パレスチナ問題を解くための歴史4、中世史篇その2 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).3.21日)
【十字軍遠征】 | |
1095 |
当時の法王ウルバヌス二世がキリスト教徒に対して「、異教徒イスラム勢力討伐、聖地の奪還」を訴えかけた(クレルモン会議で十字軍を宣布)。こうして十字軍遠征がが始まることになる。
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1096 | ローマ教会の提唱で第1回十字軍が派遣される。パレスチナとシリアの一部を占領する。1096年から1249年まで十字軍遠征が続く。 この期間に、三大騎士団と云われるテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団(→マルタ騎士団)、ドイツ騎士団が創設される。聖地の守護、巡礼者の保護を目的に結成された騎士団は、どんどん入団者を増やし、ヨーロッパと聖地イェルサレムをつなぐ「巡礼領域」において、一大勢力に発展して行く。中でも、地中海の制海権を独占し、独自の船舶を保有していたテンプル騎士団は、中東へ兵員を輸送するばかりか、巡礼者も金を取って輸送、その帰途には香料やシルクなどの中東の物産を積載してヨーロッパで売りさばくことで、莫大な富を得た。また、この財を元手に手形取引や銀行業務など金融にも手を出して行く。 ・テンプル騎士団の勢力拡大を見たフランス王が、1307年財産と金融システムを手中に収めるべく弾圧を強行する。騎士団の一部は弾圧を予測し、船団に移しておいた富で交易を続け、海賊行為にも手を染める。そして交易ルート確保のため、港々に「ロッジ」(集会所・支部)を構築していく(→フリーメーソンへ)。ロッジでは保険業務も行われており、今日の金融・保険業の源流となる。 キリスト教世界では中心勢力ではなかったドイツ人を保護する目的で、ドイツ騎士団は設立される。しかし、テンプル、マルタ騎士団にイェルサレムの利権をほとんど奪われ、存在意義を失う。そこに、ポーランド貴族が領土と引き換えに救援を要請してきたため、ドイツ騎士団はプロイセンに移住、1283年プロイセン(現在のポーランド)に「ドイツ騎士団」国家を設立する。このドイツ騎士団が、後のナチス親衛隊SSのモデルとなった。(「裏の支配勢力史1 ヴェネチア~十字軍・騎士団~スイス都市国家」) |
1099 | 第1回十字軍がエルサレムを占領し、エルサレム王国を樹立する(~1291年)。アンティオキア公国などの十字軍国家も並立。十字軍遠征は1291年まで続き、西欧社会に大きな社会的経済的変化をもたらすことになる。 この時、パレスチナにいたユダヤ人たちは、乗り込んできたキリスト教徒によって真っ先に虐殺されている。 |
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十字軍によるキリストの聖地を取り戻そう運動は、異教徒に対する戦いと言う異常な宗教的情熱意識を生み、その最初の犠牲者となったのがライン川沿いの古都に居住していたユダヤ人だった。ユダヤ人は「キリスト殺しのユダ公」として憎しみの対象でしかなかった。あるいは、ユダヤ人は悪魔がキリスト教国とその信徒を抹殺するために送り込まれた“悪魔の集団”とみなされていたことによった。
十字軍以来、「改宗しようとしないユダヤ人の根絶(アウスロツトウング)」と言う思想が初めて現れた。これ以後、西欧ユダヤ人の迫害史が正式に開始されることになる。ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする動きが見られていくことになった。 十字軍によるユダヤ教徒迫害は次第に激化して行き、ゲットー成立の重要な背景になって行った。キリスト教の理論化が浸透するに従い、「キリストを殺した者達=ユダヤ人」という感情が醸成されるようになった。中世から近世にかけて「聖体冒とく」(キリストの聖体、ホステイアを盗んで冒とくすること)と「儀式殺人」(ユダヤ教徒が儀式のために、キリスト教徒の幼児をさらって生き血を吸う)のデマがまともに受け入れられるようになってゆくのも、十字軍のまっただ中である12世紀中頃からである。その背景には、単にキリスト教徒の宗教的偏見という理由のみならず、ユダヤ人の富裕に対する「嫉妬」もあった。 |
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1100年以降 北イタリアで都市共和国が誕生する。十字軍遠征から最大の利益を引き出していた北イタリアの諸都市が、独立の都市共和国を形成。12世紀には、北イタリアからスイスの商業都市が、ミラノを中心としたロンバルディア同盟を結ぶ。その後、ロンバルディア地方のイタリア金融家がロンドンのシティーに進出して行った。ヴェネチアはもともと利子の取得を禁止していたが、14世紀には解禁。国際金融都市として急速に発展した。 | |
12世紀前後 |
ハザール王国は、東ローマ帝国と新たに台頭してきたモンゴル帝国の攻撃を受け滅亡する。この時に発生した大量の難民(改宗ユダヤ教徒ハザール人)は、西へ西へと移住し、東欧に住み着いた。この東欧に住み着いた難民たちこそが「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼ばれるようになった人々である。祖国を失ったハザール人は、この時から“ユダヤ人”として生きることとなった。 |
1113 | 聖ヨハネ騎士団が認可される。 |
1115 | クレルヴォー修道院が創設される。 |
1117 | ヴェネツィアの聖マルコ聖堂が完成。 |
1122 | ヴォルムス協約が締結される。 |
1123 | 第1回ラテラン公会議開かれる。 |
1128 | テンプル騎士団が結成される。 |
1139 | 第2回ラテラン公会議開かれる。ポルトガル王国独立。 |
1140 | 南フランスでカタリ派が広がる。 |
1146 | フランスの修道士ルドルフが十字軍を呼びかけるとともに、ユダヤ人撲滅を呼びかけた。 |
1147 | 第2回十字軍(~1148)。 |
1155 | スウェーデン王エリク9世、フィンランドへ布教(北方十字軍)。 |
1160 | ランス大聖堂の建設開始。 |
1163 | ノートルダム大聖堂 (パリ)の建設開始。 |
1170 | オックスフォード大学が創設される。 |
1173 |
ピーター・ワルドー、聖書翻訳と一般信徒による説教を開始。(ワルドー派。プロテスタントの先駆け。)
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1177 | 南フランスでワルドー派が広がる。 |
1179 | 第3回ラテラン公会議開かれる。ワルドー派、許可されず。 |
1180 |
マイモニデス(ラビ・モーシェ・ベン・マイモン)、「ミシュネ・トーラー」を著す。レバノンのマロン派、ローマ・カトリックに帰属。
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1182 | フランスでユダヤ人、ユダヤ金融追放される。 |
1185 | カトリック教会で一種陪餐とロザリオの使用が習慣化する。 |
1187 | アイユーブ朝のサラーフッディーン(サラディン)、エルサレムを奪取(ヒッティンの戦い)。 Kurdish general Saladin (Salah al-Din who was born in Takrit northern Iraq, the birth place of Saddam Hussein too), son of Ayyub, the sultan of Mosul, defeats Crusaders at Hittin in northern Palestine and recaptures Jerusalem. The Ayyubid dynasty rules Palestine from Cairo. |
1189 | 第3回十字軍(~1192)。 |
1192 |
英国王リチャード1世とサラーフッディーン休戦協定。非武装のキリスト教徒のエルサレム巡礼が認められる。
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1198 | 法王イノケンチウス3世が即位する。この頃、法王の絶頂期を迎える。 |
1199 | ドイツ騎士団が認可される。 |
イングランドのリチャード獅子王の戴冠式にあたり、突如ユダヤ人の迫害が起きた。大半のユダヤ人の家は焼かれ、多くのユダヤ人が殺された。ユダヤ人の財産は王のものとされた。王の代理人のみが8万マルクを費やして、ユダヤ人を救った。 | |
1200年前後 | 「イスラム東方世界」から逃れてきた東洋系ユダヤ人が、スペインに知的な黄金時代を開花させる。ユダヤ史で、預言者の時代以来の最も知られている時代となる。アルファシがタルムードを法令化。ユダヤ学者マイモニデスが第二トーラーを著す。詩人ユダ・ハレヴィが、「ユダヤ精神」をロマンティックな詩に緕いあげる。 |
1200年前後 スイスで都市国家が成立する。反逆する封建領主貴族達との相次ぐ戦争により多額の借金を背負うことになった神聖ローマ帝国皇帝は、担保としていた領土を奪われていく。皇帝の権限が及ばない土地が貴族達のものとなり、都市国家として独立して行く。1200年前後になると、スイスは精密機械工業、兵器産業を中心に発展していたが、そこにヨーロッパ中で商業ネットワークを構築した騎士団やヴェネチアで富を蓄えた金融家が金融技術と共に移住してくる。皇帝に反逆した貴族達は、兵器と産業と金融が揃っていたスイスに結集し、国家を結成していく。これが現代まで続く金融国家スイスの起源となる。 | |
1200 | ロシア人が、ハザールを取り巻く国家群をリードし、それを侵略した。これは、彼らの民族に対するハザールの犯罪をやめさせるためで、そこには、バール神への血の生贄儀式のための、幼い子どもや幼児の誘拐が含まれていた。ハザール王と、その内部の犯罪者朝廷や殺人者たちは、…ハザール国からヨーロッパ諸国の西へ逃亡し、金や銀による彼らの巨大な財産を持ち去った。彼らは身を伏せて再び集合し、新しい身分や名を名乗った。彼らはひそかに、サタン的な子供の血や生贄の儀式を続け、バールか彼らに、世界全体と、すべての富を与えてくれることを信じた。それは彼が彼らに約束したものであり、彼らが血を抜き続け、子どもや幼児を彼に生贄として捧げる限り、守られるものだった。ハザールの王と、その朝廷のマフィアは、ハザールを侵略し、彼らを権力から追い出した、ロシアとその周辺国に対して、永遠の復讐を計画した。 (注)ウクライナは、旧ハザール帝国の領土と重なり、多数のユダヤ人(ハザール人)が今も居住している。 |
1202 | 第4回十字軍(~1204)。コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を樹立する。 |
1206 |
モンゴル統一。
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1209 | アルビジョア十字軍がカタリ派征伐の名目で南フランスへ派遣される。 |
1209 | アッシジのフランチェスコによりイタリアでフランシスコ会が創立される。 |
1212 | 少年十字軍が派遣され、その大多数が人身売買で奴隷にされる。 |
1215 | ローマ教皇が、第4ラテラン公会議(教皇インノケンティウス三世)で「聖体の実体変化」の教義宣言。聖職者の行動指針を示す。ユダヤ人に差別的な服装「恥辱のバッジ」を付けることを義務づける。 |
1216 | ドミニコが創立したドミニコ会が認可される。 |
1217 | ハンガリー王の十字軍がエジプトを攻撃する。 |
1218 | 第5回十字軍(~1221)。外交によって聖地を回復したが、永続せず。 |
1223 | フランシスコ会が認可される。 |
1228 | 第6回十字軍(~1229)。ハザールがモンゴルによって滅ぼされる。 |
1233 | ケンブリッジ大学が創設される。 |
1236 | モンゴル軍のロシア侵入、いわゆる「タタールのくびき」が始まる。 |
1239 | 信徒の聖書朗読が禁止される。 |
1243 | キプチャク汗国成立。ハザール汗国はバトゥ・ハーンの権力下に吸収され、ハザール汗国滅亡。改宗ユダヤ教徒ハザール人たちはロシア・東欧に大量移住し、後のいわゆるアシュケナジー系ユダヤ人の中核を形成する。 |
1245 | 第1回リヨン公会議開催、フリードリヒ2世の皇帝位を剥奪。 |
1248 | 第7回十字軍(~1249)。ムスリムの拠点である北アフリカを攻める。 |
1255 | パリ大学がアリストテレス哲学の講義を開始する。 |
1260 | Mamluks succeed Ayyubids, ruling Palestine from Cairo; defeat Mongols at Battle of 'Ayn Jalut near Nazareth. |
1264 | ポーランドでユダヤ人保護政策が採られる。 |
1265 | アンティオキア公国、マムルーク朝に滅ぼされる。 |
1270 | 第8回十字軍。 |
結局、十字軍遠征活動は聖地エルサレムを奪回するという第一目標を果たせなかったのみならず、ヴェニスの商人の策略によってキリスト教徒同士(カソリック&東方正教会)が討ち合うという有名な悲劇的大事件(コンスタンチノープル攻略事件)を招き、キリスト教史に非常に深い傷跡を残してしまった。
十字軍遠征活動に代表されるように、キリスト教の修道士や騎士階級が異教徒征伐政策を正当化するにつれて、ユダヤ人に対する迫害は露骨になっていった。13世紀にローマ教会が「異端審問制度」を確立すると、ローマ教会の横暴さは頂点に達した。 |
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1271 | 第9回十字軍。(~1272。第八回に含む説もあり) |
1273 | パリ大学教授でドミニコ会のトマス・アクィナスが『神学大全』を完成する。 |
1274 | 第2回リヨン公会議が教皇選挙の方式を改正。 |
1276 | オーバーバイエルンでユダヤ人追放。上バーバリアでユダヤ金融追放される。 |
1289 | フランシスコ会のモンテ・コルヴィノが元の大都に派遣される。 |
【「西欧各国でユダヤ人追放の嵐」】 | ||
1290 | イングランドのエドワード1世が、ユダヤ人、ユダヤ金融をイギリス国内から追放。 | |
1291 | マムルーク(エジプトの王朝)がパレスチナを支配(~1516年)。アッコ陥落し、エルサレム王国滅亡。パレスチナ、マムルーク朝支配下に。 Mamluks capture final Crusader strongholds of Acre and Caesarea. |
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1298 | 神聖ローマ帝国でユダヤ人迫害。貴族のカルブフライシュは全ユダヤ人を壊滅させるように神の命令を受けたと主張した。
黒死病、宗教的異端説、経済的緒光がヨーロッパ社会を粉砕し始め、ユダヤ人の共同体生活をも揺るがす。「マハリル」が「タルムード学者」に代わって権力を振るい始め、「ユダヤ人の知的生活を損なう」。 |
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13世紀頃 |
中世ドイツにおけるユダヤ人の処遇は興味深い。ドイツ国王は、「キリスト殺し」のレッテルを貼られたユダヤ人に対して、特別に保護している。ユダヤ人は、その代償として種々の納税義務を果たした。それは、しばしば迫害に遭う弱い立場のユダヤ人とドイツ国王との取引でもあったように見受けられる。分裂した領封体制下でのドイツの国王にとって、全ヨーロッパに四散していたユダヤ人の国際通商能力、経済力は重要な収入源となったし、ドイツ全体のユダヤ人を自らの直接の保護下におくということは、国王の権威を全ドイツに知らしめる上でかっこうの論拠となり、更に実益にもなった。 13世紀にはいると、国王の意に反してユダヤ人はドイツを去ることが出来なくなっていった。ハプスブルク王家出身のルドルフ1世(在位1273~91)は自分の許可なくして聖地パレスチナへ移住しようとしたユダヤ人を重罪に処し、彼らの財産もすべて没収している。その論拠は、すべてのそして個々のユダヤ人は王庫の”下僕”として、その人物、財産ともにすべて国王一人に属するというものであった。 こうしたドイツ国王のユダヤ人に対する特別保護、徴税権は皇帝特権の一つとなった。そればかりか、財政難に陥った国王はユダヤ人に対する徴税権を抵当に入れ、借金をすることも常のようであった。そして、もともと国王の特権であるユダヤ人保護、徴税権は、王権の動揺や財政窮乏下で次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。 その後のユダヤ人に対するキリスト教徒の差別は過酷で、服装を「とんがり帽子やマント、頭巾」を義務づけされたのも、その当時であるし、ユダヤ人が公職に就くことを禁止したのもその当時である。そして、ユダヤ人を決定的な孤立へと陥れるもう一つの取り決めがあった。 それは、キリスト教徒間での利息を伴う金の貸し借りを破門を持って厳格に禁止したことである。しかし、教会法の対象外となるユダヤ人は、堂々と利息を取って金を貸すことができた。すでに職人組合ギルドから締め出され、店舗を構えて商売もできなくなり、国際商取引も大幅に制限されたユダヤ人は、教会法に拘束されなかった金貸し業や両替商に活路を見いださざるを得なかったのだ。そして、キリスト教で言う”隣人愛”に反する金貸し業を営むユダヤ人はますます孤立に追い込まれるに必然であった。それ故、15世紀後半にゲットーに閉じこめられるのを待つまでもなくユダヤ人の隔離は現実化していった。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) |
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1303 | 北京に大司教座が設置される。 | |
1306 | フランスのフィリップ王がユダヤ人、ユダヤ金融を国内から追放。 | |
1309 | 教皇クレメンス5世のアビニョン捕囚(法王庁が南フランスのアビニョンに移転する。教皇のバビロン捕囚。1377年まで続く)。(アヴィニョン捕囚) | |
1311 | ヴィエンヌ公会議開かれる。 | |
1312 | テンプル騎士団が弾圧される。 | |
1321 | フランスのギエンヌ州で、井戸に毒を投げ込んだと拷問を受けたユダヤ人が告白したため、5000人のユダヤ人が火刑となった。 | |
1322 | フランスが再々度ユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1329 | マイスター・エックハルトが異端審問にかけられる。 | |
1347 |
黒死病(ペスト)流行、ユダヤ人迫害される。(~1349)
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1348 | ~50年まで、全ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した。これによつてヨーロッパ人口の3分の1、地域によっては3分の2が消滅したと云われている。 この時、ユダヤ人がペストをばらまく犯人だとされ、ヨーロッパ各地でユダヤ人の虐殺が発生している。
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1349 | ザクセンがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1354 | ポーランドでユダヤ人保護政策が採られる。これによりユダヤ人の入植が進み、50万人を数えるようになった。 | |
1360 | ハンガリーがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1370 | ベルギーがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1377 | 教皇のアヴィニョン捕囚が終わる。 | |
1378 | 教会大分裂。ローマとアビニョンに別の教皇が立つ。「教会大分裂」が始まる(~1414)。 | |
1380 | スロヴァキアがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1384 | ウィクリフが英語聖書を翻訳。 | |
14世紀後半、高位にあったドミニコ会の修道士・マルティネス(Ferrant Martinez)が、精力的かつ組織的にキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する地獄の業火を説いた。あまりにも過激なマルティネスを、国王はたしなめたが、当時の国王の権力は教会には及ばなかった。 | ||
1391 | スペインで、ドミニコ会修道士マルティネスの扇動によりユダヤ人大虐殺。1391.3月、セビリアでの祝祭日、マルティネスに扇動されたキリスト教徒たちが、ユダヤ人を襲い、略奪や暴行を行った。3ヶ月後の6.6日、マルティネス自身が指揮する暴徒がセビリアのユダヤ人を襲った。この日、4千人ものユダヤ人が虐殺された。その他のユダヤ人は、洗礼を受けることによって辛うじて命を取り止めた。ユダヤ教の宗教指導者は、命の危険がある場合、見せかけの改宗をすることを許した。8.5日、スペインで最大の人口1万人を誇るトレドのユダヤ人が襲われ、3千人が殺された。以来、約4ヶ月間、スペイン全土でユダヤ人襲撃が続いた。全部で3万人のユダヤ人が命を落とした。その背景に、国王の徴税請負人のほとんどがユダヤ人で大衆の恨みを買っていたこと。また一部のユダヤ人が資産家だったためである、とされている。この時、かなりの数のユダヤ人がキリスト教徒になった。その数ははっきりしていないが、殺された数3万人よりは多かったと考えられる。残りの一部は北アフリカへ逃げた。 | |
1394 | フランスで再々とユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1414 | 公会議主義者の主導によってコンスタンツ公会議が開かれ、ローマ教皇を政党と認めて「教会大分裂」を収拾する。 | |
1415 | 宗教改革の先駆者・ヤン・フスを喚問、異端として火刑に処す。 | |
1419 | ボヘミアでフス戦争が始まる。 | |
1420 | オーストリア、リヨンがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1421 | オーストリアからユダヤ人追放。 | |
1424 | ケルンがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1429 | フランスでジャンヌ・ダルクが火あぶりとなる。 | |
1431 | 公会議主義者主導によるバーゼル公会議が始まる。 | |
1438 | 教皇派が公会議をフェラーラ・フィレンツェに移転し、コンスタンチノープル総主教が出席して、東西教会合同の教令を採択する。 | |
マインツ、アウグスブルクがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | ||
1442 | オーバーバイエルンがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1444 | オランダがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1446 | ブランデンブルク(オウガスブルグ)がユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1448 | ロシア正教会成立。 | |
1449 | ポルトガルのリスボンで、ユダヤ人大虐殺。 | |
1453 | オスマン帝国によりコンスタンティノポリスが陥落し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅ぼされる。オスマン・トルコ帝国は、ユダヤ商人・職人を厚遇する。 | |
そのうちで、表面上はキリスト教徒として振るまいながら、秘かにユダヤ教を守り続けた者たちは、マラノ(スペイン語読みでは「マラノス、Marannos」)と呼ばれた。コンベルソとマラノの区別ははっきりしないが、コンベルソは単にキリスト教への改宗者、マラノは隠れユダヤ教徒と識別できる。マラノは本来のキリスト教徒以上にキリスト教的に偽装した表向き改宗したかくれユダヤ人であった。コロンブスもその一人。、スピノザ、マルクス、フロイトはマラノスだった。表向きは改宗したが、むしろそれゆえにユダヤ信仰を深めた者たちの
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。表向きにはキリスト教に改宗して、秘密でそれまでの自分の宗教を続けていた。 コンベルソの中から、ローマ教会のヒエラルキ-(階層社会)の中でスピ-ド出世した者も出た。教皇に次ぐ地位、枢機卿になった者も出た。コンベルソが、キリスト教会のヒエラルキ-(階級社会)を急速に登っていくにつれて、旧キリスト教徒たちの妬みをかった。当然ながら旧キリスト教徒たちにとって許せなかったのはマラノである。 |
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1455 | グーテンベルク聖書作られる。(世界初の印刷聖書) | |
1462 | マインツがユダヤ人、ユダヤ金融追放。上バーバリアでユダヤ金融追放される。 | |
1469 | カスティリアの王女イザベルとアラゴンの王子フェルディナンドが結婚した。二人は間もなく女王と王になった。スペインが事実上統一されたことになった。残る問題は、ただ一つ残っていたイスラム・アラブの拠点、グラナダ王国だった。イザベルとフェルディナンドは、グラナダ王国を断固滅ぼす決意をした。そのためには、臣下の宗教的情熱をかき立てる必要に迫られた。二人はマラノ問題に決着をつけることにした。手段としては異端審問所しかない。異端審問所は、すでに13世紀初期、ロ-マ教会によってつくられていた。 | |
1478 | ペインでユダヤ人に対する異端審問が始まる。多数のユダヤ人が殺される。イザベルとフェルディナンドは、ロ-マ教会と交渉し、スペインだけの王権の管轄下にある審問所をつくる許可を得た。以来、スペインでユダヤ人に対する異端審問が始まり、1479年から1481年までの3年間に、カスティリア南部のアンダルシアだけで2万人の人々が生きながら火あぶりになったという。 以下、「ユダヤ人問題」を参照する。
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1479 | イベリア半島のカスティーリャとアラゴンが合同してスペイン王国が成立する。 | |
1480 | スペインで異端審問始まる。
紀元1世紀前後に、古代ローマ帝国に迫害されたオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)の多くはスペインに移住していたが、このイスラム勢力下にあったスペインが、15世紀にキリスト教勢力に支配されると、スペインの地にいたユダヤ人は全て国外追放されてしまった(1492年の有名なユダヤ追放事件)。この事件以前にも、ユダヤ人はイギリスやフランスから追放されたことはあったが、スペインのそれは徹底的なものであった。 |
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1483 | 改宗ユダヤ人コンベルソの。トマス・トルケマダ(Tomas de Torquemada)が、審問所の長官に任命された。審問いっそう厳格化される。キリスト教徒達による異教徒の追放がアンダルシアで始まった。トルケマダの下、彼らが本当に改宗したかどうかを確かめるための審問はいっそう厳格化された。トルケマダがその職にあった18年間で、10万人のユダヤ人を投獄拷問し、2千人のコンベルソが生きながら火刑に処せられ、3千人が死後死体か身代わり人形が焼かれた。そして3万7千人がキリスト教徒になることを受け入れたという。 | |
マインツ、ワルシャワがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | ||
1492 | 1月、最後のイスラム・アラブ王国グラナダが滅び、イベリア半島のイスラム勢力消滅。(レコンキスタ[国土回復運動]の終結) レコンキスタが完成すると、4.29日、スペインに住むすべてのユダヤ教徒、ユダヤ金融を追放する布告が出された。猶予期間はたった3ヶ月だった。その間に、ユダヤ人は不動産や動産を処分し、携帯することが許された。しかし貴金属だけは、国外へ持ち出すことが認められなかった。こうして、ユダヤ人のスペイン追放が始まった。(キリスト教への改宗強制) 8.2日、最後のユダヤ人がスペインから去った。ポルトガル、オランダ、イタリア、フランス、北アフリカ、オスマントルコ(含むバルカン半島)、北方のナバル王国へ向かったと云われる。 彼らが追放されたのはスペインからだけではなく、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどでも同様であった。それで16世紀には多くのユダヤ人がコンスタンチノープルやポーランド、そしてアムステルダムに移住した。コンスタンチノープルに移ったのはその宗教がイスラム教だったからである。ポーランドに移った理由は、時のポーランド王が、モンゴル軍の侵攻によって荒廃した国土を復興するため、ユダヤ人(特にスファルディ)の高い文化・知識を必要として、ユダヤ人を保護・優遇したからである。またアムステルダムに移住した理由は、そこの宗教がプロテスタントであったため、カトリックほど反感が強くなかったこと、さらに国際都市であったため、人々がコスモポリタンとして寛容であったからである。 一般論としては、カトリックがユダヤ人に対して一番過酷で、イスラム教とプロテスタントはより寛容であった。さらに寛容ないし友好的であったのは、啓蒙主義と自由主義であった。18世紀にボルテールとルソーの影響のもとに、ユダヤ人の解放運動が起こった。これとフランス革命のお陰で、西ヨーロッパのユダヤ人たちは国籍を取得することさえできるようになったのである。
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1492 |
15世紀末、ユダヤ人は西欧を追われ、新たな離散(ディアスポラ)の波を受けるようになった。コロンブスがアメリカ大陸に到達する。(西欧人のアメリカ大陸発見)コロンブスの世界航海は、表向きのカトリックの布教という理由の他に、その実はユダヤ人の安住の地を求めようとする秘められた動機があったのではないかとする説がある。 |
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1495 | リトアニアがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1496 | ポルトガル、ナポリがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1497 | シシリー、サルジニア、ポルトガルからユダヤ人追放。ポルトガルで、国王の勅令により、ユダヤ人にキリスト教への改宗を命ぜられる。改宗しない者は、異端審問所で裁判に付されるか、国外追放された。 | |
1498 | ナバラ(ナヴァレー)、ニュルンベルクがユダヤ人、ユダヤ金融追放。レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」を完成。 | |
「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」 | ||
1504 | ハイチに大司教座が設置される。 | |
1510 | ブランデンブルク、プロイセン(プロシア)がユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1513 |
教皇レオ10世、贖宥状販売開始。
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1515 | ジェノバがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1516 | オスマントルコ帝国がパレスチナを占領。以降、1917年までの400年間オスマン帝国(首都イスタンブール)が支配することになる。 | |
1517 | オスマントルコ帝国のパレスチナ支配が開始される(~1917年)。他の中近東諸国と同じくイスラエルの地は16世紀以降オスマン・トルコの支配下に入った。その後、1520年頃からエルサレム周辺に城壁と門を建設し、この城壁内においてイスラム教徒に交じって、キリスト教徒、ユダヤ教徒の居住が許可された。この区域が、現在「旧市街」と呼ばれている地域となる。アラブ人、カナン人、ペリシテ人、ユダヤ人などがその後20世紀まで揉め事を起こしつつも大過に至らず平和共存して来た。宗教的寛容というイスラム教の伝統によるものと思われる。 |
1517 | ルターが95か条の意見書を発表―宗教改革を始める。 |
1518 |
ツヴィンクリ、宗教改革を開始。 |
1521 | ルターが「キリスト者の自由」を刊行。新約聖書をドイツ語訳する。 |
1522 | オスマン帝国がハンガリーを攻撃。ルターが聖書をドイツ語に翻訳する。 |
1524 | ドイツ農民戦争が始まる。(ルターの宗教改革に共鳴した農民たちが領主に反乱を起こすが、ルターはこれに反対して鎮圧を支持、農民側が敗北する) |
1525 | ティンダルが聖書を英語に翻訳する。 |
1526 | 神聖ローマ皇帝カール5世がルター派を黙認する。 |
1529 | ール5世、ルター派を禁止。第2回シュバイヤー会議で信教の自由を取り消され、ルター派が抗議(プロテスト)文を提出。プロテスタントの始まり。 |
1529 | オスマン帝国のスレイマン1世が、カール5世のウィーンを攻撃(第一次ウィーン包囲)。 |
1531 | リスボンで大地震が発生し、ユダヤ人大虐殺が行われる。 |
1532 | 神聖ローマ皇帝カール5世がプロテスタント(ルター派)を容認する。 |
1533 | ナポリがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 |
1534 | イングランド王ヘンリー8世が、国王至上法を発布してイングランド国教会を創設し、カトリック教会から分裂する。英国王カトリック教会の勢力挽回に貢献。ヨーロッパ各地で宗教戦争起こる。イエズス会設立。 |
1535 | カトリックとルター派の同盟軍が、再洗礼派を制圧。 |
1536 | ヘンリー8世がイギリス国内の修道院を解散させる。カルヴァンが「キリスト教綱要」を著し宗教改革活動を本格化させる。 |
1537 | スレイマン1世がエルサレムの城壁を再建する(~1541)。 |
1540 | ローマ法王がイエズス会を公認する。イエズス会は修道会として認可される。 |
イタリアがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1541 | カルビンが宗教改革を始める。 |
ナポリ、プラハがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1543 | ポーランド人のコペルニクスが「天球の回転について」出版。ルターが反ユダヤ主義パンフレット「ユダヤ人と彼らの嘘について」を発表。 |
1544 | 宗教改革者マルチン・ルター、ユダヤ人を攻撃。 |
1545 | トリエント公会議により、プロテスタント運動に対抗したカトリック教会内部の自己改革が進み頂点に達する。(対抗改革) |
1546 | -1601年、J.ケプラーの師デンマーク人のティコ・ブラーエが最初の天文台(カッセル)を建設。 |
プロテスタント、シュマルカルデン同盟を結び、カトリックと対決(シュマルカルデン戦争)。 | |
1547 | イヴァン4世がロシア皇帝(ツァーリ)に即位。 |
1549 | [日本]イエズス会宣教師ザビエルが来日、鹿児島に来て日本にキリスト教を広め始める。 |
1550 | ジェノバがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 |
1551 | バイエルン(バーバリア)がユダヤ人、ユダヤ金融追放。 |
1552 | カール5世時代のスペインのマドリッドに入り込む。 |
1554 | ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制。「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」がヴェネチアに初めて設置される。これにより、ヨーロッパに散ったユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人集落を各地に作っていた。ヴェネチアに初めて設置された(異説もある)。 ジョセフ・カロが著書『整えられた食卓』で、『タルムード』を「スファラディ系律法」に法令化すると、これに対抗する形で、ヤコブ・イセルレスが著書『テーブルクロス』で、『タルムード』を「アシュケナジー系律法」に法令化した。 ユダヤ人の知的生活は衰退し始め、「サバタイ運動」「フランクの説」「ハシディズム」という3つの異端神学が、ユダヤ教の聖職者を苦しめ始める。一部のユダヤ人はゲットーを逃れて、「宮廷のユダヤ人(ホフ・ユーゲン)」「サロンのユダヤ人」「保護されたユダヤ人」と呼ばれるグループを形成する。 |
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ゲットーはまたたくまに世界各地へ広まった。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまった。
「ゲットー」は、フランクフルト、オックスフォード、ウィーン、ブタペスト、マドリード、ローマ、ナポリその他26地域に散在していた。フランクフルトのでゲットーは、15世紀頃に成立した。キリスト教絶対社会にあっては、ユダヤ教徒たるユダヤ人は社会の表舞台に登場することが出来なかった。許されたのは金融業その他科学ないしは芸術家的な専門分野であり、シェークスピアの「ベニスの商人」はその辺りの様子を活写している。「ベニスの商人」では、ユダヤ商人シャイロックが「強欲な金権万能主義者」として描かれているが、これが一般的に定着しているユダヤ人像である。 ユダヤ人の置かれたこの状況が、産業革命の進行と共に変化を蒙ることになる。フランクフルトゲットー内での住人3000名の内4家族のうち1家族が富裕ユダヤ人となっていった。そうした富裕家族の中で、ロスチャイルド家をはじめとする54世帯は、一万グルデン以上(3000グルデンでおよそ、1億数千万と思われる)の財産を持つ大金持ちとなっていった。つまり、ゲットーの11%に近い住人が、大金持ちに属していたことになる。当時のフランクフルト市の人口3万7000~3万8000人における市民の富裕階級と貧しい庶民の数を、ゲットーのそれと比較して考えると、いかにゲットーに富裕階級が多かったかが明らかとなる。 ユダヤ人社会に胎動したこの活力がやがて社会改革に向かわせることになった。フランス革命前の啓蒙思想や解放運動の主体としてユダヤ人が頭角を現していくことになった。迫害とそれに抗する能力の高さ-これが当時のユダヤ人の特質となった。 しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。完全に自由な特権を享受していたユダヤ人が存在していたのである! 彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。現在、世界最大最強の財閥として地上に君臨しているロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーデンの出であることで知られている。 |
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1554 | ユダヤ人のイギリス追放。 |
1555 | アウグスブルクの宗教和議で、ルター派が公認される(帝国内でのルーテル派を合法化する)。ヴェネツィアでユダヤ人に差別バッジ着用が義務化される。 |
1557 | プラハがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 |
1559 | イギリス、統一法で英国国教会が成立。ローマ教皇領がユダヤ人追放。 |
1558 | アンリー4世がナントの勅令で、新教徒に信仰の自由を認める。 |
1560 | ヨーロッパで宗教改革の波。カルバン派が長老会議を取り入れる。 |
1562 | フランスの宗教内乱(ユグノー戦争、フランスでカトリックとプロテスタントの対立。~1598)。 |
1563 | イングランド国教会が39ケ条を制定。 |
1569 | [日本]織田信長が宣教師ルイス・フロイスを謁見。教皇領からユダヤ人追放。 |
1569 | ローマ教皇が、教皇領からユダヤ人を追放。 |
1571 | キリスト教会による異端裁判が廃止される。 |
1572 | フランスで聖バルトロマイの祝日に、プロテスタントが虐殺される(サン・バルテルミの虐殺)。 |
1582 | [日本]天正遣欧使節の派遣(~1590)。 |
ローマ教皇グレゴリウス13世がグレゴリオ暦を公布する。 | |
ハンガリーがユダヤ人、ユダヤ金融追放。天正遣欧少年使節(~1590)。イエズス会のマテオ・リッチ、マカオに上陸。 | |
1584 | マテオ・リッチ、「天主実義」を著す。 |
1587 | [日本]豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出す。 |
1589 | モスクワ総主教庁設置。 |
1590 |
ヴァリニャーノとフロイス、豊臣秀吉に謁見。
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1593 | オスマン帝国がオーストリアを攻撃し、首都のウィーンを包囲する。 |
1593 |
文禄の役で小西行長にイエズス会司祭が従軍する。朝鮮に入国した初めての宣教師。行長の養女となった朝鮮人少女「ジュリアおたあ」入信、朝鮮人初のキリスト教徒。
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1596 | [日本]長崎において26聖人殉教。 |
1597 | 長崎・西坂で豊臣秀吉の命によりキリスト教徒二十六名が処刑される。(日本二十六聖人) |
1598 | フランスでナントの勅令により、プロテスタントが容認される。 |
1600 | イングランドが東インド会社設立。 |
スウェーデン、リンチェピングの血浴を行ない、ルター派を国教に定める。 | |
1604 | アルミニウス論争。 |
1611 | イギリスで、欽定訳聖書(KJV)が完成する。 |
1612 | [日本]江戸幕府が直轄地のキリスト教を禁止、翌年全国におよぶ。 |
1613 | 江戸幕府、全国に禁教令。高山右近らキリシタン国外追放。 |
1613 | 宗教画家エル・グレコ没する。 |
1614 | ブランデンブルク選帝侯がカルヴァン派に改宗。 |
1614 | [日本]高山右近らのキリシタンを国外追放。 |
1616 | 騎士物語作家セルバンテス没する。 |
1618 | -1648年、ドイツで三十年戦争(スウェーデン戦争、カトリックとプロテスタントの対立)起こる。 |
1619 | ペトロ岐部、日本人として初めてエルサレム訪問。 |
1620 | イングランドを脱出した清教徒がアメリカのマサチューセッツ州プリマスに上陸(ピルグリム・ファーザーズ)。ヴァージニア州で黒人奴隷の使用を開始する。 |
1622 | [日本]キリシタン55人を長崎西坂で処刑する。(元和の大殉教) |
1624 |
イタリアでゲットーの設置。
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1626 | イドラ・偏見の研究で知られる哲学者F.ベーコン没する。 |
1629 | 長崎でキリシタン弾圧のために、踏絵がはじめて行われる。 |
1630 | [惑星運動の法則の]物理学者[ドイツ人 J・]ケプラー没する。 |
1630 | [日本]キリスト教関係の書物の輸入を禁止する。 |
1631 | 中国入りした朝鮮人使節団により、朝鮮に初めてキリスト教書籍(「天主実義」など)が入る。(「西学」と呼ばれる) |
1632 | リュッツェンの戦いで、スウェーデン王グスタフ・アドルフは陣没するが軍は勝利する。 |
1633 | ハイルブロン同盟〈ドイツ等族の自由とスウェーデンへの補償〉スウェーデンは北部ドイツの新教を旧教の皇帝軍から救う。 |
1633 | ガリレオ・ガリレイが地動説により異端審問の宗教裁判を受ける。 |
1634 | ネルトリンゲンの戦いでスウェーデンは南ドイツを失う。 |
1637 | [日本]島原・天草の農民がキリシタンと結合した大一揆おこる(島原の乱)。 |
1640 | ヤンセニスム論争。 |
1642 | 物理学者G、ガリレイ没する。 |
1643 | ウェストミンスター信仰告白。 |
ニューイングランド植民地連合が結成される。 | |
1644 | イングランド国王軍が議会軍に敗退する。 |
1648 | ヴェストファーレン条約で三十年戦争終決。カルヴァン派を容認。ヴィッテルスバッハ家バイエルン王家ケルン大司教職保持。 |
清教徒革命により、イングランドの王制が廃止され、共和国となる(~1660)。 | |
1648 | ポーランドでユダヤ人10万人が虐殺される(~1656年)。 |
1648 | 『アウグスブルク宗教和議』の再確認(カルヴァン派も含めて)1624年を基準年とする。 |
1648 | スイスとオランダの独立の承認。 |
1649 | メリーランド州で信教自由法が施行される。 |
ハンブルクがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 | |
1650 | 哲学者デカルト没する。 |
1653 | 理神論が盛んになる。 |
1654 | パスカルが『流体平衡論』を書き終える。 |
1654 | [日本]徳川幕府がキリシタン禁制の高札を立てる。―明治維新後の1873(明治6)年に撤廃されるまで続くことになる。 |
1655 | ポール・ロワヤル派(パスカル)とイエズス会との対立が深まっていく。 |
1656 | 1.14日、パリ大学神学部(ソルボンヌ)事実問題(「五箇条命題」)についてアルノーを譴責(けんせき)する。このころ、パスカル、ポール・ロワヤルにこもる。 1.23日、パスカルはアルノー弁護のため、『プロヴァンシアル第一の手紙』を書く。 |
1657 | パスカルの『パンセ』の断章の大部分が書かれた。 |
1660 | 宮廷画家ベラスケス没する。 |
イングランドで王政復古する。 | |
1665 |
シャバタイ・ツヴィ、メシアを名乗る。
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1669 | ウィーンがユダヤ人、ユダヤ金融追放。 |
1670 | シュペーナーにより、ドイツ敬虔主義が始まる。 |
1673 | イングランドで、カトリック教徒の公職就任を禁止する審査律が施行される。 |
1678 | ナイメーヘン和約。エスパニアはフランシュ・コンテ(高地ブルグント北西)を失い、その地はルイ14世のフランス領となる。 |
1681 | フランス王ルイ14世の入城によるストラスブール(ストラスブルク)合併。オスマントルコ軍がフランスと戦うドイツの背後から襲う。皇帝軍とレーゲンスブルク休戦。 |
1683 | オスマン帝国の第二次ウィーン包囲失敗。キリスト教各国が神聖同盟を結び、イスラム軍に対抗反撃する。 |
1685 | フランス(ルイ14世)でナントの勅令廃止される。 |
1688 | イングランドで名誉革命により、議会が王権に対して決定的に優位に立つ。 |
1689 | イングランドで信教自由令が施行される。 |
【カトリックの異端審問被害者】 | |||||||||||||||
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(私論.私見)