災害という共通体験

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歴史の終わりとは、そろそろ人類が終わりますという話ではなく、その真逆であるのは言うまでもない。変わり映えのしない世界がダラダラ続いていくということであるから、終末(死)に向き合っていないのである。終末思想が衰退したのは、ノストラダムスの反動が大きいであろうが、端的にはオカルトの消滅である。オカルトとはなんぞやというと、おそらく大自然に恐れ慄くアニミズムであろうし、未知なるものへの恐れであるが、今日では人跡未踏の地はなく、すべてが解明された感覚で生きている。「わたし」が地球上の隅々まで確認したわけではないが、「わたしたち」としてはすべて探索済みなのである。エベレストに登頂した人間は6000人らしいが、登っていない人でも「わたしたち」としては登頂しているのである。6000人だけが見たエベレスト山頂からの景色というのもあるのだろうが、やはり「わたしたち」としては踏破済みなので、今さら「わたし」が自分で登るのは車輪の再発明という感じがする。未知がないから未知を説明する物語がいらないのである。飢饉(集団的餓死)という人類にありふれた災厄も無くなったし、大自然に翻弄されることが少なくなっている。災害という強制参加のイベントが無くなったわけではないし、たとえば東京で雪が積もるとすれば、「わたし」だけではなく「わたしたち」としての問題である。凍りついた路面に足をすくわれて自分が転ぶ転ばないは別として、そのような同じ危うさの地平に「わたしたち」として置かれる。誰かが骨折したとすれば、「わたしたち」の共通体験なのである。刑務所に入らずとも、人間はこの大地に繋がれた囚人として集団生活している。「わたし」だけが囚人なのではなく、「わたしたち」として囚人なのである。科学の力で、この大地における危険性が減じているとはいえ、脆弱性をゼロにすることはできないし、大自然は「わたし」だけでなく「わたしたち」を面制圧してくる。たとえば津波が襲いかかってくるとして、自分は助かったから無関係だということはないし、やはり津波は「わたしたち」に襲いかかってくる。近いうちに予想されている南海トラフ巨大地震についても、「わたしたち」に対して襲いかかるのである。南海トラフが世界最終大戦ならいいのだが、われわれが「わたしたち」として巻き込まれ、それなりの人が死にながら、まだまだ漠然と飽き飽きした世界は続いていくので憂うしかない。
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