[時代の証言者]I LOVE マンガ 水野英子<2>空襲 猛火で炊けたご飯
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《1939年10月、山口県下関市で生まれた》
読んだり描いたりするのが幼い頃から好きな子どもでした。木製タイルに文字や絵を描いた玩具があるでしょう。あれを並べてよく遊んでいました。おかげで文字を覚えるのはかなり早かったと思います。
また、童謡を聞いて、すぐそれを絵に描くことができました。物語の情景が自然に頭に浮かんでくるんです。誰に習ったわけでもないこの特技は、後にマンガを描く時に大いに役立ったと思います。
《41年に太平洋戦争が始まる。「下関空襲」と呼ばれる45年6月29日、7月2日の2度の大空襲は市内を焼け野原に変え、死傷者は1400人近くに及んだ》
私を背負って逃げる最中、祖母は水筒を落としてしまいました。水を欲しがった私のために、祖母は誰もいない家の台所をお借りし、水がめの水を飲ませてくれました。
その台所の窓から、4、5階建てのビルが火を噴いて燃えているのが見えました。その後やっと防空
熱が収まった頃、一人で焼け跡を見に行きました。灰をかぶって真っ白な土地に、石のかまどと鉄釜だけがぽつんと残っていました。蓋を開けると、何とご飯が湯気を立てている。住人が前の日に米と水を仕込んでいたんでしょう。火事の熱でご飯が炊けていたんです。でも家は焼け、周りには誰もいない。強烈に切ない思い出で、忘れられません。
《この時5歳。マンガ家らが戦時中の記憶を寄せた画集「私の八月十五日〈2〉戦後七十年の肉声」(2015年、今人舎)で、このシーンが自らの筆により再現されている》
8月15日は朝からかんかん照りで、道が白く光っていました。家の前の電柱の陰で、木の棒で道に絵を描いて遊んでいると、よその家からラジオと人の話し声が聞こえてきました。子どもなりに意味がわかったのでしょう。祖母によると、家に帰ってきた私が、いきなり「日本は負けたんだよ」と言うのでびっくりしたそうです。私はそのことを覚えていないのですが。
翌年春に市内の小学校に入りましたが、その学校の校舎が空襲で焼けたため、1年生の間は遠い学区の校舎まで通わねばなりませんでした。いくつかの学校が合わさって、教室はぎゅうぎゅう詰めのありさまでした。
幼い頃から私を育ててくれたのは、祖母ミチと、母の弟である叔父の茂です。12歳上の叔父とは、実のきょうだいのように暮らした関係なので、以後、兄と呼ばせてください。(マンガ家)
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