俺がぶっ壊れてるんだ。
美しい人を見た。背筋がピンと伸び、凛とした雰囲気を纏い、服装も清潔だが、存在そのものを清潔に感じた。たくさんの造花の中に置かれた一輪の生花のように、その人の周りだけ空気が違っているように感じた。命の輝きに、圧倒されてしまった。隠し切ることのできない美しさや醜さは、その人の背中に出ると言われる。鏡で見ることができるのは、前面だけ。自分の背中を見ることはできない。だからこそ、常に「背中を見られている」という意識を持つことが、美を保つ秘訣になるのだと思う。ある人は言った。臍を天に向けると健康になる。歩く時も、座る時も、臍を天に向けるイメージでいると背筋が伸びる。生きる姿勢が、整えられる。
人間と話したいと思うのだけれど、人間と話していても「人間と話している」とは思えない時がある。世間話や愛想笑いのスキルが自分にはない。話題がない。気を遣えない。思っていないことを言えない。毎日人に会うが、会えば会うほど嫌われている気がする。人間じゃないのは俺だ。俺がぶっ壊れてるんだ。隣の席のおばちゃん三人組が、ひたすら他人の噂話で盛り上がっている。そこに加わることができたら楽に生きることができただろうなと思うことが、あちらこちらに無数にある。その、どれにも馴染むことができなかった。最近、人を見るときに「この人を食べたら美味いだろうか」と思うことがある。この人の肉は、食ったら健康になる肉だろうか。それとも、食ったら不健康になる肉だろうか。こどもは全員美味そうに見える。多くの大人に対して「食べたくない。お前を俺の体に取り入れたくない」と、思ってしまう。
最後の晩餐に食べたいものは、寿司でもカレーでも肉でもなく、俺の右腕だ。これまで様々なことを書き連ねてきた、俺の右腕を食べたい。果たして、俺は食えたものなのだろうか。死ぬほどまずかったとしても大丈夫。もう、死ぬ。出会う人々から「イメージと違いました」と五億回言われた。イメージに良いも悪いもない。イメージで見ること自体がダメなんだ。そんなことを思うが、実際に言葉にする気力はとうの昔に失せている。「はあ、そうですか」と阿呆のようなことを言い、これが本来の人間なんだよなと思う。いちいち言葉に反応している自分は、野生気取りの小心者なのだろうなと思う。デカい人間になりてえ、デカい人間になりてえと思いながら、いともたやすく「お前は死ね」と人間を裁く。祈る以上に、呪い続けている。
犬派か猫派か聞かれる。山派か海派か、肉派か魚派か、インドア派かアウトドア派か、聞かれる。私は「なんで分けるんだよ。どっちもいいじゃないか。分ける意味がわからないよ。お前らは二人の友達を並べてどっち派だとか言うのか。この、冷酷無比な畜生どもめ!」などと思って、呪う。海が好きだと言うと「海派なんですね」と言われ、山は嫌いとされる。人間社会は、こんなのばっかりじゃないか。だったら人間なんて捨ててやる。こっちから願い下げだ。俺は畜生になる。お前ら以上の畜生になって殺ると啖呵を切りながら、夜な夜な、孤独の涙を流す。なんなんだ一体。自他共に「なんなんだ一体」と言いながら、気がつけばここにいる。
自分を大事にすることが純度を保つ秘訣ですよねと同意を求められた。私は「純度ですか」と阿呆のような嘆息を漏らし、心の中で「真逆だろ」と思った。俺は、俺を壊し続けてきた。自分を大事にとか、自分を愛するとか、耳障りの良い言葉を使う人間を信じない。奴らは、それを使って金儲けをしているだけの腐れ外道だ。奴らの肉はまずい。俺もまずいが、お前もまずい。まずいメシを食うな。うまいメシを食え。見栄えだけの人間には栄養がない。栄養がない人間を食うな。栄養になる人間を食え。過保護な人々は、心配することでエネルギーを与えているつもりなのだろうが、逆だ。奪っている。ある程度の放任が歓迎されるのは、そこに信頼があるからだ。自分を大事にすることと、自分をぶん殴ることは、深層世界では同じことだ。ぶん殴る愛というものが、この世の中には確実に存在する。美しい人を見た。その人の周りだけ空気が違った。美しい人を「食べたい」とは思わなかった。跪き、崇拝の対象にさせてくださいと思った。宗教の源流を感じた。美しい人にぶん殴られた。焼け野が原の自由を感じた。 おおまかな予定
2月17日(土)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!