お前たちには関係のない、縁のない話だ。これは聖域の話である…羽生結弦と、ロジア女子フィギュア選手たちの短すぎる春
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羽生結弦と古き良きロシアは私の聖域である
今回、私はあまり気乗りがしなかった。
しかし「書くべき」という声もあった。
私にとって羽生結弦と古き良きロシアは聖域である。
それはおとぎ話のようなもので、東洋の神秘的な王子がロシアでさまざまな出会いを通して、フィギュアスケートという氷上芸術を創り上げる、アスリートとして肉体の限りを尽くす、そうした物語こそが私を歴史というダイナミズムに誘う。
叙事詩のごとき羽生結弦という存在の、フィギュアスケートを通した旅の物語、それはロシアの美しさと相まって、私を魅了し続けた。
そして、エフゲニア・メドベージェワ。
メドベージェワの「天賦の才」
私はメドベージェワのサブカルチャー、とくに日本のエンタテインメントに対する理解力を「天賦の才」だと思っている。
ともすればロシア芸術は世代関係なく歴史的背景もあってこうしたサブカルチャーに拒否反応というか、嫌悪感すら示す向きもあるのだが、メドベージェワは柔軟に自身のスケートに取り入れる。
それは『美少女戦士セーラームーン』の主題歌「ムーンライト伝説」であったり、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』のCMにおける「ほむら」と「まどか」だったりもした。日本人には馴染まない感覚だが海外、とくに欧州の人々の中にはこうしたサブカルチャーを極端に忌避する人々が多い。ましてやフィギュアスケート、まだ保守的な舞踏文化(それはときに好ましくもあるのだが)は堅固である。
その意味でもメドベージェワは、新時代の子として「阿修羅ちゃん」や「MEGALOVANIA」など多くのサブカルチャー(とくに海外におけるナード=オタク文化)すら、現代芸術として昇華させる羽生結弦にもっとも近い「感覚」の持ち主である。
またロシアのウクライナ侵攻に出来得る限りの声を一時であれ上げたこと、また女性の人権に対する考え方をはっきり物申す姿勢は、羽生結弦の社会性と通じるものがある。もちろん「レジェンド」羽生結弦というフィギュアスケーターに憧れ続けた。
リプニツカヤ、ザギトワ、メドベージェワ、三者三様にロシアの厳しい(本当に厳しく、残酷な)フィギュアスケートの世界を生きてきた。彼女たちの短い春、「青春」には羽生結弦があった。もちろん「フィギュアスケーター」として、青春の同志として。
ロシアのフィギュアスケーター、とくに女子の選手寿命はロシアの春のように短い。エリザベータ・トゥクタミシェワがあまりにパワフルかつ特別過ぎるだけで(ブッテルスカヤも長かったが)、みな儚く、氷上に若くして散る。その神の定めを私ごときが思い量ることなど不可能だ。
ただわかることは、みな懸命に頂点を目指した。貧しさ、出自、国家、強大な運命の中で、羽生結弦に出会い、そして憧れた三人は「ポーリュシカ・ポーレ」(俗にロシアの草原の愛称)を短い春の風となって吹き抜けた。
彼女たちだけではない、有名無名、さまざまなロシアのフィギュアスケーターの多くが、羽生結弦に憧れ「自分のなしうる限りを」滑り、舞い、跳んだ。
もちろん彼女たちも人間だ。ときに羽目を外したり、茶目気を出したりすることもあるだろう。しかしそんな他愛もない彼女たちの人間味すら、ゴシップメディアは妄想で歪め、貶め、その謂れなき悪意を羽生結弦に向ける。
お前たちには関係のない、縁のない話だ。これは聖域の話である
なにが問題なのか、なにが面白おかしいのか。
なにもおかしくないではないか。それぞれの青春と、それぞれのフィギュアスケートがあった。それだけだ。そういうことだ。あの若者たちの氷の情熱を、その一瞬をこうして書いたまでだ。
青春の憧れや喜びを茶化し、下衆な勘ぐりで穢し、匿名の妄想で書き散らす。お前たちには関係のない、縁のない話だ。これは聖域の話である。羽生結弦も、羽生結弦と共にある人々も、本気で羽生結弦という存在の時代を創り続けている。お前たちはいつもそうした本気の人々を笑う。青春を笑う。羽生結弦を笑う。リプニツカヤも、ザギトワも、メドベージェワも羽生結弦とぞんざいにくっつけて、茶化して、玩具にして遊び、穢し、捨てる。
人間を玩具にして遊ぶ、それはもっとも穢らわしい行為
人間を玩具にして遊ぶ、それはもっとも穢らわしい行為である。その穢らわしい行為に手を染める、それも書き手として、名も出さずにコソコソと、コソコソしているくせに妄想だけはいっちょまえだ。
なあ、人間同士、いろいろあってもいいだろう。それはあたりまえのことだ。私たちが人間である限り。青春とはとくにそうしたものだ。だから神聖なんだ。しかしそうした彼らが大切に、ひたむきに、一途に歩んだ道を茶化し、冷笑し、玩具にして晒す。
ドイツの思想家ハンナ・アーレントはホロコーストの責任者のひとりであった無自覚の大罪人、ルドルフ・アイヒマンについての書を、こう締めくくっている。
「何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないと我々は思う」 ※
他人の青春を、人生を穢すほどの覚悟があるのだ、構わないだろう?
私も同じ気持ちである。そして「君」とは羽生結弦と、その青春と歩んだ儚くも美しきアスリートたちの矜持を茶化し、穢そうとする連中のことである。
今回あえて「ゴシップ」という言葉は使わなかった。ゴシップですらない「妄想」であり、そうしたメディアのことは「連中」「下衆」「お前たち」に置き換えている。
他人の青春を、人生を穢すほどの覚悟があるのだ、構わないだろう?
※参考文献
ハンナ・アーレント著・大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』みすず書房,2012年7月6日新装版第13刷,215頁.