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ウクライナ人ディレクター カテリーナが見た故郷のいま

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ロシアによる侵攻開始から2年。

日本でウクライナのことを伝え続けてきたウクライナ人のNHKディレクター、ノヴィツカ・カテリーナが、侵攻後 はじめて故郷に戻り、2年におよぶ戦争が身近な人たちや慣れ親しんだ街をどう変えたのか取材しました。

(国際放送局ディレクター ノヴィツカ・カテリーナ)

ウクライナ出身のNHKディレクターが5年ぶりに帰国

私はノヴィツカ・カテリーナ(28)、ウクライナ・キーウ出身。

幼いころから日本のアニメが大好き(初めて見たのは『美少女戦士セーラームーン』)で、趣味はコスプレです。

5年前に来日し、NHKでおもに海外向けのニュース番組のディレクターとして、日本のサブカルチャーなどについて世界に発信してきました。

2022年2月24日、ロシアが私の故郷ウクライナに侵攻しました。私自身、そしてウクライナにいる家族の人生は、一変しました。妹は日本に避難し、父と母はキーウに残る選択をしました。両親はもう2年もの間、ミサイルの下で暮らしています。

私自身は日本に留まり、ウクライナ人の声を日本人に届けることに専念しました。「ウクライナを伝え続けることが、私にできることだ」と感じたから。でもずっと、心に引っかかっていたことがありました。

「私自身は戦渦に巻き込まれたウクライナで1分も過ごしていない。戦争をこの目で見ていない自分が、戦争を語っている、ウクライナ人の気持ちを語っている…」


「ウクライナ人は今どんな生活を送っているのか、どんなことを感じているのか、その場所に、その瞬間に一緒にいて、感じて、知りたい。自分の伝える言葉にしっかりと自信を持ちたい」

そんな思いで、私は去年10月から約1か月、ウクライナに帰国しました。日本人ディレクターとカメラマンも同行し、時には自分でカメラを回して、家族や友人など私の身近な人たちの日常や本音を記録、取材することにしたのです。

正直に言えば、久しぶりの里帰りは、怖いというよりワクワクする気持ちにあふれていました。こうして、私の“故郷の戦争を知る旅”が始まりました。

生まれ育った街キーウへ

現在、ウクライナ上空は飛行が制限されているため、陸路で向かうしかありません。キーウにたどり着くまでに、これまでの3倍の時間がかかりました。

道のりを簡単に説明するとこんな感じです。

日本→ウクライナの隣国ポーランドまで飛行機→ウクライナとの国境を徒歩で越える→ウクライナ西部の街リビウから夜行列車に乗る→キーウに到着。

ポーランド・ウクライナ国境を初めて歩いて越える私

ウクライナに入って、まず気づいたのは避難者の数の多さです。侵攻前は、観光客でにぎわっていたリビウ駅も、子どもを連れたお母さんたちであふれていました。

駅のホームに、大きな馬のぬいぐるみを抱えた女の子がいました。気になって、お母さんに声をかけてみました。

母親

「娘とチェコに避難中で、今は、2週間だけお父さんに会うために家に戻るところです。娘にはこの避難について、“これは女の子の冒険だよ。女の子だけが旅をして、男の子は国や家を守っているんだよ”と伝えました」

カテリーナ

「あなたにとっての平和とは何ですか?」

母親

「平和は、すぐ逃げられるように娘の荷物や靴、水はどこにあるのかを気にすることなく、娘を安心して寝かせられることだと思います」

リビウ駅のホームで出会った避難先から一時帰国中の親子。ウクライナでは侵攻が始まって以降、総動員令が出され、18~60歳の男性は原則、出国が禁じられているため、父親とは離れて暮らしている

キーウに向かう夜行列車に乗った私は、乗り合わせた人たちにも声をかけてみました。一見、普通の旅行者に見えた3世代のこの一家は、自宅のある街アウディーイウカが激戦地となり、2年近く避難生活を続けていました。

「故郷では毎日、600回もの砲撃があると聞いています。消火設備もなければ、消防士もいません。残っている人たちは自力で火を消し、人を救助しています。ただ、今でも、がれきの下敷きになった遺体を収容できないままだと聞きました」

「きょう、街を歩いている時、自分のベッドで眠れて、自分の家のお風呂に入れる人たちがうらやましくなりました。どこで人生を築き直せばいいのか分かりません。でもいつか故郷に帰るという夢も捨てられません」

夜行列車で出会った激戦地から避難中の一家

戦争とは「街で偶然出会った誰に声をかけても、想像を絶する話を聞くことになること」なのだと私は初めて知りました。

家族と再会、実家へ

故郷キーウの駅で私を待っていたのは、花束を持った母 ナタリヤと父 オレグでした。戦争のただ中での再会は、奇跡のようでした。

父と母と戦時下での再会

しかし両親も、5年ぶりに帰った実家も、戦争で大きく変わっていました。

私が住んでいたころ、大きな鏡や絵が飾られていた玄関の壁は、何もなくなっていました。

「この玄関が私たちのシェルターだからね。爆発で割れてけがをしそうな物は、すべて壁から外したんだ」

首都キーウでも、ロシアによるミサイルや無人機の攻撃が続いていました。攻撃が始まると、空襲警報が発令され、スマートフォンにも通知されます。警報が解除されるまで、窓のない玄関など、少しでも安全と思われる場所に避難します。

「大規模な攻撃の時には、警報は4~5時間続くよ。その場合は、廊下に布団を敷いて寝ているの」

「怖くないのは、最初の爆発を聞くときまで。一度その音を聞いたら変わってしまうよ」

「私も前は怖くなかったの。でも、近所の病院にミサイルの破片が落ちた時、建物が揺れて、うちに当たったと思った。それ以来攻撃があるたびにパニックになる」

たくさんの料理を用意して、嬉しそうに出迎えてくれた両親の様子も戦争前とは違っていることに気づきました。

「私はこの2年で、まったく泣くことができなくなってしまった」

カテリーナ

「どうして?」

「どうしてか分からない。泣けば楽になると分かっているのに、泣けないの」

「代わりに俺が泣くようになったね。いろいろと価値観が変わったと思う」

「まったく変わった。今まで気づかなかったささいなことに気づくようになった。花が咲くとか、鳥のさえずりとか。前はそんなこと気にも留めなかったのに」

私と妹がシェアしていた部屋の隅で、カレンダーを見つけました。日付は、2022年2月。妹が国外に避難したあと、誰にもめくられることなく、時間が止まっていました。

“軍服姿”に変わった私の故郷

キーウの街に出ると、店やレストランは営業していて、友人や家族と過ごす人の姿も多くありました。一見平和そうに見える街。でも、戦争前の姿を知っている私には、はっきりと違って見えました。あちこちに軍のポスターが貼られていました。集合住宅の窓は、攻撃で割れないようにテープが貼られていました。

近所でも爆発で窓が吹き飛ばされた場所がありました

私は母校を訪ねることにしました。ウクライナの子どもたちは、日本でいう小・中・高校の11年間、同じ校舎で、同じクラスで、同じクラスメイトたちと勉強します。第二の家のような存在です。私は2013年に卒業しました。

学校に入ったとたん、カメラに興味津々の子どもたちが集まってきました。

カテリーナ

「何年生ですか?」

生徒たち

「7年生です。」※日本では中学1年生にあたる

カテ

「みんな何歳ですか?」

生徒たち

「13歳か、12歳の子もいます」

母校の生徒たちは、攻撃の時にどう行動すべきかきちんと知っていました。私の学生時代とは比較にならないほど、たくさんの知識を身につけていました
カテリーナ

「戦争で学校は変わりましたか?」

生徒

「はい、すべての教科書は、オンラインになりました」

生徒

「海外に避難した生徒もいます」

生徒

「うちのクラスから3人は、海外に避難しました。もう戻らないかもしれない」

生徒

「いまは何もかもが、どんどん変わっています」

生徒

「子ども時代がどんどん過ぎていくし、大人に近づいていくけれど、思い出に残せることがありません。戦争が始まったからです」

子どもたちの中には、日本のアニメが好きな子もいて、お別れのあいさつをするときに、日本式のおじぎをしてくれました。

明るそうにふるまっていた子どもたち。

でも、学校の掲示板には、私の学生時代にはなかったポスターがたくさん貼られていました。すべて、精神的ケアについてのものでした。

ポスターの内容:
『実際には、警報がないのに、聞こえてしまうあなたに』
『不安で眠れない?』
母校の壁には、今までなかった戦時下における子どもの精神的ケアのポスター

母校にはもうひとつ、大きな変化がありました。学校の地下室はシェルターに改装されていました。校長に案内してもらいました。

地下室に入ることは、私にとってとても不思議で信じられないことでした。この学校で勉強していたころ、この地下室はずっと、一般の子どもたちは入れない、扉がいつも閉まっている、『秘密の部屋』のような場所だったからです。

でも今は、空襲警報が発令されるたびに教員たちは生徒をこの部屋に避難させ、授業を続けています。シェルターとして長時間避難できるように、トイレや換気設備の工事も進んでいました。

「ここには、400人の生徒が避難できます。でも、学校の生徒数は400人以上なので、全員一度にシェルターに入れないのです。だから1年生から7年生までの生徒たちは午前のクラス。午前中に小学生の授業が終わると、上の学年の生徒たちが授業を受ける、2部制に変わりました。一時期、ここにベッドを整備することまで考えていました。本当は、こうした状況が短期間で終わり、こんなものは全て使う必要がないとよいのですが」

シェルターを案内してくれた校長

でも現実には、今もこのシェルターは使われ続けています。空襲警報が多い時には、1日に3回以上、避難することもあるそうです。

10年後の同窓会

私はこの学校を2013年に卒業しました。まだ戦争の大きな足音は聞こえない、平和で夢にあふれているときでした。

小・中・高校時代をともに過ごした同級生たちは、この10年をどう生きてきたのか、戦争の影響は受けてないのか、ずっと気がかりでした。

卒業式の時、私たちは「10年後にまた集まろう」と約束して別れました。それからちょうど10年。同級生たちに声をかけると、久しぶりに母校に集まって同窓会をすることになりました。

24人のクラスメイトのうち、この日集まったのは11人。担任だった生物担当のリペツカ先生も駆けつけてくれました。

卒業してから10年 懐かしい教室で開かれた同窓会
当時担任だったリペツカ先生

「今日の授業は、人生についてです。人生について話しましょう。あなたたちはどうしていましたか。今、何をしているのでしょうか」

10年たっても女性たちは全く変わっていないのに対し、男性たちは髭を生やしていて、
10年の歳月を感じました。

アリーナ

「10年たっても、みんな変わらない」

カテリーナ

「ね、誰も変わってないね」

当時担任だったリペツカ先生

「まあ、男子たちはちょっと…」

アリーナ

「変わりましたね。ヒゲが確実に変わりました」

ロマン

「当時ヒゲなんか生やしたら、校則違反で学校に行けなかったでしょ(笑)」

当時担任だったリペツカ先生

「セルヒーもヒゲを生やしているのね」

セルヒー

「やっと生えました(笑)」

10年たっても変わらない、クラスメイトや先生との懐かしいやりとり。

当時担任だったリペツカ先生

「今、アンドリーとヤロスラヴは、私たちを守るために戦っていますね」

でも、戦場にいるクラスメイトの話になった瞬間、それまでわいわい騒いでいた教室は、一気に静かになりました。

いつもクラスの中心にいたアンドリーと物静かなヤロスラヴ。同窓会に来られなかった二人は、侵攻が始まってから志願して兵士となり、戦場でロシア軍と戦っていました。

アンナ

「キーウでこんなことが起きるなんて、考えもしなかった」

当時担任だったリペツカ先生

「爆発音にはいつまでたっても慣れない。そんなのは不可能」

アリーナ

「どうだろう、私はある程度慣れた気がする」

ロマン

「爆発の音に?ずっとストレスを感じ続けるのは大変すぎるから、無意識に、自分を守るために恐怖を感じなくなっているのかも。とてもよくないよ」

アリーナ

「もちろん、最初は反応してしまうけど、時間がたつと慣れてしまう。ちなみに、うちの猫ですら避難することを覚えたよ。毎日午前5時に砲撃があった。だから猫は、毎朝5時になると、廊下に避難するようになったよ」

当時担任だったリペツカ先生

「皆さん、これを何というか分かりますか?『条件反射』ですね。生物学で習いましたね(笑)」

同窓会にも、戦争が入り込んでいました。

戦争によってどんな価値観の変化があるのか、クラスメイトたちに聞いてみました。

アリーナ

「戦争は私の人生を大きく変えた。避難するかどうかの選択を突き付けられた時、ウクライナ、キーウ以外の場所には住みたくないとわかった。家を出るくらいなら、爆発やミサイルと共に暮らす道を選ぶ。自分がどこに住みたいのか、人生において自分が何を求めているのかを見つめ直した。今までやりたいこと、興味のあることをたくさん後回しにしてきた。でももう『後』はないんだと思った。『今』しかないんだと」

アンナ

「戦争が始まった時、私は妊娠していたから、色々なことがもっと大変になってしまった。特に記憶に残っているのは、生まれたばかりの娘を抱っこしてる時、輸送機が飛んでいて、うるさかった。私は娘を抱っこしながら、歌い続けた。その輸送機の騒音ではなく、私の声が聞こえるように。戦争が始まって、色々価値観が変わったと思う。お金を稼ぐことより、家族と自分の時間がもっと大切になった。平和な時代に生きたい。ワンちゃんと子どもがたくさんいる、大きな家族で」

カーチャ

「以前よりも、家族、両親ともっと親しくなった。もっと話せるようになった。物質的なものはそれほど重要ではなくなった。自分の家族も作りたいけど、今の世の中を見ると、未来の予定を考えるのが怖い。1週間後でさえ、どうなるかわからないから」

カテリーナ

「戦争がある中で、子どもを産むことは怖くない?」

カーチャ

「怖い。それも結構いま悩んでいる。まあでも、子どもを産んで何とかやっている人もいるから。避難してどこかに行くことになるかもしれないけど…」

当時担任だったリペツカ先生

「次の10年、生徒たちにはもっと色々なことを成し遂げてほしいです。悲しみや苦しみなしで、もっと幸せに、笑いながら生きていてほしいです。とにかく、生きていてくれればいい。特に、今戦場で戦っている子たち。生きていて、健康で、幸せでいてほしい、それだけです」

「また10年後、みんなで集まろう」と願いながら、同窓会は終わりました。

今のウクライナの若者の暮らし

クラスで一番の親友だった同級生ポリーナの自宅を訪ねました。私たちは日本のアニメが好きだったことから仲良くなり、今も連絡を取り続けています。

ポリーナの家はアニメグッズであふれていました。そのすぐそばには、たくさんのロウソクやモバイルバッテリーが置かれていました。

カテリーナ

「ここにあるのは何?」

ポリーナ

「緊急時に必要な備えを色々入れているの。光を反射させるもの(反射板)は、必需品。例えば、私は黒い服をよく着ていたんだけど、冬に攻撃による停電が続いていた時、交通事故が増えたの。街灯がなく真っ暗だったからね。だから、こういうものを身につけるようになったよ」

ポリーナ

「あと、ラジオね。通信が途切れても、ラジオなら受信できる電波がある。手に入れるのはとても大変だった。ラジオを買いに走る人が殺到して、値段もすぐ高騰した。停電になると、ネット回線は使えないから、ラジオは正確な情報を得られる唯一の方法になる。例えば、核攻撃の時には、身を守る時間はたった10分しかない。10分の間に必要なものをまとめて地下鉄まで走らないといけない。地下鉄の入り口は、10分後には閉鎖されるから。だから少しでも早く情報を得ることが必要なの」

ポリーナ

「無人機が飛ぶ音や、ミサイルが飛ぶ音も聞き分けられるようになった。ミサイルの種類が分かれば、自分のところに到着するまでの時間も分かる。兵器の種類にも詳しいよ。ウクライナ人はみんな今『小さな戦争の専門家』になっている。詳しくなればなるほど、安心できるからね」

2022年2月24日。最初の大きな爆発で起きたポリーナはしばらく恐怖や無力感で食事も喉を通らず、髪の毛やまつげまでたくさん抜け落ちました。今も実際には空襲警報が出ていないのに、音が聞こえてしまうなど、戦争の精神的な打撃に苦しめられています。

ポリーナ

「チャイムの音が嫌いになった。誰かが家に来る時も、『鳴らさないで』とお願いしている。音が大きくて、空襲警報に少し似ているから」

今、ポリーナの支えとなっているのが仕事だと言います。ポリーナはキーウ市内にあるウクライナのアプリ開発企業でデザイナーとして働いています。仕事は、今多くのウクライナ人がさいなまれている無力感を少しでも和らげる役割を果たしています。

ポリーナ

「戦争が始まって、“ウクライナが存在しないことがあり得るんだ”という考えが初めて頭をよぎった。私が今ここに座っていられるのは、前線で戦っている人たちや海外からの支援のおかげ。だから私もウクライナのために、ウクライナ軍に寄付して、頑張らなきゃ。働いて国に税金を納めて、軍に寄付しなきゃ。寄付は日常のルーティンになってきた。地下鉄に乗る時も、どこかに行く時も寄付するし、知り合いに助けてほしいと言われたら、寄付する」

ポリーナの仕事はアプリのデザイン
ポリーナ

「そして、ウクライナ軍に寄付したというスクリーンショットを会社に提示すると会社がそれと同額を寄付するの。とても支えになっている取り組み。今ウクライナで就職先を選ぶ時の新しい基準にもなっている。ウクライナを支援しない、寄付しない会社で人は働きたがらない。私にとってもとても大事なことよ」

突然の同級生の死

同窓会から9日後、携帯に連絡が入りました。戦場で私のクラスメイトの1人ヤロスラヴが亡くなったと。私は彼が亡くなる少し前、同窓会の出欠についてやり取りをしていました。「行くかもしれないけど、まだわからない」というのが彼の最後のメッセージになりました。

寡黙でいつもクラスの端っこにいたヤロスラヴ。言葉を交わすことは多くなかったけれど、優しい人という印象でした。卒業式で、私たちは二人並んで入場していました。

私が10年ぶりに見たクラスメイトの顔は遺影だった

その連絡から3日後、私はヤロスラヴのお葬式に行きました。ほかの同級生も来ていました。彼は兵士のための墓地に埋葬されました。

彼と私は誕生日が同じ日でした。彼は28歳になって、わずか5日後に命を落としました。

私はヤロスラヴのお母さんに話を聞きたいと連絡を取りました。彼がどんな風に生きてきたのか、少しでも知りたかったからです。

取材に応じてくれたヤロスラヴのお母さん
カテリーナ

「彼はいつ前線に行くと決めたのですか?」

「私には何も言わずに、志願しました。ある日、軍の施設の近くで彼を見かけて『ここで何をしてるの?』と聞いた。すでに彼はすべての手続きや準備をすませていて、その日の夜には、行ってしまった」

「息子の誕生日には、連絡がつかなかった。私は、『今日はお誕生日だね。ケーキを買ってお祝いしたよ』とメッセージを送った。次の日に彼は、『ケーキおいしかった?』って電話をくれた」

「つらいです。まだ彼の死を受け止めきれません。お墓に行っても、息子のお墓だなんて思いたくない。みんなが彼をたたえてくれた。彼はたしかに英雄だとは思いますが、私は彼のために生きてきた。生きる意味が分からなくなってしまった」

キーウの中心部にあるマイダン広場では、侵攻が始まって以降、犠牲者を悼むための旗が立てられるようになりました。旗には、ロシアが命を奪ったウクライナ人の名前が記されています。そこに私はヤロスラヴのための旗を立てました。

マイダン広場の旗は今も増え続けている

私は今回ウクライナに行く前は、故郷の戦争を伝えるためには、戦争に影響を受けた場所や人を探す必要があると思っていました。

でも実際には、戦争は激戦地に限らず、一見平穏に見える場所にまで、はるかに広く、深く、隅々までウクライナ人の人生に染みついていました。探す必要はなかったのです。

幸せに、平和に生きていた人たちは今深い傷を負わされ、自分の将来はどうなるのか見えず、けれどその中で懸命に生きている。それが、私が見たウクライナの今でした。

(国際放送局ディレクター ノヴィツカ・カテリーナ)

同行した日本人ディレクターからみたウクライナ

左:同行した永田彩香ディレクター 右:カテリーナ

カテリーナと一緒に彼女の故郷ウクライナを歩き、約1か月間カメラを回しました。

皆さんは「ウクライナ」と聞いてどんな光景を思い浮かべますか。激しい戦闘、破壊された街、死、悲しみに暮れる人々…。

日本人の私がこの2年見てきたウクライナの映像はこうしたものが大半でした。でも実際に現地に入り、街を見渡した時、正直に言えば、大きな戸惑いを覚えました。

最初に見たウクライナ(西部の街リビウやキーウ)は、カフェテラスで家族や友人と楽しそうに過ごす人、笑顔で自撮りする若者たち、賑わっているレストランやお店…というものだったからです。

「何て美しい街だろう。これはいつもテレビで見ている、あのウクライナと同じ場所なの?」

けれどよく見ると、激戦地から離れた街でも、軍服を着た兵士が歩いていたり、ドローンの操縦士を募集するポスターが貼られていたり、美しい教会の前に破壊された戦車が置かれていたり、昼食やお風呂の最中に突然空襲警報が鳴ったりと、戦争が人々の日常に深く入り込んでいました。

そして、人々の心の中に、戦争は見えない傷をたくさん残していました。戦場だけが戦争ではないのだと、出会った人たち一人一人が教えてくれました。

「明日が来るか分からないから、今を精いっぱい生きようと思うようになった」「自分は何を大事に生きていきたいか、この戦争で気づいた」。多くの人がそう話していました。

街で私がすれ違った人たちは皆、ミサイルの下で2年もの間生き抜いてきた人たちなのだ、笑っているのは、大切な人たちとの今この瞬間を精一杯生きているからなのだと、街の見え方がどんどん変わっていきました。

ほんの2年前まで、ミサイルなど飛んでいなかった美しい空。ほんの2年前まで、私たち日本人と同じように普通に暮らしていた人たち。けれど今、ウクライナ人のほとんどが知り合いや大切な人を亡くしていると言います。

カテリーナの友人の一人が私たちに伝えてくれた言葉を紹介します。

「私たちがどんな風に暮らしてきたのか、本来のウクライナを知ってほしい。今、ウクライナで起きている『死』や『破壊』だけでなく、私たちウクライナ人が『生きている姿』に目を向けてほしい。そしてそれが今、戦争で脅かされていることを知ってほしい」。

私が見たウクライナは、今この瞬間も、大切な人たちとのささやかな日常や“ウクライナ人らしさ”を守りながら生きたいと願う人たちの姿でした。

(国際放送局ディレクター 永田 彩香)

関連番組のお知らせ

2024年2月21日総合「あさイチ カテリーナが見たウクライナのいま」
2024年2月23日総合「私の故郷 ウクライナ」(再放送)
2024年3月28日BS「BSスペシャル 私の故郷 ウクライナ(拡大版)」

【21日放送のあさイチはこちらからご覧になれます】(~28日まで)👇

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