何が素早い救援を可能にしたのか―3.11「トモダチ作戦」の現場

そしてこれが日本の危機管理への教訓だ
ロバート・D・エルドリッヂ プロフィール

気仙沼大島との絆

順番が前後したが、最期に海兵隊が実際にどのように現地に入って活動したかを紹介したい。

震災が発生したとき、駐沖縄の第31海兵遠征部隊の実働部隊は、実は日本国外にいた。東南アジア地域で災害救援訓練を行うためであった。

ASEAN地域フォーラム災害救援実働演習に参加するため、部隊を乗せてインドネシアに向かっていた揚陸艦「ハーパーズ・フェリー」は、目的地到着まであと数時間という時に東日本大震災発生の知らせを受けた。そして、しばらくして指令が届き、艦は大きく舵を切った。乗っていた私の知人によると、テーブル上のものがすべて振り落とされるほどの急旋回で、被災地へ向かうと感じた瞬間、艦内は大きな拍手に包まれたという。

また第31海兵遠征部隊司令官は、強襲揚陸艦「エセックス」でマレーシアのコタキナハルに寄港していた。突然、第7艦隊司令官から電話が入り、震災の発生と救援活動の可能性を伝えられた。すぐさま上陸していた隊員を呼び戻し、翌日出港した。

エセックスは、八戸に入港したあと、そこで2週間ほど待機。関係者は艦内で「イライラ」して待っていたという。そして、宮城県の気仙沼大島への派遣が決まった。

気仙沼大島はまさに海兵隊が活躍するにふさわしい被災地だった。気仙沼市の沖合にある人口3200人ほどの島で、本土とは連絡船しか交通手段はなかった。しかし、津波ですべて使用不能になっただけでなく、津波で港や海岸がすべて瓦礫で埋まる羽目に。その上、近くにあった石油備蓄基地で火災が発生し、気仙沼大島にも被害が及んだ。

住民は学校に避難したが、電気も水道も供給が止まってしまった。食糧もまた限られた分量しかなかった。気仙沼大島の住民は、被災地域の中でもさらに取り残された存在だった。

救援活動が始まったのは27日だった。まず始めに、東北電力の電気工事用車両、電源車、給水者、タンクローリーと作業員を揚陸艇で輸送した。翌日には電気は復旧することが出来た。

そこまでの間、島民は大混乱にも陥らず、実によく耐えていた。上陸した海兵隊員は島内の交通を復旧するため、島民の住宅を壊さなければならない状況にも直面した。そこまで耐えていた島民の気持ちを思い、涙を流した隊員もいた。そして、そのような隊員たちを島民は自らの食糧が底をつきかけていたにもかかわらず、おにぎりの炊き出しで出迎えた。そこにはお互いへの思いやりと感謝があった。救援・復旧活動は1週間あまりだったが、島民と海兵隊員の間には、本物の「絆」が結ばれたと思っている。

3月15日、在沖海兵隊基地の司令官が仙台に視察のために来た時、私は、海兵隊が救援したところを、物理的な復旧・復興のみならず、精神的な再建ができるまで、支援し続けるべきと訴えた。その理由は、阪神淡路大震災後、実際に目にした復興過程の教訓だ。このときは、物理的な再建は割合早かったが、孤独死などのメンタルな面で、まだ課題が多かった。東日本大震災後、日本政府や地方自治体が忘れた「心のケア」をちゃんとやるべきと司令官に説明した。

司令官はすぐ理解してくれた。私が後に、子供たちを沖縄の海兵隊基地に招くホームステイ・プログラムを提案したときは支持してくれた。これは8月に実現した。

 

そしてその半年後、今度は沖縄に戻っていた海兵隊のメンバーが、気仙沼大島を再訪し、旧交を温め合った。その後、港まつりへの音楽隊の参加、慰霊祭の参列、メモリアルコンサートなどの交流があった。

その絆を象徴するために、今年3月7日に、感謝の記念碑が設置され、私と、大島救援を含めたトモダチ作戦に参加した2人の将校と一緒にその除幕式に参加した。

10年経ったが、気仙沼大島と海兵隊の交流が今後とも続いてほしいと思う。

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