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願いと祈り。

この世で一番美しい姿は、祈る姿だと思う。願いばかりになると、祈ることができなくなる。願いと祈りは、似ているが違う。真逆とさえ言える。開運とか引き寄せとか、願いであって祈りではない。願いばかりになった姿を美しいとは思えない。願いが悪いとは言わない。不機嫌よりご機嫌、掃除をする、断捨離をする、それは当然いいことだと思うし俺もそっちの方がいいと思う。これをすると得をする、これは損だからしない、それだけだと祈ることができなくなる。私は、時折、虚無感や無力感に陥る。楽しさやワクワクは虚無感や無気力に太刀打ちできない。一時的に打ち消すことはできても、打ち勝つことはできない。ただ、一つだけ太刀打ちできるものがある。それが、祈りだと思う。

虚無感や無気力の中にいる時、私は「美しいものに触れたい」と思う。楽しくなくていいしワクワクしなくてもいい。自分軸とか金持ちになるとかモテるとか、そんなことはどうでもいいから、美しいものに触れたいと思う。あちらこちらに美を探すのだが、願いばかりで、祈りを見つけることができない。闇の中にいる時、明るい話題は眩し過ぎる。こうすればうまくいくとか、これをやれば幸せになるとか、もっともっとを煽る願いに拒否反応が出る。虚無感や無気力を誤魔化すものではなく、虚無感や無力感の中においてさえ尚、輝き続けるものを探している。願いは足し算。祈りは、ボロボロになって力尽き果て、自分にはもう何もないとなった時でさえ、最後の最後まで残り続けているものだと思う。もっともっとの正反対。祈りの振りをした願いが増え過ぎると、祈ることができなくなる。乱暴な言葉を使うと、どんどん醜くなる。祈りを忘れたら、人間はどこまでも駄目になれる。人は、苦しみの時ほど真実に近い。祈りを思い出せたら、いつでも帰って来られる。

犠牲はネガティブに使われることが多い言葉だが、本当は犠牲になりたいのではないか。自分のことばかりになると、簡単に不幸になることを私たちは知っている。死ぬ時に残るものは、集めたものではなく与えたものだということを本能的に知っている。自分のためではなく、自分以外のものに命を使いたい。自分を贈り物として捧げたい。働きたくないと言うのは嘘で、本当はいい仕事をしたい。いい働きをしたい。生まれてきてよかったと思いながら死にたい。日常的にはあれも欲しいこれも欲しいと身の回りを快適にしたくなる。それは当然だしおかしいことではない。だが、一番深い所にある望みは「自分を贈り物として捧げたい」なのだと思う。会社や学校では、とてもじゃないけれど自分を贈り物とは思えなくなる。売り物になる。どうすれば自分を売り込めるだろうか、どうすれば自分の価値を高められるだろうか、ブランディングとか自己投資などと言った考え方は、贈り物とは異なる。その頑張りは無理がある。売り物の考え方が行き過ぎると、人を見る時、役に立つか立たないかだけで見てしまう。役に立つ限り生きててもいいが、役に立たない時は生きていてはいけないと言う「不要な存在」が生まれる。不要な存在にならないための努力を強いられるが、その根底にあるものは不安や恐怖であり、愛ではない。愛のないところに贈り物はない。祈りのないところに贈り物はない。

俺は「不要な人間はいない」に張る。神様は不必要な人間を作るほど愚かではない。誰かが不要なら、全員不要だ。誰かが無価値なら、全員無価値だ。家のない生活をしていた時、ボロボロになったことがある。寝る場所も食べるものもない。その時、京都の三十三間堂に行った。目にした看板に「大切な人のために祈りましょう」と書かれてあり、雷に打たれたような衝撃を受けた。その言葉を目にするまで、私は「自分には何もない」という考えに捕まっていた。ない。ない。ない。もう自分には何もないぞ。誰かなんとかしてくれ。そればかりだった。看板を目にして色々な気持ちになった。自分にはまだ祈ることができるとか、自分のことばかりを考えていた自分が恥ずかしいとか、恥ずかしいながらも救われた気持ちがしたとか、色々。祈りを通じ、生きる方向が百八十度変わった。内側から力が湧き、身体的に、元気になった。病気の時、病気が治ることを願う。だが、祈りとは病から癒えることではない。病を通して癒えることだ。フロムではなく、スルーだ。病から癒えるのではなく、病を通して癒えるのだ。

自分を満たせないと他人を満たせないと言われる。自分が空腹で、おにぎりを一つしか持っていないとしたら、他者に分け与えることができない。だから、自分を満たすことが大事なのだと。この例え話を聞いた時、私は「俺は腹が減っててもおにぎりをあげる人を知っている」と思った。彼らは、空腹なまま他者を満たした。私は、そこに美しさを見たし、満たされ、救われた。自分を満たすことは「もっともっと」となりやすい。永遠に救われることができない。空腹を抱えたまま分け与えた人々は、分かち合うことで質的な空腹を満たした。分かち合い、愛し合うことで、満たし合った。人間関係において、嫌われたくないとか、傷つきたくないとか、好かれたいとか、愛されたいとか、そんなことは最優先事項ではないと思う。自分を守ってばかりいたら、愛することができなくなる。祈ることができなくなる。祈ることを通じて、自分のことばかりになっていた思考が、外側に広がる。どうすれば好かれるか、モテるか、愛されるか、受け入れられるか、そんなことはあとの話だ。一番は、どれだけ気持ちを尽くせたかだ。愛されることを待つのではなく、自分から人を愛することだ。そうじゃなければ、ずっと苦しいままだ。ずっとさみしいままだ。へたくそでもいい。うまくやらなくてもいい。無様でも不器用でもいい。自分を守るのではなく、自分を与える。自分を捧げる。震えてもいい。吃ってもいい。噛みまくってもいい。泣いてしまってもいい。私たちは、嫌われないために生まれた訳ではない。私たちは、傷つかないために生まれた訳ではない。誰一人愛さないで生きるより、愛して愛して傷つく方がずっといい。

坂爪圭吾さま

先日は河井寛次郎記念館と六波羅蜜寺へご一緒できて、人生の転機にぴったりの時間を過ごすことができました。
場所のチョイスとタイミングはひとえに坂爪さまのおかげです。本当にありがとうございます。

あの後、やはり鞍馬へ行きました。
まず参道にあるお店心天狗さんの大好きな鍋焼きうどんを数年ぶりにいただいて、偶然相席した群馬県から一人旅の女性と会話を弾ませ、その流れでお店を切り盛りしている若い女性とも話を弾ませ、これは坂爪マジックがまだ効いているのだなと思いました。群馬の方は鞍馬は3回目だけれど誰かと話せたのは初めてでとても嬉しい、明日行くのにおすすめの場所はありますか?と聞いてくださったので、迷わず六波羅蜜寺と空也上人のことをお伝えしました。すると空也上人が導いてくださってこうして相席で話が盛り上がってるんですねと迷いなくおっしゃるので、きっとそうだとわたしも思いました。ということは坂爪さんと空也上人はエネルギー的にダブっているということですね。

お店を出てから鞍馬寺の本堂まで行ってみようと階段を上がると、息が切れて動悸がして、全く無理な体に堕ちぶれていたことが判明。薄々感じてはいましたが呆れました。でもこれをわかる必要が何よりもあったということで、物事が繋がって起きていくことのありがたさを感じています。そして飼い犬といっしょに3分でも走るというのを毎日回数多くすると決意し、始めたところです。
ところで別れ際に坂爪さんと握手したときに坂爪さんの手がとても暖かかったのが忘れられません。年末は風邪に苦労されていたようですが、とても健康な方なのだと思いました。素晴らしいことです。
わたしも頑張ります。

いただいた河﨑秋子氏の本、読んでいます。
最初に巻末の解説を半分。人間に食べられることは羊の生存戦略という箇所に衝撃を受け、それから坂爪さん一押しの温む骨。巻頭の蛹の家。
頸、冷えるを読み出しミンクという言葉のところで一旦本を置き、これは重たすぎて逃げたいと感じました。蛹の家でこれまでの時代の負のエネルギーを受けられる限り受け取った気がしていたのもあり、ちょっと休憩が必要でした。
それからパラパラとページをめくり、土に贖うを一気に読んで、温む骨の前半なのだとわかりました。
これまで生きてきたおかげで連想することが山のようにあり、重たいけれど受け止めておきたいと願う自分を観察しています。
坂爪さんがふるさとを聞くと兎を追ったこともないのに懐かしいと書いてましたが、わたしもそれをずっと感じていました。涙もいくらでも出ます。保持する記憶というのは個人的なものだけでは決してないと今なら確信できます。わたしが6歳くらいの時に志賀高原にスキーに行く父親の運転する車の窓から雪山を見てふるさとをなん度も繰り返し歌ったのを思い出します。憑依とまでは言えなくても似たようなものでしょうか。
河﨑さんの書く小説は各自の中に残る日本の近代化とそこで生きた数知れない人たちの念のような意識を鮮やかに蘇らせるものだと思いました。巧みに選ばれた言葉の威力はすごいです。
負の意識は今、こうして感じてその正体を見て、卒業していくものだと思っています。
わたしは占星術の勉強をちょっとしたので、これが水瓶座冥王星の働きだなと思ったりもしています。

わたしもこれからは賢く判断しようとか、どう見られるかとかには関係なく、自分の内側のそこをやったら大変なことになると恐れている部分を行動に移していってみるつもりです。書きながら怖いなあとゾッとしてますが。

坂爪さんのされているお仕事に対して、これからもささやかですがカンパしていきたいです。
坂爪さんの実験的な生き方はこれからの時代の先駆者の生き方だと思っているんです。
アイデアがいろいろ浮かんできたので、また連絡させてください。

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おおまかな予定

2月12日(月・祝日)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!

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願いと祈り。|坂爪圭吾