「異色の対決」はなぜ実現したのか…?猪木の愛弟子・藤原喜明が語った「TOBE滝沢秀明vs.アントニオ猪木」の真相
00年3月11日、横浜アリーナで「第2回メモリアル力道山」というプロレスの一大イベントが開催された。日本プロレス界の父である力道山を偲ぶべく、団体の垣根を越えて様々なレスラーが集結した催しで、そこで実現したドリームマッチが「滝沢秀明 vs アントニオ猪木」だった。
当時の滝沢は弱冠17歳で人気絶頂のトップアイドル。一方の猪木は98年に引退して以来、一度もリングに上がったことはない。果たして、どのような経緯でこのビッグマッチが開催されたのか?
猪木の愛弟子・藤原喜明が『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社刊)で明かした、驚愕の真相を特別に公開する。
猪木vsタッキー戦は当日に実現した
2000年3月11日、横浜アリーナで行われた力道山プロレスOB会主催の「第2回メモリアル力道山」。メインイベントは、‟1・4”事変の因縁真っ只中の橋本真也と小川直也が猪木の命令でタッグを組み、天龍源一郎&ビッグバン・ジョーンズと対戦した。その他、インディ団体や女子プロレス、さらにパンクラスなど、団体の垣根を越えて様々なレスラーが集結したこの大会。その‟目玉”となったのが、猪木と当時ジャニーズの人気アイドルだった、‟タッキー”こと滝沢秀明の異色の一戦だった。
タッキーの‟参戦”は、力道山OB会の岩沢敏雄事務局長が、ジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長と古くから昵懇の間柄だったことから、大会に華を添える意味でジャニーズ所属タレントの出演をオファー。たまたまタッキー自身が大のプロレスファンだったことがあり、実現したものだった。
当初、タッキーは大会オープニングで国家独唱を行うだけの予定だったが、大会数日前になって猪木との3分間エキシビションマッチが発表される。とはいえ、猪木は98年4月4日に東京ドームで引退して以来、約2年間、エキシビションでも試合はしておらず、当日までファンは半信半疑だった。
ところが当日、藤原を特別レフェリーにして猪木vsタッキーが本当に実現。しかも、3分のエキシビションだったはずが、試合前に猪木が時間無制限一本勝負へと強引に変更した。