根幹に据えるのはソーシャルコンセプト
社会問題をビジネスという手法を使って解決する、いわゆるソーシャルビジネスを世界12か国で展開し、急成長を遂げている会社がある。株式会社ボーダレス・ジャパン。代表の田口一成氏は、25歳で創業した会社をソーシャルビジネスだけで売上49億円、従業員1,000人を超える(2018年度)までに成長させた。2019年には「世界を動かす日本人50」(日経ビジネス)、「日本のインパクト・アントレプレナー35」(Forbes JAPAN)に選出。脚光を浴びる彼は今、九州・福岡で働き暮らしている。
ボーダレス・ジャパンを一言で表すと、「社会起業家たちのプラットフォーム」だ。世界中に存在している数多くの社会問題を解決するために、社会起業家と一緒になってビジネスプランを練り、起業をサポートし持続可能なビジネスとして利益を生み出す。そして新たな社会起業家へ再投資する――そのようなサイクルで急成長を遂げてきた。
同社が展開している事業は実にユニークだ。たとえば家事代行サービス業でインドのスラムの女性の自立と子どもの教育をサポートする「SAKURA Home Service」。さらに人や地球に配慮した洋服だけを届けるセレクトショップ「Enter the E」も面白い。いずれの事業も“清く正しい”。九州どころか日本全国見回しても、ボーダレス・ジャパンのような会社は見当たらない。どのようにして、田口氏はこの奇跡の会社を生み、成長させてきたのだろうか。
「一般的なビジネスは、マーケットありきでモデルを考えますよね。マーケットが伸びているから、この事業をしようとか。しかし、僕らは社会を変えるためにビジネスモデルを作ります。だから最初に考えるのは、どんな社会にしたいのかというソーシャルコンセプト。現状は誰にどんな課題があり、本質的原因はどこにあるかを追究した上で、こうなりたいという理想像を描くわけです。そのためにどんな方法でやるかを具体化するのがビジネスモデル。ここで初めて商品やサービス、顧客ターゲット、価格などを決めていく。理想とする社会の姿があり、そのためにどうするか、どう稼いでいくかの順で考えていく。それが僕らのやり方。マーケットに左右されるのではなく、独自のビジネスモデルで強い信念をもとに運営しているから、利益を出し続けられるのだと思っています」
もがいた先に見つけたソーシャルビジネス
田口氏が現在のソーシャルビジネスにたどり着くまでには、紆余曲折があった。福岡市で生まれ育ち、東京の大学に進学。「人生の志」を立てたのは、大学2年生のときだった。たまたまテレビで目にした、栄養失調の子どものドキュメンタリー番組に衝撃を受けたのがきっかけだ。人生のテーマを探していた田口氏は、かつて幾多の人が挑み、それでも解決できていない世界の貧困という大きな課題に人生をかけようと決める。その後、実際に活動している人の声を聞くため、とあるNGO団体を訪ねたところ、ひとりの職員がこう教えてくれた。
〈NGOの活動は寄付者に大きく左右される。本当に貧困問題を解決したいなら、人の寄付に頼るのではなく、自分でお金をコントロールできるようにならないと〉
そう聞いた田口氏はビジネスを学ぼうと、休学してアメリカに1年留学。帰国してすぐベンチャーキャピタルにビジネスプランを提案した。すると返ってきたのは、「やりたいことは分かるけど、まずは利益を出してからやったほうがいい」という言葉。 田口氏は、自分がやりたいことは利益を出すことではない、ただ実力がないのも事実だと、すぐに起業することはやめて 「経営の勉強をしよう」と商社に就職。2年後、自宅の一室で起業、田口氏25歳のときだった。
「最初は不動産関連のビジネスでした。売上の1%を寄付しようと決め、がむしゃらに働きましたね。しかし、死ぬほど働いても年間の売上はたった3,000万円。これだけ働いても、寄付できるのは年に30万円です。必死で仕事してきた分、その金額の小ささに『オレ何やってるんだろう』と虚しくなってしまって…」
これ以上続けても意味がないのではないか…失意に沈む中、ある人から「外国人は住まいを借りられずに苦労している」と聞き、田口氏はそんな彼らのためにシェアハウス事業を始めることにした。
これが大きな転機となる。
「ビジネスはお金を稼ぐツールと思っていたけど、社会課題の解決自体をビジネスにすればいいのではないか。そう思い、これからは『ソーシャルビジネス』しかしないと腹を決めました」
そしてシェアハウス事業だけを残し、2007年に現在の社名にして、再スタートを切ることに。当時10人ほどの社員を抱えていたが、自分や社員の親や親戚、先輩などに頭を下げて数千万円の借金をしての再出港だった。その後、どうにか借金を返済し、軌道に乗ったところで田口氏はシェアハウス事業を他のメンバーに任せて、次の事業を模索した。
非効率まで含めてビジネスをリデザインする
「次は貧困問題に直結した事業をやろう」と立ち上げたのが、ハーブティの事業だ。貧困にあえぐミャンマーの小規模農家にハーブを栽培してもらい、マーケット価格ではなく、彼らが生活できる価格で買い取り保証することで、彼らは貧困のスパイラルから抜け出せる。買い取ったハーブは高くて商社に売れず、自分たちでどうにかしなければならない。地道なリサーチと試行錯誤の末、授乳期の母親が母乳トラブルをケアできるハーブティのブランド「AMOMA」を生み出した。これが大ヒットして「楽天ショップ・オブ・ザ・イヤー」にも選出された。
「こうしたビジネスは、困っている人がいるから買ってくださいという“善意頼み”では、長続きしないものです。たとえば、貧しい人のためになりますよ、と善意を前面に打ち出してフェアトレード商品として売っても、買う人は1度買えば満足してしまう。そこで人の善意は消化されてしまい、継続的なマーケットを生むことにはなかなかならないんです。買い続けたいと思われるためには、値段に対して価値の高い素晴らしいモノを提供しなければならない。だから僕らはビジネスフローとモノづくりには、徹底的にこだわっています」
アジア最貧国とされるバングラデシュで革製品を作る「ビジネスレザーファクトリー」では、現地に直営の工場を作り、シングルマザーや障害者や身寄りのない人など、これまで働く機会に恵まれなかった人たちを積極的に雇用。彼女たちが手がけた上質な革製品は日本で支持され、全国に店舗が広がっている。
「特に弱い立場の労働者を大切にすること、どんな人にもフェアに雇用の機会を与えることはとても大切なこと。そもそも僕は、資本主義で利益を出すために効率を追求した結果、さまざまな社会課題が生まれていると考えています。効率化すればするほど、障害者や高齢者、過疎地の人などが社会や雇用から抜け落ちていく。つまり生産性第一にシステムを組んでいった結果、そこから漏れる決して少なくはないマイノリティが生まれる。これでは皆が幸せな社会にはなれません。ビジネスのやり方が効率にもとづいて設計されているから、多くの課題が世の中に溢れ落ちてしまっているんです。そこを解決するのがソーシャルビジネスの役割。非効率のものも含めてビジネスを最初からデザインし直すことで、問題を解決していかなければいけないと思います」
1兆円企業ではなく10億円の事業体を1,000作った方がいい
ボーダレス・ジャパンは現在、世界12か国で35の事業を展開している。その一方で、これまでたたんだ事業はたった1つというから、それぞれのビジネスモデルが機能しているのだろう。当初は田口氏が1年ほどかけて事業を立ち上げ、ある程度の道筋ができた段階で、他のメンバーにパスしていた。1年で1事業を立ち上げていたのだが、30歳のときに「世界には問題があふれているのに、このペースでは60歳までに30事業しか作れない。それでは世界を変えることができない」と焦りを感じ、すべての事業を分社化してグループ会社制に。その結果、各社代表の経営者としての自覚が高まり、事業の成長も加速。田口氏は新規事業立ち上げに集中できるようになり、同社での事業の立ち上げスピードは年々、加速。昨年だけで17もの事業が立ち上がったという。
「僕にとってグループとしてのトータルの売上はあまり興味がなくて、それよりも何個の社会ソリューションを作れたか=何社誕生したかというのが大切。現在チームでは、国内だけで年間100社作ろうと話し合っています。もちろん今のままではそれは難しいので、100社立ち上がる採用や育成の仕組み、ボーダレス自体の仕組みを作り変えないといけない。それを、あと5年で作り上げたいんです。僕が目指しているのは売上1兆円の単体巨大企業ではなく、10億円くらいの事業体を1000作ること。小さいながらも社会に“いい会社”がいっぱい集まっている状態を作れば、世の中の空気も確実に変わっていくと思うんですよ」
社会起業家を増やす仕組みを作り続ける
ボーダレス・ジャパンの本社は東京・市ヶ谷にあるが、社長である田口氏は子育て環境などを考え、2012年に出身地である福岡に戻ってきた。九州を離れて14年。「何者かになって帰ってくる」と心に誓って上京した青年は、唯一無二の社会起業家になっていた。
「創業者だから、福岡に帰りたいなんて言い出しづらかったけど、東京のみんなが『こっちは大丈夫』と快く送り出してくれた。だから九州出身の2人を連れて福岡オフィスを立ち上げ、めちゃくちゃ頑張りましたよ。みんなに田口が福岡に帰って良かったと思ってもらいたくてがむしゃらに働いた。そして僕自身、こっちに帰ってきて本当に良かったと思っています。かつての僕は超ストイックで終電始発の仕事人間。4~5時間睡眠で休まず働いていました。今は夜7時に退社して朝9時前に出社。まぁ、その分、前の何倍速のスピードで仕事をしていますが、心にはゆとりがあるんです。これは東京で働き続けていたら持ち得なかった感覚だし、地方にいるからこそいろんなものを客観視できる。そして僕らがここ福岡で世界の課題に挑んでいることで、どこにいても、自分がやるべきことをやればいいという一つのメッセージになればと考えています」
ボーダレス・ジャパンは実に“フェア”な会社だ。田口氏をはじめボーダレスグループの社長の年俸は、その会社で一番低い年俸の社員の7倍以内と決められている。今から4〜5年前、グループ会社の社長が集う「社長会」で、話し合いの末に決められたものだという。
「僕は一人勝ちとか、自分だけ幸せとかが嫌いです。そういうところから素直に考えたときに、自分の会社だって、そうありたいわけです。もちろん創業期は3年くらい給料もらわずに借金しながらやりましたけど、だからって未来永劫、株主配当や給料を誰よりも多くもらい続けていいのかと。それって僕がもっとも嫌う既得権益じゃないのかと。リスクに対するリターンという考えもありますが、そもそも自分がやりたくてやってるわけですからね。創業者は、最初は苦労して誰よりも頑張っただろうけど、その後会社が大きくなったのは社員のおかげ。オレが苦労したからこれだけもらえて当たり前と考えるのは、人として恥ずかしいと思っています。もちろん社長は一般の社員と比べると背負っているものも違うし、常に仕事のことが頭にあって実質的な休みはありません。そして、大きなアウトプットも出している。だから完全に同じにする必要はないとは思いますが、ボーダレスグループの場合“適正な格差”はどのくらいかなと考えたときに、最大でも7倍以内にしましょうということになったんです」
SDGs推進を謳う企業も増え、積極的なCSR活動がSNSなどで称賛される時代となっている。そんな中で今、日本で使われている「ソーシャルビジネス」という言葉が、本質的な意味合いから離れすぎていると田口氏は指摘する。そのため氏は「ソーシャルビジネス」という言葉自体をアップデートして、世界を変えるスピードを加速したいと熱く語る。
「今は社会貢献だから儲からなくても仕方ないと捉えられたりするけど、本来は社会問題をビジネスという手法を使って解決するのがソーシャルビジネス。かっこよくてクールでパワーのいる世界なんです。社会問題を解決し、人生が変わったと喜んでくれる人たちがいるダイナミックな仕事です。ぜひ多くの人に挑戦してほしい。海外にはチャレンジする機会すらない人がたくさんいます。日本は起業がうまくいかなくてもアルバイトで働けるし、野垂れ死ぬことはない。やり直しはいくらでもきく。僕自身、そう考えて起業し、ソーシャルビジネスで世界を変えるために、会社の仕組みを設計し続けてきました。ソーシャルビジネスが次々と生まれる仕組みを作り、それを世界中に広めたい。ボーダレスグループから、フォーブスの表紙を飾るような人たちがたくさん出て来る日も遠くないと思います。ビジネスだけでなく、ジャーナリズムや政治など、これからボーダレスがやらなきゃいけない新たな仕組みづくリはたくさんあると思っています」
20歳のとき心にともした「社会をより良く変える」という情熱の火を絶やすことなく、日本におけるソーシャルビジネスのパイオニアとして、かつてない挑戦を続けてきた田口氏。2020年4月には、久々に自身が陣頭指揮を執り、環境問題解決につながるエネルギー事業を立ち上げた。格差や不平等を是正し、地球にも優しい理想的な社会へ向けてアクションを起こす彼の眼差しは、まっすぐで、清々しい輝きを放っていた。
田口一成さん
たぐち かずなり。株式会社ボーダレス・ジャパン代表取締役社長。1980年、福岡市生まれ。3人兄弟の長男。西南学院高校、早稲田大学商学部を卒業後、株式会社ミスミに入社。2005年有限会社ボーダーレス・ジャパンを創業し、2年後に株式会社ボーダレス・ジャパンを設立。2012年福岡オフィス開設。「社会起業家を増やすことで、より多くの社会課題を解決できて社会を変えられる」という信念のもと、社内外でソーシャルビジネスの本質を広め、起業をサポートしており、2020年3月現在、世界12か国で35の事業を展開中。
取材後記
担当・佐々木恵美
こちらの話にじっと耳を傾けつつ、ときに情熱的に思いを語ったり、ときに少年のように屈託のない笑顔を見せたり。世界を相手に「社会課題の解決」という難しいビジネスを展開しているにもかかわらず、素顔の田口さんは実にフラットで自然体だ。「目の前に困っている人がいたら、どうにかしたい」、そんなシンプルな思いが、彼を突き動かしているのだという。「福岡にいてもどこにいても、やるべきことをやればいい」というメッセージをかみしめながら、帰路についた。
取材・文 堀尾真理