夏休みの終わり際に、ハリーとシリウスはダイアゴン横丁を訪れていた。闇の魔術に対する防衛術の新しい教師は、なんと全ての生徒に七冊も自分の著書を買わせるという蛮行に及んでいた。ハリーはロックハートという魔法使いについて、シリウスに聞いてみた。
「ロックハート先生ってどんな人なの、シリウス?すごい人らしいけど……」
ハリーは大人をあまり信じていないが、シリウスとハグリッド、そしてスミルノフ氏の言葉は基本的に信じるつもりだった。
「ハリー、面識がないやつのことは私にもわからないぞ」
「数々の魔法生物と冒険を成し遂げた偉人だ……と本人は言っている。トロルとの冒険、鬼婆との旅行、その他にも闇の魔法生物との心暖まる物語……全てをやり遂げたのなら、間違いなく偉大な魔法使いだ。少なくとも文才は確かなようだな」
シリウスはハリーに淡々と言った。
シリウスの時代に、そういった冒険を成し遂げられる魔法使いはいなかった。暗黒時代において能力のある魔法使いはほぼ例外なく例のあの人にスカウトされ、闇の魔法使いになることを強要されたからだ。
腕に覚えのある魔法使いであっても己の最も得意とする魔法は隠し、偉業を誇示しない。それがシリウスの時代の魔法使いの標準だ。ロックハートのような魔法使いが己の力量を誇示できるのも、それだけ時代が平和になったからなのだ。
「シリウスなら全部できるんじゃないの?」
ハリーはシリウスの魔法使いとしての力量を疑っていなかった。ロックハートのことは知らないが、シリウスなら全部できたっておかしくはないとハリーは思った。
(他の魔法生物のことはよく知らないけどトロルとは、去年さんざん冒険したし……シリウスなら出来そうだけどなあ)
ハリーやロンやハーマイオニーにできたことが、シリウスに出来ないとはとても思えなかった。ロックハートの偉業が魔法使い全体にとってどれだけ凄いことなのか、ハリーには今一つ分かっていなかった。
「私が?いいや、それは違うぞハリー。功績ってのはできるかどうかじゃなく、やったかやらないかだ。私はロックハートのように色々な種族との心暖まる交流を経験したことはない。私がやった昔のことは……人に大っぴらに話せるようなことでもない」
シリウスは青春時代の思い出を明かさなかった。友人との交流はその友人の非常に個人的な問題について触れなければならなかったし、何よりシリウスには自分を誇大広告する趣味はなかった。
シリウスはロックハートに対しては複雑な心境だった。防衛術の職を望んでいたシリウスにしてみれば、その立場をかっさらっていった相手ではあるが、ハリーの保護者として見ればこれから少なくとも一年はハリーがお世話になる相手なのだ。ハリーの前でロックハートを貶すわけにはいかなかった。
ホグワーツの授業料は無償だが、教科書代は各家庭の負担になる。通常の教科書よりも高価な自分の本を全生徒に七冊も買わせようとするロックハートがいい教師だとは思えなかったが、シリウスは内心を外には出さず、フローリッシュ·アンド·ブロッツ書店に赴いた。
「とんでもない人だかりが出来てるね」
ハリーは書店に魔女が集まっていることに気がついた。
(失礼だけど、おばさんが多い気がする……)
「さっさと教科書を買って帰るぞ。……ハリーが良ければ、変身術の専門書を追加で買ってもいいが」
「本当に!?いいの?!」
「この夏休みの間、ハリーはかなり頑張ったからな。ちょっとしたご褒美だ」
(これがご褒美になるというんだから分からんもんだな……)
シリウスは緑色に輝くハリーの目を見て苦笑した。ハリーは試験でOを取れなかった変身術に並々ならぬ意欲を持っていて、シリウスに何回も質問をしていたからだ。同年代のときのシリウスやジェームズはハリーよりも成績が良かったが、ここまで勉強熱心ではなかった。そもそもシリウスやジェームズは幼い頃からうんざりするほど勉強を押し付けられていたので、意欲が沸くことはなかったのだ。
マグル生まれの魔法使いと、シリウスのような魔法使いの家庭で育った魔法使いとでは修学環境に圧倒的な差がある。そのため、成績では後者に軍配が上がりやすい。しかし勉強はやらされるものではなく、本人の意思でやるものだ。マグル生まれの魔法使いが魔法使いの家庭に勝るものがあるとすれば、魔法が未知であるがゆえの学習意欲の高さである。ハリーにはそれがあった。
ハリーは目を輝かせて書店の中に入り、困惑しながら目の輝きを失っていった。書店の中にいる一人の魔法使いが、自分のサインを魔女たちにばらまいていた。魔女たちのせいで、変身術のコーナーには近づくことさえできない。
「……書店でサイン会、か。商売上手だなロックハートは」
シリウスは、忘れな草色のローブを着た美形の魔法使いが満面の笑みで撮影されているのを確認した。
「本を探せなくて迷惑なんだけど……」
「今日は潔く諦めろ。後で通販で買ってやるさ」
シリウスはハリーに笑いかけ、『私はマジックだ』というロックハートの著書を手に取った。
その時、小男のカメラマンの撮影を受けていたロックハートが大声をあげた。
「おお!その姿はもしや……シリウス·ブラックとハリー·ポッターでは!?」
「人違いだ」「人違いです」
シリウスとハリーはほとんど同時に否定したが、人の波がそれを許さなかった。ロックハートに群がっていた魔女たちは、シリウスの姿を一目見るやシリウスの方を向いて話しかけてこようとする。
(いかん。さっさと終わらせねば他の客に迷惑がかかる……!!)
魔女たちに群がられたシリウスの判断は早かった。シリウスはロックハートに、ハリーはまだ子供なので撮影はやめるように言うと、自分が身代わりになって撮影を受けた。ハリーはシリウスのお陰で、お人形のようにカメラで撮影されるという屈辱を免れた。アズラエルから閉心術の初歩を学んだからといっても、やりたくないことはある。
「いやあ、今日はいい日です!!私とシリウスが揃えば、雑誌は売り切れ間違いなしですよ!!何せ英国魔法界の英雄が二人も揃っているのだから!」
ロックハートは終始笑顔を崩さずに撮影を受け、最後にシリウスと握手した。
「それは良かった」
シリウスはロックハートにほとんど事務的な笑顔を見せた。ハリーには見せない営業スマイルだったが、ロックハートはいたく感動した様子で、シリウスに今度ハリーを交えて食事はどうかと誘いをかけていた。
「私もこれから忙しくなりそうでな。申し訳ないが……」
「それは残念!いやしかし、また機会があればお会いしましょう!私がホグワーツで偉業を達成した暁には、あなたにも私の偉業をお伝えしますよ!今日のお礼に、私の全著書をハリー君にプレゼントいたしましょう!」
「あなたの厚意はありがたいが、ハリーの分はもう購入している。他の客に抽選したらどうだ?」
「それは名案ですね!」
シリウスはロックハートにうんざりし、その厚意をはねのけた。英雄だなんだと言われてからロックハートのように近づいてくる相手は珍しくない。シリウスはそのあしらい方も板についてきた。
結局、ロックハートの全著書を無料で入手するという幸運にみまわれたのは赤毛の少女だった。ハリーはそのとなりにのっぽの赤毛……見知った顔の親友を見つけて嬉しくなった。ロンたちの傍には栗色の髪の毛で出っ歯の少女もいた。
「ロン、君も本屋に来てたんだね。ハーマイオニーも。……そっちのきみは妹さん?かわいい子だね。はじめまして」
「は、はじめまして。……ジニーです」
ロンの妹は随分と引っ込み思案なようで、ハリーに挨拶したあとロンの陰に隠れてしまった。
「妹は君にお熱なんだよ」
「君の活躍をロニー坊やが語って聞かせるもんだからな」
フレッドとジョージがそうからかうと、ジニーは二人を威嚇するように睨み付けた。その貫禄は凄まじく、その視線を受けても平然としている双子もまた凄まじい精神力だった。
「ロックハートってなんだか目立ちたがり屋のクソ教師の雰囲気がするよなあ。あんなんで一年持つのかな?」
「まぁ、ロン。先生にあんなのなんて言うのは良くないわ。まだ授業が始まってもいないのに」
ロンは妹が新品の本を手にしたことで少し羨ましそうな顔を妹に見せていたが、防衛術の授業の心配をしていた。ハーマイオニーはそんなロンをたしなめていた。彼女は学年一位を取れるほど優秀な魔女だが、美男子には甘かった。
「シリウスによると、防衛術は自分で学ぶものらしいよ」
ハリーは何の慰めにもならないことを言った。
「ハーマイオニーならそれでもいいけどさ……俺は皆みたいに優秀じゃないからなあ」
「気にしすぎだよ。君だって優秀じゃないか。君が優秀じゃないならザビニはどうなるんだよ」
「そうだそうだ。子獅子の言うとおりだぜ」
フレッドが言った。ハリーはスリザリン生らしくない勇敢さがあるとして、双子から冗談交じりに好かれていた。
「成績を気にするなんて、このウィーズリーの恥め」
ジョージはロンをこづいた。
「んー」
実際のところ、ロンの成績はそう悪くはなかった。ハリーたちスリザリン生と比較してもファルカスやザビニよりも総合点は上だ。実技のみならアズラエルにも勝る。ハリーもシリウスの指導を受けたり、先輩から過去問をもらって猛勉強していなければ負けていたかもしれない。
ロンは上の兄に十二科目で最優秀な成績を取ったパーシー·ウィーズリーが、すぐ傍には学年一位のハーマイオニーもいる。自分に自信が持てないのも無理はなかった。
ハリーたちがそんな会話をしていると、表で何かざわついた声がした。ハリーたちは急いで書店を出た。
「おやおやおや……アーサー·ウィーズリーではないか……」
周囲を道行く通行人は、道のど真ん中で悠然と周囲を見下すように立つ魔法使いをちらちらと見ていた。高価なローブに身を包み、杖を一点もののドラゴンの形をした装飾品に差した魔法使い……ルシウス·マルフォイが、少し禿頭が見える赤毛の魔法使い、アーサー·ウィーズリーに声をかけていた。ルシウスの傍にはドラコがいて、ドラコもルシウスと同じ高慢な顔をしていた。赤毛の魔法使いの隣には、誰かによく似た男女がいた。
(ハーマイオニーのご両親だ)
とハリーは気付いた。マグルは嫌いだが、ハーマイオニーの両親ならちゃんと礼儀正しく対応しなければならないと思った。ハリーは夏休みの間、散々練習したので今ならできるはずだった。
ハリーが(おそらく)グレンジャー夫妻に気を取られている間、ルシウスはウィーズリー氏を散々に侮辱した。貧乏であることやアーサーが仕事熱心であることをなじり、散々に貶めている。ついにはジニーのお古の本を手にとって、使い古しであることを侮辱した。
ハリーはルシウスの姿を見て胸が悪くなった。ルシウスは人間として最低だと思った。
「どうしてそんなことを言うんですか、同じ魔法使いなのに……!」
ハリーはほとんど反射的にそう言ったが、大人たちに聞こえてはいないようだった。ルシウスがグレンジャー夫妻を見て、彼らのことを……正確には彼らと交流があるアーサーを侮辱し、アーサーがそれに激怒してルシウスに殴りかかったからだ。
「や、やめて!」
「父上!」
ドラコは蒼白な顔になり、ハリーはほとんど反射的にアーサーに言ったが、声は届かなかった。双子やロンは歓声をあげてアーサーを応援した。
アーサーが殴り、ルシウスが応戦し……人に呼ばれてやってきたハグリッドが二人を止めようとしたとき、一人の魔法使いが二人に杖を向けた。
「レラシオ(離せ)」
「プロテゴ(守れ)」
その男、シリウス·ブラックは、魔法でもって二人の喧嘩を仲裁した。シリウスと一緒にいたはずのロックハートは、ルシウス·マルフォイを恐れて姿を消していた。
***
表の騒ぎを聞きつけたシリウスは、内心でアーサーを応援した。
(いいぞ!もっとやれアーサー!!ついでにその前髪を引っこ抜いてやれ!!)
と、シリウスの中のグリフィンドール魂が叫んでいる。ルシウスの態度に誉められるところはなく、それに激怒したアーサーはシリウスの中では人として正しかった。
ルシウスは公的には、闇陣営に服従の呪文で操られ、呪文が解けて改心したということになっている。しかし実際のルシウスの態度は財力や権力を振りかざすもので、改心したという態度ではない。ルシウスの手にかかり、あるいはルシウスの命令で命を落とした魔法使いたちのことを思えば、杖を向けていないだけアーサーは理性的だ。
だが、シリウスはハリーの友人、ドラコが怯えている姿を目の当たりにした。父親の姿を見せることはドラコの教育にはどう考えても良くなかった。さらにハリーを見た。ハリーは明らかに暴力に拒否反応を示していた。シリウスは本音をおさえて二人の仲裁に入った。
「そこまでだ、アーサー、ルシウス。子供の前ですることじゃない」
シリウスはぴしゃりと言った。二人のおっさんは荒い息を吐いて、ぎらぎらした目で互いを睨み付けていた。
明らかに腹の虫が収まらない様子のアーサーを、ハグリッドが引き取ってなだめてくれた。その間、シリウスはルシウスの話し相手となる役目を押し付けられた。
「シリウス……まったく、君という人間には驚かされる」
ルシウスは普段の高慢な態度を取り戻していた。
「己の子供があのような連中と交流を持っているなど、私の立場なら許しがたいことだ。君は保護者としての自覚が足りないのではないかね?」
ルシウスは己が正しいという立場を崩さなかった。純血主義の権化であり、そのつまらない考えに縛り付けられた姿を哀れに思いつつ、ルシウス個人の性格の悪さを嫌悪しながらシリウスは言った。
「……私の親戚だと言うのならば、せめて息子の友人やそのご両親に対しては敬意を払ってもらいたい、ルシウス」
「シリウス。私ならば……息子の交遊関係には気を使うがね。特にポッター君にはご両親から受け継いだ遺産があるのだから、それを狙って悪い虫がつかぬとも限らん」
ルシウスも時には正しいことを言う。ハーマイオニー·グレンジャーが変な虫だと言う気は欠片もないが、ハリーの境遇を思えば、財産狙いの変な女にひっかかられない保証はどこにもない。シリウスはルシウスの言葉に頷きながら、ハリーを信じるという姿勢を崩さなかった。
「ハリーは自分の頭で考えることができる子だ。心配してくれるのはありがたいが、私もハリーには言い聞かせている」
「だといいのだがねぇ……ポッター君のスリザリンに相応しい才能を、むざむざ潰してしまうのではないかと心配なのだよ。今のホグワーツはただでさえ教育の質が落ちているのだからね」
「ああ。確かにそうだな」
シリウスはダンブルドアがスネイプを登用したことについては懐疑的だった。ユルゲン·スミルノフや他の大勢の子供をもつ保護者から聞こえてくるスネイプの教師としての態度は最悪の一言に尽きるからだ。ルシウスはシリウスに教育論を展開し、最後にはこう締めくくった。
「アルバス·ダンブルドアは、誤った人材を登用することで有名だ。特にロックハートのような愚物を採用するなど。君も魔法使いならば、一流とそうでないものの差は理解できるだろう?」
シリウスの中で教師を断られたときの痛みがぶり返した。今の仕事に不満はないが、ハリーを自分の手で護れないことはシリウスの中で不満として燻っている。
「ロックハートが教師として一流かどうかはこれから分かるだろう。……店の予約をしているので、この辺りで失礼する。……行くぞハリー。友達には挨拶をしておけ」
シリウスはルシウスの長話に付き合わされたあと、親戚が侮辱したことをグレンジャー夫妻に謝罪した。夫妻はルシウスとシリウスが親戚であることに驚きながら、目を丸くして謝罪を受け入れた。シリウスはハリーを連れて喫茶店に向かった。ハリーに元気がないことが気になっていたが、カレーライスを食べて元気になったハリーを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
***
(アズラエルの言うとおりだった……)
ハリーはレストランでカレーに舌鼓をうちながら、先ほどのやり取りを思い返していた。
(人を侮辱して、殴られないわけがないんだ)
ハリーは先ほどの光景に既視感を覚えていた。スリザリンの上級生たち、例えばリカルド·マーセナスは、他所の寮の生徒に対して侮辱的な態度を取り、温厚なバナナージ·ビストすら激怒させて魔法で反撃を受けていた。先ほどのルシウスの態度は、純血主義というスリザリンの徳目を原理主義的に運用してしまった末路だと言えた。
(マグルは嫌いだけど……それを表に出すのはやっぱり違うよね……)
ハリーの中にマグルへの差別感情は依然として残り続けたが、ハーマイオニーの両親を憎むわけにはいかなかった。魔法界にはハーマイオニーの両親だけではなくて、スミルノフ氏の奥さんや、その他にもいろんな魔法使いの親のどちらかはマグルかもしれない。マグルへの差別感情を表に出したって、何も良いことはないのだ。
何より、ハリーには自分は悪くないのに侮辱される苦しみがわかった。ダーズリー家にされたことを、無関係のマグルにしたって気が晴れるわけでもなかった。
ルシウス·マルフォイはハリーにとって最高の反面教師になった。ハリーはマグルに対する差別感情を、少なくともホグワーツでは封印しようと決めた。
自ら(反面)教師になるルシウスさんはある意味有能。
名誉不死鳥の騎士団と言われるだけはある。