いつか人は死ぬ。

 

その時が来るまで頑張って一生懸命生きよう。

 

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やっとこの時間になり

晩ごはんが食べられるようになった。

 

膠原病の乾燥で喉と食道が痛かったから

たべられなかった。

 

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初めて仏壇の前で

父や友達の大切なひとに声掛けしている。

 

線維筋痛症の本の出版の打ち合わせで

今日はお茶もお水もお供えしていないと思い出した。

 

そこで今準備中

 

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お茶をいれるときに母を思い出し大泣きしている。

 

ある日突然、母と一緒に性格出来なくなった。

 

包括支援センターと市役所のいう事を聞かなければ良かった。

 

本当にハッキリ言ってろくでもなかった。

 

だから父の末期がんの在宅介護の時にも

包括支援センターの人が来て経験を活かせた

 

 

経験を活かせたも何も

 

「私たちは何も出来ません」と言った。

 

だったら来るな!と思った。

 

「私たちに出来る事はなにもありません」

 

この言葉で私は怒った。

 

「父は黙って先ほどから話を聞いています。

あなたがたは父をこんなに苦しめて

何をしているのですか!!」

 

 

「え?」

 

 

「え?じゃない!!

どれだけ父がたった今傷つき

ショックを受けている事に気づけ!!

 

あんたらの親だったら同じ事を言えるのか?」

 

「とにかく何もできませんから」

 

 

「さっきも言ったが出来ないなら

最初から来るな!!何しにきたんだ!!

父を傷つけに来たも同然!!」

 

 

「もう二度と来るな!!

たった今、父は座ったままだが

どんどん、あんたらに辛さを浴びせられて

傷ついてんだぞ!!

ショックや悲しみもあんたらから攻撃!!

 

二度と来るな!!さっさと帰れ!!」

 

 

私は自分の口の悪さをやめようと

がんばっていますが

この記事でダメだったのがなさけないです。

 

 

包括支援センターは酷すぎる。

 

私が住む地域だけなのかもしれないが

両親は離婚していたので

別々の包括支援センターの人間がきていた。

 

 

ある日突然、母と一緒に性格出来なくなった。

もう辛くて辛くてたまらない。

 

包括と市役所のいう事を聞いた私がばかだった。

しかし訴えたくて仕方がない。

 

 

 

訴えはしないが頭をを下げさせる事は出来る

法学部卒業なので色んなパターんもうかぶ

 

 

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母も命があまりないと言われている。

 

私は今週の膠原病内科で長くはないと医者に言われた。

 

 

残された者がいなければ

死ぬのは怖くもないし誰にも看取られたくない。

これは10代の時から思っている。

 

19歳の膠原病の失明宣告・余命宣告を

受けたのがきっかけだ。

 

 

母を置いて先に逝く事はしたくない。

 

 

だめだ、また向こうの部屋に戻ろう。

 

母とある日突然別々の生活に陥らされて

二度といっしょに暮らせなくし

御内だったら絶対にしないであろう事をする事に腹が立つ。

 

 

しかし私は今からなく

 

毎日母を殺している気分で4年は生活している。

 

悔しい、歯がゆい、母がかわいそうすぎる。

 

かあさん、ごめんね、ごめんね

 

 

 

 

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目の関係でコメントが見えず

まだ公開出来ていない方ごめんなさいね。

 

コメ返も遅れたり出来なかったりでごめんなさいね

 

 

 

みなさんいつも、ありがとうございます。

 

 

 

 

みなさんもぐっすり眠れますように。

 

 

 

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