イタリアの風、ベスパ。
「アッ!おっしゃれ~」と私の
ベスパを見たイタリア人ハーフ
の親友は言った。
いや、おしゃれはあんただろ、
とか思ったりした。元モデル
だし。
国産ビールのCMなどにも出て
いた。
よくベスパの事をオシャレと
いう人たちは多い。
確かにそれは的を射る感覚だ
ろう。私もそう思う。
だが、一方でベスパを評して
「古い映画を観て単に憧れた
ミーハーが好んで乗る二輪」と
評する人たちも一定いる。
分かってない、と私は思う。
走行性能などは日本製二輪の
スクーターにかなわない事な
どは充分承知してベスパ乗り
はベスパに乗っている。
英国で労働者階級の子息たちの
TON-UPボーイズの不良少年の
ロッカーズはカフェレーサーで
スピードを求め、一方で金持ち
層の不良たちはモッズと呼ばれ
る軍用コートを着た対抗集団だ
った。
ロッカーズとモッズはイギリス
の河川敷での集団大乱闘で大量
検挙されたりした。両派は悉く
対立していた。それはブルー
カラーとホワイトカラーの対立
としても存在していた。
ビートルズは最初スタイルは
ロッカーズだったのに、のち
にモッズに変身した典型例だ
った。(プロデューサーの仕込
みによる)
そうした英国にみられた文化性
は日本にはそのまま輸入はされ
なかった。
英国モッズたちはデコトラのよ
うに珍妙な外装でベスパを装飾
した。日本ののちの暴走族では
ないうるさいだけの暴走しない
珍走団のような外装で。
だが、街を蹂躙する集団暴走を
するのはモッズはロッカーズと
同じだった。「おぼっちゃま
たちの反抗」だった。
「アッ!おっしゃれ~」と私の
ベスパを見たイタリア人ハーフ
の親友は言った。
いや、おしゃれはあんただろ、
とか思ったりした。元モデル
だし。
国産ビールのCMなどにも出て
いた。
よくベスパの事をオシャレと
いう人たちは多い。
確かにそれは的を射る感覚だ
ろう。私もそう思う。
だが、一方でベスパを評して
「古い映画を観て単に憧れた
ミーハーが好んで乗る二輪」と
評する人たちも一定いる。
分かってない、と私は思う。
走行性能などは日本製二輪の
スクーターにかなわない事な
どは充分承知してベスパ乗り
はベスパに乗っている。
英国で労働者階級の子息たちの
TON-UPボーイズの不良少年の
ロッカーズはカフェレーサーで
スピードを求め、一方で金持ち
層の不良たちはモッズと呼ばれ
る軍用コートを着た対抗集団だ
った。
ロッカーズとモッズはイギリス
の河川敷での集団大乱闘で大量
検挙されたりした。両派は悉く
対立していた。それはブルー
カラーとホワイトカラーの対立
としても存在していた。
ビートルズは最初スタイルは
ロッカーズだったのに、のち
にモッズに変身した典型例だ
った。(プロデューサーの仕込
みによる)
そうした英国にみられた文化性
は日本にはそのまま輸入はされ
なかった。
英国モッズたちはデコトラのよ
うに珍妙な外装でベスパを装飾
した。日本ののちの暴走族では
ないうるさいだけの暴走しない
珍走団のような外装で。
だが、街を蹂躙する集団暴走を
するのはモッズはロッカーズと
同じだった。「おぼっちゃま
たちの反抗」だった。
モッズもロッカーズも、カウン
ターカルチャーとして自己主張
をしていた。
つまり、固着した体制(保守派)
に対抗する大衆文化の体現者と
しての自己表現と主張だった。
サブカルチャーがまだ反体制的
な思想性を有した時代の現象だ
った。
のちにサブカルは反体制的な思
想が完全に消滅して日本人により
ヲタク文化を生んだ。
とりわけ、フィギュアやアニメ
の分野でそれは世界的に特化し
たのが日本の文化で、それは1980
年代中期に一挙に開花した。
私の学生時代に現代に続く美少女
アニメヲタ文化(ニセのロリコン
含む。本物のロリコンとは別物で
ある事は別項で論ずる)が誕生し
た。
それらが生んだ「萌え」の文化は
日本から発信し、全世界(特に
背徳のヲタ要素が強かったフラ
ンス)に大きな影響を与え続け
ている。
ベスパ自体は映画『ローマの休日』
で登場した事が世界的な知名度を
上げた。
映画作品や英国のモッズ文化という
そうした歴史的な流れとは私は関係
なくベスパが好きだ。これは大昔
から。
単純に走りだけを抽出するならば
日本製二輪のほうが格段に上だ。
日本の二輪は世界一(だった)か
ら。
私は「世界のスクーターがお手本
にしたベスパ」というものが好き
なのだ。オシャレ感とかではなく。
本家本元家元大元、みたいな本物
感が。
イタリアのピアジオ社も敗戦に
より日本と同じ状況になった。
戦前戦中の日本の戦闘機をはじめ
とする軍事産業は敗戦により平和
産業で技術を生かす道を模索した。
ピアジオも同じ道を歩み、1946年
に初めてベスパというスクーター
を作った。元々は航空機メーカー
だ。
そのあたりの流れが非常に日本に
似ている。
日本も航空機会社の川西は新明和
となり平和利用の特装自動車の主
軸メーカーとなった。
川崎や三菱は昔のまま軍事兵器も
現在も作ってはいるが、平和産業
としての自動車・二輪車を手掛け
るようになった。
そうした世界史的流れの中での
ピアジオ・ベスパの歩んだ道が
私は好きなのだ。
ベスパ以前にスクーターは多く
あった。
だが、ベスパ以降にスクーター
はすべてベスパを手本とした、
という動かし難い世界の二輪の
流れが存在する。
そこなのだ。私が惹かれている
ベスパの存在感は。
確かにベスパはおしゃれだが、
それは取ってつけて狙った装い
ではなく、ごく自然に人と街に
溶け合う歩みがそうした視覚的
な洒脱感をごく自然に醸し出し
ているのである。
ホンダがそれに対抗してカブで
「お洒落なカブ」として街に
似合う感をPRし始めたのが数年
前からだが、全く滑っている。
ベスパのような歴史の真実が不
在だからだ。カブが多用された
のは「オシャレ」なシティビー
クルとしてではない。それは
歴史の捏造だ。
カブは実用性一点主義の実用
二輪として日本国内で莫大な
量と普及を築いた。町の若者
の乗り物としてなどではない。
ちょい前まで「カブはくそだ
さ」が日本人の定番認識だった
のだ。
それを取ってつけたようにいく
らメーカーが払拭狙いのCMを
作ろうとも、それに騙されて
乗るのは歴史を知らない若者
だけだ。
おっちゃんたちがカブ惚れし
ているのは、おしゃれではなく
「シャレ」感での親しみを感じ
ているからだ。
ベスパは2ストベスパ100に昔
私の妻が乗っていた。
私も借りて通勤に使っていた。
クラッチを握って左グリップ
を回してシフトチェンジする。
乗りにくいが面白かったし、
実際のところよく走った。
タイヤは片持ちなので片減り
するけど(笑
基本設計を数十年も踏襲して
いるというのは英国の四輪車
ミニと同じだった。
イタリアの靴とスーツと家具
とタイル等は世界最高だが、
車両についてもそうしたイタ
リアの伝統を重んじる気風に
私は惹かれる。
それ自体がすでにアートだ、と。
イタリアの風だ、と。
真新しい物を創出するファッ
ションの世界でもイタリアと
フランスは常に世界を一歩
リードする。イタリアとフラ
ンスに比べたらアメリカなど
はド田舎の辺境でしかない、
というような表現はよく西部
劇で出て来る。
そしてイタリアは芸術の国だ。
日本も芸術文化の歴史は深い
が、イタリアは西欧の古代か
ら続く芸術文化を持っている。
こういう「歴史」とは過去の
事実であるので、その歴史性
が全く不在であるのに、取っ
てつけたような歴史観や文化
感を付加させようとするのは
無理があるし、下手したら捏
造になる。
そうした本物が持つ「時の歩
み」を有しているベスパとい
う存在が私は好きなのである。
車自体も癖はあるが、それも
また楽しむ要素の一つだと思
っている。
最近、二輪についても、単なる
偏波な狭い視点観点からのみ
レビューなるものをしている
「若い世代」が非常に多い。
ベスパの何たるかや、二輪の
組成そのものを全く理解して
いないと思う。
それらの視点の延長で行くなら
「電車にしとけ」とか「歩かず
に動く歩道にでも載ってろ」と
なる。これは論理をつきつめる
とそうなる。
そういう視野狭窄の視点、発想
でしか車を論じられないのは
極めて狭量だ。二輪を含めて
自動車そのものを理解していな
い。浅い。
それも歴史の流れなのだろう。
ある時期からの世代以降が、
考えられない程に思考が浅い
のだ。一様に。
それは「思想性の消滅」と同時
期に日本で蔓延し始めた。
換言するならば「思考停止」と
共に。
理由は判っている。
「カウンター」を人民の文化と
して内在させる魂が消滅したか
らだ。牙を抜かれた腑抜け揃い
という。
結果、コンプラ警察良市民ぶり
という真の社会害悪が体制補完
物として跋扈するくそくだらな
い世の中に日本がなった。
ベスパはそうした日本人の流れ
とは無関係だ。