法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

2004年のTVアニメ『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』において、遺伝子解析で理想的とされる仕事を強要する悪役のプランが、当時の視聴者には否定されなかった問題について

 放映直後に制作が予告されながら、つい先日にようやく十数年ごしに公開できた劇場版を受けて、「ますたあ陽太郎4s@kaolu4s」氏*1が問題提起をしていた。


デスティニープランを論外なものと受け止めてもらえなかったことはデス種という作品の不幸だったのだが、これ、就職氷河期真っ只中に就活前後の年齢層向けの作品で展開されたから、という間の悪さがあったと思うのよね。

 これを受けて、なぜ計画が視聴者に支持されたのかという問題として「北守さん@hokusyu1982」氏*2らもツイートしていた。


デスティニープラン、当時は映画『ガタカ』の世界観とほぼ一緒だなあと思った記憶がある。これはディストピアですよというSF的な常識のもとで作り手は設定したはずなのに、オタクはむしろそれを支持してしまったというところに、今思えば現代オタクの反人権の兆候があったのかなあと感じている。


そのSF的常識に寄りかかりすぎたのかなと。もっとちゃんと植松聖みたいなやつを出せばさすがにあれほど「議長そんなに悪いか……?」の声が溢れることもなかったはず。

 同時代に視聴していた記憶をほりおこすと、ほとんど前触れなく終盤に全容が明かされたデスティニープラン*3は、それまで新主人公シン・アスカの指導者に見せかけたデュランダルというキャラクターを倒すべき悪役と明確化するため、古典的な悪役記号をとってつけた印象があった。
 それゆえ表層的な記号描写にとどまって深いドラマにしていないと感じたし、それでもプランを正面から正当化しようとする意見がそこそこのボリュームをもったのはたしかに予想外だった。



 漫画『賭博黙示録カイジ』の序盤で利根川というキャラクターがおこなった演説のように、たとえ直後に主人公カイジから詭弁と喝破されても、ハッタリのきいた悪役の言葉が読者や視聴者には説得力をもって受けとられる問題はまれによくある。

賭博黙示録 カイジ 1

賭博黙示録 カイジ 1

Amazon

 ただ後になって、プランが指示された特有の理由もいくつか考えられた。そのひとつが「藍沢@i_zawa」氏の指摘するコーディネーターという設定だ。


ああーしかしそもそもコーディネーターとかいう存在自体が倫理的に大丈夫なのか?!って思いますが…

 前作『機動戦士ガンダムSEED*4では遺伝子操作で生まれたコーディネーターという人種が宇宙に住んでおり、そうではない人類ナチュラ*5と対立を深めていた。そのコーディネーターのなかでもスーパーな能力をもつ主人公キラ・ヤマトは戦いに巻きこまれながら生きのこった。
 おそらく前作を最終回まで見て熱心なファンでいた視聴者は遺伝子で人生を決めることを肯定する、そうでなくても否定はしない世界観の作品として理解して、その先入観のまま続編を解釈していたのではないだろうか。
 悪役の描写にしても、前作の時点でコーディネーターを排除するナチュラルの思想集団ブルーコスモスは暴力的かつ醜悪に描かれていたし、続編でも愚かに見せていた。醜悪さを終盤まで表面では見せないデュランダルはそこが違った。
 実際、前作でコーディネーター技術は否定して終わるとばかり思っていた。それなのに最後の敵が、賞賛のかたちでコーディネーターのキラ・ヤマトを皮肉ったつもりだろう描写、皮肉ではない受容をされたまま『機動戦士ガンダムSEED DESTINY*6に接続された。それゆえ相対的に穏健そうに見えるプランへの嫌悪が少なかったのではないだろうか。


 コーディネーターは続編でも否定されなかった。キラ・ヤマトは途中で世捨て人のように登場しながらデュランダルと対決することになり、第三勢力のままシン・アスカデュランダルも倒して最終回をむかえた。
 プランを否定的に受容してもらうなら、否定しなかったコーディネーター技術よりも問題に感じさせなければならない。子供のころから成人時の選択肢を示すだけで拒否することも可能かもしれないプランを、意思を確認することなど不可能なまま不可逆的に胎児の遺伝子をいじるコーディネーターより嫌悪させなければならない。


 富裕層が遺伝子改造した子供を産んで階級を再生産しつつ人工的に人種をつくりだす技術という倫理的な問題を、設定レベルで抑制して視聴者につたえる方法はあっただろうか?
 たとえば前作がはじまった時点で原則としてコーディネーターはすでに「自然」に生まれてきていることに設定を明確化はどうだろう。コーディネーター技術は特定の遺伝子をいじって能力を底上げしただけの技術で、いわゆるデザイナーズチャイルドのように細かく制御することは実際にはできないとする。作品描写を見ても、コーディネーターの身体能力は意外と個人差があり、必ずしも美しいとされる容貌ばかりではない。ねらったように能力が開花して見えるのは、底上げされた身体能力と、コーディネーターをつくれるくらい豊かな環境で育てられたから。
 つまり倫理的な問題は最初にコーディネーター技術をつかった一世代目の親にだけ課して、本編のコーディネーターも一種の被害者とする。そうすればコーディネーター社会でも遺伝子によって人生が決められることを忌避する考えが広めていけそうだし、プランを否定する結論をもっと説得的に描けたかもしれない。


 また、プランを否定したいだけの強い動機をもつキャラクターが用意されていなかったのも、視聴者の理解をさまたげた気がする。
 もちろん『装甲騎兵ボトムズ』の主人公キリコ・キュービィーみたいに、強大な利益を提示された受益者があえて反抗するハードボイルドにも良さがある。しかしキラ・ヤマトは完全に個人の能力と人間関係で敵の本拠地まで侵攻できたのでプランの受益者ではないし、一矢報いたい弱者というわけでもない。
 道に迷って教えてほしい人間か、逆に良い道を他人に決められたくない人間でないと、肯定であれ否定であれプランをめぐるドラマにからみづらい。その意味では復讐という動機をもって迷いのないシン・アスカもプランを必要としていないし、かといって排除したい強い動機があるわけでもなかった。

*1:はてなアカウントはid:K_NATSUBA

*2:はてなアカウントはid:hokusyu

*3:以下、プランと略す。

*4:以下、前作。

*5:遺伝子操作ではない、後天的に強化された人間も勢力にいる。

*6:以下、続編。