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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-02-21

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ひとりずつが「だれの世話にならない」方向に、
 人間の文明は進んできたように思える。
 だれかに頭を下げなくても生きていける。
 じぶんのめしは、じぶんで食っていける。
 飲みたいものを飲み、食いたいものを食い、
 じぶんの考えをじゃまされることなく、
 行きたいところに行き、好きな音楽を聴き、
 だれの世話にもならず、心配をかけることもなく、
 ひとりで立って、胸を張って生きていられる。
 そうあるための努力もするし、
 そうありたいという精神を維持し続ける。
 これは、ずっとひとつの理想として語られてきた。
 「天は自ら助くる者を助く」という言葉がある。
 いわゆる「自助論」というものだね。
 「自立」の大事さ大切さは、
 おそらくだれもが認めるところだと思う。

 唐突で悪いけれど、ごはんについても同じでね。
 ひと粒ひと粒のおこめが、つやつやピカピカと照っていて、
 他のこめにべちゃっとくっついていないのがいい。
 おかゆでもなければ、餅でもないんだからね。
 ひと粒が、十分に「おこめ」であるとわかる。
 言ってみれば「自立」していることが望ましい。
 見た目の感じからすると、
 お赤飯のつややかさなどが理想なのかもしれない。
 しかしね、つやつやでぴかぴかなのだけれど、
 この粒と粒がばらばらなのはこれまた困る。
 「自立」していながらもくっつきあってほしい。
 「なかま」を大事しながら存在していただきたいのだ。
 おにぎりにしたとき、寿司としてにぎったとき、
 こめ粒が自立していながら、やわらかく抱き合っている。

 世話にならないぞ自立が大事だとはいうものの、
 なにもかもが個人のなかで完結してしまうのは、
 ほんとは、ごはんにも人間にも向いてないのではないか。
 ふわっとおにぎりのように「やわらかに助け合う」。
 自ら立っていける人間が、互いを助け合える。
 力を借りられたり、できることを分け合えたりね。
 それは「自助」でなく「互助」というのかなぁ。
 未来は、そっちに進んでいるようにも思えるんだけど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
おれはちょっと「ごはん」のことを考えすぎているかなぁ。

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