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「来る前はマリノスをこんなに好きになるとは思わなかった」。それでも西村拓真が海外移籍を選んだ理由

 2度目の海外挑戦となる。1度目は2018年8月にロシアのCKSAモスクワに完全移籍、2020年にポルトガルのポルティモネンセに期限付き移籍し、同年3月、古巣・ベガルタ仙台に復帰した。1年7ヶ月の海外挑戦だった。22年に横浜F・マリノスにプレーの場を移し「サッカー人生の中で一番濃密な2年間」を過ごしたが、“漢”はこの2月、横浜FMを離れる決断を下した。チームは始動している。開幕前、この時期の離脱が与える影響は計り知れない。それでも決めた27歳での海外移籍――。スイスに旅立つ当日、西村拓真が今の気持ちと横浜FMに対する思いを語った。

  • ■前回の海外挑戦は半分自分に負けた

     海外移籍は小さい頃からずっと考えていたという。「サッカー人生の中で、自分の限界値を目指すためには海外しかない」。思いを行動に移したのは2018年夏、ロシアワールドカップがきっかけだった。ラウンド16でベルギーに敗れた日本代表を見て思いが決断に変わる。「対日本人とは違う。常に海外の人たちとやっていかなくては自分の限界を目指せない」。そして、同年8月、CSKAモスクワに移籍した。

    ――今回は、2度目の海外挑戦となります。1度目の移籍はご自身にとってどんな経験だったのでしょうか。

     当時は本当に何も分からないまま、もう、ただ行くんだという気持ちで行きました。向こうではいろんな経験をしました。サッカー面では、スピード感、 フィジカル的な部分、駆け引きの強さ。そして、何より勝負に対する気持ちの部分が日本と一番違っていましたね。悔しい思いもしました。継続して活躍することが全くできなかった。タイトルに関わることも全くできませんでした。

    ――結果として20年3月に仙台に復帰されます。

    「ここで本当に帰っていいのか?」という気持ちはめちゃくちゃありました。でも、変えなきゃいけないとも思ったんです。詳しいことは言えないんですけど、「ここに居続けたらまずいな」と思ったのが一番の理由です。だから、半分自分に負けたとしか思っていません。なので、日本に戻ってからもずっと、もう一度挑戦したいという気持ちを持ち続けてプレーしてきました。

    ――仙台に戻られたときの気持ちは?

     育ててもらったクラブですし、街も知っていたので、居心地の良さをとても感じました。でも、出直したいという思いもずっとありました。戻って来たときからずっと海外の移籍先を探し続けていたんです。

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  • 20240213-takuma-nishimura-interviewHiroki Katsuyama

    ■横浜FMに来ることで見えた新しい自分

     次の移籍先は海外ではなく、国内だった。横浜FMを選んだ理由は、Jリーグの中で「一番ヨーロッパのサッカーに近いと思っていたから」だと語る。横浜FMはシティ・フットボール・グループの一員であり、アンジェ・ポステコグルー現・トッテナム監督のもと19年には4度目のリーグ優勝を果たし、西村が移籍した22シーズンは、ケヴィン・マスカット監督が指揮を執っていた。

    ――横浜FMに加入しての印象は?

     サッカーに対する姿勢、向上心を持った選手がたくさんいました。選手だけではなく、フロントやファン・サポーター含めたすべての人たちが“プロフェッショナル”で、素晴らしいクラブに来られたと思いました。

     まずはチームメートに影響を受けました。ゼロからのスタートだったので、全員から学ぼうという姿勢で入ったのですが、学ぶものが本当にたくさんありました。中でもやはり年齢が上の選手たちがすごかった。とにかくやるんです。練習で一番やる。上の選手たちほど、一番やっていました。そういった横浜FMでの当たり前のレベルはやっぱり高いと思いましたし、1日1日に対する、1回の練習に対する意識は本当に学ぶべきものがありました。

    ――マスカット監督からは?

     特にメンタル面を学びましたね。ケヴィンも選手同様、プロフェッショナルで自分に厳しく、チームに厳しく、でも、本当に愛がある厳しさだったので多くの影響を受けました。

    ――今回、学べる場であるクラブから離れます。チームはすでに始動して背番号も9番を着けることが決まっていたなか、それでも移籍を決められた理由を教えてください。

     これ以上のクラブはこの先のサッカー人生の中で出会えないとも思っています。それくらい濃い2年間でした。 でも、先に話しましたが、このオファーをいただく前からずっと、海外でもう1回やりたいという気持ちを強く持っていたんです。マリノスに来ることで新しい自分が見えたように、 また違う環境に身を投じる、海外に行けば、また新しい自分が見られるんじゃないかと思ったんです。チャレンジしたいという気持ちのほうが強かったというのが正直な気持ちです。

    ――オファーが来たセルヴェットFCを率いるのは、22年に鹿島アントラーズの監督だったレネ・ヴァイラーさんです。ご存知でしたか。また、鹿島時代の印象は残っていますか?

     あとで聞いて知りました。鹿島時代の印象は残っていないんですよね。ただ、そのことを知ったときに思ったことは、鹿島とのアウェイの対戦で得点を決めた試合(22年J1第8節、横浜FMが3-0で勝利)の印象があったのかな? ということと、チャンスはどこに転がっているか分からないということです。人生って分からないものですね。

  • 20221105-kobe-yokohamafm©J.LEAGUE/Getty Images

    ■これから難しい時期を過ごすのは想定内

     横浜FMでの成績は、22年が公式戦37試合出場13得点、23年が44試合出場7得点。日本代表にも選ばれ、2年で5キャップ3得点を記録している。日本代表復帰について問うと、「そこに縛られてはいないんです。今は海外に行って、新しいチームで新しい自分がどうなっていくのか、自分でどうしていくのかしかない」と冷静に語る。しかし、そんな西村も横浜FMに対する感情は別物だった。

    ――横浜FMでの一番の思い出は?

     シャーレを掲げられたことですね。Jリーグでシャーレを掲げたいという夢は正直持っていなかったんですが、いざ優勝というものを経験すると変わりました。本当に特別で、また経験したいと思います。

    ――逆に悔しかった、やり残したことは?

     悔しかったことは2年目です。サポーターの期待に応えられなかった。加入1年目で優勝して、自分の中でもその優勝に貢献できた実感があって、でも2年目にそういう期待が懸かった中で優勝できなかった。自分自身も結果が出せなかった。そこに悔しさはありました。でも、やり残したことは正直ないんです。やるだけのことをやったと思っていますし、その中で結果が出なかったということが、そのときの自分の実力なので。

    ――クラブ離脱発表がされた公式Xのインプレッションが150万(取材時点)を超えていましたが、ご存知でしたか? 移籍時期に加え、西村選手への期待もあったのだと思います。

     そんなに反響があったとは知りませんでした。いや、本当に僕は…正直めちゃくちゃ大好きです、マリノスのことが。来る前はマリノスのことをこんなに好きになるとは思わなかったのに。

    ――どういうところが好きですか?

     サッカーに対してみんなが純粋で向上心を持っているところ。サッカーに対して本当にピュアな心を持っていて仲間を大事にする。選手を含め、フロントの方々、サポーター、スポンサーの方々も含めて、マリノスというクラブを向上させていこうという強い気持ちがある。本当にいいクラブだと思います。

    ――横浜FMでの経験は、次の場所でどう役に立つと思われますか?

     この2年間の経験は次の挑戦にとってとても大きいものです。これから難しくなる…難しい時期を過ごすのは想定内です。そこからまたどうやって自分がより変わって、成長して新しい自分を作っていくのか。そのための学びを得た2年間でした。前回の海外挑戦よりも、今は本当にいろんなものを得た上で行けるので、楽しみでもあります。

     だからまずは試合に出ること。試合でちゃんとプレーすること。結果を出すこと。そして“ハードワーク”すること。まずはそこのパッションを大事にしたいと思っています。

    ――最後に横浜FMに関わる方たちに一番伝えたいことを教えてください。

     伝えたいことは、本当にシンプルです。マリノスファミリーになれたことが僕の誇りです。プレーさせていただいてありがとうございますしかないです。なんでしょう…LIKEじゃなくて、ほとんどLOVEですね。BIG LOVEです。自分でも驚くくらいの。

    ――そういうタイプじゃなかったのですか?

     うーん、プロサッカー選手というものは、いつ戦力外になるか分からないし、ある意味ギスギスした…ギスギスするのが普通だと思うんです。そんな中でも、あんなにファミリーといった感じのあるクラブは、僕の中で経験したことがありませんでした。正直寂しいです。けれど、次の挑戦がめちゃくちゃ楽しみです。頑張ってきます。本当にありがとうございました。

    (聞き手・文:吉村美千代/GOAL編集部)