馬場紀寿「佛教大学仏教学会への申入書」について
拙著『ブッダという男』の「あとがき」に触発されて、馬場紀寿先生がresearchmapにて、8年前の拙論(清水[2016])の問題点について、今頃になって佛教大学仏教学会に申入書を提出したと発表しました。ですが、既に7年前に馬場先生より当方(および佛大の先生方)へ通告のあった「研究不正」の調査を請求する内容ではなく、「研究倫理に悖る」「研究倫理に反する」という点から紀要雑誌への追補を請求するものです。従いまして、大蔵出版の第三者委員会によって出された「研究不正には当たらない」という結論を、馬場先生も受け入れたものと判断されます。今のところ佛教大学仏教学会から当方に何の連絡もありませんので、現時点での反論を公開させていただきます。
- 馬場[2008]『上座部仏教の思想形成——ブッダからブッダゴーサへ』春秋社.
- 清水[2016]「パーリ上座部における「小部」の成立と受容——結集と隠没の伝承を巡って」『佛教大学仏教学会紀要』21.
- 清水[2021]『上座部仏教における聖典論の研究』大蔵出版.
1.翻訳に関する問題
【言及・引用の明記性】
馬場先生は「誰による翻訳を利用したのか注で示すことが研究倫理上求められます」と仰いますが、拙論の冒頭では「上記で述べた研究状況を踏まえた上で、とりわけ先述した馬場紀寿が用いた資料を材料としながら」と述べさせていただき(清水[2016: 83–84])、この「上記で述べた研究状況」のうちには馬場[2008: 159–195]に言及しています(清水[2016: 82])。このように、馬場先生の成果に依拠させていただいている事実は、論文冒頭において明記されています。したがって、馬場先生が要求されます追補は不要です。
【翻訳の独自性①】
また、馬場先生の「翻訳の問題」の指摘、すなわち“訳文の類似性”ならびに“引用であることを明記していない”ことが「明らかに研究倫理に悖る」という指摘は、全くの事実無根で、一方的な御主張です。証明する例を一つ上げておきます。次のように馬場訳では片山訳と酷似する箇所(下表の赤字箇所、全体の九割以上が逐語的一致)があります。
片山一良『長部 戒蘊篇Ⅰ』(大蔵出版, 2003, 23) | 馬場訳([2008: 169–170]) |
『梵網経』を初めとする三十四経の集成(saṅgaha)が「長部」である。『根本法門経』を初めとする百五十二経の集成が「中部」である。『暴流度経』を初めとする七七六二経の集成が「相応部」である。『心遍取経』を初めとする九五五七経の集成が「増支部」である。『小誦』、『法句』、『感興偈』、『如是語』、『経集』、『天宮事』、『餓鬼事』、『長老偈』、『長老尼偈』、『本生』、『義釈』、『無碍解道』、『譬喩』、『仏種姓』、『所行蔵』によって、十五種は「小部」(Khuddaka-nikāya)である。以上、これが経蔵(Suttanta-piṭaka)である。 | 梵網経をはじめとする三十四経の集成が『長部』である。根本法門経をはじめとする百五十二経の集成が『中部』である。度暴流経をはじめとする七千七百六十二経の集成が『相応部』である。心遍取経をはじめとする九千五百五十七経の集成が『増支部』である。『小誦』『法句』『感興偈』『如是語』『経集』『天宮事』『餓鬼事』『長老偈』『長老尼偈』『本生』『義釈』『無礙解道』『譬喩』『仏種姓』『所行蔵』によって、小部は十五種である。以上が経蔵というものである。 |
馬場先生は片山訳について、馬場[2008]の本論・注・参照文献いずれにおいても一切言及しておりませんので、馬場先生の判断基準に照らし合わせ、先生のお言葉を借りるなら、馬場訳は、清水訳よりも悪質な「引用であることを明示せずに、わずかな語を変更して先行研究の文章を利用する」「モザイク盗用」であり、「明らかに研究倫理に悖るものといわなければなりません」。
ですが、馬場先生ご自身が(結論的に)自白してしまった通り、本当に馬場訳は研究倫理に悖るものなのでしょうか? 様々な可能性が考えられ、必ずしも馬場訳と片山訳の逐語的一致がそのまま「研究倫理に悖る」とは結論付けられないでしょう。単に、同じ時代に同じテーマで同じテキストを訳出した結果、似ただけかもしれません。大蔵出版における第三者委員会でも、この程度の一致は起こるという結論に至っております。
これと同様に、馬場先生が「翻訳の問題」を指摘される箇所は、同じ単語が頻出し、繰り返しが続く文脈であり、加えて固有名詞が大半を占める箇所です。学術の便宜上、固有名詞は学者間で共通したものが用いられるべきです。そして、『小部』を『小部』以外で、「蔵」を「蔵」以外で、「経」を「経」以外で訳すことは困難であり、ある程度の一致は避けられません。それは馬場先生ご自身が証明している通りです。
【翻訳の独自性②】
また、馬場先生の別紙2で提示されました馬場訳・清水訳の対応は粗雑なものであり、正確な情報を提示していません。たとえば、馬場訳「根本五十〔経篇〕が失われる」と清水訳「根本五十〔篇が失われる〕」が同じだと先生は乱暴に同定されていますが、〔〕の補いの位置が異なるのですから翻訳元の原本(底本)が異なるのは明白です。馬場訳と清水訳をしっかり読み比べていただければ、それぞれが異なる底本を基にした訳業であること、すなわち清水訳が馬場訳とは異なる独自の底本から翻訳した事実をご確認いただけます。
- 清水訳「『発趣大論』」はVRI版に基づいて修正した読みであるが、馬場訳「『大論(発趣論)』」はPTS版に基づいた訳であり、原典の読みが違うことは明らかである。したがって清水訳には明瞭な独自性が確認される。
- 清水訳「失われ、それが」と繋げて訳している箇所は、清水底本では「parihāyati, tasmiṃ parihīne」と「,」(カンマ)で区切っている。一方、馬場訳「失われる。それが」と分けて訳している箇所は、馬場底本では「parihāyati. tasmiṃ parihīne」と「.」(ピリオド)であり、互いに自身の定めた底本に則って訳している独自性が確認される。
- 清水訳「〔失われ〕…中略…それから」は、相当箇所の馬場訳「それから十集が、乃至、」とまったく一致しない。この箇所の清水訳はPTS版に従っており、これに従っていない馬場訳とは底本となるパーリ原文が異なっていたことが明確に確認される。なお、馬場紀寿[2008: 226–227 注19]で示されるこの箇所のパーリ原文には「ekādasanipāto…pe…tato ekanipāto」とあり「それから十集が、」の対応部分を欠く。
- 清水訳「〔編が失われ〕、それから根本五十〔編が失われる〕」「大品が〔失われ〕」に対応する箇所として、馬場訳「それから中分五十〔経篇〕が失われる。それから根本五十〔経篇〕が失われる」「大品が失われる」とあり、〔〕による補いの位置が異なっており、パーリ原文が異なる。清水訳はPTSに従っており、訳出元の底本の読みが違っていたことは明らかであり、それぞれの訳業は独自のものである。なお、馬場紀寿[2008: 226–227 註19]で示されるこの箇所のパーリ原文には「tato majjhimapaṇṇāsako, tato mūlapaṇṇāsako ti」「tato mahāvaggo,」とあり、「失われる」に該当する原文を欠いている。
- 清水訳「このように」は、VRI版に基づいた自身の判断による補いであり、馬場訳ではこの読みが採用されておらず、それぞれの独自性が確認される
- 清水訳「まさに『ジャータカ』を」と、馬場訳「『本生』のみを」とでは、ここでの意味が全く異なる。清水訳は、馬場訳で省略されている「偈頌の隠没」が後に説かれることを知ったうえで、「(いくつか偈頌が残っているが、その中でも)まさに『ジャータカ』を」という「強意」の意味で訳出しており、馬場訳に見られるような「限定」の意味ではない。なお、これに続く箇所では、清水訳「『ジャータカ』だけを」と「限定」で訳していることにも理由があり、この箇所の時点で『ジャータカ』と『律蔵』の二つが残っているという前後の文脈を受けて、両資料うち片方だけを保持するという二者択一性を強調したいがためである。このような細かい点からも、清水訳が、馬場訳で提示されていない箇所や、前後のコンテキストを踏まえた上での独自訳であることが解る。
- 馬場訳「利得を欲する者たち」の解釈が妥当である旨を、清水[2016: 101]は本文中で明記しており、馬場研究に対する言及が確認される。
- 清水訳「それら〔『ジャータカ』〕のなかで、」は、tesamを直訳して複数形で訳しているが、馬場訳「その中で」とあり単数形で訳されている。したがって、清水訳には明瞭な独自性がある。
- 清水訳には「その時でも教法は隠没しない。」およびそれ以降の「偈頌の隠没」に関する訳出がある。馬場訳は、この「その時でも教法は隠没しない。」およびそれ以降の「偈頌の隠没」に関する箇所を訳出していない。すなわち、馬場[2008: 162]は「四部註には三蔵が滅ぶ順序を説く箇所がある」と述べているが、実際に提示されている訳は「抜粋」である。加えて、馬場[2008]では、この訳出が「抜粋」である事実・理由などを示していない。したがって、清水訳は、馬場訳が「抜粋」であることに気がついた上でこの箇所を訳出しているのであるから、原典に当たっている独自訳であることは明確である。
【要訣】
拙論(清水[2016])には馬場[2008]への適切な言及が確認され、さらに指摘された訳出箇所にも訳者の独自性が確認されます。したがって、清水[2016]が、研究不正に相当しないのはもちろん、研究倫理に悖るということもあり得ません。
拙訳を「研究倫理に悖る」というのなら、馬場訳の方がより悪質に「研究倫理に悖る」ものであり、その他多くの学者も同じく「研究倫理に悖る」ことに期せずして陥ってしまうでしょう。以上より、馬場先生が求めている追補は全く不要であり、不当な申入れであることは明白です。
2.他の研究成果の利用・引用に関する問題
【清水[2016]の結論の独自性】
馬場[2008]の結論「遅くとも五世紀初頭までに、最終的には経蔵を四部構成から五部構成へ再編した」と、清水[2016]の結論「ブッダゴーサが登場した段階で、既に経蔵は五部構成に再編され終わっていた」および「ブッダゴーサ以前から既に上座部の経蔵は五部構成に再編し終わっていた」は、日本語の上からも字義的に全く異なる意味を伝えており、これが一致するとは考えられません。
馬場先生は五世紀初頭のブッダゴーサの役割について「経蔵を四部から五部へ拡大する動きへ加担した」(馬場[2008: 194])と仰って、ブッダゴーサ以前には「五世紀初頭までに経蔵を「五部」とする見解は存在していたが、その一方で、古資料は基本的に経蔵を四部構成としていた」(馬場[2008: 194])とお考えです。一方、拙論(清水[2016: 122])では「ブッダゴーサが登場した段階で、既に経蔵は五部構成に再編され終わっていた」、つまり「ブッダゴーサ(五世紀前半)の時点で四部という見解は上座部においてすでに淘汰されていた」という全く異なる結論に至っています。
従いまして、当方の結論は「全くの新説」です。だからこそ論争になっているのです。以上の論点については、清水[2021: 159 注284]も参照ください。
【引用・言及の明示性】
また、馬場先生は六例の成果が適切な言及・引用なく流用されているとのご意見ですが、拙論において明確に引用・言及されております
馬場先生が指摘される箇所(清水[2016: 121])の直前にある文章に、「従って、ブッダゴーサ以前の小部の実態を把握するためには、ブッダゴーサより前に成立した文献のなかに現れる小部や四部、五部に関する記述を慎重に検討する必要がある111)。」とあり、その注111で「馬場紀寿[2008:pp. 179.5–184.12]は、経蔵が「四部→五部」に再編された影響を受けて、聖典に記された「四部」も「五部」に書き改められた可能性を指摘する。」と明確に馬場先生の論考に言及しています。馬場先生が六例の成果とされるもの(馬場[2008: 235–237 注64, 66, 72, 76, 78, 80])は、清水[2016: 121]で言及している馬場紀寿[2008:pp. 179.5-184.12]の本文に対してついた注なのですから、馬場先生の成果を言及させていただいていることは、誰の目にも明らかです。そのうえで拙論は、上座部文献を悉皆的に調査して八例の資料を追加し、馬場説を乗り越える「全くの新説」を打ち出しているのです。したがって、馬場先生が要求されます追補は不要です。
【要訣】
馬場先生は、清水[2016]が、①馬場[2008]の六つの例に適切に言及することなく、②その成果を流用して馬場[2008]と同じ結論に至っている——という問題点を二つ提示しますが、その御主張は二つとも全くの誤りです。
清水[2016]は、①馬場[2008]を適切に言及して、しかも、②馬場[2008]とは全く違う結論に至っています。したがって、清水[2016]が、研究不正に相当しないのはもちろん、研究倫理に反するということもあり得ません。以上より、馬場先生が求めている追補は全く不要であり、不当な申入れであることは明白です。
3.アカハラについて
馬場先生は、「清水俊史氏は、2023年12月に公刊された著作『ブッダという男――初期仏典を読みとく』(ちくま新書)の「あとがき」(p.219)において、私が同氏の著作の「出版妨害」をし、同氏に対し「さまざまな圧力」をかけたと述べています。しかし、そのような事実は一切ありません」と仰いますが、馬場先生が当方にかけた圧力は「出版妨害」のアカハラ以外の何ものでもありません。馬場先生が私と関係のある先生方に、並びに馬場先生がご友人らに送った私を誹謗するメール一つとっても、複数の関係者に目撃されている印仏学会での一件だけをとっても、私の人格と尊厳を毀損するアカハラ以外の何ものでもなく、弱い者いじめであり、正義に反するものでって、研究倫理に悖り反するものです。
先生は拙著(清水[2021])が出れば書評を書いて批判すると仰っていました。このような盤外戦術ではなく、正々堂々とした反論をお待ちしております。それに対しては私も全力を尽くして、かつ真摯に応答いたします。