勢力らとの戦況を優位に押しこむ。バストレル誕生、ドラゴンスレイヤーを与えられて異星勢力との戦争に投入され、心を荒ませる。
※エステラルド銀河文明、天人達の銀河内戦争に介入し、三竜帝三龍皇らの怒りを買った事もあり、壊滅寸前に追い込まれる。
????年後 天人が種族的な衰退を迎え、あらゆる意欲、あるいは生きる力を失ってゆく。その後、天人もまた三竜帝三龍皇他、高位霊獣の王らを支配下に加えようとして反攻され、一気に勢力を減衰する。
二千年前 現在の轟国地方を中核とするかつて天人達に支配されていた諸種族の反乱が勃発。天人文明壊滅。
現在 古神竜ドラゴン、神造魔獣レニーア転生。
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第百四十八話
三竜帝三龍皇はいずれもドランの転生した惑星に於いて、最強の称号に相応しい力と霊格を備えた存在である。
同族の竜達からはもちろん、その他の人間種や霊獣達、また悪しき魔性の者達からも畏怖と畏敬双方の念を注がれる頂きに立つ者達だ。
そんな彼らであっても骨の髄まで緊張を強いられ、咽喉がひりつくようにからからに乾いてしまう相手が存在する。竜界に棲む、高位の竜達である。
しかも今回彼らが直接顔を合わせなければならないのは、竜種どころか神々すら含んだ上で全存在の頂点に座す古神竜ドラゴンだ。
敬虔な信者が崇める神と直に拝謁するのと同等以上の事であり、普段は緊張を強いる側である三竜帝三龍皇達が、今回に限っては強いられる側に回るのも当然であった。
特に緊張をして普段の落ち着きを何処かへと全力投球していたのは、最も年若い風龍皇風歌だった。
風歌が普段腰を落ち着けているのは、一定の航路を回遊している浮遊大陸だ。
風の属性を帯びた竜種達のみならず鳥人や空を飛ぶ幻獣、霊鳥などが多く棲息し、かつて天人が攻め込んできた時も、ただ一歩も足を踏み入れる事すら許さなかった難攻不落の地でもある。
空の一角に常に立ち込めている雲の向こうからやって来る、空を飛ぶ魔性の者共との戦いの最前線でもあり、代々の風龍皇を中心としてこの惑星の空が清らかである事を守り続けている。
当代風龍皇風歌は、人間で言えばまだ十代半ばに相当する少女であったが、その気になれば無から生じさせた風を使い、星の一つ二つなら簡単に粉末状になるまで削りきれるだけの力を持ち、風龍皇の称号に偽りのない実力者である。
そんな風歌であるが、住まいとしている宮殿の中をパタパタと足音を立てながら落ち着かない様子でうろうろとしているのが、ここ最近の常となっていた。
普段は龍人としての姿で過ごしている風歌は幼い容貌と相まって、ちょこまかと動き回るその姿は実に微笑ましく、見守る家臣や女官達の胸の内に温かな思いを抱かせている。
それまで休まず歩いていた風歌が不意に足を止め、開け放たれた窓の向こうに広がる青空を見る。
白魚のような手が、風龍皇就任に際し、龍吉から贈られた珊瑚の髪飾りを無意識にいじっている。緊張を和らげる時の癖である。
浮遊大陸――住人である風歌達は
眼下に広がる山野に河川、丘陵に湖畔とそこに住まう者達の住居や田畑、果樹園などの光景を眺め、風歌は堪え切れずに憂いの溜息を零す。
風龍皇として天ノ原に住む者達が過ごしやすいようにと心を砕く事や、空の魔性共――
同格である他の三竜帝三龍皇らと面会する時も、内心ではあわあわとしているというのに、自分達ですら比較にならぬほどの高位存在と会うなど、風歌はこれまで考えた事もなかった事だ。
「はあ、失礼がないようにしないと。でも一体どうすれば……」
今日何度目になるのか小さな唇からこれまた小さな溜息を零す風歌を、背後に控えた二人の家臣が静かに見守っている。
彼ら以外にも入口の扉の脇や部屋の外には何人も家臣が控えているが、風歌のすぐ傍にいるのはこの二人だけだ。風龍皇の名の下に竜王と龍王を名乗る事を許された二人で、風歌の側近中の側近だ。
一人は風歌の父親を名乗ってもおかしくない壮年の男で、白地に色とりどりの刺繍が施された一枚布をゆったりと体に巻きつけている。
黄緑色の髪を後ろに撫でつけ、深緑の瞳が落ち着かぬ風歌を映していた。名を竜王ゼファルトス。風歌が生まれる前から竜王として天ノ原を守ってきた忠臣である。
もう片方は龍王
ゼファルトスと飛迅双方にとっても自分達の主君が古神竜ドラゴンと会う、というのは驚天動地の事態ではあったが、風歌の狼狽ぶりを見ていると自分達まで狼狽するわけには行かないと、自然と落ち着くのであった。
時期そのものは決して悪いものではないのだ。龍吉が率いる海の同胞達と長年に渡り敵対してきた海魔七王の一角と海魔神が討たれた事で海魔達の勢力は大きく弱体化している。
そのお陰で、龍吉が龍宮国以外の事に目を向ける余裕が出来ている。
三竜帝三龍皇の中でコンクエスターと並ぶ最強の龍たる龍吉が自由に動ける状況は、他の竜帝と龍皇達にとって非常に心強いもので、これまでもよりも精神的にも武力の面でも大きく余裕がある。
「風歌様、今からそのように慌てていては、いざドラゴン様とお会いになられた時にまともに話す事も出来なくなりますぞ」
言葉使いこそ家臣としてのものだが、心情的には娘を宥める父親そのもののゼファルトスを、風歌が振り返る。
直接ドラゴンと面談するのは風歌達であって、ゼファルトスや飛迅など他の竜種達は、今回は見送ることになっている。その事が、風歌にとっては少しばかり恨めしい。
「ゼファルトスの言う事はもっともですけれど、貴方達とて気持ちは分かる筈。我らにとっての神にも等しきドラゴン様なのですよ?
どんな顔をしてお会いすればよろしいのか、答えの分かる者がこの天ノ原にはいないでしょう」
本当にどうしよう、と言わんばかりに肩を落とす風歌に、飛迅が静かな足音と共に近づいて、慰めるようにその肩を抱く。姉妹のように親しいその動きを咎める者は、この場には居なかった。
「そう気に病むばかりではよくありません。当日は龍吉様や白竜帝様もおられるのでしょう。ドラゴン様と面識のある御二方がいらっしゃるのですし、なにかあったとしても御二方がお助け下さいますよ」
それで多少は気が晴れたのか、風歌は親しい友でもある二人にしか見せない態度で、軽く怒った素振りを見せる。
「失敗を前提とするような言い方は止めてください! もう、本当にそうなってしまったらどうするのですか。万が一にもドラゴン様の御心を乱してしまってはと、私は気が気ではありませんのに」
同じ竜種としてゼファルトスも飛迅も風歌の憂いも緊張も理解できるもので、自分達が直接ドラゴンと対面しない事は残念な気持ちと、それ以上に不敬かもしれないが、ほっと安堵した気持ちもまた同時に存在している。
指摘されると弱いところを風歌に指摘され、ゼファルトスも飛迅も返す言葉をうまく見つけられない。
「うぅむ、風歌様の言われる事はごもっとも。私に言える事はなにか失態を犯した時には、このゼファルトスの首と心臓をもって贖いの一つに、と言う事だけですな」
「ゼファルトス、我らの首などを捧げてもドラゴン様がお気持ちを静めてくださるとは限るまい。
それに伝え聞くところによれば、ドラゴン様はとても穏やかな気質をお持ちでいらっしゃる。
地上に残った我らの事は、よくも悪くも子供のようにしか見ていないかもしれませんよ。風歌様、むしろ甘える位の心構えで挑む方が良い結果を齎すやもしれません」
「案ずるよりも生むがやすし、ですか。そうなると良いのですけれど、龍吉様は何時もと変わらぬご様子でしたし、心配のし過ぎかな……」
風歌の呟きはこの場にコンクエスターや龍吉、問題の当事者であるドラゴンことドランが居たら、全力で肯定した事だろう。
*
火龍皇項鱗を頂点に据える火の属性を強く帯びた竜種達は、轟国よりも北東に存在する惑星最大の火山であるヒノゴク山を根拠地としている。
天ノ原に竜種以外に種族が棲息しているように、炎の巨人や溶岩の中を泳ぐ巨大魚、火を食らう霊獣などもおり、それらの種族が火龍皇の庇護の下に緩やかな連帯を持って暮らしている。
代々の火龍皇達がヒノゴク山に根拠地を置いたのは、ヒノゴク山が彼らにとって最適な生活環境であった事もあるが、万が一にもヒノゴク山が噴火した場合には、地上全土が火山灰に覆い尽くされ、惑星が急激に冷却される恐れがあり、それを抑える為でもある。
長らく火山活動が抑止された事で、ヒノゴク山一帯は緑に覆い尽くされ、肥沃な土壌を育むに至っている。
ただ起伏の激しい山々の一部は、火や溶岩それ自体を食料とする生物の為に、意図的に活性化されて、ドロドロと赤熱した溶岩が流れ出し、所々から間欠泉のように炎が噴き上がっている。
火山から発せられる硫黄の臭いや有毒な気体もあり、生物の生息域が明確に線引きされているのも、ヒノゴク山に見られる特徴である。
項鱗をはじめとした火龍皇の一族が住んでいるのは、ヒノゴク山の内部だ。火山内部に建設された宮殿の地下は溶岩の海に直結しており、時折湯浴代わりに火の属性を帯びた竜種達が溶岩の中を心地良く泳ぎ回っている。
宮殿の奥まったところにある火龍皇用の私室で、項鱗は皇太子である長男
むろん、彼らの話題もまた風歌と同様、ドラゴンとの面会についである。
碁盤のように四角い顔と見上げる巨漢にぎょろっとした目、鯰のような髭が特徴の項鱗は女性の胴ほどもある太さの腕を組み、ううむと唸っている。
同席しているだけで息が詰まるような父と、円卓を挟んで向かい合っている兄弟達は、そんな父親を少しだけもの珍しそうに見ている。
兄の項牙は父親に似て逞しすぎるほどの巨躯と四角い顔立ちを受け継いでいるが、その気性は温厚で理知的なものだ。
弟の項操はといえばこちらは母親の血の方が外見に出ており、本当に親兄弟かと思うほどに端正と呼ぶ他ない顔立ちとしなやかな身体つきをしており、性格の方も奥の方に熱いものこそ秘めているが、落ち着いた物腰が常だ。
「ううむ」
項鱗の唸り声だが、龍人に変化しているにもかかわらず、山を震わせるような力の籠った唸り声だ。
同じ火属のヴァジェが同席していたら、彼我の力量差と格の違いに半ば気絶しかねない面子ばかりなのだが、やはり彼らの悩みの種がドラゴンである事から、三人共尋常ではない緊張が見て取れる。中でも項鱗の緊張の度合いは深く強い。
場の空気を変えようと、項牙が口を開く。
「父上がそこまで緊張されるのは、私が結婚した時以来ですか」
既に皇太子妃を持つ項牙からの言葉に、項鱗はおうよと頷く。
項鱗にとって自慢の息子である項牙が立派に育ち、美しい妻を貰った時の事は、項鱗の長い生の中でも特に眩い輝きを放つ思い出だ。
緊張の方向性は異なるが、ドランとの直接の面会は父親としての晴れ舞台にも匹敵する緊張を項鱗に強いていた。
項牙と項操兄弟は直接ドランと面談はしないが、一応、面談の場には赴く。
これは龍吉の願いによって瑠禹を同道する事に伴い、次期竜帝や龍皇である子供らの同席を許されたからである。
ドランとしては今後何か面倒を掛けるかもしれない、というのと瑠禹の為になるだろう、と考えたからだ。
父ほどではないにせよ緊張している事は変わらない項操が、似ても似つかぬ父を慰める。
「場に立つのは父上だけでなく、他の竜帝、龍皇方も居られるのです。常のように堂々と構えておいでなされ」
「そのつもりではある。常日頃のわしをお見せするのが礼儀であろうからな。
とはいえ竜種として生を受けたものであれば、この血肉と魂が抱く無限の畏敬の念ばかりは如何ともしがたいわい。
まあそれでも見栄を張るつもりで気合を入れねばか」
「緊張に身を浸しておられる父上などは、他の方々にとっては思わず笑みを誘われる滑稽さでしょうからな」
「項操、父に対して言葉が過ぎるぞ。まったく女官との仲が良い具合に進んでいるからと調子に乗りおって。項牙よ、兄として弟を嗜めてはどうだ?」
「いえいえ、私としては無理からぬことと存じます、父上。私も
「まったく! わしの息子共はそろいもそろって父を蔑ろにしよるわ。そんなに嫁が大事か? まあ、大事か。わしもそうだったしな。
まったくよ、こんな事ならばゴルベラムやコンクエスター老と共に、星の静寂を乱す無粋者共を片付けに行けばよかったわ。少しは気晴らしになったろうに」
言っている事は物騒だったが、項鱗には意外にも詩人めいた所があるようだった。
このゴーレムかなにかと言われたら信じてしまいそうな四角い父から、星の静寂云々と小洒落た言葉が出て来たのに、項牙と項操は噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。
*
風歌、項鱗と来れば残るは黒竜帝エングルザードだ。風歌よりも年上の、三竜帝三龍皇の中で二番目に年若い黒竜帝の居城は、ドランの住んでいる大陸の南西、またはドラミナの故郷である南の大陸から西に海を挟んで存在する大陸にある。
この大陸には惑星の気脈と空間の強度の関係から、空間の強度が脆い地点があり、太古の昔からそこを通じて異次元に存在する悪意に満ち溢れた勢力が侵略を目論んでいた。
その者達の最初の侵略に際し、たまたま傍を通りがかった何代も前の黒竜帝がこれはいかん、と迎え撃った事が異次元の侵略者――
三竜帝三龍皇達はそれぞれが他種族と共に暮らしているが、黒竜帝の縄張りではそれが特に顕著だ。
大陸の南西よりの地方に太古に落下した隕石によって巨大な大穴が穿たれていて、すり鉢状になっているその大穴に蓋をするように、黒竜帝の居城は築かれている。
大穴の底が影魔の出現しやすい空間の脆い場所である為、居城それ自体が空間を補強する結界発生装置の役目を持っているのだ。
黒竜帝の魔力とこの城の持つ結界機能によって、影魔達は大軍での侵入を妨げられてごくごくわずかな数を出現させるのが精一杯となっている。
結界が壊れれば戦火の中心地となる黒竜帝の城だが、そうならなければこの大陸でもっとも治安が良く、安全な城塞都市でもある。
安全を考慮して、人々が生活を営んでいるのは、大穴の縁から外へと向けて広がっている市街だ。
土をこねて焼いた煉瓦と切り出された石造りの家屋が続く市街には、多種多様な種族の熱気や匂いが立ちこめている。
郊外の畑から持ち込まれたバナナやマンゴー、サトウキビ、コーヒー豆や茶葉の香りが入り混じった複雑で芳醇な匂い。
チョコレート色の肌をした人々の健康的な汗の匂い、酒毒に犯された者の鼻の奥の粘膜を突く臭い、数多くの薬種を取り扱う薬材商や医師達の独特の匂い、無数の香辛料を日常的に取り扱い、その香りが肌にまで沁みこんだ料理人達から立ち昇る匂い。
純粋な人間種のみならず蜥蜴人、鰐人、豹人や獅子人、象人、また無数の虫人達の姿もあり、空を見れば有翼種や無数の竜種が飛び交っている。
中には人類社会に適応したゴブリンやオーク、コボルドなどの、生命の天敵と言われる種族の姿もある。
長い、本当に長い歳月の経過によって決して相容れない筈の存在であるゴブリンなどの一部が、人類と共存するようになっていた。
朝も夜も熱気の冷めやらぬ都市の一角に、ここ最近急激にその名を知られるようになった食事処がある。
ふらりとやってきた人間の男が開いたその食事処は、人々の心と舌を驚かせる珍妙で風変わりな、しかし実に美味な料理を提供する事から今では無数の固定客を抱えて繁盛している。
その食事処「わたり屋」は、今日も満員御礼、様々な種族の様々な年齢の客層を抱えて賑わっていた。
三十人も入れば一杯になる店の片隅で、注文した料理と酒を口に運んでいる二人組が居た。
ソラトビカバの肩ロースの生姜焼きやトンカツ、川魚の揚げもの、チーズハンバーグ、ヤツデエビの辛口ソース炒め、季節のてんぷらにオムライス、ハヤシライス、かつ丼とテーブルの上に所狭しと並んだ料理に次々とスプーンやフォークを伸ばしながら、その二人は長い事無口であった。
一人は病的なまでに白い肌とそれが良く映える黒髪と黒衣の青年。気品ある顔立ちは、一目見た者が思わずその場で足を止めてしまうほどに整っている。
この城塞都市において最も尊ばれるべき、そして最も強大な力を持った当代黒竜帝エングルザードその人であった。
この若き黒竜帝は時折こうして市井の人々に紛れて暮らしぶりを見て回る癖があり、それが縁で、どこか違う世界からやってきて途方に暮れていたわたり屋の主人を拾い、その料理の腕を認めて開店に際し力を貸している。
エングルザードの差し向かいに座っているのは、エングルザード付きの護衛である黒竜エシャンテ。
主と同じように黒竜人へと変化し、身の丈ほどの大剣を携えた傭兵風の装束を纏っている。わたり屋の主人が苦心して完成させたソースを遠慮なくかけたとんかつを次々と口に運びながら、エシャンテはじいっと黒玉の瞳で主を見ている。
エングルザードは黙したままテーブルの上の料理を半分ほど平らげてから、ぽつりと呟く。
「相変わらずシノブの料理は美味いな」
ようやく口を開いたか、と心の中で零してからエシャンテは無難な答えを返した。
「ですな。おれらはどうしても大雑把になりがちですからね。
それにしてもこれで故郷じゃあ、よくある大衆料理屋の息子だってんですから、よっぽど豊かな料理文化のあるところだったんでしょうな」
「伝え聞く天人の最盛期もそうであったようだが、彼らとシノブは関係あるまい。元の世界に帰してやれず申し訳ないが、こうして店が盛況だと少しは気が紛れる」
「まあ、シノブはそれほど気にしていない風でしたがねえ。こっちを気遣ってそう言ったのかもしれませんが、まあ出来ない事は出来ないと割り切って、もっと建設的な事を考えましょうや」
「建設的な事、か」
最後のてんぷらに塩を掛けて頬張ったエングルザードの端正な顔に、苦みが走る。オニグサバシリという苦みが通に受ける葉野菜のてんぷらだが、もちろんエングルザードの顔が変わったのは、これが原因ではない。
常に生真面目で他の誰よりも自分に厳しいエングルザードが、おそらく生まれて初めて微妙に現実から目を逸らしている事を、エシャンテは暗に指摘しているのだ。
「あの御方か……分かっている。あの御方の下へ赴かぬという選択肢はあり得ぬからな」
「流石に気後れされますか? この時期に余計な事をされちゃ堪んねえって、影魔共を念入りに磨り潰しておいた事ですし、こっちの事はおれらに任せてくださって問題ありませんぜ」
「うむ。その点は心配しておらん。ただ我が身を御方の目に晒す事が不敬にあたるのではないかと、そればかりが気になってな」
やはりこの方は悩みも馬鹿真面目だ、とエシャンテは呆れずには居られなかった。
「そりゃあ、おれだって思わず尾を股の間に挟みたくなるような事ですが、水龍皇陛下はこれまでに何度もお会いになられてんでしょう。
だったら同格の黒竜帝である陛下がお会いしても、なにも問題はないと思いますが」
もちろん、この二人がここに居るのはお忍びの類であるから、両者の口から出て来る単語は他の者に聞こえないよう遮音の魔法が展開されているし、唇の動きも実際とは異なるものに見えるよう幻惑の魔法も重ねて展開されている。
「龍吉殿はおれよりもはるかに長く水龍皇の地位を守り、海魔七王の一角を葬る大業を成された方だ。
若輩のおれと同列に語るわけには行くまい。それにあの御婦人は幼少のみぎりにドラゴン様とお会いしている。その点も伝聞でしか知らぬおれと同じには扱えん理由だ」
「後半はどうしようもありゃしませんが、前半に関しては臣下として主君には堂々と胸を張っていて貰いたいものですな」
「失言であったな、許せ。しかし実際のところ龍吉殿はおれの倍は強いぞ?」
「……そこまでですかい? 陛下だっておれら臣下全員が力を合わせたのよりもお強いじゃないですか」
「それはそうなのだが、龍吉殿とコンクエスター老は歴代の三竜帝三龍皇と比較しても別格中の別格。
同胞の事を捨て置いて修行に専念しておれば、今頃は真竜の域にまで霊格を高めていてもおかしくはないからな。
お前達を失望させるようで悪いが、あの御二方とは他の四体総がかりでようやく互角だ」
「そいつはまた、おれが水龍皇陛下を過小評価していたって事ですか。一つ賢くなりましたわ」
もはやお手上げといった心境で、エシャンテは両手を上げ、心底から感嘆のため息を零した。
何度かあの美しさの極みに立つ水龍皇を目にした事があるが、なるほどそのあり得ぬ美貌に相応しい規格外の実力者であったわけだ。
もっとも、それは地上に残った竜種の中での話であり、龍吉ですら古神竜からすれば塵芥にも届かぬちっぽけな存在なのだと、エシャンテは知らない。
「とはいえこの度、拝謁の栄をお許しいただいたのは我らの真の頂点、始原の七竜の一角を成される御方。我ら同士の比べ合いなど、稚児の背を比べるようなものよ。
我らの物差しに収まるような御方である筈がない。そういう意味では気が楽な面もある。あの御方の前ではおれもコンクエスター老も龍吉殿も、皆等しいだろうからな」
「微妙に情けないですが、その通りなのでしょう。では、食えるだけ食ってその時に備えるとしませんか。
もし今後、他の七竜の方々や神竜様が御出でになられた時には、城の料理ばかりでなくこのわたり屋の料理をお出しするのも面白いかもしれませんな」
「ふ、そうだな。少なくともこの地上では物珍しいし美味である事は確かな料理ばかりだ」
吹っ切れたようにそう言って、エングルザードは手元の木製のジョッキに並々と注いだ蒸留酒を一息に呷り、テーブルの上の料理とさらに追加で頼んだ料理を胃の腑に入れる事に没頭するのだった。
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第百四十九話
「今頃、母様達はドラン様とお話しているのでしょうね」
兎人に案内されて通された控えの間で、瑠禹はなんの気なしに口を開いた。
控えの間は竜種としての姿になっている瑠禹達でも余裕を持って利用できる広い場所だった。
壁や天井にはかつて天人達が支配した他の惑星の風景や、支配に至るまでの戦いの変遷などが彫り込まれているが、瑠禹を含む入室者達の興味を引くものではなかった。
「瑠禹姫はドラゴン様と何度もお会いしているのでしたね」
耳に心地よい落ち着いた声で、半ば独り言に近かった瑠禹に問うたのはコンクエスターの娘であり、瑠禹とは親子ほども年の離れている白竜アルビオンだった。
実際、瑠禹と同じ年頃の子供がおり、アルビオンの瑠禹を見る目は母のように優しい。
そして同時にアルビオンが口にした事はこの場に残った者達にとって、大きく興味を引かれるものだった。
「アルビオン様、ええ、古神竜ドラゴン様であると知る前に知遇を得る機会に恵まれまして、それ以来ドラン様にはよくしていただいております」
アルビオンに声をかけられて、瑠禹は恥じらうように顔を赤くして答える。声を掛けられるまで、母とドランの事に思いを馳せていた自分に気付いたからだ。
控えの間には他にも項鱗の子である項牙や項操、風歌の腹心竜王ゼファルトスに龍王飛迅、エングルザードの従姉妹である竜王エンドフィア、ゴルベラムの息子ゴルデスがいる。
その中でアルビオンに続き、父親と似た顔立ちのわりには穏やかな気質の項牙が、瑠禹に問いかけた。
父項鱗が瑠禹の亡き父親と親しい間柄だった事もあり、瑠禹にとって面識のある相手だった。
「ドラン様か。確かドラゴン様の人間としてのお名前であったな。瑠禹殿がそう呼ぶのは、ドラゴン様がそう望まれているからかな?」
「はい。わたくしが初めてお会いしたのはモレス山脈の近くの湖でした。その時、私は母の使いで龍宮城を出ておりましたが、その折に白竜の姿をお取りになられていたドラン様とお会いしたのです。
その時にドラン様とお名前を伺い、ドラゴン様と知った後も変わらずドラン様とお呼びしております。ただわたくしの母たる龍吉は、初めてドラン様とお会いした時にはもう気付いていたそうです」
「龍吉様はドラゴン様と幼き頃にお会いになられたと言うし、今は竜界に移られた真竜様達との面識もおありだ。ならば一目で気付いてもおかしくはないね。
それにしても今頃は一体どのような話をしているのか。ドラゴン様がこの惑星に転生なされていたという報せが届いた時、比喩ではなしに城が揺れたよ」
その時の事を思い出して苦笑する項牙に、瑠禹以外の皆が同意する。
竜界では最下位の存在である真竜や真龍ですら、項牙達からすれば隔絶した力と霊格を持った存在であるというのに、古神竜となればこれはもう竜種からしてさえおとぎ話の中の存在だ。
よもやそのドラゴンが人間に転生したとはいえ、自分達と同じ世界にいるなどと、どうして信じられようか。あれよあれよという間に今日に至ったが、今でも夢の中に居るのではないかと疑っている位に、現実離れしている感が否めない。
「扉の前に着いた時、何も感じられなかったがそのお陰で余計に浮足立ってしまったな。落ち着いている瑠禹殿が羨ましく思える」
「いいえ、単なる慣れにございます。それにドラン様は本当によくして下さいました。
古神竜であらせられる以上、どれだけ敬い、崇め奉ろうとも過ぎるという事はございませんが、さりとて恐怖や不安を抱く必要はない御方です。
ドラン様はあくまで私達と同じ目線に立った上で接してくださいます。
ただ、御自身がどういう存在であるかの御自覚が足りていないのもまた事実。その認識の齟齬でわたくし達があたふたとする事にはなってしまうでしょうけれど」
瑠禹の口にした事はまことにもって正しかった。
ドランが地上の同胞達と仲良くしようと思っている事に一片の偽りもありはしないが、相手に自分がどう見られるかという点に於いて、ドランは十分に理解したつもりになっているが、まだまだ理解が足りていないのだから。
今回、直に三竜帝三龍皇達と面談する事で、ドランが本当の意味で自身を含む竜界の者達が、地上の同胞にどう捉えられているか、理解してもらえればと瑠禹は願ってやまなかった。
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第百五十話
しん、と広間の音や時の流れが全て絶えたかのような静寂が、龍吉の一言によって齎された。
全ての竜種の頂点に立つ古神竜ドラゴンを相手に、龍吉は愛する殿方と、なんの気後れや後ろめたさもなく堂々と告白してのけたではないか。
以前から龍吉に好意を告げられていたドラゴンこそ大きく驚く気配を見せないが、龍吉以外の竜帝と龍皇達は予想どころか夢にも思っていなかった発言に、目玉が飛び出るような、口から心臓が飛び出るような、あるいは呼吸を忘れるような驚きに襲われて、暫く声を出す事すら出来なかった。
龍吉は歴代の水龍皇の中で最も強大な力を持ち、それだけでなくこの惑星の全ての竜種の中で最も美しいと誰もが称賛して止まぬ唯一無二の女龍である。
龍吉が今は亡き良人と婚姻した時には数多の竜種の男達が、嘆きと悲しみの叫び声を上げて、暫くの間、惑星中に恋に破れた竜種の吠える声が響き渡るという珍事態を引き起こした事もある。
その龍吉が、他者の目と耳のある状況で誰に憚る事もなく愛を口にした。
これは再び惑星を轟かせる竜種の咆哮の合唱が起きてもおかしくはなかった。ただし、龍吉が愛の告白を捧げたのが、ドラゴンでさえなかったらの話だ。
この地上世界に棲息する竜種で、古神竜に愛を告げられるほど――言葉は悪いが――釣り合う個体は存在しない。
地上世界に於いて間違いなく最強、最美の一角である龍吉であっても、それは同じ事だと地上世界中の竜種達が同意を示すだろう。
それほどまでに古神竜とは隔絶した存在であった。ただ当の古神竜はと言うと、少し困った顔になって、茶目っ気が過ぎる龍吉に微苦笑を向ける。
「龍吉、まさかこの場でその言葉が出て来るとは、度肝を抜かれたとまではいかぬが驚かされたよ」
「生を謳歌するには新鮮な驚きと刺激が欠かせません。驚いていただけたようでなによりでございます」
龍吉はこう答えてにこりと微笑むのだから、いくらドラゴンに対して慣れているとはいえ、実にいい性格をしているというべきだろう。
「しかしこの事が瑠禹の耳に入ったなら、“また母様は”と怒るのではないかな?」
「あの子は少々生真面目に過ぎます。私のように時々は肩の力を抜く事を知るべきなのですが、その手本を示しているつもりなのですよ」
龍吉は半分くらい本気だろうが、残り半分は単にドラゴンとの会話の応酬を楽しんでいるだけだろう。
「手本か。物は言いようであると感じられるな。瑠禹は君の言う通りに生真面目だ。
母である君のように適度の肩の力を抜くのと、誰かをからかう事を覚えるのには随分と時間が掛るだろう。必ずしも、学ばなければならぬわけでもあるまい」
「それはその通りでございます。子が親の一から十までを真似る必要はありません。瑠禹は瑠禹、私は私でございますから。
ただ、水龍皇として知っておいた方がよい事は、もちろん伝えておきますよ」
水龍皇とは言ってしまえば地位であり役職だ。ならば次代の者に引き継ぎを行うのは当然であるから、ドラゴンも特に口を挟む事はしない。
ドラゴンは口を挟まなかったが、龍吉の発言に衝撃を受けていたコンクエスター達が立ち直り、ドラゴンの前と言う事で出来るだけ感情と声を抑えながら、龍吉に詰め寄らんばかりの勢いでまくしたて始めた。
一番に口火を切ったのは、鯰髭の項鱗だった。ちらりとドラゴンの様子を伺いながらも開いた口からは超高温の火の粉が零れており、内心の乱れぶりが容易に想像できる。
「りゅ、龍吉よ、お主は自分が何を口にしたのか、理解しておるのか!? そりゃあ、わしとてお主に新しい夫を迎えてはどうかと、何度となく薦めた事もある!
水龍皇と龍宮国の国主という、二つの重責を担うお主の助けになる者が傍らに居ればと勝手ながらに思っておったからだ」
「ええ、もちろん、貴方の真意と気遣いは察しておりましたよ、項鱗」
「それはいい、それはいいのだ! お主が新たな夫を得ようという前向きな気持ちになった事も、わしとしては歓迎したい気持ちでいっぱいだ。
だが、だが、それが、まさか、あり得ぬ事だ、ドラゴン様を相手に望むのかお主は!?」
悲鳴にも似た項鱗の胴間声は、他の四名の心情を正確に表現していた。
新たな伴侶を迎えるでもなく今日に至った龍吉が、また新たな恋の道を進むというのなら、それは個人的な感情としても、また水龍皇の血を継ぐ者が新たに生まれるかもしれない、という面から見ても、諸手を上げて歓迎するべきだ。
だがそれは大前提として水龍皇の伴侶に相応しい人品と力を持っている事があるのだが、対象がドラゴンとなるとこの大前提が大いに狂う。
ドラゴンを伴侶として迎えるには、水龍皇たる龍吉でさえあまりにも不足し過ぎている。
人品はともかくとして、霊格やその力は龍吉とドラゴンとでは宇宙そのものと水の一滴を比べるのよりも、さらに比較にならぬ差が存在している。
そう考えると龍吉の発言は、だいそれた、などという言葉ではとても表現しきれぬ暴言だ。
半ば激昂しているも同然の項鱗に続き、風歌でさえも口を開かずにはいられなかったようだ。
「龍吉様、項鱗様の言われる通りです。貴女様が水龍皇ばかりでなく歴代の三竜帝三龍皇の中で指折りの実力と、比肩しうる者のないお美しい方である事は、この風歌も異を唱える事はできません。
ですがそれと古神竜であるドラゴン様に愛を告げるのとは、やはり、その、話が違うのではないかと思うのです」
龍吉を実の姉のように慕う風歌でさえ、思わず窘められずにはいられないのだから、地上の竜種にとって、ドラゴンへの愛の告白などはとんでもない、それこそ天地がひっくりかえってもあり得ない事なのである。
エングルザードやゴルベラムも、壊れたおもちゃみたいに首を上下に振って、項鱗と風歌の意見に全面的な賛成の意を示している。
「まあ、反対の意見ばかり。これほどよってたかって
私とて立場が違えば、似たような事を口にしていた可能性は十分にありますから。しかし既に私はドラゴン様を愛しております。
亡き良人には頭を伏して許しを請う他ありませんが、既に燃えはじめた恋の炎は、そう容易くは消えませんよ?」
周囲から突き刺さる視線にもめげず、この上なく魅力的な笑顔と共にこう言ってのけるのだから、龍吉の面の皮の厚さと言おうか、度胸と言おうか、どちらだとしても常識はずれと言わねばなるまい。
どう窘めたとしても柳に風と流すのが目に見えている龍吉に、項鱗と風歌はああもうと言わんばかりに溜息を吐く。
味方にするとこの上なく頼もしい水龍皇だが、意見や立場を
こうなってしまうと対抗できるのが、年齢、実績、実力、霊格に於いて唯一龍吉に勝るコンクエスターだけである。
コンクエスターは龍吉以外の四名から、頼みましたと言わんばかりの視線が寄せられるのに、やれやれと肩を竦めてドラゴンと龍吉のそれぞれの顔を一瞥してから口を開いた。
「今日ほど心臓に悪い話を聞かされたのは、一体何時以来の事か。時にドラゴン様、少々お尋ねしたき事がございますが、よろしゅうございますか?」
「構わぬよ。問われて困る事は……ないからな」
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第百五十一話
第一回目の私と三竜帝三龍皇達との面談、そしてそれに伴うアレキサンダーとの三日三晩に及ぶ追いかけっこが終わって数日後の事である。
今日も今日とてガロア魔法学院で勉学と卒業後の領地経営について資料集めなどに励んだ後、私、セリナ、ディアドラ、ドラミナ、クリスティーナさん、レニーアは、龍吉からの連絡を受けてガロアの郊外へと足を伸ばした。
ドラミナの特性を考慮して時刻は夕暮れ時。競魔祭前に集まってはよく模擬戦を行っていた草原の一角にドラミナの馬車で乗り付けて、今は車内の一室で顔を突き合わせている。
故郷の復興の為に最低限の家具を残して置いて来た為に、寂しいものとなっていた室内は、ドラミナが私と合流した後の稼ぎで購入した調度品が置かれている。
値段の割には質の良いものを目利きし揃えた車内ではあるが、いかんせん龍吉やドラミナ、クリスティーナさんがいるとどんな調度品を用意しても釣り合うという事がない。
ただこの三名の中だとクリスティーナさんだけが、生まれと育ちの関係から豪奢な調度品に囲まれると落ち着かなくなる口だったが。
青と白の格子模様のテーブルクロスを敷いた長テーブルについた私達は、集合をかけた龍吉からその理由について語られるのを待った。
二脚の長椅子の内、ドアの奥側に置かれた長椅子にセリナ、私、ディアドラ、ドラミナ、クリスティーナさんが座り、その向かいに龍吉、瑠禹、ヴァジェ、レニーアが腰掛けている。
龍吉は瑠禹とヴァジェを伴っていたのだが、ヴァジェはようやく私にも慣れていきなり泡を吹いて卒倒する事はなくなり、少し強張った顔をする位になっていた。ふうむ、まあ上出来かな?
「さて皆さん、今日はお呼び立てした上に場所までご用意いただき、まことにありがとうございます。重ねてお礼申し上げます」
そう言って優雅に頭を下げる龍吉の姿に、もう何度も見た顔だと言うのにこの場に集った幾人かから感嘆の溜息が零れる。しかしまあ、我が国の偉い方々が龍吉の素顔と対面しなくてよかったと、つくづく思わされる。
「この度、皆様をお呼び立ていたしましたのは先日、私を含む三竜帝三龍皇が古神竜ドラゴン様としてのドラン様とお会いした折に出たある話について、皆様にお伝えしなければと瑠禹共々考えたからです」
ね、と龍吉が瑠禹を見れば、私達と合流してからカチコチに固まっていた瑠禹が、意を決した表情で母に頷き返す。
ああ、なるほど、あの場で飛び出て来た龍吉と瑠禹を古神竜ドラゴンとしての私の伴侶にする話か。龍吉と瑠禹に好意を寄せられている話は、この場に居る面々は既に承知の事だが、三竜帝三龍皇達にも話を通した事を伝えたいのか。
龍吉に代わり、話を切り出したのは見る間に顔を赤くしてますます緊張で体を強張らせる瑠禹だった。
口を開く前に一度私を見て、ますます顔を赤くする。龍吉と瑠禹の話は今のセリナやドラミナと同じ婚約段階とでも言うべきところだが、それだけで瑠禹には私を異性として改めて意識するのには十分だったのだろう。
「皆様、わたくしと母様がドラン様に想いを寄せている事は、以前アレキサンダー様とリヴァイアサン様がご光臨あそばした時にお伝えした通りにございます。
大変畏れ多い事ではございますが、この事に嘘も偽りもございません。しかしわたくしと母様は、水龍皇と次期水龍皇という立場がございます。
そのわたくし共が種の頂点に立つドラゴン様に懸想すると言う事は、地上の同胞達に黙ったままにしておく事はできませんでした」
ここまで瑠禹が語れば、この場に居る者で何をしたのかを察せられない者はいなかった。
特にドラミナなど元は一国の女王であった事から強い理解を示しており、なるほどと言いながら首を縦に動かしている。
大概は話が大事になったなあ、という顔をしていて、レニーアはやはり関心の薄い様子だ。そんな中、招かれた側を代表して、セリナが元気良く挙手をして問いを口にする。
私の周りの女性達の中では、正妻視されているセリナは本人に自覚はないが、他の女性達から一目二目置かれているように見受ける。
「ということは白竜帝さんや風龍皇さんもドランさんがドラゴンであると言う事を知って、龍吉さんと瑠禹さんを含めて私達と結婚する話を知ったと思ってよいのでしょうか?」
「は、はい。わたくしと母様に関しては時期が未定ではありますが、皆さんがドラン様と婚姻を結ばれる事をお伝えしました。皆様、大変驚かれておられましたが、ドラン様がお決めになられた事とご承諾成されました」
「う~~ん、ドランさんがドラゴンさんだって分かった時のヴァジェさんや、お義姉さん達が来た時の瑠禹さん達の態度からすると、古神竜という存在は竜種の皆さんにとっては絶対不可侵みたいですし、ドランさんが決めた事だから誰も反対できなかったっていうのが、本当のところのような気がしますね」
ふむ、鋭いセリナの意見である。実際、私が龍吉と瑠禹を受け入れる発言をした事で、コンクエスターや項鱗達は反論の言葉をなくした様子であったからな。
まだまだ彼らは私に慣れていないし、これから何度か顔を合わせて、それからようやく竜界の我が同胞達が彼らの下を訪れる段取りだ。
エングルザード達各々に立場があるから時間が取れない事もあるが、数日で終わる話ではなくなっている。私の仲介を経ずに地上と竜界の交流が行われる手筈が整うまで、数ヶ月か数年を覚悟しなければならないかもしれない。
セリナの言葉に、その時のコンクエスターやアルビオン、項牙などの様子を思い出したのか、瑠禹がこの娘さんには珍しい微苦笑を浮かべる。
「正直に申しますとセリナさんの言葉を否定できない面もございます。わたくし共にとって、始原の七竜とは正しく並び立つ者のない至高の存在なのです。
ただドラン様とお会いしてからは、方々であってもわたくし達とその心に於いては大きく変わらないのだと言う事が分かって参りましたが」
この瑠禹の発言にその横に座していたヴァジェがぎょっとした顔になって、瑠禹の横顔をまじまじと見る。
瑠禹とヴァジェにしても次期水龍皇と深紅竜という事から、その立場は隔絶しているのだが、瑠禹と私だとそれ以上だ。
ヴァジェはそれにも関わらず瑠禹が畏怖や畏敬よりも親しみの方がはるかに勝る発言をし、愛らしく頬を染めて私を見る姿に、感動さえしている風である。
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第百五十二話
「では今日も少し出てくるよ。夜には戻って来るから」
そう言って部屋に自分達を残して出て行くドランの背中を、セリナとドラミナは寂しい思いを一杯に胸に秘め、けれど決して表には出さずに笑顔で見送った。
高等部男子寮にある部屋の中で、主人のドランがいなくなり、二人だけになると不意に部屋が広く寂しく感じられるようになったのは、いったい何時からの事だろうかとドラミナは赤いドレスに包んだ胸の中で溜息と共に零す。
夏の出会いから既に二ヶ月近くが経っているが、ドランの存在がドラミナの心の中でどんどんと大きくなり、今ではもう彼なしで生きる事など考えられなくなっている。
堪え切れなかった物憂げな溜息が、ドラミナのヴェールの内側で零れ、同じく部屋に残っているセリナの耳に届いたようだった。
「ドラミナさん、そんなに寂しそうな溜息を零さないで下さい。いつもどおり夜になればドランさんは戻ってきますから」
そう言って自分に微笑みかけて来るセリナの顔に、無理に浮かべた笑顔が張り付いているのを見て、ドラミナはラミアの少女がどれだけ切ない思いを抱いているのかを悟る。
「それは分かっていますが、最近のドランは、もう私達に……」
飽きているのではないか、そう言おうとしたドラミナの唇が、しゅるりと鱗の擦れる音を立てて近寄ったセリナの唇で唐突に塞がれた。
それ以上言わないでと、そんな事を考えないでと、そう言うようにセリナの口付けは激しく、情熱的で、そして必死だった。止めて、やめて、それ以上言わないで。セリナはそう必死に訴えかけている。
セリナの舌が蹂躙するような勢いで自分の口の中に伸びてきて、舌と舌とが蛇の交合のように絡み合って来ても、ドラミナはかすかにうめくだけで受け入れた。そうしなければセリナの心が壊れてしまうと、分かっていた。
セリナの唇が離れたのは、それからどれほど経ってからだろうか。お互いの唇に銀の糸が引かれ、ドラミナが声を掛けようとした時、セリナはそのままドラミナをベッドへと押し倒し、ドレス越しにドラミナの身体を撫で回し始める。
「いけません、セリナさん、こんな事はもうやめにしましょう。こんな事をしても、ドランがいない虚しさを誤魔化す事しか……」
「やめて! 止めてください、ドラミナさん。だって、だって、もうこんな事でもしなくっちゃ、寂しくて寂しくて、おかしくなっちゃいそう!」
青い瞳から大粒の涙を零しながら必死に自分の身体を貪るセリナの姿に、そしてその悲痛な叫びに、知らずドラミナの目尻にも涙が浮かんだ。
そうしてドラミナはセリナが与える官能と寂しさを甘んじて受け入れ、体が熱を帯び潤み始め……
「お、お、おっほー!! なん、なん、なあんなあんですの~これ~!? せせせせセリナさんとドラミナさんが、あれやこれやしちゃってますわわわわ、はははは、お破廉恥! お破廉恥ですわ!! むっはー!!」
と、ここまで読んですっかり全身余すことなく真っ赤に染まったフェニアが絶叫と高熱を発しながら、手の中の小説をわなわなとふるえる手で握り締める。
場所は、ガロア魔法学院の中庭の一角にあるカフェのオープンテラス。
ファティマ、ネルネシア、シエラと共に午後のお茶と優雅に洒落こんでいたフェニアは、ネルネシアがおもむろに取り出した小説に目を通し、このような反応を示したのだった。
フェニアの鼻息は全力疾走した後の馬のように荒々しく、この少女の体質を考えるとその内、鼻息の代わりに炎が鼻の穴から吹き出るかもしれない。
「昔からこの手の本は、学院の生徒達の間でこっそりと書かれていた。それは先輩も知っているはず」
思っていた以上に激しいフェニアの反応に対し、ネルネシアは心の中で若干面食らっていたが、それでも淡々と問いかけると、フェニアは相変わらず真っ赤な顔を向ける。
ドランやヴァジェ、時には龍吉やアレキサンダー、バハムートとの特訓を経たフェニアの魔力変換体質は更にその効率性を高めており、フェニアの感情の高ぶり次第で中位か下手をすれば上位の火炎魔法に匹敵する炎を発する事すら可能な領域に達している。
元々高笑いすら詠唱の代わりとして使用できると言う、まともな魔法使いからすれば反則的なフェニアであったが、今では意識するだけでそれほど強力な火炎魔法を操れるのだから、多くの魔法使い達にとっては開いた口が塞がらないような規格外となっている。
「ええ、それは存じ上げております。見目麗しく優秀な成績を収めている生徒を登場人物にし、色恋沙汰を題材にした文学がそれとなく生徒間の間で流布しているのは、ガロア魔法学院に関わらず修道院ですとか一般の学校などでもある事と、このフェニアの耳にも入っておりましてよ。
ですが、ですが、まさかドランさんとセリナさん、ドラミナさんがその題材として取り扱われるとは、し、し、しかも女性同士でままままま、まあですわ! まあですわああ!!」
くわっと目を見開いて舐めるように小説を読み続けるフェニアに、周囲の生徒達から奇異の視線が向けられるが、それを気にするような四人ではない。
頼んでいた、季節の果物を使った炭酸入りの果汁水を飲みながら、ファティマがまあ仕方ないよねえ、という顔をする。
抑制を忘れれば魔法学院が炎に包まれるほどの熱量を蓄えているフェニアに、そのあまりの興奮ぶりもあってシエラは若干引いていたが。
「セリーを連れて来たって事でドランは前から注目されていたけれど~、やっぱり身分の事とかあったから、あまり題材にならなかったんだけれどね~」
「それがバンパイアのドラミナ様を使い魔にした事と、競魔祭での活躍で一気に注目を集めた? 今では騎爵位を授与されているから、物語の題材として扱うには十分と?」
そういう事かとシエラが言うと、ファティマはようやく落ち着き始めたフェニアを更に落ち着かせる為にも、事の次第を語り始める。
「だいたいシエラさんの言う通りだよ~。前はもっと違う人達の方が題材になっていたんだけれど、競魔祭が終わってからは、ドランとセリーとドラミナさんに注目が集まったから~。
今、フェニア先輩に見せたのは女の子の同士の内容だったけれど、中には男の子同士のもあるからねえ」
こういった実在する人物の承認を得ずに書かれている書物に関して、ファティマはあまり良い気はしないようで、友達が好き勝手に扱われている事への憤りみたいなものが確かにあった。
過去には問題が起きた事から、学院内でこういった書物を扱う生徒達同士の間で、決して題材となった本人に意図的に知らせてはならない、不服が申し立てられたなら、以後は対象を創作に用いるのを禁止する、などの決まりはあるらしい。
「んんんま! なんて業の深い事でしょう! んん、でもドランさんとセリナさん、ドラミナさんは同じ部屋でずっと暮らしているのですから、そういう風に考えてしまうのも無理のない要素はあったわけですわね。
それもあってこういった本が書かれてしまいましたのね」
おっほー、むっはー、とフェニアは時折叫びながら更に小説を読み進める。
あまりに夢中になって読み進めるものだから、フェニア先輩にこういう本の事を教えたのは失敗だったかもしれない、とネルネシアとファティマは顔を見合わせた。
最近では競魔祭に出場した五名の内、クリスティーナを除いた四名を題材にしたこの手の本が数を増していて、フェニアとドランが身分の差を越えた愛で結ばれるものや、無邪気にドランを慕うレニーアをドランが弄んでいるものもあったりするから、事前に教えておこうと思ったのだが……
なおクリスティーナが題材に扱われないのは、誰も彼もがあの美貌を表現するのを、挑む前から諦めたからである。ドラミナも素顔が知られていたなら、題材には決してならなかっただろう。
「ありゃりゃあ、失敗だったかなあ。フェニア先輩、あんまり小説の内容にのめり込んじゃわないでねえ」
「はっ! いけませんわ。淑女としてあり得ませんわ。そうですわね。この手の芸術かどうか怪しい線のいかがわしい品が、もはや伝統の領域で生徒達に連綿と受け継がれてきた事は存じてあげておりました。
しかし実際にこうして知っている方が題材にされますと、やはりもやもやとした気持ちになってしまいますわ。つい先ほどまでおほおほ興奮してしまいましたが、セリナさん達がこれを知ったら悲しまれるでしょうね」
「私は少しセリナとドラミナ達は怪しいと思っている」
思わぬネルネシアの台詞に、ファティマは本気で驚いた顔をしてまじまじと親友の顔を見つめる。
「ネルちゃん!?」
ネルネシアはファティマの視線を受けても気にとめた様子はなく、自分の注文した牛人の母乳と砂糖たっぷりの紅茶で咽喉を潤し、お茶受けに頼んだ最近流行のモンブランの栗の香りと甘みを楽しんでからファティマに答える。
「冗談。半分は」
「半分でも駄目だよ~、そういう事言っちゃあ」
「ドランのところの女の人達は皆、仲が良すぎる。少しは疑いたくなるのも当然の事。むしろドランを含めてこの本の中に書かれている事をしている可能性も……」
「ええ~~、いくらなんでもそれは飛躍しすぎじゃないかなあ? ドランって魔法学院を卒業して、きちんと安定した収入を得て、それからセリーやドラミナさん、ディアドラさんと結婚するって、前から言っているよ~」
「でもセリナもドラミナさんもとても魅力的。この本の内容と同じように、ドランが二人を放置して飽きるなんて事はないと思う。
ドランはあれでも一応は健全な男の子のはず。毎日、あの二人と一緒にいて理性を保てるのか? と言えばとても難しいと思う。ましてやセリナはラミア。男性の精を本能的に欲している筈」
ネルネシアがつらつらと並べ立てた意見に耳を傾けると、確かにその通りではある。特に魔法学院内で数少ないドラミナの素顔を知っている面々だからより一層、ネルネシアの言葉には信憑性を見出していた。
これにはドランが子供は多い方がいいな、と時折零していた事も影響しているだろうし、ドランが古神竜の転生者と知らないファティマ達からすれば、ドランとて十六歳の少年だ。
魅力的な女性達と四六時中一緒にいれば、間違いを起さないとどうして断言できるだろう。
実際には、セリナとドラミナやディアドラの方はいつでも構わない、むしろ来て! といった心構えが出来ているのに、ドランがきちんと段階を踏もうね、と自制していると、ファティマ達が知らなかったのも信憑性が増した一因だろう。
話の方向が徐々にズレ出している事に気付き、困ったものね、と年長者のシエラは内心で苦笑していたが、校舎の方からちょうど話題の的となっているセリナとドラミナが歩いて来るのに気付いた。
「噂をすれば影、ね。ファティマ、話題のセリナ達よ」
「うん? あ、本当だ。ドランがいないねえ~、珍しいや。セリー、ドラミナさ~ん、お~い」
ゆっくりと小さな手を振って呼び掛けて来るファティマに気付き、セリナとドラミナはどこか元気のない様子で近づいてくる。
その元気のない姿に、ファティマもネルネシアもシエラも、そして小説のより深い描写に火の粉を吹き出し始めていたフェニアもなにかあったらしいぞ、と察した。
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第百五十三話
ドラミナは悩んでいた。葛藤、あるいは懊悩といってもよい。
悩んでいる。二つの選択肢のどちらかを選ぶ事が出来ずに、ひたすらに悩み続けていた。
ヴァルキュリオス王国の王座に就いていた時、どれほど重大で解決の難しいものであろうと、短い時間で最善と思える判断を下してきた決断力は、名剣のような切れ味を失い錆びついた鉄屑同然になり下がってしまっている。
はたしてここまで悩むのはいつ以来の事だろうか。
幼い頃の世話役だったシェリンドンに、園遊会へ出席する時の召し物として二着のドレスのどちらかを選べと言われた時か。
それとも飼っていた、蝙蝠の特徴を持った亜竜ディノバットのお見合い相手の候補を選んだ時か。
あるいはセリナの髪を馬の尻尾のように結いあげようか、それとも大きな三つ編みにしようか考えた時か。
はたまたドランの血を吸う時に、左の頸部に口付けるか右の頸部に口付けるか悩んだ時か。
いや、セリナとディアドラと三人で膝を突きつけ合い、初夜はドランに乗るべきか、それともドランに乗られるべきかと、真剣に話し合った時か。
「にゃぁん」
自分の世界に没入するほどに悩むドラミナの耳を、猫の鳴き声が揺さぶった。
大好きなご主人に甘えている、蕩けた猫の鳴き声である。よくもここまで甘える事が出来ると、思わず感心してしまうほどの甘ったるい声だ。
ドラミナの瞳は、鳴き声を発する猫へと向けられる。猫――ベッドの上でドランに寄り掛り、顎の下や咽喉を撫でられているセリナへと。
「にゃ~~ん」
「よしよし」
甘えてくる分にはとことん甘やかす性分のドランは、ごろにゃんと体をすり寄せて来るセリナをセリナの望み通りに可愛がっており、セリナは次々と齎される喜びにほとんど理性を失っている。
「にゃ、にゃ、にゃ」
と猫が喜ぶ時に出す短い声を連続して繰り出すセリナの姿を、ドラミナはなんて羨ましいと思わずにはいられなかった。
ああ、いいな、いいな、とっても羨ましいな、と思うドラミナだが、彼女が何を悩んでいるかといえば、実は猫の真似をして甘える事それ自体にはこれといって躊躇はなかった。
ではなにを悩んでいるのか? それは今日は猫になるべきか、それとも犬になるべきか。この選択肢であった。
きっかけは何時だったか、部屋でセリナがドランに甘える時に、にゃ~んと言いながら抱きついた事であった。
まあ大胆、とその時は思ったものだが、ドランがおおらかにセリナを受け止める姿を見ていれば心変りもする。
セリナがにゃんと鳴く時は猫にするように咽喉の下の辺りを撫でて、セリナがわんと鳴く時には頭を撫でたり頬をむにむにとしてとにかく甘やかす姿を見れば、ドラミナの心中に私も! という気持ちが火山の大噴火の如く生じるのは至極当然の理である。
セリナはその日の気分によってセリにゃになったり、セリわんになったりと思う存分ドランに甘えている。
ドラミナは実の妹のように愛しているラミアが、犬猫両用型ラミアであった事に、密かに戦慄したものである。
ドラミナとて犬猫の真似事をする事に恐れなどはない。
ないが、はたして今日は猫になってドランに可愛がってもらおうか、犬になってドランに可愛がってもらおうか、となると途端に悩ましくなるのだ。
いっそのこと両方やってしまえばよい、と強欲な解決方法は幾度となく脳裏をよぎったが、先駆者であるセリナは犬の時は犬だけ、猫の時は猫だけでドランに甘えている。
ドラミナはこの事から甘える時は犬か猫かどちらかだけでなくてはならない、と捉えていた。
実際にはそんな事はないのだが、それを訂正する者が誰もいないまま今日に至った為、ドラミナは犬と猫の狭間でもがき苦しんでいるのだった。
にゃんか、わんか。
にゃん、わん。
にゃん! わん!
セリナはセリにゃを選んだ。そしてにゃんにゃん鳴きながら、ドランに目一杯可愛がってもらっている。
ドラミナだって可愛がってもらいたいのだ。
にゃんにゃんして、にゃんにゃんされたい!
わんわんして、わんわんされたい!
にゃんにゃんしてわんわんして、にゃんにゃんされてわんわんされたいのだ。
したいったらしたい。されたいったらされたい!
ドラミにゃか、それともドラミわんか。ああ、ああ、ああ! なんて悩ましい贅沢な悩みである事か!! ドラミナは身悶えしながら、ついに、ついに決断を下した。
「ドラン、わ、私も可愛がって欲しい……」
『にゃ』と続けたのか、それとも『わん』と続けたのか。それはドランとドラミナとセリナしか知らない秘密である。
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第百五十四話
ドランとディアドラが客達の会話に耳を傾け、自分達にも関わるかもしれない未来の予想をしはじめてからしばらく経った頃の事。
どうにも数年以内にアークレスト王国の東西での戦争勃発と、王国の介入は不可避の未来は確定のようだと、ドラン達が結論を下しているに、宿の二階から降りて来た二人組の宿泊客がドラン達を見つけて、はしゃぐような声で話しかけて来た。
「おや、おやおやおや!? ドラン君じゃないかね! どうしたどうした、君がサンザニアに居るなんてびっくりドッキリだよ!」
綺麗に切りそろえた金髪に、うっすらと青の色が入った丸眼鏡が特徴の青年だ。
ドランに掛けた言葉は子供のようにはしゃいでいるが、その物腰や足音一つ立てない身のこなしは、それなりの修羅場をくぐらなければ体得できまい。
「教授、少々お声が大きすぎます。他のお客様に迷惑をかけてはいけません」
青年を教授と呼び、静かな声で窘めたのは傍らの女性である。
しかし、静かな声に反して身に帯びた品々はいささか物騒だ。
冷たい印象を受ける金髪をバレッタで纏めているのはまだいいが、黒いドレスに白いエプロンを重ねて、更にその上に棘付きの分厚い鎧を纏っているのは珍しい例だろう。
従順な使用人のように青年にひっそりと寄り添っているが、こちらも足運びから佇まい、纏う気配はいずれも只者ではない。
ドランは懐かしい顔と思わぬ再会をした事に、ふっと顔を綻ばせる。ドランがそうするだけの親しみを覚えている相手であった。
青年はエドワルド・ブラノック。ガロア魔法学院に席を置く考古学者で、女性はエドワルドの助手でマイラール教の神官戦士でもあるエリザだ。
夏の前に、天人の遺産である天空都市スラニアの探索で知り合った二人である。
スラニア以来顔を合わせた事はなかったが、ドランはエドワルドが大陸各地で精力的に遺跡探索と冒険に勤しんでいるのを、風の噂で聞いていた。
よもやディアドラが適当に地図を指差した先であるサンザニアで、顔見知りに合う事になるとは、なんという偶然であろう。
「教授、ミス・エリザ、まさかここで再会する事になるとは、夢にも思いませんでした」
嬉しい再会ではあるのだが、魔法学院の関係者にディアドラと一緒に行動しているところを見られないようにする、という配慮が無駄になったわけで、その点がドランにとっては複雑だった。
「いやっはははは、私達にしてみても驚きの事だったよ。まさかまさかの再会だったね。
君の活躍は何時だって私の耳にも届いているよ。競魔祭では観客の皆さんの度肝を抜いたそうじゃないかね! 実に君らしいね。うんうん。あ、同席しても?」
「ええ、ミス・エリザもどうぞ楽になさってください」
ドランは朗らかに空いている席を勧めるが、エリザはかすかに表情を曇らせる。
「しかし、よろしいのですか、ミスタ? そちらの方と二人きりのお時間を過ごしていらっしゃったのでしょう?」
「あ、いやいやこれはすまないね。そうか、そうだね。これでは私はとんだ無粋者だ。申し訳ない事をしてしまったなあ」
流石にミス・エリザは教授よりも周りが見えているし、常識も弁えている。
ミス・エリザの発言でようやく教授は自分がドラン達の邪魔をした事を悟ったようで、人の良い顔を渋面に変えて、精一杯の謝意を示す。
ディアドラは折角ドランと二人きりの逢瀬だったのが、ドランの顔見知りとはいえ邪魔が入った事に、少なからず不満の様子ではある。
ただ、彼女は場の空気を読む事のできる女性であった。恐縮そうにする教授とミス・エリザに、諦めの混じった微苦笑を向ける。夢見る時間が不意に終わりを告げたのだと、ディアドラは受け入れたようだった。
「いいわよ。今までドランと二人きりで居られた事で満足しておきましょう。私はディアドラよ。貴方達の事は前にドランから教えて貰ったから、名前だけは知っているわ。
私も臨時だけれどガロアの教壇に立っているから、一応はエドワルド教授と同僚ね。まあ年が明けて春が来る前に、学院を去るからあまり顔を合わす機会はないでしょうけれど」
「ああ、学院長から聞いたよ! 学院長のエンテの森のご友人なんだって? 種族を問わず受け入れる我がガロア魔法学院とはいえ、黒薔薇の精が教壇に立つなんて、王国の歴史上はじめての事だったから、びっくり仰天したもんさ。
うん、にしてもどうしてまた君ら二人がここに? ガロアから結構離れているけれどね」
さて、ここでの返事は少々難しいところである。曲がりなりにも教師と生徒が二人きりで出かけているなど、男女の中を勘繰られても仕方のない事。
エドワルドが若干、世の常識とはズレた思考の持ち主とはいえ、流石にそれ位は思い至るだろう。
ディアドラがどうするの? と言いたげにドランに視線を向ければ、ドランはふむ、と何時もよりやや力強く口癖を零した。
たとえ邪推されようとも、自分とディアドラとが授業の内容や成績に関して不正を働いていないのは事実であるし、また婚姻の約束を交わしているのも事実。
信じて貰える、貰えないはエドワルド達次第だが、恥じ入るように隠しだてする事ではないのだ。
「人目を忍ぶ形でこちらに来ました。一応、教師と生徒ですしガロアで堂々と人前を出歩いては要らぬ勘繰りをされると思いましたので。
教授、ミス・エリザ、誤解をなされる前にお断りしておきますが、私とディアドラの間で成績に関する不正はありません。
ただ私とディアドラが婚約者である事は紛れもない事実ですので、教師と生徒として不適切な行為をしていると指摘されても仕方のない事ですけれどね」
「ふんふん、そういう事か。まあ、邪推なんてものはいくらでも出来る事だからね。
君らが危惧してガロアを離れたのは分かる話だ。どうやってここまで来たのかちょっと気になるけれど、そこはドラン君だからなあ。
短い付き合いだったが君の人となりは知っているつもりだからね。君がそんな風にまっすぐな目で不正はないと言うのなら、本当にないのだろう。
仮にあったとしたら学院長がお許しになる筈もないからね。しかしまあ、君とディアドラさんが婚約者というのは驚きだなあ。婚約するなら、てっきりセリナ君かと思ったけれど」
「セリナとも婚約しました。他にも一人。目下三名と婚約中です」
「へえ!? セリナ君があれだけ入れこんでいたし、ヴァジェ君や瑠禹君やレニーア君のあの懐きようから、君が色男だとは思っていたけれど、思っていた以上だなあ」
「返す言葉もありません」
ミス・エリザからの視線が若干冷たくなったような気がするぞ、とドランは思ったがこればっかりは仕方のない事である。
エドワルドに一筋でエドワルドからも一筋に見えるエリザからすれば、ドランなどは女の敵に見えて仕方のない事だろう。
「ああ、でも君は騎爵になったのだったね。それなら奥さんを何人か持てるし、まあ、法に触れているわけでもないか。
しかしそれだと二人きりの時間というのは本当に珍しいだろうに、悪い事してしまったなあ。今からでも君達と会わなかった事にしようか?」
ふざけているわけではなく、本気でそう提案するエドワルドに、ディアドラは面白いものを見る目を向けた。これまで、ディアドラが出会った事のなかった類の男であるだろう。
「そこまで気にしなくていいわよ。これから時間ならいくらでも作って貰うわ。ドランだってそれくらいの甲斐性はあるでしょうしね。
ところで貴方達はどうしてここにいるの? 貴方の専門が天人の遺産だっていうのは知っているけれど、このサンザニアの近くにそういうのがあるのかしら?」
ディアドラが天人の遺産を話題にした途端に、エドワルドはそれまでの謝意一色に染まっていた表情をぱあっと輝かせて、嬉しそうに自分達がここにいる事情を語り始める。
エドワルドは自分の関心のある話題になると、途端に饒舌になる性格だった。
事の成り行きを見守っている周囲からの視線など気にも留めず、エドワルドは滑らかに舌を動かし続ける。
「実はだね、このサンザニアそのものが例えば天人の遺跡の上に建っているだとか、天人の街を再利用しただとかそういうわけではないのさ。
ただここら辺の近くに天人達が利用していたレイライン、あるいは龍脈、気脈、地脈だとか言われている、大地を流れる大いなる力を利用する施設があったらしいんだよ。
魔力炉とか蒸気機関みたいな動力源にしていたのか、それとも研究施設だったのかとかは不明だけれど、だからこそそれを調べていてね」
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第百五十五話
発掘現場に足を踏み入れたドラン達はそれぞれランタンを持ち、地図を持ったエドワルドが先頭に立って進んでいる。
崩落を防ぐ為に木材や土の魔法で補強された発掘現場の内部には、光精石を入れたランタンが吊るされているが、今は休憩時間なので節約の為に明かりは灯っていない。
四方を土に囲まれている状況は圧迫感を与えて来るが、歩を進める四人に気にした素振りはない。
エドワルドなどは鼻歌を歌っているほど上機嫌だ。この発掘現場を作る為に必要な時間や資材、人手の確保など、これまでの苦労を喜々としてドランに語っている。
ドランもベルン村の周囲に鉱山はないが、魔晶石や精霊石の露天掘りなどはしているので、それを更に拡大する時に発掘作業の話は参考になるだろうと真剣に聞き入っている。
「ここを発掘する事に決めた時は、お金のある間は作業出来ると思ったんだけれど、東の方が怪しい雰囲気だろう?
戦端が開かれてすぐサンザニアまで影響が出るとは思えないし、王国の介入もすぐにはないだろうけれど、何年かかけての発掘作業というわけには行かなくなりそうなのが、残念で仕方ないよ。
待ったが掛る前に、見つけられればいいんだけれどね。見つけたらそれでおしまいというわけでもなし。あっはっは、いやあ、頭が痛いよ」
明るい声で笑い飛ばすエドワルドに、ドランと腕を組んで歩いているディアドラは呆れた色を隠さない。ただ呆れてはいるものの嫌悪などは抱いていないようだ。
「笑ってする話かしら。自分の夢が潰えるかもしれないって話でしょうに」
「あくまで夢の一部でしかないっていうのと、教授は制止されてもどうにかしてしまおうっていう気概に満ち溢れているからだろう」
「へこたれない性格って事。そうでなければ、あるかも分からないものを探して、年がら年中、地面の下を掘ったりはしないわね。成果も上げているみたいだし、まあ、私からすれば好きにすれば、としか言えないわ」
夢に生きるエドワルドだが、こうしてディアドラとドランが地脈の異常を感知している地点を見事掘り当てているのだから、優秀である事は疑いようがない。
ディアドラとドランは、とても地肌や岩が剥き出しで、起伏のある現場内を歩くのに向いた履物ではなかったが、一度も躓いたりふらついたりもせずに、エドワルド達に追従する。
エリザは何か思うところがあったらしく、エドワルドに影のように追従しながら二人に話しかけた。
「ドランさんは以前から知っていましたが、ディアドラさんもお見事な足運びです。黒薔薇の精というご出自とはいえ、感嘆の念を禁じ得ません」
「そう? 重たいものを持っている貴女だって、大したものじゃない。エドワルドの行くところには、どこであってもその格好でついて行っているの?」
「はい。メイドとして、また教授の護衛として、これが私の正装でございますから」
それは確かな誇りを感じさせる言葉で、ディアドラはふうん、と面白そうに頷く。
「私も人の事は言えないけれど、我を通せるのならそれでいいわよね」
二人の女性達が言葉を交わして友好を深めている間にも、エドワルドは変わらず足を進めていて、どんどんと地下へと向かっていたが、ある分岐路に達したところで行き止まりになっている方向へと行き先を決める。
エリザが訝しむ素振りすら見せない事から、彼女も了承済みの事なのだろう。
しんと静まり返り、ランタンの明かりで払拭しきれない薄闇がそこかしこに残る現場だが、ディアドラとドランは着実にレイラインの流れを操っている場所へ近づいているのを認めていた。
「教授、この先は行き止まりのようですが、どのような意図がおありですか?」
周囲には発掘のための道具や作業中の崩落を防ぐ建材などもない。ここはもう発掘を止めた場所だろう、と見当をつけたドランに、エドワルドはにんまりと笑いながら振り返る。
その目に期待の光がキラキラと輝いているのを見て、ドランはなんとなくエドワルドの意図を察する。
「うん、実はだね。サンザニアで新しく仕入れた資料とこれまでの情報、そして私の経験と天人の技術や思想などを考慮すると、今掘っている場所も悪くないけれど、こちらからの方が当たりに近いと考えているんだ。
そこで、君達ならレイラインの流れが感知できるかなと思ってね。他力本願で情けない限りだが、よろしくお願いするよ」
「お二人の貴重なお時間を頂いたわけですから、きちんとお礼はいたします。またお二人がサンザニアに居た事も決して口外はいたしません」
エドワルドとエリザが揃って頭を下げ、懇願して来る姿に、ドランとディアドラはやはり思ったとおりだったと心中で呟きを洩らした。
レイラインを感知できる自分達が同道を誘われたのだから、こういった展開になる事くらいは想像の範疇である。
「私としては構いませんが、ディアドラはどうかな?」
「私も構わないわよ。というか、黙ってはいたけれど、ここに来た時からもう分かっていたもの。エドワルド、貴方の見立ての通り近くの大きな流れから、ほんの少しだけここの下に小さな流れが分岐しているわ。
天人の遺産とやらがそれを引き寄せているのか、たまたまあった流れの上に遺産があるのかは知らないけれど、ソレっぽいのがあるのは確実でしょう。そこへの入り口も、まあ、ここらへんじゃないの?」
若干ディアドラの対応が投げやり気味なのは、ドランと二人の時間に水を差された事を口では納得していると言ったものの、やはり消化しきれてはいないせいだろう。
エドワルドとエリザは、二人への謝礼はそれなり以上の物を用意しないと、ドランはともかく黒薔薇の精の機嫌を直す事は出来ないと、覚悟せざるを得なかった。
だがそれも仕方のない事だ。ドランとディアドラの好意に甘えて、図々しい願いをしている自覚は、エドワルドにもエリザにもある。
「いや、本当にすまないね、それにありがとう。発掘現場としてこのテレニア山を選んだのは間違いではなかったか。となるとやはりこの下にある遺産に、最も近い場所を探すのがこれからの課題か」
「レイラインの力の噴き出る場所、
「うん、スラニアでは地表部分それ自体が移動して、昇降機などの役目も果たしていたし、あるいはこの山全体が天人の遺産で、私達が居る辺りは星人などの目を誤魔化す為の偽装かもしれないね」
たとえ衰退期に入った天人の文明であろうと、人工の山や島を作り上げる事は出来たという。
文明崩壊から地殻変動や時間の流れによって山に覆われたのか、最初から山に偽装する形で建造されたのかは不明だが、それもこれから調べればすぐに分かる。
エドワルドとエリザはランタンを地面に置いて、行き止まりの壁や天井をしげしげと眺め始めた。
こことて十分に調べ尽くした後だろうが、この先に霊穴があると言われれば、今すぐにでも調べたいに違いない。
それをしないのは、霊穴の存在を指摘してくれたドラン達をこれ以上拘束しては申し訳がないと考えているからだ。
ドランは小さな苦笑を一つ零してから、自身もランタンを地面に置いて小さく呟く。
「光よ、あれ」
空中に光源となる光の玉を発生させる、ごく初歩の魔法である。ドランの魔力によって生じた光は、昼間と変わらぬだけの明るさを齎す。
「教授、遠慮しておられるようですが、ここまで来たからにはお気になさらず頼み事をなさってください。それにこの山には、どうも魔法やその他の方法での探索を妨害する処置が施されている様子。
事前の調査でここをそれ以上調べずに行き止まりとしたのも、その所為でしょう。しかしであるのならば、この施設か装置か、それらを守る防衛機構も生きていると見るべきです」
エドワルド達からの返事を待たず、ドランは壁際まで歩いて指先を這わせる。
かすかに湿った岩壁は天然自然のものとなんら変わらぬ手触りで、人工物とはとても思えない。
もっとも、その天人も種そのものの衰退と自分達の傲慢によって、その文明に止めを刺す事になり、今ではわずかな遺産が地面の下に埋もれているばかり。
「栄枯盛衰、一度は死んだ私が言えた義理ではないが、存在したという事実は残るか……」
生じ、育ち、栄え、衰え、消える。古神竜である我が身さえその定めに従った事に、ドランは自ら寿命を縮めた天人文明を笑えぬかと自嘲していた。
ドランが壁際にそって歩き始めてからしばらく、透視をしても偽りの映像が映るよう欺瞞の処置が施された一点に辿りつく。
現在の地上文明よりも遥かに進んだ科学と魔法技術を誇った天人達も、古神竜の知覚を騙す水準にまで達してはいなかった。
これを龍吉達が気付いていて放置したのならばともかく、気付けずに放置されていたのなら、かなり厄介な事になりそうな遺産かもしれないが……
「実体のある立体映像に、魔法と科学両方の光学迷彩か。誤情報を五感に与える攻性認識阻害もおまけでありと。ふむ、まあまあかな?」
まあまあという評価をドランが下すのと同時に、ドランから発せられた魔力は認識障害を発生させている装置へと干渉し、その機能を音もなく停止させた。
厳重なセキュリティが幾重にも施された筈なのだが、それをものともしないあたり、もはや何でもありのドランだ。まあ、それを言っても今更であるけれど。
ドランの指が触れていた岩肌が消え去るのに合わせ、それまで圧倒的な質量を感じさせていた岩壁の一角が消え去り、ぽっかりと巨大な生物の口を思わせる通路が開いていた。
スラニアやガジュラ達の占拠していた施設とは異なり、岩壁を掘り抜いた造りだったが、その奥には天人の遺産特有の建材の継ぎ目がない部屋がある。
「おおお~~~、まさかこんな近くに入口があったとは。いやはや、生きた天人の遺産は、立ち入りの権限がある認証かなにかがないと、見つけるのが一苦労でねえ。
そう言う意味では収穫は少ないけれど、死んでいる遺産の方が発見は簡単なんだ!」
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第百五十六話
施設の最下層で研究に耽る男の命令は忠実に守られて、最短経路で男の待つ区画へと近づくドラン達へと防衛兵器と武装ホムンクルス達は次々と襲いかかっていた。
先程片付けた四脚型の防衛兵器の他にも、鴉ほどの大きさの施設内での運用を前提とした小型の戦闘機が姿を見せて、施設に被害を及ぼさない範囲での最大火力を容赦なく放っている。
空のコンテナが山のように積まれた巨大な倉庫の中で、ドラン達は合計で百に近い防衛兵器群と交戦状態に陥っていた。
武装ホムンクルス達の武装は、施設に残っていたレーザーライフルと高周波ブレード、それに身体能力を大幅に強化する装甲服だ。
コンテナの陰から飛び出してきた武装ホムンクルス四人が、ヤオへと向けて一糸乱れぬ動きでレーザーライフルの引き金を引き、銃口から赤いレーザーが発射される。
銃口内部の無数の魔法文字と銃身内部の魔力変換コンバーターによって、レーザーは霊的存在に対しても有効だ。
レーザーに対しヤオ自身は反応出来なかったが、彼の周囲に浮遊していた無数の呪符が自動で盾となり、四条のレーザーを受け止めると燃えるでもなく吸いこみ続ける。
ヤオの袖口から新たな呪符が滑り出し、ヤオの指が素早く幾つもの組み合わせを描き、天地万物に宿る気を吸収する。
「
黄色い呪符に墨で描かれた文字から、真っ黒い雷が発生するやそれらは意思を持った生物のように武装ホムンクルス達へと襲い掛かる。
装甲服によって武装ホムンクルス達の反射神経や俊敏性は大幅に強化されていたが、稲妻の速度には及ばない。
即座に強化服の持つ対魔法防御機能が発動し、稲妻に対して半透明の防御膜を展開するが、ヤオの放った符術の威力は凄まじく、防御膜を薄氷の如く打ち砕くや強化服に守られた武装ホムンクルス達の肉体を直撃する。
合成有機素材で作られた武装ホムンクルス達の肉体は、皮膚、筋肉、臓器、骨格に至るまで天地陰陽の気より生じた稲妻によって、抵抗らしい抵抗も出来ずに炭化した。
ドランはアークレスト王国では使い手の少ない符術を目の当たりにして、ヤオの完成度の高さに素直に感心していた。
「ふむ、ヤオさんは本格的な符術の使い手なのですね。道士か仙人でいらっしゃるのでしょうか」
ドランの称賛を受けたヤオではあったが、そのドランが小型戦闘機や防衛兵器に対し、レールガンの乱射や小型ミサイルの雨にも怯まず、正面から突っ込んで次々と粘土細工を壊すみたいに破壊して行く姿に、引いていた。
他の機体よりも二回りほど大きかった重装型の防衛兵器を四つに引き裂いたばかりのドランに、ヤオは強張った笑みを向ける。
「いえいえ、貴方の腕前に比べれば、私の符術などは道士の真似事に過ぎません。
いや、教授があそこまで信頼されているのですから、相当な腕前であろうとは思っていましたが、私はどうもお二人を過小評価し過ぎていたようです。
特にあちらの黒薔薇の精の方は、よもやあそこまでのお力をお持ちだとは、夢にも思いませんでした。ええ、本当に、本当ですよ」
しかし、これでもまだヤオにとってドランはまだマシな方だった。強さとか常識ってなんだっけと思わされるのには変わらないが、ディアドラの方はもっとひどかったのである。
コンテナの置かれている倉庫の入り口は二つあり、ドラン達が入ってきたのは反対側から次々と防衛兵器や武装ホムンクルス達が入り込んで来ている。
ディアドラは雲霞のごとく湧いてくる敵へと向けて、自分の道を阻む者など存在しないと言わんばかりに悠然と歩を進めていた。
当然、ディアドラにはドラン達以上に火力は集中していたが、レーザーもミサイルもレールガンも、重金属粒子砲も、ディアドラが纏う青い霧と黒い光に触れるや全てが吸い尽くされて、ディアドラの柔肌はおろか衣服にすら傷はついていない。
ディアドラは苛立ちを隠さずに、邪魔な鉄屑や意思のない人間モドキ達を睨み据える。
黒薔薇の蔦を動かす事もせず、ディアドラから放たれた青い霧と黒い光に晒されるのと同時に、敵達は有機物無機物の区別なく生命と呼べるものを全て奪い尽くされて、その場に昏倒していった。
まさに攻防一体を体現したと言ってよい、理不尽なまでの無敵ぶりだ。
「鬱陶しい、その二ね。まったく」
鬱陶しいの言葉そのものの仕草で髪を掻き上げるディアドラの周囲には、七十を越す防衛兵器や武装ホムンクルス達が、倒れ伏してぴくりとも動かなくなっていた。
元々花の精として最高位にあった地力に加え、ラフラシアとの戦闘、魔法学院に教師として赴任後、定期的にドランから貰っている古神竜の精気によって、ディアドラもセリナのように花の精としての規格を越えた存在となっていた。
「ええ、本当に、花の精であそこまで凄まじい個体を、私は他に知りませんよ、ええ」
驚きすぎて呆れの境地に達しているヤオに、ドランは苦笑を浮かべる事しか出来ない。
普段は自分がセリナやディアドラ達に、ヤオのような反応をさせている事を思い出したからである。
倉庫での戦闘は予想通りともいえるヤオの高い実力と、八つ当たり気味に迅速に殲滅したディアドラの活躍により、戦端が開かれてからわずか四分で終了した。
「エドワルド、レイラインに大分近づいて来たわよ。そろそろ、この役立たず達を動かしたお馬鹿さんの顔を拝めるのではないかしら」
ディアドラは、苛立ちを隠さずに床に倒れ伏す武装ホムンクルス達を見回す。エドワルドは束ねた鞭を片手に、ディアドラの暴れぶりに軽く汗を掻きながら、答える。
「そうだねえ、この手の地下構造物ならそろそろでもおかしくないね。
いやあ、君達のお陰でほとんど足止めされる事がないし、目的の場所までおそらく最短で行けているだろうから、思ったより時間に余裕が出来るかな」
「そう、なら改めてお土産の一つでも見ておきたいわね。どうしてここを動かしているのか、洗いざらい問答無用で吐かせて、さっさとここを離れたいものね。いえ、そうするわ」
「ははは、そうなると相手が可哀想になって来るね! よっぽどの理由でないと許しては貰えそうにないからねえ」
これにはドランも同意らしく、ディアドラの怒りを受けるだろう施設の主に対し、ほんの少しだけ憐憫の情を抱いた。
もっとも、蜜月の時を邪魔されたという思いはドランにもあるもので、すぐに憐憫の情は消え去ったが。
故障していない装甲服やレーザーライフルの類は、あらかじめ登録された者でないと使用できないように処置が施されていた為、この場に残してドラン達は再び先へと進み始める。
襲撃の頻度と敵の数は増していたが、傷一つ負わずにかつ迅速に殲滅し続けた結果、施設の側の戦力の方にも翳りが見えてきた。
しばらく進んでいても新たな敵の出現がなかったのだ。ただこれで敵が諦めたと思うほど、歩を進める五人はおめでたい考えの持ち主ではなかった。
自分達を片付ける為に万全を期して、状況と戦力を整えているに違いないと考えるほうがむしろ自然であろう。
ドランもディアドラも地下にレイラインの流れと生命の反応を知覚しており、ドランの方は施設に供給されているレイラインの流れなどから、構造それ自体もほぼ把握していたから、道に迷う事はないしどこで防衛兵器達が待ち受けているのかも手に取るように分かっている。
一方で待ち伏せを事前に看破されているとは知らず、施設を管理している人工知能は、残った戦力をかき集めて、最も戦場に相応しい場所を選びだし、そこに誘導するよう計算を重ねる。
侵入者によって次々と防衛の為の戦力が撃退された事は、人工知能を経由して施設の仮初の主である男へと伝えられていたが、男は苛立ちを重ねて侵入者の抹殺を命じるだけであった。
人工知能は男に与えられた大まかな方針に愚直に従う。この侵入者を撃退出来れば、後の施設の防衛など一切考慮しない、残存戦力の大盤振る舞いだ。
小型浮遊戦車から戦闘用アンドロイドも先程までの顔ぶれに加えて、総数は三百にもなる。侵入者達を四方から挟みこみ、逃げ場のない状態で遠距離から火力を集中させて、何も出来ないまま排除する。
たったそれだけの、単純であるが故に確実な効果を見込める人工知能の戦術は数分後実行に移された。
そしてその十分後、男は人工知能から侵入者排除に関する報告に目を通し、椅子を倒して立ち上がり、罵倒の声を上げ始める。
「あれだけあった遺産と、私の作ったホムンクルスを使って、侵入者の誰も始末できていないだと!
くそ、くそ、くそ、天人の遺産と言っても所詮は衰退期のものでは、だめなのか。いや、そんな事はない、そうだ。
衰退期のものが駄目なら、リエルを生き返らせるのだって、駄目になっちゃうじゃないか、違う違う、そうじゃない」
男は情緒不安定な様子でわめき声を上げ、右手の親指の爪を噛みながら、広い部屋の中を歩きまわって思案に耽り始める。
自由に動かせる防衛戦力の大部分は、ドラン達の手によって壊滅させられて、その補充には、施設内の資材と内部工場を稼働させて数年をかける事になる。
男にとって失った戦力などはどうでもよいのだが、今、侵入者達を阻めないのは看過し得ない大問題だ。
男はしばらくの間、思案の海に深く潜っていたが、覚悟を決めて顔を上げると卵型装置の中で眠るリエルへ視線を向け、熱に浮かされたような声で話しかける。
そう、男はずっと夢を見ていた。恋した幼馴染の少女を失った日からずっと、悪夢を見続けているのだ。その悪夢を終わらせる為に男は人生の全てを捧げている。
「ああ、リエル、リエル。私の大切なリエル。大好きなリエル。大丈夫だ、大丈夫だよ。大丈夫さ。
私達の明るい未来を閉ざそうとする奴らなんか、私がみいんなやっつけてあげる。私達の再会を邪魔しようなんてひどい事をする奴は、私が懲らしめてやるんだ。
ああ、こんな時の為にあいつらを作っておいてよかった。こんな事にしか役に立たないような奴らだけれど、こんな時だから役に立って貰わなくっちゃ」
男は足早に部屋を出て同じ階層にある別の部屋へと赴いた。レイラインの力によって、リエルを生き返らせる研究の過程で生み出した副産物を眠らせている部屋だ。
網膜や静脈、DNA、魔力の波形認証による何重もの確認を経て、ようやく扉が開いた事で照明が点灯し、内部の光景が明らかになる。
部屋の中には四本の巨大なシリンダー状の培養槽があり、緑がかった液体に満たされた培養槽の中に、全裸の男女が浮かんでいた。
十代から三十代までの男女達は、レイラインが人体に及ぼす影響と蘇生実験の為に用いた人造人間達だ。
ほとんどは破棄して再利用したが、ここに眠る四体だけは男の望んだものではなかったが、レイラインの恩恵を得ることに成功し、破棄の運命を免れている。
男は培養室の机のコンソールを操作し、培養槽の中で眠る四人に覚醒を命じる。
緑色の培養液を全身に滴らせながら、四人の超人達はうっすらと目を開けた。彼らは、人造人間であると同時に、人工的に生み出された超人種と呼べたかもしれない。
脳内に埋め込んだ小型の魔道具と製造時の刷り込みにより、男に対して絶対の服従を誓う人造超人達へ、男は病的な白さの顔に怒りの朱色を浮かべて、唾を飛ばしながら命じた。
「ここに私の邪魔をする奴らがやってきた。もうお前達の脳内に情報は刷り込まれているから、どんな奴らか分かっているだろう。
創造主としてお前達に命令する。邪魔者共をお前達の全能力を賭して始末せよ。ただし極力施設に被害の出ないよう配慮する事。いいか、一人残らず殺すんだ。そうしたらお前達にも、いくらか自由に行動する権利を与えてやる」
あるいは対話によって退去を願う、などという思考は男の中に最初からなく、ただただ邪魔物をこの施設から一刻も早く排除する事しかなかった。
培養槽から立ち上がり、ガラス状のカバーが開いて外へと出て来た人造超人達に、男の傍らに控えていた世話役のホムンクルス達が近づいて、濡れた体を拭き、天人の遺産である重厚な全身鎧を思わせる装甲服と武器の数々が収められたワゴンを持っていった。
「武器と防具は好きな物を使え。この星の命であるレイラインの力を使って創り出したお前達は、勇者や英雄に勝るとも劣らぬ強者だ。盗掘屋の侵入者を撃退することぐらい、わけはないだろう」
この人造超人達は、リエルの蘇生実験で作ったホムンクルスや施設に保管されていた遺伝子情報を元にして、男が生み出した者達だ。
施設を建造した天人の社会で特に優れた能力を示した軍人や、潜在的な能力の高かった個人の遺伝子情報が保管されており、それらを男が利用したのである。
遺伝子情報が保管されていたのは、優れた素質を持った個体の複製つまりクローン兵士による軍隊の構築が、かつて天人達の間で計画された名残だ。
能力に上下差のある複数人からなる軍隊ではなく、用途ごとに最も優れた身体能力と統一された思考を持つクローンによる軍隊は、従来の人間からなる軍隊よりも強力であろう、と考えたのだ。
しかし、クローン兵士達の成長には従来の人間達と同じ時間が掛る事と、強制的に成長を促進させても、肉体の寿命が早まるという欠陥があった。
クローン兵士を運用する為のコストと戦力に対し、肉体を機械部品や魔法素材に置き変えたサイボーグやアンドロイド、ゴーレムやロボットを用いた方が、はるかに効率が良い、と結論付けられた為、お蔵入りになったのである。
男は遺伝子情報が保管されていた事情は知らないが、自分の手駒として利用できればそれでいいと割りきっていた。
実際、レイラインの力を利用されて生み出された彼らは、オリジナルの人物をはるかに越えた力を持つに至っている。
生物兵器として日の目を見ることになった彼らは、用意された装備に身を包み、男の前に整然と並ぶ。
性別も年齢もバラバラな彼らを前に、男は笑みを浮かべる。それは自分のおもちゃを自慢する子供の笑顔のようにも見えた。
「よし、よし、よし、ならば、殺せ。行って殺してこい!」
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第百五十七話
培養槽から解放された人造超人達は、それぞれに与えられた戦闘能力と戦闘プログラムに従って武装し、迅速にドラン達を抹殺すべく施設を管理する人工知能の支援を受けながら行動を開始した。
彼らが製造されたのは天人文明衰退期ではあるが、天人達は種族の衰亡の只中にあって、生物工学に関しては特に熱を入れており、こればかりは全盛期にやや劣る程度で済んでいる。
その技術で生み出された彼らは、その製造のほとんどを施設の人工知能が行った為に、天人達が生み出した場合と比較してもそれほど能力の劣化は見られない。
身体能力を増幅し、魔法・物理双方に対して高い防御性能を誇る最高品質の装甲服や単分子ソード、グレネードランチャーと火炎放射機とレールガンからなる
彼らとドラン達が会敵したのは、いよいよもって最下層にまで迫り、そこへと繋がる大回廊の一角であった。
既に溶岩の層よりもさらに地下深くに達し、この惑星の核にますます近づいているにも拘らず、施設内部に温度や気圧の異常などは見られず、例え衰退期にあってもなお天人文明の技術水準の高さが伺い知れる。
三竜帝三龍皇や霊獣の王達に余計な手出しさえしなければ、天人達の文明はまだかろうじてその命脈を保つ事が出来ていたかもしれない。
そう思わせるに足る、現状の地上文明とは隔絶した技術だ。
エドワルドはふんふん、と鼻息を零しながら目をキラキラと輝かせて、施設の内部のそこかしこに好奇の視線を巡らせている。
ドラン達はこの施設の最下層部で行われている行為とそれを実行している人物の危険性を危惧し、他には目もくれずに向かっているのだが、そうでなかったらエドワルドは何時間、何日と時間をかけて調査しようとしただろう。
内心では断腸の思いで歩を進めているエドワルドの姿に、ドランやエリザ、ヤオなどは思わず苦笑いを零していたが、ディアドラばかりは呆れの色が濃い。
この施設を掌握している人物が、危険な思想に染まっていなければ、例えば侵入者に容赦なく防衛兵器をけしかける事をせず、退去勧告であれまずは対話から始める事が出来ていたなら、ここまで足を運ぶ事にはならなかったろう。
それを考えると、ディアドラはどうしても余計な事をしてくれたものね、と苛立ちを募らせてしまいがちになるのだった。
右側は壁、左側にはガラス状の壁とその向こうを流れる、希薄なレイラインの淡い赤色の輝きに挟まれて進むドラン達を、人造超人達は檻から解放された猟犬の如く捕捉していた。
四人の人造超人の内、最年長と見える三十代初めごろの色白の肌と白い蓬髪、長身痩躯の男が初手を担った。
四人は便宜上、創造主である男からゼフィランサス、フィサリス、デンドロビウム、ガーベラとそれぞれ名前を与えられている。
長身痩躯の男はゼフィランサス。ゼフィランサス達には、天人達がありとあらゆる魔法と超能力を研究し、被検体の脳と魂を開発する事で生み出した異能が備わっていた。
ゼフィランサスは彼と彼が許した生物ないしは物体のみが出入りできる、彼だけの世界を創造し、その世界の中から外の世界を観察し自由に移動する事が出来た。
不可視であるのみならず熱や音、匂い、気配、魔力や気すらも完全に遮断し、敵の索敵から隠れる事のできる極めて高い隠密性を備えた異能である。
ゼフィランサスに備わった異能を、天人達は
誰にも気づかれず、誰にも見られず、誰にも触れられず、誰にも知られる事のない、只一人だけで生きるにはうってつけの世界だ、という揶揄が込められている。
確かに使いようによっては強力な異能であったが、その頃にはもうクローン兵士の計画は白紙に戻っていたし、なにより天人達は種族単位での出生率と生命力低下に歯止めをかける事こそを最重要視していたのだ。
今更三竜帝三龍皇達に挑む気力は天人達にはなかったし、星の海や異世界からの侵略者達もすっかりその数を減らしていた以上、天人達が戦闘に特化した異能に目をくれなかったのはある意味当然であった。
天人達からは評価されなかった完全世界は、本来の世界と重なり合う別の位相に創造され、その中心にあるゼフィランサスを中心に小屋ほどの面積を持ち、ゼフィランサスの意思に従って地中、空中、水中を問わずに自在に移動する。
他の三人も完全世界の中に連れ込み、ゼフィランサスはドラン達の頭上に到着していた。
生物兵器として製造されたゼフィランサス達に、人格と呼べるようなものは存在していない。
あくまで兵器として求められる判断能力と、製造者とのコミュニケーションを円滑化する為の応答機能とそれなりに人間らしく振る舞う機能が備わっている程度だ。
ゼフィランサスは完全世界の一部を本来の世界へと繋げて、握り拳ほどの通路を作り、そこから、周囲に振動を発してあらゆる物体を分子にまで分解する振動爆弾を投じた。
その結果、五人の命が失われると分かっていても、ゼフィランサス達の顔に感情の色が浮かび上がる事はなかった。
そのように命じられたからそれの達成に全機能を捧げる。それが人間の姿をした兵器である彼らの在り方なのだ。
しかし、もし彼らにわずかなりとも人間らしい情緒が備わっていたならば、不意にディアドラの黒髪の間から伸びる茨が、突然出現したように見える筈の振動爆弾を絡め取り、振動を発生させる為の力を吸い尽くして無力化した事に、少しは驚いたかもしれない。
ましてや別の茨が鞭の如く振るわれるや、それが別の位相に存在している完全世界を切り裂いて、中にいた四人に有無を言わさずにこちら側へと引きずり出して見せたのだから。
ゼフィランサス達にとって想定外の事態ではあったが、対応できない状況ではない。
放り出された空中で体勢を立て直し、軽やかに床に着地すると同時に彼らはドラン達を排除する為の行動に移った。
状況の変化に対して一切行動に淀みが生じず、躊躇いもない。感情を有さぬ兵器だからこその遅滞のない行動である。
二十代半ばほどの、異様に発達した筋肉の鎧を纏い、更に銀色の装甲服を着込んだフィサリスは、盾を構えてエドワルドを庇うエリザに向けて、両手に構えた複合銃の引き金を引き続けた。
銃身内で加速したレールガンの専用弾頭は、その音速の二十倍に達する速度でエリザの盾と胸部を中心に着弾する。
銃身内部に彫り込まれたミクロンサイズの魔法文字によって、霊的生物に対する有効性と威力の増加がなされたレールガンは、人体に叩き込むには明らかに過剰な殺傷力と火力だ。
しかし、エリザに施されたドランのエクストラフォースをはじめとした補助魔法は、一秒間の間にエリザに襲い掛かった百二十発の弾頭の全てを防ぎ切り、粉状に砕けた弾頭がエリザの周囲に纏わりつくように漂う。
レールガンの無効化を悟ったフィサリスは、すぐさま武装を変えた。天人達の開発した亜空間化した収納庫の中の武装とレールガンを交換する。
傍から見ていたら何時武器が変わったのかと、自分の目を疑うような早業だ。複合銃に変わりフィサリスの手に握られていたのは、刃のない円筒のような柄だった。
そこにフィサリスの異能である
その気になれば施設の建材も分解し、更に周囲の地盤すらも取り込んで無尽蔵に力を得られるが、施設に被害を与えてはいけないという指令がくだされている以上、そこまでは出来ない。
フィサリスの右手の円筒から、強欲王によって取り込まれ変換された力が、真っ黒い刃となって伸びる。
この黒い刃以外にもフィサリスの全身には絶えず変換された膨大なエネルギーが注ぎ込まれ、身体能力を倍にも十倍にも跳ね上げている。
フィサリス以外に発現する者もなく、解析する事も出来なかった為に、これを全ての天人の生き残りに転用できれば種の衰退を留められたかもしれぬ、と嘆かれた能力だ。
装甲服と強欲王による恩恵は、人造超人たるフィサリスの身体能力を爆発的に高めた。
単なる数値で語るのならば、ドラッドノートの補助のないクリスティーナならば上回る領域に達している。
ドランの補助魔法を受けたエリザでさえ、咄嗟に反応出来ない速さに対応したのは、ヤオが自動で展開していた防御用の呪符であった。
エリザの首を輪切りにせんとした黒い刃と、エリザの背後から飛来した呪符が正面からぶつかり合い、黒い火花を散らして拮抗するも一瞬、呪符は強欲王の刃に耐えきれず、勢いよく弾け飛ぶ。
呪符にどれだけの力が込められているのかを知るヤオは、呪符が破壊された事に目を見開いて驚きを示したが、エリザは首の皮一枚で繋がった状況を理解し、右手のメイスを手加減なしでフィサリスの頭部に叩き込む。
フィサリスが鉄の塊だったとしても粉砕できるメイスを、フィサリスは左手の甲でなんなく受け止める。
防衛兵器の装甲ならば容易く粉砕出来たメイスが、フィサリスには一切通じずにわずかに左腕を震わせるだけに留まった。
エリザとエドワルドの目が驚きに見開き、フィサリスが二の太刀を繰り出すのを防ごうとエドワルドが鞭を、ヤオが呪符に意識を伸ばす。
一瞬にも満たない攻防は圧倒的にフィサリスの方が速かった。エリザの首と胴を泣き別れにする二の太刀を防ぐ者は、居ないかと思われた。
しかし、人造超人達の出現にも眉一つ動かさずにいたディアドラが、完全世界を断ったのと同じように茨を伸ばし、神速でフィサリスの右腕に絡めつかせて動きを止めてみせた。
文字通りの千人力を越えるフィサリスだったが、右腕に茨が絡みついた瞬間、強欲王と装甲服に内蔵されたレイラインジェネレーターの生み出す力が急激に低下した為に、茨を引き千切る事は叶わなかった。
「へえ、思ったよりも力はあるのね。でも、吸い尽くせないほどではないわ」
ディアドラは、思ったよりは、その程度の感心を乗せた言葉を口にしてフィサリスを一瞥した。
また鬱陶しい連中が出て来たと思ったが、これまで相手にしてきた鉄屑よりも大分出来は良い、そんな心境なのだろう。
フィサリスは生み出す力よりも吸われる力の量が多いと、自身の圧倒的不利を淡々と判断し、行動不能になるまでの時間を算出して迅速に次に起こすべき行動を選別する。
フィサリスの左手に、刀身を熱して対象を焼き切るヒートブレードが握られていた。
竜の鱗をバターのように、とまでは行かぬまでも半ばくらいまでは切断できる赤熱した刃だ。
フィサリスはエリザを跳ね飛ばして、ディアドラへと迫る。
フィサリスの体当たりを受ける形になったエリザは、勢い凄まじく壁に激突するが魔法の守りの恩恵によって、いくらかの衝撃に内臓を揺らされる程度で済む。
ディアドラは自らを目がけて超音速の踏み込みを見せるフィサリスを視認し、それでも慌てる素振り一つ見せない。
数千度に達する高温になっているヒートブレードへ、新たな黒薔薇の茨が巻きついた途端に、刃から熱が奪われて熱せられる前の状態にまで強制的に冷却させられる。
「あなたは、所詮『思ったよりは』程度の強さよ。慌てる必要はないわね。そこで物言わぬ彫像にでもなっていなさいな」
ヒートブレードを伝い、茨はフィサリスの左腕から上半身までを、そして右腕を捕らえていた茨もまたフィサリスの身体を緊縛していた。
ありとあらゆる力を吸い尽くすディアドラによって、フィサリスは装甲服や強欲王のみならず自分自身の生命力さえも吸い取られて、急激に意識を暗黒の淵へ沈めていった。
フィサリス自身が意識を失ったことに加え、装甲服もエネルギーを吸い尽くされて機能を停止した為、装甲服それ自体が拘束具となってしまっている。
この惑星に棲息する生物の大半にとって恐るべき敵である筈の人造超人を、一も歩動かずに片付けたディアドラは、気だるげに残る三人に黒い瞳を向ける。
最後のブリュードは、シャアをよみがえらせようとしたらフル・フロンタルになったハマーン的な心境。
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第百五十八話
レイラインの力を注ぎこみ、蘇らせたはずの少女が望まぬ言葉を口にした事で、ブリュードはドラン達の事など忘れ果てたかのように激昂し、少女――リネットを否定する言葉を口にし続ける。
「違う違う違う、違う! お前じゃないんだ。お前じゃ駄目なんだ。ぼくはお前なんか欲しくない!
先生は、先生はお前が出来た事でリエルを諦めた! リエルの妹だと思う事にするって、リネットという名前を与えて、それで諦めやがった!!
自分の娘を、生き返らせる事を諦めたんだぞ。でもぼくは違う。諦められるものか、ぼくの愛しいリエルを。だから、お前は間違いなんだ!」
目を血走らせ、唾を吐いて半ば狂乱したブリュードに対して、リネットはほんの少しだけ悲しげに、
死者に思いを捕らわれたブリュードが、一歩も未来に向けて進めずにいる事は容易に理解出来た。
「ブリュード、以前、リネットが起動した際にグランドマスターイシェルがその理由を話した筈です。冥界の神々にお伺いを立て、既にリエルの魂が転生を果たしていると。
死者の蘇生はその者の魂がまだ転生していない場合に限ります。
リエルの魂がどこかの誰かに、あるいはどこかの何かに転生している以上、どんな大神官の蘇生魔法や天人の技術を用いても、リエルの復活は不可能です」
リエルの死体を用いて生み出されたリネットの語る事は、揺るぎないこの世界の理であった。
冥界で落とされた記憶や知識、罪を転写して人格を再現する事は出来るが、それとて魂は別物であるから、あくまで複製に過ぎない。
あるいは冥界が消滅するか、冥界の三貴神が死と生の関係を改変すれば、また話は変わって来るが可能性は限りなく無に等しいだろう。
「そして、リエルが短い期間で転生を果たせた事は、彼女の魂がそれだけ罪を持たぬ清らかなものであった事の証明。
グランドマスターイシェルは、その事をわずかな慰めとして、リエルの死を受け入れたのです。
ブリュード、貴方もそうするべきでした。いえ、そう出来なかったとしても、グランドマスターイシェルを殺害するなどという短慮に走るべきではありませんでした」
「間違えたのはお前と先生だ! リエルは先生の実の娘なんだぞ。実の娘なのに、蘇らせる事を諦めるなんて、その方がよっぽど間違えているだろうがっ!
リエルが蘇るまでは何度でも蘇生させ続けるべきだ。魂が転生しているっていうのなら、転生した魂を見つけ出して、もう一度リエルにするべきだ。
くそ、くそ、くそ、今度こそお前の意識を消して、そうさ、もうリエルが転生しているというのなら、その魂を見つけ出して、あるべき体に戻すまでだ!」
転生を果たしたリエルの魂は、もはやリエルの魂ではなくなっているのだが、ブリュードにはもはやそんな理屈は通じなくなっていた。
リエルの死体を使ったリネットの肉体さえあれば、そして元リエルの魂さえあれば、どんな事をしてもリエルを蘇らせると、ただそれだけしか、彼の中にはない。
この地下に建造された施設に閉じこもり、愛しい少女を蘇らせる事だけを考えて来たブリュードは、もうそれ以外の事など考えすらしない精神構造を築き上げてしまっている。
そんなブリュードに対し、これまで黙して口を挟まずにいたドランが、自分達を包囲しているホムンクルス達を視線で牽制しながら、口を開いた。
「関係のない他所者の意見だが、話を聞く限りはそちらのリネットというお嬢さんの意見が正しい。
転生した魂を見つけ出し、その魂に冥界で浄化された前世の記憶と人格を移植して蘇らせるなど、とうていできる事ではない。
諦めずに夢を追い続ける事それ自体は悪しき事ではないが、その為に他の何もかもを犠牲にしようという割り切りは、見過ごせんな」
「部外者はすっこんでいろ! ああ、今日こそはと思っていたのに、お前たちみたいな余計な連中が来るから、無駄な時間を使ってしまったんだぞ。ああそうだ、そうに違いない。
だから、リエルじゃなくてリネットなんかが目を醒ましてしまったんだ。お、おまえ、お前達なんかが邪魔をしていい事じゃないんだ、ぼくとリエルの再会は!」
「会話になっていないな。なら決定的な事を一つ言わせてもらおう。そのリネットという女の子の肉体には、既に魂が宿っている。リネットと呼ばれている彼女の自身の魂がだ。
魂の宿っている肉体に、別の魂を宿らせる事は至難を極めるし、仮に宿せたとしても不具合が生じるのは明白だ。加えて言うなら冥界の者達も良い顔はすまい」
「黙れよ! 誰も彼もが無理だっていいやがって。絶対にぼくは諦めないぞ。リエルはぼくの太陽だ、ぼくの宝だ、ぼくの夢だ。夢は、そうさ、夢は信じている限りいつか叶うんだ!!
リネットの意識が消えないっていうのなら、また新しくリエルの為の身体を造り直せばいいんだ。また外から材料を手に入れて来ないといけないけれど、いいさ、百人でも千人でもぼくの夢の為の生贄になればいいんだ!
ぼくの邪魔をしたお前達も、その生贄になれ。ホムンクルスを作るのも、新しい体を用意するのにも、人間の身体は都合がいい。はは、そうしろ、そうして償え!」
「材料に生贄か。やはりだな」
忌々しげに呟くドランに、ディアドラも同じものを感じていたのか不機嫌だった顔がますます不機嫌になり、ざわざわと茨が蠢きを増している。
エドワルドとエルザは生贄という単語に、想定していた最悪の答えが返ってきた事を察して、沈痛な面持ちになる。ヤオはそうであろうと覚悟していたのか、動じる様子はない。
たまたまサンザニアに滞在していただけのエドワルド達と違い、サンザニアに根を下ろして暮らしているヤオには、ブリュードの言葉に思い当たる節があったのだろう。
定期的に行方不明者が街で出ている、などだ。そしてブリュードの言葉に、リネットはますます悲しげに面を伏せた。
「やはり、貴方はグランドマスターイシェルが禁じた事をしてしまっていたのですね。決してそれをしてはならないと、固く禁じられていたのを忘れてしまったのですか?」
「うるさい! 先生は、イシェルおじさんは、ぼくが殺してやったんだ。もうそんな奴の言う事なんか、どうだっていい事だ! 『いない奴』のことなんかどうでもいいだろう!!」
「ブリュード、リエルも『いない』のですよ」
ただただ悲しげに、そして哀れみを交えて告げたリネットの言葉が、ブリュードの中の引き金を引いた。ブリュードの中にあった理性は、その言葉と引き換えに砕け散り、ブリュードはあらん限りの声で明瞭簡潔に命じた。
「こいつらを皆殺しにしろ!」
ブリュードがホムンクルス達に感情むき出しの命令を発したその次の瞬間、彼に帰って来たのは気だるげなディアドラの声であった。
声一つでも体の奥底から震えるような妖しい響きには、いよいよもって爆発寸前の苛立ちが混じっており、ドランが少しまずいかな、と思わず思うほどであった。
「はい、おしまい」
ディアドラはブリュードとリネットが会話をしている間に、ドランやエリザ達には無害だが、その代わりにホムンクルス達には即効性の麻痺毒である芳香を発していたのである。
ディアドラの芳香を嗅いだ瞬間、ホムンクルス達はその場で昏倒して、自分の意思では指先一つ動けない状態に陥る。
「あら大変、貴方の手駒はこれでもう何も出来なくなってしまったわ。どうするの? ええっと、ブリュード? とかいう魔法使いさん」
何ともわざとらしく、相手の神経を逆なでするディアドラの台詞に、ブリュードはこめかみに太い血管を浮かび上がらせて、全身をわなわなと怒りに震わせる。
「役立たずばかりか!」
「造物主が貴方ではそうなるのが当然でしょ?」
挑発を繰り返すディアドラを見るブリュードの目には、人間はここまで誰かを憎み、怒れるのかと思わずにはいられない黒々とした感情が渦を巻いている。
ブリュードは黒々とした感情はそのままに、卵型装置の中に腰掛けたままのリネットへ視線を移した。その口元には、卑しいとしか言いようのない笑みが浮かんでいる。
「リネット、
「ブリュード!? マスター権限をっ」
「先生を殺した時に奪っておいたに決まっているだろう? お前の身体なんてもうどうでもいいさ。リエルの為の身体はぼくが作って、永遠に添い遂げるんだ。
お前達! リエルの死体を使ったフレッシュゴーレムを素材にして、更に強化したのがこいつの体だ。生きているゴーレム――リビングゴーレムだ。天人の技術もありったけ注ぎ込んである!
ああ、本当ならリエルをリビングゴーレムにして、もう老いる事もなく、病む事もなく、傷付く事のない、永遠の存在にしようと思っていたのに。
でも仕方ない。そうだ、これは大いなる成功の為の失敗だ。この失敗を糧にして、お前達の命と死体を糧にして、ぼくは成功への階段を昇って見せるぞ」
リエルを蘇らせた時の事を考えてか、悦に入った笑みを浮かべるブリュードを、リネットは初めて忌まわしげな瞳で見ていた。
「貴方という人は!」
「抗っても無駄だ。お前がゴーレムである事に変わりはない。主人の命令に逆らえるものか! さっさとやれ!」
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第百五十九話
底なしの穴であるかのように無制限にレイラインの力を貪るブリュードを見下ろし、虹の薔薇を纏うディアドラは、侮蔑と憤怒が込められた七色の瞳を向けている。
古神竜の属性を帯びたディアドラの瞳には、この上なく甘美な蜜月の時を邪魔された怒りこそあれ、意外と言うべきか憎しみの色は比較的薄かった。
ブリュードの事を取り返しのつかない愚かな事をしている大馬鹿者と侮蔑はしているが、自分の全てを愛に捧げたその想いには、今のディアドラには少なからず共感できる部分があったからだろう。
「これから長くて甘い時間を過ごす為に、この星に終わられると困るのよね。結構手荒になってしまうでしょうけれど、すぐに片付けて来るわ。それまで少しここで待っていてちょうだいな」
ディアドラは心配の色など欠片もないドランと、ディアドラの変貌に心中の整理が追いついていないエドワルド達に、ひらひらと左手を振る。
なんともさっぱりとした動作だ。まるでほんの少し散歩に行くかのような、そんな気軽さである。
そうしてから、ディアドラは全身に清浄なる白、神秘的な虹、そして妖艶なる黒を纏い、眼下の巨大な血の流れのようなレイラインへと身を躍らせた。
星の命を食らう怪物を相手にしようとしているとは思い難いその姿に、リネットがわずかな困惑を交えてドランに問いかける。既にドランとディアドラの接吻を前に見せた興奮の色は引いていた。
「花の精として規格外の力を持っていらっしゃいましたが、今はそれどころではありません。
リネットにはあの女性がどれだけの力を持っているのか、計測できません。彼女と、そして貴方は一体どういう方なのですか?」
ドランはリネットばかりでなくヤオも、極めて強い興味の光を瞳に輝かせて、こちらを見ている事に気付き、悪戯っぽく誤魔化すような答えを返すだけだった。
「私は教授と知り合いのただの観光客。彼女も同じだよ。ただ少しばかり普通の人間や花の精よりも、波乱万丈な生を送ってきただけさ」
「どんな生を送ればああなるのか、リネットには想像もできません」
リネットはどうやら詳細なところは教えてくれないらしいと判断し、それ以上の追及を行わなかった。
それに一応、現状は悠長に会話をしていられるようなものではない。
レイラインと融合したブリュードによって、次々と他のレイラインの流れが吸い寄せられて、星の命に害をなさんとしているのだ。
ブリュードの狂気が及ぼした影響か、ブリュードを中心にレイラインは徐々に赤黒い色へと変色していて、ひとたび触れれば星の命ばかりでなくブリュードの狂気にも侵されてしまう事だろう。
惑星という巨大な生物に、たった一人の人間の愛という名の毒が広がっている光景に、ディアドラはふん、と鼻を一つ鳴らして苛立ちをこの上なく見事に表現する。
ディアドラは降り立つ寸前に重力に干渉して、ふわりと軽やかに赤黒いうねりに降り立つと両腕を組み、傲然と目の前のブリュードを睨みすえる。
周囲はレイラインの赤黒い光に包まれて、まるで巨大な生物の血管の中に入り込んでしまったかのような錯覚に陥る。
悠久なる大地も果てしない大海も見通せぬ天空も、その全てがこの惑星の一部でしかない。ごくごくわずかな、人間で言えば表皮程度の一要素だ。
天地海の全てを含めた惑星の持つ生命そのものと同化したブリュードは、人間として破格という言葉でも足りぬほどの絶大な力の化身と化している。
吹き荒れるままに薙ぎ払う大嵐は惑星の吐息。
国をも崩壊させ奈落へと続く亀裂を刻む大地震は惑星の身震い。
天に届かんばかりに伸び、大地の全てを飲み込む大津波は惑星の蠢動。
地上に生きる全ての生死を容易く左右する自然現象の全ては、この惑星にとっては意識するまでもなく、わずかに動くだけで生じるついでの事に過ぎない。
それほどの比較する事さえ愚かな惑星という存在を力とするブリュードを前に、世界樹たるユグドラシルどころか、たかが黒薔薇の精でしかないディアドラは、恐怖の一片たりとも抱いていなかった。
精神を汚染する愛という名の狂気と、肉体を崩壊させる膨大すぎる生命力の只中にあって、ディアドラの心身にはなにも影響がない。
ディアドラのたおやかな全身から発せられる古神竜と黒薔薇の精の魔力が、レイラインから発せられるあらゆる影響を遮断しているのだ。
「これがこの星の力というわけね。ふうん」
そう、ディアドラは星の圧力を満身に受けながら、『この程度か』と感じていたのである。
ドランに貪るような接吻をして魔力を吸いとっていた時、ドランがディアドラの意図に気付いて古神竜の魔力を渡してくれたのだが、この魔力によって今のディアドラは霊格そのものが格段に向上していた。
黒薔薇の精の姿をした古神竜にも等しい状態のディアドラには、距離どころか次元の壁や時間の流れを超越した知覚能力までもが備わっている。
並行世界と言われる無限の可能性に分岐した世界も、ゼロ次元から一次元、二次元、更には数十、数百を数える次元に至るまでのあらゆる現象が把握できて、その上でそれらの情報に翻弄される事もない。
こうなってみて、良く分かる。通常、地上の存在達は世界の法則や理を解き明かし、それらを応用する形で自分達の望む現象を、魔法として発生させる。
だがドランほどの存在となると、世界の法則に干渉するのではなく、法則そのものを自身の望み通りに書き換えるのだ。
世界の法則に沿った事しか出来ない地上の存在と、世界の法則すら意のままにするドラン。
ディアドラはつくづく自分の惚れた相手が途轍もない規格外の存在である事と、そのドランの精神が地上の者達とさして変わらない事の幸運を理解していた。
だからこそディアドラは、目の前のブリュードの圧力を受けても大した事はないとしか思えなかったし、同時にそんな自分を危ぶんだ。
「いけないわね。どうにもドランの力を借りていると気が大きくなってしまうみたい。
ドランに包まれているっていうのと、ドランが自分の中にいるっていう感覚がするせいかしら? この力はあくまでドランからの借りものなのだから、自分の力だなんて勘違いも甚だしいものね」
ディアドラは、今ならばこの惑星どころか宇宙の果てにまで力を及ぼす事さえできる、そんな感覚に酔いしれないよう厳しく自分を自制し、ブリュードへと向けて一歩を踏み出した。
ブリュードによる汚染はレイラインへ急速に及んでおり、この汚染を取り除く手間を考えれば、ブリュードを始末するのは早ければ早いほど良いのは間違いない。
ディアドラに打ちつけて来るレイラインのうねりは、ディアドラの身体に触れる寸前で虹色の燐光に弾き飛ばされ、飛沫の一滴たりとも触れる事はなかった。
ブリュードは自らの心臓と言わんばかりに体内に収めたリエルの遺髪を両手で庇いながら、視線をディアドラへと向けている。
ブリュードにはもはや正気など残ってはいなかったが、施設への侵入以来防衛兵器の破壊から人造超人の打倒、リネットの鎮圧と全てにディアドラが深く関わった事から、事更に敵意を向けるべき相手だと認識しているようだった。
「熱の籠った視線は、ドランだけが向けてくれればいいわ。貴方のなんかごめんよ。早々にこの星を汚す事を止めなさいな。罪が増えるだけよ」
ディアドラはほんの少しだけ助言めいた言葉でブリュードに語りかけるが、当のブリュードにはもはや言語を理解する知性が残っているのかすらも怪しかった。
「リエルウウゥゥウウー!」
ブリュードの口から出て来るのは、もはや失った愛しい少女の名前だけ。
辺り一帯のレイラインは既にブリュードの血肉と同化しており、ブリュードの感情が荒れるに従ってディアドラを飲み込み膨大な力で破壊し尽くさんと襲い掛かる。
四方から波濤となって襲い来るレイラインを気にも留めず、ディアドラは深い溜息を吐きだした。
「そこまで想うのは好きと勝手だとしても、想われる方は辟易しそうねえ」
ブリュードがここまで恋焦がれるリエルという少女は、実際はどんな少女であったのか。
あのリネットと似たような性格だったのか、それともまるっきり別人だったのか、ディアドラは少しだけその事が気になった。
「借り物の力で恐縮だけれど……」
音もなくディアドラの髪から、白く染まった茨が鞭のように伸びて、四方から迫り来るレイラインの波濤を一刀両断し、無数の飛沫へと変える。
無数の飛沫へと変わり落下して行くレイライン越しに、ディアドラは敢えて挑発的な言葉を選択して、艶やかな赤い唇に乗せる。
「今の私を相手にするには足りないわよ。そうね、ドランなら『たかが星一つの力でどうにか出来ると思っているのか』なんて言うところでしょう」
ディアドラが優雅な仕草で左手をブリュードへと伸ばせば、その指先に七色の魔力の砲弾が無数に生じる。
さながら夜空に輝く星々を切りとり、周囲に浮かべたかのような光景が出来上がる。砲弾一つ一つがレイラインの力をはるかに上回る、尋常ならざる力の塊だ。
相手に着弾した瞬間、肉体と霊魂を破壊する凶悪性まで備えている。
「さてと変にレイラインと同化してくれちゃったみたいだし、貴方の残滓ひとつ残すわけにもいかないわね」
ディアドラはブリュードへと向けて伸ばしていた左の人差し指をつい、と少しだけ動かし、それに合わせて七色の砲弾がブリュードへと向けて、空中に七色の美しい軌跡を描きながら襲い掛かる。
この場に流れるレイラインの力全てを我がものとしているブリュードにしても、これは自らを滅ぼし得る脅威と理解したのか、足元のレイラインを分厚い壁の如く屹立させて、迫り来る砲弾を受け止める。
砲弾が着弾するのと同時に、レイラインの防壁が瞬時に砲弾に力を吸い尽くされて、無数の粒子となって霧散し、ブリュードは自身の身体を分解されるような激痛とごっそりと力を奪い取られる虚脱感とに襲われていた。
「う、うおおおおおお!?」
「やっとリエルの名前以外の事を口にしたわね。貴方の狂気なんかいらないから、そっちは消すわ」
「ぎ、ぎ、ぎああああああ!」
ブリュードは激痛をそのまま憎悪と怒りを燃やす燃料へと変え、レイラインの力を用いてディアドラへと先程とは異なる攻撃を繰り出した。
惑星の地下深くであるにも関わらず、ディアドラの周囲が猛烈な勢いで帯電し始め、自然に発生するのと同じ威力の稲妻が、万を数えて襲いかかった。
赤黒いレイラインの光を押しのける、暴力的な光がディアドラを包み込み、それに留まらずブリュードの猛攻は続く。
稲妻の集中砲火を浴びるディアドラに向けて、大気そのものがまるで巨大な地震の震源であるかのように震え始める。
本来なら惑星の皮膚とも喩えられる地盤の移動によって生じる地震を、ディアドラの周囲に範囲を限定し、その代わりに発生する力を全て集約させる形で発生させたのだ。
それなりの大きさの島国でも、国土が幾つにも割れてしまうほどの力が、稲妻に続いてディアドラに襲い掛かるが、ブリュードはまだ手を緩める事をしなかった。
稲妻と振動をたっぷり十秒以上発生させた後、それらが消えて千分の一秒と置かずに、何もない場所から煮え滾る灼熱の溶岩が出現してディアドラを飲み込み、次の瞬間には溶岩がレイラインの赤黒い光を反射する巨大な氷塊へと変貌していた。
ほとんどの生物の生存を許さぬ溶岩地獄から、この惑星で最も凍える極寒地獄へと刹那の間もおかぬ変容に、どれだけの生物が耐えられる事か。
惑星の生命の具現であるレイラインと、奇跡的な偶然によって同化したブリュードは、この惑星上で発生し得るあらゆる自然現象を任意に発生させられるのだった。
高位の竜種でもなければ生身ではとても耐えられない、自然現象と環境の変化という攻撃方法を目の当たりにして、施設の上層部から覗きこんでいるエドワルドやリネットなどは、顔色を蒼白にしていた。
だから、ドランの漏らしたこんな呟きを聞き逃していた。
「ふむ、まあ、星一つの力ならあの程度かな」
そのドランの呟きが、ひょっとしたらディアドラには届いていたのかもしれない。
惚れた相手の前で無様な姿を見せるわけには行かないと、ディアドラが奮起したのか、レイラインの水面から施設の上層部近くまで伸びていた氷の柱に、内側から無数の罅が走り、瞬く間に数万を数える氷の破片へと砕け散り、次々とレイラインの中へと沈みこんでゆく。
その中から傷一つ負っていないディアドラが姿を現し、頬に着いた水滴を拭う。
全ての氷の破片がレイラインに沈みこむのを待ってから、ディアドラは悠々と歩を進める。
気負う様子も緊張した様子もないディアドラには、星の力を揮う敵をまるで強敵と捉えている様子はない。
一歩踏み出すごとに黒薔薇の精から放たれる次元の違う圧力に、ブリュードは全身を身震いさせる。
正気などないブリュードだが、その代わりに心身には万能感を齎す膨大な力があった。
だというのに、それがどうだ。時間にしてみれば十分と経過していない攻防によって、ブリュードは敗北の予感をひしひしと感じさせる敵が目の前に立ちはだかっているではないか。
恐れに突き動かされるまま、ブリュードは赤黒く染め上げたレイラインの力を自身に集中させ、それを大きく開いた顎から放出しようと動いた。
「あら、竜の真似事かしら?」
ブリュードに集中する力の高まりを感じても、ディアドラが余裕を失う事はなかった。
ディアドラは数本の茨をレイラインのうねりの中へと突き刺すと、そこから一気に力を吸い上げると同時にブリュードからの汚染だけを取り除いて、再び戻す作業を行う。
人間が同じ真似をしようとしたなら、高位の風水師や魔法使いを大量に動員し、大規模な儀式の用意を整え、適切な時節を見極めなければならない事も、今のディアドラにとっては片手間に済ませられる雑事であった。
ディアドラがレイラインを浄化すればするほど、ブリュードが支配下に置いたレイラインの力は減少する事になる。
これ以上ブリュードにレイラインを汚染されて、浄化の手間を増やされる事をディアドラが嫌った為に行ったのだが、同時にブリュードの戦力を低下させる事にも繋がっていた。
「ジャ、マをするうう、ナアあああああ!!」
ブリュードに残された最後の願望であるリエルの復活を邪魔するディアドラを前に、ブリュードの苛立ちと怒りは限度を知らずに高まり続け、頬を裂くほどに大きく開かれた口から、巨大な赤黒い光の塊が出来上がる。
ブリュードの足元から広がっていた汚染の領域は、今やその足元にまで狭められ、ありったけの力が集約されている事が傍目にも明らかであった。
「へえ、わざわざ浄化の手間を省いてくれたの。お礼は言わないわよ?」
涼しい顔でそう答えるディアドラの言葉に反応したわけではあるまいが、ブリュードがレイラインの光球を放ったのは、ディアドラが言い終えるのと同じタイミングであった。
汚染の集合体でもある赤黒い光球は、足元のレイラインを左右に割りながらディアドラへと迫る。
対するディアドラは、視界を埋め尽くして迫り来る光球を前に、茨を編み込んで一本の大槍を作り上げた。
黒白の茨には、虹色の薔薇が何輪も咲き誇り、そこに古神竜の力が凝縮されている事の証明であった。
それはすなわち、最悪の大邪神カラヴィスでさえも、死んじゃうから止めて! と泣いて懇願する一撃であるという事だ。
「もう悪夢を見るのはお止めなさいな。あの世に行けば、地獄に落ちて夢を見る暇も無くなるでしょうけれど」
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第百六十話
リネットの存在がセリナとドラミナに齎した衝撃は、伝説の大邪神アル・ラ・カラヴィスがあんなだったり、最強の
しかし、同時にドランが如何に非常識な存在であるかを否応なく理解させられていたセリナ達は、まあドランさんだし、を合言葉にすぐさま精神を立て直す事に成功する。
「ええっと、リネットちゃんですね。私はセリナです。ドランさんの使い魔で、この通りのラミアです」
「私はドラミナ。セリナさんと同じくドランの使い魔をしています。種族はバンパイアです」
「はい、道中、ディアドラとマスタードランからお話を伺っていました。お二人とも魔法学院在学の間だけ、使い魔としての契約を結んでいらっしゃる事や、マスタードランの恋人でもいらっしゃる事も」
「いやあ、そんなあ、ドランさんの恋人だなんて、その通りですけれど……」
言葉を飾らず率直な物言いをするリネットに、セリナはテレテレともう分かりやすく大蛇の下半身をくねらせて、照れる。
あ、この方はとても分かりやすいですね、とリネットの第一印象に刻まれたのは、果たして良かったのか悪かったのか。
ドラミナは妹分を微笑ましい思いで見てから、先程のディアドラの提案通りにこの場を離れるべく、くねくねと揺れているセリナに声をかけた。
「さあ、セリナさん、嬉しいのは私も同じではありますが、そろそろ門限の時刻でもありますし、門番の方々のお仕事の邪魔をしてしまうことにもなります。ディアドラさんが言われた通り、一度ここから離れましょう」
「はわ、は、はい。すみません、つい、あんまり嬉しかったものですから」
今度は羞恥に悶えるセリナの姿に、ますますリネットは分かりやすいという印象を深めるのだった。
それからドラン達は連れだって魔法学院の敷地に足を踏み入れて、何度も増築と改築が繰り返されたドラン印の浴場へ足を運ぶ。
冬も間近となり、陽が落ちるのも早くなっていたが、浴場のテラス席には光精石を使ったランプが幾つも設置されていて、暗闇を遠くへと追いやっている。
浴場の管理をドランから委託されているテルマエゴーレム達が、常連客と創造主の帰還を察し、整列して手を振って歓迎の意を示していた。
「彼らはマスタードランのゴーレム達ですか?」
素材は大きく違うとはいえ、テルマエゴーレム達とリネットは一応同じゴーレムという分類だ。リネットがテルマエゴーレム達を気にかけるのも、当然なのだろう。
「ああ、春に造り出した、この浴場の管理を任せているゴーレム達だよ。どうも浴場の仕事に誇りを抱いているらしくてな。時々、私に反発する事もあるよ」
「それは、ゴーレムが自身の中で優先順位を定めているという事ですか? 浴場の管理の為に造り出されたとはいえ創造主の意思に反するなど、通常、ゴーレムにはあり得ない話です」
「ある程度の自由意思を持たせてあるからな。彼らがこれまでに経験した事で、個体ごとの個性も出来ている位だよ」
「そうですか、やはりマスタードランは非凡な御方であるようです。彼らはリネットにとっては先輩ゴーレムです。彼らに恥ずかしくないところを見せられるよう、精一杯、お仕えします」
「お仕えします、か。私は
「そこは主人としての甲斐性を見せていただきたく思います」
割と言う子だなあ、とドランはリネットに対する感想を心中で零す。
今日はネルネシアやクリスティーナは浴場を使っていないようで、ドラン達はそのままテラスを独占する事が出来た。
テラスは近くにある男子寮からは見えず、浴場を回り込んで来ないと見えない位置にある。リネットとディアドラを交えた密談を、他者に見聞きされる心配はまずない。
もっとも、どれほど隠密に長けたものであっても、ドラミナやドランの知覚網をかいくぐる事はまず不可能だが。
テラスに置かれているテーブルや椅子は、テルマエゴーレム達の手入れが行き届き、新品も同然の輝きを放っている。
全員が着席すると、すかさずテルマエゴーレム達が絶妙な間で淹れたての季節のフルーツティーを配膳して行く。
ドランがテルマエゴーレム達を製造する際、お茶の淹れ方など覚えさせていなかった筈なのだが、そこは手加減の仕方を根本的に間違えるドラン謹製のテルマエゴーレム達である。
ドランの知らぬところでありとあらゆる雑事を学習しており、個体ごとの性能差や個性に加え、こういった技能までも学習するに至っていた。
「さて、ではセリナとドラミナには、私とディアドラが出かけた先でどういった事態に遭遇したか、つまびらかにしなければならないな」
それから、ドランはディアドラと二人で転移魔法を使い、アークレスト王国東部の都市サンザニアに赴き、そこで二人きりの時間を楽しんでいる途中でエドワルドとエリザに再会した事。
エドワルドに誘われてサンザニア近郊で発掘されていた、天人の遺跡の見物に赴き、そこで遺跡を悪用していたブリュードを倒し、彼が蘇らせようとして幼馴染の遺体を利用した生きたゴーレムであるリネットを、ドランが預かる事になった事情を、要点をまとめて話した。
宮廷でも屈指のゴーレムクリエイターであったイシェルの遺作であり、最高傑作でもあるというリネットをドランが預かる事で、他の魔法使い達からまたまた注目が集まる事。
ドランとディアドラが二人で行動していた事も知られ、曲がりなりにも教師と生徒という関係上、問題視されるかもしれない事も伝えられた。一連の話を聞き終えた後、セリナはしみじみと感想を呟いた。
「これはもうドランさんの行くところ、何かが起きるものと今後は考えておくべきでしょうね。いえ、前からもうそういうものだって、覚悟はしていましたけれど……
それにしてもまた天人さんですか。前はお空の上に浮かんでいる都市で、今度は地下の研究所。場所を選びませんね」
「天人の活動が地上と空とを選ばずに行われていたからな。彼らが滅んでもその技術や産物は、まだ朽ちてはいない。どこかしらで目にする機会は巡って来るわけだ」
「それにしたって、私達の遭遇率はずいぶんと高い気がしますよ。教授さんみたいな方達には、羨ましがられるかもですね」
スラニアとレイラインの研究施設以外にも、天人関係ではかつて戦ったバストレルも該当するし、ドランが三竜帝三龍皇と会談した月の水晶宮も、元は天人の施設だ。
ドラン達が一般の人々と比べて生きている天人の遺産と短期間で遭遇しているのは間違いない。
セリナの、これからもまた天人関係と遭遇しそうですねえ、という言外の嘆きを耳にして、ドラミナが同意するように口を開く。
「天と地は済ませましたから、次は海かもしれませんね。それか、空のもっと高いところ、そう例えば月やあるいは星の海も可能性はないとは言い切れませんよ」
「海は、龍吉さんが綺麗に掃除してくれているといいですけれど……」
セリナとしては天人と関わると必ず発生する物騒な事など、今後一切望んではおらず、ドランやドラミナ、ディアドラと一緒に穏やかに暮らして行ければそれでよいと思っている。
二人のやり取りに、事前に聞かされていたとはいえ、リネットは自分が主と仰いだドランは、やはり尋常ならざる奇縁の持ち主であるらしい、と再認する。
「お話を伺う限り、リネットがマスタードランのゴーレムになったのは、それほど不思議な事ではないような気がします。なにしろそれ以上にあり得ない出来事を、七ヶ月ほどの短期間で経験されておられます。
マスタードランと皆様方ならば、リネットが加わる位の事なら日常茶飯事程度の事なのではないでしょうか。
大地母神マイラールや大邪神アル・ラ・カラヴィスの降臨と比べれば、些事であるとリネットには感じられます」
問いを向けられたドランは、今年の春まではそんな事はなかったのだがな、と苦笑を零す。
実際、春先にセリナと出会うまで、ドランは辺境に住む農民の範疇に収まる生活を送っていたのだから、苦笑くらいは零しても仕方あるまい。
リネットの認識
ドラン 主人
セリナ 主人の伴侶・分かりやすい
ドラミナ 主人の伴侶・意外と面白い
ディアドラ 主人の伴侶・ママ
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第百六十一話
ドラミナだぴょんの発言から、ドラミナがようやく落ち着きを取り戻してから、ドラン達は明日に備えて眠る準備に入った。
バンパイアであるドラミナにとっては、夜も深まるこれからの時間の方こそが活動に適した時間だが、今日ばかりは精神的な衝撃が強く、棺の中に引き籠って一夜を明かすようだった。
ドラミナが兎の耳を頭の上で揺らしたまま棺の中に足を踏み入れ、セリナが寝巻に着替えてドランの寝台に潜りこむのを、リネットはサンザニアで買い与えられたベッドの中で、じっと観察していた。
リネットからの視線を感じ、共に寝台の中に入ったドランとセリナ、それに棺の蓋を閉めようとしてドラミナ達が、リネットの方へと視線を集める。
寝台で横になり、口元まで毛布を引き寄せていたリネットは、ドラン達から寄せられる視線に気付くと、両手で顔を隠してしまう。
「どうした、リネット。枕が変わると眠れないのかな?」
ドランは、やはりブリュードと共に沈んだあの卵型の装置が必要だったのだろうか? と疑問を抱きながらリネットに問う。
リネットは顔を隠した両手の指の隙間を開き、瞳だけ覗かせて視線の理由を明かした。
「リネットは新参のゴーレムです。ですからどうぞ気になさらずにする事をしてくださって構いません」
「うん?」
咄嗟にリネットの言っている事が何か分からず、首を傾げるドランに向けてリネットは言葉を重ねた。
「健康な年頃の男女が同じ部屋で一夜を過ごすのです。
例えマスタードランがセリナやドラミナを相手に、口にする事を憚られるようなあんな事をそんな事を毎日毎夜求めていたとしても、リネットはそれも当然の事と受け止める覚悟を固めています。
ですのでどうぞリネットの事など気になさらず、いつものように夜をお過ごしください。
リネット的には知識だけしかない男女の営みと言うものを、まさか人間とラミア、バンパイアの組み合わせで目の当たりにする事になるとは、全く予想外でしたが極めて貴重な経験です。さあ、マスタードラン、どうぞ!」
ドランは心なしか聞こえて来るリネットの鼻息が荒くなっているような気がして、やれやれと軽く息を零す。
その零した息が抱き寄せているセリナのうなじをくすぐり、びくりとセリナの身体が震えて、露出している肌が赤く染まっている事に気付く。
触れている肌越しにセリナから伝わる体温がどんどんと高くなっている事から、リネットの発言でセリナが色々と想像を逞しくしているのが、ドランには察せられた。
棺の蓋を閉めようとしていたドラミナも、ドランに対して期待の光が瞬く瞳を向けており、これまで意識せずにいた事を強く意識し直しているのが一目で分かる。
ドランとて肉体は健全な十六歳の男子だ。睡眠欲や食欲と同様に性欲もきちんと備わっているし、男性機能の方も問題ない。
セリナやドラミナと同じ部屋で夜を明かしていて、性的な欲求を覚えないわけがなかったが、以前にもセリナ達と話しあった通りに魔法学院を卒業して結婚を申し込んでからと決めてある。
今のところ、ドランはその約束を堅守するつもりでいる。セリナの期待を裏切る心苦しさから、セリナの頭を謝意を込めて撫でる事で紛らわせた。
「リネット、君の期待に応えられずにすまないが、私はそう言った事は結婚してからと決めているのだ。少なくとも魔法学院の生徒であるうちは、まだそういった事はしない予定だな」
ドランの発言にリネットばかりではなくセリナやドラミナも、露骨に落胆する。
「そうでしたか、マスタードランのお考えを知らず、勝手な事を申し上げました。猛省いたします。あ、でもリネットの存在が気になるという時には、席を外しますので遠慮なく仰ってください」
「気遣いはありがたく受け取っておくよ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦めて、ドランは残念な顔になっているセリナの額に口付けた。今はこれで許して欲しい、と口にする代わりの口付けだ。
「もう、仕方ないですね」
ドランの唇が触れた額を左手で撫でながら、セリナははにかんだ笑みを浮かべる。
これだけでもう満足してしまう自分に、少し呆れてしまうがそれでも嬉しいものは嬉しい、とセリナは本気で思っていた。
セリナの機嫌が元通り以上に良くなった事に安堵するドランの耳に、ドラミナの呼ぶ声が届く。
「ドラン、ドラン」
おや、とドランが振り返れば、そこには前髪を左右に掻きわけて、額を露わにしたドラミナが自慢げな顔でドランを見ていた。
これはもう間違いようがなく、自分にもセリナにしたように口付けをして、という露骨な自己主張である。ドランがドラミナの願いを叶えるのには、ほんのわずかな時間で事足りた。
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第百六十二話
リネットを紹介するに際して最大の懸念事項であったレニーアとの邂逅が、リネットの機転とレニーアの分かりやすさによって穏当に終わった後、私はフェニアさんやネルネシア達にもリネットの事を紹介した。
夏休みにドラミナを新しい使い魔とした時のように、またドランが可愛い女の子を侍らせた、と皆に言葉は違うがからかわれる羽目になってしまったが、客観的に見れば否定しようのない事実であり、私はぐうの音も出なかった。
さてリネットが加わった事で、私達の生活に大きな変化が起きたか、というとそう大仰な事はない。
リネットは、自身を指して経験はないが万事の知識はある、と称していたが衣類の洗濯や食事に関しては学院の雇った職員の方がされるので、家事でお願いできる事となると掃除くらいものだ。
力加減を間違えて家具や窓を壊してしまいやしないかと、私達がはらはらとした気持ちで見守る中、リネットは適切に掃除をこなしてゆき、授業で必要になる資料探しや作成、素材の収集作業に関しても実に張り切ってこなしてくれた。
元々私はセリナとドラミナの手を借りられるので、それらの作業が他の生徒達よりもはるかに早く終わっていたのだが、緻密かつ正確な作業精度と速度を誇るリネットの加入で、私の自由に使える時間というものは確かに増えた。
これなら魔法学院を卒業した後、クリスティーナさんのところに家臣として籍を置いてからもリネットに実務で助けられる場面が多々ある事だろう。
決して勉学が嫌いなわけではないのだが、肌に合わないネルネシアなどはリネットの有能ぶりを知ってからは、時々手を貸して欲しいとねだって来る事もあったほどだ。
とはいえ、私はリネットを見つける前に既に飛び級による卒業に必要な単位の取得と試験を終えていて、後は卒業とは関係のない個人的な魔法の研究や魔法学院内の希少な図書の閲覧などが主な日課であった。
私と同じく来年の春には魔法学院を卒業するフェニアさんやクリスティーナさんも、最近では夏の頃などと比べて時間に余裕が出来てきている。
フェニアさんやクリスティーナさんとは、卒業後のベルン村の統治や我が故郷の発展性、他の北部の領地を治める貴族達との付き合い方や人となりについてを語り合う機会が増えている。
特に私とクリスティーナさんは成り上がりの貴族であり、なんちゃって貴族と揶揄されても仕方のない経歴の主なので、生まれた時から大貴族の令嬢であり、国内最高峰の英才教育を受けて育ったフェニアさんの見識は、非常に頼りになる。
フェニアさんにはまさに大恩が出来たものだ。
今、私とクリスティーナさんがそれぞれ胸の内に抱えている考えは東の国で言う、絵に描いた餅であり、実際に行う段になれば様々な支障が生じるだろうが、夢を見ている時間というのは実に楽しいものだ。
リネットはベルン村に行った事はないが、楽しそうに故郷の未来について語る私やクリスティーナさん達の姿を見て、嬉しそうにしてくれている。
ふむ、なんだかんだで我がベルン村の統治に関わる有用な人材が増えつつあって、嬉しい誤算だ。
今日も今日とてベルン村の未来などについて語ろうか、と私達とクリスティーナさんの合計五人で、私印の浴場内の休憩室に集まっていた。
ここならクリスティーナさんを目当てに集まる学年や性別を問わない生徒達の耳目を、気にしなくて済む。
この間、レニーアとリネットの面談を行ったばかりの休憩室で、私達は椅子を寄せ合い車座になっていた。
何時もならば持ち寄ったお菓子や軽食に真っ先に手を出す筈のクリスティーナさんが、最初にリネットの淹れたお茶を一口飲んだきり、食べ物に手を出さない事に私とセリナ、ドラミナがおやっと眉根を寄せる。
まだクリスティーナさんの人となりを把握しきっていないリネットはというと、違和感を覚えるよりもまずヴェールを外したドラミナとクリスティーナさんの素顔を同時に見た影響で、前後不覚の状態に陥ってしまっていた。
「マスタードラン、大変です。リネットには世界の全てが光り輝いて見えています。さながら視界いっぱいに舞う粉雪に太陽の光が降り注いで、キラキラと反射しているかのようです。
ドラミナとクリスティーナを同時に視界に入れる事は、最上位の魅惑の魔法を遥かに凌駕する脅威であると、リネットは心底から慄いています」
リネットの褐色の肌は分かりやすいほどに紅潮し、両目の焦点が先程から定まらず、酔漢の千鳥足のようにふらふらとしている。
ふうむ、何重にも精神干渉に対する防御措置が施されているリネットでも、ドラミナとクリスティーナさんを同時に目撃してはこうもなるか。
「リネットにはまだ早すぎたかもしれないな。ほら、セリナのように薄目になってなるべく二人から視界を外すようにしなさい。なんなら瞼を閉じたらどうだね?」
「セリナに倣う事に致します。世界にはかくも美しい存在があるのだと、リネットは驚嘆を禁じ得ません。
ドラミナとクリスティーナの存在を知れば、世界に絶望する者は根絶されるのではないでしょうか。
これほどまでに美しい者が在る世界ならば、まだ絶望するには早すぎると、きっと改心する事でしょう」
「ふむ、リネットは詩人だな。意外と言っては怒るかな?」
「いえ、リネットでもついそう口走ってしまうほど、ドラミナとクリスティーナが規格外なのです。リネットよりも二人と長い付き合いのあるセリナでさえ、薄目になってなるべく直視しないようにしているのがいい証拠です」
私の左隣でとぐろを巻いていたセリナは、リネットの指摘にも慌てる事はなく、薄目のままドラミナとクリスティーナさんの顔を交互に見つめる。
「う~ん、クリスティーナさんかドラミナさんのどちらかお一人なら、正面から顔を見ても何とか大丈夫なようになって来たけれど、まだ二人同時は無理かな。
どちらかというと、龍吉さんを加えた三人が相手でも平気な顔をしているドランさんが、普通じゃないんです」
「確かに私の場合はぼおっとはしないが、だからといって心中で何も思っていないわけではないよ。いつだって龍吉を含めた三人への敬愛の情を胸の内に抱いているとも」
「ドランさんらしいお言葉ですけれど、時々もの凄く女誑しになりますよねえ、ドランさんって」
「そうかね? あまり自覚はないが、こんな事を言うのはセリナ達だからだよ。私にとって、セリナ達は特別だからな。
さて、少し話が逸れたが、クリスティーナさん、今日は少しばかりいつもと様子が違うが、なにか困った事でもあったのかい」
クリスティーナさんは、普段こういう場には持って来ないドラッドノートを持ち込んでいたのだ。
黄金の鍔の真ん中に真円を描く鏡状の物体が埋め込まれた私殺しの剣は、鋼鉄製の鞘の中で沈黙している。
クリスティーナさんは膝の上に置いたドラッドノートに一度視線を落としてから、意を決した様子で口を開く。
クリスティーナさんのひどく真面目な表情と、醸し出される真剣な雰囲気から、いったいどんな重大事が語られるのかと、私達は固唾を飲んで待った。
そしてクリスティーナさんの口から語られたのは、斯くの如きものであった。
リネットの認識
クリスティーナ 主人の伴侶(仮)・腹ペコ疑惑・苦労人?
ドラッドノート パイセン
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第百六十三話
「ほう、ほう、ほう、ほう、ほう」
なんとも不穏な響きしか孕んでいない『ほう』を五回も繰り返したのは、ドラッドノートを前にしたレニーアである。
クリスティーナさんからドラッドノートの紹介を受けた後、浴場の休憩室に顔を見せたレニーアは、私達がドラッドノートの事を告げるよりも早く、直感で見知らぬ薄桃色の髪の少女がかつて父である私を殺し、自分を殺した忌々しい剣だと理解したらしい。
ドラッドノートの姿を視界に収めた瞬間、レニーアは私へと向けていた満面の笑みを歪めて、血塗れになっていないのが不思議なくらいに凶悪な笑みを浮かべていた。
腕を組んだレニーアは、精神の弱い者であったら目撃した瞬間に魂が砕けるほどの凶悪な気配を容赦なく発している。
休憩室に居るのが私達でなかったら、下位の魔王や邪神が降臨するよりもよほど危うい事態に陥っていたところである。
「これまでクリスティーナの腰にぶら下がっている分には敢えて放っておいたが、どういう風の吹き回しかは知らん。
どうしてそのようなけったい極まりない姿になってお父様とこの私の前に晒している?」
古神竜殺しの罪を受け継いだクリスティーナさんとドラッドノートに関しては、私が負い目を感じている事と許している事から、これまで何も言わずにいたレニーアだったが、今回ドラッドノートの起こした行動に関しては、何か思うところがあるようだ。
ドラッドノートを庇うように一歩前に出たクリスティーナさんが、冷や汗をこめかみに一筋流してレニーアに話しかける。
「レニーア、わざわざ来てもらって済まない。その様子だと、もう私が何の目的で君を呼んだのか、ほとんど察していると見てよさそうだな」
「ふん、お前の後ろのソレが何なのかは分かった。ソレと私を会わせるのが目的の一つだという事も理解した。だが私にソレと会わせて何をしたいのかは理解出来んなぁ」
普段の凶悪極まりないが陰湿さなどは欠片もないレニーアの言葉に、今回ばかりはねっとりとした悪意が込められている。
あとほんの少しだけレニーアが自制する事を忘れていたら、その悪意だけで辺り一帯の生命に死を齎したであろう、高次存在の悪意だ。
事前に私がレニーアに話しを通しておくべきではなかったかと一抹、いや十抹と言いたくなる不満を胸に抱いた。
周囲に被害を撒き散らす分に関しては、私がそれを未然に防げばよいだけだが、レニーアの抱く感情に関しては、私にも出来る事に限りがある。
「改めて言うまでもない事かもしれないが、この子がドラッドノートだ。
人間に変身した彼女と会ったのは、私も昨夜が初めてだったのだが彼女が私やドラン、それに君と話がしたいと言うから、こうして君を呼ばせて貰ったよ」
「ふむ、その様子では既にお父様とお話は済んでいるようだな。それで? 今更になって貴様なんぞが私やお父様に何の話があるというのだ。
使い手であるクリスティーナに挨拶をする程度の事なら、分からんでもないがなぁ。私の方からお前にする話はないぞ、ドラッドノートよ」
張り詰めた空気をピリピリとした、などと形容するが今の休憩室の中の空気は、それ位の表現では到底足りない殺伐という概念の極みに手をかけつつあった。
私の傍で、あわわと言わんばかりの様子で事態を見守っていたセリナが、不意に口を開いた。
「ドランさん、レニーアさんとしては『黙っていれば見逃していてやったのに、わざわざ姿を見せて来るとは』、という感じで苛立っていると思うのですが、どうお考えですか?」
「セリナの推測でほぼ正解だろう。ドラッドノートがただの剣として在る分には、レニーアも我慢が利いたのだろう。
だがああして意思がある素振りを見せた上に、自分に何かしようとするとなれば我慢の鎖が簡単に千切れてしまったらしい」
「う~ん、多分、クリスティーナさんは大丈夫だとは思いますけれど、ドラッドノートちゃんは何をされるかちょっと分からないのが怖いですね」
一触即発状態のレニーアに、セリナは咄嗟にクリスティーナさんとドラッドノートを庇えるようにと魔力を喚起させ、ドラミナもそれは同じだった。
こちらは拘束や防御魔法に加えて神器を展開し、そちらでクリスティーナさん達を守れるように意識を巡らしているが、ドラミナの口元は自身の無力さをきつく噛み締めていた。
「私とセリナさんでは、レニーアさんが本気になった場合には一瞬の足止めも出来ないのが問題ですね。口惜しい事ですが、刹那の時でも時間が稼げれば上出来と言わざるを得ません」
私の力をある程度使えるようになったセリナとドラミナにしても、前世の力を取り戻しているレニーアが相手では、どうしても分が悪い。
二人とは違い、まだ私の力を扱えないリネットなどは、話にしか聞いていなかったレニーアの力の一端を間近に受けて、顔を強張らせていた。
先程までクリスティーナさんとドラミナの美貌に打ちのめされた心は、レニーアという計りしれない宇宙規模の災害とも言える途轍もない力を前に、強制的に正気に返らされている。
「セリナとドラミナでもそうならば、リネットには何もできる事はなさそうです。
それにしてもレニーアお嬢様の霊魂から発せられる力は、かろうじて体内の観測装置で観測できていますが、信じられないほど高い霊格かつ極大です。
あの施設に残されていた天人の記録と照合しても、これほどの脅威度を有する力は該当例がありません。
これが大邪神アル・ラ・カラヴィスとマスタードランの因子を併せ持つ、最強の神造魔獣たるレニーアお嬢様の真価なのですね」
リネットが「レニーアお嬢様」と口にする度に、耳と肩をぴくんと震わせて、苛立ちを薄めていたレニーアが、凶悪さはそのままにほんのわずかに機嫌のよい雰囲気を滲ませて、リネットにこう言った。
ひょっとしたらリネットは、クリスティーナとドラッドノートを援護する為に、レニーアの機嫌が良くなるようにある程度言葉を選んだのかもしれない。
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第百六十四話
「ふはははははは、砕け散れ!」
この上なく機嫌のよい笑い声と共に、レニーアは破壊の思念を纏わせた右腕を眼前のちっぽけなクリスティーナへと叩きつける。
人間の規格に合わせる必要のないこの状況で、レニーアはあらん限りの力を振り絞っており、その一撃は超新星爆発をも凌駕する莫大な力を纏っている。
「ドラッドノート!」
『かしこまりまして!』
ドラッドノートの強化あればこその反応速度と、クリスティーナ自身の持つ神通力により、レニーアの光をも超えよう速さの一撃に対処できた。
クリスティーナの左手に握られたドラッドノートがレニーアの振り下ろしを受け止めて、そこに込められた尋常ならざる破壊の力を、接続した無限の並行世界や宇宙へと散らす事でかろうじて受け止める。
この攻防を一瞬の間に数千から数万繰り返し続けて、一体どれほどの時間が経過した事か。
クリスティーナはこの戦いが成立しているのが、ドラッドノートがあればこそである事を痛感し、自身の無力さをいやというほど思い知らされていた。
頭では分かっていたつもりだったが、本来であれば大神級の存在であるというレニーアの実力は、クリスティーナの想像をはるかに越えている。
もしドラッドノートが無かったならば、最初の一瞬でこちらの五体が微塵と砕かれていた事だろう。
実際にはクリスティーナの霊格と魔力によって、ドラッドノートの出力が上昇している事と、使い手がいなければ力を発揮できないという制限が製作者に与えられている為、彼女自身が思うほどに役に立っていないわけではなかったが、クリスティーナには知る由もない。
一方でドラッドノートも、かつてセムトと共に戦ったレニーアと今のレニーアとの戦闘能力の劇的な違いに、困惑しつつも全力で補助をし続けていた。
レニーアは大邪神カラヴィスの因子を強く持った個体であり、邪悪で凶暴であるのは確かだが、その本領を発揮する感情の類は憎悪や怒り、怨恨などではなかった。
邪神の子であるにも関わらずと誰もが思うところかもしれないが、これは母親であるカラヴィスも同じで、カラヴィスとレニーアが最もその力を増す感情や状況は、いわゆる正の感情に近しいものである。
誰かの為に、という感情が何と言う事かこの両者の力を最大限に発揮させるのだ。
こう表現すると本当に邪悪な存在か、と誰しもが首を捻るところかもしれないが、より正確に表現するのならば『調子に乗っている時』が最も強いのだ。
この時のレニーアは前世で着いてしまった敗北という特大の汚点を拭う好機に恵まれた事と、敬愛して崇敬して止まない魂の父が見守っている状況から、全力のさらに上を行く力を発揮していたのである。
クリスティーナはこれまでの付き合いからレニーアがとことん調子に乗っている事は把握していたが、同時にそう言った時こそが最も力を発揮する事を『友達』として付き合って来た事から、理解していた。
だからこそドラッドノートの困惑を敏感に感じ取り、胸の内に湧き起こる無力感を払拭してレニーアと正面から向き合い続ける。
クリスティーナはドラッドノートから際限なく注ぎこまれる力を必死に制御しながら、レニーアの連撃に強引に割って入る。
クリスティーナの意図する事はドラッドノートに即座に伝わり、ドラッドノートは主の考えになんて強引な、とついつい思わずにはいられなかった。
セムトも多少無茶や無理をするところはあったが、クリスティーナはその傾向が顕著だ。
これが荒んだ幼少期の経験によるものか、それともドラン達と短くも濃い付き合いをしてきた影響なのかは、ドラッドノートにも分からない。
だがこれからも、そして今もドラッドノートはこの主にどこまで付き合って行く事だけは間違いない。
(なんて心臓に悪い主なのでしょう!)
クリスティーナはレニーアの尾の薙ぎ払いをドラッドノートで受け止めながら体を回転させて、その尾の上に降り立つ。
そのままドラッドノートの切っ先をレニーアの装甲めいた体表に突きつけて、一気に上方へと振り抜く。
クリスティーナの神通力を吸収したドラッドノートが、無限の熱量と混ぜ合わせた上で光の斬撃として放出する。
レニーアの尾の上を網膜を焼くほど苛烈な白い光の斬撃が走り、そのまま尾からレニーアの背中を伝って、その首筋まで斬り裂いた。だが――
「無傷か、かなりの力を込めた筈なのだがな!」
傷跡一つないレニーアの体に、クリスティーナは苦いものを含んだ言葉を吐き捨てて、途方もない強敵を見上げる。
ドラッドノートから伝えられた前世のレニーアよりもむしろ強くなっている事は、クリスティーナも実感していたが、ドラッドノートがあればもう少しまともな勝負になると踏んでいたのだが……
「どうしたぁ、私が万全の状態では勝ち目なぞないか、お父様殺しの剣よ!」
神造魔獣形態のレニーアがぐわっと大口を開き、そこから一瞬の溜めの動作もなしに虹色の光の奔流が、クリスティーナへと放たれる。
自分の尾を巻き込むのを構わず放たれた光の奔流を、クリスティーナは夢想の領域で二剣を振り抜いて迎え撃つ。
『クリスティーナ、この宇宙の全銀河の三分の一が消滅する威力のブレスです、無茶は!?』
「でりゃああ!」
『聞いてない!』
もうやだ、この使い手、なんて強引! そう心中で叫ぶドラッドノートがレニーアの破壊のブレスを無限の世界に無限に分割しながら放出し、同時に強化を施したエルスパーダの一閃がブレスを切り裂いて道を作り上げる。
クリスティーナは恐れる素振りすら見せずに、エルスパーダの切り開いた道を全力で駆けた。
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第百六十五話
ドランこと私とその使い魔名義になっているセリナ、ドラミナ、所有するゴーレムであるリネットは、魔法学院が冬季の長期休暇に入った事により、ドラミナの馬車に乗って我が故郷ベルン村へ帰郷の途上にあった。
ベルン村はエンテの森との交易拠点として栄え、そこに私が浴場施設の建設を行った事も加わって、商人を中心とした者達が集まるようになっていた。
それが夏に勃発したゴブリン軍五千との戦いで足が遠のくようになっていたのだが、ゴブリン達を死者なしで撃退した実績と、ベルン村でしかエンテの森の品が手に入らない事情から、今ではかつて以上の盛り具合であると、父母からの手紙には書いてある。
以前行われていた開拓計画に参加していた逞しい我が父母や祖父母世代の村人は、私が居なくても好機を見つければ貪欲にそれを見逃さず、自分達の生活の糧にする方達である。
ベルン村は切っ掛けさえあれば私が何をせずとも、独自の発展を遂げるだけの地力があるのだ。
だからといって何もしないで居られるほど、私は落ち着いた性格ではないし、やはり故郷の発展には関わりたいという欲求が強くある。何もせずにはいられないのだ。
夏季休暇から四ヶ月近く経ち、私の中の記憶の光景と変わっているのかいないのか、思いを馳せながら、かつてクラウゼ村との間に敷いた石畳の上を馬車に乗って進んでいる間、私以外の三人は馬車の中にいる。
セリナはそのラミアという外見を人目から隠す為に。ドラミナはなるべく陽光を避ける為に。リネットは二人から改めてベルン村について教えてもらう為に、という理由だ。
とはいえドラミナの馬車は代々のヴァルキュリオス王国国王が使用して来た由緒ある品であり、紋章や装飾を極力隠していても道を行く人々の注目を集めて止まない。
どこかの大貴族が素性を隠してお忍びの旅をしている、という勘違いを大量生産しているかもしれない。
それにしては御者台に座る私が平民の旅装姿である事が、お忍びにしてももう少しらしい格好があるだろうに、とどうにもチグハグであろうけれど。
ついでに言えば、相変わらず私はドラミナのスレイプニル達から嫌われているが、彼らにとって唯一無二の主を取られたという理由で拗ねていると知っているから、悪い気はしない。
拗ねている期間がちょっと長くはないか、とは思うがそう追及するような事ではないだろう。それに私の指示には一応従ってはくれる辺り、自分たちの仕事は弁えているようだしな。
すれ違う他の馬車や、徒歩で歩んでいる旅人達から好奇の視線を向けられながら、御者台で手綱を握る私に、車内から窓を開けて顔を覗かせたセリナが話しかけて来た。
ひょっこりと窓から顔をのぞかせるセリナの可愛らしい仕草に、ほっこりとした気持ちになりながら私は返事をした。
「ドランさん、人通りが前よりも賑やかになっているみたいで、心配が杞憂に終わって良かったですね」
「ああ、ゴブリンを撃退した事で箔が付いたな。噂ではあの時に居た冒険者達を、ガロアの総督府や冒険者組合のお偉い方々が探しているそうだよ。
大々的にはやっていないようだが、もう四ヶ月近く経つ今でも一向に見つけられずにいるそうだ。影すら掴めない事から、本当に存在したのかと怪しんでいるのだとか」
「ふふ、それは見つけられるわけがありませんよ。だってあの方たちは、ねえ?」
セリナは総督府や冒険者組合の者達の苦労に思いを巡らせて、困ったように笑う。
ゴブリン軍との戦いで助力してくれた冒険者のほとんどは、当時、私に営業をかけて来た天界の神々やその眷属達だったのだ。
総督府などが本当に探し求めている人材は地上にはおらず、まず見つけ出す事は出来ないだろう。残念ながら総督府や冒険者組合には徒労に終わる道しかないのである。
「だからといってそれを私達が伝えるわけにもいかないからな。その内諦めるさ。ふむ、見たところ、護衛らしい冒険者か傭兵もちらほらと歩いているな」
「もう野盗の類とかはあまり出ないのですよね。怖いのは野の獣くらいでしょうか?」
「野盗狩りは昔よくやったというからね。賊の類にとって、ベルン村は死地に近い場所として怖がられていたらしい。何処の村もそういった側面はあるものだが、我が故郷はそれが顕著だからね」
「クリスティーナさんのお爺様に仕えていた元兵士とか騎士の方や、引退した傭兵さんもいらっしゃいますものね」
「私が知らないだけで、もっと物騒な経歴の主も居るかもね。過去は探らないのが暗黙の了解だから、聞く機会もないしな」
「お義父さんとお義母さんも、そういう経歴だったりはしないのですか?」
「どうかな。私が聞いた話では代々農民だったらしいが、息子に聞かせるには早いと経歴を隠している可能性は否めないけれど」
開拓計画に参加したわけだから、元々の生地を離れてやってきたのは確かだろう。
正直に言えば両親がどこそこの生まれであるか、という事に私はあまり興味を抱かずに生きて来た。
両親の生まれがどうであれ私にとっては、人間としての生命を与えてくれた大恩人であるし、二人に向ける愛情を変える理由になるわけでもなし。
向こうから何か話したい、と切り出してくるのならばともかくとして、私から聞く事はこれからも特にはあるまい。
両親の素性はともかく石畳を敷設する際に、道の両脇に設置した石像は雨風に晒されても特に傷付いている様子はなく、時折道行く人々が足を止めて祈りを捧げる姿や、興味深そうに見物している姿が見受けられる。
観光資源の一助となればと思い作成した石像群だが、石像街道などの渾名が付けられて、この辺りの人々にはすっかり知られるようになっている。
少し気合を入れて作り過ぎたせいで、ちょっとした神気を放つものなどもあるが、まあ魔除けとしては十二分な働きをしてくれている。
一体一体が非常時には自立稼働を始める
道中には宿泊用の施設もあり、そこには一定の期間ベルン村かクラウゼ村から人が派遣されて管理しているものと、単に雨風が凌げて暖炉と寝台があるだけという簡素なものの二種類がある。
だいたい徒歩の旅人が一日に進む距離をめどにそういった宿泊所が設けられているのだが、馬車のお陰で移動速度の速い私達は、いくつかの宿泊所を通り過ぎる。
ちょうどベルン村まで半分の道のりとなるところにある有人の宿泊所に到着すると、そこにはこれからベルン村へ向かう人達とクラウゼ村へと向かう人々の姿が見えた。
例え歩行であっても通常の馬よりもはるかに速いスレイプニルの魔馬達は、他の旅人達をあっという間に置き去りにして、ベルン村の南門へと到着した。
クラウゼ村からベルン村までの道が、ドラン作の石像で有名になったように、ベルン村を囲む防壁もまたベルン村の観光地化の一助となっている。
夏に起きたゴブリン軍襲来の際に、ディアドラが防壁に張り巡らせた黒薔薇が冬の寒風にも負けず、今も瑞々しく咲き誇っている。
時折その価値を知る魔法使いや商人、あるいは好奇心に駆られた観光客がこの黒薔薇を手折りに来ると、蔦が自ずから動いてピシリと叩く少し危険な黒薔薇である。
この黒薔薇の絡みつく防壁は、ベルン村とエンテの森との関係が深いものである事を分かりやすく示す一例であり、この防壁を指してベルン村を黒薔薇の村と呼ぶ声も徐々に増えている。
半年前と比べると格段に通行人の数が増え、南門には多くの人々の姿がある。門番をしている村の若者二人の傍らには、ドラン印の戦闘用ゴーレムが二体ずつ侍っている。
防壁を覆い尽くす黒薔薇と戦闘用ゴーレムの姿に、村を初めて訪れる人々は思わず足を止めてしげしげと見回している。
一般的な辺境の村々どころか都市でもまず見られない光景なのだから、人々の足が止まるのも当然の事と言えた。
これまでベルン村を訪れて来た馬車の中でもひと際格調高い馬車とその御者に気付き、門番を務めていた若者がドランに向けて手を振る。
「おう、ドラン、お帰り。なんだあ、また綺麗な人を連れているじゃないか」
「どうやら運に恵まれているらしくてね」
他の旅人達と同じように門を通過したドラン達は、村の中に村人以上に外からやって来た人達の姿が多い事に嬉しげに眼を細め、すれ違う顔見知りの村人達と挨拶を交わしながらセリナの家を目指して蹄を進ませる。
その途中にある村の中央広場には、村長達の許可を得た商人達の露店などが開かれ、観光客達が足を止めて賑わいを醸し出している。
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第百六十六話
殿下の
しかし純人間種至上主義思想の色が濃いというロマル帝国に、魔物扱いされるラミアと亜人とされるがこちらでは馴染みのないバンパイアのドラミナを連れて行くのは、大いに気になるところがある。
リネットに関しては容姿が完全に人間であるし、一応はゴーレム扱いなので差別の対象になり難いであろうが、二人に関しては衆目に晒す事は避けなければならないだろう。
それにバンパイアを他国の領内に連れ込んだ、という事実は露見すればこれは小さな問題では済まない危険性もある。
セリナもドラミナも自分の身を守る事に関してはまず心配はいらないが、心を悪意ある言葉や態度で傷付けられる事に関しては、いくら配慮してもし過ぎると言う事はあるまい。
「殿下、私が弔問団に御同行させていただく事は大変名誉な事とであると心得ておりますが、セリナやドラミナ、リネット達をロマル帝国に連れて行く事は、小さくない問題を抱えているものと存じますが、どのようにお考えでおられますか?」
私の懸念は正しく伝わったようで、殿下は真摯な顔つきとなってセリナ達の顔を見回してから、私に答えを返す。
この場にいる学院長もハイエルフである為、亜人に区別されるが、さて殿下の返答にどれだけ関心を向けている事か。
「君の大切な女性達を表だって連れ出そうとは考えていないよ。こちらがどう言葉を並べ立てたとしても、あちら側は悪い感情しか抱くまい。
大公はもちろんの事、大公と比べれば亜人種に対して解放的とされる皇女も、どこまでその風聞を信じて良いのか計りかねるところがある。
大公と戦える勢力を整える為に大公とは正反対の主張をしているだけで、本心は別とも取れるからね。いざ皇帝の玉座に就いた時、これまでの主張を変えないとは誰にも保証出来るものではない」
ふむ、帝国の次代を担う二大巨頭の両方とも腹の内は黒い可能性あり、か。お隣の帝国は、私としては手を取り合うのが難しいお国柄だな。
そうなると次期皇帝の座を巡る国を二つに割る内乱に加えて、これまで隷属していた亜人種社会の蜂起も加わった三つ巴説になる可能性が高いようだ。
しかもこれに我がアーレクレスト王国が加われば、四勢力の入り混じる大混戦模様だ。
帝国の更に西側の諸国の動きにもよるが、もっとひどくなる可能性もあるのだから、民草にとっては辛い時期を迎えるか……
「リネットは、見た目とゴーレムと言う立場ならば、君の傍に連れていても大丈夫だろう。逆にセリナやドラミナは使い魔であっても、表立っては連れて行けまい。
そうなると護衛の馬車の中で待って貰う事になる。
二人に出番が回って来るとしたなら、それこそ大公と皇女が帝都で配下の軍勢を戦わるようなあり得ない真似をしでかし、それぞれの十二翼将が全開で戦い始めるような時くらいだな」
「王国への牽制に王太子である御身を保護の名目で拘束監禁しようとする可能性も、高いか低いかは別としてあり得なくはないですね。
ともすれば殿下が王国に帰らぬまま皇女の婿に、あるいは大公の息の掛った女性の婿になり、アークレスト王国を併呑するなどという話も可能性だけはありますな」
「考え得るもっとも危惧すべき可能性の一つだな。そうなれば我が国としては下手に手を出しかねるか、全力での戦闘を許可したメルルを投入する事になるか、あるいは国家を上げての戦争を挑むかの三つだ。
まあ、私が戻らなくともフラウが居るし、いざとなれば私を斬り捨てるまでの話だよ」
「いずれにせよ、泥沼の戦争になって長引くのだけは避けたいものです。個人的な感情になりますが、首の挿げ替えが定まらぬ内は民草への負担は留まる事を知らんでしょう。
帝国の民が、ただ翻弄されるだけの弱者という立場に甘んじているだけならば、ですが」
翻弄される立場だからこその強かさというものがあり、ベルン村の皆はそれを持っていたが、さて帝国の人々はどうであろう。
生き残る為には、落ち目になればそれまでの領主の一族郎党を殺し、新たな領主に恭順の意を示す位の事は、今も昔もそう珍しい話ではない。
高羅斗に対するのと同様に、帝国内部の反帝国勢力に我が国はどこまで支援の手を伸ばしているのやら。目の前の殿下の表情からは、それを読み取れそうにない。
「少し話が逸れてしまったな。
そんな事情の帝国にラミアであるセリナやバンパイアであるドラミナを連れて行こうとしているのは、まず二人が君と離れようとはしないだろうと私なりに考えたからだ。
それとまあ、ドランに護衛を頼む以上は、長期間ガロアから離れて貰わなければならない。その間、君達を離れ離れにさせるのは酷な事だと思ったというのもある」
話題が男女の事だからか、少し照れくさそうに話す殿下の顔には、少年めいた潔癖さが窺えた。ふむん、どうやら本当に気を遣われたらしいわい。
「お気遣いいただき痛み入ります。ではセリナとドラミナは、公式の記録には残さない員数外の人員として弔問団に加えるという理解でよろしいでしょうか?」
「ああ。狭苦しい思いをさせてしまう事になり、申し訳ないが耐えて欲しい。
それと弔問団に合流した後の行動だが、ドランには近衛騎士の一員に扮して、護衛の列に加わって貰いたい。服装や喪章など一式はこちらで用意しよう」
「近衛ですか、騎士としては花型の役職ですね。
ついこの間まで農民だった騎爵なぞ、よくも仮初とはいえ近衛にする事が許されたものだ。てっきり小間使いか何かに扮するものとばかり思っていたというのに。
私は思った以上に殿下に評価されているのか、それともメルルの高評価を汲んでの事かな? 小間使いよりは近衛の方が殿下の傍に居られる道理ではあるがね。
「身分の事を口にする者はいないではないが、そもそも我がアークレスト王国の建国王からして平民の冒険者上がりであるし、曲がりなりにも既に騎爵なのだからと言いくるめるのは、難しくはなかったさ」
「私の知らぬ内に王宮の方々に私の事を知られているようで、普通なら名前を知られた事を喜ぶべきなのでしょうが、どうにも素直にそう出来ないところがありますね」
「素直にそう口にするところは君の美徳だな。表面上は納得していても、心の内ではまだ納得しきれていない者もいるだろう。特に近衛の若い者などはな。
一言二言嫌味を言われるかもしれんが、そこは堪えてくれ。頼み事ばかりで済まないが、よろしく頼む。君がベルン村でクリスティーナの下に就いた時には、私の方でいろいろと便宜を図っておくから」
「それを報酬にするのはずるいですよ、殿下。それでは私もやる気を出さざるを得ないではないですか」
本当にずるい話題を出してきおったぞ、この王子様。ふうむ、薄々感じていたのだが、自覚があるのかないのか、ちと腹黒いぞ、うちの王太子。
「良くする事はあっても悪くする事はないから、その点は安心してくれ。いや、済まないな。普通ならこんな話はしないのだが、どうにも君が相手だとついつい私の口が滑りやすくなってしまう。
どうしてか君には気を緩めてしまうらしい。同世代の友人はいないではないが、君のようにあけすけと物を言う相手というのは希少だからかもしれないな」
「殿下の御友人の方と同列に扱っていただけるとは、光栄の極みですな。では私は近衛に偽装するとして、セリナとドラミナ達は如何いたしましょう。
お許しいただけるのであれば、ドラミナの所有している馬車と馬達を連れて行きたく存じます。
馬達は全てスレイプニルですから、普通の馬に見えるよう偽装する必要はあるでしょうが、いざとなれば空を掛ける事も出来ます。
殿下を連れて急ぎ王国に戻らねばならぬ事態が生じた時には、重宝するかと」
今や装飾などを外して簡素な外見になったドラミナの馬車だが、馬車そのものに使われている素材が希少なものばかりで、何重にも魔法が掛けられているから、こちらもスレイプニル同様偽装を施す必要はあるだろう。
まず間違いなく殿下がお乗りになる馬車よりも品格が上とあっては、護衛の任に難ありだからな。
「スレイプニルか。話では聞いていたが、本来なら使い魔などに収まるような氏素性ではないのだろうな」
殿下はちらりとヴェールで顔を隠しているドラミナに一瞥を送った。殿下からの視線に、ドラミナは小さく会釈するきりで何かを語る事はしない。
ドラミナに語るつもりがない事を悟り、殿下は深く追求して藪をつついて蛇が出てくるような真似を避け、馬車と馬の件を承諾なされた。ふむ、賢明な判断だ。
「とりあえず馬車と馬の件は承諾した。私の方で弔問団に追加の報せを送っておこう」
後はまるでロマル帝国の不意を突くように弔問団の派遣を隠す事や、時期が早すぎる事など聞いておきたい事はあるが、『不意を突くように』ではなく『不意を突く』のが目的なのだろう。
皇帝崩御の知らせを受けて動き出す者達に対し、少しでも崩御の情報を隠して時間を稼ぎたい皇女や大公に対する嫌がらせで、ぎりぎりまで弔問団の派遣を隠して送ると見た。
陰謀術数蠢くとはまさにこの事かね、と私が胸の内で溜息を吐いていると、これまで沈黙を保っていた学院長が不意に口を開いた。
考えてみるにこの方もなかなか複雑な立場だ。建国王の仲間であり、同時にエンテの森の最重要人物のひとりなのだから、殿下であっても対応には慎重を要するときている。
「殿下、横から失礼いたします。ドラン、弔問団の護衛としてガロアを離れるのであれば、ディアドラを連れて行ってあげてはくれませんか?」
「ディアドラを? 連れて行けるのなら私も連れて行きたいですが、彼女には教師としての仕事があるのでは?」
「それならもう引き継ぎは済んでいますし、彼女の受け持ちの授業はもうありませんよ。
セリナとドラミナが貴女と一緒なのに、自分だけ離ればなれとあってはディアドラが大いにへそを曲げる事でしょう。
それに彼女もあなた達同様に見聞を広めるのによい機会です。あまりよい経験にはならないでしょうが、それもまた経験というものです」
「そういう事でしたなら私としては問題ありませんが、殿下、更に一人追加となっても支障は御座いませんか?」
「ディアドラというとあの黒薔薇の精の女性の事だな。あい分かった。確かに彼女だけを置いていっては、不公平というものだ。一人くらいならどうとでもなるよ」
殿下が快く承諾して下さった事で、弔問団の護衛にディアドラも加わる事となったのである。それからさらに弔問団の予定や帝国での作法や事情などを伺い、事前に仕入れておくべき情報を受け取った後、殿下はガロアを後にされた。
愉快な道中となりそうだが、さて、私がガロアを離れるにあたってとびっきりごねそうな子がまだ残っているのが、最後の難関か。
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第百六十七話
ロマル帝国のギスパール皇帝崩御に際し、慣例よりも早く出立したアークレスト王国弔問団一行は帝国の主要な街道の一つを進んでいた。
街道ですれ違う帝国民は、私達の姿を認めるとぎょっとした顔で道を開けるが、私達の掲げる弔旗に気付くと一様にはっとした顔になり、不安の色を浮かべる。
情報伝達の速度や帝国内部の情報統制の度合いは推測するしかないが、まだ皇帝崩御の報せは帝国民全員に知れ渡っているわけではないのだろう。
殿下と話したように弔問団は帝国南部を経由して、帝国中央部の帝都ロンマルディアを目指す。
帝国の南部には、かつて武力によって併合した亜人種の国家が多く、常日頃から帝国への不満を抱えている彼らへ、皇帝崩御が事実である事とこれから帝国が割れるかもしれないぞ、と言外に伝える為である。
これが政治というものかと思いつつ、私としてはこういうのに慣れなければならない事への気後れのようなものが、心のうちに確かに存在している。
私は貸し与えられた近衛の騎士服に袖を通し、馬に跨って進みながらこれからの帝国の未来と王国の関与を、念話で主にドラミナと話していた。
魔法学院卒業後は王国北のベルン村に戻る私が、王国西部と接するロマル帝国と関わる事はあまりあるまいが、今回の弔問の内容次第で駆り出される可能性が高くなりそうだ。
私が念話でドラミナにその事を伝えると、正解を口にした生徒に対する教師のように柔らかな雰囲気で応えてくる。
(ドラン、まず間違いなくアステリア皇女派、ライノスアート大公派、反帝国派、アークレスト王国の四勢力による争いが生じるでしょう。
ベルン村に前線での活躍や後方支援は期待されないでしょうが、私やセリナさん込みで貴方という個人戦力を求められる可能性は十分にあります。メルル程の戦力とは期待されないでしょうけれどね)
(アークウィッチの名前は周辺諸国最強の大魔法使いとして轟いているが、人間としての私は、いくらなんでもそこまでは達していないように振る舞って来たからね。
ただメルルが私達との腕試しの結果を周囲に口を滑らせてしまったら、自由もへったくれもなくなってしまいそうなのが、気掛かりではあるよ。
あの時はそうする事がよいと思ってメルルを打ち負かしたが、よもやここに来てこうなるとはな。巡り合わせの妙と言おうか、不幸と言おうか)
後悔はしていないが、参ったなと少し苦笑するくらいは許して欲しい。相手がドラミナだからこその甘えかな? ドラミナには、そんな私の心の動きなどお見通しなのだろう。
(それにしても相手が邪神の類なら緊張も気後れもしない貴方が、人間を相手にするとなると途端に眉間に眉を寄せる事が増えるのですからおかしなものです。普通は逆なのですけれど)
(古神竜よりも人間として過ごしている期間が圧倒的に短いから、経験というものが不足しているせいだと自分では分析しているよ。
村の中で過ごしている分には問題ないのだけれどね。その分はセリナや君を頼る事にしている)
私がはっきりと頼ると口にした事に、ドラミナは思念でも分かる位に喜んだようだった。
(ふふ、貴方に頼られる数少ない機会です。精一杯お役に立てるよう努力いたしましょう。
話を戻しますがドランが招集される、されないは別として、王国が帝国の内乱に武力介入するのは、戦端が開かれてしばらくしてからでしょう)
(ふむ、王国からすれば最大の仮想敵国が身内同士で勢力を弱まらせるのだから、出来る限り放っておいて美味しいところを掻っ攫いたいのが当たり前だな)
漁夫の利という古い
遅くとも皇帝の体調が悪化の一途を辿っていた頃から備えていただろうが、さてどこまで思い描いた通りに物事が進む事やら。
私は王国側の立場になって、対帝国戦略について思案してドラミナに伝える。人間の頭脳で出した私の考えを、かつて一国の女王であったドラミナは何処まで評価するものか。
(王国としては帝国全土の制圧はまだ考えてはいまい。南部の亜人種達の事もあるし、全土を制圧しては、帝国以西の諸国との関係を苦慮しなければならなくなる。
皇女にしろ大公にしろ、脅威にならぬ程度の勢力を帝国西部に持たせて敢えて生かすか、傀儡政権を打ち立てるのを当面の目標にするのではないかな?
特に南部の反帝国の亜人達は『亜人』と一括りにしているが、各種獣人や巨人など価値観や倫理観、歴史もまるで異なる種族が混在している。彼らが蜂起するにあたって掲げる目標も、決して一枚岩ではあるまい)
(ドランとしては彼らまで王国の傘下に加える事は、あまりに不利益な面が大きいと考えるわけですね。
不本意な支配を強制された彼らが、それから解放されたというのにまた新たな支配を受けるとなれば、それが平等で友好的なものであろうとも受け入れ難いものでしょう。
おそらく、いえ、まず間違いなく彼らの中でさらに意見の対立が起きて、帝国からの独立後もまた内部闘争が起きますよ。よほどの統率者か潤滑油として優れた人物が、複数いなければね)
ふむ、ドラミナも王国が今回発生するであろう争乱で帝国全土を狙ってはいない、と考えているか。
帝国民の感情を考えれば、国内の騒乱で人心が荒れ、帝国への愛国心や忠義心の薄れた頃合いに飴をちらつかせながら侵攻すれば、少しは戦後の統治もやりやすかろう。
場合によっては割れた国内が、対アークレスト王国の名目で一時的にでも共闘して、体勢を整え直す可能性もある。
そう考えると、やはり王国としては煽るだけ煽って、後は放置してしばらく様子見をするのが当面の戦略だろうか。
政治の世界はやはり白と黒とではっきりと区別できるものではないな、と私が痛感していると、これまで黙って私とドラミナのやり取りに耳を傾けていたセリナとディアドラが口を挟んで来た。
ドラミナとの話に夢中になって、二人の事を放ったらかしにし過ぎてしまったかな。ついつい熱が入ってしまった。
(ドランさ~ん、ドラミナさ~ん、お話に夢中になるのは分かりますけれど、私達も構ってくださ~い。
これからの事に関わる大切なお話だと分かってはいますけれど、放ったらかしは寂しいですよ~)
馬車の中のセリナが悲しげに眉根を寄せている姿まで想像できて、私は護衛の最中ながら、つい顔色を変えてしまいそうになるのを堪えなければならなかった。
(ああ、セリナさん、すみません。つい昔取った何とやらで、口が滑ってしまいました。それにドランに相談される事は稀ですので、調子に乗ってしまったようです)
(政治のお話は確かに私にはちょっと難しいところはありますけれど、そこまで熱中しなくてもいいですのに。
でもロマル帝国は、ドランさんやクリスティーナさんが作ろうとしているベルン村とは反対の場所ですね)
私やクリスティーナさんが思い描いている、複数の種族が共存共栄しているベルン村と現状のロマル帝国は確かに正反対と言える。
セリナの故郷とてラミアと異種族の男性達によって成り立っているのだから、ロマル帝国のように種族間の差別思想が蔓延るっている場所に行くのは、初めての事。
私は前世の経験から、差別はよくある事と理解しているが、セリナにとってはよくない物を見る旅になってしまうか。
セリナに今のうちに覚悟するように改めて告げるべきか、と私が思案している間に、ディアドラが妹分をからかうように口を開く。
(そうねえ、特にドランには婚姻関係の法整備を早めにして貰わないと、私達が困るのよね。今のままだと私達は内縁の妻にしかなれないもの。
それに、私とドラミナは急ぐ理由はないけれど、セリナはそうは行かない事情があるわよね。
実家の御両親に説明するのにきちんと夫婦関係にあるって言えた方が、説得力はあるもの)
ディアドラの指摘に、セリナが、はうっと小さく羞恥から呻くのが聞こえ、身悶えする代わりに尻尾をくねらせているのが容易に想像できる。
そう、当初セリナは伴侶を見つけたら故郷に連れ帰る使命を帯びていたのだが、私と出会って以降はこのままベルン村に留まり続ける道を選んでくれている。
故郷の両親に何も言わずベルン村に残る道もあったが、ベルン村との積極的交流を行う為にも、法的に私と夫婦となり、自らが共存の最初の例となって故郷の父母や仲間達と交渉する予定が経っている。
一刻も早くセリナの御両親に御挨拶に伺う為にも、クリスティーナさんにはベルン村に赴任後、法整備について話を進めなければならない。
私の婚姻云々を抜きにしても、今の法律という観点に立つと、セリナやドラミナの身の安全が保障されていないのだ。
ラミアや我が弟マルコの恋人の一人であるハーピーは、ただでさえ亜人ではなく魔物とされているから、極端な話だがいきなり斬りかかられてもそれに文句が言えないのである。
これをどこぞやの冒険者だの傭兵だのが、魔物だからとラミアに襲いかかっている場面があったら、ベルン村の住人や兵士がその冒険者の方を説得するか叩きのめして拘束する法的根拠作りは必須だ。
(ディアドラさんの言う通りですけれど、今ここで話をしても進む話ではないですよう。ディアドラさんが私をからかいたいから口にしただけじゃないですかぁ)
(ふふ、まあ、必要な話ではあるのだけれど、時期の早すぎる話なのもセリナの言う通りかしら。でも夢があっていいじゃないの。
私は妻とか恋人とかの肩書きはそんなに気にしないって言ったけれど、堂々とドランの奥さんよって言えるのは、気持ちのいい話よね)
(ふむん、なんだが照れ臭い方向に話が進んでいるが、私も皆の事を私の妻だと胸を張って言えるのなら、それに越した事はないと思うよ。世間に隠して夫婦生活を営むのは、やはり寂しく感じられるだろうから)
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第百六十八話
ドラン達の滞在しているサロル宮殿を後にしたライノスアートは、広すぎる宮殿の移動に利用する馬車の中で、アイザと向かい合って座っていた。
主人であり次期皇帝候補であるライノスアートを前にしても、アイザの全身を隠す外套はそのままだが、ライノスアートのは気にする素振りを見せない。少なくともこの二人の間では、暗黙の了解の内なのだろう。
どこの王侯貴族の寝室かと錯覚しかねない、広く豪勢な作りの馬車の室内で、ライノスアートは味わい深い青色のクリスタルグラスに注いだ赤ワインで口の中を湿らせた。
「アークレスト王国のスペリオン……かの王国に暗君なしという噂は真だと思わせる若者だったな」
独り言とも取れるライノスアートの呟きに、アイザは律儀にも応じた。
ロマル帝国の後継者争いでは中立を貫くのではと思われていた千里眼の主は、スペリオンに見せていた柔和さを欠片も残していない主を、外套の生地越しにまっすぐに見つめている。
ライノスアートは千里の彼方のあらゆる情景や、人間の表情、些細な仕草すら見通して暴き立てる異能者の視線を堂々と受け止めた。
「アステリア皇女よりも、手強い、ですか?」
「ふ、姪とでは立場が違いすぎて同列には扱えんよ。ただ忌まわしきあの大魔女を抱える王国の方が、厄介なのは間違いがない。加えてあちらは盤石な一枚岩で出来ている。まったく、羨ましい限りだ。
アイザ、それでお前の眼に止まるような相手はいたか? 王子が連れていた護衛達の中には、例の少年の姿があったな」
単なる臣下以上の存在であるのか、幾分砕けた調子に変わったライノスアートの問いかけに、アイザは小さく頷き返す。
「はい。ドラン、という少年、いました。とても、普通。サロル宮殿、入る前も後も普通に、見えました」
「ほう、普通。普通ときたか! 競魔祭であれだけの力を見せた傑物が、普通か。十二翼将候補になるほどの力を持つ未来溢れる若者達があれほどまでに揃っている王国の中でも、頭一つ抜けている少年が普通。
お前の眼をしても普通に見えるように偽装できる技術の主というわけか。ますますもって羨ましく、そして長ずれば、いや長ぜずとも厄介な相手というわけだな」
そう、まさにライノスアートの言う通りだと、アイザは首肯する。
苦労して手に入れた今年の競魔祭の試合映像から、飛び抜けて厄介と映像を見た誰もが認めた生徒の一人がドランだ。
ドラン、レニーア、クリスティーナ、ハルト、エクスの五人を次代の怪物達と帝国の重鎮達は認識しており、そんな怪物が普通である筈がない。
それに他にもドランに関して、ライノスアートは気になる点があった。ドランからすればよもや帝国の二大巨頭の片割れに注目されているなど、寝耳に水だろうけれども。
「農民騎爵をわざわざ近衛に加えて来たのは、その実力を買ってかもしれんが、かの少年には使い魔が居た筈だな? それらはどうした、居たか?」
「はい、でも、ラミアは下半身、大蛇ではなく、人間。バンパイアも居たけれど、顔隠していて、見えませんでした」
「ラミアは変身の魔法を使っているとして、バンパイアの顔が見えなかっただと? お前の千里時空眼でも見えぬとは……」
「とても、とても強い力と高い神格の加護、ありました。あのバンパイア、途方もなく、すごい女の人、です」
アイザの千里時空眼でも見通せなかったという事実は、ライノスアートの中でドランとその使い魔達への警戒感を数段階引き上げるのに十分な情報だった。
しかし、ライノスアートのドランに対する嫌悪感は、敵国の有望過ぎる次代の怪物という以上のものにはならなかった。
ライノスアートにとってラミアはそもそも魔物であるから、人間、亜人という括りに入れる以前の存在であり、バンパイアは帝国内にもほとんど居ないが、亜人である以上は人間と同列に語る価値のない存在である。
仮にドランがセリナとドラミナを人間と同列に扱っている、といった情報が耳に入れば、ライノスアートは侮蔑と嫌悪を露わにしただろうが、この場合は使い魔として従属させているという前提であった。
つまりはドランがセリナ達に対して人間よりも下の扱いをしている、と解釈されたわけである。
「よくもそのような存在を使い魔にできたものだ。バンパイアに神の加護か。ならば創造主である月の女神か夜の神あたりであろう。
今後もし戦場で戦うような事になるのなら、太陽神の力を借りるのが妥当だが、それはまだ先の話よ」
「王国、手を組みそう、ですか?」
「ふん、どうかな。アステリアが何を言うか容易に想像は着くが、あの賢しい王子ならば体の良い甘言も十分に吟味した上で判断を下すぞ。
それに私が王子と同じ立場であったなら、腹の内でほくそ笑みながら我々の争いが起きるのを悠長に待つだろうよ。
隣国が内乱を起しているのだ。領土を掠め取るのに、絶好の機会以外の何だと言うのだ」
「美味しいところ、持っていき放題、です」
容赦のないアイザの台詞に、ライノスアートは口をへの字に歪めた。自分の配下ながら耳に痛い言葉を躊躇なく口にして来る。ライノスアートはワインの二杯目をグラスに注ぎながら、それでもと口にする。
「それでも、私とアステリアの争いは止まらん。あのような小娘に我らの歴史ある帝国を簒奪されるなど、あってはならん事だ。代々の皇帝達にも民達にも顔向けが出来んわ。
攻め滅ぼさずにおいて生きる事を許してやっていた南部のケダモノ共も、我らの温情を知らぬ振る舞いの報いを与えてやらねばならぬ」
反旗を翻すのはもう秒読みに入った南部の亜人達に対し、ライノスアートは怒気を明らかにしたが、反乱それ自体が起こる事を想定していなかったわけではないらしい。
亜人達が何時までも自分達に従っている筈がないと、十二分に知悉していたようだ。
「だが亜人達の反乱は起きるべくして起きる事だ。当たり前だ。国が起こり、発展し爛熟すれば、後は腐った果実のように落ちて新たな種が芽吹くのがこれまでの世の習いよ。
今回は亜人達が革命を起こし、熟した国という果実を刈り取って新たな芽を芽吹かせる立場だが、私は世の習いに諾々と従いはせん。この局面を乗り越えれば、帝国は新生し次の数百年を生き抜く活力を得る切っ掛けにできる。
しかしアステリアめ、口では亜人達の待遇の改善こそがさらなる帝国の発展に繋がる、などとほざいているが、あ奴の腹の内を真に理解している者がどれだけいる事か」
「半分は、大公様と同じ血、です」
「私を前にしてそれを言える度胸があるのは、お前くらいのものだぞ、アイザよ。恐れを知らん奴め。まあいい、アイザ、眼はスペリオン王子の所在を確かめる程度に留めておけ。常時観察する必要はない」
「アステリア皇女の、手の者、接触するかも、です」
「それはお前の眼を使わんでも分かる。私以外の誰かが王子の身柄を手中に収めようとさえしなければ、後は予定通りの展開で今回の弔問団の来訪は終わる」
自分からスペリオンの身柄を抑える事はしない、と断言するライノスアートの言葉は、アイザにとって意外なものであったようで、外套がかすかに揺れる。
どうやら外套の奥で小さく首を傾げたらしい。たどたどしい言葉遣いや小柄な体躯と相まって、外套の奥にはあどけない顔立ちが隠れていると誰もが想像するのではないだろうか。
「王子、身柄抑えると、ウハウハ?」
「平穏のぬるま湯に浸かっていた割に、あの王国は王族への教育が行き届いている。あれは国益を損なうとなれば、自害すら許容している目をしていた。上辺の覚悟だけならいくらでも崩せたのだがな。
王国の方も轟国と高羅斗らの争いに上手く便乗している。あれならこちらの傀儡になっていると判断すれば、国の方から切り捨てるか、王子を救出するなどと大義名分を掲げて意気揚々と攻めてくるぞ。敵国が有能だとこうも面倒か」
このようにライノスアートが苦笑いを浮かべている間に、スペリオン達は残る次期皇帝候補のアステリア皇女との会見に臨んでいた。
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第百六十九話
「ええい、貴殿らは帝国の治安を預かる兵士であろう。それがこのような狼藉を働くとは、何を考えているのでござるか!」
人通りがまばらな街道に、犬少女の怒声が響き渡った。
街道の半ばほどに広がって封鎖している帝国兵達は、犬少女の剣幕にも、口元にいやらしい笑みを浮かべるだけで退く素振りを見せない。
馬車を煉瓦造りの道の傍らに停め、私、リネット、殿下、シャルドの四人で悶着を起こしている一団に向かって歩き出している間にも、侍の犬少女と帝国兵達の間では、一触即発の空気がより濃いものになっていた
荷馬車に乗っている少年少女はすっかり怯えてしまい、御者台の上で縮こまっているが、犬少女と狐少女達はそれぞれ尻尾を逆立たせ、歯を剥き出しにして敵意を露わにしている。
ふむ、改めて見ても帝国や王国で見かける獣人達とは顔立ちの異なる少女達だ。装備同様に東国の出身者で間違いはあるまい。
どうして遠く離れたロマル帝国にいるのか、不思議に思うところはあるが、先程の犬少女の発言と帝国兵達のへらへらとした軽い雰囲気から察するに、非は帝国兵側にありそうだが、さて。
弔問団と別行動になった時点で、帝国の平民服に着替えた殿下が、腰に下げた長剣に手を添えながら、話しかけて来た。
「荷馬車の二人、おそらく兄妹だろうがロマル民族ではないな。元々この土地に住んでいたエルケン族だろう」
これから向かう城塞都市エルケネイも、元はそのエルケン族の首都だった場所であった筈だ。エルケンの民の都、という意味でエルケネイという名前が付けられているのだったかな。
「被征服者と征服者の組み合わせですか。ロマル帝国は従う者には繁栄を、従わぬ者には刃を、と標榜していたと記憶していますが、それにしては寛容さのない態度を取っている兵士達ですね」
「エルケネイがロマルの版図に組み込まれてから、百年単位で時間が経過している。そうなっては国是を忘れもしようさ。それに征服した側と征服された側とでは、見下しやすいだろう」
「我が国がそうならぬ事を切に願いますよ、リオン」
王都で声を掛けられてきた時と同じ偽名で呼び掛けると、殿下は我が意を得たりと言わんばかりに、にやりと笑う。殿下と同じくシャルドもシャルルという偽名で通す決まりになっている。
帝国上層部に顔が割れている以上は、名前を変える程度では気休めにもなるまいが、しないよりはマシ位の気持ちで名乗っている。
私と殿下が気安く会話を重ねている間に、帝国兵と犬少女達は声を荒げてどうしてこうなったかの経緯を頼んでもいないのに、話し始めた。
帝国兵は皮鎧の上に小さな金属片を鱗状に貼り付けた鎧を身に着け、丸い金属製の兜、腰には短剣と長剣を一振りずつ、それに左手には楕円形の大盾という装備だ。何人かは槍や弩を構えている。ふむ、魔法使いや神官はいないか。
その中で唯一、兜に赤い鶏冠状の飾りを着けた、他よりは装備の質が良い男が進み出て、傲慢そのものの態度で犬少女を見下ろす。
「三等臣民と臣民ですらない異国の者は、ここを通るのに通行料を支払わなければならん。それを払えばいくらでも通してやると、先程から言っているが、そのケダモノの耳は飾りか? ん?」
獣の耳と言う分にはその通りであるから、大抵の獣人は怒りもしないが、ケダモノ呼びはあからさまな侮蔑である。
只でさえ怒り心頭の様子であった犬少女は、思わず腰の刀に手を伸ばしそうになっていた。
犬少女が分かりやすく激怒しているから目立ちにくいが、隣の狐少女の方も相当に怒っているのだろう。
さりげなく帝国兵の配置を確認して、誰から打ちのめすべきか確認しているのが見て取れる。
「だから、その通行料とやらは昨日まで、もっと言えば今日の朝にここを通った時には払わずに済んだはずでござろう。総督府からもそのような通達が発布されたとは、皆目聞き及んではおらぬ。
それが確かな根拠のある法律であると言うのであれば、ともかく、根拠もなにもなさそうな言い掛かりに払う金など、
犬少女が小気味よく
「ハチの言う通り。お主らの言い分はどうにもキナ臭いものばかりでござるよ。本当に総督府からの正式な命令で通せんぼうをしているのか、甚だ怪しいもんでござる」
あちらの犬少女はハチという名前らしい。
狐少女の言い分にも帝国兵達の顔色が変わる事はなく、二人の口にした抗議など最初から気にも留めていない。
この様子から帝国兵達にとっては日常茶飯事の事で、あるいは総督府の上層部もこういった兵士達の行いを黙認している可能性も考えられた。
あの大公や皇女の直轄領ならば、このような兵士の練度や士気の低さを露わにする真似は許されまいが、この周辺を統治している総督府は利権を貪るのに夢中なのだろうか。
「獣混じりの癖に口の回る女共である事だ。だが我らは栄えある総督府の兵士。お前達の抗議など我らの口から出る言葉に比べれば、空気のような軽さだ。
さあ、この道を通りエルケネイに戻るのならば、通行料として一人当たり二千ペル、馬は一頭五百ペル、また馬車は一台につき千ペルを支払え」
それはまた、とんだ金額設定だな。二千ペルを王国の通貨に換算すれば四人家族の一ヶ月分の食費に相当するぞ。
失礼な話かもしれないが、荷馬車の兄妹達はそんな金額を支払えるようには見えない。あるいは帝国兵達も通行料を支払えるとは思っていないのかもしれない。
私は殿下があの光景をどう捉えているのか気になって、問いかけた。
「異民族と異種族など、街から出ていけ、二度と戻ってくるな、という事でしょうか?」
「後から来たとはいえ、征服してしまえば自分達の街という理論かな。
追い出すのも理由のひとつかもしれないが、通行料の代わりに何かせしめるつもりなのだろう。そちらの方が本命かもしれん。
もし我が国の兵士が同じ行いをしたならば、嘆かわしくて目も当てられないよ。上官を含めて厳罰に処するところだ」
殿下も私と同じように帝国兵の目当てが、払える筈もない金額の代わりにせしめるつもりの物と思い至っていたようだ。
荷台の苺はあれだけあれば、それなりの金額になるだろうが、それだけではあるまい。先程から帝国兵達からハチ達へと向けられる視線の好色さと気味悪さときたら!
そろそろ荒事に発展しそうだが、と私が腰の長剣を意識しだしたところで、ハチの怒声が再び響き渡る。しかしよく吠える少女である事よ。
「な、ただでさえ払う必要のない通行料を支払えと言っておいて、そんな無茶な金額を口にするなど、何を考えている。我らをエルケネイに入れぬつもりでござるか!」
「何を言う。入れぬつもりなのではない。通行料を払わないなら通さないだけだ。お前達がどうしてもエルケネイに入りたいのならば、通行料の代わりとなるものを我々に渡すのだな」
「通行料の代わり?」
ハチは背中に庇っている荷馬車の苺を詰めた木箱を振り返ったが、私達から見た限りでは雇い主である兄妹達の生活の糧を、どうぞ、と渡せるものではあるまい。
帝国兵の方も苺の方を望んでいるわけではなさそうで、鼻で笑ってから目当ての物を堂々と口にした。
「なに、少しばかり我々への慰労の為に一晩付き合えばそれでいい。日夜、エルケネイの秩序を守り、ロマルの繁栄の一助となる我らの為に、三等臣民と他所者のお前達は奉仕する義務というものがある」
帝国兵の隊長は何度も似たような台詞を口にしてきたのか、淀みなく言い切り、他の帝国兵達にも動揺する者や良心の呵責を感じている者はいないようだった。
この辺りが特に被征服民や亜人種への風当たりが厳しいとは聞いていたが、いくらなんでもひどすぎる言い草と要求だ。
他国の事とはいえ、目の前の者達は数いる帝国兵の中でも、ひと際素行の悪い者達なのだと思いたい。
「お主らには誇りというものがないのか!」
いよいよ我慢が利かなくなったハチが刀を握り、今にも抜く寸前にまでなる。狐少女の方はハチの毛が完全に逆立つのを見て、御者台の兄妹達に降りて荷馬車の後ろに隠れるよう指示を出していた。
帝国兵達にとっては、想定していた通りの展開のようで、犬歯を剥き出しにして唸るハチを前に、数の有利から余裕を持って武器を構え出す。
「ふむ、ちと悠長に歩きすぎたか」
そう私が呟いた矢先に、帝国兵の隊長が右手を上げるのに合わせて、帝国兵達が一斉に武器を構えてハチ達への包囲網を敷き始める。
「殺すなよ。通行料の代わりを徴収するのに、死なれては堪ったものではない」
そう告げる隊長の視線は荷馬車の後ろに隠れ、妹を抱きしめている少年に向けられていた。ああ、帝国では同性愛がそれほど忌避されていないとは聞いていたが、この隊長はその類か。
同性愛を悪いとは言わんが、あの男の場合は愛などない、一方的な欲望に突き動かされているだけの事。あの男がしようとしている事は、まさに唾棄すべき行いとしか言えん。
「かかれ!」
帝国兵達が動きだすのに合わせ、ハチも狐少女もそれぞれ刀と小刀を取り出して、応戦の構えを見せる。
いくら数で勝るとはいえ、相手は武装した獣人二人。帝国兵達は余計な傷を負う事を嫌って、誰も彼もが慎重に、悪く言えば腰の引けた状態でハチ達を囲い込む。
欠片も共感出来んが、帝国兵達からすれば、懐を温める代わりに性欲を発散させようとしているのだから、傷など負いたくはなかろう。
「
「分かっているでござる」
数で劣る時には相手の指揮官を狙って叩き潰す、数の有利を活かせない状況に持ちこむ、あるいはその場から離脱する、などの選択肢が定石だが、犬少女のハチと狐少女の風香は、あの下卑た隊長を叩くのを選んだようだった。
帝国兵達の槍の振り下ろしからの打撃を右に左に、と避けながらハチは刀を振り回して、帝国兵達を牽制しながら、後列へと引っ込んだ隊長を目指して走る。
風香の方はハチの背中を守りながら、周囲に目ざとく視線を飛ばして小刀を振るっている。二人の実力は……普通以上ではあるかな?
「ふん、獣混じりだけあって動きは良いが、お前達が初めての相手ではないぞ」
隊長が口にした通り、彼らが三等臣民や異種族を相手に今回のような行いや戦いをしたのは初めての事ではないようだった。
確かにハチ達の動きは早いが、帝国兵達は慌てずに左手の大盾を構えてハチ達を囲い込む。大盾を構えた前列の後ろには槍と矢を構えた帝国兵達が控えている。
ハチ達が獣人としての身体能力を活かし、大盾を構えた帝国兵達を飛び越えて来た時の備えだろう。
どっしりと構えて待ち受ける陣を取った帝国兵達に、ハチ達の足が鈍くなる。見たところ、ハチは斬鉄が出来るほどの腕前ではないし、獲物の刀もそこまでの名刀ではない。
風香の方も後列の帝国兵達が構える槍や弓を前にして、どう動くべきか判断が着かずに二の足を踏んでいる。
このままではじりじりと迫る帝国兵達に押しつぶされるか、大盾で殴り倒される運命が待ち受けているだけだが、それを防ぐ為に私達が動いている。
ハチと風香達の顔に濃厚な焦りの色が浮かび上がったところで、シャルドと殿下が鞘に収めた長剣を使い、大盾を構えていた帝国兵の列に殴りこんだ。
全く、殿下を諌めないシャルドもシャルドだが、水を得た魚のようにいの一番に殴りかかる殿下も殿下だな。
まあ、この状況を見過ごそうとしなかっただけでも、見どころのある方ではあるのだが。
名称 :八千代 やちよ
職業 :へっぽこ侍
種族 :犬人(柴犬)
名称 :風香 ふうこ
職業 :へなちょこクノイチ
種族 :狐人(赤狐)
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第百七十話
ひとしきりエルケネイのお酒と食事を楽しんだ後、私達はそのまま宿に取った部屋に戻る事になった。
周囲には夜の闇が訪れて、家々の窓から明かりが零れて、帝国でも変わらぬ人々の営みが行われている事を証明している。
私達同様に料理に舌鼓を打ち、酒で咽喉を潤し、馬鹿話や儲け話で騒いでいた者達も、自分達の宿や家に帰り、極一部が夜に適した依頼をこなす為に席を後にしている。
風香は、すっかり酔い潰れた八千代に肩を貸し、長く借りている部屋へと戻る事になった。八千代は千鳥足になり、視線もぐるぐるとあたりを彷徨っている。
酒は好きだが強いわけではないようで、八千代の袴から伸びる巻き尾は上機嫌に揺れているものの、顔のみならず首まで真っ赤に染まっていた。
「いやっはっはっは、こんなにいい気分で美味しいお酒が飲めるとは思っていなかったでごじゃるよ~。どりゃん殿達は、本当に気持ちのうぃい方達でござるのう、ござるのう、ござるのう、うぇっへへっへっへ」
呂律の怪しい八千代の吐息はすっかり苺と酒精の匂いに塗れている。これで明日に響かなければよいが、と思わず心配になってしまう泥酔ぶりだ。
風香の方もそれなりに酒の匂いが鼻につくが、意識ははっきりとしており足取りもしっかりしている。階段で足を滑らせて、八千代ともども大転び、という事態は避けられそうだ。
等間隔に壁に掛けられた蝋燭が頼りの廊下は、そこかしこに薄闇の領土と冷たい空気とがあり、冬の厳しさと夜の訪れを強く主張している。
風香達の部屋は三階にあるようで、二人はそこで足を止めて私達と別れるところだった。
「んもう、ハチはお酒を飲むとすぐにこんな風になっちゃうんでござるからあ。前から分かっていたのに、どうして杯を重ねちゃうでござるかねえ。拙者も止めなかった責任というものはあるけど……」
「りゃってえ、この街に来てから良い事よりも悪い事の方がおーいんでござるもん。どりゃん殿やりおん殿達との出会いはあ、その数少なーい、良い事でござるよう?
ちょっとくりゃい羽目を外したくもなるってもんでござる。それがあ、にんじょーでござじゃるぞ、風の字」
「だからといって節度を忘れて良い事にはならないでござるよ。自分の酒量の限界は知っているのだから、そこはきちんと守って欲しいもんでござる。侍がこんな風に酔い潰れるなど、醜聞もいいところでござるよ」
呆れた声を隠しもせずに出す風香だが、呆れてはいても八千代の事を嫌っているわけでないのは、一目で分かる。なんだかんだで見捨てる事は出来ないのだろう。
もう少し警戒心と実力が高ければ、微笑ましく見守れるのだが、この二人はそこが足りていないから、なにかその内に酷い目に遭ってしまいそうで怖い。
「よいではないか、よいではないか~」
「もう、仕方のない幼馴染でござる。とはいえ、曲がりなりにも嫁入り前のおなごがこれ以上の無様を晒すのは、いくらなんでもひどうござるゆえ、これで失礼するでござるよ。ほら、ハチ、しっかり拙者の肩に掴まるでござる」
よいしょ、と一声掛けて、しっかりと八千代を支え直す風香の手慣れた姿から、この狐少女がこれまでも、そしてこれからも少しばかり苦労する――ただし、笑顔で――事が容易に想像できた。
「私達の方こそ楽しい時間を過ごさせて貰ったよ。八千代と風香に出会えたのは、良い収穫だった。それでは良い夢……は見られそうにはない位に深く酔っているようだから、良い眠りをと言わせてもらおう」
「お気遣い、かたじけないでござる。ハチはしょっちゅう酔い潰れる癖に、二日酔いになる事もなく翌朝にはケロっとした顔でもりもり朝ごはんを食べるから、ちっとも懲りないんでござる。困ったもんでござるよ。
おっと、愚痴っぽくなってしまい申したな。それでは、皆々様、出会いこそ物騒ではありましたが、この出会いが今後も良きものとなるよう祈っているでござる。おやすみなさい」
風香におやすみと返し、私達も四階に取った部屋へと向かう為、再び階段を登り始めた。少し階段を登ったところで、
「ほらハチ、二日酔いはしないとはいえ酒の匂いは鼻につくでござるから、着替え位はするんでござるよ」
「あいあい、分かっているで、ごじゃるよぅ。もう、風香は~某のははうえにでもにゃったつもりでござるかあ?」
「時々、拙者はどうしてここまでハチの面倒を見ているのか、と疑問に思う事はあるでござる。拙者がこれまで、何回、眠ってしまったハチを着替えさせてあげたか、ハチは知らないでござろう?」
「回数は知らないが~、いっつも風香には~~、感謝しているでござるよ~。ほんとのほんとでござるよ~」
酔っている分、余計な虚飾のない八千代の発言は、存外に風香の胸の内にでも響いたのか、少しだけ声が湿っぽくなっていた。
「もう、自分が何を口にしたのか明日になったらすっかり忘れる癖に、そうだから拙者は何時まで経ってもハチの事を見捨てられ……」
「う、ううう、うぷっ……」
「って、え、しんみりしたところで、ちょちょちょっと我慢するでござるよ、ハチ。部屋まで我慢、我慢でござるぅうう!!」
急にドタバタと走り出す足音が聞こえて、私達は揃って嘆息せざるを得なかった。あの二人はどこまでいっても締まらないように、人格が出来上がっているのかもしれない。
まあだからこそあの二人は、とことんまで悪運に恵まれているような気もする。
最悪の事態に見舞われてもどうにかこうにか、最悪の結果だけは回避できる、そんな悪運に恵まれているのだ。
四階にまで辿りついたところで、面白いものを見たと言わんばかりに笑う殿下が率直な感想を口にされた。
「それにしても愉快な二人組だな。遠く伝え聞くサムライやブシというものとは随分と様子が違ったが、少なくとも異国の民である事ははっきりと分かったよ」
私も、前世で最後に戦った七勇者の中には、剣聖だの
まあ、宇宙を斬り裂く規模の斬撃を放てる彼と、斬鉄もままならぬ八千代を比較するのは根本的に間違っているわけだが。
「乗っていた船が嵐で難破し、帝国の南部に漂着してそこから今日まで五体無事に生きて来たという話です。実力の方はいささか首を傾げる点が多いですが、天運はまずありますよ」
「運か。身に付けようと思って身に付けられるものではない、最たるものの一つだな。それを備えているのならば、彼女らは大きく芽吹く可能性を持っているのだろう。ひょっとしたら、後世にまで語られる逸話を残すかもしれないぞ」
少なくとも古神竜の生まれ変わりである私と出会い、窮地を救われたという悪運には恵まれたな。聞いたものが思わず吹き出してしまうような、愉快痛快な逸話を残しそうな二人だが、どうなるものかね。
「さて新しい出会いの感想を口にするのは楽しいが、あまり夜更かしをするのは女性陣の美容によろしくない。私とシャルルは先に部屋に入らせてもらおう」
「では、御婦人方、また明日よろしくな」
ふむん、どうやら殿下とシャルルに気を遣って貰えたらしい。ただでさえ私とセリナ達だけの時間が少なくなっているからな。せめて就寝前だけでも言葉を交わせれば、と気遣ってくれたのだ。
他の宿泊客達の姿はないし、気配も部屋の中にあるだけだな。殿下とシャルルが部屋の中に入るのを待ってから、私はセリナ達と向き合った。ちなみにセリナ達の部屋は、私達の隣である。
「さて、殿下達のお気遣いを無駄にするわけには行かないな。四人共、疲れはないか? ディアドラは苺の料理になにやら執心していたが、興味を惹かれるところがあったのかい?」
もちろんと言うべきか、陽光下で行動していたドラミナを含めて四人の女性達に疲れなどは塵ほども溜まってはいなかった。
なるべく黒薔薇の茨をドレスの内側や髪の中に引っ込めて、人間に見えるよう偽装しているディアドラは、見られていた事に今気付いたといった様子で、少し恥ずかしげに肩を竦める。
「苺と薔薇は人間風に言うと親戚みたいなものなのよ。だから苺に出来て薔薇に出来ない事はない、なんて考えていたの」
苺に対する対抗心という事か。しかし苺に出来て薔薇に出来ない事はない、ね。
先程口にしたばかりの苺料理や苺酒の事を思い返し、それらを黒薔薇に置き換えるのを私ばかりでなく、ディアドラ以外の全員が行っていた事だろう。
黒薔薇のワインに黒薔薇のジャム、黒薔薇を使ったソースや煮込み料理、揚げ料理、蒸し料理などか……う~~む。
ディアドラの事を強く慕っているリネットが、ほんの少しだけ眉根を訝しそうに曲げてディアドラに尋ねる。
「ディアドラ、リネットの知識に間違いがなければなのですが、黒薔薇には猛烈な毒性と幻覚作用、媚薬効果もろもろがあるはずです。その黒薔薇を先程の食料品のように加工するという考えで間違いはないでしょうか?」
味や対費用高価云々もあるが、まずなにより気になったのはリネットの口にした通りの黒薔薇の効能である。
あまりに強力すぎるから、黒薔薇を使用した加工品の作成には厳しい規制が設けられていて、専門の資格も必要なのだ。
ディアドラ自身もそこのところが引っ掛かっていたようで、憂いをたっぷりと含んだ溜息を艶っぽく零す。
「そうなのだけれど、やっぱり効能が問題よねえ。香水の効能の調整はもうすっかり手慣れたものだけれど、他のものに加工するのって初めてだし思った以上に強い効能が出てしまいそうなのよ。
一口食べただけで理性を失うような媚薬のジャムなんて、どう考えても禁制品になる未来しかないわよね。黒薔薇の加工方法じゃなくて、黒薔薇そのものを少し変えて咲かせる方向で頑張った方がまだ芽がありそうだわ」
「リネットが思っていたよりも、ディアドラが黒薔薇の問題点を自覚していて何よりです。ですが黒薔薇を下手に弄るとそれはそれで黒薔薇の魅力的な部分が失われてしまいそうです」
「そこは創意工夫とか試行錯誤とかいう言葉で、今は誤魔化しておきましょう。明日明後日に結果を出さなければいけない話でもないし、気長にやるわ。それじゃ、ドラン、おやすみなさい」
「ではリネットも先に床に就く事に致します。本来ならばマスタードランのお傍を片時も離れるべきではないのですが、それはディアドラもセリナもドラミナも同じ事。今宵はぐっと堪えて隣部屋で我慢いたします」
「ああ、おやすみ、ディアドラ、リネット」
なにかあったら部屋の壁を打ち破って、私達の部屋に突入してくる気満々のリネットに、いや他の三人も同様である事に我ながら愛されているなあ、と少し面映ゆい気持ちになる。
ディアドラとリネットが部屋に入るのにセリナも続こうとしたところで、愛らしく首を傾げながらドラミナに問いかけた。
「私もそろそろおやすみしますけれど、ドラミナさんは如何されますか? ドラミナさんにとっては、陽の落ちたこれからが本当の時間でしょうし」
セリナの言う通り、ドラミナは陽が落ちてからは明らかに雰囲気が変わっていた。姿形が変わったわけではない。
しかし万物を祝福するかの如き太陽の光が地平線の彼方に去った時、血の管が青く透けて見える白い肌は、淡い輝きを放つかの如く艶めき、鮮烈な赤色を湛えた瞳には爛々とした妖しい光が揺らめき出していた。
脈打たぬ心臓を持つバンパイアに活力と言うのはおかしいかもしれないが、月と夜の眷属たる不死者の時間を迎えた事で、ドラミナには活力が満ちていた。
「私は少々外を歩いて回ろうかと思っています。女の独り歩きは危険、などとお止めにならないで下さいね。
夜の闇は地上の何処であろうと等しくとも、そこに何かが住まう時、闇には異なる成分が含まれます。
この流血と憎悪と差別の歴史が積み重ねられた都市の闇に、何が潜み、何が息をし、何が醸造されているのか。それを肌で感じて来ようかと」
ふむ、ドラミナなりにこの都市の在り様には思うところがあるか。この都市の暗部に潜んでいるものは容易に想像が着くが、想像の着く範囲で収まってくれるといいが。
殿下の話ではここら辺の地域では、王国側の影響力はそれほど及んでいない為、先住民の反帝国活動については明るくないのだと言う。そういう意味では、何があるのか分からないのだ。
「そうか。この都市に吹く風と降り注ぐ月光、そしてわだかまる闇は君の味方だ。心配する必要はないと分かってはいるが、無理はしないように」
「ええ、もちろん。ではセリナさん、陽が昇る前には戻って参りますが、私は少々外出して参ります。良い夢を」
ドラミナは柔らかに微笑み、セリナ、私の順で優しく抱擁を交わす。
「はい、どうかお気をつけて。少しでも危ないと思ったら、すぐに戻ってきてくださいね」
「ええ、セリナさんの言う通りにいたします。きっと。それでは明日の朝まで、御機嫌よう」
ドラミナが最後に抱擁を交わした私の身体から離れ、ふっとまるで夏の日の陽炎のようにその姿をかき消す。バンパイアが有する、自分の肉体を霧や霞に変えられる異能を行使しての移動だ。
ドラミナの気配がこの宿屋の屋上に移り、そこからまたすぐに三等臣民の済む市街へと消えて行くのを感じてから、私は視線をセリナに移した。
「ドラミナさん、行っちゃいましたね」
「彼女なりに思うところがあるのだろう。私達の中では唯一玉座に座していた経歴の持ち主だからね」
セリナは寝室の扉を半開きにしたままで、私の方へと体の向きを変えると憂いを含んだ顔立ちになる。
「帝国に来る前と来てから見聞きしたものだけで考えると、私でもこの国が内と外の両方が原因で戦争が起きるんだなって分かっちゃいます。ドランさんも関わる事になりそうですか?」
「対十二翼将用の人員には数えられているかもね。私としてはベルン村を動きたくはないな。北がキナ臭い一件もある。それに私は、争いが好きではないよ」
「う~ん、北に西に東に、ですか。世の中は全て平穏と行かないのが残念で仕方ないです」
「私もセリナ達とのんびりと暮せていければ、それが一番なのだが、そうは行ってくれなくて困る」
「本当にそうですね。でもそうできるよう精一杯頑張る事を怠ってはいけないと思います」
「ふむ、セリナの言う通りだな。自分ひとりだけでなく、セリナ達と一緒だと思うと心強い。とはいっても今はきちんと眠って、体を休める事がまずは大事かな」
「ふふ、そうですね。それではおやすみなさい、ドランさん。流石に今夜はなにかが起きたりはしないですよね」
大丈夫さ、とセリナに答えて、私達はその日、ようやく眠りに就くのだった。
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第百七十一話
殿下の頼みによって、このエルケネイで
元々バンパイアは催眠眼を有し、知的生物の精神を操る異能を持っているが、それにしてもドラミナの情報収集能力は脱帽ものである。
既にこのエルケネイで主に人身売買が行われている場所の見当をつけ、それに関わっている可能性が高い商人や役人達の名簿まで作っていたのだから、これには殿下や私も半ば呆れるほどだった。
そうして私達は三組に分かれてエルケネイ内部の各所に足を向け、私はこうしてある貴族の屋敷の地下に設けられた牢屋を見つけたわけだが……
「先程見たものは忘れるから、君達も私に見られた事は忘れなさい。それが一番心の傷を小さく済ませる方法だろう」
あられもない姿になって転がっていた風香と八千代が閉じ込められていた牢屋の鍵を、掛っていた魔法ごと破壊し、荒縄と首輪を外してあげながら、私は気まずい思いで話しかけていた。
縛を解かれた風香は顔を真っ赤にしたまま、牢屋の片隅で私に背を向けて座り込んで顔を伏せている。
八千代はそんな風香の事が気掛かりで仕方ないらしく、私に小さく礼の言葉を重ねた後、しきりに風香の周りをうろちょろしてはおそるおそる声を掛けている。
大変不謹慎で申し訳ないのだが、どう見ても落ち込んだ仲間を励まそうとしている犬にしか見えない。
「風香~、ドラン殿がああ言っておられる事だし、綺麗さっぱり忘れてしまうに限るでござるよ。
確かに某も同じ真似をしたらと思うと、顔から火が出るような気持ちになるだろうけれど、今はこうしてここに座りっぱなしでいたら、何時また奴隷商共がやってくるか分からんでござる。それに捕らわれている他の方々もお助けせねば」
「ううう、わ、分かっているでござる。ちょっと自分で自分の事を馬鹿馬鹿と嫌悪していただけでござるよう。ど、ドラン殿」
風香は八千代の励ましと、元々自分達の置かれた状況を忘れていたわけではなかった事から、意を決した様子で立ち上がり、赤い顔とピンと張った狐耳としっぽのまま私を振り変えてまっすぐに見つめてくる。
忘れるとは言ったものの、顔を合わせる度に風香にこのような反応をされてしまっては、否応なく思い出してしまいそうだ。申し訳ない事だな、はあ。
私は内心の溜息を押し殺して、わなわなと羞恥で震えている風香に問いかけた。少なくとも風香が勇気を振り絞って私の顔を見ている以上、話題を逸らす事はあまりに誠意に掛けた行いであるだろう。
「なんだい?」
「さささ、先程の事は、拙者もなか、無かった事にするでござるから、こ、これにて御免という事でひとつ、どうかひとつ!」
「元からそのつもりだ。私に異論はない。それで他に捕まっている方達も助けるつもりなのだが、手伝ってもらえるかい?
ここに捕まっていた君達も一緒の方が、助け出しに来たという言葉に信憑性を持たせられるだろうし、その方が安心するだろう」
「も、もちろんでござる! 拙者もハチもついさっきまで、どうにか脱出して捕まっている他の方々を助けねばと二人して悩んでいたんでござるもの」
「そうか。そう言ってもらえると助かる。風香、八千代、牢屋の鍵を壊すのと首輪を外すのは私がするから、皆に事情を説明するのをお願いできるか?」
「お任せ下され! 異論はござらぬな、八の字」
「うむ、取り敢えずはここから脱する事から始めるでござる。脱した後の事は、むむむ、総督府に訴え出ても難しそうでござるから、後回しにするしかなさそうでござるね」
気持ちを切り替えた八千代と風香が手伝ってくれたお陰で、悲嘆と絶望に心を沈めていた方達を牢屋の外に連れ出すのは上手くゆき、少しずつその顔に希望の色が浮かび上がり始めていた。
その中で一人だけ安物のバレッタで黒髪をひっつめにして、真っ赤なドレスを纏った女性だけが、強い光を瞳に秘めて都合良く助けに現れた私に半信半疑の視線を向けているのが印象的だった。
ふむ、取り立てておかしな反応ではないか。むしろこのような状況に陥っているにも拘らず、正常な判断能力をまだ残している事を褒めるべきかな。
「まずは、私達を助けてくれたお礼を言わせてちょうだい。ありがとう。あたしはネッサ」
「ドランだ。私達が勝手にした事だが、助けになれたのならそれに越した事はない。どこか怪我などは?」
「あたしはまだここに入れられてから日が浅いし、抵抗らしい抵抗をする暇もなかったんでね。怪我はしてやいないさ。それであんたは一体どういう人なんだい? ここに来るまでにそこそこの腕っ節やろくでなし共が守っていたと思うんだけどね」
「なに、少しばかり腕に覚えがあってね。それに私以外にも二人の腕利きが一緒に来ている。上に居た連中は全員気を失っている。
ここから助け出してそれで終わりというような、無責任な真似はしないから安心して欲しい。まあ、多少行き当たりばったりなところがあるのが、玉に疵であるかな」
おっと不安を与えるような余計な事を言ってしまったか。
ネッサと名乗った女性はまだ訝しげに私の事を見ていたが、風香と八千代が私に対して多少ぎこちなくはあるが、気を許した態度で接しているのを見て、取り敢えずは信用する事にしてくれたようだった。
「助けてくれた恩人にあんまり失礼な味方をしてちゃ悪いわね。ごめんなさい、仕事だって騙されてここに入れられたもんだから、少し疑い深くなっているのよ」
「いいや、貴女が謝る必要のある事ではない。このような外道働きを働いている連中にこそ全面的な非があるのだから」
「話の分かるイイ男で良かったわ。それで、図々しくって申し訳ないのだけれど、せめてこの子供達だけでも早く親のところに帰してやりたいのよ。ここから脱出する算段はついているの?」
そう言ってネッサは、自分と手を握り、周囲に集まっている幼い子供達の顔を見回し、あるいは頭を撫でて上げる。子供達の瞳に宿るネッサへの信頼の輝きを見るに、なるほど、面倒見の良い女性のようだ。
「ああ、それは大丈夫だと保証しよう。それにここ以外でも二か所だが同じような騒ぎが起きている。状況が発覚したとしても、相手側の判断を遅らせるくらいの事は出来ているからな」
「計画的な犯行ってヤツなのかしら?」
「いや、極めて突発的な犯行だ。さあ、こんな気分の悪くなるだけのところからはさっさとさようならをしよう。人間、やはり陽の当たるところで胸を張って生きて行くのが良い」
「そりゃあ、あたしもそう思うけどねえ。どうにも場にそぐわない発言をするものね」
そうかもしれないな、と私は肩を竦めた。ネッサを含め、捕らわれていた方達を全員解放した後、若干衰弱の兆候が見られた方に特性の栄養剤と回復の魔法を施してから、私達は地下の牢屋を後にして、隠し通路から屋敷の中へと移った。
八千代と風香はやたらと張り切り、斥候として私達よりも進んで敵の存在を警戒していたが、既にこの屋敷の中に私達の敵となる者はいないと説明したのに。
屋敷の一室に隠されていた階段を出て、中を進み何度か角を曲がった先で、八千代達の嬉しげな声が後に続いていた私達に届いた。
「あ、リオン殿にシャルル殿!」
「お二人もドラン殿と一緒でござったか。いやあ、拙者達の失敗をドラン殿だけでなく、お二人にも知られる羽目になっちゃったでござるなあ」
八千代の嬉しげな声に足を速めれば、そこには尻尾を振って喜ぶ八千代と風香の後ろ姿と、武装した殿下と箱をいくつか抱えているシャルドが居た。ふむ、二人の方は証拠集めの為に家捜しをしていた筈だが、成果はあったかな?
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第百七十二話
その日、ロマル帝国の被征服都市であるエルケネイの守備隊の一つを預かる男、イベルテスはひどく荒んでいた。
先日、イベルテスと彼の部下達が都市へと続く街道の傍らで意識を失い、拘束されていた事を総督府で直属の上司に報告したのだが、その報告に関して上司はイベルテスに対してひどい疑いを持っていたのである。
エルケネイに住む三等臣民達からの小遣い稼ぎ等、イベルテスのみならず誰もがしている事だ。
日々、エルケネイの秩序と平穏を守り、征服者たるロマル帝国の威光と異民族達の生存を許す慈悲深さを示す存在たる兵士が、職務規定以外で多少の恩恵に預かったところで何の問題があるだろうか。
ましてや総督府とてこれまで何十年、何百年と認めて来た事なのだ。その事自体では上司もイベルテスへは、大した叱責を加えていない。
精々が上っ面だけを取り繕ったそれらしい言葉を並べ立てただけである。しかし、問題となったのは、イベルテスの報告した何者か達の事がデタラメに過ぎた事だった。
イベルテスは総督府を後にして、普段、自分の守備隊が詰めている詰め所へ戻り、執務室の椅子に乱暴に座ると、力加減を忘れて思いきり机を叩いて、苛立ちをほんのわずかに紛らわせる。
長年に渡って行って来た小遣い稼ぎと、市民達からの『善意の寄付』という名目の恐喝により、溜めこんだ金で揃えた分不相応な調度品に囲まれた部屋の中で、イベルテスの顔は憤怒に歪む。
あの時、『エルケン族の老夫婦を護衛していた赤熊と鹿の屈強な獣人達と、彼らに加勢した幻の種族であるドラゴニアン共』。
彼らがお互いを呼んでいた名前まで正確に報告していると言うのに、そのような者達がエルケネイに出入りした記録は一切ない、と上司に断言されて、昼間から夢でも見ていたのかと侮蔑される羽目に陥ってしまった。
恥辱に震える拳を固く握りしめながら、イベルテスは何としてもあの『ダンガッダ』、『リップス』とか言う愚か者達を何としても捕まえなければ、失点を挽回する事が出来ないと固く復讐を誓っている。
もっともイベルテスを含め彼の部下達全員が、ドランの手によってあの日起きた出来事の記憶を改竄され、デタラメな顔と名前にすり替えられている事など、このまま生涯気付くまい。
イベルテスには男色の趣味はないから、捕らえた連中は一人残らず拷問の地獄に叩き込み、憂さ晴らしの肉袋にするか安価な労働力として懇意の奴隷商に売り払ってやる、と固く誓った。
イベルテスが胸の内で何度も何度も居もしない誰かを責め立てていると、執務室の外から慌ただしい走る音が聞こえてきて、ドアをノックする間もなく勢いよく扉が開かれて、見慣れた部下が飛び込んできた。
「た、隊長!」
「何だ、やかましいぞ! 部屋に入るならノックをしろ。貴様はそれでも誇り高きロマル帝国の兵士か。棒叩きの刑にしてやるぞ!」
イベルテスが本当にしかねない事を、飛び込んできた部下はよく知っていたから、息を切らしたまま大慌てで背筋を正し、握りこぶしを胸の真ん中に当てる敬礼の姿勢を取る。
「は、も、申し訳ありません。ですが、火急の、極めて危険な事態が発生致しました!」
部下がイベルテスの性格を理解しているように、イベルテスもまた部下が自分との付き合い方を知悉している事は分かっている。そんな部下がここまで慌てている以上は、本当に火急の事態が発生している事を理解し、何とか心を落ち着かせて聞く姿勢を整える。
「なんだ、言ってみろ」
イベルテスが、これで大した問題でなかったら、この手で自ら歯を全部引き抜いてやる、と八つ当たりの矛先を部下へと決めた時、部下の口から告げられた内容はイベルテスから苛立ちを失わせるのに十分過ぎた。
「現在、エルケネイ各部にて三等臣民を中心に反乱が発生しました! かねてより存在を噂されていた、エルケン族による反乱組織共と思われます。
奴らは奴隷商達の屋敷を主に襲撃し、数百人以上の奴隷を解放! 奴らに呼応して三等臣民達が、次々と武器を手に詰め所を襲撃しています。二等臣民や一等臣民が総督府に助けを求め、大挙しています。い、一刻も早く出撃せよと総督直々の御命令です!」
「な、反乱、だと!? 馬鹿な、総督府以外にも近隣には帝国の軍がいるのだ。ろくに訓練を受けてもいなければ、武器もない民衆に勝ち目などある筈もない。
三等臣民共め、民族単位で自殺でもする気か! ええい、自殺になんぞ付き合えるか、クソが!!」
*
エルケネイ各所に捕らわれていた人々を解放した後、宿の部屋に戻った私達は事態の変化にどう対応するか話し合っていたのだが、そこに冒険者ギルドに情報収集に向かっていた八千代と風香が慌ただしい様子で戻ってきた。
普段はそれなりに足音を殺して歩く事を心掛けているのに、今回に限っては事態の規模が大きすぎる為か、ドタドタと激しい足音を出している。
「ドラン殿、ドラン殿、ドラン殿、超やべえ、でござるよ! 街の中がもうピリピリピリピリしちゃっていて、あんまりにおっかない雰囲気なもんだから、某のうなじの産毛が逆立っちゃったでござるよ! ほらほら、見て見てでござる」
慌てた様子で扉を開いて入ってきた八千代は、わざわざ私に自分のうなじを見せてまで、どれだけ街中の雰囲気が殺気立っていたのかを説明してくる。
尋常ならざる街中の雰囲気に当てられていたのは八千代だけではなく、風香も豊かな尻尾の毛をぶわっと大きく広げたまま、自分達の見聞きしてきたものを語り始める。
「ハチの言う通りでござる。多くの市民はおっかながって家の中に引き籠っているでござるが、これまでの帝国からの扱いに不満を抱いていた人々が武器を持って、徒党を組んでいる様子。
ドラン殿達が拙者達をお救い下さった後に、これまでこの都市で反逆の機会を伺っていた方々が一斉に蜂起したと見て間違いないでござるよ」
わんわん、きゃんきゃんとひっきりなしに吠え立ててくる両名の話を要約すると、以上のようになる。ふうむ、宿の外はいっそ静かな位だが、やはり起きるところでは喧騒が起きているか。
私や殿下、シャルド、ドラミナからすれば近い内に起きると予想していた事が、運悪く今起きた、という認識で不安や焦りの類はない。
だが悪魔やらなんやらとは戦い慣れて怯える事はなくなったセリナは、今回のような事態の経験はない事から不安そうな顔色を浮かべている。
ディアドラは変わらず悠然とそして艶やかな雰囲気のままで、リネットはどんな状況だろうと私のゴーレムとして振る舞うのみと決めているようで、いつもと変わらない。
一番慌てているのは、やはりと言うべきか、八千代と風香なのである。
セリナが部屋に備え付けてある水差しの中身を木製のコップに注ぎ、八千代と風香に手渡してあげた。
「八千代さん、風香さん、取り敢えずお水を飲んで息を落ち着けてください」
「んん、これはかたじけない、セリナ殿」
「助かったでござるよ。咽喉が渇いてヒリヒリしていたでござるもの」
セリナからコップを受け取るや否や、二人は息継ぎをせずに一気に飲み干して、プハアっと大きく息を吐きだす。二人が呼吸と精神を落ち着けるのを待ってから、私達は丸テーブルの上に広げられたこの辺りの地図に目を落とした。
このエルケネイを中心として、四方へと伸びる街道とその先にある大きな都市や小さな村などが記された地図である。
人身売買の被害者達を助ける、という目的は達成できたものの、よもやエルケネイ全域でロマル帝国への反旗が翻されたこの状況で、さて私達はどのような活動方針を掲げるべきか。
口火を切ったのは殿下だった。
アークレスト王国はこのエルケネイの辺りにはさほど干渉していないと言う話だが、情報収集の為の間諜位は派遣していて、八千代達が戻ってくる前にその間諜からいくばくかの情報を得ていた。
「今回の蜂起が突発的なものだったのか、それとも計画的なものだったのか。同時に奴隷商の屋敷を襲って救出した手際の良さに、都市内部の兵士達の連携を断つ動きから、後者と考えるべきだろう」
「ふむ、後者だとするならこの後の勝ちの目も考えた上での行動ですかね。単に民族の恨みを晴らすだけの行動だったなら、この後は目も当てられない惨状を迎える他ありませんが、そうでない事を祈りたい気分です」
もしここで反乱軍が帝国に敗れたとしたならば、反乱に加担した人々は親族に至るまで容赦なく処刑されてもおかしくはないし、その次の世代、そのまた次の世代に至るまでより一層厳しい生活を強いられてしまうだろう。
平民としての価値観が染みついている私としては、心情的に反乱軍に肩入れしてしまうが、さりとて今の私はアークレスト王国民。このロマル帝国で起きた事変に介入する事は、あまり褒められたものではないだろう。
殿下は顎に左手を添えて考える素振りを見せてから、八千代と風香に問いかける。
「八千代、風香、君達以外の冒険者達の様子はどうだった? ギルドから何か通達は出ていなかったか?」
「んと、ギルドからは今いる面子に対して反乱軍への協力要請が出ていたでござるよ!
某達の所属しているギルドは三等臣民とか他所者の集まりでござるから、反乱軍に加担するのは当然っちゃ当然でござる。
ただ某達は最近ここにやって来たばかりの新参者故、お目零しして貰った感じでござるね。ほとんどの者達は依頼を受けたけれど、まだ保留にしている者もいるでござる」
ふむ、重要な情報だと思うのだが、聞かれる前に教えてくれると嬉しかったな。
八千代は素直に殿下の質問に答えるだけだったが、風香は殿下の意図に気付いた様子で返答を重ねる。
「帝国側に加担するだろうと思われる冒険者や傭兵で名の知れた者達は、各ギルドから名指しの依頼が来て、外に出払っているでござるよ。最近、いやに多いなとは思っていたでござるが、思えばこの日に備えての事だったやも」
なるほど、ギルドとも連携した上での蜂起か。となると、このエルケネイでの戦いを終えた後の事も見据えた上での事だろう。反乱軍の首魁かその補佐役には先を見られる人物がいるようだ。
殿下がおもむろにエルケネイの周囲にある主だった都市を一つずつ指さし、自分の中の考えを口にし始める。
「このエルケネイをはじめとして、南部には反帝国の気風が満ちている。ここから西のアバルザゴも南のユユネッキも、何時か帝国の支配からの脱出を狙っている都市だ。
そんな彼らの懸念は各々の都市に駐留している以外の、周辺の帝国軍と本国からの増援だ。それを防ぐ手立ての一つはお互いに連携して蜂起を起し、自分達のところで手一杯にさせる事」
「なるほど、リオンは蜂起がこのエルケネイだけではなく周辺都市にも、あるいは南部全体にも及んでいるとお考えで?」
私の問いかけに殿下は重々しく頷き返される。殿下なりに反乱軍側の立場になって、今回の蜂起を成功させるにはどうすればよいか、と考えているのだろう。
「この辺りは大公の勢力下だ。反帝国の声が上げられたとしても、皇女にはそこまでの痛手とはならない。むしろもっと盛大に蜂起を起して欲しいところだろう。
彼女が蜂起を支援するなり扇動するなりしていたとしても、私は何も驚きはしない。私なら南部の自治を報酬に、大公との戦いに於いては味方か中立となるよう働きかけるくらいはするさ。
私でもこの程度の事は考えつくのだから、あの皇女ならもっと広い視点で時勢の流れを見ている」
「となると帝国は、各都市の蜂起を現地の戦力で鎮圧しなければならないわけですね。
こういっては何ですが王国への脱出を狙う私達にとっては、帝国国内の混乱は好機と言えます。それで、私達はどうしますか? あるいはどうなされたいのか? と問いましょう」
ある意味、これからの私達の行動の責任を全て殿下に丸投げする発言だが、殿下は特に動じた様子もなく答えた。両肩に掛る責任の重さに耐える覚悟はもう固めているか。
「捕まっている人々のその後を反乱軍に任せられるようになったのはよかったが、今度は都市単位で放っておくわけにはいかなくなった状況になってしまったな。
はっきり言ってしまえば、今はまだ帝国が混乱する分には歓迎と言える状態だ。この反乱には成功して貰いたいのが本音だよ。表立っては協力できないが、裏からこそこそと手伝う分には構うまい」
「本当に構わないのですか?」
私が一応確認をと思って言えば、殿下は重ねて尋ねてくれるなよ、と言わんばかりの困った顔で笑う。まだ敵対関係にない隣国の王子が、他国の反乱に助力しているのは大問題以外のなんなのかという話だわな。
「構わない事にしておこう。本来ならもうエルケネイから離れている筈だったが、ここまで来てしまった以上はもう少しだけ関わろう」
「極力反乱軍の参加者に顔や名前を記憶されないように活動するしかないわけですが、難しい注文をされるものです」
「我ながら難しい注文をしているとは思うよ。ところで、八千代や風香にもつい聞かせてしまったが、君達自身はこれからどうするのだね? 反乱に加担するつもりも帝国に与するつもりもないように見えるが?」
八千代達はまだ殿下の本当の名前と立場を知っているわけではないし、アークレスト王国側の人間と明言しているわけでもない。
あの帝国の兵士達のように、記憶を弄る必要があるほどの情報は漏らしていない。それにこの能天気なところのある二人は、今、自分達がかなり際どいところにいる事への自覚がなさそうだ。
「某達は元々ここから離れる予定でござったから、ささっと居なくなるのに変わりはないでござる。縁を結んだ相手がいないわけではないけれど、そもそも渡来の民たる某達が関わるのはなんというか、場違い感が凄いし……」
「ハチの言う通りでござるね。リオン殿が口にされたように周辺の諸勢力が連合して帝国と戦うにしても、戦に関わるなんて真っ平ごめんでござる。それで、ハチとも話したんでござるが……」
「いや、風の字。ここは某からお伝えするでござるよ。こほん、ドラン殿、リオン殿、実は某ら二人、揃ってお願いがござりもうす」
はて、この二人にしては何やら思い詰めた様子だが、私達にそこまでして頼みこむような事があるのだろうか。二人は私達が見ている前で床に両方の膝と手を着き深々と頭を下げるではないか。
「某と風香も一緒にエルケネイの外に連れて行って下され!」
「下され、でござる!」
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第百七十三話
エルケネイの住民達に囲まれたイベルテス達帝国兵の上げる悲鳴を背に、ドラン達が反乱の起きた都市を後にしていた頃の事、ガロアで別れた級友達は迫り来る別れの時を前に何時もと変わらぬ、けれど少しだけ寂しげな時間を過ごしていた。
授業もほとんど消化しきり、時間を持て余す事の多くなっていたファティマ達は夏の頃からそうしていたように、郊外の草原に出てのんびりピクニック気分で出かけていた。
冬真っ盛りの時期ではあったが、魔法に明るい彼女らにとっては季節ごとの寒暖の違いは大した問題ではなかった。暑ければネルネシアの操る冷気で涼めば良いし、寒ければフェニアの操る熱気で暖を取れば良いのだから。
魔法学院の中に残っていては同級生や下級生達からの視線があったし、今の彼女達は自分達だけの時間をなるべく多く共有していたい心境だったのである。
「ネルちゃん、ずっと私にくっついているだけで良いの~?」
ファティマは毛皮の敷布の上に座ってのんびり日向ぼっこをしているのだが、そのファティマをネルネシアが後ろから抱き締めるようにして座っている。
ファティマはお腹に回されたネルネシアの手に自分の手を重ね、自分の頭の上に顎を乗せているネルネシアに問いかけたのだが、ネルネシアはぽやっとした顔のまま、いつもの調子で答える。
いや、ファティマやドランほど親しく深い仲ならば、ネルネシアの声の中にほんの少しだけ悲しむ響きが含まれているのを聞き逃さないだろう。
「ん、ファティマはこうしているのはいや?」
「ん~ん、嫌じゃないよ~。でもぉ、ネルちゃんはドランと模擬戦漬けの日々を送るって言っていたしぃ、このままぽやっとしているのでいいのかなあって」
「ドランとなら模擬戦漬けをするのが、私にとって最良最高の友好の深め方。でも、ファティマとならこうしているのが一番」
そう言うとネルネシアはファティマのお腹に回した手に、少しだけ力を込めて小さな親友の身体を抱き寄せる。
重ね着した服越しにファティマの身体の柔らかさとぬくもりが伝わって、ネルネシアは少しだけ目尻を下げて全身から力を抜く。これ以上ない位の心地良さを感じて、常在戦場を両親から骨身に叩き込まれたネルネシアにしては珍しい、無防備な姿である。
「お~、ネルちゃんの言う通りだあ。ネルちゃんと私ならこうしているのが一番だね~」
「ん」
ファティマは一番の親友と心の通っていた事が嬉しくて、いつもよりキラキラと輝く笑みを浮かべてネルネシアに背中を預ける。何とも微笑ましい二人である。
少しだけ離れた所に座っているシエラは、主人とその親友の姿に抑えようとしても抑えきれない微笑みをついつい浮かべている。
半人間半吸血鬼に変えられ、家族を殺させられて、復讐を果たす事も出来ずに朽ちる事を選んだ心は、ファティマという仮初の主のお陰で今や生きる事を望むようになっている。
シエラは自分がファティマに命以上の物を救われたと思っている。シエラの考える命以上の物、すなわち魂を。だからシエラは自分の全てをファティマの為に使おう、捧げようと決めていた。
そう考える事を、ファティマが決して望まない事も分かっているし、自分がファティマに強く依存してしまっている事も理解していたが、そこはそれ、ファティマの責任と言う事にしておこう、とシエラは理論武装している。
いずれにせよシエラにとって、一緒にいるだけでファティマが幸せそうに、いや、幸せになるネルネシアと言う親友の少女は、宝にも等しい存在だった。
ファティマとネルネシアが微笑ましいという言葉の体現者としか見えない光景を見ていると、ついついシエラの鼻の奥から真っ赤な液体が溢れ出しそうになるが、シエラは意思の力で必死にそれを抑え込んでいた。
日除けのフードを被っている事もあって、シエラの表情は見えにくくなっていたが、ついつい口角がつり上がりそうになっているのを、ファティマもネルネシアも気付いていないのは、シエラにとってまことに幸いである。
ファティマ達にこちらを振りかえられては、なけなしの威厳やら体面が木っ端微塵になってしまう事を自覚していたシエラは、ファティマ達の意識を他所へ向けようと少し先で行われている異常な光景の方に話を振った。
「ファティマとネルネシアがそうするのが一番なら、あの二人にとってはあれが一番?」
冬の寒風と花々の数が少なく寂しげなのを除けば、何時もと変わらぬ草原の一角なのだが、そこだけはドランの貸しだしたバリアゴーレムと結界発生装置が囲い込み、周辺へ影響が生じないようにと厳重に封鎖されていた。
もしそうしていなければ一帯が天まで貫くような炎の柱に大気を焦がされ、溢れた炎によって大地は赤々と燃え、更には底が見えぬほど深い亀裂が刻まれていた事だろう。
容姿も性格も正反対の二人がシエラの言葉につられて向けた視線の先には、炎の翼を広げて火炎地獄を作りだしているフェニアと、魔剣エルスパーダと対古神竜用決戦兵器ドラッドノートを両手に携えたクリスティーナとが、十歩の距離を置いて対峙していた。
「一に気合、二に気合、三、四が熱意で五が根性! インフェルノダーーイブですわ!!」
いつも通りのフェニアのいつも通りに気合の籠った個性的極まりない詠唱が終わるのと同時に、赤々と燃える炎の巨大な塊が頭上へ孤を描いてからクリスティーナへと降り注ぐ。
「ひょっとして詠唱なのか、それ!?」
クリスティーナは、フェニアがある程度は詠唱を必要としない体質である事を理解していたが、あんまりと言えばあんまりな詠唱につい声を上げられずにはいられなかった。
フェニアの個性を全開にした唯一無二の奇天烈な詠唱は、クリスティーナ自身何度も耳にしてきたが、それでもつい口を挟まずにはいられない破壊力がある。
「いやですわ、クリスティーナさん。私らしい私的な私ならでは私だからこそ! の詠唱じゃございませんこと。お~ほほほほ」
「それはそうだ、が!」
愛用の扇子で口元を隠しつつ笑うフェニアに、本当に会った時から変わらないなとクリスティーナは微笑を零しながら、降り注いできたインフェルノダイブをエルスパーダの一閃で真っ二つに切り裂く。
摂氏四千四百四十四度の炎の塊もクリスティーナの技量とエルスパーダにかかれば、単なる空気の塊のように呆気ない。切り裂かれた炎の塊はそのまま無数の火の粉に変わり、即座にクリスティーナの持つ神通力によって無害な粒子状の魔力へと変換される。
例え迎撃したとしても至近であっては、インフェルノダイブが発する高熱によって被害を受けざるを得ないのだが、神域に通ずる霊格を備えたクリスティーナならば対処は難しくない。
「流石はクリスティーナさん、日ごとに腕を上げておられる様子。これならば卒業された後でベルン村に赴かれても、北の悪鬼共に後れを取る事はないでしょう」
クリスティーナはフェニアの口から思わぬ言葉が零れ出た事に、おや、と眉を寄せる。
今日はやけに情熱的な模擬戦を挑んで来るな、とは思っていたのだがこのような真意を抱えていたとは、我ながら好かれたものだとクリスティーナは喜んでいる自分を認めた。
卒業して正式にベルン男爵となったら、今のように気軽に模擬戦をする事も、言葉を交わす事も出来なくなるわけで、そう考えると確かに寂しさは禁じ得ない。
「おや、心配してくれていたのか。なに、ドランが一緒に来てくれるし、ドランが一緒ならセリナだろう、ディアドラさんだろう、ドラミナさんだろう、リネットも来てくれるからね。
これだけの豪華な面子が揃っていれば、およそ武力関係ならば何も心配はいらないさ。それよりも私は書類仕事や社交界での振る舞いの方がよっぽど恐ろしいよ」
見栄や嘘のないクリスティーナの本音である。それを耳にしたフェニアは呆れを交えた笑みを浮かべ、やれやれと言わんばかりに溜息を吐く。フェニアの知っているクリスティーナらしい発言である。
きっとクリスティーナならば、社交界の荒波に揉まれようともこの性格のまま変わる事はないだろう。ましてや、その傍にあのドランが一緒ならば尚更だ。
これからのアークレスト王国はこの二人を中心とした嵐に翻弄される、とフェニアは確信している。それはフェニアだけでなくファティアやネルネシアも同じだろう。
「んまあ、なんてクリスティーナさんらしい言い草でしょう。ベルン村は王国最北端といえども隣近所とのお付き合いがないわけではありませんわ。
クリスティーナさんが思っている以上に時間を取られるものですわよ。今からそれではついつい肩を竦めてしまいます。ほら、こんな風に」
そんな動作も優雅なのは、持って生まれた華と幼少の頃からの行き届いた躾、そして今日まで受け継がれてきた血と歴史があるからこそ。フェニアと言う少女は、真に貴族と呼ぶべき像の一つそのものであった。
多少、笑い声がアレだったり、精神論が行き過ぎたりするところはあるが。
「なに、否応なく訪れる未来への覚悟は固めているし、そうするだけの価値のある事だと心から思っているさ。でも自分の苦手な事に対して少し構えて、友達に愚痴を零すぐらいは許して欲しいな」
「おほほ、クリスティーナさんにはっきり友達と言っていただけるとは、これまでクリスティーナさんに構い通した甲斐があったというものですわ。
さてそれはそれとして、クリスティーナさんの出自とドランさんを含めて行って来た実績を考えれば、多少土地が離れていても縁を結びたいと誰しも思うもの。覚悟はいくらカッチンコッチンに固めておいても、損はありませんわ」
フェニアは心からの忠告と共に、足を介して大地に伝播させていた熱量を一気に引き上げた。見る間にクリスティーナを中心として足元の大地がグツグツと煮え滾り始め、只でさえ上昇していた気温が更に上がる。
クリスティーナが足元に生じた脅威を察知するのと、左手に握るドラッドノートから警告が発せられるのはほぼ同時であった。
『足元に急激な気温上昇を感知。フェニアによる火属性魔法の強襲に注意を』
「お喋りしながら不意打ちの~
ゴボッとドロドロに溶けた大地の弾ける音を、クリスティーナの耳が拾うよりも早く、ドラッドノートの切っ先が融解し始めた大地へと突き刺さる。
「ドラッドノート!」
『オーダーを受諾。ドライブ』
クリスティーナにだけ聞こえるドラッドノートの返答と同時に、クリスティーナを真っ白い蒸気が包み込み、それには何が含まれていたものか、フェニアの視覚や熱感知、魔力感知能力や気配察知の全てが遮られて、蒸気の中の状態を把握できなくなる。
「クリスティーナさんったらこんな芸当までお出来になるとは、男子三日会わざればなんとやらと東国では申しますが、女子一日会わざれば花満開満開大満開と申し上げる他あーりませんわ!」
フェニアの知覚能力を尽く遮った蒸気は、突如としてある一点に渦を巻いて吸い込まれ始めた。
風呂桶の底を抜いたように急激に蒸気が吸い込まれた事で、フェニアはクリスティーナの状況を視認出来たわけだが、予想だにしなかった光景にさしものフェニアも思いきり片方の眉を跳ねてんん? と唸ってしまう。
蒸気を吸いこんでいたのは、口を一杯に開いた十歳かそこらの可愛らしい顔立ちの少年であった。
青と黒二色のジャケットに、白い簡素な意匠のハーフパンツという出で立ちで、薄桃色の長髪と黄金の瞳が実に華やかな印象を与える。
見覚えのない少年にフェニアの心中には疑問符がいくつも生じたが、これがまだクリスティーナとの模擬戦の最中である事から、それらを行動の遅延に繋げる事はしなかった。
「クリスティーナ、脅威の排除を終了」
「御苦労。では反撃と行くぞ、ドラッドノート!」
「イエス、マイマスター!」
クリスティーナの掛け声に応じ、いたいけな少年の姿を取ったドラッドノートは同時にフェニアへと駆け出す。人間の規格を越えたクリスティーナに劣らぬ速度を叩きだしたのは、流石に超古代文明の最高傑作たる超兵器故か。
一方でフェニアは、クリスティーナが少年の事をドラッドノートと呼んだ事だけで、おおよそこの状況が何なのかを理解していた。例え予想もしていなかった事態に直面しようと、思考を停止させず柔軟に受け入れる柔らかさは、間違いなくフェニアの長所である。
「思わずクリスティーナさんに他人様には広言できないアレやコレやな趣味が、とイケナイ妄想をしてしまうところでしたわ!」
フェニアが迎撃の為に発した、横殴りの雨ならぬ横殴りの火炎弾を避けるのではなく、正面から斬り伏せながら突き進むクリスティーナが、心底から心外だと言い返す。
「とんだ風評被害だな!」
「肯定します。私は本来、剣たる者。この姿はあくまで仮初のものに過ぎず、大した意味を持ってはいないのだから」
これはドラッドノートのいうとおりである。かつてクリスティーナの意識に干渉した時に、ドラッドノートは少女の姿を取っていたが、そちらもこちらの少年としての姿もドラッドノートが自由に取れる姿に過ぎない。
厳密に性別が定められているわけではないのだ。
「あら、そういう事でしたら尚更クリスティーナさんの趣味が反映されている可能性がマシマシ疑惑なのでは? あら、あらあらあら!?」
「…………」
「ドラッドノート! そこで黙られるとますます怪しまれると思うんだが!?」
「戦闘行動を再開します」
「疑いをそのままにしてくれないでくれるかな!」
かつてドラッドノートは己の全てをクリスティーナに捧げると誓った筈なのだが、このやり取りを聞く限りに於いては、どうもその誓いが本当であったかどうか怪しいものだ。
もっともクリスティーナがドラッドノートに気楽な対応を求めた結果が行き過ぎて、こうなってしまった可能性も十分にある。
クリスティーナとドラッドノートの愉快なやり取りと、勘違いしつつも二人との模擬戦を楽しむフェニア達の様子を見て、ファティマは先程のシエラの問いに絶対の自信を持って答えた。
「うん! あの二人にとってはあのやり取りが仲良しさんの証拠の一つだよ~。クリスティーナ先輩は男爵様になって、新しい家を興すみたいだし~会う機会が減っちゃうから、フェニア先輩なりにお別れを惜しんでいるんじゃないかな?」
「あれほど物騒な別れの惜しみ方はそうそうないでしょうね」
半吸血鬼となり、純粋な人間だった頃とは比較にならない頑健かつ再生能力を得たシエラだが、その肉体をもってしてもあの二人の模擬戦に割って入ろうとは欠片も思わない。瞬時に蒸発させられるのがオチだろう。
つくづく人間の中の規格外と知り合ったものだと思う。もっとも今はここにいないドランは、更に頭が幾つも抜けた規格外という言葉からも外れた怪物だが。
シエラが我が身の人生の流転についてしみじみと感慨に耽っていると、相変わらずネルネシアに背中を預けているまま、ファティマがまた違う方向に視線を向けて口を開く。
「んん~でも、ドランが居ないから荒れるかと思ったレニーアちゃんが、結構そうでもないのはよかったねえ。でもどうしてあの人にあんなに優しいんだろう? ネルちゃん、何か知ってる~?」
「ん、知らない。あの人は初めて見る。レニーアは相当親しいみたいだけれど、私の見た限りは、ドランの次に心を許しているように見える」
ドランは結局分身体をガロアに置いて行く事はしなかった。その事でレニーアが相当に荒むだろう、と誰もが予想していたが、思いもかけぬ形でその予想は裏切られている。
レニーアもこの場に同席していたのだが、クリスティーナやファティマ達にはまったく構う事はなく、ファティマ達に背を向ける形で敷布に腰かけて、とある女性を慰める事に終始しているのだ。
レニーアは自分の膝に顔を埋めて咽び泣いているその女性に、慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、女性の黄金の髪を赤子をあやすように撫でている。
実年齢よりも幼い容姿をしているレニーアと比べると、慰められている女性は一周り年上の妙齢の女性で、血の気が引くほどに深い青いドレスに豊満な体を無理やり押し込めている。
どれほど厳しく自らを律する聖職者や人格者でも、淫らな想像に一晩中取りつかれるほどの色香を自然と纏っているのだが、その泣き声は身体つきとはまるで正反対だ。
「うええええんん、びえええええ、ううう、う、うえうう、うぉぼぼおべええええ」
誰もが美しい女性を連想する声なのに、残念としか言いようのない泣き声である。おまけに後半に至ってはえずき出す始末。
そんなどうしようもない女性に対して、レニーアの見せる母性はまったく陰るところがない。むしろ、そのどうしようもなさが、レニーアの中に眠っていた母性をより強く発露させているようだ。
「どうなさったのですか。原初の混沌より生じた偉大なる最古の女神の一柱たる貴女様が、このように嘆き悲しまれるなど、滅多にある事ではございますまい」
決してファティマ達の耳には届かないように、レニーアが女性に囁きかけたその言葉の内容を吟味すれば、泣き叫ぶ女性の正体は自ずと分かる。
ましてやあの女神以外にレニーアがこのような態度を取る存在など、まず存在しない。
レニーアの膝に埋めていた、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた褐色の顔を上げて、女性――カラヴィスはレニーアに事情を話し始めた
「ウッキウキドッキドキハラハラワクワクの気分でねえ、地上に降りたらだよぉ……ドラちゃんがいながったのお!
じがもこれまでとちがって、ぼくにぼくにみづがらないように、なんが、ずっごぐ念いりに隠蔽までじでるのおおお~~~。びええええ、うぉえ、おおおえええ」
カラヴィスはここまで告げてから再びレニーアの膝に顔面を埋めて、レニーアのスカートの生地をぐしょぐしょに濡らす作業を再開する。
「そのような事になっていたとは。このレニーアも、お父様にしばらく連絡を取る事を止められておりますが、カラヴィス様までそうだとは。このレニーア、心より心中お察し申し上げます」
「ううう、レニーアぢゃんがぞう言ってくれるだけで、ぼくにはなによりの慰めだよおおお~~。でもドラぢゃんに拒絶されたかもしんない悲しみを紛らわぜるのに、もう少し膝を貸しじで~~~~!!」
ドランからすると、今回は他国に足を伸ばすのだし、カラヴィスの気まぐれな襲来があると困るな、程度の気持ちだったのだが、カラヴィスはそうではなかったようだ。
だがレニーアはただただ、このどうしようもない失点ばかりを重ねる創造主の事が、堪らなく愛おしいのだった。
自分がいなければ駄目だと強く思うのである。まさに駄目男に寄生される女性の心理そのものに陥っている。
「はい、私などの膝でよろしければ時の果つるまで、どうぞお使いください」
しかし、カラヴィスがこうしてレニーアに泣きついているのも、まったく益がないわけではない。
少なくともカラヴィスがレニーアに泣きついている間、レニーアはドランが不在である事の
考えようによっては、カラヴィスの醜態が役に立っていると言えなくもない状況が、ガロアに出来上がっているのだった。
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第百七十四話
「な、あ、ちょ、ええええーー!!」
木々の壁の向こうから昇り立ち、青い空へと吸い込まれて行く黒煙を前に、八千代と風香の二人は揃って驚きの声を上げる。
つい先ほど山中を揺るがした爆発音にも負けず劣らずの声量が、二人の心中に生じた驚きの大きさを表している。
しかし八千代と風香が、あんぐりと口を開き、更には目を点にして意識を奪われていたのは一瞬の間だけだった。
すぐさま二人はアムリアに迫っているかもしれない危機を想像したのだろう。
牙を剥くだけに留まらず、咽喉の奥から低い唸り声を発しながら、尻尾の毛をボンと爆発させる。
アムリアという女性が、遠く故国を離れて苦難の道筋を余儀なくされた二人にとって、どれだけ大切な存在であるものか、二人は私達の事など眼中にない様子で走りだそうとしている。
「八千代、風香、『待て』」
この二人だけを先行させるのは果てしのない不安とろくでもない結果しか想像できず、私はいくらか力を込めた声で二人を制した。
二人は足を杭で地面に縫い付けられたように動きを止めて、自分達の身体に何が起きたのか理解できない様子で私を振り返る。
この瞬間、二人の精神と肉体はこれ以上ないほど意見を
「え、でで、でも、ドラン殿! アムリア殿が、アムリア殿が……」
動いてくれない足を懸命に動かそうとしている八千代は、半泣きになりながら私へ必死に訴えかけて来る。
明らかに危険が待っていると分かる場所へ、我が身を省みずに飛び込もうとし、今また懸命に足掻く姿を見ていると胸の奥へと訴えかけて来るものがあった。
八千代と風香がそろってこうなものだから、どうしても放っておけなくなってしまう。まったく、ある意味ではこの二人は大した人たらしだよ。
「二人が全速力で走るよりも、行けるところまで馬車で行ってからの方が速い。それに私達も手助けをしよう。リオン、構いませんか?」
馬車の中でリオンもとい殿下やセリナ達が、私達の話と向かう先で発生した爆発音を耳にしていたのは、確認するまでもない事だ。
馬車側の窓が開き、殿下が顔を覗かせると神妙な顔つきで頷き返す。エルケネイであれだけ余計なお節介を焼いた方だ。今回の事も見過ごしはしないわな。
「ああ。私の方に異論はない。それに今回の事は少なからず帝国の上層部にも関わりのありそうな事だからな。エルケネイ同様首を突っ込んで、何が出るか試すとしよう」
「ふむ、予想通りの答えですな。いささか危険な場に進んで首を突っ込み過ぎている、と一応苦言を呈しておきますよ」
「周りがあまりに頼もし過ぎてね。危機意識が緩んでしまっているのだろう。迷惑をかけて済まない」
「頼もし過ぎて、ですか。褒められていると受け取れば良いのやら。さて、八千代、風香、こういうわけで私達も君の友達を助けるのに力を貸す。さあ、時間が惜しい。急いで馬車に戻ってくれ」
「か、かたじけないでござる、かたじけないでござる、恩に着るでござる!」
「ドラン殿、リオン殿、皆々様、この風香、ハチ共々心の底からお礼を申し上げるでござるよ」
「お礼の言葉はそのアムリアという女性を助け出せてからにしよう。爆発音は絶えたか。さて、城門でもぶち破るのに使ったきりか、それとももう使う必要が無くなったのか。前者であればよいが……」
竜眼に変えた私の目は八千代達が向かおうとしていた矢先の隠し通路とやらの辺りには、まだ何者の影も形も見えなかったが爆発音の音源と思しき場所には、確かに八千代達の言った通りに木々に埋もれるようにして城館が聳えている。
そしてその城館を完全武装した兵士や魔法使い達が取り囲み、それに対して応戦している城館側の兵士達の数は少ない。既に内部に侵入されていてもおかしくはない、差し迫った状況だ。
アムリアとはここまでするだけの価値と意味のある女性なのだと、その光景が何よりも如実に証明しているが、私の行くところはどうして何時も『こう』なのかね。
私の内心はそれとして、事情を察してくれていたスレイプニル達は八千代と風香の導きに従い、木々の乱立する山中の獣道を怯む素振りを見せずに疾駆し、あまりの速さに八千代達がひええ、と怯えた声を出していたのは聞かなかった事にしておこう。
「ひえええ、うお、うお、うひぇえええ!!」
八千代と風香は御者台に上がって私の左右に腰かけているのだが、八千代はスレイプニル達の本気の速度に先程から叫ぶばかりで、風香は風香で顔色を青くしながら必死に私の腕にしがみついている。
「速、はっや、速いでござるよ、ドラン殿!?」
「これが彼らの本気だよ。速い分には問題あるまい。アムリアを連れて逃げる時も、追手を撒くのに都合がよかろう」
「いや、それはそうでござるけれども、これじゃ乗れてもアムリア殿が酔っちゃうでごじゃ、痛い! 舌噛んじゃったでござる!」
風香は狐耳をペタンと倒して、涙目になりながら私へ噛んでしまった舌を見せて来る。
ああもう、魔法のお陰で馬車自体は揺れていないし慣性などからも保護されるが、疾走中の馬車の上で迂闊な真似をするなあ、この狐娘さんは。
また舌を噛んでしまう前に、チロリと扇情的に唇から出している舌を戻すように言わないと。
「走らせている途中で迂闊に喋るからだよ。また噛んでしまわないうちに口の中に戻しなさい」
「ぎゃーわーひやああ!!」
そして八千代は先程から叫んでばかりだ。叫ぶだけの元気があるという証拠ではあるが、スレイプニル達の速度が予想よりも上過ぎたのだろう。にしても耳元で叫ばれてはうるさい事この上ない。
二人が御者台に腰かけた為、私の後ろに移動したリネットは心なしか二人に対して呆れた視線を向けている。
城館に近づけば近づくほどに爆発音以外の音が聞こえ始め、人間の足が踏み込まぬ筈の山が戦禍の最中にある事を証明している。
スレイプニル達と馬車が入り込める限界まで進んだ場所は、山中に切り立った崖の下であった。
足を滑らせたらまず命はないと誰もが保証する高さの崖の周囲に木々の影は少なく、そこからは自分達の足で城館の隠し通路を目指す段となる。
一旦、全員で馬車を降りて城館に向かってアムリアを救出する組とこちらに残って退路を確保する組とに人員の振り分けを行う。
襲撃を受けている城館から一人の女性を救い出す、という状況を考えると救出組は少人数となるか。
「リオンとシャルドには、こちらに残って貰うのはまず決定ですね」
二人の素性を考えれば、そもそもアムリアを助けに行くという選択肢を選ぶ事自体に問題があるのだが、今更に過ぎる。
八千代と風香達には、まだ殿下達の素性は伝えていないがアムリアも含めて明らかに訳ありの雰囲気を察して、八千代達も追求しないまま今に至っている。
殿下が自分も行くと言いかねないと危惧するところはあったが、流石にこの状況では殿下も自粛して下さった。
「分かっている。剣を振るうのはこちらで何かあった時にしよう」
戦うつもりではあるのね、と私がシャルドに目線を送ると専任騎士たる眉目秀麗な青年は、肩を軽く竦めていつもより小さく息を吐く。
私達よりもはるかに付き合いは長いだろうが、まさかここまで自分から鉄火場に突っ込んで行く性格だとは、思いもよらなかったのかもしれない。
まあ、殿下自身、剣の腕は一流の域にあるし、持ってきているのも魔法の掛った名剣で、服の下に忍ばせている魔法具も身を守るのに特化した一級品だ。
そうそう傷を負う事もないものの心情的にはよろしくない状況だが、退屈しないという意味では仕える甲斐のある主君ではある。
「ふむ、アムリアを連れてさえいなければ私達に気付く事はないでしょうから、リオンに剣を振るってもらう機会は滅多には巡って来ないでしょう。さて、救出に行くとなると、顔見知りの八千代と風香は外せないな」
「はい、はい! 頑張るでござるよ、ドラン殿。アムリア殿は人を疑うと言う事を知らぬ御方ではござるが、やはり我らが同道していた方が話は早くなるはず」
「忍び入るのならお任せ下され。秋津の隠形の技を披露するでござる。にんにん!」
風香はちっとも忍びらしくないと言う事は、この際、指摘せずにおこう。風香のような者を確かクノイチや忍び、草の者というのだったか。忍ぶつもりのない忍びとは、さて忍びと言えるのか?
「八千代と風香、それに私も行くとして、残るはリネット、セリナ、ディアドラ、ドラミナだが、どうするかね?」
「リネットはマスタードランに同行する事を希望します。なにしろゴーレム兼従者ですので」
「リネットちゃんの理屈で言うと私とドラミナさんも一緒に行くのが当然なのですけれど、私としては四人も行けば十分だと思います」
セリナはこれといって反論するつもりはないらしく、素直にこちらに残る事を受け入れている。少し離れるだけの事だから、とりわけ意固地になるような事でもないと考えているのかな?
ディアドラはリネットの頭を撫でながら、周囲の木々や足元の草花に目をやり、それらから次々と情報を得ている。彼女ならではの情報収集の仕方だ。
「なら私もこっちに残るわ。この山には他にも余計なお客さんが来ているみたいだから、退路の確保の方が難しくなるわね」
この時、私のみならずセリナ、ディアドラ、リネット、ドラミナ達は山中に城館を襲っている者達とは別口の軍勢が足を踏み入れている事を察知していたのだ。
アムリアを求めて二つの勢力が揃ってアンメル山に侵入しているわけだが、どちらもアムリアの身柄を確保するのが目的か、あるいは殺害が目的かもしれん。
いずれにせよ、私達の手でどちらの勢力よりも早く、身柄を確保する必要があるのには変わらない。ドラミナも二人に同意を示して、救出組は四人となった。
「ドラン、リネット、八千代、風香、貴方達ならまず問題にはならないでしょうけれど、それなりの手練も片手の指ほどですが居る様子。
「ドラミナもな。セリナ、ディアドラ、君達も気を付けてな」
「それではマスタードランの事はリネットにお任せを」
こうして二手に分かれた私達はすぐさま行動に移り、以前、八千代達が見つけた隠し通路へと足を向けた。
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第百七十五話
私とリネットが帝国の追手らしき二人と対峙している間に、私の『待て』から解放された八千代と風香がおそるおそる隠し通路から顔を覗かせて、暗殺者と武闘家の姿を認めると一目で分かる格の違いにぞわっと毛を逆立たせる。
二人ともそろって尻尾を股の間に挟んでおり、顔色も決してよいものではなくなっている。八千代の背におぶわれたアムリアは、武闘家達との間に流れる一触即発の空気を感じ取ると、どうすればよいのかとおろおろし始めている。
アムリアの人生でこのように緊迫した状況に身を置くなど、城館から隠し通路へ逃がされてから二度目だろう。
それにしてはあまりにも質の高い二度目だ。気の毒な運命の流転と言う他ないが、そうならざるを得ない生まれというしがらみが、アムリアには存在してしまっている。
「ど、ど、ドラン殿、こちらの
八千代はかくかくと膝を震わせながらも、おんぶしたアムリアを落とすような事がないようにと、背中に回した手に力を込めていつでもその場から動けるように神経を研ぎ澄ましていた。
これで膝が震えておらず、尻尾が股の間に潜り込んでいなかったら、大した胆力だと褒められるのだが、八千代なりの精一杯を悪く言う事は私に出来そうにない。
「それが名乗ってはくれなくてな。氏素性も定からぬ御仁達だよ。だが、外に出ようとした私とリネットを目がけて、ナイフの雨を降らすような相手だ。物騒な事情が背後に控えているのだろうさ」
十中八九、帝国の跡目争いに新たな波紋を起こす巨石を巡る厄介な事情がね。互いに油断なく対峙していると、リネットが無造作とも言える動きで一歩を踏み出す。
先程からリネットの闘志、あるいは私に良いところを見せたいと言う欲求が肌を打つかのように発せられていて、この子がやり過ぎてしまいやしないかと気になっている。
「マスタードラン、一応、致命傷を避ける軌道でナイフを投げていましたので、話し合いの余地がないわけではないとも思えますが……」
「そう解釈出来ない事もないか。ふむ、お二方、話し合いの余地はそちらにおありかな? 私達としては構わないのだが」
もし本当にこの二人が口を開いて話し合おうとしたならば、私としてはそれに応じるのは吝かではない。
二人は互いに目配せはおろか意思疎通の素振り一つ見せない。強いて言えば八千代の背におんぶされたアムリアの顔に、ほんのわずかにだけ目を向けた事くらいか。
ここまでではっきりと分かっているのは、彼らもまた目的がアムリアである事と、帝国の上層部が絡んでいる事かね。
「八千代、風香、アムリア嬢、この場はこのリネットが、リネットが! 引き受けました。マスタードラン共々お早くこの場から離脱を」
暗殺者と武闘家のかすかな気配の変化の前兆を感じ取り、リネットが鈴の音のように愛らしい声で二人の獣娘に告げる。
しかし、情の深い八千代と風香である。十代前半の少女としか見えないリネットに、二人にとってはかつてない強敵に違いない女暗殺者達の相手を任せるなど、正気の沙汰ではなかったろう。
当然、素直に了承する筈もない。
「りりり、リネット殿、本気で言っているのでござるか!?」
「ドラン殿、まさかリネット殿の言う通りにするつもりでござるのか! いくらなんでもひどいでござるよ。拙者達では大した役には立たないかもしれないでござるが、四人がかりならばどうにかこの場を切り抜ける事くらいは!」
予想通りに八千代と風香が堪らずといった調子で叫ぶ。
二人の大声にアムリアが目をぱちくりとさせておどおどし始めるが、二人の叫びからリネットだけがここに残って危ない目に遭うらしい、位の事は判断できたようだ。
「あ、あのドランさん、リネットさん、そちらのお二人の目的が私であるのなら、私はこの場に残りますから、どうか危ない事はなさらないで下さい」
ふむん、この反応からするにアムリアも八千代達の同類さんというわけだな。こういう事を言ってくれる相手なら、守りがいがあるというものだ。
リネットもその気持ちは私と同じだったようで、私よりも前に進み出ながら三人にはっきりと通る声で答える。
「八千代、風香、アムリア嬢、皆様のお申し出に関してはこのリネットのみならずマスタードランも、心より感謝しております。
しかしながらどうぞここはリネットの心を汲んでください。そう、強敵を相手に主の為に身を張って足止めをする、これほど従者として燃える状況があるでしょうか。
いえ、ありません。敢えてリネットは言います。ええ、宣言いたしましょう。これ以上ない燃える状況であると、そう、リネットの従者魂はかつてないほど猛烈に燃え盛っていると!!」
「……ええええええ、リネット殿、本気で言っているのでござるか!? あの二人、飛んでもなく強いでござるよ。ぶっちゃけ、某では正確な力量なんてまるで読めないぐらいパネエでござるってば!」
八千代は背中におぶったアムリアを揺らさないように配慮しつつ、体を左右によじって必死にリネットに翻意を促すが、リネットはフムス、と大きく息を吐き出して小さな体からは不可視の闘志が激しく燃え上がっている。
ここはひとつ、私も主人としてリネットを擁護してあげなければなるまいて。
これほどまでに闘志に満ちているリネットに加えて、私達が協力して制作した切り札まで使うのならば、安心してこの場を任せられる。
「さて、私達が話しこんでいるのを悠長に見守っていてくれるわけだが、それはこれが理由かな」
私は右手の竜爪剣をゆっくりとした動きで周囲を振り回し、私達の周囲に幾重にも張り巡らされていた不可視の糸を絡め取る。
数百を数える糸の操り手はあちらの女暗殺者だな。これまで必殺を誇った技だったものか、ほんのかすかに女暗殺者の動揺――と呼ぶには小さな心の動きが、糸越しに竜爪剣を伝わって届く。
「ドラン殿、なにかあるのでござるか? 某の目にはさっぱり。風の字、お主はどうか?」
首を捻る八千代の問いに、目を細めて私が絡め捕ったらしい何かを見ようとしていた風香が、尻尾をくねくね動かしながら首を捻る。
「ううむ、拙者の目にも何も映らんでござる。なにかしらあちらの御仁達がしたとは察せられ申すが、そこまで止まりでござるよ」
「ふむ、二人の目には分からんか。気配で察する位はして欲しいところだが、リネットはどうかな?」
「ふっふっふ、リネットイヤーは順風耳、リネットアイは千里眼、リネットスキンは敏感つるつる卵肌、そしてリネットノーズはわんこにも勝るのです。加えてリネットセンサーは大気の分子の変化も感知する精度を誇ります。
アムリア嬢を中心として、全方位に七百二十四本のアダマンタイトを主とした合金製の
付与されている魔法の精密さからして、極めて高位の魔法使いによる処置です。マスタードランにはまるで及ばない事は、改めて口にする事でもありませんが」
「千里の彼方から指一本動かせば、獲物の首を落とせる恐ろしい武器というわけだ。だが見えていればそう怖いものではない。このように」
私が手首を捻る動きを見せると、女暗殺者と武闘家はほぼ同時に迅速な動きを見せた。
金属糸に私の魔力を流し込む事で女暗殺者の体内魔力を狂わせ、意識の昏倒くらいは狙ったのだが、女暗殺者は魔力が伝わるよりも早く糸を手放し、武闘家は瞬間移動かと万人が錯覚する踏み込みで私を拳の間合いに収めていた。
巨大な鉄のハンマーと打ち合ったとしても、この武闘家の拳ならば砕け散るのはハンマーの方だろう。
しかして私に向けて振り下ろされる筈だった右の拳は、割って入ったリネットの振るった左拳と真っ向からぶつかり合い、そこでお互いに微動だにしない拮抗状態を演じていた。
「リネットを倒さずして、マスタードランに危害を加えられると思わない事です。このリネット、主を守る人型の防壁となりましょう」
「すまないな、リネット。ではこの場は君の意気込みを汲んで任せるが、私が危ういと判断したら何時でも割って入る。例え君に恨まれる事になってもな」
私自身が居なくとも離れた場所に割って入る手段はいくらでもある。リネットに任せられる状況だと頭で分かっていても、それですんなりと心が納得するのならば私は人間に生まれ変わりはしなかっただろう。
「どうぞ、リネットの事をお信じ下さい。では八千代、風香、アムリア嬢、すぐに後を追いかけますのでどうぞお行きください」
「でも、でも、本当に大丈夫なんでござるか、リネット殿。某達の為にリネット殿だけを置いて行くようで、罪悪感がすんごいでござるよ」
「ドラン殿も、本当の本当に置いて行かれるのでござるか?」
言葉には出さないがアムリアも言葉よりもはるかに雄弁な視線で私に問いかけてきている。正直に言って女暗殺者と武闘家よりも、守らなければならない三人の方が私にとってははるかに強敵だった。こういう事が時々あるよなぁ。
「置いて行くのとは少し違う。任せて行くのだよ」
既に張り巡らされていた金属糸を無効化された暗殺者は、私達の会話を悠長に黙って聞いている理由がなくなった事から、山中の木々にその姿を同化させながら八千代の背後にまで迫っていた。
「リネットショット!」
視覚的に周囲の風景に同化しているのみならず、気配も完全に山中のそれと同化させていた女暗殺者だったが、リネットには十分感知可能な範囲だった。
武闘家と突き合わせているのとは逆の拳から、体内の永久機関から抽出した高濃度の魔力を拳大の球体として射出し、八千代と風香の間にまで迫っていた女暗殺者を打ちのめして、か細い体を大きく吹き飛ばす。
リネットが突然、自分達に向けて輝く何かを射出した、とだけ認識出来た八千代と風香だったが、そこから更に気付かぬ内に姿を消していた女暗殺者が自分達のすぐ傍に姿を見せて吹き飛ぶ姿には耳と尻尾を立てて驚きを露わにする。
アムリアは危機的な状況への理解が及んでいないのと、天性のおっとりとした性格の為か、まあ、と一つ呟いたきりだ。良くも悪くも大物だな。
■名称
試作十七式騎乗型アームドゴーレム
『ガンドーガ』
全高 :5.7m
全備重量:5.5t
■装甲
ガンドル合金
■武装
・電磁加速射出式短装杭打ち機ペルクナスパイル
・炸薬加速射出式三連装刃アグニエッジ
・四〇〇口径魔法炸薬式大火砲ルドラバスター
・???
・???
・???
・???
・???
・???
形式名称の「十七式」は、大陸の暦が1017年でその下二桁から。
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第百七十六話
ガンドーガの放ったルドラバスターの砲弾には、周囲の精霊力と連鎖反応して特定の範囲内に灼熱地獄と暴風地獄を作り出す精霊石や魔法薬が充填されていた。
炸裂した砲弾によって、晴天の空を赤々と燃える炎を孕んだ巨大な竜巻が貫き、周囲のなぎ倒された木々を炭化させ、抉られた地面を融解させる。
およそまともな生物が生きてはいられない地獄の只中で、人型の黄金の光が四方へと噴出して、灼熱と暴風を跡形もなく吹き飛ばす。
「おおおおおお!!」
光の中心には雄々しく咆哮を上げるアスラムの姿があり、全身から先程の倍にもあるいはそれ以上にも相当するだろう闘気が鎧となって、希代という言葉ですら足りぬほどの武闘家の全身を守っている。
この時、アスラムの肉体は人体に内包された臓器、血管、その全てのみならず全身を構築する細胞単位で闘気を生成し、増幅させる触媒として機能していた。
肉ある生物、呼吸をする生物には一秒とても耐えられない地獄の中で、アスラムに消耗の色はまるで見られない。
歴代の羅刹業伝承者ですら長くは維持できずに闘気が枯渇するだろうに、アスラムは際限なく闘気を生み出し続け、その闘気によって更に肉体の強化が推し進められる循環が出来上がっている。
闘気での強化とは言うが、それには当然強化される側の肉体にも相応の負担が強いられる。
肉体本来の持つ以上の力を闘気によって付与する以上、どれほどの練達者であろうと負荷からは免れないのが宿命である筈だった。
「しかしアスラムはその限界が桁外れに高いと言うか遠いと言うわけですか。あとで王国側に彼の情報があるかどうか、問い合わせる必要がありそうです」
ガンドーガの胸部操縦席の中で、リネットは先程から上昇し続けているアスラムの闘気の数値に、警戒の度合いを高めざるを得なかった。
アスラム個人としての数値もそうだが、それ以上に周囲の大地や風や太陽の光に含まれる天然自然の気との合一を果たしており、今やアンメル山の持つ気そのものがアスラムの味方、あるいは一部と化している。
だが、それで怯むリネットではない。アスラムの技量は確かに目を見張るものだ。一つの時代に一人いるかどうかの、とてつもない武闘家だろう。
しかし幸か不幸かリネットは天人の遺跡で目を醒ましてよりこれまでの経験から、たかが山一つ味方に着けた程度の相手など、まるで恐怖に値しない事をよく知っていた。
いや、値しないと言うよりは感覚が麻痺していた、と言うのが適切ではあったが。
「ルドラバスター砲身冷却開始、パラケルスス式永久機関出力安定、マドリ式魔力機関同じく出力正常、魔力噴出推進機各機正常、主骨格ならび各関節異常なし、ガンドーガ状況続行!」
ガンドーガの背面に取り込んだ魔力を噴射する爆発的な光が生じ、圧倒的な加速性能が白い巨体を弾丸と変え――それはアスラムもまた同じであった。
黄金を纏う巨漢の武闘家は、人為的に作り出された巨人に対し退くと言う選択肢を知らぬらしい。
再び真っ向から異なる意味の鉄拳同士の激突まで百分の一秒もかからぬ機を狙い澄まし、ガンドーガの両肩側面の大盾を思わせる装甲が稼働して、その内側を前方のアスラムへと向ける。
アスラムは自分に向けられた装甲の内側に穿たれた無数の穴と、その奥に垣間見えた鋭い金属の先端を認め、直後、それらは風を貫く速さで一斉に射出される。
「電磁加速射出式魔法合金槍内蔵複合盾ゲイボルグソーン!」
大盾型装甲の裏側に内蔵されていた、伝説の魔槍の名を冠する細長い魔法合金の槍が左右合わせて百を数える射出口から、不治の呪いと共にアスラムへと一斉に襲い掛かる。
高位の大型魔獣などであっても、この一斉射を受ければズタボロの生肉へと変わる呪いの槍の群れに対しても、アスラムは変わらぬ巌の如き顔のまま奥義を放つ。
「
まるで骨など存在していないかのように、アスラムの逞しいという表現を越えた腕がしなやかに、そしてなにより美しく左右へと広がる。
黄金の闘気は鳳凰の羽ばたきの如く揺らめき、襲い来る呪いの槍達へと正面から激突して、両者の中間点で呪いの黒と闘気の黄金が入り混じった爆発が数珠繋がりに広がる。
その次の行動は、ガンドーガもアスラムも同じであった。無数の爆発の中へと恐れ気もなく最大速度で突撃し、今度こそ真っ向からの大激突!
「超高速螺旋回転掘削衝角ケルヌンノスホーン!」
ガンドーガの額部分から斜め上方へと向けて伸びていた円錐形の角が、リネットの操作に従って猛烈な勢いと金属同士の擦れる音を立てながら回転を始め、周囲の呪いと闘気を渦巻かせながら容赦なくアスラムへ。
対するアスラムもまた両掌に目も眩むばかりの黄金を纏わせて、自身の倍以上の巨躯を誇る人造の怪物へと叩きつける。
「
角もつ神にして冥府の王の一柱でもあるケルヌンノスの名を持ったガンドーガの角を、アスラムの両掌が左右からはさみ止め、両者の纏う強大な力がお互いを打破するべく激しく食らい合いを始める。
加速したガンドーガの大質量を受け止め、拮抗状態を作りだすアスラムはまさに非凡と言う他ない傑物であったが、人間であるが故にガンドーガにどうしても劣る部分がある。
例を一つ挙げるのならアスラムの武器はその五体そのものだが、ガンドーガは人造の存在であるが故、その五体に色々と仕込める事だ。
「招雷機兼雷電増幅角ユピテルホーン!」
ガンドーガの両側頭部から伸びている幅広の角がまっすぐ天空へとその向きを変えると、ガンドーガ内部で生じられた雷が角を通じて上空へと発せられ、見る間に空に黒雲が領土を広げて行く。
雷に関する気象に限ってだが、一時的な気象操作機能をユピテルホーンは持っていた。
見る間に大きく分厚くなってゆく黒雲にうねる竜のような白い光が明滅し、それらは一つの本流となって進むも退くも出来ぬ拮抗状態にあったアスラムへと落ちた!
偽りの黒雲から落ちた人造の雷は、自然の物理法則のほとんどを無視してまっすぐアスラムを狙い、ああ、しかしてアスラムはリネットが予想していた通りに、両手を捻ってケルヌンノスホーンを捌くと同時に身を翻して回避してみせた。
だがそれはリネットの想定内の動きであり、すぐさま右手のペルクナスパイルと左手のアグニエッジによる追撃へと移行しようとして、それに気付いた。
「しかし感心するべきは貴女もですね、暗殺者さん!」
リネットを操るガンドーガとアスラムの熾烈を極める戦いの中、常人は愚か歴戦の猛者でさえ踏み込めば瞬時に粉微塵に砕かれるだろうに、ザナドは怯えの一欠もなく足を踏み込んでいた。
ガンドーガと物理的に接続して感覚機能を増大させているリネットでなければ、アスラムとの激戦の中でザナドを見つける事は出来なかっただろう。
それほどまでに戦慄的なザナドの隠形である。
アスラムが天然自然の気と同化し、圧倒的な戦闘能力を獲得しているのに対し、ザナドもまた天然自然の気と同化しつつも、己の存在を溶け込ませることで隠形能力を確保しているのだ。
しかしどれだけ気配を完全に隠せるとしても、それだけでは物理的にも魔術的にも堅固なガンドーガの装甲を貫く事は出来ない。
先程まで芸術的な指捌きで操っていた金属糸の技や高度な付与魔法が施された武器による波状攻撃も、何度繰り返したとてガンドーガに通じるかどうか。
だからこそリネットはこの瞬間、アスラムよりもザナドを警戒した。アスラムの援護ではなく自らの手で決着とするべく距離を詰めるザナドを。
ザナドのか細い右手は彼女自身の下腹部へと当てられていた。母が胎の中の子を案じるかのように見える動作は、しかしてその印象を裏切る光景を描き始める。
ザナドの右手が下腹部から離れるのに合わせて、ザナド自身の体内から一振りの短剣がその姿を見せ始めたのである。
緩やかに反る幅の広い刀身も色とりどりの宝石を埋め込まれた黄金の柄も、目には見えず、しかして全身で、そして魂ではっきりと感じ取れる神々しさを纏っている。
リネットとてドランという主を得ていなかったなら、短剣を一目見た瞬間に膝を屈するほどの畏敬の念を抱いていただろう。
まさに神の威光そのものが形を成したかの如き短剣を手に、ザナドが初めて口を開いて言葉を発する。それは己の信ずる神へと奉ずる
「闇ありて光あり 天ありて地あり 月ありて星あり 静寂ありて争乱あり 生ありて死あり 風吹く荒野を行く者 星と太陽の空を仰ぐ者 御身の威光にて命の形を変えん ヴァナシュストラ!」
ヴァナシュストラ――それは短剣の銘か、それとも祝詞を捧げた神の名か。
ザナドの口からその名前が紡がれるのと同時に、神々しき短剣ヴァナシュストラに極彩色の星雲を思わせる光が生じる。
ヴァナシュストラ、それは原初の混沌より生じた最古の神々の中で、初めて神を暗殺した神が用いた短剣の銘である。
はるかな古より暗殺神を信奉するザナドの一族には、神を暗殺せしめた際に用いられたという短剣が伝わっている。それがヴァナシュストラである。
もちろん本物の神殺しの短剣が伝わっているわけではない。本物の短剣は今も神の世界に居る暗殺神の腰に佩かれている。
ザナドの一族に伝来しているのは、かつて暗殺神に願い、供物と引き換えに与えられた、神殺しの短剣の地上世界に落とされた影のようなモノ。
ドラミナの持つバンパイア六神器のように徹底的に格を封じ込めでもしなければ、神の用いた神器は到底地上世界に存在し得ない。本当の意味での神器とは、存在するだけでも地上世界を破滅させてしまうほどの力を秘めた、高次の存在なのだから。
故に、ザナドが自分の胎の中から取り出した神の短剣と同じ銘を持つ短剣は、決して本物そのものではない。
ないがそれでも神殺しの刃の影である。
その霊格や威光たるや、他の高位の神や高次存在の力を借りなければ、地上世界ではいかな存在であろうと一刺しで滅びを与えられる事だろう。
ガンドーガを構築するガンドル合金や何重にも展開されている障壁も、このヴァナシュストラの刃の前には障害足りえない。
「シャッ!」
神より与えられて以降、いかなる敵さえも葬って来た神の刃に全幅の信頼、いや、信仰を乗せて、ザナドはガンドーガの左わき腹から抉り込むように刃を突き上げた。
胸部の中に収まっているリネットまで刃は届かない筈だが、ヴァナシュストラは神器である。
この世の理などはほとんど意味を成さず、ヴァナシュストラに害された者は須らく、そして迅速に死が与えられる。
ヴァナシュストラによって傷付けられた者はその傷の大小によらず暗殺された、と世界の全てに見做される、死の運命を強制する刃なのだ。
「なに!?」
しかし、ザナドの目に映ったのはガンドーガの装甲を貫く事なく、切っ先を阻まれる神器の姿。
ヴァナシュストラを通じてザナドの腕に返ってきたのは、例え一万回斬りつけ、突き込んでも傷を付けられないと確信する絶対的な堅牢さ。
「このガンドーガに対し、神の力を用いた武器を選んだ事。それが貴女の最大の過ちです」
ザナドやアスラムの預かり知らぬ事だが、リネットの言う通りにドランが製造に関わったこのガンドーガには、マノスさえも知らぬある機能が持たされていた。
搭乗者であるリネットの身の安全を案じたドランが、ガンドーガに痛打を浴びせ得る可能性として神に由来した攻撃を危惧し、ガンドーガに古神竜ドラゴンとしての加護を与えていたのである。
通常、神や大精霊など高次存在に由来する攻撃は、地上世界のような下位次元の存在に対して極めて有効だ。
だがこれが一切通じないのが、古神竜の生まれ変わりであるドランだ。皮肉な事に神々のような高次の存在であればあるほど、一部の例外を除いて古神竜ドラゴンと敵対する事を徹底的に避けようとする。
そのドラゴンの加護を持つガンドーガもまた、神性などに由来する攻撃に対して絶対的な防御性能を誇るのだ。
「このアームドゴーレムガンドーガは、こと神々に由来する攻撃や防御に対してほぼ無敵の存在と言っても過言ではないのです!」
ムフー、というリネットの自慢げな吐息が聞こえた瞬間、ザナドの肉体は雷鳴に撃たれたかのように反応する。
「っ」
ザナドの意識は失策と言う他ない停滞に捕らわれたが、その肉体は意識とは別に警戒を緩めてはいなかった。
ガンドーガの左腕がこちらの上半身を叩き潰す勢いで振り抜かれるのを、ザナドの肉体はまっすぐ後ろへと飛び退く事で避けようとした。
「逃がしはしません、そしてアスラム、貴方に邪魔もさせません。噴射式飛翔鉄拳ロケットパーンチ!!」
飛び退くザナドと、ヴァナシュストラの刃が通じなかった瞬間には動きだしていたアスラムへと向けて、ガンドーガの左右の握り拳がまっすぐに突きつけられる。
ガンドーガの肘関節からガキンと金属音が鳴り、切り離された肘の断面から猛烈な勢いで白煙と真っ赤な炎が噴出すると凄まじい勢いでアスラム達へと飛ぶ!
いわば信仰そのものを阻まれたに等しいザナドの心的動揺は計りしれず、肉体の反応だけでは唸り飛ぶ鉄拳を回避しきれずに、腹部へと深く鉄拳が突きささる。
「ぐひゅっ、か……!」
ザナドの臓器が潰れ、骨と言う骨の砕ける音と共に口からは黒々とした血が溢れ出す。
常態的に服用している何種類もの薬と暗示の効果によって、刺激臭のする血を吐くザナドがはるか彼方に吹き飛ばされる間、アスラムもまた放たれたガンドーガの右の鉄拳に反応し、流石にこれを右の直突きで迎え撃つ事に成功する。
しかしさしものアスラムも出鼻を挫かれる形で姿勢を崩され、それを整えるまでに必要とする刹那の時に、リネットは追撃を仕掛けていた。
再び推進機を全開にしてガンドーガを加速させて、最大速度から額のケルヌンノスホーンをアスラムの分厚い胸板へと目がけて叩きつける。
アスラムは咄嗟に闘気の鎧の上に更に盾と呼ぶべき闘気を纏い、左腕でケルヌンノスホーンを弾こうとしたが、ケルヌンノスホーンはその盾と鎧を抉り、アスラムの左腕と首筋、左肩の肉を容赦なくひき肉に変えて、血飛沫が周囲に舞う。
「命まで取るようにと命令は受けておりませんが、貴方達がしばらくは行動出来ないように負傷していただきます」
リネットはガンドーガの中から、闘気を負傷した部位に集中させ、既に止血と痛覚の遮断を行っているアスラムと、錠剤を服用して立ち上がったザナドへ、戻ってきたロケットパンチを肘関節に再連結しながら冷徹に告げるのだった。
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第百七十七話
ドランに促されるままドラミナの馬車へと避難したスペリオン達は、扉に備え付けられた窓から外の様子を伺っていた。
自分達を中心に周囲を囲い込む土の牢獄が突如出現したのには、八千代や風香が目を丸くしたが、自国のメルルやドランの事を知っているスペリオンとシャルドはさして驚きはしなかった。
メルルやドランならアレくらいの芸当は簡単にやってのけるだろう、と確信しているのだ。
シャルドは土壁の上に飛び上がってきた三人の外見から、外でドラミナがドランに告げたのと同じ名前をスペリオンに伝えていた。
「ガリオール、ダンテモン、エラティリ。記録映像で見た顔です。間違いはありませんよ」
「ああ、私も見た覚えのある顔ぶれだ。ダンテモンとエラティリが動くのは珍しいが、大公がそれだけ事態を重く見ている証拠だろう」
「にしても三人を同時に動かすのは大胆だと思いますよ。南方の反乱は収まるところを知らないでしょうし、皇女との政争だってある。
手持ちの最大戦力をこちらに回すとは、大盤振る舞いもいいところだ。メルル嬢についてきて貰っていればよかったかもしれませんね」
ロマル帝国十二翼将は複数集まれば、アークレスト王国最大戦力であるメルルとも互角に戦えるというのが両国上層部の共通認識である。
実際にはメルルが本気を出したのは競魔祭後のドラン達との模擬戦が初めての事で、真の実力を知らぬ者達が情報不足のままに下した評価で事実は異なるのだが、スペリオンとシャルドがそれを知る術はない。
である以上、シャルドが十二翼将三人を相手取るのに、メルルの存在を求めるのも無理のない事だった。
しかし、スペリオンはそうは思っていないようだった。忠実なる腹心に対し、スペリオンは焦りや不安の色が一切存在しない顔で、不敵な笑みを浮かべて見せる。
「どうかな。ドラン達と知り合う前の私だったらお前と同じ事を口にしたかもしれないが、あれだけメルルが興奮した様子で語ったドランの事と、この目で間近に見た彼の実力とを合わせて考えると、十二翼将相手でも安心して任せられる気分だよ。
シャルド、お前とてアビスドーンの者達との戦いの場には居合わせたのだ。本音のところでは私とそう変わらないと思っているのだが?」
身命に代えてでもスペリオンを守る使命を自分に課しているシャルドは、直面した事態に対してスペリオンよりもかなり際どく捉えて備えるのが常になっていたから、口ではかなりの焦燥を感じさせる言葉を口にした。
だが言葉とは裏腹に、その心中にはそこまでの悲壮感がない事を、スペリオンは見抜いていた。
十二翼将は、確かに超人と言うべき人間離れした戦士や異能力者揃いの恐るべき戦闘集団だが、我が国の新世代もおさおさそれにひけを取る者ではない、と心底からスペリオンは信じている。
「言われる通りで。彼らならのほほんとした顔のまま退けるんじゃないかって気はしていますよ。普通に考えれば過大評価の筈なんですが、相手がドラン達となるとどうにもそうは思えません」
スペリオンとシャルドがドラン達の勝利を、これまでの経験からほぼ確信している一方で、八千代と風香の後ろに並んで外の様子を覗いていたアムリアが儚げな表情に不安の薄化粧を刷いて、遠慮がちにスペリオンに問いかけた。
「あの、リオン様」
「どうかしたかな、アムリア」
出会ったばかりではあるが、アムリアがあまり自己主張の強くない控えめな性格である事は一目瞭然で、スペリオンは務めて柔らかい声音でアムリアに先を促す。
「はい、新しくお見えになったあちらの三人の方も、私を求めて来られたのですよね。そしてドラン様達がそれを阻もうとしていらっしゃる。
どうして私がそこまでして求められるのか、リオン様達は御存じでいらっしゃるのでしょうか。
皆様を危険な目に遭わせてまで、守っていただく価値が私にあるのでしょうか……」
生まれてからほとんどを山中の城館に閉じ込められて生きて来たアムリアにとって、今日という日が比喩ではなく人生の激変した日となったのは間違いない。
だがどうしてそこまで自分が狙われるのかと、アムリアが疑念を抱くのは当然の流れだったろう。
アスラムやザナドに阻まれた時もそうだったが、アムリアはドランや八千代達に危険が及ぶのならば、我が身を差し出そうと考えていただろう。
スペリオンはアムリアの心中の大まかなところを察し、公人としてよりは私人に寄った答えを返した。
「確かに今の貴女は分からない事だらけだろう。どうして自分があの城館で育てられていたのか、どうして今日になって武装した兵士達に追い回されているのか、そして自分自身の事も。
私達は確かな証拠があっての事ではないが、貴女の生まれについて大まかな見当はつけている。その生まれが今日に至るまでの全てを招いたのだ」
「私の生まれ……。父と母の名前も顔も知らぬ私の生まれを、他の方々は知っているのですね。そして、私はその生まれそのものに全てを定められて生きて来た」
沈痛な顔で俯くアムリアに、スペリオンは偽りのない憐憫の情を抱き、果たして自分にその資格があるのかと自問自答しながら、気休めになればと慰めの言葉を口にした。
「私にそれを否定する事は出来ないが、少なくとも八千代や風香と出会い友好を重ねて来たのは、何処かの誰かに定められた事ではなく、貴女の選んだ道だ。
そして八千代達と繋いだ縁が私達にも繋がったから、こうして出会う事が出来た。その事は決して忘れないように」
見れば何時から聞き入っていたのか、八千代と風香が窓から顔を離してアムリアに向けて、うんうん、とスペリオンの言葉を肯定して首を縦に振っている。
アムリアは二人の小動物めいた動きに、小さく笑みを零す。アムリアが初めて出会った外の人間が八千代と風香だった事は、間違いなく幸運だっただろう。
「それに、私も実力の全てを把握しているわけではないが、ドラン達は強い。きっとケロッとした顔であの三人を打ちのめしてくれる」
スペリオンがそう断言するのを聞いて、アムリアはようやく不安と申し訳なさの薄れた顔を浮かべる事が出来た。
*
さて帝国内の勢力拮抗を考えて、ほどほどに目の前の三人を痛めつける程度に留めると決めたところで、私達は念話でちょっとした相談をしていた。
ロマル帝国十二翼将は複数が集まれば、あのメルルと互角と目されている超の付く精鋭である。
それを卒業間近とはいえ魔法学院の生徒とその使い魔達――ディアドラは違うのだが――四人で倒せるのは、おかしな話と言えばおかしな話になる。
(でも負けるのは論外ですよね? アムリアさんを連れて行かせるわけには行きませんし)
と覆す事はあり得ない大前提を念話に乗せてきたのはセリナである。ふむ、アムリアの身の安全を考えれば私達の評価などは二の次だ。
当然、負ける事はあり得ないのだが、出来れば勝ち方を選びたいと思ってしまうのは贅沢過ぎるだろうか。
(一人一撃で倒せる事は倒せるが、メルル扱いをされてしまってはベルン村を離れるように命令されてしまいそうで、つい二の足を踏むな)
素直なところを吐露する私に、ディアドラが妥協案を提示してくれた。
(私達の方が一人数は多いのだし、向こうはアムリアを気にして実力を出し切れていなかったって言い張って、倒してしまえば?
それに私なら別に手加減をしなくてもいいし、ドランが思っているほど気を揉まなくても良いのではないかしら)
私の気にしすぎか。あまり自分の都合ばかりを考えて優先順位を見失っては本末転倒だしな。あまり気にせずにぶちのめしてしまって構わないかね。
ディアドラの言う通り私が気にし過ぎているか、と今回の戦闘の方向性を定めた所で、ドラミナがやや躊躇しながら意見を伝えて来る。
私が腹を括ったのを感じ、余計な事を伝えてはまた迷わせてしまうのでは、と案じたのが躊躇の理由だろう。
(なんでしたら土壁の一角を崩して、そこから殿下達を乗せた馬車を逃がしますか? それならば人目を気にせずに戦えるでしょう。
あちらのガリオール卿達には、メルル級の強敵が王国に居ると警戒はされるかもしれませんが……)
敵に警戒される分には構わんだろう。ともすれば暗殺を目されるかもしれんが、その程度の事はどうとでもなるしな。
それにリネットがこちらに合流する前に片付けておくと約束したことだし、ふむ、やはり殿下達の事は気にし過ぎせずにやってしまおうか、うん。
私が長剣に魔力を通し、竜爪剣を右手一本で握り戦う姿勢を取ったのを皮切りに、セリナは全身に魔力をみなぎらせ、ディアドラは意識を奪った兵士達を集める作業を止める。
ドラミナもまたいつも通り長剣型のヴァルキュリオスを握り、馬車のスレイプニル達に目配せをする。
私達がガリオール達を足止めし、スレイプニル達を逃がすなどという展開にはなるまいが、いざとなったらそうしなさいという目配せだな。
私達がガリオール達との邂逅からどの程度の戦い方をするか、と決めるまではほんの数瞬程度の間の事だった。
その間にガリオール達も私達の事をざっと見回し、どういった素性の者かを探っていたようだ。
エラティリが召喚していた胡麻粒程の虫が馬車に侵入しようとして、馬車の防護魔法に弾かれていたのを、私達全員が気付いていた。無用な殺生をしてしまったかな。
兵士達が山を築いているのとエラティリの虫が弾かれた事で、ガリオール達はいよいよもって私達を難敵と判断した事だろう。
ガリオールがハルバードの石突で土壁を突きながら、腹の底まで響く割れ鐘めいた声で要求を突きつけて来る。
「今すぐに馬車の中に隠した者達を我々に引き渡すがよい。ロマル帝国の兵士に手を出した事は許されぬが、さすれば多少情状酌量の余地は生まれよう」
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第百七十八話
アムリア救出における最後の障害となった、ライノスアート大公派の十二翼将三名を撃破した私達は、その後始末を行っていた。
斬り伏せたガリオールが万が一にも死亡しないよう最低限の治療を施し、衰弱しきったダンテモンと意識を失っているエラティリ達を、先に倒しておいた帝国兵達とひとまとめにして、魔法で作った格子状の牢屋に放り込んでおく。
土を媒介に私の魔力を練り込み、魔法文字による補強を行った牢屋は外部からの圧力には滅法強いが、内部からは簡単に壊せる造りだ。
敵対する皇女派の者達がそう簡単に危害を加えられないようにするのと、意識を取り戻したガリオール達が脱出しやすいように、と至れり尽くせりの仕様である。
彼らを通じて大公に私やセリナ達の事が知られれば、今後強く警戒される事になるだろうが、同時に大公のアークレスト王国に対する姿勢がより慎重なものとなり、二の足を踏んでくれる事への期待もある。
アムリアという特大の鬼札をアークレスト王国の手中に握られていては、早々大胆な行動は取れなくなるだろう。
後始末を終えた私は牢屋の中で意識を失って倒れ伏すエラティリを一瞥してから、ドラミナに問いかけた。
「ドラミナ、エラティリはどの程度の深さで君の瞳に捕らわれているのかな?」
エラティリの身体には斬られた痕や殴られた痕もない。エラティリとセリナ、ドラミナとの戦いの決着は、ドラミナの催眠眼によるエラティリの意識喪失によって付けられたからだ。
軽く検査したところ、エラティリの体内には彼女に召喚されたであろう無数の虫や細菌、液体生物が寄生しており、従来はそれらが宿主に掛けられる催眠や精神干渉、外部からの毒物などに対し抵抗するようだ。
だがバンパイアクイーンであるドラミナの催眠眼は、本来、堅牢なる防御機構として機能するはずだった寄生生物達さえも支配下に置いている。
流石は私のドラミナである。えっへん。
「彼女は自分が私の目を見た事すら憶えてはいません。彼女の身体の中の者達もそれは同じ事です。私が望んだ時、望んだだけの情報を彼女から得られますよ」
「大公の懐に自分自身も自覚のない獅子身中の虫を送り込めるわけか。殿下にも一応、伝えるだけは伝えておこう。後は大公の懐にそれに気付ける人材が居ない事を祈るばかりだが、千里時空眼辺りが怪しいか」
「彼女の遠隔視から逃れ続けていることに加え、今度は武闘派の十二翼将を倒したのですから、私達はかなりの警戒を抱かれる対象になるでしょう」
既に倒してしまった以上は詮なき事。皇女と反乱分子という眼前の敵を放置して、私達にかまける余裕が大公にあるとは思えんし、なるようになるだろう。
「どうやら既にあのメルルの後継者候補と目されているようだし、どう警戒されようと構わんよ。
自陣営の最大戦力をこうも呆気なく叩きのめされた以上は、大公も手札を減らされて私に関してはしばらく手出しのしようもなかろう。少なくとも武力においてはね」
「それが妥当なところでしょう。それにドランが魔法学院を卒業してベルン村に戻れば、下手に刺激するよりは動向を見守るに留める事を、私が大公であっても選びます。
間諜を忍ばせるくらいの事はするでしょうけれど、貴方なら村人や観光客に危害を加えない限りは放置でよし、とお考えでしょう?」
「ああ。出来れば、帝国の珍しい品を持ってくる商人などに身分を偽ってくれるとありがたいな。経済活動の一助となってくれるのなら、ある程度は大目に見てもいいのではないかな」
私がそうなるといいなと笑いながら言うと、ドラミナには予想通りの答えであったらしく、困った方と言いたげに微苦笑を零す。
「なにはともあれ、全員が怪我一つなく十二翼将を退けられて何よりだ。リネットもあちらでの戦いを片付けて、こちらに向かって来ている。敵の二人はガンドーガを相手にかなりの善戦をしてみせたが、勝ちは揺るぎなかったな」
私が猛烈な勢いでこちらに近づいているリネットの事を口にすると、リネットの事が心配だと断言していたディアドラが、はっきりと分かるほどに肩に入れていた余計な力を抜く。
リネットの実力と装備を考えれば無事であると分かってはいても、はっきりと確信できるまではどうしても案じられるのが親心というものか。
実際に血の繋がった親子でもないし、育ての親と言うわけでもないのだが、ディアドラは心情的にはもうすっかりリネットの母親も同然だった。
私達が戦闘態勢を解除して後始末に耽っている事に気付いた殿下達が、馬車から降りてこちらに歩み寄って来る。
「全てを任せる事になってしまって、すまなかった。それにしても君達全員が圧倒的だったと言わざるを得ないな。
ロマル帝国が建国から誇る十二翼将、その内の三名を四人がかりとはいえこうも呆気なく倒して見せるとは、称賛の言葉もない」
殿下は心底から感嘆した声で告げる。ある程度開き直って戦ったとはいえ、やはり観察していた側からすると圧倒的に過ぎたかな?
何時でも殿下の盾になれる位置を維持しているシャルドも、若干乾いた笑みを浮かべながら肩を竦める。私達への称賛は確かにあるが、それ以上にこれまたとんでもない事をしたなあ、位の事は思っていそうだ。
殿下からの称賛を素直に受け取ったセリナは、少し恥ずかしげに身を捩らせる。こういう素直さは、私から失われて久しいなと考えると少し哀しく感じられる。
「えへへ、ドラミナさんと一緒だから勝てました。この方、見た事のない召喚魔法をお使いになられますね。虫さんが多いみたいですけれど、一対多数向きの力の持ち主さんです」
セリナ単独でもエラティリには勝てただろうが、やはりドラミナとの共闘でなければああも容易くは行かなかったろう。
今日、戦った三人の中ではダンテモンとエラティリの二人が多数との戦闘に向いた力を持っている。どちらもそれだけでなく暗殺や偵察など、あらゆる事に対応できる多様性もある。
風聞だけでなく実際にこうして戦って、能力の幅広さを確認できたのは間違いなく収穫だった。
セリナがしたり顔で口にした言葉に、殿下は神妙な顔になって頷く。殿下の立場でエラティリ達と戦場で相対するとしたなら、軍勢を率いている時だろう。
その際にエラティリやダンテモンのような能力を持った十二翼将を相手取ると考えれば、頭の痛い思いをしている事だろう。
エラティリならば極微小の毒虫を夜半、休んでいる兵士や指揮官達の寝床に忍ばせるだけでも恐るべき脅威だし、ダンテモンなら踏みしめている地面や呼吸している大気そのものに同化されては、もう手の打ちようもない。
「馬車の中から見た限りになるが、恐ろしい能力としか言いようがなかったよ。帝国がその歴史の中で征服した異民族の独自の魔術や、信仰を取り込み戦力化させたと言うが、そういった人々の子孫だったのかもしれんな。
国が割れたとはいえやはり帝国は侮れん。当初の予定よりもかなりの遠回りをしているが、つくづく実りの多い遠回りになったものだと思うよ」
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第百七十九話
ライノスアートが自陣営の切り札である十二翼将三名の敗退とアムリアがアークレスト王国の手の内に落ちた事を知った頃、最大の政敵でありアムリアの双子の姉でもあるアステリア皇女もまた同じ情報を得ていた。
アステリアは独身の女性皇族が住まうエルテリアノ宮殿の私室で、傍らに恋人兼腹心の部下たるカイルスを従え、ザナドの一族の者から報告を受けていたところだった。
見た目に限れば純粋なロマル民族にしか見えない侍女が、かつて帝国に征服された異民族のザナドの一族の者だと看破出来る者は、果たして千里時空眼のアイザ以外に帝国にどれだけいるものか。
アステリアとの連絡役という任務の為だけに、顔や体格、皮膚を作り変えた侍女が退室するのを待ってから、アステリアは推論のいくつかを口にし始めた。
アステリア自身や父母の肖像画の他、帝国各地の風景画の他、最高の技量を誇る職人達が精魂を込めて作り上げた調度品に囲まれた部屋の中で、恋人達しかいないと言うのに何とも味気のない言葉がしばし紡がれる。
味気はないが、しかしアステリアが口にすれば、それは帝国の全住人と近隣諸国の命運に関わる途轍もない重みを持った言葉となる。
「アムリアがアークレスト王国の手に落ちた以上、現状の三竦みをしばらくは継続する事になるでしょう。スペリオン王子達がアムリアをどう利用するのか、見定める為の時を叔父上と私が欲する限りは」
アステリアの表情にも言葉にも、顔さえ知らぬ生き別れの妹への感慨など欠片もなく、またアムリアを最大の仮想敵国に奪われた事に対する焦りも恐れもない。
ただただ事実を受け入れて、そこから発生し得る可能性を可能な限り推測し、対処する事だけを考えている。そんな印象を受ける冷淡さであった。
カイルスは親しい者かアステリアと二人きりの時にしかしない、帝国騎士としての立場を忘れた砕けた口調で主君兼恋人に問いかけた。
「アムリアの存在を口実に帝国に刃を向けてくる可能性は? 誰もが考えつく可能性だが、軽視は出来ないだろう。我々が内輪揉めで疲弊する時を待ってから、となるのもな」
自分よりもはるかに頭の回転が速く、人間離れした印象さえ受ける恋人は、カイルスの問いに変わらぬ淡々とした言葉遣いで応じた。
果たしてアステリアが、本当にカイルスの事を恋人として認識しているのかどうか、この口調一つで万人が疑いを抱く事だろう。
「私と叔父上は動きを止める。南の彼らはこれを好機と捉えて動き出そうと勇み足を踏むでしょう。私達への手出しを控える約定を交わしたのは、彼らの内の三分の一ほど。
残る三分の二は帝国憎しと叫びながら、攻めて来るでしょう。けれど彼らも一枚岩ではないわ」
アステリアは接触した反乱分子と敢えて接触しなかった反乱分子達を脳裏に描きながら、彼らの取る選択を正確に見抜いていた。非合理的で非効率的な悪手を間違いなく選ぶと。
「帝国に蹂躙されたという共通点こそあれ、彼らは民族も種族も異なるのだから、当然価値観も異なる。
そのくせ、帝国の支配を打ち破り、自由と独立を取り戻したと真っ先に大きな声で主張する権利を手にしたいと誰もが思っている。
私達が足を止めるように彼らも足を止めるわ。なぜなら帝国からの介入がない事で、自分達に目を向ける余裕が出来てしまうのだから。この戦いは早々に決着の付く戦いにはならないのよ、カイルス」
カイルスとて大国の才気溢れる将軍として、アステリアの語った程度の事は察しがついているし、アステリアが策謀を巡らすその傍らにいた事から聞くまでもなく理解もしていた。
ただ改めて口に出し、他者に話す事で情報の整理が出来ると気を遣って問いを発したのである。
だが次にカイルスから発せられた言葉は、先程よりも幾分か危機意識を帯びたものだった。
数と策謀とでは如何ともし難いものがこの世に存在している事を、カイルスは嫌と言うほど知っていた。
あまりにも他と隔絶した純粋な力。並び立つ者のない力は、帝国ほどの大国をしても思惑や戦略を粉砕する理不尽なのだ。例えばアークレスト王国の『アークウィッチ』メルルがそうだ。
メルルただ一人でも十二翼将の動向を制限される脅威だと言うのに、今回のアムリア争奪戦によって、それに準ずる脅威の出現が確認されてしまったのだから、カイルスが危機感を抱くのも当然と言える。
「君の妹の事もそうだが、ザナドやガリオール達を退けたドランとその使い魔達、こちらの方も大問題だな。以前に見た競魔祭の映像を視る限り、確かに強いがそこまでの腕前ではなかった。
競魔祭では本気を出していなかったのか、この短期間で実力を上げたのかは分からないが、アークレスト王国とは矛を交えない方向性で対策を練るのが最良かもしれないぞ」
帝国の武威の象徴たるカイルスの発言としては、あまりに弱腰なものであり、余人が耳にしていれば声高々と批判したかもしれないが、アステリアにそのような無駄に過ぎる感情は無縁であった。
アステリアは競魔祭での活躍以降、配下の者に収集させたドランの情報を簡潔に述べる。
「虹霞のドラン。アークレスト王国最北の開拓村ベルンの出身者。昨年春にガロア魔法学院に入学し、極めて優秀な成績を修めて今年の春に卒業予定。
王国内で発生した魔導結社アビスドーンの起こした事件を解決し、その功を持って騎爵位を授与。使い魔はラミアのセリナ、バンパイアのドラミナ、また人間の肉体を素材としたリビングゴーレムのリネットを所有」
「この程度の来歴であるならば、十二翼将を撃退するには足りない。情報だけでは分からない何かを秘めているとしか言えんな。
アスラムとザナドはゴーレムの方と戦ったが、王国の最新鋭の魔装鎧がおもちゃに思える戦闘能力だったと聞く。技術者としても戦闘者としても規格外の第二の怪物が王国に生まれたとは、厄介な事だ」
「帝国にも貴方を含めた十二翼将と、十二翼将に名を連ねていなくとも才気溢れる者達に恵まれていますよ。それに世界は帝国ばかりではありません」
アステリアは感情の抜け落ちた声でそれだけ言うと、傍らの最高級木材ロマルマホガニーの机の上に広げられた地図に視線を落とす。
地図は帝国の西に広がる、クタル王国、クルタレン王国、クレモルタ王国、そしてこれら三国の盟主国とされるクータルニア王国が記されていた。
クータルニア王国から分裂し、独立したのが前者三国だ。分裂と独立とは言うものの、各国の関係はロマル帝国と言う脅威が存在する事もあって、そう険悪なものではない。
しかし今まさに母国が分裂の危機にあるというのに、どうしてアステリアは他国へと目を向けているのか。
クータルニアを起源とする四ヶ国が、帝国への介入を目論んでいるのならば、アステリアが目を向けるのも当然ではあるが、この皇女の事だとそれだけとは思い難い。
いずれにせよライノスアートやスペリオンが帝国を見ているのに対し、どうやらアステリアが帝国の外にも視野を広げているのは間違いがなかった。
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第百八十話
私と殿下達の素性、そしてアムリア自身の事について語った後、私達は王都から派遣されていた迎えの近衛騎士団と合流し、一路王都を目指す事になった。
事前に殿下から聞かされていたよりも長くガロア魔法学院を離れる結果となってしまったが、その所為でレニーアが変に拗ねて大暴れしてはいないかと、時折無性に心配になってしまう。
クリスティーナさんが抑え役を務めてくれるだろうし、本当に危険な状態に陥ったなら私にも感知できるから、今のところは大丈夫だ。イリナの胃は駄目になっているかもしれないが。
そして寂れた街道を埋め尽くすかのように完全装備で待ち構えていた近衛騎士団を目の当たりにした時には、殿下の素性を聞かされたとはいえまだ実感までは出来ていなかった八千代と風香が盛大に、そしてアムリアは少しだけ驚く事となった。
アークレスト王国で言うところの貴族階級に相当する武士の生まれだという八千代だが、本人の弁では下から数えた方が早い下級武士らしく、一国の王太子などは雲の上の人物だ。
質実剛健なる装備で全身を飾り、日ごろの苛烈な訓練を伺わせる一糸乱れぬ立ち振舞いを見せる近衛騎士団を目の当たりにして、ようやく殿下が王太子であると言う事を心から理解出来たのだろう。
近衛騎士団を前に全員でドラミナの馬車から降りると、殿下が真っ先に歩き出して出迎えの近衛騎士一人一人に待たせたな、御苦労、と声を掛けて行く。
その傍らを歩くシャルドも無事に殿下を送り届けられた安堵を噛み締めながら、同僚達と二言三言、あるいは視線だけを交わしている。
近衛騎士達の間からひと際質の良い装備と風格を持った壮年の騎士が進み出て、殿下の前で膝を突いて恭しく頭を垂れて、出迎えの口上を述べ出した。
近衛騎士団長は陛下のお傍に残っているだろうから、いくつかある騎士隊の隊長殿かな?
私やセリナ、八千代達はその様子を、距離を置いたところで終わるのを見ている。この状況で私が口を挟む必要はないし、後は殿下に対応をお任せしていいだろう。
殿下はほどなくして騎士隊長にこれまでの経緯などを話し終えた様子で、殿下とシャルドと騎士隊長が揃って私達とアムリアを一瞥する。
まさか隣国に弔問の為に訪れたと思ったら、その後継者問題に関するとんでもない爆弾を手に入れて帰ってくるなど、王国の誰も予想していなかったろう。
事情を聞かされたらしい騎士隊長の顔がかすかに引き攣るのが見えた。ふむん、流石に高位の騎士隊長級でも驚かずにはいられんわな。
アムリアはここまでの旅路で私達に対しては慣れたが、物々しい雰囲気の近衛騎士達を前にしてすっかり萎縮してしまい、騎士隊長につられた他の近衛騎士達から視線を向けられると、気圧されて八千代の背中に隠れるようにして小さくお辞儀していた。
私や殿下を相手に自分の生まれや私達の素性を問いかけて来た時の度胸は何処へやら、初めて会った時を思わせる人見知りさんに戻ってしまっているな。
ほどなくして殿下と近衛騎士隊長達の打ち合わせが終わり、殿下とシャルドを用意されていた別の馬車に移してそのまま王都へと向かう事になった。
殿下を無事に王国まで連れ帰ってきただけならまだしも、アムリアという誰も予想していなかった人物が一緒とあっては、王国のお偉方も頭を悩ます事になりそうだな。
最後列に馬車を動かし、御者台に腰かけた私の左右を陣取ったディアドラとリネットと、車内のアムリアの今後について話しながら、近衛騎士団の後を着いて行く。
最初に口を開いたのはかすかな憂いを帯びたディアドラだった。あまり他人に関心を向ける事のない黒薔薇の精だが、一度関わりを持った相手には浅い深いはともかく情を抱きやすい傾向がある。
「アムリアの今後だけれど、王子様は悪用しないって約束したけれどどこまで本気で、どこまで守ると思う? 王子様は自分の気持ちまで騙しきれるほど役者ってわけではないから、あの時も今も本気でそう考えているとは思うのだけれど」
ディアドラに追従するようにして、リネットもひょこっと首を伸ばして私の表情を伺いながら自身の意見を口にする。
リネットは秘密兵器として持ちこんだガンドーガで大暴れし、私の役に立ったという実感を得られたからか、どことなく晴れやかな表情に見える。
「リネットの観察したところ、脈拍、体温、呼吸のいずれも虚偽を口にしている状態のものではありませんでした。口にした通りの事を実行できるかどうかは別として、スペリオン王子は本心のみを語っておられたと判断いたします」
「私も殿下が嘘を吐いていない、口にした事を本気で守るつもりだ、という意見に同意するよ。陛下や重臣のお歴々が、殿下にアムリアの利用を無理強いしない事を祈るばかりだ」
殿下の誠意に嘘偽りはないにせよ、王国の最高権力者である陛下や重臣連中が口を揃えて翻意を促せば、例え殿下が翻意しなかったとしても強硬手段に訴えることだって考えられる。
殿下がどこまでアムリアの事を守れるのか? 図らずも今回の弔問行では殿下が主君として担ぐ甲斐のある方かどうかを確かめる機会に恵まれてしまったな。
「まあ、エンテの森代表って事で来ている私の前での発言だったのだから、そう簡単には撤回させないわよ。難癖の付け方はオリヴィエに相談した方が良さそうねえ」
おやまあ、ディアドラはガロアに来てからいつの間にか強かになっていたようだな。
確かにディアドラはアークレスト王国の民ではないし、その立場はあくまでエンテの森に属する上に王国でいうところの重臣のようなそうでないような、曖昧なのに無視できないという立場だ。
殿下が意識していたかどうかは知らないが、ディアドラの前での発言は非公式のものであれ、早々撤回できるような軽さにはならない。
「マスタードラン、ひょっとしてスペリオン王子はディアドラの前で発言する事で、王国がアムリアを庇護しなければならない状況を作ろうとしたのでしょうか?」
「あれで殿下は王族らしく計算されるところもあるから、リネットの言う通りに狙った可能性は否定できないよ。
私としてはそうであるのなら、殿下が自分の口にした事を手段を選らばずに守ろうとしている気概が感じられて悪い気はしない」
背後を振り返り、車内の様子が覗ける窓を見てみれば八千代達と談笑するアムリアの姿がある。アムリアにとって八千代と風香が何よりの癒しといったところかな。
「にしても八千代と風香もどうなるものかな。エルケネイの外に連れ出す約束だったのが、今ではこうして王国にまで連れてきて、根の深い話に絡む事になってしまったが、どうなるのだろうな?」
八千代と風香は故郷を出奔して難破した挙句帝国に漂着した身であるから、個々の身柄の重要性はアムリアとは比較にならないほど低い。
口止めなり何なりの名目で大量の金子を渡して、解放するのが妥当なところだろうか?
とはいえ殿下もアムリアと八千代達の関係は目の当たりにしているわけだし、そう安易にアムリアと八千代達を離れ離れにはすまいが……
そこも殿下の誠意と覚悟の見せどころか。これはガロアに戻ってからも王都の動きについては、しばし目を離せなさそうだな。
ぞろぞろ近衛騎士団達に囲まれながら王都に戻ってからの私達は、殿下と話をする機会は特になく、用意された王城内の一室で待機するように命じられた。
アムリアと八千代達も一緒だったのは幸いだ。王城に滞在中、時々呼び出しを受けて帝国内で起きた事の報告をしたりもしたが、陛下や重臣方の前に呼び出される事はなかった。
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第百八十一話
王都アレクラフティアの中級役人や下級貴族の住まう一角に、アークレスト王国史上最強の大魔法使いメルル・マルル・アザールの実家がある。
メルルの家は遡ってもこれといって武功を上げた先祖が居るわけでもなく、メルルのような異常な才能を持った子が生まれる筈もない家系だ。
メルルの親の代まではこれといって短所はなく、真面目に仕事をこなす王宮勤めの中級役人として上司や同僚達に記憶される程度で、住まいもその役職に相応しい規模である。
親以前の世代と反して、メルルは国王直属の王軍魔法師団に勤める、いわば選び抜かれた魔法使いの中の魔法使いである。
当然、高給取りでまたその王国の戦略を左右する程の戦闘能力を有する事から、その待遇は破格のものだ。
メルルが望めば今の家よりもずっと好条件で豪勢な屋敷暮らしを出来るのだが、生まれ育った家を離れる事を面倒臭がったメルルは、今も父母と数人の使用人達と共に実家暮らしを継続中だ。
父母も娘が周辺諸国にその名を轟かせる怪物となってからも、これまでと変わらぬ生活を望む無欲ぶりであったから、目下メルルの生活に変化が齎される切っ掛けはないまま今に至る。
その日の朝、メルルは幼い頃に与えられた自室の寝台の上で、むにゃむにゃと口を動かして寝言らしきものを零してから、のっそりと気だるげに体を起こした。
メルルの手によって防諜処理の施されたカーテンの隙間から射しこむ朝陽が、メルルの顔に掛っていて、それが目覚めを促したのだろう。
メルルはもぞもぞと子犬や子猫が目を醒ますような特に意味のない動きをしてから、老人のようにゆっくりと寝台から降りる。
それなりの広さがある部屋の床には脱ぎっぱなしの衣服や空になった酒瓶がいくつも転がっており、栞の挟まれた魔導書の類も無造作に放り出されている。
メルルが目を通すあたり、相当に高位な魔導書でもおかしくはないのだがこの雑な扱い方は、実にメルルらしい。
流石に実家で暴走するような事態にはならないように封印処置は施されているが、並みの魔法使いが見たら泡を噴いて驚きそうだ。
「う~あ~」
メルルの薄い水色の髪はあちこちが跳ねたり、捻じれたりしている上に、右手でボリボリと鎖骨やら頭やらを掻いてしまっているあたりは、いくら他人の目がないとはいえ、妙齢の女性としてはかなり残念な仕草であった。
いまだ寝ぼけ眼に寝ぼけた頭のメルルは、魔導書の他にも王都で流行の服装や髪形などを取り扱った雑誌が山と積まれた机に手を伸ばす。
陶器の大皿の上に昨夜食べ残したトーストが一切れ残っていて、無意識のうちに匂いにつられて手が伸びたらしい。
むにゃむにゃと言いながら伸ばしたメルルの手は、一晩かけてすっかり固まったチーズと輪切りのトマト、牛肉の細切れが乗ったトーストを捉え損ねて、皿ばかりか机の上から床へと落としてしまう。
母に作って貰ったトーストが床と熱烈な口付けをする寸前、ふわりと浮かびあがりそのままゆっくりと上昇して行って、無事にメルルの右手に収まった。
「ふう~、危ない危ない。食べ物を粗末にするなってお母さんに怒られるところだったね」
トーストの落下という緊急事態にメルルの意識がギリギリで覚醒し、咄嗟に浮遊の魔法をトーストに施したらしい。
トーストは冷めきっていたがメルルの手にある内に温められて、再びチーズがトロリと溶けだして、肉の脂の匂いが香り始める。
アツアツになったトーストを齧り、中身が三分の一ほど残っていた果実酒の酒瓶も同じように取り寄せて、咀嚼したトーストを咽喉の奥に流しこんだ。
もしも第三者がこの場にいて、メルルが目を醒ましてから今に至るまでの場面を目撃していたら、どうしてこの大魔女が男運に恵まれないのか、彼女自身にある程度責任があると認めた事だろう。
「ぷはー、生き返りますな~」
トーストと酒瓶を片付けて、椅子の背もたれにかけていたタオルで口元を大雑把に拭うと、メルルは両腕をまっすぐ上に伸ばして、んんん~と鼻に掛った甘い声を出しながら体を伸ばす。
「んんんん、はああ、今日も王城で待機かなあ。アビスドーンみたいなことをする連中はいないと思うけれど、まあしょうがないか」
ふわあ、と果実酒の匂いがする欠伸を零して、着替えを始めようとしたメルルの背後から、二日酔いに悩まされる酒飲みそのものの呻き声がした。
これがもし男の呻き声であったなら、メルルの実像を知る全ての人間が驚愕しただろうが、呻き声の主は女性だった。
「んんがあああ、あったま痛い~~。メルちゃん、ちょっと解毒の魔法使ってくんない?」
夜中にメルルに寝台から蹴り落とされ、床に寝転がっていたすっぴんのハーメルが声の主だった。
道化師としての役職に暇が出来た為、昨日からメルルと一晩飲み明かしていたのだ。
うぐえ、と汚い呻き声をあげるハーメルに、メルルは仕方ないなあ、と一声呟いてから解毒の魔法をかけてやる。
「おふう、メルちゃんの解毒は毎度毎度効果覿面ですなあ。頭の中がシャッキリとして気分爽快だ」
ハーメルは血色の良くなった顔に笑みを浮かべて立ち上がり、床の上で一晩中寝ていた所為で固くなった節々を動き回して凝りを解す。
メルルに体内の酒精を解毒して貰った事で、正常な状態に戻ったハーメルは部屋の中に立ちこめる酒臭さに思わず鼻を顰める。
我が事ながら独身の女二人で一晩中酒を飲み明かし、酒臭さに塗れて朝を迎えるとは色々と終わっているよなあ、とハーメルはしみじみ思う。
ハーメル自身は道化師としての自分に満足しているし、別に結婚願望も無いから構わないのだが、結婚願望ありありのメルルとしてはこの現状はまずかろう。
といってもメルル本人にはまるで自覚がないから、尚更救いがない。
「そろそろ片付けないとねえ~」
メルルは床の上に自分なりの決まりで乱雑に積まれている魔導書や、散乱している下着や服に目をやり、苦笑を唇の上に乗せる。
片付けても五日ほど経てば元通りの雑多な部屋に戻るのは目に見えているが、五日間はまだ他人を招ける状態に出来る、とりあえずそれでいいよね、とメルルは考えていた。
これまでそうしてきたのだから、これまでもそれでいい、という思考なのだが、そんなだから男運が壊滅していると国王にすら認識される羽目に陥っているのを、メルルはまったく理解していない。
ハーメルは、メルルが念動の魔法を使い、ひょいひょいと床の上の物を持ち上げて、大雑把に分類分けして行くのをぼうっと眺めている。
そうしてメルルの寝巻に包まれた尻から腰の線を眺めて、いい体しているんだけどなあ、ととても同性とは思えない事を考えていた。
それからああ、そう言えばとある事を思い出して、何気なしにある事を口にした。
メルルがどれだけその事に執着していたのか、この瞬間失念していたのは失敗だったと、後にハーメルは語っている。
「そーそー、メルちゃん、知ってるぅ~?」
「なにが~?」
「今、お城にドラン君と愉快な仲間達の一行が来ているんだってさあ。殿下の護衛で帝国に行って、その帰りでちょっと滞在してんだって。なんかまた女の子を連れているって、あははは、メルちゃんと違って本当に異性との出会いに恵まれているよね」
ハーメルとしては世間話の一環程度のつもりで口にしたのだが、メルルにとってはそれで済む話などではなかった。
ドランとその愉快な仲間達は、メルルが普段はひた隠しにしている全力を出しても勝てない、求めても得られなかった人材が揃っている奇人変人超人集団なのだから。
ハーメルの口から出て来た言葉をメルルの脳味噌が認識した途端に、念動で浮かんでいた衣服や魔導書があらぬ方向に飛んでいって、ハーメルの左頬をメルルの下着が掠める。
「あっぶな!?」
「ハハハハ、ハーちゃん、それって、それって本当? 本当にドラン君達が来ているの? ドラミナさんも?」
メルルは親友の両肩を握り締め、血走った目で嘘や冗談は許さないと目力を込めて睨みつける。
人類最強の魔法使いであるメルルの目力に、付き合いの長いハーメルも流石に怯む。
ここまでメルルが食いついてくる事に驚き、直後にメルルがどれだけドランに執着していたかを思い出して、軽率に口にした自分の事を馬鹿馬鹿と心の中でなじる。
「本当も本当、大本当だよ! でもそろそろガロアに戻るんじゃないかな? それと殿下と陛下の関係で王城に滞在しているんだから、いくらメルルちゃんでもいきなり突撃しちゃ駄目だからね!」
下手をしたら、いや、実際にメルルは寝巻のまま愛杖ディストールとディストールマグナを手許に召喚しており、今すぐに王城へ突撃を敢行する直前であった。
ハーメルの言葉の釘による制止がなければ、空間転移を用いてでも王城に出向いてドランの前に姿を見せた事だろう。
「う、うう、やだなあ、そんな事はしないよお? ほ、本当だよう?」
視線をあちらへこちらへと泳がせて、隠せやしないのに背中に二本のディストールを隠そうとするメルルの姿は、誰が見ても嘘を隠し通そうと無謀な試みに挑むお馬鹿さんにしか見えなかった。
ハーメルはこりゃドラン君が関わると駄目だなあ、としみじみと諦めると同時に、ドランに対してかすかな期待を抱いてもいた。
この男運と引き換えに強大な魔力を得たと噂される親友に残された、最後かもしれない希望がドランである可能性が大なのだ。
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第百八十二話
突然、部屋に飛び込んで来たかと思ったら私達以外に殿下の姿がある事に驚くメルルに、私は呆れを通り越して何やら憐れみすら抱いて――大変失礼な事ではあるのだが――簡単にこの状況を説明した。
バストレル亡き今、人類最強の魔法使いと言っても過言ではないメルルだが、この状況を瞬時に把握する事は出来ていないようだしな。メルルはひょっとすると、魔法以外に関しては凡人かそれ未満の能力しか発揮できないのかもしれん。
「これからガロアに戻るところなのですが、殿下がわざわざ見送りに来て下さったのですよ。私には過ぎた事で恐縮することしきりです」
殿下が嘘つけ、と苦笑交じりに私を見ているが、恐縮しているのは本当だ。
農民騎爵の見送りに王太子が来るなどそうそうある事ではない事くらい、貴族社会に疎い私でも察しがつくわい。
私の説明に対して、正真正銘の貴族で王宮勤めも長い筈のメルルは、目を白黒させながら、へええ~などと口にしている。
ふうむ、宮廷魔法使いとして実際に魔法を行使する以外にも書類仕事や献策等もしていると思うのだが、この大魔女殿は果たしてきちんと仕事が出来ているのかと、ふとした疑問にかられる対応である。
ひょっとしてというか、以前から薄々感じてはいた事なのだが、メルルはひょっとしなくても魔法以外はかなり残念な女性なのではないだろうか。
「ああ、そっか、そっか。ドラン君達はもうガロアへ帰るんだぁ。へええ~~。……ええ!? もう帰っちゃうの? え、え、え、嘘ぉ、折角また会えたのに! そんなああ~」
メルルは殿下の前だという事を意識した様子はなく、馬鹿正直に自分の心情を大声で暴露する。
時と場所次第では不敬と一喝されてもおかしくないのだが、殿下はメルルのこういった言動には慣れているのか、やれやれと言わんばかりに肩を竦めている。
ロマル帝国と比べると随分と緩いというか、おおらかな気風のアークレスト王国だから、メルルは今の立場を保てているのかもしれん。
他所の国だったらその戦闘能力だけを求められて、様々な手段でメルルを拘束して支配しようとするところではなかろうか。
メルルは周辺諸国との軍事関係を激変させる力の持ち主だが、アークレスト王国がこれまで彼女を積極的に運用してこなかったのは、メルルの人格が能力に反して命の奪い合いに全く向いていない事を理解しているからだろう。
メルルに強大な力を振るう事を強いて、何百、何千、いや能力的には何百万でも何千万でも敵国の兵を一方的に虐殺できるが、確実にメルルの精神は罪悪感に押し潰されて崩壊する。
人類最強の魔法使いと称するに相応しい能力の持ち主でありながら、メルルの精神構造やその強度は平凡な人間のそれとほとんど変わらない。
メルルは己の立場と責務を理解はしているだろうし、覚悟もしているだろうが、それでも短い時間で私なりに分析したメルルの精神では、大量殺人には到底耐えられまい。
メルルを効果的かつ長期間戦力として運用するのならば、彼女を強大な抑止力として存在を誇示するか、敵国の突出した力を持った個体にぶつけ、敵国の最大戦力の運用を潰すのが最良の道だろう。
好き嫌いの分かれるところだろうが、私個人としては、覚悟さえ固めればあるいは理由さえあれば殺人が出来てしまう類の人間よりも、メルルのような覚悟の固まり決まらぬ人間の方が好もしい。
「ねえねえ、ドラン君~、ちょっとだけ、ちょっとだけで良いから王都に残らないかなあ? ドラミナさんでも私は大歓迎なんだけれど、どう? どうどうどう?」
メルルはこちらの背筋がゾクゾクするような猫撫で声を出して、私とドラミナに懇願してくる。
こういった事を意識して男に出来るような女性だったなら、婚期を逃しているだのなんだのと言われる事はなかったろうに。
そう感じられる位には中々魅力的な声と、懇願の仕草なのである。それを活かしきれないからこそのメルルなのだろうけれどな。
「アークウィッチ殿から光栄なお申し出ですが、この転移陣の使用に関して厳密に規定が定められていますし、そうそう使用の時間をずらすわけには行かないと思うのですが……」
この転移の間は王城内部へと繋がる、国内でも有数の重要性を持つ部屋だ。使用するにあたっては厳しい規定が設けられ、使用時間や回数もきっちりと予定が組まれている。
いくらメルルでもそれを自分の一存だけで覆す事は、出来ないのではないだろうか。それに私としてはガロアにはなるべく早めに戻っておきたい。そうでないとレニーアの事が何時まで経っても気掛かりなままだからな。
「うう~う~、そ、そうだけど。……そうだ、じゃあ、後で私がドラン君をガロアに転移させてあげるよ! それならいいでしょ、ね、ね、ねえ~~? 一回だけ、一回だけでいいから~~」
メルルはこれ以上ない名案が思い浮かんだとばかりに、声を張り上げて私へと訴えかけて来る。
一度、持てる全ての力を振るう事に味をしめたようで、メルルは私かドラミナと再び刃を交える事しか考えられない状態のようだ。
やれやれここまで求められるのは悪い気分ではないのだが、今回は時と場合がよろしくない。
ふうむ、かといってこのままメルルの言い分を却下してもそれはそれで禍根になりそう気配もある。しかたがないとこちらが折れる場面かな。
「そこまで熱心に求められるとは意外ですが、殿下、メルル様もおっしゃるように後ほど私だけガロアに送っていただくと言う事で、一度だけ手合わせを行っても構わないでしょうか?」
メルルの言動にすっかり呆れた顔になっていた殿下は、私からの提案に少し考える素振りを見せたが、王国最強の魔法使いとその後継者と目される私の手合わせならば、行わせて損はないと判断してくださるだろう。
まあ、メルルの求める全力戦闘を行うのならば、余人の目につかぬように色々と隠蔽をさせてもらうがね。
殿下はすぐに思案を切り上げて、私とメルルの顔を見ながら口を開く。メルルは瞳にキラキラと期待の光を輝かせながら、殿下を見つめている。これでは否の言葉は口にしづらいだろうなあ。
「ともすれば国内で最も注目の集まる組み合わせだな。この部屋の使用予定それ自体が変わらないのならば、問題にはなるまい。転移する人数は減るが、一人だけであるし許容範囲の筈だ。
ただメルルは自分の仕事を終えてからにしたまえ。自らの欲求を果たそうと無理を通すのならば、それ相応の責務を果たし、対価を払うのが筋と言うものであろう」
殿下から釘こそ刺されたものの、私との手合わせを否定はしない言葉に、メルルはぱっと顔を輝かせてから、すぐに引き締め直して背筋を正す。
自分の我儘が通ると分かった途端、まるで頭のてっぺんから鋼鉄の芯を通されたような綺麗な立ち姿になるとは、現金な女性だ。
「はい! 殿下の言われる通り、本日の業務の全てを見事完遂してごらんにいれます。ドラン君、それまでちょっと待っていてね。
ドラミナさんやセリナちゃん達にはごめんねだけど、ちょっとだけドラン君を貸してね! それでは、殿下、シャルド卿、失礼いたします」
私達に口を挟む猶予を与えず、メルルはキビキビとした動作とハキハキとした言葉で、風のような速さで部屋を後にして、今日の分の仕事を片付けに全力で駆け出していた。
やれやれ、あれで能力が低かったら、とっくに退職を勧告されていただろうと確信させる対応だ。
私はあっという間に姿を消したメルルに溜息を一つ零してから、殿下を振り返った。
「いささか甘やかし過ぎでは?」
「あれで傲慢な性格をしていたなら、まだ扱い方も変わったのだが、メルルはああいう子供っぽい性格だからな。魔法師団の師団長を含め、私達はどうにも甘い対応をしてきたのだよ」
「メルル様は人並み以上に良識をお持ちですが、感情の制御が時々上手くいかないのが玉に疵ですね」
「そうは言うが、彼女があそこまで自分の欲望を優先する言動を見せるのは、君に関わった時だけだよ。
ふふ、なんならば君がメルルを娶ってくれるのならば、我々も安心出来るのだが、一考の余地はないかな?」
アークウィッチと私の組み合わせか。王国の上層部ならば悪くないと考えておかしくない組み合わせだが、政略結婚という奴になるのではなかろうか。
しかしメルルの方は結婚を焦っていると言うが、私はそうでないし数年内に結婚する予定もあるので、難しい話だ。
「どうでしょう。ただ出来るのなら、セリナ達のいる前でそのような発言はなさらないでいただきたかったですね。怖い目で見られてしまいます」
殿下はそこまで本気で口にはしていないようだから、セリナ達もそう目くじらを立てていないのがせめてもの救いだ。やれやれ心臓の縮む思いをしてしまったな。
「それ位は甘受していいのではないかな? 我が王国で君ほど周囲に美しく聡明な女性達を侍らせた男はいないのだ。アークレスト王国どころか、世界中の男が君に嫉妬してもおかしくはない」
「それは重々承知しておりますし、覚悟もしておりますよ」
「おや、自覚はあったのか。それならいい。いつか、どこかで物影から飛び出て来た男に刺されるような事は避けてくれよ」
「時々、セリナに似たような事を言われておりますから、日ごろから気をつけていますのでご安心を」
まあ、セリナの場合は男と限定はしていないのだが、ガロア魔法学院では時々私を呪う者が居たくらいで済んだし、今後も大丈夫ではないかなと思うのだが、これはやはり楽観的過ぎかなぁ。
帝国に行ってドランが得たもの
・スペリオンからのさらなる信頼
・王国からの評価と褒美
・八千代、風香、アムリアとの縁
・帝国の事情
・メルルからの執着 ←NEW
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第百八十三話
ベルン村から見てエンテの森を挟んで北東方面に領土を広げるガンドゥラは、轟国の誇る四神将の内、北の要である玄武将軍の率いる大軍勢との間に戦端を開いていた。
ドランが本人の知らぬところでメルルに目を付けられた頃には、ガンドゥラ寄りの国境近くにあるガンサ川を挟み、パナーラ原にて両軍は対峙し、激しい戦闘を演じている。
この時、パナーラ原に布陣したのはガンドゥラ軍十六万に対し、轟国軍二十八万。
実に十万以上の兵力差をもって対峙している両軍は、からりと晴れ渡った空の下で、容赦なく殺傷能力の高い攻撃魔法と実用化された銃、そして大砲の砲火を交わし合っていた。
付与魔法を施された鋼鉄の武具を、強化魔法によって増幅された身体能力によって縦横無尽に振るい、戦端が開かれてから一時間と経たぬ内に、無数の屍を築いている。
上空には天馬の牽く戦車に乗ったガンドゥラの兵士達が、空戦用の投げ槍や攻撃魔法、鋼鉄の矢を放ち、これに轟国側もまた飛行能力を持つ幻獣に跨った飛行騎兵が、後方に布陣している飛行戦艦からの援護を受けながら乱戦模様を描いている。
地上におけるパナーラ原の地形は、轟国側にとっては分かりにくかったがガンドゥラ側の陣営に対して茂みや窪地が多く存在し、また急な勾配の崖となっている。
ガンドゥラ側がかねてより構築していた防壁が巡らされており、野戦ではなく攻城戦の様相を呈していた。
ガンドゥラ側の仕込みにより、ガンドゥラ陣営までの地面は魔法によって大きくぬかるんでおり、轟国側の歩兵や騎兵達は足を取られて機動力を奪われてしまっている。
そんな彼ら、高地の利を持つガンドゥラ側から放たれる銃弾や、魔法が付与された矢は無慈悲に降り注ぎ、相当数の兵士達が命を散らしていた。
地の利を得たガンドゥラ側が戦況を優位に進めてはいるが、轟国の膨大な兵力と経済力によって実現された潤沢な装備、技術力に支えられた最新の兵器群の投入もあり、決して油断も安堵もできるような状況ではない。
空中に展開されている轟国の飛行戦艦は、搭載されている大砲の質や艦そのものの大きさや速度、搭載可能な兵員や一度に出撃できる飛行騎兵の数でもガンドゥラ側を上回っている。
空の戦いが大きく轟国側に傾けば、航空支援を十分に受けられる状況になった轟国側が一気に有利になるのは自明の理というもの。
戦端が開かれてより空中戦がガンドゥラ側優勢のまま進んでいるのは、ひとえにこの戦闘にガンドゥラの王子バーシャナが参戦しているからに他ならない。
ガンドゥラに伝わる天空神の神器、雷と嵐の力を秘めた蒼銀の鎧アーニラジャナを纏うバーシャナは、その手に鎧と同じく蒼みがかった銀色の大弓を手に、自在に天空を飛翔して轟国の飛行騎兵を一騎、また一騎と葬っていた。
バーシャナは肉体を構築する全ての部位に、造形を司る神の繊細な配慮が行き届いたとしか思えぬ調和と黄金比を体現した美と、傑出した武人のみが実現し得るしなやかさと剛性を兼ね備えた肉体を持つ若き王子である。
空中にて先陣を切り、最も多くの轟国兵に狙われながらもバーシャナのガンドゥラ人らしい濃い茶色に近い褐色の肌や、きっちりと左右に分けられた赤髪、そして磨き抜いた黒玉を思わせる瞳に焦りや恐怖の色は欠片も存在していない。
バーシャナは流麗な曲線を主とする蒼銀の鎧アーニラジャナと大弓ガンストルムの変わらぬ感触を感じながら、自分が討つべき敵の優先順位を瞬時に更新し、次々と的確に、無慈悲に敵を葬り続けている。
アーニラジャナに覆われたバーシャナの指が、ガンストルムの青白い雷の弦を引けば、蒼銀の鎧と大弓に宿る天空神の加護が渦巻く暴風と雷の矢となり、必中の狙いの元に放たれる。
轟国の飛行騎兵は騎獣が生来持つ高い魔力と、彼らの装備に付与された防御術式によって、他国の兵士と比べれば格段に高い総合的な防御性能を誇っていたが、バーシャナの放つ神威の矢の前には然したる効果もない。
放った矢がどうなったかなどバーシャナにとっては確かめるまでもなく、彼は矢が弦から離れた瞬間には既に次の敵に狙いを定めているほどだった。
地上と空に展開したガンドゥラ軍の指揮は他の将軍達に一任し、バーシャナはほぼ全方位から放たれる矢や魔法、銃弾の数々をまさに自由な風の如く空を飛び、避け続けている。
自分自身に降り注ぐ千を越そうかという攻撃の全てを完全に把握し、見切り、いっさい揺らがぬ精神が肉体を完全に掌握する事で、華麗な舞踏の如き回避機動を実現していた。
バーシャナの狙いはちまちまと飛行騎兵達を削る事ではない。轟国飛行艦隊の中枢を叩き、指揮系統の混乱と航空支援を行えない状況に追いやる事だった。
稲妻の如き鋭敏さと風の如く自在に動き回る二種の機動を変幻自在に織り交ぜて飛ぶバーシャナの狙いが、飛行騎兵達の航空母艦や飛行戦艦である事は轟国側もたちどころに把握するところとなった。
母艦の
バーシャナの視界を、通り抜ける隙間など到底見つけられない密度の対空砲火が埋め尽くす。
この光景を目にすれば、夏の夜、自ら火に飛びこむ羽虫の如く、バーシャナが呆気なく命を散らすと、彼を知らぬ誰もが思う事だろう。
アーニラジャナの持つ防御性能ならば、無策で対空砲火の雨の中に飛び込んだところでバーシャナに傷一つ付く事はないが、彼は王家伝来の神器に煤の一つであっても付ける事を良しはとしなかった。
「天空に座します偉大なる神インドゥルシャッハよ、我が戦いを御照覧あれ。
ガンドゥラの兵達よ、聞け、そして見よ! 我らの国を、大地を、空を、そして愛する民を、汝らの家族に害を成さんとする東方の蛮族に、このバーシャナが神意の代行者として神罰を執行する!」
朗々と謳うバーシャナの声音に眼下のガンドゥラ兵達は鼓舞されて、元より高かった士気が天井知らずに高まりを見せる。
長らく纏い手のいなかった神器を覚醒させたバーシャナは、ガンドゥラの兵士達にとって比喩ではなしに、神意の体現者そのものなのだ。まさしく
猛禽の鋭さと氷海の如き冷たさを瞳に宿し、バーシャナはガンストルムの雷光の弦をあらん限り引き絞り、蒼銀の大弓からは蒼い雷と暴風が溢れ始める。
轟国の飛行艦隊側もバーシャナが放ち始めた天空神に由来する膨大な力を感知し、直掩の飛行騎兵達が大慌てで母艦に帰投するか、あるいは急いで距離を取り始めている。
各艦は攻撃に回していた魔力の全てを搭載されている防御障壁の出力を最大にし、連携して防御障壁の強度を高めて備えた。
「天地を焼く雷光、世界を攪拌する暴風、我が鏃に宿る神意は汝の死を定めた。これは神罰なり、ガンシャル・スラグマ!」
バーシャナの指が雷光の弦を解放した時、ガンストルムから放たれたのは、天地を焼く雷光と世界を攪拌する暴風という表現に何ら遜色のない、凝縮された天災そのものであった。
効果範囲を限定された上に、指向性を与えられた数千数万の雷と一国を覆う規模の大嵐が轟国の飛行艦隊の全てを飲み込み、航空母艦三隻、飛行戦艦五隻を含む合計三十八隻、飛行騎兵二万余りが、バーシャナの放った奥義によって原形をとどめぬ鉄屑や木片、肉片と変わる。
更に余波によって生じた暴風と雷が地上の轟国兵達にも降り注ぎ、戦場の趨勢はもはや覆し難いほどにガンドゥラへと傾いた。
さしものバーシャナも神器の最大稼働と奥義の行使によって、精神力と体力の大幅な消耗を余儀なくされたが、先程までの晴天が黒雲に覆われ、そこから降り注ぐ無数の雷を瞳に映し、暴風に全身を晒すごとに失われた体力が補填されて行く。
自然現象すら左右するほどの圧倒的な力が我が手にある事への優越感や、自国の兵の犠牲を一人でも多く減らせた事への安堵感、敵国の兵とはいえ凄まじい数を虐殺した事への罪悪感。
それら全てが複雑に混じり合った心も、雷と暴風に身を晒せば綺麗に吹き飛ばされ、何と爽快である事か。
戦場の中にあって忘我しながらも、バーシャナの精神と肉体は決して弛緩してはいなかった。
わずかに逃れ得た飛行騎兵以外は影も形もなくなった轟国の飛行艦隊のはるか後方に、神器を纏っていても決して油断のならぬ強大な気配が生じるのを鋭敏に感じ取っていた。
「来たか、玄武。四罪将と四凶将も一緒か? どちらにせよ、我が弓の餌食とするまでの事」
傲慢なまでの自信と共に、バーシャナの黒い瞳は彼方より天に昇り、こちらに迫り来る複数の黒点を捉えていた。
後に最悪の戦乱時代と呼ばれる、人知を超越した超人・魔人達が無数に参戦した大戦の一幕は、こうして幕を開けた。
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第百八十四話
冬の冷気が遠ざかり、春の足音が徐々に聞こえ始める昨今、いよいよガロア魔法学院の卒業式を迎える日が間近に迫っていると言う事もあり、私とセリナ、ドラミナ、リネットの四人で男子寮にある自室の整理に勤しんでいた。
これまで各地の戦闘で収集してきた戦利品の数々をはじめ、授業や事務局斡旋の依頼で作成したマジックアイテムの余りや試作品達、錬金術をその場で行使する為の道具一式に購入した魔導書や小説、詩集、歴史書をはじめとした書籍。
セリナやドラミナ、リネット用にとガロアで仕立てた衣服や余った布地に裁縫道具の数々。
何かあった時の為にと常に常備しておいた保存食を入れた箱に、飲料水や酒瓶を詰めておいた樽。日当たりのよい窓辺が定位置になっていたユグドラシルの苗……
普段は内部の空間を拡張してあるドラミナの馬車や、収納魔法を用いて仕舞い込んで部屋の空間を確保していたのだが、改めて全て取り出して確認して見ると出るわ出るわ、いやはや、この一年近くで随分と荷物が増えたものだ。
ベルン村で暮らしている時は非常時にすぐさま村を離れられるようにと、常に身軽にしていたのだが、環境が変われば生活形態が変わるのはいたしかたないかな。
セリナ達は三人共に長い髪の毛をまとめた上で布を巻き、私も含めて全員が汚れても良い動きやすい格好でずらりと部屋の中心に並べた荷物を前に、要るものと要らないものとを選別する作業中だ。
ドラミナは生まれた時から傅かれ、世話をされて生きて来た出自であるからこういった事は出来ない、というのは彼女の素性しか知らない者の早とちりというもの。
料理、洗濯、掃除とおよそ家事に分類される行為で、ドラミナに出来ない事はない。国を滅ぼされてから放浪している間と、それ以前に女王の座に就く前から好きで学び、獲得した高い家事技能の保有者なのである。
セリナはベルン村に来た頃から一通り人並み以上にこなせていたし、私も実家を離れて一人暮らしをしていた経験がある。
リネットはというとリビングゴーレムとして製造された際に、世の万事に関する知識と技能を与えられている為、こちらもまた熟練の使用人顔負けの技能持ちだ。
そんな私達が四人がかりで掃除と整理整頓を始めたわけだが、荷物の中で最大のものはドラミナの寝床であり最後の領地でもある棺桶と、リネットの専用の卵型装置の二つだった。
こればかりは代用が利かず、また用いられている技術や素材の数々、由来などの理由から余人の手に渡すわけには行かない品である為、ベルン村に持って行く事は決定済みだ。
並べられたドラミナの棺桶とリネットの卵型装置など諸々を前に、腰に手を当てたセリナが、口を開く。
「これら以外に絶対持っていかなければならない物ってあるでしょうか?」
私は顎に手を当てて、セリナと同じように部屋の中央に並べられた品々を見回す。四人暮らしと考えてみても、少し多いかな?
「書籍の類はベルン村に持って帰ればシェンナさんやマグル婆さんが喜ぶだろうし、いずれは無料で村人に貸し出す図書館などを立てる時に役立つだろう。
魔法道具の類は大部分を事務局に売り払ってお金に換える予定だし、もういくらか減るさ。ベルン村とガロアの交通事情が改善されるまでは、手に入れるのに時間の掛りそうな素材は持っていきたいな」
「ドランさんの作った芸術街道を拡張する予定なんですよね。あそこが広くなればもっとたくさんの人が来てくれるようになりますね」
セリナの言う夏休みの間に私達が敷設した道の効果で、ベルン村とクラウゼ村間は以前より安全かつ迅速に通れるようになっている。
更に道を拡張して一度に利用できる人数を増やし、馬車の定期便を通す案は、既に村長やシェンナさん、領主となるクリスティーナさんに伝えてある。
「作業自体は一日で終わらせられるが、新しい移住者向けの事業として取っておく予定だから、すぐに手を付けられないのは歯痒いところではあるね」
何もかも私達の手で済ませてしまうのが最も早く、費用を安く抑えられるのだが、これからは領主となるクリスティーナさんの下で働く予定であるし、仕事を用意する事も考えなければならなくなる。
ドラミナやフェニアさんから治政についてかねがね助言を貰っていたが、最近ではその頻度も増えて、今ではすっかり教師と生徒のような気分だ。
その教師であるところのドラミナが、自分の棺桶に腰かけながら、教えた事を忘れていなかった生徒である私に、にっこりとほほ笑む。
「ドランほど多芸ですと自分で何でもしたくなる事でしょうけれど、そこはじっと我慢ですよ。ベルン村に元々住んでいらっしゃる方々は問題ないでしょうけれど、新しく移住して来られる方々に、あそこの環境はいささか酷に過ぎます。
猛獣や魔物を相手の狩りが日常茶飯事では、神経がもたないでしょう。それ以外に生活の糧を得る手段を、なるべく多く用意しておく事を忘れてはいけませんよ」
「ああ、肝に銘じておくよ。仕事をしたくても仕事がなくて生活が出来ない者が居るなど、私達にとっては許容し難い事だからね。
さあ、私達の未来についての具体的な話は、近い内に上司になるクリスティーナさんを交えてからの方がいい。片付けを再開しよう」
軽く手を叩き、意識を未来への展望から目の前の現実に皆の意識を引きもどす。四人分の荷物だが、片付けるのも四人なのだからそうそう時間はかかるまい。
私の発言に、リネットが真っ先にフンス、と大きな鼻息を気合の代わりに出しながら、大きく頷く。
「どうぞリネットにお任せ下さい、マスタードラン。このリネット、炊事洗濯掃除戦闘お使いまでなんでもござれのリビングゴーレムなのです」
リネットは表情それ自体の変化には乏しいが、親しい付き合いの私達には、はっきりと分かるほど自信に満ちていた。
リネットの制作者である故イシェル氏は、リネットをメイドゴーレムにしようとしたわけではないだろうが、彼女の家事技能が大変に優れているのは確かな事実である。
ここぞとばかりに自慢げな態度を見せるリネットに、セリナが自分も負けじと声を張り上げた。
「あ~、リネットちゃん、ここぞとばかりにドランさんに主張するのはずるいよ。私だってお掃除にお料理にお洗濯だって、お嫁さんに必要な事はママから教えてもらっているから、出来るんだからね」
惜しむらくはこの部屋の中で、セリナの長大な大蛇の下半身はいささか邪魔になってしまっている事だろうか。
まあ、変身の魔法を使って人間の二本脚になれば解決する問題だが、必要に迫られない限り、セリナはあるがままの姿である事を好んでいる。
対抗心を見せるセリナとリネットを諌めたのは、ドラミナだった。彼女もまた私達と同じ三角巾とエプロンに手袋を着用した格好のまま、腰掛けていた棺桶から立ち上がる。
何気ないその仕草は、黄金のダンスホールで踏まれるステップでないのが不思議なくらいに優美であった。
音も影もなく棺桶から降り立ったドラミナは、棺桶の傍らに纏めておいた
「セリナさんもリネットさんも、ドランの前でよいところを見せようとなさるのは大いに結構ですが、張り合って作業が遅れてしまっては元も子もありませんよ。
私は私物を馬車に仕舞ったら、すぐに戻って参ります。ドランも二人の事を甘やかすのは良いですが、あまり放置し過ぎてはかえって二人の為にはなりませんからね。そこのところをよく覚えておいてください。
飴と鞭とまでは申しませんが、貴方はどうにも私達の手綱を握るのが、時々下手ですからね」
ドラミナからの指摘に私を含めてセリナとリネットもまた、痛いところを突かれて肩をしょんぼりと落す。ドラミナにこういった事を言わせてしまう辺り、これもまたドラミナに対して私が甘えてしまっている証拠か。我ながら反省し、改善しなければなるまい。
「ドラミナには何も反論できないな。厳しくするべきところを君に任せてしまっていて、すまない。言われた通りに心掛けよう」
「素直でよろしい。それでは厩舎へ行って参りますが、きちんと作業を進めていてくださいね」
ドラミナが部屋を後にするのを待ってから、しょんぼりと肩を落としているセリナとリネットに声を掛けて、作業を再開させる。この部屋とお別れを告げるまではまだいくばくかの時間の猶予はあるが、余裕は持っておくに越した事はない。
「さあ、ドラミナに言われた通り片付けを進めておこう」
「そうですね。ドラミナさんは頼り甲斐があるから、ついつい甘えちゃいますけれど、私達が頼られるくらいにならないと」
気持ちを改めてやる気を見せるセリナに、リネットも静かに同意する。
「リネットもセリナに同意します。目下、要る物と不要な物の選別は終わりました。後は売却先ごとに不要な物を類別しましょう。ほとんどは魔法学院の事務局で買い取ってくれるものと思いますが、そうでないものの処分は如何なさいますか、マスタードラン」
「ヨシュアやゼノン、ファティマ達に譲るものと魔法使いギルドに売却する物だな」
「御学友宛のものと換金用のものですね。ではマスタードランには御確認を戴き、セリナとリネットとで分けて行きましょう。セリナ、お願いします」
「うん、さあ、ドランさん、どれから片付けて行きましょうか? なんだか、どれもこれも思い出があって、捨てるのが忍びなくなってしまいますね。手放さなければいけないって、分かってはいるのですけれど」
「手放した分の思い出は、新しい思い出がすぐに埋め尽くしてくれるよ。さてと、こちらの精製した精霊石と魔晶石は、ゼノン達に必要な分だけ譲るとしよう。リネット、魔法薬と材料の在庫はどうかな?」
リネットは木箱の中に詰められている土瓶や硝子瓶を一つ一つ手に取り、確かめ始める。在庫自体は私自身も把握しているが、複数人で確認をする事が大切だ。
木箱には中に何を収納しているのか、いつ出し入れしたのかを記録する手帳が付随していて、リネットは手帳の記録との差異を確かめ終えてから、口を開く。
「手帳の記録通りすべて揃っています、マスタードラン。これらはベルン村への持ち帰り分でよろしかったでしょうか?」
「ああ、その予定だね。薬と武具の類はなるべく多く持ち帰りたいからな。ガロアを出立する前日に、市街で買い集めて行くのも忘れてはいけないね」
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第百八十五話
魔法学院の卒業式には卒業生の親族や彼らとの繋がりを持つ有力な商人や平民達も足を運ぶ為に、おおいな賑わいを見せるものとなる。
加えていえば、ガロア魔法学院において今年からはこれまで顔を見せる事のなかった、エンテの森のエルフや亜人達がごく少数だが居る。
ガロア魔法学院の学院長が、エンテの森に存在した最後の王国の王女である事やユグドラシルの姫巫女を務めていた事から、以前よりエンテの森との繋がりはあったが、それはあくまで学院長個人のものであって、魔法学院やアークレスト王国に深く関わるものではなかった。
それに変化が生じたのは、昨年からディアドラをはじめとしたエンテの森の住人の一部が、外部から招かれた講師として魔法学院に籍を置いた事が切っ掛けだ。
もっと言えば、昨年の今頃にエンテの森で生じた、魔界の尖兵達による侵攻を私達が協力して解決した事が、ことの始まりであるだろう。
かくてガロア魔法学院の敷地の中には、卒業式に出席しているエンテの森の関係者目当ての人々も含まれていた。
飛び級試験を合格した私を含めた卒業生達は、普段の制服の上に深い海の色をした帯を肩から斜めに掛けて、自分達が今日、魔法学院を飛び立つ事を分かりやすく示している。
私の使い魔として登録されているセリナとドラミナも、今日を持って使い魔の身分を示すメダルを返却し、同時に私の使い魔から卒業となるわけだ。
セリナはこの一年、ドラミナは約半年程の間、魔法学院で特に不祥事を起こす事もなく、私と共に真面目に授業に出席し、積極的に事務局からの依頼を解決し、私の知らぬところで交流の輪を広げていたりもした。
魔法学院では多少の悪縁がないわけではなかったが、それよりもはるかに多くの良縁に恵まれたと断言できる。
再びこの魔法学院の敷地に足を踏み入れる日が来るのか、それが何時になるのかは分からないが、この場所で過ごした記憶は光り輝く宝となって、私の心に残り続ける事だろう。
既に卒業式それ自体は学院長からの卒業証書と記念品の魔法の杖の贈与が、式場の壇上に上がった卒業生一人ひとりに手渡され、卒業生代表に選ばれたフェニアさんの訓示も済んで、つつがなく終了している。
本校舎の中にあった式場から外に出て、仲の良い者同士や親族達で語り合う者達がいる。
朝から今日の卒業式を祝うかのような澄んだ青空が広がっており、私達のこれからが幸先の良いものになるような気分になる。ちなみに、気候関係の神々が気を回してくれた気配はない。
普段、魔法学院に来ていない人達が多い為、セリナとドラミナの姿には随分と驚かれたが、久しぶりの反応であるからかえって新鮮でもあるし、二人は気にしていない。
私自身もまた競魔祭での戦いとスペリオン王子との関係の事もあって、ちらほらと親世代の貴族の方々から視線を向けられているが、話しかけてまでは来なかった。
私の方でも彼らに顔を売る予定はないので、こちらから話しかける事もしなかった。良くも悪くもベルン村の環境は特殊で、その領主となるクリスティーナさんとその下に就く私達は飛び抜けて特異である。
そんなものだから、貴族社会に必須のお付き合いに関しても、さてどうしたもんじゃろかい、と少しばかり腰が引けていたりする。
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第百八十六話
セリナ達が別れを惜しむ何人もの生徒達と離れ、私のところに戻ってくるのと同時に、ファティマやネル、フェニアさんにクリスティーナさん、レニーアとイリナもまたこちらに足を向けてくれていた。
周囲の生徒やその親御さん達は、競魔祭で圧倒的な優勝と言う実績を達成した面子が揃う場面に、好奇心を隠さぬ視線を向けている
特にクリスティーナさんは春からベルン男爵となる事が正式に通達された事もあり、良くも悪くも大貴族アルマディア家の令嬢が家を離れる事への注目が、否応なしに高まっている。
祖父が王国北部の開拓責任者だった事もあり、王家が凍結していた北部開拓を再開させるのでは、とガロアの総督府や近隣の貴族や有力な商人達の間でまことしやかに噂されているのは、私も耳にしている。
クリスティーナさんは国内でも特に高貴な血統とフラウ王女殿下のお気に入りである事やその美貌、生徒間のみならず王国規模で見ても一、二を争うと言われる実力から、婚姻話を持ちかけようという動きを見せる者達が多い。
そういった人々の動きを牽制する為に、クリスティーナさんは無言の圧力と時折視線を交えて牽制する、という面倒な真似をし続けた為に、少しだけ疲れているようだった。
また卒業生に対して慕っている後輩達が制服のボタンの一つを思いを込めて渡す、という風習があり、クリスティーナさんは両手で抱えきれないほどのボタンを渡されていて、ポケットからも溢れんばかりのそれらにも辟易としていた。
好意ではあるが一方的にこれでもかと押しつけられれば、人の良いクリスティーナさんでも耐え難いものがあるだろう。
「クリスティーナさん、取り敢えずそれをしまったらどうだい?」
私はクリスティーナさんの惨状を見るに見かねて、彼女の影を指差しながら提案した。
私もよく使っている、影を亜空間化させて倉庫とするシャドウボックスの魔法は、クリスティーナさんも習得していた筈だ。
「そうするのが賢明だな。私のはドランと違って、ちょっとした箱くらいの広さしかないが、なんとか収まりきるだろう」
「クリスティーナさんは相変わらず非戦闘系の魔法が苦手だな」
「これでも前よりはマシになったが、まだまだ精進の途中さ」
身体能力を強化する類の魔法に関しては、ずば抜けた適性と習得速度を誇るクリスティーナさんだが、シャドウボックスのように日常の一幕の時に役立つ類の魔法に関しては、あまり才能に恵まれていない。
ドラッドノートでいくらでも補えるだろうが、あまり道具に頼るのをクリスティーナさんは好んでいなかった。
ドラッドノートの方はクリスティーナさんの事を完全に主と認めているから、道具である自分を好きなように使い倒して欲しいと願っているようだが、こればかりはクリスティーナさんも頑として譲らないらしい。
『クリスティーナ、自分でしなくともそのような瑣末な事は私がどうとでもしますのに』
少年とも少女とも聞こえる、鈴の音のように澄んだ声の主は、クリスティーナさんの自室に保管されている筈のドラッドノートである。
エルスパーダ共々、クリスティーナさんの腰から離れているドラッドノートだが、超先史文明の遺産であるこの剣にとって、主以外の者にも念話を繋げる事くらいは朝飯前だ。
流石は私の心臓を貫いた剣と言っては、皮肉にしかならないかな?
「人間、便利だからと言って安易に道具に頼っては、性根を腐らせる一方だ。生憎と私は自分の事を俗人だと思っているからね。ドラッドノートに一度頼ると、ずるずると頼り続けてしまうのが目に見えている。
そうなってしまっては、君の使い手として相応しくない人間があっという間に出来上がってしまうぞ。私を信じて君の所有を認めてくださっている方々に、申し訳がない」
『クリスティーナはそのような人間ではないと私は結論を出しているのですが、主である貴女がそう考えているのなら、仕方がありません。このドラッドノート、使っていただけない事を渋々我慢いたします』
「最近、私に対して遠慮がなくなってきたな。ニクスが増えたのかと思ったぞ。私の使い魔なり武器になるとそうなるものなのか?」
『それだけ貴女が親しみやすく、従僕に対して分け隔てのない主人だという事です』
おやまあ、ドラッドノートとクリスティーナさんは随分と砕けた関係を構築していると言うか、何と言うか。
以前、クリスティーナさんから聞かされたドラッドノートと初邂逅した時の様子とは、もう別人であるかのようだ。まあ、これ位の方がクリスティーナさんはドラッドノートと付き合っていきやすいだろうな。
「ベルン村に行ったら帳簿管理とか書類仕事では、ドラッドノートに手伝いを頼む予定だけれどね」
『曲がりなりにも兵器である私にさせる事ではありませんが、主人の役に立てると言うのならば、このドラッドノートにとっては何よりの褒美です』
「はは、本当にそう思っていると言う事にしておこう。しばらくは人手不足だろうしな」
ふむ、クリスティーナさんの下で働く私にとって、ドラッドノートは同僚兼上司の武器という事になるのか。実に奇妙な関係だが、前例のない奇妙な事ばかりになるだろうベルン村ならば、それもまたありだろうともさ。
クリスティーナさんがこの場にない長剣と会話しているという奇異な事態は、事情を知らぬ周囲の生徒達を奇妙がらせこそすれ、私達の中では誰も不思議がらない。
その中でも、私とセリナ達が帝国行脚をしている間、クリスティーナさんと濃密な時間を過ごしていたフェニアさんは、主人にずけずけと言うドラッドノートに呆れを隠さずに口を開いた。
「クリスティーナさんは、まあ、じゃじゃ馬な魔剣を手に入れたものですわね。でも、そうポンポンと打てば響くように言葉を交わしているのを見ると、模擬戦での息の合った連携通り、良い関係を築けているのだと思いますわ」
「お褒めの言葉をありがとう、フェニア。結局、ドランが帝国から戻ってくるまで、君とは模擬戦ばかりをしたな。少しくらいは買い物なり勉強会なりしてもよかったと、今更ながらに思うよ」
「あら、ファティマさん達を交えてのお茶会ならしたじゃありませんの。演劇を観に行ったり、詩吟の朗読会に出席したりしてもよかったかもしれませんけれど、クリスティーナさんはそういうのは苦手でいらっしゃいますでしょう」
「フェニアはすっかり私の事に詳しくなったな。こればっかりは育ちと生来の性格の所為さ。仕事上の付き合いでならば表面上は繕うが、友達と一緒に行くとなるなら、退屈だと顔に出てしまうだろうから、それでは申し訳ないしね」
「ふふ、クリスティーナさんにこうして素直に友達だと言っていただけるようになったのが、最後の一年で得られた最大の収穫ですわね。その次の収穫がドランさんやネルネシアさん達と親しくなれた事ですわ」
今のフェニアさんからは初めて会った時のような、クリスティーナさんへ構って欲しくて仕方がないといった雰囲気は消えてなくなり、肩に余計な力の入っていない、ごく自然体のまま振る舞えている。
フェニアさんは初めてお会いした時よりもずっと魅力的な女性になっている。そんな彼女に親しくなれた事を喜んでもらえるのは、私としても素直に嬉しい事だった。
私は自分の心に従い、素直に己の心情を告白する事にした。思いは言葉にして、伝える事が大切なのだと、さて最初に学んだのは前世の何時のことだったろうか。
「私としてもこうして親しくなれてから口にしたのでは後の祭りなのですが、フェニアさんやネル達のような方々が居たと知っていたなら、もっと早く魔法学院に入学を希望していたでしょう。
ただ、そうしていたらセリナやディアドラとの出会いが、違った形になっていたかもしれませんから、それだけは気掛かりです」
「おほほ、ドランさんにとってはセリナさんやドラミナさん達の事が一番ですものね。恋人を大切になされるのは当然の事ですわ。文句の『も』の字もありはしませんわ。
でもドランさんがもっと早く入学なさっていたなら、昨年ばかりでなく一昨年も、さらにその前も優勝出来ていて、ガロア魔法学院に三年連続競魔祭優勝の栄誉が輝いていたかもしれないと考えると、惜しまれてなりませんわ」
私とクリスティーナさんとフェニアさんで三勝は確実だろうから、確かにフェニアさんの言う通り、競魔祭三連覇も可能であったろう。
「もっと早く入学していたとしても、私はやはり飛び級での卒業を願った事でしょうから、共に競魔祭で肩を並べて戦えたのは一年だけだったでしょう」
「んもう、ドランさんは普段はとっても紳士的ですのに、ふとした時につれない殿方ですわ。セリナさんやドラミナさん相手にはとっても甘い方ですのに、でも、これが恋人とそうでない者の差なのでしょう。
ドランさん、我が国では一夫多妻も一妻多夫も法的にも道徳的にも認められている事とはいえ、新しい女性を増やす事に熱中して、自分の傍に居る素敵な女性達をおろそかにしてはいけませんわよ。このフェニアの心からの忠告ですわ」
フェニアさんからの忠告は、これまでにも何人かの口から若干の差異こそあれ、送られてきたものだった。
やはり複数の異性に対して想いを抱くのは、相応の問題を抱えるもの。それを思うと八人の夫を持つエクスの母君は大した御方だとつくづく思う。どうにか教えを請えないものか、などと考えてしまうほどだ。
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第百八十七話
ガロア魔法学院の卒業式を終えて、親しい関係になった皆との別れの挨拶を交わした後の事、私はセリナ達三人を伴って学院長室を訪ねていた。
卒業式の後に顔を出すように予め呼び出しを受けていた為である。これから学院長とは生徒としてではなく、良き隣人としての関係を深めて行く事になる。
それを考えると生徒として接するのは、今日が最後になるわけで、それを思うとそれなりに感慨深いものがある。
学院長はいつもの応接室に私達を通し、対面に座したまま、これまたいつも通りに感情の変化に乏しい、作り物めいた表情で私達を迎えてくれた。
長く魔法学院の長としてこれまで多くの生徒を送り出してきたこの方は、今日の卒業式にどのような感想を抱いたのだろう。
「いい卒業式でした。フェニアも貴方達と出会って落ち着きを得たようですし、これからの飛躍が期待できますね」
よくよく見れば、ほんの少しだけだが学院長は笑っているように見える。今になって振り返ってみれば、一年程度だが実に濃厚な付き合いをしたものだ。
エンテの森において最も古く貴い血脈を継ぐハイエルフたるこの学院長は、良き隣人として付き合ってゆく分には実に頼もしい。
「少なくともこれまでも、そしてこれからも二度とない位に濃い卒業生が揃った卒業式になったのは間違いないと思いますよ」
古神竜ドラゴンの生まれ変わりである私に、その私を殺した勇者直系の子孫であるクリスティーナさん、フェニックスの因子を持つフェニアさん。
特に私を含む前者二人に関して言えば、二度とあり得ないと断言できる顔ぶれだ。その素性を知った上で生徒として扱う事は、学院長に大きな負担となっていたかもしれないな。
「確かに貴方の言う通りです。当の本人である貴方に言われるのは何か違う気もしますが……。ですが濃い面子であるのは生徒の貴方だけではありませんでしたよ。
使い魔として連れて来られたセリナ、その後に使い魔として加わったバンパイアクイーンであるドラミナ、そしてゴーレムとして所有されたリネット。更に言えばエンテの森の民であるディアドラがガロアに来る事になった切っ掛けも貴方です。
貴方を因果の中心として、生徒以外にもこれまであり得なかった方達が集った一年でした。
特に貴方とクリスティーナ、ドラミナの本当の素性と実力のほんの一部だけでも、王国上層部に知られたならば、冗談でも比喩でもなく世界情勢がひっくり返ってもおかしくはありませんから」
私の転生が天界に知れ渡った事もあり、今となっては私を灯台代わりの目印にしてそれなりの頻度で神々が地上に降臨する事が増えてきているからな。
学院長にもその全てではないがある程度事情を伝えてあるのだが、実はディアドラに学院長がかなり胃を痛めている事や、顔馴染みであるディアドラに愚痴を零している事をこっそりと教えられている。
私はこれまでエンテの森の危機を二度助けたりもしたが、学院長にとってはそれ以上に悩ましい生徒であったという記憶の方が鮮烈であった事だろう。
「これからは北に引き籠りますから、世情を不必要に騒がす事はなくなるでしょう」
私としては嘘偽りなく口にしたつもりであったが、学院長はやるせない様子で小さく首を横に振るう。どうやら学院長は、とてもそうはならないと思っているらしい。
おや、これは心外である。これから私の目は竜界のアレキサンダーやレニーアという例外は除いて、故郷ベルン村とそこに生きる人々に注がれるのだから、騒ぎを起こす台風の目になるつもりはないのだが……
すると学院長ばかりか、セリナやドラミナ、ディアドラ、リネットも大なり小なり違いはあれども、苦笑を浮かべて学院長と意見を同じくするようだ。
どうやらこの場では、私は孤立無援の立場に追いやられてしまっているらしい。しかしな、セリナ達はどうして私が騒ぎの目になると確信しているのだろうか? やはり、これまでがこれまでだからか?
「セリナ達は、私が騒ぎを起こさないわけがないと思っているのかな?」
「だって、これまでがこれまでですし……エンテの森のすぐ傍に戻る事を考えると、エンテ・ユグドラシルさんが嬉々として足を運ばれるのがすごく簡単に想像できますよ」
なるほどセリナの言う通りではある。エンテから預かった世界樹の苗はゆっくりと成長し始めているし、エンテ本人が来ずとも苗を通して映し身を顕現させるくらいはできるだろう。
「エンテの姿がベルン村の中にある事は、エンテの森との綿密な関係の証拠とする事は出来るけれど、それ以上に世界樹の化身が闊歩しているという、滅多に見られない事態になるわけか」
私の事を古神竜ドラゴンであると知る者の中で、エンテはアレキサンダーやレニーア、龍吉達とはまた違った形で慕ってくれているから、どうしたって無碍な扱いをする事は出来ない。
世界樹そのものと親交があるからと言って、こちらの都合に良く交渉できる相手ではないと王国側には明言しておく必要があるだろう。
私が腕を組んで、ふ~む、と少しばかり悩む声を出していると、話題になっているエンテの森の重要人物であるディアドラが、私をからかうように笑う。
「ユグドラシル様の事は諦めなさいな。あの方の心はとても幼く無垢なもの。純粋である事は良いところも悪いところもあるから、貴方には苦労をかけることもあるでしょう」
「苦労といえるような苦労ではないだろうさ。ああやって無邪気に慕ってくれるのは、嬉しいものだからね。それにエンテの振る舞いで悩むのは私ばかりでなく、学院長も同じではないですか?」
「あの方の奔放な振る舞いは今に始まった事ではありません。それに私達エンテの森の民は、あの方の慈悲に縋ってあの森で生きているのですから、本来ならばあの方に意見できる立場にはありませんよ」
「謙虚な物言いをなさる。エンテの性格を考えるならば、森の人々が居なくなったら寂しさのあまりに泣きじゃくってしまうでしょう。貴女達とエンテは、切っても切れない共存共栄の関係ですよ」
「貴方にそう言ってもらえるなら、安心してこれからもエンテ様と共に生きて行けますね。
そして、これからは貴方のベルン村ともそういった関係になる事でしょう。
さて、クリスティーナがアルマディアの御実家に顔を出している間に、貴方はベルン村に戻るそうですがあちらの村長さん達と今後の予定について、話は進んでいるのですか?」
「ええ。クリスティーナさんの就任の話が来てから、突貫で村に屋敷を建てたそうです。
ガロア総督府から何人か兵士をベルン村に回して、兵員の増強を図るとも聞きました。
クリスティーナさんの下で働く文官の募集も掛けていますし、武官に関しては村の駐留隊の隊長であるバランさんと副官のマリーダさんを騎士に昇格して、兵員の統率をお願いする予定です
それとベルン村に行く前に公共の規格に沿った書類や、予備の軍装一式を大量に購入して行かなければなりませんね」
「行き当たりばったりではないようですね。兵の数が少ない内は、貴方が錬金術で必要な分を全て用意すれば済む話ですが、数が増えればじきにそうは言っていられなくなるでしょう。
工廠などに発注すればお金はかかりますが、その分、縁が広がりますし、ベルン村内に設けられれば、領の地力を高める事も出来るでしょうしね」
場所が場所だけにベルン村だけで自給自足はもちろんの事、北との争いを考慮すれば軍需物資の類も自力で賄える生産体制を整えておきたいところ。
これはドラミナにも注意を受けた点だ。ただ、今、ベルン村にある鍛冶工房は農機具や日常道具の扱いが主であって、刀剣や鎧その他は専門ではないからなあ。
「職にあぶれた鍛冶師で構わないから、まずは数を揃えたい気分ですね。今後、兵力を増すにつれて必要となる装備を発注すれば、仕事の創出に繋がりますから。
魔法使いの数を揃えられれば、武具防具へのエンチャントも自分達で済ませられますし、そうなれば北との争いの時に頼りになります。
最近の流行は銃火器のようですが、こちらはまだまだ高級品ですので手を出せるのはしばらく後になってからでしょうね」
「銃が戦場の主役となれば、戦場の様相は一変するでしょう。天人達も剣や槍ではなく、銃の類を主兵装にしていたようですし。とはいえ過去に存在した人類文明の用いた兵器などに関しては、私などより古神竜である貴方の方がはるかに詳しいのでしたね」
「そうですね。いずれにせよ、相手より遠くから、こちらの被害はより少なく、相手にはより大きな被害を与える、というのはほぼ全ての段階の文明において共通していましたよ。
剣よりも槍、槍よりも矢、矢よりも銃や魔法といった具合にね。ただある程度の段階を越えれば科学と魔法もさほどに差異はなくなるのが常でしたな。天人もその段階に足を踏み入れていましたが、今の地上の文明がそこまで達するのには、まだ数世紀必要でしょう」
私の知る限りで最も魔法と科学の両方を発展させたのは、私を殺した七勇者達の所属する文明だったが、彼が用いた武器は刀やら剣やら槍だったが、科学技術に由来する装備や補助も受けていたものだ。
クリスティーナのドラッドノートも魔法ばかりでなく、当時最先端の科学技術がこれでもかと用いられている事からも分かる。
学院長は私の意見に異論はないようだったが、少し時間を置いて私とドラミナの顔を見ると、ふうっと珍しく、私達の目の前で溜息を零す。
「とはいえ貴方とドラミナが居るだけで、魔物達がどれほど強大な勢力を築こうとも意味の無い事ですね。セリナやディアドラ、リネットにしても貴方達二人には見劣りするにせよ、万軍を相手に勝利を容易く掴める強者です。
ベルン村の防衛を心配する要素は欠片もありませんが、貴方達の後の事を考えると十分な戦力を用意する必要があると、ドランとクリスティーナが認識しているのは幸いというべきでしょうか」
「夢物語に近いですが、私達の代で戦死者が一人も出ないようにしたいものです」
「貴方が手段を問わなければどうとでもなる事ですが、手段を選んでくれる自制心がある事を感謝しなければなりません。けれども貴方自身に感謝すればいいのか、誰に感謝すればいいのか。
いずれにせよ貴方が居てくださる事は、異界や魔界からの脅威が脅威ではなくなる事と同義です。その事に関してはどれだけ感謝してもしきれるものではありません」
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第百八十八話
ベルン村に建設されたクリスティーナさんの住まいとなる屋敷は、村の規模を考えればやや大きいと言える敷地を持った二階建てのものとなった。
位置は、村の北東から南西へと流れる川を臨む小高い丘の上に建てられていた。これは南方から来た客人達が、屋敷を訪れるまでの間にベルン村の中をなるべく長く見る事が出来るように、という配慮がなされている為だ。
非常時には村の中に設けられた最後の砦ともなる屋敷の周囲は、水で満たされた堀と侵入者を阻む石積みの防壁でぐるりと囲まれている。
これらの防壁に私が何重にも魔法を施し、敷地内にも様々な罠を仕掛けてあるのは、言うまでもあるまい。
戦火の遠い領地の主ならばともかく、これから北西部に広がる暗黒の荒野に住む異種族との交戦の可能性を囁かれるベルン村では、当然の造りと備えと言うべきだろう。
私、セリナ、ドラミナ、リネット、ディアドラがベルン村に帰郷してから三日後にクリスティーナさんが、領地が村一つの貴族ならば十年は収入なしでやっていけるだけの金銀を引っ提げて到着した。
クリスティーナさんが到着した時には、急遽私達が建設に協力した屋敷は無事に完成しており、生活に必要な家具や調度品の類の持ちこみも終了している。
かつてベルン村を含む王国最北部の開拓計画責任者だった先代アルマディア侯爵の孫娘であるクリスティーナさんは、私達の親以上の世代からはかつての熱い時代を思い出して、諸手を挙げて歓迎されている。
直接には先代を知らない私と同世代の者達も、昨年の春先や夏にクリスティーナさんがベルン村を訪れて、命賭けで村の為に戦ってくれた事を知っているから、不平不満や疑いの色はない。
男女の性別が意味を無くすクリスティーナさんの美貌もあるが、辺りに出没するいかなる猛獣魔獣だろうと問題にしない戦闘能力に頼もしさを覚えているのも大きな理由だろう。
さて無事にクリスティーナさんを迎える事が出来たベルン村では、新しい領主であるクリスティーナ・アルマディア・ベルン男爵の就任式を行う準備が、村人総出で行われつつあった。
開拓計画の再開、縁のあるアルマディア侯爵令嬢の領主就任、アークウィッチの後継者がその下に就く事などなど話題性があるにも程のある話題は、近隣に知れ渡るのに十分な時間があった。
その為、利に聡い商人や居場所を求める者達の間に燎原の火の如く知れ渡り、就任式の数日前から何時にも増して多くの見知らぬ人々がベルン村を訪れている。
嬉しい知らせとしては冬休みからそれほど経っていないのだが、ちらほらと新しい家屋が建設されて、ベルン村の住人が増えているらしい事だった。
村長とシェンナさんに確認をしてみたら、人口は五百人に迫る勢いとの事。
ゴブリン達との争いがあったにも関わらず、移住者が居る事はまことに喜ばしい。村に十分な防衛戦力がある事と、エンテの森との交易という唯一無二の特徴は十二分にベルン村の売りとなっていたわけだ。
クリスティーナさんのお披露目を兼ねた就任式を、屋敷の敷地を開放して行う旨を事前に通達すると、村にやって来ていた商人達は、やれ新領主就任祝いだの、男爵誕生記念だの、あれやこれやとお題目を掲げてお金を稼ぐのに血道をあげている。
彼らが積極的に商売をやってくれるのは、お金という名前の血液を巡らしてくれているという事なのだから、節度を持って行っている分にはやはり歓迎すべき事だろう。
就任式は午前の内から行われ、近隣の貴族達から派遣された祝辞の使者達もずらりと顔を並べている。
私もクリスティーナさんも他の領地の貴族の家臣達の顔などまるで分からなかったが、就任式を行うにあたって駆けつけてくれた友人達がそこは補ってくれた。
屋敷を訪れた人々が解放された庭で寛ぎ、それぞれ見知った顔やそうでない相手と交流を深めている様子を、私やクリスティーナさん、セリナ達は屋敷の二階にある執務室の窓から見下ろしている。
まだ領主としての業務らしい業務を行っていない執務室は、エンテ・ユグドラシルがわざわざ持って来てくれた、自分の折れ枝を材料とする執務机や応接用の長机、本棚の他、龍宮国から送られてきた特大の珊瑚や水精石などが置かれている。
到底、村一つしか領地に持たない男爵が揃えられるような品ではないが、このちぐはぐさがベルン村と私達らしいとも言える。
執務室には私達以外にもガロア魔法学院から駆けつけてくれたネルネシアやファティマ、シエラ、フェニアさん、レニーア、イリナといったこの間、別れの言葉を交わしたばかりの面子が、いずれも可憐にあるいは美しく着飾った姿で応接用の椅子に腰を落ち着けていた。
クリスティーナさんや彼女らばかりでなく、私やセリナ、ドラミナ、リネットもまたクリスティーナさんのお披露目に恥じない程度に着飾り、ドラミナ以外はいつもと異なる見られる事と見せる事を意識した服装に、若干窮屈な思いをしている。
唯一、ディアドラはドレスに見える普段の装いも、実は彼女の体の一部と言う事もありそのままだ。元々、社交的な場に顔を出しても問題のない基準の服装である事が幸いしたわけだ。
フェニアさん達はそれぞれの生家からの使者としての役割も兼ねていて、村に到着した時にお祝いの品を受け取っている。
ベルン村と一番近い領地を持っているのはレニーアのブラスターブラスト家だが、それでも互いの領地を直接繋ぐ街道が通っているわけではない。
現時点では今回のような『娘の我儘』を通す事がなければ、積極的に交流を持つ機会は少ないだろう。
今回、使者としておいでになられた使者達の名簿を眺めていたフェニアさんが、腰掛けていた椅子から立ち上がり、窓辺によって庭に集まった人々の顔と見比べ始める。
就任式自体はまだ始まっていない事もあり、ガーデンパーティーめいた催しの雰囲気となっているが、使者の方々は概ね社交用の笑みを浮かべるか、不慣れな場に仏頂面を浮かべているかの二種類かな?
「あちらのお髭の方はブッホ家の黒羊騎士団第二騎士隊長のデナン卿ですわね。それにオニック家のズグ卿、ハイム子爵家のネムさん。ええと、あちらの方は」
記憶力の良いフェニアさんでも、すぐには出て来ない名前を意外な事にネルが口にした。
「ツィーマ家付きの筆頭魔法使いドムド卿。あまり名前は知られていないけれど、爆破系の魔法を得手とする隠れた実力者」
「あら、ネルネシアさん、良く御存じでいらっしゃいますわね」
「国内の実力者の事なら、大体把握している。いつか勝負を挑んで叩きのめす時の為に」
「貴女という方は、まったく。ネルネシアさんらしいですけれど、節度は弁えてくださいましね」
「ん、痛い目を見たら改善を考える」
「弁えていないじゃありませんの。もう、ネルネシアさんの手綱を握れる方が早く現れてくださる事を、強く願うばかりですわ」
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第百八十九話
私は窓辺から見える神々やら世界樹やら龍やらといった御客人達から目を離し、姿見の大鏡を前に、編み込んで結いあげた髪型や服装を入念に見直しているクリスティーナさんと、その傍らで楽しそうに微笑みを浮かべて助言をしているドラミナを見た。
私よりも先に窓辺から離れたクリスティーナさんは、これから自分の人生で一番の大仕事に取り組むのを前に、柄にもなく緊張しているらしい。
神々の降臨にもすっかり慣れて、神を前にしても過剰に緊張する事がなくなったというのに、衆目を集めながら領主としての心構えや初心表明をする事には緊張するのだから面白い。
クリスティーナさんがアルマディアの御実家から持ってきたものの中にあった、瀟洒な細工が施された黄金の額に嵌めこまれた姿見には、これまた珍しく男装ではないクリスティーナさんの姿が映っている。
青を基調とした最高級の絹のドレスに身を包み、胸元には純金の台座にいずれも大粒のダイヤモンドとエメラルド、サファイア、ルビーを惜しげもなく嵌めこみ、それでいて気品を感じさせる精妙な配置が成されたブローチを着けている。
結い上げた白銀の髪を纏めるリボンも、意匠こそいつもの青地に金の刺繍が施されたものだが、先程封を空けたばかりの新品で、品質も最高級のものだ。
アルマディア家を離れこそしたものの、その権威から完全に別離したわけではない事や、新興の男爵家でありながら規格外の財力を有する事、そしてなにより普段では見られない自らを飾ったクリスティーナさんの美貌を示す事で、来客達に強い印象を与える事を目的としている。
だがそれならばクリスティーナさんの素顔を晒せばよいのだが、今回はアグルルアの腕輪を装着して、精々、超のつく美少女程度に見えるように抑えている。
ドラミナにも素顔を晒してもらって、来客達全員を虜にしてしまい、信奉者を貴族層にも拡大してしまえば?
という効率的かつ絶対的な提案もあったのだが、一部を除き足を運んで下さった方達の立場や身分を考えると、それほどの影響力を持たない方がほとんどである事や、本当に追い込まれた時の切り札として温存するべき、という意見が出た為に今回は見送られる事となっている。ううむ悪辣過ぎるかな?
「ドラミナさん、何かおかしなところはないだろうか?」
クリスティーナさんはこれまでの人生で初めてと言っていいほど、女性貴族らしく着飾った自分の姿に、途方もない違和感を抱いているようで、しきりに三つ編みにしてから団子状に纏めた髪や、官能的なほどの手触りを誇る絹のドレスに触れては、羞恥の念を隠さずにドラミナに尋ねている。
ドラミナとしては、女性統治者として初々しく可愛い後輩が出来たような気持ちなのか、先程から楽しそうに笑いながらクリスティーナさんの問いかけ一つ一つに、丁寧に答えている。
「ええ、安心してください。どの社交場に出しても恍惚の溜息と注目を集める、世界でも随一の
念の為にとその腕輪を嵌めていただきましたが、これほどの出来ならば十分に足を運んで下さった皆様の心を捉える事が出来るでしょう。ふふふ、早くドランとの婚約を公表しなければ、あちこちの貴族の方達から縁談を持ち込まれてしまいますよ」
「うぐ、そ、それはもう少し時間をもらいたいというか、まだ心の準備が……」
「クリスティーナさんはここぞという時の胆力が足りていませんね。なら、せめてドランと婚約関係にあると公表できるくらいには事を進めておきませんと、領主としての務めに差し障りが出てしまいますよ。
新興の男爵家とあっては、持ちこまれる縁談を断るにもかなり気を遣わなければならないでしょうからね」
「うう、ドランに胃薬を頼む事が増えそうだな」
「ふふ、それはどうでしょう。クリスティーナさんはとても頑丈なお体ですから、むしろ体調を崩そうと思っても崩せないほどですよ」
なまじ不老不死と称されるほど不死性の高いバンパイアのドラミナに――しかも種の頂点だ――頑健性を保証されて、クリスティーナさんは何とも言えない顔になる。
そこらに生えている草の絞り汁と木の皮を煮出した汁を混ぜた物を、ゆっくりと味わって飲めばこんな顔になるかもしれない。
クリスティーナさんの中で領主として多くの人々の生活を背負って行く覚悟は固まっているのだが、だからといってその為にこなさなければならない苦難や雑事の全てを笑顔で受け入れられるわけでもない。
クリスティーナさんとて広義では人間の範疇に入るし、まだ十八歳になったばかりの少女なのだ。時代や国が違えばまだ成人前の女性なのだし、いきなり完璧である事を求めても酷に過ぎる。
「少し口を滑らせてしまいましたね。クリスティーナさん、あまり気負われる必要はありませんよ。貴女の味方はたくさんいますから。
フェニアさんやネルネシアさん、ファティマさんもお友達として出来る範囲で、お手伝いしてくださるでしょう」
ね、とドラミナがフェニアさん達に水を向ければ、フェニアさんは自信満々に胸を張り、実にらしい態度で頷かれる。
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第百九十話
神話に語られる神々とその眷属達を含む各教団の代表者との挨拶を済ませ、その後の就任式の進行も問題なく終える事が出来て、他領やエンテの森などから来られた参加者達には、専用に用意した賓客用の宿舎へ向かって貰った。
私達は完成したばかりの屋敷へと戻り、一息つくのと公の場では話しづらい面々と改めて話し直す事になっていた。
クリスティーナさんはベルン村領主としての初仕事を無事に終えられた事で、両肩に背負っていた途轍もない重圧を下ろし、私室の寝台に仰向けに寝転がる。
はしたないと窘めなければならないところだが、今日ばかりは仕方がないと私達は見逃す事にした。
それにこの場に居るのは私、セリナ、ディアドラ、ドラミナ、リネット、クリスティーナさん、ニクス、ドラッドノートという面子だ。この面子ならばクリスティーナさんの素や、私達の素性の詳しいところが話題になっても大丈夫だ。
「あ~、緊張したな。慣れない事はするものではないがこれからもしていかなければか」
「なんだい、分かっているなら、もう少し気を張っておいた方がいいんじゃない? 誰の目があるか分かったものではないよ」
クリスティーナさんはゴロリと一度だけ寝転がってから体を起して、纏めていた髪を解いて楽な体勢になる。
そんなクリスティーナさんに遠慮の無い言葉を投げかけたのは、使い魔である不死鳥の子供ニクスだった。
これまで私達とはあまり関わりの少なかったニクスだが、クリスティーナさんの立場と環境の変化により、これからはしょっちゅう顔を合わせる事になるだろう。
それに、既にクリスティーナさんによって私達の素性の方は伝えられているから、こちらとしてもニクスの前で遠慮や気遣いをする必要はない。
クリスティーナさんはこの場に居る誰よりも付き合いの長いニクスへ、唇を少しだけ尖らせた拗ね顔で反論する。
ふむ、クリスティーナさんがこんな小さな子供がするような反応をする辺り、ニクスは彼女の中で特別枠に収まっているな。
「その点は心配するだけ無駄だ。私は言うまでもなくドランの目と耳を掻い潜って盗み聞きを出来る者など、人間の中に居はしないさ。それでも問題がないわけではないけれどね」
「ああ、神様達や世界樹の精がそこら辺を闊歩している事だよね。正直、ぼくはもう驚き過ぎて驚く余裕がないよ。なにがなんだか分からないを突き詰めると、何も感じられなくなっちゃうみたい」
ニクスは愛用の止まり木の上で、どこか遠い目をしながらそう言った。私の真の素性やその関係者達と接する者達が、よくする目である。
私の隣に控えているセリナが、また私達の新たな仲間が増えました、うふふ、と何やら怪しげな笑みを零していた。はて、いったい何の笑みである事やら。
「ディアドラ、あのセリナの笑みは一体なんなのかな? 時々見かけた事はあるが、細かいところまでは追求した事はなくてね。真意については分からないままなのだ」
エンテ達をはじめ森の方達と別れて、こちら側に来てくれていたディアドラは、少しだけ呆れた顔になる。ふむむ、こんな顔をされると言う事は、セリナの反応は私以外にとっては実に分かりやすいものらしいな。
「貴方が時々見せる鈍感な部分に当て嵌まったというわけね。ドラン、何と言う事はないわよ。私とセリナが貴方の魂の名前がドラゴンだと知らされた時と、似たようなものよ。
話の規模が大きすぎて、実感が伴っていないの。それと精神と理性が受け止められる衝撃を上回り過ぎて、反応が出来なくなっているのよ。
だってニクスからしてみたら、つい先日まで主人の友達だった貴方の正体が、この世界の全ての神々よりも凄くって強い竜ってねえ。なにそれ? って感じじゃないの?」
「ふむ、もう少し早く言っていればよかったか。クリスティーナさんの使い魔ならば早いか遅いかの違いでしかないしな」
「早く知っていれば慣れはするかもしれないけれどねえ。しかも本当に神様達がこうも簡単にというか、呆気なく降臨している現実があると確かに早く慣れていた方がいいわね」
ディアドラはどこか疑う光を宿して私をちらりと見る。ふうむ、これは、私が神々を招いたと疑われているぞ。参ったな、私としては不本意極まりない疑いなのだが、こんな事が出来そうなのが私位だというのも確かか。
「ディアドラ、そんな目をしないでくれ。彼女らが今日、この場に集まった事に関して私は無実だよ。私が招いたわけではない」
ディアドラの中の疑いは元々大した大きさではないようで、私の台詞を聞いて疑いの火を消してくれる。
一安心かな、と思っているとディアドラの傍らに雛鳥のように寄り添っているリネットが、新たな意見を提示してきた。
「ですが予測された事態ではあります。リネットが参戦叶わなかったゴブリン達との戦いに御助力下さった神々とその眷属の方々が、多々姿を見せられているのが現状です。
しかし今後、マスタードランの神々にさえ通じる多大な影響力を考えれば、王国の貴族達よりもむしろ神々からの接触が増える可能性が大、いえ必ずそうなります。
それに歯止めをかけなければ、今後も更にベルン村内部の神性存在の数は増え続ける一方となります。
今は良くても各教団、各教徒への影響力、そして戸籍などの現実的な問題もあります。
領地経営の出発からして偽造戸籍の乱造は、流石にリネットといえどもよろしくはないかと思うのですが……」
ふむん、数が少ない今はまだ目を瞑っていられるが、数が増えればそうはいかなくなる問題か。いや、今も決して目を瞑って見なかった事にすれば済む問題というわけでもないのだが……
「基本的に各教団は国家から独立した組織、あるいは社会だからな。戸籍の問題などもあちらで処理するものだから、私達の側での負担はそう多くはないはずだ。
その代わりと言っては何だが神託が乱発されて、教団側の偉い方々がベルン村を過剰に注目するか、神聖視する可能性は捨てきれないからな、やはり天界に帰って下さいと言うしかなさそうだ」
流石に制限付きであっても、高次の存在である神々が降臨しているのはなあ。
しかも一日や二日といった短期間の降臨ではなく、今後も継続してベルン村に滞在する気満々なのが、ちらほらと見受けられたのだから、これが問題でなくてなんであろう。
短期間ならば神々がベルン村に滞在していても問題ない、と考えている辺り、私も多少彼女らに毒されてしまっている気がしないでもない。
「マスタードランの謙虚な姿勢は、リネットにとっては真に貴いものであると感じられますが、マスタードランが今回降臨あそばした神々に頭を下げられたとしましょう。
そうしたらマイラール神やアルデス神などを除いた下位の方々は、かえって恐縮するか不始末をしてしまったか、と泣きながら足に縋りついてくる光景が目に浮かぶようです」
困った、リネットの懸念を否定する言葉が出て来ないぞ。ううむ、これは案外手詰まりか?
いや、まだだ。まだ諦めるには早い。私が直接告げるのが問題ならば、私の心情を組んでくれる神を一旦介してやんわりと釘を刺す方向に持っていければ、事態を改善させられるかも……
「改めて指摘を受けると、案外、困った事になっていたな。現状に対する認識の甘さを思い知らされたよ。となるとマイラールに頼るのが最適解か。
他力本願とは情けない限りだが、かといって私が直接動いてしまっては、どこまで騒ぎがこじれてしまうやら」
私が動いた場合にどれだけ火に油を注ぐ事になるのかを想像し、部屋の中に居た皆がそれぞれ苦笑を浮かべたり、困った顔になるなりして、反論の言葉を見つけられずにいる。
神々がこと私に関する限り、神話の中の荘厳さや偉大さを陰へと潜ませてしまうのを、ニクスとリネット以外は去年の夏に嫌というほど経験していた。
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第百九十一話
表立っては無事に就任式を終えたベルン村では、屋敷に遅れてやって来た客人を迎えていた。
村人達にも知らされていない秘密の客人達とは、普段は王城にてスペリオン王子によって匿われている、ロマル帝国非公式第二皇女アムリアとその護衛兼友人である八千代と風香、他一名である。
アムリア一行のベルン村訪問が就任式の日取りとずらされたのは、就任式に出席する貴族や商人達にアムリアの存在を知られる可能性を無くす為だ。
アムリアについてはクリスティーナにもその存在を知らされている為、迎え入れるのには問題なかったが、アムリアを歓迎した面子の中にドランの姿はなかった。
その事を残念に思いながら、アムリアは通された応接室でハーブティーに口をつけた。
蒼い薔薇の美しい白磁のティーカップを満たす、縁が金色がかった薄緑色の液体は、ティーポットから注がれた瞬間から素晴らしい香りで、アムリアの鼻をくすぐっている。
エンテの森との交易により、ベルン村はアークレスト王国で最も香草や花の豊かな地となっているだけはあり、王城で口にした最高級の茶葉に勝る爽やかな香りがアムリアの鼻孔をくすぐり、咽喉を通って体の中にまで爽快な風を吹かせているかのよう。
「素敵な味ですね。まるで春の風が体の中を拭き抜けたようです」
アムリアが思わず素直な感想を口にすれば、正面に座って応対していたクリスティーナが嬉しげに口元を綻ばせる。
まだ腹に一物を隠した対応などまるで出来ないクリスティーナであるから、アムリアの言葉に本気で喜んでいるのだろう。
「それはよかった。エンテの森原産のハーブで淹れたお茶です。目下、我が領地の主要な収入源の一つですが、アムリア様にお気に召していただけたなら、何よりです」
クリスティーナは自身も同じハーブティーで咽喉を潤し、淡い微笑みを浮かべてアムリアを見る。
帝国からの脱出行にはいなかったクリスティーナだが、この場には八千代の他セリナも一緒に居り、アムリアを緊張させずに済んでいる。
「クリスティーナさん、私の事はアムリアとお呼びください。今の私はスペリオン殿下の御慈悲によって生きているに過ぎません。
立派な王国貴族であるクリスティーナさんに、そのような態度を取っていただくほどの者では……」
「ドラン達に聞いていた通り、謙虚な方ですね。ですがアムリア様はスペリオン殿下の、ひいてはアークレスト王家の大切な御客人であらせられる。相応の態度を持って接しなければなりませんでしょう」
その割に、クリスティーナの肩からは力が抜けているし、ティーカップを手に持つ姿勢にも余裕が見て取れる。
本当に口にした通りの事を考えているのならば、帝国の皇位継承者を前にして、クリスティーナがここまで楽な態度を取っていられるか怪しいところだ。
クリスティーナが言葉だけ繕って、内心では舌を出しているような性格ではない事を考えれば、態度と言葉が不一致を起している理由は一つ。
セリナ達から、人見知りだとか世間知らずとか聞かされていたアムリアを、少しだけからかっているのだろう。
八千代と風香はと言えば、ハーブティーと一緒に出された焼き菓子の方に夢中になっていて、クリスティーナにどう対応すればよいかと困るアムリアに気付いていない。
相変わらず役に立つんだか立たないんだか分からないヘッポコとポンコツである。
こんなだから、二人合わせてヘッポンコツなどと密かに言われてしまうのだが、不名誉な二つ名を返上できる可能性は少なそうだ。
アムリアに助け船を出したのは、クリスティーナの隣に腰かけたセリナだった。
今となっては、セリナから見るとクリスティーナは雇用主兼領主でもある為、隣に腰掛けるなど論外だが、私的な場という事でお互いの立場や肩書は忘れている。
「ふふ、アムリアさん、そんなに真剣に考える必要はありませんよ。クリスティーナさんが珍しくからかっているだけですから。
アムリアさんが望まれるなら、それを断るなんて真似はしませんよ。でしょう、クリスティーナさん」
「少しやり過ぎたかな。アムリア様がドランやセリナ達の言う通りの可愛らしい方だったから、つい困った顔が見たくなってしまってね。アムリア様、無礼をお許しください」
小さく頭を下げるクリスティーナに対し、アムリアは慌ててティーカップを戻しながら、頭を上げるように懇願した。
王城でも使用人や侍女達から他国の王族に対するのと変わらぬ厚遇を受けているが、アムリアは誰かに傅かれる事にまったく慣れていない。
この様子から、あの山の中の隠し城館の中で、どのように接せられてきたか、その一旦が伺える。
アムリアの世話をしてきた者達もほとんどアムリアの素性を知らなかったのかもしれないが、アムリアに対して心から奉仕していた者達は居なかっただろう。
「頭をお上げください、クリスティーナさん。頭を下げられてしまっては、私はどうすればいいのか分からなくなってしまいます。
もしお許しいただけるのでしたら、私はセリナさんやドラミナさんと同じように、貴女ともお友達になりたいのです。あの、御迷惑ではないでしょうか?」
恥ずかしげに頬を赤らめて告げるアムリアに、クリスティーナは満面の笑みを浮かべて答えた。就任式で慣れない緊張の場に身を晒した反動か、アムリアのような純粋無垢な性格の持ち主が好ましくて仕方がない。
「迷惑などと、とんでもない。私自身、男爵という栄誉を預かり、肩に圧し掛かる重圧と戦っている身です。
突如として自分が皇女という出自を知る事となったアムリア様には、僭越ながら共感するところもあります。私の方こそお許しがあれば、貴女と友達になりたいと願っていますよ」
「まあ、でしたら私の事はアムリアと、ただのアムリアと呼んでください。お城の皆さんは中々そう呼んではくださらなくて」
アムリアが自身の出自について何も知らされずに育てられていたというのが良く分かる言葉に、クリスティーナは小さく笑う。
中々無茶な注文なのだが、アムリアにはそんな自覚はまるでないのが、一目で分かる。
アムリアは感情を言葉や考えを言葉にしなくても素直すぎる言動で分かるのが、特徴と言えば特徴かもしれない。
「流石に王城の方々が貴女を呼び捨てには出来ないでしょう。ですが事情を知っている者達だけが居る時なら、と条件付きになってしまいますが、私は貴女の事をアムリアと呼びましょう。友達だからね」
そう言って、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せるクリスティーナに、アムリアは花咲く笑みを浮かべるが、いささか頬の赤みが濃すぎると言えなくもない。
「まあ! ありがとうございます。いえ、ありがとう、と言うべきかしら、よろしくお願いしますね、クリスティーナ。嬉しいわ、こちらに来てからお出かけしたり、お買い物したりって、出来る事は随分増えたのだけれど、お友達は増えなくって。
それにこんなに綺麗なお友達が出来るなんて! クリスティーナは、まるでお伽噺の中のお姫様みたいに素敵なんですもの」
それを言ったら、アムリアこそ貴種流離譚の主人公のお手本のような出自なのだが、それを告げても仕方がないかな、とクリスティーナは言葉を飲み込んだ。
きっと、今のアムリアならフラウ王女と意気投合して仲を深められるか、あるいはクリスティーナを巡る不倶戴天の敵という関係に陥るかするかもしれない。
「褒めてもらえて悪い気はしないけれどね。アムリアは八千代さんと風香さんだけでは、寂しいかな?」
一度そうと決めれば切り替えの早いクリスティーナである。早速、アムリアに対して友人としての態度と言葉遣いに改める。
「お二人のお陰でとっても助かっていますけれど、お友達は多い方がいいってハチさんも風香さんもおっしゃるんですもの。スペリオン様にそういうと、申し訳ないって謝られてしまうのが、困りものですわ」
「殿下なりに今の貴女の境遇に関しては負い目があるのだな。
ドランは貴女に何か不都合があるようだったら、何食わぬ顔で王城に乗り込みかねないところがあるから、殿下が貴女を大切になさっているのでしたら安心できる」
流石にドラン自身がそのまま王城に乗り込む事はしないだろうが、白竜の分身体を王城に突っ込ませて、アムリアと八千代、風香の三人を連れ去る位の事は平気でやる、と将来の夫の事をクリスティーナは理解していた。
同時に、ドランはスペリオン殿下の事を気に入っているから、もう少し穏便な方法を取るかもしれないが、と口の中でだけ呟いて、クリスティーナはティーカップに残っていたハーブティーを飲み干す。
「殿下はとても良くしてくださっています。ドランさんが私の事を気にかけて下さっているのはもちろん知っていますが、そんなに気を揉まなくてもよろしいのに」
まるで過保護な親に困る子供のようにアムリアは笑う。
アムリアよりもドランとの付き合いは長く密度も濃いクリスティーナとセリナは、まったくだと言わんばかりに二人揃って頷く。
ドランが特定の条件を満たした相手に対し過保護になるのは、アムリア以上にこの二人は身に染みて理解している。
「ドランさんは一度懐まで受け入れると、甘やかす範囲だとか面倒を見る範囲がもの凄く広がりますからね。
それが出来るだけの能力があるから、際限がなくなるというか、良いところと悪いところがこう、分離できない位に融合しているというか、長所を短所が兼ねているんですよね」
「ドランに限らず人間なら誰しもそういうところはあるが、ドランの場合は長所としても短所としても突き抜け過ぎているからな」
ドラン本人がこの場にいたとしても、恋人達の言葉に対して、反論の言葉を述べる事も出来ず、ぐうの音も出なかった事だろう。ドラン自身の欠点を、それが矯正困難であると分かった上で、自覚しているからだ。
クリスティーナとセリナだけが分かっている雰囲気に、アムリアは不思議そうに首を傾げたが、疑問を口にするほどではなかったらしい。
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第百九十二話
ケイオスとマイラールの手からなる二重防壁をくぐり、カラヴィスタワーの正門に途方もない重量感と共に聳える黒一色の門を通り、塔の内部へと足を踏み入れた私達は、すぐさま荒々しい洗礼を受ける羽目に陥っていた。
足を踏み入れた私達の前には、鈍い銀色の金属に覆われた広大な平野が広がっており、人間の視力では果てが見通せぬほどだ。
その金属に天地を覆われた階層の彼方から、人間大の丸い金属の球体が数十と飛来して、私達を目がけて側面に備え付けられていた細長い砲身をこちらへと向けて来たのである。
ふむ、歓迎の祝砲を撃つ為にわざわざやってきたわけではあるまい。生命の気配は感じられないから、金属生命というわけでもないし、機械文明の遺産である自律兵器かね?
「カラヴィス、一応聞くが、あれらに心当たりは?」
私の問いに対し、カラヴィスは腕を組んで本気で考え込む素振りを見せて、過去の記憶の棚を片っ端からひっくり返し始める。
記憶などすぐさま忘却するカラヴィスだが、どうやら彼女なりに決して忘れてはいけない記憶を保存する棚のようなモノを、心の中に持っているらしい。
レニーアの事をその棚の中に仕舞っておかなかった事に関しては、腹立たしい事この上ないが、今ではレニーアを愛娘と広言して憚らぬし、責めずにおこう。
「ん~~ないかな? ぼくの目についた戦場とかを片っ端から塔の形になるように、コネコネして混ぜ混ぜしてペタペタした結果がこれだかんね。中身の方まで詳しくは知らないんだよね」
カラヴィスは特に悪びれた様子もなく、正直に私に告げる。まあ、中身がなんであれ今回の面子なら問題にはならんから、悪びれる事もなければ負い目を感じる事もないわな。
答えを持たぬカラヴィスの代わりに、答えを教えてくれたのは後方に居たマーメルである。ゴブリン襲撃の直前に、オルディンの使いとして私の元を訪れた事のある天使の女性だ。
「畏れながら、あれらはゼルギーヌフ銀河連邦の使用していた対人防衛兵器オーヴィアです。かつての大戦において銀河団ごと時空振動に巻き込まれ、消滅した文明ですがカラヴィス神が引き上げられたものかと」
「なるほど、早速失われた文明が牙を剥いて来たか」
私がマーメルの言葉に、ふむ、といつもの口癖を零すのと、飛行球体が砲身から青白く光るプラズマの砲弾を放つのは、ほとんど同時であった。
「マスタードラン、お下がりを!」
「ぬははは、おうおう、苛烈な挨拶をする塔だな!」
これに反応したのは、既にガンドーガを引っ張り出し搭乗したリネットと嬉しそうに笑っているアルデスだった。
私達に降り注ぐプラズマの雨の中、ガンドーガの両肩から砲身が展開されて、莫大な魔力を圧縮した砲弾が放たれ、またアルデスは身の丈を越える長槍を縦横無尽に振り回して、命中する軌跡を描いていたプラズマをすべて砕いてみせる。
「ガンドーガ、防衛戦闘状況開始します!」
「ふふん、退屈しない塔だな。サラコ、サハ、着いて参れ。戦神アルデスとその眷属が先陣を切らぬで、一体誰が先陣を切ると言うのか!」
サラコとサハの両名とも、しばらくの間、クリスティーナの事を見守っていたアルデスのところのヴァルキリー達である。
長髪を三つ編みにした気真面目な性格なのがサラコで、反対にやや軽い調子なのがサハであったかな?
軽装の鎧と額当てを身につけ、背中から白い翼を広げたヴァルキリー達は、それぞれ長槍と弓を手に勇壮と駆け出すアルデスに続く。
「は、アルデス様!」
気真面目一辺倒のサラコはアルデスに三歩後ろを飛び、アルデスならばそうするだろうと予期していたらしいサハは、弓に光の矢をつがえて主君と同僚の援護に徹する素振りを見せる。
「準備は出来ておりますよ」
たちまち、場はプラズマの砲弾と神の槍と矢が激しく交錯する乱戦模様を描き出し、硬質の輝きを放つ天地が大きく揺れ始める。加えて戦闘の気配を察してか、塔の内部が空間ごと切り替わり始めた。
私達のほんの目と鼻の先の位置で、空間が無数の箱状に分割されたかと思うと、紅蓮の炎に包まれた大地やら、黒雲から雷が降り注ぐ嵐の海やら、紫色の毒水で満たされた湖やら、と千差万別の風景が覗く。
瞬く間に私達の周囲は金属一辺倒の天地から、かつての大戦争となった戦場が出鱈目に配置された混沌の様相を呈する。
同時にそれぞれの戦場に潜んでいた脅威達が顔を覗かせ、私達の命を狙う敵はオーヴィアという金属球ばかりではなくなった。マーメルがそれらの名前を、律儀に一つ一つ口にする。
「ドームロロ星雲のケルベナス星の生態系の頂点ケルベサウルス、メッシルリア帝国の生体兵器ムルシャリア、ギギリオ星の開発した恒星間航行強襲戦艦ネルカバリ、オリンパリア連合の開発した無限進化型生体兵器ヘルオイオ……きりがありませんね」
それだけ広範囲にわたって大戦争が行われたわけではあるが、確かにマーメルの言う通り、今私達に襲い掛かっている者達とて、カラヴィスタワーの中に封じ込められた者達の極一部に過ぎないはずだ。
これらは氷山の一角どころか、一欠片程度に過ぎまい。私達ならばこれらの相手でもまるで問題はないのだが……
「前世の私でもちらほら耳にした事のある名前があるな。しかし、どれもこれもいささか強すぎる」
私の呟きを拾ったのは、傍らに控えていたディアドラである。
「私と瑠禹辺りには強すぎるけれど、この面子なら強すぎるなんて事はないわよね。となると普通の人間相手にはって事かしら?」
「ああ。今の地上世界で考えると、後五、六百年前後は技術水準が向上しないと、厳しい相手がほとんどだよ。塔内部の最強の基準がこれ位なら良いのだが、その逆となるとこの塔の内部利用の道は難しくなるな」
塔の管理が上手く行かないようだったら、外観を眺めるだけの観光資源と割り切る他ないかな。
「そうねえ、私も自分の実力だと厳しそうなのが、ちらほら居るわね。あの大きな船とか、あちこち針を生やした丸いのとか。龍吉ならまだ十分勝てそうだけれど、ただの黒薔薇の精には荷が重すぎる相手だわ」
ディアドラの言う大きな船はマーメルの言っていた恒星間航行強襲戦艦ネルカバリで、針を生やした丸いのはどこぞやの文明が造り出した、ネルメロン要塞だ。確か銀河の覇権を賭けて戦っていた人類文明の遺産だな。
私とディアドラが言葉を交わしている間に、アルデスばかりでなく他の神々とその眷属達も飛び出して、不遜にも自分達に牙を向ける下位存在達の駆逐を始めている。
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第百九十三話
カラヴィスタワーには、カラヴィスの
空間が内部で歪曲している為、頂上の階層が存在しないカラヴィスタワーでは、階層を数える事は意味を持たない。少なくとも、まだ整理されていない現状では。
それでもあえて階層を数えるとしたならば、おおよそ五千から五千百層の間の片隅に、巻き込まれた者達の住居があった。
太古の戦争が終結する以前に、地上世界に降臨した邪神との戦いにより、十次元と十一次元の狭間に落ち、守護神と共に今なお戦い続けている者達である。
彼らにとっての世界とは、小さな箱庭と呼ぶべき場所だ。
守護神が民を守る為、数で勝る邪神群が侵入できないように結界で覆い尽くした都市が、巨大な円盤型の箱舟の上に乗った状態で次元の狭間を彷徨っていて、閉ざされた限りある世界で彼らは生まれ、子を作り、そして死んで時を重ねていた。
彼らと敵対する邪神群を遥かに上回る大邪神カラヴィスのドランに対する善意により、それまで自分達が彷徨っていた次元の狭間から脱出した事さえ知らぬまま、彼らは今もなお戦い続けている。
片や生き残る為に。片や滅ぼす為に。
その箱庭は、自らの肉体を光り輝く柱と変えた守護神の張る円筒形の結界に包まれていた。
青く澄んだ海と豊かで深い色合いの緑に包まれた山と、人々の暮らす都市を持ったそこは、自分達に生じた異常を知らず今日もまた争っていた。
守護神は箱庭と人々の生活を守る為にその力のほとんどを消費している為、攻め寄せる邪神群との戦いに於いては、哀しみながらも守護しなければならない民達に委ねなければならなかった。
攻め寄せる邪神群の尖兵は、灰色の体表を持った奇妙な姿をしていた。満月を思わる丸い体の中央に、四角い歯がずらりと並び、四方へと向けて捻じれた角が伸びている。
一体あたりが二階建て家屋を丸呑みにしてしまうほどの大きさを持ち、千単位の数で都市に攻め寄せている。
攻められている側の人々がソルボーン級と呼ぶ、邪神群の尖兵だ。
更に続いて、太く長い両腕と蠍を思わせる尾を臀部と首筋に生やしたスコーク級と呼ばれる巨人型。
八本足の馬の下半身につるりとした卵型の顔と手首から先が無い代わりに穴の開いた両腕を持つ、シュロス級と呼ばれる半人半馬型。
いずれも人間の十倍以上の巨体を誇る化物達だが、彼らと相対しているのは十代の少年少女達だった。
守護神からの加護により、その身に白を主体とし、それぞれの魂の色を露わした装飾の施された衣服を纏い、武器を手に戦うのが、この箱庭の若い守護者達である。
家族や友人、顔も名前も知らぬ人達が暮らす故郷と守護神の神体でもある光の柱を背に、わずか七名ほどの子供達はかつてない規模の邪神群を前に、海上に立っていた。
万を越す異形の怪物群を前にある者は恐怖を押し殺し、ある者は半ば絶望の腕に捕らわれて涙を滲ませ、またある者は自らの命に引き換えにしても、と覚悟を固めている。
子供達の精神的支柱らしい赤毛の少年が、膝を震わせながら、それでも必死に顔を上げ、邪神群を睨みながら仲間達に告げる。手にはこれまで何体もの邪神群を滅ぼしてきた、巨大な銃剣が握られている。
相棒と言っても良い、守護神から授かった神器がこれほど頼りなく感じられたのは初めての事だった。
意を決した少年が、最後の戦いの戦端を開く為の言葉を発しようと試みた。それはいっそ不憫なまでの不退転の決意によって固められていて。
「皆、行こう。いつも通り、悪い神様をやっつけに――」
これまで通りだと、そんなわけはないと分かっているのに、敢えてそう言おうとした少年の言葉を、邪神群のはるか後方から聞こえてきた声が無情にも遮る。
無数の邪神群の放つ邪悪な気配をあっさりと超越する、途轍もない力と気配が奔流となって流れ込む。
子供達は、邪神群の本命の出現か!? と誰もが緊張に息を飲み……
「ぬっははははははは!! なんだなんだ、小物がゾロゾロとおるな。どこかで見た覚えもあるが、さてどこであったか!」
ブオン、と長槍を振るう音は大気を嵐と変えて、ガチガチと歯を打ち鳴らしていたソルボーン級が纏めて木っ端微塵に砕け散り、微細な粒子が守護神の神気によって浄化されて消える。
「テンテイシ系列の造作ですね。まだ戦いを続けていたとは、次元の狭間に囚われたが故に、地上を覆う大結界の範囲から漏れたものかと」
豪快極まりない笑い声に続いて、気真面目で融通の効かなさそうな声と共に、巨大な獣の爪跡のような横薙ぎの連続攻撃が飛来して、スコーク級を次々と輪切りにしてゆく。
「あっちの子供達と光の柱はチオウシュ様の力を感じられますね~。
見た感じ、テンテイシからの侵攻をチオウシュ様が世界ごと人間達を守っておられるようです。かなりの御負担になっておられるでしょうに、あの方は慈悲深いから」
更に放たれるは翡翠の輝きを放つ流星群の如き矢の雨。
シュロス級が迎撃の為に両腕の穴から光弾を放つが、翡翠の矢はそれらを含めてシュロス級の巨体を次々と穴だらけにしていく。
三種類の攻撃が一旦止まった時には、邪神群の総数は半数にまで落ち込んでいた。
突如として数を減らした邪神群と、天変地異の如き攻撃を目撃させられた子供達は呆然と結界に開いた穴を見上げていたが、攻撃の主である三人は気に留めなかった。
ぬははは、とやや珍妙な笑い声を上げて、身の丈を上回る巨大な槍を手にした金髪の大男と、背から純白の翼を伸ばす美女が二人。
男は音も体重もないかのように軽やかに荒波の海面に降り立ち、美女達はその傍らで滞空する。
いわずもがな、戦神アルデスとその眷属の
アルデスのノリ――あるいは気性について行けそうなのが、眷属の二柱しか居なかった為、わずか三柱という少数精鋭の班編成となっている。
子供達は自分達の目の前に現れたのが、守護神チオウシュや邪神テンテイシを一回りも二回りも上回る大神だとは気付けなかった。
目の前の存在が何か想像もできないナニカだとは分かるのだが、それ以上に初めて邪神群以外に外からやってきた来訪者である事と、そして大人である事に意識を奪われていた。
これまで邪神群との戦いには、二十歳に満たぬ子供達しか立てぬ事情があり、大人達は自分達の無力に歯噛みしながらもあくまで支援に留まり、最前線で命を張るのは十代の子らだけだったのだ。
悲しむべき事に、彼らにとって戦場に大人が立っているという光景は、極めて異質なものと感じられるのだ。
更に更にと重ねて言えば、ついに邪神群がこれまでの法則を変えて、恐ろしい規模の大侵攻をして来た時に、アルデス達が邪神群の一部を蹴散らして姿を見せたのだから、混乱もひとしおである。
アルデスは自分をぽかんと見ている赤毛の少年と、その傍らの桃色の髪の少女にずんずんと歩み寄って行く。
相手の混乱している心理が分からぬアルデスではないが、さりとてそれに配慮するかと言えば、そうでもないのがこの男である。
アルデスに子供達に対する敵意は欠片もないが、あまりに超絶した力を振るった事と情報量の少なさから、子供達は自然と警戒せざるを得ず、二人を中心にして集まる。
その間にも邪神群は倒された味方の事など知らず、市街へと向けて侵攻しようとしていたが、多少言葉を交わす程度の猶予はある。
アルデスの第一声はこれであった。片手を上げ、ニカッと明るい笑顔を浮かべながら左手を上げて、
「よう!」
何とも簡潔極まりない言葉に、赤毛の少年
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第百九十四話
カラヴィスタワー入り口前で、竜と神々とが探索の成果を語り合うよりも、いくばくか時を遡っての事。
ドラン達は争う二つの文明の残滓を完全に沈黙させた後、太陽の中心核に封じられていた高次存在による封印が施された結晶体を引き摺り出し、その中身を検分しようとしていた。
事前に中身に関する情報を得られていない状況ではあったが、棺桶のようにも見える結晶体から感じ取れる力の質と量から、古神竜ドラゴンたるドランが居る以上は何も問題はないと、全員が判断していた。
その為、結晶体の封印を解いて内部のモノの危険性やその扱いの是非を実物を見て図ろうとするのは、当然の流れであった。
一旦、太陽のすぐ傍から、ドランが生まれた星と酷似した環境を持っていた惑星の一つに降り立ち、爽やかな風の吹く草原の一角で結晶体の封印は解かれる運びとなった。
ガンドーガの武装と出力制限を無人惑星大気圏内に再設定したリネットと、虹の薔薇を咲かせたままのディアドラ、龍吉と瑠禹母娘が息を飲んで見守る中、ドランは左手で結晶体の中央部分にそっと触れる。
ドランの眼は既に虹色の輝きを宿した竜眼へと変わり、封印の術式の全てを読み解いており、大の十八番である『力づくで無理矢理突破する』事をしなくても、穏便に解除は可能であった。
「ふむ、無理矢理封印を引き剥がすのでは、中身に悪影響を与えてしまう可能性があるか」
そう呟くドランの言葉には、わずかに面倒臭そうな響きが混じっている。
始原の七竜としての霊格と無尽蔵の魔力、知覚能力を誇りながら、ドランを含めた七兄弟はどうにも力づくで物事を解決するのが最も楽である為、ついそれに頼る傾向がそれぞれに見られる。
ドランは触れた指から封印の術式全体に、迅速に自らの魔力と意識を浸透させて行き、神の域にある者が何重にも施した封印を、鼻歌でも歌っているような気楽さで解いて行った。
「おおよそ八柱あたりの神々による外部からの複合封印と、内側から中の者達が自ら張った封印からなる二重構造だな」
ドランの呟きに瑠禹が柳眉を寄せながら尋ねる。
「となりますと戦いの最中に自らを守る為に、中の者達が結晶体を作りだして逃げ込んだという解釈になりますでしょうか」
中の者達が外部から追加された封印により周囲の状況を確認できていない場合、封印を解いた直後にドランに危害を加えようとする可能性がある。
ドランの素性を知った今となっては、瑠禹はそんな心配など無用である事を理解しているが、それはそれでやはり心配なのだ。
瑠禹の心配を察したドランは、嬉しげに微笑み返す。寄せられる好意に対してチョロいのが、この古神竜の特徴のひとつであった。
「そうなるね。大丈夫、私の兄弟達が不意を突いて攻撃してくるのならばともかく、この結晶体の中に居る者達では、私がどんなに油断していてもどうにかする事は出来ないよ」
「わたくしには中の方々の力を図る事すら出来ないのですが、ドラン様がそのように言われるのでしたら信じない理由はございません」
「少しだけ下がっておいで。そろそろ最後の封印が解ける。内部の者達も次いで解放されるぞ」
ドランの言葉に素直に従って、瑠禹は龍吉と共にドランから数歩下がり、ガンドーガに入ったリネットとディアドラも同じくドランを見守る位置に移る。
布状の全ての封印が溶け消えて、ドランの両手が扉を開くように結晶体を左右に開いて行く。
結晶体が完全に左右に開き切った瞬間、結晶体はさらさらと砂と変わって崩れ出し、その中から無数の人影が周囲に飛び出して、草原に生い茂る緑の深草の上に倒れ伏していった。
結晶体を取り出しても正常に機能する太陽から降り注ぐ草原の下に露わとなったのは、人類であれば性別や人種、年代の違いを越えて魅了するに違いない多種多様な美女達であった。
髪の色や顔つきや身体つきなども様々であったが、一様に頭部からは大小から形状も様々な角が生え、背中からは蝙蝠を思わせる翼が、そして臀部からは長細く先端がハートの形状になっている尻尾が伸びている。
「サキュバスだな」
「サキュバスですね」
「サキュバスって初めて見たわ。小さい子も大きな子も皆綺麗ね」
順にドラン、リネット、ディアドラの感想である。結晶体の中から飛び出してきたのは一人の例外もなく淫魔――サキュバスだった。
実物を見るのはリネットとディアドラにとって初めての事で、知識で知っていた以上に妖美なサキュバス達にディアドラなどは素直に感心する。
外見と雰囲気と普段の言動からは、完成された成人女性としか思えないディアドラだが、黒薔薇の精であるが故か、時々妙に子供っぽい言動をするのは、ドラン達の間では周知の事だった。
ディアドラが素直に感心する一方で、リネットは母の如く慕うディアドラの方がサキュバス達に負けるものではない、と心なしか語彙を強めて主張する。
「リネットにはディアドラの方が可愛さも綺麗さも妖艶さも、一段も二段も上のように感じられます。いいえ、そうであると断言できます」
「あら、ふふ、ありがとう、リネット。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞ではありません。少なくともディアドラはマスタードランが心をお許しになった、魅力ある女性なのですから!」
まるでドランに対するレニーアのように、ディアドラを賛美するリネットに、ディアドラは慈しみに満ちたまなざしを向ける。この二人の関係はほぼ母と娘で固まりつつあった。
ディアドラとリネットがほんわかとした空気を醸し出している一方で、サキュバス達はまるで死んでいるかのように深い眠りに就き、結晶体から解放されてもピクリとも動く様子を見せずにいた。
解放されたサキュバス達は誰もがお互いに腕や足を絡め合い、自分達自身を糸の代わりにして織り上げたタペストリーのような奇妙な状態になっている。
じっとサキュバス達の状態を確認していた龍吉が、案じる響きを孕んだ声でドランに話しかける。
地上最強の水龍皇にはサキュバス達が深刻な状態に陥っている事が、他の女性陣に先んじて分かったのである。
「ドラン様、この者達は冬眠に近い状態にあるのでは?」
「ああ、龍吉の言う通りだ。おそらくとしか言えんが、敵対していた者達に追い詰められて、この結晶体状の避難場所を作って閉じ籠り、飢え死にしない為に全員が眠りに就いたのだろうさ」
「そうであるのならば、何時訪れるとも知れぬ目覚めに一縷の望みを託した事になりますね。相当に追い詰められていたと言う事でしょう。こちらを敵と間違えて襲い掛かって来なければよいのですが……」
「寝ぼけて咄嗟に間違えた程度の事であるのなら、不問に処すさ。無論、君達に傷一つ付かなければという前提でだがね。さて、統率者が居る筈だが……あの娘辺りか」
容姿から身に着けている衣服まで様々な彼女達であったが、その中でもひと際霊格の高い個体を見つけ出すのは簡単な事であった。
互いの体を密着させ合うサキュバス達の集団のほぼ中心で横たわっている、首から上以外はほとんど露出していない、夜の闇のように深い黒のロングドレスを纏った女性だ。
ドランのハーレムが(本人が望まぬところで)四ケタに突入したわけですね。
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第百九十五話
さて、意図せずして千人近いドラグサキュバスという新種の淫魔を生み出し、更には彼女ら全てを眷属としてしまった事に、いつまでも衝撃を受けてはいられない。
いざとなれば分身体をこちらに残して、ベルン村に戻ればいいとはいえ私は有限の時を生きる身。いつまでも精神的衝撃を受けて、それにへこたれてはいられん。ふむ!
カラヴィスタワーとマイラール、ケイオスの構築した二重防壁の間の、何も知らない無垢な太陽の光が降り注ぐ、赤茶けた土ばかりの地面の上で、私達は今後の展望について改めて議論を交わし始めようとしていた。
「よし、では改めて状況を再確認しよう。塔の内部は神代を含む古代の戦場が継ぎ接ぎになっており、それぞれの戦場に居る敵性存在の戦力は上を見れば神域、下を見ればこの時代の人間でも対応可能か。
下限がこの時代でも対応できる基準である事は幸いだったな。そして内部に巻き込まれた住人は、代表者達に来て貰っただけでもこれだけいるか」
気を取り直した私は、カラヴィスタワー正門で居心地悪そうったらありゃしない様子の者達を見回す。全員がカラヴィスの塔建築にあたり、それまでいた空間の狭間やら崩壊した宇宙に取り残されていた者達である。
中にはタワーに組みこまれた事で生存の可能性が生じた者達がそれなりにいたのだから、一概にカラヴィスを責める事は出来ないな。
にしてもまあ、リリを含んだドラグサキュバスはともかくとして、その他のタワーの住人達は周囲に居るのが私を含めて規格外も良いところの面子ばかりだから、顔色が悪いどこではないな。
良く分かっていない顔をしているのは、人類種をはじめとした地上の者達で、今にも魂を体中の穴から吐き出して死んでしまいそうなのは、神々かその眷属連中か。
時代に取り残されていた彼らにとって、不倶戴天の天敵であるマイラールとカラヴィスとケイオスが対峙しているのみならず、更には私までいる事もあり、何も考えたくないと言う顔になっていた。
万が一にも私達の内の誰かが戦いを始めたなら、彼らは自分の身を守る事すら出来ずに消滅するしかないものな。そうはならないように配慮はするが、彼らの心労は凄まじかろう。
私が同情している一方で、発見した者達の今後の処遇に思いを巡らせていたマイラールが自らの意見を口にした。
「多くの者達は元々いた世界に帰る事を希望しています。チオウシュが守護していた人間達をはじめ、巻き込まれた者達に関してはそれでよいかと。魔界側の邪神達もいますが、彼の者達に関しても同じく……」
ふむ、まあ、邪神連中とはいえ今回はまだ何もしておらぬし、過去の罪状を問いただす場面でもないか。彼らにしてもこの状況を経験した上では、魔界に帰っても地上に何かしら悪行を働こうなどとは考えもすまい。
それに魔界に帰ってから、彼らがまずすべき事は改めて自分達の居場所を作り直す事だろうしな。
私の視線を受けると話題に上がっている邪神連中の諸君が、見ていて可哀想になる位に縮こまったり、一部は肉体が崩壊しかけていたりと我ながら前世での自分の暴れぶりを自覚させられる次第である。
何もそこまで怖がらんでも、と思うが、かといって私は彼らが悪行に手を染めるなら容赦をする気持ちは欠片もないのだし、彼らにはああして恐れられている方が抑止力になって世の為人の為であろうか。
ふむ、と私がいつもの口癖を零すと、カラヴィスがニヤニヤと厭味ったらしい事この上ない笑みを浮かべて、天敵のマイラールにスススっと足音を殺して近づく。
「えええ~、天下の大地母神様がそれでいいの~? てか本当は後で全員プチプチプチって潰しちゃうんじゃないの~」
レニーアがおろおろと慌てているのを他所に、カラヴィスはマイラールを煽る絶好の機会を逃しはしなかった。逃せば余計ないざこざが起きぬものを、カラヴィスめ。
ほら、すわ大地母神と大邪神の激突かとタワー在住組が気死しそうになってしまっているぞ。
幸いにしてマイラールはこめかみに青筋を浮かべる事もなく、天敵からの煽りにもツンと澄ました顔のまま声を荒げる事をしなかった。ふむ、せめてこちらは冷静でいてくれるか。
「貴女と違って自分が口にした言葉を忘れたりはしませんよ。貴女こそ、皆の合意で彼らの処遇を決めたのです。その事を忘れて、魔界に帰ってから何かしたらドランが容赦なく制裁しますよ」
マイラールの指摘は見事にカラヴィスの心の油断を突き、大邪神は心の底から素っ頓狂な叫び声を上げる事しか出来なかった。
「ふぎょっ!?」
カラヴィスはそれから私を振り返る。マイラールの言葉が正しいかどうか、自分自身ですら正しいと分かっているだろうに、それでも確認したかったのだろう。
私は極力真面目な顔を作り、そこそこ威圧感を滲ませ、更に意識して重々しく頷いて見せる。実際、カラヴィスがやらかしたら、私はやる。かなり厳しく、制裁を加える。
「おおう、マジか……。いや、そうだ、うん、そーだったよー、ドラちゃんはそーいうちゃんぼくに厳しく当たるツレないシャイボゥイダタヨー」
「ならば、ついでにその軽口もしばし閉じておいでなさい。貴女が意図せぬ失言でドランの怒りを買うのは構いませんが、巻き添えを被る可能性のある者達がこの場には多いのです」
「けっ、けっ、けえええ~! イイコちゃんの発言はホーント、ぼくの神経に爪を立てるよ!
ドラちゃんが見ている前じゃなかったら、ぼくとレニーアちゃんの仲良し親子の力を思い知らせてやるところなのにっさー。ねえ、レニーアちゃん!」
カラヴィスは言うが早いか、緊張した面持ちで事態の推移を見守っていたレニーアの肩に手を回して抱き寄せて、マイラールに対し、いーだっと言いながら舌を出す。
何時の間にやら巻き込まれてしまったレニーアはと言えば、あたふたとカラヴィスとマイラールの顔の間で視線を往復させていたが、彼女にとって優先すべきは母たるカラヴィスである。
意を決した表情を浮かべてマイラールの涼やかな美貌を見上げれば、応じるようにケイオスがマイラールの傍らに立つ。
「レニーアがそちらに立つのならば、私がマイラールの側に立たねば釣り合いが取れまいよ」
ふむ、レニーアが大神級の霊格を持ち、私の因子を持つ以上は最強の神であるケイオスがマイラールの側に立って、ようやく均衡が取れるのは確かか。
もっとも、レニーアはケイオスを敬愛する叔父として認識しているから、いざ戦いとなった時に全力を発揮できるかは難しいところだろう。
にわかに険呑な雰囲気が醸し出され始めたこの状況を、アルデスは見物に徹するべきか乱入するべきか笑いながら考え、ディアドラやガンドーガから降りたリネット、龍吉に瑠禹は、私に対して何かしないのかと訴えかける視線を送っている。
最高位神三柱とそれに匹敵する神造魔獣の睨み合いとあっては、割って入れるのは私位だものな。仕方あるまいて。
「四名ともそこまでだ。この場で遺恨となるような振る舞いを許容する事は出来ん。カラヴィスが戯れで口にした事をまともに受け止め過ぎているぞ、マイラール。
そしてカラヴィスも、自分が何を言えばどう解釈されるか分からぬわけではなかろう。
君達が雌雄を決するにしても、それはこの時でない事は確かだ。双方、矛を収めぬのであれば、私が第三の立場から乱入せざるを得ぬ」
意識して硬く重い言葉を口にすれば、カラヴィスもマイラールもケイオスも小さく息を吐くか、肩から力を抜くなりして、険しくなっていた雰囲気が解れる。
肉親――レニーア視点からして――の狭間に置かれたレニーアは、母と叔父の雰囲気が険呑なものではなくなった事に大きく安堵して、珍しく流した冷や汗を拭っている。
レニーアには可哀想な事をしてしまったな。
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第百九十六話
カラヴィスタワーには分身体の私と探索を行った神々、探索の結果見つかった巻き込まれた住人達が、今後の利用の為の管理体制の検討と内部構造の修正を行う為に残った。
竜界に常駐させている方の分身体は、ドラグサキュバスの誕生に臍を曲げたアレキサンダーからの言掛かりによって中々物騒な事になっている。以前、バハムート監視の元に行われたカラヴィスとアレキサンダーの戦いよりも危険な位だ。
本体であるところの『私』は一部の神々とディアドラ、リネット、レニーア、龍吉、瑠禹を伴ってベルン村へと帰還している。
塔までの経路の確認と整備計画の図面を頭の中で引きながらベルン村へ戻れば、魔法学院の授業と生活が残っているレニーア、龍宮国をそう長く空けてはいられない龍吉、瑠禹達とは一旦お別れだ。
普段の彼女らの調子からすると、またすぐに顔を合わせられるだろうから、そう寂しい気持ちにはならないで済むだろう。
レニーアに関しては私離れを少しずつで進めていかないといけないから、そう頻繁に来られるのは困りものだけれども。
宿に向かうレニーア達三人と村の中で別れ、私とディアドラ、リネットの三人でクリスティーナさんの屋敷に赴けば、いの一番に私達を出迎えてくれたのは、髪の毛のあちこちが跳ね、魔力の消耗が激しいメルルと少しだけ疲労感を滲ませたドラミナだった。
屋敷の中庭の一角に隔離空間を作り、そこで模擬戦を行っていたようだが、この様子では数日間に渡り戦い続けていたのだろう。
「あ、ドラン君! お帰りなさい。収穫はあった?」
メルルは二本の愛杖を待機状態にして、戦闘態勢を完全に解除している。精根尽き果てた状態である筈なのに、胸の内に充足感が満ちている為か実に活き活きとしている。
これに付き合わされたドラミナはといえば逆の様子で、ふう、と小さな溜息を零す。
人間の限界値に近いメルルでも、バンパイア最強のドラミナの方が体力も気力もはるかに上回っているのだが、それでも堪えたらしい。
「メルル様、せっかくお訪ねいただきましたのに、申し訳ありませんでした。収穫は、ええ、ありました。利益に繋がるように運用できるかどうかが、頭の悩ませ所です。
ドラミナ、ただいま帰ったよ。模擬戦、お疲れ様。メルル様の相手は君をしても疲れるかな?」
ドラミナはクリスティーナさんのところに就職した事もあり、顔を隠す事は止めて、その代わりに私の造ったアグルルアの腕輪を日常的に嵌めるようになっていた。
ドレスの方も領主であるクリスティーナさんよりも質の良いものにならないよう、ガロアで購入した市販の生地を自分で裁縫し、華美さとは縁のない機能性を重視した装飾のない簡素なものに袖を通している。
流石にメルルとの模擬戦中は神器の鎧を纏っていただろうから、ドレスの方に傷や汚れはなかった。
私達の姿を見たドラミナは、疲労の影を拭い去って温かな笑みを浮かべてくれる。家族の帰りを迎え入れてくれる笑みだが、メルルの相手をする人間が増えた事にちょっとだけ安堵してもいただろう。
メルルの相手をまかせっきりになってしまって、すまなかった。後でたくさん慰めてあげなければ。
「ドラン、ディアドラさん、リネット、お帰りなさい。メルル殿はいささか情熱的すぎて、相手をするのが骨を折れるのは確かですね。レニーアさんかドランのどちらかに残っていて貰えば良かったかな、と何度か思ってしまうほどです」
「君にそこまで言わせるとは、いやはや、メルル様、今度がありましたらもう少し手加減をしてくださいませんか?」
「い、いやあ、生まれてこのかた、魔法を遣った戦いで誰かに負けるなんて今までなかった事だから、どうしてもドラン君やドラミナさんに甘えるように模擬戦を申し込んでしまうと言うか、つい頭に血が昇ってしまうと申しますか……」
メルルは一旦模擬戦が終われば頭が冷えて、自分がドラミナに無茶な事をさせた自覚を抱いて、ひどく申し訳なさそうに縮こまる。
この自覚があっても同じ機会が巡ってくれば、また同じ事をしてしまうのだろうな。この女性はそういう間違いを繰り返してしまう性格と思えてならない。
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第百九十七話
クリスティーナさんを頂点に戴くベルン村新体制が始まってからというもの、予め村長達と事前に打ち合わせておいた新しい事が次々と始まり、私もまた領主直属の遊撃騎士兼魔法部門の筆頭と家宰の役職を得ている。
先日のワンワンとコンコンとアムリア、そして最近別の意味で怖い目線で私を見るようになったメルル達の襲撃もとい来訪が終わり、彼女らが王都アレクラフティアに帰還してから既に四日が経過した。
それにしてもメルルの視線はねっとりとした執念が乗っていて、あの目で見られると背筋がぞっとするほどの恐怖と、同時にどうしようもない哀れみの念が湧いてくる。
あの方も決して魅力の無い女性ではないのだが、短所が長所を覆い尽くして余りある自己主張の激しさを持っている為、どうしても異性との縁に恵まれない。
私の竜眼を持ってしても、メルルには一部の運命を司る神々が結ぶ運命の赤い糸がどこにもない位である。遠い未来に結ばれる場合でも、うっすらとは見えるものなのにだ。
贈り物を持って来てくれたし、気配りもできる方だけに残念で仕方がない。とはいえ、追い詰められたからといって、私を怖い目で見るのは止めていただきたいものである。
さて話を本筋に戻すと、新男爵就任に対する各地からのお祝いの品や書状もようやく絶え、就任式に叙任式といった目玉となる行事も済んだので、カラヴィスタワーの件で王都や各地の教団からの問い合わせが来るまでは、落ち着いて仕事に着手できる。
既に塔の方の内部の掌握と今後の管理体制に関しては、リリ達が非常に奮起してくれているので、私が口を出さずとも一任して問題はないのだが、それを公的な記録として各地に報告する為には、やはり各教団と王国の連合調査隊のようなものを内部に入れる他ない。
そうなったら宿や装備の手配に指揮系統の構築やら、各教団の力関係への配慮やらと気苦労を強いられる時間が訪れる事だろう。
調査に協力してくれた神々からの口添えも、大々的にやってしまえば人々からベルン村の神聖視かその逆の危険視かを極端にされてしまうから、あくまでほどほどの助力でどうにかしなければならないのが痛し痒しといったところ。
クリスティーナさんやセリナさん達と出会って一年が経過し、再び春の季節が訪れて、王国最北のベルン村にも暖かな日差しと芽吹いた花々の香りを乗せた風が吹く昨今、私は新設間もないベルン騎士団の訓練風景を見学に来ていた。
騎士団設立に伴い、ガロアからの異動組以外にもベルン村在住の農家の次男坊や三男坊、ガロアをはじめとした近隣で職にあぶれていた者や、傭兵や冒険者の類が安定した職を求めて来ている。
その為、騎士団設立の初動で鉄の規律を構築する為と、騎士団の兵員の練度を上げる為にかなり厳しめの訓練が課せられている。
そうして厳しい訓練が課せられると、それに用いられる道具の消費などが激しくなるわけで、その確認も含まれている。
ベルン男爵領の財布のひもに関しては、シェンナさんを会計の責任者に任命しているので、実際には私が足を運んだ理由は建前のようなものだけれど。
私が向かったのはベルン村南西部を開拓して設けられた訓練場である。この訓練場を作る為に、荒れ果てていた土地を開墾したのも騎士団で、村の内外の見回り以外ではこれが初仕事になった者が多く、面食らっていたのではないだろうか。
好奇心に駆られた子供達が足を踏み入れないようにと、厳重に石壁で囲った訓練場の中では、鎧兜姿の兵士達がバランさん監督の元、ぐるぐると同じところを何周も走っていた。
毎日毎日生えて来る雑草の始末も兵士達の仕事の内で、今日も起床後すぐに行った仕事の結果で、訓練場は綺麗なものだ。
バランさんへと近づき、腕を組んで大声を発しているその背中に声をかけた。バランさんも走っている兵士達と同じく鎧姿だった。
監督役であるバランさんが鎧を着こむ必要はないのだが、監督役としての責任感がそうさせているのか、それとも騎士に任命されて支給された新品の鎧に袖を通したくて着用しているのかもしれない。
「バランさん、新人達の調子はどうですか?」
私の声に振り返ったバランさんの鎧は、いつもと変わらず降り注ぐ太陽を跳ね返し、キラキラと輝いている。自分か、あるいは愛妻であるミウさんがいつも磨いているのだろう。
「おう、ドラン、いや補佐官殿とでも呼ぶべきなのかな」
「身内しかいない時は今まで通りドランで構いません。そうでない時は、どうしましょうか?」
ううむ、言われてみると私もさてなんと呼ばれればよいのやら、と悩みどころだったな。
「バランさんはベルン騎士団の騎士団長ですし、公的には対等な立場と言えますね。なら、ドランと呼び捨てのままでもよいのでは?」
「お前がドラン殿や補佐官殿と呼ばれるが嫌だから、というのが理由のほとんどじゃないのか?」
バランさんはそう言って、日に焼けた厳めしい顔に笑みを浮かべる。流石に付き合いの長さから私の性格を把握している。
前から想定していた事ではあるが、クリスティーナさんの家臣となった事で、村の皆との関係に少なくとも表向きには多少の変化が生じてしまうのは、私にとっては非常にやり辛いというか、居心地の悪いものがある。
「バランさんも隊長から騎士団長や団長と呼ばれるようになって、まだむずがゆい思いをしているのでは?」
「まあな。上手い事故郷に配属されて、兵士隊の隊長という責任ある立場を拝命し、万事順調だと思っていたものだが、まさか騎士の位を拝命するとは予想外もいいところだ」
バランさんは気恥ずかしそうに新品の鎧を軽く撫でた。騎士の為に用意される鎧は、当然兵士のそれよりも上質なものだ。
そしてバランさんに支給された鎧をはじめとした一式は、製作者が私と言う事もあり通常では考えられないほど膨大かつ高度な付与魔法が施され、材質もちょっと広言出来ない代物を使っている。
普段はただの魔法の防具に収まる性能だが、緊急時にはそこらの神器を蹴散らせる性能を発揮する特別仕様である。
いざという時には上位の神器級の性能を発揮する、新興男爵家の小規模騎士団長の鎧か。
ふむ、どう考えてもおかしいし不要な火種になりそうだが、バランさんや周囲の人々の命には替えられん。
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第百九十八話
破壊と忘却を司る女神カラヴィスと、その双子の弟神にして混沌を司る大神ケイオスは誕生から間もなくして対立したとされ、最初に争いあった神であるとも言われている。
ケイオスは、神という存在の中で最強を誇るその力によりカラヴィスを敗北の泥濘に叩き落とし続け、カラヴィスは彼女を知る誰もが訳がわからない、気持ちが悪いと評するほどの不死性により、敗れる事は多々あっても滅びる事はなかった。
常に勝ち続ける弟と絶対に滅びない姉の戦いは、互いの尾を食らい合う蛇の如く、終焉の予兆すら感じる事なく延々と繰り返され続けている。
それは姉と弟の共通の友たる古神竜ドラゴンが死に、人間ドランとして転生した後も尚変わらぬ事であった。
無数の邪神達の領土を内包する大魔界の一角に於いて、天界より降臨したケイオスは数え切れぬほど繰り返され続けていた姉殺しの為の戦いを挑んでいた。
多くの邪神や悪魔達は最高位の神同士の戦いの巻き添えを恐れて、野次馬根性を覗かせながら神という存在の最高峰の戦いを遠巻きに眺めている。
戦場となった大魔界は白い砂が地の果てまでも続き、空は渦巻く紫色の光に覆われた大地であった。足元を埋め尽くす細かな砂の全ては、かつての大戦で死した神々とその眷属達の骸のなれの果てである。
既に大神同士の対峙によって生じた清冽なるケイオスの神気と、汚辱極まりない癖に時々妙に清澄と見せてやはり汚らしく生温かったりするカラヴィスの神気は、下位の神性ならば足を踏み入れた途端に消滅する圧力を伴っていた。
完全武装したケイオスは朱塗りの大鎌の形状を持つ神器スメギオンを手に、赤色と金色の装飾が施された黒い甲冑を纏い、その周囲には色とりどりの水晶状の物体が浮かんでいる。
単体の戦闘能力では戦神アルデスを上回ると、アルデス自身も認める混沌の神の視線の先には、ドラン達の前に姿を現す際に採用する頻度の高い旅の女芸人風の姿のカラヴィスがいた。
おそらくケイオスとマイラール以外には、カラヴィスが決して向ける事のないであろう、心底から倒すべき敵と認めた相手にのみ向ける殺意と敵意と覚悟の凝縮された瞳である。
カラヴィスの足元の砂地はゴボゴボと音を立てて泡立ったと思えば、次の瞬間には滑らかな大理石の如く変わり、材質は言うに及ばず固体から液体、気体へとめまぐるしく変わっている。
カラヴィスの持つ破壊の属性が、足下の大地を破壊し、忘却の属性がその在り方をあらゆる世界と因果から忘却させて、常に新たな形へと変化させているのだ。
「我が姉たるカラヴィスよ、お前をドランの所へと向かわせるわけには行かない。しかし、何度言葉を重ねたとしても、お前が理解する事はないのだろう」
ケイオスの諦めを含んだ言葉に対し、カラヴィスはこめかみどころか全身に青黒い血管を浮かび上がらせ、怒りという言葉では収まらぬ感情を肉体で表していた。
カラヴィスによる浸食は足元の大地に留まらず周囲の大気へも伝播して、戦場となった小さな魔界を世界の全てから破壊し、忘却の彼方へと追いやり始めている。
「流石にそれ位は分かるようだねえ、このぼくの愚かな弟君よ。君が僕の邪魔をするのは今に始まった事じゃないさ。だから邪魔をする事それ自体はもうとやかく言う段階は過ぎてるさ。ああ、過ぎているさ。
でもぼくは言おう、敢えて言うともさ! どうして、なぜ、この瞬間、この時に、このぼくのドラちゃんの元へと向かうと言う目的の時に限って顔を見せた、ケイオス!」
カラヴィスの咽喉が破けても構わないと言わんばかりの怒号と共に、カラヴィスの持つ破壊と忘却の神威が暴風の如く、稲妻の如く、奈落の如く爆ぜて、ケイオスを含む辺り一帯を飲み込んだ。
全てを破壊し、忘却する瞬間が連続し、ケイオスという混沌の大神の存在を消し去ろうと極悪なる力を振るう。
ケイオスを飲み込んだ何の色かと断ずる事の出来ない色彩を持った球体は、これまでの開戦の始まりに比べると、かつてない怒気の込められた一撃だった。
それだけカラヴィスのドランに対する想いが強いものである事は確かだ。それはケイオスとて認めるところであったが、だからこそ余計に今のカラヴィスをドランの元へと向かわせるわけには行かない。
ケイオスは小さく嘆息した。上位の神でも場合によっては抵抗できずに消滅する悪意の只中にあって、混沌の大神はわずかに揺らぎもしていない。
「ちぃい、我が弟ながら無駄に強いな、コンニャロウメ!」
カラヴィスの言葉は何時もと変わらぬふざけた感の強いものであったが、そこに込められた苛立ちや怒りは本物であった。
今日ほどケイオスの事を憎たらしいと思った事はなかったし、今日ほどケイオスが最強の神である事を恨んだ事はなかった。
「ああ、他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえっていうけどさ! 君はどんな馬になら蹴られてくれるかなぁあ!?」
バリバリと歯を噛む音を立てるカラヴィスの目の前で、破壊と忘却の空間は内側から生じた、闇と光とが入り混じった何かに食い破られた。
闇でもない光でもない。聖でも魔でもない。善でも悪でもない。全てが入り混じり、全てが生じ得る可能性の渦、唯一の例外を除く万物の源、混沌。
「ケイオス、混沌を司る我が弟神よ! 今度もまた我が願いの成就を、我が夢の実現を阻むかあっ!」
混沌の中心より、ケイオスは悠然と歩み出た。その手には朱色の大鎌はなく、全身を包んでいた質実剛健なる黒の甲冑も、護衛のように周囲に浮かんでいた水晶もない。
その代わり、鎧の下に着込んでいたインナースーツのみとなったケイオスの全身には、先程までとは比較にならない、カラヴィスでさえ肌が粟立つ程の強大な力が満ちている。
大鎌の神器スメギオン、甲冑の神器フラエシル、水晶の神器バルミオス、ケイオスが纏っていたこれら三つの神器は、その全て無限に成長し続けるケイオスの混沌の力を抑制する為のもの。
これら三つを消滅させる事と引き換えに、ケイオスは普段は三重の封印を施している心の力を解放できる。混沌の大神には武具は不要。その五体の全てが至上の刃にして盾なれば。
「ドランは人間としての生に於いて転換期を迎えている。我が姉よ、お前の贈り物に関しては純粋なる善意である故、私は何も口には出さなかったが、今、お前がドランの元に顔を見せる事は良い方向に事態を進めることにはなるまい。
ただ会いたいからという衝動のままにドランの元へ赴けば、お前にとってもドランにとっても歓迎すべからざる結果を招く。お前にとっても不利益な結果に繋がるのだと、何故理解できない?」
ケイオスがこうして魔界にまで足を運んでカラヴィスと戦っているのは、口にした通り、ガロアと各教団からの調査団を迎えようとしているドランの元へ、これといった考えなしに降臨しようとしているカラヴィスを掣肘する為に他ならない。
マイラールが居てくれればカラヴィスを抑え込む事は更に容易であったろうが、目下、最高位の大地母神は自己を省みる事で忙しく、いじましい戦友のその姿を見ては、声を掛ける事は憚られた。
「愚かなり、ケイオス。ぼくが愛を司る女神である事を忘れたか! この胸の内、肉の全てに宿る愛の衝動のままに、ぼくはドラちゃんの元へと赴こう。
例えそれがお前の言う通りに双方に不幸な結果を齎し、ぼくがドラちゃんに痛いお仕置きをされてしまうとしても、今のぼくならばそれら全てを愛ゆえの行いとして甘美なものと受け入れよう」
「妙な潔さと傍迷惑な覚悟を固めているものだ。だが、我が姉よ。ドランが地上世界で遭遇する事態には、神として干渉する事は憚られるが、神の領域に於いて起きる厄介事を友として片付ける分には遠慮は要らぬ。
今一度、我が手によって敗れ去るがいい。そして今一つ、口が裂けても自らを愛の女神などと口にしない事だ。そうさな、ドランと正真正銘の夫婦になれば口にする資格は生じるかもしれないが、それまでは身の程を弁える事を覚えよ」
友の為にと姉の道を阻むケイオス。
己が愛の為にと弟と雌雄を決するカラヴィス。
ドランの知らないところで発生していた最高神同士の戦いは、かくして全魔界を震撼させながら、際限なくその激しさを増していった。
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第百九十九話
ドランがマイラール・ケイオス両教団の高司祭達と、王国からの監査官一行をカラヴィスタワーに案内している頃、ベルン村で良い子で留守番をしている女性陣は、時間の空きを見つけて休憩を取っていた。
ドランが居ないところでの情報共有と親交を深める意味合いを込めた、後の時代で言うところの女子会になるだろうか。
クリスティーナがようやく生活を送るのに慣れ始めた屋敷の中庭で、今回の女子会が開催される運びになった。
これまでにも何度か開催されていて、ベルン領の財布の紐を任されたシェンナや、医療責任者となったディナなども参加した事があるのだが、今回はクリスティーナ、ドラミナ、ディアドラ、エンテというドランの魂の事情までを知る面子である。
クリスティーナは席に着きながら、瀟洒な刺繍の施されたテーブルクロスに覆われたテーブルやこの椅子が、龍吉から送られた龍の角から削られた調度品であると王国の人間が知ったら、口から心臓を吐き出すほど驚くだろうと本気で考えていた。
せめて水龍皇である龍吉本人の角ではないのがせめてもの救いと言えば……まあ、救いではあるのだろう。
それでもかなり高位の龍の角のようで、この一式を得るためになら魔法使いや学者の類なら、破産も厭うまい。
辺境の男爵どころか大国の王族でも揃えられるか怪しいテーブルセットの他にも、ティーポットからティーカップ、茶葉のどれ一つをとっても最高級という表現しか許されない品々ばかりである。
こういった品は、海洋貿易の要を握る龍宮国からの贈り物だ。クリスティーナ自身はこれらの価値を漫然と身の丈に合っていないなあ、位にしか考えていないのは、宝の持ち腐れと言われても仕方ないかもしれない。
しかしそれ以上にこの場に集っている面子の素性の方こそが、世に知れ渡れば驚愕の嵐を吹かせるに違いないものだ。
クリスティーナは古神竜ドラゴンを弑した七勇者直系の子孫、ディアドラは魔界の毒花と古神竜ドラゴンの力を取り込んだ黒薔薇の精、ドラミナはバンパイア六神器を使いこなす第二の始祖バンパイア、エンテはこの星に五本しか存在しないユグドラシルそのもの。
世界中の人類国家のどんな国王や皇帝の集まりよりも、その希少性においては遥かに上回る面々と言えよう。
ただドラミナ以外の三人には、その自覚がほとんどない辺りの能天気さと言うか、自覚の薄さはドランに近しい人物達に共通する特徴だった。
なにしろ一番とんでもない素性の持ち主であるドラン自身が、自分の事を大した事がないと思っている最たる人物なのだから。
カラヴィスならびにカラヴィス教団に対して強い危機感を抱いている二教団の代表達は、今はドランと共にカラヴィスタワーに向かっているが、クリスティーナ達も後続の他の教団の代表達の相手をしなければならなかった。
まだ到着こそしていないが何やらキナ臭い、あるいは金儲けの臭いを嗅ぎ付けたらしい商人や冒険者の類の数は増しており、そちらへの対処も急を要していて、この女子会は大仕事前の息抜きの意味があった。
クリスティーナは一時期ガロアの冒険者ギルドに登録していた事もあるから、ガロア支部のギルド長から受付嬢に至るまで実力と性格を知られている。
ベルン男爵となったクリスティーナが北方の開拓を再開させる事も公表されているし、カラヴィスタワーの事が無かったとしても、冒険者の新たな需要を求めてベルン村に根を伸ばそうとするのは当然の事だ。
何でも屋とも称される冒険者であるが、戦闘の発生する可能性が高い護衛や討伐系統の依頼は、軍がしっかりと機能しているアークレスト王国では、あまり数が多いとは言えない。
その点、北方に異民族から魔物、魔族、更に言えばそれ以外に何かが居るかもしれないベルン村は、冒険者達にとって人跡未踏の宝石の鉱床、宝の山となり得る可能性がある。
ベルン男爵側としては当然それらの旨みを独占したいが、必要となる人手や時間、資金を考えると有能な人材と独自の技術や情報網を持つ冒険者ギルドは、多少の不利益を受け入れてでも手を組む可能性を考える必要が出て来る。
ただベルン男爵領は一般的な貴族の領地と比較すると、他に例を見ない極めて異例塗れの土地であるから、冒険者ギルドに限らず商人や教団側もこれまでとは異なる対応を迫られるだろう。
クリスティーナは学生時代とは比較にならない密度で付き合わなければならなくなった、書類仕事と近い将来確実に訪れる、対外交渉の場への緊張と不安を一時忘れるために、目の前の白磁の皿に盛られた甘味に意識を向けた。
超人種としての知力や体力、精神力はずば抜けたものであるが、苦手なものが相手だとその特性も塩を振られた青菜みたいに萎縮してしまうらしい。
クリスティーナの指が握るフォークは、皿の上に盛られたロールケーキの赤色の生地をゆっくりと割る。
エンテの森でエルフ達が栽培している、サンテラスという品種の林檎の果汁と果肉を練りこんだロールケーキである。
エンテ・ユグドラシルから芳醇かつ豊富なマナを供給されることで、真っ赤な皮や同色の果肉に多量の栄養素と糖分、マナを含有したサンテラスは、エンテの森の外に出れば通常の高級林檎のさらに数十倍の値段が付けられる希少な品だ。
直接エンテの森の諸種族と商取引が出来るという、唯一の特性を活用して、サンテラスを含めて希少な果実や木材、草花に至るまでの取引はすべてベルン側が握っている。
そうして独占状態のエンテの森の特産品に何かしら加工を施して、さらに商品価値を高めようという創意工夫と試行錯誤のひとつが、今、クリスティーナ達が食しているロールケーキであった。
柔らかな生地を一口大に切り分けて、そっと口の中に運び込んだロールケーキは歯で噛むまでもなく淡雪のように解けて、その中に残っていた小さく角切りにされたサンテラスの果肉がシャキシャキと心地よい音と歯ごたえを与えてくれる。
生地に練りこまれたサンテラスと形を残していた果肉から溢れたわずかな果汁と、甘すぎないように苦心して見出された量の砂糖の甘さ、そしてサンテラスの持つ爽やかな酸味が口の中で渾然と一体になり、鼻の奥から胃の中にまで心地よい香りで満たされる。
舌を通じて脳に伝わる無数の情報は快楽にも等しく、肺に至った香気と全身を駆け巡る美味の情報は体中を生き返らせるかのように鮮やかだ。
味の感想をすぐに口にする事はなく、クリスティーナやディアドラ、エンテ達が満足の吐息を零したのは、皿の上からロールケーキの姿がなくなってからの事である。
この一品を完成させる為に、今日まで努力を惜しまなかった料理人達には、いくら感謝してもしきれないものだ。
サンテラスの希少性や栽培されている数を考慮して、富裕層向けの高級菓子第一弾の一つとして、味と外見の華やかさは文句なしだ。後は価格設定と宣伝の仕方を間違えなければ、高評価を得られよう。
ロールケーキ以外にも用意されていた焼き菓子や、二杯目、三杯目のお茶で疲弊した神経と精神を回復させたクリスティーナは、深く呼吸をしてから意識を切り替えた。
「糖分が脳に染み込むようだね。これからもこんな風に美味しいお菓子や料理が出来るのは、領主としてだけではなく、食べることが大好きな人間の一人として嬉しい限りだな」
笑顔を伴う偽りのないクリスティーナの感想に、同席していた三人も同じ気持ちで、それぞれに微笑を浮かべながら頷き返す。
和やかな雰囲気の女子会の中で、ディアドラが誰かをからかう時の笑みを浮かべて、矛先はクリスティーナに向ける。
「この四人できちんと食べるのは、クリスティーナだけだけれどね。私とエンテ様は太陽の光と綺麗な水とマナ、ドラミナはドランの血が一番の栄養ですもの」
「それはそうだが、それでも同じ食卓を囲む事への喜びは変わらないだろう? 肉食の獣人系統の方達にも、これなら十分受け入れてもらえる味だと思うよ」
アークレスト王国住人の種族比率は純人間種が多くを占めるが、動物の特徴を持った獣人や昆虫の特徴を持った虫人もいる。
純人間種と彼らとの間では味覚を含む生態単位でどうしても妥協出来ない点などもあるし、一口に獣人、虫人といってもその分類の中でもさらに細かく分かれるのだから、万人が美味だと思う以前に、『万人に受け入れられる味』すらも探り出すのは難しい。
「言いたい事は分かるわ。人間と同じ食事が必要ない私でも美味しいと感じられるのだから、そこは自信と期待を抱いていいと保障してあげる。
それにしても村の拡張に荒地の開墾、兵士達の育成に各教団との調整、外部の商人や貴族達の折衝だけではなくって、今度は村の名物作り? やる事が山積みね。一つが片付いたら三つ新しい仕事が増えていそうだわ」
「仕事のある内が華だと思っているよ。する事がなくて一日雲を眺めて過ごすのも悪くないと思うけれど、今はまだまだ働いておかないとね。
ディアドラさんだって防壁の拡張に伴って、黒薔薇を絡ませ直す事になって大変ではないかな。植物園の管理だけではなくて、香水や薬の作成も頼んでいるし」
「私に任されている仕事なんて大した事じゃないわよ。魔法学院に居る間に管理のコツみたいなのは学べていたしね。クリスティーナだって疲れてはいるようだし、仕事も楽ではないようですけれど、嫌だと感じてはいないでしょ」
これはもう問うまでもない事であった。今のこの状況はクリスティーナが事前に分かっていて望み、そして望んだとおりに、あるいは望んだ以上のものなのだから。
苦手な書類仕事も時折村の中を見て回るのも、陳情に来た村長や村人と顔を合わせて話をするのも、冷徹な計算を友好的な笑顔の下に隠す強かな商人達と交渉するのも、クリスティーナにとっては全てが遣り甲斐に満ち溢れたもの。
これまでもそうだが女子会では身内ばかりということで、アグルルアの腕輪を外しているのだが、それを加味しても常よりも心の内側からの輝きを纏うクリスティーナが微笑むのには、ディアドラやエンテは不意を突かれた事もあり、胸を高鳴らさずにはいられなかった。
「もちろん、嫌だとか、拝命などするのではなかったとか、そんな事は一度だって考えたことはないさ。今の私はこれまでの人生でかつてないくらいに充実した気持ちで、一瞬一瞬を懸命に生きているのだから」
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第二百話
ドラグサキュバス達の長であり、つい数日前までは淫魔の女神でもあったリリエルティエル――通称リリは、呆然とこちらを見上げるヨグンやネフカ、バッフ達へと黄玉の瞳を向ける。
ドランから聞かされていたとはいえ、実際にドラグサキュバスを目の当たりにしたヨグン達はそれぞれにドラグサキュバスが生まれ持つ魅了の力を受けて、心の揺らぎを感じていた。
精神の修養を重ねた高司祭であるヨグンやネフカであっても、それは否定の出来ない事であるが、仮にもリリが神の末席に名を連ねる高次元の存在である事を考えれば、責める事は出来まい。
兵士達がそれぞれ惚けた顔でリリ達に見入り、ヨグンとネフカはそれぞれの信仰する神へ祈りを捧げる事で正気をいち早く取り戻す中、最初から正気だったドラン達が率先してリリとの挨拶を行っていた。
一応、神々を交えた事前の打ち合わせによって、リリ達ドラグサキュバスとは初対面という事で口裏を合わせる手筈になっている。
リリ達は翼を動かさず草原の上に音もなく舞い降りる。リリ達の足に踏まれた草達も、自分達の上に誰かがいる事に気づいてさえ居ないのではないだろうか、そんな感想を抱かせる静かな着地あるいは降臨だった。
草を踏む音もない着地は、洗練の極みに至った舞踏家のように優雅だ。翼を動かしての移動ではなく、重力操作による移動であろう。
本惑星の文明においては、高位の魔法使いが天賦の才能と不断の努力によって習得が可能となる高度な技術だが、ドラグサキュバスのもっとも下位の者でさえ、無意識に行えるのだから生物としての根本的な格が人間とは違う。
もっとも、そのドラグサキュバス達から言わせれば、人間と自分達の比較などまるで問題にならぬ程の隔絶した差があるのが、目の前の崇敬するドランになるわけだが。
リリが内心の動揺や緊張、不安などを完全に押し殺して、表面上は友好と親愛の情だけで形作られた微笑を浮かべている事は、賞賛に値するだろう。
ドランの眷属となるにあたり、自分が不意打ちに近い形で強引に契約を結んだ事は、リリの中で確かな負い目となって存在しており、ドランが寛容にも許してくれたからこそ、こうして朋輩達と共に存在できているのは間違いない。
「私はリリエルティエル。どうぞ、リリと呼んでください。大邪神の名を冠する塔に足を踏み入れた勇気ある者達。そして、数万、数億を数える年月の果てに出会った、我ら以外の知恵ある命達よ。貴方があのゴーレムのマスターですか?」
ここでリリは、ゴーレムを介して接触したという設定を遵守して、ドランへと視線と話の矛先を向ける。
リリのみならず他のドラグサキュバス達も、信仰する存在となったドランが自分達に対して苦手意識を感じている事は察しており、少しでも君臨者にして絶対者となったドランの心象を良くしようと、内心では心臓が破裂してしまいそうな緊張と戦っている。
リリたちにとって嫌われているわけではないのが、せめてもの救いであるだろう。
しかし、彼女達の中で最も位階の低かったサキュバスでさえ、ドラグサキュバスとなった事で神の領域に踏み込むほどの劇的な成長と進化を果たしている。
不意打ちで契約を結び、ドランからほんのわずかなお零れとして古神竜の力を受け取るだけでもこれほどの成果を得られているのだ。
そう考えれば嫌われていないのはともかく、ドランから苦手意識を抱かれている事に対して危機的意識を抱くのも当然であるだろう。
「然り。私が貴女達と接触したゴーレムのマスターだ。こちらの方々はマイラール教団のヨグン高司祭、ケイオス教団のネフカ高司祭、それとこの塔が出現したアークレスト王国の都市ガロアから派遣された、バッフ監査官。
私達からすれば突然、大邪神の名を冠した塔が国の土地の中に出現した為、命を賭して調査に来たわけだが、貴女達からすれば私達の方が邪魔者か、それとも侵略者になるのかな?」
邪魔者か、それとも侵略者――ドランの口にしたこの言葉は、即座にヨグンとネフカ、バッフの三名に正気を取り戻させるのに十分な破壊力を有していた。
ここに至る前に、ドランは友好的な態度の相手だと口にしたが、さりとてこうも明け透けな質問をしては、相手がどんな態度を取るか分かったものではない。
ともすれば亜神か真性の神の領域に達しているドラグサキュバス達を、まとめて敵にしかねない直接的にも過ぎる発言だ。
思わず三人が息をするのも忘れ、そろってドランの背中を見つめて、いや、睨み付けた程だ。当のドランはこれが打ち合わせた芝居と知っているから動じる素振りを微塵も見せないが、ヨグン達にとっては生命の危機を間近に感じる時間だろう。
リリはヨグン達が脂汗を滲ませているその姿に、はるかな太古にはこれ以上に人間やその他の生物達を恐怖させてきた事を思い出し、その事に罪悪感を抱いている自分を意外に思っていた。
サキュバスにとって他の生命を惑わし、魅了し、血肉や財産はおろかその生命や魂までを捧げさせるのは、無上の喜びでこそあれ心の痛みなど覚える要素は欠片もないはずなのに。
リリを含むドラグサキュバス達の人格が丸くなったのは、ドランとの契約によって古神竜の属性以外にも彼の人格の影響を受けている所為だろう。
リリは自分がしかけた事とはいえ、自分達の存在を根本的に変えた守護神にして主人である少年の皮を被った古神竜に微笑みかけた。
「貴方達が乱暴な方でないのなら、私達にとっては、とても、そう、とても長い時を越えてやってきて下さったお客様ですわ。
ましてやそちらのお二人は我らの主人と親しきマイラール神にケイオス神の敬虔なる僕たる方々。
僕たる方々。
そんな方に危害を加えたとなれば、主人がどれほどお怒りになるか、ほんの少し想像するだけでも心臓と子宮のもっとも深いところが凍りつくように恐ろしい事。
自分達の身を守る以外に私達が貴方達を傷つける事はないと、固くお約束いたします。なんでしたら誓約書か契約書でも書きましょうか?」
そう言って、紙に何かを書く素振りを見せるリリは、蜜となった艶を肌に塗っているような魔性の女ぶりに反して、子供っぽい可愛らしさがあった。
「その方が皆さんは安心するかもしれないが、貴女方の主人が古神竜ドラゴンであるというのは、まことの話か? 既に討たれた存在を崇める事もなかろうに」
よりにもよってこの台詞を私が口にするとは、とドランは内心では濃密な自嘲の念を渦巻かせていた。ドランこそがドラゴンの生まれ変わりである事を考えれば、これほど白々しい台詞もない。
正直に言えば、ドランはなるべく早くリリ達との対話の主導権をバッフかヨグンあたりに委ねたくて仕方がなくなっている。
ただヨグン達にとって、ドラグサキュバスは想像以上の高次存在の集団であった為、遭遇時の衝撃から立ち直らせるのと情報収集させるのを兼ねて、今はドランが主導で話をしているに過ぎない。
「ええ、私達をただのサキュバスから、このように竜種としての属性を備えたドラグサキュバスへと生まれ変わらせて下さった偉大なる御方。それは古神竜であるドラゴン様に相違ありません。
私としましては、もっと詳しいお話をするのは吝かではありませんが、せっかくの御客様達をこうして外で立たせたままにしておく事は、礼を失する行いですわ。
まだまだ警戒の意識がなくなりはしないでしょうけれど、それでも、私達の町にお誘いさせてくださいましな。暖かいお茶やお酒に食事、それに宿も提供いたします。なんでしたら愛の営みのお相手も……」
リリのみならずドラグサキュバス達全員に歓迎の意思があるのは間違いのない事だが、最後の夜の営み云々に関しては、ようやく自分達以外に肌の触れ合いを楽しめる相手が来た、と獲物を前にした狩人めいた喜びと眼光の鋭さが混同していた。
兵士達の大部分は怪しく煌いたリリの瞳の光や、その背後のドラグサキュバス達が喜色を浮かべるのに合わせて、無意識にしなを作るのを目撃した為に前屈みになってしまっている。
男女の性別を問わぬところのあるドラグサキュバス達の視線には、女性であるネフカもまた身の危険を感じていて、ほんの少しだが後ずさりしている。
ドラグサキュバス達の色気の影響を受けていないのは、ドランとドランのお手つきと認識されているセリナとリネットの三人くらいのものだ。
ドランはリリ達に悪気はないのだろうがなあ、と困り顔になりながらバッフ達にこれからの行動指針を問う。
「彼女達はこのように私達を歓迎してくれていますが、実際のところ、私達はどういたしますか? 私としては彼女達の提案に乗るが吉と見ます。
町のど真ん中に建っている竜の像からは邪気を感じられませんし、リリ達も私達が想像する歓迎とそう大差のない歓迎をしてくれるでしょう。
ドラゴンを崇めていると口にした時の彼女らに嘘は感じられませんでしたし、ならばドラゴンの盟友にして戦友でもあるマイラール神と、ケイオス神の信徒であるお二人が居る私達に対して、安易に危害を加える真似は避けるでしょう」
ドラグサキュバス達に対する警戒心が薄いように感じられるドランの発言に、ネフカとバッフは既に魅了されたかと一抹の疑いを抱いたが、ドランの瞳や雰囲気がこれまでとまるで変わらない事を確認して、その可能性を捨てた。
ネフカとバッフに対し、ヨグンは最初からそうは考えていなかったようで、節くれだった指で顎先を撫でながら目を細める。思慮深い賢者然としたその姿に、ネフカ達をはじめ兵士達の視線が集中する。
「ふうむ、補佐官殿は早くも彼女らに信を置いておられるようですな。リリエルティエルと名乗られた女性とそのご同輩達が、本当に古神竜ドラゴンを信仰しているというのならば、確かに我が神とネフカ殿の神とは親しき仲。
私達が憂慮するような事態が避けられる可能性は高いものですが、ドラグサキュバスというサキュバスの亜種の事はとんと耳にした事がありませぬ。
この塔における固有の種族なのかもしれませんし、死した筈の古神竜をなぜ信仰しているのか、個人的には極めて大きく興味のある事です。
なにより、目の前の彼女達の力は私達の手に負えぬものです。ここで招待を断って見過ごしてもらえるにしろ、招かれた先で罠に陥るにしろ、戦力差は圧倒的です。ここは我らの神とあちらの神の御慈悲に縋る他ない状況かもしれませんなあ」
ヨグンの言葉にはどこかしら諦念が含まれていた。最も早く正気を取り戻したマイラール教の高司祭は、ドラン達を除いて彼我の戦力差を推し量り、自分達の命が眼前の淫魔達の手の上にあると理解していたのである。
ただヨグンは、同時に眼前の対象の悪意の有無や虚言を呈しているかどうかを探知する奇跡をマイラールの眷属に願っており、リリ達の言葉と態度に偽りがない事を確かめてもいたからこそのリリ達への同道を良しとする旨を発言したのだろう。
ネフカも同様の奇跡を行使する事は出来るのだが、まだ若く経験が不足している所為もあり、奇跡を願う事を失念してしまっていた。
しかしヨグンが彼我の戦力差が圧倒的過ぎると判断した点は、ドランの真の実力を知らない事を除けば、間違ったものではなかった。
ヨグン達もアークレスト王国の誇る次世代の怪物の一人であるドランの実力は、塔の中に入ってそれなりに目撃した事もあって、噂に偽りのないものだと驚愕と共に認めているが、それでも亜神以上の存在であるドラグサキュバスには届かない。
もちろん、それはドランがメルルには及ばない程度に実力を抑えて戦っているから、そのように誤認されているだけの話だが。
そうとは知らぬバッフやネフカ達からすれば、ヨグンの表面上は穏やかでも状況が逼迫したものである事を告げる言葉には、事態が袋小路の奥に追い詰められたものである事を認識させられ、緊張に生唾を飲む音がそこかしこで連続した。
結局のところ、ヨグンが口にした通りにそれぞれの信仰する神の庇護と慈悲を祈り、調査団一行はリリ達の誘いに応じて丘から見下ろせる町へと足を向ける。
インラエン → 淫乱 プラス 楽園
エツニク → 悦楽 プラス 肉欲
ヨクセイ → 性欲
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第二百一話
天界におけるマイラールとその眷属達の領域は、マイラールの大地母神としての権能と威光を示すように、雄大な山脈や果てのない大地、山肌を埋め尽くすありとあらゆる世界の草花や樹木で構成されている。
その中にあって、本丸あるいは本殿とも言うべきマイラール達の住居は、空に浮かぶ雲海を貫く巨木の内外に建てられた城である。
マイラールが人間の創造に深く関わった女神である事の影響か、眷属達のほとんどは人間に近しい姿を持った者達で構成されている。
その為に住居である城もまた地上世界の人間達が建てたものと似た構造となる。正確には、人間の建てた物が神々の建てた物に似ているというべきであろう。
ともかく城の主であり領域の主も兼ねるマイラールの私室は、城部分の深奥、巨木の内部に設けられている。
マイラールはカラヴィスタワーから帰還後、この部屋に閉じ篭ってずっと自分自身の心と向き合って、問答を続けていた。
これほどの長期間、マイラールが部屋に閉じ篭った事はなく、人々からの祈りに応えて、神としての務めこそきちんとこなしているが、眷属達に姿を見せる事はなく随分と気を揉ませている。
マイラール以外に大地の豊穣を司る女神や、太陽の運行を司る女神が閉じ篭り、地上世界に甚大な影響を与えた事例はあるが、幸いにしてマイラールの閉じ篭りによる地上世界への影響はなかった。
これは考えに没頭しながらも、マイラールの女神としての責任感によるものだろう。ドランが地上の人々にお勧めの信仰先と評価するのは、伊達ではないといったところか。
閉じ篭っている真っ最中のマイラール本人はといえば、おおよそ質素ないしは清貧と形容するのが最も適切な部屋の窓際に置かれた大きな寝台に腰掛けて、静かに目を瞑っている。
艶やかな輝きを放つ肩を剥き出しにし、太ももの付け根ほどまでしかない黒い衣装に身を包み、座る姿は扇情的でありながらも美しく、なにより気品ある姿で微動だにしない。
永い、実に永い間、お互いに良き友であり続けたドランに対し、よりにもよってカラヴィスによって指摘された自身の感情の変化。
その正誤を自らに問い続けて得られた答えに当惑したのも最初の数日の事で、今となってはマイラール自身認めざるを得ないところまで考えが進んでいる。
そうであるのならば、自分は何をするべきか、どうしたいのか、をマイラールは考え続けていた。ドランが自分に向けている感情が、変わらぬ友情であるのは間違いない。
自分が好きなのだから相手も自分を好きでなければならない、などとは、いくら恋愛経験値皆無のマイラールにしても考えはしない。
考えはしないが、好きな相手には自分を好きになって欲しい、そう考える時点で自分がドランをどう思っているかなど決まりきっている事もまた自覚していた。
「はあ、困りました。これではドランと顔を合わせるのが恥ずかしくて、困ってしまいますね。困りました、困りました。
神などと崇められていても、この体たらく。いえ、私も人並みに女であったと自覚すべきでしょうか。それはそれで新しい自分を見つけられたわけですが……」
困ったと零すマイラールではあるが、どこか喜ぶ響きを含む『困った』であった。
地上世界の生命に大地母神として、神々からの自立を願いながらも慈愛の念を注いできた自分が、人並みに誰かに恋慕する事それ自体がとても新鮮であったし、相手のドランがもし応えてくれたならそれはどんなに素敵な事かと、想像するだけでも胸が高鳴ってしまう。
困りました、困りました、と重ねて口にするマイラールだったが、扉の外から掛けられた声に、おや? と思いながら反応した。
「マイラール様、マイラール様」
これまで閉じ篭り続けるマイラールを心配し、何柱もの神々が声を掛けたが、今回はこれまでの不安や悲壮さとは縁のない明るめな声で、その変化がマイラールの意識を惹いたのだ。
マイラール自身、いい加減閉じ篭ってばかりもいられないと考えていた事もあって、久しぶりに扉越しにではあるが返事をした。考えてみれば随分と迷惑を掛けてしまったし、後で詫びなければなるまい。
「聞こえていますよ、何かありましたか?」
具体的にはカラヴィスが殴りこんで来ただとか、カラヴィスの生み出した神造魔獣の大群が押し寄せて来ただとか、カラヴィスが顔だけ出しておならをしていって、そのおならが猛毒と化して広がっているだとか……
過去に幾度かあった重大な危機を思い出し、腰を浮かすマイラールだったが、扉の向こうの眷属――人間から女神になったメイファからの返事は、マイラールの予想を外れるものだった。
「ドラゴン様、いえドラン様がお越しです。出来ればマイラール様にお会いしたいと、それが叶わぬならお声だけでもと」
ドランの名前に、マイラールの心臓が大きく跳ねたが、一つ呼吸を深く吸う事でそれを鎮めて、マイラールはいつもと変わらぬ、いや、少しだけ赤みを帯びた笑みを浮かべて応える。
「え、ええ、そうですか。ふふ、せっかく来てくれたのですから、直接顔を合わせなければ礼儀に反しますね。どうぞ、ドランを通してください。それと後で皆に迷惑と心配を掛けた事を詫びに行きますから、そのように伝えてください」
「そのような、マイラール様にお詫びいただくような事はございません!」
「そう言われると思いました。ですが、これは一つのけじめですから。それとドランを通して上げてくれますか? 彼は気の長い方ですが、あまり待たせてしまっては申し訳ありませんから」
「は、はい」
自らの派閥の長が謝罪すると口にしたことに関して、メイファでなくともマイラールの眷属であったなら、誰もが叫びかねないところだ。
メイファはこの事を他の皆に伝えなければならない事実に、果てしなく気が重くなったが、マイラールがようやく部屋に閉じ篭るのを止めてくれる気になった事は純粋に嬉しかった。
それをなしたのがドランであろう事には、どうしても嫉妬を感じてしまうが、それが実は単なる勘違いでたまたまマイラールが閉じ篭りを止める決心をした時に、ドランが足を運んだだけだと、メイファが気付く事はなかった。
マイラールの元を訪れたドランは、ベルン村で過ごす時と同じ、農民基準で考えたなら、年に一度着る機会があるかどうかの晴れ着に相当する格好だった。
領主の補佐官として、また家宰として相応の衣服を求められた結果である。
ドラゴンだった頃を含めて、ドランはマイラールの私室に足を踏み入れた事はない。
これはドラゴンとマイラールの縮尺の比率が、基本的に成体の竜と人間のものとそっくりそのまま同じであったからで、顔を合わせる時はまず野外だった為だ。
そのマイラールの私室に足を踏み入れたドランは、あまりじろじろと異性の部屋を見回しては失礼だな、と自分を戒めて対面の椅子に腰掛けた大地母神を見る。
マイラールが多少なり恥じらいを帯びている事を見抜けないほど、ドランも鈍くはなかった。なんとなくこちらも気恥ずかしいような気持ちになり、ドランは口を開くのにわずかな間を置く。
「……恥ずかしながら、君になんと声を掛ければよいか、迷ってしまったな。久しぶりというほどでもないが、壮健な様子で安心したよ、マイラール」
「塔で別れて以来ですね。少し、我が身を振り返る事に集中していただけですから、身体を患っていたわけではありませんよ。私の不徳で、メイファをはじめとした皆を心配させてしまいましたけれどね。
ドラン、カラヴィスに指摘された事に関しては私自身、色々と思う、いえ、色々というよりは一つだけずっと考えていましたよ。流石に考えざるを得ませんでした」
「む、そうか。そうなのだろう。私も考えずにはいられない内容だった」
「ふふ、お互いが消滅し得ない限りは続く永遠の友情かと思っていましたが、それ以外の感情が混じるとは夢にも思いませんでした。ドラン、私のこの想いは、貴方には迷惑だったでしょうか?」
マイラールは意識していなかったろうが、肯定されてしまう事を考えて、不安げに揺れる瞳、悲しみの訪れの予感に寄せられる眉、口にした言葉にわずかな後悔を感じている唇と、およそ男に対して無類の効果を発揮する、女性にしか許されぬ表情を浮かべていた。
特に親愛の情を抱く相手に無防備と言えるほど懐を開くドランに対して、その威力は数値化できないほどだった。
「迷惑などと、とんでもない! 驚いた、いや、今も驚いているのは事実だが、迷惑だなどとは思わんよ。私に君ほどの素晴らしい女性に想いを寄せられる価値があるのかと、自分に問うばかりさ」
「貴方のその自己評価の低さと謙虚さは、転生しても変わりませんでしたね。ですが、自分を低く見る発言は、ともすれば貴方を恋い慕う女性全員への侮辱にもなりかねませんから、気をつけてくださいね」
「ふぅむ、そうか。言われてみると確かにそうだ。反省しなければならない事が一つ増えたな。忠告をありがとう」
「私も含まれる話ですから。ふふふ、それで、今日はどういうご用件で私を訪ねていらしたのですか? 私を心配して、というだけではないでしょうし」
「鋭いな。だが君の様子を見に来たというのは、確かだよ。それ以外の理由の一つとしては、カラヴィスタワーを今後利用する話になってね。
その為に迷宮を利用している他所の都市を参考にしようという話になった。それで私を含めた何人かで、ベルン村の海の向こうにあるメイズリントという都市に行くのだが、君の様子見がてら一緒に行かないかと誘いにね」
「まあ、嬉しいお話ですね。でもそれは私だけではないのでしょう。貴方は気配りのできる方ではありますが、女性の心に通じているとはお世辞にも言えませんし、ディアドラさんかドラミナさんが気遣ってくださったのでは?」
「まるで心を読まれたか、見られていたかのような的確さだ。降参だよ、確かに君の言うとおり、ディアドラに指摘されての事だ」
「でしょうね。貴方の場合、気配りをしなければならない女性がたくさんいらっしゃいますし、あまり無理を言っては可哀相です。その事で責めたりはしませんよ」
もうそう言っている事それ自体が、私を責める言葉になっているような、とドランは思ったがそれを口にするほど馬鹿ではなかった。まあ、お馬鹿さんである事や抜けているところがあるのは、セリナや眼前のマイラールにも否定できないが。
「それで私以外に誰を誘いに行くおつもりなのですか? 少なくとも私と貴方は分身を派遣しての調査になりそうですね。龍吉さんや瑠禹さんは公の立場がある以上、難しいでしょう。
古神竜としての貴方達が地上に降りるという話ですから、ヴァジェさんも龍吉さん達と同じように、そちらの対応を貴方が振っているのではないですか? そうなら自由に動けるのはしばらく先の事ですね」
「ああ、ヴァジェもそうだが、他の三竜帝三龍皇も私達の来訪に大慌てになって、竜種を参集しているそうだ。ヴァジェにはバハムートと私、その他の神竜達と現地の竜種達との仲立ちの一端を担ってもらっている。
依頼した時は、この世の終わりのような、でもこの上ない栄誉を授かったような顔をしていたよ。可哀想な事をしたかもしれん。そうそう、同行者だがリリ達ドラグサキュバスの件で大いに臍を曲げた我が妹を予定しているよ」
「アレキサンダーですか。確かにリリエルティエル達の事を考えれば、彼女が怒り出さないわけがありませんね。彼女のご機嫌取りは必須でしょう。
カラヴィスも関わってきそうですが、彼女の事はケイオスが手を打ってくれていますから、安心できますよ。
それとあまり構っていない相手というのなら、クロノメイズが声を掛けなくてもやってくるでしょう。それならこちらから声を掛けたほうが彼女と貴方の為ですよ」
「クロノメイズか。自分達と同じ立場のリリ達が来た事で、上機嫌かと思っていたのだがなあ。競合相手が出てきたと思い直してもおかしくはないか。では、マイラールの助言に従うのが吉だな」
「そうしてください。それとドラン」
「ふむ、なにかな?」
「私は貴方に対する自分の想いと向き合う事が出来ました。ですが、だからといってすぐに行動に移せそうにはありません。それでも意識していないところで貴方への言動が変わる事があるかもしれませんが、どうか許してください」
「君は私を謙虚と評したが、君もそうだな。許すも許さないも考えるまでもない話だよ。君は君の心の通りに行動してくれて構わないさ。
君の誠意に応える為に、私も正直に胸の内を開けるが、君が最良の友である事は変わらないが、そこに男女の感情を加えると考えていなかったのは、私も同じ事だ。
今もマイラールの事は友として見ている部分が多い。だが、同時に君の事を異性として少しずつ意識し始めてもいる」
「ふふ、貴方の正直さは時にこちらを恥ずかしくさせますね。でも、私の事をそう意識してくれるのは、嬉しい事です。少しずつ貴方との関係を深めてゆければいいのですが」
そうして二人の会談は和やかに進んで行き、これから数日の後にグジャシー諸島連合の迷宮都市メイズリントを、白い鱗のドラゴニアンと銀の鱗のドラゴニアン兄妹、時の女神クロノメイズと大地母神マイラールの神官戦士達四人が訪れる事となる。
そして一人の中年冒険者を指導役に選んだ彼らが、常識から大きく外れた成果を上げて大注目される事になるが、それにドランが関わっていたかどうかは謎である。ふむっふん。
ルスクロウと出会う前のドライセンと愉快な仲間達のお話ですね。こうして彼らは結成されたわけです。
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第二百二話
カラヴィスタワーの処遇について各教団やアークレスト王国で激論が交わされている間に、既にベルン村ではカラヴィスタワーの利用を前提とした周辺の開発が進められていた。
冒険者達による内部調査と開拓の拠点とする為に、カラヴィスタワーを囲う二重の防壁の周囲の地面を均し、後々必要となるであろう宿泊施設や飲食街、神殿などの基盤づくりが始まっている。
素性や名前を偽ってベルン村に足を運んでいた各地の貴族や商人達の手の者や、一攫千金を夢見る冒険者達もベルン村の統治者側が本格的に動き始めた事で、自らの嗅覚の正しさを確信して色めき立ち始めていた。
正確な情報こそまだ伝わっていないが、ガロアからやってきた監査官を含むただならぬ一団が向かった、暗黒の荒野へと向かおうとする者達もいた。
そういった鼻の利く者達は、事前にクリスティーナから暗黒の荒野へと向かわせるな――命令するのが苦手なために、向かわせないでください、と危うく言いかけた――という命令を受けたバランが配置した兵士達に見咎められて、村に戻された。
中には兵士達の目を盗んでその先に進む者達もいたが、そういった腕の立つ者達はドランが地面の下に仕込んでいたゴーレム達によって発見されるや、すぐさま拘束されて兵士達へと引き渡されている。
これまでベルン村を守っていた防壁の拡張や、クラウゼ村との間だけ整備されていた街道を、ガロアへ延長する為のガロア総督府との日々の交渉、勝手にエンテの森に足を踏み入れてエルフ達に捕縛された冒険者達の処遇、時折アムリアと八千代と風香と共に護衛の名目で襲来してくるメルルへの対応……
更にはベルン村北西の沼の利用とそれに伴う旧住人であるリザード族との交渉、モレス山脈のレイクマーメイドを束ねる水竜ウェドロやワイバーン達を束ねる風竜オキシスとの面談と、この時期のクリスティーナやドラン達にはしなければならない事が徒党を組んで連日連夜突撃を敢行してくる忙しさであった。
ベルン男爵領の領地経営に関わる人員が数こそ少ないが、優秀かつ数日の徹夜など何の問題にもならない体力お化け集団で固められているからこそ、目の下にクマ一つ浮かばせる事もなく日々の経営業務をこなせている。
他所の領地で同数の人員で同じ真似をしたら、そう時を置かずに過労で次々と人が倒れて仕事にならなかった事だろう。
こういった雪崩の如く襲いくる仕事の中で、モレス山脈の竜達との交渉だけは、竜側の事情によって後回しにされている。
それはこれまで何度かドランが口にしたように、現在、この惑星に住む竜種達にとって、とてつもない重大事が発生していて、他の種族の者達と関わっているような時間的・精神的余裕がまったくなかったのだ。
そう、古神竜としてのドランを含む始原の七竜や神竜達の来訪である。
まだドランが古神竜として地上にあったはるかな太古に、神域の力を持った竜種達が竜界へと移り住んで以来、地上に残った同胞達との邂逅は極めて稀な事であり、それを伝えられた地上の竜種達の衝撃たるや凄まじいものがあった。
三竜帝三龍皇やその直系の子供らは事前にドラゴンとしての姿と態度を取ったドランと面談し、免疫を得る事に成功していたがその他の竜種達はそうもゆかない。
竜と龍の別なく、火や水、風に雷などの属性も問わず、各竜種達が期日に間に合えるように三竜帝三龍皇達の下へと大急ぎで向かった結果、地上最強種のかつてない集団大移動に、その移動経路に住んでいた人間や他の生物達は天変地異の前触れかと大慌て。
地上の各地にそれなりの騒動を巻き起こしながら、三竜帝三龍皇の六つの拠点に、おそらく天人との大戦争以来となる無数の竜種達が集結する事となったのである。
一つの例として轟国より北東の大火山地帯に拠点を置く火龍皇項鱗の下にも、無数の竜種達が集っており、ほとんどの竜種達はこれから見る事になる自分達の頂点に立つ存在についての推測や、これだけの同胞が居る事の驚きを口にしていた。
項鱗の居城は火山の内側に建てられていたが、集結した竜種達の数が膨大である事を踏まえて、集まった竜種達は火山の外で待機している。
万を数える竜種の集団は、およそ彼らに撃滅出来ない勢力は、地上に存在しないと断言できる常軌を逸した戦力の集団である。
竜種の集まりに火山地帯に棲む他の生物達はそれぞれの巣の奥深くに潜り込み、頭上の竜種達の牙や炎が自分達に向けられずに済む事を祈っている。
少なからず気の毒ではあったが、当の竜種達は緊張で心も身体も縛られていた為に足元の小さな生き物達に気付く事はなかった。
噴煙などは無く、硫黄の匂いこそ濃厚であるが、青い空の下に集った竜種達の内、とある深紅竜の家族達に焦点を当ててみよう。
活火山の熱と火の属性を帯びた魔力を吸って成長するカザンシャクナゲの花が、真っ赤な絨毯となって山肌を埋め尽くす一角に、その家族は足を着けていた。
カザンシャクナゲの他にもゴボゴボと泡と湯気を噴く温泉など無数にあり、火竜に属する者には過ごしやすい環境なのだが、他の竜種達と同様にその家族の誰にも心地よいといった感情を抱く余裕はないようだった。
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第二百三話
ドラゴンの傍らに降り立ったヴァジェは、明らかに他の竜達と比べて格が不釣合いであった。
ヴァジェ自身は、ドランや龍吉、バハムートやアレキサンダーに鍛えられた結果、同年代のみならず更に古い世代を含めた深紅竜の中でも、ずば抜けた力を持つに至った極めて強力な深紅竜である。
しかし、それはあくまで肉と霊と魂が退化した地上の竜種に限った場合の話であり、退化せざる竜種である真竜達に囲まれれば、ヴァジェどころか龍吉や項鱗ですら見劣りしてしまうのだから、これは仕方の無い話だ。
他の誰に指摘されるよりもヴァジェ自身が強く自覚するところであり、自分が置かれた状況を認識する事を必死に拒否する自分と、それをしては崇敬する種の頂点の方々に対し礼を失すると叱責する自分との間で、精神をすり減らしている。
麻酔もせずに無理やり切り開いた体内から引きずり出した神経を、刃毀れと錆の目立つ刃物で薄く削ぐような、あるいは手足の上に石の重石を乗せて骨と肉に圧力を掛け続けるような、そんな拷問を受け続けているのがヴァジェの精神状態である。
そのまま白目を剥き、泡を噴いて気を失ってしまえれば、ヴァジェにとって何よりの幸せであったろうが、そうは行かないのが凄まじい苦痛とこの上ない栄誉に与っている多幸感と畏れ多さの嵐は、まだまだ沈静化する様子を見せない。
そんなヴァジェであるから、自分を大変に可愛がって育ててくれた家族がこの場にいる事にも、唖然とした顔で自分を見ている事にも気付ける余裕などあるわけもない。
事前に、ドランが悪気なしに発した傍においで、という発言がヴァジェに齎した途方もない心労を察した項鱗が、せめてもの助けとして、何も喋らずに真面目な顔だけ作ってドラゴン様のお傍にいるように、と言ってくれなかったら、今頃ヴァジェは奇声の一つでも上げて、どうにかなっていた可能性すらある。
この場に集まった竜種達の視線がドランやバハムート達に集中している中にあって、ヴェルゲントらヴァジェの家族と親交のある幼馴染や顔馴染が、ヴァジェに視線を向けているのに、ヴァジェがまったく無反応な様子を見れば、いくらなんでもドランとて察せられた。
ドランは顔だけは凛と引き締まっているヴァジェを横目に見て、どうやら、この場に同道させた事が予想をはるかに超えてヴァジェの精神に負担となってしまったようだ、悪い事をしたな、と内心で反省していた。
そしてそんなドランとヴァジェの様子に、バハムートもまた内心で小さな溜息を零している。
バハムートは、ドランの方がヴァジェとの付き合いは長いし、実際、地上の竜種達との仲介役としては適当だと考え、ヴァジェの同道に口を挟まなかったのだが、やはり口を挟めばよかったと苦い後悔を噛み締めていた。
ドランは転生前から自分はそれほど高尚な存在ではない、と常々口にしているのだが、この考え自体はバハムートを含めた他の始原の七竜や龍神や真竜達も、これといって否定はしないだろう。
だが、バハムートがドランに対して問題があると断じているのは、自らを高次の存在だと驕らないのはよいのだが、だからといって他者がそう考える事は極めて難しいという事実をもっと強く認識する必要がある事だ。
同胞である地上の竜種達が、竜界に移り住んだ自分達の事を、どうしてそうなったと疑念を抱くほど崇敬しているのはもう分かっているのだから、自分の考えはひとまず横に置いておいて、相手の立場に立った考え方をして欲しかった。
ヴァジェの事はもう少し他者の目の限られた場で、転生してから世話になっている者の一人として、それとなく紹介する程度でよかったのではないだろうか。
それでもヴァジェが心底萎縮するのは免れまいが、周囲を古神竜や龍神に囲まれて衆目の前に立つ現状よりは、まだ負担は軽いだろう。
ドラゴンとバハムートだけでなく、周囲の龍神達もヴァジェに対して憐憫と同情と罪悪感が絶妙に入り混じった感情を向けはじめた頃に、項鱗の紹介が終わった。
次はドラゴン達竜界側の竜が、直接地上の同胞達に声を掛ける番である。
人間として領主の補佐官の地位に就いたドランも、こういった場面での物言いを学ぶ必要があるが、ここは竜界の誰もが長として認めるバハムートが舌を動かすのが適切であった。
人間達の前にケイオスやマイラールが降臨して、声を掛けるのにも等しい一大事に、ヴェルゲント達もついにヴァジェから視線を外して、バハムートへと向ける。
理性ではなく本能が発した絶対命令だった。
項鱗やヴァジェ達は始祖竜が自ら裂いた肉体の微細な破片や血の雫から生じた龍神などを祖とし、そこから地上で生きるのに不都合がないようにと代を重ねるごとに弱体化した世代だが、バハムートとドランは始祖竜の頭部と心臓がそのまま姿を変えた存在だ。
比較しようという考え自体が発生しないほど、両者の間には埋められぬ格の違いがある。
「改めて名乗る機会をいただこう。我はバハムート。始原の七竜の一角たる古神竜として、この世に生を受けたる者。同胞達よ、懐かしきこの地にて再び出会えた事を嬉しく思う。
先に火龍皇項鱗が述べたとおり、我以外にも同じく始原の七竜の一席を占めるドラゴンをはじめとし、竜界の同胞達と共にそなたらの姿を見に、こうして参った。
かつて我らが神々の創造した地上に降りた折、まだ地上とその他の世界を隔てる壁はなく、地上世界であっても神や我ら竜種は持てる力をそのままに振るっていた。
悔やむべき事に、そして悲しむべき事にそれによって数多の世界そのものが失われ、そこに住む命もまた冥府へと旅立っていった。
我らがかつて始祖竜が存在していた場所に竜界を創造し、移り住んだのはひとえにその惨劇を繰り返す事を忌み嫌ったが故の事。
そうして竜界に移り住む事を決めた我らと、力を損なってまで地上に残る英断を下したそなたらの先祖らとの二つに、我ら竜種が分かたれてから永い月日が経った」
バハムートは自分の言葉が耳を傾けている同胞達に行き届くのを待ち、数瞬の間を置いてから厳かなる声で神話の続きを語る。
神話? そう、これは神話だ。地上の竜種にとっての神が語る、竜界の創造と地上に残った遠い先祖達にまつわる太古の秘話。どうしてそれを、地上の竜種達が聞き逃す事が出来ようか。軽んじる事が出来ようか。
生きたまま剥製状態になりかけていたヴァジェも、バハムートの声によって心身の呪縛から一時的に開放されて、物音一つ立てる事すら暴挙と恐れた姿勢で聞き入っている。
「我らが時の流れに疎い所為もあるが、竜界に移り住んだ後の我らは地上の同胞達に危機が迫った時以外は、積極的に関わらぬように時を重ねてきた。
既に二つの道に分かれる選択をした者同士、ましてや我らはかつての力をそのままに残す者。無思慮な干渉は同胞の住まう世界を破滅させかねぬと憂慮しての事であったが、それも転生を果たしたドラゴンからの忠言にて風向きが変わった。
我らとそなたらとの間で交流が乏しくなった為に、徐々にお互いの認識にずれが生じ始めている事に、ようやく気付いたのだ。そして遅まきながら懐かしき我らの同胞の子孫達と再び出会うことを決めた。
我らに頭を垂れる同胞よ、そなたらには難しき事と分かった上で、こう言わねばならぬ事はいささか心苦しいが、我らはそなたらが頭を垂れる事がなくなるように足を運んだのだよ」
それまでバハムートが纏っていた威厳がわずかに和らぎ、困った事だと微苦笑する雰囲気に変わり、話を聞いていた項鱗達を大いに困惑させる事となった。
それは神々が信徒に対して、自分達を信仰しなくてもよいようにと告げるのにも等しい。
バハムートやドランからすれば、竜界の竜が自分達に接するように過剰な緊張と崇敬の念を薄めて欲しい、という思いから出た言葉である。
大元を辿れば始祖竜に行き着く同じ種族なのだから、出来うる限り対等に近い立場を構築し直したいのだ。
良くも悪くも竜界の竜種は、地上の竜種達と比べると上下関係の意識が希薄な傾向にあり、それはバハムートやリヴァイアサン、ヴリトラなど、ドラン以外の始原の七竜にも言える話なのである。
バハムートからの思いもかけなかった言葉に驚いたのは、地上の竜種達だけであった。
ドランや、項鱗が名前を挙げた鉄朱火や緋夢炉などは、予め聞かされていた話であるから、驚きの『お』の字も見せず、戸惑う地上の同胞達の様子に自分達との間に設けられた精神的な壁の大きさとその厚みに、これから先の意識改革は長い話になるな、と確信を抱くのだった。
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第二百四話
ヒノゴク山内部にある火龍皇の宮殿で、ヴァジェ一家が古神竜ドラゴンを前に悲壮にして壮絶、それでいてどこか滑稽でもある時間を過ごして、胃や神経に多大な傷を負ってからしばし後の事。
竜界からやってきた竜達は、一度、宮殿内に用意された部屋に集まり、その日一日の感想をお互いに述べ合っていた。
その場にいる竜の全てが真竜・真龍以上の個体であることを考えれば、竜教徒が目撃したら、喜びと驚愕のあまりにその場で発狂しかねない光景である。
室内は極めて高純度の黄金やミスリルといった貴金属のほかに、火精石やルビーなどで飾られた竜種らしい豪奢さと圧倒的な規模で構成されている。
火龍皇項鱗の治めるヒノゴク山一帯は、龍宮国には及ばないもののそれなりに竜種以外の種族も暮らしており、火山内部の宮殿は多種族の共同体としての施設と火龍皇として用いる施設とに分かれる。
ドラン達が居る部屋は火龍皇として用いる施設の側にある。つまり竜種用の部屋であるため、成体の竜に合わせた間取りになっている。
室内に調度品の類はほとんど見られず、壁や天井そのものに巨岩と見まごうルビーに絡みつく龍や黄金の山脈で遊ぶ竜の子供らなどが彫琢されていた。
調度品の類が見受けられないのは、竜種達の堅固な鱗を纏った巨体や尻尾が触れると、ごくわずかな例外を除いて大抵の物質は削られて、ボロボロになってしまうからだ。
これを避ける為に調度品や装飾品は最初から置かれていないのである。もっとも、この宮殿の中にあるいかなる宝物よりも、部屋の中に居る竜種達の方が貴重といえば貴重であるが。
そんな部屋の中に、巨体のみならず霊格の高さから神秘的という言葉ではまるで足りない荘厳さと威圧感を持つ竜達がひしめき合っていると、畏れ多さよりも一周回って滑稽さの方が強く感じられる。
しかも当の竜達はお互いに顔を突き合わせて、大なり小なりの差はあるが全員とも困った顔を浮かべているから、一層笑みを誘う。
バハムートを含め、竜達は前々から地上の同胞達に自分達がどう見られているのか予習してはいたのだが、実際に体験すると面食らうなどという言葉で済むものではなかった。
心底疲れたと言わんばかりに心情を吐露したのは、ルビーのような鱗に包まれた顔を顰めた、火の龍神鉄朱火である。
「いやあ、地上の同胞達はわしらの事を良く見すぎだなあ? いや、美化っちゅうか神格化っちゅうか、そこまで大したものかねえ、わしら」
これまで一度も感じた記憶のない類の疲労に、鉄朱火はすっかり参ってしまっている。
それは鉄朱火ばかりではない。良く焼けた鉄の色の鱗を持つ緋夢炉や、落陽を思わせる鱗が目を引く真竜ヴォルダージュをはじめとした竜達も揃って困り顔になっている。
よく言えば仲良しこよし、悪く言えばざっくばらんな竜界の湯船に浸かって生きてきた彼らには、地上の同胞達からの歓待はまだしも崇敬の眼差しは居心地が悪いにも程があった。
「鉄朱火の言うとおりである。ドラゴン様、バハムート様に以前にお教えいただいていた通りとはいえ、あれはひどい。いや、ひどいと言っては彼らに悪いが、どうにも落ち着けぬものがある。
よもやここまで彼らが我らを美化していたとは、これは正しく問題である。住む世界を分けたとはいえ、力に差が生じたとはいえ、我らは同じ系統樹に属する同胞であるからして」
しみじみと、しかし徐々に熱を帯びる言葉を紡ぎ出したのは、緋夢炉だ。人間に換算すれば妙齢の美女になる女龍神だ。
さしもの龍神も、地上の同胞達から向けられる感情が、なまじ善意と敬意だけで構成されている為に、無碍にする事も出来ず受け止めるしか術のない事に、すっかりと堪えている様子。
他の竜達もおおむね同じようにゲンナリとしている様子を見回し、バハムートが厳かに告げる。バハムート自身としては普通に話しているつもりでも、ごく自然とそのように聞こえてしまうのは彼の生まれ持った威厳というものだろう。
「鉄朱火も緋夢炉も、事前に分かっていたとはいえ実体験した事で我らが問題視した理由をよく理解できたようだな。まず間違いなく風龍皇の下へ赴いたヴリトラや白竜帝の下へ赴いたアレキサンダー達をはじめ、ほとんど皆が同じ体験をしていよう。
例外としては、事前にドランと通じ合っていた水龍皇の下へ赴いたリヴァイアサン達くらいのものであろうよ。
今回と同じ事をこれからも無数に行ってゆかなければならぬのだ。この程度の事でめげてはいられぬぞ。地上世界に広がった我らの同胞は随分と増えているのだからな。ドランよ、汝にも手伝ってもらうぞ」
「いくらでも働くつもりだ。構わんさ。さて、地上の同胞達から向けられる敬意に戸惑うのは理解できるが、あれだけ強く敬慕してくれているのだ。決して悪い気はしていまい。
我々の方で彼らに返せるものが少ない事が悔やまれるが、同じ種族なのだから手を取り合って生きてゆけるよう努力する事を惜しんではならん。それは鉄朱火や緋夢炉も分かっているだろう?」
「それは無論のことですが、ドラゴン様、実際問題手を取り合うにしても我らと地上の同胞とでは、厄介な事に力が違いすぎますなあ。
わしらも神同様に地上に降りる時に制限が掛かるのならば話は違いましたが、わしらは地上でも竜界と同じように力が振るえます。
その所為でこちらが撫でる程度のつもりでも、地上の同胞にとっては魂が消滅する領域以上の脅威になっちまってまさあ。
地上に足を運ぶ際には最初から大きく制限を掛けてゆかねば、我らのちょっとした間違いで地上に甚大な被害を齎しちまいますぜ」
「三竜帝三龍皇でも恒星を吹き飛ばすのが限界であるし、せめて多次元宇宙とまではいかんが、単一宇宙を消滅させられるくらいの力は維持しておいて欲しかったとは、私も多少思わないでもない。
言っても詮無き事だが、私達と地上の同胞達の橋渡しにちょうど良い力の持ち主が居れば、とつい望んでしまうな。だが、ここは我らの方から地上の同胞達に合わせようではないか。
それに我らが力を振るうような事にはなるまいし、そう窮屈な思いをする事はなかろうさ。注意を払うに越した事はないが、そう気負わずとも良い」
「ならいいですが、そういや、ドラゴン様が助力を提案した時に三竜帝三龍皇全員が断ったのでしたな。それなら、ドラゴン様に限らずわしらの手出しもあまり好かんでしょうな」
鉄朱火が下顎の辺りを指でなぞり、鱗と鱗の擦れる音を立てていると、同じような考えに達した緋夢炉もいくらか考える素振りをしてから、首を縦に振って同意を示した。
「鉄朱火の言うとおりである。元々項鱗ら龍皇達だけでも、異界の侵略者や邪神の尖兵共とは互角以上に戦えていたのだから、我らが手出しをする機会もほとんどあるまい。
あるとしたら、アレキサンダー様が気に障ったという理由で、やらかす事くらいである。
他所の惑星の同胞達も同じ反応かどうかは不明であるが、ここの星の者達と同じ言葉を口にするだけの気概と矜持を期待したいものである」
まず最初にと手を付けたこの星でも、既に精神的疲労が山積みであったが、ドランという前哨戦を経験済みの同胞達相手でもこれだったのだ。
竜界の竜達の来訪など夢や空想の出来事としか考えていない別の惑星の竜種達は、ある日、突如来訪を告げられたりしたなら、驚きのあまり心臓を止めるくらいの事をするかもしれない。
良くも悪くも強大である為、生息している惑星の生態系に大きな影響を与える竜種が、ある日一斉に心肺停止を引き起こした日には、一体どうなるか分かったものではない。
「緋夢炉のそれはかなり難しい期待かもしれないぞ。同胞達との交流は、今日一日だけで終わる話ではないし、今からでも考えられる問題を思いつく限り洗い出して、対処法を決めておくところからだな」
幸いにして竜界の竜の個体数は星の数ほど居る。なにしろ他の神々や高位存在と違って、争いによって死んだ例がほとんどないのだから、目下、増える一方だ。そのお陰で三次元に属する地上世界に広く繁殖した同胞達の下を訪れる頭数を多く揃えられる。
交流がある程度進んだ段階に至ったなら、竜界と地上ばかりでなく遠く星の海で隔たれた地上の同胞同士で交流を持つのもよいだろう。ともすれば、惑星アーカディアンの人類文明よりも早く、竜種達が星間交流を実現するかもしれない。
「時にドランよ、汝が傍らに侍らせていた深紅竜のお嬢さんだが、その後はどうなった? 家族の方が随分と驚いていたように見受けたが……」
こうドランに問うたのはバハムートである。手に持った杯で、傍らに置いた保温機能つきの大壷から新鮮な溶岩を汲み上げ、がぶりと飲んでからの発言だ。
「ひどく萎縮されてしまったよ。ヴァジェと出会った頃は古神竜である事を明かすなり、公表なりする予定はなかったとはいえ、ヴァジェにとって酷な結果となってしまった事は否定できん。
あまりヴァジェを責めないでくれるように説得はできたと思う。なるべく気にかけるように心がけるが、私を反面教師にしてバハムート達は同胞達と上手くやってくれよ?」
「古神竜自らが貴重な例となったくれたのだ。活かさぬ手はないな」
バハムートが冗談めかして笑いながら答えるのに、ドランはそうでなくは困る、と呟くのだった。
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第二百五話
ドランの展開した欺瞞と遮断の結界は、地上の同胞達に対して完璧な効果を発揮していた。
結界内部で幼い頃からの約束である、力の比べっこをしている深紅竜ヴァジェと黒緋竜ゼルガスムの高まる魔力や周囲の溶岩地帯を蒸発させる熱量を外部へ一切漏らさず、また結界の外からはヴァジェ達が和やかに話しているように見えている。
もっとも、ドランが結界の効能は地上の同胞達にだけ通じればよいと判断している為、バハムートやヴォルダージュ、鉄朱火などは感知しているだろう。
そう判断したのも、地上の同胞達がヴァジェ達の力の比べっこにドランが同席しているとあれば、一体何事かと驚天動地の境地に達するところだが、バハムート達ならばドランに何か考えあっての事と察してくれるという根拠があった。
赤色の山肌に足を下ろしたドランの眼前で、同じく大地に降り立ったヴァジェとゼルガスムが、既に摂氏八千度に達する熱を全身から発しつつ向かい合っている。
家族ぐるみで付き合いのあった幼馴染という事もあり、ヴァジェの心身には闘志こそ満ち溢れているが、殺意や悪意の類の感情は一欠けらもない。
ドランが初対面の時を思い出し、私の時とはまるで正反対だな、とつい考えてしまうほど、奇妙な穏やかさが今のヴァジェにはあった。
ヴァジェの心に迷いや曇りの類はない。磨き抜かれた鏡のようにこれから自分のする事に対して、躊躇や遠慮などもまったくなかった。久方ぶりに幼馴染とじゃれ合うのが楽しみで仕方がない、そう全身で物語っている。
対するゼルガスムは、表面上はあくまでも落ち着き払っていた。心身に満たした黒緋竜の魔力を解き放つ機を見逃さぬようにと、精神と神経を研ぎ澄ましている。
――だが心の奥では穏やかならず、か。
ドランの観察眼だけがゼルガスムのわずかな精神の揺らぎを見抜いていた。
心の奥底に封じ込めた感情が、どうしても抑えきれずに、グジュグジュとふやけた治りかけの傷口のように疼いているのだ。
それでも、ヴァジェがゼルガスムに悪意を抱いていないのと同じように、ゼルガスムもまたヴァジェに悪意を抱いてはいない。ただ、理性だけでは抑えきれぬ感情が青年竜の胸の中で蟠っている。
言葉にすればそれだけの単純な話だったが、単純であるがゆえにゼルガスム自身でしか決着をつけられぬ問題でもある。
「ヴァジェ、ゼルガスム、一応は見届け役として双方どちらかが傷を負うような事になれば、止めに入らせてもらうぞ。久方ぶりの力比べで勝手を誤る事もあるだろうからな。
他の者達からの介入がないように結界も張ってある。他の事は気にせずに力を振るうがいい。それと、何か合図のようなものは要るか?」
「いいえ、ドラゴン様には我らの為にご配慮いただき、感謝の言葉しかございません。なあ、そうだろう、ゼル」
「ええ、ヴァジェの言うとおりです。我らの事情で御身を煩わせる事をお許しください。
それでは恐れながら合図に関しましてもお願いできますでしょうか」
ゼルガスムが居る手前、ドランをドラゴンと呼ぶヴァジェの言葉には、その通りの感謝の念がたっぷりと含まれている。それに加えて、これまでの緊張から開放された事の喜びを感じて、傍目から見ても相当に気分を高揚させているのが見て取れる。
重圧と緊張感から開放された事で、ヴァジェが生来持つ好戦的な気性がようやく顔を覗かせ始めていた。ドランとしては、ヴァジェはこうでなくてはな、と思うところである。
「君らに不服がないのならばなによりだ。ではこれから空に魔力の砲弾を打ち上げる。それが弾けたら、比べっこの開始だ。よいな?」
ヴァジェとゼルガスムが揃って首肯するのを確認し、ドランは右手に白い魔力の球体を構築して上空へと打ち上げる。
びゅうびゅうと音を切って打ち上げられた魔力の砲弾は、ドラン達の頭上高くで内側から弾けるように破裂し、白い霧のような光が青い空に広がる。
ヴァジェとゼルガスムは合図とまったく同時に動いた。研ぎ澄ました神経は、開始の合図が告げられた事を一瞬の遅れもなく把握し、次の瞬間には結界の内部は灼熱地獄と化した。
二体の上位火竜の放つ膨大な熱量に地面や岩石が見る間に煮え立ち、気体へと変わる。
尋常な生物では、結界の内部に足を踏み入れた瞬間に炭すら残せず焼死する世界だ。
加えて古竜であるヴァジェ達の放つ炎熱は物理のみならず霊的存在にも効果を及ぼす為、精霊や死霊の類ですら燃やされてしまう。
肉持つ者も霊なる者も区別することなく、平等に燃やす炎が天地を満たす。
ヴァジェは種族名の通り深紅の炎を纏い、ゼルガスムもまた黒緋色の炎を全身から激流の如く放出していた。
天変地異を思わせる二色の炎の流れは、両者の中間地点で激突し、夥しい水飛沫ならぬ炎の飛沫を無数に作り出しながら押しては退き、退いては押すの拮抗状態は演じる。
「ふむ、ゼルガスム君はなかなか見所のある青年だな。ヴァジェはかなり厳しく鍛えているのだが、この星の若い世代の有望株その三といういわけか」
ドランが感心した様子で二人の激突を眺めている間に、ヴァジェとゼルガスムは、炎の吐息のぶつけ合いはほぼ互角と判断し、戦い方を別のものへと変える決断を下す。
「はははは、ゼル、しばらく見ないうちに随分と火の扱いが上手くなったな!」
「それはこちらの台詞だよ、ヴァジェ。それなりに強くなったつもりだったが、君がここまで強くなっているとは」
互いに火を吐く口を閉ざして、ヴァジェとゼルガスムは巨大な翼を広げ、溶岩の海と化した足場から烈風を起こしながら飛び立つ。瞬時に音の壁を越える速度に到達し、炎熱を孕む大気を引き裂いて、二体の竜は空中で激しい肉弾戦と炎の打ち合いを演じる。
一撃一撃が大型の魔獣を絶命させ、小さな砦などの建築物ならば即座に倒壊させる破壊力を持ち、ほんの数分この二体が暴れるだけで都市の一つ二つ灰燼に帰するだろう。
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第二百六話
アークレスト王国北方の大都市ガロアでは、ここ最近でこれまでは見られなかった光景が少しずつ増えていた。
例の一つとして、ガロアよりも更に北にあるクラウゼ村とベルン村へと続く街道からやってくる、大型の乗合馬車の群れとそれを守る人間とゴーレムによる混成の騎兵達がある。
見れば騎兵達の馬も馬車を牽引している馬も、すべてが並みの馬をはるかに上回る巨大なホースゴーレムだ。
その生きた馬と変わらぬ造作の見事さもさる事ながら、それに跨る騎士型のゴーレムやケンタウロス型のゴーレム、騎兵達の身につけた装備の品質の高さと何重にも掛けられた付与魔法には、冒険者達やガロアの騎士達が羨望の眼差しを向けるほどであった。
ガロアの市外の一角をベルン男爵名義で買い取り、設けられた馬車駅を出入りする馬車を見た市民の一人が、隣を歩いていた友人に問い掛ける。
二人ともガロアに席を置く、共に二十歳を数えたばかりの若者だが、話しかけた方はつい先日まで商いの関係で他所の町まで半年ほど足を伸ばしていた。
その為、半年前には見られなかった光景に興味を惹かれたのである。馬車駅へと足を向ける人々は列を成し、その中には商人や冒険者ばかりでなく自由労働民や農民らしい家族の姿もあった。
「なあ、あそこは一体何なんだい? あんな所に馬車駅なんてあったかい? それになにやら見慣れない家紋が掲げられているが、あれはガロアじゃなくって他所の領主の家紋か?」
指差せば不敬となる為、若者が目線で示したの御者台に掲げられた、鞘に納められた剣を咥えた竜の家紋の旗だ。
もう一人の若者が、事情を知らぬ友人の為に、今年の春から起きた変化について口を開いて説明をし始める。
「あの馬車と駅は、この間、新しく興されたベルン男爵様のご所有されるものさ。御領地であるベルン村からクラウゼ村を経由して、このガロアまで毎日何台も馬車を往復させているんだよ」
「ベルン村? あそこはエンテの森との付き合いが始まって、話に名前が乗るようになってたな。へえ、新しい御領主を迎えたのか。王領から独立ってわけか。それにしたって、随分な列だね。そんだけ良いところなのかい、ベルン村ってのは?」
「お前さん、いくらガロアを離れていたからって、もうちょっと世情ってもんに明るくなけりゃ、商売で食べていけないぜ?
ゴブリンやらに襲われたっておっかない話はあるが、今じゃどんどん兵士を集めて軍備に力を入れているって言うし、移民もどんどん募集している。
税も随分と安いし、なにより、土地を開墾したらその分、自分のものにしていいってお達しだ。今じゃ開墾の為の道具やら新しく建てる家の為の建材だけじゃなく、とにかく何でも持っていけば売れるって言われるくらい、賑わっているよ」
「そいつは豪気だね。でも自分のところから民が離れて行っちまうんじゃあ、御領主の方々は良い顔をしないだろうな。
ま、エンテの森と唯一の交易の窓口だって話は前からあったし、うまくやりゃ結構裕福な土地になるんじゃないか。ところで、あの馬車駅の中には入れるのかい? 随分立派な建物が建っているが、アレが待ち合い所なのか?」
青年が顎をしゃくった先には、平屋のコの字型の建物が建っており、馬車を待つ人々やそうでない人々も頻繁に出入りを繰り返しており、また建物の軒下には屋台がズラリと並んで、客とのやり取りの声が聞こえてくる。
どうやら単なる待ち合い所や、馬車の護衛を勤める兵士達の休憩所というわけではないらしい。
「あそこには、ベルン領直営の店やら何やらが入っているのさ。これからベルン村へ移住を希望する者や仕事を求めてゆく連中への案内もあるが、利用客の多さに目をつけた連中を取り込んで商いをさせているんだよ。
ベルン村でしか買えない物もここで、いくらか値が高くなっちゃいるが、買える。エンテの森でしか手に入らない特殊な魔法花やらを使った香水に魔法薬、香木の類が金持ち連中には馬鹿みたいに売れているしな」
「へえ、お貴族様や金持ち連中ってのは見栄を張りあう社会だからね。あいつが持っていて自分が持っていないんじゃ格好がつかないって、競い合っているんだろう。それだけ商品に価値があればの話だけどさ。
それにしてもこれだけ人が賑わうなんて大したもんだね。馬車の運賃だって馬鹿になりゃしないだろうに、どう見たって払えそうにないようなのまで乗っているが、ありゃどういうわけだい?
隣町に出かける程度ならともかく、馬車を使ったってベルン村までは泊りがけで行かにゃなんねえ。それじゃあ、途中で野宿するとしても結構な金が掛かるだろうに」
「ああ、それか。それも男爵様の太っ腹なところさ。一部の馬車に限って、運賃はタダなんだと。信じられるかい? ちょいと狭くって乗り心地が悪いからって、それでもタダで乗れるんだぜ。
おまけにクラウゼ村から向こうにある宿泊所に関しても、馬車同様に泊まるだけならタダなんだとよ。風呂と食事と個室付きなら金が掛かるって話だが、それでも太っ腹には違いないね」
「おいおい、いくらなんでもそんなんじゃ損だろう。あれだけ利用しようって客が多いんなら、二束三文の運賃だって積み重ねりゃ結構な額になるだろうによ」
ここまで口にしたところで、いや、と青年はある事に思い立った。まずはベルン男爵領にはその程度、問題にならないほどの資金力がある可能性。
次いで辺境も辺境、田舎を超えた田舎であるベルン領に人間を集める為に、土地所有の件も含めて盛大に宣伝しているのではないか、という可能性。
新興の領地が出来た時には環境によって差異はあるものの、まずは人集めと金集めが行われるのはよくある話の範疇だ。
ベルン領も多少派手だがそれを行っているだけではないか? ここで集った人間の収集と資金配分をベルン側が過てば、領地経営は一気に悪化の一途を辿るが、男爵領側と同じく新しく集る側にとっても人生一発逆転を決める絶好の機会でもある。
「ゴブリンに襲われたっつっても、誰も死なずに切り抜けて、代わりに報奨金をたんまりと得たなんて話もすっかり広まっているし、移住を考える奴が増えるのも当然か。ましてや土地持ちになれるんならな」
「そういうこった。どうだい、商人を志している者として、食指を大いに刺激される話だろう?」
「ああ、まったくだ。どうしてこの話をもっと前に知る事が出来なかったんだか。ちょいと前の自分を殴ってやりたいぜ!」
「まあ、仕方ないさ。あのアルマディアの御令嬢がベルン男爵になるって話が広まったのは、春先になってからの話だし、ましてやこれだけ太っ腹で思い切った政策に踏み切ったは、更に最近になってからの話さ。
とはいえ、なにしろアルマディアの御令嬢でフラウ王女殿下のお気に入りで、競魔祭優勝の立役者だっつう男爵様だ。おまけにこの世の者とは思えない美人だって言うし、噂は乾いた草原に火を放つみたいに広まったがね。
それにその補佐官も競魔祭で御領主と一緒に出場したっていう、若いが腕の立つ魔法使いだそうだ。こっちはこっちで、何でだかスペリオン殿下と懇意だっていうし、かなりの後ろ盾もある」
この時点でベルン男爵とその補佐官の二人が、アークレスト王国の次期国王とその妹と懇意の仲である、というのは市井にまで知れ渡っていた。
これはドラン達が意図的に流布した話……ではなく、スペリオンとフラウの方からガロア総督府に働きかけてガロアを中心に広められた話であった。
クリスティーナとドランの臣下としての能力と忠誠心――実は二人に忠誠心の類があまりないのは、スペリオン達も察している――に、一個人としての好もしさを大いに買った二人の王族と、それを黙認した国王により、クリスティーナ達の知らないところでベルン村に益となる働きかけがこっそりと行われていたのである。
「それに面白い話なんだが、男爵様の臣下にはラミアやバンパイアに黒薔薇の精なんかが居るんだと!
エルフや獣人が居るんなら、そりゃ隣がエンテの森だから分からないでもないが、まさか魔物扱いされているラミアが居るなんて、おっかないが面白い話じゃないか。怖がっている奴や気味悪がっている奴も居るが、個人的には面白いと思うね」
バンパイアに関しては、アークレスト王国のある地方ではあまり馴染みのない種族であったが、ラミアと花の精が人間の治世に関わるというのは極めて稀な話である。
花や樹木の精と縁の深いエルフの社会であっても、それらの精が口を出す事はまず無いことを踏まえれば、ベルン村の話は極めて異例と言える。
まあ、黒薔薇の精=ディアドラが宮仕えをしているのは、ドラン恋しさが理由のほとんどを占めるので、次の事例が発生するか難しいところだが。
「アラクネの集落と糸の取引をしている話なら、ここらでも有名だが、ラミアにバンパイアに黒薔薇の精ね。面白い話だ。こりゃ、ただこうしてぼうっとしていらんねえな。おれも一旗上げる為に、ベルン村へ行く準備を始めにゃならん!」
「そうかい、お前さんならそう言うと思ったぜ。でもよ、なにで商売するつもりだ? お前みたいにどうにかしようって連中で、ベルン村は溢れかえっているぜ。何を持っていても売れるつったが、長く商売したいってんなら、売るもんをよおっく考えな」
「ぐむ、人が増えるってんなら、食い物に衣類に家か。食い物は土地の開墾でいずれ自給自足しようとするだろうし、よっぽど品を選ばないと飽きられちまうな。となると衣類と家か。
しかし木材ならエンテの森から……いや、ウッドエルフの最大生息地のあそこと付き合っているなら、伐採はまずないか」
「はは、何を持って行くか決まったみたいだな。かく言うおれも兄弟子ら何人かと一緒にあっちに行くんだけどな」
「お前のところは、鍛冶工房か」
「おう! 今、ベルン村じゃ大急ぎで農具やら武具やら注文が来ているって話だ。
外のでけえ工房にも注文しているらしいが、やっぱり地元に根付いときゃ潰しが利くし、親方はこっちに残るしよ。上手くやってくらあ。
おれもお前もベルン村で一旗上げようや、なあ! わはははははは」
ベルン村には、今日も彼らのようにいつかの成功を夢見る若者達が集う。彼ら彼女らの内の一体何人が、夢見た光景を実現できるのか。それは彼らに死が訪れるその時までわからない。
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第二百七話
2017年最初の投稿となります。本年もよろしくお願い申し上げます。
出だしに成功したベルン領には、それまで様子見に徹していた商人や冒険者、移住を考えていた者達が本格的に集まりだした事と、それを見越していたベルン領側の宿泊施設と交通網の整備、積極的な広告活動により、かつての開拓計画時に匹敵する賑わいとなっている。
その中には、人材を広く求めているベルン領への就職を考える者も当然居る。
何かしらの失態や政争に敗れて没落した元騎士や左遷されてそのまま職を辞した文官、一旗あげることを夢見る若者、更には先代アルマディア侯爵に仕えていたという能力よりも残りの寿命が気になる老人までもが集っていた。
中にはベルン領の生み出す富を求める商人や他領の貴族達の手の者も当然含まれているだろうが、クリスティーナやドランは身中の虫であろうと働くのなら良し、とお馬鹿なのか度量が広いのか怪しい判断を下していて、まるで気にしていない。
流石に屋敷の前で剣やら槍やらを振り回し、遠くの的に矢を当てて実力を誇示する武芸者が複数出てきたのには参り、武官に関しては定期的に大会を開いて採用枠を設ける話を試験的実地という方向で検討している。
さてそれ以外にもベルン男爵領経営陣には、仕官を求める者達や出店許可を求める者、冒険者ギルドのベルン支店の開設計画の進捗や各地から次々とやって来る各教団の神官達への対応に、各教団の教会ないしは神殿の建設要請。
改めてベルン領として通商条約を締結するに至ったエンテの森との輸出入の目録の確認に、ベルン・クラウゼ・ガロア間で運行している乗り合い馬車の収益報告に、工費や人件費その他全てを負担する形で進めている街道の拡張工事の進捗状況。
といった日々の仕事が、早馬の群れの如く押し寄せており、ある程度は補佐官であるドランや会計責任者であるシェンナらによって処理されるとはいえ、最終的な決定権は男爵であるクリスティーナが下さなければならない。
クリスティーナの秘書を務めるドラミナも、助言と仕事の効率化を図る事はできても、報告の内容を吟味して決裁や認可の印を押す作業に関しては、クリスティーナの判断に委ねている。
その為に、クリスティーナはドラミナに加えてドラッドノートも半常態的に実体化させて、仕事のお手伝いをお願いし、慣れない領主仕事街道を爆走中であった。
「カラヴィスタワー麓の交換所と宿泊施設、医院の建設は完了。ええと、各教団の教会の建設要請で、村の中だけでなく塔の方にもか。寄進はするし土地も用意するが、建設費と資材と人員は用意してもらわねば困るな。
リリ達からの人員派遣第一弾の表はこれか。娼館の建設に伴う従業員兼娼館付き神官枠で採用、っと。この他にお針子、料理人、文官、武官、商人としての就労を希望する者も複数?
なるべく男性の居ない職場に、いや、男も女も淫魔には同じ事だし、淫魔としての本能を抑えてくれると助かるが、いやいや、そこはドランの眷属と化しているのだから大丈夫か……大丈夫だろう、大丈夫だよな?」
クリスティーナは、執務机の上に積まれている選別済みの書類に目を通し、確認の意味も含めて内容を口に出しながら、吟味を重ねてゆく。
認可するものとしないものを別々の箱に分けながら、一瞬で書類を読み終えて判別する速度は老練の領主にも負けず劣らずだ。
窓の外から差し込む陽射しは暖かく、執務室の中で焚かれている香木からは、精神と神経を落ち着かせる煙が昇り立ち、室内の空気に淡い香りとなって溶け込んでいる。
眠気覚ましのお茶を口にした直後でも、すぐにうたた寝の誘惑に負けてしまいそうな心地良さであるが、脳を全力で稼動させているクリスティーナには夢の国からの使者も近づく事さえできまい。
「ふうう、タワー関係はこれで一区切りか。それにしても冒険者ギルドは動きが早い。ベルン村だけでなく、タワーの方の支部開設をもう打診してくるとは。
いや、各教団の本拠地や地方の本部からも人が来ているし、商人達の動きから見ても何かあると踏むのは当然だと、ドラミナさんとドランが言っていたしなあ。
こうなるとまた会談の予定が増えるのか、あれはなあ、必要でない時間を取られる事が多いのが……」
熟練の商人達は少しでも自分達の利益を増やそうとあの手この手を使い、滑らかに弁舌を振るってくるし、そうでない場合でも何か裏があるのではないか? 長期的な目線で何かを狙っているのではないか? とついつい腹を探ろうとしてしまう。
敬虔な聖職者達が相手の場合も、カラヴィスタワー関連で色々と負い目があるし、相手側の融通の利かなさに難儀する事もある。
クリスティーナが窓の外に目を向ければ、使い魔である不死鳥の幼生ニクスは悠々と空を飛んでおり、通りがかった鴉の雌と何か話をしている。多分、口説いているのだろう。
諸事情によりまして六十七~七十九話を一月下旬にダイジェスト差し替えます。詳細な日にちはまた後ほどお伝えいたします。
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第二百八話
殿下からの話の内容を聞いた後、私達は殿下やシャルドと共に、ディアドラ達と話をしている最中のアムリア達を訪ねたところだ。
以前、アムリア達が訪ねて来た時には、殿下が最大限配慮をなさって不自由なく暮らしているという話を聞いていたが、今もそのままだと良いのだが、と一人の友人として思わずには居られない。
ロマル帝国の秘された第二皇女というアムリアの出自は、利用しようと考えれば大きな価値を持つものである。
ロマル帝国に領土的野心を持つ我が国の王室ならば、アムリアに利用価値なしと判断を下すまでは、国賓待遇で生活の面倒を見てもおかしくはないか。
ただ、陛下と殿下のお二方と直接言葉を交わした私としては、仮にアムリアを利用しない判断を下すにしても、アムリアを殺害するような事はすまいと思っている。
ロマル帝国の密偵なりなんなりの手が届かないような僻地に隠遁させるか、幽閉してそこで生涯を過ごさせる、という判断が下されるのが妥当であろう。
そうなったら、野生の白竜がアムリアを誘拐する事件が発生するだけだ。ただ、まあ、なんとなくの勘になるが、どうなるにせよ殿下がアムリアを自分の近くに置いておこうとするだろう。
私は賓客室に入る殿下の背中を見ながら、そう思うのだった。そうであって欲しいという私の願望交じりの推測だけれども。
「アムリア、八千代、風香、お待たせしたね」
殿下は賓客室に入るなり、先程までの私達に対して口にしていた言葉から、緊張感を徹底的に排除した声でアムリアに話しかけた。
「スペリオン様、いいえ、ディアドラさんやドラミナさんとお話するのは、とても楽しいですから。ドランさん達とのお話は、もうお済になられたのですか?」
春物の浅黄色のドレスに身を包んだアムリアは、殿下以上に優しい声で答える。誰かが傷つけば我が事のように悲しむ事が出来る少女だと、この声を耳にした者はそれだけで信じるだろう。
日々姿の変わり続けているベルン村やガロアから続く街道とそこを行く人々の様子は、アムリア達の興味を引くものであったようで、殿下に声を掛けられるまで、ずいぶんと熱の入った様子でドラミナ達と話していた。なにしろ扉の外まで楽しげな声が聞こえてきたのだから。
感情表現の豊かな八千代や風香がそうするのに違和感はなかったが、アムリアまで頬を紅潮させて楽しげに話しているのを見ると、よほど楽しかったのだろう。
統治を担う人間の一人としては、アムリア達の笑顔を見ていると実に誇らしい気持ちになる。まあ、殿下の顔を見てますます顔を輝かせるあたりは、おや? やはりか、と思うところがあったが、ふむん。
殿下は躊躇することなくアムリアの隣に腰掛け、アムリアもごく自然にそれを受け入れる。
お菓子を口一杯に頬張っている八千代と風香も、殿下とアムリアの態度にこれといった反応を見せておらず、ふむふむ、どうやら普段から二人はこうらしいな。
シャルドは先程と同じように殿下の背後について、護衛の任を全うする。アムリア達の相手をしていたディアドラ達が殿下に挨拶をし、クリスティーナさんと私の為にと座っている場所から少しずれて、場所を空けてくれる。
「ディアドラ、ドラミナ殿、アムリアと八千代と風香の相手をしてくれて、ありがとう。
三人とも好奇心が強くて、城でもあちこちに行きたがったり話を聞きたがるのだが、相手は大変ではなかったかな」
殿下からの問いかけに、ドラミナが優雅な微笑を浮かべて小さく首を横に振るう。ディアドラは言葉遣いを間違えそうだから、という理由で、なるべく口を閉ざしていると見た。
「そのような事はありません。ガロアからベルンまでの道すがら、気になった事を尋ねていただくのは、私達の立場からでは見えにくいもの、気づきにくい事を教えてもらう事に繋がりますから。
それにアムリアさんや八千代さん達が、お城で大切にされているのもよく分かりましたから、一安心できました。特に八千代さんや風香さんは毛並みの艶も大変良くなられていますね」
「いやあ、殿下のお心遣いにすっかり甘んじてしまって、お恥ずかしい」
「ハチの言うとおりで。このままではいかん、と二人揃って一念発起し、騎士団の訓練などに参加させていただいていなかったら、二人揃ってタプタプとしたお肉が付いていたでござろう」
なるほど、ドラミナの言うとおり、八千代と風香の髪の毛はもちろん犬と狐の耳と尻尾は、窓から差し込む陽光を浴びて艶々と輝きの粒を纏っている。
二人が着込んでいるのは秋津風でこそあるが、絹の光沢を持ち柄の構図も見事なものとへと変わっている。仮にも殿下の賓客として王城に逗留しているのだから、八千代達の人生に於いてかつてないほど衣食住が充実しているのかもしれない。
不躾ではあるが、改めて二人の容姿を見てみればほんの少しだけふくよかになったかな、と思わないでもないが、気のせいで済む程度の差異だ。二人の年齢と食生活の変化を考えれば、より健康的になったと言うべきだろう。
「自制出来たようでなによりだね。アムリアの護衛役でもある二人が、体が重くなって刃を振るいにくくなったなど、洒落にもならない」
「ドラン殿は手厳しいと言いたいところでござるが、まったくもってその通り。アムリア殿の護衛として、その務めをきちんと果たせるように努力は怠らないでござるよ!」
八千代はフンフンと小さく鼻を鳴らし、ついでに耳と尻尾もピクピクと小さく動かす。駄目だな、飼い犬が飼い主にほめて貰おうと胸を張っているようにしか見えない。
多少は犬人の種としての性質もあるのかもしれないが、それ以上に八千代という少女の性格の方が飼い犬っぽく見える理由の大部分を占めているだろう。
「君達がアムリアの事を変わらず大切に思っているようで、安心したよ。なにしろ私達は仕事が忙しくなっている上に、王城に赴くのが難しいからね。私達の方からアムリア達に会いに行けなくてね」
「ついこの間まで学徒であったのに、クリスティーナ殿は男爵になり、ドラン殿はその補佐となり、セリナ殿やドラミナ殿達もその手伝いをしているでござるものな」
「皆さんとお会いするのが難しくなったのは、ハチさんも風香さんも、もちろん私も残念ですけれど、そういった事情があるのでしたら我侭はいえませんね」
そういって気落ちするアムリアを見ると、なんともいえない罪悪感が胸の内に湧いてくる。
外界から隔離された特殊な環境で育った少女の精神年齢は、実年齢の半分ほどだろうか。
アムリアとは違う意味で精神年齢の幼い八千代と風香は、とても相性が良いのだ、きっと。
「アムリアは王城の方で友達は出来ていないのか? そうするのが難しい環境だろうが……」
「フラウ様は良くしてくださっていますよ。それに殿下の母上様も。後は何人か侍女の方達ともお話をする機会も増えました。ふふ、あの山の中での暮らしが嘘だったかのように、今では思うほどです」
「ふむ、アムリアがそう感じているのなら、これ以上野暮な事は聞くまい。それで、殿下、この後のご予定はどうなっているのですか? お泊りになられても良いように、屋敷の部屋を用意しておりますが」
「心遣い、痛み入る。だが、君に話した件の事で予定がつまっていてね。大急ぎでガロアまで戻って、そこから直接城に戻らねばならない。アムリア達にはすまないと思うが」
「いえ、ベルン村に行かれるというお話を聞いて、私が無理を言って殿下とご一緒させていただいたのです。感謝しかしておりませんわ」
「アムリア殿の言われるとおりですぞ、殿下。我等三人、日ごろの衣食住でお世話になっているばかりか、このように離れた地に住まう友人を訪ねる自由をお許しいただいて、心の中の天気は感謝感激の雨模様でござる」
「ハチの言っている事は、ちと迷走気味ではござるが、殿下に感謝しているのは本当でござるから、あんまり気にしないでほしいでござる。
それに、ドラン殿のところへもう二度と来られなくなるというわけでもなし。そう気にしないでいただけるのが一番でござる」
三人揃って気にしないで欲しいと笑みながら告げるアムリア達に、殿下は演技などではなく心から安堵した様子で、一度だけ息を吐いた。
ふんむ、殿下の様子にはこの三人に嫌われたくないという意思が透けて見える。下心や二心の類が欠片も無い三人であるから、殿下にしても清涼剤かあるいは癒しとも言える存在なのか。やはり三人の身柄を預けるのに足る方であったな。
いつもお世話になっております。
諸事情によりまして本作の第六十八話から第七十九話までを17日にダイジェストと差し替えます。あらかじめご了承くださいますようお願い申し上げます。
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第二百九話
殿下がシャルドやアムリア達と共に王都へと帰還されてから三日後、護衛として高羅斗国の使者と秘密裏に会談する日時と場所について記された密書が届いた。
開封された事を送り主に伝える魔法と封印の魔法が厳重に施された密書には、アークレスト王国東方の小都市ミケルカ郊外にある屋敷で、会談が行われるとあった。
護衛には私、シャルドの他に近衛騎士団と宮廷魔術師の中から選りすぐりの精鋭がつく。
我が国の表向きの最高戦力は『アークウィッチ』メルルであるが、彼女はあまりにも有名すぎて、その所在を常に周辺諸国に確認されていることもあり、王太子の護衛であってもそう易々とは動かせない事情がある。
それにどうもロマル帝国の方の戦況が大きく動く前兆がいくつか確認されており、王国の西方は現在厳重な警戒態勢に入っており、メルルの投入も王城では視野に入っていると見て間違いなかろう。
さて殿下の護衛にはリネットを連れてゆくわけだが、日数ではまだ余裕がある為、すぐに出立の準備をする事はなく、殿下の護衛とは別の仕事に取り掛かっていた。
クリスティーナさんことクリスとの結婚が確実なものとなった事で、彼女との結婚式の日取りや関係各所への周知など、私達の人生にとって極めて重大な案件が生じたし、またセリナのご両親に挨拶をするという私的な用件と、モレス山脈にあるラミアの隠れ里との交流を持つという公的な用件も同時に発生している。
今はそのセリナの故郷ジャルラに赴くにあたり、人員の選抜や交流が成功するか失敗するか、どちらになったとしても対処できるよう会議を開いていた。
屋敷の中にある会議室で開かれた会議の出席者は私、クリス、セリナ、ドラミナ、ディアドラ、リネットというお馴染みの面子に加えて、男爵領の会計官であるシェンナさんと騎士団長バランさんといった男爵領首脳陣だ。
「ジャルラへ向かうのはセリナとドランは当事者だから当然として、私的な用件ではそれでよくても、ウチからの使者としてはもう少し人員を回さないといけないわけか。
セリナ、ベルン村からだとどれくらいの距離になるのだい? 道中、危険な魔物や猛獣の類はどの程度出没するのかな?」
会議の口火を切ったのはクリスである。
この数日、散々セリナ達に私との婚姻の件で弄り回された事に加え、私の両親兄弟にも婚約の挨拶に伺った事で、精神的にかなりの疲労を覚えているはずだが、今は立派に男爵としての顔と態度を繕えている。
クリスが男爵に任じられてから既に一ヶ月が過ぎ、彼女も意識せずとも男爵として振舞えるようになってきたという、成長の証と見るのは贔屓目が過ぎるだろうか?
「私が一人でベルン村の近くまで来た時には、十日も掛かりませんでしたけれど、今度はたくさんの人で向かうと考えると、余裕を考えて片道二週間くらいを考えた方がいいかもしれません。
でもそれはあくまで徒歩の場合です。ドランさんの作ったホースゴーレムなら、山脈の険しい道でも平気で登って行けるでしょうし、ホースゴーレムを走らせ続けるなら、片道二日くらいで済むと思います」
セリナの発言はホースゴーレムに体力の概念がなく休憩が必要でない事と、生きた馬の倍以上の速さで走れる事を加味した上での発言だ。
ホースゴーレムは休憩が必要なくとも、それに乗る人間には休憩が不可欠であるし、道中で魔物などの襲撃による時間の浪費も考えなければならない。セリナの片道二日という発言は、それらを踏まえた上でのものだろう。
「それとジャルラまでの道では、モレス山脈の麓に広がる森に着くまでの間なら、出てくる生き物はベルン村とそう変わりはありません。
森に入ると大型の昆虫や狼に蛇、人食いの植物なんかが目立ち始めます。でも、エンテさんに話を通しておいてもらうか、加護を貰えれば特に問題はないはずです。
後は蜘蛛人とか蛇人とか、ここら辺ではなかなか見ない亜人の小さな集落もありますから、ジャルラ以外にもそちらに立ち寄ってみるのも良いかなと思います」
「そうか。今回の主眼は人口が千人を越すというジャルラとの窓口の開設だが、その他の亜人集落との交流も行えるものならば行っておきたいところだな。
バラン、女性しか生まれないラミアの生態を考えて、使節団にはなるべく若い男性の兵士を入れておいてくれ。特に問題を起こす事のないように、人格について厳しく見定めてもらいたい」
クリスは男爵に成り立ての頃は、バランさんを呼び捨てするのにも躊躇していたものだが、今ではすらすらと唇から言葉が出てくるようになっている。
それを受けるバランさんも、騎士という身分にむず痒さを覚えていた態度は既になく、自分に与えられた権利と名誉を自覚し、相応しい振る舞いを心がける事で、どっしりと腰をすえた態度を見せてくれている。
「はっ、モレス山脈までの往復となれば、ちょうどいい訓練にもなります。補佐官のホースゴーレムは行儀が良すぎて、あまり訓練向きでないのが問題といえば問題ですが」
「よろしく頼む。手当ては多めにつけると兵士達には伝えてくれ。シェンナ、セリナとエンテと話をつめて使節団に持たせる贈り物の検討と目録の作成、必要な食料品や費用の見積もりを頼む」
「はい、男爵様。ただちに見積もりを作成してお持ちいたします」
「ああ、頼むよ。予算の限度額は金庫の中の二割までは使って貰って構わないよ。ジャルラへの使節団編成はこの方向で進めてくれ。次にドランから暗黒の荒野の動向について新しい報告がある。心して聞いて欲しい」
ジャルラへの使節団の派遣とは打って変わり、声を低く落として話を切り出したクリスに、出席者の誰もが真剣な面持ちへと変わり、私の言葉を一語一句聞き逃すまいとする。
昨年の夏にベルン村を襲ったゴブリンの再来となるか否か。特にバランさんとシェンナさんから強い緊張を感じながら、私は嘘偽りなく判明した情報を伝えた。
「かねてから私が暗黒の荒野に鳥や虫に擬態したゴーレムを放ち、情報収集を行っていた事は既にこの場に居る皆には伝えてありましたが、現状における結果をこの場でお伝えします。
暗黒の荒野ではいわゆるゴブリンやコボルト、オーガをはじめとした魔物達が複数存在し、種族間ないしは種族内での縄張り争いが常態化していましたが、その情勢が大きく変わりました。
暗黒の荒野に居を構えていた魔族による統一がほぼ成され、かの地は一つの勢力として纏まったと考えるべき状態になりました」
私の言葉に事前に伝えていたクリス以外の皆が、大小の差こそあれど驚きの色を浮かべるが、ドラミナだけはさもあらん、とばかりに表情をわずかも揺らさない。
男爵領として新しく道を進み始めたベルン村に、かくも早々に存亡へと繋がる事態が勃発するとは、なんとも私達にとって災いとなる巡り合せである事か。
「ドラン補佐官、暗黒の荒野の勢力は南下の動きを見せているのか?」
バランさんが、現在のベルン男爵領の兵力を脳裏に思い浮かべてか、険しい顔つきのまま問いかけてくる。私が色々と作ってはいるが、単純に兵士の質や数を考えるとそれほどでもないからな。
「いえ、探りを入れた限りでは二大勢力の雌雄を決する戦いが終わったばかりで、軍団の再編成と戦後処理に負われ始めたばかりです。相当の被害を出していましたし、今すぐにどうこうとなりはしません。
それに彼らがいざ南下するとなれば、彼らはベルン村一つを落としたところで終わらせはしないでしょう。アークレスト王国を丸ごと呑み込むか、さらに東西へも侵略の手を伸ばす長期的な計画を組む筈です」
「その通りであるのならば兵站の確保も含めて、早々動きはしない、いや、動けないか」
暗黒の荒野からの侵略となれば、事はベルン男爵領だけでなくガロアから更にはアークレスト王国全土にまで波及しよう。西のロマル帝国と東の轟国との間に火種を燻らせているこの情勢で、だ。
ベルン男爵領が、王国から北に対する防波堤の役割を求められるのは火を見るよりも明らかである。まあ、もともとその役割を含めて、かつてベルン村は興されたのだから、不平不満を唱える話ではないかな。
「それにしても、これまでのおれ達が知っているゴブリンなどの魔物とは思えない計画的な動きだな。暗黒の荒野には魔物以外にも人間種も居た筈だが、彼らはどうなっているか把握はしているのか?」
「暗黒の荒野を制した魔族勢力に膝を屈して、組み込まれた部族がいくつか。それと暗黒の荒野を離れた部族もあります」
「離れた? しかしまだこちら側に姿を見せた者達はいないようだが? ロマル帝国側に逃れたか、あるいは暗黒の荒野の西か北に向かったと言う事か?」
「ええ、ほぼバラン団長の言うとおりです。ロマル帝国側に逃れた者達はほとんどいませんが、暗黒の荒野の西にある人間の国家に逃れた者達がほとんどですね」
「ううむ、暗黒の荒野の先にある国家か。これまではそこまで考えた事もなかったな。王国の方でもほとんど交流のない相手だろう。それで、次はこちらに来るか、西にある国家に来るか、どちらの見込みが高いのだろうか?」
「どちらともと言えますが、暗黒の荒野側からすれば南に位置する私達は、侵略する相手ではあっても、攻め込んでくる相手とは認識していないでしょう。これまで迎え撃つだけでしたからね。
それならば南に攻め込む動きを見せれば、後背を西の国家に攻め込まれる危険性をまず考える筈です。西側の国家とは小競り合いを重ねているようですから。
本格的に軍を動かすとしても、秋か冬になるまでは難しいでしょう。その間に私達も暗黒の荒野の勢力と戦えるだけの準備を進めておくべきです」
「分かった。どこまで数を揃えられるか、質を上げられるか、装備を整えられるか、やれるだけの事は進めておこう。それにしてもベルン村に腰を落ち着けたままで、よくもそこまで情報を集められるものだ。
これほどの情報収集能力となれば、王都を含めて、他の領主達が放っておかないのでは?」
「そこは我がベルン男爵領の軍事機密扱いにしておきましょう。それに私の次の代の者達でも運用できるように、工夫もしていますし」
小型のゴーレムを用いた情報収集網は、品や形を変えてどこの国でも試験ないしは運用がされているだろうが、まずそれらの中で群を抜いて収集範囲と速度、精度の高さを誇る私の収集網はベルンの強みの一つだ。
私にしか扱えない代物で終わらせてしまっては、私達の子供以降の世代が苦労するからな。
性能をある程度落とすにせよ、扱いやすくするのは当然の事だし、これは収集網ばかりの話ではないが。
一通り、私が暗黒の荒野の情勢の変化と今後の展望について述べた終えたのを見計らい、クリスが男爵としての威厳を感じさせる顔のまま厳かに会議の終了を宣言した。
「ではあらかた意見が出尽くしたと思う。今後、我がベルン男爵領には更なる波乱の嵐が襲い掛かってくるとは思うが、皆の力と知恵を借りてこれに対処すれば、必ずやより良き未来を掴み取る事ができると信じている。
まずはジャルラをはじめとしたモレス山脈諸勢力との協力関係の構築と、近年中に起きるだろう暗黒の荒野との戦への備えからはじめよう。何か意見があれば、今後も忌憚なく述べて欲しい。私自身を含め皆の尽力を願う。よろしく頼む」
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第二百十話
私とリネットが密かに念話で情報交換を行っている間にも、殿下と響海君との話し合いは進んでおり、それぞれが連れた護衛の武官や文官達の顔に緊張の色が浮かんでは沈むのを繰り返している。
どちらの国の人員も最高峰の実力者を選んでいるのだろうが、二十代と思しい面子が多くを占めており、まだ経験を積んでいる最中と見える。お互いに次期国王の側近候補達で人員を固めてきた結果か。
あちらの連れている人造の少女と頭上に控えさせている少女は、どちらも念の為の護衛であるのならともかく、殿下達の命を狙って来なければ良いが、現状では高羅斗と我が王国が戦火を交えても両国に利益はない。
響海君が見た目の印象通りに聡明であったとしても、またそうではない愚者であったとしても、ここが戦場になる可能性はまず低い。
だからといって気を抜く事はしないが、今は高羅斗から要請のあった会談の内容について耳を傾ける事にしよう。
「あの轟国を相手に一歩も退かぬ勇猛なる戦いぶりは、我が国にも聞こえております。この大陸の歴史を大きく変える戦いの趨勢は、私もそして陛下も常に気に掛けていますよ、響海君殿」
友好と親愛の念を前面に押し出した笑みを浮かべて告げる殿下に、響海君は朴訥な印象を受ける笑みはそのままに、謙遜するように言った。
どちらも内心は表情通りではあるまい。次期国王同士、目に見えない牽制と腹の探り合いを常に行っているようなものだろう。私とクリスには望んでも出来ない芸当だな。望んで身に付けたくはないが、いつかは身に付けなければなるまいて。
「いやいや、かの大国と我が国が戦えているのも、全ては親愛なるガンドゥラとマシュールとの軍事同盟あればこそ。そして各国からの善意による支援があってこその結果。
なによりまだ戦は終わってはおらぬ。我等は誰一人として油断する事を許されてはおらぬ状況だ」
善意による支援、ね。大陸東方を牛耳る轟国は、各国にとって目障りなどという生易しい表現で済む相手ではない。目の上のタンコブならぬ巨岩を相手に戦いを挑む高羅斗ら三国に支援を行っているのは、なにもアークレスト王国だけではあるまい。
しかし、それを善意による支援と例えるとは、まるでこちらが無償で支援を行っているかのような口ぶりだ。
この惑星の現状の文明では、まさか国家同士の付き合いで見返りを求めぬ支援などあるはずもない。響海君とてその事は理解していよう。軽い牽制の一撃かな?
殿下は響海君の言葉を受けても、表情をピクリとも変えずに、にこやかな笑みをそのままに答える。静かな湖畔の窓辺が似合う穏やかな笑みである。
「ご立派な心掛けです。我々の方でも轟国が四神将の内、西の白虎と北の玄武を動かしたという情報は、既に届いています。轟国の誇る武の象徴たる四神将が動いたとあっては、戦時の緊張が否応なしに増すというもの。ご心労、察して余りあります」
「うむ。かの国の名だたる武将達の手強さは、今まさに我が国とガンドゥラが体験しているところ。いや、まったく、流石は轟国。長きに渡り大陸に覇を唱えし大国である事よ。
私も前線に身を置く事もあるが、前線で命を賭して戦う兵士達には常に苦労を掛けてしまっている。
だが我が国の士気は高く、必ずや轟国との戦いに勝利して我等の正当なる土地を取り戻して見せよう。天の意思が我等の戦いを肯定するかのように、天恵姫という存在を得られているお陰もあるが」
響海君は分かりやすく傍らに控えるファム・ファタール、いや、ここは彼に倣って天恵姫と呼ぼう。天恵姫に視線をやり、轟国との戦いの引き金を引く決断の一つとなった存在を暗に示す。
天恵姫の大部分は高羅斗の戦線に残してきたのだろうが、リネット経由で伝わった天恵姫の性能が数字通りに発揮できているのならば、今、連れてきている少数だけでも四凶将あたりの相手ならば十分か。
「そちらが噂に名高い天恵姫ですか。なんでも天人の遺産であるという話ですが、やはり天人の遺産が数多く眠る地。文字通り大地の下に宝の山が眠っていたという事ですね」
「スペリオン王子もご存知だろうが、天人の遺産それ自体はこの大陸各地に眠っている為に、各国でそれなりに恩恵に預かってはいる。
だがその中でも天人の主要都市が多く存在した轟国は、我が高羅斗や貴国よりも古くから天人の技術に精通し、応用している。
しかし、これからは天人の技術を利用できるのは轟国だけに限らず、我等高羅斗も同様なのだ。天恵姫に限らず先人の知恵に預かるのが轟国だけでなければならぬとは、誰も決めてはおるまい」
ふむ、お互い、天人の遺産を独占するのは我が国だ、と思っているところかね。図らずもエドワルド教授と知り合って以来、私は天人関連の遺産とよく遭遇しているが、今回の天恵姫もそうだな。
リネットが生み出された交易都市サンザニアは、高羅斗に近い王国東方の地下施設だったが、天恵姫達と技術的な繋がりはあるのかね?
じっと天恵姫の顔を見つめるリネットの横顔は、いつも以上に無表情に徹しているようで、感慨らしいものを抱いてはいないように見える。
「かつては星の海の彼方にまで達したという天人の技術。確かにそれを解明し、応用する事が叶った暁にはあらゆる分野の技術が飛躍的に発達し、まさしく世界が変わる事でしょう。
しかし、天を行く船に乗り、星の海と光届かぬ海の底までも達した天人達が、既に滅びて久しい事を考えれば、むやみに手を出せば相応の痛手となって我等自身に返って来る事は明白。扱いには慎重を期さねばなりますまい」
殿下の言葉は乱暴に訳せば、発掘品を上手い事使えたからといって、調子に乗っていると痛い目を見るぞ、という煽り半分忠告半分になるかな?
私の知る限りではアークレスト王国には、天恵姫ほど原型を留めた天人の遺産が使われている話は聞いた事がない。
ただ、それが私の回りになると、天人の遺産を流用されたリネットしかり、エドワルド教授とミス・エリザが引き取った人造超人達、更に言えば天人文明よりもはるかに勢力・技術共に勝る超先史文明の究極兵器ドラッドノートまである。
その真価を知られれば、どの国も脇目も振らずに入手しようとする代物ばかりで、全て真価を伏せておかなければならないものなのだ。
とはいえ、ドラッドノート以外を手中に収めたとて、三竜帝三龍皇に戦いを挑めば返り討ちにしかならんが、そこの所は殿下も響海君も理解してはおるまいな。
「スペリオン王子のその慎重さは得がたいものですな。確かに天恵姫は我等の手で作り出したものではなく、眠っていた天人の遺産を利用しているもの。どこに落とし穴があるかは分からぬものゆえ、使い方を誤る事もあるやもしれぬ。肝に銘じておかねばな」
「いえ、思慮深い響海君殿の事。私などの言葉は忘れてくださって構いません」
「はは、本当にスペリオン王子は謙虚なお人柄でいらっしゃる。これからも我が国と貴国とは友好に基づいた関係を続けていける事だろう。
して、スペリオン王子、今回の会談をこちらから要請した理由について、そろそろ話を進めさせていただいても構わぬかな?」
ようやく本題か。社交辞令の挨拶と、お互いの情報収集を兼ねた世間話はもう十分と判断したわけだが、向こうから本題を切り出された事で殿下がわずかに雰囲気を固くされた。
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第二百十一話
おそらくつい先程までは
必殺を期して接近戦を挑んできた七人の天恵姫達の内、一人は今も響海君の命令に従っている別の天恵姫と銃火と剣閃が激しく乱れ舞う戦いを始めている。
見たところ、響海君側の個体は、私達を襲っている者達よりも戦闘能力がわずかながら高い仕様となっている。おそらくは指揮官か改良を施された後期型なのだろう。
私は、最重要護衛対象であるスペリオン殿下の傍からあまり離れない方が良いか。
天恵姫達は青白い光の刃を片手に、私達を斬殺すべく一切感情の伺えない能面の顔のまま襲い掛かってきているが、その全てを私が牽制で放っている下級魔法と、長大なメイスを片手に奮戦するリネットによって阻まれている。
かつて天人達の都合によって作り出され、その都合によって封印され、そして今現在、高羅斗の都合によって復活した天恵姫達を相手に、リネットは先程まで深く思い悩んでいた様子だったが、今は無心で主人である私を脅かす天恵姫達を撃退する事に専念しようと務めていた。
ふむ、頭ではそうしようと考えているようだが、リネットの心の中には思うところのある天恵姫達を相手に、どうしても殺害に至るまでの攻撃を加える事に躊躇いを覚えているのがありありと見えた。
「迷いを抱える事が心を持つ事の証明であるのなら、そして矛盾を抱えるのが人間の最たる特徴なれば、リネットよ、私は今の君を祝福しよう」
私はこちらに向けて銃口を向ける三人の天恵姫達に向けて、牽制程度に威力を留めた魔法を放った。天恵姫達の装備は現行の文明を大きく上回る高度な技術の産物ゆえに、魂を持たない彼女らでも一流の魔法使いに勝る魔法への防御力を誇っている。
「エクスプロージョン!」
私の生み出した爆炎に呑み込まれた天恵姫達は、防御力場で自分の身を守りながら、距離を取るべく後方へと飛び退いてゆく。
ふむ、彼女らに警戒を抱かせるだけの威力に微調整した甲斐があったというもの。
天恵姫達の背中に浮かぶ長方形の板は重力に干渉する機構が組み込まれているようで、彼女らは重力の鎖など知らぬものと、柔らかくそして早い動きで地に触れぬ高さで動き回る。
爆炎の黒花より飛び出したる天恵姫達へ凶悪な鈍器を構えたリネットが襲い掛かり、これに気付いた天恵姫がプラズマブレードで振り下ろされたメイスをかろうじて受け止める。
徹底して行われた遺伝子調整と核融合炉の出力、そしてチャクラが回転するたびに生み出される力によって、人外の膂力を持つ天恵姫だが、リネットの細腕に宿る力はそれさえも上回るものだった。
リネットと天恵姫の拮抗状態は一秒と維持される事はなく、亜音速に近い勢いで天恵姫が吹き飛ばされて、また別の天恵姫の個体が受け止める事でかろうじて受け止める。
私からの力の供給もあるが、リネットに内蔵されている永久機関の出力だけでも、天恵姫達を大きく上回るものがある。
兵器としての安定性と一定の質を維持する為に、天恵姫達のチャクラには制限が課せられているようだが、仮にチャクラをよりうまく回して高次の力を生み出せる個体が居たなら、私はもう少し危機感を抱かねばならなかっただろう。
チャクラとは一般的な人間種が体内に七つ備える、不可視の霊的器官だ。円盤、車輪という意味を持つ名前であり、これが活発に回るか否かで気やプラーナと呼ばれる力の多寡や質の良し悪しに大きく関わってくる。
チャクラは頭頂、眉間、喉、胸、臍、陰部、
天恵姫達が悉くチャクラを回し、クリスティーナの神通力めいた力を扱えていたならば、リネットにばかり前衛を任せてはいられなかったかもしれないが、その心配はなさそうだ。
魂が宿っていない以上は、天恵姫達は天人達に設定されたとおりにしかチャクラを回す事はできまい。人工的に強化されたチャクラである以上、常人よりは優れた質と量の力を生み出せるのだろうが、その程度ではリネットの相手は務まらぬわ。
「リネット……メイス!」
リネットの感性による、いつもならではの名前が付けられたメイスがまた天恵姫の内の一人を吹き飛ばし、彼女らの身を守る装甲に大きな亀裂が入る。
リネットを打倒せずに私達を害する事は敵わぬと判断し、またリネットの持つ超重量の長柄物と戦うのに今の武装では不適当と判断を重ねてか、それぞれが長槍やポールアクス、ハルバードへと武装を瞬時に変えた。
「リネットスパイラルアタック! リネットフルスイングメイス! リネットスクリューストライク! リネットブルスマッシュ! リネットォオ……ミンチメイク!!」
リネットは豹のようにしなやかに、猿のように軽やかに、熊のように豪壮に、瓦礫の積み重なった悪環境をものともせず素早く動き回り、一撃毎にこちらの耳を
ふむ、リネットに相手を任せて問題はないか。私は殿下に取るべき行動について問いかけることにした。
「殿下、天恵姫達はリネットが抑えてくれています。私もあそこに加われば撃退出来ますが、まずは御身の安全を確保する事が肝要です」
「ああ、そうしなければ君が私から離れて、リネットの援護に加われないだろうからね。だが、心苦しい事だが、この状況では響海君殿と一旦合流する事を考えなければなるまい。
彼の傍らに残っている天恵姫と私達に襲い掛かってきている天恵姫との違いや、その裏に絡むだろう高羅斗の事情の把握をしなければならない」
「あちらの様子を見た限りでは、不測の事態のようですが、そうなると響海君様を排除したい高羅斗内の勢力か、轟国の策略によるものか、確認したいところなのは確かですね」
響海君と話をしてもすぐさま確証を得られる話ではあるまいが、話をせずにこのまま帰国されては堪ったものではない。
セグメン氏が信仰するアルデス系の戦神に祈りを捧げ、私達に戦いの祝福が付与されるのを待ってから、私達は瓦礫を踏み越えながら響海君達のところへと走った。
響海君側としては天恵姫が襲い掛かってきているこの状況では、自分達も襲われているとはいえ、疑われても仕方がないという自覚があるのか、近づいてくる私達に護衛の武官達がにわかに殺気立つ。
まあ、そうなるか。響海君側の天恵姫は今は二人の天恵姫を相手に少し離れたところで、激しい立ち回りを演じている。ふむ、リネットとの連携は今のところは無し、と。
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第二百十二話
紫苑は私からの質問にある程度応じてくれたが、これ以上私からの質問が無い事を悟るや、彼女はすぐさま空を飛んでミケルカ市街に避難した響海君の後を追っていってしまった。
ふうむ、主人の元へと急ぐ気持ちは分かるが、あそこまで派手に空を飛んでいってしまってよいものか。ある程度響海君に近づいたところで地上に降りるか、何かしらの迷彩の装備を使うつもりなのかな?
「マスタードラン、リネット達も急ぎ殿下達のところへと急ぎましょう。既に天恵姫達の装甲の破片や破棄していった装備は回収済みです」
「流石だ、リネット。良い仕事をしてくれる。殿下は響海君達と行動を共にしているが、ミケルカの内外に伏せていた護衛達とは合流済みだな。響海君が紫苑をけしかける事はないと思うが、リネットの言うとおり急いでゆくとしよう」
竜種の魔力を付与した竜眼でミケルカを見渡してみれば、護衛達が増えた事で百人近い大所帯になった殿下達の姿は、ミケルカの中でも大きく豪壮な造りの屋敷を目指しているようだった。
ふむむん、天恵姫達との戦闘はそう長いものではなかったが、この短時間でよくもそこまでたどり着いたものだ。
あそこは、ミケルカ市長が代々使用する市庁舎だったか。非常時には籠城の舞台となる場所で、今回のような場合には都合の良い場所というわけだ。
リネットと二人して殿下達の下を目指して駆け出すと、先程までの戦闘の爆炎や轟音、雷鳴を聞きつけ、今や瓦礫の山と化した屋敷へと向かう幾人かの市民や兵士達とすれ違う。
私が頼むまでもなく、天恵姫の残していった装備などをリネットを回収してくれて良かったな。この様子では、そう時を置かずして屋敷に調査の手が伸びたところだろう。
私とリネットがミケルカ市内に足を踏み入れた時には、既に殿下達は市長に話を通し終えたようで、市庁舎の地下にある一室に腰を据えていた。
紫苑は……ふむ、合流済みだな。私とリネットも市庁舎にすぐさま赴く。市庁舎を守るのは、ミケルカ市の兵士と潜伏していた護衛の近衛であったから、押し問答で余計な時間を取られる事がなかったのは幸いである。
案内を買って出てくれた若い近衛と共に、集結した護衛達でひしめく市庁舎の中を進み、地下室へと入ってみればいずれも険しい顔をした殿下や響海君達が、私とリネットを迎えてくれた。
やれやれ、かなりの非常事態ではあるだろうが、かくも殺気立たんでもよかろうに。
響海君の傍には武装を維持したままの紫苑が控えており、例え一人だけでも天恵姫が手元に残った事は、響海君にとって数少ない安心材料であったろう。
「殿下、響海君様、ただいまドランとリネット、戻りましてございます。既に紫苑殿からお聞きの事かもしれませんが、反旗を翻した天恵姫七名に関してはかろうじて撃退に成功いたしました」
「ああ、ドラン、リネット、大義だった。私も響海君殿も、先程、そちらの紫苑殿から君達の戦いについて話を聞いたところだ。よくぞ倍以上の相手に見事に戦ってくれた。感謝するよ」
「スペリオン王子の言うとおりだ。お主の名前は以前よりアークレスト王国次世代の新星、アークウィッチの後継者候補と耳に届いてはいたが、よもや我が国の切り札であった天恵姫を相手にして、無傷で勝ちを収める凄腕とはな。
こう言っては誤解を生むかもしれんが、味方であるからこそ頼もしいが、もし立場を変える事になったらと考えると、肝が縮む思いだぞ」
苦笑一つ浮かべてこう言える響海君は、ふむ、懐が深いと素直に褒めておくべきところだな。武骨な
「響海君様、私などには過分なお言葉です。それで、撃退した天恵姫達ですが、私の目で追えた範囲では貴国の方角へと飛んで行きました。
天恵姫の運用に関わる施設がどの程度の規模なのか存じ上げませんので推測になりますが、人間ならば重傷に相当するだけの手傷は負わせています。
少なくとも私達を襲った天恵姫達が数日内に再び襲い来る可能性は、大きくはないかと愚考いたします」
天恵姫達の数は百や二百ではきかない筈だ。他国に正確な数を伝えるはずもなかろうから、ともすれば桁が一つ増えるかもしれん。
その全てが先程戦った者達と同程度の実力を備え、一斉に反旗を翻しているのであれば、高羅斗の通常戦力でどこまで戦えるかものか。
天恵姫は一体一体が、恐怖を知らず、痛みを知らず、無尽蔵の体力と膨大な出力で戦い続ける強力な魔法戦士だ。私やリネット、またあるいはメルルは例外としても、一人仕留めるのに兵士や魔法使い達の屍を山と積み重ねなければなるまいて。
「であるか。なんとも、頭の痛い事態に陥ったものだ。スペリオン王子、こちらから今回の会談を持ちかけ、快く応じていただいたにも拘らず、我が国の事情によりこのような危急の事態となり、御身を危険に晒した事に関してはなんと謝罪すればよいか」
「今回のこの事態は我が国と貴国の誰に想像できたでしょうか。屋敷こそ壊れはしましたが、幸いにして人死には出ませんでした。最も取り返しのつかない人命が損なわれる事がなかったのは、不幸中の幸いと言うべきでしょう」
「そうか、確かに人死にが出なかった事がせめてもの救いではあるか。このような現状ではあるが、貴国への先程の申し出についてはぜひとも一考をお願いしたい。いや、このような現状になってしまったからこそ尚更の話となってしまった。
我等はこれより急ぎ国へ戻り、天恵姫達の行動について情報を集めねばならん。隠し立てするまでもない事だが、今回の事態は我が国の戦略を大きく見直す事を強いられる事態なのでな」
響海君の言葉に偽りは無く、轟国との戦を決めた大きな要因である天恵姫の離反は、かの国にとって大きな痛手に他ならない。
近く行われる予定だったマシュールとガンドゥラとの共同作戦にも、多大な影響を与えてしまうだろうから、響海君の腹の内は怒りで煮えくり返っていても不思議ではないな。
「貴国との国境までですが、アークレストからも可能な限りの護衛を用意いたしましょう。
もし、何者かが天恵姫達を離反させたのならば、ドラン達が撃退した天恵姫とは別の個体か、また別の手段を用いて響海君殿の御身を狙う可能性は捨て切れません」
「数々のご厚情、誠に痛み入る」
響海君一行を国境まで送り届けるとして、殿下と私達はここで響海君達とは別れ、急ぎエドワルド教授と連絡を取ってアークレスト王国側としての立場から情報収集をしなければならん。
ミケルカから可能な限り早く連絡を取って、響海君一行を送り届ける護衛を集めて出立するのを見送った後、私達はミケルカ市庁舎に留まったまま魔法通信機を用いて、王都の陛下と重臣方に緊急事態として事情を伝え、ガロア魔法学院の学院長に繋ぎを取る。
この時期のガロア魔法学院は新入生達が新しい生活にも慣れて、落ち着きを取り戻し始めた頃だろうか。
今頃、レニーアやファティマやネルネシア、ヨシュア達は元気に学生生活を過ごしているだろうかと、懐かしい顔ぶれの事をつい思わずにはいられない。
市庁舎の地下室に置かれていた魔法通信機は、壁一面に貼られた画面に通信相手の画像が映し出される大型のもので、型はやや古いものだった。
画面の前に置かれた机に通信機の音声や画像の精度を調整する機器が置かれているが、今はその話はおいて置こう。
それほど広くはない通信室の画面に、鮮明な色彩と共に学院長の顔が映し出された。何故殿下がミケルカに居るのか? 何故ミケルカから緊急の通信が入るのか? 学院長としては問い合わせたい事がいくつもあるだろうが……
『スペリオン殿下、火急の事態と聞きましたが』
「オリヴィエ学院長、急な連絡をすまない。少々まずい事態が勃発してね。ガロア魔法学院に所属している、ある教諭に連絡を取りたいのだ。その為に貴女に連絡を入れさせてもらった」
『どうやら尋常ならざる事態が発生したようですね。分かりました。私に出来得る限りの事は致しましょう。それで、どの者と連絡を取る必要がおありなのですか?』
学院長は向こうの視界の端っこに映っているだろう私とリネットに、チラリと視線を向けたがそれ以上の事はしなかった。私が殿下のお気に入りである事や実力を含めて、追及する事はないとお考えになられたのかな?
「エドワルド教授と至急連絡を取りたい。エドワルド教授の天人に関する知識を頼りたい事情が生じたのだ。詳しい事情は、まだオリヴィエ学院長にも伝えてよいか難しい段階なので、伏せさせてもらいたい」
『なるほど、それだけの事態という事ですか。アークレスト王国の家臣としてはこれ以上は追及できませんね。エドワルド教授ですが、現在は高羅斗内の天人の遺跡の調査に赴いている筈です。
ガロアに戻ってくるのは一ヵ月後の予定ですが、調査の進捗具合でしばしば延長が生じますから、二ヵ月後、三ヵ月後になる可能性も否定できません。
火急の事態という事ですから、私の方で急ぎ連絡を取りましょう。エドワルド教授と連絡が取れ次第、殿下にもご連絡いたします』
「そうしていただけると助かる。エドワルド教授以外にも天人関係の識者達の知恵と見識を仰ぎたい事態でね。私達も一旦、そちらへと足を運ぶ」
『なるほど、あの忌まわしき天の者達の遺産でなにかありましたか。分かりました。すぐに連絡を取れればよいのですが、可能な限り善処いたします』
「お願いする。場合によってだが、アークレスト王国が大きく動かなければならない事態に陥りかねん。後手に回らずに済むように、情報が一つでも多く欲しい」
『分かりました。エドワルド教授にもそのように伝えましょう』
学院長は殿下の口ぶりから事態の重さを改めて理解し、重々しい口調でうなずき返して画面は暗転した。
三竜帝三龍皇だけでなくエンテの森もかつては天人達と刃を交わした事がある為、学院長をはじめてとした住人達は、天人文明に関して忌避感を抱いている。天人の遺産を利用して誕生したリネットにまで、そういった感情を向けていないのは本当にありがたい。
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第二百十三話
高羅斗の対轟国との戦争において、切り札であった天人の遺産“天恵姫”の大部分が離反し、それによる戦争の趨勢の激変に備え、アークレスト王国はこれを無視する事はできなかった。
王国はこの事態に対して天恵姫の離反前から高羅斗内にて天人の遺跡調査を行っていた、ガロア魔法学院に籍を置く考古学者エドワルドに、暗に事態の調査を命じる形で事態への介入を目論む事となった。
エドワルドと助手のエリザの下には、その素性や能力をある程度隠蔽されているが、リネットと同じ天人の遺産の応用によって生み出された人造超人四名が居る事もあり、戦闘能力という観点に立って評価すれば、エドワルド一行は大国の精鋭部隊を凌駕する。
これに加えて、エドワルドとかねてから知己であったドランは従者であるリネットの懇願もあり、彼女を単独で援軍として派遣する事を決めたのだったが――
スペリオンとシャルド達が転移魔法を用いて王都へと帰還するのを見送ったドランとリネットは、事の次第をベルン村に残っている者達に伝えるべく、オリヴィエの好意で用意してもらった魔法学院内の一室で、セリナ達へと念話を繋げていた。
術者の力量次第で通話者間の距離と連絡速度の変わる念話は、まるで目の前で言葉を交し合っているかのような明瞭さで、ドラン達の頭の中に響いている。
「そういうわけでガロアで私とリネットは一旦別れて私はベルンへ戻るが、リネットはこのままエドワルド教授達の元へと向かわせる。今回の天恵姫離反に関する情報がある程度手に入るまで、リネットはベルン村を離れる事になるな」
念話の相手はセリナ、ディアドラ、ドラミナ、クリスティーナの四名だ。四名は今もベルン村でそれぞれの職務に追われていたが、その片手間に念話に応じるくらいはなんと言うことはない。
普段は応接室の一つとして使われているであろう部屋には、魔法学院らしく魔法の付与された時計やからくり人形に燭台、動物の像などの調度品が置かれているが、生憎とドラン達はそれらを目で楽しんでいる場合ではなかった。
「リネットがマスタードランに懇願した事です。道具であるリネットが自らの願いを口にするなどおこがましい事ではありますが、どうしても天恵姫達の存在を無視する事が出来ないのです。
マスタードランのお傍を離れ、皆の傍からも離れてお仕事のお手伝いを疎かにする事となり、誠に申し訳ありません。ですがそうするだけの結果を必ずや出してきます」
普段はそれこそ精巧極まりない人形のように表情を変える事のないリネットだが、こうして遠く離れた家族とも言えるセリナ達へ自らの決意を語るその横顔には、決して譲れぬ決意の色と凛とした雰囲気とがあった。
このリネットには稀有な自己の意思の発露を、ドランが内心で喜んでいる事をリネットは知らない。そしてまた、ドランと同じようにセリナやディアドラ達もまたリネットが迎えたささやかな変化の兆しを歓迎している事も。
だからといって、エドワルド達と行動を共にするとはいえリネットがドラン達から離れて行動する事に、心配がないわけではないのが難しいところだ。
リネットの強い意志を感じさせる言葉を受けて、クリスティーナの認めるしかないと諦めた気配を滲ませる思念の返答が来た。
――そういう事ならば、私から言える事はほとんどないな。暗黙の了解めいた会話の応酬の結果らしいが、殿下に貸し一つとでも思っておけばそれだけでも収穫はあったさ。
でも、いいかい、リネット。私だけでなくドランもディアドラも、皆がそうだが、何よりも大事なのは君が無事に怪我などしないで私達の元へと帰ってくる事だよ。天恵姫達の事件を解決するのも大切ではあるが、それ以上に自分の事を大切にして欲しい。
それはクリスティーナの言うとおり誰もが思っている事だった。
リネットは希代のゴーレムクリエイター・イシェルの持てる技術の全てと、高水準期の天人の遺産の融合によって誕生した、極めて高い戦闘能力と希少性を兼ね備えた存在だが、十代前半の外見年齢や知識はあっても経験を伴わない無垢な精神性から、クリスティーナ達はどうしても心配せずにはいられない。
心配される側のリネットからすれば、そこまで自分は脆弱ではないのですが、と反論の一つもしたいだろうが、こればかりは仕方がない。
「はい。リネットはこの体が朽ちるまでマスタードラン達の為に働く事を、存在意義の第一としています。それを阻む者は全身全霊をもって排除する所存です」
ふんす、と力強く息を吐き、気合を入れ直したことを暗に行動で示すリネットだが、クリスティーナは微妙に言いたい事が伝わっていないような伝わっているような、なんとも言えない気持ちになって、つい零れ落ちそうになる溜息を飲み込むのに少しばかり労力を割かねばならなかった。
「ディアドラ、どうかリネットが傍を離れてエドワルド教授達の下で働く事を、許してください。クリスティーナに言われたように、自分の安全にも配慮いたしますから」
やはりというべきか、リネットが重ねて懇願した相手はディアドラであった。
出会った時の経緯から、リネットがドランを主人として認識するのは当然かもしれないが、ディアドラをこうまで特別視するのは主従の契約外つまりリネット個人の感情に由来する。
ディアドラを母のように慕うリネットと、リネットを子を持たぬ身なりに可愛がるディアドラを、周囲の者達は常に微笑ましい思いで見守っていた。
そんな無自覚に母娘としての振る舞いをしているディアドラは、リネットからの懇願を受けて思念で溜息を吐くという器用な真似をしてから答える。
――はあ、珍しく貴女がお願いをしてきたと思えば、そんな内容だなんて。
恩義のあるエドワルド達を助けに行こうとする気持ちは素晴しいものだけれど、その前に美味しいものを食べたいだとか、着飾るための服やアクセサリーが欲しいだとか、どこかへ出かけたいだとか、そっちの方でお願いをして欲しかったものね。
ドラン、リネットをエドワルド達と一緒に行動させて、どんな危険に遭遇するか貴方はどこまで想定しているのかしら?
不機嫌な顔をしているのだろうな、とドランが確信を抱くディアドラの声であった。麗しき黒薔薇の精は、なかなかどうして過保護な母親であるらしい。母性の発芽と考えれば、こちらもリネット同様に良い心の変化であろう。
「天恵姫単体の戦闘能力は大したものだが、リネットには及ばんよ。全ての個体を一度に相手にする状況にはなるまい。
天恵姫の制御を奪った相手が、どの程度の戦力を用意しているかが不安要素といえば不安要素だが、仮に轟国側の手先だとしても動くのは四罪将や四凶将といった特殊部隊だろう。
それならガンドーガもあるし、教授のところのシーラ達も居るから、まず負けるような事にはなるまい」
――ふうん、貴方がそういうのなら信じられるでしょう。これで轟国でもないどこかの第三勢力だったら、また話が変わるわね。それを言い出したらキリがないけれど。
「なに、いざとなればすぐに私が動く。リネットに自己の判断で動く事を覚えて欲しいし、多少間違えそうになっても、その時にはエドワルド教授が止めてくださる。あの方は信頼に足る方だよ」
――それは私も認めるけれど、駄目ね、どれだけ言われても心配なものは心配だわ。まったく、我ながら呆れたものね。言いたい事は色々とあるけれど、これ以上言って時間を浪費させても仕方がないわ。
リネット、貴女はこれから初めてドランと離れてそれなりの期間を過ごすわけだけれど、エドワルドとエリザの言う事は良く聞くのよ。
「はい。エドワルド教授の言う事を聞いて良い子にします」
――いつもと同じ調子ね。それで旅支度はもういいのかしら? ハンカチーフは持った? 地図は? 貴女は飲食の必要はほとんどないとは言え、道中で怪しまれないためにも少しは保存食の類を持ってお行きなさい。
それと医療品の類もよ。高羅斗や轟国とではアークレスト王国とで人種が違うようだし、貴女のその雪のように白くて綺麗な髪や褐色の肌は目立つわ。なるべく目立たないような衣服を選んで、なるべく髪の毛や顔も出さないように気をつけなさい。
なんともはや、初めておつかいに行く子供に対する母親のようなディアドラの物言いに、傍でそれを聞いているドラン達は微笑を禁じえない。
この場にオリヴィエやエンテが居たら、ディアドラの普段とは違う微笑ましい態度に、やはり同じように笑みを浮かべた事だろう。
一方で、リネットはディアドラの言いつけを『真面目』という材料を『真摯』という名の
子供じゃないのだから、という反発の答えが出てこない様子から、リネットが反抗期を迎えるのはまだまだ先の話であるようだ。
「はい。気をつけます」
――違う土地の水を飲むとお腹を下しやすいと言うわ。これも貴女には言う必要はないでしょうけれど、それでも気をつけなさい。
所変われば品変わるとも言うし、色々と興味を惹かれる事も多いでしょう。買い物をする機会に恵まれて、それなりにお金を使うのは止めないけれど、怪しい連中の口車に乗って、余計なお金を使わされるような真似にならないように気をつける事。
「ご安心を。リネットには相手の脈拍や呼吸、神経の活動状態から嘘を吐いているかどうかを看破する機能が搭載されております。マスタードランとクリスティーナから頂戴したお金は、決して無駄にはしません」
ちなみにリネットの所持金は、主人であるドランが男爵の補佐官である事から、リネットを補佐官付きの従者に置き換えた場合の給料とドランとディアドラが私的に渡しているお小遣い、そしてドランが引き継いだイシェル氏の遺産の一部となる。
給料を貰いだした期間はまだ短いが、分割して渡されているイシェル氏の遺産は元宮廷魔法使いの貴族のものという事もあり、リネットはちょっとした小金持ちだったりする。
――はあ、もうどうしてこう、ありきたりな事ばっかりしか出てこないのかしら? 世の母親が、自分の手元を離れる娘の事を心配する気持ちに共感する日が来るなんて。私も存外人間と精神構造が近いものなのね。
さりげなくディアドラは自分がリネットに対して母親の気持ちである、と告白したのだが当人は気付いているのかいないのか、訂正する素振りは見られないがそれを言われた方のリネットは、ドランの目の前で顔を赤くしたまま言葉もなく俯いてしまっている。
意図せずにディアドラの口から出てきた言葉は、リネットの心の奥深いところまで易々と到達し、彼女の精神に深い衝撃を与えたらしい。ドランは祝福するようにリネットの頭を優しく撫でる。
「マスタードラン、異常事態です。リネットの心臓であるパラケルスス式永久機関が、不規則に脈打っています。それに頬の紅潮と多幸感の収まる気配がありません」
「羞恥の念もあるかもしれないが、悪い気分ではないだろう? なに、ディアドラが進んで母親役をしてくれるのだから、存分に甘えるといい。リネットだって、以前からディアドラに対しては他の皆よりも甘えるし、特別な態度を取っているのだからね」
「そ、そうでしたでしょうか? リネットにはそういった自覚はありませんでした」
「そうさ。見ていて微笑ましい限りだったが、だからこそディアドラの心配もひとしおと言うもの。だからね、リネット、何度も重ねて言うが無事に帰ってくるのだよ」
「はい、必ず、怪我一つなくマスタードランとディアドラ達の下へと帰って参ります」
そう告げるリネットの顔はまだ紅潮したままだったが、その瞳にはどんな運命が待ち受けていようとも、必ずやドランとディアドラ達の下へと帰ってくるのだという堅固な決意の光が輝いていた。
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第二百十四話
エドワルドは急造の野営地に身を伏せて、朗らかな調子はそのまま器用に声量だけを抑えて、場を取り仕切り始める。
目下謎の勢力によって高羅斗から奪取され、占拠された状態である事は改めて確認できたわけだが、相手方の正体や高羅斗側の反応などはまだ謎のままだ。アークレスト王国へ送る情報としては、不足に過ぎよう。
「さて、それではこれからの私達の目的とそれを達成する為の行動について、改めて確認しなおそうか。集団行動において目的意識の共有は、基本中の基本だからね」
地面に膝を突き、顔を寄せ合って話を進めるエドワルドに、リネットが小さく手を上げて発言の許可を求めた。
「可能であれば内部に潜入し、占拠している勢力の正体の確認を行う事が目的に相当するでしょうか」
「可能であれば、だね。何も私達が天恵姫の管理権限を取り戻したり、占拠している者達を壊滅させる事まで求められてはいないさ。天恵姫の離反が起きてまだ日は浅いし、高羅斗だってまだ自国内の情報をまとめている段階だろう。
ドラン君からリネット君を預かった以上、無理は出来ないけれど、個人的には今回の天恵姫の離反には気になる点がある。遺跡が生きている以上、情報端末に接触してある程度は情報を引き出したいところさ」
エドワルドには珍しい懊悩の色が伺える表情は、やはり、リネットという何が何でも無事に帰さなければならない少女が居る事で、普段の無茶と無理が出来ないと考えているからだ。
リネットはまだ情緒を育む途中ながら、そんなエドワルドの心中の思い遣りと責任感を察する事はできたが、さりとて適切と思われる言葉を口にする事は、そうしたいと願いながらも叶わなかった。
その代わりにリネットの口から出てきたのは、エドワルドの抱く不安の種の正体を問うものだった。
「教授の抱かれる疑問点とは何でしょうか?」
「なに、多分、君もドラン君も高羅斗の響海君殿下も抱いているだろう疑問さ。天恵姫を発見した高羅斗が管理権限の移行にこれだけ手間取っていたのにも拘らず、離反させた連中の手際があまりにも早すぎる。
仮に天恵姫の管理権限を奪取したのが轟国の手の者だとして、いくら轟国が天人研究に関しては世界随一の国家とはいえ、ここまで高羅斗と差があるとは考えにくいよ。
まあ、私が知らないだけで轟国の研究がとんでもなく進んでいるか、たまたま天恵姫関係の研究が進んでいたのか、という可能性もある」
「なるほど、マスタードランもふむ、と呟いて同意を示される事でしょう。教授のお話を聞いて、リネットは納得と共に新たな疑問が出来てしまいました。
今回の天恵姫離反が轟国によるものであったなら、対立構造に変わりはありませんから、不謹慎な言い方になりますが単純な敵対の構図は変わりません。ですが、もし、今回の事が轟国以外の勢力によるのであれば……」
「そう、それこそ面倒な事になるよ。高羅斗ら三国同盟と轟国間の戦争に、第三勢力の介入が行われているという事になるからね。しかし、周辺諸国を見回しても、それをしそうなところはないのだけれどなあ。
ロマルは内憂の排除と解決にこそ全精力を注ぎ込むべき情勢だし、アークレスト王国は傍観しているだけでも利益があるし、南方の諸国家にしても轟国に利するよりも高羅斗に利する真似をした方が、得だろうしね」
これまたエドワルドの言うとおりである、とリネットは無言のまま首を縦に動かして肯定した。
周辺諸国家の地図と情報を頭の中で広げて分析してみても、大陸南方最大最強国家たる轟国には、繁栄と拡大よりも凋落と縮小の一途を辿ってもらった方が嬉しい国ばかりである。
ガンドゥラ、マシュール、高羅斗の三国同盟を暗に支援しているのが、アークレスト王国ばかりではないのが、その証拠の一つだ。
轟国の南と西で今回の天恵姫離反に関わっていそうな国が該当しないとなると、別の方角に目を向けなければなるまい。
「では高羅斗の東に目を向けまして、秋津国の線は?」
『わんわん』こと八千代、『こんこん』こと風香の故郷である秋津国は、独自の呪術文化と膨大な数の神々との関わりが深い特異な国家である。
轟国との間では、はるか以前から交流を持ち、時に友好的に、時に血と刃を持って渡り合ってきた歴史があり、現在はというと目下休戦中だ。その秋津国との暗闘の結果が、今回の事態に繋がったのか?
「ううん、それもどうかな? あの国は天人関係に関しては明るくないからね。それに秋津本国から遠すぎるし、やはり秋津国も轟国に害する側に立っている以上は、今回のような事態を引き起こす動機は小さいさ」
「そうなりますと、やはり今回の事態を引き起こした勢力の正体は……」
「確かめない事には分からない、という結論に至らざるを得ないわけさ」
困ったように肩を竦めるエドワルドの仕草は実に様になっていたが、今回、その確かめる作業を自分達で行おうとしているのだから、困ったと表現するだけではすまない苦労がこれから大口を開けて待っているのは間違いない。
しかしながら遺跡は当然の如く防備を固められていて、正面から堂々と中に入れるわけもない。
山中を巡回している者達でもいれば、襲い掛かって装備を剥ぎ取り、内部に潜入する事も出来るかもしれないが、そこまで大人数と言うわけでもない以上、見慣れない顔がいればすぐに気付きそうだ。
そうなると視覚的に姿を消す魔法や認識を阻害する魔法を用いるか、搬入物資に紛れての内部潜入などが考えられるが、これまで沈黙を保っていたエリザが、この場にいる面子ならではの方法を提案した。
「内部へ潜入となると、コウラの
リネットには、エリザの声音がディアドラがリネットの事を自慢する時に似ている、と感じられた。
エドワルドとエリザ達にゼフィランサス達が預けられてから、エドワルド達の冒険に付き合ってきたのは容易に想像できるが、その生活が彼らにとってお互いにどう作用してきたのか、不意にリネットは自分がその事に強い興味を抱いている事に気付いた。
「うん、エリザの言うとおりだ。今回の場合は内部の様子を覗くだけでも収穫は得られる。コウラが頼りになる展開だ」
エドワルドエリザから視線を寄せられたゼフィランサス――コウラは、穏やかな風貌に淡い笑みを浮かべた。任せておけ、と言外に告げているのだとリネットでも分かる。
「教授、ミス・エリザ、完全世界が有用である事はリネットも同意しますが、コウラというのは? ゼフィランサスの新しい名前ですか?」
「ああそうか、リネット君にはまだ伝えていなかったね。彼らには、私とエリザで勝手ながら新しい名前を贈らせてもらったんだよ。
コウラ・ゼフィランサス、カクバズ・フィサリス、メイス・デンドロビウム、シーラ・ガーベラだね。彼らは文句も何も言わないから、気に入ってくれているかどうか、名付けた時は内心ハラハラしたものだよ」
「そうですか。誰かに名前を贈る。確かに簡単な気持ちで行ってよいものではありません。お二人が緊張なさるのも無理のない事と存じます」
リネットにとって、この『リネット』という名前を創造主であるイシェルが付けた時の事は、忘れようにも忘れられない記憶となっている。
本来であれば掌中から落としてしまった玉であるリエルとなる筈が、姿形は同じであるのにまったく違う人格を宿したリネットを、失敗作となじる事はせず、さりとて娘を想えば容易にその存在を認める事も出来ず……
傍目にも明らかに焦燥するほどの苦悩の沼に沈んだイシェルが、リネットという名前を贈ってくれた時の焦燥の影こそ色濃く残しながら、それでも晴れやかなものが浮かんでいたあの顔を、決して忘れる事はないだろう。
「貴女達は教授とミス・エリザからいただいた名前の事を、気に入っていますか?」
リネットの発言は、エドワルド達からすれば気になって仕方のない質問であった事だろう。よくもまあここまで直球の質問を出せたものだ。ある種の場の空気の読めなさ、あるいは気にしないという点ではドランと似ているかもしれない。
リネットの質問の矛先を向けられたシーラは、リネットと似た雰囲気のある顔にほんのわずかに口元を緩める。リネットよりも緩やかに情緒を学び始めているシーラ達にとっては、これでも十分な成長だ。
「いい名前だと、シーラも、メイスも、カクバズも、コウラも、気に入っています。……いえ、少し、違いますね。気に入るではなく、好き、です」
「そうですか。それはリネットにしても嬉しいと感じられます」
ふ、とリネット自身もまた本人が気付かぬ内に、シーラ達を祝福するようにあわやかな笑みを浮かべていた。
リネットとシーラ達が笑みを浮かべあう様を、エドワルドとエリザは絵に描いたような慈しみに満ちた眼差しで見守っていたが、シーラの方はリネットの反応に小さな疑問の念を抱いたようだった。小さく、本当に小さく首を傾げてこう尋ねたのである。
「どうして、リネットが嬉しいのです、か? 私達、貴女と繋がり、ないです」
これには問われたリネットも首を傾げ返していた。鏡合わせのように幼い少女が首を傾げあう光景はますます微笑ましさを増して、エドワルドとエリザはここがとてつもない危険地帯である事を忘れてしまったほどだ。
「そう言われてみればそうですが、リネットが嬉しいと感じたのは間違いのない事実です。
リネットの主観としては明確に答えを提示できませんが、客観的にリネットと貴女達の因果関係を考えれば、答えに近いものは見出せるかもしれません」
「私達と、リネットとの、因果関係、ですか?」
シーラは訥々とした口調で疑問を言葉にし、コウラやカクバズ、メイスといった同胞達と顔を見合わせる。シーラ以外の三人の外見は既に成人に達したものだが、精神の成熟具合は四人ともそれ程差がないらしい。
「リネットはリエルを再生させる為に彼女の死体を用いて作られたリビングゴーレムですが、その過程において再生技術の研究の一環として貴女達が生み出される事となりました。
そのような観点に立って考えてみれば、今のリネットがあるのは貴女達という存在があったからこそです。ですからリネットにしてみればグランドマスターイシェル以外で、血縁とは異なりますが繋がりのある存在と言えます。
親近感を抱く相手が幸福であれば、それに共感して自身もまた幸福感を抱くもの。ですからリネットは貴女達が幸福である事を嬉しく感じたのだと考えられます」
自身に関わる事でありながら、リネットは他人行儀としか受け取れない声音と調子で話し続けていたが、語り続ける内になるほど、自分はそのように感じ取って笑みを浮かべたのか、と一つ、また一つと納得していった。
まさに腑に落ちる、という心理状況そのものである。リネットからの説明を受けるコウラ達も、余計な虚飾のない淡々とした言葉に疑問や反論を舌に乗せる事をせず、最後まで耳を傾け続けていた。
「リネットの考え、分かりました。私達も、全部を分かるのは、難しいですが、少し? 結構? 多分? 納得できました。先程のつながりが、ないと言った事を訂正します。私達とリネットには、つながり、あったのですね」
「はい。そしてそれはとても喜ばしい事なのだと、今のリネットには心から思えます」
「はい、私達も、です」
そうして、リネットとシーラ達はお互いにはにかんだ笑みを浮かべあうのだった。まこと、この場が不穏な現場でさえなかったなら、無垢な心を持った少女達の交流という微笑ましい場であったろうに!
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第二百十五話
黒尽くめの女が放った刃は、意思ある生物であるかのように空中で優美な弧を描き、白銀の煌きを燐粉のように零しながら女の手元へと戻っていた。
速い。上級の強化魔法の恩恵を受けた歴戦の戦士でも、成す術なく頚動脈を斬られて血を噴出させる速さだと、リネットは正確に認識していた。
刃が細く鋭い空気を切り裂く音が消えぬ間に、リネット達もまた戦闘態勢を整え終えていた。
リネットは影の中から武骨極まりないメイスを取り出し、エドワルドは魔獣の腱や毛皮を縒った特注の鞭を、エリザは片手斧と盾を構えてエドワルドの前に立つ。
コウラ達もまたそれは同様であった。コウラは完全世界による補助を考えてか武装は小ぶりなナイフ一本きりだが、カクバズは自らの異能『
メイスもまた完全世界の内部から出る際に、連射式ボウガンと三十本入りの矢筒を持ち出していたし、シーラは三日月を髣髴とさせる弧を描く片刃の剣を持っていた。
カクバズ、メイス、リネット、シーラの四人は、ほぼ同時に黒尽くめの男女へと一歩を踏み出した。
天恵姫の生産区画はそれなりの広さではあるが、培養槽が無数に並んでいるために、この人数での乱戦はそれなりに施設へ被害を齎すものとなる可能性が高い。
女が自在に飛翔する刃を再び投擲する予備動作を見せ、男もまた左手に銀色に輝く球体を握り締めて、リネット達を迎撃する姿勢を整えた瞬間を狙い済まし、デンドロビウム――メイスの異能『
視界内の物体を同じく視界内の任意の地点に跳躍させる異能は、シーラとカクバズを男女の頭上へと一ナノ秒で転移させた。
およそ人間が反応し得るとは信じがたい奇襲に対応したのは、男女の肉体や意識ではなく手に持った武装であった。
シーラとカクバズがそれぞれ電光石火の勢いで振り下ろした刃を、男女の手から離れた刃と球体が自ら迎え撃ち、空中に赤と暗黒の火花を散らしながら弾き返したのである。
刃と球体そのものに使用者を守る自動防御機能が内蔵されていたのだろうが、凄まじい速さと言う他ない。
奇襲を防がれたシーラとカクバズが空中で態勢を立て直す間に、メイスは狙いを定め終え、女へと向けてボウガンの引き金を引いていた。
最大で五本まで連射できるボウガンには、五本一組で一本目の矢と同じ相手を狙う魔法の矢が装填されている。培養槽から零れる薄っすらとした光の中を五本の矢が流星となって飛翔し、その内の四本を再び翻った刃が切り落とす。
そして最後の五本目は女自身が防いでみせた。このような場所に侵入している以上、武器頼みの使い手ではなかったろうが、その防ぎ方はエドワルドやリネットの意識を引くものだった。
服の中でなにやら女の腕がモゾモゾと動いたと思えば、女の右手の指先が伸びて五本目の矢を空中で絡め取ったのである。
覆面の下で女が得意げな笑みを浮かべ、その笑みを凍りつかせる。女の鍛え抜いた五感をするりと抜けて、鉄塊を振り上げるリネットの姿が眼前にあった。既にリネットの間合いだ。
女を見るリネットの瞳に容赦と躊躇の二文字はない。抵抗できない程度に痛めつけて情報を吐かせる、だから殺しはしない、この瞬間のリネットにあったのはこの二つの思考である。
「ふん!」
死を実感するにはあまりある勢いで振り下ろされる鉄の塊を、それでも女の体は必死になって防ごうと動いた。
女の左腕が服の中でビキビキという音を立てて『何か』をし、更には二回りも三回りも巨大化するとリネットの一撃をかろうじて受け止めたのである。激突する瞬間に硬質の物体が砕ける音がして、女の顔に苦痛とそれ以上の驚愕の荒波が巻き起こる。
「やはり
リネットの脳裏には、ドランとディアドラ達に出会った日、ドラン達が後始末をしたヤオという偽名を名乗った男の事が脳裏をよぎっていた。
リネットと女の左腕がせめぎあう中を、自律行動を取る刃がリネットの頚動脈を目指して、生きた蛇の如く軌跡を描きながら迫る。
それをメイスンの視界跳躍が捉え、刃は女の首筋の裏へ! 慣性の法則に従う限り女が鮮血を噴くのは不可避と思われた、刃はするりと女の体を避けて再びリネットへと襲い掛かる。
しかして、分厚い鋼鉄の鎧も断ち切る刃は、すんでの所で、エドワルドの振るった鞭に打ち落とされる。
先端が音の壁を越えた鞭は魔法による硬化処理と、魔獣由来の素材による頑健さにより、刃でも断ち切れないだけの硬度を誇っていた。
「間一髪かな? カクバズ、コウラ!」
リネットへのカバーが間に合い、エドワルドは一息零しそうになったが、残る男が球体を操ろうとする姿に気付き、信頼する人造超人達の名を叫んだ。
具体的な行動を命じたわけではない。ないが、それでも彼らが自分の思う以上の行動をしてくれるという確信を抱くだけの信頼が、エドワルドの中にあった。
「はあ!」
カクバズの持つ暗黒の戦斧が背後から男の右肩を割りに行き、それを激しく回転する球体がかろうじて受け止める。
万物をエネルギーに変換するカクバズの強欲王が球体から力を奪い取ろうとするが、球体それ自体に何かしらの防御手段が付与されているようで、カクバズが狙ったほどに力を奪い取る事ができない。
もし男が戦斧を生身で防いでいたなら、たちどころに膝を突く程度には力を奪えただろうが、それをしなかったのは男の戦士としての直感が鳴らした警鐘によるものだ。
コウラはリネット同様に一本のナイフを武器に、男に正面から迫っていた。ただし、短い距離の間に完全世界に入り、出る事を繰り返して男の意識に意図的な死角を作りながらであった。
「面妖な」
覆面の奥からしわがれた男の声が零れ、男まで数歩の距離にまで迫っていたコウラの前方の床に、男の足を伝って黒い墨のようなものが広がった。
墨の水面をコウラの瞳が映した瞬間、水面のあちらこちらで無数の瞳と口とが開いた。瞳孔の丸い、四角い、奇妙な文様を描く目、四角い歯だけの、乱杭のような歯の、あるいは歯のない口……
ある種の狂気を喚起させる異常な光景に、人造超人としての直感に従って、コウラはすぐさま完全世界の中に飛び込み、更にシーラ、カクバズ、リネットを回収してメイスの位置まで下がる。
男から溢れた不気味な墨は、男と女を守るようにある程度の範囲まで床に広がったところで侵食が止まる。墨からは無数の生命の気配が感じられ、数多の視線と敵意とがコウラ達を貫いている。
「そちらの方が、よほど、面妖だ」
苦々しげに呟くコウラへ、男と墨の中の何か達はほんのわずかも警戒の意識を緩めない。コウラの完全世界を利用した奇襲を相当の脅威と認識したのだろう。
男と女の持つ球体と刃もかなりの脅威だが、使い手自身も色々と面白いものを持っているようだ。
男達はじりじりと背後にある入り口へと下がりながら、リネット達一人ひとりの顔を見回してゆく。その視線がエドワルドの顔で止まった。
「アークレスト王国の考古学者エドワルドか」
「おや、私の事を知っているのかい? これは光栄だね。ついでに自己紹介をして貰えれると幸いなのだけれど、君達はそれが許される職業ではなさそうだ。
ところでここまで戦っておいてなんなのだけれど、私達の目的は君達と戦っても果たされる類のものではなさそうだし、君達もきっとそうだと思う。
多少の問題はあるだろうけれど、私達と君達とで目的は似たり寄ったりだろうから、協力は出来ないとしても、せめてお互い邪魔をしない程度の同盟なんていかがかな?」
この状況でよくもまあ、とリネットはエドワルドの胆力を賞賛したが、提案を受けた男女の反応は芳しくない。というよりも反応らしい反応が浮かび上がってこないのだ。
もし男女が目撃者の皆殺しなどの指令を受けていたら、エドワルド達を始末にかかるところだろうが、それが容易く行える相手でない事は、今の戦闘で十分に理解できた筈だ。
不意を突く機会を窺う為に、エドワルドからの提案を受け入れる可能性は、少しくらいあってもおかしくはない、とエドワルドは判断したのだろう。
リネットも少しくらいは有り得ると考えていたが、男と女は視線をリネット達に向けたまま開いた扉の向こうへと飛びずさる。
「……行くぞ」
「応」
男女の姿が扉の向こうに消えてから、床に広がっていた墨が主の後を追って扉の向こうへと引っ込む。エドワルドから追撃の指示が出なかった事もあり、リネット達は気配が急速に遠ざかるのを待ってから、戦闘態勢を解いた。
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第二百十六話
制御中枢を司っている制御室へと飛び込んだガンドーガ・ソフドの視界が映し出したのは、実に混沌とした状況であった。
制御室は極めて広大な空間で、中心に床と天井を貫く円柱があり、その円柱へと向けて三方から通路が伸びていた。
通路から床までは二度と見たくないほどの高さがあり、天井もまた同様に距離が開いている。その通路のそここそに倒れ伏した天恵姫や黒尽くめの衣装姿があり、制御室を奪い合う攻防の真っ只中だったのだ。
肉体から異形の獣や蟲を出現させて戦う黒尽くめに対し、天人の残した武装を持って反撃する天恵姫達に混じり、円柱の麓に高羅斗風の衣装を纏った人間達がいた。
施設を警備していた人間の兵士達と同じく、東方の人種と思しい風貌だが、黒尽くめ集団と戦い、この場に居る事を考えれば、轟国でも高羅斗の人間でもないだろう。
「ふむ、となりますとあそこにいる者達が、今回の件の首謀者と判断しました。では教授達はと言えば……」
「いやいやいやいや、まさかここまで物騒な状況で仕事をする事になるなんて、滅多にない経験だねえ、エリザ!」
「はい、教授の言われるとおりかと」
いた。いつも通りの快活な声のエドワルドが、エリザが展開していると思しい光の正方体の中で円柱とコードで繋いだ端末を忙しなく操作していた。
光の正方体はエリザが信仰するマイラールに祈り、発動させた神聖魔法『ホーリーウォール』だ。特にアンデッドや魔界の存在に対して有効な神性を帯びた光の結界である。ちなみにホーリーウォール自体はマイラールに限らず、大抵の神が齎す奇跡だ。
「それにしてもこの状況でいつも通りに笑っているとは、教授とミス・エリザは本当に度胸のある方々です」
エドワルド達の周囲では、コウラやシーラ達が異能をふんだんに行使して、襲い来る天恵姫や防衛兵器、黒尽くめ達の放った魔獣の類を蹴散らして寄せ付けないでいる。
黒尽くめ達と施設を占拠している者達との戦力比はそれほどに差がないようだが、おそらく占拠側の最大戦力であるキルリンネをリネットが撃破した事が大きく関与しているだろう。
リネットはガンドーガ・ソフドにエドワルド達の下へ向かう最短距離を飛翔させ、その進行方向上で邪魔をしてくる者だけを相手取り、通路の下には落ちないように配慮する余裕すらあった。
エドワルド達は急速に接近してくるガンドーガ・ソフドの姿に驚きを隠さなかったが、そのゴーレムが制御室に入る直前にリネットが呼び出したゴーレムであることを思い出して、警戒態勢を解除する。
ガンドーガ・ソフドが姿を見せた事で、キルリンネが撃破された事を悟ったからか、それまで円柱の麓で何がしかの作業を行っていた者達が、少数の護衛を連れて通路の向こう側へと退避し始めていった。
「教授、ミス・エリザ、リネットです。先程の天恵姫は無効化いたしました」
「はは、リネット君か、そのゴーレムには驚かされたけれど、無事なようで何よりだ!」
「シーラ達も健闘しているようですね。教授、作業の進捗はいかがですか? この状況を鑑みるに、撤退を視野に入れるべき段階に入っているものと思いますが……」
「うん、こうして中枢に接触してみたけれど、いやいや、私の技術では命令権の書き換えまではちょっと無理だね。現状の変更先の名前くらいは分かったけれど、うん、これはもう撤退だ。ほら、彼らもこの施設の廃棄を決めたみたいだしね」
エドワルドの目は撤収を始めている占拠側の人員の姿を映していた。黒尽くめ達もそちらの追撃に人員の方を割いている。
天人の遺産の研究者達の間ではそれなりの知名度があるというエドワルドの事だ。黒尽くめ達は顔を見た事でもう素性が割れているのだろう。
エドワルドが円柱状のメインコンピューターからコードを引き抜き、端末の立体画像をしまい込む。
その最中、こちらに向けて放たれた天恵姫のミサイルが方向を転じて壁に激突し、エドワルドとエリザに足元から迫っていた無糧の体を持った蛇が、流れ弾に当たって四散する。
どちらもエドワルド達を守るシーラが、異能である
シーラに加えてメイスもまた視界跳躍によって、視界に移した対象の位置を次々と入れ替える事で戦場に混乱を齎して、こちらへ余計な手出しをする暇がない状況を作り出し、制御していた。
シーラ達が撤退の状況を作るまでの時間稼ぎに終始している中、一旦、戦いの手を止めていたコウラが完全世界の展開を終えて、短く区切られた独特の抑揚でエドワルドとエリザを振り返る。
「準備、出来ました。まずは教授、ミス・エリザから、どうぞ」
「すまないね、コウラ。さあさあ、皆、お家に帰るまで油断してはいけないからね。このまま上手くいけば全員無傷で帰れるのだから、気を抜かないでおくれよ」
「コウラ、カクバズ、メイス、シーラ、リネット、あなた達も早く来てください」
エドワルドとエリザが完全世界の中に入るのに続いて、カクバズとメイス、シーラも続いて完全世界の中へ。黒尽くめ達の中には完全世界の存在を把握できる者が居るかもしれないが、撤退を最優先に行動すれば逃げ切れるだけの速度を確保できよう。
「リネット、君も、早く中へ」
「いえ、リネットはここで
「しかし、それは……いえ、分かりました。また貴女に、任せてしまう事に、なるとは情けない、です。リネット、どうか、ご無事で」
口にした言葉の通りに、心底から情けないという表情を浮かべたコウラが完全世界の中に入り、その姿が消えるのを見届けてから、リネットはガンドーガ・ソフドの中であえかな笑みを浮かべていた。
「貴方がそういう言葉を言えるようになった事を、リネットは嬉しく思います。貴方達を逃がす為の犠牲になどなるつもりはありませんので、安心してください。
さて、マスタードランへの手土産がキルリンネだけでは少々心許なかったので、リネット的にはありがたい展開ですが、ふむふむ」
リネットが二度目の『ふむ』を呟いた時、制御室の天井に近い一角が爆炎と共に吹き飛んで、破片と爆炎の中を突き破って二つの人影が制御室の中へ飛び込んできた。
一つは、通常の天恵姫よりも大人びた顔立ちに、キルリンネと同じデザインだがこちらは青い装甲服に身を包み、右手に長い銃身のライフルを、左手には六本の銃身を束ねたガトリングガン、更に背中からは二本の砲身が延びている。
キルリンネと対を成す砲撃戦仕様の決戦型ファム・ファタール『ガンデウス』だ、とリネットはキルリンネの情報と共にドラッドノートから送られてきた情報から即座に判断を下した。
そしてここに至るまでガンデウスと戦ってきたのは、ガンデウスに負けず劣らずの重武装で身を固めた紫苑であった。
背から伸びる二本のフレームにはガトリングガンを備えた盾が付けられ、右手には長大な刃の付いたライフルが握られ、左手には分厚い灰色の盾を、腰の左右にも何かしらの砲身がある。
「響海君殿下も思い切った事を。手元に残っていた天恵姫達による奇襲で、管理施設の奪還とは、一歩間違えれば残っていた天恵姫も失う最悪の結果になりかねないところですのに。ですが、今回は英断と称える場面ですね」
紫苑以外の高羅斗に残った天恵姫達がこの施設に突入して、各所で戦闘が発生している。占拠側の人員が撤収しつつある事もあり、高羅斗による施設の奪還はまず成功の段階へと進んだといえる。
占拠していた者達は施設を破棄するのと同時に自爆するように命令を残していったが、それも既にドラッドノートが解除に成功している。占拠していた者達の正体こそ掴めなかったが、これで高羅斗が轟国に一方的に圧倒される展開は防げよう。
「教授達が十分に離れるまでの時間稼ぎが目的ですが、どちらか一人は連れ帰らせてもらおうと考えるのは、さて、欲張りかもしれませんね」
リネットとまだ残っている黒尽くめ達の姿に気付き、ガンデウスと紫苑が戦闘態勢を改めるのを認めて、リネットもまた戦況の再分析を重ねた結果、これだけ開けた空間のある制御室では、ガンドーガ・ソフドは状況に適さないと判断を下した。
「ではお客様に合わせてこちらもお色直しと参りましょう」
ガンデウスと紫苑が動き出すよりもはやく、ガンドーガ・ソフドの足元にある影がまるで生き物のように蠢き出し、瞬きする間にガンドーガ・ソフドを飲み込み、その中でソフドを構成する部品が影の中に収納されていた他の部品・武装と換装された。
四枚の大きな翼を背中から伸ばし、右手には巨大な戦斧の刃を備えたライフルを握り、脚部にも小さな翼を思わせる部品が三枚一対装着され、白を主に紫の色彩を散らした装甲を持ったこの形態は、空戦能力を重視したガンドーガ・カナフ。
姿を変えたガンドーガの事を、別の天人の遺産あるいは占拠した勢力の持ち込んだ兵器と判断したのか、ガンデウスのみならず紫苑もまた明らかに戦闘態勢を整えるのをリネットは好都合と判断した。
今でこそ高羅斗とアークレストは協力体制を築いているが、今後どう転ぶか分かったものではない。ならば高羅斗で最高戦力の一つであろう紫苑の戦闘能力を把握する事は、決して悪い事ではあるまい。
高羅斗勢力の参入は黒尽くめの勢力達にとっても、早すぎる、と予想外のものであったか、仲間の遺体を回収しながらこの場を去る動きを見せている。
彼らとしてもこの施設が高羅斗に戻るのならば、無理に占拠するほどの価値は無いらしい。どちらかといえば占拠者達の正体を探る方こそが重大な目的であったものか。
ならばその方が好都合と、リネットは彼らの撤収を見逃した。この場に残るのは、人間の都合によって作り出され、人間の都合によって戦う事を選んだ三名。
奇異なる共通点を持った三名が縁の果てに向かい合い、今、戦いの火蓋が切られようとしていた。
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第二百十七話
ドラッドノートからのハッキングにより、行動を停止したガンデウスを押さえ込んでいる為、一時的にガンドーガ・カナフは動きを止めざるを得ない状態だ。
既に紫苑はセンサーの沈黙状態から復帰しており、動きを止めているリネット達をまとめて撃破しようと武装の全てをこちらへと向けている。
「確かに狙いどころですが、空気を読んで欲しいとリネットは切に願います!」
紫苑から慈悲なく容赦なく油断なく放たれた無数の砲弾に対して、リネットはタスラム・レイを速射モードに切り替えて可能な限り撃ち落し、合わせてガンデウスも守る広い範囲で防御力場を展開して、降り注ぐ砲火を凌ぎ続ける。
回避行動を取れないという足枷に選択肢を減らされながら、リネットはガンドーガ・カナフから伝わってくる情報の津波を必死に捌き続ける。
ガンドーガ・カナフとガンデウスを半球状に展開された防御力場が守り、その境界にそうようにして爆発の光が覆い尽くして、流石に指令室にも被害が及ぶのではないかと第三者がいたら危惧するほどの破壊活動が続く。
永久機関内蔵のガンドーガ・カナフは、エネルギーの消費量が生成量を上回らない限り、半永久的に活動が可能だ。
防御力場の展開と加えられる負荷に対する修復に要するエネルギーは、まだまだ許容範囲であるから、この硬直状態が続く事は問題ない。
『問題ない』から『問題がある』に変わる可能性が最も高いのは、この施設の奪還の為に潜入した他の高羅斗側の天恵姫達が紫苑の援軍に駆けつけた場合だ。
リネットがドランと繋げているパスを通して力の供給を得れば、天恵姫が百万億千万に数を増やそうとも問題はないが、リネット個人の拘りとして今回の天恵姫に関わる事態は極力ドランの手を借りずに解決したいという思いがあった。
その自分の拘りをつまらないものだとリネット自身で嫌悪すらしているが、しかし、どうしても譲りがたいものである事もまた揺るがしがたい事実。
砲撃の隙間を縫ってどうにか紫苑に反撃の一発を叩き込み、ガンデウスを抱えて逃げるだけの猶予を確保するべきか? リネットがそう思案したまさにその瞬間に、ドラッドノートから喉から手が出るほど欲していた言葉が返ってきた。
――ガンデウスの初期化が完了しました。リネット、急ぎ撤退を。
「了解しました。本施設より撤退します」
言うが早いかそれまで押さえ込んでいたガンデウスをガンドーガ・カナフの影の中に放り込み、ガンドーガ・カナフは防御力場を前方に展開するのと同時に、全力で後方へと正面を向いたまま後退する。
そのまま一目散に通路の一つに機体を飛び込ませると、紫苑が追ってこられないように出力を増したタスラム・レイの魔力弾を通路の天井や壁に撃ち込み、崩落させる事で通路を塞ぐ。
追跡が困難と判断すれば、紫苑の優先順位はリネットの追撃から施設の占拠へと戻る事だろう、というリネットの判断は間違いではなかった。
一切速度を緩めることなく施設の中を飛び続けても、紫苑やその他の天恵姫達がリネットを追ってくる様子は見られない。施設内部にいた占拠勢力と黒尽くめの者達は、死体となった者以外は全て脱出したようだ。
今回の潜入で得られた物は、エドワルドがメインコンピューターから得た情報と、リネットが自らのエゴあるいは初めて強く抱いた願望によって拘束したキルリンネとガンデウスの二人だ。
施設の中を飛び回り、地上に近い箇所から地表へと向けて高出力のタスラム・レイを撃ち放つことで開いた大穴を通って、地上へと脱出する。そのままエドワルド達に連絡を取り、合流しなければならない。
成層圏まで上昇し、改めて機体の状況を確認しながら、リネットはそれにしても、と呟く。
「それにしても、あの黒尽くめ達は轟国だとして、占拠していた勢力はどこの者達なのでしょう? もし宇宙人だとしても月の方達が発見されるでしょうし、ロマル帝国より更に西の勢力かそれとも南、あるいは……」
リネットは北を見た。峻険にして巨大なるモレス山脈により隔てられた北の大地を。
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第二百十八話
天恵姫の離反に伴う高羅斗国の混乱に際し、天恵姫の管理施設に侵入してある程度の成果を得られたリネットは、先に施設から避難していたエドワルド教授達と合流し、一路アークレスト王国へ帰還の途へと着いた。
エドワルド達は施設から得られた情報を整理し、スペリオン王子を通じてアークレスト王国に今回の事態の背後関係に至るまでを報告する為、ガロア経由で王都へと向かう事に。
そしてリネットは、ガロアでエドワルド達と別れて、ベルン村にて待つ主人ドランの元へと足を向ける。
だが、その前に、リネットが管理施設の脱出からドラン達と合流するまそでの数日の間に、アークレスト王国とは異なる場所で、今回の事態の経緯と結果を受け取ったある者達の話をしよう。
場所は轟国の首都『
人口五百万を数える、この惑星のこの時代において最大の巨大都市である。天人の支配からの解放よりここを首都として轟国は栄え、歴史を重ねて今に至る。
四方へ侵略の手を伸ばし、併合し、強奪し、殺戮し、懐柔し、共存し、吸収し、そして支配してきた国の心臓にして頭脳たるのがこの麗陽だ。
轟国の版図の中でほぼ中心に位置するこの都市には、常に数多くの人々が足を運び出入りを繰り返している。
夢、欲望、希望、熱意、悪意……およそ人間の抱き得る感情の全てが渦巻く坩堝たるこの都市は、北端に位置する王宮はもとより三方へと広がる市街の外縁部に至るまでが計算され尽くし、整然とした美しさ、機能美を有している。
瓦屋根や門を支える柱の彩りも鮮やかで、色の組み合わせによって布問屋や薬種問屋、宿屋、飯店、医院、娼館などに分かれるようだ。
およそ貧民街と呼ぶべきものは、都市の拡大の過程や歴史の変遷により一時的にこそ生じはしても、それらもすべて王宮の官僚達が練り上げる都市の機能と外観の美を両立させた計画に飲み込まれて、波間のあぶく玉よりも呆気なく消える。
東の海の先に秋津、南にマシュール諸島連合、西には高羅斗とガンドゥラと三方に敵を抱えた轟国であるが、麗陽に住まう人々は戦など遠く聞こえてくる風の噂の出来事と、変わらぬ日々を過ごしている。
碁盤の目のように規則正しく交差する大小無数の通りを色鮮やかな民族衣装を纏った住民が行き交いし、通りに面する店は五階建て、六階建ての上に店名を掘り込んだ黄金の看板を掲げた大店から、看板も値札も手作りの庶民向けの屋台や露店まで実に様々だ。
行き交う人々も大陸東方の人間種の民族のみならず、猫人、犬人ら代表的な獣人は言うに及ばず蛇人や蜘蛛人に蜻蛉人、甲虫人、更には巨人にエルフにドワーフ、リザードと亜人と呼ばれる種族の大部分が揃っている。
少なくとも種族による理不尽な就労や婚姻などの差別がないのは、通りを歩む人々の種族を問わぬ平穏な雰囲気から見て取れる。
天人の歴史に終止符を打ち、その遺産の多くを使いこなせているかどうかはともかく、受け継いだこの国が、この大陸のみならず惑星規模で見ても五指に入る大国であるのは、疑いようのない事実であった。
そんな轟国は首都麗陽の通りの一つに繁盛している茶房があった。
二階建ての茶房では、恰幅の良い主人夫婦と愛想の良い店員達が腕を振るい、控えめに設定された値段よりもはるかに美味な点心やお茶を楽しめると評判だ。
今日も今日とて商談中の商人や時間の空いた学生や休憩時間の職人達が店に入り、席はほとんどが埋まっている。
二階の奥まった場所にはいくつか個室があり、その内の一部屋に入っている男女に注目するとしよう。
朱色に塗られた壁に囲まれた部屋の中央に置かれた円卓の上には、多種多様な点心を納めた
円卓に着いているのは艶々とした光沢の美しい青染めの服に、まん丸とした体を押し込めた、五十代始めごろと思しい、なんとも愛嬌のある顔立ちの男性と、まるで正反対の切れ長の眦に紫水晶を思わせる瞳を持ち、黄色い髪を後頭部で高く結った男装姿の凛とした美女の二人だ。
「ほう、ほう、ふぅむ」
男性は次から次へと円卓の上の料理に手を伸ばして口の中に放り込み、じっくりと一噛み一噛み、口の中に広がる幸福を堪能している。
肌理細やかな肌に包まれたぷっくりとした頬肉が、一口毎にプルプルと震えて、はてさて、この御仁の体は寒天か何かの菓子で出来るのかと、疑問に抱いてしまいそうだ。
目の前の主人が幸せそうに料理に舌鼓を打つようすを、どうやら護衛か何からしい美女は顔面の表情筋一つ変えず、それでいて内心では主人に負けず劣らず幸せな気持ちで満たされていた。
しかし、と美女は内心で自らに叱咤の言葉を一つだけ投げかけ、思考を切り替える。
わざわざ市井のこの店に足を運んだのは目の前の主人の完全なる趣味だが、しなければならない話があるのだ。
「
円卓の料理が半分ほど消えた頃を見計らい、美女は主人の仮初の名を呼んで話の開幕を告げようと試みた。
幸いにして、主人は長い付き合いの美女の言葉を蔑ろにするほど鈍感なわけではなく、箸を置き、濃い目のお茶で口内に残る脂を綺麗に洗い流して一息を吐いた。
「うむ、ここら辺で本題に入る頃合じゃのう。それにしても相変わらずの美味。これならこの店は向こう十年は安泰じゃ」
「萬漢様」
「おっと、つい口が思わぬ方を向いてしまったの。許しておくれ、
大店の気の良い主人か慈善家という印象がピタリと当てはまる、のほほんとした萬漢の口ぶりに、黄花はそれ以上の追及はせずに少しだけ目を細めて主人の顔を見つめる事で返事とした。
その視線だけで百人でも千人でも切り伏せられそうな、名刀さながらの鋭さを覗かせる黄花に、萬漢はうぉっほんとなんともわざとらしい咳払いをした。
「内緒話を暴きたてようとする無粋な耳と目は塞げておるのかの?」
「ご懸念なく。例えかの千里時空眼であろうとも、深き霞に飲まれて何も見通せなくなるだけの術を部屋に仕掛けております」
「お主が申すのであればそうなのであろうの。高羅斗の天恵姫の件、思わぬ転び方をしたが概ね考えていた通りの落ち着き方をしたものよのう」
「何者かが天恵姫の支配権を奪取し、我が国との戦に混乱を齎した件、確かに発端こそ我等にも把握しかねるものでありましたが、決着は萬漢様の言われるとおり高羅斗の元へ天恵姫が戻る形となりました。
しかし天恵姫を取り戻すまでの間に高羅斗側の戦線に生じた混乱と、その過程で失われた天恵姫の数、離反の再発を予防する為の支配権の完全移行、これらは高羅斗にとって大きな痛打となった事に変わりはありませぬ」
どうやらこれまでの会話からしてこの萬漢と黄花は、轟国の中でも相当な地位にある人物であるらしい。
ほんの数日前に紫苑を筆頭とする高羅斗に残った天恵姫達によって、管理施設が奪還されて、その他の天恵姫達も徐々に高羅斗側に戻り始めたばかりだというのに、極めて鮮度の高い情報を得ている。
「四凶将の配下にも相応の被害が出たと聞く。戦死者とその遺族には手厚く報いる事を忘れぬようにな。無論、手配はしておろうな」
「はい。間違いなく」
「ふむ、彼らの職務上、表立っては悼んでやれぬのがなんとももどかしいのう」
「萬漢様のそのお言葉だけであの者達も報われましょう。して
「見事に雲隠れしおったのう。しかしあそこまで見事な手際で天人の施設を扱ったのじゃ。そんな輩はこの星の上では我等か今は亡き大魔導バストレルか、あるいはどこぞに生き延びておった天人の子孫くらいのもの。どれも警戒せねばなるまいなあ」
「はい。既に四神将並びに四霊将には秘匿第二級警戒態勢を取るよう通達してございます。白虎と玄武に関しましては、高羅斗とガンドゥラとの戦もあります故、いささか酷な命令となりましょう」
「うむ。だが、星の海の向こうからまたぞろ薄汚い侵略者が来たという可能性は低かろう。そうであれば月の兎人や蟹達が大騒ぎをするであろうし、三竜帝三龍皇が動く」
「三竜帝達で気づく事の出来ない相手という線もありますが?」
黄花の言葉に萬漢はムスっとした顔になる。つるつるとした肌とぷくぷくとした顔立ちの効果で、五十路のはずなのにひどく子供っぽい。
「意地の悪い質問よのう。三竜帝三龍皇の目を誤魔化せる相手では、我が轟国と他所の国が手と手を取り合ってもどうにもならぬよ。竜王級ならばお主達で相手取る事は出来るが、目下そこまでじゃからな。
それにしても三国同盟との戦で済む話でない事は分かっておったが、更に一枚二枚と誰ぞが噛もうとしおってからに。事態がややこしくなってきおったわ。存外、高羅斗が手強いのもあるが、三王子全員に気骨があったのがいかん」
「こちらに協力すれば王位に就ける――定番ですが極めて効果の大きい誘い文句にも乗ってきませんでしたからね。
我等から話を持ちかけたという証拠を暴露させて、謀反の疑いで処刑させようと仕向けても、早々に我等からの誘いがあった事を告白し、未然に防いでしまいましたし。
重臣の幾人かにはまだ鼻薬が効いてはいますが、それほど役には立たないでしょう」
であるな、と萬漢は相槌を打ち、空の湯飲みに新しい一杯を注いで喉を潤した。
「秋津との休戦を手打ちにして、これからは外ではなく内を見ようとした矢先の戦じゃ。まったく忌々しい時期に仕掛けてきてくれおったものよ。
だが今回の天恵姫の離反であちらの反攻の機会が潰れた。ガンドゥラとマシュールとはそろそろ手打ちに出来ようよ。
多少の譲歩は必要じゃろうが、ガンドゥラは二大神の神器を持ってしても玄武と我が軍を打ち破れぬと悟ったし、マシュールも海上封鎖の齎す不利益を計算し始める頃じゃろう。
当然、高羅斗は同盟の維持を持ちかけるであろうから、そこからはより一層外交と謀略の搦め手の活躍の場が増えるわ」
しかし、萬漢は納得の行かぬところがあるのか、不機嫌という程ではないのだが、晴れやかな表情にはなっていない。
長い付き合いの黄花には問うまでもなく萬漢の心中が読み取れたが、それは同時に黄花にしても気になっていた事だからでもあった。
「我々と同時に侵入していたアークレスト王国の学者エドワルドと正体不明のゴーレムないしは魔装鎧が気掛かりなご様子ですね」
「エドワルドの事は良い。かの者が我が国で産まれてくれていれば、と思わずにはおられぬほど、熱意と能力のある学者である事は前から分かっていた事よ。
しかしゴーレムとなると良く分からん。エドワルドと行動を共にしていたというからには、アークレスト所属の新型ゴーレムか魔装鎧かと思うが……
天恵姫のハイエンドモデルを相手に終始優位に戦えるほどのものをアークレストが作ったとならば、これは軍事的な脅威と言わざるをえん。天恵姫やガンドゥラの神器と違って、量産できるからのう」
「アークレストへの間諜の数を増やし、かの国の動向をこれまで以上に監視する他ないかと存じます」
「アークウィッチがその才覚を示した時以来かもしれんな。この厄介さ加減は」
「萬漢様と我が国であれば乗り越えられない壁ではないと思いますよ。さて、そろそろお帰りになられませんと。萬漢様が陛下へとお戻りになられる時間が近づいております」
「ううむ、では、残りの料理を片付けてから大急ぎで帰るとしようではないか!」
萬漢はそう意気込むと、程よく冷めた残りの料理の皿へと向けて、大急ぎで箸を伸ばし始める。その様子に、黄花はまだまだ余裕がおありのようだと、安堵と落胆を半分ずつ混ぜた溜息を零すのだった。
リネットに義理の妹が出来た話ですね。
キルリンネは小さいけど大きい。
ガンデウスは大きいけど小さい。
リネットは小さくて小さいです。
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第二百十九話
煉瓦を積み重ねた塀に囲まれた庭の真ん中で、垂れ目がちの三十路と思しい風体の男が身の丈ほどの長さの短槍を縦横無尽に振り回し、脳裏に思い描いた幻の敵を相手に模擬戦を繰り広げていた。
上半身には一糸も纏わず、そこここに消えきらぬ古傷の跡を残した肉体は積み重ね続けた鍛錬によって巌のように鍛え抜かれている。
皮膚を盛り上げる筋肉の線や傷跡に沿って流れる汗が、男の動作に伴って飛び散って陽光に煌くその中に、男は短槍で胸板を貫いた幻想の敵から噴出す血飛沫を見た。
以前から幻想の敵を相手に模擬戦を行う訓練は欠かさず行っていたが、存在しない血飛沫まで見えるほどの精度で行うのは久しぶりの事だった。
これまで怠惰の泥濘に塗れていたが、ある事を切欠に再起を近い、訓練にも失って久しい熱を込めて行った成果だ。
幻想の敵を六人ほど屠ったところで短槍は動きを止めて、男は額からしとどと汗を流しながら、荒くなった息を整え始める。
男の名前はルスクロウ。アークレスト王国南部にあるグジャシー諸島連合に存在する迷宮都市メイズリントで、ベテランの冒険者として活動している。
「いやはや、ちと熱を入れるのが遅かったかね。いやいやまだまだ間に合うと思いたいねえ」
ルスクロウはそうぼやくと、庭に生えている木の根本において置いた桶に近づき、取っ手に引っ掛けておいた手拭いを桶の中の水に浸けて汗を拭い、火照った体を冷やしてゆく。
ルスクロウはかつて冒険者として大成する事を夢見てメイズリントにやってきたが、自身の最盛期だと信じた時期にとある迷宮に挑み、しかし力及ばずに敗れてしまい、命こそ失わなかった自信の柱は粉々に砕かれて、つい最近までは惰性で生きてきた男である。
しかし、とある新人冒険者達の指導役を引き受けた事で彼の中で燻っていた情熱に新たな薪と火種が投じられて、一念発起して今に至るわけだ。
ルスクロウはあらかた汗を拭き終えたところで綿のシャツを羽織り、桶と手拭を手に自分の部屋へと戻った。
部屋で着替えを終え、なめした皮に軽金属片を縫い込んだ胸当てと小手を身に付け、腰には冒険者に必須の応急手当用の医療品と保存食をまとめた小鞄を括り付け、短剣二振りに愛用の短槍を手に冒険者ギルドの建物へと足を向ける。
新人の指導役と彼らに付き合って受けた依頼の報酬で、目下、ルスクロウの懐は暖かい。新人達への基本的な指導は終了しており、今はいつも行動を共にしているというわけではない。
新人達が初めて受ける類の依頼や助言を求められる時にすぐに対応できるように、メイズリントを離れないようにしているが、ルスクロウ一人で迷宮に潜って鈍った勘を取り戻す日々だ。
冒険者ギルドに向かったのも、新人達からの伝言などがないかの確認と、市内か近隣で済む仕事がないかを見に行くためだ。
マシャールと並び南北の大陸の交易の要となるジャグシー諸島連合に属するメイズリントには、夢を見るあるいは見ている最中の冒険者達で溢れ返り、彼らや迷宮から発見される財宝目当ての商人や貴族達も加わって、都市の持つ熱量・活力は凄まじいものがある。
一度自信が折れてしまってからは、この都市の持つ活力に後ろめたさを覚えて何度か離れようとしたものだ。
結局ここ以外で生きてゆく自分を想像する事もできずに今日までずるずると残っていたが、こうして再起してみると通りを行き交う人々の発する活力や、交し合う怒声のような大声、屋台や食堂から溢れる渾然一体とした料理の香り、酒樽から持ち込まれた土瓶や小樽に分けられる葡萄酒、果実酒、麦酒の酩酊するような匂い……
人間の営みに伴って発せられるそれら全てが細胞の隅々にまで行き渡り、不貞腐れていた体を蘇らせてくれているかのようだ。
「さあて、おおっすメルシャ、ルスクロウさんですよっと」
仕事を求める同業者やら雑談にふけっている連中をかきわけて、冒険者ギルドの建物に入ったルスクロウは、ちょうど受付の中の一人に顔見知りの少女が居る事に気付いて、にへらへらと笑いながら近づく。
これまでならば見た目どおりの軽薄なだけの笑みだった。手入れを忘れて切れ味の鈍った刃のような笑みだが、往年の輝きを取り戻しつつある今は、鞘に収められた切れ味鋭い刃の笑みへと戻っている。
受付席に座るメルシャはそれに気付いていたかどうか。
「こんにちは、ルスクロウさん。少し精悍なお顔立ちに戻られましたね」
「ははは、そうかい? そりゃあ、嬉しいや。無精髭も気をつけるようにしているんだぜ。まあ、心機一転って奴さ。
それで、早速で悪いんだけれどさ、ドライセン達から伝言か何かあるかい? それがないんなら、適当な素材採取の依頼とかあると嬉しいねえ」
神由来の多くの迷宮を抱えるメイズリントでは、特定の神殿でしか得られない特殊な金属や液体、植物の類がそれこそ毎日新しく発見されている。未知の新素材を求める依頼も毎日のように出されているのが常だ。
ドライセン達の実力はメイズリントでも最強を争うとルスクロウは思っているが、彼らはまだ冒険者としての実績に乏しく、ギルドからの信頼も薄い。
加えてドライセン達自身が冒険者としての名声にそれほど興味がないらしく、日々の日常の手伝いや低級の迷宮攻略や冒険者達への支援制度などに関心を示している。
そういった冒険者らしからぬ行動から、彼らが他国からやってきた、迷宮を利用しようとしている者達で、メイズリントを参考にしているのではないか、とルスクロウは睨んでいる。
ルスクロウでさえそうなのだから、ギルドの上層部も同じような懸念を抱いている事だろう。
メルシャは素早く受付席の棚や手元の書類に目を通して、ルスクロウに返答した。
「はい、ドライセンさん達からご伝言を預かっていますよ。相談されたい事があるから、ルスクロウさんの都合の良い時に『真珠の冠』亭まで足を運んで欲しいそうです。
必ず誰か一人は宿に残っておられるそうですから、残っていた者に話を聞いて欲しいとの事です」
「はいよ、そういう事なら了解さ。ところで、教えられる範囲で構わないけれど、ドライセン達の活動っていうか評判はどんなんだい?」
「活動それ自体はこれまで通りですよ。迷宮の探索は慎重に進められているようで、今はヒズメル迷宮に手をつけていらっしゃいます。ルスクロウさんは一緒に行動されていないのですか?」
「ヒズメルは、中で出てくる魔物の傾向や対策についてちょいと講義しただけだねえ。
彼らの実力ならそれだけ分かっていれば、どんなに失敗したとしても立て直しが出来る。つくづく新人離れした実力者の集団さ」
「ええ、ルスクロウさんの言われるとおりですよ。特にハンマさんは他の方達からも随分と人気です。素性を隠した大神官だと明かされても納得するしかない実力ですし、ドラゴニアンのクインさんもドライセンさんも、途方もない強さですから」
「だよねえ。ドラゴニアンなら誰でもあんなに強いとは思いたくないよ。まあ、教えてくれてあんがと。おれが奢るから、いつかその気になったら食事にでも付き合ってよ」
「ええ、いつか」
「はは、いつかね」
体よく断られたと取るか、それともいつか一緒に食事をするまで生きていてくださいね、と励ましたと取るかは、さて、二人のみが知るところである。
そのままギルドを後にしたルスクロウは、ドライセン達が長期宿泊契約を交わしている『真珠の冠』亭に向かった。
これまで何度かドライセン達に誘われて、ちょっとした宴会をした事のある場所だ。
名前の通り真珠色の真っ白い壁に青いドーム型の屋根の四階建ての宿屋に到着し、受付の熟女にルスクロウの名前を出せば、四階の部屋で待っているというドライセンの元へと促された。
女性だらけの中で男だけという事もあり、気苦労も多いのではないかと心配していた事もあったが、このパーティーに関しては男女間の揉め事もなさそうだとルスクロウは安心していた。
宿の外観同様に内装も真珠色で統一された部屋の中央に立つドライセンは、肩から力の抜けた笑みを浮かべるルスクロウに、小さく頭を下げた。ドライセンの傍らには一人の女性が寄り添っている。
「急に呼びたててしまい申し訳ない、ルスクロウ殿」
「いいって、いいって、おれは君らの指導役だからね。相談事があればそれに乗るのがお仕事さ。それで、今日はそっちのお嬢さんが相談の理由かい?」
ルスクロウの垂れ目が映したのは、ドライセンの傍らにやけに親しい様子で寄り添っている女性だ。雰囲気だけを見れば竜頭人身のドライセンの恋人ととも取れるが、さてそうするとあのハンマやドーベンはなんだったのか。
長い『桃色』の髪を太い三つ編みにして垂らし、『茜色』の瞳を持った、反射的に息を呑んだほどの美女だった。ハンマやドーベンもまた類まれな美女であったが、これまた衆目を集めるのに十分すぎる美人だ。
ルスクロウ同様に動きやすさを重視した軽鎧を身に付け、腰には魔晶石を中心に、その左右に火、水、土、風の精霊石を鍔に埋め込んだ、業物と分かる豪奢な魔剣を下げている。
「はじめまして、ルスクロウ殿。私はビギナラと申します。ドライセンの知り合いでして、今日は私の方から彼を通じて無理を言わせていただきました」
冒険者を蔑む類の眼差しではない。まだ立ち姿を見て、声を聞いただけであったが、ルスクロウは目の前のビギナラと名乗った少女が、相当な貴人の生まれではないかと疑っていた。
ただの一目でそうと知れるほど、ビギナラの佇まいというものは仕草の一つ、それこそ立ち姿や呼吸にすら洗練された品格が宿っている。
「どうやら自己紹介は必要ないようで。それで、おれはまだどんな事を相談されるかまでは聞いていないんですが、ビギナラさんはどんな事をドライセンに頼み込んだんで?」
ルスクロウは意図してそれなりに砕けた言葉遣いを意識して使ってみたが、ビギナラに怒る気配は微塵も感じられない。
表に出さずに内心で無礼な、と思っていてもそれとなく分かるものだが、どうやら本気で気にしていないらしい。生まれは貴人でも育ちは違うか、それとも気質か。
まあ、それよりはこの美人さんからの依頼がどんなのかの方が、直接的な問題だわな、とルスクロウは内心で零す。
「実は冒険者として活動しているドライセン達の話を聞いて、私も冒険者に……おっと、そう嫌そうな顔をなさらないでください。流石に冒険者になるだけの覚悟は私にはありません。
ただ、そうですね、私の好奇心を満たす為にしばらく行動を共にさせていただきたいのです。幼い頃から読み聞かされた英雄譚に、少しでも触れてみたいと思っていると考えていただければ幸いです」
額面通りに受け取るのならば、どこかの貴族の子女がこれまで内心に溜め込んでいた冒険への憧れを爆発させて、何かしらの事情で知り合ったドライセン達を頼ったと考えるべきなのだが……
――嘘を言っているわけではなさそうだが、理由は半分ってところか? 嘘ではないが、言っていない隠し事があるって奴だな。探せばいくらでも転がっているわけありの依頼か。
行動を共にする理由が好奇心を満たす為だったり、箔を付ける為だったりと多岐に渡る事はあれども、身分を隠した貴族や大商人の子弟が冒険者達と行動を共にする、というのは別段珍しい事ではない。
ルスクロウもこういう類の依頼をこなした事は一度や二度ではない。依頼人が冒険者に恋をしていて、良いところを見せようと依頼してきた、なんてのよりはまだやりやすそうにも思える。
この少女がドライセン達のパトロンか、それに仕える騎士か何かという可能性が一番高いか。となればメイズリントの首脳部からすれば、商売敵がかなり堂々と探りに来たわけで、決して面白くはあるまい。
とはいえ、それを表に出すわけもないのだから、ルスクロウとしては口に出された理由で相談を受けるか否かを判断する他ない。
さてさてと顎先にだけ残した髭を撫でながら、ルスクロウは思案に暮れようとしたが、暮れるまでもないか、とすぐさま否定した。
メイズリントはルスクロウの人生と共にある都市だ。思い入れも愛着も憎しみも悲しみも嘆きも挫折も、何もかもがある。
そんな都市に対する背信的な行為を行うことにはもちろん抵抗はある。ドライセン達が再起する切欠と熱意を与えてくれたとはいえ、その恩義の方が勝るものではない。
ドライセン達の恩義はメイズリントへの想いに勝るものではないが、同時にメイズリントに対する誇りが、こうも思わせていた。
「まあ、どんな理由で相談してきたのかは知らんが、メイズリントはそんなに安い場所じゃないぜ。
何千、何万人ていう冒険者達が何百年とかけて探索し、それでもまだ未知の部分が大部分だっていう場所だ。
ちょっとやそっと滞在したって、真髄の一端だって味わえねえ。
偉そうな事を言っているおれだって、メイズリントの事をどこまで理解できているかっつったら、そう大したもんじゃねえけどな。
それでも良ければ、その依頼を受けさせてもらうぞ。数え切れない人間達の夢と欲望を飲み込んできたこの街を、存分に見ていってくれや」
そう、これは挑戦だ。メイズリントという迷宮都市が、そう簡単に調べつくす事ができるような場所かどうか、他所からやってきた新参に思い知らせる為の。
とまあ、そのようにルスクロウは解釈しているわけだが、某所の女男爵に変装させてまで、息抜きをさせるというのが実情であるから、これはルスクロウの勇み足だ。それは言わぬが花であろう。
ビギラナは、挑戦的なルスクロウの言葉にも気分を害した様子はなく、自分の依頼が断られなかった事に安堵してほっと一息を零して感謝の言葉を口にした。
「ええ、どうか、私にこのメイズリントという都市を見せてください」
今回は宇宙貴族の機体から偽名を引用しました。
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第二百二十話
明らかに事情を隠している、と態度で示しているのも同然のビギナラに対し、若干挑戦めいた発言を返したルスクロウではあったが、ビギナラからメイズリントの観光案内の依頼がドライセンを介して正式に依頼された事もあり、それはそれと割り切っていた。
グジャシー諸島連合以外にも迷宮は存在するが、最も数多くの生きた迷宮を保有しているのはグジャシー諸島連合で間違いない。
その為、迷宮を富を生む財源として活用するための手練手管を得ようと、他所の土地から堂々とあるいは秘密裏に人間が派遣されされるのは珍しい事ではなかった。
今回のビギラナの件に関してはまだ穏当な部類であろう。
ルスクロウの目には、ビギラナがお忍びでやってきたどこぞの貴族か豪商の子女の類としか映らないし、ドライセン達の気質も合わせて考えれば、腹芸が出来る者達でもない。
他所の土地で迷宮活用が上手くいけば、メイズリントの価値が相対的に下がりはするが、このビギラナ達はそう悪辣な事はしないだろう、と具体的な根拠はなしにそう思える人徳のようなものが彼女らにはあった。
「まあ、お仕事はお仕事でこなさいとねえ」
そのように、ルスクロウはぼんやりと呟いた。
ビギナラを紹介された後、宿に戻ってきたハンマやドーベン達と今後の行動について打ち合わせをした後、翌日からビギナラをメイズリント市内や近場の適当な迷宮に案内する事を決めた。
それからルスクロウは冒険者組合の建物へと戻り、併設されている酒場兼食堂へと顔を出していた。
値段は格安、味はなかなか、と成りたての冒険者達の財布に優しく、ベテラン達にとっても安心できる馴染みの場所でもある。
酒に酔った冒険者達が暴れ回った場合に備えて、円卓は床に釘で固定されている。
その円卓の上にキンキンに冷えて結露している麦酒の大ジョッキと、塩茹でした枝豆に焼き魚、握り拳程の大きさのメイズクラブの素揚げ、塩気が強くぎっちりと実の詰まったパンが並んでいる。
「見た感じ良いところのお嬢ちゃんって感じだったが、どうにも荒事慣れしている雰囲気を出してたよなあ。よくあるお坊ちゃんお嬢ちゃんの暴走ってわけじゃなさそうだ」
まあ、それならこちらの言う事は素直に聞いてくれるだろうし、一緒に行動していてもそうそう頭を悩ますような事にはならなさそうなのが救いではある。
ルスクロウには、ドライセン達の背後関係にまで首を突っ込むつもりはこれっぽっちもないのだから、詳しい事情にまで踏み込むのは願い下げだ。
それでもついついこうして考えてしまうのは、冒険者としてあらゆる不測の事態を想定し、備えるのが習慣となってルスクロウの心身に染み付いてしまっているのと、理性の蓋から少しだけはみ出ている好奇心の為だった。
大ジョッキの中の麦酒をグイグイと呷り、喉を伝って胃の腑に流れ込む感触を楽しみ、メイズクラブの柔らかな甲羅と纏った小麦粉の衣のサクサクとした感触、そして一気にあふれ出る蟹汁の旨みがルスクロウの口の中に幸福を生み出す。
「っかあ~、こいつの美味さは相変わらずだなあ」
冒険者というのは体力勝負だ。
前面に出て剣を振り、槍を突く者達は単純に重量のある武器を振り回し、迷宮の魔物達からの攻撃に晒される事から大きく体力を消耗し、後方から癒しの奇跡を願う者や攻撃魔法で敵を一掃する者も魔法行使に伴う精神集中によって、著しく体力を消耗する。
前衛と後衛の区別なく、迷宮に潜って魔物と戦いながら素材や財宝を求める冒険者は肉体を維持する為に必然的に大食漢にならざるを得ない。
一時期は怠惰の霧に包まれていたルスクロウも、食事量に関しては衰退する事なく、次々と皿を空にしては追加の注文を重ねてゆく。
一人の食事にも慣れたもんだ、とルスクロウが一抹の寂しさと自嘲の思いを五杯目の麦酒と共に飲み込むと、受付嬢の制服から薄緑色のワンピースにチェック柄のベストに着替えたメルシャがひょっこりと顔を見せた。
「ルスクロウさん、ご一緒してもいいですか?」
「おんや、メルシャ、お仕事はもう終わりかい? いいぜ、おれなんかで良けりゃ好きな席に座ってくんな」
「今日は早番なんです」
「そうかい。ああ、それなら今回の分はおれの奢りな。ほら、例の約束って事で」
「別に気にしなくってもいいのに」
他の席で食事をしている男の冒険者達の何人かから羨ましげな視線を受けながら、ルスクロウはにへらっとした顔つきのまま、メルシャが自分の対面に座るのを待った。
ルスクロウはメルシャを元は冒険者かギルドの荒事に関わっていた人物だと、勝手に想像しているがそれを暗に肯定するかのように冒険者並みの食欲を見せて、注文を取りにきた女給に注文を続けてゆく。
まあ、単純にメルシャが大食いという可能性もあるが。
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第二百二十一話
火の属性を持つ迷宮魔物達の大量発生に伴う、冒険者達による大収穫は通称『収穫祭』として、メイズリントでは通例行事として認識されている。
迷宮魔物達の手頃な強さと狩っても狩っても狩り尽くせないその数から、迷宮初心者を卒業した冒険者達の経験と資金稼ぎにもってこいのこの行事に、表向きにはまだまだ下級冒険者であるドライセン達も参加する運びとなった。
迷宮魔物が大量発生する迷宮は、実のところ一つだけではなかった。複数の迷宮が連動するようにして内部に魔物を大量発生させる為、多くの冒険者達が連携して対処に当たらねばならないほどの数となるのである。
例年通りの収穫祭に備えて、耐火加工の施された武器防具や火傷によく効く薬を大量に仕入れた商人達の懐が暖まり、冒険者達もまたこれから迎える激戦とその先に待つ報酬を夢見て収穫祭の当日を迎える。
幾百人もの冒険者達と、万が一彼らが迷宮魔物に突破された時の為の保険として、待機しているメイズリントの兵士達で賑わう平原に、ルスクロウと客人ビギラナ、そしてドライセン、ハンマ、ドーベン、クインらの姿があった。
大規模な港に程近いメイズリントの北にある山を一つ越えた先にあるヒラタイラ平原である。
山に近い辺りには緑の色が広がっているが、北西から北、北東に存在している三つの火の属性を持つ迷宮の影響によって、北に向かえば向かうほど緑の色合いは失われて、その代わりにむき出しになった地肌や火の属性を帯びた岩石や植物の赤系統の色合いが増してゆく。
三つの迷宮へと続く道は収穫祭の為に交通規制が敷かれ、普段利用している商人や一般人の姿はなく、ドライセンらを含む冒険者達がひしめいている。
収穫祭であってもドライセンらはいつもどおりの装備だが、ルスクロウは貸し倉庫の中で眠らせていた対火属性の魔物用の装備で固めている。
火の精霊の祝福を受けた鋼鉄製の胸当てと小手に、炎の霊鳥フレイムピックの骨と嘴を使った兜、水の女神アクオリアの加護を受けた短槍と短剣三本という品揃えである。
迷宮探索にしろ魔物討伐にしろ、事前に情報を集めて備えをしておく事は冒険者として基礎中の基礎であり、ルスクロウもドライセンらに口を酸っぱくして教えている。
それでもドライセン達の装備が普段どおりなのは、あまりにも基本性能が高すぎる為、これでも十分に通用するからであった。
実力と装備共々新人離れしたが故の常識が通用しない問題児なのが、このドライセン達だった。
装備を揃えるのが間に合わなかった新人達が、水に浸したマントを頭から被ったり、水の入った桶をすぐ近くに置くなど対策をしている姿を懐かしげに見つめながら、ルスクロウはドライセン達に話しかける。
「迷宮を見張ってる都市騎士団と神殿の神官達の話じゃあ、今年の収穫祭の発生源は高位の火の精霊と契約して作ってもらった迷宮『バシャルカンの慈悲』、火の神の一柱ジャンボルダイが試練として残した迷宮『大火の絶壁』、紫色の火の体を持つという邪神ル=ボルタの残した迷宮『
ルスクロウが迷宮の名前を一つ一つ挙げながら、それらの迷宮のある方向を指差し、それぞれに対して陣容を形成している冒険者達も合わせて見回す。
ルスクロウに応じたのはドライセンである。長柄の大戦斧を右の肩に担いで佇むその姿からは、迷宮の最奥にて冒険者を待ち構える神の試練を思わせる荘厳な雰囲気が発せられていた。
「都市騎士団が控えているのはいざという時の備えだろうが、収穫祭に参加する必要のなさそうな凄腕達も顔を揃えているな」
ドライセンが指摘したのは、いくつにも分かれた冒険者達の中に明らかに装備の質や佇まいの異なる上級冒険者達の姿が紛れている事だ。
上級冒険者ともなればより希少な素材や奇跡の残滓に触れる機会の多い、難易度の高い迷宮に潜り、初級から中級の冒険者達とは文字通り桁違いの稼ぎを得られる。
メイズリントの冒険者達にとって夢と欲望の体現者達にして成功者たる者達だ。その彼らにとって、収穫祭はかつて自分達の一時期を支えた思い出でこそあれ、今はもう参加する必要性は皆無であるはず。
「ああ、中には市長や組合長に雇われた奴らもいるだろうが、それは少数派だな。冒険者達にも派閥があるから、収穫祭に初参加の連中の面倒を見る為に来ているんだろうさ。都市騎士団が最後の保険なら、上級の連中はその一個前の保険ってところかね」
「ふむ、自由を謳う冒険者も派閥作りは避けられんか。必要に迫られての事だろうが、切実というか現実の厳しさからは逃れらないのだな」
「まあ、一匹狼も結構居るが、頼れる相手がいるっていうのは精神面で大きな支えになる。そうそう悪く言うもんじゃないさ」
「む、そのように聞こえたのなら謝罪しよう。決して冒険者を貶めるつもりではなかったが、言葉を間違えてしまった」
「あいよ。なあに、分かっていて言った事さ。おれだってどうかねえって思うことはあるし、力のある派閥は組合の方と上手くいかねえでゴタゴタする事もあるし、一長一短さね」
そういうルスクロウであるが、彼は怠惰の沼に嵌る前はどこの派閥に属しているともいえぬ、いわば困った時の助っ人枠として当時の仲間達と共に利用価値のある中立派として行動していた。
その時の人脈は今でも生きており、多くの知り合い達は冒険者として復活を果たしたルスクロウの事を歓迎し、彼の関わっているドライセン達の利用価値について老獪な目線で見定めている。
「ま、例年通りなら上級の連中が手を出すような事にはまずならんさ。流石に初級の中には装備を整えられなかった奴らも居るが、各神殿の方から善意で医療班を出してくれているし、市長達の雇った医師連中も居る。
すっかり収穫祭として定着したもんだから、対処手段が確立されているから早々死人は出ないしな」
「上級冒険者か。組合の設定した十級から八級までが初級、七級から五級まで中級、四級から二級まで上級だったな。一級冒険者は特級だったか。流石に特級の姿はないのかな?」
「特級となりゃメイズリントの切り札だ。いくらなんでも中級者で十分な祭りには引っ張ってこねえやな。ん~、見たところ、一番腕が立つのが、ほれ、あそこに突っ立っている三級冒険者の『灯火』か」
ふむ、とドライセンが呟いきながら、ルスクロウが顎でしゃくった方を見る。いかにも初々しい十代半ばほどの新人冒険者達の面倒を見ている、四人組の冒険者達がその灯火らしい。
雄の黒獅子の頭に屈強な体躯を持った獅子人に鋭い毒針を備えた尾と茶色い甲殻を持った蠍人の男、褐色の肌に笹の葉のような耳に白銀の長髪が目を引くダークエルフの女性、ゆらゆらと細長い尻尾を揺らしている猿人の女性だ。
獅子人は両刃の大剣二振りとミスリルの輝きを放つ胸当てからして重戦士、アダマンタイトのナイフ二振りと自前の甲殻を装備とする蠍人は軽戦士、極力金属を廃して捻れた霊木の杖を持つダークエルフは精霊使い、強力な魔力を発している棍を持っている猿人は格闘家だろう。
ドライセンの目から見ても、このメイズリントに来てから見た中では一、二を争う実力者ぞろいである。佇まいにも余裕が見て取れて、人柄の方もそう悪くはあるまいとドライセンに思わせた。
「中々の実力者だな。だが、私としてはルスクロウ殿も彼らと比べてそうそう捨てたものとは思えないけれどな」
「よしてくれ。怠けて腕を錆びつかせちまっていたおれと、メイズリントを代表する上級冒険者とを並べて語ってくれるなって」
「教え子からの高評価なのだから、素直に受け取って欲しいものだな」
「へいへい」
「それで私達はここで待機したままでよいのか? 後方の医療陣地とほとんど変わらない位置だが、ここからでは収穫祭に出遅れるのでは?」
「収穫祭の最前線に立ちたいってんならここは良くはねえ場所だが、お前さん達が前に出ちまったら、手柄を独占しちまって他の連中からやっかまれちまうよ。
これからメイズリントでやりにくくなるのは、望んじゃいまい。それにお前さん達は収穫祭の恩恵に預かる事それそのものにはさしたる興味もあるまい。
この位置からなら冒険者達の動きも、それを支援する神殿の連中や包囲陣を強いている騎士団の動きやそれらの連携も確認できる。お前さん達が欲しいのは前線の当事者達じゃなくって、それを支える後方やもっと広い視点を持つ連中の動きだろう?」
「ふむ、やはり貴方は慧眼をお持ちだ。この短い付き合いで我々の事をよく理解してくれている」
「はは、お前さん達が自分達の目的を特に隠そうともせずに、分かりやすく行動していたからな。いつかメイズリントを離れた時には、多分、聞いた事のない迷宮か都市の名前が届いてくるかも、位の事は考えているよ」
「分かった上で指導役を率いてくださっている事に感謝を。では、ささやかながら、情報を幾つか。我々の戻るべき場所はここからは随分と離れている。島と島とを行き来するのとは違い、より広い意味で海によって隔たれているのだから」
このドライセンの言葉に嘘がないと分かり、ルスクロウは少しだけ驚きの念を抱き、左の眉をピクリと動かしてそれを示した。
誠意には誠意で答える相手だと分かっていたが、自分達の本拠地の情報をぼかしてとはいえ口にしたのは、思えばこれが初めてであろうか。
「なるほどね、商売敵は目の届かない所ってわけか。組合連中もそれなら少しは安心できるか。しかし、それじゃあ、おれが足を伸ばすのは難しそうだぜ」
「なに、貴方が望むのならば特別に船の一つも用意するとも」
「ははは、そりゃ、ありたがいこって。そこまで特別な扱いを受けるのは、生まれて初めてだ。そうなるのを楽しみしてあ。メイズリントで骨を埋める予定だが、たまには外の水と空気の味を知っておくのは、いい事だからな」
こうしてドライセンとルスクロウが話をしている間にも、ビギラナは熱心に手元の手帳に何かを書き込んでおり、四方八方に視線を巡らしては聞こえてくる会話に聞き耳を立てて情報収集に余念がない。
ドーベンとクインは周囲の熱気にはまるで興味を見せず、ドーベンは求道者の如く落ち着き払った態度で時が流れるに任せているが、クインは既にこの状況に飽きてしまったようで、地面に敷いた毛布の上に寝転がって昼寝を始めている。
メイズリントで噂の規格外の新人達には、周囲から好奇の視線が寄せられているが、当人達は誰も気に留めてもいなかった。
「ドライセン、ルスクロウさん、少しよろしいですか?」
二人に声をかけたのはハンマであった。ドライセンら一行の中で、最もメイズリントの市民達に受け入れられているのは、まず間違いなくこのハンマだろう。
マイラール教徒の手本のように慈悲深く包容力に満ちたこの女性は、市井の人々のみならずメイズリントにも数多く存在するマイラール教団の神殿や教会にも呼ばれて、信徒だけでなく司祭や神殿の長達とも言葉を交わし感銘を受けている。
「どうした、ハンマ?」
「皆さんが前線に出ない理由は私も承知していますが、私だけでも前に出させてはもらえないでしょうか。怪我をされた方を一刻も早く癒して差し上げたいのです」
「ふむ、通り魔ならぬ通り治癒か。君らしい剛毅さと慈悲深さだ。保護者達にも神官や薬師の姿も見受けられるが、君が前線に居れば致命傷でも助けられよう。私としては君の好きにすればよいと思うが、指導役殿はどう思われるかな?」
「あ~、そうだねえ。ハンマの治癒の奇跡の腕前は知られているし、支援の神聖魔法もすごいってもう噂だからなあ。
引き抜きの声が大きくなるだろうけれど、まあ、いいんじゃない? 黙って後ろで見ているだけってのは、ハンマの信条には沿わないだろうしねえ」
「ありがとうございます。では今の内に前の方へ行っておきますね」
ほっと安堵の息を吐くハンマの姿に、ルスクロウは少しだけ案じる顔になったが、それもすぐに取り払った。
いかにも後方で前衛を支援し、癒す後衛という印象を受けるハンマであるが、その実、接近戦における戦闘能力の高さがドーベンやドライセンにも劣らぬものである事を、既にルスクロウは直に目の当たりにしていたからだ。
それにハンマの人徳によって周囲の冒険者達が邪険に扱う事はあるまいし、彼女の通り治癒ならば下手に勘ぐられずに素直に感謝されるだろう。
「お待ちください。ハンマ様が行かれるのでしたなら、私、ドーベンもお供いたします。私如きの護衛など必要はないと十分に存じておりますが、御身を一人にするわけには参りませぬ」
時が止まったかのように瞑目していたドーベンの言葉だ。ハンマに対して強烈な畏敬の念を隠さぬ彼女らしい言葉に、ハンマが少し微笑みを深めた以外には誰も何も言わない。
ハンマほどではないにせよ、メイズリントには珍しい時の女神クロノメイズの神官戦士であるドーベンは、その実力と共にそれなりの知名度を得ている。
物腰からして只者ではない彼女がハンマの傍に控えていれば、万が一にも不埒な考えを起こす者はいないだろうし、それはそれとして二人の姿は実に映える事だろう。
「ドーベンさん、せっかくのお申し出です。謹んでお受けいたします。では行きましょう。そろそろ迷宮から魔物達があふれ出しはじめましたよ」
どうしてそんな事が分かるのか、とルスクロウは思ったかもしれないが、その時には既にハンマとドーベンは前線へと向けて歩き出しており、ドライセンが二人の背中に竜頭では分かりづらい苦笑を浮かべるきりだった。
しかしてハンマの言葉の通りに三箇所の迷宮からは、内部から溢れた魔物達が続々と姿を見せて、それぞれの優先対象を目指して暴走を始めていたのである。
バシャルカンの慈悲から溢れた精霊力を核とした迷宮魔物達は、メイズリント側が大量に用意した火霊石の気配に惹かれて、一直線にメイズリントを目指している。
大火の絶壁と紫炎残災からはそれぞれ神聖さと邪悪さを感じさせる迷宮魔物達が溢れ出しているが、こちらは互いに上役が敵対しあっている間柄であるから、互いに戦いながらメイズリントへ向かっているという有様だ。
大火の絶壁の迷宮魔物達はジャンボルタイ系列の信徒達の祈りによってある程度進行方向が制御され、一人でも多く人間を殺害しようとしている紫炎残災の迷宮魔物達とぶつけられているわけだ。
今回のように人類の味方についている神の管理する迷宮がある場合には、ある程度暴走の方向性を制御できるようになったのも、長いメイズリントの歴史の積み重ねがあればこその発見だ。
ハンマとドーベンを見送り、ドライセン自身も遠方で土煙を上げている迷宮魔物の大群をみやりながら、さてさて、と顎を撫でる。
こちらと違ってドライセン達の管理している迷宮では内部の魔物を外に出す、というのはほぼ不可能な事情が存在する。
となると収穫祭のような行事は迷宮内部で発生させ、完結させる他ない。
そうなると迷宮内部に換金や治療、事前の準備を行える態勢を確保する必要が出てくるわけだが、そちらはもう半ば解決しているし、そうなると周辺への根回しこそが主な仕事になるか。
問題なのはそういう仕事こそが、ドライセンやビギラナの苦手とするところであることだった。
ぬぐぐ、終わらなかった。
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第二百二十二話
地面の上に敷いた毛布の上で眠り始めたクインはそのまま放っておいて、ドライセンはルスクロウと肩を並べて収穫祭を高みの見物と決め込んでいる。
ビギラナは相変わらず前線の冒険者達から後方の神殿関係者や医師からなる医療班、すぐさま素材を買い取る用意を整えている商人達、非常時に備えて周囲に分厚い陣容を敷いている都市騎士団に鋭い目を向けている。
ドライセン達が利用する予定の迷宮には応用できない点もちらほらと見受けられるが、それでも十分以上に勉強が出来ている時間だ。
はるか向こうの大地から立ち上る土煙が徐々にはっきりと見え始め、大地を揺るがす無数の足音と風の精霊達をざわめかせる無数の火の気配を感じて、多くの冒険者達が緊張の度合いを深めている。
収穫祭経験者達と未経験者達とでは、傍目にも明らかな程、体に無駄な力が入っているのが見て取れる。あれでは本来の実力の半分も発揮できまい。
ルスクロウが腰の道具袋に入れていた望遠鏡を取り出し、土煙を上げる迷宮魔物の群れを眺めて、のんびりと口を開く。
「おうおう、そろそろ来る頃かね。バシャルカンの慈悲系統の迷宮魔物は、火の精霊力を核としているから、今回の三種の迷宮の中では一番水の力が有利に働く相手さ。
他の二つは精霊よりも物質に近い性質を持っているから、水の力がなくても物理で殴ればまあまあなんとかなる。ただ、今回みたいな場合は他にも留意せにゃならん事がある。分かるかい?」
「ジャンボルダイとル=ボルダは敵対している間柄だ。当然、その被造物である迷宮魔物達にもその影響が出ているのだろう。私の目には争いながらこちらを目指している姿が映っているよ」
ドライセンの言うとおり、こちらを目指している迷宮魔物達の内、ジャンボルダイ系とル=ボルダ系の者達がお互いに襲いかかりあい、順調に数を減らしている。
「流石の目の良さだな。まあ、こっちまで来ればジャンボルダイ神の迷宮魔物達もおれらを狙ってくるだろうが、ここに来るまでの間に戦いあっていい具合に消耗してくれるだろう。
今回みたいに複数の迷宮からなる収穫祭の場合は、各迷宮間の相性や関係性も考慮する必要があるって事よ。
例えば同じ背格好の奴が二人居たとしても、ジャンボルダイ神の信者の方が、ル=ボルダ系の奴に良く狙われるだろうし、逆にジャンボルダイ神系の迷宮魔物からは狙われにくいだろうよ」
「そうなるか。私の地元でも多少は考慮する必要があるかもしれんが、こちらほど深刻ではないな」
ドライセンの地元の迷宮は大邪神が膨大な数の神々の作り出した迷宮や施設、自然環境をつぎはぎにしたものであるから、神々同士の関係や相性の複雑さときたら、メイズリントを上回るものがある。
だからこそ一度内部の整理を行い、更には竜淫魔達に内部の管理を委ねているわけだが。
ドライセンとルスクロウが収穫祭についての考察を重ね、更に言葉を口にし続けてしばらく、冒険者達が構築した防衛線の最前線での戦闘が始まった。
ハンマとドーベンもそちらに移っているが、この両者に対してドライセンはおろかルスクロウもまるで心配してはいなかった。
最前線を担当するのは、収穫祭の主役である初心者脱却間近から成り立ての中級冒険者達に加え、彼らが窮地に陥った場合に補佐する中級以上の歴戦の冒険者達である。
ここで初心者達が耳にタコが出来るくらいに先輩達に教えられるのは、外に出た迷宮魔物達は迷宮の内部とは異なる動きを見せる事だ。
迷宮と同じ対応を取れば問題ないと判断し、大きな怪我や四肢のいずれか、あるいは自分の生命を引き換えにした冒険者の例はいくらもある。
だから初心者達の大部分は事前に何度も戦った迷宮魔物相手でも、緊張の糸をきつく張り詰めてそれぞれが手にした武器を握る手に力を込めていた。
そんな彼らのやや後方から男女の入り混じる歌が響き渡った。
聞く者の精神を半強制的に平静状態に落ち着かせ、戦場に於いて興奮と狂気に流される事も、恐怖と不安に飲まれる事もなく、実力を十全に発揮できるようになる歌。
多くの派閥の神々が有する神聖魔法であり、また吟遊詩人も似た効果を持つ魔法歌や魔法の音楽を奏で、精霊使いにも精神に作用する精霊に働きかける事で同等の効果を発揮し、何重にも支援を行う。
迷宮の中でなら何度も戦ったが、外では初めて戦う事に過度な緊張を覚えていた者達が、精神に作用する神聖魔法と魔法歌によって歴戦の戦士へと精神だけは至って、すっかりと落ち着いた様子に変わる。
防衛線の後方には都市騎士団が保有する大砲が何門も配備されていたが、これらは威力が強すぎて迷宮魔物を跡形もなく吹き飛ばしてしまい、素材を得られない事からあくまでも防衛線を突破されそうになるなどの非常事態に備えての保険だ。
よって防衛線から放たれた最初の一手は、冒険者達が個々に放った魔法や弓矢やごくわずかながら銃弾であった。
この頃になると、一心不乱に冒険者達の命とその後方のメイズリントを賑わわせている住人達の生命を狙う迷宮魔物達の形相がはっきりと見えるようになり、エレメンタリアと呼ばれる精霊系の迷宮魔物以外は凄まじい迫力を持つに至る。
事前に士気高揚の神聖魔法を行使していなければ、この時点で何人かの冒険者達が逃げ出し、少なくない数の冒険者達が及び腰になって実力をろくに発揮できなくなっていただろう。
遠距離攻撃を受けてそのまま絶命するか、その場で転倒した迷宮魔物達は凄まじい速度で続く後続達に容赦なく踏み潰されて、原形を留めない肉塊に変えられる。
冒険者達との距離が詰まるにつれて、迷宮魔物達も徐々に横に広がり始め、それぞれが狙いを定めた獲物へとその殺意の矛先を変えた。
魔法と矢、ごく少数の銃弾による遠距離攻撃はまだ継続しているが、ついに最前線で大盾や騎馬対策の逆茂木、落とし穴から整然と並んだ長槍による槍衾、土魔法で即興で構築された土壁に、迷宮魔物達の先頭が死を恐れずに突っ込む。
「来たぞ、かかれぇええ!!」
最初の号令を発したのは一体誰だったか。それ自体はさほど重要ではない。重要なのはその号令が限界ギリギリまで引き絞られていた冒険者達の制止の糸を断ったことであった。
水の神ないしは魔力、精霊の加護を付与した武器を掲げ、一斉に冒険者達が大地を駆けて高熱を放つ火の迷宮魔物達へと群がる。
握り拳大の赤い球体を中心に燃え盛る炎の形状を取った、ファイアエレメンタリア。
真っ赤に焼けた毛皮とルビーを思わせる爪や牙を持つセキネツオオカミ。
研磨した石のような体表に炎の文様が蠢き、四本の腕に長剣や斧を持つ異形の人型、炎刃の守護者。
これらだけではなく、蝙蝠や鷹、巨大な蜥蜴や熊、様々な生物の特長を持った巨人など、数多の種類の迷宮魔物達と冒険者達との本格的な戦闘がようやく始まっていた。
火の属性を持つ迷宮魔物達は、灼熱の吐息や炎の礫、炎弾を放ちながら、自分達の持つ手足に備わった鋭い爪や鈍器のような尾を次々と冒険者達へと叩きつけてゆく。
対する冒険者達も収穫祭だからこそ可能な何十、何百もの支援魔法の恩恵と、入念に対策を行った装備と知識のお陰で、数千にも届こうかという迷宮魔物達を相手に怯む事もなく、勇猛に挑みかかり次々と首を跳ね飛ばし、胴を薙ぎ、心臓を貫いている。
ともすれば小国を上回る豪勢な魔法戦力ありきとはいえ、まるで御伽噺の英雄譚のような戦いぶり――個々の実力自体は英雄と呼ぶには今ひとつだが――に、暢気に見学していたドライセンが、ふーむと感心した声を出す。
「やはり精神干渉の効果は絶大だな。初めて武器を持った人間も精神状態だけはひとかどの戦士になれるのだから。
ルスクロウ殿の言うとおり、迷宮魔物もお互い戦い合うのではなく、人間の相手を優先するようになっているが、後続はまだまだ途絶える様子がないな」
「ああ、ここ最近じゃあちっと覚えがないくらいに規模がでかいな」
はてなにかあったか、と顎鬚を撫でるルスクロウを横目に、ドライセンはジャンボルダイとル=ボルダにはしっかりと釘を刺しておいたから、特別な事はないはずなのだが、と決して余人には聞かせられない言葉を口の中で飲み込んでいた。
となるとそれぞれの迷宮の創造主の干渉していない範囲で、迷宮の機能に障害が発生したか、単に大量発生の周期に居合わせたということなのだろう。
「私達の所為ではないと思いたいがな」
「さあて、想定よりも数は多いが強さそれ自体は想定内だが、んん~ドライセン、クイン、ビギラナ、どうだい、そろそろ前線に殴り込みをかけにいかねえか? まあ、そんなに急ぎじゃなくって、どっちかといやのんびりめにな」
ここでルスクロウの言葉に反応を示したのは、後方の都市騎士団の配置を確認していたビギラナである。手の中にあった書類や筆記用具一式を鞄にしまいながら、右手はしっかりと腰の剣に伸びている。
「前線に行くのにのんびりめなのですか? それではあまり救援の意味がないような?」
「実績で言えば君らも初心者なんだけれど、実力とお金周りがどう考えても上級か特級だからね。
素材採取の途中のところに足を踏み入れたり、戦闘に無理に割り込むと嫌な顔をされちまうからよ。ちょっとやばそうなのが出てくるまではゆっくりいって、前線の空気ってものを感じないかっていう提案なわけ。どうかな?」
「見える距離とはいえ直に前線の空気を肌で感じられるのなら、それに勝るものはありません。私は構いません。ただクイン殿のご意見を伺った方がよいかなと」
この中でもっとも暴れ出す可能性の高い危険人物の名前に、ルスクロウはそれはそうだと毛布の上で寝転がっていたクインに視線を向ける。
当のクインはというと自分が話題になっていたからか、今は毛布から立ち上がりいつものこの世の全てを格下と認識している態度に戻っている。
ちなみにこの態度は別に侮蔑などの念を含んではいない。単に上と下で分類するなら、自分が上でそれ以外は下と判断しているだけで、下の者に価値がないと考えているわけではない。
「あのような連中の戦いに進んで加わろうとは思わん。精々必死こいて明日の食事の為に戦う連中の姿を見物するくらいだ。それにハンマが前線でうろうろしているのなら、怪我人はともかく死人は出まい」
「死人は出ないって、そりゃまたすげえ評価だが、ハンマさんならなんか納得が行くんだよなあ。マイラール教団の神殿でもすげえ人気なんだぜ。
下は一般の信者から上は大司祭まで、好んで彼女と話をしたがるって否定しきれない噂が立っているくらいだし」
ハンマの本来の素性を知っているドライセンらは、それはそうだなあ、と心底から納得していたが、他人の耳のあるこの場でそれを口にしては真偽を疑われるにせよ、収穫祭が忘れられてしまう規模の問題となりかねない。
「うちの神官殿は大したものだろう。彼女はいささか情が深すぎるから、また人望を高める事になってしまいそうだ」
「遠からずメイズリントを離れる君らには、余計な荷物かい?」
「そこまで切って捨てた物言いは出来んが、別れ難くなってしまうのは確かだよ。さあ、そろそろ行こう、のんびりと」
ようやくメイズリントあるいは世界最強の冒険者パーティーが重い腰を上げたのだった。
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第二百二十三話
クリスティーナが心身共に溌剌として、政務により一層注力し始めた頃の話である。
既にクリスティーナがアルマディアの実家を出て、男爵となってから丸三ヶ月近い時が経過し、夏の近づいてくる気配がはっきりと肌に感じられるようになった季節。
この頃になるとベルン村近郊に大邪神カラヴィスと大地母神マイラール、大神ケイオスらが深く関わる塔の存在が、ガロア以外の都市にも知れ渡るようになり、功名を得ようとする冒険者やお金の匂いを嗅ぎつけた商人達が街道に列を成すようになっている。
またベルン村でのみ販売されている、エンテの森産出の希少な草花を用いた香水や薬を求める者も増えている。
特に王国北部から王都のみならず東部、西部、南部にもディアドラ印の黒薔薇を始めとした各種の花々の香水が富裕層の間で流行している為、これを求める貴族のご婦人方の姿も散見されるようになっている。
その中で一番多いのは、開拓した分の土地が自分のものになるというお触れを知り、土地持ちになろうと夢を見る農家の次男、三男以下や自由労働民などだ。
労働力を欲するベルン男爵領としては多少脛に傷のある身であろうと構わず受け入れており、無論、治安を乱すようであるのなら容赦はしないが、概ねベルンの大地を踏む者達を歓迎している。
そんな彼らをベルン男爵領で一番に迎えるのは、新しく建築された防壁とその門だ。
クラウゼ村とベルン村を繋ぐ整備された大規模な街道や宿泊施設、街道を飾る真に迫る石像群だけでも彼らの度肝を抜いていたが、防壁と門はまた一味違う。
目下、南門が唯一街道と繋がっている事と、初めてベルン男爵領を訪れた者が目にする場所という認識から、クリスティーナやドラン達はこの防壁と南門、そしてそこを守る兵士達の見栄えや質を極めて重要視していた。
ベルン騎士団の中から選抜した兵士達には、門番という一見地味ながらこれから発展してゆくベルン男爵領にとって以下に重要な仕事であるかが、団長であるバランのみならず領主であるクリスティーナ直々に薫陶が与えられている。
徹底的に磨き抜かれ、わずかな妥協も許さずに整備されたダマスカス製かつ軽量化、対魔法処理、身体強化魔法などが付与された鎧兜を纏い、同じ素材のハルバード、長剣、短剣、円盾で武装した兵士達の顔には、誇るに値する仕事をする矜持があった。
彼ら以外にも、ドランが正式に魔法ギルドに特許申請した量産型ゴーレム達が防壁に沿ってずらりと並び、非常時の備えとして万全の守りを敷いている。
兵士一人ひとりの装備やゴーレムの質もさることながら、武力や魔法とまったく関わりのない一般の人間でも目を奪われるのが新たな防壁だった。
以前はディアドラが無数の黒薔薇とその茨で防壁を覆っていたが、今はディアドラの真似をしたがったエンテの森に住む様々な樹木や草花の精達によって、更に絢爛に、更に華やかに飾り立てられている。
四季折々の花々や様々な樹木の幹や蔦が防壁の表面を覆って、荒廃した城が樹木に飲まれるの似ていながらもまるで違う、ベルン男爵領にしかない特殊な外観を生み出していた。
中には門を通る前に足を止めて、詩作に耽る者や無地のキャンパスに向けて熱心に筆を振る者もいる。
今ではベルン男爵領側もこういった防壁それ自体を観光の対象とする者に向けて、門の前に馬車を止める為の駐車場や軽食を取れるカフェ、屋台に飲食用の広場などが設けられて、ベルン村の外にも経済活動の場が広がっていた。
またこの防壁であるが、完成しているのはエンテの森側の東とモレス山脈側の北、クラウゼ村に繋がる南の部分で、南西から暗黒の荒野へと続く西、北西の部分に関しては、今後の開拓に関わる部分である為、仮設止まりとなっている。
その代わり、暗黒の荒野方面には防壁の建設と平行して、監視用の小規模な砦を複数建設する方向で話が進んでおり、作業用のゴーレムと兵士達が資材と共に赴いて建設作業に勤しんでいるわけだ。
日々、流れ込んでくる移住希望者や観光客への対処はいつもながら、ある日、クリスティーナの屋敷を訪ねる特別な一団があった。
元はベルン村の駐在兵士の一人であり、今では騎士の位を正式に与えられたクレスが、客人達を連れて帰ってきたのである。
クレスは兵士達と古参の村人数名に進物を載せたホースゴーレムの馬車数台と共に、北のモレス山脈に移り住んだリザード族の元を訪れる任務を受けていた。
リザード族が元々住んでいたベルン村北西の沼地を本格的に開拓する計画が動き始め、今後の軋轢と憂いを取り除く為に元々の住人であるリザード族に話を通す為に旅立ったクレスは、無事にリザード族との交渉を終えてベルン村へ帰還を果たしている。
旅の汚れと疲れを全身に纏ったクレスが汚れを清めてからクリスティーナの元へ、報告の為に足を運んだ際には、リザード族からの使者四名が同伴していた。
幸いな事に沼地の利用に関して、リザード族は既に自分達が離れた土地であるからとベルン側が利用する事に関して異議は申し立てられず、かつてベルン村との間にあった交流の再開を喜ばれる事となった。
リザード族がモレス山脈の湖近くに居を移した為、交易の品目は以前とは若干の変化が見受けられたが、主にベルン側からは加工食品や布製品、嗜好品が輸出され、リザード族側からはモレス山脈で産出される金属類と岩塩が輸出される。
特にクリスティーナを始めベルン男爵領上層部を喜ばせたのは、生存には欠かせない塩を得られる手段が増えた事だ。
竜宮国からも独自に塩の売買契約を結んでいるが、塩を確保する手段は複数あるに越した事はない。
さて、リザード族は人間より頭一つ二つ大きい、二足歩行の蜥蜴という外見をしているが、リザード族以外にも蜥蜴人の男女がその四名の中に含まれていた。
リザード族と蜥蜴人は何が違うのか、というとリザード族は先に述べたように、端的に言ってしまえば人間と同程度の知能を備えた二足歩行の巨大蜥蜴であり、種としての系統樹は爬虫類に属する。
一方で蜥蜴人は複数の神々が協力して生み出した人間の原種を始祖とし、蜥蜴の特徴を付与して生み出された人間の亜種、亜人である。
あくまで人間の要素が主であり、蜥蜴としての特性は副となり、種としての系統樹も人間に属する。これは亜人と呼ばれる種族に共通する要素だ。
とはいえ同じ蜥蜴の要素を持つ者同士――蜥蜴と一括りにしてしまうのはかなり乱暴であるが――リザード族と蜥蜴人は、共に暮らしている事は特に珍しくはない。
彼ら若い年齢層の四人はこのままベルン村に滞在して、後々やってくるリザード族の交易団の窓口と滞在用の施設建設の助言者役を兼ねている。
かねてからクリスティーナとドラン達が計画していた、モレス山脈に生息する他種族との交流が前進しつつあるその証左といえよう。
モレス山脈の多種族との交流に進捗があったのは、リザード族だけではない。
元々ベルン村には近くを流れる大河から枝分かれした川が、北東から南西へと向けて流れているが、今では更にその川から村内のあちこちへと水路が伸ばされている。
元々水に乏しい暗黒の荒野方面に開拓の手を広げてゆくのだから、井戸掘り以外に水路を広げてゆくのは当然の事ではあるのだが、それにしても網の目の如く細かく、それも小船がすれ違える幅を持たせてとなると、ただの水路というだけではない。
また上流からの流れを引き込む北の水門も、これまでは大牙鰐を始めとした大型の水棲生物の侵入を防ぐ為に頑丈な鉄格子を巡らせていたのが、今では巻上げ式の水門が設置されていた。
村内部を流れる川のみならず、上流を流れる大河の方にも手が加えられていて、両岸に大河から水を引き込んで作った小さな溜め池がいくつも作られていて、船を係留する為の桟橋と小さな小屋が併設されている。
これらも全てはクリスティーナの指示の下で作られた設備で、リザード族とは別の湖に住んでいるレイクマーメイドの氏族『ウアラの民』が、ベルン村にやってくるまでの道中で体を休める為のものだ。
水竜ウェドロの庇護の下、モレス山脈にいくつかある湖や池、地下水脈を通じてモレス山脈各地を行き来していた彼女らは、ウェドロの勧めと彼女ら自身が外部との接触を望んだ事もあり、ベルン村から遣わされた使節団に応諾の返事をしたのだ。
さてリザード族が齎すのは加工前の貴金属と岩塩であるが、ウアラの民が何を齎すかといえば彼女ら自身や水竜ウェドロの鱗、湖底で産出される高純度の水精石、魚醤などととなる。
村に巡らされた水路は人魚達の為の道で、ベルン側はそれなりの資金と労働力を投じて、彼女らがベルン村の中を移動できる環境を整えたわけだ。
モレス山脈に住む諸種族との交流推進以外にも、水竜の庇護を持つ種族と交流を持つ事は、対外的にも一種の外交圧力として機能する面があり、『みんなで仲良く』、『子供のような』、『八方美人』と揶揄されかねない施策に見えてしたたかな一面を備えている。
これまで交流のなかった周辺諸種族との交流と協力体制を着々と整えているベルン男爵領であるが、これには遠からず暗黒の荒野から統一された勢力による侵略があり、それに対する備えとしての一面を含んでいた。
また、ファム・ファタールこと天恵姫を巡る東方での戦いに、周辺国家とは異なる謎の勢力が関わっていた事も、これらの行動に拍車をかけた。
もっとも、協力体制を整えて侵略に対抗するというよりは、クリスティーナやドラン、ドラミナなどの本当の実力を知る者からすれば、周辺諸種族に魔の手が伸びる前に、ベルン側が保護の手を回したという見方もできるだろう。
そしてその日もまた、モレス山脈に存在するとある種族の隠れ里への使節団が、ベルン村を出立しようとしていた。
これまで通り峻険なモレス山脈でも問題なく歩行できるホースゴーレム達の牽引する複数の馬車と、交渉を担当する文官や護衛の兵士達に労働力としてのゴーレム達。
ただ、今回の訪問先の特殊な事情を考慮し、使節団はほぼ全員が男性でいずれも健康かつなるべく見目の良い者達が選抜されている。
その為、これまでの使節団に比べるとかなり数が絞られる結果となったが、その分の労力はゴーレム達が負担してくれるから、道中、然したる支障は出まい。
そしてこれまでと異なる最も大きな点は、この使節団に後進の育成を邪魔してはいけないと同行する事のなかったドランの姿がある事だった。
ディアドラやドラミナ、クリスティーナにリネットの姿はないが、その代わりにセリナの姿はドランの傍らにある。
今のドランの状況では数時間程度ならばともかく数日に及ぶ道行きであるにも拘らず、傍らに女性が一人しか居ないというのはかなり稀有な事である。
たとえそれが公的な事情によるものであれ、ドランの所有物であると自らを認識するリネットの姿までないのは、妙と言えば妙。
これにはこれから彼らの赴く先が大いに関係していた。
旅装に着替えたドランはほんのわずかにではあるが今から緊張した様子を見せ、反対に日除けの帽子を被っているセリナは嬉しそうに頬に朱の色を登らせている。
「ふふふ、思っていたよりもうんと早く帰れて、私は嬉しいです。それにドランさんを紹介できるから尚更です!」
むふー、と満足げな吐息を零すセリナをドランは慈しみに満ちた眼差しで見ていた。
はっきりと恋人、婚約者であると明言する仲になった両者ではあるが、ドランがセリナに対して孫娘を見守る祖父といった心情を失わずにいるのもまた確かであった。
「以前から話していた事とはいえ、私としては緊張せざるをえないな。
ベルン男爵領の補佐官の公務としてセリナの生まれ故郷の代表の方々とお会いする以上に、ご両親にご挨拶をするというのは、いやはや、父さんやディラン兄に聞いていた以上に身の引き締まる思いになる」
「ママもパパもそんな怖い人達ではありませんよ? でもママはジャルラの代表ですから、当然厳しい態度で臨むとは思います。
ドランさんが私の将来の旦那様だからといって、手加減はしてくれないでしょう。公は公、私は私、そう割り切っている人ですから」
「立場に相応しい心構えをお持ちであるだけの事さ。ラミアの隠れ里ジャルラとベルン村との正式な交流は、双方にとって益となるものであって損はない。それをきちんと伝えられれば交渉は上手く行くと信じている。
私が緊張しているのは私がセリナ以外の女性とも婚約している事を、セリナの母君も父君も良くは思わないだろうという不安の所為さ。我ながら情けない事だが、ふむん」
そう、今回の使節団の赴く先は人口一千人を越えるというラミアの隠れ里ジャルラ。
セリナの生まれ故郷であるこの隠れ里へ、セリナが伴侶として選んだドランを連れて行くという目的もまた密かに含まれていたのである。
そして使節団の団員が見目の良い男性達で構成されているのも、子を成すのに異種族の男を必要とするラミア達へ、交流を持つ事で得られる利益を分かり易く知らしめる為のものだった。
ともすればジャルラへ滞在している間に、何人かの団員はある意味で食べられてしまい、ラミア達に新たな命を宿らせる事になるかもしれない。
それはそれで仕方ないよね、とドランとセリナが割り切っているかどうかは、さて?
「ま、まあ、それほど深刻に考えないでください。元々、男の人がどうしても足りない時とか、お互いに同じ人を好きになってしまった場合には、男性を共有する習慣もあるくらいですし、そこまで強く問題視はされてないと思いますよ?」
「あまり自信が無さそうな口ぶりで言われると、今ひとつ安心できないなぁ。それに今回はジャルラの風習とは反対だからね。
親としては可愛い娘以外にも関係を持つ女性が居るなどと、不快に思われても仕方のない事だ。それに私はジャルラへ入り婿として赴く事も拒否しているのだから」
「うう、なるべく考えないようにしていたのですけれど、改めて言われるとジャルラの里にとって異例尽くめです。ママを説得できるといいのだけれど」
しょんぼりとするセリナに、しかし、とドランは揺るがぬ決意を宿した瞳で語りかけた。
「なに、セリナの『旦那様』になる事は決して諦めたりはしないとも。セリナの母君達を説得して、ベルンとの交流もセリナとの結婚も認めてもらう。それに変わりはないよ」
そのドランの言葉を聴いたセリナがどんな反応を示したかは、語るまでもない事だろう。
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第二百二十四話
ベルン村の北西の一角には、魔法や技術研究の為の頑丈な施設や倉庫が建てられている。
リネットはドランがベルン村を留守にする間、彼の仕事の一部の代行を命じられており、その一環としてこの研究棟へとガンデウスとキルリンネを伴って足を運んでいた。
扱い方を間違えれば危険な事故を起こしてしまう魔法素材や、銃火器に用いられる硝石や火薬の類も貯蔵されている事もあり、建物一つ一つが恐ろしく頑丈に建てられ、区画は分厚い鉄とコンクリートの壁で覆われている。
壁の表面にびっしりと魔法文字が刻みこまれ、強化と防音、消臭など効能が付与魔法によって施されているのは、言うまでもないだろう。
しかし、このように研究の為の施設を設けたからといって、また、北部開拓計画が再開されたからといって、ベルン村にこの施設を有効に利用できる人材が居るのか? という疑問が生じる。
著名な学士や知識人、またはその優秀な弟子達は既に有力者の懐に抱えられているか、自ら私塾を開くなどして地に根を張っているものだ。
そうである事はクリスティーナもドランも百も承知であったから、彼らがベルン村へ招いた人々は、あまりに先進的な考えや理論を発表して学会から爪弾きにされた異端児や、能力はあるが人格的な問題から野に追放された問題児がほとんどを占めていた。
そんな彼らにはベルン村への愛着やクリスティーナへの忠誠などはほとんど存在しておらず、クリスティーナとドランもそれは百も承知だ。
それでもベルン村独自の色、強み、優位性確保の為には、他にはない特異なナニカが必要だという考えから、潤沢な予算と好きなように研究を行える環境とを用意する事を対価として、変人と書いて天才と読む人材を幾人か集める事に成功していた。
従士服姿のリネットとメイド服姿のキルリンネとガンデウスの三名は、研究区画の中にある作業場の一つに赴いてその主から研究成果の報告を受けていた。
それなりの広さを確保された作業場にはいくつもある棚に様々な形の部品が、きれいに並べられている。
形や大きさもさる事ながら、その素材も金属から木材、土や岩石、布地やらと多岐に渡る。
作業場の中央に置かれた台の上に、箱馬車の車体ほどはあろうかという金属製の四角い箱が置かれていた。箱の側面からはいくつも細長い煙突が伸び、箱の上部からは何本もの筒が伸びている。
箱の前にはこの作業場の主である、齢六十を越そうかという、白髪と白髭を長く伸ばした痩身の男性と、その助手のリネットと同年代に見える孫娘とが居た。
リネットの訪問を受けても、男性と孫娘とはなにやら箱に掛かりっきりで作業をしていた。研究者にはよくある事だと、リネットはさして気にもしていない。なにしろ自分を創造したイシェルもこの手の人種であったのだから。
とはいえ男性達は補佐官代理であるこのリビングゴーレムの少女が、今後の自分達の研究費用の査定の鍵を握っているのを忘れていたわけではなく、作業が一段落したところでようやくリネット達と向き合う。
「御機嫌よう、マズダ博士。本日は、恐れ多くもマスタードランに代わり、リネットが研究成果の確認にお伺いしました」
男性――マズダ博士は、リネットに向けてにぱっと破顔し、自分よりも頭一つ二つも小さなリネットに髭の奥に埋もれた口を動かす。
「よく来られた。補佐官殿は外出中であったかな? 私だけでなく他の研究者達の勧誘ばかりか移住者への住居と仕事の斡旋に、外部との折衝までこなしているとは見事という他ない。
私などは彼の三倍も四倍も生きているのに、出来る事と言ったら、研究と発明だけだからね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせるマズダに、リネットはほんの少し口元を弛めた。
どこか子供っぽく明るい目の前の老人を、リネットは嫌いではなかった。しかしリネットの個人的な感情と仕事は分けて考えなければならない。
公私が割と混ざっているベルン男爵領の経営事情だが、今回はきっちりと分けるべき事例だ。
「ご謙遜はどうぞそれまでに。マズダ博士はお招きするに値する御方であると考えられたからこそ、男爵閣下もマスタードランもお声掛けをしたのです。それではマズダ博士、さっそくで恐縮ですが現状の研究成果についてお聞かせ願えますか」
リネットが切り出すのに合わせて、背後のガンデウスとキルリンネがそれぞれ手にしていた記録用紙や探査機器を起動し、詳細な記録を残せるように手筈を整える。
マズダに限らずこの研究区画に招いた者達へは、少なくない金額を投資しており、その回収に関して手抜かりがあってはならないとリネットは心を鬼にしていた。
「うむ、私としても研究資金に行き詰まっていた私達に手を差し伸べてくれた君達に関しては、深く感謝している。用意して貰えた施設も素晴らしいものだ。
孫娘のシャルロも優秀な助手として手伝ってくれている。ここで結果を見せねばと私も気合を入れたものさ。さあ、シャルロ、準備はよいかね?」
「はい、博士。リネットさん、ガンデウスさん、キルリンネさん、よく見ていってください」
マズダとシャルロは再び金属の箱へと向き合い、シャルロは足元に置いてあったジョウロを手に取り、箱型の側面にある蓋を外してそこにジョウロの口を差し込んで、中に入れてあった液体を注ぎ込み始める。
「これが私の開発した魔力蒸気機関第十二号の試作品だ。魔晶石を溶かした込んだ特殊な燃料液を燃やす事で生じるエーテルの霧により、ピストンを動かして動力を生み出す!
木材や石炭を燃やして熱を発生させてもよし、火精石を用いて熱を発生させるでも構わない。とにかく燃料液に一定以上の熱量を与えられればそれで良い。ちなみに今は発熱の術式を刻み込んだ火精石を熱源としているよ」
リネットは魔力蒸気機関の内部で魔力の変動が生じるのを感じ、静謐を収めた瞳でじっと見つめる。その矢先に上部に突き出ていた筒が最初はゆっくりと、それから徐々に速度を速めて上下に動き始める。
横から伸びている細長い筒からは、余剰となったエーテルミストが吹き出して、大気中の魔力へと還元されていっている。石炭を用いる蒸気機関と異なり、自然環境に悪影響を及ぼす煙害を考慮する必要がないのも、マズダ製魔力蒸気機関の特筆すべき点だろう。
「なるほど、前回の査定の時よりも燃焼効率が一割二分上昇していますね。燃費は変わらず、馬力は目下十八馬力といったところでしょうか。ふむ、道を整備すれば十分、新たな交通手段の主機関としての運用にも目処が立ちますね」
「わっはっは、そうだろう、そうだろうとも! ライリッヒ君の魔導電気駆動機構やプラナ女史のマナ受動機関も中々のものだが、まず一時代を築くのはこの魔力蒸気機構だと私は思っているよ!
しかし、相変わらず君は恐ろしいまでの観察眼を持っているな。補佐官殿もそうだが、単なる魔法視力だけではなく、物事に対する理解力が高すぎるほどに高い」
「リネットの場合は天人の知識を幾分か有しているからこそです。マズダ博士のこの成果を知れば、ライリッヒ教授やプラナ女史も発奮される事でしょう」
「うむ、徹夜などものともせず研究に勤しむ彼らの姿が目に浮かぶようだよ。補佐官殿が帰られた時に披露するのが今からでも楽しみだな。
いよいよ彼も妻帯者になるかもしれんわけか。これは他の婚約者の方々も触発されて、次々と結婚へと雪崩れ込むかもしれんな」
「博士、ご領主様や補佐官様に不敬ですよ! 申し訳ありません、リネットさん。博士は少し口が迂闊すぎるところがありまして」
「お気になさらず。他に誰の耳があるというわけでもありませんし、マスタードランの結婚関係の話題は、ベルン男爵領においては大きな意味を持ちますし、気になさっている方は多いですから」
それはもちろん、リネットもである。これまでは主人の婚約者として接してきた相手が、今度からは主人の伴侶となるかもしれないのだから、リネットも気を引き締めて従者として恥ずかしくない立ち居振る舞いを求められる。
顔にこそ出てはいないが、リネットは今から既に発奮している状態だった。
(マスタードランがセリナのご両親にご挨拶なさるとはいえ、だからといってすぐに結婚という流れにはならないとは思いますが、いずれにせよいつかは実現する未来なのですし、今から心の中でだけでも予行演習をして損はないでしょう)
フンス、と力強く鼻息を零すリネットを、ガンデウスとキルリンネがほんの少しだけ訝しそうな表情を浮かべて見つめていた。わずかなものとはいえ、まったくの無表情ではなくなっている事を見れば、少しずつだがこの両者の精神も育まれつつあるようだった。
*
北西の彼方から暗黒の荒野を渡ってきた風は、静まりつつある戦乱の血の残り香を運んできているのか、どこか錆びめいた血生臭さを含んでいるように思われ、私は少しだけ眉を寄せた。
太陽は地平線の彼方に沈み、世界は茜色から暗闇の色へと移り変わりつつある。
ベルン村を出立し、旧リザード族の居住地であった沼地で開拓団と別れた使節団は、モレス山脈の麓へ順調な道行の最中にあった。
日が沈む前から野営の準備が進められ、焚き火を目印に襲い掛かってくる魔獣に対する警戒の為の歩哨達は、抜け目なく周囲の闇を睨みつけている。
野営地のそこかしこに光精石を用いた光源が掲げられ、降り注ぐ月と星の光も相まって、周囲の闇を遠くへと追い払っている。
机の上にも光精石を納めたランタンがいくつか置かれて、十分な光量を確保している。
使節団の護衛を担う兵士は、ベルン村出身の若者から他の農村出身者、またあるいは元傭兵や冒険者達も含まれており、実戦経験の有無にはバラつきがあるが、採用されてから受けた過酷な訓練のお陰か、それなりに格好はついている。
この使節団の中で最も地位が高く、責任が重いのが領主補佐官であり使節団代表の私ことドラン・ベルレストである。
今は野営の為に馬車から降りて、秘書兼案内役であるセリナ、護衛の兵士達の代表の騎士ネオジオと文官の代表シュマルと今後の予定を話し合っているところだ。
馬車から降ろした組み立て式の机に周辺の地図を広げ、その上に自分達を模した駒を置いて、現在位置の確認と今後の日程の微調整が主な内容だ。
使節団の護衛を取りまとめるネオジオは、元々は小さな傭兵団の団長を務めていた壮年の男だ。
東西で燻り続けていた戦争の臭いに新たな商機を見出していたが、年齢の事もあって安定した収入を求めるべきか悩んでいたところに、ベルン村での志願兵募集の話を聞きつけて、傭兵団を解散しそれでもついて来た数名と共にベルン騎士団に所属する身となっている。
小規模とはいえ傭兵団を纏め上げていた経験とその傭兵団の評判が良かった事から、観察を兼ねた試用期間の後に騎士隊長の一人に任じられて現在に至る。
会議の場でも周囲が暗黒の荒野と言うこともあり、警戒を緩めずに分厚い鎧を着込んだままのネオジオはいかにも歴戦の傭兵といった、皺深く日焼けした厳しい顔つきと横幅が広く、がっしりとした体つきをしている。
一方でシュマルはといえば、先代アルマディア侯爵が責任者だった以前の開拓時に付き従っていたアルマディア家の家臣である。
開拓計画が凍結された時にアルマディア領に帰ったものの、敬愛する主君の孫娘が再びベルンの地に赴任したと聞くや、成人した子供らに家を任せて仕官を求めてやってきた忠義の人だ。
年のころはネオジオよりも更に上の五十代に入ったばかりで、今は妻との二人暮らしを満喫しながらベルン領の統治に尽力してくれている。
「ジャルラのママ……ではなく、女王にむけての知らせは既に送っていますので、あちら側の迎えの準備は整っていると考えていただいて間違いはありません」
ジャルラの代表である女王は、住人達の投票によって決められるものであり、世襲制ではない。その為、我がアークレスト王国を始めとした周辺国の王制と同じに考えるべきではなかろう。
それでも、当代女王の娘であるセリナが使節団の案内役を務めてくれている、というのは使節団の皆に大きな安堵を齎してくれている。
セリナが母親とジャルラへと送った知らせというのは、私が小鳥や昆虫と期限限定の契約を結び、即席使い魔をするのと同じ要領で、野生の蛇をセリナの即席使い魔として連絡を頼んだのだ。
半人半蛇のラミアにとって、蛇の類と意思を通わすのは容易な事なのだ。幸いにして警戒していた魔獣の類の襲撃は目下なく、これからも無いとすればモレス山脈まではそう時間は掛からない。
「使節団にはジャルラの近くで一旦待機してもらい、私とセリナで女王への挨拶を済ませ、許可を得てからジャルラへ入る事となる」
ネオジオもシュマルも、私からすれば父親以上に年の離れた相手とあって、立場上は私の方が上とはいえ多少、この口の聞き方には抵抗を覚えるところだが、こういった事は今後増えてゆくだろうから、慣れてゆくしかあるまいな。
幸いにして、ネオジオもシュマルも気にした素振りは見せていない。心の中でもそうであるのならありがたいが、そうでないにせよ顔には出していないのだから、これが大人の対応と見習わねばなるまい。
「兵達の士気は問題ありませんぞ。規律の方も今のところ緩んではおりません。幸い、補佐官殿がセリナ殿と節度を持って接しておられましたのでな」
「男ばかりのところに女性がセリナ一人という環境なのだ。私とて少しは周囲へ配慮もするさ。ジャルラに着いたら、その反動で皆が過剰に浮かれない事を祈るよ。
ところでラミアに対しては、流石に慣れてきたかな? ベルン村出身者ならばともかく、他所で生まれた者達にとって、ラミアは魔物だという認識がある。セリナの事はもう噂で知れ渡っていただろうが、やはり実物を見れば恐れもしよう」
「そちらも概ね問題はありません。ベルン村でのセリナ殿の慕われようと働きぶりは、兵らもしっかりと目にしておりますし、慣れた者の中には失礼ながら鼻の下を伸ばす不届き者もおりますでな。
ジャルラで麗しいご婦人方に声を掛けられれば、ホイホイと着いていってしまう者が出ないよう、注意しなければならんほどです。
今回の人選については敢えての事でしょうが、若い連中には戦場に出るのとは違った意味で過酷だったかもしれません」
「そうか、個人的には異種間交流は歓迎するが、何事にも順序がある。先方の意思も方針も考慮しなければならぬし、もう少し我慢してもらおう。日数の方は事前の予定通りだが、荷の消費はどうかな?」
兵士達の様子から、今日までの間に消費した食料品や作成した地図などについて、シュマルに水を向ければこちらもネオジオと同じく淀みなく答えが返ってくる。事前に想定済みの質問だったろう。
「こちらは事前に想定した誤差の修正内の消費量です。沼地を中継地点として使えれば、ジャルラ、ベルン間での物資の枯渇を心配する事はなくなるでしょうな。
エンテの森を経由する道筋を避けて、暗黒の荒野方面からの経路を開拓するという目的もまずは達成できそうでなによりです。
ジャルラの里の地理にもよりますが、ウアラの民同様に河川を用いた交通路も作れるかもしれませんし、補佐官殿には期待せざるを得ません」
「責任重大だな。だが、改めて語るまでもない事ではあるが、最良の結果を得られるように最善と最大の努力を尽くすとも」
言葉にはしなかったが、公人としての他に私人としての事情が込み入っている事は、まあ、この場には居ない兵士達に至るまで察せられているだろうなあ。
私がベルン村を出立した時から、いや、セリナへの愛情をはっきりと認めた時から変わらぬ決意を口にすると、セリナが真剣な眼差しで闇夜に天高く聳えるモレス山脈を見つめた。
「暗黒の荒野の事もあります。モレス山脈にまで手が伸びるかは分かりませんが、その脅威を伝えれば決して間違った選択はしない筈です」
セリナにとって、今回の使節団の来訪は生まれ故郷が数年内に発生するだろう戦禍に巻き込まれるのを防ぐ為の帰還でもある。
使節団の中にあって、もっともジャルラとの未来を暗じ、憂いているのはセリナに他ならなかった。であるのならば、セリナの胸の内に去来している不安の雲を晴らすのが、私のなによりの役目に他あるまい。
更にこの後、モレス山脈へと進路を取り、徐々に近づいていけば岩石と幾ばくかの緑が点在するばかりの荒涼としていた暗黒の荒野の光景に、徐々に緑の割合が増してゆき、生き物の姿を見かける頻度も増してゆく。
モレス山脈の麓はエンテの森から続く深い森林地帯となり、また山脈から流れる大小無数の河川と豊富な地下水脈によって、無数の命が生きる豊潤な大地となっている。
セリナはジャルラを出立する際になるべく川沿いに進み、その後、最も近い人間の集落、つまりベルン村にまで近づき、一旦暗黒の荒野側に進路を取り、リザード族の住んでいた沼で休んでいたところで私と出会っている。
今回はセリナの進路を逆に辿る形になったわけだ。今後の戦乱を見据えれば、モレス山脈と沼地の間にも砦の一つくらいは用意しておきたいものだな、ふむん。
モレス山脈麓の森林地帯には、ありがたい事にエンテを通じて私達の到着を待ってくれていた現地のウッドエルフや獣人達がおり、森林地帯を抜けるまでの間、親身になって案内役を務めてくれた。
やはりエンテ・ユグドラシルのお墨付きは、エンテの森の住人達には効力絶大だ。その分、エンテからの期待と信頼を裏切らないようにと身の引き締まる思いだ。
使節団の団員達は数日振りだが他の人間達と話を出来る事と、案内役の中に女性が複数いた事からやたらと話をしたがり、ネオジオの怒鳴り声と拳骨が何度か振るわれる事となったのが残念といえば残念だが、ま、微笑ましいの範疇に収まる話かね。
森林地帯を抜けてモレス山脈に入ると、これまでほとんど人跡がない事もあり、道らしい道がろくにない険しい道行となる。
リザード族の移り住んだ湖への道程ならば、前回使節団を送った事もあり、ついでにある程度踏み固められるなり、リザード族が整備するなりしているのだが、ジャルラへの道筋はまったくの手つかずだ。
というのもジャルラは他種族の目から隠れるように作られた隠れ里であり、外部からは里がそこにあるとは分かりにくいように隠蔽して作られている為、里へと続く道の整備など論外なのだ。
土よりもむき出しの岩肌が目立つ山道だが、ホースゴーレム達は悪路を物ともせず馬車を曳き、兵士達もひいひいと息を切らしながら追従してくる。
もっとも足の遅い者に速度を合わせて、適度に休憩を挟みながらの登山であるから、速度はそう速いものではない。
ジャルラまである程度近づいた地点で行進を止め、適度な広場を山腹に作り上げて、ネオジオとシュマルに使節団を委ねる。ここから先は私とセリナの二人きりだ。
「これだけ険しい山道では、山脈を降りるだけでも大変だな」
「まあ、人里を離れるとなるとこういう環境を選ばざるを得ないといいますか、小さい頃からここで育ったので、別に気にはならないのですけれど」
「君達の伴侶探しも苦労が多いな」
「最近は里の人口が増えてきたから、中で相手を見つける娘もちらほら居るんですよ。あまり血が近すぎるのは良くないですから、私みたいに外に出る娘の方がまだまだ多いですけれどね」
「千人前後だったか。セリナと出会った頃のベルン村の三倍以上の人口だが、この環境でよくぞそこまで増やしたと思うよ。ジャルラのような隠れ里は世界中に点在しているだろうが、よその里との交流はあるのかい?」
「ん~、確かエンテの森のどこかにもラミアや蛇人の里があって、何年かに一度くらいは代表同士で連絡を取り合っていたとかいないとか。いずれにせよ閉鎖的であるのは確かです。女王にならないと教わる事のない情報も多いと思います」
「重要な情報を知る者は少ないほど漏洩の危険性は少ないか。人間からの扱いを考えれば当然の危機意識だな。今回の訪問が良い方向へと進んでくれれば何よりだが……」
「大丈夫です。ベルン男爵領との交流で良い事がたくさんあるって精一杯伝えますから。
それにベルン村だけじゃなくってガロアの辺りまでなら、ラミアが街中を歩いていても少し驚かれる位で済むようになりましたし。伊達に一年近くガロアで過ごしたわけじゃありませんからね!」
「ラミアの集団が闊歩するとなれば、ベルン村はともかくガロアであってもまだまだ驚かれてしまうだろう。時間は掛かるだろうが、ベルン村から徐々に交流可能な存在であるという認識を広げてゆくのが先かな」
「急ぎすぎると悪い結果になりがちですから、仕方ないですね。それに伝承みたいな恐ろしい事をするラミアだっているでしょうし」
「人間の中にも極悪人はゴロゴロといるさ。それと同じ事だよ。さて、そろそろ直接お目にかかれる頃合いかな」
使節団が山麓に到着した時点で何十匹もの蛇達が岩陰などに潜み、じっとこちらの動きを観察していたのは、私とセリナのみならず使節団にも周知済みだ。
セリナからの連絡が来てから、私達が到着するのを一日千秋の思いで待っていたのだろうと容易に想像がつく。
上手くいけば今後は危険を背負わせてまでラミアの少女達を隠れ里から旅立たせる必要がなくなり、安全に伴侶探しを出来るようになるが、最悪の場合には魔物であるとしてラミアに対する迫害ないしは討伐が行われる可能性を考えていよう。
セリナが操られてジャルラの位置を教えてしまったのか、それとも本当に伴侶として私を見つけ出し、またベルン村との交流を文字どおりの意味で進める為に来たのか、という可能性をだ、ふむん。
これまで私達の監視をしていた蛇達が音もなく気配と姿を消している。本命の方達がそろそろ姿を見せてくれる前兆かな?
セリナが目印の一つだと教えてくれた赤茶けた大岩を回り込んだ先で、私は自分の口にした言葉が間違いではなかった事を確認できた。
山肌の盛り上がりや岩石の陰に巧妙に隠されたジャルラへの入り口の一つを背に、何人ものラミア達が私達の訪れを待ってくれていたのである。
獣人や人間の姿もいくらか紛れているが、こちらはラミア達の伴侶かその子供達で間違いないだろう。生まれてくるのが女の子ならばラミアに、男の子であるならば父親側と同じ種族になるのが、ラミアという種族の生態なのだから。
一応、帯剣だけはしているものの、それ以外は山登りに適した服装の私と同じく非武装のセリナの前に立つラミア達は、鮮やかな赤いや目の醒めるような青など鱗や髪の色も様々な美人さん達だ。
ラミアは異種族の雄を誘惑する性質上、個体数の多い人間とその亜種である亜人を誘惑しやすいように、種族単位で美的基準が高い為だ。
その美人揃いの真ん中にいるラミアは、セリナと同じ深緑色の鱗を持ち、前髪の左右だけを長く伸ばした金髪に意志の強さを感じさせる瞳は青色と、セリナとの共通項が多い。
私達を待ち構えていたラミア達はほとんどか、あるいは全員がセリナの知り合いのようで傍らのセリナが緊張しながら安堵するという器用な真似をするのが、肌で感じられる。
血縁者か、いやジャルラの女王を務めているという母君か?
「遠くベルン村から我らの隠れ里ジャルラへと、よくおいでくださいました。私はジャルラの女王セリベア。そちらのラミア、セリナの母でもあります。お見知り置きを」
ただの挨拶一つとっても、セリナとは違い、異性を惑わすラミアの特性を十分に理解した艶めかしさだ。
母としての顔は覗かせず、あくまでもジャルラという一つの社会の代表として振舞うセリベア殿を前に、セリナも話しかけたいのをぐっと堪えて押し黙る。余人が居ては母と娘としての振る舞いはできないか。話を早めに進めたいものだが、さて。
「私はベルン領主クリスティーナ・アルマディア・ベルン男爵の補佐官を務めております、ドランと申します。この度はベルン男爵の名代として参りました」
「お名前と来訪の目的に関しては、セリナからの知らせで存じておりますわ。まずは我らの里へご案内いたしましょう」
しゅるりと鱗と地面の擦れるわずかな音を立てて、セリベア殿が背後を振り返り、他のラミア達もそれに従う。
セリナが何か言いたそうに母親の背中に視線を送ったが、セリベア殿が振り返る事はなかった。他のラミア達はセリナを案じるように見つめたが、セリナも立派な大人ならばセリベア殿は集団の代表だ。弁えるべき場と時なれば、ここは私情を抑えなければならん。
セリベア殿に続き、緩やかな傾斜になっている下り坂を進めば、巨大な自然石を使って建てられた岩戸が私達を待っていた。
岩戸へ続く道からは死角になる窪みや岩陰には、押し殺された気配がいくつもありそれなりの手練でもなければ気付く事はできまい。隠れ里の警備は十分になされているな。
地中や左右の岩塊のどこかから歯車の噛み合う音が聞こえ、岩戸がゆっくりと左右に引き込まれて行き、その先に繋がる道を進んで行けば、空からの目を誤魔化すように岩壁の中や地下に設けられた家屋が見え、それぞれの窓からこちらを覗く住人達の顔が見える。
ワイバーンやグリフォンをはじめ、モレス山脈には空を飛ぶ魔物や猛獣の類は少なくない。ラミアならばそう簡単に餌食にはなるまいが、幼い子供や老人もいるのだから当然の備えか。
「ここでセリナが生まれ育ったのだな」
「はい。ベルン村みたいに皆で助け合って、仲良く暮らしているんですよ。う~ん、私が出立した時と変わりはないですね。良かった」
「ふむ、セリナとしてまずは一安心か。母君と家族水入らずで話せる時間も必ず来る。それまでは少しだけ我慢できるかい?」
「私はもう立派な大人ですよ? それくらい我慢できます。もう、ドランさんは私を何時まで経っても子供扱いするんですから」
「子供扱いしているわけではないよ。大切な伴侶だから慮っているのだ。その違いを理解してもらえると嬉しいね」
「あら、ふふふ、そういう事なら許してあげちゃいます」
「ふむ、それは良かった。やはり言葉にしないと伝わらないものもあるなとしみじみ思うよ」
そうして私とセリナが案内をされたのは、ジャルラの中央付近にある岩盤の中に建てられた館だった。凹凸なく奇麗に研磨された壁には、何かしらの塗料でラミアやその伴侶となったのだろう他種族の雄達が戯画化されたものが描かれている。ラミアの生態を分かりやすく描いた壁画と解釈できるな。
「選挙で選ばれた女王が住む館です。今はママ、ええっと当代女王セリベアとその夫クレイドが住んでいる筈です。前は私もここに住んでいました」
「セリナにとっては懐かしの生まれ故郷に加えて、懐かしの我が家というわけか」
「ただ素敵な旦那様を見つけて帰ってきたというだけなら、歓迎されるだけで済んだのですけれど、今回は使節団の案内役もしていますから前代未聞の帰省です」
周りのラミア達は私とセリナの事が気になって仕方がないようで、チラチラと様子をうかがってくるが、セリベア殿は一度だけこちらを振り返ったきりだ。内心では愛娘の帰還をどう思われているのやら。
館の中に招き入れられてからほどなく、モレス山脈で見られる花や動物の他、独特の模様が刺繍された絨毯が敷かれ、ほのかな香気を発する蝋燭が燃える一室に通される。
私達とセリベア殿達との間には長机が置かれ、セリベア殿の左右に妙齢のラミアが一人ずつ、とぐろを巻いた下半身を椅子の代わりにして腰かける。セリナがよくしている動作だな。
他のラミアや夫君達は部屋の扉の側や壁際に立ち、警護と私達の監視を兼ねる。まあ、当然の警戒だ。気にする程の事はない。
「どうぞおかけください。ラミアの里ですが、椅子くらいはありますもの」
そういって事前に用意されていた椅子に腰かければ、セリナも私に続いて母親達同様にとぐろを巻く。
ふむ、私もそれなりに緊張している自覚はあったが、セリナが前代未聞の帰省と言っていたのを鑑みるに、ジャルラ側にとっても今回の事態は前例のない事であり、対応に関して手探りのところがあろう。
さてさて、そうなるとお互い初体験同士、手探りでより良い落とし所を探しあわねばならんわな。
机の上には湯気を噴く赤い飲み物が置かれていた。春を半ば過ぎたとはいえ、山は冷える。待機している使節団の皆にも温かい飲み物を振舞ってあげたいものだ。
「ありがとうございます。私共がこちらをお訪ねした目的に関しては、既にご存じの事と存じますが、改めてお伝えいたします。
現在、我が主君ベルン男爵は、暗黒の荒野方面への開拓事業の他、エンテの森並びにモレス山脈に住まう諸種族との交流が、領地の発展と民の繁栄に不可欠であると考えておいでです。
その為、こちらの里出身者であるセリナ嬢の知恵を拝借し、本日、ご挨拶に伺った次第です」
「補佐官殿、ベルンの方々が再び暗黒の荒野に興味を示された事に関しては、私達も把握しておりました。セリナから伝えられていたというわけではありませんわよ?
暗黒の荒野やエンテの森に住まう蛇は、時に私達の目や耳の代わりとなってくれますので、周辺の情報程度なら集めるのは難しくありません」
ふむ、さりげなくセリナがベルン男爵領の情報を流したわけではないと擁護されたのかな?
「そうでしたか。でしたなら、既に私共がリザード族や、水竜ウェドロ殿の庇護を受けているウアラの民と関係を構築している事もご存じで?」
「ええ。山脈を登ってくる者は稀ですが、それが集団でとなれば否応なく注目が集まるのが道理でしょう。その集団の向う先が私達が遠からず近からず距離を保っていた方達となれば、尚更です」
「確かに、言われるとおりですね。では、話を進めさせていただきたく存じます。私共が用意できる対価と友好に関する取り決めなどを、こちらの資料にしたためております。一度、お目をお通しください。どうぞ」
セリナに預けておいた鞄から目の前に座る三人分の資料が渡される。先のリザード族やウアラの民達との交渉と内容はほとんど変わるものではない。
お互いの集落に大使館を設置する事や商取引の自由や、お互いの領内で法を犯した者への裁判権や雇用条件、居住を認めるなどの取り決めだ。
私にとしては最大の重大事項の魔物と一般に認知されるラミアを人間種と同様に扱い、不当な暴力や差別を加えることを固く禁じる事も明文化されている。
逆にラミアも魅了の魔法などで相手の意思を奪う形での誘惑を禁じている。種族単位での差異もあり、お互いに不便ないしは不利益を被る事もあるが、これはお互いに妥協点を見つけてゆくべしとクリスティーナさんとも結論を出している。
セリナから回ってきた資料の全文に目を通し終えたセリベアは、表情の読めぬ笑みを浮かべたままそっと資料を机の上に置く。
「ベルンの方々からのお申し出は確かに承りました。しかしながらこのジャルラの命運を担う一大事ですので、しばしの猶予を頂戴したく思います。そうお時間はおかけしませんわ、数日の内に回答いたします。
その間、外でお待ちになっている他の使節団の方もどうぞジャルラにお入りください。
少し、里の皆が浮足立つかもしれませんが、そこはどうぞご容赦を。外からあれだけ多くの方がいらっしゃるなど、過去にないことですから」
「寛大なお言葉、ありがとうございます。使節団の者達には厳しく伝えてはありますが、彼らにとってもラミアの方々が住まわれるこのジャルラのような地を訪れるのは初めての事ですので、不作法をしてしまう事もあるかもしれません。
ほとんどの者は所帯を持たぬ独り身ですから、ジャルラの方々はいささか刺激的過ぎます。何かございましたら、ただちに厳罰をもって処します」
あらあら、とセリベア殿は笑うが、ふぅむ、どうやらこちらに連絡を入れなければ、ちょっとした悪戯をしても目を瞑りますよ、と暗に含めたのを察せられたようだ。
団員の中には、まだ異性と手を繋いだ事もなさそうな子もちらほらいたし、下半身が大蛇とはいえラミアの色気には逆らえないだろう。ふむ、まあ、そういう事である。ふむふむ。
「補佐官殿は生真面目でいらっしゃいますのね。補佐官殿も本日はどうぞごゆるりとお休みください。館に部屋をご用意していましてよ。
ただ、ジャルラの女王としてではなく、一個人として、ええ、そう、母親としてぜひとも夫と娘を交えてお話をさせていただきたく思いますの」
拒否は絶対に許さぬと、笑顔を浮かべたセリベア殿の笑っていない瞳が私に強く訴えかけていた。おおう、今は女王ではなく母親としての顔を前面に押し出してきているな。心なしか、部屋の中にいるラミアの方達も先ほどよりも険しい視線を私に向けている。
私がセリナに相応しい男かどうか、厳しい審査がこれから待っているのだ。私は長机の下から伸びてきたセリナが、私の手を握るのをそっと優しく握り返した。
ふむ、セリナから山ほど勇気を貰えたな。ではいよいよ、私の個人的な人生最大の戦場に赴くとしようではないか!
それにしても、セリナの人間であるという父君はどんな方なのだろう。そしてセリベア殿も私的な場面ではどんな母親であるのだろう。私は今から心臓が破裂してしまいそうな気持ちだった。
ドランの想定するそういう事、というのはジャルラで使節団員の何人かが卒業するような事です。
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第二百二十五話
セリベアの許可を得たドランとセリナが、ジャルラの里からやや離れた位置で待機しているベルン男爵領使節団を呼びに行っている間に、セリベアは手早く指示を飛ばして使節団を迎え入れる準備を進めていた。
もともと使節団を里の中へ招き入れる事は事前に取り決めていた事もあり、準備をほとんど終えてはいたので、ドラン達が外に出てからまた戻ってくるまでの短時間で済ませる事は出来る。
それまで家の中から出ないように命令していた里の者達に、野外へ出る許可を出して使節団の為に用意した宿泊施設に続く道への飾りつけなどを行うように命令している。
元々、セリナの帰省に伴う他所からの多数の男性の来訪とあって、ジャルラの里は知らせが届いてからちょっとしたお祭りのような雰囲気になっており、未婚のラミア達は大半が浮足立っている。
あまり浮かれすぎて羽目を外さないように、セリベアが何度か綱紀の引き締めを行わなければならなかった程である。
「宿の手配はつつがなくおこなえているわね? 初めてのお客さまよ。手抜かりがあっては末代までの恥となるわ。
使節団の馬は全てゴーレムですから、飼葉も水も用意する必要がない事は覚えているわね。要らぬものを用意して必要なものの手配に手抜かりがないように」
先ほどまでドラン達と会合していた部屋の中で、セリベアが次々と出す指示にラミアとその伴侶達はほとんど間をおかずに返答し、部屋を出る者と入る者とが激しく入れ替わる。
セリベアはジャルラの女王という地位に就いてはいるが、代々の女王は選挙で選ばれる事もあり、王制国家における国王ほど権威があるわけではない。
ましてや人口が千人前後の小さな社会を効率的に機能させる為の称号に過ぎず、機構の一つであるから、セリベアに命令される側の者達からの返答も見知った者に対する言葉遣いだ。
「宿の手配は済んでまーす。ドラン補佐官様とセリナちゃんと使節団の偉い人達はこの館でしたよね? 客室と食事の準備も大丈夫です!」
やや軽薄な口調で返したのは、セリナよりもいくらか年上のラミアだ。報告を終えると手に持っていた資料の紙を、他のラミアに手渡してさっさと部屋を後にする。
まだ他にもする仕事があるとはいえ、女王を相手にする態度ではないと周辺諸国の者達だったら目を丸くするだろう。
他のラミアもセリベア自身もそんな態度を気に留めず、セリベアは次に確認するべき事に耳を傾ける。
ドラン達の前では全員、それなりに畏まった態度を取りもするが、内情を知るセリナがあちらにいる以上はそう意味のない事だろう。
「それと伴侶選びは向こうもある程度は理解を示してくれているけれど、無理強いをしてはダメよ! 魅了の魔眼なんて以ての外よ」
「お酒をたっぷり飲ませた後で誘うのはありですか?」
「相手の意識が朦朧とする程飲ませるのは止めておきなさい。それと自分に自信があるのなら、そしてラミアであるのなら、素面の相手を堂々と正面から射止めなさいな。はい、次!」
「使節団の案内役の一覧表です。全員すでに所定の位置についています。使節団が里に入ったらすぐにでも対応可能な状況です。また警備の方も人員の配置は万全です。キメラやワイバーンの襲来があっても、怪我人一人だって出しません」
「よろしい、そこまで断言するなら見事実現して見せなさい。最近はワイバーン達が大人しいとはいえ、決して油断しないように。
使節団の皆さんは暗黒の荒野を経由しての旅で、お疲れでいらっしゃるわ。夕餉にお出しする食事は、なるべく胃腸への負担の小さいものを手配するように。お酒も口当たりの優しいものを用意するのを忘れないで」
それから何度かの質疑応答と状況の報告と確認を終え、セリベアは一息を吐いた。部屋の中にはセリベア以外に姿はなく、全員がそれぞれの仕事を果たす為に里の各所へと散っている。
ベルン側がエンテの森とは違い、魔物であるラミア主体のジャルラと交渉を持つ事が初めてであるように、ジャルラ側もベルン程大きな規模の人間種の集団と本格的な交渉を持つのは初めての事だ。
外の世界へと送り出したばかりのセリナから届いた知らせが里に知れ渡った時には、まるで嵐でも起きたような騒ぎが生じ、それを鎮めるのに、使節団が到着するまでの貴重な時間を随分と浪費してしまったものだ。
種族単位で強力な魔法使いでもあるラミアの集団であるジャルラは、モレス山脈内でも強力な勢力と言える。
しかしながら耕作面積の少ないモレス山脈の隠れ里という事もあり、持久力の低さや種の特性としての人口増加の難しさ、またどうしても閉鎖的になりがちになってしまうなど、ジャルラにも当然問題はある。
今回のベルン使節団の来訪は、それらの問題をすべて解決とまではゆかぬまでも、解決に向けて大きく前進させる切欠にはなると同時に、また新たな問題を生じさせる可能性も秘めた大きな転機だった。
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第二百二十六話
私の発した言葉によって凍った室内の空気を融かしたのは、真剣な眼差しをこちらへと向けるセリベア殿の言葉だった。
「暗黒の荒野の諸勢力の統一というだけでも一大事ですが、それらからの侵攻となれば心穏やかではいられませんわね」
表情を凍らせる他のラミアの方々とは違い、柔らかな微笑を口元に浮かべられるだけの余裕があるようだ。その傍らのセリナの父君も表情を固く変えてはいるが、こちらもまた伴侶の心情を慮る余裕が見て取れた。
私の目配せを受けて、ネオジオが新たな資料をラミア側に配布し、それが行き渡るのを待ってから再び口を開く。あまり愉快な話ではないが、しないで済ませられる話ではないからな。
「前兆は既に昨年の夏に現れていました。あなた方もそれに気付き、何時かは分からないが高い確率でやってくる脅威に対しての備えを進めていた筈です。皆さんの危機意識の高さは私なりに理解しているつもりです」
何しろ久方ぶりにゴブリンの大群が押し寄せてきたのだ。彼らの進軍経路からモレス山脈は大きく外れてはいたが、荒野や川辺に住まう蛇達と契約を結んで構築した警戒網を持つジャルラの方達が、ゴブリンの軍勢に気付かなかったわけはあるまい。
セリベア殿は表情も雰囲気も変えず、微笑も変わらない。こちらの言葉を吟味しておられるか? 私は自分の分の資料に一度視線を落としてから、再び口を開いた。
「私達も昨年の襲撃以来、待ちの一手だけを取っていたわけではありません。ゴーレムや使い魔を用いて、暗黒の荒野への探索を幾度となく繰り返し行ってきました。それは今も同じです。
過去の経緯からしても、彼の地の勢力が真っ先に狙うのはベルン村かロマル帝国の方面ですからね」
私の用意した資料には、虫や鳥型のゴーレム達の視界を通じて目撃した暗黒の荒野の光景が、そっくりそのまま写し取られたかのような精密さで印刷されている。
念写と呼ばれる、記憶の中の光景などをそのまま紙などに写す技術で、魔法と超能力の双方で実用化されている。
「これはっ、ここまで暗黒の荒野で準備が進んでいたとは」
私が前世の知識の棚を少し漁っている間に、資料に目を通したセリベア殿や他のラミアの方々から驚愕の声が小さく漏れた。
私の予想通り偵察行為は行っていただろうが、暗黒の荒野側も防諜を意識しており、早々たやすく軍備の確認までは出来ていなかったか。こちらからより詳細な情報を提出した事で、情報収集の面ではベルン側が勝ると認めてくださると少しは交渉が有利になるか。
念写をより精密に写せる特殊な用紙には、金属製の鎧兜で身を固め、長槍を携えて整然と並び、またあるいは大型の鳥獣や爬虫類に跨り、鉄砲を構えるゴブリンやオーク達。
他にも魔法使いらしい装いの他にも、大砲を牽引する巨大な大亀や牛馬、今は地上に降りて翼を畳んでいるグリフォンやマンティコア、ワイバーンとそれを操る騎手達。
また少ないが人間の集団の姿も見受けられた。暗黒の荒野に生を受けた異民族の者達だろう。軍門に降るか自ら膝を屈したのかは分からないが、彼らまた魔族の軍勢の一員であるのは間違いない。
いや、そればかりではなく、ベルン村の付近では見かけない複数の魔獣達や、巨大なゴーレム、さらには言語や魔法を操る知性を失った下位の亜竜達の姿さえもある。
よほど優秀なビーストテイマーやゴーレムクリエイターを揃えているのだろう。魔獣達もまたゴブリンの兵士達同様に整然と列をなして、お互いに過剰に警戒心をむき出しにしている様子はない。
野生の魔獣達ならとっくに殺し合いが始まっている距離でも、制御が行き届いて貴重な戦力を減らすようなへまをやらかしていないのだ。
狼や猪、熊に鷲や鴉、百足に蛾、蟻と少なくない数の亜人も念写の中に写り込んでいるが、その中でも目立つのは肌の色が青や赤であったり、頭から角を生やしたり、従来の目の上に更に一対の目を持つ多種多様な魔族達の姿であった。
彼らは、かつて大魔界からこの地上へ多くの力を失いながらも移住してきた魔族の子孫達だ。幸いにして神の領域の力と霊格は失われているが、個々の力は人間型の生物としては頭抜けている。特に先祖の血の濃い者は、神の亜種と呼べる圧倒的な強者となる。
「暗黒の荒野を統一したのはこの魔族の一団です。以前から有力なゴブリンやオーガの氏族による骨肉の戦いが繰り広げられていましたが、この様子を見るに上手く臣従させたようです。その手腕に関しては、見事と褒めおくしかないでしょう。
どうやら暗黒の荒野では住民全員を総動員して、軍備の増強に努めていたようです。兵站を支える食糧を確保する為の大規模農園の開拓に、大量の武具を生産する為の設備と原材料となる鉱山の開発、多様すぎる種族の混成軍の指揮系統の確保と戦術の構築。
前もって数年か数十年をかけて荒野の外への侵攻に備えてきたのでしょう。だからこそ恐ろしいまでの短期間で暗黒の荒野を統一する事が叶ったのでしょうから」
「補佐官殿は気楽に言われますが、この念写に写っているだけでも十万にも二十万にも届こうかという軍勢です。
暗黒の荒野はこの十数年で徐々に豊かさを増してきましたが、尋常な方法ではこれだけの軍勢を十分に養えるだけの国力を得るまでには到らない筈。
正確な時期は分からないにせよ、軍と国を維持する為の食糧と領土を求めて動き出すのは確かでしょう。いえ、もう動き出しているのですね。暗黒の荒野からこのように統率された軍勢が来るなどと、夢にも思っていない周辺国には途方もない脅威です。
ベルン男爵様や補佐官殿のような方を擁する貴国は、本当に恵まれておりますわね。ここまでの軍備を整えていた事に関しては、私共も予想外であったと正直に言わざるを得ないでしょう。
もし彼らが本気で覇を唱えようとしており、この隠れ里にも目を付けるのならばいくら地の利があろうとも、私達が軍門に下るのは時間の問題。ベルンの方々がモレス山脈の諸勢力と友誼を結ぼうとお考えになるのも、当然の事ですわ」
言わずもがなと言えば言わずもがなの事ではあるが、この場にいる他のジャルラ側の方達に改めて情報を整理させ、理解させるための時間を設ける意味もあって、セリベア殿はくどくどしい程に言葉を重ねたのであろう。
セリベア殿は一度だけ深く息を吸い、熟した美貌を引き締め直して私を見る。私の事を娘の伴侶とは欠片も見ず、女王として相対しなければならぬ相手と改めて考え直されたか。
「礼を失した言葉になりますが、これだけの戦力を整えた相手にベルン領の皆様は勝機を見出しておられるのでしょうか?
我らラミアは元を正せば魔物と恐れられ、蔑まれる存在。人間種よりも魔族側と手を結ぶ方が自然であると、そうはお考えになられませんか?
あるいはあなた達はそうは思わなくても我らの事を深く知らぬ王国の方々は、そのように疑心暗鬼に駆られるのでは?」
セリナが母親の言葉に咄嗟に口を開きそうになるのを、私が机の下で手を掴む事で制止し、にわかに危うい雰囲気になった室内に構わず答える。なに、これくらいの事は事前に想定済みであるともさ。
「むろん、これらの軍勢に対する勝機はございます。暗黒の荒野と接しているのは我がアークレスト王国をはじめ、今は戦乱の最中にあるロマル帝国を始め、遠く北西に位置するローハン帝国など、自然と暗黒の荒野を包囲する配置になっています。
暗黒の荒野の軍勢が南下するのか、西に向かうにせよ、彼らがその戦力の全てを費やす事はまずないでしょう。
王国としての対処に関してはこの場では口に出来ない事も多いのですが、ベルン男爵領としての対処では、モレス山脈並びにエンテの森との連合によって暗黒の荒野の軍勢と当たる計画です。
数の上では、それでも到底及びますまいがモレス山脈の風竜オキシス、ウィンシャンテ、雷竜クラウボルト、水竜ウェドロ、地竜ガントン、ジオルダ、火竜ファイオラ、深紅竜ヴァジェら竜種と同盟を結びました」
「まさか、モレス山脈の竜種達と!?」
ちなみに先に挙げた竜種の中で、私が古神竜ドラゴンである事を知っているのはヴァジェだけである。モレス山脈の竜種達と知己を得て一年と少しになるが、それなりに顔馴染みが増えたものだ。
「ええ。お互いに軍事的な脅威が迫った際には共同でその脅威に当たる事。またベルン男爵領内での交易に関わる協定などを結びました。
彼ら竜種だけではなく、その眷属であるワイバーンやワーム、ドレイクなどといった下位の竜種達もこちらの味方となります。彼ら竜種だけでも、頼りになりそうでしょう?
それに上位種の深紅竜もこちらに助力してくれています。彼女は大国の軍勢にも匹敵する戦力です。暗黒の荒野の亜竜程度は問題にもなりません」
「なるほど、それなら確かに数は大きな意味を持たないでしょう。モレス山脈に住む以上、時折竜種を見かける事はありましたが、その度にこちらが見つからない事を祈るばかりでした。
竜種は決して凶暴な種族というわけではありませんが、それでも他の種族と比してあまりに強すぎるのです。そんな彼らと協力関係を結んだあなた方の手腕には、驚嘆せざるを得ませんし、呆れる程の胆力をお持ちのようですね」
「故郷の為と思えば、恐怖で手足が震えるのを抑えるくらいの事はいくらでも出来ます。
また、ジャルラの皆様が私達と手を携えてくださるか、魔族の側につかれるか、こればかりはあなた方の意思に委ねるしかありません。
これはあくまで私個人の意見になりますが、彼らのもたらすものは繁栄があるかもしれませんが、それには支配と破壊と血が色濃くまとわりつくでしょう。
そして、ラミアという種に対する悪しき風聞を更に強いものへと変えてしまう事は間違いありません。私はその事がジャルラの里の皆様と他のラミア達にとって、何よりの災いになると思えてならないのです。
また、私達の側ですが、確かに王国全土でみればまだラミアに対する恐怖や敵意というものは拭えてはいません。
しかし、我がベルン男爵領においてはたとえラミアであれ、徒に傷つける事は、人間を傷つけるのと等しい罪と法に定めています。人間種に根付いたラミアへの印象は、今日明日拭えるものではありますまい。
ですから、私とクリスティーナ男爵はベルンをきっかけとして人間達にラミアとの共存を考える思想を広げて行ければと考えているのです。これからもずっと隠れて行くよりも、堂々と太陽の下で恋路を行く方が、あなた達にとってよほど良い事でしょうから」
「そう、それが貴方のお考えですか」
「私個人の考えだけではありませんよ。クリスティーナ男爵を始め、ベルンでセリナに近しい者達ならジャルラだけでなく、全てのラミア達と友好関係を築ければと願っています」
「それは、いえ、それこそ一朝一夕でどうなるものでもありません。ラミアの中にも多くの考えを持った者がいます。貴方達の差し伸べた手を取ろうとしない者達も、当然いるでしょう」
「差し伸べた手を払われたとしても、諦めずに差し伸べ続けます。私はもちろんクリスティーナ男爵も諦めの悪い方ですから。まあ、時には強引に手を引っ張るくらいの事をしでかしてしまうかもしれませんが……」
「貴方達ベルンの方々の誠意はよく伝わりました。きっと前向きな返事をする事が出来るでしょう。
今日は遠く我らの里まで足を運んでくださった皆様のお疲れを癒すべく、心尽くしを用意させていただきました。そろそろ陽も落ちる頃合いです。どうぞ一時だけでもお仕事を忘れて、私達の歓待をご堪能くださいましな」
しゅるりととぐろを巻いていた下半身を解く音を立ててセリベア殿が立ち上がり、私達を歓迎の用意を整えてある広間へと誘った。
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第二百二十七話
和やかな雰囲気のまま、晩餐会は終わりを迎えて、ベルン男爵領使節団の面々はジャルラ側に用意された宿へと散って、交代で寝ずの番をする護衛以外は明日に備えて眠りの国へと旅立つ準備をし始めている頃だろう。
使節団の代表である私も同じく今日の感想などをネオジオやシュマルらと語りあい、明日以降の活動について意見の微調整などをするのだが、その前にセリベア殿とジークベルト殿にセリナ共々声を掛けられて、四人で面会する事になっていた。
言うまでもない。改めて語るまでもない。ないが、とうとうこの時がやってきたのであると、私は生唾を飲み込む思いであった。有り体に言って緊張している。
これから私はベルン男爵領の補佐官としてではなく、セリナの伴侶候補として義理の父母となる方々と顔を合わせるのだ。
セリナもセリナでその顔に緊張の色を浮かべている。彼女はこれから生まれ故郷の掟から外れた事を愛する両親に願い出ようとしている。
自分の緊張の事ばかりを考えて、セリナの事を疎かにしてしまっては本末転倒だ。改めて気合を入れ直し、セリナと共に来るように告げられた部屋へと足を踏み入れる。
この館は代々のジャルラの女王の住居でもあり、その中でも特に私的な区画の中にある部屋である。女王としての顔を忘れて、家族と安らぐ為の区画というわけだ。
そういった場所に呼ばれるという以上は、やはりセリナの親として私と話をしたいのだと、暗に告げられていると解釈するべきであろう。
部屋の外には護衛や侍従の姿もなく、部屋の中にもお二人の気配のみしかない。
「失礼いたします。セリベア殿、ジークベルト殿、ドランです。セリナも一緒です」
「ええ、どうぞお入りになって」
部屋の中から返ってきたセリベア殿の声は、女王として接しておられた時よりも幾分か柔らかい印象を受けた。ふむ、あちらはもう女王ではなく母としての心情に切り替わっておられるか。
扉を開いて中に入れば、こじんまりとした部屋の中心に何枚もの敷物が重ねられ、そこにラミア用の大きなクッションが置かれ、その上で長大な下半身を伸ばしたセリベア殿が腰を落ち着け、隣にジークベルト殿が椅子に腰かけて柔和な視線をこちらに向けていた。
セリベア殿達の対面にセリナ用のクッションと私用の椅子が置かれており、にこやかな笑みを浮かべているセリベア殿がそちらを勧められて、私達は大人しく腰かけた。
私とセリナはお互い緊張しているなと思いつつ、婚姻の挨拶をつつがなく終わらせるべく史上最大の敵……いや、敵と言っては語弊がある。壁と例える方が適切だろう。壁と向かい合う。
「こんな遅い時間に呼びつけてしまってごめんなさいね。もう褥に入る頃合いだったかしら?」
やはりというか、セリベア殿の口調が先程までと比べると随分と砕けている。こちらとしても、その方が肩の力を抜いて言葉を交わせるというもの。
「いえ。今日はあまりに実りの多い一日でしたので、クリスティーナ男爵にいい話ができると、皆と遅くまで話し合う予定だったので」
「あら、それでは私達の為に時間を作って貰うのは申し訳なかったわね。夜更かしを強要してしまう形になってしまったわ。なんならまた日を改めて頂いても構わないのだけれど」
「どうぞお気遣いなく。時間を置いて改めるよりも、このまま話をさせて頂く方が私にはありがたいのです」
「そう言ってもらえるのなら良かったわ。それと最初に言っておくべきだったけれど、今宵のこれはあくまで私的な会談の申し入れであると、理解しておいてもらいたいの。
今の私はジャルラの女王セリベアではなく、セリナの母親セリベアとして貴方と向かい合っているつもりよ、ドランさん」
私の事を補佐官殿ではなく名前で呼んでいるあたりも、立場を変えて対峙しているからこその変化か。セリベア殿に続いて、ジークベルト殿も表面上は穏やかな態度を維持したまま、私に話しかけてくる。
さて、一人娘を奪いに来た男に対して、父親としていかなる心情であらせられる事か。
「セリベアの言うとおり、私も今はセリナの父親としてこの場にいるつもりだ。ここでの話がどうあれ、ベルン男爵領との交流に不必要な影響を出さず、公正な立場で判断する事をあらかじめ約束しておこう。
不安要素を抱えたままでは、ドラン君からは忌憚のない、素直な心情を聞けないだろうからね」
ジークベルト殿がベルン男爵領との交流について言及されたのは、口にした通り私が要らぬ気遣いをしないようにという配慮だろう。
あるいは父親として何が何でも本音を聞き出してやるという決意の一端であったかもしれぬ。後者であるとするなら、説得は腹を据えて掛らねばならんのう。
「私的な席であるというのなら、素直な心情をお伝えするのが誠意の表れであると心得ております。ただ、私の答えがお二方の気に入るかどうかは、はなはだ不安でありますが」
さてさて、どうなるものかな、と私は内心で零しながら椅子に腰かけた。
セリナも今は下半身でとぐろを巻かずにクッションの上に腰を落ち着けて、母親を真似るように長大な下半身を床に伸ばす。
その横顔をちらりとのぞけば、大好きな父母を前にしてもまだまだ緊張は抜けきっていないのが容易に見て取れる。
ジャルラの習わしに反する行いの原因は私であるから、何とも申し訳ない気持ちになってしまう。私の所為でこの親子の間に不和など生じぬように、尽力せねば!
「ドランさん、私もジークベルトも耳触りのよい虚言よりも心苦しい本音の方を聞かせて欲しいと望むわ。それと改めて、私達の可愛いセリナ、無事に帰ってきてくれて、なによりもその事が嬉しいわ。おかえりなさい」
「セリベアの言うとおりだ。まず、お帰りと言わせてくれ。この里を旅立った時以上に健やかな様子で、とても嬉しいよ」
「はい、ママ、パパ。セリナ、ちょっと時間は経っちゃいましたけれど、ただいま帰りました」
両親からの優しさに満ちた言葉に、セリナは入室してからようやく晴れやかな笑みを浮かべて答えた。青い満月のように美しい瞳には、透明な滴がわずかに滲んでいたように見えた。ふむふむ、仲睦まじき親子とはまこと微笑ましいものである事よ。
「伴侶を連れて帰ってきたのはきちんと旅立ちの目的を果たしたと褒めてあげたいのだけれど、まさか我が娘がジャルラ史上最大の問題、いいえ、これは課題と呼ぶべきね。課題を持ち帰ってくるとは思わなかったわ。ねえ、ドランさん?」
「課題の一部である私としては、いささか言葉に困ってしまいます。もちろん、セリナの伴侶として彼女に見合う男であろうと、日々自身に言い聞かせておりますし、そうであろうと己を戒めております」
「そう、セリナを高く評価してくれているのは、母としては嬉しい限りですわね。ねえ、ジークベルト」
「ああ。私と君の自慢の娘だからね。だからこそ、その娘が婿を取るのではなく嫁入りを願う事になってしまったのは、君らにはすまないが悲しい事だ」
「セリナをお二人、そしてジャルラの皆さんにとって受け入れがたい話を申し出た事に関しましては、申し訳なく思っています。
しかし、私としてもセリナを手放すつもりはありません。私にはもったいない素敵な女性だと思っておりますので、いまさら他の男にくれてやるつもりは毛頭ないのです」
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第二百二十八話
時はいささか遡る。
ドランとセリナによる今後の婚姻に関する話を聞き終えたセリベアとジークベルトは、そのまま愛娘を引き取って、今度こそ親子水入らずとなる時間を過ごす事となった。
ドランは既に用意された部屋へと足を向け、セリベア達三人はジャルラの女王の私邸となる区画の広間に場所を移し、円卓を囲んで話を続けていた。
二年も経たないうちに帰ってきた愛娘が、誰もが太鼓判を押す健康体である事は両親夫婦そろって歓迎するところであったし、庇護者のいない外の世界を旅した事で、親の贔屓目はあるかもしれないが、愛らしさはそのままに逞しさを備えたように見える。
「まったく、貴女は困った相手をひっかけて帰ってきたわね。このこの」
「やん、ママ、そんなに抓まないで。赤くなっちゃう」
セリベアは円卓越しに腕を伸ばし、緊張感をすっかり失くしている愛娘の頬を軽く抓む。
微笑ましい母と娘の触れ合いの図であるが、セリベアがセリナの頬に触れるのと同時にその肌の艶や肌触り、その下の筋肉の凝りから精気の流れまでをそれとなく探っていたのに、セリナは気付いていなかった。
里を出る前に比べて格段に質と量を増した愛娘の精気に、母が内心で驚きに声を失っているとは知らず、セリナは頬を抓まれるがままで大して嫌がる素振りも見せない。
セリベアの内心の変化に気付いたのは、セリベアと二十年以上を連れ添ったジークベルトだけだった。
「セリベア、そこまでにしてあげよう。セリナ、話が少し戻ってしまうかもしれないけれど、今はベルン村で暮らしているようだが、この後も暮らし続けるつもりなのだね?」
「うん。パパの言う通り、ベルン村でドランさんの傍で他の皆と一緒に暮らしてゆくつもりだよ」
「先程までの話を聞いていると、ドラン君は表沙汰には出来ないところで多くの武勲を挙げたようだけれど、セリナもそれに巻き込まれていたのだろう?
君が危険な事に巻き込まれないようにと、セリベアとずっと祈ってきていたが、どうやらその祈りは届かなかったようで残念だ。
そしてこれからもベルン村で暮らすのならば、またこれまでのように危険な目に遭うのではないか? ドラン君との結婚よりも、パパはその事の方が気掛かりだよ」
ジークベルトの危惧も当然の話であった。伴侶探しの旅に送り出した娘が、どうして二年未満の間に遭遇する事も稀な悪鬼羅刹の類と死闘を繰り広げる事になったなどと、どんな親が想像出来ようか。
また、ようやく帰ってきた雛鳥が再び同じ危険な目に遭う可能性を、どうして許容出来ようか。
ドランの傍らで常識を超越した存在との戦いに慣れたセリナは、ほとんど危険を危険と感じなくなりつつあったし、実際、ドランが居れば戦いで生命を落とす事はまずあり得ないと理解しているが、詳しく説明できない以上は焦点をぼやかした返答しかできない。
「ううんと、これまではあちこち行った先で、本当に偶然巻き込まれるばっかりだったから、これからはベルン村に腰を落ち着けるし、そう何度も危険な目に遭う事はないと思うよ?」
「暗黒の荒野から攻め入られるかもしれないのに?」
「う、それは避けようがない事かもしれないけれど、でも、それはジャルラの里にも言える事でしょう?
里を捨てるにせよ、暗黒の荒野の軍勢に降るにせよ、戦禍を被るのには変わらないし、私個人で済む話でもないし、暗黒の荒野の危険性に関してはベルン村にいてもジャルラの里に帰っても変わらない話だよ」
「ふう、外に出てから口が達者になったね。それにきちんと状況も理解できているようだ。
まだ私達は直接暗黒の荒野の勢力の情勢を知ったわけではないから、判断しかねるところが多いが、手を取り合うのが難しい相手であるとは思うよ。
それを考えれば、セリナの事だけではなく、ジャルラとしてもベルンを通してアークレスト王国と縁を繋いでおくのは大きな保険になる。
だがそれはそれとして、セリナ、ドラン君の秘書のような仕事をしているというが、有事の際にはよもや前線に出るような事はないだろうね?」
「う~ん、どうかなあ? ドランさんが魔法戦力の筆頭だし、私も一緒についてゆく事になるとは思うよ。
それに去年の夏にゴブリンさん達が攻めてきた時にも、私はドランさんやベルン村の皆さんと一緒に戦ったし、今更私だけ戦わないっていうのも変だよ。
でも本当に戦争になるのなら、ベルン村だけじゃなくって、ガロア総督府から近隣の貴族の方達にも召集が掛けられるだろうから、戦線には出ても最前線にまでは足を伸ばさないかも? としか言えないな」
「そうか。こちらがどうこう出来る問題ではないとはいえ、暗黒の荒野の者達も厄介な時期に争いを起こそうとしてくれるものだな。
そうとなれば里の子らを外に出すのもしばらくは差し控えなければならないし、ますますもってベルン側から使節団を派遣して貰えた事が、ありがたみを増すな」
発展著しいとはいえ、やはりベルン男爵領はまだまだアークレスト王国の辺境の中の辺境という評価から抜け出せてない。
そんなところが戦場となるかもしれず、そこに愛娘がいるというのは親としては心穏やかにはおられまい。ジークベルトの眉間に深い皺が刻まれるのを、セリナは困った顔で見続けた。
「パパ、そんなに心配しないで。さっき、ドランさんが言っていたようにモレス山脈の竜さん達が力を貸してくれるし、エンテの森のユグドラシルさんも力を貸してくれるから、むしろベルン村は世界中の何処よりも安全な位なんだから」
「先程の話が一から十まで本当であるのなら、確かに心配するだけ無駄なのだと頭ではわかるのだけれど、やはり親は心配をしてしまうものだよ。理屈と感情は別物だとよく言うだろう? それに、これからの子供達にも関わる事だ」
腕を組み、難しい顔をするジークベルトの方に、穏やかな微笑みを浮かべたセリベアが手を置いて慰めるように取り成した。愛娘の急成長に受けた衝撃からは、どうやら脱出できたようだ。
「ジークベルト、セリナや里の未来の事が心配なのは分かるわ。私も随分とドランさんにくどくどしく尋ねてしまったけれど、家族だけのこの場でも問いを重ねるのは止めておきましょう。
それに直にベルンへ向かって、この目で確かめれば私達の心配が杞憂であったかどうかも、はっきりとするもの」
「……それもそうか。思うところがないわけではないが、あのドラン君が善良な人間であろうというのは、分かった。
腹芸の出来るような器用さも持ち合わせてはいなさそうだからね。私達に語った言葉に、虚飾や欺瞞はほとんどないだろう」
「セリナ一人だけを選んでくれていたなら、親としては特に問題にするところはなかったのだけれどねえ」
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第二百二十九話
ドランを団長とする使節団の一行が、ジャルラの里から視察の名目で十四名の男女を引き連れてベルン村に帰還した頃の話である。
発展著しいベルン男爵領にあって、ある特定の層に属する者達が領主クリスティーナとその秘書官であり遊撃騎士団に所属するドラミナによって集められていた。
領主の館に呼び集められた者達は、クリスティーナ達を除いて七名程。
決して豪奢ではないが、室内に飾られた絵画も今は火の灯っていない燭台も、また部屋の中心に置かれた円卓も、硝子戸を飾る枠に施された細工も、どれ一つが欠けても損なわれる繊細な調和が成り立っている部屋だった。
丁重に会談を申し込まれ、それに応じた彼らは侍女に扮したリネット、キルリンネ、ガンデウスから持て成しのハーブティーをご馳走になってから、中庭へと続くテラスを背にする領主へと目と意識を向ける。
領主と秘書官が揃って左腕に同じ設えの腕輪をしている事が、わずかに出席者達の意識を引いたが、それも到って真剣な眼差しで自分達を見る若き女男爵の深紅の瞳とその美貌を見れば、すぐさま忘却の彼方へと追いやった。
ドラン不在の折にクリスティーナ達によって集められたのは、昨年の夏に起きたゴブリン達との戦をきっかけに、今やベルン村へ次々と集まってきた各教団の代表者達であった。
本来ならもっと数が居るのだが、同じ系統の神を崇める教団に関しては、お互いに話し合って代表者をお送り出し、後程話を聞く事になっており、大挙して屋敷に押し掛ける事態を未然に防ぐ処置が取られている。
出席者の中でクリスティーナやドランと顔見知りなのは、元からベルン村に出向していたマイラール教団のレティシャ位のもので、他の者達は新しくベルン村に派遣された新参である。
マイラール教団は人間諸種族の中でも特に信者の多く、影響力が高い事もありレティシャ以外にも司祭の位を持つ者が派遣されていて、レティシャはその司祭の助言役としてこの場に出席している。
他にもケイオス教団、アルデス教団、オルディン教団、ジャレイド教団とマイラール教団以外にも大神として知られる神々の信奉者達がいる。
ただ、これらの教団の者達は新しい都市や発展の見込まれる街等には良く派遣されるのが通例であり、別段、おかしな面子ではない。
むしろ彼らが派遣されているという事は、ベルン村は将来を見込まれているという証左であり、これは領主としてクリスティーナ達は喜ぶべき事であった。
そして、このベルン村における宗教関係者と領主との間に設けられた会談の場には、通例であれば姿を見る機会が稀か、あるいは史上初となる事例が三つ程――あるいは三つも! ――存在していた。
まず、この会談に時を司る神々の中では比較的低位で信仰者も少ない弱小勢力クロノメイズ教団の大司教ロイエルバインが居る。
六十の齢に差し掛かったロイエルバインはクロノメイズのシンボルをあしらった、袖のない薄手のローブに袖を通し、皺深い顔に柔和な笑みを浮かべている。
この場に今は王城で護衛暮らしをしている八千代か風香が居たなら、微笑んでいるお地蔵様みたいな御仁でござるな、と故郷を思いながら感想を口にした事だろう。
他の教団のベルン村における最高責任者が司祭であるのに対し、クロノメイズ教団においては教団長、副教団長に次ぐ序列第三位の大司教が派遣されるという異例の事態が発生している。
当初、クロノメイズ教団の大司教が派遣された際には、いくら弱小教団とはいえよもや大司教が、と他の教団の者達を驚かせたものだ。
二つ目の稀なる事例はロイエルバインの左隣に腰かけた、赤銅の肌に黄色みがかった髪を長く伸ばした三十代半ば程と見える、野性味溢れる風貌の男性だった。
何かの革紐で束ねられた髪の間からは左右で大小一対の灰色の角の先端が飛び出ており、灰色の瞳は縦に細長くすぼまっている。
筋骨隆々とした肉体には緑に染められた半袖のシャツに藍色のズボンと、一般的な衣装であったが、肘から先や首元にかけてわずかにだが灰色の鱗に覆われている個所があり、両手の指先には太い鉤爪が生えていた。
明らかに竜の特徴を備えているが、それでもこの男性はドラゴニアンではなかった。
神ではなく知恵ある竜種を信奉し、彼らと契約するかその生態を模倣する事で後天的に竜としての属性と能力を獲得しようとする宗教団体――竜教団の代表者デナトがこの男性であった。
大陸各地に疎らに存在する神ではなく竜を信奉する奇特な教団は、横の連帯がそう深くはなく、どこぞの深山幽谷なりで竜種を間近に観察していた一派が、このベルン村を訪れていたのだ。
神を信奉しない竜教団ではあるが、別段、人類に仇をなす邪悪な存在というわけでもなく、また世間一般的な良識と倫理観を共有する団体である為、特に人類社会から異端視なり敵対しされているわけでもない。
街で見かけたとして、おやまあ珍しい、と思われるか、竜教団とは何か? と首を傾げられるのがごくありふれた反応であろう。
そしてこの二つの稀なる例ですら霞む特大の問題が、クリスティーナの傍らに立って、出席者達に友好的な微笑みを浮かべたまま、今に至るまで無言を貫いていた。
ベルン村内での各教団の土地の分配や祭事の日程の調整などの為に設けられた定期会合であるが、今回に限ってはクリスティーナの隣に立つ者、いや存在に関して少しでも情報を得る為に集まったと言っても過言ではない。
静寂の中に肌がひりつくような空気を秘めた室内で、クリスティーナがようやく口を開いた。
各教団の出席者達がひどく緊張しているのに対し、最近では領主仕事にも慣れて余裕のある態度を取り戻しており、実物を知らぬ者でも勇者を鼓舞する戦乙女の声とはこうではないか、と誰もが思う凛とした声が朗々と響き渡る。
「皆様にはこうしてご足労いただき、誠にありがとうございます。皆様がベルン村にお越しになられてそれなりに時間が経ちましたが、村での暮らしには慣れましたでしょうか。
私としましては幸いな事に各地から多くの人々が我が領内を訪れてくれているおかげで、騒々しくも輝かしい日々が続いていると、他所に自慢したい位です」
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第二百三十話
ベルン村南西部は、これまでの発展とこれからの発展を見込んだ外部の商人達が建てた、大小無数の商店がずらりと並ぶ商業区画となっている。
南門から村の中心にある中央広場にかけても、いくつもの店が軒先を並べているが、あちらは露店や屋台などが多く目立ち、きちんとした店舗の数は比較的少ない。
以前に南西部の一角を商人達の宿泊用の土地として提供した経緯と、ベルン村の中では南側ほど安全――ガロアへ近いという意味で――という認識から、クリスティーナ赴任後は本格的に商業中心の区画として整備されている。
ベルン村でのみ取引される特殊な品々を取り扱う店舗や、これまでベルン村では取り扱われる事のなかった外部の品々を販売する店舗から、急激に数を増した冒険者や傭兵相手の武具や防具、医療品を扱う店舗までと様々だ。
日夜、新店舗が開設されるこの商業区画の、奥まった人目のつかない商売には不向きと思われる場所に、ベルン村初となる娼館が開店の時を間近に控えていた。
極めて強い欲求である性欲に結び付くこの施設は、どう規制したところでこれだけ村が大きくなれば、誰かが無許可で経営を始めるだろうという事と、得られる利益並び治安維持の観点などから男爵領の直轄経営――公営となっている。
広大な敷地を外部からの不埒な侵略者を阻む巨大な壁と囲い込み、五階建ての本館と娼婦と男娼達が暮らす別館が建てられている。
娼館で働く者達はここ一年の間に新しく移住してきた者達か、クリスティーナが男爵として赴任後に各地で行った公募に応じた就職希望者達である。
元々娼婦を生業としていた者もいれば、他に金を稼ぐ手段を見つけられずに体を売る恥辱に耐えながら娼館の戸を叩いた者と、事情は人それぞれだ。
公営である為、娼館の最高責任者には領主であるクリスティーナが名を連ねている。
母を失ってからの孤児時代には娼館で雑用働きをしていた事もあるクリスティーナだが、実際に娼婦としての詳細な作法や閨での手練を知っているわけではない。
ベルン村内部に娼館経営の適切な指導者が存在しなかった為に、公営娼館で働く者達の健康面を守る為と指導役には強い友好関係を結んでいる竜淫魔達が採用されている。これ以上ない適任者とも言えるが、同時に適任すぎるとも言えるのが難しいところだ。
ドランとクリスティーナが、利用客が彼女らに溺れ狂い、依存する事ないようにと釘を刺したのも無理のない事である。
主君と雇用主から釘を刺されたとはいえ、はっきりとドランの役に立てる機会に恵まれた事で、竜淫魔神リリエルティエルを筆頭に気合の入った彼女らは、日夜、素人娼婦から癖のついた熟練娼婦達に至るまで、公営娼館の規則から閨での作法に至るまで熱心に指導する日々が続いている。
娼館といっても娼婦の全てが性交を行うわけではない。利用客に酒や食事を提供し、その相手を務めるだけのものから、本番を除いた行為のみを行うなど、金額に応じて利用客が受けられる行為は様々だ。
厨房での料理人から皿洗い、行為後の室内の清掃や衣服の洗濯などを担当する雑用の数も多く、娼婦として働き始めるのに躊躇いがある者や、娼婦として働く事の出来ない者などはそちらで給金を貰っている。
リリエルティエルら竜淫魔の加護によって、性病の感染から守られ、望まぬ妊娠からも守られている他にも、事前に調べ上げた一般的な娼婦の給金の相場よりもかなり高めに設定された公営娼館は、幸いにも就職希望者に恵まれて開店前から十分な数の従業員を確保できている。
中には素性に何の瑕も無さ過ぎて逆に怪しい者や、どこぞやの大商人や貴族の愛人であった者あるいは他所の娼館の関係者など、ベルン公営娼館を通じてベルン男爵領の情報を得ようとしている者も散見されている。
男爵領の御用商人になろうと手を挙げている者や兵士として志願してきた者にも、言ってしまえばクリスティーナの屋敷の使用人や料理人として就職を希望してきた者の中にも、他所からの密偵は入り込んでいるだろう。
その中にはクリスティーナの事を案じたアルマディア侯爵家から派遣された、護衛としての密偵も混じっているから、尚更屋敷内部には複雑な環境が出来上がっているのだが、その辺の事情はドランもクリスティーナも承知の上だ。
密偵だろうがなんだろうが仕事をするなら使う、という方針はこれまでに何度も示してきた事だが、発展の途上にある男爵領ではこの方針が変更される気配は今のところない。
むしろこちら側に引き抜けないか、あるいは給金に領内の情報を含んでしまおうか? などと本気でクリスティーナやドランが提案し、ドラミナを苦笑させる事もある。かつては大国の女王であったドラミナをして、クリスティーナとドランは清濁併せ飲むの範疇を越え気味なのだ。
かくて、人間の欲望を解消するには欠かせない施設の一つが完成するのに合わせ、ベルン男爵領では新たな密偵達の暗躍の温床となる場所が誕生したのだった。
以前行われた信仰会談の出席者達も、当然の事ながら竜淫魔が積極的に運営に関わっているベルン公営娼館の存在には否応なく注目させられていて、かといって大手を振るって利用できる立場にない者が多い事から、情報収集をするのも難しいというジレンマに襲われている。
しかし前代未聞の事態が休まず乱舞しているベルン男爵領は、各教団の聖職者達のみならず新旧の住人達にも、金の匂いを嗅ぎつけてやってきた商人達にも、富と名声を求めてやってきている冒険者達にも、新たな驚きを押し付けてくる、領地単位でのとんでもないビックリ箱化しつつあった。
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第二百三十一話
ベルン男爵となったクリスティーナの下で、庭師の一人として仕えている、五十代後半の短く太い体躯と白髪交じりの赤い髪をしたベネスという男は、実のところ、クリスティーナの父であるアルマディア侯爵から派遣された影の護衛とでも言うべき存在だった。
ベネス以外にも、クリスティーナと彼女の治める男爵領に害をなさんとする者達の動きを阻むよう命じられた、盛大な親馬鹿の発露である護衛達は屋敷以外にも、新しくやってきた移住者の一家や、商人、傭兵に扮して幾人も男爵領に入り込んでいる。
ベネスら影の護衛よりも多く他の領主の手の者や、あるいは異国の間者や世界の闇で蠢く秘密結社の手の者達が男爵領に入り込んでいる。
たかが辺境の地に過剰な人員を割いている、と非難するにはこの地を治める者達の能力と治めるに到った経緯が特異に過ぎた。
領主クリスティーナと補佐官ドランの戦闘能力が、大国の最強格の魔法使いや魔法戦士に匹敵するものである事は、既に近隣諸国に知れ渡っている。
まさしく一騎当千、大規模な騎士団にも相当する規格外の怪物達であり、これの所在や動向を放置する選択肢はない。
また、長らく人類国家と交流の無かった水龍皇龍吉の治める龍宮国やエンテの森とアークレスト王国とが関係を結ぶきっかけとなり、それぞれの重鎮達からの信頼も厚いとなれば、否が応にも注目せざるを得ない。
目を背け、耳を塞いでも、わずかに瞼の隙間から入り込んでくる光と、耳にするりするりと忍び入る音という名の情報が、無理やり注目させてくる、そう表現したくなる馬鹿げた情報をベルン男爵領は次から次へと発してくるのだ。
各勢力の裏仕事を担う者達の間では、今のところ、まだ水面下での暗闘は生じておらず、刻々と人が増え、田畑が広がり、情報と金品が大河から分かれる支流の如く複雑化している男爵領の情報収集に奔走されているのが現状だ。
ただ、ベネス一個人としての感想で語るなら、今は主にクリスティーナの秘書として働いているドラミナというバンパイアには、自分を含めた影の者達の動きを全て見透かされているのではないかと、そう疑問を抱く瞬間が時たま存在する。
一時期、補佐官ドランの使い魔を務めていた、あの美貌のバンパイアも、スペリオン王子がロマル帝国に弔問で訪れた際に、王子を含む近衛の精鋭達をまとめて相手にし、息一つ乱さずに全員を叩きのめして稽古をつけたという、眉唾ものの噂が付きまとう相手だ。
加えてまるで老練な政治家であるかのようにクリスティーナを指導し、その領主としての采配と成長を見守る姿は、ベネス以外の密偵達にもドラミナの素性を疑わせている。
ドラミナもそうだが他にもクリスティーナの近くにいるラミアの少女や黒薔薇の精やらと、多種族国家であるアークレスト王国でも珍しい位に、ベルン男爵領の上層部は複数の種族で構成され、かつ一人ひとりが個として突出した力と非凡なる素性ないしは人脈の主というキワモノ揃いなのだった。
先日もモレス山脈に住まうラミアの集団を領内に引き入れて、ベネス他密偵達がそれぞれの主人に鮮度の失われない内にと情報を送ったばかりだ。
そう、送ったばかりなのだが……ベネスは上空をポカンと見上げたまま、思わず呟いていた。事前に知らされてはいたものの、やはり、実際に目にするとその衝撃は途方もないものだった。
今もなお知恵を持ち、竜語魔法を操る、いわば本物の竜種達が八体も空を舞っているのだから! しかもこれからこのベルンと正式に友好関係を結ぶ為に!
「御屋形様、貴方様のご息女はどうやらとんでもない御方のようですぞ」
思わず口にするべきでない言葉を口にしてしまったベネスだったが、幸い、屋敷の中庭から空を見上げていた彼の言葉を耳にした者はいなかった。
そしてベルン村やその周辺に身を潜めていた密偵達もまた、大急ぎで自分達の主人に伝えなければならない情報が飛び込んできた事に、大慌てで対処をし始める。
ただベネスと彼らとで、大きく異なる心情がひとつあった。
ベネスのようにアルマディア侯爵家か、アークレスト王国に属する密偵とその主人達にとって幸いにもベルン男爵領は敵ではなく、それ以外の者達にとっては小さく見ても潜在的な脅威である事だった。
2021/12/19ダイジェスト版へ~
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第二百三十二話
何体もの竜達が赤茶けた大地の上で整然と並んでいる。
一体一体が竜種以外の生物であったなら、戦いを挑む事すら放棄して逃げ出す以外の道を選べない最強の種族達――の紛い者たる偽竜、偽りの竜達。
一見すれば正統なる竜種と外見からでは区別がつけられない姿の者がいる。
空を飛ぶのに到底役に立たないような小さな翼を無数に伸ばし、肉の瘤を紫色の瘤の合間から生やしている者がいる。
百足の如く長大な体に無数の足を生やし、顔面の半分を埋め尽くす複眼の昆虫めいた姿の者がいる。
火を操る者がいる。水を操る者がいる。風を操る者がいる。土を操る者がいる。
雷を、光を、闇を、音を、氷を、病を、毒を、熱を――様々な属性を帯びた、創造主の事なる無数の偽竜の末裔達が、一つの集団として成立していた。
偽竜達は地上の竜が特にそうであるように、群れを成し、集団として行動する事が稀な存在だ。
創造主や創造主を同じくする上位の悪魔や亜神の下で軍勢の一端を成す事はあっても、よもや地上において偽竜達が秩序だった統制に置かれて、軍勢として成立するなど滅多にあるものではない。
これを成したのが邪神の系譜に連なる者であるのならば、地上の生命にとって恐るべき上位存在が降臨したことを意味し、逆に地上の魔族達が偽竜達を統制しているのならば、それは偽竜すら支配するとてつもない王者の誕生を意味する。
どちらにせよ、いずれは偽竜を含む暗黒の荒野の軍勢と激突するベルン男爵領ならびにアークレスト王国にとっては、厄介という言葉では収まりきらない凶兆の体現者そのものでしかない。
異種族はおろか同族同士でさえ、殺し合う事が珍しくない偽竜達は、自分達の前に立つ二人組の言葉に静かに耳を傾けているようだった。
青黒い肌に銀の髪、そして頭の左右から延びる湾曲した角、黒く染まった目の中に黄金の瞳を輝かせた端正な顔立ちの女と、黄色い毛並みに覆われた獣の下半身と背中から三本目の腕を生やした、赤毛の幼い顔立ちの少年である。
一世代ごとに特異な容貌を持つのが珍しくない魔族の男女だ。この映像を見ているドランが人間に生まれ変わってから、始めてみるこの時代、この惑星の魔族となる。
魔界から地上に移り住んだ一派の子孫であろうから、神としての権能や神格はほとんどあるまいが、それでもバンパイアやドラゴニアンと同等かそれ以上に人型の生物としては最強の一角なのは間違いない。
立ち居振る舞いからしてこの男女の側が、偽竜達の上司にあたるのだろう。青黒い髪の女が身ぶり手ぶりを交えて偽竜達に何かを伝え、それを聞き届けた偽竜達が各々天高く舞い上がり、まもなくそれぞれ小さな集団に分かれて散って行く。
魔族達もそれを追って空中に浮かびあがり、偽竜達が雲よりも高い位置から彼方の地上に設置された目標物を目がけて、上空から偽・竜語魔法や暗黒魔法、ブレスを放ち、爆撃してゆく様を監督している。
これ以外にも偽竜達が無数の兵達を空輸し、特定の目標に対して降下して迅速に仮想敵陣内に戦力を送り込む演習の映像などが続いた。
暗黒の荒野の軍勢は、既に偽竜を戦略と戦術に組み込み、実用訓練を行う段階に達しているのだ。
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第二百三十三話
レニーア・ルフル・ブラスターブラスト。花も恥じらう十七歳の乙女である。
黙ってさえいれば誰もが惚れ惚れと見つめる、妖精のように愛らしい少女だ。
黙ってさえいれば、そう、黙ってさえいれば。
口を開けばおよそ外見に似合わない傲岸不遜なる言葉が飛び出し、その小柄な体からは他者を圧倒する強烈な自信という名前の重圧が放たれる。
肉体こそ人間の父母の間に生まれた、純粋なる人間であるが、魂は大邪神が生み出した古神竜の因子を持つ神造魔獣という、おそらく世に唯一無二の希少存在である。
そのレニーアは在籍するガロア魔法学院において、極めて有名な生徒であり同時に特級の問題児でもある。
成績は極めて良好だが、興味のない授業にはほとんど目もくれず、進級に必要最低限な分しか受講していない。
友好関係はひどく狭く、彼女とまともに言葉を交わす生徒は両手の指にも満たない程だ。
だが、彼女を一躍有名にさせたのは、昨年、執り行われた五つの魔法学院の生徒達による、魔法戦闘能力の競い合い――競魔祭における、他校の生徒達を蹂躙し尽くした凶悪なる戦闘能力だった。
レニーアを含む五名の代表選手が全試合全勝利で飾った昨年の競魔祭優勝の実績は、燦然と輝く陽光の如き代物で、当時の代表選手とガロア魔法学院の教師陣の鼻を高くさせたものだが、同時に翌年以降の生徒にとっては途方もない重圧になったのは言うまでもない。
特に、昨年の優勝に貢献した五名の内、三名までも卒業した事が、ガロア魔法学院の生徒達にとって重圧の大きな部分を占めている。
二名は残ったが、競魔祭は五名と五名とで試合が行われ、三勝をあげた側が勝利となる試合形式だ。
今年も残った二名――レニーアはまず誰が相手でも勝てるが、ネルネシアは必ず勝てるとはいえない相手が少なくとも二名いる為、ネルネシアや卒業したフェニア級の実力者が後二人は欲しい、とレニーアや魔法学院の教師達は考えていた。
しかし卒業したフェニアやネルネシアにしても、生徒でなく冒険者や傭兵であったなら、既に超一流の実力者として名が知られていただろう、十年に一度、あるいはそれ以上の逸材である。
しかも昨年の競魔祭に向けた特訓では、水龍皇や始原の七竜を相手に研鑽を積む事が出来たという、才能ばかりでなく環境にも恵まれていた。
しかるに、卒業した三名、すなわちドラン、クリスティーナ、フェニアの穴を埋めうる人材は、ガロア魔法学院はおろか世界中どこを探したとて、到底見つかるものではない。
彼女らに準ずる人材は、昨年の競魔祭出場者を選定する予選会に出場した生徒達だが、何人かは既に卒業しているし、ドランの見ている前だからと奮起したレニーアと対戦した生徒達は、一年経っても拭えぬ恐怖に怯えて出場を強固に辞退している。
その為、今年、競魔祭出場選手として選定されている、レニーアとネルネシア以外の三名はガロア魔法学院の最精鋭とは言い切れないのが実情だった。
そしてそんな現状に対し、父と慕うドランに続かんと競魔祭二連覇を狙うレニーアが、何も思わずにいるわけもなかった。
春が過ぎ去り、夏の足音が既に傍らで止まっている季節。何もしなくともただ在るだけでもじわりと汗が粒となり、青い空から降り注ぐ陽光はいとも簡単に肌を黒く焼いてしまう。
時折吹く風の涼しさに目を細める夏のある日、ガロア魔法学院の中庭でレニーアは今後の予定を同じ競魔祭の代表生徒達へと一方的に叩きつけていた。
レニーアを含む五名の生徒以外にもファティマやシエラ、イリナの姿があるが、この三名はネルネシアとレニーアが居る場所には居合わせている面子なので、誰も場違いなどとは思ってもいない。
さて、ガロア魔法学院で最も態度が大きく、横柄な事には定評のあるレニーアの対面に立っている三名が、レニーアとネルネシア以外の代表生徒達だ。
青虎についてはマルタタイガーを参照しております。
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第二百三十四話
ペガサスゴーレムを用いた空飛ぶ特急便で迅速にベルン村を訪れたレニーアら、ガロア魔法学院次期競魔祭出場選手候補の一団は、特急便用に特設されたベルン村郊外の駅で飛行馬車から降り、無事にベルン村へと入る事が叶った。
以前は大型の魔鳥や魔獣、そしてなによりモレス山脈に生息する無数のワイバーン達の事もあり、ベルン村へと向かう道の中から空路は除外されていたが、ワイバーンを統率している風竜オキシスやウィンシャンテ他、モレス山脈の竜達との協力関係を取りつけられた事から、以前から構想だけは存在していた飛行馬車が実用化の運びとなったのである。
ベルン村を訪れた事のあるレニーアやファティマ達にしてみても、以前、訪れたのがクリスティーナの領主としてのお披露目式の時以来となるので、かれこれ三ヶ月以上の時が経過している。
あのお披露目の場に出席していたのは、社交場最低限の格を満たした貴族達ばかりであったが、今のこのベルン村を見ればもっと格上の者達を派遣して、よしみを繋ごうとした事だろう、とネルネシアやファティマ達は感心していた。
クシュリとアズナルにとって初めて訪れる事となったその辺境の村は、一年前までは最北部の僻村という、かろうじて地図に記載されている程度の立場だった事が、まるで嘘か幻であったかのような賑わいを見せていた。
流石に王国北部の要衝であるガロアにはまだまだ及ぶべくもないが、通りを埋め尽くす人々の数や彼らの放つ熱気の凄まじさは夏の日差しの方が根を上げて退散してしまいそうだ。
無数の花々や木々に覆われた奇妙で幻想的な、それでいて思わず目を見張る程膨大な魔力によって強化された防壁の内側へと流れ込む人々の多くは、ベルン男爵領でのみ取り扱われる品を求めた商人か、あるいは開墾した土地の所有者になれるという触れ込みに集まった土地を持たぬ平民だ。
一様にして彼らの顔には未来の自分達への期待の光が宿っており、まだ明確に形を持っていない幸福な未来を我がものにせんとしている。中にはいっそ恐ろしい程に鬼気迫った表情を浮かべているものまでいる始末。
一方で村の内部に建設された、一年中開いている大規模浴場施設での湯治などを目当てにやってきた比較的裕福な平民や貴族の歴々などは、人々の熱意で陽炎が生じていそうな領内にあって、比較的和やかな雰囲気を発している。
あちこちで増改築や交通路の整備工事が行われ、人々の行き交う音や喋り声ばかりでなく金槌が釘を打つ音や鋸が板を切る音も混じり、そこに大道芸人達の奏でる笛や弦楽器に打楽器の音色に歌声までもが入り混じり、音の洪水か雪崩といったありさまだ。
クシュリとアズナルは、ベルン村が発展しているとは聞いていたが、どうしても王国最北部の辺鄙な村、という一年前なら当の村人自身が否定をしなかったろう噂がこびりついており、本当に自分達がベルンに居るのかどうかさえ、怪しんだ程であった。
村中に巡らされている、新設したばかりと分かる水路の中を人魚や魚人が泳いでいるのには驚いたが、更にはその中の何人かが小舟を牽引するなり押すなりして、他の観光客らの足代わりになっているのには更に驚いた。
どうやらベルン村に滞在しているモレス山脈の人魚達が、領主クリスティーナに許可を取って自分達から水路を利用し、観光客向けの水運業を始めているのだというのには、三重の驚きを覚えたものである。
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第二百三十五話
数カ月ぶりに目にするドランを前に、レニーアの感情の荒波は今にも理性という名の防波堤を乗り越えるどころか打ち砕かんばかりであった。
奇しくもその父に甘えたいという幼子の、いや、赤子のような原始的欲求を押し留める鎖となっているのが、後輩や同級生達を前にしている事もあり、ドランに格好をつけたい、とても格好つけたい、というこれまた幼稚でそれ故に極めて純粋な欲求だった。
レニーアの五感の全てを使ってドランの存在を感じ取りたい欲求に対し、澄ました顔を作り、礼節を守り、気品漂う所作にてドランに称賛を浴びたいという欲求がかろうじて勝っている。
それによって、レニーアはクシュリとアズナルに対して、ドランを前にすると極めて残念かつポンコツになるという一面を隠す事に成功していた。ただし、この一場面でのみではあるが。
「淑女らしい所作も様になっているな、レニーア。君のそんな姿を見られるとは、まさに不意を突かれた思いだよ。ここが戦場だったら致命傷を負う羽目になっていたかもしれない」
クリスティーナは、カーテシーを行うレニーアを前に、聞き様によってはかなり失礼な言葉をつい口にしていたが、これは間違いなく嘘偽りのないクリスティーナの心情であったし、セリナやドラミナなども同じ感想を抱いているのもまた間違いなかった。
それからクリスティーナは少しばかり居住まいを正し、最低限、ベルン男爵としての礼を守った態度で、後輩達を笑顔で迎え入れる。
「では改めて、ようこそ遠いところを来られた。懐かしきガロア魔法学院の後輩達よ。今でこそベルン男爵という栄誉ある地位を拝命しているが、かつては私も魔法学院の一生徒だった。
そして、名誉な事に去年の競魔祭では代表選手の一人として拙い魔法の腕を振るったものだ。だからこそ、君達の抱く緊張や不安というものの一端なりを理解できていると思う。
君達がベルンで過ごす四日間の間に、出来得る限りの協力を約束しよう。こう言っては重圧を掛けてしまうかもしれないが、やはり後輩達には活躍を期待してしまうものだからね」
それでもやはり魔法学院の卒業生としての言動が滲み出てしまったが、殊更に追求するような事でもないだろう。
「まずは君達の宿泊する部屋と屋敷の中を案内するよ。歴史ある魔法学院の校舎や寮と比べればまだまだ小さな屋敷だが、私としては自慢の我が家だ。四日の間、肩の力を抜いて、気楽に過ごしてくれ」
クリスティーナの目配せを受けて、メイド姿のリネット、キルリンネ、ガンデウス達が、レニーア達が収納空間へと変えていた影の中から取り出した荷物を受け取る。
ファティマの分はシエラが持ったが、それでも人数が人数だけに相当の量で、クシュリとアズナルは元々平民暮らしで客人扱いに慣れていない事もあり、荷物を持たせる事を固辞したが、リネット達が力む素振りすら見せず、自分達ごと荷物を持ち上げようした事で白旗を上げた。
リネットは言うに及ばず天人の遺産であるキルリンネとガンデウスもまた、素の身体能力は常人の比ではない。
それぞれの着替えなどが詰まっている鞄を器用に持ったリネット達を最後尾に、クリスティーナが先頭に立ってレニーア達を屋敷の中へと案内する。その間中、レニーアはずっとそわそわと落ち着かない様子だった。
ドランに遠慮なく話しかけたいところだが、後輩や同級生達を前に態度を崩す気にはなれないようだ。
ネルネシアやファティマからすれば今更の話だが、マノスやクシュリ達にはドランに対して極度の甘えん坊で構われたがりという本性を曝け出すのに、若干の抵抗があるらしい。
レニーア達が案内されたのは、屋敷の二階の奥まった一角だった。他領からの使者等が、村の宿泊施設を利用しない場合に用いる部屋だ。
ベルン男爵家の財力を考えれば、他所から最高品質の家財を揃えて、この様な田舎の新興貴族がこれ程の富を、と客人の度肝を抜く事も可能だ。
しかし、そういった行いは下品ではないかという意見があがった事と、それよりもベルン男爵領らしい室内の装飾品を揃えて物珍しさを楽しんで貰える方がよい、という意見に落ち着いている。
レニーア達が案内された部屋には、エンテの森にのみ生息する花を活けた硝子の花瓶や、ウアラの民が住まうモレス山脈にある湖に生息する巨大貝の貝殻を用いた螺鈿細工の小箱や、ドラン謹製の勇壮な戦士や壮麗な天使達の小さな像が置かれていた。
各種の精霊石と魔晶石、それに水晶と硝子をふんだんに使った置時計に、隙間なく精緻な細工が施された姿見や剣立てなどは、どれだけの技術と手間が惜しみなく投じられたのかクシュリ達には想像もつかなかった。
「それでは君達はこちらの部屋を使ってくれ。ファティマとシエラは相部屋が希望だったな。
荷物を置いたら食堂と浴場の案内をしておこう。私とドラン、ドラミナさん、いやドラミナは仕事があるから何時でも特訓に付き合えるというわけではないが、ディアドラやセリナ、リネット達が特訓の相手を務めよう」
レニーア達がそれぞれ部屋に荷物を置きに行こうと分かれる直前で、レニーアが妖精もかくやという可憐な顔立ちを険しく引き締めて、クシュリ達にこう言い渡した。
「案内が終わったら、早速特訓と行くぞ。休むのはその後だ。荷物を置いたらすぐに着替えておけ。ドランさん、場所の方は?」
「安心してくれ。屋敷の敷地内に、ガロア魔法学院の模擬戦場と似たものを設置してあるから、そちらを好きに利用してもらって構わない。強度の方は念には念を入れておいたから、好きなように暴れてもらって大丈夫だよ」
「お心遣い、痛み入ります。これで心行くまで力を尽くしてこやつらを鍛えられるというもの」
敬愛する父からの満足ゆく答えにレニーアは月光の如く美しく、しかして冷たい笑みを浮かべた。これから嫌という程しごきぬくクシュリとアズナルとマノス、ネルネシアの姿を思い浮かべて、どす黒い嗜虐の悦びを胸の内に抱いたのだろう。
レニーアの醸す凶悪な気配と自分達に訪れる苦難の未来を察してか、クシュリとアズナルは冷や汗を浮かべる始末。
ネルネシアなどは却って闘争心に火が着いたようだが、マノスの方は屋敷に入ってからも、そこら中に付与されている保存や、硬化、軽量化などの魔法に夢中で、レニーアの発言を気にも留めていない。
一般的な感性を有する後輩二人に対して、実に頼もしいとも、常識外れとも言える先輩二人である。
それからドラン達も使用している食堂と何時でも湯の沸いている浴場の案内が済むと、ここで一旦クリスティーナとドラミナ、セリナ、ディアドラの四人がそれぞれの仕事に戻り、ドランとメイド三人組がレニーア達の案内を引き継ぐ形となった。
レニーアからすればドラン以外の人員が減るのは万々歳である。
特訓の相手が少なくなった? いや、ドラン一人いれば特訓は十分だ、と考えるのがレニーアだ。完全に私情が先頭を突っ走って、建前を遥か遠方に置き去りにしている。実にレニーアらしい考え方だろう。
レニーア達に提供される模擬戦場は、屋敷の敷地内にあるというクリスティーナの言葉通り、屋敷の裏口からでて周囲にある林に少し足を踏み入れた場所に建てられていた。
ガロア魔法学院でドランやレニーア達がお世話になったものと同様に、半球状の大きな建物だ。
一つ一つが巨大な灰色の石材を積み上げて造られた模擬戦場は、魔法による強化がなくともこれ一つ壊すのにどれだけの手間と人手がいるだろうかと、つい呆れてしまう頑健さが見て取れた。
両開きの木製の扉の前で、案内をしていたドランがすぐ後ろのレニーア達を振りかえって、口を開いた。
「模擬戦場にも簡単な浴室は備え付けてあるから、特訓で掻いた汗はそこで流すと良いだろう。本格的な入浴は屋敷のものを使ってもらえるかな。幸い、他の領地からの使者が訪問する予定はないから、見知らぬ誰かと出くわす事もあるまい。
中の造りは真ん中に模擬戦の舞台があり、それを結界の境目でもある壁で区切ってある。
結界の強度は魔法学院のものと同等以上と考えてもらって構わない。高位魔法を雨霰と発動しても、とりあえず破れる事はないさ。
ジャッジメントリングと魔法薬をはじめとした医療品も用意してあるが、いざとなったらすぐに神殿に運び込んで癒しの奇蹟を乞うとも」
「まさに至れり尽くせりでございます。ドランさんには感謝の言葉もありません」
レニーアが心底から畏まって頭を下げるのに、ドランは苦笑し、クシュリとアズナルはあり得ないものを見たという表情になる。ベルン行きが決まってから、クシュリとアズナルには驚きの稲妻がしょっちゅう落ちている。
「受け入れを決めたのはクリスだ。礼の言葉は彼女に言ってくれると、私としては嬉しいところだよ。ところでレニーア、私の方からいくつか質問をさせてもらっても構わないかな?」
「はい。如何なる質問であれ、ドランさんからの御言葉であるのなら、このレニーアの力と知識の及ぶ限りにおいて偽りなくお答えいたします」
「相変わらずレニーアは私に対して気負うものだな。この時期なら、まだ競魔祭の出場選手は決定していない筈ではなかったかな。
戦闘系の成績上位四名いわゆる四強は決定としても、五人目の選手は昨年の私や君のように予選会を行って、その優勝者が担う筈だろう。
であるにも関わらず、レニーアやネルはクシュリ君とアズナル君、それにマノスさんが競魔祭の出場選手として決定しているかのように扱っているように見受ける。三人の内、二人が新たな四強なのかな?」
ドランの疑問はもっともだった。現在のガロア魔法学院における四強の内二人はネルネシアとレニーアが今年も担っているだろう。そうなると男子生徒三名の選考基準はなんなのかとドランが訝しむのは、必然とさえ言える。
これにレニーアは秀麗な眉を寄せて、何か面白くないものを思い出した顔でドランに応じた。中身はとびきり凶悪で邪悪な、外見だけは可憐な少女が、どうやら原因らしい、とドランは我が娘の表情変化一つでおおよそ察した。
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第二百三十六話
ドランの発した模擬戦開始の合図の残響が消えるよりも早く、ガンデウスの両腕は素早く狙いを定め、正面に立つクシュリへとボウガンから立て続けに人間の人差し指程の光輝く矢が殺到した。
クシュリの魔法視力を付与された瞳は、矢を装填されていなかったボウガンが、ガンデウスから吸い取った魔力を矢へと変えたのを見逃さなかった。
矢を再装填する手間を省ける魔法のボウガンは決して珍しい品ではない。使用者の魔力を矢へと変える変換効率と、変換された矢の貫通力や飛翔速度、連射速度によって、性能の評価が分かれる類の品だ。
通常のボウガンよりも倍は速い光の矢を、クシュリは爆発的な踏み込みで自身の体を加速させ、残像を貫かれるに留める。
飛蝗人の脚力はクシュリにボウガンの矢に勝る速さを与えていた。
ドランの手によって強化加工されていた舞台でなければ、クシュリの足跡が深々と残っていた事だろう。
飛蝗人の生来の脚力に加えて、クシュリが戦闘開始と同時に発動させた身体強化魔法、肉体と魂に内包する飛蝗の因子をより強く顕在化させる魔法を行使し、その身体能力を更に引き上げていた。
その分、人間としての部分よりも飛蝗としての昆虫の部分が強まる事で、思考の単純化などの弊害が出る為、強化しすぎるのもまた扱いが難しい魔法であった。
ドランの用意したジャッジメントリングによる守りがなければ、心根の優しいところのあるクシュリでは、ガンデウスを相手に足を振り抜く事はできなかったろう。
「しゃあっ!」
吐き出す呼吸は剃刀の刃の如く鋭く、振り抜かれる右足は鞭の如く柔らかにしなり、同時にその尋常ならざる脚力により、甲冑を纏った人体をやすやすと両断する天下に名だたる名剣の切れ味を備える。
歴戦の戦士でも背筋を凍らせる一撃を、ガンデウスは十分な余裕を持って後方に飛びのいて避ける――のみに留まらず両手のボウガンを右足を振り抜いた体勢のクシュリへと容赦なくお見舞いした。
無数の飛翔物が大気を貫く音が連続し、クシュリの右脇腹を狙った魔力の矢が飛来するのを、クシュリは今度は逆に左の回し蹴りを放って、飛来する矢を悉く撃ち落とす。
感嘆に値する瞬発力に、観戦中のドランはほう、と一言漏らし、空中でクシュリが背中から飛蝗の羽を広げて、飛行して見せた事には、もう一つ、ほう、と漏らした。
「手加減しねえぜ!」
「どうぞご遠慮なく」
わざわざ言わなくてもよい事を言うクシュリに対し、ガンデウスは律義な事だと思いながら、彼女自身もまた律義に返事をした。そのような感想を抱けるようになった、とガンデウスの情緒の成長を見出せる。
ガンデウスは距離を取って射撃戦を演じるべき、という定石は放り捨てて、自らもまた前へと踏み出してクシュリとの距離を詰めにかかる。
メイド服のスカートの裾をたなびかせ、精巧な人形めいた無表情で迫ってくるガンデウスに、クシュリは得体の知れぬ不気味さを覚えて一瞬ぎょっとしたが、普通ではない相手だと分かっていたのだからと覚悟を固め直す。
クシュリと距離を詰めながらも、ガンデウスはボウガンの狙いを彼と糸で繋がれているようにピタリと定めて揺らす事もせず、矢を連射し続けている。
クシュリは先程までと同じように両足を振り、更に両腕も追加して動かす事によって、最小限の被弾に被害を抑え込む。
想定外の事態が発生しても、動揺をすぐさま抑え込んで有効な手立てを取る機転と決断の早さは悪くない。
一方で、ガンデウスの意図を読み切れていない詰めの甘さもある。ガンデウスが肉薄するまでにクシュリとの距離を詰めるのは、クシュリの格闘技の主軸が足技によって担われており、その足の間合いの内側に潜り込む為だ。
ボウガンは本来飛び道具であるが、ガンデウスの使っているのは彼女の手とそう大きさの変わらぬ小型である上に、矢を装填する必要もない。
ガンデウスの力量ならば、短剣や小刀の如く肉弾戦で用いる事も出来る。
舞台上で激しく動き回り、避けられた魔力の矢が舞台を覆う半球上の結界に当たって砕け散り、虚空を薙いだ回し蹴りが竜巻を思わせる回転速度で次々と繰り出される光景が幕を上げた。
「ふむ、レニーア、クシュリ君は中々やるな。君のしごきと威圧に耐えて、ここに特訓を受けにきただけはある。強いて言えば、身体強化系のまっとうな魔法戦士であるから、幻覚魔法といった絡め手に対して、どこまで独力で対処できるのかが気になるな」
「流石はドランさんの慧眼でございます。クシュリはあの年にしては高水準の魔法戦士ですが、まっとう過ぎて対処の仕方がある程度確立されている立場でもあります。
通常の攻撃魔法であれば全身に満ちる高密度の魔力により、高い防御性能を有しますが、精神に干渉する類の魔法と疫病や毒素などをまき散らす魔法に対しては、はっきり言って今一つと罵らざるを得ません」
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第二百三十七話
マノスら三名がリネット達ベルン男爵領メイド三姉妹と苛烈な激戦を繰り広げている中、ドランは傍らで観戦しているネルネシアに対して、若干の訝しさを交えて問いかけた。
魔法学院に在籍していた時分、共に濃厚な時間を過ごした少女の気質を考えればこのまま黙ってみているだけなどあり得ない筈だった。
「ネルは見ているだけで構わないのかい? 君の事だからリネット達相手に腕を鳴らしたがるかと思ったけれど。それとも、私が相手を務めればよいのかな?」
「そう望んではいるけれど、今でなくていい。今は私達の後輩達の実力を確かめてもらう為の時間だから。それに私の調子が絶好調に達するのは二日後。ドランと模擬戦をするのはその時にお願いしたい」
言葉こそ常のネルネシアらしく、冬の景色を白く染める氷雪の如く冷たいものだったが、青い瞳には隠そうともしない闘志の炎が轟々と燃え盛っており、ドランが卒業してから今に至るまでどれだけネルネシアが強敵との闘争を求めていたのかが分かる。
ネルと初めて模擬戦をしてから、もう一年以上経つのかと、ドランは心の片隅で過ぎ行きた時の流れの速さに思いを馳せながら、親愛なる元同級生に尋ね返す。
「私やクリスがいなくなっても、レニーアがいたと思うが、レニーア相手では満足できなかったのかい?」
「レニーアもドランやクリスティーナ先輩と同じように私がどうしても勝てない相手だから、彼女との模擬戦に不満があるわけではない。レニーアはレニーア、ドランはドランというだけの話。
中々貴方と魔法を交わし合う機会も減ったものだから、その機会を逃したくないと私が思うのは自然な事」
「少し、口が達者になったように見受けるな。そこまで求められるのならば、私も相応に相手を務めて見せるとも。
しかし、魔法学院を卒業してからの数カ月程度ではネルの性根は変わらないか。最上級生になったのだから、後輩達のお手本としてもう少し落ち着いてはどうだい」
「私は自分を偽ってまで生きるつもりはない。大丈夫、私がここまで拗らせている性格である事を知って居るのは、ファティマやレニーアをはじめとした一部だけ。大半の生徒は私の事を遠巻きにして眺めているだけだから、内面にまでは踏み込んでこない。
よって、私の事を口数が少なく、表情を変える事も少ない冷徹な女生徒としか思っていない」
「まあ、その評価は決して間違ってはいないが、だからといってその評価だけしかないのも問題ではないか? ファティマもそれで良いと思っているのか?」
戦闘能力は欠片もないが、魔法学院での日常に於いてはむしろファティマの方こそがネルネシアの保護者としての面を持っている。
ドランはその事に加えて、国内の有力貴族アピエニア家の息女であるネルネシアが、他の貴族の子弟らと交友関係を構築せずに学生生活を送っても大丈夫なのか、と言外に案じているのだ。
ファティマはドランが言葉にしなかった部分もきちんと理解した上で、これまで何度もドラン達が見てきた人好きのする柔らかな笑みを浮かべて答える。
このファティマの笑顔と人柄だけでも、人類に対して味方をするには充分すぎる理由になると、ドランはかねてから本気でそう思っている。
このような少女が誕生するのなら、例え神々に失敗作と謗られようとも、人類には今日まで存続してきた意味と価値があるのだと、ドランは信じていた。
「アピエニア家の家風みたいなものかなあ? 近づいてくる相手を選ぶというか、自分で声くらい掛けて来いって切り捨てているみたいな? それにネルちゃんだってお茶会とかを全くしないわけではないから、最低限以上のお付き合いはあるから大丈夫、大丈夫」
「ふむ、確かに時々ネルが本当に有力貴族のご令嬢である事を忘れてしまうが、生まれた時からその手の教育は受けている筈だし、なんちゃって貴族の私などよりも余程しっかりしているのが道理か。要らぬ心配をしてしまったな」
「ネルちゃんの貴族らしさに不安を抱くのは分かるよ。うん、でも、ネルちゃんはそういうところもしっかりしているのでしたぁ~」
ファティマは朗らかな声でネルネシアを褒めて、どうやら調子に乗ったらしく、胸を張ってエッヘンとした顔になっているネルネシアの頭を、背伸びをしてまで撫でて上げ始める。
すぐさまファティマが撫でやすいように、ネルネシアが腰を屈めるのを見届けて、ドランは新しい笑みを浮かべる。
「君達はまさに終生の友だな。二人が末長く親しい仲であり続けると確信できるくらいだよ。そうであれと祈る必要は露程もないね」
「えへへ、私もずっと仲良くしていられるといいなって思っているよ。ネルちゃんだけじゃなくって、ドランとレニーアちゃんともねぇ~」
「ふふ、やはり、私は君には勝てなさそうだ。ファティマはどんな剣や魔法よりも強く、そして素敵な武器を持っている。ああいや、武器といっては語弊があるが……」
「褒めてくれてありがとう。でも、ドランはクリスティーナ先輩をクリスって呼ぶようになったんだね」
「ああ。正式な発表はまだだが、つまりはそういう関係になったという事だよ。今は北の件や新しい移住者にカラヴィスタワーの事もあって立て込んでいるが、遠からずアルマディアの家にも顔出しと挨拶くらいはしないといけないだろう」
「う~ん、ベルン男爵家は新興のお家だけれど、系譜で考えればアルマディア侯爵家が始まりだし、クリスティーナ先輩自身が現侯爵様のご息女だからね。
ましてやドランはクリスティーナ先輩と結婚するまでは、あくまで騎爵位と騎士位持ちの一代貴族だし、足を運ばずに済むわけもないかぁ」
「別に嫌だとは思っていないよ。緊張はするが、私の方の家に挨拶に来るのは、もうセリナやドラミナ、ディアドラにクリスだって済ませているのだから、彼女達だけに押し付けて私だけ相手の家族に顔を見せないわけにはいかん」
「そうだねえ。それにしても改めて聞くと、ドランはつくづく女性の敵だねえ。あんなに綺麗で可愛い人達の心を四人も射止めているのだから、男の人にとっても敵なんじゃないかなあ?」
「ふむ、それは私もふとした時に思う事ではあるよ。セリナにも何時か刺されちゃいますよ、と冗談半分で脅された事は何度かあったわけだし。惚れた甲斐のある男だったと、最後まで思ってもらえるよう努力するだけさ」
「おお~、これは惚気られちゃったのかな? 結婚式もそう遠くなさそう~。四人と一緒に式を挙げるの?」
「そこの所は私達の間でも中々結論の出ていなくてね。建前上を考えればまず私とクリスが挙げなければならないが、一端、法律上の事などは忘れて四人全員で式を挙げてしまえばいいのではないか、という意見も浮き沈みを繰り返しているよ」
それに式を挙げる度に来るであろう、天界や竜界の関係者達の事を考えると、アークレスト王国での付き合い以上にそちらの方を憂慮して結婚式の日程を組まなければならない事もあり、ともすれば暗黒の荒野の魔王軍以上にドラン達にとっては強敵だった。
「まあまあ、何時までに式を挙げなければいけないなんて決まりがあるわけでもないから、変に焦って悔いを残すような式を挙げなければいいよ。でもあんまり遅いと私かネルちゃんの方が先に式を挙げるかも~。ひょっとしたらレニーアちゃんかもしれないね~」
思いもよらぬ所で自分の名前が出てきたな、とレニーアは少しだけ形のよい眉根を寄せて、今ではすっかり心を許しているほんわかとした少女に苦笑とも嘲笑とも取れる笑みを返した。
「お前は相変わらず突飛な考えをする。それがお前の一族の特徴なのか、お前だけの特徴なのかは知らんが、私にとっては興味のある事ではないな。お前とネルネシアの結婚式に足を運ぶのは吝かではないぞ。ふふん、その時には盛大にやるが良いわ」
「は~い、そうするねえ。ふふ、相手はまだいないけど、今から楽しみだなあ。ん~、そういえばレニーアちゃんはドランと模擬戦をしなくっていいの? 前は喜んで大笑いしながらドランに向かって行ったよね」
「ふむ、ドランさんとの実力差は相変わらずではあるが、少しはマシになった今の私の力を確かめていただきたくはある。
だが、私はそこの戦闘好きの氷女とは違って、別に戦いでだけ自分を示したいわけではないのでな。最後の日にでも一戦、軽く手合わせをしていただければ充分だ」
レニーアとの付き合いは濃密なもので、時間も一年以上になるが、それでもこの反応は比較的ファティマやネルネシア達の中でも意外に感じられるもので、レニーアのドラン離れ――ドランからすると親離れ――を少しだけ感じさせるもので、それは微笑ましさとわずかな寂しさを連想させた。
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第二百三十八話
現在、ベルン村を訪れているヴァジェ、ウィンシャンテ、クラウボルトら若き竜達を特訓相手に考えている、というレニーアの発言は、それを耳にしたクシュリ、アズナル、女竜の店員の精神に驚きの大波を起こさせ、その他の面子にはなるほど、という感想を抱かせた。
クシュリ達以外の面々、シエラやネルネシア達は昨年のドランやフェニア達の特訓風景を知っているから、ある種感性が麻痺してしまっており、別に竜種を相手に特訓する事が突拍子もない事だという発想が出て来なかったのである。
レニーアは腕を組んでふふん、と自慢げな顔つきをしており、後輩達がきょとんとした顔になっている事に気づいていない。いや、気付いているが問題視していない可能性もある。
「去年、私達の特訓相手を務めてくださった方々に比べれば雲泥の差だが、こちらもまた質の低下という意味では同じ事。ヴァジェらで妥協するほかあるまいよ」
三体の竜種を相手にすると考えれば、決して出てこないだろうとんでもなく強気で命知らずの発言に、店員が少しだけ顔を青くして慌ててレニーアに問いただす。
「それは、御自分が何を言っているのか、理解しておられるのですか? ウィンシャンテは穏やかな気質の風竜ですが、ヴァジェなどはかなり短気な性格をしていますし、なにより竜種としての自分に強い誇りを抱いています。
もし目の前でそんな事を言ってしまえば、何をされるか分かったものではありませんよ? ああ、いえ、でも貴女ならば私達は邪険に扱う事は躊躇われますね」
女店員は同じ竜種を相手に傲慢極まりない発言をしたレニーアに対し、怒りよりも身を案じる言葉が出てくるのだから、相当に温厚な性格の主のようだ。
それでも言葉を並べている途中で、ある程度ぼやかして伝えられていたレニーアの素性を思い出し、自分の考えを改める。
他の皆は女店員の言葉の意味がわからず、首を傾げるか不思議そうな顔をするが、レニーアはそれを無視した。
「去年、私達の特訓にお付き合いくださった方々の中には、水龍皇龍吉に近しい者もいたからな。水龍皇当人やその近親者より強いと言える面子ではなかろう」
実際には龍吉とその実娘、更には始原の七竜までもが参加するという空前絶後の特訓が行われていたが、魔法学院組の中でそれを知るのはレニーアのみである為、龍吉の名前を出したようだ。
もちろん、地上最強の一角を担う龍吉の名前だけでもクシュリ達の気を引き締め、女店員の考えを改めさせるのには充分だ。
「確かに、その方々と比較すればウィンシャンテ達の方こそが、比較される事すらとんでもないと顔を青く変える事でしょう」
「そういう事だ。ヴァジェ達が食べ歩きしている地点も、話している間に探れた事だし、後は話を通すだけだ。ヴァジェが居れば話は通りやすかろう」
「貴女に望まれたら首を横に振るう事はとても難しいでしょうね」
「ふむ、私自身の功績ではないがな。さて、そういうわけだからクシュリ、アズナル、マノス、呑気に食べ歩きなんぞしておる竜達をとっ捕まえに行くぞ。それと女、お前とこの店の名前を教えてもらおう。後で贔屓にする故な」
「それは光栄なことです。私は水竜アオスイ。そしてこのモレス山脈竜種連盟店の店主を務めております」
はにかみながらそう告げるアオスイは、まだまだ商売気のない顔で柔に笑んだ。
こうしてアオスイと何とも遊び心のない名前の店と縁を結んだ後、ずんずんと人込みをかき分けて進むレニーアを先頭に、ガロア魔法学院一同はお腹の虫を刺激し、口の中に唾液の海を作り出す匂いの漂う方向を目指して進んでいった。
クシュリとアズナルは未だに信じられないと、肝を潰した上にそれを丁寧にすり鉢ですり下ろされている気分のまま、必死にレニーアに食い下がる。
まさかまさか成体の竜種を相手にするなど、自殺願望か愚かしい程の英雄願望の持ち主でもなければ喜びなどするものか!
あ、いや、竜教団の信徒なら別か、とすれ違った竜教徒数名を振り返りつつ、クシュリは頬や額に冷や汗を垂らしながらレニーアに翻意を促す。
「ねえねえねえレニーア先輩、無理ですってば! どうして竜種を相手に特訓とか考えつくんすか!? しかも知恵ある竜の成体つったら、人類の限界突破しちゃった一部の英雄か、重装備の軍隊が必要な相手ですよ!
アークレスト王国でもアークウィッチのメルルさんとか、国王陛下直属の近衛騎士団の団長さんとか、魔法師団の師団長とか、そういう一部の中の一部じゃねえとやりあえねえですってば」
「クシュリさんの言う通りですよ、レニーアさん。ドランさんのところのゴーレムさん達だけでも、ぼくらにとっては格上の特訓相手です。彼女達だけで十分に強化合宿の成果を見込めます。
それなのに竜種を相手にそんな事を提案するなんて。竜種が人類種に対して穏和な対応をする傾向にあると知られてはいますが、流石に相手の矜持を刺激するような提案はいかがなものかと……」
「ファティマ先輩、イリナ先輩、シエラさんも黙ってないでレニーア先輩を止めてくださいよ!?」
流石にまだ死にたくない、と必死なクシュリがネルネシアの名前を口にしなかったのは、そのネルネシアが爛々と目を輝かせて喜々としているからだろう。この様子ではレニーアに率先して賛同する言葉しか出て来ないのは明白だった。
ハルト経由でジャンクフードなどの一部が広まっています。
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第二百三十九話
クシュリとアズナルが背後で膝から崩れ落ちる音は、レニーアの耳に確かに届いてはいたが、彼らが全身で放つ絶望の気配とまとめてレニーアに無視された。
ヴァジェの背後で紙袋から次々に新しい食べ物を取りだしては胃袋に収めている竜達は、眼前の人間の筈の少女の肉体と魂に宿る尋常ならざる魔力量に、目を離せずにいる。
「去年、水龍皇やその娘御らと私達とで競魔祭に向けて特訓をしたであろう? 今年もそれに似たような事をしようかと思っているのだ。今年は残念ながらドランさんを始め、フェニア、クリスティーナが面子から抜けている為、戦力強化は急務なのだ」
昨年の競魔祭向けの特訓は、ヴァジェにとってこれまで軽口を叩いていた相手の途方もない素性を知る切っ掛けであり、これからの人生ならぬ竜生を激変させた出来事でもある。
当時の状況を脳裏に閃かせたヴァジェは、瑠禹が次期水龍皇である事やドランが古神竜ドラゴンであった事、更には始原の七竜達が次々と降臨して拝謁した時の事を思い出し、チクリと胃が小さく痛むのを感じた。
始原の七竜達と行動を共にする事は、地上の竜種にとって何物にも勝る至上の栄誉であるが、だからといって行動を共にして心が安らかでいられるかと言うと、話は別なのである。
「戦力強化か。ネルネシア以外の三人が新顔のようだが、まあ、人間種としてはそこそこ腕は立つ方だな。しかし、去年、私が相手をした面子とは比べられんな」
ドランは当然例外も良いところだが、ドラッドノートの事を抜きにしたクリスティーナとフェニックスの因子と魔力変換の性質を有するフェニアは、ヴァジェの知る人間種の中でも最上位に位置する猛者だ。
その二人と比較しては、マノスやクシュリ、アズナルは一段か二段劣ると厳しく評価せざるを得ない。ましてやそういった遠慮や機微を、ヴァジェに期待するのは無駄と言うもの。
「そういう事だ。他の学院も有力な最上級生達は卒業しているだろうが、こちらとしてもそれに胡坐を掻いて本番に臨む愚行をしでかすわけにはゆかん。なので、今年もお前とその背後の二体を含んだモレス山脈の竜種達に、特訓相手を頼みたい」
ついに言ったー! というのがクシュリとアズナルの偽らざる本音であった。吐血と共に大声で叫び出さなかっただけ、まだ理性による制止が効いたのだと解釈してあげるべきだろう。
ネルネシアとマノスは正反対の反応であった。具体的に言えば、欲しくてたまらない玩具を前にした子供のように、その瞳をキラキラと輝かせているのだ。
マノスとしてはかつてドランと対峙した時のように、真性の竜種との戦いによって新たな発想や感動を得る事への期待と欲求が果てしなく膨れ上がり、ネルネシアは実家で両親と共にヴァジェと戦った時の事を思い出して、闘争心が飢えた獣のような唸り声をあげ始めている。
ドランをしても苦笑する他ない、両者の情熱と狂気染みた闘争心の発露である。レニーアは、ふふん、こうでなくは、と内心では両者の評価を上方に修正していた。
「ふーむ、力を加減しなければならないのは面倒だが、ドランの望みにも叶う事だろうから構わないが、おい、ウィンシャンテ、クラウボルト、お前達の考えはどうだ?
ああ、人間等が舐めた口を、とありきたりな言葉を口にするなよ。あまりにありきたり過ぎて、同じ竜種として恥ずかしくなる」
ドランとレニーアの正体を知り、ファティマ達と深い親交を持つヴァジェならではの反応だが、さて残る二体の竜種はと言えば……妙な事を言う人間だ、という顔こそしていたが、ヴァジェが危惧したような如何にも竜種が口にしそうな言葉を発する事はなかった。
先に口にしたのはウィンシャンテだった。空になった紙袋を広場の片隅に置かれていた屑箱に捨てて、改めてレニーアとその後ろに並ぶネルネシア達を見る。
「あのクリスティーナという女人との約定には含まれぬ事だろうが、実際に人間がどの程度出来るかどうか、確かめてみる事に価値はあると思う。しかしこの者らはこのベルンの人間ではないのだろう? そこがいささか気にはなるが」
いずれ魔王軍との戦いでベルン領の軍勢と共闘する事を考えれば、ベルン側の戦力を把握しておきたいというウィンシャンテの考えは当然のもので、同時にレニーアがベルンの人間でないのなら、意味がないというのも確かな意見ではある。
「ウィンシャンテ、その点なら気にしなくてよい。ベルンで戦が生じればそのレニーアという人間は、戦列に加わろうとするだろう。余程の事がなければ魔族や偽竜共と戦うだろうから、実力の一端でも知っておいて損はないぞ」
ヴァジェのとりなす言葉に、ウィンシャンテは一考の価値ありかと考え直し、以前からベルン側に対して好意的な態度を示していたクラウボルトも、前向きに考えている様子であった。
クラウボルトは闘志や好奇心で瞳を爛々と輝かせているマノスとネルネシアを見てから、レニーアへと視線を戻す。
クラウボルトは、ヴァジェが一目置いているこの少女は、さて何者なのかと少なくない興味を抱いている事に気付いていた。
「ならばおれは構うまい。こうしてベルンの地で買い食いをして回るのも良いが、互いの力を知るのも悪くはあるまい。
ベルンの正規軍ではなく、他所の土地の力を先に知る事になるとは、いささか予想外ではあったがな。
だが、そうなると領主殿にこの件を話しておいた方が良いのではないか? 万が一にでもおれ達竜種が人間の子らを傷つけてしまったとあっては、せっかくの協力関係に大きな亀裂が入るだろう。
ましてや事情を伝えず勝手に行ってしまった等となれば、これは目も当てられん」
クラウボルトのもっともな発言に、レニーアが自信満々に頷き返した。レニーアとてヴァジェ達を特訓相手に選定する以上は、ドランとクリスティーナに話を通さずに済ますわけにはいかない事くらいには考えが及んでいる。
「むろん、今夜にでもドランさん達に話は通しておく。御許可をいただいた後、具体的な日取りをお前達に伝えるとしよう。
昨年ほどの規模にはなるまいが、それでも私達が特訓するとなれば、相応の広さの場所と堅固な結界が必要になるは必定。領主の許可なしでおいそれとは出来ぬからな」
周辺に被害を及ばないようする為には、ドランに頼って彼の制作したバリアゴーレムやら特許申請を出した即席結界符を利用するのが手っ取り早い、
それにレニーア達の特訓となれば相当に派手なものになるから、人目につかないようにするか、逆に衆目に晒して味方についた竜種の力を知らしめる機会にするかも、ドラン達の判断に委ねなければなるまい。もちろん、ヴァジェ達本人が了承すればの話だ。
「流石に私も龍吉様の代わりが務まるなどと血迷っても口に出来ん。私達はよくここら辺で買い食いをしているから、決まったらまた声をかけるといい。
ああ、それか随分と前にファティマに私と繋がるように念話を教えておいたからな。ファティマが声をかけるのでも構わない」
「話が早くて助かるが、食ってばかりなのか?」
呆れを隠さないレニーアの言葉に、ヴァジェは羞恥で顔を赤くしながら大声で反論した。この様子では半分以上は図星だったようだ。
「モレス山脈に生息しているワームやドレイク達を纏める作業と、他の同胞達への声かけもきちんと行っている。ただ食べているだけではないぞ!」
ヴァジェ達以外の竜はそうかもしれないが、さて、お前はどうなのか? とレニーアは心の中で思ったが、せめてもの慈悲として、それを口にする事はしなかった。
その後、ファティマがヴァジェとの親交を温め直す傍ら、彼女らの買い食いに付き合ってから、レニーア達はクリスティーナの屋敷へと戻った。
クリスティーナとドランへ、ヴァジェ達との手合わせの件についてはレニーアから報告が上がり、両者からレニーアとネルネシアはともかくとして、クシュリとアズナルに無理をさせないように、と釘こそ刺されたが、笑って許可が下ろされた。
ドランからは無償でバリアゴーレム数台と結界発生器に認識阻害並びに人避け、光学迷彩の機能を持つ魔法具、そしてジャッジメントリングが貸し出された。
いよいよもって準備は万端となり、それにつれてクシュリとアズナルの纏う暗雲の濃度も増している。
生命の安全が保障されているとはいえ、自ら望んで成体の竜種と戦おうという程、彼らは命知らずでもなければ酔狂でもなかった。
とはいえ暴君レニーアに逆らえるのかと言うと、それは天地をひっくり返すのにも等しい難事であり、つまるところ、クシュリ達に選択肢はなかったのである。
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第二百四十話
その日、クリスティーナと秘書官を務めるドラミナは、マズダ博士とその孫娘シャルロを始め、ベルンに招いている学者達の研究成果の見学を行っていた。
豊富な資金力と多種多様な研究素材、急かす事なく隙に研究をさせてくれる資金提供者と、学者達にとってはこの上ない環境が整えられているベルンで、彼らは失敗もあるが順風満帆な研究の日々を過ごしていた。
クリスティーナ達はベルン村を流れる川の上流へ向かった。今日は、そこでマズダ博士の開発したマズダ製魔力蒸気機関を積んだ船の試運転が行われている。
ベルン男爵領それ自体は海と面している事はないが、王国南部にまで至る大河が付近を流れている事から、河川貿易が検討されている事と王国南部の海運会社を買収するなり、起業した際に利用できると期待の目が向けられている。
白髪白髭で痩身の老人マズダ博士が秘書でもあるシャルロと共に、魔力蒸気機関を搭載した外輪船に乗り、煙突からうっすらと虹色の煙を吐き出す船は、両舷の設置された外輪を回転させ、上流から下流へ下流から上流へ、またあるいは両岸を往復している。
以前は二十馬力にも満たない出力だった魔力蒸気機関は、順調に改良を重ねていて、河川貿易を行う事を想定した取引品を満載した外輪船を順調に動かしている。
「これなら正式に採用してもよさそうだな、ドラミナさん」
マズダ博士の研究が一定の成果を見せた事に他の研究者達が臍を噛んだり、感嘆した様子でしきりにメモを取ったりしている様子を横目に見ながら、クリスティーナは傍らのドラミナに話しかけた。
「ええ。とはいっても造船技術は今のベルンに不足しているものの一つです。以前から他所の人材に声かけはしていますが、もう少し時間はかかりますよ。
それに外輪船ばかりでなく、ライリッヒ殿の陸上機関とプラナ殿の飛行船を運用する為の環境整備も必要ですし、そろそろ収入源を増やしておきたいところです」
「観光で立ち寄ってくれる人は多いが、正式に移住してくれる人は観光客に比べると少ないからな。他所の領主とて、領民が移住するのを見過ごすわけもないし。
戦争の暗雲が立ち込めているから、真っ先に戦場になる可能性の高いベルンに移り住むのを躊躇するのは当然ではあるが、ままならないものだね」
「それでも人口はきちんと増えていますし、食糧の自給は問題ありませんし、ガロア総督府もスペリオン殿下の口利きか、クリスティーナさんの御父君の根回しのおかげか、好意的な対応ですから明るい材料は多いですよ」
交通網の整備は戦争時に敵対国に利用された場合に、人員や物資の移動を迅速に行われてしまう危険性を孕むが、更なる拡大発展を狙うベルン側にとってはマズダ達の発明品の事もあり急務であるという認識が持たれている。
ベルン村からクラウゼ村、ガロアという交通網しかないが、今後はガロア以外への都市部や他領を直接繋ぐ街道を開く計画も検討中だ。
「こうなると、魔王軍には何時攻めてくるかはっきりして欲しくなってしまうな。あちらが仕掛けてきたら他の政策は一端見直ししなければならなくなるだろうから、まだ動き出していない内か、終わった後に仕掛けて来て欲しいものだよ。不謹慎な言い方だけれどね」
「確かに不謹慎ではありますけれど、私達の場合はいささかならず特殊な事情というか特異な面子ですから、クリスティーナさんがそうお考えになっても仕方ないでしょう。あら……レニーアさん達のお客様がおいでになったようですね」
モレス山脈の方角からヴァジェを筆頭に何体もの竜が飛来するのを、真っ先にドラミナが見つけて、一瞬遅れてクリスティーナも視認した。
今日、レニーア達がヴァジェ達を相手に模擬戦を行う為の場所として提供した演習場に、竜達が降り立つ段になってマズダ達も竜に気付いて、感嘆の声をあげている。
「レニーアが加減を間違えて、ヴァジェ達に大怪我を負わさなければいいのだが……」
「レニーアさんはドランが見ている限りは大丈夫でしょう。以前はドランの前だと張り切り過ぎて、やり過ぎてしまう困った所がありましたが、今では随分と落ち着かれていますし、ドランを落胆はさせない筈です」
「思いのほか、ドラミナさんはレニーアの事を信頼しているのだな。ただ、そうだね、いい加減レニーアの事を信頼してあげてもいい頃か。となるとネルが楽しむあまりに我を忘れないか、クシュリとアズナルの心が折れないかを心配するべきかなあ」
「そちらの心配がありましたね。四方が丸く収まる過程と結果ならよいのですけれど……」
流石にこればかりはドラミナも自信を持てないようで、口にした言葉には随分と力が無かった。
*
バリアゴーレム達が四方に散り、即席結界装置の設置も済んだ頃、上空に飛来していた竜達もそれぞれ演習場へと降り立ち、ベルン側の責任者であるドランと二言三言交わすと、全員が竜人の姿へと変化して、一緒に観戦する流れとなった。
最初に模擬戦を行うのは、昨年、竜種とさんざん特訓を重ねた経験があるという事からレニーアが立候補し、相手にはヴァジェとウィンシャンテ、クラウボルトら三名で、この四名が結界内部に留まった。
レニーアを除く全員が結界外に退出し、初顔合わせとなる竜達も多く、改めてドランが挨拶回りをしている頃、レニーアと相対するヴァジェは深刻な顔でウィンシャンテとクラウボルトに心からの忠告を伝えていた。
いつもは自信に満ち、傲岸不遜の化粧をその美貌に佩くヴァジェが、真剣に思いつめた表情を浮かべ、反論を許さぬ凍えた声で語りかけてくるのだから、若き風竜と雷竜は思わず押し黙って耳を傾ける他なかった。
「いいか、ウィンシャンテ、クラウボルト。これから私達が相手をするのは、人間の姿をしているが人間とは到底言えない相手だ。殺す気でかかれ。それ位の意気込みで挑んでも結果は変わらんが、甘く見て掛るよりかはいくらか戦いらしい体裁を整えられるだろう」
他の種を下に見ているヴァジェの口から出たとは、到底信じられない忠告である。
ウィンシャンテなどはここに来る前にヴァジェが、何か腐った物でも食べたのかと疑ってしまった程だ。幸い、彼は心の中だけに留めて口にする事はなかったので、ヴァジェに顔面から炎を浴びせられる事態は避けられた。
ドランは今でもセリナやドラミナ、クリスティーナ、ディアドラらヒロイン勢に対しても、孫娘を見るおじいちゃんの気分が大なり小なりあります。
特にセリナに関しては初めて会った時の状況もあり、田舎から都会に上京する孫娘を心配する祖父気分が抜けていません。
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第二百四十一話
ヴァジェは思い返していた。かつてゴルネブの海岸でレニーアと海魔退治で張り合ったあの日の事を。顔を突き合わせる度にお互いにいがみ合い、罵詈雑言の嵐を吹かせて敵対心を募らせていたあの頃を。
ドランとレニーアの魂の素性を知った今となっては、よくもまあ知らなかったとはいえあのような態度を取れたものだと今となってはしみじみと思う事が、たまにある。
ヴァジェはドランに戦い方の師事を受けた事とアレキサンダーやバハムートらに短い期間とはいえ鍛えられた事で、同世代の竜達の中では屈指の実力者へと成長していたが、神造魔獣としての力を取り戻したレニーアの前ではわずかな差でしかない。
その事を、ヴァジェはレニーアの思念竜の右拳に顎を打ち上げられ、空中に錐揉み回転しながら、走馬灯のように回想していた。
初手に放った火炎でウィンシャンテとクラウボルトに、レニーアの危険性を暗に伝えた後も、神造魔獣の気配をわずかに放ち、こちらの本能を煽るレニーアに対して積極的な攻勢に打って出たのはヴァジェであった。
レニーアの真の実力と素性を知る自分が前に出なければ、ウィンシャンテとクラウボルトが踏み込むべき一歩の見極めを誤って、大怪我を負う可能性を危惧した為である。
ヴァジェらしからぬ自己犠牲に似た献身的な行為だが、流石に同胞が自分の目の前で木端微塵になるかもしれないと考えれば、考えるよりも先に体が動く程度には情の厚い女性なのだ。
だからこそこうして何度となくレニーアの思念竜に全力の攻撃を何度もたたき込み、落ち着きを取り戻したウィンシャンテとクラウボルトも人間に対して放つには過剰な攻撃を絶え間なく放ったが。
だが圧倒的な格の違いと規格外の出力を誇るレニーアの思念によって、攻撃のことごとくが無効化され、レニーアと最も近い距離に居たヴァジェが最初の犠牲となってしまったのである。
空中に打ち上げられたヴァジェは、脳味噌を盛大に揺さぶられ、気絶した状態で頭から地面に落下した。
首が曲がってはいけない方向に曲がった体勢で落下してしまったが、鋼鉄よりも遥かに堅牢な骨格を持つ深紅竜であるから、骨折の心配はいらないのがせめてもの救いだろう。
きゅう、と可愛らしい声を漏らして気を失ったヴァジェを、思わずウィンシャンテとクラウボルトが振り返った瞬間、彼らの背後から背筋が凍える程に恐ろしく、おぞましい声が聞こえてきた。
ああ、可憐な少女の声である事は間違いないのに、どうして竜種である筈の二体の心臓がキュッと音を立てて縮む程の圧力を持っているのだろうか!
「よそ見をする余裕があるのか? 風竜に雷竜の!」
直後、生存本能が全力で警鐘を鳴らした二体の視界を、レニーアの体から立ち昇る思念竜が埋め尽くした。
そうして彼らはヴァジェとまったく同じ過程を経て、見事に頭から激突する運命を辿った。圧倒的な戦闘能力を持つレニーアとはいえ、この場がある程度は竜種達と後輩達双方に見せ場を作る場面であると理解している。
若き竜種三体の顎を下から打ち抜き、脳震盪を発生させたとはいえ、一撃の威力はきちんと押さえており、地面の上で大の字になっていた三体はそう時を置かずして、生れたての小鹿のように足を震わせながら立ち上がる。
レニーアは、フフン! と面白そうに鼻を鳴らし、自らの地位が揺らがぬ事を確信する絶対的強者の笑みでこう言い放った。
「さあさあ、まだ立ち上がれるだろう! 今、私達が行っているのは、生命の安全が保障された模擬戦に過ぎん。
だが、お前達とこのベルンの大地が遠からず直面するのは、生命を賭けて行われる本当の殺し合いだ、命の奪い合いだ。
まだ立ち上がる力があるのなら、ブレスを放つ力が残っているのなら、その牙を敵の喉笛に突き立てる力があるのなら、さっさと立ち上がってこの何重にも対策の施された過保護な模擬戦位、戦い抜いてみせろ!」
戦場に立つ鬼神か何かかと見間違う気迫を放ち、戦場における心構えを口にするレニーアに、ネルネシアとマノスは全くその通りだと言わんばかりに何度も頷き、クシュリとアズナルは竜種を圧倒する戦闘能力もさながら、どこの戦闘民族だと心の底から戦慄していた。
ドランは我が娘の思想に確かにそうではあると認めながらも、竜種達相手とはいえ少々やり過ぎかな? と考えていた。一応、ウィンシャンテとクラウボルトの身が危なくなれば止めに入るつもりだが、まだしばらくは大丈夫だろう、と静観の構えだ。
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第二百四十二話
ネルネシア、マノス、そしてレニーアから予想外の助言を受けたクシュリとアズナルは、ヴァジェ達に代わり模擬戦の相手を買って出てくれた三体の竜種を相手に、レニーアの予想を越えた奮戦を見せた。
レニーアだけでなくドランもネルネシアとマノスに関して言えば、かねてからの強敵との戦いを好む嗜好と研究に没頭する性癖を理解していた為、貴重な竜種との模擬戦に奮起する事は容易に想像がついていた。
しかし、クシュリとアズナルはレニーアと言葉を交わしただけで、事前の予想を越える動きを見せて、レニーアの口にした『良くて一撃』を上回る、一体につき一撃ずつ合計三撃を入れるという成果を残したのである。
これにはイリナに膝枕を行使中のレニーアも、審判役とファティマ達への解説役を兼ねていたドランも、ほう、と感嘆の吐息を一つ零す程だった。
結果として模擬戦の相手をした竜種達は、先程、驚愕と共に見せつけられたレニーア程ではないにせよ、彼らの抱いていた人間を越える力と怒涛の気迫で挑んでくるネルネシア達に、一目も二目も置いた。
モレス山脈の竜種達とガロア魔法学院の生徒達の模擬戦は、非常に濃厚な内容をこれでもかという程詰め込んだ物となり、レニーアを除いた生徒側の心身を限界まで疲弊させて、ひとまずの終わりを迎える。
さて、夕暮れによって多くの建物が建立されたベルン村を暖かな色合いに染め上げて、人々が家に戻り、またあるいは夜の商いに備えて村の一角が賑わいを増す中で、クリスティーナの屋敷に帰還したレニーア達は、入浴と休憩の後に男爵たるクリスティーナと共に食卓を囲む事を許された。
この食卓には模擬戦の観戦に来た竜種達も招待されて、竜人の姿に変化した彼らは尻尾のある種族用の椅子に腰かけて、物珍しそうに部屋に飾られた繊細な細工物や銀製の食器を矯めつ眇めつしている。
給仕はリネット、ガンデウス、キルリンネに加えて、過去にクリスティーナの祖父である先代アルマディア侯爵に仕えていた執事のその息子という人物を筆頭に、数名の執事とメイド達が行っている。
流石に竜人を前にしているという事もあり、メイドの何人かは緊張した面持ちだが、幸いにして皿の中身を零すなり、つまずいて倒れ込むなどの失態を犯す事はなかった。
長方形のテーブルの上座にはクリスティーナが腰かけ、彼女から見て右手側にドランやレニーア達が腰かけて、左手側にはヴァジェをはじめとした竜種達が腰かけている。
リネット達三人は壁際に並んで何時でも給仕に動けるように控えている。リネットも食卓を囲むのが常だが、今回は客人を招いた場である事から、あくまで給仕に徹するつもりのようだ。
前菜から始めて一品ずつ料理を出すのが、王国の畏まった食卓での作法だが、客人の居る席ではあるものの魔法学院の生徒である事と、人間の食事の作法に明るくない竜種達を招いている事から、先にほとんどの品をテーブルの上に並べる形式が採用されている。
それまで内装に目を向けていた竜種達は、知恵と知識と技術でもって作られた料理が目の前に並べられると、一斉にそちらへと視線を転じたこの中ではもっとも人間の料理に慣れているだろうヴァジェも、ガロアで見た事のなかった料理に対し、興味で瞳をキラキラと輝かせている。
この場に集った全員の顔を見まわし、屋敷の主人であるクリスティーナは満足げに微笑んだ。
ドラミナと二人掛かりで仕事に取り組み、特急で終わらせたが、それでも模擬戦には間に合わず、内心では落胆していたクリスティーナだが、こうして友好関係を結んだ竜種達を前にすると、自分の求める未来図に一歩近づけたようで嬉しくあった。
「クシュリ達は随分とくたびれた様子だが、レニーアやネルの顔を見るとどうやら有意義な時間を過ごせたようだな」
クシュリとアズナルは一度お風呂でさっぱりした事と、闘志を燃やして模擬戦に挑んだ事もあり、疲労こそ残っているが顔色は晴れやかだ。
竜種側はと言えばウィンシャンテとクラウボルトはまだまだ疲れたと言った顔色だが、ヴァジェはいつもの様子を取り戻している。
唯一、竜種側でレニーアの真の素性を知る為に、その心労たるや凄まじいヴァジェであったが、既に瑠禹やドランの驚愕の正体を知るという体験を二度もしている事もあり、疲弊した精神の回復力が否応なく鍛えられており、立ち直りと割り切りの早さは天下一品の代物へとなっていた――ならざるを得なかったと言うべきか。
模擬戦が終わった後、屋敷に戻るまでの道中にヴァジェはレニーアに呼び出されて、このスカポンタン、アンポンタン、スットコドッコイとまあ、出るわ出るわの罵詈雑言を浴びせかけられ、翼は小さく畳まれ、尻尾はしょんぼりと垂れ下がるという落ち込み具合であった。
特にヴァジェの心に深く突き刺さったのは、レニーアの「私よりも空気が読めない」という一言であった。まさかまさか、あのレニーアよりも空気が読めないなどと面と向かって言われるとは! ヴァジェの受けた衝撃は非常に大きなものだった。
イリナに声を掛けられたレニーアがプンスカと肩を怒らせながらその場を切り上げた後も、ヴァジェはしばらくは落ち込み切ったままだったが、それも浴場で暖かい湯に浸かり、ファティマ達に笑いかけられるまでの事。今ではすっかりと精神状態は復活している。
傷つきはするし、驚きもするが、同時にそれ以上に回復が早い。それが今のヴァジェの精神性である。
最後のレニーアは白面●者と良く似た素敵な笑顔です。
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第二百四十三話
不吉に、不敵に、不遜に笑うレニーアの姿に、ヤーハームが面白いものを見たと笑うのと引き換えに、彼の守護を己の生命よりも優先するマスフェロウと警護の親衛隊が憤怒の炎を胸の内に滾らせながら進み出る。
神の金属オリハルコンの人造品デミオリハルコンの甲冑で全身を固めた親衛隊は、それ自体が強力な魔力を発する長銃の銃口をレニーアへと集中させる。
ヤーハームを背後に庇ったマスフェロウは、不遜なる侵入者が崇敬する魔王の瞳と安寧の時間を邪魔した事への怒りと、それ以外の何かが胸の内に生じている事に一抹の不安を覚えながら、紫色の視線に殺意の魔力を乗せてレニーアを見た。
底知れない奈落に通じている亀裂のような笑みに、マスフェロウの心の中で不安の領土が更に増し、それを糊塗するようにマスフェロウは病毒混じりの炎を誰何の声と共に吐き出した。
「貴様、恐れ多くも魔王ヤーハーム様の御前に姿を晒すなど、恐れを知らず、礼儀を知らぬ愚か者め。いずこの手の者とも知れぬ有象無象は、この場で処断してくれよう!!」
夜陰の大気に溶けるマスフェロウの病毒は、ただの一息で無数の生物を殺傷せしめる猛毒であったが、それが理解できぬ恐怖によって吐き出されたものである事を、マスフェロウ自身は気付いていなかった。
気付いていたのはヤーハームと闇夜を背に立ち、魔王とその配下の価値を推し量っているレニーアのみ。そして、マスフェロウの恐怖が正しい物である事を理解しているのもまたこの二名であった。
さっとマスフェロウが手を挙げるのに合わせて、長銃の引き金に添えられていた親衛隊の指に力が籠る。
マスフェロウだけでなく親衛隊の兵士達の心にも伝染している恐怖を見抜き、レニーアは亀裂の笑みを優しげなものへと変えた。この上ない憐憫と嘲りの混ざり合った、他者を侮蔑する事に特化した笑みであった。
「何を躊躇う。何を待つ。何を恐れる? さあ、貴様の言うところの有象無象を蜂の巣にして見せろ。矮小なる貴様らの崇敬する魔王とやらの安眠を妨害した私を、さっさと処断するがいい。むろん、出来るものならな?」
撃て、とマスフェロウが叫ぶのと親衛隊が引き金を引くのとはほぼ同時であった。最大六発まで発射できる長銃からは、赤い魔力の弾丸が次々と放出されて、二十人全員が弾倉代わりである特殊加工した魔晶石から魔力が失われるまで引き金を引き直し続けた。
合計百二十発にも及ぶ破壊の指向性を付加された魔力の弾丸は、一発も外れる事なくレニーアの全身をその射線上に収めていた。
たとえ強固な障壁や結界を展開したとしても、これだけの高密度の魔力の弾丸を叩きこめば減衰は免れない。
そうなれば魔六将であるマスフェロウの攻撃を、またあるいは万が一の可能性ではあるが、魔王ヤーハームの攻撃を防げる筈がないと、親衛隊達はそう信じていた。
実際、ミスリルをふんだんに使った銃身に魔力を増幅させる術式や貫通性能を高める術式をびっしりと付与し、装填した魔晶石から抽出した魔力によって形作られる弾丸は、これだけ撃ち込めば偽竜の鱗であろうと結界ごと撃ち抜く威力を持つ。
すなわち並の偽竜程度にしか有効でない武器であり、それがレニーアに通じるわけもない、という事だ。
「魔法銃だの魔力銃だの、呼び方は色々とあるがお前達のソレは他所の土地の物と比べると、随分と性能が良い。素材と手間を惜しまなかったからだろうがな、ふん!
使う相手を間違えるようでは宝の持ち腐れよ。どうせ通じぬのなら、後生大事に抱えている方がまだマシであろうからな」
無駄弾を撃つだけなら、撃たない方がはるかに良いと嘲り笑うレニーアには、もちろん傷一つついてはいない。
レニーアの華奢な体を中心とし、球体状に展開された思念の守りが魔力の弾丸の全てを受け止めるのと同時に微塵に粉砕していたからだ。
全弾防がれるのは兎も角、よもやレニーアの守りを減衰させる事すらできなかったと理解した親衛隊の動きは迅速であった。
驚愕があった。恐怖があった。不安があった。しかしそれらすべてを発生と同時に抑え込み、弾を撃ち終えた長銃を手放すや散開と同時に腰に下げた魔剣を抜き放ったのは、苛烈の一言に尽きる訓練と鋼の精神力の成せる業というもの。
一人ひとりが一流の戦士であり、魔法使いである親衛隊の一糸乱れぬ動きに、レニーアはベルンにおける親衛隊に相当する兵士達を脳裏に思い浮かべ、兵卒の練度は魔王軍が上か、と冷静に評価を下した。
平均的な魔族の戦闘能力が、人型生物の中では屈指の基準を誇る事もあるが、それ以上に暗黒の荒野内での多大なる実戦経験と、これまで培ってきた『闘争の歴史と教訓』において、魔王軍側に大きく軍配が上がる為でもある。
「雑魚にはもう興味はないな」
魔王軍領内に侵入後、蹴散らしてきた雑兵と親衛隊の練度をざっと把握した事で、レニーアの中で、将ですらない彼らへ興味は失われていた。
嘲りの響きすら失われて、無関心だけで構成された言葉がレニーアの唇から零れるのと同時に、レニーアを四方から襲うべく散開した親衛隊達の首が、一斉にきゅっと絞められた。
なんという事はない。レニーアの見えざる思念が、親衛隊の纏う甲冑をはじめとした防具と彼ら自身の魔法防御力を呆気なく貫き、首をきつく輪のように締め上げて、意識を奪い取っただけの事である。
レニーアにどのような意図があるのか、親衛隊の誰ひとりとて死んではいないが、レニーアが指一つ動かさずに親衛隊全員を戦闘不能状態に陥らせた事は、マスフェロウにより強大な敵であると印象付けた事は間違いない。
「雑魚の評価は終わった。次は将の質を見てやるとしよう」
ベルン側で将に該当する人物と言えばドラミナ、セリナ、ディアドラ、リネット、ガンデウス、キルリンネとなるだろう。
何名か、いやほとんどは指揮官としてはまるで経験の無い者も含まれるが、個人で軍勢を相手取れる実力者と言う事で差し引きは零と甘めに採点しておこうか。
なお通常であれば領主であるクリスティーナが総大将であり、補佐官であるドランは将の一人に数えられるべきだが、レニーアの価値観に基づいて判定するとドランこそが実質の総大将であり、クリスティーナは立場上、総大将に据えているだけのいわば仮の総大将となる。
ベルンの総大将であるドランと魔王軍ことムンドゥス・カーヌスの総大将である魔王ヤーハームであるが、これもまたレニーアの価値観で考えると比較する必要など欠片もない相手で、ヤーハームに関しては比較する為ではなく彼がどの程度の存在であるかを確認しに来ている。
そしてレニーアの言う将――魔六将の一角、魔王軍に所属する偽竜を統べる疫病をまき散らす悪しき竜の女王、全ての生命に苦痛を、悪寒を、凍えを、灼熱を、腐敗を与える邪悪なる竜の女。
倒れ伏す親衛隊を置き去りにして、レニーアを目指して迫るマスフェロウの覇気に、レニーアはふん、と吐き捨てて、気迫だけはまあまあと評価を下し、テラスの手すりの上から外へと背中から飛び降りた。
夜空を仰ぎながら落下するレニーアの眼前を、マスフェロウの放ったどす黒い病のブレスがかすめ、すぐさまそのブレスを放った当人が背の翼を広げて、レニーアへと襲いかかってくる。
全身から偽竜の魔力と無数の病を齎す呪いを放つマスフェロウに、レニーアは比較的自分と近い種族であるマスフェロウの力量に、お父様が地上の竜種と会う時はいつもこのようなお気持ちなのだろうか、と呑気な事を考えていた。
大神にも匹敵する霊格と戦闘に特化して生み出されたレニーアからすれば、マスフェロウは地上の偽竜にしてはやる方だが、どうにも物足りない相手である。
このレニーアの心境をマスフェロウが知れば、さてどのような反応を見せた事だろうか。
マスフェロウは、黒髪を強風に靡かせながら落下するレニーアに、恐怖を芯に押し込めた怒りを向け続けている。
「我らが都を土足で踏み込むその蛮勇、どうやらまったく実力を伴っていないわけではないようだな、小娘!」
「小娘? はん! そうかそうか、貴様にはそう映るか。真なる竜種を滅ぼす為に生み出された偽りの竜種、邪神の被造物よ、貴様らのその出自には大いに親近感を抱くが、あの御方の敵となり得るかどうか、その力を私に示すがいい!」
「あの御方? 貴様、まさかお前もいずれかの神の眷属か!」
レニーアの魂はマスフェロウの言う通り、大邪神カラヴィスの眷属と言っても差し支えのないものではあるが、今の彼女はカラヴィスの指示に従って行動しているわけではない。
またかといってドランの意向で動いているわけでもない。レニーアが自らの大切と考える者達の為に、自らの意思で動いているだけだ。
若干、マスフェロウの深読みが過ぎていると言えた。だが、この深読みはレニーアにとってそう悪いものではなかった。
この際だ。どこぞの邪神が魔王軍と同じようにこの惑星を征服しようと遣わした眷属の振りをして、こやつらを混乱させてやろうとレニーアは即断した。
「ふはははは、軍神サグラバースの眷属たる貴様らだけが地上にいる神の眷属と思うなよ。
貴様らの存在があの御方にとって障害となるか、放置しても構わぬ塵芥か、この私が審判してやりに来たのだ。泣いて感謝しろ!」
完全にマスフェロウのみならずヤーハーム、ひいてはサグラバースの眷属たる魔族全てを見下しきったレニーアの発言に、マスフェロウはこれ以上ないと思っていた怒りを更に燃え上がらせた。
たおやかな竜人の美女の全身からは更なる病毒が溢れ出し、ただそこに居るだけで際限なく疫病をまき散らす人型の災厄と化しつつあった。
「その口から吐いた言葉、取り消す事は出来んぞ!」
「ははははは、そら来い、遊んでやるぞ、『小娘』」
レニーアは地面に激突するまでほんの数秒と言うところで、高笑いと共に自分を中心として思念竜を展開し、夜空へと向かって急上昇をした。
ほとんど垂直に近い勢いで飛び上がるレニーアとすれ違いざま、マスフェロウは両手で抱え込む大きさの無数の病毒の砲弾を放ったが、それらは思念竜の左腕の一振るいで呆気なく霧散する。
常ならば霧散したとしても、目に映らぬ程に小さな微粒子となってもマスフェロウの病毒は凶悪な効果を発揮するが、レニーアに振りはらわれた病毒が完全に消滅している事に気付き、マスフェロウは大きく舌打ちをした。
レニーアが疫病や毒に由来する邪神の眷属であるならば、このような芸当が出来てもおかしくはない、とマスフェロウの中で新たな誤情報が追加される。果たしてこの誤情報が訂正される時が来るのかどうか。
レニーアは魔王の心を盗んでしまったようです。
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第二百四十四話
ムンドゥス・カーヌスの王城インビクタスは大魔界時代に建立されたもので、その時代に施された神の奇蹟によって、例えどれだけ破損したとしても城全体に施された奇蹟を消されなければ、放っておいても一晩ほどで完全に修復されるという特性を備えている。
突如として襲来してきたレニーアとの戦闘により、ヤーハームの寝室に面する中庭一体が惨状と顔を覆いたくなる有様になったが、城勤めの使用人達が懸命に働いている事と合わせれば、朝日が昇る頃には常とそう変わらない状態にまで修復されるだろう。
インビクタス城のみならずゴエティア全体を揺らした戦闘の余波により、夜行性の種族以外にもほぼすべての住人が起き出した為、魔王軍の首都は何時になく騒々しく、また同時に誰もが大なり小なりの不安の種を胸の内に抱え込んでいた。
そしてそれは、王たるヤーハームが襲撃を受けたという急報を受けた、首都を離れていた魔王軍の大幹部魔六将達もまた同じ事であった。
ヤーハームは尖塔の壁に叩きこまれた状態から無事に復帰し、荒れた寝室を離れて城内にいくつかある会議室の一つに腰を落ち着けていた。
当然、彼の周辺を守る警護の層が最大警戒時のものへと変わっているのは、言うまでもない事だろう。
意識を取り戻した親衛隊は勿論の事、首都防衛隊の最精鋭達が十重二十重と会議室を中心に取り囲み、無数のゴーレムやホムンクルスや魔法生物達も可能な限り稼働状態に移行されている。
当のヤーハームはといえば、自身の周囲で顔色を失くして慌ただしく走り回る家臣達の姿に、今夜はもう再度の襲来を心配する事はあるまいに、とレニーアの放っていった言葉の数々を思い出しながら、のほほんと構えていた。
それでも一応は軍神の鎧ヴァナリアを纏ったままで、鞘に納めた神剣ガランダインもそのままであり、周囲に合わせて警戒しているという体裁は整えていた。
ヤーハームは周囲の雰囲気を察せられる君主なのである。
とはいえ、自分が警戒態勢を解いていないから家臣も気を休める事が出来ないのなら、武装は解くべきだが、例え自分が警戒を解いても家臣達はそうしないという確信もあり、ヤーハームはさてさて、レニーアの再度の襲来がないとどう信じさせ、どう告げるべきか、適切な言葉を思考の迷路の中で探す作業に集中していた。
君主が休んでいないのに、家臣が休むわけにはゆかないという考えは、魔族にも共通するものであるから、生真面目な家臣達の気質と忠誠心も時には考えものだ。
表情と態度こそ泰然自若たるものを維持しているヤーハームだが、家臣達が寝ずに朝日を迎えるのはちと酷だな、と頭を捻っている。
人間よりも頑強な魔族の肉体ではあるが、睡眠が健全な精神と肉体を維持するのに欠かせない要素である事をヤーハームはよく理解していた。
だが、ヤーハームが家臣達に声をかけるよりも先に、魔王襲撃という緊急事態の連絡を受けた魔六将を始めとした幹部達が勢ぞろいし、ヤーハームは言葉を発する機会を逸した。
黒曜石のような光沢を放つ石で建てられた会議室には、長方形の円卓が置かれており、そこには意識を取り戻したマスフェロウが腰かけ、他の五つの席には遠隔地から通信装置等で連絡を繋げた五名の魔六将の顔が映し出されている。
また、ヤーハームの左側には彼の知恵袋であり、宰相として魔王軍ひいてはムンドゥス・カーヌスの政務面の頂点に立つ魔族の青年ザルハメラの姿があった。
華美な装飾は取り払われ、上質の黒い生地で仕立てられた文官服姿のザルハメラは、薄緑色の肌にかすかに怒りの赤を昇らせ、眼鏡の奥の赤い瞳にも等量の怒りを秘めて、会議の出席者の顔を見回す。
護衛の役割を果たせず、ヤーハームに戦わせてしまった事に意気消沈し、許されるならその場で心臓を抉り出し、死んで詫びる覚悟を固めているマスフェロウ。
世界そのものに働きかける原始的かつ強力な魔法と変身能力を併せ持つ、白く長い顎鬚を持った巨人トロール族の長、トラウルー。
古代の人形師が作り出し、魂を宿した付喪神であり、自身の作りだした分身であり作品でもある人形の軍勢を手足の如く操る人形遣いヴェンギッタ。
かつてヤーハームと敵対していた古く強力な血筋を引く魔族であり、今なお、従うに値しなければ寝首を掻くと公言して憚らず、それを許されている赤面三頭六角の老魔族ザンダルザ。
魔界の瘴気を吸って独自の進化を経て、高い知性と凶悪な戦闘能力と特性を併せ持った魔虫達の長であり、軍神サグラバースの眷属でもある小指の先ほどの大きさの青い蜘蛛クインセ。
そして直接邪神達によって作りだされた原初のゴブリンの第三世代、神の尖兵と真に呼ぶ事の出来る極めて強力かつ高い霊格を有する古ゴブリンのガリリウス。
以上の六名が魔王ヤーハームの一部忠実ならざる魔王軍六将軍であり、同時に単独で万軍に匹敵する最大戦力達だ。
マスフェロウはヤーハームの護衛を、ヴェンギッタとザンダルザは西部戦線の最前線に赴き、トラウルーとガリリウスはその後方支援、クインセは北部に存在する巨大な宗教国家への牽制にと各々の職分を果たしていたが、それもレニーアによって引き起こされた緊急事態によって、こうして通信越しに顔を突き合わせる事を余儀なくされていた。
ヤーハームは自分の護衛を任されていたマスフェロウへ突き刺さる、他の魔六将の視線の鋭さに、そろそろ矛先を変えるかと口を開いた。
「トラウルー、ヴェンギッタ、ザンダルザ、クインセ、ガリリウス、皆、忙しいところを夜分にすまんな。いささか穏やかならざる事態が起きたのでな。多忙な諸君らを急ぎ呼び集める事となった」
ヤーハームは怪我ひとつとてないが、ほぼ完全武装となっているその姿に、マスフェロウ以外の魔六将達は、彼がそこまでしなければならぬ敵が来た事を暗に察していた。それを表に出すかどうかは、また別の話ではあるが……
常と変らぬ余裕のある態度を崩さぬヤーハームの言葉に真っ先に応えたのは、今も戦友と政敵と好敵手の全てを混ぜた関係にあるザンダルザだった。小柄ではあるが、高密度の筋肉と魔力が圧縮されたその肉体は、全魔族屈指の武闘派と知られる戦闘力を秘めている。
「主君の危機とあっては、前線にかまけてばかりもおられんというわけだ。前線の動きは今のところ特筆するべき動きもないのでな」
ザンダルザは赤い瞳にヤーハームを試すような意図を含めていた。襲撃者との戦いによって傷を負っていたなら、いつでもその隙を狙おうとしているのは明白であるし、同時にヤーハームに好機とみればお前の首を獲る、と脅してもいる。
「ああ、それはなによりだ。不幸中の幸いと言うものだろう。それにおれも怪我一つ負ってはいないとも。今からでも、かつての決闘のように貴公と三日三晩戦っても構わんくらいの調子だ」
「そうかよ。魔族の未来を担う若者が壮健で老骨は安堵したぞ」
「良く言うものだ。さて、他の者達はどうだ? 危急の事態ではあったが、すでに嵐は去った後だ。各々、手を離せぬ仕事があるのならば、最低限の情報を共有した後は仕事に戻って構わん」
次の前半部分でレニーア編はおしまいの予定です。
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第二百四十五話
レニーアによる魔王ヤーハーム襲撃が発生し、魔王軍上層部を大混乱に陥らせた翌朝のこと。
最強にして最悪の
彼の地で何が起きたのかを正確に把握しているものは、ベルン男爵領内でもドランと常時稼働して監視体制を敷いているドラッドノート位のものだろうか。
ドランは昨夜の珍事? いや、異常事態? に関しては沈黙を貫き、ドラッドノートもまた主たるクリスティーナにどう報告したものか悩んだ事に加え、ドランが口を閉ざしている姿を見て、これに倣った為、セリナやディアドラ達にこの話が伝わる事はなかった。
一方で夜が明けぬ内にベルン男爵領に帰ってきたレニーアは、今日も朝から焼きたての柔らかな白パンを何個も食べ、ボウルに山と盛られた各種野菜を使ったサラダをボリボリと食べ、冷製トマトのスープを何度もお代わりし、川魚の香草焼きを綺麗に骨だけ避けて食べては何匹もの魚を骨だけの姿に変えた。
クリスティーナに雇われている料理人達――何名かは間諜――の腕前が良い事もあるが、やはりレニーアにとってはドランがこの場に同席している事と、昨夜、自分で自分を褒めたくなるほど良い仕事をしたという自負があるからこそであった。
何日も続いた雨の後に、雲間から覗く青い空を見つけた時のように爽快な面持ちでお腹を膨らませて行くレニーアの姿に、セリナは目をパチクリさせながら隣席のドランに話かけた。
「今朝のレニーアさんはいつにも増して食欲旺盛ですね。いつもはパンのお代わりは三個くらいなのに、今日はもう七個も食べていますよ。あ、八個目」
そういうセリナの視線の先では、レニーアの手が小さく刻んだイチジクの果肉を混ぜた、握り拳大のパンを取っていた。
レニーアはセリナからの視線を気にとめた様子はなく、小さなガラスの小鉢に盛られた色とりどりのジャムを適当にパンに塗りたくり、小さな口で少しずつ食べ始める。
そうして口を動かしてパンを食べている間にも、レニーアの左手は搾りたての新鮮なミルクがいっぱいの大ジョッキを握っており、次に口に入れる物の用意は済んでいた。
ドランは我が娘の健啖家ぶりに小さく笑みを零し、愛しい蛇娘に事情をぼんやりと誤魔化した答えを返した。イリナやクシュリ、アズナル達が同席している以上は、昨夜、単独で魔王軍に喧嘩を売りに行った、とは口にし難い場である。
「昨夜、遅くまで一人で体を動かしていようだから、何時もよりお腹が減っているのだろう。ちょうど、体が大きくなる年頃でもあるしね」
「う~ん、昨日の夜はそんな気配はしなかったのですけれど、私達が気付かないように体を動かす位の事は、レニーアさんなら簡単に出来ますもんね」
セリナの青い瞳には納得が三と疑惑が七の割合で渦を巻いていた。
レニーアがただ体を動かすだけで済ます筈がないと確信しているのと、ドランがどうにも歯切れの悪い返答をしている事の二つとこれまでの経験を照らし合わせて、この場では正直に告げがたい事情があるのだと察するのは、セリナにとって難しい事ではなかった。
まあ、レニーアさんなら、ドランさんにとって悪い結果にはならないだろう、とセリナはすぐさま結論付けて、自分の食事を再開させた。
クリスティーナやディアドラ、リネット達といったレニーアの事をよく知る面々も、セリナと同じ結論に到り、今日も今日とてモレス山脈の竜種達やリネット達三姉妹を相手に、厳しい特訓を行うネルネシアやアズナル達と会話する事に集中していた。
レニーアは周囲からの興味や気配りには気付かぬまま、ムフムフと時折喜色の悪い笑い声を零しながら、目の前の皿を空にする作業に没頭する。笑い声が零れている事からして、機嫌が悪いわけではなさそうだ。
ヴァジェ、ウィンシャンテ、クラウボルト達との模擬戦以降、レニーアは竜種の中でも上位種であるヴァジェを圧倒する強さを見せた事もあって、模擬戦への参加率は低かった。
既にレニーアは完成された強さの持ち主であり、相手が竜種とはいえこれ以上模擬戦を重ねても成長は見込めない事に加え、仮に成長したとしても競魔祭でその力を十全に揮えるわけもない。
その為、レニーアの模擬戦参加率の低下へと繋がるわけだ。
マノスとネルネシアは嬉々として、クシュリとアズナルは覚悟を決めた顔で竜種達を、時にはセリナやドラミナ、リネット、ガンデウス、キルリンネ、そして時間を作って顔を出したクリスティーナを相手に陽が昇ってから沈むまでの時間を、模擬戦に費やした。
そうしてガロア魔法学院の若き雄達が着々とその才能の芽を育てている一方で、レニーアはというと、早々に仕事を片づけたドランと行動を共にするという幸福を享受する機会に恵まれた。
この約束はベルン村に来る前、ドランとクリスティーナに模擬戦を開催したい旨を伝えた時に、既に取り付けていたものだ。
明確に敵対視されている魔王軍やそれ以外の勢力との戦争を予期し、ベルン男爵領内の人間と物資の出入りは激しさを増して、領主の補佐官であるドランの仕事量は着実に増えている。
だが、せっかく来てくれたレニーアと特別な時間を作りたいという思いが仕事量に勝り、ネルネシア達が模擬戦に没頭している間、二人は気ままにベルン村内を連れだって出歩く事にした。
朝食を食べてそれ程時を置かず、レニーアの方からドランへと誘いかけて、快く承諾された事に、その時のレニーアは周囲に満開の花畑を広げたようだった、とその様子を微笑ましく見守っていたイリナは述懐した。
着替えを終えたドランは補佐官になってから定番となった、ただの農民よりは少しだけ質を上げた白いシャツに青のベスト、濃紺のズボンと皮靴という有り触れた衣装だった。
レニーアはといえば細かな植物模様の刺繍が施された、水色のパフスリーブのワンピースだ。首周りは白い襟と白いリボンの組み合わせとなっている。長い黒髪はそのままに流しているが、ちょこんと麦わら帽子が頭に乗っていた。
イリナやファティマがガロアでレニーアの為にと見繕ったか、あるいは実家から送られてきた衣服であろう。
屋敷の正門前で待つドランの姿を認めたレニーアは、肌理の細かな頬に恥じらいと悦びの朱色を昇らせて、小走りに魂の父親のもとへと小走りに駆け寄る。
親としての贔屓目が大いにあるドランは、愛娘の大変愛らしい姿に頬を緩めた。二人の魂の素性を知らない者からすれば、交際を始めたばかりの初々しい恋人としか見えない二人であるが、まさかお互いの父親と娘と思い合っていると看破出来る者はいないだろう
「おと、ドランさん、お待たせしました」
「君の為ならいくらでも待つとも。気にしなくていいよ。今日はいつにも増して随分と愛らしい装いだ。今日の為に用意したのかい?」
「はい。イリナに相談したところ、ファティマやシエラ達も口を挟んで、いえ、快く手を貸してくれました。如何でしょうか? ドランさんのお傍にいるのに、不適切な格好でなければよいのですが……」
レニーアがヤーハームに言い寄られても、ハッ! と鼻で笑い飛ばすか、無言で消し飛ばすか、といったところですね。現状。
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第二百四十六話
決して公にはならないレニーアによる魔王襲撃という、未曾有の事態が影で進行していた三泊四日の強化合宿は、参加したクシュリとアズナルが時折死んだ魚の目になっていた事を除けば、実に順風満帆に進み、無事に終わりを迎える事が出来た。
クリスティーナとドランは仕事のある関係上、つきっきりと言うわけにはゆかなかったが、セリナやディアドラ、リネット達、そしてモレス山脈の竜種達を含む誰かが、レニーア達ガロア魔法学院の若人達の合宿に付き合った事で、実戦形式の特訓は凄まじい質を維持し続けた。
他の四つの魔法学院も今年の競魔祭に向けて、代表選手達が日夜血道をあげているだろうが、ガロア魔法学院程の質の高い特訓を行えた者達はまずいないと断言できるだろう。
ドラン達からするとクシュリとアズナルの頑張りは思わず涙を誘われる程のものだったが、同時にレニーアが最後の最後まで短時間だけなら竜種を上回る超火力かつ燃費劣悪という設定を守りきった事についても、拍手と共に称賛の言葉を重ねたいのを、ぐっと堪えなければならなかった。
かつては、いや、今も傍若無人で他者の心情にほとんど配慮しない暴君ではあるが、あのレニーアが四日間堪忍袋の緒を引き千切らずに終えたのである。
レニーアの事を知る者達がどうしてこの『大偉業』に感嘆せずにいられようか。
まあ、そろそろレニーアの精神的成長をきちんと評価してあげて、いちいち感嘆する事のないようにするべきではないか、とセリナやドラミナなどは思っているのだが、若干親馬鹿を拗らせているドランは、レニーアのちょっとした成長でもいちいち感動しており、もうしばらくはレニーアに対して過剰な反応をしてしまうだろう。
さて四日目間の日程を無事に終えたレニーア達は、クリスティーナ達と共に朝食を済ませてから、来た時と同様に特急便を利用してガロア魔法学院へと帰還する時刻を迎えていた。
あれもこれもそれも、とドラン達から渡された大量の土産を包んだ布袋や鞄を足元に置き、レニーアを筆頭にネルネシアやファティマらが、クリスティーナの屋敷の玄関でドラン達と別れの挨拶を交わしている。
ドラン達としては馬車の駅まで見送りに行きたいところだったが、多くの利用客で賑わう駅に領主とその重臣達が姿を見せては要らぬ騒ぎを起こす事もあるだろうと、玄関での別れとあいなった次第である。
この別れに哀切は不要と言わんばかりに空は青く晴れ渡り、燦々と降り注ぐ陽光のきらめきは宝石箱をひっくり返したように眩いばかり。
もっともベルン村行きを楽しみにしていたレニーアが、ベルン村から離れるのに駄々を捏ねるものと思われたが、久しぶりにドランと会えた事でこれまで募りに募らせていた鬱積が解消されたようで、ドラン達を前に満面の笑顔を浮かべている。
クシュリとアズナルはガロア魔法学院では滅多に見られないレニーアの笑顔にも、この合宿の間に見慣れたようで、今更驚きの表情を浮かべる事もなくなっている。
ガロアの生徒達を代表して、レニーアが別れの口上を切り出した。
「この四日間、大変お世話になりました。お忙しい中、未熟な我らの申し出を快く引き受けてくださり、お陰様をもちまして私達は着実に力を蓄える事が叶いました。
無事に競魔祭が催された折には、昨年のドランさん達のご活躍に恥じぬ成果を残して御覧に入れましょう」
『無事に』と敢えてレニーアが口にした事からして、彼女自身も現在アークレスト王国を取り囲む不穏な情勢は理解しているようだ。
競魔祭までの数カ月の間に西のロマル帝国、東の轟国と高羅斗国、北の暗黒の荒野、どれもこれも何時爆発してもおかしくはない特大の爆弾揃いだ。
その爆弾が爆発した際に、その余波が何時アークレスト王国に及ぶのか、またはアークレスト王国で爆発しようとするのか。その影響で競魔祭が中止となる可能性は十分にある。
そうなればドランに活躍を見せる機会が失われたとレニーアは怒髪天を突き、そして戦場でそれ以上の武勲を上げればよいと考えて、屍の山を築くのは想像するに容易い。
「君達の役に立てたなら何よりだよ。後輩達の力になれたのなら、先輩冥利に尽きると言うものだ。モレス山脈の竜種達との交流にもなったし、私達としても実益のある四日間だったよ」
「そうでしたなら、私としましても鼻が高いですな。クシュリ、青猫、お前達もきちんと礼をするのだぞ。偉大にして寛大なる先達のご厚意に甘えさせていただいた四日間だったのだからな!」
傲岸不遜というかこういった物言いは一向に治る様子のないレニーアに、クシュリとアズナルは揃って苦笑を浮かべたが、意外にこの小さな暴君が面倒見の良さも併せ持っている事をこの四日間で知れたから、以前よりも苦笑から恐れや戦慄の割合が大きく減っている。
「言われるまでもないですよ。男爵様だけじゃなくベルンの皆さんには、こっちが申し訳なくなる位に良くしてもらっていますからね。これで結果に繋がらなきゃ、情けなさで自分を軽蔑しますわ」
「まったくそのとおりです。これだけ手厚く準備していただいて、更には複数の竜種という常識では考えられない特訓相手まで手配していただいています。魔法学院の外でここまで協力を得られている魔法学院とは、中々ないと思いますよ。
別に重圧として感じているわけではありませんが、ほどよい緊張感なら全身にまで行き渡っていますね。この調子を競魔祭本番まで維持できれば、確実に結果を残せますよ。とそういっては慢心でしょうか」
合宿に来る前と比較すれば確固たる自信を自分の中に持った顔になっている二人に、クリスティーナが微笑しながら激励の言葉を掛ける。あまり接する時間はなかったが、彼女にとっても成長が楽しみな後輩である事は間違いがなかった。
「私の目から見ても随分と頼もしくなったと思うよ。男爵という立場からするとありがたい事に我が王国の魔法学院の質は高く、ガロア魔法学院の卒業生としては厄介な事に他の魔法学院の生徒達も実力者ぞろいだ。
君達には是非とも他の魔法学院の生徒達が、実力者であるからといって委縮するのではなく、腕の振るい甲斐があると奮起して実際の試合に臨んでくれる事を祈っているよ」
外見を醜く変えるアグルルアの腕輪を装着しているとはいえ、クリスティーナはそれでも絶世の美少女である事には変わらず、そんなクリスティーナに微笑みかけられたクシュリとアズナルは分かりやすく上機嫌になる。
ただアズナルに関してはクリスティーナよりもレニーアに期待を寄せられる方が、より発奮した事だろうと、この場にいるほぼ全員が理解していた。
アズナルはまずレニーアに青猫というあだ名ではなく、名前で呼んで貰えるようになるのを目標に努力し始めないとな、というのがドラン達の共通認識である。
ただまあ、ドランとイリナに普段からべったりのレニーアが、アズナルを名前で呼ぶなり、使い物になる後輩と認めるのはともかくとして、果たしてアズナルの望んでいる関係になれるかというと、極めて難しいと言わざるを得ないのだが。
多くの者達が、アズナルがこれから歩む苦難の極みに位置する歩みに同情している中、ネルネシアが何時もの無表情に少しだけ違う色を加えて、クリスティーナにそっと顔を近づけて、ドラン達にだけ聞こえる小さな声で話しかけた。
クリスティーナを知る魔法学院の生徒達がこの光景を見たら、その場でこの世の地獄を見たか、はたまた楽園を見たかの如く絶叫した事だろう。
「ロマルと高羅斗の騒乱が次の段階に移りつつある。ベルンには早々影響はないと思うけれど、覚えておいてください」
「分かった。兵を出せとは言われないだろうが、物流や人の流れには影響が出るだろう。観光で経済を成り立たせようとしているうちとしては、迷惑な話だよ。それに人死の出る話は、耳にして愉快なものでもないしね」
「国家の威信と個人の欲望が強く絡み合っている以上は、国家規模の人間の人生を左右するのは仕方のない事。クリスティーナ先輩が責任を負うべきなのは、このベルンの地の人々だけ。それ以外の土地の人間にまで、責任を感じる必要はない」
「ふふ、ありがとう。やはりネルは優しい子だ。自分に出来る事をきちんと理解して、身の丈に合わない事をしないように気をつけるよ」
「ん、それでいい。責任を負い過ぎるのも、負うべき責任から目を逸らすのも良くない。
それとクリスティーナ先輩の周りにはドランを始め、有能で頼りになる人材ばかり。なので、恥ずかしがらずに周りを頼ってください」
「それはドラン達にも口癖のように言われているな。何か迷ったら自分達に相談して、一緒に考えよう、頼って欲しいとね。なあに、私も自分ひとりの考えで領地経営が出来る程出来た人間などと思い上がってはいないからね」
「ん、クリスティーナ先輩達、皆一緒でなら困った事があっても絶対にうまく行くから大丈夫」
大貴族――かなりの武闘派だが――の令嬢であるネルネシアが、透き通るように綺麗な微笑と共に告げてくれた言葉に、クリスティーナはほっと安堵した自分に、我ながら現金だなと思いながら、同じ位に綺麗な微笑みを返した。
こうしてガロア魔法学院の競魔祭出場予定選手達の、ベルン男爵領における三泊四日の強化合宿は、秘密裏にレニーアが魔王軍と接触を持った事を闇に秘されたまま、終わりを迎えたのである。
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第二百四十七話
レニーア達がベルン男爵領での強化合宿を終えて、ガロア魔法学院へと帰還して数日後の王都アレクラフティア。
かつて数百年もの昔にアークレスト王国を建国した一人の冒険者が国家の心臓たる地として定めた土地である。
その都に国家の象徴たる王城を建築し、歴代の国王達の居城として、住居として増築と改築を繰り返しながら時代時代に合わせてその姿を変えてきたこの場所に焦点を当てる事としよう。
アークレスト王国で最も貴い血統を受け継ぐ王族――当人達は元を辿れば冒険者だけどねと笑うが――の住まう城の一角、最上の腕前と確かな氏素性の職人たちが毎日手入れを欠かさずに維持している緑の庭園に彼女達はいた。
石の通路と細い水路がさながら迷路のように交差し、芸術作品と呼んで差し支えのない繊細さで整えられた緑の木々と季節を彩る花々が目を引く庭園。そこに三つの人影があった。
地下水脈から水を引いて作られた人工の小さな池のほとりに建てられた瀟洒な東屋で、深緑色のドレス姿の犬人の女性と、どうやら男装しているつもりなのかシルクの光沢が眩いシャツに赤いジャケットを重ね来た狐人の女性。
そして浅黄色のドレスを纏い、誰かの庇護がなければ今にも枯れてしまいそうな、儚さという概念が人間になったかのような人間の女性の三名である。
奇妙な緊張感の満ちる三人は何やら言い合いの最中であったらしく、犬人を庇った狐人がキリっと精一杯自分なりに凛々しさを意識した顔を作りながら、人間の女性に本人は敢然と、他者からは棒読みとしか聞こえない台詞を口にした。
庇われている側の犬人はそんな狐人の大根芝居に気付いていないのか、こちらもあらん限りの演技力を導入して、頼もしい恋人に庇われている気弱な女性をへたっぴながら演じている。当人達は至極真面目である。
「アムリア、今日を持って君との婚約を破棄する!」
狐人に糾弾されたアムリアは、手に持っていた扇子を広げて口元を隠すと、すっと目を細めて頑張ってあくどい女性らしく聞こえるように声を作って応戦する。
「まあ、私の耳がどうにかなってしまったのかしら? 風香様、お戯れも時と場所をお考えにならないと……」
「戯れなどではない。アムリア、君とは家の決めた幼い頃からの婚約者であり、父と母の顔と我が家の面目の為にとこれまで我慢してきたが、君のこれまでの行いは目に余る。
家格を笠に着た傲慢極まりない言動、使用人ばかりでなく同じ学校の生徒達すら下に見て人間扱いすらしない態度、婚約者たる私に対する度重なる
どうやら貴族の子弟らが通う学校の中にある庭園での一幕、という設定らしい。おそらく三人以外にも他の生徒や教師がいるという
「貴族として自らの背負った家名の重さを自覚し、それに相応しい態度を心掛けていたまでですわ。風香様の目には傲慢としか映らなかったのは、残念事ですけれど。
それと何時、私が人間扱いをしていなかったのでしょうか。付け加えますと風香様、ここは単なる学びの場ではなくこれからの国政を担う若き貴族達の通う場。お互いの血縁、所領の関係、派閥、およそ考え得るありとあらゆる要素を考慮した上で関係を築く必要があります。
残念ながら、中にはそれを理解しておられない方がいらっしゃいますから、それとなく注意はさせていただきました。その行いが相手を人間扱いしていないというのなら、それは心外というもの。
私はあくまで貴族に相応しくない振る舞いである、より深く考えを巡らせる必要があると、そう誠意をもって説いたつもりですわ」
風香の方は棒読みの大根役者と謗られても仕方のないものだが、アムリアの方は中々堂に入った演技をしている。
軟禁生活を送っていた時期には良く本の世界に没入していたというが、本の中の登場人物達に感情移入をしていた成果であるだろうか。
あまりに見事な役者ぶりに八千代と風香は、時折、ひええ、と引いているのか情けない声を上げている。ドランと出会った時から、何一つ変わっていないへっぽこにしてぽんこつたる二人だ。
「くくく口だけは達者だな、アムリア。なんと小賢しい事か、素直に己の非を認めてこれからの人生を賭して贖罪に費やすと宣言すれば、温情を掛けようと思ったものを。
お前の非道、外道で殊更に許せないのは、この八千代にまで害を及ぼした事だ。彼女が男爵家の令嬢だからか? 天真爛漫な彼女に人望が集まるのが気に障ったか? それとも、私が彼女に心惹かれて行く様子が気に食わなかったか!?
彼女への陰湿な嫌がらせに、心ない言動の数々、そのような卑劣な行いをするものは私の婚約者として相応しくない! 故にお前との婚約を破棄すると、そう断言したのだ!」
「アムリア様、どうか婚約の破棄と御自分の間違いをお認めになってください。そうすれば、風香様もご温情を掛けて、ひどい事にならないようにしてください」
風香よりは幾分かそれらしく聞こえる声で、アムリアを諌める八千代に、風香は彼女を振り返って優しく抱きしめてみせた。一応は、嫉妬の炎に身を焦がす心ない婚約者との関係を断ち切り、真実の愛を選んだ二人という役割である。
「ああ、八千代、あのような真似をしたアムリアに対してまで君は何と優しいのだろうか。君のその優しさに私は救われたのだ。これからもどうか私の傍で野に咲く花のよう可憐に、夜空に輝く月のように美しくあってくれ!」
「風香様!」
「八千代!」
互いの名前を呼び合い、ひっしと固く抱き合う二人の姿を、少し離れたテーブルから眺めていた者達の内の一人、アークレスト王国王太子スペリオンが懐かしそうにこう評した。
「私達の小さい頃に流行った『真実の愛ごっこ』か。いやはや懐かしいな。風香は少し……うん、まあ、少し固いがアムリアと八千代は中々にお芝居が上手じゃないか」
八千代と風香の名前の割り振りを間違えていたのを修正しました。
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第二百四十八話
私ことドランとクリスがスペリオン王太子とフラウ王女のベルン男爵領来訪の知らせを受け取ったのは、買い取った中古の小型飛行船を改造した新型飛行船の試験飛行を行っていた時だった。
陸地に建設した港に飛行船を停泊させ、試験飛行の後で船体に不備がないか、今後の飛行計画についての打ち合わせを行っていた際に、工場に王家からの使者がやって来たのである。
ベルン男爵領の新型魔法機関を搭載した船舶はマズダ博士、陸上用の交通機関はライリッヒ教授、飛行船関係はプラナ女史に、それぞれ開発を委託している。
褐色の肌と眩い白銀の長髪、笹の葉のように尖った耳に人形のように整った美貌に、知性を秘めた切れ長の瞳には冷たい光が宿っているのが、ダークエルフのプラナ女史だ。
この手の研究者には珍しく外見にも気を配るプラナ女史は、体の線を露わにする革製の衣服の上に白衣を羽織った格好で、自分の肢体と美貌が異性にどれだけ有効か良く理解していらっしゃる。
まあ、クリスやドラミナを前にしたプラナ女史が、石のように固まると恥じ入るように白衣の前を閉じて自分の格好を後悔したのは、今では良い思い出だ。
アークレスト王家に対してはアムリアの事もあり、内密に使者が遣わされる可能性もあったが、今回は公式の使者らしく堂々と私達を訪ねて来られた。
急いで屋敷に戻り、使者殿から話を伺ったところ、冒頭の話を聞かされたというわけである。王族が国内の各地を視察するのは恒例事業である為、驚きには値しない。
スペリオン王子とフラウ王女の来訪とは、勃興から一年も経っていない新興の貴族としては名誉な事であるが、この時期にわざわざベルン男爵領を訪れるか。
ふうむ、魔王軍と戦端を開いた後にこれを撃退し、その武功を称える為に王都へ呼びつけるのではなく、わざわざ来訪されるというのならまだ分からないでもない話だったが……
今回のお二人の来訪はどういう背景があるのだろう、と私は執務室に集まった何時もの面々に問いかけた。
「さて、スペリオン王子達だが額面通りにベルン男爵領を視察する為だけだと思うかな?」
苦笑交じりに答えたのは、我が男爵領最高責任者であるクリスだ。今は魔王軍襲来に備えて小規模な砦を複数建設する計画と、北の廃村の立て直しも進めていた事もあり、更なる忙しさが雪崩のように襲いかかってくる事実に、若干肩を落としている様子だ。
「もし本当にそうなら、お二人にとっては観光位の気安さになるかな。王国だけでなく諸国を見回しても稀な状態にあるのが、我が誇らしき男爵領だからね」
クリス自身、今回の来訪に何の裏もないとは信じていない声音だ。以前のロマル帝国来訪の折もそうだし、アビスドーンの件でもそうだが、私達とスペリオン王子達が行動を共にすると、どうも荒事が向こうからやってくる傾向にあるからな。
セリナも同じ事を考えていたらしく、顎先に右手の人さし指を当てて、非常に愛らしい仕草で思案顔を浮かべる。
「普通ならその通りの視察でも緊張するというか、領内の空気が引き締まるものなのでしょうけれど、私達の場合は前例が前例だけにまたどこかの秘密結社の悪い人達とか、悪い神様の思惑とかが絡んできているかもって疑ってしまいますね」
セリナの言う事は私達の間でのみ通用する事だが、もっともな話であり、ディアドラやドラミナ、リネットもそれぞれ首を縦に振って同意を示している。
「ですがマスタードランの御威光を考えれば邪神関係の問題は起きないと、リネットは考察します。
マスタードランを脅威と考えない愚か者かあるいはそのお力を知らぬ若輩者が事を仕掛ける可能性はあると、以前、マイラール神やレニーアお嬢様から伺っておりますので、そちらから仕掛けられる可能性がないとは言い切れませんが……」
アムリアと八千代、風香との出会いに関してはリネットも一枚噛んでいる為か、珍しくされた質問への返答等ではなく、積極的に自分から口を開いていた。
御威光と言われると面映ゆいが、私の転生が魔界にも天界にも知れ渡ってそれなりの時間が経過しているし、やはりそちら方面からのちょっかいというのは考え難い。
「私を敵にすると分かって仕掛けてくるのなら、それこそ眷属全てを含めて全滅する覚悟を固めてくるだろう。
私対策に何かしら策を講じるにしても、私の転生が知れ渡ってからの数カ月では時間が足るまいて。
ましてや私の側にカラヴィスやマイラール、ケイオスらが味方する現状とあっては、私を敵とする事は愚行の極みのようなものとなっている。ふむ、やはり神々の側から仕掛けられる事は考えなくていいな」
「マスタードランがそのように言われるのでしたら、リネットは心から信じられます。そうなりますと可能性としては、スペリオン王子達の身柄を狙う他国の間諜や暗殺者の炙り出しでしょうか?」
ふむ、私達が忠誠を誓う王家の方々は個性的というか独特の感性を持つ方達であるから、自分達を餌にして国内の不安要素を排除しようとしてもおかしくはない。
普通、次期国王であるならもっと我が身を大事にするものだと思うが、護衛には万全を期すだろうし、炙り出し要員に私達を含めて考えているのなら、大層信頼されたものだと思う。
王子達自身が餌となる可能性もあるが、それ以外にも考えられる可能性について言及したのはディアドラだった。
「あの兄妹達かそれともアムリアが餌かしらね。あれだけドランに釘を刺されていた王子だし、本心からアムリアを餌扱いにするだけというのは考え難いけれど、あの娘の素性を考えれば狙われるのが当たり前だし、西の帝国の事情はどう変わっているのかしら?」
ディアドラの問いかけにドラミナが答える。夜の世界の覇者たるバンパイアである彼女は、その能力と経験を用いて独自の情報網を形成しており、時々、私達の知らない事を知っている。
私の虫型ゴーレム等を用いた情報網は暗黒の荒野方面に備えてのものであるから、国内外の情報収集に関しては、ドラミナに数歩譲る。
「どうやら東部を支配するライノスアート大公が、帝都のハウルゼン将軍を配下につけたようですよ。
代々の皇帝にのみ忠誠を誓っていたロマル帝国十二翼将筆頭が膝を折った事で、これまで様子見に徹していた中立の帝国貴族達が、ライノスアート大公の旗に集う動きを見せています。
アステリア皇女は表立って動く様子を見せていませんが、南部の反帝国の方々に対して強硬な態度を一層強めて、血生臭い事になるかもしれません」
ドラミナから齎された情報に、私を含む全員が大小の差こそあれ顔を顰めて、流れる血と失われる命に思いを馳せた。
かつてスペリオン王子の護衛としてロマル帝国を訪れた際に、とある都市の反乱の渦中に意図せず足を踏み入った事があったが、あの時に見た人々はまだ無事だろうか?
「双子を忌むロマル帝国とはいえ、皇帝の娘であるアムリアの価値がますます高まってきたか。アステリア皇女を廃して新たな皇帝とし、自らは摂政なり宰相なりの立場として意のままに操ればいいし、息子を夫に宛がえば支配体制は確立できるか」
私が顔をしかめながら呟けば、その続きはドラミナが赤い唇から紡ぎ出した。
「ライノスアート大公の立場からすれば、アムリアさんの価値はそれに尽きるでしょうね。
アステリア皇女からすれば血を分けた双子の姉妹とはいえ、自らの価値を減じる相手ですから、排除しておいて損はない相手になります。
ただ、影武者や身代わりとしての価値はあります。ふう、自分で口にしておいてなんですが、気分の良い話ではありませんね」
心底嫌だと言わんばかりのドラミナの口調に、この場にいた全員が同意だと暗に態度で示す。かつては大国の女王だったドラミナを含めて、この場に体制や大義の為に誰かを犠牲とするのを良しとする感性の持ち主はいなかった。
アムリアの素性を知った時から、彼女が狙われる理由に関しては推論とはいえ知っていたが、改めて口にして確認すると陰鬱な気持ちに陥らざるを得ない
アムリアと直接言葉を交わした回数が比較的少ないディアドラも、望まざる陰謀の渦中に囚われるアムリアの境遇に悲しみの色を瞳に浮かべていた。
「いやあねえ、一人の女の子を国が寄ってたかってどうにかしようなんて。場合によってはアークレスト王国もそうなるかもしれないわけだけど。
それにしても、つくづくアムリアの傍に八千代と風香が居て良かったと思うわ。力量はちょっと頼りないところがあるけれど、能天気で図太いあの二人が傍に居れば、アムリアは落ち込む暇はないでしょうから」
ござるござる、と耳慣れない語調とモフモフ、ふんわりとした毛並みの耳と尻尾、それに能天気で大きな笑い声が特徴の二人を思い出し、私のみならずセリナやドラミナ達の口元に温かな微笑が浮かびあがる。
まさしくあの賑やかでおっちょこちょいで憎めない二人組は、アムリアにとって癒しであり救いであるに違いない。
「ただ懸念があるとすれば、あの二人が王宮での満たされた暮らしに気を緩めてだらけきった生活を送っていないかが心配だな。下手に腕や実戦での勘を鈍らせていなければいいのだがなあ」
国許を出奔してから過酷な状況を元気に生き抜いてきた八千代と風香が、今の恵まれた状況に胡坐をかき、牙を抜かれた愛玩動物に変わり果ててはいないか、それだけがドランにとって不安の種だった。
うーん、今年いっぱい、こんな感じになってしまいそうです。ちょっと無理。
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第二百四十九話
ロマル帝国帝都ロンマルディア。
多くの非ロマル民族と異種族の労力と血と犠牲を糧にして築き上げられた大陸有数の巨大都市は、アステリア皇女とライノスアート大公の次期皇帝の座を巡る争いが勃発して以降、ライノスアート大公が仮初の支配者として君臨している。
南部を中心に蜂起した非支配層民達との戦いもあり、ロマル帝国には絶え間ない騒乱の嵐が吹き荒れていたが、その嵐の動きを大きく変える一石が投じられた。
その一石とは―十二翼将筆頭ハウルゼンが、ついにライノスアート大公の軍門に下ったという帝国に住まう者にとって、大いなる意味を持つものだ。
代々の皇帝のみに忠誠を誓ってきたハウルゼンは、彼に認められた者こそが真のロマル皇帝であるという認識が貴族や平民達にも根付いており、中にはこのハウルゼンこそが真の帝国の支配者であると噂する者さえいる。
ロマル帝国建国以来、皇帝の血統と国家をひたすらに無私の姿勢を貫き守護し続けたハウルゼンであるが、彼がそこまで特殊な存在として認知されているのには、ロマル帝国初代皇帝に仕え、それから今に至るまで皇帝の傍らにあり続けている事にある。
ハウルゼンは初代皇帝から先だって崩御したばかりのギスパール帝に到るまで、最大の守護者としてその姿が確認されているのだ。
数百年以上存命している彼については、不死者であるとも、あるいは複製が入れ替わっているのだとも、またあるいは特別な延命の方法を用いているのだとも、実に様々な憶測が飛び交っているが、その真相はハウルゼン本人と皇帝のみが知るとされている。
今、ライノスアートは帝国で最も価値ある椅子――皇帝の玉座を十段下の床から見上げ、傍らには腹心たる千里時空眼のアイザを伴い、ハウルゼンと相対していた。
彼らの居る謁見の間にはこの三名以外の姿はなく、部屋の外にはハウルゼンの部下である皇帝警備隊の隊員とライノスアート配下の騎士達が控えているばかり。
ハウルゼンは見つめていると思わず不吉な何かを連想せずにはいられない、額から一本の角を伸ばした赤い兜で顔を、更に全身を同色の甲冑で覆い隠し、その上に深い藍色のくるぶしまであるマントを重ね着た大男である。
例え誰が相手でも、それが皇帝であろうと決して兜と鎧を脱ぐ事なく、常に不吉な赤と共にある彼の素顔は皇帝でさえ知らぬと言う。
ハウルゼンは主君と仰いだはずのライノスアートに対して膝を突くでもなく、ライノスアートが幼少期に初めて彼を見た時と変わらない態度をとり続けている。
アイザはそんなハウルゼンの態度を叱責するでもなく、白い布の奥に隠した顔に、さてどんな表情を浮かべているものか。
「ハウルゼン、大公、皇女と戦いますが、貴方、本当に構わないですか?」
短く言葉を区切る特徴的なアイザの問いかけに、ハウルゼンは黄金の瞳を向けるが、瞳には敵意も好意も何もない無機質な視線だった。
「私がマスターと認める対象はロマル帝国皇帝か、皇帝でなくとも規定に乗っ取った手段をもってマスター認証を得てそれを示す事。
大公は後者の手段を持って私のマスターたる条件を満たした。アステリア皇女は未だ皇帝ではなく、マスターたる資格を提示していない。以上をもって私は私のマスターを大公と認識している」
兜の奥から発せられたハウルゼンの声は多少こもっているが、錆びた男らしい低い声から感情らしきものを全て廃した音の羅列だった。
アイザは特に気分を害した様子はなく、初めて聞く者にとってはひどくたどたどしい言葉遣いで答えた。
「そう、ですか。貴方、嘘と関わりのない方です。だから、本当だと信じられます」
「私は私に与えられた存在理由に忠実である。それ以外の余分を有さぬ。信頼は私に向けるに相応しくない行いだ」
「そうやって警告する、ということ、それが、貴方を信頼させる、原因ですよ?」
「……」
アイザの言葉を受けて沈黙するハウルゼンを見て、ライノスアートはある意味帝国の最高権威とも言えるハウルゼンが、言葉を窮する姿に愉快な想いを抱いていた。
中々面白い組み合わせが図らずして手元に転がり込んできたらしい。もっとも道化師やお伽役の代わりをさせるには、あまりにもったいない能力の持ち主達だ。
「アイザよ、ハウルゼンは私の能力も人格もまるで問題視していないのだ。皇帝という地位と特定の手順を踏むという二つの点でしか判断しないとなれば、ハウルゼン自身の言う通り信頼という感情を寄せるのは難しかろう」
「なるほど?」
「ふ、まあ、お前はそれでよい。ハウルゼン、私はこれから兄上の残したもう一人の姪を手中に収めるつもりだが、卿は動かぬという認識でよいな」
「しかり。アムリア皇女は皇帝たる資格を有する存在ではあるが、皇帝ではない以上、私が動くに足る理由にはなり得ない」
「ならば私が興にアムリアを捕らえよと命じれば、卿と配下達は動くか?」
「動かぬ。皇族同士の争いにおいて私は不動。皇帝の玉体を守護し、帝都を守護し、帝国を守護するがハウルゼンという存在であるが、大公とアステリア皇女、アムリア皇女間の争いに於いて、外敵の襲来などの緊急事案を除き、私は動かぬ。
目下、私が受け付ける大公からの命令は国土を侵略せんとする外敵の排除とそれに関するもののみである。例えマスターであれ、私が受け付けない命令もある」
「まったく、融通の利かぬ奴よ。だからこそ卿の扱い方は分かりやすくもある。ならばハウルゼン、たった今口にした通り、我らの騒乱を好機と捉え、帝国を貪らんとする愚者の排除に注力せよ」
「了解した、我が最新のマスターよ」
低くくぐもったハウルゼンの言葉だけで十分だとライノスアートは頷き返し、傍らのアイザへと猛禽を思わせる瞳を向ける。
「アイザ、アムリアの所在はどうだ? アークウィッチとアークレスト王国の魔法使い達の目くらましの魔法は見通せるか?」
「大丈夫、です。すぐ隣で見るようにとは行きません、が、護衛の娘達と、どこにいるか分かります。
これから王子と王女、一緒に、王都を離れるようです。どこかへ連れて行って、逃がす? つもりかもしれません」
白い布に隠された瞳には国境の向こう、厳重な魔法による防御の施されたアークレスト王国の王城を出立する最中のアムリア達の姿を確かに映し出していた。
千里の彼方までを見通す二つ名に恥じる事なきアイザの千里眼だ。情報収集の分野に於いて、彼女一人で何百、何千人、あるいはそれ以上の人間の働きが出来るだろう。
「十二翼将は迂闊には動かせんか。かの国に潜らせている影達を総動員して、さてアムリアの身柄を抑えられるかどうか。アイザ、アムリア達の行動を逐一私に報告せよ」
「分かりました。アステリア皇女の行動は、どうします、か?」
「アレもハウルゼンがこちらに着いた以上は動かざるを得んだろうが、軍を伴う動きだ。
お前の眼を使わずとも従来の影達からの報告で事足りる。気にするな。アムリアの周りには相当の守りが敷かれている筈。眼を酷使せぬよう注意せよ」
こくりとアイザは幼子のように頷き返し、それを認めたライノスアートはこれから自らが帝国に巻き起こす新しい嵐に思いを馳せた。
この国の未来の舵取りを行うのは自身であると、強烈なまでの自負と覚悟を抱いているという点に於いては、ライノスアートはアステリアにもアムリアにも勝るだろう。
*
ドラン達の下へとアムリアを伴うスペリオンらの来訪が告げられた後の事である。
ロマル帝国は古くから国内外での暗闘を経験した古狸であり、既にベルン男爵領にもその手の者達は侵入しているとドラン達は判断し、既に入り込んでいる帝国の間諜とこれから入り込むだろう追加の間諜の刈り取りに勤しんでいた。
王都からガロアに到るまでの道程はドラン達の責任外だが、ガロアからベルン男爵領に入ってからは責任を持って、アムリア一行の身を守る必要があると、特に普段からドランの役に立つ事を眼を皿のようにして探しているリネットが奮起していた。
その証拠にガロア・ベルン間の街道から外れた森の中で、非正規の方法でベルン村へ侵入を図ろうとしていた不審人物達を捕縛した中心人物はリネット自身であったし、また彼女の部下となっているキルリンネとガンデウス達だった。
これからベルン領内外が騒がしくなる事は、ベルン首脳陣の誰にも明白であったが、リネットは率先してベルン遊撃騎士の任務の一環として、不審な動きを見せる者達の草刈り――いや、害虫駆除を買って出たのである。
多くの旅人や商人、自由労働民で溢れる街道を外れ、鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫って進む樵か狩人風の格好をした四人の人影があった。
男も女もいるがどれも動物の毛皮や丈夫な麻の衣服を擦り切れるまで着続け、顔や手足は真っ黒に日焼けしており、肩に背負った弓や腰に下げた山刀の類の使い込み具合は、誰が見ても本物の樵達だと信じる程だ。
もちろん、彼らは決して道に迷った移住希望の無害な樵達ではない。ベルン男爵領側では、ガロアとクラウゼ村から繋がる街道の利用を強く推奨しているし、領民でない者が街道の外へと足を踏みいれる事を禁じている。
領内に所在の把握できない不穏分子が潜伏するのを予防する事に加え、未だ街道を外れれば猛獣、毒虫の類がうぞうぞと闊歩している状況と、まかり間違ってもエンテの森へ入らないようにする為だ。
以上の理由を踏まえればこの四人の集団は、意図してベルン男爵領の定めた法を破り、街道から外れた森を進んでいる事になる。
道中、獣の残した痕跡や生えている木の種類に茸や草花の確認など、扮装した職業の者ならするだろうという行いをしてはいるが、万が一にも途中で見咎められた場合に備えての偽装工作だろう。
細心の注意を払う彼らの行く先に、華奢な体を地味な藍色のメイド服の上に、見た目の可愛らしさを優先してフリルとレースをこれでもかと使った純白のエプロンを重ね着たリネットが木の影から姿を見せた。
四人の中には先祖代々国家の暗部を支える影の一族に生まれ落ちた者も、あるいは金で雇われた凄腕の影働きの者もいる。
その誰もが息使いはおろか気配にすら気付けなかった。これにはリネットがリビングゴーレムという特殊な存在である事も大きかったろう。
「はじめまして。ベルン遊撃騎士団付きメイドのリネットと申します。突然ですが、皆様、街道を外れた森の中は立ち入り禁止地域に指定されています。どのような用件で足を踏み入れたのか、ご事情をお聞かせください」
リネットの首からはベルン男爵家の家紋をあしらったペンダントがぶら下がっており、彼女がクリスティーナ直属の配下である事を示す身分証となっている。
ベルン男爵領に入る際とガロアで公営の馬車に乗ってベルンに向かう際に、二度このペンダントを含めてベルン男爵領における注意事項が説明されており、知らないと答える事は非正規の方法で足を踏み入れたと自白するも同然となる。
迷い人に扮装した一行の筆頭格らしい狩人に扮した金褐色のざんばら髪と胸当てに腰巻という軽装の女が、左手の弓を下げて敵意のない事を示しながら弁明の言葉を口にする。
「こりゃずいんぶんと可愛らしいお嬢さんだね。でもその首から下げているペンダントを見るに、本当に領主様にお仕えしているメイドさんってわけかい。
いや、申し訳ない。足を踏み入れちゃいけないって釘を刺されちゃいたんだけどさ。こんだけ手つかずの豊かな森があるとなったら、つい欲が出ちまって、他の連中に声をかけてちょいと今の内に唾を付けておこうとしたんでさぁ。
新天地だからって浮かれ過ぎていました。これまで取って来たものは全てお返ししますし、罰則もきちんと受けますので、ここはひとつ、穏便に済ませては貰えませんかねえ?」
学ぶ機会の無かった狩人らしい伝法な言葉遣いに、本気の誠意を乗せた狩人の言葉に、リネットは常から表情の変化に乏しい顔に、吟味しているかのような雰囲気を薄らと纏わせる。
少なくともこの時点で彼らの犯した罪は、ベルン男爵領の定めた立ち入り禁止の場所に足を踏み入れたという点に留まる。まだ彼らが間諜であるという証拠は何もない状態だ。
「素直に己の非を認めて罰を受けようとする態度は良いものです。では、そちらの青い御髭の方、そう貴方です。
街道に設けた宿の一つで、転倒しそうになった御老人を助け起こす際に、紙片を受け取りましたね? そちらの紙片の内容を確認する為、提出を求めます。
次に薬種箱を抱えている行商人風の貴女、靴底に隠した水晶片を出してください。魔法による記録媒体ですね? 何を記録されたのでしょうか。あるいはこれから記録するのでしょうか」
リネットは背筋を綺麗に伸ばした姿勢のまま、敵意も殺意もなく狩人達一人一人の顔を見回して、全ては彼女の掌の上だと言わんばかりに言葉を重ねて行く。
「そちらのバンダナを巻いた貴方、ええ、酒瓶を腰に下げて、如何にもお酒に依存している賭博師か何かを装っている貴方です。街道の脇で数名に声をかけてサイコロ賭博に興じておられましたね。
時折、お金の代わりに物品での取引を行っておりましたが、その際のやり取りにつきまして一定の規則性があったようですが、この点についてご説明をお願いいたします。
ええ、もちろん、ただの偶然かもしれませんし、賭博に参加した内の何人かはまったく無関係の方かもしれません。ですので確認を」
そして、リネットの瞳は野性味溢れる女狩人へと向けられた。これまでリネットに説明を求められた者達が、女狩人の背後で口々に抗議と弁明を重ねているが、それを求めたリネットは耳を傾けている素振りは見られない。
リネットが女狩人達に求めている真実と事実は別のものであった。それは女狩人達も理解し、そして互いに機会を探り合って、仮初の問答を告げているにすぎない。
「最後に貴女。クラウゼ村からの上りの馬車の便に乗る前、人目の無いところで羊皮紙を焼却していたようですが、そちらの灰を回収後、復元させていただきました。
わざわざ燃やして隠ぺいするような内容ではないものでしたが、さて、何か特別な暗号めいた読み方でもするのでしょうか? 是非とも、お教えいただきたい」
リネットが台詞を言い終えるのと女狩人達が行動するのは、ほぼ同時であった。リネットに対して青髭と女行商人が肩に背負っていた荷物や、腰から下げていたいくつかの袋を投げつけ、賭博師と女狩人は逆にその場から背を向けて全力で駆け出す。
四人全員でリネットの命を奪い、口止めしようと動くのではなく、最悪捕まっても問題ないとされる情報を渡された捨て駒二人と引き換えに、捕まっては問題のある二人を逃がす事をはるか以前から取り決めてあったに違いない。
「ありがとうございます。それこそがリネットの求めていた行動です。では任務妨害容疑も加わったところで、実力行使と参ります」
なぜか喜んでいるように弾むリネットの声に続き、重量のある物質が肉を叩く痛々しい音が連続し、女狩人と行商人がその二つの音が二人の仲間がリネットに葬られた音だと即座に理解できた。
この手の窮地につきものの殺気も闘志もリネットからは感じられないが、それが逆に二人の中でリネットの危険性を浮き彫りにし、見た目は十代前半の少女から我武者羅に逃げ出すという行動へ直結していた。
最初の囮がやられてしまった以上、ここからは行商人に扮した仲間、いや、先日初めて顔を合わせたばかりの同業者と二手に分かれて、どちらかだけでも逃がすのが常套手段だが、その前に一矢報いる事を女狩人は選んだ。
狩人の扮装は偽りのものだったが、手にした弓が長年使い込んだ愛用の武器である事は事実だった。全力で走りながら左手に弓を握り、右手で矢をつがえる動作を淀みなく行い、足音も呼吸音もない追跡者を振り返る。
「小娘がっ!」
例え肉食獣の如くこちらに飛びかかってくる最中であろうと、必ずこの矢で射ぬいてやる、そう意気込む女狩人の視界に飛び込んできたのは、こちらの視界を埋め尽くす黒光りする巨大な鉄の塊――メイスだった。
ごしゃ、とあまり耳にはしたくない音が続けて二度、森の木々の合間をすり抜けて行った。
*
ずるずるずる、ずるずるずる。
重なり枝の隙間から差し込む黄金の光が、何かを引きずる事で地面に刻まれた跡を露わにしていた。
ずるずると音を立てて引きずられているのは、『拘束』や『睡眠』を意味する魔法文字の刻まれた荒縄で縛られた、先程リネットに捕縛された四人だ。
当然、彼らを引きずっているのはリネット本人で、大人四人分の重量にもまるでへばった様子はなく、先程の森の中で誰かを探しているようだった。
「ガンデウス、そちらも無事に任務を終えたようですね」
リネットの視線の先には、足元に意識を失った三人の男女を置き、倒木に左足を乗せて、左の太ももに巻いた革のベルトに細長い投げナイフを収納している最中のガンデウスの姿があった。
リネットと同じメイド服姿だが、大胆にスカートの裾をめくり上げて、白い足を露わにした姿は、元々の造作の美しさもあって場違いな状況ながら、非常に艶めかしい。
「リネットお姉様、私の負担分は全て片付け終えました。ご主人様と男爵様に害を成そうとする不届き者共は、この通り」
ガンデウスはリネットに対して同胞に対する穏やかな視線を向けたが、一転して足元の捕縛者達に対しては鉄の殺意と氷の冷たさで構成された視線を向ける。
それだけでは満足が行かなかったのか、倒れている一人一人に向けて、履いているピンヒールで鋭く一度ずつ踏みつけまでした。
踏みつけられた者達は、自らを縛る荒縄の効果で意識を取り戻しはしなかったが、うぐ、と苦痛の混じる呻き声を零す。その呻き声を耳にして、ガンデウスがうっすらと頬を朱に染めて、喜悦の笑みを浮かべるのを見て、リネットはやれやれと溜息を零した。
「ガンデウス、例えそんなものはいない、と切り捨てられる相手とはいえ、過剰な傷害行為は品性を疑われます」
「ごめんなさい、リネットお姉様と教授さん達に見つけてもらった時にはまだ分からなかったのだけれど、私って誰かを痛めつけるのがどうしようもなく好きみたい。
もちろん、罪のない人間やベルンの領民には余程の悪人か事情がない限りは手出しは致しません。でも、こういう相手なら、ねえ、構わないでしょう?
でも不思議、男爵様やご主人様、リネットお姉様達にはこうしたいとは思わないのです。むしろ、私の方がこの様に粗雑に、乱雑に、野蛮に扱われたいと思うのです。うふふふ」
ちなみにだが、ガンデウスの言うご主人様とはドランの事である。
「…………」
ああ、ああ、とリネットは心の中で自身が躾と教育を施したガンデウスの現状を、主人であるドランに心の中で謝罪した。
おかしい。
あまりに無機質で無感情なガンデウスとキルリンネに、可能であればという但し書き付きではあるものの、この世に生を受けたからには人間らしい感情や肉の身をもつからこその喜びを知ってほしいとこれまでリネットなりに努力をしてきた。
ガンデウスとキルリンネに感情などは不要とされてはいたが、機能として有していた事もあり、リネットは周囲の協力とガンデウス達の居場所作りの為に自分の部下としてベルン遊撃騎士団に所属させた。
遊撃騎士としての仕事以外にもメイドとして掃除に炊事、調理を始めとした基本技能を習得し、娯楽として読書や刺繍、楽器の演奏や歌に踊りを教え、まだまだ人間として勉強中のリネットも時には一緒になって学んできたのだ。
その成果もあってガンデウス達も少しずつ自我を持ち始め、感情や嗜好を露わにするようになったのに、まさかこんな性的嗜好を突きつけられる事になろうとは!
幸いにしてガンデウスのコレはリネットとキルリンネが知るのみだが、いつドランの知るところになるだろうか、そうしたらどうやって謝罪するべきか、リネットの心は戦々恐々とし続ける毎日である。
「あれ、リネットお姉ちゃん、ガンちゃん、もお仕事は済んでいる? 私が最後になっちゃったかな?」
定められた刻限になった際に集まるこの場所に、最後の集合者であるキルリンネが姿を見せた。
がさがさと茂みを掻きわけて姿を見せたキルリンネは、自分の身の丈程もある大剣を肩からベルトで吊るしており、両肩には無造作に積み重ねた人間の姿が四人分あった。
こちらも同じく荒縄で縛られている間諜を地面に下ろし、キルリンネは不思議そうな表情を浮かべてリネットを見る。ガンデウスが紅潮している件については、無視を決め込んだのか、問題ないと思っているのか、話題にしなかった。
「リネットお姉ちゃん、なんでまたそんな顔をしているの?」
能天気にそう問いかけてくるキルリンネに何を見たのか、リネットは露骨にほっとした顔になり、朗らかにこう言った。
「キルリンネはそのまま成長してください」
「うん?」
もちろん、キルリンネには何のことやら分かる筈もなかったが。
ガンデウスはちょっとアレな方向に成長してしまいました。
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第二百五十話
次期国王たる王太子スペリオンとその妹フラウのベルン男爵領への来訪は、比喩ではなく男爵領のほとんどの人々にとって驚天動地の出来事だった。
スペリオンとフラウを知っていて、なおかつ胆力と感性が常人とはズレている――あるいはズレでしまった――クリスティーナやセリナは、恥ずかしいところは見せられないなぁ、位の気持ちであったが、そうでない一般の人々にとっては、目を見開いて驚く程の事である。
数十年以上前の北部辺境開拓時代でも、王族が直接視察に訪れた事はなく、これまでベルンの地を踏んだアークレストの最も権威ある人物は前開拓計画責任者であり、クリスティーナの父方の祖父たる前アルマディア侯爵だった。
それが今後はスペリオンへと変わり、ベルンの地は王族を迎え入れる栄誉に与るとあって、以前からの住人も新規の住人も大なり小なり興奮している。
ベルンの地に集う無数の商機を狙って山のように集っていた大商人から新人商人達にとっても、王族来訪は商売に新たな風を吹かせる都合のよい出来事であり、方々から商品を仕入れ、新商品の開発や宣伝に余念がない。
男爵領への仕官を望んで集まっていた各地の傭兵や冒険者、主君を持たない遍歴騎士達にとっても、あわよくば王族の目に留まる好機と欲望と夢に目を爛々と輝かせている。
ようやく探索が解禁されたカラヴィスタワーへと群がっていた人々も、王族来訪と言う一大行事を無視する事は出来ず、かなりに人間がカラヴィスタワーからベルンへと移動しており、そちらの人員整理と警備体制の見直しもまたベルン首脳陣には急務であった。
そして表沙汰にはされないが、このベルン男爵領内での一時的な混乱の隙を突き、更に潜り込もうとする国内外の間諜への対策も、クリスティーナとドラン達の仕事を増やすのに一役買っていた。
ベルン村西部に設立されたベルン騎士団の本拠地である砦の敷地の中に、この数日でリネット達三姉妹を始めとした面々の活躍で捉えた間諜達が拘束されていた。
自害を避ける為、荷物から体の中に到るまで徹底的に調べ尽くし、自害用の毒薬の類は全て没収済みで、男女別に独房を分けて入れている。
清潔なベッドと外部に繋がる鉄格子付きの窓と衝立付きの便所だけの簡単な独房だが、命を奪われても仕方のない立場の間諜相手には十分だろう。
廊下に設置された精霊石のランプの下に飾られた花は、囚人の精神衛生を保つ目的だけでなく、花達に囚人達の監視の意味もある。
独房を隔てる分厚い壁の向こう側で、ドラン、バラン、リネット、ガンデウス、キルリンネ他、間諜捕縛に関わった主要人物が顔を揃えている。
通常の尋問と魔法による知識と記憶の吸い出しを終えた囚人達は、独房の中で大人しくしているが、これは尋問が終わっておらず彼らに自分達にまだ捕虜としての価値があると思わせている効果もあるだろう。
既に得られるだけの情報を得たと知られては、彼らが自害の他に何としてもこちらに被害を与えようと自棄になる可能性があるし、彼らを解放した場合に情報を漏洩していないと相手陣営に誤解を与える目論見もある。
通常なら独房の監視についている兵士達は席を外しており、難しい顔をしたバランが綺麗にそり上げた頭を撫でながら、どうしたものかと口を開く。
「さて、前はこういう連中はまとめてガロアに送ればよかったが、今じゃここは立派な男爵領だ。これはおれ達の裁量と責任で片づけなければならんな。ドランのお陰で得られる情報は全部得られたし、あいつらに価値はない。
だからといって処刑というのも折角順調に滑り出したベルンに、血生臭をしみ込ませるようで縁起が悪い。
しばらく尋問をして、あちら側の刺客が始末しに来るのを待つか、それとも精霊石の採掘場かカラヴィスタワーでの強制労働あたりか? いや、採掘場の方は無しだな」
バランの提案が現状のベルン領ではおおむね妥当な刑罰だろう。精霊石の採掘場は、以前からベルン村の財政を支えていた場所であるから、囚人を働かせるのは以前からいる村人達にとっては、あまり良い感情を抱けまい。
そうなると未探索個所が無数にあり、生命の危険もあるカラヴィスタワー内部での探索作業か労働力として建築や開墾などの重労働に従事させるのが、現ベルン男爵領における重大な刑罰になるだろうか。
「カラヴィスタワーでの強制労働は妙案ですが、今回は外国の連中ですからね。
彼らとその元締めの双方が違うと否定するのがオチですが、今回は都合よくこういう事に慣れた方々がおいでになられる。押し付ける、もとい委ねてお任せしてしまえばいいと思いますよ」
ドランは言外にこれからベルンを訪れるスペリオン王太子一行にお土産として渡してしまえ、と提案しているわけだ。確かに王太子やその後ろ盾である国王とその重臣達の方が、こういった連中の扱いはお手の物だろう。
だからといって全霊を上げて歓待するべき相手に対して、厄介事を押し付けるという発想とその他の懸念事項を思い浮かべて、バランは眉をひそめた。
「だが、それはベルンに彼らを適切に対処する力がないと露呈するようなものではないか?」
「そう捉える事も出来ますが、今回の事の発端はスペリオン王太子か国王陛下の発案でしょうが、その影響でこちらは予定していなかった労働を強制されましたから、その分をこちらも労働を対価として求めても構わないでしょう」
「お前、しれっとした顔でとんでもない事を言うな。前から変わっているところがあったが、最近はどんどん発想が大胆不敵というか、意表を突くものばかりになっているぞ」
「念願の叶った立場を得たもので、少し図に乗っているのですよ。昔からお世話になっているバランさんには、調子に乗っているなと思われても仕方ないのですが」
「調子に乗っても文句を言えん程の成果を出しているだろう。それにしたって、王太子殿下を相手になんとも大胆な事をと呆れはする」
「我が国の王太子殿下は大変度量の大きな方ですので、苦笑い一つでお許しくださいますよ。ただ彼らから得られた情報はロマル帝国に繋がるものではありませんでした。やはり、こちらに捕縛されても支障のない人選でしたね」
「様子見の第一波といったところか? 直接王太子殿下やうちの男爵様を害したいわけではなかろうが、そこらへんの事情はドランが抑えているのか?」
「去年の年末に少々関わり合いが出来まして、その御縁ですね」
「お前はベルン村を離れた途端、色んな事に巻き込まれたなあ。いや、エンテの森の異変かセリナとの出会いを始まりと考えれば、ベルン村を離れたというよりは、去年から急に色々な事が起きて、それに悉くお前が巻き込まれている印象だな」
「ふむ、言われてみると確かにそうですね。思い返してみると十六歳になってから、これまでにない濃厚な日々を送っていますね。多分、これからも同じように退屈する暇の無い日々が続きますよ。
バランさんにもお付き合いいただく事になると思います。まずは王太子の出迎えからよろしくお願いします、騎士団長」
少しだけ冗談めかした語調で告げるドランに、バランは大きく溜息を零した。
この間まで辺境の中の辺境、ド田舎のド田舎だったベルン村の駐在兵士の隊長でしかなかったバランにとって、自国の王族を騎士団長と言う立場で出迎えるなど、夢でも見ているのではないかと疑いたくなる出来事だ。
ベルン男爵領の代表の一人として恥ずかしくない振る舞いをしなければならないわけだが、自分がそれを完ぺきにこなせる自信があると言えば嘘になってしまう。
もちろん最善の努力はするが、バランに尋常ではない重圧と精神的負荷が襲いかかっているのもまた事実である。
バランに留まらず男爵領の財布の紐を握っているシェンナや村長、クリスティーナの下で働き始めた家臣達にしても同じ事であろう。そんなバランからすれば微笑して呑気に構えているドランの胆と神経の太さが羨ましい事この上ない。
「世の中、何が起こるかわからんものだと近頃よく思うよ」
「ですが悪い事よりも良い事の方が多いのですから、前向きに考えていきましょう」
バランを慰めるように朗らかに告げるドランだが、その実、彼らは内心ではある事を考えていた。バランが指摘したようにドランとしての人生が十六歳を迎えてから、彼の人生が激動を迎えたのは確かだ。
どうして十六歳になってからだったのか。十五歳からでなかったのは、あるいは十七歳からでなかったのはなぜなのか。
これらはバランからの指摘がある以前から心の片隅で常に意識していた事だった。
単なる偶然か、何者かの意図があっての事なのか、ドランは自分の人生の流転の切っ掛けとなった何かがあるのではないかと、それを『警戒』していた。
*
ベルン男爵領側が自分達の領内の掃除に勤しんでいる間にも、王都を出立したスペリオン、フラウ、アムリア、八千代、風香らを含む一行は、飛行船による空の旅を楽しんだ後、ガロア近郊の港町ワーグレールで下船し、以降は陸路を進んでいる。
王家の紋章が描かれた旗を掲げた騎士達が一行の先頭に立ち、中央からやや後方よりの位置に八頭立ての豪奢かつ巨大な馬車が配置されている。これがスペリオン達の乗っている馬車だ。
護衛の騎乗した騎士と徒歩の兵士達に身の回りの世話をする女官や使用人達を含めて、おおよそ百名程の集団である。
王族による他領への視察いわゆる行幸は視察を受ける側としては大変な名誉であると同時に、領地に居る間に王族に何かあった場合に負わねばならぬ責任の重さと、領地運営の不備を指摘される恐れもあり、単純に喜べるものではない。
ベルン男爵領までの経路地であるガロア総督府にしても、王家の直轄領ということもあってわずかな滞在時間といえど総督府に所属している者達にとってはかなりの重圧だった。
ガロア総督を始めとしたガロアの統治者達との顔合わせを終えたスペリオンは、ベルン男爵領へと続く街道をようやく進み始めた馬車の中で、ふと、ドラン達ならどうかと思い、それをそのまま口にした。
「ドラン達なら私達が顔を見せた時に、本音ではなんと思うのだろうね。始まったばかりの時に面倒な、と思うか、それともようこそと歓迎してくれるのか」
王家の者が使うに相応しい豪奢な調度品に囲まれた馬車の中には、発言者であるスペリオン、フラウ、アムリア、八千代、風香の姿があり、専任騎士であるシャルドとラディアは馬上の人となって馬車の左右に控えている。
スペリオンの呟きに反応したのは八千代であった。
スペリオンが最初に会話の口火を切った時、大抵は妹であり同じ王族であるフラウが答える事が多いのだが、フラウはクリスティーナとは親しいが、ドランとの関わり合いは希薄であるし、咄嗟に言葉が出てこなかったのだろう。
「ドラン殿なら礼儀を弁えた上で多少遠回しな言い方で、チクリと釘を刺して来られると思うでござるよ。でもクリスティーナ殿ともども殿下達を歓迎してくれるのは間違いないでござる。度量の大きい方でござるし、考え方も面白い方々ですからな!」
八千代は初めてスペリオン達と会った時と比べると、随分と上等な生地を使った筒袴姿だ。白地に桜の花びらを散らした生地に深い藍色の筒袴の組み合わせで、腰には愛用の大小を差している。
アムリアを挟んで反対側に腰かけている風香は動きやすさを重視してか、アークレスト王国の女性騎士と同じ軍服姿で、異なるのは腰のベルトにクナイや棒手裏剣、小太刀の類を差している事だろうか。
二人ともドラン達と出会った時は実力はいま一つ、いや、いま二つ、いやいや大目に見てやはりいま一つだったが、今はまあ、一人前かなぁ、一人前だといいなぁくらいには成長している。
アムリアの護衛名目でアークレスト王国に滞在している二人だが、関係性は護衛対象と護衛者ではなく、友人のままであるのは喜ばしい事だろう。
「王都も楽しかったでござるが、ドラン殿の故郷で今はクリスティーナ殿が治めるベルンは発展著しいとはいえ自然に囲まれた地であると聞き及んでおりますし、気分転換にはもってこいでござるな、ねえ、アムリア殿」
「そうですね、八千代さん。殿下やフラウ様を始め、アークレスト王国の皆様には大変よくしていただいて、お世話になってばかりで。ドランさんやセリナさん達にも帝国を離れる時に大変なご迷惑をおかけしてしまいましたし、お会いしたら改めてお礼を伝えないと」
アムリアは山中の城館に閉じ込められていた頃に比べれば、随分と感情表現は豊かになったし、八千代と風香の賑やかさにつられて笑う事も増えているが、こうした一歩引いた控えめというには過ぎた態度は変わらずだ。
こればかりは生まれ育った環境で構築された性格であるから、簡単には改善されそうにない。
「アムリア殿は気遣いしいでござるなあ、風の字」
「気遣いしいでござるなあ、八の字。一回お礼を言えばそれでいいと笑ってすます御仁でござるぞ。あまりこちらが気にしていてはむしろあちらに気を遣わせてしまうというもの。
これからも仲良くしてくださいと正直に伝える事と、悪い事をしてしまったらごめんなさいと謝り、良い事をしてもらったらありがとうございますと感謝するのを忘れなければ、それで大丈夫でござるとも。にんにん」
「そういうものでしょうか、でも、風香さんがそうおっしゃるのなら、きっとそうなのでしょうね。何とか頑張ってみます」
「そうそう、その意気、その意気でござるよ。なにも今すぐに直す必要はないから、覚えておくだけで大丈夫、大丈夫。ドラン殿達とのお付き合いはこれからも長く続くのでござるからねえ」
「風香の言う通りでござるぞい、アムリア殿。アムリア殿のような真面目さんはどこかで緊張と力を抜かんといかんのでござる」
この適度(?)に力の抜けた八千代と風香のゆるさは、今のところアムリアに良い方向に働いており、アムリアの笑顔に大きく繋がっている。
こればかりは敵わないとスペリオンとフラウだけでなく、王城で三人と関わり合いのある全員が認めるところである。
わんことこんこんののほほんとした雰囲気に包まれて、アムリアは春の日だまりのように穏やかな笑みを浮かべていたが、余人の耳の無いこの場ならとかねてから考えていたとある事情を、スペリオンとフラウに問いかけた。
聡明で心優しいが、王族の一員として国家の利益を優先する公人としての覚悟を併せ持った兄妹ならば、自分の問いに応えてくれるだろうという信頼と共に言葉は紡がれた。
「八千代さんと風香さんには窘めていただきましたけれど、どうしても私は自らの責務としてスペリオン殿下にお尋ねしなければならない事があります」
雰囲気の変化を察し、八千代と風香は唇を固く結んで成り行きを見守り、スペリオンと傍らのフラウは存在を秘匿された皇女から言葉を黙って待った。
「帝国で、ロマル帝国で私の叔父にあたる方がいよいよ皇帝としての座を固めたと耳にいたしました。そしてこれから帝国内での争いがより大規模に、そして激しいものになると。そのせいでたくさんの力の無い、弱い立場にある方々が亡くなられる事になると」
それは極力アムリアの耳に入らないようにしていた、ロマル帝国の直近の事情についてだった。
意図的に帝国の未来と訪れる惨状を伝えて、アムリアに皇族として王国の介入を請うよう促すという案が国王達の間で挙げられなかったかといえば嘘になる。
だが、それはスペリオンの強い反対と帝国の情勢の変動性を危惧した国王と大多数の重臣達によって却下されている。
そうなるとアムリアがロマルの情報を知っているのは、彼女自身がどうにかして城内から情報を集めたという事に他ならない。
「一体、誰からそのような話を?」
世迷言あるいは戯言を、とスペリオンが否定的な言葉を口にしなかったのは、アムリアが既にそれを事実として認識している事が、表情と眼差しから理解できたからだ。
この眼差しを前にしてつまらぬ嘘をついても、アムリアからの信頼を損なうだけで、得られるものは何もない。
「私とて歩き回れる足も、目も耳も口もあります。お城の中を歩き回って、色んな方とお話をして、知らない事を教えていただければ、後は自分の頭を働かせる事でそれ位は分かるものです」
「なるほど、言われてみれば確かに。八千代と風香の二人かどちらかが居る時はよく遊んでおられたが、一人の時は勉学に励んでいるとばかり聞いていたが、意外と行動力のある女性だったのだね」
「あのお城に居た頃と比べると、こちらの王国に来てからは出来る事がたくさん増えたものですから、どうしても好奇心が抑えきれなくて」
恥じらうように頬を赤らめて俯くアムリアの姿は、同性で年少のフラウが見ても大変に愛らしいものだった。双子の姉だろうアステリアはどこか浮世離れした印象を受ける美女だったが、その知性は姉と変わらぬものを有しているかもしれない。
「なに咎めるような事ではないさ。むしろ制限つきで城内でしか出歩くのを許可していない現状には、こちらとしては申し訳なく思っている」
「事前に申請すれば遠乗りや城下へのお出かけも許してくださっております。私はずっと感謝しています。スペリオン殿下、フラウ様、私は自分が何者なのかも知らず、親が誰なのかも知らず生き続けてきた人間です。
ですが、私が私を知らなくても私にはどうやらそれなりの価値というものがあるようです。
それにあの城では閉じ込められてはいましたけれど、食べ物にも着る物にも困る事はありませんでした。暖かなベッドに書斎には読み切れぬ書物が溢れ、家庭教師の方もおられました」
アムリアがなんの意図をもってかつての暮らしで、自分がどれだけ恵まれていたかを語るのか。それを四人は黙って耳を傾け続けた。
「スペリオン殿下と八千代さん達に連れ出されるまで、私は帝国の人々のお陰で衣食住の全てを賄ってきました。そして今はアークレスト王国の人々のお陰で生きていられます。
殿下、私は帝国の民と呼ばれる方々の事を知りません。同時にアークレスト王国の民の方々の事も知りません。それでも今日まで生かしていただいた恩義があると、勝手に感じています。
スペリオン殿下、フラウ様、世界の事、人間の事、なにも知らぬ愚かな女の愚かな問いかけです。
私がロマル帝国の民とアークレスト王国の民に、恩返しをする方法はございませんか? その為ならば私をどのように使ってくださっても構いません」
アークレスト王国側が図らずもロマル帝国の皇女から、救いを求められた形になる。
アムリアの存在を口実にアークレスト王国側が、ロマル帝国の戦乱に介入するお膳立てが叶ったわけだが、アムリアの真摯な眼差しに見つめられて、スペリオンもフラウもそのような考えを抱く事は出来ずにいた。
二人の内心を知らず、アムリアは必死に言葉を重ねる。彼女自身、まだ完全に自分の利用価値や帝国と王国の関係や諸外国の情勢を理解しているわけではないが、自分にしか出来ない事をしているという自覚はあった。
「民の顔を知らぬという女が、心を痛めて恩返しなどと口にすると笑ってくださっても構いません。でも、私はどうやらそういう性格のようなのです。
これから私の生まれた故郷の人々が多くの苦難に襲われると知って、何もせずにはいられない程度に私はロマルの人間のようです。どうかお願い申し上げます」
そう告げて深く頭を下げるアムリアの姿に、スペリオンはこの女性がただの世間知らずの女性ではない、と認識を改めた。
アムリアから救いを求める言葉を口にする事がどういう意味なのか、それを分かった上で余人の目のないこの場所で頼んできた。
場合によってはロマル帝国の名前と枠組みが消える事も、アークレスト王国がアムリアの望んだとおりに動くわけではない事も承知した上で、しかし、スペリオンとフラウが可能な限り、アムリアの意向に沿ってくれると信じてもいる。
なかなかどうして、したたかな女性ではないかとスペリオンは思う。
「あの、出来れば、どちらの国の人達もなるべく困らない方向でお願いします」
アムリアが心底困った調子でそう付け加えてきたのには、思わず噴き出しそうになったけれども。ああ、なんと無欲で強欲な姫君である事か! これはドランやクリスティーナが気に入るのも当然だと、スペリオンは笑った。
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第二百五十一話
スペリオンとフラウ、そして隠された同行者としてアムリア、八千代、風香を伴った王太子一行だが、彼らのベルン村への道程はまず平穏かつ順調なものだった。
ロマル帝国側にしてもアークレスト王国の王太子に危害を及ぼす意図まではまだ有しておらず、望まぬ事故などが発生してスペリオンかフラウが死亡ないしは負傷してしまい、それを口実に宣戦布告されては堪ったものではないからだ。
道中に襲撃がある可能性としては、ライノスアート大公がアステリア皇女を陥れる為に、またはその逆にアステリア皇女がライノスアート大公を陥れる為に、王太子襲撃が相手側の勢力によるものだと偽装工作を行う事だろう。
目下、アークレスト王国の暗部を司る特殊な騎士団と魔法使い達の連携により、国内での敵対勢力による大規模な活動は牽制されている事もあり、王都からガロアまでは八千代と風香はともかく、スペリオンら兄妹を守る精鋭中の精鋭達は幸い仕事がない状態だった。
これには警戒を最大限に高めていたアークレスト王国側としてはいささか拍子抜けの事態だったが、アムリアがスペリオン達と同行している時よりも、ベルン男爵領に入ってからの方が、隙の生じる可能性が高くなるのを考慮しているのではと油断はしていない。
この背景には大公側と皇女側同士の牽制が発生していた事と、先んじてベルン男爵領に潜入していたかしようとした両陣営の間諜達が根こそぎ消息を絶ち、彼らの仲間が警戒を強めた為であった。
ベルン近辺の間諜達が消息を絶ったのはリネット、キルリンネ、ガンデウスら人造少女三姉妹を筆頭とした者達の活躍によるが、その情報すら帝国側に伝わっておらず、よりいっそう警戒を深いものにさせていた。
ガロアに立ち寄った王太子らが、総督府の役人達総出で出迎えられて、市街の目抜き通りを進む行列を多くのガロア市民達が将来の自分達の国王の姿を一目見ようと、通りの両脇にずらりと並んでいる。
元々ベルンへと向かう人々で去年よりも外部から流入する人間が増えて、人口密度の増えていたガロアだが、王子と王女の来訪という一大行事に引き寄せられた人々がそこに加わった事で、大変な混雑となっている。
物珍しさに足を向ける人々の中には、ドランとクリスティーナの母校ガロア魔法学院の現役の生徒達も相当数が含まれていたが、意外な事に王太子に一片の興味も抱きそうにないレニーアが加わっていた。
とはいえレニーアの気性からして人込みの中に紛れるなど、火薬をたっぷりと詰めた袋に引火性の高い油を撒いた上に松明を投げつけるようなものだ。
本人も彼女と親しい周囲もそれはよく理解していたから、事前に通りに面した喫茶店の二階の個室を貸し切り、その部屋から王太子一行の様子を眺めている。
部屋の中には、今ではレニーアと必ず一緒にいると魔法学院の生徒達に認識されているイリナの姿があり、昨年の競魔祭以来となる王太子の姿におお、と感嘆の吐息を零して、一般的な反応を示している。
イリナを傍らに侍らせたレニーアはというと、右手に紙に包まれた軽食を手に、固い表情で眼下の行進を眺めている。
軽食は挽肉に塩胡椒で味付けしたハンバーグを分厚いハムで挟んだ、肉を肉で挟んだハムバーガーなるものだ。
このハムバーガーは肉と味付けの塩胡椒と数種類の香辛料以外は全て肉で作られた、肉好きによる肉好きの為の肉料理である。
レニーアは小さなスプーンくらいしか入りそうにない小ぶりな口を開き、ガブリとハムバーガーにかぶりついて、口の中でほろほろと崩れて行く挽肉と分厚いハムの感触、そしてどっと溢れる肉汁とそれをピリリと引き締める香辛料の味わいを堪能する。
何とも男前な食事風景を作りだしているレニーアに、感嘆の念から帰ってきたイリナが不思議そうに問いかけた。
「レニーアちゃん、レニーアちゃん」
親愛なるイリナの呼び掛けに、レニーアは口の中のお肉を飲みこんでから言葉を返す。口に物を入れたまま話してはならないと、人間に生まれ変わってから施された教育をきちんと守っている成果だ。
「なんだ、イリナ? もう王太子達を眺めるのに飽きたか?」
「そういうわけではないのだけれど、あのね、レニーアちゃんが王太子殿下の御一行を見物するって言って、本当にそうしたのがちょっと不思議かなって思って、何か理由があるのでしょう? それが気になったの」
この場にネルネシアやファティマが居ても、イリナの疑問に同意を示した事だろう。イリナがスペリオン達に興味を示したのは、断じてスペリオンやフラウ、はたまたアムリアや八千代と風香が目当てではない。
「そんな事か。いや、私の普段の態度を考えればイリナが疑問に思うのも当然だが、別に王太子兄妹に興味があるわけではない。あの一行の中に特別な関心のある相手がいるわけではないのだ。
ただ素性というか因縁の方に少々気になるものがある。王太子だからというのもあるが、お前は知らない方がお前の胃と神経の為になる因縁があの一行にはあり、それがベルンの地に多少なり騒動を持ち込む可能性があるのだ」
イリナは、自分は知らない方がいいとレニーアに断言された事で、深い事情を問う事を即座に諦めた。
レニーアの常人離れした感性と価値観に基づいて、知らない方がいいと言われてしまったからには、もし凡人である自分がそれを知れば、良くて卒倒、悪ければ吐血すると確信したからである。
実に賢明かつ迅速な判断であったが、この判断ができるようになるまでレニーアに振り回されてきた事を考えれば、イリナの苦労は想像するに余りある。
とはいえイリナは好きでレニーアと一緒に居るのだから、彼女は不幸どころか幸福なので問題は無いとしておこう。
「ベルンかあ、そうなるとドランさんやクリスティーナ先輩に累が及ぶものね。それならレニーアちゃんが気に掛けるのも納得だよ。危ない事にならないといいけれど……」
「ドランさんがおられる以上は万が一の万が一もあり得ぬが、罪の無い領民に怪我人の一人でも出たら負けだと、ドランさんの御人柄上、そう考えて気を揉んでいらっしゃる可能性はある。
あの御方に余計な心労を抱かせるような因縁が傍らを通り過ぎるのを、何もせずに見送るのは業腹だが、せめてこの目で確かめてやろうと思い立ったまでの事よ。
あれらへの対処はドランさんがなされるであろうから、私が余計なちょっかいを掛けてはならぬと、今、必死に自分に言い聞かせている」
「そっか、ドランさん達はこうしようと思っていたけれど、そこにレニーアちゃんが例え善意からでも何かしちゃったら、ドランさん達の予定とか計画が崩れちゃう可能性があるものね」
「そうだ、そう自分に言い聞かせる事で、私はかろうじてこの場に留まる事に成功している。イリナ、その調子で私があの一行に関わる事で生じるドランさん達の不利益を述べ続けろ。
私自身に加えてお前からも言い聞かされれば、私自身を戒める理屈の鎖は数を増し、私の愚挙を止める重しとなる」
切々と語るレニーアに、イリナはどうやら冷静に見えているのは顔だけで、レニーアの心の中ではかなりの葛藤が繰り広げられているのを察して、思いつく限りのレニーアが介入してはならない理由を列挙し続けるのだった。
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第二百五十二話
スペリオン王太子一行をベルン男爵領とガロア領の境目で出迎えたのは、当然ながらベルンの領主であるクリスティーナ、それに補佐官と家宰他遊撃騎士団団長など諸々の重職を兼任しているドラン、ベルン騎士団団長バランを始めとした男爵領の重鎮達だ。
普段はベルンを目指す通行人の激流と化す街道だが、この時ばかりはガロアとベルンから派遣された兵士達が街道の両脇に立ち、通行人達の行き来を厳しく制限している。
アークレスト王国で国王の次に尊重される王太子と『可憐なりし王国の花』と謳われるフラウ王女の姿を一目見ようと、兵士に制止されながらも通行人達は首を伸ばし、肩に我が子を担ぎ、クリスティーナと言葉を交わしている王太子一行の姿を見ようと努力している。
以前に国家をあげての開拓計画があったとはいえ、それは何十年も前の話だ。魔法学院を卒業したばかりの新米領主を迎えて、ようやく開拓を再開したばかりのこの最北の辺境の地に、わざわざ王太子と王女が訪れるという現実は、居合わせた人々により一層ベルンの地の現在進行形の発展が確かなものであると印象付けるには十分すぎただろう。
もっとも、同時に発展が著しすぎる上にエンテの森と龍宮国という規格外の集団との窓口であるベルン男爵領を危険視して、釘を刺しに来たのだろうと推測する者が少なからず存在するのもまた否定しえない事実である。
スペリオンは王家の人間という立場上、ベルンが発展しすぎる事を心情はどうあれ警戒しなければならないから、釘を刺しに来たという考えがまったく的外れというわけでもない。
王家に反旗を翻すつもりなど髪の毛一本分程も無いドランやクリスティーナからすれば、困った話でしかないけれど。
だが、そんな思惑を誰が有していようとも、変わらない事実がある。
かつて荒れ果てた土と砂と岩、それに容赦なく襲い来る飢えた魔獣に魔虫、たやすく死にいたる毒をたっぷりと含んだ毒蛇や毒虫らを相手に奮闘し、開拓の歴史を重ねてきたベルン村にとって、王太子一行の来訪が空前絶後の大行事である事だ。
ベルン側の参加者達は、ドラン達を除けば誰もが自分達が大いなる歴史の節目に立っているのだと、この上なく名誉な場面に立ち会っている事を自覚し、目を宝石のように輝かせ、頬は夢見る少年少女のように赤みを帯びている。
今の彼・彼女らは幼い頃に聞かされた華やかな騎士や冒険者のお話と同じ立場にあるのだ。決して主役というわけではないが、登場人物の一人であるのは確かだ。それならば胸を弾ませるのも当然だったろう。
そんな大人達の様子にドランとクリスティーナなどは、心の中では密かに微笑んだものだ。
それからベルン騎士達の先導によって王太子一行は進みを再開し、街道を飾るドラン謹製の生きた石像達の精悍さや迫力に感嘆しながら、ベルンの地へと足を踏み入れたのである。
その後、スペリオン一行は道中から熱い歓待を受け続け、ベルン村へと着いた時には元からの住人達は総出で、後に移住してきた者達もその多くがクリスティーナ達の屋敷に続く道や南門へと集って、まさに熱狂と呼ぶに相応しい熱意で王太子らを迎えた。
この視察の裏にあると推測されている思惑など知らぬ住人達の無邪気とも言える歓待には、密かに緊張の糸を張っていたスペリオンとフラウも随分と慰められたものである。
スペリオンらの視察の期間は一週間の予定で、ベルン村内部の商業区画や研究区画、エンテの森やモレス山脈の各種族の使節とも顔を合わせる予定となっている。
ただし、旅の疲れを考慮して初日はクリスティーナの屋敷に着いた後に警備体制の再確認をして、スペリオンとフラウの体を休める事が最優先される。
以前、レニーア達が合宿に来た際に試食が行われたベルン男爵領の独自色を前面に押し出した、一部癖の強い料理が夕食会に提供され、最後にはドラン監修の元、来賓用に予算を度外視かつ徹底して快適さを追求したお風呂が振る舞われて、初日に歓待は終わりを迎えた。
そして、歓待が終わった後こそがスペリオン達が視察を名目にベルン村を訪れた真の目的について、話を進める時間だった。
クリスティーナの執務室に通されたのはスペリオン、フラウ、アムリア、八千代、風香、シャルド、ラディアの七名。もちろん執務室の外は勿論屋敷の内外にベルン・王太子一行双方の護衛達が控え、如何なる侵入者も見逃さないように目を光らせている。
ベルン側からは何時もの通りクリスティーナ、ドラン、セリナ、ディアドラ、ドラミナのアムリアの事を知っている五名と給仕としてリネット、ガンデウス、キルリンネの三名が顔を揃えている。
状況を考えれば他者に一切情報を漏らしてはならない類の密会なのだが、八千代と風香はいつも通りの平常運転で、満面の笑顔を浮かべたまま入室するなりこう言った。
「いやいやいや、珍味美味でお腹いっぱいいっぱいでござるなあ、まこと御馳走でござった!」
「その後のお風呂も絶品でござるよ、お陰で耳の先から尻尾の先まで毛艶の良い事、良い事。心地の良い香りがふんわ~りで八も拙者も満足満足満々足でござる」
人懐っこい犬と狐を強く印象付ける二人の笑みに、これから至極真面目な話をすると肩に力を入れていたクリスティーナは、程良く緊張感が抜けるのを感じ、自然と頬を緩めていた。
「大切なお客人であるお二人にそう感じていただけているのなら、奔走した甲斐があったというものだ。スペリオン殿下、フラウ殿下、何か御不満を感じられた事や不足がございましたら、遠慮なくお申し付けください。家臣として最善を尽くしましょう」
毒気を抜かれたのはクリスティーナばかりでなく、スペリオン達も同じだったようで八千代達の行動に少し目を丸くしていたが、それもクリスティーナからの呼び掛けによって表情を切り替えて、鷹揚な言葉と態度で答えた。
「いや、こちらに来てからの熱烈な歓待に不満はないとも。私達の方こそこの領地の人々を落胆させてしまうような振る舞いは出来ないなと、フラウと兄妹揃って気を引き締め直していた程だよ」
「私の祖父と共にベルンの地を拓いた世代の方々にとって、殿下達の来訪はとても大きな意味がありますから、どうしても熱が入ってしまうようです。
さあ、こちらへお掛けください。少しばかり長いお話になるでしょうから、まずはお茶などいかがでしょうか。もう夏に片足を踏み入れてはいますが、夜ともなれば少々寒気を感じる事もあります。お湯で温めた体を冷やす事もありますまい」
クリスティーナに促されたスペリオンとフラウが腰かけるのに続き、クリスティーナとドランがその対面に腰かける。メイド三姉妹はいそいそとお茶の用意を始める。
ドランの秘書と言う立場にあるドラミナがその隣に腰かけて、アムリアはスペリオンの右隣に腰かけ、左隣にはフラウがおり、背後にシャルドとラディア、八千代と風香達護衛が着く。
程なくしてリネット、ガンデウス、キルリンネが手際よく用意したエンテの森産のハーブティーが長椅子に腰かけた全員の前に並び、緊張に身を固くしていたアムリアがハーブティーの香りにほっと安らいだ吐息を零す。
アムリアの緊張がほぐれた姿にスペリオンとフラウが微笑を浮かべ、彼らもまた自分達に用意された白磁のティーカップに口を付けた。
一方で、執務室の調度品の中に、彼らの父たる国王の執務室にあるそれらよりも上等か、どうすれば入手できるのかを考えたら気が遠くなるような品がある事に、やはりこの地は特別だなとしみじみと感想を零していた。
「明日からの視察が楽しみだよ。ベルン以外にも国内外の色んな土地を見てきたが、ここ程刺激的な場所は他にないだろうからね」
「お兄様の言われる通り。王宮でもベルンの事はとても話題になっているのですよ。ベルンの地が栄えた事で国内に広まった品がたくさんありますし、影響力は増すばかりだともっぱらの噂ですもの」
フラウとスペリオンの口からは、王宮の中で交わされるベルンに対する評価や噂話が次々と伝えられ、クリスティーナなどは明らかに照れた顔になって縮こまる。
誰かに褒められるのに慣れていないクリスティーナが羞恥に身悶えする姿に誰もがほっこりとした気持ちになる中、クリスティーナに慕情を募らせているガンデウスなどは、変な声が漏れそうになるのを全力で堪えなければならなかった。
許されるならば、クリスティーナ様ぎゃわいいい~~などと叫び出していたところだ。
グワンダンは古神竜ドラゴンがドラゴニアン(人間寄り)に変化したら、という姿です。今回はM○ではなく戦艦から名前をとりました。
追記
グワンダンの容姿描写を変更しました。
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第二百五十三話
ドランがグワンダンと名前を与えた分身を護衛とし、アムリアをロマル帝国に連れて行く話は当然の事ながら紛糾した。そもそもアムリアを連れて行く是非、護衛がグワンダンと八千代、風香の三名で本当に足りるのかどうか。
当たり前と言えば当たり前の事が問題となり、早々に決着がつくことはなかったが主に二つの陣営に分かれて話がなされた。
アムリアのロマル帝国行きをスペリオン達アークレスト王国に認めさせようとする説得陣営。
そしてアムリアのロマル行きが許されると前提した上で、グワンダンと共に護衛に赴く面々の選出で大絶賛議論中の護衛陣営である。
説得陣営には一時的な保護者となっているスペリオンらアークレスト王家とアムリア、八千代、風香が名を連ね、護衛陣営にはセリナやドラミナらといったベルン男爵領の面々が居る。
スペリオン達が執務室の奥にある書斎で話し合いを進める中、執務室に残った面子の中で是非ともグワンダンへの同行を希望しているのはセリナで、控えめに希望しているのがディアドラとドラミナである。
クリスティーナも前回のロマル帝国行きには同行していなかった事から、今回こそはと思うところを、領主としての立場から鉄の自制心を総動員して自粛し、いいなあと思いながら情勢を見守っている。
審判役を務めるドランはと言えば即興で作りだしたグワンダンと肩を並べ、腕を組んだ同じ体勢で女性陣の意見に耳を傾ける。
本体であるドランがベルンに残る以上は、グワンダンに同行する事にそれ程熱意は燃やさない可能性もあったセリナ達だが、今回の場合は見知った相手が危険な場所に赴くのが気掛かりでならないという動機によって、護衛を希望しているようだった。
ドランの分身であるグワンダンが同行する以上は、戦力的に不安な要素は欠片も存在しないが、それはそれ、これはこれである。
「前回、ドランさんと一緒にロマル帝国に行きましたし、変身魔法で人間さんに化けられる私が適切だと思います。それに少しだけですけれど帝国の中も見て回りましたもの」
ふんふん、と少し鼻息荒く意見を口にするセリナに、ドランは考える素振りを見せる。
アムリアをロマル帝国に連れて行くにあたって、八千代と風香は必ず付いてゆくとして、グワンダンを含めてこの時点で最低五人の団体となる。
ライノスアート大公とアステリア皇女になるべく見つからないように行動するべきと考えるのならば、これ以上はなるべく増員しない方がよいが……
「南の異種族達の地域に足を運ぶかまでは決まっていないが、万が一変身魔法が解けた時の事を考えるとセリナはいささか厳しいな」
申し訳なさを含むドランの言葉に、セリナはそんなぁと分かりやすくしょげた。セリナと同じく同行を希望していたドラミナも、それならば自分もと同行を諦めたようだった。
「万が一の事態はまずあり得ませんが、ラミアであるセリナさんが難しいのなら、バンパイアである私もロマル行きは控えた方が良いでしょうね。危険性の観点から見れば、ラミアよりもバンパイアの方がよほど高いですし、問題にもなるでしょう」
「すまないな。ディアドラはどうだい?」
「私だけ抜け駆けするような真似はできないわよ。それに私って変装するのは好きじゃないし、この中じゃアムリアの身の安全はそれ程心配していない方だから、気にしていないわ」
「そうか、君はいつも大人というか落ち着いた意見をくれるから助かるよ。そうなるとグワンダンだけを付けて行くか? 八千代と風香が居ればアムリアの身の周りの面倒は、女性同士に任せられる」
「ああ、ドラン、それならリネットとガンデウスとキルリンネを連れて行ってくれないかしら?」
唐突なディアドラの発言にドランとグワンダン、そして名指しされたリネット達の視線がディアドラに集中する。ディアドラは突き刺さる視線にも怯んだ様子はなく、まるで子供をお使いに出す母親のようにこう言った。
「そろそろリネット達にもベルン以外の土地を見せた方がいいでしょう。最初に選ぶのが内戦中のロマル帝国というのは、いささか厳しすぎるかもしれないけれど、まあ、この子達ならやって行けるでしょう」
ね? とディアドラが振り返れば、黒薔薇の精からの信頼を感じ取ったリネット、ガンデウス、キルリンネ三姉妹はそれぞれほのかに顔を赤くして喜びの感情を見せる。
ただ、ディアドラが口にした通り、リネット達は確かにドラン達に引き取られてからはずっとベルン男爵領に居続けた為、若干世間知らずなのは確かだが、だからといっていきなり内戦中の外国に連れて行くのは飛躍しすぎではあるだろう。
「リネット達なら危害を加えられる事はないだろう。後は内戦状態に置かれて心が荒んでいるだろう帝国の人々を相手に、要らぬ軋轢を起こさずに過ごせるかどうかが気掛かりだな」
ドランのしみじみとした呟きに、こればかりはディアドラも否定できないと苦笑を洩らした。リネットは関わりのある人間以外にはそれ程関心を見せず、うわべの対応で済ませる所があるし、ガンデウスはそれに更に輪を掛ける。
この中ではキルリンネがもっとも社交性が高いが、いかんせん言葉や知恵を巡らせる事よりも腕力に物を言わせる傾向にあるから、不意打ち気味に問題を起こすという欠点がある。
「アムリアが望む帝国の人々の日常ばかりでなく、非日常も見る事になるかもしれないが、それはそれで彼女の糧になると考えれば、悪くはないのかもしれないな」
ドランなりにリネット達の同行を前向きに捉える意見を口にした後、彼はアムリアがスペリオン達を説得中の書斎へと青い視線を転じる。
護衛の人選などよりも余程困難な話し合い、いや、戦いに身を投じているアムリアをドランのみならず執務室に残った全員が案じていた。
まだ書棚に空白が目立つ書斎に移動したスペリオン達の方はと言えば、ドラン達が護衛の人選を終えたのとほぼ同じ頃にこちらもまた結論を出していた。
書斎に移動した全員が立ったままの中で、凛然とした表情を崩さぬアムリアを前に、スペリオンは深々と溜息を吐く。
快活で聡明なるこの王子には珍しい溜息であったが、妹フラウやシャルドなど近しい者にはそれがスペリオンの降伏の合図である事が良く分かった。
「アムリア、君の身の安全を守る事は私にとって課せられた義務だ。なんとしても守らなければならない誓いであると、私が一方的にだが考えているものだ。
君をベルンに連れて来たのも、そうする事が王都に君を置いたままにするよりも安全に繋がると考えたからだ」
「はい、殿下から何度もお伺いしておりますもの。今更、殿下が私を案じてくださるお気持ちを疑いなどしません」
「そうか、君に信じてもらえるのなら私としても嬉しい限りだ。だが、だからこそ君が自ら帝国に戻り、人々の実情を知りたいと願った事については、困ったとしか言いようがない。いや、愚痴っぽくなってすまない。
だがロマル帝国は内戦中とはいえ他国だ。私達の手が及ぶにも限度がある。君の安全を十全に保証はできなくなる」
「でもドランさんが用意してくださった護衛の方がいるなら大丈夫だと、殿下はそう思われたのでしょう。そういう御顔をされたのを私は見逃しませんでした」
まさにアムリアの指摘の通りだった。ドランの戦闘能力の高さと度胸の座りぶり、そして傍に居るだけで何も恐れる必要はないと心から思える安心感は、護衛として傍に置くには最適といえる。
十二翼将やそれに比肩する使い手達を相手に一方的な戦いを演じたのもそうだが、まだまだ彼が隠し玉をいくつも持っている事は明白であり、ドランの分身グワンダン――この分身魔法も隠し玉だった――が居るなら十二翼将が束になってもアムリアを逃がす位は難しくないだろう。
「君の観察眼には恐れ入るよ」
「物を知らない自覚はありますから、色んな事を知ろうと気を張っていた成果です。私としてもこれまでご面倒を見ていただいていたにも関わらず、恩を仇で返すかのようなわがままを申し上げたという自覚はあります」
「いや、もはやそれは言うまい。本当にロマル帝国に行くのかい?」
「はい。この目であの国の現実を見て参ります。本来でしたら見てから殿下にアークレスト王国のご助力をお願いするのが筋ですし、順序が逆になってしまいましたが……」
「君が実際に国を見ての決断であるのなら、現実を知らない箱入りが、と誰かが口にしても反論できるようにはなるね。
ライノスアート大公もアステリア皇女も皇帝の座を巡って争ってはいるが、後に自分が治める国と考えているから、古くから帝国の版図に含まれていた土地ではそれ程悲惨な事にはなっていない。
だが元々は異民族や異種族の土地であった場所では、戦闘が頻繁に行われている事もあり、土地を追われた難民や逃亡兵などで溢れて治安が良くないところがどんどんと増えていると調べがついている」
「私が思っている以上に現実は苛酷であると、そうおっしゃりたいのですね?」
「過酷な上に悲惨だ。見なかった方がよいもの、知らなかった方がよいもので溢れかえっている事だろう。君がそれを見て、それを知り、傷つく事が私には不安でたまらない」
傍から聞いているとスペリオンがアムリアに対して想いを寄せているかのように解釈出来ない事もない台詞だが、当のスペリオンとアムリア以外は、眉を動かしたり、ほう、と呟いたりと大なり小なりの反応を見せている。
「それでも、見て良かったと知って良かったと思うものもありましょう。知らなければよかったと後になって悔み、嘆く事もきっと私には必要なのです」
「アムリア、君が、君が聡明である事と意思の固い女性である事を今日ほど恨めしく思った事はないよ」
とはいえ、スペリオンがアムリアのロマル帝国行きを承諾し、そしてスペリオンが次期国王という立場にあるとはいえ、彼の一存ではいそうですか、とアムリアがロマル帝国に行けるものではない。
国王たる父と重臣達にアムリアの意向を伝え、その是非についての審議の結果が出るのを待たなければならない。それを待たずにアムリアがロマル帝国に向かったとなれば、王宮は水面下で紛糾するだろう。
なにせ、使い様によってはロマル帝国に傀儡の皇帝として据えられる貴重な駒なのだから。
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第二百五十四話
「はいよ、お買い上げありがとうさん」
アムリアは、屋台を営む中年の女主人から、スライスしたチーズと分厚いハムを挟んで焼いたトーストを受け取った。
ロマル帝国南部へ向かう前に安全地帯であるこのセブランドの内情を見て回るべく、滞在していたある日の事である。
行き交う人々で賑わう通りの北端に近いところにある宿場町の辺りには、宿を求めて歩く旅人や職人達が溢れかえっており、彼ら目当ての屋台がいくつも軒を連ねて、食欲をそそる何種類もの匂いが混ざり合っている。
アムリアの落ちぶれた裕福な商家の娘か二等臣民の娘風の装いは、幸いにして今日まで怪しまれる事はなく、屋台の女主人からも怪しんでいる素振りは見られない。
アムリアは護衛としてすぐ傍に控えている八千代と風香の分のトーストを手渡してから、代金を支払う。
他の屋台には休憩に入った職人達や少し離れたところで店を開いている商人達が、空腹を満たすべく足を運んでいる。
だがその中にアムリアのように戦火を逃れたと思しい風体の人々が少なからず含まれており、アムリアはそういった人々に視線を向けてから、屋台の女主人に声をかけた。
「あの、私が言うのもなんですけれど、セブランドにも随分と他所から人が流れて来ているのですね」
「うん? ああ、そうだね。まあ、南の方で反乱が起きているってんだから仕方ないところはあるさ。このセブランドはライノスアート大公のお膝元。ここまでは反乱軍だってやっては来られやしないから、安心おしな」
いかにも箱入りのお嬢様といった雰囲気を醸し、儚げな美貌を持つアムリアを気遣ってか、女主人の言葉は優しげで目元も柔和に細められている。
彼女からすれば、アムリアはその反乱軍によって故郷を追われた哀れな女性にしか見えていないのだ。
アムリアも目の前の女主人のように一方的に勘違いされて哀れまれるのは、セブランドに滞在した数日で何度も経験しているので、もう慣れたものだ。
ただアムリアを帝国から追い出したのは反乱軍ではなく、ライノスアート大公とアステリア皇女双方である点を除けば、そう間違いでもない。
「ええ、本当にこの町はたくさんの兵士さんと騎士様達に守られていて、とても安心できます。私も一度は故郷を離れた身ですけれど、皆さんの御慈悲を恵んでいただいたおかげで、何とか生きていけます」
「避難してきた人達の為に、大公が緊急の予算を組んだって言うし、食糧庫も開放しているからね。元からあった貧しい民達の為の病院とか炊き出し用の施設も増員が決まっている。
なあに、ハウルゼン大将軍が大公様をお認めになったし、すぐに反乱軍を叩きのめしてくださる。このセブランドにいればお嬢さんの故郷に帰れるのも遠い日じゃないさ」
「ええ、大公様は本当にご立派な方でいらっしゃいますのね。本当に」
旧来の帝国の制度を良しとする方には、とアムリアは口の中でだけ呟いた。セブランドに避難してきた帝国民の内、市街に入れたのは二等臣民かその彼らの労働力などの特例として許された三等臣民に限られる。
日々の食事や傷病の治療にも事欠く大多数の人々は、市外に追いやられたままだ。彼らにも食糧の配給などはあるが、避難民全員の口に回るだけの量ではなく、購入しようとすれば彼らの足元を見た商人達が吹っかけた法外な金額が必要となる。
それでもまだこのセブランドの三等臣民への対応は、マシな方だとも言う。
アムリアはセブランドしか知らないが、この都市よりもひどい扱いを受けている人々が居るのなら、スペリオンが言っていた通り、知らない方が良かったものが数多く待ち受けているだろう、と覚悟を新たにしている。
三等臣民達を痛ましげに見るアムリアの視線に何を思ったか、女主人が気遣わしげな表情はそのままに慰めの言葉を口にした。
「ああ、三等臣民の連中かい? 南部の反乱なんてものが起きてからは、ここらに居る連中もそれに同調するんじゃないかって、皆がピリピリしていてね。まったく、これまで上手くいっていたんだから、それでよかったじゃないか。
どうしてお上に逆らうような真似をしたんだか。大公様が反乱を鎮圧したら、連中の扱いは、今度こそ反乱を起こそうなんて思わないように厳しくなるだろうね。こんな事は二度と起きないで欲しいもんだよ、まったく」
女主人が口にする三等臣民――異民族と異種族への批難は、アムリアが同じく三等臣民を侮蔑していれば共感する事もあったろう。だがアムリアの心中が、女主人が勝手に想像したものとまったく異なるものであるのは、語るまでもない。
その場でトーストを食べ終え、屋台通りの観察も終えたアムリア達は、少し離れた場所で周囲の警戒を行っていたドラン達とも合流し、このセブランドから離れる事にした。
セブランドを出た後はかつて八千代達と出会った都市エルケネイを取りあえずの目標として南下し、戦線近隣の土地と南部の反乱軍の勢力下を見て回り、最後にアステリア皇女の支配する帝国西部を見て回るのが目下の計画となっている。
故郷を追われる際に持ち出せたという設定の幌付き馬車に乗り、セブランドを後にする間際、後部の荷台に座すアムリアが幌をめくって市外で体を休めている避難民達に視線を送る。
皇族としての正規の立場もなく、帝国内に後ろ盾もないアムリアが彼らに出来る事は極めて少ない。アムリアのロマル帝国行きにあたり、アークレスト王国からの助力も内乱への介入前にはまずない。
「アムリア殿、そう思いつめた顔で見ても仕方がないでござるよ?」
秋津国の特徴的な口調が抜けない為、セブランドではなるべく口を閉ざしていた八千代が、ようやく喋れると口を開き、帝国に来てから心を痛めてばかりいるアムリアを慰める。
風香も八千代と一緒になって、近頃、俯いてばかりいるアムリアに声をかける。八千代と風香としては既にアムリアをここに連れてきた事に小さくない後悔を抱き始めている心情だった。
「そうそう、厳しい言い方になるけれども、アムリア殿が心を痛めても、彼らのお腹を満たす事も疲れを癒す事も出来んのでござる。それにアムリア殿は何もしなかったわけではないでござろ?」
「風の字の言う通りでござるよ。町の商人達が法外な値段を吹っかけている食糧や薬を買い込んで、こっそりと安値で彼らに売り渡しもしたし、彼らに因縁を吹っ掛けた者が居れば、体を張って止めに入ったではござらぬか」
「でも、お金は結局、スペリオン王子が御都合くださった物ですし、無償で渡せるところを有償で……」
「いや、前にもそうしようとしたのを止めた通り、無償では施しになるでござる。
ここまで避難してきた彼らは確かに疲れているし、お腹も空かせているけれども、まだ心に芯が残っておる。矜持、尊厳、それらをまだ捨ててはおらぬ。
その相手に対し、例え善意からでも私情で施しをしては、彼らにお前達は憐れまれる存在だと暗に伝えるも同然の事。
求められてからならともかく、こちらから与えようというのなら、アムリア殿がしたように少額でも対価を受け取るのが彼らの尊厳を傷つけない方法でござったよ」
八千代の言葉には、アムリアの心情を労わる為のおためごかしや気休めは含まれていなかった。本当にアムリアの判断が良いものであったと述べているのだ。
「そうだと良いのですが……。スペリオン殿下にロマル帝国に行きたいと懇願した事を後悔はしていませんが、私が浅慮であった事は間違いないと痛感しています。果たして私に一体何が出来るのか、濃霧の中に何も持たずに迷い込んだ気持ちです」
「なあに、先の見通せぬ霧の中でも地に足が着いているのならば前に進む事は出来もうそう。それにアムリア殿の隣には某と風の字が居る故、一人ぼっちで迷子にはならんでござる」
「八の言う通り、迷子でも三人一緒なら、ま、しばらくは怖くないでござるよ!」
『しばらくは』と付け加えるあたりが、実に風香らしい。自分を偽らない八千代と風香に、アムリアは久しぶりに焦燥や不安から解き放たれた微笑を浮かべた。日だまりのように心地よいアムリアの笑みにつられて、八千代と風香も蕩けた笑みになる。
アムリア達の心から暗雲が薄らぐのを見届けてから、リネットは御者台に座るドランに話しかけた。なお、御者台にはドランとガンデウスが腰かけ、リネットとキルリンネは荷台の方にいる。
長旅を想定して床に絨毯を敷くなどして、居住性を高めた荷台から、リネットは敬愛する主人にこう問いかけた。
「グワンダン様、セブランドでの滞在中、お嬢様の事を察知された形跡はありましたでしょうか?」
リネットを始め三姉妹それぞれの探知能力は常人離れしているが、およそあらゆる点に於いてこの主人の方が勝るのは、リネット達仕える者にとっては情けなくも事実であった。
グワンダンはセブランドを目指す者達が黙々と歩む街道の先に視線を固定したまま、本体であるドランと似て非なる声音で答えた。ドランよりは年長の外見である為か、幾分声が低いようではある。
「いや、無かったな。アイザ将軍の千里時空眼に捕捉された形跡はないし、市内に配置されていた衛兵達も私達を特別視している様子はなかった。今も私達を尾行している者はいないな。
アムリアを戦火に追われた令嬢に見せかけたのは、中々悪くない手だったようだ。私と八千代達も純人間種に見せかけていたから、問題にならなかったのもある。
強いて言えば、セブランドを出て、戦乱に見舞われている南部へ向かおうとしている今の状況が、妙な行動をしていると勘ぐられるだろう」
グワンダンの言う通り、セブランドを離れる人々は他にも居るが、向かうのは西部やより戦火から遠い北部方面がほとんどで、危険の待つ南部へ向かう人影はまばらだ。
それとて戦乱の南部に商機を見出した商人や傭兵達らしい出で立ちをしている。実際には商人でもなんでもないグワンダン達の方が異端であろう。
グワンダンが監視されていないと明言した以上、それを疑うリネットではなかったが、道中で兵士達に検問を受ける可能性もある。
その対策については、グワンダンの隣でキリリと引き締めた表情を維持しているガンデウスが口にした。グワンダンの隣に腰かけているこの状況に内心では飛び跳ねまわっていたが、主人の前とあって繕った態度を必死に維持している。
「怪しまれた場合に備えて、置き去りにしてきた家族や知り合い達の所へ、食料品などの支援物資を持ち帰るという設定をしているのです。
ベルンから持ち込んだ分に加え、セブランドで買い込んだ品々が役立ってくれるでしょうし、余る分は現地で本当に困っておられる方々に差し上げれば済む話です」
「ふむ、ガンデウスの言う通りだな。私と八千代達は変わらず護衛の傭兵、リネット達はアムリアの世話係。兵隊崩れや賊に身を窶した臣民も数多くいるだろうが、なるべく命までは取らずに済ませたいものだ」
「リネットはグワンダン様に害を成そうとする者の命など、考慮する必要はないと考えますが、それがグワンダン様の御望みであるのなら尽力いたします」
「このガンデウスも、ご主人様のご意思に沿うよう持てる力と知恵の全てを賭しましょう」
「はいはーい、キルリンネも頑張るよー!」
どうやら話を聞いていたらしいキルリンネが、荷台からにょきっと体を出して、ついでにグワンダンに背中から抱きつきながら元気良く宣言する。
グワンダンの背中に押し当てられるキルリンネの豊かな乳房を目の当たりにして、それを持たぬリネットとガンデウスの瞳に、それはそれはどす黒い嫉妬の炎が轟々と燃え盛った。
グワンダンは背中から感じられる柔らかい感触を気にした素振りはなく、キルリンネの幼い行動に父性で形作られた笑みを浮かべる。キルリンネに限らず、リネットとガンデウスに関しては父親に近い意識で接しているようだ。
「こらこら、手綱を握っている時にいきなり飛びついて来ては危ないよ、キルリンネ」
「えへへ、こうする方がも~っと気持ちが伝わると思いまして」
「ふふ、可愛ものだがね。ああ、それとキルリンネ、ガンデウス、今は構わないが他者の目と耳がある時には、私をご主人様やドラン様と呼ばないように気をつけるのだよ。君達の主人はアムリアという事になっているのだから」
ドランの分身体がグワンダンという偽名を与えられているのと同様に、アムリアと八千代、風香達、リネットにもそれぞれ偽名が与えられており、ロマル帝国に入る前から偽名を呼ぶ練習が行われていた。
演劇に勤しむ女優の卵達を見るかのような微笑ましい光景だったが、実際にこうしてロマル帝国入りを果たした後では、重要な練習であった。
「もちろん承知しております、グワンダン様。リネットもとい私はトルネ、アムリア嬢はお嬢様ことアナ、八千代さんはハッチ、風香さんはフウですね。風香さんはそのまま過ぎるのではとも思いますが……」
「リネッ、おっとトルネの言い分も分かるが、あの二人に関しては聞き慣れない名前では自分達が呼ばれている事に気付かない事もあり得るからな。普段の呼び名に近いものにしないと、どうにも不安が残る」
「これといって異論があるわけではないのです。あのお二人の事は帝国側にもそう詳しく伝わってはいない筈ですし、姿が違っていれば多少名前が似通っていてもそうとは気付かれないと、トルネも結論付けます」
トルネの言う事はもっともだ。冒険者組合などから二人の情報が伝わっている可能性は大いにあり得るが、それほど警戒しすぎる事はあるまい。
グワンダンが手綱を握る馬車は、ゆっくりゆっくりとまだ戦火の遠いセブランド郊外を進んでいった。
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第二百五十五話
通常の馬に偽装したゴーレムホースの牽引する馬車は、黒蓮騎士団第四遊撃大隊と真っ向から対峙するグワンダン達から離れた位置に停車していた。
グワンダンがアデリード率いる大隊が難民達に向ける悪意を鋭敏に察知して、メイド三姉妹を率いて稲妻の如く飛翔する前に、八千代と風香にこれから戦闘が発生する事を伝え、離れた位置で見ているようにと厳命した為である。
ドランもといグワンダン謹製ゴーレムホースの戦闘能力は、下級神ならば本来の権能と力を持ったまま顕現したとて撃退可能な基準に達している。
それを知らない八千代と風香は神経と五感を尖らせて、周囲への警戒を最大限に張り巡らせながら馬車を降りていた。
大隊から別行動をとっている兵士達が居る可能性は捨てきれないのと、戦闘で発生する血の臭いに誘われた獣や肉食虫、悪霊の類が襲いかかってくる可能性の二つを考慮した為である。
唯一、馬車の中に残っているアムリアは窓からそっと顔を覗かせて、遠く見える黒い不吉の塊のような大隊と、大地にこびりついた染みか襤褸にしか見えない難民達の間に立つグワンダン達を一心不乱に見つめていた。
戦いらしい戦いと言えば唯一帝国を脱出する際の超人同士の戦闘を目撃したアムリアにしても、百倍以上の戦力差を持って対峙するグワンダン達の姿にはどうしても不安を駆り立てられる。
「ぬう、相手は完全武装した正規の軍隊。ロマル帝国の基準で言えば、確か大隊とやらに当てはまる規模か!」
普段のポンコツ具合はなりを潜め、八千代は腰の愛刀に手を添えながら眦険しく大隊を睨みつけている。
馬車を挟んで反対側の方角を警戒していた風香も、今ばかりは大隊と対峙するドラン達を見ていた。
風香は大隊がつい先程まで無力な難民達に何をしようとしていたのかを察して、抑えきれない怒りで牙をギリギリと軋らせている。
「あやつら、武器など持っておらぬ女子供と老人を相手に、銃を撃った! 外道め、鬼畜生め、自分達を傷つける力を持たぬ弱者を一方的に殺すのが好みか、地獄に落ちるがいい!!」
もし感情を見る事が出来たなら、風香の全身から溢れ出る燃え盛る炎のような怒りが見えただろう。
凄まじい怒りと義憤に駆られる二人だったが、彼女達の性格ならもう駆け出していそうなものなのに、グワンダン達に例え力及ばずとも助力せんとその場を飛び出す事はしなかった。
グワンダンにアムリアの守護を厳命されているのとアムリアへの親愛の情もあるが、二人ともグワンダン達にとってあの状況が危機でもなんでもない事を、よく理解しているからだ。
八千代が数の違いを危惧したのはさしものグワンダン達も、四人では五百を相手に取り零しが出て、庇っている難民達に被害が出るかもしれないから。
風香が地獄に堕ちろと叫んだのは、まさしくグワンダン達が大隊を一人残らず地獄に落とせるだけの圧倒的強者である事を知っていたから。
アムリアが我知らず血が滲む程唇を噛んでいたのは、かくも醜い一方的な弱者への弾圧が平然と行われる光景を初めて目の当たりにしたから。
そしてあまりに無慈悲でおぞましい帝国兵の精神性と、グワンダン達が駆けつけなければ弔う者もなく難民達の屍が野ざらしになる未来が訪れた事への嫌悪と憎悪から。
これが今のロマル帝国の確かな現実。ここだけではなく、他のどこかでもきっと行われているだろう現実。
そしてロマル人が亜人と異民族を虐殺するばかりでなく、その逆に亜人と異民族側がロマル人を虐殺する光景もまた帝国のどこかで描かれている事だろう。
聡明なアムリアはそれをまず間違いのない現実として理解し、こうなるまで歪みを抱え続けたロマル帝国の歴史を憎んだ。それを知らずに育った自分を嫌悪した。これを容認した全てのロマル帝国民に怒りを抱いた。
そして何よりも現実を前にしてただ見ている事しか出来ない、自分の無力さを生まれてから初めてという程強く呪った。呪わずにはいられなかった。
閉鎖された環境で人生のほとんどを過ごしたアムリアは、年齢に反して精神と感情の発達が未成熟な面がある。
喜怒哀楽の内、八千代と風香達の存在とスペリオンの配慮で喜と楽は短期間で数多く体験したが、怒と哀については人並みに経験していない。
眼前の光景を前に彼女の中の怒りや悲しみ、憎しみと言った感情は制御できる段階をはるかに越えて膨れ上がろうとしていた。
アムリアの心にどす黒い、負の感情と忌避されがちなそれらが広がる中、不意にグワンダンの瞳がアムリアへと向けられた。
文字通り瞬き一つ分の間だけ視線が交わされると、アムリアと同じように抱いている筈の怒りを感じさせない、透き通った氷のように冷たい視線がアムリアの心の奥底にまで届き、途端にアムリアの自分自身へと向けた呪詛が嘘のように小さくなってゆく。
頭から氷水を掛けられたように落ち着きを取り戻したアムリアが思わず息を呑むと、グワンダンはもうすべき事は終わったと言わんばかりに視線を大隊へと向け直す。
アムリアに帝国のあるがままの現実を見せるのがこの旅の目的ではあるが、そのせいでアムリアの心を過剰に苛む事はグワンダンの本意ではない。
例えアムリアの心を苛むのが、アムリア自身であったとしても、だ。
グワンダンとリネット達が視線を向ける先――大隊側では、予期せぬ珍妙な邪魔者達を前に迅速な動きを見せていた。
硝煙の臭いが漂う中、長銃を撃った兵士達が後方に下がり、新たにハンドル式の強力なボウガンを構えた兵士達が前列に進み出るが、グワンダン達は構えらしい構えも取らず、兵士達の動きを悠長に眺めていた。
問答無用に敵陣に突っ込み、当たるを幸いにそれぞれの武器を振り回すだけで瞬く間に大隊を壊滅させられる筈だが、それをしないのにはさてどんな意図があるやら。
弾込めを進める兵士と微動だにせずボウガンを構える兵士達の背後に、選りすぐりの護衛と腹心の部下である女性騎士達に囲まれたアデリードが移動していた。
アデリードは、銃弾を弾いて見せたグワンダン達を、難民達に向けていた以上の嫌悪と忌避の混じる視線で睨みつける。
この時、グワンダンは既に純人間種への変化を解き、竜の角と翼、尾、鱗を晒していた。
難民側に分かりやすく純人間種でない事を伝えて、後に警戒される要素を今の内に少しでも減らしておこうという配慮による。
稀有なドラゴニアンとはいえ亜人とそれに従う異民族らしい女三人。アデリードや彼女と同じ過激思想にどっぷりと遣っているエウリアを始めとした女性騎士達は、この世から抹消すべき汚物としか認識していない。
女三人が見目の良い男であったなら、まだ彼女らの玩具兼奴隷として、命だけは助けるつもりになったかもしれないが。
「貴様らは、我らベルギンテン伯爵麾下黒蓮騎士団第四遊撃大隊の神聖なる任務を妨害した。栄えあるロマル帝国内部をうろつく不穏分子を排除するという、崇高なる我らの任務を。
よって即刻、この場で死刑を言い渡す。ロマル帝国の厳粛にして聖なる法を守護し、また遵守する為、貴様らはその見せしめとなるが良い。それが貴様らに与える最大の栄誉と慈悲である!!」
積極的にこちらを覗いてくる深淵を相手に、正気を保つには?
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第二百五十六話
アデリードは気付くと暗闇の中に立ちつくしていた。
体は拘束されておらず、見通せない程はるか高みから差し込む白い光に照らし出されているが、周囲はただただ黒一色しかなく、すぐそこに壁があるのか、それとも延々と闇が続いているのかも分からない。
アデリードの最後の記憶は、あの恐るべきドラゴニアンに首を掴まれ、持ち上げられたところで途切れている。この時点でアデリードの記憶の中には、無様極まりない命乞いをした事など欠片程も残ってはいなかった。
幻術か何かか、とこの状況について推測を巡らせていると、カン、と甲高い音が鳴り響き、アデリードの腹の底まで震わせた。
不意に、アデリードは周囲の闇の中に無数の息吹を感じた。同じ場所に居る事が何かの間違いとしか思えない、巨大で、神聖、絶対的な、上位者達。社会的な身分などという矮小な枠をはるかに超越した、存在の格そのものが圧倒的にかけ離れた何者か達。
「これより裁判を始める」
巨大な岩と岩とが擦れたように重々しく、言葉一つでこちらの体を押し潰せるような声が闇の彼方にまで響き渡った。声は闇を彼方へと押しやり、アデリードの周囲を階段状の席が囲い込み、そこに無数の異形が腰かけているのを露わにした。
いや、純人間主義思想の過激派に属するアデリードをして、異形と眉を潜めるなど許されないと断言できる。自分を囲い、見下ろす存在は本来ならば目にする事も許されないような、超常の存在――神と畏怖され、畏敬される方々であると。
自分はどこに来てしまったのだと熱病にかかったように震えるアデリードの正面に、艶やかな黒い髭に顔の下半分を包まれた、厳粛なる雰囲気を纏う大男が座していた。
「アデリード・ベルギンテン。汝は生あるまま冥界へと落ちた。汝を生あるまま地上に帰すか、冥界にて死を与えるか。これより我、閻魔の名において召集せし法廷にて裁定を下す」
閻魔! 冥界の三貴神の一柱にして死者の徳と罪を量って、死後の行き先を定める裁きの大神ではないか、とアデリードは脳裏で絶叫し、自分が生きながらにして冥界に落とされた事を知る。
自分はまだ死ぬ身ではない筈だ、地上にどうか帰してください、と叫ぼうとしたアデリードだったが、口こそ開くものの音がまるで出ない事に気付く。閻魔の許しなく喋る事は出来ないのだと、しばらくしてからアデリードは思い至った。
閻魔の宣言の後、アデリードはこの法廷に無数の神々のおわすのに気付き、これらの神々が自分を裁くのだと考えると、このまま消えてしまいたい激しい衝動に駆られた。
閻魔はアデリードに鋼の視線を据えてから、その背後へと視線を移した。周囲の神々もそれに倣い、アデリードの背後を見やり、アデリードもまたそうした。
アデリードと神々とに続く、第三の法廷への出席者達の姿がそこにあり、その中に見知った顔がある事に、アデリードは驚きを禁じ得ない。
亡くなった母方の祖父母や親類の年長者達や幼い頃に熱病で亡くなった幼馴染をはじめ、アデリードよりも先に命を失い、冥界へと旅立った筈の者達が背後の集団の中に紛れているのだ。
だが背後に居たのは彼らだけではない。アデリードに暗く濁った瞳や猛々しい怒りを湛えた瞳を向ける者達が、何重にも列をなして並び、アデリードを睨み殺さんばかりに見つめている。
向けられる視線に込められた憎悪と殺意の凄まじさとおぞましさに、アデリードの喉から悲鳴が溢れそうになるが、盛大にひきつけを起こすだけだった。
「アデリードよ、これなるは汝の罪を述べる者達と汝の功徳を述べる者達である。生けるままに冥界へと落ちた汝の処遇は、彼らの証言によって決定するものとした。裁定が終わるまで、汝はその場にて黙し、目を開き、ただ待つがよい」
体の震えを抑えきれないアデリードの見ている前で、先に死した者達は次々と口を開き、時に身ぶり手ぶりを交えて法廷に参列した神々にアデリードの罪と功徳を語り始める。
だが、それがアデリードの耳に届く事はなかった。彼女に聞かせる必要はないという事だろう。
かつて幼い自分を優しく抱きしめてくれた祖父母や、かくれんぼや追いかけっこをして遊び笑いあった幼馴染、将来は美人になると賛美してくれた親類達がアデリードの頼みの綱であった。
だがそれ以上に彼女は自分の罪を述べる者達から視線を外す事が出来なかった。
あれは態度が気に食わないと鞭打ちにし、その傷が元で熱病にかかり死んだメイドか。
人質に取った家族を助けてやると告げ、お互いに殺し合わせた異民族の男達か。
家畜に休息は必要ないと休む事を許さずに農園で働かせ続け、過労と栄養不足の果てにバタバタと死んでいった三等臣民の亜人達か。
あれは、あれは、あれは、あれは……アデリードが手に掛けてきた者達の顔と、彼らに対する諸行の数々が、アデリードの心を今更になって恐怖で震わせている。
どれだけ罪が述べられただろう。
どれだけ功徳が述べられただろう。
延々と続くかと思われた証言者達による告発はいつの間にか静寂に包まれて、神々の視線はアデリードへと戻っている。
天から差し込む光に照らし出されるアデリードは、そのまま消えてしまいたかった。冥界でも特に貴いとされる神に下される審判が恐ろしくて仕方がない。
ああ、どうして自分が罪を犯していないなどと信じる事が出来るだろう。これまで侵してきた罪が裁かれるのだと、アデリードは心の底から慄き、恐れ、いっそ狂ってしまいたかった。
やがて法廷に居るいずれかの神を皮切りに、次々とアデリードへの判決に対する意見が述べられ始める。
「アデリードの心臓は羽よりも重い。天秤は罪に傾いた。この者は罪人である」
「アデリードの魂を河へと投げ込め。沈めばその魂は罪に塗れている。浮かび上がり戻ればその魂は罰する罪を持たぬ」
「アデリードの罪を記した粘土板は、功徳を記した粘土板よりも多い。罪と功徳の均衡は崩れた。罪人として相応しき判決を下すべし。罰なくして地上へと帰す謂われはない」
他にも無数の神々からの声が合唱のように上がり、その度にアデリードの魂は消滅を望む程の恐怖に震え続けた。やがて手に持った杓を眺めていた閻魔がアデリードの顔をまっすぐに見つめる。
死者の裁きを司る神々の長としての権限と責務を持つ神は、厳かに述べ始めた。
「アデリードよ、生者たる汝は本来冥界の裁きを受ける立場にない。しかしながらこの度の裁判において、汝にはこれまでの生において犯してきた罪に応じて判決を下す。
これより汝は天寿を全うするまで自ら死する事を禁じ、狂う事を禁じ、眠りに就く度に責めを受けよ。
汝が受ける責めは殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、父母・聖者殺害を犯した者が落ちる阿鼻地獄と同等のものとする。
ただし汝が阿鼻地獄に到着後、責め苦を受ける時間はひと眠りごとに汝の主観における一日である。汝が全うすべき寿命を終えた時、改めて死後の裁判を執り行う。
この度の判決は生きながらにして受ける裁き。汝の魂が肉体に戻った後、更なる罪を犯せばそれに応じて責め苦は重く、また功徳を重ねれば責め苦は軽くなる。
努々心せよ。この度の判決はこれまでの汝の行いによるもの。そしてこれからの行いにもよる事を」
アデリードは阿鼻地獄において何をされるのかを知らぬ。だが、そこで待ち受けているのが自分の想像も及ばぬ、文字通りの地獄の苦痛と恐怖であるのは疑いようもない。
声を発する事は変わらず許されていなかったが、それでもアデリードは声を大にして叫びたかった。
私は何も悪い事はしていない。祖父母や両親から教えられた通りに、ロマル帝国の貴族として相応しい振る舞いを心掛け、女だてらにと揶揄されながらも戦場に立って、父祖の土地を守り、家臣を守り、民を養う為に戦ってきたと。
価値なき不遜なる異民族と異種族を打倒し、屈服させ、ロマル帝国に相応しい栄光の輝きを求め、身を粉にして生きてきたのだと。
異民族と異種族に何をしようともそれが何の罪になるというのか。あれらは我らに征服され、屈服させられ、ただただ国家繁栄の礎となるべき者達ではないか!
それなのにどうして私が罪を問われなければならない。他の罪ならばあるかもしれない。
だが、だが、異民族を虐げた事がなんだ。異種族を嬲った事がなんだ。そんな事が罪であって堪るものか。そんなものはロマル民族の貴種たる私にとって、生まれた時から持っている当然の権利ではないか!
罪があったとしても、それは私が同じロマル民族や一等臣民に対して犯した罪のみであるべきだ。
神よ、冥府の神々よ、貴方達は間違っている! この判決は間違いだ、誤りだ、この裁判は無効だ!!
神々の判決すら間違っていると断言してのける高慢さは、いっそ清々しい程で、この場にグワンダンが居て、アデリードの内心の抗議を耳にしたとしても、あまりの発言に呆れかえって口にするべき言葉を見つけられなかったかもしれない。
実のところ、このような法廷の場において罪を問われる者達の思考は、全て神々に伝わっており、このように判決が決まった後も異議を唱え、拒否する者は少なくない。
だから、彼らにとってはアデリードの憤慨と抗議は、よく見慣れたものに過ぎなかった。
別段、怒りを抱く必要すらないささいな事なのである。
そして冥界は忙しい。特に裁判を司る者達の忙しさは言語を絶するものがある。既に判決の下った者にいちいち構っている暇もなければ必要もないのだ。
恐怖を忘れる為に眦を険しくして、声は出せずとも更に抗議しようとするアデリードの両肩を、背後から伸びてきた逞しい青色と赤色の肌を持った腕が掴み止めた。
掴まれた肩から伝わる、直接神経を掴まれているような激痛と、それ以上の恐怖にたちまち顔色を白く変えたアデリードが振り返れば、そこには先程まで罪と功徳を述べていた死者達の姿はなかった。
再び元通りになった暗黒の中から、地獄の獄卒である恐ろしい風貌の二体の鬼が、これからアデリードを阿鼻地獄へと連れて行くべく、腕を伸ばしていたのだ。
これまでアデリードが見てきた生き物の中でもとびきり凶悪で、これから待ち受ける未来の過酷さを物語る存在に、アデリードは音にならない悲鳴を上げた。
だが、彼女の救いを聞き届ける者はいない。
彼女に出来るのは、下された裁きを粛々と受ける事だけなのだから。
阿鼻地獄の内容については大変長くなるので割愛いたしました。
取りあえず時間間隔がおかしいのが分かりますよ。
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第二百五十七話
終の集落にはやはりと言うべきか、老人や女子供、怪我人に病人ばかりが集まり、健康な肉体を持っている者はごく少数という有様だった。
当初、グワンダン、リネット、ガンデウス、キルリンネら四人は大隊を相手に見せた常軌を逸した戦闘能力故に大いに恐れられもした。
それも大急ぎで駆けつけたアムリアの説得の甲斐あって、難民達と共に終の集落に身を寄せる事となっている。
アデリード達が置いていった兵糧に関しては、大公派からの報復を恐れた人々は利用する事に難色を示したが、大隊の連中が一切の躊躇なく難民達を皆殺しにしようとした事実を語られれば、諦めと共に利用する事を認めた。
自分達が何をしようとも、皆殺ししか考えない者達が帝国に居るのだと改めて思い知らされた彼らの心痛はどれ程のものであったろう。
経緯は兎も角として数日分とはいえ五百人の胃袋を賄う食糧と人数に見合った医療品の補充は、難民達を抱える事になった終の集落にとってまことに僥倖であった。
それ以外にもグワンダン達の馬車に積み込んでいた物資も惜しげもなく提供され、これらがあったのと健康な肉体を持った労働力として、グワンダン達が協力を申し込んだのは、少なからず終の集落に滞在するのを許された理由の一つだったろう。
グワンダンとリネット達が休みなく働き、ただ木の棒と板を組み合わせただけだった獣避けの柵は分厚い石壁へと変貌し、集落の中には清潔でしっかりとした作りの天幕や石積みの家屋が十分な余裕を持って建てられていた。
水路を作って近くの川から水を引き込み、更に井戸も何本も掘られ、一つ残らず手押しポンプが設置されて、浄化の付与魔法まで施されているという至れり尽くせりぶりだ。
頭では必要以上に干渉するべきではないと分かっていても、いざ困っている人々を前にすれば行動せずにはいられないグワンダンの性格の結果である。
だが帝国の兵士も反乱軍の戦士も抱えているこの集落の存在もまた、アムリアが知りたいと願ったロマル帝国の現実の一つ。
左足と左腕を失った元帝国兵士の若者と、半ばから茶褐色の翼を失った反乱軍の女性とが一つの長椅子に座り、薬草と毒草、食用の草花を選り分けている前では、刀の代わりに包丁を手に持った八千代と風香が凄まじい速さで振るっている。
永らく飢餓状態に置かれていた集落の人々の為に、消化しやすいようにと持ち込んだ食材をとにかく形がなくなるまで刻んで刻んで、刻みまくっているのだ。
「ぬおおおお、唸れぇい、某の右手! 刻め、神速の太刀!!」
「恨みはないが皆の栄養になって貰う為に、原型も残さんでござるよ!」
真剣以外のなにものでもない表情で若干間抜けな事を口にする愉快な二人を、幼い子供やかろうじて外に出る事が出来る傷病人達が楽しげに見ている。
毎日誰かが命を落とし、集落全体の死の気配が近づく日々を重ねてきたが、目の前の二人を含む奇妙な来客が来てからは、生命の躍動を確かに感じ取れる明るい雰囲気が集落に広がっている。
グワンダン達の合流は生活面でもそうだが、集落の人々の精神面でも大いに助けとなっていた。
そしてアムリアは場所を問わず精力的に働いて回っていたが、動く事も出来ない重傷者と重病人達が集められた天幕を重点的に見て回り、自分に出来る事に全身全霊で取り組んでいた。
膿んだ傷口を消毒作用のある薬湯で丁寧に拭い、傷口に薬を慎重に塗り込んでから清潔な包帯を巻く作業は、淀みなく行えるようになっている。
これまでは洗い回して使う他なかった包帯や布切れ、あり合わせの木々の根や草を煮出した薬湯が精いっぱいだったが、大隊の物資にグワンダンがどこからか調達してくる豊富な医療品のお陰で、十分な治療が行えるようになっている。
ただ苦痛を長引かせているだけではないかと、集落を支えていた医師達が抱いていた苦悩も、今ではそれなりに和らいだ事だろう。
それでも掌から零れ落ちる命がまったくなくなったわけではない。どんな治療を施しても間に合わない程、衰弱した命もある。
天幕の一つに入り、木の枝を組み合わせ、布を張った簡易ベッドの上でこと切れた少女を前に、アムリアは自分の手を握る少女の右手に更に手を重ねて、そっと瞼を閉じて死後の安寧を祈っていた。
ガリガリに痩せ細った少女が、何処にそんな力が残っていたのかと思う程強い力で握った手には痣が出来ている。
喉に絡む痰を植物の茎を使って吸い出してやり、もう言葉を話す事も出来なくなっていた少女に、自分の知る限りの童話を語り聞かせてやり、時折瞳に浮かぶ嬉しげな光にアムリアも喜んだものだった。
あまりに軽い少女の体を寝ていた寝台のシーツにくるみ、他の者の手を借りて共同墓地へと埋めて、簡単な葬儀を済ませる。
何人もの死者の為の簡素な墓が無数に並ぶ様は、ここが終の集落と呼ばれるのに相応しい場所なのだと、訪れる全て者に思わせる虚無感に満ちていた。
それでもアムリアに休む暇はなかった。少女の死に流した涙が濡らした頬を拭う間もなく次の怪我人や病人の為に新しい包帯や薬を用意し、体を清潔にする為の湯を沸かし、着替えを洗濯し、空気の入れ替えも行わなければならない。
怪我人が怪我人を、病人が病人を看護する光景が常態化しつつあったこの集落の中で、健康な体を持つアムリアの需要は極めて大きい。
彼女ばかりが働いていては数日で参ってしまいそうなものだが、護衛も兼ねてリネットとガンデウス達が常に張り付いて仕事を手伝っているのと、グワンダンが作り出した、アムリアの半分程の背丈のゴーレム達が単純労働を引き受けているお陰で大いに助かっている。
今も自分の隣で大釜の中の粥を煮ているリネットとガンデウスに、アムリアは疲労の滲む顔で感謝を口にした。
「トルネさん、ガンデウスさん、いつもありがとうございます。お二人にはとても助けられていて、何度お礼を言えばいいのか」
「なにを言われますか、アナさん。トルネ達はグワンダン様に従っているだけですし、それに困っている方々の助けとなれるのなら、それはそれでトルネの望むところであります」
「私はそこまで博愛精神に満ち溢れてはおりませんが、流石にこの状況を見てなにもしないで済ませるのは人倫に悖りましょう。
このガンデウス、優位な立場で悦に浸る者を蹴落とす事程楽しい事はないと思っていますが、弱い立場に追いやられた方々に鞭打つ真似は致しません。それに、この集落の方々は誰かがお助けするべきですし、その誰かが私達でも構わないと判断しております」
どうやら困った性癖ばかりではないらしいぞ、とリネットはガンデウスの発言に密かに喜んだ。良かった、良かった、リネットの妹にはきちんとおもいやりも備わっていましたよ、マスタードランと声を大にして誇りたい気分だった。
「それにしてもお嬢様、今日までよくぞ弱音の一つも零さず働かれましたね。失礼ながらここまでご尽力なされるとは思っておりませんでした。このガンデウス、愚かにもお嬢様の根性と根気を侮っておりました。この場にてお詫び申し上げます」
「まあ、根性と根気ですか。その二つがこんな私に備わっているのでしたら、喜ばしい事ですね。それでもこの集落の方々のような心の強さと忍耐には遠く及ばないでしょう。
ここでは誰もが力がないからこそ、誰もがお互いを助けています。力があってもなくても誰もが誰かを助ける事を当たり前に思えていたら、帝国はこんな事にはならなかったでしょう。そう考えると悲しくてたまりません」
そうなっていたら、アムリアもまた今とは違う運命を辿っていただろうが、それ以上にアムリアはこの集落の人々が悲惨な目に遭わずに済んだろうにと、気に病んで仕方がない様子だ。
この方も損な性分だとリネットは心の中で零した。だからこそ主であるドランが気に掛けるわけだが、これから先もこの方はご苦労されるだろうと心配で堪らなくなる。
「お嬢様、お姉様、グワンダン様がお帰りになったようでございますよ。キルリンネも一緒ですね。見事な獲物を仕留められたようです。流石でございます」
ガンデウスが巡らせた視線の先には、集落の入口の方から自分の何倍もある巨大な亀を担いだグワンダンとキルリンネ、それに彼らに同行したまだ動ける狩人や戦士達の姿があった。
グワンダンとキルリンネが担いでいるのは、ロマル帝国東部に主に生息している大型の亀型生物トルタリオン。
草食性の生物だが縄張りを侵すものへの敵対心が激しく、侵入者を見つけるや否や、亀の外見からは想像も出来ない速さで襲いかかり、そのまま踏み殺すか轢き殺そうとする凶暴な猛獣として恐れられている。
一方でその堅固な甲羅や骨格は冒険者達に素材として珍重され、超重量を支える強靭な肉は、下ごしらえに手間こそ掛るものの美味な食材として知られている。また血は少量ならば滋養強壮に良いのだという。
肉を食べられない状態の者でも、トルタリオンの骨から出汁を取ったスープなら飲めるだろうし、栄養もたっぷりと摂取できるだろう。
その他にも明るい顔の狩人達はかなりの数の獲物達を抱えており、成果が上々であるのは傍目にも明らかだった。
リネットとガンデウスにだけ分かるように、グワンダンが目配せをしなければ、二人も単純に喜ぶ事が出来たろう。
既に血抜きを済ませていた獲物の解体と内臓の処理を済ませ、アムリアがようやく休息を取り始めたのをきっかけに護衛を八千代と風香に委ねてから、リネットとガンデウスはグワンダン達に合流し、人気の無い場所で顔を突き合わせた。
「簡潔に言おう。こちらに向かってくる武装集団がある。顔ぶれからして反乱軍の部隊だろう。確か七つ牙とかいう勢力だったか。見たところ、この集落の人々の保護が目的と見える」
狩りの最中、グワンダンが地平線の先に見つけた集団の報告に、リネットとガンデウスはふむ、と思案顔になる。これが帝国の側だったら交戦も辞さないが、反乱軍はどちらかといえば終の集落の側に立つ勢力である。
どうやら反乱軍の中に終の集落に関して心を砕ける者が居たらしい。それ自体は喜ばしいのだが、保護されて寝食と治療が保証されるとまで確証が得られていないのが現状である。
「保護といえば聞こえはよいですが、実際にどう扱われるのかが気掛かりですね。それにこの辺りは帝国との最前線の一つです。
戦火が程近い地域に保護とあってはどんな危険が及ぶか分かりませんし、安易に保護を受け入れるのは却ってよくない結果に繋がりかねないでしょう」
リネットもといトルネの発言に、グワンダンは重々しく頷いて同意を示した。ガンデウスとキルリンネも同じ懸念を抱いていたのか、表情は極めて真剣だ。
「今のアムリアなら言葉だけで信じはすまい。実際に自分の目で確かめてから、反乱軍が信用に値するか確かめるだろう。それに反乱を起こした人々の実情もまた確かめるべき事の一つだ。都合が良いと言えなくもない」
「つまるところ、様子見ですね」
とガンデウスが結論を簡潔にまとめた。
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第二百五十八話
その日も、アムリアは寝台から起き上がる事も出来ない重傷者や病人達の看護に勤しんでいた。
アムリアは、せめて、今の時期が秋や冬でなくてよかったと、膿が滲んで黄色く濁った包帯を桶に捨てながら、しみじみと思う。
もし肌を切り裂くような寒風の吹き荒ぶ季節であったなら、部屋を暖める為の薪を用意する必要にも迫られただろうし、病状を悪化させる者も続出したに違いない。
新しい包帯を巻く前に、温めた薬湯に浸した布で体をぬぐっていた怪我人が、虫の羽音のように小さな声で話しかけた。小さな声とはいえ、話すだけの体力が戻ってきた証拠に、アムリアは自然と微笑んでいた。
「なあ、あんた」
「はい、なんでしょう」
アムリアが今看護しているのは、左目と額、それに首から胸に掛けて大きな切り傷や火傷を負った豹人の青年だった。
「あんた達のお陰で、いくらか、ここも……活気づいた」
「ええ、ハチさんやおフウさんは特に賑やかな方ですから。今日も子供達と元気に駆け回っていましたよ」
「ああ、そうか、子供達が、元気なのは、良いな」
アムリアは、ここまで喋ってから一端言葉を区切った青年の次の言葉を待ちながら、彼の体を拭う作業を始めた。
十分な栄養が摂取できるようになり、初めて見た時は骨ばかりかと見間違うほど痩せ細っていた青年の体に、少しずつ肉がつきだしている。
「でも、これからどうなるんだろうな。戦争が始まって、最初は今の暮らしがもっと良くなるんなら良いと思ったが、ああ、くそ、おれは馬鹿だった。
戦争なんだ。人が死ぬんだよな、家が燃えて、土地が荒らされて、こういう事になるって本当のところ、おれは分かっていなかった。
今までのひでえ扱いをどうにかしたいってのも、先祖が住んでいた土地を獲り返したいって考えるのも、間違いじゃない。だけど、だけどさ、あんだけ人が死ぬのを見たらさ、見たら……本当に戦争するのが正しいのかって、思っちまうよ」
「私も、私も知識と言葉でしか戦争を知りません。でもこの国のいろんなところで、たくさんの人が苦しんで、亡くなっているのは分かります。ここのような場所が、他にもきっと、いいえ、あるのでしょう」
「ここはまだマシさ。あんた達が来てくれたから。それでも戦争が終わらないんなら、いつまでこうしてりゃいいんだろう。いつまでこうしていられるんだろう。おれは、もう、しょうがねえ。でもチビ達にはもうこんな目に遭って欲しくねえよ」
「ええ、そうですね。まだ小さな子供達が戦争に巻き込まれるなんて、本当は一度だってない方がずっと良いのです。でも、一つだけ生意気を言わせてください」
長く喋り、少し苦しそうにする青年の体を抱き起こし、木製の吸い飲みを使って水を飲ませてあげながら、アムリアは『生意気』を口にした。
「自分は仕方がないなどと言わないでください。思うのも出来ればやめてください。辞めるのが無理そうなら、そうですね、そう考える回数を減らす事から頑張ってみませんか?
確かに貴方の傷はとても深いものです。体の傷も心の傷も。ですがまだ貴方は生きていらっしゃいます。まだ終わってなどいないのです」
「まだ、終わってない……」
「ええ。貴方が生きていてくださったから、私はこうして貴方にお会いする事が出来ました。こうして言葉を交わす事も出来ましたし、お手伝いも出来ています。
辛くて苦しくて、生きているのが嫌になっても、どうか自分が終わったとか仕方がないとか、お考えにならないで。
先程、貴方もおっしゃったではありませんか。この集落が活気づいてきたって。失礼かもしれませんけれど、そうなるなんて考えた事がありましたか?」
「……いや、ここの人達にはこんなおれを受け入れてもらった感謝はあるが、なにしろこのありさまだ。何時かは全員死んで獣の腹にでもおさまるか、帝国の連中に皆殺しにされるだけだと思っていたよ」
あまりに悲観的な、しかし最も確実性の高い未来の予想は、この青年だけでなくこの集落に居るほとんどの者が共有しているものだったろう。
それを察して、アムリアは悲しげに眉根を寄せたが、目の前に居るのはそれを見せるべき相手ではないとすぐさま微笑みを浮かべ直し、言葉を繋ぐ。
「今でもそう思われますか? どうなるかは分からなくても、今まで考えていた悪い未来はもう来ないとそう思えませんか? 私やグワンダン様達がこの集落でお世話になっているように、未来とは思いがけず悪い事も、それよりもずっと良い事もあるのですから」
「あんた、思っていたよりも口が達者だな」
「貴方を励ます為に、一生懸命考えているからです」
「それを口にしてちゃ、世話がねえや。でもよ、ありがとうよ。あんたらが来てくれてよかったと、おれだけじゃなく、他の皆も思っているさ。死んじまった奴らも、絶対にな」
それだけ口にして静かに寝入った青年に、アムリアはそれ以上言葉を掛けずに微笑みを浮かべ、包帯を巻き直す作業を続けていた。
そんなアムリアの様子を、本日の護衛役であるリネットとキルリンネが、別の病人達の薬を飲む手伝いをしながら、静かに見守っていた。彼女達が今のアムリアの言動に何を思ったのかは、その横顔からは分かりそうになかった。
アムリアは終の集落と呼ばれる力なき者達の終着点の一つに来て、初日からずっと続けているのと同じ時間を過ごしていたが、グワンダンとアムリアの護衛役を外れているガンデウス、八千代、風香はいつもと違う時間を過ごしていた。
グワンダン達が接近を察知した反乱軍の使者達が、終の集落へとたどり着き、その対応に同席していたからである。
グワンダン達の予想通り、終の集落を訪れたのはエルケン族を中核とした七つ牙の者達だった。必要以上に集落の者達を不安がらせないように、と本隊から十名程の使者達が先んじて集落を訪れ、まとめ役を担っている老人達との会合に臨んでいた。
集落の中央にある広場で、下馬した使者達はまとめ役の老人と集まって来た集落の人々の姿を認めると、一様に大小の差こそあれ痛ましげな面持ちになる。
彼らが思う以上にこの集落の状況が惨かったと、その表情が言葉よりも雄弁に物語っている。いざという時に介入できるよう、グワンダンとガンデウスは老人達の背後に、八千代と風香は使者達の背後に回っている。
「突然の来訪を詫びる。おれ達は七つ牙の者だ。おれはフェッゼ。本隊は近くで待機しているが、まず、先遣隊としておれ達が来た。皆、不安がっているが安心して欲しい。おれ達は貴方達の敵ではない。
以前、おれ達の長がこの集落の話を聞きつけて、何とか保護出来ないかと物資や人手をやりくりしていて、それがようやく落ち着いたんで、こうして貴方達に話をつけにきたんだ」
使者達の筆頭らしいエルケン族の青年から告げられた言葉に、老人達をはじめ、集落の者達がざわめきを起こすのは当然だったろう。見捨てられ、置いてゆかれ、救われずにさまよっていた彼らの辿りついたこの地に救いの手を伸ばそうというのだから。
しばしざわめきが広場を満たしてから、老人達の内、医師の老婆が皺に塗れた顔に悲哀の色をまぶして使者に問いかけた。
どうしてもっと早く来てくれなかったのかという怒りと、本当に救いになるのかという疑いと、そうだと信じたい期待……あまりにも多くの感情が混ざり合っている。
「それはとてもありがたいお申し出じゃ。ここに居たままでは遠からず命を落とす者も少なくはない。だが、お若いの、ここから動ける者はそれで良い。お主らの伸ばしてくれた手に縋ればよい。
しかしの、ここには動けぬ者が多い。動かさぬ方が良い者が多い。多すぎると言った方が正しい。貴方達はその者らについてはどうなさる? ここに護衛の者達を残してくださるのか? 帝国との戦争には何の役にも立たん者達じゃ」
フェッゼと名乗った青年を始め、使者達全員の顔が曇った。少なくともこの集落の全員を今すぐ助けるのは難しいのだと、その顔だけで察せられる。
横の連携に問題が多々あるとはいえ、ライノスアート大公派との最前線に程近い場所で、なおかつあちらは七つ牙との決戦を考えているともっぱらの噂だ。
足手まといにしかならない集落の者を受け入れるだけでも、相当な負担だろうに、動けない者達にまで人手を割く事は出来まい。
弱者を見捨てられずに助けたとて、帝国との戦いに敗れて民族復興の道が断たれてしまっては、元も子もない。七つ牙からすれば天秤に掛けるまでもないのだ。理屈で考えればそうなのだと、この場の誰もが理解していた。
「近く、帝国の連中と大きな戦になる。それに勝てばこちらも少しは戦場以外に人手を回す余裕が生まれる。それまでは辛抱して貰う他ない」
「お若いの、いささか意地の悪い質問をしてしまった。後ろの方々も貴方達が悪いわけではない。なに、帝国の者達に見つかれば容赦なく皆殺しにされるだけ。それが貴方達に保護されれば、幾人かは助かる。それだけで十分ですとも」
「すまない。我々にもっと力があれば、全員を助ける事も出来たろうに」
噛み締めた歯を砕かんばかりに、苦渋の色を深めるフェッゼや他の使者達の内心の葛藤それ自体が、自分達の為に心を痛めてくれる誰かが居る証明だと、集落の人々は確かに救いを見出していた。
ああ、彼らは自分達の生命に対する救いはもう諦めてしまっているのだと、ただ、心がほんの少しでも救われれば、それで良いのだと、グワンダンは悲しげに眉根を寄せた。
「ふふ、わしらは全員が置いてゆかれるか、捨てられた者達。助けようとしてくれた誰かが居る、それだけでも救いになる。
さて、貴方達の手に縋るとして、動かせる者の数と持ってゆく荷物の確認をはじめるとするか。何時までにここを離れる用意を整えればよいのかな?」
「……帝国の連中が大隊規模の戦力を複数動かして、おれ達を狩る真似事をしている。あまり長く留まっては、ここの詳しい場所が知られてしまう危険性が高い。急がせてしまうが、出来れば今日一日で用意をし、明日中にはここを発ちたい」
「なに、わしらが持ってゆくべきものなどほとんどない。身一つで野を彷徨っていた者達も少なくはないからな。貴方達も帝国の連中に襲われぬように、気をつけなされ」
「すまない」
謝罪の言葉以外、口にする事の出来ないフェッゼに老人達は疲れた笑みを向けるきりだった。それは謝る事はないという許容と、謝られたところでなにも変わりはしないという厳しさが含まれていた。
使者達との話し合いが一応の決着を見た後、すぐさま集落中に動ける者は七つ牙に保護され、彼らの本拠地エルケネイへの移送が決まったと伝えられる。
動けない者達とその家族や縁のある者達、介護の為に残る者達以外がまだまだ疲労の残る体に鞭を打って荷造りを始める。
にわかに集落が騒がしくなり始める中で、グワンダン達はアムリアの意向の確認を真っ先に行っていた。このまま終の集落に残り人々のために尽くすか、それともこれを契機に南部の反乱勢力の内情を探るのか。
アムリアの性格を考える後このまま集落に残る選択肢を選びそうなものだが……
新年明けましておめでとうございます。2017年最後の投稿とすべくキーボードをポチポチ打っておりましたが、
力及ばず新年最初の投稿となりました。
本年後もご愛顧ご贔屓の程、よろしくお願い申し上げます。
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第二百五十九話
七つ牙の護衛達に守られて到着したエルケネイは、かつてドラン達が足を運び、そして去った時と比べて、更に城塞化が進んでいた。
急造感は否めないものの新たな防壁が増設されているし、到着するまでの間に見かけた兵士達の数も少なくはない。
最前線の一角としてピリピリと張り詰めた雰囲気が立ち込める中、護送された人々はかつてエルケン族や亜人種達の生活区域とされた南の市街地へと案内された。
このエルケネイにまで侵攻された際に、北部の旧二等臣民・一等臣民の生活区域を中心として迎え討ち、その間に更に南部の別の都市へ脱出するように計画されているからだ。
他の都市や戦場から逃れてきた難民達もこの区域に集められており、事前に用意されていた空き地の天幕や簡素な小屋へと荷物を運びこんでから、ようやく人々は休息を得た。
ようやく腰を落ちつけられる場所について、人々が安堵の息を零す中でアムリアは真っ先に動き出し、数日間の行程で体調を崩した者や病状に変化のあった者を見て周り、すぐに必要なものの確認と用意に奔走している。
八千代と風香がアムリアについて回る一方、ドランもまた数ヵ月ぶりに訪れたエルケネイが戦時の備えにすっかり様変わりしている状況に感慨を覚えながら、手を動かす事を忘れていなかった。
リネット、ガンデウス、キルリンネは護送されてきた人々の間を駆け回り、グワンダンは反乱が起きて以来、頻繁に行われる土木工事であちこちに山と盛られた土山に足を向けて、次々と介護用と労働力用のゴーレムを生産する作業に従事している。
人々を護送してきたフェッゼは、まとめ役として同行していた老医師と話し込んでいる。
エルケネイ側で用意していた食料品や日用品の受け取り、それに非常時の行動についての話し合いだろう。
グワンダンは目の前と次々と子供ほどの大きさのゴーレムが形を成してゆくのを眺めながら、他の難民達の様子と様変わりをしたエルケネイをまじまじと観察する。
ロマル帝国から派遣された総督による圧力こそあれ、表面上は平穏を保っていたエルケネイの面影はなくなった。
その代わり目に見えぬ圧力が消え、人々には例え苦難であれ自らの意思で道を選んだという覚悟が見て取れる。
ただし、覚悟があるのはエルケン族を始め、エルケネイで反旗を翻した者達だけで、ここに逃れてきた難民達は別だ。こればかりは仕方あるまい。
いずれもロマル帝国の方の下に差別と圧力と苦難を強いられてきたのは確かだし、帝国へ不満を抱いていたのも確かだろう。
だからといって戦火に追われて住む家や職を失えば、その切っ掛けを作った七つ牙に思うところの無い者は、そうそう居はしないという事だ。
「ふむ、帝国側の間諜がいくらかは入り込んでいるだろうが、内部崩壊しようとしまいとそれもまた七つ牙とエルケン族の族長殿の器量次第だ」
グワンダンは他人事のように呟いて、出来あがった三十体目の小型ゴーレムの饅頭のように丸っこい頭をポンポンと撫でる。
生憎と七つ牙を含む反乱勢力に勝たせる事が、グワンダンの目的ではない以上、彼は過剰な手出し無用と自分を律してはいた。それでも終の集落にクインフィンを護衛として配備するなど、若干のやり過ぎは否めないのも彼の味だろう。
――余計な手出しはしないと自分に言い聞かせてはいるが、いざこの都市と無力な人々が焼かれるとなれば、果たして私はそしらぬ顔で見過ごす事が出来るかどうか。
と、自分でも自分を疑う程なのだから、彼の世話焼きというか横やり好きも筋金入りである。
ゴーレム制作の次は作業の指示出しだ、と手早く指示を下していると、手の空いたリネットが作業の報告の為に近寄って来た。
「グワンダン様、荷物の整理に一先ず目処が着きました。それと皆さんの寝床の用意も概ね順調です。トルネ達が手を出さずとも皆さん自身と協力を申し出てくれた七つ牙の方達だけで、事は済むものと存じます」
「ああ、それは良かった。それにしてもまたこの地に足を踏み入れるとは、幻術を掛けておいてよかったな。八千代と風香はそのままだが、ここの冒険者ギルドの知り合いから情報を得てもらうには、その方が都合は良いか」
「はい。お二人の人柄なら間諜だと疑われる事もないでしょう。お二人は人を騙せる性格ではないと誰もが太鼓判を押すに違いありません」
「まったくだ。普段の態度が演技だったなら、二人は天才を越えた大天才役者だよ」
「グワンダン様を騙せるのでしたら、演劇を司る神や謀略を司る神さえも騙せる事でしょう」
何時も通りの過剰な評価に、グワンダンが困った笑みを小さく零してから、少し騒がしくなっている方を見た。
見ればフェッゼと老医師の下に、民族衣装らしい茶色い生地に赤や青など艶やかな色彩の刺繍が施されたマントを着た女性と、逞しい豹人の男性が訪ねて来たようだ。
見覚えのあるその顔にグワンダンとリネットは揃って反応した。かつてスペリオンと共にエルケネイを訪れた際、人身売買を行っていた者達にわざと捕まっていた女性である。
当時は名前も知らなかったが、今となっては七つ牙の中核を成す重要人物として名前も顔も素性も知っている。
「懐かしい顔と言っていいのかな。エルケン族の女族長エルケン・アズ・ネッサとその右腕パンスのお出ましとは、豪勢な出迎えだ」
「彼女ですか。ディアドラやセリナ達とこっそり総督府の襲撃等を手伝った時以来になりますね。あちらはトルネ達の暗躍は知らない事でしょう」
「何かしらした者達が居た位は察しているかもしれないよ。あまり彼女とは接する事もなかったが、売られそうになっていた時に子供達の面倒を見ていた様子を見るに彼女なら終の集落に助けの手を伸ばそうとするのも納得がゆく」
「個人で見れば善人だが組織が関わると、という例は歴史にいくらでもありますが、彼女はどちらでしょう。元帝国兵も居る終の集落の方々を受け入れた以上、気持ちの良い方であると思いたいものです」
「ふむ、であれば何よりだが、肩入れしたくなってしまうのが問題だなあ」
グワンダンの性格を考えると確かに問題だな、とリネットは口にせずに同意する。別の場所で難民達の手伝いをしているガンデウスとキルリンネも、リネットと同じように肯定しただろう。
「アークレスト王国としては、皇女派も大公派も反乱勢力もまとめて共倒れするのが一番ですので」
それが困りものだな、とリネットに返事をしてから、グワンダンはこちらを見ているネッサとパンスの視線に気付いた。どうやらエルケネイでの面倒事は向こうからやってくるらしい。
クインフィン = ク○ン・マンサ + ジャム○・フィン
例によってモビルなスーツから取った名前でした。
クインフィンが終の集落の警護に着かなかった場合は、
・グワンヂン
・グワンヅン
・グワンデン
・グワンドン
の四名のドラゴニアンが登場する予定でした。これと戦わずに済んだベルギンテンは幸運です。
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第二百六十話
結論から言えば、エルケン族族長であり七つ牙の筆頭でもあるネッサと、その護衛パンス達の来訪の目的は、おおむねグワンダンの予想した通りのものだった。
無事にエルケネイに到着した終の集落の難民達に掛けた言葉や案ずる態度に偽りがないのと、事前の手配に手抜かりがなかったなら、グワンダンはあまり話を聞く気にもなれなかったろう。
七つ牙の状況は決して余裕のあるものではない筈だが、ネッサ達は焦って事を急ぐ様子はなく、終の集落の人々以外にも既に迎え入れていた難民達の間を歩いて回り、彼らの言葉や不安に一つ一つ耳を傾けていった。
黒蓮騎士団第四大隊五百名余を脱落は、近くロマル帝国との大規模戦闘を予想している彼らにとって大きな意味を持つに違いない。
一通り難民達の区画を見回ったネッサ達がグワンダンの元を訪ねてきた時には、既に夕暮れ時が間近となり、そこかしこで煮炊きの煙が立ち昇り始めている。
エルケン族を含む七氏族を率いる立場のネッサにとって、時間は宝石よりも遥かに貴重なものだが、それでもグワンダン達と接する為に消費するならば許容範囲なのだろう。
ネッサとパンスがグワンダンに声を掛けたのは、彼が難民達へゴーレムの説明と使用用途、作成が一通り落ち着き、夕食の材料の下ごしらえでも手伝うか、と考えていた時だった。
赤子の泣き声にそれをあやす母親や家族の優しい声、痛みや熱に魘される者の声、腹が減ったと呑気に言う声、薪を割る音、食材を切る音、火の粉の爆ぜる小さな音、やっと安心できる場所に着けた喜びを噛み締める人々の賑わい。
そんな音の中でグワンダンとネッサ達は向き合ったのだった。
「今、話をしてもいいかい?」
陽気な笑顔を浮かべるネッサに、グワンダンは手に取った薪の束を戻して応じた。
その笑顔は、族長として、また反乱軍の重要な一角を担う者として、数万、数十万の人々の命運を担う重圧に日々されているだろうに、疲労を感じさせないものだった。強い女性だと、グワンダンは素直に感心した。
「ああ。あまり長くない話なら。私よりも貴女の方が時間は貴重だろう」
「気遣われるとは思わなかったね。分かった。あんまりあたしがここに長居していては、ここの人達も気の休む暇がないだろうし。
白い竜鱗の旦那。あんたが少し離れた平原でロマル帝国を相手に大暴れした話は、あたしらの耳にも届いているよ。そこで駄目元で助力を頼みに来たんだけれど、きちんとした話はまた時間を作ってからにしようか」
「まあ、その話しかないわな。貴女のご配慮に感謝を。今の私は雇われ故、私の雇い主と同僚を連れて話に伺わせていただいてもよろしいか? 都合、七人になる」
「ああ、こちらが招いて来て貰う側なんだ。全然構わないよ。あんたが雇われとは知らなかったけどね。明日の午後ならいつ来てもらっても都合をつけよう。それでどうだい?」
「承知した。ただ、申し訳ないがあまり期待には応えられないと思うぞ」
「元々あんたは想定していなかった要素さ。幸運を頼みにしていちゃ、人生、やっていけないからね。断られたら断られたで仕方ないと割り切るよ。あんたもそう重く考えなくていいよ。それじゃあ、邪魔したね」
終始、護衛のパンスは無言を通したが、一瞬もグワンダンから視線を外しはしなかった。
ロマル帝国に反逆の狼煙を挙げる日の為に鍛え抜いた戦士は、一目見た瞬間から眼前のドラゴニアンが自分を含め、七つ牙の全戦士で挑んでも勝てない怪物だと本能で理解していた。
あくまで理知的に話すドラゴニアンが一度牙を剥けば、エルケネイどころか反乱勢力全てが瓦解するのでは、と大仰にではなく本気で危惧していたかもしれない。
グワンダンは二人の背中が視界から消えるのを待って、ふむ、といつもの口癖を呟いた。
ロマル帝国が二つに割れているように、ロマル帝国に弓を引いた反乱勢力も決して一枚岩ではなく、その内情はいくつかの派閥に割れてしまっている。
エルケン族を含む七つ牙は結束が固く、他の反乱勢力との連携も上手くいっているのだが、特に南部に行く程軋轢が深く、ロマル帝国との戦場から距離があるのをいい事に反乱勢力同士でいざこざが生じている始末。
いずれはそのいざこざをしている勢力の現状も確認しなければなるまいが……
「最初に接触する反乱側の勢力としては、最適な相手か」
それだけ呟いて、グワンダンは下ごしらえの手伝いに戻る。
数時間程すると、難民の間をあちこち飛び回っていたアムリアが戻り、知り合いの冒険者達に話を聞きに行っていた八千代達もにこにこと笑顔で戻って来た。
八千代達からは知り合いの冒険者達が無事だった話を始め、以前エルケネイを離れてから今日にいたるまでの状況について、最新の情報を得る事が出来た。
ロマル帝国入りしてからずっと乗り続けている馬車を宿代わりにし、野菜のごった煮と雑穀粥、それに燻製にして焼いた川魚というエルケネイで支給された食糧で夕飯を済ませ、後はもう寝るだけとなった頃にグワンダンは話を切り出した。
七人の中心に置いたランプの明かりと人間達の争いなど遠い世界の話だと変わらずに輝いている星の光の中で、食器の片付けを終えたメイド三姉妹、膨れたお腹を満足げに撫でるわんわんとこんこん、そして憂いの影をわずかに浮かべるアムリアがグワンダンの声に耳を傾ける。
「皆に話がある。エルケン族の族長エルケン・アズ・ネッサがここに挨拶に来た際に、私に話があると持ちかけてきた」
「なんと、某達が昔馴染みに話を聞きに行っている間にそのような。話を聞く分にはかなり出来た御仁であるとか」
「というか拙者とハチが人買い共に捕まった時、別の牢屋に居た女性がそのネッサ殿だったそうでござるね。どうも自分が囮になったとかで、向こう見ずというか大胆不敵というか……」
「そのような御仁がグワンダン殿にどのような話を……というか、求められる事など一つっきりでござるかねえ」
思考形態に空白というか緩いところのある八千代だが、流石にグワンダンに持ちかけられるだろう話が分からぬ程鈍くはない。
「話を持ちかけられた時には落ち着いて話ができる状況ではなかったら、明日の午後以降、君達を交えて話をさせてもらいたいと先方には伝えてある。
君達にとっては事後承諾となってしまい、誠に申し訳ない。だが反乱を起こした側のそれも指導者層の人間と話をする好機だと思う。持ちかけられる話は、十中八九、私達が彼女の勢力に参加するという旨のものだろう。
話した時間は短いが、話を断ったとして、または話を聞きに行かなかったとしても、私達に不利になるような真似をする御仁ではない。アナ、判断は君に委ねる」
グワンダンの人物評価に関して、アムリアに疑うところはない。アークレスト王国の平民層の出身だと言いながら、世間を知らぬアムリアをして他に何かあると感じる相手の言う事だし、何よりもアムリアがグワンダンひいてはドランを心底信頼している。
「分かりました。私としても七つ牙の指導者という方なら、是非ともお話を伺いたい方です。ネッサという方の考え、理想、そして現実、それらを知りたく思います」
「その意気だ。なに、あちらに害意はない。何も臆するところはないよ。だから、ガンデウスとキルリンネはそう気色ばまないように。むしろ暴れられると期待しているのではないだろうね?」
グワンダンの指摘に、これまで無言を維持していた二人が、さて、どんな表情を浮かべたかは、二人の名誉の為に伏せておこう。ただし、リネットが頭痛を覚えたように頭を抱えた事を追記する。
翌朝、午前中に午後の分の仕事も終わらせる意気込みで動き続け、昼食を簡単に済ませてからグワンダン一行は元総督府へと足を向けた。
ほんの数ヵ月前まではロマル帝国のエルケネイ支配の象徴でもあった建物は、今や七つ牙の本拠地としてその在り様を変えて、修復された正門を守る兵士達もエルケン族の男女や獣人、虫人等の異種族に変わっている
エルケネイ内部で最後の砦となる元総督府の周囲は、近くロマル帝国との決戦があるという意識がある為に、エルケネイの中でもひと際緊迫した空気に満たされている。
難民達を匿った区画や非戦闘員の居住区画が元総督府と離れているのも、そういった戦場の緊張感で過剰な不安を煽らない為の配慮だろう。
ロマル帝国の旗や紋章が全て七つ牙のそれに変更された元総督府を見上げ、グワンダンはドラミナやセリナ、ディアドラと共にこっそり誰の目にも留まらないように、総督府攻略を支援した事を懐かしく感じた。
門番達に昨日ネッサとの約束の件を伝えると、あっさりと中へと通された。武器を置いてきたのも、相手方の警戒を一段下げるのに功を奏しただろう。
元総督府の中は戦闘を前に人々が物資や人員の確認、手配の為に足早に動き回り、否が応にも戦闘が近い事を肌で感じさせてくる。
これまで散発的にロマル帝国側の補給線を叩いて回っていた遊撃部隊は全て帰還し、改めて陣容を整え直し終えた七つ牙の側は、ロマル帝国の拠点カープラウ城の動きに細心の注意を払っているようだ。
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第二百六十一話
ロマル帝国が建国される前も、された後も、そして帝国の屋台骨を揺るがす内戦が勃発しても、太陽に変わりはない。空にある時は種族の別なく照らし出し、地の彼方に沈めば月にその座を譲って闇の中に消える。それの繰り返しだ。
エルケネイを出立する総数五万に達する七つ牙の軍勢を、都市に残る多くの人々が見送っていたその日も、太陽は常と変わらなかった。
七つの氏族の連合である七つ牙の軍勢は、一通り武具の統一の努力はされているようだが、その多くは民族固有の装飾や衣装を纏っている。
先頭には七つ牙の統率者たるエルケン・アズ・ネッサの騎乗した姿があり、傍らには豹人パンス、そして他の氏族からの代表者達が固まっている。
エルケネイを囲む城壁や外の街道沿いには彼らを見送る無数の人々の姿があり、これから死地に赴く彼らの無事を祈る家族の目には涙が浮かび、堪え切れずに咽び泣く者もいる。
またある者は氏族の旗を振って健闘を祈る声を張り上げ、またある者達は楽器を奏で、歌を歌い、祖先へ戦う者達への加護を願っている。
グワンダン、リネット、ガンデウス、キルリンネはこの五万の軍勢の中には居なかったが、戦いに赴く者をアムリア達もまた見送っていた。
既にグワンダン達はエルケネイから姿を消している。アムリア達には七つ牙の参加者に深い親交のある人物はいないが、それでもこれから命を落とすかもしれない人々を見送りもせずに済ませる事は出来なかった。
城壁の外に無数に集まった人々の中で、アムリアの左右に護衛を兼ねて残った八千代と風香が気遣わしげにアムリアの横顔を見る。
外を知らず閉鎖された世界で培養された彼女の心は、檻から解放された今となってもなお優しすぎる。七つ牙の兵士達が死んだとしても、ロマル帝国の兵士達が死んだとしても、アムリアが哀しむのは分かりきっている。
「アナ殿、もう何度も言っているでござるが、今回の戦で生じる死者も怪我人も、どちらもアナ殿が負うべき責任や罪悪感など、砂一粒ほどもないのでござるよ?」
「ハチさん、分かっています。頭では分かっているのです。でも、ああでも、どうしてこんなにも悲しいのでしょう。どうして命を奪いあう必要があるのでしょう。どうして話し合いでは解決できないのでしょう」
それなりに世間を知り、血の流し合いを知っている八千代からすれば、あまりにも青臭く、世間を知らぬお嬢様らしいアムリアの発言だが、それでもそれを笑う気持ちにはなれなかった。
本当に心の底から吐露された問いを、どうして知ったような顔をして笑えるだろう。否定できるだろう。
「どうして私には争いを止める術がないのでしょう。力が足りないのでしょうか、それとも知恵が足りないのでしょうか。それとも大公と皇女の求める皇帝という権力さえあれば、止められたのですか?」
この戦いはアムリアの存在が引き起こしたものではない。だが、皇帝の座の空位が引き起こしたものではある。
帝国の風習により忌み子とされたアムリアではあるが、皇帝の血脈であるのは紛れもない事実。
正統な皇位継承権を認められていなかった自分でも、内乱が勃発する時期に名乗りを挙げれば現状を変えられたのではないか? 小さくても波紋を起こす一石と成り得たのではないかと、思い悩んでいるのが風香にも手に取るように分かった。
「そのように問い続けるのを止めは致しませぬ。明確な答えがあるかもしれない。ないかもしれない。それでも問い続ける事に意味があると、拙者は思うでござるからね。
それと一つだけ、あの御仁達は自らの意思で戦いに赴くのでござる。帝国に反旗を翻したのも、自ら選んだ事。そこに『やらされ』も『選ばされた』もない。
戦で誰かが命を落とす事やそれを知った家族が哀しむ事を嘆いても、彼らの選択肢を愚かとどうか思われぬよう。それだけを拙者は切に願いましょう」
「命を賭してでも譲れない一線。自分の命よりも優先される何か。大切なものを守れるためなら、自分の命の危機があっても戦える。私にはそれが人間の強さにも弱さにも思えます。ああ、だからこそ私達は戦争が出来てしまうのでしょうね」
「左様。刃を手にしなければ守れぬ何か、そうでなければ得られぬ何かがある限り、人間は命懸けの戦いに挑める。それを尊ぶも愚かと蔑むも、自由。
ただ、失われた命はまず戻らぬもの。取り返しのつかぬ事を愚行というのであれば、戦争などはその愚行を万単位で重ねる行いでござる。武力を振るう前に落とし所を見出せるよう、最大限尽力すべきとは拙者も思うでござる」
「フウの意見には某も同意でござる。冒険者をやっていた頃にはかような大戦が勃発するなど思いも寄らず、またその渦中に飲まれるとはまるで夢の中のような出来事。
それにしても、グワンダン殿達は大丈夫でござろうか。怪我一つしそうにないとはいえ、姿が見えぬとなれば案じられるものよ。まさにあの方々こそが我らをこの夢の中に引きずり込んだ当人。その責任は最後まで取っていただきたいものでござるけれど」
*
エルケネイから七つ牙の軍勢が出立するよりも早くに、ロマル帝国の軍勢九万余はカープラウ城を後にしていた。
今日にいたるまでの七つ牙側の工作と貴族間の思想の違いに先祖から続く因縁と、お世辞にも一枚岩とはいえない惨憺たる内情の彼らであるが、指揮を執るルルリウスやメッツカルらも出来る限りの事はしていた。
貴族毎に歩兵に特に力を入れている者、騎兵に力を入れている者、大砲や銃の数を揃えるのに躍起になっている者、魔法使いの運用に重点を置いている者と率いている軍勢の個性や特色はてんでバラバラだ。
所属の枠を越えて同じ兵種で統一する案も当初はあったが、諸侯達が折角手塩にかけて育てた兵士達の指揮を他者に委ねるのを大いに渋る様子を見せた為、結局立ち消えになっている。
いざ決戦の当日となっても指揮の一本化はできず、軋轢のある貴族の軍勢は極力放し、一分一秒の判断を求められる状況で決断を遅々と迷うような事とよもや見殺しにする状況になるのを避けたのが、ルルリウス達の涙ぐましい努力の成果だった。
戦の最中にはまさかそんな愚かな判断をするのか、と目と耳を疑うような出来事が生じるもの。内戦が終わった後の事を今から考えて、対立する貴族の勢力が削がれるように行動する者が出てもおかしくはない。
ルルリウスやメッツカルにとって厄介なのは、七つ牙の側がそれを意図して今日までこちらにあれやこれやと仕掛けてきた事だ。おそらく戦闘の最中にもこちら側の心理を揺さぶる手段を講じてくる恐れがある。
ただでさえアークレスト王国最高戦力であるメルルの存在と、娘に危害を加えられて正常な判断がほとんど出来なくなっている味方を抱えているのに、敵が無能でないのは本当に頭の痛くなる事態であった。
その厄介な味方であるベルギンテンは長女の婿セクタスと次女アンタクス、領地から連れてきた一万と共に後方へと配されている。
日を置けば少しは頭に上った血が冷えるだろうとルルリウス達は期待したが、カープラウ城に戻る度にアデリードの惨状を思い出すのか、一向に冷静になってくれる前兆が見られない。
ルルリウスは馬の背に揺られながら、ただ正面から戦うだけならば数の差で大きく上回る自分達が勝つと客観的に判断している。
数百年単位の復讐、反逆を狙っていた七つ牙の戦士達の質は、ロマル帝国の個々の兵士のそれよりは高いかもしれないが、万単位の兵力差を覆せるものではない。
複数の指揮官の連携が取れていないという大欠点を抱え込んではいるが、装備の質では帝国側が勝る。特に量産には多額の資金を必要とする火器の充実ぶりでは、七つ牙側に対して大きく優位に立っている。
「戦場となるだろうストベルロ平原の地形ならば、こちらの砲兵達を存分に活かせる。乱戦になれば相手の思うままか。後は諸侯らが……」
「伝令、伝令ー!」
周囲を屈強な護衛達に囲まれるルルリウスの元に、息せき切った伝令の兵士が駆け寄って来たのは、ルルリウスが戦闘の動きを予想して口を動かしていた時だった。
「何事かっ!?」
「ルルリウス侯爵様に取り急ぎ、ご報告を!」
伝令は、全力で走って息を荒げている馬を何とか宥めながら、口を開いた。
「七つ牙の軍勢、およそ騎兵六千を確認いたしました。南南東、ベニキスの森近辺を進行中!」
「ベニキスの森……。森を迂回してこちらの横腹を突くつもりか? それとも火力差を埋めるべくこちらの砲兵を狙う可能性もあるか」
七つ牙の意図を読まんとするルルリウスに、傍に控えていたメッツカルが馬を寄せて進言した。彼自身の率いてきた兵達は、ルルリウスの軍と合流して周囲に展開中だ。
「いずれにせよ無視できる数ではありません。事前に見つけられたのは僥倖と言うべきです。戦力を割く事になりますが、急ぎこちらも戦力を抽出して迎撃に向かわせるべきかと」
「騎兵で六千か。こちらも足の速い兵を用意しなければならないな。誰に任せるのが適任か……」
思案を始めるルルリウスとメッツカルに対して、伝令の兵士がひどく気まずそうに更なる情報を伝えた。
「お、恐れながら、七つ牙の軍勢の中に白いドラゴニアンの姿があり……」
「……アデリード嬢が遭遇したという例のアレか。まさか」
「七つ牙の軍勢を発見した際、ベルギンテン伯爵の手勢の者もまたその場におり、既にあちらにも報告が届いている頃合いかと」
よりにもよって例のドラゴニアンが姿を見せたのが、ベルギンテン伯爵の斥候の一人とは! しかも厄介な事にベルギンテン伯爵の軍勢は騎兵が多く、機動力と速度に優れている。
七つ牙の別働隊を追わせるのに、能力だけを見れば適切な相手だった。アデリードの事がなかったら、ベルギンテンに任せるのに躊躇はしなかったろう。
しかし、今のベルギンテンに果たして追撃の任務を任せても大丈夫だろうか。まず間違いなく深追いするだろう。
七つ牙六千に対してこちらのベルギンテン軍一万を割くのは、数の差を考えれば惜しくはない。七つ牙側にとって六千の兵を割くのは、こちらが一万の兵を割く以上の損失だ。
別働隊の存在は七つ牙側にとって、間違いなく切り札となるもの。ならばベルギンテンに任せてしまっても……
判断に悩むルルリウスの背を押すように、ベルギンテンからの使者が訪れたのは、この直後の事であった。
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第二百六十二話
斥候が見つけられず、また視認も出来ない敵からの砲撃に混乱するベルギンテンの軍勢の只中で、複数の指揮官達が必死に声を張り上げて統制を取り戻そうと奮闘している。
その中でも一番に混乱を鎮めて、自分達の上空に防御用の結界を展開したのは、ベルギンテンの次女アンタクスの率いる黒蓮騎士団第二大隊に所属する魔法使い達だった。
アデリードが自ら軍勢を率いる騎士を志す切っ掛けになった姉は、烈火のような赤い髪を爆風になびかせながら、着弾の大音量に負けぬ大声をして適切な命令を発する。
「対空魔法防御、急げ! 砲撃が終われば騎兵が来るぞ。死にたくなければ動け。足を止めるな。訓練の通りにやれ!」
アンタクスは暴れる馬を巧みな手綱捌きで抑え込み、自分の部下達が迅速に防御結界を構築し、それに連鎖して他の部隊も同じように頭上の守りを固めるのを見て、砲撃への備えが整ったのを認めた。
先程から絶え間なく砲撃が続いてはいるが、部隊単位での砲撃でない事は明白だ。それならば黒蓮騎士団を始めとしたベルギンテン伯爵軍の魔法使い達が防御に徹すれば、防備としては十分だ。
「その筈なのだがなっ」
頭で大丈夫だと分かっていても、着弾の度に対空防御結界を大きく揺るがし、軋ませる砲撃には一発ごとにこちらの神経をカミソリの刃で薄く削がれるような恐怖を刻まれる。
謎の砲撃はまず間違いなく七つ牙の別働隊からのものだろう。機動力に特化した編成である彼らが攻撃を仕掛けてくるならば、この砲撃が終わってからだ。その前にこちらの迎え撃つ態勢を整えなければならない。
アンタクスは総指揮官たる父と義理の兄、そして自身の配下達との連絡を密にすべく伝令を忙しなく飛ばし始める。
精神的な圧迫感こそ凄まじいものの砲撃への対処が叶い、部隊の統制が取り戻され始めた矢先に、ベルギンテン伯爵軍先陣のすぐ鼻の先という近距離の地面が天高く吹き飛び、今の今まで地中に掘った穴に潜んでいた三つの人影が大量の土砂と共に襲いかかって来た。
七つ牙の騎兵による突撃に備えるべく動き始めた矢先の出来事に、先陣に属する兵士達の間に動揺が走ったとしても誰が責められよう。
「ガンちゃんの砲撃にもう対処していますね。この調子ならガンちゃんもすぐにこっちに来そうだなあ」
足は疾風と化して動きながら、あくまで呑気に喋るのはキルリンネ。手に持つ大剣はガンデウスの
元々成人男性の身の丈ほどもある大剣だったが、今は鋸状の刃を備え、しかもそれがキルリンネの意思に応じて高速で回転をし始める上に、更には刃が真ん中で左右に分かれる事で内蔵した砲身が露わとなり、砲撃も可能という複合武器だ。
「ガンちゃんの苦痛たる砲声だけじゃなくって、私の『
キルリンネが自ら命名した専用の武器をブンブンと楽しそうに振り回すのを、リネットは少し呆れを交え、グワンダンは与えられたおもちゃにはしゃぐ幼子のように見ていた。
ガンデウスとキルリンネとは違い、リネットには新規に武器が与えられる事はなかったが、それは元々彼女にはガンドーガという時代を先取りしすぎた専用の超兵器があるからだろう。
「キルリンネ、はしゃぐのは構いませんが、足元をお留守にして転んでも知りませんよ?」
「リネ、んん、トルネお姉ちゃんは心配性~。眼を瞑って走っても平気平気!」
「貴女は調子に乗りやすいのが玉に疵ですね」
「じゃあ、それ以外は特に欠点がないって事? わ~い、褒められたぁ!」
「貴女にとってそうなら、もうそれで良いです。グワンダン様、敵前衛、大盾による防御列構築、その後方に銃火器並びに魔法使いを確認。急速に体勢を立て直しつつあります」
リネットはキルリンネとの会話を切り上げて、尋常ならざる速度で接近する自分達へ急ぎ対応しようとしているベルギンテン伯爵軍の状態を淡々と主人に伝える。
二人の少女と肩を並べて駆けているグワンダンの目にも、動揺を心の奥底に押し込めて闘志を浮かび上がらせる兵士達を認めている。
「私が主人の娘の敵と認識して闘志を燃やしている顔だ。ガンデウスも間もなく砲撃を切り上げて、こちらに合流する。あの子が来る前に出来るだけ減らすぞ」
「ではすべてそのように。良いですね、キルリンネ」
「は~い」
ベルギンテンの軍勢との衝突まで五秒とかからない距離にまで迫った時、銃器を構えた兵士達の背後に立つアンタクスが左腕を掲げ、それをさっと下ろす。
アデリード達と戦った時と似た流れだな、とグワンダンは他人事のような感想を抱いた。たったそれだけだ。
「撃てえ!!」
並ぶ大盾の隙間から覗いた火薬式銃、続いて魔導銃が交互に大きな銃声を轟かせて、鉛弾と純魔力の弾がグワンダン達へと襲いかかる。
グワンダンはアデリード達から銃弾が全く通じなかった事が伝えられている筈であるから、何かしら対策は講じられているだろう、とほんの少しだけ警戒の度合いを高めている。
ふむ、とグワンダンが一つ呟いて障壁でも張るか、と考えた時には左右の人造少女達が動いていた。
「おりゃあ!」
「ふっ」
足は止めずに走りながら、キルリンネとリネットの振るった破壊為す鉄塊とメイスが、前方から高速で襲い来る二種の弾丸を微塵に砕いて見せる。
グワンダンは砂のように砕け散る鉛と魔力の粒子を見るに、弾丸それ自体の脅威はまず変わらないと看破した。火薬の量を増すか魔導銃の魔力をより圧縮するか、対策を講じてくると考えたが、そこまでするには時間が足りなかったか?
「いや、数で足止めか」
連射の効く魔導銃はそのままに火薬銃の兵士達は後列の兵士と交代し、絶え間なく火線を維持する動きを見せている。魔法の詠唱を終えた魔法使い達の姿も見え、たった三人を葬る為に過剰な火力が放たれようとしていた。
「銃弾での殺傷は最初から頭に入れず、あくまで時間稼ぎと割り切るとは、贅沢だな。だが無意味な事を」
時間稼ぎで放たれる無数の弾丸の類も、着弾よりも早く振るわれるリネットとキルリンネの巨大な武器が全て砕き、無効化している為に時間稼ぎという目的すら達成できていない。
その予想をはるかに下回る事実にアンタクスを始め、大盾を構える兵士達の顔が大なり小なり顔を引き攣らせるが、次の一手を忘れはしなかった。
「魔法兵隊、放て!」
グワンダン達の視界は魔導銃の煌びやかな光の弾丸で埋め尽くされていたが、そこから更に魔法使い達の放った魔法が連続して襲いかかって来た。
ガンデウスの砲撃対策に防御魔法を行使していた者達も、グワンダン達がここまで接近したからには、これ以上砲撃はないと判断されてこちらの迎撃に加わるべき動きを見せている。
白い鱗の竜種は闇を除く属性に対する適正と耐性を兼ね備える特徴を持つ。
ドラゴニアンであってもそれは同じ事で、放たれた魔法は属性を持たぬ純魔力の理魔法による砲撃だ。人間を丸々飲み込む程太い光の砲撃が無数に連なって襲い来る光景は、さながら翡翠色の光の壁が押し迫ってくるような圧迫感を備えている。
「ぐぅらああああ!!」
迎え撃つグワンダンの一手は、可能な限り大きく開いた口の奥から放たれた光の渦状のブレスだ。
真っ向から翡翠色の光の壁と白い光の渦とが激突し、拮抗状態を一秒と維持する事なく光の渦が壁を微塵に打ち砕き、更に大盾を構えていた兵士や後列の魔法使い、銃兵達を巻き込んで、ベルギンテンの陣形をズタズタに切り裂く。
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第二百六十三話~~~差し替え範囲
魔操鎧は、純人間種と他のより優れた身体能力を有する亜人種間の能力差を容易に埋める兵器だ。
身体能力を強化する装飾品や武具の類は古くから存在していたが、魔操鎧は大量生産を前提とし、誰が使用しても一定の成果を期待できるものとして開発された。
虫人に代表される尋常ならざる膂力と真っ向から打ち合い、獣人や虫人達の有する分厚い毛皮や甲羅に勝る守りを有し、破損しても必要な部品と技術さえあれば、生身の人間の怪我を癒すよりも余程早く戦闘に再投入できる。
まだまだ新しい兵器である為に改良の余地は多いし、一機当たりの生産にかかる費用もそれなりだが、今のところは費用に勝る戦力として各国の軍部からは評価されている。
そのような高級な兵器を預けられる騎士達――通称
魔操鎧と同様に、高級な兵器であるワイバーンやグリフォンらを駆る騎士らと並ぶ選ばれた騎士と言ってもいいだろう。
魔操鎧を手足のように操れるよう血道を重ね、愛機を自分の体の一部と感じるまでに修練を重ねたロマル帝国の騎士達は、今、理不尽の権化と相対していた。
理不尽の権化すなわちグワンダンが、百機からなるベルギンテン伯爵家の魔操鎧部隊を正面から、一切の小細工もなく純粋な暴力で叩き潰している。
人体など原型を留めずに木端微塵にする魔操鎧用の魔導銃の弾丸が雨あられとグワンダンに殺到し、確かに命中していると言うのに鱗や肌はおろか彼の纏う服一枚破く事すらできない。
ここまでの堅牢さを見せつけられると、目の前の男はドラゴニアンではなくドラゴニアンに化けた成体の竜かなにかではないかと疑いを抱く。
実際はそれどころではないのだが、案外、魔操騎士達の勘は的外れでもなかった。
ブレス一つ、竜語魔法一つ使わずに弾幕を正面から突破したグワンダンが、右手一本で握ったポールアクスを振り上げる。
グワンダンが自らの竜鱗を変化させたこの斧が、オリハルコンの塊を粉砕する化け物武器であると知らないのは、魔操騎士達にとってこれ以上の絶望を突きつけられないだけ、救いであったろう。ほんの少しくらいは。
グワンダンに最も近かった四機が魔導銃を大斧に持ち替えて迎え撃つ。四機で一個小隊を構成するベルギンテン伯爵の魔操鎧騎士団は、四機での連携を前提とした訓練を重ねていた。
グワンダンを中心に扇状に広がったマルテス達は、グワンダンという白い花に群がる黒い甲虫の群れのようだ。もっとも、グワンダンが白い花などという愛らしい存在である筈もない。
マルテスの振り上げた大斧は、堅牢な要塞の城門や防壁をも崩す威力だ。連続して叩きつけられれば、無傷で済む人類はそうはいないだろう。
それを左右の両肩口に首元、額に全力で叩きつけられてなお、グワンダンの足は一瞬たりとも止まらない。
叩きつけた大斧から返って来た反動に、マルテスの骨格が軋む音を立てるのと同時に、グワンダンの左腕が動いた。
寄ってくる虫を払うのと大差のない、無造作な動作だった。砕けた装甲が、大斧が、無数の金属線や骨格が空中にぶちまけられ、腕や頭部を失ったマルテス四機が銃弾の勢いで吹き飛ばされ、彼らに続こうとしていた他のマルテス達に激突して受け止められる。
大鐘を鳴らしたような音が周囲に響き渡る中、グワンダンがまた一歩を重ねる。魔操鎧の意義を覆すグワンダンの一撃を前にしても、魔操騎士達の戦意は衰えなかった。
今日に到るまで彼らに伝染したベルギンテンの殺意と、第四大隊の報告から事前にこの程度の事は推測していたからだった。
魔導銃を構え続けるマルテスの周囲に残る魔法使い達が集まり、更にその後方、ベルギンテンの周囲には砲兵達が大急ぎで台車に乗せた大砲や魔導砲の発射準備を進めている。
残る九十六機のマルテスの内、六十機余りがグワンダンの足止めを任務として動く。
魔操騎士達はマルテスよりも小さなグワンダンが放つ威圧感を受けて、動きを鈍らせたがそれに構うグワンダンではない。
グワンダンとしては自分達を狙ってきたベルギンテン軍一万は、きっかりこの場で戦闘不能に陥らせるのは確定事項だ。
ベルギンテンは勿論の事、傘下にある兵士全ても倒すべき対象なのだ。
合流したガンデウスが周囲にばら撒いている砲弾の着弾音、キルリンネの無邪気な笑い声に混じる切断音、反対方向の騎兵達から聞こえてくるのはリネットの奏でる粉砕音。
それらに負けじとグワンダン自身もまた誘蛾灯に群がる蛾のように迫るマルテスを千切っては投げ、千切っては投げ、高級兵器を壊れたガラクタに変える作業を高速で行っている。
グワンダン達程の実力があれば、もはやベルギンテン軍との戦いは戦いなどではなく、作業へと成り下がる。
雲霞の如く群がるマルテス達の隙間を縫い、またあるいは風魔法による無線を通じて散開したところに次々と魔法や砲弾がグワンダンを目掛けて殺到し、白いドラゴニアンを爆炎と煙の中に飲みこみ、次々と周囲の地面に穴を穿ってゆく。
現在、実戦に投入されているどんな魔操鎧でも破壊は免れない火力の集中だが、爆炎の中心から発せられた衝撃波が、殺到する砲弾や各属性の魔法の数々を吹き飛ばし、ポールアクスを下から上へと振り抜いた姿勢のグワンダンの傷一つない姿が露わになる。
ポールアクスの一振り、たったそれだけ、それだけで一つの軍のほぼ全火力を集中させた攻撃を弾いたのだと、ベルギンテンの兵士達は理解したくないと頭の中で叫びながら、理解してしまう。
アデリード達第四大隊を壊滅させた事から、かつて戦った事のない怪物であると彼らも覚悟を決めていたが、いざ実際に想像を越える怪物ぶりを見せつけられ、度肝を抜かれていた。
「呆けたか。うちの軍は戦場でそうならないように教え込まんといかんな。まあ、私には軍を率いた経験も教導した経験もないわけだが」
言い終わるや否やグワンダンは先程までよりも力を込めてポールアクスを振るう。
古神竜の鱗が変じたポールアクスの一振りは、先程までとは一線を画す現象を戦場に生み出した。
湾曲した刃が空を切るや、天高く伸びる竜巻が無数に生じてベルギンテン軍の兵士や魔操鎧達を巻き込み始めたのである。
ポールアクスに切り裂かれた世界の悲鳴が、竜巻となって戦場に荒れ狂ったとしか見えない光景の異常さと、今にも竜巻に持って行かれそうな体を支えるのに精一杯で、ベルギンテン兵の多くはグワンダンに近づく事も出来ない。
魔法使い達が必死に風の精霊に呼びかけて身を守り、軍付きの神官達もまた神々に祈って味方の周囲に結界を張り巡らせる。
ただ逃げまどうのではなく迅速に対処する彼らの姿に、グワンダンは敵ながら練度が高いと感心していた。
ただし感心したからと言って手を緩める理由にはならず、彼は今一度ポールアクスを振るって、更なる竜巻を戦場に生み出し、風の狂乱が激しさを増す。
先程までなんとか耐えていた魔法使いや神官、魔操鎧も新たな竜巻の中に飲まれてゆくのを認め、グワンダンは地面を削ってぶつかりあう竜巻を消し去り、残るベルギンテンの軍勢を改めて見る。
竜巻から解放された兵士達がどしゃどしゃと重々しい音を立てて落下し、苦痛に塗れた呻き声を上げる向こう側に、グワンダンに対して恐怖に染まった瞳を向ける一団が残っている。
ベルギンテン直属の一部の騎士達を除けば、グワンダンと対峙した兵士の大部分は、先程の一撃で片付いたとみてよかろう。
左翼と右翼に展開した騎兵達も三名の人造少女達があらかた片付け終え、馬は丁寧に、それに乗った騎士達は粗雑な扱いで昏倒させられている。秒単位で数十名が倒される光景は、敵対者にとって悪夢以外の何ものでもあるまい。
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第二百六十四話
ロマル帝国で勃発した反乱の要の一つ城塞都市エルケネイでは、ロマル帝国貴族による連合軍を見事撃退した七つ牙の軍勢の凱旋が盛大に祝われていた。
諸侯間の軋轢により、連携のままならぬロマル帝国軍を相手に、七つ牙は意思疎通の取れた統率力を見せつけ、戦後や先祖伝来の因縁によって救援の手が鈍くなる諸侯達を的確に見抜き、諸侯ごとの軍勢に戦力を集中させて痛打を浴びせる事を繰り返した。
ルルリウス侯爵やメッツカル男爵をはじめとした帝国の指揮官達は、自軍の横の連携の問題に対して出来得る限りの対処を行ってはいた。
だが背水の陣に半歩足を踏みこんでいる七つ牙の気炎を吐く勢いと機動力を前に、私情を優先する自軍を制御しきれず、せっかくの数の差を活かせぬままに後背を七つ牙の騎兵六千に突かれ、三々五々に散ってカープラウ城へと引いている。
七つ牙の騎兵六千を討つべく、地を蹴る蹄の音も高らかに疾駆したベルギンテン伯爵の軍勢一万は、結局七つ牙との戦闘には参加せずに本隊に遅れてカープラウ城へと戻っている。
従来の戦の常識では考えられない事に、ベルギンテン伯爵の軍勢に死者はただの一人とていなかった。
さては七つ牙と示し合わせたかと疑われても仕方のない事態であるが、それを糾弾する事が出来ない程、ベルギンテン伯爵の軍勢は尋常ならざる状態に陥っていた。
死者こそ出ていなかったが、ベルギンテン伯爵自身も到底正気とは思えない姿になり果て、彼の率いていた兵士や騎士達はまだ正気を維持していたが、全員が自分が死んでいないのが不思議でならないという顔で焦燥しきっていたのである。
問いかければ自分達も彼らと同じ異常な状態に取り込まれるのでは、という根拠はないが否定しきれない悪寒に襲われて、迎え入れる事しかできなかったのだ。
カープラウ城はいまだ健在で七つ牙の側も戦の消耗で、即座に攻城戦を挑める状態ではないのが、諸侯連合にとっては救いだろう。
救いでないのは、諸侯間の軋轢を意識して意図的に諸侯それぞれの軍勢が受けた被害に差があり、それによって戦後を意識している諸侯達の動きが一層鈍くなり、城内の雰囲気も険悪になって敗戦とあいまって士気が最悪の状態にまで落ちている事。
もはやライノスアート大公に尻に火を着けられでもしない限り、互いに疑心暗鬼に陥ってカープラウ城から打って出ようと考える者はいなくなってしまっている。
一方で宿敵ロマル帝国の大軍勢に痛打を浴びせた七つ牙は、近隣の反乱勢力ばかりでなく前線から遠い南部の反乱勢力にもその名を轟かせる一大勢力になったといえる。
もともと規模で考えれば反乱勢力の中でも有数だったが、ロマル帝国を相手にこれだけの快勝を得たのは七つ牙だけだ。
七つ牙を率いるネッサとしては頭が痛いかもしれないが、様子見していた他の勢力や立場を決めかねていた者達から、今後は次々と頼られる事になるだろう。
弱音こそ見せていないが、あの女傑の肩に圧し掛かる重圧は並大抵のものではない。
一足早くエルケネイに帰還していたグワンダンは、難民用のテントの一角でそのように思い、彼女の行く先に幸あれと小さく祈った。
既に周囲は太陽が去った後に訪れた闇の手の中に包まれていて、わずかにまだ眠りの国
への入国を拒む人々が闇を払う光を灯しているきり。
夜空に輝く星のごく一部が気まぐれに地上に降りて来たかのように都市に広がる灯りだが、難民に宛がわれた区画ではごくわずかなものだ。
住む場所を追われ、一日の食事にも事欠く中、ようやくこのエルケネイに辿りついた人々にとって、夕闇の訪れはそのまま一日の疲れを忘れる眠りの訪れと等しい。灯りを点けてまで何かをする者はいない。
グワンダンはその数少ない例外だった。姿を消している間の事をアムリアにひどく心配され、大人しく心配の声を聞き届けてから、ようやく静かな時間が訪れている。
今はアムリアと八千代、風香が仲良く川の字で寝ているテントのすぐ傍で護衛を兼ね、木箱を椅子代わりに腰かけている。傍らにはエルケネイから貸し出されたランタンが一つあり、うっすらとした光を放っている。
彼はこれからのエルケネイと反乱勢力、ライノスアート大公派の動きに対する推測を手紙にしたためていた。
南部の過激派の実情はまだ知らないが、ネッサの話を全面的に信じるならば、仮に、万が一、ひょっとしてロマル帝国に勝利した後は周辺諸国にも牙を剥くのは想像するに容易い。
これまで純人間種に支配されてきた屈辱を燃料へと変えて、自分達こそが本来より優れた種である事を証明するだとか、そういう御託を並べて侵略行為に突き進むのが瞼の裏に浮かぶようだ。
数えるのが嫌になるほどグワンダンには憶えのある事案なのだ。まあ、実物と接していない以上は、断定するには気が早すぎるが。
「ふむ、これで終わり、と。ではこちらを頼む」
グワンダンが暗がりへと向けて折り畳んだ手紙を差し出すと、長旅にすっかり草臥れたローブをまとった腕が伸びて受け止める。
終の集落にも潜んでいたアークレスト王国の間諜だ。グワンダンから定期的にスペリオンへと送られる情報の一つを受け取った間諜は、再び闇の中へと溶け消えて、一切の気配を断ったままグワンダンの視界から消え去った。
「さて、繋がりを持つなら七つ牙がお勧めとは書いたが、どこまで意を汲んでくださるものか。それに、どうもライノスアート大公は七つ牙の鎮圧にそれほど熱心でもない様子。魔王軍の様子見をしているのか? ふむん」
ライノスアート大公自身は反乱の鎮圧は必須であると考えているのは間違いないが、その優先度がもっと高いというわけではないようだ、とグワンダンは判断している。
反乱に関しては、今は規模が広がらなければそれでよく、アステリア皇女一派を壊滅させるのを優先している? それともアークレスト王国の動向を図りかねているのか……
ロマル帝国の南側に敵対勢力はない筈だが、更に西の勢力図となるとグワンダンは明るくなく、判断材料に乏しい。
「現状が維持されるなら、十年、二十年先もこのままになるだろうが、誰もそれを望んではいないだろうな。さて、そこのところ、当事者はどう思っているのか、聞かせて貰うとするか」
グワンダンの瞳は、暗がりの向こうから足音を消してこちらに近づいてくる二人を映していた。消してはいるが、こちらが気付くのは承知の上だろう。
未だ都市部では戦勝を祝う声や音楽が聞こえる中、この区画ばかりは既に難民達が寝静まり、同じ都市の中とは思えない静寂が訪れている。
自ら手に持ったランタンの光に照らされながら、来訪者はグワンダンに友好的な笑みを浮かべた。ランタンを手に持ったエルケン・アズ・ネッサと背後に立つ豹人パンス――グワンダンが口にした当事者達である。
「遅くにすまないね。今、時間はあるかい?」
「構わないとも。時間がないのは貴女達の方だろうしな。白湯ぐらいなら出せるが?」
「いや、さっきまでさんざか飲んできたからね。今は何も腹に入らないよ」
ネッサからはわずかに酒精の匂いがしたが、それはあくまで衣服に付着した分だけだ。
彼女自身はまだ気は抜けないと酒を口にはしていないだろう。大勝してもなお油断せずに、万が一の事態に備えている慎重さが彼女を今日まで生き長らえさせたに違いない。
ネッサは地面の上にランタンを置き、空の木箱を持ってグワンダンの前に置いてその上に腰かけた。パンスはその左後ろに立つ。
「カープラウ城の帝国軍はずっと目の上のタンコブだった。連中の戦力を大きく削れたから、皆、ようやく安心できてね。今回、勝てた事であたしらの株は上がったけれど、その分、帝国からも厄介な意味で目を付けられる。これからちょっと大変さ」
「勝ったからこそ背負い込む苦労もあると言う事だな。それも負ける事を考えれば、比べるまでもなくマシではあるだろう」
「そりゃあね。負けた時の事を考えれば、勝って背負う苦労の方が良いけれどね」
ネッサの顔にはこれから背負い込む苦労への重圧を感じられるが、それよりもまずは勝利してこの窮地を脱せた事への喜びの色が濃い。
「ところで貴女達が凱旋してきたすぐ後に、そそくさとエルケネイを出て南へ向かって行った連中がいたが、心当たりはおありか?」
グワンダンは、他人の目から逃れるように後ろめたげに出て行ったあの連中は、その雰囲気からしてロマル帝国やアークレスト王国の放った間諜とは違うと確信している。
ネッサはグワンダンの指摘に一瞬だけ虚を突かれた表情を浮かべたが、すぐに表情を改めてグワンダンに答える。
「南の獅子頭が寄越した奴だろうね。あいつらにしても帝国との最前線であるこのエルケネイが陥落するのは、愉快な話じゃないのさ。自分達の本拠地が戦線に近づくのを意味するし、反乱を起こした連中全体の士気低下にも繋がる」
「ふむん、エルケネイを完全に見捨てていたわけではないのか。自分達に都合よく利用できるような状況になるのを待っていたのかな?」
「だろうねえ。あたしらが帝国軍に敗れてエルケネイに籠城し始めた辺りで、出て行った連中はあたしらに救いの手を差し伸べる使者だと名乗ってきたろうね。そうしてあたしらを自分達の下につけようって魂胆さ」
「ところが連中の予想を覆し、貴女達七つ牙は帝国軍を相手に大勝利を収めて、救援の使者は手の差し伸ばし所を失ったわけだな。こちらの新鮮な情報を集めて帰るだけになって、主君に雷を落とされるのではないかと落ち込んでいる事だろうさ」
ネッサもグワンダンが口にしたのと同じ想像をしたのか、ざまあみろと言わんばかりに鼻で笑い飛ばす。
「ふん! 最初っから堂々と一緒に戦うと言いにくりゃ良いのにさ。昔の因縁も分かるけれど、今と未来を犠牲する程大事な事なのか、考えて欲しいもんさ。
でも今回の戦勝で他の部族や種族からの協力も得やすくなるし、南の連中も今後はこっちを見下しきった舐めた真似はそうそう出来なくなるよ。胸のすく話だね」
「ふむ、族長殿がそう思われるならばなにより。して、そろそろ私などを訪ねて来られた理由を伺ってもよろしいか? 貴女が責任ある立場というのもあるが、あまり時間を掛けるのは良くない。なにしろ女性に夜更かしは勧められんからな」
「あはは、おっと、大声を出して悪いね。いやいや、女扱いをされたのは久しぶりさ。反乱を起こす前は女を使った仕事だってしていたってのに。とはいえあまり遅くなって困るのは、あたしらの方か。
お言葉に甘えて本題の話をさせてもらうよ。あんたにはあまり良い話じゃないのは分かっているから、一度だけにしとくよ」
「ふむ」
「正直言って、これから帝国との戦いは激しさを増すと考えている。ゆるくなる事はまずないだろう。今後、エルケン族を始め七つ牙に協力してくれている皆に勝利と安寧を齎す為にはどうしても力が要る。
だからグワンダン。あんたとあの女の子達三人全員の力を貸して欲しい。対価としてあたしらに叶えられる範囲になるけれど、あんたらの要求を飲むよ」
真剣極まりない上々で駆け引きも何もなしに告げてきたネッサに、グワンダンは一度だけ思案するように瞼を閉じ、それを開いてから淀みなく答えた。グワンダンでなくとも、誰だってそういう要求をされると容易に想像できただろう。
「流石に一万を退けたのはやり過ぎだったかな?」
困ったように首を傾げて問うグワンダンに、ネッサのみならずパンスもこれまで維持していた無表情を苦笑で崩す。目の前の穏やかな気質のドラゴニアンが、殺意で凝り固まったベルギンテン伯爵の軍勢を丸ごと退けたとは、いささか信じがたい事実であった。
「やり過ぎたかって聞かれたら、そりゃそうさと言うしかないねえ。ついでに付け加えて言うと、ただ退けたんじゃなくって、一人も殺さずに退けたってのが余計にとんでもなさを演出するのに一役買ったよ」
「ああ、成程な。悉く殺しつくして退ける方が、一人も殺さずに生かして退けるよりも楽ではあるからな」
少し面倒なだけだが、と言外に告げるグワンダンの何気ない態度と雰囲気に、ネッサの頬を冷たい汗が流れた。
やはり目の前のドラゴニアンは実力もさることながら、どこかしら視点のようなもの、あるいは視ている世界がどこか違うのだ。
さながら天上の世界より地上を見下ろす善なる神のように、大魔界より地上を見上げる魔なる神のように。
「あたしは、生かすも殺すも容易いんだって分かるあんたがちょいと恐ろしいよ」
「おっと、怖がらせる意図はなかったのだが、どうにも思慮が足りん言葉を口にしてしまうな。気分を害したなら謝る」
これには人間ドランではなくドラゴニアングワンダンとして顕現している為に、彼の意識が竜に寄っているのが、言動に影響を与えている所為だ。
ドライセンとして活動していた時も、また竜としての姿をしている時にも、同じく意識が人間から竜に寄る傾向がある。
「害したっていうかおっかなくなったってだけさ。それで力を貸しては貰えるのかい?」
「いや、私達の目的は貴女達を含む反乱勢力を勝たせる事ではない。そしてロマル帝国を滅ぼす事でもない。今の帝国の実情を知る事なのだ。
ベルギンテン伯爵の軍勢と戦ったのは、その目的にはそぐわない行為ではあったが、かの軍勢を殺しつくさなかったのは、この内戦に私達がこれ以上の影響を与えないようにと考えた為でもある。
おっと、ならば最初から戦わなければよかっただろうとは聞いてくれるな。難民が殺されるのも、君らが万が一にも敗れるのも、どうにも見逃せなかったから動いてしまったのだから。
なのでこれ以上は今回のような事態を繰り返さない為にも、控えめに行動するつもりでね。すまないが、貴女達の軍勢に加わる事は出来ない」
断固とした拒絶の意思が込められたグワンダンの言葉に、ネッサはこれ以上勧誘の言葉を重ねる事はしなかった。
事前に口にした通りに勧誘するのは一度だけと、心に決めて来ていたようだ。もともと断られると分かっていたのもあるだろう。
「はあ、やっぱりかい。まあ、あんた達はここらに根を下ろして暮らしてゆくのに向いているようには見えなかったしねえ。無理は言えないさ。なにより、あたしらが勝てたのには、あんた達の協力のお陰ありきだし」
「そうか? 私達が余計な横やりを入れなくとも貴女達なら、今回の戦いに勝っていたと思うぞ」
「勝てたかもしれないわね。でも、もっと多くの仲間が死んでいたのは間違いない。もし、だったらなんて話をしても仕方がないけれど、貴方達のお陰で大いに助けられたのは確かな事実よ。
だから貴方達にはとても感謝している。あっちに逝った仲間達に、残された私達は大丈夫だから安心しろって教える為に、戦勝の宴は盛大にしたけれど、やっぱり見送る相手は少ない方が良いに越した事はないわ」
「ふむ、死者が安心して冥府に行けるように、生者が盛大に見送るわけか。良い心掛けだと思うぞ。私達はこれ以上の助力は出来かねるが、貴女達の行く道に光がある事を欠かさず祈ろう」
「そう、そう言ってくれるかい。あんたが祈ってくれるなら、効果はてきめんって気がするね。さて、答えは貰った事だし、そろそろお暇するとしようかね。夜分に押し掛けて、すまなかったね」
すっと立ち上がるネッサが背を向け、再びランタンを手に暗がりの向こうへ歩き出す直前、パンスがグワンダンを振り返り、真摯な眼差しを向けてきた。これまで沈黙していた彼の心中は、果たして如何なるものだったのか。
「おれからも重ねて礼を言わせてもらいたい。死んだ仲間を軽んじているわけではないが、あんた達の助力でネッサの心労が少なからず減ったのは確かだ。あいつも気を張ってはいるが、毎日神経をやられているからな。
仲間の命を救ってくれた事とあいつの心を守ってくれた事に、心からの感謝を。それとお嬢さん達もな。おれ達はこれで失礼する」
「ほう、トルネ達に気付いていたか?」
グワンダンがアークレスト王国の間諜に手紙を渡す以前から、周囲にはリネット達が気配を殺し、呼吸や血流さえ止めて潜んでいた。一流のアサシンの類でも気付けない隠形だが、この豹人が気付いていたのか?
もしそうならば、リネット達は大いなる反省の後に、より一層完璧な隠形術を身につけるべく、過酷な訓練を自らに課すだろう。
「いいや? 今もどこに居るかさっぱり分からん。ひょっとしたら天幕の中で寝ているかも知れんが、あのお嬢さん達ならおれ達が話している間に、そこらに息を殺して潜んでいるだろうって考えたから適当に言った。正解みたいだな」
「ふふ。ああ、正解だ。良い勘をしている」
「褒めてくれてありがとうよ。それじゃあ、お休み」
「ああ、お休み、良い夢を」
そうしてネッサとパンスの姿が薄暗がりの向こうへと消えるのを見届けてから、周囲の闇へと声を掛ける。
「トルネ、ガンデウス、キルリンネ、もういいよ。君達も今日はゆっくり休みなさい。しばらくは忙しいだろうから、休める内に休むのが大切だからね」
愛おしい娘に対するように優しい声で告げるグワンダンに答えは返ってこなかったが、グワンダンに従うように闇に潜んでいた気配がいそいそと自分達の天幕へ戻ってゆくのを、グワンダンは確かに把握していた。
「さて、南で見るものは帝国で見たものやここで見たものよりもマシか、それともよりひどいものとなるか。……ひどいものになりそうだなぁ」
ネッサから聞かされた南部の実力者である獅子人の指導者の事を思い出し、グワンダンは面倒事になるぞ、と今から嫌な予感を抱くのだった。
一端、ここで帝国編は幕引きとしまして、しばらくはお口直し的なメインストーリーから若干外れたお話を続けて行く予定です。
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第二百六十五話
カラヴィスタワー内部の緩やかな丘陵地帯の一角にぽっかりと口を開いた洞窟『ヘグナヘル』がある。
獲物が飛び込んでくるのを気長に待つ巨大な魔物のようにも見えるそこは、内部に何体もの魔物が巣食う危険地帯であり、同時に希少な鉱物や天然の魔晶石と精霊石を得られる場所でもあった。
洞窟内部に充満する高濃度の魔力を食べて生きる魔物の中には、体内に高純度の魔力の結晶体を持っている事もあり、腕に覚えのある者達が日夜足を踏み入れては内部で死闘を繰り広げている。
深層に潜れば潜る程に魔力の濃度は濃くなり、ただ呼吸をするだけでも常人には苦痛を齎す過酷な環境となる。
一方で浅い上層ならば訓練しか知らない新米戦士が一人で挑んでも、余程運が悪くなければ生きて帰れる。
それでもやはり運の悪い目に遭遇する者とはいるもので、ヘグナヘル洞窟を発見したドラグサキュバスによって、壁に埋め込まれた魔法の明かりが照らす中を、一人の少年が必死の形相で走っている。
少年が目指しているのは、地上の出入り口の前にドラグサキュバスが結界を貼って作った安全地帯だ。円形の広間に飛び込めば、結界の中に魔物は侵入できずにすごすごと立ち去る他ない。
少年の身なりを見れば、まだそれ程使い込んだ痕跡の見られないなめした革の胸当てに手袋と安物の短剣、小型の丸盾で武装している。
腰の戦闘用ベルトには予備の短剣に傷薬や火打石を入れた革袋や皮の水筒が下げられていて、典型的な新米冒険者の様相だ。
額から頬から汗を流す彼の後を追っているのは、ヘグナヘル洞窟では上層によく出現する
黒い地肌にあちこちに岩石を鎧の如く纏っていて、顔に鼻や口はなくぼんやりと光る黄色い光が両目の位置で輝いている。太く発達した両腕から繰り出される一撃は、新米冒険者や新米傭兵の貧しい装備では受けきれるものではない。
黄色い目玉か臍のあたりにある黒い球状の核が弱点でそれを狙うのが定石だが、三体も四体も群れを成して追いかけられては少年一人の手に余るだろう。
必死な形相で逃げる少年には、まだ岩窟鬼からの一撃を受けた様子はなく、だからこそこうして走って逃げていられるのだろう。
少年――ジルグは、管理所で無料公開されているヘグナヘル洞窟の地図を脳裏に思い浮かべて、次の角を曲がれば安全地帯だとかすかな希望の光を見出していた。
死への恐怖で喉はからからに乾いてへばり付き、流れる汗が時折目に入っては痛みが走る。必死に呼吸を繰り返す肺はしきりに痛みを訴えかけているが、ここで足を止めてはそれこそ、比ではない痛みと恐怖が待っているのだ。
ジルグは体の訴える痛みを無視して、鉛のように重たい足を遮二無二動かす。
首から下げた虹色の石を埋め込んだ首飾りが、『生命こそ保証してくれる』とはいえ、それには死に到る事態に襲われたらという条件が付随している。
命は助かると分かってはいても、だからといって苦痛に襲われるのを許容する人間等いるものだろうか。少なくともジルグは絶対に嫌だと答える。
「うわっ」
まだ距離のある前方の曲がり角の向こうから、白い光が滲んでいるのに気付き、安堵したのが良くなかった。足元の確認がおろそかになり、ジルグは小さな石を踏み、それによってふらついて転倒するという致命的な失敗を犯してしまった。
顔から地面に倒れ込み、慌てて左手で顔を庇ったが、地面に体を打った痛みよりも岩窟鬼に追いつかれる事の恐怖がジルグの心を黒く染める。
一体だって倒すのに苦労する岩窟鬼が四体も居るのだ。どう足掻いたってジルグに勝ちの目はない。
ジルグが振り上げられる岩窟鬼の棍棒めいた腕とそれを叩きつけられて血を噴く自分を想像し、恐怖に震える瞳で背後の岩窟鬼達を振り返れば、彼らは――性別があるかは不明なのだが――腰から上を失った姿で地面に倒れ込んでいた。
想像していたのとはまるで違う光景に、ジルグが呆ける中、どちゃっと粘っこい水音が左右の壁際から聞こえてきた。
見れば岩窟鬼の腰から上が壁に叩きつけられて、原型を留めておらず染みとなっていた。
ジルグの目に映ったのは、言葉を失う程整った容貌に凶暴極まりない鋭い目つきと、銀色の鱗を使った鎧と同色の鱗で四肢を覆われたドラゴニアンの少女――クイン。
クインの横に並び、左手を横に伸ばした体勢で立っているのは、巨漢の白い鱗のドラゴニアン――ドライセン。
二人の位置からして、この二人がどうにかして岩窟鬼の体を腰から両断したのだと、ジルグはぼんやりと理解する。
ジルグなどとは比べる気にもならない圧倒的強者の雰囲気を纏う彼らに、ジルグの目は、いや、魂は惹きつけられて止まない。ヘグナヘル洞窟ばかりか迷宮の如何なる脅威も寄せ付けない絶対の存在は、まさしくジルグの目指す理想像の上をゆくものだった。
そして目の前に立って腕を振り上げていた岩窟鬼がどおっと音を立てて倒れると、その後ろに隠れて見えなかったたおやかな影がジルグへと近づいてくる。
首元まで露出なく覆う貞淑な印象を受けるドレスの背からは白い翼と先端がハートマークの形になった尾が伸び、艶めく黒髪を割って白い角が両方の側頭部から伸びている。
竜の生物的特徴を備えた女性である。尻尾の先端の形状と肉体的本能を越えて魂を揺さぶる美貌と雰囲気は、彼女がサキュバスである事を暗に証明している。
古神竜ドラゴンを崇拝するドラグサキュバスの長であり、低位だが真性の女神であるリリエルティエルだ。
圧倒的強者の存在に震えていたジルグの魂が震えを忘れた。自分へと近づいて来るその動作の全て、仕草の何もかもがジルグの五感と魂を強烈に痺れさせていた。あるいは熱していた。
息を忘れ、思考を忘れ、ただ目の前のソレだけが自分の全てになる程の強烈な感激、感動がジルグを満たしている。
リリエルティエルの素肌を晒した白魚の如き指が、ジルグの左頬に付着していた泥を拭った。岩窟鬼の血に相当する魔力を含んだ泥だ。魔法素材として中々優秀で、管理所にはこの泥を求める魔法使い達からの依頼が良く届いている。
「頬を汚してしまいましたね。ごめんなさい」
「あ、ああ、いい、いえいえいえいえ、あああのののの」
意味を成さない言葉の羅列を繰り返すジルグの反応は、リリエルティエルにとってよく見るものなので慌てる事もせず、にっこりと穏やかな笑顔を浮かべ続ける。
ここまで純朴で素直な反応をされると、サキュバスとしての食指が非常に刺激されるのだが、そこはそれ、崇拝するドラゴンの分身体が居る事もあり、リリエルティエルは疼く体を人知れず抑えている。
「めめめ、女神様ですか!?」
ジルグにとってこれまで見た事がない程美しい目の前の女性は、そうとしか思えなかった。そして、それは間違いではなかった。
ジルグは知っていて口にしたわけではないだろうが、見事に自分の素性を言い当てた目の前の少年に、リリエルティエルは楽しそうに笑みを深めた。
「ええ、末席ですけれど」
*
ドランの分身体であるグワンダンがロマル帝国で、あまり目立たぬように行動する、という初期の方針から外れた実績を積み重ねている頃、もう片方の分身体であるドライセンもまたベルン男爵領内にて活動を行っていた。
グワンダンが人間に寄った外見のドラゴニアンであるのに対し、竜に寄った外見をしているドライセンは、これまでアークレスト王国南洋の群島諸国家にある迷宮都市メイズリントで、迷宮を利用する知識や技術の蓄積を行っていた。
それがカラヴィスタワーの利用と運営がベルンで本格的に始まった為、領主補佐官であるドランの立場からは中々足を踏み込めない市生の事情や、カラヴィスタワー探索者の現状を知る為に、ドライセン投入が決定されたのである。
ドライセンが動くとなれば、当然と言わんばかりに彼についてくる者達が居る。メイズリントでも同じパーティーで行動していた女性陣だ。
古神竜アレキサンダーがドラゴニアンに変化したクイン、大地母神マイラールが人間の神官戦士に扮したハンマ、時の女神クロノメイズが姿を変えた神官戦士ドーベンの三名だ。
メイズリントでは冒険者の歴史が長く学ぶべき事が多かった為、指導役の先輩冒険者を雇ったが、カラヴィスタワーにおいては誰もかれもが新人である為に彼らだけで行動している。
ベルン男爵領にて巨大すぎる悩みの種となったカラヴィスタワーだが、ベルン男爵領の人々は不屈ともったいないの精神をもって領地経営の糧とするべく、観光資源としての利用が本格的に始まっていた。
一定距離を離れると見えなくなるカラヴィスタワーの周囲を囲む大神ケイオスとマイラールの防壁の入り口に、ベルン男爵領直営の管理施設とそれに付随される各種の施設が建てられている。
公営の施設以外にも大邪神の名を冠する異形の迷宮が、かつてない危険と魅力を兼ね備えた最高に最低の開拓地であると判断した人々が集い、宿屋や酒場、飲食店から鍛冶工房、病院に神殿や教会に到るまでが軒を並べている。
塔それ自体を見物に来る観光客用の宿泊施設も多いが、塔の内部から採取される希少な貴金属や動植物、あるいはまったく未知の物質を手にすべく多くの商人や研究機関の人間達も居を構える者が増え、既に小さな町として機能していた。
古来、利益を得られる迷宮は冒険者と呼ばれる人々や所有権を主張する国家の軍などによって、踏破され、搾取されるものだが、このカラヴィスタワーにおいてはベルン男爵領が所有権を強く主張している。
元々、アークレスト王国では冒険者ギルドの力が強くなく、冒険者に対して戦闘能力を持った自由労働者として認識されている事もあり、カラヴィスタワーへの入場や内部で得たものの取り扱いなどもまずベルン男爵領を介するものと決められている。
メイズリントのようにカラヴィスタワーを中核とした都市が確立し、自治権を獲得するようになればまた話は別かもしれないが、現状ではベルン男爵領の意向が何よりの力を持っている。
ベルン男爵領の次に力を持っているのが、ケイオスを崇めるケイオス教団とマイラールを崇めるマイラール教団だ。
双方とも世俗の権力闘争や富とは距離を置いているものの、信奉する神々が目に見える形で起こした奇跡が存在している為、これに対して強く反応するのは当然であった。
ベルン男爵領はカラヴィスタワーへ入場する際には、個人情報の登録と入場料の支払い、そしてとあるアクセサリ『アリアドネ』の着用を義務付けている。
指輪や腕輪、耳飾りに額飾り、首飾りと様々な形のアクセサリは、カラヴィスタワー内部で生命の危機に瀕すると、自動である程度傷を癒しつつ着用者の身柄をタワーの入り口にある病院内部の緊急施術室まで転移させる機能を持つ安全装置だ。
入場の際に支給されるこれは、カラヴィスタワーを後にする際には返却が義務付けられており、これに違反した場合には本人のみならず冒険者ギルドや何かしらの組織に所属している場合には組織にも罰則が適用され、厳重な取り扱いを求めている。
安全装置としての機能はカラヴィスタワー内部でのみ機能するように設定されているから、外に持ち出した時点で機能不全の魔道具に成り下がる。
それでも着用者の生命を守りつつ、特定の場所に自動転移させる術式とそれに必要な魔力の充填機構は持ち出しを考えるには十分で、いずれ違反者が出るだろうとベルン側は予測している。
ベルン側が技術と所有権を独占している事もあり、冒険者ギルドとそれに所属する冒険者や商人の一部からは煙たがられているのが偽らざる実情だ。
とはいえ、だ。このカラヴィスタワーが内部に計り知れない富と財宝、そしてそれに付随する名誉が眠っているのは紛れもない事実だ。
例えベルン男爵領に実権のほとんどを握られていようとも構わないという者やそこまで考える程の立場を持たない新人は、意気揚々とカラヴィスタワーに挑み、日々の成果に一喜一憂する毎日を送っている。
ベルン男爵領側ではカラヴィスタワーに挑む者達を一般の冒険者とは区別して登録・管理しており、実績によって階級を付与しており、この階級に応じてカラヴィスタワー探索とは別に発生する特別な依頼を出している。
そしてこれらの人々を『探索者』と呼び、カラヴィスタワー探索の始まったばかりの現状では、誰もかれもが新人探索者でしかなかった。
実力はてんでバラバラな新人探索者達の頼りになる味方は、正規の手順を踏めば必ず支給されるアリアドネと第一階層の絶対安全圏であるドラグサキュバスの街インラエンだ。
ベルン男爵領と極めて良好な関係を築くこのドラグサキュバスは、古神竜ドラゴンを崇め、ドラゴンの友であるマイラールやケイオスといった神々に対しても多大なる敬意を払っており、人間に対しても同じように友好的だ。
通常、サキュバスといえば個人単位ではともかく、種族単位で考えると捕食者と捕食対象の関係である為に、敵対関係にある。
その種族単位での例外であるドラグサキュバスは、極めて強力な種であり、彼女らの協力を得られた事は、カラヴィスタワー探索に於いて非常に心強い存在だ。
カラヴィスタワーの入り口からインラエンまでの道のりは、馬車が横に六台並んで走れる広さの街道で繋がれており、途中途中に体を休める為の無人の小屋や長椅子が置かれているのに加え、タワー内部の敵性存在が近寄らないように遠ざける結界が展開されている。
魔物に襲われても命からがら街道まで逃げ込めれば何とか助かる、と探索者達がタワー入り前に必ず受講させられる講座にて叩き込まれている程だ。
インラエンにはドラグサキュバスの他に彼女らの作りだした魔法生物が住人として生活しており、探索者達は彼女らの経営している宿屋や鍛冶工房を利用し、またベルン男爵領直営のタワー管理所インラエン支部が設けられている。
タワー入口の管理所本部以外にもこの支部で男爵領が仲介した民間からの依頼を受けられるし、またタワー内部で採取した探索物を金銭と交換も出来る。
現在、カラヴィスタワーは第二階層まで探索者達の足が届いているが、第二層は第一層から上がる巨大な螺旋階段のごく近辺のみ、第一層もインラエンを中心とした数日で辿りつける範囲に限られている。
第一層にしても未踏破の地域が広がっており、第二層より上層にある他のドラグサキュバスの都市には、誰もたどり着いていないという現状である。
ベルン男爵領側としてはまず第一層の探索と開拓を重視する方針を打ち出しており、第二層以上へは実力と実績を兼ね備えた精鋭の数が揃ってからの探索を考えている。
その為、インラエンに居を構えて第一層の探索に腰を据えている者が探索者のほとんどを占めており、今日も探索者のひよこが輝かしい未来を得るべく必死に努力していた。
ひよこ探索者達の中で、探索者歴こそ五十歩百歩だが、戦闘能力という点においては他の追随を許さないパーティーこそがドライセン達五名だ。
アークレスト王国や近隣諸国では名前の知られていなかったドライセンらは、南の海を渡って来た渡来の冒険者達という決して嘘ではない素性を表向きには伝えている。
探索者達の中で一目も二目も置かれるドライセン達も、インラエンに拠点を置いて長期探索を行っており、インラエン支部にはちょくちょく顔を見せている。
管理所インラエン支部はインラエンの中でもひと際巨大な十階建ての建物だ。探索者の為の訓練所や治療施設、資料施設、酒場など探索者向けの施設がいくつも併設されている。
インラエン支部の運営に関しては、ドラグサキュバス達の裁量に任せており、経理から営業、受付嬢に到るまで妖艶なるドラグサキュバス達が務めている。
彼女らの生み出した魔法生物でも十分にこなせる仕事だが、外部の人間との接触をドラグサキュバス達が求めている事もあり、対人業務は全てドラグサキュバス達が率先して行っているのだ。
肌の露出のない白と灰という地味な配色の制服に身を包むドラグサキュバス達は、異種族との共存の為に魅了の力を封じているが、それでも全員が個性の異なる圧倒的な美女だ。
その為に、支部に集まった探索者達は、年齢や種族、性別の区別なくほとんどが大なり小なり頬を染めて見惚れている有様だ。
魅了に対する耐性を備える魔法具や特殊な技術を習得していても、それらがドラグサキュバスを前に機能する事は滅多にない。
それらは外部からの能動的な干渉に対して反応するものだが、ドラグサキュバスの場合は単純に彼女ら自身が途方もなく美しく、ごく自然体で淫らであるから心を奪われるのだ。
ドラグサキュバスに見惚れるのは、雄大な自然や傑出した芸術品を目の当たりにした時に感動して心が震えるのと同じ現象なのである。
故にドラグサキュバスを前にして平静を保つには、本人の精神や理性が鋼鉄の強靭さを備えていなければならないのだ。
支部に併設されている酒場では、冒険者達が給仕をしているドラグサキュバス達にいちいち見惚れては口から酒を零しそうになったり、見当外れの場所をフォークで突いたりしている。
そんな探索者達の中には使い込んだ武器や佇まいからして歴戦の猛者もいるが、そのほとんどがドラグサキュバスを前にしてだらしない顔ばかり。
からんからん、と支部の入り口に設けられた鈴が軽やかな音を立てて開かれ、そこから顔を見せた一団の姿に、それまでだらしない顔をしていた探索者の全員に大なり小なりの緊張が走る。
冒険者や傭兵として著名な者も含まれる探索者達の中にあって、最強の一角として知られる白いドラゴニアンを筆頭とするパーティーが、相変わらず傷一つない姿で帰還したのだ。
なぜか、子犬のような印象を受ける、薄い茶髪の少年を連れて。
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第二百六十六話
扉を開いて入って来た新しい客達の姿に静まりかえっていた酒場兼食堂だが、それもすぐに音を取り戻して、あちこちでドライセンの連れている少年に対する推測やドラゴニアン達が今回持ち帰って来た成果に対する推測が交わされ始める。
インラエン周辺に限った話でも、塔の外で一般的な冒険者や傭兵として稼ぐよりも大金を稼ぐのにはるかに向いているのは、インラエンに三日も滞在すればまず誰でも理解できる。
その大金の稼ぎ方の中でも、特に桁違いの金額が動くのは塔の中に眠る宗教遺跡の発掘や未知の技術や物質で作られた神代や異界の品々だ。
その希少性に比例して入手は困難を極めるが、見事それを成し遂げてベルン男爵領から多大な報酬を得た実績を築いたのが、ドライセン達であった。
またこのカラヴィスタワーという特異な環境もあって、インラエンではドラグサキュバス達の鋳造した独自の貨幣が使用されており、アークレスト王国で使用されている貨幣と合わせて利用されている。
探索者達に関わりの深いところで言うと、ドラグサキュバス達からの依頼の報酬のほとんどにはこの独自貨幣である『ドラス』が用いられ、ベルン男爵領経由の依頼の報酬にはアークレスト王国の貨幣が用いられている。
ドライセンとジルグ達は岩窟鬼から採取した魔力を含んだ泥と岩窟鬼の体を構成していた岩石を換金するべく、酒場から殺到する視線を振り切って窓口側へと足を向ける。
ドライセンらは兎も角、戦士としても探索者としても新米がいいところのジルグなどは怯んでもよさそうなものだったが、周囲を超級の実力者達に囲まれている上に、リリエルティエルをうっとりと見つめている所為で、視線に伴う重圧に気付いていない。
九死に一生の所をドライセン達に救われた事と言い、妙な強運に恵まれているらしい。
酒場とは特に仕切りのない支部側へと足を踏み入れ、何人もの見目麗しいドラグサキュバス達が受付を受けている窓口に、ドライセン達とジルグはいったん別れて向かった。
今回、ジルグは特定の依頼を受けたのではなく魔物の素材を換金するべく、ヘグナヘル洞窟に潜ったので、そのまま袋に詰めた泥を受付のドラグサキュバスに提示する。
ドライセン達に救われた際に、彼らがその場で始末した岩窟鬼の泥や素材の提供の申し出もあったのだが、ジルグはこれを最低限持ち合わせていた矜持から丁重に礼を述べた上で断っており、あくまで自分が倒した岩窟鬼の分の素材のみを提出する。
あちこち泥だらけの傷だらけで、情けないところを見せたばかり。しかも圧倒的な力を前にして体の震えを隠せないジルグが、断る言葉を口にした時、ドライセンが少しだけ嬉しそうにしていたのを、この少年だけが知らない。
「ヨルエルさん、この分の換金をお願いします。岩窟鬼二体分の素材です」
ジルグが受付の机の上に置いたのは、探索者の身分を証明する金属板シーカープレートと黒い渦巻き模様のある茶色い皮の袋だった。
素材の回収や運搬用にインラエン支部や管理本部から供与されている魔法具で、見た目以上の収納量と収納した物体の重量を大幅に軽減してくれる、探索者にとって涙が出る程ありがたい品だ。
一流の魔法使いや錬金術師なら同じものを制作する事は出来るし、名の知れた冒険者や傭兵ならば同じ効果を持つ魔法道具を購入する事も出来るが、カラヴィスタワーに夢を見てやって来た田舎者やひよっこ探索者達からすれば、到底手に出来ない品でもある。
ジルグの選んだ窓口を担当しているドラグサキュバスは、色香が目に見えそうな程濃厚で、肌の露出の少ない制服に身を包んでいるのは共通しているが、春の日差しのように暖かな印象を受ける色素の薄い金の髪と穏和な印象を受ける下がり気味の目尻と翡翠色の瞳をしていた。
人類に対して友好的なドラグサキュバス達の中でも、とりわけ穏和な雰囲気を持っている為に、探索者達の中でもとりわけ冒険者や傭兵の経験もない新人に人気がある。
「はい、確かに受け取りました。岩窟鬼の泥、骨、外殻……残念、二体分には少しだけ足りないみたいですね。これが今回の報酬ね、一万八千ドラスよ」
ヨルエルが手元にあった箱型の物体にシーカープレートを差しこみ、箱の正面にはめ込まれているボタンを操作してから、シーカープレートをジルグに返却した。
このシーカープレートは所有者の氏名や顔、探索者としてのランク等の身分証明書としての機能に加えて、財布としての機能も併せ持っている。
「二体分には足りませんか」
傍目にも明らかに散歩に連れて行って貰えなかった犬のようにしょんぼりとするジルグを、ヨルエルは一瞬、涎が零れ落ちそうな顔になったが、すぐにそれを引き締めて偽りのない同情の顔を浮かべる。
新人探索者の少年少女達は美醜の区別なくヨルエルにとって目の保養だが、その中でもこのジルグはとびっきりのお気に入りだった。
いつか逞しく成長した姿を見せて欲しいような、このままどこか頼りない幼さを残し続けて欲しいような、そんな葛藤を抱く相手である。
「ジルグ君の力量と装備を考えたら、二体を倒せただけでも立派なものよ。幸い、装備を失くしているわけでもないようだし、補充する必要はないのでしょう? それなら今日はお腹いっぱい食べて、体を綺麗にして、ゆっくりと眠るのが一番よ。
疲労っていうのは意外と体に残るものだから、二、三日は戦闘以外の依頼をこなすか休むのをお勧めするわ」
「はい。今回もそうだったんですけれど、やっぱりナイフじゃ岩窟鬼とは戦い辛いですね。もっとハンマーみたいに相手を砕くような武器の方が相性は良さそうです。岩窟鬼ばっかりが敵じゃないのは分かっているんですけど」
「ジルグ君が足を運べる範囲で効率がいいのは、今のところヘグナヘルでの岩窟鬼狩りか土壌採取だものね。先に進めている実感がないと、随分と焦ってしまうでしょうけれど、今はしっかり腰を据えて進む為の準備をするのよ?」
「はい。そうですね。ぼくだけじゃなくって他にも一緒に戦ってくれる仲間を見つける事も、考えた方がいいかもしれませんね!」
そういってにっこりと笑うジルグの笑顔の眩しさに、ヨルエルは机の下に隠れてジルグからは見えない太ももを勢いよくすり合わせる。
全身で身悶えするのを、なんとか足だけに抑え込んだ彼女の努力は、同胞のドラグサキュバスからすれば拍手をしたくなる程のものだった。
「仲間と言えば、ジルグ君、ドライセンさ――ん達とはどこで出会ったの? たまたま一緒に入ってきただけなのかしら」
「ええっと、実は、ヘグナヘルでぼくがちょっと失敗した時に助けて貰ったんです」
「まあ、あれだけ慎重にやりなさいって口を酸っぱくしていったのに、ジルグ君たらポカをしたの!?」
「いや、ちょっと、その、二体目の岩窟鬼を仕留めた時に曲がり角の先に岩窟鬼の群れが居たのに気付かなくて、それに追いかけ回されて危ういところをですね……」
「ポカどころじゃないじゃない。もう! そんな幸運は滅多にないのですから、次はもっと慎重にやるのよ。冒険をするのは十分な準備と実力が揃ってから!」
幸いにしてカラヴィスタワーには安全装置『アリアドネ』がある為に、命を落とした探索者は新人の中にも居ないが、迷宮を探索中に落命に等しい事態に陥って、外の管理本部内に設けられた病院に転移した者は居る。
命こそ助かったが、その時の恐怖の体験が元で武器を手に出来なくなり、探索者を引退した者がその中には居た。
ヨルエルは、未来への夢と希望に瞳を輝かせるジルグがそうならないで欲しいと、ジルグが想像も出来ない位に強く想っていた。
「はい!」
勢いよく返事をするジルグが果たしてどこまでヨルエルの想いを理解していたものか。
ヨルエルは、あどけなさを残す子犬めいた少年を、この場で押し倒して裸にひん剥きたかったが、他の同僚達も同じように我慢している中で自分だけ抜け駆けは出来ないと、理性を総動員して刹那的な衝動を抑え込む。
探索者達からはドラグサキュバスの中でもとりわけ温厚で安全だ、と思われているヨルエルだが、実際には割とそうでもなかった。まあ、命の危険はないのだけれども。
「もう、本当に分かっているのかしら。でも、君の運は本当に強いわ。ドライセンさんとハンマさんは特に面倒見が良くて心配性だから、これから何くれとなくジルグ君の手助けをしてくれるわ。
あの方達、いえ、あの人達は実力も経験も他の探索者達とは隔絶した実力者よ。見本にするのには、全く向いていないけれど本当にどうしようもなくなった時に頼るのには、これ以上ない位にうってつけだから」
「大絶賛ですね。ぼくもタワーの中で一、二を争うパーティーだって聞いた事がありますよ!」
本当はぶっちぎりの一位なのだけれどね、とヨルエルは微笑みの裏で呟いた。タワーどころか世界中を見回しても、あの面々に勝る戦闘能力や探知能力を備えたパーティーは存在すまい。
「あら、君を呼んでいるみたいよ。この後、食事の約束でもしたの?」
「はい。出会ったのも何かの縁だからって」
「そう。あちらの方が探索者として先輩なのだし、遠慮なく甘えると良いわ」
はい、とヨルエルに頷き返し、トコトコとドライセン達の下へと向かうジルグの背を見送り、ヨルエルは他の探索者達には気付かれないようにこっそりとリリエルティエルを含むドライセン達に頭を下げた。
ジルグを窮地から助けた事それ自体にはなんら他意はないのだろうが、ドライセン達が関わった以上はただでは済まないだろう、とドラグサキュバスという新種族誕生の経緯を思い返しながら、ヨルエルはそう確信していた。
ジルグを含め、ドライセン、ハンマ、ドーベン、クイン、本名は明かさずにリリという愛称を告げたリリエルティエルが同席し、酒場側のテーブルに同席する。
酒場にたむろしていた探索者達のみならず給仕をしているドラグサキュバス達も、彼らのテーブルに意識と視線を集中させる。タワー内部で最も名の知れた探索者達と実績も何もない新米との相席が気になって仕方ないのである。
一方でジルグからすれば思わず女神かと呟いたリリが同じテーブルについている事態に、既に舞い上がって思考がふわふわとおぼつかない状態に陥っている。
周囲からの注目を気にしなくて済む、という意味では幸いと言えただろう。クインは元々の性格もあって、ジルグの同席を疎んでいる――のではなくそもそも眼中に入れず、注文したストロベリーシェイクをがぶ飲みしている。
全員の手に注文したビールやコーヒー、チョコレートドリンク等が行き渡ると、パーティーのまとめ役であるドライセンが音頭を取った。
「では無事に探索を終えられた事と新たな出会いを祝して、乾杯!」
乾杯とクイン以外の声が唱和して、全員がカップやジョッキに口を付けてから、それぞれの安堵の声が零れる。
厨房のドラグサキュバスや魔法生物の料理人達が次々と手早く注文の入った料理を作り上げ、ドライセン達のテーブルにもタワー内部に住む
いずれもこのタワー内部でのみ飲食できる品ばかり。場合によっては、値の付けられない料理もあるのだが、ジルグや探索者のほとんどはそれを知らない。
育ち盛りである上に体力仕事の探索者、それもヘグナヘル洞窟での切ったはったの後で、すっかりお腹の減っていたジルグが勢いよく料理をお腹の中におさめて行く。
ドライセンを始め、ジルグ以外の全員は存在の維持に飲食が必要ない事もあり、本当に美味しそうに飲んで食べるジルグの姿に、微笑ましいものを覚えていた。クインは、ま、別だが。
「ところでジルグ」
「んぐ、んん、は、はい」
「少し急かしたか、すまないな。なに、ヘグナヘルでは出来なかった世間話でもしようかと思っただけさ。君はこのタワーを一人で探索しているのか? 今日だけたまたま別行動だったか」
「いえ、ぼく一人です。田舎からはぼくだけで上がってきましたし、ここに来てからも一緒にパーティーを組んでくれる相手が見つからなくって。なので、今はぼく一人で出来るところまでやっていこうと頑張っています」
「ふぅむ、それで岩窟鬼と予想外の遭遇をしてあの事態に陥ったか。予想の範疇なら一人で対処できる実力はあっても、予想外の事態ではまだまだ無理があると言うわけだな」
「うう、自分の未熟さがお恥ずかしい限りです」
ヨルエルの前でそうしたように、ドライセンからの痛い指摘にジルグはしょんぼりと落ち込む。如何にも素朴で純真な少年だ。ドライセンやハンマにとって、好ましい人物の最上位に位置づけられる傾向にある。
「君のように一人でこのインラエンに来た者が、他にいくらでもいそうなものなのだけれどな」
ドライセンは竜の顔なりに困った表情を浮かべて、ポリポリと頬の鱗を鋭い爪で掻く。
少し考える素振りを見せてから、この管理支部とインラエンの管理を委ねられているリリエルティエルが口を開く。
「ドライセン様の言われる通りですが、引き手数多と言えるのは何かしらの技能を持つ者に限られます。
魔法が扱える者、精霊の声が聞こえる者、神の奇蹟を起こせる者、影働きに明るい者、戦士として経験を積んでいる者。
正直に告げるのは申し訳ないところもありますが、ジルグにはそういった特筆したものがないように見受けられます。正直に言えば、一番有り触れていて、目立つところのない者なのです」
一目見た瞬間から心を奪われていたリリからの容赦のない言葉に、ジルグはますますしょぼくれる。リリの言葉に申し訳なさが滲んでいるのが、余計にジルグには辛い。
今にも消えてしまいそうなジルグの様子に、給仕をしていたドラグサキュバス達が捕食者の目になるが、ごほん、と気まずそうなドライセンのわざとらしい咳が彼女達の正気を取り戻させる。
「村に居たアルデス神の神官様に剣を振る基礎は習ったんですけど、鍵を開けたりとかわなを見つけたりとか出来ませんし、魔法なんて以ての外です。リリさんの言う通り、このタワーの中では平凡中の平凡なので……」
どうも精神の方も未成熟なようで、いささか繊細過ぎるというか打たれ弱いらしい。これは言われた相手がジルグにとって悪すぎたのもあるが、これからのタワー探索の新しい芽には是非とも育ってほしいのが、ドライセンの偽らざる本音だ。
言葉を操るのが下手くそなドライセンなりに、ジルグを励まそうと口を開く。
「自分で自分の可能性を狭めるような事を口にしてどうする。君にはまだまだ多くの可能性があるとも。その可能性が眠っている扉を開く鍵は、自分自身の手で掴むしかない。
何時か、どこかで、誰かが鍵を与えてくれるのを待つだけの者には、そのような都合のよい機会など巡ってはこないものだ。
努力の全てが報われるものではない。徒労だった、無駄に終わったと感じる事もあるだろう。だが成果が実を結んだ者、結果を残した者は努力する事を止めなかった者達だ」
「努力する事を止めなかった……」
「ああ。あるいは結果が出るまでするのが努力だと考える事も出来るな。
こうまで言っておいてなんだが、努力の方向性を間違えると随分な回り道になるから、どうなりたくて、そうなるにはどうするのが良いのか、努力を始める前に考えるのも大切だ。
まだ出会ったばかりの私に言うのは気が引けるかもしれないが、君はここで何になりたい? ここでどうしたいのだ? 私達は、ま、老後の生活を送るのに必要な分の蓄えの確保かな」
「ドライセンさん達なら、もっと大きな事が出来そうですけど。……ぼくは、ぼくは名声を得たいです。たくさんの人にぼくの名前を知って貰って、歴史にだって名前を刻みたい。
ぼくの故郷は、その、滅んだとかじゃないんですけれど人がどんどん外に出て行って、隣のもっと大きな村に飲みこまれる形で消えてしまったんです。
新しい地図からはもう名前も消えてしまっています。でも、ぼくにとっては生まれ育った村ですから、思い入れがたくさんあります」
クインばかりはジルグの話に興味の『き』の字も見せていなかったが、ドライセン達が静かに聴き入っている状況の為、音を立てずに大蛇海老の身をほじくりだす作業に没頭する。
「ぼくの頭じゃどうやって村を再興しようとか、新しく村を作ってそこに同じ名前をつけようとか、どうしても思いつかなくって。せめてぼくがコサト、あ、ぼくの生まれ故郷の村の名前なんですけれど、そのコサトの名前を広めようって考えたんです」
ジルグがここまで語り、ドライセンは彼がどうして名声を得る事にこだわっているのかをおおよそ察した。故郷への思い入れという点では実に似通った二人だからこそ、というのもドライセンの察しの良さの理由の一つだろう。
「さしずめ、実績を重ねて二つ名でも広まる頃に、『コサトのジルグ』とでも名乗るつもりだったか。それなら、地図から消えても君の名前と共に故郷の名前が残る事になる」
「は、はい。その通りですけど、今日の感じだとまだまだ先になりそうです。でも、ドライセンの言う通り、ぼくは諦めません! まだこのタワーに来てから一カ月も経っていないんです。まだまだこれからですよ!」
「ふむ、その意気だな。なら一つ助言をしておこう。探索者の手引書に、インラエンの管理支部に支援要請をするのも一つの手だぞ」
「支援要請、ですか? 確か一カ月以上パーティーが組めなかったり、装備や財産がなくなったりした緊急事態なんかに助けてくれるっていう……」
「その支援要請だ。そうだったな、リリ?」
外の世界に存在する冒険者ギルドや迷宮都市よりも、随分と手厚いカラヴィスタワー管理支部の特徴の一つが、ドライセンの口にした『支援要請』だ。他にも特別な装備を一時的に貸し出しする『お試し体験』等もある。
アリアドネによる生命の保証とインラエンを始めとした迷宮内部の絶対安全圏を筆頭に、カラヴィスタワー探索における独自色は徐々に深まりつつあった。
「はい。もちろん、要請するしないは個々の判断によりますが、探索に行き詰まった時やこれからの自分の探索者としての将来に思い悩んだ時でも、何時でも受け付けていますよ。
将来に関わるような重大な内容でも、ささやかな事でも、何でも構いません。支援要請とは言いますが、お悩み相談と考えて貰っても構いませんし」
「ははは、はい。そ、そうですね。来週で一カ月が経ちますし、それまでにパーティーを組めないか、ヘグナヘルの探索に進展がなかったら、考えてみます」
「ふむ、年寄りの冷や水というものだ。頭の片隅にでも覚えておいてくれると嬉しい。君自身が本当に納得の行くまで考えて考えて、それから決断すると良い。そうすれば、少なくとも決断を他者に委ねた事への後悔だけはしないで済む」
「はい。自分でやれるだけやってそれでもどうしても駄目だった時に、頭から湯気が出る位に考えてみます」
素直にそう答えるジルグに、ドライセンは、そうか、と微笑のような短い呟きで答えるのだった。
*
そして、更に二週間後、支援要請を受けられる期間を一週間越えてから、ジルグは泣く泣くこの支援要請システムの利用に踏み切った。
ありゃまあ。
この二週間、ジルグは十分に安全を配慮した上でお金を稼ぐ事に奔走し、自分の装備と道具の充実に苦心し、並行して仲間探しを根気強く続けたのだが、前者は兎も角として後者はまったくもって上手く行かなかった。
ジルグが最善の努力をしたように、他の新人探索者達の多くも自分に出来る最善を尽くしており、全員が探索者として成長していた為、結局ジルグは平凡から一歩抜け出す事が叶わなかったのである。
努力するのがジルグだけでないのは、考えるまでもなく当たり前の事だったわけだ。
彼が悪いわけではないし、探索者全体を見れば平均的な力量が着実に向上しているので、管理側としては歓迎すべき状況だ。
惜しむらくはジルグに頭一つ抜けた何かしらの才能がなかった事だろう。
ただ、彼には窮地をドライセン達に救われた時のように、いよいよもって追いつめられると望外の幸運に恵まれる、という最悪への一線を越えない強運めいたものが確かに存在していた。
こうなったら背に腹は代えられないと決断を下し、恥を忍んでインラエン支部を訪れたジルグは、慈母の笑みを浮かべるヨルエルに支援要請システムの利用を申し込んだ。
半ばジルグの担当受付嬢の地位を強引に確保しているヨルエルにしてみれば、ここ最近のジルグの窮地は承知の上だから、支援要請システムの利用が申し込まれるのは時間の問題だと分かりきっていた。
「ヨルエルさ~~ん」
「はいはい、ジルグ君はとても頑張ったわ。まだまだ頑張りが結果には繋がっていないけれど、その過程はきちんと分かっていますよ」
「ありがとうございます~~~」
受付の窓口から支部の内部に在る個室に案内されたジルグは、対面のソファに腰かけたヨルエルの前で机に突っ伏して轟沈している。
ドライセンからの励ましもあって、今日に到るまでの彼の努力はまさしく彼なりに出来る全てを尽くしたと言えるものだったが、残念ながら状況を好転させるには到らなかった。
状況を維持できただけでも大したものだ、と彼の愛らしい仕草やらなんやらを抜きにしても、ドラグサキュバス達からの評価は高い。探索者を引退したら、私が養う、と宣言する者が複数いる位には、そっち方面の評価も高いけれども。
「ジルグ君の状況を手っ取り早く変えるには、やっぱり手札を増やす事ね。率直に言って仲間を得る事よ」
「うう、でも、今日まで色んな人に声を掛けてきましたけれど、だいたいパーティーが組まれているか、ぼくは必要ないって」
「それは、まあ、私も見ていたから分かるわ。ドライセンさん達なら貴方をパーティーに入れてくれる可能性もあるけれど、正直に言って、あの方達と肩を並べられる実力の探索者は、ジルグ君に限らず誰も居ないからパーティーを組まない方が貴方の為ね。
そういうわけで、今回はお試し体験と合わせて貴方には私達の方で、お試しとしてパーティーを組む相手を用意しました。ヴィテ、入りなさい」
「ええ?」
予想もしていなかったヨルエルの発言にジルグが思わず戸惑う間に、入って来た時とは別の個室の奥にある扉が開いて、ヨルエルと同じドラグサキュバスの少女が姿を見せる。
同年代の少年と比べて小柄なジルグとそう変わらない体格の少女だ。ドラグサキュバスの特徴である白い角や翼、尾は一回りも二回りも小さく可愛らしいサイズで、小麦色に焼けた肌はお臍や太もも、首周りが露出した黒い何かの革製らしい衣服で覆っている。
足元は脛までを覆う装甲を縫いつけたブーツで、指先から肘までは黒い手甲で守っている。武器はベルトの腰裏に括りつけた二振りの短剣だろう。
肩にかかる長さの金色の癖っ毛に、悪戯好きな猫を思わせる表情でジルグを値踏みしている。
「はぁい、あんたがジルグ? 私はヴィテラエル。皆はヴィテって呼ぶわ。これからしばらくお試しとして、あんたとパーティーを組む事になったドラグサキュバスよ。前衛、後衛だけじゃなく偵察、潜入、鍵開けまで何でもできるんだから!」
ドラグサキュバスには珍しい陽気で元気良い挨拶に、ジルグは豆を投げつけられた鳩のような顔をしていたが、本能的にヴィテとヨルエルのとある部分を見比べてこう思っていた。
あ、小さいな、と。もし口に出していたら、ジルグとヴィテの関係は初対面にして崩壊していただろう。
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第二百六十七話
アークレスト王国よりはるか東方、轟国だけでなく秋津国よりも更に東に広がる大海原の深奥にて、地上の者達が知れば深い絶望と恐怖の暗雲に飲み込まれるような戦いが勃発していた。
その戦いの結果次第では、海の世界に留まらず地上にも破滅を齎す規模のものであるからだ。
陽の光が届かない暗黒に閉ざされた深い、深い海の底。
長大な身体で膨大な量の海水を攪拌しながら、異種の者にも美しいと見える龍が四方へと轟く咆哮を放ち、この星に於いて最高峰の霊力が大海の全てを満たしつくす。
この星における最強戦力の一体、水龍皇龍吉だ。
龍吉の視線の先には、深紫色の鱗と粘液で巨体を覆い、吸盤の着いた触手の先に鮫や亀、烏賊に鯨など多種多様な頭を持った異形の怪物がいる。
海魔王の内の一体、ソブナブルである。既にソブナブルの眷属を始めとした海魔達は殲滅されており、そのソブナブルも龍吉の渾身の一撃を受けて既に絶命しており、急速に巨体を崩壊させている最中にある。
長らく海魔王の支配下にあった影響で汚辱された海域には、龍吉の他には高位の竜種やごく一部の魚人達からなる龍宮国の精鋭達の姿があった。
また、この他にも龍吉と肩を並べてソブナブルと戦っていた、
ミオカは、今はドランによって滅ぼされた海魔神と敵対する海の女神の眷属であり、ジガンテは海に住まう古巨人族の中で最も巨大な勢力の次期族長たる若者である。
これまで龍宮国が抑え込んでいた海魔王ネルトナの一派が完全に滅びた事で、龍吉達が残る六体の海魔王討伐に動く余裕が出来た事で、こうして他の海魔との敵対勢力と力を合わせて戦っていたのだ。
この惑星における海魔達の創造主である海魔神オクトゥルが完全に滅殺された影響で、海魔達の力そのものが著しく衰退している為、討伐は順調に進んでいる。
史上最強の水龍皇と言われる龍吉ならば、単独でも海魔王を相手に深手を負う事なく倒せる程に海魔達の弱体化は進行していた。
ましてや他勢力の最強格の戦士達と共に闘うとなれば、海魔王の討伐はまず確実であった。
「水龍皇様、相変わらずお見事なお手前でございますね」
ジガンテは心底からの敬意のみを込めて、龍吉に話しかける。通常の巨人族より遥かに巨大な一族の中でも体躯に恵まれ、人間の百倍近い身長を誇るこの青年は、誉れ高き水龍皇の事を幼少期から尊敬していた。
彼に限らず、古来より海魔と敵対する者達にとって、龍吉の名前とその実力は広く知れ渡っており、この反応はジガンテに限らず他の海月人や海巨人達にしても同じ事である。
「あらあら、私を褒めても何も出はしませんよ、若君。とはいえ褒められて悪い気は致しません」
戦闘直後とは思えぬ穏やかな龍吉の反応に、ジガンテは破顔する。尊敬する最強の戦士からの反応なら、なんであれ喜ぶ純粋さの滲む笑みであった。
「ジガンテ殿はまことに龍吉殿に懐いている。ふふ、傍から見ていてなんと微笑ましい」
「ミオカ様、そうからかわんでください。宿敵を倒せた事もあって、いささか気が弛んでしまったようです」
「宿敵の滅びる様を目の当たりにして喜ばしいのは、私にしても同じ事。龍吉殿、この度の御助力、まことにかたじけない。貴女と貴国のお力によって、大した被害もなくソブナブル共を滅ぼせました。
これで残る海魔王はただ一体。もはやこの星における海魔の命運は風前の灯火。油断は禁物だが、海の者達は宿願を果たす時は間近であると、肩の荷を下ろす用意を始めている」
巨大な半透明の女王の言う通り、この星に海魔達が出現してより海に生きる者達が願い続けた積年の宿願は、もう間もなく果たされようとしている。
そしてそれには目の前の水龍皇龍吉という圧倒的な力の存在が、極めて重要な鍵であった。
「私の次の代に、娘に海魔達との戦いの重責を負わせずに済ませられると思えば、私もつい安堵せずにはおられませぬから、ミオカ殿の言われる事はよく分かりますよ」
「貴国で次の代となると瑠禹皇女の事ですね。そう、そう言えばその瑠禹皇女は、今はどちらにおられるのですか? 先の海魔王テスカルパトーラとの戦いまでは共に戦場に立っておられましたが?」
「あの娘はとある場所に修業に出しております。修行と言ってはいささか言い過ぎかもしれませんが、今後、地上の同胞との付き合い方もいささか変わる予定ですので、事前に知己を得て、見識を広めてられるようにと考えたものですから」
「瑠禹皇女が修行ですか。他の三竜帝三龍皇のところでしょうか?」
「いえ、ミオカ殿の考えている場所とは随分と違う場所ですよ。地上でいささか戦火の兆しが見えている場所がありまして、そこに私達も一枚噛む事になるのです。その場所の名前は──」
龍吉は自分よりもいくらか自由な立場である為に、娘を地上に送り出せた場所の名を少しだけ羨ましそうに、戦友達に告げるのだった。
*
インラエン探索者管理支部には、登録している探索者向けの訓練所が何箇所か併設されている。
ドラグサキュバス達の高次存在として保有する膨大な魔力と権能によって、ほぼ無制限に訓練用の魔物が用意され、戦いに不慣れな新人探索者や新しい武器や魔法を確かめたい者達が頻繁に利用している。
土の上に砂を撒いた円形の訓練場の一つに、ドライセン達と縁を結んだ新人探索者ジルグと彼の新たな仲間候補ヴィテラエルの姿があった。
訓練場の地下と天井に内蔵された魔法装置と魔力によって稼働するクレイゴーレム達の残骸が、訓練場の上に何体分も転がっている。他にも剣や盾で武装した木製の人形の残骸もある。
「まったく、ジルグは本当にタワーに入る前に、訓練を受けてきたの? よく今日まで生きて来られたわね。アリアドネがあるから命は保証されているとはいえ、もう探索者を諦めていてもおかしくないんじゃない?」
インラエンの管理所から派遣されたドラグサキュバスのヴィテラエルことヴィテは、控えめに言っても口が達者で小生意気な女の子だった。
ジルグは言われている事はまったくもってその通りで、反論できる要素がほとんどないものだから、閉口してしまって上手く反論できずにいる。
お互いの実力を知る為に、とジルグとヴィテはヨルエルが確保してくれていた訓練場に足を運んだのだが、ジルグが一体のゴーレムに苦戦している間にヴィテは他のゴーレムと人形を殲滅し終えて、暇そうにゴーレムの残骸に腰かけている。
ジルグがひいひい言いながら、どうにかこうにかゴーレムを一体倒したのに、ヴィテなどは即興で鼻歌を歌う余裕さえある。
「ひいひい、ヴぃ、ヴィテは強いんだね」
ヴィテの見た目はジルグよりも一つ二つ幼く、外見は全く違うが、妹と言っても差し支えのないものだというのに、中身の方はまるで次元が違う。
ジルグは一流には程遠い未熟者だったが、そんな彼でもはっきりと分かる程、ヴィテの戦闘能力は桁外れだ。文字通り到達している領域が違うと言わざるを得ない。
相手が自分よりも幼げな女の子である事もあり、ジルグとしては内心忸怩たるものが溢れかえらんばかりだが、だからといってそれを表に出すのは恥ずかしい事だと思春期の少年は苦笑いで抑え込んでいる。
ヴィテの方は長命なドラグサキュバスであるから、外見に反して成熟していてもおかしくはないのだが、どうにもジルグの微妙かつ複雑な年頃の内面を理解できていないのか、ジルグを見る目はいささか厳しい。
「私はこれでもドラグサキュバスだもの。基本的に地上に住んでいる種族の人達より基本性能が高いの。私じゃなくてもヨルエル姉様だって、給仕をしているアサエル姉様だって、解体場のユウエル姉様だって、というかドラグサキュバスなら誰だって出来るわ」
「ええ、君達ってそんなに強いの!?」
ジルグの認識ではこれまでドラグサキュバス達はやたらと色っぽくて親切なお姉さん、というのがほとんどを占めるものであったから、彼女らの戦闘能力まで気にした事がなかった。
そこにこのヴィテの告白は、非常に大きな衝撃を伴っていた。あの人も、あの人も、あの人も、皆が自分よりもよっぽど強いというのは、ジルグのような少年でなくても衝撃的だろう。
ヴィテはジルグの驚いた様子が小気味良かったのか、フフン、と自慢たっぷりに鼻を鳴らしてから薄い胸板を張る。
「強いんです~」
「はあ、なんだか一気に価値観をひっくり返されたっていうか、本当に驚きだなあ」
「まあ、ただのサキュバスだったらもっと弱いけどね。私達にはドラゴン様の恩寵があるから、本来なら勝てないような格上の神性とも結構いい勝負が出来るようになっているわけ。
人間もそうだけど、地上の種族が本気で喧嘩を売ってもしょうがない相手だったりするの。力の事がなくても、タワーの探索者でインラエンを運営している私達に喧嘩を吹っ掛ける奴なんて、よっぽど頭の中がお花畑じゃないとあり得ないでしょうけど」
確かに、ジルグが知る限りでもドラグサキュバスに喧嘩を吹っ掛けるような輩は、これまで一度として見た事がない。
たまに酒を飲み過ぎて悪い酔い方をしてしまった男女が、ドラグサキュバスに声を掛ける場面には遭遇したが、ドラグサキュバスからすれば酒精が入り意思の弱まった人間等、赤子の手を捻るよりも簡単にあしらえる。
ジルグだけでなく素面の探索者達が助けに入る間もなく穏便に片付くので、刃傷沙汰は目下発生していない。
「なんだかヨルエルさんにとんでもない助っ人を用意して貰えたんだって、今更理解できたよ」
「ようやく私の価値が分かった? まったく、一目でそれ位分かって貰えないと困っちゃうわ。でもまあ、ヨルエル姉様を始め、お姉様方は皆、探索者とは仲良くしたいと願っているから、そんなに気にしなくて大丈夫よ。
もし恩義なんてものを砂粒ひとつ分くらいでも感じているのなら、これから出来るだけ長く探索者として活躍して、出来るだけ長く生きて。特に長生きの方が重要ね」
「うん、ぼくだって死にたいなんて欠片も思っちゃいないよ。故郷の名前を広める為にも、このタワーの事をもっと知る為にも、まだまだ長生きして頑張らないといけないんだから!」
「その意気、その意気。取りあえず私のお試し期間は一カ月。その間に経験を積んで、他の探索者とパーティーを組める位の価値を身につけるのを目標にして頑張るのよ?」
「お試し期間が終わったら、ヴィテはまた他の誰かと組むの?」
「一応、その予定。それが私のお仕事だし。それとジルグと組むのが私の初仕事でもあるのよ。今回、人間と組んでみてどうだったかっていうのを伝えるのも、私の仕事の内の一つね。
今後、恒常的に助っ人を推薦するとして、推薦する相手の条件を詳細に調べている最中ってわけね。私はその試金石の内の一つなの」
「そっか、タワーが開かれてからまだ一年も経っていないもんね。まだ色々と手探りなんだ」
「そういう事よ。くどいようだけれど、ジルグはドラグサキュバスと探索者の今後とかは深く考えないで、自分の出来る事とやりたい事を精一杯考えればいいのよ。変に気負うとただでさえ低い実力がろくに発揮できなくなっちゃんだから」
「うぐ、事実だけど、ヴィテは本当に容赦ない事を言うなぁ!」
流石に堪らずジルグが半泣きになりながら声を大にして告げれば、ヴィテはジルグの反応が意外だったのか、少しだけ驚いた表情になる。
どうもこのドラグサキュバスの少女の辛辣な言葉選びは、ジルグを貶す意図等はなかったらしい。余計に悪い、と受け取る事も出来るのが、頭の痛いところだ。
「ごめんなさい、思った事をすぐに口に出すのが私なの。それにまだちょっと人間相手の機微っていうのが良く分からないのよね。そこを調べるのも私の仕事なのだけれど、生まれたばかりだから、大目に見てくれると嬉しいわ」
ジルグはヴィテの言葉の中に聞き逃す事の出来ない単語が耳に残っており、それを確かめずには居られなかった。
ドラグサキュバスだけでなくサキュバスの生態について明るいわけではないが、いやいや、まさか、と思いながらジルグは問う。
「ねえ、ヴィテ。生まれたばかりだって言うけれど、何歳位なの? ぼくには十二、三歳位に見えるよ」
「やだ、女性に歳を聞かないでよ。まあ、私の場合は良いけど。今日で生まれて七日よ」
「七日!? そこはせめて七歳、いや、七歳でも幼いけど、七日、七日なの? 七千日とか、七百日とかでもなくて!?」
「しつっこいなあ。七日ですよ、『なのか』、七日目ですよーだ。どれくらいの速さで成長するのかは、個体や生まれた時の状況で変わるけれど、私は特別早い方ね。生まれて四日目位にはもうこの姿まで成長していたし」
ジルグにはまだ伝えていないが、ヴィテラエルはドラグサキュバスの中でもまだ数の少ない『新世代』に属する個体だ。
ドラグサキュバスは通常のサキュバスだった者達が、自主的に魂の深奥にて古神竜ドラゴンの力と属性に染まる事で転生した存在だ。
これに対してヴィテラエル達新世代のドラグサキュバス達は、全員が最初からドラグサキュバスとしてリリエルティエルによって生み出されている。
その為、誕生から一年を越えた者達すらいない状態だ。その中でも生まれて七日目のヴィテラエルは特に幼い個体である。
新世代の誕生経緯はドラグサキュバスという新種族の仲間を増やすという単純明快な理由の他に、通常のサキュバスよりも人間に対して友好的な態度を取る仲間を増やして人間を筆頭とする多種族との交流を円滑に進めようという考えがあっての事だ。
サキュバスとして、抑えようとしても自然と溢れ出る魅力で他種族を翻弄する生態が残るこれまでのドラグサキュバスに対し、新世代のドラグサキュバス達はこの魅力や魅了の力をより繊細に制御できるよう調整もされており、他種族と共存共栄の試金石としての役割も持つ。
「私が七歳でも七十歳でも構わないでしょ。あんたがしなきゃいけない事にはなんにも関係ないんですもの。
訓練場でしばらく鍛えるのもいいし、管理支部の方で用意している簡単な仕事を受けて、良い装備を揃えるお金を工面するのもいいわ。仕事は私も手伝うし、何なら戦い方だって教えてあげる!」
「ええ、そりゃあ、君の方がぼくより強いけどさ……」
「なあに、自分より年下の女の子に戦い方を教わるのが嫌なの? えっと、なんだっけ、男の子って見栄っ張りだっていうから、それ? そこは私が強要出来る話じゃないけど、目的とその為にどこまで出来るかを一回考えてみて、それから決めたら?
さって、まずはお風呂で汚れを落としましょ。それから食堂でご飯食べて、ジルグの部屋に戻って今後の予定をざっと確認し直しね。一カ月をあんたがどう過ごしたいか、それで私の過ごし方も変わるんだから、真面目に話すわよ」
「う、うん」
このカラヴィスタワーに来る以前から名を馳せていた傭兵や冒険者出身の探索者達は、インラエン内部で格安の値段で提供されている戸建ての家屋や集合住宅を丸ごと借り上げて拠点としている。
それに対してジルグのような底辺探索者は、インラエンの管理支部が用意してくれた家賃なし、風呂共同、トイレ・洗面台・朝食付きの集合住宅で暮らしている。
目下、インラエンではこの集合住宅を出て、自分の力だけで住居を確保する事が一人前の探索者としての境目であるという認識が広がっている。
ジルグの部屋の左隣の空き部屋へヴィテが入室し、二人は仲良くお隣さんとして、仲間候補として残る一ヵ月のお試し期間を過ごす事となった。
*
それから数日後の事である。
ジルグは恥を忍んでヴィテに戦い方の教授を受けつつ、生活費と今後の装備の一新を考えての資金稼ぎを可能な限り両立させる、というかなりの重労働生活に挑んでいた。
昨夜もヘグナヘル洞窟の岩窟鬼相手に死闘を繰り広げ、集合住宅に戻って体を休めてからはヴィテに戦い方の教えを請い、くたくたに疲れ果てて泥のように眠った。
幸いにして初心者探索者向けの集合住宅には、打ち身や擦り傷、内出血に効果抜群の軟膏や飲み薬型のポーションが週に一度、居住者に配給されており、それを使う事で昨日の怪我はほとんど癒えて、疲労も抜けている。
ジルグがこのインラエンという至れり尽くせりの環境に助けられているのに対して、ヴィテはというと元々の実力の高さと、ドラグサキュバスとしての身体能力の高さから疲労の影など何処にもありはしない健康優良児だ。
今日も今日とてインラエン外部に広がる迷宮攻略の為の、中継地点設営用の資材や食糧輸送の護衛の仕事を引き受けていた。
インラエンは探索者の拠点として申し分のない場所ではあるが、広大な第一階層を探索し尽くすにはより多くの場所に中継地点となる集落の建設は必須で、インラエンから放射状に広がりつつある石畳の道の先で、少しずつ集落が建設されつつある。
建設に従事している者の多くはドラグサキュバスの作りだした魔法生物達だが、中にはいざ実戦となって尻込みしてしまい、戦えなくなってしまった探索者達もそれなりに含まれている。
ドラグサキュバス達はそういった戦えない探索者達がインラエンで暮らしていけるように、わざと非効率な仕事を創出し、探索者達に生きる糧を与えていた。
「今日は随分と多くの探索者が参加しているんだなあ」
輸送隊の出発地点であるインラエンの西のはずれに足を運んだジルグは、同じ仕事を引き受けた五十名近い探索者達の姿についつい感嘆の吐息を零す。
建設地点に運ぶ食糧や資材各種は、浮遊の魔法が付与された車輪のない荷車十台に分配して積み込まれている。
それをドラグサキュバス達が生み出した、犀によく似た魔法生物が二頭ずつ牽引していて、この荷台の積み荷がジルグ達の護衛対象というわけだ。
「御者が居ないけど、この子達は道を分かっているのかな?」
自分よりも遥かに強そうな犀モドキを見て、目を輝かせているジルグの質問に、ヴィテは好奇心旺盛な弟を持った姉の気分で答えた。
「荷台を引いているのは、レクスライノっていう魔法生物よ。基本的に温厚で賢いし、簡単な道なら一度通れば覚えてくれるの。それでもまあ、念の為に先導役のお姉様はいるけどね」
「半日で着く場所なんだよね。ぼく、インラエンを離れて別の街に行くのは初めてだから、ちょっと楽しみだ」
「私もインラエン以外の場所は、迷宮位しか知らないから、ジルグと変わらないわ。でも、これから行くところはまだまだ街づくりを始めたばかりで、そんなに見て楽しいものはないかも」
「それでもいいよ。街づくりの過程っていうのも見た事ないんだから!」
「ん~、そういう考え方もあるかあ。どっちにしろ今回はジルグでも受けられる位に簡単なお仕事だから、襲ってくる魔物も大した事ないし、気楽に行きましょ」
「ふふ、ヴィテって、ぼくにしょっちゅう気楽にって言うよね。意識しているのかは知らないけれど、君なりにぼくの緊張を緩めようとしてくれているって、昨日、寝る時に気付いたよ。ありがとう」
「ええ~? そうかなあ? 折角の初仕事だから自分なりに頑張ろうとは思っているけど……」
ジルグの指摘はヴィテにとって心底意外だったらしく、その場でうんうんと唸りながら考え込み始める。
ジルグにしてもそうだといいなぁ、という願望交じりの台詞であったから、ここまでヴィテが悩み出すとは少しだけ意外であった。
言うにしてももっと違う時にすればよかったかな、ジルグが反省しつつ改めて周囲を見渡すと、その中に大変にお世話になった者達の姿が混じっているのに気付く。
「ああ、ドライセンさん!」
「ん? おお、ジルグか。それにドラグサキュバスの子は、管理支部からの助っ人かな?」
「はい、ヴィテっていう子なんですけど、ぼくよりもうんと強いし、インラエンの事には詳しいしで、何だか情けない限りです。今日はハンマさん達以外にもドラゴニアンの方達と一緒なんですね」
ジルグの視線はハンマやドーベン、クイン以外にも数名のドラゴニアン達が、ドライセンを中心として集まっている姿を映し出していた。
ドライセンとクイン以外は他種族で構成されたパーティーだった筈だが、他にも何人ものドラゴニアン達が居り、周囲の探索者達から好奇心と畏怖の視線を槍衾のように向けられている。
「私の知り合いの者達だ。彼らのちょっとした肩慣らしと親交を深めるのに、ここはちょうど良い場所だったから、案内して来たのさ。探索者として本腰を入れて活動するわけではないから、あまり目くじらを立てないでくれると嬉しいな」
そう告げるドライセンの周囲に固まっているドラゴニアン達の中には、水龍皇龍吉の娘、瑠禹の姿を始め、深紅竜のヴァジェにモレス山脈の竜達の姿もまたあるのだった。
なおヴィテはドライセンの存在を認識した瞬間から、呼吸を忘れてその場で硬直してしまっている。
ドラグサキュバスの中でも新世代の個体は、ドライセンの大元が居なければ存在し得なかったわけだから、ドラグサキュバス達の中でもひと際ドライセン並びに古神竜ドラゴンへの崇敬の念が強いが故の反応だった。
ヴィテが自力で再起動する様子は見受けられないから、彼女が正気に戻るにはどうしてもジルグに気付いて貰う他ないのだが、ジルグは恩人との会話に夢中でもう少し掛りそうだ。
その間にもヴィテの精神と肉体は大混乱を起こしているのだが、ま、たまにはこういう事もあるだろう。
《続く》
■ジルグ
レベル4
■ヴィテ
レベル1~999(手加減)
■ドライセンおよび愉快な仲間達
レベルの概念を超越している。レベルで表現できる強さでは勝負にもならない。
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第二百六十八話
カラヴィスタワーに足を踏み入れた竜種は瑠禹とヴァジェ、クラウボルト、ウィンシャンテ、それにファイオラの娘であるフレアラの五名である。
いずれも知恵ある竜ないしは古竜に属する個体である為、その戦闘能力はドライセンと愉快な仲間達以外の探索者では歯が立つものではない。
瑠禹とヴァジェを除いた竜種の若者達は、ドライセンを始めクインらの正体を知っているわけではないが、自分達よりも遥かに高位の竜種の関係者であると弁えている為、愉快な仲間達を含めて接する態度には敬意が満ち溢れている。
そんな彼らもドライセンに親しげに話しかけるジルグの存在には、少しだけ眉を動かすなりの反応を見せたが、声を荒立てる必要はないと静観の構えだ。
「ドラゴニアンの方達も探索者なんですか?」
「いや、彼女らはあくまでもこのタワーの見学というのが正しいな。本人達の希望次第では探索者になる道もあるだろうが、今回は見学が主目的だよ」
「それじゃあ、ドライセンさん達が案内役なんですね。豪華な案内役だなあ」
ドライセンらは目下、探索者の中で最も知名度が高く、最強の一角に数えられる探索者達だ。その彼らが案内役をする、というのはジルグからすれば何とも宝の持ち腐れであるように感じられる。
ドライセン程凄い探索者達であるのなら、とてつもない怪物を相手に英雄的な戦いをするだとか、何百、何千もの人命を救う偉業を成すだとか、あるいはジルグの想像力では思いもつかない行いに関わっていて欲しいと無意識に望んでいる為でもある。
「豪華も何も君も私も探索者としての位階は大して変わらないだろう。君は二つ星、私達は三つ星。星一つ分しか探索者としての位階は違わない」
ドライセンの言う二つ星、三つ星というのは探索者としての位階を示すものであり、これまでの実績や戦闘能力、探索者としての経歴等を判断材料として、探索者管理所から付与される。
ベルン男爵領の首脳陣はカラヴィスタワーの運営にあたり、既存の傭兵ギルドや冒険者ギルド等が有する等級や位階を示す制度を参考にし、星の数で位階を示す制度を導入している。
『一つ星』は探索者になったばかりの本当の新人達に与えられるもので、ジルグの『二つ星』はそこから一定の基準を越えた成果を残し、かつ探索者として生活を維持できている者に与えられる。かろうじて一人前という評価になるだろうか。
今のところ、探索者という制度自体が始まったばかりである為、最も実績を積み重ねていて、かつ実力を持つドライセン達であっても最大七つ星とされる中でも、三つ星という評価に落ちついている。
「何を言っているんですか、本当ならドライセンさん達は全員七つ星が正統な評価ですよ! もっと早く探索者の制度が出来あがっていたら、今みたいな手探り状態じゃなくて評価も早く下されたんのでしょうけれど」
「ははは、君の目には実際の私達よりも随分と美化されたものが映っているらしいな。まあ、若者に評価されるのは気分が良いものだ。せめて、君を失望させないように励んでみようかね」
「ドライセンさん達がそんな失敗をする姿なんて、ぼくには想像も出来ませんよ!」
「分からないぞ。この塔はまだまだ探索の手の及んでいないところが無数にある。その中に、私達の足を掬う『何か』があるかもしれないぞ。
『安全な場所だった筈なのに』、『どうしてここにこんな奴が』と口にするような事態に陥る事もあるだろう。
肝心なのは、そのような危難に出くわしても立て直せる準備を常に怠らない事だよ。私達もいざという事態を想定して、色々と手は打っている。ジルグも長く探索者として活動してゆくのなら、事前の準備を疎かにしないようにしなさい」
「はい!」
我ながら説教臭くなってしまったな、と反省するドライセンだが、実際のところでは既にカラヴィスタワー内部は神々との共同調査で済ませており、管理を任せたドラグサキュバス達の手に余るような存在や技術に関しては対処済みとなっている。
現状、カラヴィスタワー内における最大勢力と最強の戦闘能力を兼ね備えているのが、リリエルティエルらなのである。
その為、リリエルティエル達で対処できるカラヴィスタワー内部の障害なら、より上位の存在であるドライセン達に対処できない筈がない。
もっと言えば、カラヴィスタワーの内部構造とて、ドライセン達は把握しているのだから。
そんな事は露とも知らぬジルグは、尊敬する探索者からの助言を受けて、顔を輝かせている。その輝きは、ドライセンには少なからず眩しく感じられ、同時に罪悪感を刺激するものだった。
「そうそう君の助っ人だが、上手くやれているのか?」
「ヴィテですか? あはは、ぼくが色々と未熟だからいつも文句を言われています。それだって、ぼくが一人前の探索者としてやってゆく為に、必要な事ばかりだって、頭では分かっているんです」
そう言って少し気まずそうな顔を作るジルグに、ドライセンは年頃の少年にはキツイ相手だったか、と同情の念を寄せた。
ヴィテとジルグは共に外見から年齢を判断するならば、思春期と反抗期の重なり合う繊細な年頃の少年少女だ。
それが自分の力だけを頼りに生活する場所に放り込まれて、ほぼ一日中顔を合わせるとなれば、歯車が噛み合うまで衝突する事も多いだろうし、内心では思うところだって積み重なってゆくだろう。
「正論だからといって全てが受け入れられるものでもない。言い方やその時の雰囲気というのも、厄介な事に大いに影響があるものだ。
ましてや君とあの子とでは、気難しい年頃の組み合わせになる。期間限定の相棒として過ごすだけなら本心を繕い続けても構うまいが、今後も共に肩を並べたいと考えるなら、貯め込み過ぎない内に本心をぶつけるのも良いぞ」
人並みの助言ではあるが、ドライセンに心酔しているジルグからすれば他の誰かに言われるよりもよっぽど効果は大きかった。
反論の『は』の一字を舌の上に乗せる事もせず、ただただ顔を輝かせて頷き返すばかり。
ベルン男爵領も田舎だが、それ以上の田舎から出てきた純朴な少年は、まだまだ他人を疑うという事を知らない。
インラエンのドラグサキュバス達がジルグを騙す事はあるまいが、他の探索者達や出入りしている探索者以外の者達までもが、純朴な少年に友好的かつ好意的な者達ばかりとは限らない。
いつかこの子が痛い目に遭わないと良い、とドライセンはセリナと初めて出会った時と同じような感想を抱く。助っ人であるヴィテが隣に居る内なら安心できるが、ヴィテが傍を離れた後はどうにも不安だ。
「そうだ、ヴィテ、いつまで黙っているんだい? 物怖じしない君らしくないね」
何時もならふてぶてしい態度で自己紹介くらいしているのに、その気配が一切ないヴィテに、ジルグが不思議そうな顔をして背後を振り返る。
ジルグよりも幼いが遥かに優れた戦闘能力と知性を持つ少女は、先程からドライセンとその仲間達を見たまま固まっている。ジルグは初めて見るヴィテの姿に、疑問符で心中を満たした。
「ヴィテ、本当にどうしたんだい?」
流石に訝しむジルグが肩を揺さぶると、ようやくヴィテは正気に返ったが、傍目にも明らかに動揺した様子であたふたし始める。この姿だけを見れば年相応の女の子だ。
「い、いいえ、べべべ別にぃ!? ま、まあ? 流石のあたしもインラエンでも有名なドライセンさ――ん達を目の当たりにすれば、驚く位はするし?」
「そう? ヴィテなら気にしなそうだし、ドラグサキュバスならドライセンさん達を見た事くらいあってもおかしく、ああ、そっか、ヴィテはまだ生まれたばかりだもんね。それなら見た事が無くても仕方ないか」
「そうそうそう、そうなの! あはは、ジルグにしては冴えている。そういうわけで、はしたなく慌ててしまったの! あっはっは、恥ずかしいところを見せちゃったなあ!」
自ら怪しいと自白しているようなヴィテの態度だが、ジルグはヴィテの珍しい姿が見られたなぁ、と呑気な感想を抱くきりだ。ドライセンはといえば、ヴィテがそのような態度を取る理由が察せられて、真相を知らぬはジルグばかりだと苦笑い。
「私達も有名になったものだ。ふふ、ヴィテと言ったね」
「はは、はひ。ヴィテラエルでヴィテでしゅ」
生まれた時からドラグサキュバスのヴィテからすれば、ドライセンならびにドライセンの大元は誕生の理由であり父親と呼んでもそう間違いではない存在だ。
なまじヴィテ自身が神域に居るべき存在である為に、ドライセンの実物を前にして高次存在としての格の違いもはっきりと分かり、ヴィテは余計に緊張に凝り固まる他ない。
「このタワーそれ自体を構成しているものは、古いものばかりだが、その中にあって君のようなドラグサキュバスや探索者は歓迎すべき新しい変化だ。君達には是非ともタワーの中で頑張ってほしいと思っている」
「はい、はい! ぜん、全力を尽くします!!」
「気合を入れるのはよいが、無理をしない程度にな」
ヴィテのやる気が炎となって全身から立ち昇りそうな様子に、ドライセンはどうもドラグサキュバスの新世代達には、レニーアやクロノメイズを相手にする時の心構えが必要らしいと悟る。
レニーア達同様にドラグサキュバス達はドライセンならびにその大元に対して、いささか盲目的に過ぎる。
「まあ、今日はこの輸送隊を建設現場まで集団で護衛してゆく仕事だ。そう構えずに行こう」
これ以上、自分と面と向き合わせてはヴィテの神経に毒だ、と判断したドライセンが会話を切り上げて、事前に指定された輸送隊の護衛位置に移動し始める。
ジルグはしばらくの間、背を向けるドライセン達に手を振ってから、ヴィテを伴って輸送隊の真ん中、左側の位置に移動する。
「それにしてもヴィテがあんなに緊張するなんて、ふふ、珍しいものが見られたなあ」
「もう、そんなにいじらないでよ。あたしだって緊張する相手はいるの。リリ様とか一部のお姉様達とか」
「別に悪く言っているつもりはないよ。ヴィテにもそういうところはあるんだって分かって、ぼくは嬉しいよ?」
「別にジルグを喜ばせる為にあたふたしたわけじゃないし」
ぷくっと頬を膨らませて拗ねるヴィテの姿がますます年相応に幼いものだから、ジルグは悪いと思いつつも笑うのを堪え切れなかった。
それからの輸送隊の道中では、何人もの手で切り開かれ、踏み均され、経年劣化を防ぐ特殊な処理の施された黒曜石が敷き詰められた黒い道は、それを初めて見るジルグや他の探索者の一部を驚嘆させたが何かしらの異常事態が生じる事はなかった。
以前から出没の確認されていたタワーの魔物達による襲撃こそあれ、死者を出す事もなく無事に建設現場へと辿りつけたのである。
輸送隊の護衛中に遭遇した魔物に関しては、時間の許す限りにおいて倒した探索者が回収する事が許されているものの、建設現場へ輸送隊を送り届ける事が最優先の仕事である為、何割かはその場に残されて、ジルグ達に勿体ないという思わせる原因となった。
幾度かの休憩を挟んだ後に、朝方にインラエンを出立した輸送隊は夕刻を迎える頃に建設現場に到着した。
タワー内部の日照は第一層の天井それ自体が外部の日照と連動して発光を行う為、第一層に限ってはタワーの内外で時間の齟齬というものは生じない。
建設現場で働いている者のほとんどは人間に酷似した魔法生物が行っているが、中には戦いを離れたがタワーには残った探索者達も混じっている。
彼らが建設中の街は、水道管を地中に巡らせ、土を削るないしは盛って凹凸をなくす等の作業をおおむね終えていて、ドラグサキュバス達が用意した加工済みの石材や木材で家を建てる段階に入っていた。
輸送物資の届け先である作業場の奥にある資材置き場で、帰りも輸送隊の護衛を行う者とここに残って周囲の探索を行う者とに分かれる。
ジルグとドライセン達は後者に属し、ドライセン達はさらに遠方への探索に赴き、ジルグ達はこの周囲で観光を兼ねた腕試しを行う予定だ。
探索者達に至れり尽くせりのインラエンの配慮で、今回の輸送隊の護衛に就いた探索者達は作業員の居住区画に無償で宿と食事が用意されており、ジルグとヴィテもこの恩恵にあずかった。
用意された宿の一つである小屋の窓辺に腰かけたヴィテが、窓の外から見える建設現場に視線を向けて、ドラグサキュバスの伝手で知っている情報をジルグに語りかける。
夕焼けの光を浴びて燃えるように橙色の包まれるヴィテの姿に、ジルグは黙っていればとんでもなく可愛いなあ、としか感想が思い浮かばず、ヴィテの話を半分程しか聞いていない。
「ここはゼクシスタという名前の街になる予定の場所ね。ラクイシ渓谷やオウトッツ丘陵地帯にズシム湿原と色々な場所へ続く中継地点だから、ここに安全地帯が用意される意義はとっても大きいわ」
「うん」
「気候も地形も出没する魔物もまるで別物の場所と迷宮に挑むのに、ここで事前に十分な用意が出来れば、探索者の人達も成果を上げやすくなる。
そうなればますますこの塔に多くの人が名声や富を求めてやってきて、ドラグサキュバス的にもベルン男爵領的にも万々歳になるのよね。
探索者は有事の際にベルン男爵領に協力する必要はないけれど、探索者の発見した神代の遺物や異界文明の品は役に立ちそうだし、探索者にはどんどん調べていって欲しいでしょうね」
とは言うものの、ドライセンとベルン男爵領首脳陣との関係を知るヴィテからすれば、タワーの隅から隅まで掌握済みであるのだから、いざとなれば探索者の手を借りる必要はまったくないのは明白だ。
ジルグに言って聞かせている内容は、ドラグサキュバス達による探索者向けの建前として考えられた定型文に相当する。
ドライセン達がわざわざ探索者として登録し、派手に活躍しているのも、タワーを富を産む資源として有効活用する為の撒き餌兼広告等の役割を担っているからだ。
彼らがドラグサキュバスやベルン男爵領から得た報酬は、全てドラグサキュバス達の貨幣であるドラスで受け取り、それを全てインラエンで消費している。
ハンマはタワー内部のマイラール教関連施設の発掘や維持費用に全て寄付し、ドーベンは零細企業ならぬ零細宗教であるクロノメイズ教拡大の為に、インラエンに土地を買い、そこに神殿を建てる為の費用に充てている。
ではドライセンやクインはどうかといえば、ドライセンには本来必要ないのだが敢えて外部からやってきた鍛冶工房等に高額の武具や探索用装備の発注をし、他の探索者達から羨望と嫉妬の視線を集めている。
クインは特に考えて使ってはおらず、気まぐれに食べ物や美術品に糸目をつけずにお金をばら撒いており、その景気の良さはインラエンでも語り草となっている。
こういった行いは、タワー内部でしか流通しない貨幣をほぼすべて使い切る事で、経済の流れの活性化を狙い、また高位の探索者になればあのような贅沢が出来るという指標となるべく行っている活動だ。
「ジルグが故郷の名前を後世にまで残したいって考えているなら、どんどん未知の遺跡を発掘するとか、難病の特効薬になる素材を発見するとか、それ位の事をしないとねえ~」
「うん」
「ちょっとジルグ、真面目に話を聞いている?」
ヴィテもここまできて流石にジルグが真面目に話を聞いていない事に気付き、分かりやすく怒った顔になって詰め寄る。
「うん。あ、ご、ごめん!」
ジルグからしてみれば夕焼けの化粧を施されたヴィテの横顔が余りに可愛いから見惚れていたのに、そのヴィテが鼻の着きそうな距離にまで顔を近づけてくるものだから、余計に慌ててしまう。
「ちょちょ、ちょっと考え事をね、考え事を」
ヴィテってやっぱりものすごく可愛いなあ、という事を考えていたのだが、考え事の内容までは流石に口にはできないジルグだった。
少年と少女が彼らなりに距離を縮めている頃、ドライセン達はゼクシスタから更に西方に足を伸ばした先に存在するある場所に到着していた。
他の探索者達はただの一人も足を踏み入れておらず、ドライセン達かドラグサキュバスが居なければ足を踏み入れる事の叶わない、閉ざした空間の中に隠した特殊な施設だ。
事前調査の折に役に立つと判断したドランの手によって今日に到るまで隠蔽され、今後も隠蔽され続ける施設である。
施設を封じた空間の外は夕暮れ色に染まっているが、閉鎖空間の内部は星の瞬く藍色の空模様だ。
施設といっても建物らしいものはほとんどなく、地平線が彼方に見える程広い空間の中心に大小無数の硝子玉が浮かんでおり、内部は黒や紫、赤、黄と様々な色に染まった煙とも水ともつかぬ何かで満たされている。
数十個はある硝子玉の内のいくつかが明滅を始めると、煙のような水のようなモノが徐々に形を持ち始めて、それはひどく醜いが、竜と呼ぶべき何かとなった。
ねじれて四方に伸びる手足には無数の瘤が隆起し、長さの異なる三本の尾には無数の棘が伸びている。黒と赤の斑模様の鱗を持った竜モドキだ。
他にも様々な色と気持ちの悪い造作をした竜モドキが次々と培養器である硝子球の中で形を持ち、硝子球に亀裂が走って二つに割れる事で次々と生まれ落ちて行く。
生まれ落ちた竜モドキ達が一斉に口を開き、聞く者の精神を砕き、狂気に陥らせる効果を持った咆哮を周囲へと放つ。
大気をどよめかせる咆哮を浴びても顔色一つ変えず、生まれ落ちた竜モドキがなんなのかを語る者が居た。
ドライセンである。傍らにはクイン、ハンマ、ドーベン、瑠禹、ヴァジェ、ウィンシャンテ、クラウボルト、フレアラ達の姿もある。
「昔も昔、大昔の話だ。どこぞの邪神の信奉者達が原初の混沌を模して世界の様々な因子を詰め込んだ混沌に、偽竜という形を与えて生み落とす偽竜の製造工場を作りだした。
竜種への対抗策としては、よくある話だ。地上に建設された工場はほぼ全て機能を停止するか破壊されているのだが、このタワーに巻き込まれたこの施設はまだ生きていてな」
竜モドキ、いや、人造偽竜達は硝子球の中に居た時から認識していた獲物を前に、いずれも戦闘態勢を整える。
偽竜とは始祖竜から誕生した真なる竜種を滅ぼす為に生み出された存在だ。故に、真なる竜種を前にすれば己の存在意義を果たすべく全ての機能を費やすのが必定。
同時に真なる竜種達にしても、自分達を滅ぼす為に存在する紛い者は、この上なく不愉快で醜悪極まりない存在となる。ともすれば、竜殺しの因子を有する者と対峙する以上の敵意を掻き立てられる。
「こうして目の前で製造の過程を見れば、否でも理解できます」
滲み出る敵意を抑えきれぬ声で告げたのは瑠禹であった。瑠禹ばかりでなくヴァジェやフレアラ、ウィンシャンテ達はより分かりやすく戦意、いや敵意を高めており、彼らの周囲には昂った感情に呼応して膨大な魔力が発せられている。
クインなどは殊更敵意を募らせそうなものだが、彼女の場合は偽竜達とあまりに格が違い過ぎて敵として認識する段階に達しておらず、汚いゴミでも見ているような目をしている。
ドライセンも似たようなもので、この二人の態度を変えたいのならばレニーア級の偽竜を生み出す必要があるだろう。
「瑠禹は違うかもしれんが、ヴァジェやウィンシャンテ達は遠からず魔王軍の偽竜達と戦う事になる。君らが実戦経験を積むのにはちょうど良いと、敢えてこの施設をそのまま残しておいたわけだ。
あちらはこちらを殺す気満々だ。いざとなれば私やクイン達が助勢に入るが、まずは君達だけでアレらを相手にしなさい」
早ければ一年以内にも戦端を切る魔王軍の偽竜との戦いに備えて、モレス山脈の若き竜達を鍛え上げる為に、この施設を探索者達から秘匿し、利用する。これが、ドライセンがカラヴィスタワーに対して、観光資源以外にも見出した利用方法の一つだった。
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第二百六十九話
若き竜種達が生まれ落ちたばかりの偽竜達と戦う様子を、ドライセンを筆頭とした愉快な仲間達はあくまで見学するに留めていた。
戦闘開始の合図もなく、全力の殺し合いを始めた竜種と偽竜のド迫力の戦いが眼前で繰り広げられても、遥かな上位者であるドライセン達は顔色一つ変えずに眺めている。
大地母神の変じたハンマが、遥かな昔にどこかの世界の邪神崇拝者達が作り出した偽竜製造装置を一瞥してからドライセンに話しかけた。
「ヴァジェさん達と戦っている偽竜達ですが、能力はどの程度の者達なのですか?」
ハンマの知覚能力ならば問うまでもなく把握できるのだが、装置を使って偽竜達を生み出したのがドライセンである為、こちらに聞いた方が正確だと考えたのだろう。
問われたドライセンは、右手を空中に掲げて、開いた掌の先に装置の操作盤を展開した。
空中に投影された操作盤は電子で構成されており、そこに装置の状態を表示した無数の数字と表が映し出されている。
この星とは別の異星文明の産物の取り扱いは、高次の存在であるドライセンには十分に理解の範疇だった。
「平均的な地上の竜種の成体よりやや弱いという程度だな。並の古竜より頭一つ抜けた実力を得たヴァジェなら、手強いとは感じまい」
「ではウィンシャンテさんやフレアラさんのような若手には、それなりに危険で、予行演習にはうってつけの強さに設定しているわけですね」
「自分より格上の相手との戦いを経験させておくのは大切な事だが、まずは自分と近しい体格と強さの敵との経験を積ませてあげたくてね」
「竜種の方が普通に生活している分には、そういった相手と出会う事は稀でしょう。そして自分と同等近い体格と強さの敵との経験という意味では、ヴァジェさんと瑠禹さんが飛び抜けていますね」
「ヴァジェは私との出会いがきっかけで他の者より多く戦闘経験を積んだが、瑠禹は更に龍吉と共に宿敵たる海魔との戦いを経験している。最近では水龍皇としての覚醒の兆しも見られるからね」
そう答えたドライセンの視線の先では、若者達と偽竜達とが空中に飛び上がり、音の壁を越えた速度で飛びまわり、絶え間なく砲火を交え合っている。
装置で生み出された偽竜達は、かろうじて竜らしき部位が見受けられる程度の異形だったが、ドライセンが口にした通り、知恵ある竜種の平均値に近い能力を持っており、数で大きく勝るのもあるがそう易々とは撃ち落とされない。
巨体に雷光を纏うクラウボルトは、膨張と収縮を繰り返す肉瘤のような外見の偽竜三体を己の敵と見定めて、相対していた。
この空間に秘匿されていた装置から生み出された偽竜は、偽竜と分類される者達の中でもひと際醜い外見をしており、偽竜ではなく魔獣や怨霊の類だと言われても納得しそうなものだ。
その嫌悪感を催す醜さと確かに偽竜であるという事実が、若き竜達の中では最も冷静なクラウボルトをして、体の中で火が灯ったかと感じる程に血を滾らせている。
「偽竜か、こうも敵愾心を掻き立ててくるとは、まさしく我らの天敵!」
クラウボルトの体内に存在する発電器官が最大効率で稼働し、彼の全身を彩る雷光の激しさが増す。
目を焼き潰す程の強烈な雷光が発せられるのとほぼ同時に、クラウボルトの眼前に竜語魔法による魔法陣が三つ重なって描かれた。
クラウボルトの口から放たれた雷のブレスが魔法陣を通過する度に破壊力を増し、肉瘤の偽竜達を容赦なく貫いて行く。
およそ尋常な生物では耐えられない高電圧と衝撃を受けた偽竜達は、その場で消し炭と変わって木端微塵に吹き飛ぶものとクラウボルトは予想したが、その予想は呆気なく裏切られた。
ブレスの直撃を受けた偽竜達が一層激しく肉瘤の膨張と収縮の速度が増すのに合わせて、雷が肉瘤の中へと吸い込まれてゆき、偽竜の本体そのものへはほとんど傷らしい傷を与えられずに終わったのだ。
「なに!?」
肉瘤の偽竜達は満腹になったとでも言わんばかりに灰色の目をクラウボルトへと向けて、今度は目一杯に膨らませた肉瘤からキラキラと輝く無数の粒子、いや、胞子を放出する。
胞子はクラウボルトを目掛けて殺到するが、速度それ自体は音速を軽々と越えるクラウボルトに追いつく程のものではない。
単純な速度では追いつけない事は肉瘤の偽竜達も承知の上だったらしく、その代わりに膨大な数を活かして、クラウボルトの四方を囲いこんで逃げ場のない状況を作り出した。
前後左右上下、どちらを見回しても薄緑色の胞子に囲まれた状況に、クラウボルトは突破できそうな最も層の薄い場所を探す。
胞子がどういった類の危険物かは不明だが、吸い込んだが最後、体内に寄生して命の全てを吸い尽くされるか、あるいは脳にまで達して肉体を奪われるか。
クラウボルトはこういった胞子を用いた攻撃の考え得る最悪の可能性を考え、それらに対する対処法を脳裏に巡らしたが、この胞子はもっと直接的な攻撃手段だった。
肉瘤の偽竜達が一斉に牙を打ち鳴らした瞬間、クラウボルトを包囲する胞子が一斉に起爆して、際限なく広がるこの閉鎖空間を轟かす爆音と爆炎が周囲に広がる。
クラウボルトが胞子爆弾の真っただ中に飲まれた頃、風竜ウィンシャンテは紫水晶を思わせる美しい目を無数に持った気味悪い頭部を持つ偽竜と相対していた。
偽竜は細長い胴体の尾にも同じ頭部を有し、胴体の左右には先端に目玉の着いた細い足がうじゃうじゃと蠢いている。
百足と例えても、蛇と例えても、双方にとって侮辱極まりない姿の偽竜である。
この目玉偽竜の瞳は一種の集光レンズとしての機能を有しており、百にも届こうかという光線が、先程からウィンシャンテを切り刻むべく放たれている。
さしものウィンシャンテも光より早く空を飛ぶ事は出来ないが、目玉偽竜の視線から光線の射出位置を予測して回避する事は出来る。
加えて風、すなわち大気に対する干渉能力が極めて高い風竜である為、目玉偽竜が光線を放つ寸前に周囲へ放つ熱を感じられるのも、ウィンシャンテを助けていた。
「魔力を光に変換して放っているか。多少の直撃なら耐えられそうだが、受けぬ方が賢明そうだ。そして偽竜よ、風を操る竜はこういう芸当が出来るぞ!」
ウィンシャンテの周囲に小さな竜語魔法陣が複数展開した直後、目玉偽竜の周囲の大気が風の刃へと変わり、目玉偽竜を四方八方から五寸刻みにする。
目玉偽竜が瞳を通して光線を発するのに対し、遠方に存在する大気にも干渉出来る風竜の利点を生かした攻撃と言えよう。
目玉偽竜は紫色の体液をまき散らしながら、数百の肉片と変わるのを見届けて、ウィンシャンテは目を見開いた。
落下している肉片がもごもごと蠢くと、その全ての肉片が目玉の生えた小型の目玉偽竜へと変化したのである。
「これは、数を増やしただけか!?」
一体の目玉偽竜から二百体の目玉偽竜が生まれ、それらは自由自在に空を飛びながらウィンシャンテへと目掛けて再び光線を乱射してくる。
小型化した事で光線一つ一つの威力は相応に下がっているが、発射してくる角度の自由度が大きく増した為に、回避がはるかに困難になってしまった。
ウィンシャンテを囲いこむ光の檻が徐々に狭まって行き、若き風竜が光線に貫かれるのは時間の問題であった。
そして火竜ファイオラの娘フレアラもまた奇異なる能力を持つ偽竜を相手に、苦戦を強いられていた。
フレアラはようやく親元を巣立ったばかりの、ヴァジェや瑠禹と同年代ではあるがいくらか年少の個体である。
今回、ドライセン発案の訓練に参加したモレス山脈の竜種の中では最年少となり、またその実力も一番低いのが彼女だった。
夕陽を思わせる色の鱗を持ち、体格もウィンシャンテやヴァジェよりも一回り小さなフレアラは流体の体を持った偽竜と戦っている。
それでも知恵ある竜たるフレアラが苦戦を強いられているのは、この偽竜がフレアラと戦闘開始直後に自身を溶岩へと作り替えた為だった。
今や殺意を持った溶岩流と化した偽竜に、フレアラの放つ火炎弾や火炎放射は一時的に流体偽竜の一部を吹き飛ばす事は出来ても、死を与えるまでには至らない。
「ううう、まだ燃やせないの!? これだけ火を打ち込んでいるのに」
フレアラにとって不幸中の幸いだったのは、流体偽竜が遠距離攻撃の手段を持ち合わせておらず、高速で飛翔しての体当たりが唯一の攻撃手段であった事だ。
流体偽竜の体当たりを交わしつつ、フレアラが一方的に火炎を打ち込むもほとんど有効打とならない、という場面が何度も繰り返されている。
火竜たるフレアラ相手に溶岩へと変わった流体偽竜だが、ウィンシャンテが相手であれば自らを気体に、クラウボルトが相手であれば雷へと変化して対応しただろう。
三体の若者達が正攻法の通じぬ戦いに苦戦する様を、クインは口をへの字に曲げて見ている。ドライセンは妹のその様子にすっかりへそを曲げているな、と苦笑した。
膨大な数の邪神群との戦闘経験を持っているクインからすれば、いくら若き竜種達とはいえあの程度の特異な能力を持っているだけの紛い者を相手に、情けない戦い方をしているとしか見えていまい。
「ふん、フレアラは目玉が相手ならもう少しまともな戦いが出来ただろうが、お互いの戦っている相手を交換する事も思いつかん辺り、及第点からは程遠いわ」
このクインの発言にはドライセンも同意であった。
「相性の良い味方に任せるのも一つの手なら、協力し合って戦うのも一つの手だが、どうにも単独で戦う事が前提として彼らの頭の中にあるようだな。モレス山脈では単独で倒せる敵しかいなかっただろうし、事前に今回の訓練を計画出来て正解だったか」
危惧していた通りの結果になってしまった現状を前に、さしものドライセンも渋い顔だ。
彼らよりも上の世代なら年を食っている分、もう少し潰しが効いただろうか。
「だからこそ、今回の訓練で多くの気付きと学びを得て欲しいものだ」
「お兄ちゃんにここまで手を焼かせて何も得ないようだったら、私が直々にげんこつを喰らわせてやる」
威嚇するように牙を見せるクインに、ハンマは若き竜種達を心底気の毒そうに見上げ、愉快な仲間達の中では圧倒的格下であるドーベンはクインの様子に怯えを見せる。
クインがその気になれば鼻息一つで消し飛ぶ程の実力差を考慮すれば、ドーベンがここまでクインに怯えるのも、まあ、無理のない話だ。
少しでもクインの苛立ちが和らげばと、ドーベンは頭を捻って何かしら好転する要素はないかと思考を巡らす。
「で、で、ですが、流石にヴァジェや瑠禹は経験の差が出ていますね。偽竜達のほとんどを二体で引き受けて、かつ圧倒しておりますよ」
ドーベンの言う通り、装置から生み落とされた偽竜は数十に上るが、その大部分を引き受けて瞬く間に片づけているのはヴァジェと瑠禹に他ならなかった。
フレアラが苦戦している流体偽竜も、ヴァジェの放つより高熱でより強力な魔力の込められた火炎の前では抗う術なく燃やしつくされ、その他の多様な能力を持った偽竜達も根本的な戦闘能力が桁違いの二体が相手では敵と成り得ずに滅ぼされている。
特に柔軟な戦い方をしているのが瑠禹だった。
フレアラに襲いかかろうとしていた流体偽竜を巨大な水球が包み込んで冷却し、目玉偽竜の放つ光線は無数の水のレンズが反射し、そしてまた瑠禹の張り巡らせた水の壁が、肉瘤偽竜達の胞子の爆発からクラウボルトを守っていた。
全て同胞の苦戦を見て取った瑠禹が瞬時に行った事である。
余裕を持って空に浮かぶ瑠禹の周囲には、他の肉瘤偽竜や粘液で金属質の巨体を覆った鎧偽竜が水の槍で串刺しにされるか、またあるいは高速の水流に巻き込まれて粉々に砕かれている。
これまではヴァジェと同格とドライセンに見なされていた瑠禹だが、母龍吉と共に残る海魔王を倒して回る戦いの中で、ようやく次期水龍皇として相応しい力と霊格の覚醒の兆しを見せ、今ではヴァジェを上回る領域に達している。
クインがヴァジェと瑠禹の戦いぶりに少しだけ『への字』を緩めたとは知らず、当の瑠禹は凛とした声で同胞達へと呼びかける。
「皆様、どうぞ落ち着いてください。わたくし達は個で戦っているわけではありません。わたくし達は一つの集団、群れとして戦っているのです。
来る魔王軍に属する偽竜達との戦いに於いてもまたしかり。軍として機能する偽竜を相手に、個として戦ったとてどれだけの戦果を挙げられましょうや」
それは龍宮国の皇女として、多くの同胞と自分より遥か格上の母龍吉と共に海魔の大軍勢と戦ってきた経験に裏打ちされた説得力ある言葉だった。
何時の間にここまで成長したのかとドランが感心するほど、今の瑠禹には次期水龍皇としての風格すら纏い始めている。
ドライセン達の素性は知らないウィンシャンテ達だが、瑠禹の素性については知らされており、次期水龍皇の、そして何よりも自分達以上の猛者からの言葉に即座に従う。
ヴァジェはそんな瑠禹の姿を鬱陶しそうにも、それ以上に嬉しそうにも見ていた。かつては対等の喧嘩友達だった少女の成長は、さて、ヴァジェにとってそう単純なものではないようだった。
瑠禹の言葉により、個々にバラバラと戦っていた若き竜種達は互いに協力し合い、拙いながらも統率のとれた動きでもって偽竜達を撃退する事に成功して、クインの眉間に刻まれた皺をこれ以上深くせずに済んだ。
第一波の偽竜達が殲滅された後、若き竜種達は一度休憩を取る事を許されて、ドライセン達の前に竜種としての姿のまま並ぶ。
腕を組んだドライセンを前に、戦闘初期には失態を見せたという自覚のあるクラウボルト、ウィンシャンテ、フレアラ達は何とも気まずげに縮こまっている。
クインは厳しい視線を向けてこそいるが、罵倒の言葉が出てくる様子は見られない。これでも竜種の頂点に位置する者として、感情のままに同胞を責める言葉を安易には口に出来ないと自制しているのだ。
ハンマは怪我をした者が出なくてよかったと、心配が無為なものとなった事に安堵の吐息を零している。
ドーベンは改めて地上の竜種の力を目にして、これもまたドライセン様にお仕えする者として勉強になったと、満足げだ。
「ふむ、これで第一波は倒し終わったが、戦ってみてどうだった? 偽竜達の基本的な能力は君達に劣るものだったが、それとは別に備えた特異な能力には随分と苦戦していた様子だったな」
見たままを口にするドライセンに、クラウボルトら苦戦した三体はぐうの音も出ない。
同種以外とは戦いらしい戦いをせずに勝利してきた彼らにとって、偽竜達との戦いは予想以上の苦戦だったのは事実だ。
一番に口を開いたのはフレアラだった。母に似て気の強いところのある娘だが、見栄や自尊心の為に偽りを口にする性格ではない。
「これまでは竜として生まれ持った力で、多少の相性の不利は覆せましたけれど、今回はそうとは行きませんでした。戦い方を学ぶ必要を痛感しました」
「ふむ。生まれ持った力を振るうだけで勝てる相手ばかりではないと、一つ学んだわけだね」
フレアラに続いてウィンシャンテとクラウボルトも、それぞれが感じた今回の問題点を口にしてゆく。素直に反省が出来るのは良い事だ、とドライセンは内心で感心しているが、どうにも同胞に甘いところのある男だ。
「フレアラの申す通りです。恥ずかしながら自分の最たる武器が通じなかった際に、どう戦うか、どのように行動するべきかをまるで想定していませんでした。それが今回の失態を演じた最たる理由です」
「それに我ら三名はいずれも単独での戦いに固執し、視野が狭まっていました。その点において、ヴァジェと瑠禹様はより広い視野で戦っていた。我々との戦闘経験の差が明確に出ています」
「ふむふむ、クラウボルトもウィンシャンテも、戦いの中で自分達の課題となる点をきちんと認識できていたか。問題は正しく理解できてこそ改善が叶うもの。その点では、君達は十分に自己を認識できている。
ならば私が改めて言葉にするまでもなく、自分達が次からはどのように心掛けて動けばよいか、自ずと理解していよう」
さて、とドライセンは一つ間を置いてヴァジェと瑠禹へと視線を転じた。先程の第一戦を見る限り、ことさら言葉を重ねる必要性の感じられぬ二名である。
「ヴァジェと瑠禹は安定した戦いぶりだったね。君らが単独で戦う分には、魔王軍相手でも心配するところはないが、集団での戦いを強いられる場面が多々あるだろう。瑠禹はその立場上、おいそれと戦列に加われまいが、もうしばし集団での戦いを続けるかい?」
ヴァジェと瑠禹が苦戦する程強力な魔王軍の偽竜は、それこそ魔六将に数えられる偽竜の女王かそれに準ずる位階の極少数だけだろう。
ヴァジェと瑠禹以外のモレス山脈の竜種達で魔王軍の偽竜を受け持ち、この二名には別行動を取らせて魔王軍本陣や本拠地に奇襲を仕掛けるという電撃作戦も、有効な策の一つになる強さが今のヴァジェ達にはあった。
「ウィンシャンテ達の力量は前から把握していますが、集団として共闘する上での力量や戦い方の傾向の把握までは済んでおりませんし、このまま翼を並べて戦う経験を積むのが良いかと思います。瑠禹はどう考えている?」
「わたくしもヴァジェさんと意見を同じくします。一度共に戦っただけでは、まだまだお互いの理解が足りておりません。
ドライセン様の言われる通り、わたくしが魔王軍との戦いに参陣する事はいささか難しいかもしれませんが、フレアラさん達と共に肩を並べて戦うのに意味がないとは思いませぬ」
「ふむ、であれば再び偽竜達との訓練に参加して貰うのに異議はないとも。思う存分、訓練を重ね、互いの息を理解し合うと良い。それが今後のモレス山脈とベルン男爵領、そして竜種のより良い未来に繋がるものと私は信じよう」
ドライセンがそう締めくくり、次の偽竜達の用意を進めるべく装置を操作すれば、硝子球の中に新たな材料が投入されて、見る間に偽竜の胎児のようなものが蠢きだす。
ドライセンはこれらの偽竜を魔王軍との戦いに戦力として投入する事も考えないではなかったが、偽竜の特性と装置で作り出せる個体の全てが醜悪極まりない外見をしていた事から、あくまでカラヴィスタワー内部での特訓に用途を限っていた。
ドライセンは、自分の一方的な都合で生み出される偽竜達に憐れみを覚えないでもなかったが、彼らは生命と呼ぶには魂を持たず、自らの意思を持たず、知性も持っていない。
竜種の殲滅という目的に特化して作りだされた、有機的なゴーレムやロボットと呼んで差し支えのない存在だ。自分達が倒される為に生み出される事に対して、怒りも悲しみも抱く事はない。そういった概念を元々持っていないのだ。
「では、今、述べた事を念頭にもう一度、偽竜達との訓練を再開するとしよう。ただし、軽く何か腹に入れて気分を変えてからな」
ドライセンが厳めしい顔には似合わぬ茶目っ気を交えてそう口にするのと、彼らの入ってきたあたりの空間に波紋が生じて、新たな顔触れが姿を見せるのはほぼ同時だった。
両手いっぱいに籐で編まれたバスケットを持ったリリエルティエルと巨大な木箱を背負った龍人姿のリリアナである。
ドラグサキュバスの女神リリエルティエルはともかく、龍宮国の武将リリアナの姿があるのには、彼女を初めて見るモレス山脈の竜達が驚きを見せる。
瑠禹は驚いた様子は見せておらず、リリアナが来訪するのを知っていたか、あるいは予測していたからだろう。
「皆様、訓練お疲れ様です。差し入れをお持ちしましたよ。それと新しい参加者の方をお連れいたしました」
リリエルティエルが腕から下げたバスケットとリリアナの背負った木箱からは、食欲を刺激する料理と酒精や果実水の匂いが零れ出ている。
雷竜と雷龍の血を引くリリアナは、にこやかな人懐っこい笑みを浮かべて、未来の主君と若きモレス山脈の同胞達に声を掛ける。何処に言っても物怖じしないのが、彼女の持ち味だ。
「やあやあ、モレス山脈の御同輩方、龍宮国は国主にして水龍皇龍吉様にお仕えしているリリアナと申す者。この度は我らの姫が参加あそばしておると聞きつけて、勝手ながら参上仕った」
「リリアナ、ちゃんと陛下のお許しはいただいているのですか?」
リリアナがあまり型に嵌らない性格をしているのを知っている瑠禹が、まさかとは思うが念の為に確認すれば、リリアナは背負っていた木箱を地面に置いてから心外そうに首を横に振る。
「それはあまりに心外な問いですぞ、瑠禹様。これでも一国の将たるもの。己の勝手でどれだけの者達に累が及ぶかを分からぬ程、耄碌はしていませんぞ。あっはっは」
「どうだか。貴女は自分で補える範囲をきちんと理解しているからこそ、横道に外れた事をする面倒なところがあるでしょうに」
「うむ、将来の御主君が臣下の事をよく理解しておられるようで、臣は安心いたしました。なに、さしもの私も、いくらなんでもこの場で虚言を弄する度胸も愚かさも、持ち合わせてはおりませんよ」
リリアナの送った視線の先にドライセンとクインの姿があるのに気付いて、二人の素性を知る瑠禹とヴァジェは心底から同意した。
既に龍宮国の上層部には、龍吉と瑠禹が頻繁に城に招いていた男が、自分達の主君でさえ床に額を擦りつけなければならない超越者である事は知っている。
リリアナも初めて聞かされた時にはその場で卒倒しようか、聞かなかった事にしようかと本気で悩んだ程である。まあ、罵倒に近い言葉を吐いた経験のあるヴァジェに比べれば、はるかにマシだ。
その悩みの元凶となった事のあるドライセンが、その場をとりなすように口を開く。
「まずは差し入れをありがとう。瑠禹、リリアナの言葉に嘘はあるまい。そう、疑わなくていいと思うぞ。それに長年、海魔との戦いの最前線で戦い続けてきた将軍が加わってくれるなら、今回の訓練はより実りのあるものとなろうさ」
原因は貴方様なのですが、とは言えない龍宮国の主従であった。それはそれとして、リリアナが参加した事で、ドライセンの言う通りより実戦に即した内容となり、実りの多いものとなったのは確かだったのが、救いだったろう。
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第二百七十話
ベルン男爵領に所属する魔法使い達の為の施設の一角では、昨今になってこんな情けない声が聞かれるようになっていた。
百人程が余裕を持って横になれる広さの部屋で、窓はなく壁や床、天井を問わず内部で発生した爆発や音を外部へ漏らさない魔法が隙間なく施されている。
何かしらの研究室かあるいは作業場だと、この部屋を訪れた誰もが印象を持つだろう。
「ひい、ひい、ひい」
「ひゃくい~ち、ひゃくに~い、ひゃくさ~ん……」
「上級魔晶石が五百、中級魔晶石が一千、下級魔晶石が三千、屑魔晶石が……」
机の上に台座のような物体を置き、その物体に取りかかっている者や何かしらの書類をめくって数を確かめる作業を繰り返す者、魔力を失った魔晶石に魔力を補充する作業を行っている者達が合わせて二十名程。
老いも若いも男も女もいる。この二十名全員全てが、ベルン男爵領に所属する魔法使いの一部であり、この部屋で行われている作業に従事している人員だ。
いずれも目の前の作業に黙々と集中している。
まるで命令を淡々と繰り返す自動人形めいた動きを繰り返す彼らだが、それも作業場に設置された鐘が鳴り、休憩の時間を知らせると各々区切りの良いところで手を止めて、併設されている休憩室へと向かう。
各自休憩は自由に取れるのだが、昼と午後に一度ずつ必ず取るようにと義務付けられた時間には揃って休憩を取っている。
精神を落ち着かせる効能のあるお香が焚かれている休憩室には、長椅子から円形ソファ、娯楽用の書籍に双六やカードゲーム、駒遊びの道具等が一通り揃っている。
もちろんベルン男爵領名物の浴場も隣接されており、何人かは心身の疲れと汚れを癒す為に真っ先に浴場を目指して鼻歌を歌いながらご機嫌な様子で向かって行く。
何時でも作り立ての食事を出せるようにと、休憩室に併設されている食堂に交代でつめている料理人達が本日用意したのは、チーズと茸たっぷりの粥、川魚のフライと各種のソース、十種類の野菜と豆のスープ、酢漬けにしたキャベツや玉ねぎ、砂糖漬けの林檎、酒を除いた各種飲料だ。
食堂の机に腰かけた四十がらみの男に、同じメニューを手に持った眼鏡の少女が話しかける。
男はデケル、ガロアへ私塾を開いてガロア魔法学院の生徒達を教えていた中年魔法使いで、眼鏡の少女はスナンと言い、ガロア魔法学院の卒業生である。
「デケルさん、作業の進捗具合はどうですか?」
デケルが担当しているのは、純度別に仕分けられた魔晶石を更に大きさ毎に仕分けして、ベルン男爵領で定められた統一規格へ加工する作業だ。
「んあ、ああ~、目標の七割ってところかね」
「凄い、それなら期限まで余裕を持って終われますね」
「お前さんの方も順調そうに見えるけど、どうなんだ?」
デケルは自分の子供といっても通じる年齢のスナンへ生返事をしながら、湯気と濃厚なチーズの匂いを立てているリゾットを口に含んだ。
チーズの豊潤な香りと塩胡椒の風味が寝ぼけていた舌と頭に良い刺激となる。砂糖漬けの林檎を一切れ口に放り込めば、豊かな糖分が疲れた脳に沁み入るようだ。
「私は空になった魔晶石に魔力を補充するだけですし、それに魔力の補充もほとんど補充機が自動でしてくれますから、私は補充の過不足に注意する位で簡単なものですよ」
「それでも根気のいる作業には変わらないよ。あ~あ、それにしても、いよいよって感じだなあ」
「いよいよって?」
スナンはデケルとは違い、スパイスたっぷり、砂糖もたっぷりのミルクティーを飲みながら、年配の同僚に問うた。デケルはおいおいと苦笑いしながら答える。
「戦争だよ、戦争。うちの御領主様は、最初は観光方面で領地経営を進めていたが、それも短い間だけ、いや、今も継続しちゃいるがね。
人員や資金が明らかに戦争を意識した分野に割かれるようになっているし、おれ達が従事している作業も戦争で魔法を多用するのを想定したもんだ。
おれ達は主に魔晶石と精霊石関係だが、他のゴーレム部門の奴らも簡易ゴーレムの大量生産と補修用資材の確保に駆りだされているだろう?」
「あ~、そういえばそうですねえ。流石はデケルさん、私なんかとは積み重ねた経験が違いますね」
「お前さんがちょっと世間知らずっつうか、疎いところもあると思うがね」
「同僚に対して手厳しいですよ!」
スナンは怒った素振りを見せてデケルに抗議するが、もしゃもしゃと粥を口に運び続けても、あまり怒った印象はない。デケルもスナンの態度を全く気にしていない様子だ。
「はん、おれより年下の癖に給料は同じだってのが生意気に感じるんだよ」
「いいじゃないですか、ここのお給料って相場よりもずっと良いんですよ。ううう、魔法学院を卒業した後も就職活動が上手く行かなかった私にとっては、無職という名前の暗黒の世界に差しこんだ一筋の希望の光ですよ。
基本給の他に出来高払い分があるから、デケルさんも次々と仕事をしているんじゃないですか? まさに働けば働く程稼げる状態ですからね! うう、こんなにお金を手にする事が出来る日が来るなんて、夢のようです……」
スナンは非正規雇用で慎ましく食いつないでいた時期を思い出して、本当にすすり泣きを零し始めた。
ベルンではスナン以外にも魔法学院の卒業者や中退者で職にあぶれていた者達が数多く雇用されており、ゴーレム部門や付与魔法部門、召喚魔法部門等多くの部署で働いている。
ガロア魔法学院関係者以外にも、王国北部の要であるガロアにはガロア総督府に属していない魔法使い達が複数おり、少なくない数がベルン男爵領の提示した高待遇に惹かれて雇われの身となっている。
「お前さんみたいな学院卒業者だと、御領主様の下で働けるなら給料はいらないって声を大にしている奴が多かったけれどよ、お前さんはそんな素振りはねえな?」
「まあ、私は男爵様が入学する前に卒業したから、直接顔を合わせたのはここに就職してからなんですよ」
加えてスナンもデケルも知らないが、二人が顔を合わせたクリスティーナはアグルルアの腕輪を着用して、その美貌を大幅に劣化させた状態であったから、二人とも魂から籠絡されずに済んでいた。
かつて魔法学院で本来のクリスティーナの素顔を見た者にも、アグルルアの腕輪は効果を発しているのだが、どうも思い出の中で焼きついたクリスティーナの素顔が自動で思い浮かぶらしく、未だに夢遊病者みたいな魅了状態が継続している。
「ちょっと常軌を逸しているからな、あの連中。同じ場所で作業する奴がまともで良かったよ。それにお前さんが言う通り、塾を畳んでこっちに来ようと思うくらいには待遇が良いのも確かだ」
「私の同級生にも、デケルさんの塾に通っていた子が居ましたよ」
「そうか、自分で言うのもなんだが割と評判だったんだぜ。それにこう言ったら不敬だが、年若い新米領主様なら色々と周囲に助言を求める事も多かろう、人手も足りていないだろう、それならおれにも出世の目はあるんじゃないかと小さな野心を抱いて来てみたんだ」
「人手不足というか人手を求めているのは確かですよねえ。私みたいなあぶれ者でも積極的に雇用している位ですもの。まさに実体験中の私が言うんですから、確かですよ」
「そうなんだが、思っていたよりもずっとおれ達みたいな連中の手綱の握り方が上手い。それに御領主様周りのお歴々が有能すぎる。その中でもドラン補佐官は、噂以上にこう、何でも出来すぎる。
本当にあれで二十歳にも成っていないのか? 本当は何百年も生きている魔法使いが年を誤魔化しているとか、輪廻転生を繰り返しているとかじゃないのかって、おれは今も疑っているぞ」
半分正解の半分間違いといったところだろうか? 人間ドランとしては一切年齢を誤魔化してはいないが、輪廻転生という観点から考えると今のドランは二度目の生を得ているわけなのだから。
「本当に何でも出来ますよね、補佐官様。競魔祭で全試合全勝優勝っていう完全無欠の結果を見せたのは、卒業生のはしくれとして誇らしいですよ。
素材を選ばないゴーレムの簡易作成術式に、魔導砲や魔導銃に用いる専用魔晶石の生産方法に必要な機械の設計に開発、生産体制の確立とか万能ですよ、万能」
「モレス山脈の竜種との同盟関係も胆はあの方なのだろう。エンテの森とも上手くいっているし、それとドラミナ秘書官も何でもどえらい高水準で出来るし、おれはもうここで分不相応な野心を抱くのは止めたよ。
懐の暖かい暮らしが出来るからな。ところでお前さんは戦争なんてとても出来そうにない感じだが、戦争が始まるだろうってここに留まり続けるのか?」
「あ~、まあ、私も他に行く場所もありませんし、ここは色んな種族が集まりだしていて、いつも賑やかで楽しい場所ですからね。居心地がいいんですよ。
特に男爵様とその周りの皆様が、戦争なんかに時間もお金も使いたくないって、口に出さなくても態度で示しているのが好きですね」
「こうして必要な準備はどんどんと進めているが、そっちが御領主様方の本音だろう。平和が一番て事だな、平和が」
「ですねえ」
デケルとスナンに限らず、それがベルン男爵領に住まうほとんどの者達の共通認識だった。
*
大地に立つ者がある事を許さぬとばかりに吹き荒れる嵐。
鉄の鎧も肉の体もまとめて貫かんばかりに降り注ぐ数え切れぬ雨粒。
万物を打ち砕く神の裁きの如き無数の雷。
常人はおろか並の超人では脚を踏み入れた瞬間、絶命を免れぬ超常の現象が発生していた。あまりにも異常かつ過酷な環境である事を証明するように、この場に居る生命はたった二つだけだった。
一人はあのレニーアと戦い、その果てに嫁に欲しいと豪胆極まりない発言をしたムンドゥス・カーヌスの魔王ヤーハームその人である。
神剣ガランダインを手に、鎧もかつてと同じだが、新たに額当てを着けた覇気漲る魔王は、この嵐を巻き起こした原因である巨大な狼を睨みつけていた。
軍神サグラバースの系譜として破格の霊格を有するヤーハームにも引けを取らぬ霊格を持つその狼は、暗黒の荒野の西部に大きな版図を有するローハン帝国当代皇帝ナツァグが守護神たる狼神をその身に下ろして変身した姿だ。
ローハンに於いて天を閉ざす黒雲と冷たき風を伴って草原を駆ける狼神の権能により、戦場となった暗黒の荒野と大草原の境目一帯は、尋常ならざる大嵐に見舞われている。
ムンドゥス・カーヌス最強の魔王ヤーハームをして、神代より伝わる神剣ガランダインと魔王のみに着用を許された鎧ヴァナリアの加護と自身の持つ神通力がなければ、狼神の神気に満たされた大気を吸う事すら難しかったろう。
並の狼の数十倍の巨躯を持った狼となったナツァグに、ヤーハームは忌々しさと喜びを混ぜた笑みを浮かべる。彼が全力を出す必要のある類稀なる好敵手が、目の前に居るのだ。
これに喜びを感じぬようでは、軍神の末裔等と口が裂けても言えない。
「大きな毛玉の分際でよくもやってくれる。そうでなければ、我らの西進を阻む最大の障害足りえんがな!」
滾る戦意を吐き出すように挑発するヤーハームに、巨大な狼の姿のままナツァグが応じる。共に若き指導者として大陸に覇を唱えんと侵略戦争を重ねる両者は、まさに不倶戴天の宿敵として戦う関係であった。
暗黒の荒野の諸勢力統一を成したヤーハームが、西に広がる豊かな大地を求めて進めば、ナツァグ率いるローハン帝国が堅牢なる防波堤となって阻む。
一方で代々拡大政策を取ってきたローハン帝国が、更なる征服を目論んで軍を進めようとすれば、後背を魔王軍に脅かされる。
この構図が出来上がった事で、ヤーハームとナツァグは互いを強烈に意識する好敵手にして宿敵の関係が出来上がったのである。
「その毛玉を相手に立つ事が出来るのが魔王只一人とは、魔王軍とやらは存外だらしのない連中が揃っているようだ」
狼の姿のままナツァグが応じれば、彼の声に反応して周囲を吹き荒ぶ嵐が一層激しさを増して、音の壁を越えた常識外れの殺人気流がヤーハームを襲う。
「は、貴様如き獣一匹を始末するのにおれ以外の手など不要というだけの事よ!」
ヤーハームの額にある赤い水晶が輝きを増す。彼の魔力と神通力を制御する特殊な器官の輝きは、彼の周囲に堅牢な不可視の力場を作り出して、魔王の玉体が傷つくのを防ぐ壁となる。
「草原の大王にしてローハン帝国皇帝である朕に対し、不遜である!」
「貴様こそ魔性を束ねる王に対して不敬と知れ!」
切っ先を後方へと流されたガランダインがヤーハームの魔力と闘気に満ち、四方八方から襲いかかる嵐へと向けて一閃される。
「吹き飛べ、
本来は一対多、それこそ一対一万以上の戦力差を想定したこの技は、ガランダインから真紅の光の斬撃を同時に全方向へと発し、ヤーハームに襲いかかっていた嵐を一時的に吹き飛ばし、ナツァグにもまた襲いかかった。
「笑止!」
巨大にも程がある狼の右前肢が大きく振り上げられ、襲いかかる真紅の斬撃を爪の一振りで粉々に砕き、狼は大きくのけぞって咆哮を発した。
嵐を伴い草原を疾駆する狼神の化身の咆哮は、四百以上の雷となって天空から飢えた光の蛇が群がるがの如くヤーハームへと殺到した。
襲い来る四百の雷に対応できたのは、一重にヤーハームの持つ神通力に依る。思考する前に肉体が動き、そして肉体の動きは雷速を上回っていた。
「こちらこそ笑止よ。たかが雷如きでおれを殺せるか!」
雷が命中するよりも早く踏み込んだヤーハームが、弾丸の雨を貫いて狼神へと斬りかかる。一時的に守護神と一体化した皇帝と正真正銘の神を祖に持つ魔王とが、真っ向から激突する。
「グウゥオウ!」
ヤーハームの動きを捕捉していたナツァグは、大きく振り上げた左前脚を間合いに踏み込んだヤーハームへと叩きつける。
回避は間に合わぬと悟ったヤーハームは、ガランダインを頭上に掲げて迫りくる巨大な狼の脚を受け止める。
「ふん、図体ばかり大きい奴めっ」
受け止めたヤーハームの体が腰まで地面に埋もれ、更に伝播した衝撃波が大地の奥深くまで浸透し、大地が波打つと言う目を疑う光景が出来上がり、耐えきれなかった地盤がベロリとめくれ上がって、バラバラに砕け散る。
一撃を耐えきったヤーハームは、ナツァグの前脚と比べれば心細い程小さな両腕に全力を込めて、気合の咆哮と共に前脚を弾き飛ばす。
「おおおおお!」
弾き飛ばされると同時に、ナツァグは前脚の裏をガランダインによって切り裂かれた痛みとわずかな出血に狼の顔をしかめながら、続く第二、第三の攻撃を繰り出すべく巨体の姿勢を低く変える。
ヤーハームもまたガランダインにありったけの魔力と神通力を込め、大いなる狼神の化身を滅ぼすべく迎え撃つ。
後顧の憂いを断ちたいローハン帝国皇帝ナツァグと大陸西部への侵攻を目論むムンドゥス・カーヌス魔王ヤーハームの神代の戦を思わせる戦いは、実に三日三晩に及んで行われた。
そして両者の戦いは痛み分けに終わり、ナツァグとヤーハームの両者は神に通ずる力を振るった代償として著しい衰弱を余儀なくされる事となった。
両名は戦闘終了後に嵐と雷の決戦場の外で待機していたローハン帝国軍と魔王軍にそれぞれ回収され、最高の治療を受けている。
戦闘中と変わらず鎧を纏ったままのヤーハームもまた、軍お抱えの回復魔法の使い手達と軍医達に周囲を囲まれて、一刻も早い傷の回復に務めている。
戦闘の過酷さを考えれば絶対安静となるところだが、この魔王は次の一手を睨んで大人しく床に就く事を認めず、失われた体力と魔力の補充、治癒速度の促進を促す特殊なベッドの上に腰かけたまま、集まった重臣達と言葉を交わしている。
「これでナツァグとローハン帝国は、少なくとも半年は動けまい。皇帝が動けぬとなれば、四方に広がる敵国が帝国の領土を掠め取る好機と見るだろうからな」
くく、と低く笑うヤーハームだが、彼もまた鎧によって肉体的損傷からは守られていても、狼神の神気を纏う攻撃を受け続けた事で、精神と魂に大きな疲労と損傷を受けており、平気な顔をしてはいても万全からは程遠い状態にある。
鎧を脱いでいないのは、未だ彼にまとわりつくナツァグの殺意を鎧の守護の力で抑え込んでいるためだ。そうでなければ彼のみならず治療の為に集まった軍医達にも殺意は襲いかかり、次々と新たな死者を生んでしまう。
愉快気なヤーハームを窘めるのは、相棒であり片腕でもあるザルハメラであった。頭痛がしているかのように、しきりに眉間を揉んでいる。
「陛下、それは貴方も同じ事です。ナツァグとの戦いで神通力を限界まで振り絞った反動による衰弱が著しい。通常の戦闘行動を取るのにもしばらくは休息が必要となるでしょう」
「そうする必要のある相手だった事はお前も認めていよう? 神を降ろせば魂が砕け散るのが相場だと言うのに、あの皇帝はそうはなっておらん。守護神をその身に宿したナツァグと戦える者は、我が軍にも片手の指にも満たない数しかいないのだ」
「おっしゃるとおりで。しかしだからといって総大将に、死の恐れがある戦場に飛び込まれては臣下の心臓に毒です」
「こうして生きて帰ってきた事で許せ。これも軍神の末裔としての性質だ。それはそれとして、ナツァグとおれの戦いの影響で、ローハンと暗黒の荒野の国境地帯は今も二柱の神気と殺意の荒れ狂う異常地帯と化した。
それが壁となって我々にとっても奴らにとっても、不可侵の壁となり、後顧の憂いを一時的に気にしなくて済む。その間に南進を進めろ。
ロマル帝国もアークレスト王国もまとめて平らげるぞ。その先にはあの侵入者とその背後に居る邪神との戦いにもなろう。
おれ達の戦いの道は随分と長い。適切な休息は奨励されてしかるべきだが、油断して足元をすくわれぬよう戦況の見極めと情報収集は怠るなよ」
「既にヴェンギッタとクインセ両名が御命令の通り、動いております。両名による情勢調査の後、ロマル帝国にはザンダルザとガリリウスを、アークレスト王国にはそのままヴェンギッタとクインセを向かわせますが、クインセが抜けた分、北への警戒が薄くなりますが?」
「トラウルーと巨人族、それにお前直属の部隊を回せ。おれの親衛隊も使って構わん。クインセ程使い勝手は良くないが、戦力で見れば代わりとしては十分だろう」
「北への備えを薄くするのは得策ではないと?」
「ああ。おれの勘、いや啓示に近いものがあったと言えば分かるか?」
至極真面目な顔をして告げたヤーハームの言葉に、ザルハメラの鉄仮面に罅が走る。それはすぐに埋められたが、神の力を扱うヤーハームが啓示と称した事の意味は、極めて大きい。その危険性、重要性もまた。
「それは、確かに無視できる内容ではありませんね。啓示が下る程の脅威となれば、これを疎かにしてはどんな失態へと繋がるか。まったく頭の痛い事で」
「何、波乱の無い生というのはいささか生き応えが無いだろう。波乱と困難は大きければ大きい程、それを乗り越えた時の爽快感と達成感は格別なものになる。お前もそれを考えて、一層励んでくれ」
「我らの王は何処までも前向きでいらっしゃる」
「能天気すぎる、と本音を言っても構わんぞ。はっはっは」
家臣を悩ませる能天気な魔王の笑い声と共に、ムンドゥス・カーヌスの南征は改めて決定づけられ、遠からじロマル帝国とアークレスト王国ひいてはベルン男爵領と火蓋を切って落とされる未来が確定したのである。
*
雨が降っている。氷のように冷たく、濡れる者の体ばかりか心までも凍りつかせるような雨だ。真っ黒い雲から無数の白い糸が何百万、何千万と一斉に垂らされているように雨が絶える様子はない。
雨糸とでも評すべき天候の下では争いが繰り広げられている。いや、繰り広げられていた。
岩も土も草花も白い雪に覆われた凍土の中に広大かつ壮麗な城塞都市が存在しているのだが、その周囲を十重二十重と異国の軍勢が囲い込み、都市の各地でも、今は雨の勢いで消えかかっているものの、黒い煙と火の手がちらついている。
アークレスト王国やロマル帝国には名前しか伝わっていない、暗黒の荒野の更に北に存在する大国ルーシスク帝国の帝都リューリの光景である。
リューリを守る帝国兵達は、ブルーミスリルを用いた蒼銀の鎧を纏い、勇敢に侵略者たちと戦っていたが、皇帝一族の住まう宮殿にまで侵略者の手が伸び、陥落した今とあってはこれ以上の抵抗に意味を見出せない者達が増えていた。
敗戦を迎えた帝国であったが、従来ならば見られるような光景がこの帝都では一切発生していなかった。
例えば逃げ遅れた住民や投降した兵士達への暴行に虐殺、略奪、強姦といったおぞましい振る舞いが一切行われておらず、都市がこれ以上破壊される様子もまるでない。
そればかりか敗北した帝国兵に対して、侵略者の兵士達が無防備にも武器を収め、親しい友人や肉親に向けるのに相応しい親愛の笑みを浮かべて近寄ってゆく。
何より奇妙なのは親愛の情を向けられている帝国兵達もが同じ笑みを浮かべて、差し出された手を握り返すではないか。
傷を負った者は敵味方の区別なく等しく治療が施され、侵略者達に見つからぬようにと隠れていた帝都民達も安心しきった表情で姿を見せるや、全員が喜びすら滲ませて兵士達の手伝いを率先して行い始める。
そうして先程まで命懸けで殺し合いを行っていたとは思えない帝国兵達が、不意に自分達の装備に施されたルーシスク帝国の紋章を削り、剥がしてゆく。
そうだ、侵略者達の手を握り返したその瞬間から、彼らはもうルーシスク帝国の民ではなくなっていた。身も心も侵略者達と同じ集団、同じ社会、同じ思想に染まりきったのだから。
ある侵略者側の兵士が言った。鎧の類ではなく白い布製の軍服を纏っている。規律の行き届いた軍隊というには、何かがおかしいと感じさせる雰囲気があった。
「今日から君は私の友であり、弟であり、兄であり、息子であり、父である。はじめまして、新たな同胞よ」
つい先程までは目の前の兵士と刃を振るって命のやり取りをしていた元帝国兵が、脳の奥深くから湧き起こる歓喜と幸福感のままに答える。
「ああ、はじめまして、私の友よ、兄よ、弟よ、父よ、息子よ。今日から私は貴方達の同胞である。共にこの世界の果てまでも我らの法と正義と愛を行き届かせよう」
果たしてこれを相互理解と言ってよいのか。これを友愛と言ってよいのか。二人の兵士達は彼らが口にした言葉に嘘はないのだと、目撃した誰もが納得せざるを得ない熱い抱擁を交わす。
彼らばかりではない帝国の兵士や民達が、何の敵意もわだかまりもなく侵略者達と言葉を交わし、抱擁を交わす光景が帝都中に溢れているではないか。
戦地に赴いた息子を殺された老父母が、返り血に塗れた侵略者の女性を暖かく抱きしめながら言う。
「ああ、辛かったろう、苦しかったろう」
「けれどもう大丈夫、私達はこれから家族だ。友だ。仲間だ」
志願して戦場に赴いた恋人を涙ながらに見送った女性が、恋人と同じ年頃の侵略者の若者へと言う。
「私達と貴方達は今日から同じ旗の下に生きる生命なのです。苦難に襲われた時にはお互いを支え合いましょう。喜びと幸福はお互いに分かち合いましょう」
戦場で仲間を皆殺しにされ、一人、重傷を負って戻り、憎しみに身を焦がしていた元兵士の青年が、笑みを浮かべる侵略者達へ両手を大きく広げて告げる。
「この命は君達と同じように捧げよう。この血も、肉も、骨も、命も、ああ、君達と等しく価値を持ち、等しく捧げる為にあるのだ!」
程なく帝都や宮殿に掲げられていた国旗の全てが下ろされて、代わりに侵略者達の旗が揚々と掲げられる。
凍てつく風、全てを埋め尽くす雪、身を切る冷気に満ちた凍土に長く覇を唱えていたルーシスク帝国は、雨糸が雲と大地を貫くこの日にその歴史に終止符を打った。
帝都が陥落したその日の内にルーシスク帝国は単なる地方都市へと変わり、国名を侵略者達のそれへと変えた。
侵略者達の母国の名、それはディファクラシー聖法王国といった。
雨が降っている。この季節には滅多に降らない筈の雨が降り、帝都を濡らし、人々を濡らしている。
雨が降っている。人々の体に降り注いだ雨が次々とその体を濡らしてゆく。時には唇を割って入り体の中へと。侵略者と共にやってきた雨が、人々の体に入る。人々の心に入る。
雨が、雨が、雨が……
不穏なスタートになりました。
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第二百七十一話
「ふむ」
とある古神竜の魂を持つ転生者の口癖を零したのは、辺境の村人から成り上がった騎爵でも、竜頭人身の探索者でもなかった。
大国ロマル帝国の隠された姫君アムリアの護衛として、リビングゴーレムであるリネット、人造少女キルリンネ、ガンデウス、そして犬人の八千代、狐人の風香と共に行動している人間寄りのドラゴニアン・グワンダンである。
ほどほどのような、まあまあのような顔立ちの、それでいて風格と威厳のある青年は、思案するように顎を右手で撫でている。
場所はロマル帝国の版図の中で、最も強大な反乱勢力の根拠地となっている、帝国南方にしてかつては無数の亜人達が群雄割拠していたヒシメルク海岸を見下ろす丘の上だ。
遠方の諸国家との海洋貿易を担う重要な港湾都市の一つウミナルを、彼らは訪れようとしているところだった。
ロマル帝国に反旗を翻した反乱都市エルケネイでの戦いを終え、反乱勢力の最大戦力が居るこの南方の地に足を運んだのだが、これまでの道程で見て来たモノが彼らの足を鈍らせている。
ロマル帝国支配時代に敷かれた立派な街道を行き交う人々を遠目に眺めながら、グワンダン一行は停めた馬車の傍で、それぞれ椅子に腰かけ、車座になって今後の予定を話し合っている。
既に目的地であるウミナルは目前なのだが、実際に都市の中にまで足を踏み入れるべきか否か、海から届く潮風を浴びながら何度目かになる協議を重ねている。
基本的にアムリアの意思を最大限尊重する為、行動方針はすぐさま決まるのが一行の常であるから、これはいささか珍しい事態だ。
いよいよウミナルを目前に控え、最終意思決定を行うこの場面で口火を切ったのは、むすっとした顔の八千代であった。
「某はやはりこのウミナルに入るのは反対でござる! ウミナルに近づけば近づく程、この考えはより強固なものになったと言わざるを得ぬ」
「拙者もハチと意見を同じくするでござるよ。エルケネイではまだ帝国の支配を受けた者同士という事で、亜人種も純人間種も共に暮らしていたけれど、この辺りはどうにもこうにも」
八千代と風香が苦い顔になり、外見上は純人間種であるアムリア、リネット、ガンデウス、キルリンネを伴ってウミナル入りするのを反対するのは、ウミナルを含む近隣一帯を勢力下に置く反乱勢力“太陽の
ロマル帝国によって亜人種や非ロマル民族が武力によって制圧され、被支配階級に落とされた歴史はこれまで何度も語ってきたが、その屈辱と非業の歴史に対する反動が暴力的な形で表れているのが、この太陽の獅子吼並びに彼らの傘下の勢力なのだ。
「ロマル民族に対して過敏になるのは、これまでの歴史を考えれば分かる話でござる。そもそも現状、戦争状態であるからして、そりゃ過敏にもなり、過剰に警戒なりするのが当然でござろうとも」
八千代はまだ彼女自身が理解できる話をする。この話の範疇であったなら、八千代と風香もウミナル入りを断固として反対はしなかったのだが、問題はまだ理解も納得も出来る範疇を越えた部分にあった。
「ロマル民族に対する憎しみや憤りが高じて、純人間種憎しにまでなってしまっているのでは、アムリア殿を連れてなど行けんでござるよ。絶対にいちゃもんをつけられるに決まっているでござるもん」
八千代が深々と諦めを含んだ溜息を吐くのは、エルケネイを出立してからこのウミナルに近づくにつれて増してゆく純人間種に対する敵意と憎悪の感情の濃度を、肌で感じて来た為だ。
アムリアとてそれは同じ事だろうに、あくまでウミナルの内情を知りたいと希望し続けている事に、反対派の八千代と風香は頭を痛めていた。
風香もここに到るまでの旅路を思い出して、耳をペタンと前に倒す。
「同じ歴史背景を持つロマル民族ではない人間に対しても、排他的を越えて攻撃的になっている程でござるからなあ。ロマル帝国とまとめて、今度は自分達が支配してやろうという考えが末端の兵士にまで行き渡っておるし……」
こればかりはアムリアも否定できずに、しょんぼりとした様子で顔を俯かせる。グワンダンと彼につき従うメイド三姉妹達も、これといった反論の言葉を口にしなかった。
反対派の二人は明確に意思表示をしているが、賛成派のグワンダンとリネット達――メイド三姉妹は単にグワンダンに従うだけなのだが――は、そこまで強く意思を表示していない。
グワンダン達はあくまでアムリアの意思を最優先に尊重する、という態度を一貫して取り続けているからだろう。
「アムリア殿、せめて、外見を某のような犬人にするとか、風香のような狐人にするとか、なんならグワンダン殿のようなドラゴニアンでもいいと思うでござるよ?」
「リネット殿達も同じでござるねぇ。うーん、リネット殿達はグワンダン殿に倣いドラゴニアンに変装して、『お兄ちゃんと三姉妹で悪い帝国に反旗を翻した勇気ある人達を見に来た』としてはいかがでござろうか」
風香の提案にリネット達は大きく心揺れるところがあったらしく、感情表現の豊かなキルリンネばかりでなく、情動の起伏が控えめなリネットやガンデウスまで体を揺らして反応していた。
グワンダンの手にかかれば、超一級の魔法使いだろうと如何なる魔眼や霊視能力を有していようと騙し通せる幻術を張り巡らせるなど簡単な事だ。それを知っているからこその八千代達の発言である。
顔を俯かせていたアムリアが顔を上げ、意思の強さを感じさせる瞳で自分を想ってくれている犬人と狐人を見つめる。
「確かにそうすれば私でも穏便にウミナルに入る事は出来ます。それは間違いない事でしょう。でも、八千代さんも風香さんも分かっておいででしょう? 私は『人間を相手』に、彼らがどんな目を向けるかを知りたいのです」
アムリアの言う通り、八千代と風香は分かっていた。
あくまで人間としてウミナルに入り、どんな目を向けられるのか、どんな感情に晒されるのか、どんな扱いを受けるのか、それをアムリアが知りたがっており、そうでなければわざわざウミナルを訪れる意味がない事も分かっている。
八千代と風香としては、そこはアムリアに妥協して貰って、せめて姿だけでも変えて欲しいところなのだが、この隠されていた皇女はなかなかどうして頑固者だ。
「う~~~、やっぱりそこが肝心要でござるかあ。アムリア殿の意思の固さは買いでござるけれど、そこはほらあ、生きる上での賢さという事で妥協というか、状況に応じた適切な判断をするのがいいと思うんでござるよぉ」
そういう八千代の方こそ賢い生き方等、到底出来っこないのだから、説得力というものが欠片もない。それでも尻尾と体を左右にくねらせて、精一杯説得を試みる姿は彼女なりに必死である事の表れではあった。
風香も同じく八千代の隣で同じように尻尾をふりふり、体をくねらせて、飼い主に翻意を促す飼い犬のような愛嬌を振りまくが、残念ながら色気はあっても、アムリアの意思を揺らがせるには可愛げの成分が足りなかった。
「ごめんなさい。八千代さんと風香さんがとっても心配してくださっているのも、きっとたくさん迷惑をかけてしまうのも分かっているのに。でも、私はこうしたいと思うのです。
私にロマル帝室の血が流れている事は望んだものではありませんが、その血の流れる私だから出来る事を本当に見つける為には必要なのです。きっと」
「きっとでござるぅ? でもアムリア殿のきっとは、絶対という意味だって拙者はもう学習したでござるよお。もう、アムリア殿の頑固者ン!」
ぷうぷう、と風香は頬を膨らませて抗議するが、口で言う程に怒っていないのは誰の目にも明らかな事であった。なんだかんだで八千代と風香がもっともアムリアに甘く、過保護なのだから。
意思を翻す様子のないアムリアの態度に、八千代と風香が功さんの意思表示を示したのを見届けてから、これまで黙っていたグワンダンがようやく口を開いた。
分かり切っていた結果だが、やはりきちんと示されてから行動しなければ、小さいしこりが残っただろう。
「結論は出たな。アムリアはその姿のままでウミナルに入る。ふむ、リネット達もそのままで行かせるとして、これまでとはいささか事情を変えておいた方がよかろうよ。
エルケネイやここに来るまでの途中の都市だったなら、人間のお嬢様とその護衛で話を通せたが、ウミナルではそれで通じないだろう」
言外に、どんな形であれ、人間が亜人の上に立つ立場を取っては、火に油を注いで周囲からの過剰な反応を招くだけだと告げるグワンダンに、アムリアが悲しげに柳眉を寄せて首肯する。アムリアとてそれ位の事は理解している。
グワンダンに続き、事前に収集しておいたウミナルと近隣の諸事情をまとめた書類を片手に、リネットが仕事の出来る才女の気持ちで、こう提案した。ディアドラがこの場に居たら、背伸びをしているようなリネットの姿に対して、にっこりと微笑んだ事だろう。
「ウミナル並びに近隣の沿岸地帯は、全て太陽の獅子吼勢力が奪い返しています。ロマル民族でない人間種は、元々暮らしていた地域にこそ残っていますが、主要な都市部への出入りは禁じられています。
蜂起時に取り残されたロマル帝国民達は、労働力として拘束されて様々な労働に従事させられています。実質、この辺りは太陽の獅子吼によって亜人至上主義の国家として再構築されつつあると言えるでしょう」
これまでの都市で見て来た光景とリネットの報告を照らし合わせて、八千代は早々に陰鬱な表情を浮かべる。根が陽性に出来ている八千代にしては珍しい陰を含んだ表情だ。
「なんだか、ロマル帝国時代と立場を逆転した扱いをしていそうで、聞いていても楽しくなさそうな話でござるなあ」
特に女子供や老人等、力の弱い者が虐げられる話には、めっぽう弱いのだが、この手の話の類には十中八九ついて回るものだから、八千代の陰鬱さは自然と増してしまう。
「自分達がやられた事をやり返す、過ちを犯しても同じ歴史を繰り返す。人類の基本行動ですね、とリネットも同意します。
ただ、そっくりそのままやり返すのではロマル帝国と何ら変わる事はないと考えているのか、枷を嵌めて、鞭を振るって休まず働かせるといった行為は行われていないようですよ」
「では、家族を人質にとって最前線で肉の盾として使い捨てにしているとか?」
「蜂起以降散発的にロマル帝国と戦闘が発生していますが、人間の盾が用いられたという記録はありません。万が一の事態を危惧して、拘束した帝国民を戦闘に投入する事と重要な施設への立ち入りは、禁止しているようですね」
「ほー、それは思ったよりもマシな扱いでござるな。他人だから言える呑気な発言だとは我ながら思うが、支配しているという状況が得られれば、どのように支配しているか、という点には拘泥していないのでござるかね?」
「帝国の軍勢を追い払い、父祖の土地を取り返した時点である程度留飲が下がったのは確かでしょう。この二つを声高に主張して士気と結束を高めていたようですから、その後の具体的な行動については、末端にまで話が通っていないようです。理不尽な暴力がまかり通っていないという点に於いては、歓迎できるかと」
「ふーむ、想像していたよりはひどくなさそうでちょっぴり安心はできたでござるけれど、それでも嫌なものを見るのは避けられないのでござろうなあ」
「見下して良いと思える理由と暴力を振るっても許されると思える背景があれば、人間はいくらでも暴力的になれますので」
ロマル帝国も反乱を起こしたものも関係なく、総じて人間はそういう生き物だと断言するリネットに、八千代は悲鳴に近い抗議の声を発した。
「リネット殿、ちょっと不穏な事を真っ正直に言い過ぎでござるよぉ!」
「リネットは常に正直な言動と誠実な態度を心掛けております」
ツンと澄ました顔で抜け抜けと言うリネットに、八千代はぐうの音も出なかった。
その後、改めてアムリアことアナ、リネットことトルネ、八千代ことハッチ、風香ことフウとその一行の設定を確認し直してから、グワンダン達は港湾都市ウミナルへと足を踏み入れた。
外部から流入する純人間種の姿は見られなかったが、整備された街道を行き交う人影は多く、ヒシメルク海岸を中核とした一帯の新しい支配者のお零れに預かろうとする者と、その実態を見極めようとする者は引きも切らない様子だ。
ウミナルはロマル帝国の支配以前から海洋貿易の要衝として、商業・貿易として大きく発展してきた都市である。
拡大の一途に防壁の建造が追い付かず、今でも都市の外部に防壁の類はない。その代わりに海側での防衛は要塞化したいくつかの小島が、陸上での防衛は郊外にいくつも立てられた砦と城塞が担っている。
ウミナルへ繋がる主な街道は三つ存在しており、グワンダン達の乗る馬車はエルケネイ方面と繋がる北部からの街道からウミナルへ入った。
街道からウミナルへと続く街道の途中にある検問所を守る兵士達は、屈強な獅子人や猫人の男女が複数おり、前線から遠い立地にあるとはいえ反乱側の最大勢力としての見栄を張っている様子が見受けられた。
一目で亜人と分かる者達は滞りなく街道を進み、ウミナル入りを許されていったが、やはりグワンダン達の番となると、はいどうぞ、とは行くわけもない。
御者はグワンダン、八千代が務めていたが馬車の中身を改める段になれば、当然アムリアとリネット達の姿を見られる事になる。隠し通さないと決めた以上は、彼女らの姿を見られるのは仕方のない事だ。
馬車の中を見た獅子人の兵士が険しい目つきで御者台のグワンダン達を睨みつけ、手にした槍の穂先をいつでも突き出せるように重心をずらし始める。
兵士の様子の変化に他の兵士達も敏感に反応して、何時でも包囲できるように何人かが動き始めていた。散発的な戦闘が続いていた程度とリネットは言ったが、当の兵士達はまだまだ気を抜いてはいないようだった。
「お前達、この者達は何だ? 詰め所で詳しく聞かせて貰おうか」
この者達とは無論、アムリア達の事である。一行の統率者役を担うグワンダンが、何ら負い目を感じていない態度で堂々と応じる。ドラゴニアンという希少性もさることながら、纏う風格と堂々たる態度から、兵士の方が自分が間違えたかと、一瞬迷う程だった。
「ふむ、彼女らが君らにとって見逃しがたい存在である事は重々承知している。こちらとて時間は惜しいが、何時までにと制約があるわけでもなし。ウミナルの治安を乱すつもりはないのでな。そちらの求めにはもちろん応じるともさ」
兵士達の詰め所に通された一行は、武器を取り上げられた上で兵士達の監視の元にウミナルを訪れた目的とアムリア達についての説明を行う事になった。
そのまま平屋の詰め所に連行され、グワンダン達の数が多かった事から軒先で尋問を受ける。
アムリアとリネット達四名を守るようにしてグワンダンが後ろに、左右には八千代と風香が立ち、その周囲を武装している兵士達十余名が取り囲んでいる。
いささか過剰な人数とも思えるが、わざわざこの時期にウミナルへロマル民族と分かる人間を連れてきたのを警戒されての対応だろう。
尋問を担当したのは先程の兵士の上役らしき、縞柄の虎人の女兵士だった。左頬から首筋にまで及ぶ斬痕と隙のない気配から歴戦の猛者である事が見て取れた。
黄色い毛並みに黒い模様のある髪の下から覗く顔つきはむしろ穏やかであるが、これは中々と思わせる雰囲気がある。
「どうも、こんにちは。当検問所の責任者を務めておりますサザミナと申します。部下から聞きましたが、ええ、本当にロマル民族の方とそうでない人間の方を連れているのですね」
アムリアとリネット達を見るサザミナの視線は、今のところは激しさも穏やかさもない。
「当然、ロマル帝国の現状は知っていますでしょう? ですのに、どうしてこの方達を伴ってウミナルへ。怪しまれて当然の事ですから、貴方達も相応の事情を抱えているのですよね?」
正面から堂々とウミナルの検問所を訪れて来たのだから、何かあるのだと勘ぐられるのは分かり切った事だ。その為に設定を練り直したのだから、グワンダンはもちろんアムリアにも動揺した素振りはない。
「ああ。ウミナルを訪れたのは、まだこの都市が他国との貿易を継続して行っているからだ。この地からより遠方に向けて離れるのには、ここから船に乗るのが手っ取り早い。
君らはロマル帝国の人間は強く敵対視しているが、貿易相手に関しては別の話と分けた対応を取っていると耳にしたからね」
ロマル帝国支配時代からヒシメルク海岸各地の港湾都市には、国外から多くの船が訪れてきていたが、その中には当然の事ながら純人間種も含まれていた。
それは今も同じで、反乱発生後も貿易の為の船舶は訪れており、彼らを相手に太陽の獅子吼は、ロマル帝国時代よりも関税を緩和する等、好条件での商取引を続けている。
こういった対応に関しては、グワンダン達の推測になるものの、純人間種への憎悪や攻撃性をロマル帝国に限定して特化させて、利益を生む国外貿易に関しては矛先が向かないように内部で情報統制をしているか、対応に当たる人員を限定しているのだろう。
それにロマル帝国を打倒した後の事を考えれば、純人間種と亜人種が共存している他国家との繋がりを断ってしまうのは、損失が大きい。
帝国時代より貿易の条件を良くしているのも、帝国とは違うと言う分かりやすい意思表示となるべく多くの繋がりを残しておきたいという太陽の獅子吼の意向であろう。
「それで、どうしてそちらの女性達を連れてウミナルを訪れる話になるのです。国外へ行くだけなら、貴方とそちらのハッチさんとフウさんの三人で船主に相談すればよいだけの話では?」
「そう考えるのはごもっとも。足を使って時間をかければ、あるいはお金を積めば載せてくれる相手も見つかるだろうが、効率を優先した結果だよ。彼女の家は国外のとある商会との繋がりがある。
家それ自体はもう没落したも同然だが、商会との繋がりはまだまだ活かせる。そこで帝国を出ようと考えていた私、ハッチ、フウと道中の護衛とウミナル入りの手段を求めていたアナとの思惑が合致して、こうして一緒に行動しているわけだ」
アムリアの家というのは今まさに国を三つに分けて内戦中のロマル帝国の事であり、国外の商会というのはアークレスト王国が密かに使っている商会の事だ。
実際に間諜経由でウミナルに入っている商会とは事前に連絡を済ませており、ウミナル側が情報の裏を取ろうとしても、何も問題がないよう手配してある。
「ハッチとフウは見ての通り、外国の生まれだ。一度、国元に戻ろうかという話になって帝国を離れる術を探していた。私の場合は、単純に見聞を広める為だな。君らが帝国に反旗を翻さなかったら、海路ではなく陸伝いに東か西のどちらかに向かっていたところだよ」
言外に君達の行いの影響で、このウミナルを訪れたのだと皮肉を告げるグワンダンに、周りの兵士達がわずかに殺気立つが、サザミナは穏やかな表情を変えずに言葉を重ねる。
「では確認を取りますので、商会の名前を伺っても?」
「ああ。アナ」
「はい。私達が向かうのはアルダム商会です。今、こちらに寄港しているかは存じませんが、何とか船に乗せていただいてここから離れようと……」
「なるほど、アルダム商会ですか。私でも聞き覚えのある商会ですね。では確認が取れるまでしばし、こちらでお待ちいただきますよ。よろしいですね?」
拒否を許さぬサザミナの静かな威圧を込めた言葉に、アムリアは臆することなく正面から向き合い、頷いた。
ちょびちょび帝国編をやって、またベルンに戻ります。
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第二百七十二話
グワンダン達が接触する予定のアルダム商会からの使いが、私達の前へ姿を見せるのにそれ程時間は必要なかった。
サザミナの部下によって連絡の届いた商会から、すぐさま商会の代表であるグドという
こういう時の為にアークレスト王国が何十年も前から用意してきた商会なのだから、当然の結果と言えば当然の結果だ。
ロマル帝国への反乱の流れに便乗し、中々の商売上手と知られるグドは、その評判に相応しい裕福な身なりの男だった。
良質の絹と希少な染料をふんだんに使い、青に赤、黄に白と派手な色彩のバルーンパンツと同じ色彩の袖なしのチョッキに白いシャツ姿で、肩からは金糸の刺繍がびっしりと施された帯をかけている。
いかにも、気風の良い大店の主人然とした衣装だが、その癖、穴熊の毛皮を首周りや胸元に纏った体は横幅も厚みも凄まじく、背もグワンダンより頭一つ大きい程だ。
衣服を脱ぎ捨てて肉体を晒せば、誰もが屈強な戦士と信じて疑わない逞しさである。穴熊らしい愛嬌を感じさせるグドの顔には、にこにこと人好きのする笑みが浮かんでいる。
初対面の相手を極力威圧しないように、という配慮が感じられた。
「サザミナ殿、この方々は間違いなく私共アルダム商会の客人ですよ。ええ、こちらのアナさんのご両親とは良い商売の付き合いをさせていただいておりました。サザミナ殿達にとっては、そのう、あまり良い印象を持たれないのは百も承知ですが……」
「そうですか。いえ、グド殿の言葉を疑うわけではありませんが、ウミナルの現状を知るロマル人が足を踏み入れるというのが、どうにも腑に落ちませんでしたので」
「いやいや、私共が事前に話を通し、アナさんをお迎えに参上していればこのような事態は防げましたでしょう。こちらの手落ちでございますので、どうぞお気になさらずに。
アナさんも、申し訳ありませんでしたなあ。もう少しウミナルの外でお待ちくだされば、店の者を大急ぎで走らせましたのに。いやいや、これは言い訳ですな。失礼を申し上げました」
「私の方こそ配慮が足りていませんでした。グド様だけでなく、サザミナ様達にもご迷惑をおかけしてしまいました」
そう言って、小さく頭を下げるアムリアを見るサザミナや周囲の兵士達の視線は、変わらず厳しいままだ。アルダム商会に身分は保障されたが、それでも純人間種であるのには変わりないからか? それともまだ怪しまれているかね。
「いえ、私達はあくまで職務を果たしているだけです。それでも、貴女のようなロマル人がウミナルの中を姿を見せて歩き回るのはすすめられません。次に何か問題があれば、いくらアルダム商会の保証があったとしても、見逃す事は出来ませんよ」
種族の名の通り虎の如き威圧感を滲ませるサザミナに、グドが乾いた笑いを零した。
グドの外見の威圧感と逞しさに反して胆の小さい、と責めるには酷なサザミナの威圧感だ。まだ若いが、相当に修羅場をくぐっているな。
そのくぐった修羅場がロマル帝国相手と考えれば、ロマル人のアムリア相手にかくも厳しい態度を取るのも当然だろう。いや、むしろ優しい態度なのかもしれない。
「分かりました。気を付けます。重ね重ね、この度はご迷惑をおかけしました」
私は再び下げられたアムリアの頭を横目に見ながら、今回とは比較にならない『迷惑』を掛ける事になるのだろうと、サザミナに今の内から重ねて頭を下げておいた。
戦火がこの地にまで及ぶか、それともサザミナが戦場に立つのかまではまだ決まっているわけではないが、いずれにせよウミナルを騒がせるのには違いあるまい。
私達は最後までサザミナ達からの険しい視線を浴びながら、詰め所を後にした。グドの乗りつけて来た小型の馬車に先導されて、ウミナルへと改めて入る。
馬車が出発する直前、グドからは彼の屋敷に着くまでは、くれぐれもアムリアの姿を見られないように、と忠告された。ウミナルでそれなりの地位と影響力を持つ彼にしても、アムリアを二度も庇うのは難しいのだろう。
流石にアムリアも今回ばかりは自重して、馬車の幌の内側から覗くだけに留めている。
それだって私が外部の視線とアムリアの視線が交わったりしないように、こっそり幻術を重ねている上での事だ。
「今進んでいるのは目抜き通りだな。中にも通りの賑わいが届いているだろう」
御者台から荷台のアムリアへ話しかければ、小さく潜められた声が返ってきた。
「はい。まだ港ではありませんけれど、一層強い潮の香りが届いています。それに色んな種族の方がこうまでひしめき合っている光景は、やはり圧倒されます。
これまでの道のりではウミナルに近づくにつれて、人間の比率が減ってゆきましたが、この街では全く見かけませんね」
「ふむ、どこかに追放されたというわけではあるまいが、まとめて隔離されて余計な衝突と治安の悪化を防いでいるのかもしれん。詳しい事情はグドが教えてくれるだろう」
ウミナルの中にあるアルダム商会の店舗は港に近い位置にあり、通りを進むにつれて海産物を取り扱う店舗の割合がどんどんと増えて、寄せては返す波の音もより大きくなる。
漁では大変に頼りになる魚系の亜人達の数も多くなり、まだ鱗や殻を濡らしたままの者も少なくない。
加工場や競りの行われている市場を尻目に、アルダム商会の持っている厩舎に馬車とホースゴーレム達を預けて、事務所へと案内された。
通りに面した、煉瓦を積み重ねた五階建ての建物である。その一階の奥まった場所にある代表の部屋で、私達はグドと改めて対面した。
私達の事とアルダム商会がアークレスト王国の隠れ蓑である事を知るのは、商会の中でもごく一部に限られていて、私達にお茶を用意してくれた執事もその内の一人だったろう。
グドは巨漢ながら愛嬌のある顔から緊張の強張りを解いて、執事の淹れた飲みやすい温度に冷まされたお茶を一息に飲む。
「んぐんぐ、んむ、美味い。皆さんも咽喉が渇いてはいませんか、どうぞ遠慮なく飲んでください」
グドと長机を挟み、長椅子に腰かけた八千代と風香、アムリアが勧めのままにお茶に口を付けて、私とメイド三姉妹はいざという場合に備えてアムリア達の周囲に立っている。
こちらのお嬢さん達三人がお茶を飲んで落ち着くのを待ってから、グドは表情を引き締め直して口を開く。何十年もロマル帝国とこの地に住む人々を相手に商売をしてきた歴戦の商人は、さて、私達に何を聞かせてくれるのか、何を問うのか。
「貴方達の事を知らされた時には随分と驚かされましたが、堂々とこのウミナルに入ろうとなさるのには、更に驚かされましたぞ」
批判を含んでいてもおかしくないのだが、グドの声音には純粋な驚きだけがあった。
グドに答えたのはアムリアだ。私達の誰よりもこのウミナルを知る商人と話をするのには、この町を訪れる事を希望した彼女が最も相応しく、同時にそれが彼女の責任でもある。
「申し訳ありません。どう対応されるのかを含めて、このウミナルという都市とこの地の人々の事を肌で感じて知りたかったのです」
「何とも豪胆な。しかし、悪くすれば刃傷沙汰になる恐れもあります。サザミナ殿が言っていたように、次からは気を付けなければなりません」
「はい。あの、刃傷沙汰とおっしゃられましたが、やはり、それほどまでにこの都市での人種間との関係はひどいのですか?」
グドは言葉を選ぶように腕を組み、目を瞑って小さく唸った。飢えた熊が発するような唸り声に、八千代と風香の耳が一度しおしおとへたれた。
「もちろん良いわけはありません。良いか悪いかで言えば悪いの一択になります。それはアナ様達もウミナルまでの道のりで存分に目にして来られたでしょう。帝国側での反乱を起こした者達や亜人、異民族達への対応もまたご覧になられているのでは?」
「はい。最初にライノスアート大公のお膝元から見聞の旅を始めましたので。エルケネイやその周囲ではそれなりに亜人と異民族でも上手く手を携えていられましたけれど、ここではロマル民族でなくとも人間種ならば敬遠されているのですね。
でも、あの、この港の辺りでは人間種の方々が特に監視されている様子もなく働いているのをお見かけしたのですが」
「ああ、それはウミナルやこの辺りに住んでいる人間種ではありませんよ。海の向こう側、つまり交易国に在籍している人間種です。
太陽の獅子吼の思想がどうあれ、それは彼らの傘下に属する者達に適用されるのであって、敵対関係にあるわけでもない交易相手に押し付けるものではありませんから。
それでも思想に影響を受け過ぎた者達が暴走するのを危惧して、太陽の獅子吼側は港の周囲にはまだ落ち着いている連中を回して、余計ないざこざを避けておりますぞ。
それでも雰囲気は険悪になっていますから、我が商会の人間種の者も以前よりも仕事がやりづらくなったと愚痴を零す始末。取引それ自体は以前よりも我らに都合の良いものになりましたが、雰囲気の悪化は否めません」
ふむ、長年、ウミナルで仕事をしてきた者達ならば、当然、雰囲気の変化を敏感に感じ取るわな。事前の調べ通り交易の条件それ自体は帝国時代よりもよいようだが、この様子ではそれもいつまで続くか。
グド達を含め、今はこのウミナルに寄港している者達もより条件の良い良港があったなら、そちらを利用するようになりそうだ。
「ではグド様、この都市に残っている人間種の方々はどのような扱いを受けているのですか? 私達の調べでは単純な労働力として扱われていて、戦場に兵士として連れて行かれる事もないらしいとは分かっています」
「ほう。……アナ様が把握している情報に誤りはありませんが、不足はあります。流石にロマル人でない者は捕われてはおりませんが、ロマル人は特定の区画に隔離されて、割り振られた仕事をこなす日々を行っております。
一部、行政や軍事に携わっていた者達はその能力と知識を買われて、条件と監視を付けて働いている者もいるようですな。ところで、アナ様」
ふむ、これも事前に想定した内の事情だな。
「はい、なにか?」
「古今東西の歴史を紐解いてみますと、こうした虐げられていた者達が反旗を翻して立場を逆転させた時、おおむね二つに分ける事が出来ます。それが何か、お分かりになりますか?」
「二つ……相手を滅ぼすまで戦うか、途中で妥協するか、でしょうか?」
どうやらアナの答えはグドの用意していた正解とは異なったらしいが、その内容の過激さにグドは口を大きく開けて驚いた顔を見せた。虫も殺せそうにないアナの印象を大きく裏切る発言だ。
それも仕方ないが、ここら辺は戦国乱世が長く続いた故郷を持つ八千代と風香、それに私から影響を受けてしまったからだろうか。
「いや、まあ、それはそう? なのでしょうが。ええとですな、自分達がされた事をそっくりそのまま報復し返すか、奴らと自分達は違うと報復しないか、です。
後者の場合は不当な差別をした者達に対して、自分達は決してそのような事はしないと平等を旗印に掲げる傾向が見られます。大抵、代を重ねると破綻しますし、ひどい時にはその言葉を口にした者の代で終わりますけれどね……」
ふむん、古神竜時代の記憶を掘り返してみるに、なるほどなるほど、ちらほらと例外を見た記憶もあるが、おおむねグドの言う通りであるかな。
「事前に聞いていたお話ですと、太陽の獅子吼の方達は前者であるように思えますが、何か違うのですか?」
「恥ずかしながら私達も当初は太陽の獅子吼達がロマル帝国に反旗を翻し、一定の成果を上げた後は同じような仕打ちをするものと考えていたのですが、その予想よりも余程穏当な扱いがなされています。
肝心なのは予想が違ったという事実に加え、何故予想と違ったのか、という事です。太陽の獅子吼を構成する諸種族は、ロマル帝国の支配からの脱却と父祖伝来の土地の奪還、そしてかつての敗北の屈辱を注ぐ事を共通の目的としています。
代々その思想を伝える事で種族や部族内の結束を高めるのは、分かる話です。そうして彼らは今の結果に繋がっておりますしね。ただ、その割に現状の扱いは随分と手ぬるく感じます」
ただ単に太陽の獅子吼が支配の屈辱から、人間種を下に扱っているだけと考えては、見落とすものがあると、私達に教えたい様子だな。アナも私と同じように考えてか、じっとグドの瞳を見つめて話の続きを促す。
「私達が現状把握している限りになりますが、どうやら太陽の獅子吼内部でも思想といいますか、温度差があるのですよ」
「連綿と伝えられてきた屈辱の歴史と憎悪に従って、自分達には復讐の権利があると声高に叫ぶ者と、虐げられてきた自分達だからこそロマル帝国と同じになってはならないと訴える方でしょうか?」
「それならまだ分かりやすいのですが、復讐の権利を叫ぶ側の中での温度差なのですよ」
「……つまり、どの程度、復讐するか、という事でしょうか。誰に、どこまで、何時まで、どう復讐するか、という観点で温度差があるのですね」
「その通りです。仮に過激派と称しましょう。その過激派の中の温度差が今のウミナルの微妙に生ぬるい対応に繋がっているのです。ちなみに太陽の獅子吼内の穏健派はかなり少数です。
直接差別されたのが先祖の代の話で、過去のものであったならもっと穏健派も多かったでしょうが、差別を受けた世代での反乱ですからそれも仕方のない事です」
他にも言いようはあるかもしれないが、過激派と穏健派の対立ではなくて過激派内部での温度差とは、いやはや。エルケネイの七つ牙より余程相手をしづらそうだ。
アークレスト王国にもアルダム商会経由でこれ位の情報は伝わっているだろうが、私達で何か新しい情報を伝えられるかね?
「現状のウミナルを見れば分かりますが、目下、過激派の舵を握っているのは穏健派寄りの過激派です。……自分で言っておいてなんですが、ややこしい呼称ですな」
「では、それぞれの派閥の代表格となる方のお名前を冠してはいかがでしょう? 私達も注意しなければならない方のお名前を同時に把握できますし、その方が分かりやすいかと思います」
「おお、それが良いですな。では、穏健派寄りの過激派の代表は獅子人のアシアという青年ですから、アシア派。過激派の過激派は獅子人のレコという女性ですから、レコ派になりますな」
「ウミナルの状況を考えると太陽の獅子吼の代表者は、穏健派のアシアさんという方なのですね」
「いや、そこがまたややこしい所でして、太陽の獅子吼の代表たる族長はアシアでもレコでもありません。黄金の鬣を持つ若き獅子人、レオニグス家のレグルです。
彼は元々レコ派に近い思想の主でしたが、族長としての重責を担うようになった事で頭が冷えたのか、感情を横に置いて部族全体の未来を考えるようになった節があります。
レコ派が舵を握っていたなら、他国の船でも人間種がウミナルを訪れるのを許さなかったでしょうからね」
そうなると、ロマル帝国南方の反乱勢力の主要人物はアシア、レコ、レグルの三名となるわけだ。アムリアの素性を考えるとレコとレグルに会わせるのは厳しいが、アシアとは少し接触を考える価値があるか。いや、それでもアシアもまた過激派ではあるのだが。
思っていたよりも簡単には出来ていない太陽の獅子吼内部の事情に、少し考えを巡らしてからアムリアが口を開いた。
「そうなると、レグルさんという方の心がどちらを向いているのかを知るのが、重要ですね」
そう言い切るアムリアの言葉を聞き、その瞳を見て、両隣の八千代と風香が、あ、と短く声を上げる。私にも分かった。あれはアムリアの覚悟が固まった時の瞳だ。ふむ、次はレグルの獅子顔を拝みに行く事になりそうだな。ふむ、ふむ、ふむ~ん……
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第二百七十三話
私でも砕くのには途方もない労力を必要とする程、強固な覚悟を固めたのが見て取れるアムリアは、その覚悟に基づいた行動に必要そうな情報をグドへと求めた。
強い意思の輝きを放ち始めたアムリアの視線を受けて、心なしかグドが背筋を正す。国家の後ろ盾を得ながら、異国で堂々と商売を行う男の目にも、アムリアは只者ではないと映ったか。ふふむん。
「そのレグルさんは普段はどのように過ごしておられるのですか?」
「それは、今の彼は太陽の獅子吼の族長としてだけでなく、傘下の諸部族をまとめ上げる立場に就いていますから、奪取した総督府を改装してそこに普段は籠っておりますよ。
元々、自ら最前線に立って武勇を振るい、味方を鼓舞する類の武人ですから演習に参加している事も多いようですが、血気盛んで済まされる時期は過ぎたと、お小言をしょっちゅう貰っているという評判ですが……」
どうやらこの段階でグドは嫌な予感に襲われたらしい。アムリアを見る瞳には不審と疑惑の色が急速に濃くなり始めている。ふむ、私としてもグドに対して同情を禁じ得ない事態になりつつある。
「なるほど。総督府に行けば必ず会えるわけではないのですね。そうなると普段の行動を把握していないと、空振りに終わる事も多そうです。自由に使える時間は限られていますし、情報収集に力を入れないといけません」
アムリアの声に秘められた本気と台詞から、グドも目の前の女性が何を考えているのかを察して、愛嬌のある穴熊人の顔を引きつらせる。
当然だろう。詰所でサザミナから二度と騒ぎを起こさないようにと釘を刺されたばかりだと言うのに、アムリアはよりにもよって太陽の獅子吼の最重要人物と会おうとしているのだから!
「まま、まさか、アナ様はレグル殿に会おうとお考えなのですかな?」
まさか、と疑っているのはこの場でグドだけだ。私は勿論、八千代や風香、リネット達だってアムリアが直接自分の目と耳でレグルの人となりを確かめようとしているのを確信していた。
それにしても、アークレスト王国の王城に匿われた生活をしていたにしては、いささか行動力が逞しくなりすぎてはいないかな? ロマル帝国に来てからの今日までの日々で、アムリアの眠っていた資質を目覚めさせたか?
「うふふふ、さあ、どうでしょう。世間知らずな私でも、グド様の言われる事がとても難しい事であるのは分かりますわ」
「そ、そう、そうですな。いやははは、アナ様の態度についつい深読みなどしてしまいました。海千山千の商人と渡り合ってきた自負がありましたが、これは精進しないといけませんな。まだまだ未熟、未熟、はははは。」
しかし、グドよ、アムリアは難しいとは言ったが、一言も不可能だとも出来ないとも口にはしていないのだ。気付いていないのか、無意識に聞こえていないふりをしているのか。
どちらにしても彼の胃と神経には、今現在で負担を掛けているが、それ以上に大きな負担を掛ける未来が待っていそうだなあ。
アムリアはあくまでも友好的で可憐な笑みを浮かべたまま、次の情報を求めてまだ動揺を残しているグドへあくまで静かな声音で畳みかける。
相手が弱気な態度を見せたなら、それを見逃さずに食らいつく、か。さながら猛獣の嗅覚めいた洞察力と攻撃性であるものよ。
「アナお嬢様は好機を逃しませんね。人の呼吸と間を読み取るのが上手です、とトルネは感心してしまいます」
トルネもといリネットの言う通りで、どうやらアムリアは度胸ばかりか観察力や判断力もいつの間にか鍛えられていたらしい。
リネットからの高評価が耳に届いていないアムリアは、決して嘘ではないが心情の全てというわけでもない言葉で、グドへ語りかけ続ける。
アムリアがその気になれば、あっという間に男を手玉に取る名うての女詐欺師になれるのではないかと、私は本気で疑ってかかった。いやはや、ふむふむ。
「もし可能であればロマル帝国に更なる波乱を招く若き獅子の御尊顔を拝したいと、そう思っただけですから、難しいようであれば無理にとは望みません。
ところで先程は過激派の方ばかり、お名前を伺いましたけれど、少数だけ居る穏健派の代表はどなたなのですか? よくある劇の演目やお話ですと、レグルさんの妹君や恋仲の女性が穏健派の代表で、対立している場面ですが」
「おお、そういえばお伝えしておりませなんだな。いや、にしてもそれはいささか観劇に影響され過ぎですぞ、アナ様。太陽の獅子吼で穏健派と呼べる勢力を纏めているのは、リオレという長老格の老婆の獅子人です。
長く争いと差別の歴史を見て来たからか、父祖の土地を取り戻し、ロマル民族を追い出したなら、それ以上戦火を広げる必要はないのではないかと、主に部族の若い衆を相手に訥々と語りかけているようですな。
ただ、いかんせん、ロマル帝国がまだ大きな戦力を残している事に加え、初戦に勝利を重ねた興奮と歓喜がありますから、休戦や停戦を考える者等極少数。終戦ともなればほとんどいないようなものです」
「そうですか。私にこう思う資格があるのか分かりませんが、平和を望む声が小さいものであるのは、悲しいですね」
アムリアの偽りのない悲哀の色を濃く浮かべた表情に、グドもまた同じように悲しげな表情を浮かべた。
グドは決して薄情ではないが、同時に商人として感情と行動を切り離せる人物なのだろうが、この時ばかりは目の前のアムリアにつられるように感情を素直に示している。
「ただ単に戦いがなくなれば、それが平和というものではないのです。特定の成果を得た上でなければ平和に意味がないと、当事者達が考えている間は、そうそう争いは終わりません。
それにしても、今のロマル帝国の状況は他国の情勢もあって、かなり複雑です。私の知る限りですが、流石に他国の者に膝を突くのは勘弁だと、帝国の者も反乱を起こした側の者も考えているようですがねえ」
その他国の側についているグドとしては、彼自身が利益に預かる為にもアークレスト王国が介入しやすい状況を望んでいるのだろうか。
グドの立場であっても目の前のアムリアがどういう氏素性の主かは秘匿されているだろうが、まさか目の前にロマル帝国の隠された皇女が居ると知ったなら、グドはどのような反応を見せる事だろう。
ふむ、ロマル帝国の皇女、か。決して易々と知られてはならないアムリアの素性こそが、場合によっては状況を動かす切り札となり得るか。おそらく、アムリアも札あるいは駒としての自分の価値を客観的に理解しているだろう。
以前ならばともかく、今の彼女ならそこまで考えが到っていてもなんらおかしくはないし、こうしてグドと話しながら、同時にどう自分を使うのが最も効果的かと思考を巡らせているのかもしれない。
アムリアの双子の姉にあたるアステリア皇女は、常人離れした思考の速さを持つ才女として知られているが、ではアムリアは? ふむふむ。
*
無事にウミナルの協力者であるグドとアルダム商会と接触できた私達は、彼に旅の荷物と馬車を預けて、早速ウミナルの中を見て回る事にした。
事前の詰所での件もあり、アムリアは不承不承という様子ではあったが、顔を隠す為にフードを被せ、ロマル風ではなくアルダム商会が籍を置いている異国風の衣装に着替えている。
ゆったりとした一枚布を体に巻きつけるのが特徴のロマル風の衣装に対して、鮮やかな刺繍の施された藍色のスカートに白いシャツ、袖のない深緑色のコルセット、それにフード付きのショートコートという構成になる。
念には念を入れて、違う顔に見える幻術を込めた魔法の指輪を左の中指に嵌めて貰っている。あくまで人間の姿のままでウミナルの中を歩き回りつつ、アムリアが二度目の騒ぎを起こしたと知られない為の処置である。
もし再び詰所なりで素性を問われたら、アムリアがアルダム商会に留まっていて暇なので、手の空いた私達がアルダム商会と取引のある異国の女性の用心棒がてら、ウミナルを観光していると言い張る予定だ。
用心棒をしながら観光をする、というのは嘘ではないしね。
かくて私達は青い海から寄せてくる波の音が全身を揺らす港へと、足を向ける事となった。
港には次の航海へと向けて商品となる香辛料やこの地方独特の色合いや形状の陶器、名産品である海産物の乾物に上質の絹に真珠細工、豊富に取れるオリーブを絞ったオイルが、逞しい船員達の手によって船へと運びこまれている。
それとは逆に異国でたんまりと仕入れた茶葉や鉱物、反物や各種の酒、良質の木材や魔晶石に精霊石、それらの加工品が船の蔵から運び出されてもいる。
「ふむ、奴隷の類は見られないな」
家族と引き裂かれ、故郷を追われ、劣悪な環境で海を越えて、売り買いされる奴隷という存在に追い落とされた無数の人々。今も褪せる事無く私の記憶に刻まれた光景は、幸いにしてこのウミナルでは再現されていなかった。
奴隷という存在に関して、アムリアやリネット、ガンデウス、キルリンネは縁遠いが、八千代と風香は故郷で見た事でもあるのか、私の言葉にしみじみと頷いている。
ふむ、そういえばガンデウスとキルリンネはある意味では、天人の残した奴隷と言えなくもないが、今は自由意志を持って生きて貰っているから、違うと思いたい。それとも傍から見れば、ガンデウスとキルリンネは私の奴隷に見えるのだろうか?
「そのようでござるな。某と風……ンン、フウが難破して海を彷徨っていた時には、例え奴隷に落とされても良いから誰かに助けて欲しいような、でもやっぱりひどい扱いは嫌でござる、と半々の気持ちで泣きべそをかいたもんでござるよ」
「あの時は鮫のお腹の中に収まってしまうのではないかと、おしっこちびりそうにもなっていたでござるねえ。通りがかった漁船に助けて貰って、こことは違う港まで運んで貰って、九死に一生を得たのでござったな、ハッチ。
今にして思えば人買いなりに売られなかったのは、彼らもまたロマル帝国に虐げられている立場であったから、国は違えども同じ獣人を無碍に扱うのは忍びなかったに違いない。
理由が何であれ、拙者とハッチとしては感謝するばかりでござるよ」
「ハッチさんとフウさんの故郷でも奴隷制度はあるのですか?」
これまでアークレスト王国で過ごしている間に、八千代達の故郷秋津国の歴史についてはそれ程詳しく話さなかったらしい。アムリアの問いにハッチこと八千代とフウこと風香は二人とも、う~んと考え込む。
話して楽しい話題ではないのは明らかで、分かりやすく悩んでいるようだ。
下唇を突きだした、いささかはしたない顔でハッチが物憂げな声で故郷の事情を口にする。
「飢饉や戦禍に見舞われた時に口減らしと一時をしのぐ為のお金を得る為に、子供を奉公に出す事は今でもあるのでござる。
一応、昔の人間の売買とは違う扱いではあるけれど、年貢上納の為の身売りは認められているし、我が故郷に奴隷はいない、とは言えないでござるよ」
「まだ戦国の頃には義に篤く信心深く、己の信念を貫く聖君と讃えられた大名も、年貢を五公五民と定めて民と武士を対等と示し、領民に慕われた名君と言われた武将も、人間の売り買いはしていたでござるしねえ」
風香は、明るく楽しく幸せだけが続いている歴史というのは、どこの国にもないもんでござるねえ、と哀しむ響きはなく、ただそれがこの世だと悟ったような声でそう締めくくった。
時折、含蓄のある事を言うから、この二人を底抜けに陽気で楽しい、ポンコツ娘達と言いきれないものだ。
「二人からの答えはどうだった、アナ?」
「昔の話であるのなら今は少しでも違うという事でしょう。今も近しい制度が残っていても、誰かがこのままではいけないと考え、それを国家単位で広めて改善した結果です。
そしてそれをこれからも続けて行けば、何時か奴隷は遠い言葉、遠い概念に変わるでしょう。その逆の可能性もあるのですけれど、私は私の見出した道を歩みたいと思っています」
「これは、思ったよりも頼もしい言葉が出てきたな。ハッチ、フウ、あちらではどう過ごしていたのだ? 帝国に来てからの影響もあるとは思うが、アナは随分と逞しくなっていると思うぞ」
「周りの皆さんの御厚意で大いに学び、大いに食べ、大いに遊び、大いに眠りはしたでござるけれども、それ以上の事は特にはないと思うでござるよ~」
「拙者も拙者も~。ハッチと同じ感想でござるな。アナ殿ご自身はどのように感じておられるので?」
「私はですか? ええっとハッチさんの言う通り、今もですけれど私の我儘を叶えていただいたと感謝しています。そのおかげで本当に、たくさんの事を学べて、たくさんの方に生かされている事とその恩を何かしらの形で返したいと思うようになりました。
それに帝国に来てから見たもの全てが、私に流れる血というものの責任を本当の意味で理解させてくれました。あそこから連れ出していただいてから出会った全ての人々が、今の私を形作ってくれたのだと思います」
「今の君は過去の結晶か。ふむ、ならその大した胆の座り方も私達の影響というわけだが、これからの君がどうなるのか、どうするのか、楽しみでもありどこか恐ろしくもある」
私が偽りない本音を口にすると、これまで黙って話に耳を傾けていたリネットがアムリアへと感嘆の眼差しを向けた。おや、リネットばかりかガンデウスとキルリンネも同じか。
「グワンダン様にここまで言わせるとは、本当にご立派です、アナお嬢様」
「まあ、ふふ、確かにグワンダンさんは大抵の事では驚かされない方ですものね。私、凄い事が出来たと自信が持てます」
お淑やかに笑うアムリアに、リネットとガンデウス、キルリンネ達は三人揃ってうんうんと頷き返す。このお嬢さん達の私至上主義はレニーア同様になりを潜める気配すらない。そこまで持ち上げられても、当の私は面映ゆくって仕方がないのだけれどなぁ。
しばらくは港の中を歩いて回り、近くに広がっている市場も見て回って、店先の品揃えがまだ豊富である事や、行き交う人々の顔にも笑みが浮かんでいるのを確認した。
一見すると人間にしか見えない為、歓迎せざる視線を寄せられているリネットが、無数の視線など意に介さず、一先ずの感想を口にする。
「食糧品、嗜好品、医療品、衣類、薪に炭、武具に到るまで、どれも不足なく並んでいますね。質もそう悪いものではありません。軍に優先して回されていても、これだけの質と量を維持できているのは、見事なものです」
「後方の支援体制は整っているな。元々のロマル帝国支配時代から、海外の異国への戦争を想定した整備がなされていた都市の内の一つというのも理由の一端だろうが、その機能を活用しているのは太陽の獅子吼の努力には変わらない」
「次に大きく動くとしたなら、太陽の獅子吼が反乱諸勢力の盟主としての立場を確保して、大々的にアステリア皇女かライノスアート大公を討つ、と号令を発した時でしょうか?」
「エルケネイで集めた情報を考えると、反乱側で一枚岩にまとまってはいないが、帝国の勢力が残っている内に争い合う程いがみ合ってはいない様子だからね。まだ帝国という共通の敵がいる内は、血を流す程の足の引っ張り合いはしまいよ」
「まだ、ですか」
「ああ、まだだな。東西南北、どの方角からでも現在の状況を変える何かが来てもおかしくない状況だ。硬直した現状が否応なしに変わるのも、そう遠い未来ではないよ」
「では、このウミナルの平穏も長くはないのですね。そうなった時、隔離されているロマルの人々がどうなるか、このトルネなりに気掛かりです」
「ふむ、ロマル人の方が蜂起して血みどろの戦いを起こして、皆殺しという形で鎮圧されるか、それともロマル人側が帝国と連携して太陽の獅子吼側を殺戮してのけるか。
口にするのも不穏ではあるが、両極端な血みどろの結果になりそうだ。レグルが何処に戦いの終着点を見出しているかも、アナではないが気掛かりだ」
「そうなりますと、やはりアナお嬢様の思うままに行動していただくのが、状況を動かすのには効果的ではないでしょうか?」
「好転するか悪化するかは、私達と王国の連携、それに北の動静次第だ」
「北……動き出す時期でしょうか?」
「隷属と宣戦布告を兼ねた使者が寄越されてもいい頃だろう。あちらの私達だけで決めてよい話ではないから、中央まで丁重にご案内せねばならん。使者を殺害して帰すのが返事という野蛮な時代でもないのだからね。使者が来てからもまだ時間がかかろうさ」
「いざ開戦となっても何の心配も不要とは存じますが、キルリンネとガンデウスは戦争の現場に立てない事を残念がるかもしれません」
「君以上に私に対して格好の良い所を見せたがる二人だからな。そんな事をしなくても、私は何時だって父親のような気持ちで君達を見守っているのだが、伝わらないのは私の不徳の致すところだ」
「このトルネを含め、見栄を張る年頃なのだと、どうぞ大きな心でお許しください」
「もちろん、大地より広く、海より深く、そして空よりも高い心で見守るのが肝要と、父親入門関係の書籍で学んだからね」
「……そのような本を何時の間に?」
「はは、まあ、私なりに色々と学ばねばと考えた結果の一つだよ。何時買ったかは、恥ずかしいから内緒だ」
短いが濃い付き合いをしていると自負のリネットだったが、主人の思わぬ買い物と努力には、目を丸くするのを禁じ得なかった。
そんなリネットの態度が余計に気恥かしくて、グワンダンははにかむように笑った。
アムリアの代わりにリネット達が不穏な視線を受ける形になったが、都市内部の主だった部分を見て回り、隔離されているロマル人達の居住区に関しては、厳重に見張りの戦士達が立っていた為、遠巻きに眺めるに済ませた。
簡素な鉄柵で囲われた区画の出入りは厳重に監視されているようだが、こっそりと忍ばせた虫型ゴーレムの中継した映像からでは、区画内で不当な暴力が振るわれているだとか、拷問が行われている様子はない。
グドから名を聞いた過激派のどちらが管理していたとしても、暴力の十や二十は振るわれているかと想像していたが、想像を裏切る実際の様子から考えると、管理それ自体はリオレ老を代表にいただく穏健派が行っている可能性もある。
入港してくる他国の貿易船との対応やロマル人に対しては、穏健派や頭の冷えている者達に任せていると考えて間違いではなさそうだ。
それなりの距離を歩き回り、休憩を取ろうとしたが、屋台や食堂ではロマル民族でないとはいえ人間であるアムリアやリネット達を連れている為、視線は冷ややかで注文しようと近づけば露骨に嫌な顔をされたので、私や八千代達だけで屋台で軽食を買った。
半日近く都市の住人達から悪感情に依った視線と態度を取られ続けて、さしものアムリアも精神的にかなり疲れている様子だった。休憩する時にまで住人達の反応を伺う気にはなれず、人目を避けられる寂れた広場を見つけてその片隅で休む事とする。
色々な果実のジャムに加えて、生の果実や干した果実を一緒に、縦に切れ目を入れた長いパンに挟んだかなり甘めの品だ。
疲れた体と精神に甘味はとびきりの特効薬の一つだろう。飲み物の方は全員が携帯している金属製の水筒の茶や水で済ませる。
「甘い、柔らかい、酸っぱい、甘い、とても甘い、ぷちぷちしている」
「美味しいね~。一日中これだけ食べていたいな~」
「以上、トルネとキルリンネの感想ですが、いかがでしたでしょうか、グワンダン様」
「……端的に情報が伝わる感想であると思う」
ふむ、ウチの子達はここまで教養というか語彙が乏しかったかな? 私自身も似たような感想ではあるのだが、もう少しこう聞いていて美味しそうだと思える感想が出て来ないものかな。
私もまたパンを平らげながら、アムリア達の方へと視線を転じる。
あまり手入れのされていない木製の椅子にハンケチーフを敷いてから腰かけたアムリアに、口いっぱいに甘いのを頬ばった八千代と風香が立て続けに声をかける。二人には失礼な話だが、疲れた様子の飼い主を案じる犬にしか見えん。
「アナ殿ぉ、やっぱりこの状況の都市を歩いて回るのは問題があったでござるよぅ。今日はもうこれ位で切り上げてグド殿の用意してくださっている宿へと戻るのが吉かと」
「ハッチの言う通りにするのが一番とこのフウも考え申す。ほらぁ、お日様もそろそろ海の向こうに沈みそうになっている事でござるし、今日一日、慣れない都市の中を歩いて回った疲れを癒さないと。体を壊してしまっては元も子もござらんし」
「はい。何事も体が資本ですから、今日はもうゆっくりと休ませていただこうと思います。グドさんの、いえ、アルダム商会の船はしばらく出港できない事ですし」
厳密に言うと出港できないのではなく、出港しない、が正しい。
アルダム商会を通じて国外へ脱出しようとしている私達がウミナルに滞在する口実として、不運にも船に積む筈の荷物の到着が遅れていたり、船員に欠員が出たり、船に故障が見つかったり……といった具合に“たまたま”不幸が重なる予定になっているからだ。
いやあ、偶然とは恐ろしいものだなー。ふむははははは。
「それで、今日一に休んだら、明日、是非ともお付き合いしていただきたい場所があるのですが……」
申し訳なさそうに告げるアムリアに、八千代と風香は即座に肯定の返事をしたのだが、私は明日する事がアムリアにとってこの都市で最大の行為となるのが薄々察せられた。
アムリアからのお願いの中には、そう安請け合いするべきではないものが含まれていると、八千代と風香はきっと思い知る事になるだろう。
そしてそれは、翌日、ロマル帝国皇女アステリアとしてアムリアが太陽の獅子吼代表レグルと極めて秘匿性の高い形で対面する、という形で実現するのだった。
推理物で禁じ手であろう双子トリック!
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第二百七十四話
アムリアの希望に沿ってウミナル市内を見回り、グドの元へと戻ってから、私達は軽めの夕食を取って早々に寝入った。
グドは商会の事務所に、私達のような訳ありの賓客用の部屋を人数分用意してくれており、昨夜は八千代と風香がアムリアの部屋に突撃して、三人仲良く体温を分け合うように眠り、私とメイド三姉妹はアムリアの部屋の左右に部屋を取って警戒を続けた。
具体的に言うと左右の部屋にキルリンネとガンデウス、屋上にはリネット、廊下に私という配置である。実質、私達四名に関しては休んでいないが、それ位でへこたれる私達でないのは言うまでもない。
無事に夜を越した後、アムリア達に一夜中警戒し続けていたのが発覚して、余計な負い目を抱かせるわけにはいかないので、夜明け前に私達はこっそりと自分達の部屋へと撤収する。
そうして商会の人々が起き出す気配がする頃に、私達も起きたふりをして身支度を始める。始めるのだが、どうにもこの身支度の時間が私には気が重く感じられる時間でもあった。
私達に先んじて身支度を終えたアムリア達三人が私の部屋に足を運び、他者の目と耳を気にせずに気楽な会話に耽っている。
アムリア達は、リネット、キルリンネ、ガンデウスに世話をされている私を尻目にベッドの感触やグドの用意してくれた夕食の感想等を微笑ましく語り合っていた。
私はそんなアムリア達の仲良しさんな様子に、つられて笑みを浮かべる――そうしたいところなのだが、私を囲いこむメイドの三人がどうにもそれを許してはくれない。
私の尻尾はリネット、翼はガンデウス、そして角はキルリンネが、全員鬼気迫るとも喜色満面とも言える表情で手入れをしている最中である。
私ことグワンダンの肉体を構築しているのは、本体であるドランの魔力であるから、どんなに汚れたり傷ついたりしても、再度構築し直せば汚れ一つなく、傷一つない姿に戻せる。
その為、別段、私の体を手入れする必要はないのだが、リネット達は自分達がメイドらしく出来る事、ひいては私の為に出来る事をと熱望した為、その熱意に私が負けて、こうして竜としての部位の手入れを委ねる事になった。
リネットは私のお尻の付け根から伸びている尻尾を恭しく持ち上げて、保湿効果があるという白い粘性の高い液体を丹念に尻尾の根元から先端に到るまで、心なしか眼を輝かせて塗り込み、それが乾いたら清潔な布でふき取る作業を繰り返している。
さてこの液体、
鱗とその下に隠れている皮膚の保湿を行い、鱗の艶と張り、硬度を保つ為には必須の品として広く知られている。
私もガロア魔法学院に在籍していた時分に、薬学の講座で基本的な成分と種族毎に合わせた調合の仕方を習ったものだ。
ベルンでも、モレス山脈に移り住んだリザード族や湖に住んでいる人魚達、そして我が同胞たる竜種達との交流に、外部からの観光客の事を考えてこの鱗液や脱皮を速やかに行えるよう助ける潤滑油を売り出していたりする。
リネット達が私の各部位に使っているのは、十分な試験が終了し、安全性と美容効果の確認が取れた商品の最高級品だ。使用初日に確認したところ、商品の在庫を持ち出したのではなく、リネット達の給料できちんと購入した品だという。
ううん、まあ、リネット達が自分の給料で何を買おうともそれは彼女らの自由であるのだけれども、こう、私の為に使われると彼女らの自主性や自立を促す目的もあって給料を渡していた意味がないような、あるような、やはりないような……
いやいや、ここは子供が親へ日ごろの感謝をこめて、贈り物をしたのと同義であると思っておこう。そうして自分を納得させるのが良さそうだ。
ガンデウスが担当している翼は、広げれば私の両腕よりも長い大きさで、面積で考えれば最も手間のかかる部位である。
鱗と同じく白い皮膜を傷つけないように、また骨が通っている翼を間違った方向に動かさないようにと、ガンデウスは鬼気迫る表情で繊細に扱いながら、リネットと同じ鱗液を塗布してはふき取り、しっとりと馴染ませようとしている。
特に皮膜の部分には凄まじい集中力を発揮していて、指先の力加減一つを間違えただけで穴が開くと思い込んでいるのでは、と思わず勘ぐりたくなる程だ。
戦場で自らの砲撃によって吹き飛ぶ敵兵の無残な姿に、喜悦の笑みを浮かべて残酷な快楽に耽っていた女性と同一人物とは信じがたい様子である。
さてメイド三姉妹の中ではキルリンネが一番肩の力を抜いて作業してくれているのだが、この子はこの子で問題があった。
三人から手入れを受けている私は、尻尾の関係上、椅子の背もたれを前にして腰かけているのだが、背中側にリネットとガンデウスが回っており、ではキルリンネはというと私の正面に回って角の手入れをしている。
このキルリンネだが、彼女はリネットとガンデウスとはある一点において、大きく身体的特徴で異なる部位がある。その異なる部位が、目下、私を大いに悩ませている。
男の私が口にすると大変に顰蹙を買うので、出来れば言及したくはないのだが、かといって口にせずにはいられない。ああ、この場にセリナ達が居なくてよかった。リネットやアムリアは居るのだけれども!
「キルリンネ、キルリンネよ」
私の顔面がふにふにと柔らかなものに埋もれて話しにくい! 何時もなら真っ先に気付いてくれるリネットとガンデウスが、今は私の尻尾と翼の手入れに夢中でキルリンネのしている事が視界に入っておらぬ。ふむむん!
「なんですか、グワンダン様。うふふふ、角がピッカピッカで格好いいですね~」
ほわわん、とまるで春の陽気のようなキルリンネの上機嫌極まりない声は、こんな状況でなければいくらでも聞いていたいのだが、『こんな状況』はいかがなものかと、彼女の父兄代わりを自負する私としては思わずにいられない。
「キルリンネ、言い難い事なのだが、先程から君の胸が私の顔に当たっている。年頃の女の子が異性に対して、このような真似は控えるべきだと思うのだが……」
そう、何度か魔法学院で読んだ思春期の青少年向けの書物に、まま見られる状況が私の身を襲っていた。具体的に言うとキルリンネの豊かに育った乳房が、私の顔面に押し付けられているのだ。
よりにもよって女性しか居ないこの部屋の中で、これを告げなければならないとは!
いくらグワンダンとしての私がドラゴニアンとしての分身体である為、ドランよりも竜に近い感性を持っているとはいえ、流石にこの状況では羞恥の念を覚えずにはいられないのだ。
「むっふっふっふ、当てているのではなく埋めているのですよ~。これがガンちゃんやリネットお姉ちゃんにはない、私の最大の武器なのだ! こうして堂々とグワンダン様と触れられる時間なので、目一杯攻めないと」
「私を攻めてどうする?」
「イケイケドンドン、脱娘枠、なのだ!」
「えぇ……」
これ以上ない位に端的かつ直接的に私の心情を表現するのに、これ以上相応しい一言はなかった。あのだね、キルリンネ、脱娘枠って、そのような事を考えていたのか?
「私はいつか君を嫁に送り出す日が来るのかと、少しずつ覚悟の土台を均すところから始めているのだがな」
「ん~、でもぉ、私としてはグワンダン様より素敵な殿方は多分、いないのではと思うので、娘と妹と恋人を兼ねても全然問題がないのですよ~」
「倫理的かつ道徳的にいかがなものと思うし、私にとって、やはり君は娘か妹だよ」
はっきりと告げる私に、キルリンネは特に態度を変えはしなかった。私にそのように認識されている事等、百も承知の上で、だからこそこういった行動に出ているのだから、それはそうか。ふむん。
「そこは気長にいきましょう~。それに私だって、まずはセリナちゃんやドラミナちゃん、ママ達の方が先だなって思ってはいるもん」
「言葉ではそう言っていても、瞳に虎視眈々と好機を狙う猛獣の輝きが宿っているよ。やれやれ、君はのんびり屋さんに育ったと思っていたが、存外、油断ならぬ狩人か戦士としての面を持ち合わせているようだ」
「女の子には秘密や思いもかけない一面があるものなのです」
「秘密が多い程女性は魅力的と、昔、どこかの誰かが言ったとは聞くが、身内にいくつも秘密を抱え込まれても、それはそれで困ったものだよ」
「まあまあ、こうして秘密が一つ明らかになったわけですし、広~い心で受け止めてくださ~い」
受け止めるのは私の倫理観が良くないと訴えかけているから、君にこうして注意をしているわけなのだが、あまり強く言っていないせいで、キルリンネの態度は変わらずだ。
「そもそも私の角を磨くのにここまで密着する必要はないだろう。作業の効率を落とすのは、どうなのかな?」
ここは一つ攻める方向を変えてみようと、わざわざ私の顔面に胸を押し付ける事の非効率性を突けば、これまでにこにこと笑っていたキルリンネが、むむむ、と唸る。
メイドとしてこの場に居る自覚がある以上は、自分の都合で不便な方法を取っている事への後ろめたさがあるかもしれない、と考えて発言したのだが、どうやら正解だったようだ。
「むむむ、出来れば気付いて欲しくなかったところにお気づきになっちゃいましたねぇ。もう、グワンダン様は時々無粋なんだから」
いや、これは無粋ではないと思うのだが……。ぷうぷうと可愛らしい声で文句を言うキルリンネに、これまで私の尻尾と翼の手入れに夢中になっていたリネットとガンデウスも、ようやくキルリンネのしている事に気付いた様子で、眦を吊り上げて文句を言い始める。
「キルリンネ、グワンダン様に対していささかならず礼を失する行いは慎みなさい。ただ手入れに勤しむべきであるのに、目に余るものがありますよ」
「キルリンネ、私と代わりなさい。なにその羨ましくてけしからん手入れの仕方は」
「ガンデウス!」
「はっ!? つい本音が……」
ガンデウス……思わずリネットが叱責に近い声を出すのも仕方がないか。
「ガンデウス、私はそんな風に君を育てた覚えは……いや、育てたのは私ではないが」
思わず言いそうになった言葉を途中で遮れば、リネットが自分の胸を抑える仕草をして呻いていた。ああ、手遅れだったか。
ガンデウスとキルリンネがこういう感じに育った事を、教育係を任せていたリネットはひどく気に病んでいる。私が思わず零してしまった言葉が見えない矢となって、深々と彼女の心を射抜いてしまったらしい。
「すまない、リネット。君を責めるつもり意図はないし、これからもない。だから、難しい事とは分かるのだが、あまり気に病まない方が良いと……」
私が咄嗟に慰めの言葉をリネットに掛けると、ガンデウスとキルリンネが私に対する手入れの手を止めて、姉代わりであり教育係でもあるリネットが落ち込む姿に動揺を露わにする。
「あ、あの、お姉様、私の所為で、その、申し訳ありません……」
「い、いえ、いえ、ガンデウス、貴女が謝る必要はありません。過程はどうあれ、今の貴女を否定する言葉を貴女自身が口にする事程、悲しい事はないのですから。これは私が勝手に打ちのめされているだけなのです」
このような時でもガンデウスを思う言葉が出てくるリネットには、思わず目頭が熱くなるが、次のキルリンネへの返答に対しては実に現金だと思わずにいられなかった。この教育係にして教え子あり、か。
「じゃあ、お姉ちゃん、私と違って胸はないけれど、私と場所代わる?」
「ぜひ。それとキルリンネ、後で一発殴ります」
「なんで!?」
「例え事実であっても、言って良い事と悪い事があるのです。貴女は言わなくて良い事を言いました。一言多いのが貴女の欠点です」
「あううう」
これも姉妹というものの在り方の一つなのだろうか。ふんむ。
*
グワンダン達が港湾都市ウミナルに到着した翌朝、アルダム商会の代表を務めるグドは事務所の執務室の机の上に広げた海図をじっと見つめていた。
アークレスト王国が龍宮国との交易を結んだ事で、これまで陸地の港を経由する形で航路を定めなければならなかったのが、龍宮国の提供してくれる中継地を利用して、一気に海洋を横断出来るようになった。
まずはアークレスト王国が厳選に厳選を重ねた信用できる商人や船主のみが中継地を利用できるが、これによって得られる時間の短縮と航路の安全性の確保の恩恵は計り知れないものがある。
アークレスト王国の影働きの分野で活躍しているアルダム商会が恩恵を受けられるかといえば現実的な話ではないが、グドは今回のアナとグワンダン達の活動支援に関してこれまでにない王国の慎重さと本気を感じ取っている。
それだけの重大事を任されたのだから、王国側から一定以上の信頼を得られていると判断しても良いだろう。これを機に影働きから足を洗い、正式に王国傘下の商会として活動出来たら、部下達に命の危険のない生活をさせられると期待しているのだ。
「甘い期待ではあるが、何時かはそれを叶えたいものだな」
少しでもこの夢想を現実に近づける為に、今はあの世間知らずのお嬢様のようでいて、どこか底知れぬ物を秘めたアナと、どうしても龍宮国との繋がりを意識せずにはいられないドラゴニアンであるグワンダンの希望を叶えるのが肝要だ。
グワンダンに限らず、アナ以外の面々にはこれといった要望がない様子だが、虫も殺せそうにない優しげな雰囲気と顔立ちのアナが、どうもグドの予想を覆す大胆さというか発想の奇抜さを有しているようなのだ。
その点に対して、グドはどうにも不安を感じてしまう。
「まだこのウミナルで商売を続けねばならない以上、あまり太陽の獅子吼に不信の念を抱かれたくはないのだが、そこの塩梅に気を付けなければならん」
アナがウミナルを見て回るという行為それ自体だって、今の状況では決して褒められたものではないのだが、護衛についているグワンダンの迫力と最大限アナ達に配慮するようにとアークレスト王国から厳命されている為に、ああして看過したのだ。
グワンダンがドラゴニアンという種族の繋がりで龍宮国の関係者であるなら、ロマル民族らしい風貌のアナは一体何なのか、という疑問がグドの心中に昨日から渦巻いているが、眠れる竜の尾を踏むわけには行かぬと、自分を戒めている。
慎ましいノックに続いて、グドの秘書を務めている鳩人の中年男性が呼びかけて来た。
「代表、アナ様方がご挨拶に参られました」
「うむ、来られたか。すぐにお通ししなさい。それとお茶の準備を」
さて、今日は朝からどんな事を願われるだろうかと、グドは腹を据えて客人達との対面に臨んだ。
グドが用意しておいた朝食を済ませて来たアムリア達は、しきりにグドへ一晩の宿と食事の礼をし、今日もまたウミナルの市内を見て回ると告げて来た。
既に昨日の内にロマル人達が隔離されている区画を遠目に眺めてきたそうだが、帝国南部の重要な海洋交易の要であったこのウミナルは広い。一日やそこらでは見回りきれるものではない。
だから、アナが再び市内の見学を申し出て来ても、グドは不思議には思わなかった。
「それでは今日も皆さんは市内観光ですな。お国からの使者の方が来られた際に、何か伝えておく事はありますかな?」
これまではグワンダンが主にアークレスト王国の暗部の人間と接触し、情報を渡してきたが、グドのアルダム商会に腰を落ち着けている間は商人や顧客に扮装した者や、またあるいはグド目当ての間諜も来るだろう。
グドの問いに答えたのはグワンダンだった。間諜とのやり取りに関しては、彼が担当だ。
「いや、今のところ、改めて伝える程の情報は判明していない。もし使者が来られたとしたら、折角足を運んでいただいたのに申し訳ないと言う他はないのが、現状だ」
「さようですか。このウミナルに来たのが昨日の今日ですから、それもそうでしょう。そうそう、予定通り、我がアルダム商会の船は全て数日の間は動かせない事になっております。
ですから、もし、サザミナ殿にまだウミナルに居るのかと問われたなら、船が動かないのだと、堂々と答えてください」
実際には本当に船に損傷が生じたわけでも、船員が集まっていないわけでもない。あくまで、ロマル帝国から脱出する為にウミナルを訪れた筈のアムリア達が、ウミナルに数日以上滞在する為の方便にすぎない。
それでも船が動かせない以上、グドひいてはアルダム商会に損失が発生するのは避けられないが、そこはアークレスト王国が補償する運びとなっているから、グドに文句はない。
元々、逆らえる立場ではないし、逆らうつもりもないのだが。
「まことにかたじけない。グド殿とアルダム商会のこの度の御助力に関しては、生涯忘れない」
「なに、我々にも利益のある話ですし、後ろ盾となっている方々からの命令でもありますれば、我々にとっても必要な事ですからな。それで、今日は何時頃出立されるご予定で?」
今日の予定を問うグドに答えたのは、グワンダン達の行動指針を定めるアムリアだった。
「この後すぐに出ようかと。戻りは、何もなければ日が沈む頃には戻る予定です」
「実に精力的ですな。貴女にとって実りの多い一日となる事を祈りましょう」
「ええ、ありがとうございます。私も時間を無駄にしないよう、心掛けます」
にこりと笑い、そう告げるアムリアに、グドもつられて笑みを浮かべた。果たしてグドは何時まで笑っていられるものかどうか。何しろ、アムリアは太陽の獅子吼を統べる若き獅子王レグルとの接触を試みているのだから。
*
アムリア達がレグルと接触する上で留意するべき事の一つは、直接、レグルないしは彼に近い位置に居る人間と接触を図り、その間にアシア派もレコ派も挟まない事であった。
二つに割れている過激派に間に挟まれては、レグルの態度や言葉に何かしらの配慮が含まれる恐れがある。強欲な事に、アムリアが欲しているのは雑物を含まないレグルの純粋なる真意と方針なのだ。
グワンダン達以外の者が同行者であったなら、アムリアはここまでの無茶を試みようとはしなかったろうが、グワンダンとメイド三姉妹の常人離れした戦闘能力とお人好しさを知悉しているアムリアは、無茶な一手を躊躇こそあれ打つ事が出来た。
レグルは稀にだが市外にある演習場や兵舎に赴き、前線に出る兵士達を相手に手合わせをし、またあるいは指揮官以上の者達と意見交換をする為に旧総督府から外出する事がままあるのが判明している。
彼の立場上そう頻繁に行われるわけもないが、幸いにしてグワンダンならば厳重に太陽の獅子吼側が隠蔽の魔法を施した総督府の中だろうと問題なく透視出来るのも、アムリアの目論見に大いに味方した。
昨日一日、旧総督府に忍び込ませた虫型ゴーレムとグワンダンの透視によって、アシア派でもレコ派でもない、いわばレグル派と呼ぶべき者達の確認は済ませている。
彼らならばまず真っ先にレグルに情報を伝えて、指示を仰ぐ事だろう。そうなればアムリアとしては願ったり叶ったりである。
さて、アムリアは紛れもなくロマル帝国皇帝の血筋を受け継ぐ皇女であるが、その存在を秘匿され続けていた事もありライノスアート大公やアステリア皇女はともかく、反乱勢力である太陽の獅子吼が把握しているとは限らない。
だが、太陽の獅子吼がどうしても無視できない存在と、幸か不幸かアムリアは瓜二つであり、多少、いや、大いに不安は残るがその人物に成りすませば、レグルとの面談が叶う可能性は十分にあった。
すなわち、アムリアの双子の姉であるアステリアに成りすますのだ。
あまりに大胆だがアムリアにしか出来ないこの作戦には、当たり前だが不安要素はある。
アステリアを実際に見た事のあるグワンダンによって、顔が瓜二つという点は保証されたが、その人格まで完全に真似るのはまず不可能だ。そもそもアステリアの人格に関する情報それ自体が不足しているのだから、半分も真似られまい。
そうなれば、太陽の獅子吼にアステリアの人となりを知っている者が居る可能性は低いが、アステリアではないと看破される原因の一つとしては十分に考えられる。
また、単純に太陽の獅子吼の懐にアステリアを名乗って飛び込む事の危険性が危惧され、八千代と風香が声を大にして反対意見を出した理由だった。
いくらグワンダンやリネット達が行動を共にしていても、それとこれとでは話が別であり、わざわざアムリアが獅子の口に飛び込む必要はないとこんこんとわんわんが騒ぎ立てるのも無理はない。
ただ、今回の帝国道中に限ってはアムリアの意思を最優先すると決めているグワンダンとリネット達は黙して語らず、八千代と風香がアムリアに説得されるのを眺めているきりだった。
アムリアのアステリア成りすまし大作戦の決定が覆らず、実行となってからの展開は実に早い。
グワンダン達は既にウミナル市内で一般市民に扮装して活動している太陽の獅子吼の諜報員の存在を把握しており、その中でもレグルへと伝達の系譜が繋がっている者達を選んで、ロマル帝国の間諜の存在をわざと気付かせた。
この場合のロマル帝国の間諜というのが、アムリアが扮する偽アステリアとそれを守るグワンダン達の扮する偽帝国軍人となる。
そうして彼らに自分達を捕縛して貰い、そこで捕まったのがまさかまさかのアステリア皇女だった、と判明し、この重大事がレグルに伝わってこちらに会いにくれば目的達成となる。
あまりに都合がよくかつ迅速な展開ではあるが、今回、グワンダンがアムリアの願いを叶える為に自重の枷を大幅に緩めているからこそ、冗談のように事が進んだのであって、いつも呆気なく事が進むものではない。
いくらなんでも反乱勢力の中心地にアステリア皇女が足を運ぶなど、軽率に過ぎるしまずあり得ないと一笑に付される筈なのだが、ここで役に立つのがアステリア皇女の世間での評判だ。
彼女は公平にして公明正大、聡明英邁なる才女として知られているが、それと同時にあまりに頭の回転が速過ぎ、見えている世界が常人とはかけ離れている為に、周囲の者達が理解の出来ない突飛な行動に出るとも知られている。
彼女からすれば合理性に基づいた最小の労働による最大効率の行動も、他者から見れば理解の外というのがざらなのだという。
そんなアステリアであれば、自ら敵対勢力の懐に姿を見せたのも、彼女にしか分からない、常人には推し量れない確たる理由があるのだと周囲が勝手に推測し、勝手に納得してくれる可能性が極めて高い。
それに、レグルと会えた後ならば、アステリアの偽物だとばれてしまっても構わないのだ。顔立ちの似た者か後天的に顔を似せた影武者と誤認されても、それはそれでアムリアとグワンダンにとって都合の悪い話ではない。
後々、本物のアステリアと面談する機会に恵まれた際には皮肉の一つも言われるかもしれないが……
いずれにせよ、『こうしてレグルと対面できた』以上、アムリア達の作戦は上手くいった事には変わりない。
アルダム商会の事務所を出て数時間後、ウミナル市外にある演習場庁舎の奥まった一室でアステリアと誤認されたアムリアは、背後に屈強な男の獅子人と女の獅子人の二名、正面には机を挟んで椅子に腰かけたレグルと彼の護衛三名に囲まれていた。
窓はなく、唯一の出入り口である分厚い扉の前にはレグルの護衛である男の黒豹人が立ち塞がり、中には照明の魔法具とレグルとアムリアの腰かけている椅子の他は、二人の間に置かれた机しかない。
何より、この場にはグワンダンもリネット達メイド三姉妹も、八千代と風香の姿もない。
アルダム商会を出た時と変わらぬ服装のまま、アムリアはつとめて無表情を心掛けて、こちらの顔を穴が開きそうな程に凝視してくる若い獅子人を観察していた。
傍らにグワンダン達が居ない事への不安や恐怖を感じている様子はない。
レグルは男の獅子人らしく黄金の鬣を持つ猛々しい雰囲気の青年である。まだ三十にもなっていまい。
レグルの両手足は獅子の毛皮に覆われていて、胸元の大きく開いた灰色のシャツと青いベストに膝までの白い半ズボン、左肩には真紅のマントを羽織るという軽装だ。シャツからベストまで、彼らの部族で好んで使用される刺繍が施されている。
彼の立場に相応しく衣服に使われている素材は全て最高級品だが、獅子人の青年の醸す精悍な雰囲気と瞳の奥のギラギラとした輝きが、彼が自らの命を賭して闘う戦士だと見る者に印象付けている。
周囲の護衛達は一言も発せずに、レグルとアムリアの対峙を見守っている。アムリアとグワンダンの思惑通り、この場に居るのはアシア派でもレコ派でもないレグル直轄の者達だ。
アムリアと同じようにレグルもまたアステリアを観察していたが、ひとしきり満足したのか、左手で頬杖を突いて口を開く。反旗を翻した敵国の頭を相手に、レグルの瞳には憎悪よりも好奇心の光の方が強く輝いている。
「一応、自己紹介をしておこう。おれが太陽の獅子吼の代表を務めているレグル・レオニグスだが、お嬢さん、あんたが本当にロマル帝国のアステリア皇女でいいのかい?」
会った事のない姉を脳裏に思い描いて、アムリアは周囲からひしひしと寄せられる圧力に負けぬよう表情を維持し、場合によっては喉笛に噛みついてきそうな若者へ応じた。
「アステリア皇女がこの場に居るわけがないのはお分かりでしょう。ですから、そういう事です」
「ふぅん、そうかい。非公式の会談にしたいのかは知らんが、なら勝手にこっちでアステリア皇女だと思わせてもらうぜ。あんたが皇女の影武者って可能性も十分にあるが、その顔は間違いなくアステリアだ。幻術の形跡は無いしな。
それにしても、わざわざこっちの懐まで潜入しておいて、偽装を見破られて捕まるなんざ、額面通りに受け取ったらこの上なく間抜けな話だ。普通ならおれ達の敵はなんて間抜けなんだと笑えば済むが、アステリアが関わっているとなるとそうもゆかん」
ここまで言ってから、レグルは口元に浮かべていた笑みはそのままに、眼光を刃の如く鋭く変えてアムリアの心の底まで見通そうと睨む。
「護衛の一人も居ない状況だが、あんたはこうしておれと面と向かっている状況に持って来ている。現状があんたの狙い通りだって可能性は、十分にある。腹立たしい位にアステリアって女は頭が切れる」
「ええ、アステリア皇女はとても評価されているようですね。本当にそのような評価を受けるに相応しいのか、私には分かりませんけれど。でも、こうして貴方と向かい合えるように動いたのは確かです。私は、貴方とお話しをするのが目的ですから」
この状況は自分の狙い通りだと告げる偽アステリアの言葉に、レグルの護衛がわずかに反応するが、レグルが一瞥してそれを鎮めた。一方で、アムリアの背後の三人は身じろぎ一つしない。
「へえ、おれと何を話したいんだ、皇女。おれ達はあんたらを徹底的に打ちのめすつもりで兵を興しているんだぜ。中途半端なところで手打ちになんざできん。あんたらがおれ達と父祖に強いてきた数百年分の屈辱ってのは、そういうもんだ」
「ええ、ええ、それは分かっております。ただ、私が知りたいのはそれ以外の部分です。レグル・レオニグス殿、ここには貴方の腹心ばかり。
アシア派もレコ派も、リオレ派の方もいない。この場でならどちらに配慮する必要もない、貴方自身の言葉を聞けるでしょうから」
「ほー、おれ達の内情も知っているか。だが、それを訳知り顔で話されても不愉快なだけだぜ。おれがアシアとレコに配慮していると? はん、そこまで腑抜けに見えるか?」
「いいえ、臣下の意を汲む事を腑抜けとは思いません。ただ先頭に立ってひた走るだけではいけないと、それを知った方の当然のそして賢明な判断でしょう」
「そうかい。噂のアステリア皇女に高く評価してもらえて何よりだ。これで敵じゃなけりゃ、もっと素直に喜んでいたがね」
レグルはあくまで伝法な口調を崩さず、アステリアを騙るアムリアの真意を探るようにしているが、これだけでもエルケネイで聞いたレグルの評判と異なるのが分かる。
評判通りであったなら、力にものを言わせてアステリアを屈服させようとするか、短絡的に殺害してしまいそうなものだ。
「それもこうして貴方と面と向かったからこそ分かった事です。今日までの間に私が集めた情報だけでは、私は貴方を誤解したまま間違った判断を下していました」
「過剰評価でも過小評価でも、間違えてくれている方がありがたい。そういう意味では、おれが直々にあんたの顔を見に来たのは、失敗だったな」
「そうかもしれませんね。でも私としては貴方に会いに来て良かったと思っていますよ」
「捕まったではなく、会いに来た、か。この状況でよく言うね。外に十二翼将か、十二翼将に匹敵するって言う手駒を控えさせてんのかい?」
「いいえ、そのような事は」
そう、帝国最強の個である十二翼将程度では済まない存在がアムリアの味方であるのだから、この返答は嘘ではなかろう。
「レグル・レオニグス殿、簡潔に問いましょう。貴方はこの戦争をどこで終わらせるつもりですか? 終わらせ方は? 終わった後は?」
「ふうん、敵の最終目標を知りたいか。今更じゃないか、それ。おれ達が何を目指して帝国の支配を撥ね退けたか、最初に宣言したし、考えるまでもない事だろう?」
「全て人伝えに聞いたものに過ぎません。私は、貴方から直接聞きたいのです」
「頑固だな。分かっているだろう。貴様らロマル帝国を打倒し、我ら太陽の獅子吼を支配しようとする何人をも打倒し、おれ達がおれ達以外の誰にも支配されない世界を作る事だ」
「では、貴方達は貴方達以外の人々を支配するのですか? そしてロマル帝国に属していた人々は支配するのですか、それとも滅ぼすのですか?」
「質問ばっかりだな。そりゃあ……」
レグルが幼子のように質問を重ねてくるアムリアに苦笑し、続けようとした言葉は、しかし遮るように告げられたアムリアの言葉によって封じ込められた。
「部族の誰の意見に左右される事のない、貴方自身の考えを教えてください。ロマル人の絶滅を望む声にも、支配を望む声にも寄らず、レグル・レオニグスという人間の心が知りたいのです」
レグルは、まっすぐに自分を見てくるアムリアの視線と言葉に、この部屋に来てから初めて笑みを消し去った。
*****
本章はロマル帝国やベルンでのお話を並行して進めていきます。なのでちょこちょこっと視点が変わる事があります。
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第二百七十五話
「おれの真意ねえ。アステリア皇女ってのは聞いていた以上に頑固らしい。そして聞いていた以上にわけの分からん女だ。知ってどうにかなるものでもない事を知りたがる」
一瞬の間を置いて、笑みを消したまま言葉を重ねるレグルに、アステリアと誤解されたままのアムリアは小さく首を横に振った。
「どうにかなるものでない。そう考えているのは、貴方ご自身なのではないですか。自分がどんな考えを持っていようと、太陽の獅子吼の中で広がる思想を変え得る事は出来ないと」
それは一国にも匹敵する勢力の主に対して、あまりに不遜であまりに恐れを知らぬ物言いであった。アムリアはレグルにお前は自分の配下をまとめきれていないのだろう、と指摘したのも同然なのだから。
流石にこれを聞き逃すわけにはいかないと、レグルの背後で会話が進む度に苛立ちを募らせていた護衛達が一歩を踏み出す。
彼らの滾らせる怒りとロマル帝国の皇族に対する憎しみを正面から浴びて、アムリアは華奢な体を振るわせこそしたが、視線をレグルから外す事だけはしない。
それがレグルに語る決意をさせたのかもしれなかった。
「よせ。相手が皇女だろうが丸腰の女一人に手を上げるなど、部族の恥になる。戦士としてもな」
「……しかし、この女は」
堪え切れず、血を吐くように絞り出された声に、レグルは悲しげに眉根を寄せた。
護衛が素直に自分の言葉に従わなかった事への苛立ちではなく、そんな声を出さなければならない事への哀しみだ。
予想していたレグルの人物像とは異なる反応に、アムリアはわずかだが目を見開くのを抑えきれなかった
「分かっている。お前達だけじゃない。おれ達の誰もがそうしたいと腹の底で抱えているのは、おれもお前達も、アシアやレコも、なんならリオレ婆だって変わらん。表に出すか出さないかの差だけで、おれ達は誰もが憎しみを持っている。だが、今はそれを出すな」
「貴方が、そう言うのなら」
「悪いな。悪いついでにこれから話す事は、お前らにも聞かせる気はないし、聞かせたくない話だ。おれとこの皇女さんを置いて、外に出ていな。なあに、扉のすぐ横で構わないぜ。
おっと、反論はなしだ。おれが皇女さんに負けるとか言うなよ? それに、これは言いたくはないが、お前達はおれの護衛だが、強いのはおれの方だ。違うか?」
本来、護衛とは守るべき対象よりも強くなければならないにも関わらず、太陽の獅子吼において最強にして最高の戦士はこの若獅子なのだ。
それでも明確に敵対している勢力の人間と自分達の勢力の総大将を二人きりにするのは大いに躊躇われたが、レグルへの信頼と武器となる物を一切身につけていなかったアムリア、そして扉のすぐ傍で待機する事を考えて、護衛達は渋々レグルの命令に従った。
レグルの護衛とアムリアの背後を取っていた三人が揃って部屋の外に出てから、改めてレグルは目の前のアステリアことアムリアへ腰を据えて向き直る。
「これであんたの望んだ通りの展開だが、つくづく噂で聞いていた話と違い過ぎる。話だけで判断するなら、ここまで人間味のある目をした女だとは到底思えんし、合理性の欠片もない話を聞きたがるとも思えん」
「理解できない事をすると噂されているのは、私も承知していますよ。噂の通りであるのなら、貴方の理解できない行動をしているのですから、噂の通りでしょう」
「はっ、屁理屈の類だと思うがね。言葉遊びが得意で口が達者だっていう評判はその通りだな」
ここでアムリアが、『私は』理解できない事を、と口にしていないのがミソである。アステリア自身として答えたのではなく、聞いた噂話として返答するに留めている。
「それにしても今の状況は、ちっとあんたと似つかわしくねえと思わざるを得ないってわけよ。なあ、お前さん、本当にアステリア皇女か?
考えてみりゃ、顔がおんなじで魔法でそう見せているわけでもないってだけで、おれ達はあんたをアステリアだと決めつけているが、あんた、一度も自分をアステリアだとは口にしていないしよ」
この時、アムリアの心の内が暴かれていたなら、あわわわわわ、や、ぴゃ~~~、という具合の珍妙にして奇妙な悲鳴が聞こえただろう。
つい今しがたまではアステリアだと信じて疑われていないと思っていたのに、あまりにアムリアとしての地を見せすぎた所為で、合理と効率の塊と揶揄される姉アステリアと乖離した言動になってしまっていた。
それを見逃さなかったレグルは、一時はアステリアと信じて仇敵を前に憎悪を募らせていただろうに、頭の片隅は決して冷静さを失っていなかったという事だ。
エルケネイやその近辺で仕入れて来た情報では、太陽の獅子吼のレグルはもっと激情的で短絡かつ直接的だというのに、これでは話とまるで違う。
ウミナルについてからの話である程度は予想していたというのに、ここまで来るとアムリアの予想を越えた有能さの片鱗だ。
それでもアムリアは内心の動揺を必死に押し隠して、余裕のある、あるいは含みのある笑みを頑張って演じる。
(あわわわ、レグルさんに疑いを持たれてしまっています。つい私の聞きたい事をお尋ねするのに夢中になって、アステリア……お姉様のふりをするのが疎かになってしまいました。
いえ、そもそもアステリアお姉様の事はグワンダンさんにお伺いしただけで、ほとんど存じ上げないのですけれども!)
この状況で冷や汗一つ浮かべず、慌てた素振りをほとんど表に出さないのだから、アムリアの土壇場での演技力と度胸もなかなかどうしてたいしたものだ。
アークレスト王国での過保護な生活から一転、ロマル帝国で見続け、肌で体験し続けたものが、彼女をこうさせたに違いあるまい。そしてそれを見事に糧にしてみせたのは、彼女自身の資質だ。
「では私はアステリア皇女の偽物という事にしておきましょう。影武者か、それよりも皇女の名を騙る女詐欺師の方が、もっと愉快ですね」
ふふ、と如何にも悪女といった印象を受ける笑みを零すアムリアを、レグルはこの上なくふてぶてしいものを見る目で観察している。心の声を聞く耳か、見抜く目でもなければアムリアの演技に騙される者ばかりだろうが、この青年はどうであろう。
「はん、そのクソ度胸だけはアステリアよりも上かもな。もちろん、あんたが本物だって可能性も否定できねえ。だからこそ面倒なんだが、どうせそこんところも織り込み済みでこの状況を作ったんだろう?
あんたが描いた図なのか、それとも他の誰かが描いた図に従ってこうしているのか知らんが、それもまた面倒だ。偽物かもしれんし本物かもしれんし、それでもって自分自身の頭が切れるか、数多の切れる奴が傍らに居る。どうだ、これが面倒でなくてなんだ?」
レグルはこれ以上ないほど言いたい放題だったが、他人から言われてみるとアムリアも確かに、と思わず頷きそうになってしまう内容ばかりだ。
グワンダンが頼りになるのを良い事に、色々と無茶を願った自覚はあったが、こうして指摘されると自分のした事とはいえ、うわ、と自己嫌悪すら抱きそうになる。
しかし、抱くのはアムリアの勝手だが、それで今の自分の行動を変えてしまっては、それこそ何の為にグワンダンにあれほどの無茶を――グワンダン自身からすると無茶でもなんでもないが――願ったというのか。
「おれは面倒な事はさっさと片付ける主義だが、今回ばかりはそう安易に事を進められそうにもねえ。ところで、あんたの目的については聞かされたが、あんた自身はこの国をどうしたい?
他人に心の内を尋ねる位なんだ。だったら自分の心の内もすっぱりと曝け出すのが礼儀ってもんだろう。嘘か本当かはおれが判断するから、適当に嘘こいても構わんぜ。嘘を吐く程度の女だったと勝手に思うだけの話だ」
「私はこの状況での嘘を許容できたなら、こうして貴方と直に向き合おうとはしなかったでしょう。それはお分かりでしょうに、ずるい言い方をされる方ですね」
「あんたの方がよっぽどずるいんだよ。覚えときな。ずるい事をする奴は、自分がしたのと同じ以上の『ずる』をされても文句は言えねえのさ」
アムリアは、レグルが暗にロマル帝国がしてきた事が、これからされ返されても、それは仕方のない事なのだと告げているのに無論気付いていた。
「本当にずるい方。……私の目的というか、その、願いと言いますか、そう大それた言い方をするようなものではないのですけれど」
もにょもにょ、ごにょごにょと言葉を濁すアムリアの様子の変化に、レグルは別人を見るような思いで眉を寄せた。
これまでの妄想のアステリアの演技の仮面が剥がれて、アムリアという人間の素が出ているからなのだが、アムリアを知らないレグルからすれば初めて見る他人が出て来たようなもので、多少戸惑うのも仕方がないと擁護しておこう。
「ものすごく大雑把にまとめ、かつ根源的な動機を言葉にすると、皆さんが幸せになれるよう、いい方向にこの国の未来を進めたいのです」
「……はあ? 抽象的過ぎんぞ。その顔を見る限り、自覚はあるみてえだが、そんで、その皆さんってのにはロマル人もおれ達のように反旗を翻した連中も含めているってオチかよ。ああ?」
「はい。そこまで含めての皆さんです。ご指摘の通りこういう言い方をしますと、とても抽象的で私自身もその結果に繋げる為の過程が、恥ずかしながらまだはっきりと定まってはいない有様なのです」
「繋げる過程って、結果は確定してんのかよ。絶対にそこまで持っていく覚悟は固めているって顔だな。しかしよ、目的だけが先走って中身が伴っていないんじゃ、どれだけ言葉を重ねようが誰の耳にも止まらん」
「やはり、そう思われますか?」
レグルは、なんでそこで嬉しそうにするかよ、と内心で愚痴を一つ零した。
アムリア自身、ただ理想の到達点を語るだけでそこに到る過程を語れないのでは、酒の席の戯言にも劣ると自覚しており、それが曲がりなりにも一つの勢力を束ねるレグルに肯定されて、奇妙に安堵したからである。
「ロマル帝国に関わっている連中を全員幸せにしたいねえ。おい、それは何の犠牲も出さずに達成するのに等しい行為だ。とてもじゃないが、人間がどうにか出来るもんでもない。それを本気で望んでいるのなら、あんたは神にでもなるつもりか?」
「?」
アムリアは本気でレグルの言う事が理解できず、飲み込むのには数秒の時を必要とした。
顔も名前も知らない誰かを助けたいという願いを叶える事が、神になるという発想にどうしても繋がらなかったからだ。
そんな事は神にでもならなければ不可能だと考えるレグルと、人間のままでは不可能なのだと痛感する程の体験をしていなければ諦めてもいないアムリアの認識の違いの表れである。
「神様にはとてもなれそうにありませんから、私は私のままで頑張るつもりです。それに神様になんてなってしまったら、とても大変そうです。後、採用はしていませんけれど、案自体はいくつか浮かんでいるのです。
私一人でも案が浮かぶ位なのですから、もっと多くの方達のお知恵を拝借出来ればよりよい案が出る筈ですし」
「それはそうかもしれんが、それで話が通るのなら世の中はもっと血の臭いのしない、良いところになっていただろうよ」
世間を知らない子供に言い聞かせる気分のレグルの言葉に、アムリアは困った表情に変わる。これもまたアステリアとしてではなく、アムリアの素の反応だった。
「やっぱり貴方は意地悪な方です。でも捻くれてはいらっしゃいませんね。出来ない出来ないと言い聞かせるよりも、出来る出来る、と肯定して、私を良いように操れるように心象操作すればよろしいのに」
「そうかい。なら、少しは捻くれたところを見せるかね。あんたの顔がアステリアと瓜二つだってのは確かだ。
アステリアを捕えたって宣伝するのも、あんたがおれ達に降伏を申し入れて来たと吹聴するのも、あるいは帝国の連中とのでかい戦であんたを使うのも、どれも魅力的な使い方だ。
使いどころを間違えなければ、あんたが本物であるか偽物であるかはそう関係のない事だ。どっちにせよあんたは使う価値のある顔をしているからな」
「まあ、怖い方。でも、ええ、でもそれも選択肢の一つとしては十分にあり得るものでしょう」
「あ?」
「私を使い、貴方達、太陽の獅子吼以外の、そう、私の考える皆さんを含めて幸せに出来るのなら、私をそのように使っても構いません。私は私の目的に沿う形で私を最大限活用出来るのなら、貴方に使われるのを厭いません」
「……ふ、ふふふ、はははは。そうかい、そうかい、例え口だけにしろそこまで啖呵を切れるとは、これは思った以上に大したお嬢さんだよ、あんた。
その度胸と啖呵に敬意を表して、おれの本音をちびっとだけ話してやるよ。他の奴らには聞かせられんが……」
*
偽アステリアことアムリアとレグルが二人きりの密談を重ねている中、扉の外に居た護衛達はともすれば帝国の未来を大きく左右するかもしれない話が気になって仕方のない素振りを見せていた。
特にアムリアの背後に陣取っていた二名の女性は落ち着きのない様子で、歩き回ってこそいないが先程から尻尾が慌ただしく動いている。男性の方はその光景に対して微笑みを浮かべて見守っているが、元からレグルの護衛として来ていた二人はそうもゆかない。
「おい、少しは落ち着け。殺気の類はないし、物音もしていない。中で大将が危険な目に遭ってはいないと分かるだろう」
護衛の片割れに言われた事に、落ち着かない女性達が揃って尻尾の動きを止めるが、表情の方は心配だと大きく書かれたままだ。
「あ~、いや、レグルど、レグル様の事は心配していないでござ、んん、心配はしていないのですが、どうしても落ち着かないもので」
ペタンと耳を伏せる二人の姿には、レグルの護衛達も毒気を抜かれたのか、少しだけピリピリとしていた雰囲気を柔らかなものへと変える。
あまり顔を合わせた事のある相手ではないが、ここまで場の雰囲気を和ませる性格だったろうか? いずれにせよああまで感情を素直に出してしまうようでは、不向きな仕事が多そうだと不安になる。
それにしても何時まで話をしているのだろう、とレグルの護衛達は疑問を抱く。
まだ本物であるという絶対的な証拠はないものの、あのロマル帝国皇女アステリアの身柄が自分達の掌中にあり、自分達の総大将が対面しているという状況には心動かされるものがある。
落ち着いている素振りだけは維持しているが、二人が何を話しているのか気になって仕方がないのは、レグルの護衛達にしても同じことなのだ。
どういう結果になるのかと思わずにはいられないで居ると、廊下の向こうから慌てた様子の兵士達がこちらへと駆けてくるのが見えた。
ひどく慌てた様子の兵士達の姿からただならぬ事が起きたのは傍目にも明らかで、それが発生する心当たりが彼らの背後の部屋に居るではないか。
ロマル帝国皇女派の象徴にして次期皇帝候補の片割れであるアステリアだ。
「どうした。あれを取り返すべくロマルの連中が派手に動き出したか?」
レグルの護衛の片割れの当たり前の問いかけに、兵士の中の一人が彼に近寄り、そっと耳打ちをした。短いその報告を聞き終える頃には、護衛の顔には苛烈な戦士の相が浮かび上がっていた。
レグルの護衛がたちまちのうちに戦う態勢を整えるのを見て、アムリアの背後にいた唯一の男性がポロリと呟く。
「ふむ、ばれたか」
いつもの口癖を零し、幻術で変装していたグワンダンは、おもむろに部屋の扉を掴むや蝶番ごと引き剥がしてこちらを険しい視線で睨んでいたレグルの護衛達に投げつけた!
グワンダンの剛腕によって投擲された鉄の扉をレグルの護衛が叩き落とし、兵士達が慌てて武器を構え直す中、グワンダンの大声が他の二人――グワンダンと同じく幻術を重ねた八千代と風香の体を動かす。
「二人は彼女を!」
「おう」
「承知!」
アムリアの事となれば八千代と風香の動きは速い。何の躊躇もなく部屋の中へと飛び込む、既にこちらに気付いていたレグルが黄金の風となって襲いかかる。
太陽の獅子吼最高の戦士に相応しい速度は、八千代と風香に死を実感させるのに十分だったが、背後から伸びて来たグワンダンの左手がレグルの右拳を受け止める。
「ちっ、てめえらも仕込みの内かよ」
レグルは手加減なしの一撃を受け止められた事に少なからず驚きながら、燃えたぎる戦意を瞳に宿してグワンダンを睨みつける。闘争の場にあってこそ生の実感を得る、そういう類の男であった。
「存外、早くばれてしまったけれどね。姿を借りている三人については眠らせているだけで、命に別条はないから安心すると良い。それにしても、隅っこの方に隠していた彼らが見つかるのにはもう少し時間がかかると思っていたのだがね」
「そうかい、お優しいこった。それで、てめえらはアステリア派か、それともライノスアート派の工作員か? どっちにしろ死にてえんだよな!?」
「死にたいわけがないだろう」
レグルの左腕の一撃が繰り出されるよりも早く、グワンダンがレグルを背後から迫って来ていた護衛達に放り投げ、部屋の分厚い壁を殴りつけて崩壊させ、外への道を作る作業を終える。
アムリアは風香に背負われており、何時でも逃げ出せる準備は整っていた。アムリアはまだ名残惜しげにレグルの方を見ているが、状況がここに到ってはさっさとこの場を去るのが最善手だ。
「
「はっ!」
四人が部屋から演習場に飛び出す。演習場の施設の外れに位置していた部屋の外には、演習用に均された平原が続いており、遠方にはちらほらと訓練に勤しむ兵士達の姿が見える。
グワンダン達が密かに眠らせて入れ替わっていた兵士達が見つかった事で、演習場内は侵入者を知らせる警鐘が盛大に鳴らされており、大慌てで宿舎をはじめ各施設から兵士達が駆け出して来ている。
蜂の巣を突いたような騒ぎが広がる中で、更なる火種が遠方から演習場のあちらこちらへと放り込まれた。
兵士達がそれぞれの上官の指示に従い、動きを見せているその頭上へ次々と砲弾が撃ち込まれたのである。
着弾と同時に周囲へ赤やら青やら白やらと、様々な色彩の煙と爆風が広がり、それに巻き込まれた兵士達がその場でうずくまって、くしゃみをしたり、せき込んだり、その場で眠ってしまったり、と千差万別の症状を見せている。
演習場から遠く離れた場所に、相棒たる
グワンダン、八千代、風香が変装してアムリアに付き添っている間、リネット達はいざという時に備えて遠方からこうして脱出を支援する役目を担っていた。
演習場に警鐘が鳴り響く前にグワンダンからの念話に応じて、砲撃による脱出支援を行い始めたガンデウスは、演習場から立ち昇る色とりどりの煙を眺めながら、自分達の成果を口にする。
「特製くしゃみ弾、臭い弾、眠り弾、辛味弾、酸味弾、痺れ弾その他諸々、効果は抜群ですね」
「普通の人間よりも五感に優れる分、効果はばっちしだもんね。でも当然対策はされているみた~い」
ガンデウスの傍らで、両手で携行魔導砲を構えるキルリンネが、演習場全体に施された大気を浄化する付与魔法が発動するのを見ながら、状況を正直に述べた。その間も砲撃を加える手は緩まない。
ガンデウスも太陽の獅子吼側がそれ位の対策をしてあるのは、事前に分かっているから、慌てた様子もなく砲撃を重ねる。
「予め分かっていた事です。ならばあちらの対処速度が間に合わない程に、砲撃を続ければよいだけの事」
「あはは、ベル……えっと、私達らしい考え方だね、ガンちゃん」
力によるごり押し、ごり押し、ごり押し! まさにこれがベルン流の思考形態であった。
ガンデウス達の世代はこの考えはまだ通じるからよいとして、次の世代からはこの思考形態のままだといつか痛い目に遭ってしまいそうだ。
リネットは妹達の会話を耳にしながら、殺傷能力は極端に低いがその分、嫌がらせに特化した砲弾を詰めた弾倉を手早く交換する手を休めていなかった。
「二人とも、おしゃべりはしたままでも構いませんが、決して狙いを間違えてはいけませんよ。いくら嫌がらせに特化した『悪戯砲弾』とはいえ直撃してしまえば、最悪死に到ります。兵士の方々には当てないように」
リネット三人は事前にグワンダンと協議して、太陽の獅子吼の兵士達に死者を出さない事を絶対の条件として定めていた。
太陽の獅子吼との敵対が確定していたら、悪戯砲弾など使わずに通常の砲弾を使い、演習場そのものと兵士達に大打撃を与えていたところである。
「もちろん分かっております、リネットお姉様。演習場を混乱に陥れつつ、ご主人様達の脱出を一部除き、円滑に進める為の支援を行う。この目的を忘れは致しません」
「私も私も~。こうやって大砲を撃つのはあんまり得意じゃないけど、当てないように撃つくらいならできるもの」
「分かっているのなら構いません。脱出を確認後私達もこの場を離脱して合流します。それでこのウミナルともさようならです。手筈は良いですね?」
「分かっております」
「荷物の片付けも、グドさんへの置き手紙も準備万端!」
ならばよいと、リネットは再び演習場へと視線を向けて、メイド服に身を包んだあどけない少女の姿にはまるで似つかわしくない大砲を脇に抱え、砲撃を重ね続けた。
一方でグワンダン達は、未だ幻術による変装姿のまま、着弾の轟音が響き渡る演習場から最短距離で脱出するべく足を動かしていた。
「話したい事は話せたかい?」
風香と八千代よりやや後方を走るグワンダンが、風に声を乗せる術を使い、アムリアに話しかけた。以前に何度か使った事のある魔法だったので、アムリアは特に驚いた様子を見せずに応じる。
大声を出す必要はないのだが、風を切る音がびゅうびゅうと耳に飛び込んでくる為、ついついそれに負けじと大きめの声が出てしまう。
「おおむねお話しできました。とても警戒されていて、本音の本音は中々話してはくださいませんでしたけれど、なんとか!」
「ほう、あの短い時間でよく話せたな」
「私があんまりに物を知らないから、呆れている様子でした。多分、だから、私に呆れてついお口が弛んでしまったのだと思います」
「そのような性分の相手だったかね? 典型的な兄貴分としての面倒見の良さあたりは持っていそうだったが」
「ああ、確かに面倒見は良さそうな方です。今の立場には自分が向いていないと強く自覚していらっしゃるようでした。でも、だからといって早々放り捨てられる立場ではない事も、向いていなくとも相応しくなるしかないという事も、全て分かっていらっしゃいます」
「ふむ、手に入れた立場に目が眩む類の暗愚ではないか。ロマル帝国で三竦みの状況を維持できるなら、その程度の能力はあって当然だったな。ただし直情径行なのは確かだ。三人とも、レグルが追い付いてきた」
「速いでござるな!? 砲撃に邪魔されてまっすぐには追いかけて来られないでござろうに」
腰の長剣に見せかけた愛刀に手をやった八千代が、思わず背後を振り返りながら叫ぶ。純粋な身体能力においてレグルと八千代とでは、はるかにレグルが上回るようだった。
こうして話している間にも三人の足は動いていて、既に演習場の外縁を縁取る石壁が見えており、ちょうど、目の前の壁がリネット達の放った実弾によって木端微塵に粉砕されるところだった。
破片と粉塵が立ち込める中、八千代と風香は足を止めずにその中へと突っ込み、事前の取り決め通りにリネット達との合流地点を目指す。わざと捕縛される前に、グワンダン特性の身体強化の効能があるポーションを服用したお陰で、疲労はまるでない。
「ポーションを飲んだ八千代と風香を上回る身体能力か。種族の事を踏まえても、肉体派の十二翼将に並ぶ肉体になるな。どれ」
八千代達の後ろ姿が壁の向こうに消えるのを見送り、グワンダンは足を止めてそのままくるりと背後を振り返る。振り返った彼の視界に飛び込んできたのは、護衛達を置き去りにし、単独でグワンダン達を追ってきたレグルの姿。
全身に闘志を漲らせた若き獅子人の統率者は、愛用の得物である巨大な片刃の大剣を振りかぶっている。サファイアを思わせる青に染まっているのは、刀身のみならず鍔から柄尻に到るまでだ。
相当に強力な魔法の武具と判断し、グワンダンは流石に素手で受け止めてはやり過ぎか、と自分の影から愛用のポールアクスを取り出し、大上段から叩きつけられてきた青い刃を受け止める。
「おれの一撃を受け止めるか!」
「帝国の魔操鎧では相手にならん膂力だな。若獅子殿」
「涼しい顔でそれを受け止めるお前は何なんだよ!」
大剣が離れ、それも一瞬、レグルの闘気が凝縮された刃は幾度も大気を切る音を鳴らしながら、姿を偽るグワンダンへと振り下ろされる。
天より落ちる雷鳴の如き一撃が、豪雨の勢いを持って絶え間なくグワンダンへと襲いかかる。それを可能とするレグルの獅子人の範疇を越える膂力と強靭な心肺、肉体への負荷を最小限に留める技量。それに対するグワンダンの感想は、この一言に凝縮された。
「お見事」
しかして、あまりの速度と手数に壁の如き密度を誇った青の斬撃は、その全てをグワンダンが片手で操るポールアクスに受け止められて、刃がグワンダンの鱗に触れる事すら許されない。
「ちぃ」
百を越えてなおグワンダンの守りを突破できず、レグルは舌打ち一つを置き土産に後方に跳躍し、グワンダンとの間に距離を置く。
「うちの姫君との会話は如何だったかな、太陽の獅子吼の代表たる獅子よ。こちらとしては十分な話が出来たとホクホク顔だったよ。わざわざ変装して君達の懐にまで潜入した甲斐があったというもの」
「そうかい。こっちとしちゃ、貴様らの幻術を看破出来なかったと、検査体制の見直しをせにゃならんと頭を抱えたいんだがな」
レグルの体が微細な重心移動を繰り返し、隙だらけで構えるグワンダンをどう攻めるか思考と肉体の双方がしきりに探っている。
「アステリア皇女とライノスアート大公の派閥の者が私達のように潜り込めたなら、君達にとっては大問題だからな。まあ、危機意識を持つのは大事だよ」
「呑気に言ってくれるもんだぜ。なあ、名も知らん侵入者さんよ!」
レグルの体が不意に沈んだ。予兆となる動作のない動きで、レグルは鼻先が地面に着きそうな低く構え、地を這うかの如き動きでグワンダンとの距離を瞬時に詰める。
獅子というよりも得物に迫る蛇を思わせる奇怪な動きから、レグルの大剣が地面からレグルの右頸部を目掛けて跳ねるように動く。
「獅子の風貌から想像もつかん動きをしてくるな。戦いに正邪もないという考えかな?」
驚いた素振り一つなく、ポールアクスの柄でぴたりと切っ先を受け止めているグワンダンの余裕しかない姿に、レグルは眦を険しくして睨みつける。
「正邪なぞあるまい。好き嫌いはあるだろうが……てめえ、本当に何者だ。アステリア皇女の抱えている、十二翼将並とかいう凄腕共の一人か?」
「アステリア皇女か。さて君が今日、出会ったのがアステリア皇女かもしれないし、そうでないかもしれないぞ」
「あの女と同じではぐらかしばかりだな。真実を語る口は持たんのか?」
「持たないわけではないのだが、そうだな、では私に一撃を入れるごとに一つ、真実を語ろう。嘘か真実かは、君に判断を委ねる他ないが、どうかな?」
「あの女といい、てめえらは本当にこっちの神経を逆撫でしやがる。吐いた言葉は飲み込めんぞ!」
高まるレグルの闘気と怒りを浴びて、グワンダンはまったくその通りだと内心で同意した。もちろん約束は守るつもりだったが、同時にリネットと八千代達が無事に合流が出来た事と思わぬ者達と遭遇していた事も、グワンダンは把握していた。
「自分から話を持ちかけておいてなんだが、時間制限つきでやらせてもらうぞ、若獅子」
「若獅子、若獅子と上から目線で鬱陶しいぜ、あんた!」
「それは済まん。なにしろ、随分な年寄りでな」
あくまでも余裕ある態度を崩さないグワンダンは、レグルにとってこの上なく癇に障る相手であったのは間違いない。
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第二百七十六話
レグルはグワンダンとの戦いを仕切り直してから数度の攻防を経て、目の前のドラゴニアンが己の人生の中で最強にして最高の戦士であると認めざるを得なかった。
戦士としての強さを構成する要素は身体能力、技量、経験、天凛、天運と数多あれども、その全てが突出し、思わず罵倒したくなる程高い次元で並列している化け物は、グワンダンが初めてであった。
強いて言えば技量に関しては、その他の能力に比べればそれ程でも、と感じないでもないが、予め全て見えているかのようにこちらの攻撃を受け、いなし、避け、攻撃の一つも体はおろか衣服にかすらせもしないとなると、技量以前の問題だ。
レグルの戦歴の中には、こちらの心理を読む読心術や肉体を走る電気信号や臭いから動きを先読みしてくる者、未来を見る未来視の持ち主などもいたが、グワンダンの場合は単純にレグルの動きを見てからの反応で、ごくごくあっさりと対処している。
特異な能力による対処でない以上、付け入る隙がないという事である。
「見てからの反応で十分かよっ。一番、どうしようもねえな!」
「誇れる程の技は持たぬが、目の良さならば中々のものだろう?」
「その余裕、敵を苛立たせるつもりでやってんなら、効果は覿面だぜ!」
「ふむ」
そんなつもりはないのだが、という意味の『ふむ』である。
レグルは後方へ切っ先を流した愛剣ライオブルーを両手でしっかと握りしめ、斬撃の重さに特化した渾身の一撃をグワンダンの『ポールアクス』を狙って放つ。
青い斬撃はグワンダンから見て左下方より、胸の前に斜め横一文字に構えていたポールアクスへと伸びた。
相手の武器を破壊し戦闘能力を大きく奪う、あるいは破壊が叶わなくとも大きく弾き飛ばして、相手に隙を作り出す、レグルの得意とする技の一つ。おおよそ人体を模した姿形の相手ならば有効と、断言できるだけの実績を積み上げてきた技だ。
事実、ポールアクスの半ば程に叩きつけられた青い刃から伝わってきた衝撃の凄まじさは、常人ならば武器が砕けるばかりか、腕の骨はおろか全身に伝播して内臓破裂まで引き起こすだろう。
「ちぃ」
苛立ちを隠さぬレグルの舌打ちは、斬撃が意味を成さなかった事を如実に表している。
これまでどんな豪力無双の戦士であろうとも、その手から武器を失い、敗北させてきた一撃は、わずかにポールアクスを揺らしたきりで、グワンダンに手放させる等夢のまた夢。
レグルは自分の腕に返ってきた衝撃に、幼い頃に父へと何度も打ち込んでは呆気なく弾き返された記憶を脳裏に思い描いていた。
それだけの彼我の差を、つまりは子供と大人ほども違うのだとレグルが本能で認めたと言っていいだろう。
仮に十二翼将と戦ったとしても、ここまで自分の技も力も通じないと短時間で痛感させられるだろうか? 知らず、レグルの全身がじっとりと不快な汗によって濡れ始めていた。
「君が一人で飛び出すものだから、君のところの兵士が大慌てでこちらに集まり始めているな。統率と動きの速さは見事なものだ。よく鍛えてある」
「そうかい。自分のところはもっと練度が上だと言いたいように聞こえるぜ」
「そうか? ふむ、そのようなつもりはないぞ。純粋な称賛だとも。素直に受け取ってくれないと困るところさ」
意識せずともより上位の視点に立った物言いになっているグワンダンに、レグルもここまで来ればどうやら素でこれらしいと悟る。同時に、このグワンダンの態度は自分だけではなく十二翼将が相手であっても変わるまいとも。
(考えたくはないが、おれや十二翼将なんぞよりも遥かに上の実力者か、そういう態度になる上位者……。皇室と何かしらの契約を結んでいる幻獣や精霊の類?
それならアステリアとライノスアートが骨肉の争いを始めた時点で、外憂を招く前に動き出しそうなものだ。どうして今になって動く? アステリアとライノスアート以外に重要な要素があるとして、やはりあのアステリアもどきが鍵なのか……)
レグルは自分を知恵者だとは思っていないが、彼は決して、生来愚鈍なわけでも頭の回転が鈍いわけでもない。
自らの武力を頼みにするのも、それがもっとも効率的かつ犠牲を最小限に抑えられる場面での行使が大多数を占めている。一瞬でいくつもの可能性の泡を浮かべては、消す作業を繰り返すレグルに、グワンダンは楽しげに話しかける。
こういう態度がレグルの癇に障っているのだが、ここまで短い時間で繰り返すとなると、アムリア達の離脱の時間稼ぎと若者をからかおうと悪戯心でも起こして、意図的にやりだしているかもしれない。
「どうした。思考の袋小路に嵌り始めている顔だぞ。私が宣言した事をもう忘れたか? 何かを知りたいのであれば、私に一撃を入れてみせるがいい。私の口に真実を語らせるのに、最も手っ取り早い方法が目の前にあるのだ。手にとってはどうかな?」
「ちっ、おれがガキだった頃の兄貴分よりも上から目線だぜ。……あんたがおれ達の敵か味方かは分からん。だが、おれの全力を以ってしても及ばぬ武威の持ち主であるのは、疑いようもない」
「ふむ? 随分と謙虚な言葉が出てきたが、急にどうした?」
「うるせぇ、人が素直に評価している時に茶々を入れるもんじゃねえぜ」
「なるほど、黙って聞き届けるのが大人の態度か」
「ふん。つくづく、根っから他者を下に見る野郎だな。何、あのアステリアかもしれない女を追いかけて捕まえるのが目的だったが、それを曲げてあんたに一撃を叩き込む事に決めたって言いたいのさ」
「ほう、それは光栄だ。アステリアよりも私の方に価値があると判断してくれたか」
最大限叶うならば、この場でグワンダンを討ち取りたい、というのがレグルの本音である。この場に於いて突如として出現した超特大の不安要素を排除したいと考えるのは、まあ、不思議な事ではない。
問題はそう考えるレグル自身が太陽の獅子吼を総動員しても、それが叶うとは欠片も思っていないのと、そう思わせるグワンダンの底知れぬ実力。そして未だにグワンダンが何を最終目的としているのかが、分からない点だ。
相手の目的が分からぬでは、その場しのぎの対処ばかりで後手後手に回る危険性が増してしまう。故に、守られるか分かったものではない口約束に、レグルは全力で乗る決断を下していた。
「どちらかと言えば、おれの意地の問題だが……よ!」
レグルが最後の一音を口から吐くのと同時に一端後方へと跳躍し、着地と同時に低く身を屈めて地を蹴る。脚部に蓄えられた力は地面を大きく抉り、愛剣ライオブルーの刀身と相まって、蒼と黄金の混ざり合う稲妻の如く駆ける。
これまで受けるだけに留めていたグワンダンが、レグルと交戦し出してから初めて攻撃らしい攻撃を加えた。
何の事はない。右手一本で握るポールアクスを馬鹿正直に真上に振り上げ、それを何の工夫も技術もなく、これまたまっすぐにレグル目掛けて振り下ろしただけだ。
しかし、それがレグルの全身に、何よりも心に途方もない圧力を加えてくる。視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、生物としての生存本能の全てが、グワンダンの一撃に警戒を全開にし、生き残る術を見出そうと足掻く。
レグルはグワンダンの一撃に殺意を感じなかった。当たり前だ。グワンダンにレグルへの殺意はないのだから。だが、それでもレグルの肉体と心はただの力任せの不格好な一撃を、これまでの人生で最大最悪の脅威と認識している。
レグル個人へと向けて発生した自然災害――天災という認識だと断言しても、言い過ぎではないだろう。時に多くの人々の運命を狂わせる、大自然の脅威。たった一体のドラゴニアンが、それに匹敵するとレグルは微塵も疑わずに判断していた。
受ける? あり得ない。火山から流れ出た溶岩を正面から受け止める馬鹿が居るか。
避ける。これしかあるまい。逃げるのではない。避ける、だ。例え笑ってしまうようなどんなにちっぽけな傷であろうと、この天災の如きドラゴニアンに一撃見舞ってやらない事には、レグルの腹の虫が治まらぬ。
まことに、まことにちっぽけで、しかし、決して捨ててはならぬ意地の問題であるものよ。
*
グワンダンが太陽の獅子吼最大戦力であるレグルを足止めしている頃、アムリア達三名は無事に目的地であったウミナル郊外の林の一角へと辿りつき、既に砲撃を切り上げていたリネットとの合流に成功していた。
林の中には事前に忍ばせていた馬車があり、後はグワンダンが合流すればいつでもこのウミナルを出立する事が出来る。
合流が済み、グワンダンの施していた幻術を解除して本来の姿に戻ったアムリア達は、周囲の警戒と護衛をリネット達に委ねつつ、緊張を解していた。
グワンダンを置き去りにしてきた後ろめたさがまったくないわけではないのだが、何しろあのグワンダンであるから、するだけ無駄に終わる心配だとも分かっている為、一行の雰囲気はそう暗いものではない。
「いやあ、姿を偽って敵地への潜入とは、まさにこれこそ忍びの成すところではないのか、風の字」
けらけらと笑う八千代に対して、風香はというとこちらはげんなりと疲れ切った様子で耳をペタンとさせている。
「拙者はああいうのは苦手でござるわぁ。忍びに向いていないと言われたのも、拙者がてんで影働きが出来なかったのと、演技の『え』の字も出来やしなかったからでござるし~」
「ふふふ、しかり、しかり。風の字はなんちゃってくのいちでござったな。某も似たようなもんでござるけど!」
「偉そうに言うこっちゃないでござるよ。とりあえず今回は、いやあ、今回もグワンダン殿のお陰で万事うまくいっている途中ではあるが、アムリア殿の目的は果たせたんでござるの?」
首元を緩め、リネットから渡された水筒に口を付けていたアムリアは、風香へ向けて朗らかに笑う。
「はい、八千代さんと風香さんに無理をしていただいただけの成果は得られました。グワンダンさんには、まだ無理をしていただいている最中ですから、胸を張って言うには早いかもしれませんけれど」
「そこはほら、グワンダン殿でござるし、むしろうっかりやり過ぎて太陽の獅子吼の兵士達を全滅させかねないのを心配するべきでござろうな」
この場に居る全員にとって、風香の言うように、グワンダンが、ふむ、と一言呟き、倒れ伏す太陽の獅子吼の兵士達を困った顔で見る姿を容易に想像できるもので、何とも言えない苦笑いめいたものが揃って全員の口に浮かび上がる。
あそこまで能力を見れば出鱈目で、はちゃめちゃで、規格外の要素ばかりで構成された存在というのを、彼女らは他に知らない。
リネット達メイド三姉妹は他にも出鱈目な存在を知ってはいるが、やはりグワンダンひいてはドランの方が頭一つも二つも図抜けているように感じられるのだ。
一般的な基準や常識で考えれば、リネット、キルリンネ、ガンデウスの三名も十分に非常識や上位者等の評価を受けるに値するのだが、そんな彼女らでも自分達の主人とは比較しようという気すら起きない。
主人への正しいが手放しで称賛されているとは言い難い評価に心底同意しつつ、リネットは周囲をぐるりと見回す。
「太陽の獅子吼ならびにその傘下の兵士達や斥候が、周囲を探っている様子は見られませんね」
リネットに、愛用の魔導砲を肩に掛けた体勢で警戒を続けているガンデウスが同意する。
不殺の制約こそあれ思う存分相棒をぶっ放す事が出来て、加虐の欲望が満たされたお陰で、心なしかガンデウスの肌は艶々と輝き、血色も良いようだ。
リネットもガンデウスのこういった様子にはある程度耐性が着いた為、これ位では頭を抱えたりはしない。少し心が凹むだけである。
「総大将が侵入者と一騎討ちをしているとあっては、下手に兵士を動かせないのではないしょうか。指揮系統が相当混乱しているものと推察します。それでも全く動いていないわけではないでしょうが……」
ガンデウスの推察にはリネットも否定するところはない。二人と比べるとのんびり屋なキルリンネも、手入れをしていた魔導砲を影の中に仕舞いこんで自分の見解を口にする。
こちらはガンデウス程、暴れられた事への快楽はないようだが、ウミナルまでの道のりがいささか窮屈なものであった鬱憤を、体を動かせた事である程度晴らして爽快な気分になっているようだ。
「あのレグルって人は見えないところで手を動かしたり、舌を動かしたりとか出来そうにないけれど、出来ないなら出来る人間を傍に置けばいいって事は理解していると思うなあ。
追加の襲撃の方を警戒すると思うし、グワンダン様が尾行される心配はないし、太陽の獅子吼の人達に見つかる可能性は、偶然以外には考えなくっていいと思うよ。
そもそも見つかっても別にどうってことないよね。あははははは」
どこまでも陽気なキルリンネの笑い声は林の向こうにまで響き渡り、隠している不安等欠片もないその笑い声は、本気で太陽の獅子吼の全兵士に包囲されようと問題ではないと考えていると聞く者に理解させるのに十分だった。
八千代は改めて自分達がとんでもない面々と行動を共にしているのを痛感し、たはは、と力の抜けた声を零す。笑い声というよりは溜息だろうか?
「たはは、キルリンネ殿の言う事が否定できないでござるのう」
「拙者もハチの字に同意ー。拙者達は無理無理の無理もんでござるけどねえ。グワンダン殿達四人なら、正直このままライノスアート大公やアステリア皇女のどちらに殴りこんでも、そのまま首級をあげられちゃいそうでござるもん」
実際、それはグワンダンにとって容易な事であったが、ではそれをしてどうするのか? という話になると、目下グワンダンにそれをする動機がない。
もしアムリアが二人を排除して自分が皇帝となり、ロマル帝国を生まれ変わらせる、革命を起こすのだと熱弁を振るっても、グワンダンはそれに力を貸すのを良しとはすまい。
グワンダンには彼独自のやや分かりづらい助力の基準があり、アムリアが率先して自らロマル帝国を征服する、というのはどうにも彼としては助力を拒否したくなる案件だった。
まあ、今のところ、アムリアがそれをグワンダンに頼みこむ可能性はほぼ無いと言ってよいだろう。皇帝になったとしても、何をすればよいのかと途方に暮れるのがオチではなかろうか。
「う~ん、私としましてはそんな物騒な事をお願いするつもりはありません。私に国を統治する能力はないでしょうし、これだけの争いが起きた後のロマルでそんな人間が玉座に着くのは許されない、というより余裕はないと思いますよ?」
「そうですね、アムリアの言う通り、今回の騒乱で方々に後遺症が残るでしょうし、すぐにそれらを建て直せる能力のある者が求められるのは必定。すぐさま能力を示さなければ、再びいくらでも戦火の炎が燃え盛る下地が残っているでしょうから」
リネットは他者の耳がない為、アムリアを名前で呼び、そしてその意見を肯定した。アステリアとライノスアートのどちらがロマル帝国の支配者となっても、一度崩壊した帝国の地盤固めには長い時間を要するだろうし、それはアムリアであっても同じ事だろう。
アステリアとライノスアートが支配と抑圧を核とした統治体制になるのは明白で、一方でアムリアが同じ立場になればどうなるか、というと本人も今一つ思い描けていないのだから、最も戦国乱世の覇者足るに程遠い場所に居ると言っていい。
するとそんな未来を考えてか、アムリアが憂いを帯びた表情でレグルに対して語っていた案の一つを口にする。
「色々と歴史の勉強をしてみたら、こういう時には隔意のある者達でも手を取り合わなければならない状況に追い込まれれば、以降の関係が比較的穏和なものに移行しやすいと学びはしたのですが」
「ふうむ、アステリア皇女とライノスアート大公と反乱諸勢力が手を取り合って立ち向かう強大な相手ですか。アムリアとしてはそれをアークレスト王国に担って欲しいと考えているので?」
「私が頼れる相手となるとそうなるのですが、いくらなんでもその手を選ぶのは卑怯というか、厚かましいというか、別の意味での遺恨を大きく残す結果になりますから難しいかと」
「今は内憂ですが、それが外患に変わるだけとも言えますね。リネットとしては、自分達が怨敵と手を取り合ってでも勝てなかったという敗北感と挫折を味わえば、それはそれで連帯感が生まれてよいのでは? と思わなくもないです」
「それって、今度は王国の支配から脱却しようと手を取り合う結果に繋がるだけなのでは?」
「そこは王国の統治体制に期待しましょう。その際にはアムリアも自分自身を象徴として使うのを許容しているのでしょう?」
出会ってから一年も経ってはいないが、ロマル帝国に入ってから毎日顔を突き合わせて来ているのだから、アムリアがそれ位の事を考えているのは、リネットにも分かる。
「ええ、それはもちろん。私で役に立てる事は何でもするつもりですから」
「某と風香的には、アムリア殿には危ない真似はして欲しくないでござるよ。後、自分を粗末にするような真似もよくないでござるよ。とても良くないでござる」
「ござるござる。アムリア殿の出自がどうあれ、アムリア殿はまだ嫁入り前の娘さん。そんな女性が我が身を犠牲にする選択肢を受け入れているというのは、なんとも世知辛いったりゃありゃしないでござるよ~」
「うふふ、それを言ったらこの場に居るのは全員、“嫁入り前の娘さん”ですよ?」
「そういうやそうでござった! 某も風香もちょっと自分が所帯を持つという未来図が思い描き難いから、ついつい」
「はっはっは、ハチに到っては望まぬ婚姻から逃げる為に海を渡った位でござるし、それに付き添った拙者も婚姻はこりごりみたいな気持ちでござるし、忍びに自由な恋愛など許されるもんではござらんし」
そう言うや、なっはっはっはっは、と二人揃って笑う八千代と風香は、確かに婚姻というものとは縁が遠そうだ、とガンデウスとキルリンネですら思う。
アムリアもまたその素性から自由恋愛など望むべくもないが、このわんわんとこんこんはそれとはまた別の方向性で結婚の二文字とは程遠かろう。
レグルとの緊張感に満ち溢れた会合が終了し、気楽な雰囲気に満ちた和やかだが、時々不穏な単語の混じる会話はグワンダンが来るまでの間、続けられる筈だったが、リネットが表情を淡い笑みから無に戻した瞬間に終わりを告げた。
「ふむ、これはこれは、予想が外れて嬉しい事態でしょうか、それとも外れて面倒だと感じる事態でしょうか」
リネットは周囲に視線を巡らせるのと同時に、影の中から愛用の巨大メイスを引っ張り出し、ガンデウスは連射式のマジックボウガンを、キルリンネもまた愛用の大剣を取り出して肩に担ぐ。
愛刀に手を伸ばす八千代が、警戒も露わにリネットに問うた。
「偶然、某達を見つけた手合いでござろうか?」
「いえ、太陽の獅子吼の手勢ではないようです。見覚えのある方がいらっしゃいましたね」
リネットの視線を受けてか、ぽつんと立つ樹の影から、黒髪を何本もの三つ編みにした痩身の女が姿を見せる。影に溶けて消えてしまいそうな黒革の全身服に身を包み、武器らしい武器を身につけている様子はない。
だが、リネットに目の前の人類としては最高格の暗殺者を相手に、それだけで警戒の基準を下げるつもりはなかった。
「初めてお会いしたのはアムリアを山の城から連れ出す時でしたか。今日はあの格闘家さんは御一緒ではないのですね」
かつてアムリアと初めて出会い、暗殺ないしは誘拐の危機に陥った彼女をアークレスト王国へと連れ出した山中の戦い。その際にリネットがアームドゴーレム・ガンドーガの初陣を飾り、戦った二人組の片割れが、目の前の暗殺者ザナドであった。
ロマル帝国十二翼将に名を連ねてはいないが、十二翼将級の実力を有す暗殺者がわざわざ姿を見せたのだから、単にアムリアを暗殺しに来たわけではないだろうが……
ザナド以外の伏兵の可能性を考慮し、リネット達が警戒の念を全方位に巡らせる中、ザナドはアムリアへと向けて数歩進むと、片膝を地面に突いて頭を垂れ、視線もまた伏して最上級の礼を示す。
「突然の御無礼をお許しください。私はアステリア殿下にお仕えするザナドと申す者。アムリア様とその護衛の方々とお見受けいたします」
リネットがガンデウスとキルリンネに目配せをしている間に、意を決したアムリアがザナドへと凛と引き締めた表情で答えた。
「私がアムリアです。アステリア皇女……私の姉に仕えているという貴女が、私に一体何のご用でしょうか?」
「アステリア殿下は、貴女様との会談を望んでおられます。以前、私が貴女をお迎えに上がった時とは時代のうねり、そして状況が変わった結果、貴女様と直に話し合い、貴女を知るべきだ、そして私を知って貰うべきだとアステリア殿下から言付かっております」
「なるほど。……つかぬ事をお伺いしますが、どうして私がここにいると分かったのですか?」
「全てはアステリア殿下の御指示です。帝国を離れ、再び戻られて以降の貴女様の行動から、エルケネイに向かい、このウミナルを訪れ、太陽の獅子吼を統べるレグルとの接触を図るべく動く事。
そしてそれを叶えた後にどのようにウミナルから離脱するか。そして次にどこへと向かうのか。それら全てをあの方は読んでおられます」
「そうですか。ふふ、貴女の言われる通りであるのなら、レグルさんがあのようにアステリア皇女を評価されるのも納得ですね。そして私が嬉々としてそのお申し出を受け入れるのも、アステリア皇女は、姉上は読んでいるのでしょう」
「アムリア殿、本気でこの者の言う事を信じるのでござるか?」
アムリアを背後に庇いつつ、八千代は自分では盾にもなれない上位者を前に、精一杯の威嚇をしていた。しかし庇う対象のアムリアがこうまで相手の言い分に乗り気とは、いや、これまでの行動を考えればアムリアにとっては一石二鳥の好機でしかない。
幽閉されていた頃からは想像も出来ないが、何時の間にやら随分と豪胆な度胸を身に付けたものだ。
「ええ。姉上と会い、その人となりを、真意を知る。それがこの国で私の知るべき最後の事、そして何よりも私自身が知りたい事ですから、疑わしくてもそれの叶う可能性があるのなら、乗ってしまおうと思います」
「むむむ、まったく考えなしで誘いに乗るわけではないというのが、これまた反対しづらいというか、アムリア殿はますます策士になっているでござるなあ」
「策士ですか。では詐欺師とまでは言われないように気を付けます」
そういう問題じゃないでござるよ、という八千代の呟きはアムリアに聞き届けられる事なく、ぽつりと零れて儚く消えた。
「では御同行いただけるので?」
わずかに顔を上げて問うザナドに答えたのは、アムリアではなくいつの間にかザナドの背後に姿を見せていたグワンダンだった。
全身全霊で挑んできたレグルを相手にどのような戦いをしてきたのか、体はおろか服にも傷一つなく、軽々とあしらった以外にはどうにも想像し難い。
「無論、アムリア一人を預けるような真似は出来ん。私達全員の同行が条件だが、それは呑めるのか?」
「グワンダン様!」
アムリアやリネット達の口から一斉にグワンダンの名前を呼ぶ声が発せられ、当のグワンダンはそれに鷹揚に頷き返して自分の無事を示す。
ザナドはグワンダンの接近を全く感知出来なかった事実に戦慄しながら、それでも平静を維持してグワンダンの問いに答える。
「はい、殿下より、アムリア様が少しでも安心しておいでになられるように、可能な限り要求を飲むようにと。また護衛の方達を全員連れてくるのを望まれたなら、受け入れて構わないとも事前に」
「噂以上に聡明な方であるようだ。アムリア、これは真意を聞きだすのは至難の業であるかもしれんぞ」
「家族の情も通じそうにない方ですし、確かに強敵そうですね。でも、私はその双子の片割れですし、向こうにとってもきっと強敵だと思います」
アムリアがそんな風に言って、悪戯っぽく笑うものだから、グワンダンはやれやれと肩をすくめる他なかった。どうもアムリアはグワンダンひいてはドランに対して、極めて強力な特効存在らしい。
「ふうむ、まあ、そういうわけだ。ザナド、アステリア皇女殿下のもとまでの案内、よろしく頼む」
かくて、アムリア達は残るロマル帝国の重要人物、アステリアとの会談に臨む事となる。
誕生と同時に引き離された双子の姉妹の再会が、ロマル帝国に何を齎すのか。何を変えるのか、あるいは何も変えはしないのか。それが分かるのは、今しばらく未来の話である。
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第二百七十七話
竜が飛ぶ。無数の竜が飛んでいる。
破壊と新生の両面を持つ火の色を映し取った鱗を持つ火竜。
世界を巡る風の如く軽やかに飛翔する風竜。
黒雲を切り裂く雷鳴と共に在る雷竜。
天と地の間を巡り潤し渇きを与える水と親しき水竜。
幾年月を経ようともその形を変えて存在し続ける大地の如き地竜。
果てなど無いかのような空を飛ぶ竜種は、彼らばかりではない。血の交わりにより複数の属性を備えるに到った個体や、またあるいは派生種や上位種に分類される竜達も居る。
四肢を持たないワームや前脚が翼となっているワイバーンといった亜竜、劣竜と呼ばれる眷属達の姿も、人間達の常識では考えられない程に集っていた。
場所はアークレスト王国ベルン男爵領が管理を担う、忌まわしき大邪神、この世で最も神々に忌み嫌われ、嫌悪されている大女神カラヴィスが地上に顕現させたカラヴィスタワーその内部である。
この竜達が自由に解き放たれ、破壊を振りまけば一夜でどれだけの滅びを齎すだろうと、ついそんな恐怖の想像に駆られる光景が現実のものとなった理由は、実のところ、その想像とはどちらかというと反対の理由による。
モレス山脈各所から集結した竜種達は、練度の高い軍隊の如く陣を成し、カラヴィスタワー内部で発見された偽竜製造装置により、大量に生産された偽竜の群れを相手に実戦形式での訓練を重ねているところだ。
属性も練度も個性も異なるモレス山脈の竜種達を取りまとめられるだけの実力と見識、集団戦の経験を持つ個体は少なかったが、それでも連日連夜繰り返される偽竜達との戦いによって、にわか指揮官達も指示を飛ばすのに慣れ、多くの竜種達も指示を飛ばされるのに慣れて来ている。
彼らが最大の仮想敵としている魔王軍の偽竜達は彼ら以上に普段から軍隊としての戦い方に慣れ、また堅固な指揮系統の元で運用されている。
残念だが軍隊としての練度では魔王軍側に軍配が上がるのは、如何ともし難い事実である。モレス山脈側に有利な点があるとすれば、準水龍皇級の実力を持つに到った瑠禹を始め、ドランの下で古竜の中でも一つ抜けた実力を誇るヴァジェ他、個々の力量だろう。
そして場合によっては、実戦当日にどこかから野良の白竜や、直前になってリュー・キッツを名乗る美しすぎる水竜が何食わぬ顔でしれっと参陣している可能性がある事か。
どちらが参戦するにしても魔王軍としては想定をはるかに超える存在に、頭を抱えて悶絶、卒倒、七転八倒してもおかしくはなく、ともすれば喜劇めいた光景が、戦場に出現するかもしれない。
さて竜種達がドランもといドライセンの勧めで、事前に仮想魔王軍の竜相手の訓練を濃密に重ねている光景を、ドラン以外の複数の人間達が観察していた。
ベルン男爵領の主戦力であるベルン騎士団団長バランを始め、ベルン軍の中核を担う要人の他、特に練度の高い一部の兵士達である。
頭上では無数の竜達がブレスを撃ちあい、竜語魔法の合唱を盛大に歌い上げ、巨体を目で追い切れぬ速さで飛ばして格闘戦を演じている。
また地上では飛行能力がないか、地上戦を得意とする種の竜と偽竜達が大地を揺るがし、耳を塞ぎたくなる咆哮を上げて喉笛に食らいつき、相手の鱗ごとまとめて肉体に爪と牙を突き立てている。
ともすれば十万、百万の大軍勢同士の激突よりも迫力に満ち、人ならざる者達の戦いの常識の外れっぷりには、さしものバランを始め、他所では歴戦の猛者として知られていた元傭兵や元遍歴騎士達も顔色を青くしたり、強張らせたり、言葉も無かったり、と反応は様々だ。
幸いなのは天地で暴れている竜種達の内、片方は明確に自分達の味方であると分かっている事だろう。吹きあがる炎やら降り注ぐ雷やら、毒々しい霧やらと、見ていると眩暈が起きそうな色彩の乱舞と破壊の光景を前に、バランはとても疲れた声を絞り出した。
「魔王軍の連中に詳細を知られずに訓練を重ねるのには、確かにここは最適な場所だが、こんな非現実めいたものを見る羽目になるとは。えらい相手と手を取り合ったものだ。相手の偽竜も似たようなもんだというのが、頭の痛いところだが」
バラン達がこの場に居るのは、共闘する相手である竜種達の実際の戦闘の様子を予め知っておき、いざ実戦となった際に動揺や混乱によって貴重な時間を浪費しないように、という予防策と共闘する相手への理解を深める為だ。
今は現場での指揮や全体の戦略を練る際に参加する階級の者だけがこの場に居るが、いずれは戦闘に参加する将兵全員が対象となる。もちろん、魔王軍の侵攻に間に合えばの話には違いないが。
一般にワイバーンやワーム等の劣竜や亜竜に騎乗する騎士団の類は存在しているが、ここまで強力かつ複数の知恵ある竜種と連携して戦っている軍隊など、それこそ三竜帝三龍皇の領内で他種族と共存している者達位だろう。
前代未聞という単語がしょっちゅう出てくるベルン男爵領であるが、ドラン達首脳陣を除けば、その前代未聞に付き合わされる当事者達は、かなり、こう、神経や胃や常識を痛めながら日々の務めを果たしている。まこと、ご苦労な事である。
「共闘をもぎ取ってきた当のドランと男爵様は不在だが、いつまでもお二人に甘えてばかりではおれ達も立つ瀬がない。
時間はないが、せめて竜達の攻撃に巻き込まれないよう走り回れる位には兵を鍛え、竜達の戦い方を学ばんと、騎士団長等と恥ずかしくて名乗れんよ」
バランはそう自らを鼓舞して、自分の周りで百面相をしている他の者達に激を飛ばすのだった。
もっとも、折角固めた意思も、直後に竜公級の力を持った老地竜の放った天変地異級の一撃を見て、バランの目が点になってしまったのは、まあ、御愛嬌という事にしておこう。
*
バランを始めとしたベルン男爵領軍事関係の上層部が、カラヴィスタワー内部で遠い目をしている頃、クリスティーナとドランの姿はガロア魔法学院にあった。
本年の競魔祭に出場する、ガロア魔法学院の代表を決める為の予選会に、昨年の優勝に一役買った二人が招待されて、それに応じた為である。
レニーアやネルネシア、ファティマといった友人達の様子を確かめに行く以外にも、魔王軍との戦争に対し、ガロアで具体的にどのような備えがされているかを、直に見て確かめるという目的もある。
昨年に引き続いて学院長を務めているオリヴィエと同じ貴賓席で、ドランとクリスティーナは遠からず勃発する魔王軍との戦争は一先ず忘れ、後輩達の切磋琢磨する姿を穏やかな心で眺めていた。
彼ら以外にも多くの貴族や生徒達の身内、大商人達が観客席に居るのは去年と変わらず、既に代表生徒に確定しているレニーアとネルネシアも、生徒用の席で共に競魔祭本戦を戦う仲間が決まる瞬間の訪れを待っている。
平均的な技量という点では、予選会に出場している生徒達の力量は去年とそん色はないが、ベルンであまりに濃厚過ぎる特訓の日々を経験した三名が、突出した実力を見せている。
「やはりというべきか、マノス、クシュリ、アズナルで決まりと見てよさそうだな。ガロアに戻った後も鍛錬を怠らなかったと見える」
クリスティーナはベルンで彼らの体験した出鱈目な特訓内容を思い出し、しみじみと呟く。レニーアに目をつけられて――掛けられている以上は、例えガロアに戻ったとしても怠けるなど許される筈もなく、苛烈な修業を課せられていたに違いない。
ネルネシアや研究成果を確かめる為なら労苦を厭わぬマノスはともかく、常人の枠に収まるクシュリとアズナルにはさぞや苦行であったろう。そして競魔祭本戦が終わるまでは、その苦行は続くのだ。
「レニーアがそれを許す筈もないからな。あれだけ鍛えられているのなら、これから競魔祭本番までの伸び代も大いにある。今年もかなりの好成績を残せると期待できるよ。しかし、今年は四強ではなく二強までしか固まっていないか」
「レニーアとネルネシア以外は、成績も実力も大差がなかったのを鑑みて、学院長が予選会の選出枠を今年に限って三名分にしたというからね。
そこにマノス達が滑り込む結果で終わりそうだ。さて、そうなると気掛かりなのは競魔祭本戦が無事に開催されるかどうか、か」
生徒達の観客席とは仕切られ、距離も離れているとはいえ、そうそう余人の耳には入れられない話だ。それとなくクリスティーナからの目配せを受けて、ドランは自分達の話し声が零れないように遮音の魔法を行使する。
「ロマルの方は他所に手を伸ばす余力は無さそうだ。北の方は何時でもこちらに来られるだけの準備を整え終えているよ。ガロアまで侵略の手を伸ばさせるつもりはないが、ガロアを始め、周囲が騒がしくなるのは間違いない。
殿下の方でもガロア総督府を中心に、事が生じればすぐさま兵を動かせるよう通達が回っているのだから、こちらも準備はまずまずだね」
「私達が安心してベルンを後に出来るのも、今を除けば穏やかな時間はしばらくお預けになってしまうわけか。野心壮大な魔王殿は忌々しい事この上ないな」
むう、と眉宇を顰めるクリスティーナに、ドランは心の底から同意した。ベルン男爵領の発展の為に暗黒の荒野方面に開拓の手を伸ばす以上、いずれ衝突する事は避けられない運命だったにせよ、ついついそう思わずにはいられない二人だった。
このあと、レニーア達に激励の挨拶をしてからは、王家からガロアの統治を任されているガロア総督を始め、近隣の有力者達との会合が待っている。
相変わらずこの手の根回しに対しては、苦手意識を山と抱いている二人だが、今後のベルン男爵領の未来に直に関わるとあっては、苦手だからと及び腰になってばかりはいられない。
「後の世に憂いを残さずに済ます好機だと思えば、幾分か心持が違わないかい?」
「前向きに考えようとすればそうなるのかな。せめてロマルとは時期をずらして事を起こして欲しかったと、そんな風に考えてしまうよ」
「ふむ、なに、魔王軍の連中はロマルにも食指を動かしている。立ち回り方次第では、私達の都合よく戦局を動かせるかもしれないさ」
「あまり欲をかきたくなるような事を言わないでくれ、補佐官。不相応な欲は目を曇らせるものだ」
余人の耳の無い場所では珍しく、クリスティーナはドランに対して役職で呼びかけ、勇躍を窘める言葉を口にする。さてこれは窘めていると真面目に受け取ればよいのか、それともクリスティーナなりのちょっとしたおふざけと受け取るべきか。
「これは失礼を申し上げました、男爵閣下」
ドランもまた上司に対する態度へと一瞬で切り変えて、それなりに様になっている仕草で頭を下げると、クリスティーナはもうそれだけで耐えきれないと、肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
「……やれやれ、慣れないやり取りなどするものではないな。君相手に畏まった態度と口調をされると、体中をくすぐられているみたいに奇妙な居心地になる」
「そうかな? 私としてはこうしたやり取りも楽しいものだと思っているよ。こういう真似をするだけの余裕があるという表れでもあるからね」
「それもそうか。いつでもこうして肩の力を抜いたやり取りが出来るように努力しなければな。その為にも今回の根回しと情報共有は大事だが、正直、他の領地の軍隊との共闘はない方が余程やりやすいと感じてしまうのは、私が戦の素人で色々と見積もりが甘いからかな?」
クリスティーナの言う事は、ドランもまた大いに共感するところであった。魔王軍の大軍勢に対して、ベルン男爵領が用意できる兵士の数は桁が少なくなる程度だ。
突貫で簡易量産型のゴーレムを半自動で生産し続けているし、モレス山脈の竜種達との共闘によって質と量を急激に埋めてはいるが――質の点に於いては一部で大幅に上回っているが――これを覆す為には、ガロア総督府と近隣の領地の軍勢と轡を並べる必要がある。
と同時に、それはある程度、戦い方の常識を他の味方と合わせて調整しなければならない事を意味する。
いかんせん、一部の能力のあり過ぎる上層部に頼って、軍備増強にひた走っているベルン男爵領の軍事力というのは、それはもう歪なものだ。
とてもではないが真っ当にコツコツと時間と資金と努力を積み重ねてきたよそ様と肩を並べるのには、まだまだ粗が目立ち過ぎるし、頭がおかしいと言われること請け合いの内容なのだ。
かといって今からよそ様との連携を大前提に於いて軍備を見直そうにも、ようやくベルン男爵領の事情に沿った軍勢を整えようとしているのに見直しを実行したら、その方針を大転換せざるを得なくなり、中途半端と称するのも憚られるどっちつかずの軍隊になってしまう。
ドランを筆頭にクリスティーナやディアドラ達がそうであるように、ベルン男爵領は極端に走るしかないというか、極端に走る事が大前提としてあるという困った統治体制と思想が揃っているという、普通なら即破滅まっしぐらの領地なのである。
決してよそ様が真似をしてはいけない最たるものだ。その自覚があるが故のクリスティーナの発言だった。
「そうだね、魔王軍が奇襲を仕掛けて来て、問答無用で戦争が起きるのなら、私達が独自に軍を動かして戦端を開く名目が立つが、時間があれば私達にも他領の領主達にも連携するだけの余裕が出来るからな」
「普通なら、そうなれば自分達だけで戦わずに済むと安堵するのだろうけれど、私達の場合はね」
クリスティーナが飲み込んだ言葉の続きを、ドランは敢えて口にした。
「モレス山脈の竜達との同盟、私が好き勝手に作っているゴーレムやら魔法兵器やらがあるからね。戦争中は良いけれど、その後に弁明するのは手間だと思ってしまうのが私達だからな」
「うむ、我ながら怠惰と言えば怠惰なことよ。相手に理解を求めるのを怠るのは、よくない。よくないのだけれど、ね」
「アークレスト王国も長年の平和で軍隊同士の戦いを経験している方はいないし、いざとなったらどうなるか分かったものではないからな。もっと早くに他領との交流を深められていたら、もっと前向きに考えられたのだけれどね」
「そこは言っても仕方ないぞ。私がベルン男爵になってから、まだ半年も経っていない。うちの動きが速過ぎるわ、情報が多すぎるわで、他所の領主の方々も私達にどう接するかで様子見だし」
「そのツケというか、結果が今なのだから、言っても仕方がないさ。今動けばどうにか出来る事から始めよう」
「全くその通りだ。まずは、ガロア魔法学院の代表に選出された後輩達への労いからだな。ああ、それにしても折角君と二人きりだというのに、その状況に甘えられない現実というのは思いの外辛いものだ。レニーア達の応援だけを目的に来ていたなら、君と新婚旅行の予習だと大きな事を言えたかもしれないのに」
今回、ガロア魔法学院へはクリスティーナとドランの二人の他は、主だった女性陣は来ておらず、ベルン男爵領の留守を預けている。この二人きりという状況に、クリスティーナが甘い期待をいくばくか抱いていたとして、誰が責められるだろう。
不意打ち気味にクリスティーナがこんな可愛い事を言うものだから、ドランは少年の外見相応にあどけなく目をパチクリとさせた。彼の愛する女性陣は、彼の不意を突くのがとても上手い。
「そうか、そういう風にも考えられるな。ふふ、私はどうにも女性への気配りというか、乙女心? というものへの配慮が足りないままだ。勉強はしているつもりなのだけれどな」
「いや、そこまで複雑に考えてくれなくていいよ。どちらかというと私のないものねだりか、我儘というのが正しいよ」
少しだけ恥じ入った顔になるクリスティーナに、ドランはいつもの口癖を一つ。
「ふむん。では察しの悪い男なりに出来る事をしよう」
ドランから見て右の席に腰かけているクリスティーナへと空けている右手を伸ばし、そっと握る。ドランとしては、まあ、頑張った方だろうか。
なにせ――
「ふふ、私も単純な女だ。君に手を握って貰えるだけで、こんなに嬉しいのだから」
こんなにも幸せそうに笑顔を浮かべるのだから。
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第二百七十八話
競魔祭に出場する代表選手の選出が終わった後、ドランとクリスティーナはつい先日まで魔法学院の恩師であったオリヴィエの招きに応じて、久しぶりに学院長室で談話をしていた。
これまでドラン達が学院長室を訪れるとなると、高い確率で発生した問題の事後報告か事前の連絡である事がほとんどであったと考えれば、ただお互いの近況を語り合うだけの場というのは非常に貴重であった。
応接用の長椅子に隣り合って腰かけているドランとクリスティーナ、それにオリヴィエ以外は給仕を務める使用人の類もおらず、お互いの氏素性を隠さずにすむ点も、彼らにとっては貴重だったろう。
「私達が卒業した後も、学院長はお変わりなく元気そうでなによりですよ」
と、ドランがいたって平凡だが、心からそう思っている言葉を発すれば、オリヴィエがどこか諦観を感じさせる笑みを浮かべた。
感情を表に出す事の少ないオリヴィエにしては珍しい。もっとも、ドラン達が相手となると、それなりの頻度で驚かされてきたわけだが。
「変わりなく、ですか。流石に貴方が在籍していた頃程、国家や世界規模の大事変は頻発して欲しくないところです。しかし、まだまだ油断はできません。
去年なら、これから海魔との決戦にエンテ・ユグドラシル様を狙った悪魔達に、世界最強の魔法使いバストレル一党、王太子殿下と姫殿下を攫ったアビスドーン……と数え切れないほどの出来事があったのですから」
「ふむふむ、振り返ってみるに、人間として生きたそれまでの十五年は何だったのかと思いたくなる一年でしたな。私は穏やかな時間の方がはるかに好みなので、戦いばかりというのは大変不本意ですよ」
「貴方がそういう気性であるのは、貴方以外の全生命にとって大変な幸運ですよ。それと学院の方ですが貴方やクリスティーナ絡みの事件は減るにしても、まだレニーアが在籍していますからね。
彼女は貴方と出会い、失態を幾度か演じてからは心を入れ替えて、とても成績優秀な生徒になっています。時折、生徒という立場を越えた行動力で動き回るのが難点ですが」
思い当たる節があり過ぎてドランが苦笑する傍らで、供された茶菓子を減らす作業に集中していたクリスティーナが、ああ、と呟いた。彼女にもオリヴィエが言うところのレニーアの行動力の一例が思い浮かんだのだ。
「競魔祭出場選手を半ば独断で
「ドランが卒業する以上は、レニーアは間違いなく今年の最強の魔法生徒です。その彼女と出場の確定しているネルネシアが手を組んで吟味をしたのは事実です。出場に意欲を燃やしていた子達に対して、当人達としては軽く威圧した程度の認識だったでしょう。
それでもかなりの数が心を折られましたし、その分、残った子達が全員、見所のある生徒達だったのも事実です」
「だからこそ余計に頭が痛い、あるいは始末に負えないといったお顔です」
オリヴィエの心情には大いに共感するところのあるクリスティーナは、慈愛さえ感じさせる表情で頷いている。ドランばかりは二人に比べると、大いに苦労を掛ける側である為、クリスティーナ程には共感できないでいた。
「イリナがレニーアの抑えになってくれていますし、レニーア自身、貴方達が卒業した後の競魔祭に於いて、自分が戦力の中核になるという自覚があるようで、普段の授業態度等は大分改善されています。
お陰で今回はわざわざ予選会に出場するような事にはなりませんでしたが、去年とは違った意味で、競魔祭の予選会の段階で熱を上げてしまいました。極端なのですよ、レニーアは」
「ふむ、レニーアの魂の側の父親として擁護させていただけるのなら、彼女は極端以外の加減というものを学んでいる最中なのです。もうしばし学院長や他の生徒達を振り回してしまうでしょうけれども、広い心でどうぞ見守ってあげてください」
「去年の貴方達と今年のレニーアで、私はこれまでの百年か二百年分の心労を負った気持ちですよ。卒業生とはいえ貴方達にこのような愚痴を零してしまうのは、年長者として情けない限りなのですが……」
「私もレニーアも魂のみで考えれば、学院長よりもよっぽど年長なのですが、人間歴は年齢相応ですので、どうにも若気の至りか御迷惑ばかり掛けてしまうようで」
ここで偽りなく申し訳なさそうに頭を下げるのがドランであるから、その古神竜の魂の保有者という事実と、自分が七勇者の子孫という因縁のあるオリヴィエは、これ以上強い言葉で追及する事が出来なくなってしまう。
先祖代々の因縁も相まって、オリヴィエにとってドランはどうにもこうにも相性の悪い相手であった。
「ふう、もう少し建設的な話をするとしましょう。今夜の総督主催の晩餐会には、貴方達も根回しの為にも出席すると思いますが、それまでの時間はどうするのですか? レニーア達のところに激励を兼ねて顔見世位はすると、勝手に思っていますけれど」
これ以上この話題で言葉を重ねて、更に心労を背負い込むのは勘弁だ、とオリヴィエは気を取り直して話題を振る。ドランとクリスティーナがガロア魔法学院まで足を運んで、レニーア達の顔を見ないわけはないと、確信している声だった。
「少しの間ですが彼女らの特訓にも付き合いましたし、学院代表に選ばれた事へのお祝いの言葉を伝えに行きますよ。去年の競魔祭に出場した者同士ですし、領主と補佐官という立場でもそれ位なら許されると思いますから」
「ええ、私の立場から考えても、それは許される範囲です。レニーアとネルネシア以外は、何ならこの縁を辿って貴方達の下への就職を希望するかもしれませんよ」
クリスティーナは、オリヴィエの言葉におや? と思う点があり、それを素直に問いにした。
今ではベルン男爵に正式に叙されたクリスティーナにとって、オリヴィエは貴族としても明確に上の相手となり、生徒と教師の距離感が許される相手ではなくなっていたが、このような私的かつ複雑怪奇な事情を知りあう者同士ならば許されよう。
「レニーアの方こそ私というか、ドランの下へ目を血走らせてやってきそうなものですが……」
「私もしばらくはそう思っていましたが、今の彼女は自分が生まれた家と御両親をとても大切にしています。その点に関して言えば、彼女は相手がドランだからと盲目的な行動に走らないようになっていますよ。
彼女が大邪神の子であるのは確かな事実ですが、同時に彼女が生みの父母を心から愛し、慈しんでいるのもまた確かな事実なのですから。ええ、それはとても素晴らしい事に違いありません」
ガロア魔法学院に残った超特大の問題児とはいえ、レニーアの両親に対する愛情に疑うところはないと信じ、そして口にした通り素晴らしい事だと称賛するオリヴィエの言葉に、ドランは浮かび上がる笑みを隠さなかった。
娘が褒められた事ばかりでなく、他者から見てもそうと分かる程に情愛を育んでいるのがこの上なく喜ばしかったのだ。
さてオリヴィエとドラン達の会話が穏やかな内容で終わった後、ドランとクリスティーナはオリヴィエに伝えた通りにレニーア達のところへ激励とお祝いの言葉を述べるべく足を向けていた。
昨年のドラン達に置き換えるとフェニア主催の激励会が催されていたが、ベルンに来た時のレニーアの様子からして、彼女が全ての費用を負担する形で激励会を開いていてもおかしくはない。
ただ今のドラン達の立場からすると、後輩達の激励会に顔を出すのは水を差すようで憚られる為、その前に少しだけ顔を見せようと二人は急いだ。
レニーア達の激励会の費用をこっそりと全額払って、何も言わずに去ればかなり格好の良い姿を見せられるのでは、と二人は思わないでもなかったが。まあ、そういうお年頃の二人なのである。
そしてレニーア達は試合を終えた後、順当にマノス、クシュリ、アズナルが勝ち残った事で予定通りに激励会を行うべく集合していた。
昨年、フェニアの主催した激励会の真似事をしようとしたのと純粋にマノス達の労をねぎらう為であるから、レニーアは随分と他人を気遣えるようになったものである。
レニーア達は、オリヴィエがドラン達と速やかに会えるようにと取り計らったからか、来客用の応接室の一室に留められていた。
試合を観戦していた一部の貴族や商人達が、将来有望な魔法使いに今の内から声をかけようと、その所在を探っている中でこうして悠々と余裕を持って話をしに行けるのだから、オリヴィエ様々である。
魔法学院らしい魔法仕掛けの時計や人形、時折描かれた人物の動く絵画が置かれた応接室の中で、レニーアは堂々たる仁王立ちの姿勢でドランとクリスティーナを迎えてくれた。
ドラン達が特に気配を隠していたわけではないから、早々に接近を感知して、崇敬する父とその伴侶(予定)を全身全霊、全力で迎えるべく待ち構えていたに違いない。相変わらず、ドランに対しては微妙に努力の方向を間違えるレニーアであった。
「お久しゅうございます、ドランさん、それとクリスティーナ。このレニーア、再び御尊顔を拝し奉る時を、一日を千年の如く感じながら待っておりました」
おおう、いつにも増して、というのがドランの率直な感想であった。一日を千年に換算するとはいやはや、時間の感覚が神造魔獣基準だとしても、とんだ熱の入れようである。
多少は誇張している部分もあると信じたいドランだが、何しろレニーアだ。であるからして本気でそう思っていても何ら不思議でないのが困りもの。
「相変わらず、そこまで私を想ってくれて、感謝の念を禁じ得ない。私がそれだけのものを君にまるで返せていないのが、何とも口惜しいばかりだよ」
「ふふ、ドランさんが私に返すべきものなど何もありはしません。私の方こそ貴方に関しては、まだまだお返ししきれない恩義がこの星の上から飛び出さんばかりに残っているのですから」
「ふむ、この点に関してはお互い譲れないところがあるのも変わらずか。ま、毒にはならん事だからよしとしよう」
ドランは呆れと諦めの感情が材料の大部分を占める苦笑を浮かべて、ソファから立ち上がったクシュリやアズナル、マノスらに視線を移した。ちなみに代表選手ではないが、ファティマとシエラ、それにイリナがこの場に居るのは言わずもがなだ。
クリスティーナもまたクシュリ達の顔を見回し、以前、ベルン男爵領に来た時よりもさらに精悍になった顔つきと雰囲気に満足げな笑みを浮かべる。
「その様子だと、あれからもたっぷりとレニーアに鍛え上げられたらしいな」
クリスティーナにとって、腕を組んで仁王立ちするレニーアが発する怒号とそれに翻弄されるクシュリとアズナルの姿を想像するのは、ひどく簡単な事だった。
ネルネシアはむしろそんなレニーアに対して負けん気を燃やして向かって行く性格だし、意外とマノスも精神的な打たれ強さは並ならぬものがある。多少へこたれはしても、すぐにその場で切り替えてきただろう。
同情と称賛の念を多めに含むクリスティーナの言葉に、クシュリが特訓という名のしごきを思い出して、顔色を青くする。折角の精悍な雰囲気も顔色で台無しだ。
「いやあ、ホント、死ななければ問題ないっていう前提の特訓みたいなもんで、何度もこれは死んだと思わされましたよ。もちろん、その分、ちっとはマシになったと思いますよ」
少しは力が付いたという点に於いては、クシュリだけでなくアズナルも同意らしく自信に満ちた顔で頷いている。
「今の君達なら、以前よりもヴァジェ達を相手に善戦できるだろう。それは私もドランも保証するよ。ハルトやエクス並の相手が出て来なければ、まず勝てるのではないかな」
「男爵様にそう言っていただけると更なる自信に繋がりますよ。レニーアさんに目を掛けられているってんで、嫌な目でおれとクシュリを見ていた連中もレニーアさんとの特訓の内容を知ってからは羨望とか嫉妬の目で見るのを止めたんです。それに見合うだけのものを競魔祭の本番でお見せできるように頑張りますよ」
にかっと陽気な笑みを浮かべるクシュリに、クリスティーナはこの調子なら大丈夫だろう、と後輩達の活躍をほぼ確信して小さく安堵する。
去年もそうだったが、今年もガロア魔法学院の選手達は常識では少し考えられない特訓相手に鍛えられたし、『無事に競魔祭が開催されれば』結果を残すに違いない。
「競魔祭での活躍を抜きにしても、今日の試合の内容だけで君達を雇いたいと考える貴族や商人達はたくさんいるだろう。
私のところでもまだまだ魔法使いの数は足りていないから、君達さえよければと見学しながら考えていたよ。おっと、あまり熱心に声を掛けてしまっては、抜け駆けしていると他の方々に怒られてしまうかな?」
お世辞ではなく、魔法使いを一人でも多く欲している領主としての目線から告げたクリスティーナの評価を受けて、クシュリとアズナルは少年らしく誇らしげに、そして少しくすぐったそうに笑う。
決して裕福ではない出自の二人にとって、高待遇で迎えられる可能性の高い貴族お抱えの魔法使いという就職先は、是が非でもと望むものなのだ。
口元を綻ばせるクシュリとアズナルに対して、太すぎる釘を刺したのは当然ながらレニーアだった。
「あまりこいつらを褒めて調子に乗せない事だ。私からすればクシュリと青猫はようやく競魔祭出場の及第点に達した程度に過ぎん。評価一つで浮かれて足元をすくわれる結果にでもなったら、私の手で目を覚まさせてやらねばならんからな!」
余人の目のある場所で曲がりなりにもベルン男爵であるクリスティーナを相手にしているのだから、もっと貴族の令嬢らしく礼節をわきまえた振る舞いをするべきなのだが、この場と相手に限ってはクリスティーナとドラン双方が黙認しているのを察して、誰もレニーアに口を挟まないでいる。
この間、マノスとドランの二人はレニーア達の会話に加わらずにいたのだが、この二人は二人でゴーレム談議に話の花を咲かせていた。
「では大砲を乗せた多脚型のゴーレムの量産に踏み切ったのか?」
じめじめとした雰囲気からだいぶさわやかな雰囲気に変わったマノスが、思案気に眼鏡を指でクイクイと持ち上げながらドランに問う。
ベルン男爵領の内部事情の暴露ではあるのだが、マノスの人格と一部のゴーレムの設計・開発に協力して貰っている事実を踏まえて、男爵領の魔法関係部門の総元締めであるドランの裁量で話す内容を決めていた。
「ええ、人間の方の数を揃えるのは時間的に厳しいですし、人員の損失が出た場合にそれを補充するのが難しいのは容易に想像がつきますから、それを避ける為にも火力の充実を図るのが重要と考えまして」
「そうか、そうなったか。最新の大砲となるとかなり高い買い物になるし、火薬の調達もかなり難しい筈だが、そこは魔導砲を搭載しているのか? 魔晶石なら君達がいくらでも作れるだろう」
「旧式の大砲なら火薬式、魔法式問わずいくらか手に入りましたが、最新型のものはやはり調達は難しいですね。私達で一から鋳造しても構いませんが、それだけの炉や技術者の手配はまだまだ不十分ですよ」
「まあ、ガンドーガを完成させた君の事だから手段を選んでいる内は時間がかかる、という話なのだろう?
誰でも使用でき、一定の能力を発揮できるのが兵器の大前提であって、特定の誰かにしか扱えず能力も安定しないとあっては、兵器としては失敗だ。
ならばそれを維持したり、製造したりする方法もまた普遍的である方が良いに決まっている。君達がいなければ調達できないような方法では、君達が何かしらの理由で不在の時に困った事態になるのは目に見えている」
「今でも、かなりの部分を私達でなければ出来ないやり方で推し進めてしまっていますから、他所と合わせられるところは合わせられるように調整中なのです」
「随分といじましいが、あくまで君達の事情なのだからおれが物知り顔で口を挟むものでもないが、ではガンドーガは量産するのか?
二、三機量産する位ならばともかく、魔操鎧の一種として数を揃えるつもりなら、あれは製造費用も性能も過剰な代物だ。費用も性能も十分の一程度には抑えないとだろう。
それにリネットが操縦する前提で神経接続による操縦方法を採用したが、常人が運用するならそこから見直して再設計する必要があるぞ」
「一先ずは型落ちの魔操鎧を買い集めて、数だけは揃えている状況ですね。改修を施して性能を引き上げたいところですが、魔操鎧に明るい技師の確保は難航中です。
昨今の状況では引き抜くのも簡単ではありませんし、そういう事情も相まって大砲を担がせたゴーレム作りの方に力を注いでいるのですよ」
「うーむ、魔操鎧を使う距離にまで近づかれる前に、なるべく大砲と魔法で数を減らす方針か。技術の発達に比例して戦争における殺傷可能な距離というのは伸びているから、ドランが力を入れる方向としては、別に間違ってはいないのだな」
「生きた人間の兵士の数が少ないのを、ゴーレムで補っている状態ですし、近接戦闘を目的としたゴーレムの開発と簡易生産用の陣の量産も進めていますよ」
「仕事が速いな。だが、君がそうしなければならない状況が差し迫っているという事なのだろう?」
「やはり、貴方は研究にだけ目が奪われている方ではないですね。世の流れもきちんと把握している」
「おれより世情に疎い奴がいたなら、物を知らん奴めと罵るといい。ああ、まったく、おれは強いゴーレムを作るのは大好きだが、戦争が好きというわけではないのだがな!」
そこが、ドランがマノスを気に入っている理由の一つだった。
二人の話題がキナ臭いものを交えているのを嗅ぎつけて、ネルネシアがいつもよりもわずかに険しい表情を浮かべて寄ってくる。王国きっての武闘派大貴族の令嬢たるネルネシアの持つ情報は、研究の為に引きこもりがちなマノスよりも新鮮で量も多いだろう。
「ドラン、この後の晩餐会にはアピエニアからも人を出している。信頼の置ける騎士隊長格と私他、数名。そこでどんな話が出るか、今の内に話せる範囲で教えて貰っても構わない?」
「ふむ。王国最北の地はベルンだが、一番北から攻め込まなければならない決まりなどはないから、警戒はもっともだ」
ドランの発言は、西のロマル帝国ではなく北からの脅威を強く意識させるものだ。それだけでネルネシアとしては、ここ最近、近隣領主達の警戒と軍備増強路線が間違いではなかったのを確信する。
「まずベルンを落とさずに他の北方の領地を攻めると、後背を突かれやすい地理だから、最初に来るならウチかな、とは思っているけれどね」
密かにドランが行っている偵察の結果では、現状、アークレスト王国で真っ先に攻め込まれるのは予想通りベルンだ。
魔王軍は同時にロマル帝国方面へも軍勢を動かしているが、アムリアによる要請もない状況では、そちらに対してアークレスト王国民であるドランが動くべき理由はない。
「最悪、事前通告なしの開戦からの奇襲もあると思う?」
「どうかな。相手は軍神サグラバースの神血と霊格を受け継いでいる神孫だ。こちらから非礼を働かぬ内は、相手も祖神の顔に泥を塗るような真似はしないと考えているよ。半分は私の推測だから、全面的には信用しないでくれるかい」
「神孫……。まったく、いくら私でも尻込みする相手。その情報は何処まで、誰にまで伝えてあるの?」
「殿下経由で陛下や重臣の方々と近しい一部の大貴族。今夜の晩餐会でも、皆さんにお伝えする予定だ」
「伝えない方が良さそうな内容かもと、一瞬思ってしまった。本腰で対抗するとなると、各神殿にも大きな協力を要請しないといけなくなるから、普段の協力関係と寄進の額が問題になってくる。普通の戦争以上にお金がかかる」
これから掛る戦費を考えて、ネルネシアは今から頭が痛いと言わんばかりに眉根をかすかに顰める。戦費は普段領民から徴収した税で賄われるのだ。
それを領地と領民を富ませられるわけでもない防衛戦争で消費する羽目になるのだから、ネルネシアの気性ならば嫌悪感や不快感を示すのも当たり前だろう。
「そこは私達も頭を痛めているところだよ。モレス山脈の竜種達と魔王軍の偽竜達と戦う為の同盟を結べたのは幸いだが、それだって魔王軍の襲来がなくともいずれは友好関係を結ぶつもりだったのだから、怪我の功名等と思いたくもない」
「こうなったら徹底的にボコボコに叩きのめして、賠償金を請求するしかない?」
「それか戦死者の遺族への見舞金なし、つまり戦死者や負傷者なしの完全勝利を目指すか、だな。ネルネシアの案は使った分をぶんどる算段で、私の案は極力費用を抑え込むものになるか」
「ふう、どちらにせよ実現は困難。被害を無に抑え込むのが理想論なら、相手に賠償金を支払わせる程、未開の地である暗黒の荒野の奥深くにまで攻め込むのは、負担が大きすぎる」
「ふむ、そう言われてみるとそうだが、人命優先、次に赤字絶対回避を念頭に努力するよ」
「ドランがそう言うと、本当にそれを実現すると何となく信じられるからすごい」
「周りに頼りになる味方がたくさんいるからね」
とはいえ、ドランが言うところの『頼りになる味方』達からすれば、一番頼りになるのは君だ、と声を大にして言われる事だろう。
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第二百七十九話
ドランとクリスティーナが後輩達の激励の為に顔を見せ、ある程度の情報交換も済ませた後、彼らはガロアを訪れたもう一つの目的である晩餐会に出席すべく足を運んでいた。
王国北部の要衝たるガロア近隣の主だった貴族達が招かれたこの晩餐会は、表立っては春を終えつつある時期に改めて近隣貴族の親交を深める為とされているが、これは他国に向けたもので目的の半分に過ぎない。
残る半分の理由はアークレスト王家を経由して通達された、暗黒の荒野に拠点を持つムンドゥス・カーヌス擁する魔王軍への対処と事前の情報と意識の共有である。
これまでムンドゥス・カーヌスはかの国の西部や北部に広がる諸国家を相手に戦争を繰り返し、その版図を広げていたが、そちらとの戦争とはまた別に南方――つまりアークレスト王国やロマル帝国に侵略の手を伸ばす準備を“終えている”。
後はこちらに接触を持ち、戦端を開くばかりという段階だ。事前に形ばかりの外交使節の派遣や降伏勧告位はあるだろうから、まったく時間がないわけではないが……
今回の晩餐会に於いて、クリスティーナはアグルルアの腕輪を装着した上で、義母リーサから送られた夕暮れの色を映した夜会服を纏い、白銀の髪は三つ編みにまとめている。
表向きは真っ当な晩餐会に相応しい宝石と黄金をあしらったアクセサリーが首元や耳を飾り、一人で百万の軍勢を葬れる強者とは誰も思うまい。
クリスティーナが唯一晩餐会に伴うドランもまた出席する場に相応しく、ベルン男爵領の補佐官に就任してから仕立てた燕尾服に袖を通し、何食わぬ顔で主君であり恋人であるクリスティーナの傍を片時も離れずにいる。
今回の晩餐会には先程顔をあわせたばかりのネルネシアを始め、クリスティーナの領主就任式で部下を遣わした貴族の当主格の他、レニーア、ファティマ、フェニアらの親族や当人達もまた顔を見せている。
ネルネシアを除いても、何人かは直接言葉を交わした覚えのある者達が出席者として名を連ねており、晩餐会とはまた別に挨拶をしに行った方が良いだろう。
そして今回の晩餐会に於いて北方の魔王軍とはまた別の意味で、ドランとクリスティーナにとって極めて重大な問題というか、難敵というか、思わず二の足を踏む存在が出席していた。
クリスティーナの実父ドラムと義兄エルダルだ。クリスティーナはエルダルに対して、関係が希薄だった事もあり、妾腹の子として正妻の子である兄に対して遠慮はあっても苦手意識はない。
ドラムに対してもベルン男爵領領主への就任に際し、別れの挨拶をしたのを切っ掛けに一方的にではあるが和解したつもりになっているから、クリスティーナ側にわだかまりはない。
主にドラムと面会するにあたり、今回がただの近況報告や根回しだけが目的であったなら、クリスティーナはそこまで緊張しなかったし、ドランももっと肩の力を抜いていられただろう。
そうならなかったのは、ひとえにクリスティーナがドランを自分の婚約者として紹介するつもりである為だった。
クリスティーナとドランの婚約は今回の晩餐会ではまだ公には発表しない予定だが、身内であるドラムとエルダルには、直接顔を合わせる貴重な機会である為、先んじて伝える事にしたのだ。
既にセリナの父母を相手に将来夫婦となる旨を伝える経験したドランであったが、二度目の事とあっては慣れたと口が裂けても言えない心境にある。
現状、明確に彼の恋人となっている女性陣の中で、婚姻に関して報告に伺う必要があるのはセリナとクリスティーナの両名に限られる。
この内、既にセリナは済ませているのだから、クリスティーナの身内という壁を乗り越えれば、もうこの幸福な悩みは解決されるのだが、素直に愛されていたセリナと比べると、随分とまあややこしく愛されていたクリスティーナである。
前回の経験は参考にならないとドランはほぼ確信し、全世界最強の怪物である割には平凡な悩みを抱えたまま今に到っている。
自らと同化する事で全ての生命を老いや痛み、病、苦しみから解放する代わりに永久に苗床とする他天体を起源とする生命体? よろしい優しくひっぱたいて元いた所へ追い返してあげよう。
地上世界への進出を目指し、全ての地上生命を支配下に置こうとする魔王? よろしい念入りに粉砕してあげよう。
惑星ごとまとめて住人を自らの領域へと連れ去り、玩具へ、奴隷へ、奉仕生物へと作り替える冒涜的な邪神? よろしい跡形もなく消し飛ばしてあげよう。
婚約者であるクリスの実父と母親の違う兄? あ、はい。お手柔らかにお願い申し上げます。
これが今のドランである。情けないのは情けないのだが、彼も古神竜という規格から外れ、超越した存在なりに人間らしい親しみやすさがあるのだと、擁護しておこう。
魔界の悪鬼邪神ならば敢然といっそ傲慢な態度で接する超越者であるのに、恋人の身内に挨拶をとなると途端にこれなのだから、ドラン自身はセリナやクリスティーナに呆れられても仕方がないと思っている。
ところがどっこいセリナを始めクリスティーナやディアドラ、ドラミナに到るまでドランのそういう普通なところが、ドランの超然とした態度と能力の中にあって親しみが感じられ、彼の可愛いところなどと考えているのだから、いやはや、恋とは人を盲目にするものだ。
北部のみならず王国全土を見渡しても有数の大貴族であり、建国期にまで遡れる歴史を持つアルマディア家は総督府の中でも一等品格の高い貴賓室が宛がわれ、ドラムとエルダルにその護衛と侍従達が詰めていた。
事前に来訪の旨は伝えていた為、ドランを伴ったクリスティーナが訪れても、侍従達に驚きの様子はなく、すぐエルダルとドラムに入室の是非を確認して、二人を部屋の中へと通した。
非常時には敵の南下を防ぐ役目を担う要塞としての機能を持つ総督府だが、この貴賓室は情勢が落ち着いた頃に増築された区画にある為、戦を感じさせる武骨さとはかけ離れた華やかな彫刻が四方を埋めている。
その部屋の中央に置かれた長椅子に、傍らに執事達を伴って既に晩餐会用の最上級の素材と腕前の職人が仕立てた燕尾服姿のドラムとエルダルの姿があった。
ドランにとっては初対面となるクリスティーナの身内だ。二人とも数ヵ月ぶりにクリスティーナの姿を見て、わずかに柔和な雰囲気を滲ませる。
アグルルアの腕輪による容姿の劇的な劣化に関しては、競魔祭で目撃済みの為、特に驚いた様子はない。それに例え身内が相手であっても、クリスティーナの素顔というのはなるべく控えておかなければ、正気での会話が成り立たなくなる代物だ。
余程の事がない限り、クリスティーナは実父や兄相手でもアグルルアの腕輪を嵌めておくのが賢明であるだろう。
「お久しぶりでございます。ご機嫌麗しゅう、父上、兄上。クリスティーナ・アルマディア・ベルン、お二人の変わらぬ健やかなお姿に安心いたしました」
クリスティーナはこの時、曲がりなりにも正式な男爵としての身分を与えられた身であるから、ドラム達に対して侯爵とその嫡子に対する態度を取るべきなのか悩んだが、晩餐会に先んじて二人に面会を求めた理由から娘と妹としての態度を選んだ。
実家で会っていた頃には人型に彫った岩石か何かを連想させる無表情の多かった父も、手元から巣立った娘に関しては態度を変える事にしたのか、少しだけ記憶の中にあるよりも雰囲気が柔和な気がする。
二人きりの時ならまだしも、兄やドランを始め執事達も居る場でそのように振る舞うのは稀な事のようにクリスティーナには感じられた。
「お前も変わらず壮健な姿を見せてくれたな。ふ、まさか晩餐会にまで男装した姿で出席するのではないかと危惧したが、無用なものだったな、エルダル」
「ええ。私が申し上げた通り、クリスティーナもそこまで我を通す程子供ではなかったでしょう。とはいえ例の醜くなるという魔法の腕輪を嵌めているにしても、女性らしく着飾ったお前の姿を見るのは、さて何時以来になるだろうな、妹よ」
悪意など欠片もなく、共通の記憶を思い返そうとする兄の言葉に、クリスティーナは少しだけアルマディア家に引き取られてからの日々を、記憶の棚の中から見つけ出す作業に追われた。
「私が引き取られた直後以来になるでしょうか。私は女子らしい衣服に対して、はっきりと拒否を示しておりましたから」
貧しい暮らしをしていたクリスティーナにとって、性別は関係なく単に高級な衣服が肌に合わなかったというのも理由の一つだが、他にも非常時に行動の妨げになるという理由から、当時のクリスティーナは男装姿を選んでいた。
まあ、何かしらの理由でアルマディア家を出る時には、男子の服よりも女子の服の方が高く売れそうだ、と悩んだりもしたのだが、それは今言うべき事でないのは確かだ。
「そうか、何とも懐かしい話よ。妹とはいえ何時までも立たせたままとあっては、男の名折れ。父上、よろしいか?」
「うむ、クリスティーナ、そちらの席へ」
「はい」
ドラムとエルダルの腰かけている長椅子とは別の椅子を示されて、クリスティーナは素直にそれに従う。これまで無言のドランは立ったままクリスティーナに追従し、その左背後に陣取った。
腰の後ろで手を組み、固く口を結んで一言も漏らさず、気配を消しきっているその姿は、決して主人達の邪魔になってならぬと心得る従者としては文句なしのものだ。ただ、今回、彼はこのまま脇役で居るのを許される立場にはない。
アルマディアから伴ってきた召使い達が手早くクリスティーナの為のお茶を用意し、遠く離れた地の領主となった娘を暖かく迎える父と兄、そう見える光景が出来上がる。
「お前がベルンの領主となってから行っている数々の事業については、わし達の耳にもよく届いておる。両手で塞いでいても勝手に入ってくると思う程にな」
そう笑って告げる父の姿に、クリスティーナはちょっと打ち解けすぎでは? と予想外に距離感を詰められた現実に少なからず戸惑っていた。
ドランはそんなクリスティーナの内心の微妙な変化を敏感に察し、心の内で微笑んでいる。家族同士の微笑ましいやり取りというのは、実に和むものである。
「お爺様の御威光のお陰で方々から御助力いただけておりますから、そのお陰です」
「ふ、例えお前の祖父であった我が父であろうと、そしてわしであろうとモレス山脈の竜種達と協力関係を構築するなど出来はせんかったろう。ラミアや人魚達、エンテの森の諸種族との関係も、お前ほど短期間であそこまで友好関係に持って行ける者を、わしは知らんよ」
ここまで堂々と父親から褒められた経験のないクリスティーナは、夜会服から覗く首筋から耳の先までうっすらと赤くしていた。実年齢よりも随分と幼いその反応には、ドランとエルダルの笑みが深まるのも仕方がないというもの。
しかし、ここでクリスティーナは羞恥と喜びに精神を揉まれてばかりいたわけではない。
自分の傍に控えている愛しい恋人の事を思い出して、父と兄に紹介するというこれまでの人生を振り返っても屈指の難関に挑まねばならぬのだ!
「父上からそのようなお言葉をいただける日が来るとは、人生、何があるか分からないものですね」
「お前がアルマディアの家で不遇を託ったのは、全てわしの不徳の致すところだ。許せ。こうしてお前に父親面をするのも、今更、図々しい事だと自覚してはいるのだが、な」
「私は父上を怨んではおりませんよ。アルマディアの誰の事もです。今こうして私がベルンの領主という大役を任されているのも、アルマディアの人間であったからこそですし、感謝しております」
「お前にそう言われて救われた気持ちになっている自分を、わしは軽蔑するよ。なんとも都合がよく、身勝手である事かとな」
「父上は御自分に対して、殊の外、厳しいのですね」
「そのように自分を律さねば、容易く堕落する程度の人間だと自覚しているのでな」
王国屈指の大貴族の当主が、長年領地を富ませてきた秘訣が、コレなのかもしれない。これは見習わねば、とクリスティーナは密かに心の中の手帳に記入した。
「ところで父上、兄上、こちらの者をご紹介させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
ドランがこれまで黙っていたのは、まだクリスティーナの婚約者という立場で紹介を受けておらず、その家臣でしかない為である。求められない限り、おいそれと口を挟むのを許される場面ではなかったが、ここにきてクリスティーナが風向きを変えに掛った。
家臣らしい振る舞いを堅持しているドランを一瞥し、ドラムとエルダルは鷹揚に頷いた。クリスティーナがこの場に連れてくるのだから、相応の信頼を置いている家臣なのだろう位は誰にだって想像がつく。
それとは別に何となく、ただの家臣ではないのだろうという事は直感で察せられたし、ベルン男爵領躍進の立役者である人物の調査はアルマディアでも行っているから、実のところ、ドラムもエルダルもこの少年が誰であるかはもう把握していた。
「そちらの少年の素性はもう調べはついているが、改めて本人の口から伺わせて貰おう」
「お許しいただきありがとうございます。クリスティーナ様の補佐官を務めさせていただいておりますドランと申します。ガロア魔法学院では、クリスティーナ様と共に学ばせて頂いておりました」
ここまではあくまでクリスティーナの家臣としての言葉だ。クリスティーナの事もクリスとは呼んでいない。
「エンテの森と龍宮国との友好関係の立役者か。アビスドーンや海魔の件でも名を上げているな。それにスペリオン殿下とフラウ殿下とも何やら秘密裏に親しいと聞く。大した家臣を持ったな、クリスティーナ」
「私には過ぎた家臣です。ですが、その、今日はただ彼を重用している家臣として紹介するだけではないのです。実を申しますと父上、兄上、ベルンの領主として赴任して以来、それとなく私宛の縁談がいくつか舞いこんできた事がありました」
ちなみにクリスティーナよりはずっと少ないが、ドラン宛にも下級騎士の娘や平民上りの一代騎士の家族、裕福な商人の娘を妻にどうか、という話がちらほらとあった。
躍進著しいベルン男爵領の差配を任されているドランであるから、縁を結ぼうとする動きがあるのも当然と言えば当然だろう。
そういう話を持ってきた使者にドラミナの素顔を見せて、恋人だと紹介すると、あまりの美貌に精神を打ちのめされ、加えてアレと比べられるのかと恐れ戦いて自然と立ち消えになるので、それ程面倒ではないのが救いだ。
「それなら我が家の方にも何度か話が来たぞ。父上や私を介して、お前と良縁を結ぼうと頼って来た者はそれなりにいたものだよ」
こう答えたのはエルダルだ。クリスティーナがアルマディア本家から離れて、ベルン家初代当主として独立したとはいえ、家族であるドラムとエルダルにまず話を通そうとするのもおかしな話ではない。
「ふむ、父上や兄上からそのような話を頂いた覚えはございませんが、という事は全てそちらでお断りいただいていたのですか?」
「まあ、な。お前の婚姻はお前のもの。我がアルマディア家からお前に伝える事はないと全て断らせてもらったよ。しかし、だ。クリスティーナ、お前の方から急にこんな話を振ってくるとなると、そのドランがお前の考えている相手なのか?」
兄からの指摘に、クリスティーナは乙女の恥じらいを見せた。もっと言えば頬にうっすらと朱の色を浮かべたのである。
この世で最も美しい化粧をした妹の姿に、エルダルは妻を連れて来なくて良かったと心底思った。エルダルの妻であり、クリスティーナの義理の姉は、クリスティーナの美貌にすっかり心酔して参ってしまっているのだ。
「初めてお前の望みを耳にしたかもしれないな。ベルン男爵家の当主が決めた事ならば、それで構わないと私は思うが……」
エルダルの視線につられて、クリスティーナとドランはドラムの顔を見た。意外にも娘を愛していた父親は、どことなくむすっとした顔になっている。
これが自分の意に沿わぬ婚姻を進めようとしているクリスティーナに怒っているのか、まさかまさか、クリスティーナが結婚するのが気に食わないのか、ドラム以外の誰にも分からなかった。
おそるおそるクリスティーナがドラムの顔色を伺いながら口を開く。ここで反対されても、ドランとはなにがなんでも結婚する――そうしないとセリナ達からの視線が非常に怖いし――が、やはり身内には反対するよりも賛成して欲しい。
「父上、その、もしドランの身分が気掛かりであるとお考えでしたなら、彼は平民生まれではありますが騎爵としての身分を拝領しておりますし、また私も彼を正式な騎士として叙任しています。男爵の相手として決して不相応ではありませんし、何より私は彼をこそ我が夫として迎えたいと考えています」
婚約者としての紹介をすっ飛ばし、夫にするとまで断言したクリスティーナに、ドランは少しだけ目を丸くして驚いたが、ドラムが零した小さな溜息を耳にしてそちらに視線を移す。
「他家の当主が決めた事においそれと口を出す程、耄碌はしておらん。それが自分の娘が決めた婚姻であれ、だ」
口にした言葉とは裏腹にますますしかめっ面になってゆくドラムに困惑し、クリスティーナは自分よりも遥かに父に詳しいエルダルに助けを求め、赤い視線を向ける。
ほとんど初めてに等しい妹からの助けを求める視線に、兄は無力を噛み締めながら首を横に振った。エルダルの記憶を遡っても、こういう感情を表に出す父の態度というのはほとんど例がない。分かっているのは、父がクリスティーナに対していくらか拗らせているという事実だけだった。
「クリスティーナは身分と口にしたが、ドラン、君が娘と王家から与えられた身分以上に重要な人物であるのは、わしとて知っているよ。
エンテの森の重鎮たるオリヴィエ学院長のみならず、世界樹エンテ・ユグドラシル殿と友好関係を結び、龍宮国国主龍吉殿が我が国との関係を前向きにお考えになられたのも、君の存在が大きいのは知っている。
そのような重要人物が娘の家臣となり、夫となって支えてくれるのなら、父親としても、一貴族の当主としても、頼もしい限りだ」
口ではそう言っているけれど、顔は思いっきりしかめっ面のままだなあ、とクリスティーナとエルダル兄妹は素直な感想を零した。
それからドラムの値踏みを隠さない視線を真っ向から受けて、ドランは変わらずあるかなきかの微笑を堅持する。恋人の父親であるなら、値踏みをするのも当然だと考えているからだ。
「この上ないお褒めの言葉です。ドラム様」
「ここ百年、二百年、いや、建国期まで遡ったとしても君ほどの成果を上げている人間がどれ程いるだろうか。クリスティーナは最初から有能な人物を確保できたわけなのだから、喜ぶべきだろうな」
ドラムはとりあえず事実ではあるが社交辞令めいた言い方で言葉を重ねるが、渋面は変わらない。心中では愛していた娘が何処の馬の骨というわけではないのだが、よく知らぬ男にかっさらわれるのは面白くないのだろう。
厳しい言葉を口にしていないのは、ドラム自身、これまでろくに父親らしい事をしていなかったくせに身勝手な真似をしているという自覚があるからだ。
「ありがとうございます。クリスティーナ様に相応しくあれるよう常に己を律し、お傍で生涯支えます」
「んん゛!!」
クリスティーナにとっては意表を突く形で発せられたドランからのプロポーズ(?)の言葉に、彼女の喉の奥から若干低めの奇声が発せられた。父ドラムと兄エルダル、それに執事達の姿がなかったら、この場で恥ずかしさと嬉しさを制御しきれずに、床の上を奇声を発しながら転げ回っただろう。
ドラムの顔がまた渋くなるのを見逃さず、ドランはこの場に居る全員を現実に引き戻す言葉を口にした。残念ながら晩餐会の時間が近い。義父と義兄になる方々への挨拶は、また晩餐会とその後の会議が終わってから改めてする他ないだろう。
「これからそう遠からずこの地にやってくる北の脅威を前にしても、クリスティーナ様のお傍におりますよ」
それは、娘が男を紹介してきた事に機嫌を損ねる父を、そんな父を見てどうしたものかと悩む息子を、そして心臓がそのまま爆発しそうな程に激しく鼓動を刻んでいた恋人の意識を切り替えさせるのに、十分すぎる言葉だった。
そう、彼らは決してクリスティーナの結婚の話をする為だけにガロアに足を伸ばしたのではない。そのクリスティーナが最も危険な役割を担う、魔王軍との戦いに備える為にガロアにやってきたのだ。
「口では何とでも、とは言うが、その眼に偽りはないな。余程でない限りクリスティーナの婚姻に口は挟まん。君はその余程の場合ではなさそうだ。クリスティーナ、結婚の時期は決めているのか?」
「いえ、結婚の時期に関しましては年内には魔王軍との戦闘が始まるでしょうし、それを考えると私の結婚それ自体も策の一つとして用いられそうですので、具体的にはまだ決めておりません」
「ふむ、そうか。ならば」
ドラムはなにやら考え込むように深く目を閉じ、ふたたびそれを開いた時には爛々と輝く獰猛とさえ表現できる光が浮かび上がっていた。
「なるべく早く戦争を終わらせんとな」
ドラムの獲物を狙い定めた狩人のような声色に、ドランはやはりこの方はクリスの父親だなあ、と呑気な感想を抱くのだった。
ちょっと前置きが長いかな、と思うこのごろ。
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第二百八十話
砂塵舞う荒野にも生命の姿はある。
貴重な水分を効率よく摂取し、体内に貯め込めるように適応した昆虫や蜥蜴、蛇等の爬虫類にそれらを捕食する哺乳類や鳥類。またあるいは大気中の魔力や大地の気を食べて生きる特殊な魔法生物や精霊達。
であるから暗黒の荒野の中央部から南部へと向けて移動する無数の蜘蛛の姿を見つけたとして、不思議に思う者はほとんどいなかったろう。
暗黒の荒野で見られるありふれた種の蜘蛛だったが、それらが一斉に南部を目指して進むという点を除けばなんらおかしいところはない。
蜘蛛以外にも蜥蜴や飛蝗、百足といった小さな生き物達がそれぞれ群れを成さぬ程度にばらけ、一時も休まずに南方――アークレスト王国はベルン男爵領を目指して進み続けている。
時折、空を舞っていた鳥や地上の鼠等の生き物達に捕食されるが、その先に待っているのは尋常ならざる光景だった。
捕食され飲み込まれた蜘蛛や飛蝗はそのまま鳥達の体内に侵入して、あろう事かそのまま脳を食い荒らして捕食者の肉体を乗っ取ってしまう。
自然界にも稀に他の生物に寄生して操る生物はいるが、種の異なる総数数千、数万の個体全てがそうする機能を有しているとなると、最初からそのように作り出された人造物かのよう。
そう、一路、ベルン男爵領を目指す無数の小さき者達は自然界に生息する生物ではなかった。無数の蜘蛛は魔王軍魔六将の一角、神代から生きる大蜘蛛クインセの眷属である知恵持つ恐るべき蜘蛛達。
そして蜘蛛以外の者達は、クインセと同じく魔六将に名を連ねる意思持つ人形ヴェンギッタが作り出し、意思を共有する人型ならぬ人形達なのだ。
彼らはまだ開戦こそしていないものの、侵略対象たるアークレスト王国の情報を密かに収集し、場合によっては要人の誘拐、洗脳、暗殺の為にこうして手足たる存在を向かわせている最中だった。
およそクインセとヴェンギッタでなければ不可能な数と情報伝達の正確性と速度を持つ密偵達である。指の先よりも小さな万を越える無数の密偵達を全て見逃さずに排除する等、およそ真っ当な手段では不可能であろう。
クインセとヴェンギッタも、これまで都市を地下まで含めて覆う巨大結界のような例を除けば、潜入を阻まれた経験はない。
ましてや都市よりも更に広大な規模の領土への侵入となれば、まず失敗などあり得ないと彼らばかりでなく、魔王軍の誰もが想像すらしていない。
つまり、ベルン男爵領への失敗が彼らにとって初めての体験となったのである。
最初におかしいと感じたのはクインセだった。クインセ自身はヴェンギッタと共にアークレスト王国へ向けて出立した使節団に同行しているのだが、眷属達と意識を繋いでいる為に、最前線で潜入行動を行っている眷属の状況を把握している。
眷属の蜘蛛が野生の動物や昆虫等に捕食されたり、運悪く殺されたりするのはままあるが、自分の眷属だけを狙って殺され続ける等、開戦後に蜘蛛による潜入が発覚してからでなければあり得ない。
「ソレニコレハ、私ノ眷属ヲ殺シテイルノハ生物デハナイ」
確信を持って潜入を妨害されていると判断したクインセに、ヴェンギッタもまた同意する。彼もまた前線で潜入を試みる人形達とは群体として意思を共有している為、これまでにない異常事態を把握したのだ。
彼らは今、暗闇の落ちた夜の荒野で、遠い地で発生した異常事態に考えを巡らせていた。
「クインセ、クインセ、古き蜘蛛、神代の風を知り、水を知り、土を知り、火を知る賢者よ。私達も貴殿の眷属と同じく我らを敵と知る誰かに壊されている。
用済みの人形が槌で砕かれるように、用済みの人形が火にくべられるように。ああ、ああ、私達が壊れるのが私は悲しい。貴殿の眷属が殺されるのが私達は悲しい」
「エエ、ドウヤラ今回ノ相手ハコレマデトハ違ッテ、一筋縄デハユカナイヨウネ」
「然り、然り。私達の前に立ちはだかる第一の壁。我らの侵入を阻む知恵者の手が私達に触れたのだ。私達はそれに屈してはならぬ。我らの歩みは止まらぬゆえに。
そう私達は人の子らの営みを吹き散らす嵐の前触れ、焼き払う炎の舌先であり、私達は魔性の王の指先なのだから」
「ソウネ、貴方達ハ何時デモ歌劇ノ最中デアルカノヨウ。ソレガ私ニハ心地ヨイ。私達ノ眷属ヲ阻ム何者カ。マズハコレヲ前哨戦トシマショウカ」
この時、クインセの眷属とヴェンギッタ達を襲撃していたのは、全てドランが事前に製造し、暗黒の荒野方面にばら撒いておいた各種のゴーレム達だ。
かつてはゴブリン軍との戦いで密偵として活用したそれらを、現在は、逆に魔王軍からの密やかな侵入を阻む防波堤として運用している。
もちろん、クインセ達が今しているように魔王軍に対する密偵としても使用して、既に多くの情報を得ているのだが、魔王軍側はそれを知らずにいる。
現状、情報戦に於いてはベルン側に軍配が上がる状況であった。
ドランとクリスティーナがガロアに赴き、近隣の貴族達への根回しを進めていたのには、水面下あるいは歴史に記される事のない裏側での暗闘が既に始まっていたのも理由の一つだった。
魔王軍側の小さな密偵達の侵入を完全に遮断し、他にも遠隔視の魔法を遮る妨害魔法を王家や近隣の領主の協力の下、広範囲に展開するなどして可能な限り情報の流出を防ぎ、迎え撃つ為の準備を進めている。
そうして日々が過ぎる中、最初にムンドゥス・カーヌスとの接触を果たしたのは、暗黒の荒野からの侵攻を想定して複数建築された小規模砦に所属する兵士だった。
砦には、十~二十名程の兵士達とそれに十倍する数の各種ゴーレム達が詰めている。領主直々のお達しで、暗黒の荒野方面への警戒を深めていた彼らは砂塵舞う地平線の向こうから、想像もしなかった巨大な影が近づいてくるのに気付き、茫然と足を止めた。
冒険者稼業に見切りをつけてベルンに就職した二十代後半のその兵士は、二人の同僚と共にホースゴーレムに跨り、一人につき二体ずつ、灰色の戦闘用ゴーレム「ベルター」を引きつれていた。
純魔力による強化の施された長槍に軽鎧、長剣、弩で武装していた彼らが目撃したのは、まるで山が動いているのかと見間違う程に大きな船らしい四つの影が地上を走る姿だった。
見れば船体の上半分は灰色で、下半分は鮮やかな赤色に塗装されている。それらは逆さにひっくり返した船のように見えて、船底近くの左右に何枚も連ねた板を車輪に巻き――後に無限軌道、特に軍用のものは
陸上戦艦と呼ばれるこれらは、激しい気流や凶悪な大型飛行生物の生息域など飛行戦艦の航行が困難な地域での迅速な人員輸送と侵攻を目的に、ムンドゥス・カーヌスで開発された兵器だった。
アークレスト王国や近隣諸国でも低空飛行での運用を前提とした艦艇の開発と建造が進められているが、履帯による地上走行を行う巨大な乗り物は存在していない。
元冒険者の兵士ベクトはすぐさま腰のベルトにある魔法通信機を起動させ、緊急事態を意味する信号を所属する砦と騎士団の本拠地へと伝える。
そこらの魔物ぐらいなら蹴散らせるマジックウェポンを支給されてはいるが、見上げるほど巨大な船を相手に戦いを挑む気概は到底持てない。今は何より情報を少しでも多く収集して、持ち帰る事こそが最優先の任務だ。
「このまま距離を維持して情報収集と監視を行うぞ」
ベクトの指示に同僚達は一も二もなく頷いて同意を示す。彼らに与えられた全身甲冑姿の騎士を思わせる戦闘用ゴーレムベルターは、単騎で強力な魔獣をも屠る冗談じみた戦闘能力を持っているが、流石に未知の存在にぶつけるのは躊躇われる。
なにより、まだあれらが敵であるか、そうでないのか判明していないのだ。もちろん挑むつもりはないのだが、下手に挑発行為と受け止められるような真似は極力避けなければならない。
距離はそのままに三名と九体のゴーレム達は陸上戦艦の追跡を始めたが、彼らの動きは同時に陸上艦側からも把握されていた。
この陸上戦艦はムンドゥス・カーヌスから派遣された使節団を乗せており、護衛の為の兵士も乗せてはいるが、たった四隻分の兵士だけで本格的な侵攻を目論んでいるわけでもない。またクインセとヴェンギッタも切り札として別行動を取っている。
今回はあくまでも顔見せの意味合いの強い使節団として行動している。もちろん、魔王軍の戦力の要である魔六将が二名も派遣されているのだから、ムンドゥス・カーヌスが武力侵攻を目論んでいるのもまた揺るぎない事実ではある。
その後、砦からも監視を続行の指示が下された事もあり、ベクト達は監視を続行したが陸上戦艦の向かう先に自分達の所属している砦が存在しているのに思い当たると、はっきりと顔色を青くする。
「あいつら、こっちの地理をもう把握しているのかっ」
今はまだ四隻しか姿を見せてはいないが、ベクトは最悪の未来として地平線を埋め尽くす陸上戦艦の姿を脳裏に思い描き、灼熱の太陽に晒されているというのに、ひどく冷たい汗が頬や首筋を伝うのを感じた。
ムンドゥス・カーヌスの昨今の潜入行為や調査活動に関しては、ドランの尽力によって悉く妨害されているが、彼が生まれ変わる以前に収集されていた情報がある。
かつてグーマ氏族のゴブリン達が迷わずベルン村に到達したように、ムンドゥス・カーヌスもベルン村の位置は把握している。
また、新しく建造された砦の位置をどうして、と言えばこれは偽竜達による高空からの偵察などの血道を上げる努力の成果だ。
土煙を上げて緑の少ない荒野を進む魔王軍の陸上戦艦――より正確にはメギン級陸上戦艦メギン・ギル内部のとある船室に場面を映そう。
外交にも用いられる為に軍艦とは思えぬ豪奢な内装の施された船室に、この使節団の代表たる魔族の男性ペルリの姿があった。広い肩幅に見上げるような巨躯を、濃紺を主とした魔王軍の軍服の胸に、いくつもの勲章を飾った熟練の軍人だ。
彫りの深い顔立ちに赤みがかった肌、癖の強い赤銅色の巻き毛を割って、額から小さな三本の角が伸びている。表向きは艦隊の司令官でもあり使節団の代表も兼ねるペルリだが、使節団の最上位はというと、魔六将に名を連ねるヴェンギッタとクインセとなる。
感性が詩的にも程があるヴェンギッタはいささか意思疎通に難がある為、主にクインセがペルリの相談相手となっており、使節団のかじ取りもクインセと共に行っていると言っても過言ではない。
ペルリは船室で卓上に居るクインセの眷属である青い蜘蛛と、使節団の軍人に扮したヴェンギッタの人形と話をしていた。
ヴェンギッタの人形は薄紫の髪をひっつめにした若い女性の姿を模したものだった。魔族らしい要素は、人間ならば眉のある位置に開いている第三、第四の目と髪と同じ色の入った皮膚。ペルリよりも階級章が少なく、肩章や飾緒も控えめな軍服姿である。
「どうやらベルンの兵士達は思いの外、活動範囲が広かったようですな。事前の想定よりも早く我々を見つけられる形になりました」
四隻の陸上戦艦を追跡するベクトらの姿はペルリ達も既に捕捉しており、ペルリが口にした通り妨害を受ける以前の最新の情報からの予測よりも、ベルン側の行動範囲が広く、また兵士達の装備の質がはるかに優れている。
暗黒の荒野の覇権を握った魔王軍こそ世界最強とペルリは自負しているが、ベルンの末端の兵士にまであれ程の装備が行き渡り、こちら側の情報が不足しているとなれば油断できない相手だと兜の緒を締める位の心構えはある。
ペルリに応じたのはクインセだ。眷属を派遣した本体は、いざ開戦となった場合にベルン側にその所在を悟られぬよう、使節団にもその所在を内密にしている
「コレカラ向カウ砦ノ兵士デショウ。アークレスト王国ハ、戦乱トハ縁遠イ歴史ガ続イテイタヨウデスガ、平和ボケハシテイナイト考エルベキナノデショウネ」
「あるいは平和ボケしている中でもベルンの領主達は、心構えが異なるか、ですな。今回は表向きは友好的な目的でこの地を訪れていますが、こちら側の要求をそのままは飲まんでしょう」
「マタ陛下ハ、イエ、ザルハメラ宰相ノ案カシラ?」
「使節団を預かっている身として内容は伺っておりますが、比較的穏和な案ですぞ。少なくともいきなり我らの奴隷になれだとか、臣従しなければ皆殺しだとか、そういった文言は入っとりません。ムンドゥス・カーヌスの下で尻尾を振れ、と意訳はできますが」
「ソレデハ戦闘スラシテイナイ状態デ受ケ入レハシナイデショウニ。開戦ヲコソザルハメラモ陛下モ望ンデイルノデスカラ、当然デスネ。
内容ガ私達ニシテハ穏和ナノハ、アークレスト王国ガ降伏シヤスクスル為デショウ。民草ヘノ温情ト王族ノ命ノ保証ヲスレバ、降伏ノ是非デ揉メル可能性ハ低クナルモノ」
「はっはっは、我らは軍神の末裔ですからな。理性が働いてもどうしようもなく戦いを求める傾向にありますし、解決策に戦争が含まれるのならば嬉々としてそちらを選ぶ性情を持った種族です。こればかりは仕方がない。相手にとっては迷惑な話ですが!」
「ロマル帝国ヲ陥落サセタラソコカラ西進、狙イハローハン帝国ヲ南部カラ突キ崩ス構想デスネ。アークレスト王国ヲ陥落サセタラ東進ノ予定ハアッテモシバラクハ統治ト戦力ノ充填ニ務メルデショウネ」
「ほう、我らが偉大なる神代の蜘蛛殿は陛下のお考えをそのように捉えておいでですか。大陸の南東に進まぬ理由は?」
「アークレスト王国ノ東ハ、モレス山脈トエンテノ森ニ阻マレテイマス。ロマル帝国ト比ベテ、取レル陸路ガ極メテ少ナイ。空路ニ関シテモ、モレス山脈ニ多数棲息スル竜種ノ存在ニヨッテ、偽竜ヲ擁スル私達ニトッテハ安易ニ選ベナイ」
「成程、私も同じ考えです。後は我々が把握していないアークレスト王国とまずなによりベルン男爵領の実情次第ですね。ロマル帝国も防諜にはかなり力を割いていましたが、三つ巴の内乱中とあっては、漏れも多かった分、やりやすい」
「アチラモ私達ニ臣従シナイノハ間違イナイデスケレドネ」
「ふふん、なればこそ我らにとって願ってもない展開です。気掛かりなのは陛下が北への警戒を緩めなかった点ですが、それはトラウルー殿と親衛隊に任せる他ありません。
さあて、ベルンの地を治めるはうら若き少女と聞きますが、どれ程のものか、それをまずは楽しみにしておりますよ」
“楽しみにしている”。ペルリの口にしたこの言葉が、大なり小なり軍神サグラバースの系譜に名を連ねる魔族達が共有する感情に違いなかった。
ただし、その感情を全面的に受け入れる者とそうでない者はおり、それまで壁に掛けられた絵画の如く、机の上の花瓶の如く押し黙っていたヴェンギッタが麗しい女性の声で囁く。あるいは謳っているのか。
「軍神の血が齎す熱は甘美なる衝動。戦にて味わう狂騒は精神の悦楽。噛み締める自由は君にある。されど自由には対価がいる。ともすれば対価は払いきれぬ重荷となって君の肩に友を装って忍び寄るだろう」
言いたい事を言いきって押し黙るヴェンギッタからの視線を受けて、ペルリは急いで解読作業に入った。今回は比較的分かりやすい単語と状況の組み合わせだ。
ヴェンギッタは解釈を間違えても怒りはしないが、傍目にも明らかにしょんぼりとするので、間違えた時の罪悪感はそれなりに大きい。
「うーむ、つまり、楽しみにかまけて油断すると、思いもよらないところから足を掬われるぞ、と御忠告くださっておられるのですかな?」
ペルリが極めて真面目な顔で答えを告げると、ヴェンギッタは満足げに頷く。どうやら概ね正解であったらしい。
罪悪感に苛まれなくて済んだと安堵するペルリの傍らで、クインセはやれやれと、遠回りになる事の多いヴェンギッタの会話に悩みの種が尽きない様子だった。
*
ついに、と言うべきだろう。ついにムンドゥス・カーヌスの側からの接触が齎されたのを伝えられたベルン男爵領首脳陣は、即座に行動へと移った。
事前にムンドゥス・カーヌスの接触に関する知らせを受け取っていた者達でも、大なり小なり動揺を抑えきれぬ事態だったが、首脳陣の中の首脳陣とでも言うべきドランとその美しい恋人達は動揺とは無縁だった。ただし小心者のセリナを除いて。
「総督府と近隣の諸領主に根回しをした後で良かったな。父上の張り切る様子が今からでも目に浮かぶようだよ」
苦笑交じりに零したのはクリスティーナである。ガロア総督府からすっかり我が家と感じるようになったベルンの屋敷に帰り、砦を経由して送られてきた情報を確認しての第一声だ。
そんじょそこらの王侯貴族では束になっても叶わない程、希少な調度品で埋め尽くされた執務室には、真の首脳陣たるドラン、ドラミナ、セリナ、ディアドラの姿がある。
思い思いに応接用のソファに腰掛けるなり、クリスティーナの傍らに控えるなどしているが、全員がついに現実のものとなったムンドゥス・カーヌスへの対応に意識を傾けているのは間違いない。
「侯爵様は随分と張り切っておられたからな」
クリスティーナと共にドラムと会ったドランは、心底からクリスティーナに同意した。
舞踏会という名の交渉の場で提示された、一旦、ベルン男爵領に戦力を結集させて、魔王軍が襲来した際にはこれに当たる、という提案に多くの諸侯が戸惑いや渋る様子を見せる中、ドラムは真っ先に応じたのだから。
「しかし、こちらの兵士に向けて攻撃を加えるでもなく、追い散らすでもなく、追跡するに任せている以上、無警告での攻撃や侵略を行う意図まではまだ無いという段階だ。父上に張り切っていただくにはまだ早いよ」
クリスティーナはそう告げておもむろに腰かけていた椅子から立ち上がり、ドラミナに目配せをした。
クリスティーナの秘書として長い時間、傍に居続け、また度を越した美貌という共通点を有するバンパイアの元女王は、ともすればドラン以上にクリスティーナを理解しているかもしれない。
領主としてこれまでにない正念場が訪れた事実に、気合の充溢するクリスティーナがそっと左の手首に触れるのを見て、ドランとセリナとディアドラは彼女の本気の度合いを理解した。
同じ国の住人相手には禁じ手としてきた強力な手札を、ムンドゥス・カーヌスの使節相手に切るつもりなのだ。
外交交渉におけるベルン男爵領の強大なる手札の一つ、そう、クリスティーナの素顔を!
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第二百八十一話
ムンドゥス・カーヌスの使節団が乗るメギン級陸上戦艦四隻が動きを止めたのは、クリスティーナ達によってネロジムと名付けられた砦の近辺だった。
彼らの後を追跡していたベクトらの所属する砦で、一見すると何とも奇妙な造りをしている。砦の周囲に深い堀が巡らされているのと、跳ね橋が渡されているのはまだいい。常識の範疇だ。
奇妙なのは、分厚く高い防壁に囲まれた内側にある砦の形状だった。敷地の中心に長方形の三階建ての建物があり、その四方の角から細長い建物が伸びているのだが、どうにも機能性を重視している配置とは言い難い。
敷地には改修した旧式の大砲や投石機を背負ったゴーレムや、ベルターを始めとした歩兵の規格に留まる大きさのゴーレム達の姿が目立つ。
駐留している人間の数の少なさに比して、敷地や建物の規模が大きいのはひとえにこれらのゴーレム達が理由である。保管しておくにせよ、整備するにせよ、場所を取るのだ。
なにもこのネロジム砦に限らず、同時期に建造された砦もほとんど同じ配置と敷地面積を持っていて、配備されている戦力も均等化されている。
一から新型の銃器や大砲等の銃火器を用意するのは難しいベルン男爵領も、買い入れた旧式の銃火器にこれでもかと手を加えて、凶悪化させたものがゴーレムを含めて配備されており、こっそり内情を教えて貰っているオリヴィエなどは、「控えめに言って頭がおかしい」と太鼓判を押す基準に到っている。
ドランが地元であるのと領主の補佐官という立場を良い事に、いささか自由にやり過ぎた結果と批難できなくもないが、魔王軍の戦力を考えると圧倒的な数の不利を覆すにはこれ位は用意しなければならないと判断せざるを得なかった為である。
そして使節団の艦隊を発見した当のベクト達はというと、砦へ合流はせずにメギン・ギルからの距離を保ったまま監視を続けている。
万が一、ネロジム砦に攻撃が加えられた場合には、ネロジム砦とは別に事態を知らせる為の人員が必要となるのを理解していたからだ。
ベクト達からの報告を受けていたネロジム砦は、配備されている砲台ゴーレムやベルターを始めとしたゴーレムを全て起動した状態で待機させ、もしこの場で攻撃が加えられたなら、即座に反撃に移れる体勢を整えるまでは成功している。
このネロジム砦そのものも、ゴーレムとしては規格外の大きさを誇る搭乗型のゴーレムだが、これは本当に本当の切り札だ。まだ相手の出方を伺っている段階で使うには早い。
ネロジム砦側の兵士達が実戦経験のほとんどない者達の集まりであったにもかかわらず、愚かしくも攻撃を仕掛けるような真似をしなかったのも、迅速に反撃に移れる体勢を整えられたのも、既にベルン村に居るクリスティーナから連絡を受けていたからだった。
ネロジム砦以外にも複数建立された他の砦とベルン村に隣接しているベルン騎士団本部からの援軍に、隠し札の一つとしてカラヴィスタワー内部に駐在させている兵力もまた何時でも動かせる用意がある、とクリスティーナ直々に断言した効果は大きい。
メギン・ギルを旗艦とする艦隊がネロジム砦近くで停泊する頃には、このようにネロジム砦側では出来得る限りの用意が整っていた。
それでもメギン・ギルから降ろされた馬車がこちら側に接近し、揚々とムンドゥス・カーヌスの国旗を掲げて交渉を迫って来た時には、砦側の全員がほっと安堵の息を零したものである。少なくとも何の通達もなしに戦端が開かれる事はなかったのだ。
ネロジム砦に詰めていた二十名にも満たない兵士達は、自分達が恐ろしい魔族と最初に交戦した兵士になりたいとは思っていなかったのだ。それはそうだろう。誰だって自分の命は惜しいのだから。
現段階では国交の開設を求めるだけに留めているムンドゥス・カーヌス側は、魔王ヤーハームから託された親書(あるいは脅迫状)を携えており、これをしかるべき立場の人物に渡すのを目下の目的としてベルン側に通達している。
砦の指揮官程度が対応できる話ではなく、ベルン男爵領の最高責任者であるクリスティーナとの面会が求められて、砦側はこれに二日の猶予を求めた。
この時期、ドランの自重の枷が大いに緩んでいた為に、ベルンには軍用に配備されているホースゴーレム以外にも兵士や貨物を運搬する為の大型車両等が存在しており、これらを用いれば一日の内に砦へ到着できる。
そうでなくともドランやクリスティーナ達だけならば、飛行魔法や転移魔法を用いれば一瞬で移動は済む。それを敢えて二日と時間を求めたのは、ネロジム砦とベルン村との距離を正確に知られるのを避ける為だ。
いずれ正確な距離を知られるにせよ、折角ドランがこまめに防諜活動に勤しんでいるのを、クリスティーナ達の行動で台無しにするわけには行くまい。
そしてネロジム砦の誰もが待望する領主御一行の到着が叶ったのは、ムンドゥス・カーヌスの使者がメギン・ギルに引き返してから二時間と経たぬ内だった。身内とはいえ領主達の真の実力を知らない砦の兵士達からすれば、驚きの速さだ。
ベクトからの緊急事態を伝える信号が届いてから、およそ考え得る限りの最速で各方面へ指示を飛ばし、同行させる面子の選定を終え、ドラミナのスレイプニル達の牽引する馬車を利用して可能となった早業である。
使節団の誰にも気付かせず、音を消し、振動を消し、気配や熱、魔力すらも探知出来ないように隠蔽工作を施した上で砦に入ったクリスティーナ達は、自ら出迎えて来た砦の指揮官の案内の元、艦隊を一望できる部屋へと案内された。
外からは砦の中を見られないように特殊な加工を施した硝子と、風の魔法による盗聴を避ける措置が施してあるのは言うまでもない。
本来、領主を招き入れるような部屋ではなく、丈夫そうな机が部屋の真ん中に一つ、他には持ち上げるのにも苦労しそうな木造りの椅子が数脚と、壁に掛けられた暗黒の荒野方面の地図があるだけの部屋だ。
「あれが例の魔王軍の船か。空を飛ぶ船よりも地上を走る船の方が技術的な難易度は低そうだが、実際にそういう船を見るのは初めてだな」
砦の一室から覗くメギン級を見て、素直な感想を口にしたのはクリスティーナである。
普段通りに白銀の髪を金糸の刺繍が施された青いリボンでまとめ、男装の麗人という概念の結晶そのものの姿だ。ただし、この場には真実の顔に耐性の無い者もいる為、容姿を変えるアグルルアの腕輪はまだ手首を飾っている。
クリスティーナにはドラン、セリナ、ディアドラの他、少人数の文官と武官が同行している。
この場にドラミナが居ないのは、万が一の戦力としてベルン村に待機して貰ったのと、昼間でも行動できるバンパイアがベルン側に存在するのを、わざわざ自分達の手で暴露する事もあるまい、という判断による。
緊張とは無縁の顔をしているドランが、ふむん、と顎に手をやりながらクリスティーナに応じた。
「我がベルン男爵領でも実用化の目処は立っておりますよ。動力も魔力機関と蒸気機関の組み合わせと、あちらと似たようなものですが」
「それを知ったら博士達が対抗意識を激しく燃やすぞ。それでも戦争に使うとなれば、成果を上げても喜びはしないだろうな」
「そういう方達だからこそ、色々と任せられるかと」
「それはそうだが、熱意が凄過ぎて説明を受けている時など、私は圧倒されっぱなしだよ」
開戦の火ぶたが切って落とされるかもしれない場面に直面しているのに、まったく動揺した素振りを見せない二人のやり取りには、同行してきた文官達や砦の指揮官も大いに安堵した。上司がこうも堂々とした態度を取っているだけで、部下というのは安心できるものだ。
クリスティーナ達が訪れるまで、激しい緊張との戦いを強いられてきた砦の指揮官兼守備隊長のシニスタが声をかける。元々は、没落した騎士の家系に名を連ねる元冒険者の女性だ。
「お館様がこの砦に来られるまで二日と使節団には伝えてあります。また、先方も特に異論はない様子です。特に抗議はなく、到着を待つと返答を預かっております」
シニスタは左頬から額に及ぶ痛々しい切り傷や、隙のない立ち姿から冒険者時代に苛烈な経験を積んできたのがそうと分かる。もっとも、クリスティーナが来た事には余程安堵したのか、そのまま溺れてしまうような光が残る右眼に宿っている。
絶世の美女すら二目と見られぬ醜悪な容貌に劣化させるアグルルアの腕輪を装着してさえ、「絶世の美女」と表現する他ないクリスティーナの美貌と、緊張を強いられる状況から救われた相乗効果が、隻眼歴戦の女騎士の心を蕩かしていた。
「うん、問答無用での開戦はないと踏んでいたが、幸い予想が当たったな。シニスタ卿、大事な場面を波乱なくおさめてくれて、感謝する」
「は! お館様の臣下として当然の務めを果たしたまでです」
一文字一文字にかなりの力が込められているシニスタの返事に、クリスティーナは思わず、おおう、と呟いてしまいそうになったが、なけなしの領主としての威厳を総動員して、満足そうに頷くに留めた。
ドラミナから既に何度も伝えられてはいたが、強烈過ぎる忠誠で視野狭窄に陥った臣下の実例か、と妙な感心すらした。
素顔を晒してはいないのだが、今回のようなベルン男爵領初の緊急事態によって、このようになってしまったのだと、理解できなくはない。
「そう言って貰えるのなら、私も爵位を授けてくださった王家の方々に胸を張れると言うもの。これから我がベルン男爵領はまだまだ厳しい現実と向き合っていかなければならないが、これからも君達の力を私に貸して欲しい」
「このシニスタ、お館様とベルンの為に全霊を賭します」
「はは、まあ、いつも肩に力を入れていては疲れてしまうからな。適度な休憩と息抜きを忘れないでくれ。さて、二日の時間稼ぎで何が出来るか。しかし陸上戦艦か。分かってはいたが、基本的な技術力ではずいぶん水を開けられてしまっているな」
改めて使節団の乗ってきた艦隊に目をやれば、二本の砲身が伸びる砲塔を甲板前部に二基、後方に一基、また機銃の設置された銃座も両舷合わせて十基はある。
現在、アークレスト王国を始め、周辺諸国で運用されている軍艦の様式とは、明らかに前提からして違う。
船の側面にずらりと並べた大砲から砲弾を撃ち合うのを前提としているのに対して、陸上戦艦は自由に砲塔を回転させて砲撃を加えられるし、船体も木製ではなく総金属製ときている。
ドランもドラゴン時代には人類他知的生命体の様々な兵器開発史を眺め、時には使われたりもしてきたが、確かに数十年単位の技術格差があると認めるところ。しかしてそこはそれ、科学的な技術の劣勢は常識外れの魔法技術で補う他あるまい。
ドランは、他の者の目と耳がある為、家臣としての態度でクリスティーナとの会話を再開する。
「単騎で突っ込んで、四十分もあれば全て鉄屑に変えられるなあ、と考えているお顔ですね」
「うーん、三十分でいけないかな? ああ、いや、三十分で出来ると思うが、補佐官はどういう見積もりを出すかな?」
この三十分というのは、クリスティーナが戦争でも殺しは嫌だし、敵兵を全員生け捕りにする方向で、と考えた上での三十分である。
一度、全員戦闘不能にさせてから武装解除して、最低限の食料だけ持たせて送り返すか、捕虜収容所に放り込んで大人しくしていて貰う事になるのだが、ベルン男爵領の食糧生産能力や労働力を考えると、再度、武装して襲来する危険性を考慮しても前者に意見が傾くクリスティーナであった。
むしろ、何度でも武装し、兵糧を持参して貰って、それを都度に応じて撃退して武器と物資を回収すれば、半永久的に諸々の物資を補充できるのでは、と誰もがそれはおかしいと指摘せずにはいられない考えが浮かび上がりつつある。
問題なのはそんな考えが浮かぶクリスティーナの思考回路よりも、実際にそれが可能な戦術はおろか戦略すら破壊する個としての戦力が、ベルン男爵領に複数存在する事実だろう。
クリスティーナは一度、言葉を訂正してから、頼もしさに於いては世界一だと認める補佐官に面白がるような口ぶりで尋ねた。
「そうだな、ふむん、失礼を。そうですね、エルスパーダのみ使用という条件付きで三十分以内でしょう。ドラッドノートをどこまで使うかで、いくらでも変わりますよ」
エルスパーダも現代の魔法鍛冶の傑作に相当する名剣なのだが、いかんせん、ドラッドノートは対古神竜を想定して製造された超兵器だ。魔王の祖である軍神サグラバースそのものか側近格の神々相手ならばともかく、霊格を地上基準にまで落としている子孫達が相手では、あまりに威力過剰だ。
上司二人のやり取りにシニスタをはじめ、この場に居合わせたネロジム砦の兵士達はまさかこの場で冗談を言い合っているのかと、真に受けるべきか冗談と受け流すべきか、判断が着かずに困っている。
アークレスト王国にはアークウィッチの称号を持つメルルという単独で軍勢を上回る戦力という前例があるが、まさかこの二人がメルルに比肩する程の人類の規格外と知らないのだから、それも仕方がない。
「ここから感知できる限り、四隻で合計千二百人位の兵士が乗っているようだな。まあ、戦艦の正確な性能も分からないうちに議論しても、机上の空論か」
実際のところ、事前に襲撃を予告して、迎え撃つ準備を万端整えた艦隊を相手に襲撃したとして、二人が口にした通りの時間かそれ以下の時間で、クリスティーナ一人の手によって艦隊の文字通りの全滅という結果になるだろう。
それでも貧乏性というか、使えそうなものはとりあえず取っておく性分のクリスティーナとドラン達であるから、メギン級陸上戦艦四隻はなるべく無傷で鹵獲しようとして、懇切丁寧に手間を掛けるのは想像に難くない。
クリスティーナはこの場でドランは参考にまるでならないと除外し、自分以外に使節団を単独で撃破可能と見込む二人に所見を尋ねた。
「ちなみにセリナとディアドラなら、どう考える? 今しがた詳細を知らぬままでは机上の空論と口にしたばかりだが、君達の意見を聞きたいな」
ディアドラは特に気にするでもなく、そうねえ、と考え込む仕草も艶やかに思案するが、いよいよ戦争なのかと尻尾の先まで強張らせていたセリナは、自分に指名が来た事に肩を大きく震わせて驚く。
「ええ、私達ですか? ええっとええっと、ここから見える限りだとあの戦艦の装甲それ自体がだいぶ厚くって、付与魔法も二重三重にも掛けられていますから……」
セリナの青く濡れた月のような瞳がうっすらと光を放ち、窓から覗く陸上戦艦を真剣に見つめる。
一年以上の長きに渡って古神竜の精気を食べ続けたこの少女の瞳は、もはやラミアの蛇眼の規格を越えている。視る能力よりは元々備えていた魅了と麻痺の能力に秀でており、この二つの能力に関しては最上位の魔眼と評価しても差し支えのない領域に達している。
竜蛇化、あるいはドラグサキュバスに倣うならばドラグラミアの状態にならずともこれなのだから、セリナが本気になった際の能力だけを見れば一国を滅ぼせる存在と化す程だ。
「うーん、ああ、でもジャラームで十分、装甲は貫けるから、攻撃が通じないなんて事は考えてなくて大丈夫ですね。積んである大砲の威力が分からないから、こちらの防御に関しては何とも言えないですけれど、乗っている人達は蛇眼でどうとでもなるだろうし、距離を詰められれば何とかなるかなあ?」
「そうだな。追跡をしていた兵士達の目撃情報から大砲の口径をおおよそ推測はしているが、どんな火薬を使って、どんな砲弾を撃ち出すのかはっきり分かっていないからな。それでも古竜のブレスや竜語魔法程ではないと思う。それならセリナも全力で防御するまでもないだろう?」
「そうですね、ヴァジェさんの熱線とか瑠禹さんの束ねた水の槍とかでなければ、そんなに怖くないですね!」
にこやかに笑ってクリスティーナに答えるセリナだが、世間一般の常識に照らし合わせれば、地上最強種の中の更に上位種でもなければ大丈夫と自信満々に答えるのはかなりおかしい。
だが、実際にクリスティーナとセリナの言う通り、今のセリナにとって並の知恵ある竜はおろか、平均的な古竜ならばドラグラミア化せずとも渡り合える相手なのだった。
セリナが自分なりの答えを出す頃には、ディアドラも考えを纏め終えて、自分が単独で使節団の艦隊を相手取ったらという仮定の話を口にする。
「セリナもすっかり逞しくなったわねえ。私はそこまで正面から力押しで行くのは得意じゃないし、花の精らしく香りと毒で翻弄する戦い方を取るのがよさそうね。
ゴブリンを相手にした時もそうだけれど、地面の下から伸ばした茨で足止めと、毒で一切合財昏倒させるとか、それ位ね。我ながら芸のない事」
「でもディアドラさんの毒なら、簡単に敵の兵士さん達の意識を奪えるでしょうし、視た限りではあのお船全体に浄化魔法や毒とかに対する耐性付与の魔法はないですから、私やクリスティーナ様よりも簡単に無力化できますよ、きっと」
「それにあの船の動力で出せる力なら私の茨で十分足を止められるから、そうしたら直接乗り込んで全員優しく茨で包みこめばいいだけの話ね。
そう簡単に行くならいいけれど、今は待機しているだけでいざ戦闘となったら、毒や呪い避けの結界を展開しないとも限らないし、乗員の中にそういうのに対する専門家の一人や二人は居ると考えた方がいいでしょ」
ディアドラの言う通り、クリスティーナからセリナ、ディアドラの評価は陸上戦艦の乗員に突出した実力を持った個人がいないと仮定した話だ。
実際には艦隊の旗艦メギン・ギルに本体ではないが魔六将のクインセとヴェンギッタが乗り込んでおり、言うほど簡単に艦隊を殲滅は出来まい。
「ふふ、ベルンの家臣は頼もしい猛者揃いで安心するよ。さあ、残り二日間、目と鼻の先のここから、彼らを存分に観察させて貰おうじゃないか」
内心では領主として初めての対外交渉に心臓をバクバクとさせながら、クリスティーナは精一杯、余裕のある風を装って表情を拵えるのだった。
そして二日間の猶予を十分に活かして、ムンドゥス・カーヌスからの使節団の情報を微に細にと収集したベルン側との会談は、艦隊とネロジム砦の中間地点に急造の場を設営して行われる運びとなった。
これは最新鋭の兵器である陸上戦艦の内部にベルン側の人間を入れたくないムンドゥス・カーヌス側の事情と、最前線の防衛施設である砦の内部に、仮想敵国の人間を入れたくないベルン側の事情から双方が妥協した結果である。
盛夏の滾る熱気が満ちて、うっすらと緑が散る荒野に幾本かの鉄柱と布で囲いを作り、簡素ながら野外に会談の場を設けた。いざとならば艦隊からも砦からも、砲撃を加えるなり救出の人員なりを送りやすいように、という暗黙の了解があったかもしれない。
それぞれ会談には護衛の兵士を含めて二十名程が参加している。クリスティーナ達は、ムンドゥス・カーヌス側はベルンの領主相手でも、魔王からの親書の提出を認めはしないだろうと既に通信によって総督府側とも協議している。
社会的な立場で考えれば、クリスティーナはド田舎の辺境の一領主に過ぎないのだから、表向きだけとはいえ国交の希望を正式に伝えるには格が低すぎるから当然だろう。
いざ会談の当日となり、陣内に足を踏み入れたクリスティーナは、傍目には緊張の様子はなく、暗黒の荒野を越えてやってきた歓迎せざる客人を相手に冷静な態度を取れるように見えた。
ドラミナをベルン村に残してきた一方でセリナとディアドラを同伴しているのは、ベルンが人間とその他の種族、特に魔物扱いされるラミアと共存している様を見せる為でもある。
開戦は避けられないと理解してはいるが、それなりにこちらの統治における姿勢を見せておくのも良いのでは、とクリスティーナが考えたから、というのが一つ。
他には戦争の趨勢が決まり、いざ魔王軍を下してムンドゥス・カーヌスに降伏を迫る際に、こちらが亜人や魔物を相手にも対等な立場を取っていると知られていれば、徹底抗戦の構えを取られずに済むかもしれない、という希望的観測も理由だ。
クリスティーナは決して口には出さないが、こんな国家規模の一大事に私が関わるのはまだ早いというか、私がもっとこう、でんと構えていられる位に経験を積み重ねてからにして欲しかったなあ、と色々と愚痴を零していた。
頼もしいという言葉では足りない位に有能かつ多芸な仲間と恋人がいるが、それはそれとして緊張はする。霊魂と肉体に於いて、常人を遥かに超越したクリスティーナも、まだまだ心の方は人並みの部分が多い。
「さあ、行くか」
そう言って、クリスティーナは会談直前まで手首に嵌めていたアグルルアの腕輪を、そっと外した。
事前にクリスティーナとドランから、腕輪を外そうとしたら決してクリスティーナを見てはならないと忠告を受けて、視線を伏せていたシニスタを始めとした者達は途端に世界が変貌したのを肌で感じ取る。
それまで世界の色が褪せていたというわけではない。風が淀んでいたわけでも、日差しが熱を失っていたわけでもない。
であるのに、世界はまるで今、目を覚ましたと言わんばかりに輝きを増したかのようではないか。シニスタはそれが少し前を歩むクリスティーナに原因があるのだと直感し、伏せていた視線を上げようとする。
それを優しく止めたのはディアドラだった。妖艶なる黒薔薇の精は顔こそ正面を向いていたが、焦点をぼやかすように目を細めている。
「駄目よ。決して視線を上げてはいけないわ。貴女が自身の役目を本心から果たしたいと考えているのなら、そのまま足元を見ていなさい。大丈夫、相手はそれを非礼だと叱責はしないでしょう。だって、相手にはそんな余裕がなくなるのだもの」
それは何とも分かり難い奇妙な忠告だったが、言葉に込められているものは偽りのない気遣いと警告だった。間違える事なくそう理解したシニスタは、慌てて視線を地面へと戻した。
シニスタに倣い、他にも顔を上げようとしていた者達が視線を戻すのを見て、ディアドラは小さく溜息を零した。
(万が一の為に、こちら側の者がクリスティーナを見ても、ドラッドノートが相手の目に偽物の映像を投影するとは言うけれど、それでも無事ですまない可能性があるのが、クリスティーナなのよねえ)
*
双方の代表者が陣内に用意された長机と椅子に腰かけて対面し、簡単な自己紹介と今回のムンドゥス・カーヌス側の使節団の目的を告げる形式で会談は進んだが、いっそ不気味な程にこの流れは順調に進んだ。
この時点ではまだ『交渉』ではなく、交渉を行う為の事前通告や時間調整、交渉相手の選出という交渉の準備段階だから、というのもある。もちろん、この段階でも双方の事情と目的によって紛糾する可能性は十分にあるのだが、今回はいささか風向きが異なった。
表向きの代表としてこの場に出席したペルリは、半ば夢うつつのまま椅子に腰かけ続けていた。自己紹介と今回の使節団来訪の目的を自分の口から告げた記憶はある。
侵攻の際に最初に接敵し、障害となるベルンの首脳陣と相対し、あちら側の紹介を受けたのも記憶にある。
だが、アレはなんだ? 何が自分の対面に存在しているのかを、会談の最中、終始、ペルリの脳と精神は理解しきれなかった。彼ばかりでなく、使節団員のほぼ全員がペルリと同じ状態に陥っていた。まさにそれは、クリスティーナの狙い通りに他ならない。
目と鼻と口と、それは人間の顔であるのならあってもおかしくはない部位の筈だ。だがペルリ達はクリスティーナの持つそれらを、そうとは認識できなかった。
あれが目であるのなら、あれが鼻であるのなら、あれが口であるのなら、自分達に備わっているこれらは何だと言うのか。断じて同じものである筈がない。同じだというのなら、どうしてこうも美醜に差が生じると言うのか。
ペルリに限らず軍神サグラバースとその眷属の末裔として、魔族は大なり小なり神への畏敬と誇りを抱くものだ。そのペルリをして眼前の白銀と赤の輝きを持つ存在は、神ですら造れぬと断言せざるを得ない。
一体どのような権能を司る神なら、あの赤い輝きを秘める瞳を作り出せる? あの白銀の髪を、うっすらと色づく唇を、どんな芸術家にも描けぬ、どんな数学者でも計算できぬ顔立ちの配置を導き出せる?
クリスティーナを認識した瞬間から、使節団の団員達は暑さを忘れた。夏の日差しがクリスティーナを厭わせてはならぬと自ら熱を捨てたに違いない。
クリスティーナの落とす影は、日差しが彼女の体によって遮られたからではなく、光それ自体が彼女に触れた途端、恍惚と消え失せて輝きが失われたからに決まっている。
季節が夏ではなく冬であったとしても、同じように冬の寒さはクリスティーナの為に自ら消え去り、世界は彼女の為にいくらでも変貌するだろう。
本来、美醜の感覚とは種族によって大なり小なり異なる。仮に同じ種族であっても、人種の違いや社会の道徳観や貞操の観念、宗教の戒律、歴史の変遷など膨大な要素によって美しさと醜さは変貌する。
いわんや別種族ともなればその差は大きく、根深いものとなる。
美醜の違いは生物の容貌に限った話ではない。
降り注ぐ陽光の中で生命の輝きと共に咲く花よりも、大地の奥深くまで根を伸ばし長年の風雪に耐えて聳える大木を美しいと感じる者がいるだろう。
一面の大地や山脈の裾野から尾根までを白銀に染め上げる雪の銀世界よりも、砂塵舞い一面を砂が埋め尽くし時折岩石が覗くだけの過酷なる乾いた世界をより良きと感じる者もいるだろう。
空の彼方に瞬く星の光を美しいと感じる者、黒い雲海に煌めく稲妻を美しいと感じる者、波間に生じては消える泡沫を美しいと感じる者、生命の気配を一切失った死骸にのみ美を見出す者とていよう。
だが、彼女は違う。ベルン男爵クリスティーナ・アルマディア・ベルンは違う。
種族が異なる事によって生じる美醜感覚の差異等、あまりにも瑣末。彼女のそれを理解するのに、なんら障害足り得ない。
その証拠にペルリを始めとした魔族の団員達ばかりではなく、生ける人形たるヴェンギッタも密かにペルリの服の中に忍んでいるクインセさえも、誰もが心ここにあらずの様子でベルン側との会談を進めている。
会談を進められているのはかろうじてクインセが正気と理性を維持し、密かにペルリ達の体内に糸を忍ばせて一時的に肉体の支配権を奪い、代わりに応答していたからである。
何者かの手によってペルリらが洗脳されるか、動きを封じられた場合の緊急措置として事前に通達してある緊急手段だ。
ヴェンギッタも造り物の体の中に張り巡らされた糸で同じ真似は出来るのだが、あちらは本体の方もクリスティーナの美貌に打ちのめされてしまい、呆然とするばかりだ。
そのクインセも彼女の知る限り、如何なる存在、光景、現象よりも美しいクリスティーナを前に、気を抜けばその場で正気を喪失してしまいそうな有様だ。
美しすぎて夢に見る事も出来ない。
美しすぎてその顔立ちを正確に記憶出来ない。
美しすぎて、美しいという言葉よりも美をより正確に表現する言葉を作り出すべく、詩人は、言語学者は、いや、言葉を持つすべての生命は叡智を絞り尽くさねばならない。
クインセは、事前に徹底した防諜が成されていた理由は、目の前の人間の姿をした美の奇跡だと確信を持って理解する。
ただ見せればいい。それだけで目撃した相手は、忘却以外に逃れる術なき超越した美という名の鎖に魂を絡め取られてしまうのだ。これ程までに悪辣で、幸福で、悪夢のような罠をクインセは他に知らない。
魔性の力を持つ眼を魔眼と呼ぶが、ならばこれは魔性の美を備えた貌すなわち
自分達は最初に戦うべき相手を間違えた。これ以上なく間違えてしまったと、クインセは青い甲殻に包まれた本体の体を大きく震わせた。
それが間違いによって繋がる過酷な未来への恐怖なのか、それとも目の前の存在に対する恍惚によって震えたのか、クインセには分からなかった。それが恐ろしくて堪らない。
ムンドゥス・カーヌスの使節団が軒並み簡素な応答しかできない木偶の棒になり果てた本会談だが、意外や意外、終わってみれば決まったのはそう大それたものではなかった。
ガロアの総督をこの地に招いて、魔王ヤーハームからの親書はガロア総督に渡す、それまでの間、使節団はこの地に留まって待機、食料品や日常品で必要なものがあればその都度、ベルン側と交渉し場合によっては購入ないしは提供を受ける、など等。
後に正気を取り戻したペルリら使節団の面々が、我を失っている間に不平等な条約や約束事を取り交わしていなかった事に、思わず腰が砕けそうになる位に安堵した程である。
ペルリ達からすれば甚だ疑問であったろうが、真相は大したものではない。まだまだ領主として、貴族としての経験が足りていないクリスティーナが、自分の一存で大事を決めるのを危惧し、無難な決着を良しとしたからである。
クリスティーナ自身、ペルリらの様子からもっと貪欲に踏み込んでも良かったかと思わないでもないし、ちょっと情けない結果だったろうかと、会談後にしきりに首を捻ってうんうんと唸ったが、ドラン達はあくまで見守るきりだった。
なにしろドランもセリナもディアドラも、クリスティーナ未満の政治的経験しか持っていなかったもので。
ネロジム砦に戻り、用意された寝室に集合して膝を突き合わせた際に、クリスティーナの口から出て来た第一声からも、彼女の悩みの一端が窺い知れる。
「あれで、よかっただろうか?」
再びアグルルアの腕輪を嵌め直し、ベッドの上に腰かけてこの上なく難しい顔のまま呟くクリスティーナに、ドランとセリナとディアドラは互いに顔を見合わせ、流石に何か言うべきかと瞳で語り合う。
「可もなく不可もなくという言葉があるが、少なくとも『不可もなく』と言われはすまいよ。それに相手の求めが建前だけであっても、国家間での交流となれば一地方領主がその是非を決められる話でないのは事実だよ」
「それはそうなのだが、頭では分かっていてもどうしても自分の行いが正しかったと自信を持てなくて、情けない話だ」
しょんぼりとするクリスティーナを、精一杯の笑顔を作ったセリナが慰めにかかる。
「これまで成功した経験も失敗した経験もない事ですから、どちらに対してもクリスティーナさんが自信を持てないのは分かります。なので、私としては結果が出るまでは悩んでも仕方ない、出たところ勝負だと割り切ってしまうのが良いと思います!」
要するに考えても仕方ないから、置いておこうというセリナの提案に、今度はディアドラが同意する。実際、この場で考えても既に会談は終わっているのだから、クリスティーナの悩みはこの場で解決するものではないだろう。
「クリスティーナ、私もセリナの言う通りにするのをお勧めするわ。王家直属のガロア総督の方がよほど王家の意向を理解できるでしょうし、貴女が色々と決めてしまっていてはやりづらくなっていたわよ。
とりあえず、総督本人がこちらにいらっしゃった時に、お小言なりお褒めの言葉なりを受けると思って、それまでは一仕事終えたと自分を納得させたら?」
セリナとディアドラの二人掛かりの説得を受けたクリスティーナはというと。
「うーん、うーん、う~~~ん、それで大丈夫かなあ? ……大丈夫だと思っておこう。万が一、使節団に不穏な動きを見せる可能性だってあるのだから、先の事ばかりを考えていては対処が遅れる危険もある。うん、そうしておこう!」
と、やや投げ槍とも取れる結論に到るのだった。
美に対する描写は私の尊敬する先生はこんなものではないのです。
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第二百八十二話
ムンドゥス・カーヌスの使節団と初めての会談を行い、更にはガロア総督が足を運んでようやく魔王ヤーハームからの親書の受け渡しが行われ、それが王都に運ばれて数日後の事。
ベルン男爵領首都ベルンにある屋敷とネロジム砦を往復する日々を送っていたクリスティーナは、手に持った親書の写しとそれに対するアークレスト王家の返答が記された書簡の写しを見比べてから、机の上に静かに置いた。
場所は屋敷の執務室だ。夏の熱気を追い払う為に、冷気を風と共に送り出す箱型の魔道具が使用されていて、室内は実に快適な温度と湿度に保たれている。
一部の富裕層や貴族層に限られるものの、遠距離間で瞬時に連絡の取れる通信機もあるが、親書が送られてきた以上は儀礼上、通信機越しの返答ではなく、相応の格を持った人物の書簡で返答しなければ礼儀を知らぬ対応となる。
返書の現物は既に使節団の手に渡り、彼らは暗黒の荒野にある母国への帰路に旅立っている。
ムンドゥス・カーヌスの技術力を考えれば、通信機位は実装されていてしかるべきなのだから、こちらの返答は既に母国の魔王へと伝えられているに違いない。
それはそれとして、クリスティーナは読み終えたばかりの返書の内容を、簡潔に室内に居る恋人達に伝えた。
「話にならんというのが、国王陛下をはじめとした重臣方の御意見のようだな」
今もなおロマル帝国で活動中のリネット、ガンデウス、キルリンネを除いたドランとその愉快な仲間兼恋人達は、さもあらんとばかりに頷く。
彼らが使節団の親書の内容を知っていたからではなく、密かに戦闘を大前提にして接触してきた相手だから、開戦不可避の内容だったのだろうと想像していたからである。
「ふむ、そうなるだろうという返答になったな。あちらも私達がきっかけさえあれば何時でも戦えるように備えていた事、予め彼らが来るのを知っていて備えていた事も、よく理解しているだろうし……」
ドランは次の彼らの行動を予測する口ぶりだが、実際にはこの場に居る全員が言うまでもなく共通の認識を持っていた。会談の場には付き添わなかったドラミナが、考えるまでもないという口ぶりで告げる。
「形式として開戦を告げる使者を立てて、翌日には陸上艦隊を伴う兵力での侵攻といったところでしょう。モレス山脈の竜種の方々が、しきりに偽竜達の気配を感じると苛立っておられますし、陸と空とで同時侵攻に打って出てきますよ」
まず外れはしないだろう未来の予測に、セリナがむむむ、と唸りながら腕を組んで困った表情を浮かべる。
「陸の上の戦いは兎も角として、お空の戦いとなると自前の戦力が無くて、モレス山脈の竜種の皆さんが頼りになってしまって、申し訳ないですね」
悲しいかな、セリナの言う通り、ベルン男爵領には空軍あるいは航空戦力と呼べるものが乏しかった。ベルン男爵領に限った話ではないのだが、ベルンに限って言えば資金はある、人脈もある、土地もある、しかして時間がなかった。
一般に航空戦力の核は、人間の手で飼い慣らした飛行型魔獣や大型鳥類、飛竜に騎乗した騎士達と大砲を積んだ飛行船等が担う。
飛行魔法と攻撃魔法を高度に両立した魔法使いも航空戦力に数えられるが、それ程強力な魔法使いは数を揃えるのが難しく、まとまった数を運用している国家は少ない。
セリナの言葉に、クリスティーナはしみじみと頷いて同意を示す。
「東西の戦争の機運が高まった影響で、空を飛べる魔獣や飛竜は独占されているから、買い付けはほとんど無理だったし、中古で飛行船は何隻か調達できたが、大砲を設置したり装甲に手を加えたりして、軍艦に改装するのには時間が足りなかったからな。
飛行戦艦を係留する為の港の整備も、とりあえずの整備と係留が出来る程度までしか進んでいないと来ては、これはもう仕方がないよ。
軍事関係だから下手に民間の労働者を雇うわけにもいかず、ドランのゴーレムを大量導入したから、これでも建設は早く進んだのだけれどな」
「私のゴーレムで場所を整備できても、実際に飛行戦艦を運用する為の人員の確保が出来ていないからね。私やドラミナが動力を兼ねつつ思念で遠隔操作できるように改造するのは容易だが、それでは私達が居なくなった後のベルンが困った事になる。
なに、開戦には間に合わなくても万が一戦争が長引けば、途中で活躍する場面に恵まれる事もあるだろう。現状、仕様変更はほとんどなしの飛行船を輸送船代わりに使うので我慢しておこう」
ベルン男爵領の運営を開始して季節が一つ巡ったが、手段を選んでの運営方法での限界が、このような現実として彼らに厳しく立ちはだかる事になった。
敵勢力の保有する戦力に対して、自領が友軍任せでほとんど役に他立たないとなると、ふつうは悲嘆にくれる他ないのだが、いかんせんここはベルン男爵領。
自重の枷を嵌めていなければ、手のつけられない怪物の蠢く魔境である。執務室に顔を揃えた面々に暗い色や雰囲気はわずかもない。
来客用の椅子を持ってきて、それに腰かけていた黒薔薇の精も、気になったのは彼我の戦力差ではなくそれを覆す為の手段についてだった。
「うちのお空事情は分かったけれど、男爵様、補佐官様、それでお空の戦いの見込みはどうなのよ? ヴァジェ達に任せれば何とかなるの?
貴方達が空を飛ぶ必要は出てきそうなのかしら。私も多分、やってやれない事はないけれど、ちょっと不格好になりそうなのよね」
「ディアドラさんが空からやってくる敵に対して、ですか」
この時、セリナがディアドラの言葉を受けて脳裏に思い浮かべたのは、地上に居るディアドラがはるか高空を行く飛行戦艦に向けて、地面から伸ばした茨から刺を弾丸の如く放つ姿や、風に花粉を乗せて飛行戦艦にまで届かせている光景だった。
普通の花の精では到底出来そうにない芸当なのだが、ディアドラならばまず出来るだろう。思い描いた絵面はいささか奇怪というか珍妙だが、効果はおそらく覿面だ。
「ううん、ディアドラさんなら花粉で対処するのが効率は良さそうですね。でも空中で船員さん達が毒に倒れたら、制御を失ったお船が落下して来て地上が大惨事になりそうな……」
「セリナの言う通りではあるのよねぇ。どうせなら船を無傷で確保して、兵隊以外は全て調達したいし、毒は徐々に体が痺れ出して不時着せざるを得ない位の分量が理想的よね。
とはいっても地上で生きている魔族相手に試していないから、実行するのなら捕虜相手にでも試してからね」
さらりと怖い事を口にするディアドラだが、前半部分の敵艦隊を無傷でまるっと鹵獲したい、という点とセリナの口にした艦隊の落下した地上が大惨事になるという点の二つがディアドラによる対飛行艦隊戦における問題点だ。
ただ地上への被害に関しては、単純極まりない解決策があり、それを口にしたのはドラミナである。
「飛行艦隊の落下地点については、予め問題のない場所で撃ち落とせばそれで済みますよ。落下物からでも得られる物はあるでしょう。ただ亡くなった敵兵の遺骸を弔うのは随分と難しくなってしまいます」
「そう言われてみると、最近だと倒せば消えてなくなるか、場所ごと消えてなくなる類の敵と戦う機会が多くて、わざわざ骸を弔う事なんてしていなかったわね。
こちらがぞんざいに扱ってしまうと、相手もそう扱ってしまいそうだし、きちんと弔うのが戦の礼儀とやらよね? アンデッドになられても困るし」
「ええ。単純に骸が野原に打ち捨てられて、時の流れに朽ちるがままにするというのもひどく寂しく、悲しいものですし……」
「なりふり構わない位追い込まれたら、そういうのも気にしていられなくなるのでしょうけれど、今の私達って戦争目前にしては余裕に満ち溢れているし、考えずにはいられないわね。ちなみにドラミナだとこの場合はどうなるのかしら」
「そうですね、普通に空を飛んで戦艦に乗り込んで、一隻ずつ制圧しつつ精神をへし折ってから魅了して行くもよし。単純明快に地上から狙撃して撃ち落とすという手もあります。前者であれば私達の贅沢な目標も果たせますね」
「後先を考えないのなら、跡形もなく吹き飛ばすのが一番お手軽で手っ取り早いのだから、私達も大概、化け物じみているわね」
ディアドラの口調には別に自嘲や悲嘆の色はなかったが、実にしみじみとしたものであった。これには、ディアドラばかりでなくこの場に居る女性陣全員が同意するところだろう。
ドラミナはドランと出会う以前から最強格のバンパイアであるから、飛行艦隊を単騎で壊滅させられただろうが、他の三名はドランとの出会いがなければ不可能な芸当であったろう。
「あははは、ドラミナさんだったら簡単に出来そうですねえ」
「セリナ、笑っているけれど、貴女だって撃退するだけなら簡単でしょう。ジャヌーラはちょっと射程が足りないかもしれないけれど、貴女の蛇眼の麻痺あたりだったら、『戦艦そのものを麻痺させられる』のではなくて?
視界に収めれば良いわけだから、届かせなければいけない私の毒よりも、考えようによってはずっと凶悪よ」
「ええ? いや、流石にそこまでは……。あれ、でも、うーん、戦闘になってもこの前に見た陸上戦艦位の対魔法防御性能なら、ディアドラさんの言う通りに出来るかな?」
「セリナも自分が随分と危険な意味での規格外になっている自覚を持ったら?」
「ええ、もう持っていますよ~。普通のラミアよりも随分と力が増しているのは、日々実感していますもん」
「セリナは自覚の度合いがまだまだ低いって話よ。ドランの偵察の成果で、魔王軍の飛行戦艦が戦闘に際してどれくらいの高度を飛ぶか、聞かされた上でそう判断したのでしょう?
貴女の蛇眼が本気で発動したら、超の付く大型飛行魔獣や竜種でさえ麻痺して、地上と熱烈な抱擁を交わす運命からは逃れられないでしょう」
「そ、そうでしょうか?」
ディアドラの指摘を受けたセリナは、果たしてそこまで出来るかどうか、自分自身でも半信半疑な様子だったが、徐々に、あ、出来そうだなという顔色に変わる辺り、この娘さんも性格の基本的な部分は気弱なままであるのに、妙なところではやけに強気という不思議な性格が出来上がっていた。
このようにベルン男爵領の自前の戦力だけで飛行艦隊を相手にするとなると、どうしても戦術や戦略を根底から覆す個人に頼らざるを得ないのが実情だ。
改めてそれを思い知らされ、クリスティーナは領主として自分の不甲斐なさを痛感していた。麗しい白銀の女性男爵は、本人でも気付かないうちに小さな溜息を零して意見をまとめにかかる。
「今回は基本的にモレス山脈の同盟者達に任せる方針しかないだろう。他領の航空戦力もあるが、竜種の方達は相当に意気込んでいるから、私達よりも先んじて我先にと襲いかかるだろうし、結局は竜種頼みになるな」
これまで意見の出たディアドラやドラミナの出陣は、本当の本当に空の戦いが決定的な敗北となった時だけだろう。ヴァジェを含むモレス山脈の面々なら、魔王軍の偽竜相手にしても引けは取らない、とドランは太鼓判を捺している。
「その分、地上では私達が努力するのがせめてもの誠意か。そこのところ、当のモレス山脈の竜種の方達はどう思っているのだい、ドラン?」
「まったく気にしていないと言うのが、正直なところさ。地上の竜種達にとって、偽竜との戦いは本能に近い場所にまで刻まれているから、誰に頼まれるまでもなく自分の意思で戦うのが当たり前だからね。
私達は出来るだけ彼らのやりたいようにやらせてあげて、本当に危険な時にだけ支援の手を伸ばす位で良いと思うよ。この場に居る個々人ならともかく、軍隊として竜種と足並みを揃えるのは、現状のベルンでは難しいからね」
「正直な意見をありがとう、我が有能なる補佐官殿」
「ふふ、正直に言い過ぎて領主殿の御機嫌を損なってしまったかな?」
「ほんの少しだけね。厳しい、いや、この場合は時間が足りなかったとはいえ情けない現実を突きつけられて、自分の手腕に憤慨しただけさ。ドランを責めているわけではないよ」
決して八つ当たりをしたわけではない、と少しだけ慌てた素振りで弁解するクリスティーナに、ドランは淡く笑んだ。
「もちろん、分かっているとも。魔王軍の基本戦術は、偽竜と航空戦力で敵陣に打撃を与えてから、陸上戦力による侵攻を進めるというものだ。最初の一手を抑え込める以上、地上での戦いは苛烈を極めるだろう。私達も覚悟を固めて戦いに挑まなければならんよ」
「ああ、それは分かっている。実戦の場に立って、情けない姿を見せないで済むように、覚悟は何度も何度も押し固めているよ」
「ふんむ、領主が前線に立つようでは戦の趨勢は決まった段階だけれども、クリスの場合には最初からそうしていても問題はないから悩ましいよ」
「他所の人からみたら、こいつらは正気か、とか軍事の素人だ、とか言われてしまいそうだけれども、それがベルン男爵の色というものさ」
「だからといって、ベルンの領主は代々先陣に立つものなどと、歓迎せざる伝統がでっちあげられても困るけれどね」
肩をすくめて告げるドランに、いずれは子を持つ未来を思い描くクリスティーナとしては、心から同意する他ない。
なるほど、自分達の世代では問題がなくとも、次世代以降もまた自分達の基準に相当する能力があるとは限らないのだ。
ドランがしきりに個人の能力に依存しない制度や機構作りを推奨する気持ちがわかったぞ、とクリスティーナは我知らず、うんうんと何度も頷いていた。
「ドランの言う事は良く分かるよ。それでも私達の子供や孫、その先もずっと続く世代の為にも、今回の戦は絶対に負けられない。改めてそう思ったよ。
ムンドゥス・カーヌス、ひいては魔王軍の連中には悪いが、ドランが場合によってはと考えているように、私とていざとならばドラッドノートの力を使うと決めているのだから」
それは、下手をすれば暗黒の荒野が吹き飛ぶなあ、とクリスティーナ以外の全員――ドラッドノート自身も含めて――がついそう思ってしまったが、その時はその時だ。
魔王軍から開戦を告げる使者がベルンの地に来訪したのは、魔王軍にとっては固めて欲しくない決意をクリスティーナが固めたこの日の十日後である。
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第二百八十三話
アークレスト王国からムンドゥス・カーヌスへと親書に対する返書の内容が伝えられた日の事、魔王ヤーハームは周囲の者が、おや? と思う程度に機嫌が良かった。執務室の椅子に腰かけたまま、手に持っていた書簡を傍らに控えていたザルハメラに手渡す。
魔界から地上世界へと移り住んだ彼らの先祖の指導者層が、何代にも渡って使い続けた部屋には、自然と代々の主達の魔力や霊格が染みつき、常人では足を踏み入れる事も出来ない力場を形成している。
暗殺を狙う者が潜んでいても、部屋それ自体が主への殺意や敵意を感知して、潜伏者に多大な重圧を加え、また主には警告を発するという実に便利な意思を持つ執務室だ。
「くく、ザルハメラ、これを読んでみろ」
大きく間取りを取られた窓と天井に吊り下げられた煌びやかなシャンデリアから零れる光の中で、ヤーハームは自らを照らす光さえも怯えて逃げ出すかのような、凶悪な笑みを浮かべていた。
「また、そのように楽しげに笑って。どうせ希望通りの内容だったのでしょう」
護衛の兵士や召使い達は全員部屋の外に居る為、ザルハメラの声音や雰囲気は普段の冷厳なる宰相のものよりも、古馴染の友人に対する者としての割合が多い。
ザルハメラは篤き忠誠を誓う王より恭しく書簡を受け取り、一つと数えるよりも早く内容を読み終えた。やはり、親よりも長い時間、顔を突き合わせてきた友人の喜ぶ内容がそこには書かれていた。
「言葉は礼節を守っていますが、込められた感情は“やれるものならやってみろ”といったところですか。実に貴方好みの返答をする国だ」
「まったくだ。長らく戦乱とは縁のない歴史を歩んだ国と聞き及んでいたが、中々どうして骨のある連中が舵取りをしているではないか。
ロマル帝国の方も我らに怯えるでもなく、無駄に吠えるでもなく、鷹揚に構え、そのくせ、いくらでも屍の山を築いてやろうという雰囲気を滲ませていたという。これならばもっと早くに西進から南下へ方針を切り替えた方が楽しめたかもしれん」
「貴方個人の楽しみに付き合わされるこっちの身にもなってください。もっとも我ら魔族は、皆一様に貴方のように楽しむのを是とするような種族ですが」
「おれのように分かりやすい者よりも、お前のように顔は鉄面皮を維持しておきながら、胸の内では愉悦を抱えている者の方が面倒だろうさ。だが、我が知恵よ」
「なんでしょうかな、我が君」
「ヴェンギッタとクインセ双方からの忠言と使節団の有様を鑑みるに、侵攻計画の一部変更が必要ではないかな?」
ヤーハームはこれまでの言葉にはどこかしら子供っぽい喜びの感情を交えていたが、信用を置く腹心達の心底からの忠言を話題にすると、うっすらと目を細めた。それは彼が国家や種族規模の判断を迫られた時に、稀に見せる癖だった。
「ベルン男爵領当主クリスティーナ・アルマディア・ベルンと、直接相対した使節団長ペルリ他、一部の団員達が例外なく人事不省に陥り、夢霞に包まれたような態度で使いものにならなくなった件ですか。
魅了の魔法や催眠術の類を掛けられたわけでもなく、信じがたい話ではありますが、美しすぎるモノを見たが故に精神を打ちのめされてしまったと、医師を含め誰もが匙を投げたようですね。
なにより、ヴェンギッタとクインセにも大いに効いた、というのが信じがたい。クリスティーナが例の陛下を襲った少女の背後に居る存在だとして、単純に美の女神か何かとでも推測しておきますか」
「あの娘の凶悪な殺意や戦闘能力は、おれにとって美しさすら感じるが、まかり間違っても美の女神の配下に収まる程可愛らしい存在ではない。
神を魂に下ろしても砕けない人間がいるように、世の中には生きた人形であるヴェンギッタや、神代の魔虫であるクインセにも通じる顔の怪物が居ると言う事だ。しかし、そうなるとヴェンギッタが拗らせるな」
このレニーアを相手に嫁に欲しいと言ってのけた豪胆な男には珍しく、ヤーハームは顔を顰めていた。拗らせたヴェンギッタの偏執的な面倒くささと厄介さを知っているのと、それを向けられるクリスティーナへの本物の憐憫が彼にそうさせている。
冷淡、冷徹、冷厳と周囲から評判のザルハメラをして、クリスティーナは敵対勢力の首魁の一人であるのに、哀れな事だと心中で零す程である。
「ヴェンギッタは作り手の執念が乗り移った生きた人形です。ヴェンギッタ程の生き人形を作りだした人形師の執念となれば、生半可では済みますまい」
「ヴェンギッタの奴は“美”に拘っているからな。より美しい生き物の姿を求めて創造されたのだから、自分自身の存在意義を無視できないのは分かる。
奴の美の基準がいささか共感し難いのと、美を見出した相手への執着に関してはおれも閉口する。まあ、その分、魔六将として相応しい性根の捻くれ具合なのかもしれんがな」
「魔六将をまるで性根の捻くれ具合で選んでいるような発言は慎んでいただけますか、陛下。ヴェンギッタ達人形劇団は魔六将に相応しい戦力でありましょうに」
「だからこそ、ヴェンギッタに固執されるベルン男爵が哀れだと、おれもお前も思っているだろう? クインセでも途中で抑え役を放棄しかねん。
クインセからの報告を額面通りに受け取るならば、おれ達の想像を更に越える執着を発揮しそうで、名前と評判しか知らぬというのに、クリスティーナ男爵が哀れでならんよ」
「生きたまま解体しようとするか、時の流れで劣化しないよう氷漬けにでもしようとするか、複製を作ろうとやっきになるといったところですかね。まあ、クリスティーナ男爵の実物を見ていない私達では、正確なところは分かりませんが……」
「おれとしてはこじらせたヴェンギッタを撃破してくれても、それはそれで嬉しい誤算になるぞ。ヴェンギッタと人形劇団を打破するのなら、おれが魔王の座に就いてから初めて魔六将の一角が崩れる事態だ。
軍事の要に罅が入るのを、強敵の出現として喜ぶ――王としては失格だが、それを面白がるのが軍神の眷属というものだからなあ」
「ヴェンギッタよりも、陛下に目をつけられる方が、私には恐ろしく思えますよ」
執務室に、そのまま床が抜けてしまいそうな程に重たいザルハメラの溜息が零れ落ちた。
*
これまで何度も繰り返してきた事ではあるが、アークレスト王国側はムンドゥス・カーヌスから開戦を告げる使者が訪れる以前から、戦争への備えを進めて来ている。
お互いに降伏や停戦、休戦の申し入れに関する作法、捕虜や非戦闘員への扱い等、これまで互いを知らなかった勢力同士が戦争を行う上で懸念されていた事項の確認が済めば、後はもうこちらの勝ちだ、と声高に叫べる未来を目指して歩を進めるのみとなる。
アークレスト王国北部の貴族達は、元を辿れば要塞都市として建立されたガロアを北部防衛における要として位置付けつつ、ベルン男爵領から見て北西にあたる無人の土地に急造の要塞を設けていた。
クリスティーナとドラン達が好き勝手に大量建造した砦群とはまた別の、諸侯合同で使用する為の要塞だ。ただし資材はあったが時間的な問題から、まだ建造は半ばというオチがつく。現状はどちらかというと物資集積所としての面が強いだろうか。
要塞が急遽建造されたのは、最前線になると目されているベルン男爵領の軍事拠点としての容量の低さが、最たる原因の一つだった。
昨年から発展の一途を辿っているとはいえ、ベルンの発展は経済や人口増加といった点が大部分を占めていて、自領の兵力も桁違いに上がってはいるが、それでも万単位の軍勢を駐留させてその寝食を賄い、実戦に備えさせるだけの食糧や設備がまるで足りていない。
その為、北部防衛における最終拠点であるガロアとは別に、このジョウガン要塞が建造される運びとなった。
もちろん、魔王軍の侵攻経路の第一がベルン男爵領とは限らない為、諸侯はそれぞれ自領に防衛の為の戦力を残しており、ジョウガン要塞に王国北部の全兵力が集っているわけではない。
大雑把になるが、アークレスト王国は縦長のひし形に近い国土を有しており、北部の頂点がベルン男爵領になる。暗黒の荒野方面からの侵攻となるとモレス山脈とエンテの森に阻まれて、北から東にかけての侵攻はまず不可能。
そうなると北から西にかけての侵攻経路が考えられる。ロマル帝国への侵攻を考えている西部の王国貴族にとっては、この魔王軍の侵攻は寝耳に水とも完全に不意を突かれたとも言える。まことに厄介この上ない事態の勃発である。
ロマル帝国との国境沿いに領地を持つ北部の貴族達は、総督府を通じて伝えられた王国からの動員令を受けても、なるべく兵員を動かさずに物資や資金面での援助によって、これに応じている。
そうして集った諸侯お抱えの魔法使いと、ガロアを中心に雇い入れた大量の労働者達が、集められた建築材を用いて突貫で建造したジョウガン要塞には、各領地から騎士団長級から当主本人まで重要人物達が顔を並べていた。
当然、その中には真っ先に戦端を開くおそれのあるクリスティーナかドランの姿があってしかるべきなのだが、彼らの姿は要塞の中にはなかった。
事前の打ち合わせにはよく顔を合わせていたクリスティーナ達も、いざ開戦の気配が近づいてくるとなにくれとなく理由を作っては自領に引きこもる度合いが増し、諸侯らと顔を合わせる機会が減っている。いや、意図的に減らしている、と言わねばならないか。
これには領地を得た若年貴族が血気に逸って自領の軍備を整えるのに苦心しているとも、先達たちを信頼しきれずに自分達だけで何とかしようと躍起になっているとも、捉えられていた。
好悪入り混じる感情と評価を受けているクリスティーナ達だったが、その評価を下している者達も堂々と発言する事はおろか、陰口を叩くのも極力控えていた。
なにしろクリスティーナの父は北部で一、二を争う大貴族アルマディア侯爵ドラムその人であるし、侯爵がガロアへ派遣したのはアルマディア領の軍事に於いて五指に入る実力者と見られる将軍だったからである。
これまで決して親子仲はよくないと噂されていたクリスティーナとドラムが、実はそうでもなかったという事実を突きつけられては、下手に何かを口にして、ドラムの耳に入ってしまったらどうなるか分かったものではない。
その彼らに魔王軍襲来の一報が入り、各指揮官達の背筋に雷を走らせたのは、ガロア総督を総指揮官に戴く形で、指揮系統の統一と戦力の再編を概ね整え終えた時だった。
ジョウガン要塞がにわかに慌ただしくなり、アルマディア侯爵から派遣された狐人の女将軍カジョカの元にも士官の一人がベルンから齎された情報を伝えるべく駆けこんで来ていた。
光の当たり具合で銀色にも見える黒い毛皮を持った黒狐人であるカジョカは、切れ長の黄色い瞳に険しい色を浮かべながら、宛がわれている部屋に息を切らせて入ってきた青年下士官に短く言葉を掛ける。
いかにも理知的で有能な雰囲気を滲ませるカジョカの視線を受けて、多少、軍服の襟足を乱していた下士官は、背筋を正してまだ青臭さを感じさせる顔を緊張に強張らせたまま背筋を正す。
「緊急の知らせだな」
カジョカの唇から紡がれたのは問いかけではなく、確認の言葉だった。聞く者の乱れた心を落ち着かせる、するりと耳から心にまで入るカジョカの声に、落ち着きを取り戻した下士官は、自分が伝えなければならない情報の重さを改めて認識する。
「失礼いたします、将軍。ベルン男爵領より第一級の知らせでございます。本日未明、暗黒の荒野第十七区画にて魔王軍と思しき軍勢を確認、おおよそ五万以上。また更に後方にて成体の偽竜を含む航空戦力を確認。こちらは四百から五百。
現在、ベルン男爵領はネロジム砦を中心に配していた軍勢を持って、これの迎撃に当たるべく行動中。また、既にモレス山脈の竜種達は行動を開始しており、魔王軍の航空戦力と衝突は間近の模様!」
これまで暗黒の荒野は漠然とただ『暗黒の荒野』と呼称してきたが、今後、魔王軍との戦闘が発生した際に、呼称が暗黒の荒野ではあまりに大雑把過ぎるとして、ベルン男爵領が把握している暗黒の荒野の地理をいくつもの区画に分けて、番号を割り振っていた。
第十七区画となると最寄りの防衛拠点はネロジム砦となり、律儀なのか何なのか、ムンドゥス・カーヌスの使節団が辿ってきた道筋を含む場所となる。
「予想よりも早く来たが、モレス山脈の同盟者も行動が早いな……。我々もすぐに出撃の命が下るぞ、準備を急げ。それと例の地面の上を走る戦艦の姿については?」
カジョカは急ぎ椅子から立ち上がり、要塞内部の司令部を目指して連絡に来た下士官と室内に控えていた副官を伴って歩き出す。
「軍勢の後方に八隻を確認、ただし軍勢からは距離を取っているとのことです。また、魔王軍の兵士達なのですが……」
下士官から伝えられた信じがたい内容に、長く従軍しているカジョカにしても内容を聞き返さずにはいられなかった。
「それは、いや、嘘ではあるまいが、想定していなかった敵だな」
周辺諸国――ロマル帝国と轟国との戦争を想定してきたアークレスト王国にとって、魔王軍というのは想定外の相手だ。
だからこそこれまで想定外としてきた、あらゆる事態を再度想定して備えなければならず、装備の調達等が国庫や諸侯の金庫を直撃するという問題も起きていた。
現在、ベルン男爵領を目指して進軍中の魔王軍の兵士に対する有効な装備や戦術を脳裏にいくつも浮かべながら、カジョカの歩は更に早まる。
加えて一つ、カジョカには想像以上に親バカだったという面倒くさい事実を隠していたアルマディア侯爵が、愛娘の初陣に気を揉んでいるという懸念があり、それもまた彼女の足を速めていた原因だったろう。
*
魔王軍のアークレスト王国方面軍に配備された航空戦力の内、栄えある第一陣を任されたのは古竜に相当する上位偽竜の毒竜エンバイオ、焦熱竜ショウハ、鋼龍アルマラッハ。
この三体を指揮官とし、通常の知恵ある竜に相当する偽竜が三十体。
これに加えて、ネイバーンと呼ばれる偽竜側のワイバーンに相当する種に騎乗した『空中騎士』達が四百体従っている。総数四百三十三体からなる空を舞う侵略者達だ。
音の壁を越えられるエンバイオやショウハらに対し、ネイバーンはそれ程の速度を出せない為、進軍の速度はネイバーンに合わせて行動している。
ワイバーン同様、魔法や他種族の言語を操る程の知性は持たないネイバーンだが、体内の魔力を触媒にして風や炎のブレスを放つ能力を有しており、量産できる兵器として考えれば、現状の地上世界では最高格の航空戦力といって過言ではない。
ネイバーン自身は柔らかな腹部や額部分、四肢の付け根を守る鎧を纏い、その背に用意された専用の操縦席に跨る空中騎士達も専用の装備に身を包んでいる。
この操縦席は空中騎士とネイバーンの精神と魔力の波長を同調させて、意思疎通を容易にする増幅器や防風と防寒、防護の意味を兼ねた魔力の防護幕を操縦席に発生させる防護装置、充填された魔力を銃弾として発射する可動式機銃二挺が装備されている。
ワイバーンを軍事利用している国家の大半が、ワイバーン自身のブレスか騎士の使う弓矢や投げ槍を主要な武器としている事を考えれば、格段の技術差だ。
可能な限りネイバーンと空中騎士に掛る負担を軽減させ、かつその能力を十全に発揮できるように徹底した配慮が成された装備を纏う彼らは、この時代における最新鋭の空を舞う戦士達である。
ネイバーン達の飛行している高度よりも更に上空で、第一陣の指揮を任されたエンバイオ、ショウハ、アルマラッハ、そして彼らの副官役を務める偽竜他、ネイバーンが数騎、警戒を緩めずに侵攻方向へそれぞれの瞳を向けている。
毒竜という恐ろしげな種族名のエンバイオだが、彼自身の姿は誰もが思い浮かべる竜種の如き四肢を持ち、雄々しく広げた四枚の翼から鼻先、尾の先に到るまで、アメジストを思わせる紫色の鱗に包まれ、実に雄大で威厳溢れる姿をしている。
理知深く、齢を重ねて強大な力を持ち、魔族同士の戦いの中でも多くの戦いに参加して名を刻んだエンバイオは、魔王軍に所属する偽竜の中でも古豪として知られる個体だ。
本物の古竜との戦闘経験も豊富に持つこの強力な毒竜は、自身の五体と第六感がひっきりなしに警戒を促し続けている事実に、険しい表情を浮かべ続けている。
「エンバイオ殿、先程から顔色が優れぬご様子。この度の戦、そう簡単には行かぬと思案しておいでか?」
そう案ずる声を出したのは、焼けた鉄の色の鱗を持った焦熱竜ショウハ。エンバイオ程ではないが、彼女もまたヤーハームの魔王就任に到るまでの戦乱で目覚ましい戦果を上げた強者だ。
エンバイオやショウハ、アルマラッハの三体はいずれとも、カラヴィスタワーでドランが利用した偽竜達と比べると正統な竜種と変わらぬ外見をしており、竜種同士でもなければ偽竜であると気付く者はそうはいないだろう。
「先の陛下襲撃事件の折に我ら魔竜が失態を演じたというのもあるが、何よりマスフェロウ様すら退けた者が気掛かりでもある」
「エンバイオ殿らしい深慮である事。確かに信じがたき事態ではありますが、そろそろ目の前の事に集中しませんと。ベルンなる地の者達もそうですが、我ら邪神の業によって生まれし邪竜の大敵たる竜種達が勘づいてもおかしくない距離です」
始祖竜を源流とする竜種達や地上の種族達からは偽竜と呼ばれる彼らだが、では当の彼ら自身はと言うと、事実とはいえ偽物、贋作という意味を含めた偽竜と自らを呼称する事はなく、自分達を指す場合にはもっぱら邪竜と口にしている。
正統なる竜種がドラゴンと呼称されるのを激しく拒絶するように、偽竜は偽竜――偽りの竜と呼称されるのを忌み嫌っているのだった。
「ああ、確かに、ショウハの言う通りだ。モレス山脈の竜種達の中には、古竜や竜公に準ずるか匹敵する個体も居ると聞く。ベルンの者達とは別に我らを見つければ、嬉々として襲いかかってこよう」
警戒を怠らぬエンバイオだが、そんな彼でもモレス山脈の竜種とベルンが固く手を取り合い、強固な同盟関係を築いているとまでは想像できずにいた。
竜種を相手にしている時にベルンが横腹を突いてくるか、その逆の事態を危惧こそすれ両者が連携してこちらに攻撃を仕掛けてくるとは、この時点の魔王軍側で可能性だけでも想像していた者は多くない。
だからこそ、次の瞬間にアルマラッハの発した警戒の声に、彼らの意識は地上のベルン軍から完全に空の敵へと移っていた。
「上空から来るぞ、強力な火の力だ!」
三体の偽竜達の内、最も若年のアルマラッハの声にエンバイオとショウハが即座に上空に向けて、防御障壁を展開して対処し、彼らに随伴していた指揮官達も動揺は最小限に抑え込んで部下達に伝えようと操縦席の通信機に手を伸ばす。
雲の少ない青空を飛んでいた彼らに、何十本もの赤色の熱線が襲いかかる。一本一本が火炎や高熱に対して高い耐性を持つ火竜ですら受けきれない、とてつもない熱量を有している。
降り注いだ熱線は三体の偽竜が張り巡らせた防御障壁を易々と貫き、数体の偽竜と更に三十体近いネイバーン達を貫き、膨大な熱量によって騎乗していた空中騎士達もまとめて灰へと変わる。
ネイバーン達はすぐさま散開し、そのまま狙い撃ちされる危険を回避すべく動き始めている。襲いかかって来たのは熱線ばかりではなく、高速で射出された雷の槍、研ぎ澄まされた風の刃、速度を乗せられた岩石雨と羽を休める暇などまるでない攻撃が続く。
「上を取られたか。ネイバーン隊は左右に展開、ショウハ、アルマラッハ、邪竜隊は我らに続け。始祖竜より生まれし竜種共に挨拶をしに行こうぞ!!」
エンバイオは既にモレス山脈側のワイバーンを始めとした、上空からの襲撃者とは別の敵が接近してきているのを察知していた。
「最初の奇襲でこちらの指揮と陣を崩そうとしたか、そうそう思い通りには行かせん!!」
エンバイオの瞳は、好戦的な魔力を滾らせる若い深紅竜や不動の大山を思わせる老地竜、活力に満ちた若々しい風竜と雷竜の姿を捉えていた。深紅竜と老地竜は古竜、特に深紅竜はようやく大人の階段を上り始めたばかりというのに、なんと強大な力を秘めている事か。
「ショウハ、アルマラッハ、腹を括れ! モレス山脈の竜種共、いずれも並々ならぬ強敵だ!」
今も続く無数の攻撃をかいくぐり、モレス山脈の竜種達と同じ高度に達し、距離を縮めながら反撃の毒という概念を固めた魔力弾を連射し、ショウハとアルマラッハ達もエンバイオに続く。
対するモレス山脈側の竜種達、すなわち深紅竜ヴァジェ、老地竜ジオルダ、風竜ウィンシャンテ、雷竜クラウボルトはいずれも意気軒高、高まる士気は留まるところを知らない。
ワイバーンを始めとした眷属を率いて戦っている風竜オキシスや火竜フレアラ達もそれは同じだった。
それでもやはり、ヴァジェの溢れる闘志の凄まじさは群を抜いている。古神竜ドラゴン直々に戦いの手ほどきを受けた名誉、また彼に度々無礼を働いていた負い目等、複雑極まりない感情を併せ持つヴァジェは今こそこれまでの失態を取り返そうとしていた。
またそれとは別に種族を越えた友であるファティマやネルネシアに危険が及ぶ可能性がある事から、ヴァジェは純粋な怒りも盛大に燃え盛らせていた。
「来たか、来たか、邪神共の生み出した出来損ない共、我らの紛い者、真作に及ばぬ贋作、魔王の尖兵共めがっ!」
ヴァジェが言葉を発する度に口からは超高温の炎が零れ落ち、彼女の周囲から放たれる熱線の威力は増してゆく。熱線に貫かれて灰と変わるネイバーンなど、ヴァジェの眼中にはなく、熱線を毒の魔力で相殺しながら接近してくるエンバイオを映していた。
超音速で飛翔する中、ヴァジェは更に加速。全身に深紅色の火炎を纏う。竜の形をした太陽かと錯覚するほどの熱量を持ったまま、狙うはエンバイオの首級!
「ジオルダ老、私はあの紫色の奴を灰にする。老とウィンシャンテとクラウボルトには、残りの連中を任せるぞ!」
青い空を切り裂く紅の流星と化して飛ぶヴァジェの姿に、ジオルダは巨体相応の大きな溜息を隠さない。偽竜の襲来が近いと判明してからは、モレス山脈の竜種達は誰しも意気込んではいたが、その中でもヴァジェの力の入り具合は異様に近い。
「こうなると分かっていたからまだいいが、やれ、仕方ない。わしはあの鋼の偽竜を相手しよう。ウィンシャンテ、クラウボルト、お前さん達はあの女竜を相手せい。古竜相当の強力な個体だが、系統からしてヴァジェを相手にするつもりで戦えば、今のお前さん達ならば負けはせん」
ジオルダは、勝つのは難しそうじゃが、とまでは言わずにおいた。
「承知した、なあに、ヴァジェ程のじゃじゃ馬ではなかろうさ!」
「流石に彼女を越える暴れん坊ではないと思いたいな……」
彼らの中でヴァジェが一体どんな評価を受けているか、よく分かる返答だった。互いの航空戦力の最強格同士がぶつかり合う中、ワイバーンとネイバーン、それぞれを率いる竜と偽竜達の戦いも本格的に始まっている。
竜語魔法と偽・竜語魔法による遠距離からの無数の砲撃の乱舞や追尾機能を有した砲弾の乱れ撃ちと、それを防ぐ為の防御障壁の張り合いがごく短期間の内に何度も繰り返され、運悪く直撃を受けた者達が五体の何処かに大きな風穴を開けて絶命し、落下してゆく。
悪ければ五体が吹き飛び、ほとんど原形を失った者達も居る悲惨な有様だ。
それまで雲の白と空の青しかなかったのが、瞬く間に爆炎と飛散する肉片によって斑に彩られて、生と死が無数に交差する戦場へと変わり果てている。
同胞達の戦意を凝縮した咆哮と迸る魔力の激突を明敏に感じながら、ヴァジェは敵陣の中で最強と見定めたエンバイオを睨みつけ、同世代とは頭一つも二つも飛び抜けた力を開放する。
歴戦の猛者たるエンバイオをして、咄嗟に瞠目するのを禁じ得なかった研ぎ澄まされた質と膨大な量の力である。
「灰に変わるがいい、偽竜よ!」
挨拶だといわんばかりにヴァジェは開いた口の先に魔力を凝縮し、周囲を灼熱地獄と変える津波の如き膨大な量の火炎を放つ。視界一杯を埋め尽くす深紅の炎はさながら天変地異の如く。
竜種が地上最強種と畏怖されるのも当然と思わせる一撃に、こちらもまた偽りとはいえ竜を冠する種族たるエンバイオは全身から鱗と同じアメジスト色の毒霧を噴出し、それを襲い来る炎の津波へと叩きつけて迎え撃った。
両者の渾身の一撃が激突した瞬間、反発する魔力は周囲へ衝撃と爆風をまき散らす。
「いいぞ、偽りといえども竜を名乗る種族であるのならば、それ位をしてみせろ!」
「始祖竜に連なる竜種らしい、傲慢なる物言い。いかにもありきたり。ありきたりな竜種らしく、呆気なく我が毒にて死せよ。これまで我と相まみえた竜種達の辿った運命は、それ一つ」
「私をありきたりと言ったか。くくく、その通りか否か、貴様の命で確かめるがいい!」
再び、空の青を塗り潰す深紅と紫が四方へと広がり、激突し、互いを消滅させんと荒れ狂った。
航空戦力によって打撃を与え、後に陸上戦力にて一気呵成に攻めかける、という魔王軍の基本戦術は、モレス山脈の竜種達によって阻まれたが、それで進軍が中止されるものでもない。
空で偽りと真の竜種達が苛烈を極めた戦いを演じるのに遅れ、大地の上でもまた異形なりし魔王の軍勢とベルン軍との戦いが始まりの時を迎えつつあった。
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第二百八十四話
ヴァジェとエンバイオの巨体は目まぐるしくその位置と距離を変え、ネイバーンやワイバーン等の劣竜程度では余波だけで生命を失い、死の運命が伸ばした手に掴まれてしまう激戦を演じている。
古竜として生まれ持った霊格を、種族の源流たる古神竜ドラゴンとの訓練によって更に研ぎ澄ませたヴァジェの力は、歴戦の猛者たるエンバイオから即座に余裕の衣をはぎ取り、彼の全力の姿を暴き立てている。
「ごぉおおあ!」
ゴボ、と泡を吹くかのようなくぐもった音と共に、エンバイオの周囲の大気が濃緑色に濁る。拡散して放出すれば地平線の果てまで届いて、生命ある者を犯しつくす猛毒を、拳大にまで圧縮し、濃度を高めた毒の霧だ。
風に左右されず、エンバイオの魔力と意思によって自在に動く毒霧は、五つ首の竜の如く形を持ってヴァジェの前後左右から襲いかかる。毒の霧の通過した後にはやや薄れた同色の毒霧が残り、それに触れれば強靭なる深紅竜の肉体でも腐敗し、血反吐を撒き散らす羽目に陥るだろう。
「偽竜の毒竜もやるものだがっ!」
そう吐き捨てるヴァジェの台詞は、エンバイオの実力を認めざるを得ない、と戦闘開始からの短時間で認識させられた為に、実に苦々しい響きを含んでいた。
真贋を問わず竜種には毒竜と呼ばれる系譜が存在するが、ヴァジェの知る毒竜の中で、エンバイオは確実に上位の中の上位に位置づけられる。
「一年前の私だったなら、あるいは負けたかもしれんが、今の私はもはや別個体も同然よ、ふっはははははは!!」
一際激しく、熱く、巨大な深紅の花がベルンの空に咲いて、濃緑の毒霧を一粒の痕跡も残さず焼き飛ばし、深紅の大花の発する余熱だけでも、エンバイオが全身に張り巡らせている魔力の鎧を砕かんばかりの圧力がある。
エンバイオはヴァジェが戦闘当初から今に到るまで、常に全開で魔力を行使し続け、それでいて疲労の影すら見せない事にも、行使される魔力の量にも質にも、内心で驚嘆を禁じ得なかった。あるいは戦慄であったかもしれない。
この高位の魔族でさえ恐怖と共に名を口にする自分が、毒竜エンバイオが孫娘でもおかしくない若き深紅竜に戦慄するとは!?
「長ずれば竜公や竜王にも達しかねん。成長途上の今にまみえた事を良しとするべきか」
「自分を灰にする相手と出会ったのを、良しとするとは、酔狂だな、偽竜!」
「傲慢が過ぎようぞ、深紅竜の小娘!」
「阿呆、私のこれは傲慢ではなく、至極当然の余裕に過ぎぬわ。なっははははは!!」
ヴァジェは、普段の彼女の言動を見聞きして、ドランを含め多くの者達が、英雄に討たれる邪悪な竜そのものだなあ、と思われているのを知らない。
未だ限界には程遠いヴァジェは、全身に滾る魔力を際限なく体外へと出力し、勢い激しく螺旋回転する炎の槍を無数に生み出した。ヴァジェの喉の奥から硝子の楽器を奏でたように繊細で、甲高い音が零れでて、炎の槍の熱量が瞬間ごとに増してゆく。
全竜種の中で最も竜語魔法の扱いに長けるドラゴン直々に鍛えられた、ヴァジェ渾身の竜語魔法による強化作用だ。
エンバイオが一瞬聞き惚れる程に美しい深紅竜の歌声は、地上に落ちれば一面を溶岩の海へと変える脅威を作り出していた。
「敵ながらなんと見事な!」
「LuLaLaaaaa!!」
防御しきれないと判断したエンバイオの行動は迅速を極めた。無数の炎の槍が彼に命中するまでのごくわずかな時間に、彼の左腕を覆うアメジストの鱗が溶け崩れるように形を失い、鱗に続いてその下の肉も血管も骨も同じようにアメジスト色の液体へと変わった。
自らの体の一部をそのまま猛毒へと変換し、より凶悪極まりない毒を作りだす我が身を触媒とするエンバイオの切り札の一つである。
左腕と引き換えに量・質ともに増したアメジスト色の煌めく毒の液が、怒涛の勢いで迫りくる炎の槍へ殺到して激突、蒸発させんとする深紅の炎と竜の炎すら蝕む毒が拮抗状態を生みだした。
「我に勝る毒無し。我が毒に犯せぬもの無し。我、千の悪意、万の毒の王なれば! GUOOO!!」
「むっ、偽竜の竜語魔法で強化したとてぇ!」
「ヴァン・ヴェノムイド!」
「はっ、そういえば、技の名前を考えていなかった!?」
戦闘の最中とは思えない間抜けな叫びを発したヴァジェと、幸いそんなヴァジェの叫びが届いていなかったエンバイオの全身を毒と炎の混じる爆風が襲った。
両陣営の最強格の竜達が誇りを掛けて全身全霊の戦いを繰り広げる中、彼らの下方では魔王軍のネイバーンとそれを率いる偽竜と、モレス山脈に棲息するワイバーンならびにオキシス、フレアラ等の竜達がこちらもまた砲火と爪牙を激しく交えている。
搭乗者と一体となって空を飛び、戦うネイバーンに対して、あくまで単独で戦うワイバーン達は、個としての戦力ではどうしても劣る面があると言わざるを得ない。
また、魔王軍麾下の航空戦力として集団での戦闘を前提とした訓練を日ごろから重ねてきたネイバーン達に対しても、集団戦という観点から見ればワイバーン達は大きく劣っている。
ネイバーン達を統率する飛行騎士や偽竜達も指揮するのに慣れたもので、二体から三体で一組となり、互いを援護しながら戦っているワイバーン達に対しても、こちらが質も量も勝ると確信したものだった。
彼らのその確信に大きく罅が入ったのは、偽竜達による偽・竜語魔法による長距離砲撃を加えるよりも早く、より遠い距離でワイバーン達がそれぞれ後足に掴んでいた物体を放し、それらがこちらへと向かって音の数倍にも達する速度で迫ってきた瞬間からだった。
「何か来るぞ、各騎、迎げき――いや、回避し……!?」
最も突出していたとあるネイバーン小隊の隊長が、彼我の距離とそれを瞬時に詰めてくる速度から導き出した指示は、最後まで彼の口から発せられる事はなかった。
ワイバーン達が運搬していた、竜の頭部を模した先端を持つ柱状の物体――対象の熱反応と魔力反応を認識し、自動追尾して命中時に充填した魔力を炸裂させる、ミサイルゴーレムだ。
元々、自動追尾機能を有する魔法はそう珍しいものではないが、軌道追尾機能を付与し、ゴーレムという形で量産し、兵器として運用するとなるとこれはかなり稀な例と言えるだろう。
大元の発想は、ドランがドラゴン時代にこういうのを人類が使っていたな、というか何回か私にも使われたな、という記憶からになる。
実に様々な核やらブラックホールやら空間消滅やらと、様々な弾頭を積んだミサイルないしはそれに類する兵器を使われた物だが、ドランとして生きるこの世界の技術水準と照らし合わせた結果、ミサイルゴーレムには単純に魔力を充填するだけとなった。
ネイバーン達は搭載した増幅器によって強化した魔力を使い、自動で防御障壁を展開できるのだが、ミサイルゴーレムは単純な速度と質量だけでもその障壁を突破し、炸裂した魔力はネイバーン自身と搭乗者を纏めて木端微塵にするだけの威力があった。
ネイバーン四百騎に対してワイバーン側は三百騎程と数の上での不利があったが、魔王軍側の想定を越えた初撃によって、ネイバーン側は実に百四十騎近くが撃墜と大損害を被った。
ミサイルゴーレムは二百発以上が発射されていたが、この内、六十発近くがその危険性に気付いた偽竜達によって対処されていた。
あるものは偽竜の放った光線に撃ち落とされ、またあるものは多重に展開された新たな防御障壁に阻まれ、またあるものは魔力探知を妨害する魔力波動を照射されて、あらぬ方角へと飛んで行った。
実際にはその倍以上のミサイルゴーレムを無力化すべく、偽竜達は行動していたのだが、ミサイルゴーレム達のいくつかは迎撃の光線やブレスを感知するや軌道を変更して回避運動を行い、またあるいは張り巡らされた障壁を回避するように飛翔したのだ。
その為に撃ち落とせた数が大きく減り、その分、ネイバーン達に犠牲を強いられる結果になってしまった。
爆炎の中から赤黒い肉片らしいものがバラバラと落下してゆくのを見て、エンバイオ達に準ずる指揮権を有する黒雷竜グロロッサは、露骨に顔を顰める。
軍隊としての完成度ではこちらが遥かに上だと自負していたが、あのような兵器をモレス山脈側が用意してきたのは、想定外と認めざるを得ない。
「だが、あまりに竜種らしくない。これは人間共の発想を感じさせる。手を組んでいたか?」
偽竜を含めて竜種は生まれ持った生物としての能力が高すぎる為、一部の例外はあるが、不便・不足を補う為に新たな技術や道具を開発するという行為そのものに疎い傾向にある。
生まれ持つ属性を帯びた魔力の操作や竜語魔法の技術を発展させての攻撃だったなら、グロロッサも人間との協力関係を疑いはしなかったろう。だが、ゴーレムという道具を用いて、兵器に仕立て上げるとなれば、これは竜種的な発想とは縁遠くなる。
ミサイルゴーレムの基本設計と量産を担ったのはドランだが、その彼とて大元は過去の人類の開発した兵器を参考にしているのだから、ミサイルゴーレムは竜種単独で開発した兵器とは言えまい。
グロロッサは魔法の矢等の理魔法と竜語魔法の組み合わせだけでも、同じように自動追尾機能を備えた魔法を作れただろう、と予測する。
それをある程度の自己判断能力のあるゴーレムという形にして、妨害や迎撃を受けても回避運動や軌道変更を自動で行うようにし、更には魔法を操る知恵を持たないワイバーンでも使えるようにしたのは、実に人間らしい合理的な攻撃性だ、と称賛半分、侮蔑半分の感情で吐き捨てた。
ワイバーン達の運搬していたミサイルゴーレムは第一波で弾切れとなったらしく、速度を上げて魔王軍側との距離を詰める動きに切り替わっている。
ネイバーンとワイバーンの主な武器であるブレスの有効射程には、今少し距離が足りない。その足りない距離を埋めるまでの間は、双方のより上位の存在たる知恵ある竜達が主役となる。
上空のエンバイオ達がモレス山脈の竜種の戦力をはるか上方に修正したように、グロロッサもまた彼らが相対しているオキシスを始めとした知恵ある竜達から感じられる力を受けて、戦意を滾らせていた。これは余力を残して戦える相手ではない。
仮にベルン軍とモレス山脈の竜種達を殲滅せしめても、その勢いに乗って残るアークレスト王国北部の諸侯らを討つのは、ほぼ不可能だろう。
「竜語魔法の展開が早いな。邪竜隊、総員、竜語魔法の詠唱用意。敵竜種に先んじての先制攻撃を優先する。射程を優先せよ」
グロロッサ以外の二十九体の偽竜達から了承の返事が届き、彼自身もまた自身の属性たる雷を核とした竜語魔法の詠唱を始める。
グロロッサの稲妻のような金色の線が無数に走った黒い巨体に、紫電のような魔力が走り、その周囲にバチバチと激しい音を轟かせる。何十体もの竜種の咆哮と聞こえる詠唱が重なり合い、辺り一帯に膨大な魔力と破壊の予兆が満ち溢れる。
いよいよもってグロロッサを筆頭に、偽竜達の詠唱の最も早かった者が終わり、姿を見せた竜種達に先んじて、偽・竜語魔法が放たれる数秒前、既にモレス山脈の竜種達が竜語魔法の詠唱を終えているのを、グロロッサの瞳は捕捉した――してしまった。
馬鹿な、早すぎる、まだ射程が、といくつもの身近な思考がグロロッサの心中で交わされ、無数の竜語魔法が彼らに襲いかかった。
この時、グロロッサの想定が裏切られたのには、モレス山脈側の後方に位置している竜達が前衛のオキシスらに何重にも強化魔法を施していた事、前衛と後衛双方の竜達にドランが監修した特製竜語魔法の基盤となる術式が教授されていた為だった。
ドランが地上の竜種用に調整して構築した術式は、これまで彼らの使用していた竜語魔法の精度や威力を含めたあらゆる面を強化し、格段にその性能を向上している。
フレアラの放った真っ赤な熱線を始め、オキシスの翡翠色の竜巻、竜種の魔力を圧縮した砲撃が、グロロッサ達偽竜の陣営に襲いかかる。
グロロッサもまた偽・竜語魔法の詠唱を無理やり中止し、行使に回していた魔力を防御へと刹那の判断で振り分ける。
他の偽竜達もグロロッサ同様に行動を攻撃から防御へ切り替えるか、回避運動を執りながら偽・竜語魔法の詠唱を続行して発動させる者達とに分かれた。
あわや直撃という軌道で迫ってきた青い魔力砲撃を回避したグロロッサは、数枚の鱗が砕けた痛みを感じながら、ネイバーン隊の状況を見やった。
知恵ある竜種同士の竜語魔法合戦に巻き込まれては一たまりもない為、ネイバーンもワイバーンも上位種達からは距離を取って離れており、両翼と下方に戦力を分散させている。
上方に戦力を展開していないのは、上空の古竜級の余波に巻き込まれる危険性が格段に増す為だ。時折、放たれる余波や流れ弾は、同じ系統樹にありながらこうまで違うかと嘆く程、強力な破壊力を秘めたものばかりなのだ。
モレス山脈側からの予想を越える速さと遠距離からの攻撃は、偽竜を主要な目標としており、三方に展開したネイバーン達には目もくれず、今もグロロッサの周囲を絶え間のない竜語魔法による攻撃が加えられている。
これが詠唱速度と射程距離を優先し、威力を二の次にした攻撃魔法であるならば、グロロッサはそこまで焦燥感を抱きはしなかったろう。
だが、今、彼らに放たれている竜語魔法の破壊力たるや、少しでも気を緩めれば防御障壁を易々と貫通してこちらに大打撃を与え得る代物ばかり。下手をすれば一撃で撃ち落とされる危険性すらある。
「ネイバーン達の兵器としての運用では上回っても、竜としての性能で大きく上をいかれるとは、なんという屈辱!! このままでは陛下にもマスフェロウ様にも顔向けできんっ」
屈辱に歯噛みするグロロッサは多少の被弾は覚悟して、少しでも早くモレス山脈側の竜種に打撃を加えるべく、雷撃の偽・竜語魔法の詠唱を再開する。
真なる竜種達が自分達を上回るという、偽竜にとって最悪にして最大の恥辱に怒り狂っているのは、グロロッサばかりではない。残る偽竜達も怒りと憎悪に魂を振るわせて、あらん限りの魔力を練り上げて反撃の体勢に無理やり移行している。
間もなく、上空の古竜級の激闘に続き、知恵ある竜同士の種族規模の敵意に突き動かされた死闘が、更なる苛烈さで再開されるのだった。
竜種達の戦闘は高空で行われている事もあり、遠く離れた場所からもはっきりと爆発の煙や炎、自然現象ではあり得ない雷雨や暴風に閃光が確認できた。
魔王軍の後方に陣取る陸上艦隊からも望遠鏡を使わずとも、竜種達の激闘は目視する事は出来ていて、合わせて通信を担当しているネイバーンからの連絡を受けており、味方の苦境を、ほとんど時間差なく知らされている。
艦隊の旗艦を務めるメギン級陸上戦艦メギン・オルの艦橋には、艦長を務めるマラハウ大佐がその左肩に艦隊司令を任された魔六将の一角、魔蜘蛛クインセを乗せて、共に通信士からの最新の報告に耳を傾けていた。
先にベルンを訪れたペルリ同様、眩い勲章と階級章に飾られた軍服に身を包むマラハウは、眉の上に小さな第三、第四の目を持ち、薄い青色の肌を持った魔族の女性である。
長く伸ばした深緑色の髪の毛先を右手で弄ぶ彼女の顔は、折角の美貌が台無しになる程、渋く顰められている。
「航空部隊の苦戦はこちらの想像を大きく越えているねえ、クインセ様。これはいつもの陸と空の連携は取れそうにないと判断するしかなさそうだ」
軍内部での階級で言えば大将に相当するクインセにも、マラハウは媚も怯みもない様子で、むしろ親しげに話しかける。
「エエ、ドウヤラカノ山脈ノ竜種達ニ革新的ナナ何カガアッタヨウネ。コレデハイクラ、エンバイオ達デモ突破ハ容易デハナイ。ムシロ……イエ、口ニスベキデハアリマセンネ」
クインセが口を噤んだのは、エンバイオ達が撃退される可能性が高いと艦橋で口にしては、艦隊の士気に関わると判断したからだ。マラハウはそれを察しながらも、こちらからエンバイオ達を支援する術はないとし、話題を切り替える。
「我々は予定通り、ガロアからアークレスト王国の諸侯軍が動く前にネロジム砦へ侵攻し、これを叩く、この方針に変更を加える必要は感じませんが、よろしいですかね、クインセ様」
「エエ、コレ位ノ想定外デシタナラ、我々ガ足ヲ止メル必要ハナイデショウ。ソレニ、私達ガ変更ヲ考エテモ、彼ハ納得シナイデショウ」
クインセの言う彼ことヴェンギッタの性格を思い出して、マラハウは特大の溜息を零しそうになり、それなりの気力を消費してこれを飲み込んだ。
正直に言って、今回、アークレスト王国方面に派遣された軍の構成は、ヴェンギッタを中心として成り立っており、艦隊はどちらかというおまけに近い。
モレス山脈の竜種を考慮して、航空戦力はかなり充実しているが、通常の陸上戦力はかなり心許ないのが実情だった。魔力将の中でも集団戦で力を発揮するクインセとヴェンギッタがいる為の、極めて偏った編成となっている。
例えば八隻からなるこの艦隊の内、メギン級は二隻だけで、残りは輸送艦として正式採用されているユウン級三隻、そして残る三隻はヴェンギッタが所有権を有する特殊な艦だ。
ユウン級に搭載されている物資も、その多くがヴェンギッタの為のもので、生憎とこの艦隊はクリスティーナやドランがひっそりと期待していた魔王軍の軍事物資に乏しかったのである。
「メギン・レーンには地上に墜落した友軍の救出に向かうよう連絡を。ヴェンギッタ様には作戦を変更する必要性は見受けられず、と伝えておけ」
「艦長、前線のヴェンギッタ様から既に通信が」
ひどく言いにくそうにこちらを振り返って告げる、単眼族の女性通信士に、マラハウは無言で続きを促した。
「“私は行く。私達は行く。天を埋め尽くす生命の輝き、死の囁きにも我らの足は止まらず。私の意思は前へ前へ。私の瞳は彼方の美しき人を求めて虚像を映し続ける。そして虚像は実像へと変わらなければならない”……以上です」
「やっぱりかい、あの方は」
「ヤハリ、ソウナリマシタネェ」
四つ目の女性艦長と魔蜘蛛は、共に呆れやら諦めやらをたっぷりと含んだ言葉を口にしていた。
そして朋輩達に大いに呆れられていると、ヴェンギッタは知っていたか知らないかは分からぬが、彼ないし彼らは徹頭徹尾目的を果たす為にひたすら邁進していた。
ベルンからジョウガン要塞へ報告された敵兵五万、これは陸上艦隊より先行している歩兵の数を示し、その姿を伝えたものだったが、それを知ればベルン側の諸兵達もまた知った時には驚きを禁じ得なかったものだ。
土煙を風が運ぶ荒野をヴェンギッタ達は駆けている。
裾は擦り切れ、ほつれの目立つ服装に身を包んだ少年少女が、色彩は鮮やかに刺繍は精緻に施されたドレスを纏う淑女が、陽光に煌めく艶めいた黒の燕尾服に袖を通した紳士が、またあるいは猟師らしき男が、医師らしき女が、聖職者らしき男女が、鍛冶屋らしき老人が、歌手らしき女が――。
人種も職業もまるで統一性のない総勢五万からなる集団。外見から分かる共通点は、彼らが戦場に居るのに相応しいとはいえぬ集団である事。
しかしてその実体は、その全てがヴェンギッタ。五万体の内、一つの例外もなくヴェンギッタの意思によって統一され、また同時にヴェンギッタという存在を構成する部品でもある『人形』。
数千、数万の群体をもってヴェンギッタという個となす。それが魔六将ヴェンギッタと人形劇団の特性であった。
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第二百八十五話
大地を疾駆する人形達に休息は必要ない。食事も必要ない。睡眠も必要ない。
これ程、便利で都合がよく、敵にすれば厄介な存在は少ないだろう。一切、侵攻速度が弛む事はなく、生命活動を維持する為の食事も不要だから食糧を輸送する必要もない。
仮に七日七晩走り続けた後であろうとも、人形達は一切の疲労なく万全の状態を維持したまま戦い始められるのだ。
そして何よりも彼らには恐怖の感情がない。ヴェンギッタ自身は感情を有する生きた人形だが、こういった戦場に投入される自分達には不要だと感情を排し、戦闘に特化した機能を持たせていた。
休まず、食べず、眠らず、恐れない。しかも一つの意思で完全に統率された軍勢。確かにこれは厄介に違いない存在だ。
間近でつぶさに観察しても人形とは分からぬ程精巧なヴェンギッタ達は、彼らの存在意義を揺るがす程に美しかったクリスティーナを求め、荒野を進む。
これでも一応は魔王軍ひいてはムンドゥス・カーヌスの重臣としての自覚が少しはある為、アークレスト王国攻略の第一歩として、ベルン軍の壊滅を忘れてはいない。まあ、クリスティーナの領地であるから、というのも大きな理由の一つであるのは事実だ。
白い前掛け姿のでっぷりと太った中年男性の横を、胸元の露わな赤い髪の女を後ろからするりと抜きさって、杖を突く枯れ木のような老人を飛び越えて、ヴェンギッタ達の中でも特に足の速い者達が更に更にと前へ進む。
「私よ私、私達よりも早くクリスティーナの顔を見ておくれ」
金属製の胸当てをし、手には五人張りの強弓を手にした男性ケンタウロスの人形が張りのある声で、目の前に恋しい誰かがいるかのように謳う。
天性の素質と弛まぬ鍛錬によって形を成した強靭な人間の肉体と、艶めく毛並みを持った馬の肉体とが奇跡的な調和によって成り立たせている種族の理想像といえる姿だが、一体誰がこの男性が人形であると外見だけで看破出来ようか。
「ああ、私達、私達、見よう、見よう、見るぞ。この世の美の極限を。かつてない程に私の魂を揺さぶった衝撃を、私の存在を新たな段階に昇華させてくれる切っ掛けを。ああ、私は私達の手にアレを抱くのだ」
ケンタウロスと同じく集団から飛び出した豹人の女が、感極まった表情で火を纏わんばかりの情熱を持って叫ぶ。
黒地に白い斑模様の毛皮を纏った四肢は、豹と同じように意外と太くふっくらとしているが、半袖ひざ丈のスケイルメイルから覗く地肌には、筋肉の筋がうっすらと盛り上がっており、この女性型の人形もまた戦闘を想定した個体なのだろう。
「邪魔する者はどうしよう、細い首を絞めて、柔らかな内臓を取り出して、骨から丁寧に肉を引き剥がしてしまおうか。肉の山と、骨の山と、生皮の山と、湯気を立てる内臓の山と、鮮血の湖でクリスティーナを飾る服を作ろうか、首飾りを作ろうか、それとも彼女に捧げる楽器を作ろうか」
本当に生きている狼そのものにしか見えない狼が、彼らの悲願を邪魔する者への一切の慈悲の存在しない歌を歌う。
目的の為ならば手段を厭わぬという堅固な覚悟とそれすら霞むおぞましい狂気、五万の群れから突出した三千のヴェンギッタと、徐々に速度の差から距離の開き始めた四万七千のヴェンギッタ達が狂気の合唱を始める。
耳にした者がその日、一日、生きていて良かったと眠りに入る前に思い返す程に美しい。
耳にした者が自らの記憶から抹消したいと心から願う程に醜い、あまりに自分勝手な欲望。
美しさと醜さの同居という矛盾。美しいのに醜く、醜いのに美しい。しかし、その矛盾は実に人間的ではあるまいか。
「私達は行く。お前を得る為ならば、幾千、幾万の命をも奪おう。お前を得る為に、幾千、幾万の命を救わねばならぬなら救おう。美よ、美よ、私達はそれをもっがっ!?」
一際美しい黄金の波打つ髪と真珠を思わせる肌の女が頬を赤らめて大きく歌い、直後、踏んだ地面が爆発して彼女の足から胸元までを容赦なく吹き飛ばした。
彼女ばかりでなく突出していた他のヴェンギッタ達も連鎖するようにして、原型を留めぬ程の爆発が生じて、荒野の一帯を黒い爆煙と炎や雷が派手に彩る。
防衛・迎撃戦において、予測進路や交戦地点の地面の下に予め罠や仕込みをしておくのは、ベルン側の大得意とするところ。
今回はいわゆる地雷が無数に埋め込まれていた。一部の地雷は自律『
地雷に使用されているのは加工した火精石や雷精石、魔晶石を特別配合したものから、一般に普及している黒色火薬を用いたもの、それらの複合物などなど、中にはモレス山脈の竜種が特別に魔力を抽出して結晶化したものまで。
その威力たるや、不意打ちとはいえ外見に反して銃弾を弾く強度と魔法防御を併せ持つヴェンギッタ達を容赦なく吹き飛ばしている光景からも分かる。
「おお、おお、地雷とは古典的だが有効的な。しかし私達の足は止まらない。私達の熱意は消えない。私達の渇望を満たせない。私は行く、おお、行き続けるのだ!!」
腰から下を完全に失い、右半眼も吹き飛ばされた女エルフの人形が、時折、ひび割れた鐘のような声で歌い、他のヴェンギッタ達はその通りに眼前に広がる――見えないが――地雷原を気にした風もなく走る。
彼らの足は止まる事を知らなかったが、その代わりに横に大きく広がっていたのを、縦に並び直し、足の速い者達を先頭に次々と地雷原の中へと飛び込んでゆく。
彼らと何の対抗策もなしに地雷原に突っ込んでいるわけではなく、彼らの内で弓矢や銃器類を装備している人形達が眼前の地面へと向けて次々と発砲し、地雷を起動させて可能な限り排除している。
それでも自ら動くマインゴーレム達が他の地雷も牽引して、自ら位置を変えている事もあり、少なくない数のヴェンギッタが地雷の爆発に巻き込まれて、次々と四散してゆく。
加えて地雷が爆発すると同時に魔力による探知を妨害する特殊な粉末が飛散して、ヴェンギッタ達の探知能力を著しく下げるおまけつきだ。
短期間の間に無数の地雷を用意し、更には埋設を終えているベルンは相変わらずの非常識さだが、この時、ヴェンギッタ達の後方に留まっていた陸上戦艦の内、二隻が艦隊から離れてヴェンギッタ達の後を追い始めていた。
メギン級ともユウン級とも異なるその艦は、流線形の船体の左右に箱型の構造物が三つずつ合計六つ備わっており、何よりも目を引くのは船首部分に巨大な頭部がある点だろう。
片方は世界中の船主達が羨望する船首像に相応しい白い長髪の美女、もう片方は如何にも頑迷そうな老職人を思わせるしわくちゃで長い髭の老人だ。
マラハウやクインセではなくヴェンギッタの指揮下にあるこの二隻は、人形劇団を構成する無数の人形達と同様に、ヴェンギッタの意思と操作によって自在に動く、陸上戦艦型の人形(?)なのである。
内蔵した地精石によって重力を緩和し、風精石によって推力を得て、地面から浮上して進む陸上戦艦の足は速く、見る間に地雷に吹き飛ばされたヴェンギッタの部品が転がる地点にまで到達する。
あまりに巨大過ぎて滑稽にも見える戦艦の顔に、地面に転がっているヴェンギッタ達のいくつかが声をかけた。移動する事もままならないが、声を発する程度には形を残している者達だ。
「私よ、私達よ、私は腰から下を失ってしまった」
「あたしは首から下が全て粉になってしまったわ! なんてひどい仕打ちをする者達なのかしら?」
「グウォオ、オウ、ウォフ……」
「おれはこの通り、左半分がない。這って進むのも片足で飛び跳ねるのも出来るが、これではどうにも速度が得られんぞ」
ヴェンギッタ達は外見と与えられた役割によっては、口調や表面的な性格が異なるので、戦艦のヴェンギッタに向けて発せられた声色や内容は大に小にと異なるものが多い。
大劇場で観衆に披露されるべき美声もあれば、酔いどれ親父が千鳥足で歌っているとしか思えない調子外れの声まで、千差万別の要求に、女顔の戦艦ヴェンギッタ――通称アトリ・ヴェンギッタ略して『アトリエッタ』が先に応じた。
「さあさあ、私達よ、私に元の通りに修復して欲しかったら、餌を求める雛鳥のようにさえずるのをお止め。お前達が話す度に声が部品に伝わって罅が広がる。欠けた破片が零れ落ちるのだ!」
アトリエッタの両舷の箱の側面が開くと、そこから無数の腕が現れた。球体の関節を有するその腕は、一本の例外もなく思わず見惚れてしまう程に美しい造作の繊手であった。
針仕事の傷一つ、水仕事の荒れ一つ着いても、万人が嘆きの声を漏らすであろう。百足の足の如く無数の手を生やす人面の船という、何とも奇怪な姿はアトリエッタだけではない。
老職人の顔を持った片割れ――スミス・ヴェンギッタ略してスミッタも同じだ。こちらもまた老人の顔には似合わない繊手と美指を備えた無数の手を両舷の箱から伸ばして、地面に転がっている自分達の部品と破片を一つ一つ丁寧に、そして恐ろしい速さで摘み上げて行く。
手は様々な道具を持っていた。大きさから形状まで様々な
色も素材も様々な糸、布地、更にはダイヤモンドやルビー、サファイアといった宝石類から鉄に銅、金に銀まで、人形達の部品と彼らの衣服や装飾品の材料だろう。
スミッタは手の中に拾い上げた人形達を見て、頑迷な職人らしい溜息を零す。
「わし達よ、わしが修復するのにどれだけの手間がかかるか分かっているだろうか。しかし直さずには済むまい。麗しきクリスティーナ、美しきクリスティーナ、あれをわしらの手に抱くまでは」
アトリエッタとスミッタの千本にも届こうかという手が、残像を描く速さで一斉に動き始める。一体一体の損傷を確かめ、作り貯めてある部品で済む損傷はそれで済ませる。
在庫の見当たらない部品に関しては、鉋や鑿が軽やかに厳かに音を立てて成形し、釘や縫い針、あるいは接着剤と塗料の出番になる。
人形劇団の修復と製造を一手に担うアトリエッタとスミッタの『手』によって、地雷原に吹き飛ばされた人形達は凄まじい速度で修復されてゆく。中には彼らでも修復できない程に破壊されたものもあったが、少なくない数が戦線へと復帰している。
休まず、食わず、眠らず、恐れず、そして死なず。加えて自己修復、自己製造、自己改造の三つの機能を備えるヴェンギッタは、魔王ヤーハームが認めるように魔六将に相応しい怪物であるだろう。
集団の先頭を行くヴェンギッタ達は進行方向の地雷を一掃しつつ、地雷を踏まずに進められるように地面に向けて、携行していた刀剣や槍、またあるいは壊れた自分達の手足等を突き刺して、足場にしていた。
地雷に含まれる妨害物質の所為で彼らの探知能力は低下していたが、昆虫類を模した小さなヴェンギッタ達が地面に降り立ち、地中を移動するマインゴーレム達の動きを感知して、彼らを迎撃する事によって地雷による被害を最小限へと抑え込んでいる。
具体的にはマインゴーレム達の接近を、地面に這わせた節足や糸を経由して感知すると、比較的戦闘能力の低い人形達が自らマインゴーレム達へと向かって駆け出し、地中の彼らを目掛けて自らの手足や武器を突き刺して、自分もろとも爆発させるのだ。
後方のアトリエッタとスミッタの修復作業で、ある程度は数の損失を補える彼らならではの自己犠牲とはまた異なる対処法だ。
自立自埋するマインゴーレム達が避けられれば、自らヴェンギッタ達の進行方向に移動する為、ヴェンギッタ達の地雷突破行は異様に長いものとして続いたが、流石にそれもいつかは終わりが見えてくる。
大きく進行速度を落としつつも、地雷原の終わりに差しかかった時に、後方で修復中の個体を除いて、ヴェンギッタ達の総数は四万五千にまで減っていた。
しばらく疾走しても新たな爆発が前方から生じない事に、さしものヴェンギッタ達が達成感をかすかに抱いた時、まさにその心理を狙い澄ましたかのように、今度は地中からではなく上空からの洗礼が彼らに等しく襲いかかった。
背後の爆発音と上空の竜種達の戦いとは異なる風切り音に気付いたヴェンギッタに、驚きの感情はわずかも浮かんでいない。ここまでしてくるベルンならば、地雷原を突破した時を狙い澄まして更なる攻撃を加えてくる等、容易に想像がつく。
「砲弾か。ああ、なんと無粋な鉄の、鉛の? 冷たき塊……いや、撃ち出されているのだから熱を帯びている?」
「おお、新たな試練に私は立ち向かう。クリスティーナを得るための試練と考えれば、なんと安易で容易な」
後方からぶん、と音を立てて空を飛ぶ物体があった。男性の蜂人型ヴェンギッタが、巨人型のヴェンギッタによって飛来する砲弾を目掛けて投げ飛ばされたのだ。
空中に勢いよく投げ飛ばされた蜂人型のヴェンギッタは、両手に持った偽竜の骨を加工して作った巨大なボーンメイスを振るい、次々と砲弾を空中で砕いてしまう。
他にも砲弾を叩き落とせる膂力と飛行能力を持つヴェンギッタ達が空を舞い、蜂人に続いて砲火の雨に対する傘として機能し始める。
そしてヴェンギッタ達もただ攻撃を受けるだけではない。進軍の速度を更に大きく落としながらも、後方から腕そのものが大砲となっている者や大砲を背負った馬や亀のような姿をした者達が姿を見せて、お返しだと言わんばかりに大砲を撃ち返し始めた。
鳥人を始め、視力に優れた種族を模したヴェンギッタ達は、こちらに向けて砲撃を加えているベルン軍の陣営を捕捉しており、こちらの大砲が十分に届く距離である事を理解し、情報を共有していた。
はるか上空で繰り広げられている、地上最強種の真贋による死闘には流石に及ばぬまでも、地上でもまた技術と戦争の歴史が生み出した兵器による攻防が繰り広げられていたのだった。
その片方を担っているベルン軍はというと、ネロジム砦から出撃し、ヴェンギッタの予測進路を割り出して地雷の埋設後、地雷原を抜けた地帯を大砲の最大射程に収められるよう陣地を敷いていた。
主力はネロジム砦所属の兵士達と、援軍としてドランが引きつれてきた兵士達の合計二百名とそれに加えて戦闘用のゴーレム達が三百体。なお今もドランが簡易型のゴーレムを生産中である。
ネロジム砦から持ち出してきた大砲や改造投石機、大砲を搭載したゴーレムの類を、即席で作り上げた土塁の上に並べて、間断なく砲撃を加えている最中にあった。
ベルンの騎士団長を務めるバランからすれば、以前はベルンで銃火器を揃えるのは難しいと話をしていたのに、型落ちの中古品や大安売りしていた旧式品とはいえここまで数を揃えた事実には、苦笑いを禁じ得まい。
いかんせん中古品や倉庫の片隅で埃を被っていた品が多かったが、そこはそれ。ドランと過去の超技術の産物であるドラッドノートが戦争という大義名分で言い訳をし、改造を加えた結果、技術水準で勝る魔王軍のそれらと遜色のない水準にまで引き上げられていた。
性能は良くとも運用する技術がなければ宝の持ち腐れだが、特に大砲類に関してはゴーレム化していなくとも、ドラッドノートが砲弾の着弾地点と軌跡を極めて正確に予測できる装置を取り付けており、運用技術の蓄積の無さを無理やり補っている。
ドランはネロジム砦の指揮官シニスタと共に、陣地の最奥に敷設された指揮官用の天幕に居た。他にも数名、連絡用の人員を含めた者達が居り、中心に置かれた卓の上には、偵察用の鳥型ゴーレムから中継された前線の映像が投影されている。
五万超という軍勢に対して、千にも満たない軍勢で戦わなければならない現実に、ドラン以外の面々は内心では死を覚悟していただろうが、思いの外、地雷地帯や今も加えている砲撃の効果が大いにあるように見えて、多少顔色が元に戻っている。
そんな彼らもヴェンギッタ達から撃ち返されてきた砲弾が陣地に着弾し、轟音と震動がびりびりと天幕を揺らすと、再び顔色を青く変える。不安の色を濃密にする彼らを安心させるように、ドランが口を開いた。
「あちらからの砲撃は全てバリアゴーレムが防いでいる。魔王軍からの砲撃は何も脅威ではないよ」
戦闘開始前から今に到るまで、一度も動揺する素振りのないドランの態度と発言の内容に、傍らで副官めいた真似をしているシニスタが真っ先に我に返る。
「は、はい。確かに着弾の音は頭上から聞こえて来ているようですね、補佐官殿」
土塁の内側の陣地には、簡単な住居施設としての天幕の他にも、迅速に人員を輸送する為の巨大な百足のようなゴーレムもあった。
馬車の荷台を何十と連結し、路面の整備されていない荒野でも踏破出来るように、百足よろしく無数の節足を持たせたもので、遠目にはとんでもない大きさの百足に見える為、多少、外見の評判はよろしくない。
土塁の上に配備されたバリアゴーレム達が頭上に展開した、半透明の結界のお陰で、ドランの言う通り、これらの設備や装備に被害は及んでいなかった。
「ところで、上空の竜種の方達の戦いはどのようになっておりますでしょうか?」
魔王軍との戦いに於いてもっとも頼りになる存在の勝利の天秤については、シニスタばかりでなく他の者達も同様で、食い入るようにドランの顔を見ている。集中する視線に浮かびそうになる苦笑を押し殺して、ドランは卓上に上空の映像を新たに浮かべた。
「おお、これは、何と激しい!!」
映しだされたのは数百を超すワイバーンとネイバーン、そして出現すれば国家を揺るがす脅威となる知恵ある竜達の生死を掛けた本気の殺し合いだった。
数で不利なモレス山脈側の竜種達は、やや後方に陣取っている他の竜種達からの強化魔法を何重にも受けて、質をもって量を上回り、更には燃費の差を最大限に活用して、全力の竜語魔法とブレスの乱射を続けている。
もし竜種同士の戦いが地上の戦場の直上で行われていたなら、無数の流れ弾と余波によってヴェンギッタ達とベルン軍は壊滅していてもおかしくはない。
「ふむ、ヴァジェが敵の大将格を相手に優勢に戦っているのが大きいな。それにジオルダ老も上手く戦っているし、風と雷の若者も格上の偽竜を相手に巧みな戦いぶりだ。これならば竜種の戦いが地上に波及はしまいよ」
「左様でございますか。ベルンにて補佐官殿ほど、竜種の方々と通じておられる方はおりませんから、言われる通りなのでしょう。では地上の我々はいかがいたしますか?
先のガロア会談にて男爵様が御呈示された、ベルン軍と諸侯の軍勢を別々に運用するという案は否定されたと伺いました。現状、図らずも提案された通りの状況に陥っていますが……」
シニスタが言っているのは、言葉通りベルン軍はあくまでベルン単独で動き、諸侯の連合軍とはお互いを囮ないしは遊撃軍として扱い、ベルンが攻められるならば諸侯は敵陣の背後か横腹を突き、逆にガロアを始め北部の諸侯の領地やガロアが攻められるなら、ベルンが同じようにする、という提案だ。
ベルンの軍勢の規模の小ささを主な理由として否定されたこの案は、シニスタの言う通り、ベルンが囮兼釣り餌となる形で現在進行中である。
「あの人形、ヴェンギッタ達の侵攻を阻む為にもしばらくは砲撃を続けたい。被害を無視して進軍を再開している以上、いずれ正面からの激突は防げんが、幸いにして切れる札はまだ何枚もある。それに、私達もただ攻められてばかりでは芸がない。そろそろ、反撃に本腰を入れようじゃないか」
ドランには珍しい好戦的な笑むがうっすらと浮かび上がった時、アトリエッタとスミッタの近くの地面から、ぴょこんと黒薔薇の芽が顔を覗かせたのを、さて、ヴェンギッタは気付いたかどうか。
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第二百八十六話
地雷と砲弾で吹き飛ばされたヴェンギッタの破片がばら撒かれた荒野に、ぴょこん、と絵本の中の一場面のような音を立てて、黒薔薇の芽が一つ、また一つ顔を覗かせて、見る間に荒野に黒い領土が広がってゆく。
修復と製造、改造を一手に担うアトリエッタとスミッタを含め、無数のヴェンギッタの足元を彩る黒薔薇の芽は、無論、尋常な植物ではない。ベルン男爵領の植物園管理者にして、補佐官ドランの婚約者である黒薔薇の精ディアドラの一部だ。
今や黒薔薇ばかりでなく花精の中でも最強と評しても差し支えのないディアドラの芽は、異常に気付いたヴェンギッタ達が瞬きを――人形でありながら!――をする間にも、刹那毎に急成長してゆく。
ついには巨大な陸上戦艦であるアトリエッタとスミッタの船体に絡みつき、周囲に広がっていた無数のヴェンギッタ達にも鋭い茨と妖艶な薔薇が、この上なく美しく危険な拘束具として襲いかかっている。
どんなに生身の人間と見えていても、その実は魔性に魅入られたかの如き技量と魔道の業によって動く人形達だ。柔らかくぬくもりを持った肌は同じ厚みのミスリルよりも硬く、婦女子の細腕も大男の剛腕も猛獣の首を簡単に引き抜く剛力を秘めている。
そんなヴェンギッタ達でも引き千切れぬ力で拘束を続ける黒薔薇に、男と女と老人と青年と少女と、人間とエルフと蜥蜴人と虎人と、老若男女と種族を問わぬ人形達が四肢を束縛されたまま、じいっと黒薔薇の
「エンテの森で咲き、育まれ、そしてベルンの地に新しく根付いた黒き薔薇。君が私達を知らなくても、私達は君を知っている。知っているとも。私達をこの地に届かせなかったゴーレム達の働きがあっても、私は、私達は、ヴェンギッタは知っているぞ。
黒薔薇の君、いつかどこかの人間の国で語られた悲恋の女と同じ名前の花の精。君がここで散れば、その名前に相応しい運命の末路だろう」
常ならばディアドラの黒薔薇はこのまま拘束した相手を絞め殺すか、あるいは毒を流し込んで絶命させる。しかし、黒薔薇の拘束具に絡め取られたヴェンギッタ達にその様子はない。ディアドラ程の猛毒ならば、無機物であろうと容赦なく溶解するにも関わらず。
黒薔薇は動きを止めただけではなく、やがて黒薔薇の方こそが毒に犯されているかのように苦しげに震えだし、更には満ち溢れていた魔力と生命力に翳りが見え始める。
「私への対策は十分に練ってきたというわけね」
苛立ちや苦しみの響きはなく、純粋な称賛とそれも当然かという納得の響きだけで構成されたディアドラの声がした。
ひらりひらりと黒い花びらを舞い散らせながら、妖艶なる黒薔薇の佳人はアトリエッタ達の背後にその影を落としていた。
荒野の一角を埋め尽くした黒薔薇と同じように地下を潜ってきたのか、それとも気配を絶って姿を隠していたのか、ヴェンギッタにも分からなかった。
「無論の事。君は、ベルン男爵領に住まう君達は、天然自然の災いにも匹敵する脅威。嵐が来ると分かっていれば、それに備えるのは当たり前。水が高い所から低い所へ落ちるように、風が吹けば火がより盛んに燃えるように、至極、至極、当然のことなのだ」
「ふうん、貴方達に情報が渡らないようにうちの頼もしい補佐官様が努力していたのだけれど、それも完璧ではなかったのかしらね。良かったらどうやって情報を得たか教えてくださるかしら? 役者なのか劇作家なのか、判断に困る方」
「私は役者、私は劇作家、私は演出家、私は彫刻家、私は画家、私は私達。私達は私。ここで私達に摘まれる君であろうと情報は渡せない。ああ、美しくい黒薔薇よ、私達の手で君をどのように飾ろうか、活けようか」
「言ってくれるものね。でもまあ、私を相手にそれを言う位には、やるのも確かね、貴方」
「恐悦至極。故に、全霊をもって賛辞への返礼としよう。是非とも受け取ってくれ。麗しき君よ」
老若男女の声が一斉に唱和し、黒薔薇の拘束から逃れたヴェンギッタ達が一斉にディアドラを目掛けて疾走し、跳躍し、襲い掛かった。
十人掛かりで引く強弓を手にしたケンタウロスが、流星と見まごう強烈な矢を放ち、場末の酒場の娼婦が毒を滴らせる短剣を閃かせ、厳めしい牛人の青年が巨岩をも砕くだろうメイスを振り上げる。
多種多様な種族の多彩な攻撃方法を前に、ディアドラは冷厳なる眼差しをそのままに、黒髪の合間から伸びている黒薔薇の蔓を大きく伸ばして、近づく者から順に叩き潰す事で応じた。
地中から根を伸ばして咲かせた黒薔薇は、ヴェンギッタが施していた対策によって無効化され、今や荒野には枯れ果てた無残な姿を晒している。
そうさせた何かの影響が枯れた黒薔薇を通じてディアドラ自身にも及んでいる筈だが、無数の蔓を縦横無尽に走らせて次々とヴェンギッタ達を弾き返す姿からは、痛みや苦しみを感じている様子はないように見える。
しかし、ディアドラの身近な者達、特にリネットであれば、ディアドラの蔓捌きにわずかな翳りが生じているのを決して見逃しはしないだろう。
常ならばもっと少ない数で、十重二十重に自分を囲いこみ、四方八方から襲い来るヴェンギッタを迎撃できるのに、不自然なまでに多くの蔓を動かして対応しているのは、蔓一本一本を精密に動かすのが難しいからこそだった。
単純な『振るう』という動作を無数の蔓に行わせる事で、落ちた精度を補っているのだ。
音の壁を破る破裂音が無数に鳴り響き、ディアドラの全てを塗り潰す黒薔薇の魔力が込められた蔓は、分厚い甲冑に勝る硬度のヴェンギッタ達を容赦なく引き裂き、粉砕し、元から地雷による損壊が見られていた個体などは、文字通り木端微塵に吹き飛ぶ有様であった。
ディアドラはネロジム砦を目指して進軍していたヴェンギッタの内、相当数が自分を目掛けて転身し、戻ってくる数を数えていた。
ネロジム砦にドランが務めている以上、数がどれだけいようが問題ではないが、ベルン軍はまともな戦闘等初めての者ばかりなのだから、なるべく数の差という不利は少ない方が心理的に助かるだろう、位の事は人間ならぬディアドラでも察せられる。
「たった三万ぽっちで私の相手が務まると? 砦に向かうよりも私一人を相手に全力を尽くすのが賢明だと思うわよ」
ディアドラが長髪の言葉を発する合間にもヴェンギッタ達は一つの意思に元に統一された動きで襲い掛かり、これをディアドラの操る十三本の蔓が迎撃している。
黒薔薇の蔓に右肩から左腰までを両断された兎人の美少女ヴェンギッタが、両断された身体で蔓を掴み止めながら答えを返した。鈴を鳴らすように愛らしい声は、苦痛など微塵も感じさせない。
「十分に務まるとも。三万の私達と戦わなければならない君は、私達を卑怯と罵る権利と資格がある」
言い切った直後、兎人の上半身は蔓から伸びた太く鋭い刺によって串刺しにされ、活動を停止した。
「卑怯ねえ。貴方達は複数で一つ。そういう在り方なのでしょう? なら三万対一でも一対一と変わりはしないわ。別に後ろめたく感じてはいないのでしょうけれど、本気でかかっていらっしゃいな。私はそうするだけの敵よ?」
ディアドラが不敵に笑み、周囲のヴェンギッタが不可解さよりもその笑みを脅威であると捉えた瞬間、『足元で枯れ果てていた黒薔薇を養分として』、再度ディアドラが密かに張り巡らせていた黒薔薇が急成長を果たしたて地中から林立する。
瞬きをする間もなく、ディアドラを囲いこんでいた無数の人形達を股下から貫き、体内で一斉に広がると人形達の目や口から蔓が伸びて全身を花開いた黒薔薇が彩った。
先程、黒薔薇を枯死させた何かが流れ込んでくるよりも早く、ディアドラは即座に黒薔薇の蔓を切断する。無数のヴェンギッタを破壊するのと引き換えに、黒薔薇の第二陣もまた枯死し、風に煽られて無数の破片となって舞い散る。
二度に渡って自らの分身を枯死させられて、ディアドラはようやくヴェンギッタの施した対策の正体を知る。ソレの厄介さは、ディアドラの眉間に罪深い皺が刻まれた事から推し量れよう。
「何処の誰かのかは知らないけれど、自分だけ死ぬのは許せない。この世の誰もかれもが自分と同じように、いえ、それ以上に苦しみ抜いて死ね、そういう性根の腐った怨念ね?」
「流石に分かるかい。我らの魔王ヤーハームが討ち取った魔花の王ビジュラニウムと!」
ぐおん、と巨大な物体が高速で動き、大気を大きく攪拌する音と共に、ディアドラの全身を打つ程の大声が荒野に響き渡る。同時に巨大な影がディアドラに降りかかっていた。
黒薔薇の精に影という更なる黒を落としたのは、右舷から伸ばした無数の手を振り上げた体勢のアトリエッタであった。
陸上戦艦という巨体で後方に居たディアドラに対し、あまりにも速過ぎる方向転換だが、答えは船底中央部からいつの間にか伸びていた無数の足だった。巨体の重量を十分な余裕を持って支えられる足が、アトリエッタのその場での瞬時の旋回を可能としたのである。
アトリエッタの航海の安全と守護を担う女神像の如き相貌には、神が人間に審判を下すが如き冷厳さのみがある。
「妖花の女王バンゼルニウラの断末魔の叫び、憎悪、怨嗟。それに指向性を与え、他の花や樹木の精らに対する特大の呪いとしたものなれば!!」
この時、アトリエッタの両舷から伸びた腕の数はそれぞれ五百本ずつ合計一千本。破損した自分達を修復する為の道具を持ったまま、右舷の五百本の腕が慈悲なくディアドラへと振り下ろされる!
ディアドラは壁の如き密度と広さで迫りくる五百本の腕の連打を、先程まで無数の人形達を叩き落としていた黒薔薇の蔓を折り重ねて、即席の防壁と変えて受け止めた。
陸上戦艦に搭載された動力機関の出力と大質量を乗せて放たれる連打と、それを受ける黒薔薇の防壁が激突した瞬間に生じた衝撃と音の激しさときたら!
ディアドラを通じて大地に流れた力によって地面は大きく割れてめくり上がり、大気に伝播した衝撃ははるか彼方にまで及んだ。
押すも引くも譲らぬ拮抗状態のまま、ディアドラは防壁とした黒薔薇の棘を伸ばし、アトリエッタの腕全てを穴だらけにせんと図った。
その殺気を悟ってか、刺が伸びる寸前にアトリエッタの腕は引き戻されて、その代わりに左舷側の五百本の腕がディアドラを右から横殴りに襲う。
陸上戦艦を動かす力で繰り出される連打に、ディアドラは防壁ではなく自身の右半身を覆うように黒薔薇の棘による槍衾ならぬ棘衾を作って迎え撃つ。
アトリエッタの力ならば棘衾を一撃で粉砕できるだろうが、引き換えに左舷側の腕五百本も穴だらけになって使いものにはなるまい。
千本の腕の半分をまずは奪うと決めたディアドラだったが、棘衾に直撃する寸前でアトリエッタが道具を手放して、その代わりに棘を掴み止めたのを黒薔薇越しに感じ取り、目論見が御破算となったのを悟る。
そしてディアドラの瞳はアトリエッタの後方で待機しているスミッタが、ディアドラによって破壊された自分達を次々と修復している姿もまた映していた。
ディアドラの破壊速度とスミッタによる修復速度は、現状、破壊速度の方が勝ってはいるが、アトリエッタを相手に手古摺ればあっという間に逆転される程度の差でしかない。
「っ、対策は効果抜群ね」
ディアドラが決して優勢とは言えない戦いぶりを演じているのは、初手から受けてしまった邪悪な花の精の枯死の呪いが、彼女の体内で荒れ狂っている為に他ならない。
魔界の瘴気に対する耐性を有しているディアドラでも、凄まじい倦怠感と悪寒、発熱、痺れに痛み等を伴う怨念は、彼女の集中力と注意力を大きく削ぎ落し、動きに精彩さを大いに欠く事へと繋がっている。
「ディアドラよ、ディアドラ、抗うな、立ち上がるな、膝を突いて倒れてしまいなさい。大地を寝床に天を仰いで目を瞑ってしまいなさい。貴女がもっとも簡単に楽になる方法がそれよ」
優しく囁くアトリエッタに、ディアドラはこれ以上ない愚者を見る目で答えた。調べたという割には、自分の性格をまるで理解していないと分かる言葉であったからだ。
「そんな無駄な事を尋ねるなんて、肝心な事を調べていないのね。生憎、この程度の枯死の呪いで根を上げる程か弱い女ではないのよ、私」
ゾワリ、とアトリエッタを含むこの場の全てのヴェンギッタ達の造り物の背筋に語るもおぞましい悪寒が走った。
ディアドラと彼女から伸びる黒薔薇の蔓の全てから、黒と青の二色の光が鬼火のように発せられるや、それに触れていたアトリエッタの五百本の腕の手首から先が無数の塵へと変わる。
塵に変わる寸前、アトリエッタは自分の中からごっそりと力を吸い取られたのを感じていた。ディアドラが生来有する力とは異なり、魔界の花の精から奪い取った吸命の力か、とヴェンギッタ達は即座に看破した。
おそらく戦闘開始直後からこの力を使わなかったのは、自分を蝕んでいる呪いの解析を優先し、力の使いどころを見極めようとしていたからに違いあるまい。
「今、その力を使いだしたのは、枯死の呪いをもう見切ったからか。それでも完全に無効化は出来ていないだろう?」
「それでも十分。魔王軍のとっても強い将軍様が一輪の黒薔薇に負ける事もあると、存分に教えてあげるわ」
不敵に、不遜に笑むディアドラの姿に、この場にいる全てのヴェンギッタが同じ言葉を零した。
「惜しい、この手で摘まねばならぬとは、なんと惜しい事よ」
貴方も言うわね、とディアドラは短く呟いて、死闘の新たな幕を上げた。
*
ヴェンギッタ達がネロジム砦の兵士とディアドラを相手に激闘を繰り広げている最中、後方のクインセとマラハウ艦隊がただ戦況を傍観していただけかと言えば、そんな平穏が許される筈もない。
ベルン側からすれば、魔六将とアークレスト王国に未配備の陸上戦艦という厄介な存在を自由に行動できる状態で放置しておくわけには行かなかった。
そして戦になる前にドランとクリスティーナ達が語り合っていたように、是非とも手に入れたい物資が山と存在しているのだから。
最初にソレに気が付いたのは、クインセであった。神代に生を受けた魔性の蜘蛛は、艦隊の極近辺に巨大な魔力の塊が出現しようとしているのを察し、反論を許さぬ声でマラハウに警告を発する。
「マラハウ、全艦ニ最大強度ノ対魔法障壁ノ展開ヲ命ジナサイ!」
マラハウは一切の逡巡なしにクインセの警告に従った。魔六将の意向というよりも、ここら辺は阿吽の呼吸と言うべき息の合い具合だ。マラハウがクインセに即座に従ったように、各艦の艦長と船員達もまたマラハウの指示に即座に従う。
「全艦、対魔法障壁出力最大、総員、衝撃に備えな! 敵の位置は!」
マラハウの問いに、周辺の魔力の反応を監視していた船員が応じる。
艦橋の一角に設置されている探知装置は半球状の形状をしており、半球の中心に艦を示す光点があり、そこから全方向に発せられる探知波への反応で敵との距離を図る装置だ。
これまで一切、近づく存在のなかった事への疑問は一先ず忘れ、探知手は探知装置に突如として出現した反応に驚きながら、怒声に近い声を張り上げて応じる。
「目標、本艦右舷に激突します!」
クインセの告げた脅威は、距離が近いどころではなかった。既に激突する程までに距離を詰めていたのである。マラハウもまた問いを重ねる前に、艦橋の向こうで像を結んだ巨大な影に気付いて、そちらに敵意の籠った差しを向ける。
ソレは巨大な蛇だった。深緑色の鱗を持った、メギン・オルを何重にも巻く事が出来る程に巨大で、一飲みにする事も出来そうな、馬鹿馬鹿しい大きさを誇っている。ヴァジェや瑠禹が可愛く見える太さと長さだ。
「旗艦と見抜いたか、それとも偶然か!?」
直後、艦が浮き上がったのではと錯覚する程の衝撃が彼女達を襲う。クインセの指示に従い、最大強度で艦の周囲に展開された魔法障壁と大蛇の頭が激突し、周囲へ紫電を散らしている。
艦を動かす機関が悲鳴にも似た唸り声を上げ、信じがたい程膨大な魔力の塊である大蛇と魔法障壁の接触面からは周囲へ嵐のように激しい魔力が吹き荒れている。
大きく開かれた大蛇の口内が艦橋の右舷側一杯に広がっていて、牙から滴り落ちる毒が障壁に更なる負荷を強いているのが見えた。
「アンゼア、ダイチイ、ブジッカは後退。主砲一番、二番旋回、魔力砲弾装填、目標大蛇! この距離で外すなんて真似はしないだろうね!」
障壁越しにも艦を襲った衝撃に、艦長席の肘かけを握り締めて耐えて、マラハウは手早く指示を出した。ユウン級には自衛用の機銃程度の武装しかないし、メギン・レーンはモレス山脈の竜種に落とされた味方の救援に向かわせている。
こちら側に残っている艦のヴェンギッタは、アトリエッタやスミッタに修復用の部品が不足した場合に供給する為の補給艦である為、戦闘能力は皆無ときている。要するにヴェンギッタ版ユウン級なのである。
「ラミア種ノ固有魔法ジャラーム系デスネ。シカシ、コレ程強力トハ、ベルンノラミアハコチラノ調査以上ニ強力ナヨウデスネ」
「アレが魔法だってんなら術者を始末するのが手っ取り早い。探知手、術者をお探し。見つけ次第、三番砲塔の弾をしこたまぶち込んでおやりな!」
クインセが対魔法防御に特化した障壁の展開を命じたのは大正解だったようだ。マラハウは肩の上の小蜘蛛に感謝しつつ、肘掛けの脇に設置されている掌に収まる大きさの四角い物体を手に取り、口元に当てる。
艦内用の通信機だ。機関室や医務室を始め、艦内の要所毎に波長を合わせた通信機が用意されている。
「陸戦隊、三十秒で支度をしな! 全装備の使用を許可する。ラミアの魔法の中には対軍用にも使える厄介なのがある。艦内に侵入されたら事だ。あんたらにも出番があると思っときな!」」
「艦長、主砲一番、二番、何時でもいけます!」
「よーし、遠慮はいらないねえ、あの蛇の腹が裂ける位、腹一杯喰らわせてやろうじゃないか。障壁の部分解除を忘れるんじゃないよ!!」
一部のみとはいえ障壁を解除する危険な行為にも、艦橋に居る魔族達に不安や恐怖の色はない。それはマラハウへの強い信頼によって支えられていた。
マラハウの命令は迅速に実行されて、ラミアの魔力によって形を成した大蛇の頭部付近の、薄緑色の障壁だけが解除される。それを認めたマラハウの四つの瞳が細められる。
「一番、二番、撃てぇーー!!」
マラハウの命令が発せられた直後、旋回を終えていた二基の主砲がうねうねと蠢く大蛇の胴体と頭部に砲口を向けて、巨大な魔力体や霊的存在を想定した魔力砲弾が、緑色の爆炎と共に撃ち出され、見事に大蛇の巨体に二か所に直撃して大きく後方へと吹き飛ばすのに成功する。
それでもなお頭部は吹き飛んでおらず、胴体も鱗に罅は入っていても抉られてはおらず、その様子にマラハウはとんでもない魔力密度だと舌を巻いた。
「装填が済み次第、目標を撃破するまで砲撃を続行。さぁて、術者に痛みが反映される類の魔法なら、ここいらで反応があってもいいが」
緊張と興奮の二つに突き動かされて、マラハウが血のように赤い舌で紫色の唇を舐め上げる。艶めかしいその仕草には、怯懦の色は欠片もない。
魔力砲弾によって大きく吹き飛ばされた大蛇が不意に動きを止めた。大蛇自身は再びメギン・オルに食らいつこうとしているのだが、目に見えない何かが大蛇に絡みついて動きを束縛しているのだ。それが何なのか、マラハウ達は良く理解していた。
「クインセ様、動きは何時まで束縛出来そうですか?」
大蛇を束縛しているのは、マラハウの肩に本体を残したままのクインセが繰り出した糸に他ならない。
魔法で強化された視力か特別な眼でも持っていなければ、到底見る事の叶わない程に細く、高純度のオリハルコンに匹敵する強靭なクインセの糸が大蛇の全身を束縛しているのだ。
「動キヲ止メルダケナラバ、何日デモト言イタイトコロデスガ、ドウヤラカナリノ術者デス。タダ束縛サレルダケデ済マスハズハナイデショウネ」
「魔六将基準でもかなりの術者で?」
「私達ノ基準デモカナリノ術者デスヨ。ベルン男爵領ノ人材ハ非常ニ高水準デス。魔族ノ統一ガ叶ッタ後デコレトハ」
「なるほど、陛下が嬉しそうな顔をされるわけで」
マラハウが忌々しげに、同時に軍神の眷属としては強敵の出現に喜びながら、短く言葉を零す。
次に行動を起こす切っ掛けになったのは、クインセが大蛇の束縛以外にも周囲へ巡らせていた糸で探し求めていた術者を見つけた事だった。
「マラハウ、術者ト思シイラミアヲ発見シマシタ。私ノ糸ヲ視認シテイマスネ」
「クインセ様の糸を?」
「エエ、デモ、最低限ノ仕事ハ果タセマシタ」
クインセの言う最低限の仕事とは、術者の集中を乱して大蛇の発動を解除する事であり、その言葉通りにクインセの糸で拘束されていた大蛇が無数の光の粒へと変わって消滅する。
「マラハウ、主砲ノ照準ヲ私ノ言ウ座標ヘ」
「はっ」
*
「きゃー、きゃー、きゃー!!」
にょろにょろと、蛇にしてはあまりに大きな物体が次々と襲いかかる砲弾の爆発と衝撃から逃れるように、忙しなく荒野を走り回る。
ディアドラ同様、魔王軍への単独攻撃の任を担っているセリナである。荒野の一角に身を潜めて、ヴェンギッタ達がベルン軍との砲撃戦を開始した頃に、艦隊に損害を与えるべく攻撃を仕掛けたのだった。
残念ながら戦果をあげる前にクインセに発見され、こうして反撃を受ける羽目に陥っていたが、まだまだ彼女の瞳に諦めの色は浮かんでいなかった。
「こんの、ジャラー……みきゃっ!?」
単なる砲撃だけであったなら、セリナは防御用の障壁を展開しながら再度ジャラームを詠唱して反撃に出られたが、それを悉く阻むのがクインセの繰り出す不可視の糸であった。
クインセの糸そのものが持つ強大な魔力と神気を鋭敏に感じ取り、またラミアの蛇眼を発動させて視認し、避けるか障壁を展開して防いでいるのだが、斬撃一つ一つの威力が今のセリナ基準でも並ではなく、雑な対処は許されない。
「むむむ、これ、な、ら、ああああ!!」
わずかな砲撃の合間と蜘蛛糸が襲い来る刹那の隙を見逃さず、セリナは蛇眼の持つ麻痺の魔力を最大限に発揮して、メギン・オルを視界の内に捉えて焦点を合わせる。
蛇眼はラミアの常識を越えて、陸上戦艦の制御系に使われている魔力に干渉し、あらゆる動きを止める離れ業を可能としていた。そして、そんなセリナに対して干渉を受けていない蜘蛛糸は容赦なく襲いかかる。
幾筋もの輪がセリナの緑色の鱗に包まれた下半身に刻まれる。輪が小さくなったその瞬間には、セリナの下半身の輪切りが出来上がってしまう。
「それを、待っていましたよ! ちょっと怖いけれど!」
少し情けない本音を明らかにしつつ、セリナは自分の体に触れた蜘蛛糸の存在を強く意識した。全身に魔力を張り巡らせて、分子単位の変化さえも捉える程鋭敏にしていないと、この蜘蛛糸の存在を見失ってしまう。
セリナが有する麻痺の蛇眼は陸上戦艦に、そしてラミアとして有する蛇毒はこの蜘蛛糸に! 特大のジャラームを蜘蛛糸で拘束された瞬間から貯めに貯め込んで圧縮した蛇毒は、即座に蜘蛛糸を伝って操り主であるクインセへと襲い掛かった。
セリナ渾身の蛇毒だ。猛毒を有する事で有名なヒドラであろうと、千年ものの大怨霊であろうと、絶え間ない苦痛の地獄に叩き落とせる。その威力を知るからこそ、セリナはこれで決着だと判断した。
「これでどうですか!」
「御見事デスヨ。詰メガ甘イデスケレド」
だから、自分のすぐ傍、背後から答えがあった瞬間、思わずこう言ってしまった。
「え?」
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第二百八十七話
指先程の小さな青い蜘蛛。
ただし指先で簡単に潰せる大きさの蜘蛛から迸る魔力と霊格は、セリナの肉体を構成する全細胞と魂が警戒の叫びを上げるのに十分すぎた。
どうやってここに――クインセ自身が伸ばした蜘蛛糸を辿って。
どうしてここが――クインセが四方へと伸ばした不可視の蜘蛛糸によって。
ふわりとクインセの小さな体が浮かび上がり、良く目を凝らさなければ見えない小さな動きで、クインセの左前脚がセリナへと突き出される。
こんな小さな蜘蛛に何が出来ると、誰もが鼻で笑ってしまうような動作に、セリナは咄嗟に両手を交差し、余裕を持たせておいた魔力を防御へと注ぎ込んだ。
そうしなければ自身の命が危ういという予感が、ラミアの規格を越えたラミアたるセリナにそうさせた。
「フッ!」
「ぐぅっう!?」
周囲へ青い魔力の光が稲妻の如く広がり、伝播した衝撃が砲撃の傷を刻まれた大地を更に砕いて、無残な傷跡を重ねる。
クインセは返ってきた手応えに、ソウ容易クハイカナイカ、とセリナが強敵であると再認識し、大きく体を吹き飛ばされたセリナも咄嗟の守りこそ間に合ったが、自分の相対する小蜘蛛が尋常ならざる強敵と認める。
セリナは大きく飛ばされた身体を、尻尾を荒野に叩きつけて制動を掛け、激しく揺さぶられながらも重心を整える。
青く濡れた満月を思わせる瞳は、豆粒と大差のないクインセの姿を射抜いたまま揺れず、震えず、動じず。
セリナがクインセの一撃を受けて、その柔らかな身体に傷一つなかったのは、彼女の周囲でとぐろを巻く半透明の巨大な大蛇が理由だった。
クインセはセリナを一撃で仕留めるべく突き出した左の前脚を見つめた。堅牢なる甲殻に罅は入ってはいない。痛みもない。だが、同等近い硬度を誇る物体を思い切り叩いた痺れがあった。
神代に生まれ育ったクインセの甲殻と同等ならば、眼前のラミアもまた神代の怪物に匹敵すると認識して応じなければ、痛い目どころか下手をすれば返り討ちにあうだろう。クインセがそう認める事が、魔王軍の者達にとってどれだけの驚きであるか、セリナは知るまい。
「常時ジャラームを発動状態ノママ自分自身ヲ飲ミ込ませて鎧ニスル、トイウノハ実ニ面白イ発想デスネ、ラミアのお嬢サン」
小蜘蛛から発せられた優しげな女性の声に、セリナは少しだけ当惑する素振りを見せたが、構わず会話に応じる。クインセの語調がマラハウの肩に乗っかっていた頃とは、わずかに異なるのをセリナは知らない。
魔王軍に属する魔虫の長たるクインセが、闘争心に浮かされている証左だ。
そしてまた、両者とも会話の間に次の攻防に用いる魔力を新たに練り上げている事等、互いに承知の上であった。
「知り合いの竜の方が、よく火炎を身に纏っていたのを見て思いつきました」
「ホウ、モレス山脈の竜の知り合イデスカ。着想ヲ実践するノニは相応ノ努力が必要だったデショウ」
「はい、とっても。でも、お陰で貴女と戦いを成立させる事が出来ています。あの、私はセリナです」
生死を掛けた命懸けの闘争の場であるのは変わりなかったが、生真面目な表情のまま自分の名前を告げてくるセリナに、クインセは警戒こそ緩めなかったが、おやまあ、と何とも気の抜けた心の声を零していた。
同時にこうも感じていた。戦闘能力の凄まじさは既に理解しているが、この少女は決して戦場に立たせてよい娘ではない。侵略者であるクインセがそう感じるのは理不尽極まりないが、セリナを戦場に立たせたベルンの者達に憤りすら抱いていた。
クインセは改めてセリナの姿を観察する。ベルン男爵領の軍服らしい白を基調とした上衣と、緩く蛇の下半身に巻きつけるようにして同色のスカートを身につけ、緩く波打つ髪は邪魔にならぬよう高純度の魔晶石を幾つもミスリルの台座に嵌めこんだバレッタで纏めている。
左右の手首には各属性の精霊石を一つずつ象眼した青い腕輪が揺れ、手には竜の如き頭部を持った蛇の巻きついた杖を持っている。蛇はクインセの知らぬ虹色の輝きを中心に秘めた水晶玉を加えている。
ドランがセリナの為に制作した杖の最新版である
クリスティーナ直轄のドランが団長を務める遊撃騎士団という事もあり、最高品質の品ではあるが、ドラン以外の魔法鍛冶師でも作ろうと思えば作れる範囲に収まっている。
クインセの視点からすれば、セリナの実力に見合った素晴らしい――敵としては厄介な装備だ。
「エエ、巡り合ワセが悪イト思っタノハ久しぶりでスよ。私は魔六将ノ一席ヲ預かるチッポケな蜘蛛、クインセでス」
「はい、では、クインセさん。えっと、よ、よろしくお願いします!!」
セリナの戦闘の経験を辿ると、彼女が相対してきたのはとびきりの悪意を持った悪党か、常識の通じない怪物がほとんどだ。
そういった相手であるのなら、セリナは怯えつつも敢然と、そして容赦なく戦えるが、クインセのように闘志はある、戦意もある、だが図抜けて邪悪ではない、という相手は珍しく、道化めいた真似でもして自分の背中を押さないと、仕切り直せなかったのである。
「アア、本当に、アナタは戦場に立つベキ女性ではナイ。ですが、戦わナケレバならない相手デ、殺さナケレバならない相手デスか」
クインセの口から綿毛も飛ばせないような小さな溜息が零れ、同時に頭上から無数の砲弾が降り注いだ。これは目の前のクインセに集中していたセリナにとって想定外であり、しかもクインセを巻き込んでのものとあれば、その驚きはどれ程であったか。
「ええ! み、味方を巻き込んで撃っちゃっていいんですか!?」
セリナからすれば、ドラミナやディアドラを巻き込んでジャラームを叩きこむようなものだろうか。とセリナが自分に当て嵌めて考えてみると、あれ、別に直撃しても大丈夫だから気にならないような?
「あ、砲撃程度でどうにかなりはしないから、気にしないで撃っているという事?」
「察しガ良イデスね。こレモ信頼というモノです」
セリナの蛇眼の視界から外れ、制御を取り戻したメギン・オルからの砲撃は間断なく続き、再びセリナとクインセの周囲で着弾の衝撃と轟音、爆炎が溢れ始める。
砲弾が全て魔力を圧縮した砲弾に切り替えられているのは、セリナがジャラームを防御手段として用いているのを、蜘蛛糸越しにクインセからマラハウへと伝えられた為だ。魔力の塊であるジャラームを削るには、別の魔力の塊を用いて削るのが手っ取り早い。
セリナにとって無差別砲撃で厄介だったのは、その威力ではなく、着弾によって立ち昇る土煙で視界を塞がれ、小さなクインセの姿を見失いそうになってしまう事だった。
神代の魔物として馬鹿げた魔力と霊格を有するクインセだが、彼女は自分のそういった強大さを隠す術に長けていた。もし一度見失ってしまえば、再びその姿を捕捉するのには途方もない労力が必要となり、かつ隙が生じるとセリナは理解していた。
未だに気の小さいところが残り、クインセに戦場に立つべきではないと思われたセリナだが、それでも彼女が歴戦の猛者でも卒倒してしまうような戦いを生き残ってきたのもまた事実。冷静に、冷徹に、セリナの思考の一部は状況を分析している。
「ジャフ・ジャルード!!」
半透明のジャラームの頭部の内部に居るセリナが左手を地面にかざすや、瞬く間に周囲に小さな魔力の毒蛇が数千単位で出現し、四方八方へと広がってゆく。
かつてエンテ・ユグドラシル内部に出現した悪魔達を纏めて葬るのに用いた、ラミア種の固有魔法だ。砲撃の雨霰の中に散ってゆく毒蛇達は、攻撃手段であると同時にクインセの姿を見失わない為の監視網だった。
砲撃に巻き込まれて砕けたとしても、飛散した魔力がクインセの動きを察知し、セリナに居場所を伝える役目を果たしてくれる。
「まだまだ、ジャラーム!」
防御用のジャラームとはまた別に新たなジャラームが出現し、セリナから見て左手側に回っていたクインセへと大顎を開いて襲い掛かる。メギン・オルを襲ったものと同じ、驚嘆すべき巨大さを誇るジャラームだ。
これ程の規模の魔法を無詠唱で発動させ、膨大な魔力消費に呼吸一つ乱していないセリナに、クインセはふむ、と呟いてから自分の前方に蜘蛛糸を一本、縦に張った。
地面とはるか高空に存在している浮島の一つとを結びつけたか細い糸は、目前に迫るジャラームに対してあまりにも頼りない。
しかし、液体と化す程濃密な呪いの蛇毒を牙から滴らせていたジャラームは、突撃の勢いをそのままに蜘蛛糸によって縦に分断されて、セリナが目を見張る程呆気なく、頭の先から胴体の真ん中あたりまで切り裂かれてしまう。
洪水のように毒が溢れだしたが、それらをクインセは別の蜘蛛糸を使ってふわりと浮かびあがり、軽やかに避ける。周囲を埋め尽くしていた小さな蛇達は、クインセの周囲を秒速数千回という速さで旋回した蜘蛛糸によって、みじん切りにされていた。
回避と防御を行うのと同時に、この小さな蜘蛛はセリナへの攻撃も行っていた。
セリナを飲み込み、守るジャラームの全身に無数の細かな切り傷が同時に刻まれて、傷口からは濃い紫色の毒が溢れだして、瞬時に揮発して大気へと混じってゆく。
例え直接毒に触れなくとも、気化した毒に肌が触れるか吸い込めば、液体状の毒と等しい効果を受ける凶悪な二段構えだった。
この厄介な毒に対して、クインセは自身の魔力を甲殻の上に纏わせて防いでいるのだが、魔力の消費量はクインセをして無視してよいものではなかった。
かつては周囲を炎や溶岩、あるいは氷雪や雷雲で覆った戦場を経験しているが、この毒塗れの戦場はそれらに劣らない過酷さだ。
一方でセリナもまた攻めても崩せぬクインセの牙城に、舌を巻く思いであった。眼に映らぬ不可視の蜘蛛糸を何十、何百と自在に操り、こちらの攻撃を悉く防ぎ、気化した毒の影響も受けていないようだ。
またセリナが以前に名案だ! と思いつき、実行したジャラームの鎧も既に数え切れぬ傷が刻まれて、実体化が解除されないように次々と魔力を注ぎ込む必要に駆られている。
セリナの身体には、まだ傷一つ付いてはいないが、このまま攻撃を受け続ければ、戦い方を変えるのも視野に入れなければなるまい。
もちろん、それはセリナの最大最強の手札であるドラグラミア化を使用しなければ、という前提に基づいての話だ。
ただ古神竜の因子を活性化させて、一時的に存在の格を桁外れに上げるソレは、余りの万能感と溢れる力を持て余してしまうのと、頼ってばかりいては何時か足元を掬われるという危機感から、セリナとディアドラは極力使用を控えていた。
だが、このままゴリゴリと鱗を鑢で削られるような状況が続けば、ドラグラミア化しなければならないという認識は、徐々にセリナの中で大きくなっていた。
(この人、ええっと、蜘蛛さん、地力が高い上に戦い方も上手!)
クインセの蜘蛛糸には、ジャラームのみならず大気に伸ばされた時点で毒が付着し、そのままクインセの体内に侵入する事も出来る筈と考えていたセリナだったが、クインセはあろう事か、毒が侵入する前に自発的に蜘蛛糸を切って対処していた。
セリナがクインセを上手と評したのは、この後の行為を見たからこそだった。クインセは自身が切るという動作を加える事を練り込んだ上で蜘蛛糸を操り、戦闘を続けている。
蜘蛛糸が繋がったままならばともかく、切った後の動きすら含めて操作してのけるクインセの技量こそが、真にこの魔性の蜘蛛の恐るべき点であろう。
今も降り注ぐ砲弾に蜘蛛糸を巻きつけて、クインセの付近に着弾する筈だった軌道を、全てセリナに命中するように手繰り寄せている!
「大地と水と風の理よ アシッドトルネード!!」
セリナを飲むジャラームの周囲に、強力な酸を含む竜巻が生じ、天にまで届くそれは降り注ぐ魔力の砲弾と蜘蛛糸を巻き込み、跡形もなく溶かしてゆく。
巻き上げられた岩石や砲弾の残骸もまた赤い竜巻に触れるや否や、音を立てる間もなく消えて行った。
セリナがこのまま強酸の竜巻の範囲を広げて、クインセさんを巻き込むのもありだ、と考えていた時、竜巻の流れに乗って白く揺らめくものが自分の周囲を回っているのに気付く。
「あれは、糸を竜巻に乗せて!?」
白いものの正体はクインセの蜘蛛糸で間違いないが、それ以上にセリナが驚いたのは、一に竜巻に意図的に乗せたクインセの技量、二に強酸の中にありながら溶け消えていない蜘蛛糸、そして最後にこれまでと違って、蜘蛛糸が『はっきりと見えている』事!
どうして蜘蛛糸が見えるのか? この問いに対する答えはすぐさま与えられた。蜘蛛糸の先端がくんと曲がって、竜巻の流れから離れるとシュウシュウと溶けながらセリナを目指して迫る。
これまでは斬撃を繰り返してきたクインセだったが、今度は斬撃ではなく『
強酸の名残によって溶解した蜘蛛糸がジャラームの表皮を貫通し、ぐんぐんとセリナへと迫ってくる。どうする、どうする、と決断できないセリナの瞳に、蜘蛛糸が『解れる』様子が映る。
そう、蜘蛛糸が解れたのだ。クインセは強酸と蛇毒による溶解に耐えきる為に、目に見える程太く縒り合せて操っているのだ。
クインセの目論見は見事成功し、ジャラームの蛇毒にも耐えた蜘蛛糸の最後の一本は、咄嗟に体を捻ったセリナの右肩に激突し、かろうじて軍服に施された魔法防御がこれを弾いた。
それでも相殺しきれなかった衝撃により、セリナは大きく体を仰け反り、軍服越しに襲ってきた衝撃に苦鳴を噛み殺す。肉は貫かれなかったが、痣が出来たか内出血位は起こしているだろう。
「やっぱり、この蜘蛛さん、強い!」
魔力によって強化された肉体は、既に痛みも傷跡も消していたが、セリナの顔に刻まれた緊張が緩みはしなかった。なぜならば、アシッドトルネードを貫いて、無数の蜘蛛糸が襲いかかってきたからだ。
その数たるや、百にも届こうか。蛇毒を伝播されるのを危惧し、小さく切り落とした蜘蛛糸を弾丸のように放ったのである。
先程は刺突を弾けたが、これだけの数が連続して命中すれば軍服の護りも貫かれてしまうのは間違いない。
「――――ッ!!」
クインセは放った蜘蛛糸の弾丸が強酸の竜巻を貫いた直後、竜巻が消えたのを見て、溶け崩れた岩の上ではなく、張り巡らせた蜘蛛糸の上で一旦足を止める。
周囲には膨大なセリナの魔力とメギン・オルの発射した魔力弾の砕けた魔力が満ちており、さしものクインセも魔力や生命力の探知が困難な状況が出来あがっていた。
クインセが記憶を掘り起こしてみても、ここまで厄介な蛇系統の魔物や神造魔獣は稀有だ。ラミアの中の突然変異であるならばともかく、人為的にあそこまでの力を得たのであるなら、それはどれ程の脅威となるやら。
ああ、クインセの危惧が正しいものだと証明するように、目の前で天地を揺るがす程の強大な魔力が吹き荒れ始めたではないか!
「死にながら生きる竜よ、我が呼び声に応じて……」
白と青の入り混じる魔力の光を猛々しく纏うセリナの姿が、クインセの複数の瞳に映る。
見ればセリナの構える竜蛇の杖に嵌めこまれた水晶が強い輝きを放っており、どうやらソレの有する防御機構によって、自分の糸は防がれたようだ、とクインセは判断した。
そしてセリナを中心に渦巻く魔力の中に、別の誰かの者が混じっているのにも目敏く気付いた。
「コレは、竜? 竜種との契約にヨル魔法カ、しカし、コレは、真ナル竜種トノ契約であるナラ、神々と契約を結ブヨリもハルかに難シイでしョウニ!?」
「……冥府より息吹を届かせよ ドラグ……」
セリナの背後で朧に影を結んだ巨大な竜の大顎が開き、そこに集中した二色の光の秘めたる力の総量は、クインセをして回避以外に術はないと断言できるものだった。
「くっ、間に合ウカッ」
「ヴェンデス!!」
セリナが行使したるは、かつてドランがメルルの放った惑星をも貫通する砲撃魔法と撃ち合う為にでっち上げた、ありもしない捏造魔法ドラグヴェンデスだ。
冥府で眠る強大な竜の力を一時的に召喚する、という体裁を整えているが、その実はドランが古神竜としての力を振るう為の方便である。
しかし、その後、セリナ達が強大な敵と相対した場合を想定し、ドランが正式に魔法としての術式を組み上げて、セリナ達に伝授していた。
ドラグラミア化を最大の切り札とするなら、こちらのドラグヴェンデスはあくまでも攻撃手段の一角になる。
契約により神々や精霊の力を借りる魔法と同じように、名も知れぬ死せる竜の力を借りる魔法として新生したドラグヴェンデスは、その強大無比なる破壊の力をブレスとし、神代の魔蜘蛛へと襲い掛かった。
*
ディアドラとセリナと魔六将同士の超越した戦力を持つ『個』同士の激突の一方で、残るヴェンギッタ約二万とベルン軍はネロジム砦近郊で激突していた。
元遍歴騎士であった男性指揮官の一人は、眼前に迫る医師やら大工やら猟師やらと、とても戦場とは思えない装いのヴェンギッタ達に度肝を抜かれながら、単純明快な命令を繰り返していた。
「撃て撃て、どんどん来るぞ!」
彼の命令に応じて、彼の指揮下にある兵士達は突貫で掘られた塹壕から顔を覗かせ、魔力の銃弾を撃ち出す魔導銃の引き金を引きまくる。
型落ちの旧式から中古まで、とにかく数を優先して揃えられた魔導銃から放たれる純魔力の緑色の銃弾は、死を恐れずに迫りくるヴェンギッタ達を捉えるが、まず数が違い過ぎる事とヴェンギッタが銃弾を見てから回避できる事もあり、撃った数に比べて倒せた数は遥かに少ない。
桁が二つばかり少ないベルン陣営であるが、ヴェンギッタ達の大半がディアドラへと向けて進路を変えた事と、ドランとベルンの魔法使い達が用意した『おもてなし』を受けて、ヴェンギッタ達が思うように戦えていない事で、戦線を維持できている。
おもてなしの一つは、いつかのゴブリン戦で用いたのと同じ、馬の下半身に巨大な突撃槍の上半身を持った簡易ゴーレム、正式採用名称『ソウハ』である。
簡単な術式で製造できる為、今やドランだけでなくベルン軍に所属している魔法使いならばまず製造可能で、また材料となる地面に置いてほんの少しの魔力を流せば、自動で製造してくれる錬金陣を織り込んだ布も完成している。
下半身を失った虎人のヴェンギッタが、両腕だけで走るような速さで這いずっていたが、塹壕や土塁の隙間を縫って突撃してくるソウハ達の蹄に掛り、一体を道連れにしたものの原型を留めぬ破片に変えられた。
このソウハだが製造が容易で、材料は土と非常に財布に優しい使用だが、それも全ては前進するだけ、と命令をたった一つに絞っているからこそだった。
ただただ敵陣に突撃し、味方からの誤射による損壊も念頭に置かれた集団運用でようやく威力を発揮するという問題を抱えている。前回のゴブリン戦と同様に今回もまた適切な運用が成されているからこそ、戦力として数えられたのだ。
ヴェンギッタは恐怖を持たないが、無為に破壊される非効率性は忌避する。故にソウハの進路とベルン軍の射線を即座に計算し、邪魔をされない進路を導き出してそちらに動く程度は当然する。
それを阻害して被害を強制しているのが、もう一つのおもてなしであるアースウォールのマジックトラップだった。これもソウハ同様、単純ゆえに数を揃えやすい利点があり、予め術式の付与された物体に触れると、周囲の土を材料に指定した範囲に土の壁が屹立するというだけのものだ。
成り立ての魔法使いでも使える初級魔法だが、ベルンの魔法使い達はこれをヴェンギッタの進行方向を狭める為の罠として使用している。
全てのアースウォールが狙い通りに機能したわけではないが、望む方向への移動を阻まれて動きを止められたヴェンギッタ達は、それなりの数がソウハの蹄や槍にかかり、またあるいは魔導銃と火薬式長銃の銃弾に撃ち抜かれていた。
ヴェンギッタ達もまた弓矢から銃弾、砲弾、各種の魔法が反撃として放たれて、ベルン側をはるかに上回る密度で襲い掛かって来ている。
いくらベルン側に地の利があってもあまりにも大きい数の差に、ベルン側の兵士もゴーレムもあっという間に全滅してしまいそうだったが、それを防いでいたのは兵士達のすぐ傍に居るバリアゴーレム達だった。
放たれた銃弾が命中する直前に、四角形の光の盾が塹壕の前に出現し、ヴェンギッタ達の攻撃はこれに防がれて、潰れた銃弾や鏃がバラバラと地面に落ちる。
「ふぃ~、補佐官様が用意してくれたこのゴーレムがなかったら、流石に危なかったよな」
目の前の光の盾に次々と命中する銃弾の数に、兵士の一人は緊張でかさかさに乾いた唇を舐めて湿らせる。その間も、徹底的に訓練されたお陰で、手は魔導銃の魔晶石を交換する作業を行っている。
傍らにいた同郷の兵士も、後方の土塁の上やその向こう側から相変わらず砲弾を撃ちまくっている砲台ゴーレムや改造された大砲を扱う砲兵部隊を思い出し、何とかなるのでは、と考える余裕が生まれていた。
「ああ、これならガロアからの援軍が来るまで持ちこたえられるかもしれん」
あちこちでアースウォールの罠が発動して、迷路のような有様になっている荒野には、まだまだヴェンギッタ達で溢れている。
特に腕だけ、足だけ、首だけになっても人形であるヴェンギッタは行動でき、じりじりと地を這ってこちらに迫ってくる姿には、どうしようもない気味悪さがついて回る。
「それに万が一、ゴーレム達の守りが突破されても、死ぬ前に後方に連れて行って貰えるんだから、他の領地の兵隊よりは恵まれているさ」
これには当然カラクリがある。ベルン側の兵士達全員に、カラヴィスタワーで実用されているアリアドネを組み込んだネックレス型の認識票が支給されている。
カラヴィスタワーの探索者達が命の危機に瀕した際に、アリアドネが起動して安全な場所まで避難させるように、この認識票も所有者である兵士が死の危機に晒された時には、ネロジム砦よりも更に後方の医療施設へ自動で転移される仕組みだ。
施設にはベルン領所属の医師に各神殿から自主的に協力を申し出てくれた神官や司祭達が詰めており、万全の態勢で治療を受けられる体制が整っている。
ベルンに降臨している神々の化身や眷属達は、今回の戦争への介入をやんわりと断られているが、医療関係への協力は許容されているので、多くはそちらに民間の善意の協力者として出向いている。
これだけ整えられていれば、確かに彼らが恵まれていると口にするのも当然だったろう。
彼らが弾倉を入れ替え終えて、再び銃口を向けようとした時、別の塹壕のいくつかに、全身を甲冑で固め、大盾を構えた重武装の騎士の一団が突撃するのが見えた。
厄介な事に騎士達は全員が巨人型の人形ときている。あれでは火薬銃や魔導銃を幾ら撃ち込んでも足を止められまい。
銃火器の充実を優先しているベルン領だが、従来の槍や剣に斧等で武装した白兵戦対応の兵士達も居る。銃を撃っている者達も、手に届く程の距離にまで迫られれば、地面に置いてある魔法が付与された槍や盾を手に取って戦うのだ。そんな彼らでも、流石にこれだけ体格差があってはいかんともし難い。
巨大な肉と金属質の物体が凄まじい速さで激突する轟音が立て続けに発生し、思わず目を向けた彼らの視界に、宙を舞う巨人騎士達の姿が映る。
普通の兵士達では巨人騎士を正面から吹き飛ばす真似などできはしなかったろうが、殴り飛ばした当人の姿を見れば、誰もがさもあらんと納得しただろう。
巨人騎士――人形だが――に負けず劣らずの威容を誇るのは、白い装甲の縁を青く飾り、胸部にベルンの紋章を刻んだ魔操鎧部隊。
ベルンでは三機一個小隊として編成され、五個小隊で全十五機一個中隊とするのだが、この一個中隊が今回の戦闘に投入されている。こちらもまた中古品や型落ち品を買い集め、ベルン式大改造が施された品で、色合いと所属を示す紋章と武装以外に統一性はない。
右手には巨人騎士のソレと勝るとも劣らぬ大きさのメイスが握られ、左手には巨体に相応しい大盾。
また背中には、競魔祭でドランが戦った魔操鎧ギルダムの背中に搭載されていた魔力砲の複製改良品が二門搭載されていて、近くのヴェンギッタは右手のメイスで吹き飛ばし、遠くのヴェンギッタには背中の魔力砲が放たれる。
魔操鎧に吹き飛ばされた巨人騎士達は地面に激突する寸前にくるりと回転して、足から華麗に着地し、風を巻く速さで魔操鎧部隊と正面から近接戦を始める。
一撃で城壁を崩せる威力の殴打や斬撃が四方八方で繰り広げられて、とてもではないが他の兵士達が援護する余裕があるようには見えない。
「ひえ、あっちはあっちで何とかして貰うしかなさそうだな」
「魔操鎧だけじゃなくてベルター以外のゴーレムも出てきたな。気味悪い人形にだいぶ押し込まれちまったか……」
温存されていた魔操鎧部隊と近接戦に特化したゴーレム部隊が投入されたとのは、兵士の言う通りそこまでヴェンギッタ達に攻め込まれたのを意味する。
魔操鎧とゴーレム達の戦闘力は凄まじく、ヴェンギッタの怒涛の攻めを押し留める防波堤として十分に機能しているが、状況がじりじりと悪化しているのは確かだったろう。
兵士達だけでなくその場にいた彼らの指揮官も、決定的な被害は受けていないが勝敗の天秤が負けの方へと傾きつつあると実感していた。ただ、まあ、彼らは自分達の上司がどういう人物なのかをまだ理解していないからの実感なのだが……
そんな前線に居る彼らの不安を吹き飛ばすように新たな魔操鎧が二機、彼らの後方から大きく跳躍しながら姿を見せた。
アークレスト王国で一世代前に正式採用されていた魔操鎧ガンベイの改造機ガンベルンだが、戦場に居た兵士達が目を引かれたのはガンベルンの右肩に乗って戦場に姿を見せた軽装鎧を纏うドランだった。
実際に指揮を執っているわけではないが、この戦場におけるベルン側の最高位の人物が前線に姿を見せたのだから、彼らの動揺と衝撃たるや並々ならぬものがある。
それを理解しながら、ドランは左手でガンベルンの頭部を掴んで体勢を整え、右手で引き抜いた長剣を軽く一振り。
その動作に合わせて彼の背後の空間に四つの波紋が生じると、そこから光輝く戦鎚、大鎌、大槍、大剣の切っ先が出現する。
「雷帝の戦鎚よ 風王の首狩り鎌よ 炎将の大槍よ 光皇の剣よ 輝ける神威をここに招かん エインズフォース!」
かつてメルルとの戦いで使用された、アルデスに招かれた英雄達の武器を召喚する魔法である。神々の領域に昇格した英雄達の武器は、ドランの呼び声と意思に応じて戦場を縦横無尽に掛け、眩いまでの軌跡を残しながら無数のヴェンギッタ達を破壊してゆく。
「ふむ、初陣の初撃としては及第点かな?」
のほほんと呟くドランに、彼を肩に乗せている魔操鎧の操縦士が懇願するように叫んだ。
「補佐官様、どうか、落ちないようお気を付けください。しかし、本当にそのままで戦うのですか? 貴方が卓越した魔法戦士である事は存じていますが」
ドランを乗せて戦う羽目に陥ったのは、元々魔操鎧の操縦士として他領で腕を振るっていた二十代前半の女性獅子人レアニアだ。
操縦の邪魔にならないよう三つ編みにして丸めた金髪に、普段は獅子人という種族に相応しい勇壮な雰囲気が特徴的な才女なのだが、指揮官を前線に出る等、昨今では滅多に考えられない状況で、指揮官の足代わりをしなければならない事態には、動揺を隠せていない。
「なに、あの生き人形の大半はディアドラの方へと集まっているし、諸侯連合にももう連絡は入っているのだから、援軍はすぐに来る。それまでの間、奮起するだけだよ」
「……この状況でそこまで落ち着いておられるのは、お見事です」
ほとんどを呆れで固めたレアニアの言葉に、ドランは励ますように笑みを深めた。果たして効果があったかは、残念ながら疑わしい。
「大丈夫、長くとも半日程も戦えば、ヴェンギッタ達は後方に退くよ。君達は適宜休憩を挟みながら戦ってくれ」
どうも補佐官様は、半日間ずっと戦い続けるらしいと、レアニアは魔操鎧の中で我が耳を疑っていたのだが、ドランはそれに構わず次の獲物の選定に入っていた。
「上の方が随分と激しいな。私達よりも先に竜種の真贋対決の方が先に決着を見るかもしれん」
上空を見上げるドランの竜眼には、ひと際巨大で暴力的な真紅の炎が空を染め上げていた。そしてドランは
「ヴァジェめ、後で頭の一つでも撫でてあげようかね」
等と、レニーアの嫉妬の炎を激しくする事を口にするのだった。
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第二百八十八話
ドランが自ら戦場に赴くのに際して、自分の足や手製のホースゴーレムを用いず、わざわざ他者の操縦する魔操鎧の肩に乗って来たのには、合理・非合理混在の理由がある。
理由を聞いて万人が納得するかと言えばいささか怪しいのだが、まず魔操鎧部隊が今後ベルン軍に於いて花型兼主戦力となる見込みがあり、生身の補佐官を肩に乗せたまま魔王軍を相手に勇戦した、という事実を作り宣伝する為。
他には、ドランがアークウィッチの後継と目される実力者であると、王国の軍事関係者や魔法に関わる者達には広く知られており、そんな彼が前線に姿を見せれば相応に兵士の士気を上げる効果が得られる為。
その際にベルンの誇る予定の魔操鎧と共に目立てば、後々、どこかの戦場でドランが居らずとも魔操鎧の姿だけで兵士達は頼もしき味方が来たと、士気を上げるようになるだろう、というこの戦争の後の事を見据えた理由もある。
レアニアともう一人の搭乗している魔操鎧に、ガン『ベルン』と領地の名が冠せられているのは、このガンベルンがベルン男爵領に於いて正式採用され、量産される魔操鎧の記念すべき第一号だというのも大きい。
そのガンベルンの初戦の戦果を華々しいものにしたいという願望がドランにある。なぜなら彼自身も旧世代機であるガンベイを改良し、ガンベルンに仕立て上げるのに大いに関わっているからだ。
開発陣の一人として、自ら手掛けた機体が実際の戦場でどれだけ戦えるものか、例え世界の果てからでもつぶさに観察できる癖に、極力間近で観察したいという欲求が存在していたのである。
つまりは、ドランの我儘である部分が確かに存在していたのだ。
巨人騎士型のヴェンギッタ達を数で下回る魔操鎧部隊は連携を活かしながら、一体、また一体と粉砕してゆき、彼らの奮戦の様子に塹壕から魔法・火薬混在の銃火を放っている兵士達は顔色を明るく変えている。
ドランの詠唱した英雄達の武器も、戦場のあちらこちらで窮地に陥っていた兵士達の援護を終え、細かな光の粒子へと変わり、姿を消している。
「ではレアニア、メルアレン、予定通り、私達はゴーレム達を率いて、このままヴェンギッタ達の中央に突っ込む。砲撃による誤射がないように、私達の位置情報は常に後方に送っているから、気にしないでくれ」
メルアレンというのは、もう一機のガンベルンに搭乗している黒髪黒目に褐色の肌を持った、純人間種の青年だ。
戦士としても魔法使いとしてもかなりの腕前の有能な人物なのだが、それ以上に魔操鎧の扱いに於いて、ベルン男爵領ではレアニアと並び、一、二を誇っている。
だからこそ、買い取った在庫処分品や中古品と違い、中も外も大改造を施したガンベルンを預けられているわけだ。
メルアレンはドランからの念話を応用した通信の内容に、切れ長の瞳にかすかな憂慮の色を浮かべて答えた。
「ドラン様、今からでもレアニア卿の機体から降りられては? 貴方様の実力ならばわざわざ前線に出られずとも、後方からの魔法支援だけで十分すぎる戦果を得られましょう」
ドランには選んだ言葉よりも、それを語る声音の響きに、メルアレンの育ちの良さが聞き取れた。彼がベルンにやって来た時に告げられた経歴では、零落した貴族の傍系だという話だった。
「確かに一理ある提案だが、ここに到るまでに何度も棄却した提案だよ、メルアレン。
実際の戦場の、特に最前線の空気を肌で知る為、私という餌でヴェンギッタの行動の幅を狭める為、そして何より、私自身が手塩にかけた魔操鎧の実力を間近で観察する為だと、何度も伝えたろう?」
「もちろん、覚えておりますとも。私としましても、ドラン様に翻意していただく最後の機会と思い、差し出がましい事を口にいたしました。申し訳ございません」
「なあに、どう考えても理があるのは君だからね。私に君を責める意図はないよ。さあ、ベルン魔操鎧部隊一個中隊と二機、ついでに筆頭魔法使いの戦力を魔王軍の尖兵に嫌という程教えてあげようじゃないか」
ドランはあくまでも不敵な態度で告げて、ガンベルンの右肩から頭部の後ろ側に移動した。そのまま右肩の上に立っていては、ガンベルンの右腕を動かすのに支障があるのと、レアニアの機体にだけ今回特別に持たせた特殊装備の具合を確かめる為だった。
ガンベルン他、ベルンの魔操鎧の武装は基本的に統一されていて、背中には二門の魔力砲の折り畳み式の基部と弾薬庫を兼ねた機構を内蔵した箱が担がれている。
レアニアの機体にはそれ以外にも棒状の物体が追加で備えられており、それが万が一不具合を起こすか、壊されるといささか困った事態になる為、それの守りと即座に修理する為にもドランがいた。
「レアニア、旗を」
ドランの短い指示に、レアニアは握り込んでいる操縦桿にあるボタンの一つを押しこんだ。
通常、魔操鎧の操縦は培養した疑似神経を搭乗者の首筋や手足に張り付けて、身体の延長上として操縦するのが一般的なのだが、人体には背中の魔力砲や機体各部に内蔵された推進機構はない。
そういった生身にはない機構を使用する際には、操縦桿やボタンの操作で対応する。
背中の箱の棒がするすると伸びて行き、ある程度の高さにまで達すると、棒に内蔵されている映像投射機が動いて、空中に大きくベルン男爵領の紋章を浮かび上がらせた。
問題なく映像の投射が成功したのを確認して、ドランはほっと安堵の吐息を零す。古今、自軍の旗を掲げて士気を鼓舞するのは、戦場における定石である。
その分、旗を破壊ないしは強奪される事は、自軍の士気を下げる行為であり、それを避ける為にも、ドランは旗の間近で護衛を務めていた。
うっすらと輝くベルン男爵領の旗が空中に大きく浮かび上がるのに続いて、ドランはこの場に居るベルン兵全員に届くように、念話の対象範囲を拡大して告げる。
最高位の竜の魂を持つドランが意図して思念に力を込めている為、彼の思念を受けた全員の精神に恐怖を撥ね退ける勇気と活力が満ちる。
「ベルンの旗に集いたる者達よ、荒野の彼方より来る侵略者達を己が手で撃退し、この大地と君達の家族の安寧を今こそ守る時だ。腕を振るえ、足を動かせ、前を向け、敵を見よ。
そしてこの旗に続け。クリスティーナ・アルマディア・ベルン男爵に栄光あれ、ベルン男爵領万歳! アークレスト王国万歳!!」
古今東西の戦で行われた演説の資料をかき集め、ドラミナや龍吉に助言をもらいながら考えた言葉が兵士達の精神に伝播し、彼らの心と肉体に火を灯す。
ドランに扇動者としての才能はないが、彼の素性と能力は兵士達を勇猛果敢なる戦士に変えるのに十分なものを備えていた。
「レアニア、メルアレン、行け!」
特にドランから名指しで指示を受けた両者は、眼前に広がる無数の不気味な人形達に対する怯懦を忘れ去り、立ちはだかる者すべてを粉砕するべく気炎を吐きながらガンベルンを突貫させた。
更に自律行動からドランの遠隔操作に切り替えた戦闘用ゴーレムのベルター五十騎が、ドラン達の直掩機ならぬ直掩騎として続く。
全力で走りだすガンベルンの上に立つドランが、周囲に無数の魔法の矢を作り出すその姿を認めて、周囲のヴェンギッタ達の口が次々と動き始める。彼らにとって雑兵等よりも遥かに価値ある存在が姿を見せたのだ。これに反応せずにはいられない。
「来たか、来たか、ベルンの頸木、要、楔、鎖、柱たる者」
ドランの魔法の矢によって、腹に穴をあけられた愛くるしい猫人の赤ん坊がドランをそのように評し
「私の、私達の王が見定めた大いなる敵の一つ」
メルアレンのガンベルンに首から下をメイスで粉砕され、首だけになった馬人の女性がドランを称え
「魔の者は敵を求める。魔の王は強き敵を求める。魔に属する私もまた私の力を振るうに足る敵を歓迎しよう」
レアニアの機体にかさかさと音を立てて襲い掛かった三つ首の巨大百足が、盾で首根っこを押さえられ、長大な胴体に魔力砲を撃ち込まれながら朗々と謳い
「だが何よりも私達は私の求める美の結晶の為にこそ今は戦っている。しかるに君は邪魔だ。大いなる障害である。だから、故に、私達は君を討たねばならぬ」
戦線の後方より疾風と化して駆け、ドランとレアニアのガンベルンの前に立ちはだかった二面四臂の巨大なオーガ人形が、氷雪の如く冷たい戦意を滲ませながら宣戦布告してきた。
なんとも妖異なる姿のオーガであった。彫り深く整えられた端正な容貌の額から赤黒い二本の角を生やした男女が、背中合わせに融合した姿をしている。漆黒の肌を持った男は右を向き、純白の肌を持った女は左を向いている。
ドラン達の側に向けられた男の左手には大きく湾曲した三日月刀、右手には強力な拘束の魔力の込められた鎖が握られ、女の左手には水晶の穂先を持った長槍が、右手にはルビーのような輝きを持つ棍棒が握られている。
二本の足には脚力の強化や空中走行の魔力が込められたサンダルを履いており、背中合わせの胴体は特殊な形状の灰色の皮鎧が覆い、腰に金の刺繍がびっしりと施された魔法の帯を巻いている。
涙の滴の形をした耳飾りや何重にも巻かれた金銀の首飾りも、オーガ人形の身に付けた全ての装備が、超一級の魔法の武具であった。
ガンベルンと同様の巨体の異様さもさることながら、その全身から発せられる強大な魔力と生き人形の放つ闘志の凄まじさを、搭乗席のレアニアとメルアレンはひしひしと感じていた。
映像を投影する魔法の応用で、搭乗席にいる彼らの眼前に周囲の光景が投影されているのだが、投影画像越しにも首を撥ねられそうな威圧感だ。
生身を晒しているドラン等は、レアニアやメルアレンと比較にならぬ威圧感を叩きつけられていたが、そこはドランである。そよ風を受け流すがごとく不動。
「ふむ、ヴェンギッタ、君の中でも切り札に相当する個体とみた。最も強力なのは最初の一体だろうが、そちらは出て来ないのかね?」
世間話でもするように気負う様子もなく問うドランに、男女が物理的に融合した姿のヴェンギッタは意外にもと言うべきなのか、律儀に応じた。
地の底より響くかの如き男の声と、天上の彼方から零れ落ちた笛の音のように美しい女の声が同時に言葉を発する。
「我もまた私達であり、ヴェンギッタであるのには変わらない。始まりの私を破壊するのとこの我を破壊する事を区別するのは、無意味である」
「ヴェンギッタという群れを構成する個体のどれか一つが残っていれば、それがヴェンギッタとして機能するということか? 女王蜂や核に相当する個体が存在しないとならば、成程、これは何とも面倒な相手だ」
「我からすれば、私達からすれば、貴殿の方こそ面倒よ。宣戦布告からの短い期間でよくぞここまでの迎撃態勢を整えてくれたもの!」
「敵からの謗りは最高の褒め言葉であるそうな。時にヴェンギッタの中で君の個別名称はあるのかね? 君にとっては自分の一部分でしかなかろうが、私としては区別をしておきたいところだ。名前がないというのなら、安直にオーガ・ヴェンギッタと呼ぶが?」
流石に安直過ぎるその名は、芸術肌であるヴェンギッタには許容しかねた。加えて、かつて偉大なる強敵として戦った、この人形の元となった存在への敬意が、ヴェンギッタに安易な名付けを許さなかった。
「これなるはかつて陰陽の和合を体現したる鬼神アギラを模したる器。オーガと同列に扱うは許さぬ。我らの生み出した傑作たるこの器、人形たる我らの一部、あえてヴェンギッタと分けて呼ぶならば、アギッタと呼べ」
アギッタとはアギラ・ヴェンギッタの略称だろうか。それはそれで安直な名前では? とドランは思ったが、それを口にするのは憚られた。
ヴェンギッタ――アギッタの言葉からは、かつての強敵に対する偽りのない敬意が感じられたのだ。であるのならそれを踏み躙るような真似は、無粋にも程があろう。
「ならばかつての鬼神と私の前に立つ君に敬意を表し、アギッタと呼ぼう。さて、アギッタよ、一つだけ言っておくがうちの領主殿の髪の毛一本とて、貴様に渡すつもりはない。生憎と彼女は私のもので、私は彼女のものなのでな」
「ならば我は横恋慕の無粋者か。クカカカカ、生憎と我がかの女人を求めるは情愛に非ず、この世に顕現したる美の結晶を求めるが故!!」
アギッタの右手に握られた三日月刀が振り上げられ、秘める魔力のおぞましさを表すように、黒い刃に赤黒い文様が浮かび上がる。
それはまるで太陽が空にある時刻にも関わず、赤く脈動する三日月が空に生じたかのようで、言い知れぬ不吉な気配と死の予感に勇猛なる雌獅子は呼吸すら忘れていた。
「レアニア」
心身が金縛り状態に陥ったレアニアを救ったのは、ドランの静かな呼び声だった。鬼神を模した人形が齎した金縛りを、最強最古の竜の声音が無きものへと変える。
瞬間、レアニアの琥珀色の瞳に凛として、それでいて烈々とした光が戻り、赤黒い煙のような光を帯びて振り下ろされる三日月刀を、メイスを更に盾で支える事で受け止める。
ガンベルンに搭載された魔力炉が激しく唸りを挙げて、四肢に更なる力を与え、関節を始め各部品に施された保護の魔法が効力を発揮して、三日月刀から伝わる圧力に真っ向から反発する。
アギッタの長槍と棍棒が動くよりも早く、ガシャン、と鋼と歯車の動く音を立てて、ガンベルンの背中の魔力砲がアギッタの胸部へと向けられる。
「くたばれ!」
レアニアの左右の親指が操縦桿のボタンを押しこみ、純魔力の砲弾が立て続けにアギッタへと放たれる。これにドランも便乗して、七色に輝く魔法の矢――レインボーボルト十三発を鬼神人形へと容赦なく叩き込む。
ロマル帝国最新鋭の魔操鎧の装甲をぶち抜く魔力弾と七色の魔力の矢の連射を、アギッタの手に握られた鎖が生ける蛇の如く独りでに動き出し、悉く絡め取り、またあるいは砕いていた。
「ふむ、飛び道具への対処は及第点よりやや上。神器とみたが、鬼神からの戦利品か」
鎖の乱舞が止み、無傷のアギッタに後方へ回っていたメルアレンとレアニアが息の合った動きで同時に襲い掛かる。
三百六十度の視界を有するアギッタはメルアレンの動きを捕捉しており、死角を突かれた動揺はなく男の手の三日月刀と女の手の棍棒がレアニアとドラン、鎖を握る男の手と長槍を握る女の手が背後のメルアレンへと向けられる。
合図となるような掛け声を誰かが発する事はなかった。ドランを乗せたままのレアニアとメルアレンは、魔力砲の砲撃を交えながら双方の機体に装備されたメイスを叩きつけ、反撃として繰り出される三日月刀や棍棒を盾で受け止める作業に意識を集中させる。
一合交わす毎に盾に施された防御魔法が発動して、青白い光を周囲へと散らし、繰り出すメイスは鬼神人形が巧みに振るう武器に阻まれるか、軽妙な体裁きによってかわされている。
「強化されていなかったら、目で追えなかったなっ」
魔操鎧と専用の搭乗服に施された強化魔法により、反射神経や思考速度を劇的に向上されていなかったら、そもそも戦闘にもならなかったとレアニアは屈辱を噛み締める。
レアニアはかつてガンベイを改良した程度の機体だと思い侮っていたが、ガンベインに搭乗してその性能を知った時には、一体何と戦うつもりだと驚いたが、今はその性能に救われているのが現実だった。
「これが人形とは」
一方でメルアレンもまた生きた鬼神そのものと対峙しているかのような錯覚の中で、北の荒野の向こうからやってきた敵の実力に、冷たい汗が頬や背筋に浮かぶのを感じていた。
メルアレン自身一級の戦士ではあるが、この鬼神人形が相手となると生身ではとても戦いを挑もうという気にはなれない。それこそ逸脱した戦闘能力を持つわずかな例外でなければ、戦闘を成り立たせる事すら出来まい。
「ふっむ!」
「ゴオアア!!」
恐れ戦く二人に対し、ドランは冷静にアギッタの猛攻を観察し、アギッタもまたドランからの苛烈な反撃への対処を最優先として四本の腕と四つの目を動かしていた。
一撃毎に血のように赤い魔力を散らす三日月刀と宝石のような棍棒を捌くレアニア機だが、アギッタの攻撃の回転速度は凄まじく見る間にレアニアの神経と体力を削っていた。
一瞬の油断と一度の失敗が即座に死へとつながる状況の中で、ドランはレアニアとメルアレンの援護に徹し、将来有望なる二人を魔六将相手の戦であれ失うわけには行くまい。
レアニアの受けが間に合わなかった三日月刀の叩きつけを、ドランの長剣――竜爪剣が甲高い音と魔力の火花を散らして弾き返し、メルアレン機が水晶の穂先を避けきれぬ時には、放たれた魔力の矢が穂先を撃って空を突かせる。
生身を剥きだしのドランを伴って戦場に出る事に否定的だったレアニアとメルアレンも、この状況に到ってはドランが居なければこうまで戦い得なかったと認めざるを得ない。
「強きかな、巧みなるかな、ドラン。ベルンの者らは我らの思い浮かべたるよりもはるかに強敵なり。黒薔薇の精も、蛇妖の娘も、そして今、我の前に立つ君も!」
強敵への礼賛を叫ぶアギッタの男の左眼が灼熱の赤に、女の右眼が氷雪の白に輝いた瞬間、二つの目から超高熱の熱線と超低温の光線とが、レアニアとドランへ向けて放たれた。
赤と白と二色の光線にレアニアは反応しきれなかった。それでも魔操鎧に施された防御魔法が自動で発動したろうが、重ねてもう一度、『それでも』鬼神人形の眼光は防ぎきれぬと判断したドランが動いていた。
「クリムゾン・レイ!」
ドランの向けた左手の先から、真紅の熱線が放たれて、二色の眼光を相手に正面から衝突して拮抗状態を作り出す。
減光装置が働いていなかったら、レアニアとメルアレンが失明していてもおかしくない程強烈な光と魔力の奔流が周囲を満たす中で、自由になっていたドランの右手がアギッタへと振るわれる。
アギッタは竜爪剣をどれ程の脅威と認めているものか、眼光の放射を咄嗟に中断し、背後のメルアレンを大きく飛び越えて後方へと跳躍する事で、竜爪剣に腹を切られるのを回避する。
三日月の軌跡を描いて振るわれた竜爪剣は虚しく空を切り、アギッタとの間合いを一時的に広げるのみに留まった。が、ドランの追撃までも止んだわけではない。
「……爆ぜよ エクスプロージョン!」
指定した対象に直接爆発を起こす事から、回避と防御が難しく使い勝手の良い爆発魔法は確実にアギッタの上半身を飲み込み、戦場に轟音を立てる。
レアニアとメルアレンが息を飲んでドランの追撃を見る中で、もうもうと発せられた黒煙と赤い炎の中に鬼神の影が揺らめき、鎧の守りによって全身に幾らかの煤を付けただけで特に傷の無いアギッタが姿を見せる。
「ふむ、あれ位の威力ではほぼ通らんか」
アギッタの纏う装備とアギッタ自身の魔法防御を低く見積もり過ぎたという自嘲を含んでの発言だが、レアニアとメルアレンは傷らしい傷の無いアギッタの姿に、更なる脅威を感じているようだった。
「少し、長くなるか。レアニア、メルアレン、呆けている暇はないぞ!」
「爆炎の礼をしよう、我が求める美の伴侶を名乗る者よ」
三対一の絶え間ない攻防の余波は凄まじく、嵐が吹き荒れるがごとく周囲に衝撃を撒き散らし、他のヴェンギッタの個体とベルン軍の兵士達が手を出す隙もない。
ドランが遠隔操作するゴーレム達であればまた話は別だったかもしれないが、アギッタとの激戦の間、ベルターを始めとしたベルン謹製のゴーレム達は他の部隊の援護へと向けられていた。
*
ドランとベルン軍、そしてアギッタやヴェンギッタ達の戦線より後方、ヴェンギッタの大半を引き受けていたディアドラの戦いもまた佳境を迎え、激しさを増す一方になっていたが……
大地を埋め尽くす黒薔薇の蔓に絡みつかれ、身じろぎ一つ出来ない無数のヴェンギッタ達が居る中、同様に魔花の王と女王の呪詛を用いた枯死の呪いも周囲を満たしており、ディアドラの心身を蝕んでいる。
顔色を蒼白に変えたディアドラが、三つ目の少女人形のヴェンギッタの顔を踏み潰し、肩を大きく上下させながら、眼前のスミッタを睨みつけている。その眼光の鋭さばかりは戦闘開始直後から鈍る事を知らない。
命を吸う青い光と万物を塗り潰す黒い光の二つを纏い、周囲に茨を展開するディアドラには傷こそないが、枯死の呪いは今も花の精である彼女に枯れろ枯れろと囁き続けている。
「そろそろ、っ、貴方の部品も底を尽きて来たのではないかしら? ようやく退屈なお人形劇が閉幕かと思うと、つい気が弛んでしまいそうになるわね」
半壊したアトリエッタを背後に庇い、顔面のひび割れたスミッタが淡々とディアドラに答える。ユグドラシルを含む極一部の樹木や花の精でなければ、瞬時に枯死する呪いを受けてこうまで苛烈に戦い続けるディアドラは、称賛以外に言葉の無い強敵であった。
「貴女の強がりも、強がりだけではない凛とした姿勢も、見事、美事、みごと」
「敵が相手でも称賛の言葉を惜しまないのは良い事よね。貴方達もここまで面倒な相手だとは思いもしなかったわ。ところで、もう降参と解釈しても良いのかしら」
「まさか、まさか、我らは尖兵に過ぎぬ。君達へと向けて伸ばされた指の爪先に過ぎないのだから。ああ、しかし、しかし、いと麗しく恐ろしき黒薔薇の精よ、今回はここまでなのだ」
スミッタの告げた言葉の内容を吟味するよりも早く、ディアドラは即座に攻撃の続行を選んだ。ヴェンギッタ側が自棄になっての特攻や隠し札を用いる可能性を考慮すれば、意味を問う言葉を口にする暇すら惜しまれる。
あちらこちらで無数のヴェンギッタの身体の折れる音が連鎖し、ひと際濃厚な黒薔薇の香りが周囲を満たすも、スミッタの老いた顔に浮かぶ淡い笑みは消せなかった。
「一時の別れだ、黒き薔薇よ。遠からじ我らはまたこの地を訪れる故」
言い終えたスミッタの全身を黒薔薇の茨が覆い尽くし、圧壊せしめんとディアドラが残る力を振り絞る。それをヴェンギッタ達は笑った。
「ハハハハハ、さらば、さらば、おさらばだ、貴女は実に美しかったよ、黒薔薇!」
ディアドラに茨を通して戻ってくる感触が不意に崩れた。それまで確かな硬度を有していたヴェンギッタ達が砂粒と化したかのように崩れ落ち、一体残らず塵へと変わったのである。
まさか一瞬で手ごたえが無くなり、魔力の残滓すら感じられない状況になった事に、さしものディアドラも思考に空白が生まれたが、どうやら本当にヴェンギッタがこの場から去ったと判断せざるを得なかった。
スミッタ達以外にも居た万単位のヴェンギッタ達全てが塵の山と化しているのだ。ドランかセリナか、それとも上空のヴァジェ達が魔王軍を後退させるだけの損害を与えたのだろう。
「まったく、本当、疲れる相手だわ」
心の底からの想いを吐き出して、ディアドラは堪え切れずにその場で膝を突いた。
「この呪いも本当に厄介だこと。解呪出来る方達がベルンに大勢いらっしゃるのが救いね」
ベルンに建立された多くの神々の神殿や教会に居る、素性を隠した神々を思いだし、ディアドラはやれやれと大きく溜息を零した。
ディアドラと対峙していたヴェンギッタ達が元々備えていた自壊機能によって、その姿を消したのと同時刻、クインセと交戦していたセリナもまた戦闘を一区切りさせようとしていた。
クインセと戦闘しながら、艦を抑えようと放ったジャフ・ジャルードは、マラハウの指示通り四十秒で支度を終えた陸戦隊に阻まれて、艦内への侵入を果たせずに全滅している。
セリナ自身は防御の為に纏っているジャラームは崩壊寸前の有様で、ドラグヴェンデスをかろうじて回避できたクインセは、その余波によって青い甲殻に無数の罅を走らせている。
お互いに与えた傷と消耗はおおよそ五分五分と見て良いだろうか。
先に戦闘を切り上げる切っ掛けを作ったのはクインセだった。セリナには分からなかったが、何かしら方法で連絡が入り、メギン・オルを始めとした艦隊が転進するのを横目にセリナへ手打ちを申し入れる。
「ホウ、ふむフむ、なるホド」
「?」
何やら呟きを零すクインセを注視しながらも、セリナは何が起きているのやらと疑問を抱く。セリナ自身に傷らしい傷はないが、戦闘を優位に進められているとは微塵も思ってはいない。
「お嬢サン。今日のトコロハどうやらここマでデスよ。ベルンはヴェンギッタ達をヨクシノイダヨウですシ、空の戦況モコチラニトっては芳しクナイ」
「こ、このまま逃げるつもりですか!」
「ええ、後退ではなく転進ダ、ナドトのたまう程、私達は意地っ張りではアリマせんノデ」
追うべきか見逃すべきか、セリナが判断しきれぬ間に、クインセはメギン・オルと繋げていた蜘蛛糸を辿り、ふわりとその場から浮かび上がって、どんどんと離れて行く。
「ああ!? じゃ、ジャラー……」
咄嗟にジャラームを撃ち込もうと魔力を練るセリナの周囲の地面に、一斉に切れ目が入る。広範囲に及ぶその切れ目にセリナの視線が映り、陽光に煌めく蜘蛛糸が切れ目の奥から飛び出してきて、網となってセリナを丸ごと包み込む。
「い、何時の間にこんなものを!?」
ジャラームの蛇毒を使えば溶かせるとはいえ、全方位から包み込んでくる蜘蛛糸の網はセリナを足止めするのに十分だった。
「ソレでハ、お嬢さん、マタ近いうちにオアイしまショう。会わずに済む方ガ、私トシテハ望まシいでスケれドね」
セリナが待ってと言う間もなくクインセの小さな体は彼方の陸上戦艦へと消え去り、セリナは次々に出現しては自分を捕えようとしてくる蜘蛛糸の網への対処に追われた。
それなりの時間が経過して、蜘蛛糸の網の全てを蛇毒で壊し終えてから、セリナはへなへなとその場に崩れ落ちた。
何度も行使した魔法と無数に繰り出された蜘蛛糸、そして度重なる砲撃によって周囲の地形はすっかりと変わって、いくつもの隆起や大穴が出来ている
「うう~、魔王軍の人達が退いているのだから、ディアドラさんやドランさん達が勝ったっていう事で良いんだよね? はあ~緊張したぁあ~~」
こてん、とセリナは、はしたないとは思いつつその場で仰向けに寝転がり、上空で頻繁に発生していた火炎や稲妻、光の応酬がほとんどなくなっているのにようやく気付くのだった。
そして、ドランとレアニア、メルアレン、アギッタの戦いもまた一先ずの決着を迎えていた。
ドランの作り出した魔力の鎖がアギッタの四本の腕全てを拘束して動きを封じた隙に、レアニア機盾を放り捨てて両手で握ったメイスをアギッタの右頸部に叩きつけ、メルアレン機はメイスに内蔵されている刃を用いて、アギッタの背中を大きく切り裂いた。
これまでの戦闘による消耗で、アギッタを守る魔法の防具の効果は大きく減衰していた上に、四肢を拘束する魔法の鎖が強度の低下を促す弱体魔法を継続して掛け続けている。
だからこそ通った二機の攻撃によって、アギッタの身体は大きく陥没し、切り裂かれ、内部を満たしていた飴色の液体が血液のように零れ出す。受けた損傷に崩れ落ちるアギッタだが、その眼光が再び輝き始めた瞬間、ドランが動く。
「これより強い隠し玉がない事を祈るよ、人形殿」
ドランはレアニアのガンベルンの頭部に足を掛けて乗り出し、四つの瞳を輝かせていたアギッタの頭部を竜爪剣の一振りで跳ね飛ばし、更に空中に舞ったそれを十字に切り裂く。
ばっと、飴色の液体が空中で飛散する中、ドランは残るアギッタの胴体に竜爪剣を突き立てて自身の魔力を流し込み、徹底的に内部を蹂躙して二度と動けないように破壊し尽くす。
ドランが竜爪剣を引き抜くのに数瞬遅れて、アギッタがどうっと重々しい音を立てながら仰向けに倒れ込む。
アギッタの背後に回っていたメルアレンが、押し倒されないように慌てて避けて、レアニア機の横に並んだ。
「二人とも良くやってくれた。三人掛かりでなんとかなったな」
ドランは嘘を感じさせない口ぶりで告げたが、レアニアとメルアレンは到底そうは思えなかった。どう考えてもアギッタを撃破できたのは、ドランの存在があってこそ。自分達等は、ドランを主役と考えれば端役もいいところだろう。
「御謙遜を。私とメルアレン殿だけでは足止めすら出来たかどうか」
「私もレアニア卿に同意いたしますが、他の人形達の動きが止まりましたな。この鬼神人形が中継役か指揮官であったのでしょうか?」
メルアレンが告げた通り、ネロジム砦近郊に築いた防衛線に津波の如く殺到していたヴェンギッタ達が動きを止めて、戦場には不自然なまでの静寂が急速に訪れつつあった。
「いや、相手が全軍後退するらしい。見なさい。他の人形達が全て塵に変わりつつあるのは、こちらが残骸を調査するのを防ぐ為の自壊機構が発動したのだろう。
それに上空の竜種対決も趨勢は決まった。こちらの伏兵を撃破する事も出来なかった以上、最初の探り合いはこれで十分だと考えたらしいな」
「探り合い……これだけ戦って探り合いでございますか」
信じ難い思いで声を振るわせるレアニアに、ドランはそうだ、と厳しくもはっきりと答える。
「魔性の跋扈する暗黒の荒野を制覇した軍神の末裔が率いる軍勢だ。この程度、序の口に過ぎるまいよ」
「なんと。……ん、そういえばこのアギッタなる鬼神の人形は形を保っていますが、補佐官様が何かなされたのですか?」
「剣を突き立てると同時に中身も破壊しておいた。それで自壊機構も壊れたのさ。ヴェンギッタからすれば、一番残したくなかった人形を鹵獲されたのだから、今後は私を付け狙ってくるかもしれないな」
「楽しげな声色に聞こえますが……」
「婚約者を付け狙う強敵の目を自分に向けられたのだから、喜ばしい事ではないかね?」
あれだけの強敵を相手にしてあっけらかんと告げるドランに、レアニアもメルアレンも二の句が継げず、自分達の上司は随分と常人と異なる感性で生きているらしいと強く実感するのだった。
後に初めて魔王軍とアークレスト王国ベルン男爵領の間で勃発したこの戦闘は、魔王軍所属の偽竜達にこそ被害は出たものの、人的被害においてはベルン軍と魔王軍双方において死亡者なしという異常極まりない戦いとして後の世に知られる事となる。
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第二百八十九話
ヴェンギッタとクインセを擁する魔王軍第一陣とネロジム砦近郊に布陣したドラン達ベルン軍の戦闘がひとまずの終息を迎えた直後の事。
所有者を特定の条件で指定した場所へ転移させる魔法具アリアドネにより、重傷を負う寸前に安全な野戦病院へと転移された兵士達が、詰めていた医師や衛生兵、神聖魔法を行使する神官や僧侶達から治療を受けている。
ゴブリン戦以降、常時生産と備蓄が行われていた医薬品が惜しげもなく使われ、また、領地の規模に対して異常なほど神官の人数が多い為、傷ついた兵士達は通常の戦争の常識では考えられない高水準の治療を受けられている。
アリアドネの転移先に指定されているのは、野戦病院の敷地内に建てられた倉庫の中で、戦端が開かれてからは常に神官と医師、そして負傷者を迅速に運搬する為の機材と労力としてゴーレムが複数控えている。
兵士達はそのほとんどが転移直前に、ヴェンギッタによって殺されると恐怖したか、不意を突かれて自分が死の危険に晒されていたのに気付いていなかった者達である為、戦場から転移してきた直後には、自分の置かれた状況に気付いていない者がほとんどであった。
致命の一撃を避けられても、その他の大小の傷を負っていた者も居れば、装備こそ汚れていても大した傷を負っていない者まで、転移してくる者は様々だが、野戦病院の者達は事前の取り決め通り自分達の務めを懸命に果たしていった。
こうした彼らの堅実な働きが、魔王軍との初戦で一人の死者も出さなかったという結果に繋がったと言えるだろう。
そして死者が出なかったのはベルンの兵士ばかりではなく、同盟関係を結んだモレス山脈の竜種達も同様だったのだが、これは彼らも同じようにドランの用意したアリアドネを装備していたのが理由だった。
その証拠に兵士達の転移陣と病棟から離れた場所に、竜種用の転移陣が用意されていて、そちらにも神官達を中核とした医療陣と、痛みにもがくワイバーン達を宥める為の竜達が詰めていた。
人類の医師や神官だけではワイバーン達は暴れたろうが、それを予見して竜教団の中でも亜竜や劣竜と意思疎通の出来る実力者に、戦線に出ずにこちらに残った知恵ある竜種が抑え役となり、負傷したワイバーン達に大人しく治療を受けさせている。
抑え役として残った水竜アオスイは、ベルン村、いや、今や領都と呼ぶべき規模になったベルンの商業区で店番をしている時と同じように人間に姿を変えて、痛みに呻く下位の同胞達を宥め、竜語魔法による治癒を施す作業を続ける。
「よく戦ってくれました。今はゆっくりと傷を癒してください」
グルグルと喉を鳴らすワイバーンの首筋を優しく撫でて、アオスイは周囲を慌ただしく行き交う神官や医師、竜教徒を見回した。
彼らの働きはアオスイの見る限りにおいて手抜きや手落ち等はなく、時に討伐の対象となるワイバーンを相手に出来る限りの事をしてくれている。
竜種や竜人に熱をあげる竜教徒達は兎も角として、その他の治療者達には予めクリスティーナとドラン達からの薫陶が良く行き届いていたのだろう。
「人間との距離の詰め方……。ふふ、思ったよりも上手くいっているのかもしれないわね」
直接この手で忌々しい偽竜達を葬れなかったのには、どうしても悔いが残ってしまうのだが、こうして種の異なる者達と共に同胞の傷を癒していると、こちらでも得るものがあったと信じられた。
事前に戦争による犠牲者を極力減らす為に用意されたアリアドネが無事に機能し、死者が出なかった事、ドランとベルンの兵士達の活躍により、ひとまずは魔王軍が退いた事実は、ベルンの屋敷に残っていたクリスティーナにも即座に伝わっていた。
より厳密に言えば、執務室に偵察用の小型ゴーレムの中継する戦場の様子を投影する水晶球型の魔法具が置かれていて、時間差のない情報伝達が行われていたのである。
戦争状態に突入したとはいえ、領主としての普段の仕事が無くなるわけでもなく、クリスティーナは仕事をしながら戦況に一喜一憂していたのだが、後退してゆく魔王軍の軍勢を認めた時には、へなへなと脱力して椅子の背もたれに身体を預けてしまう。
「はあ~~~、この様子なら怪我人は仕方ないにしても死者は出さずに済んだか」
まず何よりも気掛かりだった戦死者が発生していない事に、クリスティーナは同じく執務室に控えていたドラミナの目を憚る事無く、安堵の息を漏らした。
戦端が開かれてから張り詰めた顔になっていたクリスティーナが、戦勝の知らせを聞いた途端、弛緩した顔になったのを、傍らに立つドラミナは微笑みを浮かべる。久しぶりにクリスティーナの年相応の表情をみたものだ。
セリナとディアドラだけでなくドラミナも戦場に投入すれば、魔王軍への被害は更に甚大なものとなっていたのは間違いないが、万が一にもクリスティーナの身柄が狙われるか、ベルンやその他の都市部への侵攻があった場合の切り札として、ドラミナはベルンに留まっていた。
クリスティーナに限ってはどれ程の手練の暗殺者であろうと、まず返り討ちにするだろうが、領民を人質に取られるなどした場合に切れる手札が少ないという弱点がある。
その点、ドラミナは卓越した戦士にして魔法使いであり、バンパイアとしての各種の異能や極めて汎用性の高い神器を所有する等、あらゆる状況に対応できる強みがある。
クリスティーナの戦闘能力で対応できない事態でも、ドラミナならば問題なく解決できるという信頼がドランやクリスティーナ達にはあった。
「ええ、予想の通りになったのは幸いでしたね。予想と違ったのは魔王軍の側もワイバーンの亜種と偽竜の何体かを撃破したものの、被害はその程度で終わった事です」
「魔王軍の兵士は人形達ばかりだし、後方の艦隊を攻撃したセリナもクインセとやらに阻まれて、大きな戦果は出せなかったからな。けれど、私にとっては誰も死者が出なかった結果こそが、最大の戦果だよ」
「ふふ、それもそうでしたね。ですが魔王軍側の被害がヴェンギッタの半数の完全破壊までとなると、第二次攻撃もそう時を置かずに行われるでしょうから、備えを忘れてはいけませんよ」
「ドランが事前に言っていたが、今回の地雷や竜達に持たせた装備も対策が講じられるだろうし、次はここまで容易には行かないだろう。
それにヴェンギッタの残骸は自壊したが、本当にそれだけで済んでいるのかも確認しないとだし、諸侯連合との連携も次からは本格的に考えなければいけなくなる。やはり、私達だけで好き勝手出来ないのがやりづらいったらないな」
諸侯連合の兵力が加われば、ガロア側の兵数は桁違いに跳ね上がるのだが、ベルン側が非常識ないしは常軌を逸した質で固められているのに対して、諸侯連合側は常識の内に留まる高水準程度だ。
歩調を合わせて戦う難しさは以前から懸念されていたし、魔王軍の戦力を考えると被害はとてつもないものになるだろう。
「私達としてはあくまで第一にベルン領の兵士達の人命、余裕があれば第二に諸侯連合の諸兵の人命への配慮と優先順位を間違えない事です。
それに魔王軍もまだまだ手札を隠しているでしょうが、こちらも私とクリスティーナさんという札を残しています。気は抜けませんが、悲観的になる必要もありませんよ。
ムンドゥス・カーヌスの領内に攻め入って、魔王軍を壊滅させるとなるとまた話は別ですが、今は防衛戦の事だけを考えれば良い段階ですから」
「そう、そうなのだけれど、やはり私はまだまだだな。ようやくベルンの人々とドランの為に生きられると思った矢先にこんな事になって、どうにも心の片隅が落ち着かないし、苛立ちが消えないでいるよ」
「ふふ、最初からかなりの難関を突きつけられていますが、これを乗り越えれば大概の事態には心を揺さぶられないようになりますよ」
「ドラミナさんの体験談?」
「ええ、私の場合はもっと穏便な難関でしたけれどね。でも、クリスティーナさんは私のような王としての末路を迎える事はないと断言できますよ。大丈夫、大丈夫です」
ドラミナの王としての末路とは、すなわち国民を失い、国土を失い、亡国の女王となった事だ。ドラミナ自身はさらりと口にしたが、クリスティーナにしてみれば不意打ちも良いところである。
クリスティーナの心臓は思わず一跳ねしてしまったが、元凶であるドラミナの声色に悲痛の色はなく、統治者として後輩であるクリスティーナを思いやっての言葉であるのが理解できた。
「選んだ言葉が心臓に悪いよ」
苦笑いを浮かべてこちらを見上げてくるクリスティーナに、ドラミナはそれもそうか、と自省した。自分としては既に受け入れている過去の傷だが、他者からしてみれば、おいそれと触れて良いかどうか判断に困るものだろう。
「次からは気を付けましょう。さあ、クリスティーナさん、領主として領民の皆さんに戦勝の触れを出す準備をいたしましょう。記者の方々も新聞の一面を飾るべく、ベルンの公式発表を今か今かと待ち構えている様子ですし」
「では、まずは原稿作りとどこまで情報公開するか、内容を詰めなくては。シェンナさん、ああ、いや、シェンナ会計官に広報の予算について話を通さないと……」
新たな仕事に取り掛かるべく、クリスティーナは執務机の上に置いてある呼び鈴に指を伸ばし、短く鳴らした。辺境の村でよくもここまでと感嘆する程、教養を重ねてきた才女は程なくしてクリスティーナの執務室を訪れるのだった。
領都ベルンの屋敷でクリスティーナが領主としての仕事に邁進している中、商業区画に建てられた貴族や大商人向けの高級宿の一室に、この度の戦を遠くこの地より見物している者達が居た。
昨年、ベルンが独占しているエンテの森との交易品目当てや、ドランが気合を入れて建築した温泉施設に湯治に来た客を対象に建築された宿は、常ならばほぼ満室という盛況ぶりだが、戦争の始まった昨今では客の入りは半分程になっている。
半分に減ったと嘆くべきか、半分も商魂逞しい者達や度胸のある貴族が居ると褒めるべきか、いやはや。
その半分に減った客の中でも、最高級の客室を取った客達はとりわけ特別な素性の者達である。
ドランとクリスティーナが伝手を頼って集めた調度品と家具に囲まれた室内で、長椅子に腰かけて優雅に午後のお茶を楽しむ人影が二つと、その傍らで給仕をしている人影が一つ。
貴人という言葉が示す通りに、白磁のカップを傾けて芳しい紅茶の香りを楽しんでいる長い黒髪に白皙の美貌を併せ持った男は、香り立つような高貴な雰囲気と王者の威風を纏っている。
白い半そでのシャツと黒のズボンの上に、ゆったりとした紫色の黒い一枚布を巻き付けた貴公子然とした容貌の男の名はハーデス。冥界の三貴神の一柱にして、冥界全土を管理する者。
全ての神々の中でも最高位に数えられる冥界の神が、例え化身であれこのベルンに降臨しているのは、内部事情を知る者からすればそれ程あり得ない事ではない。
冥界の三貴神は三柱全てがベルン男爵領の大黒柱であるドランの古い友であり、昨年にはドランとして改めて挨拶にも行っている。
その際にドランとしての地上での暮らしについて雑談を交わしている。この時の事がきっかけとなり、ハーデス達はドランの知人や恋人達が死んで冥界に来るよりも、生きている内に顔を見てみようかと前々から計画していたのだ。
そして、常に死せる者達の受け入れと転生した魂の送り出しで忙しない冥界の主達が、化身を送る余裕を得たのが今だったというわけである。
ハーデス以外の二つの人影も、当然の話ではあるが、実際には『人』ではなく高位の神の化身だ。
ハーデスとは別の椅子に大きな体を縮こめるようにして座り、にこにこと無垢な笑みを浮かべながら紅茶を味わい、部屋に備え付けの茶菓子に手を伸ばしているのは、ハーデスと同じく三貴神に名を連ねる大神『無間』。
残る三貴神の閻魔が管理する地獄の一つにその名を冠せられた大神は、常に於いては冥界から魂を送り出す回廊にして、回廊を行く魂を守護する光の柱という姿を持つが、地上への降臨に際しては長身のハーデスよりも更に背の高い女性の姿を取っていた。
男女を問わずに目を引く背の高さで、瞳も膝裏まで届く長い髪も蛍火のように淡く明滅しているような、不可思議な薄い緑色だ。
今の無間は成人した純人間種の女性の姿だが、浮かべている笑みとこの世のものとは思えない神秘的な雰囲気が、幼い子供か無邪気な妖精のように思わせた。
長い髪の上に白く透き通ったベールを被り、ほとんど肌の露出のない白地のワンピースと鮮烈な赤色に染められた薄いカーディガンを重ね着ている。
二人、いや二柱とも生憎とドランには会えずじまいだが、冥界を離れて地上に降り立つなど滅多にある事ではなく、ドランが手塩にかけている最中のこのベルンでの休暇をそれなりに楽しんでいる様子だ。
始原の七竜を筆頭に高位の神々によって張り巡らされた結界の影響により、地上に降臨した以上、ハーデスも無間もその神としての能力のほぼ全てを封じられた状態だが、それでも遠き地で行われている戦場の様子をつぶさに観察する事は出来た。
「この度の戦に死者はなく、死せるネイバーン達の魂は始祖を生みだした邪神達の飴玉か、玩具となる。我らの仕事が増えないのは誠に喜ばしいな、無間よ」
冥界という一つの世界の管理を司るハーデスは、死者の増減それ自体で仕事が増える事は基本的にないのだが、死者の魂を送りだす無間には関係のある話だ。
彼らの普段の仕事量からすれば然したる差でもないし、今死ななかっただけで何時かは死を迎えるのだから、遅いか早いかの話なのだが、新しい話の幕を開けるきっかけ位にはなる。
「――、――」
「であるか。ドラゴン、いや、ドランは珍しく安堵の息など吐いているな。古神竜であった頃には、負ける等あり得ぬ戦いばかりであったろうから、戦場であのように安堵した事等なかったろうな」
守るべき、あるいは守りたいと願う者達は、共に戦うにはあまりに脆弱過ぎて、今のドランはさぞや胆を冷やしながら戦っているに違いない、とハーデスは推測している。
単に味方が傷つかないようにするだけならば、ドランが思う存分力を振るって敵を蹂躙するだけでよいが、今のところはかつて冥界で口にした通り、出来る限り人間としてあるいは地上の生物の範疇の力を振るうように自制しているようだ。
「ドランと矛を交えている魔王はサグラバースの子孫として、中々見所のある力と霊格を併せ持っている。ドランの奴も終始人間の規格に収まる力で戦ってはいられまい」
「―――――――、――?」
「確かに無間の言う通り、ドランの周りの女性達は皆、いずれも神々の園へと迎え入れられるのに相応しき見事な者達ばかり。彼女達が奮起すればドランに仕事はないかも知れんが、さて、サグラバースの血と神器ばかりがドランに立ち塞がるわけでもないようではな」
果たしてハーデスの口にしているのは、西のロマル帝国か、東の轟国か。ハーデスは、ドランが自分達の覗き見に気付いている事に気付きながら、あの能天気な古神竜はどう考えているやら、と種を越えた友の胸中をあれやこれやと推測していた。
無間はそこまで深く考えてはいないようで、魂を送り出す柱として機能している際には味わう事のない紅茶とクッキーや砂糖たっぷりの小麦粉を揚げた菓子を、美味しそうに頬張っているきり。
「さて、ドランめはいましばし戦場に身を置くであろう。私達に気付いて分身をこちらに派遣するか、それともドランが戻ってくるまで地上での休暇を楽しむもよしだが、お前はそうはゆかぬか、タナトスよ」
ハーデスはこれまで黙々と給仕を行っていた三人目、もとい三柱目の死の女神タナトスに水を向ける。
貴族や大商人が使用人や時には家具すら宿に持ち込む事がある為、ハーデスと無間に仕えるメイドと触れこんだタナトスは咎められる事なく宿に足を踏み入れている。
普段は執事然とした男装姿のタナトスであるが、今ばかりはフリルの少ない実用性を重視したメイド服に身を包み、頭には端から黒い紐リボンを垂らしたホワイトブリムを装着している。
かりにも大神たるタナトスが権能とはまるで関係のないメイド服姿になっているなど、彼女を信仰する者達が目撃したら、あまりに予想外の光景に思考を停止してしまうだろう。
「我が主よ。私めは貴方様の忠実なる僕。聖上のご意向に従いまする」
まさに忠実なる、と評する以外に考えられないタナトスの言葉と佇まいに、しかし、ハーデスは笑いを堪えているかのような表情を浮かべた。
ドラゴンがドランとして転生し、冥界を訪れて以降、『死』という世界の大いなる要を司る女神は、普段が生真面目な分、こう、なんというか、弾けていた。それがハーデスには面白くて堪らない。
「お前の私への忠誠心や今の言葉に嘘はないが、それがお前の行動の全てではないではないか。私と無間が、お前にいつメイドとして振る舞えなどと命じた? 従者として振る舞えとすら言っていないというのに」
ハーデスの指摘はまことに正しく、タナトスは表情を変える事こそしなかったが、口にするべき言葉を見つけられなかったようで、無言のまま。無間はハーデスに同意するでもなく、タナトスを責めるわけでもなく二柱のやり取りをにこやかに見守っている。
「大方、クリスティーナといったか、あの者の屋敷にメイドとして雇われようと目論んだのであろう。開戦とあって危険なこの地を離れる者が居れば、新たな人手を雇う事もあったろう。しかし、お前が変わらずこうして我らの傍に居るのが答えよな」
まさしくハーデスの言う通り。タナトスは化身をメイドとして、ドラン達の下で働かせようと目論んでいたのである。残念ながら求人がなかった為に、その目論見は敢え無くついえてしまったらしい。
ついに観念してか、タナトスは悔しげに顔を俯かせて下唇を噛んで耐える。
「くぅう、このタナトス、ひと夏の不覚。疎開した者達によって空いた席を狙ってみれば、空席は存在していなかったとは」
「ははは、まったく、お前は我が友が関わると途端に馬鹿になるな。いや、直情径行になると言うべきか? こればかりは縁と考えるが良い。竜達の結界によって、我らはもはや地上世界において全知足り得ず全能足り得ず。
冥界にある我らでは事前に事情を把握するのも難しい。お前としてはドランを驚かせたかったのだろうが、むしろドランに事前に話を通して確実性を得るべきであったよ」
からかうハーデスの言葉に、タナトスは反論の言葉もなく、普段、公平にして公正、厳粛なる死の女神然とした態度を失い、欲しい玩具を買って貰えない子供のように頬を膨らませている。
タナトスにこんな態度を取らせるのは、世界広し、神多しと言えども古神竜ドラゴンをおいて他にない。
「そして先にドランに話を持って行ったとしても、この地には神が有り余っている。先んじてこの地に降り立った他の神々や眷属を差し置いて、お前を雇用するわけにもゆくまいよ。ドランが義理堅いのはお前も知っていよう」
「は、お言葉のとおりでございます。ドラン様の事ですから、やんわりとお断りになるでしょう」
「そういうわけだ。今回は潔く諦めておけ。閻魔やヒュプノスへの土産話にドランの事がないでは、文句の一つも言われる故、ドランに会うまでこの地に滞在する故な」
「聖上のご温情に感謝いたします」
「お前がドランの本体と分身体に拘りがないのであれば、カラヴィスが齎した塔で備えている方か、あるいはロマル帝国とやらで騒動の渦中にある方に会いに行くのも良いかも知れんがな」
ハーデスは家臣へ新たな二つの道を提示しながら、ロマル帝国の騒動に巻き込まれている方の友へと瞳を動かした。
「しかし、人間に生まれ変わってからまわりに女人ばかりいるな、あいつ」
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第二百九十話
その物語を語るには、ベルン軍が魔王軍との初戦を勝利で飾り、クリスティーナからドラン、末端の兵士に到るまでが大小の差こそあれ安堵の息を吐いていた頃より、時間の針をいくらか戻さなければならない。
ロマル帝国の隠された皇女アムリアとドランの分身体であるグワンダン達が、帝国に反旗を翻した反乱勢力の一つ『太陽の獅子吼』の指導者レグルと接触し、その直後、アムリアの姉アステリア皇女の配下である暗殺者ザナドと接触した頃の事である。
暗殺者の類としてはおそらく最高峰の力量を持つザナドの存在は、否応なく八千代と風香に警戒心を抱かせた。加えて、アステリア皇女は智謀に長けた女傑として諸国に知られている。
そのアステリアが配下に置くザナドをわざわざ遣わしたとなれば、色々と不穏な事態を連想してしまうのは致し方ないだろう。
ザナドの暗殺技術と戦闘能力は、ロマル帝国の誇る武力の象徴たる十二翼将に比肩する。これ程の人材を何時の間に手中に収めていたのか。アステリアが評判を上回る能力を有しているのは、この一点だけでも容易に想像がつく。
アステリア皇女の招きに正直に応じたとして、そこで何が待っているのかなど、凡人たる八千代と風香にはさっぱり分からない。ただ、グワンダンとリネット達三姉妹が同行している状況ならば、武力に限っては心配する必要はない。
どこかでアステリア皇女の息のかかった軍勢や、彼女に与した十二翼将全員を相手にしても、勝つのはグワンダンだと断言できるだけの経験を積んでいる。
問題は武力以外の手段を取ってきた場合だが、そうなったらアムリアの意思を無視してでも安全な場所を目指して逃げると、八千代と風香は決めていたし、グワンダン達も同意するだろうと考えている。
八千代と風香がこのような心配をしたのは、アムリアが確実にザナドの言葉に応じて、母親の胎を出てからは一度も会った事の無い姉からの提案を呑むと確信していたからである。
わんわんとこんこんの判断が正しい事は、今しがたレグルと太陽の獅子吼に追われたばかりだと言うのに、アムリアが躊躇する素振りも見せずに、ザナドからの誘い――ひいてはアステリアからの誘いに応じた事で証明された。
さて、アムリアがアステリアの招きに応じ、実の姉妹が初めて向き合うのが決まった所までは以前に語っている。その後の動向についてから、まずは新しい話を紡ぐとしよう。
かつてザナドが希代の武闘家アスラムと共に、アムリアの身柄を確保しようとした時とは異なる面々がアムリアの護衛であったが、それでも自分の手には余るな、とザナドは冷静に判断していた。
特にグワンダンと名乗った人間寄りの姿をしたドラゴニアンは、いつでもどこでも隙があるのだが、その命を奪うのに成功するビジョンが欠片も思い浮かばない。
数という視点では、アムリア皇女は帝位継承者の中で断トツの最下位だが、質に視点を変えてみれば十二翼将以上の人材をこともなげに傍に置いている。
やはりこの方もロマル帝国の正統なる後継者、血という者なのだろうかと、ザナドはアムリアにもアステリアにも伝えず自身の胸中でのみ感嘆にも似た思いを抱いていた。
旧ロマル帝国領最南端の港湾都市ウミナルから、アステリアの勢力の帝国西部に到るまでには、いくつかの反乱勢力が奪還した土地を通過しなければならない。
グワンダン達がこれまで幻術やアークレスト王国の用立てた方法で、帝国東部から南部を旅してきたわけだが、今回はアステリア側の用意した経路と手段での旅路となった。
ザナドを案内役に、他にも見えないところで彼女の配下であろう影働きを担う者達に守られ、監視され、先導されながらの道中であるが、これにアムリアはどっしりと構えて、それぞれの反乱勢力の統治下にある土地と人々の様子に熱中していた。
グワンダン達への信頼を核に、ザナド達が姉の命令に従って、自分を全力で守るだろうと看破したのもあるが、人生のほとんどを山中の城に幽閉されて育った反動もあったろう。
先祖が奪われた土地と民族あるいは種族の誇りを取り戻したと、喜びに顔を輝かせる者、これまで自分達を見下し、虐げて来た帝国の人間達に復讐の機会をと声高に叫ぶ者、目的は果たしたのだからこれ以上戦は続かないで欲しいと願う者、ロマル帝国に変わりこの地方の覇者となる夢に酔いしれる者。
ウミナルでも見かけた様子の者達が割合こそ異なるが、どの土地を巡っても必ずおり、ライノスアート大公とアステリア皇女、反乱勢力の三竦みが出来あがっていたのには、やはり反乱勢力内に無数の派閥と思想が入り混じっていた為であると、アムリアやグワンダンに確信させた。
道中、アムリアとグワンダン達は時に商人となり、時に傭兵となり、時に難民となり、また時にはザナドの率いる暗殺組織の一員に扮して、アステリアの足元を目指していった。
これにはアステリアの、アムリアに土地毎の実情の確認と様々な身分からの視点を多少なりとも体験させて、自分と対面するまでに多くの情報を与えようとした意図があったのではないかと、グワンダンに推測させた。
そうして彼らの旅路は順調に進み、然したる事件に巻き込まれる事も無く、アステリア皇女が本拠地とするロマル帝国西部最大の都市である公都バロルディにもう間もなく到着する所まで来ていた。
今は安全なバロルディに疎開しようとしている貴族の令嬢とその護衛達、という当初の設定に戻っているのだが、その中でザナドは斥候や偵察を務めるスカウトに扮している。
各地からバロルディへと通じる主要な街道の一つは、アスファルト製の道は整えられて、道幅もたっぷりと余裕を持たされている。また排水溝の類も綺麗に敷設されていて、雨の翌日にぬかるみが出来あがって、道行く人々の靴を汚す恐れはない。
今は内部分裂による憂き目を見ているとはいえ、流石に何十代と続いてきた大国。国家の主要な都市間とそこから外れた村落へも繋がる交通網の整備ぶりは、中々どうして見習うべきものがある、とグワンダンは感心していた。
皇室の流れを汲む大公が代々統治し、今や難民や疎開してきた人々を含めてではあるが、百万以上の人々がひしめくバロルディの威容も、ディアドラを筆頭とした花や樹木の精霊達の守りがあるベルンとはまた違った趣がある、と評価している。
バロルディを預かっていた老齢の大公とその息子から、穏便な形で統治者の座を譲り受けたアステリアはその辣腕を如何なく振るい、戦火はこの地の人々にとっては未だ対岸の火事にも等しい。
この現状でもまだ、アステリアはある程度加減しているだろう、とアムリアとグワンダンは確信している。この拮抗状態を意図的に維持している、その理由を知る。それがアステリアとの会見に臨む大きな理由の一つだった。
アステリアからの招きは渡りに船とも言えるが、同時にアステリアがアムリアに利用価値を認めているのを示している。果たして姉妹の邂逅が齎すのがなんなのか。アムリアにとって、今、それが最も知りたい事だった。
そうしてバロルディに到るまでの道中でも、アークレスト王国との国境付近でも、反乱を起こした人々、ただその流れに乗っただけの人々、そのどちらでもない人々も、このロマルにはいくらでも溢れかえっている。
その中で、ザナドとの短い旅路はアステリアとその懐刀達が着実に、あらゆる場所に根を伸ばしているのをアムリア達に理解させていた。
「ふむん、結局のところ、アステリア皇女と君の組織の優秀さを痛感させられたというのが、今日までの旅路での私の正直な感想だな」
「はっ」
別に嫌みでも皮肉でもないのはザナドにも分かっているが、彼女からの返答は実に明瞭簡潔であった。
ザナドはアステリアから、グワンダン達がベルギンテンの軍勢を壊滅させた下手人だろうと聞かされている。十二翼将でも同じ真似は出来るだろうが、ああまで一方的にとは行くまい。
常識的に考えるのならば、アークレスト王国がアムリアに用意した護衛なのだろうが、かの大魔女以外にこれ程の人材がアークレスト王国に居るのならば、ロマル帝国は早々に内乱を終わらせて、国力を早急に回復させ――いや、増強しなければアークレスト王国に呑まれかねない。
ザナドは愛国心とは縁遠く、ロマル帝国がどうなろうとそれ程の興味はないが、皇室の血脈の行く末には、とある事情から目を離す事が出来ない。
それはザナドだけでなくアスラムや、十二翼将以外にアステリアが囲い込んでいる超人たちにも共通する。
故にどうかアムリアとアステリアが争い、この化け物ドラゴニアンと戦う羽目になりませんように、と願わずにはいられないのだった。
「それではこれより我が主人の元まで御案内申し上げます。皆様におかれましては、これまで通り、馬車の中にてあまり目立たれませぬよう……」
あくまで丁寧な言葉遣いを崩さぬザナドに対して、アムリアは朗らかな笑みを浮かべて了承を告げた。
「はい、心得ておりますよ。案内をよろしくお願いしますね」
育った環境の違いは大きいだろうが、それでもアステリア皇女がこのように笑みを浮かべられるのを見た事はないな、とザナドはふと思った。
*
当然ながらバロルディを守る皇女派の兵士や騎士達には、ザナドが誰を連れてくるかなど通達されているわけもない。まだザナドの存在も彼女の役割を考えれば知られているわけもない。
バロルディを囲む五重の防壁の内、二つ目の防壁の検問を無事に通りぬけたところで、ザナドは馬車を裏路地の方へと向けた。
ライノスアート大公の統治下にある帝都に負けず劣らずの活気と賑わいに満ちたバロルディを見て回れない事に、アムリアは落胆を隠さなかったが、間もなく姉と対面する時が近づいているとなれば、切り替えも早い。
ザナド曰く都内のそこかしこに用意されている隠し通路を使い、アステリアの座すバロルディ城へと向かうのだという。
バロルディ城は、公都の中心部を見下ろす西部の丘に建てられている。国内にいくつか存在する、帝都が陥落した場合に脱出した皇族を迎える為の城でもあるバロルディ城は、アステリア皇女が拠点とするのに十分な巨大さと堅牢さを有する。
いくつも建てられた尖塔は一つ一つが魔法による結界と対空・対地用の攻撃魔法を行使する機構が備えられ、城それ自体にも強固な魔法の守りが幾重にも施され、城内には籠城を想定した水源や畑まで備えている。
バロルディの市街が陥落しても、この城を真っ当な手段で攻略するには年単位の時間が必要となるだろう。
そんなバロルディへの隠し通路を知るのは、これは大きな情報と言わざるを得ない。
裏路地の枝分かれした道を何度も曲がり、住人に扮した帝国の後ろ暗い仕事を担当している者達が占拠している一角で馬車を降りて、ザナドの先導によって家屋の地下へと繋がる隠し扉を通じて地下通路へと入った。
念には念を入れて、ザナドからの許可が下りるまで、アムリアはフードを目深にかぶって顔を隠している。
通路の中は光の精霊石を用いた灯りが等間隔に設けられていて、人間が三人は横に並んで歩ける通路から闇を完全に追い払っている。風はないが、黴臭くはなく、埃っぽさもない。
快適と感じられる温度になっており、この通路にも魔法か何かしらの技術の恩恵があるのだろう。
先頭をザナドが進み、続いてグワンダン、リネット、それから八千代と風香に左右を挟まれたアムリアで、その後方をガンデウスとキルリンネが守っている。
「ザナドさん、私達に目隠しですとかそういった事はなされなくてよろしいのですか?」
道を覚えられては困る時の対処法の行使について、安直に尋ねてくるアムリアにザナドはなんとも率直で、なんとも無邪気な事をと思う。なまじアステリアを知っている分、姉とは正反対の部分の印象が強まっているようだ。
「御懸念なく。本来であれば堂々と迎え入れるべき御方をこのように秘して御案内しているのです。これ以上の非礼は極力避けるべしとアステリア殿下の御命令でございますれば」
淡々と答えるザナドに、アムリアは特にこれといった感情を抱かなかったようだが、その左右を守る八千代と風香は声を潜めて好き放題に言い始めた。
声を潜めたところで、このように狭隘な場所ではどうしたって聞こえてしまうのだが、そこまで気の回る二人ではないのである。そこが彼女達の持ち味だ。長所かどうかは、言葉を濁す他ないが。
「これは、やはり、某達を生かして返さないという考えであろうか、風の字」
「死人に口なし。拙者達が死ねば隠し通路の道順を他所に漏らす恐れはなくなるでござるな」
思考形態がかなり呑気な二人ではあるが、守るべき対象であるアムリアに危機が及びかねない事態とあって、懸念を語り合う表情は極めて真剣だ。
「ううむ、しかし、自分で口にした事ではあるものの、某達を始末するのならわざわざバロルディまで連れてくる必要はないでござるからなあ」
「アステリア皇女がアムリア殿と会いたいというのは本当で、その結果次第で拙者達を始末する予定かも知れないでござるよ?」
「ううむ、虎中に自ら進んでいるようなものか。グワンダン殿達と一緒に行動していると、割とそういう事態が多いというか、力でどうにかする場合が多い故、あまり危機感を抱かなくなってきたでござるなあ」
「ござるござる」
呆れられているのか、褒められているのか。どちらとも取れる二人の発言に、グワンダンは前世から何でも力任せで押し通してきた悪癖だと、改めて自戒する。
リネットは二人の発言に頷けるところが多い為、無言で通した。最後尾のキルリンネとガンデウスは、八千代と風香の発言に興味を惹かれたようで、目隠しをされていない理由をああだこうだと話し始めていた。
「私達が使用した後に出入り口を封鎖する」
この後の隠し通路について、ガンデウスが淡々と意見を口にして、キルリンネがそれに対する所見を返す。
「ん~、出入り口を封鎖するだけなら、それを解除すればまた使えるようになるから、対処としてはまだ甘いんじゃないかな~。それこそ隠し通路に土砂かコンクリートでも流し込んで固めるとか」
「あるいは水を引き込んで水没させるか、城側の出入り口だけ封鎖して内部を罠と魔法生物やゴーレム等で埋め尽くして、侵入者を抹殺する罠として再利用」
「バロルディまで攻め込まれた事態を考慮すればアリかなあ? この都市の地下がどうなっているかは分からないけどぉ、この通路の構造そのものを組み変えるとか」
「成程、道順それ自体を変えてしまうわけですか。キルリンネにしては良い発想です」
「え~、ガンちゃんってば辛辣~。まあ、そんな技術があればだけれど、ここってあの帝都と比べると新しいものねえ。古い仕掛けが残っているわけでもなさそうだけど、んん~」
暗に、帝都には古い仕掛けがある、と言っているも同然なのだが、今はそれは主題ではなかった為、これ以上二人の口に上る事はなかった。
「アステリア殿下の配下に、空間操作に特化した超能力者や魔法使いが在籍している可能性もありますね」
「想定するだけならいくらでも可能性を列挙できるから、余計な心配をしているだけって気がしないでもないのがね~」
「バロルディ城には転移を阻害する魔法が張り巡らされていますから、魔法での転移が困難を極めるのは確かですよ」
「私達だったら~、遠くから魔法と砲撃を延々と繰り返して、この城塞を跡形もなく吹き飛ばして更地にするのが簡単というか、らしいかなあ?」
「城ばかりでなく地下に張り巡らされた通路ごととなると、市街の大半も吹き飛ばす必要が出ますね。ふむ、バロルディの城も市街もまとめて水没させるのが手っ取り早いですね」
「後は毒~? うちって、毒には困らないものねえ」
ほわほわとした声で恐ろしい内容を口にするキルリンネだが、確かにベルン男爵領の上層部には凶悪な毒の使い手が二人程在籍しており、両者ともに百万都市を死滅させるのに十分な毒性と力量の持ち主ときている。
大気に黒薔薇の毒を乗せて流すか、雨や生活用水に蛇毒を垂らせば、都市の有する浄化機構や毒に対する防衛機構を突破して、住人全員を毒に犯す事は出来る。
ザナドは、外見は可愛らしい二人の語る内容それ自体はさして気にしていなかった。実行すれば非難は免れず、味方に反感を抱かせる危険性もあるが、戦争の最中では十分にあり得る手段である。
ザナドの気を引いたのは、それを語る彼女らの声音に罪悪感や躊躇といったものが籠っていない点だった。絶無というわけではないようなのだが、どうやら無辜の民とはいえ帝国の臣民に対して同情や配慮する必要を感じていないようだ。
能力の高さで言えばグワンダンとリネットの方が勝るだろうが、このガンデウスとキルリンネというメイド達の精神性は、非常に危険なものを含んでいると判断せざるを得ない。
キルリンネとガンデウスからしてみれば、あくまで戯れに口にしているのであって、本当に実行しようとすれば、グワンダンやリネット達が烈火のように怒るので、彼らから命令されるか承諾を得なければ実行するつもりもなければ、本気で提案するつもりもない。
リネットとディアドラの教育によって、力を持たぬ弱者や戦闘に直接関わりの無い者に犠牲を強いるのを、良しとしない情緒は育っている。
ただ、命令に従うのを前提として創造された二人にとって、命令を拒絶するという発想は育ち難く、非人道的な所業であろうと「やれ」と命じられれば躊躇いなく実行するのが今の二人なのだ。
ガンデウスとキルリンネの素性を知らぬザナドからすれば、これまでの旅路で二人の人間らしい表情を見てきたのに、無邪気な残酷さを見せつけられたようなものだった。
いずれにせよ、このグワンダン一行にとって、隠し通路の存在などは純粋な力でも、毒といった間接的な手段でも、どうとでも出来る程度の障害でしかないのは間違いない。
「ここまで来ればフードを取っていただいて構いません」
通路の角を何度も曲がり、坂や階段を上り下りする事を繰り返し、パズル状の鍵が施されている扉をくぐり抜けた先で、ザナドからようやくアムリアに素顔を出す許可が告げられた。
ふう、と小さく息を吐いてアムリアがフードを取り、他の皆も通路から開けた空間へと解放された事への安堵に大なり小なり雰囲気が和らぐ。
アムリアは姉妹の秘密裏の接触とはいえ、一国の皇女と会う為に、仮に皇帝の座に就いた後でも公の場での着用に見合うドレスを着用している。
舞踏会で袖を通すような華美さはないが、差し込む陽光を浴びて真珠の如き輝きを纏う最高級の絹を惜しげもなく使い、濃淡のある青で染め上げた生地には、金銀のみならず宝石を加工した糸による刺繍が施されている。
最上の素材と、最高の技術と、そこに高度な付与魔法と、古神竜のちょっとした加護も加味された世界で一着のドレスである。
八千代と風香、そしてグワンダンら一行はというと、皇女の目に触れる可能性を考慮しつつも、何時も通りの戦装束兼旅装束のままである。流石に腰に刀を差し、ポールアクスを担ぐわけにもゆかず、グワンダンが影の亜空間の内部へ預かっている。
精細な薔薇の彫刻が隙間なく施された柱が並ぶ回廊の一角に、グワンダン達は導かれていた。背後を振り返れば、どうやらその柱の一つの中から出て来たようだった。
「バロルディ城の中、いや、敷地の中にある離宮の方かね」
ざっと周囲を見渡し、回廊や壁の向こうに見える尖塔とバロルディ城の威容からそう判断したグワンダンの呟きに、ザナドは静かに頭を下げるだけであった。
おおよそ人の行き交う気配らしいものは乏しく、アステリアの手配により離宮を維持する最低限の人員の他は、いざという時にグワンダン達を取り押さえる為の精鋭位か。
その中でも特にグワンダンが反応せざるを得ないものがある。無数の竜達の気配を纏う強者。該当するのは十二翼将の一人、竜騎士を束ねるカイルス。
「ふ、彼が居るのならアステリア皇女がいるのは確定か」
これで少なくとも、アステリアがアムリアを招いたのが嘘ではないのは、ほぼ間違いない。
「アムリア」
「はい」
「君の好きなように話すといい。アステリア殿下がどこまでの事を君に求めているのかは分からないが、今回の一度きりという可能性もある。言いたい事は全て言っておくと良い」
グワンダンからの助言に、アムリアは少しだけ考える仕草を見せる。言いたい事を改めてまとめ直したのだろう。今日、この離宮に到るまでの間に考える時間はあったが、いざその時が近づいてくると、少なからず心臓の動きが速い気がしてくる。
「はい。言いたい事はそれ程ないですから、きちんと言えると思います」
「そうか。なに、まだ言い足りないのに退去を求められたら、私が何とかしてみせるとも」
「まあ、心強いお言葉ですけれど、あまり乱暴にはなさらないでくださいね」
「もちろん、最大限の努力をすると約束しよう」
「ふふ、でしたら安心してお任せできますね」
とは言うものの、アムリアもまたこれまでグワンダンの『力が通じないのなら更なる力で押し通すというか粉砕すればいいんじゃないかな?』と言わんばかりの思考と実績を知っているから、グワンダンが最大限努力しても、バロルディ城の一角が崩壊する位は仕方ないと割り切っていたりする。
すっかりとグワンダン色というか、ベルンの流儀に染まっているアムリアであった。
そしてザナドの先導と周囲の風景に同化しているその配下達はそのままに、アムリアは離宮の奥まった場所にある一室へと案内された。
部屋の前には竜を模した甲冑を纏う六人の騎士達が警護しており、グワンダンはどう反応していいやら微妙な表情を浮かべている。リネット達にしても珍しいグワンダンの表情に、さもありなんと同情している。
カイルス配下の竜騎士達なのだろうが、竜種の頂点に君臨するグワンダンの前に、竜種の鱗や爪を素材とした武具を纏う騎士達が立つというのは、なんともはや。
竜騎士達はアムリアの顔にも動じる様子は見せず、ザナドが目を向けるのに合わせて、二人が分厚い鋼の扉を押し開く。軽量化の魔法が施されているが、いざという時には堅牢な防壁とすべく、対物理・対魔法防御の魔法がふんだんに付与されている。
それ以外にも有事の際には軽量化の魔法を解除し、逆に重量化の魔法を付与して超重量による不動の防壁兼門とするのであろう。
来客の旨を告げず、黙ったままの竜騎士達によって開かれた扉の向こうへザナドが進み、アムリア達もそれに続く。
グワンダンの知る限り、人類の中で最も賢く、それ故に凡人とは異なる視点で世界を見ているであろう皇女は、さて妹に何を求めているのか。
それとも求めていないのか。グワンダンは扉の更に先、黄金の扉の向こうにある部屋の中で、彫像のように椅子に腰かけていたアステリアを見てそう思うのだった。
暗殺を警戒してか、小さな窓しかない部屋の中で、天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアの光の下で、歴史に名を残す高名な画家の手からなる絵画の如く美しく、荘厳な雰囲気に満たされていた。
中央の瀟洒なテーブルに腰かけたアステリアの隣には武装したカイルスが立ち、少し離れたところに執事とメイドが控えている。
スペリオンと共に弔問団の一員として目にした時と変わらないが、こうしてアムリアと向かい合う姿を見ると、鏡で映したかのようにそっくりだ。
違いがあるとするならば、アムリアが程ほどに緊張しているのに対し、アステリアはこの上なく完璧な、美しく見えるよう計算された微笑みを浮かべている事か。値踏みしている視線には見えず、初めて会う妹に暖かな肉親の情を抱いているように見せかけている。
「貴女がアムリア? まるで鏡を見ているようで、少し不思議な気分。一応、自己紹介をしておきましょう。私がアステリア。貴女の姉になるのかしら」
声音もまたその表情と視線に相応しい、作り物のぬくもりに満ちている。素直なアムリアならころっと騙されてしまいそうで、グワンダンは自分に視線を向けているカイルスを一先ず無視して、アムリアの横顔を伺い、その表情に余計な心配だったと安堵した。
憧れなど無い。恐れなどない。期待などない。失望などない。喜怒哀楽のどれもなく、アムリアはただただ透き通った眼差しで、生まれ落ちた瞬間から違う道を歩み続けてきた姉を見ていた。自分の目的を果たす為に。
「はじめまして、アステリア皇女殿下。私がアムリアです。恐れながら、お許しいただけるのなら、姉上とお呼びしてもよろしいでしょうか」
見本のような淑女の礼を取って許可を求めるアムリアの姿と、先程の視線に、かすかにアステリアの瞳が細められる。眼鏡に適ったと見るべきだろうか。しかし、それは幸か不幸か?
「ええ、もちろん。貴女と私は父と母を同じくする者。貴女に姉と呼ばれる事に、そして私が貴女を妹と呼ぶ事に、何の不都合がありましょう。ふふ、ええ、貴女とは離れていた間の事を始め、たくさんのお話がしたいわ」
たくさんの、そう、たくさんの話をしなければならないとアムリアは、目の前の姉である筈の女性を欠片もそうとは思えぬまま、微笑み返した。それはアステリアが臣下と臣民に向ける、聡明で慈愛に満ちた皇女に相応しいように作った笑みと瓜二つであった。
「はい、私も心からそう思います。姉上」
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第二百九十一話
アムリア達一行の人数が多かった為、テーブルは二つに分けられた。
八千代、風香、リネット、ガンデウス、キルリンネら護衛と従者の五人組と、アステリアと同じテーブルを囲むアムリアとグワンダンの三人組という組み合わせになった。
八千代と風香は傍目にも明らかな位に耳をピンと立てて警戒の態度を示し、視線はアムリアとアステリアの姉妹間を忙しなく行き来している。
その一方でリネット達は芳しい香りを湯気と共に昇らせる、かすかな酸味と強い清涼感を持ったハーブティーを堪能している様子だ。もちろん、この従順すぎる傾向にある人造生命三姉妹が、主人と友人の危機に神経を割かぬわけがない。
招かれた者として、おもてなしを存分に堪能する姿勢を見せつつ、あくまでも警戒は怠らず、というわけだ。
この場における帝国側の最大戦力は竜将カイルスである。
複数の古竜から知恵ある竜達の鱗や爪、牙に血と、多くの素材と希少な鉱石を用いた甲冑で全身を固め、室内での戦闘を想定して腰に帯びた小剣もまた強力な竜の魔力を感じさせる。
鞘に収められた刃は、竜の鱗を高度な技術で加工したものに、ロマル帝国最高峰の付与魔法を何重にも施したものだ。
リネット達自身の身体能力と戦闘技術、装備の組み合わせであれば、人型の竜種と言えるカイルスの防御も突破できるが、同時にカイルスもまたリネット達に致命の一撃を加えられるだけの戦闘能力がある。
そして警戒の対象は、カイルスは勿論の事、部屋の外を固めているザナドとその配下のみならず、アステリアの傍に侍るに相応しい洗練された動きを見せる執事とメイド達も含まれている。
なにしろリネット達自身もまた、高い戦闘能力を持った使用人なのだから、彼らもまたそうでないと誰に言い切れよう。
メイドの一人がしずしずと淹れたハーブティーのカップを手に、動きを止めるアムリアを見て、アステリアが皇女としての微笑のまま話しかけた。
「毒など入ってはいません。どうしても気になるのでしたら、私が先に飲み、同じカップを使われると良いでしょう」
例え飲み物に毒が入っていなくても、カップに毒が塗られている場合もある。アステリアは、それを踏まえた上で、自分が先に口にした場所で同じように飲めば、毒はないと信じられるだろう、とアムリアに尋ねているわけだ。
アムリアはアステリアの言葉を最後まで聞き届けてから、エメラルドの蔦とルビーの赤薔薇の象眼細工が施されたカップを取った。
無論、自分のカップを。琥珀色の液体を躊躇う素振りを見せずに口に含み、一口、二口とあくまで品よく、皇族同士のお茶会に相応しい所作で飲む。
アムリアの度胸と大胆さに驚かされる機会の多かったグワンダンは、このアムリアの様子に、アークレスト王国で上流社会向けの教育もきちんと受けていたのだったな、安心安心、といささか失礼な感想を抱いていた。
「姉上、いささかお遊びが過ぎますよ」
アムリアがカップをソーサーに戻し、子供の悪戯を窘めるように告げれば、アステリアは小さく頷き返して、自らもまたハーブティーを口にした。アムリアがささいなちょっかいで動揺するような小心者でないのは、このやり取りで確認できただろう。
アムリアが率先してハーブティーに口を付けた事から、八千代と風香も普段よりはゆっくりとした調子ではあるが、赤や青、黄に緑と鮮やかな色合いの焼き菓子に口を付ける。
一口で食べられる大きさのお菓子で、さくさくとした食感だが口の中に入ると途端にほろりと崩れて、果実と砂糖の甘みがふわりと広がる。後を引かぬ甘さと軽やかな食感に、八千代と風香の手が半自動的に焼き菓子に伸びるのに時間はかからなかった。
「そのようですね、アムリア。貴女に会えるとあって、いささか浮かれ過ぎていたようです。貴女が一度この帝国から離れ、アークレスト王国の庇護下に入り、そして再びこの地を訪れてからの動向については私の方でも把握していました。
ライノスアート大公――叔父様の支配地域から、温度差のある反乱勢力の各地を巡り、風聞では知る事の叶わない現実を目の当たりにしてきたようですが、直接その目と耳、肌で彼らの現実を知るのが目的ですか?」
「はい。目的の全てではありませんが、一度はロマル帝国を離れた私が、再びこの地で何が出来るのか、何をしたいのかを改めて知る為に必要と考えて行いました」
「私にとって貴女の目的は理解できますが、それ程共感の出来るものではありません。貴女という存在が自分の願望すら持たないままこの地を巡っても、帝国に騒動の種を増やすだけ――とは月並みな言葉ですね。
そういう意味では安心なさい。今、私を含めて帝国で争っている者は、貴女の存在を精一杯自分達の利益に繋げられるように、謀略、知略、政略を巡らせていますし、状況を変えるのに火種は多い方が良いと考える者の方が多いでしょう」
微笑みはそのままに告げるアステリアに、八千代が思わずといった調子で零す。
「堂々と口にしちゃうのでござるかぁ」
八千代の呟きは聞き流し、アステリアはようやく偽りの微笑を消した。そこにあるのは叔父との骨肉の争いを演じ続ける女の素顔だった。凄みや覇気、あるいは凛と、そういったものは無い。文字通りの『無』がそこにあった。
人間らしい欲求や感情をまるで感じさせない表情は、それこそアステリアの本質の表れであったろう。先程までの笑顔がまるで嘘のようなアステリアの顔に、八千代と風香が揃って目を丸くして驚いている。
アムリアと同じ顔のアステリアが、アムリアはとまるで縁のない『虚無』を思わせる表情を浮かべて、心底驚いてしまったと見える。
「私も安心いたしました。姉上がそのように仰るのなら、私の身にはそれだけの価値があるのだと、改めて確信できましたから」
「あら、口を滑らせてしまったかしら。でも、ええ、アムリア、私の妹である貴女の身柄はとても有用です。私も叔父様も貴女の使いどころは間違えないでしょう。帝国の統治にご不満の方々には、難しいでしょうけれど。
アークレスト王国は少し不思議な印象ですね。貴女の事を利用してロマルの大地を蚕食したいという欲求が確かに存在しているのに、奇妙な位に貴女の好きにさせている。
貴女を傀儡として良いように操るのなら、余計すぎる知恵と視野を貴女に与えているのが現状です。世界を知らせず、知識を与えず、狭い視野のままにしておく方がよほど御しやすいのに、その反対の事をしている。欲求と現実の行動に少なからず乖離が見られます」
「あの国の方々は私という個人を尊重してくださっているのです。だからといって国益を二の次にしているわけではありません。国益を得るのは大前提として、そこに到るまでの過程を他の国の方々よりも重視されているのです。
そうですね、出来るだけ胸を張れるような方法で国益を求める傾向にある、と言えば半分位は当たっているでしょう」
「それが本当なら万民を率いる立場には、あまり向いてはいない傾向ですね。結果の為には手段を選ばない。こちらの方こそが常道なのですから」
少しばかり呆れを交えたアステリアの率直な意見は、王侯貴族のみならず何かしらの集団を率いる立場にある者からすれば、その通りだと同意を得られるものだろう。
アークレスト王国は今の国王やスペリオン王子に限らず、代々、出来るだけ手段を選ぼうとする傾向にある。王家の人間が、元を辿れば冒険者の成り上がり国家だと笑い飛ばす気風が、そうさせているのだろう。
「建国からこれまで、失態らしい失態を犯してこなかった国家の王がそう言うのであれば、王には王に向いていない者こそが相応しい事になりますね。貴女も感化されましたか?」
アステリアの問いに、アムリアは素直に答えた。腹の探り合いの最中としては、迂闊な程に素直な返答であった。
「ええ、大いに。私、良い所に拾われたと何度も思いました」
「そうですか。帝室の正統性を考えるならば、アークレスト王国の思想に染まった者を迎え入れるのは相応しくないと、家臣達は言うでしょうけれど」
アステリアはそうと考えていない、と言わんばかりの間が、部屋を満たした。短い問答の間に、アステリアの中でアムリアにはどのような評価が下されているのか、言葉尻を捕えて推測するのならば、有用であると考えているように聞こえるが……?
「姉上、私からも質問をさせていただいてよろしいですか?」
「ええ、私に答えられる範疇であるのなら」
「姉上の目的はロマル帝国の皇帝の座に就く事。本当にそれですか?」
アムリアの口から出て来たのは、耳にしたなら、何を今更と帝国の人間のみならず周辺諸国家の誰もが言いそうな問いだった。
当たり前ではないか。正統なるロマル帝国の継承者の地位を巡って、アステリアとライノスアートは国を割る争いを始めたのだ。いったい、どこに疑問を挟む余地があるというのだろう。
「ええ。あまりに不公平で非効率的だったこれまでの帝国を、より効率的な国家へと再構築する。だって、そうでもしないとこれまでの帝国の在り方は私にとって、あまりにも非合理的で効率が悪くて、居心地が悪いのだもの」
「居心地が悪いから、それを解消する為には国を作り変えなければならない。その為に皇帝の座に就く。姉上にとって皇帝は目的そのものではなく、目的を果たす為の手段であり、道具なのですね?」
「公の場では口に出来ぬ事。帝国に於いて至高の地位であり、もっとも尊ばれなければならない皇帝の座を道具として見ている等、例え私が皇女であれ、不敬であると罰せられてもおかしくはない事よ。
でも、ふふ、それは貴女も同じかもしれないけれど。貴女の目的の方こそ、私以上にロマル帝国そのものとこれまでの歴史に対して不敬なものだと、私は考えているのですけれど?」
場合によっては売国奴の謗りを受ける真似をするかもしれないアムリアにとっては、反論の言葉をすぐさま見つけられないアステリアの切り返しであった。思わず口をつぐむアムリアの姿に、アステリアは再び微笑の仮面を被り直して、話はここまでだと切り上げる。
「貴女達はまだこのバロルディに着いたばかり。急がせた私が言うのもおかしな話ではありますがまずは身体を休め、旅の疲れを癒しなさい。宿はどうぞこの離宮をお使いになって。
この離宮に居るのは、全て私と貴女の事情を知る者ばかり。あまり離宮の中でなら、顔を晒して出歩いても問題にはなりません」
アムリアの返答を待たずに、メイドに椅子を引かせて立ちあがるアステリアに続いてアムリアも立ち上がり、今日はこれまでだと部屋を後にする姉に頭を下げて、礼の言葉を口にした。
「お心遣い、心より感謝いたします。姉上」
「私にも考えあっての事。お礼の言葉は不要よ、アムリア」
初めて会う妹に対して告げるにはあまりに手短な、しかし、確かな姉妹の情に満ちた声音。アステリアは仮面と共に誰もが望むだろう、家族への愛情に満ちた女性としての演技まで極自然と行っている。
そしてその声音を耳にしたアムリアは、自分とこの姉が決定的に異なる内面を持っていると確信するのだった。
アステリアがカイルスと執事達を伴って部屋を出た後、新たなメイドが姿を見せて、アムリア達の為に用意された部屋への案内を告げて来た。
壁を埋め尽くす細やかな彫刻の数々に、調度品の放つ輝きの眩さ、掛けられた絵画の息を呑むような美しさ、どれもこれも超一級の財宝ばかりが占める部屋の中で、アムリアは小さく溜息を零した。
アステリアの用意した使用人たちの姿はなく、周囲にザナド配下の暗殺者達の気配もない。生体反応を探知する生体レーダーを内蔵しているリネット達三姉妹や、グワンダンでもなければ気付けないような、超一流の気配の遮断だ。
「アムリア殿、姉君とのお話で疲れてしまったでござるか?」
「少しだけ。自分で思っていた以上に緊張していたようです。あちらはそうでもなかったようですけれど、そこはやはり生まれながらの皇女と、新米皇女の差でしょう」
「まあ、アムリア殿は今のところはなんちゃって皇女でござるからねえ」
「八千代さんは遠慮がありませんね。ふふ、でも私もそう思います」
気遣わしげな八千代に、アムリアは小さく笑みを返す。その合間に備え付けの台所を確認し終えたリネット達が、旅の合間に買い集めた茶葉を調合した特製ブレンドティーを淹れ終える。
簡単な冷気を呼び起こす魔法を使って、飲みやすい温度に冷ましておくのも忘れず、部屋に用意されていたものではなく、旅の道中で買い集めた保存のきく菓子類やドライフルーツを皿に乗せて持って行った。
「改めてお口直しにどうぞ。」
「ありがとうございます、リネットさん。あちらで頂いたハーブティーも美味しかったですけれど、リネットさん達の淹れてくれるお茶の方が、気分が落ち着きますね」
「そう言っていただけるとメイド冥利に尽きます」
リネットに倣い、ガンデウスとキルリンネも優雅にお辞儀をする。その姿だけを見れば、何処に出しても恥ずかしくないメイド姿だ。中身とその戦闘能力を知らなければ、その美貌と愛らしさから引く手数多だろう。
アムリアがブレンドティーを味わい、心底安堵した様子を見届けてから、アムリアの向かいに座ったグワンダンが話しかける。
「アムリア、それで直にアステリアと話をしてみてどうだった。それともあの短い時間での会談では、分かるものも分からなかったかな?」
「ええ、少しだけ分かった事はあります。姉上は皇帝の座に就く事は本当の目的の過程でしかないと暗に告げられました。そして皇帝の座について、姉上の言う合理的で効率の良い国造りが本当の目的だと言われましたが、でも、私には理想の国造りでさえもあの方にとっては過程の一つでしかないと感じられました」
「ふむ、そうなると国造りの後にこそアステリアの求める本当の目的があるか。仮に彼女が皇帝の座に就く頃には、国内の内乱は静まり、彼女こそが帝国で至高の存在となる。国内に目を向ける必要がないのなら、向けられるのは外となるな」
もっとも、国内に火種はなくとも国力は相当落ち込み、回復に費やす時間は決して短くはないだろう。周囲の国々もロマル帝国を組み易しと見れば、何時だって攻め込む準備はしているのだ。
グワンダンの言葉に続いたのは、意外にもガンデウスだった。楽しげというのとは違うが、少しだけ言葉に熱が籠っており、グワンダンにおや? と思わせた。
「では次に行われるのは対外戦争であると? その可能性も考慮すべきなのでしょうか、グワンダン様。であるのならアークレスト王国がアムリア様を御旗に掲げて戦うのでしょうか」
「アステリアに敗北した帝国貴族達の協力を得つつ、アムリアを皇帝の座に据える為にか? そうなると悪戯に戦乱を世界へ広げるアステリアを討ち、正統なる皇帝を据えるとでも方便を述べれば、形だけの大義名分は用意できる。
ガンデウス、アムリアを御旗代わりに輿に乗せて戦うのが、それほど愉快なのかね? それとも自分に戦いの場が与えられるかもしれない事が愉快なのか?」
呆れを隠さないグワンダンの指摘を受けて、ガンデウスは思っても居ない事を言われた顔になる。怜悧な美貌は幼子のように無垢なきょとんとした表情を浮かべていて、目をパチクリとさせてから、両手で自分の頬を挟む。
「私、楽しそうにしておりますか?」
「困った事にな。君の趣味嗜好についてはリネットとディアドラから聞いていたが、今のソレはどちらかというと自分に運用される機会が恵まれるのを願っているのが、下地にあるようだ」
バロルディの隠し通路を進んでいた際に、キルリンネとの会話でも確認できた事だが、思考の根となる部分や判断基準、価値観に兵器、道具としての視点があるガンデウスは、道具として使われる場面に恵まれるのは喜ばしい事であるらしい。
兵器として使われるに際し、多くの人命が死の危機に晒される事とは別に、存在意義を全うできる機会に恵まれるとなれば、何より先に歓喜が出てくる。ガンデウスとキルリンネは人間性を順調に育んでいるが、同時に道具としての自分を捨て去ったわけでもない。
「それは、もしグワンダン様やアムリア様に御不快な思いをさせてしまいましたなら、伏してお詫び申し上げます」
「別に不快ではないよ。アムリアは?」
「私も気分を害したわけではありません。それにガンデウスさんだって、例えば子供や戦う力の無い人々が犠牲になるのを良しとして、言っているわけではないのでしょう?」
「それは勿論です。そのような品性を有しては、リネットお姉様やディアドラお母様に骨の髄から教育し直されてしまいます。
私としては、これまでの旅路でお見かけしてきた難民の方々を生みだすような真似は致しかねます。例えそれが私の存在意義を満たす事であろうと、私はそれを否定いたします」
一個の人間として、胸を張って自分の考えを誇り高く告げるガンデウスに、じっと傍らで話に耳を傾けていたキルリンネが元気よく、姉の言葉に乗る。
「ガンちゃんだけじゃなくって、私もそうします! 私もガンちゃんも戦う為の兵器として生み出されましたけど、それに従うだけなんて決められていないので、違う生き方をしても良いと思うので!」
「うふふふ、そうですね。私も皇女として一度は捨てられた身ですけれど、こうしてまた帝国の地を踏んでいますし、自分の生まれに従う必要はないのでしょう。むしろ自分が幸福に生きる為に、利用する位の気概で臨むくらいでちょうど良いのかもしれません」
これまでの旅路の中で、外見は年長のガンデウスとキルリンネが何故リネットを姉と慕っているのか、二人の特殊な出生についての二点を詳細は伝えられなかったものの、特殊な事情があるとしてアムリア達に教えてある。
アムリアとはまた違った特殊な生まれを持つ二人の生き方は、アムリアからしても大いに関心を抱くものなのだろう。教えて以降、ガンデウス達への気遣いがより細やかになっていた。
「ふぅむ、アムリアの為の旅路だったが思った以上にガンデウスとキルリンネにとっても、実りある旅になっていたようで、思わぬ収穫を得られたものだな。私としては喜ばしい限りだ。
さて、話を戻すとしよう。アステリアの本来の目的と将来の行動については、外へと広がりを見せる類のものと推測されるが、これもまだ確信できる段階ではない。こちらの手にしている情報が少ないからな」
「あの、グワンダンさん」
「アムリア? まだ他に何かアステリアと話して分かった事でもあったかな?」
「ええ。私達の今後の活動方針にどれ程関係があるのかは不明ですが、アステリア皇女は私に……私に姉上と呼ばれる事になにも感じていないようでした」
「ふむ」
アムリアが暗い表情になるのに気付きつつも、グワンダンは言葉の続きを促した。
「私に対して怒りはありません。悲しみもありません。憎しみもありません。妬みや憧れなど以ての外。本当に、私の事を単なる道具として見ておいででした。私がそれを理解する事も含めて、あの方はあのような態度を取られたのです。
私には、姉上は本当に皇帝の座に興味はなく、それ以外に目的を叶える手段が見つかったなら、呆気なく捨てる程度の価値しかないのだと思えてなりません」
「権力と富を手にした者が次に求めるのは、不老不死、永遠の命と相場が決まっているが、私の目から見るとアステリアはそれを求めるような人間にも見えん。案外、彼女が本当に求めているものは、ささやかなものかもしれないな」
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第二百九十二話
アステリアとの会談後、バロルディ城内の離宮での日々は、アムリアが意外に感じる程に穏やかなものだった。アムリアは時折アステリアに呼び出され、姉妹らしさとは無縁の、アムリアの見識を確かめる問答を繰り返し行っている。
深山の城に隔離されていた妹がロマル帝国を離れ、アークレスト王国でどのような教育を受けて来たのか、再びロマル帝国に戻ってからの旅で如何なる考えを持つに到ったのか。
それを微に細に確かめ、姉上は妹である自分の価値をより正確に把握しようとしているのだろう、と為されているアムリア自身は考えている。肝心要のアムリアをどう利用するか、はまだ不明のままなのだけれど。
アムリアが家族の情を微塵も感じない時間を過ごしている間、八千代と風香は二人揃って必ずアムリアの行くところについて回り――姉妹の問答の間、話に全くついて行けずに睡魔と日夜激戦を繰り広げている。
それでもこの二人が居るのと居ないのとでは、アムリアの精神的な余裕に雲泥の差が生じるのだから、二人の癒し効果は無視できるものではない。
そして、そんな二人だけでは戦力的に安心できないからと、グワンダンとリネット達三姉妹の内、最低でも一人が護衛として加わっていた。
ではアムリアの護衛についていない間のメイド三姉妹は何をしているのかというと、なんとも大胆不敵というべきなのか、あろう事か離宮に務めているメイド達に指導を申し込んでいた。
リネット、ガンデウス、キルリンネ達の本職はベルン遊撃騎士団の一員であると同時に、ベルン男爵クリスティーナに仕えるメイドでもある。
アークレスト王国流のメイドの作法については学習済みの三姉妹だが、メイドとしての技能上昇の為にと、ロマル帝国でのメイドの作法を学ぼうと考えたようだった。
異なる歴史、異なる文化、異なる地理、異なる風習、それらが構築し、洗練されてきたそれらを学習した時、リネット達は彼女らの望むとおりメイドとしての格を上げる事だろう。
アムリア経由でアステリアに届けられたその願いは、何を考えているのだ、こいつらは、と思われたかもしれないが、幸いにして許可が降りて、皇女に仕えるロマル帝国最高峰のメイド達の下で、メイド道を極める為の一歩を踏み出すのを許された。
かくしてアークレスト王国のみならずロマル帝国でも通用する超一流のメイドとなるべく、リネット達三姉妹は涙ぐましい努力をアムリアの護衛と並行して行っている。
アステリアの方からリネット達に指導の名目で何かしらの行動があってもおかしくはないのだが、数日が経過しても到って真剣かつ厳しい指導が行われるのみで、密かに警戒していたリネットとガンデウスはどこか拍子抜けしたものだ。
キルリンネばかりは変わらぬぽやんとした態度で、二人の姉に対して、疑いすぎぃ、とほわほわ笑うばかり。さてさて、楽観的過ぎるのか、それとも二人よりもずば抜けた観察眼でも持っているのか。意外と底知れぬ末の妹である。
離宮でグワンダン達一行がそれぞれ有意義な時間を過ごしている中、アステリア側からアムリア側の最大戦力であり、更に情報の少なさから警戒されているグワンダンはというと、これが気まぐれな行動をしていた。
時にアムリアと行動を共にし、時にリネット達の指導風景を見学し、図書室で閲覧の許可された書籍に目を通し、またあるいは許された範囲で使用人や衛兵達に話しかけては文字通りの世間話をする、と潜在的な敵対勢力の真っただ中に居るとは思えぬ自由さを発揮していた。
離宮の敷地からは一歩も出ていないが、行動力に溢れたグワンダンが離宮を我が庭の如く把握するのに然したる時間はかからなかった。
物理的に、あるいは魔法をもって秘匿された隠し部屋に隠し通路、非常用の転移魔法陣まで、グワンダン達は秘されていた離宮の秘密まで把握しているのだから、アステリア側からすれば理不尽だと言いたくなるところだろう。
グワンダンを経由して本体であるドランに離宮内部に限るとはいえ、生きた新鮮な情報が筒抜けであると知ったら、流石にアステリアも何かしらの行動を起こしただろうか。
アステリアの居所である為に、千里時空眼に対する警戒からロマル帝国最高峰の妨害措置が施された離宮から、何の苦労もなく遠距離間で連絡を取れる状態にあるとあっては、容認できる範囲を越えていよう。
「それも尋常な感性や知識の主だったらの話か」
と、グワンダンは離宮の中庭でポツリと呟いた。
専属の庭師が熟練の技量と瑞々しい感性を持って手入れを欠かさぬ中庭の一つで、綺麗に刈り込まれた植え込みの緑と、季節の花々の色合いが美しい。
水瓶を抱えた美女の像を中心に据えた噴水では水中花が花びらを広げ、花壇や床のタイルにも無数の彫刻が施されている。
本物の妖精かと見まごう小さな石像が植え込みや花の影に隠れるように配置されるなど、遊び心にも溢れた見事な中庭である。
クリスティーナの屋敷の参考にと見学がてら、グワンダンは思考を巡らせていた。古神竜としての思考は既にアステリアの願いを正確に推測し理解していたが、ドラゴニアンとしての思考はまだ仮定と推測の段階に留まっている。
少しややこしい話になるが、グワンダンに限らず、ドライセンとドランは常に古神竜と人間・ドラゴニアンとしての思考を並行して行っている。
人間として生きるとドランが決めている為、普段は人間の脳による思考が主導権を握っているが、人間の思考速度では間に合わない事態に際しては古神竜側の思考と主導権を交代するという状態にある。
アステリアに離宮へと招かれてからの時間は、目下、古神竜としての思考に切り替える必要のない緩やかなものとなっている。
その証拠に、このドラゴニアン、今日はなんとも呑気な事に日向ぼっこなどしていた。
これを今もアステリアと討論中のアムリアや最高難易度のメイド修業を行っているガンデウス達が知ったら、流石の彼女達でも、文句の一つくらいは口にしたかもしれない。
ただ、グワンダンにはグワンダンの考えがあっての日向ぼっこだ。
離宮の散策ついで姿を隠すなり変装するなりして潜むザナドやその配下達に声を掛けて驚かせて回ったりしたのも、戦闘における最大の脅威が彼である事を改めてアステリア側に理解させるためだ。
その為に、リネット達には例え気付いたとしてもザナド達には何も反応しないようにと伝えてある程だ。
ただ、リネット達でもザナドに関してだけは存在を察知するのは至難を極めたというのだから、かの暗殺者の力量の凄まじさに改めてグワンダンが感心させられる事となったけれども。
国が違っても降り注ぐ陽光の暖かさは変わらず、離宮を流れる風が鱗や皮膚に触れて行く感触を楽しんでいたグワンダンは、こちらに近づいてくる気配へと振り返る。
今も中庭に潜伏しているザナドの配下達とは別口だ。随所に色とりどりの竜の魔力を圧縮した魔晶石を埋め込んだ漆黒の甲冑を纏い、竜の意匠が施された兜は左手に抱え、燃えるような赤髪を逆立たせた若者がグワンダンにゆったりとした足取りで近づいて来ている。
アステリアの保有する最大戦力の一人、ロマル帝国十二翼将の一翼を担う竜将カイルスだ。アステリアと初めて顔を合わせて以降も時折遭遇する機会が訪れるのだが、彼の方からグワンダンを目当てに足を運んで来たのは初めての事である。
アステリアからの反応かな? とグワンダンは率直な感想を胸の内で零してから、改めてカイルスと向き合う。
「ごきげんよう、カイルス殿。私に用があると顔に書いておられますね」
カイルスに殺意はない。悪意もない。しかして熱意と気迫はある。間違っても刺客の類ではあるまいが、穏やかに話が済む様子でもない。
「自分は腹芸が苦手な性質なので」
グワンダンにとって意外に感じられる程、カイルスは気安い口調で返事をしてきた。
カイルスのその様子から、グワンダンはなにやら罪悪感めいたものを抱いているようだと察した。こうしている間に、何か後ろめたい事をしているのだろうか?
グワンダンが改めて知覚を研ぎ澄ませてみても、アムリア達に危険の迫っている気配はないし、予感もまるでない。直接的に危害を加えて来ないとなれば、あとは謀略にアムリアを巻きこんでいる可能性くらいのものか。
ああ、それにもう一つ、私を暗殺ないしは負傷させる腹積もりか? はて、そこまで安直な真似をするようには思えんが、とグワンダンは自分の考えを切り捨てた。
「いささか私が自由に出歩きすぎましたかな? その事で釘を刺しに来られた?」
「その点についてアステリア殿下は気にしてはおられません。貴殿が本当に話をされるのが好きなだけだから止める必要はない、と言い付かっておりますので」
「ふむ、アステリア殿下の懐の広さには感謝する他ありません。とはいえ、私もお言葉に甘えるばかりでなく、自らを反省して行動を自重しなければなりませんな」
「そうされれば、貴殿の行動を快く思っていない者達も口を噤むだろう。さて、グワンダン殿、社交辞令はここまででよろしいか?」
少しだけ困った顔になるカイルスに、グワンダンもまたかすかに笑って応じる。アステリアとはまるで正反対だ。
カイルスは立場上、ある程度は弁舌を振るえるように努力しているのだろうが、素の性格としては飾った言葉や含みを持たせた言葉を操るのは、大の苦手なのだろう。
「私をこの場に足止めするのが本日の貴方の目的ですかな? カイルス殿」
「いや、言葉にするとなると少し難しいな。貴殿とこうして話しているのは、貴殿の時間を拘束する為でもないし、我が主君に誓うがこうしている間にアムリア様や護衛の方々に危害が及ぶ事もない。そういった策謀を巡らせてはいないと断言しよう」
「ふむ? ふむ。貴方に虚偽が伝えられる事はありますまい。なれば言葉通り信じましょう。そうなると貴方の本来の目的は、さて、なんなのかと考え直さないといけませんが……」
「大したことではない。おれは家柄は多少あるが、武力で今の地位に就いた
「手合わせに異論はございませんが、興味はあるがそれが全てではないという顔ですな」
「……貴殿は心が読めるのか?」
「この状況と虚言の苦手そうな貴方のお人柄から、推測しただけですよ。カイルス殿とて、分かりやすい状況と分かりやすいお人柄であるのは否定されないでしょう?」
「まったく、その通りだ。困ったな。貴殿には何もかもを見抜かれていそうで怖いな」
「自らを万能であると豪語出来れば良かったかもしれませんが、私にも出来ない事はありますよ」
「出来ない事は随分と少なそうだ。ところで、手合わせの場所はどこにしようか」
「ここでよろしいでしょう。今後もアムリアを守るとなれば、場所を選んで戦える事の方が少ないでしょう。どのような場所であれ、どのような時であれ、十全に戦えるようでなければ、アムリアの護衛としては不十分では?」
この時のグワンダンは一切武装していなかったが、彼が戦意を抱くのに合わせて足元の影からポールアクスの柄が伸び、グワンダンの手がそれを掴んで一息に引き抜く。
カイルスも似たようなものだったが、彼もまた虚空に右手を伸ばすとそこに黒い穴が生じて、一本の槍を引き抜いた。グワンダンの習得しているシャドウボックスとは異なる収納魔法か、それを付与した魔法具の効果だろう。
石突きから切っ先に到るまで純白のポールアクスに対して、カイルスの引き抜いた槍の柄は黒く、穂先には竜の頭部を模した意匠が凝らされ、瞳には紫色の石が嵌めこまれている。竜の口から伸びる刃は深い緑色だ。
「鎧と同様に竜種を素材とした槍ですな。全身を竜で固めるとは、だからこその竜将の二つ名か」
「竜種の怒りを買いかねない装備に身を包んでいるだけの事だ」
自嘲するようなカイルスの言葉に、グワンダンはしげしげとカイルスの装備を見直す。
明確な意思とまでは行かないが、ぼんやりとした思念程度のものならばカイルスの槍にも鎧にも宿っている。
それらの意思はグワンダンの正体を理解はしていないが、はるかな上位者として畏怖しているようではある。
ただ、注目すべきはそれでもなおカイルスに使われる事を是とし、カイルスの力になるのを選んでいる点だった。
分不相応な未熟者に使われているのではなく、自分達を使うに値する者だとカイルスを認めているのだ。
竜種は気位が高く、ヴァジェのように他種族に対して傲慢な振る舞いをしてしまう者も居るが、同時に一度認めるなり懐に入れた者に対しては態度が一変する傾向にある。
カイルスの装備に宿る思念達もまた、そのようにカイルスに接している。ならば――
(同胞の遺骸を弄ぶとは、と憤る必要は無さそうだな)
カイルスが兜を被って用意を整えれば、どちらからともなく共に長柄の武器をその場で構えて向かい合う。ザナドの配下達なら放っておいても安全圏に避難するだろうし、使用人達はカイルスの手配によってか、影も形も見えない。
「この中庭を壊すような大技の使用は控えないといけませんね」
刃を交える前に最低限の注意事項を口にしたグワンダンに、カイルスはそういえばそうだ、と言わんばかりに頷き返す。どうも無意識にグワンダンの力を感じてか、相当に緊張を抱いていたいらしい。
「おれよりも貴殿の方がよほど気が利くな。十二翼将としては恥ずかしい話だ。直す必要をひしひしと感じるよ」
「これまで皇女殿下が何も言われていないのでしたら、直す必要はないという事でしょう」
「ふ、であれば幸いだが。では、声をかけたのはおれだ。おれから仕掛けるのが礼儀だろうな」
グワンダンが頷き返すのを待ってから、カイルスが音も無く一歩を踏み出した。鎧の部位同士が触れる音も無く、力みのないゆったりと見える動作で槍が突き出される。
流れるような、ではなく、流れる動作だ。踏み出す足も槍を構える腕も、それを突き出す一連の動作までが徹底して無駄を排した洗練され尽くしている。ただの達人など一突き受ける事も出来はしない高みに、カイルスは若くして到達していた。
それ程の一撃をグワンダンが眉一つ動かさず、ポールアクスの柄で軽く弾いても、カイルスの表情に驚きの色はない。この程度は想定内ということだ。
弾かれた槍はすぐさま引き戻され、また突き出された。引いて、突き出す。単純なこの動作も、基本中の基本であるからこそ修練を重ねれば最大の武器にもなり得る。
動作の起こりを見極めるのが至難を極める突きが、カイルスの短い吐息と共に間断なく放たれる。穂先を彩る深緑が両者の間を埋め尽くし、深緑色の壁が迫るかのような超高速の連続突き。
大盾を構える重装歩兵の列を纏めてひき肉と無数の鉄片に変える怒涛の突きを、グワンダンはカイルスと同じ手数で弾く。ポールアクスと槍の激突と発生する衝撃は、全て両者の技量によって相手に流れ込むよう調整され、周囲に無駄な衝撃を漏らす事もない。
「ふんっ!」
突きから一転、カイルスの槍が横薙ぎに振るわれて、グワンダンの左胴体へ叩きつけるように穂先が振るわれる。
無数の点であった刺突から横薙ぎへの変化に淀みはなく、突きに慣らされた目では追うのも困難というカイルスの力量を前提とした必殺の変化。
それをグワンダンは開いた左の掌であっさりと受け止めて、お返しとばかりにポールアクスを叩きつけてくるのだから、さしものカイルスも後退せざるを得ない。
周囲への配慮なく振るえば、大地を砕き、海を割り、天を裂くと評したくなる一撃だと、カイルスは戦慄と共に舌を巻く。魔法による強化やポールアクスに付与された魔法が発動した気配はなく、純粋なグワンダンの膂力で振るわれた一撃にそれ程の脅威を感じていたのだ。
成程、これでは十二翼将でも単独で戦いを挑むのは自殺行為に等しいと、ロマル帝国の最高戦力は潔く認める。
グワンダンは自身の所属をアークレスト王国だと明言しているわけではないが、アステリアはそうであるとカイルスに断言している。
かの国に生まれた怪物アークウィッチだけでも戦略級の脅威であるのに、このグワンダンまでもが加わるとなると、いやはや、アークレスト王国はこの二人だけで二国分の軍事力を得たようなものだ――その認識ですら大幅に甘いとカイルスは知らない。
この戦いでグワンダンはブレスを始めとして、竜語魔法を含む各種攻撃魔法の使用を禁じ、カイルスもまた装備に宿る竜種の魔力を上乗せした彼独自の技術の使用を控えている。
アムリアの護衛の為に、グワンダンはドラゴニアンとして最高格の身体能力を持たされている。例えブレスや攻撃魔法が使えなくとも、それがどれ程の脅威であるかは、余裕を剥がされたカイルスの姿を見れば、ロマル帝国軍人の誰もが理解するだろう。
大地に深く根差した古木の如く不動のグワンダンに対して、カイルスは流水の如き足捌きから山を穿つ威力を持った突きを放ち、速度、威力、角度と全てに工夫と技巧を凝らされた連撃は芸術的でさえあった。
巻き添えになるだけで一つの軍が壊滅しそうな、両者とも本気ではない手合わせの中で、双方の得物の柄を噛み合わせた状態になり、カイルスが声を潜めてグワンダンに話しかけた。
「アステリア様……アステリアは妹君にあるものを託すにたるか否か、それを確かめようとしている」
「ふむ? 何かは知らぬがそれがアムリアには重荷に過ぎるのではと、貴方は感じているようだ。詳細は告げられぬがせめて警戒と覚悟を促そうと、この場を作り上げたと?」
「我ながら中途半端な事をしているとは思うが、アステリアはアムリア様を高く評価している。かねてからの考えを任せられると判断を下すまで、そう時間はかかるまい。
もしそうなった時に、アムリア様の傍らに居るだろう貴殿の実力を実際に知っておきたかったのだ」
「そちらの都合を一方的に押し付けてくれるものだ。託せると判断するのは勝手だが、それをアムリアが受諾するかどうかは別の話では? それもアステリア殿下は見越した上での判断か?」
「ああ。きっと、いや、おれがこうして貴殿に話をするのもアステリアにとっては、計算済みの話だろう」
「掌で踊らされても構わないか。はたしてこういう時に何と言えば良いのか。甲斐性があると言うのは違うだろうが」
「恋人に振り回されるのは楽しいものさ。貴殿らにまで迷惑が及ぶのを防げなかったのは情けない限りだが、今回の話に限ってはアステリアとアムリア様が双子の姉妹である以上、そうなる可能性の高い事態だった」
「宿命の類か。だが、まあ、貴方がアムリアに憐憫の情を寄せるのは分からないでもないが、あの子は姉君に負けず劣らずしたたかで胆力もあると私は評価している。利用するのがアステリア殿下ばかりとは限らんよ」
「そうであるのなら幸いだ。ただ、あのアステリアの血の繋がった姉妹であるのだからと納得できてしまうな」
しみじみと呟きながら大きく後退したと思いきや、即座に紫電の突きを放ってきたカイルスに、あ、これは尻に敷かれているな、とグワンダンはまるで状況にそぐわない感想を、絶対の確信と共に抱くのだった。
そしてカイルスを尻に敷いているアステリアはといえば、自身を擁する重臣達との戦略会議に出席し、ライノスアート大公と南の反乱諸勢力、東西の敵国の情報を共有し、精査し、今後の方針を打ち出しているのだが、実はこれをアムリアとその護衛達も見学していたのである。
無論、堂々と出席者の列に並んでいたわけではなく、会議の様子を覗き見出来る隠し部屋があり、そこに潜んでバロルディ大公を含むアステリア派の重要会議の内容を見聞きしていたのだ。
アムリアのみならず八千代と風香も、ええ、と言わずにはいられなかった重要情報の意図的な漏洩であるが、提案者であるアステリアは素知らぬ顔で妹達を隠し部屋に置き去りにする始末。
わんわんとこんこんのみならず、今日の護衛として付き添っているガンデウスもアステリアの考えを読み切れず、美しい眉を寄せて不審の色を深めている。
早朝から始まった会議は昼食と休憩を挟みながら夕方に到るまで続けられ、その間、リネットとキルリンネはロマル帝国流メイド道を爆走し、グワンダンはカイルスと手合わせを行っている。
姿を隠して覗き見しているという状況に、まだまだ根が捻くれていないアムリア達は小さくない罪悪感を抱いていたが、会議終了直後にアステリアに別室に呼び出され、休む暇や罪悪感を噛み締める暇も与えられなかった。
アステリアは呼び出したアムリアの姿を確認するや、事務的な労いの言葉を一つだけ口にして、今回の会議の情報を知った上でのアムリアの所見を矢継ぎ早に尋ねて来たのである。
ガンデウスは生まれ持った分析能力と記憶力の高さから、二人の会話に理解が追い付いていたが、八千代と風香はさっぱりと分からない様子で、同じ顔の二人を交互に見る動作を繰り返すばかり。犬と狐が同じ動作を繰り返しているような和みはあったが、それを感じる者はこの場には居なかった。
「……以上が、先程の会議から得た私の考えです、姉上」
「ええ、十分に聞かせていただきました。貴女の考えはほぼ私と同じです。少し、私より優しい考えですが、それは貴女の長所と捉えるべきでしょう。その差異は誤差として修正可能な範囲です」
「誤差に修正? ですか?」
「ええ。貴女にも私にも、とても、そうとても大切な話です。私は私にとって不要なものを切り捨て、貴女は貴女の願いを叶えるのに役立つものを得る。お互いの価値観で考えれば十分に成り立つ取引を、前々から考えていましたが、それも貴女と直接あってからは最も重要なものとなりました」
「……まさか」
これまでとは異なり、どこか浮かれるように、あるいは秘密を打ち明ける前の子供のように浮かれて見えるアステリアに、アムリアはまさか、まさかまさかとあり得ない可能性を考えて、この姉ならばあり得るという結論に辿りつく。
「ああ、なんという事。姉上、貴女は今の御自分を捨てる為に皇帝の玉座を求めるのですね?」
「ええ、ええ、私の妹。私はようやく貴女が愛おしく思えてきました。貴女が私と同じ視点を持ち、同じように考えられる人間で良かった。とても、ええ、とてもとてもそれは素晴らしい。
アムリア、アムリア、私は捨てる為に皇帝の座を求めているのです。捨てると言う言葉が相応しくないのであれば、譲る為に求めています。変わる為に。
アムリア、私は貴女をロマル帝国の皇帝にします。貴女もそれが自分の望みを叶えるのに手っ取り早いと、流血を最小限に抑えられると理解していますね。うふふ、こんなに胸が弾むのは何時以来かしら?
もう分かっていますね、アムリア。分からない振りをしても無駄ですから、無駄な事はしないでね」
にこにこと、この上なく楽しいと言わんばかりの笑みを浮かべるアステリアに、アムリア以外の三人は気味の悪い物を見る表情を遠慮なしに浮かべ、アムリアは呆れや諦め、そしてかすかな同情と怒りを込めた声でアステリアと最後の答え合わせを行う。
「姉上は、私を姉上として、つまりアステリアとしてロマル帝国皇帝の座に据え、そして、自身はアステリアである事を捨てるおつもりなのですね」
問うのではなく断言する声音の妹に、アステリアは過不足なく最良の解答をした生徒を誇る教師のように満面の笑みを浮かべて返事とした。
アステリアがどうして、そうしたいのか、はまだ内緒なのです。正直、簡単な話ですけれども。
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第二百九十三話
アムリアをアステリアとしてロマル帝国皇帝の座に据える。
それが今のアステリアの目的だと聞かされて、アムリアは肺の中の全ての空気を絞り出すように長い溜息を零し、八千代と風香はそれぞれの両目をまんまるいお月さまのようにする。
ガンデウスだけは、嬉しさを隠しきれずに笑うアステリアの美貌を、冷え切った眼差しで見つめている。
仮にアムリアが次期皇帝になるとすれば、それは確かにロマル帝国での旅路の中で、彼女の中で大きくなっていた望む平和の形を実現するのに、実に都合が良い。最短距離に近い道を進める『手段』であり『道具』でもある。
それをこうも嬉々としてアムリアに与えると告げるアステリアの言葉を、どうして素直に受け止められようか。
思わず飛びつきたくなるような餌を目の前にぶら下げて来たのだ。その行動の裏に、どんな悪意が潜んでいるか分かったものではないと考えるのは、当たり前の事だろう。
(しかし、アムリア様は姉君の言葉を事実だとして確信を持って受け止めている。アムリア様は世間を知ってもなお人の好い方であらせられるが、既に他者から寄せられる悪意や理不尽な仕打ちは十二分に知っている。
それにグワンダン様が言われた通り、聡明な方でもある。そのアムリア様が確信しているのならば、やはりそうなのだろう)
であるならば、護衛の役目がなくとも守ってあげたいと思う位にはアムリアを好ましく思うガンデウスは、必要がなかろうともより一層精神と神経を研ぎ澄ませて、万が一の事態に備えつつ、姉や主人にこの場での会話を念話でもって繋げる行動に出る。
ガンデウスから緊急性の高い念話を繋げられたグワンダンなどは、カイルスとの手合わせの最中であったが、毛筋ほども動揺を見せずにカイルスの言ってきた事と符丁が合い、成程と感心していた。
リネットとキルリンネもまた指導役の帝国メイドの厳しい視線と指導を受けている最中であったが、表情のみならず身体のどの部位もピクリと揺らさずに訓練を続行していた。
この場に居ない三人がそのように反応する中、黄金の如く輝く笑顔のアステリアと、正反対に頭痛に苛まれているような表情になったアムリアの醸す空気に耐えきれず、ついに八千代が周囲を憚らずに大声を出してしまう。
「しょう、正気でござるか、と言えない位に目が本気でござるよー! これはまずいでござる」
口にした言葉が偽りではないかと疑う余地がない程の本気を見せるアステリアに、八千代はヤバイヤバイ、ヤバイ! としきりに連呼する。何しろアステリアときたら、まるで要らなくなった玩具をあげるかのような気軽さで口にしたのだ。
曲がりなりにも故郷の秋津国で武士階級であった八千代には、尚の事、理解の及ばぬ発言である。
八千代が慌てれば当然、風香も慌てる。忍びとしての心を揺らさぬ心得は何処へやら――今更だが――ひええ、ひええ、と悲鳴の一歩手前位の声をしきりに発している。
「うわ、この御仁、本気でアムリア殿を皇帝にしてしまうつもりでござるよ!? とんでもない事を聞かされちゃったでござるぅ~~」
「ええ、その通りですよ、お犬さん、お狐さん。貴女達が理解できないと言われるのも分かりますが、私にとってはアムリアが私の提案に価値を見出し、その有用性を理解してくれればそれで済む話。
ふふふ、まだアムリアが拒否の一言も告げていないのに、そうまで私を警戒する必要があるのかしら、ガンデウスさん?」
「恥ずかしながらアステリア様が皇帝の座を捨ててまでお求めになるモノの想像が出来ず、このように不信感を抱く態度として表れてしまっています。恐れ入りますが、アステリア様におかれましては寛大なる御心でお許しください」
「よくも堂々と言ってのけたもの。貴女を始め、グワンダン殿、キルリンネさん、トルネさん達には皇帝となったアムリアの傍で力となって欲しいものですが……」
わずかに目を細めて、檻の中に閉じ込めた獲物を見るような眼差しを向けてくるアステリアに、ますますガンデウスの警戒の念は深まる。半分以上はからかっているのだと分かってはいるが、残る半分以下のアステリアの感情がガンデウスの癪に障る。
「それはこのガンデウスの一存ではお答えできないものです。それにアステリア様の仰る通り、アムリア様はまだなんの返事もされてはおりません」
「ええ、ええ、その通り。私自身、いささかならず浮かれていたようです。話を急ぎすぎましたか、アムリア?」
「あの会議を私達に覗き見させた頃から、まさか、そんなわけはないと否定しながらも薄々と感じてはいました。今の姉上の政治と軍事、財政の基盤となる方々の情報を私に伝え、自分の後釜に据えた後に、私が姉上として接しなければならない方々を今から覚えさせようとなされたのでしょう」
「ロマル民族以外の人間種と亜人にも寛容な政策を取る私を神輿に担いでいる方々にも、温度差はあります。今日の会議でそれが良く分かったでしょう? 自分の利益や影響力を増す為に、全体の利益を『大きく』損なう真似をしないだけまだ救いはありますね」
『小さく』損なう真似はしている、という事だ。
「容赦のない評価をされますね。今日まで姉上を支えて来られた方々でしょうに」
「私も叔父上も正統な皇室の血統ですから、皇室への忠義はどちらの側についても同じですよ。叔父上ではなく私の側についている方々のほとんどは、自身と家の利益の為。勘違いはしないで欲しいのですが、私はそれを悪いとは考えておりません。
私はあの方々に私心なき忠義を求めているわけではありません。お互いに利益を与え合い、協力関係を築く。これは理に叶った事でしょう?
でも、バロルディ大公のように少しだけですが、私が皇帝になればロマル帝国の為になると、国家への忠義から尽くしてくださる奇異な方もおられますよ」
どうもこのアステリアという女性は、他者の感情に対する理解や共感が絶無とはいかぬまでも乏しいらしく、利益による繋がりをより重視している傾向にあるようだ。あるいは情動の機微に乏しい分、利益や効率という分かりやすさを重視する性格になったのだろうか。
数少ない忠義を尽くしてくれる者達に対して、アステリアは裏切るような真似をしているのだが、アムリアはそれを口にはしなかった。なぜなら姉からの提案は、確かに自分にとって価値のある事だと、自分もまた忠臣達を騙す選択肢を捨て切れなかったからだ。
「姉上、カイルス殿以外にこの事を伝える予定の方はいらっしゃるのですか?」
「皆無とは言いません。貴女は私の思考や言動を正確に模倣できますが、実行できない事も多いでしょうし、ふとした時に見せる仕草の違いもあります。
先程の会議に出席していた者達の幾人かは、私と貴女の違和感に気付くでしょう。ええ、何人かにはもう後戻りが出来ない状況で明かすつもりです」
つまり、今のアムリアのように状況を作り上げてから、というわけだ。
「姉上は本当にずるい御方です。他の選択肢を悉く潰した上で提示するのですから」
「それが政治と言ってはありきたりに過ぎますが、異なる思想、人格、未来を持つ者同士が二人以上集まれば、駆け引きは当然生じるでしょう。駆け引きが生じれば、勝つ者と負ける者が出るのも当然」
アステリアは答えを分かっていて尚納得しようとしても納得できない様子のアムリアに、憐憫とも嘲笑ともつかない視線を向ける。瓜二つの外見を持って生まれたのに、こうまで異なる性格に育ったのは、少なくとも不快ではなかった。
「貴女が皇帝の座に就くのなら、この程度では済みませんよ。貴女の中で貴女が皇帝の座に就く事は決まっている。ならば今のこのやり取りですら糧になさい。貴女は笑顔を浮かべながら、その裏で相手の心臓を突く為のナイフを構えられるようになるしかありません。
私には造作もない事ですが、貴女にはとても難しいのは分かります。ええ、でも、貴女に皇帝という責任を押し付ける以上、ある程度は私も場を整える位はしますから、何も手土産を持たせずに放り出しはしませんよ」
黄金の微笑と評したくなる可憐なアステリアの微笑にも、すっかりこの皇女の人格に参ってしまった風香と八千代は、ひええ、とか、うわわ、と絶対に裏があると恐れている声を出す。
ガンデウスも同じ気持ちだが、アムリアの反応からして、アムリアを皇帝の座に据えてしまえば、それ程アステリアに危険性は無さそうでもある。問題は、その過程でアムリアとわんわんとこんこんの精神的疲労が溜まりそうな事だろうか。
「うふふふ、本当に愉快な気持ち。アムリア、今は明確に言葉にする必要はありませんから、自分が皇帝になる前後の事を考えておいてください。
アークレスト王国に協力を求めても構いませんし、南の反乱勢力と手を組むのもよいでしょう。貴女が皇帝となった後で、私から貴女に接触を求める事はしません。誓うべき対象がいませんから、誓う事は出来ませんが、約束はします」
「私としては姉上が本気で私を皇帝の座に据えるおつもりであるのは理解しています。けれど『私をアムリアのままではなく姉上にした上で』皇帝にする動機については、更に真意がおありと思います。でも、それを探るのは目を隠したまま断崖絶壁で激しく踊るようなものなのでしょう?」
「ええ、ええ、そうね、貴女は私よりもずっと他者の情動への理解が深いのですね。この点に於いて、貴女は私よりもずっと優れています。そして私の真意は、ふふ、身内なら余計に明かすのに抵抗を覚えるものですから、内緒です」
これは言うつもりがないと絶対の確信を持って判断したアムリアは、これ以上話を続けるだけの気力を失い、一旦、情報の共有と整理の為にこの場を辞する許可を、破天荒な提案をしてきた姉に求めた。
「でしたら、この場での話し合いはここまでとさせていただけませんか。姉上の言動全てが本気である事は理解できましたが、それを自分の中で消化するのには多くの気力が必要なのです。それとこの事をグワンダン様にお話ししても?」
「ええ、構いませんよ。貴女の後見人となっているアークレスト王国へ伝えても構いません。そこは貴女の自由意思にお任せします。それに、わざわざ訪ねなくても、そちらのお犬さんとお狐さんはともかく、メイドさんを含めて話をした時点で、貴女にも誰にどこまで話してよいのか、分かっていたでしょう?」
「確認は必要だと考えたまでです」
はあ、と鉛のように重たい溜息を零す妹を見て、姉はころころと笑う。この場面だけを見れば、双子の妹をからかうのが楽しい姉で済むのだが、実際はと言えば、いやはや。
「ふふ、貴女にとても大きな驚きを与えられたようですね。不肖の姉からの初めての贈り物のようなものです。ああ、そうね、では私と貴女の今生の別れの時にでも、どうして貴女をアステリアとして皇帝にしたかったのか、その理由を教えてあげますわ」
多分、知っても嬉しくはないのでしょうね、とアムリアは賢明にも口には出さずに、心の中で愚痴のように零すだけに留めた。
アステリアとの内密の会談の場から離れてすぐに、ガンデウスはグワンダン達に召集の念話を伝えて、離宮に与えられているアムリアの部屋に集まる事となった。
ガンデウスが、アステリアとの会談途中から念話で内容を中継していた為、改めて会談の内容を説明し直す必要はなかったが、全員にとって予想外の内容であり、頭を悩ませるものであるのは変わらない。
もっとも、アムリアだけは自分が皇帝になると受け入れて、他の者達とは悩ませ所が異なっていた。
帝国国内でも有数の贅を凝らされた部屋の中で、出入り口の近くに立つグワンダンが、ソファに腰かけたアムリアに話の矛先を向ける。グワンダン以外はアムリアの左右に八千代と風香、後ろにガンデウスとキルリンネ、対面にリネットと座すと言う配置だ。
「ふむ、アステリア皇女は随分と大胆な事を考えていたものだな。実行に移す決断を下したのは、実際にアムリアと会い、話をしてからのようだが、それでもまだ間に合うと判断しているか。アムリア、君もまだ自分が皇帝になれる余地があると考えているのか?」
「私と姉上では手持ちの情報量に差があり過ぎて、正確な判断を下すのは難しいのですが、あの姉上が出来ると考えているのならば可能である、というのが私の考えになります」
「なるほど、人格はともかくとしてアステリア皇女の頭脳は信じられるという判断か。アムリア、実の姉を人柄の面でも慕いたかったと、顔に書いてあるぞ」
「未練、ですね。あの方が私をこの上ない駒だと認識した瞬間に見せた血の通った笑顔に、私は少しだけ心が動かされてしまったようです」
自分の胸元に左手を置き、滴り落ちるような哀切の念を込めて自嘲するアムリアを、グワンダンはこの上なく痛ましいものを見る目で見る他なかった。
「すまない。無粋な事を口にした」
「いいえ、気になさらないでください。姉上が私を見定めたように、私も姉上をようやく見定める事が出来ました。姉上は本当に皇帝の座にもロマル帝国にも、もっと言えば世界にすら興味の無い御方。私が皇帝になって帝国をどうしようと、露程も気にしないでしょう」
「そこまで、か。えてしてそういう性情の者は、心惹かれたモノを見つけた時にのめり込む傾向にある。アステリアで言えば皇帝の座を捨てられる位にな」
実際に会ってみたアステリアの人格と提案が、事前に想定していたものと大きく違った事への驚きはあったが、何時までも驚いてばかりもいられない。アステリアがアムリアを皇帝にし、アムリアもまた自らが皇帝の座に就く事を是としているのなら、その前提で今後の行動を決めなければならなかった。
眉根を寄せて、ぶすっとした顔で口を開いたのは八千代である。アムリア自身も利用し返すとはいえ、アステリアが堂々とアムリアを利用すると告げて以来、ずっと不機嫌が続いている。
「それでアークレスト王国へはどう伝えるのでござる? それとも伝えはしないのでござるか? さしものスペリオン殿下達も、アムリア殿がロマルの皇帝になるかもしれないと告げられれば驚かれようか」
もし、アムリアがアークレスト王国への恭順を選ばずにロマル帝国の独立と主権を守る形で舵取りを担うつもりがあるのならば、アムリアが皇帝となる道筋をアステリアが用意している事を伝えるべきではあるまい。
アークレスト王国から出立する以前には、何を差し出してでも帝国の人々がなるべく苦しまないように救う助力をスペリオン兄妹に求めたアムリアだが、自力でそれが成せる状況をお膳立てされれば変心もあり得る、砂粒一つ分くらいは、と八千代は理解していた。意外にもそれ位には頭の回るわんわんであった。
「八千代さんがどうしてそんな事を言うのかは分かりますが、現状、アークレスト王国とスペリオン殿下達の恩義に反する真似はできません。状況的にも、そして私個人の感情からもです」
「アムリア殿的に裏切れないのはまだ分かるとして、状況的にもでござるか? それは、ロマル帝国にアークレスト王国を相手取る余裕はないと?」
「アークレスト王国が今のロマル帝国のように内紛を抱え、国外にも多くの敵を抱えているのなら話は別ですが、仮に三つ巴の戦いを終えた直後のロマル帝国ではアークレスト王国を相手にしても、勝ち目は薄いですよ。
亡国を免れるにしても、属国化は免れないと私は結論付けています。ただ……姉上は私の知らない情報を多く抱えていますから、その点に於いて私と姉上では異なる結論を導き出さざるを得ません。どれ程乖離しているのか、それが私には気掛かりです」
アムリアが個人的に情報を得る手段というのは、目下、目の前に居るグワンダン達とアークレスト王国で世話になった者達から直接聞く以外に存在していない。彼女自身の手足となり、目と耳の代わりとなって、判断材料となる情報を集めてくる人材が居ない。
ただ、今はまだ、アムリアの傍には常識や定石という概念を根底から覆る能力を有した規格外が居る。その張本人であるところのグワンダンは、しばし考える素振りを見せてから口を開いた。
「おそらくアステリア皇女が掴んでいる情報の一つなら、私から伝えられる。アークレスト王国だが、状況が変化した」
「グワンダン様、それは火急の事態でしょうか?」
「アムリア、そう焦った声を出さなくとも、まあ、大丈夫だ。まだしばらくの猶予はある話だ。暗黒の荒野の彼方より戦の血を引く者達が、苛烈な戦いを求めてやってきた。
すぐさま開戦とはならんが、国家規模の戦いが勃発するぞ。そしてそれは、アークレスト王国だけでなく、このロマル帝国にも及ぶものだ」
「グワンダン様、それは、そんな悠長に口にしてよい事なのですか?」
アムリア自身も大きく世話になった自覚のあるかの王国が戦火に晒されようとしていると聞けば、穏やかでいられたものではない。それは八千代と風香も同じ事で、アステリアからの衝撃的発言の事はどこへやら、グワンダンを食い入るように見つめている。
リネットとガンデウス、キルリンネにしてもこの情報は今聞かされたばかりなものだから、主人に対して次なる情報の開示を表には出さずとも、密かに期待しているようだった。
「言ったろう? すぐさま開戦というわけではないと。戦場はベルン男爵領近くになるが、他にもアークレスト王国北部の諸侯の連合軍が加わる。それにモレス山脈の竜種を始め、エンテの森の諸種族も。
暗黒の荒野を渡って来た魔性の軍勢相手とはいえ、易々と負けはせん。なにより、『私』を含めた面々がベルンには居るのだからね」
このグワンダンの言葉に、ベルン男爵領首脳陣の超常戦力を思い出し、メイド三姉妹は『別に心配しなくていいか』と大いに安堵した。
アムリア達三人はそれでもまだ完全に安心しきれるものではなかったが、グワンダンとリネット達がまるで動じる様子がない事で、そこまで心配する必要はないのだと少しずつ理解の色が深まる。
「私達よりもずっとベルンの大地と人々の事をご存じのグワンダン様達が大丈夫だと太鼓判を押されるのなら、私達が騒いでも仕方ありませんね。
それにこのロマルの地から何が出来ると言うわけでもありませんし。それこそ私が今、皇帝の座に就いていて軍を動かせる権力があるのならばともかく……」
「ああ、アムリア、その事だが、君がロマル帝国皇帝であったとしても、アークレスト王国に救援を送る余裕はないだろう」
「それは……ああ、姉上が動きを見せたのは私がここに来たからだけではなく、更なる戦乱の加速と混乱とした状況の到来を知っていたからなのですね」
「察しがいいな。暗黒の荒野の向こうから来る者達――ムンドゥス・カーヌスという国家を支配する魔王の軍勢は、アークレスト王国だけでなくこのロマル帝国にも牙を向けている。ともすれば既にライノスアート大公とアステリア皇女は、彼らからの使節と接触済みなのかもしれないな」
更に言えば、開戦の準備もまた進めている可能性があるだろう、とグワンダンはあくまで推測として語ったが、アムリアはそれを事実として認識した。そして、これからロマル帝国は国外の敵を含めた四つ巴の大戦争へと突入するのだ、と。
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第二百九十四話
既にライノスアート大公とアステリア皇女がムンドゥス・カーヌスの使節と接触しているかもしれない、というグワンダンの推測は正鵠を射ていた。
グワンダンが未来を見た、あるいはアステリアの心を読んだ、というわけではない。本体であるドランの元にもまた、ヴェンギッタとクインセを擁する陸上戦艦の艦隊が姿を見せて、開戦を前提とした接触を図っていた時期だからである。
ムンドゥス・カーヌスは周辺諸国の技術水準を大きく上回る装備に加え、基本的な性能で人間種を凌駕する魔族からなる軍勢を擁している相手だ。おまけに軍神の末裔とあって、好戦的かつ戦闘意欲も旺盛ときている。
彼らの本拠地である暗黒の荒野と隣接しているはアークレスト王国だけではない。彼らならばロマル帝国にも、その牙を向けて戦火を焚きつけようとするに違いない。
「ベルンは私達と北部の諸侯が力を合わせれば、そう危機感を抱くような事態にはならないが、国を三つに割っている状態のロマルでは厳しい面があるのは否めまい。
特にライノスアート大公とアステリア皇女の勢力は、南の反乱諸勢力からすれば、魔王軍に対する都合のよい防波堤だ。魔王軍と帝国軍が戦闘で疲弊した隙を突いて、利益を貪る位の事は、誰でも思いつくだろう」
元々、三つの勢力を内包するロマル帝国では、お互いに足の引っ張り合いを行い、敵が隙を見せる瞬間を虎視眈々と狙い合っていたが、そこに魔王軍という想定外の勢力によって、思わぬ形で強制的に事態を動かされたわけだ。
グワンダンの言葉に、しかし、と一言挟んだのは黙って聞いていたリネットである。アムリアがグワンダンからの情報で、何か考え込んでいる為、更なる情報と判断要素を追加しようしたのである。
「しかし、南部の反乱勢力が一枚岩でないのは火を見るよりも明らかです。帝国の勢力を下手に削れば魔王軍という、憎悪を抱く理由もなく、先祖代々差別されてきたわけでもなく、土地を奪われたわけでもない相手と戦わなくてはなりません。
そのように言い訳をして、帝国と魔王軍の戦いに対して、静観を決め込む方達が居てもこれもまたおかしくはありません。ともすれば反乱勢力同士の小競り合い、あるいは勢力の統一戦がまず発生する恐れもあるのでは?」
「まずは一丸となってから事に当たる、か。ふむ、リネットの意見はもっともだ。アステリア皇女の事だから、皇帝の座を巡る争いが起きる以前より、下準備として反乱勢力のいくつかには独立の保障と引き換えに不戦の密約位は交わしていよう。
それも魔王軍の襲来によって破棄されて、本格的な反乱勢力の攻勢が始まる可能性もある。それにしても、自分達で口にしておいてなんだが、可能性の話ばかりをしていて、確たるものがろくにないな」
グワンダンは嘆息交じりに、自分自身に呆れを隠さない。確かに、彼がこれまで口にしてきた言葉、かもしれない、だろう、等の推測ばかりで、明確に断言する言葉は少ない。
彼らが推測に留めている一方で、アステリアの脳内では未来を見て来たかの如く正確な推測がなされ、彼女の思う通りに事態は進んでいるのだろうと、グワンダンは確信していた。
アムリアは考え事がまとまったのか、いつもの穏やかな表情とはまるで正反対の険しい顔つきで、口を開く。その表情から察するに、顔のみならず知能においても姉と限りなく等しいだろう少女は、あまり愉快ではない考えに辿り着いてしまったらしい。
「エルケネイの七つ牙はまず動かないでしょう。それに、おそらく、太陽の獅子吼も積極的には動かない筈です。ただ、過激派の意見を無視しきれずに重い腰を上げざるを得ない状況に陥ります」
ほぉん? と妙な声を出したのは八千代である。
「まあ、七つ牙は穏健な方々でいらしたし、先祖伝来の土地を取り戻せたわけでござるし、これ以上の戦争に積極的に関わろうとしないのは分かる話でござるが、太陽の獅子吼も?」
「ええ。レグルさんは直情的で短気で熱血漢ですが、自分の立場が背負う責任をよく理解しておいでです。魔王軍の存在は予想していなくても、撒き餌めいた臭いを理屈抜きで感じ取って、警戒を深められるでしょう。あの方の本能は群れを活かすに特化しています」
「ええ、アムリア殿、あんな短い時間、レグルと話をしただけでそこまで分かっちゃうでござるか?」
「情報量の濃密な時間でしたから。グワンダン様、それでスペリオン殿下達にこちらの情報を伝える手段は?」
「ふむ、バロルディに潜伏している者達はアステリアあたりが把握しているだろうから、離れた都市にいる者達と接触を持つ他ない。私達がどうやってバロルディから、悟られないように外出するかだが、なに、外出せずに接触を図ればよいだけの事」
「……魔法による連絡を阻害する防諜系統の魔法が何重にも施されている筈ですが、そちらに関しては、何も問題ないのですね?」
「妨害も探知も問題はないよ。そもそもアステリアは私達が連絡するのを問題視していないし、私達が何時スペリオン殿下に連絡するのかも、さして問題視していないだろう」
「確かにその通りです。それでも一応、私に明け渡す予定のロマル帝国が滅びないように手は打っているでしょうけれど。はあ、あの方はどうも愛国心ですとか、そういう概念とは無縁と考えるべきのようです。ただ、私もロマル帝国という国家に思い入れはないのですが……」
「ふ、その思い入れの無い国の玉座に座すのは、手段と割り切れるようになったからかい?」
「はい。少なくとも開戦前と今のロマル帝国よりも、まだ救いのある国に変える為に、私の目の前には最短の道筋が示されています。後は私が覚悟を決めて、その道を歩き出すだけです。それに、その為ならロマル帝国を残す必要もないのです。不謹慎ですが、そうする為に今の状況と私の横のつながりは、うってつけですから」
八千代と風香が、アムリア殿がとんでもない事を口にし出しちゃったでござるよう、と目を白黒させている一方で、グワンダンは少し悲しげに口を開いた。
他者よりも限られているとはいえ、アムリアに存在していた自由が、アムリア自身の選択によってとはいえ、大きく狭められたのを悲しく感じたのだろう。
「それにしても、君はもう本当に皇帝になる覚悟を固めたのだな。アステリア皇女との接触は劇薬だったと思わざるを得んよ」
「グワンダン様は私が皇帝になろうとする事に、複雑なのですね」
「私の勝手な考えになるが、君にはもっと穏やかな生き方の方が似合うと思っているもので、つい声音に出てしまった。すまない」
「いえ、私も性に合わない事に挑もうとしている自覚はありますから、グワンダン様がそう思われるのも当然です。でも、性に合わなくとも私が望んだ道です。時折足を休めるかもしれませんが、最後まで歩き切ってみせます」
「そう、か。ふむ、そうか。……アムリアよ、言うまでもない事だが、グワンダンであるこの私は、君の護衛の為に行動している。だが、君がロマル帝国の皇帝となるならば、必ずしも私という存在は必要になるまい」
グワンダンの言わんとしている事に気付いた八千代と風香は思わず腰を上げ、リネットとガンデウス、キルリンネは沈痛な面持ちで視線を伏せる。
「はい。民族と種族の垣根を越えた国家への改革を目指す私にとって、傍にドラゴニアンであるグワンダン様のお姿があるのは有効的なのですけれど、グワンダン様はあくまでドラン様の分身というお立場ですから……」
「ああ。君が皇帝となった暁には、少なくとも私はドランへと戻る。その様子ならば八千代と風香は聞くまでもない様子だな。リネットとガンデウス、キルリンネ達は好きにすると良い」
実はこのやり取りにはいくつか抜け道が存在しているのだが、それに気付いているだろうアムリアとグワンダンは口にせぬまま、リネット達の解答を待った。
「私は、リネットはアムリア様の事は大変好もしく思っています。苦境に立たされる事があるなら、わずかでも力になりたいとも思っています。けれど、リネットにはベルンから離れるには、あそこに大切なものがたくさんあるのです。
ですから何時までもアムリア様のお傍で力になる事は出来ません。期間限定の助っ人なら喜んでお引き受けいたしますので、そちらでご容赦いただければと切に願います」
「お姉様に言いたい事の全てを言われてしまいましたが、生涯お傍に仕えるわけには参りませんが、条件次第では喜んで御助けに参りますと、私からは申し上げましょう」
「私もお姉ちゃんとガンちゃんと一緒かな。それに今後はアークレスト王国の方で私やガンちゃんも名前と顔が知られるようになるだろうし、幻術でいくらでも誤魔化せるからって、他国に入り浸るのは問題視されちゃうよね」
答えは分かっていたとはいえ、メイド三姉妹それぞれからの断りの言葉に、八千代と風香は落胆を隠そうともしない。アムリアはそんな二人を宥める側であった。
「ええ~、そんなぁ、アムリア殿が皇帝になった後に見知った顔が少なくては、寂しくって仕方ないでござるよ~」
「アムリア殿もハチも拙者も、事情を知っている者は極少数になってしまうだろうし、困りもんでござる。何とかならんでござるか~」
「もう、八千代さんも風香さんも、無茶を言っている自覚はあるのでしょう? 私は姉上になりますが、それでもまた新しい味方を見つけて行けば、少しは寂しさを紛らわせられますよ」
「グワンダン殿達の代わりとなる御仁が見つかるとは思えんでござるよ。これは何としてもアムリア殿にはアークレスト王国との友好関係を築いて貰わねば」
「にんにん」
実はこの八千代の発言の中に、グワンダンとリネット達がつきっきりとまでは行かずとも、アムリア達との付き合いを継続する為の要となるものが含まれていたのだが、口にした当事者の八千代と風香に気付いた様子はない。
ただ、アムリアだけは友達との交流を続ける為の方策について、心当たりがあるようで、穏やかに笑う。
「ふふ、もちろん、アークレスト王国は今までもこれからも私にとって、最も頼りになるお隣さんですから、共に手を携えて未来を作ってゆけるように最善を尽くしますわ」
*
アムリアの今後による、グワンダン達の動向の変化についての話し合いが持たれた数時間後、既に夕暮れ時は過ぎて、昼の間には隠れていた無数の星々の光が暗闇の中に煌めく時刻、バロルディ城の中にあるアステリアの私室に部屋の主人とカイルスの姿があった。
アステリア付きの使用人達が同席しているとはいえ、日の落ちた時間に若い男女が二人きりとは褒められた話ではないが、アステリアの恋人と知られ、更には十二翼将の一角であるカイルスとあっては、これを窘められる人物は今の帝国には数えるほどしかいない。
深い青のカーテンが下ろされた窓際のソファに、ドレス姿のアステリアが腰かけ、その正面にグワンダンと手合わせした時と変わらぬ甲冑姿のままのカイルスが立っている。
二人を取り巻くように控えている使用人達は、この場に居ない者として徹底した振る舞いを取っている。同時に、彼らはアステリアとカイルスの内緒話を耳にしても構わないと許された者達でもある。
「アムリアは私の提案を快く受け入れてくださいましたよ、カイルス」
「そうか。やはりアステリアの言う通りになったな。妹殿にはかなりの負担を強いる事になるが、彼女にはそれをどうにか耐えて貰いたいものだ」
「ふふ、やっぱり、貴方なら罪悪感を抱くのですね。真っ当な心の持ち主なら、きっと、誰もがそうなのでしょうね。私はあの子の求めるものを私が与え、彼女にはそれに相応しい対価を支払って貰う対等な取引だと感じるだけなのですのに」
「アステリアの考えに同調し、口を噤んだ以上はおれも同罪だ。憐憫の情を抱くだけでも侮辱に等しい。彼女が君の代わりとなる以上、その後の助けとなれる手配は可能な限りするのだろう?」
「ええ、もちろん。事前にお話しした通り、ただ明け渡すだけでは亡国へと向けて坂道を転がり落ちるようなものですから。筋道と方策は残しておきます。もっとも、あの子には必要ないかもしれません。ふふ、カイルス、私に失望いたしましたか?」
「今更、この程度で君に失望はせんし、落胆はせんよ。妹殿がただ気の毒だというだけさ」
「ふふ、うふふ、ふふ、ええ、貴方はまだ私に失望したりはしないのね。うふふ、私、貴方についに嫌われてしまったのではないかと、気が気ではなかったのよ。とっても苦しくて、とっても楽しい時間だったわ。
それで、私は目的を叶えられたけれど、貴方の方はどうだったのかしら? 警告はともかく、手合わせしてみてどうだった? 私の見込みでは、グワンダンは少なく見積もってもアークウィッチ級の戦力になるのだけれど」
「口惜しいが、そうなるだろう。殺し合いだったら、おれは何が出来たか。彼が何時まで妹殿の傍に控えるかは分からないが、彼が居る限り、妹殿の生命は安泰だろう。それこそ、都市ごとまとめて殺そうとしても失敗する未来しかおれには想像できないぞ」
「成る程、貴方がそう素直に認めるのなら、あの方は私が思う以上の強者なのですね。でしたら、ええ、でしたら、万が一、アムリアが魔王軍と相対する事になっても安心ですね」
「アステリアよ、妹殿をそのように誘導するとは言うまいな?」
「? ああ、勘違いさせてしまいましたか? うふふ、普段から含みを持った言動をしていると、含みの無い言葉でも勘ぐられてしまうのが問題ですね。
魔王軍の戦力に関しては、私にも未知の部分が多いものですから、今回は魔王軍を退けられても、次の時にどうなるかは分かりません。アムリアが皇位を継ぐ頃には、帝国の兵力は激減しているでしょうし、圧倒的な質を持った戦力は必要になりますから」
「魔王軍か。使節団の派遣中は国境外に控えさせていた軍勢は、主にゴブリンと魔族の混成編成だったが、ロマルやアークレストで見るようなゴブリンとは別格だ。
余程、上位のゴブリンが統率している。それも何世代にも渡って教練し続けた領域にある徹底した規律を見せている。アステリア、魔王軍は質と量を兼ね備えているぞ」
「そう、あらあら、アムリアには思ったよりも重荷を背負わせてしまったかしら」
ほんの少しだけ悪い事をしたと言わんばかりの声を出すアムリアに、カイルスはどこまで悪いと思っているのか分かったものではない、と小さな溜息を零した。
*
カイルスが質と量を兼ね備えていると断言したように、ロマル帝国の国境外に陣地を築いて、何時でも開戦の幕を上げられるように準備を整えていた。
ロマル帝国でもアークレスト王国と同じような流れを踏んで、開戦を行おうとしており、ロマル帝国派遣軍を率いるガリリウスとザンダルザは何時でも軍に進め、と命令できる状態にある。
ヴェンギッタ達同様に陸上戦艦六隻からなる艦隊と、魔王軍に所属する偽竜を中核とした航空戦力を保有しているが、やはり最たる違いは陸上戦力の構成だろう。
アークレスト王国派遣軍はヴェンギッタ達生き人形が構成していたが、こちらではガリリウスの率いるゴブリン兵とザンダルザの魔族兵となる。どちらも両者子飼いの者達が中核を成しており、魔王軍というよりは両名の私兵としての色が強い。
魔六将として同格のガリリウスとザンダルザだが、今回の派遣軍ではザンダルザに上位の指揮権が与えられていた。かつては魔王の一角として勇名を馳せたザンダルザは、個の規模の軍勢の士気を取るに十分な実績と実力を備えている。
一方でガリリウスはと言えば、こちらもまたザンダルザよりなお古き時代より、軍神サグラバースの眷属として、神の兵士として生み出された世代の古のゴブリン。
その実力、霊格、実績はザンダルザと同等以上であり、現魔王ヤーハームと並び、魔王軍最強と言われる古強者である。
そんなガリリウスだが、派遣軍の指揮権をザンダルザに委ねる際には特に異論はなく、すんなりと渡している。現在、地上に生きるゴブリンの中では最高の霊格を有するガリリウスは、神代に近い存在である為、現世における欲望というものが希薄なのが一因だ。
ただ、ザンダルザはそれだけではあるまいと感じ、戯れにそれを聞き出そうと試みていた。場所は艦隊旗艦のメギン級陸上戦艦メギン・ダーの応接室だ。ザンダルザに預けられた艦で、別の艦に居室を持つガリリウスをわざわざ呼び寄せての事である。
赤く焼けたような肌に三つの頭と六つの腕を持った異形の人型。それがザンダルザである。
ただし身に纏うのは一目で上質と分かる設えの黒を基調としたジャケットとスラックスで、胸元には無数の宝石を直接生地に縫い付けてあり、六つの腕が持つ三十本の指にも、全て大ぶりの宝石が輝く指輪が嵌められている。その全てが最高級の魔法の装備であるのは、言うまでもあるまい。
ザンダルザはガリリウスと黒檀のテーブルを挟んで向かい合い、ムンドゥス・カーヌスの名工が作り上げた珠玉の品である椅子に腰かけた同僚に、手ずから琥珀色の酒を勧めた。
「忙しい所をすまんな。まずはわしの招きに応じてくれた礼を言わせて貰おう」
黄金の杯を満たす琥珀色の液体の芳しい香りを楽しみながら、ガリリウスは手酌で自分の杯を満たすザンダルザに問うた。鉄色の肌とやや先端の尖った耳以外は、精悍な純人間種の青年と大して変わらぬ古ゴブリンの問いは、到って単純だった。
「ザンダルザ、吾が応じる必要があると感じたまで。この酒一杯で足を運んだ甲斐はある」
ぐい、と軽く一口二口と酒を飲むガリリウスに、ザンダルザもまた小さく笑って自分の杯を傾けて、咽喉を焼く酒の味と香りを楽しむ。
「ガリリウスよ、貴殿があまり主導権争いに興味がないのは百も承知よ。しかしな、貴殿はわしら魔族と等しく軍神サグラバース様の眷属であるのは同じ。ならば闘争を求める衝動があって然るべき。なのにそれを見せる素振りもない。さて、何故かね?」
「当然の疑問ではあるな。吾は指揮を執るのには向いておらぬよ。出来ぬわけではないが、それよりも貴殿の方が向いている。この国の愉快な相手は十二翼将と初代皇帝の契約者の子孫たる者」
「うむ、十二翼将の連中は人間として極めて高い能力を有している。見事と称賛してよかろう。わしらが楽しめると感じる程であるのだからな」
だからこそザンダルザには分からない。それ程の相手であるのならば、ガリリウスとて戦いたいと願っている筈ではないのか? これは魔王軍に属する者ならば、誰とても抱く疑問に違いない。
「これは神託ではないが、が。吾の魂がまだだと告げているのだ。ロマルの十二翼将や契約者よりも、魂を燃やすべき相手がいると感じているのだ」
「ほう! ふくくく、あれらよりも強き相手か。ソレは素晴らしいという他ないな。昨年より世界を揺らす変動は凄まじい。
何かがこの世界に起きたのだ。ソレが世界の平衡を揺らした。ソレが世界に停滞を許さなかった。わしもヤーハームも妙に血が疼いていたが、貴殿がソレを感じ取ったというのなら、わしも相伴に預かりたいものよ」
「期待をさせて悪いが、吾は漠然と感じているだけに過ぎぬ」
「神代の怪物の勘が当てにならぬ道理があるかよ。ふっくくくく、これは思わぬ酒のツマミが手に入ったものだわい!」
********
上の会話を聞いた軍神S氏
「が、ガンバ!」
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第二百九十五話
地上世界よりも遥かに高次の世界の中で天界と勢力を二分する魔界の一角、真っ黒い水が絶え間なく打ち付ける切り立った岸壁の上に広大な城塞があった。
城塞から見て遥か彼方の波間には、時折、巨大な鰭や銀色に煌めく鱗が真っ黒なうねりの中に垣間見え、また運が良ければあるいは悪ければ、更には思わず視線を吸い寄せられる程に美しい男女の顔を見る事が出来るだろう。
暗黒の海とでも評すべき海の中には、絶世と評する他ない美しき男女の人魚達が何千、何万と休みなく泳いでおり、それによって生じた超高速の海流が、並大抵の海洋生物では近寄ったら最後、二度と脱出できない殺戮海流を海面下に構築している。
それだけでなく近隣海域に住まう人魚達は、巨人魚というべき巨躯を誇るばかりでなく、唇の奥には刃と見間違うような鋭い歯が並び、水かきのある指先は鎌の如く鋭利で、その攻撃性は嬉々として海域への侵入者に群がり、殺戮を楽しむ程だ。
異形が蠢くのは海ばかりではない。黄金がそのまま変わったような黄金色に輝く雲海には、濃い緑色の鱗に覆われた恐ろしく巨大な蛇の胴体が何匹分もあちらこちらで出入りを繰り返している。
稀に見える大蛇の頭部にはその額に白い男女の細面が浮かび上がり、黄色や赤色、茶色と様々な色の瞳が地上を睥睨している。
空を飛ぶ人面大蛇だけでなく、絵画の中から飛び出て来たように美しい男女の顔を持った人面鳥達もその巨大な翼を広げ、数え切れぬ程の数が雲海の下を舞って、地上に巨大な影を落としている。
天と海を人間と他の生物の融合した美しくもおぞましく、生存よりも殺戮を選んで進化したような怪物共が埋め尽くす中、唯一、城塞へと続く陸地のみ、怪物の姿が影も形もない。
赤茶けた大地の中に一本だけ無数の足が踏みしめる事で造られた道らしい筋が出来ており、つい先程、そこを巨馬に跨った黄金の髪の戦士が駆け抜けたばかりであった。
魔界の中でも戦争や闘争に関連する猛々しい神々の領土となる一角に、単騎で足を踏み入れるなど、邪神でさえ命知らずと言われてもおかしくはなかったが、その戦士は数少ない例外だった。
麓から見上げても頂上が見通せぬ程に高い城壁は黒く塗り潰され、天を貫くように伸びている無数の尖塔も雲海か余程の遠方から出なければ見えはしないだろう。
門番もおらず、槍と盾を構えた巨大な戦士が彫り込まれた城門は、騎馬を逍遥と受け入れて、音一つ立てる事も無く城塞の内部へと戦士を迎え入れる。
城塞に居る数多の邪神や神造魔獣、元は地上の生物だった下位の神性達に到るまで、一柱残らず畏怖と畏敬の念を抱かせ、我が物顔で歩き続けたその戦士は、玉座の間で目的の相手を見つけると破顔して、開口一番こう言い放つ。どんな静寂も根負けするしかない大声だった。
「よう、邪魔するぞ、サグラバース! ぬははは、それにしてもお前んところの末裔がドランの住んでいる国を相手に喧嘩を売ったらしいな!! 生憎とドランに介入を禁じられている故、地上のおれの分身は参戦できんが、こうしてお前の方に顔を出しに来たわ!!」
どんな喧騒に包まれた戦場でも端から端まで届く大声の主は、紛れもなく最強の神の一角を担う最高位の戦神アルデス。
手には愛用の長槍、獅子の鬣の如く肩の膨らんだ鎧と、常と変らぬ戦装束であり、城塞に詰めていた邪神達はアルデスの殴り込みかと誤解し、大いに戦慄したものである。
愉快で堪らないと笑うアルデスに、城塞の主であり彼の目的でもあるサグラバースは、漆黒の落陽を思わせる形状の玉座に腰かけたまま、不意の来客に鷹揚に答えた。
「相変わらず貴様は気まぐれな真似をする。我が眷属達の寿命が幾らか縮んだかもしれん」
サグラバースは四十を半ば過ぎ、貫禄と覇気と威厳が人間の形を持ったと思わせる偉丈夫だ。獰猛な獣の頭蓋を思わせる巨大な肩当てが目立つ黒い甲冑を纏う肉体は、巨漢のアルデスよりも更に一回り大きく、軍神の名を裏切らぬ戦場に立つ者の肉体である。
銀に輝く長髪はまっすぐそのまま下ろし、男らしく太い眉の下にある黄金の瞳は恐れも怒りもなく、呆れを大きく宿している。それは眉間に縦に開いている第三の瞳も同じだ。
「それはすまない事をしたな。後で詫びの酒でも送ろうか?」
「ふ、妹君とよく相談した上で決めるがいい。如何に天界の神とはいえ、貴様を立たせたままとあっては礼を失する。こちらへ来るがいい。アルデスよ」
「うむ、助かる!」
いちいち声の大きい男だ、と相も変わらぬ戦友兼好敵手に、サグラバースは微笑を浮かべながら、客室の一つへと場所を移した。
軍神の城塞に相応しく、華美さよりも重厚な印象を受ける内装と調度品に囲まれて、アルデスは長椅子に深く腰を落として、供された夕陽色の酒をガッパガッパと飲んでいる。
アルデスの対面に腰かけたサグラバースは、こちらは小さなグラスに注がれた透明な酒を品よく味わい、アルデスの咽喉が潤うのを待っている。
「ぬはは、美味い美味い。他所で馳走になる酒は事の他美味だ!」
「遠慮を知らぬ男だ」
「遠慮をしなくて良い相手だと分かっているからこそ、こうも振る舞えるのだ、サグラバース。さて、いい加減、話を進めるか。といっても、もう言っているのだがな。
古神竜ドラゴンが人間に生まれ変わり、ドランと名乗っているのは、もはや天界と魔界で知らぬ者はおらんといってよい。
よりにもよってその生まれ変わったドランと、お前の子孫がドンパチを始めよったぞ。で、お前はそれはどうなのだ? 介入するのか、せんのか? ん?」
アルデスの口にした話題はこの城塞を含むサグラバースの領域で、目下、最大にして最悪の話題であった。魔界を離れて、地上世界へと移住したサグラバースの眷属達の子孫が、ドランを相手に戦争を始めたのだ。
古神竜ドラゴンの所業の数々を知る魔界の神々が、戦々恐々とするのは当然の流れであろう。
「どうもこうもあるまい。古神竜ドラゴンは人間として振る舞っている。多少、箍は緩いようだが、自身の懐に収めた存在を守る以外の戦いでは、古神竜としての力を振るうまでには至っておらん。
我が末裔ヤーハームを始め、あれの配下達との戦いの範疇でならば古神竜が地上に顕現する事はあるまい。それこそ私が余計な介入などしなければな」
「はは、ドランの奴は頭の固い奴だからな。その癖、わけのわからん所が妙に柔らかかったりするから、何時、逆鱗に触れるか分からない面倒くさい奴よ。だが、あいつは昔から戦う力を持たぬ弱者が強者に理不尽に虐げられるのをひどく嫌う。
だが戦場にはそれを伴うのが常であるものよ。お前の子孫とドランの生きている世界で考えれば、略奪、強姦、虐殺がまだまだ横行している。お前の子孫がドランの目の届くところ、耳に聞こえる範疇でそれをすれば、あれは自制の枷を砕いて暴れるぞ?」
「それでドラゴンの怒りを買い、滅ぼされるのならばそれは己の所業の責任を取っただけの事。我が子孫であれ、それが我が子であれ、何の変わりがある?」
「ふふん、まあ、王を名乗るのならば臣下の行いの功罪も一気に引き受ける責務があろうな。しかしよ、それを言うのならば地上の魔王の祖たるお前に責任という名の牙を向けられたのならどうする? ドラゴンもといドランは、あれで頭に血が上る速度は始原の七竜でも一、二を争うぞ」
「なれば軍神を名乗る者として我が全霊にて迎え撃つまでの話。その戦いで我が身が滅ぶのなら、それもそれまでの話だ。私の力が及ばなかったというだけのな」
「はっはっは、なんだなんだ、随分と潔い事だな! おれやお前ならそんなところか」
「全ての神々が力を合わせても及ばぬ始祖竜の心臓を相手に、戦い滅びるのならば本望という他あるまい。我が眷属達にまで累が及ぶか否かは、気掛かりではあるが……」
アルデスと話し始めてから、初めてサグラバースの顔に憂慮の色が浮かび上がる。自身の滅びは厭わぬとも、共にこの魔界で轡を並べる眷属達は別らしい。
ソレを言ったら、地上の末裔達はどうなのかという話になるが、この場合、ヤーハームらは自らの行いの報いを受けるという前提であるから、サグラバースとしては処遇を案じる対象から除外されるようだった。
「お前が率先してドランに挑むのならば、それであれの留飲は下がるだろうし、見逃されるだろうよ。
怒り心頭の古神竜と戦えるというのは、考えるだけでも胸がわくわくとしてくるが、お前にとってムンドゥス・カーヌスとやらは、血が遠すぎて末裔というよりも信者というのが近いのではないか? それに対して滅びまで付き合うとは、随分と執心だな」
アルデスは自己を省みてそこまで付き合ってやった事はないな、とからからと笑う。求める声が届いても応じる価値がなければ無視するし、なるべくならば信者達自身の力と勇気で問題を解決する方向に導くのがアルデスの神としての在り方である。
加えて言うのなら見所のある者は、天界にある自身の領域に死後を預けないかと勧誘する事もある。積極的に生きている信者に関わろうとはしない、という点でアルデスとサグラバースは共通している。
「アレらの祖であった我が眷属には、この地を離れ地上に向かう際に伝えるべき事を伝えた。我が手を離れはしたが、子子孫孫に到るまで私の伝えた言葉をよく守っている。なればそれに報いようと思うのは、それ程おかしな事か?」
「ふふ、軍神という割に甘いと言いたいが、魔界での戦いに嫌気がさして地上に逃れた眷属の子孫に求められれば応じるのだから、はるかな昔からお前は甘い奴だったな。
地上に逃れる時にも、着の身着のまま何も持たせずに追い出してもよいのに、お前ときたら地上の規格に合わせたとはいえ、持たせられるだけの装備と城を与えて送り出したのだからな!」
どうやらアルデスとサグラバースは元より親交のあった仲であるようだ。そうでもなければ、サグラバースが地上に眷属を送り出した時の様子を知る筈もあるまい。
アルデスの遠慮を知らぬからかいの言葉にも、サグラバースは機嫌を損ねた様子はなく、かつての情景を思い出してか、杯を傾けるその横顔にはかすかな寂寥が浮かんでいる。
「昔の話だ。昔の、な」
「何が昔のだ。もはや眷属としての縁の薄き者と滅びを共にしてもよいとまで付き合う奴なんぞ、神多かれとは言えそうはおらんよ。お前の末裔達が行儀良ければドランが古神竜として暴れる事はあるまいが、万が一の時にはおれがお前の墓の一つでも建ててやろう!」
「それこそ余計なお世話というものだ。私に墓は要らぬ。滅びた後にまで存在の証を残そうとは思わぬのでな」
「やれやれ、お前さんはつくづく潔い奴だな!」
そう笑うアルデスの声音は、この上なく機嫌のよいものだった。
*
ライノスアート大公派とアステリア皇女派に割れたロマル帝国とザンダルザ・ガリリウスの率いる魔王軍との開戦に到るまでの流れは、アークレスト王国のそれと大筋で変わらぬものであった。
当初は穏当な話し合いを重ねながら、到底飲まれるわけもない条件を突きつけて、これに対する反発を待ってからの交渉決裂と本格的な開戦というわけだ。
交渉決裂後に、互いに捕虜の扱いや無差別に被害を齎す禁呪や毒物の使用に関する取り決めを行ってから、いざ『文化的な』戦争の始まりとなる。
北方の未開の大地からやってきた未知の勢力とロマル帝国との接触と開戦の知らせは、南方の反乱諸勢力にも迅速に広がっていた。魔王軍によるものかはたまた入れ替わりを目論む皇女が、望む状況を作り出す為に意図的に流したのかもしれない。
開戦当初、反乱勢力は様子見と水面下での協力体制の構築に注力した。魔王軍が仮にロマル帝国を壊滅させた後の動きとその実力が未知数であった事に加え、ここまでロマル帝国を追いこむ状況が続けば、いよいよもって東の大国アークレスト王国が動くかもしれぬと恐れたからである。
アークレスト王国はアークレスト王国で、魔王軍と戦ってはいたものの、北部諸侯以外の貴族と王軍は自由に動く事が出来たし、何よりも単騎で十万の軍勢にも匹敵すると恐れられる“アークウィッチ”メルルも健在だ。
後の占領政策を考えなければ、メルルを単独で戦場に放り込んで魔力をそれなりに解放して暴れさせるだけで反乱諸勢力は十中八九壊滅するのだから、彼らの警戒は当然のものだろう。
反乱勢力だけでなくロマル帝国からしてもアークレスト王国の動向は、これまで以上に神経を注いで警戒しなければならなかった。
では当のアークレスト王国はと言うと、ベルン男爵領を中心とした北部諸侯は魔王軍を相手に優勢に戦い続けており、こちらの方面では一先ずの安堵を得ていた。
しかし、そんな安堵を許しはしないとばかりに持ち込まれたのが、アステリア皇女がアムリアと入れ替わるという前提の上での帝位譲渡という眉唾ものの話である。唾を塗り過ぎて、眉がひどい有様になりそうなくらいに信憑性を疑う話だ。
グワンダンが有言実行し、バロルディから一歩も出ぬままにアークレスト王国の間諜へ慎重に慎重を期して伝えたこの話は、即刻、国王や王太子を含む王国の重鎮中の重鎮達の間で吟味されたのは言うまでもない。
とはいえ三つに割れたとはいえロマルという巨大な国家の玉座を明け渡す、というアステリアの言動はあまりに信じ難く、また常人には理解もし難く、これは何かの罠であり本当の狙いは別にある、とスペリオン自身も含め誰もが疑ってかかった。
しかし、そんなスペリオンとフラウの背を押したのは、グワンダンの本体であるハチャメチャなドランと、お人好しで純真無垢で見ていて心配にはなるが芯の強さもあるアムリアが唯唯諾諾とアステリアに従うわけがない。
あの二人が居る事もある。ならば、この話に乗るだけの価値がある。北部の魔王軍とロマル帝国を攻める魔王軍の動向に注意を、場合によっては最大最強の切り札メルルの投入を選択肢に含めて、虎視眈々と好機を狙うのだった。
*
「今後、アムリアの身の安全の為にも、二人には最低でもガンデウスやキルリンネの基準にまで達して貰う。いや、
鉄を越えた決意の固さを感じさせる声の主はグワンダンである。そしてバロルディの離宮でそれを告げられたのは、八千代と風香の二名。
グワンダンとメイド三姉妹がアムリアの護衛を離れた後、最も身近な場所で彼女の心身を守るのはこの犬人と狐人の女性だ。しかし、精神面は兎も角、護衛としての力量においてこの二人に及第点を付ける事はグワンダンには出来なかった。
なお、智謀の面には最初から期待していないし、アムリアから求められる事も無いだろうと、鍛える要素の選択肢から外している。
先日、グワンダンとカイルスが軽い手合わせを行った離宮の中庭の一角で、八千代と風香は極めて真剣な表情で目の前に立つグワンダンの言葉に耳を傾けている。
尚、アムリアはアステリアとつきっきりでロマル帝国の内情から周辺諸国の情報を詰め込む作業に没頭しており、護衛にはリネット達三人を総動員している。
例によって目に映らない位置でザナド配下の影働きをする者達が控えているが、これもまた例によって無視である。
十二翼将でないにも関わらず、ザナドを始めとした奇妙な程の実力者達は、アムリアとアステリアの交代劇について知らされているらしく、グワンダン達も彼らに対しては面倒な隠し事をしなくなっている。
「グワンダン殿、某達の腕前が未熟であるのは某達自身が痛い程に感じており申す。アークレスト王国でもベルン村でも、多くの強者の方々に鍛えていただいたとはいえ、今後もアムリア殿のお傍にあるにはあまりに未熟!」
普段の飼い慣らされた家庭犬めいた雰囲気とは違い、身体の隅から隅まで鬼気迫る気迫で満たした八千代だが、声音には自分達の未熟への苛立ちや怒りが震える程に込められている。
その一方で八千代と風香は自分達がアムリアの傍に居続けるのは当然の事だと考えていて、疑問を挟む余地も無い様子だ。グワンダンも八千代達と同じ考えである為に、改めて二人を鍛えるなどと言い出したのだ。
八千代に続いて風香もまた自身の力量を鑑み、グワンダンに答える。
「しかし、時間はそれ程残されてはおりますまい。それに八と拙者も自分の才能の限界というものをひしひしと感じておる次第。
幼き頃には何処までも高みに登って行けると思ったら、思ったよりも低い所で天井にぶつかってしまったようなもの。グワンダン殿のお力とお知恵で拙者達を強者へと変えられるでござるか?」
「ふむ、単純な強化方法としては私と君達が一種の契約を交わして力の譲渡を行う事だが、それは自力で得た力とは言い難いし、私の方に問題が生じれば失われる可能性がある。やはり、君達自身を鍛え上げるのが最も堅実だ。それで行く」
「ふーむ。確かに自らの体に刻みこんだ技の方がいざという時に頼りになり申そう。それは分かるのでござるけれども、具体的にはどうやって?」
グワンダンもといドランが万能にも等しい能力の持ち主であるが、その一方で能力を脳味噌が筋肉で出来ているような方向に特化させているのを八千代も風香もこれまでの付き合いでよく理解している。
こう、魔術を用いた神秘的な方法による強化ではなく、精も根も尽きるような方向でしごかれそうな予感がひしひしとするのだ。
「適度な負荷と適度な休息と適度な栄養補給を繰り返せば、自然と実力は身に付く。ただし、適度な負荷に関して今回は度外視で行く。君達の魂が霊格を上げなければ滅びると、そう危機感を覚える程にだ」
「んんんん~~、つまりこれはあ?」
八千代はペタンと耳を前に倒しながら腰の愛刀を引き抜き、力の無い瞳を風香に向ければ、風香もまた腰裏に差している小太刀とダガーを引き抜く。
二人とも実戦で使用する武器をグワンダンに振るう事に躊躇はない。だって、直撃したって何にもならないからね!
「んん~~八の字ぃ、拙者達を? グワンダン殿が? 死ぬほど鍛えるという事ではないかなと拙者的には愚考する次第」
「ふむん。二人とも大正解だ。致命の一撃がそうならぬように保護の魔法を私のポールアクスに施しておく。命の心配だけはしなくてよい」
「あ、命の心配だけでござるかあ」
「ああー、ええ、まあ、そういう事でござるね」
「風の字ー、とりあえず心だけは折れないように頑張るでござるよー」
「うむーではー……アムリア殿の笑顔の為に、頑張るぞ、風香!!」
「応!! でござるぞ、八の字ィ!!!」
少なくともこの時点での八千代と風香の気力は充溢し、魂はこの上なく昂っていた。グワンダンとの一対二による徹底した鍛錬は、夕餉の呼び声が掛るまで続けられ、後にわんわんとこんこんはこの時の事をこう語る。
“地獄を見た”と。
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第二百九十六話
息を吸う度にひりひりと乾いた喉が痛み、肺が破裂するような錯覚に襲われる。
額に浮かび、頬を伝い、首筋を流れる汗が熱を孕み、頭のてっぺんから指先に到るまで、全身が熱病に侵されているようだと八千代と風香は揃ってそんな雑念を抱いた。
ああ、なんて事だ、そんな雑念を抱くなど自分達に余裕があると、目の前の事態に集中出来ていないと白状するようなものではないか!
当然、彼がそれを見過ごす筈がない。ひえ、と八千代が呟き、風香がペタリと耳を伏せた。
ほら、ほら! 並ぶ八千代と風香を目掛けて、白い鱗のドラゴニアンがポールアクスをゆるりと見えて、神速の速さで振り上げて!
「随分と余裕がある。もっと厳しくしても構わんな?」
ひょう、と風切る音は悲鳴にも似て、ポールアクスは左右に飛び退いた八千代と風香の中間地点に振り下ろされた。ポールアクスが切り分けた風の圧力に二人の獣娘はびりびりと肌と毛皮を打たれ、跳躍以上の距離を吹き飛ばされる。
咄嗟に身をよじって足から着地して、地面に転がるのを防ぐ。グワンダンはゆったりとそれぞれの武器を構え直す二人を見て、次はどちらから仕掛けるかと思案する様子。
油断? いや、余裕だろう。
アムリアに用意された離宮の中庭は、グワンダン達三名の特訓が開始される直前に外からの侵入を許さない結界が張られ、内部の音が漏れる事はなく、また内部の様子は尋常な範囲の手合わせが映し出されるよう偽装までされている。
一方的な虐殺とさえ見える三人の特訓だが、尋常でないのはグワンダンと両名の実力以上に、不規則に様相を変える特訓場もであった。
美しく剪定された花壇や生け垣、芸術的な価値の高い女神像を中心に据えた噴水は今や消え去り、砂塵舞って岩石の転がる砂漠になったかと思えば、あっという間に膝まで沈む異臭の漂う沼地へ変わり、そして今は瓦礫が延々と続く廃墟の中になっている。
グワンダンの実力の凄まじさは知っている二人だが、限定的とはいえ特に詠唱する様子もなく、顔色一つ変えず、ほいほいと本のページを捲るように世界の有様を変える出鱈目さは知らなかった。
なまじ、アムリアの護衛としての役割を自認して以降、アークレスト王国で時間を見つけては、鍛錬の他にも魔法に関する知識を学んでいた二人には、グワンダンの出鱈目ぶりが分かってしまう。
だが、出鱈目ぶりを見せつけて驚かせてくる癖に、驚く余裕を与えてはくれないのだから、グワンダンは厳しい事この上ない。
「きいぇえええいい!」
八千代と風香は同時覚悟を固めた。攻められるのを待っているばかりでは、どうしようもない。
何だか先程から、身体が何倍も重くなっているような気がするし、身体だけではなく気温と湿度もやたらと高くなっている気がするが、こちらから動かねば、こちらから攻め立てねば、何を得られようか。
果敢に奇声を上げて、八千代はグワンダンへと斬りかかる。彼女が感じたように結界内部の重力は五倍増し、気温は真昼の砂漠の如く、湿度は密林の奥深くに等しいものに達していた。
それでいて、彼女の身体は平時と変わらぬ速さで大地を蹴り、風香もまた悟られると覚悟した上でそれでも気配を消し、音を殺し、瓦礫の影を縫うようにして走る。
――ふむ、私が肉体と魂に圧力を加え続けた成果が出て来たか。このままでは死ぬと魂からの悲鳴を上げて、潜在能力を無理やり引きずり出すのには成功したな。
ごく短時間で激変する環境に五体と精神は翻弄され、迫りくるグワンダンの致命の一撃が神経を削り、更に言えば環境ばかりか時間の流れさえも緩やかなものに変わっていた。
合間合間に休憩を挟んでこそいるが、その間でさえ八千代と風香の意識は朦朧としていて、気付いたら休憩が終わり、ついでに疲労は抜けて、空腹は満たされているし、お手洗いに行く必要性も感じないという不思議体験をしている。
肉体を活性化させる支援魔法の応用なのだが、特訓の間は体調管理までグワンダンによって徹底的にされているとは気付かぬ二人であった。何より、自分達の状態を不思議に思う余裕をグワンダンが許さなかった為である。
「シィッ!!」
特訓前とは格段の速さと鋭さを備えた一撃がグワンダンの右手首を切り落としにかかり、蛇のように地を這って迫る風香はグワンダンの左足首ないしは尾を切り落とすのを狙って、小太刀とダガーを閃かせる。
「ふむ、まずは末端から切り崩しに来たか。善哉善哉」
直後、二人の視界を成長してもなお視認できない速さで振るわれたポールアクスの柄が埋め尽くし、二人は揃って宙を舞う。
「ぎゃああああ!!」
「ぐええええ!?」
「ふふふ、まだまだ。まだまだだぞ、二人とも」
ふむっふん、と笑うグワンダンの声が、二人には悪魔の笑い声にしか聞こえなかったのは言うまでもない。
*
中庭の外では数時間、内部では数日、数十日、数ヵ月にも及ぶ苛烈極まる地獄の時間が経過し、ようやく本当にグワンダン主催の素敵な特訓が終了した後、当然のようにグワンダン達はアムリアと合流して、その日の情報のすり合わせを行う。
のだが、なのだが、しかし、八千代と風香は駄目だった。グワンダンによって特訓の終了を告げられ、それを脳が理解した瞬間に二人はようやく泡を吹いて気絶する事が出来た。
それからグワンダンの左右の肩に背負われた二人はアムリアの居室に到着するや、アムリアの安心で安全な匂いと気配を敏感に感じ取って覚醒し、グワンダンの両肩から飛ぶように離れるやアムリアに縋りついたのである。
そして――
「くぅん、くぅん、きゅうー」
「きゅん、きゅう、くぅ」
「よちよち、お二人ともとっても頑張りまちたね~。もう怖い事はないでちゅよ~。ゆっくりお休みちまちょうねえ~」
――この惨状というか、有様になった。
長椅子に腰かけたアムリアの膝にぐすぐすと涙を零す八千代と風香が縋りつき、生まれたての子犬と子狐が母に甘えるような声を出している。
そんな二人の異様な様子を目の当たりにしても、アムリアは動揺は見せずに優しく二人の頭や背中を撫でて、精神が折れてしまいすっかり幼児退行――幼獣退行?――した二人を慰め続けている。
アムリアはその合間に、グワンダンに向けて一体何をなさったのですか、と強く視線で訴えている。
アムリアの護衛をしていたメイド三姉妹からも似たような視線が向けられており、グワンダンは半ば結果が分かった上で行ったとはいえ、思った以上に堪える視線の槍に降参だと手を上げる。
「今後の為に二人の地力を上げようとかなり厳しくやったのだが、二人の見せる根性と意地につられて、熱の入れ方を間違えてしまった。二人が正気に戻ったなら、きちんと謝罪する」
なまじ八千代と風香が普段の気の抜けた様子とは程遠い気迫で特訓に臨み、グワンダンがそれに感化されてしまったのが、八千代達にとっての不幸だった。
今は背中と尻尾をこちらに向けている八千代と風香に、グワンダンは頭を下げる。その仕草に謝罪するという言葉に偽りはないと判断し、アムリアは仕方がないと溜息を吐いた。
「グワンダン様、次からは――次もあるのですか?」
きゅーんと鳴いている二人の耳の付け根を揉みほぐしながらのアムリアの問いに、グワンダンは数瞬、考える素振りを見せた。
「ふむ、判断に悩むところだな。概ね、二人の限界がどのあたりになるのかは、今回の特訓で把握できた。次も似たような内容でやれば、心技体の内、技と体はほぼ限界値にまで引き上げられるが、その後にこうなってしまっていては、肝心要の心が育たない。
心技体は三つ揃ってこその和合。一つでも欠ければ途端に脆くなり、輝きはくすむもの。次があるにしても私が手を出すよりは、リネット達を相手にする方が現実的だろうと考えている」
「では今回のような真似はもうなさらないのですね?」
八千代と風香を思い、強い語調で確認してくるアムリアに、グワンダンは心底申し訳なさそうに肯定する以外に何が出来ただろう。
「ああ、もうしないよ」
それから数秒の間、アムリアはグワンダンの瞳をじっと見つめて、本当に本当だと納得してくれたようだった。再び幼獣退行状態の二人をあやして慰める作業に没頭し始める。
アムリアには叶わなくなってきたな、と情けなさとその癖、妙に嬉しそうに呟くグワンダンに、リネットは八千代達を刺激せぬように声を潜めて問いかけた。
「ところでグワンダン様、八千代と風香は目標の基準にまで、後どの程度のところまで達しているのですか? リネット達と肩を並べるところまで成長させる予定だと伺っておりましたが……」
「ふーむ、まあ、あくまで目標を高く持った上での話だよ。八千代と風香の才覚では君やガンデウスらの領域にまで達するのは至難を極めるのは分かっていた。実際、かなり無茶をして鍛えに鍛えたが、それでも君らには届かない所で足踏みをする事になった。
彼女らの生涯を賭して鍛え上げるのならばともかく、急場しのぎでの鍛錬はもう無理だな。それこそ魂や肉体の組成そのものをいじるしかなくなる。流石にそれは出来んよ」
「なるほど、でしたら後はなるべく早く二人の精神が立ち直るのを祈るばかりです。グワンダン様、今回ばかりはこのリネットも擁護のしようがございません」
「今回は私も大いに加減を誤ったと自戒せねばならん。二人の熱意に打たれた等と言い訳にもならん」
深々と溜息を吐くグワンダンに、ガンデウスとキルリンネはそわそわと落ち着かない様子で視線と意識を向けているが、彼を擁護する発言を口にするのはリネットが暗に制止していた。
例え主人であろうと悪いものは悪いと告げるべし、というのはリネットの考える従者のあり方である。グワンダンとて唯唯諾諾と従うばかりの従者よりも、過ちを正すべく行動する従者の方をこそ尊ぶとリネットは理解している。
とはいえ、主人を叱責しなければならないのは、どうにも心の重くなる行いであるのには違いない。
「では現状、八千代と風香はどの程度の力量に?」
「これまでは普通以上一流未満だったが、今なら一流以上超一流未満くらいには到達したよ。十二翼将相手では厳しいが、名うての剣士や戦士相手でもおさおさ引けを取らぬ位には腕を上げている」
「となりますと一国の皇女の護衛としては、一応及第点でしょうか?」
「装備で足りていない分を補えば、及第点には達するだろうさ。間違っても十二翼将や魔王軍の幹部級とは戦えさせられんが、そこは今ならまだ私達で補える」
「……ではアムリアが皇帝となった後でも、リネット達が助ける為には抜け道にアムリアが気付くのを期待する他ないと?」
「アムリアならもう気付いているかもしれんが、どうしても見過ごせぬようであるのなら、リネットが教えても構わんよ?」
「大変に心動かされるご提案ですが、これはやはりアムリア自身に気付いて貰うのがもっとも大切かと存じます。ですので、リネットは大変努力をして口を噤む事に致します」
むん、と口を閉じる動作を見せるリネットの微笑ましさにつられ、微笑を浮かべるグワンダンにおずおずとガンデウスが新たな問いを発した。
「グワンダン様、恐れながらお教えいただきたき儀がございます」
「何かな? 遠慮せず言ってみなさい」
「は、我らの故郷たるベルン男爵領でも魔王軍との戦闘が行われ、お母様とセリナ様が苦しい戦いを強いられたと伺っております。魔王軍は油断ならぬ強敵と見る他ありません。
ですが私達は具体的に魔王軍の幹部級がどれ程の実力者であるかを知らぬまま。
またロマル帝国を攻めている魔王軍の軍団は、ベルンひいてはアークレスト王国へ侵攻している軍団とは根本から別構成であると伺っています。出来れば事前に情報の一端なりを把握したいものです」
「ふむ、ガンデウスの考えは至極もっともなものだ。アステリアや離宮の中の者達から伝え聞いた範囲では、既に北部の村落のいくつかは魔王軍の支配下に置かれているらしい。
軍団の構成に関してはゴブリンとは思えないゴブリンと高位の魔族を中心とした魔族とに、綺麗に分かれた二種。偽竜と飛行型魔獣による航空戦力は、どちらにもついている」
「装備の質では王国と帝国どちらよりも上……というお話でしたね」
「ああ。真っ向からのぶつかり合いでは、相当に分が悪かろうよ。特に幹部連中が軒並み揃って数を覆せる突出した個だ。
暗黒の荒野を統一した勢力なのは、伊達ではないといったところか。ふむ、アムリア、私達は隣の部屋に移る。すまないが、君は八千代と風香を頼む」
今の八千代と風香には刺激の強い何かをリネット達と共有するつもりなのだと察して、アムリアは素直に首肯した。
「分かりました。お二人は私に任せてください」
「すまない」
素早く隣室に移った四人はしっかりと扉を閉めて、それでも隣室のアムリアに異変があれば即座に駆け付けられるように警戒は残しつつ、新しい情報の共有を始める。
グワンダンが左の掌を上に向けて開くと、瞬く間にそこから光の粒が溢れ始めて、それが壁際に集まって横に長い長方形に固まり始める。遠い場所の光景を映し出す魔法の一種だ。遠隔視に対する妨害魔法が覗き見している者に対する攻性魔法等も存在するが、グワンダンが行使する以上は、まあ、何時も通りどんなに対策を講じても意味の無い事である。
映し出されたのはバロルディからはまだ距離のある、ロマル帝国と魔王軍の最前線の一つ。リネット達はちょうど都合よく戦闘が行われているのか、と解釈したが――
「三日ほど前にライノスアート大公側の十二翼将と、魔族の方の将軍格が交戦した時の映像だ。先に言うと双方痛み分けに終わっているが、軍団の長となれば更に一回り上の実力者と頭に入れた上で見てくれ」
――どうやら遠隔視に加えて過去視も併せて発動していたらしい。
千里眼の一種である遠隔視だけでも相当に高度な技術だが、それに加えて過去視までと初見のものなら驚くべき場面だが、そこはそれ、リネット達三姉妹は特に驚きもせずに壁際に映し出された映像に視線を集中する。
緑色の絨毯の広がるなだらかな丘陵地帯が戦場であった。時刻は昼。地平線の彼方まで照らし出す陽光の中に、武装した両陣営の兵士達が無数に映し出される。
交えた砲火で抉れた大地の荒れ具合や、身じろぎ一つせずに倒れ伏す無数の骸の姿から、戦端が開かれてからそれなりの時間が経過しているのが見て取れる。
「さて、注目すべき者達の姿は、ここだな」
とグワンダンが視点を調整し先に映し出されたのは、兵士達が巻き込まれぬように遠巻きに見守る中、天地を震わすかの如き激戦を繰り広げる一体の魔族と二人の人間達だった。
魔族は体の線を克明に描き出す薄手の黒衣を全身に纏い、更に腰と肩に青く輝く装甲を纏っている以外に防具らしいものはない。
特徴的なのは、両肩から三枚の刃を持った触手を伸ばしている事だ。刃の中心にはギョロギョロと動く目玉がある。エルフと見紛う長い耳を持ち、酷薄そうな切れ長の瞳にはアメジストの輝きと共に闘争心の輝きが宿っている。
長く伸ばした真っ赤な髪を翻して戦うこの魔族の美女は――
「魔族を率いているザンダルザという男の娘、マルザミスと名乗っていたようだな。彼女と相対しているのが、以前、私達と戦った騎士らしい騎士の十二翼将ガリオールに、召喚術師のエラティリだ」
無手のマルザミスの両手から放出される凶悪な魔力は冷気、灼熱、雷電、風刃と多種多様な形態に変化し、無尽蔵の破壊として周囲へとまき散らされている。これを防ぐには千人近い魔法使いが防御魔法を一心不乱に唱え続ける必要があろう。
それをガリオールが手にした大盾に付与された魔法の守りと、強力な魔力を宿すハルバードを縦横無尽に振るう事で散らし、致命的な一撃を受けないように自身と背後のエラティリを守り抜いている。
この世の天災の全てを集めたような魔力の暴力の中で、容赦なく命を刈り取りに来る三枚刃の触手にもガリオールは見事に反応して見せ、その背に守られたエラティリの召喚した大小無数、有毒無毒の虫達がマルザミスに襲い掛かっている。
ガリオールさながらに魔力の災害の中を突き進む巨大な蟷螂は、以前、ドラミナにヴァルキュリオスの砥石代わりに切り刻まれたものの同種だろう。眼に見えぬ程小さな小虫から地中を掘り進む肉食蚯蚓の群れと、マルザミスに負けぬ豊富な虫達だ。
三者の戦いを見るリネット達三姉妹の表情は険しい。最初に口を開いたのはキルリンネだった。普段のぽやんとした雰囲気はまだ残っているが、それでも眼差しには真剣な光のみがある。
「ん~、ん~、グワンダン様ぁ」
「なにかな、キルリンネ」
「グワンダン様を落胆させるような事は言いたくないのですけれど、これは正直に言わないといけないので、言いますね」
とても口にしにくそうな雰囲気のキルリンネが、それでも進言する事を決めた勇気をグワンダンは今すぐにでも褒めたかった。
「悔しい事極まりないのですが、私とガンちゃんの今の装備では十二翼将とこの幹部級と戦うのは、とても厳しいです。ねえ、ガンちゃん」
「……ふう、ええ、とても、ええ、とても残念ですけれど、ええ、グワンダン様、私とキルリンネ単独では、普段使用を控えている遺失技術を用いた装備を使わなければ、互角以上の戦いは厳しいものでございます。
永久機関を内蔵し、レイラインによる強化を持つリネットお姉様であれば、ガンドーガなしでも渡り合えるやもしれませぬが……」
「ガンデウスの評価はありがたいものですが、リネットにしてもガンドーガないしはそれに準ずる装備を用いなければ必勝は期せません。
相討ちを辞さぬのであれば我ら三姉妹、一人一殺を全員が実行して見せますが、私達の命はグワンダン様を始めベルンの人々の御為にあります。私達の裁量で使ってよいものではありませんから」
もう少しリネットには自分達の命は自分の物だと言い張って貰って構わないのが、グワンダンの本音だ。これでも自分の命を使い捨てにする前提で話をしなくなった分、改善された方と思うべきか。
「分かっている。私も必要とあらば装備の解禁を行うつもりでいる。アステリアとアムリアの立場を考えれば、前線に赴く可能性は低いし、私達が魔王軍と戦うとしたならば、彼らがこのバロルディに奇襲を仕掛けてきた場合だろうな」
なるほど、グワンダンの言う事はもっともである。他に在り得る可能性としては、アステリアが前線の兵士達の士気向上と慰撫の為に、カイルスのような精鋭を護衛として前線に向かう事くらいのものだろう。
その危険性だからこそ、アムリアがアステリアの代理として試験がてら使われる可能性が十分にあるのだと、四人は言葉にせずとも理解していた。
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第二百九十七話
ロマル帝国へと派遣された魔王軍は、既に占領した地域に攻略の要となる基地の建設を終えていた。
陸上戦艦が停泊できるように整えられた基地には、ロマル帝国やアークレスト王国で見られるような防壁の他に、大規模な攻撃魔法や禁呪による攻撃を想定し基地全域に強固な防御魔法を随時展開する為の装置と魔力供給装置が設置されているのが特徴的だ。
陸上戦艦とは別に設けられた基地の司令室に腰を落ち着けた魔六将の一角ザンダルザは、占領した集落に関する報告書に目を通している時に、乱暴な来客を迎え入れる事となった。
司令室の中からでもはっきりと分かる程濃密な魔力と剣呑な気配を漲らせて、険しい表情を浮かべた魔族の美女が入室してくる。
「軍団長、特務部隊所属マルザミス、参上いたしました!」
両肩から一本ずつ触手を生やした異様な風体の美女マルザミスは、実父でもある上司へ叩きつけるような言葉を発した。
几帳面な様子で書類に目を通していたザンダルザは、父親らしさは欠片も見せずに視線を部下へと向ける。
「よく来た。入室を許可する」
「はっ」
互いに親子らしい情は一切なく、軍人らしい張り詰めた緊張感の中での短い応答である。
マルザミスは机を挟み、ザンダルザの正面から視線を受け止めた。もしマルザミスに謀反の意あらば、ザンダルザまで机を飛び越えて襲い掛からねばならぬ距離だ。
もっとも、術式を編まずとも膨大な魔力を叩きつけるだけで、高位の攻撃魔法と同等以上の現象を起こせる二人には、あまり意味の無い距離ではあるが。
「楽にしろ」
「はっ」
「ふん、虫に食われた傷はもう良いようだな?」
「はい。魔法医と軍医の腕は確かですので」
虫に食われたとは、先だってマルザミスが交戦したロマル帝国十二翼将ガリオールとエラティリに負わされた傷の中で、最も深かったものを指している。
この地上から異界、異星まで、多種多様な虫を召喚し、使役するエラティリがマルザミスの一瞬の隙を突き、腸を食い漁り、卵を産みつける厄介な肉食虫を内臓に潜り込ませたのだ。
戦闘の最中に孵化した肉食虫にさんざん腸を食い荒らされたマルザミスは、食い破られた腹と口から大量の血反吐を撒き散らしながら渾身の一撃を叩き込み、かろうじてガリオールとエラティリを退けるのに成功している。
一応、戦果としては痛み分けと言えるだろうか。
「ただ肉を食うだけの虫ならば、魔法と薬でどうとでもなったが、霊魂まで食う虫とあっては、そう易々と完治はするまい。思ったよりも厄介な手腕の敵だな。で、マルザミス、傷は良いとして戦闘に支障はあるか? 偽りなく申告するのが兵の務めぞ」
ザンダルザは娘の苛烈な気性をよく知っている。肉体と霊魂の傷口が塞がったとはいえ、それでは傷が完全に癒えたとは言えない。
それでもこの娘は前線に出ようと軍医らに厳しく口止めをしてもおかしくはない。その可能性を考慮して、派遣軍最高位のザンダルザ自身がこうして確認している。
ザンダルザの心情としては父親として娘を案じる気持ちが全くないわけではないが、この場に於いて、彼はマルザミスという単独で数を圧倒する戦力の状況確認を第一とした。
この判断は、一軍の長として冷徹というよりも厳格であると言うべきだろう。
「……はっ。普段の行動に於いて何ら支障はございません。雑兵共が相手ならばこれもまた同じです。しかし、先日のロマル帝国十二翼将を相手にするならば、万全とは言い難い状態です」
一瞬だけ、悔しさを滲ませるマルザミスだったが、父が軍団長としての立場を堅持するように、彼女もまた娘ではなく軍団の兵士としての自分を選んだ。
「そうか。マルザミスよ、全霊を尽くした上での戦いだったのは、誰の目から見ても分かる事。その戦いで負った傷は恥じ入るものではない。戦力をどう扱うかは、軍団の長たるわしの仕事。早晩、大きな作戦があるが、お前は休め」
「それは、親父殿……いえ、失礼いたしました、軍団長」
思わず声を荒げたマルザミスに、ザンダルザはまだまだ青いと叱咤を込めた一瞥を送ってから、もう一度繰り返す。
「休め」
「はっ」
今度こそマルザミスは反論する事無くザンダルザの命令に首肯し、敬礼の後に司令室を後にした。娘であり一個大隊に匹敵する戦力であるマルザミスの姿が見えなくなってから、ザンダルザは手にしていた書類を机の上に無造作に置く。
「ロマル十二翼将か、たった二人でマルザミスを抑えるとは思った以上にやりおるわ。先だっての二人が標準ならば、わしとガリリウスなら六人は相手取れるか? しかし、問題は契約者達か。……ふむ、ガリリウスに一つ話を振ってみるか」
*
「前線への慰問ですか? 士気向上の為の?」
定例となったアステリアとのお茶会で提案された話に、アムリアはそこに含まれる真意とは何かと考えながら問い返した。
お茶会は毎回違う部屋で開かれている。護衛としてカイルスと風香、八千代が必ず同伴しているのは同じだが、今回はアムリア側の護衛にグワンダンやメイド三姉妹が勢揃いしているのがこれまでのお茶会とは異なる点だ。
「ええ。魔王軍という想定外の、しかも反乱軍よりも遥かに強力な敵の出現で、北方の兵士達は勿論、諸侯に到るまで士気が落ちてしまっています。落ちた士気を向上させるのには、旗頭である私が顔を見せるのが一番手っ取り早いのはお分かり頂けるでしょう?」
それはそうだ。兵士はもちろん、そこらの貴族にとってさえ、アムリアは雲の上の人間だ。実像を知らぬとも、先帝の娘というただそれだけの事実で尊ぶべき存在に値する。
同時に魔王軍の存在がアステリア派とライノスアート派の区別なく、帝国の諸兵にとって大いに士気を削ぐ要素であるのにもアムリアは同意していた。
南部の反乱勢力も魔王軍との戦いの旗色が悪いと知れば、すぐにでも行動を起こせるように準備を進めていると情報が入っている。
「慰問の意義と効果は理解しています。ただ、その慰問に私達も同道せよ、というのは意外でした」
「貴女に離宮の中で教えられる事はほとんど教えてしまいましたから、そろそろ外で起きている現場の状況や空気を知って貰おうと思いまして。私自身、これまでに何度か前線に足を運んでおりますし。貴女にも知って貰おうと考えたのです」
アステリアは向かい合う人に友好の感情を抱かせるように計算され尽くした笑みのまま、とっくに仮面の下を知っている妹に真意を明かす。
アムリアにこれまでアステリアの行っていた活動の一つを傍で見る形で体験させよう、というのは偽りのない本音である。他にも意図がある可能性は否定できないから、アステリアは今一つ信用されない。
「ふむ、確かに私が知っておいて損はない事です。それに損得とは別に私も知っておきたいものの一つですから、戦場の空気、実際に戦っている人々の姿というのは」
「不平不満一つなしですか。ふふ、本当に貴女は逞しくなりましたね。いえ、このバロルディに到着する前に、とっくに逞しくなっていたのですね。そして私が貴女の知力、精神力、胆力に消費すべき目的を示したというところですか」
「姉上に随分と誘導される形であるのは、否定できません。でも歩むのを決めたのも、どう歩むかを決めたのも私です。責任は私にありますから、その点はご安心を」
「ふふふ、ええ、貴女は嬉しい誤算と言いたい位に逞しいですね。私よりもよっぽど皇帝に向いていますよ」
「姉上に太鼓判を押していただけるのなら、私も少しは自信を持って玉座にお尻を乗せられます」
アムリアの返答の何かが面白かったらしく、アステリアは手にしていた青い陶器のカップをソーサーに戻し、くすくすと鈴を転がすような笑声を手で隠した口元から零した。
「私が皇帝をただの職と称したのを咎めず、不思議がりもせず、貴女自身もまたただの道具としてしか認識していない。私達は皇族としては異端も良い所でしょうね。ふふ、それがおかしくって」
「ここに居る方々でなければ流石に口には出来ませんね。それで、前線とは言いますけれど、どの前線に赴かれるのですか? 魔王軍との前線全てを見て回れる程の余裕はないと存じていますが……」
「ええ。向かうのはマグヌスルフ侯爵を中心とした第八軍団が対応している前線の一つです。私達の想像するゴブリンとはかけ離れたゴブリンによる軍団を相手に、戦っている方々ですよ」
アステリアの告げた言葉に、これまで沈黙と不動を貫き続けていたグワンダンが内心で『ふむ』と、いつもの口癖を零して小さく反応する。
知力、体力、魔力とあらゆる点で通常のゴブリンを上回るハイゴブリン達で構成されているばかりでなく、徹底した規律で統率された精鋭軍団など、人間種からすれば想像の埒外もいいところだ。
グワンダンが反応したのは、その軍団の構成よりも軍団を統率する存在についてだ。一対一では、純人間種の最精鋭級の強者である十二翼将でも敗北する古ゴブリンのガリリウス。
ハイゴブリンの軍団は人間の兵士でも戦えるが、ガリリウスとそれに近しい側近達相手に数を頼みにした兵士達では犠牲にしかならない。仮にガリリウスがベルンに来たならば、真っ先にドランが相手をすると決める程の敵なのだ。
さしものアステリアも、ガリリウスがそこまでの強敵であると知っていない筈だ。筈なのだが……
――さて、この才女殿はどこまで見えているのか。知力に特化したメルルといっても過言ではない御仁だ。どこまでも見えていても不思議ではない。
グワンダンの内心の警戒の度合いがどうであれ、アムリアのアステリアに対する答えが変わるわけではないし、グワンダン達の行動もまた変わるわけではなかった。
アステリアから前線の慰問を打診されたその翌日、アステリアと護衛のカイルス並びにその配下の帝国竜騎士達に混じり、幻術によって姿を変えたアムリアとその愉快な護衛達も前線の一つ、ヴァスタージ丘陵へと向かうのだった。
皇族専用の高速飛行戦艦アルスロマル級三番艦ラスロマルとそれを警護する飛行戦艦、竜騎士達は、その快速によって当日の内に丘陵へと到着する。
飛行戦艦の長所の一つには、船底からいくつも車輪を備えた着陸装置が競り出して、多少の荒れ地をものともしない点が上げられる。
ヴァスタージ丘陵にはロマル帝国第八軍団九万八千名が展開し、既に魔王軍を相手に数度の戦闘を行い、これまで帝国民に知られていたゴブリンとはかけ離れたゴブリンを相手に、多くの犠牲を出している。
特にこれまで敵が南方の反乱軍と考え、自分達の出番は遠いと楽観視していた所為で、兵士達の士気の下がりようは危険な程であった。
そこへのアステリア皇女の来訪は、軍団を率いるマグヌスルフ侯爵を始めとした上層部にとっても、両手を上げて歓迎するところ。
アステリアの来訪を伝えられた諸兵は既に整然と並び立ち、その姿から魔王軍との過酷な戦いの疲労は見受けられない。全員の顔に帝国の威光は我らに在りと、輝かんばかりの士気と誇りが輝いている。
兜を小脇に抱えた司令官級の者達が見つめる中、着陸したラスロマルの周囲に竜騎士達が降り立ち、それが十二翼将の一人カイルスと分かり、第八軍団の諸兵には期待の色がより色濃く浮かび上がる。
程なくしてラスロマル左舷のハッチが開き、完全武装した近衛兵達が先んじて降り立ち、美麗なる女官、侍女達を伴ってアステリアがついに姿を見せる。
ロマル帝国で最も尊ばれるべき血を受け継ぎ、次代の皇帝となるべき女性。その血統に相応しく、匂い立つような気品、これまで見て来たどんな美女も色あせる麗しきかんばせ。
母親が侍女だから何が問題だというのだ。あの美貌を見よ、あの気品を見よ、今日に到るまでライノスアート大公と渡り合ってきた手腕と実績を見よ。この方以上にロマル皇帝に相応しき方が居る者かと、兵士の誰もが同じ思いを胸に抱く。
ただ姿を見せただけでそれ程の影響を与えるアステリアの姿と、影響を受けるロマル帝国兵達の姿を、アステリアに続く侍女に変装したアムリアは瞬きすら惜しんで見つめていた。
八千代と風香はにわか仕込みでは侍女らしい振る舞いは出来ないだろうと、後から艦を降りるリネット共に降りる予定で、頭から兜を被り、甲冑で全身を余さず隠したグワンダンは護衛の一人に紛れ、ガンデウスとキルリンネは侍女に化けている。
皇女という存在の齎す影響とその重圧を改めて肌で感じ、目で見たアムリアが何を思うのか。グワンダンは兜のスリット越しに静かに見守っていた。
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第二百九十八話
ヴァスタージ丘陵に展開するロマル帝国第八軍団の陣地に到着したアステリアの行動は、迅速と言ってよかった。
軍団長を務めるマグヌスルフ侯爵ら司令部の人員との挨拶を手短に済ませるや、ひしめく兵士達の元を、労苦を惜しまずに歩いて回り、本来なら顔を見る事さえ許されぬ程身分の低い彼らに、誠意と感謝、そして労わりの込められた声をかけて回り始めたのである。
これにはアステリアをろくに知らないマグヌスルフ侯爵達が大いに慌てたが、最も強力な歯止め役であるカイルスや侍従長が異を唱えず、逍遥と影のようにアステリアに従うものだから、誰にも止められなかった。
魔王軍との数度の戦闘により、ロマル帝国第八軍団には多くの死傷者が発生しており、まだ助かる見込みのある者は、丘陵地帯に用意された天幕――野戦病院に収容されている。
地面に打ちこんだ杭と縄、それらに張られた大気を浄化する効能のある護符によって区切られたその一角の内部には、包帯を濡らす血の臭い、膿んだ傷の放つ悪臭、堪え切れぬ痛みから零れる呻き声に満ちている。
誰もが避けては通れず、いずれは迎える死を少しでも遠ざけようと多くの軍医や軍団付きの神官達が懸命に働いているが、輝かしい陽光すら翳るかのような雰囲気は拭い得ない。
アステリアの急な行動はマグヌスルフらにとって予定から外れたもので、皇女の来訪に医療関係者達は大いに慌てふためいた。
母親の身分が低いとはいえ、宮廷で蝶よ花よと育てられた皇女が訪れるのに相応しい場所ではないと、現場の医師達や軍団の者達は口を酸っぱくしてアステリアに告げたが、これにアステリアは穏やかな微笑と共に帝国の為に戦った英雄を激励もせずに、何が皇女か、と鉄の意思を見せた。
皇女として、あるいは貴人と呼ばれる者として見本の中の見本と言うべき言動には、堅牢なるアステリアの意思が感じられて、一度は彼女を止めようとした者達も道を開ける他なかった。
例外は、人心を掌握するのに必要な計算をして実行しているのだと知っているカイルス、侍従長らアステリア直属の臣下の一部と、甲冑と兜で顔を隠して突き従っているグワンダンと侍女に変装したアムリアくらいのものだが、彼らはそもそも止めるつもりがない。
およそ帝国人民の想像し得る皇女像を、一段も二段も上回るアステリアの来訪が告げられた時、寝台の上で苦痛に呻いていた兵士達は、匂い立つような気品と、輝かんばかりの典雅さに、血臭も膿みの悪臭も、薬品類の鼻を突く臭いも消え去ったと本気で信じた。
ただ姿を見せる。たったそれだけの行動で戦い傷ついた兵士達に苦しみと痛みを忘れさせるのが、アステリアという女性であった。皇女という存在が齎す影響を計算し尽くしての行動であるのは、言うまでもない。
アステリアの姿とその傍らで彼女を守るカイルスの姿に、兵士達があまりに恐れ多いと寝台の上で体の動ける限りにおいて頭を垂れるか、またあるいは寝台を降りて平伏しようとするのを、アステリアは決して大きくはない声で制止した。
天幕の端から端まで届くとは思い難い声量だったが、噛み締めた歯の間からわずかに零れる呻き声の他は、静謐に満ちていた為に、聞き逃した負傷兵は一人も居ない。
アステリアは負傷兵一人一人に近づいて声をかけるだけではなく、彼らの傷ついた体に触れ、手を取り、何処で生まれ、育ち、この戦場に来たのか、実際の戦いはどうだったのか。
彼らの過去も今も、戦場での恐怖や後悔、苦痛もその全てに耳を傾けて、彼らの声と思いに寄り添う。例え、ここが魔王軍と対峙している最前線であり、一刻一秒でも時間が惜しい現状では、自分で自分の首を絞めるかのような行為であると自覚していても。
それでも、誰もこれ以上アステリアを止めようとする者はいなかった。
アステリアの負傷者達への激励と感謝の見舞いは、一日ではとても終わるものではなく、その日は夕暮れ時になってから一旦切り上げられた。
アステリアの纏っている最高級のドレスには負傷兵達の血の赤い染み、薬品や膿みによる黄色や緑がかった染みが随所に付着している。ドレスが汚れるのを厭わず、負傷兵達を励まして回った結果だ。
そのまま着替えを兼ねたわずかな休憩を挟み、アステリアはマグヌスルフら第八軍団首脳部らとこれまでの戦闘の情報のすり合わせと今後の対応について、協議を行う予定となっている。
突貫工事とは思えない堅牢な作りの司令部に用意された一室で、アステリアはお付きの侍女達の淀みない手つきで着替えさせられている。
外部からの不躾な視線を許さぬとばかりに部屋の窓は固く閉ざされ、室内の侍女達の過半数は荒事に対応できるよう過酷な訓練を積んだ戦士でもある。
そしてアステリアの為に用意された部屋ときたら! 前線の司令室とは到底思えぬ瀟洒な細工が床にも天井にも壁にも施され、分厚い絨毯に施された金糸銀糸の刺繍の精密さたるや、目を剥かんばかりだ。
ほのかに甘い香りを含む煙を立ち昇らせる黄金の香炉も、壁に掛けられた絵画も、全てがロマル帝国の財力を誇るがごとく、金貨の山と引き換えにしなければならぬものばかり。
目隠しをして通されれば、それを取られた時にここが宮殿の一室だと言われても、その言葉を疑う者がどれだけいるやら。
そんな部屋に併設された浴室では、アステリアが香油を垂らしたお湯で満たされた湯船に優雅に体を預けていた。湯気を噴く透明なお湯には何種類もの花びらが浮かび、浴室の中はえもいわれぬ芳香で満ちている。
浴室の中には、アステリアからいつでも声が掛けられても良いようにと数名の侍女達が控えていた。
その内、二名がアステリアのお湯に浸る体に直に触れて、疲れを揉みほぐすべく、たおやかな指を動かしている。
室内に居るのが同性であり、また事情を知る者に限られているとはいえ、アステリアに恥じらう素振りは見られない。侍女達を信頼しているから……ではない。
もし、アステリアがそうする事の出来る精神の持ち主であったなら、アムリアに対する扱いはこれまでのようなものではなく、もっとありきたりな帝位継承権を巡る敵に対する、ありふれたものになっていただろう。
蓋を開けてみれば、答えは簡潔で冷淡なものだ。
アステリアにとって、今、負傷兵達の苦しみの声と血の臭いに触れた体を清める侍女達は、人間として認識するに値しないモノに等しい存在なのだ。
恥じらうのは、少なくとも自分と近い存在が相手の場合だ。
血が通い、息をし、心臓が動き、言葉も交わせるが、アステリアにとって侍女達はゴーレムとさして変わらぬ道具なのだから。
アステリアの代わりに、堂々と裸身を晒す彼女に対して恥じらうように視線を伏せる女性が居た。アステリアに招かれた変装継続中のアムリアである。
中身はまるで別人だとお互いに認める姉妹だが、少なくとも妹の方は同じ顔の人物が不特定多数に生まれたままの姿を晒しているのを見ると、まるで自分が見られているようで恥ずかしいのだ。
そんなアムリアの後ろには艦を降りて合流した八千代と風香、それにリネットが控えている。こちらは戦場で呑気なものだ、と半ば呆れている。
他のガンデウスとキルリンネ、それにグワンダンとカイルスらは部屋の外の廊下で警護活動の真っ最中である。
「どうでしたか、アムリア。負傷兵へのお見舞いは、貴女にとっていささか刺激が強かったかしら?
それとも終の集落で難民の方達の治療のお手伝いをしていたと聞いたから、血と薬の入り混じった刺激臭も、絶える事のない苦痛の声も慣れたもの?」
アステリアは先程まで自分の服を濡らしていた兵士達への嫌悪や労わりは欠片も浮かべず、血を分けた妹にからかうように問う。負傷兵達をもう忘れたかのような口ぶりに、アムリアは短いが重い溜息を雪のように零した。
「あの集落で私が接したのは、故郷を理不尽に追われ、行くべき場所もなく、それでも懸命に生きようとする方々でした。しかるに先程の方々は追われるのではなく、追う側であった方々。
そして怪我を負った理由も、謂われなく故郷を焼かれたのではなく、国を守る為に侵略者と戦った結果という誇るべきもの」
「あら、では同情も憐憫も不要なものと?」
「いいえ、早合点は姉上らしくありません。それでも傷つき苦しんでいるのは、どちらの方々も同じです。死を恐れ、懸命に生きようとする生命には違いありません」
「そう、聖人のような事を口にするのね。皇女よりも聖女の方が貴女には向いているのかしら?」
からかっているのでも、皮肉を言っているのでもない。本気でそうかもしれないと考えているアステリアを、アムリアは呆れを隠さずにバッサリと切り捨てた。
「そんなわけないでしょう。真に聖女であるのなら、今頃は帝位争いも内紛も全て言葉だけで終息しています」
アムリアの定義する聖女は、求められる基準があまりに高すぎて、流石に現実には存在しないのではないかとアステリアですら思う。
とはいえ、この妹は妹で姉とは違う方向で常人とは感性と視野が異なる。アステリアは深くどころか浅く追及する気にもならなかった。まあ、面白いとは思うのだが。
「貴女は最近、私に対する遠慮がなくなったわね。普通の姉妹らしいやりとりが出来ているのよね、きっと」
「普通の姉妹、ですか」
アムリアの知る範囲での姉妹と言うと、最も身近なのがリネット、ガンデウス、キルリンネら血の繋がらぬメイド三姉妹になるのだが、彼女らは仲こそ良いが『普通の姉妹』と表現するには、さしものアムリアも躊躇するところであった。
良くも悪くもアムリアの周囲には、普通の定義に収まる人物が少ない。
「別に普通というものに憧れているわけでもないけれど。
もう、湯浴みは結構。これからマグヌスルフ侯爵達との軍議に出席します。アムリア、貴女もその変装はしたまま同席なさい。護衛の方達の同席も許します」
ゆったりと、名残惜しげなお湯の粒を裸身に纏い、アステリアが湯船から立ち上がり、侍女に手を取られながら出れば、他の控えていた侍女達が素早く近づいて、見る間に彼女の体を囲いこんで、濡れた体を拭って行く。
アムリアは侍女達の間からかいま見える姉に向けて、小さく頭を下げた。
「分かりました。姉上の言われる通りにいたします」
含むものがたっぷりあると、誰の耳にも分かるアムリアの声であった。そろそろ、この妹の忍耐やら我慢も、限界が近いのかもしれない。
*
アステリアが第八軍団の激励と慰問の為に、ヴァスタージ丘陵の陣地を訪れていた頃の話である。
魔王軍ロマル方面軍は、ロマル攻略に於いて陸上戦艦を中心とした艦隊を先行部隊とし、安全が確保された後に本国から補給物資を満載した部隊が合流する手筈となっていた。
第八軍団との数度の戦闘により消耗した弾薬や医療品、鎧兜に剣や槍といった基本的な武器と補充の人員らの受け渡しが行われ、一時的にロマル方面軍の足は止まっていた。
この時点で、既にザンダルザとガリリウスらの率いる魔王軍が占拠した町や村の数は、十を越えている。
ヴァスタージ丘陵はロマル帝国の版図の中でも北端に近いところにあるが、その近辺には少なくない数の開拓村があり、魔王軍の電光石火の侵攻に対して、避難の間に合わなかった者達がそれだけ居たわけだ。
暗黒の荒野からヴァスタージ丘陵に入り、赤茶けた荒涼とした大地の面影は消え果て、緑と生命の溢れる大地の片隅にこびりつく汚れのように、一つの開拓村があった。
獣避けに杭を幾つも組み合わせた簡単な防壁と空堀で村を囲み、人口は五十戸ほど。
かつて村人達は遠くに見えた陸上戦艦の威容と轟音に、未知に対する恐怖を抱き、ついで時を置かずに村を包囲した異形の軍勢の姿を見た時には、この世の終わりかと嘆いたものだ。
このサージという村に限らず、辺境の開拓民達にとって神々の系譜に連なる魔族などという存在は、まさに寝耳に水である。
かつて学者を目指しつつも挫折して村に舞い戻った地元では神童と呼ばれた者達が、かろうじて知っている程度だが、その神童とて片手の指程も居はしない。
かれらにとって暗黒の荒野とは、稀に巣を追われるか勢力争いに敗れたゴブリンやオーガなどの魔物や猛獣が、時折姿を見せる危険な場所という認識に過ぎなかったのだ。
それがまさかこうも充実した軍備を備えた軍勢が姿を見せるなど、開拓民はおろか帝国の誰も想像していなかったのだから、サージ村が抵抗を諦めて早々に降伏しても、誰が責められただろう。
サージ村の人々にとっては幸運な事に、魔王軍は彼らの降伏を受け入れるとそれ以上の干渉をこれといってしなかった。
物資や人手の徴発を行わず、また人類の軍隊がよく行う娯楽代わりの強姦や虐殺もなかったのだから、サージ村の人々は安堵こそしたものの、その対応に一抹の不安を覚えたのもまた事実である。
これが派遣されたのがヤーハームやザンダルザら魔族に屈服した、ゴブリンや亜人種、人間達であったなら、暴虐の嵐が占拠された村々に災いを運んだかもしれない。
だが、今回、派遣されたのはザンダルザ率いる魔族と、ガリリウス配下の高位のゴブリン達であったのが幸いした。
毒が入っているかもわからない、質も定かではない、安全かどうかの鑑定をする手間をかけてもいられない、と占拠した先での徴発など、事前に構築した戦争計画の邪魔にしかならないと、語るまでもなく却下、というのが魔王軍の基本的な考えだ。
占領した先での強盗や強奪もこれに倣い、強姦の類もまた自分達に負けた弱者の血など要らぬし、強者は強者と血を交わして子孫を残すべしと考えているから、これもまた論外の話である。
これらの思想は特にムンドゥス・カーヌスに属する魔族や高位のゴブリン達に、本能の域に達する程に刻みこまれている。
もしザンダルザやガリリウスは言うに及ばず、ヤーハームが自軍の兵がそのような行為を行っているのを目の当たりにしたら、即座に死刑を執行するだろう。
では何故、彼らがそのような思想を持つに到ったのか? 全ては魔界から地上へと移り住んだ彼らの祖先に端を発する。
ムンドゥス・カーヌスを築き上げた魔族の始祖達は、元々は魔界に居を置く軍神サグラバースの眷属だった者達だ。
栄えある軍神の眷属だった彼らだが、神格を放棄してでも地上へと移住したのは、永劫に終わりの見えぬ神々の戦いに疲れ、恐れ、逃げて安息を得る為だった。
軍神の眷属でありながら戦いを忌避するという存在意義の否定にも繋がる大罪を犯し、主人と仲間達に背を向けて戦場から逃げ出したという負い目があったのだ。
しかも主人であるサグラバースはそんな彼らを責めるでもなく、地上へと移住する彼らを快く送り出し、持たせられるだけの物を持たせて、達者で暮らせと慈悲深い言葉まで与えている。
そこまでされてなお地上へと逃げた彼らには、せめてこれ以上サグラバースの温情を踏み躙らないように、かの慈悲深き神の顔に泥を塗らないようにと、自分達のみならず子孫達に到るまでサグラバースに顔向けできない真似をせぬよう厳命した。
サグラバースは軍神として、戦争の暗黒面たる弱者への虐殺や略奪を禁忌としてはいない。
それらの行いと悲劇も確かに存在する側面であり、それに目を背けて何になると考えているからだ。故に虐殺を行うも行わぬも、当事者の判断に委ねている。
ただ、禁じていないからといって快く思っているわけでもない。表立って禁じてはいなくとも、内心では苦い顔になっているわけだ。ここら辺の機微は、戦友兼好敵手のアルデスと共通している。
そこのところを、元眷属である始祖達は知っており、子孫らにもこれを伝えていた結果、占拠されたロマル帝国の村々は驚く程平穏な占領状態となっている。
占拠した魔王軍が開拓村にした事と言えば、精々、ムンドゥス・カーヌスの旗を門前に掲げさせたくらいのもの。
それ以降は第八軍団との激しい戦いが繰り広げられても、サージ村を含む占拠された村々への対応は変わらずにいる。
安心してよいやら、恐怖し続ければよいやら、占拠された村人達の心境は穏やかならずだったのだが、その日、サージ村には極大の緊張が走っていた。
どういう風の吹きまわしなのか、ロマル方面軍の事実上の最高位にあるザンダルザが、護衛も連れずに呑気にサージ村の中を歩き回っていたのである。
闘志の欠片も浮かんでいない顔だけみれば単なる散歩のようだが、そんな事は村人に分かるわけもなく、誰もが畑仕事を放り出して家に引き籠って、怖々と様子を伺うに留まっている。
そんな村人達からの恐怖の視線を浴びながら、ザンダルザの三つの頭は揃ってつまらなさそうに口を尖らせる。
「なんじゃい、密偵の一人でも入り込んでおるかと思ったが、変わらず無抵抗の村人しかおらんわ。わざわざわし一人で闊歩しておるというのに、暗殺しようという輩がおらんではつまらん」
村人達を生贄に捧げようだとか、戦意向上の為に皆殺しにしようだとか、そのような考えはザンダルザには微塵もなく、まさに口にした通り、ロマル帝国側の放った密偵か暗殺者でもいないものかと、半ば暇つぶしに出歩いているだけらしい。
なんと豪胆な、なんと迂闊な振る舞いであろう。
そんな彼の望みは半分ほど叶えられた。固く閉ざされていた家の幾つかの扉が開いて、小さな影達が飛び出し、彼の背後を取ったのである。
ひょう、と正確な狙いで小さな手が投げたのは、小ぶりな石だった。ザンダルザはゆったりと後ろを振り返りながら、右手の一本で石を受け止める。
ザンダルザを狙う者達はいた。ただしロマル帝国の放った暗殺者等ではなく、村の子供達であったけれども。
ザンダルザは手の中の石を弄びながら、自分の腰にも届かない三人の子供らを見下ろす。
それぞれに薪を剣の代わりに持って、勇ましくザンダルザを見上げる男の子が二人と、手に石を持った女の子が一人。
子供達が飛び出してきた家々からは、子供達の名前を呼ぶ悲痛な親達の叫びが聞こえた。
「い~い狙いじゃ。非力さを補うのに石ころを投げるのも良い選択よ」
ザンダルザは角の生えた三つの頭と真っ赤な肌を持ち、おまけに腕は六本もある。
このような異形であるのに加えて、魔王の座に就いていてもおかしくない強力な魔族である。
眼差し一つを受けるだけでも、百戦錬磨の戦士でさえ心胆を恐怖で震わせて、戦意を喪失しかねない。これで殺気でも込めればその場で昏倒するか、悪ければそのまま死んでしまうだろう。
「や、やい、魔族!」
「おう、なんじゃい。チビ共」
「ここは、ここはおれ達の村だ。お前らなんか出て行け! 出て行かないんなら、おれ達がやっつけてやる!!」
「はあっはっはっはっは。なんじゃ、坊主ども、いっぱしの勇者気取りか? お前の親達は血相を変えて止めろと叫んでおるぞ。親の言う事を素直に聞いておく年頃であろうが、うん?」
「家の手伝いだったら素直に聞くさ。でも、お前らが来てから、皆が暗い顔をして下を見てなきゃいけなくなってるんだ。お前達の所為で皆から笑顔が無くなっている。だったら、誰かがどうにかしなくっちゃいけない!」
子供が構える棒きれはぶるぶると震え、彼が今も逃げ出したい程の恐怖と戦っているのは明白だ。彼と同じ行動に出た他の子供達もそれは同じだ。だからこそ、ザンダルザには愉快で堪らない。
「“誰か”ならお前さん達でなければならん理由もなかろう? それこそお前らがわざわざ税を払っておる帝国の連中が、責任を果たす為にお前さんらを助けに来るのを待っておればよい。それとて奴らがわしらに勝てればの話じゃがな」
「“誰か”で良いなら、それがおれ達だって構わないだろ! うわあああ!」
子供に一歩を踏み出させたのはこれ以上は耐えきれないと叫んだ恐怖か、それともそれを上回る勇気か。それは、子供自身にも分からなかったろう。
思い切り走り出した子供に続いて、同じように棒きれを持って飛び出た子もザンダルザに棒きれを振り上げ、女の子は手の中に持っていた石を再びザンダルザの顔を狙って投げつける。
彼らの行動を見守っていた村人達は、次の瞬間には血の海に沈む子供らの姿を想像し、絶望と恐怖に嘆いた。そうしてもおかしくない相手であったし、そうされてもおかしくない行為であった。
しかし、彼らの思い描いた正確極まりない筈の未来は、大いに裏切られるものとなる。
先頭を走った子供の振りかぶった棒きれは、ザンダルザの左太ももに叩きつけられ、続いた子供の棒きれはその反対側を確かに叩いていた。
女の子の投げた石は狙い通りにザンダルザの真ん中の頭の額に当たり、余りの皮膚の固さに逆に砕けてしまった。
「ふふふ、坊主共、よう振れておるが、まともな師を持て。真面目にやればいっぱしの戦士位にはなれる。勇者になれるかどうかは、ま、運に恵まれるかどうか次第。
そこの女童、お前さん達の中ではお前が一番、目がある。その年でここまで上手く投げられるのなら、一つ、投擲を武器にしてみるのもよい。
お前達が我らムンドゥス・カーヌスの兵となるか、それとも敵する者となるかは自由、好きと勝手というものだが、このわしに恐れを抱きながらも打ちかかる蛮勇は見事」
もちろん、痛みなど欠片も感じていないザンダルザだが、何を考えてかひょいっとその場を跳躍し、傍らに遭った家屋の屋根に飛び移る。茫然とする子供らを心の底から楽しげに見つめ、破顔する。
束の間、子供らの胸の内から闘志と恐怖を忘れさせた、好々爺然としたまろやかな笑みであった。
「お前さんらの勇気と手痛い攻撃に免じて、いや、参ってしまったのでな。今日のところはこれで退散よ。土と格闘して生涯を過ごすもよし。このザンダルザに一撃を入れたと誇り、戦士になるもよし。いずれにせよ、健やかに生きるがいい、見事なチビ共!!」
ザンダルザは天をも轟かせるような笑い声を発し、そのまま家の屋根を蹴り、子供達の視界から一瞬で消えさる。ただ一度の跳躍で、転移魔法かと誤認しそうな速さで動いたのだと分かる者は、サージ村にはいない。
ザンダルザが刺客の一つでもいないものかと外をほっつき歩いていたのは、ガリリウスと共同で近く行う予定の大戦闘に備え、ちょっとした準備運動のつもりだったのである。
ただの無駄足に終わるかと思った矢先、思わぬ愉快な『戦い』があり、ザンダルザは非常に機嫌が良かった。
「かっかっか、いやいや、下手な暗殺者なんぞよりも愉快な『敵』であった者よ。ああいうのが世に居る限り、心躍る闘争には困るまいて。はーはっはっはっは!!」
ライノスアート大公がザンダルザに、アステリア皇女がガリリウスに襲撃を受けるのは、ザンダルザの士気を高めに高めたこの一事の二日後である。
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第二百九十九話
ガリリウスとザンダルザ率いる魔王軍を相手に、ライノスアートとアステリアらは秘密裏に使者を交わして、魔王軍を撃退するまでの間に限り、停戦とする事を取りきめていた。
これには北からやってきた魔王軍が、未知の要素の大きな脅威であるのに加えて、この混乱に乗じて再び動き出そうとする南方の反乱諸勢力への対応を迫られたからである。
これまで最大の敵はお互いだったライノスアートとアステリアだが、両者が共倒れになってロマル帝国でもない者らに帝国の大地を支配されるのだけは許容できないという点で――アステリアはその限りではないが――意見が合致し、停戦が実現されている。
グワンダンらがバロルディでアステリアらと接触した頃には、既に停戦条約は効力を発揮しており、帝国軍同士の戦闘は不幸な行き違い等の例を除けば発生していない。
一時、ライノスアートとアステリアの判断に不服を覚えていた帝国貴族や軍人達も、実際に魔王軍と対峙し、技術で勝り、一個の生物としての能力で勝る彼らと戦えば、これは同じ国の人間同士で争っている場合ではないと、顔を青ざめさせた。
魔王軍との戦端が開かれてから程なく、ザンダルザの娘マルザミスを相手に、十二翼将二名が魔法による支援あっての状態でようやく互角に戦えたという事態は、更にそれに輪をかけるものであったのは言うまでもない。
不幸中の幸いだったのは、伝聞と密偵から伝えられた魔王軍のあまりの精強さに、ロマル帝国が倒れれば次は自分達が戦わなければならないと、反乱諸勢力が二の足を踏んでいる事だった。
後にアムリアが八千代達に語ったところによれば、ライノスアートとアステリアが共謀して、魔王軍の強大なるその戦闘能力を包み隠さず反乱勢力側に流出させたのだという。
反乱を起こした勢力はその総数で見れば、ライノスアート派やアステリア派の帝国軍にも匹敵する戦力を保有するが、内実は一枚岩ではなく様々な思惑と思想の入り混じる玉石混交状態にある。
彼らがどれだけ漁夫の利を狙おうとも、種族や思想の壁を越えた統率力を有する指導者が現れない限り、アステリア達にとっては御しやすい相手に過ぎないのかもしれない。
かような事情により、アステリアとライノスアートらは当面の間、北からの魔王軍への侵攻へ注力すればよい状態を作り上げるのに成功している。東のアークレスト王国への警戒は、依然、継続中であるが。
アークレスト王国もまた魔王軍と戦争状態に陥っているのが、せめてもの救いであろうか。
いずれにせよライノスアートにとっては、魔王軍の襲来はロマル帝国の内乱を終息させるのに、大きな障害物となったのは間違いない。
以前よりもさらに増してきた仕事が齎す疲労を全身に感じながら、その日、ライノスアートは帝都ロンマルディアの宮殿内に用意させた執務室で仕事に邁進していた。
室内には何時もの如く千里時空眼アイザが一人いるきりで、政務の補佐を担当する者はおらず、護衛も部屋の外に控えている近衛兵だけだ。
「アステリアの動きが妙に温いが……妹と接触したのか?」
ライノスアートは姪が面の皮だけは良いのをよく理解していた。
心優しく聡明な皇女のふりをして、その中身がライノスアートも背筋に冷たいものを覚える策略家であるのを知っているし、人種も民族も種族も思想も問わず、誰も彼もを等しく価値がないと見ている冷血女である事も。
それでもライノスアートはまだアステリアが皇帝の座を狙っていると考えており、まさか双子の妹と自分をすり替えて、皇帝の座を譲る事に目的を変えている等と分かろう筈もない。
「魔王軍への対応はこちらの十二翼将を総動員する他あるまい。反乱軍共はその他の戦力で叩くか。アステリアについてはアムリアの動向共々監視を続行する他ないな。どうにも手詰まりだな。状況を変える一手か戦力が欲しいが……」
各地から収集した情報の整理を行うも、自軍の難しい展望に眉根を寄せるライノスアートの耳に、執務室の扉を規則正しくノックする音が届く。来客の予定はなかったが、何か新しい情報の連絡だろうか?
「大公閣下、ハウルゼン大将軍がお出でです」
近衛兵の告げた名は、ライノスアートにとって意外な人物の名前だった。帝都と皇帝の守護のみを目的とする赤鎧の将軍が、自らライノスアートの元を訪れる等、滅多にない。
ライノスアートは意外な気持ちを抱きながら入室の許可を伝え、音一つ立てずに入ってきたハウルゼンを見て、いつものように赤いカブトムシだな、と感想を一つ。
決して口にはしないが、ハウルゼンの姿を見て二本脚の赤いカブトムシのようだ、と感想を抱くのはライノスアートばかりではないだろう。
「大公、御多忙中、失礼する」
感情の揺らぎを含まぬ声にはさほどの敬意はない。ライノスアートの記憶に在る限り、皇帝であった兄や更にその前の皇帝であった父や祖父を相手でも、ハウルゼンの声には敬意は含まれていなかったし、その逆に嘲りや侮りも含まれていた事はない。
「貴公にとってはロマル皇帝すら本当は価値がないのかもしれんな」
思わず零れたライノスアートの言葉を、ハウルゼンは聞かなかった事にしたらしい。構わずに足を進めて、ライノスアートと机を挟んで正面から相対する。ライノスアート派最強の個体戦力の一人と目される男(?)は、一度だけアイザに視線を送った。
「アイザ将軍は眠っているのか」
ハウルゼンが入室してからも、アイザは一言も発していなかったが、どうやらソファにちょこんと腰かけたまま眠ってしまっているらしい。
「アイザの千里時空眼は便利だが、行使するのに何の不利益があるわけでもない。内紛が勃発して以降、アレには負担を掛けている。多少の不作法は許すべきだろう。私が許しているのだから、貴公は何も言うな」
「ならば寝室できちんと眠らせるべきとも思うが、千里眼が意図せず視た情報を即座に伝える必要性もあるか。なれば私は何も言うまい」
「貴公が私に忠誠を誓っていないのは承知の上だが、そうしたまえ」
帝国にも皇室にも誓ってはいないのだろう、とまでは口にしない理性がライノスアートにはあった。
「私“達”の索敵範囲に侵入者を探知。数は七。いずれも高位魔族と推定される。当方に迎撃の用意あり。帝都郊外にて迎撃行動の許可を」
「なに? 魔王軍との戦線は帝都のはるか北だぞ」
「転移魔法の使用痕跡はない。飛行魔法と地上走行の併用による強行軍と思われる。一般の兵では時間稼ぎにもならん。十二翼将級の戦力の投入が賢明である」
「常識手に考えるなら、狙いは私の首か? 軍神の末裔なら戦争そのものをもっと楽しむかと思っていたが……」
流石に険しい色を顔に浮かべるライノスアートだったが、それもすぐに捨て去って腹立たしげに背もたれに体重を預ける。
「可能性が最も高いのは大公の生命である。アイザ将軍を起こし、近衛兵と共に城内の地下へ避難されたし。第七封鎖区画への立ち入りを特例として許可する」
形式上、ライノスアートがハウルゼンの主君となっているが、この会話に於いてはハウルゼンの方こそがライノスアートに許可を下す立場になっている。帝国臣民の誰もが疑っていたように、このハウルゼンこそがロマル帝国の真の支配者なのか?
「今回のような特例を除き、平時では皇帝だけが足を踏み入れられる封鎖区画か。今回のような状況ではなく、皇帝となってから堂々と立ち入りたかったものだがな、ふん」
「封鎖している区画に愉快なものはないぞ」
「愉快かそうでないかは私の決める事だ。ハウルゼン、ロマル皇帝代行者として帝都郊外での迎撃戦闘を許可する。帝都に敵の侵入を許すな、臣民に被害を出してはならん、必ずや勝て。以上を貴公への命令とする」
「困難な命令を出すものだ。だが命令は了承した。これより迎撃行動へ移行する」
ハウルゼンの赤い兜の奥で、兜同様赤い瞳が鮮やかな輝きを発した。
*
西の大地の彼方へと太陽が沈み始める頃に、ハウルゼン率いる近衛隊は侵入者迎撃の為に帝都郊外の遥か上空に展開していた。
ハウルゼンと同じように全身を鎧兜で覆い尽くし、素肌をわずかも露出していないこの部隊もまたハウルゼン同様に、その中身は人間ではないのでは、と噂されている。
近衛兵達はハウルゼンの兜から角を外し、鎧の色を赤から緑へと変えた以外にこれといった差異はない。
夕暮れと夜の闇が溶け合い、わずかな時間だけ世界が紫がかった色合いに染まる中、赤色と緑色の鎧姿の兵士達は、一人の例外もなく侵入者の迫りくる方向へと視線を集中している。
彼らの手に武器らしきものは握られていないが、分厚い金属の籠手に包まれた拳ならばそのまま十分な武器になるだろうが……
ハウルゼンを含めた五名の近衛隊は、常人の視界ではまだ映す事も出来ない彼方に居る侵入者達の姿を捕捉し、何時でも戦端を開く用意を終えている。
彼らがまだ戦いを始めていないのは、目下、彼らの守護の対象となっているライノスアートが封鎖区画へと避難するのを待っているからだ。そして、それは、たった今終わった。
「迎撃行動に移る。距離一七〇〇より兵装の使用を解禁。使用兵装は有人惑星大気圏内に固定」
空に羽ばたく翼もないままに飛翔したハウルゼン達は、高位の飛翔魔法にも匹敵する超音速で帝都の空を切り裂く弾丸と化した。
アイザの千里眼が機能していなくとも、戦時となれば帝都の周囲には騎兵達による隙のない警戒網と複数の魔法使いの探知魔法や使い魔との感覚共有、精霊使い達による精霊との知覚共有により最大限の警戒がなされているのは言うまでもない。
占星術を始めとした各種占いによる未来予測により、近い未来の時間軸で発生する危難にも備えているのだが、今回の侵入者はそれらの警戒のほとんど全てをくぐり抜け、最後の警戒網であるハウルゼンによって、ようやく捕捉されている。
それだけでも尋常ならざる強敵であるのは間違いなく、ハウルゼンはガリオールらを相手に終始優位に戦ったあの魔族以上の強者が侵入者であると結論付けている。
「暗黒の荒野の魔族。先祖返りによって亜神の位に到った変異体であるか?」
不意にハウルゼンが頭上を見上げて空に問いかけた。夕闇の向こうに星の輝きが煌めく空は答えず、代わりに姿の見えない老人の声が答えたひどく楽しげだ。
「変異体とは心外な。ただ長生きしただけの爺よ」
まるで月の光が滝のように流れ落ちてくるようだった。
空中で停止したハウルゼン達の前方、人間が芥子粒に見える距離に集まる月光の粒子は五つの人型を作り上げた。
いや、腕や頭の数、獅子を思わせる下半身を持つなど純人間種とはかけ離れた姿形ばかりが出来上がる。
悪戯の成功した子どものような笑みを三つの頭に浮かべたザンダルザを筆頭に、ロマル帝国の支配者の片割れの顔を見に行くお遊びに付き合わされた実力者達である。
マルザミスも本来ならこの一行に加わるだけの実力を持つが、虫に食われた霊魂の傷がまだ癒えておらず、参加を見送られている。
「暗黒の荒野の覇権争いにはもう飽いたか。軍神の古き末裔」
「ほう、そこまでわしらの事を分かっているのか。ふむ、その装い、その知識、ははは、なんだ、お前さんか? 大公とやらにちょっかいを掛けるまでは引っ込んでくるかと思うておったが、思ったよりも早く出て来たもんじゃわい」
ざり、と音を立ててザンダルザは顎を撫でる。ハウルゼンの存在は彼にとって想定した範囲だが、この邂逅の早さは嬉しい誤算であったようだ。
「ふぅん、ふぅん、ふふ、十二翼将とやらが思いの外やりおるでのさてと思うたが……ここまで来て出て来たのがお主だけであるのならば、ははぁん、初代皇帝の契約者は皇女についたか。お主は守護者の方じゃな。人間ではなし、なれば間違いなかろう」
ザンダルザの言葉はライノスアートやアステリアであっても大小の差異はあれど、驚きを禁じ得ないものだったろう。
ザンダルザの口にした契約者と守護者という単語は、ロマル皇室においては極めて大きな意味を持つ。
これまで暗黒の荒野のみを活動範囲としてきた魔王軍――ムンドゥス・カーヌスが、そこまでロマル帝国の秘事を知っているのか、驚くのは道理だ。ただ、驚くだけで終わらないのが、ライノスアートとアステリアであるが。
「流石の知見だ。古く強き魔族よ。天人との戦争では祖神に与えられた城に籠り、苦杯を舐めさせられた世代とは異なる振る舞いをするものだ」
「くく、まあ、なんだ。祖神に恥じ入る怯懦な振る舞いと思う者もおるが、籠城戦は立派な戦というのがわしの持論でな。天人は滅びたが、我ら魔族は今に到るまで生きておる。
滅びたものを敗者と呼び、滅ばなかったものを勝者と呼ぶ方が道理に叶うのではないかな? ちなみに、お前さんは籠城戦に参加した口か? そうであるのなら、まあ、わしとしても過去の屈辱を払うと少しは意気込むのだが?」
「生憎と魔族との戦争期、私はまだ製造されていなかった」
「なんじゃ、それは残念。しかし、よくも現代に到るまで稼働し続けておったものよ。遺跡の奥底で眠っておるのならともかく、お前さんの場合は連続して稼働し続けておるのだろう。不具合の一つでも出ておかしくなかろうに」
呆れと感嘆が絶妙に配合された感想を零すザンダルザに、ハウルゼンは奇妙な人間味を交えた声で答える。奇妙に律義な二人のやり取りだが、ザンダルザに同道している魔族達も、ハウルゼンに従う近衛兵達も、誰も異論を挟まないのもまた奇妙ではある。
「稼働しているのは私だけではないのでな」
「ふぅん、そうであるのなら、帝都攻めはちと迂闊だったか。ま、構うまい。お前さんがわざわざこうして出向いてきたのじゃ。少しは爺の悪戯に付き合ってくれるのじゃろうなあ」
「私は私の役目を果たす。役割が終わりを迎えるまで。契約が破棄されるまで。……そして貴殿の迎撃は我が役目の内」
「そうでなくてはな! おう、お主ら、思うたよりも厄介そうな手合いじゃ。死なん事を第一に戦え。わしの援護なぞ考えんでよろしい!!」
「迎撃行動を開始する!」
律儀な二人のやり取りから一転、両者の戦意はそれまでの会話が遠回しな前不利であったかのように高まり、帝都上空には他の生物の侵入を許さない闘気渦巻く戦場へと早変わりする。
夕暮れから夜の闇へと変わる黄昏時、あるいは逢魔が時。東にある島国ではそう例えられる時刻に、人間ならざる帝国の守護者と軍神の末裔たる老魔族は戦意の火花を散らして夕闇に彩りを加えた。
「まずは遊びの一手からじゃ。ほれほれほれ!」
ザンダルザの六本の腕がハウルゼンへと付きつけられ、開かれた掌には彼の魔力が赤黒い光となって集約し、赤黒い光の槍となって放出される。
魔法ではない。魔法としての体裁を整えていない生のままの魔力を、精妙な操作によってそのまま掌に集めて放出しただけの行為だ。下位の魔法にすら該当しない原始的な魔力の行使も、ザンダルザ級の個体が行えば上位の攻撃魔法にも等しくなる。
「敵個体ザンダルザの魔力出力七メガマギト。対魔法障壁、通常稼働にて対処」
自らに迫りくる魔力の槍に、ハウルゼンはこれといった防御の動きや回避する様子を見せずにそのまま突進した。変化があったとするならば、彼の体内で発せられる硝子に爪を立てるような音が、わずかに高くなった事だろうか。
光に準じる速さで投擲された魔力の槍は、ハウルゼンの鎧に命中するその手前で彼を半球に覆うような形で砕けるとたちまち霧散して、はるか後方へと流れて行った。
「硬い守りじゃな。術式を編まねば守りを抜けそうにないの」
ザンダルザの放つ六本の魔力の槍を皮切りに、他の魔族達は四方に散り、それを追って近衛兵達も散開している。
これまで無手であった近衛兵達はそれぞれに銃らしき筒状の物体や常人には扱えない大きさの大剣、槍、細長い板のような物体を携行し、迎撃行動へと移っている。
「踊れ踊れ、火よ、踊れ、お前が踊れば世界が燃える。燃えて燃えて、全てを灰にしてしまえ!」
ザンダルザの六本の腕がそれぞれ奇怪な動きを見せ、三十本の手の指もまた不可思議な形に組み合わされる。
ハウルゼンはこれを魔法ではないと判断した。自らの神通力による物理・魔法の法則への介入である。
六本の腕の先で赤く光る文字のようなものが浮かび上がるのと同時に、ザンダルザとハウルゼンの間に巨大な
ザンダルザの神通力によって生み出された炎の塊は、ゆらゆらと波にたゆたう海月の如く浮かんでいたが、ハウルゼンがこれを回避すべく上方に軌道を修正する動きを見せた途端、血の臭いを嗅ぎつけた鮫の如く俊敏に彼へと襲い掛かる――躍りかかった。
炎の海月が周囲へ放出する熱量は一切なく、その癖、ハウルゼンは海月の内部に蓄えられた熱量が周囲の地形を一変させ、一時的にせよ気候を変える程のものだと見抜いている。
「久方ぶりの戦闘の相手にしては強敵だが、暖機は終わっている。支障はない」
ハウルゼンの鎧の背中の一部が開き、わずかに覗く内部から青い水晶を思わせる突起物が六つ迫り出た。
鎧内部の唸り声にも似た音がさらに激しくなるや、青い水晶から同じ色の無数の光線が蜘蛛の巣のように周囲へと発射されると空中で幾度も折れ曲がりながら、炎の海月達へと次々突き刺さってゆく。
青い糸で織られた蜘蛛の巣に絡め取られた炎の海月達という奇怪な光景は、次の瞬間にはザンダルザの投じた第二手によって呆気なく引き裂かれた。
「魔力を伴わぬ攻撃となれば科学の方か。今時は珍しいが遺産ならばおかしくはないわな!」
先程の遊びとして放った魔力の槍など比較にならぬ、高密度の魔力が複雑に編み込まれ、明確な思想を持って設計された高度な魔力攻撃。
天に角突く巨人が振るえば山をも崩しそうな巨大な魔力の『棍』が、ザンダルザの左三本の腕に支えられて、恐るべき速さで振るわれたのだ。
一振りで大気とそこに満ちる魔力をかき乱し、落陽の光も星々の強まり始めた輝きさえも砕かんばかりの一撃に、青い光の乱舞も炎の海月も呆気なく砕かれて消える。
その勢いのまま自分を砕こうとする巨大な魔力棍に、ハウルゼンはマントを大きく払って右腕を振り上げる。
赤い甲冑に包まれている右腕にいくつもの白い光の線が走ると、甲冑がその線に沿って分解されて空中に浮かびあがり、瞬く間もなく右腕を軸に回転すると物理法則を無視するかのように巨大化して、再び右腕を構築し直す。
魔法の中には使用者を巨人化させるものがあるが、ハウルゼンのソレは魔法とは異なる技術によって行われた『武装』の換装であった。
「バニッシュパイル!!」
巨大化した右腕の名前と共にハウルゼンの何倍もの大きさの拳が魔力棍と正面から激突し、その余波は夕闇の空に掛る雲を吹き飛ばし、大地にもまた危機がへし折れて地面が津波のように揺れる衝撃を齎す。
ハウルゼンの拳と激突した個所から瞬く間に罅が入り、無残にも砕かれる魔力棍の光を赤い顔に浴びながら、ザンダルザは嬉々として笑う。
「これは珍味にして妙味よ。先日のチビ共といい、この国は本当に愉快痛快、楽しい場所だわい!」
そうのたまうザンダルザの前で、ハウルゼンの左腕は無数の銃身を束ねた回転式連発銃へと変わり、背中には左右に三つの砲身がずらりと並んで、ハリネズミの如き武装へと変わっていた。
「排除対象の推定戦力暫定算出終了。選択武装を更新。地形を変えぬ程度に貴公を排除するとしよう」
ハウルゼンとザンダルザの戦いは徐々に徐々に、熱を帯び始めていた。
そして、同時刻――ヴァスタージ丘陵……
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第三百話
帝都にてロマル帝国十二翼将ハウルゼンと魔王軍魔六将ザンダルザ達が、夜空の一角を激しい閃光と爆炎で彩るよりも半日近く前にまで時間は遡る。
アステリア一行は慰問の予定をつつがなく終えて、第八軍団の健闘を祈りながら帰還の途へと就く予定であった。
その予定が変わったのは、前日の夕刻、偵察兵達が魔王軍に動きありと報告した為である。ここ数日は動きを潜めていた魔王軍が、再び大攻勢に出る動きを見せた以上、アステリアは安全の為に早急に帰還しなければならない。
魔王軍がアステリアの来訪を知っていた、という可能性から内通者の可能性に到るまで、様々な憶測が軍団の上層部で流れたが、皇族専用の飛行戦艦ラスロマルと随伴艦に飛竜騎士団まで来訪しているのだから、ロマル帝国でも上位の人物が来た事は明白。
アステリアと知った上で魔王軍が動いたとは考えにくく、内通者の線はないと彼らは判断した。
帰還途上での襲撃の可能性も低い事から、ラスロマルは何時でも出立できるよう手配が進められていたのだが、第八軍団の上層部の心の内に生じたある欲が、待ったをかけようとした。
これまで魔王軍の侵攻をかろうじてヴァスタージ丘陵で留めるに成功していた彼らが、ロマル帝国の次代の支配者であるアステリアの前で武功を上げたい、と大なり小なり考えたのだ。
主君の前で武功を上げて目に留まる、と考える事自体は批難される程ではあるまい。主君の安全よりも自分達の武功を優先し、欲に目をくらませた進言をしてしまったなら、それは擁護の言葉もないが。
そして曲がりなりにも一つの軍団を預かるマグヌスルフ侯爵らは、臣下としてあるまじき不埒な考えを抱いた自分を恥じ、アステリアに留まってもらい、戦勝を捧げたい、という言葉を、あくまで胸の内にのみ留めようと『した』。
彼らの胸の内を透かし見て、背を押したのは誰あろう他ならぬアステリアである。
彼女は理想の皇女像を演じて、自ら戦場に留まり、命がけで戦う帝国臣民の勇姿をこの眼に焼きつけたい、皇女である自分がこの場に残れば諸兵の士気を上げられると告げて、制止するマグヌスルフやカイルスらの意見を振りきって、残留を決定したのだった。
心のどこかで望んでいた言葉をアステリアが口にしてくれた事で、マグヌスルフ達は我が意を得たりと喜び、嬉々として兵士達に指示を飛ばすべく急いで動き出した。
そして戦闘がはじまり出した頃、アステリアの姿は座乗艦ラスロマル内部の居室にあった。室内にはアステリア、カイルス、アムリアとグワンダン一行と事情を知っている侍従以外に姿はない。防諜に対する万全の備えは言うまでもないだろう
アステリアは形ばかりの笑みを浮かべながら、自分が残ると告げた時のマグヌスルフ達の様子を思い出して感想を口にした。
「皆さん、私がそう言うのなら仕方ない、と嬉しそうな顔をしていましたね」
普段の豪奢なドレス姿から万が一を考えて、動きやすさを考慮したズボン姿のアステリアに、別人に見えるよう幻術を掛けたままのアムリアが呆れを隠さない視線を向ける。
「そのように誘導なさった方の言葉にしては、随分と楽しげですね。不謹慎です。不謹慎」
「あらあら、アムリアに叱られてしまいました。それにしてもアムリア、嘘はいけませんよ。私が楽しげですって? 楽しい等と欠片も感じていないと分かっているでしょうに。
ええ、考えた通りの流れになってはいますけれど、私は楽しみなど感じていません。誰かの考えや行動を私の考えの通りに動かすのは、あまりに簡単過ぎて、驚きも何もありませんから、楽しくありませんよ。というよりも、これまで一度として楽しいと感じた事などありません」
「分かっています。どうにか姉上に一言申し上げられないものかと、いささか卑怯な真似を致しました。御無礼をお許しください」
「ええ、許します。私と貴女の仲ですから」
残念ながらこの場に、二人の会話を生き別れになった姉妹が離れた距離を埋めようとしている不器用なやり取り、と微笑ましく思う者はいなかった。
アムリアはまだしもアステリアにそのような血の通った考えは欠片もないと、全員が知り尽くしているからだ。
ただ、アムリアが最近になって時と場所を選んだ上ではあるが、アステリアに遠慮の無い言葉を口にするようになってきているから、こういった姉妹のやり取りにまったく意味がないわけでもないのだろう、多分――と、グワンダン達は考えている。
姉妹のやり取りに口を挟んだのは、護衛の女騎士に扮した八千代である。犬人の特徴である犬耳と尻尾を幻術で隠し、顔立ちもロマル民族風に見えている。これは風香も同じだ。
着こんでいるミスリルの軽鎧と腰の長剣は借り物だが、八千代が家から持ち出した刀や胴丸よりも数段質は上で、八千代としてはどうにかしてこのまま貰えないかな、と考えていたりする。
「ご無礼、前線から離れているとはいえ戦場に身を置く決断をなされたのに、兵士達の士気を高めるのと将軍達の忠誠心を高める以外に、何か狙いがおありでありましょうや。
いと貴き御身の考えは、あまりにも巡りが速く某には到底理解が追い付きませぬ。恐れながら、愚かな某にお教えいただけませぬでしょうか」
グワンダンの加減を忘れた訓練を受けて以来、一度、地獄を見た経験から八千代と風香には一種の凄みが備わっていた。幼児退行してアムリアにたっぷりと甘えた後、正気に戻った二人には、達人と呼ばれる人々の持つ佇まいが感じられるようになっていたのである。
だからこそ、アムリアとアステリアの会話の間に問いを挟んだのは、これまでのような怖いもの知らずの天然さからではなく、カイルスからどのような視線を向けられようと、確認しなければならないと覚悟を決めた上での発言なのだった。
そして『カイルスから視線を向けられる』という点からも、八千代の成長が見て取れる。
これまでカイルスにとって八千代と風香は生まれたての子犬と子狐程度の脅威であったが、今は一挙手一投足に注意を払われているのだから。
「うふふ、お犬さん、もっとはっきりと問いかけてくださってもよろしいのよ? わざわざ戦場に残ったのは、敢えて私達を襲撃させて私とアムリアを入れ替えようとしているのでは、と危惧しているのでしょう?」
八千代と風香の危惧しているのは、まさにこの通りであった。もしやこの場でわざと敵襲を受けて、その混乱に乗じてアムリアとの入れ替わりを実行するのではないか?
この入れ替わりの時期についてはいまだアステリアから伝えられてはおらず、アムリアも正確には読み切れていない為、最も気掛かりなものとなっていた。
「確かに戦闘の混乱に紛れれば入れ替わりはしやすいでしょうけれど、ここではあまりに場が相応しくありません。それに状況もまだまだ整ってはいません。
叔父様も反乱を起こされた方々もまだまだ健在ですし、アムリアに任せる時はもっと状況を整理しておきますわ」
「この場で嘘を言われる御方ではございませぬな。お答えくださり、感謝いたします」
「いいえ、疑わしい事は遠慮なさらずにお尋ねになって。ええ、私は決してアムリアの敵のつもりはないのですけれど、それは私からすればの話。私よりも長くこの子の傍にいた貴女達からしてみれば、許せない所業もきっとあるでしょうから」
それは今後、自分がそうする、とアステリアが宣言したのも同然の言葉で、八千代と風香はだから信用できないのだ、と苦虫を噛み潰した顔になる。
リネット達メイド三姉妹はそこまで気に止めた様子はなく、兜で顔を隠しているグワンダンは面頬の奥の瞳で、沈黙と共に観察を続けている。
「さて、カイルス。そろそろ軍団長達のところへ、手筈通りに」
「はい。では、妹君、客人がた、これにて失礼」
前線を押し上げた魔王軍――ガリリウス配下のゴブリン軍との戦闘は既に発生しており、砲火と刀槍を交わし合って相当数の死傷者が発生している。
カイルス配下の竜騎士達もまたアステリアの残留に伴い、第八軍団からは独立した指揮系統の元、ゴブリン軍を相手に制空権を手中に収めるべく他の航空戦力と連携して戦闘中だ。
ロマル帝国最強の竜騎士であるカイルスの出陣に関しては、アステリアの護衛という何を置いても優先されるべき役目があるのだが、そのアステリアが出陣を命じれば話は別だ。
カイルスが席を外したのは、出陣する前の下準備と配下達への命令の他、第八軍団の司令部に顔を出して、アステリアの指示を自分からの進言として偽り、伝える為だ。
アムリアはカイルスが司令部で何をするのかを察して、義兄と呼ぶ未来があったかもしれない男の背を視線で少しだけ追った。
「姉上の言葉として伝えるよりも十二翼将であるカイルス様からの言葉とすれば、将軍の皆様も受け入れやすいでしょう。それでも横やりには変わりありませんから、マグヌスルフ侯爵達からすれば愉快な話ではありませんね」
「ええ、そういう事です。私は軍事の専門家ではありませんが、計算を重ねれば推測はできます。今のところ、九割九分は当たっているのですよ」
二人の会話の流れが今一つ読み切れず、風香はこっそりとメイド姿のガンデウスに話しかけた。生きた時間では風香よりも遥かに短いガンデウスだが、察しの良さと頭の回転の速さに関しては風香を大分上回る。
「つまり、どういう事でござる?」
「つまり、アステリア様が間接的に軍勢の指揮に介入されるのでしょう。しかし、指示を直接伝えては第八軍団の面子が潰れてしまいますし、心情的にも受け入れられません。
それを考慮してアステリア様ではなく歴戦の勇士にして、次代皇帝の夫となるだろうカイルス様が助言する形にすれば、まだ受け入れやすいという話ですね」
「なるほど~」
ようやく納得した風香はふんふんと幻術で隠した尻尾をゆっくりと揺らす。ガンデウスは冷厳な表情を維持したまま、幻術越しに風香の尻尾を瞳で追う。
ガンデウスとしては、風香や八千代と一夜位は仲良くしたいものだと常日頃思っていたりする。その邪な感情が零れ出たのか、左隣に控えていたキルリンネに誰にも見えないところで尻を抓られてしまった。
以前は叩かれたり、抓られたりするのを気持ちよく感じていたガンデウスだが、キルリンネが痛みだけを与える力加減を覚えてしまった為、最近ではただ痛いだけでまったく面白くなかった。
――キルリンネ、もっと痛くしてもよいのですよ?
――おい、いい加減にしろ。
視線と視線で意思を交わし合う姉妹だったが、キルリンネの方は普段の緩い雰囲気はどこへやら。視線に込められた意識は極めて真剣だった。これには流石のガンデウスも反省の色を見せて、どことなくしょんぼりとした雰囲気で視線を伏せる。
姉妹間の力関係が徐々に固まりつつある昨今であった。
*
夜明け前から動きだした魔王軍を相手に、ロマル帝国第八軍団の兵士達はこれまで以上の善戦を見せていた。
彼らからしてみれば聡明にして偉大なる次代のロマル皇帝アステリアが、自分達の勇姿を見届けようと危険を冒してまでこの地に残った事と、慰問の際に見せた慈愛に満ち溢れた姿が彼らの胸を打って、その士気をこれ以上なく高めている。
また、これまで装備と種としての身体能力の差からどうしても戦場の主導権を握られていたが、今日に限ってはまるで魔王軍の行動の全てが予め分かっているかのように、下される指示の全てが恐ろしい程上手く嵌っている。
指示を出された直後は意図不明なものも、戦場で時間が経過するにつれて悪手が妙手であったと分かる状況が出来上がり、第八軍団は攻め寄せる魔王軍を悉く撃退する戦果をあげている。
一夜で組み上げられるように用意された簡易砦を用いた司令部の中で、マグヌスルフを始めとした軍団上層部は次々と届けられる報告に、顔色を明るいものへと変えている。
大砲一つを取っても射程、砲撃速度、威力とどれも魔王軍のものに劣っているなど、どうしても苦戦を強いられてきたが、今日は『カイルスの助力と進言を受け入れている』お陰もあって、こちらが優勢と分かる報告ばかりが届いているのだ。
「よし、よし。これならば魔王軍のゴブリン共とて前線を突破は出来まい」
如何に十二翼将とはいえ、カイルスからの進言を聞き入れるのには若干の抵抗があったのは否めない。
また、進言の中には『一時間後にこの位置に砲撃を』というものや『二十分後にこの部隊を南西方面へ移動させた方がよい』など、意味が分からず首を傾げる内容が含まれていたが、それも敵部隊の移動に合わせて最適な砲撃を加えられる位置への移動や、敵の迂回を阻止するものであったりと、大きな結果へと繋がるものばかりだった。
まるで未来を見通しているかのような采配ぶりに、マグヌスルフは年若い竜騎士へ偽りのない畏敬の念を抱くまでになっている。
「カイルス殿の竜騎士団ばかりでなくご助言には、大いに助けていただく形になりましたな。魔王軍の者共も今日の我らは一味違うと大いに慌てふためいている事でしょう」
「おれの言葉等、大したものではない。今日に到るまで暗黒の荒野の化け物共を相手に、命がけの献身をなさってきた貴殿らの存在あればこそ。この度の戦いぶりには皇女殿下もお喜びになるだろう」
「おお! カイルス殿にそのように言っていただけるのなら、このマグヌスルフのみならずロマル帝国第八軍団全将兵にとって何よりのお褒めの言葉となりましょう」
心底嬉しそうに笑うマグヌスルフや司令部内の将兵達の笑顔は、実直なカイルスにとっては居心地の悪さを感じずにはいられないものだった。
第八軍団の奮戦をアステリアが喜ぶのは表面上だけだと知り尽くしているし、その一方で双子の妹君の方はこの戦いで傷つく兵士達を想って悲しむのも間違いない。ともすれば敵方のゴブリン達の死に対しても、悼むかもしれない。
カイルスのアステリアに対する愛情に偽りはないが、それにしてもよくもまあ同じ母親からほぼ同時に産まれた姉妹にしては性格が違いすぎやしないだろうかと、ついつい思ってしまう。
――しかし、アムリア殿もアステリアと同じ指示に到っていたとなると、アステリアもそろそろ見極めを終える頃合いになる。アムリア殿にとってもっとも苦しくなるのは、これからだ。
ことアステリアの心情を読み取る事にかけては、アムリアよりもカイルスに一日の長がある。カイルスの見立て通りにアステリアからアムリアへの試験期間は終わりに近い段階に到っている。
次は皇帝の座へと据える為の舞台を整える段階だ。ライノスアート大公派の帝国軍を叩き潰し、南部の反乱諸勢力を壊滅させ、アムリアを皇帝とした新生ロマル帝国を作り上げなければならない。
アステリアがアムリアと入れ替わった後は何もしない、あるいは負債を押し付けるのでは、と八千代やガンデウス達が危惧しているのをカイルスは理解している。
だが、それはないとカイルスは断言できる。アステリアがアムリアに入れ替わりを提案する際に、皇帝としてやっていけるよう下準備をすると告げた言葉に嘘はない。
一部を隠した言葉や嘘を吐くのを躊躇しないアステリアだが、あの時のアムリアに向けた言葉に嘘はないと断言できる。
「マグヌスルフ殿」
「おお、なんですかな、カイルス殿」
「そろそろおれも相棒と共に空へ出ようかと。制空権を確保するのにもう一押し必要でしょう。皇女殿下より許しは得ているので、その点は安心を」
「それは心強い! 名高きロマル帝国十二翼将のお力添えがあれば、前線の兵達の士気はますます高まりましょう。何より空の主導権をこちらで握る事が叶えば、戦闘そのものをより優位に運べる」
「その通りです。その代わり、皇女殿下の警備は何を置いても万全にお願いする」
公的には、カイルスはアステリアの最強護衛である。そのカイルスがアステリアの傍を離れる以上、彼の代わりを務められるだけの戦力を用意しなくてはならないのが道理だろう。
力の籠ったカイルスの言葉に、現状で抽出できる戦力を頭の中で考えながら、マグヌスルフは力強く頷き返した。
アステリアに皇帝の座に就いて貰わない事には、自分を始め皇女派に就いた者達には反乱に加担した者として最悪極刑に処せられるかもしれないのだ。本当の勝利の美酒を味わうまで、アステリアに死なれては困るのは、マグヌスルフも同様なのだから。
だが、カイルスが相棒の竜と共に空へ飛び立って然程時間の経たぬ内に、マグヌスルフらの顔色は蒼白へと変わる。
万全の警備を求められたアステリア皇女が、少数のゴブリン達による襲撃を受けたとの知らせが届いたからである。
*
アステリアが座するラスロマルの周囲は、マグヌスルフ達が手配するまでもなく元々同伴していた兵士と騎士達が蟻の通る隙間もないような警備をしている。
アステリアの護衛を務めている以上、彼女の下に就いた者達の中では最高位の実力者達である。そんな彼らの内の一人は、艦から出て来た侍女の姿を見てかすかに眉を顰めた。
短く刈り上げた金の髪と端正な顔立ちと恵まれた体格を持つ近衛騎士の一人だ。彼の緑色の視線の先には、侍女を装ったガンデウスの姿がある。
慰問に際して急遽、ラスロマルの搭乗員に加えられた一行の一人であるガンデウスを――その正体と事情は知らないが――彼は良い目で見ていなかった。
何かしらの事情があるのは察せられるし、自分がそれを教えられる立場にないのも理解しているが、大公派との抗争が激しい昨今に見知らぬ顔が皇女の傍に増えれば良い顔が出来るわけもない。
まだまだ血気盛んな彼のみならず、近衛の騎士や兵士達の若い世代には彼同様の考えを持つ者が少なからずいる。
ロマル帝国式メイド教育を詰め込まれた成果で、音一つなく草を踏んで歩くガンデウスに、彼は声をかけた。侍女一人で艦の外に出る用事などあるのだろうか、と訝しい思いを抱いているのは本当だ。
ラスロマルは非常時には帝国からの脱出艦としての用途もあり、内部には長期間滞在する為の各種の設備と大量の備蓄がある。大抵の事は艦内で済む筈だ。
「そこの侍女よ、如何なる用件で外に出たのかな?」
怪しい相手ではあるがまだ敵対者と判明したわけでもなく、近衛騎士の声音は鉄の棒を綿で包んだようなものだった。場合によってはすぐさま綿を取り外し、鉄の棒で打ちすえる心構えは整っている。
対するガンデウスは能面めいた表情をそのままに声を掛けて来た近衛騎士へ振り返り、すっと右手を上げた。これまで使用してきたボウガンとは異なり、取っ手の着いた黒光りする筒状の物体――天人の遺産である大口径の光線小銃を握る右手を!
近衛騎士が咄嗟に左腰のミスリルの長剣に手を伸ばすのと同時に、ガンデウスの人差し指が引き金を引き、緑色の光線が彼の背後の何もない筈の空間に命中して無数の粒子へと変わる。
思わず振り返る近衛騎士の視線の先で、それまで変わり映えの無かった丘陵の光景の一角が蜃気楼のように揺らぐや、二十名程の武装した集団が姿を見せた。
鈍く輝く銀の甲冑を纏う彼らは、一般的に知られるゴブリンとは大きくかけ離れた姿をしており、成人男性よりも頭三つは大きな巨躯を灰色の肌で覆い、固く結ばれた唇からは太く鋭い牙が覗いている。
ハイゴブリンよりも更に上位の古ゴブリンに連なる、ゴブリン種の精鋭中の精鋭達だ。
追い詰められた状況を打破する為の乾坤一擲の策ならばともかく、たったこれだけの数でアステリアの膝元にまで迫ってきた事実からも、彼らの実力の程が窺い知れる。
隠蔽を暴かれた以上は抑える必要はないと、ゴブリン達から周囲へと圧倒的な重圧と戦意が嵐の如く放たれる。
眼には見えないそれに打たれた近衛騎士は、顔色を蒼白に変えながら長剣を抜いた。歴戦の戦士でも戦意を喪失しかねない状況で、体がそれだけ動いたのは称賛に値する。
「天人のような技術とも既存の魔法とも異なる隠蔽技術。神代の残り香とでも言うべき技術ですね」
ガンデウスが淡々と言葉を紡いだ直後、ラスロマルの甲板上で大きな物体を吹き飛ばす轟音が響き渡り、甲板の外へと叩き出されたゴブリン達の影が宙を舞う。その影達が空中で体制を立て直し、そのまま二本の足で立つのは瞠目に値しよう。
ガンデウスは艦の外で迎え撃ったが、甲板上での迎撃はキルリンネとリネットが担当している。姿と気配、音までも消して接近していたゴブリン部隊は、ガンデウスの目の前の者達以外にも居たらしい。
にわかに警護の騎士達が慌ただしさを増す中、ガンデウスは焦燥の色一つ浮かべないゴブリン達に氷の眼差しを向け、感情の抜け切った声音を発する。
「敵群の霊格を高次存在眷属級と認定。武装選択基準を有人惑星内部における高次存在眷属との交戦状況に設定変更。武装選択……終了。実装開始」
ガンデウスという個人の有する感情をすべて取り払い、人造物の機能としてただ音を発しているだけというべきなのだろう。
現在、ガンデウスとキルリンネの指揮権を保有するドランもといグワンダンの許可を得ている事で、ガンデウスらは普段使用を禁じられている遺失技術による武装が解禁されている。
眼前のゴブリン達は純粋な古ゴブリンのガリリウス程ではないが、ガンデウスの素体としての能力では、現行技術で作られた装備で渡り合える敵ではない。その為に、ガンデウスは躊躇なく平時は秘匿している武装の使用を決断した。
影の中の亜空間に収納されている武装が現実空間へと転移し、ガンデウスの全身を閃光が彩る。武装を展開する刹那の時間を守る為の目くらましを兼ねた光の障壁だ。
発光が止んだ後、ガンデウスの四肢は白と青を組み合わせた装甲に覆われて、首から腹部までも同様の装甲に守られている。頭部には目元を覆う半透明の額当てのある額冠のような装甲がある。
背中には皮膜の無い骨格だけの翼を思わせる部品が二対四枚あるなど、高羅斗の天恵姫を思わせる武装だ。
この瞬間、ガンデウスだけでなくキルリンネも同様に武装を展開し、リネットもまた二人の装備の予備を借り受けていた。
そしてグワンダンは――
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第三百一話
ガリリウスは今でも憶えている。
大魔界にいた時代、軍神サグラバースに仕える戦士として他の邪神や天界の神々と繰り広げた戦いの日々を。戦いの高揚を、恐怖を、歓喜を、苦痛を。
その全てが彼にとっては血肉の一部と化した分かち難い記憶であり、そして未練だった。
戦の日々に疲れた一部の眷属達に従い、彼らと共に地上に出た事を悔いてはいない。
もし過去に戻って同じ決断を迫られたとしても、やはり同じように地上に出る道を選ぶだろう。ガリリウスにとってかけがえの無い戦友や未来を見たいと願った若者達が居る限りは。
だから後悔はないのだ。後悔はないと、ガリリウスはこれまで何度も自分に言い聞かせるように自問自答を繰り返してきた。それでもどうしても認めなければならぬものもある。
自分はかつての戦場に未練を抱いていると。
「その未練を振りきれるかもしれないと期待する事は、女々しいのかもしれん」
神々の戦を知る者として、ムンドゥス・カーヌスに属する全ての者から畏敬の念を抱かれる古ゴブリンは、これまで誰にも見せた事の無い自嘲めいた含み笑いを零して、目の前に立つ白銀の全身鎧と兜姿の男に視線と意識の全てを向けていた。いや、吸い寄せられていたと言わなければなるまい。
ガリリウスと対峙する鎧姿の男――グワンダンは、アステリアとアムリアの居る部屋の扉の前に守護神像の如く立ち、警備の騎士や魔法使い達の目をかいくぐってここまでやってきたガリリウスに称賛の言葉を贈った。
「よくここまで来た。君達の実力が私の知るとおりであるのなら、なんらおかしな事はないが、ここまで静かにやってくるとはいささかならず意外であったよ」
言外にガリリウスらの実力なら姿を隠さずとも、堂々と正面から殴りこんでくる選択肢もあったろう、と匂わすグワンダンに、ガリリウスは自重の笑みを消して答える。
ガリリウスの手には濃密な神気と魔力を纏う黄金の短槍が握られ、五体は血管のような模様で覆われた青黒い軽装の鎧で守られている。左手の短槍も左右の腰に佩いた幅の広い刀身の短剣も、今は使う素振りを見せない。
「暗殺者が騒ぎ立てては本末転倒であろう? ならば音を立てぬよう静寂を選んで行動するのは当然。それこそ、雪を踏んでも、枯れ枝を踏んでも音を立てぬように慎重に」
「ふむ、皇女の暗殺が狙いという割には、君らの意識が部屋の中の者達へ向けられているようには感じられんぞ。そちらの女性はともかくとしてな」
ラスロマル艦内に潜入し、易々とアステリアの居室に辿りついたのはガリリウスだけでなく、彼の副官かそれに相当する実力者らしいゴブリンが傍らに居る。
そちらの灰色の肌と少しだけ尖った耳を除けば、二十代後半の女性とそう変わらぬ容姿の女性ゴブリンは、二人の会話の間に手の中に忍ばせたダートを閃かせる隙を伺っていたが、グワンダンに隙を見出せなかったのと上司がどうも楽しげな様子であるから、手を出せずにいた。
「まあ、いずれにせよ、君らをここから先に通すわけには行かんし、無傷で返すわけにも行かんという話だ。ここでやりあっては、艦にどんな被害が出るか分からんし、何より窮屈だ。君の名前は……ガリリウスでよかったかな?」
「ああ。貴殿は?」
「ふむ、グワンダンと憶えておいて貰おう。ではガリリウス、ここは一つ、空の下で勝負と行かんかね? 君らに遅れてやってきたお仲間は私の仲間達がちょうど歓迎している頃合いだ。君もまとめて一緒に歓迎してしんぜよう」
「まるで自信の塊だな。だが、うむ、ロマルの契約者達よりも貴殿一人の方が遥かに正解であるようだ。ザンダルザは守護者を選んだが、吾の見立ての方が正しかったと確信しつつあるぞ、グワンダン」
「守護者に契約者か。気になる単語だが、こういう時にどういう意味合いを持つかは大体決まっているし、君に問わずともよかろう。しかし、こちらだけでなくライノスアート大公の方も君らからのちょっかいを受けているというのなら、多少なりとも留飲は下がる」
「余計な事を口にしてしまったが、吾はどうやら浮かれているようだ。グリリム、吾はこのドラゴニアンと戦わねばならん。この場はお前に委ねよう」
上司の急な路線変更にもグリリムは動揺を見せなかった。
もとから皇女暗殺を目的とした作戦そのものがガリリウスの気質から考えるに不自然であったし、目の前のドラゴニアンの底知れぬ威圧感を直に受けて、ガリリウスの興味がこちらに移ったと考えても納得が行く。
それにガリリウスがグワンダンを相手取るのならば、厄介な護衛は居なくなる。室内にも護衛は居るかもしれないが、艦内の他の警備の者達が駆け付けるのにはまだ時間がかかる。
一応、皇女暗殺という、本命ではなくなってしまった目的も果たせるだろう。
「承知いたしました。お館様、良き戦いを」
良く通るグリリムの声を聞き届けてから、ガリリウスはくるりと踵を返して艦の外へと繋がる方向へと動き始める。
何を思ってか、グワンダンも顔色一つ変えずにガリリウスへと続き、あっさりと扉からどいてしまう。
その呆気なさに、グリリムは扉に何かしらの罠が残されているか、あるいは立っていた床に仕掛けがあるのではと疑い、注意深く観察するが、種明かしは通路の向こう側に消えつつあったガリリウスからされた。
「ああ、それとグリリムよ、お前の影に気を付けよ」
ガリリウスの種明かしに、グワンダンが残念、と呟いた直後、ぬるりとグリリムの影の中から銀色の閃光が迸り、彼女の下腹部へと伸びる。
グリリムはそれを手の平に隠していたダートで受け止めて、その場から後方に飛び退き、足の指の握力で廊下の壁に張り付くという離れ業をやってのける。
黄玉の視線は先程まで自分が立っていた床へ――何もない! 次いで再び自身の影へ視線を移せば、先程の銀色の閃光の正体である刀を握る手が影から飛び出ているではないか。
「シャドウストーカーの類か」
いつ自分の影に忍びこんだのか。いずれにせよ、グリリムにとっては恥辱に変わりない。
刀を握る手を切り飛ばすべく、左手で虚空から愛用の肉切り包丁めいた武器を抜き放つ。
切断よりも粉砕の用途を持つ武通切の一撃をどう感知したのか、刀を握る手は大慌てで引っ込もうとするが、それよりも分厚い刃が腕を断つ方が早い。
――腕一つ、まずは獲った!
成果を冷静に見極めたグリリムの思考を、ぐにゃりと形を変えた影から発せられた声が遮った。それまでグリリムと同じ形で合った筈の影は、二等辺三角形の耳を生やした狐人の影と変わっているではないか!
「火遁・
魔力とは異なる生体エネルギー『気』の脈動が狐人の影から発せられるのと同時に、グリリムの視界に、彼岸花の如く広がる赤い炎が広がった。
武通切の軌道を強引に変えて、こちらを包みこまんとする炎に叩きつける。武通切に宿る魔力とグリリムの魔力が合わさった事で、火の彼岸花は無残にも砕かれて無数の火の粉へと変わる。
赤々と周囲を照らし出す火の粉の中を、グリリムは壁を蹴ってその場から離れる。再び自身の影に目を向ければ、今度こそ元の形に戻った影から気配は感じなかった。
その代わりに――
「ひええ、あとちょっとで腕を斬り飛ばされるところでござったよ~」
「影遁・影潜りの術の奇襲を避けられるとは、これまた手強い相手でござるぞ、八の字」
あわわ、と情けない声を漏らしながら切断されかけた自分の右腕をしきりに摩る八千代と、油断なく小太刀と手裏剣を構える風香の姿がある。
この状況でも人間に見える幻術は維持されているが、支給されたロマル帝国上級騎士用の鎧は、それぞれ動きやすいように所々外されている。
「うむ、おフウに言われるまでもなく分かっておるとも。グワンダン殿の影からあちらの影に渡った時には、これはもう奇襲成功と確信したが、それが慢心に繋がったのでござるかね?」
「というよりも、あのグリリムという、ゴブリンに見えないゴブリン殿の実力が優れていただけでは?」
微妙に気の抜けるやり取りをする八千代達を前に、グリリムはなるほど、皇女の暗殺は楽ではないと認識を改めて、楽しげに笑う。
グワンダンに鍛え直された八千代と風香でも一人では敵わないが、この閉鎖空間で二対一ならば勝機はある、とグリリム自身が判断したからである。
戦う力を持たない皇女を殺めるだけのつまらない任務になるかと思ったが、自分が負けるかもしれない相手との戦いがあるとは、なんと嬉しい誤算である事か!
「あ、あ~、ああいう笑みを浮かべる手合いは面倒でござるぞ、おフウ。楽しみながら戦うから、しつっこいと相場が決まっているもの」
「ござるなあ、八の字。仕方ない。時間稼ぎに集中して死なないように頑張り申そう」
それがいい、そうしよう、と二人は即決即断した。実力は大いに上昇した二人だが、だからといって別に命がけの戦いが楽しいわけではない。
まずは命あっての物種だ。アムリアの為になら命を賭す覚悟と決意はあるが、賭けるまでもなくアムリアを守れるのに越した事はないのだから。
*
まるで気の合う友人が久しぶりに再会し、出かける約束を交わしていたかのように、グワンダンとガリリウスは殺伐さなど欠片も存在しない雰囲気のまま、艦内の通路を歩き続けていた。
既にラスロマル周囲に少数のゴブリンが接近し、交戦状態に入っている事は艦内放送でも伝達されていて、通路のあちこちを警備の兵士や騎士達が慌ただしく走り回り、最悪の場合に備えてラスロマルは何時でも飛び立てるよう準備を進めている。
その中でもガリリウスとグワンダンが咎めだてられないのは、潜入にあたりガリリウスが左手の中指に嵌めた指輪の効果に他ならない。
二人は程なくしてラスロマルの甲板へと辿りついた。甲板からの侵入を目論んだゴブリン達とリネット、キルリンネが戦闘を開始しており、その余波に巻き込まれるのを避けてロマル帝国の騎士達は遠巻きに見守る、という状況が出来あがっている。
ラスロマルに損害を与えるわけには行かないと、リネットとキルリンネは射撃兵装を使用せず、それぞれが得意とする巨大なメイスとグレートソードを手にゴブリンの精鋭部隊と渡り合っていた。
さながら鋼鉄の天使の如き武装姿の両者の周囲には、一般的なゴブリン離れした姿の猛者達が十重二十重と輪を作り、常人では視認すらできない速さで刃の応酬が成されている。
ロマル帝国の騎士や兵士達が介入できないのも無理はない。
甲板の上を縦横無尽に疾走し、またあるいは飛翔するリネットとゴブリン達の速度は風の精霊もかくやの域に到達しており、彼女らの振るう刃の一撃は大型魔獣ですら絶命しかねない恐るべき殺傷力を帯びている。
船の甲板上という限られた範囲に突如発生した竜巻めいた戦闘領域に足を踏み入れても、彼らに出来るのは巻き添えを食って絶命する事だけなのだ。
そしてその例外である二人は甲板に立ち、グワンダンから口を開いた。
「ふむ、君のところの部下達はかなりの手錬だな。日ごろの訓練の過酷さはもとより、魂の方まで研ぎ澄ます精神修養まで日常的に行っている軍隊は、今時、そうはない」
「ならばその手錬を相手にたった二人で立ち回りを演じているあの娘らはどう評価すべきだろうな。ロマルの者達とは毛色が違う上に、あの装備は天人の遺失技術のもの。貴殿の手の者と考えるが?」
「さて、『天人の遺失技術ならばロマル帝国が扱えてもおかしくはあるまい』?」
「その通りではあるが、ロマル帝国に継承された技術とあれらは年代が異なる。それにああいった技術は守護者の側に属する。アステリア皇女側についた契約者達のソレとは異なる」
ここでもまた『守護者』と『契約者』の単語が出て来た。
初代皇帝の時代から存在し、帝国の真の支配者と噂されるハウルゼン、人間として尋常ではない戦闘能力を有していた暗殺者ザナドと武闘家アスラム。
突如として台頭して諸種族と異民族を屈服させ、支配し、ロマル帝国を築き上げた初代ロマル皇帝。
これらの単語がグワンダンの脳裏を巡り、彼の古神竜としての経験と知識とに照らし合わせれば、おのずと答えは出てくる。
「生きた遺産とその端末、契約の対価は肉体の改造か技術の恩恵、内容は契約者への従属と言ったところが相場だが、守護者と契約者が陣営を異にする例は少しだけ珍しいか」
ロマル民族至上主義を掲げるに到ったロマル帝国に対する推測が、ほぼ確信になるだけの材料をよもや魔王軍の幹部から齎されるとは、グワンダンにしても予想外と言わざるを得ない。
グワンダンの言葉に何を思うところがあったのか、それとも無かったのか、ガリリウスは構わず足を踏み出してリネット達の戦場へと、危険地帯である事にまるで気が付いていないかのような無防備さで足を踏み入れる。
閃いたのは眩い黄金の一閃。空中に刻まれた黄金の三日月を思わせるソレが、ガリリウスの右手にある黄金の短槍の描いたものだと見抜いた者は、この場に五人もいない。
次いで生じた金属と金属の衝突音を連れて、グワンダンの下へとリネットとキルリンネが吹き飛ばされてくる。
グワンダンの左右で膝を突いた二人のメイスとグレートソードには罅が入り、ガリリウスの一閃がどれ程の威力を持っていたかを物語っていた。
「申し訳ありません。グワンダン様、情けない姿をお見せしてしまいました」
「ごめんなさぁい……」
悔しさを隠しきれない声を出すリネットと、蚊の羽音のように小さな声を出すキルリンネに、グワンダンは常と変らぬ穏やかな声で話しかけた。かえってその方が二人には辛いかもしれないが、グワンダンに彼女らを責めるという選択肢はない。
「いや、今回ばかりは相手が悪い。二人の持つ最高の装備ならまだしも、この艦を傷つけず、また帝国の者達になるべく手札を晒さずに、という自主的とはいえ制約があっては、返り討ちも止むなしだ」
ガリリウスは甲板の中央で足を止めて、二言三言、周囲のゴブリン達に告げると、彼らはラスロマルの下で戦っている味方の援護に向かっていった。
既に彼らの目的は皇女暗殺という表向きのものから、ガリリウスがグワンダンと戦うという極めて個人的なものへと変わっている。それが許される立場にガリリウスはあったし、魔王軍全体がそういう気質を有してもいた。
それにグワンダンが皇女の護衛を影の中に潜んでいた二人だけに任せているわけもあるまい、と、ガリリウスが判断した為でもある。
事実、仮にグリリムや他のゴブリンが八千代達を殺傷する程追い詰めるか、アステリアとアムリアの居る部屋に足を踏み入れた瞬間、何処からともなく追加のドラゴニアンが姿を見せるだろう。
「二人ともまだ動けるか?」
「機動装甲稼働率七割六分、戦闘行動継続に支障はありません」
「私もだいじょーぶです! リネ……ううん、お姉ちゃんと一緒で、まだまだ戦えます!」
二人とも破損したメイスとグレートソードを長柄のハンマーとグレートアックスに持ち替えて、戦闘可能だと腕をブンブン振り回してグワンダンへ主張する。
持っているものと纏っているものは物騒極まりないが、幼い子供のようなその仕草はグワンダンに微笑を誘うのに十分だった。
「その様子ならば大丈夫だな。では急ぎあの子と合流して、ゴブリン達の撃退に当たってくれ。あちらの首魁の相手は私でないと務まりそうにない」
「了解いたしました。合流次第、敵性勢力の排除に取りかかります。……祈る必要はないのでしょうけれど、どうかご武運を」
「直接見ていただけないのは残念ですけれどぉ、今度は格好の悪い事にはならないように頑張ります!」
二人の背から伸びる飛行用の翼から緑色の光の粒子が放出され、その反動によって二人は可憐な風の妖精さながらに空を飛び、先んじたゴブリン達の後を追う。
ラスロマルの周囲では火薬式の銃声とは異なる甲高い鳥の鳴き声を思わせる音が連続しているが、これはガンデウスの撃つ光線小銃独特の発砲音だ。そこに大質量を殴り飛ばす轟音が加わるのは間もなくだろう。
「てっきり、部下の後を追う二人の邪魔をするかと思ったが、見送ったのは部下への信頼が理由かな」
ロマル帝国の鎧兜を纏ったままのグワンダンの手に、虚空から取り出されたポールアクスが握られる。グワンダンが自らの肉体の一部と魔力で作り出した武器は、鍛冶の神が鍛造した神器にも負けず劣らずの逸品だ。
「引き際に関しては特に重点的に叩き込んである。生存を優先するよう伝えてある故、吾が何を言う必要もない。それに彼女らを邪魔する吾を貴殿が邪魔するだろう? ならばこの場に残っても変わりあるまいて」
「ふむ、察しの良い相手は面倒だ」
「つれない事を言う」
ガリリウスは楽しげに笑い、改めて黄金の短槍をくるりと一回転させる。ただ煌びやかなだけではない。ただ荘厳なだけではない。ただ命を奪うだけの凶器ではない。その全てを兼ね備えた美しくも恐ろしい、神聖でさえある武器だ。
「良い武器だ。魔界産のものか? 軍神からの報奨と見た」
するとガリリウスは、自慢の玩具を披露する子供のようにはにかみながら答える。
「銘はガナギーヤ。まだ吾が大魔界に居た時分、戦功として賜りし槍。神々からすれば然したる品でもなかろうが、この地上では侮れぬ威力を持つぞ。もっとも、貴殿の持つ長柄斧を見るに油断はできぬな」
「重畳、重畳。信者の祈りによって下賜される神器とは異なる神器の持ち主に、そうまで評価されては、私も少しは自分に自信が持てる」
からからと気分良くグワンダンが兜の奥で笑う。それが収まるのを待って、ガリリウスは周囲で固唾を飲んで見守っているロマル帝国の騎士達を見回す。
「さて、余計な観客は要らぬ。つまらん手出しをされては興醒めになる故な」
ガリリウスが軽く黄金の短槍ガナギーヤの穂先を振るうと、月の光を思わせる淡い光が明滅し、それを浴びた騎士や兵士達が次々と昏倒してゆく。
ガナギーヤそのものに込められた神の力を光に変換して放ったのだ。異常付与や魔法に対する耐性を向上させる装備で身を固めていた彼らでさえ、魂を直接打ちのめす光には耐えられず、結果としてその場で昏倒という結果になる。
「舞台としてはこんなものだろうさ」
「ふむ」
答えるグワンダンの言葉はいつもの口癖だった。ガリリウスはこれ以上我慢する必要もないと、高揚を抑えきれぬ子供のように浮かれる気持ちをそのままに構えた。
魔王軍でもヤーハームをはじめとしたごく僅かな強者にしか見せない本気の構えだ。対するグワンダンは構えという構えはない。何時も通りの自然体。過ぎたる緊張はなく、力みもない。圧倒的強者の持つ傲慢にも映る余裕があるのみ
ソレを見て、ガリリウスは歓喜した。間違いない。軍神の眷属としての直感が告げていたのは、目の前のコレだと。
ガリリウスの足が甲板を踏みこんだ。グワンダンの足もまた木製とはいえ分厚い甲板を踏みこみ、同時に両者の足元が爆発する。あまりにも踏み込みの力が強すぎて、甲板が耐えきれずに爆散したのだ。
「つぁ!!」
ガリリウスの咽喉から迸る、まさに穂先の如く鋭い一声。その声に先んじて、つまり音よりも早く雷鳴にも似た黄金の光刃が岩壁に打ちつける波濤となってグワンダンに襲い掛かる。
秒間数千にも及ぼうかというガリリウスの単純極まる突きの連射だ。たった一体で放ったとは信じられぬ奇跡のような連撃の全てを、グワンダンはポールアクスで打ち合い、弾き返す離れ業をやってのける。
数千の超人的な戦士が一斉に槍を突き出してきたにも等しい連撃を捌ききるグワンダンの非常識さは、やはり彼ならではのものだろう。ましてや技量よりも純粋な身体能力によってとあっては、尚の事。
「ぬん!」
右手一本でポールアクスを操っていたグワンダンの左手が動いた。もはや黄金の壁が屹立したかのような視界の中で、放たれる刺突の全てを認識する古神竜は、絶え間ない連撃の中に強引に左手の一撃をねじ込んだ。
かすめた一撃一つで亜竜程度は絶命する連撃の中で、グワンダンの左手は固く拳を握り、ガリリウスの顔面を目掛けて唸りを上げる。
ソレがどれ程恐ろしいか。ガリリウスは思考するまでもなく理解していた。グワンダンへの刺突を即座に切り上げて、ガナギーヤで受け止める選択肢を選ばざるを得ない程に。
それはまったくもって正しかった。ガナギーヤを通じてガリリウスを襲った衝撃の凄まじさは、かつて大魔界で受けたとある戦神――アルデスとは別の――の戦鎚の一撃を思い出させた。
地上の存在が戦神を思わせる一撃を振るうなど、そんな事があり得るのか? そんな疑問がガリリウスの思考の海に泡のように生じてすぐさま消え去る。
渾身の力で踏ん張り、ガナギーヤから伝わる力を回転させて流し、回った穂先がグワンダンの首を狙って突き出される。
ガナギーヤの穂先はグワンダンが首を右に傾けた事で、左の首筋をわずかに舐めるに留まり、首元を守る甲冑が砂塵と砕ける。
突きと等しい神速の引き戻しに合わせて、グワンダンの右手が動く。ポールアクスが白銀の半月を空間に刻み、ガリリウスの左腰に迫る。
ガリリウスは腰から両断されて、内臓と血液をぶちまける自身を鮮明に思い描きながら獰猛に笑う。
これだ。これが欲しかった。
軍神たる主君の元を離れて地上へ赴く者達と道を同じくしたのを後悔した事はない。
ああ、しかし、しかしと思わずにはいられない。地上世界では決して到達しえない高みの力が、技が惜しみなく振るわれ、味わわされたあの戦場よ。神代の戦いが、滾りが、熱が、ガリリウスの魂に刻みこまれて薄れる事を知らない。
どこかサグラバースを思わせるヤーハームもまたコレを感じさせてくれたが、目の前の兜姿の何者かはより鮮烈に、強烈に、泣きたくなるほど痛烈に感じさせてくれる。
何と素晴らしい。魂が削れるかのような緊張感、恐怖、興奮、歓喜、言葉で言い尽くせない感情が混然一体となり、細胞一つ一つに広がってゆく確かな感触。
あのまま大魔界に残り、神々の戦場で戦って、戦って、戦い続けて、いつの日にかこの命と魂を散らせたなら、それはどんなに幸福であったろう。
「あああああ!!」
だが、むざむざと死ぬのは断じて違う。死力を尽くしてもいないのに、まだ出来る事があるのに夢想にかまけて死ぬなど、何と間抜けな事か。そんな
「クソ食らえだ!!」
ガリリウスの左手が逆手に引き抜いた短剣がポールアクスの刃を受け止める。刹那ともたずに砕ける刃が、ガリリウスの生命を守る運命の分かれ道そのものだった。
ガリリウスの体は両断される寸前に後方へと飛びのき、ラスロマルの舳先へと降り立つ。
跳躍の最中に投擲された短剣はグワンダンの左手に掴み止められ、そのまま握り潰されて、無数の破片がパラパラと甲板を叩いた。
「決めるつもりの一撃だったが、な」
素直な感想を零すグワンダンが身をかがめ、駆けた。光と変わったかのような速さをガリリウスのみが知覚する。
「っ!」
グワンダンはその圧倒的な戦闘能力に反して隙だらけである。だが、これは戦闘を知らぬが故の隙ではない。隙だらけでもまるで問題がなかったが故だ。ことグワンダンに限っては、『隙だらけ』も『隙がない』も意味を同じくする。
隙だらけだから何処から攻めても同じ=隙がないから何処から攻めても同じ、という式が彼の場合は成り立ってしまうのである。なんと馬鹿げた話だろう。馬鹿馬鹿しい程に強すぎる敵に、ガリリウスは心から、それこそ魂の底から感激していた。
「我が神よ、二度と得られぬ敵を我は得たり!」
ガリリウスの生涯を遡っても、最高と自画自賛できる一撃が空間を貫く勢いでグワンダンへと伸びる。
ドラミナや龍吉でも戦慄に肌を泡立たせる一撃は、縦に構えられたポールアクスの刃に受け止められる。だが、グワンダンを知る誰もがガリリウスを称賛するだろう。彼の一撃は、グワンダンの足を止めたのだから!
時が流れるのを忘れるような停滞が訪れた。突き込まれたガナギーヤの穂先とそれを受け止めるポールアクスの刃はその場に固定されたように不動。
次はどう動く? どう動けばグワンダンに傷がつくか。どう動けばガリリウスの首が飛ぶか。風は吹かない。時は流れない。二人の動く切っ掛けとなるのがあまりに恐ろしいから。
だからこの二人を動かす誰かは、呆れる程に恐れ知らずで、そしてどうしてと嘆きたくなる程に場の空気を読めないに違いない。
その誰かは何かを固めて作った黒紫色の短剣を八本、ガリリウスへと投げつけてこの場に介入した――してしまったと言うべきかもしれない。
ガナギーヤを引き戻し、ガリリウスは研ぎ澄ました集中力を維持したまま、降り注ぐ短剣を避け続ける。彼の足が踏んだ甲板のへりに次々と短剣が突き刺さってゆく。
グワンダンはガリリウスへの追撃を行わず、ポールアクスをだらんと下げたまま、自分の背後を振り返る。艦橋の上に彼女は居た。吹く事を思い出した風にロングスカートと頭の上のホワイトブリムのレースをかすかに靡かせて。
「ご主人様の障害となる者を排除する。まさにこれぞ従者の道。メイドの本懐」
死を司る大神たるタナトス。そのメイド姿がそこにあったのだ。
「……なにを、やっているのだ、君は」
グワンダンの第一声でこれであったのは、タナトスにとっては甚だ不本意に違いない。
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第三百二話
こんな時ではあったが、グワンダンはタナトスの姿に呆れと共にいくらか感心してもいた。
グワンダンの大元であるドランの記憶を辿る限りにおいて、タナトスは夜空の月のような淡い輝きを纏う男装の麗人である。その彼女が黒一色の髪も黄金の瞳もそのままに、メイド姿になっているのは新鮮この上ない。
うっすらと化粧を刷いているのもあってか、今のタナトスは一度目にすれば誰でもその姿を追ってしまう女性的な美に満ちていた。
まあ、それはそれとしてこの乱入は予想外も良いところなのだが……
良くも悪くも気の抜けてしまったグワンダンの様子を見て、ガリリウスは状況をどう判断すべきか、舌先で言葉を転がしては飲み込むのを何度か繰り返してから、こう零した。
「貴殿の知り合いか。伏せていた手札というわけではなさそうだが」
結局、出て来たのは口にしたガリリウスでも苦笑してしまいそうになる平凡なものだった。
「む、古い付き合いの相手だが、こちらに来るとは露程も思ってはいなかったよ。お陰で少なからず驚く羽目になった」
本気で困った顔になるグワンダンに、ガリリウスはさて次は、と確認すべき事、口にすべき言葉、そしてどう行動するべきかを数え切れぬほど脳裏に列挙してはこちらを見下ろすタナトスへ視線を向ける。
彼からすればタナトスは、未練を払う絶好の好機に水を差し、かつてない素晴らしき敵であるグワンダンとの戦いを邪魔した正体不明のメイドになるわけだが、彼の態度には一切の苛立ちや不満は表れていない。
ガリリウスにあるのは、“第三者の介入の余地がある戦い”をしていた己に対する憤りと恥であった。自身が全霊を尽くしているのに対し、グワンダンが余裕を残して戦っていたのは痛い程実感している。
グワンダンから余裕の衣をはぎ取り、むき出しの全力を出させる程自分が強ければあのメイドも手の出しようがなかっただろうにと、ただただ己の未熟を責め、恥じ入るばかり。
ガリリウスの心中までも見通すかのように見て、口にすべき言葉の選択に悩むグワンダンの傍らに、タナトスが音もなく静かに降り立つ。
「お久しゅうございます。そしてはじめまして、になりますでしょうか、グワンダン様」
喜色を隠さぬ声のタナトスに対して、グワンダンは、一応、タナトスの名前を口にするのを控えた上で応じる。
ガリリウスの戦意は未だ萎えてはいないが、死を司る神の筆頭格であるタナトスの脅威を本能で理解しているのか、一歩を踏み出す機を見出せずに居るようだった。
「ふむ、グワンダンとして君に会うのは確かに初めましてになるな。君がむっちゃんや主と共にこちらに来ているのは私も把握していたが、こちらに足を運んでいたとは知らなかった」
「聖上のお許しは得ております」
「あのまま、あそこに留まっていても良かったと思うが、君が会いに来るのなら私よりも塔の方がずっと近かったろうに」
言うまでもない事かもしれないが、グワンダンの言う塔の方とは探索者として活躍しているドライセンの事である。何時でも自由に動かせる予備戦力として、ドライセンは塔ことカラヴィスタワーで待機中だ。
「あちらには妹君を始め、既に多くの方がお傍におりますし、私めの助力の余地はさしてございませんでしたので、まだこちらの方がお役に立てる機会が多いかと思い、まかりこしましてございます」
ドランの側にはクリスティーナ、ドラミナ、セリナ、ディアドラといった超常の戦力に加えて、他領の者達の目のある状況になっている。
ドライセンはというと彼の傍らには古神竜、大地母神、下位だが時の女神の三柱に加え、場合によっては千近い竜淫魔と竜淫魔の女神も加わる。
彼らと比べればメイド三姉妹とへっぽこ侍とぽんこつくのいちで構成されるグワンダン一党は、戦力的に大きく見劣りするし、タナトスの介入する余地がある方だろう。
「君に気を遣わせたのが半分、君自身が私に構って貰いたかった、というのが残り半分かな?」
グワンダンの指摘はタナトスにとって恥ずかしいと感じる部分を的確に突いていた。グワンダンひいてはドランに会いたいが為に、大神と称される自分がこうしてメイドにまで身をやつして足を運ぶなど、なんとも子供染みた真似ではないか。
「恥ずかしながらご指摘の通りでございます。さて、先程申し上げた通り、主人の障害を排除するのは従者の王道、メイドの果たすべき務め」
グワンダンに向けていた無垢な子供を思わせる雰囲気を変えて、タナトスはガリリウスを正面から見据えた。
地上世界へ顕現した以上、たとえタナトスであろうとも他の大神マイラールやアルデスがそうであったように、彼女もまた神格や能力に大幅な制限を架せられている。
その為、本来、タナトスからすればガリリウスであろうと雑兵でしかないにもかかわらず、地上では途方もない強敵となるのが厳しい現実である。
しかし、タナトスにとってはその程度の現実等、危惧する程のものでもないらしい。ガリリウスを見るタナトスの瞳に宿る冷たく厳しい輝き。まさにこれこそは死そのものの輝きに等しい。
タナトスがガリリウスを排除すべき障害と認め、戦意で満ちている姿にグワンダンは口を挟めんな、と心中で嘆息を零す。
「元より一対一の約定の上で始めた戦いではない、か。ガリリウスよ、これよりは私からこのメイド……ふむ、名前は?」
まさか諸人の知るタナトスという女神の名前を馬鹿正直には使えないだろう。ましてやロマル帝国で活動中のグワンダンの傍で活動しようというのだから。グワンダンの問いへの答えは、到って簡潔だった。
「ターナーと」
「成る程、分かりやすい」
タナトスの前半二文字の発音を伸ばしただけなのだから、確かに分かりやすいし憶えやすかろう。
「ともあれ、思いもかけぬ来客だが、これより相手はこのターナーが務める。異論と異存の双方があるかもしれんが、
身勝手に、傲慢に告げるグワンダンに対してガリリウスは抗弁しなかった。どうしてもグワンダンと一対一で戦いたいという我を通すならば、タナトスを実力で排除した上でなければならないとガリリウスは理解していた。
同時に、グワンダンがガリリウスとの戦いに拘泥していない事実への悔しさと怒りもあった。グワンダンに自分程に戦いに執着を持たせられなかった自身の不徳と未熟が悔しくて許し難いのである。
アレは本質的に戦闘を好んでおらず、強者との戦いを楽しんでいない。だから仕方がないのだと自分をわずかも慰めず、言い訳をしないのがガリリウスという戦士だった。
「なれば何が何でもそこなメイドを打倒して、貴殿に挑ませてもらおうか。しかし、そちらのメイドも貴殿と同様に尋常ならざる御仁であるのには変わらぬか。荒野の外には随分と物騒な輩がおるものだ」
ガリリウスがあまりにしみじみと言うものだから、グワンダンはつい噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。こればかりは、グワンダンの周りに限って異常なのだと弁明するべきかもしれない。
ガリリウスもグワンダンも、そしてタナトスことターナーも、これ以上おしゃべりは必要ないと判断して口を噤み、一瞬の間を置いてからガリリウスとタナトスが動いた。
グワンダンはガリリウスへの申し訳なさはあったが、同時に地上世界でタナトスがどのように戦うのかという点に少なからず興味があった。
先程、自分達の戦いに割って入った時には短剣を投じたが、さて、以前からこの女神は短剣使いであったか。そもそも武器を扱って戦うような類であったか? という興味である。
その疑問が伝わったわけではあるまいが、タナトスは両手の五指の間に黒紫色の短剣を合計八本作り出し、ガリリウスへ向かって駆け出しながら投げつける。
ガリリウスの眉間と咽喉に狙いを付けて四本ずつの投擲は手慣れたものだったし、甲板を走る姿も中々様になっている。だが、様になっている程度で戦える程、ガリリウスは甘い相手ではない。
グワンダンの見守る中、ガリリウスはガナギーヤを振るって短剣を打ち落とす。一振りで戦闘中のリネットとキルリンネを撃墜した技量ならば、目をつむり、耳を塞いでいても簡単にやってのけるだろう。
黄金の短槍は触れる先から黒紫色の短剣を粉砕し、二本目を砕いた時点でガリリウスはその場を飛びのき、残る六本の短剣を回避する事を選んでいた。
「ふむ、その場で作っているから魔力の短剣かと思ったが、アレでは確かに避けたくもなる」
手摺の上に降り立ったガリリウスの顔に浮かび上がる冷たい汗と、彼の意思に反して肉体が総毛だっている様子に、グワンダンは納得の色を浮かべて次の攻防を変わらず見守る。
タナトスは一旦足を止めて、両手の中に短剣ではなく縄を作り出し、いくつも重ねた輪を左手に持ち、先端を右手に持つ。
ガリリウスが過剰にも見える反応を示しているのは、やはりタナトスが死を司る神である事に起因する。
神々やその眷属は能力を地上では大きく制限されるが、一欠片位は行使できる。タナトスがその一欠片の能力を行使すれば、どうなるか。
それは死の具現化、そして今ある死の法則の一時的な上書きだ。
タナトスが作り出した短剣はごく短時間かつ極小の範囲に限定して、既存の死に関する法則を“短剣に触れたら死ぬ”と上書きした法則を形にしたものだ。
彼女が今、両手で操っている縄も同様で、これに触れたら死ぬ、という問答無用の即死攻撃なのである。
ガリリウスの肉体が過剰なまでの拒否反応を示すのもむべなるかな。死とは常に生の傍らに寄り添い、時に人知れず訪れるものでもあるが、タナトスのこれは戦場で武器を突きつけられるのとも違う。
目に見える死、触れられる死、それがどれ程の重圧を生者へと与えるものか。
ガリリウスは肉体と魂の反応それぞれから、目の前のメイドの正体を探らんと思考を巡らす。
それを待つ義理の無いタナトスは、ひょう、と軽やかに右手の縄を放った。縄に見えてその実は形を持たされた死であり、タナトスの一部とも言えるこの縄は、まるで意思と生命があるかのごとく空中を高速で飛ぶ。
――この悪寒、恐怖、これは死に対するもの。となれば死を司る神の加護を受けた信徒の類か?
否、とガリリウスは迫りくる縄をガナギーヤで撃ち落とし、神の槍の発する黄金の光に触れた縄は木端微塵に砕かれて、黒紫色の粉が風に巻かれて消えてゆく。
一見、こと攻撃に於いて無敵と思えるタナトスの即死もこのように極めて脆いという欠点が存在している。その代わり、壊れる際に触れていた存在に死を与えるのだが、ガナギーヤが神代の武器である為、大幅に制限の掛っているタナトスの能力に抵抗出来る例外だ。
――いや、加護を受けた信徒程度でこうもガナギーヤに負荷をかけるものか。ましてや吾がここまで死を実感するなど……。よもや直系の眷属神だとでも言うのか?
縄を失ったタナトスの右手が大きく左肩の方へと振り上げられ、勢いよく振り下ろされる。ふわりとそよ風程度しか起こせぬだろうそれが、風と化した死を運ぶ。
新たな死の法則は黒みがかった紫色を帯びるらしく、タナトスからガナギーヤへと向けて嵐の勢いで迫る風の形を持った死は黒紫色に染まっている。
「なんとも恐ろしいメイドがこの世に居たものだなっ」
ガリリウスの戦意と闘気が刹那の時でガナギーヤへと集約される。鍛造時に込められた神気と混合した事によって増幅された力は、太陽がそこに落ちたかのように明るい黄金の光を発する。
世界に広がらんとする死の風を太陽の光が押し留めようとしている――そう見る事も出来る荘厳な光景だ。
「輝け、ガナギーヤ!」
極限まで高まった神気が、ガナギーヤの穂先から黄金の奔流となって死の風を迎え撃つ。
ラスロマルの甲板に収まりきらず広がる黄金の光は、ガナギーヤの神気がタナトスの死の風を貫き、完全に無力化させた証明である。
次に死を放たれては危ういと、ガリリウスは手摺を砕く程の踏み込みでタナトスの心臓へガナギーヤを突き立てるべく動こうとし、直後に全身から血を噴いて崩れ落ちそうになる体を咄嗟にガナギーヤで支える。
「ぐっ、ぬうう、一手、遅かったか……」
急激に力を失って行く体を精神で支えるガリリウスの視界に、無手のタナトスの姿が映る。縄を投じ、風を起こした場所に立ったままのタナトスが、瞳を“黒紫色”に変えてガリリウスを見ていた。
「視線に捉えた者に死を与える魔眼、か。一体、どれだけの高位の死の神の恩恵を受けているというのかっ」
今もタナトスから“見られたら死ぬ”視線を向けられ続けてなお、ガリリウスが生存しているのは咄嗟にガナギーヤに残りの力を込めて、死の視線に対する抵抗力を高めたからに他ならない。
「勘の良いゴブリンだ。戦場で格上の強者を相手に相当戦ったとみえる」
ガナギーヤの恩恵もあるがガリリウス自身の咄嗟の判断力と機転、精神力がなければとっくにタナトスの与える死に呑まれ、絶命していただろう。この時点まで生き延びているガリリウスの力量を、タナトスは高く評価していた。
「やれやれ、だな。グワンダン殿だけでも想定外の強敵であったと言うのに、さながら人の形を取った死の如き女人まで敵に回るか。まったく、死力を尽くしてなお足りぬ強敵の出現とは、なんという“慶事”よ。しかし、ここは逃げの一手だな」
この状況に陥ってもなお慶事と、目出たいと言い切るガリリウスの精神には、さしもグワンダンも脱帽ものだ。ここまで徹底して戦場に生きて死ぬ心構えの戦士が居るとなれば、祖神であるサグラバースも口元を綻ばせるのではなかろうか。
タナトスからすれば、ガリリウスが逃げると口にしようが逃がすわけもないが、ガリリウスとてタナトスから逃げるのは至難の業と分かった上での発言だろう。
しかし、ここでタナトスが地上に降臨した事での弊害が起きた。既存の法則を新たな死の法則で上書きし続ける事の時間制限である。
本来であればまったく存在しない精神的負荷も生じており、ガナギーヤによる抵抗という予想外の事態により、視線による死の限界が来てしまう。タナトスが堪え切れずに瞼を閉ざした瞬間――
「くっ」
「では、機会があればまた、だな。グワンダン殿」
「ふむ、まあ、そういう事にしておこう」
ガリリウス自身の魔法かあるいは魔法具か、その姿が霞むと見る間に大気に溶けるように消えて、ラスロマルのみならずヴァスタージ丘陵からも気配が感じられなくなる。
グワンダンならばガリリウスが空間を跳躍する前に仕留める事も出来たが、タナトスによる水入りであったのと、これがあくまでロマル帝国と魔王軍の戦いと認識している為、わざわざ止めを刺そうとはしなかった。タナトスの介入に対する、彼なりのガリリウスへの詫びでもあったかもしれない。
タナトスが再び瞼を開いた時にはガリリウスの姿はなく、タナトスは女神に相応しい端正な顔立ちに刹那の間だけ悔しげな色を浮かべ、それを消してからグワンダンへと振り返って歩み寄ると、その足元に跪く。
「事前の知らせなく御身の戦いに介入したばかりか、敵を仕留めきれず逃がす失態。申し開きの言葉もありません。いかようにもこの身を罰してくださいませ」
そう言われても困るのがグワンダンである。タナトスがガリリウスとの戦いに介入したのも、タナトスの混じりけの無い善意からのものであったし、それが分かると途端に強く出られなくなるのが、この良くも悪くもお人好しの古神竜だ。
タナトスの本来の上司であるハーデスなどは、彼女の横やりに顔を手で覆って溜息を吐くか、逆に腹を抱えて笑っているかのどちらかをしているだろうか。
ヒュプノス君は頭を抱えるかな、と思いながら、グワンダンはタナトスへ頭を上げるように促す。生まれた時から知っている女性に頭を下げられ続けるのは、どうにも気分がよろしくない。
「とりあえず頭を上げなさい。巻き添えは……いないな。それにしても驚いたよ、タナ……いや、一応、ターナーちゃんと呼ぶよ。君があちらに彼らと共に足を運んでいたのは知っていたのだがね」
「は、私の我儘を聖上がお聞き届けくださりまして、こちらへ足を運びました」
「ふーむ、君自身はこの私と同様か。当たり前だわな」
つまり、タナトス本体が地上に降臨したのではなく、グワンダンがドランの分身体であるように、目の前のメイド姿の死の女神もまた分身体か端末と呼ぶべき存在というわけだ。
本体のタナトスは今も死を司る神の筆頭格として、冥界にて職務を全うしている最中にある。
「ここまで来てしまった以上は受け入れるのが、私の取るべき選択肢だろうな。ただ、私の事情を知っている連れが三名いる。彼女らには君の事を話すが、女神を相手にするのに相応しくない振る舞いをするかもしれないが、あまり目くじらを立ててくれるなよ」
グワンダンの戦いに介入した事に関しては、リネットからガンデウス、キルリンネの三名とも良い反応を見せないだろう。ひょっとしたら辛辣な意見くらい出てくるかもしれない。
「目くじらなどと。私はこの装いの通りにメイドとして、仕える者として参上いたしました。同じく貴方様にお仕える者同士、上も下もございません。いえ私が下にはなりますが」
「大神らしからぬ心構えであるものよな。初めて彼女らに会った時もそういう態度で、彼女らが恐縮していたか」
グワンダンの言う初めて彼女らに会った時、というのは競魔祭で王都を訪れていた時に、タナトスがハーデスの使いとしてドランやセリナ達と顔を合わせた時の話である。
大神であるタナトスからすればセリナやドラミナは取るに足らぬ地上の存在だが、ドランの恋人であるとして自らを下に置く対応をしていたものだ。
「そういえばまだ祝言を挙げられていないのですね。聖上を含め御三方とも随分と気にかけておいでです。御子に関していえばそれ以上に関心をお持ちでいらっしゃいます」
「まあ、今は回りが随分と慌ただしいからな。落ち着いてから、さ。落ち着いてから」
*
ガリリウスの撤退に伴い、ラスロマルの外でリネット達と交戦していた精鋭ゴブリン達も同じく転移によって戦場から撤退していた。
残されたのはロマル帝国の精鋭達と、彼らとお互い巻き添えにしない程度の連携を取りながら戦っていたリネット達三姉妹のみ。
ガリリウスの一撃によって機動装甲の稼働率を大きく下げながらも、リネットとキルリンネは果敢に接近戦を挑み、ガンデウスも合法的に銃火器をぶっ放せると嬉々として弾切れする端から火器を持ち替えて撃ち続け、ラスロマルへの流れ弾こそないもの、周囲の地形を少しばかり変えてしまっている。
装甲のあちこちから火花や紫電を散らしつつ、リネットは警戒を解いてハンマーをだらりと下げる。キルリンネもまたあちこち刃毀れしているグレートソードにしかめ面を浮かべているが、戦いの終わりを理解して緊張感をゆるゆると解いている。
ガンデウスばかりはまだまだ撃ち足りないと言わんばかりに、両手に持った長大な筒状の火器の銃口を下げずにいる。一千発以上の銃弾をばら撒いた割に成果はそれ程でもなく、彼女的には不満が残るところらしい。
「これでひと段落みたいだね~、リネットお姉ちゃん」
「ええ。グワンダン様が敗れるわけもありませんが、甲板に不可思議な気配が生じましたね。あの方々が降臨された際に生じる気配と酷似していますが……」
「う~~ん、でもぬははは様もあのやたらと腰の低い時間のお姉様もこっちに来るはずないもんねぇ。あ、でもぬははは様ならあり得るのかなぁ?」
「我慢しきれずに来る可能性はありますが、グワンダン様とあのゴブリンとの戦いに割って入られる可能性はまずあり得ません。割って入るのなら、お二人が戦いを始める前の筈です」
「う~ん、確かにぃ。一度始まった戦いにそうそう横やり入れない御方だよねえ。そうなると、一体誰が来られたんだろう? ねえ、ガンちゃんはどう思う?」
「ち、根性の無い奴らめ。体が蜂の巣になるまで戦えばいいものを」
聞いちゃいなかった。やはり問題児は問題児かと、リネットとキルリンネはお互いに顔を見合わせて、深々と鉛のように重たい溜息を零すのだった。
*
「ガリリウス様!?」
グリリムの口から信じられないと言う思いから発せられた言葉は、彼女と戦っていた八千代と風香の耳と尻尾をピクリと動かすのに十分だった。
勝利の姿しか思い描いていなかったとはいえ、この反応はグワンダンの勝利を確信させるのに十分すぎる。
しかし、おおよそ互角とガリリウスとグワンダンが見積もった三者の戦いは、見積もりの通りに甲乙をつけ難い熾烈なものとなった。
グリリムの左腕は、血を流しながらだらりと下がったまま動く気配を見せない。他にも鎧を貫く一撃を与えられ、体の随所から血を零し、また風香の忍術による火傷や凍傷の跡が見受けられる。
そして八千代と風香は幸いにして大きな傷こそ覆っていないが、一対一では格上の強敵を相手に集中力と精神力を大きく削られており、顔色は瀕死の人間の如く青白い。
「くっ、憶えておくぞ、犬人と狐人!」
ガリリウスと同じく姿が薄れ、はるか遠方へと転移してゆくグリリムへの八千代達の返答は、実に彼女ららしいと言えばらしいものであった。
「いやでござる、いやでござる!!」
八千代が声を大にして叫ぶのに続き、風香もまた左手であっかんべーをしながら消えゆくグリリムに心からの本音を叩きつける。
「やーだ、やーだよーでござる! 二度と顔を見せるな! 拙者達が相手をするには貴殿は強すぎるんじゃい!」
「某達にはお主みたいな手強い敵と戦って喜ぶ趣味はないんでござるもん、ばーか! 某達は自分の命が惜しいのでござーる!」
これにはグリリムも面喰らった。ここは、もっと、こう、ねえ? という顔をしてから顔を真っ赤に染めて口を開こうとするが、それよりも彼女の体が消える方が早い。
「な、この、こい……れで……も……っ!?」
つい本音が出てしまったとはいえ、最後の最後で相手を本気で怒らせる発言を仕舞ったのに気付いた八千代と風香は、恐る恐るグリリムの消えた場所をじいっと見つめていたが、しばらく待っても彼女が姿を見せないのに気付くと、大きな溜息を零して腰砕けになると、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「もー、んもー、本気で死ぬかと思ったでござるよおおおおお。なんであんなバケモノみたいに強い御仁と戦わにゃならんのでござるかー」
「そりゃアムリア殿を守る為なら命を賭す覚悟位は固めたけれども、やっぱ怖いでござるー、ござるー、ござるー」
「アムリア殿~、またなぐちゃめて~~」
「あー、ハチぃ、抜け駆けはずるっこでござるよ~」
まあ、とりあえずこの二人は何時も通りであった。グリリム程の強敵を相手に生き残り、何時も通りの反応が出来る辺り、彼女らの大きな成長が伺えるが、それにしても精神面はさっぱり成長しているようには見えないものだ。いやはや。
*
かくて二つに割れたロマル帝国各派閥の主導者それぞれへの奇襲は、初代皇帝の時代から帝国に存在する守護者と第三者の手によって防がれる事態となった。
魔王軍の襲来という想定外の事態によって混迷した状況は、この戦いによって一旦落ち着きを見せ、この後、魔王軍との戦いは更なる激しさを増し、佳境へと至る。
奇しくもアークレスト王国のドランとアムリアに寄り添うグワンダンが、お互い苦笑しながら合流するのは、そう遠くない日の事である。
**********
ぼちぼち頂いたご感想への返信もしてまいります。
今回で2018年最後の投稿となります。
一年間、御愛顧ありがとうございました。また来年もよろしければお付き合いくださいませ。
良いお年を。
しばらくは本編の更新を停止する予定です。好き勝手に書きます。
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第三百三話
ベルン男爵領という近隣の地が戦場となっている為、ガロア魔法学院の生徒達はしきりに戦況についてお互いに知っている情報を交換していた。
彼らの身内やあるいは彼ら自身が戦場に行く可能性が無いわけではなく、決して他人事ではないのが大きな理由だが、それ以外にもアークレスト王国の歴史の中で数百年ぶりの国家間戦争とあり、否応なく話題にせざるを得ないのもある。
暗黒の荒野から襲来した魔王軍を相手に、ベルン男爵領のみならず王国北部の諸侯が軍勢を結集して戦っている為、多くは貴族の子弟であるガロア魔法学院の生徒はほぼ全員が関係者ともいえる。
その中でもベルン男爵たるクリスティーナやその補佐官であり婚約者でもあるドランと、とりわけ関係が深い者といえば彼女らをおいて他にない。
今のところ、開催が決定している競魔祭に向けた打ち合わせという名目で集まった、ネルネシア、フェニア、ファティマ、シエラ、それにレニーアとイリナという女性陣だ。
場所はガロア市内にあるフェニックス家の屋敷だ。フェニアがガロアに居るのは、家の商売について勉強がてら後輩達の様子を見に来た、というものだ。
王国貴族の中でもとりわけ裕福なフェニックス家令嬢の部屋は、財力に見合う高価な私物が置かれており、豪華絢爛という言葉そのものの派手さだが、部屋の主にはこれ以外ないという似合いの品ばかりで、いやしさと品の無さを感じる事はない。
「最近はずうっと戦争のお話でもちきりだねぇ」
いつもの間延びした口調は変わらずだが、声に力がないのはファティマである。腰かけたファティマの傍らに控えているシエラは、気遣わしげな瞳を妹のように愛する主人へ向けている。
友達であるドランやセリナ達が実戦に身を投じているのを案ずる気持ちもあるが、ドラン達がいなくとも戦争に身を投じている名も知らぬ誰か達を心配するだろう。そういう少女だ。
黙々とフェニアから供されたシロップ漬けにした果物を食していたネルネシアも、親友の心を案じつつ、情報整理も兼ねて淡々と事実を口にする。
「無理もない。うちのアピエニア家はロマル帝国への警戒があるから、直接は参加していないけれど、前線では激しい戦闘が連日行われていると情報が次々に入って来ている。身内が参加している生徒も多いから、どうしたってその話ばかり」
幸いにして、実家や係累から入ってくる情報の中に、ベルン男爵領の首脳陣の負傷や戦死の話はなく、むしろ常軌を逸した戦果を上げ続ける彼らの活躍ばかりが伝わって来ていて、その点に関して、ネルネシアは彼ららしいと安心していた。
ネルネシアのアピエニア家同様、類稀なる財力と商才を有するフェニックス家のフェニアも今もベルン男爵領に出入りしている商人や物資の流通経路の動向から情報を得ており、クリスティーナやドラン達がまず死ぬような事はないと確信していた。
それでも心配なものは心配だが……
「かくいう私達も競魔祭よりもすぐそこで行われている戦争が気掛かりで、ここしばらくはその話題しか話しておりませんし、他の生徒の皆さんをどうこうとは言えませんわ。
ただ競魔祭の代表選手として他の皆さんよりも学院長と話す機会に恵まれて、エンテの森の皆さんがやる気満々だと教えて貰っているのは、役得でしたかしら? まあ、私はもう魔法学院を卒業した身ですけれど」
競魔祭という行事に関して一方ならぬ思い入れのあるフェニアにしても、やはり学友達の関わっている戦争となれば、考えを馳せずにはいられない。
黄金という色彩に愛されたように豪華絢爛たるフェニアは、外見に等しく精神も華やかでいながら強靭かつ柔軟に出来ていたが、今回ばかりは信頼と不安のはざまで悩んでいるようだった。
ファティマもネルネシアもフェニアも、それぞれが魔法学院を卒業していった友人達の身を案じる中、やはりというべきかレニーアだけは別だった。
レニーアだけは知っている情報の量に違いがあるし、また既に当事者とも言える状況だから態度も変わってくるだろう。
レニーアは傍らにイリナを侍らせながら、三人の不安を鼻で笑い飛ばす。
貴族の令嬢であろうとなかろうと人間として褒められた仕草ではないが、外見だけは愛くるしいレニーアがすると不快な仕草とは映らないのだから、レニーアは産んでくれた両親に感謝すべきだろう。
「ふん、ドランさんとその周りの者達に対する心配はするだけ無駄だぞ。魔王軍は確かに精強で特異な連中だが、ドランさんを始めとしたベルンの上層部は魔王軍を上回る怪物と異質さの巣窟だ。
雑兵の数では文字通り桁が違うとしても、その桁を覆せる超越者が揃っている。というか超越者しかおらん。いや、新しいメイド二人は不足か。まあ、武力に関してはベルン男爵領単独で、北部の諸侯連合を上回るだろうよ。
あのアークウィッチのメルル一人で、国内の武闘派魔法使い全員を相手取れるとかいう評判と同じだ。個人で国家を相手に出来る人材の集まった魔窟だと忘れたか?」
いちいち喧嘩腰であったり、上からの目線でものを言うレニーアだが、この部屋に集った者達はそれがレニーアの普通なのだと知っているから、目くじらを立てたりはしない。
その代わり、レニーアのすぐ隣のイリナが小さく窘めるのが常だった。
それに、レニーアの言う事に関しては概ねネルネシア達も同意だったからである。まあ、流石にレニーアのように『諸侯連合は足手まとい』とまでは、少しくらいしか考えていなかったけれど。
「それでも心配なのは心配なの~」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するファティマに、レニーアは分かっている、と返してから自分のカップに注がれた紅茶を一息に飲み干す。
かつて単独でムンドゥス・カーヌスの王城に侵入し、魔王たるヤーハームを相手に挑発めいた戦いを仕掛けたレニーアだけは、この面子の中で魔王軍の最高戦力と親衛隊という最高基準の集団の戦闘能力を知っているから、尚の事、余裕を持って構えていられる。
そうでなくとも魂の父たるドランに敵う者はこの世に存在しない、と頭から信じている少女であるから、怪しい所ではあるが。
「まあ、もうしばらくはヤキモキしておけ。クリスティーナなどは部下を危険な目に遭わせて自分だけ安全な後方にいるのにそう長く耐えられない性分だから、そろそろ前線に突撃していてもおかしくはない。
そうなれば必然的に秘書をやっているドラミナも万が一に備えて、クリスティーナの傍に付く。くくく、ベルン男爵領の武力面に於いてドランさんに次ぐ二人が暴れれば、戦争の趨勢などいくらでも変えられる」
邪神の産物たる神造魔獣に相応しい凶悪な笑みを浮かべるレニーアだが、いかんせん、ネルネシア達にしてみれば目撃する機会の多い笑みだから見慣れていたし、レニーアの言う通りだ、と大なり小なり、全員が認めているから反論の言葉は出て来ない。
特に百人斬りの騎士と砦落としの大魔女というメルルに準じる実力者を親に持つネルネシアなどは、少し困った風に眉を寄せてこてん、と首を傾げた。
「普通ならメルル様やロマル帝国の十二翼将級くらいでしかあり得ない話だけれど、ドラン達なら十分あり得るから、レニーアを否定できない」
「だろう?」
「でもクリスティーナ先輩やセリナは、戦争とはいえ相手を殺せるのか、殺してしまったらどうなってしまうか、それがとても心配。殺す覚悟なんて、実際に殺してしまうまで、本当に覚悟できていたかどうかなんて分からないし」
実力的には全く心配する必要がなくても、相手を殺めてしまった場合の精神的な負担という点について心配しかないのは、ネルネシアのみならずファティマもフェニアも同じだった。
思わずといった調子で口を挟んだのは、従者らしく口を閉ざしていたシエラだ。この中ではレニーアについで人類との戦闘経験があり、またその手を血で染めて来た人物となる。
「陛……ドラミナ様やドラン様ならば、その点は心配しなくともよいでしょう。同じくディアドラさんに関しても、あの方の死生観を考えれば敵を葬る事に特別な感傷は無いでしょうから。
ネルネシア様の言われる通り、クリスティーナ様とセリナさんは大いに案じられるところですが、ドラン様達がみすみす二人に手を汚させるとは考え難い事です。何かしら手は打っておいででしょう」
シエラは途中で出しゃばってしまったと口を閉ざそうとしたが、むしろ意見を全て述べた方が良いと考え直し、言い終えてから謝意を込めて頭を下げた。
姉の如く慕う半人間半バンパイアの従者の言葉に大いに慰められて、ファティマは何時もの人懐っこい柔らかな笑みを取り戻して口を開く。
「そうだねえ~。ドランもドラミナさんも本当に過保護だしね~」
口にこそ出さなかったものの、フェニアもクリスティーナとセリナの精神面に関しては殊のほか心配であったから、シエラの発言には扇で隠した口から安堵の吐息を零した。それを見てから、レニーアはそういえば、とこんな事を口にするのだった。
「ふん、それにロマル帝国と違って、アークレスト王国に来た魔王軍の連中はほとんど全ての兵隊が蜘蛛と人形だ。倒したところで罪悪感なぞ抱かんだろうさ。
まあ、少しは人類に近い姿の魔族もいるらしいが、そいつらの相手をわざわざしなければ良いだけの話だし、それこそドランさんとドラミナか、それか他所の領主の兵隊が片付けるのではないか?」
それが下手くそな上に遠回しなレニーアの励ましというか、慰めであるのを、この部屋にいる全員が理解していたのはきっと幸いだった。
そしてガロア魔法学院の友人達に心配されているクリスティーナはと言うと、今は領都ベルンの屋敷を離れて前線にその身を置いていた。
ドランとセリナ、ディアドラとベルン軍の活躍によって、一度、魔王軍を退けて戦線を大きく後退させた後、編成の終わった諸侯連合軍と合流して魔王軍と連日戦闘を重ねていたのだが、その途中からドラミナを伴ったクリスティーナも合流したのである。
名目上は諸侯連合の首脳陣との顔合わせと合流後の行動についての打ち合わせを、領主直々に行う為としている。
実際、クリスティーナは合流して数日の間は大人しく諸侯の派遣した将軍や騎士団長といった面々と行動を共にしていた。
そう、数日の間は、である。
多くの種族が共生するアークレスト王国においては、何処の領地にせよ単一の種族で軍が構成されている例はない。
その中でも下から数えた方が圧倒的に早い小規模なベルン軍であるが、数に反比例するかのように所属する兵士の種族の数は諸侯連合の中で群を抜いている。
加えて各地から勧誘した変態じみた天才や鬼才達によって、独自の改造が施された装備の数々が、他の軍との足並みを揃えるのを大いに阻害していた。
実際に諸侯の軍と合流してみれば、ベルン側はやはり足並みを揃えるのは難しい、と予想通りだったと落胆し、諸侯側からすれば歪というか出鱈目な軍だ、というのが素直な感想となる。
そうなるとベルン軍はそれ自体を諸侯連合からは切り離し、小回りの利く遊撃部隊としての役割を任せる、というベルン側の事前の予想通りの結論に落ち着いた。
諸侯連合という大きな駒が魔王軍を受け止めて、ベルン軍が状況に合わせて魔王軍の後方から、あるいは横腹を、またあるいは更に後方にある基地への攻撃を行うという大まかな戦略が立てられた。
だが、この戦略はこれまたベルン側の予想通りの展開によって覆された。一応、諸侯連合側にも伝えてはいたが、まさか、と信じられなかった展開――魔王軍が、諸侯連合を無視してベルン軍を追う、というものだ。
クリスティーナはジョウガン要塞に身を寄せていたが、ヴェンギッタは先だってのディアドラ及びベルン軍との戦闘で、平凡な万単位の軍勢よりも非凡極まりない数百のベルン軍を極めて危険視したのである。
クリスティーナへの執着もあるが、魔六将の一角として、ヴェンギッタはベルンの危険性を大きく重要視していた。これには冷静な思考と視点を保持していたクインセも同意している。
ベルンの関係者、特にその上層部は一騎当千どころか一騎で万の軍勢以上の怪物ぞろいなのだ。諸侯連合の相手は怪物を退治した後でも十分にできる、と生きた人形と青い小蜘蛛は判断したのである。
そうした結果、出来あがったのが少数のベルン軍を追う魔王軍を諸侯連合数万が追いかける、というなんともチグハグな、戦争の常道から外れた戦絵図だった。
予想外の動きに諸侯連合の将軍らが流石に動揺している間に、クリスティーナはこっそりとジョウガン要塞を出てベルン軍を率いるドラン達と合流し、そのままベルンには戻らず軍と行動を共にしている。
そうなってくると、やはり安穏と――軍の中でだが――後方に座していられないのがクリスティーナである。
かつてドランやドラミナは身の安全は全く心配していないが、クリスティーナが安易に前線に出て暴れまわると、ベルンの領主は自ら前線に赴いて戦うのが習わし、などという悪習が誕生しかねない、とクリスティーナの前線での戦闘を禁じていた。
ただ、今回はそのクリスティーナに執着するヴェンギッタが相手である事から、クリスティーナがこの状況の維持の為と領主が前線に赴いて戦うのは、クリスティーナのみが例外であると定める、とドランを説得した為、戦闘に参加している。
超人種として覚醒し、いまや神通力を自在に操り、人型の生物としては惑星最強の一角に名を連ねるクリスティーナが、だ。
例えドラッドノートなしでも、古神竜の力を使わないセリナとディアドラに完勝出来る戦力が、戦闘に投入されたのである。
そして魔法学院の学友達が生命と精神を案じている頃、当のクリスティーナは愛剣エルスパーダとドラッドノートを振るい、ベルン兵達に自分達は必要ないのでは? と思わせる戦いぶりを見せていた。
「斬るぞ、エルスパーダ!」
クリスティーナの呼び掛けに応じて、柄に象嵌された魔晶石が光を放ち、エルスパーダのミスリルの刃が青白い輝きを纏う。
翼を広げた竜を思わせる意匠の白い兜に同色の鎧で身を守るクリスティーナの周囲に、味方の影はない。多種多様な職業の、多種多様な種族の人形――ヴェンギッタ達が十重二十重と囲い込んでいる。
ベルン軍の売りである魔操鎧部隊や歩兵部隊、ゴーレム部隊も彼女を救出する動きを見せていない。
クリスティーナの救出を諦めた? 否、する必要がないから。
クリスティーナが孤立した? 否、彼女の邪魔をしない為だ。
青白い軌跡が歪みの無い円を描いた。エルスパーダの一閃だ。クリスティーナを四方から囲い込み、襲い掛かっていたドワーフやエルフ、虫人の人形達が首を、胴を断たれてその場に崩れ落ちる。
クリスティーナの常軌を逸した戦闘能力を数日間味わい、ヴェンギッタはクリスティーナに差し向ける人形を全て戦士や武人型のものに切り替えている。
一体一体が本物の達人と言われる者達に匹敵するのだが、ただの達人程度ではクリスティーナの足を止める事すら出来ない。
「ふ、もう私を生きたまま捕えようとは考えていないようだな」
クリスティーナの周囲では後方の砲台ゴーレムや魔法使い達からの砲撃が加えられ、ソレに反撃するヴェンギッタ達からの砲火と爆音、爆発に土煙が連続している。
その中でのクリスティーナの独り言であったが、答えは彼女の頭上から影と共に振ってきた。
「美しき人よ、私は美を求むる探究者、美に捕われた愚か者。しかし、こんな私にも仲間がいるのだ。私にも越えてはならぬ一線は理解できている」
嘆き、賛美、憤り、様々な感情を含む声と共に影からは巨大な槍の穂先がクリスティーナの顔面へと突き込まれる。
穂先の大きさもさることながら、大気との摩擦により赤く熱せられた刃が、突きの速度の凄まじさを物語る。
それを易々とエルスパーダで受け止め、伝播した衝撃が周囲の大地を吹き飛ばしても、膝をわずかも曲げないクリスティーナもクリスティーナだが。
「魔王軍という単語から連想するよりもずっと、君らは仲間への情に厚い連中だな」
クリスティーナは、ずん、と超重量の物体が着地する音を伴って降り立ったヴェンギッタの姿を見上げながら言った。
今のヴェンギッタは、屈強な馬の下半身に人間の上半身を持ったケンタウロス型となっていた。馬の下半身も含めて隙間なく鎧を纏っており、造作の見事さもあって人形等ではなく、伝説的なケンタウロスの武人が姿を見せたかのようだ。
「故に君の美への探求は君の亡骸を得てからにする」
言葉の内容は無視して声の響きだけを聞けば真摯ですらあるヴェンギッタに、クリスティーナはああそう、という顔になる。ここ数日間、ヴェンギッタの相手をしていてこの手の会話に慣れたのである。
「ならば私は全ての君を斬り捨てて、間違っても骸が渡らぬように努力しなければな! そのケンタウロス型の人形で私を仕留められるか!」
「これなるは私が作り出した全十三体存在する戦闘用超特化躯体の一つ。美への探求よりも武への探求を重視せし切り札、カイゲイロンと記憶に刻んでおくれ」
「そうか、ならばその十三体、全て私が修復できない程、切り刻んでくれる!」
エルスパーダと大槍が離れ、ついで生じたるは竜巻の如く衝撃波と突風を周囲へと吹き荒らす熾烈な刃の応酬。
斬る、薙ぐ、突く、叩く、潰す――あらゆる角度から大槍が襲い掛かり、その全てを魔剣と古神竜殺しの剣が弾き返し、蹄を鳴らし、大地を砕いて動くケンタウロスの巨体へ反撃の刃が迸る。
秒間数十、あるいは百を越える攻防など、彼らのような超人か神話に出てくるような怪物でもなければ、割って入る事など出来はしない。だから、クリスティーナは供もなしに前線で暴れ回っていたのである。
しかし、クリスティーナに対する援護が全くないか、と言えば限りなく必要ないとはいえ、一応無いわけではなかった。
ベルン軍の後方、砲台ゴーレムや砦ゴーレムらが位置する場所に、蝙蝠を思わせる翼を広げて空中に佇む美貌の主が居た。ドラミナだ。
バンパイア故に地に落とす影を持たぬドラミナは、全身鎧の神器ジークライナスと三つの目の意匠を持つサークレット型の神器ガルシオンを纏い、右手には弓へと形を変えた神器ヴァルキュリオスを携えている。
あらゆる魔眼による干渉を無効化し、そればかりか魔眼を食らい、吸収する魔眼食いの特性を所有者に付与するガルシオンは、ドラミナ生来の魔眼に加えて千里眼としての能力を付与している。
左手には弓同様ヴァルキュリオスが形を変えた矢が指と指の間に四本挟まれ、ドラミナはゆったりとした動作で弦に矢を番える。
「あの人形はクリスティーナさんにお任せしましょうか。私はこれまで通り味方の死者を出さない戦い方を致しましょう」
ベルン軍の傾向として一人でも多くの敵を殺傷するよりも、一人でも少なく味方の被害を減らすのを重視している。
クリスティーナの供として前線に参陣したドラミナもそれに倣い、主にガルシオンで視力と視界を補強した上で弓矢による狙撃を行い続けている。時折、クリスティーナに援護の矢を送る事もあるが、今は必要なさそうだ。
ベルンに属する以上、ドラミナが真っ先に救いの矢を放つのは窮地に陥ったベルン兵なのだが、これはディアドラとドランのさり気ない救助と兵士達の奮闘もあり、それ程機会に恵まれなかった。まことに良い事である。
ではドラミナが矢を放たずにいたかと言えば、そうではない。
ベルン兵に助けの手は要らずとも、魔王軍を挟んだ反対側で主にクインセの眷属たる大蜘蛛・小蜘蛛といくらかのヴェンギッタ人形を相手にしている諸侯連合兵に、ドラミナは救いの手もとい矢を放っていた。
「長らく戦争から離れていたにしては、王国の兵は練度が高いですが、今回は相手が悪いですね。では、まず……彼女から助けましょう」
限界まで弦が引き絞られ、一万頭の馬にも勝るドラミナの豪力が矢を離した時、神器の矢は比喩ではなく稲妻に勝る速さで大気を貫き、遠方の諸侯連合と魔王軍の前線のある場所へと飛ぶ。
紫色の大蜘蛛に圧し掛かられ、がちがちと噛み合う牙に首を噛み千切られる寸前だった若い猫人の女兵士は、思わず目を瞑った瞬間、大蜘蛛の重量が消えてなくなったのを感じた。
必死に彼女を助けようとしていた味方の声も途絶え、何かもっと恐ろしい事が起きたのかと怯えながら目を開いた彼女に飛び込んできたのは、大きく膨らんだ臀部だけを残して消失した大蜘蛛の残骸だけだった。
何が起きたか分かっていないのは殺される寸前だった彼女だけでなく、仲間の兵士達も同じだった。
彼らの眼には遥か遠方からバンパイアクイーンの放った矢が、大蜘蛛の頭部を貫き、あまりの速度と威力によってそのほとんどが吹き飛んだ映像が映らなかったのである。
「え、なに、なになになになに!?」
自分が助かった事実がまだ浸透していない女兵士は、周囲でも大蜘蛛と小蜘蛛を問わず突然消し飛ぶ現象が連続するのに気付いて、上半身を起こして半泣きになりながらキョロキョロと周囲を見回す。
しばらくの間そうしていたが――そうしていられる程、彼女の周囲の安全は確保されていた――直に、自分達を援護するように魔王軍の恐ろしい蜘蛛と人形だけが消し飛んでいるのに気付いて、女兵士はペタンと耳を倒して思わず呟いた。
「かみさま?」
その女兵士の呟きをたまたま目撃したドラミナが困ったように微笑したのを、当の彼女は知る由もなかった。
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第三百四話
ヴェンギッタがカイゲイロンに続き、この戦場に持ち込んだ他の切り札を投入して戦闘の激しさを更に増している間、彼らの上空でもベルンの盟友たる竜種と魔王軍の旗の下に集った偽竜達の戦いは行われていた。
モレス山脈の知恵ある竜達に率いられたワイバーンと、偽竜の配下であるネイバーン達による多数と多数の戦いは、近隣諸国の保有する飛竜騎士団をかき集めても及ばぬのではと思わせる物量に達している。
竜種の軍勢同士の激突など歴史を振り返ってみても滅多にない事態は、見るものによっては天変地異の前触れかと思うような迫力に満ちている。
地上で戦うアークレスト王国と魔王軍の兵士達には、上空で行われている戦闘を子細に観察する余裕などなかったが、もし魔法による視力強化が行える者や両国の戦いを盗み見ている第三者がいたならば、知恵ある竜種達の激突にこそ目を奪われていただろう。
巨体でありながら音よりも速く飛翔して自由自在に飛び回り、生来の強靭な肉体とそれを覆う鱗、膨大な魔力による障壁は城塞並の堅固さを誇り、高度な知性によって編まれる竜語魔法は地平線の彼方の敵すら捕捉し、地形を変える威力の攻撃を嵐の如くばら撒く。
知恵ある竜種ですらこの基準に達するが、更に上位の古竜ともなれば更に一段上の戦闘能力を保有する。モレス山脈の古竜の中で特に注目すべきは、やはり彼女――ヴァジェであろう。
「おおおおーー!」
ヴァジェの全身から発せられる炎熱は、それだけで騎乗者ごとネイバーンを灰も残さずに蒸発させる程の高温だ。
炎熱を四方八方に放射し続けるヴァジェが、超音速で戦場を自由自在に飛び回るとなれば、偽竜陣営の被る損害の凄まじさたるや悲惨の一言に尽きる。
炎に呑まれて黒い影を映して消えるネイバーンは悲鳴を上げる事も出来ず、ヴァジェの脅威に気付いた偽竜達が彼女を止めようと殺到する。
「ちい、またあの深紅竜か!!」
「好き放題やってくれるっ」
青と赤二色の鱗を持った三つ首の偽竜が炎と水のブレスを放ち、続いて黄土色の鱗と体長の半分にも達する巨大な口を持つ偽竜が、大口の奥から純粋な魔力を圧縮した光弾を撃ち放つ。
どちらも一撃で小さな砦一つなら跡形もなく吹き飛ばす威力を持つが、連日連夜の戦闘で偽竜達を血祭りにあげ、調子を上げているヴァジェにとっては翼を止める理由にはならない。
鎧代わりに纏う炎熱の温度を更に上げ、命中軌道にあるその全てを燃やし、それだけでヴァジェは気にも留めない。知恵ある竜種と同等の偽竜達の一撃でさえ、ヴァジェに防御と回避を意識させるには足りない。
「貴様ら偽竜は滅ぼす――我ら真なる竜種の本懐を果たさせてもらうぞ。わはははははは!」
ヴァジェの高らかな笑い声が青空に響き渡り、膨大と表現するのも虚しい深紅の炎がヴァジェの全身から放出されて、攻撃を仕掛けて来た偽竜二体とネイバーンへ天災の如く襲い掛かる。
空を埋め尽くす深紅の炎はそれだけで一つの都市を灰に変えられる。古竜の中でも上位のヴァジェの一撃に、偽竜達は全力で防御に徹せざるを得ず、ネイバーン達の何体かは偽竜に守られ、ほとんどはこれまでの戦闘でそうだったように灰も残さず消える。
ヴァジェのみならずモレス山脈の竜種達の攻撃も激しさを増し、魔王軍の偽竜達との戦いは徐々にモレス山脈側が優勢に推し進めて行く。
ヴェンギッタとクインセに同道していた偽竜達の多くはかなりの数が撃墜されていたが、魔王軍本隊から派遣された増援部隊が合流し、数の上では未だにモレス山脈側を上回っている。
一方でモレス山脈側の竜種達は、魔法具アリアドネによって絶命を免れ、後方の神々やその眷属をあり得ない程含む治療部隊によって瞬く間に治療され、前線に復帰するものだから、実戦の経験を積んでより強くより賢くなった者が常に戦闘に参加し続ける状態が継続されている。
数で勝る魔王軍側がこれまで制空権を握れずに居るのには、ヴァジェを筆頭とする突出した個体の存在もさることながら、モレス側の竜種達を撃墜しきれないのが大きな理由だった。
「下の人形や蜘蛛共同様に貴様らの粘り強さは大したものだろうが、いい加減、貴様らの顔も見飽きたぞ!!」
三つ首の偽竜の上を取り、彗星の如く襲い掛かったヴァジェは回避を許さず、偽竜の張った障壁をぶち抜き、その脊髄に炎を纏う爪を叩き込み、鱗を砕き、肉を焼き、骨を掴んでありったけの炎を体内にぶちまける。
体の内側から炎で蹂躙され、目や口から炎を吐きながら絶命する三つ首の偽竜の背から離れ、ヴァジェは次なる獲物を求めて視界を巡らせた。
*
真偽双方の竜種達の戦いが深紅竜の大暴れでベルン・モレス同盟側に優位に進む中、地上の戦線で後方にて待機している陸上戦艦の艦隊は、友軍への支援砲撃を行う余裕を持たずにいた。
双方の保有する技術の格差から考えれば、遥かに射程で勝る魔王軍側が一方的に砲撃を加えられるにもかかわらず、彼らは味方への支援を行えずに自分達の身を守らざるを得なかったからである。
増援を加えたメギン級陸上戦艦十隻はマラハウ大佐指揮の下で、先日、艦隊を襲ったのよりも更に一回り巨大化したジャヌーラと戦っていた。
密度を増し、内包する魔力量を増やしたジャヌーラは巨体からは信じられない速さで大地の上を這い、時には跳ねてメギン級に巻き付き、尾で薙ぎ払い、噛みついて毒を流し込んで内部から融解させるなど、ヴァジェに負けず劣らずの暴れぶりを見せている。
マラハウの乗艦であるメギン・オルの左舷には、ジャヌーラが砲弾代わりに飛ばした毒液によって防御障壁と装甲の双方が融解し、爛れた皮膚を思わせる穴が開いていた。
そこからジャヌーラが動くたびにばら撒かれる小型の魔蛇が侵入し、内部を制圧すべく暴れている。
「ええい、内部に侵入した蛇共はすぐに始末しな。副砲には対魔法散弾を装填、ばら撒かれている蛇の駆逐を優先。砲弾は間違っても味方に当てるんじゃないよ。その代わり機銃は構わずお射ち! 銃弾じゃ戦艦の装甲は貫けないんだからね。前線はどうなっている!?」
苛立たしげな表情を隠しきれないマラハウの問いに、紫色の肌と五つの目を持った魔族の女性通信士が答える。
「ヴェンギッタ様、クインセ様、更に後退しています。既に戦闘開始より三キロリ後退。敵勢の勢いが止まりません。航空隊も敵古竜を抑えきれず、被撃墜が多数」
「ちぃ、ベルンか。とんでもない強敵を引いたもんだが……詠唱者の特定は?」
「ベルン本陣後方にてジャヌーラと同種の魔力波長を探知。詠唱者と思われます。クインセ様が向かっておられますが、現在、敵勢力と交戦中。拘束されています」
「魔六将二人を単独で抑えられる相手が多いね。まったく。ヴェンギッタ様とクインセ様にいつでも撤退できるよう伝えておきな。いいね!」
それは実質、敗北を認める発言であった。魔王ヤーハームの大号令によって実現した南方への侵略戦争の第一陣を任された彼女らが、さしたる戦果も挙げられぬままに敗北して自領へと逃げ戻るなど失態も良いところだ。
魔王軍の気質を考慮したとしても、マラハウは責任を負わねばなるまい。マラハウもそれは分かっているだろうが、撤退の準備を指示する彼女に責任の追及を恐れる色はない。
「同じ敗北者でも、部下を無駄死にさせるよりはましさね」
噛み締めた歯の奥で零れたマラハウの言葉は、艦橋の誰の耳にも入らなかった。
マラハウが険しく見つめる正面の強化硝子の向こうには、こちらに向けて大顎を開き、牙から毒液を滴らせるジャヌーラの姿があった。
かつてはクインセが退けた巨大ジャヌーラの詠唱者とは、もちろんセリナである。クリスティーナが飛び出したため、最も守るべき者のいないベルン軍の本陣後方にて、セリナは故郷の同胞達と共に大きな魔法陣の上に立っていた。
セリナを含め、ジャルラの里で最も固有魔法を得意とする七名が魔法陣の起点に座し、セリナへと個々の魔力と肉と魂に宿る魔蛇の呪いを集めて、ジャヌーラを遠隔地で発生させ、操るという離れ業を実行しているのだ。
ジャヌーラと感覚を強く繋げたセリナには撃ち込まれる砲弾の感覚や鱗と弾き合う障壁の感覚も反映されているが、ラミアの領域を越えた魔力にものを言わせて痛覚の類は遮断し、セリナはふぬぬ、と唸り声を出しながらジャヌーラを操る作業に集中している。
「ふぬぬぬ、まだ一隻も沈められないいい~~。すごく粘り強い方達ですね!」
セリナが前方に向けて突き出した両手を回したり、左右に振ったり、曲げたり、とせわしく動かすのに合わせて遠方のジャヌーラも動きを変えて艦隊に襲い掛かり、時に長大な体のそこかしこを命中した砲弾の爆炎と煙で彩りながら一隻もいいから沈めてみせんとする。
セリナはジャヌーラの操作に集中していたが、他のラミア達はそれ以上にセリナの常軌を逸した魔力量と操作技術に長い蛇舌を巻く思いをしていた。
モレス山脈にあるジャルラの里に居た頃は優秀な魔法使いという評価だったものが、今はラミアの姿をした別の生き物としか思えない。
魔法陣を介して一時的に感覚を繋げているからこそ、尽きぬ泉のように溢れ続けるセリナの魔力とジャヌーラから反映される感覚を遮断する精緻な技術には驚嘆しかない。
たった一年と少しで別人と言いたくなるほど、強力な魔法使いへと成長したセリナに、彼女達はベルンと手を結ぶ事の出来た幸運を同時に感じるのだった。
魔王軍の陸上艦隊を抑える要であるセリナ達には、むろん、相応の護衛が付けられており、戦闘用ゴーレムのベルターを始め、一部の魔操鎧とディアドラの姿もあった。
ディアドラは本陣とセリナ達との中間地点に居るのだが、先のヴェンギッタ戦で受けた枯死の呪いによる負荷を考慮し、前線に出るのを控えた為でもある。
「とはいえ何もせずに休んでいるわけにも行かないわよねえ」
自分の黒薔薇で形作った椅子に腰かけて、ディアドラは口に咥えていた
煙管にはエンテ・ユグドラシルの葉を乾燥させたものを詰めており、これに火をつけて発生した煙を吸って、体の調子を整えているのだ。
ドランを始め人間に扮した神々とディアドラを治療する術はいくらでもあり、実際、ディアドラの治療は終わっているものの、念には念をと万全を期した措置である。
「ん、人形だけでも多いのに蜘蛛の方も数が多いわねえ。諸侯の兵隊さんも出来るだけ助けるとなると手間だわ。まあ、掛けるだけの価値のある手間かしらね」
ディアドラは右手の煙管を咥え直し、ぷかぷかと煙の輪を吐きながら、空いている左手でパチン、と指を鳴らす。
その瞬間、予め戦闘を予測された地域にばら撒いておいたディアドラの種が芽吹き、無数に花を咲かせると対クインセ用に特別に調整した黒薔薇の猛毒の花粉と香りが周囲へ放出される。
人類に影響はなく、クインセとその眷属達を葬る事だけを念頭に調整された黒薔薇の毒は、戦場のそこかしこに居た蜘蛛達を襲って彼女らの呼吸器に致命的な損傷を齎す。
「体の大きさだけでなく、格の高さも毒の耐性の高さに繋がっているわね。一番厄介な雑兵を黙らせられれば、私の役目は果たせるからいいか」
ディアドラは再び煙管を咥えてプカプカと煙を吹く、
「ふふ、まるで竜にでもなったみたいで、面白いわね、これ」
どうやら煙を吹くのがお気に召したらしい。
クリスティーナはヴェンギッタを相手取り、ドラミナは救命の矢を放ち、セリナは艦隊を撃滅せんとし、ディアドラはクインセの眷属らの迎撃に尽力している。
ならばドランは?
むろん、この戦場にいる。
セリナ達ジャヌーラの詠唱者を仕留めるべく動いたクインセを迎え撃つ為に、ドランは前線と本陣の中間地点、ただし、巻き添えを防ぐ為に戦線から離れた場所で戦っていた。
「ふむ!」
周囲に兵士達の姿はなく、かつての暗黒の荒野らしく緑など存在しない赤茶けた大地と岩ばかりの中で、ドランが縦一文字に振るった竜爪剣の剣圧が底が見通せないほど深い亀裂を生みだす。
それをかろうじて避けたクインセは周囲に荒れ狂うドランの魔力と衝撃波に小さな体を揺さぶられながら、無数の蜘蛛糸を操って何とか岩塊の一つに着地する事に成功する、
「コれハ、これほドとハ!!」
びうん、と大気を切り裂く無数の音を重ねて、人間の目には映らぬ糸の斬撃がドランの四方八方から襲い掛かる。
千、万単位の軍勢を一瞬で葬れる蜘蛛糸を、ドランは軽く左手を振るい、それに伴って放出された竜種の魔力が蜘蛛糸を消滅させる。
「セレスティアルジャベリン」
詠唱を破棄して行使された魔法は、天から降り注ぐ無数の光の槍となってクインセへと襲い掛かる。
クインセの周囲には彼女の神代の怪物の魔力が籠った蜘蛛糸が無数に渦を巻き、また格子状に重なって不可視の守りとなっているが、セレスティアルジャベリンの穂先は蜘蛛糸を呆気ない程簡単に切り裂いてくる。
「いケナい、これは……」
はるか遠方の空に浮かぶ雲に結びつけた糸を手繰り寄せ、襲い来るセレスティアルジャベリンを回避するクインセの正面に、大地を蹴って跳躍し、大上段から竜爪剣を振り下ろすドランが襲い掛かる。
「はあああ!!」
「ハあアっ!」
この距離で回避は間に合わないと判断したクインセは瞬時に全魔力を両前脚に集中させ、頭上で交差させて竜爪剣を受け止める。が、即座にこれを後悔した。
オリハルコンを鍛え上げた刀剣や槍を受け止めて来た己の甲殻が、刹那の時すら受け止めきれずに刃が食い込んできている!
ここに到ってクインセは代償なしにこの場から退く事は出来ない、と認める他なかった。
「グ、ギィ!」
クインセの意思で竜爪剣に半ばまで断たれていた前脚二本を根元から外し、自身は全力で後方へと飛びのく。竜爪剣の切っ先が浅く地面に触れたところで止め、ドランは竜爪剣を鞘へと納めた。
「脚を捨てたか」
クインセを撃退する少し前、クリスティーナが三体に数を増やしたヴェンギッタの特別な躯体を、ドラミナの援護もあって撃破しているのをドランは把握していた。
ディアドラの黒薔薇の毒によって蜘蛛の兵隊達は本領をまるで発揮できず、魔王軍後方の艦隊はセリナを中心としたラミア達の尽力で支援出来ずにいる。
それに加えてヴェンギッタの最高戦力の撃破とクインセの後退が続き、魔王軍が戦線を放棄して後退する動きを見せ始める。
ドランとしては後退を決断するまでの速さに感心していた。ヴェンギッタとクインセが敗北するよりも前から、撤退の指示を下していたのだろう。
「判断の速い指揮官だな。だが、この戦場での勝利は私達のものだ。やれやれ、自分以外の誰かの命も考えながら戦うのは、やはり難しい」
魔王軍とベルン軍の激突から始まった、アークレスト王国の緒戦となる一連の戦いは、後にアグラリアと名付けられた地域での戦いで一旦幕を閉じた事から、アグラリア戦役と呼ばれるようになる。
時を同じくしてロマル帝国も魔王軍の一時的な撃退に成功したのだが、本国からの増援と合流して戦力を増強した魔王軍とアークレスト王国、そしてロマル帝国のより本格的な大戦争へと続いて行くのだった。
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第三百五話
後の世にアグラリア戦役と呼ばれる、魔王軍によるアークレスト王国第二次侵攻が終わり、数日が経過したベルンにて。
村ではなく領都と呼ぶのが相応しい規模になったベルンには、王国に留まらず周辺諸国から呼び集めた変人・奇人、天才・奇才、変態と呼ぶべき有能な人材が集っている。
経済的な事情や同業者達から嫌われて表舞台に立てず、歴史の闇に埋もれていた彼らはベルン側から提示された膨大な資金と資材、研究施設提供等の条件から、集まった人々だ。
日々、多くの失敗と遥かに少ない成功が繰り返されているのだが、その研究成果の一つがベルンの各地で活躍している。
大きな通りや人々が足を止める頻度の高い交差点、あるいは数少ない高層建築物の壁面、あるいは人々の集まる広場等にソレはつい最近設置されるようになっていた。
白い金属の枠に嵌められた、一般家庭の家屋の壁程もある巨大で分厚い硝子状の一枚板が、その後ろ側からいくつもの管を伸ばした状態で壁や立て板に設置されている。
もしここに昨年の競魔祭でドランと激戦を演じたハルトが居たなら、彼の故郷にある品を思い浮かべて、テレビ? とでも呟いただろう。
黒一色に染まっていた巨大な板の画面にプツっという小さな音と共に光が灯り、見慣れた者は足や作業の手を止めて視線を向け、初めて見る者は驚きと共に視線を向ける。
画面の中にはベルン男爵領の家紋の描かれたテーブルクロスの掛けられた机と、品の良い純白のドレスを身に纏い、巻きあげたオリーブ褐色の髪が目を引く鳥人の女性が映し出された。
女性の前には『ホロミス』と書かれたプレートが置かれている。
『皆様、ごきげんよう。本日のベルン男爵領の出来事をお伝えするベルン公式放送の時間です。本日の放送はわたくし、ホロミスがお伝えします』
神妙な顔でモニターの向こう側から話しかけてくる女性の姿に、初見の人々が驚きの声をあげ、またあるいはぽかんと口を開くという分かりやすい反応を示す。
その内の一人である年かさのドワーフの商人は、露店で昼間から麦酒を立ち飲みしていたのだが、思わず露店の主である山羊人の若い青年に問いかけた。
「お、おいおい、店主よ。ありゃ、なんじゃな? ベルンのあちこちにああいう板みたいなもんが掛っているのは知っとったが、ああして人が映って声を出すなんぞ、どういう仕掛けじゃ」
店主の方はもう何度も目の前のドワーフのような反応を見てきた為に、慣れた調子で質問に答えてやった。酒のツマミにと炙った鳥の胸肉と、チーズを乗せた小皿もついでに出しておく。
「見ての通り、聞いての通りさ。他の領地でも領主からのお触れが掲示される事があるだろ? それをああして喋って伝えているのさ。詳しい事はおれだって分からんけど、声と映像を遠くに伝える魔法の応用なんだと。
男爵様のお屋敷の近くに、ベルン放送局っていう組織の建物があって、そこで今、撮影しているものをああしてあちこちに流しているんだよ」
ドワーフの商人は分かっているのかいないのか、ほーと気の抜けた声を出しながら、皿に盛られたツマミを口に運んでは麦酒の注がれた硝子のジョッキを口に運ぶ。
「あれなら、文字の読めん者でも領主からの知らせが一発で分かるっちゅうわけか。しかしまあ、贅沢な事じゃわい。
魔法の品をああも大胆に使う財力もそうじゃが、他で目にした事のない品を実用する技術力と発想もすごい。ここはやはり台風の目になる土地じゃな。戦争中でなけりゃ、もっと人が集まっとったろうな」
「お客さんはここに来て日が浅いんだな。日に日に人は戻って来ているんだよ。幸い、戦争は勝っているみたいだし、男爵様が色んな物を買い上げてくださっているしな。お客さんだって、それ目当てで商売をしに来たんだろ」
「おうよ。ドワーフの精錬した金属類はどこでも人気じゃが、ここでは今のご領主が赴任してから貪欲に買い集めておるからの。ましてや戦争がはじまったとあっちゃ、ますます量が必要になるわな」
「戦争か、早く終わって欲しいもんだよ。あの放送だって普段は歌自慢の連中が集まって歌を歌ったり、素人や大道芸人の連中の楽器の演奏を流したり、劇団の芝居を放送したりって、皆の楽しみになっているんだぜ。戦争が始まってからは、戦争の事を放送する時間が増えちまった」
「そりゃおめえ、戦争なんだから仕方ないわな。ベルンだけじゃなく北方の諸侯を集めての
「まだ戦場から戦死者や負傷者が戻ってきていないし、色んな教団の神官様達が医者として従軍してくださっているお陰だろうな。お、ちょうど戦況の事を放送するぞ」
『暗黒の荒野から南進してきたムンドゥス・カーヌス国の魔王軍と、ベルン男爵率いるベルン軍ならびに諸侯の連合軍の戦闘が終了したとの事です。魔王軍は北方へと撤退を開始し、現在、ベルン男爵と諸侯はジョウガン要塞に向かい……』
このようにベルンにて魔王軍の撃退成功の知らせが堂々と放送される中、ベルン北西に建設されたジョウガン要塞へと入ったクリスティーナと諸侯達は、まさしく放送の通りに今後の対応について会議を開こうとしていた。
魔王軍との戦闘による被害や消耗した物資の把握、撤退した魔王軍の動向の確認等が一通り済んだ後の事である。
建設が進み国防の要となる要塞に相応しい威容を誇るに到ったジョウガン要塞だが、要塞に待機する兵士達はベルン軍と同盟相手の姿に多くは顔を引きつらせ、多くは自分の目を疑った。
砲台を乗せた自走型のゴーレム達は、まだいい。大型の生物に大砲を牽引させて使用するという例がある為、まだ理解が出来る範囲だ。しかし、足を生やすか、魔王軍の陸上戦艦のように履帯を使って動く砦となると目を疑わざるを得ない。
魔王軍の陸上戦艦の存在もアークレスト王国兵の度肝を抜いたが、味方にも似たような真似をしている連中がいるとは知らなかったのである。
魔王軍への監視網を兼ねて暗黒の荒野各地に点在するベルンの砦ゴーレムの内、三体程が有事に備える意味もあって、ジョウガン要塞へ集まっていた。
そして砦ゴーレム以外にも彼らを驚かせたのは、知恵ある竜達が何体もジョウガン要塞の敷地内に降り立った事だ。
ベルン経由とはいえアークレスト王国軍はモレス山脈の竜達にとっても同盟相手となる為、今後の方針に関しては彼らも情報の共有と意見を交わす必要性を感じ取った為の措置である。
なおそのような隔たりの大きな異種間での意見交換という繊細な作業をヴァジェが行えるわけもなく、今はドラゴニアンの姿になってセリナ達が待機している砦ゴーレムに遊びに行っている。
その他の竜達は敷地内に降り立った後、普段、領都ベルン以外では人間を見る機会の稀な彼らは、大小の差はあれども興味深そうに緊張しきっている王国兵達を観察している。
同じ敵を相手に戦ったとはいえ彼らはあくまで空のみを戦場としていた為、地上で戦っていた人類の兵士達をつぶさに見る機会はなかったのである。
そうして交流と呼べるほどのものではないが、とりあえず危険性のない人間と竜種の接触が成されている中、要塞の中庭に面する会議室の一つで、今回の連合の上層部の中の上層部と呼ぶべき者達が顔を突き合わせていた。
アルマディア家から派遣された黒狐人のカジョカ将軍を始め、諸侯連合の中でも特に派遣元の家の影響力が強いか、派遣した兵力の大きな者達である。
その中にあって男爵位に過ぎず兵力はわずか五百余というベルン男爵家は、本来、この会議に出席する資格を持たない弱小勢力もいいところだ。
しかし、魔王軍との激戦を経た今、ベルン男爵家を侮る者達はこの場に居る筈がなかった。
わずか五百の兵は常軌を逸した装備に支えられて特上の質を有する精鋭だ。そして、それすら意識の外に吹き飛ぶ、数を容易く蹂躙する超常の力を誇る個を複数抱えている。
競魔祭で知らしめた力を遥かに上回る圧倒的な力により、魔王軍の将軍を相手に互角以上に戦いぬいたクリスティーナは勿論、今もこの会議室で傍らに控えている補佐官のドランとて、アークウィッチの後継者という噂が現実味を帯びる程の実力を見せている。
今後の魔王軍との戦いで、ベルン男爵領の力は絶対に必要なものだと、誰もが理解しているのだから。
それにはベルンの単純な戦力のみならず、伝手も含まれている。例えば、急遽、会議室の壁に空けた大穴から頭を突っ込んで、会議室に出席という事にした地竜が良い例だろう。
モレス山脈に住まう竜達の代表者として、出席している老地竜ジオルダである。秘めたる力は竜公級とも竜王級とも言われる老竜は、魔王軍の偽竜達との戦いでもヴァジェと並び多大な戦功を挙げている。
穏和な性格のジオルダだが、同時に現在の人類の技術水準を考慮すれば、およそ通常戦力では打倒不可能な規格外の怪物であるのもまた事実だ。
壁からにょっきりと頭を突っ込ませているジオルダを除けば出席者全員が円卓についていて、会議の進行役は年配の
熊人が熊の特徴を持った人間という容姿をしているのに対して、人熊は人間のように二足歩行し、それに合わせて多少四肢の寸法の変わった熊という姿をしている。
黒っぽい毛並みを幾つもの勲章で胸元を飾った軍服に収めたベアベ子爵は、ジオルダの存在にも動じず、会議の開催を宣言した。
「それではこれより対魔王軍対策会議を開催いたします。また今回はモレス山脈の竜種を代表し、地竜ジオルダ殿に御臨席いただいております。ジオルダ殿、本会議ではどうぞ忌憚のない御意見を下さりますよう、お願い申し上げます」
ぺこりと熊そのままの頭を下げるベアベに、ジオルダも動かせる範囲で首肯して返答とした。
「もっぱら偽竜の相手しかしておらぬが、相手方の空の戦力はおおよそ把握できた。貴殿らと情報を共有する重要性は理解しておるし、今後も奴らとの戦いでは共闘する仲じゃて、こうして顔を出す必要性も理解しているとも」
「今後もお味方として戦っていただけると仰ってくださるならば、我らとしても心強い事この上ない」
ジオルダの言葉に安堵したのはベアベだけでなく、他の諸侯やそのお付きの者達も同じである。
基本的な技術力に於いて魔王軍の方が一枚も二枚も上手であるのは、残念ながら認めざるを得ず、強大な空の戦力を有する魔王軍と戦うにはどうしたってモレス山脈の強力な竜種の助力が欠かせない。
その事を、魔王軍との戦いを経験した諸侯らは痛切に理解していた。もっとも、ドランとクリスティーナ達は、モレス山脈の竜種と自分達以外の人間達とが、なんとか協調していけそうだ、という意味で安堵していたけれど。
「さて、件の魔王軍――魔六将と呼ばれる特殊な役職に就いた強力な魔族、生き人形であるヴェンギッタと知恵を持つ蜘蛛クインセに率いられていた軍団ですが、竜の方々のご協力により、既にジョウガン要塞から軍で半月以上かかる距離まで後退しております。
今なお、暗黒の荒野の中心部、彼らの所属国であるムンドゥス・カーヌスを目指して後退を続けておりますが、これに関しては本国からの援軍と合流を図っていると思われます」
ベアベの発言に合わせて、出席者達は配布された手元の資料に目を通しながら、近くの席の者や同道させた者達と言葉と意見を交わす。ちなみにジオルダは念動――サイキックを用いて、自分用に特別大きく刷られた紙の資料を捲っている。
彼の右隣にはクリスティーナが座して、その後ろにドランが立ち、左隣にはカラヴィスタワーから出張してきた、ドラグサキュバスの女神リリエルティエルが座すという配置である。
出席者の一人が挙手をして発言を求めた。ネルネシアの実家であるアピエニア家から派遣された、茶褐色の鱗を持つ蜥蜴人の青年将校だ。
副官には歴戦の風格を漂わせる隻眼のダークエルフが控えており、将来有望な将校に経験を積ませる為にも派遣したといったところか。
アピエニアでは時折、ヴァジェがネルネシアとファティマを目当てに遊びに行き、ネルネシア本人とその両親、またあるいは領地の軍を相手に実戦さながらの模擬戦もとい遊びをしているから、ドラン達の次に竜を相手するのに慣れた人々だ。
「本国からの増援の可能性も考えられるが、ロマル帝国に向かった軍団との合流も考えられるのではないだろうか。かの地では内乱と後継者争いで国内が三つに割れているが、魔王軍を相手に皇女派と大公派が一時休戦し、迎撃に注力している。
最近、皇女と大公が魔王軍を率いていた魔六将に襲われたが、それを撃退して魔王軍そのものもこちら同様大きく前線を下げているという情報だ。こちらとあちらの手強さに手を焼いた者達が合流し、王国と帝国のどちらか一方をまずは叩こうとする可能性がある」
こと戦闘に於いてアークレスト王国で一、二を争う武闘派貴族のアピエニア家の情報網は、王国の外まで広く伸び、伝達速度もその内容の正確さも広く知られている。
その為にこの若き蜥蜴人の話す内容は、一笑に伏せる事の出来ない現実味を持って、会議に出席した諸侯の胸と耳に深く浸透する。
次に手を挙げたのは濃い褐色の肌と青い長髪を持ち、肌に白い塗料で文様を描いた女性である。髪の間と腰のあたりから蝙蝠の翼が生えている。蝙蝠人だ。
「敵軍を率いる魔六将。直接戦ったのはベルン男爵とその側近の方々だけでしたけれど、如何でしたかしら? 数で押せば勝てる相手でしょうか?」
蝙蝠人の女性――レステル伯爵の問いに、クリスティーナは予め想定していた質問だ、緊張するな、と自分に言い聞かせながら胸を張って答える。
出席者の中で最も若く、つい最近までまだ実績を作っている最中だった若人を、誰も侮る事はせず、一語一句聞き逃すまいと意識を集中する。
「僭越ながらレステル伯爵の問いにお答えいたします。私の戦ったヴェンギッタ、私の家臣達の交戦したクインセですが、どちらも特異な能力を備えなおかつ戦いにも慣れた猛者でした。
加えて両名とも多数を相手取るのに向いた能力の持ち主です。相性と実力の双方から考えて、数で戦うべき相手ではありません。
それでも数で戦うとしたなら、百名単位の魔法使いによる絶え間ない攻撃魔法の連射と、支援魔法による恩恵を受けたこれもまた百名単位の戦士による白兵戦を挑むしかないでしょう。魔法使いと戦士はどちらも最低でも一流の実力者で、装備もまた一流でなければならないのは、言うまでもありません」
「なる、ほど。……それは、とても難しいお話ね。聞いていなかったら、多くの兵を無為にしなせてしまったでしょう。ありがとうございます、男爵」
事前に想定していたよりも遥かに評価の高い魔六将の実力に、妖艶な蝙蝠人の貴族は困ったように小首を傾げたが、それは同時にそんな怪物を退けたクリスティーナとその家臣達の異常な実力を浮き彫りにするものでもある。
アルマディア侯爵の娘は、その非凡というか常識とさようならをしているような領地経営ばかりが目立っていたが、その実、軍事力も一般常識から大きく外れていたようだ。
昨年の競魔祭におけるクリスティーナやドランの戦いぶりを目にした者は、会議の出席者にも含まれているが、それにしても今回の戦いにおけるクリスティーナ達の戦いぶりは異常としか言えない。
「いえ、魔王軍との戦いに勝つ為に情報を共有するのは必要ですから」
そんなレステル他、出席者達の胸の内を知らないクリスティーナは、よし、噛まずにちゃんと言えたぞ、と幼い子供のように内心では自慢げだったりする。後ろに控えるドランだけがクリスティーナの内心を推し量り、微笑ましそうにしている。
魔六将級を一般兵で相手取るのは不可能に近い、という前提が一つできた出席者達の中で、次に口を開いたのはジオルダである。
「我々が相手をした偽竜達もわしのこれまで戦ってきた者達の中でも、相当に骨のある連中じゃった。本拠地に迫れば更に数と質も増すだろう。
我らは貴殿らに助力するのを厭いはせぬし、むしろ喜んで助力するが、自分達の敵を相手するので手いっぱいという可能性もあり得るのう。
魔六将とやらの一角には、偽竜の女王が席を置くと聞く。少なく見ても竜王級の実力者であろう。噂に名高いアークウィッチの参戦は見込めぬのかな? それか貴国からの更なる増援は?」
ジオルダの言い分はもっともである。王国の最大戦力であるメルルならば、単独で魔六将を一人、あるいは二人同時に相手取り、勝利する事も不可能ではない。
あまりに強力すぎるが故に運用の難しさを抱えていたメルルだが、今回の状況ならば前線への投入も視野に入れてしかるべきだろう。
ジオルダからの現実的な提案に対して、ベアベは分厚い毛皮に包まれた眉間に皺を寄せながら唸る。唸り声は熊そのもので迫力は満点だ。まあ、彼よりもさらに巨大で厳めしいジオルダが居るので、迫力は百分の一くらいに軽減されている。
「メルル殿の参戦については陛下の認可が必要となりましょう。かの御仁は単騎で戦争の抑止力となる程の逸脱した力の持ち主。動かし方一つで国家の存亡に関わります故。
しかし、今回の魔王軍という強大な敵を相手に彼女の力は極めて有用です。中央からの援軍も併せて、陛下ならば必ずや派遣を決定されるでしょう。
幸いにして今回の戦いにおける我々の損害は、事前の想定をはるかに下回る極めて軽微なもので済みましたし、兵力をそのまま次の戦いに導入できる状態であるのは幸運です」
アークレスト王国側の損害が極めて軽微に終わったのは、魔王軍がベルンとの戦闘を主眼において終始戦い続けたのに加え、協力を申し出てくれた外部勢力の恩恵によるところが大きい。
ベルンに神殿や教会を置く複数の教団からの善意の協力者達はもちろん、カラヴィスタワー内部に本拠地を置くドラグサキュバス達も、戦闘には出なかったものの様々な面で後方支援を担ってくれた。
「今回は神官方から神々が祈りにお答えくださるのが明らかに早かった、効果がすぐにあらわれたなどありがたくはあるものの、理由の不可解な事象があった事は確認されております。
加えてドラグサキュバスの方々の多大なる御援助によって、兵達の士気を高く維持でき、また医療を始め大きく助けていただいた。感謝の言葉しかありません」
感謝の意をたっぷりと込めて告げるベアベに、リリエルティエルは柔らかに微笑み返す。
「かの塔の中ならばいざ知らず、かの地の外に出れば我らドラグサキュバスといえど、さしたる力は振るえません。
他の大いなる神々の如き奇跡は起こせず、ささやかな助力しか叶わなかったとはいえ、我が同胞がお役に立ったのならば、同盟者としての面目も立つというもの。
我らドラグサキュバスは、古神竜ドラゴン様の眷属として魔王軍に属する偽竜達を見過ごせぬのもありますし、これからも貴国への助力を惜しみません。竜種の眷属としても、サキュバスとしても、ね」
言葉の最後に垣間見せた微笑はサキュバスを種族名に含むのに相応しい淫靡なものだったが、出席者達がそれに心を奪われるよりも早く、リリエルティエルはああそういえば、とこう口にした。
「神々の祈りに対する反応の早さですが、一因はあの塔ですわ。かの塔の内部は神々の戦場すら含む、ちぐはぐにしてデタラメなツギハギの世界。
塔の中からはるかな古代か、あるいは異なる世界、星空の彼方の地で建立された大地母神マイラールや、戦神アルデスの神殿が発見された事は御存じでしょう。あそこでなら神々は本来持てる力と権利を、地上よりも強く行使する事が叶います。
天界からこの地上世界へ、ではなく神代の名残を残す塔を経由する事でより迅速な意思と奇跡の伝達が可能となっておりますの。
塔から離れれば離れる程、神々へ祈りは届き難くなり、いつもと変わらぬようになるでしょうから、暗黒の荒野の深部へ向かえば今回のような都合のよい事態は生じなくなりましょう」
「なんと、かの塔にはそのような影響まであったとは。しかしながら、ムンドゥス・カーヌスへ攻め入る場合には恩恵を受けられぬわけですな。それはいささかもったいなくも感じられますが、逆に魔王軍は彼らの祖神の恩恵を受けられる事になるのでは?」
ただでさえ強敵である魔王軍が更に強力になる可能性を指摘するベアベに、リリエルティエルは慧眼ですわね、と一言呟いてから答えた。
「絶対にないとは言い切れません。ですがそれ程の影響はないでしょう。精々、調子が良い程度に留まると考えます。
サグラバース様の神意によるものであれば、恩恵は多々授けられているでしょうけれど、今回の魔王軍の侵攻が“軍神サグラバースの命令”によって起こされたものならば、神々の代理戦争として貴方達の信仰される神々も介入をせざるを得なくなります。
私は直接サグラバース様を存じ上げませんが、ドラゴン様曰くそのような事をする神ではなく、また今回は神の意思によって起こされた戦いではないと伝え聞いております」
リリエルティエルの言葉を最後まで聞いてから、クリスティーナはこっそりと背後のドランを振り返り、信頼する補佐官が小さく首肯したのを見て、なるほど、と自分にだけ聞こえる声で呟いた。
竜淫魔の女神の言葉を前向きに捉えるかどうか、諸侯はざわざわと声を挙げながら話していたが、不意にクリスティーナが挙手をして発言を求めた。
「ベアベ子爵、発言をしてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。リリエルティエル様と最も縁が深く、今回の戦いでも勇躍なさった貴女の言葉とあれば、誰も軽んじはしません」
さらりと称賛を混ぜてくるベアベに、クリスティーナは思わず照れくさくて腰が折れかけたが、それでも頑張って口を開いた。彼女が発言すると知って、途端に諸侯らの視線が集中するが、それにも呻き声一つ立てずに耐える。
ヴェンギッタを相手に斬った張ったをしていた時の方が、精神的にはまだ楽だ、と考えてしまうあたり、クリスティーナの領主としての経験値はまだまだ不足している。その反面、ヴェンギッタを相手にそんな感想を抱くのは流石の猛者ぶりだ。
「生意気を申し上げるようで恐縮ですが、リリエルティエル殿の言われる事を要約すれば、つまりはあちらもこちらも神々の恩恵に目立った差異はない、という事になります。
神々により齎される慈悲と奇跡は、我々にとって欠くべからざるものではありますが、今回の戦は地上に生きる者が同じく地上に生きる者を相手に起こした戦です。
ならば、やはり戦の趨勢は神々ではなく、実際に戦う我らの手によって左右されると思うのですが……」
神々が偉大なのは確かだが、最初から頼る事を前提にするよりも、自分達の力で戦う事を忘れてはいけない、と言葉を濁して伝えるクリスティーナに、ベアベとついでにジオルダが感心した視線を向ける。
「ベルン男爵の言われる通りです。死ぬも生きるも、殺すも殺されるも、地上に生きる我らですからな。天上と魔界の神々にばかり思考を巡らせては、目の前の戦で足を掬われてしまいます」
ふっふっふ、と子供の成長を喜ぶ父親のように笑うベアベにつられるように、リリエルティエルも無言のまま微笑んだ。天上の世界でも魔界でもなく、地上世界の特異な場所に居を置く女神は、クリスティーナの発言に気分を害した様子はない。
女神たる彼女が信仰する古神竜がこの場に居るから猫を被っているというのではなく、神に依らない在り方はドラゴンの影響なのか、彼女にとって好もしく感じられたのである。
クリスティーナはこの際、生意気ついでに言ってしまおうと腹を括り、今も続く注目を浴びたまま喋り出す。
「仮にムンドゥス・カーヌスの本拠地への侵攻を目指すにしても、我々には敵に関する情報が不足しています。言わずもがなな事ではありますが、これまで守勢を強要されてきた我々が攻勢に転じる為には、まず情報、そして更なる戦力と兵站の確保が急務です。
敵の侵攻を防ぐならまだしも、こちらから攻撃を仕掛けるのであれば、現状の我々だけでは不足している点が多すぎると判断いたします」
「ふむ、ベルン男爵の言われる通りでしょう。彼らはあの陸上戦艦を用いて、大軍を迅速に移動させられましたが、我々にあのような装備はない。まあ、ベルン男爵のところの自走する砦を千近く用意できれば話は別ですが」
「流石にあの砦を言われた数だけ用意するのは、無理があります。王国からの増援は必須ですが、それに加えて他国との連携も必要になると私は考えています」
捉え方次第では問題のあるクリスティーナの発言だが、今のところ、会議の出席者達は発言をあげつらう事はせずに、進行役のベアベとクリスティーナとの会話の流れを黙って聞いている。
「同じく魔王軍の脅威に晒されているロマル帝国ですか」
「はい。かの国とは互いに仮想敵国として、水面下で睨み合っていた間柄ですが、今回の事態を考えれば大公も皇女も我が国との共闘を受け入れる可能性は十分にあるかと」
「しかし、そう簡単に共闘関係を受け入れますかな。また、それ程の大事となればまず陛下に上奏差し上げるところから始めなければなりません」
「それは勿論です。ただ、陛下や王太子殿下は聡明であらせられる。魔王軍との戦端が開かれる前から、交渉を進められていたと勝手に考えています。それにあちら側にも話の早い方が居ると、風の噂で耳にしておりますから」
独自の情報網と王室との関係を匂わせる言葉を、意識せずさらりと発言したクリスティーナの後ろで、風の噂の大元とも言えるドランは、現在ロマル帝国内で活動中の分身の周囲の状況に、こっそりと溜息を吐いた。
ドランが常に意識を繋げている分身、人間寄りのドラゴニアンの姿をしたグワンダン一行はバロルディ城へと戻り、戦線を大きく後退させた魔王軍と反乱勢力の対応に勤しむアステリアに付き合っていた。
そんな中で、特に顕著な変化と言えば、彼ら一行に新人ならぬ新神メイドが加わった事であろう。
黒い髪と黄金の瞳を持つ楚々たる美女は、先輩メイドであるリネット、ガンデウス、キルリンネの見ている前でアムリアに宛がわれた居室の清掃をしていた。
帝国式メイド術を叩き込まれたリネット達三姉妹が、今度は審査する側に回っているのだ。一心不乱にベッドメイクに勤しむ新神メイドを囲むように見守っているリネット達の内、ガンデウスがまず口を開いた。実に冷たい声音である。
「皺ひとつ出来てはいませんね。丁寧な仕事です。グワンダン様の戦いに水を差した割に仕事は出来ていますね」
ぐさり、と見えない刃が新神メイドの心に突き刺さる音が、グワンダンには確かに聞こえた。それでもめげずに新神メイドが最後に軽めの香水を、枕を中心にふわりと吹きかけるのを見て、今度はキルリンネがぽやぽやとした笑顔のまま評定を告げた。
「うんうん、緊張している事の多いアムリアさんの為にぃ、心を落ち着かせる効用のあるハーブを選んでるね~。
この匂いはアムリアさんが好まれているものだから~、効果はばつぐ~ん。グワンダン様を呆れさせた空気の読めなさはどうしたんだろうねー?」
容赦のないキルリンネの言葉に、新神メイドはせき込むような声を出した。ひょっとしたらそのまま吐血したい程、精神的な苦痛を感じていたかもしれない。
新神メイドは続けてベッド回りの花瓶の花を入れ替え、水差しの水を軽く檸檬を絞った新鮮なものへと変え、瑞々しい果物を盛った皿の用意など、貴人の部屋に相応しいものへとすべくテキパキと仕事を進めて行く。
その淀みない仕草を見て、グワンダンは冥界でニンフ達にでも教わったのだろうか、と不思議そうに首を傾げた。
彼の性格ならガンデウスとキルリンネの言葉のナイフを止めるのが常だが、今回は新神メイドが甘んじて受け入れている事もある為、あえて止めずにいる。
それにしてもガンデウス達は“彼女”を相手に、よくもまあ、そこまで言えるなあ、と呆れながら感心してもいたが。
あらかた作業が終われば、待っているのは最後の大難関である――お局とか小姑とか言ってはいけない――リネットだ。
表向きは澄ました顔をしているが、内心では心臓が飛び出しそうになっている新神メイドは、リネット達三姉妹の正面に立って、優雅にカーテシーを行う。
窓際の椅子に腰かけて、作業を見守っていたグワンダンが、見事だと思う程、様になっている。
「貴女のメイドとしての技量に疑うところはありません。まだまだ未熟なリネット達がこの様に評する事そのものがおこがましくはありますが、グワンダン様とアムリア達の身の回りのお世話をするのに、安心して仕事を任せられる基準とリネットは断言いたします」
長姉の力強い発言に、ガンデウスとキルリンネは異を唱えず、ほっと胸をなで下ろす新神メイドに視線を向けているままだ。
「後は自分の良い所を見せようとするあまり視野狭窄に陥ってグワンダン様の邪魔をする事のないように、くれぐれも、常々、いつでも心と脳に刻んでおいてください。よいですね、女神タナトス」
結局、釘は刺すのだなあ、と見守るグワンダンの前で、新神メイドこと死を司る大神タナトスは、見ている方が気の毒になる位しょんぼりと縮こまるのだった。
「心に刻みます、リネットメイド長、ガンデウス副メイド長、キルリンネ副メイド長。……ふふふ、冥界の隅っこで塵と埃だけを食べて生きていたくなるような、ふふふ、情けない気分です。うふふふ」
「ほう? 仕える主人が居る前で自身の境遇を嘆く言葉を口にするとは。流石は偉大なる冥府の死神たる御方です。リネット達にはとても真似できません」
「ももも、申し訳ありません、メイド長、口が滑りました」
綺麗に直角に腰を曲げて頭を下げるタナトスに対して、リネットの声音は変わらず冷たい。厳しくすらある。
「謝罪する相手が間違っているのでは?」
とリネット。なんともはや、グワンダンも聞いた覚えのない位に冷たい声である事よ。
ガンデウスは無言のまま、キルリンネは笑っていない笑顔のまま、慌てふためく大神を見ている。本来ちっぽけな筈のリビングゴーレムに責め立てられているタナトスを。
当のタナトスはリネットの言う意味が分かったらしく、一度頭を上げてから改めてグワンダンへと頭を下げる。謝罪すべきは監督役のリネットではなく、主人であるグワンダンなのだから。
「仕える者として数々の失態をお見せした事、心よりお詫び申し上げます。グワンダン様」
「いや、うん、君達がそれでいいなら良いけれどね」
それでも良いのかなあ、と思わずにはいられないグワンダンだった。ましてや、今、このバロルディ城にはアムリアと会う為に、ロマル帝国の大重鎮ハウルゼン大将軍が来ているというのに。
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第三百六話
さて、リネット達のタナトスちゃん弄りというかイビリになりつつあるそれを、そろそろ止めるべきだろう。
私自身、タナトスちゃんのガリリウスとの戦いでの介入に関しては思うところがあったし、リネット達が下手に溜め込む方が後々面倒な事になると見守る方向で通してきたが、止めるべき頃合いだ。
私は死を司る大神の一角とは信じ難い程しょぼくれているタナトスちゃんを前に、越えられぬ山の如く立つリネット達を止めるべく腰かけていた椅子から立ち上がろうとした。
だが、その直前に、リネットがふう、と小さく息を吐き、それにタナトスちゃんが更なる叱責があるとますます肩を落とす。この場面だけを切り取ってみれば、誰が責められているメイドが死を司る大神だと察せられよう。
「女神タナトス」
「っ、はい」
リネットの発する言葉次第では強引にでも割って入る覚悟を固めた私だったが、リネットの口から出てきた言葉と行動は、私の予想を大きく覆すものだった。
「これまで、ネチネチと小言を申し上げてまいりましたが、これ以上は申し上げません。
御身がグワンダン様のお世話をするメイドとして十二分な技能を体得した今日を持って、リネット達もまた御身と接する態度を改めます。
リネットを始めガンデウス、キルリンネ共に、御身へのこれまでの数々の御無礼を心よりお詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした」
リネットが深く腰を折って頭を下げるのに合わせて、ガンデウスとキルリンネもタナトスちゃんへと向けて頭を下げる。
つい先程まで新神メイドの犯した失態を根に持ってチクチクと嫌味を言っていた素振りは欠片もなく、目の前に存在する偉大なる神への敬意を確かに抱いた様子である。
掌を返したのにも等しいリネット達の態度の変化には、さしものタナトスちゃんもしばし理解が追い付かない様子だ。それはそうだろう。
タナトスちゃんは一度大きく呼吸をして息を整えると、メイドらしく恭しい仕草で頭を下げ返した。リネット達に厳しく指導された成果と事前の自己学習により、実に様になっている。
「貴女方の謝罪を受け入れます。リネットメイド長、ガンデウス副メイド長、キルリンネ副メイド長。私の方こそ浮かれる余りにグワンダン様のご活躍の場を奪う失態を演じた事を、この場をお借りして改めてお詫び申し上げます。
そして、この身はこの場に於いて女神の立場になく、グワンダン様にお仕えすべく参上した、ただのメイド。どうぞこれまでと変わらぬご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます」
おやまあ、私が何をするでもなく三人と一柱、いや、タナトスちゃん曰くただのメイドだというのだから、四人としておこう。四人の関係はどうやらこじれる前に自分達で修復できたようだ。
ガンデウスとキルリンネの様子を見るに、前からリネットと態度を改める時機や条件なりを話し合って決めていたのだろう。この点に関しては私が置いてけぼりにされても仕方ない。
お互いの頭を上げた四人がはにかむように笑み、私はどうやらこれ以上彼女らの関係に気を揉まなくて良いのを、実感した。
「それでは、私は正式にグワンダン様お付きのメイドに加えていただけると考えてもよろしいのでしょうか?」
期待で胸を弾ませている様子のタナトスに、リネットは柔らかに微笑んで頷き返す。それにしても見る度に思うが、お互いの外見年齢と立場が逆転しているな、ふむむん。
「もちろん、貴女の事情を考えれば期限が何時までとなるのか定かではありませんが、許される限りにおいて共にグワンダン様のお役に立てるよう尽力いたしましょう。ガンデウスとキルリンネも、それでよいですね?」
「はい。お姉様とキルリンネと相談の上で決めた事です。今更、異を唱えはしませんとも」
「私も~ガンちゃんと同じ意見だよ。タナトス様にはもう十分言いたい事を言ったし、グワンダン様のお役に立とうっていう熱意と技術は本物だってよく分かったもん」
「では改めて、宜しくお願いします、女神タナトス。とはいえ余人の前で貴女を女神の名で呼ぶわけには参りませんね。神々にあやかった名を持つのは少なくともリネットの知る限り珍しい話ではありませんが、念には念を入れるべきでしょう。何か案はございますか?」
ふむん、地上で活動する際には、アルデスやアミアス、マイラールも別の名を名乗っていたし、当然の流れか。私はここでようやく四人のやり取りに口を挟んだ。いやはや、我ながら頼りにならない主人であるものだ。
「タナトスちゃんは私の下で働くつもりだったのだから、案の一つや二つ位はあるのだろう?」
「それは勿論でございます。兄上やニンフ達に協力を仰ぎ、地上で通す名を考えてまいりました。聖上や閻魔様、無間様の他、冥府の神々や住人達との関連の無き名となるよう、随分と意見を出し合ったものでございます」
そういってタナトスちゃんは冥界での日々を懐かしむように、うんうん、と頷いて見せた。ニンフ達は世話焼きな娘さんが多かったと記憶しているから、タナトスちゃんからの相談に快く、そして野次馬気分も含めて応じたのだろうな。
「して、どのような名前で通してゆくのだい? アムリアや八千代達にも今は名前を伏せて通しているし、早めに決めておくにこした事はないから」
「つきましては私はベリラトゥと今後お呼びください」
「ベリラトゥ、ベリラトゥ、と。これでようやくアムリア達にきちんと紹介が出来る。しかし、これから魔王軍と更に激戦を繰り広げる時機に私を訪ねてくるとは、君も運が悪いというか間が悪いというか」
「私としましてはいついかなる場であろうとも、グワンダン様のお役に立つ為に努力するのに変わりはございませんから、さしたる問題ではございませんよ」
柔らかく微笑むタナトスちゃんもといベリラトゥには、確かに口にした通り問題はないのだろう。レニーアにも見られる傾向だが、私に対する執着や拘りが強い分、その他の面々に対する興味が薄いのだ。これはこれで問題なのだよなあ。
ベリラトゥに比べればはるかに他者に対する接し方がまともなリネットは、ベリラトゥ関連の話が落ち着いた事で、この場に居ない彼女らを思いやる余裕を取り戻したようで、そちらを案じる言葉を口にした。
「ところでアムリア達は大丈夫でしょうか。アステリアとの対話のみならず、帝都に居る筈のハウルゼン大将軍まで居るとは、尋常な事態ではありません。リネットは大いに心配です。八千代達も会談の場には同席を許されなかったといいますし」
「なに、アステリアとハウルゼンから危害を加えられる可能性は考えなくていい、と思っているよ。アステリアは自分の為にもアムリアを“効率的に活用しなければならない”し、ハウルゼンも話す事が目的だ。この場で争う利益が誰にもない」
「ですが利益が無くても争いを起こすのが人間では?」
「それを言われると反論が難しくなるな。だが、リネット、あの場に居る三人で人間らしいのはアムリアくらいのものだよ。アステリアはその精神性が、ハウルゼンは存在そのものが人間とは言い難い」
私の答えに、リネットはそう言えばそうでした、と安堵するように小さく笑った。やれやれ、人間がいない方が安心出来るとは、な。
*
同時刻、バロルディ城の地下、図面からも削除された隠し部屋にアムリア、アステリア、ハウルゼンの姿があった。部屋への唯一の入り口である鉄の扉の前には緊張した面持ちの八千代と風香、そして泰然と腕を組んでいるカイルスの姿がある。
一応は敵対関係にない両者であるが、実力では圧倒的に勝るカイルスに対してわんわんとこんこんはどうしたって緊張せざるにいられないのだ。
一方でカイルスは顔にこそ出していないものの、警戒心から牙を剥き出しにする小動物のような二人の態度に少しだけ困っていたりする。敵対者には容赦しないが、そうでない相手に対して冷徹には振る舞えない青年なのだ。
部屋の外で三者が耐えがたい沈黙に包まれている中、部屋の中にいるアムリアは困惑気味の様子でハウルゼンを見ていて、ハウルゼンはそんなアムリアを観察し、アステリアはその両者を観察する、という構図が出来上がっている。
上位の皇位継承権保有者や極一部の皇帝に近しい側近のみが存在を知る隠し部屋は、天井と壁に設えられた水晶の中に魔力の光を閉じ込めた照明器具の他に、大理石の床に敷かれた分厚い無地の赤い絨毯と、部屋の中央に置かれた巨大な瑪瑙を削りだした天板を張り合わせた丸机と象牙の椅子が四脚あるだけだ。
なおアムリアとアステリアの双子皇女が椅子に腰かけている中、ハウルゼンだけが立っている。
今回はアステリアの方で自分とアムリアの為に硝子の水差しとグラスを用意してあるが、本来は人目を避ける為に短時間のみの利用を想定した部屋なのである。
「如何かしら、ハウルゼン大将軍。アムリアは正真正銘、私の血の繋がった妹であると確認出来まして?」
本日は長い髪を三つ編みにしてからお団子状に纏めているアステリアが、答えを分かり切っている調子でハウルゼンに問う。ちなみにアムリアも同じ髪型をしていて、両者の外見の違いはアステリアが青いドレスを、アムリアが緑色のドレスを着ている点だけだ。
太く長い角を生やした兜も鎧も相変わらず真っ赤な帝国の生き字引は、アステリアへと視線を転じて姉皇女に淡々と応じる。
「うむ。アステリア皇女の言う通り、こちらの女性は紛れもなく貴殿の血縁である。ロマル帝国皇族の一員と認め、帝位継承権の保有もまた認めよう。ロマル帝国の現状を合わせて鑑みれば、秘事を通達する条件を満たしているものとする」
「ハウルゼン大将軍には私と姉上や皇室との血の繋がりを確認する術があるのですか?」
姉と同じ髪型で、違いは当然の疑問を口にするアムリアに、ハウルゼンは直立したまま小さく首肯する。
「肯定する。初代皇帝より先代皇帝に到るまで、全ての皇族に初代皇帝の血統が受け継がれているかの確認と、帝位継承権の保有の是非は私が行っており、必要な技術と道具も私に装備されている」
アムリアは装備? とハウルゼンの言い方に首を傾げる。
「……時々、ハウルゼン大将軍こそが帝国を真に支配している、ですとか、噂を耳にしていましたけれど、本当の事なのですね。
そうなりますと、大将軍は帝国の始まりから今に到るまでずっと生き続けていらっしゃるのですか? 不躾ですがその鎧の中身が気になります」
アステリアは思っていた以上にアムリアがズバズバとハウルゼンに切り込むものだから、面白そうに二人のやり取りを見守る事に決めた。
アステリアとしてはハウルゼンにアムリアの帝位継承権を認めてもらえば、それでもう用事のほとんどは済んだのも同然だったというのも理由の一つだ。
「肯定する。私は初代皇帝と出会う以前からこの地にて活動を継続している。アムリア、貴殿にも分かるように言えば、この装甲の中身は、金属製の管や骨格、そして歯車等を組み合わせたもので成り立っている。
私と近衛隊は、ゴーレムと人形の技術を現代よりも更に発展させた産物であると理解されよ」
「つまり誰かによって作り出された存在であると?」
人工的に作り出され、独自の知性を持たされた存在ならば、アムリアの周りにちょうどリネットとガンデウス、キルリンネという例があるが、アムリアは彼女らの詳細な素性までは知らない。
「しかり。私は現在に到るまで稼働し続けている、いわゆる天人の遺産である。初代皇帝ロマルは待機状態にあった私達と接触し、契約を締結して使用権限を得た。そうして私達の力を使ってこの地方を武力で統一し、ロマル帝国を建国した。
ロマルの死後は生前の彼との契約に基づき、彼の血統を受け継ぐ者達を次の契約者とする事を繰り返して現在に到る。今回、私がこの地を訪れたのはアムリア、貴殿が帝位継承権――すなわち私達との契約権を保有する資格の有無を裁定する為である。
契約権の裁定は現契約者であろうと干渉を許されない。故に私のバロルディ来訪はライノスアートも承知している」
「天人の遺産ですか。書物などではよく目にしますが、実際に目の当たりにする機会が訪れるなんて。轟国にはまだ生きている天人の遺産が多いらしいですけれど」
「そうはいうが、アムリアよ。貴殿の周囲には稼働中の天人の遺産がいる。人間に酷似した機種であるから気付かなかったか」
このハウルゼンの発言には口を閉ざしていたアステリアも、おや、という顔になり、当のアムリアは予想外の発言に目を丸くする。
「私の周囲に、ですか? 八千代さんと風香さんは……まず違うでしょうし、グワンダン様も違う筈。なら……」
「グワンダンなるドラゴニアンは私と私達でも解析しきれない未知数の存在であるが、彼の傍に侍り、アムリアの守護も兼任している三名の使用人達の事だ。
トルネと名乗っているものは、天人の技術を現代の者が利用した為に完全な天人の遺産ではないと分析しているが、ガンデウスとキルリンネと呼称されている二個体は別だ。
私よりも後期に開発された機体であるし開発用途もまったく異なるが、装備、本体共に状態は良好である。素晴らしい保存状態だったのだろう」
「大将軍もそうですけれど、ガンデウスさんもキルリンネさんも人間と話をしているのと変わらないですね。それ程、昔の方々の技術は優れていたのですね。あの、今、帝位は姉上と大公で争われていますが、大将軍が大公の側についていられる理由はあるのですか?」
現在、アムリアの持っている情報から推察できるのは、大公が帝都を抑えているから、かまたあるいは皇帝のみが所有を許される道具を大公が持っているから、といったところである。
「アムリア、私が大公側についているのは帝位継承権保有者が争い合う場合、契約を結んだ我々を、両者に均等に割り振る為の処置である」
「契約を結んだ我々……天人の遺産? では姉上の側にも遺産があると?」
アムリアから目を向けられて、アステリアは微笑の仮面をそのままに頷く。
「ええ。父上の健康状態が悪化してから、父上と大将軍から直接伺いました。建国帝が直接契約を結んだのは大将軍ですが、本来、大将軍は守護者という立場であらせられるのです。そうですよね?」
「しかり。私は契約そのものと契約を結んだ対象を守護するのが本来の役目である」
「守護者であるハウルゼン大将軍は大公に。そして私達ロマル皇族のように最初の契約を受け継いでいる契約者達の子孫は、私の側に着きました。それがザナドやアスラムといった十二翼将に勝るとも劣らぬ剛の者達です」
この場にはいないザナドやアスラム、更に彼女ら以外にも居る守護者達が契約に従って、アステリアの手足となっているのだ。グワンダンがガリリウスとの戦闘で得た情報から立てた推測は、ハウルゼンとアステリアの語る内容とほぼ一致していた。
アムリアは与えられた新たな情報を自分の中で整理し、次の情報を得るべくハウルゼンに問いを重ねる。ロマル帝国の歴史に隠されてきた秘事を知るには、今が最大の好機だと誰にだって分かるだろう。
「ではなぜ、魔王軍との戦いに於いて守護者も契約者も積極的に戦いには出ないのですか? 姉上がザナドさんやアスラムさんを動かしていないと思っていましたが、実際には動かせないのですか? 外敵との戦いには守護者も契約者も動かす事が出来ないのが、契約なのでしょうか」
「ふむ、これはアステリアと大公にも伝えてあるが、基本的に守護者と契約者はロマル帝国が建国されて以降、動くのは帝位継承に関する内部での戦いに限られる。魔王軍のような外敵との戦いに於いては、基本的に傍観している場合が多い。
契約者かその候補者の身に危険が及べば守護の為の行動を行うが、国家の危機に対しては動かないか、極めて限定された状況においてのみ行動すると解釈して構わない」
「皇帝の座争いには関与して、帝国の外からの脅威には動かないのですか!? 私の勝手な想像ですけれど、外部の脅威にこそ動きそうなものなのでは?」
「そこは初代皇帝の考えだな。私達の力を使って他者を屈服させ、支配するのは国を作るまでと定めたのと、外からの脅威にはその時代の帝国の者が当たるべし、それで滅びるのならばそれは仕方がないと考えたからだ」
「でしたら、継承権争いにも大将軍達は不介入となさればよろしかったのに。そちらの方がより公平な契約内容だったのではと思わずにはいられませんよ。ああでも、そうしたら契約を結ぶ意味もありませんか……」
「人間、立場や年齢が変われば考えも変わる。契約を結んだ時はそれでよくても、後年では後悔していたかもしれん。ロマルはそんな素振りを見せていなかったが、内心ではどうだったかまでは私の知るところではない。ただ若干、アホの類ではあった」
まさかハウルゼンからそんな辛辣な評価が出てくるとは、あまりにも予想外過ぎて、堪らずアステリアが小さく笑う。
「んふふふ、初代皇帝をアホですか。ふふふ」
アステリアは口元を両手で隠すが、それでも笑い声は零れ聞こえてくる。アムリアは姉の人間味のある反応は気にせず、自分の祖先についてこうとしか言えなかった。
「アホ、ですか……」
「人望はあった。ゴロツキの類だが」
「ゴロツキ。アホでゴロツキですか……」
「褒められた人格の主ではないが、地下で待機していた我々を発見し、運用する強運と機転の主だったのは確かだ。世の中を動かすのはいつも賢人や勇者ばかりではないのだよ、アムリア」
おそらく慰め? らしいハウルゼンの言葉を聞いても、アムリアは大きな溜息が零れるのを止められなかった。まあ、初代皇帝がハウルゼン達と契約しなければ、その子孫である自分もこうして生を授かる事はなかったのだから、悪くは言うまい。
「既に亡くなられた方の人品をとやかく言っても仕方がありませんね。それでは大将軍と契約者の方々は、魔王軍との戦いでは戦力として期待はできないのですね?」
「貴殿らに危害が加わる状況でなければ。それが初代皇帝との契約によるものだ。契約内容の変更は受け付けていないので、変更を希望する交渉は無意味である」
「融通が利かないのですね。無い物をねだっても仕方ないですから、それは仕方ないとしましょう。考えるだけ無駄なようですし。姉上も元から大将軍と守護者抜きでの戦いを想定していらっしゃるのでしょう?」
「うふふ……んん、失礼をいたしました。ええ、貴女よりもずっと早く大将軍から事情を聞いていましたから。それに魔王軍との戦いには期待できなくても、帝国内部の問題である反乱勢力に対しては別ですわ。
南部の反乱は叔父上にお任せしますが、ザナド達に影から協力するよう伝えておりますし、動かせる十二翼将を全て魔王軍戦に投入しても、帝国の守りは揺るぎません。
今更、南部の諸勢力が一つにまとまる可能性はありませんしね。あの地には傑物はちらほらといますが、種族と思想と慣習の違いを越えて纏め上げられる程の大傑物はいませんもの」
アステリアの発言にアムリアは沈黙した。南部の諸勢力が実際に事を起こすまでは、アークレスト王国や西の諸国家等から支援を受けていたのは、表ざたになってはいないだけで、確かな事実だ。
アムリアの知る限りにおいて、少なくともアークレスト王国側からの支援が打ち切られたのと、三分割されてなおライノスアート大公とアステリア皇女の勢力が、反乱を起こした者達の想定を越える強大さを維持していた事で、反乱側の足並みを乱し、不和を引き起こす事態にまで繋がっている。
このまま無数の勢力がひしめくか、魔王軍撃退後にライノスアートかアステリアに打倒され再び屈服されるのが、反乱諸勢力の辿る最も可能性の高い未来である。
(エルケネイの方々にはそうであって欲しくないと思うのは、私の我儘ですね。でも、その我儘を通す機会を得る為に、私は姉上の企みに乗ったのです)
アムリアは意識を切り替えた。ロマル帝国に侵攻してきた魔王軍は既に大きく戦線を後退させている。時期を同じくしてアークレスト王国を攻めた別の軍団も同じだ。
次は守る戦いではなく、攻める戦いを行うのは明白。となると問題は何を目的とし、それを達成する為に必要な物資、情報、条件、戦力等、細々とした要素の確保になる。
「こほん、では改めて確認いたしますが、今後、魔王軍との戦闘に於いて大将軍他ザナドさん達の協力はまず見込めない。
その代わりと言っては何ですが、十二翼将の大部分を戦場に投入できると。姉上と大公の兵を合わせたとして、動かせるのは二十万から三十万程になるでしょうか」
「まず魔王軍に決定的な敗北を与えるのは無理でしょう。魔六将と呼ばれる実力者がまだ二名控えていますし、それに準じる高位魔族でも十二翼将に迫るか勝る実力です。
こちらにとっては未知の土地を行く事になりますし、更に基本的な技術力ではあちらが上ときては、無謀に近い遠征と言う他ありません」
バッサリと勝てないと断じるアステリアだが、彼女らにはまだ残る魔六将と魔王ヤーハームの実力も未知であるし、魔王軍の母体であるムンドゥス・カーヌスにどれだけの戦力が残っているのかも分かっていないのだ。
その未知数を考慮すれば、ロマル帝国単独では後退したガリリウスとザンダルザの軍団だけならばともかく、合流するだろうアークレスト王国方面軍と本国の戦力を相手に出来ないと考えるのも無理はない。
「姉上もそうお考えになられますか。ではやはりアークレスト王国と共闘姿勢を取る他ありませんね。かの地のアークウィッチを始め、魔王軍を退けた精強な北部諸侯の力があれば勝ちの目も出てきますから」
「貴女の後ろ盾ですね。ふふ、父上が隠していた貴女の存在が巡り巡ってロマル帝国を生き延びさせる為の重要な鍵となるなんて、私にも分からない事のなんて多いこと。うふふふ」
楽しげに笑う姉を他所に、アムリアは姉の失言に気付いて、顔色を青くしながらハウルゼンを見た。よりにもよってロマル帝国建国に関わった大人物に自分がアークレスト王国と繋がっているのを知られてしまったではないか。
何を考えているのだ、この姉は、とアムリアが思うのも当然である。アステリアがそのような失態を起こすわけもなく、わざと口にしたのだと思いつかないあたり、この瞬間、アムリアは本気で焦っていた。
アムリアの焦りに対して、ハウルゼンはこの部屋で対峙してからずっと変わらぬ雰囲気のままだ。声を荒げる事もなく、売国奴と断罪する気配も見せず、淡々と告げる。
「アムリアよ、焦る気持ちは分かるが、別に構わぬ。外からの脅威に対し、我らが極力動かぬ契約である以上、皇族が国外の者とどう手を結ぼうと、また帝国の未来をどう変えようと構わぬ。
そも勘違いしているかも知れんが、私達の契約には、何時までも帝国を存続させる等という項目は含まれていない。契約の範囲内で最大限の助力はするが、滅びるものはいつか滅びるのだ」
「ええっと、思わぬ発言を耳にした気分ですが、本当にそれでよろしいのですか?」
「よろしいのである。なぜならばロマルとの契約の大部分は、ロマル帝国の建国が成った時点でほぼ達成されているからだ。故に内憂外患のほとんどを私達は無視する」
「んん?……ああ! ひょっとして、いえ、考えたくはないのですが、初代皇帝は建国した後の事はあまりというか、ほとんど考えていなかった?」
「そういう事だ。契約内容の変更は認めなかったので、帝国の存続に関する項目はほとんどないに等しい。今回のような内乱で帝国の血筋が絶えないように、我々が傍で監視兼護衛をするくらいのものだ。私達の側の融通の利かなさも相当だと自覚しているが、ロマルの頭の中身も相当だったのでな」
それではアホ呼ばわりも仕方ないのかも、とアムリアは遠い先祖に対する敬意を失うのであった。
「それに」
「それに?」
「何時までもロマルとの契約を守り続ける事にも、それ程の意義を見出せなくなってきた昨今だ。ここは一つ、帝国に大きな変革が齎された暁には、契約の更新を終了するのも良いかもしれぬと考えてもいるのだ」
「ええ? 帝国の生き字引にも等しい貴方がですか?」
「私達は人造物であるが故に人間よりも遥かに耐久年数が長いが、その私達でもそろそろ違う事をしてもよいのでは、と考える位の事はする。ロマルとの契約がなくなったとしても、私達本来の役目が残っているからそうそう好き勝手は出来ぬが」
そう、ハウルゼン達は初代皇帝ロマルに発見される以前から稼働し、待機していたという。何かの目的があって待機していた可能性だとて十分にあるではないか。
ハウルゼンの口ぶりからして、事態が起きればロマルとの契約よりも優先される事項だろうと、二人の皇女は察していた。
ハウルゼンの本来の目的はアステリアも知らぬものであったようで、これまでの微笑を消して赤いカブトムシめいた人造物に問う。
「ではハウルゼン大将軍、果たして貴方達が創造主である天人から与えられた役目とは何なのですか?」
「少し喋り過ぎたか。バグは生じていない筈なのだがな。……ふむ、そうか。……貴殿らへの情報開示の許可が出た。話せる範囲で話す。我が創造主たる天人がこの星を飛び出し、夜空に広がる星々にまで手を伸ばしていたのは、おとぎ話などではなく事実だ」
アムリアとアステリアが黙って耳を傾けるのを確認し、ハウルゼンは情報開示を続ける。
「その過程で多くの異星生物と邂逅し、星々の間を行き交う戦争が数多く勃発した。戦いは多くの犠牲と創造主達の種族規模の衰退で終了したが、今は星人と呼ばれる敵性種族の遺産はまだこの星の近くに残っている。
多くは三竜帝三龍皇や月の竜王と兎人達が迎撃し、宇宙の藻屑に変えているが、私達の対象はそれとは別だ」
いきなり話が地上での戦争から宇宙規模に広がったが、アムリアとアステリアに困惑した様子はなく、あっさりと受け入れている様子だ。彼女らにとっては理解できる範疇の話らしい。
「今もなお月の監視網から逃れ、この星系内に潜伏している、とある星人の遺産の監視と、出現した場合の破壊が私達に与えられた最大の役目である」
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第三百七話
魔族主体の国家ムンドゥス・カーヌスの誇る魔王軍は、この惑星のこの時代に於いて、間違いなく最強の一角を担う精強な軍勢である。
その魔王軍の中核を担う魔六将四名に率いられた二つの軍勢が、当初の戦略目標を達成できずに撤退せざるを得なくなるなど、魔王軍の戦歴にはこれまで無い事だった。
敗北を喫した兵士達の士気は大いに下がり、指揮官達は敗北の責任をなすりつけ合うか、いかに敗北の理由を言い繕うか等と思考を巡らせていてもおかしくはないが、魔王軍はいささか性質を異にしていた。
アークレスト王国とロマル帝国との戦線から後退した二つの軍団は、ムンドゥス・カーヌス国境とベルンの領地の中間地点にて合流し、戦力の再編成と本国からの援軍の到着を待っていた。
この時、それぞれの軍団を率いていた、生き人形ヴェンギッタ、軍神の眷属たる魔蜘蛛クインセ、古豪の老魔族ザンダルザ、神の尖兵たる古ゴブリンのガリリウスら四名は、ガリリウスの座乗艦に集まり、主君たるヤーハームと長距離通信を用い、報告と今後の対応についての協議を重ねようとしているところだった。
金属製の部屋の中、入口の正面に当たる壁一面に硝子状の画面が貼られ、それを前に四人の魔六将が並んでいる。クインセだけは大きさの問題から専用の台の上に乗っていた。
四名とも敗軍の将というわりには悲愴な雰囲気や顔つきはしておらず、必ずや勝利を得て敗北の不名誉を注ぐと決意しているのが伺い知れる。
彼らが通信室に揃ってから程なく、黒一色だった画面に光が灯り、ヤーハームと宰相ザルハメラ、偽竜の女王マスフェロウ、トロール族の長トラウルーが映し出される。ムンドゥス・カーヌスでもっとも強き王に、ヴェンギッタ達は小さく頭を下げた。
ヴェンギッタ達が頭を上げるのを待ってから、ヤーハームが楽しげに口元の両端を持ち上げて話しかける。
『お前達の戦闘の様子と現状については日々報告を受けていたが、両軍共に退けられるとは今でも信じ難いと、少しばかり思っているぞ、ヴェンギッタ、クインセ、ザンダルザ、ガリリウス』
責める語調ではない。戦死した兵士や喪失した装備、物資に関しては当然責任はあるが、それはザルハメラの方から微細な追及が行われる。
主君からの叱責ではないがからかい混じりの言葉に真っ先に応じたのは、ガリリウスである。
「耳の痛い事だが、吾も含めて誰も彼も全力で己の責務を全うした結果が現状なのだ。我が主よ。我らの力が到らなかったのを恥じ入るばかりだ。兵に責はない。ひとえに指揮を執った我らの責任である。兵を責めてはくれるな」
『心得ておるとも、古きゴブリンよ。それにまだ我らの闘争が完全に敗北したわけではないだろう。それよりもロマル帝国とアークレスト王国の双方にこちらの想定をはるかに超えた強敵が何人もいる、というのは戦士としては嬉しくとも、王としては悩ましい想定外である事だ』
ここでクインセが右の前脚を上げて、発言の許可を求めた。これから彼女が口にする内容はヴェンギッタからでも構わないのだが、今のヴェンギッタは自分の世界に半ば足を踏み入れて、ブツブツと独り言を口にしており、報告できそうにない。
「我ガ君、私達ノ王、強敵ノ中デ一ツオ話ガアリマス。ラミアヤ黒薔薇ノ精、ベルン男爵達ノ件ハ報告済ミデスガ、先日ノ撤退戦デ判明シタ情報ヲオ伝エタシタク思イマス」
『ほう、クインセがそこまで神妙な声を出すとなれば、耳を傾ける他あるまいよ』
「デハ、先ノ戦イデベルン軍ノ後方カラ矢ニヨル狙撃ガ多数行ワレテイマシタガ、カロウジテ狙撃者ノ姿ヲ確認スル事ガ出来マシタ。気配カラシテバンパイア、ソレモ昼デモ動ケル特殊ナ個体デス。
昼デモ行動デキルバンパイアトイウ時点デ脅威度ハ一ツ上ガリマスガ、ソノバンパイア――彼女ハ神器ラシキモノヲ全身ニ纏ッテイマシタ」
『ほう、神器か。こちらの大陸にバンパイアの数は少ないがいないわけでもない。それが他種族の社会に身を置いているのは極めて珍しいが、神器持ちとなるとますます希少だな。
確かバンパイアの主な信仰対象は、創造主たる月の女神と夜の神か。幸い我らの祖神との関係は無いに等しい。気兼ねをする必要はない。だが、クインセが気に留めているのはそれだけではあるまい?』
「ハイ。彼女ノ纏ッテイタ神器デスガ、オソラクハ神ガ神ノ為ニ作リ出シタ品デショウ。
私ノ目ト知識カラノ判断ニナリマスガ、地上用ニ制限ヲ掛ケタ上デ神々ガ下賜シタ品デ間違イアリマセン。例エ制限付キデアロウト、神ガ神ノ為ニ作リ出シタ神器ハ、神ガ地上ノ種族ノ為ニ作リ出シタ神器トハ根本的ニ格ガ違イマス」
比喩ではなく事実として、軍神サグラバースを祖に持つヤーハームやザンダルザにとっては、そう簡単に看過出来る発言ではなかったろう。つまり、クインセはこう言っているのだ。
『我が神剣ガランダインや神鎧ヴァナリアよりも、格が上というわけか』
流石のヤーハームも苦いものを言葉に滲ませるか、と思いきやどこか嬉しげだ。いくら軍神の末裔とはいえ、度の過ぎた戦い好きだ。
「正面カラ打チ合ッテポッキリトハイキマセンカラ、ソコマデ気ニシナクテモヨイデショウ。デスガコレマデノヨウニ武具ノ優位性ハ得ラレナイ敵ガ、ベルン男爵ノ下ニ居ルト憶エテオイテクダサイ。
ソレニベルン男爵自身モ超人種トシテノ格ハソウ高クハナイノニ、亜神ノ域ニ達シテイル強者デス。アークレスト王国トイウヨリモベルン男爵領ハ、トモスレバ私達以上ニ個性的ナ面々ガ揃ッテイルヨウデス」
『はははは、そうかそうか、実に喜ばしい事だ。素晴らしいではないか。まだ見ぬ土地の開拓と冒険も素晴らしいが、それ以上に勝てないかもしれない強者の戦いこそ我らの本分だ。いや、まったく、世界というのは広いな。これならば身内での争いなどさっさと止めて、荒野の外へ目を向ければよかったか、なあ、ザンダルザ』
ムンドゥス・カーヌス統一に際し、最後までヤーハームと争ったのはザンダルザだ。もっといえばヤーハームが生まれる前から、戦国乱世時代のムンドゥス・カーヌスで統一の第一候補と言われていたのもザンダルザである。
ハウルゼンとの死闘で負った傷の癒えたザンダルザは、平時と変わらぬ姿を取り戻していて、ヤーハームからの皮肉交じりの言葉に笑って返す。
「あの頃の戦いがあるからこその今じゃろうがい。変えられぬ過去の所業をどうこう言うても仕方ないわい。年寄りいじめは感心せんぞ、若造」
『くっくっく、なに、年寄りは先が短いからな。いじめられる内にいじめておかねば、後になって言っておけば良かった等と後悔してしまう』
「減らず口を叩きよるわ。まあ、それぐらいでなければ寝首を掻く甲斐もなしよな」
『お前なら寝首ではなく、堂々とおれの首を獲りに来るだろうに』
「強敵とは最大の理解者にも等しいな。くくく。だが、当面はアークレストとロマルの連中を相手取るのが最優先だ。通常の戦力でやり合う分には何の問題もない。普通に戦えば普通にわしらが勝つわ。モレス山脈の竜種達とベルン男爵領の規格外、それにロマル帝国の十二翼将あたりは強敵だな。そこら辺はわしらが対処しなければなるまい」
『ふ、おれが直接向かう必要があるわけだな』
「ロマル帝国の古き守護者は外敵には動かんから、再び帝都の辺りまで攻め込むまではほぼ無視してよかろうよ。契約者の方は契約以外に情なり打算なりで動く可能性はあるがの。それでも守護者がおれば天人の遺産を多少は使えよう」
『数ある星人の内の一派を相手取る為の遺産か。おれが生まれるよりもはるか昔の話か。ザンダルザを始め、知っている者はムンドゥス・カーヌスの中でも少ないだろうな』
「うむ。今も稼働している遺産は少なかろうが、“天上の目”やら“覗き星”やら“監視衛星”と呼ばれておった遺産が生きておれば、ムンドゥス・カーヌスの首都の位置や地理も全て丸裸も同然。
わしらを撃破した余勢を駆って、未知ならぬ既知の土地に攻め入ってくる可能性もあるぞ」
『ほう。こちらから攻め入った挙句、返り討ちにあい、逆にこちらの本土へと侵攻される可能性か。これはますます気合を入れなければならなくなったな』
「ふん、つくづく軍神の末裔よな。トラウルーあたりはげんなりした顔をしておるぞ?」
笑顔を更に輝かせるヤーハームに心から同意しながら、ザンダルザはトロールの長に視線を向けた。トラウルーの率いるトロール族はサグラバースの眷属やその末裔ではなく、元々暗黒の荒野の一角に住んでいた者達だ。その為、ヤーハームやザンダルザのように、強敵との戦いを喜ぶ性質を有していない。
「戦いを厭いはせんが、魔王殿もザンダルザ殿も負けを気にせずに戦いに臨みかねんところがあるからのう。傍で見ていて気が気ではないわ」
やれやれと大仰に溜息を吐く白髭のトロールに、ヤーハームとザンダルザは揃って苦笑を零した。少しくらいは彼らも申し訳ないと感じているのかもしれない。
*
既に夏の盛りは終わりを迎え、木々は緑の代わりに黄の色彩へと変わり始めているものもいる。木々の色合いの変化、熱を失いつつある風、昼と夜の交代劇の早まり、それらに季節の移ろいを感じる人々もまた増えている事だろう。
さて、魔王軍が完全にアークレスト王国領内、つまりは最北の地であるベルン男爵領から完全に撤退し、どうやらロマル帝国方面軍と合流する為にも、暗黒の荒野の奥まった場所に下がったという情報が確認されて数日後の事である。
私ことベルン男爵領補佐官であるドラン・ベルレストは、主君であり婚約者であるクリスティーナ・アルマディア・ベルンと共に、ガロア総督府に居た。
徹底的に防諜処置を施した一室には、私達二人以外にも王国北部の諸侯を始めとした、対魔王軍との戦争における主要人物達が顔を揃えている。
魔王軍を退け一旦は領地に戻った領主も含めて招聘されているのだが、その理由は今後の魔王軍に対する王国の方針を伝える為だった。
一度退けただけで終わる相手でもないし、また兵力を十分に残した上で魔王軍は撤退していたから、再度の侵攻に備えるかその逆の方針を選ぶのも、十二分に考えられる。
今回の戦費だけでもかなりの負担を強いられた諸侯も多いだろうし、これ以上の戦争の長期化は避けたいところだろうが、そこは王国側からの補填なりがあるのだろうか?
窓の無い石造りの部屋の中には二十名程の人々が詰めており、巨大な長テーブルにそれぞれの序列の順に入口から遠い位置に腰かけている。
私とクリスは先だっての魔王軍との戦いに於いて、他領と隔絶した武功を挙げているがそれに対する論功行賞はまだ行われていないので、貴族としての位にそって入口のすぐ近くの下座に腰を落ち着けている。私自身は腰かけたクリスの後ろに立って控えている。
そして私達と向かい合うように、壁を背に立っているのが王国側からの使者だ。
自分が動くのを厭わないウチの王太子がきてもおかしくないが、実際に私達の前に姿を現したのは、二十半ば程と見える女性の狐人だった。領地を持たない代わりに、王家からの報奨で生活している法衣貴族だ。
王家からの意向を伝える使者に選ばれているのだから、王家からの相当に信頼が篤くまた身分も高い人物であるのは言うまでもない。
短く切った茶褐色の髪を香油で後ろに撫でつけ、髪の毛から覗く大きな耳には黄金の耳飾りが揺れている。
軍服の胸に飾られた勲章や肩章から見るに将校らしい。ふんむ、随分と若いがクリスのような例もあるし、あるいは長命な種族の血を引いていて、実年齢と外見年齢が乖離している可能性もあるか。ともあれ、女性に年齢を問うのはよろしくないわな。
自らをコンクェルと紹介した狐人は、左右に同じ狐人の男女の従卒を立たせたまま、居並ぶ諸侯らに臆さず口を開いた。私とクリスが知らないだけで、切れ長の瞳は如何にも理知的な印象を受ける。
「まず、これまでに例のない北方からの国家規模の侵略に対して、勇猛果敢に奮戦しこれを撃退した皆様に感謝の意を表したく思います。
すでに陛下からのお言葉は皆様の下へと届いている者かとは存じますが、王国の民として皆様の勇気と国家への献身と忠誠には頭の下がる思いです」
そう告げて、コンクェルは私達へ腰を折って、深く頭を下げた。左右の従卒達も彼女に倣う。柔和な声で彼女に話しかけたのは、上座に程近い所に腰かけた人熊のベアベ子爵だった。ジョウガン要塞での会議で取りまとめ役を担っていた子爵は、この場でも発言に注目を置かれるとりわけ重要な人物である。
「はっはっは、そのように言っていただけるのなら、戦った甲斐もあったというもの。しかし、目先の戦が終わったばかり。まだ魔王軍、ひいてはムンドゥス・カーヌスとの戦いが終わったわけではありますまい。王国もそうお考えなのではないですかな、コンクェル殿」
「はい。一旦は撤退した魔王軍が既に戦力の再編成を進めている事は、この場に居る皆様ならば御存じでしょう。王宮でも同じ見解です。
陛下を始め王宮では再侵攻を目論む敵戦力の撃破を前提とした作戦を立案中です。皆様にはその先鋒の一端を担っていただく予定となっております」
まあ、予め分かっていた事だったので、コンクェルに言われても誰も特に驚いた様子はない。作戦の内容がよほど荒唐無稽か、私達に負担を強いるものでなければ、王家からの使者を前にそうそう声を荒げまい。
この間の会議のように自然と私達の代表者はベアベ子爵が務める流れになった。他にはレステル伯爵などもいるが、口を閉ざして静観の構えだ。
「我々が先鋒の一端と言う事は、当然、王家や他の領主達も軍を出されるのですな」
「はい。魔王軍からの宣戦布告を受けた時点で、王国の全領主へ兵ないしは資金の供出を求める文書と使者を送っております。既に返答は来ておりますから、軍の編成と遠征計画が整うまで時間はかからないでしょう」
「なるほど、王国の出せ得る限りの戦力を出す、と考えてよさそうですな。それと以前、魔王軍と戦った我らの総意として、次に魔王軍と戦う場合にはアークウィッチの参戦が必須であると陛下には上奏いたしたが、その件についてはいかがか?」
魔六将の戦いを見た者からすれば、メルルの参戦は魔王軍との戦いで必須だ。私が知らないだけで王国には他にも強者は居るのだろうが、確実に戦力と太鼓判を押せるのはやはりメルルになる。
実力で言えばメルルよりもレニーアの方が遥かに戦力になるが、王国からすれば彼女はまだ一学生であるし、学徒を動員する程に追い詰められた状況でもないから、彼女を推挙するのは不自然だ。
それにレニーアにだとやり過ぎてしまいそうで……いやいや、近頃の精神の成長を考えれば自重はするだろう。ただ“私自慢”は自重しそうにないのがなぁ……
「陛下を始め王宮の方々はこの度の魔王軍の脅威を強く認識なされ、メルル卿の出陣を決定なされました。編成の済んだ軍と共に皆様と合流なされる予定です」
ふむ、メルルが参戦か。彼女なら魔六将の一人二人を任せても大丈夫だろう。彼女が居るのと居ないのとではアークレスト王国側の戦力は、文字通り桁が違うものになる。おそらく私の知らない王国の強者も加わるだろうし、少しは先の展望も開けるか。
これまで落ち着き払っていた諸侯も、周辺諸国最強と名高いメルルの出陣には色めきだって、笑みを浮かべている者までいる。
これで彼女の婚姻の話が出れば、男運と引き換えに魔力を得ただの、前世から続く恋愛運消滅の呪いを受けているだの、冗談半分本気半分の評価と縁を切られるだろう。幸せな結婚が出来ると良いのだが、メルル。
競魔祭で王都に行った時は断ったが、弟子入りの話を受け入れていれば、私が彼女に何かしてあげられたかもしれないな。極端な例になるが、婚姻を司る神々に少しお願いするとか、私にしか出来ない事もあったなと今になって思う。
まあ、違う意味で私にしか出来ない事は、こことロマル帝国で実施中だけれども。
「それと今回の魔王軍の脅威に関して、アークレスト王国は隣国ロマル帝国と共同戦線を張る事となりました。これは既に陛下とライノスアート大公、アステリア皇女の間で決定した事です。その証拠の一つがこちらです」
長らくロマル帝国を仮想敵国としてきたアークレスト王国の諸侯達からすれば、以前、クリスが口にしたとはいえ本当にロマル帝国と手を結ぶと聞かされれば、驚きを禁じ得ない。
ベアベ子爵も何か考え込むように胸元で一部だけ白い毛並みを撫でている。どうも考え込む時の癖らしい。私とクリスだけは周囲と驚きを共有せず、クリスは私に視線で“ドランの言う通りになったな”と告げてくる。
私達ベルン側は、アムリアの傍に居る私=グワンダンを経由して、アークレスト王国とロマル帝国の共同戦線を知っていたのだ。
その使者としてあろうことかスペリオン王子御自らが足を運ばれたのには、流石に驚いたものだ。まあ、半分くらいはアムリアの顔を見る為かな、と思うのは邪推が過ぎるだろうか?
そしてコンクェルの従卒達が抱えていた封筒から数枚の書類らしきもの―――ん? いや、あれは……ベルン村のドランに生まれ変わってから見るのは初めてになるな。ふむ、ハウルゼンが出処かな?
「ロマル帝国から提供された“写真”なるものです。これらはムンドゥス・カーヌス本国から出立した増援と彼らの主だった都市、皆様が撃退した軍団を遥か上空から映しものと説明を受けております。正直に申し上げて、初めて見た時もそして今も、私には信じ難きものとしか思えません」
そのような事が出来る筈がない、という意味ではなく、ロマル帝国がそんな事の出来る国家だった事が、信じ難いといったところかね。まあ、ハウルゼンと彼以外の天人の遺産だから出来たのであって、厳密にはロマル帝国の業績ではないだろう。
ともあれ……たしか、こういう写真は衛星写真というのだったろうか。これらの齎した衝撃は凄まじく、諸侯の全員がにわかに騒然とし出し、食い入るように衛星写真に見入っている。
時には地図でさえ重要な情報となるのに遥か上空から撮影されてしまっては、丸裸にされたも同然だ。この時代における防諜の概念の外にあるものを見せられては、誰だって困惑するだろう。
それでもメルルなら軍団に丸ごと幻術の魔法をかけて、魔法でも科学でもどちらの技術で以ても探知できないように出来るのだろうな、と私とクリスだけは他人事のように呑気に構えているのだった。
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第三百八話
アークレスト王国の諸侯らが魔王軍との戦争に於いて、ロマル帝国と共同戦線を張る事を知らされるよりも数日ほど遡る。
ロマル帝国西方の大都市にしてアステリア皇女の根拠地であるバロルディ城は、アムリアを秘密裏に招き入れた時と同じか、それ以上の緊張感を孕み、城内は事情を知らされていない者でもそうと分かる程、硬くひりついた空気が満ちていた。
もっとも、その空気が作り出される原因である張本人は、わりと呑気なものだったが。
アムリアの為に用意された一室に、極秘も極秘、本当に限られた重臣にのみ来訪を伝えられた超重要人物が案内されていた。場合によってアムリアと同等かそれ以上に重要なその人物は、隣国アークレスト王国王太子スペリオンその人であった。
その傍らにはいつものように言動は軽めだが、聡明さと力量を兼ね備えた優秀な騎士たるシャルドの姿がある。
ロマル帝国と共同戦線を張るべく、アークレスト王国から使わされた使者こそ、このスペリオンに他ならない。既にロマル帝国東部を支配するライノスアート大公に話を通した後だが、これは優先順位ではなく単純に地理上の問題である。
少しずつ肌寒さを増してゆく風はあるが、中庭に出てお茶会など楽しみたいという欲求が顔を覗かせるうららかな昼下がりに、最高の腕を持つ庭師の整えた庭の美しさを眺めながら、スペリオンはいまやロマル帝国を三分する皇女と直接対面していた。
グワンダンが反射的にいくらになるのだろう、とついつい考えてしまう豪奢なテーブルにはホストであるアステリアとゲストのスペリオン、そしてアムリアが着き、シャルドやグワンダン達はその周囲に立って警護の任に着いている。
珍しくカイルスの姿はなく、給仕をしているアステリア付きのメイド達がアステリア側の人員だ。
リネットやガンデウス、キルリンネ、そしてタナトスもメイドとしてこの場に同席しているが、アステリアが連れてきたのが彼女らにとっての師匠や姉弟子にあたる為、黙って自分達よりも洗練された所作を目に焼き付けている。
ベルン男爵領に戻ればメイド技術を振るう機会もあるリネット達は兎も角、死を司る偉大な女神タナトスまでがそこまで熱中する必要があるのかと言えば大いに疑問だが、グワンダンは特に意見はないようだった。
身内と認めた相手には大いに甘い彼だ。タナトスが好きでしている分には、大目に見るとでも考えているのだろう。
「この度は貴国との共闘の約定を交わす事が叶い、感謝の念に堪えない。これで国の家臣達も胸を撫で下ろすでしょう。改めて感謝を、アステリア皇女」
お伽噺の王子像そのままの微笑を浮かべるスペリオンが、発言の主である。大役を果たして肩の荷を下ろし、ロマル帝国に来た直後の緊張感の薄れた様子だ。次期国王をよくも仮想敵国の首都に送り出したものだと、ロマル帝国の人間でさえ呆れている者は少なくないだろう。
スペリオンに話の矛先を向けられたアステリアは、仮面として完成された微笑をスペリオンへと返し、手に持っていた白磁のカップをソーサーに戻した。この二人の素性を知らない第三者がこの場に居たなら、身分もさることながら何と見目麗しく、気品に満ちていて、これ程似合いのカップルが居るだろうかと感心しただろう。
ただ、アステリアの内面を知るグワンダンやリネット達は、贔屓目があるかもしれないが、スペリオンはともかくとしてアステリアはちょっと、と言葉を濁すだろう。
「双方にとって利益のあるお話であっただけです。スペリオン殿下が何度も感謝をされる程の事ではありません。この件に関しては私達が戦っている間、国の守りを引き受けてくださった叔父上にこそ、本当に感謝しなければならないでしょう。
叔父上も今回に限っては、私が居ない間の隙を狙う真似はなさりません。この機会を狙って帝位をさらっては、あまりに大きな悪評が立ち、帝国の統治に差し障りが出ますから。私の不在を狙って動く南の方々を片付ける良い機会だ、と考えてはおいででしょうけれど」
そうしてアステリアは意味ありげに笑っていない瞳で、スペリオンの心の底まで見通そうとするかのように見る。
暗にアークレスト王国が反乱勢力に助力するかどうか、という問いを含んでの視線であるのを、この場の八千代と風香以外の全員が理解していた。こういう言外のやりとりに遭遇する度、グワンダンは心の中でうへえ、とげんなりしている。
「大公閣下もアステリア皇女も恐ろしい方だ。出来得る限り敵対したくないと、私も父も心から思っておりますよ」
「私と叔父も思いは同じくしていますよ。貴国の大魔女メルル殿もそうですが、近年はとても優れた人材が発掘され、育成されています。
三つに分裂してしまった我が帝国と違って、アークレスト王国は盤石の一枚岩として歴史を重ねられ、かの龍宮国やエンテの森の諸種族とも友好関係を築いておいでです。魔王軍との戦いではモレス山脈の竜種とも共闘関係を構築されたのですから、飛ぶ鳥を落とす勢いとはまさに貴国の為にある言葉と言っても過言ではありません」
「ははは、これもすべては先達と民のお陰ですよ。とはいえ聡明なるアステリア皇女にそのように言っていただけると、私としても鼻が高い」
「うふふふ、これからも貴国とは良いお付き合いを続けて行きたいものです。特にアムリアを迎えた事で我が国は大きく変わりますでしょうし、アムリアを預かってくださっていた貴国との橋渡しになってくれると期待しておりますの」
「ええ、アムリア殿にはご不便をおかけしたが、私達に出来る最善を尽くしたと自負しています。アステリア皇女に言われるまでもなく、私はより良好な関係を築いてゆきたいと心から願っています」
スペリオンから望んだ通りの、あるいは望んだ以上の言葉を引き出して、アステリアは意識して作ったものではない、本物の喜色を美貌に浮かべて双子の妹を見た。
スペリオンからの美辞麗句と告白にも似た言葉を浴びせられ続けたアムリアは、耳まで赤くして両手で可愛らしく持ったカップに視線を落としている。妹は姉の想像を越えてアークレスト王国で大事にされていたようだった。ロマル帝国の後継争いに都合の良い駒としての価値だけを見出されていたなら、わざわざスペリオンがここまで感情の伴う言葉を口にはすまい。
これには傍から聞いていたグワンダンも、心の中でにっこりである。
「ええ、その為にもこの度の魔王軍との戦いには何としても勝利しなければなりません」
「既に大まかな所は話を通しましたが、貴国と我が国とが東西より集結しつつある魔王軍へ攻撃を仕掛ける、簡潔に言えばそれに尽きますな。いえ、大まかと言うのも憚られる程、大まか過ぎるものですが」
「これまでの両国の関係と現状を考えれば、両国の誰が指揮を執っても順調とは行かないでしょう。また魔王軍の侵攻に向けた準備の速度を考えれば、我々が足並みを揃えていては、主導権をあちらに取られます」
「アステリア皇女の分析では、魔王軍の準備が整うまでおよそ二カ月。季節は冬に入る頃合いですか。冬は何処でもそうですが、暗黒の荒野の冬となると、ことさら進軍するには厳しい季節になりますね」
飛行船団による空輸を考慮しても、国を挙げて戦力を集めるだけでも二カ月は厳しい期間だ。集めるだけでなく軍勢の指揮系統の構築や物資の手配、それらに掛る費用も考慮すれば国家の運営に関わっている者達は頭を抱えたくなるだろう。
ましてや今回の戦争は防衛戦争としての面が大きい。国家と国民を守る大義名分はあれども、戦争に勝利して得られる土地はなく、また魔王軍の領内深くにまで侵攻するのは時期尚早ないしは不可能と両国とも判断している。
占領はできなくとも魔王軍の壊滅、あるいは国家基盤に重大な損傷を与える侵攻計画が唱えられていないわけではないが、まずはこちらの眼前に突きつけられた魔王軍という刃を退けなければ、お話にもならないというのも両国で共通の認識である。
「難敵であるとそう評価する他ないでしょう。兵も技術も国も気質も、更に言えば価値観もこれまで私達が相手をしてきた敵とは異なる方々ですから。ふふ、いけませんね、せっかくのお茶会ですのに、このようなお話ばかり。
アムリア、こうしてスペリオン殿下と久しぶりにお会いできたのですから、貴女が帝国に来てから見聞きしてきた事をお話して差し上げてはいかがかしら? いくら友好国の王太子殿下相手でも、お聞かせ出来ない話をしてしまいそうになったら、私が止めてあげますから気にせずにお話しなさいな」
「……あ、は、はい。姉上のお気遣いに感謝いたします。えっと、ではスペリオン殿下、お話したい事はたくさんございます。もし御迷惑でなかったら、聞いていただけますでしょうか?」
おずおずと問いかけるアムリアに対して、スペリオンが断る筈もなかったが、アムリアは万が一のその可能性が気にかかるようで、小動物のようにおどおどしている。その様子が可愛らしくて、ガンデウスなどは涎を垂らしそうになって、キルリンネに思いっきりお尻を抓られていた。
一応、ガンデウスの顔には出ていないので見逃してあげてもよいのでは、とついグワンダンは思うのだが、キルリンネとリネットはそこまで甘くないのだ。
このガンデウスの困った性癖に関してだけは、メイド三姉妹の下の立場にあるタナトスもといベリラトゥも容赦はしなくてよい、とリネット達に許可を得ている。
これも個性というには問題があるか、とグワンダンは初々しいアムリアとの違いに苦笑しそうになった。まあ、我が子のように可愛いガンデウスに関して、中々厳しく出来ない分はリネットとキルリンネが補ってくれているから、これでよかろう、とグワンダンは結論付けた。
そしてアステリアとスペリオンの言う通り、次に本格的に魔王軍と激突するのが二ヶ月後となるのなら、それまでの間に気掛かりとなっていた一つの事が終わるなとグワンダンは心底安堵した。なにしろ彼の気掛かりとは、愛しい娘レニーアの晴れ舞台の事なのだから。
*
ドラン、クリスティーナ、フェニアの卒業したガロア魔法学院はレニーアとネルネシアこそ残ったものの、戦力が大きく低下したと他の四つの魔法学院が判断したのはなにも間違いではなかったろう。
いかんせんドランとクリスティーナが、競魔祭での戦闘だけで判断しても、競魔祭の歴史上、五指に入る実力者だったのだから、戦力低下は他のどこよりもガロア魔法学院の代表生徒達が痛感している。
特にレニーアが痛感しているから、夏季休暇ではマノスらにああも過酷な特訓が課せられたわけだ。
魔王軍との決戦前に設けられた猶予期間を利用し、ドランは自分そっくりの分身をクリスティーナと共に諸侯らの元へと残し、彼自身は後輩達の活躍を直にその眼で確かめるべく、昨年は自分が選手として立った王都へと足を伸ばしていた。
昨年と異なり、ドランの身分が騎爵でありベルン領の正式な騎士である事から、彼は貴族として遇されている。
またガロア魔法学院の選手として、当時、魔法生徒最強を争っていた西の天才エクスと南のハルトを下した戦いは競魔祭関係者の記憶に新しく、競技場に集った他の貴族からの視線は選手ばかりでなくドランにもたびたび向けられていた。
毎回、王族の照覧があるのだが、今年はスペリオンが国内外を忙しく飛び回っている事から、臨席を賜ったのはフラウ王女一人である。ドランはそのフラウ王女と同じ照覧席に居た。
貴族としてはほぼ底辺に位置するドランが、そう簡単に同席を許されるような相手ではないが、そこはそれ、昨年の競魔祭で最も名を挙げ、魔王軍との前哨戦で名を挙げ、フラウ王女と懇意のクリスティーナの婚約者という諸々の事情がドランを後押しした。
なによりもドランの同席を願ったのが、フラウ本人であったのが大きな理由だろう。おりに触れてメルルがドランを称賛していた事もあって、父の国王やスペリオンから簡単に了承を得られたし、また、友好国の国賓もそれを望んだのであった。
この時、照覧席に居たのはドラン、フラウ王女とその護衛達の他に正式に招待されてやってきた龍宮国皇女瑠禹と蒼月を筆頭とする護衛、それに両国の侍従達である。
フラウは国賓の相手をするとあって、さわやかな萌黄色のドレスに龍宮国から送られた海底で産出された宝石類をアークレスト王国の職人が手がけたネックレスや指輪を身につけ、誰もが夢見るようなお姫様姿となっている。
招待を受けた瑠禹もまた龍宮国の代表として、ドランの記憶にある巫女服ではなく八千代と風香の生国である秋津風の前合わせの豪奢な衣服に身を包んでいる。淡い桜色の生地にそれ自体が財宝のように輝く刺繍が施され、その上に薄い水色の打掛を重ね、長い黒髪は螺鈿の台座に大小の真珠をあしらった髪飾りにより、後頭部で束ねられている。
大地の上と海の中に生を受けた異なる姫君達の揃う姿は、競魔祭の試合が始まるまで観客と選手達の注目をこれでもかと集めたものだ。
瑠禹とフラウ、共に国家元首の娘という立場にある二人が横並びに座る一方で、ドランはフラウと瑠禹の真ん中後方に用意された椅子に腰かけている。
ドランよりも身分の高い護衛達が立ったままであるから、自分だけ座るのは落ち着かない気分のドランだが――古神竜という中身の割に未だ小市民感覚が抜けていない――解説として招かれた立場であるからと説きふせられて大人しく座っている。
フラウは次期国王であるスペリオンは勿論、彼女自身も多少の縁があり、また次代の王国に重要という評価が必要不可欠というものに変わりつつあるドランとは繋がりを持っておきたい思惑があった。なにより、フラウの慕うクリスティーナの旦那となる人物であるし。
そして瑠禹はもっと単純だ。アグラリア戦役では何時でも助力できるようにと、母ともども変装し、偽名を用意してこっそりとベルン男爵領に居たが、今回は堂々と公的な理由で母を交えずドランと顔を合わせられるのだ。
アークレスト王国基準の身分と立場を弁えた言動で接しなければならないのは、いささかならず窮屈で恐れ多かったが、ドランと直に顔を合わせ、言葉を交わせる喜びの方が勝る。
今、競魔祭の会場では、決勝戦の大将戦が行われており、試合開始から加熱し続ける試合内容に会場の選手達も観客達も我を忘れたように見入り、歓声を挙げている。
フラウはこれまでの試合の攻防一つ一つに初々しく反応していた一方で、瑠禹は試合を行っている選手のほぼ全員が自分よりも戦闘能力で大きく劣る事実から、そう仰々しく反応はしていない。むろん、人類基準で考えれば優秀な生徒達だと認めてはいる。
ドランは魔法に明るくない者では分からない攻防や、優れた魔法使いでも咄嗟には判断のつかない細かい部分に到るまで、求められるのを事前に察して解説している。案外、誰かに教鞭を振るうのが向いている性格なのかもしれない。
決勝戦大将戦の出場選手は、レニーアとハルトの二名。素性を知る者達からすればレニーアの勝利は絶対不動だが、それを知らぬ観客達からすれば昨年の敗北から実力を磨きあげたハルトの激闘に熱を上げている。
ここまでの戦いでガロア魔法学院は二勝二敗という戦績で、この大将戦で今年の優勝校が決定する重要な試合だ。
ハルトはますます二刀流の魔法剣士としての練度を高め、傍目にも明らかに実力を高めている。ドランが戦った際には自分以外にクロノメイズとアルデスを即席ゴーレムに憑依させて戦ったが、レニーアは自分のみで戦っている。
優勝のかかった一戦だが、余裕のある笑みを浮かべているレニーアを見て、瑠禹がにこやかにドランに話しかける。友好国の次期国王が成り上がりの一貴族に向けるには、いささか親愛の情が深い声だったかもしれない。
「レニーアさんはドラン殿を大層慕っておいでというお話ですから、ハルトさんを相手にドランさんの戦い方を真似されるかと思っておりましたが、これまでと変わらない戦い方をされていますね」
レニーアのドランに対する心酔ぶりを生で見た経験のある者ならば、瑠禹の言い分に理解を示すだろう。
そうでなければまさか戦い方まで真似するなど、いくらなんでも、と否定するのが普通だ。レニーアとドランとでは競魔祭で見せた戦い方が違いすぎて、レニーアがドランの戦い方を真似するのでは効率が悪すぎる。実際、この場に居るアークレスト王国側の侍従達などは、内心でそう思っている。
「彼女からの信頼は時に重すぎる程に感じるものでもありますが、彼女は決して私になろうと考えているわけではありませんよ。あの戦い方が今の彼女にとってはもっとも馴染み深く、効率の良いものですから」
「いわゆる超能力を魔法で再現した思念魔法。天然の超能力に比べて魔力の消費量、精神と脳への負担の大きさから、あまりに効率が悪いと決して評価の高いわけではない魔法体系ですが、その魔法であれだけの力を見せるレニーアさんの精神力には感服いたします」
「思念魔法に限って言えば、レニーアは我が国の誇る最強の大魔法使いメルル様をも上回ると、御本人からのお墨付きですから」
我が子を褒められて喜ばぬドランではない。彼自身と同様に、次世代魔法使いの中でも、戦闘能力では最強なのではと噂されているのがレニーアだ。
アークレスト王国としても対応に過剰なまでの繊細さを要求される龍宮国の皇女に、自国の戦力を示し、評価する言葉を引き出せたのは上々だろう。
これでレニーアの真の素性を知る瑠禹からすれば、この程度の称賛ではまるで足りないと思っているのが知られれば、アークレスト王国の関係者は驚きのあまりひっくり返りそうだ。
それを言ったらドランの素性もなかなかどうして大したものだが、さて、アークレスト王国の人々はドランとレニーアの素性を知った方が幸いなのか、知らない方が幸いなのか?
「メルル殿でしたら何度かお会いした事はございますが、ええ、確かに。純人間種の限界に到達し、その限界の壁を自力で突破しつつある御方と母は大層驚いておりました。あの方ほどの逸材のいらっしゃる貴国が、我が国との友好を望んでくださったのも、始原の七竜のお導きでしょう」
具体的に言うと、解説役としてこの場に招かれた成り上がりのなんちゃって貴族の関与が大きな原因である。それを知っているのは当の本人と瑠禹を含む龍宮国の一部だけなので、それを知らぬフラウは国賓の相手をする者として、素直に称賛の言葉を受け取った。
「メルル卿は我が国の自慢ですから。あの方は自身の評価に対してあまりに過分であると、萎縮するのが常になってしまっていますが、瑠禹殿下と龍吉陛下にそのように評価されていたと知ったなら、その場で気を失ってしまうかもしれません」
ドランとしては半分同意、半分異論だ。メルルの事だから萎縮はするだろうが同時に瑠禹と龍吉を相手に一戦交えられないだろうか、と心の片隅、いや三隅くらいで考えそうだと思ったからである。戦闘狂ともまた微妙に異なる、メルルの困った拗らせっぷりを知っているのは、この場ではドランだけであった。
「あらあら、メルル殿の意外な弱点を知ってしまいました。昨年と同じく実況席でお仕事に熱中している、今の真面目なお姿を見ますと、いささか想像が付きませんね。うふふ、ひかえめなお人柄なのですね」
いや、あれは控えめと言っていいのかなあ、と心の中でドランは呟く。
昨年、メルルから競魔祭後のパーティーで、言葉足らずに模擬戦に付き合ってくれと言われ、その後の模擬戦が終わった時には弟子にしてくれと言われ、顔を合わせる度に食いつかんばかりの勢いで模擬戦や弟子入りを申し込まれてきたドランからすれば、ひかえめという概念はメルルから遠いものだった。
「ついメルル殿のお話に移ってしまいましたが、決勝戦の方もそろそろ終わりが見えてまいりましたね」
古き龍の血脈を受け継ぐ少女の瞳には、舞台上で腰から上を顕現した思念竜の体内で腕を組み、傲岸不遜にハルトを見下ろすレニーアの姿が映っている。
これまでのハルトの戦いはレニーアが手加減しているとはいえ、実力差を考えればドランとしては称賛の声と拍手を盛大に送りたい程なのだが、レニーアがガロア魔法学院の競魔祭優勝を固く誓っている以上、彼に勝ち目がないのは揺るがぬ事実。
もし仮にこの場に神々が降臨して競魔祭の進行を妨害しようとしたら、レニーアは凍えるような怒りと共に神々すら蹂躙してのけるだろう。それ程の決意の固さであった。
(まあ、残念ながら全試合全勝とはいかなかったが、そこまではレニーアの許容範囲だったのがせめてもの救いか)
ドランばかりはしみじみと親心めいた気持ちで、レニーアとハルトの最後の戦いを見ていたのを、レニーアですら知らなかった。
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第三百九話
競魔祭決勝戦は、多くの観客達の目には白熱した戦いであるように見えていた。
実際にはまるで違うのを理解していたのは、ごく一部の力ある観客と実況席に座っている解説者メルル、それと実際に戦っている選手くらいのものだ。
魔剣バルホースと霊刀キリシャナを携えるジエル魔法学院の大将ハルトは、この競魔祭の舞台でもっとも無力を感じている人間に違いなかった。
去年の競魔祭でもガロア魔法学院のドランを相手に、絶望的な戦いを挑まざるを得なかったが、今、彼が相対しているレニーアもドランとはまた異なる絶望的な戦力の持ち主だ。
二振りの刀剣を、翼を広げた鳥のごとく構えるハルトと対峙するレニーアは、強大な意思の力によって形作られた半透明の思念の竜の中で、傲岸不遜という言葉をこれ以上なく体現した態度でハルトを睥睨している。
この地上において最も強大な思念魔法の使い手たるレニーアならば、視線一つだけで人体を四散させる念動を無制限に使い放題だが、それをしないのは試合形式の決勝戦の場であるのと、殺人など御法度もいいところだから自粛しているだけに過ぎない。
レニーアがその気になれば試合開始と同時に負けていたと、肌で理解できていたハルトは実戦で敵対しなくて済んだと、安堵している自分を心底情けなく思う。
「ふん、去年、ドランさんと刃を交えた時よりも一割か二割は強くなったが、ふははははは、私の牙城を崩すにはまるで足りぬわ。蟻がいくら牙を立てようとも、私という名の城塞を崩壊させることは叶わぬと知れ!」
無数の観客達の注目を集め、そしてこの世でもっとも尊敬する魂の父ドランの見ている場面とあって、母たる大邪神カラヴィスからお調子者の気質を受け継いでいるレニーアは、観客席にも響き渡る高笑いをする。
レニーアと去年の競魔祭で当たったハルトの学友ユーキは、同じ思念魔法の使い手であった為か、レニーアに試合中にも関わらずとことんまでしごかれて試合終了と同時に気絶してしまったものだ。今のレニーアはその時の様子を思わせる不穏さがある。
「塵も積もれば山となる。まずは牙を立てるところから努力させてもらうさ」
「くくく、あきらめて降参するよりもよほど気骨のある返答だ。この晴れ舞台で精々足掻いて見せるがいい。そうら、そらそらそら、むははははは!」
レニーアの口元に浮かび上がる、肉食獣ならば決して浮かべぬ悪意と愉悦の入り混じる邪悪な笑みよ。その笑みを真正面から目撃したハルトのみならず、彼の手に握られる意志あるバルホースもキリシャナも、魂を冷たい手で握られたような悪寒に襲われる。
かつてキリシャナはレニーアを大悪魔かなにかの生まれ変わりではないか、と語ったことがあるが、今、ハルトの脳裏にはその時の会話が思い出されていた。
レニーアの高笑いと共に思念竜の右腕が振るわれて、観客にもわかりやすいよう配慮された色付きの思念の砲弾が放たれる。夜の闇を凝縮したような黒い思念を、ハルトは春の風に舞う蝶のように軽やかに避けて、レニーアとの間に開いていた距離を詰めるべく駆ける。
「
ハルトの得意とする魔法剣は水の属性を刃にまとわせ、ハルト自身は川の流れのように留まらず、流麗に舞台上を駆けてゆく。
避けきれぬ思念の砲弾はバルホースの黒い刃とキリシャナの白い刃が斬り捨て、彼の通った後に黒い霧となって散ってゆく。
その姿は人々に大魔王に勝機の薄い戦いを挑む勇敢にして無謀なる勇者を想起させた。ハルトと同じジエル魔法学院の生徒たちからすれば、悲痛もいいところの姿だったろう。
波濤の勢いをもってレニーアとの距離を一挙手一投足にまで縮めたハルトは、さらに身を低くし、闘気と魔力を両足へと集中し、舞台の床を蹴る足裏でそれらを爆発させる。文字通り爆発的な推進力を得た加速したハルトは、思念竜の腹部へと振りかぶった二つの刃を渾身の力で叩きつける!
「
斬撃とその範囲の延長に重点を置いた魔法剣は、バルホースとキリシャナの刃長をはるかに上回る白銀の魔力の刃を形成し、思念竜の腹部に左右から斬り込まんとする。
装甲めいた思念竜の体表に激突した魔法刃は、レニーアの破壊の意思と一進一退の攻防を演じ、わずかに斬り込んだかと思えば反発によって押し返されるのを繰り返す。
思念竜の腹部から周囲へと、砕けた魔力と思念の破片が黒白の火花と散って、眩い光が舞台上を照らし出し、観客達の熱をさらに上げる。
しかし、思念竜に斬り込むハルトと刀剣達は、この拮抗がレニーアの絶対的な余裕と自信によって演じられているものだと痛いほど理解できていた。
「手加減かっ」
手を抜かれたとて怒りを見せることもできないほどの実力差に、ハルトはただ悔しさに歯噛みし、金と銀の瞳を細めてレニーアを見上げるしかできない。
「色々と事情を汲むも汲まぬも、それが競魔祭というものだろ? ふふん、私も少しは政治の機微というやつを理解してきたのでな。
周囲を沸かせる練習を兼ねて、お前と戦っているのだ。不満も不服もあるだろうが、気概程度で私は動かぬ。私の意思を覆せるほどの力を見せねば、いくら吠え立てようが、舌を動かそうが無意味よ」
自分よりも力の弱い者の意見など一顧だにせず、といっそ冷酷なまでに態度と言葉で示して見せるレニーアは、確かにそう口にするだけの強大な力の持ち主であり、その彼女が心酔するドランの異様さもまた浮き彫りになるというもの。
「去年と今年のガロアは本当に魔境だな!」
ハルトはこれ以上斬り込めないと判断し、イガリマガリの魔力刃を消し、大きく引き戻した刃に再び練り上げた闘気と魔力を充填し、光り輝く刃を、夜空を切り裂く流星の如く突き込む。
「
巨大な金属の塊にハンマーを叩きつけたような衝突音が、思念竜の体表と二振りの切っ先の間で生じ、渾身の力を籠めるハルトは何とか体表を貫くか傷の一つも残さんと肉体と魂の奥底から闘気と魔力を絞り出す。
思念竜の内部に留まるレニーアには痛痒も、辛苦の色もないが、昨年のドランとの戦いでも見せたハルトの気骨ある戦いぶりには少しばかり感心した様子を見せている。
「ふふん、諦めを知っていてなおそれだけの闘志を見せるのはよい。私やドランさんの域には大きく及ばぬとも、お前は十分に強者と言えるだろうよ。比べる相手を間違えなければな!」
遊びはここまでだ、とレニーアの意思が思念竜と刃を通じてハルトの意識に叩き込まれた。強制的かつ一方的に叩き込まれる念話は、叩き込まれた側の意識をかき乱す効果を発揮する。たまらず闘気と魔力の捻出を乱し、眩暈を起こしたハルトの頭上から、大きく振り上げられた思念竜の右腕が振り落とされる。
これが競魔祭でなかったなら、ハルトが原形を留めない赤い染みとなった一撃が、競魔祭決勝戦の勝敗を決める一撃となった。
「今年も、勝てなかったか……」
視界を埋め尽くしながら迫りくる思念竜の右手を見上げながら、ハルトは悔しさをにじませた呟きを零す事しかできなかった。
「ふん、私とドランさんに勝てないのは当たり前だ。お前以外の誰であっても、この地上にはおらんわ」
*
ガロア魔法学院の二年連続での競魔祭優勝を称える優勝旗などの授与式と閉会式を終えた後、参加校と生徒達の労をねぎらう祝宴が催されるのは去年と変わりはない。
競魔祭の観戦に来たのはドランばかりでなく、試合中、ディアドラは長い付き合いのあるガロア魔法学院長オリヴィエのところへ顔を出し、セリナは親睦の深いガロア魔法学院の生徒達のところへ顔を出し、観覧席も同じくしていた。
競魔祭が終わった後にドランのところへ集合した三人には祝宴の参加も打診されており、今回はラミアの姿のままでセリナも参加する運びとなっている。
セリナが去年と違い、ベルン男爵領にて正式に雇用され、騎士の身分を与えられている事、そしてなによりアグラリア戦役における、セリナの率いるラミア達の活躍が広く伝わっていたのも大きい。
くしくも戦役に参戦した諸侯らから魔王軍の脅威が克明に伝えられるに比例して、魔王軍を相手に果敢に戦い、勝利の大要因となったベルン男爵領の面々の対外的な評価が高まる事となったのである。
さて祝宴への参加にあたって、セリナはラミアの体用に仕立てられた、ゆったりとしたラインを描く、セリナの瞳と同じ色のドレスを着こみ、元から豪奢な黄金の髪は、金糸による春の花々の刺繍が施されたリボンで二つに纏められている。
ディアドラは元々、パーティーに出席してもおかしくないドレス姿が常だが、今回は珍しく絹の光沢が美しいベージュのストールを重ね、黒のダイヤをあしらったイヤリングも着けていた。ベルン男爵領の重要人物として、こういった場面での衣装に気を遣うようになったのかもしれない。
去年は制服で構わなかったドランだが、彼もまたクリスティーナの補佐官としておかしくないよう、王家の人間も臨席する祝宴に出席するのに相応しい基準に達した服装に袖を通している。
祝宴が始まり、競魔祭に出場した各魔法学院の生徒達がフラウと瑠禹に挨拶をし、それに答えた二人が労う言葉をかけるやり取りを済ませ、祝宴の始まりが告げられる。
あくまで主役は魔法学院の生徒であるため、それなりに着飾った貴族や生徒の親族らも話題の中心は生徒達となるように配慮している。
ただ、今回ばかりは国交を結んだとはいえ姿を見るのが稀な龍宮国の皇女がこの場にいる事と、久しく絶えてなかった戦争に大きく関わったドランがいる事で、常の競魔祭後の祝宴とは異なり、彼らに注目が集まりがちだったのは仕方のないことだったろう。
ドランは祝宴前に合流したセリナとディアドラを連れて、魔王軍との戦争について尋ねたがる雰囲気を出す貴族達に、それとなく視線や仕草で断りを入れながら、後輩達のもとへと足を向けた。
三年連続で競魔祭に出場して活躍したネルネシアと去年、今年の二年でドランを除いて他の追随を許さぬ暴虐とさえいえる力を示したレニーアへ向けられる関心は大きい。彼女らと関係を持ちたいと考える貴族は多くいるだろう。
もっとも、当の二人は何よりも食い気に走っていて、テーブルの上の銀の大皿に並べられた王国各地、またあるいは異国の珍味妙味を手当たり次第に食べる事に熱中している。
有望な貴族のもとへの仕官を願っているアズナルとクシュリは、そんな二人の行いに呆れ気味だが、かといってこの場を離れて自分達を売り込みに行く気にもなれないようで、めったに味わえない豪勢な料理が冷めないうちに、とネルネシア達に比べれば随分とつつましく料理に手を付けている。
マノスはといえば同じ場にこそいるものの、競魔祭での自作ゴーレムの反省点や改良点を思い浮かべては検討するので忙しいらしく、椅子に腰掛けて時折果汁水で喉を潤す以外にはこれといって動きを見せていない。
彼自身の去年からの努力とドラン、リネットからの技術や資材の供与もあり、マノスのゴーレムは最新鋭の軍用ゴーレムを上回る性能を発揮したが、まだまだ彼は満足しきってはいないのだった。その向上心をこそ、ドランは大いに気に入っていて、肩入れしているわけだ。
そんな五名の過ごし方を見て、大蛇の下半身を持ちながらも、その美麗さに賞賛の視線を集めているセリナが困ったようにドランに告げた。
「なんと言ったらいいのか、皆さん、思い思いの過ごし方をしていますね。ガロアらしいといえばらしいのですけれど、他の生徒さん達も皆さんがああなのだと勘違いされてしまいそう。去年もあんな感じだったのでしょう?」
「ふむ、クリスとレニーアはああして食べ物に集中していたね。ネルはエクスに話しかけられて途中退席したが、まあ、去年とそう変わらんか」
そんな優勝校とは思えない気の抜けているというか、場の空気を読まない行いに耽っているガロア魔法学院の面々に苦笑しつつ、ドラン達は後輩達へ祝いの言葉を伝えるべく声をかけた。
最初に近づいてくるドラン達に気づいたのは、ファティマとその傍らに影のように控えているシエラだった。ファティマの使い魔扱いとはいえ半バンパイアであるシエラが祝祭の会場にいるのも、去年との何気ない違いの一つだろう。
「あ、ドランだぁ~。セリーにディアドラさんも一緒だね~」
ドランは、ふむ、こののほほんとした学友の喋り方を聞くと、途端に学生生活が思い起こされて懐かしくなっていかん、と口元を綻ばせた。
もう学生気分ではいられない立場なのだが、ファティマ達と過ごした、たった一年間の学生生活がそれだけ輝かしいものであったのは疑いようもない事実だった。
ファティマの言葉に応えて、片手をあげるドラン達にレニーアを始め、彼女の世話をしていたイリナに思考の海に潜っていたマノス、重ねられた皿の塔にあきれていたアズナルとクシュリも偉大なる先達に意識を向ける。
競魔祭で多大なる活躍を見せ、魔王軍との戦いでも輝かしい戦果を上げた功労者となったドランと彼に続くかもしれない後輩達との会話は、周囲の貴族や魔法学院関係者にとって、聞き耳を立てるに値する。
「皆、月並みな言葉だが優勝おめでとう。今年も晴れてガロア魔法学院が優勝の栄誉を得られる瞬間に立ち会えてうれしく思う。クリスティーナ閣下とドラミナもこの場にいたなら、君たちの勝利と栄誉を大いに褒めちぎっただろう」
対外向けに愛しい婚約者を上司として呼ぶドランの賞賛に続き、ニコニコと純真な笑みを浮かべるセリナと安堵したような微笑を浮かべているディアドラも短いながら、祝福の言葉を口にする。
「優勝できたことも何よりですが、皆さんが怪我をすることなく競魔祭が終わって安心しました」
「まあ、競魔祭が学生生活のすべてというわけではないし、しばらくは優勝の美酒に酔いしれてもいいのでしょうけれど、学生の本分を忘れないようにね」
ディアドラの台詞がどことなく教師じみているのは、実際に彼女が数ヶ月という短い期間ではあるが、ガロア魔法学院で教鞭を執った影響かもしれない。
ディアドラの言葉にファティマがのんびりと手を上げて、楽しそうに笑って答える。
「は~い、競魔祭優先だった分、疎かになっていた勉強もたくさんしないとね~」
マノスとレニーアは競魔祭向けの特訓も学業も両立させていたが――特に昨年の失態を肝に刻んでいるレニーアは――、ネルネシア、アズナル、クシュリらはどうしても特訓の方に大きく注力したため、勉学に若干の支障が出ている。
その自覚があるからだろう、アズナルとクシュリは互いの顔を見合わせて苦く笑う。ネルネシアだけは表情を変えず、下品にならぬ程度に口の中に詰め込んだ食べ物を咀嚼中だ。
ネルネシアに先んじて口内の飲食物を飲み込み終えたレニーアは、イリナに汚れた口元を拭ってもらってからファティマの発言に彼女らしい意見を述べた。
レニーアがイリナに甲斐甲斐しく世話されることには、少なくともガロア魔法学院の面々からは何も意見が出てこないところからして、ドラン達が卒業した後でもこの二人は常日頃からこのようにして日々を過ごしているに違いない。
「勉学のこととなればそれは個人の責任だな。自分の不始末は自分でどうにかするべきだろう。ファティマ、あまりネルネシアを甘やかすなよ」
「あははは、頑張って厳しくするよ~」
「お前の言葉遣いだけで考えると今一つ信用できんが、優しいのと甘いを混同してはおらんからな。本当にネルネシアの為になる行動をするか。ま、私がどうこう口にする問題でもないか」
ネルネシアは、ちぇ、というよく見知ったものでなければわからないくらいささやか表情の変化を見せたが、レニーアの方が正論であるのは自覚があるようで抗議する様子はない。そこまで厚かましい少女ではないということだ。
「そしてドランさん、それとセリナ、ディアドラ、北の魔族共との戦いに備えご多忙の最中にも関わらず、後輩である私共の為にご足労いただき、感謝の念に堪えません。幸いにして競魔祭の優勝を捧げることが叶い、私としてはまず安心いたしました」
「ああ、見事な結果だったよ。先達として誇りに思う。ただ、こういっては君の機嫌を損ねるかもしれないが、決勝に至るまで何度か敗北したのを烈火のごとく怒るのではないかと危惧していたが、君達の様子と雰囲気を見るに杞憂で終わったようでなによりだ」
ドランからの指摘に、レニーアはこれまでの自分を鑑みればさもありなん、と小さく笑って受け流す。ドランと出会ったばかりの頃、いや、もうしばらく経った頃でもドランの危惧した対応をしただろうが、今の彼女は精神的に大きく成長していた。それこそドランの想像を超えてと言っていいほどに。
「むろん、望ましいのは全試合全勝利の上での優勝ですが、だからといって敗北を交えた今回の優勝の価値が下がるわけではありません。
意図的に手を抜いて敗北したというのならば、このレニーア、地獄の悪鬼も青ざめる所業に及びもしましょうが、誰もがその時、その時で、己にできる全力を出した結果です。ならば力の足りなかったことに悔しさはあろうとも、堂々と胸を張るべきでしょう」
ほう、とドランの口からは正直な感嘆の気持ちが短い言葉となって零れ出た。セリナとディアドラは我が子の活躍を実感する母親のように、うれしげにうんうんと頷いている。
将来的には内々の話ではあるが、義理の娘となるレニーアが相手であるから、まあ、おかしくはないが、事情を知らない者からしたら不思議な光景だったかもしれない。
レニーアの意見にはネルネシアはもちろん、アズナルやクシュリ達も同意見のようで、全力を尽くしたという一点において、彼らに引け目は微塵もない。
そんな彼らを賞賛する声が、周囲を取り巻いていた貴族達の向こう側から盛大にあげられた。大ホールに響き渡る声は、ドランやレニーアにとっては実に聞き慣れたものだった。
「そおの通りですわ! このフェニアの目から見ても、負けた試合であれ本気で挑んでいたのは明らか。本気と全力とでは意味合いが異なりますが、真摯に競魔祭に取り組まれていた事に異を挟む方がいようはずもありません。ふんふん!」
まるで人型の炎であるかのような輝きと活力を周囲へこれでもかと発しながら、赤い鳥の羽を思わせる飾りがあしらわれたドレス姿のフェニアである。実家に戻っている為に、ネルネシアやレニーア以上にドランやセリナらと顔を合わせる機会の減っていた女傑の相も変わらぬ壮健さと華のある姿に、自然とドラン達の口元には笑みが浮かび上がる。
「おほほほほ、こうして皆さんとこのようなめでたき場にて顔を合わせることができるとは、このフェッニーア、この秋一番の喜びですわ!」
自然と貴族達が分かれてフェニアの通り道を作り、満面の笑みを浮かべたフェニアがガロア魔法学院の面々の輪に加わる。彼女もまた昨年の競魔祭で大活躍した生徒であり、名家フェニックス家の令嬢とあって、行動を妨げる者はいない。
この場にフェニアが加わり、クリスティーナがいれば昨年の競魔祭出場者が揃ったのに、とドランはわずかに惜しんだ。
「ふふ、レニーア達の優勝を祝う為の場だが、これではまるで私達の同窓会のようになってしまったな」
少しだけ一人かけている事への寂しさを交えて微笑むドランに、フェニアとレニーア、ネルネシアも心から同意した。それでもドランが新たな戦場へ赴く前に、心残りだった後輩達の活躍をこの目で確かめることができたのに変わりはない。
そして、ドラン、ディアドラ、セリナ達を次の戦場が待っているのだ。
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第三百十話
アークレスト王国王都にて競魔祭の決着を見届け、ドラン達との私的な会話を楽しんだ後、瑠禹は龍宮国へと帰還し、主君にして母たる龍吉へ帰還の報告を行っていた。
龍宮城には本来の龍としての姿で謁見を行う間と、人間大に変化して謁見を行う間がどちらも複数あるが、今、瑠禹が母と対面しているのは後者の人間大で謁見を行う間の一つだ。
龍宮国の家臣には島よりも大きな烏賊や蛸、鯨に海巨人なども含まれるが、そういった者達の中には変化の術を会得していない者もおり、極端に大きさの異なる謁見の間が用意されているのは、こういった事情がある為だ。
謁見の間にて多くの家臣達の見守る中、玉座に腰掛ける龍吉を前に瑠禹は立ったまま深く頭を下げる。親子であろうともこの場では主君と家臣としての関係が、第一にある。
「陛下、龍宮国第一皇女・巫女頭瑠禹、アークレスト王国よりただいま戻りましてございます」
「よく戻りました、瑠禹。面を上げなさい」
帰還を告げる娘の声音も、それに応じる母の声音も親子の情よりもそれぞれの立場を重んじる堅さと重さが強く込められている。
「貴女がアークレスト王国の競魔祭を観戦するのは、これで二度目のこと。今年の見応えはいかがでしたか?」
「かの国の次世代の要となる方々の熱意と努力が、肌を打つほどに強く感じられ、またお招きくださったフラウ王女も大変よくしてくださいました。解説役としてドラン殿を招かれたのも、わたくし共龍宮国とかの方の関係を含めた上でのご配慮かと存じます」
「ずいぶんと心を砕いてくださったようで、なによりです。アークレスト王国からの我らに対する厚遇、ありがたい事です。
我らにとって地上の人類国家との継続的な国交開設は前例がありません。ドラン殿の存在により、アークレスト王国は極めて特別な例ではありますが、それ故に初めて国交を結ぶ相手として幸運といえる相手でもあります。
瑠禹、これからの我が国を担う貴女達の世代が正しい縁を結ぶべく、努力することを怠ってはなりません。また、私が言うまでもなくそのように努力してくれていることは、この龍吉、龍宮国の国主として理解しておりますよ」
「はっ。この胸に刻みます。陛下、僭越ではありますが、つきましてはこの度のアークレスト王国とムンドゥス・カーヌス国との戦において、我が国の姿勢は変わらぬまま通されるのでしょうか。軍神の血統に連なるかの国の力は強大です。ドラン殿がおられる以上、決定的な敗北は免れるにしても、被害は小さなものでは済まないものかと。
アークレスト王国からの軍事に関する支援要請はないと聞き及んではおりますが、我が国からの申し出は今後も行われないのでしょうか?」
これには言外に、瑠禹と龍吉が変装してベルンの軍勢に紛れるなり、モレス山脈の竜種に混ざるなり、といった行動も行わないのか、という確認を含んだ問いかけである。
左右に分かれている家臣の列の内、瑠禹から見て右手側のもっとも龍吉に近い位置にいる、年経た海亀の変化である宰相がたしなめる言葉を口にした。
ゆったりとした官服をまとう二足歩行の亀、という風体の宰相の声音はその立場に相応しい重みがある。
「殿下、この場は陛下の決定に意見を述べる場ではありません」
次期龍宮国国主であり次期水龍皇の瑠禹は、龍宮国で龍吉に次ぐ立場にあるが、だからといって時と場所を選ばずに、自分の意見を口にするのが許されているわけではない。今回はドラン達への思い入れから、場にそぐわぬ発言をしたと責められるのは妥当だ。
瑠禹の親衛隊長を務める蒼月は、瑠禹の左後ろに控えていたが、宰相の発言を受けて悔しげに少しだけ顔を俯かせる。
対する瑠禹は己の失言を素直に認めて、宰相と玉座の君主へ頭を垂れた。
「申し訳ございません。場を弁えぬ愚かな発言をいたしました」
潔い瑠禹の態度に、龍吉は表情を変えぬまま口を開く。内心ではドラン様とお話しできて、少し浮かれたままだったのかしら? と母としての立場から見た感想を抱いていたが、それを表に出さぬ程度には場を弁えていた。
「分かっているのならよろしい。既に海魔の脅威が大きく減じ、我らの祖先が代々望んでいた平穏が海の中に訪れたことで、我らに多くの余裕が生まれたのは事実。それ故、地上にて友誼を結んだかの国に肩入れをしたいという考えが生じる事もありましょう。
しかし、まるで施すようにこちらから協力を申し出るのは好ましい振る舞いではありません。アークレスト王国が隣国のロマル帝国と共にムンドゥス・カーヌス国との戦争に臨む動きを見せている以上、この時期に我らが口を出せば彼らの戦争の展望に、よからぬ波紋を立てることになりかねません。
それに、海の中はずいぶんと穏やかになりましたが、星の海の方にいささか気を払わねばならぬ時期が来ているかもしれません」
星の海となると、これはかつて天人と争った星人達につながる事案だ。昨年も別銀河からこの星を跡形もなく消滅させるべく、大規模な宇宙艦隊がわざわざやってきたが、これは既に龍吉を含む三竜帝三龍皇が文字通り全滅させている。
それ以外にも時折外宇宙から、かつて天人達に敗北した星人達の襲来はあり、それを三竜帝三龍皇や月の竜王と兎人、蟹達と共に撃退している。
基本的にドランが転生するまではこの星の最大戦力だった三竜帝三龍皇達は、星の外に出ずあくまで襲ってきた相手を撃退する専守防衛に務めていたため、外宇宙の情勢については詳しくない。
そのような状況の中での龍吉の発言だ。新たな星人の襲来か、あるいはその逆。三竜帝三龍皇や月の兎人達を中心とした外宇宙の調査でも計画されているのか、と瑠禹は瞬時に考える。
「それは、また新たな戦乱の襲来を意味するものでしょうか、陛下」
「それに近しいものですが、ある意味では新たなとは言えないかもしれません。私達が血眼になって探し、それでも見つけられず滅んだとした過去の遺物。それが雌伏の時を終えるかもしれぬと、古い知己から連絡があったのですよ」
「古い知己でございますか?」
「時には敵として合間みまえた事もありましたが、今は一応の協力関係にある相手です。魂を得るまで存在し続けた、とても古い機械仕掛けの知己ですよ」
魂を得た機械仕掛けの知己となると、
*
アークレスト王国・ロマル帝国連合軍の戦いには、連合といえるほどの協調性があったわけではない。
同時期に両国の軍が暗黒の荒野の仮想交戦地点“メグゼス”を目指して、それぞれが進軍の時期を重ねるというだけのものだ。
魔王軍がまとまって行動して各個撃破に動くか、戦力を分割するかは分からないが、どちらの選択肢を魔王軍が選ぶにせよ消耗を与える事はできる他、得られる利益から良しとされた程度の共闘関係である。
そうして事前にいくつも想定された事態は、現実では魔王軍がメグゼス区にて南西と南東から進軍してきた両国を迎え撃つという形に結実した。
魔王軍三十二万に対してアークレスト王国軍十六万七千、ロマル帝国軍十八万、合わせて三十四万七千とわずかではあるが連合軍の方が数で上回るが、種族単位での実力差と技術差を考慮すれば、意味のない数の差だ。
また魔王軍の総大将は王都より出立し、合流した魔王ヤーハーム。
アークレスト王国の総大将は、秘密裏にロマル帝国へと赴き、同じように秘密裏に帰国していた王太子スペリオン。
ロマル帝国の総大将は、帝国南部の反乱諸勢力による大攻勢を叔父ライノスアート大公に任せた、皇女アステリア。
いずれも戦場で討たれるような事があれば、国を揺らがす緊急事態へと直結する超重要人物達が名を連ねている。
戦場となったメグゼス区に集った重要人物は、三国それぞれの国主ないしは次期国主ばかりでなく、魔王軍においては各種族の長が多い魔六将、アークレスト王国では最大戦力であるアークウィッチ・メルル、ロマル帝国では軍事の要たる十二翼将の過半数が投入されている。
これらの人物がどれだけ落命するかあるいは再起不明に陥れば、仮に三国間での戦争が終わったとしても、その次の戦争において多大な影響を与えるのは確実だ。
第一にこの戦場での勝利があり、欲を言えば次の戦いに繋げられる戦果と他国には大きな被害を、そう考える者はどの陣営においても多かった。
では実際の戦闘はどうなったか?
数多くの飛行型魔獣を有する魔王軍は、空戦において両国に圧倒的優位にあるが、それを覆すモレス山脈の竜種の戦力と、竜種に対する偽竜達の執着もあって、航空戦力の大部分がアークレスト王国側へと振り分けられている。
偽竜ではない魔王軍の航空戦力を構成する者達からすれば、わざわざ強大な竜種を相手に戦わなければならなくなったのには、文句の一つもあってもおかしくはない。
ないのだが、軍神の末裔たる彼らは強敵との戦いを歓迎する意思を見せて、偽竜の同輩達に対して、正統な竜殺しの名誉を得る機会だ、と笑いかける豪胆な者もいるほどだった。
魔王軍側のこの動きに関して、実際に偽竜と真性の竜種との戦いを目撃しているアークレスト王国側にとっては、予定調和にも等しいものだったが、ロマル帝国側にとっては実際に戦場に出るまではどうなるか分からず、少ない空中戦艦の搭乗員や竜騎士達は不安と興奮に襲われていたものだ。
アークレスト王国軍と魔王軍の上空で行われている真贋の竜達を中心とした戦いは、アグラリア戦役をさらに上回る苛烈さで繰り広げられている。
アークレスト王国軍の陣営に名を連ねる諸侯らがかき集めた航空戦力は、地上戦力とモレス山脈の竜種達の支援に徹し、主な空の戦場からは距離をとっている。
そうでなくとも膨大な数の流れ弾が様々な高度で立体的に交わされており、彼らはまともに交戦する前に流れ弾をもらって、そのまま戦死する危険性が小さくはないという状況に置かれていたからだ。
竜種の膨大な魔力と高い霊格によって生み出された炎が、氷が、水が、風が、雷が、毒が、重力が、熱が、光が、闇が、さらには竜語魔法に偽竜達の行使する邪神達の奇跡までもが、交戦開始からひっきりなしに放たれている。
もし最初から竜種と偽竜の攻撃が地上めがけて放たれていたなら、メグゼス区はとっくに原形をとどめない巨大な穴だらけの大地へと変わっていただろう。もっとも、前から丈の短い草花が広がるきりで、後はただただわずかな起伏のある荒野だったけれども。
モレス山脈の竜種達は、アグラリア戦役において持てる全力を尽くしたが、後世において“メグゼス会戦”と呼ばれる本戦闘において、さらにその上を行く意気込みで戦いに臨んでいた。
全力の上を行く死力を尽くした戦いぶりは、味方である筈のアークレスト王国兵や距離はあったが、戦闘の様子を確認できたロマル兵に、畏怖の念を心の奥深くにまで刻み付けるものだった。
モレス山脈の竜種達が死力を尽くすほどの戦いを見せたのには、自分達と劣らぬ数の忌まわしい偽竜共が雁首並べて姿を見せたのに加えて、偽竜達の中に女王として君臨する魔六将の一角マスフェロウが自ら先陣を切って空の死闘を演じていたためであった。
肌を切る冷たい風が吹き、わずかな救いである太陽の光は分厚い灰色の雲に遮られて、冬のもたらす冷気を和らげるぬくもりは戦場のどこにもない。
暗黒の荒野のみならずアークレスト王国にもロマル帝国にも訪れている冬は、この日のメグゼス区の空ばかりは到来を断固として拒否しただろう。あまりに苛烈。あまりに凶悪。あまりに暴力に満ちていたから。
邪竜と偽竜、そしてネイバーンらを率いるマスフェロウは、この戦場においては竜人への変化を解除して、紫を中心に縁は赤い鱗を持った彼女は巨大な翼を広げ、竜王級の膨大な魔力と練り上げられた高度な術式により、モレス山脈の竜種達へと強烈な病毒と魔法を浴びせかけている。
マスフェロウを始め、彼女の側近級の高位の偽竜達により、主にワイバーン達の輸送していた誘導飛翔体――ミサイルゴーレムの第一波から第三波までもがことごとく撃墜され、アークレスト王国側は種の割れた兵器の脆弱さを見せつけられている。
「始祖竜の残りかすである竜種風情が、群れをなした程度で我らに勝てると思い上がったか。我が病毒にて腐り果てるがいい!」
マスフェロウは大型帆船にも匹敵する巨体から疫病の元となる毒素を噴出させ、それを視界に捉えた風竜達へと放つ。
空の一角を毒々しい紫色に染めながら、マスフェロウの毒は哀れな風竜へと迫る。その風竜は、知恵ある竜として下位の竜とは一線を画するが、マスフェロウは竜王にも匹敵するより上位の個体だ。彼女の病毒は萌黄色の鱗を持ったその風竜を瞬殺するのに十分な威力を持っていた。
萌黄色の風竜が、自分を正面から包み込むように迫る病毒の波に死を覚悟したその瞬間、彼女の背後から深い紅色の炎が器用に彼女を避けて二股に分かれ、病毒の波と激突してその高熱を持って病毒を消滅させる。
「そこのお前、確か、イビラ! あれの相手はお前では務まらん。さっさと下がってネイバーン共を始末しろ。下の人間達への爆撃をワイバーンばかりでは抑えきれておらん!!」
それはまるで鎧のように全身に深紅の炎をまとうヴァジェであった。アグラリア戦役においてその名を上げたヴァジェからの一方的な物言いにも、命を救われた直後とあって、萌黄色の風竜イビラは素直に従った。
同性であり年の近いヴァジェが自分よりも圧倒的な強者であるのを、これまでの戦いとたったいま行われた攻防で理解していたから、反発心のようなものは欠片も生まれなかった。
ヴァジェにとってマスフェロウは魔王ヤーハームを除けば、この場でもっとも討つべき価値の高い存在である。魔王軍側の偽竜を束ねる存在など、ヴァジェをはじめとした始祖竜から生まれた竜種達からすれば忌々しいという概念が具現化したようなものだ。
そういった種族としての因縁を抜きにしても、マスフェロウの戦闘能力は空の戦いにおいて最大の脅威だ。全身からただ放つ病毒だけでも、人類は即死を免れず、人類よりも遙かに強靱な肉体と免疫力を有する竜種でもただでは済まない。
一方、マスフェロウにとってもヴァジェは、優先度の高い敵だった。アークレスト王国の空の戦力の要は言うまでもなくモレス山脈の竜種、その竜種の中でもヴァジェによって討たれた偽竜と邪竜は多い。
討たれた同胞の仇であり、忌まわしい始祖竜の系譜に連なる竜であるヴァジェを相手に、マスフェロウの敵意は天井知らずに高まっていた。
お互いの敵意を察した二体の竜達は、深紅と紫の魔力に殺意を乗せて全方位へと放出しながら、瞬時に互いの位置を変えあい、苛烈な魔力の砲撃とブレスの応酬を始める。彼女らほどの格ともなれば、流れ弾一つで都市が壊滅する域に達している。
戦場が、住民が誰もいない暗黒の荒野の一角であったことは、後々この地域の開拓を考えているムンドゥス・カーヌスにもベルン男爵領にも、幸いなことであった。
少なくともまあ、土を掘り起こす手間は省けるだろうから。
「偉大なる始祖竜がおらねば、対抗する為の存在であるお前達は作り出されもしなかったくせに、その恩義にむせび泣けば可愛げのあるものを、よくもまあ恩知らずの敵意を燃やせるな、紫の!」
「魔六将マスフェロウと覚えておけ、深紅の小娘。お前の骨の髄、心臓までもが我が病毒によって蝕まれ、苦痛の中で死ぬその瞬間までの間だけな」
「はん、名乗られて名乗り返さぬでは、始原の七竜様にたしなめられてしまうか。私の名前はヴァジェ。貴様を灰に変える竜の名前と覚えておくがいい。
どうせ死ねば生み出した邪神の胃袋に収まるか、おもちゃにされるだけの使い捨ての玩具だろうが、それくらいは知っておきたいだろうからな!」
実際、ヴァジェの告げたマスフェロウの死後の魂の行く先については、決して間違いではない。
創造主から死後には自らの糧となるように作り出された魔族や魔物ならば、余程のことがなければ避けられぬ運命なのだから。
マスフェロウの死を確定事項として語るヴァジェに対し、マスフェロウはさらなる怒りを見せてもおかしくはないのだが、マスフェロウは何かを悟ったような顔で、病毒を固めて作った槍を無数に放ちながら告げた。
「貴様、友がいないだろう? その口の悪さと気の強さでは、番となる男もおるまい」
憐れみを含んでいるとはっきりわかるマスフェロウの言葉を理解した瞬間、ヴァジェは激高した。そんなことはない、と断固たる意志と共に絶叫に超高温の火炎を混ぜて反論する。
「友達位、いるわ!!」
この時に放ったヴァジェの火炎は、戦闘開始から最も熱いものだった。
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第三百十一話
生と死がひっきりなしに入れ替わる空の戦場は、主に真贋の竜種達が主演を担っていたが、その中にあってスレイプニル達の牽く馬車を駆り、形を変える武器を手に戦うドラミナの姿はひときわ異彩を放っていた。
馬車とは称したが、いつものヴァルキュリオス王家の紋章を隠した車体はなく、ドラミナ一人が立つのに十分な面積の二輪の車体を、スレイプニル達が牽いている。かつては戦場で華を飾った古代の戦車――チャリオットである。
ドラミナは自らの翼ではなく天翔る神馬の末裔達と共に、はるかな過去に天上世界へと誘われた古の勇者のごとく、空の戦場を赤い流星となって戦っているのだった。
三つ目の意匠を持つサークレット型神器ガルシオンと赤い全身鎧の神器ジークライナスを纏い、両手には弓の形へと変えた形無き神器ヴァルキュリオスを携え、手綱も握らずに血よりもなお赤い瞳を戦場の隅々にまで走らせている。
今はベルン遊撃騎士団所属の騎士となっているドラミナは、戦端が開かれるのに合わせてすぐさまベルン男爵領の陣地から離れ、愛馬達と共に上空からの支援を主目的として行動している。
竜種達の放った広範囲に及ぶ天災にも等しい流れ弾があれば、地上のアークレスト王国の兵達に被害が及ぶ前に、弓へと変えたヴァルキュリオスの一撃で撃ち落とし、偽竜らに隙を突かれた不運な竜種達をそれとなく助けるなど、戦場という舞台の助演女優として如才ない動きを見せている。
これまでの魔王軍との戦いではドラミナが自らの足や翼で動いていたため、戦場という舞台で主人のために働けるとあって、スレイプニル達の気合いの入り様は凄まじいものとなっている。
元より神馬の末裔の彼らは高位の神獣であり、高い霊格を生まれ持ち、身体能力もまたそれ相応に高い。スレイプニルという種族の中にあって、彼らはバンパイアの女王が乗騎と選ぶに相応しい選りすぐり中の選りすぐりだ。
スレイプニル種の最高水準に到達しているといっても過言ではない。
そんな彼らがこの上なく士気を高めて戦場を駆ければ、彼ら自身の纏う神気と魔力の混ざった防御障壁と速度によって、進路上にいた哀れな偽竜が衝突するのと同時に原形を留めない挽肉へと変えられるほどの脅威を体現する。
スレイプニル達の迸る気合は、主人と戦場を駆けられる喜びばかりでなく、主人に置いて行かれまいと、今日まで必死に鍛錬を重ねてきた彼らの血道をあげる努力の成果を見せる好機だ、と白い鬣を炎のように翻して六本の足を絶え間なく動かしている為だ。
ドラミナと共にベルン男爵領に就職した四頭のスレイプニル達は、主人がドランと本格的に行動を共にするようになってから、徐々に焦燥を覚えるようになっていった。
ドランの古神竜の血を毎日摂取し続けて、ドラミナのバンパイアとしての格は始祖の領域へと達し、今やそれを越える高みにさえ達しつつある。
これまではバンパイアクイーンの乗騎として相応しかったスレイプニル達も、今となっては自分達は最愛の主人に相応しいと言えるだろうか? いや、むしろ自分達に乗るよりも主人が自分の足や翼で移動する方が速くなってはいないだろうか? と疑念を抱いたのである。
まさにそれはスレイプニル達にとって、自分たちの存在意義を根底から揺るがす大問題であった。戦闘中の瞬間的、また短距離の移動であれば例え主人の方が速くても問題ないが、これが長距離の移動となると話は変わってくる。
ドラミナの知らないところで、四頭のスレイプニル達は主人に相応しい乗騎たらんと努力する事を、鉄よりも固く誓い合ったのである。
幸いにしてスレイプニル達には、ドラミナに隠れて鍛錬を重ねる時間があった。ドラミナの目から隠れる為とはいえ、愛しいバンパイアクイーンと離れる事は、彼らにとって大いに寂しく、悲しくて堪らなかったが、これも一時の試練と耐え抜いた。
魔法学院在籍中、ドラミナは自分の足で動き回る場合が多く、またベルン男爵領にてドランの使い魔から領主付き筆頭秘書兼遊撃騎士と身分を変えても、クリスティーナやドランと行動を共にする為、スレイプニル達に跨る機会が少なかったからである。
主人と共にいられる時間が少ない、という現実と改めて向かい合うのは、思いのほかスレイプニル達の心を凹ませたが、彼らは腐らずにそれを糧に奮起した。
主人と同等の美貌を誇る雇用主の腰で揺れる意思を持つ剣に相談し、重力が数倍から百倍に不規則に変化し、極端な気温差と気圧、気候までもが変化する特殊な空間を用意してもらい、そこで彼らは気を失うまで走り続け、またあるいは岩をも砕く激流の中を駆け続け、底なしの流砂に自ら飛び込んで脱出する等の鍛錬を自らに課した。
聡い主人が自分達の陰に隠れた鍛錬に薄々気づきつつも、それを黙認してくれているのをスレイプニル達は分かっていた。
自分達がどうしてこうまで焦るのか、恐れるのか。存在意義の喪失に対する恐怖は間違いなくある。だが、それ以上に主人に、ドラミナに置いて行かれるのが怖くて堪らなかったのだ。
彼らとて分かっているのだ。ドラミナが家族と思う自分達をそうそう切り捨てたりはしないことくらいは。
それでもドラミナと同じように国を失い、仲間を失い、友を失った彼らにとって、残された繋がりであるドラミナから万が一にでも見捨てられてしまったらと考えれば、それはどうしようもない恐怖になってしまう。
今、戦場となった空を駆けながらスレイプニル達は思う。
最愛にして敬愛する主人ドラミナよ。どうか我らの短慮を、愚かな考えを許し給え。我々はそうでもしなければ、貴女の傍らに自分達が在る事を許せなかった、許してもらえないと思ってしまったのだ。
美しい夜の女王よ、麗しき月の愛し子よ、我らの唯一無二の主よ。我らはその愚かさと引き換えに、この戦場にて貴女の騎馬として相応しい働きをするのみ!
真贋の竜種の雄叫びに負けるまいと、神気を持つ神馬の嘶きが響き渡り、ドラミナへと向かっていた真っ黒な炎の本流を無数の火の粉へと吹き飛ばす。
ドラミナを狙った黒に紫の斑点を散らした鱗の偽竜は、たかが空を飛ぶだけが能と思っていた馬に、嘶き一つで炎を消された現実を前にすぐには認められずに目を見開くという致命的な隙を生んだ。
――笑止千万! この程度のぬるい炎で我らが主人を害そうとは!
四頭のスレイプニル達の合計二十四本の脚が虚空を踏みしめ、さらなる加速を得る。音の壁を破る轟音と衝撃が立て続けに発生し、スレイプニル達は巨馬である彼らが子馬に見える大きさの偽竜へ勇ましく躍りかかる。
目を見開いて驚きをあらわにしていた偽竜も、小生意気にも躍りかかってきたスレイプニル達を八つ裂きにしようと巨木を束ねたような右腕を振り上げる。
お互いの質量と膂力の差を考えれば、結果は考えるまでもないが、相手はドラミナと共にあるスレイプニル達だ。
――これこそ抱腹絶倒というもの! その程度の一撃では小石を潰せても、我らと我らが主人を砕くなど夢物語!
刹那の瞬間、スレイプニル達の目から見えざる闘志の炎が吹き出し、二頭二列で戦車を牽引している彼らの内、前列を担当している二頭が後ろ脚二本で立ち上がり、前と真ん中四本の脚を自分たちの頭上から襲いかかる偽竜の右腕へと叩きつける。
その一撃で偽竜の腕が弾き返されるだけであったなら、その偽竜はまだ受け入れがたい現実をそれでもかろうじて受け入れただろう。しかし、腕のみならず四肢の隅々から尻尾の先端に至るまでが木っ端微塵に砕け散るなど、偽竜は即死した為に理解できなかった。
ばらばらと鱗も骨も、肉も血も混ざり合った肉片となって空中にばらまかれた偽竜を傍目に、スレイプニル達はこの程度は当然であると殊更に自慢するでもなく、次の自分達の獲物と主人の武勲となる獲物を求めて八つの瞳で空と地上双方の戦場を見回す。
ドラミナはスレイプニル達がそうと察していたように、自分の家族であり愛する騎馬達が憂い、焦り、恐れていたのを知っている。それらの不安要素を覆そうと躍起になっていたのも、知っている。
この戦場での戦いでスレイプニル達がこれまでの不安を打ち消すように、凄まじい闘志を剥き出しにし、偽竜のみならずネイバーンや飛行魔獣に乗った兵士達をドラミナに先んじて葬る様を見て、ドラミナはこれで彼らの不安が晴れるのを祈った。
ドラミナの支援とヴァジェの奮戦により、空の戦場は概ね互角と言える。特に魔六将マスフェロウをヴァジェが押さえ込んでいるのは、会戦前のドラミナの予想を覆す嬉しい誤算だ。
マスフェロウはドラミナの予想では竜王の中でも上位に達する強力な個体だ。それをドランや龍吉に鍛えられたとはいえ、まだ年若いヴァジェが互角に近い戦いが出来ているのは、予想外だったのである。
ならばその予想外を活かして、ドラミナはさらに空の戦場の趨勢をこちら側に傾けるべく、スレイプニル達と同じく次の獲物をバンパイアの超感覚で探し求めようとし、こちらに向かってくる竜種とは異なる強大な気配に気づく。
ドラミナに遅れてスレイプニル達もまた気づいた。自分達と同じように神の系譜に連なる者達の気配。一つ一つが遙かな神代を思わせる、古く、強い血統と霊的な因子を持っている。
ドラミナを前方と左右から囲みながら近づいてくる気配に対し、スレイプニル達は主人の意向を汲んでその場に立ち止まり、全身から濃密な神気と魔力を不可視の炎と変えて立ち上らせている。
真っ正面から馬鹿正直にドラミナへと迫りかかる影に、スレイプニルではなくドラミナが応じた。手の中のヴァルキュリオスは、ドランと同じありふれた意匠の長剣へと変わっている。
ドラミナの頭上から襲いかかってきたのは、両刃の大鎌を構えた半人半獣の女性魔族であった。ドラミナが頭上に掲げたヴァルキュリオスの赤い刃と、女性魔族の大鎌の黒い刃が噛み合い、ギリギリと拮抗状態を作り出す。
女性魔族は紫色の癖のある髪から捻れた山羊の角を伸ばし、腰から上は妙齢の美女だが、下半身は巨大な猛禽類の翼を生やした四つ足の獣という異様な風体をしている。戦場に相応しく、人間に近い上半身も獣の下半身も深い紫色の鎧を纏っている。
刃越しにドラミナの赤い瞳と女性魔族の金色の瞳が交錯し、ドラミナの隠さぬ美貌に脳の奥までやられた女性魔族が、ふらふらと目眩を起こす。
ギラギラと若さが理由なのか、抑えることを知らぬ殺気に満ちていた顔がふやけるまでの劇的な変化を見て、あら、とドラミナは苦笑いをこぼしたが、容赦はしなかった。
「戦場でずいぶんと余裕ですこと」
ドラミナの細腕の一振りで女性魔族は空中へと弾き飛ばされ、ドラミナへと向けられた背中へとどめの一撃を放つべく、ヴァルキュリオスの切っ先が向けられる。
長剣のままでは届く距離ではないが、刹那の間に長剣から長槍へと変わったヴァルキュリオスならば、容易に貫ける。ドラミナが長槍の石突に近い部分を持ち、こちらに背を向けた女性魔族へ放った一突きを、かろうじて正気を取り戻した女性魔族が身をひねりながら振るった大鎌がはじき返した。
甲高い金属音と赤と黒の二色の火花が無数に散る中、女性魔族はどこかへ吹っ飛びそうになる大鎌を強く握りしめ、どっと噴出した冷や汗で全身を濡らしながら体勢を整えなおす。
放たれるべきドラミナの追撃は、彼女に接近していたほかの二つの気配からの攻撃によって妨害された。ドラミナからみて左方向、濃い紫色の肌に覆われた引き締まった肉体、さらに人間と変わらぬ目の上にもう一組の目を持った四ツ目の男性魔族が、両手に圧縮した魔力の砲弾を立て続けに連射してきた。
紫色の魔力の砲弾は人間の頭部ほどの大きさで、一秒を数える間に百に達する数となって麗しきバンパイアクイーンに殺到する。術式を編まず、詠唱もなく、生の魔力を固めただけの代物だが、流石は高位魔族、一発一発が地形を変えてしまうほどの威力を持っている。
惜しむらくは、あるいは彼にとっての不幸は、相手がその程度の攻撃など造作もない圧倒的強者もいいところの強者だった点に尽きる。
雨粒一つ一つが特大の大きさの、横殴りの豪雨と言いたくなるような砲弾の雨の中をスレイプニル達は果敢に駆け抜けた。
縫って進む隙間があるとは思えぬ弾幕の中を、彼ら自身の魔力による障壁とチャリオットの防御機構を組み合わせることで、最低限の被弾によって最低限の被害に留め、こちらに向かって飛翔し続けていた敵へ、先程の偽竜と同じ運命を辿らせるべく前脚を振り上げる。
「馬風情が生意気だが、気骨のあるやつは嫌いじゃねえぜ!」
男性魔族は端正だが粗暴な印象を受ける外見に相応しい言葉を吐き、自分の頭蓋を砕くために振り下ろされるスレイプニル達の前脚に、固く握りしめた拳を叩き込み、途方もない爆音と衝撃を生んでその場に留まりきれず、お互いに大きく後ずさる。
ぶふぅ、と大きく息を吐き、スレイプニル達は浮き上がりそうになる体を抑え込み、激しい敵意をもって、猫背気味になって獰猛に笑う男性魔族を睨みつける。
しかし、ドラミナは愛馬達とは異なり、正面の男性魔族でも、後方へと移動している女性魔族でもなく、彼女の右やや上方へと赤い瞳を向ける。その先には三人目の魔族――魔六将ザンダルザの娘マルザミスの姿があった。
マルザミスがロマル帝国で負った傷は癒え、万全の状態でこの戦いに臨む彼女からは気炎が立ち上っている。ドラミナの美貌を正面から見ても、何とか戦闘意欲と正気を維持している事からも、それが察せられる。
「不意を突いてもよろしかったのですよ。これは戦争ですから」
男性魔族とスレイプニルが激突した直後を狙い、一撃を加えることができただろうに、それをしなかったマルザミスを窘めるかのようなドラミナの声には、嘲りや叱責の響きはない。まるで教える側であるかのよう。
マルザミスは敵であるドラミナからの言葉に怒りも苛立ちも見せず、油断なく肩から生えている三枚の刃を持つ触手をドラミナへと向け、彼女自身も瞬時に全力の一撃を放てる戦闘態勢を継続する。
「不意を突ける隙など、どこにも無かったろうが。私が後数歩踏み込めば、貴様の長槍が動いていたのは明白。ヴェンギッタ様やクインセ様の忠告の通り、尋常ならざる強敵がいたか。くく、素晴らしい。名乗るぞ、バンパイア! 魔六将ザンダルザ
マルザミスの名乗りに続き、ドラミナの背後を取る女性魔族、続いて正面の男性魔族もまた名乗りを上げる。
「あたしはスエルベン! いいね、強い敵、美しい敵、どちらかだけの敵なら居ない事はないが、強くて美しい敵は貴重さ!」
「ガルスジョーだ。神気混じりのバンパイアとは初めて見るが、おもしれえ、ただの人間を相手にするよりもよっぽど歯ごたえがあるぜ」
スエルベンと名乗った女性魔族の顔からは、ドラミナへの恍惚とした感情は消え去り、ガルスジョーの顔には狩りを楽しむ狩人の笑みがはっきりと浮かび上がっている。
彼らに応じるようにドラミナの口元にも淡い笑みが浮かび上がるが、それは強敵との戦いを楽しんでいるのとは違う種類の笑みだ。
「魔六将を引き当てられなかったのは残念ですが、あなた達も十分な強敵。誘蛾灯の役割は果たせたと思いましょう」
ドラミナの評価の通り、マルザミスをはじめとしたこの三名は、ザンダルザがいずれヤーハームから魔王の座を簒奪する戦いに備えて、鍛え上げた精鋭魔族達の一部だ。すでに魔六将に準ずる実力を持ち、遠からず魔六将の水準に達するとされる有望株である。
それほどの強者をまとめて三人引き付けられた成果を持って、ドラミナはこの場で自分の役割を果たせているものとした。ほかにも実力のある魔族が散見されるが、これまでの魔王軍との戦い通りディアドラとセリナで対処できるだろう。
問題となる魔六将に関しても、これまでの二度の戦いでは参戦していなかったアークレスト王国側の切り札が、天魔の如く大笑いしながら戦っているから心配はあるまい。
今もドラミナの一挙手一投足に意識を割いていた魔族らが、思わず振り向くほどの強大な魔力の爆発が生じて、戦場の空気を一変させた程だ。
「メルルさんは私やレニーアさんと模擬戦をした時のように、楽しんでいますね」
マルザミスら魔族達とドラミナの視線の先――魔王軍とアークレスト王国の最前線の一角に、突如として曇天を貫き、天と地を繋ぐ光の柱が生じていた。
アークレスト王国の切り札たるアークウィッチ・メルルが、光の柱を作り出した張本人である。最前線に躍り出て戦い始めたメルルの周囲には、両国の兵士はただ一人もいない。
アークレスト王国側は足手まといにしかならないと分かりきっていたからで、魔王軍側は戦闘開始直前に雑兵ではどうにもならん、とヤーハームをはじめ幹部格の面々が察したからである。
魔王軍のその判断はまったくもって正しいものだった。光の柱を生じさせた最高位魔法の一撃に耐えられる兵士など、居るはずもない。対魔法防御処理を何重にも施した戦艦でも轟沈する代物だ。
メルルが効果範囲を絞らなかったなら、島一つを吹き飛ばす規模で発動する超広域・殲滅魔法なのだから。
メルルによって荒野に穿たれた巨大な穴。底を見通せぬほど深く、膨大な熱量をもって開けられた大穴には高熱が残留し、一定以上接近しようとすればその熱だけで尋常な生物は死に至るだろう。
味方のアークレスト王国側も恐怖におののく所業であるが、メルルは目的を果たせなかった事を悟り、まだまだ楽しめると大穴を空中から見下ろしながらせせら笑う。
かつて競魔祭の後でドランと模擬戦をした際にまとった、ディストールの完全魔装形態姿である。
アビスドーンに誘拐されたスペリオンらを救出しに来た時には、二本目のディストールを持っていたが、その後、さらなる改修が施されて、赤い柄の先端に真っ黒い菱形の水晶状の物体が備え付けられ、その宝玉から長短の刃が一枚ずつ伸びた形状へ改造されている。
槍とも魔法使いの杖とも見えるソレが、メルルの独自開発した魔法武具“ニヒトヘイト”だ。
「ふふふ、これじゃまだ足りないか。とっても強いのね、あなた達!」
メルルの声はこの上なく弾んでいる。召集を受けた時には、自分よりも遙かに弱い弱者を殺して回らなければならないのかと、憂鬱の底に沈んだものだが、実際に戦場に出てみればベルン男爵領という一部例外を除けば、自分でなければ戦えない強者がいる。
思う存分力を振るい、思い切り戦い、魔力を絞り尽くして魔法を行使しなければならない強敵だ。ああ、これならば自分の心を殺さずに戦える、とメルルは歓喜していた。
大穴の上空、メルルから見下ろされる高さに、全身から幾筋かの煙を立ち上らせるザンダルザの姿があった。あれだけの魔法を受けても、大きな怪我はなく、こちらもメルル同様楽しげにメルルを見上げている。
「これはこれは、ロマルの傀儡とまた遊ぼうかと思っておったのに、アークレストにもここまで面白いおもちゃがいるとはなあ。なんと愉快な戦場であるものよ。そうは思わんか、トラウルーや」
ザンダルザの声に応じるようにして、大穴の縁を皺まみれの大きな手が掴む。まるで乾いた岩石のような手が、しっかりと縁を掴むと大穴側へ落ちていた体を一息に引き上げる。手の持ち主である魔六将トラウルーの巨体が大穴から飛び出して、ずん、と重々しい音を立てて着地した。
白く長い顎髭が特徴のトロール族の長たる老巨人は、日光を避けるように灰色のローブと頭巾を纏い、肌の露出はほとんどない。大穴の縁を掴んだ右手は自由になっているが、左手には黒曜石を思わせる黒く美しい色合いの石棍棒を握っている。
「わしはお前さんと違って軍神の系譜ではないんでな。戦いを楽しいとは思わんと、何度も言っているだろうに。
いやいや、それにしても人間種でここまでの領域に達した個体は、わしの記憶にもない。事前の調査で判明した強力な使い手となると、アークウィッチとやらであろうよ。ベルンの連中もよほどの使い手だが、ヴェンギッタ達の報告にはない顔であるし」
やれやれ、老骨にはしんどいとトラウルーは石棍棒を杖代わりに巨体を支えながら、憂いを秘めた瞳で頭上のザンダルザとメルルを見上げる。人間の大魔女も老魔族もどちらも闘志を高ぶらせているが、魔王軍に与するトロールの中で最強とはいえ、老境にさしかかったトラウルーとしては、骨身に堪える戦いをしなければならないのは辛い。
「うふふ、ドラン君達がとっても強いのは私も知っているけれど、私もそこそこ強いから覚悟してね、おじいちゃん達」
「くくく、ああ、油断はせんよ。まったく、世界は広いわ!」
真贋の竜種達が交わす攻防によって、極彩色に塗りつぶされた空に、メルルの作り出す新たな色が加わる。
眼下のザンダルザとトラウルーへとニヒトヘイトの先端を向けるメルルの背後に、光輪のように巨大な白い魔法陣が投射される。円と四角と三角と無数の文字で構築されたそれが、メルルの魔法行使において大いなる助けとなる。
「クアドラブルシューター!」
メルルの周囲に赤、青、緑、黄の四色に輝く魔力の弾が生じ、それはトラウルーが瞬きをする間に一千を超えた。一つ魔力の弾を作り出すだけで、凡百の魔法使いは魔力を枯渇させて昏倒するだろう。
周囲へと発せられる魔力の余波、まばゆい光の乱舞は、幻想的と言える光景を作り出し、それを目の当たりにしたザンダルザの笑みは深まり、トラウルーの眉間には深い皺が刻まれた。
「かかかか、これはまた豪勢な“小手調べ”だ! いいものを見せてもらった返礼ぞ、小娘!」
ザンダルザの三つの顔がますます喜悦の色を深めて笑い、かつてハウルゼンに放ったのと同じ赤黒い魔力の光槍が、六本の腕から絶え間なく発射され始める。ザンダルザをめがけて直線、曲線入り交じって襲い来る四色の魔弾と衝突して、反発する魔力の爆発が数珠つながりで広がってゆく。
「はあぁ~。人間の限界に達しとるぞ、これ。おぬしや陛下ばかりか、ガリリウス殿まで楽しげにしていたが、もう、なんなの、人間の国ってこんなにやばいの? どれ、“霧やい 霧やい ちょいとこっち来ておくれ 月の光を遮る衣になっておくれ 朧の
ザンダルザが真っ向からの撃ち合いを選択したのに対して、トラウルーはトロール族に伝わる古き魔法により、彼の体を覆い隠す濃霧を頭上に作り出し、降り注いでくる四色の魔弾を遮る壁にする。
単なる壁でないのは、霧の衣に触れた魔弾がたちまち輪郭を朧とし、霧衣に溶けて消えてしまったことから明らかだ。霧衣に触れた物体や魔力を、その存在を朧なものとし、同化して無効化する、極めて凶悪な攻撃性を秘めた魔法なのであった。
「あは、でも足元がお留守だね! 大地の理よ 汝が我が掌中にあり 汝に歴史なし 汝は在らず 汝は無きなり エンドアース!」
【クアドラブルシューター】の発射数が二千を超える中、メルルによって同時に発動されたのは、特定範囲の地面を消滅させるものだが、この際に消滅する地面に接している者も巻き添えにするという凶悪性を持つ。
あまりにも殺意の高いメルルの攻撃魔法に、トラウルーはますます嫌そうな顔になるが、彼の行動に遅滞はない。左手の石棍棒の先でコツンと消える寸前の大地を小突く。
「“お前さん お前さん しっかりとしとくれよ でないとわしが困るから”」
トラウルーはただ地面に語り掛ける。たったそれだけの事だが、それだけの事でメルルのエンドアースは無効化されて、消えかかっていた地面が確かな形を取り戻してゆくではないか。
「すごい、語り掛けることで発動する、原始の魔法! もっとも力を持った言葉で世界を動かす、最古で最高の魔法!! 本物は初めて見た!」
「そうかい、そうかい。お嬢さん、どうか浮かれたまま油断しとくれや。そうら、“お空から燃える隕石がお前さんめがけて降ってきとるぞ”」
トラウルーが右手で顎鬚をしごきながら喋った瞬間、メルルの頭上にトラウルーが口にした通り、地上に落下すれば大災害を引き起こすこと間違いなしの大きさの隕石が突如として出現していた。
メルルは網膜に投影された頭上の光景に、へえ、とまた楽し気な声を出す。どうやらこの大魔女にとってはまだまだ余裕の事態に過ぎないらしい。
「こんなちっちゃな石ころは、気を付ける必要もないよ!」
メルルの取った動作は至って単純だ。右手で握るニヒトヘイトを頭上の巨大隕石へとめがけて一振りし、二つの刃の間から黒い魔力の塊を放っただけだ。
取った動作は単純でも、行ったことがそう簡単なことでないのは、メルルという規格外を知っていれば誰でも想像が着いただろう。巨大隕石に着弾した魔力の塊は、少しだけ巨大化するのと同時にメルルに与えられた“門”としての機能を発し、着弾した巨大隕石を丸ごと吸い込んでしまう。
黒い魔力塊――触れた物体を強制的に星の海のどこかへと飛ばす、空間転移の門がその正体だった。
出現した時と同様に、一瞬で消え去った巨大隕石に、そしてそれを成したメルルにザンダルザもトラウルーも驚きはしても行動に影響を及ぼすことはなかった。
巨大隕石への対応の間も【クアドラブルシューター】の連射は止まっていなかったが、両名が対処に慣れるのに十分な時間が経過している。
「あれだな、ヴァルグロの馬鹿を思い出す呆れた魔力量と術式の精密さよ。あいつはもう八百年も前にくたばったがっ!」
大昔に魔王の座を巡って争った好敵手を思い出しながら、ザンダルザは下の二本の手を動かし、空中に複数の印を結ぶ。特定の順番で特定の印を結ぶ事で発動する術で、魔法や忍術でも取り入れられている。
四色の魔弾の中からザンダルザの姿が消え去り、瞬時にメルルの背後へと移っていた。空間転移とメルルが認識し、【クアドラブルシューター】の一部を割いた直後、既にザンダルザの姿はなかった。
「短距離の連続転移ね!」
一目でザンダルザの行いを看破したメルルは、【クアドラブルシューター】の半分はトラウルーへと放ちながら、残り半分を自分を中心に旋回する動きをとらせる。これで一定以上、メルルの近距離にザンダルザが転移してくれば、前後左右上どこからだろうと魔弾の中に飛び込む形になる。
それを避けるには、旋回する【クアドラブルシューター】の外へ転移するのが手っ取り早い。ザンダルザもまたメルルの対応の早さに舌なめずりをしながら、距離を置いてメルルの左方へと出現する。ザンダルザの攻撃は、再び赤黒い魔力の槍とはならなかった。彼の真ん中の左腕には、両端に金色の金具を嵌めた赤い棒が握られている。
「伸びよ、
神鉄を鍛え上げ、所有者の意志によって伸縮自在となる、仙道の術理によって作り出された武具である。ザンダルザの意を受けた如意神珍鉄打混棒――通称
魔法使いとしては極限の領域に達しているメルルを、近接戦闘は素人--と判断するのは早計である。メルルとてそれは承知の上で、なんの対策も施していないわけがない。
メルルは自身に近接戦の経験を積ませるよりも、すでに熟練の域に達している者達の技量を利用すればよいと結論を出している。
全身を保護する鎧と変えたディストールには、王国の精鋭騎士やドラミナ、クリスティーナの動作や戦闘技術を複写してある。近接戦闘を余儀なくされた際には、ディストールに複写された戦闘技術を基礎とし、分析・改良・応用が行われた専用の戦闘動作が起動する仕組みになっている。
メルルの頭部を容赦なく砕きに来た如意混を、ディストールの誘導によって動かされたメルルがニヒトヘイトを振るい、はじき返した余波で周囲の【クアドラブルシューター】が砕け散る。
「うひゃ、すごい一撃!」
ディストールが相殺した衝撃の数値がメルルの左網膜に投影され、その数値にメルルは素直に感嘆を示す。それはザンダルザにとっても同じことだ。どうも勝手に体が動いたように見えていたが、如意混を通じて届いた衝撃は凄まじいものだ。なるほど、単に懐に飛び込むだけではどうにもなるまい、とザンダルザは舌なめずりをする。
瞬時に縮めた如意混をたぐりよせ、伸縮を繰り返して壁を思わせる密度の連続突きを繰り出す。
ザンダルザの思考と等しい速さで伸縮を繰り返す如意混を、メルルは【クアドラブルシューター】の発動を中止し、超音速の飛行魔法の行使によって一気に飛び上がり回避する行動に入る。同時に質量と魔力反応を持つ囮の分身をばらまくのも忘れない。
四方八方に出現した数百のメルルの中から、ザンダルザとトラウルーが本物を見つけ出すのには、ほんの一、二秒で済んだが、同時にメルルが囮を盾としても運用しつつ、詠唱に入っており、これを止めるには間に合わないと魔六将の二人は即座に判断した。
「雷よ 電よ 暁に響く神意を体現せよ」
「雲間に踊る龍 天に昇る龍 八卦を回り 四季を巡り 太極を描け」
メルル自身の口頭による詠唱に加え、大気を振動させて疑似的に再現した詠唱による同時並行詠唱だ。
一つ目の魔法は古代に雷神の一柱が敵軍を滅ぼすために放ち、暁の空を雷光で染め上げたという神の偉業を再現する電撃魔法、二つ目は世界の運行を龍に見立てて、世界に満ちるあらゆる元素の力を集約し、破壊の指向性を持たせて放つ砲撃魔法である。
「神なる雷の威を知れ マハー・ライケウス!」
「天の理法をここに形とせん
ザンダルザへと向けられたニヒトヘイトの切っ先に真っ白い雷が渦を巻き、それはザンダルザの背筋の毛を逆立たせ、あまりの威力に臓腑が恐怖に萎んだ。
しかし、ザンダルザから笑みを消し去ることはできなかった。肉体の感じる恐怖、萎縮しそうになる精神のすべてがザンダルザにとっては、強者との闘争に対する歓喜を爆発させる燃料にしかならない。
「くっくくくく、笑いで腹が捩れそうだ。我が棒術の秘技にて受けようぞ!
迫りくる白き雷に向けて、ザンダルザは如意混の長さのみならず大きさもまた自在に変化する特性を活かし、文字通り雷光の速度で迫りくるマハー・ライケウスを上回る直径にまで巨大化させた如意混を何度も叩き込む。
一方、地上のトラウルーへは天上の彼方から巨大な翡翠から生まれたように美しい龍が、顎を開き咆哮をあげながら襲い掛かっている。老トロールはこれまでどこかしら余裕を残していたが、自分をめがけて襲い来る翡翠色の龍を見て、唇を横一文字に固く引き締め、両手で石棍棒を構え直す。
「“黒よ 黒よ 白も赤も青も緑も 全部 全部 お前が染めてしまえ すべてを飲み込め すべてを塗りつぶせ お前がもっとも美しい色なのだから”」
どぷん、と大量の墨を垂らしたような音を立てて、トラウルーの持つ石棍棒がさらに黒く、光さえ映らないほど黒の深さを増してゆく。
「
彼の発した言葉の通り、あらゆる色を、ひいてはあらゆる色を持つ存在を飲み込み、染める力を与えられた石棍棒は既に命中する寸前にまで迫っていた翡翠色の龍へと刹那よりも早く叩きつけられた!
神の雷を真っ向から迎え撃った神珍鉄の棒は砕けることなく、雷を引き裂きながら進み、引き裂かれた雷が周囲にばらけ、触れた大地を砕き、空気を焦がし、灰色の雲を焼き払って、この世の終わりのような光景を生み出している。
トラウルーを飲み込まんと天から降り注いだ翡翠色の竜は、老トロールの振るった石棍棒の黒に触れた瞬間、ずるりと首まで飲み込まれたが、そのまま簡単には飲み込まれまいと抗って巨体をくねらせて大穴付近をのたうちまわって、地形を崩壊させてゆく。
程なくしてメルル、ザンダルザ、トラウルーの三者の衝突によって生じた行き場のない力が臨界を越えて、彼らをまるごと巻き込んで目を焼き潰すほどの光と爆風があたりを吹き飛ばした。
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第三百十二話
メルルの放った極大規模の魔法とザンダルザ、トラウルー両名の奥義の激突によって生じた爆発と爆風、大地震を思わせる揺れは長々と続き、魔王軍・アークレスト王国軍の最前線のみならず、西側で戦闘を行っているロマル帝国軍にも届くほどだった。
その影響は大きく、上空で行われていた真贋の竜種達の戦いやドラミナと精鋭魔族達もその爆風を避けて高度をより高くとるか、距離を取る行動を優先した程である。
幸いにしてアークレスト王国軍側はベルン軍から各部隊に供与された砦型ゴーレムとバリアゴーレムらが、とっさに広域に防御障壁を張り巡らせたおかげで死傷者を出さずに済んでいる。
周囲への影響はかようなものであったが、当事者である三名とその戦場はというとメルルがぶち開けた大地の大穴は跡形もなく消失していた。なにしろ、三名の奥義の激突の余波によって、さらに大きく深い大穴が開いていたからである。
陽光が届かぬほど深く穿たれた大穴は、奥底から大地の苦痛のうめきか恨みの声が聞こえてくるような無残な様子だ。
大穴の端の一角へと落下していたザンダルザは、手頃な大きさの岩に腰掛けていた。ザンダルザはにやにや笑いを浮かべたまま、地面の上で大の字に寝転がっているトラウルーへと声をかける。
黒く染めた石棍棒によって、触れるモノすべてを黒く塗りつぶし無力化する秘技“黒喰”により、トラウルーは奇跡的にも無傷だった。
「おい、トロールの。まだ生きとるか?」
欠片も心配していないのが聞き取れるザンダルザの呼びかけに、老トロールはむっくりと上半身を起こして、やるせない様子で首を左右に振る。なんてものと戦わせてくれるんだ、と魔王やら運命やら何やらに抗議したそうな仕草だ。
「あの程度じゃ死にゃせんわい。最近の軟弱な若造共だったら無理だったろうが」
「ははん、お前と同じ世代でもほとんどは死ぬだろうが。わしら魔族側も似たり寄ったりだが、いやはや暗黒の荒野にいた人間連中とはモノが違うのお、あのお嬢ちゃん」
「違いすぎるわ。あんなんが一つの国に一人は居るようだったら、お前さんらよりも、人間の方がよっぽど闘争やら武術やら戦争の神の眷属らしいのでないかい?」
「お前、軍神の眷属の末裔たるわしによくも言い寄るわ。さすがにあれだけの怪物は人間全体の中で多くて三人か四人じゃろ。そう危惧するな」
「・・・・・・それでも多くない? 一人でもう十分じゃろ、それ」
「かっかっかっか、楽しめる数が多くてなによりじゃ! 今頃、陛下も前線に出たくてウズウズしとる頃合いかな」
「わしとお前さんがこんだけ派手にやりゃあ、食指も動くだろうが、にしても、アレ、幻を見せられているわけじゃなかろうな?」
そう言って、トラウルーは左手の人差し指で上空を指さした。そこにはディストールと自身の防御障壁を貫いたザンダルザの奥義によって、左半身と頭部を吹き飛ばされたメルルの姿があった。なんとも無残なその姿に、しかして魔六将の二人は微塵も警戒を緩めていない。
メルルの死体がそこにあるだけならばトラウルーはなにも言わなかったが、確実に絶命しているはずのメルルの体が今も空中に浮かび続けているのはどういうわけだ。
そればかりか周囲から白い光の粒子が欠損した部分に集まるや、それは瞬きよりも早く輪郭を持ち、傷一つないメルルの肉体とディストールが再構築されたではないか。
「あ~、自身の肉体と装備に限定した時間逆行による復元と、損傷を無かったことにする限定的な因果律の操作の同時使用か?」
メルルの復活劇のカラクリをトラウルーがそう推測すれば、ザンダルザが右の下腕で顎を撫でながら付け加える。
「それに単純な細胞単位での再生速度の超高速化と、魂から肉体の情報を抜き出しての再構築の四つを複合化しとるな」
「つーと、対処法は時間干渉と因果律操作の無効化、細胞の再生が追いつかないほどの超高威力の一撃ないしは連続攻撃を当てるのと、そんでもって魂自体にも損傷を加える必要がある、と。
なんちゅー面倒くささじゃ。魂を削るか傷口を焼けばよいヒドラやわしらトロールが可愛く思える不死身っぷりを、後天的に身につけよってからに」
「そうなるが、出来るからやったのか、そうまでしないといけない相手でも居たものか。ああ、それと再生途中にちょいと仕掛けたが、あの杖やら鎧やらに意識喪失中も自動で戦闘を行う術式を組み込んどるな。お陰でこの有り様よ」
ザンダルザはおどけたような軽い調子で、トラウルーに自分の左半身を見せた。トラウルーが大の字になっている間に、頭部と左半身のないメルルとどのような攻防を繰り広げたのか、ザンダルザの左の頭は消し飛び、左の三本の腕も下の腕を残して付け根から消え去っている。
もちろん、ザンダルザとてメルルに何の痛打も浴びせなかったわけではない。トラウルーが起き上がる前まで、メルルは左下半身もザンダルザによって吹き飛ばされていたのだから。
魔族としてはヤーハームに次ぐ実力者であるザンダルザの無残な姿に、トラウルーはうげえ、と短く呻いた。
「さっさと治せ。再生を妨害する呪詛付きのようじゃが、それに負けるお前さんでもあるまい」
「まあ、の。お互い、まだまだ元気いっぱいということじゃな。かっかっかっかっか!」
「攻撃も防御も嫌になるくらい超の着く高水準だと思うとったら、不死身っぷりまで突き抜けんでもよかろうによ」
ザンダルザが大笑いし、トラウルーがぼやいている間に、ザンダルザの傷口からズリュ、と水っぽい音を立てて新しい頭と腕が生えて、五体満足の状態へと戻る。
もちろん魔力なり体力なりを消耗はするが、高揚した精神はより多くの魔力を生産するため、ほとんど消耗はないに等しい。トラウルーにとっては災難なことに、それはメルルにしてみても同じであったが。
「元気いっぱいなのはいいが、伸びしろがあるのはやはり若いほうだろうのう。ザンダルザ、魂の機微については高位の魔族たるお前さんの方がよくわかろう。
あのお嬢ちゃん、わしらとやりあう中で魂を進化させようとしとるぞ。例えるなら、卵の殻に罅を入れるコツを探しとるあたりか。殻を破られたらこりゃ厄介じゃ。いよいよもって相討ち上等の精神で挑まねばならなくなるか」
「くくくく、闘争の中での進化か。流石は人間種。失敗作の烙印を押されたとはいえ、彼らほど多くの神々の関与を経て誕生した種族はおらん。種として保有している可能性が、ほかの種族に比べて随分と多い。なんでもありという概念が強く当てはまる種族じゃからな。
魂の進化となると霊格の向上、魔力量の増大と質の向上、知覚領域の拡大あたりが定番だが、あのお嬢ちゃんならそれを活かして一気に魔法の質を一段も二段も上げてくるだろうな」
「ますます速攻で片付けなければならん理由が増えよったわ。最初からこんな強敵にぶち当たるとは、この大陸だけでもほかにまだまだ得体の知れん敵が多そうじゃ。しばらくは楽隠居できそうにないのう」
「愚痴を垂れてばかりでは心が萎れるぞ。前向きに行け、前向きに」
行けるか、阿呆、とトラウルーはまた新しい愚痴を零すが、そのくせ、闘志は萎えていなかった。その証拠に、ローブの下の肉体をぼこぼこと隆起させ始める。
高密度の筋肉の上に脂肪を多く蓄えた、でっぷりとした老トロールの肉体の内部で、骨格や臓器の位置、さらには筋肉の組成や血流の速度が変わり、皮膚には魔術的な作用を持つ文様が皮膚の変色によって自動で描かれてゆく。
原始の魔法を操るトロールの中でも、ごく一部の才覚溢れた個体のみが可能とする、自己暗示による肉体の最適化――いわば即興の進化だ。メルルという人間と呼ぶには抵抗のある強敵を前に、トラウルーの肉体は危機感と警戒心に相応しい戦闘形態へと進化し始めていた。
「どれ、わしも陛下、もといヤーハームの糞餓鬼用に温存しておいたとっておきを出すか。いやはや、世界は誠に面白い! 愉快痛快奇天烈に出来ておるわ!!」
ザンダルザもまた六本の腕を大きく広げて、如意混を握る右真ん中以外の五本の腕に虚空から呼び出した五つの武器を握る。
すべてが軍神サグラバースより祖先が持ち出しを許された神々の武器か、後代になって子孫達が血道をあげて作り出した極めて強力な魔法の武具ばかり。
どれ一つをとっても使いこなせば大陸の命運を左右するほどの、超絶の威力を発揮する神器魔器ばかり。そして、そうしなければならない敵がメルルなのだ。
完全に肉体の再生を終えたメルルは、眼下でさらなる強烈な圧力を発する二体の強敵を見て、春の訪れを知った無垢な少女のように笑った。彼女にとって、これまでの人生の中で最も爽快で晴れやかな気分だった。
メルルを中心に、空中に色とりどりの魔法陣が合わせて五十二個、強烈な光を放ちながら描かれる。メルルが瞬時に作り上げた砲撃魔法用の砲身兼砲台となる魔法陣である。
「あはっ♪ 我が前に森羅の死あり 我が後ろに万象の骸あり 我が眼差しの中に命なし 我が手の届くうちに魂なし 有象無象すべて塵芥と消え去るがいい ブラス・シャウラ・アプリポス!」
五十二個の魔法陣が一斉にすさまじい音を立てて回転をはじめ、その中心にメルルの魔力と大気中の魔力、さらには異世界と連結して吸い上げられた三種の魔力が融合し、世界を焼き尽くすような光の砲撃がトラウルーとザンダルザへと放たれる。
かつてドランが手合わせにて星の反対側まで撃ち抜く、と評価した【ブラス・アプリポス】の威力を四割ほどに抑え、その代わりに一度に多数の砲撃を可能とした応用版の砲撃魔法だ。四割の威力とはいえ、もともとが星を貫通する威力だ。
それが五十二発も一斉に放たれるのだから、メルルはこの星を破壊しようとしているのかと、正気を疑う所業に他ならなかった。
*
昼前に戦端を開いた魔王軍とアークレスト王国軍は、開戦早々に戦線の中央でメルルとザンダルザ、トラウルーが交戦を始めた為、巻き添えを食らうのを恐れて大きく左右に分かれて部隊を迂回させ、戦闘を行っている。
アークウィッチ達の戦闘が長引けば長引くほど、周囲への流れ弾や戦場そのものを揺るがす大爆発やら地響きが連続して発生する為、両軍は互いの超戦力の交戦地点から離れようと、左翼はさらに左へ、右翼はさらに右へ、と戦線をどんどんと伸ばさざるを得なかった。
見ようによっては滑稽に映る動きだが、戦闘に参加している兵士達からすれば、天変地異じみた戦闘の巻き添えで死ぬなど、遺体の一欠けらも残りそうにないし、まっぴらごめんと感じるのは至極当然であった。
その考えは戦線の兵士達ばかりでなく、彼らを指揮する現場の指揮官も、陣地から全体の指揮を執るより上位の者達にしても同じだった。敵と戦って死ぬのならばまだしも、味方の戦闘の巻き添えで死なせてしまっては、兵士達本人にもその遺族にも何と言ってよいやら。
そういった事情から仕方なしに左右へと伸びきっていた戦線だが、ここにきてお互いに戦闘している場合ではないほどに、メルル達の戦闘が苛烈さを増す事態となってしまった。
最前線で魔導銃や火薬式の銃を撃ち、槍を突き出し、剣を振るい、魔法を放ち、大砲の狙いを定めていた兵士達の多くが、正面の敵兵よりも天地を崩さんばかりの光と衝撃、轟音が次々と生じては消える中央の状況が気になって仕方がないのだ。
両軍の兵がそろってその状態であった為、お互いの攻撃の手がすっかりと委縮してしまい、お互いに何とも言えない微妙な雰囲気の膠着状態が出来上がっている。
そんなアークレスト王国軍の一角で、世界の終末を思わせる戦いを見やる二人に焦点を当てよう。アークレスト王国きっての武闘派貴族アピエニア家から派遣された軍勢の中に、その二人はいた。
深い海の底を思わせる色の髪を長く伸ばし、全身に魔法素材をふんだんに使ったクロースに鍔の広い三角帽子、箒を手にした妙齢の美女――ネルネシアの実母にして砦落としの異名を持つ魔女バッサー。
もう一人は全身隙間なく鎧で固め、手には身の丈を上回る無骨極まりない両刃の大剣を構えたる重装備の騎士――ネルネシアの実父にして百人斬りの異名を持つ大戦士ルオゼン。
ドランやクリスティーナにとって、この場に参戦しているアークレスト王国貴族の中では、スペリオン王子に次いで縁の深い二人である。
アグラリア戦役では、家臣の中で若手有望株を派遣したアピエニア家だが、魔王軍の陣容の凄まじさを理解するや最大戦力である領主夫妻と最精鋭の騎士団を率いて、このメグゼス会戦に参加していた。
メルル達の戦闘の余波により、まともな戦闘を行える状況でも精神状態でもなくなったことで、ルオゼン達は一旦軍を下げて、魔王軍との間に距離を置いている。
これはアピエニア家に限らず、総司令官の席に座っているスペリオンから全軍に伝えられた命令によるものだ。
スペリオン自身は軍を率いて戦った経験はないから、彼の参謀役を任された別の将軍からの意見を、スペリオン名義で伝えたものだろう。
メルルのあの戦いぶりを見たら、誰だって遠ざかりたくなって当たり前だ。このまま前線を維持などと命令が下されたら、実際に戦場に立つ兵士達の士気がどうなるか分かったものではない。
幸いだったのは黒薔薇を主に様々な花々が壁のように戦線各所に点在し、戦闘開始直後から兵士達を守っていたおかげで、命令の伝達と移動が実に順調に行ったことだろう。
言うまでもないかもしれないが、この花々の防護壁はベルン遊撃騎士団所属のディアドラと、彼女に続いて就職したエンテの森出身者を中心とした花々の精達が共同で作り出したものである。
ベルン男爵領の本陣で待機するディアドラに、他の花の精達が魔力と感覚を同期させ、地下から根を伸ばして即興の壁を作り出していた。
味方に向かってくる弾丸や魔法は黒薔薇を始めとした花々の根や茨がことごとく防ぎ、味方が攻撃する際には必要なだけの隙間を作り、またもし負傷したならば止血や解毒、鎮痛作用のある花粉や樹液を提供してくれると至れり尽くせりの代物だ。ここまでくると防護壁というよりも防御陣地というのが適切か。
手早く後方に引き下がる準備を進める自領の兵士達を一度眺めてから、バッサーは遠方の筈なのだが、今もびりびりと肌を打ち、天地を揺るがす衝撃にため息を零した。
メルルやオリヴィエを含め、アークレスト王国で戦闘においては五本の指に入る魔法使いと知られるバッサーをして、本気を出したメルルは桁違いの傑物だと感嘆せざるを得ない。
「あの子、あれだけの力を抑えて生きてきたのなら、随分と肩身が狭かったでしょうね」
それでもメルルを怪物呼ばわりするような言葉ではなく、彼女のこれまでの苦労を偲ぶ言葉が出てきたのは、バッサーなりにメルルの苦悩に共感するものがあったからだろう。
あるいは、メルルとは少し年が離れているが、強力な魔法使いの娘を持つ母親としての感性がそう言わせたものか。妻の言葉に含まれた憐憫の情に、ルオゼンは縦にスリットの入った兜越しに視線を送り、言葉をかけた。
「今までの抑圧の開放ですか。それにしてもこれは度が過ぎている、と言ったら、メルル嬢に気の毒でしょうか? 地形が変わりそうな勢いで戦っていますが……」
ネルネシアの父親は戦闘においては暴風の如き暴れぶりをみせる勇猛果敢な騎士だが、一歩戦場を離れれば、あるいは戦闘が停止している状況ならば温厚な紳士に早変わりするのが特徴だった。
「最初は周囲への影響を配慮していたけれど、どんどん熱を入れているからこのままの勢いで戦い続けたら、私達も危ないかもしれないわね。それにしてもあのトロールと魔族、とてつもない強さだわ」
「ふむ、君と私でも一体を相手に時間稼ぎをするので精一杯でしょうね。ベルンのバンパイア殿が空で相手をしている魔族達もかなりの強者です。事前に十分な準備をしていても、さて、一対一では勝機は半々です」
この時、ドラミナが相手をしているザンダルザの秘蔵っ子達は三名から六名に数を増やしており、マルザミスを含む全員が大小の傷を負い、余裕などかけらもない状況に追いやられていた。
一方のドラミナは本領を発揮できない昼であっても、すでに六名の魔族達との戦いに慣れた様子で、メルル達の戦闘による流れ弾による被害を案ずる余裕さえあった。
「別に一対一で戦う必要はないでしょう? 作法に則った決闘ならばともかく、戦場なのですから」
バッサーの言わんとしているのは当たり前のことであるから、ルオゼンとて特に反論はない。
実際に二人が魔六将や高位魔族を相手にするとなったら、百名以上の魔法使いや神官達からの支援魔法と神の奇跡で自分とバッサーを徹底的に強化した上で挑むだろう。自分の力だけでは届かないのなら、他者の力を借りて補えばよい。実に簡単な話だ。
「ええ、その通りです。言わずもがなでしたね。ううむ、それにしても突出した個が量を覆した例は歴史に多々ありますが、突出した個同士の戦いがここまで凄まじいものになるなど、今朝までは思いもしませんでした。ヴァジェ君との手合わせで少しは世の中の強者を知ったつもりになっていたと、不明を恥じる他ありません」
「腕に覚えのあるつもりで、この戦争に参加したものは誰もがそう痛感させられているでしょう。……あの子っ!」
いやはや、と兜越しに頭を掻く夫を慰める言葉を紡いだバッサーだったが、絶え間なく続いていた轟音爆音が一瞬だけ絶え、直後に周囲に伝播した桁違いの魔力量と天空に広がる巨大魔法陣に、顔色を青く変える。
すでに暗黒の荒野に多大な被害を与えていたメルルの大魔法の乱射だったが、ここに来ていよいよ大陸を本気で吹き飛ばす気になったのかと、バッサーは考え、いや、単に敵を倒すのにそこまで威力のある魔法を使う必要があると判断しただけだと理解する。
つまり、周囲への被害を考えていない可能性が高い!
「人間が扱えるというの!? あれほど強力な魔法をっ!」
バッサーがかつてない戦慄に背筋を震わせていると、自軍の殿を務めていた二人の周囲を囲っていた黒薔薇の一輪が震えて、ディアドラの声を発した。
『もしもし、ルオゼン伯爵、バッサー婦人、お加減いかがかしら? これからアークウィッチが特大の一撃を放とうとしているのが観測されたわ。ざっと十五秒後。急いで退避なさって。余波はこちらで防ぎますわ』
「防げるの? と聞くのは礼を失するかしら」
そう黒薔薇に告げる間にも、バッサーとルオゼンは先に退避した兵士達の位置を確認し、自分達もこの場を離れる準備を進める。バッサーが箒に跨り、ルオゼンが愛する妻の後ろに腰を下ろす。
『うちの、ベルン男爵領の切り札の一つをお見せいたしますわ。ロマル帝国の方は分かりませんけれど、こちらの側の戦闘をこれ以上続けるのは難しいでしょうね』
断定ではなく推測とはいえ、戦闘継続の有無を口にするのはディアドラの立場から過ぎたものだったが、ここまで事前の予想を覆す状況となってしまっては、戦略規模の変更も有り得る、とバッサーとルオゼンの両人ともに認めるところであったから、異論も窘めもしなかった。
そうしてルオゼンらと同様に他の戦線各地で同じような警告を発し終えたディアドラは、ベルン陣地にて彼方の空を埋め尽くす巨大な魔法陣を見上げて、心底から呆れた表情になる。
周囲をドランが設計し、ベルンに就職した魔法使い達が量産したゴーレム達で固めた中で、ディアドラを中心として二十数種にも及ぶ花々の精達が円陣を組んでいる。彼女らの足元にはディアドラが自身の荊を使って描いた魔法陣がある。
ディアドラが左右に小さく広げた両手を白百合とカトレアの花の精が握り、彼女らのもう片方の手を、また別の花の精達が握っている。そうして描いた円を通じて、ディアドラに彼女らの魔力が流れ込み、前線で花の防御陣地が無数に作られたわけだ。
「でぃ、ディアドラ、あの魔法陣は味方の人がしているのよね?」
恐怖を隠せずにディアドラに問いかけたのは、儚げな白百合の花の精である。花弁に似た形の髪やドレスもその名の通り白く、あまりに強大すぎる力に震える体はあまりに華奢だ。
エンテの森の外への好奇心から、ディアドラの伝手を頼ってベルンに就職した行動力のある少女だが、流石にメルルの存在と所業は想像の埒外のようだ。
白百合の娘以外にも、ディアドラを除く花の精達は不安と恐怖で顔色を悪くしている。その様子に、ディアドラはメルルに恨み言の百も二百もぶつけてやりたい気持ちになった。
「ええ、すこぉし周りが見えていない様子だけれど、あれをやらかしているのは味方の“行き遅れ”よ。あんなんじゃ、ドランでもなければ面倒が見切れないわね。
しかもあれ、魂を進化させる寸前までいっているじゃない。神の眷属相手にはその方が都合がよいでしょうけれど、限度を考えなさいな、あの子は!」
まったくもう、とディアドラが容赦なく愚痴を吐く一方で、セリナも上空に出現した魔法陣を目撃し、ひええ、と悲鳴を上げていた。
この場にいないセリナもつい先ほどまでは仲間のラミア達と魔力を同期させ、超巨大なジャラームを何十と呼び出して、陸上戦艦の艦隊と怪獣大決戦の様相を呈していたのだが、メルルの暴挙に気づき、慌ててジャラームを解除して前線に出現しなおすと、それをアークレスト王国の兵士達を乗せて逃がす為の輸送手段に切り替える判断を下していた。
あわあわと慌てつつも、この場で必要な判断を下して、迅速に行動に移れるあたりはこれまで積み重ねた経験がものを言ったと褒めるべきだろう。
敵も味方も混乱に陥れるメルルの一撃は、特定の範囲内に重力衝撃波を発生させて、物体を光よりも速く強制的に動かすことで、光子にまで分解するという殺意しかない魔法だ。制御を誤れば際限なく万物を光に変え、星を滅ぼしかねない代物だ。
メルルの技量ならば制御を誤りはしないだろうが、彼女の実力を知っていても一抹の不安はどうしても残る。セリナとディアドラの胸にわだかまる黒々とした不安は、ベルン男爵領の陣地から、彼女らのよく知る人影が飛び立つのを見る瞬間まで続いた。
メルルが頭上に掲げたニヒトヘイトから、黄金の津波を思わせる衝撃波が全方位へと放射される一瞬前、さしものトラウルーとザンダルザもこれはいかんと離脱の動きを見せていた。
逃げる二人の魔六将には構わず、メルルは万物一切を光へと変える黄金の衝撃波を放った。大気中の塵ばかりか大気そのものすら光へ変換してゆく衝撃波は球形に広がってゆき、その危険性を察知した真贋の竜種はもちろん、ドラミナと彼女にズタボロにされた魔族達も全力での離脱を選択している。
一撃で戦況を激変させたメルルの実力は見事としか言いようがないが、さりとて手放しで褒める行動ではなかった。
重力衝撃波の放出は止まず、さらに効果範囲を広げようとしたところで、ベルンの陣地を飛び立った人影――ドランが重力衝撃波へと向けて竜爪剣を横に一閃。
斬撃の軌跡に沿って、重力衝撃波の加速を停止させる別ベクトルの重力衝撃波が発せられて、黄金の重力衝撃波は見る間に消えていった。
残ったのはニヒトヘイトを掲げた姿勢で立ち尽くすメルルだけだ。ドランは視線を魔王軍の方へと一瞬だけ向け、ザンダルザとトラウルーがそれなりの手傷を負って離脱したのを認める。引き際の判断と行動に移す速さは大したものだ。
「ありゃ?」
と気の抜けた声を出すメルルに向け、ドランは何とも言えない表情を浮かべて近づき、腰に手を当てながら短く告げた。
「やり過ぎです」
今もなお格上と認めるドランの指摘に、メルルは全身を巡っていた血が急激に冷え、高揚していた精神が委縮するのを実感した。確かに自分が力を振るうことを楽しみ、周囲へと目を向ける配慮を失っていたのを、今になってようやく理解した。
「あうう、ご、ごめんなさい」
「味方に被害は出ていませんから、取り返しのつかないという事はありませんが、敵も味方も貴女のふるまいで仕切り直しをせざるを得ません。スペリオン王子からも戦線を下げるよう命令が下りました。魔王軍もこちら側に割り振っていた軍勢を下げています。夜襲の警戒は当然するとしても、とりあえず今日はここまでですよ」
ドランの口調と声音はメルルをそう強く責めるものではなかったが、どうにも呆れているのを隠せてはおらず、それを敏感に聞き取ったメルルは年長者でありながら道理を弁えない幼子のようにふるまった自分をただただ恥じ入るばかりだった。
「はい……」
まさに“しょんぼり”という言葉は、今のメルルの為にあるような落ち込み具合であった。ただ、このしょんぼりとしてる女性は惑星を破壊することも可能なしょんぼりさんなのである。
まあ、そんなメルルの一撃をあっさりと無力化したドランも、味方のアークレスト王国陣営、特に魔法使いの面々を驚愕させているのだが、彼の場合は今更だろう。
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第三百十三話
メルルの周囲を顧みない一撃によってアークレスト王国と魔王軍の戦闘が中断されるのに合わせ、上空で激しい戦いを演じていた真贋の竜種達も戦いの手を止めて、アークレスト王国陣地近くの竜種用陣地に集まり、体を休めている。
アグラリア戦役と同様にモレス山脈の竜種達には、命にかかわるような傷を負うか、致命の一撃を受ける直前に、安全な後方の病院へと転移するお守りが配布されており、戦線近くに留まっているのは戦闘継続可能な者達だ。
魔六将の一角にして魔王軍最強の竜であるマスフェロウを足止めしていたヴァジェも、この者達に含まれる。
「ぜえ、ぜえ、ひい、はあ、じ、じお、ジオルダ老、ご助成、かたじけない」
広く地面に治療用の竜語を用いた魔法陣の上で、ヴァジェは体を起こすのも辛い状態で、命の恩人である老竜に感謝の言葉を伝えた。今のヴァジェは息も荒く、翼の被膜は一部破れ、深紅色の鱗にも欠けたものや毒に侵されて腐食しているものも多く見られる。
本来、格下のヴァジェがマスフェロウを相手に戦いを挑んだ代償が、この無残な姿だった。
竜王の中でも最上位の実力者に相当する、というのが実際に戦った上での、ヴァジェからのマスフェロウに対する評価だ。
格下のヴァジェがマスフェロウに食い下がれたのは、マスフェロウがヴァジェを倒した後の戦闘も考慮して、余力を残す戦い方をしていたのに対し、ヴァジェがマスフェロウを倒す事だけを考えた戦い方をしていたからだ。
ヴァジェは肉体の底、魂の奥の奥からありったけの力を振り絞る事で、ようやくマスフェロウの足を止めるだけの戦いを演じられたのである。
そのような戦い方をしては、さしものヴァジェも心身の消耗が激しく、危うく死にかけた場面が幾度かあった。
そうした窮地を救ったのが、モレス山脈に住まう竜種の中で最も強力と目される、老地竜ジオルダに他ならない。竜公あるいは竜王級と噂されていたジオルダは、その噂に違わぬ強さを発揮し、ヴァジェとの共闘によってマスフェロウを完全に抑え込むのに成功している。
ジオルダもヴァジェ程ではないにせよ、戦闘中は指向性重力場の鎧を纏っていた鱗に損傷がいくつも見られ、鱗の下の肉体にも病毒が届いている箇所がいくばくかあった。
「若者の中ではお前さんが一番見込みがあるから、おいそれと死なせられんよ。それに相手があの偽竜の女王とあっては、わしも老骨に鞭を打って気合を入れねばと奮起もするさ。今はまずなにより体を休めるに限る。戦いはまだまだ続くぞ」
疲れ切った声で会話する二体に、竜種用陣地に待機していた衛生兵や神官達が慌てて取りつき、特大の包帯や飲み薬の入ったガラス瓶を運び、治癒魔法を施し始める。足元の魔法陣の効果と相まって、ヴァジェ達の傷は急速に癒えていった。
「ふううぅ、やれやれ。しかし、今回の戦いは厳しいものだ。もしベルンから協力の打診が無くわしら単独で戦っていたら、と考えるとぞっとするわい。お前さんがベルンやガロアに足を運んで、人間と縁を結んだのが功を奏したな」
ジオルダは感心した様子で告げるが、ヴァジェとしては白竜に化けていたドランとの因縁と食い意地があったからの話であって、ジオルダに言われるほど高尚なやり取りや思考があったわけではない。
ヴァジェは負傷と疲労で意識が朦朧としていることもあって、うまくジオルダに返事をする前にそのまま寝入ってしまった。孫や曾孫でもおかしくないヴァジェの様子に、ジオルダはふっと一つ笑みをこぼして、じっと体を休めることに集中した。
「それにしてもあのような人間がいるとは、いやはや、魔王軍の件がなかったとしても、ベルンと手を結べたのは幸いだったな」
ジオルダばかりでなくモレス山脈の竜種すべてが同意する呟きを零して、ジオルダは瞼を閉ざして、ヴァジェ同様に休息に専念するのだった。
*
アークレスト王国側がメルルとモレス山脈の竜種達を主軸に戦いを進めていた中、共闘姿勢を取っていたロマル帝国側ではどのように動いていたのか?
魔王軍の航空戦力はアークレスト王国側に多くが割かれており、空での戦いにおいては十二翼将の一人カイルスの率いる征竜師団と空中戦艦が巧みに連携して戦い、終始、優勢に戦いを進めていた。
これにはお飾りとはいえ総大将として参陣しているアステリアが、専用の飛行戦艦ラスロマルと共にカイルスらの後方に座し、帝国将兵の士気を大きく鼓舞させていたのも理由の一つだ。
ラスロマルの艦橋にて、アステリアは護衛と侍従に扮したグワンダン、アムリア、八千代、風香ら他、数名を傍に置いている。
お飾りとアークレスト王国やロマル帝国の者達からも見られていたアステリアだが、実際に戦場に出てからは未来を予知するかのごとく指示を飛ばし、最小限の損耗で最大限の戦果を挙げているのは、ラスロマルの艦長や同席している参謀も認めるところだった。
艦長席の後方に、後続の同席を想定して設置されている席に座すアステリアは、目の前の机に置かれた戦況図とその上に置かれたいくつもの駒を眺め、戦況の趨勢を一瞬も休まずに推測し続けている。
「カイルス将軍より敵偽竜六騎、ネイバーン二百七十騎撃墜、第三波の迎撃に向かう、との事です。また征竜師団第三中隊、第五中隊、損傷拡大のため、後退します!」
「第四師団に向け距離一二〇〇、東北東より人形兵一万三千接近中。第四師団より航空支援要請が来ています」
伝声管や計器類に埋め尽くされた講堂を思わせるラスロマル艦橋では、通信士と管制官達がひっきりなしに送られてくる情報や指示を送り返す声が響き渡り、順次、アステリアと参謀達からの指示が伝えられる。
ラスロマルを含む一部の飛行戦艦には、竜騎士達の母艦としての機能が持たされていて、その他にも近年、ロマル帝国が建造に着手した竜騎士の運用に特化した“空中竜母艦”――通称“空竜母”の一番艦メディサル、二番艦ローゼンゾールもメグゼス会戦に投入されていた。
「征竜師団第三中隊、第五中隊はローゼンゾールへ収容を。艦長、ラスロマルの副砲一番から四番で、第四師団に接近中の人形兵が距離七〇〇に入ったら砲撃を開始。距離三〇〇にて砲撃は停止を」
顔色一つ変えず淡々と指示を出し続けるアステリアの姿に、艦橋の人員達は畏怖とも信頼ともとれぬ感情を向けているようだった。恐ろしいまでの精度で魔王軍の動きを読み取り、相手の嫌がる行為を徹底して行う采配は、人智に依らぬ何かがあるかのよう。
アムリアはそんな姉の行動に今更驚きなどはせず、同じように彼女が指揮を執る立場であったならと考えて、脳裏で幾百、幾千、幾万と思考を重ねている。
グワンダン自身はロマル帝国の戦闘にはほぼ関与していなかったが、本体であるところのドランと情報の共有を常に行っている。
また、アムリアが同乗している事もあって、リネット、ガンデウス、キルリンネの三名はガリリウス襲撃時と同じ装備を纏い、こっそりとラスロマルの周囲で防衛にあたっている。
いろいろと問題のあるタナトスもといベリラトゥは、グワンダンの傍らですまし顔だ。
「敵魔王軍幹部との戦闘状況は?」
アステリアの問いに、寸暇の間も置かず通信士の一人が答える。魔王軍幹部すなわち魔六将と戦っているのは、ロマル帝国の最高戦力である十二翼将だ。ロマル帝国の兵士であれば、業務とは関わりなく敏感になる話題に違いない。
「アークレスト王国より情報提供のあった魔六将クインセは、エラティリ卿と門下の召喚魔法部隊ならびにダンテモン卿と依然交戦中。魔六将ヴェンギッタはガリオール卿、ゲイオス卿、シャムシュナル卿と交戦中です。魔六将ガリリウスは特務機関が抑えております」
「拘束は出来ている、と。ならば成果としては上々」
現在、ロマル帝国十二翼将は、五名を本国に残し、カイルスを含む七名がメグゼス会戦に投入されている。そしてガリリウスと戦っている特務機関、これが曲者だった。構成員はアステリアが引き継いだ契約者達なのだ。
ハウルゼンの言によれば外部からの侵略者との戦闘は、初代皇帝との契約に含まれていないはずなのだが、かつてリネットの搭乗したガンドーガと交戦したアスラムやザナドの他、グワンダンの知らない二人を加えた四名がガリリウスと激戦を繰り広げている。
リネットはガンドーガと共に戦ったアスラムの戦いに興味があるようで、艦の外に出る直前まで気にするそぶりを見せていた。
アステリアが戦況図の上に置かれた駒をいくつか動かしてから、侍女に扮している双子の妹へ視線を送り、声を潜めて話しかけた。
「アスラム達があの場にいるのが不思議ですか?」
姉からの問いに、アムリアは同じように声を潜めながら答えた。ロマル帝国における“契約”を知る者は極めて限られているから、周囲の耳を気にするのも当然だろう。
「契約に反する行動に罰則は働かないのですか?」
「契約内容に反する行動はそもそも取れませんが、特務機関の者達は契約者であると同時にロマル帝国の国民ですから、国民が自らの意志で兵士に志願するのを、契約は咎めていませんよ」
「契約を盾にした強制ではなく、自由意志からの志願ならば問題はないと? なんと申しましょうか、初代皇帝の契約はいろいろと抜け道が多いというか、見落としている箇所が多いというか」
自分達の先祖は知れば知るほど残念というか、脇の甘い人物であったのが分かり、アムリアはなんだかなあ、とついつい思わずにはいられない。
アステリアはそんな祖先に対して、もう割り切れているようで、妹の曖昧な表情を面白がって手で隠した口元にはうっすらと微笑が浮かび上がっている。
「まあまあ、今となっては私達にとって有利な働き方をしていますし、言及はしないでおきましょう。しかし、ガリリウスと申す敵将は凄まじい使い手ですね。
戦いに関して、私は全くの素人ですが、特務機関の面々が顔をそろえてようやく抑えられるとは。単騎でかの者を迎え撃ったグワンダン殿の実力の程が伺えるというもの」
尻尾と翼と角を消し、面頬を下ろして顔を隠し、さらには全身鎧と肌の露出を一切していないグワンダンは、自分に水を向けてきたアステリアに小さく会釈するだけで、明確な答えを返さなかった。
ガリリウスとの戦いは、途中で横槍を入れたタナトスがいまだに気にしており、話題に上るたびに気落ちしてしまうのだ。グワンダンには傍らに控えるメイド姿の死神が、表情はそのままに心の中で吐血しているのが、手に取るようにわかる。
だから話題を変えようとしたのではないのだが、グワンダンは艦橋の正面と三方に嵌め込まれている、分厚い強化硝子の向こうに広がる空を見た。
真贋の竜種の激突とアークウィッチの大暴れによって、東の空は極彩色に染まり、時折、ラスロマルの船体を震わせる衝撃が発せられている。
「アークレストの戦闘は随分と派手な事になっておりますな。流れ弾一つをとっても驚異的な破壊力です。こちらに流れて来なければよいのですが」
ドランとしてもグワンダンとしても、偽らざる本音である。一応、ロマル帝国側に流れていきそうになった流れ弾に関しては、ドランの方で対処しているが、万が一、漏れがあった場合にはすでに外に出ているリネット達とグワンダン、タナトスが防ぐ他ない。
ラスロマルには当然、高度な防御措置が施されているものの、メルルやザンダルザ、トラウルー級の流れ弾ともなると、一撃で大損害に至りかねない。
それを見越した上でのグワンダンの発言だったが、アステリアは彼女には珍しく難しい顔になり、グワンダンと同じくアークレスト王国と魔王軍の戦場へと視線を転ずる。
「世の噂の大部分は語られる内の半分ほど、というのが常ですが、アークウィッチに関してはその逆。実態は噂の倍以上だったと確かめられたのは、収穫といってよいでしょう」
アークレスト王国との共闘において、かの国の最高の個人戦力であるメルルの実力を把握するのは、メルルが長じて以来、その脅威に脅かされてきたロマル帝国として必ず行っておかなければならない事だった。
アムリアに皇帝の座を押し付けて――いやいや、譲り渡す予定のアステリアも、メルルの真の実力については常に頭の片隅に留めておくべき重大事と認識している。
そして今日、長年の憂慮を確かめる事ができたのだが、それは更なる憂慮を招いただけだった。遠隔視の使える魔法使い達に命令して、メルルの戦闘を一から記憶させ、中継映像にも目を通しているのだが、さしものアステリアもあそこまでメルルが常識からかけ離れた怪物だとは想定しえなかったのである。
「アークウィッチのあの戦闘能力ならば、アークレスト王国が何年も前から直接的な行動に出ていてもおかしくはない。なのにそれをしなかったのは、王国も彼女の実力を把握していなかったかもしれませんね。
いずれにせよ、今回の戦いで彼女の実力を王国側も理解したはず。この戦いが終わった後の事を、強く警戒しなければなりませんか」
アムリアに任せた後なら、アークレスト王国を敵対視する必要はないかもしれませんけれど、とアステリアは心の中で呟き、自軍と魔王軍の戦況に再び意識を集中させた。
魔六将の二名との戦いに熱中するあまり、メルルが敵味方を驚愕させる一撃を放ち、それをさらにドランが無効化するその瞬間まで。
*
そして、ザンダルザとトラウルー撃退後のメルルとドランは、スペリオン王子へ報告を行うべく、アークレスト王国本陣内部を歩いていた。招集命令を受けていたためでもある。
メルルの戦闘激化に伴い、戦線を構築していた兵士達は順次後退の命令が出されていたが、遠目にも見えるメルルの異常な実力は彼らを心の底から畏怖させるのに十分で、陣地内にいる兵士達からメルルに向けられる視線には恐怖に近いものがある。
幸いにして、と言うべきなのだろう。メルルは自分に集まる視線に気づく余裕がなかった。
自分の前を歩くドランからの説教とも小言とも取れる言葉に、しょんぼりとし続けているからである。
「私としましてもいたずらにメルル様を責めるつもりはないのです。メルル様ほどの実力者であってもあれほどの苦戦を強いられた強敵です。あの場で彼らを撃退する事が、ひいてはこの戦争において勝利するのに重要な要素であるのも間違いではありません」
一度も足を止めずに進むドランの声音に、非難や怒りの響きはほとんどない。それよりもメルルの行いに対する悲しみと嘆きが、彼の感情のほとんどを占めていた。それが分かるから、余計にメルルは肩身が狭い。これならば面と向かって罵倒をされる方が、よほどマシだ。
「そしてまた、メルル様が魔六将を撃退するのに、あれだけ強力な魔法を使わなければならないと判断されたのなら、確かにその通りなのでしょう。
実際に命を懸けて戦っておられるのはメルル様なのですから、本来であれば私に貴女を咎めるなり窘めるなりする資格は、ないかもしれません。
しかし、あえて言わせていただきます。あの魔法はありません。あれはたとえ魔六将二人を確実に仕留められるにしても、あの状況では使うべき魔法ではありませんでした」
「はい、反省しております……」
「反省自体は本当になさっておられるようですね。メルル様があの魔法の効果範囲と継続時間を綿密に設定し、味方の兵士達に害が及ばぬように戦いの最中にも配慮されていたのは、分かっていました。
ですが、その配慮に気付ける方はそう多くはありません。良くも悪くもメルル様の行使する魔法はあまりに高度ですからね。そして配慮に気付けぬ方にとって、触れるものすべてを光に変えてゆくあの魔法は、とてつもない恐怖であったに違いありません。
もしあの黄金の輝きが自分達に襲い掛かってきたら? あの瞬間、そう恐怖した兵士達は少なくなかったでしょう」
この時、ドランはメルルを気遣い“少なくなかったでしょう”と口にしたが、実際には目撃したすべての兵士達が生命の危機に恐怖している。
「はい、はい。あの時、魔六将の二人を倒す事だけを考えて、どう見られるかという事を忘れていました。ごめんなさい!」
このどう見られるか、という点について、ドランはメルルにある程度は同情していた。これまでメルルが衆人環視の中で力を振るったことなど、そうはなかったろう。
ましてや全力を振り絞っての戦闘ともなれば、去年、競魔祭の後に行った手合わせが初めてだ。しかも、その時は周囲の目を気にしなくて済む準備を済ませた後だった。
周囲への安全と生命の保障がされた上で行われた去年の手合わせとは違い、今回は正真正銘、命懸けの戦いだったのだから、さしものメルルも未経験の事態に頭が回りきらなかったのを、ドランは察していた。
「私に謝られる必要はありません。実際、メルル様だからこそあの二人を一度に相手どれましたし、あそこまで優位に戦えたのです。魔王軍の者達もアークレスト王国を陥落させるのは、容易ではないと心の底から理解できたでしょう」
「そ、そうかな? そうだといいなあ。でもあの頭が三つあったおじいちゃんはすごく楽しそうに戦っていたよ。また嬉々として私と戦おうとするかもしれない」
「彼らは軍神の末裔ですから、強者との命懸けの戦いは望むところでしょうね。メルル様との戦いは大変満足のゆくものだったに違いありません。ともすれば魔王もメルル様との戦いを目的に前線へ顔を出す可能性もあります」
「わわわ、魔王っていうくらいだから、やっぱり魔六将よりも強いよね。魔王軍の気質を考えると、戦闘能力も高くないと上に立つ者として認められないだろうし……ううん」
魔王はザンダルザ達以上の強敵に違いないと予測するメルルは、にやけそうになる口元を不謹慎だと理性を総動員して、必死に引き締めている。自制しようと努力しているだけ、まだ救いはあるのだと、ドランは自分に言い聞かせた。
メルルは弱者に対する理不尽な暴力の行使や戦場であっても虐殺行為に強い抵抗を示すが、全力を振るう必要のある強敵相手ならば嬉々として戦いを挑む拗らせ方をしていた。
「ふむ、おそらくですが次以降の戦闘では私とドラミナも積極的に前に出る必要性に迫られるでしょう。ロマル帝国が上手く歩調を合わせられれば、仮に魔王が前線に出ずとも彼の待つ本陣まで切り込めるでしょうが、さて、ふむ」
ロマル帝国への情報伝達はグワンダンを経由すればすぐに伝えられるし、アステリアならばすぐさま裏付けを取り、最善の行動に移す。魔六将の二人か三人を引き付けられれば上出来だろう、とドランは結論付けた。
先ほどの戦闘とこれからの展開について話ながら歩き、二人はアークレスト王国の魔王軍討伐軍の本陣へと到着した。この本陣が曲者であった。今回、アークレスト王国は浮遊戦艦を本陣として運用していたのである。
陣地に防塁を築き、天幕を広げるなどの一般的なものではなく、ひときわ巨大な中央の戦艦を中心に四隻の戦艦を連結させて作ったこの巨大な浮遊戦艦は、王国の空の戦力の要として建造が半ばまで進められたものを再利用している。
一隻の巨大な飛行戦艦を建造するのではなく、五隻の飛行戦艦を連結させて、状況に応じて連結と分離を流動的に行える特異性を持たされたのだが、複雑な構造と必要とされる浮力の確保が出来ず、一度は建造半ばで破棄されている。
それを飛行能力の付与は諦め、地上から一定の高度を持ち、地形に依らず航行できる巨大な浮遊戦艦として復活させたのが、二人の目の前にある戦艦だった。今は地面に船底から伸ばした降着装置を使って、地面に降りている。
中央の艦の正面下部が一部開いており、そこが内部へと入るための入り口となっていた。
「さて、スペリオン王子や参謀の方々に何と言われるか、メルル様、貴女のお立場を考えればそう強い叱責が出てくる事はないとは思いますが、自分の言動に対して責任を取るのが、大人の条件の一つです。どうぞ、お覚悟をなさってください」
「はい……」
そのようにドランはメルルに釘を刺したが、刺す必要がなかったと思うくらいにメルルは落ち込んだ様子を見せている。いやはや、もはや人間としては世界最強の魔法使いと呼べる実力の主であるのに、なんとも打たれ弱いメルルの精神であった。
(あんまり落ち込まれてばかりいても困るのだけれどな。魔族の戦力を肌で感じた以上、兵に兵をぶつける戦い方では尋常ではない被害が出るのを、否が応にも理解させられたはずだ。そうなると少数戦力による敵中枢の壊滅あたりが提案されるか……)
それはドランの前世の経験を踏まえた上での推測だった。そして少数戦力の中にはドランやドラミナを筆頭に、ベルン男爵領の面々が含まれるのは確実だろう。
近しい未来、魔王と対峙する未来をドランは強く予見していた。
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第三百十四話
私ことドラン・ベルレストは、アークレスト王国最強の大魔法使いメルルと共に、招集を受けた王国本陣である浮遊戦艦に到着していた。
私達の案内役を仰せつかった若い従者に連れられて、浮遊戦艦の中枢部にある広い部屋の一つへと足を踏み入れる。艦内には伝声管や魔力を伝える為の管などが張り巡らされ、総金属製の艦内はいささかならず狭い。
目的の部屋が近づく程に行き交う人間の数は減り、防諜も兼ねて遠ざけているのだろうと推測できた。メルルは今も“しょんぼり”状態を継続しており、このままだとスペリオン王子の姿を見た途端、土下座して謝り倒しそうだ。
この大魔女殿は、全力で戦っていた姿からは想像もつかないくらい精神面において脆いところがある。
それも戦場ではなく日常の場面で見せるのならば、一つの魅力にもなるのだが、今の状況ではあまり歓迎できないかもしれない。個人的な意見を言うのならば、こういう脆さがあるのだから、メルルもまた人間なのだなと感じられて好ましいのだけれど。
「メルル様、くれぐれもスペリオン殿下の顔を見るなり、土下座して謝るなどなさりませんように」
「ひえ、口に出していた? あ、それとも心を読まれちゃったかな? かな?」
どうやら私の予想は見事に的中していたらしく、メルルはわたわたと慌てふためき出すが、残念、どちらでもない。単純にこれまでの短いが密度の高い付き合いからの経験則だ。
「メルル様は比較的わかりやすい、素直な方でいらっしゃいますから」
「あうう。顔かなあ」
「顔ですね。悔やんでおられるのは重々承知しておりますが、いきなり土下座から初めては殿下達も驚かれてしまいますよ」
「うん、気をつけるよ・・・・・・」
しょぼくれたままのメルルと共に案内役の先導に続き、明らかに装備と鍛錬の質が違うとわかる兵士と魔法使い達の守る一角にたどり着き、分厚い鉄の扉の開かれた先でスペリオン王子は私達を待っていた。
実用性だけを考えて作られた広い会議用の部屋の中央に長方形のテーブルが置かれ、上座にスペリオン王子が座し、その脇に例によって専任騎士シャルドと参謀らしい年かさのいった
テーブルには本陣に詰めている主要な指揮官・参謀級の人物が顔を並べ、他にもベルン領から供出した砦型ゴーレムで指揮を執っている方々の顔も一部がある。
砦型ゴーレム組は鏡の形をした魔法通信機を介しての参加だ。我が主君たるクリスも通信機組である。また傷の癒えた様子のジオルダも通信機組だ。
ふむ、ジオルダばかりでなくヴァジェも格上のマスフェロウを相手によく戦ってくれた。心から賞賛したい気持ちで、私は胸がいっぱいだ。モレス山脈の同胞達は、実によく戦ってくれている。ふむふむ。
そして、私達の到着を待っていた殿下はメルル、私と順番に顔を見てから一声かける。
「メルル、ドラン、先の戦いではよく戦ってくれた。君達の奮戦がなければ、魔王軍との戦闘による被害は目も当てられないものとなっていただろう」
メルルについては活躍しすぎというか、活躍と言うのには抵抗のある部分も多かったろうが、魔六将二人を相手取って優勢に戦い抜けるのは、我がベルン領の人材とレニーアを除けば、王国にはメルルだけだ。その彼女をまずは労い、賞賛するのは、ま、当たり前か。
スペリオン殿下は少なくとも表面上は臣下を称賛する君主然とした表情だが、彼の周囲にいる魔法使いやほかの諸侯らは若干頬が引きつっていたり、瞳に畏怖の色が濃厚に浮かんでいたりする。ふむん、私にも向けられているが、メルルの最後の一撃を止めたのが原因か?
「でで、殿下におかれましては過分なお言葉を賜り、ききき、恐悦至極に存じます。臣下として、当然の務めを果たしたまででございます」
メルルは多少つっかえたし、緊張で体がガチガチになっているし、舌の周りは鈍いし、と散々な様子ではあったが、元来野心など欠片もない性格であったから、自国の王太子からの称賛に顔を真っ赤にしながら返事をした。
返答の内容は当たり障りのないまっとうなもので、滑稽とも哀れとも見えるメルルの様子からは、先程まで惑星を壊すような勢いで大魔法を連発していた人物と同じ人間とは思えない。その証拠に諸侯の幾人かは毒気が抜かれた顔になっていた。
私は他人よりメルルとの付き合いが少しばかり長いが、この女性は魔法が関わらなければ、極々平均的な女性であると分かっているから驚かないが、そうでない人にとっては奇妙なくらいの平凡さだろう。
さて、メルルにばかり話を喋らせてばかりもいられない。殿下から称賛の言葉を賜ったのは、私も同じなのだから。
「メルル様の言われる通り、アークレスト王国の一員として果たすべき義務を果たしたまでの事でございます、殿下」
「謙遜も過ぎれば美徳ではなくなるが、ここは君達二人の謙虚な人柄の表れと受け止めておこう。いずれにせよ、君達の示した力が今後の魔王軍との戦いにおいて、要となるのは間違いがない。ドランについてはベルン男爵領も、と言わなければならないな、ベルン男爵?」
スペリオン殿下に水を向けられたクリスが、通信機越しに小さく頭を下げ、相好を崩した。
戦闘中、本陣の中で、私やドラミナのように、エルスパーダとドラッドノートを両手に前線に飛び込んで暴れまわりたい衝動を抑えていた時とはまるで別人だ。
容姿をこの上なく醜悪に変える魔法の腕輪を身に着けて、ようやく絶世の美女にまで格落ちする美貌に、初めてクリスを見た人々の視線が自然と吸い寄せられている様子は見物だった。
『魔王軍との戦いには我々に一日の長がございますし、モレス山脈の竜の方々がよく戦ってくださいました。もちろん我が家臣達も母国と郷里の為と、皆が奮起してくれたお陰です。とはいえ、メルル殿の活躍と比較すれば霞んでしまいますが……』
と最後にクリスは苦笑を浮かべてからメルルを見た。もし魔六将の二人との戦闘を継続していたなら、直に高位魔族を討ち取っただろうドラミナと私が合流し、魔王軍本陣に斬り込んで撹乱するか、ベルン領の兵士達と共に前線のあちこちで暴れまわって、魔王軍の前線部隊を壊滅させる予定だったのだが、結果はこの場にいる誰もがご存知の通りだ。
メルルの戦場全体に届くほどの派手な一撃によって戦闘がかなり早い段階で打ち切られた為、アークレスト王国も魔王軍もおそらく双方の想定よりもはるかに少なく兵の被害を減らす結果になったと言える。
「確かにメルルの実力は私の理解を超えるものだったと、痛感させられたよ。しかし、同時にそのメルルを相手に二人で戦いを成立させられる魔王軍の幹部格……魔六将についても、驚愕したと正直に言わなければなるまい。
ロマル帝国側にも魔六将が向かい、十二翼将を始めとした帝国の精鋭と激戦を繰り広げたのが確認できている。帝国との共闘路線を選んでよかったと、今更ながらに肝を冷やしたよ。とはいえ戦が終わったわけではない。
改めて魔王軍の実力を知った上で、我々の次の行動について改めて定めなおさなければならないと、今回、皆を招集した」
ふむん、自国の最高戦力であったメルルの予想をはるかに超えた実力、そしてそのメルルと激戦を繰り広げた魔王軍幹部のこれまた想定外の戦闘能力によって、局地的な戦闘規模のみならず戦略規模で見直しを図らなければならなくなったか。
スペリオン殿下や参謀、諸侯らは大なり小なり苦いものを浮かべているが、突出した個によって軍勢が蹴散らされるなど、悪夢にも似ている。ただ見直しを図られているのは、我々だけではなく、メルルという想定外、いや、想定を超えた存在を知った魔王軍の側も同じだろう。
殿下の次に発言したのは、傍らに控える人梟だった。殿下付きの参謀を務めている方だ。巨大化した梟そのままの顔で、右目にモノクルをはめており、翼から変化した腕を動かしやすいように、袖のない軍服に身を包んでいる。
「メルル殿の真の実力については我々にとって喜ばしい誤算となりましたが、ベルレスト補佐官もまたメルル殿に負けず劣らずの魔法の使い手であると判明したのは、紛れもない収穫です。
恥を忍んで申し上げるが、私も多少魔法の覚えはありますが、メルル殿が最後に放った魔法に関しては手の打ちようがないと諦める他ありませなんだ。しかし、ベルレスト補佐官は難なく相殺して見せたのですから、いやはや、脱帽という言葉では到底足りません」
人梟ばかりでなく、この場に同席している魔法使い達は一様に同じ意見らしく、畏怖やら畏敬やらが入り混じった視線を私に向けている。もともと、私はアークウィッチの後継、と王宮では持て囃されていたらしいのだが、今回の一件でそれが確定したに等しいらしい。
どう勧誘されてもベルンから離れるつもりはないが、過度な戦力を地方貴族が握るのを中央の人々は歓迎すまい。そこはまあ、スペリオン殿下との信頼関係が最大の頼みだが、折を見て王国への忠誠と野心の無さを伝える他ないかねえ。
「いえいえ、事前にメルル様がどのような魔法を放つかを把握できていれば、私でなくとも何かしらの対処の仕様はあったものと存じます。
それに前線の兵士達の心情を慮り、勝手ながらメルル様の魔法を相殺はしましたが、私が何をしなくともあの魔法は味方に被害を及ぼさないギリギリのところで消えていましたとも。そうでございましょう、メルル様」
私の発言に、部屋にいた魔法使い達はそろって“出来るか!”という思いを山と詰め込んだ瞳で私を睨んできた。口に出さずに抑え込んだだけ、彼らはまだ自制できた方だろう。
私も自分で言っておいてなんだが、あの魔法を事前準備なしで止められる実力者がメルルの周りにいたなら、彼女があそこまで拗らせはしなかっただろうし、アークレスト王国はその戦力を頼みに早々にロマルなり高羅斗なりに侵略戦争をふっかけていそうだものな。
「ははは、はい。有効範囲に味方がいないように調整していたので、友軍に被害は出ない筈でした。ただ、それが味方に分かりづらいという大問題を私が失念していた為、ドランく……ベルレスト補佐官の手を煩わせる結果となりました」
メルルが味方に被害が出ないように調整していたのは本当だ、と負い目から猫背気味に曲がり始めていた姿勢を改め、きっぱりと告げるのを聞き届けて、スペリオン殿下は一つ力強く頷いた。
聞き届けられたと一目で分かる仕草には、すでに人々の上に立つ者の威風らしきものがあり、我が母国の次代は何事もなければ安泰だな、と私に思わせた。問題は、今現在、その“何事”の真っ最中であることだ。
「我が国の誇る史上最高の大魔法使いの言葉を信じよう」
ここで“最強”ではなく“最高”と評するスペリオン殿下の感性が、なんとはなしに私には好もしく感じられる。メルルはスペリオン殿下の前とあり、控えめに安堵の吐息を零した。
「まずは魔王軍との戦いの序盤が終わったという段階だろう。これから本格的な戦いの幕が上がるものとみているが、改めて彼らの実力を肌で感じ取り、事前に組み上げていた戦略では対応が後手後手に回るか対応そのものを誤る可能性が高い、と我々は判断した。
幸か不幸か魔王軍もロマル帝国もそれは同じだろうが、我々の取るべき行動について諸君から忌憚のない意見を述べてもらいたい。誇張ではなく、我々の母国アークレスト王国が亡国となるか否かの瀬戸際だ。あらゆる視点からの意見が必要なのだ」
殿下の言葉を皮切りに誰もが改めて真剣に会議に臨み、立場の異なる人々が魔王軍との戦闘が感じた所見や部下達から挙げられてきた情報を惜しみなく口にしてゆく。
厄介なのは通常手段として用いられる“戦争”が、魔王軍に限っては半ば目的となっている点にある。神々の戦いを忌避して地上に逃れた軍神の末裔達だが、長く戦いから離れた反動なのか、より手ごわい敵との闘争を求めて暗黒の荒野の外へ目を向けて行動している為だ。
仮にロマル帝国とアークレスト王国の双方を打ち破り、支配下に置いた場合、魔王軍ひいてはムンドゥス・カーヌスは、次の戦争を、次の次の戦争を求めて、軍備の増強に勤しむだろう。
そうして戦って、戦って、戦い続けて、いつか滅ぼされるか、はたまた彼らの先祖のように戦いに疲れ果てて倦むまで、戦い続けるのが魔王ヤーハーム率いる魔王軍なのだ。なんともはや、厄介な手合いに戦争を挑まれたものである。
『魔王軍の竜達はわしらが何が何でも抑え込むが、早々、貴殿らを援護する余裕は生まれまい。幸いにして医療に関して至れり尽くせりであるから、負傷者の戦場復帰は我らの方がはるかに早く、死者も出ぬように手を尽くしてあるから、交戦を重ねれば重ねる程、我らが有利になるが、そこまで戦いの回数を重ねてはおられんのが現実であるしのう』
そのようにジオルダがモレス山脈の竜種の総意を伝えれば、彼らと共闘した航空部隊の指揮官や主達がそれぞれの損害と、彼我の航空戦力について意見を述べた。
残念ながら竜種を除く空の戦力においては、アークレスト王国側が技術的にも運用についても劣っているのを認めざるを得ず、口を開く誰もが悔し気な表情だ。
つまるところ、陸も空も通常の兵力と技術において、アークレスト王国もそしてロマル帝国も魔王軍には一歩も二歩も先を行かれているのが、悲しいかな、揺るがぬ事実なのである。
それでも考え得る策は次々と参加者の口に上り、有用性について質疑が重ねられて、否定されるのを繰り返す。
私が設計し、ベルン男爵領で量産した砦型ゴーレムとバリアゴーレムを先方に配置し、これを魔王軍の陣を貫く穂先兼盾として全軍での突撃案。
魔王軍の本陣を目指すのではなく西へ一直線に向かい、ロマル帝国軍と交戦中の魔王軍を挟撃して速やかにこれを撃破後、残る魔王軍をロマル帝国軍と実際に戦場で轡を並べて攻撃する案など、出るわ出るわ、よくもまあ思いつくなあ、と私はこっそり感心したものだ。
出てくる案の多種多様さはそれだけこちらの手札が豊富である表れではあったが、さて、それが実行に値するかというと甚だ疑問となるのが世の常。
さんざん、議論し、案が出尽くした後にたどり着いた結論は、おそらく、会議前から誰もが頭の片隅に抱いていたものだった。
*
日暮れ前に始まった会議が終わり、夜の闇が迫って空が黒の手前、深い紫色に染まり出した頃合いに私はベルン男爵領の陣――砦型ゴーレム一号機“ベルレム”内部の司令室にて、クリス、ディアドラ、セリナ、ドラミナといった首脳陣と内密の会合を開いていた。
部屋の中央と壁の高い位置に設置された魔法のランプの放つ光によって、室内から暗がりは追いやられている。事前の調査で判明したメグゼス区の地図が置かれた大テーブルを囲み、私達は顔を突き合わせている。
砦に入る前にヴァジェの様子を見たが、傷は完全に癒えて、盛大に消費した体力と魔力を補充する為に、大量の食糧を貪り食らっており、朝方には完全に回復しているだろう。よかった、よかった。
さて、なぜこの面々を招集したかというと、会議の果てに辿り着いた内密の話を伝える為である。私とクリスが今後の行動について説明し終えると、真っ先に口を開いたのは、とぐろを巻いた自分の下半身に腰かけたセリナだ。
「ようするにドランさん、クリスさん、ドラミナさん、メルルさんによる魔王軍本陣への奇襲ですか?」
そう、結局のところ、今回の戦争は鍛え抜かれた軍勢ではなく。異常なまでに突出した力を持った“個”の存在が勝敗を左右する類のものであるのは、否定のしようがない事実だ。
となればアークレスト王国側の突出した“個”であるところの私とメルル、ドラミナに望みが託されるのは当然の流れだろう。ただ、そこにクリスの名前があるのは、スペリオン殿下からの指名というわけではないのだが……
セリナもクリスの名前が挙げられたことに疑念があるようで、愛らしい顔に疑問の色を浮かべている。それを直接口にしたのは、今回、被害を抑える方面で大活躍してくれたディアドラだ。
この前の戦いでお気に入りになった煙管を右手で弄びながら、艶やかな唇を動かす。視線は、私に向けて、どうせクリスが我がままを言ったんでしょう? と問いかけていた。その通りだったりするが、まあ、分かりやすいかな。
「そこでどうしてクリスの名前が出てくるのかしら? 曲がりなりにもベルン男爵家の当主じゃないの。跡取りもいない状況で、もっとも危険な戦場に放り込む命令を下すものなのかしら? 戦えるのなら当主まで駆り出すほど追い詰められてはいないでしょうに」
「殿下もクリスの名前は出さなかったよ。提案されたのは私とメルル、高位魔族をまとめて叩きのめしていたドラミナの三人だ。クリスが加わったのは……」
私がちらっとクリスに目線を送れば、我が男爵家の当主は精一杯の威厳を取り繕って、正直に告白した。
「私が私をスペリオン殿下に売り込んだ」
キリっとした顔で率直に言ってのけたクリスに、セリナが目をぱちくりさせ、ディアドラはやっぱりと肩を落とす。ドラミナはその時の様子を思い出してか、口元を左手で隠しながら小さく笑っている。
クリスがこの場でもアグルルアの腕輪を装着していなかったら、凛として美しい彼女の顔にセリナとディアドラはしばし意識喪失の状態に陥っていただろう。ディアドラが眉の形を歪めて、形式上の主に問いただす。
「貴女はまたそんなことを口にして。実家のご両親が知ったら、度肝を抜かれるかもしれなくてよ」
「それは、考えもしなかったが、あれだけの実力者のいる敵だ。ドランがいる限り、彼一人でも余裕なのだろうが、メルル殿もご同行されるし、多少はドランも加減をする必要があるだろう。なので、人手は一人でも多いほうが良いという結論に至ったわけだな、うん」
ふむ、説得力はあまりない、とクリスが自分でも理解している口ぶりだな。それが分かるくらいにはこの場にいる全員がクリスを理解している。
「よくそれで許しが出たわねえ。邪推するなら勢いづく前に当主が死んでしまえば、ベルン男爵領を王家の直轄領に組み込めるとか、切り分けたパイみたいに諸侯への褒美に使えるとか、そういう思惑がありだったわけ? どうなの、ドラミナ」
この手の事でもっとも頼りになる夜と月の眷属の女王に問えば、これまでの密やかな笑いを消してこう答えた。
会議中はドラミナ達との念話や視界の共有は切っていたのだが、ドラミナならば生来の視力か神器を使えば、会議の様子を把握するのは容易い。それを見越した上でのディアドラの質問であった。
「スペリオン殿下をはじめお隣にいらした人梟の御仁も、他の出席者の方達もそこまで考えてはいらっしゃらないでしょう。良くも悪くも目の前の戦争でいっぱいの様子でしたし。
ただ、クリスの同行をメルルさんが認めた事の驚きの方が大きかったというべきかもしれません」
「クリスの同行を許したのは、メルルが認めたからって、それだけなの、ドラミナ?」
ちなみにこの頃になると、うちの女性陣はお互いを愛称で呼ぶか呼び捨てで呼ぶことが増えている。セリナばかりは“さん”付けを継続中だが、クリスに対しては“クリスティーナさん”から“クリス”さんに変わっているしな。
「他にネルネシアさんのご両親が最前線で戦っていた、という前例がありましたし、ベルンには死者を出さない為の措置がありますから。万が一にも死亡しない、という証拠はこれまでの魔王軍との戦いで他ならぬ私達自身が証明してきましたでしょう?」
今回の戦いに参加している我らがベルン男爵領の兵士はもちろん、セリナ達にも緊急転移装置であるアリアドネを渡してある。この魔道具により、最も危険だろう魔王軍本陣への奇襲にクリスが加わる危険性が大いに薄れるわけだ。
「ふうん、そういえばそうだったわ。使う機会がなかったから、忘れかけていたわ。そうなるとメルルにも渡すのね。安全が確保されているのなら、それはそれで酷使されそうねえ」
「それもそうかもしれませんが、次で終わらせればなんとでもなりましょう」
揺るがぬ自信をたっぷりと込めて告げるドラミナに、さすが、とディアドラは微笑んだ。
ディアドラが微笑む傍らで、セリナはそうなると私とディアドラさんはお留守番かあ、と呟いてから口を開く。
「そういえばドラミナさんについても、メルルさんが口添えなさったんですか?」
「ええ、少数精鋭での本陣奇襲となれば是が非でも私を参加させるべし、とメルル殿が熱弁を振るわれまして。以前、競魔祭の後でこてんぱんにしたのを覚えていらっしゃったようですから、その縁での推薦ですよ」
「ドランばかりかドラミナまでメルル殿が推薦されるから、ベルンにはそこまでの戦力が揃っていたのか、と出席していらした方々が驚かれていたなあ」
しみじみと告げるクリスだが、彼女とてドラミナと同じだ。
「クリスも私とメルルから実力に不足はないと推されて、あの場にいた方達を驚かせただろうに」
クリスに関してメルルは直接手合わせをしたことはないが、ドラミナに準ずると私が発言したのと、アビスドーンとの戦闘を強く記憶しているスペリオン殿下の判断により、クリスの同行は許されることとなった。
魔王軍へ少数精鋭での奇襲とは、まるでおとぎ話の勇者のようだ、と会議室で呟いたのは、さて誰だったか。
魔王ではないが古神竜ドラゴンを討伐した勇者を祖先に持つクリスと、そのドラゴン自身である私からすれば、思わぬところから皮肉を聞かされた気分になったものだ。
「私の場合はまだまださ。ドラッドノートに頼るところが大きい。それでも魔六将とやらに食い下がるくらいならできると自負しているよ」
私の見立てとしてはドラッドノートの補助がなくともクリスならば、ドラミナが相手をしていた高位魔族達やヴェンギッタの切り札である戦闘用人形に負けはしないだろう。
広域に対する攻撃手段の乏しさと最大火力の低さが、奇襲組の中では問題といえば問題だが、ドラッドノートも働くつもりなのだから結局問題にはならないわけだし。
「クリスさんが参加を許された理由は、うーん、分かりましたけれど、それで具体的にどこまでを目的として奇襲をかけるのですか? 手あたり次第、被害をまき散らすとか、それとも魔王さんの暗殺とか色々あると思いますけれど」
セリナの質問はごもっともである。たった四名での数十万の敵軍の真っただ中に突入するのだから、明確な目的もなしにそのような真似をすればどうなるのかは、普通なら火を見るよりも明らかだ。
ただ、今回は何の目的もなしに暴れても大丈夫な面子と言えば面子なのだが、それとて私がいなかったら、ドラミナやメルルであっても危険な相手である。ふむ、と一つ呟いてクリスがセリナに答える。
「最大の目的は魔王ヤーハームの暗殺だな。次いで魔六将を可能な限り撃破。ようするに魔王軍の突出した力を持った“個”の数を減らすのが目的だな。兵士達の数を減らすのは目的としていないよ」
「ふーむ、魔王さんがいなくなれば、指揮系統が混乱するのを狙っての目的設定でしょうか?」
「いや、魔王軍の内情を鑑みると魔六将それぞれが率いる軍勢の寄り集まりのようだから、混乱は短期間しか見込めないというのが我々の見解だ。それよりも魔王の座が空く事で、彼らの間で次期魔王の座を求める戦いが生じる可能性に着目している。
希望的観測を多分に含んでいるのは誰もが認めていたが、魔王を討ち、それに続く実力者達を減らす事が叶えば、魔王軍は再び暗黒の荒野に戻って次期魔王の座に向けて動くと判断したわけだ。
それにそうして時間を稼げれば、アークレスト王国とロマル帝国ばかりでなく、暗黒の荒野の西部に広がる国々とで魔王軍に対する包囲網を築く為に動ける」
「そういえば具体的な国交はないけれど、魔王軍と戦っていた国があるというのが、調査で判明していたのでしたっけ」
「ああ。狼の神を守護神とするかなり大きな国だ。どうもその国の皇帝と魔王が一騎討ちをして、痛み分けに終わっていたらしい。その国との連携も想定し、当座の侵攻を退けて、次にこちらから反撃する為の体制を整える時間稼ぎの為の奇襲だね」
一応、今回の奇襲の目的に納得したらしいセリナだが、心配性の彼女にはまだまだ懸念があるようだった。
「相手は軍神の末裔ですけれど、そうそう奇襲が上手くゆくでしょうか?」
クリスの答えはあっさりとしたものだった。
「上手くはいかないだろう。なに、最初からメルル殿を含めて、私達は魔六将全員と魔王を相手にするつもりさ。彼らと戦っている間は、雑兵は手出しできないしね。
私達としても強敵との戦闘経験を積んでおきたいから、ドランにはほどほどに手加減してもらうが、一昼夜も戦えば決着となるだろう」
「なんというか余裕がありますねえ。この時代のアークレスト王国を相手にしたのが、魔王さん達の最大の不幸で最悪の失敗な気がします」
「私もセリナのその意見には同意するよ。ドラゴンの生まれ変わりのいる国なんてわかっていたら、流石の魔族も攻め込んでは来なかったのではないかな? それにロマル帝国にもこちらの動きは伝えてあるし、ようやく共闘らしい動きも出来る」
アークレスト王国とロマル帝国の動きは、ドランである私とグワンダンである私とによって随時情報が共有されているが、それ以外の場合には双方で今回の戦争に限って作られた暗号を用いた、魔法通信によって相互に連絡を取り合っている。
ロマル帝国の側にも魔六将と渡り合える戦力が複数存在している以上、ロマル帝国が動けば魔王軍は決して無視はできない。モレス山脈の竜種が動けば、マスフェロウ率いる偽竜達は真っ先に彼らに襲い掛かるだろう。
魔六将全員と魔王を相手にする前提で奇襲は実行するが、実際に七名全員を相手にする事態にはなるまい、というのが私達奇襲組の共通の見解だった。
「それでいつ行動に移されるのですか? ドラミナさんの事を考えると、夜半に奇襲を仕掛けるのが最も効果的でしょうけれど」
それももう決まっていたから、その通りにクリスが答えた。
「明日の夜半に仕掛ける。メルル殿の存在によって魔王軍側が慎重に動く可能性はあるが、私達はこれまで通りに戦い、夕暮れには軍を下げる。一時間ほど休憩を取ってから、即座に行動するよ。かなりの強行軍のようにも思えるが、動くのが私達となれば話は別だろう?」
そう言って茶目っ気たっぷりに左目を瞑ってみせるクリスに、セリナは魔王軍への同情を深めたらしかった。
「魔王軍の人達は戦う相手をとっても間違えたと、今、改めて同情しましたよ」
ザンダルザ・トラウルー戦におけるメルルの魔力消費量は一割くらい。何もしなくても三分ほどで補えるくらい。瞑想に集中すれば十秒で満タン。
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第三百十五話
後に“メグゼス会戦”と呼ばれるアークレス王国・ロマル帝国・モレス山脈の竜種らによる連合と、暗黒の荒野より来る魔王軍との戦いは二日目を迎えていた。
両陣営にとって予想外となるアークウィッチ・メルルの正気を疑う大暴れにより、事前の想定をいくつも覆されたのはどちらの陣営も同じ。
だからこそ覆された想定をどのように、どれだけ迅速に修正し、実行へ移すのか。そして相手の動きにどう対応するのかが、重要性を増す事に繋がっている。
我がベルン男爵領の所属するアークレスト王国においては、メルル、私、クリス、ドラミナら四名による敵本陣への奇襲案が採択され、ロマル帝国もそれに同調した動きを取る手筈となっている。
激戦から一夜明けて、敵も味方もいつ動き出してもおかしくない状況の中、ドランこと私はモレス山脈の同胞達の陣へと足を運んでいた。
老地竜ジオルダとヴァジェの活躍によって、魔王軍の魔六将の一角にして敵竜種の女王マスフェロウにはそれなりの痛打を浴びせているが、一晩もあればほぼ万全の状態に回復して再び前線に顔を出すだろうと予測されている。
マスフェロウを抜きにしても魔王軍側の偽竜には侮れない実力者が多く、わずかな油断と隙が致命的な事態を引き起こす可能性が高い。
であるからして、私は同胞であり弟子でもあるヴェジェに激励の一つでもしようと、彼女の姿を探し求めているのだった。
ヴァジェの姿はすぐに見つけられた。モレス山脈の同胞達の巨体はよく目立つが、その中にあって深い紅色の鱗を纏う深紅竜はヴァジェしかいない。
今は朝を迎えたばかり。冬の吐息がもう肌にかかるくらいの季節で、冷え込みもうんと増してきているが、ヴァジェをはじめ竜の同胞達に堪えた様子はない。
極端に火に偏った生態の竜でもこの程度ならば苦にはすまいし、どうしても肌に合わないのなら自分の周囲だけ気温なり環境なりを変えるくらいの芸当は、知恵持つ竜種なら可能だ。
ヴァジェの周囲にはこれまでの戦いで彼女に助けられたか、その高い戦闘能力に感銘を受けたかしたらしい、特に若い竜達がちらほらと姿を見せている。
彼らはヴァジェの戦いぶりを褒め称え、魔王軍との戦いにかける意気込みを語らいあっていて士気は高い様子だ。そんな若者達の輪の中心で、ヴァジェは生真面目な顔と態度で返事をしながらも、意識の大部分は朝食へと注いでいる。
今回の戦争にて、モレス山脈の竜種達の兵糧は彼ら自身が持参したものに加えて、アークレスト王国側でも用意している。王国各地の牧場から取り寄せた家畜の肉や養殖場の魚が主で、他にも野菜から穀物まで加工前のものが取り寄せられていた。
どうも竜種の食事といったら、肉だろうが野菜だろうがそのまま丸かじり、と思われているようだが、調理を好む者も多いし、一応、竜種にも料理という文化はある。
幸いにして我が同胞達はアークレスト王国から届けられた食材の山を前に、どう料理するか、と話し合うところが始めたので、機嫌を損ねた者達はいない。
ヴァジェは両手に抱えた巨大な寸胴鍋を傾けて、鍋の中身をごくごくと勢いよく飲んでいた。
茶色い汁物らしい寸胴鍋の中身の具材は、皮もそのままの人参や馬鈴薯、玉ねぎ、それに塊の牛肉だ。ビーフシチューか。すでにヴァジェの周りには空になった寸胴鍋がいくつも転がっている。
竜種は巨大の割に必要な食事量は少なく、特に能力が高い程、どんどんと食事量は少なくなり、食事は娯楽か趣味に近いものになる。
今のヴァジェは竜公の域に達するまで間もなく、という段階に達しているから、食事は娯楽に等しい。ただ、今のヴァジェは娯楽としてではなく、次の戦いに備えて少しでも栄養を蓄え、心を奮起させる燃料として美味なる食事を摂取しているのだ。
最後の寸胴鍋の中身を空にしたヴァジェは、最後に巨大な籠に山一杯に盛られた白い魔晶石をざらざらと小さな飴玉を食べるように胃の腑に流し込む。
あれはベルン男爵領の輸出品として生産体制を整えた魔晶石だ。今回は、食料以外にもこの魔晶石をモレス山脈の同胞達に提供している。
ガリガリ、ゴリゴリとなんともまあ激しい咀嚼音の後に、ごっくん、と口いっぱいに頬張った魔晶石を飲み込む音が一つ。私はそれを待ってから、止めていた足を動かしてヴァジェに話しかけた。
「おはよう、ヴァジェ。昨日は魔六将を相手に勇猛果敢に戦ったと聞き、案じてはいたが、その様子ならば怪我の心配は無用なようだ」
私に話しかけられたヴァジェははしたない場面を見られたとでも思ったのか、慌てた様子で居住まいを正した。空になっていた食器の類を大急ぎで脇にのけて、腹ばいの姿勢で頭を可能な限り下げて私と視線を合わせようとする。
周囲の竜達は、とりわけ気位の高いヴァジェが協力関係を結んだとはいえ、人間である私に居住まいを正す姿に驚きを隠さないが、私がさる高位の竜の生まれ変わりという事実は、彼らの間でのみ周知されている為、さもありなんと納得の顔になり、黙ってこちらの様子を伺い始めた。
「はい。昨日は偽竜共の女王を相手に、ジオルダ老のお手を煩わせる形となってしまいましたが、なんとか命を拾うことが叶いました」
「いささか謙遜が過ぎるな。君だからこそあのマスフェロウを相手に、ああまで戦えたのだから。今日の戦いは昨日といささか趣の変わる戦いになる可能性が高い。君達に掛かる負担は、変わらず大きいがどうか自分の命を大切に扱ってくれ」
「私如きには過分なお言葉です。再び戦場で顔を合わせたならば、この身と引き換えに、とまでは申せませんが、あのマスフェロウの腕の一つも灰にしてみせます」
「ふむ、あくまで命を大事に、だよ?」
「はい。ドラ――ン補佐官殿との約束を違える度胸は、私にはありませんから」
まるでレニーアのように私の名前をドラゴンと言い間違えそうになり、慌てて訂正するヴァジェに、私は分かっているのならいい、と返してからこう口にした。
「昨晩、ジオルダ殿経由で伝えられているとは思うが、今日の夜には私をはじめとした面子で魔王軍の本陣に仕掛ける。
その為に私とドラミナは太陽が空にある間は後方からの支援に留めるが、魔王軍もこちらの動きに気付いて警戒を深めるか、あるいは積極的に攻勢に転ずる可能性もある。
重ねて言うが、何が起きるか分からないのが世の常だ。そして戦場はとりわけ、そういった『何か』の起こる確率の多い場所だ。おいそれと気を緩めてはいけない」
「ドラン補佐官殿の経験上の教訓でございますか?」
古神竜ドラゴンとしての経験も交えてのものか、と言外に問うてきたヴァジェに、私は重々しく頷き返した。まさか人間に転生するとは、心臓を貫かれた瞬間でさえ思ってもいなかったからな。
私はまさに何が起きるか分からない、というのを今も継続して実感し続けているのだ。
「そうだとも」
「確かに、ドラン補佐官殿ならば説得力のあるお話です。私自身、こうしてこの場で貴方と言葉を交わしている事そのものが、夢にも思わなかったことなのですから」
「そうなのか? いや、そうだな」
私の復活を確信していた竜界の同胞はともかく、地上の同胞達にとっては古神竜ドラゴンと言葉を交わすなど、まずありえないとしてあらゆる可能性から排除するだろうからなあ。
「では、勝手に来ておいてなんだが、そろそろ時間なので私はこれにて失礼する。食事の時間に手間を取らせて申し訳なかった」
「いえ、私の方こそお越しいただいているのにすぐに気付けばよいものを、無作法をしている姿を晒してしまい、恥じ入るばかりです。それと、私などからは不要と分かってはおりますが、どうぞ、ご武運を」
「ふむ、不要などであるものか。ヴァジェ、君の武運長久を祈っている」
本来ならば私がその祈りを聞き入れる側である、というのはここはひとつ、気にしないでおこう。そうして私はヴァジェに背を向けて、ベルン男爵領の陣地へと戻った。
私とヴァジェの会話を聞き、様子を見ていた若き同胞達が、あのヴァジェ殿がそこまで畏まる相手とは、と私に対する疑問と畏敬の念を深めたのは、意図せぬものだったが、損にはなるまいて。
*
そうして私がベルン男爵領の陣地に戻ってから暫く、再び戦場は動き出した。まず、私達奇襲部隊の温存の為、昨日、いろいろな意味で大変活躍したメルルは温存となり、空の戦いで大きな役割を果たしていたドラミナも、二日目は後方から遠距離狙撃を主に行っている。
私はメルルの魔法を相殺しただけだったが、それだけでも十分魔王軍側には警戒される働きであったのは確かだ。ならばいっそ、私くらいは前線で戦い、適当に消耗したふりをして夜の奇襲には加われないと印象付けるのもありでは、と昨日の会議で話題になったのだが、これは棄却されている。
まず王国側の私の実力に対する認識がメルルに準ずるものである事。そのメルルが魔六将二名とおおよそ対等である事。そうすると私とメルルで魔六将四名分になるわけだ。
すでにヴェンギッタと互角以上に戦ったクリスを入れて魔六将五名分。メルルからの熱い推挙を受けたドラミナを加えて、おそらく魔六将六名分。
これで魔六将全員に相当する戦力になるわけだが、魔王軍には魔六将を上回るだろう魔王ヤーハームがおり、奇襲部隊の誰一人とて消耗はさせられない、という意見が通ったわけだ。
このような戦力換算をすると、魔王の分だけ私達奇襲部隊が不利になるわけだが、そこはモレス山脈の竜王級のジオルダやヴァジェ達の存在により、否応なくマスフェロウが前線に出ざるを得ず、またロマル帝国が複数で当たれば魔六将と互角以上に戦える十二翼将と契約者達を有することから、昼間の内に魔王軍側に確実に消耗を強いられる為、それで補えると判断された。
いざとなったら効果範囲を絞ったメルルの大魔法をひたすら連射し、私やクリス達がその護衛に集中すれば敵軍に大打撃を与えられると考えられたのも、理由の一つだ。
実際、今のメルルが全魔力を使い切るまで魔法を行使すれば、この惑星を砕くくらいは出来る。そこまでやればいかに魔王軍とて被害は甚大という形容では収まるまいよ。
そうして二日目の戦端が開かれた直後、アークレスト王国と魔王軍が慎重に戦場の様子を見ていたのに対し、ロマル帝国は果敢に打って出た。
自国の超常戦力である十二翼将と特務機関名義の契約者達を前面に押し出し、十万超の兵力を彼らの援護に回して魔王軍の展開した戦線を食い破ろうと襲い掛かったのである。
軍勢を剣に例えるなら、カイルスやダンテモン、アスラムらが切っ先を担い、それを一息に魔王軍へと突き立てて、じりじりと押し込んでゆく形だ。
前日のメルルの存在もあり薄氷を踏むかのような慎重さで動いていた魔王軍にとって、ロマル帝国の大攻勢はいささか意外だった。
彼らの中でメルルへの警戒が極めて大きくなったのは確かだが、魔六将と戦える人材を複数有するロマル帝国を侮っていたわけではない。
それを加味しても動くとなればメルルと歩調を合わせて攻めてくる可能性が高いと判断していたのだが、それを裏切られた形だ。だが、戦場で何もかもが思い通りになるなどと思い込むほど、魔王軍の上層部は脇の甘い人材ではなかった。
ロマル帝国側の戦線を担っていた兵団はすぐさま体勢を立て直し、一振りの剣の如く攻め込んでくるロマル帝国の先陣を包囲し、殲滅しようと迅速に動き出している。
これに対してロマル帝国側はここが最後の戦場だと言わんばかりに猛烈な攻撃を加えて、後先を考えない膨大な物資の消費量を記録する事となる。
当然、魔王軍側はこのロマル帝国の動きをいぶかしむが、十二翼将らが暴れまわっている以上、魔王軍側も魔六将級の戦力を投入しなければ兵をむざむざと死なせる羽目になる。
この時、ロマル帝国側の戦線に投入されたのは、ザンダルザ子飼いの高位魔族らに加えて、ヴェンギッタの作成した戦闘特化人形とクインセの眷属の中でも特に大型で殲滅力の高い大型の魔蜘蛛だ。
魔六将自身は戦線には出なかったが、数を揃えば魔六将並みの脅威になり得る戦力を多数投入した形であり、これにはさしものロマル帝国側も進撃の速度が鈍るも、わずかに遅れてモレス山脈の竜種達がジオルダとヴァジェを筆頭に攻撃を仕掛け、魔王軍側はこれにマスフェロウらを当てる他なかった。
複数の魔六将を当てて突出したジオルダらをこの機に倒すのも手ではあったが、厄介なのはメルルが広域殲滅と破壊力に特化した実力者である点にあった。
メルルの所在と手札を確認せぬままに動かしては、さしもの魔六将ですら何もできぬままに倒される危険性が高かったのである恐るべきはメルル。所在地だけで敵対者の動きを著しく制限するのは、ロマル帝国ばかりでなく魔王軍でさえ同じだった。
アークレスト王国が消極的な動きを見せる一方で、ロマル帝国と魔王軍の戦線が活発な動きを見せ、昨日のメルルには及ばずとも激しい爆発と爆風、振動や閃光が大地の一角を染め上げ続けた。
そうして朝方から始まった戦いは夕暮れ間近まで続き、ロマル帝国と魔王軍は双方共に多大な出血と引き換えに二日目の戦闘を切り上げた。夜襲に備えた警戒部隊を残しつつ、三日目に向けて心身を休ませている最中に、私達奇襲部隊はようやく出番を迎えた。
アークレスト王国軍は私達の奇襲の成果を待って、全軍を動かすかそのまま待機させるかを決める。
ヤーハームをはじめ魔六将を多く討ち取れれば、その隙と混乱をついて仕掛ければよし。
私達が仕損じたなら脱出する私達を援護するために魔王軍に仕掛ければよし。
たとえ私達が仕損じても無事に脱出できたなら、大急ぎで私達を保護する為だけに動けばよし。
どうなるにせよ、どう動くか決めたなら、あとはもう本当に動き出すのみだ。
陽が落ち、夜のとばりが地平線の先にまで落ちたころ、ベルン男爵領の陣地を抜けた私達四人は、魔王軍の警戒網に引っかからないよう、彼らの陣地のはるか上空を飛んでいた。
今も私達のはるか眼下では夜目が利くか、魔法によって夜でも昼と変わらぬ視界を持つ偽竜や飛行型魔獣に乗った空中騎士達が飛び回っている。ほかにも侵入者の存在を知らせる魔法による警戒網もいくつも張り巡らされている。
なるほど、なるほど、流石の技術力と人的資材と言いたくなる見事な警戒網だが、私達にはそれほど意味のないものだな。
私達はメルルを中心に三方を私、クリス、ドラミナで囲う位置関係にあった。メルルは完全魔装形態のディストールを纏い、ニヒトヘイトを手に詠唱を始めている。
詠唱中の彼女を守る私達は、手に手にそれぞれの獲物を持って、万が一の敵襲に備えている。魔王軍の面子ならメルルからの攻撃を凌いだ後に、この高度まで反撃を加えてくる、と私達は確信していた。
私とドラミナが同時に叩き込んでもいいが、メルルの魔法との相乗効果でどこまで『も』被害が広がってしまいそうなので、安全を選ぶこととなった。
なぜ頭上に陣取った私達の存在を魔王軍が気付けないのか。それは高度にあった。私達がいるのは成層圏の中ほど。地上とはあまりにも距離があり過ぎて、魔王軍も気づきようがない。
この高度まで飛行魔法で上昇するのに、クリスが少々手間取ったが私とドラミナで左右から支え、ドラッドノートが支援を始めれば慣れるのはあっという間だった。今のところ、問題らしい問題はそれくらいだろうか。
半眼になって詠唱に集中するメルルの周囲には帯状の魔法陣が幾重にも描かれ、足元には大小無数の魔法文字によって描かれた円形の魔法陣が広がっている。魔法陣は詠唱に合わせて心臓のように脈動し、色合いもまた変化している。
魔王ヤーハームと思しき強大な力の持ち主がいる地点を中心に、魔王軍の陣地のみに神経質なまでに効果範囲を絞り込んだ魔法の詠唱は四種類同時に並行して進められている。
メルルの手持ちの魔法の中で効果範囲と破壊力、さらに魔六将を基準とした魔王軍の対魔法防御能力などの条件から選択した魔法を、『四連発』ではなく『四発同時発射』を行うのである。
「いまさらだが、メルル殿はなんというか、ああいう性格でよかったな」
自分では絶対できない離れ業を実行中のメルルを見て、クリスが小さく頬を引きつらせながら素直な感想を口にした。クリス単独では今のメルルと同じ芸当はできないわな。
クリスの呟きに、メルルに比べると神器に頼らぬ自前の攻撃手段では、射程範囲でやや劣るドラミナがしみじみと呟く。今のドラミナはバンパイア六神器すべてを纏い、完全武装状態にある。
「彼女が力を誇示し、自己顕示欲に塗れた性格であったなら、魔王軍の到来よりも早くに人間同士で戦争が勃発していたことでしょうね。力に見合わぬ平凡な……ええ、一部を除いて平凡な人格であったから、これまで大きな戦いにはならなかったのは想像に難くありません」
アークレスト王国にて、メルルの戦闘能力が本来のものよりも低く見積もられていたから、戦争を仕掛ける不利益と平穏を維持する利益の方を重視されたからこそ、これまでアークレスト王国は東西南の三方に侵略戦争を仕掛けることはなかった。
どちらかというアークレスト王家の気質とお国柄自体が覇権主義向きではないが、利益があればそれを見逃すような甘い方達でもないからね。
「魔王軍が来なければ今頃はもっとベルンの発展に力を注いでいられたのにな。まったく、南以外に目を向けてくれればよかったのに」
クリスはついという感じで本音を零した。詠唱に集中しているメルルに私達の会話は届いておらず、私とドラミナが相手だから気が緩んでしまったらしい。
「クリスには私も全面的に同意するよ。ただでさえアステリア皇女とライノスアート大公の問題でロマルが騒がしかったところに、魔王軍の襲来だ。暗黒の荒野の地理把握とモレス山脈の竜種との交流が一気に進んだのは収穫だが、開拓の停滞は痛い」
「まったくだ。かといって魔王軍から何を得られるものか。ん、そろそろメルル殿の詠唱も終わるか?」
クリスが両手の愛剣達を握り直し、メルルに一度目を向けてから足元に視線を転ずる。高所に恐怖を覚える者だったら即座に卒倒するか、現実感の無さに困惑しそうな高度にも、すでにクリスは慣れた様子だ。
たまに行う本気のレニーアとの手合わせでは、専用の空間を作っているそうだが、その空間の環境は毎度デタラメなものを採用していると聞く。『勝手の分からない初めての場所で戦う』経験は、初めてではないわけだ。
そしてクリスの指摘の通り、メルルの口と彼女の精神に同期した周囲の大気が、四つの詠唱をついに終わらせる。
「かつて天上より降臨せし者達よ 時が来た 吹き荒ぶは
それは天より降臨した新しきモノ達に忌み嫌われ、封じられ、記憶に残すことも憚られた古き荒ぶるモノの呪いの籠った叫び。
「彼は惨劇を見た 彼女は終末を見た 見よ 見よ お前は燃える空を見る お前は灰となる大地を見る お前は消え去る海を見る!
それは終焉の時を迎えた太陽が最後に放つ煌めき。宇宙の闇にひときわ輝く炎は星をも焼き尽くす劫火。
「世界は始まり 続き 終わる 再び始めよう 汚濁は清め 血の河と屍の山は忘れ去られる 古きものは何も要らない 清き純粋なる流れにて全ての不浄を消し去らん!
多くの神々は創造した世界を失敗と断じた時、わずかな生命に救いの手を伸ばし、それ以外をすべて水底に沈めて終わらせたという。これは世界の終焉と再生の一部の再演により発生する大洪水。
「遍く砕け 深く裂け 暗闇を覗け 亀裂の深奥にて眠るモノ ああ! 知るべし 覚悟せよ かの者もお前を覗くのだ 門を閉ざせ 橋を落とせ 道を砕け 奈落にて眠り続けよ!
それは地の底に微睡む名付けてはならぬもの。見てはならぬものの居所へと通じる亀裂を大地に刻み、この世と交わってはならぬどこかへと放逐する大地の追放刑。
国一つ滅ぼすのに有り余る威力を持った魔法が四つ、メルルによって行使され、山々を削り取り大地を均すほどの強風がはるか眼下へと吹き荒び、それに続いて山海を焼き尽くし世界を灰で埋め尽くす膨大な炎が放たれる。
続いて魔王軍に襲い掛かったのは国一つ鎮めるのに留まらず、触れたものすべてを強制的に浄化してこの世から“流し消す”激流が降り注ぎ、そしてこの世ではないどこか異郷の地の底へと続く亀裂を作り出した後に閉ざす地殻変動を促す振動波。
どれ一つをとっても禁呪扱い間違いなしの凄まじい威力と効果を持つ魔法ばかり。たとえ三つ防がれようと、どれか一つでも魔王軍に効果を及ぼせば、ヤーハームや魔六将とて無傷では済まず、三十万超の軍勢はことごとく死に絶えるだろう。
メルルはたとえ魔王軍が相手でも、大量虐殺など出来る性格をしていない。たとえ力の開放による恍惚や快楽に溺れても、彼女の中で超えてはならぬ一線として実行はされない。
では、なぜ、メルルは大量虐殺を引き起こす威力の魔法を行使したのか? 答えは至って簡単で、四つすべてが通じるとは思っていなかったからだ。ザンダルザとトラウルーの実力から推測できるヤーハームの実力と、事前に備えられただろう時間を考えれば、これでは防がれるとメルルが判断を下すのは簡単だった。
火灰壊世によって朱に染まる空を見ながら、クリスは感嘆の声を零した。
「アークウィッチという称号ではもう足りないくらいだな。それにしても派手な“狼煙”だ」
そう、これは狼煙だ。魔王軍とアークレスト王国へこれから私達が戦いを挑む狼煙代わりに過ぎない。四つの魔法は瞬きする間もなく魔王軍へと襲い掛かり、それが突如として真っ二つに斬り裂かれるや、輪郭をぼやかせ、明確な形を失って溶け消えてしまう。
あれだけの規模の魔法を斬り、術を崩壊させ、実態を得ていた魔法の効果そのものも斬り捨てたか。私達の瞳は地上でこちらに向けて大剣を振り上げた体勢を取る、魔族の青年を捕捉していた。魔王ヤーハーム。
彼を見下ろしながら、クリスとドラミナの美貌がわずかに歪む。たった今、彼の成した行いを、自分なら出来るかと考えているのだろう。そしてそれは極めて困難か、あるいは不可能という答えが出たに違いない。
「来るぞ!」
私の声をきっかけにクリスとドラミナが私に続いて、メルルの前へと飛び出す。ヤーハームはメルルの魔法を迎撃するだけでは終わらず、メルルへの反撃も放っていたのである。
地上から凄まじい速度で飛来してきたのは、私達を丸々と飲み込むほど巨大な黒い斬撃だった。壁かはたまた津波を思わせる範囲で襲い来たそれは、ヤーハームからすれば挨拶を返した程度のものだったろう。
「ふむ!」
私が竜爪剣で受け止め、
「せぇい!」
クリスがエルスパーダとドラッドノートを全力で振るい、交差した斬撃が黒い斬撃を大きく四つに斬り分け、
「結構な挨拶をいただいたものですね」
ドラミナが右手の長剣型のヴァルキュリオスと左手の長槍グロースグリアを振るい、斬り分けられた黒い斬撃を跡形もなく粉砕する。
黒い斬撃によってかき乱された気流が私達の周囲で暴れる中、メルルが頬を紅潮させて嬉しそうに笑う。
「あははは、やっぱり、これくらいはやってもらわなくっちゃ、魔王なんて呼ばれないよね! あは、あははは、ドラン君、ベルン男爵、ドラミナさん、さあ、行こう! もう行こう、すぐ行こう!」
はいはい。新しい遊び場に行きたくて仕方ない子供のようなメルルに呆れながら、私達はこちらを視認しているヤーハームとその周囲の魔六将達をめがけて、転移魔法を行使した。
さあ、ムンドゥス・カーヌス擁する魔王軍との戦争を終わらせる時が来た!
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第三百十六話
魔王軍の本陣は、陸上戦艦と同じ機関で浮遊している移動要塞と呼ぶべき城塞だった。ネイバーンや偽竜達が離発着する為の甲板を左右に持ち、移動要塞の各所に対空火器と大口径の連装砲塔が何基も設置されている。
移動要塞を中心に陸上戦艦が輪になる形で陣を敷いているが、はるか高空から甲板の上に立つヤーハーム達を目掛けて転移してこられては、対処のしようもあるまい。
「転移を防ぐ結界を巡らせているのだが、それが意味をなさないほどの技術か」
甲板に降り立った私達に向けて、微苦笑と共に呟いたのは誰あろう魔王ヤーハーム。いずれも神の気配を感じさせる具足と大剣を身に帯びており、感じ取れる霊格からしても彼がヤーハームで間違いあるまい。
彼の他にはこれまでさんざん顔を合わせてきた魔六将達が姿を見せており、私達が上空に陣取った頃には私達を察知していたかな?
「ムンドゥス・カーヌス国主ヤーハーム様ですね? 私はアークレスト王国ベルン男爵領を預かるクリスティーナ・アルマディア・ベルンと申します」
固まって転移してきた私達の中から、クリスが進み出てエルスパーダとドラッドノートを背後に回し、恭しく頭を下げた。ヤーハームは自身を暗殺しに来たとしか思えない私達に対して、鷹揚に構えて応じる。
「うむ、魔王の位を預かるヤーハームで間違いない。貴殿の活躍は我が配下達より幾度となく聞かされているとも。そちらのアークウィッチ殿も含め、貴国は素晴らしき強敵であると、軍神の眷属として嬉しく思っている」
「過分なお言葉です。先ぶれもなく御身の前に姿を晒した非礼はお詫びいたします。しかしながら、それ以外の非礼はそうもいきません。お許しくださらなくとも結構」
言うが早いか、クリスは頭を上げ、背に回していたエルスパーダとドラッドノートを優美な白鳥の翼の如く広げる。麗しき我が主君の体と精神の放つ闘争の意志は、この場にいる全員の肌を打つほどに強い。
ヤーハームが喜びを隠しきれない様子で笑い、だらりと下げている大剣の切っ先をぶらぶらと動かす。私達の間に二十歩程の距離が開いているが、これは“無い”に等しい。
「なるほど、では許さぬ。我が命を狙う不届き者共には手ずから死を馳走してやろう」
ヤーハームが大剣を持ち上げて、肩に担ぐように構えなおした時、それが戦闘開始のきっかけとなった。
こちらは私、クリス、ドラミナ、メルルの四名、あちらはヤーハーム、ガリリウス、ザンダルザ、トラウルー、ドラゴニアンに変化したマスフェロウ、ヴェンギッタ、クインセの七名。
さて、数で劣っている分は私がまとめて相手取って相殺しようか、ふむん。
ヤーハームが先陣を切りそうなものだったが、真っ先に私達に先制の一撃を見舞ったのはクインセであった。
これは私からしても意外であったが、この古き時代の気配を纏う小さな蜘蛛が見る間にその右前脚を成体の竜種よりもさらに巨大化させて、突き込んできたのだ。
音などはるか後方に置き去る速さの突き――前蹴り? の標的は私達の左端に居たメルルだった。咄嗟にニヒトヘイトを横に構え、防御障壁を展開する。青白く光る半球形の障壁にクインセの右前脚が激突し、そのまま彼女を甲板の外へと押し出した。
メルルは受け止めきれると判断していたようで、障壁ごと自分が押し出された結果に、本気で驚いた表情を浮かべていた。
「ええ、うっそ!?」
「アナタニ暴レラレルト、船ガイクラアッテモ足リマセンカラネ」
クインセは全身を巨大化させ、人間など一飲みに出来る巨体のまま、はるか遠方でようやく体勢を立て直したメルルへと襲い掛かる。セリナを相手にしても使わずにいた、とっておきといったところか。
ただメルルには申し訳ないが、クインセの判断は私達にとってもありがたい点がある。メルルが暴れれば、鹵獲できそうな陸上戦艦やこの移動要塞を跡形もなく壊してしまいそうだからね。
「クインセだけでは荷が重かろ。わしもあちらへ行くかね」
こうヤーハームへと告げたのは、三つの頭から六本の腕に至るまでヤーハーム同様に極めて神器かそれに準ずる地上では最高格の装備で固めたザンダルザだ。
ふわりと煙のようにとらえどころのない動きで甲板を蹴り、クインセに遅れてメルルへと襲い掛かっていった。ふむ、少しは手助けした方が……
「わっひょい!」
直後、太陽が生じたかと錯覚するような巨大な黄金の火球が数珠繋がりに発生し、手助けの必要がない事がよく分かった。うん、まあ、メルルが楽しそうな声を出しているからいいか。
一方でクリスにはこれまでの執着の通りにヴェンギッタが相手をし始めている。ヴェンギッタは宵闇色の優美な燕尾服の上に黄金の装飾で縁を飾ったマントを纏い、右手には小さな小刀、いや彫刻刀を握っている。
ただの彫刻刀と侮るなかれ。小さな黒い刃に纏わりつく魔力と執念のなんと濃密なことか。アレでヴェンギッタが彫られ、そして自我を得たヴェンギッタもまたあの彫刻刀で外の自分を彫刻してきたのだろう。
彼の操る人形には魂が宿っていたが、このヴェンギッタに宿る魂の格と存在した歳月の長さは別格で、このヴェンギッタこそが始まりの個体なのだと判断するのに十分だった。
「籠に自ら入った鳥を私は傷つけてでも閉じ込めよう。籠の蓋を閉めよう。鍵をかけよう。鳥よ、麗しき君よ、閉じ込められたくないのならその無粋な鉄の棒を振るいたまえ」
「相変わらず舞台に上がった役者のような物言いをする。いいだろう、無粋な鉄の棒と謗った我が愛剣達の切れ味をその身で味わえ。魂を斬り捨てれば、さしもの貴殿も復活はできまい」
「ああ、君は声も、決意の光を宿す瞳も。私は君を作れないかもしれないが、たどり着けないかもしれない美こそ追い求める価値がある。らら!」
月まで飛ぶように軽やかにヴェンギッタはその場で真上に飛んだ。ここが戦いの場である事を忘れるような、舞踏者の全てが理想とする跳躍であった。どうやら歓喜の表現らしい。
「高い評価を受けるのはいいが、その評価の仕方はごめん被るよ!」
今度こそヴェンギッタを完膚なきまでに倒す好機と、クリスの闘志は奇襲前よりもさらに猛々しく燃え盛っていた。あの調子ならば彼女一人に任せて問題はあるまいて、と言いたいのだが、これに加えてトラウルーまでもクリスを相手にするつもりらしかった。
「ありゃまあよう、これまた亜神の域に片足を突っ込んどる霊格の持ち主て。これではわしの魔法もあんまり効果がないぞ、ヴェンギッタよう。いやまあ、どれもこれも目を疑うような実力者ばかり。誰が相手でも苦労するがなあ……」
「老いたる岩の賢者よ。長き時を風雨に晒された大岩の如くまろやかなる老トロール、構えたまえ。瞳を逸らしてはならぬ。耳を塞いではならぬ。意識を闇に落としてはならぬ。彼女の輝きを魂に焼き付けるのだ。我が掌中に収まるべき玉、我が手の内に閉じ込めるべき宝を」
「あれを直視しろって、それまた無体な。あんなんをまともに見たら、しばらく使い物にならなくなるとわかるわい」
敵陣に乗り込むにあたり、クリスとドラミナはアグルルアの腕輪を外して、本来の美貌を露にしている。月の光も恥じらって触れるのを避けようとするだろう美貌を、トラウルーは決して直視しないように努めていた。
とはいえクリスが魔六将二名を同時に相手どるのは、いささかならず荷が重い。ふむ、この場でドライセンなりグワンダンを召喚するか、それとも新しい分身を作るか? 私が一瞬ほど思案している間に、クリスの方がこの事態に対処していた。
「ドラッドノート」
エルスパーダの切っ先はヴェンギッタへと向けたまま、左手に握っていたドラッドノートを軽い調子で放り投げたのである。
攻撃の動作とは見えず、では何を狙っての事かとヴェンギッタとトラウルーが注視する中、ドラッドノートは薄桃色の光を発して、光は小柄な子供の姿を取った。桃色の長い髪を翻し、黄金の瞳で二名の魔六将を睨むその子供は、ドラッドノート自身が変化したものだ。
元来性別を持たぬ器物であるため、少年とも少女とも取れる中性的な容姿の主だが、今回は戦闘を目的としての顕現である為、首から上だけが露出した銀色のピッタリとしたスーツを着ている。確か、ドラッドノートが製造された文明で、あのような戦闘服が使われていた記憶があるな。
「はい、クリスティーナ。どうぞご命令を。私は貴女の命令に全身全霊でもって従います」
「そこまで固く受け止めなくていいのだが、片方は任せてもいいかな?」
「任せる、とどうぞご命令ください。老賢者たるトロールでも魂持つ生き人形であろうと、貴女の敵は私の敵です」
「私の剣は実に頼もしい。では、任せる」
ドラッドノートが華やかな笑みを浮かべる程、喜ぶ言葉を口にして、クリスはヴェンギッタを目掛けて、比喩ではなく雷光よりも速く踏み込んだ。物理法則を超越する神通力の持ち主ならではの踏み込みだ。
これで魔王軍は残り三名。こちらは二名。すっと月光に背を押されるように軽やかにドラミナが私の前へと出た。地に落ちる影はなく、月と夜の闇に愛された種族の女王は、私を一瞥してこう告げた。
「ちょうど私達三名で魔六将を相手に出来る展開ですし、魔王殿は貴方にお任せします。偽竜の女王を片付けてしまっては、ヴァジェさんが悔しがるかもしれませんが、この場に居なかったことを不運と諦めていただきましょう」
「ふむ、ドラミナならばと任せておきたいところだが、あちらの古ゴブリンはかなり手強い。手持ちの武器も君の神器と刃を合わせられる代物だ。今回ばかりは君の不死身性を当てにしない方がよい。なにより君の傷つく姿は見たくない。慎重に」
「あら、ふふ、嬉しいことを言ってくださるもの。ええ、こうして対面しているだけでも神器越しにも重圧を感じる程ですから。油断も慢心も出来ません」
言うなりドラミナは“何も握っていない右手”を振るった。先ほどまで握っていたヴァルキュリオスはこの瞬間、無数の刃へと変わりガリリウスとマスフェロウを横殴りに襲い掛かっていたのだ。
無数の刃へと変じたヴァルキュリオスがさながら銀色の嵐の如くガリリウス達を飲み込まんとしたが、ガリリウスの右手に握られた黄金の短槍ガナギーヤが風車の如く旋回して半分を弾き、マスフェロウが紫色の毒霧を放出することによって残る半分の軌道を逸らした。
「あら、ふふふ、すぐに片づけてドランの戦いを見学するとはいかなくなりました」
油断を感じさせるドラミナの発言だが、ガリリウスらに自分は甘い考えで戦える敵ではないぞ、と印象付ける為の試しの一撃だろう。戦いの合間にクリスやメルル、私への横やりを入れさせない為の牽制かね。
するとガナギーヤを構え直したガリリウスが微笑ましそうな表情で、ドラミナに語り掛けた。ドラミナより桁の多い年月を生きてきた古強者にはドラミナの意図などすべてお見通しであったものか。
「吾らの目を向けさせる挑発にしては随分と下手な物言いだ。だが、うむ、貴殿に集中しなければならなくなったのは事実だ。
実際に目にするのは初めてだが、貴殿を飾るそれらの神器、本来ならば海の向こうの大陸にある筈のものが、こうしてこの場にあるとはいかなる次第だ?
しかも六つすべての神器を同時に所有する傑物が、人間の下についているなどますますもって奇妙奇天烈。ふふふ、おかしいが面白く楽しい縁だ。実に素晴らしい国と時代に巡り合ったものだ」
「本当に楽し気に笑われる方々です事。ではお互いの大将の一騎討ちを邪魔せぬよう、お二人は私の相手をしていただきましょう」
そうして凄絶に笑うドラミナに対し、ガリリウスは笑みを深め、マスフェロウは悍ましさを抱いたような顔へと変わる。
バンパイアに伝わる六つの神器すべてを使いこなす史上最強のバンパイアクイーンが相手と考えれば、マスフェロウの反応の方がまだ正しいのだろうな。
さて私と魔王以外がそれぞれ戦う相手を定め、甲板上に尋常ならざる殺気と魔力を発生させる中、私は竜爪剣を右手に魔王ヤーハームと相対する。
「残りもの同士、戦うとしましょうか。私はベルン男爵領補佐官兼遊撃騎士団団長のドラン・ベルレストです。以後、お見知りおきを、魔王陛下」
ヤーハームは角もまとめて兜を被り、防御を完全に固めると柔和に笑いながら大剣を構える。ガリリウスのガナギーヤ同様、サグラバース関係の神器か。
ふむ、ふむ、やはり奇襲部隊の面子でなければ殺気だけで下手をすれば殺されるな。セリナとディアドラでも、顔色を青くするか。
「構わんともさ、ドラン。バンパイアの彼女の言うとおりであるなら、貴殿が大将なのであろう? この状況で大将と評するのなら、もっとも強きは貴殿に他ならぬと解釈しているが訂正は必要であるかな?」
「いいえ、訂正の必要はありませんよ。我が主君クリスティーナ、ドラミナ、そしてアークウィッチ・メルル殿。彼女らよりも私の方が強い」
私がヤーハームに安心するように微笑みながら告げるや、彼はたまらんとばかりに大笑いして、私達の奇襲を察知してから練りに練っていた闘気と魔力を爆発させた。瞬時に彼の身体能力が強化され、こちらの意識を外す巧妙な動きを交えて私に斬りかかってくる。
「はははははは! それはよい!」
彼の踏んだ鋼鉄の甲板が粉となって砕け散る。彼が私に斬りかかるのに要したのはたったの一歩。大上段に振りかぶられた大剣が私を頭から真っ二つにせんと振り下ろされる!
ふむ、といつもの口癖と共に、私は横一文字に構えた竜爪剣であっさりと受け止めた。二つの刃の激突と共に生じた衝撃が甲板を走り、あちこちに亀裂を走らせている。これでは暫く使い物になるまい。
涼しい顔のままの私を、ヤーハームは“だろうな”と言わんばかりに笑みを浮かべて、交差する刃越しに見ている。
「よい剣ですね。神器であることを差し引いても、使い手によく応えている」
私と違って、ヤーハームとガランダインはよい剣とよい使い手の組み合わせの最たるものだ。クリスとエルスパーダのように双方にとって幸福な組み合わせと言える。
クリスとドラッドノートの組み合わせは、因縁としがらみが絡まり過ぎていて、何とも言葉にしづらいものがある……
「ガランダインという。代々の魔王が受け継いできた神器だ。うむ、にしても貴殿の剣は拵えは平凡だが、通す魔力一つでここまで頑強になるとは、おれもまだまだ未熟と思い知らされたぞ」
「貴方にこれ以上成長されても困る。ここで貴方の命運を絶つ為に、私達はこの場に立っているのですよ」
「うむ、であろうよ。しかし、な。おれも妻に迎えたいと思う女が出来たばかりで、そうそうと首をくれてやるわけにはいかなくなったのだ!」
ふむん、この御仁の目に叶う女性とは、かなり敷居は高そうだが、世の中には魔王の心を射止める女性がいるものなのだな。
ヤーハームの握るガランダインから膨大な神気と魔力が溢れ出し、竜爪剣に宿した竜の魔力と衝突しあい、私達の周囲に不可視の嵐が生じたような惨状が巻き起こる。甲板上に居るのが魔六将や奇襲部隊の面子でなかったら、これだけで全滅ものだな。
「貴方のついでにこの要塞やら陸上戦艦やら片付けようと思っていましたが、余計な考えをする余裕はなさそうだ」
「ふふ、戦いに集中してもらわなければな。それにこの艦一隻を取っても我が国の民の血税の結晶だ。そう簡単に壊されてはたまらん」
本音を言えば鹵獲するつもりなのだけれどね。ヤーハームの両足に更に力が込められて、竜爪剣を巻き取るようにガランダインを動かして鍔迫り合いの状況を崩し、私の首を左から跳ね飛ばすべく神剣を振るう。
ふむ、クリスやドラミナとこれまで何度となく手合わせをしてきたが、ヤーハームの剣技は二人を上回りかねんな。どうにも私に剣技の才能はないようで、ヤーハームの足元にも届きそうにない。
その為、技で及ばぬ分は古神竜の力に頼んだ能力の底上げで補うしかない。今回も私は強化した肉体と古神竜の知覚能力頼みで、首を狙う一撃を受け止める。と同時にガランダインの柄を手放したヤーハームの左手が、私の腹部を狙って突き出されていた。
私もまた竜爪剣を握っていた左手を放して、彼の籠手ごと纏めて受け止めた。ふむ、ヴァジェや瑠禹が彼の相手でなくてよかった。成長著しい彼女らでも、ヤーハームの相手は無理だな。
私は場違いかもしれない安堵を抱き、そのまま振り抜かれたヤーハームの左拳の勢いによって甲板の上から叩き出され、そこへ容赦ないヤーハームの追撃が加えられる。
メルルの魔法四つを叩き切った飛ぶ斬撃が、私の視界一杯を埋め尽くすほど放たれている。ふむん、私を倒す攻撃ではない。
「豪勢な目くらましだ」
神器の威力込みとしてもメルルの渾身の一撃並みの威力を、こうも連射できるか、ヤーハーム!
「エクスプロージョン!」
私は左手を斬撃の嵐へと向け、詠唱を破棄したエクスプロージョンによって、まとめて吹き飛ばす。
周囲では主にメルルが絶え間ない爆発と閃光、轟音を量産しており、私の生み出した爆発による衝撃波と高熱にすべての斬撃が飲まれる中、頭上から迫りくる気配へ竜爪剣を一閃する。
弾丸の如く斬りかかってきたヤーハームは、私の一撃で右方へと弾き飛ばされて、私と同時に着地する。ヤーハームが力ある言葉を紡ぐ。私もまた同じく魔法を行使する為に。
「神剣ガランダインよ、汝が威を示せ。我は軍靴の音を鳴らして神の領域へ進む!
ほう、亜神を超えて神の域に達する霊格の向上とは。そしてそれに耐える魂を持つとは。
「セレスティアルジャベリン!」
私が習得している地上の魔法の中でも特に使用頻度の高い魔法は、光り輝く大槍となってヤーハームへと襲い掛かる。一本一本が山一つ貫く威力を持つ光の大槍を、ヤーハームは正面からすべて斬り砕きながら進んでいる。
「いやはや、度胸のある事で」
「顔色一つ変えずによくも言う! 刃よ力を帯びよ
ヤーハームは稲妻のように直角の動きを見せて、私の左方から濃密な白い魔力を纏う刃を振り上げて斬りかかってくる。速い。転移を交えた移動法か。クリスより上の神通力の主ときたか。
「ふん、む!」
私の正面と見せて右、左、後ろ、上と来て右袈裟に斬り下ろしに来た一撃を竜爪剣ではじき返し、心臓を狙って放った右手一本の突きをヤーハームはガランダインの刃に沿って逸らし、刃の間で無数の魔力の火花が散る。
「ちい、これもあっさりと受け止めるか」
「いやいや、大したものですよ。竜種でも三竜帝三龍皇でなければ、陛下の相手は務まりますまい」
魔衝刃を維持したままのヤーハームの連撃を捌きつつ、感嘆を込めた感想を告げればヤーハームは興味深げに問い返してくる。
「ほう、かの最強達を知る口ぶりだな?」
「モレス山脈の竜種達との関係を考えれば、おかしな話ではないでしょう?」
「どうかな。あの山脈は竜帝らの領土ではあるまい。その竜の力といい、貴殿を人間として認識してはならんようだな」
「人間として生まれ、人間として生きて、人間として死ぬつもりなのですがね」
「それは、さすがに無理があるなあ」
何故だ。本気で呆れられているぞ。私は本気なのに。
「まあ、よかろうて。時に貴殿、小柄で妖精のように愛らしいが凶悪無残極まりない雰囲気の少女を知らんか? 年のころは貴殿と同じか、一つ二つは下だろうな」
なぜ、そんな質問を? しかし、何というか、思い当たる節のある質問なのだが……。いや、彼女がなにやらしていたのは察していたが、こうまで魔王と直接的に関わっていたのか?
「ふむ」
まあ、情報漏洩をするわけには行きませんわな。ヤーハームはレニーアらしき人物の情報収集について、そこまで執着はしていないようで、私が真顔で呟いたのを見て苦笑するだけだった。ありゃ、何かしら察せられてしまったかな?
「なにやら問題のある人物のようだな。アークレスト王国は思う以上に魔境らしい。歓迎しかせんがね」
「呆れる程前向きですね」
「長い生だ。下を向いて生きてばかりいてはつまらん時間が増えるだけだろう?」
「敵対関係でなければ、素直に同意できるのですがね」
「なに、敵だ味方だと気にせず、賛同できる時には賛同するものだ。器量の小さいことを言うものではないぞ!」
そう言いながら、私の体を腰から上下に分断しようとしてくるガランダインの刃を左膝でかちあげ、反撃に左袈裟に斬り下ろすべく竜爪剣を叩きつける。
「殺しあいながら言うことではないでしょうに」
ヤーハームは竜爪剣が鎧の表面に触れた瞬間、その場でくるりと回転し、彼の右肘が私の顔面の中央へと迫っていた。上体を逸らした私の鼻先を右肘が過ぎ去り、直後、私の振り上げた右足と彼の左拳が激突して二人の体を後方に跳ね飛ばす。
共に足から着地し、ガランダインと竜爪剣の切っ先は共に右下段、奇しくも腰を低く落とした姿勢で向かい合う。
「まったく、貴殿は呆れる強さだな。この鎧に傷をつけられるとは、その竜の力といい余程高位の竜が化けているか、生まれ変わっていると警戒をすべきなのだろう。まあ、今更の話だ。ははは、たとえここで朽ち果てても祖神によく戦い、よく死んだと胸を張れそうだ」
そうヤーハームは笑い飛ばすが、実際に私達の戦いを大魔界でサグラバースが押し掛けてきたアルデスと一緒に見ていると告げたら、流石の魔王も顔色を変えただろうか。
ウォームアップは終了ですね。ヤーハーム、君は強いが相手が悪すぎた。
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第三百十七話
魔王ヤーハームならびに魔六将がドランを筆頭とした奇襲部隊と交戦をはじめた直後、他の魔王軍の高位魔族や有力な戦士達はこれに助勢するでもなく戦場となった移動要塞から急いで距離を取っていた。
はるか上空から行われたメルルの常軌を逸した極大魔法の四連射が放たれる前に、神通力をもって事態を察知したヤーハームの指示で魔六将以外の人員は助けにはならないと判断されて、アークレスト王国とロマル帝国からの攻勢に備えるという名目の元、離脱を固く命じられていたのである。
たとえ直接戦う力を持たなくとも身体能力を強化する魔法や遠隔からの回復魔法を用いれば、助けになると訴える者は居たが、これもメルルが襲撃と同時に周辺の土地に張り巡らせた妨害魔法によって無力化されてしまっては意味がない。
バストレル亡き今、人類種最高の魔法使いの座を争うメルルの妨害魔法下でも十全に実力を発揮し、正面からアークウィッチと戦える人材は魔王軍においても数えられる程だ。
故に移動要塞の乗員達を除いて戦場から魔王軍の兵士達が居なくなるのに、さほど時間はかからなかった。
陸上戦艦もまた距離を取って離れる中、メルルは巨大化したクインセを相手に詠唱を破棄し、魔法名を口にする暇すら惜しんで魔法を次から次へと連射していた。高位の魔法使いともなれば心中で魔法名を唱えるだけでも魔法を発動できるが、メルルのように秒単位の連射速度を余裕でこなす魔力量の持ち主は人類種の中でも稀有も稀有だ。
多頭の大蛇の如き炎が、大洋を回遊する鯨の如き水が、大空を舞う大鷲の如き風が、大地を疾駆する獅子の如き土が、暗雲を切り裂く龍の如き雷がたて続けにクインセの青い巨体に襲い掛かっている。
百万の軍勢を原子まで破壊しつくす膨大な破壊の中心にあって、クインセの巨体はそこかしこで崩壊が起きているが、それでも“クインセ自身に傷らしい傷はない”。
「どりゃっせい!」
奇妙な気合の声と共にメルルの握るニヒトヘイトの先端から黒い光の槍が放たれ、クインセの複数ある目の中央へと突き刺さる。
あらゆる有機物を分解し捕食する微生物の集合体である槍は瞬く間にクインセの顔いっぱいに広がり、その半分ほどを捕食したところでクインセの発した純魔力の衝撃波によって消滅する。
(やっぱり、単純に巨大化したんじゃなくて無数の分身を集めてこの巨体を作っているんだ!)
ボロボロと崩れるクインセの一部を見て、メルルはクインセの巨体の正体を看破した。核となる本来の大きさのクインセが大きさの異なる無数の分身を作り出し、それらを集めて巨大化したように見せかけているのだ。
だからこそ脚が何本もげようと、腹部を吹き飛ばされようと、核となるクインセに届いていなければわずかな痛痒を与える事も出来ない。
ならば巨体を丸ごと吹き飛ばすか消滅させるまでだ、と考えるのがメルルであるがそれを巧みに邪魔してくるのがザンダルザだった。
メルルの側に効果範囲を絞るという思惑があったにせよ、戦巧者であるザンダルザはクインセと息の合った連携を見せており戦闘開始直後からメルルの肝を冷やし続けている。
「
ザンダルザの左下の手首に装着されていたルビーのような赤い環がメルルを目掛けて、超音速で打ち出される。砕回環という名をわざわざ口にしたのは、それを耳にした敵の意識を強制的に引き付ける効果があるからだった。
不意を突くには向かない効果だが、砕回環を囮にして本命の一撃を伏せるか他者と連携を行って戦う分には有用だ。
メルルが自身に施している精神防御魔法である程度は緩和しているが、それでもメルルの視線が一瞬、回転する赤い環に引き付けられる。
「みみっちい!」
瞬間、メルルの両目が太陽を思わせる輝きを放ち、砕回環が閃光と衝撃に襲われて大きく弾き飛ばされて地面に落下して巨大な大穴を穿つ。
メルルの持つ膨大な魔力を視神経に通した術式と眼球の水晶体を触媒として増幅した魔力が、光線となってメルルの視線に乗って砕回環を吹き飛ばしたのだ。
「かか! 視線一つっても武器になるか。即興の魔眼といったところかよ」
笑うザンダルザの右上腕に握られた翡翠色の弓の弦が一人でに引かれて放たれるや、数千本の翡翠の光の矢が放たれて光の速度でメルルに殺到する。
ザンダルザの魔力を抽出して変化させた矢に対し、メルルは常に纏っている防御障壁の内、八枚を爆発させて三分の一を破壊して残る三分の二に対してはニヒトヘイトを振るって発生させた網の目状の雷に絡めとり、一息にへし折る。
(反げ……ああもう、糸、また糸だ。見える糸と見えない……糸!)
空中を飛翔するメルルの動きが不意に止まる。彼女の周囲には月光に照らし出された無数の糸が牢獄のように張り巡らされており、加えてその中にメルルの魔法視力でも見えない糸が混ざっている。
見えない糸は自由に動き回っており、メルルの不意を突いて首をはねたり神経に絡みつこうと隙を伺っている。見える糸に関してクインセは捨て駒として使っているようで、メルルが障壁に当たるのを任せて千々に千切っても気に留めていない。
(この糸、千切る度に弾けて私の魔力を吸い取ってゆく!)
むしろ積極的に糸を壊させている。メルルの保有する魔力量と生産する魔力量はこの程度ものともしないが、糸が壊れて魔力を吸い取る感触がメルルの神経を逆なでし、集中を乱してゆく。こちらの方こそメルルには鬱陶しい。
メルルは魔王軍との戦闘の様子により味方から戦闘を好んでいると思われているが、実のところメルルは戦闘を好んではいない。
彼女が好む……というか望んでいるのは全力の発露だ。そしてメルルの全力の発露がたまたま戦闘にかかわる魔法の行使であったに過ぎない。
好きではない命懸けの戦いに臨み、全力の発露に関しても味方への配慮が頭にあり、メルルには枷がいくつもはめられている。ただ、その代わりに今のメルルにはアークウィッチの称号を与えられた魔法使いとしての責任感が強くあった。
先日の戦闘では心が高ぶるに任せて戦い続けてしまったが、今はドランをはじめ複数人に窘められたことで思考と精神の一部はしっかりと冷静さを残して戦えている。ちょうど帳尻は合っていると言えるだろう。
「どおりゃあああ!!」
メルルは自身を中心に三千倍以上の超重力圏を発生させて、ザンダルザとクインセの動きを止めながら、その瞳に燃える闘志と冷徹な計算の光を宿して強敵達を睨み据えた。
*
「君の喉を裂いて溢れる血の赤はどれだけ美しいだろう」
「猟奇趣味か。御免被るよ!」
移動要塞の甲板上に残るヴェンギッタとクリスティーナの間では、神域の職人の愛用していた彫刻刀と純ミスリルの刃を持つ魔剣エルスパーダとが秒間数十、あるいは百にも達する常識外の速度で振るわれている。
刃と刃が激突する度に銀の火花が無数に散り、両者の周囲に銀の花が無数に咲いたかのような光景が浮かび上がっては消え続けている。
本体にして最古のヴェンギッタの動きは、作成者の神がかった力量とその後の改良によってクリスティーナをして時に見失いそうになるほどに素早く、巧みで、そしてなにより優雅だった。
ヴェンギッタが元は何を目的とした人形であったのかクリスティーナは知らないが、ともすれば舞台の上で舞い踊り人々に美を伝え、文化を伝える為の人形だったのかもしれないと、クリスティーナは舞い踊るヴェンギッタの姿を見てそう思えてならなかった。
破壊の規模こそメルルやザンダルザに劣るものの両者の一撃は共に亜神の領域にも到達し、単なる硬度では防ぎようのない一撃となっている。
いかなる合金も力場による壁も彼らの刃の前では意味を成さない。彼らの一撃を防ぐには彼らと同じかそれ以上の次元に達しなければ、防ぐ事すら許されない。
クリスティーナの眼前でヴェンギッタがくるりと回転した。ピンと伸ばされた軸足、胸の前で横に倒された左腕の指先、回転に合わせて揺れる髪の毛の一本一本に至るまでもが完璧に計算されつくした芸術そのものだった。
魔法ではない。呪いではない。神々の奇跡でもない。ヴェンギッタがその身に刻み込んだ舞踏の技術が生み出した“美”であった。ああ、なんと美しいのかとクリスティーナの心が震える。
抗えずに見惚れたクリスティーナの顎下に向かって突き出された彫刻刀の刃を、それでもエルスパーダの刃が弾き飛ばした。精神が緩んでも肉体は緩まない。非凡に加えて非常識な戦闘経験を積み重ねたクリスティーナならではの無意識の反応であった。
弾かれた彫刻刀を引き戻してやや猫背気味に構えるヴェンギッタは、意識を取り戻して自分を見つめるクリスティーナの姿に、ああ、と通算数十万回目になる感嘆の吐息を零した。
単純な美しさで言えばあのバンパイアクイーンも勝るとも劣らぬが、内包する生命と可能性の輝きにおいてはクリスティーナが勝るとヴェンギッタは感じていた。
見かけだけの美しさでさえ、この世界が誕生した意味があると断言できる程であるのに、魂までも稀有なる輝きを放つとなれば芸術の産物たるヴェンギッタがどうして見逃せようか。
「私は君の髪の毛の一本一本、筋肉の筋の一つ一つ、神経のすべてに至るまで観察し、腑分けし、繋ぎ治し、ああ! 君という存在のすべてを余さず残さず知り尽くしたい。我が求むる“美しさ”のより高みへと至るため」
ヴェンギッタが紛れもなく本気であるが故に、クリスティーナの背筋に怖気が走ったのは言うまでも無い。
恍惚と蕩けるヴェンギッタの顔を鼻から上下に分断する横殴りの一撃は、身をかがめたヴェンギッタの頭上をわずかに遅れて薙ぎ、クリスティーナの影から飛び出したドラッドノートが振るった自分自身の刃をヴェンギッタの彫刻刀が顔面すれすれの位置で受け止める。
さしものヴェンギッタの彫刻刀も古神竜殺しの因子を持つドラッドノートが相手となれば受け止めるだけで限界だ。保有する力の量も霊格も差があり過ぎる。
愛用する彫刻刀の限界を察したヴェンギッタは受け止めるのを即座に諦めて、見えない傀儡糸に引かれるようにふわりと後方に飛びさる。
クリスティーナとドラッドノートの双方が追撃の一手を繰り出そうとした瞬間を狙いすまし、直前までドラッドノートに抑え込まれていたトラウルーの原初の魔法が襲い掛かる。
「“怖い怖い火が来るぞ。あっちもこっちも真っ赤っ赤。あとには骨も残らん”」
「クリスティーナはそのままお進みください」
主人の返事はなかったが、自分の言葉通りにヴェンギッタを追うのを背中越しに感じて、ドラッドノートは微笑しながら自分自身を迫りくる赤い炎の津波へと横一文字に振るう。
トラウルーが口にした通り骨も残さずに生物を焼き尽くす炎の津波は、ドラッドノートの刀身にまるで嘘のように次々と吸い込まれてゆき、見る間に跡形もなく消えてしまう。
「なかなかの熱量ですが、私の内部空間を燃やせるほどではありません」
ドラッドノートはドラゴン討伐の際にその血肉の採取機能を与えられているが、あの古神竜の細胞の一片なりとも採取しようとするのなら収納するための空間が途方もなく頑丈なものになるのは想像に難くない。
ドラッドノートは背後から届く剣戟と甲板を踏む軽妙な足音を聞きながら、腹から零れる内臓を戻している最中のトラウルーを見る。黒曜石を思わせる棍棒には罅が入り、高い再生能力を持つ老トロールの体のあちこちには一向に再生の始まらない傷が刻まれている。
「まったくもう、本当にまったくなんなんじゃい。おまえさん。あまりにも重くて強すぎる竜殺しの因子じゃ。いったいどれだけ高位の竜ならそれほどの因子を与えられる? そしてそんな竜を討つ武器をどんな文明なら作れるというのじゃ? おまけにお前さんには神の気配すらないというのに」
岩を思わせる肌に包まれた顔色を死人めいた色に変えながら、トラウルーが堪えきれないとばかりに零す愚痴に、ドラッドノートは小悪魔めいた笑みを浮かべて答えた。
「内緒です」
「貧乏くじじゃわい。それでもマスフェロウが相手をするよりはマシではあるか」
マスフェロウは偽竜とはいえ“竜”という共通の属性を持つ以上、古神竜殺しに用いられたドラッドノートと、それを成した勇者セムト直系の子孫にして古神竜殺しの因子を受け継ぐクリスティーナはドランの次にマスフェロウが戦ってはならない相手だ。
だからといってそれ以外の面々が優しい相手であるはずもないのだけれど……
*
そして最悪の相性ではない相手と戦っているマスフェロウはといえば、背の翼を大きく動かして絶え間なく位置を変えながら銃弾の大きさにまで圧縮した病毒をドラミナへと連射していた。
すでにドラミナとガリリウス共々甲板を離れて、目まぐるしい空中戦を演じている。高位の竜種の例に漏れず、マスフェロウが病毒で害を成す相手を選ぶことが出来る。その為、ガリリウスは誤射を気にせずにドラミナへと果敢に接近戦を挑んでいる。
マスフェロウの病毒の銃弾の命中した地面や木々は見る間に腐敗し、形を保てずに紫色の粘液へと腐り果ててゆく。ドラミナは頭上を取ったマスフェロウの張り巡らせる弾丸の雨を一瞥し、
「ふむ、流石は上位の竜王級。神器なしで直撃を受ければ私の再生能力でも厳しい」
神器で身を守っている今ならば問題はない、という事だ。左手一本で握るグロースグリアを、正面からガリリウスが突き込んできたガナギーヤへと向けて突き出す。
共に神の手からなる神器ではあるが、グロースグリアをはじめとするバンパイア六神器の方が格は数段上だ。砕けはせずとも使い手に伝わる衝撃はドラミナには皆無でも、ガリリウスにはすさまじいものが襲い掛かった。
内臓を撹拌して骨を粉砕しようとする衝撃を纏った鎧の加護と体術で散らしながら、ガリリウスは引き戻したガナギーヤでドラミナの顔を狙う。全身鎧と額冠で身を守るドラミナの唯一肌を露出している箇所がそこだけなのだ。
鎧の上からの攻撃でも多少は痛打を与えられるだろうが、バンパイアの再生能力で瞬く間に回復する範疇であろうし、回復が間に合わないほどの連打を許してくれる相手でもないと判断した故だ。
「女の顔に容赦の無い方ですこと」
ガナギーヤを七本の短剣に変化させたヴァルキュリオスの一本で受け止め、残る六本が四方八方からガリリウスへと襲いかかる。
上下左右に後ろの五方向から襲い来る短剣を、ガリリウスはガナギーヤを軽く引き戻し、石突きで後ろの一本をたたき落として空いている左手で左と頭上から来た短剣をはじき返す。
残る二本は病毒の銃弾では撃ち落とせないと判断したマスフェロウが膨大な魔力を纏った竜の腕で直接弾き返した。それでも魔力の保護越しにマスフェロウの鱗には罅が走り、わずかだが血が零れる。
「なんという神格の武器だ。ガリリウス殿が喜ぶ訳だが!」
ガリリウスの背後に降り立ったマスフェロウの両腕が振られ、さらに大きく開かれた口から黒紫色の病毒の塊が三つ放たれる。
ドラミナはガリリウスを避けて飛来する病毒の塊を一瞥し、弾き飛ばされたヴァルキュリオスを高温の白い火球へと変化させるや、自分の周囲に渦を巻かせて病毒の塊を焼却して無効化する。
間近で生じた高熱にガリリウスとマスフェロウの皮膚を炙る。それだけで済んでいるのはひとえに彼らの高い耐性あればこそ。彼らより下位の魔族や竜種ならば即座に絶命していただろう。
渦巻く炎の内側から漆黒の穂先が飛び出す。およそ破壊力という点においては六神器最強を誇るグロースグリアだ。
かつての仇敵が愛用していた槍に対し、ドラミナとてまだ思うところはあるのだが、武器としてはこの上無く有用だ。それに罪は使い手にこそあれ武器にはあるまい。
まともには受けられないと学習したガリリウスはグロースグリアを絡め取るようにガナギーヤの穂先をぶつけ、お互いに相手の槍の動きを支配しようと目に見えない攻防が繰り広げられる。
「グワンダン殿こそ至上の敵であるのに変わりは無いが、希なる強敵に恵まれたものだな。我が魔王も喜んでおられるようでベルンの者達には感謝しかないぞ!」
数十の攻防の果てに白い炎の渦が晴れ、グロースグリアとガナギーヤの穂先が弾けるように離れた。喜々として笑うガリリウスをドラミナは冷厳たる眼差しで見ている。
「貴殿らは我らの武功となるが定め。しかし、この度の戦いで生じる被害こそ我が主君と愛しき者は憂いている。今は割り切って貴殿らを討つのをよしとしているが、私としては腹立たしいことこの上ない」
魔王軍との戦闘によって一旦停止せざるを得なかったベルン男爵領の発展計画と開拓計画。
ベルン男爵領の兵士とモレス山脈の竜種にこそ被害が出ないように尽力したが、それ以外の兵士達にはどうしても被害が出る。生じる被害にはクリスティーナやセリナは割り切れずに心を痛めている。
それにドランと過ごす恋人としての時間もまた大きく削られてしまっている。ドラミナからしてみれば魔王軍の襲来は得る物よりも損なわれた物の方が圧倒的に多い。ガリリウスとマスフェロウを相手に、ドラミナは徐々に秘めていた激情を解き放ちつつあった。
*
「きええええい!」
ヤーハームの喉から発せられる裂帛の気合いは高位魔獣の咆吼を数段上回る恐慌作用と、肉体の神経系に作用する効果を有していた。彼ほどの域に達すれば視線や声一つにも高位の魔法にも匹敵する力が宿る。
山を割り底の見えない亀裂を生む威力の一撃を、ドランは白く輝く竜爪剣であっけなく弾き返した。ヤーハームの一撃が地を割る威力ならば、ドランは空を裂く威力だ。
それほどの威力を持った斬撃が絶え間なく両者の間で既に一千以上放たれていて、移動要塞から遠く離れていなかったら、近辺の陸上戦艦を巻き込んで破壊の跡を深々と刻み込んでいただろう。
「クリムゾン・レイ!」
斬撃の隙間を縫い、ドランの左手から放たれた紅の熱線をヤーハームは至近からの一撃にも見事反応し、眼前に掲げたガランダインの腹で受けた。
神剣に鏡に当てた光のように軌道を逸らされたクリンムゾン・レイは夜空に鮮やかな一筋の朱線を描いて、さしかかった雲を貫いて蒸発させた。
クリムゾン・レイを受けた衝撃のままに右回転をしたヤーハームの一撃がドランの右腰部へと迫り、これを竜爪剣が阻むのと同時にドランの五指を開いた左手がヤーハームの頭部へと伸びる。
掴まれたら、どころか触れられたら終わりだ、とヤーハームは正しく脅威を理解していた。
ガランダインから右手を離すのと同時に全力で右半身を引きつつ、神剣に魔力を集中させてドラン側への一方向に限定して炸裂させる。一時、夜の闇を払う光が生じてその中にドランの姿が飲み込まれる。
「目くらましにもならんか」
ガランダインの所有者であるヤーハームは閃光によって視界が遮られる事は無く、無傷のドランの姿がはっきりと見えている。左手一本で握るガランダインを竜爪剣から引き離し、図らず双方が鏡写しのように右八双に構えた。
ヤーハームの持つ神通力が戦闘開始から最大に高められ、それに呼応してガランダインの刃が燃えるように輝き、周囲に侵入を阻む力場を形成しつつヤーハームの神通力を増幅する。
対するドランは変わらない。眉一筋動かさぬままありふれた長剣に古神竜の力をさらに注ぎ込む。
ただそれだけで鈍らの剣でも木の枝でも最強の武器へと変える理不尽極まりない所業であるが、ヤーハームはそれを知らない。知らないが、全身の細胞が恐怖と歓喜を同時に叫んでいた。
「我が刃のすべてをここに “
右八双の構えから振り下ろされたガランダインの刃が全く同時に十二に増えてドランを囲い込んだ。単純に斬撃を増やしたのではなく、右八双の構えからヤーハームが放ち得た斬撃の可能性を具現化し、ヤーハーム自身が放った本来の一撃と合わせて同時に放つ絶技であった。
選ばなかった可能性の具現化という奇跡的な現象を前に、ドランの対応は変わらない。本命を含む十二の斬撃の全てを無視して、ただただ愚直に右袈裟の一撃を振り下ろすのみ。
斬王と名付けられた絶技による放たれた十二の同時斬撃はドランの左右の首に、肩口に、腹に、頭部にと襲い掛かったが、彼の体の表面に朧に浮かび上がった白い竜鱗によってことごとく受け止められる。
加えてドランの右袈裟の一撃が鎧を斬り砕きながら左の肩口から腹部までを深く斬ってゆく感触に、ヤーハームは目を見開いた。
そしてこの戦場から遠く離れたどこかで誰かが言った。魔王軍とアークレスト・ロマル連合軍の戦闘の推移を見ていたその誰かが口にしたのはこのような言葉だった。
「さあ、聖戦の始まりだ」
うん、まあ、その横やりがですね、入るわけですね。最終章の一個前に突入!
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第三百十八話
「ごふっ、ぐ……」
私の一撃で鎧を砕かれて深く斬られたヤーハームは斬られた胴体から夥しい量の血を噴き、口からも同じく死を予感させる量の血を吐く。彼と彼の装備が持つ再生能力をもってしてもたやすくは治らない傷だ。
大概の敵ならばこれで決着とみるが、ヤーハームの瞳の輝きは曇らず、急速に血を失い力を失っているはずの彼の体はいまだ緊張を緩めずに力が残っている。
「まだだ!」
血反吐と共に叫ぶヤーハームが右手一本で握るガランダインを振り上げた。そうだろう、そうだろうとも。お前のような戦士は死ぬまで戦い続けるだろうともさ。
指も動かせなくなり、何も見えなくなり、何も聞こえなくなり、何も考えられなくなっても、本当に命の火が尽きるまで動き続ける。肉体的には死んでいても精神が動かすという例が稀にある。ヤーハームはまだ死んではいないが、彼の場合は死んだからと言って安心できる相手ではないという事だ。
振り上げられたガランダインに力が集まり焔の如き輝きを纏う。これまでのどの一撃よりも強大なものだと私に確信させた。
口から腹までを血で染めながら修羅の如き笑みと共に刃を振り上げるその姿は、この地上の戦しか知らぬ者では畏怖せずにはおられまいよ。
私の頭を砕きに来たガランダインを両手で構えた竜爪剣で受ける。双方の刃に宿った神と竜の力とがぶつかり合い、周囲へ四散して誰も立ち入れない“場”をひととき作り上げる。
「まったく、おれは死力を尽くしているというのに貴殿ときたら、この程度は見慣れたと顔に書いてあるぞ! おれもまだまだかな?」
ヤーハームは交差する刃越しに私へ笑いかけてくる。ヤーハームのような戦士は稀だが、私の場合はその稀な例を何度も目の当たりにしてきた為に新鮮な驚きはないのだ。死にかけの魔王殿はそのことがお気に召さないらしい。
「死んでもなお戦うだけならば私にとって脅威にならず、驚きにすらならない。それだけの事ですよ、魔王陛下」
「はは! そうか、何度も見慣れたものでは新鮮味などなかろうよ。ではおれは貴殿の知らぬ域にまで辿り着かねば驚かす事すらできんなっ!」
前向きな事で。言葉の通りに彼の死力が込められた一撃をはじき返し、私達は度重なる激突で壊れた大地の上に立つ。移動要塞の甲板の上で行われている戦いも、その周囲で生じている激しい閃光と爆発は止まずにいる。
この窮地においてヤーハームの魂は輝きを増して、死にゆく細胞へ新たな力を注ぎこみ続けている。彼の体を濡らす血が溢れる闘気と魔力によって蒸発し、それが再びヤーハームの体へと取り込まれて急速に血液と魔力の補充が行われている。
失われるものの方が多いとはいえ、それを最小限に留める術を自然と行っているな。
私と距離を置いてガランダインを正面に構え直したヤーハームが、凄絶な気配を纏ったまま私を睨む。彼の口元に浮かんでいた笑みは消え去り、沈痛な面持ちへと変わりつつあった。ふむ、彼も気づいたか。
「ふん、北への警戒が足りなかったか」
「我々をまとめて一網打尽に、という腹積もりのようですね。安く見られたと憤るべきか」
私が竜爪剣の切っ先を下げて、これ以上の交戦を続けるのに消極的な姿勢であるのを見手取り、ヤーハームは忌々し気に空へと視線を転じる。
このままヤーハームを討ち果たしてもいいが、第三者の介入があるのなら魔王軍という要素を残しておいた方が相手の動きが鈍るだろう。アークレスト王国とムンドゥス・カーヌスとの位置関係を考えれば、魔王軍を盾替わりに利用も出来よう。
私達ばかりでなくドラミナやクリス、メルルと彼女を相手にしていた魔六将らも気付いたようで、周囲の戦闘音が途絶えている。先程までは見られている感覚だったが、こちら側へと直接姿を見せようとする意志が感じられる。転移? いや、超高速移動かな。
これまで私達の戦いを観察に留めていた誰かは、まるで夜空を流れる星のように彼方の空から姿を見せた。私達の今いる魔王軍本陣よりもさらに北北東の方角から、黄金の光を発する人影が飛来してきて、移動要塞の真上で動きを止める。
クリスやドラッドノートの上に当たる位置で、黄金の輝きを発しながらソレは私達からの視線と注意が集中するのを待っているようだった。
問答無用で叩きのめすにしても、背後関係の情報を手に入れてからとなれば生け捕りにするのも選択肢の一つか。
黒を主体に襟や袖口が赤い軍服を纏い、黒い長髪の上に被った軍帽にはおそらく国章であろう天秤の金属製のプレートが埋め込まれている。特徴的なのは天秤の支点が眼になっている点だ。
痩身の男性である。年のころは二十代後半から三十歳に届くかどうか。剃刀のように鋭い目は黄金の色を称え、軍服の上に肩から掛けた白いコートの裾を両手ではね上げて、私達を見下ろしながらあらん限りの大声で叫んだのはこのような言葉だった。
「聖法王国ぅううう、万ッッッ歳!!」
おやまあ。地平線の果てまで埋め尽くす落雷の如き大音量はそのままこちらの腹の底まで響き渡るほどだったが、なにしろ内容が内容だったので、思わずといった調子でヤーハームは眉をしかめ、私はこれまた魔王軍とは違う意味で濃い奴が出てきたなと好奇心を擽られていた。
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第三百十九話
天地も分からずすべてがでたらめに攪拌されているような爆発と衝撃は、その只中に放り込まれた者に世界が壊れたのかと錯覚させるほど大きなものだった。
爆発の巻き上げた砂塵の中、南へと視線を転ずればアークレスト王国全体を守るように、無数の黒薔薇の絡み合う壁が途方もない大きさで屹立し、更にその黒薔薇の壁に幻影の大蛇が絡みついている。
万が一を想定してベルン男爵領の陣に残ってもらっていたディアドラとセリナが、ハークワイアの放った広範囲に及ぶ攻撃の余波に対して、即座に講じた防御手段である。
地盤が悉くひっくり返り、もとより荒涼としていた暗黒の荒野でなかったら、一晩で一体どれだけの野性の動植物が犠牲となり、また精霊の類いも巻き込まれたか分かったものではない。
熱烈に神への信仰を口にしながら神の気配をまるで感じさせぬ乱入者ハークワイアは、いまだ収まりきらぬ砂塵と土塊の嵐の中で自分の行いの成果を確かめるように目を細めている。
ほかにもザンダルザとクインセら魔六将らが戦闘を中断し、それぞれの得手とする手段を用いて移動要塞や陸上戦艦を守っていた。
この場からは遠いロマル帝国軍にも破壊の余波は襲い掛かっていたが、これはあちらでアムリアの身を守っている私ことグワンダンが天地をつなぐほど巨大な青い光の壁を展開し、飛行戦艦と地上で野営していた部隊をきっちり守っている。
ハークワイアは辺り一帯の地形を変える甚大な規模の破壊をもたらしながら、両陣営の将兵の命を奪うことはできなかったのである。
「いやはや一切合切まとめて一緒くたに消し飛ばして差し上げようとした次第ですが! あれなる美しき黒薔薇の壁に巨大なる蛇の幻! ロマル帝国を守る青き光の壁に阻まれてしまったか!
神の代理者たる小生の攻撃の余波を防ぐとは、なんんんんたる不遜! そればかりか魔王軍の艦艇まで無事とは、いや、こればかりは小生の見積もりの甘さを悔いいぃいるばかり!!」
砕かんばかりに歯を食いしばって悔恨を滲ませるハークワイアだが、砂塵と土砂の嵐の中を突っ切る影が自分に迫っているのに気づいていたかどうか。
影――魔王ヤーハームは私の与えた傷がほぼ癒えた状態で、ハークワイアの背後から神の力が込められた大剣を振りかぶっていた。狙いは容赦なくハークワイアの首だ。
「ならばそのまま死んでゆけ。無粋の極みの如き男よ」
「奇襲を仕掛けておきながら声をかけるとは、不心得の極み!」
背後の気配と声にハークワイアは電光石火の速さで腰に差した剣を抜き放った。湾曲した刃を持つサーベルは青白い雷光を散らしながら、背後の影へと叩きつけられる。
たとえ頭上から不意に稲妻が落ちようとも切り裂くだろう一撃は、しかして何もない空間を斬るだけだった。
「なんと、幻影か!?」
しかり。ヤーハームの姿は背後へサーベルを振りぬいたハークワイアの“背後”にあった。つまりヤーハームは最初からハークワイアの正面より斬りかかっていたのだ。
私の一撃で大いに破損したヤーハームの鎧だが、それでも着用者を守り抜いたようで魔王の闘志に翳りは見えない。
見事、ハークワイアを手玉に取ったヤーハームは、大上段に振り上げた神剣をあらん限りの力で振り下ろす。
「しぇあ!」
バチン! と雷光の弾ける音が一つ。文字通り雷光の速さで動いたハークワイアのサーベルが大剣を迎え撃ち、周囲に青い稲妻と衝撃波をまき散らしながら両者が大きく弾き飛ばされる。
空中でくるりと回転して体勢を立て直すヤーハームに、ハークワイアはコートの裾と腕を通していない袖をバタバタとはためかせながら笑う。
ふむ、彼にしてみれば予想外の大苦戦だろうが、そのくせ癇癪を起したり不快に感じていたりする様子はそう見られない。不敵と褒めるべきか?
「おれ達の戦いの邪魔をするだけの事はあるか」
「ふっははははは。一つ訂正を。小生は邪魔をしに来たのではなく聖法王陛下の聖なる意志と神デミデッドの神意に基づき皆様を……この世界から退場させるために参ったのでえぇす!」
ハークワイアは右手にサーベルを握ったまま、空いている左手を右から左へとヤーハームへ向けて素早く振るう。
「
ハークワイアの左手の動きに合わせて、ずらりと十三本の雷の槍が空中に浮かび上がる。
一本一本がバリバリと音を立てる槍からは、ハークワイア同様に神性は感じられない。ふむ、魔力の気配も感じられないし、となると超能力の類かそれとも発電できるように肉体を改造したあたりが手品の種か。
観察する私をよそに、騎手に鞭を当てられたように一斉に雷の槍がヤーハームへと殺到する。自然現象としての雷を大幅に超える威力の雷の槍を、ヤーハームは神通力によって光の速さで神剣を振るい、一本残らず斬り落としてのけた。
砕け散る雷光に全身を照らされながら、ヤーハームの鋭い眼光はハークワイアを捉え続けている。
「おんん見事。しかし、小生はまだまだ元気いいいーーーっぱいですぞ!」
「ふむ、ではここで怪我の一つも負ってもらおうか」
さてそろそろ私も動こう。ヤーハームとハークワイアの短期間の激突で周囲の砂塵と土砂が吹き飛ばされ、星の瞬く夜空が覗き始めた頃に私は動いた。私への警戒を怠ってはいなかったハークワイアだが、私に気付いたのは後の祭りになってからだった。
私は地上から飛び上がり、ハークワイアとすれ違いざまに彼の左腕を根元から竜爪剣で斬り飛ばし、それを掴み取りながら彼の背後まで飛んだところで止まる。
切り口から一滴も血の滲まないハークワイアの左手を観察する私を振り返り、ハークワイアは凍った笑顔のまま間抜けな声を出した。流石に接近にすら気付けないばかりか、腕を斬り落とされるのは予想外だったようだ。
「は?」
「自動で止血が始まったな。細胞一つ一つに手を加えているのか。観察の為に単純に斬っただけだが、ふむ、そうして正解だった。生まれは人間でも途中で変えられた口か? それとも志願して変わった口か? 過程が違うだけで結果は同じだが」
私の一瞥を受けてもハークワイアは顔色を変えず、喜悦の笑みを浮かべなおした。さて、これは精神が強いと言ってよいやら。ハークワイア自身の個性というよりは、そのように精神構造を変えられている可能性の方が大きいようにも思えるし、ふむん。
「小生は髪の一本、爪の一片、血の一滴まで神ぃのものぉ! それを奪うとはなんたるふぅっそん!! 天んん罰執ッ行!」
私の掴むハークワイアの左腕が急速に熱を持った。細胞の一片たりとも敵に渡さぬための自爆処理か。たちまちの内にハークワイアの左腕の内側から、ヴァジェの放つ最高温度の炎にも匹敵する爆炎が私を飲み込まんと広がる。
「想像の内だよ」
ただし私が掌の上で展開した球形の結界の外に溢れることは叶わず、爆炎は私を燃やすどころか熱を伝える事もできない。封じ込めた爆炎を荷物入れにしている亜空間に放り込み、私はハークワイアの左腕の付け根を見た。
私によって切断された個所から無数の光の粒から溢れ出して見る間に腕の輪郭を描くと、衣服も一緒にハークワイアの左腕が再生したのである。
ふむ、もともと治るように再生能力を阻害しない斬り方をしたとはいえ、衣服まで一緒にか。便利なことだ。これで再生に関する情報も得られた、と。
うすうす感づいているかもしれません。ヤーハームが婿ないしは夫候補であることに。
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第三百二十話
聖法王国からの刺客三名のおおよその実力とその由来を把握したところで、私達アークレスト王国奇襲部隊は撤退を決め込み、魔王軍の面々をその場に残したまま転移魔法を用いて一息でアークレスト王国の本陣に帰還した。
奇襲を命じられた後、撤退する際に空間転移を阻害する魔法や技術が用いられても安全確実に帰還できるように、目印となる術式を組んだ場所を本陣内部に設置していたからだ。
逆にこれを利用して魔王軍がこちらの本陣に侵入する危険性を考慮し、帰還地点に到着する為の暗号を術式に組み込む必要があり、また暗号を解読された場合に備えて周囲にはいつでも攻撃を仕掛けられるよう銃兵や魔法使い達が待機して備えている。
空間転移の為に展開した魔法陣から立ち上る光と周囲を包む空間の揺らめきの後、ドラッドノート以外は離れた位置で戦っていたメルル、ドラミナ、クリスも同じく集合した状態で帰還地点に姿を見せる。
荒野の一角に石の床を敷き詰めて特殊な塗料で魔法陣が描かれていて、遮蔽物のない周囲には万が一に備えた兵士達が十重二十重と囲い込んでいる。
視界の開けた先が予想通りのものであったことにまず安堵し、連れてくるべき者達が全員揃い、余計な者が混じっていないのを確認する。先程までいた戦場の方へ視線を向ければ、今も展開中のディアドラの黒薔薇とセリナの大蛇が見える。
魔王軍も大急ぎで後退している最中だろうが、聖法王国からのハークワイア達以外の天意聖司とやらの襲撃に備えてまだ残していると見た。
さて、事の次第を殿下に伝えなければならんな。私達に大急ぎで近寄ってくる兵士達を視界に収めながら、私はひとつ嘆息した。
「終わらせるつもりの戦争が長引いたか」
早くベルン男爵領の開拓と発展に注力したいのだが、ふむ、今のような王国に説明できる範囲に力を抑える戦い方を変えるのも選択肢に入れた方が良いかもしれん。特に魔王軍はともかく聖法王国の方は一筋縄でいかない予感がひしひしとするからな。
「ふむ、雲が出てきたか。一雨来るかもしれんな」
月の光が雲に遮られていた。風もないのに流れてきた雲は天に広がる星々の宝石のような煌めきも遮っている。聖法王国とのこれからの戦いを暗喩するかのような空の移ろいであった。
さて、空模様の変化に未来への予想を重ねるのはそこまでにして、セリナとディアドラはベルン男爵領の陣にいるから、顔を合わせるのは殿下のおられるこちらの本陣で報告を済ませた後でだな。
兵士達の中から一歩進み出てきた士官に案内されて、奇襲部隊の中で最も身分の高いメルルを先頭にして浮遊戦艦の中で私達を待つ殿下の元へと急ぐ。
本陣のあちこちばかりでなく浮遊戦艦の中も慌ただしさが広がっているが、それは決して混乱ではなかった。私達が帰還するまでの間に下された命令を遂行中、と見るべきか。
その証拠を示すように乗り込んだ浮遊戦艦は細かな振動を発し、動力機関の駆動音が聞こえてくる。巨大な生物の腹の中で、その心臓の音を聞いているような気分だな。
「スペリオン殿下は撤退の指示を出されているようですね。よい判断です」
足を止めずにそう告げたのは神器を解除して、軍服姿になったドラミナである。
ベルン男爵領の遊撃騎士としての身分を持つドラミナの正装の一つとなったものだが、バンパイアとして本来生きるべき夜の時間に在るドラミナは美麗なドレス姿にも負けぬ魅力をもって、すれ違う人々の足を止めている。
クリス共々本陣への帰還に伴って醜悪化するアグルルアの腕輪を嵌めなおしているのだが、もっと醜悪化の効用を強化しないと味方と行動を共にするのに差し障りが出てしまうなあ。
「セリナとディアドラには私から念話で状況を伝えておきましたが、殿下への連絡はメルル様からですか?」
「うん、そうだよ。魔六将と私達を相手に互角に戦える人達が乱入してきたっていう情報と、少なくとも私は名前も知らない北の国からの介入があるって報告を、ドラン君と魔王さんがあのハークワイアって声の大きい人と戦っている間に済ませておいたの。
この戦場にだけ介入してきたとは限らないし、最悪王都か王国各地に同じような人達や侵攻部隊が攻め入っている恐れもあるから、殿下に本国の状況確認と少なくともジョウガン要塞までの撤退を進言したよ」
「だからこそのこの慌ただしさというわけですか。我々の動きはそれでよいと恐れながら私も意見を同じく致します。ロマル帝国もこれ以上、戦闘継続が困難を極めると理解しているでしょうから撤退を決め込むでしょう。
あちらもこちらも、そして魔王軍も戦闘が始める前に想定していた事態から大きく外れた結果を迎えましたが、こうなると次の一手の内容と打つ速さが気になるところです」
「魔王軍とその母国であるムンドゥス・カーヌスの事だって情報が足りていないのに、今度は名前も聞いたことのない謎で謎な謎の国家が介入してくるなんて、大問題だよ~」
「第三者の介入それ自体はアステリア皇女も殿下達も微小でも可能性として考慮はしていたのは間違いありません。しかし、今回の連中は予想を超える第三者だったと思いますよ」
「どっちにしろ頭の痛い話だよ」
トホホ、と言わんばかりにメルルは疲れた調子で口にするが、魔六将との戦いもハークワイアらの介入もあわせて“疲れた”という表現で収まるようだ。
戦闘前のメルルだったら霊も肉も、精も根も果てていたが、戦闘中に霊格の進化を爆発的な速度で進めていた影響でこの程度で済んでいる。ふむ、そうなるだろうとは思っていたが、アークレスト王国としてありがたい副産物になるのかな?
そうして私達が奇襲を仕掛ける前に通されたのと同じ部屋に到着した時、既に机の上のものは片付けられ、椅子には座らずに立ったままの殿下と司令部の方々が顔を並べて私達の報告を待っていた。
緊急事態の只中にあるのは明らかであったし、挨拶は極力省かれてそのまますぐにメルルから報告がなされた。事前にメルルと殿下達の間でそう取り決められていたのだろう。
「奇襲部隊全四名帰参いたしました。恐れながら緊急事態である為、状況の報告から行わせていただきます。どうぞご容赦ください。
本日、魔王軍本陣へ奇襲を行い魔王ヤーハーム、魔六将ガリリウス、ザンダルザ、トラウルー、マスフェロウ、クインセ、ヴェンギッタと交戦状態に入りました。
戦況を優勢のまま交戦を進めておりましたが、突如、ディファクラシー聖法王国を名乗る国家の天意聖司とされる肩書を持つ三名の介入により、我々と魔王軍共に戦闘を中断し、任務の遂行が困難と判断して帰還いたしました」
険しい表情のスペリオン殿下は、そのままメルルに続きを促した。私達の任務失敗というよりも私達に帰還を決断させる戦力を持ったハークワイア達の存在に、頭を悩ませている様子だ。
「ではその天意聖司なる者達の動向は?」
「私達の戦闘に乱入した天意聖司第四席ウーブル、第五席ハークワイア、第六席バナキアは我々と魔王軍とそのまま交戦、彼らの想定上の被害を受けた事で撤退しました。またその際にハークワイアが、後程正式にディファクラシー聖法王国から使者が送られると口にしました。個人的な見解ですが私達の考える使者とは異なるものになるかと」
「一方的に仕掛けてきてソレか。デミデッドなる神を信仰しているのだったな? そして私達にその神の教えを伝えて家族にするつもりだと? 家族、か。ふざけた話だ。」
「はい。ただし魔王ヤーハームをはじめ、奇襲時の戦場に居た私達は教化の対象外であると言っていました。また僭越ではございますが、デミデッドなる神は私の知識の中には存在しません。似た名前、似た音を持った神は存在しますし、あるいは土着の精霊や異次元の妖魔の類が神を詐称している可能性もあります」
「メルルからの報告で短い時間だがこちらでも調べられる限りは調べたが、暫定的な答えは君と同じだ。教義や紋章、神器の類が手に入れば神の正体に辿り着けようが、それを警戒しての偽名の可能性もあるのが厄介だな」
そこが私も気になっている。神としての本来の名を告げた方が、人々の信仰によって得られる力は大きく質が良い。それを考慮してでも偽名を伝えているかもしれないが、デミデッド……本当に神か?
「いずれにせよ、魔王軍ばかりでなく新たに警戒し情報収集を行わなければならない敵の出現か。まさしく王国始まって以来の激動の時代の到来だ。
よし、切り替えていこう。メルル、ベルン男爵、ドラン、ドラミナ、任務大儀だった。望んだ成果は得られなかったが、今回の状況を考えればむしろ君達は大変良くやってくれたと言うべきだと確信している。
特にベルン男爵とドランの判断でこちらに残してくれたセリナとディアドラのお陰で、大きな被害を受けずに済んだ。
我々はこのままジョウガン要塞まで後退する。すでにロマル帝国のアステリア皇女からも、後退する旨の連絡が届いている。メルルはこのまま先頭の部隊に加わってくれ。そしてベルン男爵」
スペリオン殿下が、これまでメルルの報告に黙って耳を傾けていたクリスに話を向けるのに合わせて、クリスが一歩前に進み出る。今は彼女の腰に揺れているドラッドノートは、聖法王国の動きを各種探査装置で監視中だ。
「はっ」
「貴殿らベルン男爵領の軍勢には殿を務めてもらいたい。貴殿らや魔六将に魔王と戦える天意聖司なる者達からの追撃の可能性を考えれば、背中を任せられるのは貴殿らとなる。
また万が一、聖法王国がすでに我らのアークレスト王国内部に手を伸ばし、我々に対して待ち伏せを行っていた場合に備え、メルルには先頭を担ってもらうのが被害を最小限に抑える術だと考えている」
「どうぞ我らにお任せください。万が一、聖法王国が百万の軍勢を従えて、電光石火の勢いで攻め立ててこようとも我らベルンの力で退けて見せましょう」
自信に満ちたクリスの発言は、荒唐無稽ともうぬぼれが過ぎると言われるようなものだったが、実際にそうできるだけの力があるのはこれまでの戦闘で十分に見せてきた。
クリスの発言を笑う者も、嘲る者もこの場にはいない。万単位の兵士全てが天意聖司級となると、ドラッドノートか私のどちらかが大暴れしなければなるまいが。
悲壮の色などわずかも存在しないクリスの顔とどちらかと言えば明るい声音に、スペリオン殿下は次の言葉を発するのにわずかな間を必要とした。
スペリオン殿下が何を思ってすぐに言葉を発せられなかったのか。それを察するのは容易なことだった。それくらいには、私と彼の付き合いは濃厚で長い。
「頼む。アークレスト王国に強者多くとも今回ほどの事態を任せられるのは、貴殿らだけだろう」
そうして私達はスペリオン殿下から新たな命令を賜るのと同時に部屋を出て、それぞれの持ち場へと向かおうとした。メルルだけが別行動になるが、部屋を出てすぐに声をかけてきた。
「申し訳ありません、ベルン男爵閣下。それにごめんね、ドラン君。ごめんなさい、ドラミナさん。私が一緒に行動できるのはここまでです。
今回の戦いでは皆さんがいなかったら、魔王軍の幹部を相手に私が自爆して巻き添えにするくらいしか勝ちの目はありませんでした。
この時代に皆さんが生まれてきてくれた事を、今日ほど感謝した日はありません。また聖法王国なんてよく分からない人達……う~ん、人達が出てきましたが、魔王軍ばかりじゃなくあの人達にも負けないように頑張りましょう!」
力強く述べるメルルに私達はそろって同意した。魔王軍と聖法王国を大人しくさせなければ暗黒の荒野の開拓を進められないし、戦争なんて私達の好みではないのだ。平穏な時間を取り戻すべく私達は改めて団結した。
「メルル様もどうかお気をつけて。流石に聖法王国の大部隊がアークレスト王国に展開している可能性は極めて低いものですが、あのハークワイアのような少数精鋭が潜伏している可能性なら十分にあります。そして襲ってくるとしたなら、殿下の身柄かあるいは貴女様の命を狙ってのものとなるでしょう」
「うん。王都をそのまま制圧しようとしている可能性もあるけれど、そっちは専用の警報魔法を組んでおいたから何かあればすぐに私が気付けるし、今は殿下とこの軍の安全に気を張るよ。
ベルン男爵閣下、私の把握できる限りにおいて追撃者達の影も形もありはしませんが、退却中の軍において殿は極めて重要で危険な任です。どうぞお気をつけて」
「ご忠告痛み入ります。メルル殿も万が一はないとは思いますが、お気をつけて。無事にジョウガン要塞に戻りましたら、食事でもいかがですか?」
「うふふ、戻ったら戻ったで忙しくなりそうだけれど、とっても嬉しいお申し出です。喜んで参加します。それではもうそろそろ行かないと。ご武運を!」
嬉しそうな笑みを残してメルルは私達に背を向けて、私達もまたベルンの陣で待つセリナ達の元へと今度こそ急いだ。浮遊戦艦をはじめ他の陣の撤退準備は順調に進んでいる。
では私達ベルンはというと騎士団の団長であるバランさんが司令部からの命令と、セリナ達からの情報で準備を進めてくれており、どうやら後れを取らずに済みそうだった。
ただ、私達が殿を務めるという新しい情報によって、その準備もすべてを活かせるわけではなくなってしまったが。
ベルンの陣内に戻った私達はすぐさまバランさんとセリナ、ディアドラ達の待つ砦型ゴーレムへと入った。司令室ではすでに三人が待っており、お互いにねぎらいの言葉を口にした後、執務室の椅子に腰かけて今後の行動について話を始める。
事前にセリナが用意してくれていた紅茶で喉を潤しながら話を進めてゆくと、やはりというべきか五百の寡兵である私達が殿を務める事に、バランさんが渋面を浮かべる。
「我々が最後の壁役を務めるとなると、やはり数はどうしようもありませんな。質と特異性で補う他ありません。非才の自分にはどうしようもありませんが、故にドラン補佐官をはじめ遊撃騎士団に負担を掛けることになってしまう」
私達にばかり負担を掛けるのを悩むバランさんに、私はそう思って貰える事が嬉しいのだと心の中で呟きながら答えた。
今では随分と立場が変わってしまったが、今でも私とバランさんの関係には、一年以上前と変わらぬままの部分が確かに存在している。頼れる村の守り手と村の子供というすっかり懐かしくなった関係が。
「人員と移送用のゴーレムを除き、戦闘用のゴーレムを全て後方に振り分ければ数の少なさは補えます。今から私と魔法使い達とで戦闘用ゴーレムの簡易生産を行いますし、それにセリナとディアドラも案があるのだろう?」
私が話の矛先を向けると今も黒薔薇の壁と大蛇の守りを展開中とは思えない元気いっぱいの様子の二人が、勢い込んだ様子で口を開き始める。出会った頃と比べてみると、二人ともすっかり魔力が桁違いに増えたものである。
「はい! まずは私からお話しします。今も展開中の大蛇ですがそのまま残して、ロマル帝国とアークレスト王国の方以外が近づいてきたら自動で襲い掛かるように術式を組んでありますから、万が一追撃があった時の時間稼ぎに使えます!
私以外のラミア達は魔晶石や精霊石のお陰で魔力は大丈夫なのですけれど、長時間の魔力行使で精神が疲弊してしまったので休憩が必要です。
それでもあの大蛇とそのほかに細々とした魔蛇を何万匹もあっちこっちにばら撒くくらいなら、私一人でも、そして今からでも出来ます!」
一般的なラミアで換算するならおそらく何百人か一千人以上に相当するだろうセリナの案に、バランさんが軽く口元を引き攣らせた。
なまじジャルラの里のラミア達との交流で、基本的なラミアの能力がはっきりと分かったことで、より正確にセリナの規格外さが理解できるようになった弊害だろう。
フンフンス、と随分と気合の入っている様子のセリナに続き、ディアドラも同じく展開中の黒薔薇の壁を活かす案を口にした。
「私もセリナとほとんど変わらないわねぇ。私以外の草花や樹木の精の子達は疲労困憊で休んでいるし、私単独で黒薔薇の壁やら罠やらを作らないといけないけれど、規模や数に関してはセリナと同じよ。ただ私の場合は香りも利用できるから、北に向けて風を起こすのが効率的だわ。
私とセリナの足止め方法だと陸路を使う連中に効果はあっても、空を飛ぶ相手にはどうにも手が届かないけれど風に乗せれば、上空にまで毒の香りを届けられるし、少しは空への備えになるでしょう」
聖法王国の個人戦力の最高峰は確認できたが、通常戦力の確認がまだ出来ていないからな。陸と空ではどのような装備を用い、どれだけの数が揃い、どのような戦術を取るのか、目下分からぬままだから警戒の仕方もどうすれば正解なのかが分からん。
とはいっても陸上での追撃であればセリナとディアドラの対処で十分だろう。バランさんは眉間の皴を深めながら思案を巡らせている様子だ。
「十分凶悪な気がするが……空への対策か。閣下、お留守の間にモレス山脈の竜種達からも聖法王国への対処に関しても、協力の申し出がありました。彼らも傷の癒えた者、疲れの取れた者達で警戒してくれるそうです。相互防衛条約の範囲内ですが、ありがたい申し出です」
「ああ、ジオルダ殿やヴァジェをはじめモレス山脈の竜種達には大いに助けられた。私達もまた彼らの助けとならなければならないな。
空への対処に関してはドランとドラミナ、それとドラッドノートを頼る。砲台ゴーレムを可能な限り後方に残し、制御をドラッドノートに預ける。通常の火薬式の大砲と魔導砲の類は移送の準備を進めてくれて構わん。
戦闘が発生する見込みは少ないが、兵士達には迅速な行動を願いたい。また時間がかかるようであれば物資を置いて行っても構わん。可能な限り焼却するか、余裕があれば時限式の爆発魔法を仕掛けておこう」
淡々と話を進めてゆくクリスに私やドラミナも思いついた案を口にしては許された時間の中で可能な限り、実現性と有用性について検討する。バランさんばかりは話が進むにつれて表情がまあころころと変わり、最終的には無言無表情になってしまっており、慣れていないとこうなるのだなあ、と私達に感想を抱かせた。
ふむ、改めて考えてみると、第三者から見た場合の私達ベルン男爵領はなかなかに凶悪なのでは? そんな事を思う私であった。いや、今更ではあるのだろうけれど。
執務室で今後の行動が決定した後、まず私はゴーレム生産を行う私、セリナ、ディアドラ、ドラミナと行動を共にする私、と四人の分身を作り出した。本体である私は補佐官兼護衛としてクリスの傍で待機だ。
ベルン男爵領の最重要人物であるクリスがバランさんを筆頭とした騎士や兵士達と共にベルン男爵領軍の先頭を進み、殿の更に殿をセリナとディアドラ、ドラミナ達愛しき恋人達と分身の方の私と一千体近くに膨れ上がったゴーレム達が務める。
バランさんやスペリオン殿下、メルルには悪い事をしたが、私とドラッドノートの監視によれば大軍も個人も聖法王国から私達の後を追ってきている様子はない。
警戒を緩めるつもりはないが、周囲に余人の居ない状況で恋人達を相手に少しばかり肩の力を抜いた話し方になってしまう。
今も展開中の黒薔薇と大蛇の組み合わせた防壁を遠くに見ながら、セリナと行動を共にしている私は、荒野の只中で木の棒と撥水性の高い布を組み合わせただけの簡素な天幕の下でセリナと肩を並べていた。
夜の空に掛かった雨雲はいよいよもって水の気配が増して、空気が湿り気を帯びて雨の降る前の匂いがし始めている。
焚火で暖を取っているのだが、セリナはすっかりと恒例になった私に巻き付いた体勢を取っている。これも暖を取っていると言えるのかな?
焚火にかけていた薬缶を取り、沸かしていたミントティーをお互いの手にある陶器のカップに注ぐ。ミントの清涼感は程よい目覚ましとなり、戦闘の高ぶりを残す私の精神を宥めてくれる。時折身じろぐセリナの下半身の鱗の感触が布越しにも感じられ、少しくすぐったい。
「ドランさん、なんだか長引いてしまいましたねえ」
「全くだよ。魔王軍相手でも下手をすれば長引くと考えていたが、今回の横槍でそれがほぼ確実になってしまった。聖法王国は暗黒の荒野の更に北だという話だからね。軍勢を引き連れて制圧というのは、現実的ではないね」
「ん~、じゃあ、単純に偉い人達を捕まえて戦争を辞めさせるか、やっつけてしまうかするのが一番現実的なのでしょうか。私達なら潜伏したりだとか、長い時間をかけて協力者を作らなくても出来るから、無理とは思いませんけれど」
「セリナも言うようになったな。自信を持つのと自分達の実力を認識できているのは良い事だ。私の戦った感触からしても、天意聖司の水準がハークワイア並みならば数次第ではあるが大丈夫だろう。ただセリナとディアドラは古神竜化の必要性は出てくるよ」
「む~、私とディアドラさんはまだまだドラミナさんやメルルさんの領域には達しませんねえ」
「君らも種族の内では紛れもなく最強だし、規格外の強者に入るのだけれどね。魔王軍をはじめ敵も規格外ばかりだから」
別に慰めというわけでもないが、私が事実を告げるとセリナは納得したようなしていないような曖昧な顔になる。おや、何か間違えてしまったかな。
「ドランさんと出会ってから戦ってきた敵で、規格外ではないとか常識外ではない敵さんっていましたっけ?」
「ふむ? まあ、滅多に会わないだけの敵ならいたと思うよ。海魔の雑兵などは強敵というわけではなかったろう?」
「それはそうですけど、隠れ里に居た頃だったら恐怖に震えてまともに戦えなかったと思います。うーん、懐かしい話をしたせいなのか、地理的には遠くないのにとっても遠い場所まで来た気がしますねぇ」
「そうか、そうかもしれないなあ。でもまだ私達は道を歩いている途中さ。人生という旅は時に足を止めて歩いてきた道を振り返るのも醍醐味だが、私はまだまだ歩き続ける。セリナをもっと遠いと感じる場所まで連れてゆくだろう。それでも、傍にいてくれるかい?」
この時、私はどんな顔をしていたのだろう。セリナの情に縋るような情けない顔でないと良いのだけれど。セリナは何をいまさらと言わんばかりに困った風に笑った。言うまでもない事を聞かれて呆れた、という感じかな。
「まったくもう、ドランさんは時々、変に自信を失くす時がありますね! 私がドランさんと離れ離れになるなんて、絶対にないんですからね!」
セリナはこれ以上ないくらいに自信を込めてそう言ってくれて、私に絡みつかせている体をすりすりとすり寄せてきた。私は戦場になる可能性のある危険地帯ではあったが、ラミア特有の愛情表現に身を委ねる誘惑には勝てなかった。宇宙の果てから、次元の向こうから不意を突かれても何てことないしね!
ドラン<セリナには勝てなかったよ……
セリナ<(*´ー`)エヘヘ
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第三百二十一話
レニーアがアークレスト王国を洗脳の雨から守っていた頃、ロマル帝国にも同じ雨が降り注ぎ、これを防いだのはハウルゼンが守護する帝都を含むごく一部の地域のみであった。
グワンダンとのその一行を含むアステリア達が帰還し、わずかな時間で変わり果てた国民達の姿を目の当たりにするのは今少し後のことである。
ドラン達アークレスト王国勢も、アステリア達ロマル帝国勢も、ヤーハーム達魔王軍も、それぞれが苦々しい思いを抱きながら母国に帰還する中、彼らに不快の種を植え付けた張本人であるハークワイアはバナキアとウーブルと共に巨大な空中戦艦の中を進んでいた。
暗黒の荒野で三ヵ国によって開かれた一大決戦に乱入するにあたり、暗黒の荒野の北東方面にまで進行していた聖法王国所属の艦であり、ハークワイア達の母艦でもある。
純白に彩られた艦体は前後に細長い穂先を思わせる流線形で、所々に黄金のラインが走っている。全長はアークレスト王国などで運用されている飛行船とは比較にならずない。艦尾には上下に鳥類の翼を思わせる部品が悠々と伸びている。
大国の宮殿の中と言われても疑いようがない程豪奢な艦内の廊下を進み、ハークワイア達は艦長室へと足を踏み入れた。たった一人でこの巨大艦の運用を担う艦長は、彼らの同僚でもあった。
「やあやあ、シークシータ! 小生らの帰還ですぞ! 腹が減りましたな。揚げいもはありますかな? あれにたっぷりバターと塩か砂糖をまぶして食べるのが小生の数少ない楽しみでありまして」
横にスライドした扉をくぐり、艦長室に入るや否やの第一声がこれである。こういう人物だとよく知ってはいるが、これにはバナキアもウーブルも困ったように笑う。
ハークワイアに食料をねだられた艦長ことシークシータも、二人の同僚にならって小さく笑った。ハークワイアらと同じ意匠の軍服に袖を通し、艶やかな黒髪を三つ編みにして垂らしている。毛先に細い緑のリボンを巻いている。
綺麗に切りそろえられた前髪の下から覗く柔和な印象の黒瞳に目鼻や淡い色の唇の配置は、これまで生まれてきた人間の中でも特に素晴らしい例の一つだろう。
「お帰りなさい、ハークワイア、バナキア、ウーブル。三人が無事に帰ってきてくれてとてもうれしいわ。ごはんはすぐに用意するからこのままここで待っていてね」
艦長室の間取りは二十人ほどを収容しても余裕がある間取りで、床と固定されている艦長の机の前には、来客用の椅子が六つ、白いテーブルを挟んで置かれている。机の上にはハークワイア達の為に事前に用意しておいた茶器一式と焼き菓子の類がある。
「おお、流石は誇らしき我が同僚。気が利きますな。はははは、いかんせん、何度も殺されたもので再生に随分と力を消耗してしまいました。ま! 我らの心が尽きぬ限り無限に力が湧く仕様ですので、消耗もへったくれもありはしませんが!」
声は大きく足音は小さく、けれどやはり態度は大きく、ハークワイアはシークシータの勧めに従って椅子に腰かけると、手慣れた仕草で大きなティーポットから芳しい薔薇の香りを立てるローズティーを自分とバナキア、ウーブルの三人分用意し始める。
有無を言わさず二人がお茶を共にすると決めてかかっているハークワイアの態度に、バナキアとウーブルは異論を挟む事の無駄をよく理解している為、諦めた気持ちで椅子に腰かける。
「ええ、私も拝見していましたよ。こちらの予測をはるかに超える強敵達でしたね。ハークワイアの第一撃から第三撃までで決着が着くと思ったらああでしたもの。
魔王さんもアークウィッチさんも、ベルン男爵領の皆さんもかつてない強敵だったわ。私が天意聖司の席を預かってから知る限り、最大の強敵に違いないわ」
その最大の強敵を話題にしているというのに、シークシータの見せている感情は“困った”程度のものだ。少なくともハークワイア達とドランの戦闘において見た限りの戦闘能力ならば、シークシータにとっては余裕をもって倒せる範疇に過ぎないのだろう。
シークシータの言葉に、小指を立てながらティーカップに器用に口をつけていたウーブルが、シークシータを愛称で呼びながら素直な感想を口にした。
「あら、シクタちゃんがそこまで言うなんて、とんでもない時期に天意聖司の席を預かったものだわねえ。あ、誤解しないでほしいのだけれど別に不満はないのよ? そんな大変な役目を果たすのがあてくし達でよかったと思っているのだから」
「ええ、分かっていますよ、ウーブル。貴方はもちろん、これまで天意聖司の名誉ある称号を授けられた者達で、与えられた任務と責任に真摯に取り組まなかった方はいませんもの」
「ふふ、それならよかったわあ。とはいえあてくし達の手落ちで大陸聖戦の第一段階にケチをつけてしまったのには大いに反省しないとだわ。聖法王陛下からどんなお叱りや罰が告げられたとしても粛々と受け入れないとね」
「あなた達だったからあれ程の強敵を相手に生きて帰ってこられたのだと、聖法王陛下と偉大なる神はご理解くださいますよ」
「いやはや、まったくもってシークシータの言われる通りかと! 聖法王陛下からのお言葉の通りにし、しかる後に我らにまだ天意聖司の席が許されていたならば、いや、そうでなくとも神と我らの家族の為に身を粉にするのが心意気というものでありましょうや」
色とりどりのクッキーを口いっぱいに頬張りながらのハークワイアの台詞である。言っている事は間違いないのだが、あまり良い態度とは言えないからシークシータも困り顔だ。
ここで上品な仕草で睡蓮の形をした砂糖菓子を齧っていたバナキアが、終始変えずにいた生真面目な表情のまま次に確認すべきことを口にする。
「それで同胞たるシークシータよ、肝心要の奇跡の方はどうなったのだ? 我らの家族は増えたか? 我らと同じく神を信奉する信徒は如何ほど増えたか?」
それはハークワイアとウーブルにとっても気掛かりなことだった。敵対勢力の突出した個人戦力の撃破も重要な任務だが、それ以上に神の威光と願いが世界に広まる方がはるかに大切なのだ。
これまで多くの異郷の地で異なる神の教えや精霊などを崇めていた人々を導き、家族としてきた奇跡、それこそレニーアが察知して消し飛ばしてナノマシンを含有した雨による支配に他ならない。
神の教えの尊さを説く必要はない。神の教えの正しさを説く必要はない。神の教えのすばらしさを説く必要はない。ひとたび雨に濡れてしまえば、もうそれでおしまいなのだ。
この艦長室に集った四人のうち、何人かもそうだったのかもしれない。あるいは四人全員が、以前はデミデットとは異なる何かを信じ、祈りを捧げていた可能性だってある。
「残念だけれど神の奇跡が及んだのは半分だけね。元からムンドゥス・カーヌスには軍神サグラバースの加護もあって、神の奇跡は及ばないと分かっていたけれど、アークレスト王国ではおそらくアークウィッチの施していたと推測される国土全土を覆う規模の結界の類で弾かれてしまったの」
「アークウィッチ・メルル、か。彼女の魂は霊的進化の兆しを見せていた。次に戦場で相まみえるときには更なる強敵となっているだろう」
「フーム! バナキアの言うとおりになるでしょうな。小生もあの御仁は更なる強敵になると確信しておりますよ! まあ、だからといって魔王ヤーハームや魔六将と呼ばれる幹部達、そしてベルン男爵領の戦士達がぬるい敵かと言えばそんなわけはまったくもってないわけですが!」
「ハークの言う通りねえ。アークレスト王国と魔王軍を相手にするのなら天意聖司全百名を一気に投入する方が良いかもしれないわぁ。やり過ぎかもって思うけれど、それくらいしないといけなさそうだし、ねえ?」
「ウーブルの意見も分からなくはありません。ですが聖法王陛下の危惧されていた可能性の一つが、ロマル帝国に残っていた事が確認されましたから、やはり三つの国を相手にする前提で考えませんと」
「あらやだぁ、バストレルの使っていた遺産の兵器はベルンの綺麗な男爵様が持っていたじゃない。となるとロマルの方は天人の今も生きている遺産だったのねえ」
「ええ。ロマル帝国の大部分は既に私達の家族となっていますが帝都とその近郊に限っては、話が違います。神の奇跡の防ぎ方からして、帝都に遺産は潜んでいると証明されたと言えるでしょう。
あくまで私の推測で、聖法王陛下や神のお考えとは異なる可能性もありますが、次に我らが向かうのはロマル帝国になると思いますよ」
「なあっるほどぉ! 大魔導バストレルの持っていた天人最強の兵器の所在が判明した今ぁ、次は陛下が危険視されておられる“星を破壊する船”の破壊が急ぅうぅ務というわけなので!?」
満面の笑顔で大口を開くハークワイアに、シークシータは、はしたないわよ、と窘める。
「はしたないわよ、ハークワイア。でも、ええ、神の教えを広めるのを邪魔する可能性が高い星を破壊する船の残存が確認できた以上、行動しない理由はないでしょう。
魔王軍とアークレスト王国を牽制しつつ星を破壊する船を誘き出してこれを破壊。しかる後に我らの神の教えを広めるべく布教に全力を尽くすの。ロマル帝国そのものはもうほぼ全て掌握したも同然ですけれどね」
はおられるか?』
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第三百二十二話
帝都を守護するハウルゼン大将軍の声に通信機を手に持つ侍女達からは、かすかに安堵の雰囲気が零れ出た。
影仕事もこなす特殊な訓練を受けた侍女達にしても、この状況では建国からずっと帝国の屋台骨を支えていた大人物の存在は頼りになるようで、つい感情が表に出てしまったようだ。
「ハウルゼン将軍、アステリアです。こちらの状況は把握しておいでですね?」
まだハウルゼンがあちらの状況を何も口にしていないにも関わらず、アステリアは自分が間違っているとは欠片も思っていない声で断言した。それはアムリアも同じようで、姉と同じく通信機を見つめてその向こうに立つハウルゼンの返答を待っている。
私も同じように帝都側の状況はさてどんなものか、と耳を傾けていると艦の外で警戒態勢を取っているリネットから念話が繋がってきた。ガンデウスとキルリンネもガリリウスの部下達と交戦した際の装備で、艦外にて警戒してもらっている。
もちろん、リネットを仲介して、ガンデウスとキルリンネにも私とリネットのやり取りを伝えている。
“グワンダン様、ハウルゼン大将軍からの通信ですが魔王軍はともかくとして聖法王国に傍受される危険性を考慮して高度な暗号化が施されています。ハウルゼン大将軍が聖法王国にそうする必要があると判断されたという事は……”
“ああ。私とメルル達との戦闘から判断して、最盛期の天人相当の技術力を有しているのだろうね。今になって聖法王国が動き出した理由が気になるが、今回は今までのように天人の遺産を相手にするのとは違う話になりそうだ”
“はい。リネットも、そしてキルリンネとガンデウスもグワンダン様と意見を同じくします。現状、ベルン側には天人に対しておそらく最大の対抗策となるドラッドノートがありますから、天人が相手なら随分と楽な展開になったでしょうにとリネットはいささか落胆しております”
“どちらかと言えば今回は珍しく天人の遺産が味方の側だからね。そうなると自ずと敵の正体が分かってくるものだ”
この時点で私達は聖法王国の黒幕とその正体についておおよそ見当をつけていた。惜しむらくは裏付けが取れていない事だろう。信頼性の高い裏付けが取れるまではあくまで推測の域を出ない。
さて私とリネットがハウルゼンに傍受されないように密かに思念による会話をしている間に、ハウルゼンからの返答が通信機越しに室内に響いた。
『その地点で移動を止めたのは正しい判断である。それ以上帝国領内に進めば戦力を大きく減らす事になっていただろう。現在、帝都とその近郊は無事だ。貴殿にとっては残念かもしれないがライノスアート大公も無事である』
「あら、敵対しているとはいえ叔父の無事を喜ばないほど冷血な姪ではありませんよ?」
とアステリアは楽し気に言うが、正確には自分が用意した死に場所以外で死なれては困るから、いや、面倒な事態になる可能性があるから喜ばない、というのが本当のところだろう。まったく恐ろしい女性であるものよ。
『ならばそう言うことにしておこう。状況についてだが現在ロマル帝国内において帝都近郊を除くすべての地域で一斉に蜂起が発生した』
国家転覆ないしは存亡に直結するような事態を知らされても、アステリアとアムリアに驚いた気配はない。あの赤い鎧兜の大将軍が自ら連絡を寄越すとなればそれくらいの事はあると予想していたのだろう。私もそうだ。
「それは、由々しき事態ですね。すべての地域という言い方からして、南部の反乱勢力だけで話は終わらないのでしょう?」
『肯定する。現在、ロマル帝国とアーレクスト王国の領内全域に人為的な降雨が確認されている。アークレスト王国は国土に張り巡らされた大魔女考案の国土防衛魔法に加えて、何者かの介入によって雨は防がれた。
しかしロマル帝国においては、私の手の届く範囲内のみが雨から逃れるに留まっている。つまり無事なのはこの帝都近郊のみだ。
艦内にいれば多少雨の影響を受けるのは遅れるだろうが、それでも濡れないに越したことはない。貴殿らはこれ以上ロマル帝国領内に進むべきではない』
「では雨に濡れた者が受ける具体的な影響は? またその影響を除去する為の手段について、ハウルゼン大将軍は心当たりがおありでしょうか? それ次第で私達の行動も大きく変わりましょう」
『雨は魔法や神の奇跡に一切頼るところのない、科学技術による産物だ。目に見えないほど小さな使い魔が雨粒の中に無数に潜んでいて、これらが脳内に侵入して強制的に思考を支配する、と考えればよい。
対魔法、対呪術系統の防衛策をすり抜ける代物故、対応が遅れて多くの民草がすでに聖法王国の支配下に入っている。それに反応した大魔女の防衛魔法は秀逸と称賛するほかないな。
そして雨を受けた者達と言葉による対話は無意味である。不可能ではなく、無意味と評した理由が貴殿ならば分かるな?』
「思考を強制されているのなら本人の意志など無いに等しい。そのような方を相手にいくら言葉を重ねても無為という事でございましょう?
魔法や呪いの類ならば本人の意志である程度抵抗が叶いますから呼びかける意味もありますが、お話を伺う限りは呼びかけても効果はないようですね」
『理解が早くて助かる。現在、降雨の影響を受けた者達が反乱勢力と皇女派、大公派の区別なく、唯一被害を受けていない帝都を目指して進軍中である。
幸いもとより戦う力を持たない者達は含まれていない。戦える者を選別し、行軍に必要な備えをしているからその分時間は稼げている。大公は帝都に残っていた部隊をまとめて持久戦を行う予定で動いている』
「横からやってきた指し手でもない人物に盤面をひっくり返されたようなものですのに、へこたれないのは流石、私達の叔父上と言っておきましょう」
アステリアにしては珍しい割と本気で感心している様子だ。次期皇帝の座を争わずにこの二人がどちらかの下に素直についていたら、ロマル帝国は相当に厄介な敵になっていたのは間違いない。
『すでにアイザ将軍の千里時空眼により聖法王国領内の偵察を済ませてある。彼女の眼をもってしても見えない領域が確認されたが、つまり、そこが彼らの心臓ないしは重要な器官に相当する地だと逆説的に証明している』
「予想外の反乱でしょうにただ呆けて時間を無駄にはしませんか。ふふ、敵対していると厄介ですがとりあえずは味方となると頼りになる有能さですこと。それでハウルゼン大将軍、話の続きをお願いします」
『降雨の洗脳に関しては、神々の魂を降臨させての奇跡かカウンターナノマシンの散布で対応できる。だが、まず先に雨の発生を止める事が先決である。超高高度に浮いている気象操作衛星を破壊するか停止命令を送れば止められる』
ふむ。アークレスト王国の方はあの力の波動からして、レニーアがハウルゼン曰く気象操作衛星を破壊してくれたようだが、ロマル帝国側の衛星は今も稼働中だからな。放っておくよりも手っ取り早く破壊したいところだ。
「私の知識では推測しかできない単語がいくらかありましたが、ハウルゼン大将軍はその程度で済ますおつもりではないのでしょう。時が惜しい事態と推察します。はっきりと言ってくださって構いません。ねえ、アムリア、貴女もそう思うでしょう?」
アステリアがアムリアに話を振ったのは、同じハウルゼンと契約を結んだ帝国の人間だからか。それともこれからロマル帝国を預かるのがアムリアだからか。
「はい。ハウルゼン大将軍は既に聖法王国の正体というべきものをご存じなのですね。そして聖法王国の打倒に全力を費やすおつもりでいらっしゃる。
ハウルゼン大将軍にとって、ロマル帝国との契約よりも優先すべき事態なのだとそれくらいは察せられます。ならばすでに聖法王国を倒す為に行動されているのではないですか」
『……過去は変えられぬがつくづくロマル帝国に双子を凶兆とする風習がなければと思う。貴殿ら姉妹が帝国の両輪となっていれば、どんな未来が描かれたものかとこの身をしてもつい演算などしてしまうものだ』
「私はハウルゼン大将軍には申し訳ないですけれど、今の自分を取り巻く状況や人の縁を好もしく思っています」
『であるか。ならばもしもの話など二度とは口にすまい。それにアークレスト王国の保有する戦力は私を含めロマル帝国の想定をはるかに上回っていた。
アークウィッチも大概だったが、昨今のベルン男爵領の戦力を見ればアークレスト王国との敵対は亡国への道を歩むのに等しいものだろう。だがそちらの線は妹姫があちらとの特殊な関係を築いたこともあって、回避できる見込みが高いのが幸いだ。
さてロマル帝国の後継者たる資格を持つ姉妹よ、これより、否、既に私は我が存在理由成就の為に行動している。
ロマル帝国初代皇帝と交わした契約は、聖法王国の介入を確認した時点で満了となった。契約者達との関係については貴殿らの交渉次第だが、これより私に由来する技術、人材の提供、新規契約の締結はないものと心得るがよろしかろう』
つい先ほど、そのことから冗談半分とはいえ姉妹間で次期皇帝の座を譲りあっていたアステリアとアムリアは瓜二つの顔を見合わせて、ほんの少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。事前の二人のやり取りを知ったら、ハウルゼンも少しは呆れたかもしれない。
「はい。姉上ともちょうどその話をしていたところでした。ですが私達に止める資格はないでしょう。聞くにハウルゼン大将軍にとってはお生まれになった理由とまで言われるのですから、それは命を懸けるにも等しき事。
貴方の事情の全てを知るわけでもない私達が訳知り顔で物は申せません。それに、ロマルはハウルゼン大将軍抜きではやっていけないほど、情けない国ではありませんでしょう?」
『ふっふふふ、なるほど、私も長く関わってきた国故、愛着はある。我が使命を果たした後はどのような運命を辿るのかと不要な機能を作動させてしまったが、まあ、悪くはあるまい。国の名前は変わるかもしれないが、その程度で済めば御の字であろうよ。姉姫と妹姫ならばそれくらいは許容範囲だろう』
「ふふ、素直な答えを返すのは遠慮しておきましょう。隠されたとはいえこれでもロマルの皇女ですから」
『肝が太く育ったものだ。どんな世界になっても生きていけそうで何よりである。ではこれより私の取る行動について説明しておこう。現在、私は帝都近郊地下にて待機していたあるものを起動させている。
現在、帝都を守護している歪曲場については継続して展開する為、雨に関しては半永久的に安全である。聖法王国もそう易々とは突破は出来ん。残された帝国の民が犠牲になる事はないのでそこは安心されよ』
「それはなによりです。ですがいつまでも受けてばかりもいられません。聖法王国の戦力は未知数ですがロマル帝国単体で勝てる相手でもありません。
第一、聖法王国は遠すぎます。物資を消耗した現在の状態では、仮に正確な本拠地が分かっていたとしても辿り着く前に物資が枯渇してしまいます。
もし国家間戦争の体裁で挑むのならば、再びアークレスト王国と、そして叶うならば魔王軍と協調して戦いを挑むのが最善です」
ふむ、国家間戦争の体裁で、か。どうやらアムリアはハウルゼンが戦争の体裁で聖法王国と事を構えるつもりがないと見抜いているようだ。
今のハウルゼンは“ロマル帝国十二翼将ハウルゼン”ではなくただのハウルゼンとして行動しているのだから、肩書に縛られない自由な行動が取れる。そこを忘れると彼の行動の予測を見誤ることになる。
『一千万の軍勢を用意したとて意味のない敵だ。聖法王国との戦いに必要なのは常軌を逸した規格外の戦力である。
現在、魔王軍とアークレスト王国に協力を求めるべく使者を遣わしている。どこからも協力を得られなければ私達単独で戦いを挑むが、魔王やドラッドノートの協力を得られれば幸いである。
貴殿らは今はそこで待機を。私の交渉次第だが他の二国の軍勢との共闘姿勢を取る場合もある。その際にはすぐ動けるように兵の士気の維持を頼みたい。食料をはじめ各種物資は明日には私が届ける』
魔王軍とアークレスト王国と共闘するにせよ、通常の兵力はよくて陽動か囮としてしか使えまい。それも含めてアムリアとアステリアの頭の中では今後取るべき行動と起きうる事態が何十何百と思い描かれているに違いない。
「本当に行動がお早い。どうやって届けられるのかは明日になればわかるでしょうから、問わずにおきましょう。分かりました。他に私達に出来る事はございますか?」
『ならばグワンダン、リネット、ガンデウス、キルリンネら四名に協力を願いたい。貴殿らの戦闘能力は聖法王国との戦いにおいて極めて有用である為。対価は私に支払えるものを全て支払おう』
ハウルゼンが言い終わるや室内の皆の視線が私に集まった。リネット達からは私が応じるのならばそれに従う、と既に連絡が来ている。彼女達ならばそうなるわな。こちらの私もベルンの方の私次第ではあるが、ここは乗るべき話だ。
「ふむ、名高きハウルゼン大将軍にそこまで評価していただけるとは光栄だ。かの聖法王国の思想とその裏に潜む者のうさん臭さを考えれば、ここは協力以外の手はないと私でもわかる。だが共に戦うとなれば情報の共有はしておきたい。聖法王国の正体は? 貴殿の素性は? ロマル帝国の根幹にも深く関わる秘事だがそろそろ聞かせてもらいたい」
ハウルゼンからの返答は間を置かずにすぐにあった。存在理由を果たすべく行動している彼にとって、そのほかの事は全て二の次だから、自分の正体であれなんであれもはや明かす事にためらいがない。
『承知した。まずは報酬の一つを前払いとする。だが、最低限の人払いくらいはしておこう。聞いてしまう事に耐えられない者もいよう』
ふむ、ここまでかなり深い話を侍女達に聞かせてしまったが、確かにそろそろ退席してもらった方が彼女らの神経と胃の為でもあるか。私が侍女から通信機を受け取るのを待ってから、アムリアが心から労わる調子で侍女達に退室するよう告げた。
部屋を後にする彼女らが廊下に出てから小さく零した安堵の吐息が、私の耳には聞こえた。ちなみに八千代と風香はまだスピスピと小さな寝息を立てながら寝ている。呑気さんめ。
「もう大丈夫だ。ハウルゼン大将軍、話の続きを」
『承知した。それと私は既に十二翼将の席を辞した。大将軍と呼ぶ必要はない。ただのハウルゼンと呼んでもらいたい。
さて、話の続きだが、聖法王国の操る技術からしてかの者らの崇める聖法王ないしはデミデッドなる神は、かつてこの星に襲来した星人の内の一種デウスギアの系列に属する者らで間違いない。
そして私と近衛隊としてロマル帝国に臣従していた者達は全て天人によって作られた、対デウスギア用自律稼働機動兵器デモナギア、その最終型である』
*
この頃、人型になった赤いカブトムシめいた姿のハウルゼンは撤退中の魔王軍の本陣にその姿があった。ドランらとの戦場になった移動要塞――正式名称ギャリアン級移動要塞の中に設けられた謁見室でのことである。
最低限の外交用の装飾を施した室内には、失った人形を補充中のヴェンギッタと療養中のトラウルーを除いた魔六将と魔王ヤーハームの姿がある。
一触即発の状況に陥ってもおかしくない顔ぶれなのだが、ハウルゼンにまるで戦闘の意志がないのとそれをヤーハーム側が理解していることもあり、空気がひりついてはいるが殺気立ってはいないという状況が出来上がっている。
「以上が私の保有している情報である。天人と星人の戦争期は三千年以上にわたるものだったが、その中でもデウスギアは特に強力な敵対勢力の一つだ。それでも他の星人達同様に、母星と植民惑星や人工惑星のほぼ全てを粉砕して戦争には勝ったのだ。
だがあれらの残存勢力の一部を殲滅できず逃がすという失態を、当時の私達と天人上層部は犯した。私はデウスギアとの戦争後期に投入され、そのまま残存勢力が再攻撃を仕掛けてきた際のカウンターとして残されて現在に至る」
ハウルゼンはアムリアらに伝えた通りに魔王軍に協力を求めに、こうして姿を見せてグワンダンに告げた通りに自分と聖法王国の情報を開示していたのだ。
本体の方のハウルゼンは現在アムリア達の元へと向かっているから、こちらに来ているハウルゼンは予備の機体を遠隔操作しているものだ。
「奴らから魔力も神の力も感じられなかったのがその理由か。過去に襲来した星人はあまりに多すぎて該当する奴らを絞り切れなかった故、貴殿からの情報は実に有用だ。その上で我らに共闘を持ちかけるか」
「しかり。されどこの度の戦いにおける呼びかけは、ロマル帝国十二翼将のハウルゼンではなく天人の遺産デモナギアのハウルゼンからのものであることを留意されたい」
「ふん、そこに付け込んでロマル帝国に恩を着せるのも選択肢の一つではあるが、非常につまらん。おれだけでなく民もそう思うだろう。
それをしてはおれ達は民から信用を大きく失う事になる。おれ達としてはそちらの方の損失が大きい。安心するがいい。貴殿はただのハウルゼンとして扱おうとも」
「ご配慮感謝する」
「それでお前はどうするのだ。敵の正体は分かった。情報は得た。次はこちらの行動について決めねばなるまい。
あの天意聖司とやら、あれは本人の資質以上に技術による産物としての面が強い。下手をすれば何十何百あるいはそれ以上に量産されていてもおかしくはない。となると手を込まねいて時間を浪費するのは利敵行為に他ならん」
「肯定する。連中がこの時期に動き出した理由が気掛かりではあるが、こちらの取るべき行動はただ一つ。殲滅である。それ以外にない。
聖法王国の支配は被征服国に関してはナノマシンによる強制洗脳に由来する。敵首魁を撃破してナノマシンの制御を奪えば、それだけで奴らの支配地域はなくなる。
その後の事に私は関知する資格がない。なぜなら私は今を生きている生命ではないのだから。領土を切り取るなり、再びロマル帝国とアークレスト王国を相手に戦乱を起こすも好きにされると良い」
「ふ、無責任といえばよいか、それともおれ達の扱い方をよく心得ていると褒めるべきか。いいだろう。我ら魔族をして古の時代より存在し続ける意志持つ器物よ。貴殿の口車に乗ってやろう。
なによりおれ達の戦いに水を差した奴らに一泡吹かせてやらねば、おれ達の腹の虫が収まらん。この怒りと苛立ちを最も早く叩きつけるのには、貴殿に手を貸すのが最良の方法だろうよ」
「感謝する。聖法王国を殲滅する為の手段と戦力集めは目下続行中である。私の演算通りであるならばデウスギアを殲滅するのに十分な戦力を確保できる」
「まさかとは思うが、アーレクスト王国のベルンの者達は当然含まれているのだろうな? よもやあれらを呼び寄せないと言うのなら、貴殿の正気を疑わねばならん」
「肯定する。現在、事情説明と協力要請を行っている。彼らの了承を得られた後、貴殿らを一か所に集めて聖法王国そしてデウスギア残党勢力の殲滅を実行する」
*
魔王軍の元へハウルゼンが姿を見せて状況説明と協力要請を行っていた頃、ジョウガン要塞まで後退して陣容を整えていたアークレスト王国軍の元へも、ハウルゼンは姿を見せていた。
角なし緑色の近衛隊の面子ではなく、こちらも訪れたのは赤いカブトムシめいた姿のハウルゼンである。
アーレクスト王国の面々がメルルが仕込んでいた国土防衛魔法が発動している事に大いに驚き、これは魔王軍か聖法王国の仕業かと怪しんでいたところへ姿を見せたのが、ロマル帝国元十二翼将のハウルゼンだった。
ジョウガン要塞内部の会議室の一つにハウルゼンは通され、会議室にはスペリオンを始めとしたアークレスト王国の首脳陣とドラン、クリスティーナ、メルル等が顔を並べている。
突如として姿を見せた上に喉から手が出るほど欲しい聖法王国の情報提供を申し出たハウルゼンは、大いに警戒されながらも要塞内部に足を踏み入れて、アムリア達とヤーハーム達にしたのと同じ説明を行った。
信じがたい情報の数々を聞き終えた後、スペリオンは半信半疑といった調子でハウルゼンに問いかけた。
「つまり魔王軍、ロマル帝国、我が国の精鋭達を集めて聖法王国の本拠地を襲撃すると?」
軍勢を率いてのまっとうな戦略などではない。ハウルゼンが用意するという“足”を使い、一挙に聖法王を討ち、聖法王国の支配者である偽りの神デミデッドを滅ぼすという驚天動地の作戦を告げられたばかりだった。
「肯定する。スペリオン王太子、聖法王国の要はデミデッドを名乗る星人の残党である。その者が聖法王国の骨格であり、脳であり、心臓であり、生命線である。かの者の排除は聖法王国の脅威の排除に直結する」
天人でさえお伽噺の領域だというのに、それに加えて星人ともなればまるで雲を掴むように要領を得ない話になる。ハウルゼンがこうして姿を見せて告げる以上、虚偽の可能性は低いが事実として飲み込むのに多少の時間を要するのも無理はない。
それからもスペリオンをはじめ、メルルを含むアークレスト王国側からの質問にハウルゼンが淡々と応じる中、クリスティーナの腰に下げられたドラッドノート宛にハウルゼンから天人時代の通信が入り、それをドランとクリスティーナに聞かせていた。
『通信に応じてくれたことにまず感謝を。今はドラッドノートと名付けられた一時の同胞よ』
ハウルゼンからドラッドノートへの呼びかけにはほんのわずかにだが、親愛の情らしき響きが込められている。ドラッドノートが天人に回収され運用されていた時期がハウルゼンの活動時期と合致していた部分があり、多少の面識があったのかもしれない。
そうでなくともドラッドノートは天人達から見ても再現不可能な技術で作り出された遺失技術による超兵器なのだから、ハウルゼンが知識として知っていてもおかしくはないだろう。
『感謝の必要はありません。私のことをスペリオン王太子達に黙ってくれていた貴方の配慮に応じたまでの事。私が天人よりも古き文明の遺産であることは、ベルンの秘事ですから。それで極秘の通信を私に繋いできた用件は?』
『私達は命令者から最後の命令を下されてより自己改造を繰り返し、性能の向上を図ってきたが、それはデウスギアも同じこと。そして奴らにとって最大の脅威は彼ら用のカウンターである私よりも、天人史上最強の兵器たるあなただ。
あなたを運用する為に作り出された有機デバイスであるバストレルとあなたによって、天人と敵対した多くの星人や異次元の侵略者が撃退された。
バストレルが死んだと知った時には対デウスギアの切り札が失われたかと嘆いたが、あなたがそのように自我を確立し、真に認めた所有者を得られたとなれば話は変わる』
『もし貴方の言うとおりに聖法王国の黒幕がデウスギアだとして、バストレルの死後、私の所在を見失う程間抜けではないでしょう。加えて先の戦闘で私の存在を把握した筈です。それでもなお戦闘行動を停止していない以上、私への対抗策を用意していると見るべきです』
『肯定する。あちらもこちらも手札を知っているのだ。ならばどれだけ対策をしてきたか。そしてどれだけ相手の予想を上回る手札を用意できたか。それがこの戦いの勝敗を決する要素となる』
『デウスギアの予想を上回る為の手札のいくつかが、魔王軍と私の主達になるわけですね。貴方自身もいくつか用意はしているのでしょうが……』
しかし、とドラッドノートは思う。デウスギアがどんな手札を用意していたとして、それは果たして古神竜ドラゴンをどうにか出来るものだろうか? と。
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第三百二十三話
ライノアスアート大公は、城内の執務室の窓際に立ち、帝都を中心に半球状に広がる不可視の力場によって遮られる雨を親の仇であるかのように憎悪をもって睨みつけていた。
ロマル帝国内の戦力の大部分を姪であるアステリアに預けて魔王軍討伐に差し向けた時には予想もつかなった事態は、さしものライノスアートからも常の余裕を奪い去っていた。
例の如く執務室には彼の子飼いである十二翼将アイザの姿があり、他には護衛らしき影はない。
精巧に作られた人形を思わせる雰囲気で、ソファに腰かけたアイザが思わずといった調子で訥々としゃべり始めた。
「大公、すみません。私、雨の異常性、見抜けませんでした。そのせいで、帝国の民、本来は反徒でない者達も、皆、おかしくされてしまいました。私、が、見抜けていれば……」
ヴェールによって顔が隠されていても、その向こうで沈痛な表情を浮かべているのがありありと分かる、己を際限なく責め立てる痛ましい声音である。ライノスアートはそんな声を出すアイザを振り返り、ふっと眉間に寄せていた皺を緩める。
「そう己を責め立てるものではない。お前の眼は大変に優れたものではあるが、知らぬ物は見えても警戒のしようもあるまい。ましてや雨に偽装されていてはな。向こうの方が上手だったのだ。そして準備にかけた時間も我らとは比較になるまい。それこそ、お前達と同じだけの時間を掛けたに違いない。そうだろう、ハウルゼン?」
ライノスアートの視線はソファの上で俯くアイザから、音も気配もなく執務室に入室していたハウルゼンへと向けられていた。
魔王ヤーハームの元へ赴き、スペリオンの元へと姿を見せ、そしてアステリア達と連絡を取り合っていた筈のハウルゼンは、こうしてライノスアートの前にもその姿を見せたのである。
「肯定する。このロマル帝国の歴史よりも長くいずこかの地で雌伏の時を甘んじて受け入れ、今日という日を待っていたのだ。奴らも私達も。大公、私達は行く。初代皇帝との契約はこれにて満了となり、以後、私達はロマル帝国に関わらない。
現在、帝国内のほぼ全勢力が敵に回った状態だが、私達が目的を果たせばこれらは即座に無力化に近い状態に陥る。まずは帝都市民の混乱を鎮め、秩序を維持する事だが、次に反徒達が正気を取り戻した場合に備えて、準備を進めておくのを推奨する」
「ふ、血の通わぬ鋼鉄のお前でも長い時を過ごして少しはロマルに愛着を持ったか。臣民の安全は言われるまでもなく確保する。後はお前たちが作られた理由を全うする時を待って、籠城戦を演じるのみか」
「籠城戦の備えは歴代の皇帝に必ずさせてきた。備蓄物資と帝都内の設備で十年は飢えまい。また私達はこの地を去って奴らを痕跡も残さず完全に消し去るが、私達の方で残せるものは残しておく。
帝都地下の避難区画と生活物資は使ってくれて構わない。軍事利用可能な物資と技術は残せないが、それ以外は問題ないと私達は判断した。詳細はこちらの資料を参考にするといい」
ハウルゼンはそれだけを告げて、手に持っていた分厚い紙の束を執務机に置いた。今のロマル帝国でもアークレスト王国でも使われていない、極めて上質の紙だ。
なに一つをとってもハウルゼン達の秘匿している技術は、現在の技術水準をはるかに上回っていて、最初からそれを開示していればロマル帝国は大陸の覇者となれたかもしれないものを、とライノスアートは何度目になるか分からない思いを抱き、それをすぐに噛み潰した。
紙束を手に取り、パラパラとその内容を読み取ったライノスアートは疲れたように息を吐いた。
「そうか。これだけあるか。十年が二十年にも三十年にも伸ばせそうだな。だが、それよりも早く終わらせて来るのだろう?」
「無論だ。私達はもうずいぶん長くこの星の上であり続けたが、その役目を終える時が来たのだ。私達の創造主天人は既に種としての命運は尽き、この星の未来は今を生きている貴殿らを含む多くの生命が形作っている。天人の残り香である私達はこれより最大最後の役目を果たし、それでようやく終わった過去へとなれる」
「まるで自滅願望を思わせる口ぶりだな。ハウルゼン」
「なに、役割を終えた後を想像する機能が貧弱な弊害だ。貴殿が気にする必要はない。それとアステリア皇女だが通常の戦力は連れてゆけない。だからこそ、アステリア皇女は私達が役割を果たせばすぐさま艦隊を引き連れて帝国内に戻ってくるぞ。
正気を取り戻した反徒達の中には反乱勢力の者達も含まれる。貴殿が反乱勢力とそうでない者達の入り混じる反徒達に対処している間に、大軍を率いる皇女の出現とあれば貴殿にとっては大変に苦しい状況になる」
「嫌なことを言ってくれる。諦めたくはないが潮時と意識せざるをえない状況を持ってこられるわけか。つくづく忌まわしい話だな」
「デウスギアが動かなければまだ貴殿にもやりようはあったが、こればかりは間が悪かったものと諦めよ。貴殿は自身の野心の為に十分に働いた。これ以降はもう休んではどうだ?」
「ふん、それを決めるのは私だが勝機のない戦いなどやってはいられんのは確かか。アステリアとアムリアの関係次第ではまだ私が手を打つ余裕はあるかもしれんが、アムリアの人格が分からん以上はそれも難しい。アステリアに正面から敗れるのならまだしも誰とも知らん連中の横槍で諦めるなど、腹立たしいにも程がある」
「雌伏の時を経て皇帝の座を狙うも、重臣の地位を得てそれに甘んじるも、はたまた野に下って隠者として過ごすもよし。好きにするがいい。その自由が貴殿らにはあるのだ。
では私達はそろそろ行く。行動を起こしたデウスギア共に時間を与えては、ますますこちらが不利となるばかり故。さらばだ、ライノスアート大公、そしてアイザ将軍。末永く親子仲良くな」
執務室に姿を見せた時と同様にハウルゼンは扉を使わずに、いつの間にか姿を消していた。ライノスアート達に幻影でも見せているのか、それとも短距離の空間転移でも使ったのか。
ロマル帝国の起こりから繁栄を見続けてきた生きた伝説との別れは、このような事態になるまでライノスアートは想像もしていなかった。
彼が生まれる前から存在していたハウルゼンは、時にロマル帝国そのものと扱われるほど大きな存在である。
それが自ら帝国から去ったという事実を目の前で突き付けられてもなお、ライノスアートにはどこか現実感に乏しい事態だった。いつまでも、それこそ自分が死んだ後もあり続けると思っていた存在が、こんなにあっけなく居なくなる現実をまだ受け止め切れていないのだろうか。
「ああもあっさりと帝国を離れるか。口にした通り愛着はあったのだろうが、あるいはアステリアかアムリアになら自分のいなくなった後のロマルを託せると判断したのか?」
自分は託せる相手とは考えられてはいないだろう、とごく自然とライノスアートは認めていた。これまで散々姪と戦い続けてきた経験と、周辺諸国と策謀を繰り広げ続け、更には魔王軍ばかりか聖法王国という星人の残党まで出てきた現実を鑑みた結果だ。
ライノスアートに想像できるのは、アークレスト王国など名前を知っている国家からの介入程度だ。聖法王国もといデウスギアなどもう理解の外だ。歴代の皇帝達とてこんな状況では頭を抱えるだろう。
ライノスアートは決して自分だけ頭が固いのだとは思いたくないが、アステリアとアムリアならこの事態にも柔軟に対応するのではないかと、そう感じられた。
だからハウルゼンが後の帝国を託す相手としてアステリア達を選ぶとして不思議と納得がいっているのだった。
「あの、あのあの、大公」
ライノスアートが感慨にふける中、妙にうわついた調子でアイザが声をかけてきた。ライノスアートは、訝し気に顔を隠した小さな少女に視線を向けて続きを促す。
「どうした?」
「いえ、あの、ハウルゼン大将軍、私達、が、親子だと、知っていました。どうして?」
「ああ、秘事としていたからな。お前が私の娘であるとは、アステリアも知るまい。だがハウルゼンは別だ。
彼には皇室の血を持つ者が新しく生まれたら報告するのが義務となっている。アムリアの件も彼は知っていたろうさ。それにハウルゼンが相手ではどれだけ隠そうと、筒抜けに違いなかろう」
「ハウルゼン大将軍も千里眼を持っている、ですか? それとも、順風耳持ち?」
「詳細は私も知らぬよ。ただ帝国だけでなく世界中のいたるところにハウルゼンの目が届き、耳が音を拾っているのは確かだ。私とお前のことを知っていたのは大した問題ではない。
問題はこの後の展開だ。ハウルゼンは必ずやデウスギアを何を犠牲にしてでも滅ぼすだろうが、その後はアステリアに主導権を握られるのは明白だな。この状況ではこちらで対抗策を練るのも難しい」
「詰み、ですか?」
「ほぼそれに近い。アステリアは、聖法王国の撃退とこの雨がもたらした事態の解決を謳いながら帰還してくるだろう。大いなる戦果を掲げて帰還する救国の皇女を相手に、城に立て籠ったとしても私の悪あがき以外の何物でもない。誰もがそう思うだろう」
「では、アステリア皇女、臣従しますか?」
「素直にそうする、と言えない程度には腹立たしいのが困りものでな。まあ、お前の処遇が悪くならないように手を尽くすさ」
「……私は、私より、大公、心配です」
そう告げるアイザに、ライノスアートは困ったようにも、そして嬉しそうにも見える顔で笑った。
ライノスアートは紛れもなくロマル民族至上主義者である。
その彼の娘である以上は、アイザも純ロマル民族であるはずなのだが、ではなぜ彼女が顔を隠し、決して姿を見せないようにしているのか。
宮中で数多く口にされた、実は異民族である、あるいはロマル民族と異民族ないしは異種族の血を併せ持ったダブルである、という噂も決して根拠がないわけではあるまい。
ライノスアートが誰との間に設けたのが、アイザであるのか。アイザの出自の詳細はこの親子二人とハウルゼンのみが知る秘密で、その秘密を三人とも墓の下まで持ってゆくつもりなのは間違いなかった。
それからしばし、ライノスアートは未曽有の事態に不安を募らせる帝都市民に発表する為の原稿の作成に勤しみ、アイザもまた徐々に帝都を包囲しつつある洗脳された者達の監視に注力していた。
だが、それも帝都近郊の地下から地面を割って姿を見せて、悠々と空を飛ぶソレを見た時ばかりは動かしていた手を止め、ライノスアートに至っては苦々しく呻いた。
彼らだけでなく帝都に住まう誰もがソレを見上げて、茫然と立ち尽くすほかなかった。事前にハウルゼンが事態解決の為、じきじき帝都を出立してアステリア皇女と合流すると発表してはいたが、こうも派手に動くとは誰にも予想できなかった。
「ハウルゼンめ、あんな物を隠していたのか。建国帝よ、改めてお恨み申し上げる。どうしてハウルゼンを帝国の発展の為に力添えさせるように、契約を結ばれなかったのかっ」
「おっきい、です」
アイザの簡潔な感想がソレを目撃した人々の共通した感想の一つだった。まるで扉が開くようにして、帝都近郊の草原の一角が左右に開いて沈み、そこから一体いつから隠れていたのか、途方もなく巨大な物体が姿を見せて帝都の上空をゆっくりと進み始めている。
今も空に浮かぶ天人の飛行都市や浮遊島を思わせる、帝都よりもさらに巨大な物体は豪奢な装飾を施された剣を思わせる形状だ。
磨き抜かれた銀色に輝く金属の装甲を持ち、魔法と科学の混合技術によって自在に空を飛び、鋭い切っ先を思わせる艦首をアステリア達が待機している北東方向へと向けて、徐々に速度を上げてゆく。
現在のロマル帝国やアークレスト王国があとどれだけ歴史を重ねれば、同じものが建造できるのか、想像もつかない超技術の産物に他ならなかった。であればライノスアートが思わず恨み言を零してしまうのも仕方なかったろう。
*
「そうか、そこで眠っていたか。アーカディアンの残滓よ。我が神デミデッドはほんのわずかだがお前を記憶していたぞ」
聖法王国の人の頂点聖法王が座し、信仰対象である神デミデッドの庇護厚き聖都デミデオンの玉座にて、聖法王は宇宙から地上を監視している“星の瞳”と呼ばれる監視衛星からの映像を眺め、アルカイック・スマイルを浮かべながらそう述べていた。
玉座の間にはやはり彼の側近である枢機卿や高位の神職者達の姿があり、デミデッドの経典に記されていた神の敵の姿に、聖法王を除く全員の胸に小さくない興奮と闘志が沸き起こっている。
「あれなるはデミデッドの神託にありしデモナギア。神の定めたもうた神敵の一つである。新たな聖戦の一幕に滅ぼすべき敵が姿を見せたるは神の予見の通りであり、これを討つは我らの責務である。
我らの神デミデッドは偉大にして賢智なりしも全知にして全能にはあらず。故に神は我らを必要とされている。我らもまた神を必要としている。神と人とが互いを必要とし、共存共栄する我らの力によって、神の敵を討つのだ。
同時に新たな家族を増やさねばならぬのはいささか重労働だが、デミデッドは必ずや報いてくださる」
冗談めいた言葉を交えて告げる聖法王に、周囲の者達は笑みを交えて首肯する。彼らの主観においては、他の信仰とは異なり、神に隷属するのではなく、神に依存するのではなく、神から必要とされ、自分達も神を必要とする自分達の信仰こそが最も健全で最も正しいと心から信じている。
「聖戦に赴いた天意聖司達の状況はどうか?」
聖法王の問いに、聖法王国の軍事の最高責任者である聖戦士長ザーバインが一歩進み出て答えた。飾り気の少ない純白の法衣に屈強な身を包み、腰には刃のない長剣の柄を下げた鷹人の男性だ。
背からは猛禽類の翼が生えて、耳もまた鷹の羽に似た形状をしており、黄色い瞳は種族名さながらの鋭さだ。佇まい一つでただならぬ強者であるのを理解させる、そんな男である。
「はっ、現在、シークシータの戦艦ヴァルシオーに天意聖司十席から一席までが集結しております。神託に基づく予定に従いムンドゥス・カーヌス、ロマル帝国、アークレスト王国への同時教化を一時停止し、サタナギアの移動拠点の破壊を最優先目標へと変更しております」
「うむ、計画の通りだな。後はサタナギアの戦力いかんでこちらの行動が変わるが、あちらも早々筒抜けのままではいてくれないな」
聖法王が言うが早いか、突然、空中に投影されていた立体映像が途切れて、灰色の砂嵐を思わせる乱れたものが映し出されるだけになる。ハウルゼンが起動させた要塞からの砲撃により、星の瞳が撃墜されたのだ。
星の瞳は一つだけではなく、すぐに映像が切り替わるも既に要塞の影も形もなかった。周囲の光景と同化する光学迷彩かあるいは亜空間や次元の狭間に潜航して、こちらの世界から姿を消したのだろう。
「だがデミデッドの祝福により聖法王国の領内には、転移をもっては侵入できん。またシークシータのヴァルシオーならば亜空間であろうと虚数空間であろうと、その所在を暴き立てる。それにあちらも天意聖司を無視はすまい。聖戦士長の見識は如何か?」
「陛下の言われる通りかと。ロマル帝国から出現した事、また、ロマル帝国内に不相応な技術による生体強化と装備を有していた一団が存在した事も踏まえて、サタナギアは少なくともロマル帝国内の戦力と合流し、こちらへ侵攻を図るものと推察いたします」
「こちらもあちらも一般の兵らは舞台に上がれぬな。そしてアークレスト王国のドラゴンスレイヤー継承者とも合流を図るだろう。場合によっては、ふむ、ほぼ確実に魔王軍からも戦力を集うぞ。
軍神サグラバースの気質を継ぎ、神器をあそこまで使いこなす者らなれば、我らの介入を断じて許すまい。それに加えて、単純に戦ってみたがるであろう。
天意聖司達には全力戦闘を許可する。すべての神授兵装、神授権能の使用を認めよう。我らが死力を尽くせば、神もまたそれに答えてくださる。神と人とが一体となる我らの信仰を、彼らに知らしめよ」
「はっ、すべては我ら聖法王国と神デミデッドの為に」
ザーバインがことさら謹厳な表情で告げる言葉に、聖法王は鷹揚に頷く。彼にとって、そしてデミデッドにとってサタナギアは決して本命ではないが、わざわざそれを告げる必要はないと、彼も神も判断していた。
*
聖法王国の監視の目から姿を消したハウルゼン達は、その間に要塞から出撃させた大気圏内外で活動できる小型艦を用いて魔王軍、アステリアらロマル帝国軍、そしてアークレスト王国軍から呼びかけた三国の精鋭中の精鋭を集結させていた。
彼らが一堂に介して顔を合わせたのは、次元の狭間に潜航中の要塞、その第一艦橋とされている場所だ。
航行に際して一切の人出が要らない要塞の艦橋は、平坦な広間となっており、青みがかった構造材が床と天井を構成し、壁はすべて外部の光景を映し出すモニターとして機能している。
唯一、部屋の中央に一つだけやけに大きな椅子があるきりで、他に何かしらの設備はない。
要塞の主であるハウルゼンは椅子の前に立ち、そのハウルゼンの後ろには椅子に腰かけた小さな人影が一つあった。二人の周囲には招集された各国の精鋭達の姿がある。
つい先日までは命を懸けて戦っていた面々である為、空気にはお互いの首に刃を突き付けているような緊張感があるが、全員がそれに欠片も臆していない。
その緊張感を宥めようともしないハウルゼンは真っ先に歓迎の言葉を口にする。こんな場合でも社交辞令というものになるだろうか。
「ようこそ、対デウスギア戦闘要塞“カイゼロン”へ。この度の呼びかけに応じてくれた貴殿らに全霊の感謝を捧げたい」
ハウルゼンの歓迎の言葉を受けるのは、魔王軍より魔王ヤーハームと魔六将全員、ロマル帝国よりリネット、ガンデウス、キルリンネ、ベリラトゥことタナトス、アスラム、アークレスト王国よりメルル、ドラン、セリナ、ディアドラ、ドラミナ、クリスティーナ(ドラッドノートは長剣形態で待機中)の十八名と一振り。
ハウルゼンのどうやら本気らしい感謝の言葉に、ヤーハームは若干毒気を抜かれながら集まった面子の顔を見まわして、素直な感想を口にした。
「ふっ、こうして顔を揃えると大した顔ぶれだな。ここにいる面子だけで世界を敵にして勝てそうだ」
「世界の定義によるが、概ね可能だろう。各種族の歴史を振り返っても最高峰の戦力の集結である」
ハウルゼンはこのように答えたが、同時にクリスティーナの腰に下げられて黙っているドラッドノートがあれば、三竜帝三龍皇が敵に回ったとしてもまるで問題ないと理解している。
それにデウスギアを倒す為だけに存在しているハウルゼンとカイゼロンは、三竜帝三龍皇達にとって敵というよりは古い知己としての面が強い。こうしてデウスギアを倒すために活動している限りは、龍吉らと敵対関係に陥りはしない。
「ムンドゥス・カーヌス、ロマル帝国、アークレスト王国からディファクラシー聖法王国ひいてはその背後で弓を引くデウスギアを壊滅させる為の戦力として、貴殿らを招集した結果、目標達成の確率は劇的に上昇したと確信している。
初めて見る顔もあるだろうが、敵陣到着までの間にそれぞれ自己紹介を済ませておくのを推奨する。ただ、私とこちらの者は全員に知っておいてもらった方が、今後差し障りはなかろから顔と名前は覚えておいてもらいたい」
ハウルゼンがすっと横に一歩どいて、椅子に腰かけていた少女の全貌を露にする。体に密着したインナーの上に、金属めいた光沢のある銀色のケープを羽織っていて、薄緑色の長い髪をまっすぐに伸ばしている。
切りそろえた髪の下から覗く円やかな月を思わせる金色の瞳に感情の色は希薄で、鼻も唇も顔も小さく、見た目はリネットとそう変わらぬ年頃に見える。ハウルゼンとは異なり外見は完全に人間の子供だ。アンドロイド、人造人間、ホムンクルスといった単語が彼女を見る者達の内、何名かの脳裏をよぎった。
「カイゼロンの生体制御ユニット“ルナマリス”だ。ルナマリス」
ハウルゼンに促されると、ルナマリスは椅子から立ち上がり、集まった面々に向けてちょこんと小さく頭を下げる。
「ルナマリスです。ハウルゼン共々、よろしくお願いしますです」
まるで小鳥の囀りのように小さな声だ。このルナマリスの存在が、ハウルゼンがたびたび不適切な形で“私達”と自称していた理由なのだが、挨拶をされた面子の内、リネット、ガンデウス、キルリンネの三名は自分達と似た出自であろうルナマリスに興味津々の様子である。
「目的地までの輸送と戦闘中の通信と管制はルナマリスが担当する。短い付き合いになるが、私共々よろしく頼む」
ルナマリスの存在に対して今いる面子で特に異論や否の言葉を口にする者はいなかったが、その代わりにこの場に居てもおかしくない者がいないのを不審がる者はいた。ガリリウスが姿のないドラゴニアンについてハウルゼンに尋ねる。
「貴殿とそちらの少女の姿をした者は構わんが、ここにあのグワンダンを呼び寄せておらぬのはどういう了見だ? 吾を呼ぶよりもかの御仁を呼び寄せる方がよほど戦力になるだろうよ。そちらのメイドも含めてな。それとも断られたのか?」
ガリリウスの寄せる視線にタナトスはどこ吹く風と無視を決め込んでいる。普段は有能な大女神だが、ドランが関わると積年の親愛の情が自分を空回りさせると理解しているからこその無視である。
「むろん、参陣は願った。一度は了承を得たのだが自分が出ずとも聖法王国を打倒可能な戦力が揃っている、と言い、代わりにそちらのベリラトゥというメイドの参加を推奨されたのだ。
万が一の事態に備えて予備戦力を残しておくのは、悪い手ではない。またグワンダン殿ほどの実力者ならば単騎でも聖法王国の意表を突く切り札になるとして、無理に参加を強いる事はしなかった。彼がこの場に居ない理由は以上である」
「ほう、自分は必要ない、か。彼がそう口にしたのなら十分な根拠と確信があったのだろう。戦場でしか知らぬ仲だが、信用に値する相手だ。それにそちらのメイド殿の実力は、嫌という程味わわされているしな」
「異論がなければなによりだ」
ハウルゼンがどこまで本気なのか今ひとつわからぬ声でそう告げる一方、セリナやディアドラの視線はドランに向けられている。グワンダンが参戦しなかった理由の一つは、紛れもなく本体であるドランが参加しているからだ、と確信していたからだ。
名前も外見も違うが、同じ戦場に自分が二人も参戦するのは面倒だ、と思ったのもあるだろうし、ハウルゼンが推察したようにカラヴィスタワーのドライセン共々、万が一の保険として残しているのも事実だ。
「では話を戻す。我々はこのまま次元潜航したまま聖法王国の首都を目指して進行する。だがデウスギアが技術を進歩させていれば我々の姿を見逃しはしまい。
加えて敵戦力の漸減も含め、暗黒の荒野北東部に集結しつつある敵部隊に奇襲を仕掛けこれを殲滅するのを最初の目的としたい。ルナマリス、映像を」
「うん」
見た目通りの幼子然とした調子でルナマリスが返事をするのと同時に、三方を囲む壁面のモニターにシークシータが一人で運用している巨大戦艦ヴァルシオーの光学映像が映し出される。魔法を用いていない純粋な科学技術で映し出された光景に、興味深そうにする者もそうでない者も、これから戦う敵の姿を子細に観察しようとする姿勢に大差はない。
「天意聖司と呼ばれる者達はデウスギアの技術によって、細胞単位で強化措置を施された者達だが、その為、量産が利く。個体ごとにコンセプトと性能に差は存在するが、現在、高いエネルギー反応を持つ者が十体、敵戦艦に集結している。
その他にも刻一刻と戦力は集結している。初戦でこれらの敵戦力を撃滅できれば、今後の戦闘を優位に進められるだろう。逆を言えばあれらを撃滅できないようでは聖法王国の陥落と、デミデッドの殲滅など戯言に過ぎない」
淡々と告げるハウルゼンの言葉に、何名かは今一つ面白くなさそうな顔をする。ハウルゼンに他意はないのだが、言い方が癇に障ったらしい。その面白くなさそうな顔を配下の中に何人も持つヤーハームが、ハウルゼンに問いを重ねる。
「わざわざ煽るような言い方をしなくとも、こちらの闘志は萎えておらんよ。ところで戦い方はどうする。戦艦と要塞とで遠距離からの撃ち合いか? それではおれ達を招いた甲斐がないだろう」
「煽る意図はないが気を悪くされたのなら、謝ろう。さて互いの技術の進歩があるから断言はできんが、大気圏内では互いに全力での砲撃は出来ん。牽制程度に留めて距離を詰め、敵艦内部に侵入し制圧という戦い方になるだろう。
有人惑星が近距離にない宇宙空間でならば全兵器を使えるが、惑星の上で戦う以上は制約がある。デウスギアはあくまでこの星の支配を望み、私達もまた創造主の母星を破壊するような真似は禁じられているからだ」
「それならばおれ達にも出番があるようだな。距離を詰めるまではお前達にゆだねる他ないのか?」
「ふむ、護衛の機体はあるが、砲撃戦に参加する協力者が欲しい。ちょうどよい人材がいるだろう?」
そう告げるハウルゼンの言葉に、その“ちょうどよい人材”に向けて、全員の視線が寄せられる。自分以外の視線が殺到する状況に、ちょうどよい人材ことメルルはついさっきまで全方位へと向けていた好奇心の輝きを引っ込めて、ぽかんとした顔で自分を指さす。
「えっと……ちょうどよい人材って、私?」
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第三百二十四話
誰もが納得する人選の中で唯一メルルだけが自分を推挙された事実に、納得がいっていない、いや、実感がないといった表情をしている。
「あのう、ハウルゼン大将軍閣下、本当に私の実力で足りるのですか?」
「不足はまるでない。それと私は既にロマル帝国に籍を置いていない。ただのハウルゼンと呼んでもらって問題はない」
「ええ? さらっと大問題発言!」
ロマル帝国の生き字引たるハウルゼンが十二翼将の席を離れた、という情報は平時ならば戦争の引き金を引いてもおかしくない程の一大事。メルルの反応は当然と言えた。
ハウルゼンからすれば噂されていたものよりも数段上の実力を持っていたメルルの方が、自分よりもよほど大物なのだが、今はそれを口にする場面でもない。
「それだけ私のデウスギア達との戦いにかける決意が固いもの、と捉えてもらいたい。メルル嬢、カイゼロンの保有する武装とデウスギア側の予想される兵器について、ルナマリスからレクチャーを受けてもらいたい」
「敵の情報は大切ですものね。その点に関して異論はありません。ええっと、ルナマリスちゃん?」
「はい。ルナマリスです」
「ええっと、うん、メルルです。それじゃあ、このカイゼロンについて教えてもらえるかな? 私が砲台役を担えるのなら、火力は最低でも私以上なのかなあって勝手に想像しているけど」
カイゼロンの火力の最低基準がメルル並み、という推測を耳にしてセリナやマスフェロウが大きく顔を引き攣らせた。先だっての魔王軍との戦闘で見せたメルルの過剰なまでの殺傷能力を考えれば、最低でもメルル級というのは正気を疑う基準設定だろう。
ルナマリスはまるで父親に確認するかのようにハウルゼンに視線を送り、彼に頷き返されるのを確認してから、こほん、と居住まいを正して口を開く。発表会を前に何日も練習してきた子供のような仕草に、知らずディアドラやドラミナ達の口元が緩む。
「では、こほん。本要塞カイゼロンの主兵装である素粒子ビーム砲、量子ミサイル、重力兵器から、過去の戦闘でデウスギア側の使用した兵器並びにそこから発展し実装されている可能性のある兵器について、僭越ながらこのルナマリスがお伝えしますです」
「はい、よろしくお願いします!」
メルルがカイゼロンと共に撃ち合いを演じる相手はヴァルシオーだが、相手が未知の技術で建造された戦艦だろうと思うままに力を振るえる期待があるのは、魔六将だろうが戦艦だろうが変わりはなく、メルルは極めてまじめな態度の生徒としてルナマリスの話を一語一句聞き逃さないように耳を澄ます。
またメルルと直接戦った魔王軍の面々とドラン達からみると、メルルは霊魂の位階を次の段階へと進化させるまであとわずかな状態であるから、ことによれば戦闘中に進化する可能性もある。未知の部分が多いデウスギア相手でも決して見劣りはしない、というのが共通の見解であった。
メルルとルナマリスを他所に、奇妙な共闘関係を築くことになった面々はハウルゼンが推奨したように、一応、互いの自己紹介と話し合いなどしようと先程までの緊張感を緩めて歩み寄る。
ドラン達アークレスト王国組に配下を引き連れたヤーハームが近づいて、この状況を楽しんでいる様子だ。最高の敵とこうして肩を並べて邪魔者と戦うのも楽しいものだとでも考えているのが、透けて見える。
「この間ぶりだな。改めて名乗る必要はないだろう。思わぬ状況になったが、貴殿らの国は大丈夫なのか? ロマルは厄介な雨にしてやられているようだぞ」
答えたのは立場上、メルルを除けば最高位にあるクリスティーナだ。
「あちらのアークウィッチを中心とした我が国の魔法使い達が事前に対策を施してくださっていましたので、今のところは問題ありません。ただ、規模が規模だけに根本的な解決をしなければ時間の問題です」
「座して待つだけでは、雨に濡れるのが早いか遅いかの違いにすぎんからな。貴殿らをこの戦いに参加させる以外に手はなかったろう。とはいえ我々も似たようなものだ」
「陛下、それは」
咄嗟にマスフェロウがヤーハームを止めようと一歩進み出たが、それをヤーハームは小さく右手を上げるだけで制した。
魔王軍つまりはムンドゥス・カーヌス国にもまた、アークレスト王国とロマル帝国同様に、デウスギアの雨による被害が何かしら生じているのだ、とマスフェロウの態度が暗に示している。
教化において邪魔となるヤーハームらを抹殺しようとしたデウスギアが、彼らの母国になんの手も打っていない方がむしろ不自然だろう。
「我々はこれからデウスギアと聖法王国を滅ぼすのだ。それが変わらぬのならば、今ここで明かすことに問題はない。なに、話は簡単だ。我らの領土は祖たる軍神の加護とこれまでに培った技術で守られたが、周辺の国は話が別だったというだけだ。
聖法王国は貴殿らの国ばかりでなく、我らよりもさらに西方の国にまで手を伸ばしていたわけだな。時間をかければかける程、あの雨に晒されて精神を支配される者達は爆発的に増える」
現状だけでも、ロマル帝国の九割九分九厘の住民が聖法王国の絶対的な信者となっている。おそらく自分の生命を賭すのも厭わないだろう。そんな信者が大陸規模あるいは惑星規模で増えるとなれば、ヤーハームを含めクリスティーナ達に取れる道など一つしかない。
「短期決戦。それも聖法王国中枢を一度の攻撃で壊滅させるしかない、そういう道を選ばされているのが危うく感じられますが」
「ふむ、危機感を抱くのは分からんでもない。特にハウルゼンとルナマリスに関しては、相討ち上等の覚悟を固めているのが明らかだからな。作り出され、過ごした雌伏の時に意味を持たせる為ならば、あの二人は自分達に関しては犠牲を厭うまい」
「自分達以外の全てを犠牲にするほど、妄信的でないように見えるのがせめてもの救いでしょうか?」
「どうだかな。いざという時まで分からんよ。それと、すまんが個人的な話をさせてもらっても構わないか? うちの方からもベルン男爵、貴殿に話をしたいと希望している者がいてな。
貴殿にとっては歓迎せざることだろうが、おれの方から強く釘を刺しておいたから、そうそう逸りはしないと保証する」
「先ほどから、熱い視線を送ってもらっていますからね」
困ったなあと言わんばかりのクリスティーナの視線の先には、指先をもじもじと動かしているヴェンギッタの姿があった。これまで数々の戦場で見せた狂態はなりを潜めて、今は憧れの女優を前にした俳優見習の少年を思わせる態度だ。
「我が主君、我が仰ぎ見る魔の王よ、私は貴方との約束を忘れていない。ここは戦場ではない。彼女の美を我が物とすべく我が傀儡の技を、彫刻の技を振るう場ではない。私は、大丈夫だ。私は、それを理解している」
そわそわと落ち着かない様子のヴェンギッタは、どうも完全には信じきれない部分もあるが、とりあえずクリスティーナは話をするのを拒否はしなかった。戦場では散々に手古摺らされた強敵だが、今は雌雄を決する場でないと彼女もまた弁えていたからである。
「私にそこまで執着しなくてもいいのにと常々思っているが、何時になったら諦めてくれるのかな?」
主君に万が一があっては、と形式上臣下であるセリナやドラミナ達は警戒の色を見せるが、クリスティーナ自身は緊張した様子はなく余裕をもってヴェンギッタと向かい合う。
「それは、それはとても難しい。天と地を逆さにするようなもの。君は美しい。白銀の髪も、血よりも赤く鮮やかな瞳も、君という存在を構成する肉も骨も皮膚も、そしてそれを動かす心も、すべてが美しいのだ。私の知る限り至上の美、最上の形。それを諦める私は私ではない」
「過分な言葉をどうも。それで言ったらドラミナだって、私よりも美人さんだと思うのだがな」
「あら、男爵様に売られてしまいましたね」
と笑いをこらえながらドラミナは零した。共にアグルルアの腕輪を外した二人は、ありのままの美貌を晒している。
ドラン達ベルン組以外が、それこそ神代から生きるクインセや人造物であるハウルゼンとルナマリスも刹那とはいえ、揃って忘我するという戦果を挙げている。
「認めよう、認める。彼女もまた夜空に輝く月がその座を粛々と譲り渡すほどの美貌。美しき者。美しいという言葉がこれほど物足りぬと思ったことはない。しかし、私は彼女よりも君を好ましく思うのだ。白銀の君よ」
「私の方が好みだと。状況が状況なら素直に受け止められるのだが、命を狙ってくる相手に言われても困るばかりさ。人形作りの巧みさと歌の上手さは私も否定しないから、もっと平和な方向でその技術と執念を活かして貰えればな」
クリスティーナは心の底から告げた。この言葉に偽りはない。実際、ヴェンギッタの作り上げる数々の人形達とそれらを同時に操る技量は、芸術史に名を刻んでもあまりある極めて高度なものだ。
戦争などではなく文化をより豊かにする方向でヴェンギッタの技が磨かれ、披露されていたならばどれだけよかっただろう。
「それもまた一興ではあるが、私を私で無くす行い。私は、ああ、魔の王たる者の行く末を見守り、それを謳い、歌い、詩にし、歌にし、舞踊りたいのだ。美しい人よ」
「芸術と美を謳っても魔王陛下への忠誠は忘れない、か。聖法王国を打倒した後を考えると頭が痛いな。貴方達は強敵過ぎる」
「称賛と受け止めよう。麗しき人よ」
クリスティーナに対して恭しく頭を下げるヴェンギッタを横目に、ヤーハームは今度はドランを話し相手として選び、いくつかの質問を重ねた。命を懸けても及ばぬほどの強敵は、魔王に話しかけられても平静の態度を崩さない。
「そう言えばモレス山脈の竜種達は来ていないのだな。ジオルダ、といったか。あの老地竜ならばハウルゼンが声をかけてもおかしくない実力の筈だが」
「モレス山脈の竜達は一旦家に戻っていますよ。山脈にも例の雨が降り注いでいますし、貴方がたとの戦いでの損耗も大きい」
むろん、理由はそればかりではないが、これはドランも知らない事だったので、語ろうにも語れなかった。
「三竜帝三龍皇の動向を窺い知れるかと思ったが、それでは仕方ないか。ハウルゼンならば何かを掴んでいてもおかしくはないが、話さないのはおれ達が知る必要はないと考えているのか?」
「ところで魔王陛下こそ国に戻らずともよろしかったので? 趣味の悪い雨は防げて進軍してくる敵は兵を用いて迎え撃つ他ないでしょうに」
「ふ、我が軍はおれや魔六将が居なければ何もできんような案山子ばかりではない。西国でもっとも厄介な皇帝は雨の支配を逃れた配下達と共に抵抗しているようだからな。一月や二月でどうなるような情勢ではない」
「陛下のお国であればさもありなん、といったところですね。状況が状況ですから、どの国の人間にとっても聖法王国は一刻も早く打倒するに越したことはないようで」
「一度にすべての国を相手どろうとする気概は大したものだが、そんな意識も連中にはなかろうな。闘争という観点で見れば熱の薄いつまらん連中だ。
家族となるだの戯言を抜かすような奴らでは、どれだけ強かろうと興覚めだ。もっとも貴殿らの大魔女はそういった食わず嫌いはなさそうな様子だな」
「彼女の場合は全力を振るえる相手というのが肝心なのであって、どういった姿勢で戦いに臨んでいるか、などは重要視していませんから」
「近い力の持ち主との闘争ではなく自身の力の解放こそが喜びか。少々危ういな」
「それ以外が抜けておりますから、差し引きすればちょうどよい具合になるのですよ」
「そうは見えんがな。人となりを知らぬおれがそう口を挟む問題でもないか。そうそう、貴殿らに一つ尋ねたいことがあるのだが、構わんか?」
「私達でお答えできることならば」
「面倒をかける。人を探しているのだが、貴国に年のころは十四、五、黒い長髪で瞳も同じ黒色。純粋な人間種の少女で背丈はこれくらいだな」
ヤーハームはそう告げて、自分の右手をお腹のあたりに合わせて動かす。平均的な十四、五歳の少女よりもやや小柄だろうか。
「名前は分かっていないのだが、容姿だけを見れば絵本の中の妖精のように愛くるしいが、その中身には苛烈にして冷酷、残虐にして非情だ。敵対者ならば女子供でも容赦すまい。曰くどこかの邪神の生み出した存在だそうだ。
以前、一度襲撃を受けて恥ずかしい話だが良いように翻弄されてしまってな。ご丁寧に宣戦布告を受けたのもあって、行方を捜しているのだ。
ムンドゥス・カーヌスの領内ではまだ所在が確認されていないが、聖法王国とはまた異なる脅威と断言しよう。
ドラン、貴殿ならばものともしないかもしれんが星の海の向こうから来た残党とは違い、本物の神が背後にいるかもしれん相手だ。用心するに越した事はあるまい」
ヤーハームの告げた特徴に合致する少女の顔が、ドラン達アークレスト王国組の脳裏に鮮明に浮かび上がる。ヤーハームの見た姿が幻術による偽装の可能性もあるが、そうでないとしたらどう考えてもレニーア以外にはありえない。
レニーアの実力ならば単身魔王軍に奇襲を仕掛けて、ヤーハームや魔六将を相手に大暴れする事だって出来るだろう。気掛かりなのは襲ったのが何時だったのか、行動を起こした動機だ。
まあ、動機に関して言えばドランの為でほぼ間違いはないのだが、問題は『レニーアの基準』であるという点にある。レニーアからすればドランの為の行動も、ドランやそのほかの人物からすれば、それはおかしい、となるわけだ。
「なるほどぉ。なるほど。口ぶりからして肌でその少女の実力を体感されたご様子ですね」
ディアドラ、ドラミナは上手く感情と表情の変化を隠し通したが、ドランとセリナは生来の性格もあって隠しきれず、曖昧な表情の変化が表に出てしまう。
それを読みとったヤーハームは、戦場以外では扱いやすそうな連中だと呆れながらも、嫁に欲しいと願った少女の手掛かりが掴めたことで小さな笑みを浮かべる。
「凄まじい強敵だった。あそこまで良いように叩きのめされたのは、実に久しぶりのことだった。ふ、それにしても貴殿らは隠し事が下手だな。どうやら、なにかしらの情報を持っている様子ではないか」
「ふう、思い当たる節はあります。魔王陛下の手を焼かせるのも納得は行きます」
「そうか、その様子からして貴殿らにとっては忌むべき相手ではなさそうだな。聖法王国にアークレスト王国、ロマル帝国、そしてあの少女。ふふ、戦う甲斐のある強敵がかくも世に存在するとは、ありがたい話だ」
「詳細はお知りになろうとしないのですか?」
「なに、もう間もなく大昔の侵略者の残党を片付ける戦いが始まるというのに、おれの私情でこれ以上、貴殿らの時間を奪うわけにはゆかんさ。それに戦っていればいずれは出会う。あれの邪悪にして苛烈なる魂の相を見れば、貴殿も確信できるだろう」
レニーアの魂にカラヴィス由来のとびきり邪悪な一面が存在しているのは、ドランも認めるところであり、ヤーハームの言葉を否定できなかったが、それにしても可愛い愛娘を邪悪、邪悪と何度も言われてはあまり気分の良い話ではない。
「そのように執心されるのは、やはり軍神の末裔として戦うに相応しい相手だからですか?」
「うん? そうだな、それもあるがそれ以上に彼女ほど嫁に欲しいと思った女性が居なくてな。はは、もう一回りか二回り大きい方が好みだが、外見よりも中身の方がはるかに魅力的だから問題はない!」
わっはっはっは、と豪快に笑う魔王ヤーハームをドランのみならずセリナもディアドラもドラミナも、多少の差はあれ目を丸くして驚いた。
まさかまさか、あの古神竜ドラゴンと大邪神カラヴィスの間に生まれし、邪悪にして非情、無慈悲にして冷酷、そしてどこかポンコツなレニーアを嫁に欲するとは!
外見だけを見れば極上の美少女であるレニーアだから、一目見た男が嫁に欲するのならまだ十分あり得るが、まさか、その中身を知った上で嫁にと欲する男が現れるなど、驚天動地の出来事という他ない。
そして驚きのあまりに、セリナ達は愛娘を欲する異性の登場という初めての事態に直面したドランが、いったいどんな表情を浮かべているのか? それを確認するのを忘れてしまうのだった。
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第三百二十五話
ドランが魔王ヤーハームから予想もしていなかった願望を告げられて、いかに古神竜といえどもやはり全知全能ではないのだなあ、と彼が精神のどこかしらで現実逃避めいた考えを抱いている一方で、彼と思考と意識を同期している分身について少しばかり焦点をあててみよう。
ロマル帝国領外で待機しているアステリア率いるロマル帝国軍は、飛行艦隊を着陸させ、ハウルゼンの乗ってきた戦闘要塞カイゼロンから受け取った食料を始めとした各種物資の詰め込みと分配作業に勤しんでいた。
カイゼロンにはロマル帝国からアスラム一人が、グワンダン一行からはアムリアの護衛を務めていたリネット、ガンデウス、キルリンネ、タナトスの四名、合わせて五名が移動しただけであるから、数の上ではほとんど戦力は減じていない。あくまで数の上では、だが。
ただ一人、グワンダンのみが残り、人数の減ったアステリアの私室で、双子の皇女姉妹はハウルゼンから渡された物資の一覧表に目を通し、向こう半年は艦隊と地上部隊の腹を満たし、十分な医療行為を行える膨大な量の物資を手早く効率的に差配していた。
ハウルゼンと通信をしている間はスピスピと眠っていた八千代と風香の、へっぽことぽんこつから半分くらいは卒業できたような気のする二人もバッチリと目を覚まし、人気の少なくなった室内を寂しそうに見まわしている。
「リネット殿達が居なくなると、途端に寂しく感じられるものでござるなあ。ベリラトゥ殿の微妙においしいとは言い切れないお茶の味と香りが、もう懐かしいでござるもん」
ピコピコと耳を揺らす八千代は、その道の専門家である侍女の入れてくれた最高級品質の茶葉と最高級の白磁のカップに注がれた紅茶をよく言えば味わいながら、悪く言えばチビチビと飲みながら正直に告げる。
風香もそれは同じで、幼馴染の隣に腰かけたままチーズの香り高いケーキを銀のフォークで少しずつチマチマと食べ、リネット達の厳しい視線に晒されながらメイドとしての奉仕に励む新顔メイドを思う。
「ぱっと見は高貴極まりい男装の似合いそうな麗人だし、雰囲気もまあ気高いというかなんだか背筋の凍るようなものがあって、ちょっとどころじゃなく近寄りがたい御仁でござるが、グワンダン殿やリネット殿が関わると途端に微笑ましくなる面白い方でござったなあ」
「今頃はあの“かいぜろん”とやらの中で、ハウルゼン殿が勧誘した魔王軍だのアークレスト王国の方々と顔を合わせているのでござろうかね~」
「かもしれんでござるのう、八の字。にんにん」
あ、このケーキおいしい、油揚げで包んで揚げたらもっと美味しいかもお、と風香がそれでものんびりとした感想を抱いている一方で、二人の獣娘の感想に書類とにらめっこをしていたアステリアが彼女には珍しく本気らしい愚痴を零す。
「ええ、まったくあのカイゼロン、カイゼロン、カイゼロン! ハウルゼン大将軍いえ、今はただのハウルゼン殿ですがあそこまでの大物を隠していたとは、本当に初代皇帝の目は節穴でした。それとも私が想像できないくらいに能天気でいらしたのかしら?」
通常、自国の建国者に対する愚痴など、当代の皇族や王族であれ周囲から厳しい言葉で窘められるような暴挙である。それを分からぬアステリアではないのだが、いくら何でもハウルゼンの隠し玉が強烈過ぎた。
地下なり別空間に施設や戦艦なりを隠しているのは予想していたが、あそこまで巨大な規模の移動要塞だったとは。さしものアステリアも実態を把握しきれない物事に対する推測は、いささか精度が落ちるようだ。
姉の珍しい姿に、蜂蜜飴を口の中でコロコロと転がしながら書類仕事に邁進していたアムリアが顔を上げて、少しだけむくれている姉の顔を気付かれないように微笑ましそうに見る。
「ふふ、今から文句を言っても仕方がありませんわ、姉上。あれだけの代物が必要なのだと、姉上も理解しておられるでしょうに。
それに建国当初からあのようなものを味方につけていられたとしても、余計な野心を起こして霊獣の王や高位の竜種の怒りを買って滅びを招くだけだったと思いますよ」
「そう、そうでしょうね。ロマル帝国の分不相応な繁栄など私にとっても望ましくはありません。アムリアの言う通りあれ程の巨大な兵器が必要な敵の存在をこそ脅威として、認識しなければならないでしょう。
もっとも帝都以外の全てが聖法王国の手に落ちた以上、私達は兵の士気を維持しつつハウルゼン殿からの朗報を待つ以外に術はありませんけれど」
「もう姉上ったら。物事がご自分の掌の上から離れて拗ねておいでですのね。叔父上との玉座争いまでは予想の軸から外れてこなかった分、余計に癪に障るのでしょう」
おそらくアムリア以外には言えないだろう言葉に、アステリアは思わず話している間も止めていなかった指を止めて、自分と鏡写しの妹の顔をまじまじと見る。
「すねている、ですか、私が? ……ひょっとしたら生まれて初めての経験かもしれません。それに気づけたのは双子の妹だからでしょうか」
「いえ、今の姉上が分かりやすいからだと思いますよ?」
「……そう、ですか」
少しの間をおいて妹に答える姉の表情は、確かに八千代と風香から見ても拗ねてるいなあ、いじけているなあと読み取れるくらいに分かりやすいものだった。
自分の手の及ばぬところで自分の未来が左右される、という経験がこの聡い皇女にはこれまで全くなかったのではあるまいか。
八千代は姉妹のやり取りを横目に眺めながら、ナッツ類をキャラメルで輝かしく包んだフロランタンをひょいぱくひょいぱく口に放り込み、先程から押し黙っている紅一点ならぬ黒一点に声をかけた。
「グワンダン殿がこちらに残られるのはアムリア殿の身の安全の為として、リネット殿達を快く送り出したのは、可愛い子には旅をさせよの精神でござるかな? アークレスト王国には頼もしい御仁達が居られるし、まず安心でござるしね!」
からからと笑う八千代だが、こういった時には必ず返事をするグワンダンが黙りこくっているのに気づくと、対面に座るグワンダンの顔を恐る恐るのぞき込む。
人間よりのドラゴニアンは、外側はそのままに中身だけが石像か人形にすり替わったように、ぴくりとも表情を動かさない。かろうじて呼吸はしている様子だが、瞬き一つしていないものだから八千代は思わず遅れて気付いた風香と顔を見合わせる。
「ぐ、グワンダン殿~? 聞こえているでござるか?」
「あれぇ? いつもなら返事をしてくださるのに、え、本当に能面みたいで怖いんでござるけどっ!?」
獣娘達の驚きの声が上がる中、双子の皇女姉妹もグワンダンの異変に気付いて視線と意識を寄せるが、それでもグワンダンは動かず声も発さず、置物のようにそこにあり続けるのだった。
彼女達は知る由もなかったが、この瞬間、カイゼロンの中でドランは魔王ヤーハームにレニーアを嫁に望んでいると告げられたのだった。
*
星人の残党を背景に持つ聖法王国とアークレスト王国、ロマル帝国、魔王軍の三国による連合との戦争は、カラヴィスタワー内部で探索者家業に専念しているドライセンと愉快な仲間達の耳にも当然届いている。
カラヴィスタワーの運営を行っているベルン男爵がその戦争の中核を担っている事情もあり、基本的に国家と関わりのない探索者達の間でも多くの噂が交わされている程で、数々の活躍によって探索者最高位“七つ星”に到達したドライセン達の動向には多大なる関心が寄せられている。
目まぐるしく状況の変わる今回の戦争では、ベルン軍に参加して武功を上げようとした者も居たが、ベルン軍が前線には自領の兵士を前に立たせていた為に目論見は潰え、聖法王国との戦いでは兵士の募集もかけられていない。
探索者達にとっては今回の戦争はあまりに旨味のないもので、それは最高位の探索者でも変わらないのか、と気になって仕方がないのだ。
さてかように探索者達の注目を集めるドライセン達であったが、この頃、彼らはドラグサキュバスが経営する探索者ギルド本部の二階に用意された個室に集まっていた。他者の目と耳を避けるのと、今後の活動内容について相談する為である。
古神竜二柱、最高位の大地母神一柱、下位とはいえ時を司る女神一柱の分身たちによって構成される、過剰という言葉ではまるで足りないぐらいの過剰戦力の集団は毛足の長い絨毯、黒檀の机、巨大な水晶の細工物などが置かれている客室で顔を突き合わせていた。
竜頭人身のドラゴニアン姿のドライセンを筆頭とするこの一党は、惑星並みの面積を誇るカラヴィスタワー第一層の多くの領域を未知から既知へと変えている。
彼らの功績によって、後に続く多くの探索者達の助けとなり、道しるべとなり、憧れとなり、嫉妬の対象ともなっているが、実のところ神に相当する存在である為、地上での栄達というものにまるで興味がない。
その為、探索の結果得られた報酬はこっそりと運営側であるドラグサキュバス達に還元しており、
ドライセンの本体であるドランともう一体の分身グワンダンの関わる聖法王国との戦争には、当初こそ関心が高かったものの、彼らの背後に神の存在がなくはるか古代に襲来した星人の残党と分かってからは、この地上世界の問題の範疇だと不介入と結論を出している。
こうしている今も見ようと思えば見える戦況を見ずに、カラヴィスタワーでの次の目的について話をしているのがよい証拠だ。
「ここしばらく探索が続きましたから、一度休憩を挟みますか? ここ以外にも拠点が建てられていますから、下見がてら見て回るのも今後の探索者としての活動の為にもよいかと思いますよ」
そう口火を切ったのはクロノメイズと同じ長椅子に腰かけているマイラールだ。自分を信仰する神官戦士として振舞うのもすっかりと板がつき、時折、あまりの奇跡の規模と精度から他のマイラール教の神官達から勧誘を受ける場面も多々見られるようになっている。
マイラールの提案にクロノメイズは口を挟まない。本来、この二柱の女神の間には海の底と宇宙の果てよりも広い溝が開いているのを、クロノメイズが片時も忘れていない為だ。
共に行動しているからと言って、間違っても対等かそれに近い立場に成り上がれたなどと勘違いしてはならないと、クロノメイズは常に自分に言い聞かせている。
であるからまず意見を口にするのは、アレキサンダーである。銀鱗の鎧を纏ったドラゴニアン姿の古神竜は、乾燥させた巨大な牛のような魔物の肉を齧りながら、兄に懸想している大地母神の提案を吟味してから口を開く。
「一理あるな。将来、確実に経済規模を拡大して経済のみならず政治に対する影響力を増すこの塔の中で、ベルン以外に発言力と影響力を兼ね備えた存在として君臨するという、ついでの目的もおおむね叶えられたのだから」
塔内部の探索者達を全面的に支えているドラグサキュバスがドラゴンの眷属である以上、必然的にドランが補佐官を務めるベルン男爵領はカラヴィスタワーの恩恵に与れるのだが、利益の独占ないしは拡大を目指す別勢力がいずれ台頭するのは明白。
その為、そういった勢力を掣肘出来る存在として、ドライセンと愉快な一行は最初の最高位の冒険者に上り詰めたのである。他にも、アレキサンダーのうっ憤を晴らす為やクロノメイズの過剰な忠誠心に方向性を持たせて暴走しないようにする為、という理由はあるが。
今となっては探索者の頂点とは唯一無二の七つ星、最初の最高位到達者であるドライセンらを指す。その影響力が日を追うごとに増している表れだ。
「そういえばあの少年、ジルグとヴィテラエルの二人も時折躓いてはいますが、探索者として頑張っているようですよ。まず命が一番大切ですけれど、これからも無理のない範囲で頑張ってほしいですね。人間の子らの頑張る姿というのは、とても胸が温かくなります」
そうして微笑むマイラールの姿はまさしく大いなる大地の化身の如き慈愛に満ちているが、人間の行く末に興味のないアレキサンダーはへん、とつまらなさそうに一言呟いて乾燥肉の咀嚼を続ける。
聖法王国との激突の際には自分の出番もあるかと鼻息を荒くしたアレキサンダーだが、相手が星人由来の敵と判明した事で戦争には不干渉と決まり、若干不満を貯めたので不愛想な対応となってしまったようだ。
「人間が自分達を求めなくなるのを望むお前らしい感想だ。私がどうこう言う話ではないが、お兄ちゃんが多少なりとも目をかけているのだから、あの小僧にはそれなりのモノになってもらわなければ困る」
「あくまで判断基準をドラゴンに置くのは貴女らしいですよ、アレキサンダー。貴女がドラゴンから自立するのはまだまだ未来の話のようですね。
なまじ一度は失った分、その反動が来ているようですし、兄妹仲が良いのは素晴らしいのですがいつまでもつかず離れずというわけにもいきませんでしょう」
下の者達への示しもつきませんし、と告げるマイラールに対して、アレキサンダーは自身でも自覚のある所であったらしく、ますます不機嫌な顔になってそっぽを向く。
古神竜の機嫌を損ねるなど並みではない神でも恐れおののくところだが、この大地母神は付き合いの長さ、神格の高さ、素の性格の三つが重なり合って堂々と言ってのける。
アレキサンダーの方もこの付き合いの長い大地母神が将来的には自分の義理の姉になる可能性があると判断している為、それほど強く当たらないように自制していた。まあ、自制せずに対応してもマイラールはこれっぽっちも堪えはしないだろう。
「余計なお世話という奴だ。話を戻すがしばらく塔の中を見て回るのは私も悪くはないと思う。これからもこの塔を探索者としての“縄張り”にするのなら、観光がてら見て回って私達の顔を売っておいて損はない。
リリエルの奴がそういった煩わしい諸々の事は済ませているだろうが、それに胡坐をかいていては格好がつかんわ」
「ではアレキサンダーは観光に異論はなし、とクロノメイズ、貴女はどう思われますか?」
「はっ! 恐れながら申し上げます。私の意志など些事も些事。休む、鍛える、観光、探索の続行、次の探索の為の準備、いかなる選択を選ばれましても全て従いまする。
ドライセン様をはじめ皆様の決定の従うのが私の意志であり、自ら意見を述べないのもまた私の意志であります」
「もう、貴女は何かにつけてそればかり。私達の決定に従うという点ではどうしようもなく頑固なのですから、少し困りものですね。ではこのインラエン以外のどこから見て回りましょうか。緊急の名指しの依頼でもない限り時間に余裕はありますから……あら?」
なにやら一階からこの部屋へと近づいてくる馴染みのある足音と気配に、マイラールが先に続いてアレキサンダーとクロノメイズが廊下へと続く扉を振り返る。この仰々しい足音の主はといえば。
「よう、こちらではドライセンだったか? ちょいと顔を見に来たぞ。それとこれは途中で拾ったカラヴィスだ。なにやらぎゃいぎゃいと騒がしい上に不穏な気配をまき散らしていたのでな、黙らせておいたぞ」
バァン! と大きな音を立てて開かれた扉の向こうにはいつもの黒い鎧を纏ったアルデスの姿があり、その左肩には猿轡を嵌められた上に縄でぐるぐると巻かれて身動きの出来ない状態にされたカラヴィスが居た。旅の踊り子ラヴィを模した姿である。
格で考えればアルデスとカラヴィスは同格だが、こうも一方的な有り様になっているのはカラヴィスがとてつもなく動揺していた為だろう。
扉を開いた時には豪快な音を立てたのに、閉めるのは静かに済ませて、アルデスはドライセンの隣に腰かけ、カラヴィスは床の上に割と丁寧に置いた。ギャーギャー騒いでいる際には周囲に瘴気をまき散らしかけていたが、それ以外に悪事らしい悪事は働いていないので丁寧に置く、という行動につながったようだ。
「実は魔王軍とドラン達が戦っている間は大魔界のサグラバースのところで観戦していたのだが、聖法王国とやらが横槍を入れてきたもんでこれは拗れるなと思って、こっちの様子も見に来たのよ。
ドランのところに顔を出しては流石に悪いのでな、もう一体の分身の方はおれ達の側の事情を知らん娘っ子達がおるし、顔を出すならこちらと思って来た次第よ。途中でカラヴィスに会うとは驚きだったがな!」
有無を言わさずさっさと椅子に座るアルデスにアレキサンダーは食って掛かろうとしたが、それよりも床の上で打ち上げられた魚のようにのたうち回るカラヴィスの姿の方が気になるようで、いつも汚物を見る目をしているがその度合いをさらに強めている。よほど見苦しいのだろう。
「マイラール、アレキサンダー、クロノメイズ、貴殿らはあの戦いも今のドラン達の状況を見ないように努めているようだが、どうもこいつはそうではないらしくてな。戦いそのものはおれも見ていたが、それ以外は見ておらんのだ。
戦いが終わった後でなんぞあった様子だが、どうなのだ、ドランもといドライセンよ? というかお前、さっきから何を黙りこくっとるんだ?」
アルデスの指摘にカラヴィスを含めて全員の視線がドライセンに向けられる。そう、この部屋に集まってからドライセンは一言も言葉を発していなかった。少なくとも相槌くらいは挟むものなのに、ここまで一貫して沈黙し続けているのは珍しい。
さてドライセンの反応はと固唾を飲んで見ていると、床の上でもがいていたカラヴィスがどうにか猿轡を外して、ドライセンへ向けて大声で騒ぎ立て始める。
「どどどどドラぢゃん! き、き、聞いていだっしょ! あのザグラバージュの子孫の魔王だか抜かすヤローがああああ、あろう事がああああ、れれ、れ、れにーあぢゃんにいぃいいいい」
この濁りきったカラヴィスの叫び声が部屋の中を満たしても、ドライセンに反応はなかった。ことここに至って、神々は気付いた――カラヴィスだけは今も叫んでいるが――ドライセンが先程からずっと忘我状態に陥っている事に。
*
嫁とはなにか。まずドランが思い浮かべたのがソレであった。この時点でもうこの古神竜の思考能力が大きく麻痺しているのが分かる。ヤーハームが背を向けて自分の家臣らと話をし始めても、まだドランはその場に立ち尽くしている。
よもやよもや、あの素性に相応しき残念冷酷、ポンコツ非情のレニーアを嫁に欲するものがこの世にあろうとは。
その驚愕に満ちていたセリナやディアドラ達だったが、レニーアを愛娘として遇するドランがどのような行動を起こすか分からない、という事に思い至りその後姿を凝視する。
娘はやらん、とうっかり口を滑らせながらヤーハームに剣を叩きつける? 有無を言わさず殴りかかるか最悪滅ぼしにかかる? 事の次第をレニーアに確かめようとする? いったいどう動くのか?
聖法王国との戦いがいよいよ火蓋を切って落とされるというこの時期に、とんでもない情報が飛び込んで来たものだと戦々恐々しながら、誰もが武力では止められないドランの反応を待つ。
「……」
「ディアドラさん、ドラミナさん、ドランさんがさっきから一言も喋りませんよ、どうしましょう?」
「藪を突いて出てくるのが蛇どころではないから、下手に声をかけられないわねえ。かといってこのまま放置というのも聖法王国との戦いの最中か直前に問題が起きそうだわ」
「今がこれ以上ない問題といえばそうなのですけれど、魔王殿の胆力の凄まじさと間の悪さ、そして独断で魔王領でしでかしていたレニーアさんの所業が奇跡的に組み合わさってしまった結果ですね」
「ドラミナさん、そんな冷静に分析しないでください~。もしもドランさんが今からヤーハームさんといがみあうようなことになったらどうしましょう」
あわわ、と慌てる姿を見せるセリナにディアドラも少しだけ焦りの色を見せる。
「流石にそこまでの短慮を起こすとは思いたくないけれど、今回の場合は私達にしてもそしてドランにしても初めての事だから、どう転がるのか分からないのが厄介ねえ。リネット達はハウルゼンやルナマリスと話し込んでいるし、私達だけで止められるかしら?」
「ふむん、実力ではどうしようもありませんから情と理性に訴えかける他ありません。ドラン相手では誰もが弱者も同然ですから、自分達の実力不足は気にかけないでおきましょう」
「うーん、下手に刺激を加えるのは控えようかと思っていましたけれど、不安材料を抱えたまま聖法王国の方々と戦うわけには行きません。こうなれば出たところ勝負! 不意に噴火されるよりもこちらで噴火を誘発する方が被害は少ないのです!」
妙なところで度胸を発揮するセリナは、ふんふん、と大きく息を吸っては吐いてを繰り返して自分に気合を入れると、冷たい床の上をニョロリと這い進み、少しだけ目を見開いて固まっている恋人と正面から向き合う。ドランの極めて貴重な表情であるから許される状況だったら、じっくりと眺めていたいところだった。
「ドランさん、ドランさん!」
ドランの肩を掴み、彫刻のように固まったままのドランを揺さぶって彼の意識を自分へと向けさせる。セリナが珍しいくらいに語気を強め、大きく声をかけてようやくドランの意識は自分の中から外へ向けられる。
「……ん、セリナか? どうしたのだね、そんなに切迫した表情を浮かべて」
まあ、呑気な反応、とセリナは言いたいところだったが、ドランはまだ本調子という様子ではなく、仕方なく肩を掴んだまま言葉を重ねる。
聖法王国とデウスギアとの戦争における最重要戦力にボケっとされたままでは、それでも負けないにせよ誤射の可能性が馬鹿に出来なくなる。そしてドランの誤射は、彼以外の者にとっては死に等しい。
「ドランさんが心ここにあらずといった様子になってしまったからです! そのまま放置したらどうなるか分かったものではないから、こうしてお声をかけました! ……魔王さんに何を言われて、自分がどう反応したのか、客観的に理解できていますか? 意識して自身の心情を整理なさってください。今のドランさんは尋常な様子ではありませんからね!」
「……いや、私は……」
セリナの指摘を受けてたっぷりと十数秒、ドランは口元に左手をあてながら努めて客観的に今の自分の分析を試みた。一か八かの賭けは今のところ、良い方向に作用し始めている。
「ふむ、そう、だな。あまりにも、あまりにも想定していなかった言葉、いや、概念? を聞かされたせいで魂の領域で混乱してしまったらしい。いや、今もまだ動揺が収まりきっておらん、ふむ。こんなことは初めてだ」
「後から認知したとはいえドランさんにとって、初めて子供の結婚の話がまさかという場所でまさかという相手から出たわけですから、動揺されるのは分かります。ですが今はこの星の命運を賭けた戦いの直前です。どうにかお心を鎮めてください。どうしてもだめならいっそのこと、一時的に記憶を封印しておくとか」
「具体的な対処法まで提示してくれるのはありがたいな。傍から見てもそこまで動揺しているように見えるのか。これは自分で考えるよりもはるかに重傷なのだな」
「以前から時折レニーアさんの結婚について案じていらっしゃいましたけれど、それでもダメなくらいに強烈な不意打ちだったのですか?」
「ああ、そうだね、レニーアが暗黒の荒野でなにかを仕掛けたことまでは把握していたが、私達の害になるような真似はしないと深く追及はしないでいたのさ。それがまさかああいう発言につながるとは。おそらくレニーアもそのように望まれているとは知らないのではないかな?」
「う~ん、ドランさんは不意打ちをされただけで揺らぐような精神ではないと思いますけれど、今回ばかりは戦いではない方面からで心構えの出来ていないところを突かれたと思うしかないのかもしれませんねえ。
それにしたってドランさんだって、クリスさんのお父様にご挨拶はされたのでしょう? なんなら私のパパとママとだって結婚の話はしたのに、その時の経験は活かされなかったのですか? やっぱり話をされる側とする側とでは事情が違いますか?」
「ふ、む……うん、そうだね、まったく違ったよ。あらかじめそういう場が出来上がっていたならこちらも聞く心構えが出来たろうが、いや、どう言い繕っても言い訳にしかならないが……。
すまないね、こんなざまではまともに戦えやしない。最悪の場合、セリナの勧めに従って一時的に記憶を封じてでも戦うとも。君達にこれ以上格好の悪いところは見せられないから」
「よかった。少しは持ち直してくださいましたね。それにドランさん、あくまで魔王さんがレニーアさんをお嫁さんとして望んでいるというだけであって、二人の関係はまだそんな段階にはありませんよ。
レニーアさんの気持ちだって確認していないのに、気にしすぎです。まあ、レニーアさんは全然、これっぽっちもそういう風には考えていないでしょうけれど」
「言われてみればその通りだね。ふむ、私も言い出したのがイリナだったら快く応じられたのだけれど」
ドランの口から出てきた名前に、セリナは確かにそうだろうなあ、と思いながら頷いた。とにかく、ドランの精神が平時に近いところまで戻すのには成功したようで、大任を果たせたとセリナは自分を目いっぱいほめてあげたい気分だった。
「ふむ、しかし、娘はやらん、と言うべきだったか?」
ドランがそのように割と真剣に呟くのを聞いて、まだ駄目かもしれないと不安に駆られてしまったけれど。
*
「くちゅん!」
「あれ、レニーアちゃん、くしゃみ? 風が冷たいから体が冷えちゃったのかな? 私のストール使う?」
突然くしゃみをしたレニーアの左横を歩いていたイリナは、秋・冬用の制服の上に重ねていた青地に黄の格子模様の入ったストールをレニーアの華奢な肩に回そうとしたが、それはレニーアの紅葉のように小さな手で遮られる。
「そんなやわな体では……いや、体自体はやわだが、そうならんように対策は幾重にも施している! 風邪以外の何かだろう」
「そう? じゃあ、定番どおり噂かなあ? ドランさん達がなにか噂していたりとか」
「ふ、イリナの言うとおりだったなら私としてはいくらでも噂していただいて構わんのだがな、むははははは!」
いつもの通りイリナを伴い、ガロア魔法学院の中庭を歩きながら高らかに笑うレニーアだが、その噂されている内容を知ればこのように笑いはせずに途端に不機嫌になったであろう事は想像に難くなかった。
(ふふふ、あの不快な雨と雨を発生させるカラクリは破壊した。後はお父様とセリナ達嫁共が身の程知らずな連中を殲滅し、悠々と凱旋して称賛と栄達の只中に置かれ、本来のお立場に少しでも近しい栄誉を受けるのを待つのみ。ふはははははははは!)
はたしてそんなにうまくいくのかどうか。レニーア自身が思い描くバラ色の未来通りに行くかどうか、はてさて。
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第三百二十六話
ドランの意識がどうにか正気に返ったのを認めて、リネットは心中で大きな安堵の吐息を零した。
良くも悪くも魔王ヤーハームひいてはレニーアはドランの予想外の事をしでかす傾向にある。この一点においては神々とてそのほとんどは及ぶまい。ドランに仕えるこちらとしては、主人の心をいたずらにかき乱してほしくはないところだが……
ヤーハームが意図したわけではなかったとはいえ、思わぬ動揺に襲われたドランをすぐに正気に戻すべく行動し、結果を出したセリナに関してはお見事という他ない。
流石はドランとの付き合いが最も長く密かに正妻に相当する方だ、とリネットは感心することしきりである。
リネット個人の意見としては断然ディアドラ推しであるが、とうのディアドラはドランもセリナもドラミナもクリスティーナもまとめて抱く位の心構えでおり、ディアドラらしいとリネットも納得はしている。
さてドランが魔王との心温まる? 交流をしている間にリネット達メイド三姉妹はルナマリス、ハウルゼンと天人由来の存在として話の華を咲かせ、メルルとは敵艦隊との交戦について打ち合わせをしていた。
「ではルナマリスはずっとカイゼロンの中枢を始めとした区画でのみ行動し、今日までを過ごしていたと?」
割とぐいぐい話しかけているのが、ルナマリスを見る目つきの怪しいガンデウスだ。手を出し、足を出し、尻をひっぱたいて折檻してもその行為を喜ぶ妹の矯正を、リネットは半ば諦めていた。
まだ半分は諦めていないと言うべきか、もう半分諦めていると言うべきなのか、いささか判断に悩むところである。
(いえ、いえ、リネットとは違い純粋な天人の技術により生み出された者同士ですから、とても興味があるのでしょう。だからあれだけぐいぐい行っているのです。たぶん、きっと)
キルリンネが、ガンデウスがルナマリスに下手な真似をしたら物理的に黙らせようと構えているのも自分同様にいささか神経質になっているだけだ、とリネットは信じたかった。
ハウルゼンは果たしてガンデウスの態度をどう取っているのか警戒している様子はなく、獲物扱いされているかもしれないルナマリスの方もガンデウスを不審に思ってはいないようだ。
「はい、ガンデウス。ルナマリスはハウルゼンと一緒にこの日が来た時の為に、ずっとカイゼロンの機能拡大と改造、兵器生産、情報収集に勤しんでいたのでここを離れる必要がなかったです」
「ふむ、私もキルリンネもリネットお姉様に引き取られ、お母様の元ですくすくとこのように育つまでは随分と無機質だったものですし、製造された目的以外に関心を持たれなかったのも道理。
その点、ハウルゼン殿は外部との接触が多かったそうですし、自我の確立に伴い製造目的以外の存在意義を見出しておいででは?」
あれ、意外にもまじめなことを口にしているぞと、とリネットとキルリンネが意表を突かれる一方で、ハウルゼンは淡々とガンデウスに返事をする。
「ないわけではないが、製造目的すなわちデウスギアの殲滅を二の次にするものではない。私にしてもルナマリスにしてもカイゼロンにしても、自身とお互いの損壊を引き換えとしてでも製造目的を果たす。それが大前提としてある」
「頭が固いというか融通の利かない事で……。ずいぶんと長く稼働し続けているのだから、もっと自由にやっていいと思うのですけれど」
「うーん、私もガンちゃんと同じ意見かな。戦いが終わった後の楽しみがあると、何が何でも生き残ってやる! みたいに気合が入っていいと思うのにぃ」
キルリンネも加わった二人の意見にルナマリスは救いを求めるようにハウルゼンの背中に視線を向けるが、ハウルゼンは同胞を振り返らなかった。
「製造時期や製造目的の違いもあるが、貴殿らは自我を確立し自由と不自由を理解しているようだ。素直にそのことを言祝ぐが、我らの側の事情が異なるが故、違う道を行くのだと理解されよ。納得はされないとしてもな」
「ルナマリスも貴方ももっと自分を惜しむべきだと思いますよ。ねえ、キルリンネ、リネットお姉様」
「うんうん。デウスギアだっけ? その人達と引き換えに自分達消えてなくなるなんてまっぴらごめんだ! くらいの気持ちでいる方が案外勝てると思うんだけれどな。こう、火事場の馬鹿力的ななにかを発揮して」
「妹達の意見にリネットも賛成しますが、かといって結論が出るまで話をする時間的猶予はないのが惜しまれます」
「その通りだ。このまま次元潜航して敵中枢に接近を目論んでも敵艦隊の索敵網に引っかかり、爆雷なり投下されて一方的に撃沈されかねん。
敵の索敵範囲ギリギリで通常空間へ浮上後、カイゼロンの主兵装の一斉発射並びにメルル殿と貴殿らを含む艦載機を発艦し敵艦隊戦力を漸減。しかる後、敵旗艦に白兵戦を挑みこれを制圧。まずはここから始める」
「ふむ、わざわざ敵艦に乗り込む理由は? リネットとしては、マスタードランを含めた皆様で艦隊を一方的に撃沈してしまえばよいのではと考えなくもないのですが」
「残念ながらデウスギアの現在の情報の手持ちが少ないのでな。可能な限り敵艦から情報の吸い出しを行いたい。こちらが敵中枢と認識していた場所が単なる基地の一つであった、というオチならばまだしも誘い込む為の罠だったならば笑い話にもならん」
「分かりました。では使用する兵装の選定条件を再設定しなければなりませんね。ガンデウス、キルリンネ、ガンドーガの装備で必要なものがあればマスタードランに許可を。まず間違いなくマスタードランの許可がなければ使用できない装備が必要な事態です」
「了解しました。ベルンの民草を含め王国の方々まで下種な手段で洗脳しようなどという輩です。原子まで撃ち抜いてやりましょう」
「じゃあ私は素粒子になるまで斬り刻む~」
「それでは手間でしょう。分子程度に留めては?」
「うーん、それもそっか。いやむしろここはさらに攻めて、輪廻も出来ないくらいに斬るっていうのもありでは? ありありでは?」
などと物騒な意見を交わし合う妹達を見て、リネットは塩の塊を口いっぱいに含んだような顔になっていた。
(リネットはどこでこの二人の育て方を間違えたのでしょうか?)
おそらく育てた場所――ベルン男爵領がよくなかったのだろう。いろんな意味で。
ロボロボしだしました。
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第三百二十七話
横殴りの光の雨か、はたまた触れれば命を奪う光の檻か。
カイゼロンとそこから出撃した艦載機達とそれを迎え撃つデウスギア艦隊と艦載機達との攻防は、一瞬にして自然にはあらざる光景を作り出し、無数の爆発の光と煙を空に広げて行く。
そんな中に新たに三つの人型に近い影が音よりも早く飛び出した。更なる改修を加えられ、一部装備の解禁が許可された三機のガンドーガである。
通信士と管制官を務めるルナマリスからの指示に従い、光芒溢れる空に飛び出した三機は素早く連携を取るのに適切な距離を取って敵艦隊を目指して進む。
より高性能化を目指して内部機器の改修と武装の更新を行い、背中から竜の翼を思わせる部品を伸ばし、全身に追加装甲を施した上、右手には巨大なメイス、左手にはガンドーガの大きさに合わせた巨大な荷電粒子砲を持ったガンドーガ・フルドレス。
ガンドーガの姉妹機であり、ガンデウスとキルリンネ専用に製造されたガンドーガ・フルショットは、ガンドーガとほぼ変わりのない機体だが背中から左右に三つずつ巨大な魔力砲の砲身が伸び、両肩と両腰にも連装砲が備え付けられ、両足の太ももに相当する部分には誘導飛翔体を無数に収納した箱があり、右手には長大な狙撃銃に左手には六つの銃身を束ねたガトリングレールガンで武装している。
ガンデウスの搭乗するフルショットが徹底した射撃戦特化の仕様であるのに対し、キルリンネのガンドーガ・フルエッジは正反対の接近戦特化の仕様となっている。
両手に携えた機体よりも巨大な両刃の大剣もさることながら、肩や肘に膝、額とあらゆるところに研ぎ澄まされた刃が伸びており、例え武器が無くてもこの機体に触れるだけで敵対者は真っ二つになる事請け合いだ。
接近してから勝負の機体である為フルドレスやフルショットに比べると、機体全体が細く引き締まっている印象を受け、背部の突起部からは蜻蛉の羽のように薄い刃兼用の翼が六枚程広がっている。
フルドレスの胴体は赤く、その他は白という色合いは変わりなく、フルショットは深みのある青で全身を染め上げ、フルエッジはその逆に敵の返り血で染め上げたような赤に染まっている。色については搭乗者達の趣味による。
これら三機はデウスギア側の情報にはなかった代物であるからか、敵艦隊から出撃していた艦載機の一群が獲物を見つけた猛禽類の如く機種を向けて迫りつつあった。
「リネットお姉様、ガンデウス、キルリンネ共に所定位置につきました。敵編隊の接近を確認。天人の識別名称によるとアローヘッド二十七、スピアヘッド十一、こちらもあちらも既に射程圏内です」
それぞれの搭乗席では疑似神経によって機体と繋がった人造少女達の網膜に、明確に三人を狙う動きを見せた敵部隊の姿とその速度、相対距離をはじめとした各種の情報が投影されている。
聖法王国もといデウスギア艦隊の運用している艦載機は、その名前の通り鏃や穂先を思わせる流線形の造作をしており、大きさはアローヘッドの全長が馬車三台分、横幅は一台分、スピアヘッドはより大きく全長は成体の竜にも匹敵するが、横幅は全長の五分の一ほど。
どちらも日射しを浴びて、繋ぎ目の無い装甲を玉虫色に輝かせている。
「了解しました。カイゼロンならびにアークウィッチと連携を取りつつこれを撃破。しかる後、敵艦隊に攻撃を仕掛けます。マスタードラン達の露払いがリネット達の役目です。各員、後れを取らないよう細心の注意を払うように」
「りょ~かい! じゃあ、私は近づかないとお話にならないから真っ先に突っ込むね! 援護よろしくう!」
唸り声のような音を立ててフルエッジ内部の魔力炉と永久機関が出力を増して推進力へと変換し、フルエッジを超音速の刃から雷速の刃へと変える。リネットとガンデウスはキルリンネの行動を窘めるよりも、この場における最適の行動を選んだ。
ガンデウスは機体の速度を落としながら全火器の照準を素早く接近中の敵機に合わせ、リネットは狙撃および砲撃に専念するガンデウスと接近戦に専念するキルリンネの支援、キルリンネに関しては到って単純。近づいて、近づいて、近づいて斬るのみである。
アローヘッドとスピアヘッドの機首部分の装甲が一瞬のきらめきを放つと、そこから超高温のプラズマの砲弾が立て続けに連射される。狙いは先頭を飛翔するフルエッジ!
猪のようにまっすぐに飛んでいたフルエッジは、重力と慣性を無視した直線と曲線を織り交ぜた滑らかな動きで、青白く光るプラズマ砲を回避してゆく。万一命中したとしても、分子単位で刻まれた竜語文字と対物理対魔法障壁が機体と搭乗者を守ってくれるが、当たらぬに越した事はない。
「とーつげーきー!!」
「まったく、キルリンネときたら」
愚痴を零すガンデウスだが行動に遅滞はなく、疑似神経で接続された機体に素早く狙撃銃の狙いを定め、キルリンネを包囲する動きを見せたアローヘッドの一機に人間の片腕程もある特殊合金製の実弾を撃ち込んだ。
デウスギアの兵器が標準装備している斥力場の鎧を突破するべく、超重量と超高速度を与えられた弾丸は玉虫色の装甲の機首にめり込み、そのまま機体を貫通して木端微塵に爆散させる。
「敵斥力場、装甲は想定内ですね。フルショット、支援を続行します。フルエッジ、背中は気にせずに好きに暴れなさい」
言うが早いかフルショット脚部に装備された箱状の装備に蓋が開き、極小の超重力場を発生させる
それぞれに設定された標的を目指して誘導飛翔体が群がり、振り切ろうとするアローヘッド達が出鱈目に振るわれた絵筆のような軌跡を描き、時には灼熱の火花を思わせる誤認装置を起動させるが、渦状の重力場の圏内に入った時点で弾頭が起動し、光りでも脱出出来ない重力の井戸の底へと引きずり込んで跡形もなく分解してゆく。
両肩と両腰の連装砲と背中の六門の魔力砲も同時に動かし、単機で嵐のような砲撃を放ち続けるフルショットの射線に入らぬよう位置を取りながら、リネットはフルドレス両肩の火砲や左手の荷電粒子砲で敵機の撃墜よりも牽制を重視した動きを取る。
デウスギア艦隊とカイゼロンは真っ向からの撃ち合いを演じ続けているが、互いに常にシールドの波長と出力を変え続ける事で、直撃はまだ出ていない。
艦載機同士の戦いではカイゼロン側のクリアフライの方が機動性や火力で上回っているが、数の面で言えば空母を有するデウスギア艦隊側の方が倍する勢いだ。
「ふむ、やはり異分子であるリネットやマスタードラン達の存在が戦いの趨勢を握りますか。このままの速度でカイゼロンが敵旗艦と激突するまで五分。
功名餓鬼のつもりはありませんが、それまで出来るだけ活躍させていただきますとリネットと妹達は奮起しているのです」
そう搭乗席で呟くリネットが荷電粒子砲の一撃でまとめてアローヘッド二機を撃墜し、ガンデウスのフルショットなどは機体を中心として周囲に数珠繋がりの爆発を次々と作っている。
そしてキルリンネのフルエッジもまた巧みな軌道で敵機の軌道を予測し、その頭上から背後から正面から、機体並に巨大な大剣で敵機を斬るというよりも粉砕している。
リネット達三姉妹は着実にドラン達の為の露払いをこなしていた。その活躍を、メルルはカイゼロンの剣の切っ先に似た艦首の上から見ていた。
いつもより遅くなりました。次でドラン達がドカバキ暴れるターンですね。メルル大覚醒。完全体が究極体になったようなイメージですね。
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第三百二十八話
ヴァルシオーは自らよりも遥かに巨大なカイゼロンの衝突を受けて、艦首から中央部分までを大きく抉られた。互いのシールドを無効化した結果、質量と装甲の強度に於いて大きく勝るカイゼロン側がヴァルシオーに一方的に大きな損傷を与えている。
それでもなお双方が浮力を保っていたのは、お互いの動力がまだ活きているのと重力操作系統の機器が機能を停止していないからだ。もしどちらかでも浮力を失って地上に落下したなら、目を覆わずにはいられない大惨事となるだろう。
ルナマリスにより電子・魔法双方の面からの情報戦が激しく行われる中、デウスギア艦隊側の艦載機部隊はカイゼロンに打撃を与えんと照準を向けるが、これをクリアフライとリネット達メイド三姉妹、そして竜としての姿で戦場の空を飛ぶマスフェロウが阻んでいる。
魔王軍の大幹部である紫毒竜は、現行の科学・魔法双方の水準をはるかに上回る超技術の産物達を相手に苛烈な攻撃を加え続け、両手足の指の数を合わせたよりも多くの玉虫色の敵機を撃墜している。
「グォオオオオオオ!」
マスフェロウの咆哮には竜種として聞く者を恐慌状態に陥らせる作用が備わっているが、これが精神を持たないデウスギアの戦闘機械にも有効だった。彼らの行動を決定づける電子・魔法回路に邪悪なる竜の咆哮が干渉して、行動不能か一時的な性能低下を招いたのである。
そうして自由自在に空を飛んでいた敵が前後不覚に陥ったところに、マスフェロウの猛毒をたっぷりと含んだブレスが放たれるや、敵機の装甲は見る間に腐れ果てて内部から誘爆を引き起こし、爆炎に呑まれて消えてゆく。
マスフェロウは無事な敵機から放たれる光線や誘導飛翔体を猛毒の瘴気を障壁代わりに四方へまき散らして防ぎ、ヴァルシオーに乗り上げるようにして激突したカイゼロンを見下ろす。
「まだ前哨戦に過ぎない段階でこのような光景にお目に掛れるとはな。古の星の海を越えて行われた戦の凄まじさが窺い知れるというもの。
星一つ支配出来ていない我らにはまだ早い領分かもしれぬが、いずれは到る場所の戦いを先んじて味わえるとあらば、これはまさしく僥倖に他ならない。
我が王ヤーハーム、ガリリウス殿、ザンダルザ殿、トラウルー殿、それにヴェンギッタよ。必ずやこの戦いを生き延びて後の戦いの糧となされよ。我らが生きる限り我らの戦いは場所を問わず、相手を問わずに続くのだから!」
ヴァルシオー内部に突入せんと奮闘しているだろう同胞達へ届かぬ激励の言葉を口にし、マスフェロウは背後から放たれた巡洋艦の主砲を、振りかえりざまに放った猛毒のブレスで受け止める。
「小癪!」
ブレスを放ち続けるマスフェロウの周囲に竜語文字によって描かれた魔法陣が八つ表れ、はるか遠方の巡洋艦へと向けて極大の紫色の光の奔流を放った。
ブレスのみならず、これらの毒性を帯びた光もまた巡洋艦の主砲に匹敵する威力を誇り、射線上に居たスターバンパイア数機を巻き込みながら敵巡洋艦を何か所も貫いて、あっというまに轟沈せしめる。
軍艦並の火力と艦載機以上の機動力を併せ持つマスフェロウの存在は、高位の竜種という存在の生物としての圧倒的性能を誇示するものであろう。
だがブレスの放出を止めたマスフェロウの瞳には、自身の戦果に対する誇らしさよりも別の存在に対する忌々しさが黒々と渦を巻いていた。
「ロマル帝国め、そしてアークレスト王国め、まだあんな隠し玉を残していたとは、恐るべき連中だ。あのゴーレムめらも異常だが、アークウィッチめ、あちらはなお異常だ。もはや人間の領分を越えているぞ!」
マスフェロウの瞳は、メルルが邪竜の女王をおして背筋に怖気を覚える莫大な力を漲らせ、デウスギアの戦艦と正面から砲撃戦を演じるばかりか明らかに撃ち負かしている姿を映していた。
ヴァルシオーを除けば最大の火力と重装甲を誇る星間戦争用の戦艦群が、全長の千分の一以下の大きさでしかないメルルに次々と撃ち落とされて行く光景は、それこそ竜帝や龍皇でもなければ、いかに竜種とて瞠目しよう。
そしてまたマスフェロウが忌々しげに口にしたゴーレム達――リネットらの乗るガンドーガ三機もまた次々と鏃と穂先を思わせる形状の敵を撃墜し、大物食いを狙って艦を沈めに掛っていた。
キルリンネのフルエッジは一隻の空母を目掛けて、直上から全速力で襲い掛かり、両手の大剣を高々と振り上げている。特注の大剣はそれぞれ刃の中央で左右に開き、開いた中央から輝く光の刃が伸びて、それは空母の全長を上回る長さにまで達する。
「対艦艇斬撃武装“タイタンキラー”! 真っ二ぁあああつ!!」
フルエッジと殺到する艦載機達はフルショットからの狙撃と砲撃が悉く阻み、フルドレスもまた空母に装備された対空火器の砲台を潰し、シールドを衰退させる為に空母へ火力を集中している。
ハリネズミの針のように視界を埋め尽くす空母の対空砲火の雨の中を、キルリンネは恐怖で委縮などせぬまま、大上段に振り上げていた巨大な光の刃を一気呵成の勢いで振り下ろす。
空母を守るシールドと衝突し、斬撃を阻まれたのはほんの数秒の事。見事シールドを破ったタイタンキラーは、そのまま空母の特殊合金製の装甲をものともせずに巨大な艦体を三つに分断してのけた。
三つに分断された空母が断面から火花と放電を始め、浮力を失ってゆっくりと落下を始める。ヴァルシオーやカイゼロンよりは小型とはいえ、この大きさの物体が墜落した際の被害を考えればそのままというわけにも行かない。
この問題に関しては、一にカイゼロンからトラクタービームという物体を引き寄せる光線を用い落下物を捕捉するか、二にドランの手配により一定の高度を下回った物体に【浮遊】の魔法の掛る結界が戦場全域に貼られるという対処が成されている。
ヴァルシオーに激突中のカイゼロンから緑色の光が三分割された空母へと照射され、落下速度が緩やかなものとへと変わる。それこそ羽のように柔らかに大地に着地する事だろう。
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第三百二十九話
カイゼロンの突撃を受けたヴァルシオーの艦橋では、危険な状態になる事を伝える警告画面に囲まれたシークシータが思案の表情でいくつかの何も映さない立体画像を見ていた。
ヴァルシオーを上回る質量のカイゼロンに衝突された影響で、ヴァルシオーの機能に障害が生じているが、カイゼロンの激突した箇所のある一角を中心に艦内の監視機能へ電子・魔法による攻撃を集中的に受けている。
「つまりそこからこちらに侵入するという事よね? ハークワイア達が現場に到着するまでどうにかして時間稼ぎをしないと。最悪の場合にはヴァルシオーを自沈させるのも視野に入れないとかしら。
艦隊の方も随分と押されてしまっているようだけれど、この天人の遺産以外の戦力がこちらの想定を一回りも二回りも越えている。……聖法王陛下に戦闘記録を余すことなくお伝えしないといけないわね」
それはつまり、天意聖司第一席たるシークシータをして、この場の戦闘においては負ける可能性が高いと認めた事を暗に示していた。
「わざわざこちらに乗り込んできたのですから、狙いはこのヴァルシオーの拿捕、いいえ、情報の吸い出しかしら。聖都の所在を把握していてもおかしくはないけれど、ご神体の位置を求めているか、より詳細な私達の情報を求めているのかもしれないわね」
艦に配備されている防衛兵器の起動と天意聖司達へ通信を使って指示を送り、シークシータが次に打つべき手を思案した時、小さいが連続した振動がヴァルシオーを揺らし、シークシータに新たな情報が伝えられる。
「天人由来の機動兵器! それにアークウィッチか。艦隊の戦力が既に六割を切っている……。凄まじい攻撃力ね。けれど聖法王陛下と神より賜った艦隊は、これっぽっちではなくてよ?」
外部の状況を映し出す立体映像に映る三機のゴーレムと、膨大な魔力の光を纏うメルルの姿が映し出されている。それに対するシークシータはまだ余裕のある笑みを浮かべていた。彼女只一人で運用する艦隊は言葉通りこの程度の数ではない。
常に何かしらの攻撃魔法を連続行使するメルルと三機の連携で撃墜数を伸ばしていたリネット達の周囲に、紫色の光の粒子が満開の花びらが風に散るように乱舞すると、そこから次々と無傷の新しい艦が姿を現し始める。
カイゼロンに乗り上げられたヴァルシオーをぐるりと囲い込み、ヴァルシオーへの被弾を避ける為にカイゼロンを狙って、増援艦隊の砲身が狙いを定め、新たに出撃した艦載機群が渦を巻くような動きを描いてから襲い掛かる。
数にして千倍以上の数に膨れ上がった艦載機群を相手に、メルルの顔に焦りはない。彼女の周囲に一抱えほどもある真っ黒い穴が開くと、そこへ目掛けてメルルの常軌を逸した魔力の砲弾が次々と撃ち込まれる。
「我が瞳は地の果てを見る 我が指は天の頂に触れる 汝らは我が掌中より逃れられず ティンダロスマッシャー!」
増援艦隊と艦載機の進路上にメルルの周囲に生じたのと同じ真っ黒い穴がいくつも開き、そこからメルルの撃ち込んだ魔力の砲弾が飛び出してきて、避ける暇を与えずに直撃となって無数の爆発がほぼ同時に発生する。
「ふふん、空間転移の予兆を隠しきれていないようじゃあ、まだまだだね!」
自慢げに笑うメルルは既に頭上に振り上げたニヒトヘイトの切っ先からこの戦場を覆いつくす巨大な魔法陣を広げており、追撃の手をまるで緩めるつもりがないのは明白だ。
更なる力を見せるメルルに対して、シークシータも更なる戦力の召喚とより高性能な艦の投入を急ぎ、ヴァルシオー外部の戦場で交わされる砲火は再び激化し始めていた。
*
カイゼロンからの侵入口からある程度進んでゆくと、ルナマリスの干渉が及ばなくなって、ヴァルシオーに配備されていた防衛兵器が盛大にドラン達を歓迎しようと通路の向こうや廊下の扉から姿を見せ始める。
「うーん、足の長い金属の亀? 足の生えた筒?」
既に半竜形態になったセリナが自分達の進路を阻む物体を目にして、素直な感想を口にした。緊張や恐怖の色が欠片も美貌に浮かんでいないのは、これまでの経験が培った胆力の賜物である。
セリナの感想はそう的外れなものではなかった。白い金属のそれらは円筒の胴体から四本の足を延ばしており、全高はドランより頭二つ分は大きい。筒の部分に青く発光するレンズが四つ埋め込まれている。
盾代わりに一行の先頭を進んでいたハウルゼンがカイゼロンの記録と照合して、その結果を簡潔に告げる。
「デウスギアのガードボットだ。光学兵器と超振動ブレードで武装している。シールドの類は装備していないが、元より貴殿らの攻撃力ならばまるで問題はない相手だ。私が先行する。貴殿らは力の温存を頼む」
ドラン達の返事を待たずにマーゼルを引き連れたハウルゼンが体内の重力場推進装置の出力を上げて、見る間にガードボットとの距離を詰める。
ガードボット側は一機につき四つのレンズから焦点温度三万度を超える糸のようなビームを連射し、見る間に距離を詰めるハウルゼンらを撃ち落とさんと行動を始めている。
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第三百三十話
クリスティーナは青白い光を発するエルスパーダを右手に、ほの白く光るドラッドノートを左手に、戦闘の喧騒で満たされる格納庫の中で、ハークワイアを筆頭とする聖法王国の面々と対峙している。
ハークワイアの次に手強いと判断したフロストジャイアントは、ドラミナが率先して相手をしてくれている。バンパイア六神器もそうだがドラミナ自身の戦闘能力、判断力、対応力に対し、クリスティーナが抱く信頼は山よりも高く海よりも深い。
因縁の敵との戦いに意識しているのか無意識なのか、積極的に攻勢を仕掛けているハウルゼンとマーゼルはあちこちに光線や光弾、誘導飛翔体をばらまく豪快さを見せており、この格納庫が崩落するのも時間の問題ではないかと、クリスティーナは少しばかり気掛かりだった。
ハークワイアは刃の半ばまで入った切れ込みにふっと息をかけ、見る間に刃が傷一つない状態へと修復される。
彼曰く神の力――ハウルゼン曰く異星文明デウスギアの産物であるサーベルは、ドラッドノートに及ばずとも上位の魔剣すら上回る力を宿している。が、まあ、その程度の敵ならば強敵とすら思わない経験を積んだベルン組である。
「神、神、神……君達と言葉を交わすとうんざりする程この単語を耳にするな」
真性の神々と言葉を交わす経験に恵まれたクリスティーナからすれば、ハウルゼンからの情報がなかったとしても、ハークワイアらの奉る神は胡散臭い事この上ないし、もし本当に神の類いであったとしても、信仰を広げるやり口のえげつなさからしてろくなものではない、と切って捨てたに違いない。
まあ、実際のところは大昔に天人達と星の海を越えた戦争をしていた連中の残党と、種が割れているわけだが。
クリスティーナの吐き捨てるような侮蔑混じりの言葉に、ハークワイアの周囲に集まっていた他の天意聖司らしき者達が怒りの色を浮かべるが、それもハークワイアが左手を上げて制止すればピタリと収まる。
「いやはや当然至極でありましょうや。我らは神の使徒、神の下僕、神の手足、神の息吹、神の意志なれば! 我らの言動に神という単語が付随するのは当然なのでありますよ、ベルン男爵閣下。それにしても、それにしても、お強い! 天人文明最強の兵器を手にしているとはいえ、お見事お見事」
ハークワイアは今にも口笛を吹き出しそうな上機嫌ぶりだ。神の力が容易には通じない強敵を前に、そのことを忌々しく思うどころか歓迎しているようでさえある。ドラッドノートの脅威を真に理解していないのか、理解した上でこの態度であるのなら一体どんな精神構造をしているのか奇妙なものだ。
周囲で轟く鼓膜を破らんばかりの轟音と爆音を無視して、クリスティーナはガードボットとガードロイドを淡々と処理しているドランを一瞥した。
ハウルゼンはデウスギアの中枢の所在を知る為にヴァルシオーの撃沈を望まなかったが、ドランがその気になればそのような手間を踏まずとも所在を明らかにした上で、跡形もなく滅ぼせるのは火を見るよりも明らかだ。
往々にして、ドランは敵対者と因縁のある者がいた場合、その因縁を優先して自分は最悪の事態を防ぐ備えとしての役割に徹する傾向がある。
今回はルナマリスとハウルゼンのデウスギアとの因縁を優先して積極的に前に出てはいないようだが、それにしてもどこかいつもと纏う雰囲気の違いや、何気ない所作にまとわりつく違和感をクリスティーナは覚えていた。
(ドラッドノートの対抗策が用意された程度でドランが警戒をするか? ドラッドノートの使い手である私を案じてならば、ま、まあ? 自意識過剰でなければ警戒の念を深めるかもしれないが、それでもあのドランだぞ? 古神竜ドラゴン、すべての神々を相手に勝利しうる絶対的強者が何を気にする?)
この疑念はクリスティーナばかりでなくドラッドノートもまた同様であった。少しずつ少しずつドランの様子がいつもと異なるのに、クリスティーナを含む女性陣が気づいて、カイゼロンへの到着後にドランの目を盗み、その理由についてごく手短にだが語り合っていた為だ。
ある意味、ドランと極めて因縁深いドラッドノートにもその理由についての相談がされていた。何しろ彼女/彼は、生前のドラゴンを討伐する為に収集されたありとあらゆる情報を内蔵していたからである。
しかしそれもあくまでは古神竜ドラゴン時代のもの。人間として生まれ変わり、精神に活力を取り戻した後のドランについては、ドラッドノートよりもクリスティーナ達の方が遙かに詳しく、結局のところ、ドランの懸念の正体を突き止めるまでには至っていない。
(情けないことにドランが警戒するナニカを、私達がどうにかできるとは思えんが、目の前の敵はどうにか出来る範疇だな)
ふらりとクリスティーナの体が揺らぐ。突如、糸を切られた操り人形がその場で倒れ込むような危うい動作は、しかしてハークワイアらの視覚を惑わす動き方であった。
ハークワイアの首筋を狙い、左右から交差する軌跡を描いて振るわれる神速の刃を、ハークワイアの左右から飛び出した二人の天意聖司が防ぐ。
片や瞼を閉ざして深く軍帽を被った初老のドワーフ、片や黒光りする鉄の皮膚を纏う人間種の少壮の男性だ。
日に焼けた肌にうっすらと白い傷跡をいくつも走らせるドワーフが、分厚い両刃の斧でドラッドノートを受け止めながら、自らを鼓舞するかのように叫ぶ。
「神の一撃をここに、ゴッドスマッシュ!」
標準的なドワーフ体型の彼にどれだけの力が加わったものか、両刃斧はドラッドノートの刃を受け止める。
本来ならこのままクリスティーナの左腕を付け根から吹き飛ばす意図があったのだが、彼の予想を超えるクリスティーナの膂力と受け流しの技術が拮抗状態を作るに留めていた。
そして人間の男性も立てた左腕でエルスパーダの刃を受け止め、高らかに叫ぶ。彼の左耳にだけ着けられた紫水晶のピアスが、彼の意志に応じるように輝きを放ち、男性の肉体の強化を促進する。
「ゴッドスキン! 我が皮膚に神の恩寵ぞある!」
ドワーフが神の一撃を放ったならば、こちらの人間は皮膚を硬質化させて防具不要の堅牢にして鉄壁なる肉体をもって、クリスティーナに応じていた。しかし、両者の拮抗状態は一瞬にも満たない。
クリスティーナの両腕に更なる力が籠められ、刃を阻む相手の硬度に合わせた斬り方へ瞬時に調節がなされ、エルスパーダとドラッドノートの刃はすぐさま前進を再開したからだ。
「むおっ!?」
「おお、神の恩寵が」
にわかには信じがたい現象が自分達に襲い掛かる現実に、共に天意聖司の席を預かる二人は驚嘆と畏怖を隠しきれずに声を上げる。
両者の首ないしは胴体に必殺の刃が迫り出す寸前、二人の頭上を跳び越えたハークワイアの一撃がクリスティーナを襲い、かろうじて皮一枚を犠牲に二人は生を拾った。
「上から失礼!」
自分の頭上を目掛けて振り下ろされるサーベルを後方へ舞うように下がって避けるクリスティーナへ、空中にあるハークワイアの左手から放たれた煌めきが襲い掛かる。
「
ハークワイアの左手より放たれる十三の光の槍! まさしく光の速さで襲い掛かるそれらは、しかしてクリスティーナの間合いに入るのと同時にことごとく斬り砕かれて、美しき戦士の周囲を光の粒子となって漂うだけに終わる。
「ンン! なんんというぅう斬撃の速度ぉ! 物理法則より上位の位階に達しているわけですかぁ!!」
「お陰様でな!」
着地するハークワイアと肉薄するクリスティーナの間で繰り広げられる刹那の攻防は、目の細かい網のように交錯し、空間に無数の光の軌跡を描いて、ハークワイアの全身に無数の切り傷を刻み込む。
「ぐむっ、剣技では到底及ばずとは未熟なり小生!」
傷と出血はすぐさま生体強化手術の恩恵で塞がり、痛みも一瞬だが、あまりにも多くの傷を与えられて堪らずたたらを踏むハークワイアの右首筋に吸い込まれるように振るわれるドラッドノート!
首を刎ねられても死なぬ身なれど、傷が塞がるまでの間に更なる連撃を放ってくる強敵となれば、可能な限り負傷は避けるが得策とハークワイアは判断するが、さりとて防ぐ術はあるかと文字通り常人の数千倍にまで人工的に加速された思考を巡らせ、打開策を探る。
(聖罰、天罰、神罰、発動の間に合うものでは斬撃を止められず、斬撃を止められるものは全て発動間に合わず、不可! ゴッドサーベル、右手の腱再生途中につき間に合わず、不可! 皮膚、筋肉、血管、骨格の瞬間硬化による防御――予測効果極小! うむ、これは小生単独では受ける他なし! 負傷避けられず!)
自分の力では防げないと判断したハークワイアは、故に潔く他人を頼ることに決めた。ハークワイアとクリスティーナの攻防の間に体勢を立て直したドワーフと男性が今度はハークワイアを救うべく動いていた。
「先ほどの礼ぞ、受け取ってくりや、ゴッドブルクラッシュ!」
「我らの神の威光に陰りはない。天罰・
身を低くしてクリスティーナへと砲弾の如く駆けるドワーフの頭上を、男性が両手を組み合わせた菱形の手から放たれる緑色の光が過ぎ去り、クリスティーナの上半身を吹き飛ばすべく虚空を貫く。
神通力を得るに至ったクリスティーナの感覚は、光の速度で迫る虚空閃をはっきりと認識し、“遅い”と感じる程であった。
眼前に立てたドラッドノートの刃が虚空閃を吸い取り、ここではないどこかの別次元へと放逐し、次いで瞬き一つの間に迫っていたドワーフの一撃を、翻したドラッドノートの刃が軽やかに受け止める。
あまりの手応えの無さに、厳めしいドワーフの顔が驚きに歪むのを、クリスティーナの瞳は冷ややかに見ていた。
「これはまるで空を斬るかのような!?」
「一年前の私だったら腕の一つも覚悟しなければならない一撃だったが、今となってはさしたる脅威でもない。一つ問おう。お前達とお前達の神は本当にこの剣が、天人の遺産と知った上で戦端を開いたのか? それにしては」
あまりにお粗末すぎる、とクリスティーナの唇が動くのと同時に、ドワーフの持つ斧は空気かなにかのようにあっさりと斬られ、ドワーフの首の右半分をドラッドノートの刃が斬り裂いた。
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第三百三十一話
シークシータは四枚の翼を持つ鋼鉄の巨神と化したヴァルシオーの内部で、神聖不可侵なる聖法王と通信越しに連絡を取っていた。
カイゼロンが通常空間に出現してから聖法王とは常に通信を繋げた状態だったが、言葉を交わすのは戦闘開始からは初めてだ。
「申し訳ございません、陛下。天意聖司を代表して心よりお詫び申し上げます。偉大なる陛下と神の御慈悲により大いなる力を与えていただいていたにも関わらず、ついには私一人を残すのみとなってしまいました。なんと情けない姿をお見せしてしまったことか」
今にもはらはらと秋の落ち葉のように涙を零してしまいそうなシークシータを、画面の向こうの聖法王はわずかも責める様子を見せない。
宝石の如き人間、人間の如き宝石と言うべきこの上なく可憐で輝きを纏う容姿と、神に愛された神聖さと荘厳さを併せ持つ少年は母のように優しく、父のように慈しみ深く、シークシータを労わる言葉を口にする。
『なにを嘆くことがあろうか、同じ神の子たるシークシータよ。そなたの元へと遣わした天意聖司達が奮闘むなしく命を散らしたるは確かに悲しむべきこと。我が心もそなたと同じように涙を流し、失われた命と未来を悼んでいる。
だがそなたはまだ生きている。こうして余と言葉を交わしておる。顔を上げよ、シークシータ。我らの神デミデットに選ばれたる寵児よ。神はまだそなたを見放してはおらぬ。我らを必要とし、我らが必要とする神の為、そしてそなたの信仰の為に戦うのだ』
「ああ、陛下のお言葉と御慈悲で我が目の曇りが晴れました。先に神の御許へと旅立った家族達に誇れる戦いを御覧に入れましょう!」
もはや迷いはなく悔いもないと、言葉よりも雄弁に語るシークシータの顔を見て、聖法王は我が誇りとばかりに微笑む。
『そなたの未来に神の祝福があらんことを。勝利の凱歌を用意して待つぞ、我が家族シークシータ』
「必ずや、親愛なる聖法王陛下」
乙女のように愛らしく、到底戦士とは思えぬ顔で答えるシークシータだったが、ああ、しかし、今の彼女の姿を見て平静で居られる者がどれだけいるだろう!
ヴァルシオーの変形に合わせて彼女の居た艦橋も大きく形を変えており、成人男性の十倍ほどの巨神の胸部に収まる程度の広さに留まっている。だが問題は広さではない。
艦橋から操縦席へと変わったその内部で、シークシータは操縦席の中心にある歪な十字の柱に磔にされている状態だった。そればかりか彼女の体に周囲から大小無数の金属の管が伸びて、彼女の皮膚の下に木の根のように潜り込んで根を張り巡らせている。
首から上だけを覗かせ、首から下は周囲から延びてきた金属の管で覆いつくされ、また髪の毛も十字の柱に溶けたように同化している。
見るも痛ましく生贄にされた女の末路としか見えない惨状でありながら、シークシータの顔に後悔や苦痛、恐怖といった感情はほんのわずかも存在していない。
ヴァルシオーの単体としての戦闘能力を追求した巨神形態の性能を最大限に引き出す為には、ヴァルシオーとの半融合状態へ至るのが必須であるのは承知の上だ。
シークシータに施された生体強化手術は、情報処理能力の強化と無機物との融和性に特化したもので、ヴァルシオーとの融合によって文字通りの人間と機械の一体化を完全に成すものだ。
ヴァルシオーの多種多様な観測機器がシークシータの目となり、銀河間の航行すら可能な動力を生み出す機関はシークシータの心臓となり、星々を砕く強大な兵器がシークシータの武器となる。
「
ヴァルシオーの変形が終わるまでの間、牽制の為に放たれていた光の雨がピタリと放出をやめて、四枚の翼からさらに巨大な黄金の光の翼が多しく、神々しく広がる。
その巨体を覆う穢れのない白と神々しさを与える黄金の装飾、そして荘厳そのものである大空を覆うかの如き四枚の翼、事情を知らぬ者が見れば天上世界から神が降臨したと告げられれば、疑いの念など一欠けらも浮かぶまい。
有翼の巨神の体を走る黄金の線が一層力強く輝くのに呼応し、ヴァルシオーの巨躯の中で胎動する力がさらに増す。
ヴァルシオーと戦場で直に対峙しているドラン達はもちろんの事、カイゼロンの制御を一手に担うルナマリスもまた観測機器の示した値の凄まじさに変化を見るや乏しい表情に明確な驚きの色を浮かべ、とっさにハウルゼンへ警告を伝えるべく通信を繋ぐ。
『いけない、ハウルゼン! 敵艦のエネルギー反応が急速に増大中! ライブラリにある人型兵器のどれをも上回る数値の――星間戦争の戦略を左右する兵器です!』
「承知している。操縦者の魂魄を燃料にした燃焼機関が追加されたのだろう。あの戦艦に人型兵器への変形機能もなかったはずだ。
ただ好機を見計らって眠っていたわけではないと、元より承知の上。想定内の想定外だ。ルナマリス、カイゼロンの防御にのみ集中せよ。敵艦、いや、敵機動兵器は我らが撃破する」
ハウルゼンの指示に従って急速に後退するカイゼロンからの砲火が乏しくなり、接近する機動兵器を追い払うための対空砲火と要塞を覆うシールドの出力強化に注力を始める。
ヴァルシオーからの光の雨は止んだが、数を増す機動兵器と敵艦からの砲火は変わらず膨大な数となっており、ヴァルシオー内部から放り出されたヤーハームやアスラム達からすれば、一瞬も緊張の糸を緩めてはならない戦場に唐突に移されたようなものだった。
アスラムは周囲の落下する元ヴァルシオーの艦体を蹴って跳躍し、更には当代随一の体術の冴えによって虚空を蹴り、加速と軌道変更を織り交ぜてヴァルシオーを睨み据えていた。
飛行を可能とする魔法の心得のないアスラムであったが、ドランが世界最高峰の体術使いと評価する彼は、何もない虚空を蹴って空中移動を可能とする絶技を体得しており、この空中戦にも参加可能であった。
これまで目にしてきた人型の巨大生物のどれも参考にならぬ敵だ、と見切ったアスラムは周囲の頼もしすぎる一時的な味方達の動きを視野に入れつつ、ヴァルシオーから一瞬たりとも目を離さずにいる。
戦艦から巨神へと姿を変えたヴァルシオーの主ある攻撃手段はなんなのか。あの光の雨と同じく光学兵器か、それとも巨体を駆使した格闘戦か。今後の聖法王国との戦いの中で同型機が出てくる可能性を考慮すれば、この戦いで可能な限り情報を収集したいところ。
アスラムがほぼ物質化寸前の密度の闘気で強化している瞳に、ヴァルシオーの巨躯に走る黄金の線がひと際強くきらめきを発する瞬間が映る。
――動く!
アスラムの肉体と精神は最大級の警告を発し、ヴァルシオーがその巨体からは信じられない速さで、重力に縛られない動きを見せながら迫りくるのに対応してみせた。
可能性の一つとして巨体による白兵戦を考えていたが、実際に経験の無い速度で距離を詰められ、視界を埋め尽くしながら迫りくる白い拳は、想像以上の迫力と死の予感を伴っている。
「
奥義の一つ、常時貯蓄している闘気を拳に集中させ、更に拳の闘気を瞬間的に爆発させて威力を高める単純な術理の技は、アスラムの血反吐を吐くのは序の口の修練によって凄まじい増幅率と破壊力を有する。
だが、さしものアスラムも星間戦争に用いられる兵器と真っ向から打ち合うのは無理がある。ヴァルシオーの巨躯を覆うシールドは絶え間なく流動し、触れる者を粉砕する武器としても機能していた。アスラムの闘気が破れれば、肉体は四散するだろう。
アスラムは自身の黄金に輝く右の鉄拳を、シールドに守られたヴァルシオーの握り拳の小指へ叩きつける。
闘気とシールドとが衝突して金の砂をまき散らしたような火花が散り、猛烈な勢いで闘気を削られながらも、アスムラはヴァルシオーの拳の軌道を見事に逸らしきる。
打ち合った勢いを利用して大きく距離をとるアスラムに、周囲の機動兵器から放たれた無数の誘導飛翔体が迫る。内部に高温のプラズマを圧縮した弾頭が炸裂すれば、さしものアスラムとて五体満足とはゆくまい。
半数は撃ち落とせるが、残り半数は受けるか避ける他ないと判断したアスラムは迅速に動いた。両腕が残像によって鳳凰が翼を広げたかのように見える速さで動かし、放った拳大の気の砲弾によって誘導飛翔体を次々と撃ち落としてゆく。
それでもやはりアスラムの予想通りに半分ほどが残り、それが弧を描き、直線を描き、超音速で迫るのを遠方から放たれた光線が撃ち落とし、アスラムを救った。
『ご無事ですか、アスラム』
救い主はフルドレスを操るリネットだった。フルドレスの左手に持たせた荷電粒子砲は短時間の高速連射で高熱を帯びている。
妹達の乗るフルショットとフルエッジは変わらずデウスギアの機動兵器の撃破に邁進しており、ヴァルシオーと戦うドラン達に余計な横槍を入れさせない事を第一としているようだ。
「リネット嬢か。助かった」
アスラムは礼の言葉を口にし、空中で姿勢を変えて、カイゼロンから寄越された台座のような物体に着地した。
予め、外部での戦闘に及んだ場合にカイゼロン側が用意した飛行具の一つで、アスラム用の移動する足場だ。周囲には同じ飛行台座が無数に配置され、アスラムに追従するように命じられている。
『大物が出てきましたが、戦艦一つを沈めるよりは手間が省けそうですね』
淡々と告げるリネットに、アスラムは半分だけ同意といった調子の声で答えた。
「人型に縮まった分、機動性が増し、出力も圧縮されている。決して容易くなったわけではないぞ」
『破壊する分には戦艦のままなら的が大きくて楽だったのには、同意いたします。ですが中枢部分から情報を抜き出す手間を考えれば、広い艦内を探し回る必要がなくなった分は楽でしょう?』
この魔装鎧なのかゴーレムなのか判然としないモノに乗り込んだ少女が、ヴァルシオーをまるで脅威と見ていないのに気づくと、アスラムは少しだけ目を見開いてしげしげとフルドレスを見回した。
かつてアムリアを巡って争った時には、この少女が人間を基にしたナニカである事と搭乗式のゴーレムを抜きにしても手強い敵である事くらいしか把握できていなかったから、こうして味方として肩を並べると思いがけない発見がある。
「ふっ、確かにそれはそうかもしれんな。さて、そうなると完全に破壊しつくしてはならんわけだが、手足に中枢はあるまい。君はどう考える?」
『ん? 今、ルナマリスとハウルゼン卿から情報が届きました。あの戦艦はどうやら搭乗者と物理的に融合して性能を引き出しているようです。この場合、搭乗者がそのまま中枢と同化したと判断できるそうです』
フルドレスの視線の向けられた先では、ディアドラの展開した黒薔薇の大槍とセリナの放つ七つ首のジャラームを相手に、手首から先に光の大剣を展開して暴れるヴァルシオーの姿がある。
ヴァルシオーの周囲をヤーハームやガリリウス、トラウルー、クリスティーナが飛び回り、シールドを突破する一撃でヴァルシオーの装甲に損傷を加えているが、瞬きをする間に傷が埋まって装甲は元通りだ。
「不死身ぶりは天意聖司も戦艦も変わらんか。再生するよりも早く装甲を破壊し、内部の搭乗者を引きずり出すのと、自決ないしは自爆を防ぐのを両立しなければならんのが難点か」
『撃破それ自体は難しくはありませんからね』
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第三百三十二話
聖法王国側で唯一遺体の残ったシークシータを戦場となった土地に弔い、膨大な数の機動兵器や戦艦群の残骸をカイゼロンの収納空間に回収し、戦闘の後始末を付けてからカイゼロンは再び次元潜航によって聖法王国の目から隠れた。
ルナマリスの抑揚に乏しい声でカイゼロン内部に休息を促す放送が行われると、格納庫の一角に集っていた面々は大なり小なり精神と肉体を弛緩させる。出撃する時は別々だったが、カイゼロンへの帰還に際しては全員が合流していた。
ドラン達が帰還を促された格納庫には、本来格納されるべき機動兵器の類はなく、その代わりに荷車程の大きさの金属の体に饅頭みたいな頭と、大小の筒を繋げたような腕を持ち、ふわふわと浮かぶ奇妙な物体が彼らを待ち構えていた。
元々は天人の兵士や自律機動兵器の治療、修理、世話と万事をこなす為に作られた多目的ドローンだ。
この場に三十体以上居るこれらは、この場においては戦いを終えたドラン達へ医療器具や戦闘直後の肉体に適した栄養補給用の飲料類、ハウルゼン用の修理道具一式を携えて出迎えてくれている。
素直に治療を受ける者、飲料だけを受け取る者、内部の構造に興味を示す者、意にも掛けず無視する者……対応は千差万別だ。
事前に想定された以上の激戦には、一部を除いた戦闘参加者達も流石に疲弊の色を隠さなかったが、戦闘中に霊的進化を果たしたメルルは今も興奮冷めやらぬ様子で鼻息をフンフン、フフフンフン! と荒々しいものにしている。
他にも、シークシータの亡骸を通して聖法王から聞き逃せぬ言葉を耳にしたヤーハームが興奮と喜びと悲しみとを混ぜ込んだ不可思議な表情で、クリスティーナを目指してズカズカと大股で近寄っていた。
敵意はないが怒りのようなそうでないような、強いて言えば憤りに近い感情を滲ませるヤーハームに、クリスティーナは愛剣二振りを抜きこそしなかったが、多少の警戒の意識を抱いた。
むろん、ごく自然とクリスティーナを守れる位置にドランとドラミナが着き、ヤーハームに加勢されぬようにとセリナとディアドラ、そしてタナトスが一歩距離を置いて周囲に散らばる。
ガンドーガ三機に乗ったままのリネット達は、いざとなったら格納庫ごと吹き飛ばす為に、いつでも出力を最大に持ってゆく準備を整えている。
「ベルン男爵よ、おれの耳はとんでもない話を聞いてしまったぞ。あまりに信じ難くて自分の耳を今でも疑う程だ」
劇場で嘆きの芝居をする舞台役者のように大仰だが、同時に紛れもない心情のこもったヤーハームの様子に、話しかけられたクリスティーナを筆頭に毒気が抜かれる中、ドランとドラミナはなにか察した様子になる。
クリスティーナは回避行動にだけはいつでも動けるように重心を整えながら、一時的な共闘相手に問い返す。
「それほど陛下が耳を疑う話とは、いったいなんでしょうか。ご様子からして私が関わっているのは間違いないようですが……?」
「なんだ、察しが悪いな。いや、それとも日常的に接しているから意識していないのか? 聖法王が戦士の亡骸を通して口にしたではないか!」
ここまで言われるとクリスティーナもヤーハームが何を言わんとしているのかを察し、クリスティーナはとっさに自分の右腰のドラッドノートの柄に触れる。
たしかに、あの時、聖法王はクリスティーナにとってはもうとっくに当たり前で、周囲からすればまったくもって当たり前ではない事柄が口にされていた。ソレがよりにもよってこの魔王の耳に届いてしまったのだ。
「この剣の銘についてですか」
「ああ。よもやよもやあの場で偽りなど口にすまい。そしておれはそれを真実と認めるだけの力を見た。剣そのものにも、それを振るう貴殿にも! その剣、ドラッドノートと聞いていたが、その真なる名をドラゴンスレイヤー!
凡百の竜殺しの剣の総称などではない真の意味でのドラゴンスレイヤー、すなわち古神竜ドラゴンを殺害せしめた、超先史文明最強の兵器の名だ!」
これまで二人に意識を向けていなかった者達も、ヤーハームの口にした言葉は無視できるはずもなく、驚愕の表情を浮かべる者、またあるいは興奮の色をさらに濃くする者と反応は様々だが、一様にして誰もが伝説中の伝説を目の当たりにした驚きを抱いているのは確かだ。
例外はベルン組と、ドラゴンスレイヤーと知っているからこそ接触を求めてきたハウルゼンだけだ。
立場としてはクリスティーナの味方であるメルルもまた、まじまじとドラゴンスレイヤー=ドラッドノートを見つめる。目にありったけの透視の魔法を施し、解析と分析、演算を補助する専用術式を即興で組み上げて、彼女なりに調べようとしている。
「うわあ、ぜんっぜん、解析できない! 私が新しい術式を組むよりも速く、隠蔽と妨害の魔法と魔法以外の防御が次々と展開されて、これじゃ十年かけてもなんにも分かんないや!」
およそ腹芸の出来ないメルルらしい素直な驚嘆の台詞であったが、ドランはあえて冷淡な声音でメルルに釘を刺さなければならなかった。
「メルル様、貴女様のご人格とお立場を考えれば我が主人の持つ剣を調べようとなさるのも仕方のない事かもしれませんが、それでも一つ断りを入れてからなさってください。
調査しようとする魔法の働きに反応して、迎撃する術式があったらどうなさるおつもりだったのですか。加えて申し上げれば、そもそも礼を失した行いに他なりません」
実際にドラッドノートには解析魔法や科学的な観測に反応し、相手先に高熱を発生させたり、爆発を生じさせたり、またあるいは局所的な重力場の形成など多種多様な迎撃を行う能力がある。
メルルに対してそれを行わなかったのは、メルルが対迎撃用の魔法を同時に組んでいたのもあるが、ドラッドノートが味方であるから迎撃を控えた為だ。
次なる霊的段階に達したメルルといえども、ドラッドノートはメルルと同格かそれ以上の者達が数多いた太古の文明の生み出した最強の兵器である以上、迂闊に手を出せばただで済む相手ではない。
ドランの指摘に戦闘中から頭の中に熱が籠りっぱなしだったメルルも、流石に頭が冷えて自分がとんでもない非礼を働いたことを自覚する。それとクリスティーナが、実在が証明されれば、一国の問題では済まない代物を黙って所有していたのはまた話が別だが。
「あ、あわわ、ごごごごめんなさい。つつ、ついうっかりと! ベルン男爵閣下、この度はとんだ無礼を働いてしまい、なんとお詫び申し上げればよいか」
見る間に顔を青く変えて謝罪の言葉を口にするメルルに、クリスティーナは遺憾であると言わんばかりの表情を努力して拵え、次いで悲しげな表情へと変える。
自身の美貌の効果を熟知し、相手に罪悪感を抱かせる表情の変化の演技だ。ドラミナ指導の下、政治的な取引の場における手札の一つとして大苦戦しながら習得した技術である。
それをまさか自国の大魔女に使う羽目に陥るとは、いやはや、未来は分からないものだとクリスティーナは心の片隅でそう思ったかもしれない。
「確かに軽率な行為であったのは否定できません。ですがこの剣が本当にドラゴンスレイヤーであるのなら、メルル様でなくとも真偽を確かめようと行動される方は多くいらっしゃるでしょう。私自身、この剣が途方もない力を秘めているのは理解しています。
ただまあ、勝手にドラッドノートと名付けて、エルスパーダに続く我が生涯の愛剣と確信し重宝していたのですが、かの伝説のドラゴンスレイヤーであるという聖法王の言葉は予想外の事でした」
私とてドラゴンスレイヤーとは知りませんでした、という意味ではなく、余計な情報を他者の耳目のある場で吹聴しやがって、まったく! という意味での予想外だ。
メルルは前者として受け取ったようで、青かった顔色を少し元の色合いに戻して、うんうんと腕を組んで考え込み始める。
「そ、そうだねえ。ドラゴンスレイヤーと言ったら今ではもう竜種を殺害した武器か、竜種にも通用するくらい強力な武器か、それを成した人を意味しているし、まさか本来の意味でのドラゴンスレイヤーが手元に転がり込んでくるなんて、誰も信じないよね。
う~ん、古神竜ドラゴン程の超絶した高次元存在を殺害したにしては、竜殺しとか神殺しの因子は持っていないし、ああでも隠ぺいできちゃうくらいの高性能ぶりだから……」
メルルは、これって報告案件? どうしよう、絶対に周辺国との軍事的均衡がまた大きく崩れちゃうよ、戦争の引き金? え、本当に引き金? とブツブツ呟き始める。そうしているとドラン達のよく知っている残念な大魔女そのものの姿で安心できる。
メルルにはしばらく悩み続けてもらうとして、クリスティーナは改めてヤーハームへと振り返る。そのすぐ傍にガリリウスにザンダルザ、マスフェロウに至るまでが眼の色を変えて近寄っていて、彼らが特にドラゴンスレイヤーを無視できない面子になるだろうか。
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第三百三十三話
暴き立てられた次元回廊の施設へと、ルナマリスが操舵を担う小型艦ラグナスタは一筋の流星となって突貫し、艦首下部の装甲を開くと収納されていた砲身を露にした。
ラグナスタが地下施設に激突するまでのコンマ一秒の間に、大きく開かれた竜の顎のような艦首からは指向性を持たされた超重力の奔流が放たれて、施設を守る歪曲した空間の壁に干渉して無理やりこじ開けてゆく。
「各員、衝撃に備え! 本艦はこれより敵施設へと直接突貫し、捻じ込みます!」
普段は淡々とした物言いのルナマリスも今ばかりは声に熱が入り、格納庫で突入の時を待つドラン達への警告もずいぶんと声を張っている。
超重力砲を放射しながら突撃を続け、ラグナスタは歪曲空間に弾かれる超重力の嵐に装甲を歪めながらも、損傷に構わず進み続ける。施設に近づけば近づく程に超重力の反発を受けて進みが遅くなるが、開かれた竜翼の如き推進器からあふれる光が衰える事はない。
「アンチエーテルドライブ、ツインマナリアクター、マイナスプラーナジェネレーター、オールオーバードライブ! 歪曲空間を貫きます。五……四……三……二……一……歪曲空間を突破! 衝撃、来ます!!」
ラグナスタは夜空を流れて燃え尽きる星の如く歪曲空間を突破し、聖都の地下深く、そして広大な範囲に隠されていた地下施設の灰色の壁へと艦首を突き立てて、凄まじい破砕音と掘削音の合唱を奏でながら突き進んでゆく。
艦を襲う振動はそれこそ次の瞬間にはラグナスタがばらばらになるのでは、と危機感を抱かせるのに十分だったが、それも長くは続かなかった。
振動が収まった時、ラグナスタは相当な負荷がかかったが、幸いにして艦の表面装甲のそこかしこに亀裂が走り、内部の回路がいくつも破損した程度で、速度こそろくに出せないが再び空を飛び、宇宙を駆けるのも可能な状態で済んでいた。
なによりドラン達の待機している格納庫の扉が無事に開けるのが、艦の状態を確認したルナマリスをもっとも安堵させた。
生きている観測機器の捉えた映像を確認すれば、ラグナスタは艦体の前半分を施設に突入させた状態で停止しており、縦横共に広大な廊下の上半分をラグナスタの艦首が貫いている。
瓦礫が廊下に散乱してはいるが、格納庫の扉を開けば廊下へと出る事の出来る位置だ。可能ならばこのまま施設の最奥部にまで突入し、一気に聖法王ないしはデウスギアの残党のいる場所まで進みたかったが、無事に突入できただけでも良しとすべきだろう。
「ハウルゼン、私はここで貴方とあの方達の帰還を待ちます」
「ああ。予定通りに頼む」
ハウルゼンは、頼む、などと口にした自分が、製造当初にはない機能を随分と得たものだと感慨にふける。
感慨にふける、という行為もその一端に違いない。艦橋から外部へ出るべく踵をかえすハウルゼンに、ルナマリスは自分自身でも困惑しているような様子で声をかけた。
「貴方やリネット達はしきりに戦いの後を私に考えるよう促していました。私にはいまだ演算や予測できるものではありませんが、善処いたします。だから、帰ってきてくださいね」
視線をさ迷わせながら最後まで言い切ったルナマリスを振り返り、ハウルゼンは何も口にはしなかったが、もし彼に表情があったならきっと笑みを浮かべていたに違いない。
*
「なんだかキラキラとまぶしいところですねぇ」
といささか呑気な感想を零したのはセリナである。ルナマリスを除く戦闘要員全員が廊下へと降り立ち、青い水晶のような物質で構成された廊下を見ての最初の感想がこれであった。
天人の遺跡でもそうだったが構造材それ自体が照明も兼ねているようで、瓦礫の断面やさらに細かな破片に至るまでが明るい光を放っている。フルドレスに乗ったままのリネットが破片の一つを手に取り、分析結果を口にした。
「これ自体が無数の小さな機械の集合体ですね。演算装置であり、動力源であり、通信装置であり……と多様な用途を持っています。リネット達は敵のお腹の中に飛び込んだも同然になります」
「うわあ、それは普通なら危機なのだろうけど、なんだろうね。これまでの経験からすると手っ取り早く敵の人達をやっつけられるなって真っ先に考えちゃった」
「それは……リネットも同意いたします。敵の懐に飛び込むという事はそれだけ近づけたわけですから、手間が省けたと思ってしまいます」
確実にドランと行動を共にした影響が思考形態に及んでいる発言だが、それはむろん、ベルン組全員に言える事であった。
自覚しているがこれはもう治らないし治さなくてもいいか、と考えているのが聞き取れる二人のやり取りに、先行して偵察用の子蜘蛛を放っていたクインセがしみじみと呟いた。
「コレマデドノヨウナ戦イヲ経験シテキタノヤラ。ベルンノ方々ハ本当ニ興味深イデスネ。ドラゴンスレイヤーガアル限リハトテモ戦ウ気ニハナレマセンケド」
魔王軍組の中でもそれほど戦闘意欲の旺盛ではないクインセとトラウルーは、先程のドラゴンスレイヤー発覚問題もそうだが、別段、闘争の神の系譜でもなければ信者でもないセリナらが過激な武闘派じみた考えを有しているのには呆れ半分好奇心半分だ。
ほどなくしてハウルゼンも合流し、撤退するのに必要なラグナスタの防衛組を残して施設中枢の制圧へと向けて出立する運びとなった。
ドランは、ラグナスタの傍に残してゆくガンデウスとキルリンネに声をかけていた。ガンドーガに乗ったままの二人の他にも、ヴェンギッタとクインセ、トラウルー、アスラム、残存していたマーゼル数機の姿があり、彼女らがラグナスタの防衛組の内訳となる。
「ガンデウス、キルリンネ、デウスギア側は私達への迎撃に戦力の大半を割くだろうが、私達の撤退の足を潰しにもかかってくるだろう。
君達にも少なからず負担がかかるのは間違いないが、私達が聖法王とデウスギアに止めを刺して戻ってくるまでの間、この場を任せる。頼りにしているよ」
ドランにこう言われれば置いて行かれる不安など消し飛ぶ二人であるから、機体越しに答える声は信頼される喜びに満ち溢れている。いやはや、なんともお手軽というか安直なのが、ベルン組女子勢の特徴でもあった。いや、ドランも似たようなものか。
「私とキルリンネ共々、ご主人様からに信じ頼っていただけるとあれば、渾身の力のさらにその百倍の力を発揮いたします。帰りの足につきましては、どうぞ案じめされませぬよう恐れながら申し上げます」
「私もガンちゃんと一緒にこのお舟を壊しに来る奴らはズバズバ叩っ斬ってやりますぅ~。傷一つなく、皆様で戻ってこられるのを待っていますから~」
鋼鉄の巨人の中から、生真面目なガンデウスの声とこの状況でも緊張感に欠けるキルリンネの声が聞こえてくるのはなかなか愉快なものだった。ドランは彼女ら以外の防衛組の面々を見回す。
「これだけの戦力が残るのならばラグナスタを守る分には不足あるまい。それに私達が聖法王国の喉元に近づけば近づく程、こちらに回す戦力は少なくなる。この戦いを終わらせる為にも、君達の負担を軽くする為にも、迅速に事を運ばねばな」
「大昔にやってきた星の侵略者の残党などに、ご主人様のお手を煩わせてしまう状況は、確かに不快なもの。直接ご主人様に動いていただかねばならない我が身の未熟を恥じ入るばかりでございます」
そう口にしたガンデウスばかりでなくリネットやキルリンネにしても、同じ思いを共有している。
ドランとベルン男爵であるクリスティーナに仕える者、と自分達を定義している三名からすれば今回のような武力がものをいう事態は、ドラン達が直接動く前に自分達の力だけで水面下で解決しておきたい事態だった。
最初にムンドゥス・カーヌスから正式な使者が送られた以上、ガンデウス達だけで解決できる規模を越えてはいたが、そうと分かってはいても悔いを覚えてしまうものだ。
「私もそれには同意します。私とガンちゃんとリネットお姉ちゃんだけで、ズバっと斬って、ドバババって撃って、グシャって潰せたらこんな余計な時間をかけずに済んだのに。その分の時間があれば、ベルンの領地でたっくさんの事ができましたもんね」
「ふむん、二人のその気持ちだけで十分だよ。領地を上げて戦う事を選んだのも、こうして国の垣根を越えて共闘する事にしたのも、私達が自分で考えて決めた事なのだから、ガンデウスとキルリンネがそう気に病む話ではないさ」
二人が生身だったなら、ドランは肩なり頭なりを撫でて感謝と激励をするところだったが、あいにくと分厚い魔法合金の向こう側に二人は居る為、仕方なしにフルエッジとフルショットの操縦席のある胸部を軽く掌でポンポンと叩くのに留めた。
それで一旦別れの挨拶を終えた後、代わりにディアドラが入れ替わりに二人に話しかけ、ドランはクインセとクリスティーナの腰に下げられたドラッドノートと情報のすり合わせをしているハウルゼンの下へ足を運ぶ。
「目的地の詳細な位置はもう分かったのかい?」
クインセの小蜘蛛にハウルゼンが遠隔操作する極微小の偵察機械、それにドラッドノートによる施設を制御する人工頭脳への情報戦によって、それなりの精度の情報が既に揃っているはずだ。ドランの問いに答えたのはハウルゼンである。
彼にとって最大最後の戦いとあって、特殊合金製の体からは燃え滾るような闘志が立ち上って見える。元は人工物とはいえ、付喪神となり魂を獲得した彼ならではの現象である。
「このままラグナスタに背を向けて、この廊下を直進し、一つ目の角を左へ。その先にある昇降機にて地下へと降りれば次元回廊のある部屋に到着する。当然、デウスギアによる妨害が想定されるが、ここまできて足を止める理由にはなるまい」
「それはそうだ。ではそろそろ動き出してもよい頃合いだね。次元回廊のすぐ先で聖法王か彼を操るデウスギアの残党が待っていてくれたなら話は早く終わるが、期待はせずに行こうか」
図らずもドランが口にした通り、この施設の内部構造の把握は済んでいる為、あとは目的地を目指し、阻むものは排除して進み続けるのみである。
指針が定まれば行動に移るのが早いのが、この凸凹同盟の長所だ。聖法王国が最も警戒していると推測されるドラッドノートを持つクリスティーナを中心に配置し、その周囲をドラン達が固め、更にその外をヤーハームらが囲い、先頭はハウルゼンという布陣だ。
人型の生命体としては最高峰の戦力が集った彼らを阻む事は、銀河間の航行すら可能な文明が作り出した防衛兵器をもってしても歩みを止められず、彼らの通った後には原形を留めない鉄屑の骸の山を積み上げてゆく。
ハウルゼンを先頭にひた走る事およそ十分、目の前で閉じられようとしていた隔壁を、ハウルゼンが右肘から先に取りつけた筒状の超振動発生装置を叩きつけて、分子単位の大きさにまで分解して道を開く。
この時点でハウルゼンはなにか疑念を抱いたようだった。粉状に砕けた隔壁を跳び越えて進む中、ドランが話しかける。話題はハウルゼンとドランばかりでなく、共に中枢を目指す全員が内心で察していた疑念についてだ。
「どうにも相手側に防衛しようという意欲が欠けているように感じられるが、貴方の所見は如何か?」
「……肯定する。想定した敵防衛戦力に対して実際に投入された戦力が質、数、共に乏しすぎる。現在、ドラッドノート殿と連携した上で施設内部の探査を継続して行っているが、天意聖司なる生物兵器達の反応すらない。
避難させた住人の護衛に回している可能性もある。そうであるのならば、彼らに知られては困る戦力を投入する用意がある事も考えられる」
「ふむ、これまで神と偽ってきた神ではない力を直接振るってくる可能性か。それなら相手がそれだけ本気というわけなのだから、このまま息の根を止めてやると気合を入れようじゃないか」
「前向きな意見だ。貴殿にはそれを口にするだけの実力があり、実績がある故、私も肯定しよう。あちらが出し惜しみを出来ない程、追い立ててみせよう」
「はは、その意気、その意気」
ドランの軽やかな笑い声が水晶めいた廊下に響くが、それが途中で変わる。廊下の先に広がる広大な空間へと繋がったためだ。声の反響の変化と先行させていた蜘蛛達からの情報通りの構造であり、想定通りである。
想定通りではあるが、あまりにも容易に進む展開には大なり小なりこの場に居る全員が警戒の意識を高めている。
廊下の先に広がっていたのは、千人の兵士が整然と並んでもまだ余裕がある空間だった。青い水晶のきらめきは変わらず、しかし中央には一段高くなった円形の台座があり、その中心部の上の空間に虹色の渦が一つあった。その向こうにデウスギアの本拠地がある。
疾走から歩行へと変えて、全員が渦に近づく中、神剣ガランダインを肩に担ぎなおしたヤーハームがいかにもつまらなさそうに部屋を見回す。
「待ち伏せの類もなし。姿を消しての奇襲もあるかと思ったが、その気配もなし。到着直後の襲撃はなしか。あまりおれ達を歓迎するつもりはないようだな」
魔王の隣で、黄金の短槍を握る古ゴブリンもまた似たような感想を抱いたようだった。
「そういった矢先に水晶それ自体が襲い掛かってくるかと備えたが、それもない様子だ。まさか戦力が枯渇したわけでもないだろう。もしそうならば、デウスギア共は雌伏の時を無駄に過ごしたと罵るほかないだろう」
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第三百三十四話
自らを終焉竜と名乗り上げた敵を前に、ドランの鱗に入った罅は急速に修復されて、元の一面に広がる雪原の如く傷一つない状態を取り戻した。
ドランをしてかつての自分でもあった始祖竜と同等以上と認める存在は、前世も今世も経験の無い強敵である。そして間違いなく終焉竜よりも強大な敵とは二度と出会わないだろう。
それはこれほど強大な敵が他にも存在するはずがないと考えているからか、それとも終焉竜を相手に自分の生命はないと感じているからなのか。
どちらにせよ、ドランに黙ってただやられるだけの趣味はなく、彼にはまだ戦うべき理由も、生きるべき理由も山ほどある。
「おおおおお!!」
こと戦闘において自らを鼓舞する為に叫びをあげるなど、ドランにとってほとんど経験の無い事だったが、そうしなければならぬ敵であった。そうしなければならない苦境なのである。
七枚の翼が羽ばたき、ドランは原初の混沌をかき分けて終焉竜へと挑む。
人間には理解できない高次元の場所であるこの場において、ドラン達の正確な大きさや距離を測る事は意味を成さない。
それでも互いの大きさに意味を見出すとしたなら、互いの体躯の差はそのまま存在の格、保有する力の差に繋がるだろう。古神竜の姿となったドランがなお見上げなければならない終焉竜とは、つまり、それだけ格が違うという事だ。
それでもドランは戦いを諦めない。勝利を掴むべく挑み続ける。すべては去り際に交わしたセリナとの言葉を守る為。そして人間としての生を全うする為に!
飛翔するドランから流星群を思わせる七色の光弾が、四方から終焉竜へと襲い掛かる。
一つ一つが大神であろうと滅ぶ他ない威力を持つそれらを終焉竜は防ぐ素振りも見せずに浴び続ける。まるで心地よいと言わんばかりに七色の光の爆発に包まれて、終焉竜は嘲りでも侮りでもなく、淡々と言葉を重ねる。
「怯えを糊塗する為の叫びか? 己を奮い立たせる為の叫びか? どちらでもよい。どちらでも変わらぬ」
終焉竜の左側四枚の翼が大きく広げられ、それに伴って発せられた衝撃波が数万を超える七色の流星群を消し飛ばし、終焉竜へと迫るドランにも襲い掛かって彼の全身を大きく震わせる。
内臓も骨も何もかもがその場でばらばらになるような衝撃の中で、ドランはそれでも進み続ける。肉薄と呼べる距離の直前で練り上げた力をブレスと変えて、終焉竜の頭部へと放った。
霧状に広がりながら迫り来る必滅のドラゴンブレスを、終焉竜の放つブレスが呆気なく貫き、吹き散らす。
灰色の光と見えるブレスはドランの放つ全力のブレスをはるかに上回る威力を持ち、直撃を受けたわけではないドランの鱗をびりびりと震わせて、付け根からいくばくかの出血を強制した。
「ふんっ!!」
ドランは全身から血の糸を伸ばしながら、自身よりもはるかに巨大な終焉竜の懐に飛び込み、あらん限りの力を込めた両腕を交差するように振るって、終焉竜の胸部へと斬りつける。
いかなる神の鍛えた防具も、また既知世界に存在する物体や概念すらも斬り裂き得る古神竜の一撃を受けて、終焉竜は――
「かつての我らなら百回は滅びた一撃も、終焉竜にとってはこそばゆいぞ、始祖竜の心臓よ」
終焉竜はわずかに鱗に爪痕を残すばかりの攻撃に対して、いっそドランを哀れむように告げる。
終焉竜の五つの瞳を同じ色の瞳で見返し、ドランは構わず攻撃を続けようとして、こちらの視界を塞ぐように迫り来る終焉竜の左手に気付いた。
ドランが無数に展開した障壁は薄氷の如く砕かれて、ドランはかろうじてのけ反るのが間に合って頭部を粉砕される危機の回避に成功する。
その勢いのまま後方へと回転しながら離れるドランへ、終焉竜はわずかに八枚の翼を動かして追撃の動きを見せる。それを予測していたドランは全方位へ虹色の光の津波を放射して迎え撃った。
一切の容赦ない全力の攻撃であり、同時に終焉竜の動きを探知する役目も併せ持った一撃を、終焉竜は三本の尾を縦横無尽に振るって、原初の混沌に広がる虹色の津波を斬り裂き、無数の飛沫へと呆気なく変えてしまう。
これまでドランが数多の敵を葬るまでに描いてきた光景が、そっくりそのまま逆転したような状況に、ドランはなるほど、奴らはこういう気分だったかもしれん、と苦笑を零す。
まだ苦笑を零せるだけの余裕が彼にあった。少なくとも、敗北を理解した潔さが浮かばせた笑みではない。
ドランが笑みを消し去り、体勢を整えて終焉竜と正面から向かい直った時、終焉竜は戦い出してから初めて顎を開き、喉の奥から灰色の輝きを放っていた。
竜種最大最強の武器の一つに数えられるもの――すなわちブレス!
射線上にある原初の混沌を飲み込みながら、終焉竜の灰色のブレスはドランを目掛けて迫り、回避が間に合わぬと悟ったドランは、星の数よりもなお多い障壁を前面に展開し、少しでも威力を減衰させようと足掻く。そう足掻く、だ。防ぎきれないと彼は理解していた。
「ここまでか!」
それは負けるという意味か、それともここまで力の差があるのか、という意味か。ドランの短い言葉の中に苦渋の成分が極めて濃密に含まれているのは、紛れもない事実である。
そんなドランの前に、終焉竜のブレスに立ちはだかるようにしてするりと長い巨大な影が割込み、渦を巻くようにくねらせたその長大な体躯で受け止める。
かつては同じ存在として一つだった、その長大な体躯の主の名をドランは思わず口にしていた。
「リヴァイアサンか!」
今まさに灰色のブレスを青く濡れた鱗の巨躯をもって見事に受け切って見せたのは、ドランと同格の始原の七竜が一柱、古龍神リヴァイアサンに他ならない。
リヴァイアサンは終焉竜への警戒の意識をそのままに、首を曲げて弟扱いをしているドランを振り返る。
「ドラン、これはまたとんでもない輩が出てきおったな。見よ、妾の鱗でも耐えきれずに砕け、肉を抉られた。そなたの鱗と肉体であったら、この程度では済まぬぞ」
リヴァイアサンの声色に苦痛の響きはなかったが、原初の混沌を撹拌するように動く彼女の体は、終焉竜のブレスによって広範囲に渡って鱗が削られ、その内側が露となっている箇所が見受けられる。
それも古龍神たるリヴァイアサンの強靭な生命力によりすぐに塞がるが、始原の七竜の中で最も頑強なるリヴァイアサンがこれほどの傷を負うなど前代未聞の事態だった。
「やはり君でもそこまでの傷を負う相手だったか。だが、まずは助けに来てくれた礼を言いたい。ありがとう」
「礼を言われるほどの事ではない。よもやあそこまでの存在が誕生するとは、妾達も予見出来ずにいた。終焉竜と名乗る相手の誕生を防げなんだは、妾達の手落ちと言えよう。なにより、単純に強い。それこそ妾達が総がかりで挑む必要がある程にのう」
リヴァイアサンが総がかりと口にしたのは偽りではなく、リヴァイアサンの登場にわずかに五つの目を細めていた終焉竜の前後左右上下から、真っ黒い火炎弾が降り注ぎ、同時に着弾して終焉竜の全身を余すところなく黒炎の中に飲み込む。
ドランでさえ焼かれる覚悟をしなければならない黒炎は、終焉竜を挟んでドランの反対側に出現していたバハムートが放ったものだ。
「我が黒炎でも鱗一つ燃やすのに足りぬか。ならば燃えるまで燃やすのみ」
終焉竜を取り巻いていた黒炎がさらに勢いを増して渦を巻き、熱量を無限大に増やしてゆく。黒炎の火の粉ひとつだけで膨大な数の宇宙を生み出せるだけの熱量を持つが、こんなものは始原の七竜にとって特筆するようなものではない。
終焉竜を前にしたバハムートは、竜界において不動不変の要として在る普段の姿とはかけ離れ、彼もまた全ての神々が力を合わせてなお及ばぬ超越者の一角たる威圧感を放ち、更なる深い黒の炎のブレスを放つ。
粉砕、消滅の要素が強いドランのブレスに対し燃焼・焼却の要素を強く持つバハムートのブレスならばあるいは、という希望的観測をドランは持たなかった。おそらくリヴァイアサンも、ブレスを放っているバハムートも。
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第三百三十五話
ドランが消え、聖法王が消え、そしてタナトスまでもが消え、実際には決戦どころか前哨戦でしかなかった戦いの場で、ようやく時間は流れる事を思い出した。
消え去る死の女神にまだ問いの残っていたセリナ達は、音と動きを取り戻した世界に気付き、とっさに口をつぐんでヤーハームやハウルゼン達を見回した。
彼らは姿の消えた二人と粉々に砕けて床に散乱しているドラゴンスレイヤーに気付き、戦闘態勢を解いて良いやら悪いやら、珍しく困惑している様子。
そんな中、ヤーハームが得心の行っていない様子で険しい表情のまま周囲を見回し、タナトスの御業によって操作された彼らの認識を口にする。
「聖法王が今わの際にドランを道連れにどこぞの異空間へ跳んだか。ドラゴンスレイヤーのこの様子は、メッキが剥がれて粗製乱造の地が露呈した、と解釈するのは都合が良すぎるか?」
神器がなければ触れるだけで跡形もなく消し飛ばす威力を誇った武器が、こうも呆気なく壊れた姿を晒しているのに、ヤーハームをはじめガリリウスもザンダルザも納得がゆかず、腑に落ちないと顔に書いている。
セリナ達とてタナトスから事前に説明を受けていなかったら、何が何だか分からずに混乱したに違いない。ただまあ、ドランが去り際に壊していったのだろうな、と解釈してそう長くは混乱しなかったろう。ここら辺はこれまでの尋常ならざる経験の賜物だ。
数百年か数千年の時を待った宿敵の姿が消えたと考えれば、今回の事態である意味、滑稽な道化じみた被害者となったハウルゼンは、体内の観測機器を走らせながらクリスティーナの左手に握られたドラッドノートへと声をかけた。
この場に居る誰よりも広範囲かつ多くの次元に対する観測・索敵能力を持つ超兵器に意見を求めるのは、合理性と効率性を兼ねた判断だが、加えて同じ器物同士として頼った面もあるかもしれない。
「ドラッドノート殿、貴殿の見解はいかがか? ドラン殿とデウスギアの行方は?」
「……ドラン補佐官は現在、異次元にて交戦中です。どちらかが勝利するまでこちらの世界に帰還はされないでしょう。
量産されたドラゴンスレイヤーは、短時間のみの稼働を前提とした兵器です。聖法王がこの場から去った事と合わせて、彼らの役割が終わり機能を停止しました。
ドラン補佐官の事ですからまず敗北はあり得ません。あちらとこちらの時間の流れの差異が気掛かりですが、いずれこちらの世界にお戻りになるでしょう」
ドラッドノートの言葉は同時にセリナやクリスティーナ達を落ち着かせるための励ましの言葉でもあったろう。だが常ならばこのように励ましの言葉を口にする必要はない。今回に限っては信頼の中に消しきれぬ不安の荒波が、ベルン組の心に立っていたからだ。
ハウルゼンはドラッドノートの言葉を理解しつつも、納得しきれぬ雰囲気を見せている。
彼にとっては積年の怨敵と決着をつけるべく覚悟も決意も堅固なものにしてきたのに、関わりの薄いドランがその最後の結末を担ったようなものだから、申し訳ないと思いつつも不完全燃焼の部分がある。この場に居ないドランも、それは仕方がないと理解を示しただろう。
「我々がドラン補佐官に対して行える支援行動はあるか? あるいはこちらから援軍を派遣するのは?」
「……現状、手段はありません。私の持てる機能の全てを稼働させても、ドラン補佐官の居る次元への干渉は不可能です。厳密にいえば、居場所を推定する事は出来ても特定は出来ていないのです。
ドラン補佐官の詳細な位置を特定するのは、ただの人間がこの地上のどこかに落ちた砂粒を歩き回って探すよりも困難と言えます」
「貴殿であってもか? となると他には神々に問う他あるまいが……」
短く告げて押し黙るハウルゼンを尻目に、ヤーハームが建設的な話を進めようと言葉を重ねる。デウスギアが居なくなったとはいえ、ここがまだ敵地であるのは変わりなく、次にとるべき行動を決めなければなるまい。
「それで、いつまでもここでドランをどうするかだけを話してもいられまい。それでデウスギアをいずれドランが倒すとしてこの場に残ったおれ達は何をする? 彼が帰還する時の灯台役はそちらの女性陣に任せればいいとして、この施設は? 聖法王国はどうする?」
それは当然の質問であった。ヤーハーム自身、ドランの底知れない力を感じ取り、聖法王もといデウスギアであろうと負けはしないと感じているだろう。十中八九、彼が遠からず帰還すると確信している雰囲気がある。
ともあれデウスギアが討たれて名実ともに支配者であった存在が失われたとはいえ、聖法王国の通常の戦力の大部分は健在であり、また国民に関しても同じだ。
聖法王国の中枢はムンドゥス・カーヌスからもアークレスト王国からも遠すぎて、制圧するには難があり、かといって戦争を継続するというのも利益よりも損の方が上回りそうだ、とこの場に居る多くの者は予測している。
ヤーハームの問いに答えたのは、ドラッドノートである。デウスギアもとい邪神達が居なくなったことで、管理権が空白となっていたこの施設の中枢を司る電子頭脳に接触しながらである。
「その件につきまして私よりご報告申し上げます」
「なにかな、古神竜殺しの剣殿?」
揶揄と感嘆が半分ずつといったヤーハームの声音に、ドラッドノートは少しばかりむっとした調子で答える。擬人化していたなら顔をしかめていただろう。
「デウスギアの存在が離れたことにより施設の自壊機構が作動しました。デウスギアとしては私達の抹殺が叶うならば、この施設は用済みなのでしょう。既に主動力が限界突破を目指して稼働しています。施設が自壊し次元の狭間に崩落するまで残り六百六十五秒」
「おいおい、ずいぶんと剣呑な情報を暴露してくれるな。少なくともここをどうするかは結論が出たな。脱出以外の道はあるまいよ
ベルン男爵、貴殿のところの補佐官はその内、ひょっこり顔を出す類のキワモノだろう。まずはここから脱出するのを一番に考えろ。その剣があればどうということもないかもしれんがな」
「お気遣いいただき、感謝いたします、魔王陛下。彼なら、ええ、彼ならこの程度の事、なんでもないという顔で私達の前に姿を見せるでしょう」
「ふっ、だろうよ。なぜだかおれはドラゴンスレイヤーよりも彼の方がよほど手強いのではと、そう感じられてならぬのだ」
この魔王の勘はまったくもって正しいと、この場に居るベルン組は心の底から同意した。自分達のすべき行動が決まればすぐさま実行に移るのが、この場に居る面々である。
ともに姿を消したデウスギアとドランを忘れたと言わんばかりに踵を返し、ラグナスタの突入個所を目指して全力疾走を始めている。
デウスギアの仕込んでいた自壊機構は本当の話であるが、ドラッドノートの機能ならば自壊する前に電子頭脳を制圧する事も可能だった。
だが、現在の地上文明の技術水準からかけ離れたこの施設は、存在しない方が禍根を残さないと判断して自壊するがままに任せていた。そのように判断したドラッドノートであるが、彼ないし彼女はハウルゼンに対してある程度の配慮も行っている。
(ハウルゼン)
(! なにか、ドラッドノート殿)
鞘に納められ、クリスティーナ達の腰で揺れるドラッドノートからの秘匿性の高い通信に、ハウルゼンは多少の驚きを伴いながら応じる。
自分とルナマリスの存在意義が思いのほか呆気なく、そしてどこか蚊帳の外に置かれたような形で果たされてしまったことに、彼なりに葛藤していたのだろう。
(可能な限り収集したデウスギア側の情報を貴方に譲渡します。この施設に関連したデウスギアの残党はいないようですが、情報の精査と今後の活動については貴方とルナマリスが判断してください。この星に留まるも、星の外に旅立つも、あるいは機能を停止するのも自由です)
(感謝の意を表する。しかし、自由とはかくも難しきものか)
(ルナマリスとよく相談するとよいですよ。貴方達の時間はとても長いものですから、急ぐ必要はありません。この場からはすぐに脱出する必要はありますけれど)
(脱出する必要をなくすこともできたろうに……)
(さて、なんのことやら?)
そうとぼけるドラッドノートのあまりに人間臭い反応に、ハウルゼンはお互いの性能の差か、それとも経験の差なのだろうかと考えるのだった。
ラグナスタの防衛を担っていたガンデウス、キルリンネ、アスラムらと合流し、自壊機構作動までごくわずかとなった時間に戦々恐々としながら、大急ぎで通常空間へと脱出した。
重要なキーパーソンの顔見世でございます。
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第三百三十六話
ドラン行方不明の知らせはベルン男爵領に留まらず、アークレスト王国とロマル帝国にも迅速に伝わり、彼の実力の一端を知る者達を大いに驚かせるものとなった。
スペリオンやアムリアのように、より深くドランを知る者達が遠からず彼が帰還するに違いない、と考えて強く悲観しなかったのは、これまでのドランのいっそ理不尽な程の武功と実力を考えれば当然の帰結だったろう。
そうして楽観視する者達も、今のベルン男爵クリスティーナの執務室に集った人々の沈鬱な雰囲気を目の当たりにすれば、まさか、まさかと万が一にもありえない事態に肝を冷やす事になる。
カラヴィスタワーとロマル帝国のドランの分身体達、エンテの森のユグドラシル、モレス山脈の竜種、ガロアのドランの娘……思いつく限りの伝手を頼り、ドランが邪神達に連れ去られた場所を特定しようというセリナ達の努力は成果を得られぬ虚しいものとなっていた。
クリスティーナ達の心情を慮ったスペリオンを筆頭とする王国首脳陣の配慮と、一日未満の時間で用意された膨大な量かつ精緻な内容の報告を上げたことにより、クリスティーナは王国へ帰還してから二日後には、所領であるベルンへ戻るのを許されていた。
歩みの速い秋は既に世界から背を向けて、今は雪の降る日がもう間近だと悟る冷気漂う冬の季節。室内の空気を温める魔法の道具の恩恵により、十分に温められた執務室は反比例するように凍えた空気と失意の雰囲気で満たされている。
彼女達にとってこうまでして何の成果も得られなかったのは、ドランと出会ってからは初めての経験で、それがよりにもよって最も頼りとなるドランの行方が知れないという事態であったから、彼女らの心を強く打ちのめしたのは想像するに難くない。
彼女らの気落ちした様子に使用人や家臣達は一様に気を遣って部屋を離れ、長い事、執務室にはドランの魂を知る者達だけが集っている。
一度は各地に散った面々が集合し、なにも進展がなかったという結果を共有してから、クリスティーナは零れ落ちそうになる溜息を必死に飲み込んで、次に自分達が何をするべきか、答えを出すべく口を開く。
「残念だが私達の思いつく限りの伝手は空振りに終わってしまったようだな。だからといってこのまま手を拱いてもいられない。
彼の事だからこうして気を揉んでいる私達の前に、今にもひょっこりと顔を覗かせる可能性もあるが、まだ私達に出来る事がないか改めて皆の知恵を借りたい」
執務室に置かれた応接用の長椅子に腰かけるセリナ達は、深々と頭を下げるクリスティーナに濃淡の差はあれど悲痛の色を浮かべた瞳を向けて、改めてお互いに持ち寄った情報を自分達の中で整理する。
最初に口火を切ったのはディアドラだった。深くスリットの入ったドレスの裾から大胆に太ももを覗かせて足を組んでいるその姿からは、状況が一向に好転しない事へのかすかな苛立ちが伺える。
彼女の背後に立って控えているリネット、ガンデウス、キルリンネら三姉妹も、とりわけ強く慕うディアドラの内心を察し、表情には影がある。
「ドランの分身達と神々が姿を消しているとなると、問題は私達が思っているよりもずっと“高いところ”で起きているようね。ドランが単独で状況を打破できていないから、マイラール神やアレキサンダーもタワーから姿を消したと考えるべきでしょう」
多少の苛立ちはあるがそれでも口にした言葉は、現状の核を的確に捉えている。加えてガロアの伝手を頼ったドラミナもまた、ディアドラの意見に同意する。
「ガロアからレニーアさんが姿を消したのも、まず間違いなくドランに加勢する為に違いありません。彼女ならばデウスギアを傀儡としていた六邪神とドランのやり取りを覗き見る事も出来たはずですからね」
「あの子なら頭に血が上った瞬間には行動に移るわよね。いつもなら、そしてこれまでと同程度の相手ならドランもレニーアもそれで問題はなかったのだけれど、今回に限ってはそうならなかった、か」
ほう、とディアドラの唇から黒薔薇の香りを含む吐息が一つ零れる。レニーアがこちら側に残っていてくれたならば、大神に勝るとも劣らぬ彼女を頼りにドランの状況を確認する事も出来たろう。
ポツリと思わず聞き逃してしまいそうな声を出したのは、ひときわ沈痛な面持ちのセリナだった。
「どこもかしこも、誰も居なくてドランさんの無事を確かめられないなんて……」
思わずセリナ以外の誰もが慰めの言葉を口にしようとしたが、顔を上げたセリナには慰めなど必要としていない気迫が籠っていた。
青く濡れた満月を思わせる瞳には不屈の闘志とでも呼ぶべき意志の光が輝き、キリリと引き締められた表情から諦めの色は払しょくされている。
「でも、無事は確かめられなくても! ドランさんが神様達にしか行けないような場所に居るのは確かです! なら、次に私達が目指すべきは天界ないしは竜界へ向かう事ではないでしょうか!」
執務室に漂う不穏な空気を吹き飛ばす烈風の如く、ラミアの少女はこの上なく力強い言葉で断言してみせる。思わず誰も反論や意見するのを忘れる程の気迫には、セリナの普段の穏やかさとはかけ離れた力があった。
フンフン! と息巻くセリナは決して自棄になったわけではないようだったが、彼女の口から語られた内容は多くの人々からすれば荒唐無稽とされるものだ。
諦めない強さを見せるセリナに、リネットはふむ、と主人を真似た呟きを一つ置いてから意見を述べた。
「セリナの意見は一考に値しますが、神々の領域に足を運ぶのはこの場に居る面々でも困難を極めるのでは?」
「リネットちゃんの言う事はもっともです。私、ディアドラさん、ドラミナさんはドランさんから古神竜の力を貰っているけれど、あくまで力を使うだけで世界間の移動はしたことがないから、練習なしの出たところ勝負で挑むにはあまりに危険すぎるから。
でもカラヴィスタワーにはリリさんが居ます。あの方はドランさんの眷属であると同時に淫魔の女神です。リリさんなら、魔界か天界への行き方を知っている筈です」
リリエルティエルはドランの行方を知らなかったが、真性の女神である彼女ならばセリナの言う通り高次元の世界である天界ないしは、生まれ故郷の魔界への行き方を知っているのは道理だ。
セリナが自暴自棄ややけっぱちになっているわけではなく、きちんと考えた上で発言しているのを理解し、ドラミナやディアドラ達もセリナの示した可能性が真に光明足り得るかを考える。
そうしてつい溺れる者が藁にも縋るのと同じような気持ちになる中で、懊悩する姿も絵画の如く美しいドラミナがセリナの提示した案のとある懸念を述べた。
「問題があるとするならばリリ殿に魔界なり竜界なりに連れて行っていただいたとして、私達がその世界に適応できるかどうか。文字通り次元の違う世界です。根本からして、私達が存在する事自体がありえない場所です。
そしてこの状況ならば、神々の世界に異変が生じている可能性もあるという事です。久しく神々の世界から離れていたリリ殿が、無事に高次元への道を繋げられるかどうか……」
「せっかくセリナが光明を示してくれたところで、水を差すようですまないが神々の側も相当な混乱が生じているようだ」
眉間に罪深い皺を深く刻み、クリスティーナが胸中の忌々しさを隠しもせずに告げる。それはセリナ達にとっても、クリスティーナ自身にとっても新たに見えたと思った道を閉ざす障害の存在を告げるものだった。
「領内の各教団から緊急事態として連絡が入った。教団ばかりでなく魔法使い達からもだ。曰く神の声が聞こえない、神々と繋がる感覚がない、とね。祈りや声を届けるこちらの側に変わりはない。そうなれば答えは自ずと限られてくる」
「声を聞き届ける神様達の方に問題が起きたという事ですね?」
悔し気にした唇を噛んで言うセリナに、クリスティーナもまた同じくらいの悔しさを心の中に抱えた顔で頷き返す。あらゆる手立てが無為に終わった後に見出せた光明も、その光の届く先が闇に覆われていたのだ。
「でも、それでも一度はリリさんに試してもらって、それで新しい何かが分かるかもしれません! 私達にマイラール様やクロノメイズ様が気付いてくれる可能性だってあります。あと、カラヴィスさんも」
「そんなカラヴィスはついでみたいに言わなくても。でも、ええそうね。リリにはあまり無理はさせられないけれど、なんとかお願いだけでもする価値はあるわ。他にどうしようもないし」
ディアドラが今度ははっきりと黒薔薇の香水に等しい吐息を零し、他に術のない自分への焦燥を露にする。だがセリナの熱意が移ったのか、彼女の瞳にもまた諦めを殴り飛ばし、へし折る意志の光が眩く煌めいている。
「もう一手か二手はなにか手立てを講じておきたいが、時間を惜しいと思う気持ちの方が勝るな。ドランの力を知っているからこそ余計に焦ってしまうものだね」
ディアドラが魔界に行った云々は諸事情あり、変更を加えています。
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第三百三十七話
毒気のない呆れ混じりのバストレルの言葉に、この場に居る誰もが思わず納得してしまい、慌てた調子で復活するドランの姿を脳裏に思い描いたところで、緩んだ場の雰囲気を引き締めるようにバストレルが新たな言葉を口にする。
その性根さえ知らなければセリナ達であっても、美しい存在の美しい音をほんの少しでも聞き逃すまいと耳を澄ましただろう。
「とはいえあの方はケロっとした顔で復活しようとも、他の方々はそうもいきませんでしょう。始原の七竜の一角が崩れてしまっては、かろうじて拮抗している状況が覆りかねませんし、なるべく早く皆さんをお連れする必要があります。
あまり考える猶予はありませんので、お早く決断していただきたいのですが、いかがでしょう。本当に考える時間はありませんでしたが、私の手を取られるか否か決まりましたか?」
バストレルの言う通り考える時間など、それこそ話している間しかなかったようなものだが、それでもセリナ達がどんな答えを出すのか、バストレルは分かっている顔だ。
手詰まりに近い状況に置かれていたセリナ達が、たとえバストレルからとはいえ差し出された手を取らずにはいられまい。
「私は、この際、バストレルさんであっても頼る外ないと思います! 甘言とか悪魔の囁きとか、ものすっごく脳裏をよぎりますけれどそんじょそこらの悪魔に負けるような私達ではありません!」
ふんす、と気合を入れた様子でメラメラと瞳を燃やすセリナに、バストレルはかつてなら侮蔑を込めた冷笑を向けただろうが、冥界で何かしらの心変わりがあったようで、頼もしそうな笑みを浮かべているではないか。
「ふふ、その意気込みはお見事。蛮勇スレスレではありますが、今は頼もしいとしておきましょう。まあ、私もそこらの悪魔と同列に扱われるのは心外ですが、そこは物の喩えとしておきましょうかね。
私に対する不信感は当然抱かれるものと理解しておりますが、そこは私を利用しようという冥界の神々の判断を信じてもらい、私が古神竜ドラゴンの因子を強く持っている点も合わせて考えていただけますか。ぞんぶんに私を利用なさればよいのです」
そう告げるバストレルの笑みに何を見たか、クリスティーナはドラッドノートの切っ先を下げる。ただし、いつでも振り上げてバストレルを逆袈裟に斬り捨てられる用意はしている。
実力で言えばこの場に居る全員が死力を尽くしてもバストレルには及ぶまいが、死者であるバストレルはどれだけの力を持とうとも、ハーデスや閻魔、無間ら冥界の三貴神には叶わない縛りがある。
ハーデス達がバストレルの利用を決めた以上、セリナ達に危害を加えられるようにはすまい。
「どこまでいってもお前を信用は出来ないが、この状況ではお前の提案に乗るしかないのが、今の私達か。そうと分かった上で提案してくるのは、選択肢を与えていないのと同じだな」
険しい表情を美貌に乗せて言うクリスティーナに、バストレルは自分よりもやや劣る美貌の剣士に、今度は真意の読み取れない笑みを向ける。
「残念ながら複数の選択肢を用意できる程、余裕のある状況ではないのですよ。一刻を争う事態とは申しますが、まさにそれです。さあ、皆さんの愛する方を助ける為にすべき事はただ一つですよ」
バストレルがそう告げて笑う顔は、ことのほか憎たらしいとセリナ達は心を一つにして思うのだった。
どうしてバストレルがここまで積極的に、セリナ達の助けになろうとしているのか甚だ不明で、セリナやクリスティーナはどうにも不安がぬぐい切れないのだが、それをディアドラが率直に問い質す。
「ところで貴方、前の時はドランとの戦いを楽しそうにしてはいたけれど、それでも自分こそが上だと信じてやまない様子だったわ。その癖して、今は私達をドランの下へ本気で連れて行こうとしているわよね。そうするだけの利益が貴方にあるの?」
「ふむ、時間は惜しいですが出来るだけ疑問を拭っておくのも重要ですか。分かりやすいところ言いますと、今回の協力の見返りとしてそこそこの減刑が見込めるのです。流石の私も最下層の地獄の呵責は堪えますから、少しでも楽になるのなら大歓迎です。
これくらいは皆さんも想像の内でしょう? 地獄の罪人が働くとなれば減刑か、生前の未練に対してなにかしら融通を利かせるのが定番ですからね。他に死神の眷属として疑似的な神霊化といったところですが、こちらは今の私には価値がありません」
今のバストレルならば、既に古神竜に伸ばした爪の先が引っかかる程度にまで霊魂の位階を高めている。今更、死神の眷属への道を約束されたとしても、霊格に対してあまりに低い待遇となるから価値はあるまい。
ディアドラはそれだけではあるまいと、超人種を超えた男の魂胆を見透かさんと眦鋭く睨みながら問う。
「減刑を約束されたからといって、誰かの指図を聞くような性格ではないでしょう。そんな素直な性格をしていたのは、それこそ天人達に作り出されたばかりの頃くらいのものではなくて、バストレル?」
バストレルにとって、作り出されたばかりで自我もなく製造者である天人達の言うがままに戦っていた誕生間もない時期の話は、この上ない恥であり死んだいまとなってもそれは変わらない。
そこまで見抜いての発言なのか定かではないが、ディアドラの言葉の棘は確かにバストレルの心に刺さり、皮肉の毒はじわりと染み込む。
「おやおや、言葉が達者でいらっしゃる。それに人の心というものもよくお分かりだ。人ならぬ者が人と寄り添おうと努力なさった成果でしょうか。ふふ、そう怖い顔をしないでください。この程度は知性持つ者ならではの微笑ましいやり取りではないですか。
さて、少々気恥しいものを感じますが、私がこうしてハーデス神を始めとした冥府の神々に唯々諾々と従っている理由の大部分につきまして、お話してしまいましょうか。いや、恥ずかしい話なのですが……」
あの方の役に立ちたいのですよ、そうか細い声ではにかみながら告白するバストレルが、まるで苦労する親の役に立とうと背伸びする幼子のようで、セリナ達は大いに戸惑い、またあるいは気味の悪さに吐きそうになり、しかし、バストレルが本気だという事だけは認めざるを得なかった。
バストレルが彼自身の願いも含めて、ドランを助ける為にもセリナ達を原初の混沌に送り届けるつもりであるのを、セリナ達も認めて彼の助けを借りる決断を下した。
「わ、分かりました。どうやらバストレルさんも本気であるのは確かみたいですし、私達も信じて頼る以外に道がないのをよく理解しました。それで具体的にはどうやって、私達をドランさんのいるところへ連れて行かれるのですか?」
かすかに赤らめた頬を元の色に戻し、バストレルは気恥ずかしさを紛らわせる為に大きく一つ咳払いをする。彼にしてはひどく普通の仕草であった。
「こほん、そちらのリリエルティエルさんでしたか、彼女がしようとしていた事と大きく変わりはありません。先程まではリリエルティエルさんが道案内人として、竜界なり魔界なりを目指すおつもりだったようですが、その役目を私が担うだけの話です。
古神竜の力を持つ私の方がより正確に道案内が出来ますし、原初の混沌と他の次元間に渦巻く戦闘の余波を突破するのも、私でなければ無理ですしね。
その代わりリリエルティエルさんには、ガンデウスさんとキルリンネさんでしたか、そちらのお二人同様に帰還する際の目印役を担っていただくわけです。生まれついての女神からの呼びかけとなれば、より一層、道標として役立ちます」
案内役を取って代わられたリリエルティエルは大いに落胆した様子を見せたが、それも一瞬の事。彼女にとっての神たるドランの助けとなる道がより強固なものとなったのなら、それを真っ先に喜ぶべきとドラグサキュバスの女神は素早く思考を切り替える。
「でしたら私はガンデウス様とキルリンネ様と共に、強く、強く祈り続けましょう。導きの灯となれるのなら、これもまた名誉なことなのですから」
「ふっ、納得していただけたのならば、話を進めるとしましょう。今の私なら、原初の混沌へ皆さんをお連れするのに、特別な儀式や道具は必要ありません。場所も気にする必要はありませんよ。もともと神々が比較的権能を使えるこの塔は、最適な場所でしたしね。
さて、時間が惜しい事ですし、このまま皆さんをお連れしますが、そのまま古神竜の力を維持したままの状態でいてください。私もこれから向かう先に相応しい姿へと変われば、それで準備らしい準備は終わりです」
ほんの少し、室内の空気がざわつくのをセリナ達は感じた。直後、彼女らを襲ったのは爪の先から産毛に至るまで全細胞が戦慄く感覚。理由はすぐに判明した。
バストレルの背中から古神竜ドラゴンのソレと瓜二つな七枚の翼が伸び、頭部からも三対六本の角が生えたのだ。それだけでなく四肢は膨張して白い竜鱗に包まれたものへと変わっている。
かつてドランが創造した宇宙の中で戦った際に、バストレルが至った半竜の肉体の再現であった。
バストレルは肉体を失い、魂だけとなって冥界の獄に繋がれ、ドランとの対話を経た後、呵責を受けている最中でも魂の錬磨を続け、古神竜の因子をより精密により強力に使う術を編み出していたのである。
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最終話 ドラン ~~差し替え
「我の知らぬ新しき者。古神竜でも始祖竜でもなき存在! だが我は終焉竜、始祖竜の選ばざる意志、邪神の悪意を以って森羅万象、万物に等しき終焉を齎す者。汝であろうとそれは変わらぬ!」
ドランの一撃によって砕かれた終焉竜の牙と鱗が見る間に形を取り戻し、自身と同等の領域に到達した不倶戴天の敵を前に全身から闘志と魔力を滾らせる。
これまで終焉竜が戦っていた始原の七竜は格下の敵であったが、今のドランは違う。終焉竜が憐れみや嘲りを捨て去り、滅殺の一念のみを凝らして戦わなければならぬ忌まわしき存在である。
「捨て去った選択肢を蒸し返すとは、つくづく始祖竜とは救いようのない愚か者だったな! 始祖竜より生じた竜種にとって、貴様の存在はこれ以上ない恥だ。
そして命ある全ての者達にとって災厄以外の何物でもない。せめて、我らと共にあり続けたこの原初の混沌にて滅びよ、終焉竜!」
共に始祖竜を源流とする最新最強の超越者たる二柱の竜は、合わせ鏡のように互いに対する必滅の覚悟と決意を共に全力のブレスを全く同時に放った。
終焉竜の放つ灰色のブレスとドランの放つ虹色のブレスが衝突し、周囲に波及する力の凄まじさに、既存の世界を守護する他の神々や竜種達は増加する負荷に苦痛の色を浮かべる。
激突する二種のブレスの力が巨大な爆発を起こし、終焉竜、ドラン共にブレスの放射を撃ち切るやお互いを目掛けて八枚と七枚の翼が勇壮と羽搏いて同等の速度で互いの距離を詰める。
「オオオオオオ!」
無数の世界から成る原初の混沌そのものを震わせる咆哮と共にドランと終焉竜ががっちりと両手で組み合い、終焉竜は貴様を滅ぼすという意志で満たされた咆哮を上げて、ドランの首元を狙って食らいつきに動く。
「ガアアアアア!」
もはや神も魔も竜も及ばぬお互い以外には並ぶ者無き超越者の戦いは、極めて原始的な力と力のぶつかり合いの様相を呈していた。
その戦いをセリナやディアドラ、ドラミナと言ったベルンの女性陣は腕を振り上げ、声を張り、ドランへ届けと声援を送りながら見守っている。
「頑張れ、ドランさん!」
「危ないっ、噛みつき返しなさい! そこ、そこ!」
なんともかしましいセリナ達の声援に、バストレルは微笑みが浮かび上がるのを抑えきれなかった。必死なのは痛い程にわかるのだが、ドランと終焉竜の戦いの規模に比べてセリナ達の声援ときたら人並みだ。
ありふれた日常の範疇に収まる行為と言い換えてもいい。だからこそ、ドランの望む日常そのものであるから、ドランにとって何よりの力となるのだろう。バストレルはそのように理解できるように変わっていた。
「セリナちゃん達は相変わらず初々しいねえ。リネットちゃんがあんなに必死になっているのなんて、ぼかぁ、初めて見たね」
そのように親戚めいた感想を口にしているのは、神造魔獣形態のレニーアの頭の上で力なく寝そべっているカラヴィスだ。レニーアは渾身の力を絞り尽くし、これ以上ドランに加勢できるような状態ではない。
「カラヴィス神、随分と心穏やかなご様子ですね。もう勝利を確信なされたのでしょうか」
にこやかに語りかけるバストレルだが、その体のそこかしこにドランと共通する部位が見受けられる事実にカラヴィスは笑みこそそのままだが、実に不愉快そうに眉をヒクヒクと引き攣らせている。
「ああなりゃドラちゃんの勝ちでしょ。てっきり不完全な始祖竜への融合が来るもんかと思ったら、それを上回るとんでもないのが出てきて腰を抜かしたとこさ。ありゃ、他の六竜の自我は消えちゃっているかな?」
「さて、それは私にも分かりかねます。すべては、始祖竜とならない道を進んだあの方が勝利されてからの話です」
「ふぅん? 今もドラちゃんとの力の経路を繋いでいる君でも分からないのかい?」
「おや、意外と目敏いと申し上げては不敬ですかね」
「不敬に加えてぼくを見くびりすぎだねえ。ドラちゃんとレニーアちゃんが力を振るう度に、君にもその力が反映されて強大になるっていう性質を利用したのだろう?
君とドラちゃんの間にある経路を伝って、セリナちゃんやドラミナちゃん達の声をドラちゃんに届けたってわけだ。いや、今も届け続けているって言わないとか」
「ええ。始原の七竜が融合する際に出来る隙を、古神竜の力を持つレニーアさんの存在によって終焉竜の意識を逸らして補い、あの方との経路を繋いでいる私がセリナさん達の声を伝えて奮起を促す。対終焉竜戦の苦肉の策ですよ。幸いにして効果はあの通り覿面です。
もっとも、私の魂はひっきりなしに悲鳴を上げていますよ。やはり私では今のあの方はおろか、古神竜としてのあの方の力を受け止めるには器が小さすぎたようだ」
バストレルは何一つ偽りを口にしていない。カラヴィスタワーでセリナ達の前に姿を見せた時点で、ドランが全開で力を振るう影響で増加し続ける力の強大さは、とっくにバストレルという器の許容量を超えて言語に絶する苦痛を齎していた。
それをこの上なく慌てふためいていたとはいえ、セリナ達に微塵も気付かせなかったのは、まがりなりにも最高位の超人種にして神の領域に到達したバストレルの強靭なる精神力の賜物だ。
それを見抜いたカラヴィスは流石は大女神と呼ぶべきだろう。マイラールも最初に声をかけてきた時点で気づいてはいたが、指摘する理由もないと追及はしなかった。
それに以前ならば自分の器をはるかに超えるドランという存在を憎み、羨み、妬みもしたろうが、今のバストレルはただただ流石は、と感嘆の気持ちが湧くばかりで不愉快な感情は一欠けらもない。
レニーアは今も息絶え絶えではあったが、カラヴィスの魂の状態を認めると少しばかり態度を改めてもよいと判断したようで、少しばかり敵意を和らげた視線をバストレルへと向け、言葉をかけた。
「ふん、貴様のその献身は評価してやらねばなるまい。貴様の存在は目障りで鬱陶しい事この上なかったが、まったく意味のないわけではなかったな。ふん!」
「ああ、これは望外のお言葉です。私にとって貴方にそのように評価していただけるのは、あの方にお褒めいただくのに次ぐ栄誉に他なりません」
心底から嬉しそうに笑うバストレルに、レニーアは盛大に顔をしかめた。彼女の愛するイリナがこの場に居たら、レニーアの不快を示す最大級の表現だと気付いて肝を冷やしたろう。
「なんでお前はそこまで私に懐いているのだ。気色悪い」
「おやおや、これは冷たい事で。ふふ、冥界で死んでいる間に少々心変わりを致しまして。それだけですよ、それだけ」
煙に巻くように笑うバストレルを、レニーアは気色悪い、気色悪いと何度も繰り返したが、それも絹を裂くようなリネットの叫びで途絶える。
「マスタードラン、避けてください!」
リネットの視線の先、ドランと終焉竜は幾度となく激突し、距離を開き、ブレスを放ち、無数の光弾をばらまき、魔力の嵐を巻き起こし、互いの守護結界を貫き、鱗を砕き、肉を裂き、血をまき散らし、命を削り合っている。
カラヴィスは楽勝と言わんばかりの態度であったが、その実、一進一退の攻防を繰り広げている。そんな互いの血肉を削り合う凄惨な戦いの中、新たな動きがあった。終焉竜が三本の尾の先端に輝きを纏い、ドランを左右と下方から囲い込んでいた。
終焉竜自身もまたドランが前後と上に逃げようと、その方向へ襲い掛かるべく猛烈な勢いで突進している。逃げ場のない包囲攻撃を目撃したリネットが叫びをあげるのも無理はない。
リネットは避けてと願ったが、新たな存在へと進化したドランをして叶えられない願いだ。それをくみ取ったドラミナはドランと同じ考えに至り、声を発していた。
「いえ、避けるよりもこれは受けた方が!」
そう、避けられるのなら敢えて受け止めて、渾身の力で反撃を叩き込む選択肢こそ被害を最小限に抑え、相手に痛打を浴びせられるとドラミナとドランは判断したのだ。
下方から迫る終焉竜の尾をドランの尾が弾き返し、斜め下方からドランの両脇腹を抉りに迫る二本の輝く尾をドランが両脇に抱え込み、そのまま切断するつもりで締め上げる。
ここまでは終焉竜にとっても想定の範囲内だったのか、慌てた様子はなく、両者同時に顎を開いて瞬時に練り上げた最大火力のブレスの撃ち合いを始める。
光の奔流ではなく砲弾状に圧縮されたブレスが二体の超越者の体を撃ち、無数の鱗と肉と血が原初の混沌へぶちまけられてゆく。
互いの四肢と翼のあちこちが抉られて、歪な影を描くまで撃ち合いを続けたところで、ドランが両脇に抱えていた終焉竜の尾の輝きが、月が雲に隠れるように消える。ドランはそれが尾に蓄えられていた力が霧散したのだ、などと都合の良い考えを抱きもしない。
ドランが締め上げていた終焉竜の尾を手放した直後、一度は消えたはずの輝きが、そこに太陽が生じたように復活してドランの全身を飲み込む!
セリナ達が堪らず悲痛な叫びをあげる中、まるでそれを止める為だと言わんばかりにふたつの太陽を内側から七色七本の光線が貫いて、接近しつつあった終焉竜に直撃し、苦悶の声と共に後方へと大きく吹き飛ばす。
直後、ドランが二つの太陽を無数の光の粒へと散らしながら姿を見せて、焼け爛れた全身の傷を再生しながら、終焉竜を追って飛び出してきた。
目まぐるしく入れ替わる攻防に傷ついては癒し、癒しては傷つきながら戦い続ける竜達の姿に、セリナ達は色めき立ったり悲鳴を上げたりと心の休まる暇がない。
そんなセリナ達とレニーア、バストレルの姿を見てマイラールはバストレルへと一つだけ問いかけた。
「バストレル、もはやドランと終焉竜の戦いは私やカラヴィスをしても次元が違い過ぎて、詳細を把握出来ていません。ですがセリナさん達の一喜一憂している様子から、彼女達が正確に戦いの内容を把握しているのは明白。貴方が助力しているのですか?」
「隠すようなことではありませんね。ええ、あの方と私、セリナさん達の繋がりを経由すれば、どうにかあの戦いを観測出来ています。それに他の誰よりも、セリナさん達にはあの戦いを見ていてもらわなければなりません。それがあの方の何よりの力となる。違いますか?」
「貴方の言う通りです。貴方がそこまで変わるとは、ドランも思ってもいなかったでしょう。貴方の存在がここまで大きな鍵となるなんて」
「ふふ、偉大なる女神と名の知られたマイラール神にそのように言ってもらえると、誇らしい限りです。では敬意を表して一つお教えしましょう。そろそろ戦いが佳境に入りますよ、ほら」
「いけええーー! ドランさん!!」
まずここまでお付き合いくださった皆様、掲載をお許しくださったハーメルン運営者様に心からのお礼を。
まさかここまで続くとはと思った物語も、今話を持ちまして最後となります。
色々と書き残したネタや悔やまれる個所もありましたが、無事に終わりを迎えられた喜びと寂しさがあります。
この物語が少しでも皆さんにとって有意義なものであったなら、私としては嬉しい限りです。またいつかどこか、別の物語でお目に掛かれれば幸いです。
ありがとうございました。
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