2024.02.05
週刊誌は本当に嘘か
週刊誌には嘘もたくさんあるだろうが、とはいえ、真実を暴き出す装置でもある。昭和の頃の卑近な事例でいえば、桑田真澄が不動産投資に失敗した云々が週刊誌によく書かれていた。それらのひとつひとつを現実と照らし合わせたら真実でない部分も多々あるのだろうが、桑田真澄がメジャーリーグへの意欲を示したときに、ナベツネが「球団に借りている金はどうなるんだ」という発言をして、ああやはり、不動産投資の失敗を球団に処理してもらったのは確かなのだ、と思ったわけである。まさに「あることないこと」の典型ではあるが、尾ひれが鈴なりのように連なっていたにせよ、不動産投資のトラブル自体は間違いなくあったと思われる。とはいえ、それを知ってどうするのかという側面もあろう。桑田真澄が不動産投資に失敗したとか、知らなくてもいいことである。昭和の頃であれば、隣近所のプライバシーは筒抜けであり、壁などあってなきがごとし、隣人との境界は近所の噂話に踏み荒らされ侵略されていた。専業主婦のおばさんが足で情報を集め、それぞれの家庭の事情を井戸端会議で拡散させていたのである。昨今では隣に住んでいるのが誰なのかわからないくらいにプライバシーは守られている。一般人は噂話から逃れることができたのだから、有名人も噂話から逃れられてしかるべき、という論を立てることもできる。隣近所のプライバシーを知らなくても生きていけるのだから、有名人のプライバシーも知らなくてもよさそうである。われわれの世界認識は、確実に確認した事実で成り立っているのではなく、フランスに行ったことがないのにフランスを知ったつもりになるような想像力が基本であるし、空白のパネルを想像で埋め合わせた世界を生きている。もしかすると、ひとりひとりバラバラの宇宙を生きているかもしれないのだが、他人と肩が触れ合うからには「世界はひとつ」である必要もあろうし、有名人というのは、そのような想像力で像を結ぶ中心点とも言える。有名人は生贄なのか英雄なのか、ともかく「世界はひとつ」という幻想の担い手であり、ひとびとの共通の話題なのであろう。さて、週刊文春に関して言えば、プライバシーの詮索というよりは、人民裁判的な素材の提供である。誰もが知る人物を道徳的課題として俎上に載せて、世間の誰もがこの話題を知っているのだから「世界はひとつ」となる。少なくとも、松本人志とか伊東選手の弁護士の横暴さを見ると、まったくプライバシー権の問題ではなく、「事実無根」だと脅しているわけだから、民衆としては干戈を交えるしかない。弁護士は害悪であり、嘘を平気で並べ立てる事件屋である。彼らも阿呆ではないから、というより司法試験合格者として、裁判の勝ち負けの予想は付いており、旗色が悪いとなれば、ただひたすら場外乱闘である。脅して脅して脅して脅して、さらに脅して脅して、最後は示談というシナリオだろう。ここに正義があるわけがない。とりあえず松本人志も伊東選手もプライバシー権で争っているのではなく、怪しげな行為について「事実無根」だとして恫喝しているのだから、そこはきちんと見極めなければならないし、この手の弁護士を許してはならない。
2024.01.29
頭と手足の二重性
この世界は、頭の役割をする人間、手足の役割をする人間に分かれている。だが、ここには欺瞞が有り、完全な手足だと人間のプライドが許さない。手足だが、実は頭であるという二重性が必要なのである。天皇崇拝者は天皇の手足であるはずだが、実際は、天皇(頭部)を操縦しようとしているわけである。お山の大将の多くが馬鹿であるのも、やはり、頭と手足の問題である。取り巻きのイエスマンたちは、唯々諾々と従っている手足に見えても、実際は頭なのである。手足として御輿を担ぎながら、御輿(頭部)を操縦しているのである。であるから、お山の大将はチヤホヤされているように見えても、リスペクトされていないのである。というか、人間は他人をリスペクトなどしないし、相手が優秀なら憎悪しかない。(もしくはリスペクトすることがあるとしても、それは遠い他人が対象であり、主従関係ではあるまい)。頭部と手足という文脈であれば、やはり、「こいつは馬鹿だな」と思いながらヨイショすることになる。人間それぞれが主体性をもっているから、生じる問題である。絶対服従の奴隷(完全な手足)というのも、いないわけではないが、それが好きな人はいないだろうし、奴隷から抜け出すためには、革命ではなく、とりあえず大将をヨイショしてコントロールすることなのである。「こいつは馬鹿だな」という方が大将になりやすいので、われわれの政治的世界はいつも暗澹としている。これはわれわれにも原因があるのかもしれない。優秀な人間にコントロールされるのはプライドが許さないから、馬鹿を担ぎ上げようとするのである。
2024.01.21
お笑い芸人と職業差別
なぜお笑い芸人がこれほどまでに跋扈したのかと考えるに、「芸人を馬鹿にしてはいけない」というのが、変な気遣いになり、逆差別に繋がったところもある。職業差別がよくないというのはもっともで、お笑い芸人に限らず、馬鹿にするのはよろしくないが、その結果として、ステータスが向上してしまっているのである。差別あるところに逆差別あり。彼らが一致団結しているのも、芸人が馬鹿にされたらスクラムを組んで立ち向かうということかもしれないが、いつの間にか権力者の趣となっている。このあたりはビートたけしが元凶である。たけし軍団が馬鹿にされると、ビートたけしは激怒するが、率直なところ、たけしとたけし軍団では天と地の差があり、そしてたけし軍団は最近の粗製乱造された芸人の走りとも言えるから、差別はよくないにしても、決して肯定的に評価されるひとたちではない。たけし軍団という程度の低い連中を馬鹿にしてはいけないという縛り、この縛めが、世の中を悪くしたのである。この芸人差別の文脈で、たけしはよく「芸人は本当は頭が良い」というが、それは、たけしが例外なだけで、どう考えても粗悪品が大多数である。たけし軍団は頭が悪い、その一言に尽きる。お笑い芸人という職業は、劣悪な人間を救済する方舟なのかという疑問もあるし、そもそも職業選択の自由があり、世襲ではないのだから、職業差別の論法がどこまで幅を利かせるべきなのかという疑問もある。生まれついてのたけし軍団ということはないわけだ。人を馬鹿にするのはよくないが、やはり、それが転じて、リスペクトの義務になれば変な話である。われわれはプラスとマイナスの二択を生きているので、馬鹿にしてはいけないと言われたら、埋め合わせるために尊敬しましょうとなるのだが、なんというか、お笑い芸人が人権団体のようになっており、これはこれで社会問題である。
2024.01.19
頭と手足。芸人は圧力団体。
昨今のお笑い芸人というのは、養成所からの親しさなのか、一枚岩の気持ち悪さが猖獗を極めていた。この畜群の一匹と対立したら、仲間が総掛かりで潰しに来るような、そういう圧力団体である。この群生動物がようやく世間からの反撃にさらされているが、フラットな群れではなく、頭と手足が別なのだし、まさに人間社会の縮図である。松本が頭で小沢が手足というヒエラルキーは、われわれの社会の写し絵であるが、この憂うべき愚劣さは普段からわれわれを覆い尽くしており、よく見た景色過ぎてうんざりだが、だからこそ一時的にでも眼の前の暗雲を振り払うべく、われわれは奔走しているのである。それでは、手足として疎外されずに、自分で考えて自分の手足を動かして生きられるなら人間の全体性が回復するかというと、これまた首をひねるしかなく、そういう自由を謳歌している暇人の大半は、有り余る時間を有意義に過ごしてないし、暇つぶしに甘んじている。どうやってどう転んでも人間は愚かである。お笑い芸人というのも、雑談しているだけであり、どう転んでも愚かだ。吉本興業の養成所がスタートしたのは1982年で一期生がダウンタウンだそうだが、四十年にわたり、愚にもつかない雑談メンバーが量産されてきた。吉本興業の株主の多くはテレビ局であるそうだが、芸人がスタジオで雑談だけしている番組だと制作費が安いらしく、テレビ自体が終わっているということだろう。雑談が得意というのは、頭がフリーズせずに、柔軟に切り替えて横断していくことだと思うが、どちらかといえば知性が低い人の特技である。話題が転じていくのは、他人と関心のピントを合わせる能力ではあるだろうが、ただの共感性でしかない。たとえばゴルフに興味がないとして、それでもゴルフが趣味の人の話をうまく聞けるということである。聴く力として称賛するのも可能ではあるのだが、ゴルフに興味がないのにゴルフの話を聞くのが得意とか、その社交性の豊かさは知性の貧困でもある。広く浅くなんとなく聴けてしまうのは、アスペルガー的な脳細胞の欠如であり、健常者の行き過ぎで無頭症になったかのようだ。ありふれた凡庸なひとたちが、頭をもがれ、手足をひらひらさせて蠢いているだけである。駆除したところで、次から次へと似たようなのが出てくるだろうが、それでも駆除するしかないので、賽の河原の石積みのごとく虚しい作業をやらねばならない。
2024.01.04
河野太郎はサイコパス
今回の地震について、河野太郎がこういうツイートをしていたから「サイコパスの一言に尽きる」と書いたら1分くらいでブロックされた。
地震発生が1月1日で、1月4日にこのツイートはちょっとおかしいと思ったのだが、これはわたしがマイナ保険証を嫌いすぎているからだろうか。(好きな人がいるかどうかは謎だが)。
https://twitter.com/konotarogomame/status/1742737951354999157

こういうツイートに同調できる人も存在しており、マイナンバーを礼賛しているレスで溢れている。「誰々が言っているから正しい」という世界観を持っている人たちなわけである。困ったことに「誰々さんが言っている」というのは健常者でもよくある心理であるし、むしろ、純粋に意見だけを聞いて賛成反対している人のほうが少ないから、世の中厄介である。誰が言ったかに関わらず、意見だけ聞いて賛成反対するのはアスペルガー的という気もするし、「誰々」に同調する方が健常者的だから困ったものである。自己保身のためか、権威への盲従か、権力への隷従か、世の中イエスマンに溢れていて嫌になる。
地震発生が1月1日で、1月4日にこのツイートはちょっとおかしいと思ったのだが、これはわたしがマイナ保険証を嫌いすぎているからだろうか。(好きな人がいるかどうかは謎だが)。
https://twitter.com/konotarogomame/status/1742737951354999157
こういうツイートに同調できる人も存在しており、マイナンバーを礼賛しているレスで溢れている。「誰々が言っているから正しい」という世界観を持っている人たちなわけである。困ったことに「誰々さんが言っている」というのは健常者でもよくある心理であるし、むしろ、純粋に意見だけを聞いて賛成反対している人のほうが少ないから、世の中厄介である。誰が言ったかに関わらず、意見だけ聞いて賛成反対するのはアスペルガー的という気もするし、「誰々」に同調する方が健常者的だから困ったものである。自己保身のためか、権威への盲従か、権力への隷従か、世の中イエスマンに溢れていて嫌になる。