永遠の心音
『沈黙の艦隊』読破記念。多分一回こっきり。
「その帽子はもともと山中のだから本人に返してやれと言ったらよ。ベネットの野郎、「息子が気に入っているのでお断りする。」と抜かしやがった。どさくさにまぎれて人様の帽子持っていっておいてその言い草はないだろうが。食い詰めたら海江田の帽子オークションにかけりゃ一生食えるってボブが言ってたが、ベネットが食い詰めるわきゃねえんだからちょっとくらいこっちに回せってんだよ、なあ。」
「はあ。」
ボブもベネットも、たとえ食い詰めたとしても海江田の帽子を手放したりはしないだろうと山中は思う。皆、眠り続ける海江田に思いを馳せるよすがを求めているのだ。当然、もし山中にあの帽子が戻ってきたなら大切にしまっておくに決まっている。
「で、かわりにお前にはこれだ。」
深町が差し出した腕時計を山中が見間違えるはずがない。
「海江田艦長の時計、ですね。」
海江田とともに国連本部へ行ったからこそ残された時計。やまとに残されていたなら、今頃は海の底だったはずだ。
「海江田の身の回りのものを奥方に届けなきゃならなかったんだが、まだ使えるものは皆さんでというのでな。奥方の許可は取った。お前のだ。」
「深町艦長は?」
「奴の身に着けてたものなんてサイズが合うかよ。」
確かに、深町の太い腕にはこの時計を巻きつけるのは無理そうだ。革のバンドに開いた穴は文字盤に一番近い一つだけが何度も使われてゆるくなっている。山中は自分の腕に巻いてみた。最後尾の穴にバックルを止める。
「おお、ぴったりじゃねえか。」
がははと笑う深町の背後から誰かが駆けてくる音がする。溝口だ。溝口は深町の横でぴたりと止まり敬礼する。
「失礼します!自分も聞かせてもらっていいですか!」
何をと問うまでもなかった。溝口は海江田の時計に耳を寄せ音色に聞き入っている。この耳はずっと海江田の心臓の音を聞き、この時計が時を刻む音も聞いていたのだろう。溝口の特別な耳は、誰に教えられなくとも「沈黙の艦隊」に戻ってきた海江田の時計の音を聞きつけたのだ。山中は、これを持つにふさわしいのは自分ではなく溝口なのではないかと思う。
「溝口。これは君が持っていろ。」
山中は腕時計を外し差し出したが溝口は首を横に振る。
「音が近くに増えると仕事に差し支えます。副長が持っていてください。時々聞きにきます。……艦長の心音を思い出しました。ありがとうございました!」
溝口は敬礼し、走り去っていった。
「さすが溝口。地獄耳だな。」
「艦長の心音、か。」
コチコチと時を刻む音は確かに、海江田の心音を思わせた。
「溝口もああ言ってるし、お前が持っておけ。」
「……私が持っていても良いのでしょうか。深町艦長は何か……艦長からの最後の手紙、は、タービュレントにありましたね。」
海江田の「独立せよ」の筆跡は、額に入れられタービュレントに飾られている。深町に送られたものなのだから深町が持っていてもよさそうなものだが、深町はあれを「沈黙の艦隊」に送られたものと解釈したのだろうか。
「あれか。読んで用が済んだからくずかごに投げたんだが、ストリンガーの野郎が「なんて勿体ないことを!」とか拾ってな。いつの間にか額になってた。」
山中は内心頭を抱えた。海江田の思いの丈がこめられたあの一枚を捨てることのできる深町の粗雑な神経が理解できない。ストリンガーに心底感謝した。
「艦長のものを何もお持ちでないのですか。では、やはりこれを。バンドを長いものに変えればお使いになれるでしょう。」
「奴のものなんて要るかよ。もうしゃべれもしないはずなのに、なんかの弾みに俺の考えに割り込んできては自分ならこうするああする言いやがる。うるせえ、俺は海江田四郎じゃねえ、深町洋だ!って言って頭の中から追っ払うんだがな。奴のニオイのするもんなんか手元に置いてたら、ただでさえうるせえのが手に負えなくならあ。」
山中は驚いた。というより、何だろう、この感情は。
山中が艦にいるときの物事の判断基準は常に「海江田ならどうするか」である。他の艦で他の艦長の下で働いたこともあるが、海江田の操艦はやはり群を抜いていた。そしてすべての指示に理路整然とした理由がある。
山中は海江田に嫉妬したことがない。他の乗員もそうなのではないかと思う。だから深町に対して抱いた感情の正体が初めはわからなかったのだが、おそらく嫉妬なのだ。海江田は非常に注意深く、自分が特別な才能の持ち主であることを隠していた。秀才ならば努力すれば手が届く。だからこそ乗員皆、努力したのだ。海江田の神のごとき采配は努力の末に得たものと思うからこそ。
操艦中は海江田の指示に付いていくのがやっとなので、後から必ず思い返し、海江田がなぜそう指示したのかを考え、わからなければ質問した。海江田ほどの鋭さを持つことは出来ないかもしれないが、経験を積みその思考法を身につければ、いつか海江田の近くまで行けるのではないかと思っていたからだ。
しかし深町は自分が天才であることを隠しもしない。その残酷さに気付いていないのだ。深町と接してみて、山中は思い違いを知らされた。天性の「カン」を持って生まれなかった者は、あの領域に達することなどできはしない。努力は必ず頭打ちになる。
カンなどと、そんなあやふやなものに頼っているのは深町だけだ、うちの艦長は違う、と初めのうちは思っていたのだが、海江田とはやることなすことまるで正反対に思える深町の判断は、海江田がいれば下したであろう判断にごく近いことにいつしか気が付いた。というよりも、海江田が深町に乗り移って言わせているのではないかと思う時さえある。やまと最後の操艦にしても、もちろん海江田の指示に忠実に従っただけだったから、誰にとっても最後までやまとの艦長は海江田のままだったが、深町のカンがなければやり遂げることは不可能だったのも間違いない。
しかし深町の言を信じるならば、深町の判断はあくまで深町自身によるものであって、海江田がしそうな判断に対し深町が心の中で異を唱えた結果なされたものだ。本人にとっては耐え難い差異があるのだろうが、山中にはおそらく、それらの間に差異を発見することができない。
海江田と深町が並ぶ者のない天才艦長なのは、カンの働きが良いというまさに天賦の才によるのだと、二人は正反対に見えても、後付けで理由を説明するかしないか程度の違いしか実はないのだと気付いてしまってから、いや深町に気付かされてしまってから、山中は絶望した。自分はどうあがいても、思い描いた「艦長」にはなれないと知ってしまったからだ。
幸か不幸か、それでも海江田に対する嫉妬心は沸いてこなかった。自分は最後まであの人の副長のままなのだろうと素直に受け止めた。だからこの時計は間違いなく役に立つ。難しい判断を迫られたとき、海江田の心音が自分の腕で脈打っていれば、山中を導く絶対の羅針盤となるだろう。その心強さを思えば、よくぞ自分のところへ来てくれたと諸手で歓迎するのみだ。
我慢がならないのは、そう判断したのが深町であり、そのことを隠しもしない深町の無神経さであり、その深町は当然のように海江田と同じ場所に立っていることだ。もちろん深町にはこんな時計は必要ない。帽子など論外だ、海江田の最後の手紙ですらも不要なのだから。わかるが、どうしても悔しい。
「以前海江田が言ってたんだがな。その時計は「当たり」だそうだぜ。ちゃんとネジさえ巻いてやれば、狂いもしないし止まりもしない。現に、持ち主が眠りこけてても動じもせずに今も動いてる。」
脳死状態の人間はいつ心停止してもおかしくないのだそうだ。米国も国連も威信をかけて海江田の肉体を生かし続けようとするだろうが、いつか必ず限界は来る。誰も口には出さないが。
海江田本人を思わせるこの時計は、海江田が心停止して後も動き続けるのだろう。やまとがなくなってしまっても「沈黙の艦隊」がなくなりはしなかったように。海江田が言葉を紡ぐのをやめてしまっても深町が皆を導いたように。
「海江田艦長の時計、確かに私が受け継ぎました。ありがとうございます。」
「おう、もらっとけ。」
海江田は、人間の善意は悪意を上回ると言った。深町はもちろんそうだ。悪気などまったくない。だからこの嫉妬心は山中の悪意によるものだ。海江田のただ一人の副長を自認する山中は、この悪意を上回る善意を当然持っているはずだ。
「深町艦長は、この先へ行ってください。海江田艦長にしかできないことがあるとおっしゃいましたね。私もそう思います。深町艦長にしかできないことがあると思うのです。」
深町が照れたのを山中は感じた。善意を感じたということだ。やがて深町は不敵ににやりと笑って見せた
「世界はもっと面白くなるぜ。」
深町の後ろに、われわれは大丈夫だ、と微笑む海江田が見えた気がした。
了
以下おまけ。いろんな意味でイタい話なので勇気むしろ蛮勇のある人だけ読むべしです。本当にイタいよ!
ベネットは鏡の中の自分を見る。薄暗がりで明かりをつけることも忘れていた。議場のこうこうと照らすライトから離れて尚いっそうどす黒く見えるものは、海江田の流した血。
アメリカという巨大な国を率いるために、ベネットは日々多くの者たちを血にまみれさせている。それができなければ大統領など務まらない。自分は血まみれなのだと自覚していたはずだった。けれどもそれは、実際に、本当に血を浴びたことのない者の甘えた考えに過ぎなかったのだ。たとえ核のボタンをこの指が押したとしても、ベネット自身が返り血を浴びることはない。それがどれほど異様なことか、ベネットは今この瞬間に本当に自覚した。
いまさら、体中に震えがきた。側頭部から血を流しながらも立ち上がって演説を再開した海江田を見て、やはり流血など大したことではないと思おうとしていた。海江田は見るからに無理をしていて、苦しげな表情を取り繕おうと超人的な精神力で立ち向かっていた。ベネットにそれがわかったのは、ベネットもまたそうして戦ってきたからに他ならない。今すぐ止めさせなければ取り返しがつかないことになると心のどこかが叫んでいたのに、政治家としての自分が海江田を止めることができなかった。ただ見守ることしかできずにいた。海江田のなすことすべてから眼を離さずにいるのが精一杯だった。
海江田の傷口から再び噴き出した血は生命そのもの。これ以上流れ出たら海江田の命は失われる。本能的な恐怖。止めたくて手でふさごうとする。崩れ落ちる海江田の体を支えなければならないと思う。ほんの一瞬の出来事。
血の気がなくなるほど強く握っていた手を開く。乾いてこびりついた塊。白いシャツにも点々と、ネクタイにもべっとりと、蒼白な顔にも。
洗い落とし、着替えなければならない。こんな格好で人前に出るわけにはいかない。さっきまでは平静でいられたではないか。何をいまさら取り乱している?
再び、てのひらを開いて見る。鉄さび色のそれは、味もまた鉄さびに似ているだろうか。唇を寄せ、舌で舐め取る。
何故そんなことをしたのか。そうした瞬間には自分でもわからなかった。すっかり舐め取ってしまってから、ベネットはとある儀式を唐突に思い出す。
ベネットはキリスト教徒だ。大統領としての最初の仕事は、聖書に手を置いて神への宣誓の言葉を述べることだった。
救い主は言った。パンは私の肉体である。葡萄酒は私の血であると。
パンを食べ葡萄酒を飲むことは神と救世主とをあがめ、この身に一体化するための聖なる儀式だ。ベネットは戦慄した。ベネットを助けるために己が身を犠牲にした海江田。その血を口に含み飲み下したからには、もはや海江田はベネットにとって只人ではなく。
海江田が回復したら返すのだと言いわけじみた理由をつけて演壇から持ち帰ってきた帽子。深海に潜む陽の当たらない魚のように、暗闇に浮かび上がる白。震える手でつかみ、胸に引き寄せる。白いその端に噛み付く。感じたことのない陶酔が胸を駆け上がる。
海江田と話したいと切望し、それが叶った。海江田はベネットに答えて言葉を発した。その瞬間、ベネットはすでに海江田の忠実な下僕と成り果てていたのだ。
米国大統領であることと。
神とひとり子に仕えることに矛盾はない。
ないはずだ。
ベネットは混乱し、呆然と立ち尽くすしかなかった。
独立せよ。
その言葉は、ベネットが米国大統領であることも、神の下僕であることも許さない。一個の独立した人間として生きる。人類の一員として生きる。ただそれのみを許す。
けれども当の海江田は、今や人とは別のものになっており。
時間が必要なのだ。誰もが矛盾と混乱を突きつけられている。ベネットも一時はまり込んだように。抜け出すためには膨大なエネルギーと、大いなる許容を注ぎ込まねばならない。ベネットが即座に気を取り直すことができたのは、海江田から受けた衝撃があまりにも鮮烈すぎたゆえに、その反動も激烈だったからだ。反動は必要だが、強すぎれば誰もが耐えられるわけではない。人類すべてを動かそうというのだ。相当の時間と手順を要することだけははっきりしている。さらに悪意が邪魔するだろう。
だから今はまだ、ベネットは米国大統領であり、神の御名においてのみ行う。ベネットは己れに言い聞かせる。
神のごとく振舞え、ニコラス・J・ベネット。この血も肉も、いつか来る日のために全てくれてやれ。
不思議と悲壮感はない。自然に浮かんでくる笑みは、海江田がなぜいつも穏やかに微笑んでいたのかを教えていた。
了
歴代米国大統領でキリスト教徒じゃなかった人はいないので当然ベネットも。ベネットがギリシャ系って設定は、多神教的発想があるって意味なのか、いわゆる「異端」キリスト教的発想があるって意味なのか、ていうか両者は実は同じことを意味してるのか、よくわかんないのでそっちへ突っ込めなかったのが残念です。宗教って難しい。