ハリーにとって、新学期は多忙の幕開けとなった。ハリーが倒れたことを揶揄する生徒もそこそこ居たものの、それを気にしている暇もないほどハリーは多忙だった。
12もの科目を受講するという暴挙に出たハリーは、ある特権が与えられていた。スネイプ教授が二回も繰り返してハリーに忠告した上でハリーに貸与されたのは、タイムターナーという使用者の時間を巻き戻すことが出来る砂時計だった。
タイムターナーを三回ひっくり返せば、最大で24時間前まで巻き戻る。ハリーはこれを使って、マグル学を受講した後、同じ時間に開講されている魔法生物飼育学を受講することが出来る。
(……これ、『休み』も取らないと駄目だな。張り詰めてばかりじゃ身が入らなくなる)
人間の自律神経は、一日を二十四時間として朝から晩まで動けるように出来ている。しかし、タイムターナーを使用すればその周期はずれる。一日が二十四時間ではなくなり、去年とは異なる生活リズムを繰り返さなければならなくなるのである。精神状態を良好に保つために、ハリーは『休息』を入れた。
曲がりなりにもスポーツをやっているハリーは、他人より多い授業に耐えられるだけの体力があった。それでもハリーは占い学の授業を終えた後、休息が必要であると確信した。それは占い学という科目そのものが才能が前提とした学問で、そういう知識があると学ぶ意義はあれどハリーには占い学における才能は欠片もないと確信したからである。
ハリーは巻き戻りを体験して一日で、タイムターナーで十分だけ多く巻き戻り、脳みそを休ませてから授業に臨んだ。スネイプ教授は、『授業で必要な時以外にタイムターナーを使用しない』ことをハリーに誓わせていたし、ハリーもその誓いを破ったつもりはなかった。
ハリー以外に、ハーマイオニーも十二科目を受講していた。そのため選択授業でマグル学になったときや古代ルーン文字を受講したときは、ハリーたちと普段より近い席で授業を受けることができた。スリザリン生でマグル学を受講した生徒はほとんどおらず、ハリーたちはゆったりと穏やかに授業を受けることができた。
マグル学教授のチャリティー·バーベッジは公平な教師で、スリザリン生だろうがグリフィンドール生だろうが正しい発言や授業の進行に必要不可欠な疑問なら加点した。マグル学で学ぶ内容はハリーやハーマイオニーにとっては全て既知のものだったが、マグルの知識があやふやなアーニー·マクラミンのような生徒でも理解できるように、バーベッジ教授は丁寧に教えてくれていた。チャリティー教授は授業の最後には必ず小テストを出題してハリーたちを楽しませた。
「問1、マグルはどうして魔法が使えないのに発展できたのか、か。授業をちゃんと聞いてれば答えられる質問ばかりだね」
ハリーが苦笑しながら言うと、ハーマイオニーは眉間に皺を寄せていた。
「……けれどハリー。私、マグル学は少し問題だと思うの。チャリティー教授はいい先生だけど、マグル学っていう科目自体がマグルのことを馬鹿にしすぎているわ」
「マグルは魔法使いより劣っているっていうのはもう魔法使いたちの共通認識ですからねえ。でも僕はあれには意味があるって思いますよ」
アズラエルは穏やかにハーマイオニーを諭した。
「僕らスリザリン生がその代表格なんですけど、魔法使いはマグルよりも凄いんだぞって思いたいじゃないですか。そういう認識を持った僕らみたいな人間でも、マグルのことを小馬鹿にしながらも授業を受けてみれば、マグルの技術が素晴らしいことは分かるようになっている。逆に言えばそうやってマグルを見下しておかないと、誰もマグル学を受講しないんですよ」
「去年マクギリス先輩も言ってたね。……まぁ、今年のスリザリン生でマグル学を受講したのは僕らだけだけど……」
ハリーは残念そうに言った。マグル学を受講しているハリーはスリザリンでは変わり者で、スリザリンの後輩たちから理由を聞かれる度に、12科目を受講しなければ錬金術の授業を受けられないからだと説明するのが面倒で仕方なかった。
「私、マグル学は一般教養として皆受講すべきだと思うわ。少なくとも内容をもう少し是正した上でだけれど」
「そんなことしたら暴動が起きますよ。思想の押し付けだってね。……ハーマイオニー、こればっかりは英国魔法世界の伝統だと思って割り切って下さい。マグル学を学びたくもない人にそれを押し付けても、マグルへの差別感情を広げるだけだと思いますよ。グリフィンドールでもロンは受講してませんからねえ」
「……」
ハーマイオニーは不満そうに押し黙った。彼女がロンと一緒に授業を受けたかったことは明らかで、恐らくはそれとなく誘導もしていたのだろう。それでもロンは、その鈍感さゆえにマグル学を受講することはなかった。ロンだけではなく、大半の魔法族にとってはマグル学は『必須ではない』知識なのだ。
(…………もしかしてカロー先輩は開明的だったんじゃないか?)
マグル学に対する関心の薄さを感じ取る度に、マクギリスがなぜそれを受講しようと思ったのかハリーは気になった。しかし、今はハーマイオニーに機嫌を直してもらうことが先決だった。
「まぁまぁアズラエル。ロンはロンで必要になったら勉強するよ、きっと。……ハーマイオニー、次はDADAだ。気合いを入れて受講しよう」
栗鼠のように出っぱのまま頬を膨らませたハーマイオニーを宥めながら、ハリーたちはルーピン先生の待つ教室へと足を踏み入れた。そこにはザビニやロンが既にいた。選択授業が増えた三年生であっても、DADAはグリフィンドールとの合同授業だった。
***
リーマス·ルーピン先生は、ホグワーツ生たちの心を一発でつかみとった。ポルターガイストのピーブズが仕掛けたガムを、ワディワジ(逆詰め)によってピーブズに詰め返すという鮮烈なデビューを飾ったルーピン先生をグリフィンドール生は喝采をあげて、スリザリン生は拍手によって迎えた。
(この人は期待できそうだな)
ハリーはザビニやファルカスと顔を見合わせて、ルーピン先生がキングズリーのような『当たり』の先生ではないかと期待に胸を膨らませた。ホグワーツ特急でデイメンターを追い払ったことと合わせれば、魔法の腕があることは確かだ。少なくとも、ロックハートのようなことにならなければそれだけで当たりと言えるだろう。
ハリーたちの世代では、DADAの教師にはある法則があるとまことしやかに囁かれていた。それは、『最初の教師は無能』だというジンクスだ。原因はもちろん去年のロックハートと、その代役だったキングズリーの教師としての差によるものだった。
ある程度ホグワーツを過ごした高学年の学生からすると、DADAの教授は就任して授業をしてくれるだけでも偉い、という認識になる。就任すれば高確率で破滅する仕事など誰だってやりたくはないからだ。しかし、ハリーたちは13歳。これから先、進路を決定するOWLを意識しながら勉強し始めなければならない。優等生のハーマイオニーも含めて、最低限の教育の質は保証してほしいと思い始める年齢だった。
ルーピン教授の最初の授業は、理論重視ではなく実践重視だった。白髪交じりの新米教師は最初に、古びた箪笥を生徒たちの前に出して中に何がいるかと問いかけた。
「この中にはボガートという闇の魔法生物が入っている。さて、皆はボガートが何なのか答えられるかな?」
「形態模写生物です」
「その通り。グリフィンドールに五点あげよう。では、何に変化する?」
「……対峙している人間の、一番恐ろしいものに変化します」
「これまた正解だ。スリザリンに五点。ボガートは暗く、人の手に触れないような場所で生まれ育つ。そして不意に遭遇した人間の最も恐ろしいものに姿を変えて、人間の恐怖心を糧に成長する」
真っ先に挙手したハーマイオニーの近くで、ハリーや何人かの生徒たちも手を上げた。ルーピン先生はハリーを指名し、ハリーは正解を言い当てた。
ハリーは教科書で予習していたこともあるが、実際に体験したことでその生物の恐ろしさをよく知っていた。
「ボガートは姿を変えるだけで、実際にそのものの能力を再現するわけではない。ボガートに対抗するものは、『笑い』という感情だ」
(まずいな……)
ハリーは内心で、ボガートと対峙することを恐れた。ハリーが恐怖の象徴として思い浮かべたのは、ヴォルデモートでも、両親の死体でも、バジリスクでも、そしてトム·リドルでもなかった。ハリーが真っ先に思い浮かべたのは、ハリーを罵倒するバーノン·ダーズリーの姿だった。
ボガートがハリーの恐怖を感じ取れば、ボガートはバーノンに変化するだろうことはハリーには分かっていた。
(……落ち着け。すぐに馬鹿馬鹿しい姿にすれば、誰も僕がマグルを恐れているなんて気がつかないだろ?)
ハリーは自分にそう言い聞かせて、リディクラスで馬鹿馬鹿しい姿になったバーノンを想像しようとした。しかし、その試みはうまくいかなかった。
一年前の夏期休暇で、ハリーはボガートと遭遇してリディクラスでボガートを撃退するという方法も教わった。しかし、ハリーにはどうしても、バーノンを馬鹿馬鹿しい姿にするというイメージを持つことが出来なかった。どうしてか、それで笑うことが出来なかったのだ。
ハリーは気がつかなかったものの、スリザリン生の多くはボガートと対峙することを嫌がった。自分が恐れていることを暴かれるというのは思春期の少年少女にとってあまりにも酷なことで、それを笑いに変えるというのは、『勇気』が必要な行為だった。
リーマス·ルーピンがこの授業を三年生の一発目に持ってきたことには理由がある。ルーピンは、家庭環境に問題がなさそうなグリフィンドール生たちやネビル·ロングボトム、そしてスネイプ教授から警告を受けていたクラブとゴイルという劣等生に、笑えるイメージというものを事前に想像させた。スネイプを恐怖するネビルにはネビルの祖母の姿に女装したスネイプを、勉強嫌いのゴイルにはノートを補食するモンスターブックの姿を、空腹が怖いクラブには山ほどのご馳走をイメージさせ、ロンをはじめとしたグリフィンドールの生徒やアズラエル、ファルカスなどのスリザリン生たちにボガートをリディクラスで追い込ませたあと、ネビルやクラブ、ゴイルらにもリディクラスを唱えさせ、彼らに呪文を成功させてみせた。
ルーピンの思惑は驚くほどにうまく行き、ネビルやクラブ、ゴイルは飛び上がるほどに喜んだ。クラブとゴイルはドラコから肩を叩かれ、少しだけ見直された。
劣等生と呼ばれるネビルは自身への自信のなさから、クラブとゴイルは勉学の苦手さゆえに、理論への理解の不十分さから魔法をうまく発動できずにいることが多かった。しかし、リディクラスという魔法は、変身呪文の一種でありながらボガートの性質を利用しているためか、使用者がイメージさえ出来れば発動させることは容易い。リーマス·ルーピンは見事に、彼らに魔法を使うことへの喜びを教えた。苦手意識を持っていた子供たちに成功体験を得たことによって、授業が進めやすくなったのである。
しかし、リディクラスに参加した生徒たちの中にハリーやザビニ、ドラコやノット、ダフネやグリフィンドール生のザムザ·ベオルブなどの姿はなかった。ルーピンは予め、抱えている事情が重い生徒をスネイプ教授から聞いていた。そのため、そういう生徒の前にボガートが進まないようにうまく誘導していたのである。
丸い黄金の球体へと変化したボガートをルーピン先生がリディクラスで霧散させたときには、教室のなかは爆笑に包まれ、大盛り上がりになっていた。ルーピンは授業の終わりの質問にも快く答えた。
「あのー先生。俺、ボガートへの対処方法が思い浮かばなかったんすけど、どうすればいいですか?」
「……心の底から恐ろしいと思うものを笑うというのは、本来とてつもなく難しいことだ」
笑いに包まれていた教室は、ルーピン先生の言葉に息を飲んで耳を傾けていた。
「この授業の本当の意義は、笑いで恐怖を撃退することだけじゃない。自分が恐ろしいと思うものを、自分の中で想像しておくことだ。相手が『ボガートだ』と一瞬でも認識できれば、恐怖は薄れて足も動く。どうしようもないと思ったときは、逃げて大人の魔法使いに対峙してもらうことも頭にいれておいてほしい」
ルーピンの言葉は的を射ていた。理屈の上では、ルーピン先生の言う通りにすべきなのだろう。しかし、ハリーは納得出来なかった。
(いや……それじゃ駄目だろ。大人に任せるんじゃ……自分の力で出来るようにならないと……)
昼休憩へと向かうザビニたちを尻目に、ハリーはルーピン先生に頼み込んだ。
「ルーピン先生。僕もボガートの退治がしてみたいです。自分が怖いものを他人に押し付けるなんて僕には出来ません。先生のご都合の良い時間で構わないので、どうか補習をさせて頂けませんか?」
「あのっ……わ、私もやってみたいです。どうか私にも教えて頂けませんか?」
「僕も教えてください。難しいかもしれないけどやってみたいし、自分が本当に恐ろしいと思ったものにボガートが変化するのか確認したいんです」
ルーピン教授にそう頼み込んだのは、意外なことにハリーだけではなかった。ダフネやグリフィンドールのザムザといった一部の生徒たちも、教室に残ってルーピン先生に頼み込んだ。ルーピン先生は一日にして、ホグワーツの生徒たちから信頼を勝ち取ったのである。ルーピン先生は、一人一人に個別に指導をすると言い残して教室を後にした。
ここのハリーのボガートはディメンターではないっ!!
毒親ことバーノン·ダーズリーその人だぁっ!!!