「大映がやったことは東宝の真似」
さらに特撮の技術は生活の手段としてじつに有効だったと三上はいう。
「当時は特美(特撮美術)に彫刻家が多かったんですよ。やっぱり模型をつくったりすることが多かったのと、その人の彫刻の作風にもいい影響を与えることがあったのかもしれない。でも彫刻でメシを食うのは非常に難しいし、それは絵画でも同じです。だからせっせと内職で仕事を請け負っていました。まあ、やってみたら面白くないこともない、という感じでね。
とにかく稼がなきゃいけないので、現場で残業をすれば手当はつくし、夕食、夜食、翌日の朝食と三食全部食べさせてもらって、そのうえ旅館に泊めてもらって、ありがたい話でしたよ。下手をすると昼食も出たような気がする。食券をもらってね」
繁栄期の映画会社は、若き芸術家たちの間接的なパトロンとして機能していたわけである。そのことは、総合芸術である映画の文化的な成果と考えていい。たとえば成田亨は彫刻家としても一流だったが、もしウルトラマンの仕事がなければ、生活ぶりも知名度もまったく変わっていたに違いない。
三上はアルバイトをしながら武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)を中退し、59年に大映の美術スタッフとなった。のちにエキス・プロ社長になる八木正夫とはそこで出会っている。
「八木さんのお父さん(勘寿)がやっている工房があって、八木(正夫)さんは手伝いをしていたんですね。その工房へぼくも行ったんですが、やはり彫刻家のアルバイトが来ていました。レントゲンケースをつくったり、石膏型を取って磨いたあとにラテックス(乳状の樹液)を流し込むような仕事をしていましたよ。彫刻をやる人には向いていたんでしょうね。
大映がやったことは東宝の真似ですよ。『ガメラ』なんていうのはもろにそうですよね。ぼくにとって『ガメラ』(特殊美術を担当)はバイト代稼ぎみたいなことでしたが、映画の美術というのはちょっと特殊なんです。室内の場面はみんなセットで組むわけですけど、あんまりうまくできちゃうと本物じみちゃって。たとえば『仮面ライダー』だと、本郷猛(演者・藤岡弘)の住まいなんか、あんなに生活感を出しちゃっていいのかと思うくらいでね」(三上陸男)
映画のセットは本物じみていればいいわけではない、というのが三上の美意識でありプロ感覚なのだろう。なお、本郷猛の住まいは大映出身の間野重雄が手がけていた。
それでは、66年に放映開始された『ウルトラマン』は三上の目にどう映ったのか。
「ちょっと子供っぽいな、幼稚だな、という感じですね。画面そのものを子供向けにつくっていたから当然ですけど」