夢のなかで、ぼくは銀座にいる。
夜の、銀座のレストランで、いつか一緒に仕事をしたがってくれた日本の会社のひとたちと、とても酔っ払って話している。
いつものことで、馬のように食べて、眼鏡をかけたM・Iというデザイナーのひとに「ガメさんて、そんなに食べて、どうして肥らないんですか?」と訊かれている。
ぼくは幽霊だからですよ。
ほら、夜更けになると、こんなに身体が透けてきている、と腕をまくってみせる。歓声があがって、手をたたいて面白がる声がして、
ぼくはフランス料理屋のはずなのに、厚い揚げ豆腐を頼んでいる。
その揚げ豆腐の底が少し焦げて、おいしそうで、正体がわからない白いソースに囲まれていたのもおぼえている。
夢のなかで、ぼくは眠ってしまったのに違いない。
目をさましてみると、まわりにはもう誰もいなくて、モニだけがいて、ガメ、さあ帰りましょう、という。
店のひとに「おみやげ」にする箱を頼んで、さっきの豆腐料理を包んでもらう。
支払いは、もう、お帰りになられた皆さんが、すませていかれましたから、と言われて、外に出ると、東京の街で、でも夢からさめてから考えてみると、あれはたしか六本木の町で、なかなか止まってくれないタクシーを、なんとか「国際タクシー」を止めて、広尾のアパートに帰ろうとしている。
家に着いて、「ぼくはここでなにをしているんだろう?」とモニさんに述べると、モニはただ黙って微笑んでいて、なにも応えてくれない。
テラスの椅子に腰掛けて、遠くを見て、自分が幸福な境涯なのは判っているが、この、なんとなく頼りない気持は、いったいどこからくるのだろう?と考えている。
モニさんが傍にいると、不甲斐もないことに、なんだかいつも守られているような気がして、おなじワインを飲むにしても、いつも飲み過ぎて、テキトーを述べて、ひとを爆笑させている。
酔いを過ごせば、モニさんが、ガメ、もっとゆっくり飲まないとダメだぞ、ワインは、ドイツ人がビールを飲むようにがぶ飲みするようには出来ていない。
ワインを飲むペースはフランス人の文明のペースなのだから、尊重してくれないとダメです、と冗談めかして述べるが、どんなに酔っていても、ほんとうはそれは冗談ではなくて、びっくりするくらい深刻な話だと、ぼくは知っている。
モニとぼくが、この通りを渡るとして、向こう側にいきつく前に、ほんとうに消えてしまわないだろうか?というのはJDサリンジャーが述べた有名な命題だが、たとえば、このテラスから観望する東京の夜景は、現実のものなのか?
問うているのが夢のなかのぼくなので、ほんとうは現実のもののわけはないが、夢のなかのぼくは現実だと確信していて、そのうえで認識論的な疑問を述べている。
覚醒しているぼくから見ると、夢のなかのぼくは嗤うべき愚かさだが、では夢から出て「起きている」ぼくは、ほんとうに誰かの夢のなかで覚醒している幻影ではないと言えるだろうか。
幻にも意識があって、自分が見ている夢を現実と信じこんでいるのではないと確言することは誰にも出来はしない。
ルネ・デカルトが述べたとおり、認識だけが現実なのであって、仮に最近の学説にしたがって認識自体が錯覚であるとすると、つまりは、人間には現実を現実と確言する根拠がなにもないことになる。
科学者たちが根底の哲学において知的な恐慌をきたしているのは、正に、その理由に拠っている。
もう夢から覚めているのに、隣室のベッドで眠っているはずのモニと、広尾の「マンション」のテラスに座って、東京の夜景を眺めている。
モニがつくったピンチョスを食べながらモニの実家の別荘がある地方のシャブリを飲んでいる。
バスクの話をしているのは色彩がゆたかなピンチョスがテーブルに並んでいるので当然のことだが、モニとぼくが笑い興じているのを眺めているぼくは、いったい誰なのか。
(「現実」が、すくいあげる手のひらから落ちてゆく砂のように崩れてゆく)
東京は、とても良い街で、ミキモトの老店員の
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/11/12/japanrevisited_1/
ようなことを思い出すと、もういちど、あの街に住みたいとおもうことがある。
ぼくはもう何もかも知っている。
日本の社会がいかにダメな社会かも知っていて、日本語が空洞化して、真実性を失って、意味をなさない言語に向かっているのも知っている。
(でも、ぼくの楽しかった記憶は変わらないんだよ)
(国会議事堂の前で、夜更けに、モニと一緒に歩いて、モニのスカートにじゃれるようにまとわりつく銀杏の黄金色の葉を、まだおぼえている)
あわせた二枚の鏡のなかの世界のように、夢のなかで夢からさめたぼくは、東京を懐かしいと考えている。
認めないわけではない。
記憶のなかの東京は、現実の東京よりもずっと美化されていて、空中の低い所を綾取りのように走る電線もなく、なにより日本人自身が、現実よりもずっと背が高いアジア人と意識されていて、いつか、5年ぶりに鎌倉の駅前に立ったら、おぼえていたよりも日本の人達は、ずっと背が低くて、17歳にしか過ぎなかったぼくは失礼にも、大笑いをこらえることが出来なかった。
(だが認識は、現実にまさっているのね)
(日本人を「背が高いアジア人」と考えていた記憶には、認識上の深い理由があるのでなければならない)
おお、だから、もう、どうでもいいんです。
ぼくの魂は、いまだに東京の街を歩いていて、人形町の焼き鳥屋に腰掛けて、
ええええー、日本語、上手ですねえええー、とおおげさに驚いてみせてくれる焼き鳥屋のおっちゃんと、「四方山話」をしている。
神保町でエジプト史の(英語の)本について、古書店の店員さんと議論している。
幽霊坂から、 魚藍坂へ
仙台坂から、暗闇坂へ、
いつものように歩いてゆく。
戦争のさなかの鎌倉で「学問もやれず 絵も描けず」と述べた詩人のことを考えている。
子供のときから、日本人と混ぜてもらえることはなくて、いつもいつも「ガイジン」だったが、別に、それほど嫌だと思ったことはなかった。
いまから振り返ると、自分が、この世界そのものに「ガイジン」として暮らしてきたのであって、それだから、日本というアジアの人たちが築いた文明のなかで「あなたはガイジンだから」という扱いにあっても、特に怒ることもなかった。
日本が、なつかしい。
(画像は大ファンだった水木しげるさんが亡くなったときに描いた、模写のような、いたずら描きです。ぼくがいちばん初めに好きになったマンガを描いた、ぼくにとっては偉大な作家。あとでテレビドラマになったとかで、
すっかり名前が売れ直して持っている原画が高騰していました(^^;) もちろん売らなかったけどね)
*この記事は2016年4月7日に掲載した記事の再掲です
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