獄門少女 — ビタースウィート・ナヰトメア —

夢咲蕾花

第1話 獄門少女

 宮本和真みやもとかずまは不当に解雇された怒りを吐き出す術を知らない。自分を理性的だと思っていたし、それを誇っていたから感情に任せて怒鳴り散らしたり、暴力で発散したり、ギャンブルに逃げることはしなかった。

 けれども溢れ出す憤激を持て余し、何かの過ちを犯しそうになってしまい、その捌け口を酒精に求めた。

 仕事を辞めさせられ一週間。休肝日を作ることもなく常に、ずっと酒を飲み、負の感情をアルコールでふやかして便所で吐き出すことでしか、この理不尽に対する正当な怒りは誤魔化すことができなかった。


 その後の体調不良と財布が軽くなるほどの授業料を支払う羽目になるが——悶々と悩んで死を救済のように思い始めることに比べればマシだった。死にたくないのに死を望むなんて馬鹿げているが、不思議なことに現代社会では追い詰められるとそうなってしまうのだ。

 その日も和真は神社のそばにある居酒屋で酒をあおっていた。ビールを大ジョッキで二杯、ハイボールを四杯、日本酒を四杯飲んで、今は五杯目。空きっ腹に酒を叩き込む。つまみ代が勿体無い。最近は、節制と浪費の垣根が曖昧で、自分でもまずいと思い始めていた。まともな思考さえできないほど、貯金を切り崩す生活に、ヒビだらけの薄っぺらいガラスの上でタップダンスを踊るような恐怖を抱いている。

 だからこそ、飲む。飲まねばやっていられない。酔っている間だけは、この精神は一つの別の宇宙へと切り離され、朧げな快楽に浸ることができた。


「女将、もう一杯」


 和真は上擦った声で、グラスを振った。五十近いのに未だ美貌を誇る年増の女将は呆れた顔で、「もうやめなさいよ」と言う。客に死なれては看板に傷がつく。それくらいいつもの和真ならわかっていたし、気をつける方だ。ここまで泥酔するまで飲むことなんて決してあり得ない。たとえ失業のストレスが後押ししていても。

 でも、今日はちがった。命が惜しくなかった。いっそこのまま、死ぬように眠りたかった。さっきから、自分が自分でないような奇妙な感覚に押しつぶされ——いや、体から追い出されそうになる。


「いいから持ってこいよ」

「駄目よ。あんた、顔見てきなさい。死んだ人間でももっとマシな顔つきしてるわよ」

「いっそ死にたいよ。畜生、横領の口封じだ。あの腐れ課長の野郎……殺してやりてえ」

「やめなさい。冗談でも、人の死を望むものじゃないわ」

「なら俺の未来はどうなったっていいのか! ふざけんな!」

「あんたまだ二十代でしょう。やり直せるわよ、いくらでも」


 女将は辛抱強く、和真に付き合った。でも差し出したのは酒ではなくミネラルウォーターだった。和真はそれを掴んで、溢れるのも構わず呷る。スーツ姿なのは、スウェットで外に出ると周りからの視線に耐えられないからだった。けれどこんなに飲んだくれてみっともなく喚く方が、よほど見ていられない。


「くそ……あんたみたいな昭和生まれは知らねえだろ。今の時代はな、一個の失敗で全部が終わるんだよ。積み上げてきた全部が崩壊するんだ。俺たちの周りには敵しかいねえ! ああそうさ、敵だらけなんだよ! いっそ、全部ぶち壊してから——」


 そのとき、微かに女将は見た。和真の体からドス黒い「穢れ」が溢れるのを。

 見咎めた女将はすぐにとって返し、電話を取る。それこそ昭和の骨董品である黒電話であった。ダイヤルをジコジコ回して、繋げる。

 電話線は繋がっていない。けれど、確かに繋がった相手は面倒臭そうに二、三応じ、承った、と低い声で言った。女将は和真を引き留めようと戻り、客前なのに舌打ちしそうになった。

 あれだけ喚いていたのに、律儀に代金を置いて、和真は店を去っていた。

 まだ、なけなしの理性はあるようだ。まだ間に合うかもしれない。女将は——二十歳になったばかりだと頬を紅潮させて初めてここへきたときの和真の笑顔を、失いたくなかった。


×


 大河原おおがわら稲荷神社は、その名の通り大きな河川、その河原に面した神社である。壮麗な作りの大きな朱塗りの鳥居が東西と南に仁王立ちし、境内の北に拝殿を置く。拝殿から少し離れたところに社務所があり、その南には御神体を置く本殿が静かに佇んでいた。

 社務所で明日執り行う、近所の住民の厄払いの段取りを確認していた神主の大貫禅師おおぬきぜんじは、馴染みの女将の電話を切って、ため息をついた。


「どうしたのお祖父ちゃん」

「死にたがりの若造から穢れが出たらしい。馬鹿馬鹿しい、死にたいなら死なせておけばいいものを」

「神主の台詞じゃないわね」


 禅師の孫——血の繋がりはないが——大貫美玲おおぬきみれいは、祖父に視線を送る。返ってきたのは、冷え切った判断だった。


「儂は明日の仕事で忙しい。生きる努力をするものを助ける方が好きだ。若造はお前がどうにかなさい」

「はいはい。弓、借りてくね」


 美玲は社務所の棚に保管されていた一つの弓を掴んだ。折りたたみ式のもので、和弓というには小さいし、何より弦がない。これでは矢は引けそうもなかった。

 禅師はひらひら手を振って、社務所から出ていく孫を尻目にため息をついた。


 死にたがりの馬鹿が多すぎる。嘆かわしいことだ。

 死に縋る根性のなさも、若さを武器にしても耐えきれぬ死を強いる社会も、どうかしている。

 まこと嘆かわしい世の中だと、禅師はため息をついた。


×


「おぉええええっ」


 ベシャッ、と大量の吐瀉物が溢れた。胃袋には酒しか入れてないのに、何がこんなに溢れてくるのか分からなかった。内臓が溶けて、それが逆流しているのだろうか。

 和真は跪いて、服が汚れるのも構わず吐いた。


 その常軌を逸した嘔吐を歩行者は遠巻きにニヤニヤ笑いながら撮影したり、心配そうに見て——それでも関わりたくなさそうに離れたり、そもそも無視していたりする。

 しかし、誰もが無関心ではなかった。若い——学生くらいの男女三人が近寄ってきた。


「あの、大丈夫ですか?」

「救急車呼びましょうか?」「水ありますけど、どうぞ」


 和真はその純粋さが、嫌味なくらいに眩しく感じた。二日酔いの寝覚めに、無理やり朝日を差し込んでこまれるような不快感がある。何が、とはっきり言えないが、その善意が悪意を伴うものに思えた。

 俺が、弱者にでも見えているのか。ふざけるな。俺は、お前らみたいな餓鬼なんぞ捻り潰して殺せるんだぞ。


「うるッゼェエええええええええ!」


 怒号——いや、咆哮。口を限界までかっ開き、血走った目で睨みつける。学生たちは悲鳴をあげ、こけつまろびつしながら逃げた。周りの連中も、「あれ、ヤバいんじゃない?」とか「ジャンキーかも」とか言って遠ざかる。

 和真は周りにいる連中が憎くて仕方ない。何とはわからない。ただ漠然と気に入らない。片っ端から喉笛を喰い裂き、全身をズタズタに引き裂いて内臓を引き摺り出さねば気が済まない。

 和真は頭を抱えてうずくまり、怒号と泣き声をあげて、耳にするのも悍ましい言葉を喚き散らす。


「や、やべえって」「なんだよ……おいっ、逃げるぞ!」「ちょっと押さないでよ!」「ばっ、化け物!」


 ——化け物……?

 和真の冷静な部分が、疑問を口にした。

 重たい体、靄がかかる視界。曇る意識。その刹那、傍らのバイクのミラーに映る、醜悪な顔をした自分。


 人間の顔ではない。これはまるで——ケモノだ。


「う——ァァア! ああぁあーーーーーーッ‼︎」


 自分を自分と認められない。人前にいられない。和真は路地に引っ込み、ゴミ捨て場の奥に隠れる。

 なんだ——なんだこれは。自分は、なんなんだ。なんでこうなった。

 なぜこんなにも人間が憎い? 何が憎い? ——決まっている、幸せそうで楽しそうなあの顔だ。自分の優位性を棚に上げ、こちらを気遣う余裕さえ見せたあのガキが呪わしい。

 ちがう、ちがう——なぜ、なぜ純粋な善意さえ自分は憎んでいる⁉︎


「対象を発見」


 凛とした声。

 顔を上げる。ぼんやりと見える——乱視の視界とは、こんな感じなのだろうか——何重にもブレた姿が像を結んだ。

 そこにいたのは緋袴の巫女。手には、漆塗りのような艶やかな黒い弓。弓柄の両端が竜胆色をしている。

 巫女の艶やかな黒髪が風に凪ぎ、その裏側だけが朱色に染まっていた。その紅に染まった人外の瞳が、和真を見据えた。


「た——す。けて」

「わかった。助ける。死にたくないなら、

「——糞っ、餓鬼ッ殺してやる! 殺してやる! どいつも——こいつもぉおおおおおお!」


 和真だったものが銃弾のように飛び出した。少女——美玲は素早く雨除けの屋根に右腕一本で登り、薄い制振鋼板越しに矢を射る。青く輝く光の矢を番え、勘で狙いをつけて撃った。

 バン、バン、バギンッと音を立てて矢が叩き込まれた。ケモノは左肩に一発もらった。ドス黒い穢れが噴き出す。


穢者けものに成ったか……今ならまだ分離できるかな」


 美玲は怪物——穢者が飛び上がってきたのを確認し、矢を射る。屋根の上で穢者は左右に体を振って矢を回避、素早く肉薄してくる。

 側面の民家の壁に飛びつき、三角飛びの要領で跳躍。霊力を込めた蹴りを、穢者の首筋に叩き込む。


「ガァっ」

「戦え!」


 美玲は怒鳴った。その内にいる、助けを求めた青年に向かって。


「グゥ——ぅううゥウウウ、だま、レぇえええええええええ!」


 掴みかかってきた。美玲は屋根から飛び降りて矢を射る。斜め下から打ち上げた矢は、穢者の胸に命中。二、三、五、七。連続して叩き込んだ矢が、穢者を怯ませた。

 素早くステップを踏み、腰を落とした。弓が変形。龍狩りの強弓と呼ばれる形態になり、その大きさは美玲の上背を上回るほどになった。

 弓柄の底を地面に打ちつけて光の矢を番えた。まるでビデオゲームのワンシーンのような一瞬。


「汝、あるべきところへ還り給へ」


 撃つ。

 ギィンッ、と甲高い霊力の叫喚と共に、矢が穢者を貫通した。穢れが青年から分離され、宙を漂う。

 しかしあまりにも根が深いのか、消滅しない。穢れはあろうことか美玲に向かって腕を伸ばした。


「!」


 龍狩りの強弓は威力こそ優れるが小回りが効かない。美玲はすぐに弓を離し、徒手格闘に切り替えた。

 半ば実体を獲得するほどに濃い穢れは、不明瞭な恨み言を喚きながら美玲に殴りかかってくる。


「くそっ」


 乙女にあるまじき汚言が溢れた。

 穢れの爪が頬を薄く裂く。美玲は自転車置き場に向かって蹴り飛ばされ、いくつかの自転車と原付をドミノ倒しにして倒れ込む。

 頭を打ったのか、視界に星がちらつく。美玲がはたと見当識を取り戻すと、穢れが美玲の喉を締め上げた。


「ぐ——ァ」

「貴様……ヒトか? いい、かマわん。その身体——もラウぞ!」

「ふざ——けんな!」


 美玲は怒鳴り、吠え、穢れを蹴飛ばした。

 互いに五メートルの距離がある。激しい物音で住民が顔を出し始めているが、のでまだ大丈夫だ。物音は聞こえるだるが、声だって認識できないに違いない。穢れなどの声は、受肉して初めて人に届く。

 息が上がっている。弓を使いすぎた。特に龍狩りの強弓は、霊力の消費が尋常ではない。


「限界が近イノカ。楽ニしてヤルぞ」

「冥界に還れと言っているだろう。ここはお前がいていい場所じゃない」

「地獄の沙汰モ金次第……魂ヲ稼げバ、いイ思いガ出来ル」

「死んでも金か! 救いようがない……!」


 美玲は言い合いの間に最低限の霊力を回復させた。かなり強引な霊力増殖なので、のちの疲れがひどそうだが——その、のちというのが来ないことには話にならない。

 背に腹は——美玲はかろうじて対人格闘が通じる形態をしている穢れに、拳を打ち出す。


「キレがナいぞ」


 半歩の加速から右の拳、相手の貫手を捻って回避、無拍子の左拳を鳩尾に叩き込んで霊力を流し込む。


「ぐ——ォ」

「とっとと、還れ!」


 両拳を組み、それでフルスイング。穢れが吹っ飛び、向かいの民家の柵を押し倒した。

 穢れは誰彼構わず受肉できるわけではない。それが救いだった。己と近しいものとしか適合できないのだ。でなければ早晩人類は滅んでいただろう。

 よって、家からご婦人が出てきて「最悪、なにこれ!」と言っていても、現状問題はない。


 穢れが起き上がった。視線が、ゴミステーションの屋根に向く。

 まさか、あの青年をまた乗っ取る気か。

 その、まさかだった。穢れはニヤリと笑うと宙を飛び、意識を失っている青年に覆い被さった。


「クク……こいツはいい宿主ダ。よくゾ俺を育てテくれタものだ」

「やめなさい!」

「有効活用してヤ——ガァッ!」


 青年が、穢れを殴り飛ばした。不器用に、寝そべったまま拳を突き出して攻撃したのだ。

 ただの人間が、なぜ——いや、さっきまで繋がっていた己の穢れだ、攻撃できて当然か。

 彼は虚な目で穢れを睨んでいた。はっきりと穢れを拒絶し、戦ったのだ。


「おえっ」


 青年は胃液を吐き出し、また意識を失った。美玲は彼の抵抗に感心し、そしてそのチャンスを無駄にすることはしなかった。

 龍狩りを掴み、元の穢れ狩りの弓に戻す。そして、素早く矢を番えた。


「ヨせ、ヤめろ!」

「還れ、腐れ穢れ野郎!」


 言葉遣いもかなぐり捨て、美玲は浄化の矢を撃ち込んだ。

 矢が穢れの瘴気瘤をぶち抜き、その全身を粉々に砕いた。

 ザアッと穢れが消え去り、それを確認して美玲はため息をついた。


 体が重い。霊力を使いすぎた。

 あの青年は無事だろうか。屋根の上だ——どうやって下そう。警察でも呼ぼうか——いや、お祖父ちゃんを呼んだ方が、

 そこまでで、思考は止まった。美玲は限界を迎え、糸の切れた人形のように意識を失い、倒れ込んだ。


 その数分後、神主の大貫禅師が現れ、やれやれと言いながら孫娘と——寝覚が悪いからと、そのついでに和真も担いで戻るのだった。


×


 加藤大毅かとうだいきはアパートの玄関を開けた時に、血生臭さを感じた。

 一体なんだ——と思って、ぴちゃぴちゃと水音が聞こえてくるリビングへ急ぐ。

 影——何かの影が蠢いていた。それが、何かを食っている。まさかと思って、思い切ってドアを開けた。


「————っ」


 そこには、介護用のベッドから引き摺り下ろされた祖父だったものを喰らう少女。真っ赤な目が、爛々と煌めいている。内臓を引っ張り出したその子は、十九かそこら。

 大毅はひどく冷静に、カニバリズムという単語を脳の辞典から引っ張り出した。倒錯的な食事嗜好を持った女子大生かなにかだろうか。


「疲れてたでしょ、介護」


 少女が、祖父の腕を引きちぎって骨をへし折り、まるでチキンバーレルから取り出したフライドチキンのように、指に齧り付いた。


「終わらせてあげたから、取引」

「なにを……」

「私と契約なさい。そして、祓葬師ばっそうしになるの」


 話についていけない。大毅は作業着から香ってくる汗のにおいに顔をしかめた。この異様な臭気のなかでは、三十に差し掛かった自分の汗の匂いがずっとマシなものに思えた。


「言い方を変える」


 女は手首の骨の、いくつかの塊になっているそれを頬張って氷をそうするように、何の苦もなく噛み砕く。


「私に協力すれば、底辺の暮らしを脱却できる。好きなだけ金を手に入れて、気に入らない奴は私が食い殺して、勃ったら女をさらって犯せばいい」

「なに、を……」

「まずは、あなたを嗤ってきた同級生から襲う?」


 ——あいつら。

 大毅の脳が、ツンと冷たく、そして狂おしい熱に支配された。


「君は、何者なんだ」

「私は芦川由奈あしかわゆな——」


 女は人肉を頬張って、ほとんど丸呑みして言った。


「獄門少女よ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

獄門少女 — ビタースウィート・ナヰトメア — 夢咲蕾花 @FoxHunter

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?

ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画