小市民的な幸福

 小市民的な幸福というのをずっと、憎悪しながら暮らしてきた。
 それは当然のように請求されるべきものだとはむろん思わない。今だってガザ地区やウクライナでは圧倒的な不条理の下、人が死に、日々の暮らしが破壊され続けている。歴史を見れば、大量虐殺や飢饉、圧政による不幸など日常茶飯事で、むしろ戦後日本で想定されてきたようなその「幸福」など世界史の狭間に咲いた儚い夢のようなものでしかないのだと思う(事実崩れつつあるし)。それ自体はとっくのとうに諦めがついてしまった。
 
ただ、一方でそれを信じてもいいような環境が、幼少のぼくの周りにあったのもまた確かだったのだ。

 父は三流私大を卒業し、にも関わらずバブル景気の追い風を受け一部上場企業に入社した。母は就職氷河期という不利な環境だったものの、持ち前の体育会系的な根性で教員としてそれなりの地位を得、金に不自由するようなことはない家庭の息子としてぼくは生まれ、育った。すなわち普通に考えれば戦後日本的世界がぼくの周りに用意されてあることはほとんど奇跡のようなことだったが、小学生までそれを疑うことはなく暮らしてきた。転機が訪れたのは中学校に入ったころだった。

 ぼくの住む吉川市は、首都からの距離の短さとは裏腹にアクセスは悪く、故に地価が低く、蛮族のような輩がたむろして暮らしていた。ぼくをいじめていたスクールカースト上位層の不良どもは、大麻だか何だかを吸って吉川高校を放校になり、成人式にも来ず、今や何しているのか知れたものではない。そんなゴブリンのしごきにあい、女を独占する様を眼前で見せられ続けた三年間の顛末として、ぼくは自身を一種の部落民のようなもの、シュードラのようなものとして規定するに至った。かくして高校に入学する。

 地頭だけはそこそこにあったから、もう二度とヤンキーたちとは付き合いたくないという一心で、遠く離れた春日部の共栄高校に入学した。『らき☆すた』の舞台となった高校である。一番ハードなクラスに入学はできたけど、楽しいスクールデイズの過ごし方などとうに失伝されている以上、日陰者として過ごさざるを得ないのは必然だった。しょげた容貌で毎日学校に通い、プライドがある以上オタクの輪の中にも入れず、当時流行っていた日常系のアニメに逆張りをしてみせていた。タイトルの「小市民的な幸福」とやらを意識して憎み始めたのもたぶんここからだったと思う。じゃあ日常の外側に何があったのかと言うと恒心教の掲示板に張り込んでヒリつくような個人特定のスリルを味わうことだけで、とうぜんながら人生それ自体が好転することもなかった。泉こなたも柊かがみも現れなかった。

 そんなマインドのまま、受験戦争を適当に勝ち抜いて法政大学に入る。本当は早稲田に行きたかったんだけど、高三の夏に偏差値三十代というレベルで勉強をサボっていたのだから、むしろ大金星と呼ぶべきなんだろうが、やはり俺の心は敗北の感覚に沈んでいた。就活する気も起きず、漫然と四年間を過ごし、そのまま無職に突入し、精神科で貰ってきたコンサータをODする。その状態で聖書を読むとなんだか神が見えたような気分になり、日常をしなくてもいい気分になれたんだ。でも最終的には色んなひとにやめろと勧告され、かくして日常は再来する。大学院での生活という形をとって。

そして分かったのは、小市民的な世界から逃れるなら覚悟が要り、そこで暮らすなら資格が要り、どちらも今の俺にはちょいとばかり欠けてしまっているということだった。まともな職場に入れるラストチャンスを前に、呻吟するばかりである。どうすれば小市民的な幸福、もしくはその等価物にありつくことができるのか。というか、そもそも俺はそれを憎んでいたんじゃないのか?そのころの気持ちを否定して、勝手に大人になったふりをして、あの自分を押し殺してしまってそれで本当に幸せになれるのか?問いは未だ残っている。

さして言えるのはこれだけである。「幸福になりたい」と。

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社不途
Good text.
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