世界に愛はないが、好かれるのも恐怖

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なぜ世界には愛がないのか、しかし、よくよく考えると、他人に好かれて嬉しいのか、という難題がある。人を好きになるというのは物乞いと似た感情である。土足で他人の家に上がり込むストーカー精神、それが好意である。なぜ好意が物乞いなのか、説明は難しいが、そこには何らかの倒錯があるのだろう。一言で言えば甘えということになる。甘えでない好意があるのか、それはわからないが、おそらく好意の大半が甘えなのである。美人とセックスしたいとか、それだけである。なんにせよ誰でも乗れる船ではなく、特別扱いを求めているのだと思うし、こういう飢えは解消されるものではない。好意は強盗といっても差し支えあるまいが、この倒錯はずいぶん頻繁に起こるようなので不思議である。精神病院に縁がなさそうな善男善女でも、好意という悪魔に取り憑かれることがある。おそらく人間誰にも潜んでおり、この暗器はずっと手元にあって、いつも血を見たがっているような危険性である。ひとびとは一応の自覚は有り、若い女性は「好かれたら困る」という立ち振舞いを身につけている。まさに命取りだからである。それでは、恋愛という要素が皆無の愛なら可能であろうか。たとえば(われわれが男性であるとして)そこらへんのアパートに住んでいる冴えないオッサンが相手ならどうであろう。何の見返りもなく、オッサンの生活を立て直すために限りなくサポートを行う。それであればいいのだろうか。とはいえ、これを実行する人はいないだろうし、現実味がない机上の空論というか、例え話のための例え話であるから空疎だ。あるいは、隣人への親切と捉えてもいいし、田舎の人間関係ならお節介なおばさんがいるかもしれないが、好奇心が原動力であるし、これはこれで疎ましい。われわれは他人との境界線を踏み越えて感情のダムが決壊することを恐れており、そのために愛という水が流れない枯れた世界を望んでいる。「好意を持つ」とか「好意を持たれる」とは酒・タバコ・パチンコと同じであり、なければないでよいものである。
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