多数決に負けるな。
女の人にクソババアと言ってしまった。いかに相手が無礼だったとは言え、初対面の女性にクソババアと言うことはよくない。正確には「クソみてえなババアだな」と言ったのだけれど、せめて汚物みたいな御尊顔ですねと言えばよかった。その後、女性W様に会った。W様に「女性にクソババアと言ってしまった。隣にはその人の娘さんもいた。娘さんの前で母親をクソババアと言ってしまった。娘にトラウマを残したかもしれないが、帰り道は楽しくてルンルンしてしまった。反省している。徳を積みたい」と懺悔をしたら、W様はこんな話をしてくれた。
最近、採用面接をした。三名と会ったのだが、そのうちの一人は面接官と喧嘩をして途中で帰ってしまった。残りの二名はとても優秀な人たちだったが、私が一緒に働きたいと思ったのは途中で帰った女性だった。彼女の中には怒りを感じた。それは、決して幼児的な甘えではない自分を超えた怒りみたいなもので、言っていることの意味はよくわからなかったのだけれど、彼女を見ていると元気になる。この人となら分かり合えなくても楽しく働くことができそうだと思ったが、上の人間は問題を起こしそうな人間を避ける。女のくせに生意気だとなって、その人は不採用となってしまった。そのようなことをW様は話した。私は「素晴らしい話だ」と思った。お前に組織は向かない。俺と一緒に海賊にならないかと、その人を誘いたくなった。
私は「芸人に人権は要らない」みたいな話をした。人権という言葉が昔から苦手で、人権を求めるから苦しくなるのだと自説を展開した。俺たち社会不適合者にとって、最後の手段は芸人になることだ。それはお笑い芸人に限らない。南方熊楠も伊藤野枝も立派な芸人だ。芸人が人権という名の庇護を求めたら、つまらなくなるのは目に見えている。芸人の役割は、社会の欺瞞を暴き、精神性を拡張することだ。当然、周囲からは化け物扱いされる。化け物が人間になろうとするのは無理がある。化け物は化け物のまま、そのままの姿で自分を誇る必要がある。茨の道でも、石を投げられても、自分を貫く。居場所を求める暇があったら、精神的なテロを起こす。怪獣を懐柔することはできないのだ。
W様は言った。落語家に弟子入りした人がパワハラで師匠を訴え勝訴をした。その時の会見で「これからの業界には落語家である前に一社会人である自覚が師匠にも弟子にも必要になると思います」と弟子が言ったのだが、違和感を覚えた。師匠の暴行や暴言には江戸っ子気質のような粋を感じた。芸人ならその芸を盗めよと思ったのだが、パワハラという安易な言葉にまとめられて排除されたことが気に食わない、と。私は「わかる」と思った。芸人が人権を求めてどうする。社会人になりたいなら、普通に会社で働けばいい。社会人になれない人間が芸人になるのに、最後の砦を自分で壊してどうする。愛を求めるな。愛を求めるとつまらなくなる。人権なんてものを超えたところで爆発するから生命力が発揮されるのであり、社会的な庇護を求める人間から魅力が放たれるとは思えない。
人権を求める人々の行動は自責や他責に収束する。誰の中にもマイノリティーな部分がある。それを正々堂々と生きるからこそ、人権ではなく人間が拡張する。自分を理解してもらいたいと思うのではなく、自分を激しく突き出して行く。俺たち社会不適合者は、多数決に負け続ける。この世のすべてが多数決で成り立つとしたら、俺たち社会不適合者は生きて行くことができない。多数決に負けるな。庇護を求めるな。たとえ、キマイラだと思われても。怪物扱いされるのは、仕方のないことだ。だからと言って怪物をやめるのではなく、怪物のまま、人権を持たないまま「俺は人間だ」と自分の存在を突き出す。その姿が、人権なんてものを超えたところで、常識や精神を揺り動かす。化け物扱いされることを嘆くのではなく、化け物扱いされることを歓迎する。理解に苦しむことをする人間は、全員化け物扱いをされるものだ。全身に罵声を浴び、石を投げられる。それでも、尚、その道を歩み続ける。固定観念を覆し、真の自由を創造する。それが、芸人の役割だと思う。 おおまかな予定
2月27日(火)京都府京都市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!