アヤカシ・オーヴァドラヰヴ — 蛟の巫女と擬龍の戴冠 —

夢咲蕾花

序章 郷里、赫々と焦がれて

第1話 ミツチ様

「上段構えッ! 用意、始めッ!」


 小鳥が鳴き交わす声が爽やかな早朝の武道場に、師範代の大喝が飛ぶ。秋津燎真あきつりょうまは掌にできた木刀胼胝たこに痛みを感じつつ、一心不乱に素振りした。

 頭に巻いた手拭いからはみ出している、紫がかった黒髪が汗で顔にへばりつく。鋭い、やや三白眼気味の藍色の目に汗が沁みて痛んだが、迷わず上段から木刀を振り下ろした。


「「せいッ! せいッ!」」

「声が小さいッ! 雄叫びで相手を圧倒せよ! 気合いで負けたら勝負にも勝てんぞッ!」

「押忍‼︎」


 神社の境内に建てられた武道場では、男女問わず若い者たちが木刀を手に汗水散らし、素振りをしていた。人間も妖怪も問わない。望む者は、みなここに来る。

 中年の男性妖怪——筋骨逞しい山狼やまおおかみ妖怪が師範代であった。人間に化けているが——そうでなければ木刀など振れないので当たり前だが——精悍な顔立ちや、厳しそうでいて優しげな目元は狼らしさが滲んでいる。三本の尻尾と狼の耳はフサフサとした茶褐色と灰色の混じる毛皮に覆われ、金色の瞳が門下生を鋭く睨んだ。


 初夏。六月の終わり、梅雨の終わりと夏の始まりが同居する頃の道場は、地獄の釜のように熱く蒸している。

 山を下った市場に売っていた雪女の永久氷を砕いたものが置いてあるが、あれがなければ到底耐えられたものじゃない。

 都会に行けば製氷機で簡単に氷を作れるらしいが、そんなものこんな田舎では望むべくもない。昔ながらのやり方で、そういった力を持つ者に頼るのが手っ取り早かった。


「鈍ってるぞ! 気合い入れ直せ!」


 こと根性論が悪く言われることは、師範代も知っているし、そう思う部分もある。だが、勝負事で最後に物を言うのは精神だ。勝つと信じたものが最後に勝つ。

 剣術を通じ、若者にそれを伝えたい。それが、彼の不器用なりに抱いている信念であった。


 門下生の一人、秋津燎真あきつりょうまが視界に入った。


 十年ほど前に村にやってきた孤児だ。この神社で面倒を見ている子供で、今年で十四になる。人間らしいが、微かに龍の血が入っているらしく、その影響か怪我の治りが常人より早く、また身体能力も頭ひとつ抜けていた。

 彼は剣術と妖術を学び、祓葬師ばっそうしとして山に出る『穢れ』やなんかを祓ったり、幻獣を獲って来たりして生計を立てていた。

 一所懸命で実直な少年だが、ときどき、陰のある顔をするのが気になっていた。お節介かもしれないが、十四と言えばまさに多感な時期だ。不安やなんかが一歩間違った方向に背中を押すと、そのまま道を外れて奈落へ転げ落ちていく。そういう若い人間を、何人か見てきた。


 と、指定の回数の素振りが終わった。

 師範代は「納刀、気をつけ!」と号令。

 門下生が一糸乱れぬ動きで木刀を帯に差し、気をつけの姿勢をした。


「朝の稽古はこれにて終了とする。今日も暑くなるから、水分を摂って、不調を感じたら日陰で休むように。当番は雑巾掛けしてから帰るように。以上、解散!」

「礼ッ! ありがとうございました!」

「「ありがとうございました!」」


 門下生筆頭の、化け狸の青年が号令。続く門下生も礼をして、三々五々散っていく。

 燎真も手拭いで汗を拭って、他の若者のように氷のそばによって涼んでいた。言葉も交わしているし、阻害されているわけではないようだ。


(俺がとやかく言えるわけではないが……神主様とお話ししてみるか)


 師範代はそう考え、「いつまでも居残るなら雑巾掛けを手伝っていけ」と冗談めかして言った。


×


 秋津燎真は、孤児である。親はなく、血縁も見当たらない。当然兄弟も姉妹も、当たり前に当たり前を重ねるが子供だっていない。

 けれど、この三珠村みたまむらの連中がよくしてくれるので、あまり気にしていなかった。ときどき、ふとした瞬間に孤独を抱くことはあるが——それは己に課せられたどうしようもない呪い——宿命だと割り切ってしまえば、なんとなく折り合いはついた。


 木刀を戸棚にしまって、掌を見た。胼胝たこがぷっくりと膨らんで、分厚い皮を成している。少し痛みはあるが、だいぶ慣れたものである。自分の手はこういう手として、今後馴染んでいくのだろう。剣を振るう者は、往々にしてこうなる。

 燎真は道場の裏に回った。そこには古い井戸があり、少し時間をずらしたので空いていた。同世代の男子が着物を着て去っていく傍ら、「お疲れさん」と言って肩を叩いていく。燎真も「お疲れ」と応じた。

 冷えた井戸水を汲み上げるため井戸に声をかけた。正確にはその上に座っている男に。


「つるさん」


 つる、という名の何者かが、滑車を手繰った。その人物は——いや、妖物はぱっと見人間だが、釣瓶落としという妖怪であった。


「あいよ、今汲んでやるよ」


 歳は三十代ほど。中性的な顔立ちだ。

 まあ、妖怪は人間とは比べ物にならないほど長寿であるため、外見が十代二十代でも、余裕で百年生きているものだし、もっと長生きの妖怪はもはや外見年齢に拘らなくなるという。

 わかりやすい年齢の指針は尻尾や角だ。約百年で一本増える。しかしこれも若くして力を持つ妖怪には当てはまらない。

 つまり、『妖怪はよくわからない生き物である』ということだ。


 汲んでもらった水を頭から被った。山の水は本当に冷たい。陽が登って暖かくなってきたが、その中でも寒いと感じるほどに冷たい。

 つるさんから投げ渡された新しい手拭いで体を拭き、台に置いていた着流しを着た。腹と胸にサラシを巻くのは臓器を守るためだ。腹やなんかを傷つけられて腸管の中身が溢れると、炎症を起こして苦しんだ末に死ぬことを先人が証明している。一説には耳かき一杯分の中身でも、命に関わるらしい。

 都会に行けば抗生物質だとか、いろいろな薬品が手に入るが、田舎では医薬品も限られるのだ。創意工夫が大切である。


「坊主、神主様が呼んでいた。社務所にいるそうだ」

「神主様が? わかった、すぐ行く」


 燎真は何か悪さをしただろうかと行動を振り返って、そんなことはない、と結論付けた。イタズラや——まあちょっと背伸びした遊びはするが、わざわざ神主様に呼びつけられるほどの悪さはしていないはずである。

 となれば山に穢れが湧いたか、厄介な幻獣が出たかである。

 燎真は道場の裏手から社務所に向かった。村の連中が、畑の様子や何かを相談しにきたりしている。子供連中が、境内の広場で蹴鞠をしていた。

 人間も妖怪も、男女の別もない。そもそも人間も妖怪も同じような生き物だ。差異がいくつかる程度の違いで、本質は同じである。


 さても社務所に入ると、香ばしい煎茶の香りがした。

 畳が敷かれた居間にいるのは、老いさらばえた人間の神主・喜馬英二郎きばえいじろうである。七十過ぎとは思えぬ、武闘家のような体格。つるりとした禿頭には、かつて熊に襲われた際の爪痕が痛々しく残っている。妖怪でさえ「殴り合いをしたくない」というほどの男——それが、この三珠双龍神社の神主であった。


「神主様、用があると聞きました」

「うん。お前にちょっと頼みたいことがあってな。……ま、見た方が早いか。ついてこい」


 よっこいせ、と言いながら英二郎は立ち上がった。相変わらずでかい。上背は、ゆうに六尺七寸(約二メートル)はある。そして体重はなんと二十九貫以上(百十キロ)だというから驚きだ。

 噂では以前の内乱でこの村を山賊から守るため、槍で戦い十人以上の悪漢を相手にたった一人で圧倒し、一突きにしたとかなんとか言われている。

 尊敬と畏怖を集め、それでいて根は優しいものだから、自然と人望も厚い。

 社務所から出るのかと思ったら、そんなことはなかった。奥の物置にある石畳を一枚裏返すと、そこに階段がある。


「なんですか、ここ」

「御神体がいる場所だ」

「は……? 御神体、ですって?」

「行くぞ。転ぶなよ」


 御神体がある、ではなく——


 階段を下っていく。ひんやりと湿った空気が立ち込めていて、土と苔の匂いがした。

 壁には松明がかけられ、火が燃え盛っている。誰かが取り替えているのだろう。


 ややあって、地下室にたどり着いた。

 そこにあったのは一段高い座敷に、取り払われた鉄格子の痕跡。座敷牢——そんなもの、物語の中だけだと思っていた。

 そして、座布団の上であぐらをかくのは一人の龍の女。青灰色の肌に、群青と青磁色の鱗。青く輝く角に、緑の髪——。一際目を引くのは、青色をした四つの目だ。

 着物さえ着ていない。薄っぺらい腰布で性器を隠し、乳房の先端は鱗で覆っている。


「英二郎……その若造は」

「新しい世話係です、ミツチ様」

「顔を見せろ」


 燎真は目のやり場に困っていた。衣服らしい衣服は腰布だけである。それでいて人からかけ離れた異相でありながら豊満な体つきであり、艶かしく魅力的なものだから——どうすればいいのかわからなかった。特に乳房は、人の頭ほどはありそうである。


「赤くなっておる。妾に惚れたか。まあよい、許す。妾はミツチ。名の通り、蛟龍の——見習いのようなものだな」


 高過ぎず、低過ぎない。落ち着いた声音の、少ししっとりした質感の声色だった。妖艶——色っぽい声と言えばいいだろうか。


「お前は。名は?」

「秋津……燎真です。祓葬師をしています」

「ほう……若いのにようやるわ。何、取って食おうという気はないし、妾は調伏され囚われているわけではないから、恨みもない」


 意外だった。てっきり、征伐された上で助力を条件に生かされているものだと思っていた。


「これから妾の世話をするのだが……まあ、言うてみれば話し相手と酌の手伝いだな。難しくもなかろ。そうだ、ついでにお前の武勇伝を聞かせてくれ。話を聞くのは好きだ」

「はあ……」


 燎真は一方的に言われ、頷くしかなかった。

 英二郎は「では、私はこれで」とその場を辞していく。

 一人残された燎真は、どうしたものかと慌てた。


「早速だが——」

「っは、はい」

「酒を用意せい。隣の蔵に、酒がある。お主の采配で、好きに選んで持ってこい」


 なんて無茶振りだ——そう思ったが、燎真は従った。

 ミツチが明らかにこちらの反応を見て楽しんでいるのは明らかなので、もう思うままにやるしかない。


 かくして、このようにして燎真とミツチの逢瀬が始まるのだった。

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