見出し画像

涙と祈り。

お会いした方々の涙を見ることがある。泣くと言うよりは、思わず涙が出てしまって、自分でもそれに驚いていると言う感覚に近いのかもしれない。「泣く」と「涙が出る」は違うものだと思う。「泣く」には明確な感情や理由がある気がするけれど、「涙が出る」には明確な感情や理由を説明することができない。泣きながら「突然泣かれても困りますよね」と謝られることが多い。私は「そんなことはない」と思う。涙が出る姿を見させてもらうことは、この世で一番美しい姿を見させてもらっているような気持ちになる。この世で一番美しい姿は、涙が出る姿だと思う。それが、祈る姿なのだと思う。

願いと祈りは別物で、自分の心の中が願望でいっぱいになると、祈ることができなくなる。病を得た時、願うことは「早く良くなりますように」と言った内容になる。だが、祈る場合、それは「病が与えてくれた恵を、私がしっかりと受け取ることができるようにお導きください」と言った内容になる。病から癒えることが願いなら、病を通して癒えることが祈りなのだと思う。「もっともっと」と何かを求める時、自分の心の中は願望でいっぱいになり、祈ることができなくなる。それは、理想を求めるあまり、現在の自分を否定することと繋がってしまう。今が教えることから目を逸らし、今が囁くことに耳を閉ざし、現在の自分を見捨ててしまう。

願いのベクトルは内側に向いていて、祈りのベクトルは外側に向いている。泣く姿は、意識が内側に向かっている。だから、痛みや悲しみが見る者に伝染する。涙が出る姿は、涙が外側に開かれている。痛みや悲しみではなく、痛みや悲しみの奥にある「愛」が伝染する。自分自身を空に放ち、世界を満たしていく。その姿を美しいと思うのかもしれない。決して、自分のためだけに流されている涙ではないと感じる。大地を潤す雨のように、その涙が、地球全体を満たしていく。恵を与えるものは、明るい太陽の光だけではない。雨は曇り空の時に降る。雨が降らなければ、花も、私たちも枯れてしまう。

私たちは、生きるために悲しみを凍らせる。悲しみを抱えたまま生きていくにはあまりにも辛いから、過去に受けた傷を冷凍して、固形にする。固形にしておけば、突然流れ出すこともない。人間の姿を保つことができる。社会生活を送ることができる。常に感情剥き出しのままでは、あらゆることに敏感に反応してしまって、生きることが難しくなる。しかし、冷凍された悲しみは、決してなくなった訳ではない。涙が出た時に、悲しみを思い知る。平気な振りをしていたが、平気ではなかった自分を知る。強がって生きていたが、本当は泣きたかった自分を知る。若き日は、あらゆることに勝ち続けることが強さだと思っていた。歳を重ね、負けを知ることが強さなのだと確信するようになった。

涙が出た後、人は、涙が出る前よりスッキリした顔になる。凍り付かせた悲しみの分だけ、体が軽くなる。雪で押し潰されそうになっていた心の屋根が、重さから解放される。昔の人は、愛しみと書いてかなしみと読み、美しみと書いてさえかなしみと読んだ。悲しみの中に愛がある。憎しみの中に愛がある。悲しむことで、愛していた。憎むことで、愛していた。そのことを実感して、溶け出してあふれたものが涙なのだと思う。悲しみが消えたわけではない。悲しみが、ただの悲しみではなく、愛しみと美しみを伴った「哀しみ」に変わり、世界を満たしていく。この世で一番美しい姿は、涙が出る姿だと思う。春の到来を感じさせる涙。夜明けを告げる、朝露のような涙。これから東京に行く。

画像

おおまかな予定

2月15日(木)東京都渋谷区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!

ピックアップされています

男の覚書

  • 39本
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。
Jesus Christ Golden Super Stars
涙と祈り。|坂爪圭吾