第2話 十年の渇望

 体を包む温かい生地。染みついた、なんというか——古い木と、畳の匂い。それから微かに消毒液の芳香が鼻腔を衝く。

 コポコポと何かを沸かす音が聞こえた。

 和真は自分が布団に入れられて寝かされていることに気づき、ゆっくり目蓋を持ち上げる。


「起きたか、若いの」


 こちらに背を向ける形で新聞紙を読んでいた、縦も横も大きい老人が喉を震わせた。到底堅気とは思えぬドスのきいた声である。

 畳が敷かれた和室で、ちゃぶ台が一つとちょっとしたタンス類に、液晶テレビ。この老人の家だろう。沸騰音は、昨今滅多に見ないタイプの石油ストーブだった。天板の上には鍋が置かれ、それをさっきの少女がお玉でかき混ぜている。


「あの……えっと……すみませんでした」

「最近の若いのは何かとすぐに謝るな。反省などせんくせに」

「……すみ——。申し訳なさそうにしていないと、敵視されますから」


 この老人に嘘は通用しない。なぜか知らないがそう悟った和真は、本心を伝えることにした。


「なぜ、敵視される。正直に感情豊かでいることの何が悪い」

「みんな不幸だからですよ。だから不幸そうでいないといけないんです」

「馬鹿馬鹿しい」老人はそう言って茶を啜った。「周りが不幸そうならそれに合わせて不幸でいろ? くだらん。日本人のそういうところが、儂は好かん」


 如何にも昭和の親父というような男である。和真とは見てきた物が違う。無論、数も。そして質さえも。食い違うものが多すぎる。


「そうやって議論を放棄して、自分に都合のいいイエスマンで囲った『えすえぬえす』とやらの殻に籠るのは勝手だがな、そんなんじゃまたお前は穢れに喰われるぞ」

「……やっぱり、知ってるんですか。あれはなんなんですか」

穢者けもの


 鍋からぜんざいをよそった少女が言った。彼女は袴姿ではなく、ディスカウントストアで買ってきたような安っぽい部屋着のニットだった。


「膿んだ心の穢れが肉体を乗っ取り、魑魅魍魎と化した化け物よ」


 差し出されたぜんざいを、受け取った。じんと熱が掌に伝わる。

 老人がテレビをつけた。ニュースキャスターが読み上げるニュースは値上げ、原油価格高騰、海の向こうの紛争や、宗教対立、どうでもいい芸能界のスキャンダルに、聞き飽きた政治家の汚職。

 ああ、あれが穢れなんだ。和真は察した。顔色を伺うことは得意だ。たとえテレビ越しにでも、キャスターが疲れ切っているのがわかる。


「昨今穢れがひどくてな。こうなると、獄門が開く」


 老人がそう言って立ち上がった。ストーブの上のぜんざいをよそおうとして、少女から「お祖父ちゃんは血糖値高いから!」と手厳しく止められていた。

 なんとも格好がつかない——そんなふうに後ろ頭を掻いた老人は、やはり険しい顔をしている。老いさらばえ、白くなった髪。枯れ木のような皮膚。しかし、筋骨はまるでプロレスラーのようにがっしりとしている。


「獄門……牢屋の門、ですか?」

「そうだ。それが転じて、一部の妖を封じ込めた地獄の門という意味で、我らは使っている」


 妖。妖魅、妖魔、妖怪——とにかく、その手の物怪だろう。

 穢者とかいう、あんな化け物を見た——成った——のだ。夢であればいいが、少女は現にここにいて、ありがたいことに嘘を言っている様子はない。

 いっそそういう妄想を信じ切った統合失調症患者という線も疑ったが、やめた。それにしては情緒が安定している。


「ぜんざい、食べて。餅が固まると不味いから」

「あ、ああ……ありがとう。いただきます」


 ぜんざいの粒あんを啜って、餅を齧った。小豆の歯触りに、柔らかい餅の感触と舌を焼くような甘み。夢中になって、お椀の半分ほどを食べる。


「若いの。それを食って、美味いと感じたなら……もう少し頑張ってみんか。もう少し死ぬことを諦めてみないか」

「…………それは、」

「言い方を変えようか。お前には今一つ大きな素質があるのだ」


 老人はテレビを消した。それからついてこいと言って、和室の襖を開け地続きになっているリビングに通す。

 そこには白いスクリーンにプロジェクターがあり、彼はそれを映した。

 表示された画像は、この豊富市とよとみしの地図である。


「獄門が開くと、決まって地獄から女が何人か現れる。我らはそれを獄門少女、と呼んでな。美玲もまたその獄門少女の一人なのだ」


 和真は少女を見た。彼女は自分のぜんざいを、今の話を聞き流しながら啜っていた。

 ぱっと見、どこにでもいる——というには容姿が整いすぎているが——十八歳か、十九歳くらいの女性だ。その黒い瞳は——、いや。


「紅かった……あのとき、確かに君の目は、」

「ええ。力を解放するとそうなる。血の紅こそが、私たちの色」


 髪の内が朱色なのは今もだが、目は黒い。その目が一瞬、紅色に染まった。

 手品やなんかではないことは明らかだった。


「獄門少女は生まれながらに地獄に繋がれ、一種の執行猶予として人心が乱れた時代、土地に訪れる。そして彼女らは恩赦を勝ち取るために穢れや同胞を祓い、点数を稼ぐのだ」

「今がそうだって言うんですか?」

「そうだ。今まさにここが、この豊富が獄門少女が奪い合う舞踏場となったのだと、儂は睨んでいる」


 当事者である美玲は、脇のテーブルにお椀を置いた。ハンカチで口元を拭って、和真に問う。


「恩赦を勝ち得た獄門少女は、そこまで導いた祓葬師——いえ、わかりやすく言えば保護観察者の願いを一つ叶える特権を得られる。でも、おすすめはしない」

「美玲、」

「お祖父ちゃんは黙ってて。……獄門少女と穢れの、そして獄門少女同士の戦いに巻き込まれれば命はいくつあっても足りない。歴戦の軍人ですら呆気なく死ぬ」


 試されているのは確かだった。和真は、なら、と問う。


「なんとなく俺にその素質があるっていうのはわかった。君が本当は、その立場を必須としていることも。その上で聞くが、保護観察者がいない獄門少女はどうなる?」

「地獄に引きずり戻される。きっと、永劫恩赦の機会も執行猶予も得られない」


 自分のことだと言うのに、美玲の口ぶりは淡々としていて、危機感がなかった。

 和真はしばらく考えて、それから頷いた。


「君には多くを救われた。君のお祖父さんにも。俺でよければ、手伝いたい。何をすればいいのかは、わからないけど」


 地獄からきた少女は虚をつかれたような顔をして、それから「優しさで損をするタイプね」と返した。実際、その自覚はある。高校時代に付き合った彼女からも、「あんたっていい人だけど、いい人止まりね」といって振られたのだ。

 また大損をこくような判断をしただろうか。でも、和真にはこれ以外の恩返しが思いつかなかった。


「よし、これで若いのと美玲は晴れてバディになったわけだな。若いの、再就職の当てがないならうちの神社でこき使ってやるぞ。落ち着いたら顔を出せ」

「神社?」

「お祖父ちゃんは大河原稲荷神社の神主なの」と美玲。「私もアルバイトの巫女として働いてる」


 神主であるという老人は遅ればせながら大貫禅師だ、と名乗り、「このアパートは自由に使ってくれ。儂は本宅に戻る」と言って、去っていった。

 和真は何が何やら——とりあえず、のしのし玄関へ消えていく大きな背中に頭を下げた。

 美玲は鍵が閉まるのを待ってから、やけにねっとりした目で和真を見つめる。


「地上に来て十年……ずっと我慢してた」


 一歩、また一歩。彼女は和真に接近した。和真は壁際に追い詰められ、咄嗟にお椀を置こうとして落としてしまう。残っていたぜんざいと餅がこぼれ落ち、美玲は火照った顔を鼻先まで持ってくる。


「獄門少女は必ず罪深い欲を持つ。食欲、金欲、物欲——私は、」


 美玲がニットをゆるりと脱いだ。フロントホックブラジャーのホックを外す。ややくすんだ色の乳頭が顕になった。汗ばんだ皮膚に、まるで蒸気が立ち上るような甘ったるい吐息を吐きかけてくる。


「私は狂おしいほどの性欲に十年灼かれた」

「ま、って……よくないだろ。君は、いくつ——」


 小うるさい口を、美玲の貪るような接吻が塞いだ。


「お願いだから、満足させてね」


 美玲の目が妖しく紅に染まり、和真は媚薬でも飲まされたように鼻息を荒くし、彼女の柔らかい肢体を貪った。

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獄門ガアルズ・ナヰトメア 夢咲蕾花 @FoxHunter

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