生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)

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生長の家を学ぶ (62866)
日時:2024年01月27日 (土) 11時21分
名前:本音の時代

かつてネット上で谷口雅春先生関係の書籍がpdfとして掲載されたことがあった。読みたいと思ってダウンロードした。

愛國は生と死を超えて
諸悪の因・現憲法
聖なる理想・国家・国民
明窓淨机 草創篇 昭和5~12年
明窓淨机 発展篇 昭和13~15年
明窓淨机 飛躍篇 昭和16~19年
明窓淨机 戦後篇 昭和20~28年
明窓淨机 新生篇 昭和29~31年
明窓淨机 修練篇 昭和32~34年
實相研鑽1
實相研鑽2
實相研鑽3
驀進日本の心と力
生長の家三拾年史
生長の家四拾年史

本音さん (62868)
日時:2024年01月27日 (土) 14時28分
名前:元信徒


実相研鑽①読んでみたいです

 (62870)
日時:2024年01月27日 (土) 14時51分
名前:本音の時代

honnenojidai@yahoo.co.jp

ありがとう (62874)
日時:2024年01月27日 (土) 16時34分
名前:元信徒

ありがとうございます

大調和な和解した仲よしになった人々の集まっている家ならそこが生長の家です。 (62910)
日時:2024年01月29日 (月) 14時28分
名前:本音の時代

檜町の乃木神社前の生長の家本部建物へ道を聴くためにお集まりになっている人は、毎日三、四百人は集まっておられるのでありますが、その中のある人がある日のこと、女の人でありましたが、こういうことをお尋ねになったことがあります。「わたしの夫は生長の家というものにあまり興味をもっていません。別に生長の家というものに反対ということもないけれども、それでもあまりわたしが生長の家に出かけて行くことを喜ばれません。ですから、夫が会社へ出勤せられますと、さっそく夫から自由に解放されたというような気持で道場へ来て先生のお話を伺います。それがいつとなしにまた、夫に漏れると夫の機嫌が悪いのです。そこで先生どうしたらよろしいでしょう。わたしは、どうしても生長の家というものは、ありがたくて離れられないというような気持がするのですが、いったいどうしたらよろしいでしょうか」と言ってお訊きになったのであります。その時にわたしが申し上げました言葉はどうであるかといいますと、「生長の家というのは、この講堂とか建物のことを言うのじゃないのですよ。生長の家というのは家族仲のよい家ということを言うのですよ。生長の意の聖典『生命の實相』の第一巻の巻頭にどう書いてあるかと言いますと、『汝ら天地一切のものと和解せよ』とこう書いてある。そのとおり天地一切のものと仲良しになったら、そこがそのまま生長の家なんです。いわんや夫と仲よしにならねば、いくらあなたが生長の家の雑誌を読んでもあなたのいる処は生長の家ということはできない。生長の家というのは、こういう講堂であるとか校舎であるとかいうような建物の名前ではないのですよ。本当に大調和な和解した仲よしになった人々の集まっている家ならそこが生長の家ですよ。ですからあなたが自分の家にお帰りになって夫と本当に仲がよくなったらそこが生長の家なのだから、生長の家へ行きたければ自分の家でご主人と仲良くしなさい。それが生長の家へ行ったことになる」こういうように申し上げたのであります。「生長の家」に凝って家庭が破壊したなどという人がもしあれば、その人は『生命の實相』の第一ページだけすら読んで実行しなかった人だと言わねばなりません。生長の家というのは建物でもなければ、一個人の家でもないのであります。むろん、わたしの家ではありません。生長の家というのは宇宙の普遍内在の実相である。普遍内在の実相というのは、事物の内部にいたるところに満ちている本当の相(すがた)のことであります。宇宙内在の本当の相なるものは生々化育そのものであって、無限に伸びてゆく相ををしているのであります。これが生長の家というものなのであります。ですから「生長の家」とはここに見よ、かしこに見よと言ってはないのであります。たとい『生長の家』の誌友名簿に登録してありましょうとも、真理に随って生々化育して伸びてゆくところの宇宙内在の相があらわれていなければ、その人は生長の家の人だとは言えないのであります。だから、われわれは生長の家の道場へ行きたいと思えばシッカリと脚下を踏み締めて、自分は生長の家の道場にいるかということを照顧してみる必要があるのであります。講堂も道場ではありますが、家庭はいっそう「生長の家」の道場であります。いかにこの自分の家庭に円満完全なる生長の家を実現するかが、皆さんに与えられたる公案であります。その公案を説くために助言となり、導きとなるのは『生命の實相』という本であり、『生長の家』という雑誌でありますが、家庭をいかにして生長の家(生々化育の家)たらしめるかという公案を解くことが面倒くさいというので、家庭を放擲して教化部の建物ばかりやってきて「私は生長の家に熱心なのです」と言っても、そういう人は生長の家に熱心なのではありません。そういう人は、家庭を生長の家にするのに不熱心なのです。家庭が整うて社会が整い、社会が整うて国家が整い、国家が整うて宇宙が整うのであります。整うとは円満完全にいっさいが諧和し、生々化育の普遍内在の実相が、現実界にあらわれてくるということであります。そこで生長の家は、そのように、宇宙の普遍内在の実相であり、一ヵ所の名前ではありませんが、その代わり、その内在の生々化育の実践が完全にできる人は何宗教に属しておられてもまた属しておられなくとも、生長の家がそこに顕れたということになります。(頭注版『生命の實相』第36巻 60-63頁)


生長の家の教えは「感謝と和解」とも言えるのでしょう。
谷口雅宣総裁は兄弟姉妹と和解していません。恵美子先生に対しても感謝や和解していなかったように見えます。もし感謝和解していれば恵美子先生を何回も訪ねていたことでしょう。現実は一度の訪ねていません。谷口雅宣総裁を生長の家と呼ぶことができるのでしょうか。
学ぶ会も社会事業団も生長の家教団に対する怒りを忘れません。怒りを捨て、和解調和を取るのなら、とっくのまえに『生命の實相』の出版を認めているでしょう。


大調和な和解した仲よしになった人々の集まりになりますように。

実相研鑽① (63020)
日時:2024年02月03日 (土) 13時28分
名前:雅春先生の信徒(元信徒)

本音様

合掌 有難うございます。

本音さん、実相研鑽の①を読ませて頂いてます。
谷口雅春先生の直接のご指導が掲載されていて、読んでいて感動、感動の連続です。
今は、145ぺーじの繁栄の法則のところで、全ては、神様の繁栄を頂いているから循環して神様にかえさないといけないと言うところが勉強になり、伝道の大切さも分かりました。
あと、祈りの大切さも。
谷口雅春先生は、常に神様の御心を聞く事が大切だと。


私は、いかに信仰から離れてしまった事を痛感しながら読ませて頂いております。

素晴らしい本を有難うございます。

アンダーラインの引き方が分からないので、二周目の時は、ノートに抜書きしたいと思います。


しかし、本当に素晴らしい本です。
なんて、こう言う素晴らしい本を教団で継続して販売しないのか。
そこが衰退していく原因かとも思います。


本音様、本当にどうもありがとうございました。





生長の家の現代的意義  『生長の家30年史』から  その1 (63185)
日時:2024年02月08日 (木) 17時06分
名前:本音の時代

生長の家の現代的意義
社会変革原理としての立教の使命
― 三十年の歴史に立つ光明化運動営面の任務と活動の根本をなすもの ―

山口悌治

一、

 生長の家立教三十周年を迎えて、本都職員はもちろんのこと、中央地方の全組織は強固な団結と統制のもとに、いよいよその充実を図りつつその機能と企画の一切を傾けて、全信徒がこのみ教えによってはじめて得られたその神の最高の自己実現としての自覚、その無限の感謝と悦び、その円満具足の肉体、その大調和の家庭、その天興の職業、その社会的地位立場の悉くを活用して、相ともに一丸となって展開しなければならない布教活動の根本理念は、それを一言に絞っていえば、次の一点に帰著すると信じます。生長の家信徒として自負する私共は、生長の家立教の、今日に於ける真実の意義と役割を(三十年後、五十年後にはまたその折の人・時・處に対応して立教の使命役割を果さなければなりません)どのようなものとして自覚し把握したら正しいか、そしてその正しく自覚し把握された意義役割をいかなる活動目標の達成に集中し挺身する時に、真に信徒たり得るか――に関するものであって、即ちそれは――
生長の家出現の使命は、「人間は、皆神の子
である」という人間観の完全革命を逐行しつ
つ、日本国家をしてその建国の理念さながら
に正法の支配する真理国家たらしむべく、現
実社会を霊的生命的に変革することである。
 従来、人類光明化運動といい、日本の実相顕現の愛国運動といいならわしてきましたが、立教三十周年を機会に、百尺竿頭を更に推し進めて、上記のように、一層鮮烈で、明確で、行動的な表現をもってその使命役割を打ち出し、その現成に向って一斉に踏み切らなければならない事態に内外ともに立ちいたっていることを痛感するからであります。この「革命の前夜」を思わせるような眼前の社会情勢を根本から変革して日本の実相を顕現する、その変革の原理として立教の使命を再自覚することは、決して過激でも誇張でもありません。事実、光明化運動が普及徹底して、日本の国家形態を真理国家として確立し、その政治体制、その社会機構、その経済組織、その生産関係、その文教政策等々の理想が正しく実際に実現し得るためには「保守」「革新」を問わず、今日支配的に横行している国家政治社会文化に関する思想感情を根本的に革命しなければ、絶対にその目的を成就し得ないからであります。人類光明化も日本の実相顕現もまったく空文に化するほかはないからであります。もちろん、人類光明化、日本の実相顕現というスローガンに、不満や誤りがあるのではなく、まったくその通りなのですが、これらの合言葉には、決然として行動に踏みきれる要素が若干不足しているため、これを観念する従来の一般信徒の信仰内容、自覚過程には、多分に自分本意的な、処世術的な自己満足と安易と御都合主義的な甘さがあり、それがいつかひとりよがりな殻となって、かえって光明化運動の実質的発展のブレーキとなってきた事實は否定できません。
谷口先生は、昨年三月制定きれた『人類光明化運動指針――生長の家各員の運動心得十三ケ條』の前文に、「生長の家人各自の信仰内容の如何によって、或はその自覚の広狭深浅によって、立教の使命遂行のための諸方針も諸計画も諸施策も、結局は悉く左右されてしまふのである。光明化運動の将来を決する最大の問題は、決して外部の諸事情にあるのではなく、實にかかって生長の家人各自の自覚の如何にあると云っても過言ではない」と申されておられます。特に、『人類の危機に臨んで是非知らねばならぬこと』を最近のものとして、ここ数年来の先生の御文章や御講習に示される、國の内外の情勢に対する深き憂慮と分析批判のただならぬ熱しきを考えますとき、先生の憂慮の深さと烈しさをそのまま私共信徒の行動に持込み、立教の使命の把握と遂行の血液とせねばならぬと思わずにはいられないのです。ここ数年ぱかりではありません。先生は立教の当初から――
「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。友よ助けよ。同志よ、吾れに投ぜよ。人類は今危機に瀕してゐる。自分の火は小さくとも、人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。此の火は天上から天降った生長の火である。火だ。自分に触れよ。自分は今覚悟して立ち上った。見よ。自分の身体が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する 」と。
これが、光明化運動発進の先生の宣言なのです。私共全信徒同志は、先生のこの宣言の熱血に立って、自分の身体が燃えつきるまで、蝋燭のようにみずからを焼きつつ、いわゆる資本主義はもちろんのこと、およそ唯物論を根拠として発している自由主義、民主主義、民族主義、社会主義、マルクス主義等を指導理論とする社会体制やその観念形態(イデオロギ一)を根本的に変革することなしには、神意(宇宙眞理)の地上顕現も世界平和の實現も到底あり得ないことを決意すべきであります。
最近、九州大学の教授である向坂逸郎氏は純粋なマルクス主義者としての立場から、現在の社会党の在り方を批判して、社会党の左派が右派と合同して議会主義的な國民政党論によろめきつつあるのは社会党として根本的な誤りである。社会党はあくまでも労働者農民を基盤とする階級政党であるべきであり、階級政党による社会主義革命には妥協も話し合いもないのであるから、社会党が議会主義による平和革命を夢みるのは痴人の妄想に等しいとして、あくまでも議会主義を否定して、階級闘争による社会主義革命の党であるべきことを強調し、総評もまたこの向坂論文に同調して、革命政党としての社会党の理論的強化尖鋭化に圧力をかけつつあります。
社会党はよろしく階級政党に徹して、國内革命に、日本國家の顛覆に邁進せよ という論
議が堂々とジャーナリズムの上を闊歩していても、別にそれに対して眞向からとがめる人も見当らず、これも言論の自由だからでしょうか。それとも、このような奇怪な論議をさして異としないほど、日本の思想状態は民主化され、赤くそまっているのでしょうか。
この向坂論文にたいし、社会党裳の鈴木委員長は、議会を通じて平和的に社会主義革命を遂行する事を強調していましたが、もともと左派の人であり、かつて左派が右派と合同した折、その統一綱領の左派の草案を発表して、社会党はあくまで階級政党であるべきこと、社会党が政権をとったあかつきには、社会党の永久政権すなわち独裁を實現すること、したがってその反対の一切の策謀を封ずるため憲法を改正することを、新聞記者に公言した人物であるだけに、どのようにひっくりかえるか判ったものではありません。
もともと社会党という存在は、共産党と一線を画すと主張している限りは、今後いよいよ影のうすい、存在の意義をなし崩しに失って、末は、共産党に逃げ込むか、保守政党に吸収されるかするほかはないのです。資本主義の未成熱な群小の後進國家ならいざしらず、資本主義の高度に発達した國々では、保守政党といえども資本主義に内在する欠陥る除去しつつ、革新的な社会主義的政策をどんどん取り入れて社会党のお株を奪い、資本主義國家形態から共産主義國家とは別な形態の社会福祉國家に計画的に移行しつつある趨勢にあるのですから、社会党が階級政党たらんとする限りは、必ず共産党の傘下に立つか、分裂して右派系は保守へ、でなければ保守の左派と結んで第三党へ、左派は共産党に呑み込まれてしまう運命にあるといえるでしょう。そこがまた、共産党の手先きである総評のつけ目なのです。
日教組の幹部や総評にとっては、勤評そのものが問題なのではなく、或いは二次的三次的には問題を含んでいるのかもしれませんが、それよりも勤評反対闘争をはなぱなしく執拗に展開することによって、政府の強圧と反動性を巧妙に宣伝して、あたかも岸政権の反動性が日本の國家形態に内在するかの如くにすりかえて、打倒岸政権がそのまま感情的に國家否定に流れ込むように國民の潜在意識に植えつけ、「なんでも反対運動」を次々に起しては國内革命への大衆動員の幅を拡げ、道を容易にする戦術とするそれが第一義なのです。目的は國家と國民この離反にあるのです。現在意識面では、直接國家否定を打ち出すことは、致命的なマイナスとなりますから、潜在意識面で、國家と國民との生命的な意識下での深いつながり、意識下ですからなんら理論によって防備されないままに本能的に放置されている深い長いつながりを断ち切って、國家を架空の観念に追い落し、無用のガラクタたらしめたいのです。國民の潜在意識への心理学的浸透戦術の採用は、新聞、放送、ニュース映画等のマス・コミ戦術と結んで、とみに活発化しています。警職法改正問題に総評が打った手はいい例証です。ことに最近の総評の動きは著々と國内革命への手順を整えつつあるかに見受けられます。國内にソ連の大使館が開設せられていることも見落してはなりません。
一方、自民党はどうかといえば、このような國内情勢を知らぬはずはないのでしょうから、まずなによりも國民の党としての性格を明らかにし、党内派閥の利害によって歪められることのない保守政権としての思想を統一し、マルクス主義者やその党派以外の何人も承服せざるをえないイデオロギーと社会政策の路線を確立すべきなのですが、旧態依然として、派閥争いに浮身をやつし、それには相応の理があるのかもしれませんが、左翼系ジャーナリズムの好餌となって、総評体制の強化に側面から応援するような羽目を自ら招いています。そのどさくさをせせら笑うかのように、総評では、本年度の春季闘争の第一波を、「資本の搾取に対決する階級闘争である」とうたって、二月下旬から三月上旬にかけて、中立組合とも手を握って全國的に實カ行使に入ると発表しています。
二月下旬から三月上旬といえば、恰度そのさなかに、私共生長の家の信徒は立教三十周年記念の第一回全國威信徒大会を開催することになるわけです。こうした國内情勢のもとに、全國から一萬三千の信徒を動員して開かれる立教三十周年記念の信徒大会は、日本國家の運命にとっても、立教の使命遂行の在り方にとっても、信徒としての自覚の在り方にとっても、きわめて重大な意義をもつものとならなければならない理由を、よくよく納得して戴けると存じます。
ソ連國を除いた自由主義國家群の中で、日本ほど、マルクス主義の学説に最高の権威をいまなおもたせ、のさばらしている國はないそうですが、そのマルクス主義をも含めた一切の唯物論体制を変革することなしには、日本の實相も顕現しないし、御心の天になる相を地上に現成することはできないことも、もはや明らかでありましょう。
では、現實社会の変革は、如何なる面から著手したらよいか。
生命の實相哲学は、人間生活に関する一切の原理を余すところなく含んでいるのでありますが、教勢の現状は、目下、高度な組織力と強固な思想の統一を形成充實の過程にあり、国家対策委員会も発足直後であり、主として信徒個々人の個別的な活動しか、あるいは少数グループの地域的職能別的な活動しか期待できませんので、現實社会変革の手懸りとして、次の二つを基本的な線とするほかはないと思います。
一、人間観の変革の問題
二、日本国家の理念現成の問題
副次的には、病気の問題、家庭の問題、教育の問題、日常生活や行事の問題等々、直接個人生活にかかわる或いは少数グループの身近かな諸問題がありますが、それらを巧みに援用しつつ前記の二鮎を基本と定めなければ、社会変革の軌道を強大な力たらしめえないことは日頃からの先生の御指摘の通りであります。
そこで、ここでは第一の人間観の変革の問題を取りあげてみようと思います。

(つづく)



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