ハリーは暗闇の中にいた。ザビニたち三人がなにかを話題にしているのに、自分はそれについていけなかった。ロンとハーマイオニーが二人だけの世界にいて、そこでもハリーは一人だった。ドラコはハリーから離れていった。皆を追いかけようとしてハリーは必死で足を動かした。動けない。
ハリーの足に、何かがつかみかかっていた。振り返ると、顔面が焼けただれたクィレル教授が、ハリーの足を掴んでいた。ハリーは逃げられなかった。
その時、ハリーの側に近づいてきてくれた何かがいた。アスクレピオスだった。気付けばハリーはアスクレピオスと一緒に9と4分の3番線にいて、ハグリッドがハリーを見送っていた。ハリーの進む先にはシリウスはおらず、ハリーはアスクレピオスと二人でダーズリー家に……
「嫌だ!」
ハリーは叫び声をあげて目を覚ました。ハリーの上に、アルバス・ダンブルドアの白い髭が見えた。ダンブルドアは水晶のように綺麗な青い瞳で、ハリーのことをじっと見ていた。
「ハロー、ハリー」
ダンブルドアはまるで何でもないようにハリーに挨拶した。ハリーは自分がダーズリー家ではなく、ホグワーツの医務室に居ることに気付いた。ハリーは自分がクィレルと戦っていたことを思い出した。ダンブルドアへの怒りは、どこかに吹き飛んでいた。
「せ、先生?!クィレル教授が……クィレルが石を狙っていたんです!あいつが……あいつが例のあの人を復活させようとしてて……!!止めようとしたら、何でかあいつの手が焼けて、悪魔の罠があいつの首を……」
(石を取られた?!あのあとどうなった!?皆は!?……クィレルは……?)
ハリーは真っ青になって叫んだ後で、がたがたと震えだした。クィレルは恐ろしい形相でハリーを殺そうとしていたことを思い出した。そして、悪魔の罠がクィレルとハリーに巻き付いていく姿を。悪魔の罠によって、クィレルは……
「落ち着きなさい、ハリー。深呼吸をして。クィレルは石も、命の水も得ることは出来なかったよ」
ダンブルドアは穏やかに落ち着いた声でハリーに対して語りかけた。その言葉は、すっとハリーの頭に入ってきた。ハリーは憎い相手の言葉の筈なのに、安心してしまっている自分がいることに気付いた。
「間一髪だった」
と、ダンブルドアが言った。ダンブルドアは順を追って、クィレルがどうなったのかを説明してくれた。
「君は本当によい友人に恵まれた。私が間に合ったのは、君の日頃の行いの賜物だよ、ハリー。ミスタ・サダルファスが魔法でミスタ・クラッブとミスタ・ゴイルを足止めした。ミスタ・マルフォイは友を攻撃したサダルファスを止めたあと、逃げるミスタ・アズラエルを追わなかった。アズラエルは、いち早くスネイプ教授のもとに駆け込んでことの次第を説明してくれた」
(アズラエルが……でも、アズラエルらしいか)
ハリーはアズラエルがスリザリン寮のなかで周囲に対して気を遣っていたことを思い出した。アズラエルなら、真っ先にスネイプ教授を頼るのも頷けた。だって担任なのだから。
「スネイプ教授は真っ先に私にふくろうを飛ばして私を呼び戻してくれた。そのお陰で、私は君がクィレルに襲われている現場に駆けつけることができた」
ハリーはスネイプ教授に心の底から感謝した。スネイプ教授ならば感謝することができた。どれだけ普段の授業が酷くても、スネイプ教授がハリーを救ってくれたのだ。
「……ありがとうございました、ダンブルドア先生」
そしてハリーは憎しみを抑えてダンブルドアに感謝の気持ちを伝えた。どれだけ憎くても、ダンブルドアもハリーにとっての命の恩人だった。ダンブルドアは首をふってそれを否定した。
「その気持ちを受け取るのは私ではなく、スネイプ教授だよ、ハリー。彼にその気持ちを伝えてあげなさい。最も彼は、それを受け取らないだろうが」
「スネイプ教授は、どうして僕を憎むんですか?」
「……さて、どうしてかな。私にもわからない。」
ハリーの問いをダンブルドアははぐらかした。そしてダンブルドアは、話を変えるために賢者の石を破壊してしまったとハリーに告げた。
「でも、あの石は……フラメルと先生が作った貴重なものじゃ……」
ハリーはダンブルドアの言葉が信じられなかった。スネイプ教授のことよりも、貴重な石を破壊してしまったということのほうが衝撃だった。
「……フラメル夫妻は承知の上だ。ハリー、あの石は人の手には負えないものだ。生成された命の水は、あらゆるものに命を与えてしまう。それが決していいことばかりではないというのは、悪魔の罠を見た君ならば分かるね?」
「でも、使い方が良ければ、いろんな人を救えるんじゃ……もしかして僕が、石を壊してしまったんじゃ……」
ハリーは自分のせいで石が壊れてしまったのではないかと不安になった。ダンブルドアは、もしかしたらハリーのことを気遣って嘘をついているのではないかと思った。
「いいや、ハリー。あれは元々、ヴォルデモートをおびき寄せるための撒き餌だった。ことが済んだ後は、修復不可能なほど粉々に壊すつもりだった。君が石を取り出してくれたから、壊すことができたのだよ」
「先生、その名前は言っちゃダメだって皆が……」
「この名前は単なる記号に過ぎない」
ダンブルドアは穏やかに言った。
「名前を恐れ、その存在を忌み嫌うことは、恐怖をより大きくしてしまう。例のあの人という言い方は、ヴォルデモートが己を持ち上げようとするための一種の宣伝に過ぎないのだよ」
そしてダンブルドアは、フラメル夫妻が石の力に頼らず、人生を終わらせることを選んだのだと言った。
「ヴォルデモートは誰よりも死を恐れている。彼には、フラメル夫妻や君のような行動を取ることも、なぜそうするのかを理解することも出来ないだろう。きちんと整理された心を持つ人間にとっては、死は次の冒険への旅立ちに過ぎないのだよ」
ハリーはダンブルドアの言葉を理解しようとして、分からない自分がいることに気がついた。
「……分かりません」
「君にもいつか、理解できる時が来る」
ダンブルドアは穏やかにそう言った。ハリーは、最も死を恐れていた人のことを思い出した。
「あの、ダンブルドア先生……クィレル教授はどうなりましたか?」
ハリーは答えを聞くのが恐ろしかった。クィレル教授は最後の最後まで、死に抗おうとしていた。ハリーは自分がクィレルを殺してしまったのではないかと思った。
(だとしたら僕は……もうここには居られない)
ハリーは自分の意思で、誰に誘導されることもなくここに来た。友達を唆して、トロルを殺させて、そしてクィレルを手にかけた。恐ろしいことだった。きっとホグワーツを退学になるだろう。
(僕は魔法使いの刑務所に入れられるんだろうか)
とハリーは思った。
「……クィレルはヴォルデモートに殺された」
ダンブルドアは重々しく言った。
「君が気に病むことはない。私の落ち度だ。私が現場に駆けつけた瞬間、ヴォルデモートはクィレルから離れて霞のように消えていった。クィレルのすべての魔力と生命力を吸い尽くして、ヴォルデモートは消えてしまった。命の水の力でも、死を迎えた命を救うことはできない」
ハリーは目の前が暗くなっていくのを感じた。ハリーの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「クィレル教授は……ヴォルデモートと、た、戦おうとしてたんです」
ハリーはクィレルのために言った。
「クィレルと目があったとき、僕は……クィレルが先生と話をしているのを見ました。クィレルが……ヴォルデモートに立ち向かったところも」
「……」
ダンブルドアは何も言わず、杖を動かした。ハリーの顔から流れていた涙と鼻水は、一瞬で全てが拭いさられた。ハリーは、ハグリッドが言っていた言葉を思い返していた。優れた魔法使いは、色々な言語を操ることが出来ると。クィレルもそうだったのだ。
「……クィレル教授は、トロールを操るのが上手いって……トロールの言葉を覚えて、操ることが出来るって言ってました……クィレル教授はすごい魔法使いで……」
「いいや。クィレルは決して凄くはない」
ダンブルドアは、きっぱりとハリーの言葉を否定した。
「クィリナス・クィレルはその力で、最終的に君を殺そうとしたのだ。彼は教師でありながら、こともあろうに生徒を殺そうとしたのだよ、ハリー。どんな理由があろうと、その選択をした人間は立派ではない。人間は能力ではなく、その選択によって、歩く道を決めるのだ。ハリー、これを見なさい」
ダンブルドアはいっそ冷たく聞こえるような声でそう言った。ダンブルドアは自らの杖を、ハリーのベッドの脇に向けた。
そこには、色とりどりの菓子や花、そして早く良くなってくれというハリーへのメッセージがあった。ザビニたち三人やシリウス、ロンやハーマイオニー、ハグリッド、そして知らないスリザリン生からのものもあった。
「……本当に立派な人間というのは、君の友達のように、人を愛することができる人のことを言うのだよ」
「……はい、先生」
ハリーとダンブルドアは少しの間、無言でお見舞いの品を眺めていた。やがてダンブルドアが口を開いた。
「君が倒れたと聞いて、君のゴットファーザーのシリウス・ブラックは慌ててホグワーツにやってきた。マダム・ポンフリーが君を治療する間、君を護衛すると言って病室を離れなかった」
ハリーの胸の中に、暖かい何かが広がった。
「君の友人たちは、最後まで君についていけなかったことを悔やんでいた。彼らに、笑顔の君を見せてあげなさい。それが、彼らの友情に対して君が出来ることだ。君が楽しければ、彼らもきっと楽しいのだ。君と一緒に、ホグワーツで穏やかな日常を送りたいのだ。
……もちろん、君も皆と一緒に、泣いて、笑って、学んで、喧嘩して、そしてたまにであれば遊んでいいのだ。君にはその権利がある。君の選択がヴォルデモートを撃退し、魔法界を救ったのだから」
「でも僕は、何も出来ませんでした。僕の使った魔法は、どれも効かなかった……」
ハリーはそこで、あることを思い出した。クィレルがハリーに触れて、手を焼けただれさせたことを。
「なのにどうして、クィレルは僕を殺せなかったんだろう?僕はあの時死ぬ筈だったのに……」
「……ハリー、君に教えるのはまだ早いと思っていたが、言わねばならないな」
そしてダンブルドアは、ハリーにとって衝撃的な事実を明かした。ハリーの母親が、愛の守りによってヴォルデモートを撃退したこと。ハリーにその守りがかかっていたからこそ、ヴォルデモートはハリーを殺すことが出来なかったこと。
(……)
ハリーは、両親のことを思って俯いた。ダンブルドアは、そんなハリーを見ながらゆっくりと言葉を続けた。
ダンブルドアが愛の守りを拡大したこと。その守りを継続させるために、ハリーは必ずダーズリー家に帰らなければならないことを聞いて、ハリーは思わずダンブルドアに言った。
「どうして……どうしてそれを僕に言ってくれなかったんですか?」
ハリーの中には怒りと困惑だけが残った。ダンブルドアは、時期が早いと思った、と言った。
「……君にとってはあまりにも辛いことを、苦しんでいる君に言う勇気がなかった。君がシリウスを恨んでいるのではないかと的はずれな推測をして、君の憎しみをマグルやシリウスではなく、私に向けたかった」
(……じゃあ。ダンブルドアは僕のことを全部お見通しだった?僕がどう考えるかを全部わかっていた?)
ハリーは内心でむかついた。自分が、ダンブルドアの操り人形になったような気がした。何よりも癪なのは、そうやってダンブルドアに怒りと憎しみを持つことまで、ダンブルドアはお見通しなようであることだった。
そしてダンブルドアは、透明マントを贈ったのは自分だと明かした。
「君の父から借りていたものだ。あれを君に返すことができて良かった。あれが君にとって助けになったと知れば、君の父はきっと喜ぶだろう」
「はい、先生。あれのお陰で、僕たちは色々なところを調べることが出来ました」
ハリーは居心地の悪さを感じながら言った。透明マントは、あまりにも悪事に向きすぎていた。規則違反を自白しているようなものだった。
「ならば良かった」
ダンブルドアはにっこりと笑って、賢者の石をめぐる戦いの裏側をハリーに明かしてくれた。最後に、ハリーと一緒に百味ビーンズを食べたとき、ダンブルドアが少し涙ぐんでいたのを見て、ハリーはダンブルドアのことが分からなくなった。
(一体どっちが本当のダンブルドアなんだろう)
ハリーを動かして、ハリーに戦う権利を与えた人と、目の前の、百味ビーンズの味に一喜一憂しているお爺さんとで、あまりにも隔たりがあった。ハリーは病人に百味ビーンズを食べさせたとしてマダム·ポンフリーに病室から追い出されていくダンブルドアを見送りながら、ダンブルドアのことをいつまでも考えていた。
***
ホグワーツの校長室で、漆黒のローブを身に纏った薬学教授が、校長に抗議していた。
「今すぐにポッターを退学にすべきです!!」
セブルス・スネイプは、ハリーが入学してから賢者の石を守るまでの間に、ハリーがどれだけの校則違反を犯したかを明らかにした。
「……部外者のホグワーツへの侵入幇助!!夜間の無断外出!!挙げ句、友人たちを引き連れての決闘騒ぎに殺人未遂!!やつはジェームズ・ポッターの生き写しです!規則を何とも思っていない子供を放置すれば、他の生徒は確実に悪影響を受けていく!なぜ罰しないのですか!友人ども共々退学にすべきです!!」
「ハリーは非常に授業態度が良く、スリザリン以外の寮生とも仲が良いと他の先生たちから報告は上がっている。今回の一件の功績を考えれば、彼を退学にする理由はない」
これはある意味ではマグルでいうところのレスリングのパフォーマンスのようなものだった。スネイプはハリーを退学に追い込めるなどとは思っていない。単に彼は、自分のストレスを上司にぶつけているに過ぎなかった。
「私の仕事がどれだけの負担か、あなたはご存知のはずだ!平等の筈のスリザリン生のなかで、ポッターだけが特別の計らいを受けている!私がいくら注意しようと、やつは違反を止める気がない!!こんな馬鹿な話が許されていいのですか!?」
ダンブルドアに対して、自分がいかにハリーを守るために手を尽くしたかと愚痴をこぼすセブルス・スネイプを見ながら、ダンブルドアは静かに口を開いた。
「君は私より、よほど良い教師だな、セブルス」
スネイプ教授は、雷の直撃を受けたようにダンブルドアを見た。たった一言で、ダンブルドアはスネイプの嵐のような愚痴を止めてしまった。
「ハリーに規則を教え、それを守るよう導くのは担任である君や監督生の仕事だ。だが、それで君に負担をかけてしまっていたならば、私にも考えがある。対応しよう、セブルス」
そしてダンブルドアは、石を巡る争いにおけるスネイプの働きを称賛した。ダンブルドアの言葉を聞いた後、校長室を出るスネイプの足取りは軽やかだった。
***
「……じゃあダンブルドアは。全部分かっててハリーを例のあの人と戦わせたってわけ?やっぱり狂ってるね、ダンブルドアは!!」
ハリーが目覚めた後、ハリーの寝る病室にはロン、ハーマイオニー、ザビニ、アズラエル、ファルカスが入ってきた。ロンは軽く口笛を吹いて、グリフィンドール出身の偉人であるダンブルドアの深謀遠慮を称賛していた。
「……狂ってるねじゃないわ、ロン!そうだとしたら酷いわよ!!ハリーは殺されていたかもしれないのよ?!」
「グレンジャーのいう通りですよ!明らかに学校側の怠慢です!うちのパパに魔法省へのコネがあれば、ダンブルドアを追い出してるところです!」
「そうだよね。僕もそう思うよ。ありがとう、ブルーム、ハーマイオニー」
アズラエルとハーマイオニーはダンブルドアに対して怒ってくれた。ハリーはそれが嬉しかった。一方でザビニとファルカスは、ハリーの回復を願っていた。
「早く良くなってね。僕たちがスリザリンで生きていけるかどうかは冗談じゃなくてハリーにかかってるから」
「そうだそうだ。全部お前のせいなんだから責任取れよな。寝込んでた分のノートは取ってやってるんだから感謝しろよ?」
「ほとんどがグレンジャーのノートの写しですけどね」
「ハーマイオニーよりノートが上手いやつはスリザリンにも居ないって分かって良かったぜ」
「うっせーぞ、ブルーム、ウィーズリー。こういうのは言ったもの勝ちなんだよ」
「ありがとうザビニ。たぶん、僕も明後日には退院出来ると思うよ。ノートも見て、勉強についていけるように頑張るよ」
「賢者の石を守ったのに勉強漬けかあ?」
ザビニはゴキブリ豆板をかじって顔をしかめた。
「守ったから、勉強漬けで済んでるんだよ、ザビニ」
ハリーたちは互いの健闘を称えあった。ハリーは自分が、皆との日常に帰れることを喜んだ。クィレルの影は、ハリーの友達が癒してくれた。ハリーは皆を見送りながら、心のなかでこう思った。
「勉強か~。英雄なのにな……」
「時々パーシーみたいなことを言うよな。ハリーって」
冗談めかしてザビニは言った。
「うん。でもさ、今は凄く勉強したい気分なんだ。うまく言えないんだけどさ……僕は賢者の石を守る戦いで、最後は何も出来なかったんだ。運が良かっただけなんだ」
アズラエルたちはシーンとなった。五人は神妙な面持ちでハリーの話を聞こうとしていた。ハリーは少し恥ずかしくなって言った。
「だけど、しっかりと勉強して、自分の中に正しい知識があれば、次は何かが変えられるかもしれない。勉強すれば、自分で賢者の石を作ることだって出来るかもしれない。だからさ、また皆で集まろう。退院しても、皆でバカやって遊ぼう」
「ええ、ハリー。テスト期間まで少しの間だけれど、目一杯遊びましょう。そして、テストでどっちが勝つのか正々堂々と勝負しましょう」
「そうだね、ハーマイオニー。受けて立つよ」
「ハリー、勝てない勝負を受けるのはスリザリン生らしくはありませんよ?」
「いやぁ、勝負をさせてやろうぜアズラエル。そんで、どっちが勝つのか賭けようぜ。俺はグレンジャーに四シックル」
「あ、僕もグレンジャーに四クヌート」
「それじゃあ賭けが成立しないだろうが!!」
笑い合うみんなの中に、ハリーも確かに居た。ハリーは一人ではなかった。
(そうだ。きっと……きっと、これでいいんだ)
その日、ハリーは夢の中でクィレルに襲われることはなかった。
おいたわしやダンブルドア上……